Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

私は御身を信じ、礼拝し、希望し、御身を愛します!御身を信じぬ人々、希望せず愛さぬ人々のために、赦しを求めます(天使の祈)

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
2019年 8月の聖伝のミサの予定
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】


8月 聖母の被昇天を祝いましょう。
意向:聖母の汚れなき御心の凱旋のため
実践すべき徳:心の柔和と謙遜
守護の聖人:聖母の汚れ無き御心

愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)にご招待します

◎2019年 8月の予定
【大阪】聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂(アクセスEG新御堂4階 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 
〒532-0002 (JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分)

  8月2日(初金)教会博士証聖者司教聖アルフォンソ・デ・リグオリ(3級祝日)白
          午後5時半 ロザリオ及び告解
          午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

  8月3日(初土) 聖母の土曜日(4級)白
          午前10時 ロザリオ及び告解
          午前10時半 ミサ聖祭(歌ミサ)

  8月11日(主)聖霊降臨後第9主日(2級)緑
          午後5時半 ロザリオ及び告解
          午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

  8月12日(月) 童貞聖クララ(3級祝日)白
          午前10時 ロザリオ及び告解
          午前10時半 ミサ聖祭(歌ミサ)

  8月18日(主)聖霊降臨後第10主日(2級)緑
          午後5時半 ロザリオ及び告解
          午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

  8月19日(月) 証聖者聖ヨハネ・ユード(3級祝日)白
          午前6時半 ミサ聖祭(歌ミサ)

【東京】東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図)「聖なる日本の殉教者巡回聖堂」

  8月4日(主)聖霊降臨後第8主日(2級)緑
          午前10時  ロザリオ及び告解
          午前10時半  ミサ聖祭(歌ミサ)

  8月5日(月)  雪の聖母の大聖堂の奉献(3級祝日)白
          午前7時 ミサ聖祭

  8月18日(主)  聖霊降臨後第10主日(2級)緑
          午前10時  ロザリオ及び告解
          午前10時半  ミサ聖祭(歌ミサ)

愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております。

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私たちの主イエズス・キリストの御降誕おめでとうございます!聖ピオ十世会 聖伝のミサの報告

2015年12月27日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖ピオ十世会のすべての司祭、修道士、修道女たちを代表して、愛する兄弟姉妹の皆様に主イエズス・キリストの御降誕のお喜びを申しあげます。

 聖アルフォンソ・デ・リグオリによると、或る男性が(ほかのあまりに多くの人々がそうするように!)信心無くミサに与っていたそうです。ミサの最後に読む福音で「しかしてみ言葉は人と成り給い我らのうちに住み給えり」と読む時、その人はそのまま立ったままだったそうです。すると悪魔がその瞬間現れて彼を殴り、「感謝を知らない野郎!お前は天主がお前のために人と成ったと聞いたのに膝をかがめようとしないのか?もしも天主が私のために同じことをされたなら、私は永遠に天主を感謝していることだろう!」

私たちは、人となった天主イエズス・キリストの前にひざまづき、額づき、イエズス・キリストの御足に接吻をささげ、愛と感謝と賛美を込めて礼拝を捧げましょう。

イエズス・キリストは私に永遠の命を下さるためにご自分の命を与えてくださったのに、イエズスは私の愛を受けることさえできないでいます!

イエズス・キリストは、命がけで私たちに無限の宝を与えようとしてるのに、私たちはそれを無視と忘恩と冷淡で答えています。

2015年の間、天主から受けた全ての恵みを感謝しつつ、聖ピオ十世会のためにしてくださっている皆様の祈りと支援とを感謝します。ミッションを手伝ってくださっているレネー神父様にも心から感謝します。

願わくは、新2016年がさらに恵みにあふれる年となりますように謹んで祈ります。


 さて、12月13日の主日に、レネー神父様が大阪で聖伝のミサを捧げてくださいました。いつも日本に来てミサを捧げてくださるレネー神父様に感謝します。

 また、12月24日から25日、26日と大阪でクリスマスのミサを捧げることができました。クリスマスには、関東方面や東北、九州から聖伝のミサに与りに来られた方々がおられ、幼きイエズス様がさぞかしお喜びになられ、お恵みで報われることだろうと思いました。
12月27日は主日のミサを、東京で捧げました。東京では、新しく初めて聖伝のミサに与った方々が5名以上いらっしゃって、天主様に感謝します。

明日の28日も東京で朝の7時から聖伝のミサがあります。

では、愛する兄弟姉妹の皆様に報告をご紹介ます。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

12月の主日の、レネー神父様による御ミサの報告です。
12月13日 (主)待降節第三主日(バラの主日)のミサには14名が、
12月14日 (月)平日のミサには12名の方々が、御ミサに与り御聖体拝領をする御恵みを頂きました。 デオ・グラチアス!

主日のお説教ではクリスマスにイエズス様をお迎えする待降節の準備として、本当の罪の悔い改めをするよう呼びかけられました。
洗者聖ヨハネの使命をよく知ることにより、私たちの主イエズス・キリストの神性についてのその偉大な信仰をもち私たちが完全に主のために生き、イエズス様を知らない人々に知らせようとするその熱心さを聖人に取次いで頂くように祈りました。
また、イエズス様のご誕生までの間、マリア様がどんな風にイエズス様をお迎えする準備をなさったかを考えるよう提案して下さいましたのでこの待降節の黙想中に、マリア様にどのようなお心でイエズス様をお待ちになっておられたのか少しでも教えて頂こうと思います。

主日の御ミサ後、公教要理として無原罪の御宿りの日のお説教をして頂きました。

無原罪の御宿りという驚くべき賜物を受けられたマリア様とその恩寵を与えられた天主様を黙想する時、聖母の無原罪の御宿りとミサ聖祭に密接な関係があることがよくわかりました。


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
日本でのクリスマスミサ、ミッションをありがとうございました。
この度の御ミサの報告をお送りいたします。
12月24日(木) 18:30 ご降誕前日のミサ には小さなお子さん二人を含む23名の方々が、
12月25日(金)  0:00  主のご降誕の真夜中のミサには20名が、
         9:00  暁のミサには18名、
         10:30  日中のミサには25名、
12月26日(土)  10:30  最初の殉教者聖ステファノのミサには19人の方々が御ミサに与る御恵みを頂きました。デオ・グラチアス!!

三日間に四つの歌ミサと、一つの読誦ミサが日本で捧げられた大きな御恵みを天主様に感謝いたします。
私達の愛を引き寄せるため、私達の愛を受けたいがために幼子として貧しい馬小屋にお生まれになったイエズス様を日本中の人、世界中の人が礼拝し、感謝申し上げ、お愛しする日が来るよう切に願います。

私達を愛するが故に、人としてお生まれ下さったイエズス様を今後一切お悲しませする事がありませんように、益々イエズス様をお愛しする事が出来ますように、マリア様のお取次ぎにすがる思いでミサに与っていました。

御病気や仕事など、色々なご事情でミサに与ることがお出来にならなかった愛する兄弟姉妹の方々の上にもクリスマスの特別の御恵みがありますようお祈りいたしました。

御ミサの後には各日ともローマの伝統に倣って幼きイエズス様の御像の御足に接吻する式がありました。
愛おしいイエズス様の可愛い御足に接吻するとイエズス様がにっこりほほ笑んで下さったように感じました。

26日の公教要理の後には、数名の方が五色のスカプラリオの着衣式をされました。スカプラリオの着衣のために骨を折って下さった兄弟姉妹の愛徳に感謝を申し上げます。m(__)m
激務の中、クリスマスに沢山の御ミサを上げて捧げて下さった小野田神父様にも心から感謝申し上げます。
天主様の御恵みが神父様の上にもたくさん、たくさんありますように!!

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

クリスマスイブから御降誕の真夜中の御ミサ、そして暁と日中の御ミサ、そして26日の御ミサ、そして公教要理など、本当にありがとうございました!!
小野田神父様が、司祭になられて初めて、日本でクリスマスイブと御降誕の真夜中の御ミサをお捧げになる事ができたという事を想い、感動いたしました。
大変ハードなスケジュールの中、日本の為にこれほど多くの御ミサを捧げて下さって、本当に小野田神父様、天主様、マリア様に感謝致します!!m(_ _)m
このお恵みによって、日本で聖ピオ十世会の聖伝の御ミサに与る方がたくさん増えますように!!

私たちの救霊の為にイエズス様がお生まれになる時には、誰もイエズス様の為に場所を提供してくださらなかったので、少なくとも私たちは、人間となって下さった天主様に、無限に御謙遜になられたイエズス様に、跪いて、愛と感謝と賛美と、罪の痛悔をお捧げする事ができますように!

デオ・グラチアス!

【報告】
12月27日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 14人(内、子供0人)
女: 29人(内、子供1人)
計: 43人(内、子供1人)

コメント (1)

主は救いのために必要なすべての力を持っておられる。「無原罪の御宿り」:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

2015年12月20日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 レネー神父様が先日の主日にミサののちにしてくださった「無原罪の御宿り」についての講話をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2015年12月13日―大阪 勉強用説教「無原罪の御宿り」



親愛なる兄弟の皆さん、

 童貞聖マリアは、(その母聖アンナに)宿られたとき無原罪でした。聖母は「無原罪の御宿り」です。この信仰の教義はどういう意味でしょうか?

 その意味は、天主の特別な特権によって、私たちの主イエズス・キリストの功徳のゆえに、童貞聖マリアは原罪から守られていたということです。

 原罪は、人類の一番最初におけるとてつもない災厄だったのです。そのとき、エバ、そしてアダムが天主に逆らって禁断の果実を食べ、天主のご意思よりも自分たちの意思を優先し、天主への従順を拒否し、天主のみ言葉よりも悪魔の言葉を信用し、善と悪についての知識を自分たちで得ようと望んだ、つまり何が善で何が悪であるかを自分たちで決定しようとしたのです。自分たちの上に法があることを欲せず、天主の法を拒絶したのです! 彼らは、罪についての完全な知識を持ち、善き主へのはなはだしい忘恩を承知の上で、この罪を犯したのです。主が彼らに、素晴らしい楽園だけでなく、無苦痛、不死、知識、正義という賜物に加えて、とりわけ成聖の恩寵という賜物をお与えになったにもかかわらずです。成聖の恩寵は、天主との友情という驚くべきものであり、それは彼らが夕べに天主と親しい会話を交わしていたことによって分かります。

 罪を犯した後、彼らは、この友情が台無しになったのにすぐ気付いたため、身を隠しました。彼らはまた、肉の反逆を感じたため、いちじくの葉で身を覆いました。彼らは成聖の恩寵を失いました。つまり、知識、正義、無苦痛、不死という「(自然を外れた)外自然の賜物(preternatural gifts)」を失ってしまったのです。彼らは死の支配下に入ったのです。彼らの本性は深く傷つき、すなわち、今や罪への悪しき傾きを感じたのです。

 アダムの罪はその子孫にも伝わります。それはなぜでしょうか? 不正義のように思えます。それを理解するためには、次のことを考えなければなりません。天主は、成聖の恩寵をただ アダムとエバだけにお与えになったのではなく、彼らの子孫にも成聖の恩寵が伝わるようにというご意向を持っておられたのです。もしアダムとエバが罪を犯さなかったとしたら、彼らは体の命だけでなく、一緒に結び付いた霊魂の命も伝達していたことでしょう。ある意味で、外自然の賜物は、本性と恩寵の「接着剤」のようなものだったのであり、天主の子にふさわしくなるように人間の本性を完成させるものだったのです。アダムが天主の養子であったということは、福音書自体にも見られます。それは、聖ルカ福音書のキリストの系図の終わりが「アダムは天主の子であった」と言っているところです。本性によらず、恩寵によって子であったのです。私たちの主イエズス・キリストのみが本性によって天主の御独り子であり、御父とまさに同じ天主の本性を持っておられるのです。しかし、アダムは養子として、恩寵によって子であったのです。さて、アダムはこれら外自然の恩寵を失ったのですから、失ったものを与えることはできませんでした。ですから、アダムは私たちに外自然の賜物を伝えることはできず、そればかりか、この接着剤を失ってしまったのですから、体の命と一緒に霊魂の命(成聖の恩寵)を伝達することはできませんでした。これによって、アダムの子孫は、アダムの過ちによって、霊魂の命をはく奪された状態で生まれるのです。
 この最初に持っていた恩寵のはく奪は、まさに原罪の本質そのものです。また、それとともに私たちはアダムの傷ついた本性を受け継いでいます! 原罪は実際、人類の一番最初におけるとてつもない災厄だったのです!

 原罪は信仰の教義です。聖パウロは実際、ローマ人へ書き送っています。「一人の人によって罪が世に入り、また罪によって死が世に入って、すべての人が罪を犯したので死がすべての人に及んだ」(ローマ5章12節)。人類を眺めてみて、罪への傾きのような多くの悪があるのを見るとき、天主の御業がいつも善いのであるなら、どのようにしてそうなり得たのかと不思議に思うでしょう?! 人類の最初におけるこの悲劇だけが、人間の罪深さを説明することができます。

 原罪は三つの結果をもたらします。1)成聖の恩寵の喪失、2)死という罰、3)罪による傷―です。この傷は、知性における無知という傷、意志における悪意(自己中心)という傷、欲望における弱さと情欲という傷です。

 しかし、天主は人類をお見捨てにはなりませんでした。天主は、「罪から民を救う方」(マテオ1章21節)である救い主を送ると約束されました。私たちは「他の人々と同じく本来は怒りの子であった。しかし慈悲に富む天主は、私たちを愛されたその大きな愛によって、罪にために死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださった、あなたたちの救われたのは恩寵による」(エフェゾ2章3-5節)。私たちの主イエズス・キリストが「現れたのは罪を除くためであり、イエズス自身に罪はない」(ヨハネ第一3章5節)。

 私たちの主イエズス・キリストは天主の子であり、御父と等しいお方であり、私たちを罪から救うために天から下ってこられた全能者です。主は救いのために必要なすべての力を持っておられます。そして、その証拠はまさにこの祝日です。無原罪の童貞の祝日です。聖母は完全に罪から救われたため、罪は聖母に対しては何の力もなく、聖母に手を出すことはできませんでした。聖母は完全に(汚れのない)無原罪であり、御宿りのときだけでなく、全生涯にわたってそうあり続けたのであり、聖母は無原罪のお方、インマクラータなのです! 聖母は童貞中の童貞であり、あらゆる領域においてこの童貞という言葉の意味があてはまります。完全な無垢であり、罪に決して触れられることはありません。聖母は罪に対する最良の薬、予防薬を受けられたのです。聖母は御宿りの最初の瞬間より、あらゆる罪から守られていたのです。聖母は決して大罪を犯さず、小罪さえも決して犯しませんでした。聖母は決して原罪の影響を受けたことはなく、罪への傾きもまったくありませんでした。聖母は絶対的に(汚れのない)無原罪なのです。

 さて、かつて原罪を否定する異端者がいました。彼らはペラギウス派と呼ばれました。原罪を否定した結果として、彼らは救いのための恩寵の必要性を否定しました。私たちの主イエズス・キリストの恩寵がなくても、私たち自身の自然の力によって罪を犯さないことは可能だ、天主の全ての戒めに従うことは可能だ、そして天国に行くことは可能だ、と主張したのです。彼らの異端は、自然主義として現代でも続いています。自然主義も原罪を否定し、人はみな善き者として生まれるが、社会が悪い者にしてしまうのだと主張します。これは、ルソーや他の多くの人々の哲学です。教皇ピオ九世は、1854年12月8日に無原罪の御宿りの教義を定めたとき、この教義はペラギウス派と自然主義の誤謬に対する薬であると説明しました。聖母に原罪がなかったのなら、聖母は私たちの主イエズス・キリストの恩寵を必要としなかった、と言う人がいるかもしれません。しかし、これは大変な考え違いです。実際、聖母が原罪から守られているのは、まさに私たちの主イエズス・キリストの恩寵によってなのですから! 恩寵を必要としないどころか、童貞聖マリアはまさに「聖寵充ち満てる」お方です! また、ご自分に偉大なことをなさったのは天主であると、誰より先に聖母ご自身が認めておられます。「全能者が私に偉大なことをされたからです。その御名は清く、そのあわれみは、世々敬い恐れる人々の上に下ります」(ルカ1章49-50節)。

 私たちは原罪のアンチテーゼ(正反対)を聖母に見いだします。聖母は聖寵充ち満てるお方です。聖母は死に定められませんでしたが、御子が私たちの罪の負債を支払うために死を選ばれたため、聖母は御子にご自分を一致させることを選ばれ、そのために亡くなられました。しかし、命へと復活され、体と霊魂は天にあげられました。また聖母には、罪の傷、罪への傾き、自己中心性、弱さ、情欲のひとかけらもありませんでした。

 聖ベルナルドは、聖母が「天主のみ前に恩寵を得た」(ルカ1章30節)のは、聖母ご自身のためだけでなく、私たちのためでもあったのだ、と言いました。聖母は私たちに、母として与えられました(ヨハネ19章27節)。聖母は私たちに、私たちの主イエズス・キリストが十字架の上で獲得された恩寵を配られます。聖母は私たちに、私たちの霊魂にある原罪の傷を癒やす恩寵をお与えになります。私たちには、私たちの主イエズス・キリストの恩寵が必要です! 「私はぶどうの木で、あなたたちは枝である。私がその人の内にいるように私にとどまる者は多くの実を結ぶ。私がいないとあなたたちには何一つできぬからである」(ヨハネ15章5節)。知性を照らし、無知の傷を癒やすため、私たちには信仰の恩寵が必要です。すべてに超えて天主の愛と共に私たちの意志を燃え立たせ、自己中心と悪意の傷を癒やすため、私たちには愛の恩寵が必要です。弱さの傷を癒やし、天国へ行く途中に出合うあらゆる困難、特に世の妨げによる多くの困難に打ち勝つため、私たちには剛毅の恩寵が必要です。情欲の傷を癒やし、速やかな満足と地上の楽しみへと向かわせる私たちの中の悪しき傾きに抵抗するため、私たちには感覚における節制と禁欲の恩寵が必要です。それによって、特に祈りにおいて、私たちの霊魂が天主の方へ挙げられるように。「心の清い人は幸せである、彼らは天主を見るであろう」(マテオ5章8節)。聖母はこれらの恩寵に満たされ、「聖寵充ち満てる」お方でしたから、私たちのためにそのすべての恩寵を取り成してくださいます。聖母は、私たちが黙想すべき外的な模範であるだけでなく、私たちの霊魂を変容させ、癒やす内的な恩寵を、私たちのために取り成してくださるため今も働いてくださる取り次ぎ者でいらっしゃるのです。

 天主は悪から善を引き出すお方です。原罪は、私たちが謙遜を保つために有益です。罪は傲慢によって世に入りました。原罪のなかったアダムとエバが傲慢になり、ひどく堕落しました。原罪を持って生まれた私たちにとって、自分の霊的な惨めさを認めると、それが私たちに謙遜を保たせてくれます。洗礼ののち、残っている傷もまた、私たちに謙遜を保たせてくれます。童貞聖マリアは受けた恩寵によって、いつも最も謙遜な心を持っておられました。「主が卑しいはしために御目をとめられたからです」(ルカ1章48節)。聖母は、私たちが謙遜の行いをすることができるよう、私たちを助けてくださる強い力をお持ちです。

 第一の謙遜のわざは、私たちが天主に依存していることを認めることです。私たちの中にある善であるものはすべて、天主から頂きました。聖母は、「全能者が私に偉大なことをされたからです」(ルカ1章49節)とお認めになられました。感謝は美しい徳です。私たちは、特に完全な感謝のいけにえ、ミサを捧げることによって、天主に感謝します。

 天主だけが、「ens a se―自分で存在する」のです。天主は存在をお受けになったのではありません。すべての被造物は「ens ab alio-他者によって造られ、他者によって存在する」のです。私たちは最終的に天主から存在を受けました。それゆえに、天主が被造物に依存することは絶対になく、逆に、私たちが完全に天主に依存しているのです。この天主の超越性が、天主を礼拝すべき理由そのものなのです。聖母はマニフィカトの同じ文の中でこの超越性をお認めになられました。「そのみ名は清」(ルカ1章49節)い、と。謙遜は、天主への崇敬と礼拝に密接に結び付いています。ですから私たちは、完全な礼拝のいけにえ、ミサの聖なるいけにえを天主に捧げるのです。

 天主が何者にも依存しないこと、天主が無限に完全であることを聖母はどちらもたいへんよく理解しておられましたから、天主のみ前で完全な謙遜でおられました。「私は主のはしためです。あなたのみ言葉のとおりになりますように」(ルカ1章38節)。しかし、不幸なことに、他の人間はすべて多くの罪に陥ります。小罪だけの者もいますが、多くの者は大罪に陥ります。ですから、これが天主のみ前で謙遜であるべき第二の非常に重要な理由なのです。私たちは天主の御目の前に立つのにふさわしくありません。私たちは惨めな罪びとです。聖ペトロは、奇跡的な大漁ののち、ひれ伏して言いました。「主よ、私から離れてください。私は罪びとです」(ルカ5章8節)。ですから、私たちには絶対に贖い主が必要です。私たちは私たちの罪を償うために、天主に完全ななだめのいけにえ、ミサの聖なるいけにえを捧げることが必要なのです。

 聖母は、私たちが罪深い者であることを知るのを助けてくださいます。聖母の完全な清さと無垢と比べることで、私たちの罪が真実の光の中で、その醜さを見せます。私たちの生活から絶対に拒否すべき大罪―それは絶対に駄目です―だけでなく、天主をお喜ばせしない小罪の醜さも見せてしまいます。私たちは、聖母の助けによって、聖母のように、インマクラータのように、もっともっと恩寵に忠実であるように、清くあるように努力すべきです。罪に対する戦いにおいて、聖母は最も力をお持ちのお方です。聖母は謙遜によって、悪魔の、この傲慢の怪物の頭を踏み砕かれました。「私は、おまえと女との間に、おまえのすえと女のすえとの間に、敵意を置く。女のすえは、おまえの頭を踏み砕く」(創世記3章15節)。罪に対する戦いに勝利するため、ここ地上で私たちの必要とするすべてのものを得るため、私たちには聖母の助けが必要です。そうすれば、聖母は多くの惨めさから私たちを助けてくださいます。私たちには私たちの主イエズス・キリストの恩寵が必要であり、その恩寵を願い求めなければなりません。そのため、私たちは完全な祈願のいけにえ、願いのいけにえ、ミサの聖なるいけにえを捧げるのです。

 生けるインマクラータ、無原罪の聖母は、まったく清らかでまったく純粋なお方です。それは、聖母が常に天主の光の下で、私たちの主イエズス・キリストという光の下で生きておられたからです。「み言葉には生命があり、生命は人の光であった」(ヨハネ1章4節)。「私は世の光である。私に従う人は闇の中を歩かず、命の光を持つであろう」(ヨハネ8章12節)。聖母は、私たちの主イエズス・キリストの地上での生活の始まりから終わりまで、十字架の下まで、主に完全に従っておられました。それゆえに、聖母はさらに、被昇天によって天国にまで主に従うに値するお方でした。被昇天は、無原罪の御宿り(という与えられた恩寵)に対して忠実だった聖母への究極の報いなのです。無原罪の御宿りが聖母の生涯の聖寵充ち満てる始まりであったように、被昇天は同じ聖母の生涯の聖寵充ち満てる終わりなのです。聖母が聖寵充ち満てるお方であるのは、私たちの主イエズス・キリスト、「御父の御独り子、恩寵と真理に満ちておられた」(ヨハネ1章14節)お方に充ち満ちておられたからです。

 ですから、この祝日の実りを引き出しましょう。聖母への無原罪の御宿りという驚くべき賜物をさらに深く尊重するという実り、私たちの主イエズス・キリストが御母になされた驚くべきわざを見て主の救いの御力をさらに深く信頼するという実り、私たちが自分の惨めさ、原罪の結果を考察してさらに深く謙遜になるという実り、私たちが天主に依存していることを考察して聖母をまねようと努めるときさらに深く謙遜になるという実り、私たちの主イエズス・キリストの恩寵、主によって生き、主のために生き、主の光において生きる恩寵に対するさらに大いなる忠実を持つという実りを引き出しましょう。そして最後には、主の恩寵によって、天国に行き、御父と聖霊と共に永遠に、顔と顔を合わせて主を見るという祝福されたその日を迎えることができますように。アーメン。
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「世の罪を取り除く天主の小羊を見よ!」洗者聖ヨハネの使命:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

2015年12月19日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 主の御降誕まであと一週間となりました。
 先週の主日には大阪でレネー神父様が聖伝のミサを捧げてくださいました。レネー神父様を日本に送ってくださる天主様に感謝します。

 まことの天主にしてまことの人、天主の御子、天主の小羊、司祭にしていけにえである私たちの主イエズス・キリストの神性への聖ヨハネの信仰を願い求めることにいたしましょう!

 そして、イエズス様のご誕生前の最後の数週間に聖母は何を考えておられたかを黙想することにいたしましょう。ご胎内に宿しておられた御子に対して、聖母はどれほどの信仰、どれほどの愛を持っておられたかを! どれほど御子をご覧になりたいと思われたかを! 御子を喜ばせ、すべてにおいて御子に忠実に仕えることに、どれほど注意を払っておられたのかを! イエズス様がふさわしく迎えられるために、すべてのことを準備するのにどれほどの熱意を持っておられたかを!

 私たちの霊魂が幼きイエズス様を見る準備を、「民が服従するお方」(創世49章10節)を見る準備を、インマヌエル、私たちと共におられる天主を見る準備をいたしましょう。
 洗者聖ヨハネにの言葉に耳を傾けて、悔い改めの時である待降節を良くお過ごしください。
 
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【お説教】
2015年12月13日待降節第三主日の説教―大阪 洗者聖ヨハネについて




親愛なる兄弟の皆さん、

 私たちの主イエズス・キリストは私たちに対して、「洗者ヨハネよりも偉大な預言者はいない」(ルカ7章28節)、さらにもう一度、洗者ヨハネは「預言者よりもすぐれた人」(マテオ11章9節)と言われました。洗者ヨハネとは何者なのでしょうか? 私たちの主イエズス・キリストは彼についてこう言われます。「『私は使いを先に送る、あなたの道を整えさせるために』と[預言者マラキアによって]書かれているのはその人のことである」(マテオ11章10節)。しかし、聖ヨハネは非常に謙遜な方ですから、自分のことをこう言いました。「私はキリストではない…私はエリアではない…私は預言者ではない」(ヨハネ1章20-21節)。「預言者イザヤの言っている『主の道を正しくせよと荒れ野に叫ぶ者の声』とは私のことである」(ヨハネ1章23節)。聖ヨハネの使命は、民がキリストを受け入れるよう、直接準備をすることでした。ですから彼は、主を指し示し、主に洗礼を授けるという特別な恩寵を持っていたのです。

 救い主の来臨は、四千年以上前、天主が蛇に「私は、おまえと女との間に、おまえのすえと女のすえとの間に、敵意を置く。女のすえは、おまえの頭を踏み砕き、おまえのすえは、女のすえのかかとを狙うであろう」(創世3章15節)と言われたときすでに、告知されていました。蛇の頭は、女とその子孫によって砕かれることになるのです。それ以来、天主は何度も預言者を送られました。それは、人類が罪の中に沈まぬようにするためというよりも、むしろ来るべき救い主への信仰を新たにするためでした。これは、救い主が出ることになっていたヘブライ人の準備において特に当てはまり、特別な方法で偉大な聖人たちを準備なさいました。彼らはアブラハム、イサク、ヤコブ、さらに後には天主が律法をお与えになったモーゼでした。モーゼは、人々に自然の道徳の律法を思い出させ、儀式の律法を通してキリストを告知しました。さて、この民は大変反逆的でしたから、天主はさらに多くの預言者を送られ、民に忠実の道を思い出させ、罪を犯し続けるならば罰を与える、と民に警告されました。これらの罪のため、民はバビロニアへ追放されましたが、のちには追放から帰還させてもらいました。追放から帰還したときにいた最後の預言者たち以降は、もう預言者が出ることはなく、民は四百年近く、幾度となく告知されてきた救い主となるお方の出現を待ちながら生きていました。

 そしてその後、聖ヨハネが生まれました。それは奇跡でした。なぜなら、聖ヨハネの母は子どものできない女であり、両親ともかなり高齢だったからです。人々は言いました。「『この幼子はどうなるだろう?』実に主の御手はその子とともにあったからである」(ルカ1章66節)。まだ非常に若いとき、聖ヨハネは砂漠に隠遁し、そこで聖霊によって教えを受けました。彼は悔い改めの生活を生きました。彼は「らくだの毛の衣をまとい、腰に皮帯を締め、いなごと野蜜を食べて」(マテオ3章4節)、すべての時間を祈りに費やしていました。人々は聖ヨハネのことに気付き、こう言いました。荒れ野に天主の人がいる! 人々が聖ヨハネのところへ来たため、聖ヨハネは大変強い調子で説教しました。「悔い改めよ、天の国は近づいた」(マテオ3章2節)。「まむし族の者よ、近く来る天主の怒りを逃れることを、誰があなたたちに教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。心の中で、『われわれの父にアブラハムがいる』と言おうとするな。私は言うが、天主はこれらの石からもアブラハムの子らを創ることができる。おのはもう木の根に置かれた。よい実を結ばぬ木は、切り取られて火に投げ入れられる」(マテオ3章7-10節)。

 この悔い改めよとの呼びかけは、今日最も必要です。私たちはキリストに戻る必要があります。キリストをまったく知らなかった人々は、本当にキリストのところに来る必要があります。なぜなら、キリストなしでは誰も救われないからです。「救いは主以外の者によっては得られません。この世においてわれわれの救われる名はそのほかにはないからです」(使徒行録4章12節)。悔い改めは、私たちの主イエズス・キリストを受けられるようにするために必要な準備です。地上のもの、罪への愛着があって、頭が砂に埋もれてしまっては、誰も光を見ることはできません。悔い改めなければ、あわれみはありません。天主の御あわれみが、私たちを罪の悔い改めへと導きます。洗者聖ヨハネは、主の道を準備し、私たちの道を真っすぐにするため、悔い改めを説教しました。私たちが聖ヨハネの言うことをよく聞いて、本当に罪の悔い改めをすることができますように。

 多くの人々が聖ヨハネから悔い改めの洗礼を受けましたが、ファリザイ人は彼を拒否しました。しかし、聖ヨハネの使命は、ただ悔い改めを説教するよりもずっと高い価値を持つものでした。その主な使命は、キリストがすでにそこにいること、民の中にいること(イエズスはヨハネよりもちょうど六カ月若かったため)を告知し、そのあとで彼らにキリストを指し示すことでした。「人々は主を期待していたので、みな心の中で、ヨハネはキリストではないのかと考えていたけれども、ヨハネはみなに向かって言った、『私は水で洗礼を授けるが、私よりも力のある方が来られる。私はその方の履物のひもを解く値打ちもない者だ。その方は聖霊と火であなたたちに洗礼を授けられる。また、その方は手に箕(み)を持ち、打ち場を清め、麦を倉に納め、殻は消えることのない火で焼くだろう』」(ルカ3章15-17節)。この偉大な聖人が地獄にについて説教することを恐れなかったのを心に留めてください。

 人々は聖ヨハネを自分たちよりもずっと高貴な存在だと思っていましたが、聖ヨハネ自身は、その靴のひもを解く値打ちもないほどキリストを自分より高貴な存在だと証言しました。それでは、私たちの主イエズス・キリストは何者でしょうか? 「ヨハネは自分の方に来られるイエズスを見て、『世の罪を取り除く天主の小羊を見よ。私がかつて〈私のあとに来るお方は、私よりすぐれた方で、私より前に存在しておられた〉と言ったのはこの方のことである。私はその方を知らなかったが、イスラエルに公に現れるようにと私はその方に水で洗礼を授けに来た』と言った。それからヨハネは証しを立てて言った、『霊が鳩のような形で天から下り、その方の上にとどまるのを私は見た。私はそれを知らなかったが、水によって洗礼を授けるようにと私を遣わされた方が、〈あなたは、その人の上に霊が下り、そしてとどまるのを見る。その方こそ聖霊で洗礼を授ける者である〉と仰せられた。私はそれを見、そして、その方こそ天主の御子であると証明した』」(ヨハネ1章29-34節)。

 これは、洗者聖ヨハネの素晴らしい証言です。自身が洗者聖ヨハネの弟子であった使徒聖ヨハネによって、私たちのために記録されたものなのです。使徒聖ヨハネは、福音書に記録した言葉についての直接の証人です。その言葉が大変深遠であり、大変重要であったため、使徒聖ヨハネは決して忘れることができませんでした。イエズスは「天主の小羊」です。イエズスは「天主の御子」です。まことの人間であり、まことの天主であって、「世の罪を取り除く」お方、世の救い主です! これらの言葉の素晴らしさを認めましょう! まことの天主、全能である天と地の創造主は、驚くほど私たちを気にかけてくださる天主、人間を非常に気にかけ、御独り子を送られるほど人間を愛してくださるお方です。「天主は御独り子を与え給うほどこの世を愛された。それは、彼を信じる人々がみな滅びることなく永遠の命を受けるためである」(ヨハネ3章16節)。「み言葉はご自分の家に来られた」(ヨハネ1章11節)。イエズスはまことの天主であり、天と地の創造主(「万物はみ言葉によって創られた。一つとしてみ言葉によらずに創られたものはない」(ヨハネ1章3節))であり、無限の善そのものでいらっしゃいます! 私たちにはキリストの神性に対するこの信仰が必要です。イエズスは「天主からの天主、光からの光、まことの天主からのまことの天主」(信経)であり、「真理であり命」(ヨハネ14章6節)であり、旧約で言われたように、彼は「永遠の光明の反映であり、天主の行いの、曇りなき鏡であり、天主の崇高さのかたどりである」(知恵7章26節)のです。聖パウロは同じことを言っています。イエズスは「天主の栄光の輝き、天主の本性の型である子は、その勢力あるみ言葉によって宇宙を保」(ヘブライ1章3節)つのです。

 さて、天主の御子が地上に来られたのなら、これは全人類にとって最も重要です! 誰も彼を無視したり、嫌ったりすることは許されません。それどころか、私たちはみな、彼から学び、信仰によって私たちの頭に、愛によって私たちの心に、善き業によって私たちの両手に彼を受け入れるべきです。イエズスは私たちにとってすべてでなければならず、イエズスは私たちの命の理由そのものであり、私たちの命の究極の目的は、天国で顔と顔を合わせて彼を見ることなのです。

 では、天主の御子は、何をするために地上に来られたのでしょうか? 「世の罪を取り除くために」、「民を罪から救うために」と、天使は聖ヨゼフに言いました。御子は救い主です。彼は私たち人間のあらゆる病気、そのうち最も重い病気である罪に対する薬です。彼は私たちの抱えるあらゆる問題の解決法です。彼は私たちの霊魂を癒やす天主の医者です。みな彼のところへ行き、心を開きましょう。そして、自分の罪を非難し、罪を告白し、御あわれみを頂き、私たちの霊魂が罪から癒やされる恩寵を頂きましょう。自己中心と憎しみがあるところに、彼は愛を置かれます。恨みのあるところに、彼は赦しを置かれます。傲慢のあるところに、彼は謙遜を置かれます。欲望があるところに、彼は純潔を置かれます。怒りと暴力があるところに、彼は柔和を置かれます。強欲と盗みがあるところに、彼は施しを置かれます。泥酔のあるところに、彼は平静を置かれます。闇のあるところに、彼はその光をもたらされます。失望のあるところに、彼は希望を置かれます。死のあるところに、彼は永遠の命をもたらされます!

 では、天主の御子は、どのようにしてそのすべてを実現なさったのでしょうか? 十字架の祭壇の上でご自身を、天主の小羊として奉献することによってです! 「これは天主の小羊である」とは、私たちの主イエズス・キリストについての何と素晴らしい定義でしょうか! 主は実際まことの天主であり、天主の御子ですが、「死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして従われ」(フィリッピ2章8節)るために、地上に降りて来られました。主はこのようにして天主の小羊となられましたが、毎年過ぎ越しの祭で奉献されるすべての過ぎ越しの小羊がそれを象徴し、告知するだけでなく、旧約の神殿で奉献される毎日のいけにえがそれを象徴し、告知していたのです。しかし、主の十字架の完全ないけにえの奉献によって、主はこれら象徴的なものをすべて終了させ、今や新しい永遠の契約において、ミサの祭壇上の小羊のいけにえの完全な奉献に置き換えられました。

 「天主の小羊!」。さて、これは最も驚くべきことです。天主の御子は私たちに代わって、私たち罪びとに代わって、十字架上で私たちの罪を償われるのです。無垢そのものであるお方が、私たちを罪から救うために罪のある私たちのために償われるのです! これは、天主がどれほど私たちを愛しておられるかということです。これは、天主がどれほど罪を憎んでおられるかということです。ですから、ためらってはなりません。私たちは、罪と完全に決別しなければなりません。私たちは、永遠に天主に忠実でなければなりません。私たちは、天主の恩寵によって、私たちの主イエズス・キリスト、天主の御子、天主の小羊の恩寵によって、そうすることができるのです。

 洗者聖ヨハネのメッセージは、どれほど全世界にとって最も重要であるかを見てください! しかし、彼はさらに言います。ここには、彼が弟子たちに与えた美しくて深い確信があります。それはまさに、洗者聖ヨハネの本当の心を明らかにします。洗者ヨハネの弟子たちは「ヨハネのもとに来て、『先生、ヨルダン川の向こうで、あなたと一緒にいたあの人、あなたが証明したあの人が洗礼を授けて、人々はみなその方へ行きます』と言った。ヨハネは、『天から与えられぬ限り、人は何物もわがもの顔にはできぬ。私が〈私はキリストではない〉、〈ただ主に先立って送られた者だ〉と言ったことは、あなたたちにも証明できるだろう。花嫁を持つのは花婿で、花婿の友人はそこに立ち、花婿の声を聞いて大いに喜ぶ。これこそ私の満ちあふれる喜びである。彼は栄え、私は引き退(さが)らねばならぬ』と言った。上から来た人はすべてのものの上にあり、地から出た人は地上の者で地上のことを話す。天から来る方はみなの上にある。その方はご自分で見聞きしたことを証明されるが、誰一人その証明を受け入れぬ。だが、その証明を受け入れる人は、天主が真実であることを証明する。天主から遣わされた方は、天主から限りなく霊を与えられていて、天主のみ言葉を語る。御父は御子を愛し、その手に万物を委ねられた。御子を信じる者には永遠の命があり、信じようとしない者は命を知らず、その人の上には天主の怒りがとどまる」(ヨハネ3章26-36節)。

 聖ヨハネのこれらの弟子たちは、聖ヨハネと一緒にいることによって彼に忠実を尽くそうと思っていました。しかし、聖ヨハネは彼らに、彼らがいかに間違っているかを説明しました。弟子たちがみなイエズスの方へ行ってそのお話を聞くならば、聖ヨハネはもっと幸せになるのです。実際、「花嫁を持つのは花婿」なのですから。花嫁は教会、信者の会衆です。花婿はキリスト、救い主です。聖ヨハネはどうかと言えば、彼は「花婿の友人」、イエズスの友人であり、彼は喜びます。なぜなら、救い主が来て、その救いの使命を開始したからです。聖ヨハネの喜びは満たされます。聖ヨハネの謙遜は次の言葉にあります。「彼[イエズス]は栄え、私は引き退(さが)らねばならぬ」。彼らの死自体が、そのことを実現しました。イエズスは十字架上に上げられ、栄え、洗者聖ヨハネは斬首され、引き退(さが)ったのです。そして聖ヨハネは続けて、私たちの主イエズス・キリストと彼の神性について証言しました。「御父は御子を愛し、その手に万物を委ねられた」。御父は御子にすべてを、ご自分の神性をお与えになったのです! そして聖ヨハネは、私たちのために結論を引き出します。私たちは御子を信じなければなりません。「御子を信じる者には永遠の命があり、信じようとしない者は命を知らず、その人の上には天主の怒りがとどまる」(ヨハネ3章36節)。親愛なる兄弟の皆さん、洗者聖ヨハネから、私たちの主イエズス・キリストの神性についてのその偉大な信仰を、私たちの主イエズス・キリストに対するその偉大な愛をいただけるよう願い求めましょう。そうすることで、私たちが完全に主のために生き、聖ヨハネのように主のために自分の命を捧げることができますように。また、イエズスを知らせようとするその熱心さを願い求めましょう。皆さん一人一人がクリスマスにもう一人の人を連れてきてくださるならば、素晴らしいことです。幼きイエズスへの大変すてきな贈り物となるでしょう。

 ミサに出席するときはいつでも、私たちは聖ヨハネの言葉を聞きます。聖体拝領の前に、司祭がその言葉を言います。「天主の小羊を見よ! 世の罪を取り除き給う御者を見よ!」。この偉大な預言者、全預言者の中で最も偉大な方を忘れないようにしましょう。そして、まことの天主にしてまことの人、天主の御子、天主の小羊、司祭にしていけにえである私たちの主イエズス・キリストの神性への聖ヨハネの信仰を願い求めましょう! これは、あの同じイエズス、ガリレアの道を歩まれ、聖ヨハネがヨルダン川で洗礼を授け、十字架上で亡くなられ、再びよみがえり、パンとぶどう酒の外観のもとに、ご聖体にまことにましますあの同じイエズスでいらっしゃるのです。これは、あの同じイエズス、彼に願い求めるすべての人に対して多くの恵みをお与えになるあの同じイエズスでいらっしゃるのです。主はご自分の体で私たちを養ってくださるので、私たちは主によって生きるのです。「私たちに対する天主の愛はここに現れた。すなわち、天主はその御独り子を世に遣わされた。それは私たちを御子によって生かすためである」(ヨハネ第一4章9節)。主が私たちのうちに生きてくださるようにです。「私は生きているが、もう私ではなく、キリストが私のうちに生き給うのである」(ガラツィア2章20節)。主は、私たちの霊魂の花婿として来られます。私たちが、「教会がキリストに従うように花婿に従う」(エフェゾ5章24節)良き花嫁として、まったく主のために、主に従って生きることができますように。

 洗者聖ヨハネは、童貞聖マリアがご訪問で、その母にあいさつなさったとき、母の胎内で聖化されました。聖ヨハネが非常に多くの恩寵を受けたのは、マリア様を通してなのです。私たちがクリスマスの準備をするのも、マリア様を通してなされるべきです。聖母は救い主のご誕生の準備をどのようにしてなさったのでしょうか? イエズスのご誕生前の最後の数週間に聖母は何を考えておいででしたのでしょうか? ご胎内に宿しておられた御子に対して、聖母はどれほどの信仰、どれほどの愛を持っておられたでしょう! どれほど御子をご覧になりたいと思われたでしょう! 御子を喜ばせ、すべてにおいて御子に忠実に仕えることに、どれほど注意を払っておられたでしょう! イエズスがふさわしく迎えられるために、すべてのことを準備するのにどれほどの熱意を持っておられたでしょう! 買い物にすべての注意を向けて、この世的な方法でクリスマスを迎えるのではなく、私たちの霊魂が幼きイエズスを見る準備を、「民が服従するお方」(創世49章10節)を見る準備を、インマヌエル、私たちと共におられる天主を見る準備をしましょう。この待降節は悔い改めの時であり、特に第三週は四季の斎日がありますから、聖ヨハネが説いたように私たちは悔い改めをもって準備をすることができますように。

 洗者聖ヨハネと童貞聖マリアの模範に従って、私たちがすべてにわたって私たちの主イエズス・キリストのために生き、主を受けるのにふさわしい準備を、特にいとも聖なる秘跡であるご聖体を受けるのにふさわしい準備をすることができますように! アーメン。
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すべての預言者よりも偉大な先駆者、洗者聖ヨハネを準備された女性、マリア様について

2015年12月15日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

 愛する兄弟姉妹の皆様、

 2015年12月6日(主日)に東京で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

 天主様の祝福が豊かにありますように!
 トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2015年12月6日 待降節第2主日
小野田神父 説教


 聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。今日は2015年12月6日、待降節第2主日のミサを捧げています。

 今日のこの御ミサの前にニュースがあります。このミサの前に1人、ヨゼフさんとマリアさんの最初の赤ちゃんが、天主様の娘となる洗礼の御恵みを受けました。どうぞ、赤ちゃんマリアちゃんが、天国に行く道を、清く、真っ直ぐに歩む事ができますように、聖なる姉妹となりますように、マリア様にも、娘として生き抜く事ができますように、皆さんのお祈りをお願いします。

 また私たちの中には、洗礼の志願者の方が2人、今準備をしているので、どうぞその方々の為にもお祈り下さい。そして私たちの信徒の方々の中に、たくさんの子宝の恵みが与えられますように、お祈り下さい。
14時半から公教要理の勉強があります。16時からは、主日の第2晩課があります。明日は、朝7時からこの御ミサがあります。
 次のミサは、12月27日の主日、それから1月は、1月3日と17日です。


 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 愛する兄弟の皆さん、今日イエズス様の元に、洗者聖ヨハネから2人の使者が送られて、公式に、「イエズス様、あなたは一体誰ですか?」という話を、質問をされました。それは、聖ヨハネが殉教する直前の事でした。こうやって公式に弟子たちを、2人の証人を送って、「イエズス様が誰であるかはっきり宣言して、そして私の弟子たちを全てイエズス様に与えよう。さあ、救い主はこの方だ。」との意図の元に、弟子たちを送りました。もちろん洗者聖ヨハネは、イエズス・キリスト様がどなたかをよく知っていました。イエズス・キリストこそ、天主の子羊、私たちを救うべき世の贖い主です。

 私たちの主は、そのような質問を受けて、非常に御謙遜に、「俺がそうだ。」とは言わずに、「周りをよく見てほしい。」と答えます。
「一体何が起こっているだろうか。聖書の予言が全て成就しているではないか。さあ、結論はお前たちが取れば良い。」と、非常にご謙遜に、答えながらも、御自分がまさに約束されたメシアである、救い主である、キリストである、という事をはっきりと言われました。「そのこれらの奇跡を見てほしい。予言された通りではないか、キリストに関する御言葉が全て成就している。」

 そこで弟子たちは、ヨハネの元に帰って、それを報告するのです。イエズス様は、やはりヨハネについても、「この男こそ、聖書に書かれたその男である。預言者以上の預言者であって、女の腹より生まれた者でこれ以上の者はない。」という、ヨハネでも、「洗者ヨハネも、予言を成就した者である。」という事を宣言されます。

 そこで今日、待降節、イエズス様の御降誕を準備する為に、この「聖書の言葉の、聖書の予言の成就」という事と、そして「洗者聖ヨハネ」というこの2つのキーワードを黙想しつつ、この2つに共通するものは何かを探って、そして良き待降節を過ごす為の、送る為の決心を立てる事に致しましょう。

 聖ヨハネは、予言された、「主の道を整えるべき為に送られた者。再び来ると言われたエリアである。」と、言われています。ではこの洗者聖ヨハネは、どうやって準備されたのでしょうか?

 洗者聖ヨハネは、マリア様によって準備されました。まだ聖エリザベトの胎内に居た時に、その6ヶ月後、懐妊して6ヶ月後、マリア様の訪問を受けるのです。マリア様は、大天使聖ガブリエルから、「エリザベトが子供を身ごもった。」という事を知らされて、すぐに駆けつけたからです。そしてマリア様の挨拶を以って、そのマリア様の言葉を以って、ご胎内に居たイエズス様が、奇跡を起こしました。その奇跡の為に、洗者聖ヨハネの原罪は赦されました。

 そしてそれ以後、罪というものは全く知らずに、厳しい生活をして、そして荒れ野に行って、祈りと苦行の生活をして、多くの人々を、「罪の回心の為に、罪の悔悛の為に、罪の償いの為に、痛悔するように」と招きかけて、悔い改めの洗礼を施していました。「私たちは罪を犯した、救世主が必要だ。だから、私たちは罪を悔い改めて、その為に祈りを捧げなければならない。」と呼びかけていました。その罪の償いの為に、どれほど厳しい生活をしなければならないか、という事を、身を以って実践していたのでした。断食と祈りの生活です。これは全て、マリア様によって準備された、マリア様によって準備されたからこそ、すべての預言者よりも偉大な先駆者となりました。

 実は聖書には今日、聖パウロが言うには、書簡の中に言うには、「全ての事は、聖書に書かれている全ての事は、私たちの教えの為に書かれている。」と、あります。この洗者聖ヨハネを準備するべきこの女性については、アダムとエヴァが罪を犯したその最初の瞬間、「救い主を送る」と言った、その最初の瞬間から予言されていました。「私は、お前(蛇)と女の間に敵対を置く。この女性は、このお前の末と、女の末とに敵対を置く。この彼女は、お前の頭をかかとで踏み砕くだろう。お前に徹底的な勝利を収めるだろう。お前はこの彼女に何もする事ができない。攻撃するだろうが、お前は踏み砕かれる。」

 そこで聖書の中には、この洗者聖ヨハネを準備した女性、第2のエヴァ、マリア様について、色々な予言があります。そこで今日是非、この洗者聖ヨハネを準備したマリア様について、少し見る事にします。

 今回、特に待降節ですから、私たちがどうやって、マリア様に近付く者とマリア様に近付かない者との区別があるか、という事を見てみたいと思います。一体そんな話が聖書にあるのでしょうか?

 実は、教父たちによると、聖書の中には、「マリア様に近付く者、マリア様に愛を持つ者と、マリア様に愛を持たない者との2人がいて、そしてそれが前兆として、将来来たるべき者たちの影として現れている。」と言うのです。

 それは何の話かというと、イザアクの子供たちの話です。イザアクには子供たちが2人いて、1人はお兄さん、長男で、エザウと言います。その次はヤコブで、以前から、エザウは長男ですから、イザアクからとても愛されていました。何故ならば、予言によれば、救い主は、このイザアクの子孫から来なければならないからです。そしてエザウがその長子権を持っているので、その「この子から、救い主が生まれるべきだ。」と、いつもイザアクは目をかけていました。イザアクはもちろん、有名なアブラハムの子で、この救い主の約束を受けた者です。

 すると、ある日エザウは、とても頭が良く、腕力もあって、そしてスポーツ神経が抜群で、とても賢く、何でもこう狩りをすれば、走るのは得意だし、運動能力は長けているし、狩りをすればどのような動物でも仕留める事ができて、非常に有能な男でした。ところがある日、狩りをしていて、「お腹が空いた。」と言って、この弟の元に来るのですけれども、弟は、その時に大豆の豆のスープを食べているのですが、「スープが欲しい。」と言うと、ケチな事に、「嫌だ。」と言うのです。「お前の長子権をくれたら、これを売ってあげる。」と言うので、「こんな腹が減っているのに、長子権が何だ。さあ、スープをくれ。」と言って、売り飛ばしてしまうのです、スープ1杯に。

 エザウは、確かに能力があったのですけれども、非常に感覚的で、この世の事だけを、この世の快楽だけを追っていて、超自然的な長子権や、メシアの事などは、あまり関心のない男でした。

 そこで、ある時イザアクは、「もうこれで年も取って、もう弱って来た。さあ、私の残る全ての祝福を、愛する子供に与えて、そして救い主の来たるべき準備をしよう。」と言って、エザウに呼びかけて、「エザウや、お前は我が愛する長男だ。だから今から狩りに行って、私の好きな料理を、何か食べる物を作って欲しい。」と言うと、「今そうしたら、それを食べたら、私はお前に祝福を与えるから。最高の祝福を与えよう。」と言うと、エザウは、「そうですかお父さん。では、私が腕によりをかけて、狩りに行って、一番おいしい動物を仕留めて、そしてお父さんに素晴らしいごちそうを作ってあげましょう。さあ、待っていて下さい。私は早い足と、私の強い腕で、一番良い動物を仕留めて来ますから。」という話をしていました。

 それを、レベッカ、お母さんは聞いていると、レベッカは弟のヤコブの事が好きでした。何故かというと、ヤコブはいつも家に居て、お母さんの真似をしていて、お母さんの言う事をよく聞いて、お母さんを非常に愛して、お母さんの為にいつもお世話をしていたからです。もしかしたらヤコブは、外に向かって働くほどの体力がなかったのかもしれません。でも、お母さんのお手伝いだけはよくしていました。お母さんも、そのようなヤコブの事を非常に目をかけていて、「さあ、ヤコブや、お父さんが祝福を与えてくれる、と言うから、さあヤギを、小さなヤギを2頭群れから取って来て、私に持って来なさい。私はお父さんの一番好きな料理を作って、お父さんに食べさせてあげるから。」と言うと、ヤコブはその時に、疑問も持たずに、「あぁ、そうですかお母さん。じゃあ、ヤギを2頭取って来ます。」

 小さなヤギを2匹取って来て、そしてお母さんは料理して、そしてそれをお父さん、イザアクに与えると、お父さんは非常においしいおいしいと言って、涙を流しながら、「こんな美味しいものは、これはない。」と言って、食べるのです。その間に、お母さんのレベッカはヤコブに、エザウの服を着せて、そしてこの取って来たヤギの毛を刈り取って上に付けて、そして首にも巻いて、「お父さん、さあ食べて下さい。」「おぉ、声はヤコブだけれども、この毛がフサフサしているのや、この服の香りは、エザウだ。うんおいしい、料理もおいしい。」と言って、ヤコブが、そのエザウに与えるべきその祝福を全て、天の祝福と地の祝福を全て、受けてしまいます。「ヤコブを呪う者は呪われよ。」とまで言います。

 そしてその後、一生懸命猟をして、自分の力でやってきた、と言って帰って、「こんなすごいのが獲れた。」と言って帰って来て、「あぁ、さあこれから料理をしよう。」と言うと、お父さんがもう満腹でもう食べられない、という事を見て、あぁ、お父さん、どうかしたんですか?」「あっ?エザウや、何を今頃?あっ?さっき来たのはエザウじゃないのか?」「えっ?お父さん、私は今狩りから帰って来たところですよ?」「えっ?さっき来た子に、祝福を全部やってしまった。」「ええ!?私の分はもう何も残ってないのですか?そんな事はない!」と、泣きじゃくって、泣きじゃくって、泣きじゃくると、仕方がないので、この地上での祝福を与えて、「私がやれるのはこれだけだ。」と、少しだけ祝福を受けて、それで終わってしまったのです。

 教父たちによると、「これは、マリア様に信心を持つ者と、持たない者との違いである。」と、言います。

 何故かというと、マリア様、レベッカというのは、マリア様の前兆である。マリア様は、エザウも、子供たちを、エザウもヤコブも子供たちですから、愛しているのです。しかし残念な事に、エザウはマリア様の事を気にかけないのです。マリア様の為には何の奉仕もせずに、してもほんの少し、挨拶位で、口先だけで、そして狩りに行って、外の事に一生懸命なのです。外の事に一生懸命という事は、内的な生活の事は全然おかまいなしで、天主様の事や、救い主の事や、霊魂の事はおかまいなしで、食べたり飲んだり踊ったり遊んだり、おもしろおかしく過ごしたり、という事だけしか関心がない、という事です。そして帰って、マリア様にいつも従順で、マリア様の言う事を聞いているこの選ばれた者に対して、非常に嫉妬と憎しみを抱いています。

 教父たちによると、「レベッカ、マリア様は私たちに、『さあ、天主様の祝福を得る事ができる為に、小さなヤギを2つ取って来なさい。』と言うのです。ヤギは、2頭で、羊ではないのです。ヤギ、これは、私たち自身の事であって、私たちの霊魂と肉体、その2つをマリア様に与えて下さい。という事だ。」と言います。

 すると、マリア様は、私たちがマリア様に与えた霊魂と、ヤギの様な強情な霊魂と強情な体でも、マリア様が非常にうまく料理すると、天主御父の心に非常に適う、おいしい、もう食べて涙が出るほどおいしい、ほっぺたがもう落ちるほどおいしい料理に変わるのです。

 マリア様は、しかも私たちに、このヤギの皮を、毛皮を私たちの腕と首に付けて、そしてエザウの服を着せて、御父の前に行かせるのです。これは何を意味するかというと、「エザウの服」というのは、これは長男なので、教父によればこれは、「イエズス・キリストの聖寵の服だ」と言います。私たちは天主の養子であって、長男ではありません。本来の長男ではありません。しかし、イエズス・キリストの服を、長男の服を着る事を、マリア様によってできる。何故かというとマリア様は、イエズス様の服を、受けた全ての功徳を管理している倉庫であるから。

 マリア様が私たちにイエズス・キリストを着せて下さって、そして私たちのとった、奉献した業を私たちの腕に付けて下さると、天主は、「あぁ、声は罪人だけれども、服と匂いはイエズス・キリストだ。私の御子だ。」として、錯覚して、私たちに祝福を下さる、と言うのです。長子権を持つ者だけが受けるべき祝福を、私たちも受ける事ができるのです。

 そこで、では待降節にどんな決心を立てたら良いでしょうか?私たちがイエズス・キリストを受ける為には、天主様は1つの事を条件にしました。それは天主御父が、「マリア様であるならば、御子を委ねる事ができる。」イエズス・キリストも、天主御子も、「マリア様の元であるならば、自分を委ねて、この世に救い主に来る事ができる。」天主聖霊も、「マリア様のご胎内であれば、救い主を形作る事ができる。」という事です。洗者聖ヨハネも、旧約の教えも、そして天主三位一体も、皆、マリア様を示しています。マリア様に近付けば近付くほど、私たちがイエズス・キリストの祝福を受けて、イエズス・キリストを受ける事ができる、という事です。

 最初の奇跡、洗者聖ヨハネの聖化も、マリア様の御声、挨拶によって起こりました。肉体的な奇跡、カナでの婚宴でも、水がブドウ酒になる時に、「あの人たちにブドウ酒がありません。」と、マリア様が仰ったからこそ、イエズス様は、「婦人よ、それがあなたと私の間に、一体何の関係があるのでしょうか。私の時はまだ来ていません。」と言って、それでもマリア様が、「この方の言う通りになさりなさい。」と言うので、奇跡が起こりました。

 イエズス様は、いつも必ずマリア様を通して私たちの元に来ますし、マリア様を通して奇跡を行いますし、マリア様を通して、私たちに恵みを下さいます。これが聖書の教えです。これが天主様がなさるやり方です。イエズス・キリストがなさったやり方です。洗者聖ヨハネがそうやって教えています。

 そこで今日は、待降節ですから、良きクリスマスになりますように、マリア様に特にこの待降節の間お祈りなさって下さい。マリア様の元にいつも心を上げて、たくさんお祈りをなさって下さい。マリア様と共に犠牲を捧げて下さい。そしてヤコブの様に、マリア様に私たちの心も体もお捧げ下さい。マリア様がそれを、良い料理に、美味しい料理にして、天主に捧げて下さいます。マリア様が私たちにイエズス・キリストを着させて下さいます。そしてそれのみならず、私たちのみならず、私たちの友人や知人方も、イエズス・キリスト様を受ける事ができるように、マリア様にお祈りなさって下さい。多くの方が、イエズス・キリストの御恵みを、このクリスマスに受ける事ができるように、どうぞお祈りをお願いします。

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
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マリア様による、マリア様が為すべき、待降節における役割とは

2015年12月15日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 12月の初土曜日に大阪で行った聖伝のミサのお説教をご紹介いたします。

 待降節に、私たちはイエズス様を待ち望む準備をする事に致しましょう。
 そしてこの準備をする為に、マリア様の御心、マリア様の事をまず考え、黙想することを提案します。

天主様の祝福が豊かにありますように!

2015年12月5日 初土曜日 聖マリアの汚れ無き御心の随意ミサ
小野田神父 説教




 聖母の汚れ無き御心巡回教会にようこそ。今日は12月5日、12月の初土曜のミサをしております。今日のこの御ミサの後に、土曜日ですので、公教要理の復習があります、公教要理があります、どうぞいらして下さい。
12月はたくさんのミサがあります。12月13日の主日の夕方18時30分からは、レネー神父様が御ミサをして下さいます。

 それから12月24日のクリスマス・イヴには、夕方から18時30分から。そして25日には、真夜中と、それから暁の朝ミサがあります。それから26日にもミサがあります。25日の朝は、9時と10時30分、2回。そして26日の土曜日にもミサがあって、10時30分から。
そして12月の大晦日には、感謝のミサが、夕方の18時30分からあります。どうぞいらして下さい。


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 愛する兄弟の皆さん、今日は待降節における初土曜日ですので、私たちはイエズス様を待ち望む準備をする事に致しましょう。そしてこの準備をする為に、マリア様の御心、マリア様の事をまず考えます。マリア様による、マリア様が為すべき、待降節における役割とは何なのか。そして私たちが、どれほどマリア様の助けを必要としているか。そして3番目に、マリア様は特に21世紀の現代、どれほど必要としているか。終末の私たちにとって、どれほどマリア様が必要なのか。この待降節を過ごす為にどれほど必要なのか。最後に、何か良い遷善の決心をいくつか立てる事に致しましょう。

 昨日、初金曜日のミサでは、イエズス様を待ち望む、救い主を待ち望む太祖、そして旧約の義人たちの思いを少し黙想しました。それはパードレたちを待つ、潜伏キリシタンたちとの思いにも繋がるような、熱烈な思いだった、という事。またイエズス様は、それらの太祖や義人たちの思いを集めても、それを更に超えるような熱い望みを持って、私たちの元に来たい、私たちの元に来て、私たちを招きたい、私たちの近くに来たい、私たちが近くに行く事を望んでいる、という熱烈な愛とあわれみの望みを黙想しました。

 では、私たちはそのイエズス様の望みをどうやって果たしたらよいでしょうか?イエズス様は、「この地上に来たい。」と、熱烈な思いで人と私たちの間に住んで、私たちを愛し、私たちから愛されたい、と熱烈な思いを持っていましたが、それにはただ1つ条件がありました。イエズス様は、「第2のアダムとして来たい。」と思ったので、「第2のエヴァが必要だ。」と、これが条件でした。そして、「第2のエヴァは、第2のアダムと共にいるに相応しい、純潔なものでなければならない」という条件でした。

 既に、イエズス様がこの地上に、天主の御子が地上に救い主となって来られる、という時に、予言がされてました、「私は、お前と女の間に敵対を置く。お前の末と女の末の間に敵対を置く。お前は彼女を苦しめるが、彼女はかかとでお前の頭を踏み砕くだろう。」と。

 この第2のアダムが来るべき、置かれるべき、第2のエヴァというのは、この地上における第2の楽園の事でした。天主御子が、相応しくここに宿る事ができるべき、地上の楽園でした。閉ざされた秘密の楽園でした。

 ちょうど第1のアダムから第1のエヴァが生まれたように、出てきたように、第2のエヴァから第2のアダムが生まれてくる事を望まれました。そして第2のエヴァを通してのみ、イエズス様は私たちの元に来る事を望まれました。

 天主御父は、永遠の昔から、自分のいと愛するべき御子を、第2のペルソナ、天主御子を、「この地上に送ろう」と熱烈に望んでいました、が、たった1つの条件は、「第2のエヴァであるマリア様を通してのみ、それを為そう」と。もしもマリア様を通してのでなければ、それを望まないほど、「マリア様を通してのみ、御子を与えよう。」と望まれました。

 御子イエズス様も全く同じでした。イエズス様も、この地上に来る事を非常に熱く熱く、昔から望んでいましたけれども、ただこの地上に来るには、「マリア様を通してでなければ来たくない」と思っていました。「マリア様を通してのみ、来る事」を望んでいました。

 天主聖霊も同じです。イエズス・キリスト、天主の御子を人間として形作る為には、もちろんやろうと思えば、どのような方法でもできたのですけれども、天主聖霊は、永遠の昔から、「マリア様を通してのみ、マリア様の体内においてのみ、このマリア様という閉ざされた楽園においてのみ、御子を形作ろう。」と望みました。

 天主三位一体は、この地上に、私たちに救い主を送る為の唯一の道として、そこを通るべき道として、たった1つ、マリア様だけを選ばれて、マリア様を通してのみ、それを望まれました。

 そればかりではありません、天主三位一体はもちろん、自分の思い通りにしようとする事もできましたが、そうはされずに、マリア様の、第2のエヴァの同意を求めました。もしもマリア様が、「はい。」と言えば、この救いの業はできるし、しかし、第2のエヴァが、「私はそれに協力しない。」と言えば、いくら第2のアダムが一人でやろうとしても、それはやりたくない、三位一体は、人類の救いを為す事はない、と決めていました。

 全被造物、全天使たちは、天主三位一体は、マリア様が永遠から予定された、蛇の頭を踏み砕くべきこの女性が、この救いの業に協力するかしないか、私たちの為に救い主の母となるかならないか、そして同時に、贖われた人類の、第2の新しい人類の母と、永遠の命の、全ての永遠の命に生きる者の母となるかならないか、の承諾を待っていたのでした。

 マリア様は、大天使聖ガブリエルに答えました、「私は主の婢女なり。仰せの如く我になれかし。」この瞬間に天主三位一体は、非常な喜びと嬉しさで、御父は御子を送り、御子はマリア様の御胎内に宿り、そして天主聖霊はそのマリア様の浄き御胎内に、御子を人間として形作る事を始めました。ここに於いて、時に於いて、天主御子は人間として宿られ給うたのでした。

 マリア様が唯一の、私たちが救世主を受けるべき唯一の道であるだけではありません。第2のポイントは、天主御父は、私たちの救いの為に、この第2のエヴァといつも、贖いの道を、贖いの業を果たす事によって、最高の栄光を得ていた、という事を黙想しましょう。

 天主御子は、貧しき馬小屋で、マリア様によって生まれる事によって、マリア様から生まれる事によって、天主御父に最大の栄光を帰しました。マリア様の御手によって御父に捧げられる事によって、神殿に捧げられる事によって、天主御父に、えも言えない程の、この上もない栄光を帰しました。

 イエズス様はもちろん、そのありとあらゆる方法で、天主御父の栄光を、天主御父の栄光を高める事ができたはずですが、永遠の知恵であるイエズス・キリストは、無限に選ばれた、無限の選択肢から、最高度の栄光を帰す方法を選びました。

 それは、30年間、マリア様、及び聖ヨゼフ様の御許で、従順に私生活を送る、従順にマリア様の元で生活する、マリア様の恰も奴隷であるかのように、マリア様の命令に1つ1つ従う事によって、マリア様のものとして生活する事によって、天主御父に最高の喜びと、栄光を帰しました。

 そればかりではありません。イエズス様は、天主御父の栄光をより多くする為に、十字架と共に、マリア様と共に担がれました。十字架の足下には、マリア様がいらっしゃる事をお望みになりました。そして、マリア様を通して聖霊が下る事をお望みになりました。

 第2のアダムは、第2のエヴァと分かち難く結び付いています。第2のエヴァなしに、第2のアダムは有り得ませんでした。第2のアダムがいる所には必ず第2のエヴァがいなければなりません。全ての贖いの業は、この第2のアダムとエヴァが、第2のアダムが第2のエヴァの協力を以って、初めて達成されました。そうすることによって、御父に最高の栄光と、人類の贖いの最高の業を達成する事ができたのです。

 最初の奇跡を見て下さい。霊的な最初の奇跡は、洗者聖ヨハネの原罪を赦す事でした。マリア様は、聖エリザベトに挨拶の言葉を言う事によって、そのマリア様のお言葉によって、洗者聖ヨハネの原罪を赦す事ができるように、イエズス様の力を伝えました。

 そればかりではありません。最初の物体的な肉体的な物理的な奇跡も、カナの婚宴の席で、マリア様がイエズス様にお願いするから、イエズス様も時を早めて、その奇跡を行いました。「あの人たちにブドウ酒がありません。」「婦人よ、それがあなたと私の間に何の関係があるのか。」「さあ、この方の言う事を何でも従いなさい。」

 マリア様を通して、最初の霊的な、物体的な奇跡を行われたイエズス様は、終末まで、世界の終末の夕べまで、マリア様を通して奇跡を行い続けます。マリア様を通してこの世に来られたイエズス様は、マリア様を通して私たちの心に宿ろうと思っています。マリア様と共に贖いの業を成し遂げられたイエズス様は、マリア様と共に私たちにその贖いの功徳を、恵みを分配しようと思っています。

 マリア様は、教父たちによると、「イエズス様の聖心に立てられた、果てしない大きな貯水池の、恵みの貯水池からの、恵みの通る運河であり、水道である。」と、言われています。

 イエズス様を最初に受けた人たちを見て下さい。牧者や羊飼いや、或いは3人の博士たち。これはマリア様をまず見て、幼子がマリア様と共に居られるのを見て、救い主をマリア様から受け取ったではありませんか。シメオンも同じです。シメオンもマリア様を見て、「あぁ、お母さん、この、この子こそが、逆らいのしるしとなる子供です、救い主です。どうぞ私に抱かせて下さい。」マリア様を見てこそ、イエズス様を受ける事ができたではないでしょうか。

 私たちにとって、もしイエズス様を受け取ろうとするのであれば、シメオンのように、マリア様を探して行かなければなりません。マリア様から、イエズス様を受け取らなければなりません。どうしてもマリア様を通さなければ、私たちはイエズス様を受ける事ができないからです。これが天主様の御望みであって、永遠の御計画であるからです。

 追放された、地上の楽園からエデンの楽園から追放されたエヴァの子供である私たちが行かなければならない新しい楽園は、マリア様という楽園です。

 第3の点に、これはいつの時代でも、今までの話しは、いつの時代でも適用する事ですけれども、天主の御ご計画によって、終末の時代には、更にマリア様の栄光が表れなければなりません。何故かというと、天主様はその御計画によって、マリア様が生きておられる間は、たとえマリア様が世界をアッと言わせるような奇跡を起こす事ができたにもかかわらず、させようと思えばする事ができたにもかかわらず、マリア様はいかなる奇跡も行いませんでした。私たちと全く同じ生活、奇跡も、脱魂も、恍惚もない生活を行い、そして信仰にのみ生きた生活でした。そのマリア様のそのご謙遜の為に、終末には、マリア様の力が、マリア様がどのような方か、という事を、私たちによく分かるようにする、というのが天主の御計画であるからです。

 天主様は、マリア様の事を今まで秘密にされておられました。しかし時の終わりにつれて、マリア様がどのような御方であるか、或いはマリア様を通して、どのようにイエズス様が来られる事をお望みになられるか、という事をますます示そうとしています。

 例えば、ヨーロッパでプロテスタントがマリア様を否定して、「マリア様いらない」と、「イエズス・キリストだけで大丈夫、必要だ。」という新しい宗教が起きた時に、マリア様は時を同じく、メキシコで、グァダルーペという所でお現れになりました。

 その当時、メキシコでは悪魔が支配していました。何故悪魔が支配していたかというと、大帝国があって、蛇を崇拝する宗教が国の宗教で、王様はその蛇を礼拝して、その蛇に人身御供を捧げていました。人間の、生きた人間の心臓を生きたまま開いて、そしてその心臓を取って、それをそれが蛇に捧げていました。その蛇に捧げられた神殿の献堂式には、何万人という人の心臓が捧げられました。日々そのような心臓が捧げられていて、そしてそのような心臓の血を飲む事によって、太陽がまた陽を昇って、もしもそれが止まっていれば、太陽は陽を昇らなくなる、と恐れていました。何百万人もいたこの国では、多くの人々が悪魔に命を奪われていました。

 そのような元にやって来たスペインの宣教師たちは、カトリックの司祭たちは、一生懸命働きました。公教要理を教え、色々親切をし、愛徳の業をして、何とかしてその宗教を、新しい、イエズス・キリストの真の救い主の道を教えたのですけれども、回心する人は、ほぼゼロに等しかったのです。

 ところがマリア様が、ようやく回心したようなその一人、ホワン・ディエゴにお現れになったその10年の後には、メキシコの何百万人という人々は回心して、今でも、メキシコは共産主義の迫害にもかかわらず、法律的にはキリスト教が廃止されて禁止されているにもかかわらず、今でもメキシコでは、カトリック信者が大多数です。マリア様への信心が生き生きとしています。そしてマリア様は、そのご自分が母である、というそのお姿を、そのメキシコの人たちに見せて、そして自分こそが、本当の天主の御母である、という事を示しています。

 そればかりではありません。天主の立てた秩序を破壊し尽くそう、という共産主義がこの地上に出て、天主を憎み、天主という概念をこの地上から滅び尽くしてしまおう、そして共産主義者という、革命家というプロフェッショナルな職業ができて、その共産主義、革命家という人たちは、革命の為に全てを犠牲にして、全ての時間と、命と、家族も、全てを犠牲にして、革命の為に自分を費やす、という人たちが出た時に、そしてそのような人たちが、パリで革命を起こした時がありました、「パリ・コミューン」と言われています。1830年のことでした。

 その時には、やはり同じく1830年、11月27日、マリア様は同じパリで、カタリナ・ラブレに現れて、「メダイを作りなさい。そしてこの姿を使ってメダイを作りなさい。『原罪無く孕り給いし聖マリアよ、御身により頼み奉る我らのために祈り給え』この射祷を唱えなさい。」と言って、そのメダイを私たちに下さいました。

 人類がもう、天主を拒否して、マリア様を拒否して、「もう天主の方に行かない。もう行かない。」となったら、今度はマリア様の方から私たちの方にやって来て、「さあ、私はあなたたちと共にいますよ。グァダルーペでは1枚の絵ですけれども、今度は、私の姿を、あなたがた1人が身に付けなさい。危険な時には、そのメダイに手を当てて、私が居る、という事を確認しなさい。私にお祈りしなさい。これは、私がいつもあなたと母として居るシンボルですよ。」と、私たちに不思議のメダイを与えて下さいました。そして不思議のメダイによって、多くの奇跡が起こりました。

 皆さんもよく知っている通り、カトリックの敵であったユダヤ人、ラティスボンが回心しました。ラティスボンは有名なラビの子供で、カトリック教会に対して敵対していました。カトリックをもう見るのも話すのも嫌いで、何とかしてカトリック教会を破壊してしまおう、と思っていた、憎しみに満ちていた敵でした、悪魔的な男でした。

 ある日、友達から、「これ、メダイ、つい最近有名な話だ。」という事でくれて、「私、これ信じないから。」「でも信じなくても、持っていたら良い。」という事で、「君が言うから、じゃあ良いよ。持ってる。」このユダヤ人は、カトリックに回心しました。ある時教会に行くと、教会の中のマリア様を見て、その不思議のメダイのマリア様と同じマリア様を見て、「これだ。」そして、回心のお恵みを受けました。そして遂には司祭となって、ユダヤ人の回心の為に修道会を創るほどの、熱烈なマリア様のしもべとなりました。

 そればかりではありません、そのような話はたくさんあります。例えば、ある時牢獄に、極悪人死刑囚の様な人たちが集まって、牢獄があって、その内の一人がどうも、不思議のメダイを付けていたのです。それで、一緒にこの監獄にいる仲間からからかわれ、「何だそれは。何を付けているの、お前カトリックなのか。」と言ったら、その男はおそらくカトリックだったと思うのですけれども、それを見て、「あぁ、バレてしまった。」という事で、これを引きちぎって、床に捨ててしまいました。それで、それを見ていたクロード・ニューマンという男が、その捨てられたのを見て、「あれ?何だろう?あぁ、ここに女の人の姿が写っている、このきれいな女の人だ。」という事で、「あぁ、こんなにきれいな女の人を捨てたら」という事で、自分が貰ってしまいました。

 すると、夢の中でこのきれいな女の人が現れて、そしてそのクロード・ニューマンは、今までの罪を悔い改めて、回心する恵みを受けました。そして、今までカトリックの事もよく知らずに、マリア様の事も聞いた事がなくて、神父様に、その監獄の、刑務所の所属の神父様の所に行ってその話をすると、「それは、不思議なメダイというんだ。そのお前が見たのは、マリア様だ。マリア様は、カタリナ・ラブレに現れた。」という話をして、そして「あぁ、マリア様の話を聞かせて下さい!」そしてこのクロード・ニューマンは、マリア様の事を知って、そしてイエズス・キリストの事を初めて知る様になりました。

 この男はもう死刑囚だったので、その死刑の日が決まっていました。そこで、司祭から言われた通りに、死刑のその日まで数日あったので、それをその日を、罪の償いとしてマリア様にお祈りして、マリア様にお祈りして、お祈りして、この準備していました。さあ、その死刑のその当日になると、通知が来て、大臣から、法務大臣からの恩謝が出て、「死刑が延長になった。だからあと2週間、まだ死刑があと2週間後に延ばされた。」という事を知らされました。

 するとクロ―ドは、非常にがっかりして、「せっかくマリア様の元に行けて、マリア様に会えると思っていたのに、こんなにきれいな人は、あんな夢で見たこのきれいな人に会いたかったのに!」という事で、非常にがっかりして神父様に言うと、「がっかりだ、がっかりだ、」と言うと、「もうマリア様の所に行きたい、御許に行きたい、」と言うのですが、神父様が、「いや、そう思わずに、これもマリア様の御旨だから、この更に2週間を、罪の償いと、祈りと犠牲の為に捧げなさい。特に罪人の回心の為に、お前と同じような死刑囚の回心の為に、祈りなさい。」と言うと、「はい。」と言って、そして彼は聖人の様な生活と、償いの生活をして、そして死刑されていきました。

 実はその同じ刑務所に、非常に罪に凝り固まった、頑固で回心しない極悪人が1人いました。彼はその死刑のその時に、色々回心するように、と司祭から言われても全く無視して、唾を吐くわ、汚い言葉を吐くわで、全く回心のしるしを見せませんでした。死刑のその前日、この男は夢を見ました。すると夢の中で、この自分が行かなければならない、この死刑を受けた後に行かなければならない地獄を見ました。燃え盛って、轟々と燃え盛る恐ろしい恐ろしい場所で、そこで自分が永遠に苦しまなければならない、という事をよく分かる事ができました。そして、「えぇ!?こんな事が待っているのか!」という事に恐れおののいて空を見ると、そこにマリア様の姿があったそうです。そしてマリア様の右にクロード・ニューマンがいて、「何とかや、今お前が地獄の火を見る事ができたのは、ここにいる彼が、お前の為にお祈りをしてくれたからだ。この彼のお祈りのおかげで、今そのお恵みが、お祈りのおかげでお恵みがある。さあ、回心しなさい。」そして彼は回心して、死刑を受けたそうです。

 マリア様は、私たちにイエズス様を与える為に、イエズス様のお恵みを与える為に、自分の元に引き寄せるのではなく、イエズス様へと引き寄せる為に、私たちの母となろうとしておられます。マリア様は何故そうするかとういうと、イエズス様から命令されたからです。十字架の下で。今日聖福音で読みました、「見よ、汝の母ここにあり。」そしてマリア様に向かって、「見よ、汝の子ここにあり。」と。

 マリア様は、イエズス様から、これからは私たち人類を、私たちを、自分の、自分を愛したと同じ様に愛して欲しい。子供として愛して欲しい、という願いを、御子イエズス様から受けたのです。もちろんマリア様は、「はい。」と答えました。それはもう、最初のフィアットの中に含まれていた契約で、約束で、もう全て、「はい。」です。

 考えてもみて下さい。私たちに愛する、皆さんがお母さんとなって、お母さんとなって子供が、一人っ子の男の子がいて、玉のようにきれいで、頭が良くて、スポーツができて、勉強ができて、皆から愛されて、そして30年間お母さんに、「はい、お母様。」「はい、お母様。」「はい。」「はい。」素直に従順に、こうすくすく成長して、そして仕事をやって、そしていつもお母さんの心の楽しみであり、本当にもう悪い事1つした事のない、良い、誠実な、立派な子供で、その子供が、全く罪無く、全く不正に、嘘と、讒言と、不正義によって、死刑にされて、そしてその自分の愛する子供を殺したその極悪人がここにいて、悪い事、罵る事をさんざんやって、叩き、傷めつける事をやった、そのこの人たちがいて、そのような、そのような人たちを、この自分の子供は愛するのだけれども、その愛のお返しに悪さをして、意地悪をして、そして遂には殺害までしてしまう。

 そしてその、この今死なんとする子供が、「お母さん、この僕を今殺そうとしている、このような極悪人の、このような人たちをも、私を愛するように、僕を愛するように、愛してあげて下さい。これからはあなたの子供です、お母さんの子供です。」と、言うのを見て、「どうして、この、このような子供を愛する事ができるだろうか。」と思ってしまうかもしれません。しかしマリア様は、「はい。」イエズス様のその言葉の通り、「さあ、分かりました。」と、このイエズス様を死に至らした、罪によって至らした私たちを、マリア様は極みなく愛し、愛し、愛し、そして私たちの為に全ての善を尽くして、自分がどんなに犠牲になっても、私たちの善を、私たちの為にしようとされています。

 ですからこそ、マリア様は天から地上に来られてまで、何とかして私たちを救おうと、私たちにイエズス様を与えよう、とされています。

 ですから、特に現代、イエズス様を否定し、イエズス様を亡き者にし、イエズス様を、イエズス様を「いらない。」と言うようなこの現代において、私たちがイエズス様を受ける為に、ますますマリア様が必要です。マリア様は、そうする事によって私たちを助けようとしています。

 では一体何故このような、このようにますますイエズス様を否定するような世界がはびこっているのでしょうか?何故かというと、天主御父は、この「時」の終わりに、この夕べに、マリア様の御力がどれほどであるかという事を、全世界に、「アッ」という仕方で示す為に、そのコントラストをもたらす為に、暗闇が暗ければ暗いほど、明るさがますます眩しく輝く様に、今その暗闇を、少しの間許しておられます。それは、マリア様の御力によって、イエズス・キリストが燦然と輝く為です。マリア様の御力が輝く為です。第2のエヴァが輝く為です。知られる様になる為です。

 ですから、愛する兄弟の皆さん、この待降節には良い、良き遷善の決心をとって、マリア様の元に馳せる事に致しましょう。この待降節中は、いつもマリア様の事を思い出して下さい。マリア様と共に、全ての事をなさって下さい。「マリア様、これを御身の手を通してお捧げします。」「マリア様、このイエズス様が私たちの元に来るように助けて下さい。」「マリア様、私たちのみならず、イエズス様を知らない人、マリア様を知らない人に、御身が知られますように、イエズス様が知られる様に、お恵みをお祈り下さい。」と、たくさんお祈りして下さい。このクリスマスは、私たちだけにイエズス様は来るのではなく、日本の方のより多くの人に、イエズス様が生まれなければなりません。その御恵みを、マリア様を通して、お祈り下さい。

 第2に、是非、マリア様にお祈りをしつつ、この私たちの友達や知っている人に、少しでも、マリア様やイエズス様のお話をなさって下さい。マリア様は、私たちを道具として知られようとしておられます。どうぞ、マリア様が愛され知られる様に、私たちの周りの人も助けてあげて下さい。

 では、マリア様に、良き待降節を過ごす事ができるようにお祈りしつつ、このミサを捧げていきましょう。

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 
【クロ―ド・ニューマンについては、次のサイトをご覧ください。】
http://www.mysticsofthechurch.com/2011/12/miraculous-story-of-claude-newman-his.html

天主に感謝!


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2016年の聖伝典礼カレンダーのお知らせ

2015年12月12日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
 アヴェ・マリア・インマクラータ!

 愛する兄弟姉妹の皆様、

 今日はグァダルーペの聖母の祝日ですね。

 今年も、日本語版の2016年の聖伝典礼カレンダーをご用意いたしました。お待たせいたしました。
 テーマは、2017年のファティマ100周年の準備の年として、日本の誇る尊き殉教者について黙想するために、「日本の尊き殉教者」記念版です。
 この日本には、聖母の子供として、聖母の道具・下僕(しもべ)として、聖母の騎士として、天主の御心をお喜ばせしようと尽くし、天に駆け上っていった百万の殉教したキリシタンたちがいます。この殉教者の心を私たちが2016年、日々、私たちのものとすることができるように、聖母にお祈りすることにいたしましょう。
 今年も大阪の信徒会長のご協力をいただきました。心より感謝いたします。

 大阪は明日13日(主)の御ミサから、東京は27(主)の御ミサからご提供できます。
 この日本語版は、今年は限定70部だけの印刷となります。制作費で一冊800円となります。よろしくご理解をお願いいたします。

 よき待降節をお過ごしください。
 天主様の祝福が豊かにありますように!
 トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年のカレンダーに寄せて

アヴェ・マリア・インマクラータ!

 愛する兄弟姉妹の皆様、
 2016年のカレンダーを大きな喜びを持って愛する兄弟姉妹の皆様のお手元にお届けいたします。この地上での歳月は、瞬く間に過ぎ去って、もはやファチマ100周年の一年前となりました。
 このことは、この地上の生活がごく短いもので、私たちが天国に行くためにこの世を巡礼している身に過ぎないということを思い出してくれます。私たちは天国への旅路を歩く旅人で、最終の故郷は天の至福の命です。一度は罪によって失われた、この永遠の命を受けることができるように、天主は私たちに御一人子を救い主としてくださいました。私たちが地獄の火に永久に焼かれないように、天主は人となって十字架の苦しみを受けました。私たちは、イエズス・キリストの贖いの業に協力して、自分の霊魂と、多くの霊魂たちとを天国に導くように招かれています。ファチマの聖母はこの祈りを教えてくれました。「ああ、イエズスよ、我らの罪を赦し給え。我らを地獄の火より守り給え。またすべての霊魂、ことに主の御憐れみをもっとも必要とする霊魂を天国に導き給え。」ファチマの聖母のことを考えると、聖母が私たちの救霊を熱烈に心配し配慮し祈る愛の母であることがわかります。

 天主御父は、救い主イエズス・キリストを、聖母を通してのみ私たちにくださいました。天主御子は、聖母の胎内を通してのみ、私たちのもとに来ることをお望みになり、聖母のもとに30年間従順に暮らすことが、御父に対する最高の賛美であることをよくご存じで、それを実践しました。天主聖霊は、聖母においてのみ御子の御人性を形成することを望みました。聖母が聖寵に満たされ、聖霊のみ旨のみを忠実に果たしたからです。天主三位一体は、私たちにイエズス・キリストとそのすべてのお恵みを聖母を通してのみ、お与えになる永遠の御計画をお持ちです。

 私たちの先祖のキリシタンたちは、上の二つの点をよく知っていました。聖フランシスコ・ザビエルが聖母の被昇天に日本に到着してカトリック信仰を宣教したその日から、日本では聖母に対する信心が特にさかんで、聖母の御影や、ロザリオ、聖母像などがたくさん発掘されています。天国への旅人であることを自覚していたキリシタンたちは、カトリック信仰のために殉教することさえ厭いませんでした。

 そこで、ファチマ100周年への準備として、日本の誇る尊き殉教者について黙想することを提案します。
 ファチマの聖母は、私たちに罪びとの回心のために祈りと償いを捧げるように要求されています。私たちが聖母に倣って、日々、利己主義や自己中心に死に、罪に死に、天主に生きることができるように。私たちのやりたいことではなく、天主のみ旨を果たすことができるように。「我は主の使い女なり、仰せのごとく我になれかし」と。罪の汚れのない聖母、インマクラータなる聖母の御生涯は、ただ純粋な天主に対する愛の生活でした。

 この日本には、聖母の子供として、聖母の道具・下僕(しもべ)として、聖母の騎士として、天主の御心をお喜ばせしようと尽くし、天に駆け上っていった百万の殉教したキリシタンたちがいます。この殉教者の心を私たちが2016年、日々、私たちのものとすることができるように、聖母に祈りましょう。

 ファチマ100周年の準備として、また、聖ピオ十世会秋田巡礼10周年記念として、2016年は特別に、秋田の外にも殉教の地である長崎の地に詣でることを計画しております。このカレンダーが巡礼の準備と、巡礼後の決心とに役立つものとなることを祈ります。私たちが地上にしばらくの間だけいるちっぽけな巡礼者であることをいつも私たちが自覚しますように。

 聖伝のミサに与る私たちの数も、取るに足らないものですが、2015年前のクリスマスに私たちのために生まれたイエズス・キリストを礼拝しに来た人々の数も取るに足りませんでした。天主の御一人子が救い主として生まれたのは、ベトレヘムの馬小屋でした。世間の人々は、教会の建物もない私たちをあざ笑うかもしれません。数の少なさを軽蔑するかもしれません。かつて日本のキリシタンたちも、バテレンの蔑称であざ笑いを受けていました。私たちは、私たちの霊魂を救うために捧げてくださったイエズス・キリストと聖母とに合わせて、私たちの受ける嘲りを多くの人々の回心と救霊とのためにお捧げいたしましょう。

 2016年は、さらに、1716年4月28日に フランス サン=ローラン=シュル=セーヴルで霊魂を天主に返した聖ルイ・マリ・グリニョン・ド・モンフォールの帰天300年周年でもあります。私たちに聖母の真の信心を説明してくださった偉大な聖母の奴隷です。

 聖ピオ十世会アジア管区では、2016年8月13日から9ヶ月に亘ってファチマ100周年のノベナが開始されます。
《原罪の汚れなく宿り給いし聖マリアよ、御身に寄り頼み奉る我らのために祈り給え。また、御身に寄り頼まぬ全ての人々のため、ことに、フリーメーソンのため、また、御身に依頼された人々のために、祈り給え。》

 2015年12月12日、グァダルーペの聖母の祝日にて トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
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イエズス・キリストが私たちを愛するあまり、私たちを救うために人となられたその愛の激しさ

2015年12月10日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 12月の初金曜日に大坂で行った聖伝のミサのお説教をご紹介いたします。

 イエズス・キリストが私たちのもとに来たいという熱望の強さを、愛の炎を一緒に黙想することを提案します。

天主様の祝福が豊かにありますように!

2015年12月4日 初金曜日 至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ
小野田神父 説教





聖母の汚れ無き御心巡回教会にようこそ。今日は2015年12月4日、12月の初金のミサです。イエズスの聖心の随意ミサをしています。今日のこの御ミサの直後に聖時間があります、御聖体を顕示して、その前でロザリオを5連、それからイエズスの聖心の連祷、イエズスの聖心に人類の罪を償う祈りを、イエズス様の聖心の御要求に従って、お捧げする事に致しましょう。これを感謝の為に、お恵みを感謝する為にお捧げいたしましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は待降節の初金ですから、イエズス様の御降臨を、人類がどのように待っていたのか、或いはイエズス様の代理者を、日本の人たちがどのように待っていたか、という事に思いを馳せて、そのイエズス様を待ち望む心を、私たちの心に多く引き起こす事にしましょう。実はそれよりも更に、イエズス様は私たちの方に来たかった、私たちの方に来たい、というその愛は、私たちが待ち望むよりも更に多かった、という事を第2点にみて、でも現代の人たちはそれにもかかわらず、まさに、イエズス様を待ち望む人々、イエズス様の熱烈の愛にもかかわらず、冷淡を以って報いている。ですから、最後に私たちは遷善の決心、イエズス様をお愛しする為に、初金の決心を新たに立てる事に致しましょう。

では、イエズス様の御降臨を、太祖の人たちはどれほどの熱意をもって待っていたでしょうか。シメオンは、「主のキリストを見るまで死なない。」と言われていて、毎日、祈りと断食をして、神殿に登って、いつも「救世主が来られるか、来られないか」というのを待っていました。

日本でも、最後の司祭が殉教して、バスチアンの予言があり、「7代の後には、パーパの船がやって来て、パードレたちがまたやって来る。その時には、信仰を自由に表明する事ができる日がやって来る。」その潜伏キリシタンたちの、司祭を待つ7代の間、250年の間、待ちに待って、待ちに待ったその望みはどれほどだったでしょうか。フランス寺が出た、できた、といった時に、潜伏キリシタンたちは、「まさかこれがその待ちに待ったパードレではないか。」と言って探しに行った、隠れながら探しに行ったその人たちの、パードレたちを待つその望みは、どれほど大きかったでしょうか。

それを応える様に、イエズス様の聖心は、私たちに、私たちの元に来たい、というのは更に大きかったのです。イエズス様は、天主の御子は、既にアダムとエヴァが罪を犯したその時、「救世主を送る」という約束をしました。「必ず救世主を送る。」その救世主を送って、天主がいつも私たちの保護をして下さる、というその目に見えるしるしとして、私たちの太祖に、アダムとエヴァに服をくれました。その後、多くの預言者たちを送って、「救世主が来る」という約束を、何度も、詳しく、詳しく、教えてきました。

天主は、もちろん救世主を送る必要はありませんでした。御自分が救世主となって来る必要はありませんでした。しかし、それが天主様の愛の望みだったのです。この世の創造のその前からの愛の計画でした。「私たちの元に、人となってやって来る。」と。イエズス様のその御望みは、私たちと共にいて、私たちからの愛を受けたい。私たちを愛する、私たちを天主がどれほど愛するか、という事を見せて、その答えとして、愛を受けたい、と思っていました。

ですから、イエズス様が人となられて来られた時には、大きな立派な王宮、豪華な神殿、天変地異がなって、山の上で雷が轟いて、もうこれで世の終わりか、と思われたような天主の十戒を与えた時と同じように、恐ろ恐ろしい、大異変を起こしながら、この世に神々として現れる事もできました。皆が、「あぁ、まさに、これこそ天主の御子が人となった!」と震えおののいて、平伏して、礼拝する、という事もできましたけれども、そうではなくて、私たちからの愛をますます得る為に、密かに隠れて、幼子としてお生まれになる事をお望みになりました。私たちが簡単に恐れずに近寄る事ができるように、乳飲み子として、幼き赤子として生まれる事をお望みになりました。どんな貧しい人でも、どんな弱い人でも近付く事ができるように、貧しい馬小屋で、住む家と無く、生まれる宿屋と無く、動物の飼い葉桶で、凍える冬の中で生まれる事をお望みになりました。

そればかりではありません。私たちがそのイエズス様にますます近寄って、イエズス様のその御姿を倣う事ができるように、イエズス様は、30年間、私たちと全く同じ生活をする事を望まれました。私たちと全く同じく、子供として、お父さんお母さんに従順に従い、子供として成長し、労働し、肉体労働し、労働者として生活しました。しかもその受ける賃金は本当に、働けども働けども、手に何も残らないような貧しい生活でした。私たちに、どれほどこの私たちも同じ生活をする事をお望みになるかを知らせようとしました。

そればかりではありません。イエズス様は、罪人である私たちが受けるべき全ての苦しみを、全て自分の身に引き受けて、罪の償いを果たし、どれほど私たちを愛するかを示す為に、十字架の上で、極悪人として死刑を受ける事を望まれました。天主の御旨の従順のまま、それを受け入れられました。

私たちをどれほど愛しているか、という事を示す為に、十字架の上に付けられて、両手を大きく開けて、私たちをあたかも抱擁するかのように、待ち望んでいるかのように、「さあ、私だ、恐れるな。さあ、労苦する者よ、私の元に来て休め。私が回復させよう。私のくびきは軽く、優しい。私は柔和で謙遜な者であるから、私に倣え。さあ、私の元にやって来い。私が地上から上げられた時に、私は多くの人々、全ての人を私の元に引き寄せよう。」私たちの主は、御自分の聖心が、私たち罪人の為に開かれた、救いの箱舟となる様に、その脇腹を開かせて、聖心を私たちの為に開いて下さいました。

イエズス様の聖心の御影は、聖マルガルタ・マリア・アラコックに言って、「この聖心を、皆の前で飾るのを望む。」そうすれば、心の固い人でも、その私の心臓を見て、それに心を打たれて、それに感動して、天主が人となって、私たちと同じ肉体を持って、私たちと同じ心を持って心臓を持って、愛に燃える、燃え盛る火を、愛の炎で燃えていて、この、その愛に燃えるあまりに、苦しみの茨の冠、十字架の苦しみを受けた、という事が分かるように、この御影を、開かれた、私たちの為に槍で貫かされた、開いた聖心を描く事をお望みになりました。

キリシタンたちが7代ずっと待っていた日本に、イエズス様の聖心の為にいつもお祈りをしていた、日本の潜伏キリシタンたちの為に、最初に横浜で造られた教会は、イエズス様の聖心に捧げられた教会でした。第2番目はマリア様の教会で、長崎に建てられました。

イエズス様が私たちを愛して、私たちのためにこれほど、私たちの元にいたい、と思うのはこればかりではありません。更にイエズス様は、私たちの元に御聖体として残りたい、私たちと一緒に留まりたい、日夜私たちの元にいたい、真の天主、天地の創造主、全能の天主の御父、御父の輝ける栄光の御一人子が人となって、更に私たちの為に御聖体となって、パンの姿をとって、私たちと共に昼夜留まりたい。そればかりではありません、私たちの霊的な糧となって、私たちの元に、私たちと一つになりたい、と思っています。

聖パウロは、イエズス様のこの愛、天主に対する従順とその御謙遜を見て、「天にあるものも、地にあるものも、地の下にあるものも、皆膝をかがめて、『イエズス・キリストは主である』と崇める。」と言っています。

この私たちの愛の王であるイエズス・キリストの聖心をみると、私たちはどうしても、愛を、愛を以って応えざるをえません。イエズス様は、多くの全ての人がイエズス様を愛するように、この人となる事を望まれました。聖心の姿で描かれる事を望まれました。

しかし残念な事に、多くの人はイエズス様の事を知りません。イエズス様がどれほど私たちの事を愛しているか、という事を知っていません。或いは無関心です。或いは知っていても冷淡です。或いは知って、「イエズス様の事を礼拝したい」と思っても、ちょうどヘロデの元に居たエルサレムのように、「イエズス様を礼拝してはいけない」と言われていたり、「イエズス様の前に跪いてはいけない」と言われたり、多くの人は、イエズス様に対して為すべき、イエズス様が望んでいる、愛と、礼拝と、感謝と、讃美と、罪の償いをする事ができないでいます。或いは、しないでいます。

イエズス様は、そのような私たちの事を、おそらくゲッセマニの園にてよく御覧になっていた事でしょう。ゲッセマニの園にて、そのような冷淡な私たちの態度を見て、辛く思っていた事でしょう。イエズス様に捧げられた霊魂たちが、特に司祭や修道者たちが、イエズス様の聖心に対して冷淡であればあるほど、どれほどイエズス様の聖心を傷付けた事でしょうか。

残念な事に私たちも、イエズス様の聖心にどれほど冷淡であったでしょうか。「イエズス様がこれほど愛している」という事を知りつつも、イエズス様に、その愛に、私たちはどれほどの愛を以って応えてきたでしょうか。「イエズス様がお望みの事はこれだ」と、分かっていながらも、「イエズス様の聖心に逆らう事だ」と、知りつつも、自分の都合で、自分の好みで、自分の好奇心で、自分の欲望で、自分の望みで、自分のやりたい事をやってきてしまったのではないでしょうか。私たちは、イエズス様の愛に愛で応えるべきであるにもかかわらず、自分の為にその愛をとっていたかのようです。イエズス様は私たちに、「心を尽くして、力を尽くして、全てを尽くして愛するように。」と、「真心を尽くして愛するように。」とお命じになるのですけれども、私たちは、それをできないでいました。

イエズス様は今日、私たちにもう一度、御自分の愛の火に燃える聖心を示して、「少なくとも、お前は私を愛するように。」「この世の人たちは、私に対して冷淡と、無関心と、冒辱で応えている。少なくともお前は私を愛せ。」私たちも拙いながら、イエズス様の愛に、愛を以って応える事に致しましょう。

では、どのような決心をしたら良いでしょうか?私たちも、太祖の、或いは日本の私たちの先祖、先輩たちを学んで、イエズス様をお愛しするが為に殉教していった何十万という多くの日本のキリシタンの方々を見て、イエズス様を待ち望みつつ、イエズス様を愛するお恵みを乞い求めましょう。

イエズス様は私たちの元に、この聖心の姿で人となって、私たちと同じ肉を持って来られる事を望みましたから、御聖体に於いて留まる事を望まれましたから、イエズス様の聖心の信心と、御聖体の信心は全く一つですから、イエズス様はマルガリタ・マリア・アラコックを通して、イエズス様の聖心の信心を、イエズス様の聖心を愛する為に、イエズス様の聖心を愛を以って、愛を愛で返す為に、御ミサに与るように、初金の御ミサに与るように、初金で御聖体拝領するように、御聖体礼拝をするように、聖時間を作るように持つように、とお望みになりました。ですから、今日私たちは、イエズス様の聖心を愛するが為に、聖時間を一緒に共に過ごす事に致しましょう。イエズス様の聖心を愛する事に致しましょう。

イエズス様の聖心に、日本の多くのカトリックの方々が、イエズス様の聖心を、イエズス様の御神性に、天主であるイエズス様に相応しいやり方で、相応しい礼拝と、天主イエズス様に為すべき心と、態度と、愛と、礼拝を以って、礼拝する事ができますように、讃美する事ができますように、感謝する事ができますように、お祈り致しましょう。

日本のカトリック信者さんの方々のみならず、日本の全ての方々が、イエズス様の聖心の愛の深さを知り、イエズス様の聖心の元にいらっしゃるように、イエズス様の聖心に、慰めと、平和と、喜びと、救いを見出す事ができますように、唯一の救い主であるイエズス様を、この見出す事ができますように、このクリスマスの時に見出す事ができますように、お祈り致しましょう。今日聖時間の時にお祈り致しましょう。

最後に、マリア様にお祈り致しましょう。マリア様の汚れ無き御心が唯一、イエズス様の聖心を全き完璧なやり方でお慰めし、礼拝し、感謝した方です。マリア様の御心を私たちも受ける事ができますように、マリア様の御心を以って、イエズス様をお愛しする事ができますように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

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Letter to Friends and Benefactors #85 聖ピオ十世会

2015年12月09日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、フェレー司教様の「友人と恩人の皆様への手紙」85号を英語でご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

Letter to Friends and Benefactors #85

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Dear Friends and Benefactors,

With the multiplication of murderous attacks in Europe and Africa, and with the bloody persecution of many Christians in the Middle East, these recent months show us how profoundly troubled the situation of the world is. In the Church, the recent Synod on the Family and the upcoming start of the Holy Year do not fail to cause legitimate worries. Given this confusion, it seemed helpful to us to inform you of our reflections by responding to your queries. We think that this presentation will make it possible to highlight more clearly how we who are devoted to Tradition should react to the problems facing us today.

On September 1st, Pope Francis, on his own initiative, decided to allow all the faithful to make confessions to priests of the Society of St. Pius X during the Holy Year. How do you interpret this gesture? What does it mean for the Society?

We were in fact surprised by this action of the Holy Father on the occasion of the Holy Year because we, like everyone else, learned about it through the press. How do we understand this gesture? Allow me to make use of an image. When a fire is raging, everyone understands that those who have the means to do so must endeavor to put it out, especially if there is a shortage of firefighters. So it is that through all fifty years of this terrible crisis that has shaken the Church, particularly the tragic lack of confessors, our priests have devoted themselves to the souls of penitents, invoking the case of emergency foreseen by the Code of Canon Law.

As a result of the Pope’s act, during the Holy Year, we will have ordinary jurisdiction. In the image I mentioned, this has the effect of giving us the official insignia of firefighters, whereas such a status was denied us for decades. In itself, it adds nothing new for the Society, its members, or its faithful. Yet this ordinary jurisdiction will perhaps reassure people who are uneasy or others who until now did not dare to approach us. For, as we said in the communiqué thanking the Pope, the priests of the Society wish for one thing only: “To perform with renewed generosity their ministry in the confessional, following the example of untiring devotion that the saintly Curé of Ars gave to all priests.”

On the occasion of the Synod on the Family, you sent a petition to the Holy Father, then a declaration. Why?

The purpose of our petition was to point out as clearly as possible to the Supreme Pontiff the seriousness of the present hour and the decisive impact of his ruling in moral matters of such importance. Pope Francis learned of our sentiments on September 18th, before his departure for Cuba and the United States, and he informed us that he would change nothing of the Catholic doctrine concerning marriage, particularly its indissolubility. But we feared that, in practice, the indissoluble character of the matrimonial bond would be disregarded. And this is in fact what happened, on the one hand with the motu proprio reforming the procedure for declaring the nullity of marriages, and on the other hand with the final document of this Synod. Hence my declaration intending to recall to mind the constant teaching of the Church on a multitude of points that were discussed and sometimes called into question during the month of October. I will not conceal from you the fact that to me the sorry spectacle that the Synod presented seems particularly shameful and scandalous on more than one count.

Shameful and scandalous how?

Well, for example this dichotomy between doctrine and morality, between teaching the truth and tolerating sin and the most immoral situations. We understand that one should be patient and merciful with sinners, but how will they convert if their sinful situation is not denounced, if they no longer hear anyone talking about the state of grace and its opposite: the state of mortal sin, which inflicts death on souls and consigns them to the torments of hell? If someone were to measure the infinite offense caused by the slightest mortal sin against God’s honor and sanctity, he would die of astonishment. The Church must firmly condemn all the sins, vices, and errors that corrupt the truth of the Gospel. She must not compromise with scandalous behaviors or acknowledge a culpable acceptance of them or the public sinners who attack the sanctity of marriage. Why does the Church no longer have the courage to speak this way?

Yet there were some positive initiatives on the occasion of this Synod, such as the book by eleven cardinals (following one by five cardinals last year); and also the volume by the African prelates; one by Catholic lawyers; the handbook by three bishops, etc.

These fortunate initiatives that appeared recently promoting the defense of marriage and the Christian family give us a glimmer of hope. This represents a salutary reaction, even if certain responses leave something to be desired. Let us hope that this may be the beginning of an awakening throughout the Church that will lead to a rectification and real conversion.

Last spring, in a sermon given at the church of Saint-Nicolas-du-Chardonnet in Paris, Bishop de Galarreta said that the Church seemed to be in the process of producing “antibodies” to fight the aberrant proposals being made by progressives on the subject of marriage, who align themselves with current customs instead of seeking to amend them according to Gospel teaching. This reaction on the moral level is beneficial. And since morality is closely connected to doctrine, this could be the start of a return of the Church to her Tradition. We pray for this every day!

In the name of mercy, some prelates, like Cardinal Kasper, are trying, if not to change the doctrine of the Church about the indissolubility of marriage, at least to relax the discipline on communion for divorced-and-remarried persons, or to modify its judgment on unnatural unions. What should we think about all these so-called pastoral exceptions?

The Church can legislate, that is, establish its own laws, which are simply clarifications of the divine law. But in the area of marriage being debated today, Our Lord has already settled the question quite clearly: “What God hath joined together, let no man put asunder” (Matt. 19:6), and immediately afterward: “Whosoever shall put away his wife…committeth adultery” (Matt. 19:9). Therefore the Church has only one thing to do: tell the faithful of the divine law and enshrine it in ecclesiastical laws. In no case can the Church diverge in any way from it; that would be to fail in its mission, which is to hand on the revealed deposit of faith. In plain language, in the matter under consideration, the Church can only declare that there was no marriage to begin with, but in no case can it annul or dissolve a marriage that is valid in itself.

Of course ecclesiastical laws can add conditions necessary for the validity of a marriage, but always in keeping with the divine law. The Church thus can declare a marriage invalid due to lack of canonical form, but it will never be above the divine law to which it is subject. What is more, it is necessary to state that unlike human and ecclesiastical law, divine law allows for no exceptions, because it is not made by human beings who cannot foresee all possible cases and are obliged to allow room for exceptions. The infinitely wise God has foreseen all possible situations, as I wrote in the petition to the Pope: “the law of God, expression of his eternal love for mankind, is in itself the supreme mercy for all periods of history, all persons, and all situations.”

Is not the September 8 motu proprio that simplifies the procedure for declarations of nullity of marriage a way of recalling the principle of the indissolubility of marriage, while offering easy canonical terms for evading it?

The new motu proprio regulating canonical arrangements dealing with annulment processes claims, of course, to be an answer to a serious contemporary problem: that of numerous broken families. If you want to examine these cases in order to propose a swifter solution, insofar as it corresponds to the divine law on marriage, very good! But in the present context, that of modern secularized and hedonistic society, and of ecclesiastical tribunals already doing what is forbidden, this motu proprio runs the risk of becoming a legal ratification of the disorder. The result could be much worse than the recommended remedy. I very much fear that one of the key points of the Synod may have been resolved by creating a “back door” that opens the way to a supposed “Catholic divorce,” because concretely the Church is exposing itself to many abuses, especially in countries where the bishops, won over to progressivism and subjectivism, exercise precious little supervision…

In the Holy Year to begin on December 8th, is not a mercy without repentance or conversion being touted?

It is true that, in the current climate, an appeal to mercy too easily neglects the indispensable act of conversion, which requires contrition for one’s sins and a horror of sin as an offense against God. Thus I deplored in the last Letter to Friends and Benefactors (#84) the Honduran Cardinal Maradiaga’s complacent support of a new spirituality whose notion of mercy does not require repentance.

Nevertheless, if you read carefully the various documents published on the subject of the Holy Year, particularly the Bull of Indiction of the Jubilee, you see that the fundamental idea of conversion and contrition for sins in order to obtain forgiveness is present. Despite the reference to an ambiguous mercy that is said to consist of restoring to a human being his “incomparable dignity” rather than the state of grace, the Pope means to promote the return of those who have left the Church, and he multiplies the concrete initiatives to facilitate recourse to the sacrament of penance. Unfortunately, he does not ask himself why so many people have left the Church and stopped practicing their faith, and whether there might be some connection to a certain Council, its “cult of man”, and its catastrophic reforms: unbridled ecumenism; a desacralized and protestantized liturgy; a relaxation of morals, etc.

Then can the faithful devoted to Tradition participate without risk of confusion in the Extraordinary Jubilee Year decreed by the Pope? Especially since this Year of Mercy intends to celebrate the fiftieth anniversary of Vatican II, which is supposed to have knocked down the “walls” in which the Church was enclosed…

Quite obviously there arises the question of our participation in this Holy Year. In order to resolve it, a distinction is necessary between: the circumstances that bring about a Holy Year or Jubilee and its very essence.

The circumstances are historical, connected with the major anniversaries of the life of Jesus, in particular of his redemptive death. Every fifty years, or even every twenty-five years, the Church institutes a Holy Year. This time around, the point of reference for the opening of the Jubilee Year is not just the Redemption — December 8th is necessarily connected to the redemptive work begun with the Immaculate Mother of God — but also the Second Vatican Council. This is most unsettling, and we reject it forcefully, because we cannot rejoice in, but rather must weep over, the ruins caused by this Council: the precipitous drop in vocations, the dramatic decline of religious practice, and above all the loss of faith described by John Paul II himself as a “silent apostasy”.

Nevertheless the essential components of a Holy Year remain: it is a special year in which the Church, upon the decision of the Supreme Pontiff, who holds the power of the keys, opens wide her treasures of graces so as to bring the faithful closer to God, especially by the forgiveness of sins and the remittance of the punishments due to sin. This the Church does in the sacrament of penance and by indulgences. Such graces do not change; they are always the same, and only the Church, the Mystical Body of Christ, has power over them. We might also note that the conditions for obtaining the indulgences of the Holy Year are still the same: confession, communion, prayer for the intentions of the Pope — which are objective and traditional, not personal. Nowhere in the reminder of these habitual conditions is there any question of adhering to the conciliar novelties.

When Archbishop Lefebvre, with the whole seminary of Écône, went to Rome during the Holy Year of 1975, it was not to celebrate Council’s tenth anniversary, although Paul VI had mentioned that anniversary in the Bull of Indiction. Rather it was an opportunity to profess our Romanitas, our attachment to the Holy See, to the Pope who, as the successor of Peter, has the power of the keys. Following in the footsteps of our venerable founder, during this Holy Year we will concentrate on the essential components of it: repentance so as to obtain divine mercy through the intermediary of His one Church, despite the circumstances that some have thought necessary to invoke as requirements for celebrating this year, as was the case already in 1975 and again in 2000.

We could compare these two elements, the essential and the circumstances, to the contents and the packaging that surrounds them. It would be detrimental to reject the graces belonging to a Holy Year just because it is being presented in defective packaging, without considering the fact that this packaging does not alter the contents, unless the circumstances were to absorb the essentials, and unless, in the present case, the Church no longer had at her disposal the graces proper to the Holy Year because of the damage done by Vatican II. But the Church was not born fifty years ago! And, through the grace of Christ who is “the same yesterday, today and for ever,” (Heb. 13:8) it remains and will remain the same, despite a Council open to a world of perpetual change…

In several recent statements you seem to want to anticipate the one hundredth anniversary of Fatima by inviting the faithful to start preparing now. Why?

Le sanctuaire de Fatima.

Fatima.

From the perspective mentioned in this letter and in order to insist on the urgency of conversion, we thought of connecting these corporal and spiritual works of mercy that we are invited to perform this year with the centenary of the apparitions in Fatima, in which Our Lady insisted so much on the necessity of conversion, of oneself and of the world, on the necessity for works of penance and on prayer, especially the Rosary. Imploring divine mercy is closely connected with the Fatima apparitions: the Blessed Virgin invited us to pray and do penance, and this is how we will obtain mercy, not otherwise. It seems to me quite beneficial to tie these two future anniversaries together this way by making them two years of efforts to draw closer both to the Most Blessed Virgin Mary and to Our Lord, both to the Immaculate Heart of Mary and to the merciful Sacred Heart.

The Society of St. Pius X will organize an international pilgrimage to Fatima from August 19th to 20th, 2017. But already we can and even must prepare ourselves, especially when Catholic morality is seriously being challenged.

More than ever, on this feast day of November 21st, which for us is a major anniversary of the Declaration by Archbishop Lefebvre in 1974—a veritable charter for our battle for the Church of all ages—let us maintain a Catholic attitude in all circumstances, whatever the difficulties and trials may be. Let us have the mind of the Church, let us be faithful to Our Lord, let us remain devoted to his Holy Sacrifice, to his teachings, to his examples. Yesterday I read that Cardinal Müller, Prefect of the Congregation for the Doctrine of the Faith, feared a “protestantization of the Church”. He is right. But what is the new Mass, if not a protestantization of the Mass of all time? And what are we to think about the Pope who, like his predecessors, goes to a Lutheran church? When we see how the five hundredth anniversary of the Protestant Reformation in 2017 is being prepared, how the figure of Luther is now saluted, although he was one of the major heresiarchs and schismatics in history, ferociously opposed to the Roman Catholic Church, it is enough to make you lose heart! Truly, Archbishop Lefebvre saw correctly when he said that “the only attitude of fidelity to the Church and to Catholic doctrine, for our salvation, is the categorical refusal to accept the Reformation,” because between Luther’s reform and the one undertaken by Vatican II there is more than one point in common. And with him, we say again that, “without any rebellion, bitterness, or resentment, we pursue our work of priestly formation under the guidance of the never-changing Magisterium, convinced as we are that we cannot possibly render a greater service to the Holy Catholic Church, to the Sovereign Pontiff, and to posterity.”

You understand this very well, dear friends and benefactors of the Society of St. Pius X. Your fervent prayers, your admirable generosity, and your constant devotion are for us an invaluable support. Thanks to you, the work of Archbishop Lefebvre is developing everywhere. With all my heart I thank you for this.

We pray to Our Lady to obtain for you all the graces that you need. We ask the Good Lord to grant you His blessings for you and your families, so that you may prepare for the great feast of Christmas by a holy Advent, and that you may entrust the coming year, with its joys and crosses, to our Mother in Heaven.

On the Feast of the Presentation of the Blessed Virgin, November 21, 2015
+ Bernard Fellay

Lettre aux Amis et Bienfaiteurs n°85
Carta a los Amigos y Bienhechores n° 85
Brief an die Freunde und Wohltäter Nr. 85
Lettera agli Amici e Benefattori n° 85

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マチアス・ガオドロン神父(聖ピオ十世会)「シノドゥスは、教会の深い分裂の印象を与えている」

2015年12月09日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖ピオ十世会司祭 マチアス・ガオドロン神父様のシノドゥスの分析 「シノドゥスは、教会の深い分裂の印象を与えている」を英語でご紹介ます。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

The Synod gives the impression of a deeply divided Church

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Father Matthias Gaudron, of the Society of Saint Pius X, was ordained a priest by Bp. Tissier de Mallerais in 1990. For twelve years he was rector of Sacred Heart International Seminary in Zaitzkofen (Bavaria). Currently he is a professor at the Institut Sainte-Marie in the canton of Saint-Gall (Switzerland). Author of the Catechism of the Crisis in the Church (Angelus Press), he analyzes the Final Report of the Synod on the Family in this article, which first appeared in the monthly bulletin of the District of Germany, Mitteilungsblatt (December 2015), and on his website.

English translations.

The Synod of Bishops in Rome, which inspired hope and fear in equal measure, concluded on October 25, 2015. The Synod neither recommended administering the sacraments to divorced-and-remarried persons nor called for a more favorable attitude toward homosexuality, as many progressive Catholics and bishops would have wished. Nevertheless the Synod did not defend Catholic truth in clear terms either. It is unfortunately true, as Cardinal Kurt Koch of the Roman Curia said: there are “no doors that are shut”. Finally, the question of whether, despite everything, a new sacramental practice will be introduced still remains open.

As far as homosexuality is concerned, the Synod found terms that are still clear enough when it declared, in no. 76, that homosexual unions are incompatible with God’s plan for marriage. The document also states that it is absolutely unacceptable for international associations to exert pressure on poor countries by conditioning financial aid to them on the official legalization of “marriage” between persons of the same sex.

Further on, however, on the subject of the divorced-and-remarried, no. 84 includes statements that are unacceptable. Is it actually true that “the Holy Spirit pours out His gifts and charisms upon them for the good of all”? Although strictly speaking one can still accept this sentence, inasmuch as “gifts and charisms” do not necessarily presuppose the state of grace, this is no longer the case in the following sentence: “They should not feel that they are excommunicated. On the contrary, it is necessary for them to be able to develop as living members of the Church.” It is true that divorced-and-remarried persons are not excommunicated, as long as they do not separate themselves from the Church or deny the faith. They remain members of the Church, therefore; nevertheless they are no longer “living” members thereof but “dead” members. A living member, in theological language, is a Catholic who is in the state of grace. With every serious sin, a member is lost; consequently the sinner indeed remains bound to Christ and to His Church but as a dead member in which the divine life has ceased to flow. Divorced-and-remarried persons live in a permanent state of serious sin. As long as they are unwilling to put an end to their marital life, which is against God’s will, they cannot receive forgiveness either through the sacrament of Penance as other people who are just as guilty of mortal sin do, for the simple reason that absolution is given validly only if there is contrition and a firm purpose of amendment. In this state, they cannot really “progress” but at most ask, by participating in the life of the Church, for the grace and strength that they need to leave their sinful situation behind.

We find ambiguities in no. 86 too. There we read that the dialogue of divorced-and-remarried persons with a priest, “in the internal forum, contributes to the formation of a correct judgment on what hinders the possibility of a fuller participation in the life of the Church and the steps that can foster it and make it grow”; what does that mean? It seems that a little door is left open so as to allow these Catholics—after having reflected maturely, decided in conscience, etc.—to approach the sacraments. Divorced-and-remarried Catholics per se pose no major theological problems. As soon as they abandon their life of sin, they can once again go to confession and then receive Holy Communion. But as long as they do not do this, no priest who respects the teaching of Christ and of the Church can give them permission to receive communion. This paragraph was the most controversial of the Synod and received the necessary two-thirds majority, with 178 votes, only with great difficulty.

Elsewhere Pope Francis already opened up another way that might resolve these “problems”. Acting on his own authority and bypassing all the institutions established to modify the laws of the Church, Pope Francis simplified the procedure for causes of nullity of marriage: there are serious reasons to fear that in the future there will be a plethora of dubious declarations of nullity, and that many civilly remarried couples will be able to have their marriage regularized in the Church. Thus in the realm of teaching, marriage remains indissoluble, but in practice a sort of “Catholic divorce” could see the light of day.

The Synod of Bishops gives the impression of a deeply divided Church. On the one hand, a majority of bishops could not be found who were willing to break openly with the traditional teaching of the Gospel, while on the other hand, no majority could be found either to set forth this doctrine clearly and unambiguously. After two questionnaires circulated within the Universal Church and two synods of bishops, there has been no result but a compromise document that recognizes divorced-and-remarried persons as “living members of the Church”, which of course does not permit them to receive communion but does not clearly forbid it, either. Thus the Synod could scarcely have ended in a worse way: the conservative bishops, who would have rejected an open break with doctrine, are reassured because the indissolubility of marriage was not affected. The progressive bishops, although they did not obtain all that they would have liked, can nevertheless continue along their path toward the relaxation of doctrine and discipline.

Father Matthias Gaudron

 

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聖ピオ十世会 2015年12月聖伝のミサの報告 SSPX Japan Traditional Latin Mass

2015年12月09日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 昨日は聖母の無原罪の御宿りの祝日でした。マリア様の罪の汚れの無いこと、のみならず、天主のみ旨を果たすための愛を込めた完全な協力を黙想しました。

 さて、2015年12月の聖伝のミサの報告です。12月は、大阪では初金、初土のミサを行い、初金曜日のミサののちには御聖体降福式を行いました。

 東京では、生まれたばかりの赤ちゃんが洗礼を受け、天主の娘となりました。東京では、50名の愛する兄弟姉妹の皆様が聖伝のミサに与ることができ、大変うれしく思います。私たちがますますイエズス・キリストを賛美し、礼拝し、感謝し、愛することができますように!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

大阪での御ミサの報告をお送りいたします。

12月4日(初金) 至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ には14名、
12月5日(初土) 聖マリアの汚れなき御心の随意ミサ 16名が御ミサに与る御恵みを頂きました。 デオグラチアス!!

金曜日には御ミサ後聖体降福式ではイエズス様を知らない多くの人々、知っていてもその愛に応えようとしない人々、天主に逆らう人々のために御聖体にましますイエズス様に償いの祈りとロザリオをお捧げいたしました。ずべての人々がイエズス様の愛の深さを知り、その聖心に喜びと慰めを見出すことができるようになりますように、マリア様と一緒にお祈りを捧げることが出来ました。天主様の御憐みと愛の深さに感謝いたします。

金曜日、土曜日のお説教をとおして、待降節にあたってイエズス様を良くお迎えする準備をするためにマリア様を良く知り、私達のもとへ来られることを私達以上に待ち望んで下さっているイエズス様の聖心をより深く愛することが出来るようにマリア様に倣う決心を致しました。

土曜日の御ミサ後の公教要理は旧約のイスラエルの民についてでした。


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

昨日一昨日と、初金と初土の御ミサと、御聖体降福式等ありがとうございました!!(*^▽^*)♪幸せな時間はあっという間に過ぎてしまいますね☆彡

日本のカトリックの方々が、マリア様の御心を受けて、マリア様の御心を以って、イエズス様の聖心を、御神性に、天主であるイエズス様に相応しいやり方で、相応しい礼拝と、天主イエズス様になすべき心と態度と愛を以って礼拝する事ができますように、感謝する事ができますように、讃美する事ができますように!

日本の全ての方々が、イエズス様の聖心の愛の深さを知り、イエズス様の聖心に慰めと救いと平和と喜びを、唯一の救い主であるイエズス様を見出す事ができますように!!

日本の為にお祈り致しますm(__)m
私の為にもお祈りをお願い致しますm(__)m

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

大阪でのミッション、ありがとうございました。
昨日、今日と神父様のお説教を拝聴しながら本当にマリア様を通してイエズス様のために救霊の事業に少しでもお手伝いしたいと思いました。
小野田神父様のマリア様に対する愛と、信頼と、いろんな思いが聞いている私達にどんどん伝染してきたかのように感じました。

どうぞお体に気を付けてください。

では、クリスマスに御会いするのを楽しみにしております。

聖母の汚れなき御心よ小野田神父様の為に祈りたまえ。
聖母の汚れなき御心よ日本のために祈りたまえ。

【報告】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 24人(内、子供1人)
女: 26人(内、子供2人)
計: 50人(内、子供3人)

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