Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

私は御身を信じ、礼拝し、希望し、御身を愛します!御身を信じぬ人々、希望せず愛さぬ人々のために、赦しを求めます(天使の祈)

「宗教的事柄における一切の拘束からの免除」としての宗教的自由の是非

2007年06月05日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

 フランスにある聖伝のドミニコ会修練士のブラザー西が、ルフェーブル大司教様が信仰教義聖省長官ラッチンガー枢機卿に提出したレポートを日本語に訳してくれています。

 このレポートは、フランス語で出版されています。

Mes doutes sur la liberte religieuse
By Marcel Lefebvre
Published 2000
Clovis
200 pages
ISBN 2912642329



 英語訳も出されています。

Religious Liberty Questioned (Paperback)
by Marcel Lefebvre (Author)
Paperback: 178 pages
Publisher: Angelus Press (November 1, 2001)
Language: English
ISBN-10: 1892331128
ISBN-13: 978-1892331120


RELIGIOUS LIBERTY QUESTIONED
By ABP Marcel Lefebvre,
UPC 1-892331-12-8
Item 7060
LEFEBVRE, ABP MARCEL


 このブラザー西がして下さった日本語は、コンピューターの不都合で所々欠けたところがありましたが、それを補いつつ、少しづつ紹介しておりました。既出は以下の通りです。


■ 自由についての一般的考察 「自由」の3つの意味

■ 法とは何か? 法は自由にとって敵なのか?

■ 良心とは何か。行為の実効的規範とは客観的真実のみ。

■ 良心および強制に関する一般的考察:良心を侵すことになるか。法律上の強制についてどう考えるべきか

■ 基本的諸権利とは何か。その限界は?誤謬または道徳的悪に対する権利は存在するか

■ 誤謬または悪に対する消極的権利は存在するか?また、寛容に対する権利は?

■ 本来の意味での「信教の自由」:人間人格の尊厳は、真理を考慮に入れない自由には存しない。

■ 19世紀の教皇たちはこぞって、いわゆる「良心と諸信教の自由」を排斥した

■ 諸教皇は、何故「良心ならびに信教の自由」を排斥したのか、理由は?

■ 信教の自由とその新たな「根拠」:およびそれへの反駁

■ 真理探求の自由は宗教的自由の根拠となり得るか

■ 宗教無差別主義について確認しておくべき点

■ 信教の自由は人間人格の基本的権利なのか、歴代の教皇様は何と言っているか?

■ 聖書の歴史に見られる、宗教的事柄においての強制


 ブラザー西のこの翻訳の仕事に心から感謝します。

 兄弟姉妹の皆様、では、続きをご覧下さい。


■ 「宗教的事柄における一切の拘束からの免除」としての宗教的自由の是非

 先に見たように、誤謬に対する権利は、同様に不条理で荒唐無稽です。これは、当の「権利」を積極的権利(誤謬を選びとる、もしくは表明する権利)として捉えようと、あるいは単に消極的権利として(誤謬を選び取る、ないしは表明するのを妨げられない権利)として捉えようと、同じことです。そして、「誤謬に対する権利」の孕 (はら) むこの不条理さ は、たとえ当の誤謬が宗教に関するものであったとしても変わりありません。
 しかるに「信教の自由」の唱道者は、宗教に関する誤謬の中に生活を送る者は、一切の拘束から免除されるべきだという主張を打ち立てようとしました。彼らの言うには、「宗教に関する事柄」において良心に拘束を課すことは、良心を侵すことになるからです。さらに彼らはつけ加えて、他ならぬ教会も、カトリック信仰を捧持させるべく特定の個人に対して加えられる強制を断罪している、という事実を引き合いに出します。
「カトリックの信仰を奉じることについて、誰一人として自らの意思に反して強制されてはならない。」(1917年の教会法典 第1351条;1983年の教会法典 第748条第2項参照)

 この問題に関しては、あいまいな点を明確にしなければなりません。

1-誰も、カトリックの信仰を自らの意志に反して奉じるべく強制されてはならない、ということは教会が常に主張してきた原則です。無論、この際必要な区別を忘れてはなりませんが。

2-しかるに、誰も偽りの宗教を奉じないし表明するのを妨げられてはならない、というのは、誤りかつ[教会からの]排斥を受けてきた命題です。



 この点に関しては、より詳しく説明を加えなければなりません。

1-特定の人を、当人の意志に反してカトリック信仰を奉ずるべく強制することは認められない。
 a) 同教理の説明
―― 救霊の如何(いかん)がこれにかかっている信仰の行為は、最高度に自由なものでなければなりません。したがって、信仰の行為の「随意的」な自由を減少させる強制(懲罰による強制)は、カトリック信仰を奉ずるべく特定の個人に対して用いられてはなりません。
―― この原則は教会教父、殊にラクタンツィオと聖アウグスチヌスによって説かれ、教会法は後者をとおしてこの教えを導入しました。また、当原則は教皇レオ13世によって教えられるところとなりました。
「また、誰一人として自らの意志に反してカトリック信仰を奉ずるべく強制されることがないよう、教会は常に意を用いてきました。なぜなら、聖アウグスチヌスが賢明にも述べているように、人は強いられて何かを信じるということができないからです。」
(回勅 『インモータレ・デイ』Actus II p.43 / PIN 154)

 b) しかしながら、他の原則を引き合いに出すことが必要となる特定のケースを見分けなければいけません。

● 信仰を一度も受け入れたことのない者たち(例えば異邦人やユダヤ教徒)。聖トマス・アクィナスは、この部類に属する人々には、信仰の行為は自由な者でなければならないという先に見た原則を十全に適用します。
「これらの人々は、決して信ずるよう拘束をかけることをとおして信仰を抱くよう強制されてはならない。信仰は自由な意志の行為だからである。」(神学大全第2部第2巻第10問題8項)

● これに反して、異端者および棄教者は、これらの人々は洗礼によって信仰を[一旦]受け容れ、教会の裁知権に属する者であるため、(教会とその権威保有者によって)聖トマス・アクィナスによれば「身体的に」「彼らが受け容れたことを保持し、彼らが約束したことを成し遂げるよう」強制することができます。(神学大全先述箇所)
この教えは、ピオ6世により、教皇に属する使徒的権威をとおして再確認されました。
「さてここで、この自由という言葉を、そのもう一つ別の意味から検討してみることにしましょう。異教徒[不信者]やユダヤ教徒のように常に教会の外にあった者たちと、洗礼を受けて教会の当地に服した者たちとの間に必要な区別を成さなければなりません。実際、前者に対してはカトリック[教会ならびにその教えに対する]恭順を表明するよう強いることはできません。しかるに後者に対しては、このように為すように強いることができます。」
回勅『クオド・アリクアントゥム』Recueil p.57
回勅『クオド・アリクアントゥム』

ベルナール神父は、この教導権による文書を次のように解説しています。
「ここで[ピオ6世]教皇が言わんとしているのは、自由はそれ自体目的ではなく、肝心なのは単にこれをよく用いることである、ということです。カトリックの信仰にまったく属していない者たちに対して、介入する権利を有しているとは教会は考えていません。教会は自由を尊重する配慮と共に、もし可能ならば当の自由を導き、啓発することへの熱意を抱いています。しかるに、受けた秘跡もしくは自発的に自らに課した絆によって[カトリックの]信仰に拘束されている者たちに対しては、教会は介入する権利を有していると考えます。無論、それは自由を侵害するためではなく、かえってこれを[しかるべき]秩序へと呼び戻すためにです。この場合、教会は社会がその成員に対して、また母国がその子らに対するのと同じ仕方でふるまうことになります。この点に関して、教会は非常に大きな差異を認めてきました。ピオ6世は「この違いは聖トマス・アクィナスにより、いつもながらにきわめて確固とした理由に基づいて説明されている」として結んでいます。」
( " Somme theologique de saint Thomas, Revue des Jeunes : La foi, II. p.408)

 「異端者を強制する余地がある」という、上で見た原則を記憶にとどめておくことにしましょう。彼らが誠意から当の異端を奉じているのか、あるいはそうでないのか、また彼らが不信仰の罪を形相的に犯しているのか、そうでないのかはこの際問題となりません。重要なのは、これらの人々が洗礼をとおして真の信仰に忠実であることを約束したのであり、しかるに客観的に見て彼らがこの約束に対して不忠実であり続けてきたという事実です。それゆえ、彼らの母である教会は、もし必要であれば強制を伴って彼らをしかるべき秩序へと呼び戻すのです。
 しかしながら、賢慮の徳と愛徳とは、時として、あるいはむしろ往々にして激しい強制を行使せず、かえって生まれたときから、ないしは何世代にもわたって誤謬の中にある異端者たちに対して一定の寛容を適用することを求めます。なぜなら、剛腕的な政策は、当の人々をして教会に対する真っ向からの敵対心を抱かせることとなりかねないからです。
 しかし、もし特定の異端が最近生まれたばかりであり、また善人ら(正当な信仰を守るかトリック信者)につまずきを与え、「毒麦をぬくついでに良い麦をも抜いてしまう」恐れがない場合には(すなわち当の誤謬が信徒の間でよく知れ渡り、かつ拒否されている場合)、聖アウグスチヌスならびに聖トマス・アクィナスが一致して教えているように「厳しい懲戒の手段を執ることを躊躇してはならない」(神学大全第2部第2巻第10問題8項第1異論解答)のです。

(つづく)

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教宗額我略十六世 <<論自由主義>> (Mirari Vos) 通諭 懲斥自由主義謬論 1832年8月15日
教皇グレゴリオ16世 自由主義と宗教無差別主義について『ミラリ・ヴォス』1832年8月15日

教宗良十三世頒布《自由》(Libertas) 通諭 1888年6月20日
教皇レオ13世 自由について『リベルタス・プレスタンティッシムム』1888年6月20日

教宗庇護十一世通諭“Quas Primas”基督君王 1925年12月11日
教皇ピオ11世 王たるキリストについて『クワス・プリマス』1925年12月11日

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荒しです。↑ (Unknown)
2007-06-06 07:56:07
クリックしないように!
ネットセキュリティ関係に通報したほうがいいかも・・・
Unknown (聖伝の)
2007-06-06 17:14:50
ドミニコ会というのは、普通の(というか日本でも見かける)ドミニコ会とは別物なのでしょうか。
教えて! (???)
2007-06-06 23:59:03
Br.西は「聖伝を守る修道会」のDominican Brothersの方なのですね?これらの、修道会(9)や修道女会(19)は、Society of Saint Pius Ⅹ に属するのですか?聖ピオ十世会のcommunityに属さない「聖伝の修道会(ローマカトリック教会認可の)」があれば、教えてください。聖伝の修道会に日本人のSr.はおられますか?
聖伝の修道会 (Fr Thomas Onoda)
2007-06-07 14:46:39
アヴェ・マリア!

 ご質問をありがとうございます。
 ベネディクト会、ドミニコ会、フランシスコ会(カプチン会)など、数世紀の歴史を持つ修道会も含めてほとんどの修道会は、第二バチカン公会議によって根本的・革命的にその会憲が変えられてしまいました。もちろん、カルメル会、ベネディクト会、ドミニコ会、フランシスコ会(カプチン会)などは、聖ピオ十世会よりもずっと歴史が古く、聖ピオ十世会に属するものではありません。
 ただし、第二バチカン公会議の新しい教えではなく、それぞれの創立者の望んだ修道生活(第二バチカン公会議の新しい教えを導入しない修道生活)をそのまま続ける修道院は、ルフェーブル大司教様の援助と祝福をもって、妥協のないそのままの修道生活を続けているのです。

 数年前に、ハワイ出身の日系の方が、聖ピオ十世会のシスター会に入会されようとしたそうですが、召命がなかったようです。

トマス小野田神父(聖ピオ十世会司祭)

パドレ・ピオが (侍者2)
2007-06-07 23:57:15
会憲の変更に対してどのような反応を示したかは、次の文書が参考になります。

PADRE PIO: On spirituality, Vatican II and the Novus Ordo Missae
http://www.sspx.org/miscellaneous/padre_pio.htm

それから、これは私の邪推ですが、「ローマカトリック教会認可の」という表現は、「聖ピオ十世会はローマカトリック教会認可ではない」という含みがあるのでしょうか。万が一そうであるならば、次のエントリーおよび参考資料を読んで出直して下さい。もちろん、これが単なる杞憂にすぎないことを希望します。

【質問】聖ピオ十世会は教会認可の正式な修道会と思ってよいか
http://blog.goo.ne.jp/thomasonoda/e/bddb87c6eeb1af6d34a3f8844f4756ce

第19章 エコンの神学校とローマ
http://fsspxjapan.fc2web.com/op/op19.html
Unknown (聖伝の)
2007-06-08 17:45:19

ピオ10世会とは別の団体だが、協力関係にあるという感じでしょうか。
お返事ありがとうございました。
ご心配なく・・・ (? ? ?)
2007-06-08 17:58:27
侍者2 様
 
 「ローマカトリック教会認可ではない」という含みは、全くありません。
 会憲が変わり、その中で悩みつつ生きてこられた、80代、90代の恩師が多いので、第二バチカン公会議の新しい教えを導入しない修道生活をそのまま続ける修道会があることを知り、驚いたのです。

 かすかな望みですが、教皇様が変わり、ほんの少し流れが変わりつつあることは、私の周辺ではあります。「カトリック聖歌集」を教会にそろえて、ラテン語の聖体賛歌を勉強する・・・など。生ぬるい、とお感じになるでしょう。でも、一・聖・公・使徒継承の公教会が分裂することは望んでおられないと思います。心を込めて、この「教会の現実」がまずいのではありませんか、私はこう考えますが、いかがですか、とお話ししていくしかないのでは・・・第2V.公会議の問題点に話が及ぶようにして・・・。

 資料を提示してくださり、ありがとうございました。
安心しました (侍者2)
2007-06-09 07:43:33
さて、資料をもう少しだけご紹介します。

聖伝を守る男子修道会リストの5番目、Redemptorist Fathers を紹介する有名な動画があります。ちなみに、ここはオーストラリアにある聖ピオ十世会の神学校にブラザーたちを送っています。

Traditional Catholic Monks of Papa Stronsay, Scotland
http://www.youtube.com/watch?v=d20nzljVYPM

それから、フィクションではありますが、曾野綾子著『不在の部屋』(文芸春秋・絶版)も有名です。

http://www.amazon.co.jp/不在の部屋-1979年-曽野-綾子/dp/B000J8I618/

最後に、こちらのエントリーも関連事項かと思います。

新しいミサの修道会における「悪魔的な方向感覚喪失」
http://blog.goo.ne.jp/thomasonoda/e/c50e07d8396bf51b71fea8e8c3804ca0
・・・・・・ (? ? ?)
2007-06-12 17:10:06
 オーストリアのシトー会のシスターは、お気の毒で、正視できません。従順の誓いのため、ノーと言えないのでは・・・。やらせている方の責任は大きいと思います。

 『文学界』に連載された「不在の部屋」は、フィクションとは言え、衝撃的でした。「刷新」がじわじわと確実に、人の心を変化させていく過程が、やはり、正視できませんでした。でも、あの中に、昔のままを守ろうとする、レイ・シスターがおられましたね。あのような心をお持ちの方は、今も多いと思いますよ。小説に描かれているような「退廃的な堕落」は、30年後の現在も、決してないと私は信じています。

 日本では、一般の方からも、しばしば、信者の方からも、その生活が理解されていないので、ご苦労と悩みは絶大でしょう。古く(明治に)来日した会ほど、高齢化も深刻なようです。
 私も曽野さんのように、シスターがおられたら、荷物をお持ちして、一歩下がって歩くぐらいの尊敬の気持ちはあります。あまり、書くべきではないかもしれませんが、朝早くから・・・ヴェスペレ、コンプレトリウム、大沈黙まで、果たすべき聖務と使徒職があるのに、深夜まで相談や電話、家庭訪問など、文句も言わずこなされています。教会のあり方も、今以上におかしくならないよう、心をくばっておられます。
 また、何10年も、アフリカヤアジアで宣教されている方も・・・厳しい生活だと思います。

 すべての修道会のために、祈ります。

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