Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

私は御身を信じ、礼拝し、希望し、御身を愛します!御身を信じぬ人々、希望せず愛さぬ人々のために、赦しを求めます(天使の祈)

第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 教導権に反する『信教の自由に関する宣言』?

2007年07月11日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

■ 教導権に反する『信教の自由に関する宣言』?

 先に説明したように、19世紀の諸教皇は「良心および信教の自由」という名の下に、あらゆる行動の自由宗教の信奉者に対して認められる、宗教上の事柄において、外的かつ公共の次元で自由に行動する(すなわち行動するのを妨げられない)自然的かつ市民的権利としての信教の自由を排斥した。また先に詳述し、証明したように、当の諸教皇が、この意味での信教の自由を排斥したのは、当時の歴史的状況(リベラリズムおよび徹頭徹尾の理性主義)のためにではなく、それ自体として、少なくとも誤りかつ不条理なもの、すなわち理性によって把握される自然的秩序に反するものとして、またそこから直接的に生ずる教会の公権(天主によって教会が創立されたという事実の必然的帰結)の侵害、および宗教無差別主義という悪疫の普及という結果のためだった。

 最後に、ピオ6世、ピオ7世、グレゴリオ16世、ピオ九世ならびにレオ十三世教皇により、常に同じ意味、同じ言葉で(in eodem sensu eademque sententia)この誤謬が繰り返し排斥されたこと、また、これらの排斥が教会全体で受け入れられたことを見ると、当の信教の自由が、教皇の通常教権の最高の権威をもって排斥されたということができる。

 しかるに、第二バチカン公会議は、『信教の自由に関する宣言』において、人間人格がまさにこの「信教の自由」、すなわち宗教上の事柄において、外的かつ公共の次元で自由に行動する(すなわち行動するのを妨げられない)自然的かつ市民的権利としての信教の自由を享受する権利を有し、またこの権利がすべての個人および「宗教団体」(つまりあらゆる宗教の信奉者とその集会[疑問点 9参照])に対して認められなければならないと宣言している。

【疑問点 35】
 第二バチカン公会議の信教の自由に関する宣言が、教皇の通常教権の最高の権威に反する見解を表明している、と言わなければならないか。もしそうだとすれば、『信教の自由に関する宣言』の打ち出す信教の自由が、少なくとも誤り、かつ不条理なものであり、また天主による教会の設立の教義に反し、宗教無差別主義の誤謬を広げるものとして、この同じ教皇の通常教権の最高の権威によって排斥されているとみなすことができるのではないか。

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悲劇の教皇ピオ6世、そしてファチマ (M.C.)
2007-07-12 01:45:03
第2バチカン公会議を教会におけるフランス革命と捉える理解がある一方、ではフランス革命時代の教皇はどんな方でどんな生涯を送られたかについては、ほとんどいや全くと言ってよいほど知られていない。「啓蒙」されカトリックを捨てた共和制フランスが、ローマ(バチカン)にどのように攻撃を加えどのような仕打ちをしたか。フランス軍はローマを「解放」した後に共和国を樹立、それに従わない教皇ピオ6世を連行、重病の教皇は各地を転々とさせられ、最後にフランスで共和制の囚人として亡くなられた。ところで2000年6月の「ファチマ第三の秘密」の幻視によれば、「白い服を着た司教」=教皇のたどる運命は、かつてのピオ6世よりもさらに悲劇的なものである。ということは、かつてのフランス革命時代よりさらに数段上の規模と破壊力で反カトリックの暴風雨がヨーロッパを支配するということが暗示されている。あの幻視が前教皇の暗殺未遂で完結したなどと言われても到底納得できる話ではない。
この記事に書かれているような文書がほんとうに発表されましたか? (質問です)
2007-07-12 15:43:09
このようなニュースを見たのですが、ほんとうですか?

ローマ法王、「カトリック教会だけが唯一の教会」

JULY 12, 2007 03:28


「ローマ・カトリック教会だけが唯一の教会で、他のキリスト教教会は欠点がある」


ローマ法王ベネディクト16世が10日、カトリック教会だけを正統キリスト教と表現した法王庁文書の公表を承認した。これに対し、改新教と正教会など他のキリスト教宗派がただちに批判し論難が起きていると、ロイター、DPA通信など外信が報道した。


法王庁は信仰教理聖省を通じて発行した同文書で、「イエス様は地上にたった一つの教会だけを建てた」と主張した。文書は、正教会に対し「ローマ法王の権利を最高とする至上権を認めない」と指摘し、宗教改革以後の改新教に対しては「真の意味で教会と呼べない」と言及した。


外信は、同日に配布された文書が、ベネディクト16世が信仰教理聖長官でいた時に作成した文書と内容が似ていると指摘した。


あちこちから批判が出た。世界改革教会連盟は「カトリックが他の兄弟教会たちと話し合おうという意向があるかどうか疑わしい」と批判した。独逸福音主義教会は「宗派間和合のための機会が再び遠のいた」と皮肉った。エジプト在来キリスト教派であるコブト教会の指導者たちは「冗談」とみなすことにした。


ベネディクト16世は、7日には、ラテン語ミサを復活させるという教書を発表し、ユダヤ人たちの反発を買った。ラテン語で進行する「トリエント・ミサ」には、ユダヤ人の改宗を促す祈祷文が含まれているからだ。


同教書に対しては、カトリック内でも「第2次バチカン公会(1962~1965年)の改革を覆す措置」という指摘が申し立てられた。当時、公会では、「ミサを各教会がある当該地域の言語にする」という決断を下した。


ベネディクト16世は、昨年には、イスラムを暴力的な宗教として描写した発言で議論をかもした。

http://japanese.donga.com/srv/service.php3?biid=2007071219808
我は信ず、一・聖・公・使徒継承の教会を・・・ (支持政党なし)
2007-07-13 04:05:41
  質問です さん!

 この、報道記事をご覧になって、「独善的だわ!」「問題発言だわ!」とか、少なくとも驚かれ、疑問に思われたのでしょう。
 私は、全く、問題にしません。

 まず一つ。新聞や報道記事には、必ずその発信者の立場があります。思想的立場です。
 さて、この記事はどういう思想的立場の人が、書いたのでしょう?ベネディクト16世や教皇庁教理省を擁護する立場ではありませんね。また、諸宗教の中で、カトリック教会が唯一絶対だと信じている私たちのような立場の人でもありません。
 (言いたいことの半分は省略しますが・・・)昨年の教皇様のドイツでの発言をちらつかせているということは、またこの件で陥れてやろうか・・・という意図はありありと、うかがえますよね!

 バチカン放送局HPによると、教皇庁教理省は7/10、「教会についての教義をめぐる質問への回答」と題された文書を発表した、とあります。おそらく、その内容の中に、伝統的に私たちが信じてきた教会の教えが、確認されていたのでしょう。「聖なる普遍の教会」(我は信ず、一・聖・公・使徒継承の教会を・・・)の部分です。
 それに対して、キリスト教諸教派の一部とカトリックのリベラルの方の一部がこう言った・・・と。別に、たいしたことだとは、思いませんが、いかがですか?

 むしろ、こういう罠にかかって、また、謝罪されたりする事の方が、私は傷つきます。でも、今の教皇庁はそんなことしないでしょう。だって、私たちの信仰内容は、私たちが大切に守るもので、外部を気にする事ではないのですから・・・。私たちは、主のみを、畏れるべきなのですから・・・。信仰の世界はそういうものだと思いませんか?

 新聞(報道記事)は、「事実」と、「発信者の主観」を区別して、常に、批判的に読むようにしています。いかが?
Unknown (ていうか、)
2007-07-13 11:15:26
カトリックの立場からすると、他の教会には何らかの欠点(というと語感がやや厳しいですが)があると考えるのは自然では。

改革派教会からすればカトリック教会やルター派教会あるいは聖公会に何らかの欠点があるように見えうるかもしれないし、オーソドクスからすれば、カトリック教会やプロテスタント諸教派に欠点があるかもしれない。
一・聖・公・使徒継承の教会・・・再び (支持政党なし)
2007-07-13 18:09:45
  ”質問です”さんが引用された記事は、翻訳、用語、構成、含めて問題あり、のようですね。特に「欠点」という言葉に、とらわれない方がいいと思います。諸教派のコメントも、そのたった一文の内容が、彼らの意見のすべてであるはずがないですから・・・反教皇様の意図のある記事であることは、確かなようですけれど・・・。

 カトリック教会が、キリスト教諸教派それぞれを、どのように見ているかについては、歴代の教皇文書が明らかにしているとおりだと思います。
 カトリックの信仰者の立場から言えば、諸教派(人間)が我々をどう見ているかなど諸教派に任せておけばいいのであって、私たちはカトリック教会が教える正しい信仰をいただいた恵みを、心から感謝すればいいのではありませんか?いかがですか?

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