Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

私は御身を信じ、礼拝し、希望し、御身を愛します!御身を信じぬ人々、希望せず愛さぬ人々のために、赦しを求めます(天使の祈)

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
2019年 9月の聖伝のミサの予定
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】


9月 主の十字架を賞賛しましょう。
意向:カトリック教会が聖伝に立ち返るため
実践すべき徳:苦行
守護の聖人:聖ピオ十世

愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)にご招待します

◎2019年 9月の予定
【大阪】聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂(アクセスEG新御堂4階 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 
〒532-0002 (JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分)

  9月1日(主)聖霊降臨後第12主日(2級)緑
          午後5時半 ロザリオ及び告解
          午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

  9月2日(月)証聖者聖ステファノ王(3級祝日)白
          午前6時半 ミサ聖祭

  9月6日(初金) 聖霊降臨後の平日(4級)緑
          午後5時半 ロザリオ及び告解
          午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

  9月7日(初土) 聖母の土曜日(4級)白
          午前10時 ロザリオ及び告解
          午前10時半 ミサ聖祭(歌ミサ)

  9月29日(主)大天使聖ミカエル(1級祝日)白
          午後5時半 ロザリオ及び告解
          午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

  9月30日(月) 教会博士証聖者司祭聖ヒエロニモ(3級祝日)白
          午前6時 ミサ聖祭

【東京】東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図)「聖なる日本の殉教者巡回聖堂」

  9月8日(主)聖霊降臨後第13主日(2級)緑
          午前10時  ロザリオ及び告解
          午前10時半  ミサ聖祭(歌ミサ)

  9月9日(月)日本205福殉教者(3級祝日)赤
          午前7時 ミサ聖祭

  9月29日(主)大天使聖ミカエル(1級祝日)白
          午前10時  ロザリオ及び告解
          午前10時半  ミサ聖祭(歌ミサ)

愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております。

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新しいミサは新しい信仰、新しいイデオロギーを表明している。カトリックの宗教とは別の概念を、ある別の宗教を前提としている。新しいミサを捧げるのは、民主主義的な会衆だ。司祭は民の単なる代表となりさがった。

2019年09月21日 | カトリックとは
新しいミサは、近代主義者の信仰のシンボル、表現、イメージだ。


ルフェーブル大司教の説教 1976年6月29日

 愛する兄弟の皆さん、あらゆる国々、四方の彼方から来て下さった兄弟たちよ、私たちは、今、私たちの聖ピオ十世会にとって、又、教会にとって、非常に重要なこのときに、兄弟たちを歓迎することが出来て、又、兄弟たちをこれほど身近に感じることができ、大きな喜びを感じています。

 私は思います。巡礼者の皆さんが非常に遠く離れたところから、この儀式に参加するために、夜昼と無く旅をする犠牲を払ったのは、皆さんに、信念があったからであると。それは、教会の儀式に参加するために、心を喜ばせる儀式に参与するために来た、と言う信念です。なぜなら、皆さんが帰路につくときには、カトリック教会は続いていると安心するであろうからです。

 はい、私はよく知っています。このことをするに困難はたくさんあることを。こんなことをするのはむちゃだと私は言われました。私たちは行き止まりの道を歩んでいるとも、言われました。なぜなら、3ヶ月前から、3月19日の聖ヨゼフの祝日から特に、ローマから懇願や要請、命令、威嚇などがありました。それは、私たちの活動を止めるように、この司祭叙階式を中止するようにとのことでした。これらの要請は、ここ数日、緊迫したものでした。特にここ12日間というもの私たちは絶え間なくローマからのメッセージや使者を受けました。この叙階式を敢えてしないようにと、言われました。

 しかし、全く客観的になって、私たちにこの司祭叙階式をするなと求める人たちを動かす本当の動機は何なのかと言うことを探してみると、その深い動機を探ってみると、それは私たちがこの司祭たちを叙階するのは、彼らが永遠のミサを捧げるためであるから、と言うことがわかります。

 彼らは知っています。これらの新しい司祭たちが教会のミサに、聖伝のミサに、永遠のミサに忠実であることを。だからこそ私たちに叙階するな、と圧力をかけるのです。私にはその証拠があります。6回、ここ3週間というもの6回にわたって私たちは、ローマと通常の関係を結ぶようにと求められました。そして、その証拠として新しい典礼様式を受け入れ、私自身これを捧げるようにと言われました。私が新しい典礼様式で共に共同司式をして、私が喜んでこの新しい典礼を受け入れたと言うことを示せ、そして、それさえすれば、ローマと私たちの関係は平らになると言われました。

 私は、手に新しいミサ典書を手渡され、「ほら、これが、あなたがしなければならないミサです。そして、あなたの全ての修道院で、捧げなければならない新しいミサです。」と言われました。また、今日この6月29日、皆の前で、私たちが新しい典礼様式でミサを捧げれば、ローマと私たちの関係は、何もなかったかのようになる、とも言われました。

 ですから、ミサの問題でエコンとローマとの間のドラマが展開されていることは、明らかではっきりとしています。

 永遠の典礼様式を守ろうと望む私たちは誤っているのでしょうか。確かに、私たちは祈り、相談し、考察し、黙想し、私たちこそが誤りのなかにいるのではないか、あるいは、新しい典礼様式を受け入れない私たちには十分な理由がないのではないかと言うことを知ろうとしました。ところが、まさにそのローマからの使者たちが私たちに典礼様式を変えるようにと要求するその要求の仕方が、私たちをして考えさせました。

 そして、私たちには確信があります。まさに、この新しいミサの典礼様式が新しい信仰を表明していると言うことを。この新しい信仰は私たちの信仰ではないこと、カトリック信仰ではないことを。この新しいミサは、新しい信仰の、近代主義者の信仰のシンボル、表現、イメージです。なぜなら、聖なる公教会が長い歴史のなかで、私たちに下さったこの貴重な宝、すなわち、聖ピオ五世によって聖別されたミサ聖祭の典礼様式を守ろうと望んだのは、きわめて重大な意味があったからです。

 何故かというと、このミサのなかに私たちの信仰が全て含まれているからです。全てのカトリック信仰が、すなわち、聖三位一体への信仰、イエズス・キリストのご神性にたいする信仰、私たちの主イエズス・キリストの贖いへの信仰、私たちの罪の赦しのために流された私たちの主の贖いの御血にたいする信仰、ミサ聖祭、十字架、全ての秘跡から来る超自然の聖寵への信仰が、すべてあるのです。これら全てを私たちは信じています。そして、これが永遠のミサ聖祭を捧げながら信じていることなのです。

 ミサは私たちに信仰を教えるものであり、信仰の源です。ありとあらゆる方面から私たちの信仰が攻撃にあっている現代において、私たちにとって必要不可欠のものです。私たちには、この本当のミサが、この永遠のミサが、私たちの主イエズス・キリストのいけにえが必要なのです。それは、私たちの霊魂を聖霊と私たちの主のおん力によって満たすためです。


 ところで、次のことは明らかです。新しい典礼様式は、知っているか知らないかに関わらず、カトリックの宗教とは別の概念を、ある別の宗教を前提としています。つまり、ミサ聖祭を捧げるのは、もはや司祭ではありません。それは会衆です。このことのために、全てはプログラムされています。金輪際、教会の権威に取って代わるのは、会衆です。司教たちの個人的な権力に取って代わるのは、司教団です。教区のなかの司教の権力に取って代わるのは、司祭たちが集ってつくる司祭諮問会です。今後、教会を動かすのは、数です。そして、そのことはミサのなかで明らかに表明されています。ミサでは、会衆が司祭の代わりになっているからです。それは、今では多くの司祭が会衆のない時にはもはやミサを捧げようともしないと言うところまでいっています。

 徐々に、聖なる教会のなかに、ミサに関するプロテスタントの考え方が導入されています。そして、このことは現代人の考え方に、近代主義者の考え方にぴったりなのです。全く一致しています。なぜなら、民主主義の理想が、現代人の考え方だからです。つまり、権力は会衆のうちに、権威は人間、民衆のうちにあり、天主にではない、と言うことです。

 これは非常にゆゆしきことです。なぜなら、私たちは、天主は全能で、天主に全ての権威があり、全ての権威が天主から来ること Omnis potestas a Deoを信じているからです。私たちは、権威が人民から、底辺から由来するとは信じません。しかし、これが現代人の考え方なのです。そして、新しいミサは、この考え方を、底辺に権威があり、天主にではないと言うことをはっきりと表明しているのです。このミサは位階制度的なものではなく、民主的です。これは、非常に重大なことです。新しいミサは、新しいイデオロギーのまったき表明なのです。私たちのもっとも神聖な典礼様式によって、私たちをして現代人のイデオロギーのなかに入らせようとしているのです。

 そして、これが現在、教会を全て腐敗させてしまっています。なぜなら、ミサ聖祭において底辺に権力を認めるというこの考えによって、司祭職を崩壊しています。司祭職を崩壊するのです。司祭は何をするのでしょうか。司祭に叙階の秘跡の時に授与される個人的な権力、そしてこの権能を彼らこの将来の司祭らはしばらくすると受け、天主の民の上に立つべく刻印を霊魂に受けるのです。叙階の後、彼らはもはや、自分たちは他の人々と同じだと言うことが出来なくなります。そんなことは出来ません。彼らは、もはや他の人々は全く違う人になるのです。彼らは、天主の人になるのです。彼らは、敢えて言えば、司祭の刻印によって、イエズス・キリストの天主性に参与する人となるのです。なぜなら、イエズス・キリストは、永遠の司祭、メルキセデクの位による大司祭であり、イエズス・キリストは、すなわり天主の本性がお受けになった人間の本性と一致し、いとも聖なる童貞女マリアのご胎内で、人性を受けたその瞬間、イエズスは司祭となったのです。

 これらの若い司祭たちがが参与する聖寵は、成聖の聖寵ではありません。洗礼の聖寵によって、私たちをしてイエズス・キリストに参与させるその成聖の聖寵ではありません。司祭の聖寵は、一致の聖寵です。この一致の聖寵は、イエズス・キリストだけの独自のものです。彼らは、この一致の聖寵に参与するのです。なぜなら、天主の神性、御言葉の天主性に一致することによって、イエズス・キリストは司祭となり、イエズス・キリストは王となり、イエズス・キリストは審判官となったのですから。

 これゆえに、この地上でいかなる被造物も受けたことのない崇高な聖寵である一致の聖寵のために、イエズス・キリストは、全ての人々によって礼拝されなければならないのです。ちょうど聖なる油を受ける者が聖別されるように、この天主性の聖寵自体が、イエズス・キリストの人性の中に油を注がれる如く、天から降り、イエズス・キリストの人性は天主の御言葉の天主性によって浸透され、イエズス・キリストは司祭となった、すなわち、天と人との間に立つ仲介者となったのです。そして、まさしくこの聖寵にこの若い司祭たちは参与するのです。そしてこの聖寵のために、彼らは天主の民の上に立つのです。彼らも天主と天主の民との間に立つ仲介者となるのです。

 彼らは天主の民の単なる代表ではありません。彼らは、天主の民が委任した代理人でもありません。彼らは集会の座長ではありません。彼らは永遠に司祭なのです。永遠に司祭の刻印を押された司祭なのです。彼らを敬わないと言う権利は誰にもありません。たとえ彼ら自身がこの刻印を敬っていなかったとしてもです。彼らは常にこれを持ち続けるからです。これこそが私たちの信じていることです。これが私たちの信仰です。これが、私たちのミサ聖祭を構成するものです。ミサを捧げるのは司祭です。そして信者はこの捧げものに心から霊魂を込めて参与します。ミサを捧げるのは信者ではありません。その証拠に、司祭はたった一人でもミサ聖祭を捧げ、数千人が参与すると同じように同じ価値でミサを捧げるのです。そのミサには無限の価値があります。司祭によって捧げられたイエズス・キリストの犠牲は、無限の価値があるからです。これが私たちの信じていることです。


 だからこそ、私たちは考えます。私たちにはこの新しい典礼様式を受け入れることが出来ないと。この新しい典礼は、別のイデオロギーの作品だからです。別のイデオロギー、新しいイデオロギーの作品です。この世の考え方を身につけたら、皆を引きつけることが出来ると思ったのです。

信じない人々の考え、現代人の考えを身につけたら、教会に人を、信じない人を、引きつけることが出来ると思ったのです。現代人の考えとは、リベラルで、複数の宗教を受け入れ、そして、イエズス・キリストの社会的王国を受け入れない考えです。

このことは私自身が、聖座から送られた使者の口から2回も聞きました。彼らは私に「イエズス・キリストの社会的王国は現在不可能だ、今後は、絶対的に複数の宗教を受け入れなければならない」と言いました。これが彼らの言ったことです。

 教皇ピオ11世によってイエズス・キリストの社会王国についてこれほど美しく書かれた回勅、「回勅Quas Primasを、今日では、教皇様は書かないだろう」と聖座の公式の使者が私に言いました。

 私たちはこの宗教を受け入れません。私たちはこの新しい宗教を受け入れません。私たちは永遠の宗教を信じるものです。私たちの宗教は、カトリックの宗教です。私たちの宗教は、現在人々の言うところの「普遍宗教」ではありません。こんなのはカトリック宗教ではありません。

私たちの宗教は、このリベラルな近代主義の宗教ではありません。この新しい宗教には、それの礼拝様式、それの司祭、それの信仰、その公教要理、その聖書、エキュメニカルな聖書があります。私たちは、エキュメニカル聖書を受け入れません。エキュメニカル聖書などというものはありません。天主の聖書だけがあります。聖霊の息吹によって書かれた聖霊の聖書、天主の言葉だけがあります。私たちには天主の言葉を人の言葉と混ぜ合わせる権利などありません。エキュメニカル聖書などというものはありえません。唯一の聖霊の言葉だけです。私たちは私たちの信仰宣言をもはや公言しない公教要理を受け入れません。などなど。私たちはこれらのことを受け入れることが出来ないのです。私たちの信仰と矛盾するからです。

 私たちは本当に非常に残念です。量り知ることの出来ないほど大きな悲しみです。私たちにとって大きな悲しみです。私たちの信仰のゆえに、私たちがローマと問題があるなどと考えただけでも、悲しみです。どうしてこんな事が可能なのでしょうか。これは、私たちの想像を遙かに超えたことです。私たちはに考えることもできません。私たちはそんなことがあるなどと信ずることもできませんでした。特に私たちの子供のころ、全ては画一的で、全ての教会で一致を信じ、同じことを信じ、同じ秘跡を行い、同じミサ聖祭を捧げていました。どこでも同じ公教要理を教えていました。そして、突然、分裂のなかにあります。引きちぎられる思いです。

 ローマから来た人たちに私は申しました。教会の中で、教えられ実践されている新しい宗教によるこの分裂によって、キリスト信者は家庭の中で引きちぎられ、子供たちは分断され、心は引き裂かれている、と。司祭たちは心と霊魂のうちに大きな苦痛を感じて若死にしています。彼らは何をしてよいかわからないのです。彼らは誰に従順に従ったらよいのかわからないのです。そして、従順に従うことによって子供のころからの信仰を失い、また、叙階の時に反近代主義宣誓をした約束を反故にするか、あるいは、私たちの聖父でおられ、聖ペトロを代表する教皇様と離れてしまっているような印象を受けるか、どうしたらよいのかと。なんと司祭の心は引き裂かれていることでしょうか。多くの司祭は若くして苦しみのあまり死に至っています。司祭たちは今ではその教会から追放され、迫害を受けています。なぜなら彼らが永遠のミサを捧げているからです。

 私たちは今、本当に劇的な状況にいます。私たちは、選ばなければなりません。敢えて言えば見かけ上の不従順か、あるいは私たちの信仰を捨てるかのどちらかです。ところで、教皇様は私たちに信仰を捨てるようにと命じることは出来ません。それは不可能です。ですから私たちは、信仰を捨てないことを選びます。なぜなら、そうすることによって私たちは間違うことがないからです。なぜなら、教会が2000年間教えてきたのです。教会がその間ずっと誤っていたと言うことはありえません。全くありえません。

 だから、私たちはこの聖伝にしがみつくのです。聖伝は、素晴らしく、決定的に、そうです、教皇聖ピオ五世がうまく言ったように決定的に、ミサ聖祭において表明されているからです。

 もしかしたら、明日、新聞紙上に、私たちを排斥する記事が載ることでしょう。全くあり得る話です。それは今日のこの叙階式のためです。私自身、多分に聖職停止の罰を受けることでしょう。これらの若い司祭たちは、「不規則」の罰を受け、原則的にはミサ聖祭を捧げることが出来ないとされることでしょう。あり得ることです。

 それなら、私は聖ピオ五世に訴えます。聖ピオ五世はその勅書のなかで、永久にいかなる司祭もこのミサを捧げるためにいかなる教会法上の罰を受けることが出来ない、と言っているからです。従って、これらの罰則と破門など、もしそのような話が出たとしても、全く無効です。それらの罰則は、聖ピオ五世がその勅書の中で永久に有効なこととして荘厳に宣言したことと反対だからです。

 この聖なるミサを捧げた、と言うことによりいかなる司祭にも、いかなる場合でも、いつでも、いかなる刑罰も課すことが出来ない、決して出来ない、との言葉に。何故でしょうか?なぜなら、このミサは列聖されたからです。聖ピオ五世は、このミサを決定的に列聖したのです。ところで、教皇様といえども、以前列聖されたものを、聖でないと言うことは出来ません。教皇様は新しい典礼様式を造ることは出来ます、しかし、列聖されたものからその列聖を取り消すことは出来ません。教皇様は、列聖されたミサを禁止することは出来ません。ですから、ある人が列聖された場合、別の教皇様がでてきてこの聖人は聖人ではないと言うことは出来ないのと同様です。そのようなことはありえません。

 この聖なるミサは、聖ピオ五世によって列聖されました。ですから、私たちは全く平安に、安全に、このミサを捧げることが出来るのです。そして、このミサを捧げることによって、私たちの信仰を宣言し、それを維持し、又、信者たちの信仰を維持させることが出来るのだと、私たちは確信しています。これこそが、信仰維持のための最良の方法です。

 だからこそ、私たちは今しばらく後に、この叙階を執行するのです。勿論、私たちは出来ることなら、昔のように、聖座から祝福をいただけることを期待していました。昔は、新しく叙階を受ける司祭たちのためにローマからの祝福がありました。私たちは、よき天主様がいらっしゃり、全てをご覧になり、私たちのするこの叙階式を祝福されておられ、将来、確かにお望みになっておられるその実りを得ること、そして、私たちを維持し、教会を維持されることを考えます。

 特に聖母マリア様に、又、今日の聖ペトロとパウロにお願いいたしましょう。

 司祭職の母である聖母マリア様に祈りましょう。これらの若き司祭たちに、真の司祭職の聖寵をお与え下さいますように。聖霊降臨の日にご自分の取り次ぎによって使徒たちに聖霊を与えたように、彼らに聖霊を下さるように。

 聖ペトロのパウロに、私たちにおいて聖ペトロにたいする信仰を維持するように、求めましょう。おお、そうです。私たちには、ペトロにたいする信仰があります。ペトロの後継者に対する信仰が。しかし、教皇ピオ9世が教義憲章の中で、よく言ったように、教皇が聖霊を受けたのは新しい真理を作り出すためではなく、永遠の信仰において私たちを維持するためである、と。これが、第1バチカン公会議の時に教皇ピオ9世によってなされた、教皇様の定義です。

 だからこそ私たちは確信しているのです。この聖伝を維持しながらこそ、私たちは、ペトロの後継者に対する私たちの愛と素直さと従順を表すのであると。

 聖父の聖子と聖霊との聖名によりて、アーメン。
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癒やされた十人のライ病患者たち:天主様から受けた御恵みを認識致し、口で、態度で、受けた恵みに対して感謝をし、恩を返すために愛を以て償いを捧げよう

2019年09月20日 | お説教・霊的講話
2019年9月8日(主日)聖霊降臨後第13主日のミサ
聖ピオ十世会司祭 小野田神父様御説教

日本の聖なる殉教者巡回教会にようこそ。
今日は2019年9月8日、聖霊降臨後第13主日のミサをしています。

今日は第1主日ですので、このミサの後で、御聖体降福式をお捧げしたいと思います。

特に11月は教皇様が日本に訪問されますので、教皇様の訪問によって、日本の多くの方がカトリックの信仰に導かれますように、特別の御恵みを、その教皇様の訪問の実りが、霊的な実りがありますように、お祈り致しましょう。

明日も朝7時からミサがあります。

次のミサは少しイレギュラーになっておりまして、9月29日に予定されております。
9月29日の大天使聖ミカエルの祝日で、主日です。どうぞお間違えのないようになさって下さい。特にこの日には、フォルティン神父様がいらっしゃる予定です。

いくつかお願いがあります。
フォルティン神父様はマニラで学校を経営しておられます。もしも神父様がいらした時に、第2献金をして、この学校の援助の為に、もしも皆さん寛大な心をお示し下さる事ができれば非常に嬉しく思います。きっとフォルティン神父様も日本に来る事を楽しみにしていらっしゃると思います。どうぞよろしくお願い致します。

次はお祈りのお願いです。
先ほど申しましたように、教皇様が来日されるという事で、この実りが多いこの訪問となりますように、私たちはそれをお祈りしたいと思っています。カトリック信徒として当然と言えば当然ですけれども、皆様から、もしもできましたら、祈りの励みとなる為にも、霊的花束を頂戴したいと思っています。
その11月までたくさんのお祈りを教皇様の為にお願いします。

もう1つの祈りのお願いですけれども、今日、今回休暇で帰っておられる私たちのアグネスさんが、天主様からの御恵みによって、来年フランスで、復活祭の後の白衣の主日に着衣式をなさる予定です。

皆さんからの寛大なたくさんの熱いお祈りをお願いしたいと思っています。良き、聖なる、天主様に奉献された霊魂となりますように、天主様の御旨が果たされますように、皆さんのお祈りを、今日からお願いしたいと思います。


「すると、引き戻して、大きな声で天主を讃美して、顔を地面に平伏して付けて、平伏して、そして感謝した。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日、有名な「10人の癩病」の描写が、「イエズス様に謙遜な祈りをした事によって、癒された」という歴史的な事実を、私たちにミサで思い出させてくれます。

今日その典礼の精神に従って、

⑴この「癩病の10人が癒された」この事について、教父たちは一体何を言っているか?をまず簡単に黙想します。

⑵でも特に、今日私が是非強調したい点は、この最後のサマリア人が、感謝しに帰って来た、「感謝」と、そしてそれに反対する「忘恩」について、一体何なのか?を見て、

⑶そして最後に、私たちもこの典礼の精神に従って、遷善の決心を立てる事に致しましょう。


⑴簡単に今日の、この「10人の癩病の患者が癒された事が、なぜ出てくるのか」、「教父たちは何を言ってるのか」を、簡単におさらいしてみます。
これについては皆さん毎年聞かれた話です。

教会は、私たちの聖母の被昇天を境に、私たちに霊魂の準備を、死の準備を、世の終わりの、裁きの日の準備をしようとしています。そしてそれと同時に、イエズス様の憐れみの業を強調しようとしています。私たちがイエズス様に信頼するように。

先々週は、目の見えない人と口のきけない人が癒された話を見ますが、その時に「エフェタ」という言葉が出た事から、「洗礼」の事が象徴されました。

あるいは良きサマリア人が、傷付けられた半死半生の人に、ブドウ酒を与え、油を捧げて、教会に連れて行って、「治してほしい」と言ったところから、「御聖体」の秘跡の事が暗示されました。

今日は、10人の癩病人が、「司祭に、その病気の事を見せに行きなさい」といった事によって治った、「告解の秘跡」の事を暗示しています。

特に教父たちは、「この『癩病』というのが、『罪』のシンボルであって、恐るべき伝染病であって、不治の、もうどうしても隔離する事しか身を守る事ができない病気であった、その恐るべき体の癩病よりも、更に重い病が、罪である。」

しかし人々は、この罪に対して、天主に対する公然の反乱について、あるいは感覚と霊魂を全てを総動員しての、全面戦争に対して、至高の天主に対する反逆に対して、裏切りに対して、あまりにも無関心であって、霊魂の癩病については、何の注意も払おうとしていない。そして罪は、罪を呼び、悪い模範を呼び、そして多くの人々を汚染して、そして罪が広がっている、という事を教父たちは教えています。

あるいは、この10人の癩病たちが癒されるその為に、イエズス様に謙遜に願った、その「謙遜」、「イエズス様に対する信頼」、その「祈り」を指摘する教父たちもたくさんいます。

あるいは、「イエズス様が治す為に、自分はその場ですぐに瞬間的に治す事ができるのに、『綺麗になれ』と言う事ができたにもかかわらず、あえて『司祭の元に行け。』、そして行っている間に治した、この意味は何か?」「罪の場所から離れるべきだ」とか、あるいは「司祭に見せに行くという事で、『悔悛の秘跡』の前兆である」とか、と言われています。

あるいは、「旧約の司祭たちも、『イエズス様によって治された』という事が認識できるように、『イエズス様こそがメシアである』という事が分かるように、という事を示す為に」と指摘しています。

しかしこの10人の内、きれいに癩病が癒されて、きれいになった事に気付いて、そのおそらく10人は喜んだ、喜びに満ち溢れたに違いません。

しかしその内に、道を引き返して、イエズスの元に帰って来て、大きな声で讃美して、感謝して、そして平伏して、「ありがとう」と言いに来たのは、たった一人のサマリア人でした。

教父たちはこれによって、これを取って、イスラエルの聖なる民族が、天主に対してお礼もしなかった、イエズス様に対してお礼もしなかったけれども、この異教徒は外国人は、イエズス様に感謝した。

そして、徳の進歩を妨げるものは、『忘恩』である。私たちがもしも聖徳に進もうと思うならば思うほど、受けた御恵みを感謝しなければならない、ということも言います。

これが、教父たちがこの10人の癩病たちの癒しについて言っている事ですけれども、特に私たちは、徳に対してますます前進したいと願っています。このサマリア人に倣いたいと思っています。

⑵ですから第2のポイントは、今日是非、このサマリア人のやった事を、もう一度分析してみる事を提案します。

聖トマス・アクィナスによると、「『謝恩』あるいは『感謝』というのには、3つの段階がある」と言います。

「まず最初は、頭の中で。認識で。」
「第2は、口で。あるいは注意で。」
「最後には、行動で現れる」と言います。

まず、聖トマス・アクィナスによれば、「まず、受けた御恵みを認識する事」から始まります。
次に、それを口に出して讃美したり、「あぁ、素晴らしい御恵みだ。」あるいは「感謝します」と、表現する事によって、第2の段階に行きます。
第3の段階は、自分の持っているものを、何かそのお礼を、恩をして下さる方に与えて、返礼をする、お礼をする。
「これが謝恩であり、感謝だ」と言います。

では、この私たちも、もしもサマリア人になろうとするならば、一体どのように恩を返答したら良いでしょうか?

もちろん、「感謝」というのには、相手によって名前が付いています。色々段階があります。
「天主」に対する感謝は、もちろん「宗教」の徳であります。
「親」に対する感謝は、これは「忠孝」の「敬愛」の徳です。
「目上」や、あるいはこの立派な方々に対する感謝は、これは「尊敬」の徳に入ります。
そして「友情」関係の間でも感謝があります。

しかし全ては、まず「受けた恵みを認識する事」から始まります。私たちは特に今日、天主様に対して、天主様から受けた御恵みを認識致しましょう。

洗礼の恵み。罪をきれいに赦された恵み。罪という腐敗の伝染病、癩病を、霊的な癩病から癒された恵み。あるいは御聖体の恵み。イエズス・キリストの流された御血。そのイエズス様が、私たちの霊魂を救う為に命を捨てられた事。私たちに命を与えられた事。十字架で命を私たちに下さった事。その燃え尽きるような、燃え盛る愛。死をも恐れない愛。全てを私たちに与えようというその寛大な愛。

私たちはそれを、何度も何度も認識しようと黙想してきました。

まず「御恵みを知る」事から、そして「それを受けたという事を認める」事から始まります。

次に、口で、あるいは態度で、その受けた恵みに対して感謝をします。

このサマリア人は、大きな声で天主を讃美しました。
そして額突いて、礼拝して、そして態度で表しました。

私たちも、天主から受けた御恵みを、礼拝や、あるいは讃美を行なう事によって、それを認めます。私たちが今日ミサに来たという事も、今日サマリア人の真似をしたと同じです。私たちがイエズス様の前でこうやって、イエズス様の前にやって来て、そして跪いて礼拝する、大きな声で讃美する、感謝する。これはまさしくサマリア人の真似です。

更に、私たちの持っているものを使って、何かできる事を与えます。聖トマス・アクィナスによれば、「対象によって、もちろん私たちの与える物が大切な時もあれば、あるいは私たちの持っている愛情を以てお礼をするのが大切な時もある」と、その場所、機会を区別しています。

私たちは天主に対して、その恩を返し尽くす事ができないので、少なくとも私たちの愛を以て、償いを捧げます、私たちの犠牲を捧げます。

私たちはミサにやって来て、そしてミサの中のカリスの中に、司祭が一滴の水を入れるのは、皆さんの日々の犠牲と、そして祈りと、そのイエズス様の贖いの業への一致のシンボルです。

私たちもただ単に、「ありがとう」感謝するのみならず、一歩進んで、私たちの持てる苦しみや辛い事、あるいは十字架、あるいは暑さ、寒さ、あるいは人に対する許し、人に対する寛大な心、愛徳を以て、イエズス様のカリスの中に、イエズス様の御血に、私たちの一滴を入れて、お礼をします、「私たちの犠牲も、祈りも、使って下さい。」ファチマの子供たちもこれを学びました。

では、もしも私たちがお礼をしない、謝恩しないという事は、何と言われるでしょうか?「忘恩」と言われます。「恩知らず」と言います。

聖トマス・アクィナスによると、「忘恩には2つの方法がある」と言います。「やり方がある。そしてその2つのやり方にも、程度がある。

1つは、『感謝をゼロにして、何もしない』というやり方。
もう1つは、『受けた御恵みを否定する』やり方だ」と言います。

「0のやり方は、まず一番程度の軽いのが、頭では認識したとしても、態度でお礼をしない、行動でお礼をしない。0の態度。」
「次に」聖トマス・アクィナスによれば、「受けた御恵みを讃美しない、賞賛しない、あるいは口に出して感謝しない。0の態度。」
「そして更にその酷いのが、受けた御恵みを忘れる、あるいは認識しない、あるいは認知しない。『そんなもの受けたか?』」

しかし更に悪い態度は、受けた御恵みを否定する事です。
聖トマス・アクィナスによると、「まず行動で、受けた善を、悪で返す。」
「第2の段階は、受けた御恵みを非難する。」
「あるいは第3の一番悪いのが、受けた御恵みを、『害である』と思う。『彼は加害者で、私は被害者だ!』」

天主様に対する忘恩も、あるいはここまで悪魔的になってしまう危険もあります。

私たちは是非、このサマリア人に倣って、感謝の念を持とうと願います。おそらく私の思うには、この10人の癩病者は、受けた御恵みを認識して、喜んだに違いありません。ただおそらく、戻って来るのがあまりにも面倒くさかったり、あるいは冷淡であったのかもしれません。

もしかしたら主日のミサに来ないという方々も、あるいは正当な理由がある、あるいはもしかしたら冷淡な、そしてあるいは御恵みを感謝するのをサボってしまっている霊魂なのかもしれません。私たちは是非、そのような霊魂たちの為にも、代わりに、彼らに代わって、感謝をしたいと思っています。

⑶では今日は、どんな決心を取れば良いでしょうか?

3つ提案したいと思います。

それは、主日のミサが、復活のミサのミニチュア版だという事から、私たちはこの霊的な復活を受けた、御聖体と洗礼の御恵みをこのミサで感謝して、サマリア人のように跪いて礼拝し、そして感謝致しましょう。

そして私たちの御聖体拝領を、また今日のミサの後の御聖体降福式を、イエズス様に感謝しない人々に代わって、感謝致しましょう。

第3に最後に、この10人の癩病者が癒しを受けるようになったその最初は、謙遜に、自分の事を、自分の卑しさを、イエズス様に言う事でした。そのそれによって、この癒しを受けられ、そしてサマリア人は感謝しました。

ところでマリア様は、その自分のご謙遜を、マニフィカトでこう言っています。
「主は、私の卑しさを見られたので、私は主を讃美する。」
マリア様はご自分の卑しさを感謝しています。

ですから最後に、マリア様に、私たちにもその感謝の気持ちをいつも持つ事ができますように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

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喜びの玄義 第1玄義:この一連を捧げて、聖母が御告げを受け給いたるを黙想し、聖母の御取り次ぎによりて、謙遜の徳をこい願わん

2019年09月20日 | お説教・霊的講話
喜びの玄義 第1玄義黙想
2019年9月7日(初土)御聖体降福式にて
聖ピオ十世会司祭 小野田神父様

『喜びの玄義 第1玄義:この一連を捧げて、聖母が御告げを受け給いたるを黙想し、聖母の御取り次ぎによりて、謙遜の徳をこい願わん。』

今日は初土曜日ですので、15分間、ロザリオの15の玄義の1つを黙想致しましょう。今日は、マリア様の御誕生日を前に控えておりますので、大天使聖ガブリエルがマリア様に御告げをなして、天主のメッセージを告げた、「聖寵に充ち満てる方、主は御身と共に在す」と言った、その玄義を黙想致しましょう。



マリア様、マリア様は永遠の昔から、この全宇宙の創造主によって、特別に選ばれて、特別の御恵みを受け続けてきた方です。私たちに救世主を、メシアを、贖い主を与える為に、その母となる為に、お生まれになりました。

マリア様が16歳の時に、大天主聖ガブリエルの御告げを受けて、「救い主の母となるか?」つまり、「救い主と共に、苦しみの道を歩む事ができるか?」という問いに、マリア様は、「はい」と答えられました。

「苦しみは嫌だ!罪を犯していないのに、なぜ苦しむのか!」とお答えになる事もできたのですが、マリア様は、「主の婢女はここにおります。仰せの如く我になれかし。」全てを受け入れる事を宣言されました。

ナザレトでの30年間の貧しいご生活。公生活の3年間、見守る生活。イエズス様の御受難を、母としてご覧になるその苦しみ。

未亡人として一人残され給うマリア様は、全てを、第2のエヴァとして、御捧げ下さいました。

マリア様こそ、イエズス様を最も深くよく知り、最も一致して生活された方です。「代々、人々は私の事を幸せな者と呼ぶでしょう。」

仰った通りです。大天主聖ガブリエルも、聖エリザベトが言う通り、「女のうちにて、特別に祝福された方」です。

救世主の母、天主の母、マリア様。天主の言葉の実現を信じた方。御謙遜、主の御旨のみを望んだ方。

このような救世主の母、天主の御母が、私たちの母として、イエズス様によって十字架の上から与えられた事を感謝します。

マリア様の御謙遜があればこそ、天地の創造主、イエズス・キリストが人となって、そして御聖体となって、私たちと共に、パンの形で、パンの外見で、代々この世の終わりまで、共にいらっしゃる事ができるようになりました。

マリア様の御謙遜な、「はい」という従順に、感謝します。

イエズス様、イエズス様はマリア様を通してのみ、私たちの元に来られる事を御望みになりました、永遠の昔から。その深い知恵に感謝致します。

三位一体の聖父は、聖子をイエズス様を、マリア様を通してのみ、この世に御与えになる事を御望みになりました。選びになりました。その深い知恵を讃美致します。

三位一体の聖霊は、マリア様にのみ、その聖寵の充満を、充ち満てる御恵みを与えようと御望みになりました。「聖寵に充ち満てるマリア、主はマリア様と共に在す。」その特別の御恵みをマリア様に与えたその愛の前に、深い礼拝を表します。

イエズス様は私たちに、その御自分の生涯を真似るように、模範を示されました、「私はお前たちに、模範を示した。」

その最大の模範は、30年間、マリア様の子供として、従順に生きておられた事でした。そのイエズス様の模範に、感謝致します。

これは全て、マリア様の御謙遜な「はい」から可能になった事でした。大天使聖ガブリエルがマリア様に告げたその御言葉は、何と聖なる尊い言葉だったでしょうか。

「聖母よ、主の御旨の前に、いつも『はい』という事ができるように助けて下さい。自分の都合や、自分の事ではなく、主の御旨を選ぶ事ができますように。」
コメント

新しいミサとルターのした典礼の革新とがどれほど似ているか:

2019年09月20日 | ルフェーブル大司教の言葉
アヴェ・マリア・インマクラータ!

ルターのミサから新しいミサへ(ルフェーブル大司教の講話より)

 今晩わたしはルターのミサとルターのした典礼の革新とが、どれほど新しいミサと似通っているかということを話したいと思います。


 なぜこのことを話す必要があるのでしょうか。なぜなら、典礼の改革を司った委員会の委員長自身が言うところによれば、この改革の根本には教会一致の考えがあり、わたしたちはこの改革について考察せざるを得ないからです。なぜならもし新しいミサと、ルターの典礼とのこの親子関係が本当に存在することが証明できれば、神学上の問題すなわち信仰の問題が、有名な“Lex orandi, lex credendi"(祈りの法は、信仰の法)と言う格言に従って、問題にならざるを得ないからです。

 さて、ルターのした典礼の改革の歴史的書類は現在の改革を照らし出すうえで大変参考になります。

 ルターのした典礼の改革の目的が一体何であったかということを理解するために、今簡単に司祭職とミサ聖祭に関する教会の教えをもう一度見ることにしましょう。

 トレント公会議はその第22総会においてこう私たちに教えています。我々の天主であり主であるイエズスキリストは、その司祭職を終わらせることを望まれず、その死にあたって、最後の晩餐において自分の愛する花嫁である教会に目に見えるいけにえを制定された。これはご自分の贖いの救いの力を我々が毎日犯す罪に適応させるためのものであった。この目的のためにご自分の使徒らを、彼らとその後継者らを、新約の司祭と制定し、新しい契約のこれらの司祭に聖なる消すことのできない印をつける品級の秘跡を制定した。

 この目に見えるいけにえは、現在我々の祭壇のうえでいけにえを捧げる行為によって捧げられている。これにより、我らの主は現実にパンとブドウ酒の形相の下に実在され、ご自分を天主御父にいけにえとして捧げられるのである。そしてこのいけにえを食することにより我々は主の御体と御血と交わり我々も自己を主と一致して捧げるのである。

 したがって教会は次のことを私たちに教えています。

司祭の司祭職は、叙階の秘跡を受けていない平信徒の司祭職と本質的に異なっていること。平信徒は司祭職を絶対的に必要とする教会の一部をなしてはいますが、(秘跡的)司祭職をもっていないのです。そしてこの司祭職には極めて独身がふさわしく、司祭用の服装などによって平信徒と外的に区別することがふさわしいのです。 この司祭職によって行使される礼拝式の本質的行為は、ミサ聖祭です。これは十字架のいけにえが流血のいけにえでありましたが、ミサにおいては無流血のいけにえであるということのみが異なるだけです。司祭は聖変化の言葉によって実現されるいけにえを捧げる行為によってミサを執行するのであって、ご受難のあるいは最後の晩餐の記念を単に朗読することによってミサをたてるのではないのです。

 この崇高で神秘的な行為によって私たちの霊魂と煉獄の霊魂の各々に贖いの功徳が適応されるのです。そしてそのことは奉献文においてすばらしく表明されています。

 したがって、いけにえが現実に存在することは必要であり、この実在はパンとブドウ酒の実体が我らの主の御体と御血に変化することによってなされるのです。したがって御聖体を私たちは礼拝しなければならないのです。そして御聖体に対して非常に大きな尊敬を払うべきです。それゆえにこそ司祭だけが御聖体を取り扱うという聖伝が生まれたのです。「司祭がただ一人だけで捧げるミサ」、そして「司祭一人だけが聖体拝領をするミサ」は、それだけで公の行為であり、ミサ聖祭としての全く同じ価値をもっています。そしてこのミサは司祭にとってもすべての信者らにとっても有益なのです。「司祭一人が立てるミサ」をこうして教会は勧め、望んでいるのです。

 ラテン語のミサの正に中核を構成する祈り、聖歌、典礼儀式(そしてその「宝石」はカノンですが)それらの起源にはこれらの信仰の原理があるのです。私たちはトレント公会議の言うところを読むと感動を覚えずにはいられません。「聖なるものを聖なるものとして取り扱うことはふさわしいことであり、このいけにえはすべての中で最も聖なるものであるのであるから、このいけにえがふさわしくかつ尊敬をもって捧げられ受けられるために、カトリック教会は数世紀以前より、そのうちに成聖を息吹かせ、外的信心を催し、このミサを捧げるものの精神を天主に上げるような、これに反するもののまったくないすべての誤謬から免れた純粋な、聖なるカノンを制定した。このカノンは実に主のみ言葉それ自体、使徒らの聖伝、聖なる教皇らの敬虔な指導からできている。」(第22総会第4章)

 では今から一体どうやってルターがその宗教改革を成し遂げたか、つまり彼自身がそう呼んだその『福音的ミサ』をどう作り上げ、それは一体どんな精神に基づいていたのか見てみましょう。このために1910年にレオン・クリスチアーニの書いた本を見ることにします。この本は現在の典礼改革の影響を受けていないはずですから。この本は「ルター主義からプロテスタンティズムへ Du Luthéranisme au Protestantisme, évolution de Luther de 1517 à 1528 Léon Cristiani」と言う題がついています。この本は典礼改革についてのルター自身の言葉やその弟子らの言葉を引用しているので大変興味深いのです。

 この研究は大変多くを教えてくれます。なぜならルターは自分を動かしていたリベラル(自由放埒)な精神を明かすことを躊躇していないからです。かれはこう書いています。「何よりもまず私は友としてこう懇願する。…神に対する「サービス」に関するこの命令を調べ、それに従いたいと思うものは、自分を束縛する法律のようにこれを読み取ったり、またいかなる良心も捉えられないようにしていただきたい。各々自分の好きなように自分の好きなときにそれを取り入れていただきたい。それがキリスト者の自由というものです。」

 「神に対する称賛としての礼拝式は、今後からは、人を慰め人を照らすために人に対してなされることになります。したがって今までは、いけにえが第1に重要な場所を占めていましたが、今度からは説教がそれに取って変わることでしょう。」

 では、ルターは司祭職についてどのような考えをもっていたのでしょうか。彼の「一人でのミサ」に関する本の中にはカトリック司祭職は悪魔の発明であることを証明しようとやっきになっています。そのためにこそ、彼はそれ以後基本的になるこの原理を持ち出すのです。「聖書にないことはサタンの付け加えたことである」と。さて聖書には目に見える司祭職については書かれていません。聖書には唯一の司祭唯一の大司祭、キリストのことについてしか書かれていません。さらにはキリストと共にわたしたちはすべて司祭である、と。司祭職は唯一であると同時に普遍的である、と。そこでルターは「司祭職を誰かのために独占するのは何という愚かなことか…。キリスト者の間のすべての位階的区別をつけるのは反キリストにふさわしい…。いわゆる『司祭』は災いなことよ。」と言うのです。

 1520年には、彼は「ドイツのキリスト教貴族への宣言」と言う本を書いていますがその中で彼は「ローマ主義者」に戦いを挑み自由公会議を求めています。

 「ローマ主義者が作った最初の高い壁」は聖職者と平信徒との区別である。「教皇、司教、司祭、修道者、が聖職者の身分を構成し、他方で君主、領主、職人、農民が世俗の身分を作り成す、ということに気づいたが、これは全くの作り事でありウソにすぎない。すべてのキリスト者は真実に聖職者の身分に属しており、役割の違いのほかキリスト者の間にいかなる区別もない。…もし教皇あるいは司教が塗油をし、剃髪式、叙階式、聖別式をし、平信徒とは違った服を着るとしたら、見せかけを作り上げ、塗油を受けた偶像を作ることはできるが、キリスト者も聖職者をも作ることができない。洗礼を受けたものはすべてすべて聖別された司祭、司教、教皇ということができる。ただしすべてがこの役割を果たすことがふさわしいとは言えないが。」と言っているのです。

 この教義から、ルターは聖職者の特別の服と独身制とに対し反対するのです。彼自身、また彼の弟子らもその模範を示し彼らは独身をやめ結婚するのです。

 バチカン公会議の改革から出た事実は、ルターの結論とどれ程似ているでしょうか。修道服の廃止、聖座によって認められた数多くの結婚、司祭と平信徒とを区別するすべての印の欠如。この平等主義は、今まで司祭にしか認められていなかった典礼の役職を平信徒にまで認めることによって明らかにされるほどです。

 下級品級の廃止、副助祭の廃止、結婚した助祭、これらは司祭は全く純粋に役職・役目でしか過ぎないという考えを生み、司祭職の秘跡的印を否定するのを促しています。叙階式は共同体へのサービス[奉仕の司祭職]という方向に向けられ、司祭職のカトリック的概念を唯一正当化する『いけにえ』のためではもはやなくなっています。

 労働司祭、組合活動主義者、あるいは国家によって俸給を受ける別の内職を求める司祭など、すべての区別を無くしてしまっています。彼らはルターのやったことよりはるか先を行っています。

 ルターの犯した第2に重大な教義上の誤謬は、この第1の誤謬の続きでありその第1原理に基づいています。すなわち、信仰あるいは信頼が救うのであって、業ではないということ。そしてこれはカトリックミサにおいて最も基本的であるいけにえを捧げる行為を否定することなのです。ルターにとって、ミサは賛美のいけにえ、すなわち賛美、感謝の行為ではありうるけれども、決して償いのためのいけにえ、十字架のいけにえを更新し適応させる贖罪のいけにえなどではないのです。

 修道院内の礼拝式の「退廃」について彼はこう言います。

「彼らの礼拝式の基本的要素、すなわちミサは、不敬虔、忌まわしさのすべて度を過ぎている。彼らはいけにえを捧げ良い業をしているという。これ[=ミサのこと]以外に修道服を脱ぎ捨て、修道院を出、誓願を破る動機はなかったではないか。ミサはそうするのに全く十分である。」

「ミサは『シナックス(集い)』であり交わりである。御聖体は3重のそして嘆かわしい捕虜となってしまった。平信徒の手からカリスを取り上げてしてしまったこと、トミストらが思いついた全実体変化に関する意見をドグマとして押し付けたこと、ミサをいけにえとしてしまったこと、これである。」

 ルターはここで最も重要な点に触れています。しかし彼は少しも躊躇してはいません。「したがって罪のために、罪の償いのために、死者のために、ミサを捧げ・適応するのは明らかなるそして不敬虔な誤謬である。…ミサは神によって人に捧げられたものであり、人によって天主に捧げられたものではない。」と彼は書いています。

 御聖体に関しては、「何よりもまず信仰を駆り立てなければならないものなのであり、俗語で捧げられなければならない。それはすべてが彼らに言われている約束の偉大さをよく理解することができるためである。」

 ルターはこの異端の結論として、いけにえの贖罪とあがないの目的をはっきりと表明している奉献文を廃止するのです。彼はカノンの大部分を廃止し、基本的な所のみを保存するのですがしかしそれもただ最後の晩餐の叙述としてだけです。最後の晩餐において成し遂げられたことに、もっと近づくために彼はパンの聖変化の言葉に「quod pro vobis tradetur(あなたたちのために渡される)」と言う言葉を付け加えるのです。そして「mysterium fidei(信仰の神秘)」という言葉と「pro multis(多くの人のために)」という言葉を廃止するのです。彼は、パンとブドウ酒の聖変化の前の言葉、そしてそれに続く文章を叙述の基本的な言葉として考えるのです。

 彼はミサをまず第1にみ言葉の典礼、第2に聖体拝領(交わり)と考えるのです。

 新しい典礼改革はルターのと全く同じ変化をもたらし、本当に信者たちが手にする現代のテキストにはもはやいけにえについては語られず、ただみ言葉の祭儀、最後の晩餐の叙述、パンあるいは御聖体の分かち合いしか語らない、というのを目前にし驚愕せざるをえません。

 新しいミサを導入する総則の第4項を見ると既にプロテスタントの考え方を表しています。それの発表の後になされた訂正は満足のいくものでは全くありあせん。

 祭壇石の廃止、ただ1枚の祭壇布しか覆われていないテーブルの導入、会衆の方に面する司祭、コルポラーレではなく常にパテナのうえにおかれたままのホスチア、普通のパンを使うことの許可、金銀の貴金属以外のいろいろな材質でできた器、そしてその他数多くの詳細な革新は、基本的にそして非常に重大にカトリックの教えに反したプロテスタントの概念を、新しいミサに与かる人に教え込んでいるのです。

 ミサ聖祭よりもカトリック教会が生き残るために必要なものはありません。ミサを打ち捨てることは教会の基礎それ自体を揺るがすことに等しいのです。キリスト教生活、修道生活、司祭生活はすべて十字架のうえに、祭壇上に新しくされる十字架の聖なるいけにえの上に築かれているのです。

 ルターはそのことからカトリック教会が教えているような全実体変化及びキリストの現存を結論として否定したのです。彼にとって、パンはそのまま残るのです。したがって彼の弟子で、御聖体の礼拝に反して強烈に立ち上がったメランクトンが言うように、「キリストは聖体を自分の受難の記念として制定した。聖体を礼拝することは偶像崇拝である」のです。

 そこから、手による聖体拝領、両形色の聖体拝領が生まれ、それは我らの主の御体、御血の現存をその両形色において否定しているのです。ですから、一つの形色だけによる聖体拝領は不完全だと考えられるのです。

 ここでもさらに現在の典礼改革とルターの典礼改革との奇妙な一致を計ることができます。御聖体の取り扱いに関する新しい許可はますます尊敬を欠かせ、忘れさせ、礼拝をさせないように向いているのです。手による聖体拝領、平信徒が、しかも女性が聖体を配ること、跪く回数を減少させ、数多くの司祭は既に跪くことをしなくなってしまったこと、普通のパンを使ったり、普通の容器をカリス替わりに使ったりすること、これらのすべての改革はカトリック教会が今まで教えてきた御聖体における現存を否定するのに役立っているのです。

 《Lex orandi lex credendi》と言う格言の通り、原理は実践と分かち難く結び付いているので、ルターの典礼改革をミサの典礼において真似ることは、少しづつ、しかし確実に、ルターの考えそのものを受け入れるようにと導いているのです。新しいミサが発表されて後ここ6年の経験はこのことを十分によく証明してくれます。このような、宗教統一的といわれるやり方の結果はまず信仰の領域に於いて壊滅的であり、特に司祭職の腐敗、召命の希少化に於いて特にひどく、全く身近なこの典礼に関する問題についてどこにおいてでもカトリック信者の一致を破壊し、プロテスタントやギリシャ正教会の信者との関係に悪影響を与えています。

 教会の生命活動に欠かすことのできないそして教会にとって基本的であるこの「司祭・いけにえ・御聖体」に関するプロテスタントたちの考えはカトリック教会の信仰と全く完全に反対です。トレント公会議が開かれ、4世紀にも亙って教導職のすべての文章がそれについて語っているのは、おもしろ半分でのことではなく、深い意義があることなのです。

 カトリック信者にとって、まさに自分の信仰の表明であり支えである典礼を、異端者どもが思いついた新しい典礼を受け入れるために放棄することは、しかも自分の信仰を最も大いなる危険にさらすことなしに放棄することは、心理的に、司牧的に、神学的に全く不可能なことです。プロテスタントのしていることをプロテスタントにならずに何でもかんでもまねするというのはできない相談です。

 どれ程多くの信者たちが、どれ程の若い司祭たちが、どれ程の司教様たちがこの典礼改革以降信仰を失ってしまったことか! 自然と信仰に真っ向から反対すればそのしっぺ返しは必ず食うものです。

 最初の「福音的ミサ」の様子をそしてその結末をここで皆さんに読んでみるのは2つの典礼改革がいかに奇妙なほど似通っているかということを納得してもらうために役立つと思います。

 「1521年12月24・25日の夜、群衆は教区の教会に押しかける。…「福音的ミサ」は始まろうとしていた。カールシュタットは説教壇に登り、聖体について説教する。彼は聖体を両形色で拝領する義務があると言い、聖体拝領の前の告解は無意味であるという。信仰だけで十分である、と。カールシュタットは普通の服装で祭壇に立つ。コンフィテオールを唱え聖福音の所までは普通のとおりにミサを始める。奉献の祈り、聖体奉挙などいけにえの概念を呼び起こすものはすべて省かれる。聖変化の後に聖体拝領がくる。参列者の中の多くはほとんど告解をしていなかった。彼らの多くは飲み食いし焼酎を飲んでいたものもあった。彼らも他の人と共に祭壇に近づく。カールシュタットはホスチアを配りカリスを差し出す。聖体拝領する人は手で聖別されたパンを受け取り自分で好きなようにカリスから飲む。ホスチアの一つはスルリと落ちて参列者の服に落ちる。司祭はそれを拾う。もう一つは地面に落ちる。カールシュタットは平信徒にそれを拾うようにと命じる。平信徒が尊敬あるいは迷信のしぐさをしてそれを拒むとカールシュタットは「もし誰もその上を歩かないのなら、それではその落ちたところにそのままあればよい」と言うに過ぎなかった。」

 その同じ日に、その付近のある司祭はおよそ50人ほどの人に両形色で聖体を配った。彼らのうちたった5人だけが告解をしていたに過ぎなかった。その他の人達はミサ中に赦しを受け、罪の償いにもう再び罪に落ちるなと勧められただけであった。

 翌日カールシュタットはアンナ・デ・モハウとの婚約式をした。幾人かの司祭たちはこの模範に従い結婚した。

 この時、ツウィングリは自分の修道院を抜け出しアイレンブルクで説教していた。彼は修道服を脱ぎ捨て髭を生やしていた。平信徒の服装で司祭一人だけのミサに反対していた。新年には両形色で聖体を配る。ホスチアは手から手へと配られていた。自分のポケットに入れてもって帰ったものもいた。ある婦人はホスチアを食しながらそのかけらを地面に落としていた。誰もそのことに注意を払わない。平信徒は自分でカリスを取りなみなみと飲んでいた。

 1522年2月29日、ツウィングリはカタリン・ファルキと結婚した。当時まさに「司祭と修道者の結婚」という伝染病がはやっていた。修道院は空っぽになり始めた。修道院に留まった修道者たちは、1つの例外を除いて、祭壇を打ち壊し、諸聖人の聖画を焼き払い、病者のための聖香油さえ焼き捨てた。

 司祭の間には全くの大きな無秩序が支配していた。誰もが自分の好き勝手にしたい放題のミサを立てていた。協議会は典礼の改革のために秩序を取り戻そうと新しい典礼を決定することを決議した。

 それでどうやってミサを立てるかというやり方を決めた。入祭唱、グロリア、書簡、福音、サンクトゥスは残された。その後に説教。奉献文とカノンは廃止された。司祭はただ単に最後の晩餐の制定を朗読する。聖変化の言葉は大きな声でドイツ語でする。聖体は両形色で配られる。アニュス・デイの歌、聖体拝領の歌、そしてベネディカムス・ドミノの歌でサービスは終わる。

 ルターは新しい聖歌を作るのが心配だった。うまい詩を探すのだがなかなか見つからない。聖人の祝日は姿を消す。ルターは典礼の過渡期をうまく乗り越える。彼は古い儀式をできるだけ残そうとする。彼はその方向づけを(なるべく穏やかに徐々に)変えようとやっきになる。ミサは大部分その外見はそのままを保つ。民衆は教会建築の中に同じ装飾を再び見いだす、民衆の気に入るように仕組まれた同じ儀式。今後は今まで以前よりもずっと民衆に訴えるようになる。礼拝式を重要視することにますます気が付く。民衆は、聖歌や声を出しての祈りなどによりますます積極的に礼拝式に参加する。少しづつ、そして決定的にラテン語はドイツ語に席を譲る。

 聖変化はドイツ語で歌われる。聖変化はこの言葉でなされる。「我らの主は渡される夜パンを取り感謝してそれを割き、弟子らに与えてこう言われた。取って食べなさいこれはあなたがたのために渡されるわたしのからだ。あなたがたがこれを行う度にわたしの記念としてこれを行いなさい。同じく食事の後に杯を取りこう言われた。取って皆これを飲みなさい。これは、あなたたちのために流される罪の許しのための私の血におけるカリス、新しい契約。このカリスを飲むたびごとにこれを私の記念として行いなさい。」

 こうして『quod pro vobis tradetur』『あなたたちのために渡される』と言う言葉が付け加えられ、ブドウ酒の聖変化において『信仰の神秘』『多くの人のために』と言う言葉が省かれるのです。

 この「福音的ミサ」似関する叙述は公会議以後の典礼改革に対して私たちが思っているのと同じことを言ってはいないでしょうか。

 新しいミサにおけるこれらの変化は本当に危険です。何故なら、少しずつ、特にいけにえの観念がもはやなく、聖体における現存や全実態変化の観念のない若い司祭にとってこれらは何の意味ももたず、教会がすることをするという意向を失ってしまうからです。そうするともはや彼らのミサは有効ではないのです。

 確かに、もしも年を取った司祭たちはたとえ新しいミサを捧げるときでも今までの信仰を保っており、また更に彼らは長年の間古いローマミサを捧げて来たし、彼らはその意向を保っている、としたら、彼らのミサは有効だと信じることができます。しかし、彼らのこの意向が無くなるに従って、それがどこかに行ってしまうに従って彼らのミサももはや有効ではなくなってしまうのです。

 彼らはプロテスタントに近づこうとしましたがその結果としてカトリックがプロテスタントになり、プロテスタントがカトリックになったのではないのです。そのことは一目瞭然です。

 5人の枢機卿と15人の司教がテーゼの『青年の公会議』に参加したときのこと、これらの青年達はどうやってカトリシズムとは何か、プロテスタンティズムとは何かと言うことを知り得たでしょうか。あるものはプロテスタントのところで聖体拝領し、あるものはカトリックのところで聖体拝領をしました。

 ウィルブランズ枢機教がジュネーブで開かれた教会統一協議会へ行ったとき、こう宣言しました。「我々はルターの名誉を回復させなければならない。」彼は聖座からの勅使としてこう言うのです!

 告解の秘跡を見てください。合同回心式の為にこの改悛の秘跡は一体どうなってしまったのでしょうか! 信者にこう言うのは司牧的でしょうか。「集団的に許しを与えました。聖体拝領することができます。もし機会があったら、そしてもし大罪を犯していたのなら、今から6カ月かあるいは1年のうちに告解を個別的にしてください。」こんなやり方が司牧的なのでしょうか。大罪について人はどのように考えるようになることでしょうか。

 堅振の秘跡も全く同じ状況にあります。今流行の形相はこれです。「我、汝に十字架の印をする、聖霊を受けよ。」しかし、聖霊がこの秘跡によって自分を私たちに与えるその秘跡の特別の聖寵が何であるかを正確に言わなければなりません。もし、この「Ego te confirmo in nomine Patris...」という言葉を言わないとすれば、秘跡ではないのです。私はそのことを枢機卿たちに言いました。なぜなら彼らは私にこう言ったからです。「あなたは堅振の秘跡を授ける権利の無いところでそれをしている」と。「信者たちが自分の子供達が堅振の聖寵を受け取らないのではないかと恐れているから、今の教会で与えられている堅振の秘跡の有効性に彼らは疑いを抱いているので、私は堅振を授けるのです。少なくともその聖寵を確実に得ようと私に堅振を与えてくれと頼むからです。私にとって私に有効な堅振を頼む人々の願を拒むことはできないので、たとえそれが不合法だとしても私はそれをするのです。なぜなら、教会の人定法が天主の自然法・超自然法の運河である替わりにそれに対立しているとき、天主の自然・超自然の法が教会人定法に勝るからであり、我々は今そのときを生きているからです。」

 私たちは今、教会の異常な危機の時代を生きています。私たちはこれらの改革については行けません。これらの改革のよき実りとはどこにあるのでしょうか。私は本当に自問自答します。典礼改革、神学校の改革、修道会の改革、すべての修道会の最高幹部会の改革。これらのかわいそうな修道院を一体どこにやってしまったのですか! みんな跡形もなく消えてしまいました。もはや修練者もなく、召命もありません。

 シンシナッティーの枢機教大司教は、ローマにおける司教らのシノドゥスでやはりこう認めました。「私たちの国々では ─英語を話す国々を指してのことですが─ 司祭とは一体なんであるか皆がよく知らないのでもはや召命が無くなってしまった。」

 ですから私たちは聖伝に留まらなくてはなりません。聖伝だけが私たちに本当に聖寵を与えてくれます。教会における継続性を与えてくれます。もし私たちが聖伝を打ち捨てるとき、私たちは教会の破壊に貢献するときです。

 私はこれらの枢機卿たちにこう申し上げました。「公会議の中の信教の自由に関する概要は矛盾しているということに気が付きませんか。この概要の第1部には『聖伝は何も変えてはならない』と言われているのに、この概要の内部ではすべてが聖伝の反対を言っています。この概要はグレゴリオ16世やピオ9世そしてレオ13世の言ったことと全く反対です。」と。

 ですから、選ばなくてはなりません。公会議の説く信教の自由に賛成し、これらの教皇様がたの言われ続けて来たことに反対するか、あるいは、これらの教皇様の言われることに賛成して信教の自由に関するこの概要の中で言われていることにもはや賛成しないかのいずれかです。この2つに同時に賛成する・同意することは全く不可能です。そして私はこう付け加えて言いました。「私は聖伝を取ります。私は聖伝を支持します。自由放埒主義と言った革新は支持しません。この1世紀半の間、すべての教皇様が排斥して来たのはまさしくこの自由放埒主義以外の何物でもないのです。この自由放埒主義が公会議を通して教会の中に入って来たのです。自由・平等・博愛の自由放埒主義が。」

 自由、それは信教の自由のことです。平等、それは司教団主義です。博愛、それは宗教統一運動です。そしてこれらが自由放埒主義の3つの原理で、これは17世紀の哲学から来たのです。そしてこの原理がフランス革命を生んだのです。

 そしてこの観念があいまいな言葉によって公会議の中に入ったのです。そして今ではこのために私たちは崩壊に、教会の崩壊へと向かっているのです。何故なら、それらの観念は自然と信仰とに反しているからです。私たちの間に完全な平等はありません。私たちは何から何まで全く等しいわけではありません。教皇レオ13世はその自由に関する回勅の中でそのことをはっきりとすばらしく言い表しました。

 それから博愛(兄弟愛)について、もし一人の父がいないのなら、どこから兄弟愛を見つけるのでしょうか。もし天主様がいないのなら、もし天にまします父がいないのなら、どうして私たちが兄弟でありうるでしょうか。共通の父が無くしてどうして兄弟たり得るでしょうか。不可能です。無理な相談です。教会のすべての敵の言うなりにならねばならないのでしょうか。共産主義者、仏教徒、そして教会に反対するすべての人の思いのままにですか。フリーメーソンとか。 今から一週間前に発表された法令によると、フリーメーソンに入会するカトリック信者にはもはや破門の制裁は無いのだそうです。フリーメーソンはポルトガルを破壊しました。一体誰がチリにアレンデと共にいたのでしょうか。そして今では南ベトナムにいます。彼らはカトリック国家をすべて破壊し尽くさねばならないと言います。第1次世界大戦中のオーストリア、ハンガリー、ポーランドなどなど。フリーメーソンはカトリック国の破壊を望んでいるのです。フリーメーソンの活動はスペイン、イタリアではどうでしょうか。何故教会は教会の敵であるこれらの人に両手を広げるのでしょうか。

 ああ、私たちはどれほど祈り、祈らなければならないでしょうか!私たちは今まで見たことも無かったような悪魔の教会に対する攻撃のときを生きています。私たちは聖母に、至福なる童貞マリア様に、私達の助けに来てくださるように祈らねばなりません。何故なら私たちは本当に明日がどうなるか全く分からないからです。天主様が、ご自分の御稜威、その御光栄に対してなされたこれらすべての冒涜、涜聖、汚聖を受け入れるはずがありません。多くの国々で見られるようになってしまった堕胎の法律、イタリアにおける離婚の許可、これらすべての道徳に関する法律の壊滅、真理の壊滅を思ってみてください。ある日、天主様がそれに対して口を開かず、この世を厳しく罰し給う事なくそのまま済まされるなどとは到底思えません。

 それゆえにこそ、私たちは自分たちのためそして私たちの兄弟たちのために天主様に御憐れみを請い求めねばなりません。しかし私たちは戦い勝ち抜かねばなりません。聖伝を守り抜くために戦い恐れてはなりません。とりわけ私達の聖なるミサの典礼を維持しなければなりません。何故ならこのミサこそ教会の基礎であり、キリスト教文明の基礎だからです。もし教会内に本当のミサが無くなってしまうなら教会は姿を消してしまうでしょう。

 私たちはこの典礼を、このいけにえを守らねばなりません。私たちの教会はすべてこのミサのために建てられました。別のミサのためではないのです。ミサのいけにえのためであって、最後の晩餐、会食、記念、交わりのためではないのです。いいえ、違います。私たちの祭壇上で続けられる我らの主イエズス・キリストのいけにえのためです。そのためにこそ私たちの祖先はこれらの素晴らしい教会を建てたのです。決して会食や記念のためではありません。違います!

 私は神学生のために捧げられる皆さんの祈りに期待しています。わたしの神学生たちが本当の司祭になるように。信仰をもち、かくして本当の秘跡と本当のミサのいけにえを与えることができるように。お願いします。

マルセル・ルフェーブル大司教/1975年2月15日イタリア・フィレンツェにて

《De la Messe evangelique de Luther au Nouvel Ordo Missae》
par Son Excellence Mgr Marcel LEFEBVRE Florence, le 15 fevrier 1975
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教皇ヨハネ二十二世は、啓示された「質料的教義」に反する異端説を唱えたが、聖伝の教えを信じる人々が教皇に公に反対して抵抗した。

2019年09月19日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛するM君、

教皇ヨハネ二十二世の件についてお話をします。

これをみると、その当時も、聖伝主義者と「聖座忠誠派」(教皇信奉者)と教皇座空位論者が出てきました。

聖伝主義者とは、今までの正統な教えられ続けてきた教義(聖伝)を信じ、もしも教皇がそれを個人的に否定したとしても、聖伝を支持し続ける人々です。しかし、聖伝主義者は、個人の資格によって教皇を教皇ではないとは主張せず、ただ、間違った教えを説く教皇に抵抗する人々です。

「聖座忠誠派」とは、教皇の言うことなら、それが聖伝に反しても何でもその通りだと信じて、それを支持することがカトリックであるという態度の人々です。

教皇座空位論者とは、教皇が聖伝の教えを否定したとき、自分の個人の判断によって、教皇を教皇ではない、と断言する人々のことです。

さて、教皇ヨハネ二十二世(1316-1334)は、アヴィニョンにいた真の教皇でした。

ヨハネ二十二世は、信徒の霊魂は死後すぐに至福直観を得るのではなく、最後の審判の後でようやく至福直観を得る、と公に教えました。

この異端説を、教皇として、枢機卿たちや高位聖職者や神学者たちを前にして、何度も説教しました。この説によると、

*死せる信者の霊魂は、世の終わりの総審判の後にならなければ、善業の報いである至福直感(天主を顔と顔を合わせて完璧に見奉り天主を享受すること)や天国での至福を得られない。
*肉体のよみがえりがあり、肉身と霊魂とがもう一度合体して初めて、完全な至福が人間に与えられる。
*煉獄で浄められた後、霊魂は「祭壇の下 sub altare」(黙示録6:9)におかれ、肉体のよみがえりと最後の審判を待つ。
*この待っている間、霊魂たちはキリストの人生によって慰めを受け、保護されるが、至福直観は受けることが出来ない。

などと教えていました。

ヨハネ二十二世の説教は記録されて、出版されています。たとえば、次が参考になります。

Marc Dykmans, "Les sermons de Jean XXII sur la vision béatifique", Rome, Gregorian University, 1973
Sermon de Toussaint 1er novembre 1331Sermon du 15 décembre 1331

次の二冊は、情報としてあげておきます。

Fr. V. F. O’Daniel, "John XXII And The Beatific Vision", The Catholic University Bulletin. vol. VIII, Washington, D.C.: The Catholic University of America, 1912

Christian Trottmann, "La vision béatifique. Des disputes scolastiques à sa définition par Benoît XII, Ecole Française de Rome", Rome 1995.

ヨハネ二十二世は、この異端説を枢機卿であるときから、すなわち教皇になる前から唱えており、印刷物として出版しました。

教皇として、これを説教し、自説をパリ大学の神学部に強要しました。しかしこの説に反対する神学者たちは、ヨハネ二十二世の説を異端的だと非難しました。

これについては、Pope John XXII in Catholic Encyclopedia (1913)には次のようにあります。すこし引用しますが、詳しくはリンク先を見て下さい。

Before his elevation to the Holy See, he had written a work on this question, in which he stated that the souls of the blessed departed do not see God until after the Last Judgment. After becoming pope, he advanced the same teaching in his sermons. In this he met with strong opposition, many theologians, who adhered to the usual opinion that the blessed departed did see God before the Resurrection of the Body and the Last Judgment, even calling his view heretical. A great commotion was aroused in the University of Paris when the General of the Minorites and a Dominican tried to disseminate there the pope's view.(…)

歴史家のロベルト・デ・マテイ(Roberto de Mattei)は、A POPE WHO FELL INTO HERESY, A CHURCH THAT RESISTED: John XXII and the Beatific Vision という記事の中で次のように書いています。詳しくは、リンク先をお読み下さい。それによると、

*ヨハネ二十二世の異端説は古くからあったが十三世紀に聖トマス・アクィナスが論破していた。【聖トマス・アクィナス De veritate (q. 8, a. 1) や Summa Theologica ( I, q. 12, a. 1)など】

*ヨハネ二十二世がこの誤謬を再提示すると、多くの神学者たちから公に批判を受けた。

*討論に参加して教皇に反対した人々のなかに、モー(Meaux)司教区の司教であった Guillaume Durand de Saint Pourcain (1270-1334)がいたが、彼は、教皇がカタリ派の異端を再提示していると告発した。

*教皇の説に反対した英国ドミニコ会士 Thomas Waleys (1318-1349)は、公に反論した結果、裁判を受けて投獄された。

*教皇に反論したフランシスコ会 Nicola da Lira (1270 -1349) と ジャック・フルニエ枢機卿 Cardinal Jacques Fournier (1280-1342)は、教皇庁の神学者たちであった。(フルニエ枢機卿は後に教皇ベネディクト十二世となる。)

*ヨハネ二十二世が自分の謬説をパリ大学の神学部に強要しようとすると、フランス王フィリップ六世はその教えを禁止し、ソルボンヌ大学の総長ジャン・ジェルソンの記述によると、ヨハネ二十二世がその教えを撤回しない限り、彼を火やぶりにすると脅しさえした(threatening John XXII with the stake)。

*聖アウグスティノ隠遁会の総長であるストラスブルクのトマス(Thomas of Strasburg)によると、ヨハネ二十二世の複数の説教は、全キリスト世界を混乱させた(totus mundum christianum turbaverunt)。

*ヨハネ二十二世の死の直前に、教皇は個人の神学者としてのみ発言して、教導権に結びつけることはしなかった(without any binding to the magisterium he held)と述べた。

*ジョヴァンニ・ヴィラ(Giovanni Villani)の年代史によると、ヨハネ二十二世は、自分の甥であったダル・ポジェット枢機卿(Cardinal Dal Poggetto)とその他の親戚の計らいによって、死ぬ前日(1334年12月3日)に自分の主張を撤回した。

*ヨハネ二十二世の死(1334年12月4日)の後、1334年12月20日、ヨハネ二十二世の異端に反対していた前述のフルニエ枢機卿が教皇に選ばれ、ベネディクト十二世(1335-1342)の名前を取った。

*後継者ベネディクト十二世は、1336年1月29日付けで勅令「ベネディクトゥス・デウス Benedictus Deus」によって、死せる信徒の霊魂は、もし必要なら煉獄で浄められた後、最後の審判の前に、すぐに至福直観を受ける、と不可謬的に定義した。

*この信仰箇条は、1439年7月6日に、フィレンツェ公会議の際に、勅令レテントゥル・チェリ(Laetentur coeli)で言及された。 (Denz-H, n. 1305)

*聖ロベルト・ベラルミンは、ヨハネ二十二世は異端的な説を、真理として信徒らに強制しようという意向を持って、それを支持したが、ドグマとして定義することが出来る前に死亡した、と書いている。従って、教皇の不可謬性の原則は揺るがされなかった。
(St. Robert Bellarmine who dealt amply with this issue in De Romano Pontifice (Opera omnia, Venetiis 1599, Book. IV, chap. 14, coll. 841-844) writes that John XXII supported a heretical thesis, with the intention of imposing it as the truth on the faithful, but died before he could have defined the dogma, without therefore, undermining the principle of pontifical infallibility by his behavior.)
【M君のために聖ベラルミンの書いた本をインターネット上で探しました。リンク先にあります。
http://cdigital.dgb.uanl.mx/la/1080015572_C/1080015573_T2/1080015573_10.pdf
P 117 の "Trigessimus sextus est Joannes XXII, Papa"という文章から始まるところです。

*ヨハネ二十二世の正統ではない教え(heterodox teaching)は、教会の信仰に関する通常の教導権(ordinary magisterium)の執行であったが、定義をするものではなかったので、不可謬ではなかった。


ベネディクト十二世の勅令のラテン語原文は、次にあります。
BENEDICTUS DEUS (29 Ian. 1336) -- Pontificia definitio dogmatis de visione beatifica Sanctorum ante iudicium universale in caelo fruentium

(…)hac imperpetuum valitura Constitutione, auctoritate apostolica diffinimus, quod secundum communem Dei ordinationem animae sanctorum hominum(…)mox post mortem suam et purgationem praefatam in illis qui purgatione huiusmodi indigebant, etiam ante resumptionem suorum corporum et iudicium generale, post ascensionem Salvatoris nostri domini Iesu Christi in caelum, fuerunt sunt et erunt in caelo, caelorum regno et paradiso caelesti cum Christo, sanctorum Angelorum consortio aggregatae; ac post domini Iesu Christi passionem et mortem viderunt, vident et videbunt divinam essentiam visione intuitiva et etiam faciali, nulla mediante creatura in ratione obiecti visi se habente, sed divina essentia immediate se nude clare et aperte eis ostendente; quodque sic videntes eadem divina essentia perfruuntur nec non quod ex tali visione et fruitione eorum animae qui iam decesserunt sunt vere beatae et habent vitam et requiem aeternam et erunt illorum, qui postea decedent, cum eandem divinam videbunt essentiam ipsaque perfruentur ante iudicium generale; ac quod visio huiusmodi divinae essentiae eiusque fruitio, actus fidei et spei in eis evacuant, prout fides et spes proprie theologicae sunt virtutes; quodque postquam inchoata fuit vel erit talis intuitiva et facialis visio et fruitio in eisdem, eadem visio et fruitio sine aliqua intervisione seu evacuatione praedictae visionis et fruitionis continuata extitit et continuabitur usque ad finale iudicium et extunc usque in sempiternum.(…)

ヨハネ二十二世のケースを見ると、次のことが言えます。

教皇は、信仰に反する誤謬を公に教えることが出来る、ということです。

ヨハネ二十二世の場合、教会による定義の直前だったとはいえ「ドグマの内容(質料的教義)に反する誤謬」を教えていました。

質料的教義(material dogma)とは、啓示の源泉の中に含まれているので、教会が信仰定義をすることができる真理ですが、教会によってまだ定義されていない真理のことを言います。(Ott, Fundamentals of Catholic Dogma, p. 6; Van Noort, The Sources of Revelation, p. 229.)

死せる義人の霊魂が至福直観を享受することについて、不可謬の定義宣言が彼の死の直後にあったとは言え、これは啓示された真理の信仰の遺産の一部でした。だからこそ、教皇の教えは、すぐに、しかも、強烈に反対を受けました。聖伝に反していたからです。

教皇アドリアノ四世はヨハネ二十二世のことを「異端者」であると呼びました。これについてはラテン語原文を引用して既に述べました。
「(…)実に、複数のローマ教皇らは異端者だった。彼らの最後は、教皇ヨハネ二十二世だった。煉獄の霊魂たちは最後の審判の前にはストラを持たない、つまり、明確な天主の顔と顔とを合わせる至福直観を持たないということを、彼は公式に教え、宣言し、すべての人に信じるように(teneri)命じた。」

教皇ベネディクト十二世によれば、ヨハネ二十二世は死の直前まで自分の意見を信仰定義しようとしていましたが、死によってそれが出来なくなりました。
"Cumque idem praedecessor, ad quem praedictorum determinatio pertinebat, ad decisionem concertationum huiusmodi se pararet in suo Consistorio publico, tam Fratribus suis, sacrosanctae Romanae Ecclesiae Cardinalibus, de quorum numero tunc eramus, quam Praelatis et magistris in Theologia, qui multi aderant tunc praesentes, iniungendo districtius et mandando, ut super materia de visione praedicta, quando requirerentur ab eo, deliberate unusquisque diceret quod sentiret, tamen morte praeventus, sicut Domino placuit, perficere id nequivit."[BENEDICTUS XII, BENEDICTUS DEUS]

ヨハネ二十二世が、自分の異端説を唱えつづけた時、ヨハネ二十二世を教皇と認めつつ、しかしその異端説に抵抗した「聖伝のカトリック」がいましたが、その反対に教皇のいうことであるなら、異端説でも何でも、その先棒担ぎとなって広める「聖座忠誠派」(教皇信奉者)もいました。

その先頭がフランシスコ会のジェラール・オルドン(Gerard Ordon)らです。パリのドミニコ会士らも含めて、オルドンらは教皇の異端説を宣伝し、擁護して、パリ大学では大きな問題となりました。

他方で、異端説を唱えるヨハネ二十二世を、教皇ではないと言う者も出てきました。M君のような人です。最初のプロテスタントと呼ばれたオッカムのウィリアム(William of Ockham)です。

イングランド出身のフランシスコ会士であるオッカムのウィリアムは、異端の嫌疑がかけられていましたが、正式に(formally)異端者として排斥されたことはありません。

Franciscan Institute Publications: Philosophy series, No 1. p. 12 にオッカムのウィリアムが1334年にフランシスコ会総長に宛てて書いた手紙の英語訳が載っています。

あるいは、The Tractatus de successivis, William (of Ockham), The Franciscan institute, St. Bonaventure college, 1944, p. 12 にもあります。

オッカムのウィリアムの手紙を引用します。

At the end of his letter to the General Chapter in Assisi in the spring of 1334, he wrote:
"Because of the errors and the heresies mentioned above and countless others, I turned away from the obedience of the false Pope and all who were his friends to the prejudice of the orthodox faith. For men of great learning showed me that because of his errors and heresies the same pseudo-pope is heretical, deprived of his papacy and excommunicated by Canon Law itself, without need of further sentence ... "

"If anyone should like to recall me or anyone else who has turned away from the obedience of the false pope and his friends, let him try to defend his constitutions and sermons, and show that they agree with Holy Scripture, or that a Pope cannot fall into the wickedness of heresy, or let him show by holy authorities or manifest reasons that one who knows the Pope to be a notorious heretic is obliged to obey him."

あるいは、William of Ockham: 'A Letter to the Friars Minor' and Other Writingsにもあります。

つまり、十四世紀に、オッカムのウィリアムは、ヨハネ二十二世の誤謬と異端のために、偽りの教皇への従順を拒む、ヨハネ二十二世の誤謬と異端のために偽教皇は異端者であり、教会法によって判決の必要もなく、教皇職を失い、破門された、と主張しています。

もちろん、カトリック教会は、オッカムのウィリアムのこの主張に決して同意しません。しかし、教皇が公に誤謬を教えたことがあり、そのために教会が大混乱に陥ったという事実があることを教えています。

歴史は、教皇が誤謬や異端を教えるとき、オーバーな反応をする人々がいたことも教えています。教皇座空位論者です。自分の判断で教皇が教皇職を失ったと宣言する人々です。ただしオッカムのウィリアムの名誉のために少し付け加えると、彼は現代の教皇座空位論者らのように、世界中のすべての司教区を持っている司教らが信仰から離れているので司教職を失ったとは主張していませんでした。

【この項は続きます】
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シュナイダー司教はアマゾン地域のための特別シノドスの討議要綱に反対する:十字架の福音の代わりに、地上の生活の福音、胃袋の福音、自然の礼拝、森の礼拝、水と太陽を礼拝する福音を宣教している

2019年09月19日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

Working Document for the Synod on the Amazon: In the Critics’ Spotlight (2)の日本語訳をご紹介します。

Working Document for the Synod on the Amazon: In the Critics' Spotlight (2)
アマゾン周辺地域のための特別シノドスの討議要綱(2)

AUGUST 14, 2019 SOURCE: FSSPX.NEWS

近く行われる予定のアマゾン周辺地域のための特別シノドスの討議要綱(working documents)に関するヴァルター・ブラントミュラー枢機卿による批判がなされたのち、この7月に新たに三つの批判が出されました。

第二の批判は、カザフスタンにあるアスタナの補佐司教であるアタナシウス・シュナイダー司教からのものです。

シュナイダー司教の批判は、2019年7月17日にオーストリアのウェブサイトKath.netにドイツ語による8ページの文書で、翌日にはLifeSiteNewsに英語で発表されました。

アマゾン・カトリックというセクトに向けて

ミュラー枢機卿と同様に、シュナイダー司教は、このシノドスは、自然を崇拝し女性司祭職を持とうとする「アマゾン・カトリック」というセクトをつくろうと望んでいるヨーロッパの聖職者の偽エリートによって準備されていると主張しています。主にヨーロッパ出身であるこれらの改革者たちは、「新しいキリスト教を本当に欲している」と。

シュナイダー司教は、エルヴィン・クロイトラー司教の最近の発言を告発します。エルヴィン・クロイトラー司教は、以前はブラジルのシング司教区の司教であり、来るシノドスの主要な文書作者の一人です。クロイトラー司教は、オーストリアのテレビネットワークORFで、アマゾン地域での司祭不足を理由に、結婚した司祭と「最低でも女性助祭職」を要求しました。
シュナイダー司教は、この同僚司教に反対して、【その人々には】「御聖体への権利」などというものはなく、また「御聖体の秘蹟は、天主からの究極の賜物である」と断言しました。シュナイダー司教は、本当の問題点は、「アマゾン地域では最近何十年もの間、召命を養成する強い司牧的行動が起こされなかった」ことだと宣言しました。

アスタナ司教区の補佐司教であるシュナイダー司教は、この期間[=最近何十年]に「アマゾン地域の宣教師たちの中には、イエズス・キリストの真の精神から離れ、使徒たちの精神から、また聖なる宣教師たちのまことの精神から離れ、代わりに、この世の精神に向かった人々がいる」と強調しました。
また、「クロイトラー司教や彼の同僚の多くの同伴者ら[思想に共鳴して協力をする人々]が要求しているものは、いわば、司祭の猿まね(カリカチュア)であり、援助活動家、NGO職員、社会主義的サンディカリスト、環境保全専門家の形を取っている」と述べます。

シュナイダー司教は、現在アマゾン・シノドスの準備作業に参加している教会関係者を酷評しました。彼は何度も述べます。
「イエズスの名前と聖なる司教職・司祭職を乱用して、宣教師たち、さらに司教たちさえもが、アマゾン地域で地上の生活の福音を、いわば胃袋の福音を宣教し、十字架の福音を宣教したのではなかった。それは、自然の礼拝、森の礼拝、水と太陽を礼拝する福音であり、この非常に短い地上の物質的生活を礼拝する福音だ。」

このシノドスの議長を務める教皇の問題について、シュナイダー司教は、教皇には「司祭の独身性という使徒からの遺産を保存し(…)自分の後継者と次の世代」へ伝達する「天主によって彼に与えられた厳しい義務がある」ことを思い起こさせます。

なぜなら「教皇は、沈黙によっても、あるいは、あいまいな対応によっても、どのようなやり方でも、討議要綱の一部にある明らかにグノーシス主義的かつ自然主義的な内容を支持することが許されないし、司祭の独身性という使徒からの義務を廃止することを支持してはならない」からだ。

しかし、このカザフスタンの司教は、現実的にこう付け加えています。
「もし教皇が来るアマゾン・シノドスでこのような支持を行ったとすれば、彼はペトロの後継者、キリストの代理者として、自分の義務に重大な違反を犯すことになり、教会に霊的な失墜をもたらすことになるだろう。しかし、無敵の真理の太陽であるキリストは、聖にして勇敢で忠実な教皇たちを教会に遣わされて、この短い失墜を消してくださるだろう。なぜなら、地獄の門はペトロの岩に打ち勝つことはできない(マテオ16章18節参照)からだ。」

この心配は、LifeSiteNewsのジャーナリスト、Maike Hicksonによって表明されています。シュナイダー司教の批判をまとめて、最後に、彼女はこう書いています。

「汎アマゾン・シノドスはローマで開催されるが、シノドス参加者の教父らのほとんどはアマゾン地域に由来する教父たちであり、アジア、東ヨーロッパ、アフリカのような地域出身のより保守的な何らかの司教たちは[参加できず]、アマゾンから来る進歩的な思想に対して反対することが出来ないだろう」と。


Photo Credit

(Sources : LifeSiteNews/Dici n° 387 - FSSPX. Actualités)
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アマゾンの特別シノドスの討議要綱に反対する前教理省長官ミュラー枢機卿:キリスト教を、宇宙と生物多様的自然とエコロジーを神聖化することによる救いの学問に変えようとする無駄な試み

2019年09月19日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

Working Document for the Synod on the Amazon: In the Critics’ Spotlight (1)の日本語訳の続きをご紹介します。

アマゾン周辺地域のための特別シノドスの討議要綱
様々な批判を受けて(1)続き



アマゾン川がライン川を源泉として流れている

ミュラー枢機卿は、進歩主義的ドイツ人たちが、次のシノドスの討議要綱に書かれた内容に及ぼした影響を忘れませんでした。
「Rete Ecclesiale Panamazzonica (=REPAM)(汎アマゾン教会ネットワーク)という団体、これは討議要綱の準備を課され、まさにその理由のために2014年設立されたものですが、この団体と討議要綱の作者たちは、いわゆるTheologia india[インド神学]のグループに属している人々で、極めて頻繁に自分が書いた言葉を引用しています。」

「このグループは、まったく同じ世界観を持つ人々による閉ざされた組織です。ワシントンとローマで行われたシノドス準備会合にいた名前のリストに簡単に見られるように、不釣り合いなほど大勢のドイツ語圏のヨーロッパ人が含まれています。」

「[この閉ざされた組織には]真剣な反対意見が免除されています。なぜなら[彼らの世界観においては]反対意見は、一枚岩の教理主義と教条主義、あるいは儀式主義(IL 38; 110; 138)に基づくもの、さらに、対話をすることが不可能な聖職者主義(IL 110)や、ファリザイ人の堅苦しい考え方や、律法学士たちの側の理性の傲慢に基づくもの、でしかあり得ない[とされる]からです。そのような人々と議論をしたとしても、時間の無駄、徒労に過ぎないとされるからです。」

このドイツ人枢機卿は続けます。
「彼ら[シノドスを準備した人々]の全てが南米を経験した訳ではありません。彼らは、それ[自分の意見]が公式路線に一致していると思っているという理由で、またドイツ司教協議会とドイツ・カトリック中央委員会の"シノドスの道"において議論のテーマをコントロールしている(司祭独身性の廃止、女性司祭、女性を鍵となる権力のある地位につけて聖職者主義と原理主義に反対する、啓示された性道徳をジェンダー・イデオロギーやまた同性愛の実践に対する評価へ適用する)という理由でのみ、参加しているのです。そしてこのシノドスの道は、今現在、ドイツで行われています。」

前教理省長官は、この文書の根本において、ヨーロッパ的ニューエイジによって現代化されたアニミズム的汎神論を激しく非難しています。
「神話と、母なる"自然"の儀礼的魔術とのある世界観、また、私たちを深く怯えさせ、あるいは偽りの約束で私たちを誘うような、神々や霊へのいけにえのある世界観は、み言葉と聖霊における三位一体の天主が来られたことへの適切なアプローチにはなり得ません。
このアプローチは、道徳的価値と市民社会と宗教的儀礼の安逸な遺物しかキリスト教から受け入れないリベラルなブルジョワジーに固有の科学的・実証的な世界観にまとめられることもありえません。(…)宇宙(コスモス)は、天主として礼拝されてはなりません。創造主御自身だけが礼拝されるべきです。
私たちがひざをかがめるのは、自然の大きな力の前でもなく、『世のすべての国とその栄華』(マテオ4章8節)の前でもなく、天主の御前でのみです。何故なら、『汝の天主なる主を礼拝し、ただ天主にのみに仕えねばならぬ、と書かれている』(マテオ4章10節)からです。イエズスが砂漠で悪魔の誘惑を退けられたのは、このようにしてです。」

ミュラー枢機卿は、締めくくりに当たって、
人間の完全性が自然生物との一致だけから成るのではなく、天主の子供であること聖なる三位一体との聖寵に満ちた一致において完全となる、さらには、永遠のいのちとは、天主への回心への報酬であり、天主との和解への報いであって、環境や私たちの分かち合う世界との和解ということだけではない、という聖寵の超自然的な性格」を再確認する必要があると言います。

「完全な(integral)発展ということを、単なる物質的な資源の分配に矮小化することはできません。なぜなら、人は、恩寵における完徳の道によってのみ、その新しい完全性を受けるからです。ここで、今、洗礼によって、私たちは天主の新しい被造物、天主の子となることによって、その完全性を受け、そしていつの日か、聖父と聖子と聖霊とのまどいにおいて、また天主の聖人たちとの通効において、至福直観おいてこの完全性を受けるのです(ヨハネ第一1章3節、3章1節以下参照)。」

漠然とした宗教性を持つあいまいなアプローチを提示する代わりに、また、キリスト教を、宇宙と生物多様的自然とエコロジーを神聖化することによる救いの学問に変えようとする無駄な試みを提示する代わりに、私たちの信仰の中心と起源を見つめることが重要です。

天主の善と知恵において、天主はご自身を啓示し、天主の御旨の隠された目的を私たちに知らせることを選択されました(エフェゾ1章9節参照)。これによって、肉となられたみ言葉であるキリストを通して、人間は聖霊において、聖父へと近づくことが出来、天主の本性を共にすることができるようになるのです。」

(Sources : Tagespost/lifesitenews - FSSPX.Actualités - 12/08/2019)
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天主は世の創造以前から、キリストにおいて聖母を選び、愛によって、ご自分に聖であるもの、汚れないものとするために、み旨のままに、イエズス・キリストによって聖母を聖子の母にしようと予定された

2019年09月18日 | お説教・霊的講話
2019年9月7日(初土)聖母の汚れなき御心の随意ミサ
聖ピオ十世会司祭 小野田神父説教

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2019年9月7日、初土曜日のミサを行なっています、聖母の汚れなき御心の随意ミサです。

今日は月の最初の土曜日ですから、ミサの後に、その信心をする為に御聖体降福式を行ないましょう。御聖体を皆と一緒に礼拝致しましょう。

次のミサは、9月29日、大天使聖ミカエルの祝日です。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


愛する兄弟の皆さん、今日は初土曜日で、マリア様の汚れなき御心の信心を行なう日ですが、特に明日はマリア様の御誕生日なので、一足先に、マリア様の御誕生について、

⑴何で一体、カトリック教会では、マリア様の御誕生日を祝うほど、マリア様は大切なのか?なぜ教会は、カトリック教会はマリア様を大切に思っているのか?一体、私たちにどんな関係があるのか?という事を黙想して、

⑵今日、では遷善の決心に何を考えたら良いか、という事を一緒に黙想致しましょう。


⑴聖書によると、新約聖書によると、マリア様の御告げ以前の事については、マリア様がどのように御誕生になったのか、という事は詳しく分かりません。しかし言い伝えられたところによると、マリア様のお父様は聖ヨアキム、マリア様のお母様は聖アンナ、二人は子供が無かったけれども、しかしとても信心深い、天主ヤーウェにいつも祈り、奉仕していた夫婦で、アブラハムとサラ、あるいはエルカナとアンナ、その他ヤコブとレベッカ、あるいはその他旧約時代のこの夫婦を更に超えた、熱心な、そして清い夫婦だった。

「おそらく新約聖書のルカの福音にある、『エリ』と言う名前が、『ヨアキム』の事だ」と、教父たちは言います。なぜかというと、『エリ』というのは、『エリアキム』の省略形だからです。エリアキムの中の『エリ』というのは、天主(エル)のことで、ヤーウェの別の言い方です。『エリアキム』というのは、「エル」が「ヤーウェ」に変わると、それが『ヨアキム』となる。だから『エリアキム』は、『ヨアキム』と同じ意味の名前だから、実は「エリ」(=エリアキム)はヨアキムの事なのだ、と教父たちは言うからです。

おそらく旧約聖書を見ると、その生まれるべき子供について、特別な任務を持ったものであれば、天主はヤーウェは、「その子供はどのような子であるか」という事を告げ知らせているので、おそらく聖ヨアキムと聖アンナも、この生まれるべき子供を身籠った時、マリア様が身籠った時に、おそらくどのような子供であるか、という事を知らされていたかもしれません。

そしてマリア様の名前を、『マリア』というのを決める時にも、特別な息吹が、特別に心を動かされて、「マリア様」という名前を付けたに違いありません。「ヘブライ語では“ミリアム”そして当時話されていたアラマイ語という言葉では“マリアム”という名前だ、そしてそれがマリア様だった」と。「意味は、『女主人』であり、『女王』であり、そして『女教師』である。」

「でもマリア様は実は、その名前の語源よりも、更に実際に、この世に創造主を、天主の聖子を、イエズス・キリストをお与えになる方として、更にこの王の母、天主の母となるべき方であったので、まさにこの『マリア』という名前は、相応しかった」と言います。

聖パウロによると、こう書かれています、「天主は世の創造以前から、キリストにおいて私たちを選び、愛によって、ご自分に聖であるもの、汚れないものとするために、み旨のままに、イエズス・キリストによって私たちをご自分の養子にしようと予定された。」

有名なエフェゾ人への手紙の最初です。
「主イエズス・キリストの父である天主をたたえよう。かれは、天上から、キリストにおいて、私たちを、霊のすべての祝福でみたされた。天主は世の創造以前から、キリストにおいて私たちを選び、愛によって、ご自分に聖であるもの、汚れないものとするために、み旨のままに、イエズス・キリストによって私たちをご自分の養子にしようと予定された。それは、愛する子によって、私たちに無償でさずけられた恩寵の光栄のほまれのためであった。」

ところで、もしも私たちの、罪を犯すような私たちが、罪人である私たちが、天主の子供として、永遠の昔から、天主の考えの中にあって、そのように定められたとしたら、天主は全くの自由意志を以て、何千何億何兆の色々な無限の可能性の中から、全能の力を以て、その全能の全知を以て、自由に、ある被造物を選びました。

永遠の昔から、この被造物を、たった一人の被造物を選んで、「この被造物こそが、天主三位一体の、天主聖父の特別の愛を受ける被造物だ」として、選ばれたのです。

そして、この全くの自由意志を以て選ばれたこの被造物から、被造物から、天主三位一体の聖子が生まれる事を望まれました。全くの自由意志を以て、自由に、永遠の昔から、この被造物に、聖霊は全く注がれて、「この被造物と一致合体しよう」と、「聖寵の満ち溢れを与えよう」と望まれました。

この特別に選ばれた被造物というのが、天主様が全く自由に選んだ方で、それが明日誕生日を祝う、マリア様です。

「永遠の昔から、私たちを天主の子供として、」聖パウロが言うには、「私たちを選んだ。」その自由を以て、天主はマリア様を特別な女性としてお選びになりました。聖子を全て与える方として、その方を選びました。

聖父・聖子・聖霊、三位一体全ては、この女性を、明日私たちが誕生日を祝うその女性を、特別に愛されて、特別の選みを与えました。

私たちは、永遠の昔から天主の子供として選ばれたとしても、残念ながら、どれほど罪を、あるいは天主の御旨に100%応える事ができなかった事が多かった事でしょうか。

天主からの与えられた務めを果たせなかったその代わりに、自分のやりたい事をしてしまった。天主を愛する事を、100%、全て尽くして、心を尽くして、力を尽くして、霊魂を尽くして、愛する事ができなかった。自分の利益の為に、あるいは自分の為に、天主への愛が純粋ではなかった。

あるいは残念ながら、与えられた時間や能力を、天主に対して罪を犯す為に使ってしまった。被造物を良く使う事ができなかったのみならず、天主を侮辱する為に使ってしまった。

そのような事を経験しますが、しかし、永遠の昔から選ばれたこの女性については、違っていました。マリア様は最初の瞬間から、全て聖寵に満ち溢れてる御方でした。旧約聖書の中には、はっきりと「マリア様」とは書かれていなくても、暗示的に、マリア様の事について書かれている所がたくさんあります。

例えば、時の始めにおいて、アダムとエヴァが罪を犯した時に、天主はある女性について予言をしました、「私は、(蛇)お前と女性の間に、ある女性の間に、敵対を置く。この女性は、お前の頭を踵で踏み砕くだろう」と予言しました。

この「女性」というのは、はっきりと聖書で名前を載せていませんが、聖母マリア様の事です。これは東方教会、西方教会の、2000年の伝統がそう指し示しています。

あるいは知恵の書で、例えば今日読んだ所、あるいはその他の所で、「永遠の昔から、天主の中において考えられていたものがある。」

教父たちは、教会の立派な学者たちは、「これはマリア様の事を意味している」と口を揃えて、声を揃えて言います。

聖書の旧約聖書の所には、多くの所には、暗示的に、マリア様の事が深く書かれていて、そして天主からの啓示として、暗示された啓示として、私たちに伝えられています。

マリア様はなぜ、それほどまで愛されたのでしょうか?

なぜかというと、天主の聖子イエズス・キリストを、御自分の胎内に宿す、生ける神殿となるべき方であったからです。イエズス・キリストの従順に従うべき、御母となるべき方であったからです。

もちろん天主は成人として、完成された人間としてこの世にいきなり現れる事もできました。しかし永遠の知恵を以て、そうではなく、女性から御生まれになる事を望みました。そしてこの女性が、天主の母として、イエズス・キリストを産み育てる方として、最高のものであるように、特別な準備と、御恵みを与えました。

預言で、聖書にも言われている通りです、「代々、私の事を幸いな者と言うでしょう。」あるいは今日、知恵の書で読まれたように、「私のこの記憶は、代々に渡る。」

ですから、使徒信経にもありますように、イエズス様は「童貞マリアより生まれ」とありますが、このイエズス様が、私たちの救い主が生まれたのは、まさにこの童貞女であり、同時に母であるマリア様の事であって、このマリア様から生まれる為に、天主は何をしたかというと、「そうしても良いですか?」と、聞く事さえしたのです。

大天使聖ガブリエルをお送りになって、そして、「めでたし、聖寵に充ち満てる御方、主は御身と共に在す…」そしてマリア様が、「一体これは何の挨拶だろう?」と考えている時に、「聖霊の力があなたに宿った。あなたから生まれるべき者は、偉大なる者であって、『天主のいと高き者の子』と呼ばれる。ダヴィドの末の王座を持つ者であって、その御国は終わる事がない。」
「あなたは、この子供を産む事に、同意するのか?しないのか?あなたが、『はい』と言えば、この世に救い主が与えられるし、しかしもしも断るならば、もうそれで終わりだ。」

マリア様は言います、「私は主の婢女です。主の女奴隷です。私は主の御旨のままに、御旨を果たす事だけを望んでいます。御言葉の通りに私になりますように。」

その瞬間、天主聖子はマリア様の御胎内に孕り、そして、救い主の母となりました。

ですから教父たちは言います、「マリア様は、肉体によって聖子を産んだのみならず、その同意によって、その愛によって、その従順によって、お産みになった。」

ですから教父たちによると、「天主は、人間となる為に人間の本性を盗んだのではなく、そうではなく、マリア様から特別な贈り物として、プレゼントとして、『使って下さい』と言われたので、それを受け取った。マリア様が『どうぞ』と言ったので、私たちは救い主を受ける事ができた。」

天主が私たちになさった、ものすごい御業が2つあります。1つは、人間を創った、この「天地の創造」と、第2は、私たちを贖った、「贖いの御業」です。

第1の創造の時に、天主はアダムを土の塵から創りました。そしてアダムが脱魂状態にいた時に、そのアダムから、第1の女性を創りました。

そして、このアダムとエヴァが犯した罪を償う為に、そして蛇の頭を砕く為にも、新しいアダムは、つまりイエズス・キリストは、新しいエヴァから生まれました。新しいエヴァ、マリア様が、祈りの脱魂状態、愛の脱魂状態にいる間に、そのエヴァの体から、第2の新しいアダムが造られる事を望まれました。

天主が第1のアダムを創った時に、その前に準備をしたのが、エデンの園でした。エデンの園には美しい花が咲いていて、木々があり、4つの川があり、生命の木と、そして善と悪を知る木があり、そしてその特別の庭において、アダムとエヴァが創られて、そしてアダムとエヴァの婚姻の神秘が祝われました。

ところで、贖いの神秘の為に、第2のアダム、新しいアダムを造る時には、天主は特別の、別の、秘密の、天主のみに知られる、第2のエデンの園を作りました。それがマリア様です。そしてマリア様の元において、イエズス様が、イエズス・キリストが造られました。この時には、人性と人間の本性と、天主の本性が合体する、という神秘的な婚姻が祝われました。

マリア様というエデンの園には、聖寵の充ち満てる川が流れて、そしてそれが、その「マリア様を通して、全世界に流されるように」と望まれました。

マリア様はちょうど、第1のアダムと第1のエヴァが、善と悪の知識の木の実を盗んで、罪を犯したのを償う為に、新しいアダムと新しいエヴァは、十字架の木に、イエズス・キリストという第2のエヴァの木の実を付けて、罪の償いをします。

罪の償いをしたその第2のアダム、つまり新しいアダムであるキリストが、十字架の上に付けられた時の言葉を聞いて下さい、今日福音で読みました、「子よ、全人類よ、汝の母を見よ。」

イエズス様は、贖い主として、第2のアダムとして、贖われた人類を創造する頭として、私たちに呼びかけています、「汝の母を見よ。」

「私たちは聖寵によって、新しい天主の命によって生きるべき、生まれるべき者であって、私たちの母は、マリア様だ」と教えています。

ですから教会は、マリア様の事を特別に祝っています。この御誕生を、私たちに与えられた特別の御恵みとして、もしもこの方がいなければ、生まれてこなければ、私たちに救いが与えられなかったその方として、そして第2のエヴァとして、イエズス・キリストと共に一緒に、十字架の下で、私たちの贖いの為に協力して下さった方として、この御誕生日を祝っています。

⑵では私たちは今日、どのような遷善の決心をすれば良いでしょうか?

私たちは、このような贖いの深い神秘を、まず讃美致しましょう。私たちの人間の知識や知恵をはるかに超える、天主の深いその知識の広さと、深さと、高さの前に、礼拝し、それを讃美致しましょう。そしてそのような深い神秘を以て、私たちを永遠の命へと導いて下さるその天主の愛に、私たちを深く愛して下さる愛に、感謝致しましょう。

マリア様は、私たちに対するイエズス様の愛を弱めるどころか、更に深めて下さいます、更に大きくして下さいます。そしてマリア様は私たちを、イエズス様に行く為に助けて下さいます。

今日は既に、マリア様の誕生日の御降誕の中に入って、そしてマリア様の汚れなき御心を讃美致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

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聖ピオ十世会総長のインタビュー:受けた聖伝を伝える、アモーリス・レティチアやアマゾンのシノドスなどは、第二バチカン公会議の論理的結果にすぎない

2019年09月18日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

9月17日付で聖ピオ十世会総長のインタビューが公開されました。英語訳は次です。
Transmitting What We Have Received: An Interview with the SSPX Superior General
フランス語
Une Eglise qui marche sur la tête: Entretien avec l’abbé Davide Pagliarani, Supérieur général de la Fraternité Saint-Pie X



これの日本語訳は準備中です。しかし、その要点をご紹介いたします。

*第二バチカン公会議は、公会議開催直前の教会を苦しめていた規律の弛緩の結果にすぎなかった。一部においてもはや既成事実となっていた違反状況に、承認の判を押したにすぎない。典礼改革も、多くの聖職者たちに浸透していた実験的発展の頂点にすぎない。

*それと同様に、アモーリス・レティチアは、不幸なことに既に教会に存在している違反状況を合法化しようとする試みにすぎない。現代の状況は、さらなる改革を承認するに熟している。

*アモーリス・レティチアは、原子爆弾のようにカトリック教会に計り知れない損害を与えるだろう。しかしこれが、現教皇の奇抜で挑発的な人柄から由来する仕業だというのは間違った捉え方だ。教皇フランシスコだけに、これを帰するのは正しくない。

*教皇が誰であろうと、第二バチカン公会議によって敷かれた原理に従う結果として遅かれ早かれ、起こるべくして起こったことの一つが、アモーリス・レティチアだ。ヴァルター・カスパー枢機卿は、第二バチカン公会議の新しい教会論には、キリスト教家族の新しい概念が対応すると既に認めている。

*第二バチカン公会議は、教会に関する新しい概念を提示している。公会議によれば、私たちの主が創立した教会イコール、カトリック教会ではない。それよりも広い。すなわち正教徒やプロテスタントの共同体を含む。公会議の新しい教会論によると、キリストの建てた教会に色々なやり方で所属することが出来ることになる。

*キリストの教会に所属する新しい仕方は、伸縮性があり多様性がある。すべてのキリスト者がキリストの同じ教会において一つとなることを許している。これが現代のエキュメニズムの混乱の原因だ。

*教会に関する間違った教えは、遅かれ早かれ、キリスト者の家庭にも影響を及ぼす。何故なら、キリスト者の婚姻は、キリストとその教会との一致にかたどりだからだ。従って、婚姻の契りによる家庭は、伸縮性のある別の絆によって変わられようとしている。

*カトリック教会の一致の外にある「汎キリスト教」に、公会議が肯定的要素を与えたように、秘蹟による婚姻の一致の外にある、どのような結合においても、肯定的要素を与えるようになるだろう。エキュメニズムによって、真の教会と偽りの教会との区別が無くなった(カトリック以外の教会も、完全ではないが良い教会とされるから)ように、すべての結合は、愛があるなら、いつも良いものがあるとされるだろう。

*今までカトリック教会では、良い行為と悪い行為、聖寵の生活と罪、という言い方をしてきた。これからは、良い行為とより少なく良い行為だけになる。

*エキュメニカルな教会は、エキュメニカルな家庭である。人間の必要と感受性に従って再構成されうる家庭である。

*アモーリス・レティチアは、第二バチカン公会議の教会憲章による新しい教会論と、現代世界憲章による世界に開かれた教会との不可避的な結論だ。教皇フランシスコの教えは、第二バチカン公会議に敷かれた原理の論理的結論にすぎない。

*第二バチカン公会議後、「キリストの神秘体」という概念は「天主の民」という概念に代わった。これによって解放の神学や共産主義へと流されることが可能になった。また、「まじわり・コムニオ」という概念によっても代わられた。それによってエキュメニカルな対話は、バベルの塔での会話のようになった。

*アマゾンのシノドスにおいても、教会に関する誤った概念が影響を及ぼしている。「聞く教会」「シノドスの教会」「人々の文化、期待、要望に注意を払う教会」など。信仰も典礼も教会統治機構も、これに適応させるべきである、と。


*現在では、異教主義と戦うかわりに、この異教を自分の一部に取り入れようとしている。第二バチカン公会議の教会論による、ローマ・クリア(バチカンの行政機構)の現代化(アジョルナメント)、「健全な非中央集権化」「管理でも決定のためでもない交わりのプラットフォーム」が議論されている。しかしこれは、私たちの主の建てた教会の崩壊である。イエズス・キリストは情報交換のためのフォールムを開いたのでもなければ、意見交換のためのプラットフォームを作ったのでもない。主は、ペトロと使徒たちに、自分の群れを委託し、真理と聖徳との柱となることを求めた。

*新しいミサの構造は、民主主義的な教会に対応している。シノドス的教会は民主主義的だ。逆さまになったピラミッド型だ。頭が底辺に来る教会だ。しかしこれは実りであって、この種は第二バチカン公会議に蒔かれている。

*多くの信徒の方々や一部の高位聖職者らが、カトリック教会の直面しつつある劇的な状況に気が付きつつある。彼らは、これらの誤謬はキリストの教えでも、教会の教導職による教えでもありえないと反応している。

*しかしこれらの反応は、体系的に壁にぶつかっている。アモーリス・レティチアに反対して4名の枢機卿が声を上げたが、返事はなかった。アモーリス・レティチアに対する戦いは忘れられ、事実上これは受け入れられた。教皇は沈黙を守った。第二バチカン公会議後の教会は、多元的だからだ。もはや永遠の啓示された真理に基礎をおく教会ではないからだ。権威によって上から教えられる教会ではないからだ。

*民主主義的な教会においては、誤謬は自由に教えられうるべきであり、構造的に真理が誤謬に取って代わるということが出来なくなっている。教会が多元的教会となったその根源は、第二バチカン公会議である。

*第二バチカン公会議後の教皇らの教えは、第二バチカン公会議の結果でありその続きである。だから、教皇フランシスコの教えに反対するために、ヨハネ・パウロ二世の教導権を使うのは、結局失敗に終わる試みである。傷を直すためには、傷の中の毒を消毒しなければならない。病症だけではなく、その原因まで突き止めなければならない。

*聖ピオ十世会は、オープンに発言する自由を持っている。聖ピオ十世会は、とりわけカトリック教会への愛と霊魂への愛に燃えている。現代教会は、神学校が閉校し、教会は空になり、秘蹟は尊重されていなくなっている。私たちはただ傍観者でいることが出来ない。

*守られた信仰の原理にかなう司牧的・霊的・典礼的生活が伴っていないのなら、健全な教義的に立場だけでは足りない。何故なら、第二バチカン公会議は新しい教えにマッチした新しいキリスト教生活を開始したからだ。

*カトリック信仰宣言に、本物のカトリック生活が伴わないなら、この宣言はマスメディアのイベントに終わる。数週間後には忘れ去られる。具体的に言うなら、聖伝のミサだけを捧げなければならない。そしてそこから帰結するすべてを受け入れなければならない。つまり、非エキュメニカルなミサだけを捧げなければならない。永遠のミサだけを。ただ聖伝のミサを捧げるだけではなく、それを生きること、これを殉教までも守ること、何故なら私たちの主の十字架だけが教会を救うことが出来るからだ。

詳しくは、日本語の全訳をお待ち下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
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アマゾン地域のための特別シノドスの討議要綱に反対する前教理省長官ミュラー枢機卿:使われている諸表現の不正確さ、以前の教導職への参照がほとんどない

2019年09月18日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

Working Document for the Synod on the Amazon: In the Critics’ Spotlight (1)の日本語訳をご紹介します。

アマゾン周辺地域のための特別シノドスの討議要綱
様々な批判を受けて(1)

2019年8月14日 FSSPX.NEWSサイト

ヴァルター・ブラントミュラー枢機卿(Cardinal Walter Brandmüller)が、近く行われる予定のアマゾン周辺地域のための特別シノドスの討議要綱(Instrumentum laboris)に関して批判をなしたのち、7月には新たに三つの批判が出されました。その第一の批判は、前教理省長官ゲルハルト・ミュラー枢機卿(Cardinal Gerhard Ludwig Müller)からのものです。

ミュラー枢機卿は、7月16日付のドイツの新聞「ディー・ターゲスポストDie Tagespost」紙の中で、意見のコラム欄に、このローマの文書に対する批判を発表しました。この発表の仕方は、現在ローマを支配している雰囲気を明らかにしています。つまり、枢機卿たちは発言しないという条件の下でのみ、その意見が聞き届けられる、ということです…。

宇宙と自然と生物多様性のエコロジーとの神聖化

このドイツのミュラー枢機卿は、アマゾン地域という特別なケースに、世界への模範となる価値を与えているこの討議要綱「インストゥルメントゥム・ラボーリス」(IL)を告発しました。
「アマゾン地域は、教会にとって、そして世界にとって、『全体のための一部 pars pro toto として、一つのパラダイムとして、全世界のための希望として』奉仕するべきである(IL 37)。すでに、まさにこの達成すべき役割が定められていること自体が、地球という一つの家の中ですべての人間の『完全なintégral』発展という思想を示しており、教会がそれに対して自らに責任があると宣言しているのです。この思想は、何度も何度も討議要綱に見られます。」

枢機卿は、使われている諸表現の不正確さを強調しました。
「鍵となる諸用語(キーワード)が明確に定義されておらず、また過度に使われています。例えば『シノドスの道』とは何でしょうか?『完全なintégral発展』とは何でしょうか?『サマリア人的・宣教師的・シノドス的・開かれた教会une Eglise samaritaine, missionnaire, synodale et ouverte』とは何を意味するのでしょうか?あるいは『手を差し伸べる教会』とは?『貧しい者の教会』は?『アマゾンの教会』などなどは?」

ミュラー枢機卿はまた、以前の教導職への参照がほとんどないことも指摘しました。
「思考の道筋全体は、確かにほんの少しヨハネ・パウロ二世とベネディクト十六世を参照しつつ、フランシスコ教皇の最新の複数の文書の周りを、自己参照しながらぐるぐる回っています。聖書はほとんど引用されておらず、教父たちもほとんどなく、あるのはそれらの挿絵的な方法によるものだけで、他の理由のために既に持っている確信を補強するためです。

おそらく、これによって現教皇に対する特別な忠誠を示したいと望んでいるか、あるいはこうすることで、教皇のよく知られ、かつ繰り返されているキーワード(これを討議要綱の著者たちは ― 混乱した言い方で ― 『彼の呪文(マントラ)』(IL 25)と呼んでいますが)を常に参照するなら、神学的著作の挑戦を避けることができると信じているからです。

討議要綱の作者らが、『インカルチュレーションの活動的主体は、先住民たち自身である』(IL 122)と書いた後、次のような奇妙な定式、すなわち『教皇フランシスコが確認したように、“恩寵は文化を前提とする”la grâce suppose la culture』と付け加えるなどする時、彼らの追従(ついしょう)はその頂点に達するのです。まるで教皇自身がこの原理を発見したかのようにです。もちろん、これはカトリック教会自身の基本的な原理です。もともとは、ちょうど信仰が理性を前提としているように、恩寵は、自然を前提とする、です(トマス・アクィナス「神学大全」第1部第1問第8項参照)」。

この枢機卿はまた、アマゾン地域が「神学的場所」【訳注】として提示されていることにも驚きます。
【訳注】「神学的場所」というのは、Loci Theologiciという神学専門用語の日本語直訳である。Locus(場所)は、ギリシャ語のトポス(場所)[トポスは、例えばトピック(話題)の語源] から由来し、カトリックでは、神学の基礎的原理や源泉についで「神学的場所」という用語が使われる。

「一方で、教導職の役割、他方で聖書の役割、これら両者の混乱の次に、討議要綱は新しい啓示の源泉があるとまで主張しています。討議要綱19は、こう述べます。
『さらに、私たちは、アマゾン地域は、または別の先住民地域あるいは共有地域は、ubiすなわち「どこ」(地理的な場所)のみならず、quidすなわち「何か」であり、すなわち "信仰にとって意味を持つ場所" または "歴史の中での天主についての経験"である、と言うことができる。従って地域は、信仰を生きた神学的な地であり、また天主の啓示の特定の源泉でもある。つまり、いのちの保存とこの惑星のための知恵、天主について語るいのちと知恵が明らかにされる啓示的な地である。』
ここで、もしある地域が『天主の啓示の特定の源泉』と宣言されるのなら、これは、誤った教えだと言わねばなりません。何故なら、2000年の間、カトリック教会は、聖書と使徒的聖伝が啓示の唯一の源泉であって、歴史の流れの中で他の啓示は付け加えられ得ない、と不可謬的に教えてきたのですから。」

―これは正しいことですが、彼ら【ミュラー枢機卿を含む教会の指導者たち】は、第二バチカン公会議以降、対話と「出会いの文化」を通して、現代人の願望と世界の必要性に耳を傾けることによって、教会は「時のしるし」を調べねばならない、とは言ってきたのではないでしょうか?

【この項続く】
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聖アウグスティヌスの祈り DOMINE Iesu, noverim me, noverim te 主イエズスよ、私を知らしめ、御身を知らしめ給え。

2019年09月16日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

聖アウグスティヌスの作と言われる有名な祈り DOMINE Iesu, noverim me, noverim te をご紹介します。

主イエズスよ、私を知らしめ、御身を知らしめ給え。
御身以外の何ものをも私が求めないように。

私を憎ましめ、御身を愛さしめ給え。
御身のために私がすべてを行うように。

私を卑しめ、御身を高揚さしめ給え。
御身以外の何ものをも考えないように。

私を殺さしめ、御身いおいて私を生かしめ給え。
何が起ころうとも、御身から私が受け入れるように。

私を追放さしめ、御身に追従さしめ給え。
常に御身に従うことを私が選ぶように。

私から逃げさしめ、御身に避難さしめ給え。
御身によりて私が守られるに相応しくなるために。

私を恐れさしめ、御身を畏れさしめ給え。
御身によりて、私が選ばれた者たちの中にあるために。

私には頼まず、御身に頼ましめ給え。
御身のために、私が従順することを望むように。

御身以外の何ものにも愛着せぬように。
御身のために私が貧しき者となるように。

私を見給え、私が御身を愛するように。
私を呼び給え、私が御身を見るように。

そして永遠に御身を享受するために。
アメン


DOMINE Iesu, noverim me, noverim te,
Nec aliquid cupiam nisi te.
Oderim me et amem te.
Omnia agam propter te.
Humiliem me, exaltem te.
Nihil cogitem nisi te.
Mortificem me et vivam in te.
Quaecumque eveniant accipiam a te.
Persequar me, sequar te,
Semperque optem sequi te.
Fugiam me, confugiam ad te,
Ut merear defendi a te.
Timeam mihi, timeam te,
Et sim inter electos a te.
Diffidam mihi, fidam in te.
Oboedire velim propter te.
Ad nihil afficiar nisi ad te,
Et pauper sim propter te.
Aspice me, ut diligam te.
Voca me, ut videam te,
Et in aeternum fruar te.
Amen.
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御聖体の前での黙想と祈願 2019年9月6日(初金)御聖体降福式にて

2019年09月16日 | お説教・霊的講話
御聖体の前での黙想と祈願 2019年9月6日(初金)御聖体降福式にて
聖ピオ十世会司祭 小野田神父

御聖体の内に真に在し給うイエズスの聖心を、お愛し申し上げましょう。


イエズス様の私たちに対する愛を、深く認識する事ができますように。そしてこの愛を讃美し、それに感謝をする事ができますように。

更に進んで、その愛に愛を以て、返答を、お礼をする事ができますように。

私たちの霊的家族、隣人、友人、恩人、また同僚の為に、イエズス様の特別の御憐れみを乞い求めましょう。

日本に修道院が創立されますように、御恵みを乞い求めましょう。

聖ピオ十世会50周年を来年迎えますが、それをうまく祝う事ができますように。

世界に平和が与えられますように。日本が、アジアの国々が、戦争に巻き込まれませんように。

自然の大きな災害から守られますように。

私たちがますますイエズス様への信心の業をする事ができますように。

多くの方々が、カトリック教会の真の聖伝の道に従って、最もイエズス様の喜ばれるやり方に従って、イエズス様を知り、讃美し、愛する事ができますように。

ファチマの天使の第2の祈りを、3回唱えましょう。
コメント

感謝の最初は、受けた恩を認識することから始まる。私たちの為に人間となられ、苦しみを全てお一人で受けられ、御聖体となられた。謝礼の手段は、この私の膝を屈めて、受けた大いなる恵みを讃美、礼拝することだ。

2019年09月16日 | お説教・霊的講話
2019年9月6日(初金)至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ
聖ピオ十世会司祭 小野田神父説教

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2019年9月6日、9月の初金曜日で、イエズス様の至聖なる聖心の随意ミサをしております。

今日もこの御ミサの後に、聖時間を行ないましょう。御聖体の前で、イエズス様をお愛し申し上げましょう。


“Supereminentem scientiae caritatem Christi.”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


愛する兄弟の皆さん、聖パウロは私たちに、諸聖人と共に、「イエズス様の愛の、その深さと広さ、その幅と高さを、長さを、知ってもらいたい」と言います。そして、「そのキリストの愛の、愛徳の、最高の知識を持ってもらいたい」と言います。

聖トマス・アクィナスによると、「私たちには、受けた恩に対して、感謝をする義務」があります。「もしも受けた恩があるにもかかわらず、それを恩を感謝しなければ、謝恩がないならば、それは忘恩の罪だ」と言います。

「そしてその恩を感謝するには、3つの段階がある。」
「その最初に、『受けた恩を認識する事』だ」と言います。

そこで今日は、そのイエズス様の深い愛を知る事ができますように、それを認識する事ができますように。

聖アルフォンソ・デ・リグオリはノヴェナの中で、「イエズス様の愛の極みを黙想しよう」と、こう招いています。聖アルフォンソ・デ・リグオリによると、「イエズス様の愛の極みというのは、まず、その『永遠の長さ』で分かる。」

イエズス様は、永遠の昔から、私たちを愛しておられた。私たちがまだ存在する前から、私たちを愛しているし、私たちが想像も超える未来に渡って、私たちを愛している。そしてこの永遠の愛によって、とてつもない愛を私たちに施した。

「具体的にどういう事かというと、イエズス様の愛はまず、私たちの為に人間となろうとされた。天主が人間となって、私たちと同じく、この地上で生活しようとされた。なぜかというと、私たちを愛するがあまり、私たちと共に居たかったから、一緒に居たかったから。そして私たちの事をいつも想っていて、考えていて、決して忘れた事がないから。」

「イエズス様の愛の極みは、私たちを愛するがあまりに人間となったのみならず、私たちが受けるべき全ての苦しみを、全てお一人で受けて下さった。イエズス様が十字架に付けられて、屈辱を受けて、辱められて、血を全て流されて、命さえも、私たちの為に与えた。」

『自分の命を友の為に与えるほど、より大きな愛があるだろうか』と、イエズス様は言います。イエズス様は私たちを愛する為に、自分の名誉も、自分の自由も、自分の命も、全て与え尽くされました。

これを見て、聖アルフォンソ・デ・リグオリは、「この愛の極みに感じない者があるだろうか。天使たちでさえもそれに、その愛を見てびっくり驚く、驚嘆する」と言います。

天主が、創造主が、被造物の為に奴隷のようになって、被造物の受けるべき罪を償われた。血を流された。罰を受けられた!

聖アルフォンソ・デ・リグオリは更に言います、「しかもこの天主の愛の極みは更に深く、私たちと共に居る為に、御聖体となられた。パンの小さな欠片となられて、御聖櫃の中に、チボリウムの小さな中に閉じ込められて、そしてそればかりでなく、イエズス様は私たちの為に食べ物となり、私たちに与えられるものとなった、食べ尽くされるものとなった。これを見て天使たちの驚きは、想像を超える」と、言います。

イエズス様は、イエズス様の極みのない、果てしのない、永遠からの愛、私たちの想像を超える愛は、御聖体に特に表れます。

更に聖アルフォンソ・デ・リグオリは、言葉を続けます。
「私は、御聖体の神秘について、このような事は疑わない。
『天主がパンとなる。この御聖体が、パンが、天主の御体となる、この“全実体変化”の秘跡の神秘、玄義』これについて、私の信仰は疑う事ができない。
なぜなら、天主には全てがお出来になるから。

『この御聖体の小さな欠片にも、全て天主様がいらっしゃる』というその事にも、その御聖体の神秘にも、私の信仰は揺らがない、疑わない。
なぜなら、天主は全てお出来になるから。

また、『この御聖体において、全世界において、同じイエズス様が、全く同時に在し給う』というこの偉大な神秘、頭では理解ができないようなその神秘でも、私は疑わない。
なぜならば、天主には全てが出来るから。」

「ただ、私のもしも疑いがするとしたら、もしも私が信じる事が難しいとしたら、一体なぜ、このような私の為に、つまらない罪人の、下らない、天主に反抗する私の為に、天主がパンとなられて、私を愛するがあまりに、このように秘跡を制定されて、私の為に、いつも世の終わりまで留まる事を望まれたのか! その愛の極み、これが私の理解を超える。イエズス様の愛の極みはあまりにも想像を超えているので、それだけが私の理解を超える。天主の愛の深さの、その無限の憐れみ、その愛の偉大さの前に、私はただそれを、そのまま受け入れるしかない」と言います。

私たちの感謝は、イエズス様に対するこの無限の愛を認識して、それを確かに、「その通りだ」と、認めるところから始まります。

「イエズス様、イエズス様はこの小さなちっぽけな哀れな被造物、イエズス様の事をよく忘れ、イエズス様の愛を忘恩、冒瀆で、無関心で返すこの人類の為に、私の為に、愛の極みを見せて下さいました。その愛の、無限の愛、永遠の愛、果てしない極みのない愛の前に、私は感謝致します。」

私がイエズス様にお礼をする、そのお礼の手段は、この私の膝を屈めて、イエズス様の前に、その受けた大いなる恵みを讃美して、礼拝して、そして私の犯した、私の今までの過去の不忠実を心から痛悔して、そしてその悔やむ心を捧げる、罪の償いを捧げる、遷善の決心を捧げるしかありません。

イエズス様の永遠の昔からの私を想うその御考え、その愛、そして永遠に至るまでの愛、私の善のみを思うその愛のあまりに、私は一体、イエズス様の為に何をしたでしょうか?

イエズス様の愛の前には、全くちっぽけな無のような事しかできません。それどころか、イエズス様に対して、霊魂を使い、体を使い、イエズス様から与えられた御恵みを使って、イエズス様に対して罪を犯してしまいました。

イエズス様の為に使うべきものを、与えられたものを、それ以外のものに使ってしまいました。イエズス様の御旨に沿わずにしてしまった事が、どれほど多かった事でしょうか。その受けた御恵みに対して、うまく応える事ができなかった事を痛悔致します。

これからは、イエズス様の聖心に従って生きる事ができますように、時間を、能力を、御恵みを、使う事ができますように。イエズス様のその御聖体の前に跪き礼拝し、イエズス様の聖心の愛を、いつも認識する事ができますように。

「愛のマリア様、マリア様はいつも、イエズス様の愛を愛で返されました。どうぞ私を助けて下さい。イエズス様の愛をいつも認めて、その深い愛を、知識を、決して忘れる事がないように、心に深く刻んで下さい。イエズス様の御前にいつも生きる事ができますように。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
コメント

聖女クララ 名前はクララ、すなわち「輝いている」であった。その生涯は、より輝いていた。その聖徳は、最高に輝いていた(トマス・チェラーノ)

2019年09月13日 | お説教・霊的講話
2019年8月12日(月)童貞聖クララのミサ
聖ピオ十世会司祭 小野田神父様御説教

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2019年8月12日、聖クララの童貞女の祝日を祝っています。

そこで今日は、このミサを聖クララの一生を一緒に黙想したいと思っています。
今日このミサが終わりましたら、8月15日の聖母の被昇天に本当ならばしたかった聖母行列や御聖体降福式など、あるいは日本の聖母の汚れなきへ御心の奉献など、2017年にしたものなど、できないので、今日その代わりにしたいと思っています。

どうぞ今日このミサの後に、簡単な聖体降福式があって、聖母の連祷や、そして聖母への奉献などを更新致しましょう。どうぞ与って行って下さい。


「聖クララ、我らの為に祈り給え。」

聖父と聖子と聖霊の御名によりて、アーメン。


今日は聖クララの祝日ですので、

⑴その聖女の生涯を黙想する事を提案します。

⑵そして聖クララがした奇跡もあります。どんな奇跡か、この奇跡を見ると、どうしてもマリア様の被昇天の事を思えざるを得ないので、マリア様の被昇天を準備する為にも、聖クララのした奇跡も黙想致しましょう。

⑶そして最後に、遷善の決心を立てる事に致しましょう。


⑴聖クララは、イタリアのアシジのウンブリア地方の村に、非常に高貴な家に生まれました。同じ村に、やはりお金持ちの坊ちゃんであったフランシスコがいて、そして自分の財産を全て放棄して、裸一貫となって、そして修道生活に入ったのを見て、その模範に従おうと、自分の持っていた物をみんな売り払ったり、分配して、貧しい人に与えて、そして聖フランシスコについて行きました。

ポルティンクラという教会で、聖フランシスコが彼女の髪の毛を切って、そして罪の償いの修道服を着せました。1212年の3月18日の事です。

聖クララの両親は、何とか世俗の世界に彼女を戻そうと、惹き寄せようと、何とか努力するのですけれども、聖クララはそれを受け入れようとしませんでした。

アシジの聖フランシスコの指導に従って、聖ダミアノ教会で共同生活を始めます。後に「クララ会」と呼ばれる修道女修道会を創ります。そしてその修道女の共同体の頭として、どうしても聖フランシスコのお願いを断りきれずに、譲歩して、それを長上となる事を、修母となる事を承諾し、42年間長上として、非常に賢明に、非常に熱心に、その任務を達成します。

特に聖クララが心を尽くしたのは、修道女たちが会則を、そして規則を、与えられた規則を、よく守る、完璧に守るという事でした。なぜかというと、これこそが修道女たちに与えられた天主の御旨だったからです。そして聖クララの生活自身も、その生きた模範こそが大きな教えであって、修道女たちの修道生活への目に見える挿絵でありました。

特に聖クララの苦業の生活は目を見張るばかりで、周りの修道女たちが本当に驚いていました。自分の寝る所は地面で、枕は木の材木で、服も非常にごわごわとした荒い材料で、寒い冬も薄着で、しかも昔の修道者たちがしていた、金属のトゲが付いたような鎖を、チリチウム(cilicium)という物を体に巻いていました。一週間に3度は全く何も食べない断食をして、そして残りの食べる日でさえも、ほんの少ししか食べずに、周りの一緒に生活をしていたシスター達は、「一体、修母様はたったこれだけで、よくもこうやって働いて生きていける事ができるのか」とびっくりしたほどです。1年には2回、四旬節をしました。そして四旬節の間には、パンと水だけで生きていました。


祈りを、昼も夜も、時には夜を徹して行ないました。遂に年を取り病気になると、自分で立つ事が、身を起こす事さえもできなくなりました。しかしただ寝ているばかりではなく、シスター達にお願いして体を起こしてもらって、そして背中に何か支えを付けてもらって、そして手仕事をして、決して無駄に時間を使う事がないように、勤勉に働いていました。

特に聖クララは、アシジの聖フランシスコに倣って、清貧の生活を愛していました。

⑵第2の点は、聖クララのした奇跡ですけれども、これには色々な奇跡があります。

ある時には、言葉の話せなかったシスターに修道女に、奇跡的に言葉が言えるように治したとか、あるいは耳の聞こえなかったシスターが耳が聞こえるようになったとか、あるいは熱が出ていたシスター、あるいは色んな病気をしていたシスターを治したとか、あるいはあるブラザーが、「男子修道院ではもう油がないから、シスター、油を分けて下さいませんか?」と来た時に、シスターの所の修道院を見たら、シスターの所にも油がなかった。それでもクララは聖女は、このブラザーズの事を思って、空のピッチャーを容器を持って、水で洗って、見たら、油が満たされていた。

あるいはシスターたちの食べるもうパンもなかった。ほんの小さなパンの欠片がちょっとひとつあっただけだった、でもその欠片をシスターに配って、50人のシスター達が皆満腹するまで食べる事ができた等、色々な奇跡が起こりました。

しかしその中でも一番有名なのは、ちょうどイスラム教徒がイタリアに攻撃してきて、占領しようと入って来た時でした、侵入して来た時でした。

アシジの城壁の所にも、イスラム教徒が登って来て、ついて登って、「さぁ、これから町の中に入ろう」とするその時でした。そのニュースを聞いて、「シスター、サラセン人達がやってきました。危ないです」と言うと、病気の身であったにもかかわらず、その時に特別のインスピレーションを得て、御聖体の前で祈り、そして御聖体の入ったチボリウムを取って、そしてシスターたちに修道院の、玄関まで自分を運んでくれるように頼みました。

そして御聖体を持ったまま運ばれて、そして玄関に立ち、イエズス様にお祈りしました。詩編を、詩編73:19を唱えました。Ne tradas bestiis animas confitentes tibi!
「主よ、御身を讃美する霊魂たちを、獣たちに与えるなかれ。御身の尊き御血によって贖われたこの霊魂たちを救い給え」と祈りました。

すると、その深い祈りの中に、イエズス様から声が聞こえたとの事です、「私は、お前たちを守る。常に守る。」

そしてその時、アシジの方に来たサラセン人のイスラム教徒の大群は、どうした事か、恐れをなして退却し、そして壁に登っていた軍人たちも、いきなり目が潰されたようになって、落ちて、そして姿を消してしまいました。

この奇跡は非常に有名ですけれども、もしも聖クララが御聖体を持って、そうやってイスラム教徒を撤退させたならば、祈りを以て撤退させたならば、私たちに、聖女クララのみならず私たちに御聖体を与えて、御聖体を御自分の胎内にお持ちになっていたマリア様、その御方から御聖体が御生まれになった方は、一体どれほどの力を持っていただろうか、という事です。

マリア様の祈りはどれほど力強く、イエズス様はマリア様をどれほど御守りになろうとしたか、という事に思いが行きます。

マリア様の御体が腐敗せずに天に上げられたという事も、イエズス様がマリア様を御愛しなさっていたことを考えると、そしてクララがイエズス様がお愛ししたよりも更に勝って、マリア様がイエズス様をお愛しなさっていたという事を思うと、この聖女クララのした奇跡よりももっと大きな奇跡が、マリア様に起こって当然だろうと思わずをいられません。

⑶第3に、聖女クララは1253年の今日、8月12日にアシジで亡くなりました。その死後2年の後に、聖人として宣言されました。

600年間、アシジのその教会の中に、お墓にずっと埋葬されていたのですけれども、1850年、福者ピオ9世は、このお墓を掘り起こして確認する事を特別に許可しました。すると、聖女クララの体は、完璧に腐らずに残っていました。特に頭、歯はそのままでした。全く傷んでいない姿で現れました、600年の後に。

これを思うと、聖母の被昇天の事もどうしても思わざるを得ません。聖女クララについて伝記を書いた、トマス・チェラーノという人は、聖女クララについてこう言っています、“Clara nomine, vita clarior, clarissima moribus.”「名前はクララ、すなわち『輝いている』であった。しかしその生涯は、より輝いていた。そしてその聖徳は、最高に輝いていた」と。

今日、私たちは聖女クララの生涯を少し垣間見ましたけれども、聖女クララは、イエズス様・マリア様を倣おうとした方でした。特にアシジの聖フランシスコは、イエズス様の到来であるかとさえ噂された人でした。聖女クララも同じでした。

もしも聖女クララがそのようであれば、一体マリア様はどれほどそうだったでしょうか。マリア様のその御生活、清貧の生活、イエズス様に対する愛、苦業の生活、苦しみを愛した生活に、思いを馳せざるを得ません。

今日は聖女クララの御取次ぎによって、私たちがマリア様の被昇天をよく黙想して、よく祝う事ができますように、お祈り致しましょう。そしてマリア様の被昇天をますますより良く讃美する事ができますように、聖女クララにお祈りをお願い致しましょう。

「聖クララ、我らの為に祈り給え。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
コメント

イエズス様は私たちを深く愛しているにもかかわらず、私たちがその愛を認識せず、愛を拒むならば、私たちには恐ろしい事が待っている。地獄にさえも落ちてしまうかもしれない危険がある

2019年09月13日 | お説教・霊的講話
2019年8月11日(主日)聖霊降臨後第9主日のミサ
聖ピオ十世会司祭 小野田神父様御説教

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2019年8月11日、聖霊降臨後第9主日のミサをしております。

今日は遠くから小さなお友達がたくさん来てくれて、嬉しく思います。

8月15日は聖母の被昇天で、残念ながら今年はミサをする事ができませんが、皆さんで「お祈りの会をしよう」という話を聞きました。「朝の10時半からロザリオを唱えよう」と。ここに来られる事ができなくても、どうぞロザリオをたくさん唱えて下さい。

次の主日、来週の18日には、やはり夕方からミサがあります。その日はフォルティン神父様、アメリカの神父様が来て下さいます。


“Eo quod non cognoveris tempus visitationis tuae.”
「お前は、お前を訪問する時を知る事ができなかったから。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。



愛する兄弟と皆さん、今日私たちの与っているミサは、典礼歴が行くにしたがって公教会は、「私たちの最後の審判」や、「世の終わり」や、「私たちの死の準備をするように」と、ますます準備をしています。

今日もやはり、同じテーマでミサが構成されています。今日のテーマは、少し私たちに、「さぁ、注意しなさい。イエズス様は私たちの事をとても深く愛しています。でも、もしも私たちが、そのイエズス様がこんなにも愛しているにかかわらず、こんなにも私たちの為にして下さるにもかかわらず、私たちがその恩を、その愛を認識しないならば、私たちがその愛を拒むならば、私たちには恐ろしい事が待っている。つまり地獄にさえも落ちてしまうかもしれない。その危険がある」という事を警告しています。

一体どういう事なのでしょうか?

その今日は、3つのポイントで黙想してみましょう。

⑴1つは、聖パウロの書簡です。今日聖パウロが何を言っているのか?という事に耳を澄まして聞いて下さい。

⑵第2には、福音です。今日イエズス様が一体何を福音で仰っているのか?という事を聞いて下さい。今日は仰っている事よりも、その「御姿」を見て下さい。

⑶最後に、では今日の良い決心を立てる事にしましょう。

この黙想をする時に、では今日は、「イエズス様の聖心が、涙を流して泣いている」という姿を想像して下さい。秋田のマリア様の御像は、涙は流されました。ラ・サレットの聖母も涙されました。今日、ファチマのマリア様も涙を流していると想像してみて下さい。こんなに私たちを愛しているにも関わらず、霊魂がその愛に応えないその様子を見て、流している涙です。


⑴では書簡では、聖パウロは何と言っているのでしょうか?

聖パウロはとても悲しい事実を私たちに言います。「イスラエル」という、天主様から特別に愛された民族があります。世界中のあらゆる民族の中から特別に選ばれて、この民族だけは特別に預言者を送り、特別な光を以て導き、そして真理を教え、特別な愛情を注いで育て上げた、特別な民です。今でもこの民族からは、そのおかげか、立派な頭の良い人たちがたくさん出ています。

これほど天主から愛されて、これほど御恵みを溢れるばかりに受けて、そして天主様がもう嫉妬、妬み深い愛を以て、この民を愛していました。

歴史を見ると本当にそうです。

エジプトで奴隷状態だった時には、その奴隷状態から奇跡を以て解放しました。モーゼという指導者を送りました。そしてファラオというものすごい強力な軍隊があった、エジプトの軍隊があったのですけれども、それを徹底的に全滅させました。その軍隊から追われた時には、紅海という海を真っ二つに分けて、乾いた土地を海の底を歩いて行きました。でもエジプト軍は、この海に全て巻き込まれてしまいました。呑まれてしまいました。全滅です。

シナイの砂漠を約束の地まで導く為に、特別にその道しるべとなるように、昼間の間は雲の柱が、そして夜には火の柱が、その民を導き、守っていました。砂漠では食べる物が無かったので、空から「マンナ」という特別のパンを降らして、養っていました。何十年。

水が無かったので、岩から奇跡的に、水を湧き出しました。

多くの勝利がありました。カナアンという地にいた王たちは、このイスラエルを滅ぼそうとしましたけれども、却って滅ぼされました。

イスラエルは、多くの素晴らしい預言者や王たちを輩出させて、その建てた神殿、その宮殿は、皆の感嘆の的でした。

これほど愛と御恵みを受けた民ですけれども、一体彼らは何をしたかというと、その天主様の御恵みを受けながらも、悪を犯しました。「してはいけない」と言われていたのにもかかわらず、それをしました。偶像崇拝、不潔ないやらしい事をしたり。

ある日は、その為に天主はどうしても罰せざるを得ずに、1日の間に、2万3千人滅ぼされました。

聖パウロはそういう事を言いながら、こう言います、「彼らは前兆として、前印として、こういう事が起こっている。なぜかというと、これは私たちに対しての教えとなる為に。」

では何を教えているかというと、「それほど愛された民でも、悪をすると、それは滅ぼさなければならない、悪はそのまま、悪い事をすればしたまま、そのままいる事ができない。どうしても天主の正義は、それを罰せざるを得ない」という事です。

福音を見て下さい。イエズス様は泣いているのです。創造主、全宇宙を創って、その支配している贖い主、最後の審判の時の審判官、人類の最高の主権者、最高の方が、イエズス様が、自分の愛する、特別に愛した民を見て、涙を流している。これほど愛した事がない、これほどの愛を注いだ事がない、その人たちと一緒に生活しようとさえ望んだ、その人たちが、天主を拒否し、認めようとしなかったから。

考えて下さい。誰かお友達がいて、「危ない!行ってはいけない!そうしたら事故に遭ってしまう!」
「大丈夫だよ。」
本当に事故に遭ったとします。あれほど仲良かった友達が怪我をした。どれほど残念でしょうか。

お父さんやお母さんが愛して、いつも目にかけていた子供が、あるいは娘が、あるいは息子が、悪い、悪の道に染まってしまった。どうしてもその悪の道にはまってしまって、がんじがらめになってしまって、もう出られない。ヤクザの道に入ってしまった。どれほど心が痛む事でしょうか。もう泣いても泣いても、「あぁ、もううちの子は本当に…」と言って、泣き暮れる日々を送るかもしれません。

イエズス様の悲しみは、更にそれよりも強かったのです。あれほどの、あれほど愛されたその民が、天主の恵みを受け入れなかった。

何という悲しい事でしょうか。イエズス様は涙を流されました。

平和をもたらすものを認めなかったから。もしも今、今この時に、それを認めてさえいたら、そんな事はないのに。しかし、もうレッドラインを超えてしまいました。もうやってはいけない事さえ、し始めてしまいました。

イエズス様はですから、その論理的な結果を予言するしかありませんでした、「残念だけれども、エルサレムは崩壊する。無くなってしまう。神殿の上には、石の上に石も残らなくなってしまう。真っ平らになってしまう。」

本当に起こりました。西暦70年、ローマ皇帝ヴェスパシアヌス。どうしてもその軍隊を起こさずには得なくなってしまい、ユダヤ人が反乱をしたので、それを平定する為に行きました。ローマ皇帝は、「神殿を残したい、できればそれを残したい」と思いつつも、しかしユダヤ人たちがローマ人を挑発したので、そしてどうしても火が飛んで、そして本当に、エルサレムは全く無くなってしまいました。名前さえも変えられてしまいました。

⑵では一体今日、私たちに一体福音はどういう事を教えてるのでしょうか?

これは、私たちはイエズス様から天主様から、ものすごい愛を受けています。光を受けています。御恵みを受けています。教えを受けています。特別の聖寵を受けて、助けられています。「これを私たちは、決して無駄にしてはいけない」という事です。

聖パウロは言います、「だから、もしも今立っていると思う者があるならば、注意して倒れないようにせよ。私たちが今立っているのは、今私たちが良い道を歩く事ができるのは、これは全て御恵みのおかげだから。私たちが自分で、一人でやっているのではないから。」

私たちが今こうあるのも、御恵みです。お父さんもお母さんもいらして、そしてこう助けられて、今天主様からの御恵みで、こうあるのだ。だから私たちは、いつも警戒して、そして謙遜に道を歩まなければならない、という事を教えています。

天主様は私たちを、悪の道から、罪の危険から逃れるように、特別の御恵みを与えています。時々は、私たちがたまたま読んだ、あるいは聞いた一言、あるいは先生が、あるいはお母さん、あるいは神父様が言った「これが良いよ」と言うその言葉。

あるいはたまたま、「あ、こうじゃないか」という特別の聖霊からの息吹。
「あぁ、自分はこんな欠点があるなぁ」と分かった事。
もっとイエズス様の事を「あぁ、こうなんだ」と、「だから悪に近寄ってはいけない」と理解した時。

でも、もしもそのような特別の御恵みを受けながら、それを無視して、「大丈夫だよ。僕は一人で、自分の事をやれるから大丈夫だ」と言うと、大体の場合には、悲しい辛い結果があって、一生悔やむ事になります、「あぁ、あの時ああすれば良かったなぁ」と。

でもその時には、もしもその事が重大であれば重大であるほど、そして悪魔は少しずつ、少しずつ、悪へと誘うので、注意して下さい。

悪への誘いのみならず、天主様は、「もっと善に上がるように、良い聖徳を積むように、お祈りの生活がよくできるように、あるいはますます愛徳のあるように、生活ができるように」と、私たちを招いて、特別の御恵みで満たして下さいます。

「あぁ、こんなに聖なる素晴らしい生活が、こんなに立派な人になったら良いなぁ。」「あぁ、こうする為にはどうしたら良いのだろうか。」「あぁ、」色々な御恵みが与えられます。

その時には時々は私たちは、「あぁ、そうすると自分の好きな事ができないから。」「あぁ、好きなテレビも見られないし、コンピューターゲームもできないし、インターネットも、YouTubeも…」と言うと、その自分のやりたい事の為に、天主様が望んでいる聖徳が、拒否される危険があります。そして多くの場合、自分の為に、自分を愛するが為に、御恵みが無駄になってしまって、どれほど多くの御恵みが残念な事に、愛が、無駄になっているでしょうか。

時々私たちが見る立派な模範や、聖人たちの模範、聖人伝などを見ると、本当に立派なもので、それらに私たちは励まされて、善の道を、より良い道を歩むように致しましょう。

⑶では、その為にはどうしたら良いでしょうか?

「私たちの心を、私たちの霊魂を、私たちの体を、祈りの家にしなさい」と、今日福音で言っています。私たちの心から余分なものを取り払って、「私の家は、祈りの家と言われている」とイエズス様は教えています。私たちの心を、祈りで満たす事に致しましょう。

マリア様はそうでした、そうなさっていました。どうぞマリア様にお祈りして下さい、私たちがいつも危険から免れますように、イエズス様やマリア様を御悲しませするという事がありませんように、お祈りなさって下さい。その為にたくさん、マリア様にお祈りして下さい。

「お前が、その訪問の時を知らなかったから。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

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