Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

私は御身を信じ、礼拝し、希望し、御身を愛します!御身を信じぬ人々、希望せず愛さぬ人々のために、赦しを求めます(天使の祈)

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
2018年 10月の聖伝のミサの予定
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】


10月
ロザリオの月です。ロザリオを毎日できれば家族で唱えましょう。
意向:人々がイエズス・キリストを王として愛し従うため
実践すべき徳:沈潜
守護の聖人:聖シモンと聖ユダ・タデオ

愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)にご招待します

◎2018年 10月の予定
【大阪】聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂(アクセス EG新御堂4階 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 〒532-0002
(JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分)

    10月5日(初金)聖霊降臨後の平日(4級)緑 殉教者聖プラチドとその伴侶の記念
            午後5時半 ロザリオ及び告解 
            午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

    10月6日(初土)証聖者聖ブルノ(3級祝日)白
            午前10時 ロザリオ及び告解
            午前10時半 ミサ聖祭(歌ミサ)

    10月14日(主)聖霊降臨後第21主日(2級)緑
            午後5時半 ロザリオ及び告解 
            午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

    10月15日(月)童貞聖テレジア(3級祝日)白
            午前6時 ミサ聖祭

    10月19日(金)証聖者アルカンタラの聖ペトロ(3級祝日)白 ←司祭黙想会のためキャンセルとなります、何卒ご了承ください
            午後5時半 ロザリオ及び告解 
            午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

    10月20日(土)証聖者ケンティの聖ヨハネ(3級祝日)白  ←司祭黙想会のためキャンセルとなります、何卒ご了承ください
            午前10時 ロザリオ及び告解
            午前10時半 ミサ聖祭(歌ミサ)

【東京】東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図) 「聖なる日本の殉教者巡回聖堂」
    10月7日(主) 聖霊降臨後第20主日(2級)緑  ロザリオの聖母の記念 
            午前10時  ロザリオ及び告解
            午前10時半  ミサ聖祭(歌ミサ)

    10月8日(月) 寡婦聖ビルジッタ(3級祝日)白
            午前7時 ミサ聖祭

    10月21日(主) 聖霊降臨後第22主日(2級)緑 
            午前10時  ロザリオ及び告解
            午前10時半  ミサ聖祭(歌ミサ)

    10月22日(月) 聖霊降臨後の平日(4級)緑
            午前7時 ミサ聖祭

愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております。

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第二バチカン公会議は、教会をどのように新しく自己定義したのか?【3】教会内部構造

2009年05月01日 | 第二バチカン公会議
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 私たちは第二バチカン公会議にどのような点が新しくなったか、つまり、どの点がカトリック教会の聖伝による見方と変わってしまったかについて、次の点を見てきました。

 まず、最初に、第二バチカン公会議は、人間についてどのように新しく考えるようになったのか?
【1】人間の尊厳としての自由、および
【2】人間の思想の自由

【3】良心と人間の行為の自由

 続いて、第二バチカン公会議は、人間と天主との関係についてどのように新しく考えるようになったか?
【1】第二バチカン公会議によれば啓示とは何か、啓示の伝達すわなち聖伝とは何か、啓示を信じるすわわち信仰とは何か?

【補足】カトリック教会の昔からの聖伝と 第二バチカン公会議の言う「聖伝」とでは、どう違うか
【2】第二バチカン公会議による新しいいけにえ(=「過ぎ越しの神秘」「復活の秘義」)とは何か
【3】第二バチカン公会議によれば、イエズス・キリストとは何か、

 そして、第三に、第二バチカン公会議は、教会についてどのように新しく考えて自己定義したのか? どのように新しいヒューマニズムを促進するために教会は自分をどのように変えたのか? を考察し始めました。

 第二バチカン公会議の教会は、どう自己規定をしたのか、
 まず、外部に目を向けて
【1】この世に対して、さらに、世界の統一をもとめて
【2】他の宗教に対して第二バチカン公会議の文献に見えるエキュメニズムを分析、そして教会の一致とエキュメニズム:聖伝の教えと第二バチカン公会議の教えとの違い

 をみました。

 次に、内部に目を向けて
【3】教会内部構造について、
 どのように変わったのか?という点を考察してみます。

 そこで、今回は、第二バチカン公会議の教会は自分自身をどのように新しく規定したのかを考察してみましょう。

【交わりとしての教会】

 第二バチカン公会議は、外部に対しては、教会は「秘跡」であると規定したが、内部に対しては、教会は【3-1】そのあり方(esse)として「天主の民」、また【3-2】その動き方(agere)として「交わり:コムニオ」であると規定している。

 聖ペトロは教会のことを司祭民であると呼ぶ(1ペトロ2:9-10)。
 第二バチカン公会議の新しい神学は、天主の民は司祭的であるのみならず司祭であるという。第二バチカン公会議によれば、キリストの司祭職は全教会に属している。

 神の民の全てが、キリストの唯一の司祭職に参与する。この共通祭司職を前提となければ、司祭の役務が存在しない。

『司祭の役務と生活に関する教令』 Presbyterorum Ordinis 第1章 教会の使命における司祭職
 2 (司祭職)「父が聖化して世に派遣した」(ヨハネ10:36)主イエズスは、自分が受けた霊の塗油に自分の全神秘体を参与させた。すなわち、主イエズスにおいて、すべての信者は聖なる王的司祭職となり、イエズス・キリストを通して神に霊的供え物をささげ、かれらを暗やみから自分の感嘆すべき光へ呼んだ者の力を告げ知らせる。それゆえ、からだ全体の使命に参与しない構成員は一つもないのであって、各構成員は自分の心の中にいるイエズスを聖なるものとして扱い、預言の霊によってイエズスのあかしをたてなければならない。


『カトリック教会のカテキズム』
「1591 教会全体が祭司的な民です。洗礼により、すべての信者はキリストの祭司職にあずかります。この参与は「信者の共通祭司職」と呼ばれます。この基礎に立ち、これに奉仕するため、キリストの使命に参与するもう一つの祭司職があります。すなわち、叙階の秘跡によって与えられる奉仕職です。その任務は共同体の中で頭であるキリストの名において、またその代理者として仕えることです。 」

 すべての信者が聖なる王的司祭職(原文では単数)になり天主に「霊的供え物」を捧げる、これこそがキリストの司祭職への参与である。そして司祭は、すべての信者が「霊的供え物」を捧げることが出来るように、信徒のこの共通司祭職への奉仕のために、職位的司祭職を受ける。主体はあくまでも神秘体であり、主要な行為はすべての信者が一つになって霊的供え物を捧げることにある。この手入れ記供え物とは、この世をより一層人間らしくすることである。何故なら、人間は天主の似姿であるからより人間らしくなることはより天主らしくなることであるからだ。

 人類は全て、天主によって、完全な自由という天主の似姿を充足させる天主の国に属するように選ばれている。全人類は、兄弟愛(博愛)へと導く自由と平等という人間の価値が進歩することによって、人間がより人間らしくなることによって、天主の国に準備される。キリストは人間をより人間らしくするために人間となり、人間としてのキリストは、教会を制定した。人間をいっそう人間らしくするという人類の進歩促進のためにある教会は、天の国を先取りする特別な宗教的・司祭的召命をもった人々の集まりである。

 聖霊は、復活秘義(Paschale Mysterium)にあずかる可能性をすべての人に提供すると信じなければならない。教会とは「神との親密な交わりと全人類一致の秘蹟」だからである。

 今までのいけにえを捧げる司祭(A)といけにえを受けていた平信徒(B)との関係は、第二バチカン公会議によれば「聖なる王的司祭職となり、イエズス・キリストを通して神に霊的供え物をささげ、かれらを暗やみから自分の感嘆すべき光へ呼んだ者の力を告げ知らせるべきすべての信者」(A')と、「聖霊によって復活秘義(Paschale Mysterium)にあずかる可能性を提供されているすべての人(B')」との関係とパラレルになる。

 つまり、平信徒(B)の全てが司祭(A)になるとは限らなかったように、「聖霊によって復活秘義(Paschale Mysterium)にあずかる可能性を提供されているすべての人(B')」の全てが必ずしも「聖なる王的司祭職となり、イエズス・キリストを通して神に霊的供え物をささげ、かれらを暗やみから自分の感嘆すべき光へ呼んだ者の力を告げ知らせるカトリック信者」(A')となるわけではない。なぜなら、全人類は知っているといないとに関わらず、キリストと一致しており、復活秘義(過越の神秘)に与っており、新しい教会の一員であるからである。

 聖伝によればカトリック教会は、この世を、肉欲と悪魔と共に、救霊の3つの敵(三仇)の一つと呼んでいた。

 第二バチカン公会議によればこの世を軽蔑する必要はない。むしろこの世を愛さなければならない。

『現代世界憲章』40
「教会は人類社会の魂または酵母として存在し、それをキリストにおいて刷新して神の家族に変質させる使命をもっている。・・・教会は、その個々の成員と全共同体とを通して人類家族とその歴史を、いっそう人間らしいものにするために大いに寄与できると信じている。」

 第二バチカン公会議後の語彙からは、「司祭職」は消えつつある。叙階された司祭職は、むしろ「奉仕職(ministry)」と呼ばれ、平信徒の共通司祭職は「交わり:コムニオン」と呼ばれる。

 共通司祭職の役割は、この世そのものを天主に奉献しこの世を「暗やみから自分の感嘆すべき光へ呼んだ者の力」を、この世に告げ、ついにはこの典礼というしるしのもとに神の子らを一つに集めるべきである。集会祭儀と呼ばれるミサは、キリストをのべ伝えるためのもの、神の民を一つに集めるものである。叙階を受けた新しい司祭職の第一の直接の目的は、教会を建設するという共通善への奉仕である。集会祭儀と呼ばれるミサは、目的のための手段、共通善への奉仕のための単なる手段に過ぎない。

『司祭の役務と生活に関する教令』12
「司祭は叙階の秘蹟によって司祭であるキリストの姿に似た者となり、キリストのからだ全体である教会を建設するために、司教団の協力者として、かしらであるキリストの役務者となる。

 昔からの聖伝によればカトリック司祭とは、天主と人間との仲介者である。
 そこで第二バチカン公会議の「新しい司祭職」(=第二バチカン公会議後の新しい教会全体)は、天主と全人類との仲介者となる。この世と全ての文化をより人間らしくし、人間に栄光を帰することは、天主を礼拝することである。何故なら、人間は天主の似姿であるからだ。

『現代世界憲章』40
教会は人類社会の魂または酵母として存在し、それをキリストにおいて刷新して神の家族に変質させる使命をもっている。・・・
 教会は、その個々の成員と全共同体とを通して人類家族とその歴史を、いっそう人間らしいものにするために大いに寄与できると信じている。」

【交わり:コムニオ】

 中世の教義主義はギリシア・ローマの神学を主張して教会を分裂させた。中世の教義主義に変わって、エキュメニズムがその場所を占めなければならない。

 教会内部において、教義において論争をすることなく平和的な共存があるために最も便利な表現が「交わり」である。

 全ての意見は自由である。この様々な意見を一つにするのが「対話」であり「分かち合い」である。教会の教義を教えるのではなく、じっくりと聞くことが大切。自分が話すことよりも、相手の思いを聞くことの方が大切。「対話」され「分かち合われた」ことは、ありのままに受け止め、批判や評価などはしない。分かち合った心の思い(心情・信条)は、大切に尊重しなければならない。「対話」或いは「分かち合い」は、お互いの口を通してキリストが語っていることであり、その場にキリストが共にいて下さることを感じ取らなければならない。全ての人間を尊重し彼らと対話することによって一致をもたらすようにする。

 聖伝によればカトリック教会の一致の源は信仰の真理であった。

 第二バチカン公会議によれば、対話が人類を交わりにおいて一致させる。

 聖伝によればカトリック教会は、宣教をもって霊魂たちを教会の内部に入れた。

 第二バチカン公会議によれば、対話によって多様性を尊重しつつ全ての人間は一致する。対話において、だれも間違っている人はいない。全ては互いに補い合う。悪は善の役に立つ。


『現代世界憲章』40(教会と世界との相互関係)
 人間の尊厳、人間の共同体、人間活動の深い意義について、われわれが述べたすべてのことは、教会と世界の相互関係の基礎ならびに両者の対話の根拠をなすものである。・・・
 天上の宝を目ざして互いに結ばれ、またそれによって富まされているこの家族は、キリストによって「社会として、この世の中に設立され組織された」ものであり、「見える社会的一致の適切な手段」を与えられている。したがって、教会は同時に「見える団体と霊的共同体」であり、全人類とともに歩み、世と同じ地上的なりゆきを経験する。教会は人類社会の魂または酵母として存在し、それをキリストにおいて刷新して神の家族に変質させる使命をもっている。・・・
 教会は、その個々の成員と全共同体とを通して人類家族とその歴史を、いっそう人間らしいものにするために大いに寄与できると信じている。

 第二バチカン公会議後の典礼改革の「第一の原理は、教会の典礼における「過ぎ越しの神秘(復活秘義)」の現実化である。」(ヨハネ・パウロ2世、1988年12月4日 « Vicesimus quintus annus », ヨハネ・パウロ2世、第2バチカン公会議の「典礼憲章」の発布25周年 Documentation Catholique 1985, 4 juin 1989, p. 519) 過ぎ越しの神秘(復活秘義)によれば、天主は、ご自分を犠牲にしても人間を栄光化する債務を負う。感謝の祭儀では、会衆が集まるや否や、復活したキリストはそこに現存される。新しいミサでは、人間の手による労働の実りをささげることにより、人間の労働に栄光を帰し、貧困と暴政(エジプトの奴隷状態)から開放され自由となったことを感謝する。

「主の晩さん、またはミサは、聖なる集会の義、すなわち『主の記念』を祝うために、司祭を座長として、一つに集まった神の民の集会である。したがって、『わたしの名において、2、3人が集まるところには、その中にわたしもいる』(マテオ18:20)というキリストの約束は、特に教会がそれぞれの地域で集まるときに実現される。」
(新しいミサの総則7)

 新しい神学によれば、ミサは、主の十字架から復活への過越の記念であって、復活したキリストとの出会いが体験される場である。ミサ聖祭を捧げるのは、もはや司祭ではなく、会衆である。司祭の権威に取って代わるのは、集会(会衆)である。新しいミサは位階制度的なものではなく、民主的である。権力は会衆のうちに、権威は人間、民衆のうちにあり、天主にではない、と言うことの表明である。新しいミサは、まず、人間の栄光のために捧げられる。

 「教会においてわたしたちは復活したキリストと出会うことができるのです。」(『カトリック教会の教え』167ページ)

 「典礼を単なる義務の対象、遵守すべき儀式ではなく、いつもわたしたちとともにいてくださる神との交わり、『ともに生きる喜び』を体験し分かつ場にしていかなければなりません」(第一回福音宣教推進全国会議課題発表に際しての司教団メッセージ)

 「【聖体によって】ともに主キリストのからだにあずかることによってもたらされるいつくしみの秘跡、一致のしるし、愛のきずなであり、未来の栄光の保証が与えられる復活の祝宴でもあります。・・・聖体拝領(コムニオ)は、その聖体が食されて神の力が働き、そこに復活したキリストが現存し、人がキリストと出会うことができる、という恵みの現実を現しています。」(『カトリック教会の教え』209ページ)

 司教たちの個人的な権力に取って代わるのは、司教団である。教区のなかの司教の権力に取って代わるのは、司祭たちが集ってつくる司祭諮問会であり、今後、教会を動かすのは、数となる。そして、そのことは新しいミサのなかで明らかに表明されている。ミサでは、会衆が司祭の代わりになっているからである。司祭は、会衆のない時にはもはやミサを捧げようともしない。
 第二バチカン公会議によれば、聖書も、その意味で、信仰の体験を言葉で表したもので天主の神秘を追体験させる救いの「秘跡」となる。新しいミサ典書では、「教会の教導職によって告げられる限りにおいての聖書」でもなく、キリストが(教会の教導職を代表する)役務者が教えるという行為の中に現存するのでもなく、仲介者を抜きにキリストご自身が現存することになっている。

「聖書が教会で朗読される時には、神ご自身がその民に語られ、キリストは、ご自身のことばのうちに現存して、福音が告げられる」(ローマ・ミサ典書総則9番)。

「聖書朗読による神のことばは、すべての時代のすべての人に向けられ、すべての人が理解できるものである」(ローマ・ミサ典書総則9番)。

 だから、ルフェーブル大司教はこう言った。

新しいミサの典礼様式が新しい信仰を表明している。この新しい信仰は、私たちの信仰ではない、カトリック信仰ではない。この新しいミサは、新しい信仰の、近代主義者の信仰のシンボル、表現、イメージである。・・・

 新しい典礼様式は、知っているか知らないかに関わらず、カトリックの宗教とは別の概念を、ある別の宗教を前提としている。新しいミサは、新しいイデオロギーのまったき表明である。新しい典礼は、別のイデオロギー、新しいイデオロギーの作品である。新しい宗教には、それの礼拝様式、それの司祭、それの信仰、その公教要理、その聖書、エキュメニカルな聖書がある。
・・・

 私たちは今、本当に劇的な状況にいる。私たちは、選ばなければならない。敢えて言えば見かけ上の不従順か、あるいは私たちの信仰を捨てるかのどちらかを。教皇様は私たちに信仰を捨てるようにと命じることは出来ない。それは不可能だ。私たちは、信仰を捨てないことを選ぶ。なぜなら、そうすることによって私たちは間違うことがないからだ。なぜなら、教会が2000年間教えてきたからだ。教会がその間ずっと誤っていたと言うことはありえない。・・・

 だから、私たちはこの聖伝にしがみつく。聖伝は、素晴らしく、決定的に、教皇聖ピオ5世がうまく言ったように決定的に、ミサ聖祭において表明されているからだ。


主よ、憐れみ給え!
聖母の汚れ無き御心よ、我等のために祈り給え!
聖ヨゼフ、我等のために祈り給え!
愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭) sac. cath. ind.

【関連記事】
聖伝のミサと新しいミサ
コメント

教会の一致とエキュメニズム:聖伝の教えと第二バチカン公会議の教えとの違い

2009年04月29日 | 第二バチカン公会議
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 私たちは第二バチカン公会議にどのような点が新しくなったか、つまり、どの点がカトリック教会の聖伝による見方と変わってしまったかについて、次の点を見てきました。

 まず、最初に、第二バチカン公会議は、人間についてどのように新しく考えるようになったのか?
【1】人間の尊厳としての自由、および
【2】人間の思想の自由

【3】良心と人間の行為の自由

 続いて、第二バチカン公会議は、人間と天主との関係についてどのように新しく考えるようになったか?
【1】第二バチカン公会議によれば啓示とは何か、啓示の伝達すわなち聖伝とは何か、啓示を信じるすわわち信仰とは何か?

【補足】カトリック教会の昔からの聖伝と 第二バチカン公会議の言う「聖伝」とでは、どう違うか
【2】第二バチカン公会議による新しいいけにえ(=「過ぎ越しの神秘」「復活の秘義」)とは何か
【3】第二バチカン公会議によれば、イエズス・キリストとは何か、

 そして、第三に、第二バチカン公会議は、教会についてどのように新しく考えて自己定義したのか? どのように新しいヒューマニズムを促進するために教会は自分をどのように変えたのか? を考察し始めました。

 第二バチカン公会議の教会は、
 外部に目を向けて
【1】この世に対して、さらに、世界の統一をもとめて
【2】他の宗教に対して第二バチカン公会議の文献に見えるエキュメニズムを分析
 次に内部に目を向けて
【3】教会内部構造について、
 どのように変わったのか?
という点を考察しています。

 そこで、今回も、 第二バチカン公会議の教会は他の宗教に対してどのように変わってしまったのか、聖伝の教えと第二バチカン公会議の教えとがどう比較されるのかを考察してみましょう。私たちは、第二バチカン公会議の「新しさ」を理解する上で、これまでの通り、出来るだけ第二バチカン公会議の文章を引用し、その文字通りの意味を考え、さらに第二バチカン公会議後のバチカン、教会当局によってどのようにそれが解釈され続けてきたか、適応されてきたか、解説されてきたかを示すその文献も適宜引用していくことにしましょう。それによって客観的な教会当局の第二バチカン公会議理解を知り、それが聖伝とどれだけ大きな差異があるかということを深めていくことにしましょう。

 昔からの聖伝の教えによれば、天主の国と教会とは同じ現実を意味している(特にマテオ16章15-19を見よ)。同じ現実であるが、将来の観点と現在の観点という違いがある。「天主の国」は戦闘の教会と凱旋の教会との両者を意味しうる。教導権はこれについて一致している。レオ十三世、ピオ十一世、ピオ十二世は、この二つの表現は同じ現実を意味すると言う。

 昔からの聖伝によれば、キリストの教会とはつまりカトリック教会である。

 聖フランシスコ・ザベリオや聖ペトロ・カニシウス、サレジオの聖フランシスコの燃えるような熱心は、ルターやカルヴァンによって失われた霊魂たちを真のカトリックの一致に呼び戻そうと燃え立たせた。離教や異端はむしろカトリック教会をして燃え立たせ、背教者や未信者をキリストへの信仰に回心させた。

 天主の御旨によれば、一致の第一原理は、カトリック教会の一致が信仰、秘跡、統治という超自然の一致に基づく。何よりもまずこの一致は、信仰の真理に基づかなければならない。この信仰の真理には、多少の程度の余地があることを許さない。一点一画も、一つのイオタであっても欠如してはならない。信仰が完全でないことは、信仰が全くないと同じである。何故なら、信仰の真理を啓示し給う天主の権威を否定することだからだ。

 一致の第二の原理は、イエズス・キリストが御自分の教会にお望みになった特徴である。イエズス・キリストは御自分の教会のしるしの一つとして一性(一つであること)を望まれた。イエズス・キリストの教会はカトリック教会であるから、カトリック教会だけが唯一この一性を固有のものとして持っている。レオ十三世教皇は、回勅「サティス・コニトゥム」(一八九六年)の中で詳しく説明している。また、このカトリック教会が固有に持つ一性は、失われることのない特徴である。カトリック教会を離れるものが、この一致を失うだけである。キリストの教会であるカトリック教会はこの一性を失ったことがない。従って、キリスト教徒の本当の一致、真の一致は、唯一の真のキリストの教会であるカトリック教会に帰正することを促進することによってのみ達成される(ピオ十一世:回勅「モルタリウム・アニモス」)。



 第二バチカン公会議によれば、次のようにまとめられる。

 人類は全て、天主によって天主の国に属するように選ばれている。この天主の国では、完全な自由という天主の似姿を充足させる。この天主の国は、兄弟愛(博愛)へと導く自由と平等という人間の価値が進歩することによって、人間がより人間らしくなり準備される。人間がいっそう人間らしくなるには人間しだいである。

 この進歩を促進するために、人間としてのキリストにおいてキリストの教会を制定した。キリストは人間をより人間らしくするために人間となったからである。

[現代世界憲章] 22(新しい人・キリスト)
 「最後のアダムであるキリストは、父とその愛の秘義の啓示によって、人間を人間自身に完全に示し、人間の高貴な召命を明らかにする。・・・事実、神の子は受肉によって、ある意味で自分自身をすべての人間と一致させた。・・・
 多くの苦難を通して悪と戦い、死を堪え忍ぶことは、確かにキリスト者にとって必要であり義務である。しかし、復活の秘義(Paschale Mysterium)に結ばれ、キリストの死に似た姿となるキリスト者は、希望に力づけられて復活に向かって進むであろう。このことはキリスト信者ばかりでなく、心の中に恩恵が目に見えない方法で働きかけているすべての善意の人についても言うことができる。・・・ われわれは神だけが知っている方法によって、聖霊が復活秘義(Paschale Mysterium)にあずかる可能性をすべての人に提供すると信じなければならない。・・・」

 人間をいっそう人間らしくするという人類の進歩促進のためにある教会は、天の国を先取りする特別な宗教的・司祭的召命をもった人々の集まりである。

『現代世界憲章』40
教会は人類社会の魂または酵母として存在し、それをキリストにおいて刷新して神の家族に変質させる使命をもっている。・・・
 教会は、その個々の成員と全共同体とを通して人類家族とその歴史を、いっそう人間らしいものにするために大いに寄与できると信じている。」

 この教会は、全人類を天主の国へと準備させる、天の国の効果的なしるしつまり秘跡である。

『教会憲章』 1(序文) 教会はキリストにおけるいわば秘跡、すなわち神との親密な交わりと全人類一致のしるしであり道具である

 この聖なるものとしての教会が自由・平等・博愛(兄弟愛)を実践しているのを俗なるものとしてのこの世が見て、この世は教会を真似しようと望むだろう。このようにして、キリストの司祭的使命が続けられる。

 天主に結合している全人類の一致の秘跡である教会とは、キリストの教会である。このキリストの教会にはカトリック教会と全ての宗教団体が含まれているからである。

 中世の教義主義はギリシア・ローマの神学を主張して教会を分裂させた。中世の教義主義に変わって、エキュメニズムがその場所を占めなければならない。従って、新教会は全てのカトリックと全てのキリスト教教団と全ての諸宗教とエキュメニズムをしなければならない。

 新しい教会が全人類を一致させ統一させることを意味しその効果をもたらすべく、新しく考え出された「秘跡」とは「対話」である。全ての人間を尊重し彼らと対話することによって一致をもたらすようにする。

 第二バチカン公会議によれば、カトリック教会は人間のペルソナの崇高な品位、人格の尊厳のために闘う人間性のイデオローグに変わり(『現代世界憲章』22、『信教の自由に関する宣言』1)、諸宗教との対話の使徒に変容すべきである

『現代世界憲章』40(教会と世界との相互関係)
 人間の尊厳、人間の共同体、人間活動の深い意義について、われわれが述べたすべてのことは、教会と世界の相互関係の基礎ならびに両者の対話の根拠をなすものである。・・・
 天上の宝を目ざして互いに結ばれ、またそれによって富まされているこの家族は、キリストによって「社会として、この世の中に設立され組織された」ものであり、「見える社会的一致の適切な手段」を与えられている。したがって、教会は同時に「見える団体と霊的共同体」であり、全人類とともに歩み、世と同じ地上的なりゆきを経験する。教会は人類社会の魂または酵母として存在し、それをキリストにおいて刷新して神の家族に変質させる使命をもっている。・・・
 教会は、その個々の成員と全共同体とを通して人類家族とその歴史を、いっそう人間らしいものにするために大いに寄与できると信じている。

 同様に、座長としての教皇の下に世界教会の模範が示されなければならない。世界一致と統一の「秘跡」として、この世界教会がエキュメニズムを実践しているのを世俗の政府が見て、世界政府は世界教会を真似しようと望むだろう。

 第二バチカン公会議は、将来、教皇は、座長として、世界宗教連合協議会の賛助をえて、諸宗教の違いを尊重しながらその新しい「首位権」を行使するだろう、それにならって世界大統領は、国連の長として、民主主義的に、戦争を防止し人権を擁護するための武力を備えてその新しい「首位権」を行使するだろうことを想定しているようだ。

 何故なら、第二バチカン公会議は、教会あるいは教皇の聖なる権能を政治の分野で使うことを拒絶するからだ。教皇は平和のための仲立ち人にはなれない。第二バチカン公会議は、世俗の国際権威に平和の保証を求めなければならない。(『現代世界憲章』79,82)

 こうして、キリストのいない世界統一、カトリック的ではない世界統一、世界自由経済を追求するための世界統一を第二バチカン公会議は求めている。

 公会議閉会の直前、1965年10月4日、公会議の教父らの採決を待つまでもなく、パウロ6世はマンハッタンの国連において『人類についての専門家』として、こう演説した。
「皆さんは、国連で人間の基本的権利と義務、人間の尊厳、自由、特に信教の自由を宣言しています。皆さんは、人間の知恵の中で最も崇高なもの、あえて言えば、その聖なる性質の代表者です。」
 「この相互扶助の組織は、国連の最も人間味豊かな神聖な側面です。それは、人生の旅路において全人類が夢見る理想です。それは世界の人々の最も大きな希望です。」
「皆さん、もう一度、最後の言葉を言わせてください。皆さんが建設しているこの建造物は、ただ物的、地上的土台の上に立つものではありません。そうだとすれば、それは砂上の楼閣となるでしょう。むしろそれは、わたしたちの良心の上に立てられなければなりません。」
(中央出版社:『 歴史に輝く教会』416-426頁参照。)

 第二バチカン公会議は、キリストの上に成り立つのではない、人間の自由な良心と尊厳との上に成り立つ平和を求める。

 こうして第二バチカン公会議によれば、遂にキリストが来臨するとき、全て教会と世界とは一つとなり、全ての人間は一つとなる。

 しかし、真理と聖寵とがなければ、つまり真の教導権と秘跡の助けがなければ、個人も社会も同様に悪魔の虜となってしまう。

 全ての政治秩序には、その基礎に宗教がある。現在の非宗教的世界秩序の基礎にある「宗教」は世俗のヒューマニズムという人間中心の宗教、民主教である。

 新しいヒューマニズムによって構築され直した新しい教会の構造によれば、国連の世界最高権威が人類の霊的指導者となるだろう。教皇はその単なる下僕にすぎない。

 このような最高国際権威は、究極のところ天主からの最高権威者たる教皇に反対する権威として、立ち上がるだろう。キリストなしに作られた世界統一最高権威は、ついにはキリストに反対するものとして、反キリストの権威としてそびえ立つことであろう。

 何故なら「世俗の権威は霊的権威の下に置かれるべきである。何故なら、使徒聖パウロ曰く「天主に拠らない権能はない、あるものは全て天主によって秩序付けられたものである(ローマ13:1)。・・・誰であれ、天主によってこのように秩序付けられたこの権威に逆らうものは、秩序付ける天主に逆らうものである。・・・全ての人間的被造物がローマ教皇に従うことは、救いのために全く必要だ」(ボニファチオ八世)からである

 こうして、キリストの来臨を待望するかわりに、反キリストの来臨を準備することとなってしまうであろう。


主よ、憐れみ給え!
聖母の汚れ無き御心よ、我等のために祈り給え!
愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭) sac. cath. ind.

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エキュメニズムへのドアが開く:第二バチカン公会議の『教会憲章』、『エキュメニズムに関する教令』

2009年04月28日 | 第二バチカン公会議
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 私たちは第二バチカン公会議にどのような点が新しくなったか、つまり、どの点がカトリック教会の聖伝による見方と変わってしまったかについて、次の点を見てきました。

 まず、最初に、第二バチカン公会議は、人間についてどのように新しく考えるようになったのか?
【1】人間の尊厳としての自由、および
【2】人間の思想の自由

【3】良心と人間の行為の自由

 続いて、第二バチカン公会議は、人間と天主との関係についてどのように新しく考えるようになったか?
【1】第二バチカン公会議によれば啓示とは何か、啓示の伝達すわなち聖伝とは何か、啓示を信じるすわわち信仰とは何か?

【補足】カトリック教会の昔からの聖伝と 第二バチカン公会議の言う「聖伝」とでは、どう違うか
【2】第二バチカン公会議による新しいいけにえ(=「過ぎ越しの神秘」「復活の秘義」)とは何か
【3】第二バチカン公会議によれば、イエズス・キリストとは何か、

 そして、第三に、第二バチカン公会議は、教会についてどのように新しく考えて自己定義したのか? どのように新しいヒューマニズムを促進するために教会は自分をどのように変えたのか? を考察し始めました。

 第二バチカン公会議の教会は、
【1】この世に対して、さらに、世界の統一をもとめて
【2】他の宗教に対して
【3】教会内部構造について、
 どのように変わったのか?
という点を考察しています。

 そこで、今回も、 第二バチカン公会議の教会は他の宗教に対してどのように変わってしまったのか、エキュメニズムのドアがどのように開かれたのかを考察してみましょう。私たちは、第二バチカン公会議の「新しさ」を理解する上で、これまでの通り、出来るだけ第二バチカン公会議の文章を引用し、その文字通りの意味を考え、さらに第二バチカン公会議後のバチカン、教会当局によってどのようにそれが解釈され続けてきたか、適応されてきたか、解説されてきたかを示すその文献も適宜引用していくことにしましょう。それによって客観的な教会当局の第二バチカン公会議理解を知り、それが聖伝とどれだけ大きな差異があるかということを深めていくことにしましょう。

(つづき)
【エキュメニズムへのドアが開く:『教会憲章』】

『教会憲章』第1章 教会の秘義について

 導入部:『教会憲章』の1から7までは、『教会憲章』8の第二バチカン公会議の新しい教えを準備する導入部である。
 導入部の伝えるメッセージの核心はこれである。教会は、天主との交わりと全人類一致との効果的なしるし(秘跡)である。
 全ての人間は天主によって天の国に属するように選ばれているが、そのうち一部は、イエズス・キリストを信じて教会に属するように選ばれている。世の終わりに、遂に天の国と教会とは同じものとなる。何故なら目に見えるが制限のある教会が無制限になり、無制限であるが目に見えない天の国が目に見えるようになるからだ。
 イエズス・キリストは天の国を全ての人間の心に目に見えない仕方で打ち立て、また同時に、目に見える教会を少数の人間において打ち立て彼らが天の国を建設する目に見える仕事を続けるように命じた。

 『教会憲章』8では次のことを教える。
 キリストは、目に見える組織(聖職位階制度によって組織された社会)としてこの地上に教会を設立し、聖寵を全ての人間に与える。すなわち、教会は救いの成果を人々に伝え、すべての人のうちにキリストに仕えようと心がける。では、どうやって全ての人間に聖寵を与えるのか?
 天主のみことばは、御托身(=受肉)で人間本性を摂取したことによって、天主のみことばが天主の本性と人間の本性とを持つ。それと同じように、キリストの霊は、目に見える人間の教会の社会的機構(=カトリック教会)を摂取し、カトリック教会のうちに存在し(subsistit in)、キリストの神秘体を成長させる。
 従って、みことばとイエズス・キリストの人間性とが一つであるように、キリストの霊とカトリック教会とは一つとなる。
 従って、みことばがイエズス・キリストの人間性の限界を遙かに超えているように、キリストの霊の教会は、カトリック教会の限界の外にも見出される。
 従って、カトリック教会という「組織の外にも聖化と真理の要素が数多く見いだされる」。この要素の程度がどれだけかは、教会にどれ程属しているかによる。

 結論:
 天主に結合している全人類の一致の秘跡である教会とは、キリストの教会である。このキリストの教会にはカトリック教会と全ての宗教団体が含まれている。

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『教会憲章』 1(序文) 教会はキリストにおけるいわば秘跡、すなわち神との親密な交わりと全人類一致のしるしであり道具である

『教会憲章』 2(父なる神の救いの計画) すべての選ばれた者を世々の前から「あらかじめ知っていた」父は、「かれらを自分の子の姿に似た者としようと予定した。それは子を多くの兄弟の長子とするためである」(ロマ 8·29)。
 父はキリストを信ずる人々を聖なる教会として呼び集めることを決定した。
 それはさらに、世の終わりに栄光のうちに完成されるであろう。そのときには、聖なる諸教父も述べているとおり、アダム以来のすべての義人は、「義人アベルより、最後の選ばれた人に至るまで」普遍的教会として父のもとに集められるであろう。

『教会憲章』 3(子の派遣) キリストは父の望みを果たすために、地上に天の国を開始し、父の秘義をわれわれに啓示し、自分の従順によってあがないを成就した。・・・
 教会、すなわち秘義としてすでに現存するキリストの国は、神の力によって、世界において可見的に成長する。

『教会憲章』 5(神の国) 聖なる教会の秘義は、その設立において示されている。主イエズスは「時は満ちた、神の国は近づいた」(マルコ 1·15、マタイ 4·17参照)とのことばをもって、・・・神の国の到来を述べ伝えることによって、自分の教会を始めた。この国は、キリストのことばと行ないと現存によって人々の前に現われる。
 教会は、その創立者から受けたたまものに恵まれ、愛と謙虚と自己放棄のおきてを忠実に守るとともに、キリストと神との国を告げ、諸国民のうちに刷新する使命を受け、この国の地上における芽ばえと開始となっている。教会は徐々に発展するが、その間にも神の国の完成を渇望し、栄光のうちに自分の王と結ばれることを全力をもって望み求めている。

『教会憲章』 8(教会の神的、人的要素) 唯一の仲介者キリストは、自分の聖なる教会、信仰、希望、愛の共同体を目に見える組織としてこの地上に設立し、これを絶え間なくささえ、この教会によって、すべての人に真理と恩恵を分け与える。聖職位階制度によって組織された社会とキリストの神秘体、見える集団と霊的共同体、地上の教会と天上の善に飾られた教会は、二つのものとして考えられるべきではなく、人的要素と神的要素によって形成される複雑な一つの実在である。したがって、教会は平凡ではない類比によって、受肉したことばの秘義に比較される。神のことばに摂取された人間性が、ことばに不解消のものとして、結合し、救いの生きた機関として、ことばに仕えるものと同時に、教会の社会的機構は、からだの成長のため、教会を生かすキリストの霊に仕えるのである(エフェソ 4·16参照)。
 これがキリストの唯一の教会である。われわれは信経の中で、この教会を唯一、聖、カトリック、使徒的と宣言する。われわれの救い主は復活の後、この教会を牧するようペトロに渡し(ヨハネ 21·17)、それを広め治めるようペトロと他の使徒たちにゆだね(マタイ 28·18以下参照)、それを「真理の柱と基礎」として永久に立てた(1テモテ 3·15)。この教会 は、この世に設立され組織された社会としては、ペトロの後継者およびかれと交わりのある司教たちによって治められる、カトリック教会のうちに存在する。しかし、この組織の外にも聖化と真理の要素が数多く見いだされるが、それらは本来キリストの教会に属するたまものであり、カトリック的一致へと促すものである。
 キリストが貧困と迫害のうちにあがないのわざを完成したように、教会も救いの成果を人々に伝えるために同じ道を歩くよう招かれている。キリスト・イエズスは「神のすがたでありながら……しもべのすがたをとりおのれを無とし」(フィリッピ 2·6)、われわれのために「富める者が貧しい者となった」(2コリ 8·9)。教会は自己の使命を果たすために人間的手段を必要とするが、地上の教会が設立されたのは、光を求めるためではなく、謙虚と自己放棄をみずからの模範によって広めるためである。キリストが父から派遣されたのは「貧しい人々に福音を伝え、傷ついた心の人々をいやし」(ルカ 4·18)、「失われたものを捜して救う」(ルカ 19·10)ためである。これと同じように、教会も、人間的弱さに苦しむすべての人を愛をもって包み、さらに貧しい人や苦しむ人のうちに、貧しく苦しんだその創立者の姿を認め、かれらの欠乏を和らげるよう努め、かれらのうちにキリストに仕えようと心がける。キリストは、「聖にして、罪も汚れもなく」(ヘブ 7·26)、罪を知らず、(2コリ 5·21)、ただ人々の罪を償うためにのみ来たのであるが(ヘブ 2·17参照)、自分のふところに罪人を抱いている教会は、聖であると同時に常に清められるべきであり、悔い改めと刷新との努力を絶えず続けるのである。
 教会は、「世の迫害と神の慰めとを通って旅を続け」主が来るまで、主の十字架と死を告げながら、進む(1コリ 11·25参照)。教会は、復活した主の力によって強められ、内外からの自己の苦悩と困難に打ち勝つ、終わりの日に完全な光の中に現われるまで、影につつまれた主の秘義を、忍耐と愛をもって忠実に世に現わすのである。

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【「エキュメニズムに関する教令」による狭義のエキュメニズム】

 主キリストによって設立された教会は単一・唯一であるように、キリストを信じる全てのキリスト教団が一つになるべきである(1)。後代になって、重大な不一致が起こり、かなり大きな諸集団がカトリック教会の完全な交わりから分かれたが、ときには、カトリック側に過失がなかったわけではない(3)。教会を建て、これに生命を与える諸要素が、カトリック教会の見える境界の外に存在できる(3)。
 キリストを信仰し、洗礼を正しく受けた人々は、たとえ完全ではなくても、カトリック教会とのある交わりの中に居る。・・・信仰によって洗礼において義とされた者は、キリストに合体され、それゆえに正当にキリスト信者の名を受けているのであり、カトリック教会の子らから主における兄弟として当然認められる(3)。
 それぞれの教会や教団でこれらの「要素」は、恩恵の生命を実際に生み出し、救いの交わりへの戸を開いている(3)。従って、これらの非カトリックの教壇も、秘跡としての教会の一部である。なぜならキリストの霊はこれらの教会と教団を救いの手段として使うことを拒否しないからである(3)。

【『キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言』による広義のエキュメニズム】

 全ての人間は、天主によってその他全ての被造物のなかから天主を賛美するように選ばれている。選ばれたと言うことはすなわち救われていると言うことである。従って、全ての人間は救われている。
 従って、キリスト教共同体の外であっても、たとえ「聖化と真理との要素」ではなかったとしても、「みことばの種子」が見いだされる。この世に生まれる全ての人間を照らすみことばの火花としての何らかの真理と良さが見いだされる。
 全ては文化である。カトリック教会だけでは人間の神秘を全て汲み尽くすことは出来ない。

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主よ、憐れみ給え!
聖母の汚れ無き御心よ、我等のために祈り給え!
愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭) sac. cath. ind.

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第二バチカン公会議全般

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第二バチカン公会議は、教会を新しくどのように自己定義したのか?【2】他宗教に対して

2009年04月27日 | 第二バチカン公会議
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 私たちは第二バチカン公会議にどのような点が新しくなったか、つまり、どの点がカトリック教会の聖伝による見方と変わってしまったかについて、次の点を見てきました。

 まず、最初に、第二バチカン公会議は、人間についてどのように新しく考えるようになったのか?
【1】人間の尊厳としての自由、および
【2】人間の思想の自由

【3】良心と人間の行為の自由

 続いて、第二バチカン公会議は、人間と天主との関係についてどのように新しく考えるようになったか?
【1】第二バチカン公会議によれば啓示とは何か、啓示の伝達すわなち聖伝とは何か、啓示を信じるすわわち信仰とは何か?

【補足】カトリック教会の昔からの聖伝と 第二バチカン公会議の言う「聖伝」とでは、どう違うか
【2】第二バチカン公会議による新しいいけにえ(=「過ぎ越しの神秘」「復活の秘義」)とは何か
【3】第二バチカン公会議によれば、イエズス・キリストとは何か、

 そして、第三に、第二バチカン公会議は、教会についてどのように新しく考えて自己定義したのか? どのように新しいヒューマニズムを促進するために教会は自分をどのように変えたのか? を考察し始めました。

 第二バチカン公会議の教会は、
【1】この世に対して、さらに、世界の統一をもとめて
【2】他の宗教に対して、
【3】教会内部構造について、
 どのように変わったのか?
という点を考察していくなかで、既に【1】この世に対してについては二回にわたって考察しました。

 そこで、今回は、 第二バチカン公会議の教会は他の宗教に対してどのように変わってしまったのかを考察してみましょう。私たちは、第二バチカン公会議の「新しさ」を理解する上で、これまでの通り、出来るだけ第二バチカン公会議の文章を引用し、その文字通りの意味を考え、さらに第二バチカン公会議後のバチカン、教会当局によってどのようにそれが解釈され続けてきたか、適応されてきたか、解説されてきたかを示すその文献も適宜引用していくことにしましょう。それによって客観的な教会当局の第二バチカン公会議理解を知り、それが聖伝とどれだけ大きな差異があるかということを深めていくことにしましょう。


【教会と他宗教】

 主観的ヒューマニズムは、「聖書のみ」「聖書の自由解釈」というモットーとともにプロテスタント主義を生み出した。プロテスタント的自由解釈と個人の良心の自由の高揚は、教会の教導権を放棄させ、プロテスタント諸派をモザイクのようにバラバラにしていった。
 十九世紀、二十世紀になると、プロテスタント諸派は、無数に分派を繰り返して信憑性を失っていくことを自覚した。プロテスタントの信憑性を確保し、カトリックの一致へと惹きつけられるプロテスタントを引き留めるために、統合の必要性を感じた。そこで生まれたのが「エキュメニズム」運動であった。「エキュメニズム」とは「普遍」という意味であり、すでにローマの教会によって使われてしまっている「カトリック」という言葉の変わりに、それと似たような意味の言葉として「エキュメニカル」が選ばれた。

 1925年、ストックホルムで、「生活と実践に関する世界キリスト教会議」(1925, Universal Christian Conference on Life and Work)が 「教理は分裂をもたらすが、奉仕は一つにする」を標題として開催された。
 1927年、ロザンヌで、「信仰と職制世界会議」(1927, World Conf. on Faith and Order) が開催され、キリストの教会がどうして多くの教会を含むのかが考察された。
 1937年、エジンバラの会合で、教会とこの世とが区別されるかが議論された。
 1948年、世界教会協議会 WCC(World Church Council)が創立される。アムステルダム会議が1948年8月22日から9月4日まで開かれ、44か国、145 教会から351 人の代議員が出席した。

 カトリック教会の一致から離れていったプロテスタント教会諸派が再一致をどれだけ探していたかは理解できる。しかし、「自由解釈」と「ローマの教導権の拒否」とを原理とした、個々の教派の教理のアイデンティティーを残したままの連合を探すに留まっていた。

 カトリック教会はこれに参加することは出来ない。何故なら、聖伝によれば、非カトリックの宗教は宗教として真理ではないからだ。極めて少数の非カトリックの個人は、通常のやり方を越えた特別な仕方で(たとえば望みの洗礼)、カトリック教会に属しているかもしれない。

 カトリック教会は、常にキリストの教会はカトリック教会である、キリスト教会とカトリック教会とは等号の記号で結ばれること、全く同一であることを常に教えていた。最近ではピオ十二世が「ミスティチ・コルボリス」でそう教えた。

 しかしながら、第二バチカン公会議の新しいヒューマニズムは、「キリストは托身(=受肉)によって自分自身を全ての人間と一致させた」ので、個人の大多数が、彼らのの善意(と想定されている)によって「教会」に属していると言いだした。

 第二バチカン公会議によれば、イエズス・キリストの十字架による贖いもなく、この贖いを適応することもなく、イエズス・キリストの御托身(=受肉)という事実により、ipso facto 自動的に、全ての人々をキリスト化させキリストと一致させる力を持っている。「このことはキリスト信者ばかりでなく、心の中に恩恵が目に見えない方法で働きかけているすべての善意の人についても言うことができる。」(『現代世界憲章』22)

 第二バチカン公会議によれば、キリストが全ての善意の人と一致しているのは例外ではなく普通である。何故なら、キリストは人間がより人間らしくなるために来たのであるから、より人間らしいということは、洗礼を受けて目に見える教会の中に入らなくても、既にキリスト者であるということを意味するからだ。

[現代世界憲章] 22(新しい人・キリスト)
 最後のアダムであるキリストは、父とその愛の秘義の啓示によって、人間を人間自身に完全に示し、人間の高貴な召命を明らかにする。・・・事実、神の子は受肉によって、ある意味で自分自身をすべての人間と一致させた。

 では、第二バチカン公会議は、【A】どうやって非カトリックの諸派を「キリストの教会」の中に取り込もうとしたのか? しかも、【B】カトリック教会の外見上のアイデンティティーを保たせながら? 


【A】どうやって非カトリックの諸派を「キリストの教会」の中に取り込もうとしたのか?

【答え:教会の要素】
 エキュメニズムへのドアを開くキー・ワード「教会の要素」
 カトリックの聖伝は、カトリック教会の外にあるものは「カトリック教の残骸」であると教えてきた。たとえそれが真理を知るための源泉(例えば聖書)であったとしても、聖寵を得るための源泉(幾つかの秘跡)であったとしても、この残骸は、個人に対しては極めて希にでも霊魂を救うことがあるかもしれない。

 第二バチカン公会議はこの個人に対する議論を非カトリック諸派に適応させようとした。「残骸」では軽蔑の意味が含まれるから「要素」と呼んだ。有効な司祭職と聖体があるところを「個々の教会(particular churches)」と呼んだ。

 そのような残骸は、カトリック教会の廃墟の跡である。カトリック教会の外では働いていない。何故なら、真理の残骸(例えば、聖書)は、カトリック信仰或いは教導権がなければ、これを正しく理解することが出来ないからだ。聖寵の残骸(例えば御聖体)は、その実りを与えることが出来ない(聖トマス・アクィナス「神学大全」第三部 第八二問 第七項を見よ)からだ。また位階制度の残骸(司祭職、司教職)は、横領され、単に質料的なものであり、裁治権を一切持たない。従って、昔からの聖伝によれば、それらは死んだ「残骸」に過ぎない。だから聖アウグスティノは、カトリック教会の外では、或る程度は、教会の中にある善が見いだされる、しかしそれらは、カトリック教会の外では救いには役に立たない、と言う。

 しかし第二バチカン公会議は、それら死んだ残骸を、生ける「要素」であると変えて呼んでしまった。

『教会憲章』8(教会の神的、人的要素)
「・・・この教会は、この世に設立され組織された社会としては、ペトロの後継者およびかれと交わりのある司教たちによって治められる、カトリック教会のうちに存在する。しかし、この組織の外にも聖化と真理の要素が数多く見いだされるが、それらは本来キリストの教会に属するたまものであり、カトリック的一致へと促すものである。」

 「エキュメニズムに関する教令」15、東方の離教教会について
「したがって、これらの個々の教会における主の聖体祭儀によって、神の教会が建てられ、成長し、また共同司式によってそれらの教会の交わりが示される。・・・これらの教会は分かれてはいるが、真の秘跡、特に使徒継承の力によって司祭職と聖体を持ち、それらによって今なお緊密にわれわれと結ばれている。」


 「エキュメニズムに関する教令」3、プロテスタント共同体について
「・・・キリストを信仰し、洗礼を正しく受けた人々は、たとえ完全ではなくても、カトリック教会とのある交わりの中に居る。・・・ 信仰によって洗礼において義とされた者は、キリストに合体され、それゆえに正当にキリスト信者の名を受けているのであり、カトリック教会の子らから主における兄弟として当然認められるのである。・・・
 キリスト教の聖なる行事も、われわれから分かれた兄弟のもとで少なからず行なわれている。それらはそれぞれの教会や教団の異なった状態による種々のしかたで、疑いもなく恩恵の生命を実際に生み出すことができ、救いの交わりへの戸を開くにふさわしいものと言うべきものである。
 われわれは、これらの分かれた諸教会と諸教団には欠如があると信じるが、けっして救いの秘義における意義と重要性を欠くものではない。なぜならキリストの霊はこれらの教会と教団を救いの手段として使うことを拒否しないからであり、これらの救いの手段の力はカトリック教会にゆだねられた恩恵と真理の充満に由来する。」


ヨハネ・パウロ二世、『ウト・ウヌム・シント』(1995年5月25日)
その他のキリスト教共同体において、これらの(=聖化と真理の)諸要素が見いだされ、キリストの一つの教会はそれらにおいて効果的に現存する


教皇庁教理省宣言 『ドミヌス・イエズス』 和田 幹男 訳
「使徒継承と有効な聖体祭義という最も緊密な絆によってこれと結ばれている諸教会も真の個別教会である 。それゆえ、これらの諸教会の中にもキリストの教会が現存し、活動している。」
「有効な司教職と聖体秘義の本来的かつ十全的な本質を保持していない教団は 、固有な意味で教会ではない。しかしながら、これらの教会の中で洗礼を受けた者は洗礼によってキリストに組み込まれており、それゆえ教会とは不完全であるが、ある交わりの中にいる。実際に洗礼はそれ自体、十全的な信仰告白と聖体秘義と教会における充満的な交わりによる、キリストにおける命の完成への指向性をもつものである。」

教皇庁教理省宣言 『ドミヌス・イエズス』 和田 幹男 訳
その目に見える境の外にあるのはただ "教会の要素" であって、これは――教会そのものの要素であるから――カトリック教会を指向しており、これに導くものである」

 従って、第二バチカン公会議によれば、カトリック教会の外にも、その他のキリスト教といわれる共同体において「教会の要素」があるために、不完全の仕方で「キリストの教会」が延長していることになっている

教皇庁教理省宣言 『ドミヌス・イエズス』 和田 幹男 訳
「キリストの教会はキリスト教徒の分裂にもかかわらず、その充満としてはただカトリック教会の中にだけ存在し続けるということである。他方、「その境界の外にも」、つまりカトリック教会とはまだ充満的な交わりの中にはない教会と教団の中にも「聖化と真理の数多くの要素が存在する」ということである。」

教会に関する教義の幾つかの観点に関する質疑応答(2007年6月29日)
第二の質問に対する回答:「・・・ カトリックの教義に従えば、キリストの教会が、カトリック教会と充満的に交わりにまだない諸教会や教団において現存し働いているということを正しく断言することができる。それはそれらにおいて現存する、聖化の要素と真理とのためである。」

『カトリック教会のカテキズム』
819 更に、「聖化と真理の多くの要素」は、カトリック教会の目に見える教会の外に見出される。「天主様の書かれた御言葉、聖寵の命、信仰、希望、愛徳、聖霊の他の内的賜物、さらに目に見える要素」が。なぜならキリストの霊はこれらの教会と教団を救いの手段として使うことを拒否しないからであり、これらの救いの手段の力はカトリック教会にゆだねられた恩恵と真理の充満に由来する。」

【B】カトリック教会の外見上のアイデンティティーをどうやって保たせるのか? 

【答え:subsistit in(の内に存する)】

 昔からの聖伝によれば、キリストの教会とはカトリック教会のことである。カトリック教会、イコール、キリストの教会である。

 しかし第二バチカン公会議は、キリストの教会の中にカトリック教会とその他キリスト教諸派を含めさせようとした。

 キリストの教会がカトリック教会よりも大きくカトリック教会を含み、同時にキリストの教会がカトリック教会と同一であり得るにはどうしたらよいか? そのために、次の手続きをするのだと思われる。
【B-1】まず、全ての宗教団体がキリストの教会に属するとする。
【B-2】次に、カトリック教会はその他全ての「諸教会」のなかで優先的地位を占める、とする。
【B-3】最後に、キリストの教会は、カトリック教会の内に存する(subsistit in)、とする。


【B-1】全ての宗教団体がキリストの教会に属するとするには、次の理由をつけると思われる。
(1)イエズス・キリストは御言葉の秘跡であるのと同じように、教会はイエズス・キリストの効果的なしるしである。
(2)全ての本当の宗教団体は、御言葉の効果的なしるしである。
(3)従って、全ての宗教団体は、教会に属する。

【B-2】カトリック教会はその他全ての「諸教会」のなかで優先的地位を占めるとするには、次の理由を付けると思われる。
 天主は全ての人間に現存するが、特にキリストにおいて現存するのと同じように、御言葉は全ての諸教会に現存するが、特にカトリック教会において現存する。

【B-3】キリストの教会は、カトリック教会の内に存する(subsistit in)とするには、次の理由を付けると思われる。
 天主の御言葉は、天主の本性においてあるが人間本性においてもあるのと同じように、キリストの教会は、カトリック教会の内に存する。


【聖伝からの反論】

【B-1】に対して:
 教会はイエズス・キリストの効果的なしるしだから「秘跡」である、といのは、「秘跡」とはしるしであるという知識からのこじつけに由来したもので、現実に「秘跡」だからという議論ではない。カトリック教会は、常に七つの秘跡だけを教えてきた。

【B-2】に対して:
 天主は全ての人間に、創造主として存在を与えるものとして現存するが、キリストにおいては天主のペルソナと本性とにおいて現存する。何故ならキリストは真の天主であるからである。
 御言葉は、確かに創造主として、すなわち存在を与えるものとして全ての諸教会に現存するが、これは、どのような動植物にも鉱物に対しても同じである。しかしながら、カトリック教会においては、御言葉は御自分の神秘体の頭として現存する。

【B-3】に対して:
 天主の御言葉のペルソナは天主の本性においてあるが人間本性においてもある、これは天主の本性と人間の本性という二つの本性が天主のペルソナにおいて位格的結合(Hypstatic Union)をしたからである。しかし、この位格的結合は、天主の第二のペルソナが御托身をしたときの唯一のケースである。
 更に、天主のペルソナと天主の本性とは、存在論的に別の現実である。だからこそ天主のペルソナが天主の本性においてある、と言うことが出来る。しかし、「キリストの教会」も「カトリック教会」も同じ存在論的立場にある二つの団体である。従って、キリストの教会がカトリック教会の内に存する、ということを、天主の御言葉が天主の本性においてあるが人間本性においてもあるということと同じだと言うことは出来ない。

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1964年11月16日第二バチカン公会議第123回総会において公会議事務総長がなした告知

2008年08月29日 | 第二バチカン公会議
告知

1964年11月16日第123回総会において公会議事務総長がなしたもの

「投票を受ける、『教会についてDe Ecclesia』の草案において示されている教義の神学的資格は何であるかと求められた。
この質問に付いて、教義委員会は次のように答えた。
「論を待つまでもなく、公会議の文章は公知の一般的な規則によって解釈されなければならない。

教義委員会は1964年3月6日の宣言を参照するようにと求める。以下がその文章である。

「公会議の慣習と本公会議の司牧的目的を鑑みて、この聖なる会議自身が明らかに信仰と道徳に関する事柄を教会によって保持されるべきもの(tenenda)として定義するとみずから明らかに宣言するときにのみ、そう定義する。

聖なる教会会議が教会の最高教職による教理として、述べる他の事柄は、すべての、そして各のキリスト信者はそれを教会会議自身の方針に従って(juxta mentem)受け入れ(excipere)、受領し(amplecti)なければならない。この教会会議の方針は取り扱われている題材と表現方法から神学的解釈の法則に従って知ることができる。

 『教会について』の草案第3章に出された修正意見に、あらかじめつけられた次の解説的注釈が、最高権威によって教父たちに伝えられた 。第3章に書かれている教えはこの注釈の意向と意味にしたがって 説明され理解されなければならない。



予備解説的注釈

委員会は諸修正意見(modi)の審査に先立ち、以下の一般的所見を述べることに定めた。

1. 団体(Collegium)は厳密に法的意味において理解されるのではない。すなわち、その団長に自分の権力を付与する(demandarent)平等な人々の集団ではなく、団体の構成と権威とが啓示から導き出されるべき永続的集団(coetus stabilis)を意味する。従って修正意見12に対する回答の中で、12使徒について、主は彼らを「団体すなわち永続的集団の形に」制定された、と明確に言われている。(修正意見53C)をも参照。同じ理由から司教たちの団体についても職位(Ordo)または団(Corpus)と言う用語が区別無しに用いられている。一方ではペトロと他の使徒たち、他方ではローマ教皇と司教たち、と言う二者間における平行的類似は、使徒たちの例外的権能が彼らの後継者に伝えられたことを含まないこと、また団体のかしらと団体との平等を意味するものでもないことは明らかであり、第1の関係(ペトロ―使徒たち)と第2の関係(教皇―司教たち)の間における比例を含むものである。従って委員会は22条の中で、同じ理由(eadem ratione)ではなく、似たようなの理由(pari ratione)でと書くことを定めた。(修正意見57参照。)

2. 人は司教聖別の力、および司教団体のかしらならびにその構成員との位階的交わりによって司教団体の構成員となる。(22条1節の終わり参照。)聖別において聖なる任務(munera)への実体的(ontologica)参与が与えられることは、典礼伝承をも含めた伝承から確実に証明される。故意に任務(munera)という言葉が用いられ、権能(potestates)と言われていない。それは、後者は実際に行使しうる権能(potestas expedita ad actum)の意味にも解されうるからである。このような実際に行使できる権能を持つためには、位階的権威による法典的すなわち法的限定が必要とされる。権能のこのような限定は特別な職務の授与または管轄を受ける人々を指定することによって行われることができ、最高権威によって承認された規則に従って与えられる。このような追加された規則は、ことの本質から(ex natura rei)要求されるものであって、それは多くの主体がキリストの御意志によって位階的に協力しながら実行すべき任務に関することだからである。教会の生命の中でこの「交わり」は法の中で法制化される前に、時代の状況に応じて実施されたことは明白である。

 従って教会のかしらならびに構成員との位階的交わりが必要であるとはっきり言われる。交わりは古代教会において(今日でもとりわけ東方においてそうであるように)大きな栄誉が与えられている概念である。それは漠然としたある感情(affectus)ではなく、法的形式を要求すると共に愛によって生かされている組織的な実在として理解される。そこで委員会はほとんど満場一致の同意をもって「位階的交わりにおいて」と書くべきであると決めた。(修正意見40および24番において法的任命について言われていることをも参照)



3. 司教団体はかしら無しにはありえないが、その団体は「全教会の上に最高完全な権能を有する主体でもあるsubiectum quoque supremae et plenae potestatis in universam Ecclesiam exsistere」と言われる。これを承認することは必要であって、それはローマ教皇の権威の充満について疑いが起こらないようにするためである。事実、司教団体は常に必然的にそのかしらと共に理解されるものであって、かしらは司教団体の中においてキリストの代理者および不変的教会の牧者としての自分の任務を保持している。言いかえれば、区別はローマ教皇と司教たちの集合体との間にではなく、単独のローマ教皇と司教たちと共にあるローマ教皇との間にある。ローマ教皇は司教団体のかしらであるから、一人彼のみが、司教にとってはまったく権限外のある種の行為をすることができる。例えば司教団体を召集し指導すること、行動の規則を承認すること、など。修正意見81参照。ローマ教皇には群れ全体についての配慮が委任されているのであって、この配慮を実行に移すにあたり、いかなる方法によるのが適当であるか、個人的方法によるか団体的方法によるかを、教会の時代の移行によって異なる必要に応じて決定することはローマ教皇の判断に属するのである。ローマ教皇は団体的行使を規制し、推し進め、認可するに際して、教会の善を考慮して、自己の判断に従って行動する。

4. ローマ教皇は教会の最高牧者として、その任務自身から要請されるように自らの権能をあらゆる時に欲するままに行使することができる。司教団は常に存在するとはいえ、それだからと言って常に厳密な意味で団体的に行動するものではない。このことは教会の伝承から証明される通りである。言いかえれば、常に「完全な行使の中にin actu pleno」あるのではなく、むしろ厳密な意味で団体的に行動するのは間隔を置いてでしかなく、かしらが同意するときだけでしかない(nonnisi consentiente Capite)。「かしらが同意するとき」と言われるのは、あたかもあるよそ者に依存すると解されないようにするためである。「同意するconsentiens」という字句はこれに反して、かしらと団体構成員との間の交わりを考えさせ、かしらの固有の権限に基づく行為の必要性を含むものである。このことは22条2節に明らかに肯定されており、同条の終わりに説明されている。「だけでしかないnonnisi」という消極的な言い方は、全ての場合を包括する。従って最高権威によって承認された規則が常に守られなければならないことは明白である。修正意見84参照。

これら全てのことにおいて、司教たちとそのかしらとの結合(conjunctio)について言われているのであって、決してローマ教皇から独立した司教の行動についてではないことは明らかである。後者の場合、かしらの行動が欠如しているので司教は団体として行動することができない。このことは「団体」の概念から明らかな通りである。ローマ教皇と全ての司教とのこの位階的交わりは伝承においてたしかに不動のものである。

注意事項。法典的、法的観点(aspectu canonico-iuridico)と区別すべき秘蹟的・実体的任務(munus sacramentale-ontologicum)は、位階的交わり無しには実行できない。しかしながら委員会は神学者の議論に任されている合法性と有効性の問題について、特に分かれている東方の諸教会において実際の行使されており、またその解釈について種々の説がある権能の問題については、介入すべきではないと判断した。

+ペリクレス・フェリチ

サモサタ名義大司教
聖なる第バチカン公会議事務総長

EX ACTIS SS. OECUMENICI CONCILII VATICANI II

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聖伝のカトリック信仰(永遠のローマ) vs 第二バチカン公会議の革新(近代主義のローマ)

2008年02月27日 | 第二バチカン公会議
アヴェ・マリア!

聖伝のカトリック信仰(永遠のローマ) vs 第二バチカン公会議の革新(近代主義のローマ)

愛する兄弟姉妹の皆様、

 私たちは、極めて異常な時代に生きています。

 第二バチカン公会義以来、カトリック信者たちは真理とカギ括弧付きの「従順」(=真理を犠牲にしてまでの追従、本当の従順ではなく見かけ上の「従順」)とのどちらかを選ぶ必要に迫られています。言い換えると、真理を選んだがためにカギ括弧付きの「離教徒」(誤解されて誤って「離教者」と非難される存在)となるべきか、それとも異端となるべきか、との選択です。・・・

 例えば、あるいは、レオ十三世が不可謬権をもって聖公会の叙階の無効性について『アポストリチェ・クーレ』(1896年9月13日)において宣言し既に明らかにされたように英国聖公会の司祭叙階が無効であることを信ずるか、あるいは現今の教会の風潮を信じるか、という選択です。


レオ十三世


 1982年5月29日には、教皇ヨハネ・パウロ二世は、歴代始まって以来カンタベリーのカテドラルで聖公会の典礼に与かり、この異端かつ離教の分派の平信徒の最高長上(Dr. Robert Runcie) とともに王冠を祝福しました。

 この最高長上は、自分のことを「カトリック英国」のカトリックの宣教者であるカンタベリーの聖アウグスチヌスの後継者としてはばからりませんでした。この歓迎の演説を聞いておられた教皇は何の反対もされなかったのです。

The Pope and Runcie prayed together in Canterbury

The visited Canterbury Cathedral on 29 May to say prayers with Robert Runcie

(例えば、バチカン・サイトの COMMON DECLARATION OF POPE JOHN PAUL II AND THE ARCHBISHOP OF CANTERBURY を見よ、「THE ARCHBISHOP OF CANTERBURY」というタイトルを認めている。)


 更に、例えば、マルチン・ルターを Exsurge Domine にて不可謬的に(ex cathedra)排斥したレオ十世を選ぶか、現今の教会の風潮を選ぶかのどちらかです。

レオ十世


 現在の教会では、このドイツの異端者の生誕500周年を祝い、教皇聖下ヨハネ・パウロ2世はその手紙(Letter for the 500th anniversary of the birth of Martin Luther, November 5 1983)の中で、「カトリックとプロテスタントとの学者らの共同の研究により、ルターの深い宗教性が現れてきた。」とはっきり言っています。

John Paul II with the World Council of Churches, Orthodox, Swiss Reformed, Catholic, Lutheran, Methodist

 私たちはまた、聖福音が歴史的に真理を語っていると信じるか、それとも、現今の教会の指針に従い、声高らかにそのことを否定するか、のどちらかです。「聖にして母なる公教会が決定的にかつ絶対的に、常に変わらず肯定して来た」ように聖福音が歴史的に真理であることを認めるべきか、それとも、ユダヤ教徒との宗教関係に関する、教皇庁立委員会が1985年6月24日に発表したように、それを否定するべきなのか、という選択です。聖福音に従い無信仰のユダヤ教を「天主から憎まれたもの」と宣言する聖書を取るか、あるいはユダヤ会堂を歴代最初に訪れた教皇聖下の演説にあるとおりに、無知なるカトリックの「兄」と呼ぶのか、の選択です。


Pope John Paul II visiting a synagogue in Rome in April 1983

John Paul II with  Jewish B'nai B'rith on March 22, 1984

John Paul II with the Trilateral Commission, on April 18, 1983


 あるいは、天主の十戒の最初の戒律である「汝我が前に異国の神々をもつなかれ。」を選ぶか、それとも、アシジのカトリック教会においてなされたように、ひどいことにも、迷信さえも含めた全ての形式の礼拝を認めるべきなのか、という選択です。


アシジの祈祷集会


 この聖寵の満ちみてる新約の時代において、キリストを選ぶか、或いはキリストを否定していながらも真の天主を礼拝しているとうそぶく偽りの礼拝を認めるべきなのか、また、御聖体ランプが灯り、主の現存が明らかなのにもかかわらず、仏像を祭壇に載せることを許し、仏教とがその己の偶像を礼拝するのを認めるべきなのか、の選択です。

On October 27, 1986, with due permission of John Paul II, the Dalai Lama and Tibetan Buddhist monks of his sect placed a small statue of Buddha over the tabernacle of St. Peter Church in Assisi. The statue was encased in a glass cylinder.

 「教会の外に救いなし」とする聖会の教義を信ずるか、それとも、非キリスト教さえも天主への運河であり、救いの手段であり、多神教さえも敬うべしとする今の教会の第二バチカン公会議後の指針に従うべきか、という選択です。

 《異端者》、あるいは/かつ、《破門されたもの》は「カトリック教会の外にいる」のか、それとも、「さまざまなキリスト教と呼ばれる団体」は「深さが」異なるのみで、交わり (communion) の中にいるのか、したがって、これらさまざまな異端の、あるいは/かつ、破門された党派も、「教会(Churches)として、又は、教会的団体(ecclesial comunities)として」「尊敬すべき」なのか、という選択です。

「離教にあらず、破門にあらず」より

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ドプフナー枢機卿(Döpfner 第二バチカン公会議のモデラトールの一人)について

2008年01月26日 | 第二バチカン公会議
アヴェ・マリア!

 愛する兄弟姉妹の皆様

 ドプフナー枢機卿が第二バチカン公会議のモデラトールの一人としてパウロ六世に任命された話が出ましたが、ドプフナー枢機卿(Julius August Cardinal Döpfner †)について少し紹介します。

Julius Kardinal Döpfner (1913-1976)




司教紋



 ベネディクト十六世は、ドプフナー枢機卿の後継者として、ミュンヘン・フライジング大司教区を受け継いだのですが、1976年10月16日、ドプフナー枢機卿の葬儀ミサの説教で、シュレッファー枢機卿(Joseph Cardinal Schröffer †)は追悼の辞を述べて、枢機卿の死とともに決算の時間が来た、と次のように言ったそうです。

「(裁きの時に天主はこう尋ねるだろう)司教にこのような問いが発せられるとき、彼はいったい何と答えるのだろうか?
おまえが大司教であった時代に、信仰は減り、信仰の力は弱まり、教会は空になり、生命倫理に対する忠誠は揺るぎ、子供を産もうという意志は萎縮し、多くの子供達は洗礼を受けなくなり、離婚率は増加し、司祭たちは聖なる隊列を去り司祭職を辞め、青少年においては、天主と兄弟たちのために全生涯を掛けるという勇気と力が萎縮した。
おまえはこれらに対して、一体何をしたのか?
。」(ドイツ聖職者報 1976年 56号)

„Was wird ein Bischof antworten, wenn die Frage an ihn ergeht:
Zu deiner Zeit hat der Glaube abgenommen, ist die Glaubenskraft erlahmt, haben sich die Kirchen geleert, wurde die Treue zu den Lebensgesetzen erschüttert, ist der Wille zum Kind geschwunden, wurden viele Kinder nicht mehr getauft, haben sich die Ehescheidungsziffern erhöht, haben Priester die Reihen ihrer Mitbrüder verlassen, ist der Mut und die Kraft zur Totalhingabe des Lebens im Dienste Gottes und der Brüder in der Jugend erlahmt. Was hast du getan, um all dem entgegenzuwirken?“ (Klerusblatt 56, 1976, 279)

(From "Stellungnahme zum Rücktritt des Vorsitzenden der Deutschen Bischofskonferenz")

シュレッファー枢機卿については、次の記事も興味があります。
A Warning from Rome

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【参考資料】パウロ六世の言葉

2007年11月16日 | 第二バチカン公会議
アヴェ・マリア!

【参考資料】パウロ六世の人間中心主義の言葉の幾つかを参考資料としてご紹介します。

ULTIMA SESSIONE PUBBLICA DEL CONCILIO ECUMENICO VATICANO II
ALLOCUZIONE DI SUA SANTITA PAOLO VI
Martedi, 7 dicembre 1965

Humanitatis illud laicum atque profanum studium, immani qua est magnitudine, tandem aliquando prodit, idemque ad certamen, ut ita dicamus, Concilium lacessivit. Religio, id est cultus Dei, qui homo fieri voluit, atque religio - talis enim est aestimanda - id est cultus hominis, qui fieri vult Deus, inter se congressae sunt. Quid tamen accidit? Certamen, proelium, anathema? Id sane haberi potuerat, sed plane non accidit. Vetus illa de bono Samaritano narratio excmplum fuit atque norma, ad quam Concilii nostri spiritualis ratio directa est. Etenim, immensus quidam erga homines amor Concilium penitus pervasit. Perspectae et iterum consideratae hominum necessitates, quae eo molestiores fiunt, quo magis huius terrae filius crescit, totum nostrae huius Synodi studium detinuerunt. Hanc saltem laudem Concilio tribuite, vos, nostra hac aetate cultores humanitatis, qui veritates rerum naturam transcendentes renuitis, iidemque novum nostrum humanitatis studium agnoscite: nam nos etiam, immo nos prae ceteris, hominis sumus cultores.

Aliud est etiam, quod consideratione dignum putamus: huiusmodi divitem doctrinae copiam eo unite spectare, ut homini serviat, in omnibus cius vitae adiunctis, in omni eius infirmitate, et in omni eius necessitate. Ecclesia quodammodo se professa est humani generis ancillam, et quidem eo tempore, quo ipsius magisterium ipsiusque pastorale regimen, ob sollemnes Concilii Oecumenici celebrationes, clariore lumine validioreque robore praedita se praestiterunt: immo vero ministerii exercendi propositum reapse praecipuum obtinuit locum.

「"人間となった天主"の宗教は、『自らを天主とする人間』の宗教(なぜならこれも宗教のひとつですから)と出会いました。何が起こったのでしょうか。衝突でしょうか。紛争でしょうか。排斥でしょうか。これらが起こり得ました。しかし、これらはありませんでした。良きサマリア人の昔の話が公会議の霊性のモデルでした。すなわち、限りない好感が公会議全体を侵略しました。人間の必要を発見し(そしてこの地上の子がますます自分を偉大とするに従って、この必要はますます大きくなるのです)それが私たちの会議の注意をまったく奪い取りました。現代の人間中心主義者である皆さんも、少なくともこの功績を公会議に認めてください。あなた方は最高の諸現実の超越性を放棄していますが、私たちの新しい人間中心主義を認めることを知りなさい。私たちも、誰にもまして人間を礼拝するものなのです。」(『歴史に輝く教会』 p444 参照)

【英語訳は緩和された表現になっている】
ADDRESS OF POPE PAUL VI
DURING THE LAST GENERAL MEETING
OF THE SECOND VATICAN COUNCIL
7 December 1965

Secular humanism, revealing itself in its horrible anti-clerical reality has, in a certain sense, defied the council. The religion of the God who became man has met the religion (for such it is) of man who makes himself God. And what happened? Was there a clash, a battle, a condemnation? There could have been, but there was none. The old story of the Samaritan has been the model of the spirituality of the council. A feeling of boundless sympathy has permeated the whole of it. The attention of our council has been absorbed by the discovery of human needs (and these needs grow in proportion to the greatness which the son of the earth claims for himself). But we call upon those who term themselves modern humanists, and who have renounced the transcendent value of the highest realities, to give the council credit at least for one quality and to recognize our own new type of humanism: we, too, in fact, we more than any others, honor mankind.

Another point we must stress is this: all this rich teaching is channeled in one direction, the service of mankind, of every condition, in every weakness and need. The Church has, so to say, declared herself the servant of humanity, at the very time when her teaching role and her pastoral government have, by reason of the council's solemnity, assumed greater splendor and vigor: the idea of service has been central.

SOLENNE INIZIO DELLA SECONDA SESSIONE
DEL CONCILIO ECUMENICO VATICANO II
ALLOCUZIONE DEL SANTO PADRE PAOLO VI
Domenica, 29 settembre 1963

CATHOLICAE ECCLESIAE RENOVATIO

Quae spes ad aliam quoque primariam causam indicti Concilii pertinent; ad sanctae Ecclesiae videlicet renovationem, quam vocant.


UDIENZA GENERALE DI PAOLO VIMercoledi, 2 luglio 1969

革新、それが公会議のモットー、プログラムとして与えられた。
「見よ、私は全てを新しくする。」

Diletti Figli e Figlie!
E nostro desiderio di accogliere le grandi parole del Concilio, quelle che ne definiscono lo spirito, e in sintesi dinamica formano la mentalita di quanti, dentro e fuori della Chiesa, al Concilio si riferiscono. Una di queste parole e quella di novita. E una parola semplice, usatissima, molto simpatica agli uomini del nostro tempo. Portata nel campo religioso e meravigliosamente feconda, ma, male intesa, puo diventare esplosiva. Ma e parola che ci e stata data come un ordine, come un programma. Anzi ci e stata annunciata come una speranza. E una parola rimbalzata fino a noi dalle pagine della sacra Scrittura: ≪Ecco (dice il Signore). Io faro cose nuove≫; e il Profeta Isaia che cosi parla; a lui fa eco S. Paolo (2 Cor. 5, 17), e poi l’Apocalisse: ≪Ecco ch’io faccio nuove tutte le cose≫ (21, 5).


INIZIO DELLA QUARTA SESSIONE DEL CONCILIO ECUMENICO VATICANO II
ALLOCUZIONE DI SUA SANTITA PAOLO VI
Festivita della Santa Croce
Martedi, 14 settembre 1965

Ac revera Concilium publica ac sollemnis amoris significatio sane est erga hominum societatem.

実に公会議は、人間社会に対する公の荘厳な愛の意味である。


PAOLO VI
ANGELUS DOMINI
Domenica, 7 febbraio 1971

Onore all’uomo!
Onore al pensiero!
Onore alla scienza!
Onore alla tecnica!
Onore al lavoro!
Onore all’ardimento umano!
Onore alla sintesi dell’attivita scientifica e organizzativa dell’uomo, che, a differenza di ogni altro animale, sa dare strumenti di conquista alla sua mente e alla sua mano.
Onore all’uomo, re della terra ed ora anche principe del cielo.
Onore all’essere vivente, che noi siamo, il quale in se rispecchia il volto di Dio, e dominando le cose obbedisce all’ordine biblico: cresci e domina.

人間に名誉あれ!
その思考に名誉あれ!
その科学に名誉あれ!
その技術に名誉あれ!
その労働に名誉あれ!
手の努力に名誉あれ!
・・・
人間に名誉あれ、その他の動物と違い、その頭脳とその手で征服する手段を自らに与えることを知っている人間に!
人間に名誉あれ、地上の王、そして今では天の君主に!


MESSAGE OF HIS HOLINESS
POPE PAUL VI
FOR THE CELEBRATION OF THE
DAY OF PEACE
1 JANUARY 1972

人間に対する真の礼拝(culto)の結果からでない平和は、本当の平和であるとは言うことが出来ない。

イタリア語原文
E' difficile, ma e indispensabile formarsi il concetto autentico della pace. Difficile per chi chiude gli occhi alla sua primigenia intuizione, che ci dice la pace essere umanissima cosa. Questa e la via buona per arrivare alla scoperta genuina della pace: se noi cerchiamo donde essa veramente derivi, ci accorgiamo che essa affonda le sue radici nel senso sincero dell'uomo. Una Pace, che non risulti dal culto verace dell'uomo, non e essa stessa pace verace. E come chiamiamo questo senso sincero dell'uomo? Lo chiamiamo Giustizia.

フランス語版
Meme si c'est difficile, il est indispensable de se faire une conception authentique de la Paix. C'est difficile pour celui qui ferme les yeux a son intuition premiere, qui nous dit que la Paix est une chose tres humaine. Voila la bonne voie pour arriver a la decouverte authentique de la Paix. Si nous cherchons d'ou elle vient vraiment, nous nous apercevons qu'elle plonge ses racines dans le sens loyal de l'homme. Une Paix qui ne resulte pas du culte veritable de l'homme n'est pas elle-meme une veritable Paix. Et comment appelons-nous ce sens loyal de l'homme? La Justice.


英語訳(緩和された表現になっている)
It is difficult, but essential, to form a genuine idea of Peace. It is difficult for one who closes his eyes to his innate intuition of it, which tells him that Peace is something very human. This is the right way to come to the genuine discovery of Peace: if we look for its true source, we find that it is rooted in a sincere feeling for man. A Peace that is not the result of true respect for man is not true Peace. And what do we call this sincere feeling for man? We call it Justice.

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【参考資料】シゴード司教のタルディーニ枢機卿への意見書:第二バチカン公会議ですべきこと

2007年08月13日 | 第二バチカン公会議
アヴェ・マリア!

【参考資料】シゴード司教のタルディーニ枢機卿への意見書

WHAT VATICAN II SHOULD HAVE DONE!
Bishop Sigaud's Letter to Cardinal Tardini
より

兄弟姉妹の皆様、
シゴード司教のタルディーニ枢機卿への意見書をご紹介します。

 シゴード司教(Archbishop Geraldo de Proenca Sigaud, S.V.D.
+Sep 5, 1999 Died
.)は、1959年8月22日付けの手紙で、第二バチカン公会議の準備のために次のような書簡をタルディーニ枢機卿に送った。それは第二バチカン公会議が何を討論すべきか世界中の司教様たちからその要望を知らせてほしいという要請に応えるためだった。


枢機卿様、

 私はこのお手紙を、来るべき公会議で討論されなければならないことについて私の意見を聞かれた枢機卿様の6月18日のお手紙に従順に答えるために書いています。・・・

 私が現在、祖国と世界の他の部分でのでのカトリック生活を考察すると、命のしるしである多くのことを見ることができます。そしてそれらはキリストの教会を愛するすべての霊魂たちにとって慰めの源です。しかし同時に、私は大きな危険信号であるしるしをも見ています。これらは重大であって、公会議の準備委員会によってそして後には公会議によって考慮されるべきだと考えています。

 私には、革命と呼ばれる原理と精神が聖職者とキリスト者たちに浸透しているのが見えます。ちょうどこれは、過去異教の原理と教えと精神と愛が中世社会に浸透していき、偽りの改革【ルターの宗教改革のこと】を引き起こしたのと似ています。

 多くの聖職者達は、もはや革命の誤りを見分けることを知らずそれに抵抗しません。中には革命を理想として愛し、それを喧伝し、それと協力し、自分の使徒職を邪魔するものもいます。彼らは革命の反対者たちを迫害し、その悪口を言います。極めて多くの牧者たちは沈黙を守っています。革命の誤りと精神に同化し、この精神をオープンに或いは隠れて励ますものもいます。これはジャンセニズムの異端の時代に牧者たちがしたのと全く同じことです。誤謬に対して立ち上がって反対するものは、同僚から迫害を受け、「非妥協主義者」とレッテルを貼られます。

 革命の理想で頭がいっぱいになった神学生たちが神学校を卒業して出てきています。それは聖なる都市であるローマでも同じことです。彼らは自分たちのことを「マリタン主義者」とか「テイヤール・ド・シャルダンの弟子」「社会主義カトリック」「進化論者」と自称しています。革命に反対して戦う司祭は、ほとんど司教となることがありません。しかし革命を支持する人びとは頻繁に司教となっています。

 私の意見として、教会は革命に反対する組織的な闘いを世界中で組織するべきです。これがなされるようになるかは私には分かりません。しかし、革命家たちはそのように行動しています。この組織化され体系化された全世界でのはたらきの例として、第二次世界大戦直後の同時的そして均等的な「キリスト教民主主義」の誕生があります。・・・


1 教会の敵

 教会とカトリック社会の、疲れを知らない敵【悪魔】は、既に六世紀にわたり道徳的闘いにおいて廃退させています。ゆっくりとしたしかし体系的な前進において、敵はカトリックの秩序、つまり天主の国をほとんど全て転覆させ破壊してしまいました。そしてその天主の国の代わりに、人間の国を創ろうとしています。この新しい国の名前は「革命」と言います。


 人間生活の秩序を造ろうとして、天主の無い・教会の無い・イエズス・キリストの無い・啓示の無い社会と人類、人間理性と官能と欲望と傲慢の上にのみ気づかれた社会を目ざしています。これに到達するため、既にあるものごとを根本的に引き倒し破壊し尽くし、教会の場所を占めなければなりません。敵は、勝利が近づいていると知っていると確信しているので、最近は極めて活動的になっています。しかしながら、多くのカトリック牧者たちは、これらの考察を、悪い想像から来た多くの夢物語であるかのように馬鹿にして拒否します。これは悲惨の数年前のコンスタンチノーポルの住民たちが取っていた態度でした。彼らは危険を見ようと望まなかったので目が見えなくなっていました。


A フリーメーソンのセクト

 全公会議の目は、フリーメーソンのセクトにむけられるべきです。フリーメーソンの哲学は啓示と対立していると宣言した教皇様の言葉、フリーメーソンをカトリック社会に反対する戦争の中心的武器であると告発した教皇様の言葉はまだ有効です。クレメンテ十二世がこのフリーメーソンのセクトのプログラムが何かを指し示しましたが、その結果を二百年後に見ることができます。このプログラムの幾つかの要素はまだ欠けています。しかしこれは偉大な知性と邪悪さとエネルギーと論理とで後押しされています。そして大きな速度で実現しようとしています。いまでは「人間の国」の建設にほとんど足りないものはありません。「地上の王たちの会合」において教会にはあと何年残っているのでしょうか? 「新世界秩序」を世界と信徒たちに強制するとはあと何年の後のことでしょうか?


 私は全世界的なカトリック秩序に反対する陰謀とその陰謀の来るべき勝利(天主が教会を奇蹟によって守り給わない限り、そして天主が私たちの疲れを知らないはたらきによってそのような奇蹟を準備し給わない限りおこるだろう勝利)に関することの極めて重大な証拠に枢機卿様の注意を向けたいと思います。

 この紙切【アメリカの一ドル紙幣のこと】を良くみると何が見えるでしょうか?



 右の丸の中に、広い荒野の上に立てられたピラミッドが見えます。ピラミッドは、磨かれた四角の石でできています。これらのシンボルの意味は、ラテン語で書かれた言葉によって与えられています。「新世界秩序」Novus Ordo Seculorum です。このピラミッドは、フリーメーソンによって敬われている人間たちによって構成されている新しい人類を意味しています。これらの人間たちは、天主によって創られましたが、宇宙の偉大なる建築家によって変化を受けました。ピラミッドのそこは、この新世界秩序の基礎が置かれた年を示しています。つまり1776年であり、アメリカ合衆国の誕生の年です。

 アメリカ合衆国は従って、この新しいフリーメーソン的な人類の基礎です。ピラミッドにはまだ幾つか石が欠如しています。新世界秩序はまだ完成されていません。しかしほとんど完成に近づいています。その間、仕事は遂行されるでしょう。ピラミッドの頂上には「神」が描かれています。創造主であるイエズス・キリストの聖父なる天主ではなく、グノーシス的な神、建築家です。これが三角形の中の目で表されています。これはグノーシス的なマニ教的二元論の領域であり、フリーメーソンのセクトの神学的基礎をなしています。この「神」は彼らの事業を承認しました。このことがピラミッドの上に書かれています。Annuit coeptis 彼はその事業を承認した。

 この寓話の意味は極めて明らかです。私たちにとって新世界秩序は、1959年前に私たちの主イエズス・キリストによって創立されました。ここで問題になっている新秩序は、1776年に始まり、その構成は創造された自然とは反対しています。この秩序はすぐに完成するでしょう。

 この問題は、教会にとって生きるか死ぬかの問題です。フリーメーソンの秩序は、カトリックの秩序とは対立します。極めてすぐに、フリーメーソンの秩序は全人類を覆うことでしょう。しかしそれにも関わらず、カトリック司教や司祭たちは、このことに気づいていません。そして多くの聖職者達はこれに沈黙を守っています。・・・
(後略)

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성 비오 10세회
トリエント公会議(第19回公会議)決議文
第一バチカン公会議 (第20回公会議)決議文(抜粋)
聖ピオ五世教皇 大勅令『クォー・プリームム』(Quo Primum)
新しい「ミサ司式」の批判的研究 (オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿)Breve Exame Critico del Novus Ordo Missae
グレゴリオ聖歌に親しむ会


【参考資料】ベネディクト十六世教皇の自発使徒書簡 Motu Proprio 『スンモールム・ポンティフィクム SUMMORUM PONTIFICUM 』の非公式日本語訳
【参考資料】1970년 개혁 이전의 로마 전례 사용에 관한 베네딕토 16세 교황 성하의 자의 교서 「교황들」(Summorum Pontificum)
【参考資料】第二バチカン公会議宣言『信教の自由に関する宣言』
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第二バチカン公会議の『教会憲章』の曖昧な表現についてどう考えるべきか?

2007年08月01日 | 第二バチカン公会議
アヴェ・マリア!

◆ 『教会憲章』の曖昧な表現についてどう考えるべきか?

【答え】まず異端的な共同体や離教的な共同体を「カトリック教会とはまだ充満的な交わりの中にはない教会と教団」(those Churches and ecclesial communities which are not yet in full communion with the Catholic Church)と読んでいることに注目すべきです。このことは、部分的な、或いは、不完全な、または一部的な交わりということを想定する表現です。

◆ この充満的な交わり full communion という表現は新しいものか?

【答え】「完全な交わり」(充満的な交わり)と「不完全な交わり」という区別は、第二バチカン公会議の考え出した主要な新しい点です。

 この革新は『エキュメニズムに関する教令』3に出てきます。更に、『教会憲章』14にも「完全に合体している」(fully incorporated) という表現が出てきます。

◆ これに関する教会の聖伝の教えは何か?

【答え】教会の教えは極めて単純です。救いを得るためには、或いは現実に(in re)教会に属しているか【つまり、古典的な三つの条件である洗礼・カトリック信仰・位階制度への従順を満たすことによってです】、
或いは少なくとも望みによって(in voto)教会に属していなければなりません【つまり、暗示的な或いは明示的な望みを持つことによってです】。

 現実に(in re)教会に属していない人びとでも、或る状況では望みによって(in voto)属していることができます。このようなことを教会の霊魂(anima)に属するとも言います。この望みは明示的であったり、暗示的であったりします。明示的であるとは、例えば洗礼を受けようとして準備している求道者の場合がそうです。洗礼を受けてはいないけれど洗礼を受けることによって教会に属することを望むとはっきり態度で示している場合です。暗示的であるとは、異端のプロテスタント宗派に生まれてきたけれども、不可避の仕方によって自分の故意ではなく真理を知らなかったことによる以外はこの異端説を信じなかったような人びとです。カトリック教会が唯一の真理の宗教であると知る主眼がなかったけれども、根本的にそれを受け入れる準備ができているような人びとです。

 従って、カトリック信仰を持っていない人びと、或いは正当な位階秩序に従わない人びと、また自分の置かれた状況を変えようと言う暗示的な望みもないような人びとは、教会には属していません。そのような状態では、永遠の救いを確保することができません。

◆ 第二バチカン公会議の新しいところは何処か?

【答え】第二バチカン公会議は、教会への所属と非所属という二つの中間形態を見つけようとしました。カトリックではないキリスト者らは教会と「不完全な交わり」(『エキュメニズムに関する教令』3、『教会憲章』15)にあるとされ、キリスト者ではない全ての人々は「神の民へ秩序づけられている」(ad Populum Dei ... ordinantur)。

 このことは、教会に属したいという少なくとも暗示的な望みを抱かなくても、望もうが望まないが「神の民へ秩序づけられている」のであるから、救われうるということを暗示しています。

◆ 第二バチカン公会議によれば、一体どうやって、離教的な共同体や異端的な共同体らがカトリック教会と「不完全な交わり」にあると言えるのか?

【答え】カトリック教会から離れたキリスト者や教団が「不完全な交わり」にあると言うために、第二バチカン公会議はラッツィンガー枢機卿が「ドミヌス・イエズス」でそうするように、彼らの持つ「聖化の要素」を取り上げます。これによってキリストの唯一の教会と交わっていることになると言います。

◆ 離教的な教団や異端的な団体であっても聖化の要素を保持しているというのは本当ではないのか?

【答え】プロテスタントが(その内容が多かれ少なかれ変更を加えられているとはいえ)聖書を持っていること、東方離教徒たちが秘蹟を保持していることは本当です。しかし聖伝の神学は、カトリック教会からいわば盗んできたこれらの現実を「聖化の要素」とか「教会の要素」とは呼んだことがありませんでした。教会はこれらをむしろ、真理の宗教の「残骸」と見てきました。

◆ 「残骸」を「教会の要素」と言い換えたことは重要か?

【答え】重要です。何故なら「残骸」ということは極めて重大な真理を表明しているからです。何故なら、カトリック教会から離れることによって、これらの要素は生きているという現実であることができなくなるからです。つまり、死に絶えた「残骸」であり「廃墟」と言うことです。この用語の変更は偶然ではありません。

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参考資料】
【参考資料】ベネディクト十六世教皇の自発使徒書簡 Motu Proprio 『スンモールム・ポンティフィクム SUMMORUM PONTIFICUM 』の非公式日本語訳
【参考資料】第二バチカン公会議宣言『信教の自由に関する宣言』
コメント

第二バチカン公会議の文書の曖昧な性格は何に由来するのか?

2007年08月01日 | 第二バチカン公会議
アヴェ・マリア!

◆ 第二バチカン公会議の文書の曖昧な性格は何に由来するのか?

【答え】第二バチカン公会議のテキストの曖昧な表現は、保守的な教父たちを錯誤させるために故意に導入されました。最初に公会議文書は教会が常に教えていたこと以外の何ものもの言おうとするわけではない、と主張してそのように幻想を抱かせ、公会議文書が決議されると、これらの文書を盾にとって正統な教えとは全く離れた説を擁護することができるようにするためでした。

◆ これらの曖昧な表現が故意に導入されたという証拠はあるのか?

【答え】カール・ラーナー(Karl Rahner)とヘルベルト・フォルグリムラー(Herbert Vorgrimler)とはそのことを確認しています(K. Rahner und H. Vorgrimler, "Kleines Konzilskompendium". Saemtliche Texte des Zweiten Vatikanums, Fribourg, Herder, 1986, p.21)。

「一致にいたることができない重要な神学問題の幾つかは、いろいろなグループやいろいろな神学的傾向をもっている個人が公会議中、異なる解釈をすることができるような言い回しを選ぶことによってオープンにしておいた。」

◆ 公会議の文書においてそのような曖昧な不正確な言い方がどのようにして正当化されたのか?

【答え】 このような故意の曖昧な言い方は、第二バチカン公会議が司牧公会議であることを望み、教義決定の公会議のために必要な神学的明確さで表明する必要がないという事実から正当化されました。


◆ 計算された曖昧な表現の例を挙げることができるか?

【答え】この曖昧な表現の例の一つに、『教会憲章』において導入された有名な表現「subsistit in」があります。『教会憲章』ではキリストの教会はカトリック教会「においてある(subsistit in)」と言われています。

『教会憲章』8(教会の神的、人的要素)
 ・・・この教会 は、この世に設立され組織された社会としては、ペトロの後継者およびかれと交わりのある司教たちによって治められる、カトリック教会のうちに存在する。しかし、この組織の外にも聖化と真理の要素が数多く見いだされるが、それらは本来キリストの教会に属するたまものであり、カトリック的一致へと促すものである。

【ラテン語】
CONSTITUTIO DOGMATICA DE ECCLESIA LUMEN GENTIUM
8. ... Haec Ecclesia, in hoc mundo ut societas constituta et ordinata, subsistit in Ecclesia catholica, a successore Petri et Episcopis in eius communione gubernata(13), licet extra eius compaginem elementa plura sanctificationis et veritatis inveniantur, quae ut dona Ecclesiae Christi propria, ad unitatem catholicam impellunt.

【英語】
DOGMATIC CONSTITUTION ON THE CHURCH LUMEN GENTIUM
8. ... This Church constituted and organized in the world as a society, subsists in the Catholic Church, which is governed by the successor of Peter and by the Bishops in communion with him,(13*) although many elements of sanctification and of truth are found outside of its visible structure. These elements, as gifts belonging to the Church of Christ, are forces impelling toward catholic unity.

◆ 何故第二バチカン公会議はこの subsistit in (のうちに存在する)という表現を採用したのか?

【答え】この subsistit in (のうちに存在する)という表現によって、第二バチカン公会議は「キリストの教会」と「カトリック教会」とを区別しようとしました。聖伝の神学によれば、キリストの教会とは、人類の救いのために私たちの主イエズス・キリストによって創立された超自然の社会であり、すなわちカトリック教会です。

◆ 第二バチカン公会議にとってこの subsistit in (のうちに存在する)という表現は何を意味するのか?

【答え】第二バチカン公会議は、キリストの教会はカトリック教会において完全に実現していると認めています。この具体的で完全な実現性のことを第二バチカン公会議では "subsistentia" と表現しています。

 たとえば、CONGREGATION FOR THE DOCTRINE OF THE FAITH DECLARATION "DOMINUS IESUS" の注56にはこうあります。
(56) The interpretation of those who would derive from the formula subsistit in the thesis that the one Church of Christ could subsist also in non-Catholic Churches and ecclesial communities is therefore contrary to the authentic meaning of Lumen gentium. “The Council instead chose the word subsistit precisely to clarify that there exists only one ‘subsistence' of the true Church, while outside her visible structure there only exist elementa Ecclesiae, which --- being elements of that same Church --- tend and lead toward the Catholic Church” (Congregation for the Doctrine of the Faith, Notification on the Book “Church: Charism and Power” by Father Leonardo Boff: AAS 77 [1985], 756-762).

教皇庁教理省宣言 『ドミヌス・イエズス』 和田 幹男 訳より
56 それゆえ、Subsistit in との言語表現からキリストの唯一の教会が非カトリックの諸教会と諸教団にも「存する」ことができるとする命題を考案する者の解釈は公会議本文の正真正銘の意味とは反する。「それゆえ、公会議が "subsistit" を選んだのはただひとつの真の教会が "存すること" を明らかにするためで、他方、そのためにその目に見える境の外にあるのはただ "教会の要素" であって、これは――教会そのものの要素であるから――カトリック教会を指向しており、これに導くものである」(教理省、『レオナルド・ボフの著作"教会:カリスマと権力"についての通知』:AAS 77(1985)756-762)


 しかし同時に、キリストの教会とカトリック教会とが同一ではないと認めています。第二バチカン公会議によれば、カトリック教会の外にも、その他のキリスト教といわれる共同体において「教会の要素」があるために、不完全の仕方で「キリストの教会」が延長していることになっています。

◆ この subsistit in (のうちに存在する)という表現の解釈は確かなのか?

【答え】この subsistit in (のうちに存在する)という表現の解釈は、2000年8月6日の教皇庁教理省宣言『ドミヌス・イエズス』によって公式に確認されました。

「 ...中に存する[subsistit in]」という表現をもって、第2ヴァティカン公会議は二つの教理を調和させようとする。一方では、キリストの教会はキリスト教徒の分裂にもかかわらず、その充満としてはただカトリック教会の中にだけ存在し続けるということである。他方、「その境界の外にも」、つまりカトリック教会とはまだ充満的な交わりの中にはない教会と教団の中にも「聖化と真理の数多くの要素が存在する」ということである。

With the expression subsistit in, the Second Vatican Council sought to harmonize two doctrinal statements: on the one hand, that the Church of Christ, despite the divisions which exist among Christians, continues to exist fully only in the Catholic Church, and on the other hand, that “outside of her structure, many elements can be found of sanctification and truth”,55 that is, in those Churches and ecclesial communities which are not yet in full communion with the Catholic Church.

更に、つい最近のRESPONSES TO SOME QUESTIONS REGARDING CERTAIN ASPECTS OF THE DOCTRINE ON THE CHURCH
教会に関する教義の幾つかの観点に関する質疑応答(2007年6月29日)
にも同じことが見えます。

第二の質問:キリストの教会がカトリック教会において存在する(subsists in)という断言は何を意味するのか?

回答:キリストは唯一の教会を「この地上に設立し」それを「見える霊的共同体」として制定した(『教会憲章』8)。その最初から諸世紀にわたってその教会は常に存在したし常に存在し続けるだろう。そしてそれにおいてだけキリストご自身が制定した全ての要素が見いだされる。(『エキュメニズムに関する教令』3.2; 3.4; 3.5; 4.6.)「これがキリストの唯一の教会である。われわれは信経の中で、この教会を唯一、聖、カトリック、使徒的と宣言する。・・・この教会 は、この世に設立され組織された社会としては、ペトロの後継者およびかれと交わりのある司教たちによって治められる、カトリック教会のうちに存在する。」(『教会憲章』8:2)

 『教会憲章』の第八番においてある subsistentia (のうちに存在するということ)は、このキリストによって制定された全ての要素がカトリック教会において存在することが継続性・歴史的持続性・存続性を持っているということを意味する。このカトリック教会においてキリストの教会がこの地上において具体的に創立された。

 カトリックの教義に従えば、キリストの教会が、カトリック教会と充満的に交わりにまだない諸教会や教団において現存し働いているということを正しく断言することができる。それはそれらにおいて現存する、聖化の要素と真理とのためである。しかしながら「において存在する」という言葉は、カトリック教会だけに帰されることができる。何故ならまさに、これは私たちが信経において信仰宣言する一性のしるし(われは一なる教会を信じ)に言及するからである。この一なる教会がカトリック教会において存在する。


Second Question: What is the meaning of the affirmation that the Church of Christ subsists in the Catholic Church?

Response: Christ "established here on earth" only one Church and instituted it as a "visible and spiritual community"5, that from its beginning and throughout the centuries has always existed and will always exist, and in which alone are found all the elements that Christ himself instituted.6 "This one Church of Christ, which we confess in the Creed as one, holy, catholic and apostolic […]. This Church, constituted and organised in this world as a society, subsists in the Catholic Church, governed by the successor of Peter and the Bishops in communion with him"7.

In number 8 of the Dogmatic Constitution Lumen Gentium ‘subsistence’means this perduring, historical continuity and the permanence of all the elements instituted by Christ in the Catholic Church8, in which the Church of Christ is concretely found on this earth.

It is possible, according to Catholic doctrine, to affirm correctly that the Church of Christ is present and operative in the churches and ecclesial Communities not yet fully in communion with the Catholic Church, on account of the elements of sanctification and truth that are present in them.9 Nevertheless, the word "subsists" can only be attributed to the Catholic Church alone precisely because it refers to the mark of unity that we profess in the symbols of the faith (I believe... in the "one" Church); and this "one" Church subsists in the Catholic Church.10

第三の質問:「である」という単純な単語の代わりに何故「において存在する subsistit in」という表現が採用されたのか?

回答:キリストの教会とカトリック教会との充満的な同一性を意味するこの表現を使うことは、教会の教義を変えることではない。むしろ、カトリック教会の構造の外に見いだされる「聖化と真理の要素が数多く見いだされ」、それらが「本来キリストの教会に属するたまものであり、カトリック的一致へと促す」という事実から来ており、その事実を明らかにする。
「われわれは、これらの分かれた諸教会と諸教団には欠如があると信じるが、けっして救いの秘義における意義と重要性を欠くものではない。なぜならキリストの霊はこれらの教会と教団を救いの手段として使うことを拒否しないからであり、これらの救いの手段の力はカトリック教会にゆだねられた恩恵と真理の充満に由来する。」(『エキュメニズムに関する教令』3:4)

Third Question: Why was the expression "subsists in" adopted instead of the simple word "is"?

Response: The use of this expression, which indicates the full identity of the Church of Christ with the Catholic Church, does not change the doctrine on the Church. Rather, it comes from and brings out more clearly the fact that there are "numerous elements of sanctification and of truth" which are found outside her structure, but which "as gifts properly belonging to the Church of Christ, impel towards Catholic Unity"11.

"It follows that these separated churches and Communities, though we believe they suffer from defects, are deprived neither of significance nor importance in the mystery of salvation. In fact the Spirit of Christ has not refrained from using them as instruments of salvation, whose value derives from that fullness of grace and of truth which has been entrusted to the Catholic Church"12.

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コメント (1)

聖ピオ十世「パッシェンディ」の内容と第二バチカン公会議後の改革

2007年07月31日 | 第二バチカン公会議
アヴェ・マリア!


兄弟姉妹の皆様、
 教皇聖ピオ十世 近代主義の誤りについて『パッシェンディ Pascendi Dominici gregis』1907年9月8日 の「改革者としての近代主義者」の内容と大変に似通っている次の事実を紹介します。

38.さて、私はここで、改革者としての近代主義者について少し述べておかなければなりません。これまで述べてきたことから、このような人々が抱く刷新への熱情がどれほど強く、どれほど激しいものであるかは充分すぎるほど明らかです。カトリシズムの中で、かかる熱情の対象とならぬものは、実に一つとしてありません。

■ 彼らは哲学が、特に神学校において刷新されることを望んでいます。彼らはスコラ哲学が哲学史の単なる一章として種々の絶対的体系の中に位置づけられること、また「唯それのみが真でありかつ私たちの生きる時代に適合したものである現代哲学」が青少年に教えられることを望んでいます。(聖ピオ十世)

◆ 1917年のカトリック教会法典では、神学校で聖トマス・アクィナスの神学を学ぶことが義務であった。
 1983年のカトリック新教会法典では、その義務が無くなっている。


■ [近代主義者によれば]「公教要理においては、刷新されたものおよび一般の人々の理解能力の及ぶものをのぞいていかなる教義も記されるべきではありません。(つまり、刷新されたものおよび一般の人々の理解能力の及ぶものだけを教義をして記すこと)」(聖ピオ十世)

◆ 1992年、新しい『カトリック教会のカテキズム』(1992年10月11日の使徒憲章『Fidei depositum』)。


■ 礼拝について彼ら[近代主義者]が言うには「外的な信心の数は減らされ、これ以上それが増えることのないように手段が講じられなければなりません。」もっとも、彼らの中で象徴主義を信奉する一部の者は、このことに関しては、より寛容な姿勢を見せるのですが。(聖ピオ十世)

◆ 1968年、叙階の秘蹟の新しい儀式が出される(1968年6月18日の使徒憲章『Pontificalis romani』)。

 1969年、新しいミサが出される(1969年4月3日の使徒憲章『ミサーレ・ロマーヌム』)。

 1969年、新しい洗礼の儀式が誕生する(1969年5月15日)。成人洗礼の新しい儀式は1972年1月6日に出る。

 1969年、新しい婚姻の儀式(1969年3月)。さらに1990年に更に新しい婚姻の儀式が出ている。

 1971年、新しい堅振の儀式(1971年8月15日の使徒憲章『Divinae consortium naturae』)。

 1972年、新しい終油の秘蹟(1972年11月30日の使徒憲章、及び1971年8月22日の教令)。

 1973年、新しい悔悛の秘跡(1973年12月2日の教令)。

 1970年、新しい聖務日課(1970年11月1日の使徒憲章『Laudis canticum』、1971年4月11日の教令)。

 1969年、新しい典礼暦(1969年2月14日自発教令『Mysterii paschalis』)。

 1970年、新しい聖香油(1970年12月3日の教令)。

 1983年、カトリック新教会法典(1983年1月25日の使徒憲章『Sacrae disciplinae leges』)。

 1991年、新しい十字架の道行き(新しい十字架の道行きには14留の代わりに15留があり、様々な変更がある)。

 1998年、新しい払魔式(Exorcismus)

 2001年、新しい殉教録(2001年6月29日発行。この中に6538名の聖人及び福者の名前が掲載されている。そのうち約3分の1である1717名はヨハネ・パウロ二世によって列聖列福された)。

 2002年、新しいロザリオの祈り(2002年10月16日の回勅『Rosarium Virginis Mariae』)。

 日本語では、新しい「天にまします」(主祷文)と「めでたし」(天使祝詞)、使徒信経の訳がある。


■ [近代主義者によれば]ローマ聖省、中でも特に図書検閲聖省ならびに検邪聖省も同様に改変されなければなりません。(聖ピオ十世)

◆ 検邪聖省が「信仰教義聖省」となる

 ルフェーブル大司教は検邪聖省で長く働いておられたブラウン枢機卿にこう質問をしたことがある。

 ルフェーブル大司教 「検邪聖省(Holy Office, Sanctum Officium)が教義聖省と名称を変えたことは、ただ名前が変わっただけの本質とは関係のない表面的なことなのでしょうか?それとも本質的な抜本的な変化だったのでしょうか?」
 ブラウン枢機卿 「本質的な変化です。全く明らかです。」

 実際に、信仰の法廷は「神学探究所」に変わった。例えば、「解放の神学」についてこの「神学」とその誤謬を明確に排斥するどころか、むしろ奨励する結果を生んでしまった。何故なら、信仰の法廷であるべきものが「神学研究所」に変わったからだ。カトリック教会は真理を持っているのではなく、「共に探しているところである」という態度に変わったからだ。

 従って、第二バチカン公会議後のローマは、誤謬を排斥しない。異端を異端だと言わなくなった。ただ、1年ほど沈黙を守るように、そして「この教えはカトリックの教壇で教えられるには相応しくない」と言われるだけとなった。そのために誤謬がカトリック教会内に自由に宣伝され、教えられるようになってしまっている。

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第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 人間人格の尊厳?
第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 存在論的尊厳、行動の自由?
第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 主観的権利、それとも客観的権利?
第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 拘束を伴わない探求?
第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 対話、それとも説教?
第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 真理の宗教? それとも偽りの宗教?
第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 誤った諸宗教の有する権利?
第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 権利、それとも認容?
第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 真の信仰にとって有利となる国家の不介入?
第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 自由な国家における自由な教会?
第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 真の宗教の原則が認知されないことこそ「正常な」状態?
第二バチカン公会議についての疑問および問題点: すべての信教の自由が最良の制度?
第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 宗教の真理から独立した法的秩序?
第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 信教の自由: どこまでが「正しい範囲」か?
第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 宗教上の問題におけるすべての人間的権力による一切の強制からの免除?
第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 教導権に反する『信教の自由に関する宣言』?
第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 『信教の自由に関する宣言』かクァンタ・クラか?

第二バチカン公会議『信教の自由に関する宣言』に即したカトリック国家に対するローマ教皇庁の政策 バチカンの圧力によるコロンビア国家の世俗化、及びルフェーブル大司教とスイスの教皇大使アンブロジオ・マルチオニ司教とのベルンでの会話
第二バチカン公会議『信教の自由に関する宣言』に即したカトリック国家に対するローマ教皇庁の政策 スペインの世俗化、及び聖座とイタリアとの間の新しい政教条約の承認

第二バチカン公会議の『信教の自由に関する宣言』(DIGNITATIS HUMANAE)日本語訳のみ
第二バチカン公会議の「信教の自由に関する宣言」(DIGNITATIS HUMANAE)羅和1と2
第二バチカン公会議の「信教の自由に関する宣言」(DIGNITATIS HUMANAE)羅和3と4
第二バチカン公会議の「信教の自由に関する宣言」(DIGNITATIS HUMANAE)羅和5,6,7.8
第二バチカン公会議の「信教の自由に関する宣言」(DIGNITATIS HUMANAE)羅和 第二部 9,10,11
第二バチカン公会議の「信教の自由に関する宣言」(DIGNITATIS HUMANAE)羅和 第二部 12,13,14,15
コメント

第二バチカン公会議「信教の自由に関する宣言」(DIGNITATIS HUMANAE)つづき

2007年07月27日 | 第二バチカン公会議
アヴェ・マリア!

 兄弟姉妹の皆様、参考資料として第二バチカン公会議の「信教の自由に関する宣言」(DIGNITATIS HUMANAE)の第二部「信教の自由の一般原則」の12,13,14、15の日本語訳とラテン語とを掲載します。リンク先をクリックすると、そこについての疑問および問題点に飛びます。

12(教会はキリストおよび使徒たちの模範に従う) 福音の真理に忠実な教会は、信教の自由の原則が、人間の尊厳と神の啓示とに合致するものと認め、それを促進する場合、キリストと使徒たちに従うものである。教会は、師と使徒たちから受けた教えを長い世紀にわたって守り、伝えてきた。人間の歴史を通って旅を続ける神の民の生活の中には、福音の精神にあまりふさわしくない行動、または、それに反するものさえあった。しかし、何人にも信仰を強制してはならないというのが、教会の一貫した教えであった。

12. Ecclesia igitur, evangelicae veritati fidelis, viam Christi et Apostolorum sequitur quando rationem libertatis religiosae tamquam dignitati hominis et Dei revelationi consonam agnoscit eamque fovet. Doctrinam a Magistro et ab Apostolis acceptam, decursu temporum, custodivit et tradidit. Etsi in vita Populi Dei, per vicissitudines historiae humanae peregrinantis, interdum exstitit modus agendi spiritui evangelico minus conformis, immo contrarius, semper tamen mansit Ecclesiae doctrina neminem esse ad fidem cogendum.


 福音の酵素は、人間が時代を下るにつれて、しだいに人格の尊厳を一般に認め、宗教問題において、人間がいかなる強制からも自由でなければならないという確信が熟するために、長い間作用し、大きく貢献した。


 13(宗教団体の権利) 教会の利益、さらには地上の国の利益にかかわりをもち、いたる所において常に保護され、あらゆる危害から守られるべきものの中で、最も貴重なものは、教会が人類の救いの事業を遂行するために必要な自由を持つことである。実際、この自由は、神のひとり子が、自分の血をもってかち得た教会に与えた聖なるものである。確かに自由は教会に固有のものであり、この自由を攻撃する者は、神の意志に反して行動することになる。教会の自由は、教会と公権およびすべての社会秩序との関係の根本原理である。
 教会は主キリストから建てられ、全世界に行って、すべての被造物に福音をのべる義務を神から負わされている精神的権威者として、人間社会において、またすべての公権の前で、自由を要求する。教会はまた、キリスト教の信仰の掟に従って市民社会に生活する権利をもつ人々の社会としても、自由を要求する。
 そのため、信教の自由の制度が、単に口で宣言されまた法で定められるだけでなく、誠意をもって実行に移されるならば、その時に、教会は、法律上および事実上安定した条件と神の使命を遂行するために必要な自律性を与えられることになる。この自律性こそ、教会当局が社会において、主張し、要求し続けてきたものである。また、キリスト信者も他の人々同様、民法上の権利をもち、自分の良心に従って生活することを妨げられてはならない。したがって、教会の自由とすべての個人および団体に権利として認められ、かつ法的に定められるべき信教の自由とは互いに一致するものである。

13. Inter ea quae ad bonum Ecclesiae, immo ad bonum ipsius terrenae civitatis spectant et ubique semperque servanda sunt atque ab omni iniuria defendenda, illud certe praestantissimum est, ut Ecclesia tanta perfruatur agendi libertate, quantam salus hominum curanda requirat.[32] Haec enim libertas sacra est, qua Unigenitus Dei Filius ditavit Ecclesiam acquisitam sanguine suo. Ecclesiae sane adeo propria est, ut qui eam impugnant, iidem contra Dei voluntatem agant. Libertas Ecclesiae est principium fundamentale in relationibus inter Ecclesiam et potestates publicas totumque ordinem civilem.

In societate humana et coram quavis potestate publica Ecclesia sibi vindicat libertatem, utpote auctoritas spiritualis, a Christo Domino constituta, cui ex divino mandato incumbit officium eundi in mundum universum et Evangelium praedicandi omni creaturae.[33] Libertatem pariter sibi vindicat Ecclesia prout est etiam societas hominum qui iure gaudent vivendi in societate civili secundum fidei christianae praescripta.[34]

Iamvero si viget ratio libertatis religiosae non solum verbis proclamata neque solum legibus sancita, sed etiam cum sinceritate in praxim deducta, tunc demum Ecclesia stabilem obtinet et iuris et facti condicionem ad necessariam in missione divina exsequenda independentiam
, quam auctoritates ecclesiasticae in societate presse pressiusque vindicarunt.[35] Simulque Christifideles, sicut et ceteri homines, iure civili gaudent ne impediantur in vita sua iuxta conscientiam agenda. Concordia igitur viget inter libertatem Ecclesiae et libertatem illam religiosam, quae omnibus hominibus et communitatibus est tanquam ius agnoscenda et in ordinatione iuridica sancienda.


 14(カトリック信者に対する勧告) カトリック教会は「行って万民に教えよ」(マテオ 28・19)という神の命に従って、「神のことばが広まり、明らかになるよう」(2テサロニケ 3・1)たゆまず働かなければならない。
 そのため、教会は、何よりもまず、信者たちに、「すべての人のため、嘆願と祈願と感謝をするように望む……実際、それはよいことであり、すべての人が救われ、真理を知るようになることを望むわれらの神なる救い主の前によろこばれることである」(1テモテ 2・1~4)。
 しかし、キリスト信者は、自分の良心を形成するにあたって、教会の確実で聖なる教えに忠実に従わなければならない。実際、キリストの意志によって真理の教師であるカトリック教会は、真理であるキリストを告げ、正しく教え、同時に人間性に基づく道徳の原理をみずからの権威をもって宣言し、確証することがその任務である。さらに、キリスト信者は、教会外部者に対して懸命にふるまい、「聖霊において、偽りない愛と真理のことばをもって」(2コリ 6・6~7)生命の光を、全き信頼と使徒的勇気をもって、おのが血を流すまでに、広げるよう努力しなければならないのである。
 実際、弟子は、師キリストから受けた真理をいっそうよく知り、福音の精神に反する手段を排して、忠実にこれを伝え、勇敢に擁護すべき重大な義務を持っている。しかし、同時にキリストの愛は、愛と賢明と忍耐をもって信仰について誤謬あるいは無知の状態にある人たちにも接するよう要求する。したがって、命を与えることばであるキリストを宣べ伝える義務と、人間の諸権利と、自発的に信仰を受け、それを公言するように召された人は、キリストを通して神から与えられた恩恵の程度とを考慮しなければならない。

14. Ecclesia catholica, ut divino obtemperet mandato: ≪docete omnes gentes≫ (Mt. 28, 19), impensa cura adlaborare debet ≪ut sermo Dei currat et clarificetur≫ (2 Thess. 3, 1).

Enixe igitur rogat Ecclesia, ut a filiis suis primum omnium fiant ≪obsecrationes, orationes, postulationes, gratiarum actiones pro omnibus hominibus... Hoc enim bonum est et acceptum coram Salvatore nostro Deo, qui omnes homines vult salvos fieri et ad agnitionem veritatis venire≫ (I Tim. 2, 1-4).

Christifideles autem in sua efformanda conscientia diligenter attendere debent ad sacram certamque Ecclesiae doctrinam.[36] Christi enim voluntate Ecclesia catholica magistra est veritatis, eiusque munus est, ut Veritatem quae Christus est enuntiet atque authentice doceat, simulque principia ordinis moralis, ex ipsa natura humana profluentia, auctoritate sua declaret atque confirmet. Insuper Christiani, in sapientia ambulantes ad eos qui foris sunt, ≪in Spiritu Sancto, in caritate non ficta, in verbo veritatis≫ (2 Cor. 6, 6-7), lumen vitae cum omni fiducia[37] et fortitudine apostolica, ad sanguinis usque effusionem, diffundere satagant.

Etenim discipulus erga Christum Magistrum gravi adstringitur officio, veritatem ab Eo receptam plenius in dies cognoscendi, annuntiandi fideliter, strenueque defendendi, exclusis mediis spiritui evangelico contrariis. Simul tamen caritas Christi urget eum, ut amanter prudenter patienter agat cum hominibus, qui in errore vel ignorantia circa fidem versantur.[38] Respiciendum igitur est tum ad officia erga Christum Verbum vivificans quod praedicandum est, tum ad humanae personae iura, tum ad mensuram gratiae a Deo per Christum tributam homini, qui ad fidem sponte accipiendam et profitendam invitatur.


 15(結語) 現代人が、私的かつ公的に宗教を自由に信奉できることを望んでいること、信教の自由が多くの国の憲法の中ですでに市民の権利として宣言され、また国際的文書によっておごそかに認められていることは確かである。
 しかし、宗教的礼拝の自由が憲法によって認められているが、市民を宗教の信奉から遠ざけ、宗教団体の生活をきわめて困難で不安にしている政府もないではない。
 公会議は、現代のこのような喜ばしいしるしを快く迎える一方、嘆かわしい事実を憂いながら、告発し、すべての人が、特に人類の現状において、信教の自由がいかに必要であるかを慎重に考慮するように切に希望する。
 実際、すべての民族が、日とともにますます一体化し、文化と宗教とを異にする人々がいっそう強いきずなで互いに結ばれ、さらに、おのおのの責任感が盛んになりつつあることは明かな事実である。したがって、人類の間に平和的な関係と和合が確立され、強化されるためには、地上いたる所において信教の自由が効果的かつ法的な保護を受け、社会において宗教生活を自由に営む人間の最高の義務と権利とが守られる必要がある。
 万民の父である神の計らいにより、社会において人類が信教の自由の制度を忠実に守り、キリストの恩恵と聖霊の力とによって、崇高にして久遠の「神の子らの栄光の自由」(ロマ 8・21)へ導かれんことを。 この教令の中で布告されたこれらすべてのことと、その個々のことは、諸教父の賛同したことである。私も、キリストから私に授けられた使徒的権能をもって、尊敬に値する諸教父とともに、これらのことを聖霊において承認し、決定し、制定し、このように教会会議によって制定されたことが神の栄光のために公布されるに命ずる。

ローマ聖ペトロのかたわらにて
1965年12月7日
カトリック教会の司教 パウルス自署
諸教父の署名が続く

15. Constat igitur praesentis aetatis homines optare ut libere possint religionem privatim publiceque profiteri, immo libertatem religiosam in plerisque Constitutionibus iam ut ius civile declarari et documentis internationalibus sollemniter agnosci.[39] [941]

At non desunt regimina in quibus, etsi in eorum Constitutione libertas cultus religiosi agnoscitur, tamen ipsae publicae potestates conantur cives a religione profitenda removere et communitatibus religiosis vitam perdifficilem ac periclitantem reddere.

Illa fausta huius temporis signa laeto animo salutans, haec vero deploranda facta cum maerore denuntians, Sacra Synodus Catholicos hortatur, exorat autem homines universos, ut perattente considerent quantopere libertas religiosa necessaria sit in praesenti potissimum familiae humanae condicione.

Manifestum est enim cunctas gentes magis in dies unum fieri, homines diversae culturae et religionis arctioribus inter se devinciri rationibus, augeri denique conscientiam propriae cuiusque responsabilitatis. Proinde ut pacificae relationes et concordia in genere humano instaurentur et firmentur, requiritur ut ubique terrarum libertas religiosa efficaci tutela iuridica muniatur atque observentur suprema hominum officia et iura ad vitam religiosam libere in societate ducendam.

Faxit Deus et Pater omnium ut familia humana diligenter servata libertatis religiosae ratione in societate, per gratiam Christi et virtutem Spiritus Sancti adducatur ad sublimem illam ac perennem ≪libertatem gloriae filiorum Dei≫ (Rom. 8, 21).

Haec omnia et singula quae in hac Declaratione edicta sunt, placuerunt Sacrosancti Concilii Patribus. Et Nos, Apostolica a Christo Nobis tradita potestate, illa, una cum Venerabilibus Patribus, in Spiritu Sancto approbamus, decernimus ac statuimus et quae ita synodaliter statuta sunt ad Dei gloriam promulgari iubemus.

Romae, apud S. Petrum die VII mensis decembris anno MCMLXV.
Ego PAULUS Catholicae Ecclesiae Episcopus
Sequuntur Patrum subsignationes [941-946]

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コメント

第二バチカン公会議「信教の自由に関する宣言」(DIGNITATIS HUMANAE)第二部

2007年07月27日 | 第二バチカン公会議
アヴェ・マリア!

 兄弟姉妹の皆様、参考資料として第二バチカン公会議の「信教の自由に関する宣言」(DIGNITATIS HUMANAE)の第二部「信教の自由の一般原則」の9,10,11の日本語訳とラテン語とを掲載します。

2 啓示に照らして見た信教の自由

II. Libertas religiosa sub luce Revelationis

9(信教の自由の教えは啓示に基づいている) 本バチカン教会会議が信教の自由に関する人権について宣言することは、幾世紀の経験によって、人間の理性にいっそう明らかになった人格の尊厳の要求に基づくものである。その上、自由に関するこの教えは、神の啓示に基づいているため、キリスト者は他の人々以上に、この教えを忠実に守らなければならない。実際、啓示は、宗教問題における外的強制からの自由の権利について断定していないが、人格の尊厳を十分に示し、人間が神のことばを信ずる義務を果たす時の自由をキリストが尊敬したことを表わし、また師キリストの弟子たちが、自分のすべての行動において、心に留め、守らなければならない精神を教えている。これらすべてが、信教の自由に関するこの宣言の教えの土台となる一般原則を明らかにしている。特に、社会における信教の自由は、キリスト教の信仰の行為と完全に一致するものである。

9. Quae de iure hominis ad libertatem religiosam declarat haec Vaticana Synodus, fundamentum habent in dignitate personae, cuius exigentiae rationi humanae plenius innotuerunt per saeculorum experientiam. Immo haec doctrina de libertate radices habet in divina Revelatione, quapropter eo magis a Christianis sancte servanda est. Quamvis enim Revelatio non expresse affirmet ius ad immunitatem ab externa coercitione in re religiosa, tamen humanae personae dignitatem in tota eius amplitudine patefacit, observantiam Christi erga hominis libertatem in exsequendo officio credendi verbo Dei demonstrat, atque de spiritu nos edocet, quem discipuli talis Magistri debent in omnibus agnoscere et sequi. Quibus omnibus principia generalia illustrantur super [936] quae fundatur doctrina huius Declarationis de libertate religiosa. Praesertim libertas religiosa in societate plene est cum libertate actus fidei christianae congrua.


 10(自由と信仰行為) 神のことばに含まれ、教父たちから常に説かれたカトリック教義の主要点の一つは、人間は自由意志をもって信ずることにより神に答えなければならない、ということである。したがって、何人といえども、自分の意志に反して信仰を受け入れるよう強制されてはならない。実際、信仰行為は、その性質上、自由意志による行為である。なぜなら、救い主キリストからあがなわれ、イエズス・キリストによって神の養子として召された人間は、父に引かれ、信仰の合理的な、そして自由な服従を神にささげなければ、自分自身を啓示する神に同意することはできない。そのため、宗教の問題においては、人間からのあらゆる種類の強制が除かれることが信仰の性質に完全に一致する。したがって、信教の自由の制度は、人々が拘束されずにキリスト教の信仰に導かれ、自発的に受け入れ、生活の全面にわたって、それを実践できるような環境を作るために少なからず貢献する。

10. Caput est ex praecipuis doctrinae catholicae, in verbo Dei contentum et a Patribus constanter praedicatum,[8] hominem debere Deo voluntarie respondere credendo; invitum proinde neminem esse cogendum ad amplectendam fidem.[9] Etenim actus fidei ipsa sua natura voluntarius est, cum homo, a Christo Salvatore redemptus et in adoptionem filiorum per Iesum Christum vocatus,[10] Deo Sese revelanti adhaerere non possit, nisi Patre eum trahente[11] rationabile liberumque Deo praestiterit fidei obsequium. Indoli ergo fidei plene consonum est ut, in re religiosa, quodvis genus coercitionis ex parte hominum excludatur. Ac proinde ratio libertatis religiosae haud parum confert ad illum rerum statum fovendum, in quo homines expedite possint invitari ad fidem christianam, illam sponte amplecti atque eam in tota vitae ratione actuose confiteri.


 11(キリストおよび使徒たちの模範) 神は自分に霊と真理とをもって仕えるよう人々招いている。そのため、人間は良心において束縛されてはいるが、強制されてはいない。実際、人間は自分の判断で行動し、自由を行使するが、神は自分自身が創造した人間の尊厳を考慮する。このことは、神が自分自身とその道とを完全に現したイエズス・キリストにおいて、弟子たちを忍耐強く招き、召し出した。もちろん、奇跡をもって自分の説教を裏づけ、確証したが、それは、聴衆に信仰を起こさせ、それを強めるためである。圧力を加えるためではなかった。なお、聴衆の不信仰を非難したことも確かであるが、それに対する罰は、審判の日まで神に残した。使徒たちを世に派遣するとき、「信じ洗礼を受ける者は救われ、信じない者は罰せられるであろう」(マルコ 16・16)とかれらに言った。しかし毒麦が麦といっしょにまかれていることを認め、世の終わりに行なわれる収穫の時まで、どちらも成長するにまかせるよう命じた。政治的なメシアになり、力による支配者になることも望まず、自分が「仕えるため、多くの人のあがないとして自分の生命を与えるために」(マルコ 10・45)来た人の子であると言うことを好んだ。キリストは、「傷ついた葦を折らず、くすぶる燈心を消さない」(マテオ 12・20)神の完全なしもべの姿で現れた。「セザルのものはセザルに返し、神の物は神に返せ」(マテオ 22・21)と、セザルに対する納税を命じ、公権とその諸権利を認めたが、はっきりと、その上の神の権利を尊重するように教えた。最後に、十字架上で、あがないのわざを成就し、人々に救いと真の自由とをもたらし、その啓示を完成した。キリストは真理に証明を与えたが、それを反対者に力づくで押し付けなかった。実際、その国は敵を打つことによって守られるのではなく、真理を証明し、これを聞くことによって打ち建てられ、十字架に上げられたキリストが、人間を自分に引きつける愛によって発展する。

11. Deus quidem homines ad inserviendum Sibi in spiritu et veritate vocat, unde ipsi in conscientia vinciuntur, non vero coercentur. Rationem enim habet dignitatis personae humanae ab Ipso conditae, quae proprio consilio duci et libertate frui debet. Hoc autem summe apparuit in Christo Iesu, in quo Deus Seipsum ac vias suas perfecte manifestavit. [937] Etenim Christus, qui Magister et Dominus est noster,[12] idemque mitis et humilis corde,[13] discipulos patienter allexit et invitavit.[14] Miraculis utique praedicationem suam suffulsit et confirmavit, ut fidem auditorum excitaret atque comprobaret, non ut in eos coercitionem exerceret.[15]

Incredulitatem audientium certe exprobravit, sed vindictam Deo in diem Iudicii relinquendo.[16] Mittens Apostolos in mundum dixit eis: ≪Qui crediderit et baptizatus fuerit salvus erit; qui vero non crediderit condemnabitur≫ (Mc. 16, 16). Ipse vero, agnoscens zizaniam cum tritico seminatam, iussit sinere utraque crescere usque ad messem quae fiet in consummatione saeculi.[17] Nolens esse Messias politicus et vi dominans,[18] maluit se dicere Filium Hominis qui venit ≪ut ministraret et daret animam suam redemptionem pro multis≫ (Mc. 10, 45). Sese praebuit ut perfectum Servum Dei,[19] qui ≪harundinem quassatam non confringet et linum fumigans non extinguet≫ (Mt. 12, 20). Potestatem civilem eiusque iura agnovit, iubens censum dari Caesari, clare autem monuit servanda esse iura superiora Dei: ≪Reddite ergo quae sunt Caesaris Caesari, et quae sunt Dei Deo≫ (Mt. 22, 21). Tandem in opere redemptionis in cruce complendo, quo salutem et veram libertatem hominibus acquireret, revelationem suam perfecit. Testimonium enim perhibuit veritati,[20] eam tamen contradicentibus vi imponere noluit. Regnum enim eius non percutiendo vindicatur,[21] sed stabilitur testificando et audiendo veritatem, crescit autem amore, quo Christus exaltatus in cruce homines ad Seipsum trahit.[22]


 キリストのことばと模範によって教えられた使徒たちは、同じ道を歩いた。教会の初めから、キリストの弟子たちは、強制や福音にふさわしくない手段によらないで、まず、神のことばの力によって、人々に主キリストを認めさせ、回心させるように努めた。彼らは力強く、「すべての人が救われて、真理を認めるようになることを望む」(1テモテ 2・4)神である救い主の計画をすべての人に説いた。しかし、同時に、弱い人たちに対しては、たとえかれらが誤っていても、尊敬し、そうすることによって「われわれひとりひとりが自分のことを神の前に報告しなければならないこと」(ロマ 14・12)、すなわち、自分の良心にだけ従う義務があることを示している。キリストと同じように使徒たちも、常に神の真理を証明しようと努め、非常に大胆に民衆と王侯との前で、「確信をもって神のことば」(使徒行録 4・31)を告げた。実際、かれらは、福音がこれを信ずる者にとって真に救いをもたらす神の力であると堅く信じていた。そのため、すべての「肉的武器」を軽んじ、キリストの柔和と謙虚の模範に従い、神のことばの神的力にまったく信頼して、このことばをのべ、神に反対する勢力をくじき、人々をキリストの信仰と、服従へ導いた。師と同様、使徒たちも国家の正当な権威を認めていた。聖パウロは「権威で神から出ないものはない」と教え、次のように命じた。「すべての者は上の権威に従わなければならない。……権威にそむく者は神の定めにそむく者である」(ロマ 13・1~2)。しかしそれとともに、神の聖なる意志に逆らう公権に反対することを恐れなかった。「人間に従うより、神に従うべきである」(使徒行録 5・29)。数えきれない程の殉教者や信者が幾世紀の間、全地にわたって、この道を歩いた。

Apostoli, Christi verbo et exemplo edocti, eamdem viam secuti sunt. Ab ipsis Ecclesiae exordiis discipuli Christi adlaborarunt, ut homines ad Christum Dominum confitendum converterent, non actione coercitiva neque artificiis Evangelio indignis, sed imprimis virtute verbi Dei.[23] [938] Fortiter omnibus nuntiabant propositum Salvatoris Dei, ≪qui omnes homines vult salvos fieri et ad agnitionem veritatis venire≫ (I Tim. 2, 4); simul autem verebantur debiles etiamsi in errore versabantur, sic ostendentes quomodo ≪unusquisque nostrum pro se rationem reddet Deo≫ (Rom. 14, 12)[24] et in tantum teneatur conscientiae suae oboedire. Sicuti Christus, Apostoli intenti semper fuerunt ad testimonium reddendum veritati Dei, abundantius audentes coram populo et principibus loqui ≪verbum Dei cum fiducia≫ (Act. 4, 31).[25] Firma enim fide tenebant ipsum Evangelium revera esse virtutem Dei in salutem omni credenti.[26] Omnibus ergo spretis ≪armis carnalibus≫,[27] exemplum mansuetudinis et modestiae Christi sequentes, verbum Dei praedicaverunt plene confisi divina huius verbi virtute ad potestates Deo adversas destruendas[28] atque homines ad fidem et obsequium Christi reducendos.[29] Sicut Magister ita et Apostoli auctoritatem legitimam civilem agnoverunt: ≪Non est enim potestas nisi a Deo≫ docet Apostolus, qui exinde iubet: ≪Omnis anima potestatibus sublimioribus subdita sit, ... qui resistit potestati, Dei ordinationi resistit≫ (Rom. 13, 1-2),[30] Simul autem non timuerunt contradicere potestati publicae se sanctae Dei voluntati opponenti: ≪Oboedire oportet Deo magis quam hominibus≫ (Act. 5, 29)[31] Hanc viam secuti sunt innumeri martyres et fideles per saecula et per orbem.

聖ピオ十世会韓国のホームページ
トレント公会議(第19回公会議)決議文
第一バチカン公会議 (第20回公会議)決議文(抜粋)
聖ピオ五世教皇 大勅令『クォー・プリームム』(Quo Primum)
新しい「ミサ司式」の批判的研究 (オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿)Breve Exame Critico del Novus Ordo Missae
グレゴリオ聖歌に親しむ会

【参考資料】
【参考資料】ベネディクト十六世教皇の自発使徒書簡 Motu Proprio 『スンモールム・ポンティフィクム SUMMORUM PONTIFICUM 』の非公式日本語訳
【参考資料】第二バチカン公会議宣言『信教の自由に関する宣言』
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第二バチカン公会議「信教の自由に関する宣言」(DIGNITATIS HUMANAE) つづき

2007年07月27日 | 第二バチカン公会議
アヴェ・マリア!

 兄弟姉妹の皆様、参考資料として第二バチカン公会議の「信教の自由に関する宣言」(DIGNITATIS HUMANAE)の第一部「信教の自由の一般原則」の5,6,7,8の日本語訳とラテン語とを掲載します。リンク先をクリックすると、そこについての疑問および問題点に飛びます。

 5(家庭における信教の自由) すべての家庭は、固有の、本源的権利をもつ社会として、親の指導の下に、その宗教生活を自由に営む権利を持っている。それで、親は、自分の宗教的信念に基づいて、子女が受ける宗教教育の種類を決定する権利を持っている。したがって、学校あるいは他の教育機関を真の自由をもって選択する親の権利が、公権によって認められなければならない。この選択の自由が、直接にも間接にも親に不当な負担がかけられる理由となってはならない。なお、子女が親の宗教的信念に一致しない授業への出席が強制されたり、宗教教育を完全に除去したただ一つの教育制度を押しつけられたりすれば、親の権利は侵害される。

5. Cuique familiae, utpote quae est societas proprio ac primordiali iure gaudens, competit ius ad libere ordinandam religiosam vitam suam domesticam sub moderatione parentum. His autem competit ius ad determinandam rationem institutionis religiosae suis liberis tradendae, iuxta suam propriam religiosam persuasionem. Itaque a civili potestate agnoscendum est ius parentum deligendi, vera cum libertate, scholas vel alia educationis media, neque ob hanc electionis libertatem sunt eis iniusta onera sive directe sive indirecte imponenda. Praeterea iura parentum violantur, si liberi ad frequentandas lectiones scholares cogantur quae parentum persuasioni religiosae non correspondeant, vel si unica imponatur educationis ratio, ex qua formatio religiosa omnino excludatur.


 6(信教の自由を保護する義務) 社会の共通善は人間が、いっそう完全に、いっそう容易に自己完成に到達できるような社会生活の諸条件の緩和である。そして、これは、特に、人格の権利と義務の保護にある。そのため市民も、社会的団体も、公権も、教会その他の宗教団体も、共通善に対するおのおのの義務によって、おのおのに固有の方法で、信教の自由の権利を守るよう注意する必要がある。

6. Cum societatis commune bonum, quod est summa earum vitae socialis condicionum, quibus homines suam ipsorum perfectionem possunt plenius atque expeditius consequi, maxime in humanae personae servatis iuribus et officiis consistat, cura iuris ad libertatem religiosam tum ad cives tum ad coetus sociales tum ad potestates civiles tum ad Ecclesiam aliasque communitates religiosas spectat, modo unicuique proprio, pro eorum erga bonum commune officio.

 人間の不可侵の権利を保護し、増進することは、本質的にすべての公権の義務である。したがって、公権は、正しい法律と他の適切な手段によって、効果的にすべての市民の信教の自由を保護し、宗教生活を助長するために有利な条件を作る必要がある。それは市民が真に信教の権利を行使し、その義務を果たし、また社会自体も、神とその意志とに対する人間の忠実さによってもたらされる正義と平和の恩恵を享受することができるようにするためである。

Inviolabilia hominis iura tueri ac promovere ad cuiusvis potestatis civilis officium essentialiter pertinet.[6] Debet igitur potestas civilis per iustas leges et per alia media apta efficaciter suscipere tutelam libertatis religiosae omnium civium, ac propitias suppeditare condiciones ad vitam religiosam fovendam, ut cives revera religionis iura exercere eiusdemque officia adimplere valeant et ipsa societas fruatur bonis iustitiae et pacis, quae proveniunt ex fidelitate hominum erga Deum Eiusque sanctam voluntatem.

 国民の特殊な事情を考慮して、国の法的制度において、特殊の宗教団体に特別の地位が認められている場合にも、すべての市民と宗教団体とに信教の自由の権利が認められ、尊重されなければならない。

Si attentis populorum circumstantiis peculiaribus uni communitati religiosae specialis civilis agnitio in iuridica civitatis ordinatione tribuitur, necesse est ut simul omnibus civibus et communitatibus religiosis ius ad libertatem in re religiosa agnoscatur et observetur.

 要するに、公権は社会の共通善に属する市民の法律上の平等が、宗教的理由によって、公的または私的に侵害されないよう、また市民の間に差別が設けられないように配慮する必要がある。

Denique a potestate civili providendum est, ne civium aequalitas iuridica, quae ipsa ad commune societatis bonum pertinet, unquam sive aperte sive occulte laedatur propter rationes religiosas, neve inter eos discriminatio fiat.

 それゆえ公権は、暴力または脅迫その他の手段によって、市民に対して、特定の宗教の信奉または放棄を強制したり、あるいは、だれかがある宗教団体に加入し、またはそれから脱退することを妨げることは許されない。まして、人類全体、またはある地方、一定の集団において、宗教を撲滅しあるいは弾圧するために暴力を用いられることは、それがどのような形であっても、神の意志と個人および家庭の神聖な権利に反する行動である。

Hinc sequitur nefas esse potestati publicae, per vim vel metum aut alia media civibus imponere professionem aut reiectionem cuiusvis religionis, vel impedire quominus quisquam communitatem religiosam aut ingrediatur aut relinquat. Eo magis contra voluntatem Dei et contra sacra personae et familiae gentium iura agitur, quando vis quocumque modo adhibeatur ad religionem delendam vel cohibendam sive in toto genere humano sive in aliqua regione sive in determinato coetu.


 7(信教の自由の限界) 信教の自由の権利は、人間社会において行使される。したがって、その権利の行使は、ある抑制的な規定の下に置かれる。

7. Ius ad libertatem in re religiosa exercetur in societate humana, ideoque eius usus quibusdam normis moderantibus obnoxius est.

 すべて自由の使用にあたって、個人的、社会的責任の道徳原理が守られなければならない。すなわち、個人も社会団体も、他人の権利と他人に対する自分の義務とすべての人の共通善とを考慮すべき道徳的義務を負わされている。正義と愛とをもってすべての人に接しなければならないからである。

In usu omnium libertatum observandum est principium morale responsabilitatis personalis et socialis: in iuribus suis exercendis singuli homines coetusque sociales lege morali obligantur rationem habere et iurium aliorum et suorum erga alios officiorum et boni omnium communis. Cum omnibus secundum iustitiam et humanitatem agendum est.

 なお市民社会は、信教の自由の口実の下に起こりうる弊害に対して自衛権をもっているため、それを保護するのも、特に公権の任務である。しかしこれは、独断的に、あるいは、不当に一派の利益をはかるためではなく、客観的な道徳原理に一致した法規に従って行なわれなければならない。このような法規は、すべて市民の権利の有効な保護と、権利の平和的調和維持すなわち、真の正義に基づく秩序正しい共存と、公徳の正しい遵守とによって要請される。これらすべては、共通善の根本要素を成し、公の秩序の概念にはいる。社会において完全な自由の習慣が守られ、人間にできるだけ大きな自由を認め、必要な場合と必要な程度だけ制限すべきである。

Praeterea cum societas civilis ius habet sese protegendi contra abusus qui haberi possint sub praetextu libertatis religiosae, praecipue ad potestatem civilem pertinet huiusmodi protectionem praestare; quod tamen fieri debet non modo arbitrario aut uni parti inique favendo, sed secundum normas iuridicas, ordini morali obiectivo conformes, quae postulantur ab efficaci iurium tutela pro omnibus civibus eorumque pacifica compositione, et a sufficienti cura istius honestae pacis publicae quae est ordinata conviventia in vera iustitia, et a debita custodia publicae moralitatis. Haec omnia partem boni communis fundamentalem constituunt et sub ratione ordinis publici veniunt. Ceterum servanda est integrae libertatis consuetudo in societate, secundum quam libertas debet quam maxime homini agnosci, nec restringenda est nisi quando et prout est necessarium.


 8(真の自由尊重の育成) 現代人は種々の圧力を加えられ、自分の自由な判断を失う危機にさらされている。しかし、他方では、多くの者が自由を口実に、いっさいの従属を退け、正当な服従を軽んずる傾向を持っている。

8. Nostrae aetatis homines varia ratione premuntur et in periculum veniunt ne proprio libero consilio destituantur. Ex altera autem parte non pauci ita propensi videntur, ut specie libertatis omnem subiectionem reiciant ac debitam oboedientiam parvi faciant.

 そのため、本バチカン教会会議は、すべての人、特に、教育の任に当たる人たちに次のことを勧める。道徳的秩序を尊重して、正当な権威に従い、真の自由を愛する人間、すなわち、自分の考えで真理に照らして物事を判断し、責任感をもって自分の行動を決定し、すべて真実かつ正当なことを達成することに努め、他人と快く協調する人間の養成に努めることである。

Quapropter haec Vaticana Synodus omnes hortatur, praesertim vero eos qui curam habent alios educandi, ut homines formare satagant, qui ordini morali obsequentes legitimae auctoritati oboediant et genuinae libertatis amatores sint; homines nempe, qui proprio consilio res in luce veritatis diiudicent, activitates suas cum sensu responsabilitatis disponant, et quaecumque sunt vera atque iusta prosequi nitantur, operam suam libenter cum ceteris consociando.

したがって、信教の自由は人間が社会生活において自分の義務を果たすにあたり、より強い責任をもって行動することに寄与し、またそれを目的としなければならない。

Religiosa igitur libertas etiam ad hoc inservire et ordinari debet, ut homines in suis ipsorum officiis adimplendis in vita sociali maiore cum responsabilitate agant.

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トレント公会議(第19回公会議)決議文
第一バチカン公会議 (第20回公会議)決議文(抜粋)
聖ピオ五世教皇 大勅令『クォー・プリームム』(Quo Primum)
新しい「ミサ司式」の批判的研究 (オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿)Breve Exame Critico del Novus Ordo Missae
グレゴリオ聖歌に親しむ会

【参考資料】
【参考資料】ベネディクト十六世教皇の自発使徒書簡 Motu Proprio 『スンモールム・ポンティフィクム SUMMORUM PONTIFICUM 』の非公式日本語訳
【参考資料】第二バチカン公会議宣言『信教の自由に関する宣言』
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