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フェレー司教へのインタビュー──これは教会のみわざです!

2015年07月22日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 フェレー司教様が今年の6月にフランスで鐘の祝福の時に、フランスのプレザン紙(Present)のインタビューに答えたものの日本語訳をご紹介します。ニュアンスをフランス語に合わせて訳しました。

 フェレー司教様が最後に、次のように言っているのを読み、
Pour moi, nous sommes à la veille d’événements graves sans pouvoir bien les définir. J’appelle à la prière et je veux terminer sur un regard vers le Bon Dieu, ce qui nous permet de toujours garder espoir.
 祈りに寄りすがらなければならない恐ろしい出来事が待ち受けているように思いました。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



フェレー司教へのインタビュー──これは教会のみわざです!


英語版はこちら

聖ピオ十世会総長は、司祭兄弟会および同会のローマとの関係について、フランスのプレザン紙のインタビューでの質問に回答した。

フェレー司教は、シャトールーのサンミシェル・ド・ラ・マルティンリ校(l’école Saint-Michel de La Martinerie)の鐘の祝別のために訪問した際、自らが総長を務める聖ピオ十世会の近況について語った。



プレザン紙: 2001年にフィデリテール誌のインタビューで、司教様は「若い聖職者たちの聖ピオ十世会への深い共感の動き」について言及されましたね。この動きは、特に2007年の自発教令が発布と同時に、発展していっているのでしょうか?

フェレー司教: 疑いの余地はありません! 自発教令のおかげでこの動きには新しい刺激が吹き込まれました。ベネディクト十六世の典礼全般に深い関心があったと強調することが重要です。ベネディクト十六世は、ミサだけはなく、聖伝の典礼全体を、司祭たちや信者たちの手元に置くことを真に望んでいました。これは、あまりにも多くの反対があったために実現しませんでした。ですが若い司祭たちは、この典礼に共鳴しています。これが時を超えるものであるからです。教会は永遠を生きているのです。典礼もそうです。典礼が常に若々しい理由は永遠であるからです。天主に近く、時間の枠に捕らわれません。ですから、洗礼で受けた霊魂の刻印が、この典礼をまったく知らなかった霊魂たちの中にさえも共鳴のこだまを響かせるのは、まったく当然のことです。若い司祭たちがこの典礼を発見した時に取る行動は感動的です。彼らは自分たちから宝が隠されていたという印象を受けるのです。

プレザン紙: 聖ピオ十世会は、ベルゴリオ枢機卿、現教皇フランシスコの援助のおかげで、アルゼンチン国家よりカトリックとして正式に認められました。これは単に(アルゼンチンの)行政上の重要性しかないということでしょうか、それとも、もっと多くのことを意味しているのでしょうか?

まず最初に、これには(アルゼンチンの)法律上および行政上の効果があります。これは、──平たく言うと──公式の教会と聖ピオ十世会の全般の関係に関する限り、なんの影響も及ぼしません。ですが、副次的な効果を正しく評価するのは簡単ではありません。つまり、間違いなく教皇フランシスコ、当時のベルゴリオ枢機卿は、聖ピオ十世会がアルゼンチン国家にカトリックとして認められるよう、その承認を勝ち取るための援助を約束してくれましたし、教皇はその約束を守りました。ですから、教皇様が私たちをカトリックであるとみなしていると考えざるを得ないというしか、私たちには選択の余地はありません。

プレザン紙: 同じ路線に沿って、司教様、あなたはバチカンによって、聖ピオ十世会のある司祭を裁判するための第一審の裁判官と任命されました。これは善意のしるしであると理解できるでしょうか?

それは目新しいことではありません。これは十年以上に渡って存在し続けた事例です。事実、これは善意のしるしであり常識のしるしです。ローマ教会の全歴史を通して、ローマ教会において存在が認められることです。つまり、教会の現実主義であり、非常に現実的な問題に対して解決策を見つけるため、教会法上のそして裁治権上の問題を越えることが出来る教会の能力です。

プレザン紙:恩人と友人の皆さんへの手紙の中で、司教様はローマから「矛盾するメッセージ」が来ていると述べられました。これは何を意味するのでしょうか?

聖伝に近づこうとする団体が扱われる、というよりは、虐待されるやり方について私は思い巡らしました。つまり無原罪の聖母のフランシスコ会(the Franciscans of the Immaculate)のことです。また、私たちがローマ当局のさまざまな権威筋より受けたさまざまなやり方についてです。例えば、修道者聖省は今なお私たちを離教的であると考えています(2011年、彼らは聖ピオ十世会に加わった或る一名の司祭を破門だと宣言しました)が、その他聖省から、あるいは教皇ご自身からは、そのような扱いは受けていません。ちょうど今申し上げた通りです。

プレザン紙:「悲観的」「自分たち以外に対して閉鎖的」「聖ピオ十世会に忠実な者たちだけが救われると考えている」──時折、このような言い回しが聖ピオ十世会に対して向けられることがあります。あなたはどのように答えますか? あなたによれば、宣教の精神とは何でしょうか?

この皮肉な言葉の数々が自分に関係あるとは思いません。教義における堅固さは不可欠です。信仰とは交渉次第のものではないからです。信仰とは、完全体として天主より与えられており、啓示された真理の中から一部を抜き取って選ぶ権利は、私たちにはありません。今日ではこのような必須条件を思い起こすことは、多かれ少なかれ常にそうであったように、歓迎されていません。「信仰の戦い」という言い方は、教会の歴史の一部です。宣教師は信仰の言葉を外部に向けて述べなければならず、同時に、すでに信仰を持っている人々を強めようとしなければなりません。私たちは聖ピオ十世会の信徒の方々だけに向かって話をすることは出来ません。たいまつは世界を照らし、信仰の光は熱とともに輝きます。信仰は愛徳によって生まれなければなりません。私は宣教師というものをこのように理解します。

プレザン紙:数週間前、聖ピオ十世会のいくつかの神学校は、ブランミューラー枢機卿及びシュナイダー司教の訪問を受けました。この訪問は「公式の教会」との公的なつながりです。これは欠かせないのではないですか?

教会との結びつきは欠かせません。このつながりの表明のやり方は、いろいろあり得ます。この訪問の日にちと場所については私に一任されていました。バチカンが訪問者を選定しました。私が彼らの訪問に神学校を選びました。なぜなら、これら神学校が、訪問する司教様たちにとって最も説得力があり、最適な代表者であると思ったからです。

プレザン紙:この司教たちの最初の反応はどんなものでしたか?

司教様たちは大変満足しておられました。彼らは私たちにこう言いました。「皆さんはごく普通の人たちだ」と……これが私たちの受けている噂を示しています! 司教様たちは私たちの神学生たちの資質について褒めてくださいました。この最初の親密なコンタクトののちの彼らの結論が、私たちが教会のわざであるということは疑う余地がありません。

プレザン紙:あなた方は、あなた方を隠れて支援する一部の司教様たちとコンタクトを取り続けていますか?

もちろんです! 今日、司祭たちが私たちに近づいてきてコンタクトを取っているのを見ていますから、より高い(司教)レベルにおいても、同じことが起きていると容易に結論を出せます。

プレザン紙:先ほど触れた2001年のインタビューで、あなたはこう宣言されました。「私たちがローマとコンタクトを取ることで教会内にわずかずつでも聖伝を取り戻すことができるチャンスがいくらかでもあるのなら、私たちはその好機を掴むべきだと考える」と。──聖ピオ十世会の立場は依然としてこのままですか?

たとえこれが、特にバチカン自身の内部にあるあからさまな不和のために、簡単なことだとは言えなくても、私たちの立場はこのままです。このような関係には細心の注意を払いますが、私たちの見解は、事実によって確認されるように有効です。これは強固な反対のまっただ中で達成されつつある目立たない仕事です。この方向に向かって働いている人々もいれば、反対の方向に向かって働く人々もいるからです。

プレザン紙:教会内においてバランスを取る拮抗勢力としての聖ピオ十世会の役割は重要ですか?

この役割は何も新しいものではありません。ルフェーブル大司教様がそれを始められ、私たちはそれを続けています。ベネディクト十六世が踏み出した歩みによって、近代主義者たちが憤りを見せており、それは容易にわかることです。

プレザン紙:現在、聖ピオ十世会はどこにいるのでしょうか? 聖ピオ十世会の強みと弱点は何でしょうか? あなたが予見する聖ピオ十世会の未来とはどんなものでしょうか?

私は穏やかに未来を見ています。聖ピオ十世会は、イエズスの聖心とマリアのけがれなき聖心に委ねられた事業です。私たちはただ、イエズスと聖母マリアとのご意志に忠実にとどまりさえすればよいのです。この教会は、聖主イエズス・キリストの教会であり、イエズス・キリストは教会のかしらであり続け、教会が破壊されるのをお許しにはなりません。

聖ピオ十世会の弱点ですか? 分裂の危険であり、これは深刻です。例えば自分たちを「レジスタンス」と呼ぶ聖伝のパロディ集団を見て下さい。これは、ほとんどセクト集団の、非カトリック的精神のことです。こんなものを私たちは一切持ちたいとは思いません。これは、この地上において自分たちだけが善良で正しい人間だと考える人々からなる、自らの内部に閉じこもる運動です。これはカトリックではありません。これは客観的に危険なものですが、危険は相対的です。聖ピオ十世会の大部分は健全で、このような錯覚に陥ることを望んでいません。これによって私たちは超自然的手段に頼るよう促されるのです。天主が私たちにお望みのことを、私たちに教えてくださるでしょう。天主は状況を通してお語りになるのでしょう。

聖ピオ十世会の強みですか? 実りをもたらす生き生きとした忠実さ、そしてカトリック的生き方は、たとえそれがあらゆるものを要求するとしても可能であると現代世界に教えていることです。しかし──もう一つの弱点ですが──私たちはこの時代の子です。近代世界の影響に対抗する免疫があると装うのは夢想でしょう。具体的に言いますと、私たちはこの地上で皺もしみもない、戯画化した教会の姿を望むことを避けなければなりません。聖主はこのようなことをこの地上で私たちに約束なさいませんでした。「聖なるカトリック教会」とはこのようなことを意味しているのではありません。聖会とは、聖主がお与えになった手段──秘跡、信仰、規律、修道生活、祈りの生活を使うことで私たちを聖なるものとすることができるという意味です。

プレザン紙:新しいミサに聖伝のミサの奉献文(Offertorium)を導入しようというサラ(Sarah)枢機卿の提案についてはどう思われますか?

それは新しい考えではありません。ローマで十年近く議論されていることです。再び取り上げられたことを私は嬉しく思います。これは聖なるものと世俗とを混ぜることだと言って、この考えを批判する人々がいます。私は、それどころか、教会に健全なものを取り戻そうという観点からこれは大きな第一歩であると考えます。なぜなら、奉献文(Offertorium)は、ミサ聖祭に関するカトリック原理の要約であり、ミサ聖祭が至聖なる三位一体に捧げられる償いの犠牲であり、罪の償いとして信者とともに、司祭によって天主に捧げられる犠牲であることを要約しているからです。こうして徐々に、信者たちが失ってしまった聖伝のミサへと彼らを連れ戻すことになるだろうからです。

プレザン紙:司教様、締めくくりのお言葉をお願いします。

私の考えによると、私たちは、はっきりと定義できない数々の重大な出来事を目前にしている、と思います。皆さんを祈りへと呼びかけます。そして常に希望を持たせてくださる天主のほうへとまなざしを注ぎつつ、私の言葉を終わりにしたいと思います。

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Entretien de Mgr Fellay à Présent (27 juin 2015)

C’est à l’occasion de la cérémonie de bénédiction des cloches de la chapelle de l’école Saint-Michel de La Martinerie, à Châteauroux, que Mgr Fellay a fait pour Présent un point sur la situation de la Fraternité Saint-Pie X, dont il est le Supérieur général.

Dans un entretien accordé à Fideliter en 2001, vous évoquiez « le mouvement de profonde sympathie du jeune clergé à l’égard de la Fraternité ». Ce mouvement s’est-il amplifié, notamment du fait du motu proprio de 2007 ?

― Sans aucun doute ! Ce mouvement a reçu un nouveau souffle avec le motu proprio. Il convient d’ailleurs d’insister sur l’intérêt de Benoît XVI envers la liturgie d’une manière générale. Il a vraiment désiré remettre à la disposition des prêtres et des fidèles toute la liturgie traditionnelle, pas seulement la messe, ce qui ne s’est pas réalisé jusqu’ici à cause de trop nombreuses oppositions. Cependant la jeunesse, précisément parce que cette liturgie se situe hors du temps, s’y retrouve. L’Eglise vit dans l’éternité. La liturgie aussi, c’est pourquoi elle est toujours jeune. Proche de Dieu, elle n’appartient pas au temps. Il n’est donc pas étonnant que le caractère baptismal fasse résonner cette harmonie, même dans les âmes qui ne l’ont jamais connue. La façon dont réagissent les jeunes prêtres qui découvrent cette liturgie est d’ailleurs émouvante : ils ont l’impression qu’on leur a caché un trésor.

La Fraternité a été reconnue officiellement comme catholique par l’Etat en Argentine, avec l’aide du cardinal Bergoglio devenu ensuite le pape François. Cela n’a-t-il qu’une importance administrative ou est-ce plus révélateur ?

― On y trouve tout d’abord un effet juridique, administratif, sans implication sur l’état des relations générales de la Fraternité avec, disons pour simplifier, l’Eglise officielle. Mais le deuxième effet est difficile à évaluer correctement. Il n’y a aucun doute sur le fait que le pape François, alors cardinal Bergoglio, avait promis d’aider la Fraternité à obtenir la reconnaissance par l’Etat argentin de notre société comme catholique et qu’il a tenu sa promesse. Cela oblige à penser qu’il nous considère bien comme catholiques.

Dans le même ordre d’idées, vous avez été nommé juge de première instance par le Vatican pour le procès d’un prêtre de la Fraternité. Ne peut-on y voir un signe de bienveillance ?

Ceci n’est pas nouveau mais existe depuis plus de dix ans. Il s’agit effectivement d’une marque de bienveillance, et de bon sens. C’est ce que l’on remarque dans l’Eglise romaine à travers son histoire : son réalisme, capable de dépasser des problèmes canoniques, juridiques, pour trouver des solutions à des problèmes bien réels.

Vous évoquez, dans votre Lettre aux amis et bienfaiteurs, des « messages contradictoires » venant de Rome. Qu’entendez-vous par là ?

Je pense à la manière dont une société qui était en voie de rapprochement vers la Tradition a été traitée – ou maltraitée : les franciscains de l’Immaculée. Ou aux diverses manières dont nous traitera une instance romaine par rapport à une autre : la Congrégation des religieux, par exemple, nous considère toujours comme schismatiques (elle a déclaré excommunié, en 2011, un prêtre qui nous rejoignait), alors que ce n’est pas le cas d’autres congrégations ou du pape lui-même, comme nous l’avons dit.

« Pessimiste », « fermé aux autres », « pensant que seuls les fidèles de la Fraternité seront sauvés » : vous êtes parfois évoqué ainsi. Que répondez-vous ? Qu’est pour vous l’esprit missionnaire ?

Je ne me reconnais pas dans ces quolibets. Une fermeté dans la doctrine est, certes, nécessaire, car la foi ne se négocie pas. La foi est un tout donné par le Bon Dieu et on n’a pas le droit de faire le tri parmi les vérités révélées. Rappeler ces exigences aujourd’hui passe mal, comme cela a d’ailleurs toujours été plus ou moins le cas. L’expression « combat de la foi » fait partie de l’histoire de l’Eglise. Forcément, le missionnaire devra faire retentir cette voix de la foi à l’extérieur, tout en cherchant à fortifier ceux qui l’ont déjà. Il n’est pas possible de ne s’adresser qu’aux fidèles de la Fraternité. Le flambeau illumine le monde, la lumière de la foi rayonne, avec chaleur. La foi doit être portée par la charité : c’est ainsi que je vois le missionnaire.

Il y a quelques semaines, des séminaires de la Fraternité ont reçu la visite d’envoyés du Vatican, le cardinal Brandmüller, Mgr Schneider. Ces visites constituent un lien public avec « l’Eglise officielle ». N’est-il pas vital ?

Le lien avec l’Eglise est vital. La manifestation de ce lien peut varier. Les dates et lieux de ces visites ont été laissés à mon choix, le Vatican a proposé des noms. J’ai choisi les séminaires, ce qui me paraissait, pour des évêques, le plus éloquent et le plus représentatif.

Quelles ont été les réactions « sur le vif » de ces évêques ?

Ils se sont montrés très satisfaits. « Vous êtes des gens normaux », nous ont-ils dit… ce qui montre la réputation que l’on nous fait ! Ils nous ont félicités sur la qualité de nos séminaristes. Il ne fait aucun doute qu’ils ont conclu de ce premier contact rapproché que nous étions une œuvre d’Eglise.

Avez-vous des contacts avec des évêques, qui vous soutiennent discrètement ?

Bien sûr ! Si l’on voit que des prêtres se rapprochent de nous aujourd’hui, ont eux-mêmes des contacts avec nous, on peut facilement en conclure qu’à l’échelon supérieur, ce doit être à peu près la même chose…

Dans l’entretien déjà évoqué de 2001, vous déclariez : « S’il y a une chance, une seule, que des contacts avec Rome puissent faire revenir un peu plus de Tradition dans l’Eglise, je pense que nous devons saisir l’occasion. » Est-ce toujours votre ligne ?

Cela reste notre ligne, même si l’on ne peut pas dire que ce soit facile, notamment à cause des dissensions ouvertes au sein du Vatican lui-même. Ces relations sont délicates, mais ce point de vue reste valable et confirmé dans les faits. Il s’agit d’un travail discret, au milieu d’oppositions assez fortes. Certains travaillent dans un sens, d’autres dans le sens contraire.

Le rôle de contrepoids de la Fraternité à l’intérieur même de l’Eglise n’est-il pas important ?

Ce rôle n’est pas nouveau, Mgr Lefebvre l’a commencé et nous le continuons. A constater l’irritation des modernistes devant les pas faits par Benoît XVI, on le voit bien.

Où en est la Fraternité aujourd’hui ? Quels sont ses points forts, ses points faibles ? Comment voyez-vous son avenir ?

Je vois son avenir sereinement. C’est une œuvre déposée dans le Sacré-Cœur et le Cœur immaculé de Marie, le tout est d’être fidèle à leur Volonté.

Cette Eglise est l’Eglise de Notre-Seigneur Jésus-Christ, qui en reste le chef et ne permettra pas sa destruction.

Les faiblesses de la Fraternité ? Le risque de séparation, qui est grave. Voyez par exemple la caricature de la Tradition qui se fait appeler la « Résistance » : il s’agit d’un esprit non catholique, quasi sectaire, dont nous ne voulons pas, un mouvement qui reste replié sur lui-même, avec des gens qui pensent qu’ils sont les seuls bons, les seuls justes sur la terre : cela n’est pas catholique.

Il s’agit d’un danger objectif, mais relatif. La grande partie de la Fraternité est saine et ne veut pas sombrer dans ces illusions. Cela nous pousse à nous appuyer sur les moyens surnaturels. Ce que le Bon Dieu veut de nous, il nous le montrera, il parlera à travers les circonstances.

Les points forts ? La fidélité, vivante, qui porte des fruits et montre au monde d’aujourd’hui que la vie catholique, avec toutes ses exigences, est possible. Mais – autre point faible – nous sommes des gens de ce temps, prétendre être immunisés contre toute influence du monde moderne est chimérique. Plus précisément, il faut éviter le danger d’une caricature, de souhaiter voir ici-bas l’Eglise sans ride ni tache : ce n’est pas ce que le Bon Dieu nous a promis sur cette terre. Ce n’est pas ce que signifie « l’Eglise sainte », cela veut dire qu’elle est capable de sanctifier par les moyens donnés par Notre-Seigneur : les sacrements, la foi, la discipline, la vie religieuse, la vie de prière.

Que pensez-vous de la proposition du cardinal Sarah d’introduire l’offertoire traditionnel dans la nouvelle messe ?

Cette idée n’est pas nouvelle, cela fait une dizaine d’années qu’elle circule à Rome. Je suis heureux qu’elle soit reprise. Certains critiquent cette démarche en disant que ce serait mêler le sacré au profane. Au contraire, dans une perspective d’assainissement de l’Eglise, je pense que cela constituerait un très grand progrès, parce que l’offertoire est un résumé des principes catholiques de la messe, du sacrifice expiatoire offert à la Sainte Trinité, dirigé vers Dieu en réparation des péchés par le prêtre, accompagné par les fidèles. Et cela ramènerait graduellement les fidèles vers la messe traditionnelle qu’ils ont perdue.

Comment souhaitez-vous conclure, Monseigneur ?

Pour moi, nous sommes à la veille d’événements graves sans pouvoir bien les définir. J’appelle à la prière et je veux terminer sur un regard vers le Bon Dieu, ce qui nous permet de toujours garder espoir.

Propos recueillis par Anne Le Pape.

(Source : Présent du 27 juin 2015)

The Good of Authority 権威の有益性

2015年07月19日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 レネー神父様によるアジア管区のサイトの記事「The Good of Authority 権威の有益性」の日本語訳を愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。
 天主様の祝福が豊かにありますように!

 

権威の有益性



2014年2月17日


原文はこちら
 

 真理は権威の上なのか、それとも権威が真理の上にあるのでしょうか? 両者の間にはどのような関連性があるのでしょうか?

 自然的レベルにおいてすら、人間は真理を学ぶために最初に権威を必要とします。すなわち、すべての子どもたちは両親と教師たちの権威に基づいて最初に学びます。その後、自分が、最初に権威によって学んだことを、自分で悟ることができるようになるのです。成人してからでさえ、ほとんどの人たちが権威に基づいて知っている多くの真理【何故そうなのかは説明できないけれども、そのように教わったから信じている真理】が依然として存在します。(例えば、円の面積は、πr2(円周率x半径の二乗)であるということを証明する方法を知っている大人は何人いるでしょうか? 大部分の人々は、学校の教師たちの権威に基づいて、それを教えられます)。とはいえ、自然的レベルならば、人間は権威なしでも現実(真理)の知識の一部に到達できるのです。

 ですが、超自然的レベルでは、人間は超自然的現実(聖三位一体の神秘のような)の知識に、啓示なしに到達することはできません。ですから聖トマス・アクィナスはこのように教えています。「この(聖なる)教えは、権威による論拠に、特に基礎を置いている。なぜなら、その原理は啓示によって獲得されたからである。従って私たちは、啓示がなされた人々の権威を信じる義務がある。このために、この教義の尊厳が取り去られてしまうことはない。というのは、人間の理性を基礎とする権威から生じる論拠は最も脆弱であるけれども、天主の啓示を基礎とする権威から生じる論拠は、最も強力だからである」(Ia q.1 a.8 ad2m)

 天主がお語りになるとき、人間は信じなければなりません。これが「ドグマの原理」であり、ニューマン枢機卿の人生における非常に重要なことでした。「最初にドグマの原理があった。つまり、私の戦いは自由主義との戦いであった。自由主義とは、つまり、反ドグマ的原理とその原理を発展させた主義主張である……。十五歳の時から、ドグマは私の宗教の基本となる原理であり続けた。すなわち、私は他の宗教を知らない。他のいかなる種類の宗教の思想へと入り込むことはできない。単なる感情に過ぎないような宗教は、私にとって夢想とごまかしである」 (Apologia, ch.2)

 啓示された真理は権威とともに提示されなければなりません。従って「聖書のみ」では不十分です! 自分だけの解釈に頼るなら、誰もまことの信仰であるカトリック信仰を持てないのです。教会が教えるという事実に由来しないなら、いったい聖書の権威はどこから来るのでしょうか? 聖アウグスティノはこのように述べています。「カトリック教会が、私にそのようにせよと命じない限り、私は福音書を信じないだろう」(Contra Ep. Fund., 5.6) 権威がないならば、信仰は単なる意見に過ぎません。ですから聖パウロはこのように述べています。「それなら、かれらは、まだ信じなかったものを、どうして呼び求められよう、そしてまだ聞かなかったものを、どうして信じられよう、宣教する者がなければ、どうして聞けよう、遣わされなかったら、どうして宣教できよう」(ローマ10:14~15)我らの主イエズス・キリストは権威とともに話されました(マテオ7:29)。そしてご自分の使徒たちにご自分の権威をお授けになって、彼らを遣わしました。「あなたたちのいうことを聞く人は私のいうことを聞く人である」(ルカ10:16)「布教」しない説教者に権威はなく、まことの信仰を説くことはできません! このようにして権威の本質は、啓示された真理の知識に対して存在するのです。

 さて、権威の拒絶は、近代哲学の中心である自由主義のしるしです。すなわち、自由主義のしるしは、権威を授けられたがその行使の仕方を知らない人々(例えば、パウロ六世の1968年の神の民のクレドは、彼の信仰告白に過ぎず、それを信じるよう義務づけてはいません)と、権威に服すべきだが命令を嫌う人々の、両者の間にあるとわかります。そのようなわけで、荘厳な判断を行使しないまま、定義もないまま、従って最高権威を行使しないまま、彼らが現代人の言葉で現代人に信仰を提示するのを望んだ時、第二バチカン公会議というドラマが起きたのです。

 第二バチカン公会議に続く混乱の中で、信者たちは信ずべきことをどうやって識別できたでしょうか? 信仰は人間的権威に対してではなく、天主の権威に対して応えるものです。ですから、教会内で、権威を授けられた人間が我らの主イエズス・キリストに対して、混じりけなく透明である必要があります。それは、信者たちが、彼において、イエズスがお語りになっているのだとわかるためです。さて、この混じりけない透明性は、本質的に、権威を授けられた人間が受け取ったものを伝えるための忠実さで成り立っています。事実、外の風景を窓を通して見られるのは、窓が透明であるからであって、(テレビ画面からのように)窓に映っているわけではなく、窓の後ろから、そして窓を「通り過ぎて」、歪むことなしに見られるのです。[権威を授かった]人間が教えることは、彼独自の個人的な意見ではなく、数世紀にわたって受け継がれた信仰を通して、キリストご自身から来たのだということは明白です。ですから、新奇さは異端の確実なしるし、聖伝への忠実さは正統性の確実なしるしです。

 けれども、信者がその識別を見損ない、今日の教会の権威を授けられた者から教えられたために、落ち度はないまま、いくつかの誤謬を信じるよう誘導されたとしたらどうなるのでしょうか? その人の信仰の対象が、「カトリック教会が信じ、教えていること」であり、その信仰の動機が「天主がその真理を啓示し、それを教会に委ねたから」であるならば、啓示の内容について間違っているとしても、その人はまことの信仰を持っていることになります。聖人たちですら、信仰の中身に関して間違えました。聖トマス・アクィナスでさえ、無原罪のおん宿りについての概念が不正確でしたし、再洗礼に関して聖チプリアノもそうでした。ですが、聖アウグスティノが教えたように、教会の唯一性への愛が(=彼は教会の信仰を個人的考えよりも上に置いたから)、彼を救ったのです。(de Baptismo, 6:1,2-2,3)

 しかしながら、カトリック教会の権威を嫌悪するならば、たとえその人が、教会の教えている真理の一部を保ち続けているとしても、その人はもはや真理を保っていません。「何故なら人々は、教会を通して、天主の権威によって、教えられるがゆえ」です。つまり、【天主の権威の故に信じるという】「信仰の動機を失い、信仰の徳を失っています。これこそが、権威が、まことの信仰に対してどれほど本質的であるかということを表しています。

 権威は信仰のために不可欠であるだけでなく、福音的完徳のためにも不可欠です。まさしく聖トマス・アクィナスが──教会の聖伝全体とともに──修道者の完徳は、第一にキリストにならうこと、特にその従順にならうことから成り立っていると教えており、(IIa IIae q.186 a.5) 従順は権威と一体化した長上を必要とします。事実、これはすぐれた祝福なのです。すなわち、私たちにとって具体的な状況下で何が天主のご意志なのかを識別するのは、多くの場合、非常に難しいことだからです。敬虔な信者の日常生活において、信者たちは、自分が天主のご意志を行っているのか、それとも自分たちの個人的な意向を行っているのか、どうやって知ることができるでしょうか? 天主の十戒という限界の中で、個人的意志と天主のご意志の間の区別をどうやってつけられるのでしょうか? 権威はここで必要となります。つまり、正統な権威に従うとき、特に宗教的権威に従うとき、その人は天主のご意志を行っているとわかります。たとえ長上の側に過ちがあるかも知れないとしても、その命令が本質的に悪でない限り、従うことは依然として正しいのです。典型的な例は修道会における任務の命令です。あるいは、ルフェーブル大司教様の例を取り上げましょう。大司教様がチュール司教として派遣されたとき、大司教様をこの小さな教区へと追放した人々は過ちを犯したかも知れません(大司教であったのですから、大司教にふさわしい職務が与えられるべきでした)。でも、大司教様は従順のうちに正しく行動しました。すばらしい謙遜とともに、一切の不平を呟くことなしに。

 権威を取り去れ。しからば修道的従順を取り去ることになる。つまり修道的完徳、キリスト者の完徳を取り去ることになる。

 世俗の権威に関してさえ、教会は常に権威の原理を支持してきました。ピ枢機卿は「教会の聖職者たちの見識ある良心にとって、政府に対する敵愾心はあり得ない。なぜなら、これはまさしく教会の精神に反対することであり、教会の精神は著しく忍耐強く保守的な精神であり、たとえ、世俗の権威のある行為や傾向などを教会が承認もせず、受け入れもしない(例えば堕胎法など)まさにその真っ最中の時であったとしても、教会は、世俗の権威の存在を通して、依然として実行可能な善を無視するほどではない」と述べました。その解説はこのように書き留められています。「ピ枢機卿の霊魂はここにある。枢機卿は権威に対し非常な尊敬を抱いていたので、権威を授けられた人々すべてを尊敬していた。そして、権威者たちに立ち向かわなければならないときでさえ、使おうとしない擁護手段があった。なぜなら彼らに損害を与える一方で、そのような手段は、権威を傷つけるからである」 (Card. Pie, Pages Choisies, p. cii)

 現代においては、このような権威の危機とともに、権威が攻撃され軽蔑されているがゆえに、権威そのものを拒絶するべきではありません。権威の悪用には抵抗しながら(たとえば天主の法に反して行われる時──使徒行録5:29)、権威が依然としてその義務を果たす時(共通善をもたらすために──ローマ13:1~5)を、判別するべきです。権威を授けられた人々(家庭における父親、修道会における長上など)は「忠実であると見いだされる」(コリント前書 4:2)ように骨を折るべきです。善い長上たち──完全ではないにせよ──を持つ祝福された人々は、天主に感謝し、従順の徳をいっそうよりよく実行するよう努力するべきです。権威を持つ人々を中傷すること(例えば、長上は「誤りのない聖伝よりも間違っている教皇たちを好む」などと、まったく真実でないことを言うこと、など)は、偉大な権威の原理を傷つけ、重大な損害を与えているのです。信仰と徳にとって極めて不可欠な権威を害しています。


 フランソワ・レネー神父

2015年7月12日レネー神父様お説教 SSPX Japan Latin Traditional Mass Fr Laisney

2015年07月17日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2015年7月12日の主日に大阪でレネー神父様がなさったお説教をご紹介します。 天主と掟への従順、愛と聖寵の神秘についての黙想へと誘ってくださいます。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)






2015年7月12日レネー神父様のお説教

親愛なる兄弟の皆さん、

本日の書簡は、聖パウロのローマ人への書簡の第6章の続きです。先週の主日の書簡が、第6章の最初の部分でした。この章で聖パウロは、大変重要でかつ大変慰めとなる真理を教えてくれます。私たちの主イエズス・キリストの恩寵によって、律法を、道徳上の律法を守ることは可能なのです。悪や罪を避け、善を行うことは可能であり、これによって天国へ行くことが可能なのです。聖アウグスティヌスはそれを、一つの驚くべき短い文章にまとめています。「恩寵が律法を守る、すなわち律法が私たちに命じることは、私たちの主イエズス・キリストの恩寵がそれを私たちに守らせてくださる」。

天主から来るものは天主に帰るべきです。天主は、すべてのものの最初の原因であり、かつ最後の目的です。すべてのものは天主から来て、天主に帰らなければなりません。「私はアルファでありオメガであり、初めであり終わりである」(黙示録21章6節)。ではどのようにして天主に帰るのでしょうか?それは天主の法によってです。天主は、天と地、見えるもの見えないもの、物質的なもの霊的なものすべての創造主です。では、物質的なものをすべて見てみましょう。それらはすべて、天主が決めた法に完全に従っています。重力の法則、電磁力の法則、化学の法則、そして天主が決めたほかの法則すべてです。「太陽の周りを何年も何年も回って疲れたから、自分の思う道に行きたい」と言う惑星は一つもありません。天主が決めた物理的法則に完全に従うことのない素粒子は、全宇宙の中にただ一つもありません。そのように法則に従うことで、すべての物質的なものは天主を讃美しているのです。この天主の法則への完全な従順、普遍の従順は、天主の知恵と力への驚くべき讃美なのです。毎日の美しい日の出と日没、あらゆる美しい風景、あらゆる天空の星々とあらゆる地上の小さな花々などは、その美と調和、天主の法則への完全な従順によって、天使と人間が「讃美すべきもの」であるのです。天使と人間は、天主の御業を黙想して万物の創造主への讃美を炸裂させるのです。「われらの天主なる主よ、あなたこそ光栄と誉れと力を受けられるにふさわしい方です。あなたは万物を創られたからです。万物が存在し、そして創造されたのは、あなたのみ旨によります」(黙示録4章11節)。

さて、皆さんはこう言うかもしれません。「でも、それらのものには何も功徳はありません、自由ではないのですから」。そうです、実際、これこそが、霊的存在である天使と人間を天主が創られた理由であり、天使と人間が必要によってではなく、愛によって法に従うよう自由を授けられたのです。天主が私たちに自由を授けられたのは、天主の法に背くためではなく、愛によって天主の法に従うためです。理解のためにはこれが大変重要です。私たちが自由であるのは、愛によって天主の法に従うためであり、天主の法に背くためではありません。ですから、天主の法自体が愛の法なのです。「すべての心、すべての霊、すべての知恵をあげて、主なる天主を愛せよ。これが第一の最大の掟である。第二のもこれと似ている。隣人を自分と同じように愛せよ」(マテオ22章37-39節)。天主ご自身が愛なのです。実際、聖ヨハネは言います。「天主は愛である。愛を持つ者は天主にとどまり、天主は彼にとどまられる」(ヨハネ第一4章16節)。また、聖パウロは言います。「愛は隣人を損わぬ。したがって愛は律法の完成である」(ローマ13章10節)。(ここでの「愛」はギリシャ語の「アガペー」を訳したものであって、霊的な愛のことであり、肉体的感覚の愛の「エロス」ではありません。なぜなら、多くの悪は肉体的感覚から来るからです。)

大聖グレゴリウスは、「私たちは『gressibus amoris-一歩一歩、愛の歩みによって』天主に帰る」と教えます。聖トマス・アクィナスは、「愛によって私たちは生活の中で第一の場所を天主にお与えし(ですから週の最初の日は天主に捧げられます。)、すべてのものを天主の栄光に、すべての活動を天主に秩序づけ、そうすることで天主を自分自身全体の王とする」と説明します。そうすれば、驚くべき報いがあります。それは天国での永遠の生命、永遠に御父、御子、聖霊である天主を見る至福直観、天主ご自身の至福を共にすることです。これはまことに驚くべきことであり、天主のご計画なのです。そして善きことです。

しかし、自由な被造物の中には、その自由を乱用し、天主の法に背くものがいます。彼らにとっては、これは大変恐ろしいことです。なぜなら、それによって、彼らは地獄に行くに値するからです。彼らは天主に言います。「われわれはあなたの道についていかない。自分の道を行く方を好む」。すべてのものを超えて天主を愛する代わりに、彼らは創造主よりも被造物の方を好むのです。彼らは被造物を創造主より価値あるものとみなします。お金のため、楽しみのため、自分自身のために生き、隣人を嫌い、隣人から盗み、奪い、現代社会にあまりにもしばしば見られるあらゆる種類の無秩序や堕落に陥るのです。罪は人類にとっての大きな悲劇です。「二つの愛が二つの国をつくった。神を軽蔑する自己愛は地上の(罪の)国をつくった。自分を軽蔑する神への愛は天の(神の)国をつくった」(聖アウグスティヌス「神の国」14章28節)。罪は根本的に無秩序であって、私たちの霊的生活の全秩序を弱め、霊魂に死を用意し、永遠の罰へと導きます。

被造物は、美しくて、しかし、守らない訳にはゆかない天主の法に従うことによって天主に帰るのです。これは厳しい義務なのです。

さて、天主は悪によって負かされるのではなく、善によって悪に勝つのです。天主は、ご自分の御独り子、私たちの主イエズス・キリストを送ることによって人間を贖い、罪から人間を救おうとお決めになりました。しかし、ルターのような悪しき人間たちは、この贖いを間違って捉えています。実際、プロテスタントの中には、律法によって人間を救うという旧約における天主の最初の計画がうまくいかなかったため、新約において天主は、信仰によって人間を救うという新しい計画を立案され、律法への従順はもう必要なくなった、と言い張る者がいます。これはまったく真実ではありません。真実は、キリストが私たちを救われるのは、キリストがまず私たちの罪という負債を支払い、御父の誉れを回復させ、私たちの霊魂を洗い、癒やし、恩寵によって霊魂に律法に従うことのできる力を与えることによってなのです。これが本日の書簡の主題のすべてなのです。

洗礼によって、私たちは罪の汚れから洗われました。「ただ御あわれみにより、再生の洗いと聖霊の一新によって私たちを救われた」(ティト3章5節)。この一新は、霊魂の力をまさに回復させるので、私たちはもう罪に向かって生きるのではなく、天主に向かって生きるのです。実際、「キリスト・イエズスにおいて洗礼を受けた私たちは、みなキリストの死において洗礼を受けたことを、あなたたちは知らないのか。それゆえ私たちはその死における洗礼によってイエズスと共に葬られた。それは、御父の光栄によってキリストが死者の中からよみがえったように、私たちもまた新しい命に歩むためである」(ローマ6章3-4節)。私たちは罪に対して死んでおり、罪の体は葬られました。良きキリスト教徒にとっては、罪は終わり、もはや罪は犯さず、罪は問題外です。実際、聖パウロは続けます。「私たちの古い人間がキリストと共に十字架につけられたのは、罪の体が破壊されてもはや罪の配下につかないためであることを私たちは知っている」(ローマ6章6節)。私たちの主ご自身が福音書の中で、姦淫の罪を犯した女に同じことを言われました。「行け、これからはもう罪を犯さぬように」(ヨハネ8章11節)。主はその前に、ご自分が癒やされたベツサイダのあわれな者にこう言われました。「どうだ、あなたは治った。さらに悪いことが起こらぬように、もう二度と罪を犯すな」(ヨハネ5章14節)。

「もう罪を犯すな」は、否定的な面です。肯定的な面は天主に向かって生きることです。「同様にあなたたちも、自分は罪に死んだ者、キリスト・イエズスにおいて天主のために生きる者だと思え」(ローマ6章11節)。聖パウロはそれを「キリストの復活にあやかる」と呼びます。「私たちはキリストの死にあやかってキリストと一体になったなら、その復活にもあやかるであろう」(ローマ6章5節)。「もし私たちがキリストと共に死んだのなら、また彼と共に生きることをも信じる。そして死者からよみがえられたキリストはもう死ぬことがないと私たちは知っている。キリストに対してもはや死は何の力も持っていない」(ローマ6章8-9節)。ですから、キリストにおける新しい生命では、私たちも霊的に「もう死ぬことがない」、つまりもう罪を犯さないことが可能になるのです。キリストの復活の力によって、私たちはもう罪を犯さず、律法を守ることができるのです。罪を免れて律法を破るのではありません。「だから罪の欲に従うことがないように、あなたたちの死すべき体を罪に支配させるな。あなたたちの肢体を罪に与えて不義の道具とせず、かえって死を逃れて生きる者として自分を天主に捧げ、その肢体を天主のための正義の武器とせよ。あなたたちは律法の下にはなく恩寵の下にあるから、罪はあなたたちの上に何の力もないであろう」(ローマ6章12-14節)。

どうしてこういうことが可能になるのでしょうか。聖パウロは、少し前のローマ人への書簡の第5章で説明しています。「私たちに与えられた聖霊によって、この心に天主の愛が注がれたからである」(ローマ5章5節)。私たちの心に愛を注ぐことによって、私たちを罪との闘いに勝利するよう助けてくださるのは聖霊なのです。ですから、試みのとき祈るなら、罪に陥らないでしょう。私はさらに進んで言います。祈っている限り、罪に落ちるのは不可能です。天主に忠実であるよう、天主の戒めを守るよう恩寵を願う人々を、天主はお見捨てにはなりません。「この種の悪魔は、祈祷と断食をしない限り追い出せない」(マテオ17章20節)のですから、祈って償いをしてください。聖トマス・アクィナスは、祈りにはある種の不謬性がある、と教えています。天主をお喜ばせするものを願い求めるとき、救いに必要なものを願い求めるとき、謙遜と忍耐があれば、祈りは必ずそれらを獲得するのです。お金や楽しみ、地上のものごとを願い求めるなら、天主は祈りを聞き入れてくださらないかもしれません。(そんなことを願い求めたとき、天主がその祈りを聞き入れてくださらないのは、時にはより良いことなのです。)しかし、天主の戒めに従い、天主のご意志を果たす恩寵を願い求めるとき、謙遜と忍耐をもって願い求めるなら、天主は皆さんが願い求めることを必ず聞き入れてくださるのです。実に、天主は、皆さんが自分の救いを望む以上に、皆さんの救いを望んでおられるのですから。天主は皆さんの救いのために十字架上で亡くなられたのですから。「私は地上に火(天主の愛の火)をつけに来た。その火がすでに燃え上がっているように私はどんなに望みをかけていることか」(ルカ12章49節)。

そのため、私たちの主イエズス・キリストの恩寵によって、私たちは律法を守り、大罪を犯さずに生きることができるのです。また、私たちは大罪を犯さずに生きなければならないのです。

時折、人々と話をしていると、罪の状態で生きている人であるのが分かります。姦淫の罪か、ほかの重大な罪です。皆さんは問いかけます。あなたが昨日死んでいたなら、あなたは今どこにいるのですか?通常は、皆さんがカトリック信者と話しているのであれば、その人はこう答えるでしょう。「うーん、私は地獄にいると思います」。すると私は問いかけます。「あなたは本当にそこに行きたいのですか?」。すると今度はもっと早く答えが来るでしょう。「いいえ」。そこで私は問いかけます。「地獄に行きたくないなら、なぜ地獄に行ってしまうようなことをしているのですか?天国に行きたいなら、天国に行けることをすべきではありませんか?」。しかし、その人はこう答えるかもしれません。「いえ、神父様、私は地獄に行かないでしょう。なぜなら、私はキリストを信頼しているからです。キリストは言われました。天主は御独り子を与え給うほどこの世を愛された。それは、彼を信じる人がみな滅びることなく永遠の命を受けるためである」(ヨハネ3章16節)。(私はこう言うでしょう。)どうしてそんなことが可能でしょうか。あなたは罪の状態で生きており、罪の上に罪を重ねているのですよ。聖パウロは見事に言います。「…人よ、あなたは天主の裁きを逃れられると思うのか。あるいは天主の仁慈があなたを悔い改めに導くことを知らず、その仁慈と忍耐と寛容の富をないがしろにするのか。こうすればあなたはかたくなさと悔い改めぬ心によって、天主の正しい裁きの現れる怒りの日に、自分のために怒りを積み重ねるであろう。天主はおのおのの業に従って報いられる」(ローマ2章3-6節)。

キリストを信頼すると言いながら、キリストの戒めを破り、あらゆる種類の大罪を犯す人は、口で告白することを行いで否定しています。「彼らは天主を知っていると言うが、その行いによって天主を否定している。彼らはいとわしい者、逆らう者、一切よいことのできぬ者である」(ティト1章16節)。彼らの信仰は死んでおり、そのような信仰では地獄に落ちることから救われません。聖ヤコボは言います。「悪魔もそれを信じて震えおののいている」(ヤコボ2章19節)。救う信仰は、生きている信仰、「愛によって働く信仰」(ガラツィア5章6節)です。「天主のみ前に義とされるのは、律法を聞く人ではなく律法を守る人である」(ローマ2章13節)。私たちの主イエズス・キリストご自身が福音書の中で同じことを言われました。「私に向かって、『主よ、主よ』と言う人がみな天の国に入るのではない、天にまします父のみ旨を果たした人が入る」(マテオ7章21節)。彼らは「主よ、主よ」と言うことによって、信仰を持ってはいましたが、それだけでは十分ではありません。彼らがそれを実行しないなら、「その日多くの人が私に向かって『主よ、主よ、私はあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪魔を追い出し、あなたの名によって不思議を行ったではありませんか』と言うだろう。そのとき私ははっきり言おう、『私はいまだかつてあなたたちを知ったことがない、悪を行う者よ、私を離れ去れ」(マテオ7章22-23節)。

このように、天主の道徳上の律法は、新約においても義務付けられているのは明らかです。しかし、私たちの主イエズス・キリストの恩寵によって、私たちにはそれを守る力が与えられています。儀式上の律法は、新しい律法の秘蹟で置き換えられています。(罪に対して罰を与える)司法上の律法は、新しい律法のあわれみによって緩められています。(姦淫の罪を犯した女に対して、キリストは「私もあなたを罪に定めない。行け、もう罪を犯すな」(ヨハネ8章11節)と言われました。)しかし、道徳上の律法は高められて、さらに厳しい義務が課されています。「私は言う、もしあなたたちの正義が律法学士やファリサイ人たちのそれに優らぬ限り、決して天の国には入れぬ」(マテオ5章20節)。さらに主は続けられます。兄弟にさえ怒るな、と。儀式上の律法と司法上の律法と道徳上の律法を区別せず、道徳上の律法はもはや義務ではないと主張するプロテスタントは、大変深刻な誤謬に陥っています。道徳上の律法はもはや義務ではないと主張する人々や、あるいは天主はあわれみ深いのだから人が何をしても誰もが天国に行くと主張する人々には、大変な不信仰があります。

実際、天主はあわれみ深いのですが、天主の御あわれみは私たちを悔い改めへと導きます。「天主の仁慈があなたを悔い改めに導くことを知らないのか」(ローマ2章4節)。天主は私たちに聖であるようお命じになります。「私が聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者であれ」(ペトロ第一1章16節)。「あなたたちの天の父が完全であるように、あなたたちも完全な者になれ」(マテオ5章48節)。ですから、聖性を求めないという選択肢はなく、誰もが聖性を求めなければなりません。良き知らせは、私たちが忠実であるようお助けくださる私たちの主イエズス・キリストの恩寵によって、今やそれが可能であることです。

童貞聖マリア、無原罪の童貞は、私たちの主イエズス・キリストの恩寵の力の最も良い証拠です。主に逆らわない霊魂において、主がいかに多くを成し遂げることがおできになったかということです。私たちの主イエズス・キリストの恩寵に私たちが忠実であるようにお助けくださるよう聖母に祈りましょう。そして、私たちも罪を避け、永遠の生命へ至る天主の戒めの道、愛徳の道を進むことができますように。アーメン。


2015年7月12日主日ミサ 聖ピオ十世会レネー神父様 大阪 SSPX Traditional Latin mass

2015年07月15日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 先週から私は、イロイロのサンタ・バルナバというところにある聖ベルナルド修練院(Saint Bernard Novitiate)に来ています。ここは、修練院長のダニエルス神父様とカチョ神父様がおられ、4名の修道士、1名の修練士、3名の志願者、志願準備期間者(pre-postulants)などで12名の共同体となっています。修練院の教会を建設中で、高い壁が立ち上がりつつあります。

 ダニエルス神父様は、2013年に秋田に巡礼に来られたことを良く覚えておられて、パウロはどうしているか、あの方はどうしているか、よろしく伝えてほしいと、日本の話に花が咲きました。

 私は、今週末にはミンダナオ島のジェネラル・サントスに向かいミンダナオのミッションをお手伝いする予定です。

 先日の主日には、レネー神父様が大阪で主日のミサを捧げて下さいました。深く感謝いたします。次のようなご報告を頂いたのでご紹介します。


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

7月の主日の御ミサの報告です。今回もレネー神父様が来日してくださいました。
7月12日 聖霊降臨後第七主日 の歌ミサには18名が、
7月13日 (月) カルメル山の聖母の記念の随意ミサ(歌ミサ)には10名の方が御ミサに与る御恵みを頂きました。 デオグラチアス!!
12日の御ミサ後には、公教要理で旧約の「ダヴィド」について勉強いたしました。

大男ゴリアテを倒した少年ダヴィドの持っていた武器はわずかに木の杖と、五つの石と石投げだけでしたが、この木の杖はイエズス様の十字架の、五つの石はイ エズス様の五つの御傷の前表であったそうです。
ダヴィドの竪琴によって心を和まされていたサウロ王でしたが、妬みからダヴィドを殺そうと追いかけます。しかし逃げるダヴィドはサウロの命を奪うチャンスが二度もありながら、彼を殺しませんでした。それは、慈悲と、油を注がれた者への敬意によってだったそうです。

ダヴィドが傲慢から行った人口調査を悔いて、天主から罰を受けることを告げられた時、「敵の手におちるより、天主の手に落ちたほうがよい。主は慈悲深いから」というダヴィドの言葉は、一見ずうずうしく思えましたが、裏返すと天主様の大きな慈悲を信じるゆえのことだったのかなと思いました。

天主に家を建てたいと思ったダヴィドに対して、天主様は反対に、ご自身がダヴィドのためにその子孫によって永久に堅固な王座を建てると仰っいました。このダヴィドの子孫がまさしくイエズス・キリストであり、この家とは霊的な家、王国であったのでした。

新約の前表としての色々な事柄を旧約聖書で見ることができて大変興味深かったです。
なかなか旧約聖書の勉強は出来ませんが、神父様が色々ポイントで教えて下さったことで旧約、詩篇、御ミサ、天主様の大きな憐みを今日は勉強出来ました。

12日の月曜日には、三日後に迎えるカルメル山の聖母の随意ミサを前倒し(?)で捧げて頂けました。今日この御ミサに与った信徒は全員茶色のスカプラリオの着衣をすでに受けていたので大変嬉しかったです。

この度も大きな犠牲を払って日本へミッションへ来て下さったレネー神父様に天主様が大きく報いてくださいますように、これからもマリア様が神父様を守り、お助けくださいますよう祈りしつつ

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

今月もごミサにあずかれたことを天主様に感謝致します。
祭壇の十字架が大きくて立派なものに変わっていることに驚きました。
お説教の内容は忘れっぽい私はよく記憶していないのですが、きっと動画と書き 起こしでアップしてくださると期待しています。(^_^;)

講話は、旧約の偉大な王、ダヴィドについてでした。
レネー神父様はホワイトボードに St.Davidと 書かれましたが、旧約の義人たち はヨゼフ様のように聖をつけて呼んでも構わないのでしょうか?(そういえばヨ ゼフ様はいつ列聖されたのでしょうか?) 例えばカルメル会では 創立の起源と霊性を預言者エリアにさかのぼるということで聖エリアと呼んでいるようです。

それでは、8月のごミサでお会いできますように。

【お返事】
旧約時代の聖人たちについては、聖ピオ十世の典礼改革でその多くが全世界用の普遍典礼暦から外されました。以前には、聖ダヴィドとか、聖アブラハム、などの祝日を全教会で祝っていました。ただし、地方の教会になると(たとえばエルサレムでは、ナザレトでは、など)旧約の聖人たちの地方固有の祝日があり、祝います。
旧約の聖人で今でも全世界で祝うのは、1962年版のミサ典書では、洗者聖ヨハネと聖マカベオ兄弟ぐらいです。ところで、聖ヨゼフは、新約時代の聖人だと考えられています。

 聖ヨゼフの「列聖」については、現代のやり方で為されたのではありません。「列聖調査」というやり方でする列聖は、ウルバノ8世が1625年3月13日と10月2日に発布した勅令と、1634年7月5日の教書 Caelestis Jerusalem cives によって、唯一教皇様だけが列福、列聖を執り行うことが出来ると言うことが確立しました。
これにより、教皇は列聖の前に、教皇の賢明を照らすために特別に設置した機関、列聖審査のための特別組織によって調査する、という現代の列聖調査のやり方が始まりました。

 列聖について詳しくは、
http://www.immaculata.jp/mag2003/manila171.html
をご覧下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


Vocation - An Unnecessary Mystery 修道召命に神秘主義は不要

2015年07月14日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 アジア管区のサイトの記事「Vocation - An Unnecessary Mystery 修道召命に神秘主義は不要」の日本語訳を愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。
 天主様の祝福が豊かにありますように!


原文はこちら


修道召命に神秘主義は不要


2015年4月18日

 ドミニコ会士・リチャード・バトラー神父の著書をもとにした説教。


はじめに

 親愛なる兄弟の皆さん、「召命」という言葉は、示唆に富む言葉です。内的な混乱、自分自身を疑うこと、罪悪感や他の感情を(特に若者たちの間に)引き起こします。このような感情が起こる理由、それは、この召命という言葉そのものが無意識のうちに「私には召命があるのだろうか?」という問いを私たち自身に問いかけてくるから です。


区別

 私たちのほとんどは、人生のいくつかの段階において、この問いかけを自らに問います。「私には召命があるのだろうか?」ですが、召命とは何かを本当に理解している人はほとんどいません。

 召命は二つのカテゴリーに分けることができます。最初の一つは修道召命です。これは普通、修道会内部において福音的勧告(清貧、貞潔、従順)を受け入れることです。男性と女性の両方にあてはまります。二つ目は司祭職の召命です。これは叙階の秘蹟より生じる召命です。

 この説教は修道召命についてのものですが、同じくらい司祭職の召命にも当てはまることでしょう。


何が召命ではないか

 先ほど言いましたように、私たちのほとんどは召命とは何かを本当には理解していません。1960年、ドミニコ会士のリチャード・バトラー神父は「修道召命に神秘主義は不要」と題された本を書きました。バトラー神父はこの本の中で、召命を取り巻く近代の間違った観念を明らかにし、天使的博士、聖トマス・アクィナスの永遠の教えを提示して います。

 バトラー神父は、召命とは何かについて、二つの対極的な間違った概念があると述べています。

 一つ目の間違った概念は、まったく客観的視点で召命という考えを見ることです。
 ・天主はすべての人間へ、愛徳の完成という人間の目的への手段として、清貧、貞潔、従順の福音的 勧告を呼びかけている。この三つの勧告は最終目的に到達する最高の手段であり、完全になりたいと望むすべての人間はこれらを受け入れるべきだ。だから、すべての人間が修道院に入るべきだ、という主張です。

 この考えの対極にあるものが、現在広く行き渡り、しかも聖伝のカトリック信者たちの間でさえもみいだされています。これは召命をまったく主観的視点で見るという間違いです。
 ・召命は純粋に内的なものであり、神秘的で、謎に満ちているものだ、という考えです。

 著者は自分の論点を説明するために、空想的作家たちの文章から、いろいろな大げさな一節をからかい気味に引用しています。「修道生活はさまざまな方法でやって来る。ある場合には、議論の余地なく圧倒的なものだ。別の場合には、穏やかで、風のささやきのようで、識別するために注意深く耳をすまさなければならない」「親愛なる友よ、心の奥底で、天主があなたをお呼びでないかどうかを自らに問いなさい」

 最初に述べた、まったく客観的視点で召命を見るという極端な概念にまつわる問題とはこうです。修道生活は最も完全な生活であるとする一方で、天主はすべての人が修道者の身分を受け入れることをお望みではないと、そのご意志が明確に宣言されています。このような思慮に欠ける考えは天国に送るべき霊魂たちを(結婚において受胎されないがために)奪うかも知れず、結婚した聖人たちを列聖するというのは馬鹿げたことになってしまいます。

 上記に述べた概念の対極の思想にまつわる問題はこうです。召命という概念は神秘に包まれているというものです。それは定義できなくなります。グノーシス主義(秘密主義の注入された知識)の状況となり、頻繁にあることですが、お告げを聞くことで、落雷や啓示を期待することで、祈りのときにたまにある、ふんわりした快さを待ち望むことで、天主のご意志を識別しようとして感傷主義の状況を作り出すのです。


何が召命であるか

 修道召命とは、愛徳の完成という目的への手段として、三つの福音的勧告を受け入れるという(恩寵によって駆り立てられる)堅固な意志、それ以外のなにものでもありません。

 召命とは、誰彼の区別なく、すべての人にあてはまるまったく客観的なものではなく、そして明瞭さや客観性を欠いたまったく主観的なものでもありません。召命とは、その二つの対極の考えのちょうど真ん中、黄金の中庸です。

 客観的には、召命とは普遍的な論理的強制ではなく、イエズス・キリストによって、一切の区別なくすべての人に開かれた招きなのです。

 主観的には、召命とはある思想への情動的反応ではなく、完全な愛徳への静かな熱望です。


私には召命があるのだろうか?

 では、カトリックの若者が「召命」という言葉を聞いた時に、たびたび彼に向かって浴びせかけられる居心地の悪い質問へと戻ります。実際のところ、高価な指輪を所有するように、絶え間なくうるさくつきまとう内心の声を聞くかのように「召命がある」というような事実は存在しません。

 真剣に召命を考える人々はこの問いから離れるべきです。その代わりに次の質問を自分たちに問いかけてみて下さい。

1. 私は心の底から愛徳の完成を望んでいるか?

2. 私が修道生活を受け入れるにあたって障害となるかもしれない次のものから自由であるか?
 ・健康でないこと、あるいは精神面に問題があること。
 ・悪習から抜け出せずにいること。
 ・扶養家族がいる。すなわち夫、妻、子ども、高齢の両親。
 ・借金があること。

3. 修道生活を最後までやり遂げるため、私の霊魂は寛大さを持ち合わせているか?
 ・天主の愛による寛容
 ・徳への熱望
 ・他者への寛容
 ・率直であること
 ・気取りや嘘がないこと
 ・名誉欲への慎み
 ・天主の被造物へのバランスのとれた評価(秩序感覚)
 ・賢慮

 召命とは不本意なものでもなく、謎に満ちたものでもありません。熟慮の末に "あなた" が決めるものなのです。すなわち(a)召命が何を意味するのか、(b)その能力があるかどうか、そして(c)最後までやり遂げる寛大さを持ち合わせているかどうか、という熟慮の末にです。

 ですから、もしも皆さんのうちにどなたかが、これらの質問に対し「はい」と答えるならば、親愛なる兄弟の皆さん、皆さんはただ「さ、急いで修道院へ行け!」[訳注: ハムレットのセリフ〕と言いさえすればよいのです。

 もしためらっている方がいるなら、聖トマスのこの言葉を残していきましょう。

修道院に入って完徳を達成できるのかどうかとためらう人々の懸念は、多くの例が示すように不合理なものである……。この快い軛を自らに負わせる人々に対し、聖主は天的実りの爽快さと霊魂の安らぎを与えてくださる。これによりて、願わくはこの約束をなし給うたお方が、とこしえによろずのものを超えて祝され給うお方、我らの主イエズス・キリストを我らにもたらし給わんことを。アーメン。(聖トマスのContra Retrahentesの結びの言葉)

2015年7月5日 聖霊降臨後第6主日聖伝のミサ Traditional Latin Mass SSPX

2015年07月11日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 先日の主日に東京で捧げた聖伝のミサのお説教をご紹介します。


2015年7月5日 聖霊降臨後第6主日 
小野田神父説教


聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。今日は2015年7月5日、聖霊降臨後第6主日のミサを捧げています。今日は会場の都合で、午前中のミサができなくて不便な時間帯になった事をお詫び申し上げます。今日のこの御ミサの後には、残念ながら公教要理の時間をつくることができないのですが、しかし16時から、晩課を皆さんで捧げたいと思っています。明日は朝7時から、月曜日のミサがあります。8月は、8月3日午前10時30分から、4日には午前7時にいつものようにあります。・・・


“Circuibo et immolabo hostiam jubilationis”
「私は祭壇に廻って、喜びの生贄を屠ろう。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

今日、聖霊降臨後第6主日のミサでは、福音ではイエズス様が群衆をあわれんで、「彼らは私のあとを付いて、3日も砂漠にやって来て、私の話を聞きに来た。しかし、食べる物がなくて、こんなこのまま家に帰らせては、道で倒れてしまうだろう。何とか彼らを養う方法はないか。」と、弟子に聞きます。

弟子は、「あぁ、こんな砂漠でどこで物を買ったら良いでしょうか。」
セブンイレブンもないし、自動販売機も無いし。それで、「ここにあるのはパンが7つ、魚が数匹、一体こんなに4000名の大群衆をどうして養う事ができるだろう。」イエズス様は憐れみのあまりに、この手元にあったパンを増やして、皆に食べさせて、余りがありました。

これは歴史上本当にあった事ですけれども、イエズス様はこの事を以って、何か別の事を意味しようとしていました。イエズス様がこれを、この奇跡を行ったというのは、将来私たちに御聖体という奇跡を起こして、私たちを霊的に養おう、という奇跡の前兆でした。それと同時に、イエズス様はこの世では、イエズス様の御言葉によって、人々は満足するけれども、イエズス様が与えるパンでは、人々は満足する事ができるけれども、この世のいかなる食べ物も、この世のいかなる富も、人々を本当に満足させる事はできない。イエズス様だけが、真の天主だけが、天主の為に創られた霊魂を、本当に満足させる事ができる。

イエズス様は、「私の食べ物は、聖父の御旨を果たす事だ。」と、仰る時がありますが、「この世の名誉も快楽も、官能の喜びも肉の楽しみも、一切、本当の意味で人間を満足させる事はできない。天主様だけだ。」と、いう霊的な意味を教えてくれようとしました。これは、聖アルフォンソ・デ・レゴリオの説明です。

すると、今日この福音では、イエズス様が憐れみを元に、文字通りのパンの奇跡を、本当に物質的に起こして下さった、という事が分かります。実は、その深い意味があって、実は御聖体につながるものであって、御聖体の事を理解できなければ、パンの奇跡が一体なぜ起こったか、という事が分からない。イエズス様の厚い深い、意味の厚みをみなければ、イエズス様がここでなさった奇跡の本当の意味が分からない、という事を教えています。

ちょうど書簡書でも、聖パウロは同じ事を言おうとしています。洗礼式、洗礼について聖パウロは語ります、洗礼はもしかしたら、非常に薄っぺらい浅い理解をすれば、「あぁ、これはカトリック教会に入会する式だ、入会式だ。」と、思うかもしれません。或いはもう少し深くなると、「あぁ、洗礼というのは、私たちの罪を赦される、罪の赦しの為の秘跡だ。私たちは天主様から憐れみを受けて、罪が赦される事だ。私たちはものを貰うのだ。イエズス様が私たちに恵んで下さるのだ。ハッピー。」と、いう理解ができますが、聖パウロは、「いや、もっと深いものがある。」

「洗礼というのは特に、水の中に、深くどっぷりと浸かって洗礼を受けるのだから、これはちょうど、イエズス様と共に、墓に葬られた事である。洗礼というのは、イエズス・キリストと共に、『死』に与る事である。私たちは、この自分の罪と、肉の欲と、この世の欲において死んだものとなるのだ。全ての罪を、十字架に付けるのだ。古い人間を、十字架に付けて死なせるのだ。私たちは、主の『死』に与ることだ。主の身体の一部となる事だ。罪に死に、主に生きる事だ。」と、深い意味を教えています。

「つまり、洗礼というのは、『ただ赦されるだけ』というのではなくて、『私たちが積極的に、罪に死ななければならない。罪を放棄しなければならない。』という事を意味する。」と、言っています。

今日はこのミサをみると、「御聖体の深い意味がもっとある。」という事に気が付きます。「御聖体の深い意味がもっとある」という事が黙想できます。そこで、それを紹介するのを許して下さい。

御聖体というのは、私たちがイエズス様の御体を受ける事です。つまりこのパンの奇跡が本当に実現して、その深い意味が実現して、イエズス・キリストの真の体を霊魂に受ける事です。キリストの生命に与る事です。しかし、今日の御聖体拝領の聖体拝領誦をご覧下さい。ここにカトリック教会の深い、御聖体に対する理解が書かれています、「私は、喜びの生贄を屠ろう。“immolabo hostiam jubilationis.”」

聖パウロの教えによれば、「私たちは、キリストの生命に与るのみならず、私たちは御聖体を拝領する時に、キリストの『生贄』に、『死』に与る者である。」という事です。

私たちは、御聖体拝領する時に、私たち自身を生贄として、イエズス様と共に捧げられた生贄として捧げて、イエズス様と1つの生贄となる、という事です。

確かに新しいミサでは、御聖体変化の時に、その言葉を私たちに言わせて、私たちがあたかも、「イエズス様は御聖体には来られておられない。イエズスが来られるのは世の終わりであって、それまで私たちは別の事をしている。」という印象を受けさせるような言い方をするので、私たちには、何故そのように新しいミサでは、御聖体変化のその直後に、それを変な文脈で、変に誤解させるような使い方をするので、それを残念に思っています。

しかし、私たちが御聖体拝領する時には、私たちはイエズス様の「死」に与って、主がこの世に肉を以って見える形で裁く為に再臨されるまで、私たちは主の「死」に与って、主の「死」を告げ知らさなければなりません。

カトリックの典礼は、全てこの事を教えています。私たちがミサを捧げる時に、ただブドウ酒だけを捧げるのではないのです。水をどうしても1滴入れなければなりません。必ず水を1滴。

1滴入れると入れないとで何の違いがあるのか。どうせ水の1滴はブドウ酒に混じってしまって、ブドウ酒となるではないですか。たかが1滴入れたから、ブドウ酒のアルコールの濃度が低くなるでもなければ、高くなるでもないし、一体何の違いがあるのか。

物質的に於いては違いはないかもしれませんが、ほとんど。あっても0.000001%の違いかもしれませんが、霊的には深い意味があります。このカリスの中に落とされる1滴は、「私たちの生贄」を表しているからです。イエズス様の捧げた十字架の生贄だけでは、イエズス様は、「足りない。」と、思っているのです。どうしても、私たちの生贄が、そのイエズス様の生贄の中に入らなければなりません。

聖パウロは、「キリストの神秘体の苦しみの欠ける所を、私たちの苦しみで満たさなければならない。」と、言います。

イエズス様は、私たちがイエズス様の贖いの業に、苦しみを以って参与しなければならない、参与する事を求めています。ですから、司祭が生贄の捧げものを準備して、皆さんの方にグルリと廻って、「Orate, fratres」と、言います。このラテン語の意味は、「兄弟たちよ、祈れ、私とあなたたちの生贄が、主に嘉されるものとなりますように。」と。

どうしても、司祭と、皆さんの生贄が捧げられなければいけません。そうしなければ、イエズス様の為そうとした業が完成されないのです。イエズス様は、どうしても皆さんからの十字架を必要としています。

私たちが御聖体拝領をする時に、もしも私たちが、御聖体拝領でイエズス様から貰うだけ、という事を期待していただけでは、何も頂く事はできません。何故かというと、イエズス様に私たちが犠牲をお捧げして初めて、主と一致して初めて、私たちは主からそれを頂く事ができるからです。私たちはブドウ酒の中に入って初めて、ブドウ酒と同化する事ができるからです。

聖アウグスティヌスはこう言いました、「キリスト者の本当の生贄というのは、キリストと共に、私たちが1つの体を、生贄を形成する事である。」

ボスエというフランスの有名な人は作家は聖職者は司教様は、プロテスタントの人々の為に、カトリックの教えとは何か、という本を書いて、たくさん本を書いて、こう説明しました、「私たちは、イエズス・キリストと共に、私たちを生贄として、天主に捧げるのだ。これがミサの正しい与り方だ。」「もしも、私たちがこの生贄として、私たちを捧げる事をしないならば、それはミサに対する薄っぺらな理解でしかない。」と、いう事を教えています。

聖変化の後に、ミサの典文というミサのカノンが、終わりに、司祭は御聖体を取って、御血の上で、十字架の印をたくさん切ります。その時に司祭はこう言います、「Per ipsum, et cum ipso, et in ipso 《キリストを通して、キリストと共に、キリストに於いて》」これは、「私たちが全て、生贄であるキリストを通して、生贄であるキリストと共に、生贄であるキリストに於いて、私たちは全てをしなければならない。生贄であるキリストを、決して離れてはいけない。」と、いう事を教えています。

イエズス様は、今から350年前に、聖マルガリタ・マリア・アラコックに現れてこう言いました。今月7月は、イエズス様の聖血の月なので、この話をするのを許して下さい。イエズス様は、聖心をこう持って来て、そのタラタラ御血の滴り落ちる聖心を、マルガリタ・マリアに見せて、「見よ、人々をこれほどまでに愛して、愛の火に燃える私の聖心を見よ。私の心臓を見よ。しかし、人類はこの愛の御礼として、冷淡と、屈辱と、冒瀆でしか返事をしない。少なくとも、お前は私を慰めて欲しい。」



聖女マルガリタ・マリア・アラコックはそれを見て、いつもイエズス様を慰める為に、苦しみを選びました。もしも選ぶ事ができたならば、「イエズス様の為に苦しみたい。」と、思っていました。



聖フィリッポ・ネリという有名な聖人がいます。その聖人はある時病気になって、熱があって、先生がやって来て、修道士のブラザーたちがやって来て、お友達がやって来て、「あぁ、神父様。どうぞ熱がありますから、ゆっくり休んで下さい。その良い薬がありますから、これを飲んで下さい。美味しい食べ物で栄養をつけて下さい。ゆっくり休んで下さい。神父様は働き過ぎです。」と言われた時に、涙を流して、「あぁ、私たちの主イエズス・キリストは、死の熱に冒されている時に、十字架の木の寝台しかなかった。それなのに私はこんなにふかふかの、温かい、きれいなベッドで寝ている。イエズス様が、死の苦しみで喉が渇いた時に、私たちの主は、苦い物と酢しか、お酢しか飲まされなかった。しかし私は、こんなに美味しいものを食べさせてもらっている。イエズス様が亡くなろうとして苦しんでいる時には、敵が悪口を言ったり、嫌がらせを言ったり、罵っていたけれども、私には友達がこんなに慰めの言葉をかけてくれている。イエズス様は、私をこんなに愛して、こんなに苦しんでいるにもかかわらず、私はイエズス様に、何も苦しみを捧げる事ができない。」と、仰ったそうです。

聖人たちは、「イエズス様の為に苦しみを捧げ、生贄として自分自身を、自分を与えたい、イエズス様の為に何か苦しみたい。」と、いう事をいつも思っていました。

この「生贄となりたい」という願いこそが、まさにカトリックの聖伝の教えであり、カトリック文明を築いてきたのであり、キリスト教文明を豊かに発展させてきました。

「この私たちの通る道は1つしかない。」と、いいます。「それは十字架の道であって、王の通る道だ。」と。

では私たちは、この今日のパンの増加の奇跡を黙想した後に、どのような遷善の決心を立てたら良いでしょうか。

私は是非、マリア様の、ファチマのマリア様のお言葉を黙想する事を提案します。

マリア様は、イエズス様、完璧なイエズス様を知っていました。一部の人はもしかしたら、パンの増加をさせたイエズス様、或いは最後の晩餐のイエズス様だけには付いて行くけれども、十字架までは付いて行かないかもしれません。しかし、マリア様はそうではありませんでした。マリア様は十字架の下で佇み、真のイエズス様を愛するとは何か、という事を良く知っていました。

ファチマのマリア様は5月13日に、3人の子供たちにこう尋ねました、「天主が、あなたたちに送る事を選ぶ全ての苦しみを、天主様がそれによって侮辱される罪の償いとして、また罪人の回心の為の懇願として耐え忍ぶ為に、あなたたち自身を天主様にお捧げする事を望みますか?天主が、あなたたちに送る事を選ぶような全ての苦しみを、天主様がそれによって侮辱される罪の償いの為に、また罪人の回心の為の懇願として耐え忍ぶ為に、あなたたち自身を天主にお捧げする事を望みますか?」



ルチアは、子供たちを代表して、「はい、望みます。」と、答えました。

マリア様は天主の御母となって、これは、自分はたくさん苦しまなければならないけれども、苦しみの御母とならなければならないけれども、「人類の贖いの為に苦しむ事を望みますか?」と、大天使から聞かれた時に、「はい、主の婢女はここにおります。仰せの如く、我になれかし。」と、仰いました。

マリア様は、私たちが生贄として、私たちを捧げる事をお望みになっております。これこそが、まさに完璧なイエズス様の教えの真髄です。「もしも私の弟子となりたいのならば、十字架をとって我に従え。」

十字架のないキリスト教はありません。私たちが生贄とならない聖体拝領は有り得ません。ですから、マリア様の言葉を黙想しつつ、どうぞ今日は、ご自分を生贄としてお捧げ下さい。御聖体拝領を罪の償いとして、罪人たちの回心の為にお捧げ下さい。私たちがマリア様のように、この十字架と一致している事ができるように、マリア様に特にお祈り致しましょう。

“Circuibo et immolabo hostiam jubilationis”
「私は祭壇に廻って、喜びの生贄を屠ろう。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。



2015年7月4日初土曜日「聖母の汚れ無き御心の随意ミサ」 罪の償いへの招き SSPX Traditional Latin Mass

2015年07月10日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2015年7月4日初土曜日に大阪で捧げた「聖母の汚れ無き御心の随意ミサ」でのお説教をご紹介します。

 ここでは聖母マリアさまがイエズス・キリストの全てに付き従ったことを説明します。つまり、奇跡を起こすイエズス様だけではなく、十字架に苦しむイエズスを離れなかったことです。

 御浄めの時に言われた、預言者シメオンの預言が実現し、人類は二つに分けられていること。イエズスに一致するか、イエズスに反対するか、の二つに。
「人類を何とか、苦しみを通して救いたい」というイエズスに付く側と、ポンシオ・ピラトに代表されるように「かかわりたくない。手を洗って、苦しみたくない」というイエズスの十字架に反対する側。
私たちは、マリア様のように、十字架の足下まで、イエズス様のあとを付き従うべきであること。
マリア様は、どれほど苦しまれたことであろうか! 聖母は、つねに、主に「主のはしためはここにおります!Ecce ancilla Domini 」と答えていたこと。
イエズスは、聖母と共に、御自分の苦しみを捧げられたこと。イエズスは、私たちが主の苦しみと一致して苦しむことを喜ばれること。
聖母マリア様は、私たちにも「十字架の下に行こう」と、「一緒においで」と招いていること。ファチマの聖母マリアも子供たちに、苦しみを捧げることをお願いしたこと。
多くの聖人が、イエズス様の元に行く為に「苦しみたい」と、思っていたこと。

では、お読み下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2015年7月4日 初土曜日 聖母の汚れ無き御心の随意ミサ
小野田神父説教





聖母の汚れ無き御心巡回教会にようこそ。今日は2015年7月4日、7月の初土曜日のミサをしております。聖母の汚れ無き御心の随意ミサです。今日のこの御ミサの直後に、いつものように公教要理があります。この前の続きをいたしましょう。
明日ではなくその一週間後の7月12日の主日には、午後6時30分から、レネー神父様がミサを捧げて下さいます。8月の御ミサは、7月31日から8月1日です。そして8月は11日から黙想会があり、15日までです。そして16日には、ここで午前中にミサがあります。どうぞお間違えのないようになさって下さい。

“Stabant juxta crucem Jesu mater ejus.”
「イエズスの十字架の下に、その母が立ち留まっていた。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、イエズス様の聖心は私たちに、罪の償いをする事を求めています。そしてその事について、私たちは昨日黙想しました。ところで、イエズス様が私たちの為に、「苦しみを捧げたい。自分の全てを、全く惜しみなく、限りなく、残すところなく、全てを私たちに与えたい、与え尽くしたい、苦しみぬきたい。」と、思っているにもかかわらず、人類はむしろ、喜びや楽しみや快楽を追及しています。それだけを一生懸命求めています。そして非常にしばしば、それだけの事に熱中しています。そして出来る限り、苦しみや辛い事から避けよう、不愉快な事から逃れよう、天主様の掟から逃れよう、教会の掟から解放されよう、という事だけを求めています。

人類はあたかも2つの部分に分けられているかのようです。1つは、イエズス様に代表される、「人類を何とか、苦しみを通して救いたい。」という人々と、もう1つは、ポンシオ・ピラトに代表されるように、「あぁ、一体何があっても俺はかかわりない。手を洗って、全然もう苦しみたくない、俺はもう責任を逃れたい。」という2つです。

イエズス様は、十字架を通して、極みまで私たちを愛して下さいました。

イエズス様は、福者アンジェラ・デ・フォリーニョという修道女に、ある時こう仰ったそうです、「私のお前に対する愛は、決して劇ではなかった。決して冗談ではなかった。見せかけではなかった。」と。

イエズス様が、本当の真実の、実際に苦しんだ愛の証拠を、私たちの目の前に突き出しているにもかかわらず、人類は、このイエズス様の十字架を憎んでいます。何とかそれから逃れようとしています。イエズス様は十字架を担いながら、私たちの胸のドアをノックして、ノックノック「もしも私のあとに従うなら、十字架をとって私に従え。私のあとに付いて来なさい。」と、仰るのですが、この世はそのイエズス様の声に、耳を傾けようともせず、ドアを開けようともせず、冷淡と無関心で応えています。

でも、イエズス様を愛したい、イエズス様のこの十字架の本当の愛を、少しでも理解するお恵みを受けた私たちは、このままこの世と一緒に、イエズス様の声に、イエズス様からの招きに耳をふさいで、「知らない。」と、言う事ができるでしょうか。私たちは、イエズス様が行かれる所にはどこでも、付いて行くべきではないでしょうか。

イエズス様は、タボル山で御光栄を見せました。私たちは、タボル山に付いて行きます。イエズス様は、カナで奇跡を行いました。もちろん、カナに付いて行きます。イエズス様は、最後の晩餐で御聖体を制定して、私たちに御聖体を下さいます。奇跡も行います。私たちはイエズス様に付いて行きます。イエズス様は、病人を治し、死者をよみがえらせました。もちろん、私たちはそこに付いて行きます。しかし、そこで留まってはなりません。私たちはゲッセマニの園、私たちはピラトの官邸、それから鞭打ちの台、それから十字架の足下まで、イエズス様のあとを付き従うべきではないでしょうか。

イエズス様は、最も愛する者にそのお恵みを与えます。一番イエズス様が愛された方はどなたでしょうか。それはマリア様でした。イエズス様は、マリア様にそのお恵みを与えました。

イエズス様がお生まれになって40日の後に、マリア様は、イエズス様を神殿に捧げました。それはモーゼの法律に従っての事でした。マリア様がイエズス様を両の腕に、両手で抱いて、エルサレムの神殿に登って、御潔めの式にあずかって、そしてイエズス様を聖父に捧げようとする時に、その時に、聖霊の息吹によって、ある老人がそこで待っていました。その老人の名前は、シメオンといいます。シメオンという人は、非常に聖なる立派な義人で、「イエズス・キリスト、救い主が来るまで、お前は死なない。お前は、必ず救い主を見るだろう。」という予言を受けていました。そこで、いつも祈りをして、犠牲を捧げながら、救い主が来るのを待っていました。

そしてその日には、特別の照らしがあったので、エルサレムの神殿で救い主が来る、というのを待っていました。すると見て下さい、あそこに貧しい恰好をしたお母さんが、赤ちゃんを連れて来るではないですか。その隣にはお父さんがいます。そしてお父さんは、小さなハトを2羽持って、捧げる為にやって来ました。お金持ちは子羊を捧げますけれども、貧しい人はハトを1つがい捧げる習慣でした。そういう決まりがありました。様子を見るに貧しい人です。しかしシメオンは、その聖家族を見るとすぐに分かりました、「あぁ!この子こそ、私たちの為に生まれたメシアだ。救い主だ。キリストだ。」

そしてシメオンは、その群衆の中をかき分けて、そのマリア様の所に近付きます、「奥さん、どうぞこの子供を私に抱かせて下さい。この子は、私たちの救いの、天主からの救いです。」マリア様はびっくりして、「どうぞ。ご自由に、どうぞ。」

イエズス様はきっと、マリア様のやわらかい手から、おじいさんのゴツゴツした腕に抱かれて、ちょっと寂しい思いをしたかもしれません。しかし、シメオンは非常に喜んで、感謝して、もう涙に溢れて、「主よ、今こそ主のしもべを逝かせて下さい。天の国に行かせて下さい。何故かというと、御身の救いを私はこの目が見たからです。これこそが、エルサレムの栄光、異邦人を照らす光、人類が待ちに待っていた救い主です。」と、預言の詩を謳いました。そしてシメオンはその後に、マリア様にこう言うのです、「奥さん、この子供は、多くの人の滅びと栄えの、逆らいのしるしとなるでしょう。この子に賛成するかこの子に付くか、或いはこの子に反対するかによって、人類が2つに分かれるでしょう。この子に付く者は救われ、この子供に逆らう者は、永遠に滅びてしまうでしょう。」「そしてお母さん、あなたの胸は、あなたの霊魂は、悲しみの剣で刺し貫かれるでしょう。」と、預言しました。

考えてもみて下さい。若いお母さんであったマリア様は、小さな生まれたばかりの、40日になった小さな赤ちゃん、イエズス様を連れて、神殿に捧げて行くと、はっきり預言の言葉を聞くのです、「この子は、苦しむ。この子は、贖いの為に、とてつもない苦しみを受けなければならない。そしてお母さん、マリア様、あなたも苦しみの母となるのですよ。この子が苦しむのを見て、どれほど苦しむでしょうか。」

本当にその様になりました。イエズス様が生まれた時には、生ける、生まれたばかりの幼子イエズス様を抱いたマリア様は、33年後の後には、十字架に付けられて、そして命を失った救い主、イエズス様を、また抱くようになります。

イエズス様が十字架を担いつつある、イエズス様が今、大変な事になっている、という時に、マリア様はヨハネに言いました、「さあヨハネ、我が子よ、行きましょう。イエズスの元に行きましょう。」そしておそらく、ピラトが、「あぁ、俺は関係ないよ。」と、言ってこの群衆に、「この男を見ろ。」と、言った時に、「Ecce homo.」と、言った時に、マリア様はおそらく、「ここに、主の婢女がおります。もしも私の苦しみが必要ならば、私の苦しみも使って下さい。私を道具として使って下さい。私も一緒に苦しみます。」と、言ったに違いありません。

そしてマリア様は、イエズス様の十字架のあとを慕って、そのあとを付いて、忠実に歩いて行きました。

「エフェゾの公会議」というのが、431年にありました。その時に、有名な聖チリロという教父は、その公会議に時に、「マリア様が十字架の下にいなかったら、十字架は倒れてしまっただろう。」と。「マリア様がいたからこそ、十字架は立つ事ができた」と。

マリア様は、イエズス様を直接にお慰めする事ができませんでした。どれほどそうしたかったことでしょうか。ヘロデの手から、イエズス様の命が危ない、という時には、ヘロデから守りました、エジプトにまで行きました。しかし今回は、自分の力でどうしてもする事ができませんでした。何故かというと、「それは御父の御旨ではない。」と、知っていたからです。

しかし、イエズス様を慰めようとする人々を見て、マリア様はどれほど嬉しく思われたでしょうか。見て下さい、十字架の道を行くイエズス様の所に、ある勇気のある女の方が出てきました。ヴェロニカという女の方で、その方はタオルを持って来てハンカチを持って来て、イエズス様に差し出すのです。するとイエズス様は、汗と血と傷でいっぱいになった顔をそのタオルで拭いて、そしてそのタオルをヴェロニカに返します。

イエズス様はそのようなタオルを受けて、どれほど喜ばれた事でしょうか。マリア様はそれを後ろで見て、「あぁ、ヴェロニカや。あぁ、娘よ。ありがとう。この御子を慰めてくれてありがとう。私はそれをしたくてもできないけれども、あなたが私の代わりにしてくれた。」と、どれほど喜んだ事でしょうか。

イエズス様はそうやって、ご自分が人類の為にこれほど苦しんだのですから、私たちがその苦しみに心を砕く事を、喜んで下さいます。

ある時、聖フィリッポ・ネリという有名な聖人がいました。そのフィリッポ・ネリという方は病気で、お医者さんから、「あぁ、フィリッポ神父様、神父様はちょっと今お熱があるので、ベッドで休んで下さい。神父様は今病気なので、おいしいお薬を飲んで下さい。おいしいご飯を食べて下さい。」そして神父様の周りに、先生や看護婦の方や、修道士の方がいて、「あぁ神父様、大丈夫ですか?早く良くなって下さい。」と、お見舞いに行ったそうです。すると、聖フィリッポ・ネリは涙を流して、「あぁ、私はこんなにつまらない者だけれども、温かい、やわらかいベッドに寝ている。でも、イエズス様は罪がなかったにもかかわらず、木の十字架に釘付けにせられていた。私は、『病気だ』といって、おいしいものを食べる事ができるけれども、イエズス様は、『もう苦しい、喉が渇いた』という時に、酢と苦いものを与えられた。私は、『ちょっと頭が痛い』というだけで、お医者さんや看護の方やブラザーやお友達が見舞いに来てくれて、優しい言葉をかけてくれるけれども、イエズス様は、もう『死に至る』という時に、悪口を言われたり、敵に囲まれていて、辛い思いをしていた。あぁ、イエズス様がかわいそうだ!」と、仰ったそうです。

イエズス様は、御母をいつも御自分の十字架の下に寄せて、そして共に、お母さんと共に、マリア様と共に、御自分の苦しみを捧げられました。

マリア様は、カナの奇跡の時にはおられました。しかし、その他の奇跡の時にはいらっしゃいませんでした。タボル山で栄光の姿を見せた時にも、マリア様はいらっしゃいませんでした。しかし、十字架の下の時には、「絶対に私が行く。」きっと、ヨハネは、「お母さん、行ってはいけません。きっと、どれほど辛い事でしょうか。きっと悲しみます。」「いや、ヨハネや、私は行かなければなりません。私は行って、イエズスを御父に捧げるのです。」と、仰ったに違いありません。

マリア様は、私たちにおそらく、「一緒においで。」と、言うに違いありません。多くの聖人たちが、そのきっとマリア様からの招きに応えて、聖ヨハネのように、「十字架の下に行こう。」と、招いたに違いありません。

色んな聖人の話があります。色んな聖人の話をしようと思ったのですけれども、でも話が長くなるので、2人の方だけにします。

1人は、聖マルガリタ・マリア・アラコックという方で、イエズス様がマルガリタ・マリア・アラコックという方に現れて、自分の、ご自分の御姿を見せたそうです。十字架に付けられた苦しんだイエズス様と、栄光のイエズス様、「どっちの方がいいですか?」と聞くと、聖マルガリタ・マリア・アラコックは、「十字架に付けられたイエズス様のその御影を下さい。」と、言ったそうです。

聖リドヴィナという方がいます。この方は幼い時から病気で非常に苦しんでいました。そしてこの聖人はいつもこう言っていたそうです、「私は、苦しいけれどもとても幸せです。何故かというと、イエズス様といつも一致している事ができるから。それで、もしも、一回『アヴェ・マリア』と、言うだけで病気が治るとしたとしても、私はその治る為のお祈りをしません。」と。「私はこの苦しみを、イエズス様と共に捧げたい。」と、言っていたそうです。

多くの聖人が、イエズス様の元に行く為に、「苦しみたい。」と、思っていました。

ファチマのマリア様も、最初に現れた時に、子供たちにこう言いました。ルチアは、「あなた様は、どちらからいらっしゃったのですか?」と、聞くと、「私は、天国からの者です。」マリア様は、「私は天国から来ました。」とは言わなかったのです。「私は天国の者です、天国からの者です。」と、言いました。子供たちがルチアがこう言うのです、「マリア様、私は天国に行けますか?」「はい、あなたは行くでしょう。」「では、ジャシンタは行きますか?」「はい、ジャシンタも行きます。」「では、フランシスコは天国に行きますか?」「はい、でもフランシスコはたくさんロザリオのお祈りをしなければなりません。」「では、私たちのつい最近亡くなったお友達の、マリア・ダス・ネヴェスさんは今どうなっていますか?」「ああ、あの子は今天国にいますよ。」「じゃあ、やっぱり亡くなったアメリアさんはどうですか?」「あぁ、あの子は世の終わりまで煉獄にいます。」

それでマリア様は、罪人の回心の為に、子供たちにこうやってお願いをしました、「あなたは、天主様があなたに送る事を選んだ全ての苦しみを耐え忍ぶ為に、天主様に自分を捧げる事を望みますか?そしてこの苦しみを捧げるのは罪の償いの為、そして罪人の回心の為です。望みますか?」と、聞くと、ルチアは子供たちを代表して、「はい、私たちはそうします。」と、答えました。するとマリア様は、「では、あなたたちはたくさん苦しまなければなりませんよ。でも、天主様の聖寵があなたたちの慰めとなるでしょう。」と、仰って、子供たちが天主様の光の中にいる、という事を見せてくれました。

マリア様は、今日ミサに与っている私たちに、きっと同じ事を言うに違いありません、「さあ、イエズス様の十字架の下に行きましょう。罪の償いをお捧げ致しましょう。この世は、ますますイエズス様の十字架を侮辱して、冷淡に、そして無関心で、愛に対して悪をもって返しています。だから償いをする霊魂が必要です。償いの為に、苦しみを捧げてくださる事ができますか?イエズス様の送る十字架を担ってくださいますか?一緒に私と共に、十字架の下に立つ事ができますか?」

私たちはマリア様と共に、「はい、主の婢女はここにおります。仰せの如く我になれかし。」と、答える事に致しましょう。

“Stabant juxta crucem Jesu mater ejus.”
「イエズスの十字架の下に、その母は立ち留まっていた。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


聖ピオ十世会 聖伝のミサによるイエズスの至聖なる聖心の随意ミサ SSPX Traditional Latin Mass

2015年07月09日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2015年7月3日の初金曜日に大阪でイエズスの至聖なる聖心の随意ミサをいたしました。その時の説教をご紹介します。

 要旨は、人類はますますイエズス・キリストを無視して生活していることを目の当たりにしていること。イエズス・キリストは罪を償うために、苦しむために人間となられたにもかかわらず、人類は罪を犯し続けていること。
 罪は、無限に聖なる天主に対して犯されるものなので、それ自体では、無限の償いを要求すること。
 新約の時代では、私たちはイエズス・キリストと一致して償いを捧げることが出来ること。天主の本当のあわれみは、私たちに償いを要求すること。マリア様がその模範だったこと。イエズス・キリストの聖心は、私たちが聖心と一致して、聖母マリアのように償いをすることを求めていること。
 キリスト者の本当の生活とは十字架の生活、償いの生活であること。
 御聖体拝領の本当の意味は、天主の子羊と一致して、自分をいけにえとして捧げること、です。

 どうぞお読み下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)





聖母の汚れ無き聖心巡回教会にようこそ。今日は2015年7月3日、7月の初金曜日のミサをしております。

“Improperium expectavit cor meum et miseriam, et sustinui qui simul mecum contristaretur, et non fuit : consolantem me quaesivi, et non inveni.”
「私の聖心は、咎めと憐れみを待ち受けていた。私と共に悲しむ者を待っていたが、それはいなかった。私を慰める者を探したけれども、私は彼を見つけなかった。」

聖父と聖子と聖霊との聖名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、初金の信心の中に深く入る事に致しましょう。先月は、アイルランドで国民投票で、イエズス様の自然法に全く反対する、「同性愛の結合が、法律によって認可するように」という大多数の投票がありました。数日前は、アメリカの最高裁で、「同性の人達が、同性愛で、結婚と同じ権利を認めるべきだ。」という判決が下されました。天主様の自然法に反するものがたくさん、法律として定められています。天主の法に逆らう、自然に逆らうものが、あたかも正しい事である権利であるかのように、認めなければならない、という法律が定められています。

この世の中は、罪を正しいものとしよう、とする動きが、たくさん今起こっています。

天主イエズス・キリストは、私たちの罪を償う為に、罪に赦しの為に敢えて人となられました。33年間、償いと苦しみの人生を送られました。

トマス・アケンピスによれば、「イエズス様の御生涯は全て、十字架と殉教であった。」と、言います。“Tota vita Christi crux fuit et martyrium.”

ところで、イエズス様がそうやって十字架を以って苦しみを以って、罪を償おうとされているにもかかわらず、人類はますます、それにもかかわらず、平気で罪を犯して天主に逆らおう、と、公然と立ち向かって逆らっています。

旧約時代の話の史実をみると、罪によって滅ぼされた街があります。例えばソドマとゴモラがそうです。或いは、ヨズエの書によれば、主の命令に逆らって罪を犯した兵士の為に、アカンの為に、そのイスラエル軍は、敵に勝つ事ができなかった、その罪を告白して、それの償いをするまで、勝つ事ができない、という史実がありました。

大罪がたった1つでもあれば、天主様の無限の御稜威に、聖性に、それに重大な罪と知りながら、敢えてそれを犯すのであれば、その罪を償う為に、私たち被造物は、全てを尽くしても、例えこの全ての被造物が無と帰したとしても、天主の御稜威に対して犯した罪を償う事はできません。

例え、私たちがその罪たった1つ、大罪1つさえを犯したとしても、この全被造物は、制限のある被造物は、それを償い尽す事ができないので、私たちはまさに滅ぼされてしまっても、仕方がない立場にあります。

旧約時代には、アブラハムという聖なる方が、取り次ぎに出ました、「もしも50人いれば、40人聖なる人がいれば、30人少なくとも、20人、或いは10人、ソドマとゴモラに義人がいれば、どうぞ勘弁してやって下さい。」しかし、ソドマとゴモラにはその数が足りませんでした。もしもその罪を償うような聖人がいれば、天主は今でも、その都市をこの地上に残しておかれた事でしょう。

もしも旧約時代では、その罪の為に、直接天主は目に見える罰を下して、この地上から、それらの罪の都市や国々を滅ぼし尽くしてしまったとしても、新約時代には、天主の御憐れみによって、イエズス・キリストが、天主の御言葉がイエズス・キリストになって、イエズス・キリストが私たちの罪の償いの為に、御血潮を全て流して、天主の血を流して、天主の聖心を開いて、私たちがその中に避難する事ができるように、私たちがその血潮から赦しを受ける事ができるように、と全ての苦しみと屈辱とを捧げて下さいました。十字架に於ける受難を捧げて下さいました。

新約時代においては、聖マルガリタ・マリア・アラコックに仰ったイエズス様の聖心の言葉によれば、「新約時代においては、たった一人の霊魂でさえも、一人のキリスト者が、カトリックが、数千名の罪人の回心を勝ち取る事ができる。何故かというと、彼は私の聖心と一致して償いを捧げる事ができるからだ。」と、仰っています。

ここに、イエズス・キリストの聖心の本当の憐れみの価値があります。

フェレー司教様がつい最近、恩人と友人の皆さんに対する手紙を書かれて、本当の憐れみと、偽物の憐れみについて、お話をして下さいました。偽物の憐れみは、「天主様は私達を、『罪を犯してもいいよ、いいよ。罪をさあ、さあ犯して。それでも赦してあげるから、さあ、犯し続けなさい。それで良いんだ。』」という、それが偽物です。

本当の憐れみというのは、「罪はダメだ。罪は天主はどうしても受け容れる事ができない。天主はその罪によって、無限の屈辱を受ける、無限の償いを要求する。天主の正義は、その罪の償いの為に、全被造物が滅んでも足りないほどの正義を要求する。しかし、それよりも更に無限の聖性の御子が、私たちの代わりに罪の償いをして下さった。だから、私たちは罪を捨てて、天主に立ち戻り、天主の聖心に合わせて、償いの業を果たさなければならない。悔悛せよ。さもなければ、あなたたちは全て滅びてしまうだろう。天の国は近付いた、回心せよ。」

これが、洗者聖ヨハネと、イエズス様の宣教のメッセージでした。

イエズスの聖心は、私たちから共に償いを果たしてくれる霊魂を求めています。

イエズス様はまず、マリア様にそれを求めました。イエズス様はこの地上に来られる時に、「父よ、ご覧下さい。私は御身の御旨を果たす為に、この世に来ました。私を使って下さい。」マリア様も同じように答えました。「どうぞ、主の婢女はここにおります。」「仰せの如く、我になれかし。」「私を道具として使って下さい。私を罪の償いの為に使って下さい。」

イエズス様は知っていました。罪の、人類の罪の償いを果たす為に、十字架が待っている事を、生贄とならなければならない事を、苦しまなければならない事を。マリア様も知っていました。裏切りを受け、否まれ、侮辱されて、足蹴にされ、冒涜され、十字架に付けられる子の、子供の母親とならなければならない事を、知っていらっしゃいました。

それにもかかわらず、イエズス様とマリア様は、「はい、ここにおります。どうぞ私を道具として使って下さい。主の御旨を、どうぞ私に成し遂げて下さい。」とやって、同意されました。

同じく、イエズス様は私たちに、この罪を償う霊魂を求めておられます。

イエズス様は苦しむ為にこの世に来られました。この世を赦す為に来られました。しかし、この世は罪を犯し続けています。公然と天主に逆らっています。それを償う霊魂が今必要です。

今から350年前に、イエズス様の聖心は、聖マルガリタ・マリア・アラコックに現れてこう仰いました、聖心を手にして、「見よ、人類をこんなにも愛している私の聖心を。見よ。その人類を愛したその御礼に、冒瀆と、屈辱と、無関心しか受け取らないこの聖心をご覧。だから、私はお前に、その償いをする事を望んでいる。」

ある時、同じイエズス様の聖心は、聖女マルガリタ・マリア・アラコックにこう言いました、「我が娘よ、『人々の為に、私の聖心は全てを犠牲にした。』というのは本当だ。しかし、この私の聖心は、その御礼にお返しに、何も受けなかった。この何も受けなかった、という事が、何も受けていない、という事が、私の受難の惨い拷問よりも、もっと私の聖心を傷付ける。私が、『善を施したい』という、『彼らに、人類に善を施したい』というその大きな望みにもかかわらず、彼らは私に、冷淡と、軽蔑とで応えている。娘よ、彼らの冒涜を償ってほしい。」

イエズス様は、聖女マルガリタ・マリア・アラコックを通して、私たちにも同じ償いを求めています。私たちはミサの始めに、いつもこう司祭がこう言うのを聞きます、「Introibo ad altare Dei.《主の祭壇に登ろう。》」と。

主の祭壇というのは、イエズス様の聖心でなくして一体何でしょうか。イエズス様は、私たちがその中に入る事ができるように、大きく開いて下さった聖心でなくて何でしょうか。御血潮の満ちている、憐れみに満ちている聖心でなくて何でしょうか。

しかし、多くの人はこのイエズス様の聖心に入ろうとしません。そうでなく、却って罪を犯し、罪に凝り固まっていようとしています。憐れみと、罪の赦しを受ける代わりに、却って冷淡と、イエズス様の苦しみを無とする事に耽っております。

ですからイエズス様は、ますますそのような屈辱に対する償いをする霊魂を、生贄の霊魂を求めています。

アルスの聖司祭はこう言っていました、「この世の人たちは、十字架がある事に不平不満を言う。しかし、善きカトリック信者は、十字架がないと、その事を悩む」と。或いは別の時に、同じ聖ジャン・マリ・ヴィアンネー神父様は、「キリスト信者というのは、ちょうど十字架の中で、お魚が水の中を泳ぐように、十字架の中で生きている、生活するものだ。お魚が水がなければ生きていけないように、善きカトリック信者は、十字架がなければ生きていけない。」

ある時、アッシジの聖フランシスコは、イエズス様が十字架に付けられているのを見て、「あぁ、イエズス様は十字架に付けられているのだけれども、私は十字架に付けられていない。」と、嘆いたそうです。

多くの聖人たちは、マリア様を含めて、多くの聖人たちはイエズス様からの十字架の招きに、「はい。ここにおります。十字架を送って下さい。」と、応えました。

ですから、今日7月の初金、聖血の聖なる月の初金に、イエズス様からの愛の招きに、どうぞ愛を以って応えて下さい。イエズス様は、御自分を慰めてくれる霊魂たちを探しておられます、「誰か、誰か私の元に来るのを望みますか?誰が私を慰めてくれますか?誰かそのような希望者はいらっしゃいますか?」と、イエズス様は私たちの胸をノックして、恵んで欲しい、私を、イエズス様を慰めて欲しい、というのを、その霊魂を探しておられます。私たちは一体、何と応えるべきでしょうか?

マリア様と一緒に、「主よ、主の婢女はここにおります。仰せの如く我になれかし。」と、言うべきではないでしょうか?

御聖体拝領をどうぞなさって下さい。イエズス様の御体は「ホスチア」と呼ばれています。つまり「生贄」という意味です。ミサというのは、単なる食事、会食会ではありません。ミサというのは、『イエズス様の十字架の生贄の再現』です。御聖体というのは、単なるパンではありません。イエズス様、『生贄となったイエズス様の真の御体』です。御聖体を拝領する、という事は、『イエズス様の生贄に、私たちも生贄として捧げる、一致する』という事です。イエズス様に、私たちも犠牲として捧げる、という事です。「主よ、ご覧ください。主のしもべがここにおります。」と、申し上げる事です。

ですからこそ、初金の時にイエズス様は、9回、罪の償いの為に御聖体拝領する事をお望みになりました。どうぞ、償いの初金の御聖体拝領を捧げて下さい。生贄として私たち自身を捧げる事に致しましょう。

マリア様にお祈りして、是非私たちが全て、イエズス様の愛の生贄として捧げる事ができるように、良き道具となる事ができるように、助けを求めましょう。

“Improperium expectavit cor meum et miseriam, et sustinui qui simul mecum contristaretur, et non fuit : consolantem me quaesivi, et non inveni.”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。



レネー神父様のお説教 2015年3月28日大阪、2015年3月29日枝の主日東京

2015年07月08日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2015年3月28日、大阪でなさったレネー神父様のお説教をご紹介いたします。
これは、2015年3月29日枝の主日に東京でなさった説教でもあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)





親愛なる兄弟のみなさん、

私たちの主イエズス・キリストのイエルザレムへの勝利の入城は、王たるキリストのお祝いです。天使がマリアに「かれは、主なる神によって父ダヴィドの王座を与えられ、永遠にヤコブの家をおさめ、その国は終わることはありません」(ルカ1章32-33節)と告げた通り、ユダヤ人の群衆はイエズスを「ダヴィドの子」、つまりダヴィドの王座を継ぐ者と認めました。ユダヤ人たちはイエズスの王権を認めることはしましたが、多くはイエズスの神性を認めることはしませんでした。しかし、天使はマリアにまたこのように告げていたのです:「それは偉大な方で、いと高きものの子といわれます。…生まれるみ子は聖なるお方で、神の子といわれます」(ルカ1章32-35節)。

キリストの王国が天の王国、「天主の王国」、天主であるキリストの王国であることを認めることは、真の信仰の基礎です。「私の国は、この世のものではない。もし私の国がこの世のものなら、私の兵士たちは、ユダヤ人に私をわたすまいとして戦っただろう。だが、私の国は、この世からのものではない」(ヨハネ18章36節)。今日の福音の箇所で、この言葉を聞いたピラトは私たちの主イエズス・キリストの威厳に感銘を受けたに違いありません。そこでピラトはこう聞いたのです。「『するとあなたは王か?』」「イエズスは、『あなたのいうとおり、私は王である。私は真理を証明するために生まれ、そのためにこの世に来た。真理につく者は私の声を聞く』とお答えになった」(ヨハネ18章37節)。

私たちの主イエズス・キリストは世界を治めておられますが、それはこの世から、この世の仕方で治めておられるのではありません。私たちの主の王国は人間の王国や帝国を破壊するものではなく、むしろそれらの国々の上にあって統治するもので、主の王国は全ての国々によって認められねばなりません。主の王国はあらゆる人間の権威の上に立つ天主の権威による統治です:「神から出ない権威はな」(ローマ人13章1節)く、特に王や皇帝のように人間の内での最高権威者にこれが当てはまります。法律や義務は人から生まれるのではありません。人には、自分の個人的意思を他の人たちに強制する権利や権力はありません。全ての人は、人として同じ本性を持っているので、本質的に平等だからです。一人の人が他の人たちに対して持つ権威というものは、その人が自分の治める人々の共通の善を実現するという役割を果たすよう天主の摂理によって定められたという事実から来るのです。教会の教えによれば、たとえ指導者が人々によって選ばれたとしても、人の持つ権威は人々から来るのではなく、天から来るのです。天主こそが至高の権威を持っておられ、その権限を人に与えられるのであって、権威を持つ全ての人は自分に与えられた権威をどのように使ったかについて、のちに天主に報告しなければならないのです!

あらゆる法律には制定者が必要です。他の人々に対して法律を強制するためには、法律の制定者は他の人々より上にいる者でなければなりません。人間の本性によって、他の人より上にいる人はいません。従って、上から、つまりあらゆるものの上にありあらゆるものに対する権威を持っておられる天主から権威を受けたのでなければ、誰も他の人々に対する権威を持つことはできません。もしもこの真理、つまり天主があらゆる権利の源であるという真理を認めなければ、物理的な力しか残りません。一人の人が自分の意思を他の人々に強制するのは、自分が物理的により強いからということになってしまいます。これは弱肉強食、暴君の法のたぐいであって、本来の、正しい法律ではありません!天主を拒絶した現代世界では、金という無名の権力による暴政が日に日に増して行なわれており、それが道徳を破壊し、世界中に堕胎、同性愛者の権利等あらゆる種類の非道徳的な行為を強制しています。人の作ったこのような法律は真の法律ではなく、秩序の濫用、法律の濫用です。

暴政から身を守る最善の方法は、王たるキリストを認めること、つまり、天主、天主であるイエズス・キリストこそが権威の源であり、それゆえまた天主が権威の模範であることを認めることにあります。この地上で人を治める者たちが私たちの主イエズス・キリストを王であると認めるとき、彼らはもう暴君ではなくなり、自分が治める人々の真の善のため、真の共通善のために自分の権威を用いることを学びます。人々の真の共通善とは、永遠の救いに繋がるような徳に満ちた生活を促す社会秩序です。このような社会秩序は、天主の法、天主の十戒、キリストの法、愛徳の法に基づくものです。

罪は愛徳の反対です。愛徳はあらゆるものを越えて天主を愛することですが、罪は天主よりも被造物を愛することです。ですから罪は最初の悪であって、他の全ての悪、全ての苦しみの原因です。罪によって社会秩序が破壊され、治められる人々が正しい命令にそむいたり、治める人々が自分の権威を悪用し、共通善ではなく自分自身の益のために行動したりしてしまいます。ですから、罪に打ち勝ち、罪を償い、人の霊魂と社会を癒す救い主が必要です。私たちの主イエズス・キリストこそがこの救い主であって、ご自分の十字架によって私たちをお救いくださったのです。 主が十字架上でご自身をいけにえとして奉献されたのは、罪に対する愛徳の真の勝利であり、あらゆるものを越えた天主への真の愛であり、天主の命への完全な従順、すなわち、私たちの罪、罪の悪を償うための十字架上の死に至るまでの御父の命への完全な従順だったのです。「そこで神はかれを称揚し、すべての名にまさる名をお与えになった。それは、イエズスのみ名のまえに、天にあるものも、地にあるものも、地の下にあるものもみな膝をかがめ、すべての舌が、父なる神の光栄をあがめ、『イエズス・キリストは主である』といいあらわすためである」(フィッリピ人2章9-11節)。

ですから私たちの主イエズス・キリストは今ご自分の十字架によって治めておられます。主は私たちを罪から救うことによって私たちを勝ち取られ、私たちを勝ち取られた権利によって治めておられるのです。私たちへのあらゆる恩寵、あらゆる超自然的な恩恵は主イエズス・キリストから頂いており、私たちは主を通じて御父のところに戻ることができるのです:「私は、道であり、真理であり、命である。私によらずには、だれ一人父のみもとにはいけない。」(ヨハネ14章6節)。

この聖週間の間、私たちの主イエズス・キリストの御受難を黙想し、主を王として、十字架上の御死去によって私たちを勝ち取り、私たちの心を勝ち取り、私たちを罪から救ってくださり、そして死者のうちからの御復活によって永遠の命の種である聖寵を私たちにくださる王として見るようにいたしましょう。私たちはもう私たち自身のものではありません。私たちは主のものです。「はたして、キリストが死んでよみがえったのは、死んだ人々と生きている人々とを支配するためである」(ローマ人14章9節)。「すべての人のためにキリストが死なれたのは、生きる人々が、もう自分のためではなく、自分のために死んでよみがえったお方のために生きるためである」(コリント人後5章15節)。洗礼の水に洗われ、告解の秘蹟によって子羊の血に洗われた私たちは、主を悲しめることなく、あらゆることにおいて、真実と徳の統治、愛と命の統治、正義と平和の統治である王たる主の統治に従順であるよう努力するようにいたしましょう。

贖いの業のすべてにおいて、新しいアダムである私たちの主イエズス・キリストには、「彼に似合った助け手」(創世2章18節)、新しいエバ、また「[王]の右に…[いる]王妃」(詩篇44篇10節)である童貞聖マリアがおられます。このように聖母を新しいエバとする教えは大変古くから教会にありました。使徒たちの死から百年も経たない時、最初期の教父たちがそれを明確に、明快に説いていました。聖ユスチヌスは最初のエバと第二のエバである聖マリアの対比をしています。最初のエバは悪い天使の言うことを聞き、不従順と死を招きました。第二のエバは善い天主の言うことを聞き、従順を通して私たちに命をもたらしました。それは命であるイエズスです。私たちが永遠の命を見いだせるのはイエズスにおいてのみ、イエズスを通してのみです。「[エバは]不従順になったため、自分自身と人類全体の死の原因となった。マリアもまた、男と婚姻をしながら童貞であることにより、従順を捧げたため、自分自身と人類全体の救いの原因となった」(聖イレネウス「異端駁論」III,22)。

この後、聖イレネウスは新しいエバとしてのマリアについて力強い言葉を記しています。「エバの不従順による結び目は、マリアの従順によって解かれた。童貞エバが不信仰によって固く結んだ結び目を、童貞マリアが信仰によって解き放った」(聖イレネウス「異端駁論」III,22)。このように、聖マリアは私たちを罪から解き放ってくださるのです!別の箇所では更に強く述べられています。「前者が天使の言葉によって迷わされ、天主の言葉に背いて天主から逃げたように、後者は天主の言葉に従順であったため、天使の告げによって天主を身籠るという幸いな知らせを受けた。前者は天主に背いたが、後者は天主に従順であるよう説得され、童貞マリアは童貞エバの代願者となられた。こうして、人類は童貞によって死の足かせに繋がれたように、童貞によって救われた。すなわち童貞の不従順の針が、童貞の従順によって逆に振れた」(聖イレネウス「異端駁論」V,19)。最初期の教会から明らかに伝えられていることは、「人類は童貞マリアによって救われた」ということです。しかし一人ではなく、キリストの助け手として、新しいアダムの側に立つ新しいエバとしてです。

ですから、私たちの主イエズス・キリストの御苦難を黙想するとき、主のお側におられる聖母の御苦難をも忘れないようにいたしましょう。お二人の御苦難は私たちのため、私たちの罪のため、私たちに赦しと癒しとをくださるため、そして御父の栄光のためにキリストが私たちの心を治められるためなのですから。

イエズスの十字架を通した贖いの神秘はすべて、毎日捧げられるミサ聖祭の犠牲によって現実化しています。罪は赦され、お恵みは豊かに与えられ、キリストの統治が広がります。天主は十字架を通して統治されたのです!逆に、悪魔がミサ聖祭の犠牲を何よりも恐れ、典礼を変更し、特に典礼の犠牲の面を隠すことによってミサ聖祭を破壊しようとしたことを、私たちは理解することができます。ですから、キリストの王国を広め、霊魂を救うため、すべてのミサ聖祭が永遠のミサ、聖伝のミサに戻る必要があるのです。共贖者である童貞マリアが私たちのためにこれらすべてのお恵みを取り成してくださいますように。

アーメン

聖ピオ十世会 2015年7月 聖伝のミサ(トリエント・ミサ)の報告 SSPX Traditional Latin Mass

2015年07月08日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様

 7月の聖伝のミサも、天主の御助けによって、多くの恵みにあふれたものとなりました。

 大阪では21名の方々が、東京では主日に35名の方々が聖伝のミサに与ることが出来ました。大阪では特に初金・初土の信心を深めようと意識しています。また、大阪では一人の病者の訪問が出来ました。

 東京では、ミサの時間帯がいつもと変わって、ミサに来れなくなってしまった方々がいたのですが、それでもミサ聖祭が無事に出来て何よりでした。東京での月曜日の朝ミサは10名の方々が与りました。東京では月曜日に、もう一人の方の病者の訪問が出来ました。

 天主様に感謝します!


天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】【大阪】

アヴェ・マリア・インマクラータ!

大阪でのミッションありがとうございました。
御ミサの報告をお送りいたします。

7月3日(初金) 至聖なる イエズスの 聖心の随意ミサ(歌ミサ) には、16人が、
7月4日(初土) 聖母の汚れなき御心の随意ミサ(歌ミサ)    には、21人の方々が御ミサに与る御恵みを頂きました。デオ・グラチアス!!

初金曜日のお説教で、イエズス様が、人間を愛するために、どれほど苦しまれたか、しかし人類はその愛に忘恩と冷淡と無視と冒涜を返している。イエズス様はそんな霊魂の為にもその聖心と一致して一緒に苦しむ霊魂をどれほど望んでいらっしゃるかを強く感じ、自分もなんとかマリア様の御助けによってイエズス様をお慰めする霊魂になりたいと思いました。祭壇の上の新しい大きな美しい十字架を見て、イエズス様のご受難をいつもよりはっきりと黙想することが出来ました。初金曜日に御聖体を拝受し、イエズス様の聖心と一致する御恵みを頂いたこと、世の罪の償いのため、また多くの霊魂の救いの為に御ミサを捧げることが出来たことを深く感謝いたします。

初土曜日のお説教中に、マリア様がどれほど十字架上のイエズス様をお慰めしたかったか、しかし天主のみ旨ではなかったので聖母はそれをなさらなかったという事を聞いて、胸が張り裂けるでした。マリア様や多くの聖人方が十字架を深く愛されたように、自分の小さな十字架をもっと愛する御恵みを御ミサでお願いいたしました。

公教要理では、「天使」について勉強いたしました。

天主様が私達に多くの御恵みをお与えくださる事にマリア様の特別のお取り計らいを感じます。
この度は大きな美しい十字架像を私達のような小さな群れにお与えくださった事に深く感謝し、日々もっともっと十字架を御愛しするよう努めたいと思います。

大きな犠牲を払って日本にミッションに来て下さる小野田神父様のお働きに天主様が大きく報いて下さいますように。マリア様が特別の御助けを神父様にお与えくださいますように祈りつつ、次回のミッションを楽しみにお待ちしております!

【報告】【東京】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 15人(内、子供1人)
女: 20人(内、子供0人)
計: 35人(内、子供1人)


7月5日の東京でのミサ聖祭は、午後1時半です

2015年07月04日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

明日、7月5日の東京でのミサ聖祭の開始は、午後(!!)1時30分です。
よろしくお願いいたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!!
トマス小野田圭志神父

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】