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第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 権利、それとも認容?

2007年06月22日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

■ 権利、それとも認容?

『信教の自由に関する宣言』 4
「なお宗教団体は自分の信仰を言論および出版物をもって公に教え、また宣布することを妨げられない権利を持っている。」

【疑問点 14】
第二バチカン公会議が諸々の誤った宗教に対して認めている信教、ならびに伝道活動を行う権利は、国家がこれらの宗教ならびにその信者を認容する義務、ピオ十二世が、先に引用した訓話で次のように表現しているところの義務に相当するのか。
「国家の法ならびに強制的条例によって[真理にそぐわない事柄]を妨げないということは、より上位かつ、より広汎な善の利害のために正当化され得る」。

【疑問点 15】
第二バチカン公会議は諸々の誤った宗教とその信奉者が、原則として、またあらゆる状況において、カトリック教国において認容される(当然の)権利を有していると教えているのか。もしそうだとすれば、かかる教理はレオ十三世、およびピオ十二世教皇の教えと相容れるのか。両教皇は、誤謬ならびにそれに追従する者たちに対する認容は、とりわけそれが宗教上の事柄における場合、原則としてではなく、またあらゆる状況下においてでもなく、その存在理由自体によって定められる限度によって制限されるべきものであること、また誤謬、ことに宗教上の誤謬に追従する者たちに施される認容は、決して自由な活動に対する[当然の]権利ではないことを重ねて強調されたからだ。というのも、認容は政治的賢慮と愛徳のみによって付与されるものだからである。

【疑問点 16】
『信教の自由に関する宣言』は、教導的な文書ではなく、「妨げられない権利」という言葉が厳密な意味での権利、すなわち当然認められるべき要求ではなく、単に政治的賢慮と愛徳とが適当なものとして求めるところのものを意味する(舌足らずな表現であることはたしかだが)純粋に法律的な文書なのか。もしそうなら、『信教の自由に関する宣言』は、真に教導的な文書に対して示すべき同意ならびに一切の批判の放棄を、信徒から要求することができるのか。

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教皇グレゴリオ十六世 自由主義と宗教無差別主義について『ミラリ・ヴォス』1832年8月15日
教皇福者ピオ九世 現代社会の誤謬表『シラブス』 1864年12月8日
教皇福者ピオ九世 現代の誤謬の排斥『クヮンタ・クラ』 1864年12月8日
教皇レオ十三世 自由について『リベルタス・プレスタンティッシムム』1888年6月20日
教皇聖ピオ十世 近代主義の誤りについて『パッシェンディ』1907年9月8日
教皇聖ピオ十世 司祭叙階金祝にあたって、カトリック聖職者への教皇ピオ十世聖下の勧告『ヘレント・アニモ』1908年8月4日
教皇聖ピオ十世 シヨン運動に関する書簡『私の使徒的責務』1910年8月25日
教皇聖ピオ十世 近代主義に反対する誓い『サクロールム・アンティスティトゥム』1910年9月1日
教皇ピオ十一世 真実の宗教の一致について『モルタリウム・アニモス』1928年1月6日
教皇ピオ十一世 王たるキリストについて『クワス・プリマス』1925年12月11日
教皇ピオ十二世 福者ピオ十世の列福式に於けるピオ十二世の説教 1950年6月3日
教皇ピオ十二世 進化論及びその他の誤謬について『フマニ・ジネリス』1950年8月12日
教皇ピオ十二世 支那の国民に対し『アド・シナールム・ジェンテム』1954年10月7日
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