Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

私は御身を信じ、礼拝し、希望し、御身を愛します!御身を信じぬ人々、希望せず愛さぬ人々のために、赦しを求めます(天使の祈)

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
2019年 8月の聖伝のミサの予定
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】


8月 聖母の被昇天を祝いましょう。
意向:聖母の汚れなき御心の凱旋のため
実践すべき徳:心の柔和と謙遜
守護の聖人:聖母の汚れ無き御心

愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)にご招待します

◎2019年 8月の予定
【大阪】聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂(アクセスEG新御堂4階 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 
〒532-0002 (JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分)

  8月2日(初金)教会博士証聖者司教聖アルフォンソ・デ・リグオリ(3級祝日)白
          午後5時半 ロザリオ及び告解
          午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

  8月3日(初土) 聖母の土曜日(4級)白
          午前10時 ロザリオ及び告解
          午前10時半 ミサ聖祭(歌ミサ)

  8月11日(主)聖霊降臨後第9主日(2級)緑
          午後5時半 ロザリオ及び告解
          午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

  8月12日(月) 童貞聖クララ(3級祝日)白
          午前10時 ロザリオ及び告解
          午前10時半 ミサ聖祭(歌ミサ)

  8月18日(主)聖霊降臨後第10主日(2級)緑
          午後5時半 ロザリオ及び告解
          午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

  8月19日(月) 証聖者聖ヨハネ・ユード(3級祝日)白
          午前6時半 ミサ聖祭(歌ミサ)

【東京】東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図)「聖なる日本の殉教者巡回聖堂」

  8月4日(主)聖霊降臨後第8主日(2級)緑
          午前10時  ロザリオ及び告解
          午前10時半  ミサ聖祭(歌ミサ)

  8月5日(月)  雪の聖母の大聖堂の奉献(3級祝日)白
          午前7時 ミサ聖祭

  8月18日(主)  聖霊降臨後第10主日(2級)緑
          午前10時  ロザリオ及び告解
          午前10時半  ミサ聖祭(歌ミサ)

愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております。

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聖伝の典礼暦による2017年のカレンダー日本語版 【2017年のカレンダーに寄せて】

2016年11月30日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

聖伝の典礼暦による2017年のカレンダー日本語版が出来上がりました。
12月2日(初金曜日)、大阪の御ミサから販売開始いたします。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



【2017年のカレンダーに寄せて】

アヴェ・マリア・インマクラータ!

聖伝の典礼暦による2017年のカレンダー日本語版を、おとりになっている愛する兄弟姉妹の皆様、

2017年は、ファチマにおける聖母マリアの御出現100周年です。また同時に、聖マキシミリアノ・コルベ神父様の創立した無原罪の聖母の騎士会の創立100周年です。

そこで、このカレンダーはこれらの100周年をより良く過ごすことを目的に作られました。今年は特別に、このカレンダーを手にしたら、まず全ての内容に目を通すことを提案します。そうすると、ファティマのマリア様のご出現について深い理解をもつことができ、聖母の汚れなき御心の中に深く入り、100周年の良いスタートになると思われるからです。

100年前の1917年は、イエズス・キリストが昇天して以来、世界史の中で、最も恐るべき年でした。ヴィッテンベルクにおけるプロテスタント宗教革命(1517年10月31日)とロンドンにおけるフリーメーソンの最初のロッジ創立(1717年6月24日)とペトログラードにおける共産主義ボルシェビキ革命(1917年11月7日)と地獄の勢力と、人類を天国に導いて救おうとする天からの力(特に1917年10月13日の太陽の奇跡)との対立が人々の目の前で現実のものとなったからです。プロテスタント革命と共産革命との間には、フリーメーソンの娘であるフランス革命を経て、絶え間ない論理の流れがあります。それをピオ十二世教皇が1952年10月12日に「ネル・コンテンプラーレ」(Nel Contemplare)という訓話で、プロテスタント主義、啓蒙哲学、無神論的マルクス主義を次のようにまとめています。
「キリストは良いが、教会はダメだ。次は、天主は良いが、キリストはダメだ。最後には不敬の叫びとなって、天主は死んだ、さらには天主などいなかった。」«Cristo sì, Chiesa no. Poi: Dio sì, Cristo no. Finalmente il grido empio : Dio è morto; anzi : Dio non è mai stato.»「天主の無い経済、天主の無い権利、天主の無い政治」un'economia senza Dio, un diritto senza Dio, una politica senza Dio という基礎の上に、世界の構造を構築しようとしています。私たちは、このことを深く理解しなければなりません。

このカレンダーは、私たちを救おうとする天からの聖寵と憐れみとの業を理解するために、次ごとに、聖母マリアがファチマでなさって下さったことを黙想することを提案しています。ファチマの出来事を世界的な歴史の文脈で、いえ、天と地と地獄の壮大なドラマとして理解することは、ファチマで何が起こっていたのかを知るために、深い意義があります。これについては、カレンダー付録「1917年」をご覧下さい。

2016年10月30日、イタリア中部を襲った大地震によって聖ベネディクト大聖堂が瓦解しました。聖ベネディクトの生家に13世紀に建てられた教会でした。イタリアで同性愛の「結合」が2016年7月に合法化された後、イタリアでは地震が急増した(Giovanni Cavalcoli, O.P.)と言われます。同性「婚」で家庭という天主の作った制度を壊し、道徳的社会的激震を起こしたことが、この地震による教会の破壊によって、象徴されているのかもしれません。

2016年11月08日、福岡市の博多駅前で、早朝の5時14分、しっかりとしていたはずの道路が突然に陥没しはじめましたが、7時20分すぎには、ドドドという地鳴りがして、土煙を上げて幅が約30メートルある5車線の道路全体が崩れ落ちました。こうして九州の玄関口にある大通りに突如、巨大な穴が出現し、汚臭と茶色く濁った下水で池のように変わりました。

日本は、天主様の御憐れみで、今は表面上は、平和で「異常は何もない」かのように思えます。私たちの人間の技術で「万全を期して」平和を作ろうと努力していますが、しかし、もしも私たちが天主の無い、世界を作り上げようとしているのなら、博多駅前の道路のように、土台があまりにも弱く不安定なので、思ってもいなかったその時に、もろくもあっという間に崩してしまうでしょう。ファチマの聖母は私たちに教えてくれました。

「もし私があなたたちにこれから言うことを人が実行するなら多くの霊魂たちは救われ平和になるでしょう。戦争は終わるでしょう。しかし、もし天主を侮辱することを止めないなら、・・・別の更にひどい戦争が起こるでしょう。
・・・もし人が私の要求を聞くなら、ロシアは回心し平和がやってくるでしょう。さもなければロシアはその誤謬を世界中に広め、戦争と教会に対する迫害とをもって挑発するでしょう。多くの善良なものが殉教し、教皇様は多く苦しまねばならないでしょう。無くなってしまう国々もあるでしょう。」(7月13日)

「彼らはもうこれ以上天主なる私たちの主に罪を犯してはなりません。すでに主はあまりにも多く犯されています。」(10月13日)

2017年は、人類の歴史にとって、カトリック教会の歴史にとって、私たちの救霊にとって、極めて重要な壮大なドラマが繰り広げられる年となることでしょう。私たちがこの年をどのように過ごすかに、人類の歴史かかっています。私たちは、ルシアやフランシスコやジャシンタたちのように、聖母の御助けにより、聖母の汚れなき御心の要求に従ってこの年を過ごしましょう。聖母の汚れなき御心をますます愛し、お慰めする年といたしましょう。そのためにこのカレンダーが一助となれば、これを作った私たちにとってそれより大きな喜びはありません。

2016年11月21日 聖母の御奉献の祝日、
ルフェーブル大司教様の宣言42周年の日、
オーストリア皇帝、ハンガリーの使徒的王、フランツ・ヨーゼフの崩御100周年忌に

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
コメント

台湾で同性婚合法化の動き

2016年11月29日 | 本・新聞・ウェッブ・サイトを読んで
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

こんにちは。

今日は11月29日で、聖母の無原罪の御孕りの大祝日の準備のノベナが始まる日です。

今回は、お祈りのお願いを申し上げます。何故なら、台湾で同性婚合法化の動きがあるからです。

台湾カトリック教会は同性婚合法化に対して反対を表明しました。台湾のカトリック教会は祝福されますように!

聯合報 天主教陳科神父 反對同性婚合法 2016-11-03 11:52

カトリック輔仁大学のキャンパスミニストリーは、オープンレターで全校の教師と学生に対し、キリストの信仰は聖書に基づいており、同性の性行為に同意できないと表明しました。

カトリック輔仁大学はチャプレンが同性婚法制化反対のメールを教員と学生宛に出しました。
Anger swells after Fu Jen's anti-gay letter

輔大公開信反同 直批「同志如竊盜不能合理化」

どうぞ、台湾の方々のためにお祈り下さい。台湾がソドマとゴモラのようになってしまいませんように!

情報として、2014年1月とやや古い記事ですが、東洋経済の記事です。この記事のことを紹介して下さった方によると、「東洋経済新聞は、日本のメディアに多い傾向ですが、東洋経済も台湾独立派寄りで、今回同性婚を推進している時代力量の党首黃國昌へのインタビュー記事もあります。日本では保守派に対する台湾独立派の働きかけのため、多くの保守派がリベラル傾向の強い台湾独立派を支持しています。したがって、このような本来保守派が反対するような同性婚について注目されないのは誠に残念です。」

東洋経済の記事
同性婚容認で揺れる台湾 「多様性ある結婚」をめぐって、対立が先鋭化

CNN 日本語版の今年の記事
台湾で同性婚合法化の機運、年内にも法案 アジア初実現か

同性愛支持派のサイトによる記事
台湾の同性婚合法化への討論は今どこまで進んでいるのか?

台湾の新聞「自由時報」の記事
同志大遊行落幕 外媒:台灣擁有最先進社會 
(ゲイパレード終了 外国メディア:台湾は最先進社会を擁している)

力挺婚姻平權! 小英在臉書「掛上彩虹」
(婚姻平等を力強く支持!蔡総統はフェイスブックに「虹を掛ける」)



愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

コメント (2)

2016年11月18-21日,の聖伝のミサの報告:聖ピオ十世会 SSPX JAPAN Latin Traditional Mass

2016年11月27日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

11月は、東京では連続で3回主日に聖伝のミサを捧げることができ、このお恵みを天主様に深く感謝します。11月20日は、典礼暦最終の主日でしたので、東京では続けて黙示録について勉強しました。

11月27日の主日は、待降節第一主日です。イエズス・キリストが来られるのを準備いたしましょう。待降節は、過去キリストがお生まれになることを太祖の人々が歴史的に待望していたことに思いを馳せて、私たちもイエズス・キリストの聖誕を準備することです。

それだけではありません。待降節中に、イエズス・キリストが私たちの心にも今、現在、お越しになること、また、将来生ける人々と死せる人々とを裁くために来られることも準備させるからです。

最近私の読んだ、レオナルド・カステラニ神父(Leonardo Castellani, S.J. 1899 – 1981)が書いた黙示録の注解はとても興味深いものでした。カステラニ神父様はアルゼンチンのイエズス会司祭で神学者です。彼は、教父たちによる黙示録の解釈を専門に勉強した司祭で、聖アウグスティヌスや聖トマス・アクィナス、大聖アルベルトなどはもちろん、近代の有名な伝統的な神学者たちの意見を含めて、聖伝の観点からコメントを加えており、とても参考になりました。特に、近代主義者たちの解釈を的確に批判し、それを知性的に指摘しているのです。彼は、ロバート・ヒュー・ベンソン神父(Monsignor Robert Hugh Benson)の書いた「この世の君主」The Lord of the World (1907)をスペイン語(El señor del mundo, 1956)にも訳してます。

ベンソン神父の「この世の君主」のことをもっと話します。ベンソン神父は英国教会(聖公会)からカトリックに改宗したイギリス人です。ベンソン神父の父親は、カンタベリーの聖公会大主教(Edward White Benson, 1829 – 1896)で、黙示録の注解(The Apocalypse,: An introductory Study of the Revelation of St. John the Divine, 1900)を書いています。おそらくそれに影響を受けたのでしょう、ロバート・ベンソンは反キリストの到来を「この世の君主」として描き出します。

インサイド・バチカン誌の編集長であるロバート・モイニハン(Robert Moynihan)のエディトリアル5号(2015年2月5日付け)によると、ラッツィンガー枢機卿はこのベンソン神父の「この世の君主」について「新世界秩序」という観点で、1992年にミラノで話をしています。それは1990年9月11日にジョージ・ブッシュ(父)が初めて「新世界秩序」(new world order)という言葉をペルシャ湾の危機について米国議会で使ったすぐ後でした。モイニハンが指摘するには、これは1989年にベルリンの壁が崩れた翌年のことで、ブッシュ大統領とゴルバチェフが1990年9月にヘルシンキで首脳会議をやった直後、この1年後の1991年12月25日にゴルバチェフがソ連の解体に署名しており、そのちょうど11年後に、やはりジョージ・ブッシュ(子)が大統領の時世界貿易センタービルの攻撃がありました。

ラッツィンガー枢機卿は、ミラノの聖心大学で1992年2月8日に「新世界秩序」について話しますが、その内容は英語に訳されてイグナチオ・プレスから『ヨーロッパの転換期?教会と現代世界:評価と展望』と題して出版されました。A Turning Point for Europe?: The Church in the Modern World : Assessment and Forecast, Ignatius Press これは既に1991年にドイツ語で Wendezeit fuer Europa?: Diagnosen un Prognosen zur Lage von Kirche und Welt という題で出版されています。

ベネディクト十五世が聖ヨゼフへの信心について語った『ボヌム・サネ』(1920年)の中で人間社会に対する天主の権威を認めない世界を作ろうとするとき、不可避的に恐怖が統治することになる、と語ったように、ラッツィンガー枢機卿は、講話の中で、反キリストは、キリスト無しに"平和"をもたらすものとして現れる、と警告しています。ちょうどそれはベンソン神父のフィクションにうまく描かれていました。

『この世の君主』のヒーローはイギリス人司祭、パーシー・フランクリン神父です。ベンソン神父の自分自身の投影のようです。フランクリン神父は、米国ヴァーモント州のアメリカ人議員ジュリアン・フェルセンバークに注意深く関心を払っています。フェルセンバークは、世界戦争を回避させて世界を救い「救世主」と呼ばれ、世界を統一します。フェルセンバークは世界の大統領となり、これからは「天主を信じる」という者は反逆罪を問われます。天主教の代わりに民主教だけが、人類教だけが許される世界が出現します。天主が人間となったカトリックの代わりに、人間が神となった世界です。天主に基づく愛徳の代わりに友情が、希望の代わりに満足が、信仰の代わりに知識が、取って代わります。フランクリン神父は、ローマ教皇ヨハネ二十四世に呼ばれ、教皇にフェルセンバークについて説明します。天主に対する宗教の代わりに安楽死が実践されていること、真理の名の下に宗教を破壊しようとしていること、少数のカトリック信者たちだけが「この世の君主」に抵抗していること、を伝えます。
教皇は質問します。「何をすべきだと思うか?」
フランクリン神父は答えます。「教皇様、ミサ聖祭、祈り、ロザリオです。これらの最初で最後の武器です。この世はこれらの力を否定しています。キリスト者たちがその全ての重みを全て使うべき力を。全てはイエズス・キリストにあります。イエズス・キリストにおいて、最初と最後があります。その他は、何も出来ません。」

愛する兄弟姉妹の皆様、これこそを私たちは、待降節の間にいたしましょう。聖伝のミサ、祈り、犠牲、そして聖なるロザリオの祈り。これこそが私たちの武器です。イエズス・キリストが第一であり、私たちの全てです。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

日本でのミッションありがとうございました。
大阪での御ミサの報告をお送りいたします。

11月18日(金)聖ペトロ、聖パウロの大聖堂の献堂式のミサには12名が、
11月19日(土)寡婦聖エリザベト のミサには13名が御ミサに与る御恵みを頂きました。デオグラチアス!

18日のお説教では聖ペトロ、聖パウロの大聖堂が建てられた背景やその意味を知る事ができました。
11月にローマの三つの大聖堂の献堂を祝うのは、1日の諸聖人の祝日から始まって、私達の心を天へ、天のエルザレムへ上げるようにとの教会の計らいであるという事がわかりました。
この日の聖福音のザケオのように、私たちがイエズス様を知りたいと思えば、イエズス様はこちらに来て下さって私たち自身を教会(神殿)にして下さるのですから、私達もザケオに倣って回心してイエズス様をお喜ばせするよう努めなければならないと思いました。

19日はハンガリーの聖エリザベトの人生についてお説教をして頂きました。
幸福な王女の生活から一転して夫であるルイ王を失い、弟ヘンリーから裏切られ、すべての財産を奪われ追放されたまだうら若かった彼女が不平不満や落胆無しにそのような沢山の十字架をどうやって耐えることができたのか興味を持ちました。
日々の小さな十字架にさえ、時々へこたれたり、悲嘆にくれたりする自分と、なにが違うのかもっと知りたいと思いました。

御ミサの御聖体変化の時、丁度地震がありました。かなり揺れたので家にいる家族や今日御ミサに来れなかった代子の無事をとっさに祈りました。
まさに、今、捧げられているイエズス様の尊いいけにえによって、今日の地震は大きくならないのだろうと勝手に安心してミサに集中しました。
この地震を、イエズス様がカルワリオでご自分を捧げられた時に起こった地震と重ねた人々もいたようです。

公教要理ではウォーレン・キャロルの「1917」という本を参考に、1917年の天と地の戦いの年についてご教示いただきました。
ロバート・ヒュー・ベンソン神父様の書かれた「世界の主」(Lord of the World)というフィクションが、今まさにノンフィクションになっている現実に恐ろしさを覚えました。それと同時にベネディクト16世、フランシスコ両教皇様がたもこの本を薦めておられたと知って本の結論である「結果、カトリック信者には祈りだけが残った」、カトリック信者の武器は祈りであり、償いであるという事を教皇様方が認めておられることにうれしく思いました。


【報告】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 16人(内、子供1人)
女: 22人(内、子供3人)
計: 38人(内、子供4人)


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

小野田神父さま、いつもありがとうございます。
私は、『預言者ダニエルの言った、〈荒らす者のいとわしいもの〉が聖所に立つのを見たら、―読む者は悟れ―そのとき、ユダヤにいる者は山に逃げよ。』のみ言葉のなかの”山”とは、いったいなにをあらわしているのだろうかと長い年月ずっと不思議でした。
今回の神父様のお説教で、山とは永遠に変わることのない天主様の教えのことと伺って、なるほどそうなんだ!と思いました。この2000年の間変わることのないカトリックの教えのことなのですね。
典礼歴の最後には 昔からこの個所が読まれていたとのこと。黙示録の記述とも内容が重なっていて、典礼暦の最後が聖書の最後と同じような内容が語られていることに気づかされました。
黙示録の最後の御言葉は美しく荘厳で励まされます。「私たちがいつもイエズスさまを全てのうちに第一とした人は栄光を受けます」とお説教の中でも栄光のことをお話くださいました。受難の後には復活が、そしてイエズスさまが栄光のうちにおられるということを、忘れないようにします。

今回の公教要理も、難しい内容でした。
以下に「わかったこと」をまとめてみました。(間違っていたらすみません)
9章後半では 第二次世界大戦で使われた多くの武器のことが表現されていて、戦争が終わっても人々は偶像礼拝をやめることがなかったことが描かれている。
11章の1節で出てくる『神殿を測る』の神殿は 黙示録の最後に出てくる天のエルサレムとは違う意味。(計るとは、建物を造る 立て直すという意味があるとフランシスコ会の聖書の注にありました。)
『42ヶ月(三年半)の間 神殿の外庭が異邦人に外庭を荒される』というのは、反キリストがくる前に教会に離教・背教のような動きが見られるという意味。教会での教えは半分空っぽにされても 教会自体はなくならない、しかし天主様の置かれるべきところに代わりに偶像が置かれる。
『中心の至聖所が残る』ということにより、神殿のすべてが破壊しつくされないように、教えの中枢を護るグループ(SSPXのことでしょうか?)が残されることを表す。
教えの真髄がなくなってしまうと、意味のある催しだったものがただの盆踊りになってしまったり 四旬節前のCarne Vale 肉にさよならをいうのがカーニバルのお祭り騒ぎに変化してしまったり、聖人を記念するのが逆に悪魔のお祭りのハローウィンになったり・・・のように、ユダヤ教がファリザイ主義に陥ったように、宗教が形骸化してしまう。中核であるご聖体を守らなければならない(←ごミサのことでしょうか?)

『二人の証人』の意味は二通りの解釈がなされているが、一つはエリアとエノク、もう一つは"パウロ"と"ヨハネ"を指しているという説。ルフェーブル大司教さまとカストロマイヤー司教様のお二人とみるお話も。
『ソドマともエジプトともたとえられている大都市』はローマという意見もあるがむしろエルサレム。
『契約の櫃』は 聖母の連祷でも詠われるごとく マリア様のこと。
古来から解釈学というものがありそれに沿った解釈をするようになっているとのこと、暗号を解くカギがあり勝手な解釈をすることがないように配慮されているとのことで、 それらをもとに上記についてそれぞれ詳しく説明される。
ここまでが、カステラーニ神父様の本によるお話しでした。

もう一冊「Lord of the World (この世の主) 」という小説 フィクションとして1907年に カトリックの司祭 Fr. Robert Hugh Benson によって書かれたフィクション小説の本についても、ご紹介くださいました。現教皇様前教皇様のお二人ともが言及された本で、25年以上も前にもそして昨年にも、世界はこの通りになっているとおっしゃられているそうです。この本には、どのように世界に反キリストが表れるか反キリストがどのいう者か想像してその特徴を詳しく述べられているということでした。「アメリカの大統領が人々を喜ばせることを言って自分を平和を与える政治家に見せて人々を喜ばせるが、その政策はキリストのいない政策 キリストを排除する政策で、キリスト教徒は平和を乱す者として告発される。マスコミ・政治経済のすべてを牛耳ってキリスト教は迫害されてしまう。しかし、それに立ち向かうための最高の武器である祈りと犠牲は残る、祈りと犠牲は天主様からの力であり目に見える技術などよりもはるかに力があるものだから」という内容の本だそうです。
いずれにしても、今はまだラッパがすべて吹かれたわけではなく、反キリストが登場した後になってから反キリストが来たとわかるとのこと。

今回のご講義は天主様(真理)の代わりに偶像を置かないようにということで、ごミサのお説教から引き続いてお話の内容がつながっているように思いました。貴重なお話をありがとうございました。

追伸
ロバート・ベンソン神父様の本の紹介をしていただいた時、ピオ12世教皇様が「New Contemplare」という訓話のなかで 反キリストのついて お話しくださったことを ご紹介くださいました。ピオ12世教皇様は 「今の世界はプロテスタントから始まり反キリストへと向かった」と言われたそうです。プロテスタントは天主とキリストは良いが教会はいらないと言った《1517年》、 フリーメーソンは天主は良いがキリストと教会はいらないと言った《1717年》、共産主義は天主もキリストも教会もいらないと言った《1917年》。 というようにちょうど2017年から遡ることのちょうど500年前 300年前 100年前に プロテスタントから始まった反キリストの動きに変化が見られ、ますます悪い方向へと向かっているとのことです。
このお話に先がけて小野田神父様は、1990年の9月11日に アメリカのパパ・ブッシュによって 初めて新世界秩序(New World Order)という言葉が使われたと説明されました。そして、カトリックについて「イエズス・キリストは私たちが天に行くために全く新しい秩序を作られたのです。カトリックとは、イエズス・キリストによって作られた〝天に行くために〟唯一機能できる 全く新しい秩序なのです。人類における幸せと全世界にわたる平和のための唯一の全世界の国際組織なのです。」と説明をしてくださいました。
”カトリック教会が普遍・唯一の秩序のものだったのに、天主のない秩序が欲しいという(人たちを代表して)アメリカの大統領があらわれた。” ベンソン神父様の本には先見の明があったというか、反キリストの性質がとてもよく表現されている本だということが、よくわかりました。
カトリックとは何かということと、反キリストとはどういうものを指すのかということを、小野田神父様が私によくわかるように説明をしてくださいましたことを 深く感謝いたします。聖書の中に「イエズスが肉体をとって下られたキリストであることを宣言する霊はみな神からである。またこのイエズスを宣言しない霊はみな神から出たものではなく、来るだろうと聞いている反キリストの霊である。それはもう世に来ている。」(ヨハネ第一の手紙4章2~3)を見つけて読みました。ご講話を伺ってこの意味をより現代の状況に合わせて黙想しました。ありがとうございます。


【報告】
+アヴェ・マリア・インマクラータ!
小野田神父様

11/20の御ミサのレポートをお送りいたします。

御ミサ
今回の御ミサは暦年最後の主日ということで、世の終りと審判についてがメインテーマであったように感じ、3週連続で公教要理の時間にお話を伺っている黙示録の内容と通じていると思いました。

これだ! と分かったこと今回は2点あります。
1.この世の創造の目的とは、霊魂の救いであること
私たちが天国へ行き直接に天主を見、至福直感の幸せを得るためにこの世が創造された
イエズス様の御苦難のすべては私たちの霊魂の救い
天主イエズス様は私たちを地獄へ落とす為にいらっしゃるのではなく、救うためにいらっしゃるのだ
天主様の思いは平和の思いであって、悲しみではない(入祭文より)ということが良くわかりました。

今回のお説教を聞いて、私自身が実は今までこの世の創造の目的について深く良く考えたことがなかったことに気がつきました。
この世の創造の目的は「自分の」救霊のためということは意識していたのですが、それまででした。
天主様は「私たち皆」の、「全人類」の救いを望まれた、ということ、「そのために」この世を創造され、そして御自身が十字架に掛けられ贖いを果たされたということは何という神秘だろうかと思いました。御自身が受ける全ての侮辱と、御自身のなさるすべての労苦と、この世の終りまで起こる全ての事をご存知でありながら、しかしなお「私たちのために」この世を創造されたということは本当に天主様の愛であって、傷ついても与え尽くす親の愛であると思いました。もし、そのように私たちを救いたい、と思っていらっしゃる天主様に「地獄へ行くように」、と言わせてしまうことは何という悲しいことだろうかとも思います。私自身がその悲しみの原因とならないように、また、この世の他の人達に対しても天主様がそのような悲しみを抱かずとも良いようにお祈りが必要だと思いました。

2.「荒らすもののいとわしいもの」とは、偶像が崩壊した聖所に立つことであり、教えが歪曲されることである。
教父たちは、最も進んだ、来るべき偶像崇拝とは天主の代わりに人間を礼拝するということではないか、と解釈しているということ。
カステラニ神父様の黙示録のお話を思い出し、正に今のこの世のことであると思いました。ローマ皇帝を崇拝する等の偶像崇拝ではなく、天主の代わりに人間の栄光や技術や身体を崇拝し、天主を忘れ、創造の目的を忘れ、最後の審判のことを忘れさせようとし、もう既に忘れかけている今の時代のことであると思いました。
この世が創造のはじまりの目的を忘れてしまったことは、最後を忘れてしまうことをより容易にしてしまったのかもしれない、と思いました。また、最後を忘れてしまうことも、最初の目的を容易に忘れさせるのではないかとも思いました。

午後の講話
カステラニ神父様の著作を元にした黙示録についてのお話の第3回でした。また、フランシスコ教皇様が2015年に自らお薦めになったベンソン神父様(Father Robert Hugh Benson)の"Lord of the World"(1907)についてお話しをして頂きました。

カステラニ神父様は、テーマを決めて論文を書いていており、黙示録の解釈は第7のらっぱとイエズス様の来臨というところで実質的に終了しているとのことで、前々回(11/13)からお話しいただいた黙示録の内容は今回で最終回でした。
以下に内容をまとめました。

前回の続き
第7のらっぱについて
・黙示録10章8節の「小さな巻物」とは、黙示録そのもののこと
・黙示録11章には、反キリストが来る前に教会が荒らされる、艱難があるということが書かれている
 ここで2つの出来事がある
 1)神殿をはかる(11章1節〜)
 ここで登場する「神殿」は、21章に登場する天のエルサレムとは別である
 教父達は、異邦人に外庭を荒らされた神殿とは、イエズス様の再臨の前に、教会に大きな背教や離教があるということだと解釈している。しかし、外庭は荒らされるが破壊はされてはおらず、至聖所・中核は残っている。つまり、神殿はなくなってはいない。これは、少数だが天主の信仰・教義を守るグループがあるということだろう。多くのものが形骸化してしまい、中核を守る人々は攻撃されるだろう、この中核とは御聖体のことであろう。
 カステラニ神父様は、カトリック教会が荒らされてしまう原因は、「ファリサイ主義(発言と行動が一致していない)」と「フォークロア(カーニバルやハロウィンなどのように民間伝承や民間信仰に取り込まれ、本来の意味を失う)」により引き起こされる形骸化ではないかと予想している。また、Benjamín Benavidesの「カトリック教会にファリザイ主義が存在しなかったならば、今、共産主義は存在しなかっただろう」("No habría comunismo en el mundo, si no hubiera fariseísmo en la Iglesia.")という発言も紹介している。
 2)2人の証人(11章3節〜)
 2つの説があり、どちらが正しいかは不明である
 エリア・エノク(2人共死んだという記述が聖書にない)説と「パウロ」という名に代表される司教と「ヨハネ」という名に代表される司教という説。(「パウロ」という名に代表される司教はプロテスタントから出て、「ヨハネ」という名に代表される司教は聖ヨハネが宣教した東方教会から出て、2人共にカトリック教会が正しい、離教してはいけないと言い、ローマのペトロとの一致するための証人として立つ)
 2人の証人の屍が横たわる大都市(11章8節)は、エルサレムであろう。
・第7のらっぱ(11章15節〜)
 契約の櫃(11章19節)は聖母の連禱の中にある契約の櫃と同じ意味、つまり、聖母マリア様のことでこの世の終わり頃には聖母マリア様が私たちの目に見えるように頻繁に現れるということではないか。たとえマリア様ではないとしても、今まで隠されていたものや天主様の働きが私たちの目に見えるようになる、ということではないか。
 太陽に包まれた婦人(12章1節)とは、教会であって象徴的にマリア様であろう。
 男の子(12章5節)とは、イエズス様のことであろう。
 古代からユダヤ人の改心が起こると言われているので、婦人が荒野に行き、男の子を産むというところでユダヤ人の改心についても触れられているのではないか。


ベンソン神父様(Father Robert Hugh Benson)の「Lord of the World」(1907)についてベンソン神父様はイギリス人で、父親はカンタベリー大司教・母親も身分の高い人であったがカトリックに改宗し、フィクションの小説として、「Lord of the World」を書いた。
内容は、天主のいない秩序を持って世界を統一しようとする人・反キリストが表れ、その人は世界のリーダーになり皆の耳に快いことを言いつつカトリックを迫害しはじめる。反キリストは、悪魔のように恐ろしい形相をもって現れるのではなく力のある政治家として現れるが、その政策は全て天主を排除する、天主のいない世界を作る政策である。偽りの平和・偽りの喜びを人民に与える一方で、カトリック教徒はそのような平和を乱すものとして告発される。反キリストは政治・マスコミ等全てを支配してしまい、キリスト教徒には何も持つものがないように見えたが、しかし実際には最後の武器を持っていた、それは、「祈りと犠牲」であり、「御聖体」だった。これこそ最高の武器で、世の中の最も強い武器もこれには勝つことができない。
というもの。
ラッチンガー枢機卿様も「この本の通りになっている。」と言及し、2015年にはフランシスコ教皇様も「世界はこの通りになっているからこの本を読むように。」と勧めた。


感想
黙示録は、難解な書物であるので詳しく読み取るのは難しいが、時代が進むに従い良く理解できるようになってきたこと、そして、「最後の時には明確に全てが分かるだろう」ということが分かりました。
聖福音とお説教との内容とも繋がり、全ては天主様のご計画の中に起こっている事であり、最後の時にはイエズス様は必ずいらして、そして勝利なさる、ということを改めて確信いたしました!
ベンソン神父様が、「Lord of the World」の中で仰った「祈りと犠牲」が私たちカトリック教徒に残された武器である、ということは、ファティマのシスタールチアも仰っていらっしゃいますしイエズス様もマリア様も聖人達もその武器でこの世に勝利なさったのだから、やはりこれが最高の道で王道なのだなと、これも改めて確信することができました。
また、カステラニ神父様が聖書解釈について「典型(プロトタイプ)を当て嵌めて行うのが聖書解釈であり、想像と解釈は違う。」と仰ったことも教えていただき、これも印象的でした。
御自身が典型となり、天国までの道を示された天主イエズス様とマリア様に本当に感謝の気持ちでいっぱいになりました。デオグラチアス!

また、カステラニ神父様の素晴らしい著作を私たちの為に分かりやすく教えて下さった小野田神父様に本当に感謝いたします。いつも素晴らしいお話をしていただき、本当にありがとうございます!
デオグラチアス!



聖ピオ十世会日本のお説教・講話がここに掲載されています。
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ファチマの天使の祈り

2016年11月26日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

ファチマの天使の祈り

「我が天主よ、われは信じ、礼拝し、希望し、御身を愛します! 
我は、信じない人々、礼拝しない人々、希望しない人々、御身を愛さない人々のために、御身に赦しを願います。」


Meu Deus! Eu creio, adoro, espero e amo-Vos. Peço-Vos perdão para os que não crêem, não adoram, não esperam e Vos não amam.


「至聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊よ、我、御身を深く礼拝し奉る。世界のすべての祭壇に現存されているイエズス・キリストのいとも尊い御体、御血、御霊魂と御神性を、
イエズス・キリスト御自身が受けている侮辱、冒涜、無関心を償うために、御身に捧げ奉る。
イエズス・キリストの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳によりて、あわれな罪人の回心を御身に願い奉る。」


Santíssima Trindade, Padre, Filho, Espírito Santo, (adoro-Vos profundamente e) ofereço-Vos o preciosíssimo Corpo, Sangue, Alma e Divindade de Jesus Cristo, presente em todos os Sacrários da terra, em reparação dos ultrajes, sacrilégios e indiferenças com que Ele mesmo é ofendido. E pelos méritos infinitos do Seu Santíssimo Coração e do Coração Imaculado de Maria, peço-Vos a conversão dos pobres pecadores.


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家庭訪問をするファチマの聖母マリア像への祈り

2016年11月24日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

聖ピオ十世会アジア管区では、2017年のファチマ100周年を記念して、巡礼のファチマ聖母像が、私たちの家庭を訪問して下さるように計画しています。
日本のファチマ像は、マニラにおられるピーター・フォルティン神父様からの寄贈です。マニラの学校では、フォルティン神父様の指導の下で、ファチマの聖母像が教室や職員室などを回り、次のような祈りをもって聖母像を生徒や先生たちが迎えています。また、他の聖母像はフィリピンの家庭を訪問して、その前でロザリオを唱えています。さらに、フィリピンでは南のマルベル(コロナダル)という所からファチマの聖母像が、北のバギオという所まで(2016年10月28日から2017年7月31日まで)歩いて私たちの聖ピオ十世会の全ての教会や御聖堂をお回りになる(総計約2017キロメートル)ことが実施されています。これはフィリピンでは、"MARY'S MISSION TOUR"と名付けられています。

SSPX ASIA MMT


 そこで、日本でも、ファチマの聖母マリア像が私たちの家庭を祝福してお回りになるのを望み、計画しました!

 次の祈りを持ってファチマの聖母マリア様をお迎えしましょう!


家庭訪問をするファチマの聖母マリア像への祈り


聖母マリア様がいらっしゃるとき

天主の御母にしてわが母なる聖母マリアよ、我らは(わが家族は、我は、わが社は、わが部署は、わが商店は、わが教室は、わが部室は、等々)、
御身のかたじけのうご訪問に心から喜び奉る。御身は、我らが貧しき団居(まどい)に来られることを快しとされ、御身の我らに対する愛を示し給えり。御身がここにとどまり給うこの一日(この一週間、この十日間、この一ヶ月)、願わくは御身この場所を祝福し給い、御身の御恵みを豊かに施し給え。

我らが愛すべき御母よ、我ら(わが家族、我、わが社、わが部署、わが商店、わが教室、わが部室、等々)を祝し、
ここに住む(働く、生活する)全ての人々を守り、悪の手を退け給え。
我らは心を一つにして、子供として、全てを母なる御身に奉献し奉る。我らが全て、御身の御一人子イエズス・キリストの御教えと、
母なる公教会の掟とを守り、聖なる一生をおくることができるように助け給え。

御身のこのご訪問により、御身の御姿を見るだけで、我らの心は喜びに躍り、天主へのまことの愛徳がわき起こり、
御身へまことの信心がますます増大するのを覚ゆるなり。願わくは、天主への愛と御身への愛が、わが隣人に伝わらんことを!
御身の御助けによりて、天主と隣人とに対する義務を、特に愛徳の掟の義務を守らせ給え。聖子私たちの主イエズス・キリストによりて願い奉る。


「ああ聖マリアよ、御身の清き汚れなき御宿りによりて、ロシア、ヨーロッパ、アジア、特に中国、韓国、日本、そして全世界の回心を得させ給え。」

「聖マリアの甘美なる御心よ、ロシア、ヨーロッパ、アジア、特に中国、韓国、日本、そして全世界の救いとなり給え。」

 ロザリオの元后なるファチマの聖母よ、我らのために祈り給え!
 ロザリオの元后よ、世界に真の平和を与え給え!


聖母マリア様が家庭を離れるとき

 おお、ファチマの聖母マリアよ、ロザリオの元后よ!
 天主の御母にしてわが母なる聖母マリアよ!

この一日(この一週間、この十日間、この一ヶ月)、御身の住処となった我ら(わが家族、我、わが社、わが部署、わが商店、わが教室、わが部室、等々)の団居から、御身の立ち去る時は来たりし。御身のかたじけのうこのご訪問のあふれる喜びを、我ら(わが家族、我、わが社、わが部署、わが商店、わが教室、わが部室、等々)は、言い表すこと能わず。たといしばらくの間であろうとも、御身は我らと共にあることを望まれ給えり。御身のその母の愛に感謝し奉る。
願わくは、御身の再び来たり給わんことを。その喜びの日を久しく待ち望み奉る。御身を離れること無く永遠に見(まみ)ゆるその栄光の日を心から熱く待望し奉る。

ここから立ち去らんとする今、願わくは御身と共に我ら(わが家族、我、わが社、わが部署、わが商店、わが教室、わが部室、等々)の心をも持ちゆき給え。御身を我らが決して忘れることなからんがために。

聖子私たちの主イエズス・キリストによりて願い奉る。


English text:

a. Opening Prayer:

Our Mother and Mother of Christ, we are happy and honored by your visit in this class room which you made worthy to be the abode of your love and affection. During the day that you will stay here, please bless this room and always abide with it through your graces.
Beloved Mother bless this room and those using it including those who are away; deliver them from all evil.
From now on all our minds, our hearts and our works are consecrated to you, since you are our mother, and grant that all of us may comply with the commandments of your Son Jesus Christ and with the commandment of Mother Church. We pledge that this visit arouse us all to a true love of God and to true devotion to you so that we may fulfill our duties to ourselves, our neighbors, and to society.

Oh Mary, through Thy Holy and Immaculate Conception, convert Russia, Europe, Asia, especially China, Korea and Japan! Convert whole world to Jesus Christ!

Oh, Immaculate Heart of Mary, be salvatin for Russia, Europe, Asia, especially for China, Korea and Japan! Be salvation of the whole world!

May peace reign in the world!
Our Lady of the Rosary, pray for us.



b. Farewell Prayer:

O Beloved Mother the time has come for your departure from this classroom your home for 1 day. Our lips cannot express the joy overflowing in our hearts in this visit.
Inspired by your love Mother you desired to be with us even for only a while. Thank you Mother, thank you. Please come back some other day, we will wait for you with profound ardor.
Upon your departure take with you our love, take with you our hearts, never allow us to forget you nor to stray away from your care now and forever.
Amen.

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「天主から選ばれた者として、聖なる者として、愛された者として、憐れみのはらわたを着よ」

2016年11月22日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年11月6日(主日)に東京で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年11月6日 聖霊降臨後第25主日のミサ
小野田神父説教


聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。今日は2016年11月6日、聖霊降臨後第25主日のミサをしております。

今日この御ミサ後にいつもの通り14時30分から公教要理があります。前回は聖書について話しをしましたが、今回は黙示録について少しお話しをしようと思っています。16時から晩課があります。明日の朝も7時からミサがあります。

11月は来週の主日と再来週の主日にも続けてミサがあります、いらして下さい。

2017年のカレンダーが、アジア管区のカレンダーがあります。これはなんと300円です。お友達の為にもプレゼント用にもたくさん買って、ここに在庫がないようにご協力下さい。それからアメリカのAngels Pressのカレンダーもあります。これは2000円です。

ファチマの巡礼に、来年8月17日から26日の主日の朝に空港に帰って来るようにするのですけれども、飛行機代とホテル代全て含めて、ファチマとローマの巡礼の観光バスとか含めて、28万円から30万円で10日間で予定しています。

締め切りが11月30日までなので、申し込みの方は早めにお願いします。この申し込みの為に日本のお金で約4万円ほど申込金をお願いしなければなりません。世界中から多くの方がいらっしゃると思いますので、是非この100年に1度の機会に、皆さん是非いらっしゃるようになさって下さい。



“Induite vos sicut electi Dei, sancti et dilecti, visera misericordiae.”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は聖パウロが書簡書の中で、「天主から選ばれた者として、聖なる者として、愛された者として、憐れみのはらわたを着よ」と言っています。その後にも、「謙遜も、慎みも、忍耐も着よ」と言葉を続けていますけれども、今日はこの聖パウロの言葉を、死者の月に合わせて、今日このミサを黙想する事を提案しています。

聖パウロは、「天主から選ばれた者として、聖なる者として、愛された者として、憐れみの心を、憐れみのはらわたを着よ」と言っています。

そこで、ここで私の思うにはこのキーワードは、「天主から選ばれた者として、聖なる者として、愛された者として、特別の御恵みを受けた者として」という事です。私たちの特別の使命があります。その使命は何かというと、ちょうど昇階誦で言われているかのようです、「私たちの家族を、聖なる天主の家族を、あなたの家族を守って下さい。」

ちょうど私たちは、この地上にいる戦闘の教会ですけれども、そればかりではありません。私たちの家族は、天国にもそして凱旋の教会にも、煉獄の浄めの教会にも広がっています。「そして1つの家族として守って下さい」と集祷文で言っていますが、私たちは実はその3つの天と地と煉獄を合わせる、選ばれた、天主から選ばれた者たち、聖なる者たち、愛された者たちである、という事を今日聖パウロは思い出させてくれています。

ちょうど11月1日は諸聖人の祝日でした。ちょうど数日前でした。諸聖人の祝日には私たちは、聖ピオ十世会の創立を祝うのみならず、それよりももっと、天国にいる全ての天使、聖人たちの栄光に満ちた、その喜びと、歓喜と、幸せの様子を黙想しました。

天国にいる何千、何万、何百万、何億という多くの選ばれた人たちが、きれいな服を着飾って、真っ白なドレスで、そして宝石と素晴らしい飾り物に満ちて、そして手には勝利の棕櫚を持って、頭には冠を被って、そして素晴らしい、もうその美しさにはもううっとりとするほどの光景を、多くの大群の聖人たちが、童貞者たちが、博士たちが、主の前に讃美と感謝を捧げて与っている、永遠の幸せの晩餐に与っている、その光景を黙想しました。

天使たちが喜びに満ち溢れて、その天の大群が、讃美と感謝と憐れみの歌を天主に捧げている。その天主の御稜威は、それは太陽と比べたら、太陽が本当にろうそくのように見えるほどものすごい眩い、しかし目は全然痛くならない輝きと、美しさと、栄光に満ちて、その御稜威に満たされた、天主三位一体がその玉座に座し給うて、天主聖父、聖子、聖霊、そしてその隣に、私たちの母であり元后であるマリア様のものすごい素晴らしいお姿を黙想しました。

私たちはその天主の選ばれた者として、聖なる者たちとして、愛された者として、そこの一族に、私たちはその席に連なる者として、私たちはここに今生きています。

聖パウロは言います、「特に愛徳を持て」と。「天主を愛し、そしてこの私たちの家族である諸聖人を愛するように。憐みのはらわたを持て。謙遜と忍耐を纏(まと)え」と言っています。

ファチマのマリア様も仰いました。ルチアはマリア様のものすごい美しいお姿をご覧になってファチマで、「恐れないで下さい。私はあなたに何も悪い事をしませんよ」と言うと、「あぁ、あなた様はどこから来られたのですか?どちらの方ですか?」と聞くと、「私は、天からの者です」と仰いました。マリア様もすぐに私たちの心を天に上げられているかのようです。

ところで私たちは一体、どれほど多く天国の事を考えたでしょうか?「11月は死者の月だ、諸聖人の御祝いだ。」しかし私たちはどれほど愛する天国と、天主様と、イエズス・キリスト、諸聖人、私たちの為にこれほどお祈りして下さって、私たちの為に命さえ御血さえ流された天主イエズス様を、天国の事を、その為に私たちが創られて、今この地上に生きている天国の事を考える事でしょうか?

もしかしたら私たちは、天国の事を全然考えずに、この地上の事だけを考えて生きていたかもしれません。「私の友達がこんなに私に悪さをした。」「私の姑はこんなに悪い。」「私の妻はこうだ。」或いは「私の嫁は、」「私の先生は、」「主任司祭は、」或いは「安倍首相は、」或いは「プーチンは、」或いは「オバマは、」或いは…、そして私たちの関心はこの地上の事だけで、特に私の、自分の事だけばかりを考えていたかもしれません。考えるとしたら、人から受けた嫌がらせ、嫌な事だけを考えて、「何でこんな悪があるのか。」「何でこんな悪が私に許されたのか」と。

そうやって反省すると、それに答えるかのように今日の福音はこう言っています、「おっと、ちょっと待った待った、おっとどっこい。この世には実は敵が毒麦を撒いたのだ。だから本当は、天主の種だけ、天主の福音の種だけ撒かれたはずのこの世界に於いても、実は教会の中に於いても、敵が毒麦を撒いたので、異端や、罪や、或いはつまずき等がどうしても起こってしまったのだ。しかし、天主はそれをそのままにする事をお望みになった。何故かというとそれは、もしも今毒麦を全部取ってしまうと、良い麦さえも傷付いてしまうからだ。だから、この地上に悪が、毒麦が、つまずきが、嫌がらせがあるのは、天主の計画の中の一部なのだから、私たちはそれを知らなければならない。しかし最後にそれは、毒麦は毒麦として分けられて、束ねられて燃やされる。そして良い麦だけは特別に選ばれて、倉庫に入る、そこで保管される。だから今はその忍耐と試練の時である。憐れみの腸を身に付ける時である」と言っているかのようです。

ちょうどこれは11月2日、霊魂の、死せる信者の記念の日には、多くの煉獄の霊魂のために、私たちは死せる信者の為にお祈りしました。この世がこの地上での生活が終わったら、私たちは束ねられて焼かれるか、或いは天国にいるか、もしも焼かれたとしても煉獄に行くとしたら、それはお祈りを以って助けられるから、私たちは彼らの事も考えなければならない」と教会は教えているからです。ですから11月2日があります。

更にイエズス様は、「最後の最後には、最終の分離がある」という事を暗示しています。もしも悪を行った者たちは、私たちが罰するのではなくて、天主が永遠に罰し給うのです。永遠の地獄の火にくべられなければなりません。イエズス様はこの事を何度も暗示されました。

マリア様も同じでした。ファチマのマリア様は子供に教えるのです。子供は聞きました、「あぁ、マリア様は天国からいらしたのですか?じゃあ私も天国に行けますか?」「はい、行けます。」「じゃあ、ジャシンタは?」「“Também.” 彼女も行きます。」「フランシスコは?」「“Também.” はい、フランシスコも行けますけれども、フランシスコはたくさんロザリオを唱えなければなりません。」「じゃあ、マリア・ダス・ネヴェスはもう死んじゃったけれども、今天国にいますか?」「はい、います。」「アメリアは?」「アメリア、彼女はあの子は、この世の終わりまで煉獄にいます。」18歳か20歳だったそうです。100年前に亡くなった女の子ですが、「煉獄に、世の終わりまでいる」とマリア様ははっきり仰いました。

日本語のある本の中には、この「煉獄にいる」とだけしか書かれていないので、あれ?おかしいなぁ、と思って、ルチアのポルトガル語の手記を読んだら、ちゃんとポルトガル語の中には、「世の終わりまで」というマリア様の言葉がありました。

するとそれだけではありません。マリア様は7月13日に子供たちに地獄のビジョンを見せました。あまりにも恐ろしいもので、この床がパッと開いて地面がパッと開いて、大きな火の大海原が見えました。多くの霊魂たちがそこに雪のように、吹雪の雪のように落ちていました。形相の酷い形相をした、おどろおどろしい獣のような悪魔たちが霊魂たちを虐めていました。一瞬間、ほんの一瞬でしたけれどももう子供たちは、「もしも天国に行くという約束がなければ、死んでしまった」と言っています。

マリア様は、そしてイエズス様も、そしてカトリック教会も私たちに、「さぁお前!罪を犯すな!犯すと地獄落ちだ!」と脅そうとはしません。そうではなくて、「多くの霊魂たちが落ちているので、何とかこれを救わなければならない。この彼らの事を憐れんで、彼らの為に祈らなければならない」と言っています。

ではこの福音、「選ばれた者として、聖なる者として、天主から愛された者として」一体私たちは今日この主日にどんな遷善の決心を立てなければならないでしょうか?

私は3つの事を提案したいと思います。

1つは、天主から選ばれた者として私たちは、天の国に行くべき者、その為に選ばれた者、その為に聖なる者として、天主から愛された者として、天国の事を深く愛さなければなりません。天主、天国の事をよく思い出さなければなりません。皆さんの中で愛する子供、或いは愛する娘の事を思っていつも、「この子はどうしているだろうか」と思うではないでしょうか。私たちも天国の事を思い出さなければなりません。それが愛の証拠です。

そればかりではありません。「私が天国に行くかどうか」例えばルチアがそう思ったように、それのみならず、私たちの隣人も聖なる家族の一部として天国に行けるように、「ジャシンタやフランシスコはどうか?」と聞いたルチアに倣って私たちも、「あぁ、私のお友達は天国に行けるだろうか?その為にたくさんお祈りしよう」と思う事に致しましょう。私たちが皆天国に行けますように。

第2に提案したい事は、煉獄にいる、或いは地獄に落ちるかもしれない、私たちの祈りを最も必要とする霊魂たちの事です。マリア様は最初に現れた時に子供たちに聞かれました、「アメリアが世の終わりまで煉獄にいる」という事を聞いた時に、「あなたは天主様があなたたちに送る全ての苦しみを、罪の償いとして、そして罪人の回心の為の懇願の祈りとして、お捧げしますか?その事を望みますか?」と聞きました。ルチアは、「はい、望みます」と答えましたが、聖パウロも今日それを言っています、「憐れみの心を持て。特に愛徳を持て。とりわけ愛徳を持て。」煉獄の霊魂や、地獄に落ちようとする霊魂たちの事を思う事に致しましょう。私たちになされる悪を思うのではなく、私たちへの罪の償いの機会としてそれを利用する事に致しましょう。

これはもう有名な話なので皆さんご存知ですが、ルチアはお母さんから信じてもらえませんでした。ファチマの子供のルチアはお母さんに話しても、それを信じてくれませんでした。「嘘つきめ、嘘をついちゃいけないよ。そんな子は地獄に落ちるから。」主任神父様も、ファチマのマリア様の事を言っても信じてもらえませんでした。その為に叩かれたり、殴られたり、かといってルチアは、「嘘だ」と言う事はできませんでした。本当だったので。お父さんとお母さんの言う事を聞かなければなりませんでしたが、しかし本当の事を嘘だと言う事はできませんでした。信じてもらえずに叱られました。そういう話しをジャシンタにすると、ジャシンタのお母さんは信じてくれました。そしてジャシンタのお父さんはジャシンタを守ろうとしました。そういう話しをジャシンタにするとジャシンタは、「あぁよかった、私のお母さんは信じてくれて良かった」と思わずに、「あぁ、ルチアちゃん良いなぁ!私もそうやって罪の償いを捧げたかった」と反応したそうです。

私たちも聖パウロに倣って、私たちが受ける全ての、天主が送る全ての苦しみを、罪の償いとして捧げる事に致しましょう。天主を愛し、そして罪の償いの為に、私たちの受ける苦しみを捧げる、煉獄の霊魂や罪人の回心の為に犠牲を捧げる、というこの2つは、第3の決心にと続きます。

それはロザリオの十字軍で、多くのロザリオと犠牲を、ロザリオの十字軍の為に皆さんどうぞこの機会に参加するようになさって下さい。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
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"On Luther’s errors and heresies" by Fr. Laisney SSPX : 英語版「ルターの誤謬と異端思想について」聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

2016年11月21日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様の「ルターの誤謬と異端思想について」の【英語原文】をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


On Luther’s errors and heresies


My dear brethren,

Two weeks ago the pope celebrated the 500th anniversary of the rebellion of Luther, affixing his 95 thesis on the church of Wittenberg. This is a huge scandal, which did not get much media coverage because such scandals are too common today, but it remains nonetheless very wrong. Indeed Luther is one of the worst heretics of history, having lead astray millions of souls to their eternal perdition.

Luther is sometimes represented as a “reformer”, who would have fought against abuses. The truth is that he himself committed worse abuses than what he denounced: he broke his three religious vows, left the monastery, married a nun who had left her convent following his influence; he was a violent man, verbally abusing many, blaspheming the holiest things, especially the Holy Sacrifice of the Mass and the institution of the Papacy; he was often drunk. He led violent rebellions against legitimate authorities and was the cause of the “wars of religion” of the 16th and 17th century. How could such a one be presented as a model? This is unbelievable!

Luther’s theology can be summed up in one word: “alone”. By this word, he twisted the truth and lost it. He claimed: faith alone, grace alone, Scriptures alone, Christ alone: thereby he lost the true faith, lost sanctifying grace, lost the understanding of the Scriptures and ultimately lost Christ Himself!

That word “alone” was so important for him that he added it in the Scriptures! Where St Paul wrote “Being justified therefore by faith” (Rom. 5:1), Luther added the word “alone” which St Paul had NOT written. When even some fellow Protestants were pointing this out to him, and asking him why he added that word, his answer was: “because Master Luther said so!” Thus he took upon himself to correct even St Paul!

By the expression “faith alone”, Luther rejects the needs of charity: for him, justification is extrinsic, outside of man, a mere declaration of God that such man is just – in spite of the fact that, according to Luther, such man would still remain a sinner, in his sin. The only thing required for such Lutheran justification would be “faith alone”. Contrary to this, the Church teaches with St Paul that: “if I should have all faith, so that I could remove mountains, and have not charity, I am nothing” (1 Cor. 13:2). Faith alone, without charity, is thus worth nothing unto eternal life: one is NOT justified by faith alone.

Why is charity also necessary? Because justification not a mere extrinsic declaration of justice, but rather it is a complete transformation of one’s soul, from the state of sin (spiritual death) to the state of grace and justice (spiritual life). As a body is dead when it is separated from the soul, so a soul is spiritually dead when it is separated from God. At the opposite, a body is living when it is united with its soul, and a soul is living when it is united with God; now that union with God is by charity, as St Paul says: “charity … is the bond of perfection” (Col. 3:14). At the opposite: “If any man love not our Lord Jesus Christ, let him be anathema, maranatha” (1 Cor. 16:22). Thus if a man has faith without charity, his faith is “dead”, as St James says: “for even as the body without the spirit is dead; so also faith without works is dead” (Jac. 2:26). St James speaks here of the works of charity, as St Paul says: “For in Christ Jesus neither circumcision availeth any thing, nor uncircumcision: but faith that worketh by charity” (Gal. 5:6).

Thus by claiming that one was justified by faith alone, by such extrinsic faith, forensic faith, without the inner transformation of the soul and charity, Luther lost even the true Faith itself!

Then Luther claims that one is saved by “grace alone”, without works. He claimed that whatever good work a man would do would avail him nothing unto salvation: only the grace of God would save him, without the need of any good work. That is explicitly against the Scriptures. The truth is that before conversion, before justification, there can be no supernaturally good work that would deserve such conversion: indeed before being in the state of grace, one is in the state of sin and deserves punishment, not grace. However, after conversion there is need of good works before the end of one’s life, and these good works done with the grace of our Lord Jesus Christ are necessary unto salvation.

These good works are the good fruits required from the tree, otherwise it will be uprooted (Lk. 13:6-9). These good works are the additional talents earned by the hard-working servants with the talents they received, but “the unprofitable servant – who did not make the received talent fructify – cast ye out into the exterior darkness. There shall be weeping and gnashing of teeth” (Mt. 25:30). “Every tree therefore that doth not yield good fruit, shall be cut down, and cast into the fire” (Mt. 3:10). The elects are rewarded “because I was hungry and you gave me to eat…”: this little word “because” clearly show that their reward is given to them because of their good works! And the damned are condemned because of their lack of good work (Mt. 25:31-46). Thus St Paul exhorts Titus: “let our men also learn to excel in good works for necessary uses: that they be not unfruitful” (Tit. 3:14). That God rewards good works is manifest in so many passages of the Scriptures: the Proverbs say: “He that hath mercy on the poor, lendeth to the Lord: and he will repay him” (Prov. 19:17). Thus our Lord says: “But lay up to yourselves treasures in heaven: where neither the rust nor moth doth consume, and where thieves do not break through, nor steal” (Mt. 6:20). And the fruits of hospitality: “He that receiveth a prophet in the name of a prophet, shall receive the reward of a prophet: and he that receiveth a just man in the name of a just man, shall receive the reward of a just man” (Mt. 10:41). “For the Son of man shall come in the glory of his Father with his angels: and then will he render to every man according to his works” (Mt. 16:27). “Behold, I come quickly; and my reward is with me, to render to every man according to his works” (Apoc. 22:12). Thus Heaven is “rendered” to the just because of their good works, and hell is “rendered” to the wicked because of their evil works (or the very lack of good works).

By rejecting good works, Luther lost sanctifying grace! In particular he rejected the good works of penance, of reparation for our own sins, for the sins of our neighbour and for the souls in Purgatory. Now the Sacred Heart asked at Paray-le-monial for such reparation especially on first Fridays; our Lady at Fatima asked again for similar reparation especially on first Saturdays. And when one sees the overwhelming wickedness in the modern world, especially that of abortion, one understands the urgency of such good works.

Then Luther claimed one should follow “Scriptures alone”, but the Scriptures themselves testify that they do not contain everything about Christ: “Many other signs also did Jesus in the sight of his disciples, which are not written in this book” (Jn. 20:30). “But there are also many other things which Jesus did; which, if they were written every one, the world itself, I think, would not be able to contain the books that should be written” (Jn. 21:25). For instance, St Paul mentions a word of Jesus (“It is a more blessed thing to give, rather than to receive” Acts 20:35), which is not found in the Gospels. St Luke mentions that our Lord “opened the understanding of the apostles, that they might understand the scriptures” (Lk. 24:45). Now those explanations of the Scriptures which our Lord gave to his apostles, where are they found? A little bit of it is found among the epistles, but there was undoubtedly much more, which is found in the oral teaching of the apostles which has been written down by the Christian Fathers. Hence in order to have the proper understanding of the Scriptures, we need the teaching of the Fathers, i.e. Tradition. St Paul himself mentions that “Therefore, brethren, stand fast; and hold the traditions which you have learned, whether by word, or by our epistle” (2 Thess. 2:15). Here St Paul manifestly puts on an equal footing the written word of his epistle and the spoken word. By rejecting the spoken word, i.e. the oral teaching of the Apostles and their successors, Luther cut himself from the proper understanding of the Scriptures.

Protestants usually claim that they are directly inspired by the Holy Ghost to understand the Scriptures: but such a claim is self-refuting, indeed if that were the case, the Holy Ghost would contradict Himself multiples times, since there are so many different Protestant sects that oppose one another on major doctrinal points! And the Mormons claim the same in support of their “book of Mormons”, and even Muslim could claim the same in support of their “Koran”… In contrast with this multiple division, St Paul teaches that there is “One Lord, one faith, one baptism” (Eph. 4:5). Indeed, “God is not the God of dissension, but of peace” (1 Cor. 14:33).

Thus by claiming “Scriptures alone”, Luther lost the proper understanding of the Scriptures, and in particular was no longer able to discern the abundant and very clear passages speaking about the Church: and this is the last “alone” of Luther. He claims to go to “Christ alone”, without the mediation of the Church. He claims to need no Pope, no priest, no saint, under the pretext that Christ alone is mediator; thus he rejected all prayers to our Lady and to the Saints. Now St Paul says: “For there is one God; and one mediator of God and men, the man Christ Jesus” (1 Tim. 2:5). But “one mediator” does not mean “alone”: that Christ is the “one mediator” means that one cannot bypass our Lord Jesus Christ, “I am the way, and the truth, and the life. No man cometh to the Father, but by me” (Jn. 14:6). But our Lord Jesus Christ is not alone: St Paul tells us in multiple places and many ways that Christ “is the head of the body, the church,” (Col. 1:18). As the head is inseparable from the body, so is our Lord Jesus Christ inseparable from His Church: one cannot have Christ if he refuses the Church, which is the body of Christ! Our Lord Jesus Christ is the Spouse (Mt. 9:15) and the Church is the bride (Jn. 3:29, Apoc. 21:2,9): one cannot separate the groom from the bride: “What therefore God hath joined together, let no man put asunder” (Mt. 19:6). Hence by rejecting the Church, Luther lost Christ!

Now you understand how this little word “alone” can be so destructive! Luther lost everything because of it: he lost the true faith, he lost grace, he lost the understanding of the Scriptures and ultimately he lost our Lord Jesus Christ! We must never separate faith from charity, grace from good works, the written from the spoken Word, and Christ from His Church: we must not take a part but the whole doctrine of Christ. And we find the whole of Christ in the Catholic Church, and in the Catholic Church alone!

All the Saints were attached to the Catholic faith and lived it with great love for God; they were rich in good works; they were faithful to what had been handed down through the centuries by Tradition; they loved Christ in His Church. The Saints are friends of our Lord Jesus Christ; they are with Him in the banquet (Lk. 14:16): one would not be a good guest in the banquet of the Lord if he would refuse to talk with the other guests: hence devotion to the Saints is necessary. Very rude indeed would be the one who would refuse to speak to anybody in the banquet room except the King! He would not be a fitting guest and would be expelled.

May the blessed Virgin Mary, guardian of the Faith, help us to keep the Catholic Faith unsullied by the errors of Luther, to keep the whole Catholic Faith without excluding this or that as Luther did, to keep the Catholic Faith working through charity, acquiring to ourselves a treasure in Heaven so that we may deserve to be true “fellow-citizens with the Saints” (Eph. 2:19) and join them for ever in the beatific vision! Amen.


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2016年11月13日の聖伝のミサの報告:聖ピオ十世会 SSPX JAPAN Latin Traditional Mass

2016年11月20日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

11月13日は同じ日に、大阪ではレネー神父様が、東京では私がミサ聖祭を捧げることが出来ました。天主様にそのミサのお恵みを感謝します。この主日には、日本では、2名の司祭の2つの聖伝のミサがあり、大阪では14名の方々が、東京では46名の方々が別々にミサに与ったので、60名の方々がミサに与りました。天主様に感謝!


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

私達の大切な小野田神父様こんにちは。
大阪でボーナスミサを挙げて頂き、ありがとうございました。

小野田神父様司式の
11月12日(土)教皇証聖者聖マルティノ のミサには8名が
レネー神父様司式の
11月13日(主)聖降臨後第26主日のミサには14名が、
11月14日(月)司教殉教者聖ヨザファトの早朝ミサには7名が
御ミサに与る御恵みを頂きました。デオグラチアス!

聖マルティノの祝日のお説教では、異端に立ち向かい司教としてのご自分の勤めを全うしたがために迫害を受け、殉教されたマルティノ一世教皇様と、マルセル・ルフェーブル大司教様が重なりました。ルフェーブル大司教様が聖マルティノの名前を受けられた事は偶然ではなかったように思います。
ファチマのルチアが言うように、「マリア様をお喜ばせするのは犠牲で、ロザリオの祈りはその犠牲をよく果たすことができる御恵みを得ることができる」
のですから、今私達が参加している聖ピオ十世会のロザリオ十字軍は全くファチマの精神に沿ってイエズス様とマリア様の聖心をお喜ばせするものだと確信します。
自分も、聖マルティノ、ファチマの子供達、また、自分の守護の聖人に倣って自分の日々の勤めをよく果たしてファチマ100周年をよく準備したいと思います。

また、神父様の義務は、教会が教え伝えてきたことをそのまま伝える事だとおっしゃりましたが、聖ピオ十世会の神父様方はルフェーブル大司教様がそうされたと同じ道を歩んでおられると思います。神父様方がご自分の義務を全うされて迷える信徒たちをこれからもイエズス様の法へお導き下さいますよう一所懸命お祈りしなければならないとも思いました。

主日にはミサのお説教と、その後に二つの講話をして頂きました。
お説教は洗礼の意味とその美しい説明、
公教要理では幼児洗礼の重要さと堅振の秘跡の意味、そしてルターの誤謬と異端思想についてお聴きしました。
洗礼をもって天主様がどれ程私達を愛して下さっているかを感じ、感謝で胸が熱くなりました。

デオ・グラチアス!



【報告】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 22人(内、子供1人)
女: 24人(内、子供3人)
計: 46人(内、子供4人)



【報告】
+アヴェ・マリア・インマクラータ!

小野田神父様、こんにちは! 今週も東京で御ミサを捧げてくださり本当にありがとうございます。先週、昨日、来週と3週間も連続で御ミサに与ることができて本当に幸福です。ありがとうございます! 
御ミサのレポートをお送り致します。

これだ! と分かったこと

パン種の例えで言われているパン種とは、全てに影響を与える、全てを膨らませるもの、つまり御聖体のことである。これは教父たちもそのように言っている。 ということです。
芥種(からしだね)もそうですが、最初は小さな小さなものだが、強く大きく成長し、全てに影響を与えるほど大きく強いものになる、ということをイエズス様が譬を使ってお話なさったのだとよく分かりました。
神父様が「私たちの中で御言葉の種をどのように成長させることができたでしょうか。」とお話し下さった後に、自分自身を省みてとても反省致しました。いつも御ミサに与るほどの御恵みをいただいていながら、私はマリア様や天主様に良い勧めをいただいても「私はこのやり方がしたい、この方が良いんですよ、そんなこと知っています。」と傲慢にも答えていたと思ったからです。

日曜の夜にもう一度聖書を読んだのですが、その時は、イエズス様がお話下さったパン種の譬の中に登場する「女」をマリア様に置き換えて読んでみました。「女がこれをとって、三斗の粉の中に入れると、全部がふくれる。」、「女がこれをとって、入れると」とあるので、マリア様によって信仰のたねを取って入れていただかないと、やはり霊魂全体は膨れ得ない=信仰の充満、完成には至らない=天国の栄福には達するができない、とイエズス様は仰りたかったのではなかろうか、と思いました。また、マリア様は良きお母様として私たちを成長させる尊いパン種でパンを作ってくださっているように、今はご自身をいけにえとして捧げられ御聖体にましますイエズス様を育てて下さったのだなと感じ、マリア様の存在の尊さを再び感じました。

午後の黙示録の講話については内容が前回よりも複雑だったので、感想のみ書き送らせていただきます。
(後ほどノートをもとにして要点の書き起こしにチャレンジします。)

特にこれだ!と分かったことは、黙示録9章7節に登場する「いなご」は、出版の自由、メディアのことである、とカステラニ神父様が解釈なさったということです。

頭にはまるで王のように振る舞う金の冠(ジャーナリズムは国家の第4の権力と言われるほど)、偽りの人間の顔(賢そうに見せている)に、人を惹きつける(良い意味で、ではなく)女の髪、獰猛な獅子の歯、羽音はうるさく、多くの人がメディアの流す情報に右往左往させられ霊魂は傷を負い痛んで、まるでさそりに刺されたようです。このように考えて、この「いなご」の解釈に納得いたしました。「言論の自由」と引き換えに人はそもそも知る必要の全く無いことや、その職能や身分に応じて知る必要のある以上の事を知り、霊魂が天主様の前にその奥義や玄義や聖書の中を駆け巡り天国へ駆け上がる自由、天主様へ捧げる善を選ぶ自由という本当の自由を失ってしまったと思います。霊魂が天主様の御前に馳せることを妨げるのが悪魔の目的ですから、「彼らには王がいる、深い淵の天使」、アバッドンの意味は「破壊」とあるのでサタンのこと、「言論の自由」の名の元に偽りの自由を与える嘘つきの主人、ということでまさにその通りだと思いました。今は外を歩いているだけでテレビの音が耳に入ったり、酷い歌の歌詞が耳に入って来たり・・・私たちは本当に恐ろしい時代に生きていると思います。霊魂がそうとは自覚はせずとも周りから受ける影響は計り難く大きいものであると思うので恐ろしい事です。

このようにに書いている私もほんの数年前までは、カトリックの洗礼を受けていながら信仰生活を実践せずイエズス様やマリア様のことを考えもせず、聖書も読まないしお祈りもしません、という生活を送っていました。ですから、黙示録を読んで「人間の三分の一が滅ぼされた。」というところ(何度かでてくると思うのですが・・・)を読むと恐ろしくなります。そして、天主様、マリア様の大きな憐れみと、どなたか私の為に祈って下さった方のいらっしゃる事を思います。死者の月ものこり半月程ですが私が以前そうだったように、まさに地獄に向かわんとする霊魂の為にもよく祈ろうと決心いたしました。

来週の御ミサもとても楽しみです。
神父様が残りの休暇期間も良い時間を過ごされますように、お祈りしております。

+In Mary Immaculate,

【お返事】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
レポートをありがとうございます!

「女」が、聖母マリアさまであるということ、素晴らしい指摘です!
教父たちは、教会のことだと言っていたのですが、教会の典型の聖母マリアさまでもあるに違いありません。

ノートをもとにした要点が楽しみです!



【報告】
11/13日のレポートです  

今回のごミサのお説教を拝聴し、芥種(からしだね)とは ”御言葉”あるいは”殉教者の血”のことで、そしてパン種とはホスチア 御聖体 のことだということが わかりました。
また、御ミサのホスチアの説明で カトリック教会がローマの教皇様との一致を保ち続け、そして初めからのミサが継続して捧げられているようになっていることがわかり、感謝しました。
勿体なくも御聖体をいただきまして、イエズス様に来ていただきまして、私の中でイエズス様が私のすべてを主のものにしてくださいますことに何も拒むことがありませんように、聖母マリア様が聖霊の働きに拒むことがなかったことに少しでも倣うことができますよう、マリア様にお祈りいたします。

今回の公教要理はなかなか難しかったです。
前回の続きとして、第5章から第10章前くらいまでと第13章の前半を  前回の様にカステラーニ神父様の本をもとにお話しいただきました。
今回は7つの封印と7つのラッパについてのお話ということでした。

「わかったこと」を 以下にまとめてみました。

第6章では、6つの封印が解かれ説明されます。
第1の封印が解かれて出てきた白い馬は キリスト教世界の君主たち(例えばシャルルマーニュ≪カール大帝≫やルイ9世など)をあらわしているとのこと。政治的力を使ってキリスト教を保護した。この白い馬がいなくなってしまうと 反キリストに力を奪われてしまうことになる。
第2の封印が解かれて出てきた赤い馬は戦争をあらわしているとのこと。
第3の封印が解かれて出てきた黒い馬は飢饉をあらわしているとのこと。「オリーブ油と葡萄酒には害を加えてはならない」というのは 飢饉になって物価が高くなってもお金持ちの人はなんら影響を受けず何の不自由なく贅沢品も買えることを指す。
第4の封印が解かれて出てきた浅葱色の馬は死とペストをあらわしているとのこと。また迫害の時代がちかづいているという意味。
第5の封印が解かれて出てきた人々の霊魂とは殉教者をあらわしているとのこと。
第6の封印が解かれて出てきた時の天変地異の有様は、大いなる怒りの日を前にイエズス様の来臨を前にして、異端や離教などが起こり教会の教えをよく知っているべき人たち(空の星)が健全でない間違った教えを教え始めて(地上に落ちた)人々を苦しめるようになった大激動をあらわしているとのこと。( 山は宗教を表し、海はこの世のことを表す。)再臨が近づいている。

そして第8章において第7の封印が解かれる。ここでは7つある封印の最後の第7の封印の内容が 詳細に入れ子(マトリョーシカの人形)のような形で、 7つのラッパという表現で 説明される。最終の段階に来ることがラッパによって表現される。ラッパというのは王様がいらっしゃる前に吹かれるものであり、この場合の7つのラッパが吹き鳴らされるというのは 反キリストが来る前触れを表している。反キリストというのは とても怖ろしい異端者のもので人類を変えてしまうような間違った考え・偽りの考えのこと。

第1のラッパが吹くと モンゴル方面からのフン族やヴァンダル族がローマ帝国にやってきて全てを破壊し尽くしてしまい、その地はアリウス派という異端に変わってしまう。
第2のラッパが吹くと、アラビア半島からアフリカの北部へと海賊行為を行いイベリア半島を通り フランスへまたコンスタンチノープルへと向かって イスラム教が キリスト教を破壊する。
第3のラッパが吹くと、東方キリスト教会がローマから離教する。輝いている大きな星とは司教のことで、フォルティウス主教、ミカエル・ケルラリウスが離教を完成させた。
第4のラッパが吹くと、ルターやカルヴィンなどプロテスタントが始まり 無神論の哲学やフランス革命の哲学などが現れ出る。 これにより、人間の理性が最高のものでこれに合ったものを信じればよい、何を信じるかは私が判断するのだという反キリストの宗教が準備されるようになる。(カトリックは天主様に人間の知性も意志もおささげする)
第5のラッパが吹くと、イナゴが登場する。これは出版の自由を意味し、国家の第4の権力ともいうべきジャーナリズムによりカトリック教会を破壊しようとするものが表れる。ここ9章1節の星とはルターあるいは寧ろカルヴィンのことであるだろうとカステラーニ神父は書いている。このイナゴによって、天主様の印を持っていないものは攻撃を受けるが、カトリック信仰を持ち実践している人は害を受けないということを、「緑の者は刺されなかった」と書いている。現代はなんでもマスコミのいうことを聞かなければならないような風潮によりそれを鵜呑みにする者も多く、マスコミの威力の凄まじさがイナゴで表現される。9章11節のアバドン(ヘブライ語)、アポリオン(ギリシア語)は、破壊者、絶滅者という意味を持ち、カトリック教会を破壊するものということ。
第6のラッパに入ろうとするところで、今回は時間でした。2億という数字に少し触れられたところまでです。

福音記者聖ヨハネは キリストの教えが今後どんなふうに歪められるかということのヒントを 後世のカトリック信者のために ここで書き残してくださったように感じました。「人類を変えてしまうような間違った考えや異端・謬説・偽りの考えが あたかも天主様の教えのように説かれるようになり、人々を苦しめようとするので注意しなさい」という警告を心にとどめなければならないと思いました。
星が落ちるという表現で 人々を導く立場の方々が失墜してしまい 教導職にいながら間違った教えを説き始めてしまうことであることは、ファチマや秋田にご出現になられたマリア様も私たちに注意を喚起していたことを思い出しました。

【お返事】
詳しいご報告をありがとうございます。
一生懸命に聞いて下さっていて感謝します。これほどのことをノートにとれるとはすごいですね。
最後の第六の天使がらっぱを吹きならした。「この騎兵団の数は二億であった。私はその数を聞いた」で時間が来てしまいました。

カステラーニ神父様によると、この二億の騎兵団の馬たちとは「戦車」のことではないか、と言っています。
「馬とその騎兵を見たが、かれらは、火とヒヤシンスと硫黄との色をした鎧をつけていた。馬の頭は獅子の頭のようで、その口からは火と煙と硫黄とを吐いている。馬の口から出る火と煙と硫黄の三つの災難によって、人間の三分の一が亡ぼされた。馬の力はその口とその尾とにあった。その尾は蛇のようであり、頭がある。それで害を加えるのである。」
二億とは、第一次世界大戦と第二次世界大戦とでの戦闘員たちの数のようですし、この馬の口からは火と煙と硫黄とを吐く、とあるからです。

第一次世界大戦と第二次世界大戦とが終わっても、人々は「偶像崇拝」を止めないからです。ここで言う「偶像崇拝」とは、人間の高度技術、「労働の実り」、国家、お金、民族、祖国、武器、暴力、権力などでそれらに天主だけに置くべき信頼を置いているからです。
黙示録にはこうあります。「その苦しみによって亡ぼされなかった残りの人々は、自分の手でしたことをまだくいあらためようとせず、悪魔たちと、見ることも聞くことも歩くこともできない黄金・銀・銅・石・木の偶像を礼拝しつづけた。かれらは、その殺害、魔術、淫行、盗みを改めなかった。」



【報告】
+アヴェ・マリア・インマクラータ!
小野田神父様

11/13午後の講話のレポートをお送りいたします。
すっかり遅くなってしまいました、申し訳ありません。

黙示録 今回は、「7つの封印」と「7つのらっぱ」についてお話ししていただきました。
・7という数字について
 教父達は、7について「7=4+3」と「7=4+2+1」という2通りの解釈している。
 前者は、4で最も良い点・最高点に達し、そこからまた降る
 後者は、2と1の間で、最後の7の段階に達する前にこれまでの出来事を繰り返し、どのような手順を踏んで最後の7まで行くのか手順を示す
・7つの封印・・・ティアティラ〜ラオディキアの教会で起こること
  1)白い馬、冠、弓、勝つために出ていく(黙示録第6章1節)
    白い馬は、キリスト教君主たちのこと(シャルル・マーニュ、ルイ9世などのカトリックの君主)
    冠を被り、弓を使ってキリスト教を保護するために戦った
    ※聖イレネオと聖クリゾストモによると、この後も「白い馬」が登場するが、特徴が違うので意味は違うものと解釈すべき
  2)炎の色の馬、大きな剣(黙示録第6章3節)
    炎の色の馬は、戦争のこと 
    炎の色は血の色であり、これは大きな剣によって流される
  3)黒い馬、秤、「小麦1ケニクスは1デナリオ・・・、油とぶどう酒には触れるな」(黙示録第6章5章〜6章)
    戦争の後の飢饉、物価の上昇のこと 1デナリオは当時の1日の労働の対価にあたる。物価上昇の起こることを意味する
    油とぶどう酒は、金持ち、特権階級を指す。全く世間の景気の影響を受けない人々のこと
  4)浅黄色の馬、死、地の4分の1が死ぬ(黙示録第6章3節)
    迫害の時が近づいている、ということ
    ※ここまで4つのヴィジョンには馬が登場する。「4+2+1=7」の解釈に当てはまる
  5)祭壇に流れる血(黙示録第6章9節)
    殉教者の血、迫害を受ける人々の血
  6)大地震、太陽・月の色が変わる、天の星が落ちる、山と島が場所を変える(黙示録第6章12節)
    太陽の色が変わるとは、異端や離教により教会の教えが歪められ変えられること。そして、輝きを失ってしまう
    血のような月とは、教えが健全でなくなり、人が血を流すような間違いを犯すこと
    天の星とは天の方角を示す星、つまり教会の教えをよく知っているべき教師や指導者のこと、それらが落ちる
    山や島は不動のものを象徴する 頑丈な国家、諸国も第激動に巻き込まれるということ
    ※大自然の現象を説明し、最後の第7にイエズス様の再臨が近づいているということを象徴している
     7に進む前にさらに詳細に教会の各時代毎に起こることを説明し、最後へ向かいどのような状況で進むのかを最初に戻って再び説明する
     「4+2+1=7」の解釈に当てはまる
     ※第7章の解釈 「海」は絶えず動くものとして、この世、世間のこと。 「地」は不動のものとして、宗教のこと。
  7)「天は半時ばかり静かになった。」(黙示録第8章1節)
    半時の解釈 1日=24時間 1日=48×2分の1 半時=48分の1日 天主はにとっては1日=1000年のようだとあるので、半時とは約20年
    世の終わりが来る最終段階の前に平和な時があるのではないか、それは約20年ではないか
    7つのらっぱが与えられる(黙示録第8章2節)
    ※さらに世の終わりの段階を詳しく説明するために、ここに7つのらっぱのヴィジョンが入る ここも「4+2+1=7」の解釈に当てはまる

・7つのらっぱ・・・人類を破壊してしまうような異端、謬説のこと
          らっぱの音が鳴ると王が来ることの前触れだが、ここでは反キリストの来る前触れと解釈する
  1)第1のらっぱ(黙示録第8章7節)
     アリウス派の異端とローマに侵略した多くの異民族のこと(フン族、ゴート族、ヴァンダル族) 
    この異民族のうち多くはアリウス派に靡いた
  2)第2のらっぱ(黙示録第8章8節)
    イスラム教のこと 海は宗教を指す(前出第7章の解釈参照)
    海賊行為を行いイベリア半島〜スペイン〜フランス、また、コンスタンティノープルからもキリスト教を破壊した
  3)第3のらっぱ(黙示録第8章10節)
    東方離教のこと 輝く星は司教のこと 純粋な水の源(天主の教え)の上に落ちたので、
    それらは救いをもたらさなくなった
  4)第4のらっぱ(黙示録第8章12節)
    プロテスタントのこと 太陽、月、星、昼、夜も光を失うほどの影響を与える
    聖書のみの信仰・無教会主義・聖書自由解釈・無神論的哲学・フランス革命の哲学が登場し、
    天主を人間の理性に従えること・人間理性に対する崇拝がはじまる 
    例えば、エマニュエル・カントの純粋理性批判(「もう人間は成人した、これからは人間が判断する」)などの哲学
    これは、反キリストの宗教の準備 
  5)第5のらっぱ(黙示録第9章1節)
    星とはルターもしくはカルヴァンのこと カステラニ神父様によると、むしろカルヴァンだろうという
    キリスト教の教えが煙によってはっきりと見えなくなってしまう
    いなごとは、出版の自由のこと ジャーナリズムを動かすことによって人民を動かすことができるので、
    「戦いに備えた馬」のようであり、カトリックに対する武器として備えられている 
    「アバッドン」「アポリオン」とは、壊すもののこと カトリック教会と
    イエズス・キリストを破壊しようとする破壊者
    地の草と緑のものとは信仰を実践しているキリスト教信者のこと 
    5ヶ月とは150年のこと(前出の計算方法による)1789年から150年後にWWIIが勃発 
  6)第6のらっぱ(黙示録第9章13節)
    2億の兵士 昔は2億の人々を統治することは不可能だと思われたが、
    現代ではマスコミ等の影響でそれも可能だろう
    昔は理解することが難しかったことが、現代になるにつれ理解しやすくなってきている 
    
残念ながら時間になってしまいましたが、7つの封印・7つのらっぱの解説の続きを伺うことができてとても有意義でした。
書き起こしをすることで、自分でも知識を整理することができました、デオグラチアス!
神父様、本当にいつもとてもすばらしい講話をしていただき本当にありがとうございます! 

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「ルターの誤謬と異端思想について」:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

2016年11月19日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様の霊的講話「ルターの誤謬と異端思想について」(日本語訳)をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2016年11月13日 聖霊降臨後の第26主日―大阪 霊的講話「ルターの誤謬と異端思想について」

親愛なる兄弟の皆さん、

二週間前、教皇は、ルターがヴィッテンベルクの教会に九十五か条の論題を貼り付けた反逆の五百周年を祝いました。これはとんでもないスキャンダルですが、報道機関はあまりニュースにしませんでした。こんにちではそんなスキャンダルはあまりにありふれたことだからです。それでも、これは非常に間違ったものであることに変わりはありません。実際、ルターは歴史上で最も悪しき異端者の一人であり、何百万もの霊魂を迷わせ、永遠の破滅へと導いてきたのです。

ルターはときどき、悪行に対して戦った「改革者」として描かれます。しかし現実には、彼は自分が非難した悪行よりももっとひどい悪行を行いました。修道者として立てた三つの誓願を破り、修道院を去り、自分の影響を受けて修道院を去った修道女と結婚しました。暴力的な人間で、言葉で多く人に対して悪行を行い、最も聖なるもの、特にミサの聖なる犠牲と教皇制度を冒涜しました。しばしば酒に酔っていました。合法的な権威に反抗して暴力による反乱を先導し、十六世紀と十七世紀の「宗教戦争」の原因でした。どうしたら、そんな人間を手本として示すことができるでしょうか? 全く信じられないことです!

ルターの神学は一つの言葉で要約できます。「~のみ」です。この言葉によって、彼は真理を捻じ曲げ、真理を失いました。彼はこう主張しました。信仰のみ、恩寵のみ、聖書のみ、キリストのみ、と。これによって彼は真の信仰を失い、成聖の恩寵を失い、聖書の理解を失い、最後にはキリストご自身を失ったのです!

「~のみ」という言葉はルターにとって大変重要なものであったため、それを聖書に付け加えたのです! 聖パウロが「それゆえ信仰によって義とされた」(ローマ5章1節)と書いたところに、ルターは聖パウロが書きはしなかった「~のみ」の言葉を付け加えました。仲間のプロテスタントの中にはルターにそれを指摘した者さえいて、なぜその言葉を付け加えたのかを尋ねたとき、ルターはこう答えました。「なぜならルター師がそう言ったからである!」。このように、ルターは聖パウロさえも自分の思う通りに訂正したのです。

信仰のみ」という表現によって、ルターは愛の必要性を拒否します。彼にとって、義化とは外的なもの、すなわち人の外のもので、その人は義であるという天主の宣言にすぎません。ルターによれば、その人は自分の罪において罪びとのままに留まるという事実があるにもかかわらず、そうだというのです。そのルター的な義化に必要とされる唯一のものは、「信仰のみ」です。これに反して、教会は聖パウロとともに次のように教えています。「たとい私が預言の賜物を持ち、全奥義と全知識に通じ、山を動かすほどの満ちた信仰を持っていても、愛がなければ無に等しい」(コリント前書13章2節)。ですから、信仰のみで愛がなければ、永遠の命に至るにいささかもふさわしくありません。人は信仰のみでは義とされません

なぜ愛も必要なのでしょうか? なぜなら、義化は、義についての単なる外的な宣言ではなく、むしろ人の霊魂の、罪の状態(霊的な死)から恩寵と義の状態(霊的な命)への完全な変容だからです。体が霊魂から離れるとき体が死ぬように、霊魂が天主から離れるとき霊魂は霊的に死んでいるのです。その反対に、体が霊魂と一致しているとき体は生きており、霊魂が天主と一致しているとき霊魂は生きているのです。さて、天主とのその一致は、聖パウロが「愛は…完徳のかなめである」(コロサイ3章14節)と言うように、愛による一致です。その反対に、「もしわれらの主イエズス・キリストを愛さない者があれば呪いあれ。主は来り給う」(コリント前書16章22節)。このように、人は信仰を持っていても愛がなければ、聖ヤコボが「霊のない体が死んでいるように、行いのない信仰も死んでいる」(ヤコボ2章26節)と言うように、その信仰は「死んで」いるのです。聖ヤコボはここで、愛の行いのことを話しています。聖パウロが「なぜなら、キリスト・イエズスにおいては、割礼を受けることも受けないこともいずれも価値がなく、愛によって働く信仰だけに価値がある」(ガラツィア5章6節)と言うように。

ですから、そのような外的な信仰、弁論による信仰によって、霊魂の内的な変容と愛がなくとも、信仰のみによって人は義とされると主張することにより、ルターはまことの信仰そのものさえも失ったのです。

そしてルターは、人は行いなしに、「恩寵のみ」によって救われると主張します。ルターは、人がいかなる良い行いを行おうとも、それが人を救いに至らせることはできないと主張しました。良い行いは必要ではなく、天主の恩寵のみが人を救うと言うのです。これは明確に聖書に反しています。回心以前に、義化以前に、そのような回心をするにふさわしい超自然的な良い行いはあり得ない、ということが真実です。実際、成聖の恩寵の状態になる以前には、人は罪の状態にあり、恩寵ではなく罰を受けるのにふさわしいのです。しかしながら、回心ののちには、人生の終わる前に良い行いが必要であり、私たちの主イエズス・キリストの恩寵とともになされたこれらの良い行いが、救いのために必要なのです。

この良い行いは木に求められる良い実であり、そうでなければその木は切り倒されてしまうでしょう(ルカ13章6-9節)。この良い行いは、働き者の召し使いが、預かったタレントによってもうけた追加のタレントです。しかし、「受けたタレントを十分に実らせなかった、この役立たずのしもべを外の闇に投げ出せ。そこには嘆きとはがみとがあろう」(マテオ25章30節)。「よい実を結ばぬ木は、切り取られて火に投げ入れられる」(マテオ3章10節)。選ばれた者は、「なぜなら、私が飢えていたとき食べさせてくれた…」ので報いを与えられます。このちょっとした言葉「なぜなら」が明確に示しているのは、彼らに報いが与えられるのは彼らが良い行いをしたからだということです! また、地獄の宣告を受けた者は、良い行いをしなかったからそう宣告されたのです(マテオ25章31-46節)。ですから聖パウロはティトにこう勧告しています。「私たちの伴(とも)も必要な場合善を行うことを学ばねばならない。そうすればすべてが実を結ぶであろう」(ティト3章14節)。天主が良い行いに報いをお与えになるということは、聖書にある非常に多くの聖句で明らかです。箴言はこう言います。「貧しい人に施しをするのは天主に貸すことで、天主が恵みを下して報いてくださる」(箴言19章17節)。ですから私たちの主は言われます。「むしろ自分のために天に宝を積め。そこではしみも虫もつかず、盗人が穴を開けて盗み出すこともない」(マテオ6章20節)。また、もてなしによる実もそうです。「預言者を預言者として受け入れる人は、預言者の報いを受け、義人を義人として受け入れる人は、義人の報いを受ける」(マテオ10章41節)。「人の子は父の光栄のうちに天使たちとともに来て、その日各自の行いによって報いを与える」(マテオ16章27節)。「見よ、私はまもなく各自の行いに従って与える報いを持って来る」(黙示録22章12節)。このように、天国が義人に「与え」られるのは、その良い行いが理由であり、地獄が悪人に「与え」られるのは、その悪しき行い(あるいは良い行いがないこと自体)が理由なのです。

良い行いを拒否することによって、ルターは成聖の恩寵を失いました! 特に、ルターは悔悛という良い行いを、私たち自身の罪の償い、隣人の罪の償い、煉獄の霊魂の罪の償いという良い行いを拒否しました。さて、イエズスの聖心はパレ・ル・モニアルでそのような償いをするよう、特に初金曜日にするようお求めになりました。聖母はファチマで再び、同じような罪の償いをするよう、特に初土曜日にするようお求めになりました。ですから、現代世界の圧倒的な邪悪さを見るとき、特に妊娠中絶の邪悪さを見るとき、そのような良い行いが緊急に必要なのだということがわかります。

そして、ルターは、人は「聖書のみ」に従うべきだと主張しました。しかし、キリストに関するすべてのことが聖書に含まれているのではないことは、 聖書自体が証言しています。「イエズスは弟子たちの前で、この本には記さなかったほかの多くのしるしを行われた」(ヨハネ20章30節)。「イエズスが行われたことはこのほかにも多いが、一つ一つ記したなら全世界さえもその書かれた本を入れることができまいと私は思うのである」(ヨハネ21章25節)。例えば、聖パウロはイエズスのある言葉(「受けるよりも与えることに幸せがある」使徒行録20章35節)に言及しますが、その言葉は福音書の中には見られません。聖ルカは、私たちの主が「さらに聖書を理解するよう使徒たちの精神を開かれた」(ルカ24章45節)と言っています。さて、主が使徒たちにお与えになった聖書のこれらの説明は、どこにあるのでしょうか? そのごく一部は書簡の中に見られますが、もっとずっと沢山あるのは疑いありません。それは、教会の教父たちによって書き記されてきた使徒たちの口伝による教えの中にあるのです。ですから、聖書を正しく理解するためには、教父たちの教え、すなわち聖伝が必要です。聖パウロ自身が、「だから兄弟たちよ、固く立て。私たちが言葉によってあるいは手紙によって教えた伝えを守れ」(テサロニケ後書2章15節)と言及しています。ここで聖パウロは明らかに、自分の書簡の中に書かれた言葉と、話された言葉を同等に扱っています。話された言葉すなわち使徒たちとその後継者たちの口伝による教えを拒否することによって、ルターは聖書の正しい理解から自分自身を切り離したのです。

プロテスタントたちは普通、自分たちは聖書を理解するための霊感を聖霊から直接受けていると主張します。しかし、そのような主張は自己矛盾です。本当にそのようなことがあるとしたら、聖霊は何回にもわたって 矛盾したことを言っていることになってしまいます。なぜなら、教義上の複数の重要な点について、互いに反対し合う非常に多くのプロテスタントのセクトがあるからです! また、モルモン教徒は自分たちの「モルモン書」が正しいとして同じことを主張しており、イスラム教徒でさえ自分たちの「コーラン」が正しいとして同じことを主張しています…この多くの分裂とは対照的に、聖パウロは「主は一つ、信仰は一つ、洗礼は一つ」(エフェゾ4章5節)であると教えています。実際、「天主は不秩序の天主ではなく平和の天主である」(コリント前書14章33節)のです。

こうして、「聖書のみ」と主張することによって、ルターは聖書の正しい理解を失い、特に、教会について豊富に、非常に明確に述べられた節を理解することができなくなったのです。そしてこれがルターの最後の「~のみ」です。ルターは、教会の仲介なしに「キリストのみ」に行くと主張するのです。彼は、キリストのみが仲介者であるという口実のもとに、教皇も司祭も聖人も必要ないと主張します。こうして彼は、聖母や聖人たちへの祈りをすべて拒否しました。さて、聖パウロはこう言います。「天主は唯一であり、天主と人間の間の仲介者も、人間であるキリスト・イエズスただ一人である」(ティモテオ前書2章5節)。しかし「ただ一人の仲介者」は「一人だけ」を意味するのではありません。キリストが「ただ一人の仲介者」であるということは、私たちの主イエズス・キリストを通らずに済む人は誰もいない、「私は道であり真理であり命である。私によらずには誰も父のもとには行けない」(ヨハネ14章6節)という意味です。しかし、私たちの主イエズス・キリストは一人ではありません。聖パウロは多くの箇所で、多くの方法で、キリストは「教会という体の頭」(コロサイ1章18節)であると私たちに教えています。頭は体から離すことはできないため、私たちの主イエズス・キリストを教会から離すことはできません。教会はキリストの体ですから、その教会を拒否する人はキリストを持つことができません! 私たちの主イエズス・キリストは花婿であり(マテオ9章15節)、教会は花嫁です(ヨハネ3章29節、黙示録21章2、9節)。誰も花嫁から花婿を離すことはできません。「だから、人は天主が合わせられたものを離してはならぬ」(マテオ19章6節)。それゆえにルターは教会を拒否することによって、キリストを失ったのです!

さて皆さんには、この「~のみ」というたった一つの言葉が、いかにして破滅をもたらすものになり得るのかがお分かりになったでしょう。ルターはこのために全てを失いました。まことの信仰を失い、恩寵を失い、聖書の理解を失い、最後には私たちの主イエズス・キリストをも失いました! 私たちは、決して愛から信仰を切り離したり、良い行いから恩寵を切り離したり、話された御言葉から書き記された御言葉を切り離したり、キリストの教会からキリストを切り離したりしてはなりません。私たちは、キリストの御教えの一部ではなく全体を受け入れなければなりません。そうすれば私たちは、キリストの全体をカトリック教会の中に見いだすのであり、またカトリック教会の中にのみ見いだすのです!

聖人たちはみなカトリック信仰に愛着を持ち、天主への大きな愛をもってカトリック信仰を生きました。彼らは良い行いに満ちていました。彼らは聖伝によって何世紀もの間伝えられてきたものに忠実でした。彼らはキリストの教会の内でキリストを愛しました。聖人たちは私たちの主イエズス・キリストの友です。彼らは主とともに晩餐にいるのです(ルカ14章16節)。主の晩餐において他の客と話をするのを拒否するならば、良い客ではありません。ですから、聖人たちへの信心は必要なのです。本当に無礼なのは、実際、晩餐の席にいる人のうち、王以外の誰とも話をするのを拒否する人です! そんな人はふさわしい客ではないため、追い出されてしまうでしょう。

信仰の保護者である童貞聖マリアが、私たちがルターの誤謬によって貶められないカトリック信仰を保つよう、ルターが行ったようにあれやこれやを排除することなくカトリック信仰全体を保つよう、愛徳によって働き天国の宝を勝ち得るカトリック信仰を保つよう助けてくださり、ついには私たちがまことの「聖徒たちと同市民」(エフェゾ2章19節)となるにふさわしくなり、至福直観の中で永遠にその聖人たちの仲間に加わることができますように! アーメン。
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"Infant Baptism – Confirmation" by Fr. Laisney SSPX : 英語版「幼児洗礼そして堅振」聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

2016年11月19日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様の「幼児洗礼そして堅振」の【英語原文】をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


Infant Baptism – Confirmation


My dear brethren,

We continue our series on the catechism; we are currently studying the Sacraments.

One last point on Baptism: it is a grave duty of Catholic parents to care for the prompt baptism of their children. It was God’s original plan that parents would transmit both natural and supernatural life together. Adam by his sin lost the original justice that bonded together nature and grace: henceforth, grace is no longer “attached” to nature as it was intended. Therefore, children are born deprived of sanctifying grace: this privation of grace that should have been in them, had Adam not sinned, is original sin.

Since God’s intent was that the children have both natural and supernatural life, parents should not wait to give to their children that supernatural life, by the means of Baptism as the new birth. This is the life of the New Adam, our Lord Jesus Christ, whose member they become by Baptism. It is a grievous sin for parents to wait without reason for a long time before baptising their children.

Some people object: “but children don’t have a say in this. They should have the choice.” This is a wrong reasoning. Indeed children do not choose to receive the natural life either: nobody can choose to receive life! It is a gift, it is a good thing in itself, and therefore there is no room for complaint. If life becomes painful afterwards, it does not mean life in itself is bad: no, it remains good in itself and therefore parents should not be blamed for having given it to their children. There may be some fault in the lack of education, lack of care of the parents, but not in giving life. Similarly, the supernatural life is a marvellous gift, much more valuable and treasurable than natural life: parents are never to be blamed for giving such a gift. There also, there is need of the subsequent care of a good Catholic education: and there may be some failures there; but it was not wrong to give spiritual life when the children were babies.

Some Protestants reject children’s baptism because of their Protestant erroneous faith, that considers baptism only as a mere sign of an act of faith, without any efficacy in itself. So they think that a child being unable to make such an act of faith, baptism is useless for them. This is against the antique tradition of the Church, against the Apostolic tradition that practiced infant Baptism. It was precisely the very practice of infant Baptism that was for St Augustine the surest proof of original sin, since the children could not have any actual sin, and if they had no sin at all baptism would be useless for them, since Baptism is given “unto the remission of sin” (Act. 2:38).

Our Lord Jesus Christ said: “Suffer children to come to me, and forbid them not: for of such is the kingdom of God” (Lk. 18:16). To come to Christ requires Baptism, by which they are incorporated into His Body; therefore upon this command of our Lord, the Apostles and the whole Church through the centuries always baptised the children.

One can see a hint of the infant baptism in the passage of St Paul where he says that the children of a Catholic spouse “are holy”, if the unbelieving spouse “consent to live with him/her”, i.e. allows the believing spouse to practice peacefully the Catholic Faith: “For the unbelieving husband is sanctified by the believing wife; and the unbelieving wife is sanctified by the believing husband: otherwise your children should be unclean; but now they are holy” (1 Cor. 7:14). The children are holy because they are baptised; the unbelieving spouse is “sanctified” because it will lead them to conversion, as happened in many occasions.

Moreover, there are two types of Baptism in the Old Testament which manifestly prove Infant Baptism: circumcision was given to infants of 8 days! St Cyprian around the year 250 answers a bishop who asked: should we wait the 8th day to baptise as they waited the 8th day to circumcise? And the council of Carthage gathered around St Cyprian unanimously answers: we should not even wait until the 8th day! The second type was the crossing of the Red Sea, as St Paul says: “our fathers … were all in Moses baptized, in the cloud, and in the sea” (1 Cor. 10:1-2), clearly image of the Baptism in Christ “born again of water and the Holy Ghost” (Jn. 3:5). Now it is evident that the Hebrews did not leave their babies on the shore, but the babies too crossed the Red Sea, in the arms of their parents, and that was a “valid” crossing! So infant baptism, even if the answers are given by the God-parents, is a valid baptism.

To the Sadducees who objected the Scriptures against the true faith (in the Resurrection), our Lord answered: “Do ye not therefore err, because you know not the scriptures, nor the power of God?” (Mk. 12:24). As you can see, this also applies to these Protestants: you have an example here on the subject of Infant Baptism, but it would be similar on all their errors. But in order for them to understand the Scriptures, they need to listen to the Church, to whom our Lord Jesus Christ entrusted the care of the Scripture and the deposit of Faith: indeed St Paul says: “the house of God is the church of the living God, the pillar and ground of the truth” (1 Tim. 3:15). And the Church that comes right back to the Apostles is the Catholic Church.

The second Sacrament is Confirmation. After being born, a child grows, and needs to grow! Confirmation is what its very name says: it confirms, it strengthens, it makes firm and solid the life received at Baptism. The Church teaches that it makes us a “soldier of Christ”. Indeed there is a battle to wage against sin, against the devil, the world and even against the evil inclinations within ourselves. At Baptism we renounced Satan, and all his works, and all its seductions: that announced us that there would be a battle coming. Hence the need for such strengthening. It is by a special outpouring of the Holy Ghost that one is confirmed.

Our Lord Jesus Christ instituted this Sacrament on the day of Pentecost, when He sent the Holy Ghost upon His apostles and the first 120 disciples as He had promised them. Pentecost was a very special event, and the Apostles were then confirmed in a superior manner, not with Chrism, but with actual flames of the fire of the Holy Ghost! But inspired by the Holy Ghost, they understood that they should confirm the others by the imposition of the hands together with the anointing of holy Chrism.

In the Acts of the Apostles, we see the clear distinction between confirmation and baptism: the deacon Phillip went to Samaria and converted many there and baptised them; but then he sent to Jerusalem to ask the Apostles to come because he could not confirm them. Peter and John came and imposed their hands upon the newly baptised and then they received the same outpouring of the Holy Ghost as the Apostles received on Pentecost.

The matter of Confirmation is thus the unction of the Holy Chrism, in the sign of a cross on the forehead. Holy Chrism is a mixture of olive oil with balsam; St Alphonsus of Liguori said that if one did not use balsam, one needs to be conditionally reconfirmed; he does not even ask if one would use another oil: it was simply unthinkable for him that one would ever do that! So when the Novus Ordo uses “olive oil OR any other vegetable oil”, they open the door to invalid confirmations.

Olive oil signifies the fire of the Holy Ghost, like at Pentecost. Also the dove, symbol of the Holy Ghost, had brought a branch of olive tree after the flood, as a sign of reconciliation with God: peace is a fruit of the Holy Ghost (Gal. 5:22). Also athletes were anointed with oil (now they are still anointed with all kinds of ointments) to strengthen them. The anointing is done in the form of a cross and on the forehead, the most visible part of our skin, to signify that we must profess the faith in our Lord Jesus Christ crucified. We must not be “ashamed of the gospel. For it is the power of God unto salvation to every one that believeth” (Rom. 1:16).

The traditional form of Confirmation consists in the words that the Bishop says while anointing the forehead: “I sign thee with the sign of the Cross and I confirm thee with the Chrism of salvation in the name of the Father and of the Son and of the Holy Ghost.”

The minister of Confirmation is the bishop. He is the high priest, the one who can bring to perfection the newly-born faithful; he is a captain in the militant Church. The importance of this Sacrament is manifested by the fact that it requires a bishop to give it. In very special cases, with a special delegation, a priest can administer validly this Sacrament; this happens in some large diocese when the vicar general can be given such delegation; or it happens when the bishop becomes sick and then needs help to administer this Sacrament. Only the Pope can give such delegation. Priests of the Catholic Eastern rites often have that delegation to confirm right after Baptism, but that is not the custom in the Western rites.

Confirmation imprints a character on the soul, the character of a soldier of Christ, able to profess the faith even to the point of martyrdom! Indeed that special gift of the Holy Ghost, the gift of fortitude, is manifest in the martyrs, who did not fear death, nor frightful tortures, and who would rather die than sin, rather die than deny our Lord Jesus Christ. We should remember that we have received that character, and therefore ought to be strong against sin, always saying a strong NO to temptation, NO to sin, and YES to God. There must be no “buts”, no delays, no hesitation: under no circumstances one is ever allowed to sin. Our Lord Jesus Christ deserves an absolute fidelity, even unto death, because He crowns with eternal glory those good soldiers who are faithful unto death: “Be thou faithful until death: and I will give thee the crown of life” (Apoc. 2:10).

Even in more ordinary circumstances, the special sacramental grace of confirmation helps us to have the courage to extend the Kingdom of Christ, to be missionary by the simple profession of Faith, both with words and with deeds. The testimony of a holy life is a great means for the extension of the kingdom of our Lord.

The Sacrament of Confirmation is a sacrament of the living: one must be in the state of grace in order to receive it; it would be a sacrilege to receive it in the state of sin. It is good to give it to the children before twelve years old, so that they be ready and strong in the faith to overcome the spiritual challenges of the adolescence. It is an obligation for parents to provide it to their children.

The rite of confirmation is simple but important. It starts with the solemn invocation of the Holy Ghost by the singing of “Veni Sancte Spiritus”, the hymn of Vespers of Pentecost. Then all kneeling, the pontiff stands and extends his hands over all in general and calls for the sevenfold Spirit, according to the prophecy of Isaiah: “And the spirit of the Lord shall rest upon him: the spirit of wisdom, and of understanding, the spirit of counsel, and of fortitude, the spirit of knowledge, and of godliness. And he shall be filled with the spirit of the fear of the Lord” (Is. 11:2-3).

Then the bishop sits and the confirmands come and kneel at his feet, one per one, having their god-father or god-mother standing behind them with the right hand on their right shoulder. The bishop dips his thumb in holy chrism, and then put his hands on the head of the confirmand and with his thumb anoints the forehead in the form of a cross saying: “I sign thee with the sign of the Cross and I confirm thee with the Chrism of salvation in the name of the Father and of the Son and of the Holy Ghost.” The confirmand answers: “amen”. This is the very moment of the sacrament itself. Then the pontiff gives the confirmand a slight hit on the cheek as a symbol of checking his strength, his ability to resist.

The last prayer reminds us that we are the temples of the Holy Ghost. Most importantly after, the newly confirmed profess publicly their faith by the recitation of the Creed, standing as a soldier prepared to defend that faith which they now profess until the end of their life. They also recite the Our Father, as the model of all prayers, by which they will obtain the grace of victory. They also recite the Hail Mary, as their most common prayer, inseparable from our Lord.

May our Lady, Queen of Martyrs, who had been filled with the Holy Ghost on the day of the Annunciation to become the Mother of Jesus and on Pentecost to become the Mother of the Church, take under her special protection all those who are confirmed, and help them to be true soldiers of Christ! It is a great help for all of us to be “Knights of the Immaculata”, as it reminds us of our Confirmation and helps us to live it truly until its eternal reward in Heaven. Amen.

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「幼児洗礼そして堅振について」:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

2016年11月17日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様の霊的講話「幼児洗礼そして堅振について」(日本語訳)をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2016年11月13日 聖霊降臨後の第26主日―大阪 霊的講話「幼児洗礼そして堅振について」


親愛なる兄弟の皆さん、

一連の公教要理の時間を続けましょう。今は秘蹟について勉強しています。

洗礼についての最後のポイントです。自分の子どもに早く洗礼を受けさせるよう配慮するのは、カトリック信者の親にとっての重い義務です。親が子どもに自然の命と超自然の命の両方を一緒に伝達することが、天主の元々のご計画でした。自らの罪によって、アダムは自然と恩寵を結び付ける原初からの義を失いました。それ以来、恩寵はもはや天主が意図なさっていたように自然に「付属する」ことがなくなってしまいました。それゆえ、子どもは成聖の恩寵を取り去られた状態で生まれるのです。もしアダムが罪を犯さなかったとしたら子どもにあったはずの恩寵が失われている状態、これが原罪なのです。

子どもは自然の命と超自然の命の両方を持つことが天主のご意向でしたから、親は自分の子どもにその超自然の命を、新たな誕生としての洗礼という手段によって授けるのを待ってはいけません。これこそが新たなアダムである私たちの主イエズス・キリストの命であり、子どもたちは洗礼によって主の体の一部となるからです。親が理由もなく子どもに洗礼を受けさせる前に長い間待つことは重い罪です。

すると、次のような反論をする人々がいます。「しかし、子どもはこれについて何も言えません。子どもが選べるようにすべきです」。これは間違った論法です。実際、子どもは自然の命を受けるのも選びません。命を受けるのを選ぶことは誰にもできません! 命は賜物であり、それ自体良いものなのですから、不平を言う余地はまったくありません。命があとでつらい状態になる場合であっても、命それ自体が悪いということを意味しません。そうではなく、命それ自体良いものであり、それゆえに親は子どもに命を与えたことを非難されるべきではありません。教育を受けさせてやらなかったり、親としての世話をしてやらなかったりという落ち度はあるかもしれませんが、命を与えることは落ち度ではありません。同様に、超自然の命は驚くべき賜物であり、自然の命よりもずっと価値がありずっと貴重です。親はそんな賜物を与えることで決して非難されるべきではありません。さらにまた、洗礼のあと良いカトリック教育を受けさせてやる必要があります。そこには落ち度があるかもしれません。しかし、子どもが赤ん坊のときに霊的な命を与えることは間違っていません。

プロテスタントの一部は、彼らの誤ったプロテスタントの信仰のせいで子どもの洗礼を拒否しています。彼らは、洗礼は信仰の宣言の単なるしるしであり、それ自体に効果はないとみなしているからです。そのため彼らは、子どもはその信仰の宣言をすることができないので、洗礼は子どもにとって無益なものだと考えているのです。これは教会の聖伝に反し、幼児洗礼を実践した使徒伝来の聖伝に反しています。幼児洗礼を実践してきたことそれ自体が、まさに、聖アウグスティノによると原罪があることの最も確実な証拠でした。なぜなら子どもには自罪があり得ないので、もし子どもにまったく罪がないとしたら、洗礼は「罪の赦しのために」(使徒行録2章38節)与えられるのですから、洗礼が子どもにとって無益なものだということになってしまうからです。

私たちの主イエズス・キリストはこう言われました。「子どもたちを私のところに来させよ。とめてはならぬ。天主の国を受け入れるのはこのような者たちである」(ルカ18章16節)。キリストのところに来させるためには、洗礼が必要です。洗礼によって、子どもはキリストの体の一部になるからです。それゆえに、私たちの主のこの命令に基づいて、使徒たちと全教会は何世紀にもわたって、常に子どもに洗礼を授けてきました。

聖パウロの書簡の次の一節に、幼児洗礼のヒントが見られるでしょう。それは聖パウロが、カトリック信者でない配偶者が「信者の配偶者と同居するのを承知する」ならば、すなわち、信者である配偶者にカトリック信仰を問題なく実践することを許すならば、信者である配偶者の子は「聖となった」と言うところです。「信者でない夫は信者であるその妻によって聖とされ、信者でない妻は信者であるその夫によって聖とされる。そうでなければ、あなたたちの子どもは汚れたものである。しかし今は聖となった」(コリント前書7章14節)。子どもが聖となったのは、子どもが洗礼を受けているからです。信者でない配偶者が「聖とされ」ているのは、多くの場合そうであったように、それによってその配偶者が回心へと導かれるであろうからです。

さらに、旧約には、幼児洗礼をはっきりと証明する二つのタイプの洗礼があります。割礼は生まれて八日目の幼児に行われました! 聖チプリアノは紀元二五〇年ごろ、次のように質問してきたある司教に答えています。「割礼を八日目まで待ったように、われわれは洗礼を授けるのを八日目まで待つべきであるか?」。聖チプリアノの周りに集まったカルタゴの教会会議は全会一致でこう答えました。「われわれは八日目まで待つことさえすべきでない!」。第二のタイプの洗礼は紅海の渡海です。それについて聖パウロはこう言います。「私たちの先祖は…みな雲と海の中でモーゼにおいて洗われた」(コリント前書10章1-2節)。これは明らかに「水と聖霊によってもう一度生まれる」(ヨハネ3章5節)というキリストにおける洗礼の象徴です。さて、ヘブライ人が赤ん坊を海岸に残したままにせず、赤ん坊も親の腕に抱かれて紅海を渡ったことは明らかですから、それは「有効な」渡海だったのです! ですから幼児洗礼は、答えを代父母が行うとしても、有効な洗礼なのです。

聖書の中で、まことの信仰(復活)に異議を唱えていたサドカイ人に向かって、私たちの主はこう答えられました。「あなたたちは聖書も天主の力も知らぬから誤った考えを持ったのだ」(マルコ12章24節)。皆さんお分かりのように、この御言葉はまたこれらのプロテスタントにも当てはまります。これは幼児洗礼という問題についての一つの例ですが、プロテスタントの全ての誤りについても同様です。しかし、プロテスタントの人々が聖書を理解するためには、私たちの主イエズス・キリストが聖書の管理と信仰の遺産を委託なさった教会の言うことに耳を傾ける必要があります。実際、聖パウロはこう言っています。「天主の家は生きる天主の教会であり、真理の柱であり基である」(ティモテオ前書3章15節)。そして、使徒たちにまで直接さかのぼる教会こそ、カトリック教会なのです。

第二の秘蹟は堅振です。子どもは生まれたあと成長しますし、成長する必要があります! 堅振は、まさにその名の通りのものです。洗礼で受けた命を堅固にし、強め、しっかりさせ、堅実なものにします。堅振は私たちを「キリストの兵士」にすると教会は教えています。実際、一つの戦いがあり、それは罪に対する、悪魔やこの世に対する、そして自らの内にある悪しき傾きに対する戦いです。洗礼の時、私たちは悪魔とそのわざ、その誘惑を捨てました。それは、来るべき戦いがあることを私たちに告げるものだったのです。ですから、そのように強められる必要があるのです。堅振を受けるのは、聖霊の特別な流出によってです。

私たちの主イエズス・キリストは、約束しておられた通り使徒たちと最初の百二十人の弟子たちに聖霊を送られた聖霊降臨の日に、この秘蹟を制定されました。聖霊降臨は大変特別な出来事で、そのとき使徒たちはより優れた方法で、すなわち聖香油ではなく、聖霊の火という実在の炎で堅振を受けました! しかし、聖霊によって霊感を受けた使徒たちは、聖香油を塗り按手をすることによって他の人々にも堅振を授けるべきだと理解しました。

使徒行録の中で、私たちは、堅振と洗礼の間のはっきりとした区別を見ます。助祭フィリッポがサマリアに行き、そこで多くの人々を回心させ、彼らに洗礼を授けました。しかし、それからフィリッポはエルザレムに人を送って使徒たちに来てもらうよう願いました。なぜなら、彼は堅振を授けることができなかったからです。ペトロとヨハネがやって来て新たな受洗者に按手し、それによって彼らは使徒たちが聖霊降臨で受けたのと同じ聖霊の流出を受けました。

このように、堅振の質料は、ひたいの上に十字架のしるしをして聖香油を塗ることです。聖香油はオリーブ油とバルサムを混ぜたものです。聖アルフォンソ・リグオリは、もしバルサムを使わなかったならば、条件付きで再び堅振を受ける必要がある、と言いました。彼は、別の油を使ったかどうかを尋ねることさえしません。彼にとっては、そのようなこと自体およそ考えも及ばないことだったからです! ですから、ノブス・オルドが「オリーブ油またはほかのどの野菜の油でも」使うとしていることによって、無効な堅振への扉を開いてしまっているのです。

オリーブ油は、聖霊降臨のときのような聖霊の火を象徴しています。また聖霊の象徴である鳩は、天主との和解のしるしとして、洪水ののちにオリーブの木の枝をくわえて来ました。平和は聖霊の実の一つだからです(ガラツィア5章22節)。また運動選手は、彼らを強めるために油を塗られました(今でも彼らはあらゆる種類の軟膏を塗ってもらいます)。油を塗るのは、十字架のしるしで、肌のうちで最も見えやすい部分であるひたいの上に行われます。これは、私たちが十字架につけられた私たちの主イエズス・キリストにおいて信仰を告白しなくてはならないことを象徴しています。私たちは「福音を恥としてはならない。福音はすべての信仰者を救う天主の力であるから」(ローマ1章16節)です。

聖伝の堅振の形相は、司教がひたいに油を塗りながら言う次の言葉で成っています。「われ聖父と聖子と聖霊との御名によりて汝に十字架のしるしをなし、救霊(たすかり)の聖香油をもって汝を堅固にす。」

堅振の執行者は司教です。司教は大司祭であり、新たに生まれた信者を完成させることのできる大司祭です。司教は戦闘の教会の指揮官です。この秘蹟の重要性は、授けるために司教を必要とするという事実によって明らかです。非常に特別な場合には、特別な委任によって、司祭がこの秘蹟を有効に執行することができます。司教区が広い場合にあり得るもので、その場合は司教総代理が委任を受けます。あるいは、司教が病気のため、この秘蹟を執行するのに助けを必要とする場合に、その委任がなされます。教皇だけがその委任をすることができます。東方典礼カトリック教会の司祭は、洗礼ののちすぐに堅振を授ける委任を受けていますが、西方教会ではその慣習はありません。

堅振は霊魂にしるしを、殉教にまで至る信仰を告白することができるキリストの兵士としてのしるしを刻印します。実際、聖霊のその特別な賜物、剛毅の賜物は殉教者において明らかになります。彼らは、死も恐ろしい拷問も恐れず、罪を犯すよりはむしろ死を、私たちの主イエズス・キリストを否むよりはむしろ死を選ぶのです。私たちは自分がそのしるしを受けたのだということを覚えておくべきであり、それゆえに罪に対して強くあり、誘惑に対して常に強く「いいえ」と言い、罪に対して「いいえ」と言い、天主に対して「はい」と言うべきです。「でも」や遅れ、ためらいがあってはなりません。どんな状況の下でも、罪を犯すことは決して許されません。私たちの主イエズス・キリストは、絶対の忠実を、死に至る忠実を捧げるのにふさわしいお方です。なぜなら主は、死に至るまで忠実なこれら良き兵士たちに、永遠の栄光の冠を与えてくださるからです。「死ぬまであなたが忠実であれば、私はあなたに命の冠を与えよう」(黙示録2章10節)。

もっと通常の状況であっても、堅振の秘蹟による特別な恩寵は、私たちがキリストの国を拡げるための勇気を持ち、言葉と行いの両方を使ってただ信仰を告白することによって宣教者となるための勇気を持つのを助けてくれます。聖なる生活という証言が、私たちの主の国を拡げるための素晴らしい手段なのです。

堅振の秘蹟は生きている者の秘蹟です。堅振を受けるためには成聖の恩寵の状態でなければなりません。罪の状態で堅振を受ければ汚聖になります。子どもが青年期の霊的な課題を克服するための準備をし、信仰において強くなるように、十二歳より前に子どもに堅振を受けさせるのは良いことです。子どもに堅振を受けさせることは親の義務です。

堅信の儀式は単純ですが重要です。この儀式は、聖霊降臨の晩課の讃歌である「ヴェニ・サンクテ・スピリトゥス(聖霊よ来り給え)」を歌うことによって、聖霊を荘厳に呼び求めることで始まります。その後、全員がひざまずき、司教が立ち上がって全員の上に両手を広げて、イザヤの預言に従って七つの霊を呼び求めます。「その上に主の霊がやどる。知恵と分別の霊、賢慮と強さの霊、知識と主への恐れの霊が。彼は、主へのおそれをよろこびとする」(イザヤ11章2-3節)。

それから司教は座り、受堅者が一人ずつ順番に司教に近づいて足元にひざまずき、代父または代母が右手を受堅者の右肩に置いたまま受堅者の後ろに立ちます。司教は親指に聖香油をつけ、それから両手を受堅者の頭に置いて、次のように言いながら親指でひたいに十字架の形に聖香油を塗ります。「われ聖父と聖子と聖霊との御名によりて汝に十字架のしるしをなし、救霊(たすかり)の聖香油をもって汝を堅固にす」。受堅者は「アーメン」と答えます。これが、秘蹟そのものが授けられるまさにその瞬間です。その後、司教は、受堅者の強さや耐える力を調べる象徴として、受堅者の頰を軽く打ちます。

最後の祈りは、私たちが聖霊の神殿であることを思い出させてくれます。そのあと最も重要なのは、堅振を受けたばかりの人々が、使徒信経を唱えることによって公に信仰を告白することです。そのとき彼らは、生涯の終わりまで今告白しているその信仰を守る準備のできた兵士としてそこに立っているのです。また、あらゆる祈りの模範である「天にまします」も唱えます。祈りによって、勝利の恩寵を受けることになるからです。また、最も良く使う祈りである「めでたし」も唱えます。マリア様は私たちの主と分かちがたいお方だからです。

聖霊に満たされて、お告げの日にイエズスの御母となり給い、聖霊降臨の日に教会の御母となり給うた殉教者の元后である聖母が、堅振を受けるすべての人をその特別な御保護のもとに置き、彼らがキリストのまことの兵士となるようお助けくださいますように! 「無原罪の聖母の騎士」となることは、私たちに自分の堅振を思い出させ、天国での永遠の報いに至るまで私たちを助けてまことに騎士として生きるようにしてくれる、私たち全員にとって大きな助けなのです。アーメン。
コメント

"On the Sacrament of Baptism" by Fr. Laisney SSPX : 英語版「洗礼の秘蹟について」聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

2016年11月17日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様の「洗礼の秘蹟について」の【英語原文】をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

On the Sacrament of Baptism


My dear brethren,

Baptism is the first of the seven Sacraments: one cannot receive any other Sacrament unless one is baptised first. It is the door to the other Sacraments, especially the most Holy Eucharist. Already St Justin said: “And this food is called among us "Eucharistia" [Εὐχαριστία = the Eucharist], of which no one is allowed to partake but the man who believes that the things which we teach are true, and who has been washed with the washing that is for the remission of sins, and unto regeneration, and who is so living as Christ has enjoined.” The true Faith, Baptism and a life in the state of grace, these conditions for receiving Holy Eucharist are the same today as they were the beginning of the Church.

Baptism is the first because it is a birth: the beginning of life! “Amen, amen I say to thee, unless a man be born again, he cannot see the kingdom of God” (Jn. 3:3). That new birth is “of the water and of the Holy Ghost” (Jn. 3:5). And it is a birth to everlasting life: that new life received at baptism blossoms in Heaven. Here below it can be lost; in Heaven it can no longer be lost. But it is essentially the same life.

The Church teaches that our Lord has instituted Baptism when He was baptised in the Jordan, thus sanctifying the waters. After He was baptised by John the Baptist, the heavens opened, the voice of the Father was heard and the Holy Ghost came under the visible appearance of a dove: this signifies that by Baptism we are made children of God and temples of the Holy Ghost. Then our Lord Himself started to baptise: He baptised His first apostles and then they baptised the other disciples as St John says (4:1-2): he was one of the very first two Apostles, perhaps baptised by our Lord Himself.

The matter of baptism is natural water, or rather the washing by natural water. It can be administered in three ways, either by immersion as was common at the beginning of the Church, or by pouring water in such a way that it flows over the body, or by aspersion (with enough quantity to make a real washing). Indeed if you need a wash, you can either take a bath, or wash under a tap or take a shower. The common way to baptise now is by pouring water, being the more practical way. Immersion especially in cold countries proved rather dangerous, especially for little children!

The matter signifies the washing of the soul from sin and from the punishment of sin: but it also signifies the “burial with Christ”: baptism by immersion clearly signifies it, but also the simple pouring of water does have that signification: indeed in a burial ceremony usually the faithful put either some flowers, or some dirt on the coffin without necessarily covering it entirely. Now St Paul says: “Know you not that all we, who are baptized in Christ Jesus, are baptized in his death? For we are buried together with him by baptism into death; that as Christ is risen from the dead by the glory of the Father, so we also may walk in newness of life” (Rom. 6:3-4).

In order to be valid, it is necessary that the water flows on the skin: some Protestants sometimes are so sloppy in their way to administer Baptism that it is invalid. I knew a case in the USA where a young man, who wanted to become Catholic, told me that he had been baptised by his uncle, who was a Protestant minister, and that uncle told him he had simply dipped his finger in water and traced the sign of the cross on the forehead with it. Now if you had fallen in the mud, and then dip one finger in the water and trace a sign of the cross on your muddy skin, are you going to be clean? Not at all! You need either to take a bath or to take a shower, or at least to wash under a tap! It is interesting to know that St Alphonsus in his Moral Theology explicitly mentions that case and says that in such a case the person needs to be conditionally re-baptised.

The signification of the “matter” is made clear by the “form” of Baptism. This form is explicitly found in the Holy Gospel: “Going therefore, teach ye all nations; baptizing them in the name of the Father, and of the Son, and of the Holy Ghost” (Mt. 28:19). The invocation of the most Holy Trinity makes it clear that Baptism is a sacred washing, not just the washing of the body. It is by the power of the most Holy Trinity that all the sins and their punishment are completely removed from the soul of the baptised. Also the priest pours the water making three crosses with the water, in honour of the most Holy Trinity.

One needs to know that many protestants do not use this right “form” of Baptism; they read in the Acts that such and such persons were “baptized in the name of the Lord Jesus” (Acts 19:5). And they wrongly think that the form of Baptism consists in saying “I baptise you in the name of the Lord Jesus.” Such manner of baptising is certainly invalid, being contrary to what our Lord Jesus Christ Himself taught, contrary to the instruction He clearly gave to His Apostles in St Matthew’s gospel, and contrary to the universal practice of the Church since the beginning.

Why then did St Luke in the Acts of the Apostles say that “they were baptised in the name of the Lord Jesus”? First of all, the purpose of the Acts was not to write a book on liturgy, on how to perform the sacraments, but rather to describe the spreading of the Gospel by the ministry of Peter and Paul, to these Protestants draw an undue conclusion from St Luke’s words. Secondly, the expression “baptised in the name of the Lord Jesus” intends to make a contrast with the “Baptism of John”. This is manifest in the case of Ephesus: the first disciples of that city had been instructed by a man called Apollo who was a disciple of St John the Baptist and did not know explicitly the Holy Trinity; when St Paul arrived there, he found that they did not know even the existence of the Holy Ghost. So he asked them: “In what then were you baptized? They said: In John's baptism” (Acts 19:3). It is quite clear here that, if they had been baptised in the Baptism of Jesus, they would necessarily have known the Holy Ghost, precisely because they would have been “baptised in the name of the Father and of the Son and of the Holy Ghost”; if they did not know the Holy Ghost, that meant clearly that they had not been baptised in the “Baptism of Jesus”. By not respecting the proper form of Baptism, many Protestant Baptisms are invalid.

Hence before Vatican II, the Church would systematically re-baptise conditionally the converts from Protestantism, unless their first baptism could be proven to be valid, being done with the proper matter and proper form and intention.

Sacraments produce that which they signify: thus Baptism not only signifies the washing of the soul, but does indeed completely wash the soul. The Church teaches that Baptism washes all the sins committed before it: it washes original sin and all mortal and venial sins. It also remits all the punishment due to these sins, so that if someone would die right after baptism he would go straight to Heaven, not having any purgatory to do.

We have seen that there is a third consequence of sin, which is the wound of sin, which is not completely healed by baptism: Baptism starts the process of healing, it applies medicine on the wound, but it will take time for that medicine to reach complete healing, and will require the cooperation of the faithful.

Baptism produces sanctifying grace in the baptised: this is the positive side of the same reality as washing away sin. Darkness is expelled by the light: sin is expelled by sanctifying grace. It is not possible to have the remission of sin without the infusion of sanctifying grace; and vice-versa it is not possible to receive sanctifying grace without sin being expelled. Indeed sanctifying grace and sin cannot co-exist in the same soul: in the same way that light and darkness cannot coexist in the same place: “No man can serve two masters” (Mt. 6:24). Sanctifying grace is a participation in the Life of God Himself; St Peter says: “he hath given us most great and precious promises: that by these you may be made partakers of the divine nature” (2 Pet. 1:4). To become partakers of the Divine Nature, of the divine Life, to receive such life from God, that means to become children of God. This does not happen except by becoming member of our Lord Jesus Christ, the Only Begotten Son of God: we are children of God IN the Son of God, as members of the Son of God. It is not possible to live of the life of God except in the Body of Christ, which is the Church, the Catholic Church. Hence a valid and fruitful Baptism makes us members of the Catholic Church.

Another very important effect of Baptism is the character it imprints on the soul: by Baptism we are marked as children of God. That character will last for ever, for the glory of those who lived worthily of their baptism and go to Heaven, and for the shame of those who defile their baptism by an ungodly life and go to hell. That character is a wonderful source of actual graces throughout life, graces that help to live worthily as children of God.

The Sacraments work “ex opere operato – by the very performance of them”: that means that by the very fact one has received that sacrament, one has received the effects of it – but there is one condition: unless one puts an obstacle to such effect. Indeed, for instance, if a thief would receive baptism but at the same time would refuse to return that which he had stolen, that attachment to stolen goods would be an obstacle to grace: he would receive the character, but not sanctifying grace and not the forgiveness of sins, rather he would add a sin of sacrilege to his old sins!

The most common obstacle to the grace of baptism is heresy: the refusal of the true Faith, the Catholic Faith. This is the reason why Protestant baptism does not give grace – except in the babies, who of course do not put such obstacle. Such obstacle is removed by conversion, embracing the Faith of the Apostles, i.e. the Catholic Faith, and the sacrament of penance.

The ordinary minister of the Sacrament of Baptism is the priest; the priest can give the “solemn Baptism”, with all the beautiful rites of the Church. But in case of emergency, any faithful and even anyone, even non-Catholic, can give Baptism. Why so? Because God wants the salvation of everyone and therefore makes it widely possible for people to be baptised. Thus if a Catholic mother is giving birth and difficulties occur in the delivery, she may ask the nurse, even if that nurse is not Catholic, to baptise the child, making sure that the baptism is performed properly: that is, making sure that she pours the water on the skin of the child while saying “I baptise thee in the name of the Father and of the Son and of the Holy Ghost”. Having the intention to do what the mother intends is sufficient for the intention to be right, because the mother intends to do what the Church intends, i.e. a valid baptism!

The right intention, i.e. the intention to do what the Church does, is require also: because the very signification of words and ceremony is ultimately determined by the intention of the minister. If the intention of the Church is explicitly rejected, as some Protestants do, then the lack of intention renders the sacrament invalid. Pope Leo XIII explained that for the sacrament of Holy Orders for the Anglicans: by rejecting a sacrificing priesthood, they did not have the right intention and so their ordinations were invalid. Usually the very performance of the Catholic ceremony is a guarantee that the intention is right.

The ceremony of Baptism is beautiful and source of additional graces. It starts with very important questions and answers: the priest asks: “What do you ask of the Church of God?” The catechumen answers: “Faith!” Then the priest asks: “What does faith offer you?” The catechumen answers: “eternal life!” And the priest concludes: “If you wish to enter life, keep the Commandments.” These short questions and answers embody the whole spirit and purpose of Baptism: the ultimate goal is eternal life in Heaven; throughout one’s Christian life, one must always keep such goal in front of one’s eyes. We are pilgrims here below, “exiled in this vale of tears”: “you are fellow citizens with the saints, and the domestics of God” (Eph. 2:19).

In order to go to heaven, one needs faith: so the catechumen asks the true Faith from the true Church: “What do you ask of the Church of God? Faith!” and this is what Baptism will give: it gives the infused virtues of Faith, Hope and Charity together with sanctifying grace as I explained some weeks ago. But faith alone is not sufficient, there is need of obedience to the Commandments, which are the path to heaven, hence the exhortation of the Church: “if you wish to enter life, keep the Commandments.” This is what our Lord himself had said to the young man who asked Him: “Good master, what good shall I do that I may have life everlasting?” (Mt. 19:16). Our Lord answered: “if thou wilt enter into life, keep the commandments” (Mt. 19:17).

The Novus Ordo rite of baptism has suppressed many things, and rendered these first questions and answers optional: no more asking the true Faith from the true Church; no more intending Heaven – or at least this has become optional.

Then the priest blows on the child, as a symbol of the coming of the Holy Ghost as a strong wind at Pentecost, and says: “depart from him, unclean spirit, and give place to the Holy Ghost!” Thus, one sees that there is a battle going on, a battle for the soul: God wants to save that soul, but the devil is out to deceive and lead it to perdition. Because of sin, original and actual, the unbaptised was in a certain way under the power of the devil, who does not like to lose his prey: Christ is going to deliver that soul from the power of the devil, as will be even clearer with the exorcisms.

The exorcisms are not mere prayers to God to deliver us from the devil; they are actual commands, orders, given to the devil in the name of our Lord Jesus Christ, by the minister of Christ to whom our Lord had given such power. The devils tremble in front of such exorcisms, and lose their powers over the soul of the catechumen. The Novus Ordo rite of Baptism has suppressed all these exorcisms and kept only a mere prayer against the devil; there are no more commands to him to depart.

Then the priest makes the sign of the cross on the forehead and on the heart of the catechumen, saying: “receive the sign of the Cross on your forehead as well as on your heart, receive the faith of the celestial precepts and be so in your behaviour that you deserve to become the temple of God.” Several other times the sign of the cross will be traced upon the catechumen: before the sacrament with the oil of the catechumen on the heart and on the shoulders to encourage the love of the Cross and the courage to carry it; after Baptism the cross will be made upon the top of the head with the holy Chrism to signify that the child has become a temple of the Holy Ghost. These signs of the Cross manifest that one becomes a disciple of our Lord Jesus Christ crucified, that all grace comes from the Cross and that he will have to “deny himself, and take up his cross daily, and follow Christ” crucified (Lk. 9:23). Again many of these signs of the Cross have been suppressed in the new rite.

The catechumen receives the blessed salt, symbol of incorruption and of spiritual good taste; it is also “the first food” and makes one hunger for the “super-substantial food” (Mt 6:11) which is the Holy Eucharist.

Then the catechumen enters into the church under the stole of the priest, symbol of entering the one true Church, the Catholic Church, and submission to the hierarchy of the church. The first thing he does in the Church is to profess the Creed which he has learnt in his preparation for baptism: for the children the god-parents profess the Catholic Faith in the name of the children and engage themselves to teach it to them. Indeed the true faith is the first and most fundamental bond of the unity of the Catholic Church. This is the faith that the catechumen will have to uphold during his whole life and put in practice. Then the catechumen recites the Our Father, which is the model of all prayers, because the Catholic life is essentially a life of prayer and friendship with God as children of God. He will have to use this prayer every day.

Then there is the triple renunciation to Satan and triple profession of Faith. This is most important: we must remember, especially in times of temptation, that once for all we renounced all these seductions of the devil; we said a resolute NO to sin. We must renew this when the devil tempts us: “I do renounce Satan; I do renounce his works; I do renounce his deceits.” I renounce Satan, because I chose resolutely for God: Yes to God, No to the devil!

There are many other beautiful prayers, which it would be too long to explain in detail. Just let me add that after baptism, we are given a white garment, symbol of the purity of our soul, and we are admonished to keep it unstained until the Tribunal of Christ, that is, until the end of our life when we shall be judged. Blessed are they, who, like St Thérèse of the Child Jesus, keep in their soul the innocence of their baptism! Those who lost it have to use the Sacrament of penance, and do real penance to recover it; but it is better and more pleasing to God not to lose it! This white garment is a reference to the “wedding garment” that the King expects for those admitted in the banquet hall of the wedding of the Son of the King (Mt. 22:11-12).

Lastly the baptised is given a burning candle, symbol of the light of faith and fire of charity that have just been enkindled in his soul: “receive this burning candle; keep thy baptism beyond reproach; keep the Commandments of God so that, when the Lord comes to the wedding feast, thou may be able to be admitted in His presence with all the Saints in the heavenly courts and live for ever and ever!” Thus the baptism ceremony which started with Heaven as its purpose ends with Heaven as its ultimate reward.

By baptism, we become children of God, members of Christ, and thus children of Mary. Our Lady adopts all the baptised as her children and has a very special care for each of us. Let us live as children of Mary, so as to please Her Son our Lord Jesus Christ!

Let us always remember our baptism: I am baptised, I cannot live as a pagan! I must live in a manner worthy of our baptism, as a worthy member of Christ, giving honour to Christ our Head, by imitating his virtues and living “through Him, with Him and in Him” unto the glory of the Father in the unity of the Holy Ghost for ever and ever. Amen.



聖ピオ十世会日本のお説教・講話がここに掲載されています。
コメント

「洗礼の秘蹟について」:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

2016年11月16日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様の霊的講話「洗礼の秘蹟について」(日本語訳)をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年11月13日 聖霊降臨後の第26主日―大阪 霊的講話「洗礼の秘蹟について」


親愛なる兄弟の皆さん、

洗礼は七つの秘蹟のうちの最初の秘蹟です。最初に洗礼を受けなければ、誰も他の秘蹟を受けることはできません。洗礼は、他の秘蹟への扉、特にご聖体の秘蹟への扉なのです。すでに聖ユスティノがこう言いました。「この食べ物は私たちの間では『エウカリスチア』(ご聖体)と呼ばれており、私たちが教えていることが真理であると信じており、かつ罪の赦しのための洗浄で洗われて新たに生まれ、かつキリストが命じたように生きている人以外は、それにあずかることは許されていない」。まことの信仰、洗礼、そして命が成聖の恩寵の状態にあること、ご聖体を受けるためのこれらの条件は、こんにちでも教会の始まりのときと同じです。

洗礼が最初であるのは、それが誕生だからです。命の始まりです! 「まことにまことに私は言う。人は新たに生まれないと、天主の国を見ることはできぬ」(ヨハネ3章3節)。この新たな誕生は「水と聖霊によ」(ヨハネ3章5節)るのです。そして、これは永遠に続く命の誕生です。洗礼のときに受けたその新たな命は天国で花を咲かせます。ここ地上ではそれを失うこともありますが、天国ではもう失うことはありません。しかし本質的には同じ命です。

教会は次のように教えています。主が洗礼を制定なさったのは、主がヨルダン川で洗礼を受けられたときであり、それによって主は水を聖化されました。主が洗者聖ヨハネによって洗礼を受けられたあと、天が開けて御父の声が聞こえ、聖霊が鳩の外観のもとに来られました。これは、洗礼によって私たちが天主の子となり、聖霊の神殿となることを表しています。その後、主ご自身が洗礼を始められました。主は最初の使徒たちに洗礼を授け、その後、聖ヨハネが言うように(ヨハネ4章1-2節)、その使徒たちが他の弟子たちに洗礼を授けました。聖ヨハネは一番最初の二人の使徒のうちの一人であり、おそらく主ご自身によって洗礼を授けられました。

洗礼の質料は天然の水、いやむしろ天然の水によって洗われることです。洗礼を行うことのできる三つの方法があり、教会の始まりの時点では普通だった浸礼によってなされるか、体の上に流れるように水を注ぐことによってなされるか、または(本当に洗うのに十分な量の水による)灌水によってなされるかです。実際、皆さんが体を洗う必要のある場合、お風呂に入るか、水道の蛇口の下で洗うか、シャワーを浴びるかのどれかでしょう。こんにち洗礼を授ける普通の方法は水を注ぐことですが、それは他の方法よりも実際に行いやすい方法だからです。浸礼は、特に寒い国々では危険でした。特に小さな子どもにとっては!

洗礼の質料は、罪と罪による罰から霊魂を洗うことを表していますが、また「キリストとともに葬られること」も表しています。浸礼による洗礼ははっきりとそれを表していますが、単に水を注ぐことだけでも確かにその意味を持っています。実際、埋葬の儀式においては通常、信者は花か土を棺の上に置きますが、必ずしも棺を完全に覆ってしまうのではありません。さて聖パウロはこう言います。「キリスト・イエズスにおいて洗礼を受けた私たちは、みなキリストの死において洗礼を受けたことを、あなたたちは知らないのか。それゆえ私たちはその死における洗礼によってイエズスとともに葬られた。それは、御父の光栄によってキリストが死者の中からよみがえったように、私たちもまた新しい命に歩むためである」(ローマ6章3-4節)。

洗礼が有効であるためには、水が肌の上を流れることが必要です。プロテスタントの中には、洗礼を行う方法があまりにずさんであるため、時には洗礼が無効である場合があります。私がアメリカで知っているケースでは、カトリック信者になりたがっていた若い男性が私に話してくれたのですが、彼はプロテスタントの牧師である彼のおじによって洗礼を授けられたそうなのですけれども、そのおじが彼に言うには、自分の一本の指を水の中に少しつけたあと、その指でひたいに十字架のしるしをしたというのです。さて、皆さんが泥の中に転んだ場合、そのあと一本の指を水の中に少しつけて泥だらけの肌の上に十字架のしるしをして、それできれいになるでしょうか? なるはずがありません! お風呂に入るかシャワーを浴びるか、あるいは少なくとも水道の蛇口の下で洗う必要があります! 聖アルフォンソが彼の著書「倫理神学」の中で、そんなケースについてはっきりと言及しており、その場合はその人が条件つきで再洗礼を受ける必要があると言っていることを知るのは興味深いことです。

洗礼の「質料」の意味は、洗礼の「形相」によって明確になります。この形相は、次の聖福音の中にはっきりと見いだされます。「行け、諸国の民に教え、聖父と聖子と聖霊の御名によって洗礼を授けよ」(マテオ28章19節)。至聖なる三位一体の御名において行うことは、洗礼が単なる体の洗浄ではなく聖なる洗浄であることを明確にしています。すべての罪とそれによる罰が受洗者の霊魂から完全に取り除かれるのは、至聖なる三位一体の力によるのです。また司祭は、至聖なる三位一体を敬うため、(受洗者に)水を流すとき、その水で三つの十字のしるしをします。

多くのプロテスタントたちが洗礼のこの正しい「形相」を使っていないことを知っておく必要があります。彼らは使徒行録の中で、ある人たちが「主イエズスの御名によって洗礼を受けた」(使徒行録19章5節)と読んでいます。ですから彼らは、洗礼の形相は「私は、主イエズスの御名によって、あなたに洗礼を授けます」と言うことだと、間違って思っているのです。そんな洗礼の方法は確実に無効であり、私たちの主イエズス・キリストご自身が教えられたことに反しており、聖マテオの福音書で主が使徒たちに明確に与えられた指示に反しており、教会が始まりのときから続けてきた変わることのない実践に反しています。

では、使徒行録の中で聖ルカはなぜ「彼らは主イエズスの御名によって洗礼を受けた」と言ったのでしょうか。第一に、使徒行録の目的は、典礼についての本を書くことや、秘蹟をどのように授けるかを書くのではなく、むしろペトロとパウロの使徒職によって福音が広がっていったことを記述することであったのであり、これらのプロテスタントたちは聖ルカの言葉から不適切な結論を引き出しているのです。第二に、「主イエズスの御名によって洗礼を受けた」という言葉は、「ヨハネによる洗礼」と対比しようという意図で使われています。これはエフェゾのケースではっきりしています。エフェゾの町の最初の弟子たちは、アポロと呼ばれる男によって教えを受けており、アポロは洗者聖ヨハネの弟子でしたが聖三位一体のことを明確には知らなかったのです。聖パウロがそこに着いたとき、彼らが聖霊の存在さえも知らなかったことが分かりました。ですから聖パウロは彼らに尋ねました。「『どんな洗礼を受けたのですか』。彼らは答えました。『ヨハネの洗礼です』」(使徒行録19章3節)。ここではっきり分かるのは、彼らがイエズスの洗礼を受けていたのなら、まさに「聖父と聖子と聖霊の御名によって洗礼を受けて」いたはずですから、必ず聖霊を知っていたはずだということであり、また彼らが聖霊を知らなかったのなら、それは明らかに彼らが「イエズスの洗礼」によって洗礼を受けていなかったことを意味していたということです。洗礼の正しい形相を尊重していないため、多くのプロテスタントの洗礼は無効です。

このことから、第二バチカン公会議以前は、最初の洗礼が正しい質料と正しい形相および意向で行われ、有効であったと証明されえない限り、教会はプロテスタントからの改宗者に全て条件付きで再洗礼を授けていました。

秘蹟は、それが意味するものを実際につくり出します。こうして、洗礼は霊魂の洗浄を意味するだけでなく、実際に霊魂を完全に洗浄するのです。教会は、洗礼はそれ以前に犯した罪をすべて洗い去ると教えています。洗礼は原罪と大罪、小罪のすべてを洗い去ります。洗礼はまた、これらの罪による罰をすべて赦しますから、洗礼ののちすぐに死ねばその人は煉獄に行く必要がなく、直接天国へ行きます。

私たちはこれまで、罪による三つ目の結果があることを見てきました。それは罪による傷であり、それは洗礼によって完全に癒やされるのではありません。洗礼は癒やしの過程を始めるのであり、傷に対して薬をつけるのですが、その薬で癒やしがすべて完了するには時間がかかるのであり、信者の側の協力が必要になります。

洗礼は受洗者に成聖の恩寵をつくり出します。これは、罪を洗い去るのと同じ現実の肯定的な面です。闇は光によって追い払われます。罪は成聖の恩寵によって追い払われます。成聖の恩寵が注入されることなしに罪が赦されることは不可能です。また、反対に、罪を追い払うことなしに成聖の恩寵を受けることも不可能です。実際、成聖の恩寵と罪は同じ霊魂に同時に存在できません。光と闇が同じ場所に同時に存在できないのと同じように。「人は二人の主人に仕えるわけにはいかぬ」(マテオ6章24節)。成聖の恩寵は、天主ご自身の命にあずかることです。聖ペトロはこう言っています。「主は私たちに偉大で尊い約束を与えられた。それは、その約束によって、あなたたちを天主の本性にあずからせるためであった」(ペトロ後書1章4節)。天主の本性にあずかること、天主の命にあずかること、天主からそのような命を受けることは、天主の子になることを意味します。天主の御独り子である私たちの主イエズス・キリストの肢体にならなければ、これは決して起こりません。私たちは、天主の御子の肢体として、天主の御子において天主の子なのですから。キリストの体、すなわち教会、カトリック教会の中にいなければ、天主の命を生きることは不可能なのです。このことから、有効で実り豊かな洗礼が、私たちをカトリック教会の肢体にするのです。

もう一つの重要な洗礼の効果は、洗礼によって霊魂に刻まれる刻印です。洗礼によって、私たちは天主の子としてのしるしを付けられます。この刻印は永遠に続くもので、洗礼にふさわしく生きて天国へ行く人々の栄光となり続け、または不信心な生き方によって洗礼を汚して地獄へ行く人々の恥となり続けます。この刻印は、一生の間、助力の恩寵、つまり天主の子としてふさわしく生きるよう助ける恩寵を与える素晴らしい源泉なのです。

秘蹟というものは、「エクス・オペレ・オペラート―なされた行為それ自体によって」働きます。その意味は、その秘蹟を受けたという事実それ自体によって、その秘蹟の効果を受けたということですが、ただ一つ条件があります。その条件とは、秘蹟の効果に対して障害を置いていないことです。たとえば、実際、盗人が洗礼を受けても同時に盗んだ物を返すことを拒んだ場合、その盗んだ物への愛着が恩寵を受ける障害となります。この場合、盗人は洗礼の刻印を受けますが、成聖の恩寵を受けず、罪の赦しを受けず、むしろこれまでの罪に汚聖の罪を加えることになるのです!

洗礼の恩寵に対して最もよくある障害は異端です。まことの信仰を、カトリック信仰を拒否することです。このことこそ、プロテスタントの洗礼が恩寵を与えない理由です。例外は赤ん坊だけで、それはもちろんそのような障害を置いていないからです。そのような障害は、使徒たちの信仰、すなわちカトリック信仰を受け入れることによって回心し、悔悛の秘蹟を受けることによって取り除かれます。

洗礼の秘蹟の通常の執行者は司祭です。司祭は、教会の美しい典礼のすべてを使って「荘厳な洗礼」を授けることができます。しかし、緊急の場合には、信者なら全員、さらには誰であっても、カトリック信者でない人でさえも、洗礼を授けることができます。なぜそうなのでしょうか? なぜなら、天主はすべての人の救いを望んでおられ、それゆえに人々が洗礼を受けるのを広く可能にされるからです。ですから、もしカトリック信者の母親が子どもを産むときに、出産に際して困難が起こるならば、母親は看護師に洗礼をお願いすることができるのです。その看護師がカトリック信者でない人であっても、子どもに洗礼を授けるようにお願いし、洗礼が適切に行われるかを確認します。すなわち、看護師が、「われ、聖父と聖子と聖霊との御名によりて汝を洗う」と言いながら子どもの肌の上に水を注ぐのを確認するのです。看護師が、母親が意向として持っていることを行うという意向を持っていれば、意向を正しくするには十分です。なぜなら、母親は教会が意向として持っていることを行うという意向を持っているからであり、すなわち有効な洗礼になるからです!

正しい意向、すなわち教会が行うことを行うという意向もまた必要です。なぜなら、言葉と儀式の意味そのものは、最終的には秘蹟の執行者の意向によって決定されるからです。一部のプロテスタントのように、教会の意向がはっきりと拒否されている場合、意向の欠如によって秘蹟は無効になります。教皇レオ十三世は、英国国教会の叙階の秘蹟について次のように説明しました。いけにえを捧げる司祭職ということを拒否することによって、彼らは正しい意向を持っていなかったため、彼らの叙階は無効であった、と。通常は、カトリックの儀式を行うことそのものが、意向が正しいことの保証なのです。

洗礼の儀式は美しく、更なる恩寵の源です。洗礼の儀式は、大変重要な問いと答えで始まります。司祭は問いかけます。「あなたは天主の教会に何を求めますか?」。求道者は答えます。「信仰を求めます!」。続いて司祭は問いかけます。「信仰はあなたに何を与えますか?」。求道者は答えます。「永遠の命を与えます!」。そして司祭はこう締めくくります。「あなたが永遠の命を求めるなら、掟を守りなさい」。これらの短い問いと答えは、洗礼の精神と目的のすべてを含んでいます。最終目標は天国での永遠の命です。キリスト教徒の全生涯を通じて、常に目の前にその目標を置いておかなければなりません。私たちは、ここ地上においては巡礼者であり、「この涙の谷でのちくたくの身」です。「あなたたちは聖徒たちと同市民、天主の家族である」(エフェゾ2章19節)。

天国へ行くために、人は信仰を必要とします。ですから、求道者はまことの教会からまことの信仰を求めます。「あなたは天主の教会に何を求めますか? 信仰を求めます!」。そして洗礼が与えるものはこれです。私が数週間前に説明したように、洗礼は注入された信仰の徳、希望の徳、愛の徳を成聖の恩寵と一緒に与えます。しかし、信仰だけでは十分ではなく、天国への道であり、それゆえに教会の勧告である掟に従う必要があるのです。「命を求めるなら、掟を守りなさい」。これは、主に「よき師よ、永遠の命を受けるために私はどんなよいことをすればよいのでしょうか?」(マテオ19章16節)と尋ねた若者に主ご自身が言われたことです。私たちの主は答えられました。「命に入りたいのなら掟を守れ」(マテオ19章17節)。

ノブス・オルドの典礼の洗礼では多くのものが削除されており、これら最初の問いと答えも任意とされました。まことの教会からまことの信仰を求めることがなくなり、天国を望むことがなくなり、いや少なくともこれが任意になってしまいました。

その後、司祭は、聖霊降臨のときの強い風のように、聖霊のくだる象徴として、子どもに息を吹きかけます。そしてこう言います。「汚れたる霊よ、この者よりいでよ。しかして聖霊に席を譲れ」。こうして、ある戦い、つまり霊魂を求める戦いが続いていることが分かります。天主はこの霊魂を救うことを望んでおられますが、悪魔は霊魂をだまして破滅に導こうと躍起になっています。原罪と自罪があるため、洗礼を受けていない者は一定程度、自分の餌食を失いたくない悪魔の支配下にあったのです。キリストは、その霊魂を悪魔の力から解放されます。これは悪魔祓いの儀式でさらにはっきりとします。

悪魔祓いは、私たちを悪魔から解放するための天主への単なる祈りではありません。悪魔祓いとは、主にその権能を与えられたキリストの役務者により、私たちの主イエズス・キリストの御名によって悪魔に対して与えられる、実際の指図であり、命令です。悪魔はそんな悪魔祓いの前でおののき、求道者の霊魂に対する力を失います。ノブス・オルドの典礼の洗礼は、これらの悪魔祓いのすべてを廃止してしまい、悪魔に対抗する祈りがたった一つだけしか残っていません。悪魔に対して離れるようにとの命令はもはやまったくありません。

その後、司祭は、「汝のひたいにも心にも十字架のしるしを受けよ。天の教えの信仰を受け、天主の神殿となるにふさわしい行いをせよ」と言いながら、求道者のひたいと胸に十字架のしるしをします。他にも何回か十字架のしるしが求道者になされます。秘蹟の前には、求道者の胸と両肩に”求道者の油”でなされ、これによって十字架を愛し、十字架を担う勇気を持つよう励まされます。洗礼のあとには、頭の上に聖香油で十字架のしるしがなされ、子どもが聖霊の神殿になったことが表されます。これらの十字架のしるしが明らかにしているのは、十字架につけられた私たちの主イエズス・キリストの弟子になること、すべての恩寵は十字架から来ること、そして「自分を捨て、日々自分の十字架を背負って(十字架の)キリストに従わ」(ルカ9章23節)なければならないことです。またもや、新典礼では、これらの十字架のしるしの多くは廃止されてしまっているのです。

求道者は、腐敗しない象徴、霊的な良き味の象徴として、祝別された塩を受けます。これはまた、「最初の食べ物」であり、ご聖体である「いのちのパン」(マテオ6章11節)を求道者に渇望させます。

その後、求道者は司祭のストラに導かれて教会の中に入ります。これは唯一のまことの教会、カトリック教会に入り、教会の聖職階級に服従することを象徴しています。求道者が教会の中で行う最初のことは、洗礼の準備で習った使徒信経を告白することです。子どもの場合には、子どもの代わりに代父母が子どもの名によってカトリック信仰を告白し、子どもに信仰を教える約束をします。実際、まことの信仰は、カトリック教会の一致をつなぐ、最初にして最も基礎的なものです。この信仰こそ、求道者が全生涯にわたって保持し、実行しなければならない信仰です。次に、求道者はすべての祈りの手本である「天にまします」を唱えます。なぜなら、カトリック的生活は、本質的に、天主の子としての祈りと天主との友情の生活であるからです。この祈りは毎日しなければなりません。

その後、三回の悪魔の放棄、三回の信仰告白があります。これは最も重要なことです。私たちは、特に誘惑に遭うとき、かつて、きっぱりと、これら悪魔の誘惑をすべて放棄したことを思い起こさなければなりません。つまり、私たちは、罪に対して固い決意をもって「いいえ」と言ったのです。私たちは、悪魔が私たちを誘惑するとき、この決意を新たにしなければなりません。「私は悪魔を捨てます。その業を捨てます。その欺きを捨てます」と。私は悪魔を捨てます。なぜなら、私は固い決意をもって天主を選んだのですから。天主に対して「はい」、悪魔に対して「いいえ」と!

他にも多くの美しい祈りがありますが、長くなり過ぎてしまうため、詳しくは説明できません。ただ、付け加えさせていただければ、洗礼のあと、私たちは私たちの霊魂の清さの象徴として白い衣を与えられ、そしてキリストの法廷まで、すなわち審判を受ける生涯の終わりまで、それを汚れなく保つよう忠告を受けます。幼きイエズスの聖テレジアのように、自分の霊魂を洗礼による無垢の状態に保つ人々は幸いなるかな! それを失った人々は悔悛の秘蹟を受け、それを回復させるようまことの悔悛をしなければなりません。しかし、それを失わない方がさらに良いことであり、さらに天主をお喜ばせするのです! この白い衣は、王が自分の子の婚礼の宴席に来るのを許した人々が着てくることを期待している「礼服」のことを表しているのです(マテオ22章11-12節)。

最後に、受洗者は、火のついたろうそくを与えられますが、これは受洗者の霊魂に灯されたばかりの信仰の光および愛徳の火の象徴です。「この燃えるろうそくを受けよ。汝の洗礼を非の打ちどころのない状態に保て。天主の掟を守れ。主が婚礼の祝宴に来られるとき、汝が天国の王宮ですべての聖人たちとともに主の御前にいて、永遠にそこに住むことが許されるように」。こうして、天国をその目的として始まった洗礼の儀式は、天国をその最終的な報いとして終わるのです。

洗礼によって、私たちは天主の子、キリストの肢体となり、それゆえにマリア様の子となります。聖母は洗礼を受けた人すべてをご自分の子として養子になさり、私たち一人一人を非常に特別に心にかけてくださいます。マリア様の御子である私たちの主イエズス・キリストをお喜ばせするために、私たちはマリア様の子として生きましょう。

私たちの洗礼を常に思い起こしましょう。私は洗礼を受けており、異教徒として生きることはできません! 私が、自分の洗礼に恥じぬよう、私たちのかしらであるキリストに栄光を帰すことによって、キリストの肢体としてふさわしく生き、主の徳に倣い、「主によって、主とともに、主のうちに」生きることによって、永遠に聖霊との一致のうちに御父の栄光の中に入ることができますように。アーメン。
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秋田巡礼-霊的講話【6】-2016年5月5日シュテーリン神父様「マリア様のご謙遜」

2016年11月15日 | お説教・霊的講話
2016年5月5日 秋田巡礼 シュテーリン神父様霊的講話6
「マリア様のご謙遜」

同時通訳:小野田圭志神父


私たちは先ほど、「謙遜によって、謙遜のおかげで、マリア様は全ての憐れみを受ける事ができた」という事が分かりました。

ミサの時に時々、カリスの方に目を向けて下さい。金メッキで時には金で出来た、純金で出来たカリスがあります。イエズス様の御血を入れる為には、カリスの中には何も入っていてはいけません。御血は何の混じり気もなく、その中、きれいなカリスの中にいなければなりません。

マリア様の汚れなき御心はまさに、この純金のカリスのようでした。聖母の連祷の中にはちょうど『霊妙なる器』とありますけれども、これはマリア様がちょうどこの純金のきれいなカリスであったかのようです。

天主様の憐れみを全て知り尽くしたいですか?マリア様のご謙遜を知って下さい。マリア様のご謙遜が、天主の愛を引き寄せたのです。

ここで2つをよく区別しなければなりません。「マリア様のご謙遜」と、「私たちの謙遜」とでは区別があります。

それは「動機」であって、私たちの謙遜の動機は、「もう私たちが罪人であって罪を犯した者であって、憐れみを受けるに値しない者」というのが動機です。素晴らしい、天主様から与えられた宮殿を汚して壊してしまって、その破壊の責任は私自身にあります。「この破壊された宮殿の原因は私にあって、私の罪である」という事が私の謙遜の動機となっています。

マリア様は罪を1つも犯しませんでした。マリア様のご謙遜はこの罪を犯したという事の惨めさによる動機ではありません。

マリア様のご謙遜は、「愛による謙遜」です。マリア様のご謙遜というのは、「無に等しい自分を友として扱って下さる、その天主に対するご謙遜」です。或いはもっと上手く言い換えると、「良き妻である謙遜」です。この妻は全く無であり、何も持っていません。しかし新郎の夫からの、無限の彼女に対する贈り物を知っています。この妻は新婦は、この素晴らしい贈り物にただただ感嘆するばかりなのです。天主様の美が自分の所にやって来るのを見て、それをただただ讃美します。天主様の全ての完徳が、全てマリア様の心に来るのを見て讃美します。光と御恵みがマリア様の所にもうとめどなくやって来るので息もできないほどです。

そういうのを知っているので自覚しているので、マリア様には1つの答えしかありません。「“マニフィカト” 我が霊魂は主を崇め奉る。何故ならば、力ある方が私に大いなる業をしたからです。その御名は聖なるかな。」

マリア様の御生活において御生涯に起こった事は、私たちの生涯の全く正反対でした。

もしも皆さんの中に何か良い所が見つかったら皆さん何をするでしょうか?その自分の中の才能、良い所があるという事があると、ますます罠にはまってしまいます。「それは自分のおかげだ。自分のものだ」と言って、そして自分に帰属させます。そして自分の事を自己賛美して、他の人たちの前に見せびらかして、他の人々からそのような賛美を受けようとします。

「神父様、すばらしい御説教をしますね。」「神父様、神父様の翻訳はとても素晴らしいですよ。」「あぁ奥さん、とても美しいですね。鼻がとても高いです。」

これが、ガボンで宣教師として働いていた時に起こった事でした。黒んぼの女の子がやって来て、私に大きな目をまん丸にしてやって来ました。その女の子が私に恋をしたのかなと思いました。そういう時に私は時々、野蛮なちょっときつい態度をします、「何が欲しいのか!?」私はきっとこの女の子が、「あぁ神父様、愛しています」と言うのかなと思っていました。何と答えたか知っていますか?「神父様、鼻が大きいですね!」(^^;)

これが私たちの人生の問題であって、いつも何か良い事があると自分に帰属させます。他の人々からの注目を浴びようとして、そして他の人から褒めてもらおうとする、これが問題です。

本当ならそれの反対でなければなりません。もしも誰か知性的でとても頭が良い方があったら、それはますます謙遜でなければなりません。しかし私たちがこの世の中で見るのは、非常に知性的な頭の良い人たちが、もう絶望的な傲慢に膨れ上がっている事です。

マリア様はご自分の霊魂の中にあった「天主様の宝」の事によく気が付いていました。

本当の謙遜というのはこういうのではありません、「私は本当に弱くて、本当に私はダメで、本当に何もなくて、良い事もできなくて、これもダメで、これもダメで…」が謙遜ではありません。

ある時、誰かがこう私に聞きました、「神父様、神父様はとても頭が良いですね。」私はこう言いました、「その通りだと知っていますよ!」「神父様、神父様とても傲慢ですね。」「それは時にもよります。」それは条件があります。「誰に自分の才能を帰属させるか」によります。

アヴィラの聖テレジアの賢い言葉を聞いて下さい、「謙遜というのは、天主様の贈り物を無視する事ではない」と。「それがどこから来るか、という事を学ぶ事に謙遜がある」と。

ですから、マリア様の御生涯に起こった出来事を深く研究する必要があります。

謙遜というのは1つの世界です。謙遜というのは、その時と場合によって色んな表現の仕方があります。私たちは秋田に、マリア様の中に深く入る為にやって来ました。だから重要です。私たちがどうやってマリア様に倣うか倣わないかによって、私たちが聖人になるかならないかは決まります。

マリア様の色んな御生涯における行動を見て、私たちと比べて比較して、こうやってマリア様に求めて下さい。もしもそれがなければ謙遜になるとは何か理解できないでしょう。
時々黙想会の後で、黙想会をした人が、「黙想会の決心、“もっと謙遜になる事。”」こんな事は全く意味がありません。マリア様の謙遜をよく見て下さい。

マリア様がまだ小さな女の子だった時に、エルサレムの神殿に送られて教育を受けます。教父たちによると多くの教父たちによると、「マリア様は無原罪の御宿りであったので、その瞬間、天主様から天来の知恵を与えられて、知識も与えられて、マリア様は多くの事を既に生まれつきに知っていて、そのような注入された知識をお持ちだった」とあります。

既に幼くしてマリア様は、天主様から知識を知恵を注入されていたので、聖書の事を誰よりも、この地上にその時生きていた誰よりも深く知っていたはずです。マリア様はこの文字通りの文字面だけではなく、その深い隠された意味さえも理解していたはずです。

ではこのマリア様、小さな女の子がエルサレムで何をしたでしょうか?

しかしマリア様は、この知識を全ての人々に隠しておられました。神殿の責任者当局、司祭たちに従順に従って、その教えるままを勉強していました。エルサレムの神殿の司祭が、色々な昔のやり方によるユダヤ教のゴチゴチとした教えをグダグダと述べている時に、マリア様はそれを一生懸命、忍耐深く聞いていました。律法学士の教えをマリア様はよく聞いていました。そしてその律法学士の教えは、後にイエズス様が、「文字通りのその律法の精神を殺している」と告発したその悪い教えでした。

例を挙げます。ではこのユダヤの律法学士によると、「一体何時に朝の祈りしなければならないか?」律法学士によると、「朝の祈りの朝というのは、朝日が夜の闇を追い出し始めた、その日が昇りかけたその時から始まる。この黒い真っ黒の夜空が白みかけていて、光が少し出たところ。」

「ではその白みかけたというのは、この山の影が白みかけたのか?それとももうちょっと上が白みかけたのか?そのもうちょっと天が白みかけたのでしょうか?」「或いはこの光が弱々しい時でもう既に朝なのか?それとももうちょっと強くなったら朝なのか?それとももっと光り輝いたら朝なのでしょうか?」

生徒は、この色んな学派の解釈を覚えなければなりませんでした。「ガマリエル学派によると、これこれで。そして別の学派によると、これこれで。また別の学派によるとこれこれで」と、その学説を全て暗記しなければなりませんでした。

もしもそのような学説を聞いていてそれを聞いて、「もう退屈だなぁ」と思わなければならない方はマリア様でした。他の子供たちと一緒に聞いていて、マリア様はそれをずっと忍耐深く聞いていました。何故かというと、たとえ90%その中には下らない話だと思われていても、10%は何か良い話しがあるかもしれないと聞いていたからです。そしてその10%の為に聞いていました。

この謙遜は、「従順」と言われます。

私たちにはそれと全く正反対の事が起こります。皆さん何年か小教区にいますよね。神父様からまた同じ御説教を聞きます。「ふわぁ~(あくび)。この御説教またかよ、よく知ってるよこれ。」時々は、「私の方がもっとよく知っているよ」という事を見せつけようとします。誰か黙想会の後で、黙想会をした人が私の所に感謝に来ました、「神父様、この黙想会の事を本当に心から感謝します。私はこの事をもう何度も何度も何度も聞かされていて、もう覚えてしまっているほどです。耳にタコができています。もしも私があなただったら、もっとこうやって、こうやって、これとこれをもっとよく、もっとうまく説明した事でしょう。」

そのような場合には、私たちは利益を受ける事はありません。何故かというと、「天主の教えを何度も繰り返し聞く」という事は同じではないからです。皆さん、聖書などを読んで、イエズス様の御言葉を同じ事を何千回も何万回も読んで下さい。その度ごとにその実りが違います。

私はこの次のような、今から言う事を何度も何度も経験した事があります。私は、この他の神父様も同じようですが、私には特別のタレントというか才能があって、私はこの説教をとても退屈にさせるという才能があります。(^^;)そして説教をすると皆さんを眠らせるという技術もあります。(^^;)でもそのようなお説教を聞いた霊魂のうちに時々、私の所に来て、「神父様、私は今日特別の御恵みを受けました。」その私が言ったほんの一言二言がこの霊魂に染み通って、それに深い印象を与えて、何十年もこう神学の勉強をしたよりも更に深い理解を与えた、という事があります。これが謙遜な霊魂を天主様が報いて下さる例です。

もしも皆さんの中に、「神父様、知っています知っています。分かってる分かってる分かってる」という考えがあったら、どうぞそのような考えを捨てて下さい。これは傲慢にしかすぎません。

ところでエルサレムの神殿に話を戻しますと、神殿では「童貞性」という事に対してとても否定的な考えがありました。「もしも夫人に子供がいないという事は、天主様からの呪いだ」と考えられていました。ですから、「普通の良い女性というのは、結婚して子供を持たなければならない」と考えられていました。まだインドではこうなのですけれども、その当時は、誰と結婚するかというのは、自分で決めるのではなくて、両親或いは司祭が決めました。もしも女の子が神殿で奉仕の為に送られたならば、両親の親権を行使するのは司祭たちであって、この子供たちの女の子たちの責任は司祭たちにあって、誰が誰と結婚するというのは司祭が決めました。その当時では女の子は、「一体結婚するのかしないのか」或いは「誰と結婚するのか」という事は聞く事もできませんでした。

マリア様も同じでした。マリア様の為にはダヴィドの家のヨゼフという男を選びました。マリア様は神殿において、ご自分の貞潔の誓願を立てます。それはマリア様にとってとても大切な事でした。しかしユダヤ当局の司祭たちは、マリア様の心の中で一番大切なものを一つも理解できませんでした。しかし、その為にそのような司祭たちに反抗せずにそのまま従うには、マリア様にご謙遜が必要でした。もしもマリア様が、「自分のその意向をヨゼフという男に打ち明けたら、どんな反応が起こるだろうか。」恐れに打ち勝つ必要もありましたし、それに信頼しなければならないという事がありました。

皆さん、皆さんの人生の中で最も大切な事を、誰か別の人が決定しなければならない。しかもその決定は、皆さんの思っていたものと正反対だったとします。人間的に言えば、皆さんの持っている燃えるような望みは、実現する事は不可能だ、という状況に置かれたとします。

私たちは普通その時に、不平を言います、ブツブツ言います、「一体何でそんな事が私の身に起こったのか。」「あぁ、私が一体何の悪い事をしたのか。」「あぁ何故こんな事が起こるのか。」「僕はこの女の子と結婚したかったのに、もうあっちの世界に行くんだ。」

でもマリア様は謙遜に信頼しました。

第2の謙遜の表現があります。「天主の御摂理に信頼する」という事です。

問題に対する解決が見つからない時には、そして全てが失敗に終わって大失敗に終わろうとする時に、万事休すであって、もう全てこれでもう事が終わってしまうという時、全くもう救いの手助けもなくて、もうこれからもうどうしようもないという行き止まりだという時に、その時に何の混乱もなく、反乱も反抗もなく、天主の御旨に全て委ねて、忍耐強く待つ。これが謙遜です。私たちはこれからどれほど遠くにいる事でしょうか。

謙遜で、自分が無であるという事をよく自覚している人は、天主の御旨を果たす為に全てをします。そしてもしもその制限、限界を体験すると、ただ天主の御摂理に信頼するだけです。

3つの言葉があります。『天主は全てを知っている』『天主は全能だ』『天主は私を愛している』

第3の謙遜の表れは、「御告げ」です。

天主様が人間となるその瞬間は、無限の御謙遜の瞬間でした。喜びの第1玄義は謙遜の徳を乞い願います。小さな子供は、お母さんの事をよく見てお母さんの真似をします。マリア様のご謙遜をよく見て下さい。そしてその徳を真似て謙遜になりましょう。

御告げの時に、全ては謙遜でした。

大天使聖ガブリエル。この「ガブリエル」という名前の意味は、「天主の力」という意味です。天主の最も偉大な天使たちの内のその一位である大天使聖ガブリエルが、天主から特別大使として送られて、15歳のか弱い女の子の前に頭を深く下げて挨拶します。謙遜です。

これからマリア様のご謙遜を見ます。

そしてそのマリア様のご謙遜よりもはるかに素晴らしいのは天主のご謙遜で、天主はその天のいと高き所から、小さな胎児となる、小さな小さな胎児となる為に地上に降りて来られます。

この大切な時にマリア様には何が起こったでしょうか?

色々な聖画を見ると、マリア様の御告げのご様子がありますけれども、マリア様はお祈りに専念しておられました。突然大天使が現れます。マリア様はとても感動します。そして天使の挨拶の言葉を聞きます。誰もそのような言葉を聞いた事がありません。私たちが理解するよりもはるかに深く、その意味するところを理解しました。「聖寵に充ち満ちた御方、天主御身と共に在す。」その意味を深く理解していました。

聖書によると、「それを聞いて心を騒がせた」とあります。何故かというと、そのような素晴らしい名誉の動機が分からなかったからです。何故なら、自分の事は「全く最も端けらで、全く小さなものだ」と考えていたからです。「なぜ自分がこのような偉大な贈り物を、賜物を受けなければならないのか」と。

聖伝によると、マリア様は「救い主が生まれるべき時が来た」という事を知っていました。そこで、「是非そのような救い主の御母の女奴隷となって、召し使いとなってその方に奉仕したい」という事を望んでいました。

この瞬間お告げの瞬間、マリア様こそがこの救い主の母となる事と選ばれたと理解しました。この時に、「天主の偉大な御恵みが被造物に与えられる」という事を理解しました。最高の名誉と最高の贈り物が与えられる、このマリア様に与えられたという事が理解できました。

その答えは何でしょうか?

最初にマリア様が仰った言葉はこれです。マリア様は、「一体これはどうやって起こるのでしょうか?何故なら私は男を知りません」と。

マリア様は、この名誉とか、特別な待遇という事にあまり興味を持ちませんでした。マリア様にその将来何が起こるか、という事はあまり関心がありませんでした。「天主の御旨とは何か、一体何か。」これが一番の関心でした。

マリア様が1つ理解していたのは、天主様は聖母がいつも童貞のままに残るという事をお望みだ、という事です。天主様に聖別された童貞として残る、それが天主様の御旨なのだけれども一体どういう事か。

聖ヨゼフを配偶者として与える事によって、マリア様の童貞性を守る事ができるという事は、天主によって確認されました。司祭たちが、神殿の司祭たちが聖ヨゼフを選びましたけれども、この聖ヨゼフの考えた事は司祭たちはよく知りませんでした。

実は、全世界において、ただ聖ヨゼフだけが、「童貞性の貴重さ」という事を、イスラエルの律法学士たちの意見や学説に反して信じていたのです。それのみならず、聖ヨゼフは全世界でただ一人、「その理想に向かって生きよう」という決心を立てていた男でした。

天主様は全知です。そして全能です。そのようなものを全て1つにまとめる事ができます。もしも私たちが謙遜であるならば、天主様は私たちにとって最高の事を全て準備お膳立てして下さいます。

ですからマリア様は、「終生童貞であるという事が天主の御旨である」という事をよく理解しました。

ところが天使は、「あなたは母となる」と言うのです。「母となる」という事と「童貞を守る」という事は2つは矛盾します。天主様はマリア様が童貞である事をお望みだと理解して、そして同時に母となるという事を理解しますが、「一体どうやって起こるのだろうか?」

そこでマリア様には、その「一体これがどうやって起こるのか」という事を聞く権利と義務がありました。

そこで天使はマリア様に、そのどうやって起こるかを説明します。700年前のイザヤの預言を引用して、「童貞女が子供を生むだろう、母となるだろう」という事を説明します。その天使の言った言葉の結論は、「天主様には不可能な事がありません。」

マリア様は、「なれかし」と言ってその同意を与えます。

もしかしたら普通の人で、どのように聖なる人でも、そのような天使がこうやって、「救い主の母となるだろう」と告げに来たとしたら、もしかしたらちょっとした満足を覚えるかもしれません。「あぁ、このような名誉を受けるとは何と素晴らしい事だろうか」と思ったかもしれません。「他の人にどれほど良い事をする事ができるでしょうか。」「あぁ、私をそうやって名誉を与えて下さるのは、何と天主様は優しい方でしょうか。」ほんのちょっとだけでも、満足や喜び、その名誉を感じるのは、これを避けるのは難しい事かもしれません。

でもマリア様は、マリア様は全ての女性の中で選ばれた特別の女性であって、全ての被造物の中で特別の存在となります。マリア様はご自分の中にある全ての善徳と、全ての美しいものと、その童貞性の美を見ます。それと同時にマリア様は、「全ては天主様から頂いた贈り物である、賜物である」という事を理解しています。「私は全く無なのですけれども、天主様の憐れみによってのみ、ひたすら憐れみによってこれを頂いた」と。「全ての美しいものは天主によって与えられた」と。

マリア様はこの「2つの無限」を考えます。まずマリア様の前に、「無限の天主の御稜威」をご覧になります。そして「無限の自分の空しさ、無」を見ます。

その論理的な結論は、「おぉ天主様、御身は全てであり、私は何でもありません。私はあなたが全て。御旨のままに御言葉の通り我になりますように。ここに御身の女奴隷がおります。」

この謙遜なマリア様の答えが、天主様の心を非常に感動させました。天主様ご自身がそこで、この世を救う為に人となられました。

御復活節が終わると、お告げの祈りを1日3回唱えます。「主の御使いの告げありければ、」これをどうぞ忘れないで下さい。

何で1日に3回もお告げの祈りを唱えるのでしょうか?この「3」というのは、それが「満ちておられる」という事と、それが「完璧である」という事と、その「継続性」を意味します。朝と昼と夜、マリア様のご謙遜を黙想しなければなりません。そして真似しなければなりません。教会はですから、「御告げがこの救霊の業にどれほど重要な役割を示したか」という事を強調するのみならず、この「マリア様の謙遜の中に深く入る事ができる」という事を教えています。「我は主の婢女なり。仰せの如く我になれかし」というのを3回1日に唱える、そしてその中に入るという事は謙遜の行為です。

御告げの後に、別のご謙遜の表れがあります。マリア様は急いで聖ザカリアと聖エリザベトの家に行きます。天と地の元后、天主の御母が、最も謙遜で最も卑しい仕事を、奉仕をする為に急ぎます。これは何を意味するのでしょうか?

「マリア様は、謙遜な者と居るのを望む」という事です。辱しめられた、卑しめられた、屈辱を受けた者と居るという事を望むのです。マリア様は、謙遜で屈辱を受けた人たちと共に居るという事です。

もしも皆さんが他の人から馬鹿にされて、そして卑しめられたとしたら、マリア様は皆さんの所に行くと、自分の家に来たかのように感じられるでしょう。

その当時イスラエルには、謙遜な人はそんなに多くはいませんでした。ファリザイ人やサドカイ人などは非常に傲慢な人たちでした。しかしこの謙遜な人たちの間に属していたのが、ザカリアとかエリザベトでした。聖書によると、「彼らは憐れみの天主の救いを待ち望んでいた」とあります。

この2人は辱しめられていた人でもあります。何故かというと、子供がいなかったからです。そしてこの子供がないという事のみならず、ザカリアは唖になるという辱しめをも受けました。しかも天主様の聖なる仕事をしている最中に、その何か罰を受けたかのようにいきなり唖になって帰って来た。「何と悪い奴だろうか。」多くの人々は、この子供がないとか、唖になったというのは、隠れた罪の為による罰であると考えていました。共同体は皆この二人の事を軽蔑して、馬鹿にしていました。マリア様はそのようなこの二人のもとに走って行くのです。

また次の謙遜の表れが来ます。

私たちは皆、無に等しいものですが、天主様はこのような事を自覚する無の霊魂たちを愛します。いつも類は類を呼ぶと言うのでしょうか、いつも似たような人たちには似たような人たちが集まります。私たちは知っています、この世で謙遜になるのは、辱しめを受け、屈辱を受けなければならないという事を。そこで何か本能的に、もしも私たちが屈辱を受けた時には、そのように辱しめられた卑しめられた人の方に向かいます。

また謙遜の特徴の1つは、「一番大切なものは何か」という事を覚えている事です。それを覚えて感謝する事です。天主の憐れみの御業を覚えて感謝する事です。私たちの無を満たして下さる天主のその聖心を覚えて感謝する事です。

これがマリア様の歌「マニフィカト」です。

聖書の中で、全ての聖書を探すとマリア様の言葉が7回出てきます。ほんの小さい言葉です。一番長いのがマリア様の祈りです。マリア様が一番長く話したのが、このマニフィカトのお祈りです。

もしもご謙遜になりたいですか?天主様の憐れみをよくこう考えて下さい。私たちがそれを受けるに全く相応しくないという事を考えて下さい、思い出して下さい。天主様の憐れみの業1つ1つを深く感謝して下さい。

以上のように、色々な憐れみの表れのやり方があります。

もっと難しい謙遜の表れは、「苦しみ」においてやって来ます。

もしも謙遜な霊魂であるならば、その結果、苦しむ霊魂と共に苦しむという態度が生まれるからです。謙遜な霊魂は、天主の深い神秘の意味を理解します。謙遜な霊魂は、天主イエズス様の愛がどれほど大きいかを理解します。御聖体を拝領する時に、どれほどえも言われない、信じらないほどの偉大な御恵みが私たちに来ているのか、という事を謙遜な霊魂はますます深く理解します。罪がどれほど恐ろしいかを理解します。するとその理解した事を友達にぜひ話したくなります。

私たちが天主様の近くに行けば行くほど、多くの場合友人を失ってしまいます。何故かというと、皆さんは別の言語を話し始めるからです。今までのお友達は、皆さんが何を言っているか理解できなくなります。一番近しいお友達だった人も、一体何の話しをしているのか理解できなくなります。この女の子の友達が「さぁ、ショッピングに行きましょう。一緒にご飯食べよう。」「すみません、時間がないのです、もっと別のする事があるから。」皆さんのお友達は、「大阪のおいしい店みんな知ってるよ。昔よく行ったじゃないあの喫茶店。どうしたの?」「昔は365日別の違うきれいな服を着てたじゃない。今何それ、何か学校の制服のように。」

皆さんこういう事を体験された事でしょう。皆さんが持っているその宝、憐れみの宝を他の人に与えたいのですけれども、彼らはそれを理解できないのです、それをブロックされています。何か彼らは昔のお友達は、今自分からどんどん離れて行くかのようです。もう互いに理解し合う事ができないかのようです。昔は面白かった、昔は関心があった事はつまらなくて、何か時間の無駄で、そして昔のお友達はもう目から消えてしまのです。この苦しみも私たちは受け入れなければなりません。

この例を挙げます。聖ヨゼフは最も幸せな男の1人でした。何故かというと、これほどすばらしい妻と結婚できたという事です。ところで聖ヨゼフ様は、マリア様がザカリアとエリザベトの家から帰って来ると、何かお腹が膨らんでいるのを見ます。聖ヨゼフは自分の目を信じる事ができませんでした。「なぜ妊娠しているのか!?」でもその証拠が目の前に突き付けられているから、もう議論をする余地もありません。マリア様からは何の説明もありません。「一体何が起っているのだろう、一体何なんだ!?」でもその結論を出す事ができません。「このマリア様は全く純粋で、きれいな清い御方で、これほどの清い方はいない。それは知っていた。しかし誰か別の男と私通をしたのか、もしもそのような事であれば最も悪い最悪の罪であって、本来ならば石殺しにされなければならない。」

聖ヨゼフはもう眠る事ができませんでした。解決の道がありませんでした。もしもこの子供が生まれたら役所に行って、この子供について出生について聞かれます。「これはあなたの子供ですか?」もしも、「そうです」と言えば嘘になる。もしも、「いいえ」というと、マリア様は石殺しにされる。「どうしたら良いのか。」唯一残された道は、このまま姿を消してしまう事、跡を残さずに姿を蒸発してしまう事。マリア様はきっとこう聞かれたら、「これはあなたの子供ですか?」「はい。」

そしてマリア様と離れて、別の所に行こうと決心した時、マリア様の命を守る為にそうしようとした時、でもこれは一体ヨゼフにとって何を意味したか分かりますか?この「生活の喜び」というのは全て失われるのです。最愛の妻、最も愛する妻を今離れて、もう決して見る事もない、会う事もない、話す事もない。

マリア様はそしたらより少なく苦しむと思いますか。マリア様はヨゼフ様の苦しみをよく理解していました。マリア様はヨゼフ様にちゃんと説明したかったのです、本当なら。そうすればこの2つの清い霊魂が互いに苦しみ合い、互いの喜びを分かち合う事ができたはずです。

でもこの2人は謙遜のままに留まりました。マリア様もヨゼフ様も、反乱とか反抗とかを起こす事はありませんでした。最も悪いものを、最悪のものを受け取る準備ができていました。何故なら、「私は何でもない」からです。「無」だからです。「天主が望む事だけを為すように。」

天主様は謙遜の全ての行為を祝福して下さいます。もしも必要ならば奇跡さえも起こします。

天主の御前で謙遜になる霊魂は、喜びのみならず、苦しみにおいても天主に信頼します。私たちの場合には、謙遜はいつも辱しめ、辱しめを受ける苦しみと一緒に来ます。マリア様は私たちと別の境遇には置かれていましたけれども、マリア様は罪から守られていましたけれども、マリア様は進んで、自ら進んで喜んで、屈辱と辱しめを受ける事を望みます。そうしてマリア様は、全ての観点において私たちの為の謙遜の模範となる事ができました。

今晩、イエズス様が御誕生された時に、マリア様はどれほど屈辱、辱しめられたか、という事を黙想しましょう。

今日午後、ご謙遜な単純な木像のマリア様の前に行った時に、どうぞ謙遜の徳を乞い求めて下さい。
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至聖なるイエズスの聖心の訴え、ファティマの天使の呼びかけに応える

2016年11月14日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年11月4日(初金)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年11月4日 初金曜日 至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ
小野田神父説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2016年11月4日、初金曜のイエズス様の至聖なる聖心のミサをしております。今日もこの御ミサの直後に、いつものように聖時間、初金曜日の聖時間があります。どうぞ皆さんいらして下さい。
明日は初土のミサが10時30分からあります。いつものようにあります、どうぞお越し下さい。

来週の土曜日にも大阪でミサがあり、主日にも夕方にもレネー神父様のミサがあります。
またその2週間後の後も、金・土といつもの通りにミサがあります。どうぞいらして下さい。
来週の土曜日のミサも増えたという事にご注意下さい。
今日は典礼歴によると、カロロ・ボロメオの祝日ですので、シュテーリン神父様の霊名の祝日でもあります。シュテーリン神父様の為にお祈り下さい。


“Sustinui qui simul mecum contristaretur et non fuit; consolantem me quaesivi et non inveni. ”
「私と一緒に悲しんでくれる者を待っていたけれども、それはいなかった。私を慰めてくれる者を探したけれども、私は見つける事ができなかった。」

聖父と聖子と聖霊との御名よりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日イエズス様の聖心の随意ミサを、初金のミサを捧げて、イエズス様の訴えがあります。イエズス様は、私たちの人類の罪の贖いの為に、これほど苦しみと悲しみを捧げたにもかかわらず、「私と一緒に悲しんでくれる者、世の罪を嘆いてくれる者を探したけれどもいなかった。私を慰めてくれる者を探したけれども、誰もそんな者を見つける事ができなかった。」そのイエズス様の聖心の嘆きを、このミサで聞きました。

そこでこの嘆きのエコーをこだまを、ちょうど100年前1916年に、やはり天使が現れて子供たちに伝えてくれたので、その天使の訴えにもう一度耳を傾ける事に致しましょう。

天使というのはもちろん、人間と比べればはるかに上位の方です。

考えてもみて下さい。日本には天皇陛下がいらっしゃいますけれども、もしも全世界の皇帝、世界の皇帝というのがいて、全世界の国民から世界中の人々から愛されて、尊敬を受けて、その模範に従って、立派な君子、聖人君子のような世界の皇帝がいたと想定します。その皇帝の下には世界40億名の人々が慕って、その命令に従順に従っているとしますが、もしもそのような皇帝が、世の始めから終わりまでずっと生きていたとしたら、何兆何京億のものすごい人々を従える皇帝になります。

ところで天使には9の階級があって、その一番下が天使で、その上が大天使、座天使などなど続いています。するとその一番下の階級の天使の一位が、私たち一人ひとりに、この世の始まってから終わりまで一人ひとりに与えられるので、私たち全人類のこの世の始まってから終わりまでの数よりも、天使の数は更にもっと大きい事になります。しかもそれだけではなく、天使たちは村や町やあるいは団体にも守護の天使として与えられますし、地球の守護の天使、火星の守護の天使、天体の守護の天使もあります。それですから、9の階級の全ての天使、ケルヴィム、セラフィムまでを全てを集めたとしたら、それはもっと大きな数になります。人間の想像を超えるほどの数の天使たちがいる事になります。

その天使を治める最高の天使が、今では「大天使聖ミカエル」だと言われています。昔はルチフェルが支配していましたけれども、ルチフェルが堕ちてしまったので、その代わりに大天使ミカエルがその天軍の総帥として立てられました。

ファチマに来たのはおそらく大天使聖ミカエルではないかと言われていますけれども、全世界の皇帝と比べたらもっとすごい権力と力を持った天使がやって来て、私たちに教えてくれるのです。この天使が跪いて、額づいて、身を平伏して、

「私は天主を信じ、礼拝し、希望し、御身を愛します。私は御身を信じない人々、礼拝しない人々、希望しない人々、御身を愛さない人々に代わって赦しを願います。」

これを3回唱えました、心から唱えました。畏れ多く平伏して、天主に赦しを求めつつ祈りました。そして子供たちに、「これと同じようにお祈りをしなさい。イエズス様とマリア様の聖心は、あなたたちの祈りに注意深く耳を傾けています」と教えてくれました。

天使たちの最も高貴な職務というのは何かというと、「主を礼拝して、主の為に愛と礼拝を捧げて、そしてその前に平伏して、主を信ぜず、礼拝せず、希望せず、愛さない人々の代わりに赦しを乞い求める」この役割だったのです。これが最も高い天使が、ポルトガルの平和の天使が子供たちに教えてくれた務めの、自分の務めの祈りでした。

「これと同じようにしなさい」と。「イエズス様の聖心、マリア様の御心はその祈りに非常に極めてよく耳を傾けるから。」

そればかりではありません。2回目に出現された時には、いきなりルチアの家の井戸端に現れて、「一体お前たちは何をしているのか?さぁ、お前たちは時間を無駄にしている時間はないぞ。この世の人生はすごく短いのだ。あっという間にこの地上から離れて天国にお前たちは行くのだから。一体何をしているのか。祈りなさい、たくさん祈りなさい」と言いました。

まさに11月、死者の月で、この言葉を天使たちは私たちに聞かせてくれるかのようです、「お前たちはこの地上にほんの束の間しか居る事ができない。すぐに死を迎えなければならない。既に多くの霊魂たちは、もうこの地上を去って行った。死者の事を考える月だ。お前たちもすぐそうなる。昨日は彼ら。今日はお前だ。明日はお前だ。この地上は祈る為にあるのだ。」

それで天使は言葉を続けて、「イエズス様とマリア様の聖心は、」ここでも至聖なる「聖心」という言葉が出ました、「イエズス様とマリア様の聖心は、お前たちに特別の計画がある、憐れみの計画を持っている。」また2回目の御出現でも、イエズス様とマリア様の聖心の話が出ました。一体どんな計画かというと、天使は言葉を続けます、「祈りと犠牲を、いとも高き者に続けて捧げなさい。」

ルチアは、「一体犠牲はどうやって捧げたら良いのか?その犠牲を捧げるというのはどうしたら良いのだろうか?」と聞くと、「全ての事を犠牲として捧げなさい。特に償いの行為として、罪人の回心の祈りとして、全てのものを天主様に捧げなさい」と言いました。「そうすれば、平和を呼び求める事ができるから。」

また同じ主題に戻って、「主がお前たちに送る全ての苦しみを、従順な心を以て耐え忍びなさい。そしてそれを受け入れなさい」と言いました。

天使は祈りを捧げる事はできますけれども、いけにえを捧げる事はできません。苦しみを捧げる事はできません。天使たちは人間の事をきっと羨ましく思っているに違いありません。何故ならば私たちは、祈りといけにえを捧げる事ができるからです。

「特に天主が送る苦しみをいけにえとして捧げなさい、受け入れてそれを捧げなさい」と天使は子供たちにお願いしました。

そればかりではありません。第3回目の時にも天使が現れて、今度は御聖体とカリスを持って来て、それを空中に浮かせながら、やはり同じように跪いて、額を地面に付けて額づいて、最高の天使である者が、御聖体の前で全く無に等しいものとして額づいて、

「いとも至聖なる三位一体よ、聖父と聖子と聖霊よ、我は御身を礼拝し奉る。私は全世界の御聖櫃の中におられるイエズス・キリストの御体、御血、御霊魂、人性そして天主性を全て、罪の償いとして、冒瀆、瀆聖、そして無関心の罪を償う為にこれをお捧げ致します。そしてイエズス様の聖心とマリア様の汚れなき御心の無限の功徳によって、罪人の回心をお願いします」と祈りました。

天使は更に私たちに、祈りと私たちの祈りと私たちの苦しみを捧げるのみならず、「イエズス・キリストの祈りと、イエズス・キリストの苦しみを、御聖体を捧げるように。イエズス様の聖心とマリア様の御心の無限の功徳を通して、罪人の回心を願うように」と教えてくれました。「私たちはイエズス様とマリア様の無限の功徳を頂いたので、これを捧げなさい。これを通して罪人の回心を祈りなさい」と教えてくれました。

そればかりではありません。罪の償いの為の聖体拝領をルチアに子供たちにさせました。ルチアには御聖体を、二人のジャシンタとフランシスコにはカリスから御血を飲ませました。既に初土の信心の先駆者であるかのように、子供たちは償いの聖体拝領さえもしました。

これは一体私たちに何を教えているかというと、「私たちのこの人生で一番大切な事は、この『祈る事』、『罪の償いと罪人の回心の為に犠牲を捧げる事』である。これこそが最も私たちの人生で大切な事であって、最も有効な時間の使い方であって、これこそがイエズス様とマリア様の聖心の憐れみの計画であって、この祈りに耳をよく傾けておられて、この祈りこそ最も聖心に気に入るものである」という事を教えています。

私たちは今日この初金曜日に、イエズス様の聖心の訴えにもう一度耳を傾けて下さい。

「私は、私と共に悲しんでくれる者を探したけれども誰もいなかった。私を慰める者を探したけれども見つける事ができなかった。」

でもイエズス様は今日はこうおっしゃることでしょう。
「例外がある。それは、このマリア様の汚れなき御心の聖堂に集まった、集うこの霊魂たちは例外だ。この霊魂たちは私たちに大きな慰めを与えてくれた。私が悲しんでいる時に共に悲しんでくれた。私が慰めを求めている時に慰めを与えてくれた」と大きな喜びをお持ちだと思います。

ここに集う霊魂たち、私たちは、天主の御恵みで、「はい、ここにいます」「お慰めしたいと思います」とイエズス様に言う事ができますように。

今日、イエズス様の訴えとそして天使の呼びかけに応える事に致しましょう。私たちも天使に真似て、償いの祈りと償いを果たす事に致しましょう。まさにファチマのメッセージは20世紀の私たちの為にあります。聖伝の信仰を守る私たちの為にあります。

では、マリア様の汚れなき御心の御助けによって、このファチマの天使の模範に従う事ができますように、イエズス様の呼びかけに寛大に応える事ができるように、御取次ぎをお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
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