Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

私は御身を信じ、礼拝し、希望し、御身を愛します!御身を信じぬ人々、希望せず愛さぬ人々のために、赦しを求めます(天使の祈)

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
2018年 12月の聖伝のミサの予定
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】


12月
私たちの主の御降誕を感謝と賛美を以て迎えましょう。
意向:私たちのために人間となり生まれ給うた天主イエズス・キリストをますますよく知る
実践すべき徳:清貧
守護の聖人:聖フランシスコ・ザビエル

愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)にご招待します

◎2018年 12月の予定
【大阪】聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂(アクセスEG新御堂4階 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 
〒532-0002 (JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分)

  11月30日(金)使徒聖アンドレア(2級祝日)赤
          午後4時半 ミサ聖祭
          午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

  12月1日(初土)聖母の土曜日(4級)白
          午前10時 ロザリオ及び告解
          午前10時半 ミサ聖祭(歌ミサ)

  12月9日(主)待降節第2主日(1級)紫
          午後5時半 ロザリオ及び告解 
          午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

  12月10日(月)待降節の平日(3級)紫
          午前6時半 ミサ聖祭

  12月21日(金)使徒聖トマス(2級祝日)赤
          午後5時半 ロザリオ及び告解 
          午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

  12月22日(土)待降節の四季の斎日 土曜日(2級)紫
          午前10時 ロザリオ及び告解
          午前10時半 ミサ聖祭(歌ミサ)

  12月24日(月)平日の主の御降誕の前日(1級)紫
          午後5時半 ロザリオ及び告解 
          午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)
          午後9時 クリスマスの朝課 
  12月25日(火)主の御降誕(1級祝日、八日間付き)白
          午前0時 ミサ聖祭(歌ミサ)
          午前10時半 ミサ聖祭(歌ミサ)

【東京】東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図)「聖なる日本の殉教者巡回聖堂」
  12月1日(初土)聖母の土曜日(4級)白
          午後5時半 ロザリオ及び告解 
          午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

  12月2日(主) 待降節第1主日(1級)紫
          午前9時  ミサ聖祭
          午前10時半  ミサ聖祭(歌ミサ)

  12月3日(月) 証聖者聖フランシスコ・ザビエル (宣教地日本では1級祝日) 白
          午前7時 ミサ聖祭
          午前7時45分 ミサ聖祭

  12月23日(主) 待降節第4主日(1級)紫
          午前10時  ロザリオ及び告解
          午前10時半  ミサ聖祭(歌ミサ)

  12月24日(月)平日の主の御降誕の前日(1級)紫
          午前10時  ロザリオ及び告解
          午前10時半[!ミサの開始時間にご注意下さい!]  ミサ聖祭

  12月25日(火)主の御降誕(1級祝日、八日間付き)白
          午後5時半 ロザリオ及び告解 
          午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております。

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小野田神父による聖霊降臨の大祝日ミサ中説教・二〇一二年五月二十七日

2012年05月30日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア!

 愛する兄弟姉妹の皆様、

 今月の日本でのミサ聖祭で、多くの愛する兄弟姉妹の皆様と会えて大変嬉しく思います。

 大阪では、5月25日(金)に 18人、26日土曜日に 28人の方々がミサ聖祭に与りました。
 東京では、5月27日の聖霊降臨の主日に、42名の方々が聖伝のミサに与りました。天主様に感謝!

 東京でのミサ聖祭の時に、愛する兄弟姉妹の皆様のしもべがした説教を書き起こして下さった方がいらっしゃいますので、ご紹介いたします。感謝します。

 天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


*****

小野田神父による聖霊降臨の大祝日ミサ中説教・二〇一二年五月二十七日

※[ ]は補足



 今日は二〇一二年五月二十七日、聖霊降臨の大祝日です。今日はいつものように二時半から公教要理があります。新しく来られた方もいらっしゃいますので、今回の公教要理は第二ヴァチカン公会議について、もう一度復習をしてみたいと思っています。
 それから四時半から聖霊降臨の第二晩課があります。
 明日は朝七時から、ミサがあります。
 今日は、第四次ロザリオ十字軍の最終日となっています。皆さまのたくさんのお祈りをありがとうございます。ロザリオをどれだけ唱えられたか、報告がまだの方はぜひ教えて下さい。クチュール神父様を通して、フェレー司教様に報告したいと思っています。

[英語で同上の内容を繰り返し]

【私はあなたたちに平和を残す。私はあなたたちに私の平和を残す。私が与える平和は、この世が与える平和ではない】(ヨハネ十四章二十七節 本日の聖福音より)

 父と子と聖霊とのみ名によりて。アーメン。

 愛する兄弟の皆さん、今日は聖霊降臨の大祝日を祝っています。
 これはカトリック教会では、復活祭に次ぐ、第二の大きな祝日であり、教会の誕生日と言われています。
 この聖霊降臨の前、ご昇天、イエズス様が天に上げられてから十日の間、マリア様を囲んで、使徒たちは一生懸命お祈りをしていました。聖霊のご降臨を求めるお祈りをして、十日目に、イエズス様が約束された通り、まずマリア様に、そしてマリア様を通して使徒たちに聖霊が降(くだ)られたのでした。
 その時には大きな奇跡が起こりました。ユダヤのエルザレムの町中は大きな風の音を聞き「一体なんだろう?」──人々はびっくりして外に出て、すると使徒たちが自分の国の言葉で話していたにも関わらず、いろんな国の人たちが、使徒たちの言っている言葉を理解できた、ペトロがそのとき、イエズス様のことを宣教して、最初に三千名の方が洗礼を受けたという大祝日です。
 そこで、今日、この聖霊降臨の大祝日に、私たちも、聖霊のおん恵みである、いくつかの非常に重要な徳「信望愛」、信仰、希望、愛の三つの徳を黙想することに致しましょう。そして聖霊のおん助けをもって、この徳が私たちにおいてますます強められ、堅められますように。そして現代社会において、この信望愛の名前を騙った、どのような誘惑と誤った思想が入っているのか、それに対して、私たちは日々どのように生活を送らなければならないのか、ということを黙想してみることに致しましょう。

 皆さんもよくご存知の通り、信望愛、というのは「対神徳」と言われています。これは超自然のおん恵みによって、超自然の天主、私たちの自然を超える天主を信じ、天主を希望し、天主を愛することにあります。
 信仰は、まず、真理の源にましまし給う天主を、私たちが好きであろうとなかろうと、どう思おうと、私たちの意志では、あるいは考えではどうすることもできない客観的な現実として、つまりそれが真理である、真理の源である天主を信じることにあります。
 そして第一の真理である天主を真理であるが故に信じるのですが、これを真理だ、もしもそれに私たちの知性が一致しなければ誤りとなるので、それを信じるのですけれども、しかしその信じる内容もすべて天主が私たちに教え給うた、啓示された、公教会を通して私たちに教えて下さったその真理を信じるわけです。
 それを信じるのは何かというと、それもやはり天主にあります。何かというと、これは天主が、真理の源にまします天主が私たちに教えて下さったことであり、天主は決して私たちを騙すことも、自ら間違えることもない絶対の権威にかけて、私たちは信じるわけです。

 私たちが希望するものはなんでしょうか? 私たちは天主を希望します。この地上を遥かに超えた、眼に見える世界を遥かに超えた永遠の命、永遠の至福直観、天主の永遠の命を、永遠の幸せを必ず得ることができると希望します。そして、天主が私たちがそれにたどり着くことができる恵みを必ずくださる、と希望するのです。
 一体、その希望する動機はなんでしょうか? それは私たちが良いものであるからでしょうか? そうではありません。
 私たちが罪人であって、私たちは非常に弱い者であって、私たちはもう罪を犯して天主の敵となってしまったものであるにも関わらず、天主様のいとも無限なるあわれみと善性によって、天主のまったくの一方的な善良さによって、私たちは希望するわけです。
 私たちの惨めさにも関わらず、それをあえて希望致します。
 私たちが希望するのは、この地上の「家内安全」「商売繁盛」「試験合格」というものではなく、天国に行くための、天国に行くために必要なすべての聖寵を希望するのです。超自然のものを希望するわけです。天主があまりにも善いお方であるが故に。

 私たちは何を愛するのでしょうか? 私たちは天主をすべてに超えて愛します。眼に見えない天主を愛し、眼に見えない天主を愛するが故に、眼に見える隣人をも愛します。
 一体なぜ、私たちは天主を愛するのでしょうか? なぜかというと、天主こそがすべての善の源にましまして、すべての眼に見えるもの、見えないもの、私たちが願うすべての幸福、すべての善の根源であり、究極の原因であるからです。
 すべてを超える善であるが故に、すべてを超えて天主を愛します。
 私たちは、我が身よりもすべてに超えて、すべてに優って、天主を愛するわけです。

 この超自然の信望愛を、私たちにおいて、これを守り、保つためには、特に超自然のお恵みが必要ですが、日々、実践していかなければなりません。信仰と希望と愛を実践していかなければなりません。
 ですから私たちはたびたび、信徳誦、望徳誦、愛徳誦を唱えなければなりません。「我、天主を信じ奉る」「我、天主を礼拝し奉る」「我、御身に希望し奉る」「我、御身を愛し奉る」と、射祷のように何度も何度も唱えなければなりません。なぜなら、愛という名前で、希望という名前で、あるいは信仰という名前で、まったく別の考えが、私たちの現代世界に多く広がっているからです。
 特に、第二ヴァチカン公会議の後には、その考えが多く広まってしまいました。
 この新しい考えによると「信仰とは何か」というと、天主を信じるというよりは、
「人間を信じる」
「人間の尊厳を信じる」
「人間の可能性を信じる」
「私を信じる」
 という、人間があたかも天主であるかのように、神々であるかのように、人間を信じるように信じさせています。

 新しい考えによると、希望とは何でしょうか?
 希望は、人間があまりにも善いものであり、被造物の頂点に立つものであるから、眼に見えるものと見えないものの頂点に立つもの、この地上の頂点に立つものであるから、
「この人間社会に平和を築くことが究極の目的だ」
「人類の一致をすることが究極の目的だ」
「教会は人類一致のための秘跡とならなければならない、いや秘跡である」
「人類はすでに、キリストを信じようが信じまいが、すでにキリストと一致しているのだから、すべての人はキリスト者となっている」
「名前はついていないけれど、名前のないキリスト者だ」
 だから、すべて人間は善いものであり、救われており、この地上でよりよい社会を建設することが私たち人類の希望であって、地上のユートピアを作ることこそが教会の使命だ、という「新しい望徳」、この地上に希望を置くように、希望という名前で別のものを私たちに提示しています。
 そのためにも私たちは人間の自由を尊重しなければならない、尊厳を尊重しなければならない、平和とは、どのような宗教でも、自由に信じて行動して、それを発言できて、それを皆の前に表すことのできる、そのような社会が私たちの理想の社会だ、というのです。

 そのような人々は愛についてどのように語るのでしょうか?
 天主が真理だというと、私たちの間で分裂を起こしてしまう、なぜなら真理のあるところには誤謬があるものですし、光というと闇があるものですので、私たちは「真理」などということは言ってはならずに、私たちの一致を促進させるようなものを発言しなければならない、だから、「真理とはこれであって、間違いとはこれである」と言ってはいけない、そうではなくて、間違いを見ずに、いいところを探して、その善だけを取り上げなければならない、これが愛だ、そして地上に新しい愛の文明を作らなければならない、それが人間にふさわしい、この地上での文明だ──もしかすると皆さんもよく耳にするスローガンかも知れません。

 しかし、今日、聖霊降臨で使徒たちは何をしたでしょうか?
 ペトロは前に立ってこう言いました。
「ユダヤ人の皆さん、あなたたちは何も知らずに、私たちの救い主を十字架にかけてしまいました。しかし、この方こそが隅の親石であって、この方こそが来るべきメシアです。罪を悔悛しなさい、そして洗礼を受けなさい、この悪い世から救われるようにしなさい。天上天下、私たちが救われるべき名は、この方しかありません。イエズス・キリストしかありません」
 そしてイエズス様もおっしゃいました。
「私の与える平和は、この世の与える平和とは違う。私の与える平和こそが永遠の命に導く平和である」

 では私たちはどうしなければならないのでしょうか?
 今日、聖霊降臨の大祝日において、聖霊の特別のご保護とおん助けを求めることに致しましょう。私たちが、使徒たちから伝わった、イエズス・キリストがまさに教えたこの教えを、信望愛の教えをひたすら守り、純粋に維持することができますようにお祈り致しましょう。そして聖霊のおん助けを求めることに致しましょう。

 しかしそのために、使徒たちが何をしたかをご覧下さい。
 特にペトロは召使いの女性の言葉を恐れて、びびってしまって、三回イエズス様を否んだ方ではあります[ヨハネ十八章十五節~二十五節]。しかし聖霊降臨の後にはどれほど恐れずに、イエズス・キリストのために苦しむことはどれほど幸せか、と言って、イエズス・キリストのみ名を、世間体をはばからず、皆に信ずるように、この世から救われるように、洗礼を受けるようにと、皆の前に立ち上がって、堂々とイエズス・キリストのみ名を宣言しました。
 これはまさに、マリア様とともに、聖霊降臨を求めて祈っていたから与えられた、信仰と剛毅の徳ではないでしょうか?
 ですから私たちも祈らなければなりません。聖霊の恵みをますます、特に現代世界において、誤謬がたくさん広がる中において、私たちがそれを守り通すことができるように祈らなければなりません。

 第二のポイントは、使徒たちにならって、マリア様を囲んで祈らなければなりません。
 ここからは私の考えであって、ドグマではなく、信じられなければそれでよいのですが……。
 マリア様はファチマで、
 「天のおん父は、この地上に私のけがれなき御心に対する信心を確立させることをお望みです。そして教皇様が私の御心にロシアを奉献することをお望みです。そうすれば世界に平和がやって来て、多くの人々が救われ、天国に行きます。しかしそうしないなら、教会に対する迫害や飢饉や戦争など困難があるでしょう」
 とおっしゃいました。
 もしも天主三位一体が、マリア様を送って、こうするようにと、これが手段だと教えて下さるとしたら、おそらく天主様の名誉にかけて、マリア様の名誉にかけて、天主様はそれ以外の勝利の手段を与えて下さることはないと思われます。

 聖ピオ十世会はカトリック信仰を固く守るために、聖伝の信仰を守るために特別のお恵みを受けましたが、私たちがマリア様に代わって、ローマの教皇様を聖伝の信仰に導くことができるようには、天主様は私たちにさせてはくれないかも知れません。天主様のみ旨はどこにあるのかよくわかりませんが、マリア様を通して、全世界があっと驚くような奇跡をなさって下さるに違いありません。
 だからこそ、フェレー司教様は第四次ロザリオ十字軍を開始させました。私たち聖ピオ十世会が、使徒たちにならって、まずマリア様のところに行って、たくさんのロザリオを唱えて、「教皇様がロシアをマリア様のけがれなき御心に奉献して下さるように、そして教会のために勝利が早く来ますように」、その意向で祈れとおっしゃって下さいました。

 ですから私たちもフェレー司教様のロザリオの十字軍の意向に従って、たくさん、マリア様を通して、教会が早く聖伝の信仰を発言し、聖伝の希望を私たちに伝え、聖伝に従う超自然の愛を、イエズス・キリストに基づく超自然の愛を、私たちに教えて下さいますように。その超自然の愛によれば、誤謬があるところには真理を、闇のあるところには光を、無知の者には真理を教えてあげるという超自然の愛徳を、決して馬鹿にしたり、辱めたり、傷つけたりすることなく、しかし真理を伝えることができる、その超自然の愛徳を私たちが得ることができますように。実行することができますように。
 そのためにこそ、私たちは今日、聖霊に祈り、マリア様に向かってますますお祈りをしなければなりません。

 最後に、今日で第四次ロザリオ十字軍は終了致しますが、私たちはこれによってトレーニングを受けたロザリオ十字軍の戦士ですから、いつもロザリオをたくさん唱え続けることに致しましょう。例えそれをフェレー司教様に報告しなくても、いつもマリア様のほうに行って、ロザリオを唱え続けますように。ロシアが奉献されますように、教会に勝利が来ますように、ファチマのマリア様が天使を送って、子どもたちにおっしゃってくださったように、天使が子どもたちに教えたように、私たちもこの射祷を唱えることに致しましょう。

「至聖三位一体の天主よ、我、御身を信じ、礼拝し奉る。我、御身を希望し、御身を愛し奉る。私は御身を信じない人々に代わって、礼拝しない人々に代わって、希望しない人々に代わって、愛しない人々に代わって、御身に赦しを乞い求めます」


コメント

ウィリアムソン司教様による堅信式に続くミサ中説教 二〇一二年五月六日・秋田にて

2012年05月30日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

 愛する兄弟姉妹の皆様、

 2012年5月6日主日の秋田での、ウィリアムソン司教様による堅信式に続くミサ中説教を書き起こして下さった方がいらっしゃいますので、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


ウィリアムソン司教様による堅信式に続くミサ中説教
二〇一二年五月六日・秋田にて/通訳・小野田神父様
※[ ]は補足。



[最初の数十秒欠落]
 ある宗教はよりたくさん間違っていますが、間違っているには変わりありません。これは本当に厳しい発言です。
 しかし私たちの主イエズス・キリストは天主であります。この天主は一度だけ、人間となり給いました。そして唯一の、ご自分の教会を創りました。この教会こそがカトリック教会です。

 何年も前に、天主様は日本に善い宣教師を送りました。聖フランシスコ・ザベリオです。特に九州など西の方では聖フランシスコ・ザベリオが運んで来た真理を信じました。
 しかし皆さんもよくご存知のように、しばらくの後に、日本の当局はカトリック教会に対して迫害を始めました。そこで、日本の殉教者が生じたのです。
 
 私の生まれ故郷イギリスでは、政府はカトリック教会に対して迫害を始めました。それは、聖イグナチオ・ロヨラが聖ザベリオをアジアへ派遣する数年前のことです。
 そしてイギリスのカトリックは十字架につけられたわけではありませんが、絞首刑にされたり、溺れさせられたり八つ裂きにされたりしました。
 それ以後、イギリスは暗黒の中に住んでいます。そして多くのイギリス人たちは地獄に落ちてしまいました。イギリスはカトリック信仰を受け入れることを拒否し続けているからです。これは本当に大きな神秘です、多くの霊魂たちが地獄に落ちているということは。多くの政府当局や、権威者たちがカトリック教会を受け入れないということは、偉大な神秘です。
 しかしイギリスにおいては、天主様のお恵みによってカトリック信仰は続けて維持されました。その数はほんの少数でした。
 十九世紀にはカトリックの信仰の復興というのがありました。それは第二ヴァチカン公会議の直前のことでした。その当時、イギリスの十二パーセントがカトリック信者でした。カトリックの信仰はある程度まで元に戻りつつありました。そのような時に第二ヴァチカン公会議が起こり、カトリック信者の数はそれ以後急速に減少しました。

 私たちすべての人間には自由意志があります。私たちは選ばなければなりません。イギリス国民は選びました。そして選び続けています。イギリスのほとんどの人々は、カトリック教会なしに、カトリック信仰なしに生きることを選びました。
 天主様がこれらの霊魂を創造し給いて、いったいなぜそのようなことが起こり得るのでしょうか? 天主様は彼らが地獄に落ちるということをあらかじめよく知っていながら、それでも創造されたというのは、どうしてこれが可能なのでしょうか?
 その答えは、自由意志というのは現実の問題であるからです。天主様は私たちの選択を強制しないということです。
 今日、イギリスにおいても日本においても、全世界においても、天主様はお願いをしています。すべての霊魂はなんらかのお恵みをいただいています。それは天主様に近づくためのお恵みです。

 一九七三年、秋田の出来事は日本中で知られました。日本の新聞では、秋田のマリア様のことが掲載されましたが、正しいでしょうか? それはマリア様のメッセージのことではなかったとしても、少なくとも涙が流れたということは知らされたはずです。
 マリア様が涙を流されたということは、御母を通した、天主様からの呼びかけです。日本人たちのためだけではなく、全世界の人々のための呼びかけです。

  なぜマリア様は日本に来られたのでしょうか? もしかしたらヨーロッパはあまりにも腐敗しすぎていたから、と言えるかもしれません。

 天主の御母は一九一七年、ポルドガルのファチマにお現れになりました。しかしマリア様のメッセージは、カトリック教会によって真面目に受け取られませんでした。マリア様は「良い人も悪い人も、私のメッセージに注意を払っていない」とおっしゃっています。
 マリア様はヨーロッパのカトリック国家に現れました。しかしヨーロッパのカトリック教会の内部ですら、充分な注意を払うことがありませんでした。これこそが第二ヴァチカン公会議へと導いた、ヨーロッパの信仰の弱さでした。第二ヴァチカン公会議の時に、教会のその悲惨さが表に噴出したのです。

 そのときに、マリア様はもう一度、世界にやって来ました。それはヨーロッバのカトリック国であるスペインです。一九六一年から六五年の間、スペイン北部のガラバンダルという所にマリア様は現れました。
 その時に、マリア様は大きな警告の言葉を残されました。お母さまはその子どもたちに警告を与えたのです。一九六五年はガラバンダルの第二の重大なメッセージの時でした。それは第二ヴァチカン公会議の終幕の時と重なります。
 その時のメッセージによれば、「多くの枢機卿、司教、司祭たちは滅びの道を歩んでいる。多くの霊魂たちを一緒に連れて行ってしまっている」ということでした。
 すべてをご存知である天主の御母の、恐るべきメッセージです。なんと教会の指導者たちが、霊魂たちを地獄へと導いているというのですから。
 このメッセージを聞いて、教会当局はどのように反応したと思いますか?
 マリア様は真の宗教について話していました。マリア様の話というのは、本当の宗教の話と、償いの話でした。
 その一方で、教会は、新しい宗教の話と、第二ヴァチカン公会議後の新しい教会へと、自分を変えていました。古い宗教は天主の宗教であり、新しい宗教は人間の宗教です。
 新しい宗教、人間の宗教である当局は、ガラバンダルのメッセージをどうしたと思いますか?
 ファチマで起こったと同じように、このメッセージは沈黙を強いられました。
 ですから、ヨーロッバは、天主の御母のお言葉を聞くにはあまりにも悪くなりすぎていた、と言うことができます。

 そこで天主の御母は、日本の東北にある小さな修道院にやって来ました。
 そしてマリア様は同じ警告の言葉を残されました。「人類は間違った道を歩んでいる」と。
 伊藤司教様はこのメッセージに関して、大きな困難がありました。司教様自身はこの出来事を信じていました。しかしその他の司教様たちは、この秋田のメッセージを黙らせようと全力を尽くしました。
 ですから、修道院の売店、おメダイとか本とかあるところをご覧になると[わかるのですが]、マリア様の第三のメッセージのことは、跡形もありません。
 シスターアグネス笹川は、修道院から追い出されましたし、秋田のマリア様のメッセージは埋葬されてしまいました。
 マリア様がここに来られたということは、日本にとって非常に名誉なことでした。それはもちろん、まったく無駄だったということではありません。もしも無駄だったとしたら、私たちは今ここには来ていないはずです。
 しかし皆さんが見て、理解できることは、天主様は人類にお恵みを与えたのだけれど、人類はそれを拒否しているということです。
 ではどうしてカトリック教会だけが、唯一の本当の宗教なのでしょうか? そのことをどうして多くの霊魂は理解できないでいるのでしょうか?
 日本においてもイギリスにおいても、全世界においても、人々はこの真理を理解することを望まないのです。
 あまりにもたくさんの偽りの宗教があるとしたら、あまりにも多くの霊魂が地獄に行きつつあるとしたら、これは天主様の責任でも、マリア様の責任でもありません。マリア様はそれを避けることができるよう、できることはすべて尽くしました。
 問題は私たち罪人です。私たちは本当に霊魂を救おうと望んでいるのでしょうか? それとも、そんなことはたいしたことはない、と考えているのでしょうか?

 今日、ここにいらっしゃる皆さんに、天主は大きなお恵みを与えていらっしゃいます。秋田のマリア様について、よりよく、深く理解することができるというお恵みです。
 私たちは、私たちにできることをしなければなりません。もちろん、間違った宗教を信じている人たちを、軽蔑することはできません。秋田の聖母のこの美しい木像は、カトリック信者でない方が彫ったものです。修道院のシスターたちが、仏像を彫る専門家の職人に、この木像を彫って欲しいと頼んで、この職人はきれいなご像を作りました。ご像を彫ったということでこの職人は天主様から大きなお恵みをいただいたことでしょう。
 このご像を彫った後に、彼はカトリック信者になったかどうか?
 天主様は私たちに頻繁にお恵みを与えてくださいますけれども、もちろん、カトリック信者でない方々にもお恵みを与えます。それは彼らがカトリックになるためのお恵みです。

 カトリックの教えはヨーロッパだけの所有物ではありません。皆さんはグレゴリオ聖歌を、非常に美しく歌いました。教会の聖歌は全世界に所属しています。
 親愛なる友人の皆さん、今日、このごミサの間、多くの多くの人が、天主様がくださるお恵みを受け入れることができるようにお祈り致しましょう。
 私たちは彼らが天主が与えるお恵みを受け入れることができるように、自由意志を使うことができるように祈りましょう。そうすることで、天主の御母が、そのような霊魂たちをも天国へと導いてくださることができるようにするためです。
 マリア様は、多くの霊魂たちがお恵みを拒否しているのをご覧になっています。多くの霊魂たちが地獄への道を歩いているのを見ています。
 ですから、マリア様は泣いているのです。
 皆さんは、マリア様が涙を流されたことを知っているはずです。
 皆さんは、この木像の中にブラスチックのチューブが入っていて、そこから水が流れ出たというトリックではなかったということを知っています。
 この流れた液体が二つの大学の医学部によって、人間の涙であるということが鑑定されたということを知っています。
 そして、マリア様のご像が一〇一回の涙が流されたごとに、天主様は奇跡を行ったのです。
 天主様は、人間でないところから、人間の涙を造り出されたのてす。
 [祭壇横の秋田の聖母の写真を示して]皆さん、この写真を見るとよく分かるように、木から涙が流れているのです。
 天主の御母マリア様は奇跡をすることはできませんが、奇跡を勝ち取ることができます。マリア様がイエズス様にお願いすれば、天主はそのたびごとに奇跡を行うことができます。
 カトリックも、カトリックでない方も、そのご像から涙が流れるのを見て、大きな感動を覚えました。そこに居合わせた、非常に批判的で、皮肉屋のジャーナリストでさえも、それを見て感動しました。
 これが、天主様のお恵みが働いているということです。
 天主様はご自分の御母を通して、私たちに呼びかけています。ご自分のお母さまのご像を通して呼びかけていらっしゃいます。

 巡礼が終わって、友人の皆さんは、近代的な都市の中に戦いに戻ることと思います。
 いつもご自分の目の前に、心の中に、涙を流されている聖母のご像を置くようにして下さい。そして皆さんも私も、カトリックとして生活しなければならないことを思い出すことでしょう。
 そして皆さんも私も、多くの多くのカトリック信者でない方々のために祈らなければならないということを思い出すことでしょう。
 そして、天主の御母をできる限り力を尽くして、慰めることができますように。どうやって慰めるかというと、多くの霊魂を救う手助けをすることによって、です。

 父と子と聖霊とのみ名によりて、アーメン。
コメント

ウィリアムソン司教様によるミサ中説教・二〇一二年五月八日・東京にて

2012年05月23日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

 愛する兄弟姉妹の皆様、

 ウィリアムソン司教様は、二〇一二年五月八日の東京での朝ミサでお説教をしてくださいました。そこで、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介します。
 私たちには一つの、たった一つの霊魂しかありません。私は自分の霊魂について裁かれます。
 私は、天主が私にくださった恩寵を、私がどのように使って何をしたか、ということについて答えなければなりません。 天主は、私ができたことについて、したのかどうかを問われるのであって、私ができなかったことは何か、ということについては問われません。私たちは、私たちにできることをすべてしましょう。 この信仰の無い世界において、カトリック信仰を保ちましょう。 少なくとも私たちは、天主様からの呼びかけがあったときに、それを拒否することがありませんように。



愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


ウィリアムソン司教様によるミサ中説教・二〇一二年五月八日・東京にて
通訳・小野田神父様
※[ ]は補足



[※この日のごミサは小野田神父様とシャザル神父様がなさいました。お説教のみ司教様がして下さいました。]


 小野田神父様は、私がここ、東京にいる間に、お話しして下さるようにと望まれました。
 ここは、また別の、巨大な近代都市です。何百万人もの人々が住んでいます。
 彼らは死を迎えるときに、一人残らずすべて、イエズス・キリストの裁きを受けます。
 そしてこの人たちが、今のところ天主のみ旨を知ることができていないということは、大きな神秘です。
 天主のみ旨とは、カトリック教会のことです。
 もちろん、霊魂たちは、カトリック教会の外でも、成聖の状態で生きているということは、あり得ます。
 しかしきわめて困難なことです。
 原罪がありますし、個人的な罪を犯す傾向にありますし、そして、現代の悪しき環境があります。
 これらのことが、私たちをして罪を犯すようにと押し進めています。

 第二次世界大戦後、マッカーサーは日本に善いことをしたと思っていました。
 しかし一九四六年に、マッカーサーが日本に堕胎の法律を作ったということを最近知りました。
 これは、ヨーロッパで堕胎の法律が成立するより、非常に前の話です。
 まさに邪悪なことです。

 私たちには一つの、たった一つの霊魂しかありません。
 私は自分の霊魂について裁かれます。
 私は、近代都市に住む何百万という人々の霊魂たちについて責任を問われません。
 この何百万人もの霊魂たちについては、天主のあわれみの神秘に委ねられています。
 私は、天主が私にくださった恩寵を、私がどのように使って何をしたか、ということについて答えなければなりません。
 「私は、イエズス・キリストの宗教のために、私ができることはしたのか、しなかったのか?」と。
 天主は、私ができたことについて、したのかどうかを問われるのであって、私ができなかったことは何か、ということについては問われません。
 「私は今、天主様のためにできることを今しているのだろうか、天主様のためにしているのか?」ということを問われるのです。

 信仰を保つということは、必ずしも簡単なことではありません。
 祈るということは、絶対的に必要なことです。
 祈りは霊魂の酸素です。
 肉体は、物質的な酸素がなければ死んでしまいます。
 霊魂も、祈りがなければ死んでしまいます。
 天主様が私たちにイエズス・キリストの真理を知るお恵みをくださったのなら、私たちには秘跡が必要です。
 私たちが、できたことは何か、と天主に問われて、できなかったことは何か、ということは問われないということを、よく知っていたとしたら、私たちは信仰を保つために、できることをすべてするでしょう。

 親愛なる友人の皆さん、私たちは、私たちにできることをすべてしましょう。
 この信仰の無い世界において、カトリック信仰を保ちましょう。
 私たちには、大きな報いが待っています。
 それは、永遠の生命です。
 それができなかったことについて考えるのは、あまりに恐ろしいことです。
 つまり、永遠の地獄の苦しみです。
 一体どうして、何百万、何千万の霊魂たちは地獄への道を突き進んでいるのでしょうか?
 天主様は、今でも彼らに呼びかけておられます。
 しかし人々は、この天主様からの呼びかけをひたすらに拒否し続けています。
 少なくとも私たちは、天主様からの呼びかけがあったときに、それを拒否することがありませんように。
 私は常に、天主の御母に助けを願います。
 マリア様が私たちにいつもお願いしていること、つまりロザリオを私は祈ります。
 もしもちゃんと決心をするならば、大人であるならば、五連[一環]のロザリオを唱えることができない、などということはあり得ません。
 指ロザリオを使って、バス、車、飛行機、どこでもロザリオを唱えて下さい。
 そうすれば、霊魂には酸素が送られます。
 そして、天主の御母の御助けによって、他の多くの霊魂たちも天国へ導くことができるかも知れません。

 イエズス様、あわれんで下さい。マリア様、助けて下さい。

 父と子と聖霊とのみ名によりて。アーメン。
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ウィリアムソン司教様によるミサ中説教 二〇一二年五月七日・秋田にて

2012年05月23日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 ウィリアムソン司教様によるミサ中の説教をご紹介します。40年前、マリア様は厳しいことを言われました。
もし人々が悔い改めないなら、おん父は全人類の上に大いなる罰を下そうとしておられます。その時おん父は、大洪水よりも重い、いままでにない罰を下されるに違いありません。火が天から下り、その災いによって人類の多くの人々が死ぬでしょう。よい人も悪い人と共に、司祭も信者とともに死ぬでしょう。生き残った人々には、死んだ人々を羨むほどの苦難があるでしょう。
 40年たった今、人々は悔い改めたのでしょうか? 人類の生き方は改められたのでしょうか? よくなったのでしょうか? それとも淫乱と悪徳と無信仰と冒涜とが増えたのでしょうか?
 主よ、われらを憐れみたまえ!われらを憐れみたまえ!

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


ウィリアムソン司教様によるミサ中説教
二〇一二年五月七日・秋田にて/通訳・小野田神父様
※[ ]は補足。



 私が今回、少し厳しい話をしたことを、すまなく思います。
 しかし私の申し上げたことは、マリア様が言った第三のメッセージと比べたら厳しい話ではありません。
 マリア様の場合、厳しいことをおっしゃったとしたら、それはマリア様の愛から来た言葉です。
 本当の愛は私たちをして、真理を言わしめます。
 私は厳しい話を申し上げましたが、それは私たちの主のお言葉のためです。

 ゲッセマニの園でイエズス様は、使徒たちにこう言われました。
 「警戒して、祈れ」
 私たちの主は、ただ「祈れ」とだけ言ったのではありませんでした。
 イエズス様は「祈り、そして警戒しろ」と言ったのでもありませんでした。
 イエズス様は「警戒して、祈れ」とおっしゃったのでした。
 その理由は明らかです。
 警戒しろ、ということは、目をしっかりと開けて起きていろ、ということです。
 そして、何が起こるか、よく見ていろ、ということです。
 多くの人は今日、テレビの前で、目を閉じて眠っています。
 繁栄は、多くの人をして眠りにつかせます。
 快適な生活は、多くの、多くの人々を眠らせてしまいます。
 一九五〇年代には悪魔がやって来て、カトリック教会から信徒たちを盗みました、なぜかというと、彼らは眠りこけていたからです。
 彼らは警戒していなかったからです。
 もしも私たちが注意深くしていなければ、一九五〇年代のことをもう一度繰り返すはめになってしまいます。
 ですからマリア様は厳しいお話をなさったのです。

 よく考えて下さい。涙はメッセージのためです。
 メッセージは、一九七三年にありましたが、涙は一九七五年から八一年の間に流れました。
 明らかに、目を打つような、涙を流したという奇跡は、人々の注意を引き寄せて、ご自分のメッセージに注目させるためでした。
 昨日、そしてここ数日の間に、皆さんが気がついたように、涙を流されたという証拠も、そしてメッセージそれ自体も隠されています。
 修道院長のシスターは私たちに、涙をしみ込ませた脱脂綿を見せることを嫌がっていたわけではなかったのは明らかです。(I am sure that mother superior was not unhappy to show us the cottons of the tears.)
 しかしシスターは、命令の下にあります。誰の命令かというと司教様からの命令であって、多くの司教様たちは、多くの霊魂を取って地獄へと導こうとしています。
 しかし、この涙はメッセージのためにあります。
 ですからもう一度できる最高のことは、このメッセージをよく聞くことです。
 一九七三年十月十三日のメッセージです。


【指定のメッセージを小野田神父様が朗読】
「愛するわたしの娘よ、これからわたしの話すことをよく聞きなさい。そして、あなたの長上に告げなさい。
 前にも伝えたように、もし人々が悔い改めないなら、おん父は全人類の上に大いなる罰を下そうとしておられます。その時おん父は、大洪水よりも重い、いままでにない罰を下されるに違いありません。火が天から下り、その災いによって人類の多くの人々が死ぬでしょう。よい人も悪い人と共に、司祭も信者とともに死ぬでしょう。生き残った人々には、死んだ人々を羨むほどの苦難があるでしょう。
 その時、わたしたちに残る武器は、ロザリオと、おん子の残された印だけです。毎日ロザリオの祈りを唱えて下さい。ロザリオの祈りをもって、司教、司祭のために祈って下さい。
 悪魔の働きが、教会の中にまで入り込み、カルジナルはカルジナルに、司教は司教に対立するでしょう。私を敬う司祭は、同僚から軽蔑され、攻撃されるでしょう。祭壇や教会が荒らされて、教会は妥協する者でいっぱいになり、悪魔の誘惑によって、多くの司祭、修道者がやめるでしょう。
 特に悪魔はおん父に捧げられた霊魂に働きかけております。たくさんの霊魂が失われることがわたしの悲しみです。これ以上罪が続くなら、もはや罪のゆるしはなくなるでしょう。
 勇気をもってあなたの長上に告げて下さい。あなたの長上は、祈りと償いの業に励まねばならないことを一人ひとりに伝えて、熱心に祈ることを命じるでしょうから」

「あなたに、声を通して伝えるのは今日が最後ですよ。これからはあなたに遣わされている者と、あなたの長上に従いなさい」

「ロザリオの祈りをたくさん唱えて下さい。迫っている災難から助けることができるのは、わたしだけです。わたしに寄りすがる者は、助けられるでしょう」

(日本の奇跡 聖母マリア像の涙 秋田のメッセージ/安田貞治著/エンデルレ書店/一三八~一三九ページ)


 親愛なる友人の皆さん、願わくは天主が皆さんを祝福して下さいますように。
 ロザリオを祈って下さい。

 父と子と聖霊とのみ名によりて。アーメン。
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ロザリオ十字軍、ラスト・スパート

2012年05月22日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 第4次ロザリオ十字軍は、来る5月27日の聖霊降臨の祝日で終了します。

 私たち聖ピオ十世会は、現在、多くの祈りを必要としています。特にローマと聖ピオ十世会との関係について多くの祈りが必要です。フェレー司教さまや聖ピオ十世会の全ての司教さまたちのために熱烈な祈りを捧げましょう。


 聖ピオ十世会がカトリック信仰を純粋に守り抜き、近代主義の汚染から免れますように! 聖ピオ十世会の指導者たちが聖霊に照らされ導かれますように! ルフェーブル大司教さまの智恵深い信仰の闘いを闘い抜きますように!


 願わくは私たちが祈りの「爆撃機」となりますように!

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!!


トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
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ウィリアムソン司教様による堅振式前の訓話 二〇一二年五月六日・秋田にて

2012年05月22日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今年の秋田巡礼でウィリアムソン司教様が執行された堅振の秘蹟の時のお説教を書き起こして下さった方がいらっしゃいますので、ご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

***

ウィリアムソン司教様による堅振式前の訓話
二〇一二年五月六日・秋田にて/通訳・小野田神父
※[ ]は補足。



[初めの数十秒欠落]
 ……これは七つの秘跡のうちの一つであり、他の六つの秘跡が与えない、特別なお恵みを与えます。そうでなければ、七ではありません。
 堅振の秘跡が与えるものは、堅固さです、力強さです。超自然的な力強さです。
 これはオリンピックの選手のような強さではありません。殉教者の力強さです。
 初代教会には有名な童貞殉教者たちがいました。幼い女の子たちが、ローマ皇帝の前に立ち上がって、イエズス・キリストに忠実を尽くしました。
 今日ではローマ皇帝の前に立ち上がる必要はありません。しかし、私達の家族の前で立ち上がり、あるいは親戚、あるいは会社での同僚、それから新聞、もしかしたら、政府の前に立ち上がる必要があるかも知れません。

 私たちの主が十字架のつけられたときには、罪標には「ナザレトのイエズス、ユダヤ人の王」と書かれていました。
 ユダヤ人たちはそれに反対しました。「ユダヤ人の王とは書かないで欲しい、ユダヤの王と自称した者、と書け」と言いました。
 この違いはどこにあるかというと、殉教者と、この世に歩調を合わせて生きるカトリックの違いです。
 カトリック信者は、天主と歩調を合わせるか、この世と歩調を合わせるかのどちらかであり、両方を選ぶことはできません。
 この世か、あるいは天主です。
 もしもイエズス様が「私は天主である、と思う(I think I am God)」と、おっしゃったなら、ユダヤ人たちとは何の問題もなかったはずです。
 そうしたらユダヤ人たちは「ああ、この人は自分が天主だと思っている。ちょっと頭のおかしい人だ」[と言ったはずです]
 イエズス様は「私は天主である、と思う」とは言いませんでした。
 イエズス様は「私は天主である(I am God)」とおっしゃったのです。
 例えば、「アブラハムが存在する前に、私は在る」と、言いました。「我、在り」ということは、天主のサインであるかのようです。
 イエズス様がまだ三十三歳であった時に、アブラハムが存在する前に「我、在り」、つまり「私は天主である、私は永遠の天主である」と言ったのです。
 イエズス様は決して「私は天主である、と思う」などとはおっしゃいませんでした。
 「天主である」と言ったのです。

 現代、カトリック教会では、教皇様はこんなことを言っています。
 「私たちは本当の宗教の者であるが、他の宗教も悪くない」
 つまりこれは「私たちの宗教は最高だ、と思う」と言っているのです。
 ですから、教皇様はこの世に迎合し、ユダヤ人たちに迎合し、天主の敵たちに迎合しているのですが、天主を喜ばしめているとは言えません。
 今の教皇様の態度は「私は天主である、と思う」と言っているのと同じです。
 「私は天主である」と言ってはいないのです。
 「このカトリックこそ、唯一の、本当の天主の宗教である」とは言っていないからです。
 なぜなら「他の宗教でも救霊は得られる」と言うからです。「他の宗教でも霊魂を救うことができる」と。
 教皇様は、カトリック教会だけが唯一の、本当の宗教であると主張していないからです。
 でも、イエズス様は、「私こそが唯一の本当の天主である、おん父と聖霊とともに、唯一の天主である」と言いました。
 イエズス様は決して「他のいろいろな宗教がある中で、好きなものを選んでいい、私はその選択肢の一つだ」とは言いませんでした。
 今日、堅振を受けて信仰を堅固にされる皆さんは、「私こそが唯一の天主である」と、おっしゃったイエズス様の信仰を持っているのです。

 もしも私が事務所で働いていて、同僚が、こう言ったとします。
 「あなたはカトリック、私は仏教徒、おんなじだ」
 カトリック信者である私たちは、それに同意することはできません。
 おそらく、状況が許さずに、真理をすべて説明することはできないかも知れません。しかし「その通りだ」と同意することはできないはずです。
 旧約聖書の詩編の中に「他の諸宗教の神々は悪魔である」と書かれているからです。

 唯一の、ただ一つの、本当の天主のみがあり、それは父と子と聖霊の唯一の天主です。
 イエズス・キリストは天主のおん子であり、三位の天主の第二のペルソナです。
 イエズス・キリストこそ、まことの天主です。
 天主おん父に属するものはすべて、イエズス・キリストにも属します。そして父と子が所有するものはすべて、聖霊にも属します。

 唯一の天主を信じる信仰は、殉教者の信仰です。
 イエズス様が「私は天主である、と思う」と言っていたとしたら、十字架にかけられる必要はありませんでした。
 今日、カトリック信者が「ああ、他の宗教もいい宗教だ」言うならば、明日、殉教者はいないでしょう。
 そのようなことを言うカトリック信者が、救霊をまっとうすることができるのかどうか、わかりません。
 カトリック信者が、他の宗教もよいものであって、それを信じているとしたら、司教様や司祭たちによって[誤って]教えられたのだとしたら、無知のために、その責任を問われずに、霊魂を救うことができるかも知れません。しかし、大変危険です。
 カトリック信者たちが、これが真理である、とは思わなかったのだけれど、こう言ったほうがこの世とうまく歩調を合わせて生きることができるからこう言った、のだとしたら「他の宗教も善いものである」と言っている司教様や司祭たちには、大きな責任があります。

 常識として、このホテルの中を「あなたの宗教は間違っていますよ」と言って歩き回るほどの馬鹿はいません。これは常識です。
 しかし、このホテルに泊まっているお客さんの一人が、私たちに近づいて来て立ち止まり、
 「あなたの信じている宗教と、私の信じている宗教は、同じほどに善いものだ」
 と言ったとしたら、私は「それはあなたの意見ですよ」と言うことはできますが、「その通りです」と言うことはできません。
 そして、彼が「それはカトリックという宗教に関するあなたの意見だ」と言ったとしたら、私は「あなたは正しい」と言うことはできません。
 その人は、「自分の宗教は正しいと思っている間違った意見」を持っています。
 「カトリックの宗教は正しい」というのは、意見ではありません。
 私(たち)には、確実性があります。(I have a certainty)
 私達の意見ではなくて、私たちの "外" にある確実性です。

 こんな簡単な比較の仕方があります。
 ある人が、2+2=3だ、と言ったとします。他の人は、2+2=5と言います。2+2=6という人もいるかも知れません。
 そして、「2+2=4だ」という人は、単なる意見だ、と思っているのではありません。
 そのような人は、自分たちの考えの外側に「2+2=4」という現実(reality)があることを知っています。
 自分が思っていることの外にある現実が、その人に確実性を与えるのです。
 しかし、2+2=3だと言う人には、確実性はありません。確実性があるとしたら、間違った確実性です。自分の頭の中にあるものと、頭の外にある現実と対応していないからです。
 私たちの考えの外には、現実が存在しています。
 天主様のお恵みによって、皆さんと私が、カトリック信仰を持っているならば、カトリック信者でない方々が持っていない、私たちの考えの外にある現実を、私たちは持っています。
 私たちの考えの外側にある現実というものは、非常に大切なものであって、天国に行くか地獄に堕ちるかというのは、この現実を認めるか認めないかにかかっている、と私たちは知っています。
 そして何世紀にも渡って、カトリック信者たちは、この現実を認めるために[証人となるため]命を投げ出してきました。

 今日、堅振を受ける親愛なる友人の皆さん、間違いを犯さないで下さい。
 皆さんは、私たちの考えの外にある現実の信仰において堅振を受けるのであって、このことについては、殉教の血を要求されるかも知れません。
 ヨーロッバとアメリカ合衆国では、迫害の印が現れつつあります。
 ローマ皇帝のような人が立ち上がって、来たる将来、世界がうまくいかないのはカトリックのせいだ、キリスト教徒のせいだ、と迫害し始めるかも知れません。ネロ皇帝の元であったように、カトリックがその責任をとれ、と言われるかも知れません。
 その時に、皆さんと私は、信仰のために命を投げ出す覚悟ができていなければなりません。
 ですから、私たちには力強さが必要です。
 その時に、天主様が私たちに、堅固さを与えて下さるようにお祈りしましょう。
 しかし、殉教の血を流すその日が来るまで、私たちは毎日、血を流さない殉教をしなければなりません。
 日々、カトリック信仰を守っていく困難さです。

 今日、堅振を受ける親愛なる友人の皆さん、皆さんが今、何をしているかということよく考え、理解して下さい。
 皆さんはこれから、毎日の、血を流さない殉教の契約書にサインをするのです。
 そして、もしかしたらある日、血を流す殉教しなければならないかも知れません。血を流す殉教というのは、天主様からの大きなお恵みです。なぜならば、煉獄を通らずに、一直線に天国へ行くことができるからです。
 しかしカトリック信者は殉教者となることを求めないようにしましょう。それは、天主様に挑戦をするようなことだからです。
 しかし、天主様が私たちをして、そのような殉教をしなければならない状況に置いたとしたら、殉教を受け入れなければなりません。
 今日、このごミサで、堅振を受けるすべての皆さんのためにお祈りします。私たちはすべて、互いにお祈りしあいましょう。
 天主様が私たちを殉教にお呼びになるとしたら、私たちはそれを受け入れて、それを耐え忍ぶ力を受けるでしょう。そして、互いに祈り合うでしょう。堅振を受ける方々のためにもお祈りします。それは、私たちが日々の殉教生活を達成することができるためです。

 これらすべてのことが、難しいと思えるとしたら、天主の御母の方に目を向けましょう。マリア様はすべてのことを易しく、簡単にすることができるように助けてくださるからです。なぜなら、マリア様は私たちの母であり、マリア様のできる限りを尽くして、おん子イエズス様に、そして天国へと導いて下さるからです。
 そして、残る巡礼のあと数時間を、皆さんの心を、秋田のマリア様に捧げて下さい。
 天主の御母の訪問を受けたということは、日本にとって、ものすごい特権を受けたということです。

 父と子と聖霊とのみ名によりて。アーメン。


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ボホル巡礼を終えて

2012年05月21日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 如何お過ごしでしょうか?こちらはボホル巡礼を終えてマニラに戻りました。

3日かけて80キロの道のりを800余名で歩きました。フィリピン全国各地からいらした巡礼者と会え、多くの新しい友人たちができました。とても良い出逢いがありました。フィリピンで働いている司祭たちとも一緒に時を過ごすことができ、祈りと話し合いと友情とに感謝しています。


 来年は、マニラからは200人の参加、全体で1500名の巡礼者を目指すと言い合っています。


 今晩、真夜中にマニラでレィディ・ガガのコンサートがあるので、マニラの聖母の勝利教会では、今晩、私たちは償いの聖体礼拝とミサ聖祭を捧げました。コンサートの会場のすぐ隣にあるカトリック教会では、夕方6時から真夜中12時まで、レィディ・ガガのコンサートに反対してミサと祈りの集いがあります。


 明日は、通常の仕事に戻ります。ウィリアムソン司教さまの秋田巡礼での堅振のお説教を書き起こして下さった方がいらっしゃいますので、明日、アップする予定です。


 今週末に愛する兄弟姉妹の皆様と会えるのを楽しみにしております。天主様の祝福が豊かにありますように!!


トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)@携帯電話マニラにて
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ボホル巡礼

2012年05月18日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 フィリピンの聖ピオ十世会は、17日、18日、19日とボホル島のタグビラランからカルメンまで歩く巡礼を行っているところです。

 愛する兄弟姉妹の皆様のしもべは既に16日の水曜からシャザル神父さまやブラザーたちとタグビラランに到着、他の神父さまたちと合流しました。クチュール神父様を含めて10名の司祭が参加しました。マニラからは83人が参加したようです。約800人の巡礼者が集いました。

 聖ピオ十世会のため、カトリック教会のため、カトリックの家族の復興のために祈りの捧げています。私たちは月曜の21日にマニラに戻ります。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!!



トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
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シャザル神父様霊的講話・二〇一二年五月五日・秋田にて

2012年05月15日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今年の秋田巡礼でシャザル神父様がなさった霊的講話を書き起こして下さった方がおられます。ふかく感謝しつつ、ここに愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


シャザル神父様霊的講話・二〇一二年五月五日・秋田にて/通訳・小野田神父



 私たちは、秋田の聖母のところにいろんなお恵みを求めて巡礼に参りました。そして特にこの日本、そしてアジアで、私たちが求めなければならないことはいろいろありますが、特に日本とアジアで(シャザル神父様と小野田神父の共通の考えでは)、家族を、カトリックの家族のためにもっと多くのお恵みが必要だ、ということです。なぜかというと、家族というものこそが、国家のあるいは民族の基礎となるものであるからです。家族は社会の、一番基本的な単位であるからです。

 ルフェーブル大司教様もこのことを大変よく、深く理解しておられました。一九七九年に、ご自分の叙階五十周年記念のときに、カトリックの家族を復興させる、もう一度、立て直すということで、十字軍を興しました。この、私たちの家族のための十字軍の戦いというのは、もう一か八かの、ほとんど、もしかしたら勝つ見込みの無い(ような)戦いを戦おうとしているのです。カトリックの家族を日本において、あるいはアジアにおいて立て直す。しかしこの戦いを、どうしても戦って勝利を収めなければなりません。なぜかというと、今日本は死につつあるからです。子どもがなくて死につつあるからです。

 マッカーサーは善いこともしましたが、一九四六年、終戦直後の日本に堕胎をする法律を押しつけました。その後、離婚や、あるいはポルノ、その他の多くの家族に反対する"アンチ・ファミリー"、反家族の多くの運動と攻撃が、私たちを襲っています。ですから、私たちはマリア様に、この波を逆流、回転させるお恵みを求める必要があります。

 サタンは、もちろん、超自然のことを攻撃しますが、しかし、超自然のお恵みを、効果的に私たちが受け取ることができないようにするために、自然の秩序を破壊しようとします。
 たとえば、もしも自然の能力がなければ、どうして私たちが超自然のお恵みも受け取ることができるでしょうか?

 サタンが今やろうとしていることは、考える、思考能力を、私たちから取ってしまおうということです。例えば、娯楽や、その他の電脳世界によって、考えることなく、読むことなく……。そしてこのことは何を意味するかというと、観想する、黙想するという能力を私たちから奪ってしまいます。そのように、サタンは自然の秩序を破壊しようとして、今、家族を攻撃しています。

 特にアジアで(シャザル神父様はフランスとか、アメリカとかでいろいろ見てきましたが)大きな問題、お恵みを受けるための障害となっているものは、それは家族が、大家族がないということです。これはインドでもフィリピンでも同じようです。

 インド人は、結婚するのは好きですけれども、子どもを持とうとは誰もしません。ですから、とてもケチで、子どもがいるということがどれほど幸せなことか、祝福されたことかということを、つい最近まで気がついていませんでした。インドにいる神父様たちは、そのことを一生懸命伝えようとして、その実りが、ようやくこのごろ、目に見えて、少しずつ流れが変わってきて、大きな、子どもたちのいる家族も徐々にできつつあります。しかし数年前まではそうではありませんでした。

 フィリピンでも同じです。確かに、フィリピンでは貧しい家庭では子どもたちがたくさんいます。ボホール島のダゴホイという村には、十五人の子どもを持った家族がいます。そのダゴホイのチャペルでは、信者の半分がその家族です。

 しかし貧しい人たちを除いては、中流階級の人たちは、あまり子どもを持とうとはしません。そして多くの場合には家族が崩壊しています。なぜかというと、多くの人たちが、よりよい収入を得ようとして外国で働こうとするからです。何百万という方が働いていますけれども、例えば、つい最近結婚されたばかりのカップルを知っています。マニラの人です。結婚式の終わった数日ののちに、結婚したばかりの奥さんはトルコに働きに行くことになって、彼女が帰ってくるのは一年後なのです。しかも彼女の年齢が四十歳で、おそらく子どもを持つことは、もう無理ではないかと思われます。

 そのような職業上の、社会的な状況によって、子どもを持つことが非常に難しくなっていますが、日本でも、今、私たちの教会に来てる方で、結婚したカップルは非常に少ない。そしてまた、教会に来ている子どもたちの数も非常に少ない。ですから、これはちょうど、インドとフィリピンでの問題を掛け合わせたようなことになっています。

 教会の中にたくさんの子どもたちがいないということで、皆さんが罪悪感を持つ必要は何もありません。なぜかというと、私たちが結婚するか、結婚しないか、子どもがたくさんいるか、いないかということは、まったく天主様のお恵みによるものでありますし、私たちは誰も、結婚することを義務づけられてはいないからです。

 ただ、カトリックの結婚、子どもの多いカトリックの結婚というものが、天主様からの特別のお恵みである、ということを、私たちはよく理解しなければなりません。なぜかというと、この世界のすべてが家庭を持つということに対して反対し、戦いを挑んでいるからです。また、結婚するかしないか、できるかできないかということも、私たちの努力だけにかかっていることではないからです。これは天主のお恵みであるからです。

 昔は、子どもたちのたくさんいる家庭がありました。ですが、それは別にカトリックの信仰に従って、子どもたちが天主様からのお恵みであって、頂きものであって、預かりものであって、ということをよく理解していたから子どもたちをたくさん得た、とは限りません。昔は、子どもたちが老後の糧となり、年金の糧となり、そして老後の生活の保証となってくれると考えられていたので、自分の利益のために、子どもたちがたくさんいました。しかし、現代となってはその老後も、国家が年金を納めてくれるし、社会保障してくれるので、特に子どももいらないんじゃないか、という、同じ自分の都合のためだけで考える人が多くなったのです。

 教育についても同じです。教育は本来、家庭が、あるいは教会がするものですが、今では国家がしなければならない、と思うようになってしまいました。そしてこの、社会全体の、世界全体の、私たちが吸っている空気が、家庭に反するように、子どもも結婚生活もいらない、というように動いているのです。
 その悪い空気の一つに、フェミニズムがあります。フェミニズムはどういうものかというと、女性と男性の区別をなくしてしまおうというものです。男と女の区別がなくなってしまうと、どうなるかというと、家族の中で誰が権威を持つべきかということについて曖昧になってしまいます。ですから、若い人たちがこれから結婚しようとするときに、誰が家庭の中で権威を持っているのか、男と女の違いがどこにあるのかということをよく知らないで結婚することになってしまいます。

 心理的には、自然に、女性は男性がリードしてくれて、重要な時に判断してくれることを望むのですが、フェミニズムのために、女性は男の権威を否定しなければならないと教えられ、男も女もおんなじだ、と教えられているので、男性も女性も、本当に、夫が自分一人で最終の決断をしてもいいのかどうか、わからなくなってしまっています。恐れをなして、何をしていいかわからなくなってしまうのです。すると、ますます女性も、そのような決断をできない男性に不満を抱きますし、男性もますますどうしていいかわからなくなってしまいます。女性が男性と同じような服を着ている──女性がズボンを履いたり、あるいは男と同じような仕事をしたり、などということで、外側もますます男と女の区別がつかなくなり、家庭においても夫と妻が、あるべき地位とあるべき使命、あるべき責務は何か、ますますわからなくなっているので、若い人たちは結婚したら一体何が起こるのか、どんな苦しいことが起こるのか、おののいてしまっています。

 現代の吸っている悪い空気の中の第二のものは、現代の生活サイクルです。男はもちろん外で働かなければなりませんが、しかし通勤時間が長かったり、あるいは勤務時間が長過ぎたりして、家庭に戻る時間がなかったり、あるいは男女雇用均等ということで、昔なら男性がたくさん給料をもらって、女性はほんの少ししかなかったのですが、このごろは、男性も女性も同じでなければならないと言われて、そして男性は一人で充分な給料を得ることができずに、そのために妻も外で働かなければならなくなり、そのために、家庭の生活がバラバラになってしまっている、子どもを置きっぱなしになってしまっている、一体誰が子どもの面倒をみるのか、という問題が生じています。
 第三の悪い要素としては、電子機器の津波のような洪水が私たちの家庭の中に入って来ていることです。お父さんはコンピューター、お母さんはDVDプレーヤー、子どもは任天堂のゲームといった、"大津波"に襲われて、家族が一つで話をしたり、顔と顔を見て一緒にごはんを食べたりすることなく、皆が個々に、バラバラになってしまって、家族生活とというものが成り立たなくなってしまっている、そのような社会全体の、世界全体の雰囲気が、家庭を崩壊させようと、今、私たちを襲っています。

 しかしもう一度申しますが、私たちはだからと言って、罪悪感とか、罪があると思う必要はありません。私たちはできるだけのことをして、私たちの家庭のために祈り、そしてある日、マリア様が大勝利を与えてくださるように祈らなければなりません。もしも私たちがこのまま、子どももなく、このままいってしまったら聖伝のコミュニティもだんだん老化していくだけですが、天主様のお恵みによって新しい方が増えて、日本ではいつも数が大きくなっていますから、天主様はどうやったら解決できるかよく知っていますから、もう一度日本のカトリックの私たちの元に、大家族を打ち立てることができるように、何かお恵みと知恵と祝福を与えてくださるに違いありません。ですから私たちはこの巡礼でそのことをマリア様に祈らなければなりません。

 カトリック的な解決策は非常に単純です。家族をもう一度甦らせるためには、どうするかというと「男は男であるべきだ、女は女であるべきだ」これだけです。男が男であるべきだ、男らしさを取り戻すということは、どういうことかというと、フェミニズムは女性の問題であると同時に男性の問題であるということです。現代の男はともすると、解放された、道徳観念のない女性を好んだり、あるいは自分が責任を取ることから逃れようとしたりするからです。例えば、また子どもが宿ってしまった、とそのようなお母さんに、男の方が「そのような子どもはいらない」とプレッシャーをかける。そのために本当はお母さんはそのようなことをしたくないのだけれど、しかたなく堕胎をしてしまう。そしてその現代の男が責任を取ることを拒否し、青臭い、子どものような態度を取り続ける、というところに問題があります。ですからこの現代の男性が、決断したり、あるいは他人のために自分が犠牲になるとか、他の者のために働くとか、寛大に自分を捨てて、他の人のために身を捧げる、ということをしようとせずに、いつも利己主義だったり、面白おかしいことだけを探したり、女の子と会うのも自分が面白おかしいからとの理由のみで、話をしたり交際したりする無責任な男がいるので問題となっています。

 ですから、カトリックの策として、男が男らしさを取り戻して、寛大で、他人のために自分を犠牲とすることのできるリーダーとならなければなりません。そのためには、男が天主様から与えられた責任を果たすべく、覚悟をしなければなりません。

 現在の問題として、女性が、自分が本当に信頼できて、頼りになる男性を捜そうとしても、無責任な男性しか見つけることができない、結婚することもできない、結婚する相手がいない、ということになってしまいます。

 カトリックの解決策の一番としては、「男性たちよ、男たれ、依存したまま、寄生するだけの生き方をやめなければならない」ということになるのです。

 そしてもう一つは、女性が女性たる、ということがあります。どういうことかというと、フェミニズムは女性が女性たることを嫌悪させているからです。女性の一番女性らしいということは、命の与え主、母親になるということであります。女性は家族の中の心臓の位置を占め、男性は頭(かしら)の位置を示すものであります。エワはアダムの肋骨から取られましたが、これは女性が家族の中の心臓である、生活の原理である、家族生活の原理である、ということを示しています。家族の中心であるということを示しています。

 これがカトリックの家族の教えです。このことをフェミニズムはよく理解できていません。ですから女性が洗濯をしたり、料理をしたり、皿洗いをしたり掃除をしたりすると、フェミニズムは、なぜそうなのか理解できません。

 しかしカトリックの教えによれば、お母さんは家庭の中心地にいるので、最も大切な所にいるので、お母さんは家庭の心臓なので、家庭を支配する支配者なので、最も大切な仕事をお母さんがしているのだ、と教えています。

 もちろん、夫は家庭の一般的な行き先を決定しなければなりません。「私たちはこうしよう」。しかしそれを実行するための、小さな、さまざまなことは、お母さんが決定します。ちょうど船長が船で、こちらのほうに行く、と決定した時に、副船長や、その下にいる人たちが船を動かすために必要な、その他すべてのことを決定して、こうしなさい、こうしなさい、と言っているように。お母さんも子どもたちに「さあ、朝早く起きなさい、勉強しなさい、これを食べなさい、お風呂に入りなさい」と言うのですが、お父さんは一般的な大まかな道筋を決めて、後は妻に小さな事の決断を任せているのです。

 そしてこうやって互いに助け合いながら家族が成立しているというのが、カトリックの教えです。女性の幸せというのは、まさに子どもたちに囲まれて、その世話をするということにあります。男性と女性の違いは、相互に補われています。男性は肉体的に女性を愛することを望みますが、女性はむしろ精神的に、一緒にいたい、とか、愛情を注ぎたい、というところで愛そうとします。そして良き夫があるならば、子どもがたくさんいるということで、肉体的に愛すべき対象がたくさんいるので、ますます満足しますし、お母さんも、ますます愛情を注ぐべき対象が多くなるので、ますます幸せになります。

 しかしフェミニズムの信奉者達はそのことがよく理解できません。ですから子どもは邪魔だ、と思ったり、自由気ままに生きることが、男の真似をすることがいいのだ、と思い込んでいるのです。その結果何が起こっているのかというと、鬱病、乳がん、健康の問題があります。避妊薬を飲んだり、その他精神的な、あるいは肉体上の肥満、癌などの多くの問題を抱えるようになってしまいました。こんなことは過去にはありませんでした。現代に特有の症状です。

 では、私たちは女性が女性らしく、男性が男性らしくあるためにどうしたらいいでしょうか。女性にはモデルがあります。模範があります。それは、私たちの聖母です。この方こそまさに女性の典型であって、フランス語では、ラ・ファム
"La femme" と呼ぶことができるかも知れません。「御身は女の内にて祝せられ」と言われるように、マリア様こそ女性の内で最も祝せられた女性であり、最も女性らしい女性であり、女性らしいということは何か? と問うとしたら、「マリア様だったらどうするだろうか?」ということを黙想すればそれで事足ります。慎み深く、謙遜で、愛徳深い女性になるために、「マリア様だったらこの服を着るだろうか?」「マリア様だったらこのような言い方をするだろうか?」「マリア様だったらこんな無責任な男と結婚するだろうか?」「このだらしのない、女ったらしと結婚するだろうか?」と、自問自答するはずです。

 男性にとってはもちろん、聖ヨゼフがモデルとなります。聖ヨゼフの男らしさ、沈黙、働き、責任感、マリア様への愛など……。そうすることによって、男はどこに地位を占めるべきか、女性はどの場所にいるべきか、自分に与えられた固有の場所にいることができるのであります。そのときに、家庭がまた生き返るのです。

 私はつい最近、チベットのドキュメンタリーを見ました。それはお塩を作る村なのですが、海から山のところまで水を運んだりします。竿を担いで、前に十リットルの重い水があって、前と後ろに牛乳が十本ずつ(下げて)、二十キロ(の距離)を一日百回往復するのだそうです。それに加え、朝ご飯を作って、片付けをして、掃除もして洗濯もして、子どもの面倒もみて、そうやって女性が働いていて(彼女は)非常に幸せなのです。「大変ではないのですか」とインタビューすると、「いいえ、私の夫は外でもっと大変なことをしています。狩りをして、家を建てて、これをやってあれをやって……だからこれはなんでもありません」と言うのです。

 ですから、私たちが果たすべき責任果たした時には、私たちは誰も不平もなく平和がやってくるはずです。

 もちろん女性の中にも特別に権威を与えられ、能力を与えられた女性もいます。例えば、アキテーヌのエレアノール(アリエノール・ダキテーヌ)という素晴らしい女性がフランスにはいました。あるいはオーストリアのマリア・テレジア、この人は女の皇帝ですが、十八世紀のカトリック帝国を指導した素晴らしいリーダーで、十六人の子どもたちがいました。スコットランドの女王メアリー、ジャンヌ・ダルク。トスカニーのマチルダ(マティルデ・ディ・カノッサ)は、非常に女性らしい女性でしたが、それと同時に与えられた使命を果たそうと、皇帝から教皇様を守ることさえしました。

 つい最近、私たちに与えられた傑出した女性というのを一人挙げるとしたら、私は、マーガレット・サッチャー元首相を挙げたいと思います。サッチャー元首相は八百屋さんの娘でした。そして典型的な家庭の主婦でした。お母さんたちが皆そうであるように、伊勢丹と西友と大丸で、牛乳の値段がここではいくらか、お砂糖があそこではいくらだ、お米が何キロではいくらか、ということをよく知っていて、お砂糖は伊勢丹では安いからそこで買って、牛乳は大丸がいいから大丸で買って、今度は西友で……と、(ちょうどシャザル神父様のお母さんがそうだったように)細かいことまでよく覚えていて、正確に記憶していて、すべてについてよく知っていて、財政を切り詰めて家庭をやりくりしている、サッチャー元首相がイギリスの経済の詳しいところまでよく知り尽くしていたので、バランスをとってやりくりして、イギリスの経済危機を乗り越えたのでした。サッチャー元首相がもし成功したとしたら、非常に女性らしい女性で、八百屋の娘だったからです。家庭の主婦だったからです。そしてサッチャー首相は与えられた女性らしさをフルに使って、最後のイギリスの女王として統治したのでした。そのように特別な能力のある女性が出て、権威を行使するとしても、問題はありません。ただ、女性は女性らしさを決して否定することなくそれをするべきです。

 サッチャー元首相があまりにも女性らしい女性だったので、リベラル派からはあまり好かれませんでした。20世紀のイギリスのジョークというのは、サッチャー元首相を笑うようなものが主でした。[注: a political man in England in 20th century is Margaret Thatcher.]

 ところで、マリア様は、司祭ではありませんが、大司祭であるイエズス・キリストを十字架の元へと導いたお方でした。確かに女性は司祭になることができません。もしも女性が祭壇に上ってしまうと、男性の司祭の悪い欲情を起こさせる問題がありますし、女性が神学を勉強するということの問題もあります。女性が告解での秘密を守ることができるのかどうか、という問題もあります。しかし女性が天主から与えられた召命は、まさにイエズス様を十字架の上まで導いたマリア様と同じことをするということにあります。生贄を捧げる教師となるということにあります。子どもが幼い時から自分を犠牲にすることができるか、皆のために苦しみを受けることができるかできないかということは、母親から学びます。母親がそうするのを見て、教えられて、犠牲となるということを覚えます。

 文明を築き上げることができるとしたら、その社会の成員が、皆の共通善のために苦しみを捧げることができる、犠牲となることができる、ということにあります。社会の成員の皆が、自分のことしか考えなくて、自分の楽しみしか考えていなかったとしたら、文明など成立しようもありません。日本のお母さんたちは昔から子どもに、皆のためになるように、世に奉公するようにということを教えて、それが日本の伝統となっていました。ですから日本には文明が、高度な文明が栄えました。

 母親の使命というのは、まさに子どもたちに生贄を捧げることができる、苦しみを皆のために捧げることができる、ということを教えることにあります。このことができないとなってしまったら、すべての社会は崩壊してしまいます。マリア様はこのことをイエズス様に教えて、イエズス様はマリア様のお陰で、導きによって、十字架の元に行きました。例えば、公生活を始める時、カナの婚宴のときに、水をワインに変えました。そのときにワインが御血に変わる、生贄になるということまでを暗示したのですけれど、イエズス様はおっしゃいました。「私の時はまだ来ていない。女よ、私の受難の時はまだ来ていない」。しかしマリア様の導きの元で、イエズス様は公生活の最初の奇跡を行いました。そしてマリア様ととともに、十字架で、ご自分を生贄として捧げました。

 私たちが今、聖ピオ十世会のアジア管区でカトリックの家庭を復興させたい、花咲き乱れるものとしたいとするなら、男が男らしく、女が女らしくあるべきです。カトリックのお母さんたちがたくさん生まれて、そのお母さんたちが将来の生贄を捧げるべき子どもたちを、生贄を捧げるべく司祭職へと導いてくださることができるようになるためです。

 では、この講話を結論づけるために、私たちは私たちの目をマリア様と聖ヨゼフのほうに向けることに致しましょう。マリア様と聖ヨゼフの間には、なんらの競争もいがみ合いもありませんでした。二人は互いに助け合って聖なる家族を作ってきました。私たちがマリア様と聖ヨゼフに目を注ぐ限り、私たちにとっては現代のフェミニズムはあり得ません。フェミニズムは失敗するに決まっているからです。ユニリバーのCEOのアン・ドレガジョンという女性がいますが、フェミニズムのアイデアで一杯でした。ユニリバーをフェミニズムの計画でやろうとして、男たちと戦ったのですけれど、アン・ドレガジョンは立ち去らなければなりませんでした。ヒューレット・パッカードのCEOとなったカーリー・フィオリーナさんも、フェミズムのアイデアで一杯で、会社の改革をしようとしましたが、結局大きな赤字を出して、その地位を他の人に譲らなければなりませんでした。

 もちろん、女性を卑しめ、女性の地位を低くするようなレディー・ガガやマドンナといった女性たちは問題外です。私たちはこのような女性への卑しめを断固として拒否しなければなりません。ヨーロッバでは、人々はカトリックの信仰を失いつつありますが、つい最近も、カトリックの考えからではないのですけれども、広告や看板などの中で、女性が見苦しい服装をしていたり、ポルノのような看板があるのを見て、あまりにも女性を卑しめている、このようなものがあればあるほど、女性に対する尊敬がますます失われていく、ということで、ヨーロッパでは政府によって訴えられ、このような女性の地位を卑しめるものは、単なる快楽の道具としてしか見ないようなものは拒否する、という運動が起こりつつあります。特にイタリアではそうです。私たちも戦う必要があります。フェミニズムの間違った考えと戦って、男が男であるべきだ、女は女らしくあるべきだ、ということを、私たちはまず自分で、そして子どもたちにも、若い世代にも教えなければなりません。本当の男にならなければなりませんし、本当の女にならなければなりません。女のような男でも、男のような女でもありません。そのためには何をすればよいかというと、ただ天主が私たちをどのようにお造りになって、私たちが何をするのをお望みなのか、ご計画を眺め、それを黙想すればよいのです。そして、私たちに与えられた特別の男としての使命、女としての使命を達成するようにしなければなりません。それができないとすれば、それは社会にとって、次の世代にとって、大きな災害となるからです。

 私たちの今やっていることの美しさとは何か?
全世界がこのカトリックの家庭について反対の戦いを挑んでいます。百対一、一万対一、すべてのものが私たちに反対しています。ですが聖家族がついには大勝利を得るに決まっています。聖ヨゼフと聖マリアは最後には大勝利を収めます。ですから、私たちは聖家族に従って、すべての反対にも関わらず、私たちのカトリックの家族を守っていかなければなりません。

 いったいなぜ私たちには、子どもがいないのでしょうか?
神秘的な意味があるのかも知れません。アブラハムとサラの間にも子どもがいませんでした。ヤコブにもラケルに子がありませんでした。レベッカにも子どもがありませんでした。聖エリザベトにも子どもがありませんでした。しかし太祖たちには子どもがなかったにも関わらず、お祈りをして、懇願をした後に、ついには子どもが与えられ、ものすごい民族となることができました。今、私たちにたくさんの赤ちゃんがいないという困難は、もしかしたら将来与えられるべき成功の試練の一つなのかも知れません。特に日本と韓国での状況は似ています。神学校に行くべき学生たちがいない、若い男性がいない。このことへの解決策として、私たちはいつも目をマリア様とヨゼフ様に注ぐことに致しましょう。必ず、天主は聖家族に勝利を与えてくださるに決まっているからです。

 もう一つの大変嬉しい印というのは、聖伝の信者の数が、非常な速度で増えつつあるということです。ですからついには聖伝の私たちの家族が、大木のようなものになる日が必ず来ます。私たちは祈り、天主様のあわれみに信頼し、お恵みに信頼して、聖家族を私たちの上に育てることに致しましょう。そのためにも奇跡的な潮の流れの変化がなければなりませんから、私はサント・ニーニョのご像を持ってきて、幼きイエズスが私たちに奇跡を起こしてくださることをお祈りしています。社会の基本の、最も大切な隅の親石である「家族」が、もう一度大きくなり、たくさん増え、ついには日本の、私たちの家族を復興させてくださるようお祈りすることに致しましょう。

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ウィリアムソン司教さまの言葉

2012年05月13日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今回は、ウィリアムソン司教さまと共に過ごす時間が与えられたことを感謝します。

 今日はマニラの勝利の聖母教会で、ウィリアムソン司教さまは、31人に堅振の秘蹟を授け、続いて司教荘厳ミサをなさいました。教会は信徒らでいっぱいでした。

「信仰を守れ、ロザリオを祈れ、フェレー司教さまの言うようにロザリオを唱えよ、聖ピオ十世会のために祈れ!!」と言われました。

 信徒の皆と昼食を取った後、3時からファチマの聖母について講話をされました。午後6時から聖母行列がありました。100人以上が最後までロザリオを15連唱え、教会に入堂しました。最後にウィリアムソン司教さまが祭壇の前にひざまづき、ロシアを聖母の汚れなき御心に奉献しました。天主様に感謝します!!

 マリア様は、私たち聖ピオ十世会とフィリピンとアジア管区に特別な恵みを与えて下さると確信しています。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
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天主様に感謝!! マリア様に感謝!!

2012年05月08日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 こんにちは!! 如何お過ごしでしょうか?

 日本の聖ピオ十世会では、5月3日から7日まで秋田の聖母のところに巡礼を行いました。今年もシャザル神父様と愛する兄弟姉妹の皆様のしもべが司祭として参加しました。

 今回は特別に、ロンドンからウィリアムソン司教さまが5日の土曜に秋田に到着になりました。55名の巡礼者が参加しました。たくさんのロザリオを唱えました。


 今回は、26名の方々が堅振の秘蹟を受けました。荘厳ミサもありました。


 今朝は東京で聖伝のミサがあり、8名の方々がミサ聖祭に与りました。


 全ての恵みを、天主様に感謝します!!

 ウィリアムソン司教さまは、私たちに、「警戒して、祈れ」「目覚めて、祈れ」「ロザリオを唱えなさい」「私たちを助けることができるのはマリア様だけです!」と、教えてくださいました。


 外国や日本の各地からいらした巡礼者の方々に感謝し、ウィリアムソン司教さまとシャザル神父さまとに感謝します。

 また秋田巡礼の成功のために陰で多くの仕事をして下さった愛する兄弟姉妹の皆様に心から感謝致します。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
アヴェ・マリア!

 追伸です。次のようなメッセージをいただきました。愛する兄弟姉妹の皆様にお知らせします。

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アベマリア!

私達の大切な小野田神父様、秋田巡礼で本当にありがとうございました!!!

神父様、体調がお悪かったのではありませんか?フィリピンに帰られてもお忙しいと思いますがどうかご無理なさいませんように。巡礼で頂いた沢山のおめぐみに少しでもお返し出来るよう、また今日から頑張って参ります。m(__)m

 私にとって、マリア様が全てになりますように!!!

天主様に感謝!秋田のマリア様に感謝!ヨゼフ様に感謝!です

では次の御ミサを楽しみにしています。

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トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
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