Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

私は御身を信じ、礼拝し、希望し、御身を愛します!御身を信じぬ人々、希望せず愛さぬ人々のために、赦しを求めます(天使の祈)

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
2019年 8月の聖伝のミサの予定
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】


8月 聖母の被昇天を祝いましょう。
意向:聖母の汚れなき御心の凱旋のため
実践すべき徳:心の柔和と謙遜
守護の聖人:聖母の汚れ無き御心

愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)にご招待します

◎2019年 8月の予定
【大阪】聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂(アクセスEG新御堂4階 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 
〒532-0002 (JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分)

  8月2日(初金)教会博士証聖者司教聖アルフォンソ・デ・リグオリ(3級祝日)白
          午後5時半 ロザリオ及び告解
          午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

  8月3日(初土) 聖母の土曜日(4級)白
          午前10時 ロザリオ及び告解
          午前10時半 ミサ聖祭(歌ミサ)

  8月11日(主)聖霊降臨後第9主日(2級)緑
          午後5時半 ロザリオ及び告解
          午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

  8月12日(月) 童貞聖クララ(3級祝日)白
          午前10時 ロザリオ及び告解
          午前10時半 ミサ聖祭(歌ミサ)

  8月18日(主)聖霊降臨後第10主日(2級)緑
          午後5時半 ロザリオ及び告解
          午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

  8月19日(月) 証聖者聖ヨハネ・ユード(3級祝日)白
          午前6時半 ミサ聖祭(歌ミサ)

【東京】東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図)「聖なる日本の殉教者巡回聖堂」

  8月4日(主)聖霊降臨後第8主日(2級)緑
          午前10時  ロザリオ及び告解
          午前10時半  ミサ聖祭(歌ミサ)

  8月5日(月)  雪の聖母の大聖堂の奉献(3級祝日)白
          午前7時 ミサ聖祭

  8月18日(主)  聖霊降臨後第10主日(2級)緑
          午前10時  ロザリオ及び告解
          午前10時半  ミサ聖祭(歌ミサ)

愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております。

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聖ピオ十世会日本は、2017年に受けたすべての恵みを聖母に感謝します。

2017年12月31日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2017年も最後となりました。今年受けたすべてのお恵みをマリア様の汚れなき御心に感謝致します。

日本には毎月二回訪問することができ、レネー神父様も毎月日本に来られ、多くの祝日や主日に御ミサを捧げることができました。
今年は、ミサ聖祭の後に必ず感謝の祈りとして「ファチマの天使の祈り」を付け加えました。また、ミサの終わり司祭の退堂の際には毎回「ファチマのアヴェ・マリア」をテーマソングのように歌いました。
今年もローマの習慣に従ってクリスマスと御公現とに恒例の幼きイエズスさまの接吻の礼拝がありました。踏み絵への接吻による償いの式も行いました。
1月には、聖ピオ十世会総長第一補佐のフルーガー神父様が来日されました。
1月に上映された映画「サイレンス -- 沈黙」の背景にあった史実を、イエズス会司祭故チースリク神父様によってなされた研究に基づいて垣間見ました。
2月3日には、1615年2月3日に亡くなった福者ユスト高山右近について黙想しました。(ユスト高山右近は今年2月7日に列福されました。)
3月にはファチマの「祈りと償いの精神」で、四旬節に入りました。
4月にはローマから、聖伝のミサはもちろん(2007年に確認済み)、告解の秘跡(2016年に確認済み)のみならず、聖ピオ十世会の婚姻の秘跡がもちろん有効であるということの確認が発表されました。
5月にはシュテーリン神父様やブラザー・クラウスとともに秋田巡礼を行うことができました。
6月には大阪で日本の方が洗礼の恵みを受けました。
7月1日には大坂で婚姻の秘跡で結ばれた夫婦がありました。
7月の海の日(生みの日)には、東京でファチマの聖母行列を行うことができました。
8月にはファチマの聖母の小黙想会を大阪で行うことができました。8月15日の聖母被昇天には、大阪でのファチマの聖母行列を行い、聖母が日本をどれほどあいしてくださっているかを黙想しつつ「汚れなき御心への日本の奉献」をすることができました。
8月には更にファチマとローマへ国際巡礼を行いました。巡礼の地で、聖ピオ十世会のシスター会への志願者でフランスの志願院にいる日本人女性の方と巡礼の時に一緒に祈りました。
8月22日の汚れなき御心の祝日のファチマの聖地で「汚れなき御心への日本の奉献」を行いました。
「ファチマのアヴェ・マリア」は、39番まで、つい最近は第40番までの歌詞が、愛する兄弟姉妹の皆様の祈りの中から作られました。
ロザリオの十字軍として、日本から総計で、26,417環、犠牲 68,333回が報告されました。
9月3日には東京で聖ピオ十世教皇様の祝日を祝いました。
9月29日には大阪で大天使聖ミカエルのミサを執行しました。
10月はファチマの精神でロザリオを一生懸命に唱えました。公教要理では、聖書について、特に福音書や聖地の地理や歴史などについて学んでみました。

12月2日(土曜日)すなわち待降節第一主日の前日に「生まれようとする命のための祈りの集い」(Veillée de prière pour toute vie naissante, Vigil Prayer for All Nascent Human Life) を行いました。
12月はレネー神父様のおかげで日本で多くのミサが捧げられ、聖骸布の中で大阪と東京では御ミサを捧げることができました。
東京と大阪両方ではクリスマスの御ミサが今年も捧げられました。
その他数え切れないほどの多くの2017年の御恵みを聖母の汚れなき御心から受け取りました。天主様に感謝します。
聖母に心より感謝と祈りを申し上げます。

「私は決してあなたを見捨てません。私の汚れなき御心はあなたの避難所であり、あなたを天主へと導く道となるでしょう。」

聖ピオ十世会のために寛大な御援助とご協力を下さるすべての方々に深く感謝申し上げます。祈りによる援助、経済的な応援、様々な奉仕活動に、聖ピオ十世会の活動がささえられています。深く感謝します。


愛する兄弟姉妹の皆様が善き新年をお迎えくださることをお祈り申し上げます。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【2018年1月7日(主日)は東京で「聖家族の祝日」のミサが午前10時半からあります。】
Feast of the Holy Family
Introit • ScoreVideoMp3Organist • Exsultet gaudio pater Justi
Gradual • Temp. ScoreOrganist • Unam petii with verse “Beati qui”
Alleluia • Temp. ScoreOrganist • Vere tu es Rex absconditus
Offertory • ScoreOrganist • Tulerunt Jesum parentes ejus
Communion • ScoreVideoMp3Org.Color • Descendit Jesus cum eis
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聖ピオ十世会では聖伝のミサの後の感謝の祈りとしてファチマの天使の祈りを唱え続けます

2017年12月30日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 恵みにあふれた2017年もあと一日を残すところとなりました。いかがお過ごしでしょうか。

 ファチマ100周年をふさわしく記念するために、私たちは聖伝のミサの後の祈りの時(御聖体拝領の祈りの感謝の祈りの直後、教皇様のための祈りや司祭のための祈りの直前)に、次のファチマの天使の祈りを皆で唱えるようにしました。

 聖ピオ十世会では、ファチマの聖母の精神をこれからも続けるというフェレー司教様の意向に従って、私たちは2017年が終わっても続けてこの天使の祈りをミサの後の感謝の祈りとして唱え続けたいと思います。よろしくお願いします。

 天主様の祝福が豊かにありますように!
 トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


「わが天主よ、われ、信じ、礼拝し、希望し、御身を愛し奉る。われ、信ぜぬ人々、礼拝せぬ人々、希望せぬ人々、御身を愛さぬ人々のため、御身に御赦しを願い奉る。」

【シスター・ルシアの手記によるポルトガル語原文】
Meu Deus! Eu creio, adoro, espero e amo-Vos. Peço-Vos perdão para os que não crêem, não adoram, não esperam e Vos não amam.

My God, I believe, I adore, I hope and I love Thee! I beg pardon for those who do not believe, do not adore, do not hope and do not love Thee.

【参考資料:フランス語訳】
Mon Dieu, je crois, j'adore, j'espère et je Vous aime. Je Vous demande pardon pour ceux qui ne croient pas, qui n'adorent pas, qui n'espèrent pas, et qui ne Vous aiment pas.

"Mein Gott, ich glaube an Dich, ich bete Dich an, ich hoffe auf Dich und ich liebe Dich. Ich bitte Dich um Verzeihung für jene, die an Dich nicht glauben, Dich nicht anbeten, auf Dich nicht hoffen und Dich nicht lieben."

「哦!天主,我信奉您、我敬拜您、我仰望您、我愛慕您。請您寬恕那些不信您、不敬您、不仰望您、不愛慕您的人。」

나의 천주여 나는 믿고, 흠숭하며, 희망하고, 너를 사랑하나니다. 믿지 아니하는 이, 흠숭하지 아니하는 이, 희망하지 아니하는 이, 사랑하지 아니하는 이들을 위해 용서를 구하나이다.


「至聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊よ、我、御身を深く礼拝し奉る。世界中のすべての御聖櫃のうちにましまし給うイエズス・キリストのいとも尊き御体、御血、御霊魂と御神性を、イエズス・キリスト御自身が受け給う侮辱、冒涜、無関心を償うために、御身に捧げ奉る。イエズスの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳によりて、あわれな罪人の回心を御身に願い奉る。」

【シスター・ルシアの手記によるポルトガル語原文】
Santíssima Trindade, Padre, Filho, Espírito Santo, (adoro-Vos profundamente e) ofereço-Vos o preciosíssimo Corpo, Sangue, Alma e Divindade de Jesus Cristo, presente em todos os Sacrários da terra, em reparação dos ultrajes, sacrilégios e indiferenças com que Ele mesmo é ofendido. E pelos méritos infinitos do Seu Santíssimo Coração e do Coração Imaculado de Maria, peço-Vos a conversão dos pobres pecadores.

Most Holy Trinity, Father, Son and Holy Ghost, I adore Thee profoundly. I offer Thee the most precious Body, Blood, Soul and Divinity of Jesus Christ, present in all the tabernacles of the world, in reparation for the outrages, sacrileges and indifference by which He is offended. By the infinite merits of the Sacred Heart of Jesus and the Immaculate Heart of Mary, I beg the conversion of poor sinners.

【参考資料:フランス語訳】
Très Sainte Trinité, Père, Fils et Saint-Esprit, je Vous adore profondément et je Vous offre le très précieux Corps, Sang, Âme et Divinité de Jésus-Christ présent dans tous les tabernacles du monde, en réparation des outrages, sacrilèges et indifférences par lesquels il est Lui-même offensé. Par les mérites infinis de Son Très Saint-Cœur et du Cœur Immaculé de Marie, je Vous demande la conversion des pauvres pécheurs.


„Heiligste Dreifaltigkeit, Vater, Sohn und Heiliger Geist, in tiefster Ehrfurcht bete ich Dich an und opfere Dir auf den kostbaren Leib und das Blut, die Seele und die Gottheit Jesu Christi, gegenwärtig in allen Tabernakeln der Erde, zur Wiedergutmachung für alle Schmähungen, Sakrilegien und Gleichgültigkeiten, durch die Er selbst beleidigt wird. Durch die unendlichen Verdienste Seines Heiligsten Herzens und des Unbefleckten Herzens Mariens bitte ich Dich um die Bekehrung der armen Sünder.“

「至聖的天主聖三:聖父、聖子、聖神,我深深地欽崇您,現在我把這個世界上所有聖體櫃中最珍貴的聖體、聖血,耶穌基督的靈魂與天主性呈獻給您,以賠補世人對天主的冷淡、侮辱和褻瀆。藉著耶穌聖心和無染原罪聖母聖心的無限功勞,求您使罪人悔改自新。」

지극히 거룩하신 성 삼위 성부, 성자, 성신이여, 너를 깊이 흠숭하나이다. 세상 모든 감실 안에 계신 예수 그리스도의 지극히 보배로우신 성체와 성혈과 영혼과 신성을 바치오니, 천주의 마음을 상해드린 모욕과 모독과 무관심을 기워 갚기 위함이나이다. 지극히 거룩하신 예수성심과 성모의 하자 없으신 무한한 공로로 삼가 청하오니 불쌍한 죄인들이 회개하게 하소서.

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ラテン語典礼 ローマ聖務日課 2018年1月の聖務日課をKindleの中に入れるためのmovi ファイルをご紹介します

2017年12月30日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 レネー神父様が作って下さった大変良くできた聖務日課のファイルを愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。レネー神父様のために、感謝を込めて天使祝詞をたくさん唱えて下さい。

 2018年1月分のローマ聖務日課のmoviファイル

12月のファイルが訂正されました。ご注意ください。
 2017年12月分のローマ聖務日課の修正moviファイル

I am very happy to be able to share a well done file in movi format in order to pray the Divine Office (Breviary) during the whole month of December 2017. This was made by Rev. Fr. Laisney. Please offer prayers for him as well while you are praying with his file.

 Breviarium Romanum mensis Ianuarii anno MMIIXX

I would like to call your attention that there is a correction of the old version. Here is the new corrected file.
 Breviarium Romanum mensis Decembris anno MMXVII

 天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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ドイツのツァイツコーフェンにある聖ピオ十世会の「イエズスの聖心神学校」の動画

2017年12月30日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 ドイツのツァイツコーフェンにある聖ピオ十世会の「イエズスの聖心神学校」の動画です。聖ピオ十世会の神学校の様子をご覧ください。




天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
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【動画】聖ピオ十世会のアメリカ管区では2年半にわたりファチマの100周年のためにファチマの聖母への信心を実践しました

2017年12月29日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖ピオ十世会のアメリカ管区では、2年半にわたりファチマの100周年のためにファチマの聖母への信心を実践しました。33州を聖母が訪問し、110の教会で聖母を迎え入れました(2017年12月8日までの数)。




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ソウルの聖伝のミサの時間に少し変更があります。ご注意ください。

2017年12月29日 | 聖伝のミサの予定
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 レネー神父様は今ソウルにおられますが、一昨日の夕方のミサの後、司祭館に帰宅する途中(大きな道路を渡るために地下鉄の駅になっている地下道を歩かなければならないのですが)階段で転んでしまって倒れてしましました。夜遅かったのですが、幸いに通りがかりの人が救急車を呼んでくれ、すぐに病院に運ばれました。顔を幾針か縫い、昨日朝司祭館に戻ることができました。しかし鼻を傷めてしまったので今日の午後は入院して手術を受けなければなりません。

 レネー神父様とお電話でお話ししたところ、心配はない、大丈夫だとのことです。ただし、このお怪我と手術のために、ソウルでのミサの時間を突然変更しなければならなくなりました。

 ソウルでミサに与ろうとお考えの愛する兄弟姉妹の皆様がおられましたら、ミサの時間が変更されていることをお知らせいたします。また聖骸布によるとイエズス様も鼻を傷めたあとがあるとのことですが、レネー神父様が倒れて鼻を傷めたのもミッションのための大きなお捧げもののように思います。レネー神父様のご健康のためにお祈りください。

 天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


Ave Maria Immaculata

Chers amis,
Monsieur l’abbé Laisney a eu un accident et abîmé son nez. Il doit avoir une chirurgical intervention. Il y a, donc, un petit changement de l'horaire de la messe.

http://sspx.or.kr/bbs/board.php?tbl=notice&mode=VIEW&num=236&

Dear the faithful
The Mass on Friday begins at 4 P.M.
We don't have the Mass on Saturday.
Sunday Mass begins at 11 A.M
The conference on the Holy Shroud will be held at 3 P.M at the same place on Saturday.

교우 여러분!
레네 신부님의 갑작스런 사정으로 29일(금) 오후 4시로 미사가 변경되었으며,
30일(토)미사는 없고, 이날 오후 3시에 예정된 성 수의에 대한 강론 및 성 수의 복사본 공개는 일정대로 진행됩니다.
또한 12월 31일(주일) 미사는 오전 11시로 변경되었음을 알려드립니다
http://www.sspx.or.kr/bbs/board.php?tbl=schedule&mode=VIEW&num=61&category=&findType=&findWord=&sort1=&sort2=&page=1

Ayez la bonté de informer ce changement de l'horaire a vos amis qui veulent éventuellement assister a la messe. Grand merci !
En union de prières

Abbe Thomas ONODA
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クリスマスの聖伝のミサの報告【追加しました】と【お知らせ】平和と求める聖母行列(2018年1月6日正午から大阪で)

2017年12月29日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 クリスマスの御ミサの報告をいただきました。兄弟姉妹の皆様にごしょうかいします。大阪ではミサに毎日欠かさずに与った方々がおられました!天主様に感謝します!

 東京の謝恩会では、たくさんの差し入れをありがとうございました。多勢の方々が持ちよってくださり、食べ物も飲み物も、お恵みにもあふれていました。

 今回初めて来られた方々が、聖伝のミサで顔見知りの人がやっぱり初めて来ていたので、喜んでおられました。今まで会場には来られたことはあったけれども、今回初めて聖ピオ十世会の御ミサでご聖体拝領をされた方々もおられたと伺いました。最後にでるゴミを全部持って帰ってくださった方もおられました。ありがとうございます。

ところで、新年早々の1月6日の初土曜日には、大阪でミサの直後に、日本と世界の平和と求めてファチマの聖母行列を行う予定です。

天主こそは平和の君であるからです。天主が平和を作ってくださらなければ、平和を作ろうとする人の労苦も空しいからです。天主が町を守って下さらなければ、町を守る警備も空しいからです。

Nisi Dominus edificaverit domum, in vanum laboraverunt qui edificant eam. Nisi Dominus custodierit civitatem, frustra vigilat qui custodit eam!

私たちは聖母の汚れなき御心に助けを求めます。何故なら天主は聖母を通して私たちに平和を与えることを定めたからです。

ジャシンタが病院に行く前にルシアにこう言いました。
「私たちはマリアの汚れなき御心を通して平和を求めなければなりません。何故なら天主は平和を聖母に委ねたからです。」

 だから愛する兄弟姉妹の皆様、新年早々の1月6日の初土曜日には、大阪でミサの直後に、日本と世界の平和と求めてファチマの聖母行列に参加してください。日本と世界の平和は聖母にかかっています。

日本と世界の平和と求める聖母行列
日時:2018年1月6日正午(ミサ聖祭の直後)から
集合場所:聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂(EG新御堂4階 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2)

では、報告をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
レネー神父様のミサの報告

アヴェ・マリア・インマクラータ!
主のご降誕のお喜びを申し上げます。

小野田神父様こんにちは。
きっと韓国で素晴らしいご降誕をお迎えになられたことと思います。

私たちもご降誕前の2週間、レネー神父様の御ミサと素晴らしいお説教でご降誕の準備をすることが出来た事はなんという大きなお恵みだったことでしょうか!

平日は御ミサに与る方々の人数が少なくて、残念でしたが、二週間毎日2時間かけて通われた方や、朝一時間、二時間早く起きて早めに出勤し、ミサに間に合う時間に退社できるように調整して二週間毎日ミサに与りに来られた方々もいらっしゃいました。

実物大の聖骸布のレプリカは、圧倒的な迫力をもち、見る人に大きな感動と痛悔、イエズス様の愛の深さ、マリア様のお苦しみなどを黙想させてくれました。小さなご絵や写真で見るのとでは全く違った感銘を受けました。

レネー神父様は毎日、聖骸布の説明や、聖骸布とミサの関係の黙想、聖人の話などなど短いお説教をしてくださいました。

また12月10日の主日から25日まで、毎日歌ミサをして下さいました。このような体験をしたのは初めてで、これも大きなお恵みだったと思います。神父様は、きっとお疲れだったと思いますがいつも柔和でお疲れのご様子をお見せになられませんでした。
また、土曜日以外、御ミサの後には毎日神父様と終課を唱えました。

クリスマスの前日の夕方6時のミサの後、朝課までの間の一時間ほどの間、エレベーターホール前に神父様を囲んで皆が座り、朝課の歌詞の説明をお聞きしました。カトリック的な聖なる時間が流れそのまま朝課を唱えました。

私達には間違いや失敗がたくさんあったにも関わらず、レネー神父様は「朝課をしてくれてありがとう。とても嬉しかった。」と仰いました。いつもクリスマスには多くのミサ会場を回ったりしなければならないので10数年ぶりにクリスマスの朝課を複数で歌ってすることが出来たそうです。

ご降誕のミサのお説教は、レネー神父様の、マリア様への愛が溢れる非常に美しくも感動的なお説教でした。

レネー神父様を日本へ送って下さった天主様の御摂理に感謝し、レネー神父様の今後のご活躍とご健康をお祈りいたします。

御ミサ後の送迎会では、信徒会長が代表で霊的花束を神父様にお渡しくださり、皆でアヴェ・マリアの日本的なポリフォニー、高山右近の歌、宣教師を送る歌、シェ・ヌを神父様への感謝として歌いました。レネー神父様もフランス語の歌は一緒に歌って下さいました。熱唱でした!(;´∀`)

お別れするのは心が痛み、とても悲しいのですが、宣教師を送るうたの歌詞にあるように、「友よさらば、天国で会いましょう」という気持ちを持ってお別れしました。この淋しさもイエズス様への愛のため、罪人の改心の為、聖母の汚れなきに心に犯される罪の償いとしてお捧します。

【報告】
天主イエズス様の御降誕おめでとうございます!

レネー神父様の毎日の御ミサ、お説教、聖骸布、クリスマス、朝課・・・
たくさんのたくさんの御恵みを、御憐れみを
天主様に感謝!マリア様に感謝!聖ヨゼフに感謝!
レネー神父様に小野田神父様に、心から感謝いたします!!

幼き天主イエズス様、我らをあわれみたまえ。
聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈りたまえ。
ファチマの聖母、ロザリオの聖母よ、我らのために祈りたまえ。

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

私たちの主イエズス・キリストのご誕生を、今年はいつもと違ったふうに黙想し、お祝いいたしました、ありがとうございます。

御降誕祭の前日のミサでは、私たちの周りには むち打ちと茨と十字架刑で痛められたことを指し示す聖骸布の複製と、復活の象徴のようなネガからポジに転写されたイエズス様の等身大のお姿も、掲げられていました。「聖骸布には イエズス様の御体が実在された姿かたちのまま証拠が刻印されているものだけれど、そこにイエズス様がいるのではなく、外見ではまるで違う御聖体のなかにこそイエズス様がいらっしゃいます」というレネー神父様の講話のお話を胸にご聖体拝領をいたしました。

聖骸布の複製の展示の中での御ミサに与った恵みに、心から感謝申し上げます。素晴らしい講話もありがとうございます。レネー神父様は、複製ではありますが実物大で重さもほぼ同じ"釘"を私たちに紹介してくださいました。イエズス様の手首と足を貫いた釘だそうで、とても大きく太く重く、驚きました。レネー神父様は、貴重な聖骸布の展示のために、パネルの外枠も一緒に持ってこられておりまして、その重さ大きさにも驚き、飛行機や新幹線などでの移動での時もとても大変だったと思います、本当に感謝申し上げます。

翌日の御降誕の御ミサのなかでは、目の前の小さな祭壇におけるクリスマスの秘密を教えられた感じでした。

心の中にイメージが浮かびあがり、十字架は飼葉桶となりイエズス様は赤ちゃんに変わりました。御復活祭と御降誕祭が、結びついて、ひとつのものとなりました。

「この赤ちゃんは(動物のようなものに過ぎない)人間のための食べ物として天から降りてこられました」、というお説教の言葉は、決してシュールに響きませんでした。かえって、なぜ幼子イエズスは、飼葉桶のようなものの中に寝かされて描かれるのか、ハッとわかった思いでした。

動物が食べる 飼葉・馬草のごとく、イエズス様は動物のごとき命のものである人間に食されるために、来られたのですね。

罪ある命から、天上の永遠の命へと変えられるように、食べるためのものとして来られたのですから。飼葉などの飼料を入れる桶に寝かされているイメージには、こんな意味があるのかなと、おもわず感じてしまいました。

幼子が食べられる物として来られたと、言葉で言うとひどく残酷ですが、映像であらわすなら、必要なことが伝わるだけです。でも、実際のところ、この赤ちゃんには残酷な刑が待ち受けていることを、私たちは知っているのだけれど。

お説教を聴いたので、目の前の十字架が馬草桶に、いばらの冠と鞭うたれたイエズス様の御体は赤ちゃんに、それからそのあとすぐ御母マリア様が受けとめてくるまれて後に聖骸布となった清浄な布も赤ちゃんをくるんでいる布に、イメージの中でその姿を変えたのだと思います。



イエズス様は 栄光の御復活の前に、このか弱き小さな柔らかい赤ちゃんの姿で、まずこのクリスマスの夜に 人間の世界に降りて来てくださったことが わかりました。

十字架上のイエズス様を礼拝賛美するときのように、同時にまた飼い葉おけに寝かされた幼子イエズス様を、心から礼拝賛美いたしました。

そして、聖変化の時に、飼い葉おけから十字架へと渡されたそのイエズス様の御体は司祭の手に掲げられて真っ白のご聖体のなかに今現存されていることを思いだして、おおイエズス様、御身こそまことの食べ物として御自身を私たちに賜ってくださいました天主様です、なんということでしょう!と、信仰を告白致しました。

これまでのクリスマスには感じたことのなかった小さな赤ちゃんのイエズス様への感謝の想いが広がり満ちあふれました、こんなふうにクリスマスの意味を教えてくださいましてありがとうございます!

クリスマスのお説教は、とても素晴らしくて、マリア様を讃えます賛美のようであり、次々とやって来ます美しいイメージにうっとりとなりました。

私は、弱い小さな信仰で深い意味も分からないままですが、これまで、よくわからなかった御誕生と御復活の神秘的な関係を、深く味わっておりました。

マリア様を通して人間の赤ちゃんとして来られたイエズス様が、十字架に架けられてマリア様によって傷の全てをきれいにされて、天に帰られました。この印象を心に刻んで、マリア様によってイエズス様をいつも心の中で、礼拝申し上げるように努めます。このようなクリスマスの意味を教えてくださいましてありがとうございます!この御降誕節の間、黙想を続けていきたいと思います。

レネー神父様、素晴らしいクリスマスをありがとうございました。オーストラリアでのご活躍をお祈り申し上げます。


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レネー神父様の謝恩会で歌った「宣教師たちの送別の歌」Départ des Missionnaires (Musique de Ch. Gounod)

2017年12月28日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 レネー神父様の謝恩会で歌った「宣教師たちの送別の歌」Départ des Missionnaires (Musique de Ch. Gounod)を愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介するのをお許しください。

 私たちが日本語の訳を替え歌で作りました。もともとは、パリ外国宣教会で歌われたものです。

Départ des Missionnaires
宣教師たちの送別の歌

(Paroles de Ch. Dallet, Miss. Apost.)
(Musique de Ch. Gounod)



REFRAIN(折り返し):

発てこの世でいざさらば、
主の御名ひろく告げよ。
あまつくににてわれらまみえん、
ともよさらば。

(1.)
発てふくいんのさき駆けよ、
きょうぞちかいの日なる。
なにねつ情をさまたげん。
発てさいわいなるもの。

そのあしこそうるわしく、
われらもくちづけせん。
そのうるわしきあしもて、
地の果てにあゆめ。

REFRAIN(折り返し):

発てこの世でいざさらば、
主の御名ひろく告げよ。
あまつくににてわれらまみえん、
ともよさらば。

(2.)

たみにむけ歩をすすめよ、
やみにしずむたみらは、
まことなる主ものぞみも、
なきじごくのくるしみ。

主のへいしよこの地こそ、
なべてそのこえぞきけ。
ひろめよ主のみひかりを、
じゅうじかのみはた。

REFRAIN(折り返し):

発てこの世でいざさらば、
主の御名ひろく告げよ。
あまつくににてわれらまみえん、
ともよさらば。

(3.)

われらもとものあと追わん、
れいこんすくわんため、
地の果てまですすみゆき、
いざおしえ死にゆかん。

主のきたりたもうその日、
われらのねがいをきき、
われらのわざの実みとめ、
われらかたせたもう。

REFRAIN(折り返し):

発てこの世でいざさらば、
主の御名ひろく告げよ。
あまつくににてわれらまみえん、
ともよさらば。

(4.)

発つともわれらきょうだい、
日ごとわれらとりなし、
いのりにてひとつとなり、
主においてひとつならん。

イエズスよわれらの主よ、
われらをまもりたまえ。
こころをすべてをささげん、
いきても死しても。

REFRAIN(折り返し):

発てこの世でいざさらば、
主の御名ひろく告げよ。
あまつくににてわれらまみえん、
ともよさらば。

【フランス語】

REFRAIN(折り返し):

Partez, amis, adieu pour cette vie,
Portez au loin le nom de notre Dieu ;
Nous nous retrouverons un jour dans la patrie,
Adieu, frères, adieu !

(1.)

Partez, hérauts de la bonne nouvelle,
Voici le jour appelé par vos vœux ;
Rien désormais n'enchaîne votre zèle,
Partez, amis, que vous êtes heureux !
Oh ! qu'ils sont beaux vos pieds, missionnaires !
Nous les baisons avec un saint transport,
Oh ! qu'ils sont beaux sur ces lointaines terres
Où règnet l'erreur et la mort !


REFRAIN(折り返し):

Partez, amis, adieu pour cette vie,
Portez au loin le nom de notre Dieu ;
Nous nous retrouverons un jour dans la patrie,
Adieu, frères, adieu !

(2.)

Hâtez vos pas vers ces peuples immenses ;
Ils sont plongés dans u– ne froide nuit,
sans vérité, sans Dieu, sans espérances ;
Infortunés ! l'enfer les engloutit.
Soldats du Christ! soumettez lui la terre,
Que tous les lieux entendent votre voix,
Portez partout la divine lumière,
Partout l'étendard de la croix !


REFRAIN(折り返し):

Partez, amis, adieu pour cette vie,
Portez au loin le nom de notre Dieu ;
Nous nous retrouverons un jour dans la patrie,
Adieu, frères, adieu !

(3.)

Bientôt, bientôt nous courrons sur vos traces,
cherchant partout une âme à convertir ;
Nous franchirons ces immences espaces,
Et nous irons tous prêcher et mourir.
Oh ! le beau jour, quand le Roi des Apôtres
Viendra combler le désir de nos cœurs,
Récompenser vos travaux et les nôtres
Et nous proclamer tous vainqueurs.

REFRAIN(折り返し):

Partez, amis, adieu pour cette vie,
Portez au loin le nom de notre Dieu ;
Nous nous retrouverons un jour dans la patrie,
Adieu, frères, adieu !

(4.)

En nous quittant vous demeurez nos frères,
Pensez à nous, devant Dieu, chaque jour ;
Restons unis par de saintes prières,
Restons unis dans son divin amour.
O Dieu Jésus! notre roi, notre maître,
Protégez nous, veillez sur notre sort,
À vous nos cœurs, notre sang, tout notre être,
À vous, à la vie, à la mort.

REFRAIN(折り返し):

Partez, amis, adieu pour cette vie,
Portez au loin le nom de notre Dieu ;
Nous nous retrouverons un jour dans la patrie,
Adieu, frères, adieu !

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REFRAIN(折り返し):

[フランス語]
[フランス語(振り仮名)]
[日本語]

Par- tez, a- mis, a- dieu pour cet- te vi- e,
パル テ ア ミ ア デュ プル セッ トゥ ヴィ ユ
発 て こ の 世 で い ざ さ ら ば、

Por- tez au loin le nom de no- tre Dieu ;
パル テ オ ルワン ル ノン ドゥ ノ トル デュ
主 の 御 名 ひ ろ く 告 げ よ。

Nous nous re- trou- ve- rons un jour dans la pa- tri- e,
ヌ ヌ ル トゥル ヴ ロン アン ジュル ダン ラ パ トゥリ ユ
あ ま つ く に に て わ れ ら ま み えん、

A- dieu, frè- res, a- dieu !
ア デュ フレ ル ア デュ
と も よ さ ら ば。

(1.)

Par- tez, hér- auts de la bon- ne nou- vel- le,
発 て ふ く いん の さ き 駆 け よ、
Voi- ci le jour ap- pe- lé par vos vœux ;
きょ う ぞ ち か い の 日 な る。
Rien dé- sor- mais n'en- chaî- ne vo- tre zè- le,
な に ね つ 情 を さ ま た げ ん。
Par- tez, a- mis, que vous ê- tes heu- reux !
発 て さ い わ い な る も の。

Oh ! qu'ils sont beaux vos pieds, mis- si- on- nai- res !
そ の あ し こ そ う る わ し く、
Nous les bai- sons av- ec un saint tran- sport,
わ れ ら も く ち づ け せ ん。
Oh ! qu'ils sont beaux sur ces loin- tai- nes ter- res
そ の う る わ し き あ し も て、
Où rè- gnet l'er- reur et la mort !
地 の 果 て に あ ゆ め。

REFRAIN(折り返し):

Par- tez, a- mis, a- dieu pour cet- te vi- e,
パル テ ア ミ ア デュ プル セッ トゥ ヴィ ユ
発 て こ の 世 で い ざ さ ら ば、
Por- tez au loin le nom de no- tre Dieu ;
パル テ オ ルワン ル ノン ドゥ ノ トル デュ
主 の 御 名 ひ ろ く 告 げ よ。
Nous nous re- trou- ve- rons un jour dans la pa- tri- e,
ヌ ヌ ル トゥル ヴ ロン アン ジュル ダン ラ パ トゥリ ユ
あ ま つ く に に て わ れ ら ま み えん、
A- dieu, frè- res, a- dieu !
ア デュ フレ ル ア デュ
と も よ さ ら ば。

(2.)

Hâ- tez vos pas vers ces peu- ples im- men- ses ;
た み に む け 歩 を す す め よ、
Ils sont plon- gés dans u– ne froi- de nuit,
や み に し ず む た み ら は、
sans vé- ri- té, sans Dieu, sans es- pé- ran- ces ;
ま こ と な る 主 も の ぞ み も、
In- for- tu- nés ! l'en- fer les en- glou- tit.
な き じ ご く の く る し み。

Sol- dats du Christ! sou- met- tez lui la ter- re,
主 の へ い し よ こ の 地 こ そ、
Que tous les lieux en- ten- dent vo- tre voix,
な べ て そ の こ え ぞ き け。
Por- tez par- tout la di- vi- ne lu- miè- re,
ひ ろ め よ 主 の み ひ か り を、
Par- tout l'é- ten- dard de la croix !
じゅ う じ か の み は た。

REFRAIN(折り返し):

Par- tez, a- mis, a- dieu pour cet- te vi- e,
パル テ ア ミ ア デュ プル セッ トゥ ヴィ ユ
発 て こ の 世 で い ざ さ ら ば、
Por- tez au loin le nom de no- tre Dieu ;
パル テ オ ルワン ル ノン ドゥ ノ トル デュ
主 の 御 名 ひ ろ く 告 げ よ。
Nous nous re- trou- ve- rons un jour dans la pa- tri- e,
ヌ ヌ ル トゥル ヴ ロン アン ジュル ダン ラ パ トゥリ ユ
あ ま つ く に に て わ れ ら ま み えん、
A- dieu, frè- res, a- dieu !
ア デュ フレ ル ア デュ
と も よ さ ら ば。

(3.)

Bien- tôt, bien- tôt nous cour- rons sur vos tra- ces,
わ れ ら も と も の あ と 追 わん、
cher- chant par- tout une âme à con- ver- tir ;
れ い こ ん す く わ ん た め、
Nous fran- chi- rons ces im- men- ces es- pa- ces,
地 の 果 て ま で す す み ゆ き、
Et nous i- rons tous prê- cher et mou- rir.
い ざ お し え 死 に ゆ か ん。

Oh ! le beau jour, quand le Roi des A- pô- tres
主 の き た り た も う そ の 日、
Vien- dra com- bler le dé- sir de nos cœurs,
わ れ ら の ね が い を き き、
Ré- com- pen- ser vos tra- vaux et les nô- tres
わ れ ら の わ ざ の 実 み と め、
Et nous pro- cla- mer tous vain- queurs.
わ れ ら か た せ た もう。

REFRAIN(折り返し):

Par- tez, a- mis, a- dieu pour cet- te vi- e,
パル テ ア ミ ア デュ プル セッ トゥ ヴィ ユ
発 て こ の 世 で い ざ さ ら ば、
Por- tez au loin le nom de no- tre Dieu ;
パル テ オ ルワン ル ノン ドゥ ノ トル デュ
主 の 御 名 ひ ろ く 告 げ よ。
Nous nous re- trou- ve- rons un jour dans la pa- tri- e,
ヌ ヌ ル トゥル ヴ ロン アン ジュル ダン ラ パ トゥリ ユ
あ ま つ く に に て わ れ ら ま み えん、
A- dieu, frè- res, a- dieu !
ア デュ フレ ル ア デュ
と も よ さ ら ば。

(4.)

En nous quit- tant vous de- meu- rez nos frè- res,
発 つ と も わ れ ら きょ う だ い、
Pen- sez à nous, de- vant Dieu, cha- que jour ;
日 ご と わ れ ら と り な し、
Res- tons u- nis par de sain- tes pri- è- res,
い の り に て ひ と つ と な り、
Res- tons u- nis dans son di- vin a- mour.
主 に お い て ひ と つ な らん。

O Dieu Jé- sus! no- tre roi, no- tre maî- tre,
イ エ ズ ス よ わ れ ら の 主 よ、
Pro- té- gez nous, veil- lez sur no- tre sort,
わ れ ら を ま も り た ま え。
À vous nos cœurs, no- tre sang, tout notre ê- tre,
こ こ ろ を す べ て を さ さ げん、
À vous, à la vie, à la mort.
い き て も 死 し て も。

REFRAIN(折り返し):

Par- tez, a- mis, a- dieu pour cet- te vi- e,
パル テ ア ミ ア デュ プル セッ トゥ ヴィ ユ
発 て こ の 世 で い ざ さ ら ば、
Por- tez au loin le nom de no- tre Dieu ;
パル テ オ ルワン ル ノン ドゥ ノ トル デュ
主 の 御 名 ひ ろ く 告 げ よ。
Nous nous re- trou- ve- rons un jour dans la pa- tri- e,
ヌ ヌ ル トゥル ヴ ロン アン ジュル ダン ラ パ トゥリ ユ
あ ま つ く に に て わ れ ら ま み えん、
A- dieu, frè- res, a- dieu !
ア デュ フレ ル ア デュ
と も よ さ ら ば。

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フランス語の直訳:(小野田神父訳)

リフレイン
発て、友よ、この世においてさらば。
彼方へ我らの天主の聖名をもたらしたまえ。
我らは、いつの日か、天の故国にて会いまみえん。
さらば、兄弟よ、さらば。

(1)
発て、福き音ずれの先駆けよ、
見よ、君たちの誓願によって呼ばれた日だ。
君たちの熱心を妨げるものはもはや何もない。
発て、友よ、なんと君たちは幸せなことか、
おお、君たちの宣教する者らの足はなんと美しいことか!
我らは聖なる高揚をもってその足に接吻をする。
おお、誤謬と死とが支配しているこれらの遥かなる地の上で、
その足は、なんと美しいことか!

リフレイン
発て、友よ、この世においてさらば。
彼方へ我らの天主の聖名をもたらしたまえ。
我らは、いつの日か、天の故国にて会いまみえん。
さらば、兄弟よ、さらば。

(4)
我らのもとを去るとも、君たちはいつも我らの兄弟だ。
毎日天主の御前で我らのことを思い出せ。
聖なる祈りにおいて一致していよう。
天主の愛において一致していよう。
おお、天主なるイエズスよ、われらの王、われらの師よ、
我らを守り給え、われらの道のりを保護し給え、
我らの心を、われらの血潮を、われらの全存在を、御身に、
全生涯、死に至るまで、御身に与えん。

リフレイン
発て、友よ、この世においてさらば。
彼方へ我らの天主の聖名をもたらしたまえ。
我らは、いつの日か、天の故国にて会いまみえん。
さらば、兄弟よ、さらば。






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「2017年のクリスマスの説教」:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

2017年12月27日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様の「2017年のクリスマスの説教」の日本語訳をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2017年のクリスマスの説教 東京・大阪


親愛なる兄弟の皆さん、

「来れ、主をおがみ奉らん!」。きょう、「天主は、その御独り子を与え給うほどこの世を愛され」、「きょう、ダヴィドの町で、私たちのために救い主が生まれ給うた、すなわち主キリスト」です。私たちは、「布に包まれてまぐさおけに寝ているみどり児を見る」でしょう、なぜなら、彼の「肉はまことの食べ物であり、彼の血はまことの飲み物」であるからです。

聖ベルナルドは正しくこう言います。天主はまず、童貞聖マリアに御子を与えられ、そのあと聖母を通して私たちに御子を与えられた、と。私たちがイエズスを見いだしたいと望むなら、まず祝されし童貞を見いだし、聖母を通してイエズスを見いだすのです。これは、羊飼いたちが行ったことです。「彼らはマリアとヨゼフとまぐさおけに寝かされたみどり児を見に行った」(ルカ2章16節)。福音書にある順番に気を付けてください。彼らはまずマリア様を見いだし、そのあと幼子イエズスを見いだしたのです。

ああマリアよ! ああ聖なる天主の御母よ、私たちが熱心に探し求めている御身のイエズスをお与えください! 私たちにはイエズスが必要なのです! 罪にまみれた私たちのこの世は、救い主が必要なのです。彼だけが「罪から民を救う」(マテオ1章21章)のですから。彼だけがそれを行うことができます。なぜなら、彼だけが聖であり、彼だけが主であり、彼だけがいと高き御者、キリストなるイエズスだからです! でも、彼の近くに行けるのは誰でしょうか? 「履物を脱げ、おまえが立っているところは聖なる地だからである」(脱出[出エジプト]3章5節)。

しかし、ああマリアよ、御身は完全に清らかであり、「童貞中の童貞」、汚れなき童貞、受胎のときから汚れなき御者です! 御身は「野の花であり、谷間の百合」(雅歌2章1節)です。ですから、御身のいとも清らかなご胎内に、聖霊が天主の御子を、「イスラエルの聖なる御者」(イザヤ12章6節)を宿し給い、きょう、御身は主を私たちにお与えになるのです、ああキリストの御母よ! 主は「われらのいのち」(コロサイ3章4節)であり、それは私たちにイエズスをお与えになることによって、御身が私たちにいのちを与え、また私たちの母、教会の御母となられるためでした!

マリアを通して私たちにイエズスをお与えになることによって、やはりマリアを通して「天主は御子とともに他のすべてを私たちに下さらないはずがあろうか」。「私たちはその満ちあふれるところから恩寵に次ぐ恩寵を受けた」のです。そして、聖母は天主の聖寵の御母となられたのです。ああいと潔き御母よ、私たちに清さの恩寵をお与えください! ああいと操正しき御母よ、私たちに操正しき恩寵をお与えください! 私たちが、「ご胎内の祝されし実」であるイエズスを、聖体拝領においてふさわしい方法で受けることができますように。

しかし、御身の清さは他の誰をもはるかに超えています。御身だけが童貞かつ母であり、「終生童貞なる御母、きずなき御母」であり、主のご誕生前も、ご誕生中も、ご誕生後も、永遠に童貞なのです! すべての母が御身の清さを称賛し、すべての童貞が御身の生む力を称賛し、すべての母および童貞が、まことに偉大で唯一の賜物の真っただ中にまします御身の謙遜を称賛します、愛すべき御母よ、感ずべき御母よ!

ああ祝されしヨゼフよ、天主は御身に二つの最も偉大なる宝、御独り子とその御母をお委ねになりました! ヨゼフは黙想の人でした。聖福音はヨゼフの言葉を一言も引用していません。彼はイエズスを沈黙のうちに崇めておられます。彼はマリアを沈黙のうちに崇めておられます。彼はイエズスを沈黙のうちに「心を尽くし、霊魂を尽くし、力を尽くし、精神を尽くして」愛しておられます。聖福音は、まぐさおけにおけるお言葉についてはまったく語りません。そこには、沈黙のうちに、天主の知恵への感謝に包まれた心をもった、愛を込めた礼拝と感謝があるのみです。罪深い人類の心を引き寄せるために、天主の御子は御自ら小さな赤ん坊になられ、そうすることで私たちの愛を引き寄せようとなさったのです。言葉なしに、聖母は指を口に付けて、この沈黙というルールを私たちにお示しになります。幼子は眠ったままにして差し上げましょう! ああ善き勧めを賜う御母よ、私たちにどう祈るべきかを教えてください。

祈りは信仰のわざによって始まります。私たちは、この幼子が「いと高き御者の御子」、「万物を創った」み言葉であることを信じています。ああマリアよ、御身は「創造主の御母」です! しかし、さらに素晴らしいことには、創造主は「救世主」であり、「救いは主以外の者によっては得られません。この世において、われわれの救われる名はそのほかにはないからです」。それゆえに、御身は「救世主の御母」なのです! われらのために主に祈り給え! 主がいなければ、私たちの救いはありません。

なぜなら、私たちは愚かで、罪の道に従っていたからです。「なぜなら、私たちは天主として崇めず感謝せず、虚しく思いにふけり、私たちの愚かな心はくらんだ。私たちは自ら知者と称して愚かな者となった」からです。私たちには救世主が必要です。傲慢が私たちを迷わせているのです。主の謙遜が私たちを救うのです。ああいとも賢明なる童貞よ、御身はこれを、そして謙遜がすべての聖徳の基礎であることをご理解なさいました。御身は天主の御母として選ばれましたが、御身はご自分を「主のつかいめ」としてお捧げになりました。そして主はこれを非常にお喜びになりました。「主が御召し使いのいやしきを顧み給いなればなり。見よ、今よりよろず世に至るまで、ひとわれを幸いなる者ととなえん」。敬うべき童貞よ、誉むべき童貞よ! まことに「自ら高ぶる者は下げられ、自らへりくだる者は上げられる」のですから。

クリスマスはまことに、謙遜な者のための、小さき者のための、貧しい者、捨てられた者のための祝日です。天主は彼らをお見捨てにはなりませんでした。彼らのうちの一人になり給うたのですから! この貧しく小さな赤ん坊は、天使たちの主であり、全能の天主です! 自ら謙遜である人々を救うあらゆる力をお持ちです。「彼を受け入れた人々にはみな天主の子となれる力を授けた。その御名を信じる人々である」。彼らは罪に対して強く「いいえ」と言い、サタンとそのすべてのわざ、そのすべての栄華を捨てる必要があります。これによって、「力ある童貞」なるマリアの子どもとして、ヘビの頭を踏み砕くのです。罪を犯すのをサタンが簡単なことにさせている現代世界においては特に、罪と悪魔の欺きに対して、強く意識した「いいえ」が必要です。

しかし、過去の罪に対する赦し、あわれみも必要です。なぜなら、「すべての人は罪を犯して、天主の光栄を奪い去られた」からです。ああマリアよ、御身だけが、非常に特別な特権によって、すべての罪から免れておられました。御身について、天主である花婿が雅歌を歌います。「ああ愛する者よ、あなたはすべてが美しく、何の汚れもない」(雅歌4章7節)。でも、御身は罪を犯されませんでしたが、罪びとを軽蔑なさらず、むしろあわれみの御母、寛仁なる童貞でいらっしゃいます。罪びとを罪を犯すままにさせるという偽りのあわれみではなく、罪びとを罪から助け、悔悛と忠実というまことの生活を始めさせるという、まことのあわれみです、信実なる童貞よ! 御身は、その天主に対する忠実の最上の模範です。御身は最も小さな罪をも犯さず、小罪の一つさえも決して犯しませんでした。私たちが忠実でおられるようにお助けください!

私たちは御身が律法に従っておられるのを見ます。特に、クリスマスののちの数日の間の幼子の割礼と神殿への奉献によって、そしてお潔めによって。幼子イエズスは無垢であったがゆえに割礼を受ける必要はなく、御身もお潔めが必要ではありませんでした。モーゼは、母親の不浄というこの律法から御身を免除する特別な条項を定めました。彼はこう言いました。「女が種を受けて男の子を生めば、不浄になる」。これは明らかに、聖霊の働きによって受胎した御身には当てはまりませんでした。でも、御身の周りの多くの人々は、御身に対する聖霊の驚くべきみわざを知らなかったのですから、従順の模範を示すために、御身はこのお潔めという律法に従われたのです、正義の鑑みよ。私たちが常に御身の模範に従うことができますように!

御身において、玉座の上のように、私たちは天主の上智である幼子イエズスを見いだします。多くの美しいご像が、御身をこの「上智の座」としています。私たちに、御身の膝の上に座っておられる天主の上智であるイエズスを見いださせ給え! 三人の賢者が御身を見いだして、「その家に入って、子どもが母のマリアと一緒にいられるのを見た。彼らはひれ伏して礼拝し、宝箱を開いて、黄金と乳香と没薬の贈り物を献上した」。彼らは星を見て喜びました。御身は、「正義の太陽」の到来を告知する私たちの暁の星であり、御身を見て、私たちは賢者たちとともに喜ぶのです、われらが喜びの源よ!

異端者たちは御身を愛しません。なぜなら、彼らは外的な不思議を探し求めているのであり、御身の地上での謙遜な生活においては、見るべきものはほとんどなかったからです。童貞の受胎という不思議は世の人々の目から隠されていたのであり、彼らの多くは御身の終生童貞さえも拒否しているのです。彼らは、奉献された童貞の美しさを理解しません。御身がそのあとに続くすべての人々のための、 奉献された童貞の最初の模範にして手本なのです。なぜなら、この美しさは内的なものだからです。「童貞は、体と心を聖とするために主のことを気遣う」。でも、聖霊はこう告知なさいました。「王の娘の栄光はすべてその内にある」。これは霊的な美しさです、霊妙なる器よ。ああマリアよ、教会は御身に対してこう歌います。「ああ祝されしマリア、天主の御母、永遠の童貞、主の神殿、聖霊の聖所よ!」。私たちに、この内的な生活を、この霊的な生活を愛することを教え給え、崇むべき器よ。まことの聖徳はすべて、この内的な信心に、私たちのうちにおられるキリストの内的ないのちに基づいています。もし聖パウロが「私は生きているが、もう私ではなく、キリストが私のうちに生き給うのである」と言うことができるとすれば、御身の場合はいったいどれほどもっとそれがあてはまるでしょうか、信心のすぐれたる器よ!

シャルトル大聖堂の正門にあるご降誕の場面は、幼子イエズスを祭壇の上に寝させた状態で示しています。主は実際、「天主の小羊」であり、「キリストは世に入るときに、『御身は犠牲も供え物も望まれず、ただ私のために体を準備された』と言われ」、御体と御血の奉献が旧約の犠牲に取って代わるようにされたのです。「こうして後のものを立て、先のものを除かれた」。ですから、クリスマスは犠牲のいけにえの準備なのです。また、ご復活の準備でもあります。ですから、聖パウロはこう言うことができました。「私たちはあなたたちに告げます。祖先にされた約束を、天主は彼らの子孫である私たちのために果たされ、イエズスを復活させられました。詩篇第二篇にも『あなたは私の子である。私はきょうあなたを生んだ』と書かれている通りです」。これは、喜びの玄義、苦しみの玄義、栄えの玄義の密接な結びつきのことであり、白いバラ、赤いバラ、金のバラで象徴されています、くすしきバラの花よ! 「小川の流れに植えたバラのように芽吹けよ」。

クリスマスは、旧約の非常に多くの預言がついに成就したということです。ついに、諸国の民が服従するお方が来られたのです。太祖ヨゼフが預言したように、「ユダから杖は奪われず、彼の足の間から、指揮の杖は取られることがない。杖のもとの持ち主であるお方が来られるまで、諸国の民はみな、そのお方に服従する」。また、預言者ハガイがこう言います。「『私は異国の民を揺り動かし、すべての異国の民の宝を寄せ集め、この家を光栄で覆う』と、万軍の主は仰せられる」。そして主は、ああマリアよ、御身を通して来られたのです。それゆえに、雅歌は御身に対してこう歌います。「御身の首は、象牙の塔、…御身の首は、砦としてつくられたダヴィドの塔のようだ。そこには、千個の円盾(まるたて)、勇士たちの盾が掛け連ねてある」。勇士たちの盾は、神秘的な花嫁の首飾りにある宝石に例えられます。なぜなら、花嫁は勇士たちが信じたお方、勇士たちが待ち望んだお方を生むからです。勇士たちの力は、来るべき救世主へのその信仰から来るのです。

九か月の間、御身はまことの契約の櫃でした。御身において新しいマンナを保ち、ご托身のみ言葉の聖所、ただ御身のみキリストの御体を納めるにふさわしい黄金の堂であられたのです。主は、エゼキエルによって預言された天の門を通してのように、御身を通して私たちのところに来られました。「この門は閉じていなければならぬ。開くことはない。誰も、ここを通ってはならぬ。ここはイスラエルの天主、主が入られたところだからである。だから閉じていなければならぬ」。これらの言葉によって、エゼキエルは御身の終生童貞を預言したのです。

御身は御手に、私たちのすべての病気のための天主の治療薬をお持ちです。それは御身の聖なる幼子、私たちの主イエズス・キリストです! それゆえに、私たちは弱さを感じるとき、御身のところに行きます、病人の快復よ、特に、過去の罪とそのすべての結果という霊魂の弱さのあるときに。御身は罪びとの拠り所です。私は、御身が主の聖心を私たちに対して開いてくださるのではなく、むしろ私たちの心を主に対して開いてくださると言います。主の聖心は常に私たちに対して開かれていますが、私たちの心は非常に頻繁に閉じており、私たちの耳は閉じており、私たちの悪しき意志は素直ではありません。私たちの霊魂の扉はベトレヘムの宿屋のようです。しかし、私たちは御身のところに行き、主は御身に、私たちの心を和らげる驚くべき方法をお与えになり、私たちの心を主の恩寵に対して謙遜かつ従順にしてくださるのです。無垢で清らかで私たちの罪のために冬の寒さで苦しんでいる御身にお会いするとき、私たちは、もはや悔悛するのを拒否しません。

この寒い夜にやって来た貧しい羊飼いたちのように、彼らにイエズスを与えることによって、御身は彼らを慰められました。「御身は御民に対しては天使の食べ物を与えられ、労苦しないでもパンを降ろされた。それはあらゆる楽しみのもととなり、あらゆる味覚を満たすものだった」。ああ憂き人の慰めよ! 新しいエバ、新しいアダムの助け手として、御身は禁じられた実を食べるよう私たちにお与えになることはなく、いのちの木の実、すなわち十字架の実であるイエズスをお与えになります。これが、私たちが待ち望んでいる実であり、私たちは御身の嘆願を聞きます。「私のところに来なさい、私に願うあなたたち、私の実によって飽かされたいあなたたちよ」。

「御身を頼みとする者は幸せ。彼らは涙の谷を通り、一歩ずつ登る気持ちを固めていく」。ですから、この涙の谷において、私たちは御身に依り頼むのです。なぜなら、御身は、キリスト信者の助け、絶えざる御助けの御母であって、常に私たちが御子を見いだすように助けてくださるよう、私たちのために絶え間のない祈りをすることによって、準備なさっているのですから。

御身はこの小さなまぐさおけにおいて非常に謙遜でいらっしゃいますが、天使ガブリエルから、聖寵充ち満てる、と非常に敬意を込めたあいさつをお受けになりました。天使の元后よ、天使たちは御身の子どもである私たちを見まもっているように、御身を見まもっていたのです。すでに旧約において、すべての太祖と預言者は、御子の来臨を待ち望み、この世に救世主を与えるこの祝せられし夜を待ち望んでいました。太祖の元后、預言者の元后よ!

のちに、使徒たちは御身の周りに集まって祈り、御身は彼らにクリスマスについてお教えになるのです。そうでなければ、聖マテオと聖ルカは、最初の二つの章を、どのようにして書くことができたでしょうか? 私たちを、彼らの教えに忠実にさせ給え、ああ使徒の元后よ!

シメオンが「Nunc dimittis(主よ、今こそ…)」を歌い、御身の霊魂が槍で刺し貫かれることを告知したあと、ああ殉教者の元后よ、女預言者アンナは「時が来て、主に告白し、エルザレムの贖いを待ち望んでいる人々に、その子のことを話した」。私たちの生活全般において、すべての人に主のことを話し、主なる御子に対する私たちの信仰を告白する勇気を得られるよう、その同じ恩寵を私たちのためにも取り成し給え、ああ証聖者の元后よ! そして、御身の清さという美しい模範が、多くの人々を御身に倣わせ、かつ主に童貞を奉献する霊感を与えますように、ああ童貞者の元后よ!

この祝されし日がやって来るとき、諸聖人は御子イエズスの御前に集まって永遠に感謝の賛歌を歌います。その感謝は、私たちを贖うためのご来臨という主のあわれみへの感謝ですが、また主が私たちのところへ御身を通して来られたという御身への感謝でもあります、ああ諸聖人の元后よ! 無原罪の御宿りから被昇天まで、御身は完全に主にお仕えになりました、ああ主のつかいめよ。天国と永遠の平安への道において、聖なるロザリオの忠実な黙想を通して、私たちをこれに倣わせるよう取り成し給え、ああ平和の元后よ!

私たちが御母の腕の中の幼子イエズスを黙想し、彼らを愛し、彼らに忠実に仕えることができるよう、聖ヨゼフがその目と心を私たちに与えてくださり、そうすることで、彼らとともに天国で永遠に喜ぶことができますように。アーメン!
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「聖骸布についての講話」:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

2017年12月26日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様の霊的講話 「聖骸布について」の日本語訳をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖骸布についての講話 – 2017年12月24日東京において


親愛なる兄弟のみなさん

この講話について申し訳なく思っていることがあります。まず、私がみなさんの言葉ができないこと、第二は、私が、[これまで働いてきた]アジアから新しい赴任先であるオーストラリアに引っ越す途中のため、私の持っている聖骸布に関する書類の多くが荷物の中に入ってしまっていて、この講話の内容を記憶に頼って準備せざるをえなかったことです。ですから、欠けていることも、不正確なところもあるでしょうが、お許しください。私にできる範囲で一番良い情報をお伝えするようにいたします。


1/ この聖骸布の複製について


聖骸布は長さ4.4メートル、幅1.1メートルの一枚の長い布で、現在は[イタリアの]トリノに保管されています。

教会はこの布を崇敬し、私たちの主イエズスキリストの埋葬に使われた布であることを認めてきました。これは教会によって定義された教義ではありませんが、教会がこの布を何世紀にもわたって信者の崇敬のために公開してきていますから、その大きな重要性を実質的に認めていることになります。懐疑的な人たちはこの事実を疑ってきましたが、その人たちの立場を支持するようなしっかりとした根拠はこれまでにありません。むしろ反対に、これが本物であるという立場を支持するしっかりとした根拠が沢山存在します。

皆さんのうちで、何人の方が実物をご覧になったことがあるでしょうか?

このような布は世界でも類を見ないもので、かけがえのないものです。ですから、トリノで注意深く保管されており、日本や韓国に来るということは実質上あり得ないでしょう。ですから、もしこの聖骸布が展示されていた時に(それも滅多にないことなのですが)、お恵みによってトリノに行くことができたのでなければ、ここにあるのがそれに次ぐ最善のものなのです。これは聖骸布の実寸の複製で、そこには聖骸布の実寸のネガティブ(白黒反転画像)が示されているのです。

この複製は、2002年に布から継ぎ当てを外し(このことについては後ほどお話しします)、その後保護のために不活性ガスの中に密封する前に、大変正確な電子スキャンにかけられたものを元に作られています。このような複製はコンピューターのデータファイルから作られており、解像度も非常に優れています。ネガティブの画像も、同じコンピューターのデータファイルから、電子的画像処理によって作られています。画像はプラスチックのフィルムに印刷され、このような複製の布の上に貼られています。この講話の後、もっと近くによってご覧になれば、この画像の正確なことが見て頂けると思います。画像は大変素晴らしいものです。


2/ 視覚的分析


実物を見る人が最初に驚くのは・・・この像を見るのは相当難しいということです。このような複製の方が実物よりも見やすいのですが、それは像のコントラストがコンピューター処理によっていくらか、よりはっきりしているからです。

これを見てまず最初に気付くことは、これらのいくつかの三角の形です。これらは実際実物にある穴ですが、それは1532年12月4日、[現在のフランスの]シャンベリーというところで起こった火災によるものです。善いシスター達がこの布に継ぎ当てで補修をして、その継ぎ当ては2002年まで残っていました。 昔の聖骸布の絵の多くにはこの継ぎ当てが描かれています。この複製は、これらの継ぎ当てを外したあとに作成されたものです。聖骸布は48折に折られていたので、どれが火に当たった折り面だったか、そして内側の折り面より上の折り面の方がもっと損傷したことがわかります。溶けた銀の一部が角に落ち、穴が開きました。またこれらの大きな三角の形も見えますが、これは火を消そうとしてかけた水の跡です。これら以外にも穴が開いていますが、それらの穴はこの火事より古いものです。(これらの穴はこの火事の時の48折には合致しませんし、また12世紀のプレイ写本にも見ることができます。)

これらすべての歴史的な出来事を忘れても、この布には死んだ男のしるしがついていることがわかります。この布は石の上に置かれ、亡くなった人の背面がその上に置かれ、布は頭から上に折られ、体全体を覆いました。

顔、胸、腕、両手、両足のしるしが両側についているのがわかります。

そしてこの男は重傷を負っていました。特に両肩に、また両腕や両足にまでも鞭打ちの跡があるのがわかります。手首と両足には釘の跡があり、それらの箇所から血が流れ、脇腹には刺した槍の跡と多量の血、おでこと後頭部には茨の跡があるのもわかります。

よく観察してみると、肩に重量物(十字架です)の跡があるのもわかります。鼻の近くの頬に殴られたあとがあります。(聖ヨハネがこれについて書いています。大祭司の部下が私たちの主イエズスキリストの顔を強く打った、と。)

さて、十字架刑はローマ人がよく行なったものですが、これらすべての傷が一緒にあるというのは大変稀なことになります。それには多くの理由があります。第一に、通常奴隷が死刑になったときは、その前に鞭打ちは行なわれませんでした。行なわれたのは鞭打ち刑か十字架刑のどちらかであって、両方行なわれたのは稀でした。キリストの場合、ピラトが鞭打ちを行なわせたのは、十字架刑を免れさせるためでした。ピラトはファリザイ人達の憎しみを満足させようとして、そのためには鞭打ちで十分だろうと思ったのです。しかしそれでもファリザイ人達はイエズスの死を求めたのでした。

更に、茨の冠は例外的なものです。私はローマ時代においてこれ以外の例を知りません。そして更に、十字架刑になった人は通常両足を折られました。(十字架刑を受けて両足を折られた人の骨が何例か発見されています。)しかし、この人の両足は折られず、代わりに脇腹に槍が刺されています。

またそれに加えて、悪い奴隷の罰として、普通遺体は十字架刑の後、穴に投げ入れられたのであって、高価な布に包まれて丁寧に埋葬されたのでありません!

これらのことすべてを考え合わせると、これら全部の傷に該当する例は、私たちの主イエズス・キリストを除いて、他に歴史上に知られた例がないのです。これが、聖骸布が本物であることを支持する第一の重要な根拠です。


3/ 更なる視覚的分析:復活の証拠


重要なのは、私たちが見ることができるものだけではなく、私たちが見ることのできないものでもあります。実際、まず絵筆や塗料の跡を探すのですが、それは見つかりません。まったく見つけることができないのです。ですから、聖骸布は「人の手に依らぬイコン(像)」と呼ばれたイコンに非常によく合致します。このイコンは[現在のトルコにあった]エデッサに存在し、聖骸布の歴史のパズルの一部なのです。

第二に、聖骸布には腐敗の跡が見えません。さて、通常死者の骨があれば、その周りの肉や布は完全に腐敗している筈です。ここには骨がなく、布には腐敗がなく、布に置かれた体にも腐敗の跡がありません。これもまた驚くべきことです。

まだ、多くのエジプトのミイラには布が巻かれていましたが、体にしっかりと巻かれていたため布を剥がすことはほとんど不可能です。私たちが見ているのは、体なしの布であり、その布は体から完全に外されたものです。

第三に、血の跡の箇所は全て正確に残っており、血の塊にも、布にも、肉にも、全く剥がれた跡がないということです。この事実から、医師たちや看護師たちは、このことは復活によってのみ説明が付くとしました。体にこれほど多くの深い傷があり、そして釘の跡や胸にあいた穴のような相当大きな血の跡がこれほど多くあるのですから、このような傷に包帯を巻いたとしたら、三日後にその包帯を取るとしても何も剥がさずに取ることはできません。全く不可能なことです。

さて、体はこの布の中に三日間以上はありませんでした。そうでなければ、腐敗の跡があった筈です。更に、首を見てみると、後ろ側が伸びた状態になっており、前側ではほとんど見えません。十字架に付けられた人は息を引き取った時に首を前に倒し、そのあと体が仰向けに置かれたにも拘わらず、死後硬直によってその首は上がったままであった筈です。しかし三日経つと、腐敗が始まって死後硬直がなくなり、首は石の上に倒れかかった筈ですが、聖骸布ではそうなっていません。ですから、体はこの布の中に三日間以上はなかったということになります。そして、埋葬の三日後に、この体から何も剥がさずに布を取り去ることはできません。これを説明できるのは復活しかありません。これが、聖骸布が本物であることを支持する第二の重要な根拠です。


4/ 歴史


聖骸布の歴史はパズルのようで、いくつかのピースは欠けていますが、全体はとてもよく見渡すことができます。私たちの主イエズスキリストに対する偏見から、最も合理的な説明を拒否する人たちもいます。これ以外のことについてであればなんであれ、同様の説明が受け入れられるにも拘わらずです。実際、その歴史についてピースが欠けている有名な事物は他にも数多くあります。

a) 聖福音自体が私たちの主イエズスキリストの埋葬の布について語っています。マテオ、マルコ、ルカは「sindon(シンドン=覆い布)」という言葉を使っています。聖ヒエロニモはこの言葉をラテン語で書いていますが、それはギリシャ語(“σινδών”、シンドーン)、更にはヘブライ語(“‎סְדִינִ֔ים”、セディーニーム)を語源としており、サンスクリットにも共通の語源があります。この言葉は通常高価な素材から作られたきめ細かな布を指しています。例えば旧約聖書では、サムソンが結婚のために要求した布地(判事の書(士師記)14章12-13節)や、格言の書(箴言)で「彼女は、麻の織物を織って出し、カナアン人に帯を売る(格言の書(箴言)31章24節)」というところで、「すぐれた婦人」によって織られる織物を指すのに使われています。

さて、聖マテオの福音に非常に意味深い言葉があります。普通聖マテオは福音の出来事を要約して、いくつかの本質的な点だけを語ります。ところが、聖マテオがシンドン(覆い布)のことを語る時、こう言うのです。「屍をうけとったヨゼフは、それを清い覆布でつつみ(マテオ27章59節)」と。聖マルコはもっと詳細を語ります。「ヨゼフは亜麻布を買い、イエズスを十字架からおろし、亜麻布でつつみ、岩にほった墓におさめた。(マルコ15章46節)」と。さて、ここで、特にこの場にいらっしゃる善き女性の皆さんに言いたいことがあります。外に出かけて布を買う時に、汚れた布をお買いになりますか?そんなことはありません。もちろんです。ですから、聖マテオは「清い布」という言葉を使って意味のないことを言っているように思えます・・・ただし、それが復活の後、その布が清いものではなくなった、という意味で使っているのでなければ、です。この聖マテオの福音書にあるほんの一言が、復活後にその布についている印は全て、その布の中にあったキリストの埋葬された体による印であった、ということを間接的に示しているのです。

b) エデッサ:歴史上、次に聖骸布のことが言及されるのはエデッサの町です。歴史によると、エデッサには「人の手に依らぬイコン(像)」というものがありました。この表現は、いまトリノにあって私たちの知っている聖骸布と非常によく一致します。それはキリストのイメージ(像)であって、絵として描かれたしるしが人間の目で見つけられないばかりか、顕微鏡を使っても見つけられないからです!恐らく当時、聖骸布は折り畳まれ、美しい額に入れられて、一番上の折り面にある顔だけが見えていたのです。

また歴史によると、この「人の手に依らぬイコン(像)」は他の沢山のイコン(像)を描く際の見本とされたので、イコノグラフィー(図像学)の研究によれば、そのイコンの影響を見て取ることができるのです。この時代より前にはキリストを、髭のない、髪の短い、若いローマ人の男として描いた絵がいくつもありましたが、この後は、私たちの主を、聖骸布にあるように、より長い髪と髭を持った男として描いたものがまとめて存在するのです。またその「人の手に依らぬイコン(像)」から写したこれらのイコン(像)には、とても大きな目のような、奇妙な特徴があります。このことは、イコン(像)を描いた画家たちが、写真のネガティブの効果、つまり聖骸布の光と暗さの反転を理解できなかったということから簡単に説明が付きます。

さて、現在の聖骸布に、歴史上のこの時代と関連しているであろう部分を見ることができます。一番下を見て頂くと、下の隅二箇所に長方形が二つ欠けているように見えるところがあります。しかし、実際、こちら側全体にわたって長い継ぎ目も見ることができます。もう一つ布があって、聖骸布に縫い付けられているのです!聖骸布の折り目はこの継ぎ布を加えた新しい幅に合わせてあるので、この継ぎ布は後の時代のどの折り目よりも前から存在したことがわかります。この部分がいつ、何故付け加えられたかについての書かれた記録はありません。しかし、一番可能性の高い説明は・・・その布なしでは、顔が中心にならない、ということです。この布が加えられることによって、顔がちょうど聖骸布の左右の中央になり、エデッサで展示された美しい額にちょうど適したものになる、ということです。

ですからこのように、このイコン(像)が聖骸布であったということを認める三つの有力な根拠があります。1/ 「人の手に依らぬイコン(像)」という名前それ自体、2/ 図像学に対する影響、3/ 像を中心にするために聖骸布の片側に付け足された布、4/ また、後になって聖骸布から発見された、エデッサ地域からの花粉の存在(これについてはあとで述べます)も、これらに加えるべきでしょう。

エデッサにおいて、このような名前の下で聖骸布が存在したことを否定する人たちには、これをもっとはっきり記録した書面が存在しない、という以外の根拠はありません。さて、最初の議論が絶対的な証明であるとは言いませんが、まったくの沈黙よりはずっと強い根拠であることは確かなことです!

継ぎ布が足されたということ、それはおそらく顔の像を聖骸布の左右の中心にするためのものですが、それは聖骸布が本物であることの根拠の一つなのです。実際、大きなキャンバスの上に像を左右不対称に描いておいて、その像を再び左右対称にするためにキャンバスの一部を追加するような絵描きがいるでしょうか?更に、これは左右だけではなく、上下についても言えるのです。後ろ側の踵を見て下さい。布は足の端から数センチ先まで伸びています。ところが、前側のつま先を見て下さい。爪の印はどこにあるでしょうか・・・明らかに、爪は布でカバーされていなかったのです!このように長い像を両側で丁寧に描いて・・・足の先を入れないような絵描きがいるでしょうか?もし絵描きであれば、脚の長さを短くして体全体の像を示し、絵からつま先を外すようなことはしないでしょう!ですから、このように中心から少し外れている、ということは、聖骸布が偽物ではないことを証明する根拠なのです。

c) コンスタンチノープル その後、歴史的な証拠によると、キリストの埋葬の布は10世紀頃から12世紀の終わりごろまで、コンスタンチノープルにありました。944年にこの布はエデッサからコンスタンチノープルに移されました。ハギア・ソフィア大聖堂の大助祭グレゴリオが行なった説教には、布の上の全身像のことがはっきりと述べられています。皇后の宝物の一覧にもこの布が載っています。敬虔な騎士の証言によれば、1204年にコンスタンチノープルが陥落するまでは、毎金曜日に、とある教会でこれが公開されており、そこに好んで崇敬に訪れたとのことです。この騎士はまた、コンスタンチノープルの陥落の後には聖骸布はもう見られなくなったと書いています。

そしてまた、「プレイ写本」と呼ばれるものがあり、そこには、その写本の画家が私たちの知っている聖骸布を見たと言う事実を示す、いくつかの驚くべき要素があります。特にこの画家は、私たちの主イエズスキリストを、その視角からすれば親指が見えてよい筈であるにも拘わらず、両手共4本の指しかないように描きました。聖骸布では親指が他の指に隠れているので、見えないのです。聖骸布では親指が見えないので、この画家はキリストには親指がなかったと考えたかのようです!また聖骸布は、コンスタンチノープル陥落の後、皇帝が教皇に返還を要求した遺物の一覧に入っています。これで五つの歴史的な証明があり、歴史上の確認には十分すぎる程です。

騎士の証言と皇帝の証言によって、有名なコンスタンチノープル陥落の時に聖骸布が他の多数の遺物と共にコンスタンチノープルから盗み出されたと言う事実が確定します。ここで起こったことは、騎士達が皇帝からの十字軍への援助のなさに立腹したということです。これら全ての騎士達が、近隣国のイスラム教徒達がコンスタンチノープルを脅かしているのに対して、明らかに皇帝を支持していたにも拘わらず、皇帝は騎士達に全く援助を与えなかったのです。騎士達は間違った対応をして、コンスタンチノープルを陥落させてしまいました。皇帝は教皇に抗議しました。教皇はコンスタンチノープル陥落を厳しく非難して、盗み出した遺物を正しく返還するように命じました。しかし、多くの遺物は返還されませんでした。聖骸布もその一つです。

d) リレイ(フランス・シャンパーニュ地方) 1350年頃フランスで、聖骸布はある騎士の末裔の家族の下にその姿を見せました。その騎士の末裔達は聖骸布に巡礼をすることの許可を求めました。その許可は与えられ、取り消され、また再び与えられました。このように、約150年間の沈黙の期間があります。しかし、聖骸布が盗み出されたという事実に鑑みれば、これは非常に簡単に理解できることです。盗んだ者は聖骸布を返還することを望まず、彼の相続人達がもうその返還を要求されることを恐れなくなったとき、聖骸布を一般に公開し始めたのです。

今言ったように、この許可は一部の人々の反対により、一時的に禁じられました。そして、聖骸布を描いた画家を見つけた、とする司教の文書が、聖骸布は中世の偽物であるという証明としてしばしば提示されます。しかしこの文書自体、聖骸布には絵の具は全く存在しないことを疑いなく確認した現代の科学によって、その誤りが明らかにされました。ですから、聖骸布が本物であることを攻撃する文書それ自体が明らかに嘘なのですから、聖骸布の敵達はこのような嘘をどうして証明として提示することができるでしょうか?

e) シャンベリー 後に、サヴォワ公が聖骸布を手に入れたため、聖骸布はシャンベリーに運ばれました。ここで、1532年12月4日、保管されていた聖堂の火事にあったのです。その後、サヴォワ公はトリノに居を構え、聖骸布を自分の下に移すことを望みましたが、シャンベリーの司教座参事会員達がそのように貴重な遺物をシャンベリーから持ち出すことを許さなかったのです。しかしサヴォワ公が望んでいた機会が遂に起こることになります。

f) 1578年のトリノへの移動 当時、聖カルロ・ボロメオがミラノの司教でした。ミラノには大きな疫病が発生し、聖ボロメオは懸命に働き、自分自身瀕死の信者に御聖体を授け、ミラノを救うよう主に願いました。聖ボロメオは、もし天主がミラノを救われるならば聖骸布への巡礼を行なう誓いを立てましたが、その願いが聞き入れられました。そこで聖ボロメオはその巡礼に出発しました。さて、トリノはアルプス山脈の一方にあり、シャンベリーはアルプス山脈の反対側にあります・・・そしてその当時は「モン・ブランの下を通るトンネル」などなかったのです!これらの山々は4000メートル以上の高さで、それを超えるのは簡単なことではありません!山道もしばしば2000メートルをはるかに越える高さにあり、聖ボロメオ司教の健康も優れませんでした。そこで、トリノのサヴォワ公はシャンベリーの司教座参事会員達に対して、聖骸布をアルプス山脈の反対側まで持ってくるように依頼したのです。聖カルロ・ボロメオは聖骸布をトリノで崇敬しました・・・そしてサヴォワ公は聖骸布をトリノに止め置いたのです!

シャンパーニュにおいても、シャンベリーにおいても、トリノにおいても、聖骸布はしばしば信者の崇敬の対象となりました。この類を見ない遺物を祝うための祝日が制定されました。ある公開の場では、聖骸布は四人の司教と一人の枢機卿によって掲げられましたが、この司教のうちの一人は聖フランシスコ・サレジオでした(それとも聖カルロ・ボロメオだったかもしれません)。この聖人はキリストの受難を黙想して沢山の涙を流していました。そして涙の一部は聖骸布の上に落ちていました。そこで枢機卿は彼にこう言いました。「司教、我慢しなさい!」しかしこの聖人は答えてこう言いました。「私の主であり主人であるお方が、私のためにこの聖骸布の上に御血を流すのを躊躇されなかったのなら、私が主のために涙を流すのは間違っていますか?」と。

フランス革命の間、ナポレオンの軍隊が北イタリアに侵入しました。盗難を防ぐため、聖骸布は隠されました。しかしその時以来、[イタリアの]ピエモンテで広範に流布していた革命的思想のため、18世紀末と19世紀には聖骸布が一般に公開されることはほとんどなく、数回しか公開されませんでした。

g) 1898年:初めての写真 19世紀の終わり、ピエモンテにおける信仰を再興するため、司教達は大規模な聖骸布の公開を行なうことにしました。この際に、腕のいいアマチュアの写真家であったセコンド・ピアが聖骸布の写真を撮る許可を求めました。彼がその写真のネガを現像した時、御出現があったと思ったのです!彼は急いで司教の下に行き、「見て下さい!」と言ったのです。2000年近く経って初めてキリストの顔が再び「見える」ようになりました。ネガの現像という手法がこの隠された像を明らかにしたのです。この隠された像は1850年間以上そこにあったのですが、人々が目に見られないものを信じることを拒否するようなこの「科学万能主義」や懐疑主義の時代のために、天主によって取り置かれていたのです。天主は、では見てごらん!とおっしゃったのです。科学自体がキリストの顔を再び私たちに見せたのです。

これが、聖骸布が本物であることの一番簡単で、一番大きな証明です。このように美しい像を、解剖学的な間違いなく、写真が発明される500年以上も前に、写真によってのみ見られる像をいかに偽造することができたでしょうか?今の私たちには、今から500年後に科学が発見することが何であるかは全くわかりません!今から500年後の科学によってのみ明らかにされるようなものを作り出すことは全く不可能です。

さらに、聖骸布が本物であることを信じることを拒否する現代の科学者の中には、「偽の聖骸布」を作ろうとした人たちがいます。そして失敗しました。作ってみた像のどれ一つも聖骸布の特徴(塗料・顔料のないこと、完全な写真の特徴、更には3次元的特徴)を有してはいません。もしこれらの科学者たちが現代の科学の知識をもってしても聖骸布の完全性に少しも近づくことができないのであれば、500年前にどうやって偽造することができたでしょうか?明らかに不可能です。ですから、聖骸布は偽造ではありません。


5/ 科学


最初の写真像は科学界に衝撃を与えました。 懐疑主義者の集まりであったフランスの科学アカデミーの会員イヴ・デュラージュ医師はトリノに行きました。デュラージュ医師は不可知論者で、聖画や聖像を見てはいつも解剖学的な間違いを見つけて(作家達は医師ではないのですが…)笑い飛ばしていました。彼は聖骸布を分析しましたが、間違いは見つかりませんでした。デュラージュ医師は聖骸布に関する論文をパリの科学アカデミーに提出し、その中で聖骸布が医学的、科学的に説得力のあるものであること、そして聖骸布は本当にキリストの体を覆ったものであるというのが彼自身の意見であることを述べました。彼の論文は科学アカデミーによって拒絶されました。デュラージュ医師は科学アカデミーに失望して、自ら退会を申し出ました。

聖骸布は科学コミュニティーに挑戦を始めました—その挑戦は今も続いています!

a) 医学:聖骸布はまずイヴ・デュラージュ医師のような医師達によって分析されました。彼の弟子の一人で善きカトリック教徒であったポール・ヴィニョンは聖骸布に大きな興味を抱き、「シンドノロジー(聖骸布の研究 )」の本当の創始者となりました。聖骸布には前と後ろの二つの像がありますから、寸法が一致しなくてはならないのは明らかです。両方の寸法は実際、一致します。これを絵描きや偽造者が実現するのは非常に困難なことです。

聖骸布を研究したもう一人の有名な医師は、「フランス語の書名では『外科医によるイエズス・キリストの受難』(英語訳の書名は『カルワリオの医者』)」という題名の本の著者であるバルベ医師です。

他の医師達も聖骸布を徹底的に研究した結果、大変肯定的な結論に至っています。例えばロバート・バックリン医師、フレデリック・ズギべ医師、その他多数です。

b) STURP:1978年、聖骸布がトリノに移動した400周年に際して、公開展示を行なうことが決定されました。巡礼者の数が非常に多く、300万人以上であったため、公開の期間を延長しなくてはなりませんでした。エコンの神学校全員(私もその一員でした)がそこに行きました。私が初めて聖骸布を見たのはこの時です。私は一目で聖骸布が好きになりました!その頃、アメリカの科学者達が STURP (“Shroud of Turin Research Project”—トリノ聖骸布研究プロジェクト)という名の下に集まりました。このグループは聖骸布を分析する許可を求めました。教会はグループに対して、聖骸布に触れることは許さない、としました。教会はこの取り替えの聞かない遺物を破壊するような研究は望まなかったからです。しかしこの科学者たちは、「それは私たちにとっては問題ではない。星のようなもので、見ることができるが触れることはできない。それでも私たちは星を研究する方法を持っているし、特に分光法がある。」と言いました。分光法とは、対象が反射する光を分析する方法です。そこで教会はこのグループに5日の時間を与えました。科学者達は3トンもの科学装置を持ち込みました。

最初、科学者達は聖骸布が偽物であることを証明するのは簡単だと考えていました。しかし最初の分析の結果、塗料が存在しないことが明らかになった時、非常に強い興味を感じ、許された時間全てを使うことにしたのです。3グループのシフト制にして、割り当てられた120時間の間ずっと活動していました。その結論は数年にわたって科学雑誌に発表されました。このグループの結論はこうでした:「聖骸布の像が、鞭打ちを受け十字架に付けられた男の本当の人間の形の像であると、今の段階では結論する。これは画家の作品ではない。血のしみはヘモグロビンからなっており、血清アルブミンテストも陽性である。この像は引き続き謎であって、さらなる化学的研究が将来当グループか、あるいは他のグループによってなされるまでは、問題は未解決である。」

c)STURPのメンバーであった物理学者のジョン・P・ジャクソンは火星の山のレリーフに用いて成功した三次元技術を使いましたが、聖骸布についても結果は良好でした。地上の他のどの像も、描かれたものであっても写真で撮られたものでさえ、影のため、このように良好な結果がでることはありません。これらの結果はさらに、聖骸布のより高解像度の三次元モデルを入手したイタリア人のジョヴァンニ・タンブレッリ教授によって確認されました。

d) 繊維の専門家:繊維の専門家であるハンブルグのメフティルド・フルリー—レンベルグによると、聖骸布の縫い目は死海の近くのマサダ城塞で発見され1世紀のものとされる織物に合致するとのことです。ベルギーのゲント繊維技術研究所のギルバート・ラアスの鑑定によると、ツイル(三つ綾)と呼ばれる織り方は、1世紀のシリアのデザインと合致しています。フルリー—レンベルグは次のように述べています:「トリノの聖骸布の亜麻布については、それが1世紀の織物師による高級な製品からなるということに矛盾するような、いかなる織りの技術も縫いの技術も示すものではない。」

e) 花や花粉の専門家は、先に述べた聖骸布の所在地の歴史を確認するようなあらゆる種類の花粉を聖骸布から発見しています。ただ、花粉は一般に信じられているほど正確なものではありません。それは、ある種の花々は広い地域に分布しているからです。ですから、これは厳密な証明ではありませんが、他の科学データを補強するものです。


6/ 放射性炭素年代測定?


聖骸布の年代を測定するために放射性炭素年代測定を用いるという提案が最初になされた時は、当時(1960年代)、そのためにこのかけがえのない遺物の大きな部分を破壊することが必要だったために、拒否されました。しかし後年、技術が進んで小さなサンプルのみでもできるようになった時、このアイディアが再び取り上げられました。こうして1986年9月29日、この実験のための手順書が合意されました。この手順書は、この実験の結果の信頼性を確保するため、関与する全ての人が実験の実施において従うべきルールをまとめたものです。この1986年の手順書には6つのポイントがありました:

1/ 新方法と旧方法の2種類の放射性炭素年代測定法を用いること。

2/ 7つの研究所が参加すること。

3/ 他に起源(と年代)の知られた2つの布を「コントロールサンプル」として用いること。

4/ 「盲検法」を用いること、すなわち聖骸布と他の2つのサンプルをあわせた3つの布を番号の振られた容器に入れ、研究所がどの布がどの容器に入れられたかを知らずに測定すること。

5/ 研究所が測定を行なう時に、他の研究所での結果を知らずに行なうよう、測定は複数の研究所が同時に行うこと。

6/ 大英博物館、トリノ大司教、ローマ教皇庁科学アカデミーの三者が共同で実験を監督すること。

しかし、これらの全てのルールが破られたのです。ただ一つの方法しか用いられませんでしたし、実験は3つの研究所のみでしか行なわれませんでした。コントロールサンプルの3つ目は疑わしいものでしたし、盲検法は用いられず、ひとつの研究所は、他の2つの研究所の実験が終了した一ヶ月後に、それらの結果を入手してから実験を行ないました。そしてローマ教皇庁科学アカデミーは実験の監督から除外されました。これらのルールの一つや二つだけではなく、全てのルールが破られた、という事実は、それだけで既に結果の信頼性に厳しい疑いを向けさせるものです。このことを声を大にして述べる科学者もいましたが、後になって、結果が自分たちの望んでいるものであったため、自分の良心を押さえ込んで、結果を受け入れてしまいました。

あらかじめ合意された日、1988年4月21日に、聖骸布から3つの部分が切り取られ、 大英博物館のタイト博士の持ってきた他の二つのコントロールサンプル、そしてフランスのG.ヴィアル氏のもってきた第3のコントロールサンプルと共に計量されました。これらの切断や計量の状況は適切に写真に撮られ、ビデオに記録されました。その後、タイト博士とトリノの大司教が教会横の香部屋に行き、これらを番号の振られた鉄製の容器に入れました。四つ目のサンプルは単なる封筒に入れられましたが、これは追加のもので、どうやら予期していなかったからのようです!この横の香部屋での状況は写真に撮られておらず、ビデオにも記録されていません。その後、皆で容器を研究所の代表者達に手渡しました・・・が、彼らに各々どの容器にどの布が入っているかを教えてしまい、手順書に定められた盲検法を守りませんでした。

大きな疑問があります:もし研究所に対してどの容器にどの布が入っているのかを教えるつもりなのであれば、どうしてこれらの布を容器に入れるためにわざわざ横の香部屋に行くのでしょうか?これはもう全く意味をなしていません・・・

そして、アリゾナのトゥーソン研究所とスイスのチューリッヒ研究所が実験を行ないました。そしてそれらの結果は14世紀後半のものであるというものでした。これは少し遅すぎる時期です。というのは、聖骸布が既に14世紀半ばにリレイに存在したという歴史的証拠があるからです。しかし、1ヶ月後にオックスフォード研究所が実験を行ない、他の2つの研究所より約100年早いという結果を出しました。これらの結果をただ合わることによって、紀元 1260年から1390年という広いレンジの結果としました。そうすると中間が1325年頃となり、記録のある公開の年より少し前ということになったのです。

さて、この実験の報告書自体に不正があります。この報告書は、遂に1989年2月16日の「ネイチャー」誌、337号、6208番、611-615ページに発表されました。インターネットでは、http://www.shroud.com/nature.htmにあります。

この不正というのは数字の繰り上げにあります。このために、一般に認められている科学的標準からすると否定されるような結果を人々に無理矢理飲み込ませたのです。この論文の表2:データの要旨では、聖骸布のカイ二乗の値は6.4で、自由度は2、そして有意水準は切り上げて5%としています。さて、ご自身で計算して頂ければわかりますが、有意水準は5%ではなく4.07%です。このような数字の切り上げは不正です。それが5%と言う数字が、それ未満であれば科学的実験が結論づけられないとされる閾値であるからです!素人の言葉でいえばこういうことです:実験のやり直しをしなくてはいけないようなことが実験中に起こりました。従ってその結果は信頼できません!有意水準を正しく計算するならば、そこから出てくる結論は、この放射性炭素年代測定の実験は信頼できないということです!科学的に受け入れられないような結果を人々に無理矢理飲み込ませるために、有意水準の数字を繰り上げるというのは不正です。

誰でも科学計算機があれば確認できるような不正が存在したという事実からすると、この同じ実験に他の不正があったという可能性を否定するべきではありません。この実験の結果を説明するにあたって、この実験に不正があったという可能性は、非常に多くの人があらかじめ排除します。しかし、これから見るように、それが一番可能性の高い説明なのです!

これらの結果を説明するために様々な人達が提案した解決案を挙げてみましょう。

1/ 聖骸布は中世の偽造であり、本当に紀元1260年から1390年の間にできたものである。しかし、「もし21世紀に入手できる最も先進的な技術をもってしても聖骸布の像の複製が作成できないのであれば、中世の偽造者はいったいどのようにしてそれができたのか?」(物理学者パオロ・ディ・ラッザーロ)

2/ 聖骸布は本物であるが、放射性炭素年代測定は信頼できない。しかしこの測定法が信頼できず、特にその結果がこれほど大きく間違っている可能性は非常に低く、もしそうでなければ、この測定法が科学界でこれほど頻繁に使われている筈がありません。

3/ 結果を変えてしまうような菌類が付着していた。しかし、聖骸布の計算された年代をこれほど大きく変えるためには、そのような菌類が大量に付着していなければいけませんが、それがSTURPによる顕微鏡観察の際に観察されなかった可能性は非常に低いでしょう。

4/ 中世のある時期に、「完全に目に見えない縫い目の補修」があったということを提唱する人たちもいます。しかし、もしそのような「完全な補修」が目には見えないとしても、顕微鏡にも見えないという可能性は非常に低いものです!

5/ 火事が炭素成分を変えたとする説。しかし、切り取られた部分は火事によってほとんど影響を受けていない部分であって、年代を大きく変える可能性は低いでしょう。

6/ 最後のオプションはこうです:三つの研究所によって測定された布は、聖骸布からの布ではなく、中世に起源する他の布とすり替えられていた(横の部屋で、ビデオに録画されず、人々の目の届かないところで)。さて、その罪を犯した人が自分の行為を告白していないのですから、このような不正は確認することができません。しかし、実際に再現するのが一番簡単であることは確かです。更に、これが正しいとすると、あの第4のサンプルの存在の説明がつきます。実際、第4のサンプルはトゥールーズの司教であった聖ルイ(ルドヴィコ)のマントから取ったもので、これはタイト博士がG.ヴィアル氏に依頼していたものでした。この布はちょうど「希望されていた年代」のものでした。「そのスタイルの詳細と歴史的証拠から、このマントは紀元1290年から1310年(フィリップ4世の治世)のものである。」さて、G.ヴィアル氏は、フランスの郵便のストライキのために、これを郵送することが非常に信頼できないものとなったため、これをタイト博士に郵送することができず、自分自身でこれを持参することにして、当日これをサンプルとして使うべきだと主張したのです。しかしタイト博士はもう一つのサンプルを持参していました。これが何を証明するのでしょうか?タイト博士は14世紀前半の中世の布を探していた、ということです。

さてもしタイト博士が14世紀後半の中世の布を持参し、それを「紀元2世紀初頭のテーベのクレオパトラ(ユリウス・カエサルの友人ではなく、別のエジプトの貴族)のミイラ」の布として、横の部屋で聖骸布とすり替えたとするならば、全て簡単に辻褄が通ります。更に、これで第3のサンプルの結果の説明がつきます。その中心年は紀元37年から44年であり、キリストに非常に近い年代ですが、クレオパトラは70年後に亡くなっています。貴族を埋葬するのに70年前の布は使いません!

タイト博士が実験の報告書それ自体の中で一つの不正を行ったということから考えると、博士は実験それ自体の中でもう一つの不正をしなかったでしょうか?一つの不正という事実は、もう一つの不正の可能性を証明しているのです!また他の解決案が全て可能性の低いものであることを考えると、一番可能性の高い解決案を採用すべきでしょう。それは、聖骸布の放射性炭素年代測定の実験自体が不正だったのであって、聖骸布が不正だったのではない、ということです。

特筆すべきはその一年後、聖骸布の放射性炭素年代測定の結果のお蔭で、100万イギリスポンドがオックスフォード研究所のホール教授に与えられた、ということです。その100万ポンドはオックスフォード大学に新たに設けられる考古学教授に宛てられ、タイト博士がその教授職に就いたのです。ユダの受け取った30枚の銀貨は100万ポンドに膨れ上がったのです!


7/ 放射性炭素年代測定の後、研究は続いた


ある繊維の専門家の指摘するところでは、聖骸布の漂白は古代の方法であり、8世紀以前のものである、とのことです。それ以降の方法では多量の液を使い、織った後に布全体を漂白します。これに対して、それ以前の古い方法では、より少量の液を使い、織る前に糸を漂白しました。各々の漂白液が他と同じ強さであるとは限らないので、古い方法では糸は均一に漂白されず、糸によって他の糸より色が濃くなります。これに対して新しい方法では、布全体が一度に漂白されるので、均一に漂白されます。さて裸眼で観察しても、この複製でさえ、漂白が不均一であることがわかり、より古い方法が使われているのが簡単にわかります。ですからこの布は8世紀より以前のものです。(そこで聖骸布のいわゆる放射性炭素年代測定が正しい年代を出さなかったということになります。)

放射性炭素年代測定の結果に満足せず、公式の結果にそぐわない年代を主張することを恐れず、その後も研究や分析を続けている多くの専門家がいます。

私はこれらの最近の研究を全て詳しく見ている訳ではありません。一般的に言えば、行なわれた研究のいくつかについては、一定の慎重さを保つべきだと考えています。そうしないと、(聖骸布が本物であることを十分な理由なしに否定して)簡単に一方向に引かれてしまったり、また(聖骸布が本物であるというなんらかの理論を十分な理由なしに主張して)簡単に逆の方向に引かれてしまったりする可能性があります。

特定の主張については、一定の距離を取るのが重要です。例えば、両目に硬貨、それもティベリウス皇帝時代の硬貨があると主張する人たちがいます。これはあり得ることですし、実際いくらか似ているところがありますが、これを絶対的に確実なものとして主張するべきではないと思います。似ている点だけでは、そのような主張をするのに十分ではありません。両目に硬貨があったかもしれない、と言うべきでしょう。これは正当な意見ですが、絶対的に確実なものではありません。花、碑文等、他の沢山の類似点についても同じです。それらの説は本当かもしれませんが、明白と言うには程遠いものです。

これらの問題は、聖骸布が、私たちの主イエズスキリストにあった、と福音書に記されている全ての傷を持った体を包み込んだ、という事実とは全く違うものです。この事実はそれが本当であることを支持する根拠が余りに多く、確実なものと考えてよいでしょう。もしこれを確実なものと考えることを否定するのであれば、これほど沢山の証拠を有していないような他の多くのいわゆる「科学的事実」も疑わなくてはいけないことになってしまうことでしょう。

8/ 信仰の光における聖骸布


科学は有用なものです。科学は霊魂を信仰の扉に導きますが、それ自体では信仰に入るのに十分ではありません。聖骸布の現代科学による分析の驚くべき点のひとつは、聖骸布の像が光と関連した特質を備えているということです。それは、写真のネガティブの特質、三次元的特質、広島での放射能によって生じた像に似た、繊維の表面酸化などです。まるでこの像が、とても強力で短い光の照射によって、それも暗い墓のなかで、生じたかのようです!このことはすぐに復活のことを思い起こさせます。残念ながら、科学では復活の実験をすることはできません。それを自由に再現することができないからです。しかし、科学はそれを指し示しています。洗者聖ヨハネが私たちの主イエズス・キリストを指し示して「天主の子羊を見よ!」と言ったように。

この言葉を聞いて、聖アンドレアと聖ヨハネはイエズスに従いましたが、イエズスは振りむいて「何をのぞむのか?」と彼らにお尋ねになりました。彼らは答えて 「ラビ、あなたはどこにとまっておられますか?」と言いました。イエズスは彼らに「来てみよ」とおおせられました。(ヨハネ1章38-39節)「来てみよ」、私たちも聖骸布の前で同じことを言うことができます。全ての人が自分で来てみよ!私たちの主イエズス・キリストは聖骸布を通して沈黙のうちに語っておられます。主の両目は閉じています。聖骸布では主の口は閉じています。しかし、来て主を見ようとする霊魂達に、主はなんと雄弁に語りかけられることでしょうか!

預言者ザカリアは400年前に宣言していました。「私は、ダヴィドの家と、イエルザレムに住む人たちの上に、あわれみと祈りの霊をそそぐ。かれらは、自分が刺したものをふりあおいで、ひとり子のためにするような嘆きで、かれのために嘆き、初子のために泣くように、かれのために泣く。」(ザカリア12章10節)

「あなたについて、私の心はこういった。『主のみ顔をさがせ』と。主よ、私はみ顔を探し求める。み顔をそむけられるな。」(詩編26章8-9節)

「主とそのおん力とを探し求め、つねにみ顔をたずねよ。」(詩編104章4節)

「主が、みいだされたいとおぼしめすあいだに、主を、さがし求めよ。」(イザヤ55章6節)

古い時代の多くの偉大な人の中には、その人の生存中に作られた銅像があることがあります。しかし、その人の実際の写真を持っているような人は一人もいません!私たちの主イエズスキリストについては、私たちは、ある意味で、彼の写真そのものを持っているのです!150年以上前の偉大な人の中で、絶対的に唯一のことです。

「闇から光が輝き出せとおおせられた天主は、キリストの顔にある天主の光栄の知識を照らすために、私たちの心にかがやかれた。」(コリント後書4章6節)

私たちは、聖骸布の中に次の言葉の真実を見ます。「みことばは肉体となって、私たちのうちに住まわれた。私たちは、その栄光を見た。それは、おん独子としておん父からうけられた栄光であって、かれは、恩寵と真理とにみちておられた。」(ヨハネ1章14節)私たちは自らの子を送られる天主の愛を見ます。「天主はおん独子をお与えになるほど、この世を愛された。それは、かれを信じる人々がみな亡びることなく、永遠の命をうけるためである。」(ヨハネ3章16節)そして私たちと共に生きるためだけでなく、またとりわけ、私たちの救いのために死ぬためなのです。「ご自分のみ子を惜しまずに私たちすべてのためにわたされたお方が、かれとともに他のすべてを賜らないはずがあろうか。」(ローマ8章32節)私たちはこれら全てのことを聖骸布のうちに見るのです。

私の手と私の足を見よ、私自身だ。さわって確かめよ。あなたたちが見ている私のこんな肉と骨とは、霊にはない。」(ルカ24章39節)「こういって、そのおん手とおん脇とをお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。」(ヨハネ20章20節)

「またトマに向かって、『あなたの指をここに出し、私の手を見なさい。あなたの手を出して、私の脇におきなさい。信じない者でなく、信じる者になるように!』」(ヨハネ20章27節)私たちは聖骸布に同じことをすることができます。

聖イグナチオと一緒に、私たちの主イエズスキリストの御傷のひとつひとつを見ながら、こう言うことができます。「主が苦しまれたのは、私のためです」と。聖パウロが言ったように、「私を愛して、私のためにご自身をわたされた天主の子への信仰によって、生きている。」(ガラツィア2章20節)

「実に愛される子らとして、天主に倣う者であれ。私たちを愛し、私たちのために、香しいかおりのいけにえとして天主にご自分をわたされたキリストの模範に従って、愛のうちにあゆめ。」(エフェゾ5章1-2節)主に倣うためには、主を見なくてはなりません。主を見るにあたって、この「人の手に依らぬ」最も聖なる像について黙想する以上に善い方法はありません。

「そこで私たちはみなおおいを顔に垂れず、鏡にうつすように、主の光栄をうつし、霊なる主によって、ますます光栄を増すその同じすがたに変わる。」(コリント後書3章18節)もし私たちが永遠にわたって栄光の主に似たものであろうと望むなら、ここ地上において私たちは苦しみを受けられる主と似た者でなければなりません。それは聖パウロがこう言うようにです。「私たちは天主の子である。私たちが子であるのなら、世つぎでもある。キリストとともに光栄をうけるために、その苦しみをともに受けるなら、私たちは、天主の世つぎであって、キリストとともに世つぎである。今の時の苦しみは、私たちにおいてあらわれるであろう光栄とは比較にならないと思う。」(ローマ8章16-18節)

私たちはまた、私たちが聖骸布に見る全てのことは、童貞マリア(と聖ヨハネと聖なる婦人達)が十字架の下で、それが起こった時にごらんになったということを覚えておかなくてはいけません。そして聖母マリアは御体を清められ、主を布の内に置かれましたが、それは私たちには決して語り尽くせない悲しみと愛をもってなさったのです。イエズスの御受難を聖母マリアの目を通して見る、これが最善の方法です。

最後に、私たちは聖骸布に主の像を見ますが、主の御体の実体はそこにはない、ということも考えておきましょう。しかし御聖体においては、私たちには主の像は見えませんが、主の御体、御血、御霊魂と御神性の実体がそこにあり、完全に、本質的に、生きておられることを私たちは知っています!ですから御聖体は聖骸布よりも限りなく勝れているのです。そしてミサ聖祭では、それは主の御受難の単なる像ではなく、主が十字架の上でお捧げになり、祭壇の上で現実に捧げられているキリストのいけにえそのものなのです。
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【聖ピオ十世会】12月25日御降誕の聖伝のミサの報告 多くの新しく来られた方々を歓迎いたします!

2017年12月26日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

私たちの主イエズス・キリストの御降誕のお喜びを申し上げます。
クリスマスの恩恵みを天主に感謝いたします!
レネー神父様の働きにより、日本では多くの方々が、聖伝のミサに与ることができたというご報告をいただきました!とてもうれしく思います。

あるご夫婦からは、ロザリオのクリスマスプレゼントを頂きました!
8月16日から12月24日までのロザリオ、夫婦合わせて「1139環」も!
4ヶ月間、一日一環を捧げても120環です。一日約10環分のプレゼントをありがとうございます!

12月25日から愛する兄弟姉妹の皆様のためのノベナのミサを始めました。今日は二日目です。韓国でも多くの新しい方々が聖伝のミサ聖祭に与ることができました!天主様に感謝します!

今までに頂いたレポートを兄弟姉妹の皆様にご紹介します。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】【レネー神父様から】
Reverend and dear Father,
Very many thanks for the good you do in Korea. And also for having organised everything so well in Japan. At Osaka, I had a whole week of sung Masses, plus even the sung great O antiphons with Magnificat and Compline, and then the Matins of Christmas!
There were in total around 30 people in Osaka, perhaps even more: more than 20 at each Christmas Mass, but some came to the midnight Mass and not the dawn Mass, and vice versa. There were more than 60 people at Tokyo both for the vigil (Sunday) Mass and the Christmas Mass. ...
The conference on the Shroud went well, though many came … just in time for Mass and missed the conference…

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

小野田神父様、
レネー神父様の最後の説教は、大阪では夜中のミサとあかつきのミサで読み上げられました。この説教は、主に聖母の連祷を題材としたレネー神父様の聖母への祈りです。

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
私たちの主イエズス・キリスト様の御降誕おめでとうございます!!
そして今日から9日間の御ミサのノベナを本当にありがとうございます!

また、小野田神父様のブログに「主の御降誕とトリノの聖骸布とミサ聖祭:本当の平和の条件と基礎」の黙想をアップして下さりありがとうございます。
多くの方が東京での聖伝の御ミサに与る御恵みを受けられたという事で、私もとても嬉しく思います。

レネー神父様の大阪でのクリスマスの御ミサは、真夜中の御ミサも暁の御ミサも、聖ヨゼフ様が幼子のイエズス様をお抱きになっているカズラをお召しになられて、御説教でも聖ヨゼフ様のイエズス様とマリア様に対する崇敬の黙想から始まり、そして聖母の連祷を通して主の御降誕の神秘を黙想し、そして最後に聖ヨゼフ様にマリア様とイエズス様への愛と御降誕の神秘の中に深く入らせて頂くよう御取り次ぎをお願い致しました。

100年前、ファチマでマリア様は、「ポルトガルでは信仰のドグマが保たれるでしょう」と仰り、ファチマの大奇跡のあった10月13日に、聖ヨゼフ様と幼きイエズス様はそれぞれ十字架のしるしをしてこの地を祝福して下さいました。実際に、ファチマでマリア様がお現れになるまでは、ポルトガルはフリーメーソンの支配下にあったにもかかわらず、マリア様の御出現以降、ポルトガルの司教様たちが一致してポルトガルをマリア様の汚れなき御心に奉献すると、ポルトガルは第二次世界大戦からも守られて、「それ自体が奇跡だ」と言われるほどの国としてのカトリックへの大回心が起こりました。

2017年のクリスマスに当たり、聖ヨゼフ様と幼子イエズス様のファチマのアヴェ・マリアの歌詞も作ってみました(*^-^*)

聖ヨゼフと 聖子共に 涙の谷 祝させ給う
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

ただ作ってみただけですので、スルーして下さい(^^;)

どうかそのファチマのマリア様の御取り次ぎにより、この堕胎という天に復讐を呼ぶ大戦争を自国民に対して行ってしまっている日本、そして今また外的な戦争の危機にも晒されている日本、唯一の道・真理・命であり、本当の平和の条件の基礎であるイエズス様の光よりも闇を好んでしまっている日本、そしてマリア様がこんなにも憐れんで愛して下さっている日本を、聖ヨゼフ様と幼きイエズス様が祝福して下さり、日本の司教様たちが一致してマリア様の汚れなき御心に日本の奉献を更新して下さいますように!!

最後になりましたが、今まで日本のために懸命に働いて下さったレネー神父様に、心より感謝と祈りを申し上げます。
また陰でいつもサポートして下さり、クリスマスの準備などもいつも素晴らしくして下さるヨゼフさん御一家にも心より感謝と祈りを申し上げます。
ファチマのマリア様と今日お生まれになった幼子イエズス様が何万倍にもして報いて下さいます様に!

至聖なるイエズスの聖心、我らを憐れみ給え!
聖母の汚れなき御心、我らの為に祈り給え!
聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え!


【報告】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 27人(内、子供2人)
女: 31人(内、子供2人)
計: 58人(内、子供4人)

ミサ後パーティー/謝恩会の参加者数
約35名

ミサ
今日のミサはクリスマスの日中のミサで、レネー神父の御説教は御降誕の意義、聖母の役割、聖ヨゼフの役割などについて、聖母の称号をちりばめた本当に多岐にわたるお話しでした。ミサの終わったすぐ後には、幼子イエズスに接吻する儀式が行なわれました。

ミサ後のクリスマスパーティー/謝恩会
今回は、レネー神父がもうすぐシンガポールのアジア管区本部からオーストラリアの学校に移られるとのことで、その謝恩会を兼ねたクリスマスパーティーとなりました。まず記念写真を撮り、レネー神父に霊的花束が贈呈されました。その後、皆さんで乾杯して、皆さんが持ってきて下さった食べ物や飲み物を頂きながら、歓談しました。最後にはレネー神父と有志がパリ外国宣教会の宣教師派遣の歌や、フランスのクリスマスの歌などを一緒に歌って散会しました。


【報告】
🎄主の御降誕のお喜びを申し上げます♪

小野田神父さま
昨日、聖ピオ十世会の御ミサにあずかって来ました。ちっちゃな乳幼児たちの可愛い仕草や声が響くなかで周りから見守られ、皆さんでミサを守っておられました。
小野田神父さまは韓国にいらっしゃるのですね。

🎄よい降誕節そして🗻新年を迎えられますよう、そして神父さまのご健康をお祈りします♪

【報告】
レネー神父様への霊的花束(東京の信徒より)

これまで私たちのためにしてくださったミッションや犠牲への感謝として、私たち
は下記の務めを2018年の御復活祭までにすることをお約束いたします。

Attendance of the Holy Mass: 194
ミサ参列

Holy Communion: 194
聖体拝領

Spiritual Holy Communion: 470
霊的聖体拝領

The Way of the Cross: 83
十字架の道行

Holy Rosary: 2,696
ロザリオ(環)

Mortification: 733
小さき犠牲

Other prayers or works of charity: 392
その他の祈りや愛徳の業

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

主の御降誕おめでとうございます。
遅ればせながら、御あいさつ申し上げます。

御降誕祭の御ミサは、たくさんの方が与られました。マリアさんも久しぶりに見えて、彼女は、日本の聖ピオ十世会のためにたくさんロザリオを唱えてくださっているとのことです。

続きはまた、後ほどです。失礼をお許しくださいませ。
聖マリアの汚れなき御心のうちに

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私たちの主イエズス・キリストの御降誕のお祝いを申し上げます

2017年12月26日 | 聖伝のミサの予定
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

私たちの主イエズス・キリストの御降誕のお慶びを申し上げます。

兄弟姉妹の皆様のしもべは、今年のクリスマスは韓国で過ごしました。ソウルと金堤(キムジェ)でも多くの新しい方々がミサに来られました。多くのお祈りを感謝します。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田神父
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【聖ピオ十世会】御降誕の前日のミサ(ラテン語のミサ トリエント・ミサ)の報告:多くの方々が聖伝のミサに与るお恵み受けたことを感謝

2017年12月24日 | 聖伝のミサの予定
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 レネー神父様が日本でミサ聖祭を捧げて下さって心から感謝します。

 35年くらい前に、藤枝の聖アンナ・カトリック教会の主任司祭であられたヨゼフ・マリ・ジャック神父様が聖アンナ教会から転任された時のことを思い出します。私はまだ高校生でした。
 パリ外国宣教会の宣教師が叙階されて宣教地に赴くとき盛大な送別式をすること、パリ外国宣教会の総長始め長上たちが、宣教師たちの足に接吻をしてお別れすること、フランスでは司祭が転任するときに、小教区の信徒たちはお世話になった神父様に Adieu 「次は天主様の御許で天国でお目にかかりましょう」と言ってお別れすること、などを神父様が私たちに教えて下さいました。「お別れでないお別れの言葉」という神父様のお言葉が書かれた小さな印刷物も頂いたことを覚えています。
 Bien cher Monsieur l'Abbé Laisney, grand merci pour tout votre dévouement sacerdotal!


 12月24日主日のミサでは、東京では64名の方々がミサ聖祭のお恵みに与ることができました!天主様に感謝!

 レネー神父様が東京でなさった聖骸布の講話については、日本語に翻訳されたテキストを頂いたので、ここにすぐにアップいたします。どうぞ何度も読み返して、聖骸布についての知識を深めて下さい。

 今日の真夜中から大阪ではクリスマスのミサが捧げられます!
    12月24日(主) 主日の主の御降誕の前日(1級)紫
            午後5時半 ロザリオ及び告解 
            午後6時 ミサ聖祭 
            午後9時 クリスマスの朝課、クリスマスキャロル 
            深夜11時55分 ミサ聖祭(真夜中のミサ)主の御降誕(1級祝日、八日間付き)白 
    12月25日(月) 主の御降誕(1級祝日、八日間付き)白
            午前10時 ロザリオ及び告解
            午前10時半 ミサ聖祭(日中のミサ)


 東京ではクリスマスのミサは12月25日の午後6時です。
    12月25日(月) 主の御降誕(1級祝日、八日間付き)白
            午後5時半 ロザリオ及び告解
            午後6時 ミサ聖祭

 よいクリスマスをお迎え下さい!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【東京】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

聖骸布の講話の参加者数
男: 14人(内、子供1人)
女: 18人(内、子供1人)
計: 32人(内、子供2人)

ミサの参列者数
男: 29人(内、子供3人)
女: 35人(内、子供3人)
計: 64人(内、子供6人)

聖骸布の講話
朝8時半から1時間半程にわたって、予定通りレネー神父の聖骸布に関する講話
がありました。今朝の講話の参加者には英語を話される方がいらっしゃらなか
ったので、レネー神父があらかじめ準備された講話の日本語訳が読み上げら
れ、聖骸布の個々の箇所が取り上げられる度に、それをレネー神父がレーザー
ポインターで示され、コメントされる、という構成でした。

既に聖骸布についての書物などを読んでお詳しいかたもいらっしゃったようで
すが、ほぼ全員の方がトリノの聖骸布の実物はごらんになったことがないとの
ことで、実物と同じサイズの、それも実物よりもずっと見やすい複製を見て、
皆さん非常に興味を持って話しを聞かれ、その内容に改めて感心したり、驚い
たりした方も多くいらっしゃったようです。

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

お元気でいらっしゃいますか?

聖骸布の講話の時など、だんだん増えて、御ミサではとうとう、満席になり、62人くらいとのことでした。初めて拝見する方もいらしたようです。

神父様の昨日の記事は特にとても素晴らしかったです!何度か読み返しました。

救い主を待ち望み、まわりの方たちに、どうか救い主が来たことを受け入れられる恵みが与えられますように、こころからお祈りいたしました。たのきゅうさんというかたが、何度かコメントをされたのを読んだこと思い出していました、御ミサに与る恵みがありますよう、これからもお祈りさせていただきます。

お祈りの足りない待降節を過ごしたことをお詫びし、もうすぐ来られる赤ちゃんのイエズスさまを、お待ち致しながら、お祈り申し上げます。

聖マリアの汚れなき御心のうちに
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主の御降誕とトリノの聖骸布とミサ聖祭:本当の平和の条件と基礎

2017年12月23日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 主の御降誕とトリノの聖骸布とミサ聖祭について黙想してみました。





 最近のニュースによると、NPO法人「チャリティーサンタ」(東京)が今年の9月に調査したところ、103人の回答のうち10人に1人が、お金の余裕がないことなどが理由で子どもに「うちにはサンタは来ない」と伝えたことがあるそうです。

 この調査によると、クリスマス時期の気持ちを複数回答で尋ねると「楽しい」が58・3%でトップ。「子どものためにもっとやってあげたい」が56・3%、「お金がかかって大変」が42・7%と続いたとのことです。年収が低くなるにつれ「切ない」「しんどい」という回答が増えた、そうです。シングルマザーの3人に1人が、残念なことに「クリスマスなんてなければいい」と考えたことがあるのだそうです。きっと生活が大変なのだと思います。

 でも本来は、クリスマスとうのはサンタクロースの日でもなければ、「セールス」の日でもないし、「切ない」「しんどい」日でもないんです。

 「サンタクロースのクリスマス」なんて、なくてもいいけれど、「本当のクリスマス」はなければ困ります。

 何故なら、本当のクリスマスは、天主が人となって幼子としてお生まれになった日だからです。本当のクリスマスは、この全世界の創造という贈り物を超える、人間が天主と結びついたという無限の贈り物を頂いた日だからです。

 クリスマスは、天主が私たちを赦すために、私たちにご自分を贈り物として与えるために、人となって生まれた日です。だから世界中で祝っているのです。

 天皇陛下のお誕生日は私たちにとって大切な日ですが、クリスマスは天皇陛下のお誕生日よりももっと大切な日です。

 日本は、はやぶさという小惑星探査機を打ち上げましたが、それが地球に戻らせて大気圏再突入させました。これもすごいことですが、全宇宙を無から創造した天主が、私たちのうちに幼子としてお生まれになったというものすごい出来事を祝う日です。

 どのうちにもサンタは来ませんが、私たちのため天主は人となって来られました。

 それは、私たちの罪を赦すためです。私たちから罪の負債を取り除くため。私たちに代わって罪の償いを果たすため。十字架の苦しみを受けるためです。

 天主が人間を通してお働きになる、永遠が時においてお働きになる、天主が幼子の姿でお生まれになる、そんなことを聞くと、人々はつまずいて転んでしまいそうになるかもしれません。はい、何というつまずきでしょうか!

 聖性そのものであり罪がない天主が、極悪人のように苦しみ屈辱を受けて十字架に付けられる、何というつまずき!

 天主がパンの外見において真にましまし給う、なんというつまずき!

 天主が人間を通して不可謬の真理の教えを垂れる、なんというつまずき!

 天でも地でも罪を赦すことができるという天主の力を人間に与える天主、なんというつまずき!

 水によって洗礼を受けることによって、罪が全て洗われ赦される、なんというつまずき!

 人類の全ての罪を負って無罪であるにもかかわらず冤罪で死刑とされるためにお生まれになる天主、なんというつまずき!

 待降節第二主日の福音でイエズス・キリストはこう言いました。「私につまずかない人はしあわせである」と。

 静けき真夜中、ベトレヘムで私たちの主は御母の元で安らかに眠っておられました。あたかも何も知らないかのように。

 ゲッセマニの園では、同じ主は苦悩のうちに祈られます。愛する三名の弟子達には、彼らが警備員であるかのように「目覚めて祈れ」と命じました。祈るイエズス・キリストには、罪の重みが私たちの主の上に重くのしかかります。人類の犯す公然の大犯罪と秘密のうちに犯される恥ずべき罪と全ての悪の行いをあたかもご自分が犯したかのように。主は、血の汗すら流し、真っ赤な血潮が滴り落ちます。

 三人の弟子達は眠りこけていました。エルサレムも眠っていました。起きていたのは、イスカリオトのユダと、主を捕らえようとする人々だけでした。あるいは、酒盛りで酔いつぶれつつ「天主なぞどこにいるのか」とうそぶく青年だけかもしれません。

 人々は疲れると眠ります。しかし心配事があると眠られません。使徒たちは、その時の重大さを知らなかったので、危険を知らなかったので、人類の罪の重みに気がつかずに、眠っていました。

 ペトロは剣を持って寝ていました。武装して、しかし、寝ていました。物理的な敵の攻撃に警戒してはいましたが、罪については心配していませんでした。

 弟子たちが「主よ、ごらんください。ここに剣が二ふりあります」というと、主は「もうよい!」とおおせられました。Domine, ecce, gladii hic duo. Sed Ipse dixit illis ; sufficit. 私たちはペトロのようなのかもしれません。物理的な活動さえすれば良い、と思っていたとしたら。

 どうして人間は兄弟同士で戦争をするのでしょうか?何故なら、人間は父なる天主にたいして罪を犯すことによって戦いを挑んでいるから。天主の創った自然に反する法律を作ろうとしているから。善と悪とを同じだとし、真理と誤謬も区別しないようにしているから。ニーチェの言葉に従えば、価値の転換(Umwertung aller Werte)を行い、悪はこれからは善と見なし、善を悪とみなそうとするから。

 天主の掟を無視し、家庭という聖なる家族制度は偽りの自由(放埒)によって汚され、子供たちは、十字架もなく救い主もなく天主の愛もなく、人間が罪を犯すことが自由であり人権であるという世界を作るようにと教えられているから。罪なき胎児を殺害するのが人権であるとうそぶいているから。そのような時、剣だけで足りるのでしょうか?

 聖ペトロはローマで殉教する直前にこう書きます。ローマが天主を忘れて生活していることを警告します。「かれら(=偽預言者・偽教師)の裁きは、古くからはたらきつづけ、その亡びは眠っていない。…かれらは知らないことがらをののしり、…けもののように、亡び、そして不義のむくいをうけるであろう。」(ペトロの後の手紙第2章)

その後、西暦370年、西ゴート族の王家に、ドナウ川河口でアラリックという子供が生まれました。だれもこの子供の歴史的な重大性を予見したものはいませんでした。アラリックは、ローマを3回包囲します。第3回目は410年8月24日、野蛮で凶暴な兵士たちがローマになだれ込み、ローマの富を強奪・略奪しました。多くの公共施設が略奪され、歴代皇帝の墓所が暴かれ、フォールム・ロマーヌムの複数のバシリカは破壊され、多くが捕虜となり、奴隷として売り飛ばされ、強姦・虐殺されました。

ローマ略奪の後、アラリックはアフリカ属州を征服しようと船舶にのり込みますが、突然死亡します(西暦410年、40歳)。ゴート族の古い慣習に従って、兵士たちはブゼント川の水を迂回させてアラリックの墓穴を掘り、永遠のローマを破壊した男を埋葬しました。

紀元前387年、ローマは、ブレンヌス率いるガリア人に侵略された以来、侵略されたことがありませんでした。800年の間なかったことが、想像もできなかったことが起こってしまったのです。ローマの驚きは、その体験した恐怖よりも遥かに大きいものでした。ローマの屈辱は、その驚きよりもさらに大きなものでした。聖エロニモは、ベトレヘムでそのニュースを聞いてショックで嗚咽します。

 私たちがいまもっている日本国憲法は、終戦直後、1946年11月3日に公布され、1947年5月3日に施行されました。

「日本国民は、…政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し」「恒久の平和を念願し」「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。」

しかしそれとほぼ同時に、1948年7月13日、優生保護法によって、日本の母親の胎内の子供たちへの戦争が可決されました。自国民の子供たちへは、恐怖と欠乏から免れ平和のうちに生存する権利を認めませんでした。この子供たちが流した血の償いは誰かがしなければなりません。「剣をとる者は剣で亡びるのだ。」

金正恩が、大阪出身の高英姫を母として1984年1月8日に生まれたとき、だれも彼の将来を予見する者はいませんでした。21世紀のアラリックとなるのでしょうか?その様なことがありませんように!

金正恩にはクリスマスを目の敵にしています。ニュースによると、2016年、金正恩はクリスマスを祝う行事を公式に禁止しました。その代わりに国を挙げて1919年12月24日生まれの、祖母の金正淑(キム・ジョンスク)の誕生日を記念しています。

天主教では、人々は天主イエズス・キリストを全てに越えて愛します。しかし、共産主義国家では人民は共産党に忠誠を誓わなければなりません。金正恩は、祖父の金日成を崇拝することを望んでいます。


 Vigilate et orate.「目覚めて祈れ」と主は言います。Vigilate とは「目覚めていなさい」「外的に警戒していなさい」ということです。

 Orate とは「祈れ」「内的に武装していなさい」ということです。ペトロは剣だけに信頼して、祈りを怠ってしまいました。外的な活動は、よく祈りよりも大切にされがちです。肉体上の敵は剣や銃や戦車やミサイルなどの軍事力で勝つことができます。しかし精神的な悪は、祈りと十字架でなければ勝てません。「祈りが一体何の役に立つのか?」ペトロはそう考えて剣を手にとって安心して眠りました。

 北朝鮮は、大陸間弾道ミサイルを開発し、核弾頭を大量に生産しようとしている、米ドル紙幣や中国の紙幣を偽造し、インターネットでハッキングし不正に資金を調達している、だから北朝鮮の耳を剣で切り落としてしまえばよい、金正恩を排除すればよい、と。それで全てが解決すると思っていたとしたら、私たちはペトロのようなのかもしれません。問題はもっと根の深いところにあります。

 罪こそがこの世での最大の悪であること、ルターの宗教革命も、ボルシェヴィキ革命も、戦争も、罪の結果であること、それを知ってこそ私たちは本当の平和への道を歩み始めることができます。革命も戦争も、私たちの生活態度の結果が熟した時に生じるものだからです。

 材木に熱をかけると炭になって火を出すように、天主の掟に反して人々が生活すると、その結果が社会全体に現れます。重力に逆らってみようとして高いところから飛び降りたとしても、怪我をするのは人間の方です。天に向かってつばを吐けば、その結果は自分に返ってきます。天主に悖って、自然の秩序に刃向かって行動すれば、苦しむのは人間です。天主の掟に逆らうことによって、天主の掟を破壊することはできません。そうすることによって破壊されるのは自分自身です。

 自分の蒔いたものを刈り取らねばなりません。天主に対して戦争を起こせば、人間は戦争を望んでいなかったにもかかわらず戦争を呼び起こしてしまいます。

 いたずら坊主を父親が叱ってビンタするように天主が私たちを罰するのではありません。何故なら、いたずらとビンタは、必ず起こるという因果関係がないからです。

 しかし、雨が降るとどうしても大地がぬれるというように、天主に背くとどうしても人間が罰を受けるのです。天主無しに、人間の力だけで平和な世界を築き上げることができるという幻想のうえに、この世界を作ろうとしているがゆえに、戦争を起こしてしまうのです。

 聖父なる天主を認めないところに、どうして人間が互いに愛すべき兄弟であることを認めることができるでしょうか。兄弟ではなく「人間は人間にとってオオカミである」とホッブスは言ったではないでしょうか。天主という土台を切り崩しつつ自分の住む世界が崩壊していっても、自分であたりに毒をばらまきながらそこから汲む飲み水が苦くなっても、そのことを天主に文句を言うべきではありません。

 地獄が罪の結果であるように、戦争も罪の結果です。

 ゲッセマニの園に、ユダがやって来ます。武装してやって来ます。司祭長、律法学士、長老たちからおくられた人々が、剣や棒をもってついてきます。裏切り者は、「私がくちづけするのがその人だ。捕えて厳重にひいていきなさい」とあらかじめ合図しました。

 愛情のしるしの接吻は、キリスト教の歴史におけるトロイの木馬でした。現代では、「人類の一致のため」「世界平和のため」という名目で、キリストが否定されています。「メリー・クリスマス」の代わりに「幸せな休暇」と言い、カトリックの聖伝のミサの代わりにエキュメニカルな礼拝式が取って代わろうとしてます。

 「天主が悪を許すわけがない」というのは、一般に広まっている大きな誤解です。悪の存在を見て、人々は「天主は一体どこにいるのか?」と冒涜しあざ笑う人々がいます。何故私は交通事故にあったのか?何故私はこんなに不幸な目に遭っているのか?何故私はこんなに苦しんでいるのか?俺がいったい何をしたのか?俺は苦しまなければならないような悪いことはしていないぞ!俺のやってきたことはすべて正しい!苦しみたくない!

 イエズス・キリストの十字架の左に付けられた盗賊は、自分を十字架から解き放ち、自分がまた働くことができるようにさせることが救い主の証拠であると主張しました。「もしもおまえがキリストなら、自分を救い、俺たちを救え!」(ルカ23:39)

 私たちが繁栄を満喫しているとき、人は天主について疑問に思いません。天主のしなければならない義務は、私たちが思い通りの人生を送ることができるようにすることであると考えているのかのようです。

 不幸なとき、天主を信じるという人でさえも、天主の存在を疑うかのような態度をとってしまうかもしれません。天主とは、あたかも私たちのこの世の成功を叶えてくれなければならないものであると考えているかのようです。

 この世の成功と、天主の性質とを一緒くたにするということは、悪には天主の力が及ばない、悪があることは天主が負けたことだ、と誤解することに起因しています。しかし、私たちの主は言います。「私につまずかない人はしあわせである」と。

 最後の晩餐の後、かんらん山に向かいつつ、私たちの主は弟子達にこう預言しました。「今夜、あなたたちは、みな、私についてつまずくだろう。"私は牧者を打ち、そして羊の群れは散る"と書かれてあるからだ。」

 天主の全能は、ご自分の御旨を果たそうとしない道具でさえも使って自分の目的を果たすことができる全能です。天主は、遙かにより大いなる善のために、時には悪が起こるのを許可するほどの全能をお持ちです。聖パウロは言います。「罪が増したところには、それ以上に恩寵はあふれるばかりのものとなった。」

 ローマ人の百夫長は、十字架の上で息絶えた私たちの主、天主の子羊であるイエズス・キリストの心臓に槍を貫き指します。ユピテルとマルスの神々を信じていたこの軍人は、その時イエズス・キリストについて「この方は天主の子だ」と叫びます。その天主の子の御受難の記録はトリノの聖骸布に残されています。

 ベトレヘムで天主が幼子として生まれた時、天使たちは大喜びで歌を歌いました。
天の軍勢の大群が「いと高き所には天主に栄光、地には善意の人々に平和」と天主を賛美しました。

 何故なら、私たちがうけるべき罰を全て自分の身に引き受けるために天主が赤子となって生まれたからです。救世主がお生まれになったからです。私たちが受けるべき苦悩を受けるために、私たちに本当の平和を与えるために、お生まれになったからです。

 私たちが、本当のクリスマスに戻るとき、イエズス・キリストを真の天主として信じ、礼拝し、希望し、愛する時、この世界に平和が戻ります。

 ミサ聖祭で司祭が聖変化の時、御聖体を奉挙します。その時、私たちは使徒聖トマスのようにこう言います。「わが主、我が天主なり!」と。ミサ聖祭で司祭が御聖体を私たちに示す時、洗者聖ヨハネの言葉を繰り返して、こう言います。見よ、天主の子羊を!Ecce Agnus Dei!

 馬草おけに横たわる幼子は聖母によって布に包まれましたが、十字架から下ろされたイエズス・キリストは聖母によって聖骸布に包まれました。

 願わくは、聖母よ、私たちが幼きイエズスを心から迎え入れることができますように助けてください。願わくは、私たちが主のおっしゃったとおり、自分の十字架を日々になって主の御後を歩むことができますように。

 ベトレヘムのクリスマスとゴルゴタの聖金曜日とミサ聖祭の挙行は、一致します。ベトレヘムの幼子とトリノの聖骸布とミサ聖祭の御聖体は一致します。

 東京では、明日、朝8時半からトリノの聖骸布の展示と、御降誕の前日のミサがあります。

愛する兄弟姉妹の皆様のうえに天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
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ローマ聖務日課2017年12月の聖務日課の訂正 movi ファイルをご紹介します

2017年12月22日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 レネー神父様から、聖務日課のファイルの訂正のお知らせがありました。

 訂正されたファイルを、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。レネー神父様のために、感謝を込めて天使祝詞をたくさん唱えて下さい。

 2017年12月分のローマ聖務日課のmoviファイル

I am very happy to be able to share a well done file in movi format in order to pray the Divine Office (Breviary) during the whole month of December 2017. This was made by Rev. Fr. Laisney. Please offer prayers for him as well while you are praying with his file.

 Breviarium Romanum mensis Decembris anno MMXVII


 天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
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