Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

私は御身を信じ礼拝し希望し御身を愛します!御身を信ぜぬ人々礼拝せず希望せず愛さぬ人々のために赦しを求めます(天使の祈)

第二バチカン公会議のヒューマニズムの主観主義:信仰の対象と啓示された真理についての半分だけの真理(half truth)

2019年12月03日 | 第二バチカン公会議
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ヒューマニズム(人間中心主義)について考察を続けましょう。

ヒューマニズムは、自由の御旗を打ち立てて自由を要求しました。最初に求めたものは、思想の自由です。自分の意見に責任を持ちたい、と主張しました。

そこで、最初に、神学者たちの権威を無視して、それから自由になろうとしました。

神学者たちは、信徒たちに教会の教導権の教えを伝える聖職者らです。彼らは、司教ら高位聖職者から成る教導教会(Ecclesia docens)の監督の下で、聴従教会(Ecclesia discens)に信仰箇条を説明する役割を担っています。

神学者たちは、いわば、司教と信徒たちの中間に立つ、信徒たちの教師です。彼らは、自分の才能と優秀な頭脳とを使って、祈りと研究とに一生を費やし、聖書と聖伝を研究します。聖書を読み、教父たちの書いた書籍を読み、特にギリシアの知恵の教養を持ち、教えを信仰と理性との光で解説します。

ところが、自由の御旗のもとに、ルネッサンスの人文主義者(ヒューマニスト)たちは、自分でギリシア語原文を読み、自分の意見を自由に考えだし、先生の指導はいらない、と主張し始めました。教師の指導の代わりに、独学用の本だけで良い、と。ルネッサンスには、ギリシア語やアラビア語から多くの本が翻訳されました。反聖職者主義がこれに一役買いました。

ところで、スコラ神学の専門家は、既にこれらの原文を知っており、或いは原典で読んでおり、神学者の主張と別のことを主張したり、独特な特異な見解を述べるためには、思想の自由だけでは不足でした。

そこで、スコラ神学の思索の厳密さを攻撃するためには、別の武器が必要となりました。その新しい材料が主観主義で、オッカムのウイリアムの唯名論によって始まりました。

イヌはイヌを産み、ネコはネコを産む。イヌはオオカミを産まないし、ネコはライオンを産まない。種は交わらない。たとえ目に見えずとも、イヌをイヌとさせるものが現実に客観的に実在する。これに対して、オッカムは「イヌ」とは単なる人間の頭の中にある名前にすぎない、と主張しました。

主観主義は、自分の頭の中しか知ることができない、自分の頭の外のことは知り得ない、とする主張です。

「危ないぞ!自動車が来るぞ!右によけろ!」と言われても、夏の夜に山をウロウロするとヤブ蚊に刺されて大変な目に遭っても、コーヒーの中に、白いから砂糖だろうと塩を入れてまずくなったコーヒーを飲んでも、現実の世界を知り得ないと主張します。

主観主義は、デカルトの方法的懐疑論、カントの観念論を経て、主観は客観であるとする狂気のようなヘーゲルの観念論にたどり着きます。狂人の特徴は、現実世界と自分の頭の中の世界との区別が出来なくなることにありますが、ヘーゲルはそれと同じこと(意識こそ現実)を主張します。主観主義は、ついに人間理性を狂わせてしまいます。

主観主義の危険については、例えば、聖ピオ十世が回勅「パッシェンディ」で、またピオ十二世が回勅「フマニ・ジェネリス」でその誤りを指摘しています。

「近代主義者たちは宗教哲学の基礎を一般的に不可知論と呼ばれている教説に置いています。この教えによれば「人間の理性はことごとく現象の領域、即ち現れ見えるもの、およびそれらのものが現れ見える様態に限定されているのであり、理性にはこの限界を越える権利も力もない」とされています。したがって、「人間の理性は目に見えるものを通して天主にまで自らを上げること、および天主の存在を認識することができない」ことになります。この結果、「天主は決して学問の直接の対象たり得ず、そして、歴史学に関しては、天主は歴史的主題と見なされてはならない」ということが導き出されます。これらの前提を前にすれば、誰もが直ちに自然神学、[カトリック信仰の]信憑性の根拠、外的啓示といった事柄がどのようになってしまうかを見て取るでしょう。近代主義者たちは、これらを完全に取り除けてしまい、彼らがばかばかしく、また久しくすたれた体系と見なす主知主義の中に含めるのです。また、教会がこれらの忌まわしい誤謬を正式に排斥してきたという事実も、彼らにいささかの歯止めを利かせることにもなりません。」聖ピオ十世が回勅「パッシェンディ」

「一部の人は、"神学において、教義の意味を最小限に縮め、そして教義自体を教会において長きにわたって定着してきた用語、ならびにカトリックの教師たちによって保持されてきた哲学的概念から解き放つ"ことを欲しています。これは"カトリックの教理の説明にあたって、聖書や教父の著作で用いられている言葉遣いに戻る"ことをよしとするからです。彼らの望みは、"天主の啓示に非本質的と彼らが考える要素が、教義から取り除かれれば、教会の一致から離れている人々の教義的信念とよりよく対応するものとなるだろう"ということです。このようにして、彼らは"カトリックの教義とカトリック教会と一致していない者たちの信条とを徐々に、互いに近付け、同化する"ことを目しているのです。
さらに、彼らはカトリックの教理がこのような条件の下に置かれたならば、現代的必要を満たす方法が見つかると主張しています。つまり、このようにして、"教義が内在主義であれ、観念主義であれ、実存主義、あるいはその他どのような体系のものであれ、現代哲学の概念によって表すことができるようになる"と言うのです。
そして、さらに大胆な者たちは、このことが成し得るばかりではなく、成さねばならないと断定します。なぜなら彼らの主張によると、"信仰の諸々の神秘は決して真に十全な概念によって表現されることができず、ただ近似的かつ常に可変的な観念によってのみ表され得るのであり、その場合、真理はある程度まで表現されるものの、必然的に歪められてしまう"からで、したがって、"神学が新しい概念を古い概念に取って代えてしまうことを浅はかであるどころか必要なこと"と彼らは見なすのです。
以上述べてきたことによって、このような試みは、教義相対主義と呼ばれるものへと導くだけでなく、実際にそれをすでに含んでいるということは明らかです。共通に教えられている教義および、それらを表現する用語に対する軽視は、この思潮を大いに助長します。」回勅「フマニ・ジェネリス」

第二バチカン公会議の新しいヒューマニズムは、人間理性を狂わせないために、主観主義の度合いを低くします。かといって、第二バチカン公会議は主観主義を全く止めたわけではありません。何故なら、思想の自由を保つためにある程度の主観主義が必要だからです。

では、どのように排斥された主観主義を、教えの中に埋め込むのでしょうか?半分だけの真理を使います。

半分真理である「人間の言葉であるドグマの用語が完全に表現しきれないこと」を使います。

これによると、啓示とは、神秘的天主が御自身を隠さずに示すことで、信仰とはこの天主の神秘を受けることである、とします。これはさらに議論を進めて、この信仰の体験は、概念的な用語で表現される傾向があり、教会の位階秩序の承認を通して、この言い回しがドグマとなる、と主張します。さらには、このドグマの用語や言い回しは、信仰に関する共同体的な体験の表現であるけれども、しかし信仰の対象それ自体を完全に表現しきることは出来ない、信仰とは天主を信じることであって、天主に関する概念的な言い方を信じることではない、と主張します。

確かに、信仰の対象とは、天主の神秘・神秘的な天主です。しかし、これは、信仰の半分にすぎません。

何故なら、聖トマス・アクィナスは「信仰の対象は、二つのやり方で考えられる」と教えているからです。

「一つのやり方では、信じられる事柄それ自体に関して、信仰の対象は非複合的な何か(aliquid incomplexum)である。すなわち、それについて信仰される現実それ自体である。
別のやり方では、信じる人に関して、これに従っては、信仰の対象は命題のやり方を通して何らかの複合的なものである。」(第二部の二、第一問第二項)

Sic igitur obiectum fidei dupliciter considerari potest. Uno modo, ex parte ipsius rei creditae, et sic obiectum fidei est aliquid incomplexum, scilicet res ipsa de qua fides habetur. Alio modo, ex parte credentis, et secundum hoc obiectum fidei est aliquid complexum per modum enuntiabilis.

つまり、信じられるそのこと自体、私たちが信じているその神秘的な現実、つまり、天主の神秘、が「信仰の対象」と言われます。

さらに、信仰の対象とは、信仰している人にとって、或る命題であって、キリスト教の教えでありドグマです。

ですから、信仰の対象という啓示された真理には、二つの側面があります。天主の現実(私たちが同意しようが信じようが、私たちとは全く独立して存在している神秘的な真理の現実)と、使徒信経の箇条に要約された教え(私たちの把握している真理)です。

もちろん、信仰の教義・教えは、天主を完全に私たちに知らせることはできません。天主の無限の現実は、限られた人間の概念では完全に把握することが出来ないからです。しかし、人間の言葉で語られた信仰の教義は、私たちが天主のことを知り、天主を愛し、霊魂を救うようにさせるのに十分です。

啓示された教え、私たちが耳から聞いた信仰の教え(fides ex auditu)は、天主の神秘を全て完全に把握させるように対応するものではなかったとしても、私たち人間が知り、私たちが救いのために必要とする知識を得させるためには、私たちにとても相応しいやり方です。

第二バチカン公会議後の神学は、信仰の対象と啓示された真理を、第一のやり方(信じられた神秘そのもの)だけで理解し、天主は教えを啓示せずに御自身を啓示したのだ、と主張し、第二の信仰の対象(信仰の教え・言葉で表現された教義)を否定しようとします。

こうすることによって、啓示された真理と聖伝は変わらない(何故なら神秘である天主そのものが啓示され伝えられたので、これは不変だから)、しかし、この神秘を表現する概念的な言葉による用語や言い回しは、いつどこで誰がどう言うかにしたがって、歴史的な文脈や文化的な環境によって、主観的にいつも同じであるとは限らない、と主観主義を隠し入れます。

(続く)

野村よし著「マネジメントから見た司教団の誤り」という本を読んで:マネジメントの問題なのだろうか?
日本だけの問題か?韓国でもそうだ。一体何故?
人間中心主義とは? 権威の拒否の運動
国家とカトリック教会との分離の始まりと、人間中心主義による民主主義の問題点
ヒューマニズムは、何故、自由が人間の最高の価値だと考えるリベラリズムへとたどり着いたか?
人間の尊厳の理由は?:聖寵によって天主の本性に参与するまで高められたこと vs 人間の自由と自律

これを書くに当たってPrometeo. La religion del hombre (2010) by Padre Alvaro Calderon を参考にしました。

コメント

「現代世界憲章」第二部 若干の緊急課題 第5章 平和の推進と国際共同体の促進(その2) の羅和対訳

2019年12月03日 | 第二バチカン公会議

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
第2バチカン公会議公文書の「現代世界憲章」の「第二部 若干の緊急課題 第5章 平和の推進と国際共同体の促進(その2)」の原文を対訳でご紹介します。

86. De quibusdam opportunis normis. 86(若干の有益な基準)
Pro hac cooperatione sequentes normae opportunae videntur:  この協力のために、次の基準が有益であると思われる。
    a) Gentes progredientes valde cordi habeant ut tamquam finem progressus expresse et firmiter plenam perfectionem humanam suorum civium appetant. Meminerint ex labore ante omnia et ingenio ipsarum gentium oriri et crescere progressum quippe qui non solis opibus alienis, sed propriis plene explicandis necnon ingenio et traditione propria colendis imprimis inniti debeat. Qua in re illi excellant oportet, qui maiorem influxum in alios exercent.  a)開発途上にある諸国は、開発の目標を国民の人間としての完成に置き、これを熱心に求めなければならない。開発はなによりもまず国民自身の努力と才能によって始まり、また実現してゆくことを記憶すべきである。開発は外国からの援助だけでなく、まず自国の資源の十分な活用と、自国の長所と伝統の育成に依存しているからである。他人に大きな影響を与える人々は、この事に関して、模範を示さなければならない。
    b) Gentium autem progressarum officium gravissimum est progredientes populos ad supradicta munera implenda adiuvandi. Quapropter mentales et materiales accommodationes, quae ad hanc universalem cooperationem stabiliendam requiruntur, apud seipsas perficiant.  b)開発途上にある諸国が上述の任務を遂行するよう援助することは、先進国の重大な義務である。したがって先進国は、この世界的協力を樹立するために要求される精神的、物質的調整を自国内で行わなければならない。
    Ita in negotiatione cum debilioribus et pauperioribus nationibus bonum illarum sedulo respiciant; nam hae proventibus quos ex venditione rerum a se productarum accipiunt, ad propriam suam sustentationem indigent.  同様に、弱い恵まれない国々との貿易に際しては、これらの国の利益を慎重に考慮すべきである。これらの国は自国の生存のために、国産品の売却による収入を必要とするからである。
    c) Communitatis vero internationalis est incrementum componere et stimulare, ita tamen ut de opibus ad hoc ordinatis quam efficacissime et plena cum aequitate disponatur. Ad hanc quoque communitatem pertinet, principio subsidiarietatis utique servato, rationes oeconomicas in toto mundo ordinare ut ad normam iustitiae explicentur.  c)経済発展を調整し促進することは国際共同体の務めである。したがって、この目的のために指定された資源が最も有効、平等に分配されるようにしなければならない。相互補足の原理を尊重したうえで、全世界における経済的関係が正義の規範に基づいて展開されるよう、それを規制するのも国際共同体の務めである。
    Condantur instituta apta ad promovenda et ordinanda negotia internationalia, praesertim cum nationibus minus progressis et ad compensandos defectus qui ex nimia inaequalitate potentiae inter nationes manant. Huiusmodi ordinatio, cum adiumentis technicis, culturalibus et nummariis coniuncta, nationibus ad progressum intendentibus subsidia necessaria praestare debet ut incrementa oeconomiae suae convenienter consequi valeant.  国際貿易、特に低開発国との貿易を促進し規制するため、また国家間の力の大きな不均衡から生ずる欠陥を補償するための適当な機関を設立するべきである。技術的、文化的、財政的援助を伴うこのような規制によって、開発を目ざす国々がそれぞれにふさわしい経済成長を遂げることができるように、必要な補助を提供しなければならない。
    d) In multis casibus urget necessitas recognoscendi oeconomicas socialesque structuras; sed cavendum est a solutionibus technicis immature propositis, imprimis ab illis quae, dum homini commoda materialia praebent, eius spirituali indoli ac profectui adversantur. Nam "non in solo pane vivit homo, sed in omni verbo quod procedit de ore Dei" (Mt 4,4). Quaelibet autem humanae familiae pars in seipsa et in suis melioribus traditionibus aliquam partem thesauri spiritualis a Deo humanitati concrediti secumfert, etsi multi nesciunt ex qua origine procedat.  d)多くの場合、早急に経済的、社会的構造を改革する必要がある。しかし未熟な技術的解決案、特に物質的利益をもたらしても人間の精神性と精神的向上に反するような解決策を避けなければならない。「人間はパンだけで生きているのではなく、神の口から出るすべてのことばで生きている」(マタイ 4:4)からである。人類家族を形成するそれぞれの民族は、多くの人はその起源を知らないが、自分の中に、またそのすぐれた伝統のうちに、神から人類に託された精神的富の一部分を保有している。
87. De cooperatione internationali quoad incrementum incolarum. 87(人口増加についての国際的協力)
Maxime necessaria evadit cooperatio internationalis relate ad illos populos qui hodie sat frequenter, praeter tot alias difficultates, ea peculiariter premuntur quae ex rapido incremento populationis oritur. Urget necessitas ut per plenam et impensam cooperationem omnium, praesertim ditiorum nationum, exploretur quomodo ea quae ad victum et ad congruam instructionem hominum necessaria sunt, parari et cum tota communitate humana communicari possint. Nonnulli vero populi suae vitae condiciones multo meliores reddere possent si, debita instructione exculti, a methodis antiquis pro bonis agrariis gignendis ad novas artes technicas transirent, eas cum necessaria prudentia suis condicionibus applicantes, ordine sociali meliori insuper instaurato et terrarum possessionis distributione aequius ordinata.  今日、他の多くの困難に加えて、特に急激な人口増加から生ずる困難に悩んでいる国々に対する国際的協力が最も必要ある。諸国、特に富める国々が充実した惜しみない協力によって、生活必需品と適切な人間教育に必要なものを全人間共同体のために準備し分配する方法を、緊急に探し出さなければならない。ある国々の国民は、正しい訓練を施し、古い農耕の方法を改めて新しい技術を採用し、それを必要な慎重さをもって、現地の状況に適応させ、社会秩序を改善して私有地のより公正な分配を規制するならば、大いに生活条件を改善することができるであろう。
Gubernii quidem sunt iura et officia, problema populationis in sua natione quod attinet, intra propriae competentiae limites; ut puta in ordine ad legislationem socialem et ad familias respicientem, ad transitum ruricolarum ad urbes, ad informationes circa statum et necessitates nationis. Cum hodie mentes hominum de hoc problemate tam vehementer agitentur, optandum quoque est ut de his omnibus periti catholici, praesertim in Universitatibus, studia et incepta sollerter prosequantur et latius evolvant.  政府は自国内の人口問題に関して、その固有の権限の範囲において、たとえば社会と家族に関する立法、農村人口の都市への移動、国の状態と必要に関する情報などについて、権利と義務を持っている。今日、この問題について人々の心は激しく動揺している。そのため、カトリックの専門家が、特に大学において、これらすべてについて熱心に研究と計画を続け、また発展させることが望まれる。
Cum autem a multis affirmetur incolarum orbis incrementum, vel saltem quarumdam nationum, omnibus mediis et cuiusvis generis interventu auctoritatis publicae funditus omnino minuendum esse, Concilium omnes hortatur ut caveant a solutionibus publice vel privatim promotis et quandoque impositis, quae legi morali contradicunt. Nam iuxta inalienabile hominis ius ad matrimonium et generationem prolis, deliberatio circa numerum prolis gignendae a recto iudicio parentum pendet ac nullo modo auctoritatis publicae iudicio committi potest. Cum autem parentum iudicium conscientiam recte formatam supponat, magni momenti est ut omnibus aditus praebeatur ad colendam rectam et vere humanam responsabilitatem quae legem divinam, attentis adiunctis rerum et temporum, respiciat; hoc vero exigit ut passim condiciones paedagogicae et sociales in melius mutentur et imprimis ut formatio religiosa vel saltem integra moralis institutio praebeatur. De progressibus porro scientificis in explorandis methodis quibus coniuges iuvari possint in ordinando numero prolis, quarum firmitas bene probata est et congruentia cum ordine morali comperta habetur, homines sapienter certiores fiant.  世界の人口増か、少なくともある国々の人口増加を、すべての手段と公権のあらゆる種類の介入とによって根本的に減少させなければならない、と主張する人々が多い。道徳法に反する解決策は、たとえそれが公的または私的に奨励され、ときには命令されていてもこれを避けるよう、公会議は、すべての人に勧告する。人間は結婚と子供を産むことについての譲ることのできない権利を持っており、それによって、子供を何人産むかに関する決定は、両親の正当な判断に依存するものであり、けっして公権の判断にゆだねることはできないからである。しかし、両親の判断は正しく形成された良心を前提とする。そのため時代と事情を考慮しながらも神の法を尊重する真に人間的な正しい責任感を養成する機会をすべての人に提供することが重要である。そのためには、各地において教育事情と社会条件が改善され、特に宗教教育または少なくとも十分な道徳的訓練が行われることが必要であろう。産児数の調節に関して配偶者たちを助けることができる方法、確実性が証明され、倫理秩序にかなうことが明白である学問的研究の進歩を、慎重に人々に知らせるべきである。
88. De munere christianorum in subsidiis praestandis. 88(援助提供に関するキリスト者の任務)
Ad ordinem internationalem cum vera observantia legitimarum libertatum et amica fraternitate omnium aedificandum, christiani libenter et toto corde cooperentur, idque eo magis quod maior pars mundi tanta adhuc egestate laborat ut in pauperibus Christus Ipse quasi alta voce caritatem suorum discipulorum evocet. Ne igitur scandalo sit hominibus aliquas nationes, quarum saepius maior numerus civium christiano nomine ornatur, bonorum copia abundare, dum aliae rebus ad vitam necessariis priventur ac fame, morbis omnimodaque miseria cruciantur. Sunt enim spiritus paupertatis et caritatis gloria et testimonium Ecclesiae Christi.  正当な自由の尊重とすべての人の兄弟愛をもって国際秩序を建設するために、キリスト者は喜んで心から協力すべきである。世界の大部分が、今もなお過度の貧困に悩んでおり、あたかもキリスト自身が貧しい人々の中にあって大声でその弟子たちの愛に訴えているかのようである現在、キリスト者の協力はなおさら必要である。国民の大部分がキリスト信者である国々が豊富な富みに満ち足りているのに反して、生活必需品にさえこと欠き、飢えと病気とあらゆる悲惨に悩まされている他の国々があるという醜聞を取り除かなければならない。事実、清貧と愛の精神はキリストの教会の光栄であり、あかしである。
Laudandi igitur et adiuvandi sunt illi christiani, iuvenes praesertim, qui sponte seipsos ad aliis hominibus et populis auxilia praestanda offerunt. Immo totius Populi Dei est, Episcopis verbo et exemplo praeeuntibus, miserias huius temporis pro viribus sublevare, idque, ut antiquus mos ferebat Ecclesiae, non ex superfluis tantum, sed etiam ex substantia.  したがって、他の人々や他国民を援助するために献身するキリスト者、特に青年を賞賛すべきであり、かれらを助けるべきである。むしろ現代の悲惨を取り除くために、できる限り力を尽くすことは司教のことばと模範によって導かれる神の民全体の務めである。しかも教会の古い慣習に従って、余り物だけでなく自分に必要な物さえも提供すべきである。
Modus subsidia colligendi et distribuendi, quin sit rigide et uniformiter ordinatus, recto tamen ordine disponatur in dioecesibus, nationibus et in universo mundo, coniuncta, ubicumque opportunum videtur, actione catholicorum cum ceteris fratribus christianis. Spiritus enim caritatis providum ordinatumque actionis socialis et caritativae exercitium nedum prohibeat, potius id imponit. Quare necesse est eos qui se ad nationibus progredientibus inserviendum devovere intendunt, idoneis etiam institutis apte efformari.  援助の募集と配分には厳格で画一的な方法をとらず、しかも、司教区内、国内、全世界において秩序正しく行われるべきである。このことに関してカトリック者は、適当と思われる所では、どこでも、兄弟である他のキリスト者と共に行動するがよい。愛の精神は慎重で秩序正しい社会活動や愛の活動の実践を禁ずるものではなく、かえって命ずるものだからである。したがって、開発途上にある国々の奉仕に献身しようと志す者は、適当な施設において適切な訓練を受ける必要がある。
89. De praesentia efficaci Ecclesiae in communitate internationali. 89(国際共同体における教会の有効な存在)
Ecclesia, cum, divina sua missione innixa, omnibus hominibus Evangelium praedicat et thesauros gratiae elargitur, ubique terrarum ad pacem firmandam et solidum fundamentum ponendum consortionis fraternae hominum et populorum confert: cognitionem scilicet legis divinae et naturalis. Quapropter Ecclesia in ipsa communitate gentium omnino praesens esse debet ad cooperationem inter homines fovendam et excitandam; et quidem tam per suas institutiones publicas quam per plenam ac sinceram collaborationem omnium christianorum, solo desiderio omnibus inserviendi inspiratam.  教会は、神から受けた自分の使命に基づいて、すべての人に福音を説き、恩恵の富を分けるとき、世界中どこにおいても、平和の確立と人々および諸国家間に兄弟的連帯の堅固な基礎を置くこと、神法と自然法の知識を広めることに貢献する。したがって、教会は人々の間に協力を奨励推進するために、どうしても諸国共同体のまっただ中に現存する必要がある。教会のこの現存は、教会の公的機関と、すべての人に奉仕することのみを志すすべてのキリスト者の誠実で惜しみない協力とを通して実現する。
Quod efficacius attingetur si ipsi fideles, suae responsabilitatis humanae et christianae conscii, iam in proprio ambitu vitae voluntatem prompte cooperandi cum communitate internationali excitare satagunt. Cura peculiaris hac in re iuvenibus formandis impendatur, tam in educatione religiosa quam civili.  このことは、人間として、またキリスト者としての責任を自覚した信者自身が、自分の生活環境において国際的共同体とすすんで協力する意欲にもえ立つならば、いっそう効果的に実現するであろう。そのためには、宗教教育においても公民教育においても、青年の養成に特別な関心を払うべきである。
90. De partibus christianorum in institutionibus internationalibus. 90(国際機関におけるキリスト者の役割)
Praecellens quaedam forma navitatis internationalis christianorum absque dubio socia opera est quam, sive singuli sive consociati, in ipsis Institutis ad cooperationem inter nationes provehendam conditis vel condendis praestant. Communitati gentium in pace et fraternitate aedificandae insuper multipliciter inservire possunt variae consociationes catholicae internationales, quae roborandae sunt, auctis numero cooperatorum bene formatorum, subsidiis quibus indigent et apta virium coordinatione. Nostris enim temporibus et actionum efficacitas et colloquii necessitas consociata incepta postulant. Tales consociationes insuper haud parum conferunt ad universalem sensum excolendum, catholicis certe congruum, et ad formandam conscientiam vere universalis solidarietatis et responsabilitatis.  諸国家間の協力を促進するために設立された、または設立されるであろう機関に、個人として、または団体として、協力することがキリスト者の国際的活動のすぐれた形態であることは疑いない。なお種々のカトリック国際団体は、平和と兄弟愛に基づく世界共同体の建設のために多くの点で役だつことができる。したがって、よく訓練された協力者の数と、必要な補助を増し、活動力を適切に調整することによって、それらを強化すべきである。現代においては、効果的な活動と対話の必要は合同企画を要求しているからである。そのうえ、このような団体はカトリック者に適する世界的感覚を養成するため、また真に世界的な連帯性と責任感の自覚を形成するために大きく役だつ。
Optandum denique est ut catholici, ad munus suum in communitate internationali rite implendum, actuose et positive cooperare studeant sive cum fratribus seiunctis qui una cum eis evangelicam caritatem profitentur, sive cum omnibus hominibus veram pacem sitientibus.  なおカトリック者がその任務を国際共同体において正しく果たすために、福音的愛を公言する分かれた兄弟たちと、また真の平和をも富めるすべての人と、活発に積極的に協力することが望まれる。
Concilium vero, ratione habita immensitatis aerumnarum quibus maior pars generis humani etiam nunc vexatur, et ad iustitiam simul ac amorem Christi erga pauperes ubique fovendum, valde opportunum aestimat creationem alicuius Ecclesiae universalis organismi, cuius sit catholicorum communitatem excitare ut progressus indigentium regionum necnon iustitia socialis inter nationes promoveantur.  公会議は、人類の大部分を今もなお苦しんでいる多くの社会悪を考え、また貧しい人々に対してキリストの正義と愛をいたるところで奨励するために、全教会の一つの機関を設立することが最も時宜を得たことであると考える。この機関の任務は貧しい地域の開発と諸国家の間における社会正義を推進するようカトリック共同体を奨励することである。
Conclusio 結語
91. De munere singulorum fidelium et Ecclesiarum particularium. 91(個々の信者ならびに部分教会の務め)
Ea quae ab hac Sacra Synodo ex thesauris doctrinae Ecclesiae proponuntur, omnes homines nostrorum temporum, sive in Deum credant sive Eum non explicite agnoscant, adiuvare intendunt ut, suam integram vocationem clarius percipientes, mundum praecellenti dignitati hominis magis conforment, universalem altiusque fundatam fraternitatem appetant atque, sub impulsu amoris, generoso atque consociato conamine, urgentibus nostrae aetatis postulationibus respondeant.  この聖なる教会会議が教会の教説の宝庫から引き出して述べたことは、次のことを目的としている。すなわち、神を信ずる人も神を明白に認めない人も含めたすべての現代人が、その召命全体をますます明らかに理解し、世界を人間の高貴な尊厳にいっそうふさわしいものとし、より深い基準を持つ世界的兄弟愛を求め、愛にかられた寛大な共同の努力によって現代の緊急な養成に答えるものとなるよう、かれらを助けることを目的としている。
Sane coram immensa diversitate tum rerum status tum culturae humanae formarum in mundo, propositio haec in compluribus suis partibus consulto nonnisi indolem generalem prae se fert: immo, licet doctrinam iam in Ecclesia receptam proferat, cum non raro de rebus incessanti evolutioni subiectis agatur, adhuc prosequenda et amplianda erit. Confidimus vero multa quae verbo Dei et spiritu Evangelii innixi protulimus, omnibus validum adiutorium conferre posse, praesertim postquam adaptatio ad singulas gentes et mentalitates a christifidelibus sub Pastorum moderamine ad actum deducta fuerit.  確かに、世界における諸事情と文化形態は多種多様であるため、公会議が述べたことは多くの点において意識的に一般的なものとならざるを得ない。そのうえ、教会の中ですでに受け入れられた教説を述べたが、絶えず発展していく課題を取り扱っている場合も少なくないため今後もいっそう追求し発展させていかなければならない。しかし、われわれが神のことばと福音の精神に基づいて述べた多くの事が実現された時、特に司牧者の指導のもとにキリスト信者によって、それぞれの国や考え方に対する適応がなされた時には、すべての人に有効な援助を提供できる、とわれわれは期待する。
92. De dialogo inter omnes homines. 92(すべての人との対話)
Ecclesia, vi suae missionis universum orbem nuntio evangelico illuminandi et omnes homines cuiusvis nationis, stirpis vel culturae in unum Spiritum coadunandi, signum evadit illius fraternitatis quae sincerum dialogum permittit atque roborat.  教会は福音の知らせによって全世界を照らし、またあらゆる国、民族、文化に属するすべての人を一つの霊の中へ集めるという使命の力によって、誠実な対話を可能にし、強化する兄弟愛のしるしとなる。
Quod autem requirit ut imprimis in ipsa Ecclesia mutuam aestimationem, reverentiam et concordiam promoveamus, omni legitima diversitate agnita, ad fructuosius semper colloquium inter omnes instituendum qui unum Populum Dei constituunt, sive pastores sive ceteri christifideles sint. Fortiora enim sunt ea quibus uniuntur fideles quam ea quibus dividuntur: sit in necessariis unitas, in dubiis libertas, in omnibus caritas (170).  このためには、まず教会自身の中に、相互の尊重、尊敬、協調を盛んにし、すべての正当な相違を承認したうえで、一つの神の民を作っている司牧者もその他のキリスト信者も含めたすべての人の間に、常に実り豊かな話し合いを育てることが要求される。信者たちを分離する要素よりは一致させる要素の方が強いからである。すなわち、必要な事がらにおいては一致、疑わしいときには自由、すべてにおいて愛を重んじるべきである。
Animus autem noster simul complectitur fratres nondum nobiscum in plena communione viventes eorumque communitates, quibus tamen coniungimur confessione Patris et Filii et Spiritus Sancti ac vinculo caritatis, memores scilicet christianorum unitatem hodie etiam a multis in Christum non credentibus exspectari et desiderari. Quo magis enim haec unitas, sub potenti virtute Spiritus Sancti, in veritate et caritate proficiet, eo magis universo mundo erit praesagium unitatis et pacis. Quare, unitis viribus et in formis huic praeclaro fini hodie efficaciter assequendo magis magisque aptatis, studeamus ut, Evangelio in dies melius conformati, fraterne cooperemur ad servitium familiae humanae praestandum quae, in Christo Iesu, in familiam filiorum Dei vocatur.  われわれの心は、まだわれわれと完全な交わりの中に生きていないが、父と子と聖霊に対する信仰宣言と愛のきずなによって結ばれている兄弟たちとその共同体を抱擁する。今日、多くのキリストを信じない人々からもキリスト者の一致が期待され要望されていることを知っている。事実、この一致が聖霊の力強い働きのもとに、真理と愛のうちに進められれば、それだけ全世界にとって一致と平和の前兆は大きくなる。したがって、われわれは力を合わせて、このすぐれ目的を今日効果的に実現するためにますます適した形式によって、日増しに福音に従う者となるよう励み、こうして、キリスト・イエスにおいて神の子らの家族となるよう召されている人間家族への奉仕のために兄弟的に協力するよう務めよう。
Animum nostrum proin etiam ad omnes convertimus qui Deum agnoscunt et in traditionibus suis pretiosa elementa religiosa et humana conservant, optantes ut apertum colloquium omnes nos adigat ad impulsiones Spiritus fideliter accipiendas et alacriter implendas.  次に、われわれの心は、神を認め、固有の伝統の中に高貴な宗教的、人間的要素を保っているすべての人に向かう。われわれすべてが、霊の勧めを忠実に受け入れて力強くそれに従う者となるために率直な話し合いが期待される。
Desiderium talis colloquii, quod sola caritate erga veritatem ducatur, servata utique congrua prudentia, ex nostra parte neminem excludit, neque illos qui praeclara animi humani bona colunt, eorum vero Auctorem nondum agnoscunt, neque illos qui Ecclesiae opponuntur eamque variis modis persequuntur. Cum Deus Pater principium omnium exsistat et finis, omnes, ut fratres simus, vocamur. Et ideo, hac eadem humana et divina vocatione vocati, sine violentia, sine dolo ad aedificandum mundum in vera pace cooperari possumus et debemus.  このような話し合いの望みは、真理に対する愛のみに導かれ、適当な慎重さを必要とするが、われわれの側からは何びとをも除外しない。また、人間の高い精神的諸価値を尊重しながら、それらの創造主を認めない人や、教会に反対する人、種々の方法で教会を迫害する人をも除外しない。父なる神はすべての人の起源であり目的であり、われわれはすべて兄弟となるよう召されている。したがって、またこの同一の人間的・神的召命によって召されているわれわれは、暴力と欺瞞梨に、真の世界平和建設のために協力できるし、また協力しなければならない。
93. De mundo aedificando et ad finem perducendo. 93(世界の建設と目的への前進)
Christiani, memores verbi Domini "in hoc cognoscent omnes quia discipuli mei estis, si dilectionem habueritis ad invicem" (Io 13,35), nihil ardentius optare possunt quam ut hominibus mundi huius temporis semper generosius et efficacius inserviant. Itaque, Evangelio fideliter adhaerentes eiusque viribus fruentes, cum omnibus qui iustitiam diligunt et colunt coniuncti, ingens opus in his terris adimplendum susceperunt, de quo Ei, qui omnes iudicabit ultimo die, rationem reddere debent. Non omnes qui dicunt: "Domine, Domine", intrabunt in regnum caelorum, sed ii qui faciunt voluntatem Patris (171) validamque manum operi apponunt. Vult autem Pater ut in omnibus hominibus Christum fratrem agnoscamus et efficaciter diligamus, tam verbo quam opere, ita testimonium perhibentes Veritati, et cum aliis mysterium amoris Patris caelestis communicemus. Hac via in toto orbe terrarum homines ad vivam spem excitabuntur, quae Spiritus Sancti donum est, ut tandem aliquando in pace ac beatitudine summa suscipiantur, in patria quae gloria Domini effulget.  「あなたがたが互いに愛するならば、このことによって、すべての人はあなたがたがわたしの弟子であると知るであろう」(ヨハネ 13:35)という主のことばを知るキリスト者は、いっそう寛大に、より有効に現代世界の人々に奉仕することを熱心に望まずにはいられない。したがって、キリスト者は、福音に忠実に従い、その力にあずかり、正義を愛し実践するすべての人とともに結ばれて、偉大な任務をこの地上において果たすことを引き受けたのである。最後の日にすべての人をさばく神に、この任務について報告しなければならないのである。「主よ、主よ」という人すべてが天の国にはいるわけではない。父の望みを実行し、実際に力強く働く人が天の国にはいるのである。われわれがすべての人の中に兄弟キリストを認めて、ことばと行ないによって実際に愛し、こうして真理に証明を与え、天の父の愛の秘義を他の人々と分け合うように働くことを父は望んでいる。このようにして、全世界の人々は、聖霊のたまものであり、最後には主の栄光に輝く祖国において、平和と最高の幸福の中に受け入れられるという、いきいきとした希望へと励まされる。
Ei autem qui potens est omnia facere superabundanter quam petimus aut intelligimus, secundum virtutem quae operatur in nobis, Ipsi gloria in Ecclesia et in Christo Iesu, in omnes generationes saeculorum. Amen (Eph 3, 20-21).  「われらが望み考えること以上に、われらのうちに働く力によってすべてを行うことのできる神に、教会とキリスト・イエスにおいて、あらゆる世紀と世代を通して、栄光あれ アーメン」(エフェソ 3:20-21)。
Haec omnia et singula quae in hac Constitutione pastorali edicta sunt, placuerunt Sacrosancti Concilii Patribus. Et Nos, Apostolica a Christo Nobis tradita potestate, illa, una cum Venerabilibus Patribus, in Spiritu Sancto approbamus, decernimus ac statuimus et quae ita synodaliter statuta sunt ad Dei gloriam promulgari iubemus.  この司牧憲章の中で布告されたこれらすべてのことと、その個々のことは、諸教父の賛同したことである。わたくしもキリストからわたくしに授けられた使徒的権能をもって、尊敬に値する諸教父と共に、これらの事を聖霊において承認し、決定し、制定し、このように教会会議によって制定されたことが神の栄光のために公布されるよう命ずる。
Romae, apud S. Petrum ローマ聖ペトロのかたわらにて
die VII mensis decembris anno MCMLXV. 1965年12月 7日
Ego PAULUS Catholicae Ecclesiae Episcopus カトリック教会の司教  パウルス 自署
Sequuntur Patrum subsignationes. 諸教父の署名が続く

VACATIO LEGIS
PRO DECRETIS PROMULGATIS IN SESSIONE IX
Beatissimus Pater pro novis legibus, quae in modo promulgatis decretis continentur, statuit vacationem usque ad diem vigesimam nonam mensis iunii anni MCMLXVI, nempe usque ad festum Ss. Apostolorum Petri et Pauli proximi anni.
Interea Summus Pontifex normas edet ad praedictas leges exsequendas.
† PERICLES FELICI
Archiepiscopus tit. Samosatensis
Ss. Concilii Secretarius Generalis
 
Patrum subsignationes
Ego PAULUS Catholicae Ecclesiae Episcopus
† Ego EUGENIUS Episcopus Ostiensis ac Portuensis et S. Rufinae Cardinalis TISSERANT, Sacri Collegii Decanus.
† Ego IOSEPHUS Episcopus Albanensis Cardinalis PIZZARDO.
† Ego BENEDICTUS Episcopus Praenestinus Cardinalis ALOISI MASELLA.
† Ego FERDINANDUS Episcopus tit. Veliternus Cardinalis CENTO.
† Ego HAMLETUS IOANNES Episcopus tit. Tusculanus Cardinalis CICOGNANI.
† Ego IOSEPHUS Episcopus tit. Sabinensis et Mandelensis Cardinalis FERRETTO.
† Ego IGNATIUS GABRIEL Cardinalis TAPPOUNI, Patriarcha Antiochenus Syrorum.
† Ego MAXIMUS IV Cardinalis SAIGH, Patriarcha Antiochenus Melkitarum.
† Ego PAULUS PETRUS Cardinalis MEOUCHI, Patriarcha Antiochenus Maronitarum.
† Ego STEPHANUS I Cardinalis SIDAROUSS, Patriarcha Alexandrinus Coptorum.
† Ego EMMANUEL TIT. Ss. Marcellini et Petri Presbyter Cardinalis GONÇALVES CEREJEIRA, Patriarcha Lisbonensis.
† Ego ACHILLES titulo S. Sixti Presbyter Cardinalis LIÉNART, Episcopus Insulensis.
Ego IACOBUS ALOISIUS titulo S. Laurentii in Damaso Presbyter Cardinalis COPELLO, S. R. E. Cancellarius.
Ego GREGORIUS PETRUS titulo S. Bartholomaei in Insula Presbyter Cardinalis AGAGIANIAN.
† Ego VALERIANUS titulo S. Mariae in Via Lata Presbyter Cardinalis GRACIAS, Archiepiscopus Bombayensis.
† Ego IOANNES titulo S. Marci Presbyter Cardinalis URBANI, Patriarcha Venetiarum.
Ego PAULUS titulo S. Mariae in Vallicella Presbyter Cardinalis GIOBBE, S. R. E. Datarius.
† Ego IOSEPHUS titulo S. Honuphrii in Ianiculo Presbyter Cardinalis GARIBI Y RIVERA, Archiepiscopus Guadalajarensis.
Ego CAROLUS titulo S. Agnetis extra moenia Presbyter Cardinalis CONFALONIERI.
† Ego PAULUS titulo Ss. Quirici et Iulittae Presbyter Cardinalis RICHAUD, Archiepiscopus Burdigalensis.
† Ego IOSEPHUS M. titulo Ss. Viti, Modesti et Crescentiae Presbyter Cardinalis BUENO Y MONREAL, Archiepiscopus Hispalensis.
† Ego FRANCISCUS titulo S. Eusebii Presbyter Cardinalis KÖNIG, Archiepiscopus Vindobonensis.
† Ego IULIUS titulo S. Mariae Scalaris Presbyter Cardinalis DÖPFNER, Archiepiscopus Monacensis et Frisingensis.
Ego PAULUS titulo S. Andreae Apostoli de Hortis Presbyter Cardinalis MARELLA.
Ego GUSTAVUS titulo S. Hieronymi Illyricorum Presbyter Cardinalis TESTA.
Ego ALOISIUS titulo S. Andreae de Valle Presbyter Cardinalis TRAGLIA.
† Ego PETRUS TATSUO titulo S. Antonii Patavini de Urbe Presbyter Cardinalis DOI, Archiepiscopus Tokiensis.
† Ego IOSEPHUS titulo S. Ioannis Baptistae Florentinorum Presbyter Cardinalis LEFEBVRE, Archiepiscopus Bituricensis.
† Ego BERNARDUS titulo S. Ioachimi Presbyter Cardinalis ALFRINK, Archiepiscopus Ultraiectensis.
† Ego RUFINUS I. titulo S. Mariae ad Montes Presbyter Cardinalis SANTOS, Archiepiscopus Manilensis.
† Ego LAUREANUS titulo S. Francisci Assisiensis ad Ripam Maiorem Presbyter Cardinalis RUGAMBWA, Episcopus Bukobaënsis.
† Ego IOSEPHUS titulo Ssmi Redemptoris et S. Alfonsi in Exquiliis Presbyter Cardinalis RITTER, Archiepiscopus S. Ludovici.
† Ego IOANNES titulo S. Silvestri in Capite Presbyter Cardinalis HEENAN, Archiepiscopus Vestmonasteriensis, Primas Angliae.
† Ego IOANNES titulo Ssmae Trinitatis in Monte Pincio Presbyter Cardinalis VILLOT, Archiepiscopus Lugdunensis et Viennensis, Primas Galliae.
† Ego PAULUS titulo S. Camilli de Lellis ad Hortos Sallustianos Presbyter Cardinalis ZOUNGRANA, Archiepiscopus Uagaduguensis.
† Ego HENRICUS titulo S. Agathae in Urbe Presbyter Cardinalis DANTE.
Ego CAESAR titulo D.nae N.ae a Sacro Corde in Circo Agonali Presbyter Cardinalis ZERBA.
† Ego AGNELLUS titulo Praecelsae Dei Matris Presbyter Cardinalis ROSSI, Archiepiscopus S. Pauli in Brasilia.
† Ego IOANNES titulo S. Martini in Montibus Presbyter Cardinalis COLOMBO, Archiepiscopus Mediolanensis.
† Ego GUILLELMUS titulo S. Patricii ad Villam Ludovisi Presbyter Cardinalis CONWAY, Archiepiscopus Armachanus, totius Hiberniae Primas.
† Ego ANGELUS titulo Sacri Cordis Beatae Mariae Virginis ad forum Euclidis Presbyter Cardinalis HERRERA, Episcopus Malacitanus.
Ego ALAPHRIDUS S. Mariae in Domnica Protodiaconus Cardinalis OTTAVIANI.
Ego ALBERTUS S. Pudentianae Diaconus Cardinalis DI JORIO.
Ego FRANCISCUS S. Mariae in Cosmedin Diaconus Cardinalis ROBERTI.
Ego ARCADIUS SS. Blasii et Caroli ad Catinarios Diaconus Cardinalis LARRAONA.
Ego FRANCISCUS SS. Cosmae et Damiani Diaconus Cardinalis MORANO.
Ego GUILLELMUS THEODORUS S. Theodori in Palatio Cardinalis HEARD.
Ego AUGUSTINUS S. Sabae Diaconus Cardinalis BEA.
Ego ANTONIUS S. Eugenii Diaconus Cardinalis BACCI.
Ego FRATER MICHAEL S. Pauli in Arenula Diaconus Cardinalis BROWNE.
Ego FRIDERICUS S. Ioannis Bosco in via Tusculana Diaconus Cardinalis Callori DI VIGNALE.

(170) Cf. IOANNES XXIII, Litt. Encycl. Ad Petri Cathedram, 29 iunii 1959: AAS 55 (1959), p. 513.
(171) Cf. Mt. 7, 21.

 

コメント

「現代世界憲章」第二部 若干の緊急課題 第5章 平和の推進と国際共同体の促進(その1) の羅和対訳

2019年12月03日 | 第二バチカン公会議

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
第2バチカン公会議公文書の「現代世界憲章」の「第二部 若干の緊急課題 第5章 平和の推進と国際共同体の促進(その1)」の原文を対訳でご紹介します。

Caput V 第5章
DE PACE FOVENDA ET DE COMMUNITATE GENTIUM PROMOVENDA 平和の推進と国際共同体の促進
77. Introductio. 77(序文)
Hisce nostris annis, quibus aerumnae et angustiae ex grassante vel impendente bello profluentes adhuc gravissimae inter homines perdurant, universa familia humana ad horam summi discriminis in suae maturitatis processu pervenit. In unum paulatim congregata atque ubivis suae unitatis melius iam conscia, opus quod ei incumbit, mundum scilicet pro omnibus hominibus ubique terrarum vere humaniorem aedificandi, peragere nequit nisi cuncti ad veritatem pacis renovato animo convertantur. Hinc fit ut evangelicum nuntium, cum altioribus generis humani studiis atque optatis congruens, nostris temporibus nova claritate elucescat dum pacis artifices beatos proclamat, "quoniam filii Dei vocabuntur" (Mt 5,9).  戦争の破壊と脅威がもたらす困苦と不安が今もなお重苦しく人々の上に伸しかかっているわれわれの時代に、全人類家族はその成長への歩みにおける最大の危機に到達した。人類家族はしだいに一つに集まり、すでにどこにおいても一致の自覚が強まっている。しかし、すべての人が新たに改心して真の平和を求めなければ、人類の仕事すなわち、すべての人のために、すべての所で、真に、いっそう人間らしい世界を建設するという仕事を果たすことはできな位。こうして、平和を作る者は、「神の子と呼ばれるであろう」(マタイ 5:9)と宣言する福音の知らせは、人類の崇高な努力と期待に添うものとして現代に新しい光を輝かすのである。
Ideo Concilium veram et nobilissimam pacis rationem illustrans, belli immanitate damnata, christianos ferventer evocare intendit ut, auxiliante Christo auctore pacis, cum omnibus hominibus ad pacem in iustitia et amore inter eos firmandam et ad instrumenta pacis apparanda cooperentur.  したがって公会議は、平和についての真実の崇高な意味を解明し、戦争の残酷さを断罪した後、平和の作者であるキリストの助けの元に。正義と愛に基づく平和を打ち立てるため、また平和への手段を準備するために、すべての人と協力するよう、熱意をこめてキリスト者に呼びかけたい。
78. (De natura pacis). Pax non est mera absentia belli, neque ad solum adversarum virium aequilibrium stabiliendum reducitur neque ex imperioso dominatu oritur, sed recte proprieque dicitur "opus iustitiae" (Is 32,17). Fructus exsistit ordinis humanae societati a divino suo Fundatore insiti et ab hominibus perfectiorem semper iustitiam sitientibus in actum deducendi. Cum enim generis humani bonum commune primaria quidem sua ratione lege aeterna regatur, sed, quoad id quod concrete exigit, progrediente tempore incessantibus mutationibus subiciatur, numquam pax pro semper acquisita est, sed perpetuo aedificanda. Cum insuper labilis sit humana voluntas necnon peccato sauciata, procuratio pacis constantem uniuscuiusque exposcit passionum dominationem et legitimae auctoritatis invigilantiam. 78(平和の本質)
Hoc tamen non sufficit. Pax haec in terris obtineri non potest nisi bonum personarum in tuto collocetur et homines cum fiducia divitias sui animi atque ingenii inter se sponte communicent. Firma voluntas alios homines et populos eorumque dignitatem reverendi studiosumque fraternitatis exercitium ad pacem construendam omnino necessaria sunt. Ita pax fructus etiam amoris exsistit, qui ultra ea progreditur quae iustitia praestare valet.  平和は単なる戦争の不在でもなければ、敵対する力の均衡を保持することだけでもなく、独裁的な支配から生ずるものでもない。平和を正義のわざと定義することは正しい。平和とは、人間社会の創立者である神によって、社会の中に刻みこまれ、常により完全な正義を求めて人間が実現しなければならない秩序の実りである。事実、人類の共通善は、基本的には永遠の法則によって支配されるが、共通善が具体的に要求する事がらは、ときの経過とともに絶えず変動する。平和は永久に獲得されたものではなく、絶えず建設すべきものである。そのうえ人間の意志は弱く、罪によって傷つけられているため、平和獲得のためには各自が絶えず激情を押さえ、正当な権力による警戒が必要である。
Pax autem terrena, quae ex dilectione proximi oritur, figura et effectus est pacis Christi, a Deo Patre promanantis. Ipse enim Filius incarnatus, princeps pacis, per crucem suam omnes homines Deo reconciliavit ac, restituens omnium unitatem in uno Populo et uno Corpore, in propria sua carne occidit odium (165) et, resurrectione exaltatus, Spiritum caritatis in corda hominum diffudit.  しかし、それだけでは十分ではない。個人の善が安全に確保され、人々が精神と才能の富を信頼をもって互いに自発的に交流し合わなければ、地上に平和は獲得できない。他人と他国民お呼びかれらの品位とを尊重する確固たる意志、また兄弟愛の努力と実践は、平和の建設のために絶対必要である。こうして平和は愛の実りでもある。愛は正義がもたらすものを超える。
Quapropter omnes christiani enixe evocantur ut, "veritatem facientes in caritate" (Eph 4,15), cum hominibus vere pacificis sese uniant ad pacem implorandam et instaurandam.  隣人に対する愛から生まれる地上の平和は、父なる神から来るキリストの平和の映像であり結果である。受肉した子は平和の君主であり、自分の十字架によってすべての人を神と和解させ、一つの民、一つのからだのうちにすべての人の一致を再建し、自分の肉において憎しみを殺し、復活によって高くあげられ、愛の霊を人々の心に注いだ。
Eodem spiritu moti, non possumus non laudare eos, qui in iuribus vindicandis actioni violentae renuntiantes, ad media defensionis recurrunt quae ceteroquin etiam debilioribus praesto sunt, dummodo hoc sine laesione iurium et obligationum aliorum vel communitatis fieri possit.  したがって、すべてのキリスト者は愛の中に真理を実行しながら(エフェソ4:15)、平和を求め、また打ちたてるために、平和を心から愛する人々と協力するよう強く求められている。
Quatenus homines peccatores sunt, eis imminet periculum belli, et usque ad adventum Christi imminebit; quatenus autem, caritate coniuncti, peccatum superant, superantur et violentiae, donec impleatur verbum: "Conflabunt gladios suos in vomeres et lanceas suas in falces. Non levabit gens contra gentem gladium, nec exercebuntur ultra ad praelium" (Is 2,4).  権利を擁護するために暴力を放棄して、弱い者にも使うことのできる防衛手段にたよる人々を、われわれは同じ精神に基づいて賞賛しないわけにはいかない。ただし、暴力の否定が他人または共同体の権利と義務を侵害することが合ってはならない。
Sectio I: De bello vitando  「人間が罪びとである限り、キリストの再臨の時まで変わることなく、戦争の危険は人々を脅かし続けるであろう」。しかし、人々が愛によって結ばれる限り、罪に打ち勝ち、暴力にも打ち勝つであろう。こうして次のことばが実現する。「かれらは剣をすきに、槍を鎌に打ちなおすであろう。国々は互いに剣を取りあげず、もはや戦いのために訓練しない」(イザヤ 2:4)。第1節 戦争を避けること
79. De bellorum immanitate refrenanda. 79(戦争の残酷さを少なくすること)
Quamvis recentia bella nostro mundo gravissima damna tum materialia tum moralia intulerint, adhuc cotidie in aliqua terrarum parte bellum suas vastationes persequitur. Immo, dum arma scientifica cuiuslibet generis in bello adhibentur, saeva eius indoles proeliantes ad barbariem adducere minatur quae illam anteactorum temporum longe superet. Porro condicionis hodiernae complexitas ac relationum inter nationes intricatio permittunt ut novis methodis, iisque insidiosis et subversivis, bella larvata protrahantur. In pluribus adiunctis usus methodorum terrorismi tamquam nova ratio bellandi habetur.  近年、戦争が物質的・精神的な大損害を世界にもたらしたにもかかわらず、今なお毎日、地上のどこかで戦争による破壊が続けられている。そのうえ、戦争においてはあらゆる種類の科学兵器が用いられるので、戦争の激烈さは戦闘員を過去の時代をはるかに超える残虐さに導くおそれがある。現代の複雑な状況と複雑な国際関係は、陰険な新しいかく乱戦法によるゲリラ戦の長期化を許している。多くの場合、テロ行為があたかも戦争の新形式のように考えられている。
Deiectum istum humanitatis statum prae oculis habens, Concilium ante omnia in memoriam revocare intendit permanentem vim iuris naturalis gentium eiusque principiorum universalium. Ipsa generis humani conscientia haec principia firmiter magis magisque proclamat. Actiones ergo quae iisdem deliberate adversantur necnon iussa quibus tales actiones praescribuntur scelesta sunt, nec caeca obedientia illos qui iis parent excusare valet. Inter has actiones illae ante omnia recensendae sunt quibus, ratione quadam et methodo, universa gens, natio aut minoritas ethnica exterminantur: quae tamquam crimina horrenda vehementer condemnandae sunt. Maxime vero probandus est animus illorum qui talia praecipientibus aperte resistere non timescunt.  公会議は人類のこのような悲しむべき状態を思い、まず第一に国際自然法とその普遍的原則のもつ永久の価値を思い起こさせることを意図する。人類の良心そのものが、これらの原則をますます強く主張する。したがって、これらの原則に故意に違反する行動とそのような行動を支持する命令は犯罪である。盲目的服従も弁解の理由にはならない。このような行動の中で、まず第一にあげるべきは、国民全体、国家、少数民族を計画的に、全滅しようとする行為である。それは恐るべき犯罪として激しく糾弾されなければならない。このような犯罪を命ずる者に対して、恐れずに、はっきりと反抗する人の勇気を大いに賞賛しなければならない。
Exstant de rebus bellicis variae conventiones internationales quibus sat multae nationes subscripserunt, ut minus inhumanae efficiantur actiones militares earumque sequelae: huiusmodi sunt conventiones quae pertinent ad militum vulneratorum aut captivorum sortem, variaeque huius generis stipulationes. Quae pactiones servandae sunt; immo tenentur omnes, praesertim auctoritates publicae et de his rebus periti, quantum possunt conari ut illae perficiantur sicque melius et efficacius ad bellorum immanitatem refrenandam conducant. Insuper aequum videtur ut leges humaniter provideant pro casu illorum qui ex motivo conscientiae arma adhibere recusant, dum tamen aliam formam communitati hominum serviendi acceptant.  戦争に関しては、軍事行動とその結果の非人道性を少なくすることを目的として、種々の国際条約が存在し、多くの国がそれに加盟している。たとえば、負傷兵や捕虜の取り扱いに関する条約やこれに類する協定などである。これらの条約は守られるべきである。またすべての人、特に公権とその道の専門家は協定を改良して戦争の非人道性をいっそう効果的に、よりよく阻止するよう、できる限り努力しなければならない。なお、良心上の理由から武器の使用を拒否する人が、別の方法で共同体に奉仕することを受託すれば、法律によって人間味のある処置を規定することは正しいと思われる。
Utique bellum non est e rebus humanis eradicatum. Quamdiu autem periculum belli aderit, auctoritasque internationalis competens congruisque viribus munita defuerit, tamdiu, exhaustis quidem omnibus pacificae tractationis subsidiis, ius legitimae defensionis guberniis denegari non poterit. Civitatum rectoribus aliisque qui rei publicae responsabilitatem participant, incumbit igitur officium ut populorum sibi commissorum salutem tueantur, res tam graves graviter gerentes. At aliud est res militares gerere ut populi iuste defendantur, aliud alias nationes subiugare velle. Nec potentia bellica omnem eiusdem militarem vel politicum usum legitimum facit. Nec bello infeliciter iam exorto, eo ipso omnia inter partes adversas licita fiunt.  確かに戦争は人間の司会から消え去ったわけではない。戦争の危険が存在し、しかも十分な力と権限をもつ国際的権力が存在しない間は、平和解決のあらゆる手段を講じたうえであれば、政府に対して正当防衛を拒否することはできないであろう。国家の元首ならびに国家の政治にたずさわる者は自分に託された国民の安全を守り、この重大事項を慎重に取り扱う義務がある。しかし、国民を正当に防衛するために戦争することと、他国の征服を意図することは同じではない。また戦力を保有し、それを軍事目的、政治目的のために使用する時、その使用がいつも正当化されて、すべてのことが許されるわけでもない。
Qui vero, patriae servitio addicti, in exercitu versantur, et ipsi tamquam securitatis libertatisque populorum ministros sese habeant, et, dum hoc munere recte funguntur, vere ad pacem stabiliendam conferunt.  祖国に対する奉仕を志して軍籍にある者は、自分自身を国民の安全と自由のための奉仕者と考えるべきである。この任務に正しく従事している間、かれらは真に平和の維持のために寄与している。第5章 平和の推進と国際共同体の促進第1節 戦争を避けること(続)
80. De bello totali. 80(全面戦争)
Horror pravitasque belli scientificorum armorum incremento in immensum augentur. Bellicae enim actiones, his armis adhibitis, ingentes indiscriminatasque inferre possunt destructiones quae proinde limites legitimae defensionis longe excedunt. Immo, si haec media, qualia iam in magnarum nationum armamentariis inveniuntur, penitus adhiberentur, ex eo internecio fere plena et omnino reciproca uniuscuiusque partis a parte adversa haberetur praetermissis multis vastationibus in mundo oboriundis et exitialibus effectibus ex usu huiusmodi armorum consequentibus.  科学兵器の進歩によって戦争の悲惨と邪悪は無限に増大する。事実、これらの兵器を使用した戦闘行為は、正当防衛の範囲をはるかに超える多大な無差別の破壊をもたらす。そのうえ、大国がすでに所有している科学兵器がそのまま全部使用されるならば、このような兵器の使用によって、世界に起こる多くの荒廃と恐るべき結果をもたらすだけでなく、敵対する両陣営のほとんど完全な相互殺害が行われる。
Quae omnia nos cogunt ut de bello examen mente omnino nova instituamus (166). Sciant huius aetatis homines se de suis bellicis actionibus gravem rationem esse reddituros. Ab eorum enim hodiernis consiliis temporum futurorum decursus multum pendebit.  これらすべてのことは、まったく新しい考え方によって、戦争を検討することをわれわれに強要している。現代の人々は、自分たちの戦争行為について重大な計算書を提出しなければならないと知るべきである。未来の世界は人々が今日行う決定に多く依存するからである。
His attentis, haec Sacrosancta Synodus, suas faciens condemnationes belli totalis iam a recentibus Summis Pontificibus enuntiatas (167), declarat:  これらを考慮したうえで、この教会会議は、すでに近代の諸教皇によって宣言された全面戦争の断罪を認め、次のように宣言する。
Omnis actio bellica quae in urbium integrarum vel amplarum regionum cum earum incolis destructionem indiscriminatim tendit, est crimen contra Deum et ipsum hominem, quod firmiter et incunctanter damnandum est.  都市全体または広い地域をその住民とともに無差別に破壊するための戦争行為はすべて、神と人間自身に対する犯罪であり、ためらうことなく断固として禁止すべきである。
Singulare belli hodierni periculum in hoc consistit quod illis qui recentiora arma scientifica possident quasi occasionem praebet talia scelera perpetrandi et, connexione quadam inexorabili, hominum voluntates ad atrocissima consilia impellere potest. Ne vero hoc in futurum unquam eveniat, Episcopi totius orbis terrarum in unum congregati, omnes, nationum moderatores praesertim, necnon eos qui rei militari praesunt, obsecrant, ut tantam responsabilitatem coram Deo et coram universa humanitate incessanter perpendant.  これが現代戦争に独特の危険である。現代科学兵器の保有者に、このような犯罪を犯す機会を提供し、ある種の無常な連鎖によって人間の意志を非常に残酷な決定にまで押しやることができる。このようなことが将来けっして起こることがないよう、全世界の司教は一致して、すべての人、特に国家の元首及び郡の指導者に対して、神と全人類の前におけるこのような重大な責任について絶えず考慮するよう切願する。
81. De cursu ad arma apparanda. 81(軍備競争)
Arma quidem scientifica non ad hoc unice accumulantur ut tempore belli adhibeantur. Cum enim firmitas uniuscuiusque partis defensionis a capacitate fulminea adversarium repercutiendi dependere aestimetur, haec armorum accumulatio, quae quotannis ingravescit, inconsueto quidem modo ad deterrendos adversarios forte insurgentes inservit. Quod a multis habetur tamquam omnium mediorum efficacissimum quibus nunc pax quaedam inter nationes in tuto poni possit.  戦時における使用だけを目的として科学兵器が増強されるのでないことは確かである。各国の防衛力は敵に対する迅速な報復力に依存すると考えられている。そのため、年ごとに増大してゆく軍縮の拡張は、逆説的ではあるが、起こりうる敵の攻撃を抑止するのに役立っている。それは現在のところ、ある種の平和を国際間に維持することができる、あらゆる手段の中で、最も効果的なものと、多くの人にみなされている。
Quidquid sit de illo dissuasionis modo, persuasum habeant homines cursum ad arma apparanda, ad quem sat multae nationes confugiunt, non securam esse viam ad pacem firmiter servandam, neque sic dictum aequilibrium ex illo manans certam ac veram esse pacem. Belli exinde causae quin eliminentur, potius paulatim aggravari minantur. Dum in arma semper nova apparanda perabundantes divitiae erogantur, tot miseriis hodiernis mundi universi remedium sufficiens praeberi non potest. Potius quam dissensiones inter nationes vere ac funditus sanentur, iisdem aliae mundi partes inficiuntur. Novae viae, ex reformato animo initium sumentes, eligendae erunt ut hoc scandalum removeatur et, mundo ab anxietate qua opprimitur liberato, vera pax restitui possit.  この抑止の方法自体に問題がある。多くの国が行っている軍縮競争は、平和を確保する安全な道でもなく、それから生ずるいわゆる力の均衡も、確実で真実な平和ではないと人々は確信すべきである。それは戦争の原因を取り除く代わりに、かえって徐々に増大させる。常に新しい兵器を準備するために莫大な費用が消費されているのに反して、全世界の現代の悲惨を救うための十分な対策は講じられていない。国際間の紛争が真に根本的に解決される代わりに、世界の他の地域にまで紛争が広がっている。この醜聞が取り除かれ、世界が不安の圧迫から解放されて真の平和を打ち立てるためには、精神の改革から出発して、新しい道を選ばなければならない。
Quapropter denuo declarandum est: cursum ad arma apparanda gravissimam plagam humanitatis esse, ac pauperes intolerabiliter laedere. Valde autem timendum est ne, si perduret, aliquando omnes exitiales clades pariat, quarum media iam praeparat.  したがって、軍備競争は人類の最大の傷であり、堪えがたいほどに貧しい人々を傷つけるものである、と再び宣言しなければならない。軍備競争が続くならば、いつかはあらゆる致命的な破壊を引き起こすおそれが大いにある。その手段はすでに軍備競争によって準備されている。
Calamitatibus commonefacti quas humanum genus possibiles effecit, moram, nobis desuper concessam, qua gaudemus, adhibeamus ut propriae responsabilitatis magis conscii, vias inveniamus quibus controversias nostras modo homine digniore componere possimus. Providentia divina a nobis instanter requirit ut nosmetipsos ab antiqua belli servitute liberemus. Quod si huiusmodi conamen facere renuerimus, quo ducamur in hac via mala quam ingressi sumus, nescimus.  人類が可能なものにした災難に警告されて、上からわれわれに与えられ、われわれが現在享有する猶予を利用して、自分の責任をよりよく自覚し、人間にふさわしい方法で紛争を解決する道を発見するように努力しよう。神の摂理は、古くから戦争の奴隷状態にあるわれわれ自身を解放することを切に要求している。この努力を拒否するならば、われわれが踏み入っている悪の道がどこにわれわれを導いてゆくかを、知らない。
82. De bello omnino interdicendo et actione internationali ad bellum vitandum. 82(戦争絶対禁止と戦争回避のための国際協力)
Patet ergo nobis enitendum esse ut viribus omnibus tempora praeparemus quibus, consentientibus nationibus, bellum quodlibet omnino interdici possit. Quod sane requirit ut quaedam publica auctoritas universalis, ab omnibus agnita, instituatur, quae efficaci potestate polleat ut pro omnibus tum securitas, tum iustitiae observantia, tum iurium reverentia in tuto ponantur. Antequam vero haec optanda auctoritas institui possit, opus est ut hodierna suprema gremia internationalia studiis mediorum ad securitatem communem procurandam aptiorum acriter se dedicent. Cum pax e mutua gentium fiducia nasci oporteat potius quam armorum terrore nationibus imponi, omnibus adlaborandum est ut cursus ad arma apparanda finem tandem habeat; ut diminutio armorum re incipiat, non unilateraliter quidem sed pari passu ex condicto progrediatur, veris efficacibusque cautionibus munita (168).  したがって、諸国の同意のもとに、どのような戦争も絶対に禁止される時代を準備するために、全力を尽くさなければならないことは明白である。この目的を実現するためには、諸国によって承認され、諸国に対して安全保障と、正義の遵守と権利に対する尊敬とを確保できる有効な権限を備えた普遍的公権を設置することが確かに必要である。この望ましい権力が設置されるまでは、現在存在する国際的最高機関は共通安全保障のためのいっそう適切な手段を熱心に研究しなければならない。平和は、兵器の恐怖によって諸国に押しつけるよりは、諸国民の相互信頼から生まれるべきものである。したがって、軍備競争に終止符が打たれるように、すべての人が働かなければならない。軍備縮小を実際に始めるためには、一方的にではなく、協定によって歩調を合わせ、有効、真実な保障の裏づけのもとに進めるべきである。
Interea non parvipendenda sunt conamina quae iam facta sunt et adhuc fiunt ut periculum belli amoveatur. Potius adiuvanda est bona voluntas permultorum qui, ingentibus suorum supremorum munerum curis onerati, gravissimo autem quo obstringuntur officio moti, bellum quod abhorrent eliminare satagunt, etiamsi a complexitate rerum quales sunt, praescindere non possunt. Deum autem enixe rogare oportet ut illis vim det perseveranter aggrediendi ac fortiter perficiendi hoc summi amoris hominum opus quo pax viriliter aedificatur. Quod hodie certissime ab eis exigit ut mentem et spiritum ultra fines propriae nationis extendant, egoismum nationalem atque ambitionem aliis nationibus dominandi deponant, profundamque reverentiam erga totam humanitatem nutriant, quae iam ad maiorem sui unitatem tam laboriose properat.  その間にも戦争の危険を排除するためにすでに行われた努力と、また今も続けて行われている努力を軽視してはならない。複雑な現実を無視することは出来ないが、最高任務の大きな苦労を担い、重大な責任感に動かされて、恐るべき戦争を廃止しようと努力する多くの人の善意を助けるべきである。また、熱心に平和を築き上げていく仕事、すなわち、人間に対する愛の最高の仕事を忍耐を持って続け、勇気をもって成し遂げる力がかれらに与えられるよう神に熱心に祈らなければならない。確かに今日では、それぞれの国境を超えて理解と考えを広げること、民族的利己主義と他国支配の野望を放棄すること、労苦を忍んで、より大きな一致をめざして進みつつある全人類に対して深い尊敬を持つことが要求されている。
Circa pacis et armorum depositionis problemata perscrutationes iam strenue et indesinenter protractae, internationalesque congressus, qui hac de re egerunt, tamquam primi passus ad solvendas tantopere graves quaestiones consideranda sunt atque urgentiori modo ad obtinendos effectus practicos in futurum promovenda. Nihilominus caveant homines ne solummodo conatibus quorumdam se committant quin de propriis mentibus curent. Nam populorum moderatores, qui boni communis propriae gentis sponsores sunt et simul boni universi orbis promotores, ex multitudinum opinionibus et animi sensibus quam maxime pendent. Nihil eis prodest ut paci aedificandae instent, quamdiu hostilitatis, contemptus et diffidentiae sensus, racialia odia necnon obstinatae ideologiae, homines dividunt atque inter se opponunt. Hinc maxima necessitas urget renovatae mentium educationis novaeque in publica opinione inspirationis. Qui operi educationis se devovent, praesertim iuvenum, aut opinionem publicam efformant, tamquam gravissimum officium reputent curam mentes omnium ad novos pacificos sensus instituendi. Nos omnes quidem commutare corda nostra oportet, universum orbem et illa munera prospicientes quae nos, una simul, agere possumus ut genus nostrum ad meliora proficiat.  平和と軍備縮小の問題に関して、今まで熱心に、たゆまず行われてきた研究と、この問題についての国際会議とを、この重大問題を解決するための第一歩とみなし、実際的な効果をあげるために将来いっそう力強く促進させなければならない。しかし、自分は無関心な態度をとり、少数の人の努力だけに任せてはならない。自国民の共通善の保障者であると同時に、全世界の善の促進者である国家の指導者たちは、一般の世論と感情に大いに依存している。敵意、軽べつ、不信、人種的憎悪、がんこなイデオロギーが人々を分裂させたい律させている間は、平和を求めるかれらの努力も役にたたない。したがって、考え方の再教育と新しい世論が最も必要とされる。教育に従事する人々、特に青少年の教育にあたる人々や世論を形成する人々は、すべての人に平和愛好の新しい精神を吹き込む努力を、自分の最も重大な義務と考えなければならない。われわれはすべて心を改め、また人類の進歩のために一致して果たすことが出来る任務として、全世界に目を注がなければならない。
Nec falsa spes nos decipiat. Nisi enim, dimissis inimicitiis et odiis, firma honestaque pacta de pace universali in futuro concludantur, humanitas quae iam in gravi discrimine versatur, quamvis scientia mirabili praedita, forsan funeste ad illam horam adducetur in qua non aliam pacem quam horrendam mortis pacem experiatur. Attamen, dum haec profert, Ecclesia Christi, in media anxietate huius temporis constituta, firmissime sperare non cessat. Aetati nostrae iterum iterumque, opportune importune, nuntium apostolicum proponere intendit: "ecce nunc tempus acceptabile" ut mutentur corda, "ecce nunc dies salutis" (169).  われわれは、まちがった希望に欺かれてはならない。事実、敵意と憎悪を捨てて、将来の世界平和に関する堅固な正しい条約を結ばない限り、すでに大きな危険にさらされている人類は、すばらしい知識に恵まれながら、恐るべき死の平和しか味わうことが出来ない不幸な時を迎えるであろう。しかし、キリストの教会は、これを告げる間、現代の苦悩のまっただ中にあって、強く希望することをやめない。教会は現代に向かって、何度もくりかえし、機会のあるときにも、ないときにも、使徒の知らせを告げるつもりである。改心するためには「今こそ恵みの時であり」、「今こそ救いの日である」。第5章 平和の推進と国際共同体の促進第2節 国際共同体の建設
Sectio II: De communitate internationali aedificanda 第2節 国際共同体の建設
83. De causis discordiarum earumque remediis. 83(不一致の原因とその治療策)
Ad pacem aedificandam ante omnia requiritur ut eradicentur causae discordiarum inter homines, quibus bella aluntur, praesertim iniustitiae. Non paucae earum ex nimiis inaequalitatibus oeconomicis proveniunt, necnon ex necessariis remediis retardatis. Aliae vero ex spiritu dominationis et personarum contemptu oriuntur et, si in causas profundiores inquirimus, ex humana invidia, diffidentia, superbia aliisque egoisticis passionibus. Cum tot ordinis defectus homo ferre non possit, ex iis consequitur ut, etiam bello non saeviente, mundus indesinenter contentionibus inter homines et violentiis inficiatur. Cum insuper eadem mala in relationibus inter ipsas nationes inveniantur, necessarium omnino est ut, ad illa vincenda vel praevenienda, et ad effrenatas violentias coercendas, melius et firmius cooperentur et coordinentur institutiones internationales necnon indefesse stimuletur creatio organismorum qui pacem promoveant.  平和を建設するためには、何よりもまず人々の不一致の原因、特に戦争の温床となる不正を取り除かなければならない。それらの原因の多くは、過度の経済的不平等と必要な対策の遅延に基づいている。その他の原因は支配欲と人に対する軽べつから生じるものであり、さらに深い原因を探求すれば、ねたみ、不信、高慢、我欲その他に基づいている。人間はこれほど多くの秩序の乱れに耐えられないので、たとえ戦争で痛めつけられなくても、世の中は絶えず人々の間の争いと暴力によって悩まされるであろう。なお、同様の悪が国家間にも見いだされるので、それらに打ち勝ち、またはそれらを予防するため、また暴力の奔走を抑圧するために、国際機関の協力と調整を力強く推進し、平和を促進する組織を設立するようたゆまず努力することが絶対に必要である。
84. De communitate gentium et de institutionibus internationalibus. 84(諸国共同体と国際機関)
Ut, crescentibus hoc tempore arctis mutuae necessitudinis nexibus inter omnes cives et omnes populos orbis terrarum, bonum commune universale apte quaeratur et efficacius obtineatur, iam necesse est communitatem gentium sibi constituere ordinem qui cum hodiernis muneribus congruat, praesertim relate ad illas numerosas regiones quae intolerabilem egestatem adhuc patiuntur.  世界中の諸国家並びに諸国民の相互依存関係がますます緊密になりつつある現代において、全世界の共通善を適切に追求し、また効果的に実現するために、諸国共同体は、現代の任務に対応する秩序を制定する必要がある。特に、放置しておくことがゆるされないほどの窮乏に今なお悩んでいる多くの地域に関して、そうしなければならない。
Ad hos fines assequendos, institutiones communitatis internationalis variis hominum necessitatibus pro sua parte providere debent, tam in vitae socialis campis ad quos pertinent victus, sanitas, educatio, labor, quam in nonnullis condicionibus particularibus quae alicubi oriri possunt, ut sunt necessitas generali nationum progredientium incremento fovendi, aerumnis profugorum per universum mundum dispersorum occurrendi, vel etiam migrantes eorumque familias adiuvandi.  この目的を達成するために、国際共同体の諸機関は、それぞれの分野において人々の種々の必要を満たすようにしなければならない。すなわち、社会生活の領域においては食料、健康、教育、仕事であり、また、ある特殊な状況において起こりうる一般的必要、例えば、開発途上の国に対する援助、全世界に離散した難民の救済、移住者とその家族に対する援助などである。
Institutiones internationales, universales vel regionales, quae iam exsistunt certe de genere humano bene merentur. Eaedem tamquam primi conatus apparent fundamenta internationalia totius communitatis humanae ponendi ut gravissimae nostrorum temporum quaestiones solvantur, et quidem ad progressum ubique terrarum promovendum et ad bella in quacumque forma praecavenda. In omnibus istis campis gaudet Ecclesia de spiritu verae fraternitatis inter christianos et non christianos florentis qui enititur ut conamina semper intensiora fiant ad ingentem miseriam sublevandam.  既存の世界的または地域的な国際機関は確かに人類のために役だっている。これらの機関は、世界中に進歩向上を促進させ、またあらゆる形の戦争を未然に防ぐなど、現代に最も重要な問題を解決するために、全人類共同体の国際的基準となる最初の試みと思われる。これらすべての領域において、キリスト者と非キリスト者の間に活発な真の兄弟愛の精神が盛んになっていること、また、世界の大きな悲惨を救済するための努力が、常にいっそう増していることを教会は喜ぶ。
85. De cooperatione internationali in campo oeconomico. 85(経済の領域における国際的協力)
Hodierna generis humani coniunctio etiam instaurationem maioris cooperationis internationalis in campo oeconomico expostulat. Etenim, etsi omnes fere populi sui iuris facti sunt, longe tamen abest ut a nimiis inaequalitatibus et ab omni indebitae dependentiae forma iam liberi sint omneque gravium difficultatum internarum periculum effugiant.  人類の現在の連帯性は、経済の領域においても、いっそう大きな国際協力の確立を求めている。事実、ほとんどすべての国家が独立を獲得しているが、これらの国家は、ひどい不平等やあらゆる形の不当な従順からすでに解放され、また国内のあらゆる重大な困難や危険から脱していると言うにはほど遠い。
Incrementum alicuius nationis ex adiumentis humanis et pecuniariis pendet. Cives uniuscuiusque nationis per educationem et formationem professionalem ad varia munera vitae oeconomicae et socialis obeunda praeparandi sunt. Ad hoc autem requiritur auxilium peritorum alienigenarum qui, dum opem ferunt, non ut dominatores se gerant sed ut adiutores et cooperatores. Auxilium materiale nationibus progredientibus non procurabitur, nisi consuetudines hodierni commercii in mundo profunde mutentur. Alia insuper auxilia a nationibus progressis praestanda sunt sub forma sive donorum sive mutuorum sive pecuniarum collocationum; quae praestentur cum generositate et sine cupiditate ex una parte, accipiantur cum omni honestate ex altera.  一国の発展は人的ならびに経済的資源に依存する。それぞれの国の国民は教育と職業訓練によって経済・社会生活の種々の任務に従事するよう養成されなければならない。このためには外人専門家の助けを必要とするが、この人々は支配者としてではなく、援助者、協力者として行動すべきである。今日の世界商業界の慣習が大きく変わらなければ、開発途上の国々は物質的援助を得ることはできないであろう。なお、贈与、借款、投資の形の元に、その他の援助が先進国から提供されなければならない。これらの援助は、一方では寛大無欲に提供され、他方では誠実に受け入れられるべきである。
Ad verum ordinem oeconomicum universalem instaurandum abolenda sunt nimia lucrorum studia, ambitiones nationales, appetitus dominationis politicae, calculi ordinis militaristici necnon machinationes ad ideologias propagandas et imponendas. Plura oeconomica et socialia systemata proponuntur; optandum est ut in his periti communia fundamenta sani commercii mundialis inveniant; quod facilius continget si singuli propria praeiudicia abnuant et ad dialogum sincere gerendum promptos se praebeant.  真の世界的経済秩序を確立するためには、収益に対する過度の執着、国家的野心、政治的支配の欲望、軍事的計算、イデオロギーの宣伝または強制を廃止しなければならない。種々の経済的、社会的体制が提案されているが、この事に関しては専門家たちが健全な世界の商業に共通な基盤を見いだす事が望まれる。しかし、それは、各自が先入観を捨てて誠実な対話をする覚悟になれば、より容易に実現するであろう。

(165) Cf. Eph. 2, 16; Col. 1, 20-22.
(166) Cf. IOANNES XXIII, Litt. Encycl. Pacem in terris, 11 aprilis 1963: AAS 55 (1963), p. 291: «Quare aetate hac nostra, quae vi atomica gloriatur, alienum est a ratione, bellum iam aptum esse ad violata iura sarcienda».
(167) Cf. PIUS XII, Allocutio 30 sept. 1954: AAS 46 (1954), p. 589; Nuntius radiophonicus, 24 dec. 1954: AAS 47 (1955), pp. 15 ss.; IOANNES XXIII, Litt. Encycl. Pacem in terris: AAS 55 (1963), pp. 286-291; S. PAULUS VI, Allocutio in Consilio Nationum Unitarum 4 oct. 1965: AAS 57 (1965), pp. 877-885.
(168) Cf. IOANNES XXIII, Litt. Encycl. Pacem in terris, ubi de diminutione armorum sermo est: AAS 55 (1963), p. 287. 168 Cf. IOANNES XXIII, Litt. Encycl. Pacem in terris, ubi de diminutione armorum sermo est: AAS 55 (1963), p. 287.
(169) Cf. 2 Cor. 6, 2.

 

コメント

「現代世界憲章」第二部 若干の緊急課題 第4章 政治共同体の生活 の羅和対訳

2019年12月03日 | 第二バチカン公会議

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
第2バチカン公会議公文書の「現代世界憲章」の「第二部 若干の緊急課題 第4章 政治共同体の生活」の原文を対訳でご紹介します。

Caput IV 第4章
DE VITA COMMUNITATIS POLITICAE 政治共同体の生活
73. De hodierna vita publica. 73(現代の公共生活)
Nostris temporibus profundae advertuntur transformationes etiam in compage et institutionibus populorum, quae ipsorum evolutionem culturalem, oeconomicam ac socialem consequuntur; quae transformationes magnum influxum in communitatis politicae vitam exercent, praesertim quod attinet ad omnium iura et officia in libertatis civilis exercitio ac in bono communi attingendo et ad civium relationes inter se et cum publica auctoritate ordinandas.  現代においては、国家の構造と組織にも大きな変化が見られる。国民の文化的・経済的・社会的進歩に伴うこのような変化は、政治共同体の生活に、特に市民的自由の行使と共通善の追求における各自の権利と義務に関して、また国民の相互関係ならびに国民と公権との関係の調整に関して、大きな影響を与える。
Ex vividiore humanae dignitatis conscientia exoritur, in variis mundi regionibus, studium ordinem politicum-iuridicum instaurandi, in quo personae iura in vita publica melius protegantur, ut sunt iura libere sese coadunandi, consociandi, proprias opiniones exprimendi ac religionem privatim publiceque profitendi. Tutamen enim personae iurium condicio necessaria est ut cives, sive singuli sive consociati, in rei publicae vita et moderamine actuose participare possint.  人間の尊厳についての自覚が強まるにつれて、たとえば集会と結社の自由、言論の自由、私的にも公的にも信教を公言する自由などの人権を、公共生活においてよりよく擁護する政治的・法的秩序を確立しようとする努力が世界の諸地域に生ずる。事実、人権の擁護は国民が個人としても団体としても、国家の生活と統治に行動的に参加できるための必要条件である。
Una cum progressu culturali, oeconomico ac sociali apud plures roboratur desiderium assumendi maiorem partem in communitatis politicae vita ordinanda. In multorum conscientia studium augetur ut iura minorum alicuius nationis partium serventur, earum officiis erga communitatem politicam non neglectis; insuper reverentia in dies increscit erga homines aliam opinionem vel aliam religionem profitentes; simul latior instituitur cooperatio, ut omnes cives, et non tantum quidam privilegiis ornati, iuribus personalibus reapse frui possint.  文化的・政治的・社会的進歩と共に、政治共同体の調整により大きな役割を持つという望みが多くの人の間に強くなる。国内の少数派の権利が擁護されると同時に、かれらが政治共同体に対する義務を怠らないようにという意向が多くの人の良心の中に強まる。そのうえ、意見や宗教を異にする人々の権利を実際に享受できるためのいっそう広い協力が確立される。
Reprobantur autem quaecumque formae politicae, in aliquibus regionibus vigentes, quae libertatem civilem vel religiosam praepediunt, victimas cupiditatum et criminum politicorum multiplicant ac exercitium auctoritatis a bono communi ad commodum cuiusdam factionis vel ipsorum moderatorum detorquent.  これに反して、市民の自由または信教の自由を妨害し、欲望と政治的犯罪の犠牲者の数を増し、共通善の為ではなく、党派や統治者自身の利益のために権力を曲げて行使するような政治形態は、一部の地域に存在するが、このような政治形態すべてを排斥する。
Ad vitam politicam vere humanam instaurandam nihil melius est quam interiorem iustitiae et benevolentiae ac servitii boni communis sensum fovere atque persuasiones fundamentales circa veram indolem communitatis politicae necnon circa finem, rectum exercitium et limites publicae auctoritatis corroborare.  真に人間にふさわしい政治生活を確立するためには、正義感と親切心と共通善に対する奉仕の精神を養い、政治共同体の真の性格、および公権の目的とその正当な行使とその限界とに関する基本的確心を強めることが最も重要である。
74. De communitatis politicae natura et fine. 74(政治共同体の本質と目的)
Homines, familiae et varii coetus, qui communitatem civilem constituunt, propriae insufficientiae ad vitam plene humanam instituendam conscii sunt et necessitatem amplioris communitatis percipiunt, in qua omnes, ad commune bonum semper melius procurandum, cotidie proprias vires conferant (155). Quapropter communitatem politicam secundum varias formas constituunt. Communitas ergo politica propter illud commune bonum exsistit, in quo suam plenam iustificationem et sensum obtinet, et ex quo ius suum primigenum et proprium depromit. Bonum vero commune summam complectitur earum vitae socialis condicionum, quibus homines, familiae et consociationes, suam ipsorum perfectionem plenius atque expeditius consequi possint (156).  市民共同体を形成する各個人、家庭、諸団体は、完全な人間生活を営むためには自分たちだけでは不十分であることを自覚し、絶えず共通善をよりよく実現するためにすべての人が毎日力を合わせるような、さらに大きな共同体の必要を感じる。そのため人々は種々の形態の政治共同体を形成するのである。したがって共通善の為に存在する政治共同体は、共通善の中にその完全な意味とその完全な正当性を見いだし、またそこから最初のそして本来の権利を得る。共通善は個人・家庭・団体がそれぞれの完成に、より用意に到達できるような社会生活の諸条件の総体である。
Multi autem et diversi sunt homines, qui in communitatem politicam conveniunt et legitime in diversa consilia declinare possunt. Ne igitur, unoquoque in suam sententiam abeunte, communitas politica distrahatur, auctoritas requiritur, quae omnium civium vires in bonum commune dirigat, non mechanice nec despotice, sed imprimis ut vis moralis, quae libertate et suscepti officii onerisque conscientia nititur.  しかし、政治共同体を作る多くの異なった人々は、当然種々の異なった意見に傾くことができる。そこで、各自が自分の意見を固守することによって、政治共同体の分裂を防ぐために権威が必要となる。すなわち権利は機械的にでもなく暴君的にでもなく、まず自由と責任感に根ざす道徳的力として、全国民の力を共通善に向けさせるのである。
Patet ergo communitatem politicam et auctoritatem publicam in natura humana fundari ideoque ad ordinem a Deo praefinitum pertinere; etsi regiminis determinatio et moderatorum designatio liberae civium voluntati relinquantur (157).  それゆえ、政治共同体と公権は人間の本性に基づくものであり、したがって神の定めた秩序に属するものであること明白である。ただし、政治体制の決定と政府の指名は国民の自由意志に任されている。
Sequitur item auctoritatis politicae exercitium sive in communitate ut tali, sive in institutis rem publicam repraesentantibus, semper intra fines ordinis moralis ad effectum deducendum esse, ad commune bonum - et quidem dynamice conceptum - procurandum, secundum ordinem iuridicum legitime statutum vel statuendum. Tunc cives ad obedientiam praestandam ex conscientia obligantur (158). Exinde vero patet responsabilitas, dignitas et momentum eorum, qui praesunt.  同様に、政治上の権威の行使は、共同体そのものにおいても、常に倫理秩序の限界内において、動的(ダイナミック)なものと理解された共通善を目的として、合法的に定められた、または定むべき法秩序に従って行われるべきである。その場合、国民には良心に基づいて服従すべき義務が生ずる。ここにおいて、上に立つ者の責任、品位、重要性は明白である。
Ubi autem a publica auctoritate, suam competentiam excedente, cives premuntur, ipsi, quae a bono communi obiective postulantur, ne recusent; fas vero sit eis contra abusum huius auctoritatis sua conciviumque suorum iura defendere, illis servatis limitibus, quos lex naturalis et evangelica delineat.  公権が越権行為によって国民を圧迫する場合も、国民は共通善によって客観的に要求されることを拒否してはならない。しかし国民は公権の乱用に反対して、自然法と福音のおきてが示す限界を守りながら、自分および同国民の権利を擁護することができる。
Modi vero concreti, quibus communitas politica propriam compagem et publicae auctoritatis temperationem ordinat, varii esse possunt secundum diversam populorum indolem et historiae progressum; semper autem ad hominem excultum, pacificum et erga omnes beneficum efformandum inservire debent, ad totius familiae humanae emolumentum.  政治共同体がみずからの構造を定め、公権を規制する具体的方式は、それぞれの国民性と歴史の発展に応じて異なり売る。しかし、それは常に全人類家族の益のために、教養があり、平和を愛し、すべての人に好意をもつ人間を育成することに役だつものでなければならない。
75. De omnium in vita publica cooperatione. 75(公的生活におけるすべての人の協力)
Cum humana natura plene congruit ut structurae politicae-iuridicae inveniantur, quae omnibus civibus semper melius ac sine ulla discriminatione possibilitatem effectivam praebeant libere et actuose participandi tum in fundamentis iuridicis communitatis politicae statuendis, tum in rei publicae moderamine et variorum institutorum campis et finibus determinandis, tum in moderatorum electione (159). Memores ergo omnes cives sint iuris simul et officii suo libero suffragio utendi ad bonum commune promovendum. Ecclesia laude et consideratione dignum opus illorum habet, qui in hominum servitium rei publicae bono se devovent et huius officii onera suscipiunt.  政治共同体の法的基礎の制定、国家の統治と諸機関の領域および目的の決定、為政者の選挙に関して、実際に国民のすべてが常によりよく、なんらの差別待遇なしに、自由に行動的に参加できるような法的政治的形態を見いだすことは人間の本性にまったくなかったことである。したがって国民のすべては共通善を促進するために自由投票を用いる権利と義務があることを記憶すべきである。人々に対する奉仕として、国家の福祉のために尽くし、またこの任務の重責を引き受ける人々の働きを教会は賞賛に価するものとして高く評価する。
Ut civium cooperatio, cum officii conscientia coniuncta, in cotidiana publicae rei vita effectum suum felicem attingat, requiritur positivus ordo iuris, in quo conveniens divisio munerum et institutorum auctoritatis publicae atque simul efficax tuitio iurium, neminique obnoxia, instaurentur. Omnium personarum, familiarum ac coetuum iura eorumque exercitium agnoscantur, serventur et promoveantur (160), simul cum officiis, quibus cuncti cives obstringuntur. Inter quae officium meminisse oportet rei publicae materialia et personalia servitia praestandi, quae ad bonum commune requiruntur. Caveant moderatores ne coetus familiares, sociales aut culturales, corpora aut instituta intermedia, impediant, neve ea sua legitima et efficaci actione privent, quam potius libenter et ordinatim promovere satagant. Cives vero, sive singuli sive consociati, caveant ne nimiam potestatem publicae auctoritati tribuant, neve nimia commoda et utilitates ab ipsa inopportune postulent, ita ut personarum, familiarum necnon coetuum socialium officii onus imminuant.  国民の良心的協力が国家の日常生活の中によい実を結ぶためには、成文法が必要である。それによって、公権の諸機関と任務の適切な分割、ならびに権利の擁護にあたる独立した効果的な制度が定められる。すべての個人・家庭・集団の権利とその行使・ならびにすべての国民を拘束する義務が認められ、守られ、促進されなければならない。国民の義務の一つとして、共通善のために必要な物的または人格的奉仕、文化団体、中間団体を妨害したり、その正当で効果的活動を禁止せず、帰ってそのような活動を喜んで秩序正しく促進するよう努力すべきである。国民は個人としても団体としても、公権に過度の権限を与えないよう、また公権から過度の援助や利益を不当に要求しないように留意すべきである。このようなことは個人、家庭、社会集団の責任感を低下させるからである。
Ab implicatioribus nostrae aetatis adiunctis publica auctoritas saepius in res sociales et oeconomicas atque culturales se interponere cogitur ad aptiores inducendas condiciones, quibus cives ac coetus ad integrum humanum bonum libere prosequendum efficacius iuventur. Secundum autem diversas regiones et populorum evolutionem diverso modo intellegi possunt relationes inter socializationem (161) et personae autonomiam ac progressum. Sed ubi exercitium iurium propter bonum commune ad tempus restringitur, libertas, circumstantiis mutatis, quam primum restituatur. At inhumanum est quod auctoritas politica incidat in formas totalitarias vel in formas dictatorias quae iura personae vel socialium coetuum laedant.  複雑な現代の状況において、人間としての完成を追求する国民や団体をより効果的に助けることができるいっそう適切な状況を作り出すために、公権はしばしば社会的、経済的、文化的な事がらに、止むをえず介入しなければならない。社会化と個人の自主および進歩との関係は地域の違いと国民の進歩の度合いに応じてさまざまに理解される。ただし共通善のために、権利の行使が一時的に制限される場合には、事情が変われば、まず大一に自由を回復すべきである。政治権力が個人および社会的団体の権利を侵害する全体主義や独裁主義の形態をとることは、ひにんげんてきなことである。
Cives pietatem erga patriam magnanimiter et fideliter excolant, sine tamen mentis angustia, ita scilicet ut ad bonum totius familiae humanae, quae variis nexibus inter stirpes, gentes ac nationes coniungitur, semper simul animum intendant.  国民は祖国愛を惜しみなく忠実に養うべきであるが、心の狭さを避け、諸民族、諸国民、諸国家の間における種々の関連によって結ばれている全人類家族の善を常に志さなければならない。
Christifideles omnes in communitate politica specialem et propriam vocationem sentiant, qua exemplo praefulgere debent quatenus officii conscientia sunt adstricti et communi bono excolendo inserviunt, ita ut factis quoque commonstrent quomodo auctoritas cum libertate, inceptio personalis cum totius corporis socialis coniunctione ac necessitudine, unitas opportuna cum proficua diversitate componantur. Circa rem temporalem ordinandam legitimas, at inter se discrepantes, opiniones agnoscant, civesque, etiam consociatos, qui eas honeste defendunt, revereantur. Partes autem politicae ea promovere debent, quae earum iudicio ad bonum commune requiruntur; numquam vero propriam utilitatem communi bono praeponere licet.  すべてのキリスト信者は、政治的共同体における自分の特別な使命を感じとるべきである。キリスト信者は義務に対する責任感と共通善に対する奉仕の輝かしい模範によって、この召命を示すべきである。したがってキリスト信者は、権力と自由、個人の創意と社会全体の連帯性および関係、必要な統一と実り多い多様性をどのように結び合わせるかを、行為を持って示さなければならない。地上の諸現実の処理に関しては互いに異なる種々の考え方を正当なものとして認め、自分の考え方を正直に弁護する市民と団体を尊重すべきである。政党は共通善のために必要であると判断した事がらを促進しなければならない。しかし、政党自体の利益を共通善に優先させることは絶対に許されない。
Educatio vero civilis et politica, hodie tum populo tum praesertim iuvenibus maxime necessaria, sedulo curanda est, ut omnes cives in communitatis politicae vita partes suas agere valeant. Qui idonei sunt aut fieri possunt ad artem politicam, difficilem simul et nobilissimam (162), sese praeparent et eam, proprii commodi et venalis beneficii immemores, exercere satagant. Contra iniuriam et oppressionem, unius hominis vel partis politicae arbitrarium dominatum et intolerantiam, integritate morum ac prudentia agant; sinceritate autem et aequitate, immo caritate et fortitudine politica, bono omnium se devoveant.  公民教育と政治教育は、国民のすべてが政治共同体の生活において自分の役割を果たすために、国民特に青少年にとって大いに必要であり、熱心に行うべきである。困難であると同時に最も高貴な政治の技術に適する者、またはその可能性のある者は、そのために準備し、自分の利権や物質的利益を考えずに政界に入るように努力すべきである。不正、圧制、一個人または一政党による専制と不寛容に対しては精錬潔白と思慮をもって戦い、誠実、平等、愛、政治的勇気をもってすべての人の福祉に専念すべきである。
76. Communitas politica et Ecclesia. 76(政治共同体と教会)
Magni momenti est, praesertim ubi societas pluralistica viget, ut rectus respectus relationis inter communitatem politicam et Ecclesiam habeatur, utque inter ea, quae christifideles, sive singuli sive consociati, suo nomine tamquam cives, christiana conscientia ducti, et ea, quae nomine Ecclesiae una cum pastoribus suis agunt, clare distinguatur.  政治共同体と教会との関係について、正しい見方を持つことは特に多元的社会において重要である。またキリスト信者個人または団体が、キリスト教的良心に基づいて一市民として行うことと、牧者とともに教会を代表して行うことを明確に区別することは重要である。
Ecclesia, quae, ratione sui muneris et competentiae, nullo modo cum communitate politica confunditur, neque ad ullum systema politicum alligatur, simul signum est et tutamentum transcendentiae humanae personae.  教会の任務と権限から考えて、教会と政治共同体とはけっして混同されるべきではなく、教会はどのような政治体制にも拘束されてはならない。同時に、人間の超越性のしるしであり、またその保護者である。
Communitas politica et Ecclesia in proprio campo ab invicem sunt independentes et autonomae. Ambae autem, licet diverso titulo, eorumdem hominum vocationi personali et sociali inserviunt. Quod servitium eo efficacius in omnium bonum exercebunt, quo ambae melius sanam cooperationem inter se colunt, attentis quoque locorum temporumque adiunctis. Homo enim ad solum ordinem temporalem non coarctatur, sed in historia humana vivens aeternam suam vocationem integre servat. Ecclesia vero, in Redemptoris amore fundata, ad hoc confert ut intra nationis terminos et inter nationes iustitia et caritas latius vigeant. Evangelicam veritatem praedicando atque omnes navitatis humanae provincias, per suam doctrinam et testimonium a christifidelibus exhibitum, illuminando, etiam politicam civium libertatem et responsabilitatem reveretur atque promovet.  政治共同体と教会はそれぞれの分野において互いに独立しており、自律性を持っている。しかし両者は、名目こそ違え、同じ人々の個人的、社会的召命に奉仕する。両者が時と所の状況を考慮して互いに健全に協力しあうならば、すべての人の益のために、この奉仕をよりよく実行できるであろう。事実、人間は現世的秩序だけに制約されているのではない。人間は人類の歴史の中に生きながら、自分の永遠の召命をそのまま保っている。教会はあがない主の愛の上に築かれて、国内と国際間に正義と愛がいっそう広く実行されることに寄与する。教会は福音の真理を説き、その教えとキリスト信者のあかしをもって人間活動の全分野を照らすことにより、国民の政治的自由と責任をも尊重し促進する。
Apostoli ipsorumque successores et horum cooperatores, cum mittantur ut hominibus Christum mundi Salvatorem annuntient, in suo apostolatu exercendo Dei potentia innituntur, qui persaepe in testium infirmitate virtutem Evangelii manifestat. Quicumque enim Dei verbi ministerio se devovent, utantur oportet viis et subsidiis Evangelio propriis, quae in pluribus a terrenae civitatis subsidiis differunt.  世の救い主キリストを人々に告げるために派遣された使徒とその後継者、およびその協力者たちは、その使徒職の実践において、しばしば証人たちの弱さの中に福音の威力を示す神の力に依存する。神のことばの奉仕に献身する者は皆、福音独自の方法と援助を用いるべきである。それは多くの場合、地上の国の援助とは異なっている。
Res quidem terrenae et ea, quae in hominum condicione hunc mundum exsuperant, arcte inter se iunguntur, et ipsa Ecclesia rebus temporalibus utitur quantum propria eius missio id postulat. Spem vero suam in privilegiis ab auctoritate civili oblatis non reponit; immo quorundam iurium legitime acquisitorum exercitio renuntiabit, ubi constiterit eorum usu sinceritatem sui testimonii vocari in dubium aut novas vitae condiciones aliam exigere ordinationem. Semper autem et ubique ei fas sit cum vera libertate fidem praedicare, socialem suam doctrinam docere, munus suum inter homines expedite exercere necnon iudicium morale ferre, etiam de rebus quae ordinem politicum respiciunt, quando personae iura fundamentalia aut animarum salus id exigant, omnia et sola subsidia adhibendo, quae Evangelio et omnium bono secundum temporum et condicionum diversitatem congruant.  確かに、地上の現実と、人間の条件においてこの世を超越する事がらとは、互いに密接に結ばれている。教会自身もその固有の使命が要求する場合、地上の現実を利用する。しかし、教会は国家権力が提供する特権を希望するものではない。むしろ正当な既得権の行使が教会のあかしの誠実さについて疑いをいだかせたり、新しい生活条件が別な規制を要求するときには、正当な既得権の行使を放棄するであろう。しかし教会は常に、どこにおいても、真の自由をもって信仰を説き、社会に関する自分の教説を教え、人々の間において自分の任務を妨げなく実行する権利を持っている。なお人間の基本的権利や霊魂の救いのために必要であれば、教会は福音および、さまざまな時と条件に応じてすべての人の益にふさわしいあらゆる手段を、そしてそれのみを用いて、政治的秩序に関する事がらにおいても倫理的判断を下すことができる。
Fideliter Evangelio adhaerens et suam missionem in mundo exercens, Ecclesia, cuius est, quidquid verum, bonum et pulchrum in communitate humana invenitur, fovere ac elevare (163), pacem inter homines ad Dei gloriam roborat (164).  人間共同体の中に見いだされる真・善・美のすべてを育て高めることを自分の務めとする教会は、忠実に福音に従い、世における自分の使命を実行死筒、神の栄光のために人々の間に平和を固める。

(155) Cf. IOANNES XXIII, Litt. Encycl. Mater et Magistra: AAS 53 (1961), p. 417.
(156) Cf. ID., ibid.
(157) Cf. Rom. 13, 1-5.
(158) Cf. Rom. 13, 5.
(159) Cf. PIUS XII, Nuntius radioph., 24 dec. 1942: AAS 35 (1943), pp. 9-24; 24 dec. 1944: AAS 37 (1945), pp. 11-17; IOANNES XXIII, Litt. Encycl. Pacem in terris:: AAS 55 (1963), pp. 263, 271, 277-278.
(160) Cf. PIUS XII, Nuntius radioph., 1 iun. 1941: AAS 33 (1941), p. 200; IOANNES XXIII, Litt. Encycl. Pacem in terris:: l. c., pp. 273-274.
(161) Cf. IOANNES XXIII, Litt. Encycl. Mater et Magistra: AAS 53 (1961), pp. 415-418.
(162) Cf. PIUS XI, Alloc. Ai dirigenti della Federazione Universitaria Cattolica: Discorsi di Pio XI: ed. Bertetto, Torino, vol. I (1960), p. 743.
(163) Cf. CONC. VAT. II, Const. dogm. de Ecclesia, Lumen gentium, n. 13: AAS 57 (1965), p 17.
(164) Cf. Lc. 2, 14.

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コメント

「現代世界憲章」第二部 若干の緊急課題 第3章 経済・社会生活 第2節 経済・社会生活全体を支配する若干の原則 の羅和対訳

2019年12月03日 | 第二バチカン公会議

 

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
第2バチカン公会議公文書の「現代世界憲章」の「第二部 若干の緊急課題 第3章 経済・社会生活 第2節 経済・社会生活全体を支配する若干の原則」の原文を対訳でご紹介します。

Sectio II: De quibusdam principiis totam vitam oeconomicam-socialem regentibus 第2節 経済・社会生活全体を支配する若干の原則
67. De labore eiusque condicionibus atque de otio. 67(労働、労働条件、休暇)
Labor humanus, qui in bonis gignendis ac commutandis vel in servitiis oeconomicis suppeditandis exercetur, ceteris elementis vitae oeconomicae praestat, quippe quae tantum rationem instrumentorum habeant.  物の生産と交換ならびに経済的サービス業に従事する労働者は、単に手段にすぎない他の経済生活の要素にまさっている。
Hic enim labor, sive proprio marte assumatur sive ab alio conducatur, a persona immediate procedit, quae res naturae quasi suo sigillo signat easque suae voluntati submittit. Labore suo, homo ordinarie suam suorumque vitam sustentat, cum fratribus suis coniungitur eisque inservit, germanam caritatem exercere potest atque creationi divinae perficiendae sociam operam praebere. Immo, per laborem Deo oblatum, tenemus hominem ipsi redemptionis operi Iesu Christi consociari, qui praecellentem labori detulit dignitatem, cum in Nazareth propriis manibus operaretur. Exinde oritur pro unoquoque officium fideliter laborandi atque etiam ius ad laborem; societatis vero est, iuxta adiuncta in ea vigentia, pro sua parte cives adiuvare ut sufficientis laboris occasionem invenire possint. Denique ita remunerandus est labor ut homini facultates praebeantur suam suorumque vitam materialem, socialem, culturalem spiritualemque digne excolendi, spectatis uniuscuiusque munere et productivitate necnon officinae condicionibus et bono communi (144).  この労働は自力によるものも、雇用によりものも、直接に人間から出るものである。すなわち、人間は自然物に自分の刻印をしるし、それを自分の意志に従わせる。人間は普通、労働によって自分と家族との生活を維持し、兄弟たちと結ばれ、これに仕える。また労働によって、真実の愛を実践し神の創造の完成に協力することができる。なお、労働を神にささげることによって、人間はイエズス・キリストのあがないのわざ自体に参加する、とわれわれは主張する。主はナザレにおいて、自分の手で労働することによって、労働にすぐれた価値を与えたのである。これらのことから、忠実に労働する義務と労働する権利とが各人に生ずるのである。社会は国民が十分な仕事の機会を見いだすことができるように、社会の具体的状況に応じて、その立場から、国民を助けなければならない。さらに労働の報酬は、各自の任務と生産性、企業の状況と共通善を考慮したうえで、本人とその家族に物質的・社会的・文化的・精神的生活をふさわしく営むことのできる手段を保証するものでなければならない。
Cum navitas oeconomica plerumque consociato hominum labore fiat, iniquum et inhumanum est illam ita componere et ordinare ut quibusvis laborantibus detrimento sit. Saepius autem accidit, etiam nostris diebus, ut opus facientes quodammodo in servitutem proprii operis redigantur. Quod sic dictis legibus oeconomicis nequaquam iustificatur. Universus igitur fructuosi laboris processus necessitatibus personae eiusque vitae vivendi rationibus accommodandus est; imprimis eius vitae domesticae, praesertim quod ad matres familiae spectat, respectu semper habito et sexus et aetatis. Laborantibus praebeatur insuper facultas proprias qualitates personamque suam in ipso laboris exercitio explicandi. Huic exercitio tempus viresque suas debita cum responsabilitate applicantes, tamen ad vitam familiarem, culturalem, socialem et religiosam colendam etiam sufficienti quiete et otio omnes gaudeant. Immo opportunitatem habeant vires ac potentias libere evolvendi, quas fortasse in labore professionali parum excolere valent.  一般に、経済活動は多くの人間の協同によるものであるから、働く人々のだれかの不利になるような経済活動を組織し規制することは不正であり非人間的である。しかし、働く者がある意味で自分の仕事に隷属させられるようなことが、今日においても、しばしば起こっている。このことは、いわゆる経済法則によってけっして正当化されるものではない。それゆえ、生産的労働の全過程を、人間の必要とその生活の要求に適応させなければならない。それはまず第一に過程生活の必要に適応させるべきであって、特に過程の母親立ちに関して、常に性別と年齢を考慮に入れなければならない。そのうえ、労働者が、自分の労働の中に自分の能力と人格を発展させることのできる可能性を持たなければならない。働く者は正しい責任感に基づいて自分の時間と労力を仕事に注ぎ込まなければならないが、過程・文化・社会・宗教生活を営むためにも、十分な休息と余暇が働く者のすべてに与えられなければならない。なお、自分の職業においては十分に使うことができない能力や技能を時通に伸ばす機会を持たなければならない。
68. De participatione in inceptis et in universa rei oeconomicae dispositione, et de conflictibus in labore. 68(企業参加、国際的経済組織への参加、労働争議)
In inceptis oeconomicis personae consociantur, homines scilicet liberi et sui iuris, ad imaginem Dei creati. Ideo, attentis muneribus uniuscuiusque, sive proprietariorum, sive conductorum operis, sive dirigentium, sive operariorum, atque salva necessaria directionis operis unitate, promoveatur, modis apte determinandis, omnium actuosa participatio in inceptorum curatione (145). Cum autem saepius non iam in ipso incepto, sed altius a superioris ordinis institutis de oeconomicis et socialibus condicionibus decernatur, e quibus sors futura laborantium eorumque liberorum pendet, etiam in his statuendis partem habeant, et quidem per seipsos vel per delegatos libere electos.  人間は、(すなわち自由で自主的で神の像にかたどって造られている人間は)結合して得企業をいとなむ。したがって、資本家、経営者、管理者、労働者のそれぞれの職務を考慮し、業務運営上必要な統一を確保したうえで、適切に規定された方法によって、すべての人が企業の経営に積極的に参加することを促進するべきである。労働者とその子供たちの将来を左右する経済的、社会的条件は企業そのものの段階においてではなく、上層の組織によって決定されることが多いから、労働者は自分自身かまたは自由に選出した代表者を通して、この決定にも参加すべきである。
Inter fundamentalia personae humanae iura adnumerandum est ius pro laborantibus consociationes libere condendi, quae eos vere repraesentare et ad vitam oeconomicam recto ordine disponendam conferre possint, necnon ius earum navitatem sine ultionis periculo libere participandi. Per huiusmodi ordinatam participationem, cum progrediente formatione oeconomica et sociali iunctam, in dies augebitur apud omnes proprii muneris onerisque conscientia, qua ipsi eo adducantur ut, secundum capacitates aptitudinesque sibi proprias, totius operis progressionis oeconomicae et socialis necnon universi boni communis procurandi socios se sentiant.  労働者が自由に組合を組織する権利を、基本的人権の中に数えるべきであり、組合は労働者を真実に代表し、経済生活の正しい調整に寄与できるものでなければならない。また報復の危険なしに組合活動に自由に参加する権利を認めなければならない。このような秩序のある参加は、経済的・社会的要請の進歩とともに、自分の職務と仕事に関するすべての人の自覚を強めるであろう。こうして人々は各自がその能力と才能に応じて、経済・社会生活全体の発展と全世界の共通善の実現に参加していることを感じるようになる。
Cum vero conflictus oeconomici-sociales oriuntur, ut ad pacificam eorum solutionem deveniatur enitendum est. Licet autem semper praeprimis ad sincerum inter partes colloquium sit recurrendum, operistitium tamen, et in hodiernis adiunctis, ad propria iura defendenda et ad iusta laborantium quaesita implenda, adiumentum necessarium, etsi ultimum, manere potest. Quamprimum vero viae ad negotiationem et conciliationis colloquium resumendum quaerantur.  経済的・社会的争議が起こったときには、平和的解決に達するよう努力すべきである。まず解決の常道として、双方の間の誠実な話し合いを求めなければならないが、現状においては、ストライキは労働者の権利を守り、その正当な要求を実現するための最後の必要手段として認めることができる。この際にもできるだけ早く交渉再開と話し合いによる妥結への道を探すべきである。
69. De bonorum terrestrium ad universos homines destinatione. 69(地上の財貨は万人のためのものである)
Deus terram cum omnibus quae in ea continentur in usum universorum hominum et populorum destinavit, ita ut bona creata aequa ratione ad omnes affluere debeant, iustitia duce, caritate comite (146). Quaecumque formae proprietatis sint, legitimis institutis populorum accommodatae, secundum diversa atque mutabilia adiuncta, ad hanc bonorum universalem destinationem semper attendendum est. Quapropter homo, illis bonis utens, res exteriores quas legitime possidet non tantum tamquam sibi proprias, sed etiam tamquam communes habere debet, eo sensu ut non sibi tantum sed etiam aliis prodesse queant (147). Ceterum, ius habendi partem bonorum sibi suisque familiis sufficientem omnibus competit. Ita Patres Doctoresque Ecclesiae senserunt, docentes ad pauperes sublevandos homines obligari, et quidem, non tantum ex superfluis (148). Qui autem in extrema necessitate degit, ius habet ut ex aliorum divitiis necessaria sibi procuret (149). Cum tot sint in mundo fame oppressi, Sacrum Concilium omnes sive singulos sive auctoritates urget ut, illius sententiae Patrum memores: Pasce fame morientem, quia si non pavisti occidisti (150), pro uniuscuiusque facultate, bona sua revera communicent et impendant, praesertim illos, sive singulos sive populos, auxiliis muniendo, quibus ipsi sese adiuvare atque evolvere possint.  神は地とそこに含まれるあらゆる物を、すべての人と民族の使用に決定した。したがって被造財は、合いを伴う正義に基づいて、公正にすべての人に豊富に行きわたらなければならない。変動する種々の状況に対応し、国民の正当な制度に適応したものとしての所有の形態が、どのようなものであるにせよ、人は財のこの普遍的指定を常に考慮しなければならない。それゆえ人間は、財の使用に際して、自分が正当に所有している物件を自分のものとしてばかりでなく共同のもの、すなわち、物件は自分のためばかりでなく、他人のためにも役だつようにという意味に考えなければならない。いずれにせよ、すべての人は自分と自分の家族のために十分な量の財産を所有する権利を持っている。教会の教父や博士はこのように考え、貧しい人を助ける義務があること、しかもそれは自分にとって余分なものを与えるだけでは十分でないことを教えた。窮乏の極にある者は自分にとって欠くことのできない必要物を、他人の財産から取得する権利がある。世界には飢えに苦しんでいる人が多いので、公会議はあらゆる人と政府とに呼びかけ、「飢え死にしそうな人に食物を与えなさい。かれに食物を提供しないならば、きみがかれを殺したのだ」と宣言する教父たちのことばを思い起こすよう、そして各自の能力に応じて実際自分の持ち物を分け与え、特に個人や国家がみずからを助け、発展できるような手段を提供するよう迫る。
In societatibus oeconomice minus progressis non raro destinationi communi bonorum ex parte per consuetudines et traditiones communitati proprias satis fit, quibus unicuique membro bona prorsus necessaria praebentur. Vitandum tamen est ne consuetudines quaedam ut omnino immutabiles habeantur, si novis exigentiis huius temporis non iam respondeant; altera vero parte, ne contra honestas consuetudines imprudenter agatur quae, dummodo hodiernis adiunctis apte accommodentur, perutiles esse non desinunt. Similiter in nationibus oeconomice valde progressis, corpus quoddam socialium institutionum, ad cautionem et securitatem spectantium, communem bonorum destinationem pro sua parte ad actum adducere potest. Ulterius promovenda sunt servitia familiaria et socialia, praesertim quae animi cultui atque educationi consulunt. In his omnibus instituendis, invigilandum tamen est ne cives ad quamdam erga societatem inertiam inducantur neve suscepti officii onus reiiciant et servitium repudient.  経済的に低開発の社会において、その社会特有の習慣や伝統によって、財の共同指定が部分的に実行されることもまれでない。こうして必要財は各個人に提供される。しかし、現代の新しい要請にもはや適応しない場合、ある種の習慣を、全然変更できないものと考えることは避けるべきであるが、それと同時に、現代の事情によく順応させれば十分役だつ正しい習慣を、いたずらに破壊すべきではない。同時に、経済的に非常に発達した国においては、保険と保障に関する社会制度の組織が、財の共同指定を部分的に実現することができる。なお、家庭奉仕や社会奉仕、特に文化と教育に寄与するものを促進すべきである。ただし、これらすべてが制定された結果、国民が社会に対して消極的な態度に陥ったり、引き受けた任務の責任を回避したり、奉仕を拒否したりすることがないように、注意しなければならない。..
70. De bonorum collocationibus et de re nummaria. 70(投資と貨幣)
Bonorum collocationes, ex sua parte, tendere debent ad occasiones laboris redditusque sufficientes tam populo hodierno quam futuro procurandos. Quicumque de his collocationibus et vitae oeconomicae ordinatione decernunt - sive singuli, sive coetus, sive auctoritates publicae -, hos fines prae oculis habere tenentur, atque gravem suam obligationem agnoscere ex una parte invigilandi, ut necessariis ad vitam decentem requisitis, sive singulorum sive totius communitatis, provideatur, ex altera parte futura praevidendi et iustum aequilibrium constituendi inter necessitates hodiernae consumptionis, sive individualis sive collectivae, et exigentias collocandi bona pro generatione ventura. Semper etiam prae oculis habeantur urgentes nationum vel regionum oeconomice minus progressarum necessitates. In re autem monetaria caveatur ne propriae nationis necnon aliarum nationum bono offendatur. Provideatur insuper ne oeconomice debiles ex valoris pecuniae immutatione iniuste detrimentum patiantur.  投資は現在と将来の国民に十分な仕事の機会と収入を確保することを目ざすものでなければならない。このような投資と経済生活の計画を決定する人はだれでも、個人も団体も公権も、上述の目的を念頭に置き、自分の重大な責任を自覚すべきである。すなわち、一方では個人にも共同体にも相応な生活に必要なものが提供されるように配慮し、他方では将来を見通して個人および集団の現在の消費の必要と、未来の世代のための投資の必要との間に正しい均衡を見いだすようにしなければならない。なお、低開発国または低開発地域の緊急の必要を常に念頭に置かなければならない。通過の取り扱いに関しては、自国または他国の利益を害することがあってはならない。経済的に貧しい国々が貨幣価値の変動によって不正な損害を受けることがないようにすべきである。
71. De accessione ad proprietatem et dominium privatum bonorum; et de latifundiis. 71(財産取得、私有権、大地主)
Cum proprietas ac aliae in bona exteriora dominii privati formae ad expressionem personae conferant, cum insuper occasionem ei praebeant suum munus in societate et oeconomia exercendi, valde interest ut, sive singolorum sive communitatum, ad quoddam bonorum exteriorum dominium accessio foveatur.  財産所有ならびに物件私有のその他の形態は、人間の自己表示に寄与し、さらに社会と経済において自分の責任を果たす機会を提供する。個人または団体が物件についてある種の支配権を取得できるように奨励することは非常に重要である。
Proprietas privata aut dominium quoddam in bona exteriora spatium plane necessarium ad personalem et familiarem autonomiam unicuique conferunt, et velut libertatis humanae extensio considerari debent. Demum, quia ad munus onusque exercendum stimulos addunt, condicionem quamdam libertatum civilium constituunt (151).  私有財産または物件に対するある種の支配権は、個人と家庭の自律にまったく必要な領域を各自に提供するものであり、人間の自由の延長とも考えるべきである。それは義務と責任を果たすための刺激剤であるから、市民的自由の一条件でもある。
Formae talis dominii vel proprietatis sunt hodie diversae et in dies adhuc magis diversificantur. Omnes autem, non obstantibus fundis socialibus, iuribus et ministeriis a societate procuratis, causa non parvipendenda securitatis manent. Quod non tantum de proprietatibus materialibus dicendum est, sed etiam de immaterialibus bonis, uti sunt capacitates professionales.  このような支配権または所有の形態は今日、種々さまざまであり、それは日増しに複雑化している。今日では、公共の資金や、社会が保証する権利と奉仕が存在するが、これら種々の所有形態は軽視できない保障の源である。このことは物件の所有に関してばかりでなく、専門的能力のような非物質的な財についても言うことができる。
Ius autem privati dominii illi iuri non obstant quod variis formis proprietatum publicarum inest. Translatio quidem bonorum in publicam proprietatem non nisi a competenti auctoritate, iuxta boni communis exigentias et intra eius limites, aequa compensatione oblata, fieri potest. Praeterea, ad publicam auctoritatem pertinet praecavere ne quis privata proprietate contra bonum commune abutatur (152).  私有権は公共所有権の諸形態のもつ権利を妨げるものではない。財貨を公共の所有とすることは、所轄当局により、共通善の要求に基づいて、その限界内で、公正な補償が与えられて行われる場合にだけ可能である。なお公権は私有財産が共通善に反して乱用されないように手配すべきである。
Ipsa autem proprietas privata et indolem socialem natura sua habet, quae in communis destinationis bonorum lege fundatur (153). Qua sociali indole neglecta, proprietas multoties occasio cupiditatum et gravium perturbationum fieri accidit, ita ut ad ipsum ius in discrimen vocandum impugnatoribus praetextus detur.  私有財産自体は、本性上社会的性格を持っている。この社会的性格は財の共通目的の法則に基づくものである。この社会的性格を無視すれば、財産所有はしばしば欲望と大きな無秩序の機会となり、所有権そのものを攻撃する者に口実を与えることになる。
In pluribus regionibus oeconomice minus progressis, magni vel etiam latissimi rustici fundi existunt, mediocriter exculti vel lucri causa sine ulla cultura manentes, dum maior pars populi vel terris caret vel minimis tantum agris gaudet, atque, ex altera parte, incrementum fructificationis agrorum evidenter urgens apparet. Non raro ii qui a dominis ad laborem conducuntur, vel qui partem illorum titulo locationis colunt, nonnisi stipendium vel proventum homine indignum recipiunt, decenti habitatione privantur, necnon a mediatoribus exspoliantur. Omni securitate carentes, sub tali personali famulatu vivunt, ut fere omnis facultas sponte et cum responsabilitate agendi eis tollatur, omnisque promotio in cultu humano et omnis pars in vita sociali et politica illis prohibeantur. Pro variis igitur casibus reformationes necessariae sunt: ut crescant reditus, emendentur condiciones laboris, augeatur securitas in conductione, deturque incitamentum ad sponte operandum; immo ut distribuantur fundi non satis exculti iis qui easdem terras fructuosas reddere valeant. Quo in casu suppeditanda sunt res et media necessaria, praesertim educationis subsidia et iustae ordinationis cooperativae facultates. Quoties autem proprietatis ademptionem bonum commune exegerit, compensatio ex aequitate, omnibus adiunctis perpensis, aestimanda est.  多くの低開発地域において、いいかげんに耕作されていたり、または投機のおもわくから放置されている、広大な、また巨大な農地さえ存在し、一方では、国民の大部分が土地を持たないか、ごく狭い耕地しか所有していない場合がある。しかも他方では農産物の増収が急務であることは明かである。土地所有者に雇用されている人々や小作人として働いている人々の受ける給料または報酬は、人間にふさわしくないほど少額であり、この人々は適当な住宅を持たず、仲介人によって搾取されることもまれではない。この人々は完全に無保障であり、自発的に責任をもって行動する能力をほとんど取り上げられるような個人的従属関係のもとに生活している。そのため、文化的進歩や社会的、政治的生活への参加はまったく禁じられてしまう。したがって、種々の状況に応じて、収入の増加、労働条件の改善、職務保障の増加、自発的労働の奨励をはじめ、開拓能力のある人々に対する未開発地の分配など、種々の改革が必要である。この最後の場合には必要な物と手段、特に教育の援助と協同組合を正しく組織する可能性を提供すべきである。共通善が私有財産の収入を要求するときは、あらゆる事情を考慮したうえで、公正な保障を算出すべきである。
72. De navitate oeconomica-sociali et de Regno Christi. 72(経済・社会活動とキリストの国)
Christiani qui activas partes in hodierna progressione oeconomica-sociali agunt et iustitiam caritatemque propugnant, persuasum sibi habeant se multum ad humanitatis prosperitatem et mundi pacem conferre posse. In his activitatibus sive singuli sive consociati exemplo fulgeant. Acquisitis quidem peritia experientiaque omnino necessariis, inter terrestres navitates rectum ordinem servent, in fidelitate erga Christum Eiusque Evangelium, ita ut integra eorum vita, tam individualis quam socialis, spiritu Beatitudinum, notabiliter paupertatis, imbuatur.  現代の経済・社会発展に積極的に参加し、正義と愛のために戦うキリスト者は、自分たちが人類の繁栄と世界の平和のために大いに貢献できるという確信を持たなければならない。また、自分たちの行動によって、個人としても団体としても、すぐれた模範を示さなければならない。絶対に必要な熟練と経験とを身に付け、キリストとその福音に忠実に仕え、地上的活動において、価値の正しい序列を守り、こうしてその個人的、社会的生活全体に真福八端の精神、特に清貧の精神が行きわたるようにしなければならない。
Quicumque Christo obediens, primum quaerit Regnum Dei, inde validiorem ac puriorem amorem suscipit, ad omnes fratres suos adiuvandos et ad opus iustitiae, inspirante caritate, perficiendum (154).  キリストに従ってまず神の国を求める物は、すべての兄弟を助けるため、また愛のはげましのもとに正義のわざを行うために、いっそう強くいっそう純粋な愛を受ける。

(144) Cf. LEO XIII, Litt. Encycl. Rerum Novarum: ASS 23 (1890-91), pp. 649-662; PIUS XI, Litt. Encycl. Quadragesimo anno: AAS 23 (1931), pp. 200-201; ID., Litt. Encycl. Divini Redemptoris: AAS 29 (1937), p. 92; PIUS XII, Nuntius radiophonicus in pervigilio Natalis Domini 1942: AAS 35 (1943), p. 20; ID., Allocutio 13 iunii 1943: AAS 35 (1943), p. 172; ID., Nuntius radiophonicus operariis Hispaniae datus, 11 martii 1951: AAS 43 (1951), p. 215; IOANNES XXIII, Litt. Encycl. Mater et Magistra: AAS 53 (1961), p. 419.
(145) Cf. IOANNES XXIII, Litt. Encycl. Mater et Magistra: AAS 53 (1961), pp. 408, 424, 427; verbum autem «curatione» desumptum est ex textu latino Litt. Encycl. Quadragesimo anno: AAS 23 (1931), p. 199. Sub aspectu evolutionis quaestionis cf. etiam: PIUS XII, Allocutio 3 iunii 1950: AAS 42 (1950), pp. 485-488; PAULUS VI, Allocutio 8 iunii 1964: AAS 56 (1964), pp. 574-579.
(146)Cf. PIUS XII, Epist. Encycl. Sertum laetitiae: AAS 31 (1939), p. 642; IOANNES XXIII, Allocutio concistorialis: AAS 52 (1960), pp. 5-11; ID., Litt. Encycl. Mater et Magistra: AAS 53 (1961), p. 411.
(147) Cf. S. THOMAS, Summa Theol. II-II, q. 32, a. 5 ad 2; Ibid. q. 66, a. 2: cf. explicationem in LEO XIII, Litt. Encycl. Rerum Novarum: ASS 23 (1890-91), p. 651; cf. etiam PIUS XII, Allocutio 1 iunii 1941: AAS 33 (1941), p. 199; ID., Nuntius radiophonicus natalicius 1954: AAS 47 (1955), p. 27.
(148) Cf. S. BASILIUS, Hom. in illud Lucae «Destruam horrea mea», n. 2: PG 31, 263; LACTANTIUS, Divinarum Institutionum, lib. V, de iustitia: PL 6, 565 B; S. AUGUSTINUS, In Ioann. Ev. tr. 50, n. 6: PL 35, 1760; ID., Enarratio in Ps. CXLVII, 12: PL 37, 1922; S. GREGORIUS M., Homiliae in Ev., hom. 20, 12: PL 76, 1165: ID., Regulae Pastoralis liber, pars III, c. 21: PL 77, 87; S. BONAVENTURA, In III Sent. d. 33, dub. I: ed. Quaracchi III, 728; ID., In IV Sent. d. 15, p. II, a. 2, q. 1: ibid IV, 371 b; Quaest. de superfluo: ms. Assisi, Bibl. comun. 186, ff. 112ª-113ª; S. ALBERTUS M., In III Sent., d. 33, a. 3, sol. 1: ed. Borgnet XXVIII, 611; ID., In IV Sent. d. 15, a. 16: ibid. XXIX, 494-497. Quod autem ad determinationem superflui nostris temporibus: cf. IOANNES XXIII, Nuntius radiotelevisificus 11 sept. 1962: AAS 54 (1962), p. 682: «Dovere di ogni uomo, dovere impellente del cristiano è di considerare il superfluo con la misura delle necessità altrui, e di ben vigilare perché l'amministrazione e la distribuzione dei beni creati venga posta a vantaggio di tutti».
(149) Valet in illo casu antiquum principium: «in extrema necessitate omnia sunt communia, id est communicanda». Alia ex parte pro ratione, extensione et modo quo applicatur principium in textu proposito, praeter modernos probatos auctores: cf. S. THOMAS, Summa Theol. II-II, q. 66, a. 7. Ut patet, pro recta applicatione principii, omnes condiciones moraliter requisitae servandae sunt.
(150) Cf. GRATIANI Decretum, c. 21, dist. LXXXVI: ed. Friedberg I, 302. Istud dictum invenitur iam in PL 54
(151) Cf. LEO XIII, Litt. Encycl. Rerum Novarum: ASS 23 (1890-91), pp. 643-646; PIUS XI, Litt. Encycl. Quadragesimo anno: AAS 23 (1931), p. 191; PIUS XII, Nuntius radiophonicus 1 iunii 1941: AAS 33 (1941), p. 199; ID., Nuntius radiophonicus in pervigilio Natalis Domini 1942: AAS 35 (1943), p. 17; ID., Nuntius radiophonicus 1 sept. 1944: AAS 36 (1944), p. 253; IOANNES XXIII, Litt. Encycl. Mater et Magistra: AAS 53 (1961), pp. 428-429.
(152) Cf. PIUS XI, Litt. Encycl. Quadragesimo anno: AAS 23 (1931), p. 214; IOANNES XXIII, Litt. Encycl. Mater et Magistra: AAS 53 (1961), p. 429.
(153) Cf. PIUS XII, Nuntius Radiophonicus Pent. 1941: AAS 44 (1941), p. 199; IOANNES XXIII, Litt. Encycl. Mater et Magistra: AAS 53 (1961 ), p. 430.
(154) Pro recto usu bonorum iuxta doctrinam Novi Testamenti cf. Lc. 3, 11; 10, 30 ss.; 11, 41; I Pt. 5, 3; Mc. 8,36; 12, 29-31; Iac. 5, 1-6; I Tim. 6, 8; Eph. 4, 28; 2 Cor. 8, 13 ss.; I Io. 3, 17-18.

コメント

「現代世界憲章」第二部 若干の緊急課題 第3章 経済・社会生活 第1節 経済的発展の羅和対訳

2019年12月03日 | 第二バチカン公会議

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
第2バチカン公会議公文書の「現代世界憲章」の「第二部 若干の緊急課題 第3章 経済・社会生活 第1節 経済的発展」の原文を対訳でご紹介します。

Caput III 第3章
DE VITA OECONOMICA-SOCIALI 経済・社会生活
63. De quibusdam vitae oeconomicae aspectibus. 63(経済生活のある面)
Etiam in vita oeconomica-sociali personae humanae dignitas eiusque integra vocatio, totiusque societatis bonum, honoranda atque promovenda sunt. Homo enim totius vitae oeconomicae-socialis auctor, centrum et finis est.  経済・社会生活においても、人間の尊厳とその全き召命、全社会の善が尊敬され促進されなければならない。人間は全経済社会生活の作者、中心、目的だからである。
Oeconomia hodierna, non secus atque aliae vitae socialis provinciae, crescenti super naturam hominis dominatione notatur, densioribus impensioribusque relationibus atque mutua dependentia, inter cives, coetus et populos, necnon frequentiori politicae potestatis interventione. Insimul progressus in rationibus producendi atque in bonis ac servitiis commutandis, oeconomiam aptum effecerunt instrumentum, quo adauctis familiae humanae necessitatibus melius provideri possit.  現代の経済は社会生活の分野と同様に、自然に対する人間の支配の増大、各市民・各集団・各国家の間の関連と相互依存の多角化と強化、政治権力のひんぱんな介入によって特徴づけられている。同時に、生産方式と商品および奉仕交流の進歩によって、経済は人類家族の増大した必要によりよく奉仕することができる適切な道具となった。
Non desunt tamen rationes inquietudinis. Homines non pauci, praesertim in regionibus oeconomice progressis, re oeconomica quasi regi videntur, ita ut fere tota eorum vita personalis ac socialis spiritu quodam oeconomistico imbuatur, tam in nationibus quae oeconomiae collectivisticae favent quam in aliis. Eo temporis momento quo vitae oeconomicae incrementum, dummodo rationabiliter humaniterque dirigatur atque coordinetur, inaequalitates sociales mitigare posset, saepe saepius in earum exasperationem, vel etiam alic-ubi in regressum condicionis socialis debilium et in despectum pauperum vertitur. Dum rebus omnino necessariis ingens multitudo adhuc caret, aliqui, etiam in regionibus minus progressis, opulenter vivunt vel bona dissipant. Luxus et miseria simul exsistunt. Dum pauci maxima deliberandi potestate fruuntur, multi omni paene possibilitate carent propria initiativa ac responsabilitate agendi, saepe etiam in condicionibus vitae et laboris persona humana indignis versantes.  しかし、不安の原因がないわけではない。少なからざる人々が、特に経済的に発展した地域において、経済によって支配されているように見え、かれらの個人ならびに社会生活の大部分は、一種の経済万能主義に染まっており、それは集団経済の国においても同様である。経済生活の発展が理性的に人間らしく指導され調整されるならば、社会的不平等を緩和することができる時代にあるにもかかわらず、しばしばそれを激化させ、ある地域においては弱者の社会条件の退歩や貧者に対する軽蔑さえ生み出している。無数の大衆が今もなお生活必需品さえ持たないのに、ある人々は、低開発地域においてさえ、豪勢な浪費生活をしている。ぜいたくと貧困とが同時に存在する。少数の人間が絶大な決定権を握り、多数の人間は自分の発意と責任において行動する可能性さえ持たず、しばしば人間にふさわしくない生活と労働条件の中に置かれている。
Similes aequilibrii oeconomici socialisque defectus inter agriculturam, industriam ac servitia, sicut etiam inter diversas regiones unius eiusdemque nationis advertuntur. Inter nationes oeconomice magis progressas aliasque nationes gravior in dies oppositio fit, quae ipsam pacem mundi in discrimen vocare potest.  農業、工業、サービス部門の間にも、同一国家内の各地方の間にも、経済的・社会的均衡の同様な欠如が見られる。経済的先進国とその他の国との間には、世界の平和を危機におとしいれることができる対立が日増しに深まっている。
Has disparitates coaevi nostri conscientia in dies vividiore persentiunt, cum eis persuasissimum sit, ampliores technicas et oeconomicas facultates, quibus mundus hodiernus gaudet, hunc infaustum statum rerum corrigere posse atque debere. Inde autem reformationes multae in vita oeconomica-sociali atque mentis et habitudinis conversio ab omnibus requiruntur. Ad hoc Ecclesia iustitiae et aequitatis principia, tam pro vita individuali et sociali, quam pro vita internationali, a recta ratione postulata, in decursu saeculorum sub luce Evangelii exaravit atque his praesertim ultimis temporibus protulit. Sacrum Concilium haec principia secundum adiuncta huius aetatis roborare orientationesque quasdam proferre intendit, exigentias progressionis oeconomicae imprimis respiciens (139).  現代人はこれらの差別を日増しに強く意識し始めている。それというのも現代の新技術と経済力によって、このような不幸な状態を改めることができるし、また改めなければならない、と確信しているからである。そのためには、経済社会生活において多くの改革およびすべての人の考え方と態度の改革が要求される。このために教会は、正しい理性から要求される、個人・社会・国際生活に関する正義と平等の原則を諸世紀の流れを通して福音の光のもとに明らかにしてきたが、特に近年、それを広く述べるに至って。公会議は経済発展による要請を考慮しながら、上述の原則を現代の事情に照らして強化し、若干の方向づけを行うことを望むのである。
Sectio I: De progressione oeconomica 第1節 経済的発展
64. De progressione oeconomica in hominis servitium. 64(人間に奉仕する経済的発展)
Hodie, magis quam antea, ut augmento populi consulatur et crescentibus generis humani optatis satisfiat, incrementum productionis bonorum agriculturae et industriae necnon praestationis servitiorum iure intenditur. Ideo favendum est progressui technico, spiritui innovationis, studio inceptuum creandorum atque ampliandorum, methodis productionis aptandis, ac strenuis quorumcumque productionem exercentium conatibus: omnibus nempe elementis quae huic progressioni inserviunt. Huius autem productionis finalitas fundamentalis non est merum productorum incrementum, neque lucrum vel dominatus, sed hominis servitium, hominis quidem integri, attento ordine materialium eius necessitatum atque eius vitae intellectualis, moralis, spiritualis ac religiosae exigentiarum, hominis, dicimus, cuiuscumque, et cuiuscumque hominum coetus, cuiusvis stirpis vel mundi regionis. Itaque navitas oeconomica, secundum methodos et leges proprias, intra fines ordinis moralis (140) exercenda est ita ut Dei de homine consilium adimpleatur (141).  以前にもまして今日では、人口の増加に備え、人類の増大する期待に答えるために、農業および工業生産の増加とサービス部門の工場を計ることは当然である。したがって、技術の進歩、改革の精神、企業の創設と拡張、生産方法の適応、生産に携わる全従業員の熱心な努力、一言でいえば発展に役だつあらゆる要素を促進すべきである。このような生産の基本的目的は、単なる生産物の増加ではなく、利益でも権力でもなく、人間に対する奉仕である。すなわち、物質的必要と知的・道徳的・霊的・宗教的生活の要請を考慮したうえでの人間全体に対する奉仕であり、人種や地域の差別なしに、すべての人間、すべての団体に対する奉仕である。したがって独自の方法と法則に従う経済活動は、倫理秩序の限界内において行われなければならない。そうしてこそ人間についての神の計画が実現される。
65. De progressione oeconomica sub consilio hominis. 65(経済の発展に対する人間の統制)
Progressio oeconomica sub hominis consilio manere debet; nec soli arbitrio paucorum hominum aut coetuum nimia potentia oeconomica pollentium, nec solius communitatis politicae, nec quarundam potentiorum nationum remittenda est. Oportet e contra ut, in quocumque gradu, homines quam plurimi atque, ubi de relationibus internationalibus agitur, omnes nationes in ea dirigenda activas partes habeant. Pariter opus est ut opera spontanea singulorum hominum liberorumque coetuum cum auctoritatum publicarum conatibus coordinentur atque apte et cohaerenter componantur.  経済発展は人間の統制のもとに置かれなければならない。それを少数の人間や巨大な経済力を持つ団体の自由にさせたり、政治共同体だけや若干の強国の自由に任せてはならない。そうではなく、あらゆる水準においては、できるだけ多くの人が、そして国際関係においては、すべての国家が、経済発展の方向づけに積極適役割りを持つべきである。同時に個人ならびに自由団体の自発的な活動と公権の企画との間の適切な調整を計るべきである。
Incrementum nec soli cursui quasi mechanico activitatis oeconomicae singulorum nec soli potestati auctoritatis publicae relinquendum est. Quare erroris arguendae sunt, tam doctrinae quae specie falsae libertatis reformationibus necessariis obstant, quam illae quae iura fundamentalia personarum singularum et coetuum organizationi productionis collectivae postponunt (142).  経済の発展を各個人の経済活動の機械的なりゆきや公権のみに任せておくべきではない。したがって、自由の仮面のもとに必要な改革に反対する理論も、生産の集団組織を個人と団体の基本的権利に優先させる理論も、ともに誤りとして告発しなければならない。
Meminerint ceterum cives suum esse ius et officium, etiam a potestate civili agnoscendum, ad verum propriae communitatis progressum pro sua possibilitate conferre. Praesertim in regionibus oeconomice minus progressis, ubi omnes opes urgenter adhibendae sunt, bonum commune graviter in discrimen vocant qui opes suas infructuosas retinent vel - salvo iure personali migrationis - communitatem suam subsidiis sive materialibus sive spiritualibus privant quibus illa eget.  いずれにせよ国民は、自分の所属する共同体の真の発展のためにできる限り寄与すべき権利と義務を持つことを記憶すべきであり、国家もそれを認めるべきである。特に、あらゆる資源を早急に活用しなければならない低開発地域においては、自分の所有する資源を利用せずに放置しておく者や、自分が属する共同体が必要とする物質的・精神的援助を拒否する者は、共通善を重大な危険にされすものである。ただし、この場合、個人の移住権は例外である。
66. De ingentibus differentiis oeconomicis-socialibus removendis. 66(顕著な経済的・社会的格差の排除)
Ut exigentiis iustitiae et aequitatis satisfiat, strenue enitendum est ut, servatis iuribus personarum atque propria indole cuiusque populi, ingentes quae nunc sunt et saepe crescunt inaequalitates oeconomicae cum discriminatione individuali et sociali coniunctae, quam citius removeantur. Pariter, in pluribus regionibus, attentis peculiaribus agriculturae difficultatibus sive in gignendis sive in vendendis bonis, adiuvandi sunt ruricolae cum ad productionem augendam et vendendam, tum ad necessarias evolutiones ac innovationes inducendas, tum ad aequum redditum consequendum, ne, ut saepius accidit, in condicione civium inferioris ordinis maneant. Ipsi autem agricolae, praesertim iuvenes, sese sollerter applicent ad suam peritiam professionalem perficiendam, sine qua progressio agriculturae dari nequit (143).  個人の権利と各民族の特質を尊重したうえで、正義と平等の要請に応じるために、個人的ならびに社会的差別待遇と結ばれ、増大してゆく現代のはなはだしい経済的不均衡は、できる限り早く除去するよう懸命に努力しなければならない。同様に多くの地域においては、農業が生産と販売の面で遭遇している特殊の困難を考慮に入れ、生産の増加と販売の促進、必要な改良と刷新の導入によって、公正な収入を得ることができるように農民を援助すべきである。そうしなければ、しばしば、農民は、下等の国民であるかのような状態にとどまるであろう。一方、農民自身、特に青年、専門の知識・技術を向上させるように努力しなければならない。それなしに農業の発展はありえない。
Iustitia et aequitas item requirunt ut mobilitas, quae in progredientibus rebus oeconomicis necessaria est, ita ordinetur, ne vita hominum singulorum eorumque familiarum incerta et praecaria fiat. Erga opifices vero, qui ex alia natione vel regione oriundi, ad promotionem oeconomicam populi vel provinciae labore suo conferunt, quaevis discriminatio quoad condiciones remunerationis vel laboris sedulo vitanda est. Insuper universi, imprimis publicae potestates, illos non simpliciter veluti mera productionis instrumenta sed ut personas habere debent, eosque adiuvare ut familiam suam apud se arcessere et decentem habitationem sibi providere possint, atque eorum insertioni in vitam socialem populi vel regionis recipientis favere. Attamen, quantum fieri potest, in propriis regionibus fontes laboris creentur.  同じく正義と平等は、発展する経済に必要な可動性の調整によって、個人とその家族の生活が不安定・不確実にならないようにしなければならない。国家または地域の経済開発に協力寄与している外人労働者または地方出身の労働者に対して、給与あるいは労働条件上のいかなる差別も細心の注意をもってさけなければならない。なお、だれもが、そして特に公権は、かれらを単なる生産の手段としてではなく人格として扱い、かれらが家族を呼び寄せ、適当な住宅に住むことができるように援助し、現地の国または地域の社会生活にとけ込むように助けなければならない。しかし、できるかぎり自分の出身地で仕事を作り出してゆくできである。
In rebus oeconomicis hodie mutationi obnoxiis uti in novis societatis industrialis formis in quibus e.g. automatio progreditur, curandum est ut labor sufficiens et unicuique conveniens simul ac possibilitas congruae formationis technicae et professionalis praebeatur, et in tuto collocentur victus atque dignitas humana eorum praesertim qui ob morbum vel aetatem gravioribus laborant difficultatibus.  たとえば、オートメーションの進歩に見られるような新形態の工業界と同様に、過渡期にある現在の経済界においては、各人に適当で十分な仕事と適切な技術的・職業訓練の可能性を提供するようにしなければならない。また、特に病気や年齢のために特別困難な状況にある人々の生計の手段と人間としての尊厳を確保しなければならない。

(139) Cf. PIUS XII, Nuntius 23 martii 1952: AAS 44 (1952), p. 273; IOANNES XXIII, Allocutio ad A.C.L.I., 1 maii 1959: AAS 51 (1959), p. 358.
(140) Cf. PIUS XI, Litt. Encycl. Quadragesimo anno: AAS 23 (1931), p. 190 ss.; PIUS XII, Nuntius, 23 martii 1952: AAS 44 (1952), p. 276 ss.; IOANNES XXIII, Litt. Encycl. Mater et Magistra: AAS 53 (1961), p. 450; CONC. VAT. II, Decretum de instrum. communic. socialis, Inter mirifica, cap. I, n. 6: AAS 56 (1964), p. 147.
(141) Cf. Mt. 16, 26; Lc. 16, 1-31; Col. 3, 17.
(142) Cf. LEO XIII, Litt. Encycl. Libertas praestantissimum, 20 iunii 1888: ASS 20 (1887-88), pp. 597 ss.; PIUS XI, Litt. Encycl. Quadragesimo anno: AAS 23 (1931), p. 191 ss.; ID., Divini Redemptoris: AAS 29 (1937), p. 65 ss.; PIUS XII, Nuntius natalicius 1941: AAS 34 (1942), p. 10 ss.; IOANNES XXIII, Litt. Encycl. Mater et Magistra: AAS 53 (1961), pp. 401-464.
(143) Quoad problema agriculturae cf. praesertim IOANNES XXIII, Litt. Encycl. Mater et Magistra: AAS 53 (1961), p. 341 ss.

コメント

「現代世界憲章」Gaudium et Spes 第二部 若干の緊急課題 第2章 文化の発展 第2節及び第3節 の羅和対訳

2019年12月03日 | 第二バチカン公会議

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
第2バチカン公会議公文書の「現代世界憲章」の「第二部 若干の緊急課題 第2章 文化の発展 第2節及び第3節」の原文を対訳でご紹介します。

Sectio II: De quibusdam principiis ad culturam rite promovendam 第2節 文化を正しく発展させるための若干の原則
57. Fides et cultura. 57(信仰と文化)
Christifideles, ad civitatem caelestem peregrinantes, ea quae sursum sunt quaerere et sapere debent (125); quo tamen nedum minuatur, potius crescit momentum muneris eorum una cum omnibus hominibus adlaborandi ad aedificationem mundi humanius exstruendi. Et revera fidei christianae mysterium praestantia incitamenta et adiumenta eis praebet ad munus illud impensius adimplendum et praesertim ad plenum huiusmodi operis sensum detegendum, quo cultus humanus in integra hominis vocatione suum eximium obtineat locum.  天上の国をめざして旅するキリスト信者は、上にあるものを求め味わわなければならない。しかし、それによって、もっと人間らしい世界を建設するために、すべての人と協力するというかれらの義務の重要さが減少するわけではなく、かえって増大する。実際、キリスト教信仰の秘義は、この義務を熱心に果たすよう、また特にこの仕事の完全な意味、すなわち、文化が人間の全召命において占める重要な位置を発見するよう、かれらに貴重な励ましと助けを提供する。
Cum enim homo opere manuum suarum vel ope technicarum artium terram excolit, ut fructum afferat et dignum universae familiae humanae habitaculum fiat, et cum conscie partes assumit in socialium coetuum vita, ipse exsequitur consilium Dei, initio temporum patefactum, terrae subiiciendae (126) creationisque perficiendae, atque seipsum excolit; insimul magnum Christi mandatum servat, sese in servitium fratrum impendendi.  大地が実りをもたらし、全人類家族のよき住み家となるよう、人間が手や技術を使って地を耕すとき、また人間がすすんで集団の社会生活に参加するとき、かれは地を支配し、創造を完成するという時の初めに明らかにされた神の計画を実行し、自分自身を向上させる。同時に、かれは兄弟たちへの奉仕のために尽くすというキリストの重大な命令を守る。
Insuper homo cum in varias philosophiae, historiae atque scientiae mathematicae et naturalis disciplinas incumbit et artibus versatur, maxime conferre potest, ut familia humana ad sublimiores veri, boni et pulchri rationes atque ad iudicium universi valoris elevetur et sic clarius illuminetur mirabili Sapientia, quae ab aeterno cum Deo erat, cuncta cum Eo componens, ludens in orbe terrarum, esse cum filiis hominum in deliciis habens (127).  なお、哲学、歴史、数学、自然科学など種々の学問研究に励み、芸術に打ち込むことによって、人類家族を真・善・美のいっそうすぐれた理解と諸価値の総体の判断へ高めるために、大いに寄与することができる。こうして、永遠より神とともにあり、神とともに万物を配慮し、地上において遊び、人の子らとともにあることを楽しみとするすばらしい「英知」によって、人間はもっと明るく照らせるのである。
Eo ipso animus hominis, a rerum servitute magis solutus, expeditius ad ipsum Creatoris cultum et contemplationem evehi potest. Immo impulsu gratiae ad agnoscendum Dei Verbum disponitur, quod, antequam caro fieret ad omnia salvanda et in Se recapitulanda, iam in mundo erat, tamquam "lux vera quae illuminat omnem hominem" (Io 1,9) (128).  この事自体によって、人間精神は事物の奴隷である状態から解放され、創造主の礼拝と観想とにいっそう容易に高められる。なおそのうえに、恩恵の導きによって神のことばを認めるように準備される。神のことばは万物を救うため、また自分において万物をまとめるために受肉する前に、「すべての人間を照らす真の光」として、すでに「世にあった」(ヨハネ 1:9-10)のである。
Sane hodiernus progressus scientiarum artiumque technicarum, quae vi methodi suae usque ad intimas rerum rationes penetrare nequeunt, cuidam phaenomenismo et agnosticismo favere potest, quando methodus investigandi, qua disciplinae istae utuntur, immerito pro suprema totius veritatis inveniendae regula habetur. Immo periculum adest, ne homo, inventis hodiernis nimis fidens, se sibi sufficere aestimet et altiora amplius iam non quaerat.  現代の科学と技術とはその固有の方法によっては実在の深奥にまで到達することはできないが、不当にもこれらの学問の用いる研究方法があらゆる真理を発見するための最高法則であると考えられるとき、現代の科学と技術の進歩は、ある種の現象主義と不可知論とを助長する。そのうえ、人間は現在の種々の発見を過信して、自分自身で充足すると考え、より高いものを求めなくなる危険がある。
Haec tamen infausta non necessario ex hodierna cultura sequuntur, nec nos in tentationem inducere debent, ne eius valores positivos non agnoscamus. Inter quos adnumerantur: scientiarum studium atque exacta fidelitas erga veritatem in inquisitionibus scientificis, necessitas laborandi una cum aliis in coetibus technicis, sensus solidarietatis internationalis, conscientia in dies vividior responsabilitatis peritorum erga homines adiuvandos immo et protegendos, voluntas faustiores reddendi vitae condiciones omnibus, praesertim illis qui vel responsabilitatis privatione vel culturae paupertate laborant. Haec omnia aliquam praeparationem ad nuntium Evangelii accipiendum afferre valent, quae informari potest caritate divina ab Eo qui venit ut mundum salvaret.  しかし、このような不幸な結果は現代文化から必然的にうまれるものではなく、また、われわれを現代文化の積極的価値の否定へと誘惑するものであってはならない。現代文化の積極的価値として、科学愛好、学問研究における真理に対する絶対的忠実、専門家グループによる協同作業の必要、国際的連帯感、援助と保護を必要とする人々に対する有識者たちの責任感の増大、すべての人、特に責任感の欠如している人々や文化の程度の低い人々の生活条件を向上させようとする意欲などが数えられる。これらすべては福音の知らせを受けるための一種の準備となるものであり、世を救うために来た者は神の愛をもってこの準備を生かすことが出来る。
58. De multiplici inter bonum nuntium Christi et culturam humanam connexione. 58(キリストのよい知らせと文化との多様な関係)
Inter nuntium salutis et culturam humanam multiplices nexus inveniuntur. Nam Deus, populo suo sese revelans usque ad plenam sui manifestationem in Filio incarnato, locutus est secundum culturam diversis aetatibus propriam.  救いの知らせと文化との間には多くの関連が見いだされる。神は受肉した子において自分を完全に現わすに至るまで、その民に自分を啓示するにあたって、各時代固有の文化に準じて話した。
Pariter Ecclesia, decursu temporum variis in condicionibus vivens, diversarum culturarum inventa adhibuit, ut nuntium Christi in sua praedicatione ad omnes gentes diffundat et explicet, illud investiget et altius intelligat, in celebratione liturgica atque in vita multiformis communitatis fidelium melius exprimat.  同様に教会も時代の推移の中で種々の状況のもとに存在を続け、キリストの知らせを宣教によって諸国民に広め説くため、それを研究しよりよく理解するため、典礼典礼祭儀と信者の多様な共同体の生活の中でよりよく表現するため、種々の文化の所産を用いてきた。
At simul, ad omnes populos cuiusvis aetatis et regionis missa, Ecclesia nulli stirpi aut nationi, nulli particulari morum rationi, nulli antiquae aut novae consuetudini exclusive et indissolubiliter nectitur. Propriae traditioni inhaerens et insimul missionis suae universalis conscia, communionem cum diversis culturae formis inire valet, qua tum ipsa Ecclesia tum variae culturae ditescunt.  同様にあらゆる時代とあらゆる地域のすべての民に対して派遣された教会は、いかなる民族または国家にも、いかなる特殊の風俗にも、新旧のいかなる習慣にも、排他的、不解消的に結びつけられていない。固有の伝統を保つと同時に自分の世界的使命についての自覚を持っている教会は、種々の文化形態と交わることができ、それによって教会自身も種々の文化もとに豊かになるのである。
Bonum Christi nuntium hominis lapsi vitam et cultum continenter renovat, et errores ac mala, ex semper minaci peccati seductione manantia, impugnat et removet. Mores populorum indesinenter purificat et elevat. Animi ornamenta dotesque cuiuscumque populi vel aetatis supernis divitiis velut ab intra fecundat, communit, complet atque in Christo restaurat (129). Sic Ecclesia, proprium implendo munus (130), iam eo ipso ad humanum civilemque cultum impellit atque confert, et actione sua, etiam liturgica, hominem ad interiorem libertatem educat.  キリストのよい知らせは、罪に倒れた人間の生活と文化を絶えず清め高める。精神的長所と各民族または各時代の美点を、天上の富をもって、あたかも内側から豊かにし、強め、完成させ、キリストにおいて回復する。こうして教会はその固有の努めを果たし、それによって、すでに人間的、市民的文化を励まし促進させるとともに、その活動、典礼活動によって人間を内的自由に導くのである。
59. De diversis rationibus in cultus humani formis rite componendis. 59(種々の文化形態の正しい調和)
Supradictis rationibus, Ecclesia in mentem omnium revocat culturam ad integram personae humanae perfectionem, ad bonum communitatis et totius humanae societatis esse referendam. Quare oportet animum ita excolere, ut promoveatur facultas admirandi, intus legendi, contemplandi atque efformandi iudicium personale et excolendi sensum religiosum, moralem ac socialem.  上に述べた理由によって、教会は、文化が人間の十全な完成に向けられ、また共同体と全人類社会の善にむけられなければならないことを、すべての人に思い出させる。したがって、人間の種々の能力、すなわち、感嘆し、理解、観想し、個人的判断を下し、宗教感、道徳感、社会感を深める能力の発展をもたらすように人間精神の向上を計らなければならない。
Cultura enim, cum ex hominis indole rationali et sociali immediate fluat, indesinenter indiget iusta libertate ad sese explicandam atque legitima, secundum propria principia, sui iuris agendi facultate. Iure merito ergo postulat reverentiam et quadam gaudet inviolabilitate, servatis utique iuribus personae et communitatis, sive particularis sive universalis, intra fines boni communis.  文化は人間の理性的、社会的性質から直接に流れ出るものであるから、文化の発展のためには正しい自由が絶えず必要とされる。また固有の原理に従って行動する正当な自律性が必要とされる。したがって当然、文化は尊敬されるべきものであり、また、共通善の範囲内で個人の権利と特殊または一般の社会の権利が確保されたうえで、ある主の不可侵権を享有する。
Sacra Synodus, recolens ea quae Concilium Vaticanum Primum docuit, declarat "duplicem esse ordinem cognitionis" distinctum, nempe fidei et rationis, nec sane Ecclesiam vetare ne "humanarum artium et disciplinarum culturae... in suo quaeque ambitu propriis utantur principiis et propria methodo"; quare "iustam hanc libertatem agnoscens", cultus humani et praesertim scientiarum legitimam autonomiam affirmat (131).  この教会会議は第1バチカン公会議の教えを受けつぎ、区別された「二様の認識系列があること」、すなわち信仰の認識と理性の認識があること、また教会は「芸術や学問がそれぞれの分野において独自の原理と法則を用いること」をけっして禁ずるものではない、と宣言する。したがって、この教会会議は「この正しい自由を認め」、文化、そして特に学問の正当な自律性を肯定する。
Haec omnia postulant quoque ut homo, morali ordine communique utilitate servatis, libere possit verum inquirere et opinionem suam declarare ac vulgare, atque artem qualemcumque colere; ut denique secundum veritatem de publicis eventibus certior fiat (132).  これらすべてのことは、倫理の秩序と共通の利益が確保されたうえで、人間が、自由に真理を求め、自由に自説を述べ、発表し、好む芸術に自由に親しむことができることを要求する。さらに、公の事件について正しい報道がなされるべきであることを要求する。
Ad publicam vero auctoritatem pertinet, non propriam cultus humani formarum indolem determinare, sed condiciones et subsidia ad vitam culturalem inter omnes promovendam fovere, etiam intra minoritates alicuius nationis (133). Ideo praeprimis instandum est, ne cultura, a proprio fine aversa, potestatibus politicis vel oeconomicis servire cogatur.  公権の努めは文化形態の性格を規定することではなく、すべての市民の間に、国内の少数派のうちにも、文化生活を促進する条件と手段を講じることである。したがって、まず何よりも、文化がその固有の目的から離れて政治的または経済的権力に仕えることを強制されることがないように、力を尽くさなければならない。
Sectio III: De quibusdam urgentioribus christianorum muneribus circa culturam 第3節 文化に関するキリスト者の緊急任務
60. Ius ad culturae beneficia omnibus agnoscatur et in rem deducatur. 60(文化に対する万人の権利の承認とその実行)
Cum nunc facultas praebeatur plurimos homines ab ignorantiae miseria liberandi, officium nostrae aetati maxime consentaneum est, praesertim pro christianis, strenue adlaborandi ut, tam in re oeconomica quam in re politica, tam in campo nationali quam internationali, ferantur iudicia fundamentalia, quibus ius omnium ad humanum civilemque cultum, personae dignitati congruum, sine discrimine stirpis, sexus, nationis, religionis aut socialis condicionis, ubique terrarum agnoscatur et ad rem deducatur. Ideo sufficiens bonorum culturalium copia omnibus providenda est, praesertim eorum quae constituunt culturam sic dictam fundamentalem, ne plurimi litterarum ignorantia responsabilisque actuositatis privatione a cooperatione vere humana ad bonum commune impediantur.  今日では、多くの人を無知の悲惨から解放する可能性が存在している。したがって、文化に対する万人の権利が、人間の尊厳にふさわしいものとして人種・性別・国籍・宗教・社会的条件による差別なく、経済や政治の領域においても、国内的にも国際的にも、世界中どこにおいても承認され実行されるような基本的決定がなされるよう熱心に働くことは、現代に、特にキリスト者にとっては、最もふさわしい義務である。したがって、すべてのに人に対して十分に文化の恩沢、特に基本的文化と呼ばれるものを提供しなければならない。そうでなければ、多くの人が文盲や個人的創意の欠如によって、共通善のために真に人間的に協力することを妨げられてしまう。
Contendendum est itaque ut homines, quorum ingenii vires id ferant, ad altiores studiorum ordines ascendere queant; ita quidem ut iidem, quoad fieri possit, in humana societate ad munera, officia et servitia emergant, tum suo ingenio, tum peritiae quam acquisierint consentanea (134). Sic quilibet homo et coetus sociales cuiuscumque populi ad plenam vitae suae culturalis explicationem, suis dotibus atque traditionibus congruam, pertingere valebunt.  それゆえ、能力のある人々が高等な研究機関に進めるようにしなければならない。このようにして、その人々は可能な限り、自分の才能と身につけた能力に応じた任務、務め、奉仕を社会において果たすことができるようになる。こうして、すべての人が、また一国内の社会集団が、自分の才能と伝統に応じて文化生活の完全な発展に到達することができる。
Enixe insuper adlaborandum est ut omnes conscii fiant tum iuris ad culturam, tum officii quo astringuntur sese excolendi aliosque adiuvandi. Condiciones enim vitae et laboris quandoque exstant, quae impediunt contentiones culturales hominum et in ipsis studium culturae destruunt. Res speciali ratione pro ruricolis et opificibus valet, quibus praebeantur oportet tales condiciones operam suam praestandi, quae humanam eorum culturam non praepediant sed promoveant. Mulieres in fere omnibus vitae campis iam adlaborant; convenit autem ut partes suas secundum propriam indolem plene assumere valeant. Omnium erit, ut mulierum propria necessariaque participatio vitae culturalis agnoscatur atque promoveatur.  なお、すべて人が自分の教養を高める権利および嘆印の教養向上を図る義務とについて自覚をもつよう努力しなければならない。事実、文化に対する人々の努力を妨害し、文化に対する熱意を破壊するような生活条件や労働条件がときどき存在する。このことは特別な理由で農業労働者と工場労働者にあてはまる。かれらに対して、その文化的教養を妨げるのではなく、かえってこれを促進するような労働条件を提供しなければならない。今では女性はほとんどあらゆる生活の分野で活動しているが、女性がその本性に応じた役割を十分に果たすことができるようにすることがよい。文化生活に対する女性独特の必要な賛かを認め促進することは、すべての人の務めである。
61. De educatione ad hominis integrum cultum. 61(十全な発展のための教育)
Maior hodie adest difficultas quam olim varias cognitionis disciplinas et artes in synthesim redigendi. Dum enim crescunt moles et diversitas elementorum, quae culturam constituunt, insimul minuitur facultas pro singulis hominibus eadem percipiendi et organice componendi, ita ut imago hominis universalis magis ac magis evanescat. Attamen unicuique homini remanet officium retinendi rationem totius personae humanae, in qua eminent intelligentiae, voluntatis, conscientiae et fraternitatis valores, qui omnes in Deo Creatore fundantur et in Christo mirabiliter sanati et elevati sunt.  知識の種々の分野と芸術を一つの総合体としてまとめることは、過去に比べて現代においてはもっと困難である。事実、文化を構成する諸要素の量と種類は増大するが、それらを理解し統一する個人の能力は減少してゆくので、「普遍的人間」という理想像はますます消えてゆく。しかし、知性、意志、良心、兄弟愛を特にすぐれた価値として供えている全体的な人間像を維持することは、各人に課せられた義務である。これらの価値はすべて創造主なる神に基づくものであり、キリストにおいてみごとにいやされ、高められたのである。
Quasi mater et nutrix huius educationis est imprimis familia, in qua liberi, amore foti, rectum rerum ordinem facilius condiscunt, dum probatae cultus humani formae quasi naturaliter in progredientis adolescentiae animum transfunduntur.  まず第一に家庭は、このような教育の言わば、母またが乳母である。家庭において子供たちは愛に包まれて、物事の正しい秩序を容易に学び、また、成長してゆく青少年の心の中に証認された文化の諸要素が自然に刻み込まれてゆく。
Pro eadem educatione in societatibus hodiernis exstant opportunitates, praesertim ex aucta librorum diffusione atque novis instrumentis communicationis culturalis et socialis, quae universali culturae favere possunt. Imminuto enim passim laboris spatio in dies augescunt pro pluribus hominibus commoda. Otia ad animum relaxandum et mentis ac corporis sanitatem roborandam rite insumantur, per liberas industrias et studia, versus alias regiones itinera (turismus), quibus ingenium hominis expolitur, sed et homines mutua cognitione locupletantur, per exercitationes quoque et manifestationes sportivas, quae ad animi aequilibrium, etiam in communitate, servandum necnon ad fraternas relationes inter homines omnium condicionum, nationum vel diversae stirpis statuendas, adiumentum praebent. Christifideles ergo cooperentur ut culturae manifestationes actionesque collectivae, quae nostrae aetatis sunt propriae, spiritu humano et christiano imbuantur.  この同じ教育のために、特に書物の広範な普及と文化的・社会的交流の新しい手段のおかげで、現代社会には、普遍的文化を促進する好機が存在する。事実、労働時間の短縮が一般に広まることによって、日増しに多くの人が種々の利益を受けつつある。余暇が精神を休め、心身の健康を強めるために正しく使われることが願わしい。たとえば、時通名活動や勉強もよく、また他の地方への旅行(観光)は才能を鍛錬し、相互理解によって人を豊かにする。スポーツや競技会は個人や共同体の精神の均衡を保つために、またあらゆる生活条件、国家、人種に属する人々の間に兄弟関係を確立するために役立つ。したがって、キリスト信者は現代の特徴である文化的集会と集団的行動に、人間的また、キリスト教会的精神を吹き込むように協力しなければならない。
Haec autem omnia commoda educationem hominis ad integrum sui cultum perficere non valent, si insimul profunda interrogatio de sensu culturae et scientiae pro persona humana negligitur.  これらすべての恩沢も、文化と学問が人間にとって何を意味するかということについて深く考えることを怠るならば、人間の文化的な全き発展を目ざす教育を実現することはできない。
62. De humano civilique cultu cum christiana institutione rite componendo. 62(文化とキリスト教との調和)
Quamvis Ecclesia ad culturae progressum multum contulerit, experientia tamen constat compositionem culturae cum christiana institutione ex causis contingentibus non semper sine difficultatibus procedere.  教会は文化の発展に大きく貢献したが、文化とキリスト教との調和の実現には、種々の事情によって、常に困難が伴ったことは経験の証するところである。
Istae difficultates non necessario vitae fidei damnum afferunt, immo ad accuratiorem et altiorem intelligentiam fidei mentem excitare possunt. Etenim scientiarum, necnon historiae ac philosophiae recentiora studia et inventa novas suscitant quaestiones, quae sequelas pro vita quoque secumferunt et etiam a theologis novas investigationes postulant. Praeterea theologi, servatis propriis scientiae theologicae methodis et exigentiis, invitantur ut aptiorem modum doctrinam cum hominibus sui temporis communicandi semper inquirant, quia aliud est ipsum depositum Fidei seu veritates, aliud modus secundum quem enuntiantur, eodem tamen sensu eademque sententia (135). In cura pastorali non tantum principia theologica, sed etiam inventa scientiarum profanarum, imprimis psychologiae et sociologiae, satis agnoscantur et adhibeantur, ita ut etiam fideles ad puriorem et maturiorem fidei vitam ducantur.  このような困難は必然的に信仰生活に害をもたらすものではなく、信仰についての、より正確でいっそう高い理解へと精神を励ますこともできる。事実、現代における科学・歴史学・哲学の研究と発見は新しい問題を提起する。そして、これらの新しい問題は実生活にも影響するものであって、神学者の新研究をも要求している。なお神学者は神学独自の方法と規則を守りながらも、常に同時代の人々によりよく教理を伝える方法を探すように招かれている。信仰の遺産そのもの、すなわち信仰の諸真理と、それを表現する方法とは別のことだからである。ただし、別の表現方法をとる場合、同じ趣旨、同じ意味が守られなければならない。司牧に関しては神学的原理だけでなく、世俗の学問、特に心理学と社会学の発見を十分に知り、それを用いなければならない。そうすることによって信者もいっそう純粋で円熟した信仰生活に導かれる。
Suo quoque modo litterae et artes pro vita Ecclesiae magni sunt momenti. Indolem enim propriam hominis, eius problemata eiusque experientiam in conatu ad seipsum mundumque cognoscendum et perficiendum ediscere contendunt; situationem eius in historia et in universo mundo detegere necnon miserias et gaudia, necessitates et vires hominum illustrare atque sortem hominis meliorem adumbrare satagunt. Ita vitam humanam, multiplicibus formis secundum tempora et regiones expressam, elevare valent.  文学や芸術も、それなりに教会の生命にとって重要である。実際、それは人間の本性、また自分自身と世界とを理解し向上させようと努力する人間の課題と体験を表現しようと試みる。それは歴史と世界における人間の位置を発見し、また人間の悲惨、喜び、必要、力を明らかにし、人間のもっと明るい未来を描こうと務める。こうして、文学および芸術は時代と地域に従って多彩な様式をもって表現された人間生活を高めることができる。
Exinde adlaborandum est ut artium illarum cultores se ab Ecclesia in sua navitate agnitos sentiant et, ordinata libertate fruentes, faciliora commercia cum communitate christiana instituant. Novae quoque formae artis, quae coaevis nostris aptantur iuxta variarum nationum et regionum indolem, ab Ecclesia agnoscantur. In sanctuario autem recipiantur, cum, modo dicendi accommodato et liturgiae exigentiis conformi, mentem ad Deum erigunt (136).  したがって、文芸に携わる人たちが、自分たちとその仕事は教会から理解されているのだと感じ、平静な自由を味わい、キリスト教共同体といっそう容易に交流することになるよう、努力がなされなければならない。教会は、国や地方野種々の特色を生かして現代人の好みに合わせた新しい芸術様式をも認めるべきである。それらの表現方法が適切であって、典礼の要請にかない、心を神に高める作品であれば、聖所に受け入れるべきである。
Sic notitia Dei melius manifestatur ac praedicatio evangelica in intellectu hominum magis perspicua fit et eorum condicionibus quasi insita apparet.  このようにして、神に関する知識がいっそうよく示され、また福音の教えが人間の知性にいっそう明かとなり、人間の存在条件に本来適するものとして現われる。
Fideles ergo coniunctissime cum aliis suae aetatis hominibus vivant, et perfecte eorum cogitandi atque sentiendi modos, qui per ingenii cultum exprimuntur, percipere studeant. Novarum scientiarum et doctrinarum necnon novissimorum inventorum notitias cum christianis moribus christianaeque doctrinae institutione coniungant, ut religionis cultus animique probitas apud ipsos pari gressu procedant cum scientiarum cognitione et cotidie progredientibus technicorum artibus, et ideo ipsi valeant res omnes integro christiano sensu probare atque interpretari.  信者は同時代の人々と密接に結ばれた生活を営み、文化を通して表現されるかれらの考え方や感じ方をよく知るように努力しなければならない。現代の科学と学説および新しく発見された知識を、キリスト教の道徳と教理に結びつけることによって、宗教心と道徳感とが科学知識や絶えず進歩する技術と同じ歩調で進むようにしなければならない。こうすることによって信者はあらゆるものを真正のキリスト教的感覚をもって評価し解釈することができる。
Qui theologicis disciplinis in Seminariis et Studiorum Universitatibus incumbunt, cum hominibus qui in aliis scientiis excellunt, collatis viribus atque consiliis, cooperari studeant. Theologica inquisitio insimul profundam veritatis revelatae cognitionem prosequatur et coniunctionem cum proprio tempore ne negligat, ut homines variis disciplinis excultos ad pleniorem fidei scientiam iuvare possit. Haec socia opera plurimum proderit institutioni sacrorum ministrorum qui Ecclesiae doctrinam de Deo, de homine et de mundo aptius coaevis nostris explanare poterunt, ita ut verbum illud etiam libentius ab eis suscipiatur (137). Immo optandum ut plures laici congruam in disciplinis sacris institutionem adipiscantur, nec pauci inter eos haec studia, data opera, colant et altius producant. Ut vero munus suum exercere valeant, agnoscatur fidelibus, sive clericis sive laicis, iusta libertas inquirendi, cogitandi necnon mentem suam in humilitate et fortitudine aperiendi in iis in quibus peritia gaudent (138).  神学校や大学で神学を教える人々は、他の学問にひいでた人々と協同協議して協力するよう努力しなければならない。神学的研究は啓示された真理についての深い理解を追求するとともに、時代との接触を怠らないようにすべきである。そうすれば、種々の学問的教養のある人々が信仰についての理解を深めるのを助けることができるであろう。このような協同の努力は聖なる役務者たちの要請に大いに役立つであろう。役務者たちは神と人間と世界に関する教会の教理を、より適切に現代人に説明することができるようになり、その結果、現代人は自発的にかれらのことばを受け入れるようになる。なお、多くの信徒が聖なる学問について十分な教育を受け、その中のおっくの者が専門的にこの研究を続け、またそれを深めることが望まれる。かれらがその務めを実践することができるためには、信者たちに、すなわち教役者にも信徒にも、研究と思想の正当な自由、自分の専門の分野において謙虚と勇気をもって自説を発表する正当な自由を認めなければならない。

(125) Cf. Col. 3, 1-2
(126) Cf. Gen. 1, 28.
(127) Cf. Prov. 8, 30-31.
(128) Cf. S. IRENAEUS, Adv. Haer. III, 11, 8: ed. Sagnard, p. 200; Cf. ib., 16, 6: pp. 290-292; 21, 10-22: pp. 370-372; 22, 3: p. 378; etc.
(129) Cf. Eph. 1, 10.
(130) Cf. verba PII XI ad Exc.mum D.num Roland-Gosselin: «Il ne faut jamais perdre de vue que l'objectif de l'Eglise est d'evangéliser et non de civiliser. Si elle civilise, c'est par l'évangélisation» (Semaine Sociale de Versailles, 1936, pp. 461-462).
(131) CONC. VAT. I, Const. dogm. De fide cath., Dei Filius, cap. IV: DENZ. 1795, 1799 (3015, 1019). Cf. PIUS XI, Litt. Encycl. Quadragesimo anno: AAS 23 (1931), p. 190.
(132) Cf. IOANNES XXIII, Litt. Encycl. Pacem in terris: AAS 55 (1963), p. 260.
(133) Cf. IOANNES XXIII, Litt. Encycl. Pacem in terris: AAS 55 (1963), p. 283; PIUS XII, Nuntius radiophon., 24 dec. 1941: AAS 34 (1942), pp. 16-17.
(134) Cf. IOANNES XXIII, Litt. Encycl. Pacem in terris: AAS 55 (1963), p. 260.
(135) Cf. IOANNES XXIII, Allocutio habita d. 11 oct. 1962, in initio Concilii: AAS 54 (1962), p. 792.
(136) Cf. CONC. VAT. II, Const. de Sacra Liturgia, Sacrosanctum Concilium, n. 123 AAS 56 (1964), p. 131; PAULUS VI, Discorso agli artisti romani, 7 maii 1964: AAS 56 (1964), pp. 439-442.
(137) Cf. CONC. VAT. II, Decr. de institutione sacerdotali, Optatam totius, et Decl. de educatione christiana, Gravissimum educationis.
(138) Cf. CONC. VAT. II, Const. dogm. de Ecclesia, Lumen gentium, cap. IV, n. 37: AAS 57 (1965), pp. 42-43.

 

コメント

「現代世界憲章」Gaudium et Spes 第二部 若干の緊急課題 第2章 文化の発展 第1節 現代世界における文化の諸条件 の羅和対訳

2019年12月03日 | 第二バチカン公会議

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
第2バチカン公会議公文書の「現代世界憲章」の「第二部 若干の緊急課題 第2章 文化の発展 第1節 現代世界における文化の諸条件」の原文を対訳でご紹介します。

Caput II 第2章
DE CULTURAE PROGRESSU RITE PROMOVENDO 文化の発展
53. Introductio. 53(前置き)
Ad ipsam personam hominis pertinet ut nonnisi per culturam, hoc est bona naturae valoresque colendo, ad veram plenamque humanitatem accedat. Ubicumque ergo de vita humana agitur, natura et cultura quam intime connectuntur.  人間は文化、すなわち自然の物と価値を耕作することによって、真の完成した人間性に近づいて行く。これは人間の特性である。したがって、人間生活と関係のあるところでは、自然と文化とは密接に結ばれている。
Voce cultura sensu generali indicantur omnia quibus homo multifarias dotes animi corporisque perpolit atque explicat; ipsum orbem terrarum cognitione et labore in suam potestatem redigere studet; vitam socialem, tam in familia quam in tota consortione civili, progressu morum institutorumque humaniorem reddit; denique magnas experientias spirituales atque appetitiones decursu temporum in operibus suis exprimit, communicat atque conservat, ut ad profectum multorum, quinimmo totius generis humani, inserviant.  「文化」は、広義においては、人間が精神と肉体との多様な能力を鍛錬し、発展させるために用いるあらゆる事がらをさす。人間は知識と労働とをもって全世界を支配しようと努力し、家庭とあらゆる市民社会における社会生活を慣習と制度の進歩によってますます人間らしいものとし、時の流れを通して多くの人、むしろ全仁対の発展に役だたせるために、偉大な精神的体験と期待をその作品の中に現わし、伝え、保つ。文化とは、これらすべてを意味するものである。
Inde sequitur culturam humanam aspectum historicum atque socialem necessario prae se ferre, atque vocem cultura saepe sensum sociologicum necnon ethnologicum assumere. Hoc autem sensu de culturarum pluralitate sermo fit. Ex diverso enim modo utendi rebus, laborem praestandi et sese exprimendi, religionem colendi moresque formandi, statuendi leges et iuridica instituta, augendi scientias et artes atque colendi pulchrum, diversae oriuntur communes vivendi condiciones et diversae formae bona vitae componendi. Ita ex traditis institutis efficitur patrimonium cuique humanae communitati proprium. Ita etiam constituitur ambitus definitus et historicus, in quem homo cuiusque gentis vel aetatis inseritur, et ex quo bona ad humanum civilemque cultum promovendum haurit.  そのことから、人間文化は必然的に歴史的社会的な面をもち、「文化」ということばは社会的また民族学的意味をもつことが結論される。この意味において文化の多様性ということが言われるのである。事実、物の使い方、労働のあり方、表現の方法、宗教の実践、慣習の成立、法律と法制度の設立、学問と芸術の発展、美の追求の努力、などが種々異なることから生活様式や価値基準の差異が生じる。こうして伝統的な慣習からそれぞれの人間共同体に独特の遺産が生じ、また歴史的な特定の環境が作られる。どの国どの時代の人間もこの環境の中に入れられ、また、そこから人間的・市民的文化を発展させるための価値をくみとる。第1節 現代世界における文化の諸条件
Sectio I: De culturae condicionibus in mundo hodierno 第1節 現代世界における文化の諸条件
54. De novis vivendi formis. 54(新しい生活様式)
Condiciones vitae hominis moderni sub respectu sociali et culturali profunde immutatae sunt, ita ut de nova historiae humanae aetate loqui liceat (124). Exinde ad culturam perficiendam ampliusque spargendam novae patent viae. Quas paraverunt ingens augmentum scientiarum naturalium et humanarum, etiam socialium, incrementum technicarum artium, necnon progressus in excolendis et recte disponendis instrumentis quibus homines inter se communicant. Hinc cultura hodierna particularibus signatur notis: scientiae, quae exactae nuncupantur, iudicium criticum maxime excolunt; recentiora psychologiae studia humanam activitatem profundius explicant; disciplinae historicae valde conferunt ut res sub specie suae mutabilitatis atque evolutionis adspiciantur; vitae consuetudines et mores in dies magis uniformes efficiuntur; industrializatio, urbanizatio aliaeque causae quae vitam communitariam promovent, novas culturae formas creant (mass-culture), ex quibus novi modi sentiendi, agendi otioque utendi nascuntur; aucta simul inter varias gentes societatisque coetus commercia thesauros diversarum culturae formarum omnibus et singulis latius aperiunt, et sic paulatim universalior paratur culturae humanae forma, quae eo magis humani generis unitatem promovet ac exprimit, quo melius diversarum culturarum particularitates observat.  現代人の生活条件は社会的、文化的観点から大きく変動したので、人類史の新時代について語ることができる。したがって、文化を向上させ広めるためにも、新しい道が開けている。自然と人間と社会とに関する学問の大きな進歩、技術の発達、人間交流の手段の進歩と組織化がこれらの新しい道を準備した。したがって、現代文化は次のような特徴を持っている。すなわち、「精密」と名づけられる諸科学は批判的判断を大いに発達させ、心理学の最近の研究は人間活動をより深く説明し、歴史学は物事を変転と進化の面からとらえることに大いに貢献し、生活条件と慣習はますます画一化史、共同体的生活を促進させる工業化と都市化とその他の原因は新しい文化形態(大衆文化)を産み出し、そこから新しい考え方、新しい行動方法、新しい余暇の使い方が生まれ、諸国民や集団の間の交流の増大は諸様式の文化の富をあらゆる人に広く提供し、こうしてしだいに、より普遍的な文化形態が準備される。それは各文化の特色を尊重するものであればあるほど人類の一致をいっそうよく促進させ、表現する。
55. Homo auctor culturae. 55(文化を作り出す人間)
Maior in dies fit numerus virorum ac mulierum cuiusvis coetus vel nationis, qui conscii sunt suae communitatis culturae artifices se esse atque auctores. In universo mundo magis magisque crescit autonomiae simulque responsabilitatis sensus, quod pro spirituali ac morali maturitate generis humani maximi est momenti. Illud clarius apparet, si ante oculos unificationem mundi ponimus atque munus nobis impositum, ut in veritate et iustitia meliorem aedificemus mundum. Tali ergo modo testes sumus novum humanismum nasci, in quo homo imprimis sua responsabilitate erga suos fratres historiamque definitur.  どの集団にもどの国にも、自分たちの共同体の文化を作り推進する者は自分たちであるという自覚をもった男女の数が日を追って増加している。全世界において自主精神と責任感がますます増加しているが、このことは人類の精神的・道徳的成熟にとって最も重要なことである。世界の統一と真理および正義の中によりよき世界を建設すべきわれわれの使命とを考えるならば、それはいっそう明きらかである。こうして、われわれは新しいヒューマニズムの証人であり、このヒューマニズムにおいて人間は、まず兄弟たちと歴史とに対するその責任という点から定義される。
56. Difficultates et munera. 56(困難と任務)
Quibus in condicionibus, non est mirandum, hominem, qui responsabilitatem suam sentit pro culturae progressu, altiorem spem nutrire, sed etiam anxio animo adspicere multiplices antinomias exsistentes, quas ipse resolvere debet.  このような状況においては、文化の発展について自分の責任を感じる人間が、高い希望に燃えるとともに、解決すべき多くの矛盾が存在することを不安をもってあがめたとしても不思議ではない。
Quid faciendum est, ne frequentiora culturarum commercia, quae inter diversos coetus et nationes ad verum et fructuosum dialogum adducere deberent, vitam communitatum perturbent, neve sapientiam maiorum evertant, neve propriam populorum indolem in discrimen adducant?  諸文化のたび重なる交流は、諸集団、および諸国の間に実りのある真の対話を促進すべきものであるが、そのような交流が共同体の生活を乱さず、祖先から伝えられた英知をくつがえさず、国民の固有の長所を破壊しないようにするには何をすべきか。
Quomodo dynamismo atque expansioni novae culturae est favendum, quin fidelitas viva erga traditionum haereditatem pereat? Quod particulari modo urget ubi cultura, quae ex ingenti scientiarum artiumque technicarum progressu oritur, componenda est cum eo ingenii cultu qui studiis secundum varias traditiones classicis alitur.  どのようにすれば、伝統の遺産に対するいきいきした忠実さを失うことなしに、新しい文化の力強い動きと発展に寄与できるか。これは科学と技術の偉大な進歩がもたらした文化と、種々の伝統に添う古典研究につちかわれた教養との融合が必要とされるとき、特に大きな問題である。
Quomodo tam velox atque progrediens disciplinarum particularium dispersio conformari potest cum necessitate formandi earum synthesim, necnon servandi apud homines facultates contemplationis ac admirationis, quae ad sapientiam adducunt?  学問の分野が急速に分科し専門化していく現状に際して、どのようにすればそれらを総合することができるか、また、どのようにすれば英知への道である観想と賛嘆の能力を人々の間に保つことができるか。
Quid faciendum est, ut universi homines bonorum culturalium participes fiant in mundo, cum insimul cultus humanus peritiorum semper sublimior atque complexior evadat?  エリートたちの教養がますます高まり複雑化してゆくにあたって、すべての人を文化の恩恵にあずからせるためには、何をなすべきか。
Quomodo denique prout legitima agnoscenda est autonomia, quam cultura sibi vindicat, quin ad humanismum mere terrestrem, immo ipsi religioni adversantem deveniatur?  文化が主張する自律性を当然なこととして認めるにあたって、単なる地上的ヒューマニズムに陥らないようにするには、どうすべきか。
In medio quidem illarum antinomiarum cultura humana ita hodie evolvatur oportet, ut integram personam humanam aequo ordine excolat atque homines iuvet in muneribus, ad quae adimplenda omnes, praecipue autem christifideles, in una familia humana fraterne uniti, vocantur.  以上のような矛盾のただ中にあって、今日、文化は、人間を全体的に調和を保って向上させるもの、またすべての人、特にキリスト信者が一つの人類家族の中に兄弟的に結ばれて遂行するように招かれている役割において人々を助けるものとして発展すべきである。

(124) Cf. Expositio introductoria huius Constitutionis, nn. 4-10, supra pp. 684-692.

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コメント

「現代世界憲章」Gaudium et Spes 第二部 若干の緊急課題 第1章 婚姻と家庭の尊さ の羅和対訳

2019年12月03日 | 第二バチカン公会議

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
第2バチカン公会議公文書の「現代世界憲章」の「第二部 若干の緊急課題 第1章 婚姻と家庭の尊さ」の原文を対訳でご紹介します。

PARS II 第2部
DE QUIBUSDAM PROBLEMATIBUS URGENTIORIBUS 若干の緊急課題
46. Prooemium. 46(序)
Concilium, postquam exposuit cuiusnam dignitatis sit persona hominis necnon ad quodnam munus, sive individuale sive sociale, in universo mundo adimplendum sit vocata, sub luce Evangelii et humanae experientiae omnium nunc animos ad quasdam urgentiores huius temporis necessitates convertit, quae maxime genus humanum afficiunt.  公会議は人間の尊厳と人間が世において果たすべき個人的または社会的役割について述べた後、今度は、福音と人間との得た経験の光のもとに、人類の大きな問題となっている現代の緊急課題のいくつかに、すべての人の関心を向けさせる。
Inter multa quae hodie sollicitudinem omnium excitant haec praesertim recolere iuvat: matrimonium et familiam, culturam humanam, vitam oeconomicam-socialem ac politicam, coniunctionem familiae populorum et pacem. Circa haec singula clarescant principia et lumina a Christo manantia, quibus christifideles ducantur omnesque homines illuminentur in tot implicatorum problematum solutione quaerenda.  今日、すべての人の関心を呼び起こしている多くの課題の中でも、特に婚姻と家庭、文化、経済、社会、政治生活、諸国民の連帯性と平和を取りあげるべきであろう。これらのおのおのにキリストから来る原理の光をあてることにしたい。その光は、このように多くの複雑な問題の解決を求めるにあたって、キリスト信者を導き、すべての人を照らすであろう。
Caput I 第1章
DE DIGNITATE MATRIMONII ET FAMILIAE FOVENDA 婚姻と家庭の尊さ
47. De matrimonio et familia in mundo hodierno. 47(現代世界に於ける婚姻と家庭)
Salus personae et societatis humanae ac christianae arcte cum fausta condicione communitatis coniugalis et familiaris connectitur. Ideo christiani, una cum omnibus qui eandem communitatem magni aestimant, sincere gaudent de variis subsidiis quibus homines, in hac communitate amoris fovenda et in vita colenda, hodie progrediuntur, et coniuges atque parentes in praecellenti suo munere adiuvantur; meliora insuper exinde beneficia exspectant atque promovere student.  個人の幸福、ならびに一般社会とキリスト教社会の幸福は婚姻および家庭と呼ばれる共同体の健全な状態に固く結ばれている。したがって、キリスト者は、この共同体を大きく評価するすべての人々と共に、今日人々の間にこの愛の共同体の指示と生命の尊重を促進させる為、またその崇高な務めを果すよう夫婦と両親を助ける為に、種々補助が提供されている事を心から喜び、なお、そこから、多くのよい結果を期待し、またそれを促進するよう努力している。
Non ubique vero huius institutionis dignitas eadem claritate illucescit, siquidem polygamia, divortii lue, amore sic dicto libero, aliisve deformationibus obscuratur; insuper amor nuptialis saepius egoismo, hedonismo et illicitis usibus contra generationem profanatur. Praeterea hodiernae condiciones oeconomicae, socio-psychologicae et civiles non leves in familiam perturbationes inducunt. In certis denique orbis partibus non absque sollicitudine problemata ex incremento demographico exorta observantur. Quibus omnibus conscientiae anguntur. Verumtamen matrimonialis familiarisque instituti vis et robur ex eo quoque apparent, quod profundae immutationes societatis hodiernae, non obstantibus difficultatibus inde prorumpentibus, saepe saepius veram eiusdem instituti indolem vario modo manifestant.  しかし、この制度の尊厳がいずこにおいても同じ光をもって輝いているわけではない。多妻主義、離婚の流行、いわゆる自由恋愛、その他の歪みがそれを曇らせているからである。そのうえ、夫婦愛はしばしば利己主義、快楽主義、不道徳な避妊手段によって汚される。そのうえ現代の経済・教会・心理・政治条件が家庭にもたらす混乱も少なくない。また世界のある地域では人口増加によって生ずる問題が憂慮されている。人々の良心はこれらすべてのことによって悩まされているが、婚姻・家庭制度の力と堅実さは次の事からも明らかである。すなわち現代社会の大きな変革は、それに伴う困難にもかかわらず、しばしばこの制度の真の本質を種々の方法で現している。
Quapropter Concilium, quaedam doctrinae Ecclesiae capita in clariorem lucem ponendo, christianos hominesque universos illuminare et confortare intendit, qui nativam status matrimonialis dignitatem eiusque eximium valorem sacrum tueri et promovere conantur.  したがって、公会議は教会の教えのいくつかの重要点に、いっそう強い光をあてることによって、結婚生活の本来の尊厳と聖なるすぐれた価値を守り促進しようと努めるキリスト者とすべての人を、照らし力づけたいと望むものである。
48. De sanctitate matrimonii et familiae. 48(婚姻と家庭の聖なること)
Intima communitas vitae et amoris coniugalis, a Creatore condita suisque legibus instructa, foedere coniugii seu irrevocabili consensu personali instauratur. Ita actu humano, quo coniuges sese mutuo tradunt atque accipiunt, institutum ordinatione divina firmum oritur, etiam coram societate; hoc vinculum sacrum intuitu boni, tum coniugum et prolis tum societatis, non ex humano arbitrio pendet. Ipse vero Deus est auctor matrimonii, variis bonis ac finibus praediti (106); quae omnia pro generis humani continuatione, pro singulorum familiae membrorum profectu personali ac sorte aeterna, pro dignitate, stabilitate, pace et prosperitate ipsius familiae totiusque humanae societatis maximi sunt momenti. Indole autem sua naturali, ipsum institutum matrimonii amorque coniugalis ad procreationem et educationem prolis ordinantur iisque veluti suo fastigio coronantur. Vir itaque et mulier, qui foedere coniugali "iam non sunt duo, sed una caro" (Mt 19,6), intima personarum atque operum coniunctione mutuum sibi adiutorium et servitium praestant, sensumque suae unitatis experiuntur et plenius in dies adipiscuntur. Quae intima unio, utpote mutua duarum personarum donatio, sicut et bonum liberorum, plenam coniugum fidem exigunt atque indissolubilem eorum unitatem urgent (107).  夫婦によって結ばれる生命と愛の深い共同体は創造主によって設立され、法則を与えられた。それは結婚契約すなわち本人自身の、撤回できない同意を基礎とする。こうして配偶者が互いに自分を与えそして受ける人間行為によって神の制定による堅固な制度が教会の前にも生まれる。この聖なる絆は、夫婦と子供と、教会の善のために、人間の自分勝手にはならない。神自身が婚姻の創設者であり、種々の善と目的をこれに付与したからである。そして、これらのすべての善と目的は人類の存続にとって、家族各員の個人的向上と永遠の目的にとっても、家庭と全社会の尊厳、永続、平和、繁栄にとって最も重要なのである。婚姻制度そのものと夫婦愛とは、その本来の性質から、子供の出産と教育とに向けて定められているものであって、これらはその栄冠のようなものである。したがって男女は、結婚契約によって「もはや二つではなく、一つの肉であり」(マタイ 19,6)自分たち自身(ペルソナ)と行為の深い一致をもって互いに助け合い、仕え合う。こうしてかれらは自分たちが一つである事の意味を体験し、絶えずそれを深めてゆくのである。この深い一致は、二人の人間(ペルソナ)が互いに与え合う事であって、こどもの善と同様に、夫婦間の完全な忠実を要求し、また夫婦間の一致が不解消であることを求める。
Christus Dominus huic multiformi dilectioni, e divino caritatis fonte exortae et ad exemplar suae cum Ecclesia unionis constitutae, abundanter benedixit. Sicut enim Deus olim foedere dilectionis et fidelitatis populo suo occurrit (108), ita nunc hominum Salvator Ecclesiaeque Sponsus (109), per sacramentum matrimonii christifidelibus coniugibus obviam venit. Manet porro cum eis, ut quemadmodum Ipse dilexit Ecclesiam et Semetipsum pro ea tradidit (110), ita et coniuges, mutua deditione, se invicem perpetua fidelitate diligant. Germanus amor coniugalis in divinum amorem assumitur atque virtute redemptiva Christi et salvifica actione Ecclesiae regitur ac ditatur, ut coniuges efficaciter ad Deum ducantur atque in sublimi munere patris et matris adiuventur et confortentur (111). Quapropter coniuges christiani ad sui status officia et dignitatem peculiari sacramento roborantur et veluti consecrantur (112); cuius virtute munus suum coniugale et familiare explentes, spiritu Christi imbuti, quo tota eorum vita, fide, spe et caritate pervaditur, magis ac magis ad propriam suam perfectionem mutuamque sanctificationem, ideoque communiter ad Dei glorificationem accedunt.  主キリストは、神の愛の泉から生じ、キリストと教会の一致にかたどって設立されたこの多面の愛を豊かに祝福された。かつて神が愛と忠実の契約をもって、その民を助けたように、今は人々の救い主、教会の夫は、婚姻の秘跡をもってキリスト信者である配偶者の助けに来る。そしてキリストが教会を愛して、おのれを教会の為に渡したように、夫婦も献身的に、変る事のない忠実をもって、互いに愛するものとなるよう、キリストはかれらとともに留る。真正な夫婦愛は神の愛の中に取り上げられ、キリストの贖いの力と教会の救いの働きによって導かれ豊かにされる。こうして夫婦は効果的に神のもとに導かれ、父と母の崇高な務めに際して、助けられ強められるのである。この理由から、キリスト者たる夫婦は、その身分上の義務と尊厳のため、特別な秘跡によって強められ、いわば聖別されるのである。キリスト者たる夫婦はこの秘跡の力 によって夫婦と家庭の務めを果し、かれらの全生活を信仰と希望と愛を以て包むキリストの精神に満たされて、ますます自己完成と互いの聖化に進み、あい携えて神に栄光を帰すのである。
Unde, ipsis parentibus exemplo et oratione familiari praegredientibus, filii, immo et omnes in familiae convictu degentes, humanitatis, salutis atque sanctitatis viam facilius invenient. Coniuges autem, dignitate ac munere paternitatis et maternitatis ornati, officium educationis praesertim religiosae, quod ad ipsos imprimis spectat, diligenter adimplebunt.  したがって、両親が率先してよい模範を示し、また家庭の祈りを実行すれば、こどもを初めとして家庭内に生活するすべての人は向上と救いと聖化の道をもっと容易に見出すであろう。また父及び母としての役目と品位を与えられた夫婦は、教育の任務--これはまず第一に彼等の務めである--とりわけ宗教教育の任務を熱心に果さなければならない。
Liberi, ut viva familiae membra, ad sanctificationem parentum suo modo conferunt. Gratae enim mentis affectu, pietate atque fiducia beneficiis parentum respondebunt ipsisque in rebus adversis necnon in senectutis solitudine filiorum more assistent. Viduitas, in continuitate vocationis coniugalis forti animo assumpta, ab omnibus honorabitur (113). Familia suas divitias spirituales cum aliis quoque familiis generose communicabit. Proinde familia christiana, cum e matrimonio, quod est imago et participatio foederis dilectionis Christi et Ecclesiae, exoriatur (114), vivam Salvatoris in mundo praesentiam atque germanam Ecclesiae naturam omnibus patefaciet, tum coniugum amore, generosa fecunditate, unitate atque fidelitate, tum amabili omnium membrorum cooperatione.  こどもたちは、家庭の活発な構成員としてそれなりに、両親の聖化に寄与する。こどもは感謝の念と孝心と信頼をもって両親の恩愛に応え、両親が逆境や老年の孤独にある場合には、よきこどもとして助けなければならない。結婚の召命の続きとして勇気をもって受入れられたやもめの身分をすべての人は尊敬しなければならない。諸家庭は互いにおしみなく霊的富を交流し合うべきである。このようにして、キリスト教的家庭は、キリストと教会の間の愛の契約の像であり それへの参加であるところの婚姻から生じたものであるから、夫婦の愛と豊かな実りと一致と忠実をもって、また家族全員の愛の協力をもって、世における救い主の生きた現存と教会の真正の本質をすべての人に示すであろう。
49. De amore coniugali. 49(夫婦愛)
Pluries verbo divino sponsi atque coniuges invitantur, ut casto amore sponsalia et indivisa dilectione coniugium nutriant atque foveant (115). Plures quoque nostrae aetatis homines verum amorem inter maritum et uxorem variis rationibus secundum honestos populorum et temporum mores manifestatum magni faciunt. Ille autem amor, utpote eminenter humanus, cum a persona in personam voluntatis affectu dirigatur, totius personae bonum complectitur ideoque corporis animique expressiones peculiari dignitate ditare easque tamquam elementa ac signa specialia coniugalis amicitiae nobilitare valet. Hunc amorem Dominus, speciali gratiae et caritatis dono, sanare, perficere et elevare dignatus est. Talis amor, humana simul et divina consocians, coniuges ad liberum et mutuum sui ipsius donum, tenero affectu et opere probatum, conducit totamque vitam eorum pervadit (116); immo ipse generosa sua operositate perficitur et crescit. Longe igitur exsuperat meram eroticam inclinationem, quae, egoistice exculta, citius et misere evanescit.  神のことばは婚約者と既婚者に向かって、婚約期間を純潔な愛をもって、また結婚生活を分裂のない愛をもって養い豊かにするよう繰り返し勧めている。多くの現代人も、民族と時代の健全な習慣に従って、いろいろの方法で現される夫婦の間の真の愛を大いに讃える。この愛は感情を伴う意志の働きを通してひとりの人間(ペルソナ)がもうひとりの人間自身(ペルソナ)に向かう事であるから、すぐれて人間的なものであって、ひとりの人間(ペルソナ)全体の善を包含している。したがって、この愛は心と体の諸表現に特別な品位を付与し、それらの表現を夫婦的友愛の要素または特別な印として高貴なものにすることができる。主はこの愛を恩恵と愛の特別な賜物をもっていやし、完成し、高めてくださる。この愛は人間的なものと神的なものとを合せ、細やかな愛情とその表現によって現される相互の自由な与え合いに夫婦を導き、かれらの全生活に行き渡る。実際に、この愛は惜しみなき実践によって完成してゆき、また成長してゆく。この愛は、利己的に追及され、まもなく惨めに消え去る肉体だけの傾向をはるかに超える。
Haec dilectio proprio matrimonii opere singulariter exprimitur et perficitur. Actus proinde, quibus coniuges intime et caste inter se uniuntur, honesti ac digni sunt et, modo vere humano exerciti, donationem mutuam significant et fovent, qua sese invicem laeto gratoque animo locupletant. Amor ille mutua fide ratus, et potissimum sacramento Christi sancitus, inter prospera et adversa corpore ac mente indissolubiliter fidelis est, et proinde ab omni adulterio et divortio alienus remanet. Aequali etiam dignitate personali cum mulieris tum viri agnoscenda in mutua atque plena dilectione, unitas matrimonii a Domino confirmata luculenter apparet. Ad officia autem huius vocationis christianae constanter exsequenda virtus insignis requiritur: quapropter coniuges, gratia ad vitam sanctam roborati, firmitatem amoris, magnitudinem animi et spiritum sacrificii assidue colent et oratione impetrabunt.  この愛は結婚に固有の行為によって独特な方法で表現され、実現する。したがって、夫婦を親密に清く一致させる行為は正しい。そして品位のある行為である。そのような行為は、真に人間らしい方法で行われるならば相互の与え合いを意味し、これをはぐくむ。夫婦はこの相互の与え合いによって、喜びと感謝のうちに互いを豊かにする。相互の約束によって封印され何にもましてキリストの秘跡によって神聖なものとなったこの愛は、順境においても逆境においても、心においても体においても忠実であり不解消であって、姦通と離婚とを全く排除する。また相互の完全な愛の中に夫と妻とに平等に認めるべき人間(ペルソナ)の尊厳は、主によって確認された一夫一妻制を明らかにする。このようなキリスト教的召命の義務を絶えず実行する為には、すぐれた徳を必要とする。従って夫婦は恩恵によって聖なる生活を送るための力づけをあたえられたのであるから、強い愛と寛大な心を犠牲の精神を熱心に養い、また祈り求めるべきである。
Germanus autem amor coniugalis altius aestimabitur atque sana circa eum opinio publica efformabitur, si coniuges christiani testimonio fidelitatis et harmoniae in eodem amore necnon sollicitudine in filiis educandis, eminent atque in necessaria renovatione culturali, psychologica et sociali in favorem matrimonii et familiae partes suas agunt. Iuvenes de amoris coniugalis dignitate, munere et opere, potissimum in sinu ipsius familiae, apte et tempestive instruendi sunt, ut, castitatis cultu instituti, convenienti aetate ab honestis sponsalibus ad nuptias transire possint.  キリスト者の夫婦がこの愛の忠実と調和についての、またこどもの教育の配慮についてのすぐれたあかしとなり、また婚姻と家庭の為に必要とされる文化的・心理的・社会的刷新に協力するならば、真正な夫婦愛は一層尊重され、それについて健全な世論が形成されるであろう。若い人たちに対しては、特に家庭において、夫婦愛の品位、任務、行為について時機をはかって適切に教えなければならない。こうして、かれらは貞潔についての教育を受けた後、時が来れば清い婚約時代を経て結婚に移ることができる。 ..
50. De matrimonii fecunditate. 50(婚姻の実り)
Matrimonium et amor coniugalis indole sua ad prolem procreandam et educandam ordinantur. Filii sane sunt praestantissimum matrimonii donum et ad ipsorum parentum bonum maxime conferunt. Ipse Deus qui dixit: "non est bonum esse hominem solum" (Gen 2,18) et qui "hominem ab initio masculum et feminam... fecit" (Mt 19,4), volens ei participationem specialem quamdam in Suiipsius opere creativo communicare, viro et mulieri benedixit dicens: "crescite et multiplicamini" (Gen 1,28). Unde verus amoris coniugalis cultus totaque vitae familiaris ratio inde oriens, non posthabitis ceteris matrimonii finibus, eo tendunt ut coniuges forti animo dispositi sint ad cooperandum cum amore Creatoris atque Salvatoris, qui per eos Suam familiam in dies dilatat et ditat.  婚姻と夫婦愛はその本性上、子供を産み育てることに向けられて定められている。実に子供は婚姻の最も貴重な賜物であり、両親自身の善のためにも大いに寄与する。「人間がひとりでいるのはよくない」(創 2,18)と言われ、「初に人間を男と女に造られた」(Mt. 19,14)神自ら創造の業に人間を特別に参加させようと望み、「産めよ、殖えよ」(創 1,28)と言って男と女を祝福された。したがって、婚姻のその他の目的をないがしろにするわけではないが、真の夫婦愛の実行と、それに基づく家庭生活の全構造は、夫婦が勇気をもって創造主と救い主--すなわち、かれらを通して神の家族をふやし、富ませるかた--の愛に協力する心構えをもつようになることに向けられている。
In officio humanam vitam transmittendi atque educandi, quod tamquam propria eorum missio considerandum est, coniuges sciunt se cooperatores esse amoris Dei Creatoris eiusque veluti interpretes. Ideo humana et christiana responsabilitate suum munus adimplebunt ac docili erga Deum reverentia, communi consilio atque conatu, rectum iudicium sibi efformabunt, attendentes tum ad suum ipsorum bonum tum ad bonum liberorum, sive iam nati sint sive futuri praevideantur, dignoscentes temporum et status vitae condiciones tum materiales tum spirituales, ac denique rationem servantes boni communitatis familiaris, societatis temporalis ipsiusque Ecclesiae. Hoc iudicium ipsi ultimatim coniuges coram Deo ferre debent. In sua vero agendi ratione coniuges christiani conscii sint se non ad arbitrium suum procedere posse, sed semper regi debere conscientia ipsi legi divinae conformanda, dociles erga Ecclesiae Magisterium, quod illam sub luce Evangelii authentice interpretatur. Lex illa divina plenam amoris coniugalis significationem ostendit, illum protegit et ad eiusdem vere humanam perfectionem impellit. Ita coniuges christiani, divinae Providentiae confidentes et spiritum sacrificii excolentes (117), Creatorem glorificant atque ad perfectionem in Christo contendunt, cum procreandi munere generosa, humana atque christiana responsabilitate funguntur. Inter coniuges qui tali modo muneri sibi a Deo commisso satisfaciunt, peculiariter memorandi sunt illi qui, prudenti communique consilio, magno animo prolem congruenter educandam etiam numerosiorem suscipiunt (118).  夫婦は人間の生命を伝達し、人間を育てる任務を自分たちの固有の使命と考えなければならない。この任務において、夫婦は自分たちが創造主なる神の愛の協力者であり、いわばその解釈者であることを知っている。したがって人間としての、またキリスト者としての責任をもって自分たちの務めを果すべきであり、神に対する素直な尊敬をもって、共同の考えと努力によって、正しい判断を下さなければならない。そのためには、自分たち自身の福利とともに、産れた子供たち、また産れるであろう子供たちの福利を考慮し、自分たちの生活状態ならびに時代の精神的・物質的条件を識別し、家庭・社会・教会のそれぞれの利益をも考えなければならない。この判断は最終的には夫婦自身が神の前において決定すべきものである。しかし、自分の行為に関しては、キリスト者である夫婦は自分勝手に処置する事は出来ない事を知るべきである。彼等は常に良心に従わなければならず、良心は神の掟に従わなければならない。神の掟は夫婦愛の十全な意味を示し、この愛を守り、その真に人間的な完成へ導く。こうして、神の摂理に信頼し、犠牲の精神を尊び、人間として、またキリスト者としての強い責任感をもって人類繁殖の任務に従事するキリスト者の夫婦は、創造主に栄光を帰し、キリストにおいて完徳に向かうのである。神から託された任務をこのように果す夫婦の中で特記すべきは、慎重と共通の同意と勇気をもって たくさんのこどもを立派に育てるよう引き受ける人々である。
Matrimonium vero, non est tantum ad procreationem institutum; sed ipsa indoles foederis inter personas indissolubilis atque bonum prolis exigunt, ut mutuus etiam coniugum amor recto ordine exhibeatur, proficiat et maturescat. Ideo etsi proles, saepius tam optata, deficit, matrimonium ut totius vitae consuetudo et communio perseverat, suumque valorem atque indissolubilitatem servat.  しかしながら婚姻は繁殖の為だけに制定されたものではない。ふたりの人間の間に不解消のものとして結ばれた契約の性質そのものも、またこどもの善も、夫婦相互の愛が正しい方法で実行され、育ち、成熟する事を要求する。したがって、熱望するこどもが与えられない場合にも、婚姻は全生涯の生き方および交わりとして存続するのであり、婚姻の価値と不解消性は持続する。
51. De amore coniugali componendo cum observantia vitae humanae. 51(夫婦愛と生命の尊重)
Concilium novit coniuges, in vita coniugali harmonice ordinanda, saepe quibusdam hodiernis vitae condicionibus praepediri atque in circumstantiis versari posse in quibus numerus prolis, saltem ad tempus, augeri nequit, et fidelis amoris cultus atque plena vitae consuetudo non sine difficultate conservantur. Ubi autem intima vita coniugalis abrumpitur, bonum fidei non raro in discrimen vocari et bonum prolis pessumdari possunt: tunc enim educatio liberorum necnon fortis animus ad prolem ulteriorem suscipiendam periclitantur.  公会議は現代におけるある種の生活条件がしばしば調和のある夫婦生活の営みを妨げ、少なくともある期間は、こどもの数を増やす事が出来ない状況に置き、愛の忠実な実行と生命の完全な交わりとを保ことがむずかしいことがあり得ることを知っている。親密な夫婦生活が切断されれば、夫婦間の忠実が危機に陥り、こどもの善が毒される恐れがある。こどもを育てることや、もっとこどもを産む勇気は危険にさらされるからである。
Sunt qui his problematibus solutiones inhonestas afferre praesumunt, immo ab occisione non abhorrent; at Ecclesia in memoriam revocat veram contradictionem inter divinas leges vitae transmittendae et germani amoris coniugalis fovendi adesse non posse.  この種の問題に対して正しくない解答をもたらすことを敢えてする人があり、殺害を厭わない人さえある。教会は生命の伝達に関する神の掟と真正な夫婦愛を剥げます神の掟との間に、真の矛盾があるはずがないことを思いださせる。
Deus enim, Dominus vitae, praecellens servandi vitam ministerium hominibus commisit, modo homine digno adimplendum. Vita igitur inde a conceptione, maxima cura tuenda est; abortus necnon infanticidium nefanda sunt crimina. Indoles vero sexualis hominis necnon humana generandi facultas mirabiliter exsuperant ea quae in inferioribus vitae gradibus habentur; proinde ipsi actus vitae coniugali proprii, secundum germanam dignitatem humanam ordinati, magna observantia reverendi sunt. Moralis igitur indoles rationis agendi, ubi de componendo amore coniugali cum responsabili vitae transmissione agitur, non a sola sincera intentione et aestimatione motivorum pendet, sed obiectivis criteriis, ex personae eiusdemque actuum natura desumptis, determinari debet, quae integrum sensum mutuae donationis ac humanae procreationis in contextu veri amoris observant; quod fieri nequit nisi virtus castitatis coniugalis sincero animo colatur. Filiis Ecclesiae, his principiis innixis, in procreatione regulanda, vias inire non licet, quae a Magisterio, in lege divina explicanda, improbantur (119).  事実、生命の主なる神は、生命の維持という崇高な役務を人間に託したのであって、人間は人間に相応しい方法でこの役務を果さなければならない。生命は妊娠した時から細心の注意をもって守護しなければならない。堕胎と幼児殺害は恐るべき犯罪である。人間の性的素質と生殖能力は下等生物に見出されるそれを遥かに超える。したがって夫婦生活の固有の行為であって、人間の正しい品位に基づいて行われるものに対しては大きな尊敬を払わなければならない。夫婦愛と生命伝達の責任との調和が問題となるときには、行為の倫理性は意向の純粋性や動機の評価だけに依存するのではない。それは人間(ペルソナ)とその行為の本質から引出された客観的基準、真の愛の連関において相互授与と人間繁殖の十全な意味を守る基準によって、定められるべきである。このことは夫婦神野貞潔の徳をまじめに実践する事なしには実現できない。教会の子らは、これらの原則に従うべきものであるから、妊娠調節に際しては、神の掟の解説において教権が禁止している手段を用いてはならない。
Omnibus vero compertum sit vitam hominum et munus eam transmittendi non ad hoc saeculum tantum restringi neque eo tantum commensurari et intelligi posse, sed ad aeternam hominum destinationem semper respicere.  人間の生命とそれを伝達する務めは、この世のみに限定された現実ではないし、この世の観点からのみ評価し理解しうるものでもなく、常に人間の永遠の目的に関連して考えなければならないことを、すべての人が知るべきである。
52. De matrimonii et familiae promotione ab omnibus curanda. 52(すべての人が婚姻と家庭の振興を計らなければならない)
Familia schola quaedam uberioris humanitatis est. Ut autem vitae ac missionis suae plenitudinem attingere valeat, benevola animi communicatio communeque coniugum consilium necnon sedula parentum cooperatio in filiorum educatione requiruntur. Praesentia actuosa patris eorumdem efformationi magnopere prodest, sed et cura domestica matris, qua liberi praesertim iuniores indigent, in tuto ponenda est, quin legitima mulieris promotio socialis posthabeatur. Liberi ita educatione instruantur ut ad aetatem adultam provecti pleno responsabilitatis sensu vocationem etiam sacram sequi ac vitae statum eligere queant, in quo, si nuptiis iungantur, familiam propriam, in condicionibus moralibus, socialibus et oeconomicis eidem propitiis, condere possint. Parentum vel tutorum est se iunioribus, in fundanda familia, prudenti consilio, ab eis libenter audiendo, duces praebere, caventes tamen ne eos coactione directa vel indirecta ad matrimonium ineundum aut ad electionem compartis adigant.  家庭は豊かな人間形成の学校の一種である。ところで、家庭がその生命と使命との課完成に到達しうるためには、情愛のある心の交流、夫婦の協議、こどもの教育についての両親の協力が必要である。子供の教育の為には父親の積極的な存在は大いに役立つが、こどもたち、特に幼い者たちが必要とする母親の家庭における配慮が掛けることがないようにすべきである。ただし女性の正当な社会進出を妨げてはならない。こどもが成人した後に、強いい責任感をもって、聖なる召命にしたがい、また身分を選ぶ事が出来るように、そして結婚する場合には道徳的・社会的・経済的に恵まれた条件のもとに家庭を築くことができるように育てなければならない。若い人たちが家庭を作る際に賢明な注意をもって指導するのは両親や保護者の務めである。ただし若い人たちの言う事に喜んで耳を貸し、直接にも間接にも結婚や配偶者の選択を強制するようなことを避けなければならない。
Ita familia, in qua diversae generationes conveniunt ac sese mutuo adiuvant ad pleniorem sapientiam acquirendam atque iura personarum cum aliis vitae socialis exigentiis componenda, fundamentum societatis constituit. Ideoque omnes qui influxum in communitates et coetus sociales exercent, ad promotionem matrimonii et familiae efficaciter conferre debent. Potestas civilis veram eorumdem indolem agnoscere, protegere et provehere, moralitatem publicam tueri atque prosperitati domesticae favere, ut sacrum suum munus consideret. Ius parentum prolem procreandi et in sinu familiae educandi tutandum est. Provida legislatione variisque inceptis etiam illi protegantur aptoque adiumento subleventur qui bono familiae infeliciter carent.  このように、家庭は、種々の世代が集まって、英知を深め、個人の権利を社会生活の種々の要請と調和させるように互いに助け合うところであるから、社会の基礎である。したがって、教会や団体に影響力をもつ人々はすべて、婚姻と家庭の向上に有効に寄与しなければならない。国家は婚姻と家庭の真の本質を認め、守り、高め、公衆道徳を擁護し、家庭の繁栄を助ける事を、その尊い義務としなければならない。こどもを産み、家庭で育てるという両親の権利は保護すべきである。不幸にも家庭のないこどもに対しては、行き届いた立法と種々の事業をもって保護と適切な援助の手をさし伸べなければならない。
Christifideles, praesens tempus redimentes (120) atque aeterna a mutabilibus formis discernentes, bona matrimonii et familiae, tum propriae vitae testimonio tum concordi actione cum hominibus bonae voluntatis, diligenter promoveant, et sic, interceptis difficultatibus, providebunt familiae necessitatibus et commodis, quae novis temporibus conveniunt. Ad quem finem obtinendum sensus christianus fidelium, recta hominum conscientia moralis necnon sapientia ac peritia eorum qui in sacris disciplinis versati sunt, magno auxilio erunt.  キリスト信者は現在の時を利用し、永遠のものを移り変る形あるものから区別して、自分の生活によるあかしと善意の人々との協力によって、婚姻と家庭の価値を熱心に高めなければならない。こうして困難を克服して、新しい時代に相応しい便宜と必要な助けを家庭にもたらすであろう。この目的を達成するために、信者のキリスト教的感覚、人間としての正しい道徳心、聖なる学問を身につけた人々の英知と経験は大きな助けとなる。
Qui scientiis, praecipue biologicis, medicis, socialibus et psychologicis eruditi sunt, multum bono matrimonii et familiae, pacique conscientiarum inservire possunt, si collatis studiis diversas condiciones honestae ordinationi procreationis humanae faventes, penitius elucidare conentur.  学者たち、とりわけ生物学、医学、社会学、心理学の専門家たちは、研究を持ち寄って、人間繁殖の正しい調整を助ける諸条件を明らかにするよう努力するならば、結婚生活と家庭生活の為、また良心の平和のために大いに寄与することができる。
Sacerdotum est, debita de re familiari eruditione accepta, vocationem coniugum diversis mediis pastoralibus, verbi Dei praedicatione, cultu liturgico aliisve adiumentis spiritualibus in vita eorum coniugali et familiari fovere, eosque humaniter et patienter in difficultatibus roborare atque in caritate confortare ut vere radiosae familiae efformentur.  司祭は家庭生活に関する必要な知識をたくわえ、既婚者たちが夫婦生活と家庭生活において自分たちの召命によく応えるよう、種々の司牧的手段、神のことばの宣教、典礼祭儀、その他の霊的援助をもって助け、困難に際しては同情と忍耐をもって励まし、愛をもって力づけなければならない。こうして真に喜びに輝く家庭が作られるであろう。
Varia opera, praesertim familiarum consociationes, iuvenes ipsosque coniuges, praecipue nuper iunctos, doctrina et actione confirmare eosque ad vitam familiarem, socialem et apostolicam formare satagent.  種々の活動、とりわけ家庭会は教えと活動を通して若い人たちや夫婦自身、とりわけ新しい夫婦を励まし、家庭・社会・使徒的生活に向けて要請しなければならない。
Ipsi denique coniuges, ad imaginem Dei vivi facti et in vero ordine personarum constituti, affectu compari, mente consimili et mutua sanctitate adunati sint (121), ut Christum, vitae principium (122) secuti, in gaudiis et sacrificiis vocationis suae, per suum fidelem amorem, illius testes fiant mysterii dilectionis, quod Dominus morte et resurrectione sua mundo revelavit (123).  夫婦自身も、生ける神の似姿につくられ、人間(ペルソナ)の真の尊厳を有するものとして、同じ愛情、同じ考え、相互の聖化に一つに結ばれなければならない。こうして生命の原理であるキリストに従う者となり、喜びと犠牲を伴う自分たちの召命の中に、その忠実な愛を通して、主が死と復活をもって世に啓示された愛の秘義の証人となるであろう。

(106) Cf. S. AUGUSTINUS, De bono coniugali, PL 40, 375-376 et 394; S. THOMAS, Summa Theol., Suppl. Quaest. 49, art. 3 ad 1; Decretum pro Armenis: DENZ. 702 (1327); PIUS XI, Litt. Encycl. Casti Connubii: AAS 22 (1930), pp. 543-555; DENZ. 2227-2238 (3703-3714).
(107) Cf. PIUS XI, Litt. Encycl. Casti Connubii: AAS 22 (1930), pp. 546-547; DENZ. 2231 (3706).
(108) Cf. Os. 2; Ier. 3, 6-13; Ez. 16 et 23; Is. 54.
(109) Cf. Mt. 9, 15; Mc. 2, 19-20; Lc. 5, 34-35; Io. 3, 29; 2 Cor. 11, 2; Eph. 5, 27; Apoc. 19, 7-8; 21, 2 et 9.
(110) Cf. Eph. 5, 25.
(111) Cf. CONC. VAT. II, Const. dogm. de Ecclesia, Lumen gentium: AAS 57 (1965), pp. 15-16; 40-41; 47.
(112) Cf. PIUS XI, Litt. Encycl. Casti Connubii: AAS 22 (1930), p. 583.
(113) Cf. I Tim. 5, 3.
(114) Cf. Eph. 5, 32.
(115) Cf. Gen. 2, 22-24; Prov. 5, 18-20; 31, 10-31; Tob. 8, 4-8; Cant. 1, 1-3; 2, 16; 4,16-5,1; 7, 8-11; I Cor. 7, 3-6; Eph. 5, 25-33.
(116) Cf. PIUS XI, Litt. Encycl. Casti Connubii: AAS 22 (1930), pp. 547-548; DENZ. 2232 (3707).
(117) Cf. I Cor. 7, 5.
(118) Cf. PIUS XII, Allocutio Tra le visite, 20 ian. 1958: AAS 50 (1958), p. 91.
(119) Cf. PIUS XI, Litt. Encycl. Casti Connubii: AAS 22 (1930), pp. 559-561; DENZ.-SCHÖN. 3716-3718; PIUS XII, Allocutio Conventui Unionis Italicae inter Obstetrices, 29 oct. 1951: AAS 43 (1951), pp. 835-854; PAULUS VI, Allocutio ad Em.mos Patres Purpuratos, 23 iunii 1964: AAS 56 (1964), pp. 581-589. Quaedam quaestiones quae aliis ac diligentioribus investigationibus indigent, iussu Summi Pontificis, Commissioni pro studio populationis, familiae et natalitatis traditae sunt, ut postquam illa munus suum expleverit, Summus Pontifex iudicium ferat. Sic stante doctrina Magisterii, S. Synodus solutiones concretas immediate proponere non intendit.
(120) Cf. Eph. 5, 16; Col. 4, 5.
(121) Cf. Sacramentarium gregorianum: PL 78, 262.
(122) Cf. Rom. 5, 15 et 18; 6, 5-11; Gal. 2, 20.
(123) Cf. Eph. 5, 25-27.

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人間の尊厳の理由は?:聖寵によって天主の本性に参与するまで高められたこと vs 人間の自由と自律

2019年11月30日 | 第二バチカン公会議
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

では、第二バチカン公会議は、どのようにして、自由が人間の尊厳の中で一番大切だと説いているのでしょうか?

カトリック教義の枠組みにおいて、教会の組織において、人間の自由を最高の価値であると、どのように説明を試みているのでしょうか。

聖伝によって伝えられるカトリックの信仰は、一人一人の人間は、聖寵によって天主の本性に参与するまで高められてたが故に、全ての被造物に勝る尊厳を持っていると教えています。

大聖レオ教皇の有名な御降誕祭の説教がそれを雄弁に語っています。
「キリスト者よ、あなたの尊厳を認識せよ、何故ならあなたは天主の本性に与るものとされたからだ。」
Agnosce, o christiane, dignitatem tuam, et divinae consors factus naturae, noli in veterem vilitatem degeneri conversatione redire!

「キリストの天主としての力は、ご自分の光栄と勢力とをもって召されたお方を私たちに知らせることによって、命と敬虔とをたすけるすべてのものをくださり、また、それによって、私たちに尊い偉大な約束をお与えになった。それは、欲情が世の中に生んだ腐敗から、あなたたちを救いあげ、天主の本性にあずからせるためであった。」(ペトロの後の手紙1章4)

天主の本性に与らせていただき、天主の養子となるという恵みこそ、人間の尊厳の基礎です。天主は、人間が天主の本性に与ることが出来るように人間にその可能性を与えて創造しました。創世記によれば、天主は人間を御自分の似姿と類似に創造された、とあります。

"Faciamus hominem ad imaginem et similitudinem nostram, et praesit piscibus maris, et volatilibus caeli, et bestiis universaeque terrae, omnique reptili, quod movetur in terra. Et creavit Deus hominem ad imaginem suam: ad imaginem Dei creavit illum, masculum et feminam creavit eos." (Gen 1:26)

聖トマス・アクィナスは、自然の秩序において、人間が霊的である点で、天主の似姿ということが人間に与えられたと指摘します。つまり、他の動物たちと異なり、知性と自由意志を持つが故に、その点で天主の似姿が認められる、と。そしてこの自然の秩序において天主の似姿により創られたので、原初の義の状態(原罪の前の状態)では超自然の秩序にまで引き上げられて完成させられた、と。

聖トマス・アクィナスは、自然の秩序と超自然の秩序を区別しつつも、結合させています。人間の尊厳は、自然の秩序において天主の似姿(知性と自由意志)によって創られた人間が、さらに天主の本性に参与することによって超自然の秩序まで高められていることにあるのです。

ところが、第二バチカン公会議は、自然と超自然を混同して区別せずに、人間が天主の似姿として持つ尊厳は、自由にある、と主張します。何故なら、天主の本性の特徴は、自由で自律独立していることだから、天主の本性に参与するということは、自由であることだ、と。

第二バチカン公会議は、「現代世界憲章」の第一章で「人格の尊厳」を取り扱ってこう言います。

「聖書は、人間が「神の像」としてつくられ、創造主を知り愛することができるものであって、地上の全被造物を支配し利用して神に栄光を帰するよう、神によってそれらの上に主人として立てられたものであることを教えている。」(12)

「人間は天主によって[原初の]義の中におかれたが、悪霊に誘われて、歴史の初めから、自由を乱用し[libertate sua abusus est]、神に対立し、自分の完成を天主のほかに求めた。(…)しかし、人間を解放し[ut hominem liberaret]力づけるために、主自身が来て人間を内部から再生し、人間を罪の奴隷として捕らえていた「この世のかしら」(ヨハネ 12:31)を外に追い出した。実に罪は人間そのものを弱くし、人間をその完成から遠ざける。」(13)

「肉体と霊魂から成り立っているが、一つのものである人間は、肉体的なものとして物質界の諸要素を自分の中に集約している。その結果、物質界は人間を通してその頂点に達し、人間を通して創造主の[自由な]賛美の歌を歌う[ad liberam Creatoris laudem vocem attollant ]のである。(…)しかし、人間は自分が肉体的な物よりすぐれており、自然の一部または人間社会の無名の一要素でないと考えるとき、まちがってはいない。人間はその内面性によって全物質界を超越している。人間が内心をふり返るとき、この深遠に帰るのである。人間の心の中には、人々の心を見通す神が待っており、人間は心の中で、神の目のもとで自分の将来を決定する[de propria sorte decernit]。」(14)
第15番では、さらりと知性の尊厳について触れ、「聖霊のたまものによって、人間は信仰のうちに神の計画の秘義を観想し、味わうようになる。」(15)観想という人間の最高の行為について言及します。

第16番は、もっと良心の尊厳について語ります。「人間は心の中に神から刻まれた法をもっており、それに従うことが人間の尊厳であり、また人間はそれによって裁かれる。」(16)

しかし、最も強調されているのは「自由の尊さ」(17)です。
「しかし、人間は自由でなければ善を指向することはできない。現代人はこの自由を大きく表かし、熱烈に求めている。確かにそれは正しいことである。ところが、かれらはしばしば自由を放縦とはきちがえて、楽しければ何をしてもよいし、悪でさえもかまわないとする。しかし、真の自由は人間の中にある神の像のすぐれたしるしである。神は、人間がすすんで創造主を求め、神に従って自由に完全で幸福な完成に到達するよう、人間を「その分別に任せること」を望んだ。したがって人間の尊厳は、人間が知識と自由な選択によって行動することを要求する。このような選択は人格としての内面的な動機に基づくものであって、内部からの盲目的本能や外部からの強制によるものであってはならない。」(17)

カトリック教義は、人間の創造主の似姿としての完成が、真理の観想にあるとしてきました。これは、プラトンやアリストテレスの思索と哲学を完成させるものでした。人間のもっとも崇高で高貴で天主的な活動とは、真理を見つめ、究極の真理である天主を愛する知です。

「人間における天主の似姿は、天主の知に関して形成された御言葉と、それから発出した愛とに従って考察される」(Attenditur igitur divina imago in homine secundum verbum conceptum de Dei notitia, et amorem exinde derivatum.)[1a q.93. a.8]

三位一体の天主は、永遠に至福を享受しています。天主は、被造物を創造しようがしまいが、至福の天主です。無限の可能性の中から、全く自由に、創造することを選択しましたが、自由に創造したから幸せになったのではありません。創造するということは、天主の"定義"の中にはありません。天主が永遠に至福なのは、永遠に無限の善を所有し直観し享受しているからです。

ヨハネの福音には私たちの主イエズス・キリストの言葉がこう記されています。「永遠の命とは、唯一のまことの天主であるあなたと、あなたがお遣わしになったイエズス・キリストを知ることであります。」(17:3)

つまり、天主が至福であるのは、観想のためであり、自由だからではありません。

人間中心主義は、人間を創造主なる天主の目的であり栄光と主張します。第二バチカン公会議は、そうだとはっきり断言はしませんが、暗に自由な創造を行ったことによって、天主は至福に到達したと前提しているようです。ちょうど、芸術家が、傑作を生み出したときに喜ぶように。

天主は、人間を御自分の似姿として創造し、この人間がその他のものを作り支配するのを見ると、天主は満足されたことになっているからです。

「事実、神の像として作られた人間は、大地とそこに含まれる万物を支配し、世界を正義と聖性のうちに統治し、また万物の創造主である神を認めて、人間自身とあらゆる物を神に関連させるようにとの命令を受けた。こうして万物が人間に服従すれば、全世界において神の名が賛美されるであろう。」(現代世界憲章 34)

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ヒューマニズムは、何故、自由が人間の最高の価値だと考えるリベラリズムへとたどり着いたか?

2019年11月29日 | 第二バチカン公会議
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 ルネッサンスから近代にかけて、人間はまず教会の権威から、次に王の権威から解放されようとしてきました。

 人間中心主義という新しい精神の要求することは「自由」でした。ルネッサンスから由来するヒューマニズム(人文主義・人間中心主義)は、リベラリズム(自由主義)を生み出します。

 第二バチカン公会議が、新しい時代において人間を促進することを約束します。第二バチカン公会議が、人間の尊厳の中で一番大切だと考えていることも、自由です。

 リベラリズムは、人間の最高の価値として自由を置きます。ヒューマニズムは、何故リベラリズムへとたどり着いたのでしょうか?

 ヒューマニズムは、ルネッサンス(つまり生まれ変わり、再生、再誕生)として起こり、超自然の抜きにした、純粋に人間的な価値を擁護しようとしました。一体何故、ルネッサンスという名前のもとにそのような人間中心の運動が起こったのでしょうか?

 13世紀、中世ヨーロッパで、キリスト教世界の最盛期には、もっとも高いキリスト教的霊性が実践されていました。キリストが山上の垂訓で教えたような内容であり、三つの福音的勧告と呼ばれているものに要約されます。清貧(富を否定すること)、貞潔(肉体的な快楽を否定すること)、従順(自分の意志を否定すること)です。これは、自然な考えからは、否定的に思われます。しかし、キリスト教世界は、人間にとって価値があると思われるようなことを、十字架に付け、祭壇の上で天主に捧げました。

原罪の後の人類は、悪魔とこの世と肉との奴隷となってしまったのですから、本当の意味での自由を得させるのは、私たちの主イエズス・キリストが指し示した道に従うしかありません。それが十字架の道です。

イエズス・キリストは、ベトレヘムで清貧に生まれ、ナザレトで清貧に貞潔に従順に生活し、十字架の担って、私たちを御自分の方に招いておられます。

キリスト者たちも、ベトレヘムの優しき赤子に倣い、福音の教えに従い、イエズス・キリストの復活の栄光に入るために、主の後を慕って自分の十字架を担い、祈りと犠牲の生活、愛徳の生活を送っていました。自分たちの苦しみを主の御受難と御死去に合わせて捧げ、生活しました。

しかし、残念なことに、信心の熱が冷めた人々は十字架を担ぐことを恐れ、さらには、主に背を向けた人もいました。聖徳を求める代わりに、生ぬるくなって快適な生活を求めたのでした。

ヒューマニズムは、冷淡と無関心と背教の運動でした。
ただし、ヒューマニズムは、全てを最初から捨てたわけではありません。最初に反対したのは、もっとも高度な福音的勧告の「従順」という徳でした。従順の代わりに、自律を求め始めました。自律を求める運動は、自由放埒にどうしても向かってしまいます。しかし、ヒューマニストたちが求めたのは自由放埒と言うよりは、人権の要求でした。天主は、教会を通して、人間に聖徳を要求しすぎる、天主の権利によって、人権は侵害されている、と。

キリスト教ヒューマニストたちは、天主に直接反抗しようとしたわけではありませんでした。天主の代表者である聖職者たちに、抗おうとしました。教会の教えもそうだけれど、自分で考えて自分で信じる責任があるのではないか、自分の行動の道徳性も自分で決めることが出来るのではないか、教会の指導に従わなくても良いではないか、と。

そこで、啓示の前に人間理性を、神学に対立して哲学を、もっと大切にすべきではないか、天主の聖寵よりも人間の自然本性の価値を認めるべきではないか、と徐々に合理主義、自然主義へと向かっていきます。

もちろん、人間理性は、現実を認めなければなりません。大自然の秩序と人間の自然本性とそれを創った創造主という現実を認めなければなりません。

ところで、人間の中で、純粋に人間らしいもので天主の領域に属さないものがあるとすれば、それは自由意志です。ヒューマニズムは、「自由」を人間の最高の価値と考え始めます。

ただし、「自由」は、私たちが考える自由と、ヒューマニズムの考える「自由」とは意味が違います。

私たち人間は究極の目的であり最高の善である天主に向かって創られていますが、それへ向かう手段としての真の善を選ぶ能力としての自由を持っています。真理と善とを私たちは自由に選ぶことが出来る自由選択能力があります。神学は、私たちが常に善を選ぶことが出来るためには、天主のお恵みが必要であると教えています。私たちには、悪を選ぶ権利はありません。悪を自由に選ぶ権利がありません。私たちは善を自由に選ぶ義務があります。もしも悪を選ぶとき、人間はその尊厳を失います。以上が私たちが考える真の自由です。

ところが、ヒューマニズムの「自由」は、善と悪とを選ぶ「自由」です。自分で何が善で何が悪かを決定する自律です。「自由」が最高の人間の尊厳であり、この自由を行使するところに尊厳が輝くとされるので、悪を選んでも尊厳は保たれるとされます。

ヒューマニズムは、初めはキリスト教の運動でした。天主の権威から逃れて自律しようとする運動でした。しかし、自律し、自分の責任で行動することを追求する結果、善と悪を選ぶ能力を、人間の最高の価値としての自由と考えるようになりました。

人間の自律、天主の権威からの独立運動は、カトリック教会内では反聖職主義を生み出しました。カトリック教会外では、プロテスタント運動を引き起こしました。現実世界の外では、無神論運動にまでなりました。

第二バチカン公会議は、この分裂の運動をカトリックの一致に引き戻そうとして、自らヒューマニズムを採用します。

つまり、カトリック教義の枠組みにおいて、教会の組織において、人間の自由を最高の価値であると、うまく説明しようとします。

では、第二バチカン公会議は、どのようにして、自由が人間の尊厳の中で一番大切だと説いているのでしょうか?

(続く)


これを書くに当たってPrometeo. La religion del hombre (2010) by Padre Alvaro Calderon を参考にしました。
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第二バチカン公会議は、教会をどのように新しく自己定義したのか?【3】教会内部構造

2009年05月01日 | 第二バチカン公会議
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 私たちは第二バチカン公会議にどのような点が新しくなったか、つまり、どの点がカトリック教会の聖伝による見方と変わってしまったかについて、次の点を見てきました。

 まず、最初に、第二バチカン公会議は、人間についてどのように新しく考えるようになったのか?
【1】人間の尊厳としての自由、および
【2】人間の思想の自由

【3】良心と人間の行為の自由

 続いて、第二バチカン公会議は、人間と天主との関係についてどのように新しく考えるようになったか?
【1】第二バチカン公会議によれば啓示とは何か、啓示の伝達すわなち聖伝とは何か、啓示を信じるすわわち信仰とは何か?

【補足】カトリック教会の昔からの聖伝と 第二バチカン公会議の言う「聖伝」とでは、どう違うか
【2】第二バチカン公会議による新しいいけにえ(=「過ぎ越しの神秘」「復活の秘義」)とは何か
【3】第二バチカン公会議によれば、イエズス・キリストとは何か、

 そして、第三に、第二バチカン公会議は、教会についてどのように新しく考えて自己定義したのか? どのように新しいヒューマニズムを促進するために教会は自分をどのように変えたのか? を考察し始めました。

 第二バチカン公会議の教会は、どう自己規定をしたのか、
 まず、外部に目を向けて
【1】この世に対して、さらに、世界の統一をもとめて
【2】他の宗教に対して第二バチカン公会議の文献に見えるエキュメニズムを分析、そして教会の一致とエキュメニズム:聖伝の教えと第二バチカン公会議の教えとの違い

 をみました。

 次に、内部に目を向けて
【3】教会内部構造について、
 どのように変わったのか?という点を考察してみます。

 そこで、今回は、第二バチカン公会議の教会は自分自身をどのように新しく規定したのかを考察してみましょう。

【交わりとしての教会】

 第二バチカン公会議は、外部に対しては、教会は「秘跡」であると規定したが、内部に対しては、教会は【3-1】そのあり方(esse)として「天主の民」、また【3-2】その動き方(agere)として「交わり:コムニオ」であると規定している。

 聖ペトロは教会のことを司祭民であると呼ぶ(1ペトロ2:9-10)。
 第二バチカン公会議の新しい神学は、天主の民は司祭的であるのみならず司祭であるという。第二バチカン公会議によれば、キリストの司祭職は全教会に属している。

 神の民の全てが、キリストの唯一の司祭職に参与する。この共通祭司職を前提となければ、司祭の役務が存在しない。

『司祭の役務と生活に関する教令』 Presbyterorum Ordinis 第1章 教会の使命における司祭職
 2 (司祭職)「父が聖化して世に派遣した」(ヨハネ10:36)主イエズスは、自分が受けた霊の塗油に自分の全神秘体を参与させた。すなわち、主イエズスにおいて、すべての信者は聖なる王的司祭職となり、イエズス・キリストを通して神に霊的供え物をささげ、かれらを暗やみから自分の感嘆すべき光へ呼んだ者の力を告げ知らせる。それゆえ、からだ全体の使命に参与しない構成員は一つもないのであって、各構成員は自分の心の中にいるイエズスを聖なるものとして扱い、預言の霊によってイエズスのあかしをたてなければならない。


『カトリック教会のカテキズム』
「1591 教会全体が祭司的な民です。洗礼により、すべての信者はキリストの祭司職にあずかります。この参与は「信者の共通祭司職」と呼ばれます。この基礎に立ち、これに奉仕するため、キリストの使命に参与するもう一つの祭司職があります。すなわち、叙階の秘跡によって与えられる奉仕職です。その任務は共同体の中で頭であるキリストの名において、またその代理者として仕えることです。 」

 すべての信者が聖なる王的司祭職(原文では単数)になり天主に「霊的供え物」を捧げる、これこそがキリストの司祭職への参与である。そして司祭は、すべての信者が「霊的供え物」を捧げることが出来るように、信徒のこの共通司祭職への奉仕のために、職位的司祭職を受ける。主体はあくまでも神秘体であり、主要な行為はすべての信者が一つになって霊的供え物を捧げることにある。この手入れ記供え物とは、この世をより一層人間らしくすることである。何故なら、人間は天主の似姿であるからより人間らしくなることはより天主らしくなることであるからだ。

 人類は全て、天主によって、完全な自由という天主の似姿を充足させる天主の国に属するように選ばれている。全人類は、兄弟愛(博愛)へと導く自由と平等という人間の価値が進歩することによって、人間がより人間らしくなることによって、天主の国に準備される。キリストは人間をより人間らしくするために人間となり、人間としてのキリストは、教会を制定した。人間をいっそう人間らしくするという人類の進歩促進のためにある教会は、天の国を先取りする特別な宗教的・司祭的召命をもった人々の集まりである。

 聖霊は、復活秘義(Paschale Mysterium)にあずかる可能性をすべての人に提供すると信じなければならない。教会とは「神との親密な交わりと全人類一致の秘蹟」だからである。

 今までのいけにえを捧げる司祭(A)といけにえを受けていた平信徒(B)との関係は、第二バチカン公会議によれば「聖なる王的司祭職となり、イエズス・キリストを通して神に霊的供え物をささげ、かれらを暗やみから自分の感嘆すべき光へ呼んだ者の力を告げ知らせるべきすべての信者」(A')と、「聖霊によって復活秘義(Paschale Mysterium)にあずかる可能性を提供されているすべての人(B')」との関係とパラレルになる。

 つまり、平信徒(B)の全てが司祭(A)になるとは限らなかったように、「聖霊によって復活秘義(Paschale Mysterium)にあずかる可能性を提供されているすべての人(B')」の全てが必ずしも「聖なる王的司祭職となり、イエズス・キリストを通して神に霊的供え物をささげ、かれらを暗やみから自分の感嘆すべき光へ呼んだ者の力を告げ知らせるカトリック信者」(A')となるわけではない。なぜなら、全人類は知っているといないとに関わらず、キリストと一致しており、復活秘義(過越の神秘)に与っており、新しい教会の一員であるからである。

 聖伝によればカトリック教会は、この世を、肉欲と悪魔と共に、救霊の3つの敵(三仇)の一つと呼んでいた。

 第二バチカン公会議によればこの世を軽蔑する必要はない。むしろこの世を愛さなければならない。

『現代世界憲章』40
「教会は人類社会の魂または酵母として存在し、それをキリストにおいて刷新して神の家族に変質させる使命をもっている。・・・教会は、その個々の成員と全共同体とを通して人類家族とその歴史を、いっそう人間らしいものにするために大いに寄与できると信じている。」

 第二バチカン公会議後の語彙からは、「司祭職」は消えつつある。叙階された司祭職は、むしろ「奉仕職(ministry)」と呼ばれ、平信徒の共通司祭職は「交わり:コムニオン」と呼ばれる。

 共通司祭職の役割は、この世そのものを天主に奉献しこの世を「暗やみから自分の感嘆すべき光へ呼んだ者の力」を、この世に告げ、ついにはこの典礼というしるしのもとに神の子らを一つに集めるべきである。集会祭儀と呼ばれるミサは、キリストをのべ伝えるためのもの、神の民を一つに集めるものである。叙階を受けた新しい司祭職の第一の直接の目的は、教会を建設するという共通善への奉仕である。集会祭儀と呼ばれるミサは、目的のための手段、共通善への奉仕のための単なる手段に過ぎない。

『司祭の役務と生活に関する教令』12
「司祭は叙階の秘蹟によって司祭であるキリストの姿に似た者となり、キリストのからだ全体である教会を建設するために、司教団の協力者として、かしらであるキリストの役務者となる。

 昔からの聖伝によればカトリック司祭とは、天主と人間との仲介者である。
 そこで第二バチカン公会議の「新しい司祭職」(=第二バチカン公会議後の新しい教会全体)は、天主と全人類との仲介者となる。この世と全ての文化をより人間らしくし、人間に栄光を帰することは、天主を礼拝することである。何故なら、人間は天主の似姿であるからだ。

『現代世界憲章』40
教会は人類社会の魂または酵母として存在し、それをキリストにおいて刷新して神の家族に変質させる使命をもっている。・・・
 教会は、その個々の成員と全共同体とを通して人類家族とその歴史を、いっそう人間らしいものにするために大いに寄与できると信じている。」

【交わり:コムニオ】

 中世の教義主義はギリシア・ローマの神学を主張して教会を分裂させた。中世の教義主義に変わって、エキュメニズムがその場所を占めなければならない。

 教会内部において、教義において論争をすることなく平和的な共存があるために最も便利な表現が「交わり」である。

 全ての意見は自由である。この様々な意見を一つにするのが「対話」であり「分かち合い」である。教会の教義を教えるのではなく、じっくりと聞くことが大切。自分が話すことよりも、相手の思いを聞くことの方が大切。「対話」され「分かち合われた」ことは、ありのままに受け止め、批判や評価などはしない。分かち合った心の思い(心情・信条)は、大切に尊重しなければならない。「対話」或いは「分かち合い」は、お互いの口を通してキリストが語っていることであり、その場にキリストが共にいて下さることを感じ取らなければならない。全ての人間を尊重し彼らと対話することによって一致をもたらすようにする。

 聖伝によればカトリック教会の一致の源は信仰の真理であった。

 第二バチカン公会議によれば、対話が人類を交わりにおいて一致させる。

 聖伝によればカトリック教会は、宣教をもって霊魂たちを教会の内部に入れた。

 第二バチカン公会議によれば、対話によって多様性を尊重しつつ全ての人間は一致する。対話において、だれも間違っている人はいない。全ては互いに補い合う。悪は善の役に立つ。


『現代世界憲章』40(教会と世界との相互関係)
 人間の尊厳、人間の共同体、人間活動の深い意義について、われわれが述べたすべてのことは、教会と世界の相互関係の基礎ならびに両者の対話の根拠をなすものである。・・・
 天上の宝を目ざして互いに結ばれ、またそれによって富まされているこの家族は、キリストによって「社会として、この世の中に設立され組織された」ものであり、「見える社会的一致の適切な手段」を与えられている。したがって、教会は同時に「見える団体と霊的共同体」であり、全人類とともに歩み、世と同じ地上的なりゆきを経験する。教会は人類社会の魂または酵母として存在し、それをキリストにおいて刷新して神の家族に変質させる使命をもっている。・・・
 教会は、その個々の成員と全共同体とを通して人類家族とその歴史を、いっそう人間らしいものにするために大いに寄与できると信じている。

 第二バチカン公会議後の典礼改革の「第一の原理は、教会の典礼における「過ぎ越しの神秘(復活秘義)」の現実化である。」(ヨハネ・パウロ2世、1988年12月4日 « Vicesimus quintus annus », ヨハネ・パウロ2世、第2バチカン公会議の「典礼憲章」の発布25周年 Documentation Catholique 1985, 4 juin 1989, p. 519) 過ぎ越しの神秘(復活秘義)によれば、天主は、ご自分を犠牲にしても人間を栄光化する債務を負う。感謝の祭儀では、会衆が集まるや否や、復活したキリストはそこに現存される。新しいミサでは、人間の手による労働の実りをささげることにより、人間の労働に栄光を帰し、貧困と暴政(エジプトの奴隷状態)から開放され自由となったことを感謝する。

「主の晩さん、またはミサは、聖なる集会の義、すなわち『主の記念』を祝うために、司祭を座長として、一つに集まった神の民の集会である。したがって、『わたしの名において、2、3人が集まるところには、その中にわたしもいる』(マテオ18:20)というキリストの約束は、特に教会がそれぞれの地域で集まるときに実現される。」
(新しいミサの総則7)

 新しい神学によれば、ミサは、主の十字架から復活への過越の記念であって、復活したキリストとの出会いが体験される場である。ミサ聖祭を捧げるのは、もはや司祭ではなく、会衆である。司祭の権威に取って代わるのは、集会(会衆)である。新しいミサは位階制度的なものではなく、民主的である。権力は会衆のうちに、権威は人間、民衆のうちにあり、天主にではない、と言うことの表明である。新しいミサは、まず、人間の栄光のために捧げられる。

 「教会においてわたしたちは復活したキリストと出会うことができるのです。」(『カトリック教会の教え』167ページ)

 「典礼を単なる義務の対象、遵守すべき儀式ではなく、いつもわたしたちとともにいてくださる神との交わり、『ともに生きる喜び』を体験し分かつ場にしていかなければなりません」(第一回福音宣教推進全国会議課題発表に際しての司教団メッセージ)

 「【聖体によって】ともに主キリストのからだにあずかることによってもたらされるいつくしみの秘跡、一致のしるし、愛のきずなであり、未来の栄光の保証が与えられる復活の祝宴でもあります。・・・聖体拝領(コムニオ)は、その聖体が食されて神の力が働き、そこに復活したキリストが現存し、人がキリストと出会うことができる、という恵みの現実を現しています。」(『カトリック教会の教え』209ページ)

 司教たちの個人的な権力に取って代わるのは、司教団である。教区のなかの司教の権力に取って代わるのは、司祭たちが集ってつくる司祭諮問会であり、今後、教会を動かすのは、数となる。そして、そのことは新しいミサのなかで明らかに表明されている。ミサでは、会衆が司祭の代わりになっているからである。司祭は、会衆のない時にはもはやミサを捧げようともしない。
 第二バチカン公会議によれば、聖書も、その意味で、信仰の体験を言葉で表したもので天主の神秘を追体験させる救いの「秘跡」となる。新しいミサ典書では、「教会の教導職によって告げられる限りにおいての聖書」でもなく、キリストが(教会の教導職を代表する)役務者が教えるという行為の中に現存するのでもなく、仲介者を抜きにキリストご自身が現存することになっている。

「聖書が教会で朗読される時には、神ご自身がその民に語られ、キリストは、ご自身のことばのうちに現存して、福音が告げられる」(ローマ・ミサ典書総則9番)。

「聖書朗読による神のことばは、すべての時代のすべての人に向けられ、すべての人が理解できるものである」(ローマ・ミサ典書総則9番)。

 だから、ルフェーブル大司教はこう言った。

新しいミサの典礼様式が新しい信仰を表明している。この新しい信仰は、私たちの信仰ではない、カトリック信仰ではない。この新しいミサは、新しい信仰の、近代主義者の信仰のシンボル、表現、イメージである。・・・

 新しい典礼様式は、知っているか知らないかに関わらず、カトリックの宗教とは別の概念を、ある別の宗教を前提としている。新しいミサは、新しいイデオロギーのまったき表明である。新しい典礼は、別のイデオロギー、新しいイデオロギーの作品である。新しい宗教には、それの礼拝様式、それの司祭、それの信仰、その公教要理、その聖書、エキュメニカルな聖書がある。
・・・

 私たちは今、本当に劇的な状況にいる。私たちは、選ばなければならない。敢えて言えば見かけ上の不従順か、あるいは私たちの信仰を捨てるかのどちらかを。教皇様は私たちに信仰を捨てるようにと命じることは出来ない。それは不可能だ。私たちは、信仰を捨てないことを選ぶ。なぜなら、そうすることによって私たちは間違うことがないからだ。なぜなら、教会が2000年間教えてきたからだ。教会がその間ずっと誤っていたと言うことはありえない。・・・

 だから、私たちはこの聖伝にしがみつく。聖伝は、素晴らしく、決定的に、教皇聖ピオ5世がうまく言ったように決定的に、ミサ聖祭において表明されているからだ。


主よ、憐れみ給え!
聖母の汚れ無き御心よ、我等のために祈り給え!
聖ヨゼフ、我等のために祈り給え!
愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭) sac. cath. ind.

【関連記事】
聖伝のミサと新しいミサ
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教会の一致とエキュメニズム:聖伝の教えと第二バチカン公会議の教えとの違い

2009年04月29日 | 第二バチカン公会議
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 私たちは第二バチカン公会議にどのような点が新しくなったか、つまり、どの点がカトリック教会の聖伝による見方と変わってしまったかについて、次の点を見てきました。

 まず、最初に、第二バチカン公会議は、人間についてどのように新しく考えるようになったのか?
【1】人間の尊厳としての自由、および
【2】人間の思想の自由

【3】良心と人間の行為の自由

 続いて、第二バチカン公会議は、人間と天主との関係についてどのように新しく考えるようになったか?
【1】第二バチカン公会議によれば啓示とは何か、啓示の伝達すわなち聖伝とは何か、啓示を信じるすわわち信仰とは何か?

【補足】カトリック教会の昔からの聖伝と 第二バチカン公会議の言う「聖伝」とでは、どう違うか
【2】第二バチカン公会議による新しいいけにえ(=「過ぎ越しの神秘」「復活の秘義」)とは何か
【3】第二バチカン公会議によれば、イエズス・キリストとは何か、

 そして、第三に、第二バチカン公会議は、教会についてどのように新しく考えて自己定義したのか? どのように新しいヒューマニズムを促進するために教会は自分をどのように変えたのか? を考察し始めました。

 第二バチカン公会議の教会は、
 外部に目を向けて
【1】この世に対して、さらに、世界の統一をもとめて
【2】他の宗教に対して第二バチカン公会議の文献に見えるエキュメニズムを分析
 次に内部に目を向けて
【3】教会内部構造について、
 どのように変わったのか?
という点を考察しています。

 そこで、今回も、 第二バチカン公会議の教会は他の宗教に対してどのように変わってしまったのか、聖伝の教えと第二バチカン公会議の教えとがどう比較されるのかを考察してみましょう。私たちは、第二バチカン公会議の「新しさ」を理解する上で、これまでの通り、出来るだけ第二バチカン公会議の文章を引用し、その文字通りの意味を考え、さらに第二バチカン公会議後のバチカン、教会当局によってどのようにそれが解釈され続けてきたか、適応されてきたか、解説されてきたかを示すその文献も適宜引用していくことにしましょう。それによって客観的な教会当局の第二バチカン公会議理解を知り、それが聖伝とどれだけ大きな差異があるかということを深めていくことにしましょう。

 昔からの聖伝の教えによれば、天主の国と教会とは同じ現実を意味している(特にマテオ16章15-19を見よ)。同じ現実であるが、将来の観点と現在の観点という違いがある。「天主の国」は戦闘の教会と凱旋の教会との両者を意味しうる。教導権はこれについて一致している。レオ十三世、ピオ十一世、ピオ十二世は、この二つの表現は同じ現実を意味すると言う。

 昔からの聖伝によれば、キリストの教会とはつまりカトリック教会である。

 聖フランシスコ・ザベリオや聖ペトロ・カニシウス、サレジオの聖フランシスコの燃えるような熱心は、ルターやカルヴァンによって失われた霊魂たちを真のカトリックの一致に呼び戻そうと燃え立たせた。離教や異端はむしろカトリック教会をして燃え立たせ、背教者や未信者をキリストへの信仰に回心させた。

 天主の御旨によれば、一致の第一原理は、カトリック教会の一致が信仰、秘跡、統治という超自然の一致に基づく。何よりもまずこの一致は、信仰の真理に基づかなければならない。この信仰の真理には、多少の程度の余地があることを許さない。一点一画も、一つのイオタであっても欠如してはならない。信仰が完全でないことは、信仰が全くないと同じである。何故なら、信仰の真理を啓示し給う天主の権威を否定することだからだ。

 一致の第二の原理は、イエズス・キリストが御自分の教会にお望みになった特徴である。イエズス・キリストは御自分の教会のしるしの一つとして一性(一つであること)を望まれた。イエズス・キリストの教会はカトリック教会であるから、カトリック教会だけが唯一この一性を固有のものとして持っている。レオ十三世教皇は、回勅「サティス・コニトゥム」(一八九六年)の中で詳しく説明している。また、このカトリック教会が固有に持つ一性は、失われることのない特徴である。カトリック教会を離れるものが、この一致を失うだけである。キリストの教会であるカトリック教会はこの一性を失ったことがない。従って、キリスト教徒の本当の一致、真の一致は、唯一の真のキリストの教会であるカトリック教会に帰正することを促進することによってのみ達成される(ピオ十一世:回勅「モルタリウム・アニモス」)。



 第二バチカン公会議によれば、次のようにまとめられる。

 人類は全て、天主によって天主の国に属するように選ばれている。この天主の国では、完全な自由という天主の似姿を充足させる。この天主の国は、兄弟愛(博愛)へと導く自由と平等という人間の価値が進歩することによって、人間がより人間らしくなり準備される。人間がいっそう人間らしくなるには人間しだいである。

 この進歩を促進するために、人間としてのキリストにおいてキリストの教会を制定した。キリストは人間をより人間らしくするために人間となったからである。

[現代世界憲章] 22(新しい人・キリスト)
 「最後のアダムであるキリストは、父とその愛の秘義の啓示によって、人間を人間自身に完全に示し、人間の高貴な召命を明らかにする。・・・事実、神の子は受肉によって、ある意味で自分自身をすべての人間と一致させた。・・・
 多くの苦難を通して悪と戦い、死を堪え忍ぶことは、確かにキリスト者にとって必要であり義務である。しかし、復活の秘義(Paschale Mysterium)に結ばれ、キリストの死に似た姿となるキリスト者は、希望に力づけられて復活に向かって進むであろう。このことはキリスト信者ばかりでなく、心の中に恩恵が目に見えない方法で働きかけているすべての善意の人についても言うことができる。・・・ われわれは神だけが知っている方法によって、聖霊が復活秘義(Paschale Mysterium)にあずかる可能性をすべての人に提供すると信じなければならない。・・・」

 人間をいっそう人間らしくするという人類の進歩促進のためにある教会は、天の国を先取りする特別な宗教的・司祭的召命をもった人々の集まりである。

『現代世界憲章』40
教会は人類社会の魂または酵母として存在し、それをキリストにおいて刷新して神の家族に変質させる使命をもっている。・・・
 教会は、その個々の成員と全共同体とを通して人類家族とその歴史を、いっそう人間らしいものにするために大いに寄与できると信じている。」

 この教会は、全人類を天主の国へと準備させる、天の国の効果的なしるしつまり秘跡である。

『教会憲章』 1(序文) 教会はキリストにおけるいわば秘跡、すなわち神との親密な交わりと全人類一致のしるしであり道具である

 この聖なるものとしての教会が自由・平等・博愛(兄弟愛)を実践しているのを俗なるものとしてのこの世が見て、この世は教会を真似しようと望むだろう。このようにして、キリストの司祭的使命が続けられる。

 天主に結合している全人類の一致の秘跡である教会とは、キリストの教会である。このキリストの教会にはカトリック教会と全ての宗教団体が含まれているからである。

 中世の教義主義はギリシア・ローマの神学を主張して教会を分裂させた。中世の教義主義に変わって、エキュメニズムがその場所を占めなければならない。従って、新教会は全てのカトリックと全てのキリスト教教団と全ての諸宗教とエキュメニズムをしなければならない。

 新しい教会が全人類を一致させ統一させることを意味しその効果をもたらすべく、新しく考え出された「秘跡」とは「対話」である。全ての人間を尊重し彼らと対話することによって一致をもたらすようにする。

 第二バチカン公会議によれば、カトリック教会は人間のペルソナの崇高な品位、人格の尊厳のために闘う人間性のイデオローグに変わり(『現代世界憲章』22、『信教の自由に関する宣言』1)、諸宗教との対話の使徒に変容すべきである

『現代世界憲章』40(教会と世界との相互関係)
 人間の尊厳、人間の共同体、人間活動の深い意義について、われわれが述べたすべてのことは、教会と世界の相互関係の基礎ならびに両者の対話の根拠をなすものである。・・・
 天上の宝を目ざして互いに結ばれ、またそれによって富まされているこの家族は、キリストによって「社会として、この世の中に設立され組織された」ものであり、「見える社会的一致の適切な手段」を与えられている。したがって、教会は同時に「見える団体と霊的共同体」であり、全人類とともに歩み、世と同じ地上的なりゆきを経験する。教会は人類社会の魂または酵母として存在し、それをキリストにおいて刷新して神の家族に変質させる使命をもっている。・・・
 教会は、その個々の成員と全共同体とを通して人類家族とその歴史を、いっそう人間らしいものにするために大いに寄与できると信じている。

 同様に、座長としての教皇の下に世界教会の模範が示されなければならない。世界一致と統一の「秘跡」として、この世界教会がエキュメニズムを実践しているのを世俗の政府が見て、世界政府は世界教会を真似しようと望むだろう。

 第二バチカン公会議は、将来、教皇は、座長として、世界宗教連合協議会の賛助をえて、諸宗教の違いを尊重しながらその新しい「首位権」を行使するだろう、それにならって世界大統領は、国連の長として、民主主義的に、戦争を防止し人権を擁護するための武力を備えてその新しい「首位権」を行使するだろうことを想定しているようだ。

 何故なら、第二バチカン公会議は、教会あるいは教皇の聖なる権能を政治の分野で使うことを拒絶するからだ。教皇は平和のための仲立ち人にはなれない。第二バチカン公会議は、世俗の国際権威に平和の保証を求めなければならない。(『現代世界憲章』79,82)

 こうして、キリストのいない世界統一、カトリック的ではない世界統一、世界自由経済を追求するための世界統一を第二バチカン公会議は求めている。

 公会議閉会の直前、1965年10月4日、公会議の教父らの採決を待つまでもなく、パウロ6世はマンハッタンの国連において『人類についての専門家』として、こう演説した。
「皆さんは、国連で人間の基本的権利と義務、人間の尊厳、自由、特に信教の自由を宣言しています。皆さんは、人間の知恵の中で最も崇高なもの、あえて言えば、その聖なる性質の代表者です。」
 「この相互扶助の組織は、国連の最も人間味豊かな神聖な側面です。それは、人生の旅路において全人類が夢見る理想です。それは世界の人々の最も大きな希望です。」
「皆さん、もう一度、最後の言葉を言わせてください。皆さんが建設しているこの建造物は、ただ物的、地上的土台の上に立つものではありません。そうだとすれば、それは砂上の楼閣となるでしょう。むしろそれは、わたしたちの良心の上に立てられなければなりません。」
(中央出版社:『 歴史に輝く教会』416-426頁参照。)

 第二バチカン公会議は、キリストの上に成り立つのではない、人間の自由な良心と尊厳との上に成り立つ平和を求める。

 こうして第二バチカン公会議によれば、遂にキリストが来臨するとき、全て教会と世界とは一つとなり、全ての人間は一つとなる。

 しかし、真理と聖寵とがなければ、つまり真の教導権と秘跡の助けがなければ、個人も社会も同様に悪魔の虜となってしまう。

 全ての政治秩序には、その基礎に宗教がある。現在の非宗教的世界秩序の基礎にある「宗教」は世俗のヒューマニズムという人間中心の宗教、民主教である。

 新しいヒューマニズムによって構築され直した新しい教会の構造によれば、国連の世界最高権威が人類の霊的指導者となるだろう。教皇はその単なる下僕にすぎない。

 このような最高国際権威は、究極のところ天主からの最高権威者たる教皇に反対する権威として、立ち上がるだろう。キリストなしに作られた世界統一最高権威は、ついにはキリストに反対するものとして、反キリストの権威としてそびえ立つことであろう。

 何故なら「世俗の権威は霊的権威の下に置かれるべきである。何故なら、使徒聖パウロ曰く「天主に拠らない権能はない、あるものは全て天主によって秩序付けられたものである(ローマ13:1)。・・・誰であれ、天主によってこのように秩序付けられたこの権威に逆らうものは、秩序付ける天主に逆らうものである。・・・全ての人間的被造物がローマ教皇に従うことは、救いのために全く必要だ」(ボニファチオ八世)からである

 こうして、キリストの来臨を待望するかわりに、反キリストの来臨を準備することとなってしまうであろう。


主よ、憐れみ給え!
聖母の汚れ無き御心よ、我等のために祈り給え!
愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭) sac. cath. ind.

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エキュメニズムへのドアが開く:第二バチカン公会議の『教会憲章』、『エキュメニズムに関する教令』

2009年04月28日 | 第二バチカン公会議
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 私たちは第二バチカン公会議にどのような点が新しくなったか、つまり、どの点がカトリック教会の聖伝による見方と変わってしまったかについて、次の点を見てきました。

 まず、最初に、第二バチカン公会議は、人間についてどのように新しく考えるようになったのか?
【1】人間の尊厳としての自由、および
【2】人間の思想の自由

【3】良心と人間の行為の自由

 続いて、第二バチカン公会議は、人間と天主との関係についてどのように新しく考えるようになったか?
【1】第二バチカン公会議によれば啓示とは何か、啓示の伝達すわなち聖伝とは何か、啓示を信じるすわわち信仰とは何か?

【補足】カトリック教会の昔からの聖伝と 第二バチカン公会議の言う「聖伝」とでは、どう違うか
【2】第二バチカン公会議による新しいいけにえ(=「過ぎ越しの神秘」「復活の秘義」)とは何か
【3】第二バチカン公会議によれば、イエズス・キリストとは何か、

 そして、第三に、第二バチカン公会議は、教会についてどのように新しく考えて自己定義したのか? どのように新しいヒューマニズムを促進するために教会は自分をどのように変えたのか? を考察し始めました。

 第二バチカン公会議の教会は、
【1】この世に対して、さらに、世界の統一をもとめて
【2】他の宗教に対して
【3】教会内部構造について、
 どのように変わったのか?
という点を考察しています。

 そこで、今回も、 第二バチカン公会議の教会は他の宗教に対してどのように変わってしまったのか、エキュメニズムのドアがどのように開かれたのかを考察してみましょう。私たちは、第二バチカン公会議の「新しさ」を理解する上で、これまでの通り、出来るだけ第二バチカン公会議の文章を引用し、その文字通りの意味を考え、さらに第二バチカン公会議後のバチカン、教会当局によってどのようにそれが解釈され続けてきたか、適応されてきたか、解説されてきたかを示すその文献も適宜引用していくことにしましょう。それによって客観的な教会当局の第二バチカン公会議理解を知り、それが聖伝とどれだけ大きな差異があるかということを深めていくことにしましょう。

(つづき)
【エキュメニズムへのドアが開く:『教会憲章』】

『教会憲章』第1章 教会の秘義について

 導入部:『教会憲章』の1から7までは、『教会憲章』8の第二バチカン公会議の新しい教えを準備する導入部である。
 導入部の伝えるメッセージの核心はこれである。教会は、天主との交わりと全人類一致との効果的なしるし(秘跡)である。
 全ての人間は天主によって天の国に属するように選ばれているが、そのうち一部は、イエズス・キリストを信じて教会に属するように選ばれている。世の終わりに、遂に天の国と教会とは同じものとなる。何故なら目に見えるが制限のある教会が無制限になり、無制限であるが目に見えない天の国が目に見えるようになるからだ。
 イエズス・キリストは天の国を全ての人間の心に目に見えない仕方で打ち立て、また同時に、目に見える教会を少数の人間において打ち立て彼らが天の国を建設する目に見える仕事を続けるように命じた。

 『教会憲章』8では次のことを教える。
 キリストは、目に見える組織(聖職位階制度によって組織された社会)としてこの地上に教会を設立し、聖寵を全ての人間に与える。すなわち、教会は救いの成果を人々に伝え、すべての人のうちにキリストに仕えようと心がける。では、どうやって全ての人間に聖寵を与えるのか?
 天主のみことばは、御托身(=受肉)で人間本性を摂取したことによって、天主のみことばが天主の本性と人間の本性とを持つ。それと同じように、キリストの霊は、目に見える人間の教会の社会的機構(=カトリック教会)を摂取し、カトリック教会のうちに存在し(subsistit in)、キリストの神秘体を成長させる。
 従って、みことばとイエズス・キリストの人間性とが一つであるように、キリストの霊とカトリック教会とは一つとなる。
 従って、みことばがイエズス・キリストの人間性の限界を遙かに超えているように、キリストの霊の教会は、カトリック教会の限界の外にも見出される。
 従って、カトリック教会という「組織の外にも聖化と真理の要素が数多く見いだされる」。この要素の程度がどれだけかは、教会にどれ程属しているかによる。

 結論:
 天主に結合している全人類の一致の秘跡である教会とは、キリストの教会である。このキリストの教会にはカトリック教会と全ての宗教団体が含まれている。

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『教会憲章』 1(序文) 教会はキリストにおけるいわば秘跡、すなわち神との親密な交わりと全人類一致のしるしであり道具である

『教会憲章』 2(父なる神の救いの計画) すべての選ばれた者を世々の前から「あらかじめ知っていた」父は、「かれらを自分の子の姿に似た者としようと予定した。それは子を多くの兄弟の長子とするためである」(ロマ 8·29)。
 父はキリストを信ずる人々を聖なる教会として呼び集めることを決定した。
 それはさらに、世の終わりに栄光のうちに完成されるであろう。そのときには、聖なる諸教父も述べているとおり、アダム以来のすべての義人は、「義人アベルより、最後の選ばれた人に至るまで」普遍的教会として父のもとに集められるであろう。

『教会憲章』 3(子の派遣) キリストは父の望みを果たすために、地上に天の国を開始し、父の秘義をわれわれに啓示し、自分の従順によってあがないを成就した。・・・
 教会、すなわち秘義としてすでに現存するキリストの国は、神の力によって、世界において可見的に成長する。

『教会憲章』 5(神の国) 聖なる教会の秘義は、その設立において示されている。主イエズスは「時は満ちた、神の国は近づいた」(マルコ 1·15、マタイ 4·17参照)とのことばをもって、・・・神の国の到来を述べ伝えることによって、自分の教会を始めた。この国は、キリストのことばと行ないと現存によって人々の前に現われる。
 教会は、その創立者から受けたたまものに恵まれ、愛と謙虚と自己放棄のおきてを忠実に守るとともに、キリストと神との国を告げ、諸国民のうちに刷新する使命を受け、この国の地上における芽ばえと開始となっている。教会は徐々に発展するが、その間にも神の国の完成を渇望し、栄光のうちに自分の王と結ばれることを全力をもって望み求めている。

『教会憲章』 8(教会の神的、人的要素) 唯一の仲介者キリストは、自分の聖なる教会、信仰、希望、愛の共同体を目に見える組織としてこの地上に設立し、これを絶え間なくささえ、この教会によって、すべての人に真理と恩恵を分け与える。聖職位階制度によって組織された社会とキリストの神秘体、見える集団と霊的共同体、地上の教会と天上の善に飾られた教会は、二つのものとして考えられるべきではなく、人的要素と神的要素によって形成される複雑な一つの実在である。したがって、教会は平凡ではない類比によって、受肉したことばの秘義に比較される。神のことばに摂取された人間性が、ことばに不解消のものとして、結合し、救いの生きた機関として、ことばに仕えるものと同時に、教会の社会的機構は、からだの成長のため、教会を生かすキリストの霊に仕えるのである(エフェソ 4·16参照)。
 これがキリストの唯一の教会である。われわれは信経の中で、この教会を唯一、聖、カトリック、使徒的と宣言する。われわれの救い主は復活の後、この教会を牧するようペトロに渡し(ヨハネ 21·17)、それを広め治めるようペトロと他の使徒たちにゆだね(マタイ 28·18以下参照)、それを「真理の柱と基礎」として永久に立てた(1テモテ 3·15)。この教会 は、この世に設立され組織された社会としては、ペトロの後継者およびかれと交わりのある司教たちによって治められる、カトリック教会のうちに存在する。しかし、この組織の外にも聖化と真理の要素が数多く見いだされるが、それらは本来キリストの教会に属するたまものであり、カトリック的一致へと促すものである。
 キリストが貧困と迫害のうちにあがないのわざを完成したように、教会も救いの成果を人々に伝えるために同じ道を歩くよう招かれている。キリスト・イエズスは「神のすがたでありながら……しもべのすがたをとりおのれを無とし」(フィリッピ 2·6)、われわれのために「富める者が貧しい者となった」(2コリ 8·9)。教会は自己の使命を果たすために人間的手段を必要とするが、地上の教会が設立されたのは、光を求めるためではなく、謙虚と自己放棄をみずからの模範によって広めるためである。キリストが父から派遣されたのは「貧しい人々に福音を伝え、傷ついた心の人々をいやし」(ルカ 4·18)、「失われたものを捜して救う」(ルカ 19·10)ためである。これと同じように、教会も、人間的弱さに苦しむすべての人を愛をもって包み、さらに貧しい人や苦しむ人のうちに、貧しく苦しんだその創立者の姿を認め、かれらの欠乏を和らげるよう努め、かれらのうちにキリストに仕えようと心がける。キリストは、「聖にして、罪も汚れもなく」(ヘブ 7·26)、罪を知らず、(2コリ 5·21)、ただ人々の罪を償うためにのみ来たのであるが(ヘブ 2·17参照)、自分のふところに罪人を抱いている教会は、聖であると同時に常に清められるべきであり、悔い改めと刷新との努力を絶えず続けるのである。
 教会は、「世の迫害と神の慰めとを通って旅を続け」主が来るまで、主の十字架と死を告げながら、進む(1コリ 11·25参照)。教会は、復活した主の力によって強められ、内外からの自己の苦悩と困難に打ち勝つ、終わりの日に完全な光の中に現われるまで、影につつまれた主の秘義を、忍耐と愛をもって忠実に世に現わすのである。

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【「エキュメニズムに関する教令」による狭義のエキュメニズム】

 主キリストによって設立された教会は単一・唯一であるように、キリストを信じる全てのキリスト教団が一つになるべきである(1)。後代になって、重大な不一致が起こり、かなり大きな諸集団がカトリック教会の完全な交わりから分かれたが、ときには、カトリック側に過失がなかったわけではない(3)。教会を建て、これに生命を与える諸要素が、カトリック教会の見える境界の外に存在できる(3)。
 キリストを信仰し、洗礼を正しく受けた人々は、たとえ完全ではなくても、カトリック教会とのある交わりの中に居る。・・・信仰によって洗礼において義とされた者は、キリストに合体され、それゆえに正当にキリスト信者の名を受けているのであり、カトリック教会の子らから主における兄弟として当然認められる(3)。
 それぞれの教会や教団でこれらの「要素」は、恩恵の生命を実際に生み出し、救いの交わりへの戸を開いている(3)。従って、これらの非カトリックの教壇も、秘跡としての教会の一部である。なぜならキリストの霊はこれらの教会と教団を救いの手段として使うことを拒否しないからである(3)。

【『キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言』による広義のエキュメニズム】

 全ての人間は、天主によってその他全ての被造物のなかから天主を賛美するように選ばれている。選ばれたと言うことはすなわち救われていると言うことである。従って、全ての人間は救われている。
 従って、キリスト教共同体の外であっても、たとえ「聖化と真理との要素」ではなかったとしても、「みことばの種子」が見いだされる。この世に生まれる全ての人間を照らすみことばの火花としての何らかの真理と良さが見いだされる。
 全ては文化である。カトリック教会だけでは人間の神秘を全て汲み尽くすことは出来ない。

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主よ、憐れみ給え!
聖母の汚れ無き御心よ、我等のために祈り給え!
愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭) sac. cath. ind.

【関連記事】
第二バチカン公会議全般

コメント

第二バチカン公会議は、教会を新しくどのように自己定義したのか?【2】他宗教に対して

2009年04月27日 | 第二バチカン公会議
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 私たちは第二バチカン公会議にどのような点が新しくなったか、つまり、どの点がカトリック教会の聖伝による見方と変わってしまったかについて、次の点を見てきました。

 まず、最初に、第二バチカン公会議は、人間についてどのように新しく考えるようになったのか?
【1】人間の尊厳としての自由、および
【2】人間の思想の自由

【3】良心と人間の行為の自由

 続いて、第二バチカン公会議は、人間と天主との関係についてどのように新しく考えるようになったか?
【1】第二バチカン公会議によれば啓示とは何か、啓示の伝達すわなち聖伝とは何か、啓示を信じるすわわち信仰とは何か?

【補足】カトリック教会の昔からの聖伝と 第二バチカン公会議の言う「聖伝」とでは、どう違うか
【2】第二バチカン公会議による新しいいけにえ(=「過ぎ越しの神秘」「復活の秘義」)とは何か
【3】第二バチカン公会議によれば、イエズス・キリストとは何か、

 そして、第三に、第二バチカン公会議は、教会についてどのように新しく考えて自己定義したのか? どのように新しいヒューマニズムを促進するために教会は自分をどのように変えたのか? を考察し始めました。

 第二バチカン公会議の教会は、
【1】この世に対して、さらに、世界の統一をもとめて
【2】他の宗教に対して、
【3】教会内部構造について、
 どのように変わったのか?
という点を考察していくなかで、既に【1】この世に対してについては二回にわたって考察しました。

 そこで、今回は、 第二バチカン公会議の教会は他の宗教に対してどのように変わってしまったのかを考察してみましょう。私たちは、第二バチカン公会議の「新しさ」を理解する上で、これまでの通り、出来るだけ第二バチカン公会議の文章を引用し、その文字通りの意味を考え、さらに第二バチカン公会議後のバチカン、教会当局によってどのようにそれが解釈され続けてきたか、適応されてきたか、解説されてきたかを示すその文献も適宜引用していくことにしましょう。それによって客観的な教会当局の第二バチカン公会議理解を知り、それが聖伝とどれだけ大きな差異があるかということを深めていくことにしましょう。


【教会と他宗教】

 主観的ヒューマニズムは、「聖書のみ」「聖書の自由解釈」というモットーとともにプロテスタント主義を生み出した。プロテスタント的自由解釈と個人の良心の自由の高揚は、教会の教導権を放棄させ、プロテスタント諸派をモザイクのようにバラバラにしていった。
 十九世紀、二十世紀になると、プロテスタント諸派は、無数に分派を繰り返して信憑性を失っていくことを自覚した。プロテスタントの信憑性を確保し、カトリックの一致へと惹きつけられるプロテスタントを引き留めるために、統合の必要性を感じた。そこで生まれたのが「エキュメニズム」運動であった。「エキュメニズム」とは「普遍」という意味であり、すでにローマの教会によって使われてしまっている「カトリック」という言葉の変わりに、それと似たような意味の言葉として「エキュメニカル」が選ばれた。

 1925年、ストックホルムで、「生活と実践に関する世界キリスト教会議」(1925, Universal Christian Conference on Life and Work)が 「教理は分裂をもたらすが、奉仕は一つにする」を標題として開催された。
 1927年、ロザンヌで、「信仰と職制世界会議」(1927, World Conf. on Faith and Order) が開催され、キリストの教会がどうして多くの教会を含むのかが考察された。
 1937年、エジンバラの会合で、教会とこの世とが区別されるかが議論された。
 1948年、世界教会協議会 WCC(World Church Council)が創立される。アムステルダム会議が1948年8月22日から9月4日まで開かれ、44か国、145 教会から351 人の代議員が出席した。

 カトリック教会の一致から離れていったプロテスタント教会諸派が再一致をどれだけ探していたかは理解できる。しかし、「自由解釈」と「ローマの教導権の拒否」とを原理とした、個々の教派の教理のアイデンティティーを残したままの連合を探すに留まっていた。

 カトリック教会はこれに参加することは出来ない。何故なら、聖伝によれば、非カトリックの宗教は宗教として真理ではないからだ。極めて少数の非カトリックの個人は、通常のやり方を越えた特別な仕方で(たとえば望みの洗礼)、カトリック教会に属しているかもしれない。

 カトリック教会は、常にキリストの教会はカトリック教会である、キリスト教会とカトリック教会とは等号の記号で結ばれること、全く同一であることを常に教えていた。最近ではピオ十二世が「ミスティチ・コルボリス」でそう教えた。

 しかしながら、第二バチカン公会議の新しいヒューマニズムは、「キリストは托身(=受肉)によって自分自身を全ての人間と一致させた」ので、個人の大多数が、彼らのの善意(と想定されている)によって「教会」に属していると言いだした。

 第二バチカン公会議によれば、イエズス・キリストの十字架による贖いもなく、この贖いを適応することもなく、イエズス・キリストの御托身(=受肉)という事実により、ipso facto 自動的に、全ての人々をキリスト化させキリストと一致させる力を持っている。「このことはキリスト信者ばかりでなく、心の中に恩恵が目に見えない方法で働きかけているすべての善意の人についても言うことができる。」(『現代世界憲章』22)

 第二バチカン公会議によれば、キリストが全ての善意の人と一致しているのは例外ではなく普通である。何故なら、キリストは人間がより人間らしくなるために来たのであるから、より人間らしいということは、洗礼を受けて目に見える教会の中に入らなくても、既にキリスト者であるということを意味するからだ。

[現代世界憲章] 22(新しい人・キリスト)
 最後のアダムであるキリストは、父とその愛の秘義の啓示によって、人間を人間自身に完全に示し、人間の高貴な召命を明らかにする。・・・事実、神の子は受肉によって、ある意味で自分自身をすべての人間と一致させた。

 では、第二バチカン公会議は、【A】どうやって非カトリックの諸派を「キリストの教会」の中に取り込もうとしたのか? しかも、【B】カトリック教会の外見上のアイデンティティーを保たせながら? 


【A】どうやって非カトリックの諸派を「キリストの教会」の中に取り込もうとしたのか?

【答え:教会の要素】
 エキュメニズムへのドアを開くキー・ワード「教会の要素」
 カトリックの聖伝は、カトリック教会の外にあるものは「カトリック教の残骸」であると教えてきた。たとえそれが真理を知るための源泉(例えば聖書)であったとしても、聖寵を得るための源泉(幾つかの秘跡)であったとしても、この残骸は、個人に対しては極めて希にでも霊魂を救うことがあるかもしれない。

 第二バチカン公会議はこの個人に対する議論を非カトリック諸派に適応させようとした。「残骸」では軽蔑の意味が含まれるから「要素」と呼んだ。有効な司祭職と聖体があるところを「個々の教会(particular churches)」と呼んだ。

 そのような残骸は、カトリック教会の廃墟の跡である。カトリック教会の外では働いていない。何故なら、真理の残骸(例えば、聖書)は、カトリック信仰或いは教導権がなければ、これを正しく理解することが出来ないからだ。聖寵の残骸(例えば御聖体)は、その実りを与えることが出来ない(聖トマス・アクィナス「神学大全」第三部 第八二問 第七項を見よ)からだ。また位階制度の残骸(司祭職、司教職)は、横領され、単に質料的なものであり、裁治権を一切持たない。従って、昔からの聖伝によれば、それらは死んだ「残骸」に過ぎない。だから聖アウグスティノは、カトリック教会の外では、或る程度は、教会の中にある善が見いだされる、しかしそれらは、カトリック教会の外では救いには役に立たない、と言う。

 しかし第二バチカン公会議は、それら死んだ残骸を、生ける「要素」であると変えて呼んでしまった。

『教会憲章』8(教会の神的、人的要素)
「・・・この教会は、この世に設立され組織された社会としては、ペトロの後継者およびかれと交わりのある司教たちによって治められる、カトリック教会のうちに存在する。しかし、この組織の外にも聖化と真理の要素が数多く見いだされるが、それらは本来キリストの教会に属するたまものであり、カトリック的一致へと促すものである。」

 「エキュメニズムに関する教令」15、東方の離教教会について
「したがって、これらの個々の教会における主の聖体祭儀によって、神の教会が建てられ、成長し、また共同司式によってそれらの教会の交わりが示される。・・・これらの教会は分かれてはいるが、真の秘跡、特に使徒継承の力によって司祭職と聖体を持ち、それらによって今なお緊密にわれわれと結ばれている。」


 「エキュメニズムに関する教令」3、プロテスタント共同体について
「・・・キリストを信仰し、洗礼を正しく受けた人々は、たとえ完全ではなくても、カトリック教会とのある交わりの中に居る。・・・ 信仰によって洗礼において義とされた者は、キリストに合体され、それゆえに正当にキリスト信者の名を受けているのであり、カトリック教会の子らから主における兄弟として当然認められるのである。・・・
 キリスト教の聖なる行事も、われわれから分かれた兄弟のもとで少なからず行なわれている。それらはそれぞれの教会や教団の異なった状態による種々のしかたで、疑いもなく恩恵の生命を実際に生み出すことができ、救いの交わりへの戸を開くにふさわしいものと言うべきものである。
 われわれは、これらの分かれた諸教会と諸教団には欠如があると信じるが、けっして救いの秘義における意義と重要性を欠くものではない。なぜならキリストの霊はこれらの教会と教団を救いの手段として使うことを拒否しないからであり、これらの救いの手段の力はカトリック教会にゆだねられた恩恵と真理の充満に由来する。」


ヨハネ・パウロ二世、『ウト・ウヌム・シント』(1995年5月25日)
その他のキリスト教共同体において、これらの(=聖化と真理の)諸要素が見いだされ、キリストの一つの教会はそれらにおいて効果的に現存する


教皇庁教理省宣言 『ドミヌス・イエズス』 和田 幹男 訳
「使徒継承と有効な聖体祭義という最も緊密な絆によってこれと結ばれている諸教会も真の個別教会である 。それゆえ、これらの諸教会の中にもキリストの教会が現存し、活動している。」
「有効な司教職と聖体秘義の本来的かつ十全的な本質を保持していない教団は 、固有な意味で教会ではない。しかしながら、これらの教会の中で洗礼を受けた者は洗礼によってキリストに組み込まれており、それゆえ教会とは不完全であるが、ある交わりの中にいる。実際に洗礼はそれ自体、十全的な信仰告白と聖体秘義と教会における充満的な交わりによる、キリストにおける命の完成への指向性をもつものである。」

教皇庁教理省宣言 『ドミヌス・イエズス』 和田 幹男 訳
その目に見える境の外にあるのはただ "教会の要素" であって、これは――教会そのものの要素であるから――カトリック教会を指向しており、これに導くものである」

 従って、第二バチカン公会議によれば、カトリック教会の外にも、その他のキリスト教といわれる共同体において「教会の要素」があるために、不完全の仕方で「キリストの教会」が延長していることになっている

教皇庁教理省宣言 『ドミヌス・イエズス』 和田 幹男 訳
「キリストの教会はキリスト教徒の分裂にもかかわらず、その充満としてはただカトリック教会の中にだけ存在し続けるということである。他方、「その境界の外にも」、つまりカトリック教会とはまだ充満的な交わりの中にはない教会と教団の中にも「聖化と真理の数多くの要素が存在する」ということである。」

教会に関する教義の幾つかの観点に関する質疑応答(2007年6月29日)
第二の質問に対する回答:「・・・ カトリックの教義に従えば、キリストの教会が、カトリック教会と充満的に交わりにまだない諸教会や教団において現存し働いているということを正しく断言することができる。それはそれらにおいて現存する、聖化の要素と真理とのためである。」

『カトリック教会のカテキズム』
819 更に、「聖化と真理の多くの要素」は、カトリック教会の目に見える教会の外に見出される。「天主様の書かれた御言葉、聖寵の命、信仰、希望、愛徳、聖霊の他の内的賜物、さらに目に見える要素」が。なぜならキリストの霊はこれらの教会と教団を救いの手段として使うことを拒否しないからであり、これらの救いの手段の力はカトリック教会にゆだねられた恩恵と真理の充満に由来する。」

【B】カトリック教会の外見上のアイデンティティーをどうやって保たせるのか? 

【答え:subsistit in(の内に存する)】

 昔からの聖伝によれば、キリストの教会とはカトリック教会のことである。カトリック教会、イコール、キリストの教会である。

 しかし第二バチカン公会議は、キリストの教会の中にカトリック教会とその他キリスト教諸派を含めさせようとした。

 キリストの教会がカトリック教会よりも大きくカトリック教会を含み、同時にキリストの教会がカトリック教会と同一であり得るにはどうしたらよいか? そのために、次の手続きをするのだと思われる。
【B-1】まず、全ての宗教団体がキリストの教会に属するとする。
【B-2】次に、カトリック教会はその他全ての「諸教会」のなかで優先的地位を占める、とする。
【B-3】最後に、キリストの教会は、カトリック教会の内に存する(subsistit in)、とする。


【B-1】全ての宗教団体がキリストの教会に属するとするには、次の理由をつけると思われる。
(1)イエズス・キリストは御言葉の秘跡であるのと同じように、教会はイエズス・キリストの効果的なしるしである。
(2)全ての本当の宗教団体は、御言葉の効果的なしるしである。
(3)従って、全ての宗教団体は、教会に属する。

【B-2】カトリック教会はその他全ての「諸教会」のなかで優先的地位を占めるとするには、次の理由を付けると思われる。
 天主は全ての人間に現存するが、特にキリストにおいて現存するのと同じように、御言葉は全ての諸教会に現存するが、特にカトリック教会において現存する。

【B-3】キリストの教会は、カトリック教会の内に存する(subsistit in)とするには、次の理由を付けると思われる。
 天主の御言葉は、天主の本性においてあるが人間本性においてもあるのと同じように、キリストの教会は、カトリック教会の内に存する。


【聖伝からの反論】

【B-1】に対して:
 教会はイエズス・キリストの効果的なしるしだから「秘跡」である、といのは、「秘跡」とはしるしであるという知識からのこじつけに由来したもので、現実に「秘跡」だからという議論ではない。カトリック教会は、常に七つの秘跡だけを教えてきた。

【B-2】に対して:
 天主は全ての人間に、創造主として存在を与えるものとして現存するが、キリストにおいては天主のペルソナと本性とにおいて現存する。何故ならキリストは真の天主であるからである。
 御言葉は、確かに創造主として、すなわち存在を与えるものとして全ての諸教会に現存するが、これは、どのような動植物にも鉱物に対しても同じである。しかしながら、カトリック教会においては、御言葉は御自分の神秘体の頭として現存する。

【B-3】に対して:
 天主の御言葉のペルソナは天主の本性においてあるが人間本性においてもある、これは天主の本性と人間の本性という二つの本性が天主のペルソナにおいて位格的結合(Hypstatic Union)をしたからである。しかし、この位格的結合は、天主の第二のペルソナが御托身をしたときの唯一のケースである。
 更に、天主のペルソナと天主の本性とは、存在論的に別の現実である。だからこそ天主のペルソナが天主の本性においてある、と言うことが出来る。しかし、「キリストの教会」も「カトリック教会」も同じ存在論的立場にある二つの団体である。従って、キリストの教会がカトリック教会の内に存する、ということを、天主の御言葉が天主の本性においてあるが人間本性においてもあるということと同じだと言うことは出来ない。

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