Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

私は御身を信じ、礼拝し、希望し、御身を愛します!御身を信じぬ人々、希望せず愛さぬ人々のために、赦しを求めます(天使の祈)

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
2019年 8月の聖伝のミサの予定
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】


8月 聖母の被昇天を祝いましょう。
意向:聖母の汚れなき御心の凱旋のため
実践すべき徳:心の柔和と謙遜
守護の聖人:聖母の汚れ無き御心

愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)にご招待します

◎2019年 8月の予定
【大阪】聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂(アクセスEG新御堂4階 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 
〒532-0002 (JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分)

  8月2日(初金)教会博士証聖者司教聖アルフォンソ・デ・リグオリ(3級祝日)白
          午後5時半 ロザリオ及び告解
          午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

  8月3日(初土) 聖母の土曜日(4級)白
          午前10時 ロザリオ及び告解
          午前10時半 ミサ聖祭(歌ミサ)

  8月11日(主)聖霊降臨後第9主日(2級)緑
          午後5時半 ロザリオ及び告解
          午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

  8月12日(月) 童貞聖クララ(3級祝日)白
          午前10時 ロザリオ及び告解
          午前10時半 ミサ聖祭(歌ミサ)

  8月18日(主)聖霊降臨後第10主日(2級)緑
          午後5時半 ロザリオ及び告解
          午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

  8月19日(月) 証聖者聖ヨハネ・ユード(3級祝日)白
          午前6時半 ミサ聖祭(歌ミサ)

【東京】東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図)「聖なる日本の殉教者巡回聖堂」

  8月4日(主)聖霊降臨後第8主日(2級)緑
          午前10時  ロザリオ及び告解
          午前10時半  ミサ聖祭(歌ミサ)

  8月5日(月)  雪の聖母の大聖堂の奉献(3級祝日)白
          午前7時 ミサ聖祭

  8月18日(主)  聖霊降臨後第10主日(2級)緑
          午前10時  ロザリオ及び告解
          午前10時半  ミサ聖祭(歌ミサ)

愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております。

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3/26(水)現在のロザリオの総数は、4690環です

2014年03月28日 | ロザリオの十字軍
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、
こんにちは!天主様に感謝!

3/26(水)現在のロザリオの総数は、

4551環+68環+7環(36連)+68環 =4694環です。
【36連が、誤って3環としてしか計上されていなかったので、7環に修正しました。4月7日】

大変ありがとうございます。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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【報告】

小野田神父様
こんにちは。

ロザリオの数を報告します。
68環です。

少なくてごめんなさい。

【報告】

小野田神父様

36連、お祈りいたしました。
どうぞよろしくお願い申しあげます。

【報告】
シスターが、小野田神父さまのブログを読んでくださっておられる事がわかりました。ロザリオ十字軍に、協力してくださるとのことで、先月は30本いただきました。感謝です。(^◇^)



コメント (1)

3/24(月)現在のロザリオの総数は、4551環です

2014年03月25日 | ロザリオの十字軍
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、
3/24(月)現在のロザリオの総数は、4551環です。感謝します。
頂いたご報告を紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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【報告】

アヴェ・マリア!
トマス小野田神父様
ロザリオの十字軍のご報告をさせていただきます。

2月12日から3月16日20時(日本時間)まで
私と子供2人あわせて26環でした。

トマス小野田神父様に天主様の祝福が豊かにありますように!
第5次ロザリオの十字軍が成功しますように!

【報告】
Dear friends at the Society,

My family and I are living in Kumamoto, Japan. It is very late, but we would like to submit our rosary tallies for January and February.
January: 8
February: 28
It is our prayer that the next Society chapel in Japan will be in Kumamoto city.


【報告】
中間決算報告

今日報告してくださった信者さん
 70環

↓私 
ロザリオ   30環
昼休み 一連づつ 50連

仕事の合間、電車の中、歩きながら...
かぞえるのわすれてしまったのでノーカウントです。
犠牲 2月3月残業土曜出勤(業務報告みたいだ!)

聖フランシスコザビエルの聖遺物のある教会への巡礼、ロザリオ、ノベナ、
1月、2月、3月の奉仕、支援、

【お返事】
感謝します。50連は10環で計上しました。


コメント

天主様に感謝!2014年3月23日の聖伝のミサのご報告

2014年03月25日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 こんにちは! ご無沙汰して申し訳ありません。今日は聖母のお告げの祝日です。また今日は、ルフェーブル大司教様の二十三周年目の命日です。

 先日の主日にはクチュール神父様が東京で聖伝のミサを捧げてくださいました。天主様に感謝! 新しい方々もいらっしゃって大変うれしく思います。

 次のようなご報告を頂いたので愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介します。心から感謝します。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】

今日クチュール神父はお説教で、全てのカトリック信者が四旬節中に行なうべ
き三つの務め、施し、断食、祈りについてお話しくださいました。

施しは福音的勧告のうち清貧に対応し、罪の赦しを得るという秘蹟のような力
さえもっており、私たちが物への執着から離れ、愛に成長できるよう教会が計
らっていると教えていただきました。断食は貞潔に対応しており、私たちが飲
食のコントロールをできることが他の情欲をコントロールできることに繋がる
こと、そして祈りは従順に対応し、私たちの高慢を抑えるものであるというこ
とを説明していただきました。

昼食後の霊的講話は旧約の歴史について教えていただきました。まず旧約の歴
史と主な登場人物から始まり、いかに旧約中の様々な出来事が新約の出来事の
徴しとなっているかについて、大変沢山の例を挙げて詳しく説明していただき
ました。それはあたかもクチュール神父から旧約聖書の集中コースの授業を受
けているようで、沢山の新発見がありました。

その後、四旬節第三主日の晩課を歌って終了しました。

ミサの参列者数
男: 15人(内、子供0人)
女: 15人(内、子供0人)
計: 33人(内、子供0人)

霊的講話の参列者数
男: 5人
女: 6人
計: 11人

晩課の参加者数
男: 5人
女: 5人
計: 10人

クチュール神父様の大阪での説教です


2014年3月21日 大阪での説教

聖ヨゼフ

親愛なる兄弟のみなさん、

おととい、私たちは偉大なる聖ヨゼフの美しい祝日をお祝いしました。今月は聖ヨゼフに捧げられた月でありますし、また善き主は、私たちがキリスト教的徳を実践できるよう、聖人たちとその生涯を例として与えてくださいますので、私たちの聖なる家長である聖ヨゼフにならう大変簡単な方法をお示ししたいと思います。
聖書の中には聖ヨゼフに関する数多くの記述があります。3月19日の祝日には、母なる教会は聖ヨゼフにとっての最大の試練に関するくだりを選んでいます。聖福音を読むときいつも覚えておいていただきたいのは、天主が聖福音を通して私たちに直接語りかけておられること、また一つ一つの言葉が教えであり、神秘であり、隠された宝であるということです。聖書を読んだり聞いたりする時には、いつも御自分に問いかけてください、「我が天主よ、これを通して私に何を語ろうとしていらっしゃるのですか?どのようにしたらこれを実践することができるのででしょうか?」と。
みなさんは聖ヨゼフの七つの悲しみと喜びに対する信心のことをおそらくご存知でしょう。第一のものはもっとも大きな悲しみでした。それは私たちの聖母が聖エリザベットのもとに御訪問になったすぐ後のことでした。天主が御托身の神秘を聖エリザベットに直接お知らせになったのを見て、聖母は、御托身という特別な召命のことを御自分が聖ヨゼフに直接明かすことはあまりに恥ずかしいことでもあり、天主が、聖エリザベットにされたと同じように、聖ヨゼフにも御托身のことをお知らせになるものと思われたに違いありません。

洗者ヨハネが生まれた後、ナザレに戻る道で、聖ヨゼフがまだこの神秘についてご存知ないことに聖母はお気づきになりました。そうするうちにお二人は小さなナザレの町に着かれました。町の人々は皆この若い夫婦を愛していましたし、聖母が妊娠しておられるのは見てすぐわかりましたから、そのニュースはあっと言う間に広まりました。こうしてドラマが始まったのです。悲劇を避けるため、聖ヨゼフはすぐに行動をとらねばなりませんでした。聖ヨゼフも聖母が妊娠しておられることを見て、その事実を認めざるを得なくなりました。人々が聖ヨゼフの所にお祝いを言いに来る度に、聖ヨゼフは微笑みながら、心の奥底では剣に貫かれておられたのです。聖ヨゼフはこの子の父親ではなかったからです。では誰の子なのでしょうか?もし聖ヨゼフがこのことについていささかでも疑いや心配を表しておられたたら、あるいは自分が父親ではないことについて一言でも話しておられたら、人々は聖母と天主である御子とを石打ちの刑にしていたことでしょう。

一体どうすればよいのでしょうか?ここで聖福音は聖ヨゼフという聖人の聖性を明らかにしています。聖福音には、「夫のヨゼフは正しい人だったので、かの女を公にはずかしめようとはせず。ひそかに離別しようと決心した。」と書かれています。「ヨゼフは正しい人だったので、」と書かれていますが、他の誰かであれば、いかに簡単に、即座に、聖母マリアを裁き、断罪したことでしょうか。聖母はお告げの日に新しく満ち溢れる聖寵を受けられてから、以前に増して美しくなっておられ、また、童貞である夫に対して更に注意深くなり、最高の愛情を示しておられました。しかし聖ヨゼフがご存知でない事情があり、聖母はこれを聖ヨゼフに話しておられなかったのです。

みなさん、「正しい」人、すなわち真の正しさ、ここでは聖性のことですが、を求める人は、裁くときと裁きを保留するときを知っています。この場合のようにあまりに大きな証拠があってもです。問題が起こった時には、問題を分析して解決法を見つけようとする前にできる限り多くの情報を集める、というのが経営に関する基本的はルールではないでしょうか?

私たちはみなこのようなときによく失敗します。原罪のため、私たちの意志は、聖トマスが悪意の傷と呼んだ傷を負っています。それは、私たちのまわりにいる人たちに善きことを求めるのではなく、悪いことを望んでしまう、ということです。ほんの少しの様子があるだけでも、またしばしば全ての事情を知ることもなしに、急いで、そしてその人の意図していないことを捉えて、私たちは裁いたり、あわれみも与えずに断罪したりしてしまうのです。わたしたちがマスコミやブログで読むものは、この種のことであふれているのではないでしょうか?わたしたちは悪い噂を電子メールや携帯メールですぐ広めているのではないでしょうか?わたしたちは本当にこの悪意の傷を負っています。わたしたちがいつも聖体拝領の前に、「あなたがただ一言おっしゃってくだされば私の魂はなおります!」という祈りを天主に向かってするのは、まさにこのためなのです。わたしたちの魂が傷を負っているからです。

イエズスはいつも、まず行動で示され、その後それを教えてくださったことを聖ルカは記しています。実際、こればイエズスがお生まれになる前から、聖母と聖ヨゼフによって始まったことです。「裁かれたくないなら、他人を裁いてはならない!」と、イエズスは有名な山上の説教で教えてくださいました。「なぜ、兄弟の目にあるわらくずをみて、自分の目にある梁に気をとめないのか。」この、性急に裁いてしまうという非キリスト的な態度は、残念ながらよく見られるもので、現在聖伝のミサに通う多くの人たちにも影響を与えてしまっています。自らの良心を糾明して、もしわたしたちがこのようなことをしているのであれば、その恐ろしい精神の病を癒してくださるよう、聖ヨゼフにお祈りいたしましょう。

みなさん、私たちの主のこの教えは、聖福音の中心を成すものです。初期のキリスト教徒達、そして私たちの時代にいたるまでの歴史上の全ての本当のキリスト教徒たちーここでは特に強制労働収容所に不当に連行された人たちやその他の不当な扱いを受けた人たちのことが思い起こされますーは、皆このことを理解していたことを私たちは知っています。キリスト教徒達が悪を見たとき、悪は私たちのまわりにいくらでもありますから、その悪を非難する代わりに、いつも自分自身の罪深さと天主の自分への御憐れみを忘れることなく、罪人のために祈り、罪人の罪の償いをもとめてきたのです。

聖アウグスティノはこのような美しい考えをもっていました。悪魔は地獄にいますから、わたしたちは悪魔の救霊に関してのみ絶望することができます。それ以外の全ての人に関しては、私たちは祈ることができるのです。今日あなたの敵である人、あるいはあなたを苦しめる人が、明日になれば天主の御恵みによってあなたの最大と友とならないとどうしてわかるでしょうか?自分の兄弟に売られた旧約の家長ヨゼフにおこったことはこれであって、新約の聖ヨゼフにおこったこともまさにこれでした。

聖ヨゼフの深い苦しみの原因は、隠されていた救い主ご自身と自分の妻である無原罪の聖母だったのです!聖ヨゼフが、聖母と謎の子に自分のところから離れるように命ずるところであったほどの深い苦しみをもっていらっしゃったことを考えてください。それは本当に恐ろしい、良心のまことの危機であったに違いありません。聖母マリアに自分のもとから去ってくれ、と命ずるのです。しかし、聖パウロが言うとおり、「神は真実であるから、あなたたちの力以上の試みにはおあわせにならない」。そこで天使が現れ、この神秘を聖ヨゼフに明かし、妻のマリアを自らのもとに止めるように命じたのです。その子こそが救い主ご自身であり、本当の天主の御子であったからです!

自分の十字架を謙虚に担い、万事において天主の御意志を求める者、また、人を裁く責任を有していない時、あるいは裁くにあたっての全ての要素が揃っていない時には、全ての裁きを天主に任せ、性急な行動を避けるすべを知っている者には大きな喜びが待っている、ということを聖ヨゼフは教えてくださいます。このようにすることによって、私たちは聖ヨゼフにならい、「裁かれたくないなら、他人を裁いてはならない」という私たちの主の御教えを実践することができるのです。聖ヨゼフ、我らのために祈りたまえ。


クチュール神父様の2014年3月22日/23日のお説教です


2014年3月22日/23日 大阪/東京での説教

四旬節

信者のみなさん

もう四旬節第三の主日になります。伝統的には―実は古くは旧約の時代からのことですが―四旬節のような償いの季節に私たちが皆実行すべき行ないが三つあります。みなさんはおそらく後の二つをご存知でしょうが、最初の一つを知っていらっしゃるかどうかはわかりません。

四旬節の間、善いカトリック教徒が皆実行すべき三つの行ないは次の通りです。施し、断食、そして祈りです。これら三つは旧約聖書にありますし、山上の説教にもありますし、過去二十世紀にわたって全てのカトリック教徒が実行してきたことです。施し、断食と祈りです。

これら三つの行ないは、三つの福音的勧告である、清貧、貞潔、従順に対応しています。これこそがキリスト的生活の中心です。これが、過去二十世紀にわたって数えきれない修道僧、修道者、修道女の宗教生活の支柱となっています。一つずつ見てみましょう。

聖書における施しは信じられない程の力を持っています。施しは秘蹟ではありませんが、秘蹟のような効果をいくらか持っているということもできるでしょう。例えば、施しによって罪の赦しを得ることができます。大天使聖ラファエル自身が盲目から奇蹟的に癒された老いたトビトにこのように語っています。

• 断食とともにする祈り、正義とともにする施しは、罪とともにある富にまさる。黄金を蓄えるよりも、施しをするほうがよろしい。施しは人を死から救い、すべての罪を清める。施しをする人は長い日々をあたえられ[る。](トビアの書12章8-9節)

• 水は火を消し、施しは罪を消す。(集会の書3章33節)

これはどうしてなのでしょうか?私たちは物質的世界に生きており、私たちの肉体がそれを必要とするため、常に物質的な物を使っています。ここにある危険は、私たちがこれらの物を手に入れることによって、自分自身について現実よりも過大な評価をしてしまうことです。男性は大きな車を運転している時や、コンピューターの前にいる時、より大きな力を持っているように感じるものです。女性はメイキャップをしている時や、貴金属をまとっている時、より美しくなっているように感じるものです。聖トマスによれば、私たちの持っている物が私たちと一体化して、ある意味で私たちの一部になってしまうのです。

例えば子供のことを例にとって見てみましょう。小さい子供でも大きい子供でもかまいません。子供にチョコレートを渡して、しばらくしてから、それを妹と分けるように言ってみてください。この子の行動をみればチョコレートがその子の一部になったことがわかります。子供は「それは僕のだ!」といって、チョコレートを放さないでしょう。私たち大人も変わりません。自分が稼いだお金や自分が買った物を手放すのはいかに難しいことでしょうか。それらは私たちの一部となり、私たちと一体化してしまうのです。施しはこの利己主義という問題への解決策となるのです。

聖トマスの教えるのは、清貧と愛とは互いに結びついており、私たちが物から離れるに従って愛が成長する、ということです。逆もまた真実です。私たちが物に愛着を感じるに従って愛が減ってゆくのです。ですから、母なる教会は、どんな形にせよ私たちが施しを行なうことを奨励することによって、実は私たちが天主への愛や隣人への愛において成長することを望んでいるのです。この四旬節の間、復活祭は4月20日ですから来月も、施しを行なうことによって誰かを助けるようにいたしましょう。特にそれが私たちにとって困難であるとき、施しを行なうようにいたしましょう。

第二の行ないは断食です。さきほど、断食は福音的勧告の貞潔に対応していると申しました。この間の関係はよくわからないかもしれません。しかしそれはかなり単純なものです。断食と貞潔は共に体に関する枢要徳である節制の徳にあたります。私たちの主が、この種の悪魔は祈りと断食によらずには、どうしても追い出せない、とおっしゃった時、それは明らかに不潔の悪魔のことをおっしゃっていました。どうして主は断食をお勧めになったのでしょうか?

それは、人が自分の飲食の欲を制御している時、純潔であること、即ち他の情欲を制御することがより易しくなるからです。なぜ若者の中にこれほどの不潔がはびこっているのでしょうか?それは、若者が食習慣を抑制することをほとんどあるいは全く教えられていないからです。もし子供が自分の欲しい時にいつも甘い物を食べ、食べる物について大変な好き嫌いをし、あるいは自分の食器の食べ物を最後まできちんと食べないことを許されているのであれば、純潔についても重大な問題が起こることでしょう。大人でも同じことが言えます。私たちが飲食に関して不節制であれば、私たちは簡単に不純に陥ってしまうことでしょう。

動物が空腹を感じる時、食べ物を探して食べます。キリスト教徒が空腹を感じる時、時計を見て、「だめだ。次の食事まで待とう。」と言うのです。私たちの魂が私たちの体をコントロールしなくてはならず、私たちの体に私たちの魂をコントロールさせてはなりません。そこで、賢い母である教会は、私たちが飲食に関する犠牲を行なうことを求めることによって、私たちが貞潔で、純潔でいることの助けになることがわかっているのです。私たちは食事をとる度に、小さな犠牲を行なうことができます。私たちが食事を終えるまでには、なにか小さな犠牲、それが何かを飲んだり食べたりする前に数秒待つ、というような大変小さい犠牲でも、それを必ず行なわなければなりません。

最後に、四旬節の間にキリスト教徒が行なうべき第三の行ないは祈りです。四旬節以外のいつもの時に行なうより多くの祈りを唱えます。祈りは高慢を抑えるものです。真の祈りは、私たちに天主の贈り物を認識させ、私たち自身の罪を認めさせ、その罪の赦しを乞わせるものだからです。祈りは福音的勧告の中で最も難しいものである従順と繋がっています。それは、イエズスがおっしゃったように私たちの全ての罪のもとである心を祈りが清めてくれるからです。

ですから、四旬節の間、今月の残りの日々も、これまでしてきたことよりもう少し沢山してみてください。もしロザリオの祈りを定期的に唱えていないのなら、定期的に唱えてください。もし毎日ロザリオを一環唱えているのでしたら、二環か三環唱えてください。数ヶ月に一回告解に行くのでしたら、復活祭の前に行ってください。ところで、復活節の義務についてもみなさんにお知らせしておきます。みなさんは、復活節の間、すなわち教会によって定められた四旬節の第一主日から聖霊降臨後の最初の主日である聖三位一体の主日までの間に聖体拝領をしなくてはなりません。全てのカトリック信者はこの期間に聖体拝領をする義務があります。この準備として通常、よい告解を行ないます。

親愛なる信者のみなさん、これこそが四旬節であり、これこそがよい伝統的なカトリック信者としての四旬節の義務なのです。愛において成長するための施し、貞潔において成長するための断食、謙遜と従順において成長するための祈りです。私たち自身の聖化と他の多くの霊魂の救済のため私たちに命じられた行ないを私たち全員が実行することができるよう、私たちの聖母が助けてくださいますように。アーメン。


コメント

ご報告天主様に感謝します!

2014年03月22日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、こんばんは!

次のようなご報告を頂きました。愛する兄弟姉妹の皆様に御紹介します。天主様の祝福が豊かにありますように!!トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

――――――――――

アヴェ・マリア!
三月はクチュ―ル神父様がミッションの為来日して下さり、21日金曜日は16人が、今日22日土曜日の歌ミサには17人が聖なる御ミサに与るお恵みを頂きました。デオグラチアス!

今日御ミサの後の公教要利では、旧約聖書と教会典礼の関係をわかりやすく説明して頂きました。大変興味深いお話でした。また三月末で、ロザリオ十時軍の中間報告を小野田神父様にするように、そして残る半期、特に四旬節中はいつもより多く祈るようにとのお言葉を頂きました。

その後、ミサ会場前に新しくオ―プンしたレストランで神父様と信徒16人で一緒に昼食を頂きました。

沢山のお恵みに天主様に感謝致します。そして、聖母マリア様に感謝、聖ヨゼフ様に感謝、クチュ―ル神父様に感謝、通訳・翻訳してくださいました信徒会長方やその他多くの方々に感謝致します。
コメント

「いろいろな「教会」?」フランソワ・レネー神父 Various Churches? by Fr Laisney

2014年03月09日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 レネー神父様の「いろいろな「教会」?」という記事を日本語に訳してくださった方がおられますので、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。この記事自体は二〇一二年に書かれたものです。ご紹介が遅れてしまいました。この文章は、ウィリアムソン司教のエレイソン・コメンツ281回への反論文です。エレイソン・コメンツは、キリストの教会を呼ぶいろいろな名前について語り、つまり「カトリック」教会、「公会議の教会」、「目に見える教会」、「公式の教会」、「主流の教会」などについて述べ、「眼に見える(visible)教会の、この一部分だけが、聖なる、一なる、カトリック(普遍)の、使徒継承の教会です。残りは腐敗している種々のその他いろいろです。」(That part alone of the visible Church is Catholic which is one, holy, universal and apostolic. The rest is various sorts of rot.)また、「 "公式の教会" は、四つの印に従えば、大部分が "公会議の教会" であってカトリックではない。」(Since these today are largely Conciliar, so the “official Church” is largely Conciliar and not Catholic, according to the four Marks.)などと述べていますが、その誤りを指摘したものです。どうぞ良き四旬節をお過ごしください。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

いろいろな「教会」?
フランソワ・レネー神父


原文はこちら[訳注: 英語テキストより翻訳]

【※訳者より──この文章は、ウィリアムソン司教のエレイソン・コメンツ281回への反論文である。[ ]内は訳者による補足。】


 実に、「カトリック教会」ということについて、多くの混乱が行き渡り、聖伝に愛着するカトリック信者たちの間にすら、危険をはらんだ概念が知れ渡っています。

 このような文章があります。「眼に見える(visible)教会の、この一部分だけが、聖なる、一なる、カトリック(普遍)の、使徒継承の教会です。残りは腐敗している種々のその他いろいろです。」

 すぐに次のような疑問が湧き起こります。カトリック教会とは「眼に見える教会の中の一部分」にすぎないのか、と? そして、これはさらに次のような基本的な別の疑問へと導かれます。つまり、キリストの教会たるカトリック教会と、(それとは別の)眼に見える教会という区別をつけることは正当なことだろうか? と。

 いえ、それどころか、カトリック信仰により、私たちは、キリストの教会たるカトリック教会と眼に見える教会との同一性を信仰宣言する義務があるのではないでしょうか? その通り! キリストの教会とはカトリック教会であり、この教会は眼に見えるものなのです! 

 ルフェーブル大司教様はこの信仰のドグマにしっかりとしがみついていたので、ルフェーブル大司教様は教皇聖座空位論者の立場を常に拒絶し続けたのです。何故なら、聖座空位論は、位階制度の絆を全て失い、位階制度をもはや持たなくなるのですから、実質的に眼に見えない(invisible)教会へと、論理的に導くからです。

 確かに、前述した引用文を書いた者は、カトリック教会は四つのしるしによって識別できると断言しています。しかし、これら四つのしるしが「眼に見える教会の一部」のみに属していると、著者は読者を理解させようとしています。ですから「キリストの教会=カトリック教会」という最初の等号を疑っているのではなく、二番目の「カトリック教会=目に見える教会」の等号を疑っていることになります。

 このような断言が大変危険であるのは、カトリック教会の境界線が、実質的に眼に見えないものになってしまうからです。

 この著者は、カトリック教会が眼に見えるものだとは以下のように書いて断言すれば充分だと考えています。「ですが、"カトリック教会は眼に見えるものである、従って、眼に見える教会はカトリック教会である" ということは、"すべてのライオンは動物なのであるから、すべての動物はライオンである" と言うのと同じくらい馬鹿げています」と。この文章が間違っているのは「カトリック教会は眼に見えるものである」という断言のまことの意味を把握できていないことです。カトリック教会がこの真理──例えばピオ十二世のミスティチ・コルポリスにおける──を教えるとき、「属(genus)」の内部にある「種(species)」──これは動物とライオンとの間の関係──としてカトリック教会をみなしているのではありません。まるで、誰もが英国国教会、正教会、監督派教会などの信者を見ることができるようにカトリック信者を見ることができるとでもいうように、まるで眼に見える教会は一つの属であり、これはカトリック教会であるかも知れない一つの種の内部にあるとでもいうように、著者はこれ以上の意味はないと言っているかのようです。

 いいえ! 「カトリック教会とは眼に見えるものである」という断言は次のような意味です。「キリストの教会は眼に見えるものであり、そしてカトリック教会とはこの教会のことである。」ピオ十二世も、他のすべてのカトリック権威者たちも、カトリック教会とは「眼に見える教会の一部分的なもの」に過ぎないなどとは決して教えてきませんでした。いいえ! キリストの完全な教会とは眼に見えるものであり、この完全体とはカトリック教会のことです。そして、人々はカトリック教会の "内部" には、善い魚と悪い魚(マテオ十三章四十八節)、善い麦と毒麦(マテオ十三章二十五節)、麦ともみがら(マテオ三章十二節)の入り交じった状態を見いだします。カトリック教会は、十一人の善き使徒たちのみで成り立っていて、ユダは腐敗して不忠実な部外者であった、などとは決して教えてきませんでした。そうです、ユダは腐っていました。しかしカトリック教会、唯一のキリストの教会の内部においてなのです。

 では、公会議の教会(Conciliar Church)とは何でしょうか? この表現は、ベネリ枢機卿による造語です。すなわち、この表現は第二バチカン公会議によって導入された新奇な改革をはっきりと公言していました。ですが、これは、独自の組織、カトリック教会から分離した独自の信者たちを含む、分離した教会を指していたのでしょうか? そうではありません。この表現は、新しい精神、新しい原則を示していましたが、新しい組織も、分離した位階制度と信者たちをも示したのではありませんでした。この新しい精神は、教会内の成員たちを教会内部でそれに汚染させ、それに染まれば染まるだけそれと同じ程度に腐敗させています。これはキリストの神秘体の中のウィルスに似ています。すなわち、完全に腐敗した細胞もあれば、一部分だけが汚染された細胞もあり、少しはましなものもあれば、相当にだめになったものもある。そしてほんのわずかの細胞が腐敗を免れています。この新しい精神はカトリックではないと述べるのは真実です。これは決裂の精神、革命的な精神、教会内における一七八九年[フランス革命]です。

 しかし、この新しい精神は分離した教会を作り上げているのではありません。多かれ少なかれ、カトリック教会の成員たちに影響を及ぼしています。健全な成員たちと[新しい精神に]感染した成員たちとの間の分離は、目に見えるものではありません。それは、ある成員たちが部分的に感染しているというまさにこの事実によります。これは教会内部の善と悪の区別に似ています。つまり、限界(境界線)[近代主義の感染がどの程度まで行き渡っているのかという]は、各成員たち個人の中にあります。この地上においては誰も完全ではないからです! この選別が達成されるのは、世の終わりになったときだけであり、人間の裁きによるのではなく、最高審判者、まことの天主にしてまことの人なるキリストご自身の裁きによってです。これは、感染は眼には見えないものだということではありません。邪悪な成員たちが教会内では眼に見えるように(スキャンダルは第二バチカン公会議後においては事欠きません)、この公会議の汚染もまた眼に見えるものです。特に完全に染まってしまった人々、すなわち、オーストリアの近代主義神学者たち、近代主義司祭たちの嘆願書の中に……。これらの間違った原則が、現実にエキメニュカル会議(アシジの集会、ミサの共同司式、シナゴーグへの訪問、コーランへの接吻……)で進行中なのを人々は見ています。

 こういった間違った原則が分離した教会を構成しているのではなく、眼に見える教会である完全体から区別される一部分ですらないのです。

 「公会議の教会はカトリック教会ではない」と述べることは、公会議の原則、公会議の精神はカトリックの諸原則、カトリックの精神ではないということを意味するなら、これは真実です。ルフェーブル大司教様のいくつかの言葉が意味するものです。ですが、りんごの食べられる部分と腐った部分との間のような分離をほのめかすなら、現実に一致していません。これは間違いです。ルフェーブル大司教様の教えに真っ向から反対しています。

 目に見える教会内部において、腐敗した、「カトリック教会ではない」公会議の部分と、「一なる、聖なる、普遍の、使徒継承であるもの」のみで成り立っているカトリック的部分を区別することは、カトリック教会からその組織を取り去ることであり(実際、この上述の著者は "公式の教会は大部分、公会議の教会であり、カトリックではない" と書くのをためらいません)、カトリックのまま留まっている部分は、主イエズス・キリストがご自分の教会にお与えになった組織を奪われることになるのです! もしもそうなら、もはやキリストの教会であると認識できなくなってしまいます。従って、このような断言は信仰にとって大変危険なものです。

 公会議後の危機が原因で、教会の四つのしるしは何らかの影を帯びており、教会全体の中で、四つの印は眼に見なくなっていることは真実です──例えば、いとも聖なる誓願を投げ捨てた大勢の司祭たち、修道者たちは、聖性というしるしについて、眼に見える汚点を残しました──ですからルフェーブル大司教様は、これら四つのしるしは、聖伝に愛着する平信者と司祭たちの間に、より多く見られると言うのをためらいませんでした。ですが、カトリック教会は「目に見える正常な一部分」のみであるとは、決しておっしゃいませんでした! 反対に、大司教様はカトリック教会に、教会の全体に、ご受難の間のキリストの真実をあてはめました。つまり、キリストはご受難の時には救世主であるとはまったく認識されませんでした。イザヤが預言したようにです。「彼は、人から軽蔑され、捨てられた、苦しみの人、苦しみになれた人。その前では顔を覆いたくなる、そんな人のように、見下され、無視された人」(イザヤ五十三章三節)近代主義の危機のゆえに、教会はみずからの受難をくぐり抜けており、カトリック教会であると見分けがつきません。ですから、ルフェーブル大司様にとって、カトリック教会とは単なる一部分ではなく全体であることは非常に明白なのです。

 公会議の教会とカトリック教会との区別を間違って理解をすることにおいて、教義についての誤りを見いだします。そしてこの誤りは、一部の人々の中において、今年、二〇一二年のフェレー司教様への反対の根底にあります。事実、この著者はこのように結論づけています。「公式の教会は、広範囲に渡って公会議の教会であり、カトリックではありません」と。この結論は必然的にいかなる合法化をも拒絶するという方向へと導き出すのです。

そこで、教会内の役職にある人々が、私たちの主イエズス・キリストがご自分の教会に与えた権威をもはや受け取っていない、従って善いものを受け取っていない、と思う人々もいます。──事実、主イエズス・キリストが打ち立てられたものは、間違いなく素晴らしいものです。この権威を悪用することは、権威それ自体の有益性、位階制度の秩序が持つ価値を取り除くことではありません。従って、教皇様がこの秩序の内部に聖ピオ十世会の居場所を正常化させたいなら、教皇様は善いことを望んでいるのです(秩序は善です)。──ですから、教皇様が、いかなる悪い条件もなく、そしてこの秩序が堅固であるように充分な保証とともに、それを与える限りにおいて、この善に反対して抵抗する権利を人は持っていません。

 この教義の誤りの根底には、ドナトゥス派に反対した聖アウグスティノの偉大な原則に関する無知があります。すなわち、善い人々は悪人たちの邪悪に同意しない限り、教会内において邪悪な人々と交っても害を被らない、という原則です。(Breviculus collationis cum Donatistas 1: 10: "malos in Ecclesia, qui vel ignorantur vel pro unitate pacis tolerantur a bonis, non eis ad mala consentientibus obesse non posse") このような間違いは、教会を「カタリ派的な」概念、浄い人々の教会、公会議の腐敗によって汚染されてない教会、へ導きます。このような概念は決してカトリックではありません。

 キリエ・エレイソン、主よ、あわれみ給え! このような概念に引きずられているかも知れない人々をあわれんでくださいますように。彼らに自らを正すための恩寵を与えてくださいますように。彼らがカトリック教会についての聖伝の概念へと立ち戻るための恩寵をお与えくださいますように。教会みずからが、とりわけノヴァティアノ派に反対した聖チプリアノ、ドナトゥス派に反対した聖アウグスティノ、教会の唯一性についての書物の著者であるこの二人の聖人が、初代教会の頃から教えてきたような、聖伝の概念へと立ち戻りますように!

 ルフェーブル大司教様のテキストの一部が、この教えをよく説明してくれるでしょう。

「というわけで、私たちは、試練の数々にも関わらず、教会の生命にとって不可欠である司祭職養成を続けるため、皆さんの祈りと寛大さを当てにしています。私たちを攻撃するのは教会でもペトロの後継者でもありません。進歩主義の誤謬に染まった聖職者たち、教会内の要職を占め、自分たちの権力を利用する聖職者たちなのです。権力を乱用して、教会の過去を忘れさせ、カトリックとは無関係の新しい教会を打ち立てようとしています。」(一九七五年九月九日、友人と恩人への手紙九号の末尾)。
 言い換えると、ルフェーブル大司教様を攻撃している人々は、間違いなく「教会の聖職者たち」「教会内の要職を占める人々」でした。彼らは「ペトロの後継者」としてではなく、むしろ「進歩主義の誤謬に染まった者」として、聖ピオ十世会に反対して行動していたのでした。

「教会はエキュメニカルなものではなく、ましてやリベラルでエキュメニカルなものでもありません。教会は宣教的です。これは、私がセペール枢機卿への手紙で、繰り返し繰り返し述べたことです。枢機卿は、私たちの従順、私たちの教皇様への服従といった事柄について、事細かい事項を求めてきたからです。私はもっと高いところから事を検討する必要があると思います。なぜなら、私たちが教皇様とローマ聖省に完全に"従順"できない深くかつ高尚な理由があるからです。これらはきわめて重要な理由です。それは、教会のまったく新しい方向性、もはやカトリックではない方針、カトリック教会の方針ではない方針のためです。宣教的である教会とエキュメニカルな教会との間には非常に重大な違いがあります。宣教的である教会は、真理を伝える教会で、自分自身のうちに真理を所有していることを知り、他者を改心させるために真理をもたらす教会です。この教会の目的は改心です。その一方で、エキュメニズムの目的は誤謬の中に真理を見つけること、実質的には、誤謬のレベルに自分を合わせ、完全な真理を誤謬のレベルに合わせ、従って誤謬に迎合することです。これは絶対的に考えることができないことです。これはカトリック教会の真理の破壊です。私たちはこんなことに同意できません。今、彼らは神学校の廃止処分や聖ピオ十世会の廃止によって、私たちに課した罰則によって、すべての改革を、改革者たちが私たちに受け入れるよう望んでいることを押しつけようとしています。彼らの目的、その意向は、相変わらず、公会議が成し遂げたこと、公会議後に成されたすべてのことを私たちに受け入れさせることです。エキュメニズムのゆえに、この新しい公会議の教会はカトリック教会ではありません。エキュメニズムは、誤謬を真理に対するのと同じ尊敬をもって見るのです。つまり、誤謬のうちにいるあなたは、真理のうちにいる人々と同じほど価値がある、ということなのです(一九七八年三月十三日、エコンでの霊的講話)。」
ルフェーブル大司教様は、「この新しい公会議の教会」と言う言葉で理解していたことは、まさしく「教会のまったく新しい方向性」を指し、分離した組織ではないと、ここで二つのアンダーラインを引いた文章がわかりやすく示しています。

「聖主イエズス・キリストの御生命は、公会議後の教会の至る所で消えつつあります。彼らはカトリックの道ではない道に従っています。つまり彼らは単に棄教に進んでいるのです。...それでは、彼らにとってこの真理とは一体何なのでしょうか? それは、第二バチカン公会議の真理、公会議後の教会の真理以外の何ものでもありません。従って、バチカンにとって今日存在している唯一の真理とは、公会議の真理、公会議の精神、アシジの精神である事は明らかです。これが今日の真理なのです。しかしこのようなことは、私たちとは何の関係もありません!だからこそ、聖伝を無に帰し、第二バチカン公会議の精神とアシジの精神とに世界を引き込もうとする現在のローマ当局の強い意志を考えた上で、私たちは身を退かせ、このまま続行することは出来ない、という事を選んだのです。続けることは不可能です。私たちは間違いなく当局者たち…公会議の精神とアシジの精神と引き吊り込もうと望んでいる人々の手に自らを委ねていたでした。これは単純に不可能でした。…ですから私は教皇様に手紙を書き、このようにはっきりと告げたのです。私たちは聖下と完全な一致のうちにあらねばならないという熱意にも関わらず、断じてこの精神と申し出を受諾できません。現在ローマを支配している精神、聖下が私たちに伝達するのを願っているこの新しい精神を見ると、私たちは聖伝のうちに継続すること、聖伝がローマでその地位を回復するのを待ちながら、聖伝がローマ当局者たちの中で、彼らの心の中でふたたびその地位を取り戻すのを待ちながら、聖伝を保持することを選びます」(一九八八年六月三十日、司教聖別式の説教)

 ルフェーブル大司教がこの公会議の教会に反対した最も荘厳な瞬間において、"ローマを支配している公会議の精神"、"アシジの精神"…という表現によって言わんとした意図がはっきりとわかります。ローマにおいて、とは、ローマ当局者たちの心において、すなわち、カトリック教会であるローマ教会の位階制度の聖職者たちの心の中で、ということです。

 ルフェーブル大司教様は常に、カトリックではないこの新しい精神に絶対的に反対しておられました。ですが、教会を腐った部分とカトリックの部分との二つに分け、カトリック教会を「眼に見える教会の一部分」のみに縮小して考えておられたことは決してありません。


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コメント (7)

フィリピン──第八回ローザ・ミスティカ・メディカル・ミッション

2014年03月08日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、
「フィリピン──第八回ローザ・ミスティカ・メディカル・ミッション」という記事を日本語に訳してくださった方がおられますので、感謝して愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介します。
天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

原文はこちら

フィリピン──第八回ローザ・ミスティカ・メディカル・ミッション


二〇一四年一月三十一日

 昨年十一月七日、台風三十号(ヨランダ)がフィリピンを直撃し、数千の死者を出し、数十万の人々から家を奪った。レイテ島とその首都タクロバンは、二十五万の住民を有し、最も甚大な被害を受けた。聖ピオ十世会も例外ではない。タクロバンの聖堂とそこに駐留しておいた宣教用車が破壊された。信者たちの多くは同じように打ちのめされた。ある者たちは親族を失い、多くの人々は財産を破壊されたことによってである。

 従って、今年のローザ・ミスティカ・メディカル・ミッションは、一月二十日から二十五日にかけて、壊滅したタクロバン市で行われた。医師と看護師がACIM(Association Catholique des Infirmieres et Medecins)と聖ピオ十世会アジア管区によってボランティアとして招かれた。(see DICI no. 285, 22/11/13)

 フランス人ボランティアのグループが一月十八日、タクロバン空港に到着した。彼らは車内にはもはや椅子がなく、紐でくくられた運転席と窓の開かないトラックへと乗り込んだ。一人の子どもが彼らに近づいて「お腹がすいた!」と食べ物をねだった。フランス人ボランティアが旅行用のお菓子の残りをその子に与えた。彼らがタクロバンから受けた最初の印象は、乱雑に立てられたいくつものテント、色付きの防水布、ひしゃげた金属板、そして道端に積まれた生ゴミの山であった。人々はそこで、ぬかるみの上で生活していた。倒壊した家屋、うず高く積まれた装甲車、屋根がなくなった、あるいは破壊された倉庫、数枚の壁だけしか残っていない家々という光景を見るのは恐ろしく、悪夢のようでさえあった。巨大な木々が大地に倒れ、その根元は哀れにも天を仰いでいる。電柱はなぎ倒されていた。トラックはこの中を数キロ走って行った。トラックの中で「私たちは声も出ず、死のような沈黙の中で、想像を遥かに上回る現実を見ていました。私たちがメディアを通して見たどんなものともかけ離れた現実でした」。だが、ここで多くのフィリピン人ジャーナリストたちは、膨大な数のご像が被害を免れた、と強調するのを恐れなかった。

 現地では、彼らはさまざまな宿泊施設で、できうる限り自分たちの寝場所を整えた。いくつかは水が出ず、電気がつかず、ベッドもなかった。他のボランティアたちが少しずつ、ぽつぽつとやって来た。暴風と豪雨で多くの飛行機やボートが欠航となり、来れない者たちもいた。聖ピオ十世会の修道士たちはイロイロからタクロバンまで四日かかった。普通なら飛行機で二時間半の旅行である。

 一月十九日、日曜日にオリエンテーション(説明会)が開かれ、世界各地からやって来たボランティアたちが集合した。番号順に以下の通りである。フィリピン、フランス、オーストラリア、アメリカ、スイス、アイルランド、ベトナム、ベルギー、ニュージーランド、シンガポール、韓国、南アフリカ、マレーシア、カナダ、そしてトルコ人を先祖に持つアラム語を話す若い女性である。合計六十名のボランティアが集まり、後日、マニラとアメリカから、さらに二十名が加わることとなった。

 ACIMの秘書、ヨリー・ガムタン(Yolly Gamutan)は、市当局に一ヶ月掛け合い、み摂理のおん助けと彼女の人を引きつける微笑みを武器に、比較的平和で安全な場所──国技であるバスケットボールのコートの中央にある巨大な円形競技場、このスタジアムの使用許可を得た。屋根は一部はぎ取られており、降りしきる雨から部分的にシェルターの役目を果たしていたが、医療処置を行う場所のど真ん中に、たちまち池を作り上げてしまった。皮肉なことに、水道も、トイレも、電気もない場所の中で、ボランティア・チームは一日につき五百名以上の人々のケアにあたらねばならないこととなった。

 十四名の医師たちはスタジアム内のぬかるみのないスペースへと散らばった。初日、通訳と患者の登録のための十六名のボランティアたちが、まだ到着していなかった。このため、続々とやって来る患者たちに対する当初の主な妨げとなった。各医師たちは、タガログ語と英語の通訳とともに、なんとかがたつかないテーブルを準備したものの、患者の多くはタガログ語ではなくビサヤの方言を話した。スタジアム内は数区画に区切られた。すなわち、七名の一般診療医、三名の小児科医、二名の眼鏡技師、一名の皮膚科医、一名の歯科医──ローザ・ミスティカ・ミッションのために記録的な数の医師たちがいた。隅の一区画は包帯の手当て、個別の診察、簡単な手術、心電図装置のために用意され、薬の調剤は三つのセクションに分割され(歯科医、大人、子ども)、パスケットボールのコートの全長を占めていた。

 押し寄せる患者たちを、まずは名簿に記録することから始まり、その後、高血圧、及び気づかずに進行中の糖尿病を考慮した臨床評価があった。それから各患者たちは適切な区画へと案内された。診察の後、患者は薬の処方へと進む。ローザ・ミスティカ・ミッションは、すべての恩人のおかげで、生物学、放射線医学、そして入院治療に関する診療活動の全費用を請け負っている。

 膨大な数の患者たちは、自分たちの困難な状況において、たくさんの祈りを捧げることに同意した。ボランティアたちは「(天主に対する)反抗などまったくありませんでした。なんと素晴らしい、希望についての教訓でしょう!」と報告した。

 今年は、恩人たちの素晴らしい寛大さにより、オーストラリア人五名、アメリカ人二名、アイルランド人男性一名、ニューカレドニアに移民したピエ・ノワール[訳注: アルジェリア生まれのフランス系植民者]一名、フランス人男性三名と、約二十名のフィリピン人からなる建設チームを送り込むことができた。これら三十二名のボランティアたち、大工、電気技師、屋根職人、配管工、タイル工たちは、四軒の住宅と一件の聖堂を十日間で再建するという信じ難い課題に取りかかった。切迫した状況下にある数名の人々には、時間が足りないため、金銭的援助が与えられた。天主の恩寵を得て、建設チーム一人一人の情熱と才能のおかげで、この難しい課題は首尾よく成し遂げられた。

 宣教活動はこれだけに限られなかった。四名の司祭たちはスカプラリオを配布し、秘跡を施すことができた。毎日、最初のミサが南アフリカ人司祭、コンラド・ダニエルス(Coenrad Daniels)神父によって捧げられた。なぜこれほど早い時間にミサが捧げられたのか? 午後五時半には、突然真っ暗闇になってしまうからに他ならない。建設チームは非常に朝早く、七時に始まる第二ミサに医療チームがあずかるより前に、仕事を開始していた。

 日曜日のミサの説教で、アジア管区長ダニエル・クチュール(Daniel Couture)神父は、あるエピソードを引用してあわれみについて説明した。インドの路上で、死にかけていた一人の異教徒が拾い上げられ、聖なる修道女によって手当を受ける。瀕死の男は修道女に「あなたの信じるイエズスは、あなたみたいにいい方ですか?」と尋ねる。修道女は微笑んで答える。「いいえ、私のほうが、彼みたいに善い人になろうと努力しているのよ」 

 このミッションによってもたらされた援助が、たとえ大海の中のひとしずくにすぎないとしても、フィリピンの人々には現実的影響がある。彼らは逆境と戦い続けようと勇気づけられるからである。「困難は私たちに勇気を与える」「あなたの寛大さのおかげで私たちは立ち上がれる」「すべての人々に感謝します」と垂れ幕に書かれているとおりである。ローザ・ミスティカ・ミッションは八年間の宣教活動を続けてきたが「これほど多くの感謝を意を表されたことはありません。一人一人が前回同様に感動しています」とジャン・ピエール・ディケス(Jean-Pierre Dickes)医師は述べた。

 フィリピン人たちは、親切と微笑みと快活さを武器に、自分たちの苦しみのさなかにある些細なことや、親愛の情をあらわすしぐさ、友情を示すささやかな言葉を、なおも楽しむことができる。人々は自分たちのために互いに助け合うキリスト者の精神を持ち続けている。それは彼らが生きている劇的状況を考えれてみれば称賛に値する。

「私たちがイロイロで税関を通過する時」と、ディケス(Dickes)医師は述べた。「国境警備兵は五十五歳の女性でしたが、ボランティアたちがこの国にやってきた理由を尋ねてきました。私たちは定期的に行われる医療ミッションのためだと彼女に説明しました。毎年、私たちはさまざまな地域に行くのだが、今年はこういった状況のため、一番被害が甚大なタクロバンに行くところだと。彼女はそれ以上なにも質問せず、すぐに私たちのグループに通るよう合図をし、にっこりと笑ってくれました。彼女に感謝すると、彼女はこう言いました。『天主様が祝福してくださいますように! あなたたちのために祈るわ』と」
(Source: ACIM – DICI no. 289, 31/01/14)

une vidéo qui se suffit à elle-même.



被災者の方々が、以前の生活に早く戻ることができますように!


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3/9(土)現在のロザリオの総数は、4379環です。

2014年03月08日 | ロザリオの十字軍
+Ave Maria!

愛する兄弟姉妹の皆様、
ロザリオ十字軍の集計の報告が、遅れて申し訳ありません<(_ _)>

3/9(土)現在のロザリオの総数は、
前回2173環+2107環+99環(小野田神父の分)=4379環です。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
*********************************

【報告】

十主の平安!!♪♪

アヴェ・マリア!!♪♪

聖なるロザリオの十字軍!!♪♪のご報告をさせて頂きます♪

*シスター アグネス               84環
*ヨゼフ と マリア               158環
*ヨゼフ・パウロ                  90環
*マリア・クリスティーナ・ヨハネ        215環
*マリア・テレジア               4環
*マリア・ベルナデッタ・ヨゼフィーナ     170環
*バルナバ                     57環
*幼きイエズスのテレジア           81環
*マリア・クリスティーナ              44環
*マリア                       22環
*マリア・ローザ・デオ・グラチアス       62環
*マリア・クララ                    3環

今、以上で、990環です、又ご報告頂きましたら、御伝えさせて頂きます。


【報告】

十主の平安!!♪♪

アヴェ・マリア!!♪♪

ご連絡頂きましたので♪

*マリア・ローザちゃん 48環

*マリア・ルチア・フィロメナ  47環

*マリア・エリザベト・ベルナデッタ  36環

*エリザベト  84環

以上で、215環です、どうぞ宜しくお願い致します♪

カトリック・ファミリー・ニュースのジョン・ヴェナリ様も楽しみですね、どの様な御話をお聞かせ下さいますのでしょう♪

聖なるロザリオの秋田の聖母マリア様!!♪♪
聖会の保護者なる秋田の聖ヨゼフ様!!♪♪


【報告】

聖なるロザリオの!!♪♪追加です♪

*アンナ 54環(大☃で大変でしたが、頑張って居られますとの事です♪)

【報告】

第五次ロザリオ十字軍

1月と2月で173環お祈りしました。
記録を忘れた日もあるので、180環位だと思います。

お祈りの中では、1連毎に黙想ができているのか、私自身、「?」になることがしばしばありますが、今は、たくさんマリア様に寄り頼み、日々の生活を送ることができるようにと思って祈っています。

そうすれば、聖母の汚れなき御心が、知ったつもりの愚かで高慢な、見当はずれな、私の考えや思いを、必ず助けてくださり、聖母のみこころにかなうように、私を使っていただけると思い、また、それを望みます。

全能の天主の創造によって私たちが生存していることを、信じることが困難だとしても、少なくとも、すべての一人ひとりは、男女二人の生命の結びつきから生まれ、少なくとも幼いうちは、自分で自分を守り養うことができないので、その男女やそのほかの人たちに守られ養われて生活を送っていたことを思えば、自分一人で生まれ生きているわけではないことを知ります。

成長すると、自分で生まれて、自分で生きているかのように勘違いを起こしそうな状態で生活を送っているな・・・と思います。そんな風にイヤでも頑張らなければならない状態に置かれていたりもします。
そして限界も経験します・・・。

寛仁なる童貞、上智の座、われらが喜びの源、病人の恢復、罪人の拠り所、憂き人の慰め、キリスト信者の助けが必要です。

ファチマの聖母のことを知って、聖母のほうから私たちのために、心配してくださって、来てくださったので、素直に寄り頼み、そうできるよう祈りを続けたいと思います。

1日3環と思っていますが、1環しかできなかったり、自分の思いがどうしても入り込んでいたりで、時間のある時に、無理やりにでも、できるだけ数だけでも補おうとしていたら、平均的には1日3環近くになりました・・・。
(ロザリオの十字軍の数のためではなく、お祈りが自分の思いのほうに行きがちなことを何とか補いたいためです。)

このようなありさまですが、何とかカウントを認めていただければと思います。

【報告】

小野田神父様

2月のロザリオ数を報告させていただきます。

①御聖堂・教会敷地内ルルド 22環
②移動中のiPhone(教皇様のCD) 12環
③You-Tube動画 16環
計50環

ちなみに、You-Tubeは、このシリーズの動画に、
ファチマの射祷を加えて唱えてます。



これでもよろしいのでしょうか。
ご指導賜れば幸いです。

【お返事】
Youtubeを拝見しました。とても良いと思います。すごい!
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】

+Ave Maria!

小野田神父様、聖務にお忙しいのに私たち日本の信徒のために
ブログやご連絡をありがとうございます。
拙くもロザリオ十字軍の意向で唱えましたロザリオの報告をさせていただきます。

8人で2月分として417環を御捧げいたしました。

まだまだがんばりが足りないようで、申し訳ありません。
今月3月、頑張ります。また毎日の自分の職務や境遇、つらいことを御ミサの犠牲に一致して聖母の汚れ無き御心にお捧げいたします。
小野田神父様、どうぞお身体を大切になさってくださいますように。

至聖なるイエズス様の聖心よ、我らをあわれみたまえ。
聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈りたまえ。
いとも尊き聖ヨゼフ、我らのために祈りたまえ。

【報告】

アメリカ在住のヨゼフさん     28環
兵庫県のシスターマリア     33環

【報告】
アヴェマリア!
報告が遅くなりましたが、2月分のロザリオの十字軍の報告をさせていただきます。
フランシスコ     28環
モニカ        28環
テレジア       84環
カトリック教会に、聖伝の信仰が戻ってきますように。


コメント

アルゼンチンより──「同性婚」に関する法案の可決と司教団の反応の分析

2014年03月06日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 3月19日は聖ヨゼフの祝日であり、また、フランシスコ教皇様の在位1年周年でもあります。そこで、記事を掲載することをお許しください。この記事は、DICIなどに掲載されていたもので、すでにずっと前からとても寛大で親切な方によって翻訳がすんでいたものですが、ご紹介することがずっと遅れてしまったことをお詫び申し上げます。日本語に訳してくださった方には心から感謝します。


天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


アルゼンチンより──ブシャクール神父による「同性婚」に関する法案の可決と司教団の反応の分析


原文はこちら

アルゼンチンより──ブシャクール神父による「同性婚」に関する法案の可決と司教団の反応の分析

二〇一〇年七月二十六日

聖ピオ十世会南アメリカ管区長、クリスチャン・ブシャクール神父は、以下の公式声明を発表した。ブシャクール神父はDICI編集部に、法案の可決に関する次のような正確な詳細を知らせることに同意した。可決に関して、アルゼンチンの聖職者階級が演じた役割に、公式メディアが報道したこととは別の観点から光を当てている。

今月七月十五日の午前四時、丸一昼夜に渡る激論が戦わされたのち、賛成三十三票、反対二十七票、棄権三票の結果、上院議員らは同性婚の法案を可決しました。この可決によって、彼らはアルゼンチンをカルワリオの足元に投げ出しました。「同性婚」だけでなく、同性愛者たちによる児童の養子縁組の合法化によってもです。この嘆かわしい数時間中、可決以上の恥ずべき抗争がありました。一部のカトリック上院議員らの降伏と議会の一部の議員らの欠席です。(フランスで)堕胎法案に賛成票が投じられた時、私たちが経験した場合と同じようにです。討論はときおり、途方もなく激烈なものになりました。カトリックの女性上院議員が、結婚は天主の法に従うべきであると立派な弁護を述べました。可決法案の擁護者らは彼女をナチ党員のようだと言って侮辱し、攻撃しました。彼女はカメラの前で涙ぐんでうなだれました。以下のことが知られるべきです。この法案可決は次のような下院の仕業、つまり、大差をつけられて、この法案を承認した下院によってなされたのだと。憶測するところ、上院議員らはこの計画の承認を拒否するだろうと大部分の人々は考えていました。計画の傍らでこっそりと行われた取引と、一部の人々の臆病が、可決への方向転換をやり遂げたのです。

司教団は確かに断固とした抗議の反応を示しましたが、遅すぎました……。大規模なデモンストレーションの間、司教たちは締まりのない、ひどくトーンダウンしたメッセージを発しました。例を挙げましょう。法案投票の前日、ブエノスアイレス大司教、ベルゴリオ枢機卿の担当地域の平信者たちは、巨大なデモンストレーション運動を……福音派の信者たちと組織しました。一二〇万人の人々がいました。枢機卿はメッセージを一女性に託し、彼女が読み上げました──枢機卿は欠席しました。このメッセージはただ自然法からのみ論じていました。天主のみ名には言及されることすらなく、これは人口の九十パーセントがカトリック信者である国、アルゼンチンでは考えられないことです。聖母のみ名も口にされることはありませんでした。これも聖母に捧げられたこの国では同じように信じ難いことです。つまり、ベルゴリオ枢機卿は低姿勢で対応したのです。それに反して、福音派の牧師の説教は大変熱烈なものでした。その中で、彼は天主の権利、十戒その他を擁護しました……。彼は群集の共感を得ました。そして福音派の祈り、プロテスタント信者たちにとって解決の鍵であるかのように思われる祈りを、朗々と、雷鳴のように響き渡る声ではっきりと唱えました。悲しいかな、全信者が待っていたにも関わらず、カトリックの祈りは一つも唱えられませんでした。枢機卿のスピーチの後、多くのカトリック信者たちは落胆したのみならず、反逆をも起こしたのは明らかでした。数えきれないほど多くのカトリック信者たちが、裏切られたという思いで口々に叫びました。カトリックの群集は嘆きながらその場を去りました。

私は、聖伝派運動のフランスの雑誌や新聞で、アルゼンチンの司教たちは大変勇気があったと書かれた記事を読みました。わずかの例外もなく、これは真っ赤な偽りです! ベルゴリオ枢機卿に話を戻しますが、彼はブエノス・アイレスのカルメル会修道女たちに特筆すべき手紙を送りました。でも、この手紙はインターネットにアップされたとはいえ個人的なものです。全カトリック信者は七月十三日の集会の間、この手紙と同じ内容のスピーチを待ち望んでいました。でも違っていました──大変落胆させられました。彼は迎え撃とうとも、揺さぶりをかけようともしませんでした。

加えて、司教団はこの計画に応戦するため、いかなる超自然的手段も使いませんでした。信者たちはロザリオの十字軍を提案し、たくさんのミサにあずかり、犠牲を捧げることで熱狂的に答えたというのにです……。国家レベルでは何も、何ひとつ組織されませんでした! しかしながら、アルゼンチンのカトリック信者たちは、自分たちの牧者たちからの訴えに寛大に応える方法を知っています。アルゼンチンのルルドと呼ばれるブエノス・アイレスのルハン(Lujan)では、毎年、天主のおん母を讃えるため、七十キロの道のりを巡礼する百万人近い巡礼者たちがいるのです。 

カトリック教会は、この手痛い敗北とともに公会議後の時代における信仰からの逸脱を償っています。教会のメッセージは十年間、中道左派の政党のものであり続けています。教会の言葉は、日ごとに聞き取れなくなっています。若者たちは教会を見捨て、プロテスタントのセクトがその宗派を広げています。

この状況への回答として、南アメリカの聖ピオ十世会管区は、各修道院と教会で償いのミサを捧げる予定です。この償いのミサの大部分は七月二十二日、聖マリア・マグダレナ──自らの罪に涙した悔悛女の祝日に立てられるでしょう。私たちもまた、国家の公選役職者たちが、天主に対して犯した重大な罪を悔やんで泣き、天主に赦しを乞うでしょう。今まで、一部の司教たちが、他に類を見ない、この国の運命を決定づける方法で可決されたこの法案に対し反撃を返しましたが、司教評議会はいまだに何の声明も出していません。

最後に、実に憂慮すべきことは、南アメリカではアルゼンチンが最初にこの法案を可決した国であるということです。ドアは半分開かれました。今や南アメリカ大陸の全国家が、次から次へと同じ倫理観を受諾しようとして突進するでしょう……アルゼンチンは南アメリカにとって、ヨーロッパにとってのフランスのようなものです。この国は悪い模範となることを証明しました。引き続いて混沌の中へと入って行くでしょう……天主が我らをあわれみ給わんことを!

二〇一〇年七月十七日のメールより、クリスチャン・ブシャクール神父
(Source: FSSPX – DICI N°219 of July 24, 2010)


以下は、一年前の話題です。

原文はこちら

白のスータンと「名誉教皇 "Pope Emeritus"」の称号、周囲を瞠目させる

二〇一三年三月十五日

I.MEDIAによると、内々にコンクラーベを準備中の聖省本部では、ベネディクト十六世が白いスータンを着用し続け「名誉教皇」の称号を用いることを決めたことに、一部の者が驚きを隠せないでいるということである。後継者である教皇が不快に思うかも知れないとの判断からである。

教皇庁最高裁判所長官、アメリカ人のレイモンド・レオ・バーク枢機卿は、ベネディクト十六世が黒ではなく白のスータンを選んだことについて当惑したと報道された。確かに、ヴァチカン報道局長フェデリコ・ロンバルディーニ神父は、ベネディクト十六世の正式な退位の二日前、二月二十六日に、彼が今後「簡素な白のスータン」を着用すると告知していた。

教会法学者でありラテラノ大学校長代理Patrick Valdrini司教は、イタリア日刊紙Avvenire上とKTOで、教皇の退位にあたり「ベネディクト十六世はローマ名誉司教となり、ペトロの座を退きました。従って、私の意見を述べるなら『ローマ名誉司教』の呼び名が最も正確であるかも知れません」と述べている。同様に、イエズス会司祭であり教会法学者のGianfranco Ghirlanda神父はLa Civiltà cattolicaでこのように説明した。「ペトロの役職を終える者は司教であり続けるものの、言うまでもなくもはや教皇ではありません」(Sources: kipa-apic.ch – imedia – KTO – DICI no. 272 dated March 15, 2013)


昨年、聖ピオ十世会アメリカ管区のサイトの、トップページの中程に "Pope Francis, but without the number" という記事がありました。

教皇フランシスコに一世は付けない

バチカンAP通信─新教皇の公式な名は教皇フランシスコであり、ローマ数字を付けないとバチカンは述べている。広報担当のフェデリコ・ロンバルディーニ神父は、全世界に向けて新教皇の名を告げたジャン=ルイ・トーラン枢機卿が、単にフランシスコと述べたことに留意し、いささかの混乱があると想定し、これを解決しようと努めた。第一バチカン公会議の公報には、新教皇に関する慣習が記載されている。「後世、フランシスコ二世が出てから、フランシスコ一世と呼ばれるでしょう」とロンバルディーニ神父は軽いユーモアで答えた。

【フランシスコ一世 Franciscus Primus というのは、Walter Francis Murphy の1979年の小説「キリストの代理者」(The Vicar of Christ)の登場人物だそうです。】


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3月2日:テオドール・フォルカード司教の生誕98周年

2014年03月06日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、
ご無沙汰しております。いかがお過ごしでいらっしゃいますか?

 3月は、聖ヨゼフの聖なる月です。聖ヨゼフにノベナの祈りをすることを提案します。

 今年は、日本が聖母の汚れなき御心に奉献されて170周年ですのでフォルカード司教様の話をすることをお許しください。

【3月2日:テオドール・フォルカード司教の生誕98周年】

 3月2日は、テオドール・フォルカード(フランス語: Théodore-Augustin Forcade、1816年3月2日-1885年9月12日)司教の生誕98年周年でした。

フォルカード司教は、父 Auguste-Louis Forcade、母 Augustine Joséphine Alexandrine Giroustの間に1816年3月2日、ヴェルサイユで生まれました。

ヴェルサイユの神学校を卒業後に、神学校で1年ほど哲学を教える。ヴェルサイユの病弱な小教区司祭を助け、大きな成果を上げます。

1839年3月16日、パリ外国宣教会の司祭として叙階され、1842年に極東の宣教のために船で旅立ちます。

日本は1640年から鎖国をしていました。清国は1830年代から列強に開港しつつありました。

1840年5月、阿片戦争が起こり、その結果、1842年「英清(えいしん)南京条約」が締結され、上海、寧波、福州、厦門、広東など五港が開かれます。

1844年07月03日、マカオ郊外の望厦村において、イギリスに南京条約で認めた内容とほぼ同様のことを定めた修好通商条約がアメリカと結ばれ、これを「米清(べいしん)望厦(ぼうか)条約(じょうやく)」と言います。

1844年10月24日、広州郊外の黄埔において、フランスと清の間にも「仏清(ふつしん)黄埔(こうほ)条約」も締結されます。清国全権として耆英(きえい、1790-1858)と、フランスの外交官ドゥ・ラグルネ(Theodore-Marie-Melchior-Joseph de Lagrené (1800-1862)との間の交渉で、特に、この条約ではフランスのカトリック宣教師の中国入国の自由が最初に規定されました。

フランス印度支那艦隊司令官セシーユ提督は将来日本とも市場開拓を兼ねて宣教師の琉球滞在を提案していました。そこで、フォルカード神父は、琉球王国の尚育王の許可を受けて琉球王国や日本でも宣教活動を始めようとし、1844年3月11日、パリ外国宣教会テオドール・アウグスト・フォルカード神父(当時24歳)は、中国人通訳アウグスチノ高伝道士と琉球王国の那覇に上陸します。

そして、今から170年前の1844年5月1日に、日本を聖母の汚れなき御心に奉献し、沖縄に2年間滞在します。

1846年3月27日(弘化三年四月六日)、日本代牧区が設立されフォルカード神父が代牧に任命され(évêque de Samos in partibus infidelium, Titular Bishop of Samos)、1846年から1852年まで日本使徒座代理区の名目上の大司教を務めます。(1847年2月21日(弘化四年正月七日) ローマで司教聖別を受けて、日本に戻ろうとします。しかし何らかの理由で、香港に行くことになります。)

1848年(嘉永元年八月十五日)に香港へ帰着してみると六月一日には琉球滞在中のマッシュ・アドネ神父(Mathieu Adnet, 1813年12月8日 - 1848年7月1日)が亡くなり(享年34歳)、七月二十八日ピエール・マリ・ルチュルジュ神父とアウグスチノ高は、香港へ引き揚げでいたことを知らされます。

1850年フォルカード司教は日本代牧の辞職を願い出ると、1852年1月、日本代牧辞職が認められます。

1851年、パリ外国宣教会を去って、フランス領カリブ海にあるグアダルペ教区長になっています。


【3月2日:その他】

 天主様は、大宇宙とこの地球の全ての生物を創造しましたが、大変神秘的です。今から2年前の2012年3月2日に亡くなったローレンンス・アンソニー(Lawrence Anthony)という南アフリカの人のことを最近知りましたので、ご紹介させてください。

2月28日(金)に、童謡の「ぞうさん」で有名なまど・みちおさんが老衰のため東京都内の病院で亡くなられたそうです。104歳だったそうです。最近知った話によると、2年前の2012年3月2日には、ぞうさんのお友達のローレンス・アントニーが亡くなると、象たちが不思議なことに彼の家に集まってきたそうです。

 ローレンンス・アンソニーは1950年9月17日、ジョハネスバーグに生まれ、クワズールーナタール州最古の私設野生動物公園「トゥラトゥラ」(Thula Thula)を購入します。2000ヘクタールのトゥラトゥラ(「静か」の意)に、1999年、ジンバブエの生まれ故郷から無理やり移動させられ、その過程で子供たちを殺された野生の象たち7頭を迎えます。象は人間に対する怒りと不信感に満ちていましたが、アンソニー氏はその象たちの信頼を勝ち取ることに成功。象人口は順調に増加し、現在では群2つ、計20頭の象がトゥラトゥラで暮らしているそうです。この体験は『The Elephant Whisperer』(2010年)という本にまとめられました。(日本語訳『象にささやく』ローレンス アンソニー (著), グレアム スペンス (著), 中嶋 寛 (翻訳) )

 「象に囁く人」が世界的に有名になったのは、2003年、戦火のイランへ飛び、バクダッド動物園の動物たちを救出した時で、この物語は『Babylon's Ark』(バビロンの箱舟)として、2008年に出版された。(日本語訳は、『戦火のバグダッド動物園を救え―知恵と勇気の復興物語』ローレンス アンソニー (著), グレアム スペンス (著), 青山 陽子 (翻訳) )

 2012年3月2日金曜日の早朝、アンソニー氏は自宅のベッドで息を引き取った。享年61歳。死因は睡眠中の心臓発作。そして、不思議なことが起こったそうです。一年半も姿を見せなかった象の群がふたつとも、アンソニー氏が亡くなって間もなく、家にやってきたのです。象たちがいた場所からアンソニー氏の家まで、象の足で12時間はかかると推定されているから、恐らく別の場所にいたふたつの群は、何らかの形でアンソニー氏の死を「察知」し、すぐ駆けつけたようです。まるで、アンソニー氏に「さよなら」を言うように。そして、別れを名残惜しんでいるかのように。
(以上は、【参考資料】象も悲しんだ 環境保護活動家ローレンス・アンソニーの死を参考にしました。)

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 もしも象でさえ恩人にお礼をするのなら、天主様からたくさんの恵みを受けている人間ですが、天主が私たちの罪の償いのために十字架で亡くなったことをどれほど感謝しなければならないでしょうか!

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
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