Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

2014年10月26日 聖ピオ十世会のルルド国際巡礼の動画

2014年10月31日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2014年10月26日にフランスのルルドの大聖堂で行われた聖ピオ十世会の国際巡礼での聖伝のミサの動画をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)






聖伝のミサ(いわゆる「トリエント・ミサ」と呼ばれているローマ式典礼様式のミサ)にようこそ!

ローマ・カトリックの聖伝のミサ vs エキュメニカルな新しいミサ(第二バチカン公会議のミサ)




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2014年10月の聖伝のミサのご報告:天主様に感謝!

2014年10月30日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 10月の聖伝のミサでは多くの方々とお目にかかれて天主様に感謝します。10月の御ミサのご報告を戴きましたので、ご紹介いたします。
 11月には、多くの聖伝のミサが日本で捧げられる予定です。天主様に感謝!
 12月の予定には少し変更があります。ご了承ください。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【大阪】
10月17日金曜日 聖マリア・マルガリタ・アラコック の祝日には13名の方が、

  18日土曜日 福音史家聖ルカの祝日の歌ミサには21人の方が御ミサに与るお恵みを頂きました。デオグラチアス!

【東京】
10月19日(主日)の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 14人(内、子供1人)
女: 19人(内、子供2人)
計: 33人(内、子供3人)

10月20日(月)には、10名の方々がミサ聖祭にあずかるお恵みを受けました。

【東京】
10月26日(主日)の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 12人(内、子供1人)
女: 13人(内、子供0人)
計: 25人(内、子供1人)

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参考資料:「マリア・ディヴァイン・マーシー」のヴィジョンと言われるものについて

2014年10月25日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 「マリア・ディヴァイン・マーシー」のヴィジョンと言われるものについてダブリン大司教区からの公式発表をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


STATEMENT OF ARCHDIOCESE OF DUBLIN
ON THE ALLEGED VISIONARY “MARIA DIVINE MERCY”

Requests for clarification have been coming to the Archdiocese of Dublin concerning the authenticity of alleged visions and messages received by a person who calls herself “Maria Divine Mercy” and who may live in the Archdiocese of Dublin.

Archbishop Diarmuid Martin wishes to state that these messages and alleged visions have no ecclesiastical approval and many of the texts are in contradiction with Catholic theology.

These messages should not be promoted or made use of within Catholic Church associations.

「マリア・ディヴァイン・マーシー」という幻視者に対するダブリン大司教区の公式声明。

「マリア・ディヴァイン・マーシー」と自称し、ダブリン大司教区内にいるかもしれない女性が受け取る幻視とメッセージの真正性について、当大司教区に調査の要請が来ていた。
ダーマッド・マーティン大司教は、これらのメッセージ、及びいわゆる幻視は、教会の認可を得ておらず、そのテキストの多くはカトリック教理と照らして、相反するということを声明したい。
これらのメッセージが、カトリック教会内で広められたり、使われたりしてはいけない。

聖伝のミサ(いわゆる「トリエント・ミサ」と呼ばれているローマ式典礼様式のミサ)にようこそ!

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パウロ六世の列福に関する聖ピオ十世会総本部の公式声明の日本語訳

2014年10月24日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
 パウロ六世の列福に関する聖ピオ十世会総本部の公式声明の日本語訳をご紹介します。
 愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

パウロ六世の列福に関する聖ピオ十世会総本部の公式声明


二〇一四年十月十七日

 二〇一四年十月十九日、家庭というテーマに関するシノドス(世界代表司教会議)の臨時総会の閉幕に際し、教皇フランシスコはパウロ六世の列福を進める予定とのことである。聖ピオ十世会は、何世紀にもわたる教会の掟の知恵を省くことを押し進めた近年の教皇たちの列福と列聖に関して、真剣に保留するよう表明することを望んでいる。

 回勅フマネ・ヴィテ [1] はパウロ六世の責任によるものであることは確かである。同回勅は、婚姻の基本的原則が厳しい攻撃にさらされていた当時、カトリック信者の家庭を導き、慰める手紙であった。その攻撃が、恥ずべき風潮の中で、今回のシノドスの一部メンバーたちによって、ふたたび起きている。

 だが、パウロ六世は第二バチカン公会議の閉幕に立ち会った教皇である。それによって、特に信教の自由、司教団体主義、エキュメニズムといった誤謬のうちに宣言された教義的リベラル主義を教会内に持ち込むこととなった。この結果は、一九六八年十二月七日にパウロ六世自身が次に述べる言葉で認めた大混乱をもたらした。「教会は今や、不確実性、自己批判に直面している。自己破壊であるという意見もあるかも知れない。あたかも教会はみずからに暴力をふるっているかのようだ」翌年、彼はこういって敗北を認めた。「多くの地域で、公会議は私たちに平和を与えてはいない。それどころか、教会内と霊魂のうちに天主のみ国を強めるために、まるで役に立たない問題と困難を巻き起こしている」一九七二年七月二十九日には、次のような恐ろしい警告を与えさえした。「サタンの煙が亀裂を通して天主の聖堂へと入り込んでいる。疑い、不安、不和、憂慮、不満、衝突が存在するのは目に見えて明らかだ……」だが、彼はただ事実を述べただけで、その一方で、教会の自己破壊を食い止められる手段を取り損なった。

 パウロ六世は,エキュメニズムを理由としてミサ典礼やその他の秘跡の典礼改革を強要した教皇である。オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿は、この新ミサを「全体的にも細部においても、トリエント公会議の第22総会で公式化されたミサ聖祭のカトリック神学から、著しく逸脱している」[2] ために非難した。 ルフェーブル大司教は「新しいミサは信仰に反する毒であるプロテスタントの精神が染み込んでいる」[3] と同じ路線に従って述べた。

 パウロ六世の治世下において、多くの司祭、修道者たちが、トリエント・ミサに忠実であるという理由で迫害され、排斥されすらした。聖ピオ十世司祭兄弟会は、一九七六年の排斥を深い悲しみのうちに記憶している。トリエント・ミサに愛着し、改革を断固として拒絶したために、自分は聖職停止の状態に置かれたのだとルフェーブル大司教は悟った。二〇〇七年になってようやく、ベネディクト十六世が自発教令を発布し、トリエント・ミサは決して廃止されたことはなかったとついに認められたのだった。

 聖ピオ十世会は創立者の足跡に従い、教会の二千年の聖伝に愛着すると再度宣言し、このような忠実さこそは、決して虚しいノスタルジアなどではなく、教会の自己破壊への実際的なふさわしい治療薬であると確信している。

二〇一四年十月十七日 メンツィンゲンにて

[1] July 25, 1968.
[2] 新しいミサに関する批判的研究
[3] 教会がどうなってしまったのか分からなくなってしまったカトリック信者たちへ ルフェーブル大司教の公開書簡


聖伝のミサ(いわゆる「トリエント・ミサ」と呼ばれているローマ式典礼様式のミサ)にようこそ!

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聖ピオ十世会本部からのパウロ六世の列福についての報道発表

2014年10月23日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖ピオ十世会本部からのパウロ六世の列福についての報道発表がありましたので、英語で愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

*****

Communiqué of the General House of the Society of Saint Pius X on the Beatification of Pope Paul VI


On October 19, 2014, at the close of the Extraordinary Synod on the family, Pope Francis will go forward with the beatification of Pope Paul VI. The Society of Saint Pius X wishes to express serious reservations concerning beatifications and canonizations of recent popes, whose rushed proceedings dispense with the wisdom of the Church’s centuries-old rules.

It is true that Paul VI was responsible for the encyclical Humanae Vitae[1], which letter instructed and consoled the Catholic family at a time when the most basic principles of marriage were under bitter attack. So they are again, and in a scandalous fashion, by certain members of the present Synod.

But Paul VI is also the Pope who saw Vatican II to its conclusion, thereby introducing in the Church a doctrinal liberalism manifested especially in errors such as religious liberty, collegiality, and ecumenism. The result was an upheaval which he himself admitted on December 7, 1968, in the following words: “The Church is now confronted with uncertainty, self-criticism, one might almost say self-destruction. As if the Church were doing violence to Herself.” The following year he conceded: “In many areas the Council has not yet put us at peace; it has rather stirred up trouble and difficulties which are useless for reinforcing the Kingdom of God in the Church and in souls.” He went so far as to give this dire warning on July 29, 1972: “The smoke of Satan has entered the temple of God through some crack: doubt, incertitude, dissension, worry, discontent, and conflict are plain to see…” But he was merely stating a fact, while failing to take those measures capable of stopping the self-destruction.

Paul VI is the Pope who imposed a liturgical reform of the rites of Mass the other sacraments for reasons inspired by ecumenism. Cardinals Ottaviani and Bacci denounced this new Mass because it departed “significantly, on the whole and in its details, from Catholic theology of the holy Mass as formulated during the 22nd session of the Council of Trent.”[2] Along the same lines Archbishop Lefebvre said that the new Mass was “infused with a protestant spirit” which is a “poison inimical to the Faith.”[3]

Under his pontificate many priests and religious were persecuted, and even condemned, for their fidelity to the Tridentine Mass. The Priestly Society of Saint Pius X remembers with great sorrow the condemnation of 1976 whereby Archbishop Marcel Lefebvre found himself suspens a divinis because of his attachment to that Mass and his categorical refusal of the reforms. Only in 2007, with the issuance of Pope Benedict XVI’s motu proprio, was it finally admitted that the Tridentine Mass had never been abrogated.

Following in the footsteps of its founder, the Society of Saint Pius X declares yet again its attachment to the Church’s two thousand-year-old Tradition, convinced that such fidelity, far from vain nostalgia, in fact provides an apt remedy to the Church’s self-destruction.

Given at Menzingen October 17, 2014

[1] July 25, 1968.
[2] In Brief Critical Study of the New Mass, preface of Cardinals Ottaviani and Bacci, September 3, 1969, sec. 1.
[3] Open Letter to Confused Catholics, Angelus Press September 2010.


聖伝のミサ(いわゆる「トリエント・ミサ」と呼ばれているローマ式典礼様式のミサ)にようこそ!

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今年の10月に、フランスのフラヴィニーの神学校に入学した神学生たち

2014年10月15日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今年の10月に、フランスのフラヴィニーの神学校に入学した神学生たちの写真をご紹介します。

聖ピオ十世会

聖ピオ十世会


20名の新しい神学生たちの国籍は、次の通りです。
- 12名 フランス
- 3名 イタリア
- 1名 イギリス
- 1名 カナダ
- 1名 スペイン
- 1名 ポーランド
- 1名 スイス

愛する兄弟姉妹の皆様のお祈りをお願い申し上げます。
天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


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ミュラー枢機卿との会見を終えて──フェレー司教へのインタビュー

2014年10月14日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

「ミュラー枢機卿との会見を終えて──フェレー司教へのインタビュー」の記事の日本語訳を愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

10月は、東京でのミサは、19日(主)聖霊降臨後第19主日です。
さらに、今月は、26日の主日にも東京でボーナスミサがある予定です。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

ミュラー枢機卿との会見を終えて──フェレー司教へのインタビュー

フェレー司教



二〇一四年十月三日

司牧は当然、教義に従わなければならない

司教は九月二十三日にミュラー枢機卿と謁見されました。二〇〇五年にベネディクト十六世と謁見された後に出された公式発表では既に、両者は「完全な交わりを目指し……段階的に、適当な期間にわたって話し合いを進める」とされていましたが、今回のバチカン報道局よりの公式発表はこの文言を繰り返したものとなっています。一方、二〇一四年の公式発表では「完全な和解」という言葉が使われています。これは、新規蒔き直しを計るという意味なのでしょうか?

フェレー司教 : その人の立場によっては、答えはイエスでもありノーでもあります。新しいことは何もありません、それは、教義についていまだに意見の相違があり──それは二〇〇九年から二〇一一年の間の神学的対話の際にきわめて明確になったのですが──そのため、二〇一一年以来教理聖省が私たちに提案している教義前提書に私たちが署名できない、ということを私たちの対話の相手も私たち自身も認識している、という意味においてです。

では、新しいこととは何でしょうか?

フェレー司教 : 新たな教皇と新たな教理聖省長官がおられることです。今回の面談が示していることは、先方も私たちも互いの関係を壊すことを望んでいないということです。すなわち、教会法的承認がなされる前に教義的問題を明確にする必要性があると、双方とも主張しているのです。これこそが、ローマ当局者の側からすると、私たちに教義前提書の承認を要求している理由であり、私たちの側からすると、その文書の曖昧さの故に署名できない理由なのです。

さらに新たな事実としては、教会内の危機が現在悪化していることがあります。家庭に関するシノドスを目前にして、離婚したのち再婚したカトリック信者による聖体拝領に関するカスパー枢機卿の提案に対して、枢機卿数名が行なった厳粛かつ理にかなった批判が明るみに出て来ています。かつてオッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿による「新しいミサ形式の短い批判的研究」(1969年のいわゆる「オッタヴィアーニ介入」)による批判が出て以来、ローマではこのようなことはありませんでした。しかし、いまだ変わっていないのは、ローマの当局者が私たちの公会議批判を考慮に入れていないことです。その理由は、今、教会内での深刻な問題があっても、ローマの当局者は私たちの公会議批判を二次的なもの、さらには現実離れしたものであるかのように思っているからです。教会の当局者たちは、今教会を頂点から──現在では枢機卿たちの間でも──揺るがしている危機を理解してはいますが、この前代未聞の危機の主な原因が公会議自体かも知れないとは考えません。これは「耳の聞こえない者同士の対話」のようです。

具体例を挙げていただけますか?

フェレー司教 : カスパー枢機卿の、離婚したのち再婚した人々による聖体拝領に好意的な提案は、私たちがまさに公会議のせいであるとしていることの実例です。今年の二月二十日、カスパー枢機卿が枢機卿会議の席上で他の枢機卿たちに行なった講話の中で提案したことは、公会議で行なわれたことをもう一度行なうことでした。すなわちそれは、カトリック教義を再確認しながら司牧的提案を提示することです。ジャーナリストとの数多くのインタビューで、枢機卿は教義と司牧的実践の区別を執拗に主張しています。枢機卿は、理論上教義は変えられないと言いながら、具体的には、現実的には、教義を適用できない状況が存在するという考え方を持ち出します。そうすると、彼の意見によれば、司牧的アプローチによってのみ解決策が見いだせるというのです……教義を犠牲にすることによってです。

一方私たちは、教義と司牧的実践との間に不自然な区別をしているという点において、 公会議に問題があると考えています。司牧的実践は教義に従わなければならないからです。数多くの司牧的な譲歩を通して実質的な変更が教会内に導入され続けており、教会の教義にも影響が及んでいます。これこそが、公会議の間に、そして公会議の後に起こったことです。今、結婚の倫理に対して用いられようとしている同じ策略も、私たちは非難するのです。

しかし間接的に教義に影響を及ぼした公会議での変更は司牧的な変更だけだったのでしょうか?

フェレー司教 : いいえ、実際には教義そのものについて重大な変更が導入されたことを認めざるをえません。つまり信教の自由、司教団体主義、エキュメニズム等においてです。ですが、これらの変更は具体的な司牧的適用の中に、より明白に、より明らかに現れているのは事実です。なぜなら公会議の文書の中ではこれらの変更は簡単な提案であったり、ほのめかされたりしているだけで、その多くが明確にされてはいないからです……ですからこれらの変更は、前総長であるシュミットバーガー神父の言葉によれば、「時限爆弾」となっているのです。

カスパー枢機卿の提案の中で、公会議中に導入された教義的変更がより明らかになるような司牧的な適用はどこにあるとお考えですか?「時限爆弾」はどこにあるとお考えですか?

フェレー司教 : 枢機卿は、九月十八日のバチカン付記者アンドレア・トルニエッリとのインタビューでこう述べています。「教会の教義というものは閉鎖された制度ではない。第二バチカン公会議が教えることは、教義には発展があり、すなわち教義を更に検討することができるということだ。私たちが教会学で成した、より深い理解と同じようなことをこのケース(すなわち、離婚した後に民事的再婚をしたカトリック信者のケース)に当てはめられるのではないだろうか。カトリック教会はキリストの真の教会であるがカトリック教会の組織的境界を超えたところにも教会的な要素が存在する。秘跡による結婚の要素の一部もまた、民事的結婚の一部のケースにおいて認めることはできないだろうか?例えば、 生涯にわたる献身、互いへの愛と配慮、キリスト教的生活と、内縁関係には存在しないような公的な誓約の宣言である。」

カスパー枢機卿の説はきわめて論理的であり、一切の矛盾がありません。エキュメニズムの名のもとに公会議で詳しく定めされた教会の新原則、すなわち、カトリック教会の外にも教会的な要素があるという新原則を、結婚に対して司牧的に適用することを提案しているのです。枢機卿は教会のエキュメニズムを婚姻のエキュメニズムに論理的に導いています。従って、彼の説によれば、秘跡による結婚の外にもキリスト教的結婚の要素がある、ということになります。これを具体的に考えるには、結婚生活の「エキュメニカルな」忠実、あるいは多様性の中の忠実についてどう思うかと夫婦に対して尋ねるだけで充分でしょう!また同じように、多様性の中で一致した「エキュメニカルな」教義的一致といわれるものを、私たちはいったいどのように考えればよいというのでしょうか?このような結果こそが私たちが非難していることなのですが、教理聖省はこれを理解していないか、あるいは理解したとしてもそれを認めません。

バチカンの公式声明にある「段階的に進める」という表現を、私たちはどう理解すれはよいでしょうか?

フェレー司教 : 教義についての話し合いを、これまでよりもっと幅広い、非公式な枠組みで続けることを、ローマと聖ピオ十世会が相互に望んでいるということです。

ですが二〇〇九年から二〇一一年の教義についての話し合いでは何も達成されませんでした。より幅広いやり方とはいえ、話し合いを再開することに何の意味があるのでしょうか?

フェレー司教 : その理由は、ローマ当局からの招きに応じて必ずローマに赴いたルフェーブル大司教 の例にならって、聖伝に対する私たちの忠実の理由を尋ねる人々に、いつも答えるようにしているからです。私たちはこの責任から逃れるようなことはできませんし、前回の総会で定義された精神と義務に基づいて、これをまっとうしてゆきます。

二〇〇五年にベネディクト十六世が私に接見してくださったことに先ほどちょうど触れてくださったので、そのとき私が「もしも教会が聖伝を守るなら現代世界における教会は、より強固なものとなるということを私たちは示したかった」と言ったことを思い出します。今日も私はこのことを繰り返して言いたいと思います。私たちの証言を教会に捧げたいのです。つまり、教会が現在陥っている悲劇的な危機を終わりにしたいなら、聖伝こそがこの危機への答えです。これこそが、私たちが深く愛している永遠のローマ、真理の母であり教師である教会に対する、子としての私たちの忠誠を示す方法なのです。

これは証言を与えることだとおっしゃいますが、むしろ信仰を告白することではないのでしょうか?

フェレー司教 : どちらか一方だけということではありません。私たちの創立者ルフェーブル大司教は、私たちが信仰を告白するのに用いる神学的議論というのはローマの当局者には必ずしも理解されないが、そうだからといって私たちがそのような神学的議論をする義務から免れるわけではない、とよくおっしゃっていました。加えてルフェーブル大司教は持ち前の超自然的な現実主義から、聖伝の具体的な実り、すなわち、神学校、学校、修道院や、司祭、修道士、修道女の数、また神学生、平信者の数もまた証拠として大きな価値を持っているとおっしゃっていました。これらの目に見える事実に対してうわべだけの議論は通用しません。ラテン語では contra factum non fit argumentum.(事実に反して議論はできない。)といわれます。この場合、このラテン語のことわざを翻訳するとすれば、イエズス・キリストのみことば「木はその実によってわかる」になるでしょう。この意味で、私たちは信仰を告白すると同時に、聖伝の生命力をも証言してゆかなければならないのです。



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Communiqué from the General House of the Society of Saint Pius X

Entretien avec Mgr Fellay après sa rencontre avec le cardinal Müller
Intervista con Mons. Fellay dopo il suo incontro con il Cardinal Müller
Gespräch mit Msgr. Fellay nach seinem Treffen mit Kardinal Müller
Entrevista a Mons. Fellay luego de su encuentro con el Cardenal Müller
Entrevista de Dom Fellay após o seu encontro com o Cardeal Müller

 


アンジェルス・プレス 2014年講演会:ミサ聖祭 教会の中心

2014年10月14日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 先日、聖ピオ十世会アメリカ管区で行われた「アンジェルス・プレス 2014年講演会:ミサ聖祭 教会の中心」Angelus Press Conference 2014 - The Mass - Heart of the Church のビデオ・クリップをご紹介します。(ティシエ・ド・マルレ司教様、クチュール神父様やジョン・ヴェナリさんなどが映っていて、嬉しく思いました。John S. Burke Catholic High School で長い間校長として働いていた Monsignor James Byrnes 神父様の姿も見えました。)

 天主様の祝福が豊かにありますように!
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オクラホマ市の黒ミサへの反応(聖ピオ十世会アメリカ)

2014年10月14日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖ピオ十世会アメリカ管区の記事「オクラホマ市の黒ミサへの反応」の日本語訳を愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。
 新しい管区長のもとで、公の罪を公に償う聖ピオ十世会アメリカの行動に賞賛を送ります!

10月は、東京でのミサは、19日(主)聖霊降臨後第19主日です。
さらに、今月は、26日の主日にも東京でボーナスミサがある予定です。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

オクラホマ市の黒ミサへの反応

原文はこちら A response to the Oklahoma City Black Mass

オクラホマ市の黒ミサへの反応


二〇一四年九月二十一日
アメリカ管区

九月二十一日の主日、オクラホマ市での悪魔的行為に反対する聖ピオ十世会の償いの行動に参加するため、アメリカ中からやってきたほぼ一〇〇〇名の信者たちの映像をビデオでご覧下さい。

Watch the video:
A response to the Oklahoma City Black Mass [YouTube]




市民センターでの戦い

聖伝カトリック信者たちは、オクラホマ市での悪魔的黒ミサに反対する償いの十字軍の呼びかけに、並外れた寛大さで応えた。わずか九日間の間に告知と計画が立てられ、六名の司祭、七名の神学生、フランシスコ会修道女たちのグループ、そしてほぼ一〇〇〇名の平信者たちがアメリカ各地から、九月二十一日、オクラホマ市を目指して集まった。

ダニエル・シマン(Daniel Themann)神父によって荘厳ミサがダンス会場で立てられた。会場は全員が入りきれず、数百名の信者たちはホテルのロビーへとなだれこみ、そこでミサの中継映像をライブビデオで見た。シマン(Themann)神父は説教の中で、良い兵士は彼の前にある憎悪によってではなく、彼が背負っている愛によって突き動かされる、ということを信者に思い起こさせた。市民センターにおいて市当局者たちによって許可された悪魔的冒瀆行為を糾弾しつつ、シマン(Themann)神父は、私たち一人一人もまたどのようなやり方であれ天主を攻撃したことがある、ということをも思い起こさせた。

人々はホテルを出て移動し、市民センターの入り口まで深い沈黙のうちに行進した。集中豪雨の予報が八〇パーセントの確率で出ていたにも関わらず、行列がロザリオ三環を唱え、町中にクリストゥス・ヴィンチトの歌声を響き渡らせ、市内を通り過ぎて市民センターへと向かうにつれて、焼け付くような太陽が行列の上に照りつけた。カンザスのセントメリーから来たThe Knights and Honor Guardが隊列を導き、イリノイ州オリヴェト(Olivet)のラ・サレット・ボーイズ・アカデミーの聖歌隊がミサの聖歌を歌い、親切な案内係を務めた。

ヴェグナー(Wegner)神父からの霊的武装の呼びかけがこのような結果をもたらすことは、人間的に言えば非常な短期間では不可能だっただろう。いくつかの教会が旅行のためにバスをチャーターすることを計画し、信者たちは、カンザス、オクラホマ、テキサス、イリノイ、ケンタッキー、ニューヨーク、そしてペンシルベニアから償いの精神でやって来た。

ミサと償いのロザリオ行列の後、アメリカ管区長は歌ミサを捧げたシェラトン・ホテルで参加者たちに昼食を提供し、ホテルに入りきれなかった人々は地元のレストランで食事した。聖伝信者たちの反応は、最も卑劣で不快な悪魔的行為でさえ、天主はご自分の偉大さを示すためにどのように利用できるかを実際に証明してみせている。アメリカ管区の聖職者と平信者は、天主の全能を公言することで、その道具として喜んで仕えた。天主の全能はそのおん力を嘲ろうと哀れにも試みているちっぽけな悪の勢力を超えるものである。



聖伝のミサ(いわゆる「トリエント・ミサ」と呼ばれているローマ式典礼様式のミサ)にようこそ!

ローマ・カトリックの聖伝のミサ vs エキュメニカルな新しいミサ(第二バチカン公会議のミサ)




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アメリカ──黒ミサを償うために、 オクラホマ市で開催された素晴らしい儀式

2014年10月14日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖ピオ十世会アメリカ管区の記事「アメリカ──黒ミサを償うために、オクラホマ市で開催された素晴らしい儀式」の日本語訳を愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

10月は、東京でのミサは、19日(主)聖霊降臨後第19主日です。
さらに、今月は、26日の主日にも東京でボーナスミサがある予定です。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

United States: Great ceremony in reparation for the black mass of Oklahoma City
アメリカ──黒ミサを償うために、
オクラホマ市で開催された素晴らしい儀式


二〇一四年九月二十六日

九月二十一日、オクラホマ市の文化センターで開かれる黒ミサ(DICI 300参照)の抗議者の数は、黒ミサの参加人数をはるかに上回った。九月二十二日にFOXニュースのウェブサイトに引用された地元新聞オクラホマ・ニュースペーパーによれば、参加するだろうと期待されたうち八十八人の観客のうち、約四十人から五十人ほどの人々だけが悪魔的儀式を支援した。

法律の範囲内にとどまるため、サタニストのグループは、黒ミサの通常の儀式をいくつか変更しなければならなかった。参加者たちは尿の代わりに酢を使用した。祭壇上で裸になるはずの女性は下着を着用し、参加者たちは聖別されていないホスチアに唾を吐きかけた。

この間、約一二〇〇名のカトリック信者たちが、Paul S. Coakely大司教の要請に答えて、オクラホマ市の教会の一つに結集した。建物は満杯になり、四百名の人々は屋外で祈らなければならず、さらに多くの人々は体育館や閉店中のカフェテリアに集まった。

FOXニュースのウェブサイトで引用された説教の中で、Coakley大司教は、オクラホマ市は「曖昧模糊とした勢力」のターゲットにされ続けていたと宣言した。だが、大司教はキリスト者としてこのように指摘している。「私たちはキリストがサタンを打ち破ったことを知っている。戦いにはすでに勝利している。キリストが打ち破ったのだ。だが、キリストがふたたび来たり給うて、永遠に君臨されるまで攻撃は続くだろう」

聖ピオ十世会アメリカ管区も、オクラホマ市の大きなホテルの一つで償いのミサを捧げ、続いて文化センターまでロザリオの聖母を称える行列を組織した。九月十二日にアメリカ管区のサイト上にアップされた記事の中で、管区長ヴェグナー(Jürgen Wegner)神父は、九月二十一日の主日に償いの聖体拝領のためミサに来れない人々に、この冒瀆の償いとして犠牲を実行するよう励ました。

(sources: apic/foxnews/sspx – DICI no.301, dated Sept. 26, 2014)


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聖ピオ十世会は五十一名の新神学生を歓迎

2014年10月13日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

「聖ピオ十世会は五十一名の新神学生を歓迎」の記事の日本語訳を愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

10月は、東京でのミサは、19日(主)聖霊降臨後第19主日です。
さらに、今月は、26日の主日にも東京でボーナスミサがある予定です。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

聖ピオ十世会は五十一名の新神学生を歓迎

原文はこちら

聖ピオ十世会は五十一名の新神学生を歓迎

二〇一四年十月六日

 今年、二〇一四年から二〇一五年にかけて、聖ピオ十世司祭兄弟会は各地の神学校での霊性の第一年目に、総勢五十一名の青年たちを歓迎した。

 北半球では、フラヴィニー(フランス)の「アルスの聖司祭神学校」は、新神学生二十名(フランス人十二名、イタリア人三名、イギリス人一名、カナダ人一名、スペイン人一名、ポーランド人一名、スイス人一名)と、四名のブラザー志願者(フランス人三名とイタリア人一名)を迎えた。

 ツァイツコーフェン(ドイツ)の「イエズスの聖心神学校」は、新神学生九名(ドイツ人三名、オーストリア人二名、ハンガリー人一名、ポーランド人一名、スイス人一名、チェコ人一名)、そして二名の予備神学生を迎えた。

 ウィノナ(アメリカ)の「聖トマス・アクィナス神学校」は、新神学生十四名(アメリカ人十二名、アイルランド人一名、オランダ人一名)、五名のブラザー志願者を迎えた。アメリカ人全員と十八名の予備神学生は、本格的な司祭準備の勉強(哲学・神学)を始める前に、人文学の授業を受ける予定である。

 南半球では、二〇一四年三月に始まった学年度に、新神学生四名(アルゼンチン人三名とメキシコ人一名)、そして三名のブラザー志願者(メキシコ人二名、チリ人一名)が、ラ・レハ(アルゼンチン)の「共贖者なる聖母神学校」に入学した。

 ゴールバーン(オーストラリア)の「聖十字架神学校」には、新神学生四名(オーストラリア人一名、アメリカ人一名、カナダ人一名とナイジェリア人一名)が入学した。

 総勢として、神学校第一年目の神学生は五十一名、二〇一四年のブラザー志願者は十六名となる。新神学生たちは二〇一三年には四十三名、二〇一二年には五十名、二〇一一年には五十七名、二〇一〇年には四十八名だった。

(Source : SSPX/MG – DICI dated October 06, 2014)

聖伝のミサ(いわゆる「トリエント・ミサ」と呼ばれているローマ式典礼様式のミサ)にようこそ!

ローマ・カトリックの聖伝のミサ vs エキュメニカルな新しいミサ(第二バチカン公会議のミサ)




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カスパー枢機卿の「離婚したのち『再婚』したカトリック信者たち」への新しい司牧的アプローチ

2014年10月05日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

フランツ・シュミットバーガー神父による「カスパー枢機卿の「離婚したのち『再婚』したカトリック信者たち」への新しい司牧的アプローチ」の記事の日本語訳を愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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原文はこちら


カスパー枢機卿の「離婚したのち『再婚』したカトリック信者たち」への新しい司牧的アプローチ

二〇一四年四月十二日

 今秋、ローマにおいて、家庭というテーマに関するシノドス(世界代表司教会議)の臨時総会が開かれる予定です。そこでは、世俗主義、すなわち、婚姻を伴わない同棲、離婚、避妊など、世俗性という特徴をもった世界におけるキリスト者の家庭の問題についての議論が重点的に行なわれます。この会議の準備のために、バチカンから司教たちにあてて特別アンケートが送付されました。このアンケートには結婚生活の倫理に関する個別の質問が含まれており、霊的指導者たちはこれに回答するものとされていました。ところが、一部の国、特にドイツ語圏諸国の司教たちは、このアンケートを一部の信者グループが回答するように転送してしまいました。そして彼らの回答は予想通りのものとなりました。

 これらの回答は、かつてはキリスト教国であった国々のキリスト教信者の結婚倫理の腐敗がすでにどれほど進んでいるかを示しています。「いわゆる禁じられた受胎調節の方法を使用したとき、罪の意識がありましたか?」という質問への回答は、「いいえ」が八十六パーセント、「はい」が十四パーセントでした。次の質問、「聖体拝領を控えたことがありますか?」に対しては、九〇パーセントが「いいえ」と答え、十パーセントが「はい」と答えました。アーヘン教区の回答からは、「教会の結婚と性の倫理は……多くの人々にとって信仰に対する妨げとなっている」ことがあきらかになっています。バンベルク教区の回答は、「倫理に関する教義に対して批判的な態度を表明」しています。エッセン教区では、聞き取り調査に回答した人々は「同性愛のカップルを祝福する儀式ができるようにする」ことに賛成でした。フライブルク教区の回答では、「教会で結婚式を挙げる前に同居することは、珍しいことではなく普通のこと」であるとしています。ケルン教区の回答は、「教会の教えは異世界のものであり、この世とずれている」となっています。マグデブルク教区の回答は、「結婚と家庭の領域において、教会はその権威を大部分失ってしまった」としています。マインツ教区の回答では、「人工受胎調節の禁止はほとんどの人々から拒絶されているか、関係のないものと思われている」と書かれています。オズナブリュック教区の回答は、「人々はますます教会に背を向けている」とし、ロッテンブルク教区の回答には、「コンドームの禁止は犯罪的だと考える」と書かれています。 トリーア教区でのアンケートの回答者たちは、「結婚、その失敗、新たなスタート、性関係の問題については、慈悲を」期待しているとしています。[1]

カスパー枢機卿の破壊的役割

 二月十七日から二十二日の一週間、教皇は枢機卿会議を招集され、新しい枢機卿の任命で締めくくられました。枢機卿会議の議題は特にシノドスの準備に当てられました。カスパー枢機卿は教皇から唯一の発言者に指名され、二月二十日木曜日の朝に枢機卿たちに長い講演を行いました。カスパー枢機卿の述べた内容を詳細に見る前に、私たちは彼の神学的立場に少しばかり光を当ててみたいと思います。

 カスパー枢機卿は一九三三年に生まれ、一九五七年に司祭に叙階されました。それから学問に専念し、ハンス・キュンクの神学助教授に任命されました。一九八九年にはロッテンブルク=シュツットガルト教区の司教に任命されました。司教としての十年間のうち、とりわけ一九九三年には、現在のレーマン枢機卿とフリブールのザイエル大司教(故人)とともに、離婚したのち『再婚』したカトリック信者たちの聖体拝領を支持する計画を立案していました。この計画は、当時の教理聖省長官ラッツィンガー枢機卿に断固として退けられました。一九九九年、カスパー司教はローマに呼ばれてキリスト教一致推進評議会の秘書官となり、その後すぐ同評議会の議長となりました。彼は一九九九年のカトリックとプロテスタントとの間のアウグスブルク共同宣言の起草と署名に深く関わりました。二〇一〇年には、高齢を理由にその職務から引退しましたが、昨年の教皇選挙ではホルヘ・ベルゴリオ枢機卿を教皇座に上げることを強く支持しました。

 では、カスパー枢機卿の著作をいくつかよく調べてみることで、彼の学術的研究を簡単に見てみることにしましょう。一九六七年、カスパー枢機卿はある記事の中でこのように述べました。「この世界と歴史の上に、不変の存在として王座に就かれる天主というものは、人間に対する侮辱である。人間は自らのためにこのような天主を否定しなければならない。なぜなら、そのような天主は、当然の権利によって人間に属する威厳と名誉を、自分のものであると主張するからである……。私たちはこのような天主に抵抗しなければならないが、それは人間のためだけでなく、天主のためにもなるのである。このような天主はまことの天主ではまったくなく、哀れな偶像なのである。というのは、歴史の傍らに、歴史を越えてのみ存在する天主──すなわち天主自身が歴史ではなければ──それは有限の天主だからである。このような存在を天主と呼ぶなら、では絶対者のため、私たちは絶対的な無神論者にならなければならないのだ。このような天主は融通の利かない世界観から生まれる。この天主は現状維持の保証人であり、新しさの敵である。」[2]

 枢機卿の著作「信仰への入門」の中では、諸々のドグマは「全面的に偏っていて、表面的で、頭が固く、常識のない軽率なもの」だという可能性があるという見解を述べています。[3]

 彼の研究「キリストのイエズス」の中では、新約聖書に書かれている数々の奇跡の報告に関して、このように書いています。「私たちは、文芸批評の観点から、奇跡の重要性を高め、奇跡を誇張し、奇跡を繰り返し書いている傾向があるとみることができる……。従って、奇跡の報告の内容は大幅に縮小される。」[4]さらに、枢機卿の意見によると、奇跡の報告は「イエズスの偉大さと力を強調するために、非キリスト教的モチーフをイエズスに引き写したものである……。形式歴史批判の観点からみれば、奇跡の報告の多くは、復活の経験をイエズスの地上での生活へと写し戻したものであったり、あるいは、栄光のキリストを先行して表象しているものなのである。」[5]これは、特にヤイロの娘、ナインのやもめ、ラザロの死からのよみがえりのことを指しています。「従って、自然を超える力を示している奇跡の数々は、元々の聖伝に派生的に付け加えられていったものにすぎないのである。」[6]

 キリストの復活に関する最古の福音の記述(マルコ16章1節~8節)について、枢機卿はこう述べています。「これらは歴史的な出来事ではなく、むしろ注意を引き、サスペンスを生み出す文体的仕掛けである。」[7] カスパー枢機卿の手にかかると、主の復活に対する信仰のみならず、キリスト教的教理全体が崩されてしまうのです。彼はこう書いています。「共観福音書によれば、イエズスは一度も自分を天主のおん子だと名乗ったことはなかった。であるから、彼が天主のおん子自身であるということは、あきらかに、教会による信仰告白であるにすぎない。」[8]別の箇所ではこうも述べています。「というわけで、イエズスは自分をメシアであるとも、あるいは天主のしもべ、天主のおん子であるとも呼ばず、おそらく人の子とも呼ばなかった。」[9]イエズスが「まことの人間にしてまことの天主である」という教理は、「見直すことが可能な事柄」である。[10]これは厳密な意味での近代主義、純粋な形の近代主義ではないでしょうか?そしてこの人物が、家庭と、現代の家庭が直面している緊急課題についての枢機卿会議で講話をするよう、教皇により指名されているのです!しかし、このような近代主義的信仰がキリスト教道徳の基礎としてなおも役に立つのでしょうか?すべての知恵の始まりである主への畏れのしるしはいったいどこにあるのでしょうか?(詩編110節10章参照)

二〇一四年二月二十日の枢機卿会議でのカスパー枢機卿の講話

 しかし、ドイツの司教全体会議にちょうど間に合うように三月十日にヘルダー社から単行本の形で出版された講義に戻りましょう。これが付け足しの見解であろうと思われるなら、とんでもない思い違いです。

 第一部では、枢機卿は創造の秩序、そしてキリストのあがないの秩序における家庭について考察しており、家庭生活における罪の構造と家庭内教会としての家庭について語っています。この中には、確かに正確で巧みに表現された考えが出てきます。例えば42ページには次の記述があります。「新たな心を持つためには、繰り返し新たな心をつくり、心の文化をもつことが必要である。家庭生活とは、『お願い、ありがとう、許して』という教皇の三つのキーワードに沿って営まれるものである。私たちは互いのための時間を持ち、安息日や主日をともに祝わなければならない。また自制、許し、忍耐を繰り返し実行しなければならない。仁愛の心、感謝の気持ち、優しさ、恩に報いる心、そして愛のしるしが繰り返し必要とされる。共に祈り、赦しの秘跡を受け、ミサを挙げることは、天主が夫婦の周りに置かれた結婚の絆を繰り返し強める助けとなる。年齢を重ねた夫婦、高齢になってもなお成熟したやり方で愛しあう夫婦に出会うのは、常に美しいことだ。これもまた、人類があがなわれたしるしである。」しかし、枢機卿が第4章の最後で主張しているように、家庭は本当に「教会の道」なのでしょうか?そうではなく、教会が家庭の道なのではないでしょうか?

 しかしながら、講話全体の主眼は、間違いなく第5章の離婚したのち『再婚』したカトリック信者たちの問題についてです。枢機卿は崩壊した家庭が増えていることは教会の未来にとっての悲劇であることに着目しており、それはまったく正しいことです。ただ残念なことに、この家庭崩壊の増加のもっと深い理由、つまり信仰の指導が骨抜きにされ、短縮され、改竄されたこと、また、キリストとその花嫁なる教会との間にある絆の写しとしての結婚の聖性について、そしてそのゆえの結婚の絆の非解消性についての指導が何年どころか何十年にもわたってまったく行なわれていなかったことについては、ここでは全く触れられていません。ここでは教区における信仰と道徳の教師としてのみずからの義務を放棄した犯罪を犯した司教たちが明確に告発されなければなりません。例えば、カスパー枢機卿はロッテンブルク司教として、季節を問わず、説教でも要理教育でも講話でも、結婚の聖性と非解消性を擁護してはいませんでした。

 枢機卿が、「私たちは、置き去りにされ、孤独のうちに人生を進む、捨てられた配偶者たちの勇敢さを讃え、支援することができる。」(55ページ)と述べるところでは、間違っていません。しかし、キリスト者はこのような勇敢さを実際必要とすることがありますが、それは人間の力によって作り得るものではなく、天主の恩寵の助けによって可能となるのです。これは現代でも、信仰に忠実にまもっている大勢の捨てられた配偶者たちの行動によって立証されています。聖パウロは、自分を強めてくださるお方において、すべてを成し遂げることができると言ったのではないでしょうか?

 これに続くカスパー枢機卿の文章はぞっとするような内容です。「だが、大勢の捨てられた配偶者たちは、子どもたちのために、新しい絆と新しい民事的結婚に頼り、責任を問われることなしにそれらをふたたび放棄することができない。以前の苦い経験ののち、そのような絆において、彼らはしばしば実に真に天からの贈り物である人間的な幸福を享受している。」(55ページ、下線は筆者)単刀直入に言いましょう。このような新しい絆は、結婚の非解消性に対する攻撃であり、重大な罪でありつづけるのです。このような罪深い絆から生まれる子どもたちのために、その絆を単に放棄する訳にはゆかないことは、私たちは躊躇なく認めますが、二人は兄と妹のように暮らさなければなりません。その結果、次のバラグラフで述べられていることはあまり役に立ちません。「秘跡による結婚の非解消性、そして相手の配偶者が生きている間の二度目の秘跡による婚姻の不可能性は、教会の信仰の聖伝の拘束力ある一部分です。」(55ページ)

 このさらに先の文で、枢機卿や彼と同じ思いを持つ友人たちの考えが本当に明らかになります。そこにはこう書かれています。「私たちは現在、自分たちが先の公会議と似たような状況にいると気づいている。当時、聖職者たちはエキュメニズムや信教の自由の問題について話し合った。その時、前進する道を妨げるような教皇の回勅や聖省の決定が存在した。それにも関わらず、強制力のある教理の聖伝に疑問を問いかけることなく、公会議はドアを開いたのだ。」(57ページ)これこそ聖ピオ十世会が長年非難し続けていることです。すなわち、公会議は誤謬へとドアを開け放ち、その結果、実質的に公会議後の危機の原因となったのです。枢機卿閣下はこの「さらなる発展」を「法的かつ司牧的な解釈で」正当化しました。(60ページ)

 教皇ベネディクト十六世は、離婚したのち『再婚』したカトリック信者たちが秘跡としての聖体拝領をすることを許しませんでしたが、カスパー枢機卿によれば、霊的聖体拝領はできると認めていたとのことです。枢機卿は、なぜこのようなカトリック信者たちが聖体拝領できないのか、と問います。答えは簡単です。霊的聖体拝領においては、現在の罪深い生活を悔いて、その罪の現状から抜け出す方法を見つけてくださるよう天主に乞い願うだけです。しかし、秘跡による聖体拝領を許可すれば、罪深い状態を認めてしまうことになり、離婚と同棲を祝福し、罪人がこの世においても永遠においても滅びへの道へ歩むのを承認することになってしまいます。ちなみに、枢機卿が提案した、離婚したのち『再婚』したカトリック信者たちが聖体拝領をすることができるまでのつぐのいの期間についても同じです。悲しみと同様、償いには生活を改めるという真剣な目的が伴わなければなりません。そうでないなら意味がないからです。聖霊は、聖パウロの説教や手紙を通して、主のおん体をわきまえずに飲食する者、つまり秘跡による聖体拝領をする者は、自分自身への裁きを飲食することだと宣言したのではないでしょうか?(コリント前書11章29節)では、教会の教えは、これほど無慈悲であり、霊魂たちに対してこれほど残酷で、これほどの不正があるのでしょうか?カトリック教会のカテキズム全書は、全聖伝とともに、罪人への叱責は霊的なあわれみのわざであるとしています。ここでは、公会議後の聖職者たちが、どれほど霊魂の救いという超自然的な見方をほぼ完全に失ってしまったかがわかります。カスパー枢機卿は、罪を憎むことと、罪人にあわれみを示すこととの区別ができていないのは明らかです。枢機卿団の兄弟たちの異議に対する答えにおいて、カスパー枢機卿は、あわれみとは「真理を解釈するための解釈学的原則」だと強調して (79ページ)──この議論をもってすれば、すべての教理は空洞化され得ることになります──エピケイアを持ち出すのです(82ページ)。この法的専門用語が意味するところは、立法者がいない場合、具体的なケースについては、それが明らかに法律の文言に当てはまる場合であっても、立法者がそのような難しいケースにそれを強制する意図がなかったと推定する理由がある、とすることです。しかし、天主は創造主として全ての被造物に自然法を刻まれ、すべての状況を予測され、また現存されるのですから、自然法に関してはエピケイアは当てはまらないのです。

教皇の見解

 木曜日の朝の講話の後、午後の枢機卿会議ではカスパー枢機卿の講話に反対があり、一部の枢機卿は強い反対意見を表明しました。しかし、金曜日の朝、教皇フランシスはこのカスパー枢機卿を高らかに賞賛する言葉を口にしました。「私は教会に対する愛を見いだしました……。もう一つ言っておきたいのは、昨日、カスパー枢機卿の書いた文書を就寝前に──眠り薬としてではありませんが!──何度も何度も読みました」と、教皇は枢機卿会議の二日目の最初に話したのです。フランシス教皇が言っていたのは、カスパー枢機卿の講話のことです。「また、私は枢機卿に感謝したい。これが深遠な神学的研究であり、静謐な神学的省察であると思ったからです。静謐な神学を読むことは喜びです。そして、聖イグナチオがsensus Ecclesiae(教会感)と呼んだ、聖にして母なる教会に対する愛を見いだしました……。それは私にとって善いものであり、私には一つの思いが浮かびました──枢機卿、あなたを当惑させるならどうかご容赦を──私の思いとは『跪いて実行する神学』と私たちが呼ぶものです。ありがとう、ありがとう。」[11]

さらなる数々の結果

 カスパー枢機卿の講話の後、枢機卿会議の席で受けた反対の他に、言うまでもなく、賛成する者もいました。ミュンヘン大司教であるマルクス枢機卿はカスパー枢機卿の講話に熱狂的反応を見せました。マルクス枢機卿は、この講話はその後すぐには終わることのない議論の「序章」であった、と述べました。教理聖省長官であるミュラー枢機卿が、カトリックの教え、特に結婚の非解消性と、その結果として、離婚したのち『再婚』したカトリック信者たちが聖体拝領をすることが不可能なことを喚起した時、マークス枢機卿は、ミュラー枢機卿を、公に、辛辣に叱りつけました。ウィーン大司教であるシェーンボルン枢機卿も、この講話に感動したと述べました。シェーンボルン枢機卿はウィーンの大司教区新聞の最新号で、カスパー枢機卿の講話を「素晴らしくよく練られた」ものであり「傑出している」と書きました。シェーンボルン枢機卿は、これは「家族の問題がどこにあるかを探ること」であるとしています。[12]

 カスパー枢機卿の講話によって開かれた傷口は、長い時間をかけて化膿していくでしょうし、枢機卿が教皇に支援されていることもあり、キリストの肢体を酷く傷つけ続けることでしょう。ミュンスターでのドイツ司教全体会議の席では、特に新しい議長を選んだ時、たちまち明白な分裂が見られました。

 今巻き起こり始めた議論は、堤防にできた新しい亀裂です。これは、パウロ六世の回勅フマネ・ヴィテが出た後の「ケーニッヒシュタイン宣言」によって起きた議論に似ています。この宣言文書の中でドイツの司教たちは結婚した夫婦が個人の良心に従うことができると決定しました。フライブルク大司教区の大司教区司牧的ケア・オフィスによって二〇一三年九月に発行された「司牧的ケアに対する援助」という文書を読むと、結婚の倫理に対する今後の結果を予測することができます。そこには、次のようなことも書かれています。

「二度目の結婚の絆は、結婚という秩序ある形をとり永久に同居するという断固たる、公に目に見える形の意志を示した道徳的現実として、相当長い期間にわたって続いたものでなくてはならない……」「二人が共同して実現する人間的価値に基づき、とりわけ互いへの責任を負う意志を公的な、法的拘束力を持つ形で示しているため」、このような伴侶たちは、「道徳的な認定を受けるに値する……。この二人は、自分たちの生活の中で天主から配慮を受け、守られているとみずから確信できることを望んでいる。二人は新たな人生計画の大胆な門出のための力づけと信頼を与える司牧的ケアを受けることを望んでいる……。このしるしとしての祝福とろうそくの儀式を行なう……」

 これに従って、このような二人を祝福する典礼儀式が行われます。「復活の大ろうそくから一本のろうそくを灯し、二人はそのろうそくを一緒に持つ。」そして次のような祈りをすることが勧められています。「祈りましょう。永遠の天主よ、私たちはあなたのうちに許し、愛、新しい命を見いだします。あなたはすべての命を輝かせてくださいます。このろうそくを祝福してください。ちょうどこのろうそくの光が闇を照らし出すように、あなたはすべての人間の人生の道のりに光を照らしてくださいます。○○と△△のために光となってください。彼らが幸福な日々にあなたを賛美し、逆境においてはあなたの助けを通して回復し、彼らが行うすべてのことにおいてあなたの支えがあると実感できますように。私たちの主イエズス・キリストによって。アーメン。状況や場所によっては、(新しい)全家庭のための祈り(祝福の本、239ページ)を唱え、家庭の祝福(祝福の本、270ページ)を行なうのがよい。」

 これは、同棲を祝福し、従って罪を祝福することにならないはずがないではありませんか?

 カスパー枢機卿は、その提案において、秘跡による聖体拝領は、同棲状態で暮らしているカトリック信者たちのうちの一握りの少数のためだけになるであろうとしています。しかし、この選別をする責任者は誰なのでしょうか?そうすると、それ以外の人たちはすべて愚かな人に見えるのではないのでしょうか?「ケーニッヒシュタイン宣言」の時と同様に、ダムは既に決壊しており、問題とされている人々による汚聖的な聖体拝領は、たちまちあらゆるところで例外ではなく原則になってしまうことでしょう。

 新近代主義者たちは、公会議において、また公会議後に、信仰と教会の聖伝を著しく傷つけましたが、少なくとも公けには、教会の道徳的教えをある程度まで擁護していました。カスパー枢機卿は今や、これをも攻撃するためのトランペットを吹き鳴らしているのです。

結婚に関する教会の教え

 キリスト者の結婚は、天主がその民と交わした契約、いやむしろ、イエズス・キリストと彼の教会との間の婚姻的一致を霊的に写したものです。一旦婚姻がなされれば解消はできず、また婚姻は主ご自身によって、まことの、正当な秘跡として制定されたものです。婚姻の第一の目的は命を伝え、天主によって与えられた子どもたちをまことのキリスト者にするよう養育することです。第二の目的は配偶者相互の扶助と聖化です。加えて、無秩序な肉の欲望に対する薬でもあります。

 男女の絆としての婚姻の尊厳と聖性と非解消性を擁護するため、キリストのみことばを引用しましょう。「人は神がお合わせになったものを離してはならない」(マテオ19章6節)、また「自分の妻を出してほかの女と結婚する人は姦通をおかし、夫から出された女と結婚する人も姦通をおかすのである。」(ルカ16章18節)ですから、キリスト者が自分の配偶者が生きている間に新しい民事的結婚を行なうなら、それは姦淫であり、秘跡にあずかるのを妨げる重大な罪です。「思い誤るな、姦通するものは……神の国を嗣がない。」(コリント前書6章9節参照)これこそが教会の永遠の教えであり、一五六三年十一月十一日、トリエント公会議が第24総会の第7カノンにおいて最高の明確さをもって、改めて定めたものです。婚姻の秘跡についてのカノン7にはこう書かれています。

「婚姻の絆は、配偶者の一方が姦淫を犯したという理由で解消することができず、姦淫の機会を与えることのなかった無辜の配偶者も含め、配偶者の双方が、相手方の配偶者の生存中に別の婚姻をすることができず、姦淫を犯した女を去らせた後に他の女と結婚する男は姦淫の罪を犯すこと、また姦淫を犯した男を去らせた後に他の男と結婚する女も同様に姦淫の罪を犯すこと、これらのことを聖書と使徒たちの教理[マテオ5章32節、19章9節、マルコ10章11節以下、ルカ16章18節、コリント前書7章11節参照]に基づいて、教会が過去にも現在でも教えていることについて、教会が誤っていると言う者は排斥される。」[13]

 最近では、教理聖省が一九九四年九月十四日付の手紙の中で、離婚したのち『再婚』したカトリック信者たちの聖体拝領について、これを否定しました。これに対して強硬な反対があったため、ラッツィンガー枢機卿は、抗議と非難とに答えて結婚の非解消性についての教会の教えを再度確認しました。

 十五世紀には、イギリスのヘンリー八世が女官のアン・ブーリンと新しい結婚をしようと試みたとき、ローマ聖座は、結果として一つの国全体がローマ教会から離れてしまうという高い代価を払っても、婚姻の聖性を守りました。さらにさかのぼれば、すでに洗者ヨハネが不義を犯したヘロデを咎めています。「兄弟の妻をめとるのはよろしくない。」(マルコ6章18節)この証言をしたために、洗者ヨハネは自分の命を捨て、血を流しました。教会の聖職者たち、誰よりもまず、司教たちとローマ聖座の代表者たちが、真理と揺るぎなさに対する愛を示すことによってのみ、キリスト教世界を回復させることができるのです。


二〇一四年三月二十五日、ツァイツコーフェンにて
聖母へのお告げの祝日
フランツ・シュミットバーガー神父
イエズスの聖心神学校校長
聖ピオ十世会前総長

†††

[1] 引用は雑誌「Der Spiegel」vol. 2014, no. 5.より。
[2] ノルベルト・クチュキ編「Gott heute: 15 Beiträge zur Gottesfrage」(Mainz: Matthias-Grünewald-Verlag, 1967)中のエッセイ、ヴァルター・カスパー「“Gott in der Geschichte”」、強調点は筆者。
[3] ヴァルター・カスパー「Einführung in den Glauben」(Mainz: Matthias-Grünewald-Verlag, 1974, 19837)、9.4章、148ページ。
[4] ヴァルター・カスパー「Jesus der Christus」(Mainz: Matthias-Grünewald-Verlag, 19787)、パートII: Geschichte und Geschick Jesu Christi, III章, 105-106ページ。
[5] 上掲書、106ページ。
[6] 上掲書、106ページ。
[7] 上掲書、149-150ページ。
[8] 上掲書、129ページ。
[9] Theologische Meditationenシリーズ(Zürich, Einsiedeln, Köln, 1973)第32巻、ヴァルター・カスパー、ユルゲン・モルトマン「Jesus ja―Kirche nein?」中のヴァルター・カスパー「“Jesus und der Glaube”」、20ページ。
[10] ヴァルター・カスパー「Einführung in den Glauben」、55ページ。
[11] 「“Pope Francis greets Ukrainian Cardinals and praises Cardinal Kasper’s ‘kneeling theology’”」、Vatican Information Service、2014年2月21日。
[12] ジウゼッペ・ナルディ、Katholisches.info、2014年2月27日。
[13] デンツィンガー、「The Sources of Catholic Dogma」、Roy J. Deferrari翻訳[1955]、原書はHeinrich Denzingerの「Enchiridion Symbolorum」第30版(Fitzwilliam, NH: Loreto Publications, no date)、297ページ。

聖伝のミサ(いわゆる「トリエント・ミサ」と呼ばれているローマ式典礼様式のミサ)にようこそ!

ローマ・カトリックの聖伝のミサ vs エキュメニカルな新しいミサ(第二バチカン公会議のミサ)




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2014年9月14日 シュテーリン神父様霊的講話(東京)

2014年10月04日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今日は、初土曜日で、アシジの聖フランシスコの祝日です。

 先月、東京で行われたシュテーリン神父様の講話の内容を書き起こしてくださった方がおられますので、感謝しつつ、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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2014年9月14日 シュテーリン神父様霊的講話(東京)

ご招待と、そして【歓迎の横断幕を見て】ここに来た歓迎のこの言葉、歓迎の皆さんの温かい心をありがとうございます。
【横断幕のご自分の写真を見て】非常に私達は若く見えます。そして、この皆さんの歓迎の言葉を感謝します。(日本語で)アリガトウ。



そして、ここには、「Omnia instaurare in Christo per Immaculatam」という、聖マキシミリアノ・コルベ神父様のモットーを掲げられています。これは私の、コルベ神父様は私の人生の、一番の理想のモットーです。
今日のこの講話では、「Omnia instaurare in Christo per Immaculatam」という、このマキシミリアノ・コルベ神父様のモットーの意味を説明したいと思います。



この最初の部分は、「聖パウロのエフェゾ人への手紙」の中から取られています。これはキリストにおいて全てのものを新しくさせる、刷新させるという意味です。キリストを私達の中心に置く、という事です。全てをキリストに向けて、キリストが私達の頭であって、その命令をする指導者だ、という事を意味します。このモットーこそ、私達の深い信仰の確信を表しているもの、と知らなければなりません。何故かというと、私達はキリスト者であって、カトリック信者であって、特別の恵みを受けた者です。

この地上にいる全ての善意をもっている人達は、そして知恵が、頭を使う事ができれば、天主が在す事は知っています。そして、天と地を創った創造主がいて、私達自身をも創ったということを知っています。しかし、この創造主がどなたか、というのを知っている人はそんなに多くありません。異教徒の人々や、イスラム教の人々、或いはその他の宗教の人々は、自分の礼拝するべき天主は三位一体である、という事を知りません。
そしてところが私達は、創造主である天主が私達に啓示を垂れて、そしてこの天地の創造主が実は、イエズス・キリストであって、誰も囲いきれない様な、計り知れない大海の水が、もう小さな私達の方にやって来た、という事を知っている者です。

私達は全てのものをイエズス様から受けました。そしてイエズス様のおかげで又私達は、永遠の喜びと、永遠の幸せと、永遠の若さと、死を知らない命を受ける事ができます。

私達は、イエズス・キリストが一体どなたかを知らなければなりませんし、もう一度学ばなければなりません。
イエズス・キリストは、私達にとって全てでなければなりません。皆さんが今こう在るのも、今持ってお持ちになっている物も、みんなイエズス様からのものです。
そして昔私達は、罪を犯した暗闇にいた者ですけれども、しかし今、真理を知って光の中にいて、罪から赦されて罪から解放されて今いるのは、イエズス・キリストのおかげです。



この今地上では、二つのグループ・陣営があります。二つのグループは、互いに戦い合って挑み合って、敵対しています。

一方で、原罪以来この地上を支配しているグループがあります。それは、悪魔です。直接この悪魔は、人間を今支配しています。何故かというと、人間は罪を犯す事によって自分を、悪魔の奴隷、と与えているからです。そして悪魔は人間に、間違った人生についての考えを与えます。そして、頭の良い人達を使って、偽の宗教を作り上げました。そして悪魔は、イデオロギーを作り上げさせて、そしてイデオロギーの持ち主達に、悪魔達が考える事と同じような事を考えさせます。
そして、この悪魔が作り上げたイデオロギーの最も悪いものは二つあって、それはフリーメイソンと、もう一つは共産主義です。そしてこの二つの組織は、悪魔が全人類の歴史の最初に、人間をそそのかしたその二つの単語を、現実のものとさせています。
そしてこの悪魔はまず、まだ光の天使であった時に、天主にこう言いました、「私は、仕えない。Non, serviam」と。

そして第二の言葉は、人祖アダムとエバに言った言葉で、「お前達は、神のようになるだろう、天主のようになるだろう。」

そしてこのイデオロギーが、私達にそそのかしてこれをへつらって、私達を信じさせようとしているのは、人間を高めて、そして人間を礼拝させる事、そして天主への礼拝をそっちのけにする、という事です。
そして今この現在の世界は、このイデオロギーに支配されています。
全ては、お金を追及して、この地上に楽園を作ろうとしています。そしてこの短い人生の間で、この地上で、私の快楽と、そして私の自由と、私の幸福を求める。今ここで、自分の小さな楽園を作ろうとさせています。
そして今の現代の人達は、映画や、そして食べる物や、飲んだり、快楽を追及して、今この地上で、今ここで楽園を楽しもうとしています。そして、それをする事ができるお金を十分持っていない人達は、そのようなお金を持っている人達を恨みます。
そして人間は、本当に本質的に一番大切なものを忘れてしまいます。

この人生は非常に短いものです。こんなものです。その後では、終わりのない命が待っています。
もしも、フリーメイソンとかこの世のイデオロギーに従って、来世の事など考えるな、そんなのない、と信じさせられたとしたら、そうすると私達は、この小さな無に、全てを集中させなければなりません。これが、悪魔のイデオロギーです。これは色んな名前がついています。「あなたは、ちょっとだけ神のようになるだろう、天主のようになるだろう。」「で、その後は何になりますか?」と、聞くと、「その後は、知りません。」
そしてその罠にかかってしまうと、本来行くべき道から外れて、別のレールに行って、そしてそこの行きつく先は、地獄なのです。

近代主義とは一体何でしょうか?近代主義が言うのは、「天主様にお祈りしなさい。そうすると、今、この地上で、幸せになりますよ。」そして近代主義によれば、最も私達に大切なのは、今、ここで、地上で、互いに相互に理解し合う事こそが大切だ、と。
全ての宗教が互いに理解し合って一つになって、互いに抱擁し合えば、そしてそれでOKだ。
では一体、悪魔との戦いとか、或いは地獄に堕ちる危険とか、そういう事は今最早、沈黙されています。
そしてこの快楽を追及して、ロックンロールでその楽しい、今、ここで楽しいフィーリングを楽しむ、というのが、それが今宗教となってしまっています。

そして、イエズス様が今ここで、そのようなイデオロギーに戦いを挑みます。
今からちょうど百年前、偉大な教皇様が、聖ピオ十世教皇様が教皇様となりました。
そしてキリストの代理者として、この全世界にこう宣言しました、「全てを、キリストにおいて新しくさせる。」そして、聖ピオ十世教皇様はその敵達に、「全てこの世の地上での快楽に集中させるのではなくて、全てを、キリストにおいて新しくする。」と。しかも、本当のキリストであって、キリストが、御自分はこのようなものである、と啓示されたそのままのキリストであって、教会が二千年間教え続けた本当のキリストにおいて、復興させる。

キリストだけが、私達に永遠の命を与える事ができます。もしも私達が、キリストに忠実であるなら、必ずそうする、と約束しました。


私達は、キリストに一致させなければなりません。どうやったら良いでしょうか?
私達から、イエズス・キリストを傷付け、イエズス・キリストを悲しませる全てを取り除かなければなりません。
この十字架から流れる貴き御血を、滴る御血潮を見て下さい。この血潮のみが、私達を罪から解放して、罪を赦すことができます。その他の一切できません。そして、これは悔悛の秘跡を通して私達に与えます。
しかし、でもこれが全てではありません。どうやったらキリストと一つになる事ができるでしょうか?
イエズス・キリストの御旨を果たす事です。イエズス様が望む事をすることです。キリストはこう言います、「私は、あなた達に掟を与える。私は道であり、命であり、真理である。私だけが。」
そして、私達がもしもイエズス・キリストを知らないで、どうやって一致する事ができるでしょうか。イエズス様が教えた事や、その御生涯を知らずに、どうやってイエズス様を知る事ができるでしょうか。
では、全てをキリストにおいて新しくする、復興させるとはどういう事か、皆さんお分かりの筈です。これは、私達がこういう確信と信仰を持つ事です、つまり私達の持ってる全ての苦しみや、困難や、悩みや、或いは汚い罪を、全てイエズス様によって赦され、解放されて、そしてその為にイエズス様のもとに行く、という事です。
今日、私達はこの事をここでも見ますし、ご自分の所でもご覧になるはずです。
その一方で、私達の良心は、「あぁ、御身こそが私達を罪から解放させる、唯一の救い主である。」と、言いますけれども、他方で別の声が、「あぁ、今日はあそこで何か催し物がある、あそこで楽しい事がある、あそこで何か遊びがある。」と、言って、闘いがあります。

カトリック教会の教えによれば、教会は、この地上にある教会は、戦闘の教会といわれている事をご存知ですか。
ここに、私達がこのモットーとしてただ字だけ書いて、あぁ、キリストにおいて全てを復興させる、或いは、イエズス様を愛しています、というのを口だけで言うのは簡単です。

しかし実際これは、死の時まで続く闘いなのです。この悪との闘いをする為には、力が必要です。その力は、無原罪のマリア様が、汚れなきマリア様が私達に下さいます。その全てをキリストにおいて復興させる、という事は、キリストのアイディアで満たされる、という事です。ここにも、また同じ闘いがあります。

皆さんには二つの可能性があります。良い本を読む事もできますし、たくさんある訳ではないんですけれども、良い映画を見る事もできます。或いは、イエズス様の御教えの御言葉の書かれた聖福音から、或いは、諸聖人の教えの書いた本を読む事もできます。そして、このキリスト教の深い真理を発見する為に、勉強する事もできます。
そして、或いはその代わりに、テレビの前やコンピューターのスクリーンや或いは携帯の前に行って、ハリウッドかホリウッドかの映画を見る事もできます。

私は、一九八六年に司祭としてガボンに最初に飛行機に乗った時に、一つの映画を見ました。二日前、シンガポールから大阪まで飛行機に乗った時には、その自分のイスの前には本があって、四百本の映画の中からどの映画を見ますか、という選択の余地がありました。
そしてこの今現代、私達はもう多くの誘惑と選択によって誘惑を受けていますが、そして、私達の感覚をこう楽しませる事はできるけれども、霊的な糧とは全くならないものです。

聖ピオ十世は、現代のカトリックに対して最も悲惨な状態は何だと言うと思いますか?
それは、信徒がキリスト教に対して、信じられないほど無知である事だ、と言います。
今私達はこの周りに行くと、色んな所で色んなレベルで、大学教育を高等教育を受けた色んな専門家たちが沢山いますけれども、キリスト教のいろはも知りません。
ですから、キリストにおいて全てを復興させるというのは、まずキリストの事を知って、キリストについて黙想して、キリストの事に時間を費やす、という事です。
そして、全てをキリストにおいて復興させるというのは、ただ単にイエズス様にお祈りするだけでなく、そしてイエズス様に告解するというのみならず、そしてイエズス様の事を深く知るのみならず、私達がイエズス様の御旨を果たす為に、私達の生活を変えるという事です。
これはどういう事でしょうか?例えばどういうことかというと、私の家族においては、イエズス様が家族の王であるように生きる。或いは、子供に良い環境と良い教育を与える為に力を尽くす、その為には犠牲を払う。或いは私の職場で、イエズス・キリストの弟子として、御説教をするのではなくて良い模範を示して、高貴なカトリック信者としてのその生き方によって、模範を示す。

聖ピオ十世教皇様は、そのご自分の全生涯をとおして、このOmnia、全て、をキリストにおいて復興させるというものを、本当に実現できるものとして、生きて模範を見せました。
まず教皇様は、司祭生活、神学校を聖なるものとする事によって、司祭達が司祭の養成において、益々キリストの御旨にかなう司祭を養成させました。
典例においても、益々光り輝く力として、イエズス様を賛美する典礼にしました。
御聖体の教皇様として、小さな子供達さえも御聖体を拝領する事ができるように配慮して、そして多くのカトリック信者を招いて、頻繁に御聖体拝領するようにと招きました。そして、毎日のように御聖体拝領しなさい、とさえされました。

ちょうどマキシミリマノ・コルベ神父様が、神学生としてローマに到着したその頃、聖ピオ十世教皇様がお亡くなりになります。若き神学生としてコルベ神学生は、この教皇ピオ十世に非常に感銘を受けていました。私も同じ事をしたい。
マキシミリマノ・コルベというのは、火のついた霊魂でした。強い性格をもっていました。闘う人でした。
子供の頃はよく、毎日のようにこうズボンに穴をあけて帰ってきました。何故かというと、友達と喧嘩をして帰って来たからです。そして母親のマリアンは、その子供に起こっている事について本当に心配しました。「レイモンド、(これは洗礼名ですけれども)お前がこんなにこんな事をしている、大きくなると、小さな悪魔になりますよ。」と。マキシミリマノ・コルベは、非常にこの言葉に驚いて、びっくりして、何故かというと、イエズス様の事を深く愛して、イエズス様に仕えたいと思っていたんですけれども、それができなかったから。
そこで、マリア様の所に行って助けを求めました。そして沢山のお祈りをした後に、マキシミリマノ・コルベは、マリア様の御出現を受けます。そしてマリア様は、マキシミリマノ・コルベに二つの冠を見せます。純潔の貞潔の白い王冠と、もう一つは殉教の赤い王冠でした。そしてマリア様が、「どちらを選ぶか。」と言うと、マキシミリマノ・コルベは、「二つとも下さい。」
そしてその時から、彼の人生は全く変化をしました。マキシミリマノ・コルベは、イエズス・キリストに従う事ができるようになったんですけれども、しかも、マリア様を通して、それができるようになりました。

ローマに着いたマキシミリマノ・コルベは、聖ピオ十世教皇様のその模範に非常に感銘を受けました。その当時聖ピオ十世会は、ちょっと夢を見ているちょっと夢想から、そんなキリストにおいて全てを復興させるなんてもう時代遅れだ、今現代ではできない、不可能だ、と思っていました。でもマキシミリマノ・コルベは、それを信じていました。できる。しかしマキシミリマノ・コルベは、これはマリア様を通してでなければできない。
何故ここで、汚れなきマリアを通して、全てをキリストにおいて復興させる、というコルベ神父様のその書いた理由が皆さんお分かりになったと思います。そしてこれこそが、コルベ神父様の全生涯でした。
一九一七年に、汚れなき聖母の騎士会をつくります。一九一七年十月十三日に、ファチマで太陽の奇跡が起こりますが、その三日後、ちょうど三日後、コルベ神父様が汚れなき聖母の騎士会をつくります。
では、この騎士会とは一体何を意味するのでしょうか?
キリストの敵が、キリストに立ち戻るように、祈って働く事です。キリストの最悪の敵であるフリーメイソンでさえも、イエズス・キリストのもとに立ち戻るように、祈り働く事である。しかも、マリア様の取り次ぎと助けを以って、働く事である。これがこのスローガンの意味です。コルベ神父様の全生涯は、この怪物のような敵に対して闘う事でした。

コルベ神父様は、司祭叙階を受けたのが一九一八年でした。そしてポーランドに戻って、火の様な望みをもって、ポーランドがもう一度、マリア様を通してイエズス・キリストに戻るように。
そしてポーランドに戻るやいなや、病気にかかりました。そしてお医者さんによれば、三か月の命だ。そしてコルベ神父様はそこで、自分の苦しみを全て捧げる事を決心します。そしてその病床にいるコルベ神父様が友達に、「あぁ!マリア様を通して全ての霊魂達を、イエズス様の所に戻そう!さあ!」と言うと、友達はそれを、「はっはっは。」と、せせら笑いました。ですから皆から、馬鹿のマクス、夢を見てるマクス、と馬鹿にされました。頭のネジがちょっと弛んでいる、という意味です。
そして後に、コルベ神父様は自分の事を、「汚れなきマリア様の馬鹿」と呼んでいます。

この後で何が起こったか知っていますか?三か月の後に死にませんでした。そして、このコルベ神父様が捧げた祈りをマリア様がそれを受け取って、それを使って、聖母の騎士の会の会員の数が物凄く増えました。一九一七年には最初は七名でした。第二次世界大戦が終わった時には、四百万名いました。ほんの二十数年の間に、四百万人になったという事です。
そしてこのインマクラータの、無原罪の聖母の騎士のアイディアは、理想は、まさにここにありました。

そして天主様の御摂理によって、私は最初にポーランドに、コルベ神父様の働いた所にいて任命を受けた事を感謝しています。何故かというと、ポーランド語でだけ神父様の書いた、或いは、なさった事が読む事ができるからです。
そして、コルベ神父様が行った所は全て訪問しました。ワルシャワの修道院から三キロ離れた所には、結核のサナトリウムがあります。そしてポーランドの日本大使が、河合大使がそこに行った時に、コルベ神父様はそこを訪問しました。この河合大使は、そこのサナトリウムでもう死にかけていました。しかしコルベ神父様の訪問によって、この大使の一家は全てカトリックになりました。

そしてこの私(シュテーリン神父)は、このコルベ神父様に、この大きな巨人である大聖人であるコルベ神父様に、私もあなたの小さな模範者、真似る事ができるようにして下さい、とお祈りしました。
そしたら私は、全く予想もしなかった、アジアへの任命を受けました。私はその任命を受けた時に、こう椅子に座って机に座って、「考えた事もない、アジア、あぁ。」と独り言を言っていました。そして自分の机の上には、コルベ神父様のこのこれと同じ写真が飾ってあります。ちょうどコルベ神父様が私に、「お前、俺の真似をしたかっただろう。」と言って、「その通りになったよ。」と。その時にそれが、「あぁ!」と分かったので、アジアに来て、「あぁ、そうだったのか!」と、喜びました。

何でコルベ神父様というのは、そんなに魅力的なんでしょうか?何故かというと、聖ピオ十世会の創立者であるルフェーブル大司教が、聖ピオ十世会のスローガンとしてモットーとして、聖ピオ十世教皇様のこの、まさにこのスローガンを会に与えたからです。聖ピオ十世もコルベ神父様も、物凄い巨大な巨人の様なフリーメイソンの軍隊と戦った人々です。それは皆さんに説明したように、真理をこの地上に確立させる為に、戦った人々です。

これは二十世紀の初頭の話しです。しかし二十世紀の終わりには、もっと酷い事が起こりました。何故かというと、二十世紀の初頭には、このモットーの背後には聖なる教皇様や多くの聖人達が、それを実現する為に一生懸命働いていました。そしてコルベ神父様が日本にやって来た時には、日本にいた聖なる神父様達や司教様達の協力がありました。
しかし、その後何が起こったでしょうか?ちょうど聖書にイエズス様が予言されていた通りの事が起こったのです。黙示録によれば、「別の獣が来る。」と。その別の獣は、宗教の形をとった獣で、第一の獣と龍に仕える為に、奉仕の為に出てきた獣です。その黙示録によれば第二の獣は、見るからに子羊のようだけれども、しかし言ってる内容は、狼の様だ。
つまり、外見はキリスト教的な外見を持っているけれども、その教える内容は、イデオロギー、そのキリストに反対するイデオロギーを教えている。

そして第二バチカン公会議の後に、大きな困難が教会にやって来ました。そして現在残念ながら、全ての教皇様やそして聖人達が実現させようとした、この現実の為に働こうとする人がいなくなってしまった事です。
そして現代では誰もが、「あなたの言ってる事は間違っていますよ。」とは言わないし、そして誰もが、「イエズス・キリストの真理に回心しなさい。」とも言わなくなってしまいました。
そして、この間違ったイデオロギーは、エキュメニズムという名前をもっています。そして今日現在では、地獄に堕ちるかもしれない、その危険があるという事や、或いは悪魔とその使い、僕達とかそれの一部になってしまう、という事を話そうともしません。

一九六二年に至るまで、教皇様、どの聖人達も、戦闘の教会という話をしました。しかし、その後、一回しか語られていません。その一九六二年から今に至るまで一度だけ、ベネディクト十六世がこの言葉を使いました。その為にカトリック世界では、イエズス・キリストの為に闘う、という事が何を意味するか分からなくなっています。ですから信仰を失ってしまうだけです。ですからもう、もうキリスト教信者という事と異教徒という事の区別も、分からなくなってしまっています。
ですからこのスローガンが、コルベ神父様というよりも私達にとって、もっとこれが大切だという事がお分かりになった事だと思います。

このモットーは、私達をして全て、イエズス・キリストへと引き寄せて、そしてイエズス・キリストを悲しませたり、イエズス・キリストを傷付けるような事は全て、避けさせようとします。

現代、ところで、昔と天主様は今では違っていると思いますか?天主様は同じ天主様です。
聖書によれば、「終末の時代には、天主に忠実な霊魂の数は少なくなるだろう。」と、言っています。イエズス様が十字架で亡くなった時に、イエズス様の事を信じていたのは、その十字架の下に佇んだ本当に少数の人々だけでした。そして終末もやはり、この世の終わりも同じ事です。イエズス様もそう仰っています。そしてこの少数の人達が忠実に、自分とそしてその家族において、全てをキリストにおいて復興させようと努力します。
そして十字架にいるイエズス様は、その傍に一人、マリア様がいました。終末においても同じ事が予言されています。この世の終わりにおいては、イエズス・キリストの下に佇む事ができるのは、ただ、マリア様に属している者だけだ。つまり、マリア様の使徒であり、マリア様の騎士であり、マリア様の子供だけが、そこに留まる事ができる。そして、グリニョン・ド・モンフォールによれば、「この終末の騎士、マリア様の使徒達は、非常に力強いものであるけれども、その力は自分の力ではなくて、マリア様に信頼するから、マリア様を信じているから、そこから来る力だ。」と、言っています。

ファチマを見て下さい。ファチマには小さな女の子がいます。ヤシンタちゃんで、七歳です。この七歳の女の子は、自分の使命を理解していました。この七歳の女の子は、霊魂が地獄に堕ちるのを見て、そしてその地獄を理解したので、人々の霊魂が地獄に落ちないように全てをしました。何故かというと、その友達のルチアからこう聞いたからです、「多くの霊魂は地獄に堕ちている。何故かというと、誰もこの霊魂達の為に祈りをしないからだ。祈って、犠牲を捧げなさい。
そこでヤシンタは、お祈りをして多くの犠牲を捧げました。
リスボンの大司教の話によれば、「おそらくこの七歳の女の子は、全世界にいた宣教師たちよりも、多くの霊魂を地獄の火から救っただろう」とのことです。

だからこそ私達は、同じ闘いを今もしなければなりません。私達は、私達の数を、ではなくて、私達の使命が何か理解しなければなりません。

皆さん一人ひとりが試練をもっています。そして皆さん一人ひとりが、犠牲を払わなければならない犠牲があります。健康の問題も、お金の問題も、家族の問題も、色んな問題があります。それらを使って、私達は物凄い事業ができます。
まず、マリア様の所に行って下さい。マリア様は、あなた達をイエズス様の方に運んで下さいます。何故なら、これこそがカトリックの教えだからです。マリア様を通して、イエズスに。マリア様を通して、イエズスにお願して下さい。マリア様は苦しんでいます。辛い事がたくさんあります。この苦しみをどうぞ取って下さい、受け取って下さい。私はお捧げ致します。しかし霊魂を救って下さい。日本を救って下さい。私の祖国を救って下さい。私の家族を救って下さい。私の夫と子供達を救って下さい。もしも皆さんがこれをするならば、必ずマリア様は聞いてくれます。もちろん、マリア様が御望みの時に、御望みのやり方によって、御望みの方法によって。それは、マリア様のことです。しかし、マリア様に完璧に信頼して下さい。

聖モニカは十八年、祈り続けました。その子供の回心の為に。聖モニカがお祈りをして、十一年か十二年目には、アウグスチヌスは更にひどくなっていました。モニカは恐れていました。そして、聖モニカは聖アンブロジオに行って話を、質問をします。「天主様は、私の事を忘れちゃったんじゃないでしょうか。」聖アンブロジオはそれに答えて、「心配するな。そのような、お前のような祈りの母の子は、必ず滅びる事はない。」
そしてその六年後に、アウグスチヌスは回心して、教会の最も偉大な聖人の一人になりました。しかし、その十八年の祈りの生活において聖モニカは、知らない多くの何千、何万という霊魂達を救っていました。
私達のほんの小さな祈りでさえ、そして小さな犠牲でも物凄い価値がある、という事を信じなければなりません。どのような問題であってもどんな事があっても、マリア様のもとに行って、マリア様に話しかけて下さい。子供がお母さんに話しかけるように、全て言って下さい。お金の話や快楽や、この世の話だけではなくて、霊魂の回心や救いについても話して下さい。

今、私達の生きているこの人生の今、この時に、回心の為の大きな動機づけが必要です。全ては、もうマリア様によって準備されています。おそらく、マリア様のその僕として、道具としてここに送られてきました。このマジックは、この書く為の道具です。私は、マリア様のちょっとほうきとなって、ちょっとここをきれいにしたいと思っています。というこの表現は、コルベ神父様が言った言葉です。

ですから、今日家に帰った時に、「あぁ、私はこの人生において何かをしなければならない。」ということに、気が付いて欲しいのです。ただ、この寝て、起きて、仕事に行って、寝て、起きて、仕事に行って、寝て、起きて、仕事に行って、というのだけが人生ではありません。苦しんで、苦しんで、苦しんで、苦しんでだけ、というのも人生ではありません。
しかし苦しみも、「あぁ、マリア様の為です。」寝るのも、「あぁ、マリア様の為です。」食べるのも、「あぁ、マリア様の為です。」仕事に行くのも「マリア様の為です。」とすると、人生が全く変わります。

私はポーランドに任命されました。遠に、二十年前に任命を受けました。何にもありません。私はポーランド語の一言も知りませんし、誰一人も知っている人もいませんし、何にも、聖ピオ十世会の何にもかけらもありませんし、私は本当に馬鹿で何にもできません。ですから人を寄せて下さい。私の口を通して話して下さい。あなたがしなければなりません。ですからほうきとして使って下さい。
一年後、アレックスさんと会いました。そしてアレックスと会って、アレックスはそれと神父様と知ってから洗礼を受けて、結婚もして、カトリックの家族として子供も沢山きて、日本で働いて、「私の人生は全く変わりました。神父様のおかげです。」私は言いました、「アレックス、私じゃないよ、マリア様です。私は、ただのマリア様のほうきですから。」

画家は、どんな筆でも書くことができます。マリア様は、素晴らしい画家なので、ホウキでも描く事ができます。そういう訳で、使い物にならないホウキが皆さんの為にやって来ました。

皆さん、私はマキシミリマノ・コルベ神父様の事を知った、そしてファチマのマリア様について深く知る事ができた、と、どれほど深い感謝をしているか、想像もできないと思います。
そしてその二十一年の間に、二十六のチャペルを建てて、そして教会もいくつか建設しました。そして二万五千名以上いる人達の為の、ビザンチン典礼の修道会をつくる事もできました。そして、多くの若い青年達や若い家族と会って、彼らに、一体何の為に生きているのか、それを、その人生の目的とその意味と、そしてマリア様の為に生きる事の素晴らしさについて伝える事ができました。
しかし、というのも、マリア様の騎士として、マリア様の兵士として、マリア様の子供として、マリア様の望みを実現する理想に燃える、素晴らしい美しい霊魂達と出会わなかったら何もできなかったと思います。

コルベ神父様が最初にこれを始めた時に、皆夢をもっていると思って、皆はコルベ神父様の事を夢想家だと言っていました。
コルベ神父様は、長崎で聖母の騎士を始めました。皆このコルベ神父様のフランシスコ会の会員は皆、コルベ神父様の事をちょっと、と。
しかし、コルベ神父様の生涯の短い間、数年いた後に、日本で戦後、最高の救霊の事業となりました。

私にも夢があります。私はその夢は、日本に聖ピオ十世会の修道会を建てる、美しい修道会を建てる、という夢です。そしてもう一つの夢は、日本に二つか三つの綺麗な教会を建てたい、という事です。その教会には沢山の人々が集まって来て、そして真の信仰がこれで育っていって。

私は本当に頭がおかしいと思っています、本当におかしいならいいと思っています。ただ違いがあって、コルベ神父様は聖人でしたが、私は罪人だという違いです。ですから、皆さんの協力が必要です。私は言います、「私達は力を合わせなければなりません。これは私の仕事ではなくて、マリア様の事業ですから。マリア様がこれを望んでいる事は知っています。このマリア様の中には、このような理想が燃えているのを知っています。私はこのコルベ神父様の理想に、この模範に従いたいと思っています。」

コルベ神父様が殉教して亡くなった時に、その時日本に、非常に寛大な霊魂がいました。北原怜子。そしてこの女性は、非常にポーランドでは有名で、その彼女の人生の模範的な生き方と、その寛大さによって多くの霊魂がカトリック信仰をもった、という事でポーランドで非常に有名です。

ですから、どの様な夢想家が皆さんの前に立っているか、皆さん今お分かりになりました。そして天主様の御恵みによって、この夢を決して放棄しません。
ですから、皆さんに是非お願したいのは、このマリア様への愛という動機づけを是非持って下さい。
皆さんから私達にこう言うのを聞きます、「神父様、マリア様についてもっと知りたいのです。マリア様について何か本はありませんか?どんな本を読んだら良いですか?さあ、教えて下さい。」

そして、マリア様について深く知れば知るほど、私達の人生が大転換して、物凄い変化が起こる事が分かるはすです。そして、誘惑に対して立ち向かうのに、どれほど強い力を得るか分かるはずです。そして大きな混乱の中においても、心は平和と静安を保つ事ができるのを感じるはずです。そして多くの霊魂にとって、暗闇を照らす灯台の様に。

これが皆さんへの歓迎の言葉です。
(日本語で)ありがとう。【拍手】



小野田神父【ほほえみながら】「私にも、全く同じ夢があります。」

小野田神父「何か神父様に聞いてみたい事がある方はいらっしゃいますか?」

質問者「何故、北原怜子がポーランドでそんなに有名なのですか?」

シュテーリン神父様「何故かというと、コルベ神父様がなさった事はポーランドでは非常に有名で、おそらくこの北原さんは、ゼノ修道士と一緒に働いていたので。ポーランドの人は、日本について大きな尊敬の眼差しがある。何故かというと、無原罪の聖母の騎士は、ポーランドで、日本では今何が起こっているかという事を何年の間も報告の記事にしていたからです。コルベ神父様は日本に六年いました。そしてコルベ神父様と一緒にいたブラザー達や、或いは、また後に派遣されたブラザー達が、ポーランドからたくさん長年ここにいたので、そして特にこのゼノ修道士が有名で、その話が、ポーランドではこの女性がゼノ修道士と知り合って一緒に働いていた、と。」



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フェレー司教とのインタビュー(ミュラー枢機卿との面会を終えて)

2014年10月04日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 こんにちは!「フェレー司教とのインタビュー(ミュラー枢機卿との面会を終えて)」の記事の英語版をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

Interview with Bishop Fellay after his meeting with Cardinal Müller

You were received by Cardinal Müller on September 23rd. The communiqué from the Vatican Press Office repeats the language of the 2005 communiqué issued after your meeting with Benedict XVI, which already said that the parties would “proceed gradually and over a reasonable period of time… with a view to the envisioned full communion.” The 2014 communiqué, on the other hand, speaks about “full reconciliation.” Does this mean that you are starting over at the beginning?

Yes and no, depending on the perspective that you take. There is nothing new, in the sense that both our interlocutors and ourselves, we realize that doctrinal differences still exist―which had been made quite clear during the theological discussions in 2009-2011―and that because of this we were unable to sign the Doctrinal Preamble that the Congregation for the Doctrine of the Faith has proposed to us since 2011.

But what is new?

There is a new pope and a new prefect heading the Congregation for the Doctrine of the Faith. And this recent interview shows that neither they nor we want a break in our relations: both parties insist that it is necessary to clarify the doctrinal questions before there is any canonical recognition. This is why, for their part, the Roman authorities are demanding the endorsement of the Doctrinal Preamble which, for our part, we cannot sign because of its ambiguities.

Another new fact is the current aggravation of the crisis in the Church. On the eve of the Synod on the Family, serious, well-founded criticisms made by several cardinals against Cardinal Kasper’s proposals about communion for the divorced-and-remarried are coming to light. This has not been seen in Rome since the criticisms by Cardinal Ottaviani and Bacci in their Short Critical Study on the New Order of Mass (the “Ottaviani Intervention” of 1969). But what has not changed is the fact that the Roman authorities still do not take our criticisms of the Council into account, because to them they seem secondary or even illusory, given the severe problems in the Church today. These authorities do recognize the crisis that is convulsing the Church at the highest level―now among cardinals―but they do not consider that the Council itself could be the main cause of this unprecedented crisis. It is like a dialogue of deaf people.

Can you give a specific example?

Cardinal Kasper’s proposals in favor of communion for divorced-and-remarried persons are an illustration of what we blame on the Council. In the talk that he gave to the cardinals during the Consistory on February 20th of this year, he proposed doing again what was done at the Council, namely: reaffirming Catholic doctrine while offering pastoral overtures. In his various interviews with journalists he harps on this distinction between doctrine and pastoral practice. He says that theoretically doctrine cannot change, but he introduces the notion that concretely, in reality, there are some situations in which the doctrine cannot be applied. Then, in his opinion, only a pastoral approach is capable of finding solutions… at the expense of doctrine.

For our part, we blame the Council for making this artificial distinction between doctrine and pastoral practice, because pastoral practice must follow from doctrine. Through multiple pastoral concessions, substantial changes have been introduced in the Church, and its doctrine has been affected. This is what happened during and after the Council, and we denounce the same strategy that is being used today against the morality of marriage.

But was it only pastoral changes in the Council that indirectly affected doctrine?

No, we are in fact obliged to note that serious changes were made in doctrine itself: religious liberty, collegiality, ecumenism…. But it is true that these changes appear more clearly and more evidently in their concrete pastoral applications, because in the conciliar documents they are presented as simple overtures, just hinted at, with much left unsaid….which makes them, in the words of my predecessor, Fr. Schmidberger, “time bombs.”

In the proposals of Cardinal Kasper, where do you see a pastoral application that makes more evident a doctrinal change introduced during the Council? Where do you see a “time bomb?”

In the interview that he granted to the Vaticanist Andrea Tornielli on September 18th, the Cardinal says: “Church doctrine is not a closed system: the Second Vatican Council teaches us that there is a development, meaning that it is possible to look into this further. I wonder if a deeper understanding similar to what we saw in ecclesiology, is possible in this case (i.e. that of divorced Catholics who have remarried civilly). Although the Catholic Church is Christ’s true Church, there are elements of ecclesiality beyond the institutional boundaries of the Church too. Couldn’t some elements of sacramental marriage also be recognized in civil marriages in certain cases? For example, the lifelong commitment, mutual love and care, Christian life and a public declaration of commitment that does not exist in common-law marriages.”

Cardinal Kasper is quite logical and perfectly consistent: he proposes applying pastorally to marriage the new principles concerning the Church that were spelled out at the Council in the name of ecumenism: there are elements of ecclesiality outside the Church. He moves logically from ecclesial ecumenism to matrimonial ecumenism. Thus, in his opinion, there are elements of Christian marriage outside of the sacrament. To look at things concretely, just ask spouses what they would think of “ecumenical” marital fidelity or fidelity in diversity! Similarly, what are we supposed to think about a so-called “ecumenical” doctrinal unity that is united in diversity? This sort of result is what we denounce, but the Congregation for the Doctrine of the Faith either does not see it or else does not accept it.

How are we to understand the expression from the Vatican communiqué: “proceed gradually?”

The mutual desire of Rome and in the Society of Saint Pius X to continue doctrinal discussions in a broader, less formal framework than in the previous discussions.

But if the doctrinal discussions in 2009-2011 accomplished nothing, what good is it to resume them, even in a broader fashion?

Because, following the example of Archbishop Lefebvre, who never refused to go to Rome at the invitation of the Roman authorities, we always respond to those who ask us about the reasons for our fidelity to Tradition. We could not shirk this responsibility, and we will fulfill it in the spirit and with the obligations that were defined by the last General Chapter.

But since you just mentioned the audience that Benedict XVI granted me in 2005, I remember saying then that we wanted to show that the Church would be stronger in today’s world if it upheld Tradition; I would also add: if it proudly recalled its bi-millennial Tradition. I say it again today, we wish to contribute our witness: if the Church wants to end the tragic crisis that it is going through, Tradition is the response to this crisis. This is how we manifest our filial piety toward eternal Rome, to the Church, the mother and teacher of truth, to whom we are deeply devoted.

You say that this is about giving witness; it is not rather a profession of faith?

One does not exclude the other. Our Founder liked to say that the theological arguments with which we profess the faith are not always understood by our Roman interlocutors, but that does not relieve us of the duty to recall them. Moreover, with his characteristic supernatural realism, Archbishop Lefebvre added that the concrete accomplishments of Tradition: the seminaries, schools, priories, the number of priests, brothers and sisters, of seminarians and lay faithful, also had a great value as proof. Against these tangible facts no specious argument can hold up: contra factum non fit argumentum. In the present case, we could translate this Latin adage by the saying of Jesus Christ, “A tree is judged by its fruits.” And in this sense, while professing the faith, we must give witness to the vitality of Tradition.

(Source: FSSPX/MG – DICI Dated October 03, 2014)

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