Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

私は御身を信じ、礼拝し、希望し、御身を愛します!御身を信じぬ人々、希望せず愛さぬ人々のために、赦しを求めます(天使の祈)

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
2019年 8月の聖伝のミサの予定
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】


8月 聖母の被昇天を祝いましょう。
意向:聖母の汚れなき御心の凱旋のため
実践すべき徳:心の柔和と謙遜
守護の聖人:聖母の汚れ無き御心

愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)にご招待します

◎2019年 8月の予定
【大阪】聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂(アクセスEG新御堂4階 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 
〒532-0002 (JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分)

  8月2日(初金)教会博士証聖者司教聖アルフォンソ・デ・リグオリ(3級祝日)白
          午後5時半 ロザリオ及び告解
          午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

  8月3日(初土) 聖母の土曜日(4級)白
          午前10時 ロザリオ及び告解
          午前10時半 ミサ聖祭(歌ミサ)

  8月11日(主)聖霊降臨後第9主日(2級)緑
          午後5時半 ロザリオ及び告解
          午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

  8月12日(月) 童貞聖クララ(3級祝日)白
          午前10時 ロザリオ及び告解
          午前10時半 ミサ聖祭(歌ミサ)

  8月18日(主)聖霊降臨後第10主日(2級)緑
          午後5時半 ロザリオ及び告解
          午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

  8月19日(月) 証聖者聖ヨハネ・ユード(3級祝日)白
          午前6時半 ミサ聖祭(歌ミサ)

【東京】東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図)「聖なる日本の殉教者巡回聖堂」

  8月4日(主)聖霊降臨後第8主日(2級)緑
          午前10時  ロザリオ及び告解
          午前10時半  ミサ聖祭(歌ミサ)

  8月5日(月)  雪の聖母の大聖堂の奉献(3級祝日)白
          午前7時 ミサ聖祭

  8月18日(主)  聖霊降臨後第10主日(2級)緑
          午前10時  ロザリオ及び告解
          午前10時半  ミサ聖祭(歌ミサ)

愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております。

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ポール・クレイマー神父のインタビュー:第三次世界大戦そしてもっと悪いことを? へのコメント

2006年10月26日 | 本・新聞・ウェッブ・サイトを読んで

アヴェ・マリア!


兄弟姉妹の皆様、


 ファチマ・クルーセイダー、「ポール・クレイマー神父にインタビュー」第三の秘密は予告する:第三次世界大戦そしてもっと悪いことを?
http://www.d-b.ne.jp/mikami/fc8211.htm

について、ある軍事情報に詳しい信徒兄弟の方(ゼン・トマスさん【仮名】)からつぎのようなコメントをいただきましたので、兄弟姉妹の皆様にお知らせします。ただし、コメントについては、あくまでもご参考情報ということでご理解下さい。

 


▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△



FC:しかし「共産主義は崩壊した」のですから、ロシアはもはやそのような脅威を与えないという反対論についてはどうですか?



クレイマー神父:もしあなたが、私がそうしているように、ロシアの出版物を読んでいるならば、今何が起こりつつあるかについてロシア自身の中ではいかなる不可解なこともないということが分かるでしょう。われわれはネオ・スターリン主義的独裁制が起こっているのを知っています。われわれはロシアのジャーナリストたちが、ロシアに多分民主主義が存在するとしても、なぜプーチン氏は西側の民主主義に対する戦争を露骨にそして公然と計画しているのか?という疑問について公然と問いながら、独裁制について不満を漏らしていることを知っています。

そして明らかにすべての証拠は、ロシアが西側に対する戦争のために準備しつつあるという結論へと向かっています。プーチンはフライトの途中でコースを変えることができ、すべての対ミサイル防衛網を回避できるロシアの新しい ICBM について公然と自慢しています。ロシアは今や共産主義中国と緊密な同盟関係にあり、その中国や世界の他の今なお共産主義である諸国家との軍事同盟を強化してきました。 ・・・

そしてマラキ・マーティンが言及しているその恐ろしい事柄とはこのこと:すなわち、ロシアが戦争に勝利した後、悪魔がキリストを負かしたかのような外見があるだろうということでした。


【或る信徒の方からのコメント】

★西側が通称するところのSS25トーポリMミサイルのこと。ミサイル本体から弾頭が分離された後、軌道を自由自在に変えることができるミサイルは世界でトーポリMだけであり、配備数はまだ少ないが、北朝鮮や中共の古臭い技術のミサイルと異なり、現在のミサイル防衛システムでの迎撃はほぼ不可能である。


★今やロシアと中共は上海協力機構という独裁国家の軍事・経済同盟を作った。


★現在国際政治専門家や軍事専門家によって台湾海峡における米中の衝突がもっとも懸念されているのが北京オリンピックが終わり、アメリカの大統領や台湾の総統、韓国の大統領が交代する2008年から2016年であるといわれている。北京オリンピックが終われば公共工事の急激な縮小によって、中国経済はまず間違いなく景気後退に入り、ただでさえ暴動などで反共産党の動きが出ていることを意識している中共首脳部は、国民の目をそらすために台湾や日本の沖縄に対する軍事的冒険を行う可能性が高いからである。また中共軍の戦力の拡充もそのころにはこれらのいずれかに対して限定的な戦争を可能にする。加えて、地上軍などの通常戦力の拡充を一切諦め、核戦力のみに的を絞ってロシアの軍事的プレゼンスを拡大することを決定したプーチン路線によって、2008年以降、ロシアの対アメリカの戦略核ミサイルの半数はトーポリMを主体とした新世代の核ミサイルに改変がおわる。すなわち、中共とロシアが手を組んで、打倒米英連合に対する最終戦争を行うとしたら、2008年以降のこの期間は極めてその可能性が高いといえるだろう。通常戦力に劣る中共は、その開戦劈頭から生物化学核兵器を無差別使用するであろう。これは中国国防大学教授の朱少将や前参謀総長の熊大将の発言を見れば明らかである。持てる全ての最大の破壊力を持つ兵器を使って奇襲を行わなければ、アメリカには勝てない・・・そしてアメリカと戦うのが遅くなればなるほど、旧ソ連のように内部崩壊の可能性が高くなる・・・のである。当然、米軍基地を国内に抱える日本も中共の核ミサイル24発の攻撃対象となるであろう。


★南から中共を狙うインドや、潜水艦ミサイルでロシアを牽制しているイギリス、米軍基地を抱えるトルコも攻撃対象になるだろう。中共とロシアが手を組んで第三次世界大戦を始めた場合、アメリカは負けることはないだろうが、大きな被害を受けるだろう。ロシアや中国は壊滅するだろう。アメリカの基地がある多くの国も壊滅するだろう。宗主国の押さえの糸が切れたイスラエルやパキスタンやイランは恐怖に駆られて勝手に地域核戦争を始めるだろう。世界の多くの国は滅びるだろう。


★戦争は短く激烈なものになるだろう。ICBMはアメリカからロシアまで30分で到達する。近代兵器は余りにも高価で、その製造には余りにも時間がかかるから、第三次世界大戦は始まったと思ったら数日で終了するであろう。その代わり、死者の数は極めて大きなものになるであろう

 


 ●中国の軍備拡張に警告 米国防総省年次報告(産経新聞)
http://www.sankei.co.jp/news/060524/kok060.htm

【ワシントン=山本秀也】米国防総省は23日、「中国の軍事力に関する報告書」(2006年版)を発表した。国防費の公表分だけでも18年連続の2ケタ増を続ける中国の軍備拡張に対し、報告書は「軍拡のペース、幅の広さとも、すでに地域の軍事バランスを危険な状態にしている」と警告した。
報告書は、短期的な中国の脅威が台湾に向けられていることを確認。こうした軍事力が、台湾有事に対する米軍の介入排除を狙っているほか、資源、領土・領海をめぐる周辺国との紛争も視野に置くとの分析を示した。
さらに、説明にあたったロッドマン国防次官補(国際安全保障担当)は、米本土を射程内におく改良型の移動式弾道ミサイル「東風31型A」(1万1270キロ)など、「質量そろった戦略兵器の深刻な拡充」を長期的な脅威として指摘した。
台湾に関しては、福建省など大陸沿岸に配備された短距離弾道ミサイルの数を「710-790基」と指摘。前年版の報告書の「650-730基」から60基の増強を裏付けた。中国軍の総兵力との比較では、全体の約3分の1、海軍力のほぼ半分が台湾に振り向けられたことを示している。
報告書は、想定される台湾への武力行使について、特殊部隊により政治的混乱を引き起こす限定作戦や、短距離弾道ミサイルによる集中攻撃、台湾封鎖などのシナリオも盛り込んだ。
(05/24 10:56)


◎将来の西太平洋進出にらむ 中国軍事力拡大で米報告【ワシントン23日共同】

米国防総省は23日、中国の軍事動向に関する年次報告書を公表、同国が将来的に西太平洋へ進出を図っていると指摘、今後の空母保有に向けた艦載機部隊の整備の動きがあることや、特殊部隊の強化を進めていると懸念を示した。
年次報告書は同省が毎年、米議会に提出している。台湾などが射程に入る短距離弾道ミサイルが710-790基に増え、さらに年間約100基増加していると分析。昨年の報告同様、中国の軍拡が地域の潜在的脅威になっているとした。
また、中国の軍事力拡大と軍の近代化が地域の軍事バランスを変えつつあると強調、国際社会の「責任ある利害共有者」として意図の説明や内容の透明化などを求めている。



◎宇宙空間では米中がレーザー砲の打ち合いでスターウオーズをしているというのに。実質的に米中戦争は開始されている。

 最近では、まぁ、それもいいんじゃないかと思っています。私が神父様に言ったところで、誰も何もかわらないし、誰かが危機感をもつこともないし。



 ●米中 宇宙空間でせめぎ合い
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060927-00000004-san-int

≪米偵察衛星にレーザー照射≫

 【ワシントン=山本秀也】米軍事専門紙ディフェンス・ニュース(25日付)によると、地球を回る軌道上にある米国の軍事偵察衛星が、中国領内に設置された対衛星兵器によるレーザー照射を受けた。照射は光学機器など衛星の「目」を狙って偵察能力を奪うことを目的としたもので、これまで数年にわたり複数回の照射が確認されたという。

 複数の消息筋の話として伝えた。照射による衛星への実害や、実際の運用に影響があったのかは明らかでない。この兵器は高密度レーザーを軌道上の衛星に向けて照射するものだが、中国の開発レベルでは当面、衛星の破壊よりも偵察活動を妨害する「目つぶし」を狙っているもようだ。

 米国防当局は、最近の国防報告で、偵察衛星の破壊や妨害を狙う中国の対衛星兵器の開発に警鐘を鳴らしてきた。

 米の偵察衛星には、精密な光学機器を使って高い解像度を誇る「キーホール」や、天候に左右されないレーダー装置を搭載した「ラクロス」などがあり、中国側のレーザー照射はこうした衛星を狙ったものとみられる。


≪開発分野で協力 定期会談へ≫

 【北京=野口東秀】米航空宇宙局(NASA)のグリフィン局長が23日から28日までの日程で局長として初めて中国を訪れ、国家宇宙局の孫来燕局長と会談した。中国英字紙「チャイナ・デーリー」などによると、双方は定期会談システムの構築で合意したほか、同会談が「宇宙開発分野での協力に向けた重要な一歩」との認識で一致した。米中は今後、月探査などの分野での協力を模索していくとみられる。

 新華社電などによると、双方は24日の会談で建設的な協力関係を発展させることで一致。グリフィン局長は今回の会談が「中国との協力の一歩」と述べた。

 米中の協力は、各種科学研究のデータ共有、ロボット探査などから始まるとみられる。

 中国は有人宇宙船打ち上げに成功、来年には月探査衛星の発射を予定しているが、中国の宇宙開発は軍が主導権を握り、軍事転用への懸念がある。米国としては中国の宇宙開発に協力することで、軍事面での透明性を確保する狙いがあるようだ。
(産経新聞) - 9月27日8時0分更新


 ●中国が米国のスパイ衛星をレーザー攻撃?高出力レーザーでスパイ衛星の監視能力を無力化
http://www.technobahn.com/cgi-bin/news/read2?f=200609261947

 中国が自国の領土上を飛行する米国の軍事偵察衛星(スパイ衛星)に対して高出力レーザーを発射して、米国の対中軍事偵察能力を無力化する実験を行ったと米ディフェンスニュースが26日、報じた。

 他、最近になってからロシアが米国のGPS衛星に対する電波妨害技術を開発し、実用化したことも明らかになっており、米国の宇宙システムは改めて根本的に再考を余儀なくされる事態となってきたと報じている。



 ●中共の通常兵器購入、過去5年で世界最高額
http://www.epochtimes.jp/jp/2006/03/html/d96726.html
 【大紀元日本3月27日】中央社23日の報道によると、スウェーデン・ストックホルム国際平和研究所が、中共の過去5年間、2001年から2005年までの通常兵器購入額を推算、133億4300万ドルに達し、世界最高額であったという。



 ●豪製最新兵器に中共軍当局が触手、米国防省警戒強化【大紀元日本10月7日】
http://www.epochtimes.jp/jp/2006/10/html/d18267.html



 ●中国政府、史上最強の銃器「メタル・ストーム」の発明家に100億円を提示(テクノバーン)
http://www.technobahn.com/cgi-bin/news/read2?f=200610041611



 ●中共の富の偏在
中国:人口の0.5%が全国個人資産の60%を所有
http://nikkeibp.jp/wcs/leaf/CID/onair/jp/flash_rss/418034

 中国本土は、日本を除くアジア地区で2位の資産所有国となり、現在もスピード成長を続けている。このうち富裕層は約1兆4400億ドルの資産を保有している。ボストンコンサルティンググループ(BCG)が13日発表した報告書「中国資産管理市場」では、中国富裕層の資産は今後数年、年間約13%ずつ増加すると予想している。

 BCG北京の副総裁によると、人口の0.5%に満たない個人が全国個人資産の60%以上を所有しており、これらのうち、70%以上の富が資産額50億ドルを越える家庭に集中しているという。(日中グローバル経済通信)


 ●GoogleEarthが捉えた中国の不思議な軍事基地、中国が台湾侵攻を準備?

http://www.technobahn.com/cgi-bin/news/read2?f=200608251315

【テクノバーン】(2006/8/25 13:15)先月、GoogleEarthのコミュニティーグループの間で中国の寧夏回族(ニンシャー)自治区に中印国境を模した巨大な立体模型が存在することが話題となっていることを伝えた。

 実はこの地形は北緯24°15'50.01"、東経120°37'49.16"にある台湾の飛行場(画像左)と方角、大きさの全てが完全に一致するのである。

はなはだ物騒な話であるが、GoogleEarthのコミュニティーグループの間では中国が台湾侵攻を準備して台湾の実物大の飛行場を再現して侵攻作戦のシミュレーションを行っているのではないかとする推論が行われている。



 ●着々と対米核戦争準備を進める中共
http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__2264684/detail?rd
 
上海に20万人収容の核シェルター完成、2週間滞在が可能=中国紙
【ライブドア・ニュース 07月31日】- AP通信によると、中国は上海市に核攻撃に耐える20万人収容の巨大な地下シェルターを建設したことが30日までに分かった。これは上海モーニングポスト紙がスクープとして報じたもの。シェルターの広さは9万平方メートルで、ショッピングセンターやオフィス街、アパートのほか、延べ4キロになる15のトンネルを通じて地下鉄にもつながっている。

  水、電気、照明、空調の設備を整えており、最長2週間の滞在が可能という。ポスト紙が最初に29日に掲載した記事では、シェルターの完成日時や建設目的には触れていない。

  第2次大戦中、上海は日本軍や米軍による空襲で大きな被害を受けた。戦後になって当時の指導者、毛沢東主席が冷戦中、旧ソビエト連邦(現在のロシアなど)との核戦争を警戒し巨大な地下施設を建設した。現在、人口2000万を擁する上海は中国の金融センターとして復興し、経済・産業の中心地となっている。【了】



 ●「核兵器の出現は、人類進化の結果である。我々中国は核競争に先行し、それにより他国の人口を減らすと同時に、自国の人口を保ち、将来全世界で大きな割合を占めるはずだ。将来、人類の進化進展に重要な位置を占拠するように努力すべきで、核戦争を経て、我々は百年あまりの重荷を下ろし、全世界を手に入れることができる」
中国人民解放軍・朱成虎少将・2005年7月6日の発言

 


 ●中共は二人の地下教会の神父を逮捕
http://www.ntdtv.jp/xtr/2006/10/html/n98904.html

 9月30日、米国「カーディナル・クン基金会」は、中共警察が深センで二人の浙江省温州市の地下教会の聖職者を逮捕したこと明らかにした。

 逮捕されたのは神父・邵祝敏氏と姜溯念氏。「カーディナル・クン基金会」によると、二人の神父はヨーロッパから中国に帰ってきたばかりで、深センで入国した後、間もなく警察に逮捕された。現在彼らが拘禁されている場所は不明だ。邵祝敏氏と姜溯念氏は過去にも逮捕され監禁されたことがあった。1999年、姜溯念氏はいわゆる「聖書、賛美歌を違法出版」したという罪名で6年間投獄されていた。



 ●中国河北省で司教、司祭と信徒90人逮捕
http://blog.livedoor.jp/cjcpress/archives/50570739.html

 【CJC=東京】中国河北省で非公認(地下)カトリック教会のヤオ・リャン司教(82)、司祭と信徒90人が7月30日逮捕された、と米国に本拠を置く抑圧監視団体『カージナル・クン・ファウンデーション』が明らかにした。
 カトリック通信『アジア・ニュース』は、国務院宗教事務局が、教会の所有財産の扱いについて協議するため、同司教を張家口に呼び出していたところを逮捕された、と伝えている。
 シワンジ教区の李フイシェン神父(33)は8月1日に捕らえられ、拷問されたものの、同日夜に釈放された。
 これらの逮捕に抗議して信者90人以上が警察署前でデモを行ったが、警告の後に実力行使で解散させられた。
 公安局は8月2日早朝、警察官500人を動員、張家口のカトリック信者宅を急襲、約90人を逮捕した。その際、釈放され帰宅していた李神父を再逮捕した。
 『アジア・ニュース』によると、捜索の背後に、内モンゴル自治区にあるムオジ山への巡礼旅行がある。
1世紀以上にわたって、教区は巡礼旅行を組織していたが、今年は、宗教事務局と警察から禁止された。
 逮捕者の中で約70人がこれまで釈放されている。



【以上でコメントの終わりです】


FC:それでは希望はないのですか?

クレイマー神父:その反対に、好結果の聖母が言われたように、たとえわれわれが最悪の出来事を回避しないとしても、希望のための大きな理由があります。実際、ファチマの聖母御自身、ロシアの奉献が最終的にどれほど遅くなされても、聖母の汚れなき御心は勝利するでしょうと言われました。

インタビューについて、詳しくは次をご覧下さい。
http://www.d-b.ne.jp/mikami/fc8211.htm

 

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ダ・ヴィンチ・コードについてカトリック香港司教区で反論のDVD

2006年10月26日 | ダ・ヴィンチ・コード、ここがおかしい

アヴェ・マリア!


 兄弟姉妹の皆様、
 ダ・ヴィンチ・コードについてカトリック香港司教区で反論のDVDを出しています。
 
くわしくは、次のサイトをご覧下さい。

http://www.hkdavc.com


A Masterful Deception + The Da Vinci Files
http://shopping.hkdavc.com/shop_pdetail.asp?pd=dvd_davinci



 また、バチカンと台湾についての陳日君枢機卿のインタビューは次のDVDに収録されています。


梵蒂岡當案 I (創刊號,06年4月號)
The Vatican Files I (April 06)
http://shopping.hkdavc.com/shop_pdetail.asp?pd=dvd_vatican01
http://shopping.hkdavc.com/shop_pdetail.asp?lang=b5&pd=dvd_vatican01&tp=&num=


* 獨家專訪:陳日君樞機談中梵及台灣...... (繁/簡體中文及英文字幕)
* Exclusive Interview with Cardinal Joseph ZEN: Sino-Vatican relationship and Taiwan (Cantonese, Tradition/Simplified Chinese and English Subtitle)
http://shopping.hkdavc.com/photos/dvd_vatican01_4s.jpg

 



 その他、同シリーズは次をご覧下さい。

The Vatican Files II (May 06)
http://shopping.hkdavc.com/shop_pdetail.asp?pd=dvd_vatican02
http://shopping.hkdavc.com/shop_pdetail.asp?lang=b5&pd=dvd_vatican02&tp=&num=

Vatican File III (July 06)
http://shopping.hkdavc.com/shop_pdetail.asp?pd=dvd_vatican03
http://shopping.hkdavc.com/shop_pdetail.asp?lang=b5&pd=dvd_vatican03&tp=&num=

 


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 第二ヴァチカン公会議の「洗礼の秘跡による信徒の祭司職」について

2006年10月26日 | ミサ聖祭

アヴェ・マリア!


 第二ヴァチカン公会議の「洗礼の秘跡による信徒の祭司職」について



 第2バチカン公会議の文脈の中での司祭像は、トリエント公会議の司祭像と180度観点を転換させたものだ、と言うことは誰の目にも明らかです。


 アルバロ・デル・ポルティーリョ師(Mgr del Portillo, 1914年マドリード生 ― 1994年ローマ没、オプス・デイ創立者エスクリバー師の片腕として働き、その後はその後継者としてオプス・デイを指導)は、『司祭の召命と使命(Vocation et mission du Prestre)』 Editions Le Laurier, Paris, 1991で、その問題を指摘しています。



 ローマの国際神学委員会が提示した『司祭的役務』は、第二バチカン公会議の司祭像とトリエント公会議の司祭像とは対立があると指摘しています。


 第二バチカン公会議の時に神学顧問であったレキュイェ神父(Pere Lecuyer)はこう言います。

「この出発点そのものからして、聖トマス・アクィナスが叙階の秘蹟の神学を取り扱ったやり方との根本的な相違を、私たちは強調するのが重要であると思われる。第2バチカン公会議は、新約聖書の与件に忠実に従いながら、使徒的役務を、教え・秘蹟と礼拝を司り、民を指導する三重の役割を含めた一つの全体として考察する。他方で聖トマス・アクィナスは、出発点として、秘蹟の執行者、特に御聖体の執行者としての権能からのみ考察している。」



 では第二バチカン公会議によるあたらしい司祭像とは何でしょうか?



 ◎ すでに第二バチカン公会議の中で、新しいミサの原点となる「信徒の共通司祭職」が全ての司祭職の出発点と考えられています。


(私は、新しい神学の流行である「祭司職」と「司祭職」との言葉を区別せずに、同じ「司祭職」で統一してあります。何故ならその区別の必要がないと思われるからです。その理由は、「マニラの eそよ風」167号をごらん下さい。
http://immaculata.web.infoseek.co.jp/manila/manila167.html



 他方で、聖トマス・アクィナスやトリエント公会議では、「いけにえを捧げる」ということが司祭職(司祭の司祭職もそうですが、信者の「司祭職」も)の基礎です。



 そして第二バチカン公会議によれば、信者の共通司祭職を基礎として、政治的な必要性から司祭の職務的司祭職が生まれてくる、と言うのです。


 こうして、信徒の共通司祭職を出発点として職位的司祭職を確立させるのです。この結果、司祭とはまず上に立つもの、座長なのです。


 司祭は、信徒たちとの関わりのうえに成立したものであるが故に、「御聖体を聖変化する者」というよりは、何よりもまず、座長という存在になるのです。


 従って司祭は、いけにえを捧げるもの、といわれるより以前に、第一に「牧者」なのです。

 


 ◎ では、信者の共通司祭職は何をするためにあるのでしょうか? 何故、司祭職が必要なのでしょうか? 


 司祭職とは、第二バチカン公会議によれば「宣教」のためにあります。司祭職の目的は宣教(mission)です。


 そして第二バチカン公会議によれば、司祭の専門職的司祭職は、信者の宣教という司祭職を助けるためにあります。


 『教会憲章』もそう言います。ヨハネ・パウロ2世も回勅『女性の尊厳について De dignitate mulieris』において「職位的司祭職は本性によって奉仕である」と言っています。



 トリエント公会議やカトリック聖伝によれば、司祭の司祭職は御聖体というイエズス・キリストの真の御体を取り扱うために、御聖体を聖変化させるために、ミサ聖祭のいけにえを捧げえるためにあります。


 しかし第二バチカン公会議は、司祭の司祭職は、キリストの神秘体である信徒を取り扱うために存在する、というのです。これは根本的で本質的な違いです。



 ◎ だから、『典礼憲章』はキリストがミサ聖祭において無流血のやり方で真の意味で屠られることを言わずに「十字架の犠牲」と「死と復活の記念」を語り、「キリストが食される復活の祝宴」を強調します。


 第二バチカン公会議によれば、ミサ聖祭は、秘跡的に現実化される十字架上の罪の償いのための贖いというよりも、ライトモチーフとしての過越(復活)の祝宴、過越(復活)の秘義へと結びつくのです。


 新しいミサで復活が強調されていることは、年がら年中「復活のロウソク」が飾られていることでも象徴されています。



 だからこそ、第2バチカン公会議後に出来た、新しいミサ典書では「神の民」という唯一の典礼の執行者しか認めないのです。


 司祭は、神の民の座長としての存在であるが、主役はあくまでも信徒であるから、また、ミサは何よりもまず、神の民の集会であり、信徒がミサを捧げるのであるから、彼らがみことばを読み、聖体を授けることを、司祭は座長として司会する役務を持つだけなのです。信徒が主体的に行為させなければならないとされるのです。



 「参列者が能動的に参加する事」は、新しいミサにおいては、ミサをささげるのが司祭ではなく、会衆(神の民)であるとして理解されています。良く読んで下さい。


「主の晩餐、またはミサは、聖なる集会の儀、すなわち「主の記念」を祝うために、司祭を座長として、一つに集まった神の民の集会である。したがって、「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいる」(マタイ18・20)というキリストの約束は、とくに教会が、それぞれの地域で集まる時に実現される。」(新しいミサの総則の第7条)


 これは単なる強調点の違いではありません。本質的な違いです。


 従って、司祭は神の民のために存在しするのだから、神の民の方に向けられていなければならないのです。


 だから、ミサは、人間を天主へと結びつけると言うよりも、むしろ人間と人間とを結びつけるものであり、会衆へ、人間へと向かうものになってしまったのです。「人間こそ、われわれの全叙述の中心点」(『現代世界憲章』3)であり、「地上に存在するあらゆるものは、その中心および頂点である人間に秩序づけられなければならない」(『現代世界憲章』 12)からです。


 だから、司教様や司祭たちは、司牧上においても、社会正義・人間の尊厳・この世との対話について、信徒らを指導し、それを率先して実践しなければならない、とされたのです。従って、日本カトリック正義と平和協議会(正平協)などに積極的に活動するようになってこそ、第二バチカン公会議の理想的司祭像なのです。



 しかし、歴代の教皇様はじめ、トリエント公会議、カトリック教会の聖伝は、司祭職はいけにえにその起源を持つといっています。ここに相互に本質的に対立矛盾する司祭職の違いがあるのです。



 聖伝のミサと新しいミサとの本質的な違いは、ラテン語や司祭がどちらを向くかの違いではありません。信仰の違いです。



 新しいミサが出た直後、これらの大きな違いをプロテスタントの牧師たちにはすぐに分かりました。プロテスタントの牧師たちは、新しいミサならば神学上の問題なく自分たちも捧げることが出来ると言っています。



 残念ながら多くのカトリック信者にはこの本質的違いが理解できませんでした。しかし少数のカトリック高位聖職者達には明らかなことでした。



■オッタヴィアーニ・バッチ両枢機卿のパウロ6世教皇聖下への手紙(1969年9月25日)
http://fsspxjapan.fc2web.com/pro_missae/rappot.html


「もし暗になされた、或いは当然なされた改革を私たちが考察するとき、この改革は様々な仕方で評価できるかもしれませんが、新しい司式はその全体といいまたその詳細といい、トレント公会議の第22総会で宣言されたミサに関するカトリック神学から目を見張るばかりに逸脱しています。



■新しい「ミサ司式」の批判的研究
(オッタヴィアーニ・バッチ両枢機卿のパウロ6世教皇聖下へ提出した書類)
http://fsspxjapan.fc2web.com/pro_missae/ottaviani2.html


「聖別の言葉は、以前のミサにはあった言葉それ自体が意味する様式(modus significandi)が変えられてしまっているために、それに自体によっては、有効性を失っているからである。近い将来、聖伝にかなう養成を受けずに叙階される司祭たちが「教会のしていることをする」ために新しい司式に信用しきったとしたら、彼らは有効に聖変化を執行するのだろうか?この有効性に疑いを抱くことは許されている。」



■ルフェーブル大司教(1976年6月29日)
http://fsspxjapan.fc2web.com/ser/lefebvre3.html


新しい典礼様式は、知っているか知らないかに関わらず、カトリックの宗教とは別の概念を、ある別の宗教を前提としています。つまり、ミサ聖祭を捧げるのは、もはや司祭ではありません。それは会衆です。このことのために、全てはプログラムされています。金輪際、教会の権威に取って代わるのは、会衆です。司教たちの個人的な権力に取って代わるのは、司教団です。教区のなかの司教の権力に取って代わるのは、司祭たちが集ってつくる司祭諮問会です。今後、教会を動かすのは、数です。そして、そのことはミサのなかで明らかに表明されています。ミサでは、会衆が司祭の代わりになっているからです。それは、今では多くの司祭が会衆のない時にはもはやミサを捧げようともしないと言うところまでいっています。徐々に、聖なる教会のなかに、ミサに関するプロテスタントの考え方が導入されています。」



 くわしくは、拙文をお読み下さい。


第1部 原理
[1] 『司祭の役務と生活に関する教令』の序文(「マニラの eそよ風」283号)
http://immaculata.web.infoseek.co.jp/manila/manila283.html


[2] 『司祭の役務と生活に関する教令』の2番(「マニラの eそよ風」284号)
http://immaculata.web.infoseek.co.jp/manila/manila284.html


[3] 『司祭の役務と生活に関する教令』の論理構造(「マニラの eそよ風」285号)
http://immaculata.web.infoseek.co.jp/manila/manila285.html



第2部 論理的結論

[4] 第2バチカン公会議の新しい司祭が捧げる「いけにえ」とは何か?(「マニラの eそよ風」286号)
http://immaculata.web.infoseek.co.jp/manila/manila286.html


[5] 典礼上の論理的結論(「マニラの eそよ風」287号)
http://immaculata.web.infoseek.co.jp/manila/manila287.html


[6] 結論(「マニラの eそよ風」288号)
http://immaculata.web.infoseek.co.jp/manila/manila288.html

 




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コメント (3)

新しいミサの神学的な問題点: 新しいミサの基礎になっている考えとは何か?

2006年10月21日 | ミサ聖祭

アヴェ・マリア!


 新しい神学は「ミサ」についてこう教える。


【ミサの定義】 ミサとはまず「集会」。(十字架の犠牲ということは重要な要素ではない。)


【復活の神秘(=過越の神秘)】 ミサではキリストの復活が祝われる。(十字架像のイエズス・キリストよりも、復活のキリストが飾られる。)


【罪の概念】 罪は人間共同体に対する悪であり、自分自身を苦しめるもの。(罪は、天主に対する侮辱という次元はほとんど語られない。)


 従って、私たち人間は罪故に当然受けることになった苦しみの赦しを天主に願い求めることもなく、天主が罪人たちに対してお怒りにならないようにと宥める必要はない。


【新しい「贖い」の概念】
「贖い」とは、聖父が私たちに持つ無償の溢れるばかりの愛を十全に啓示すること。
聖子(キリスト)ではなく、聖父が愛によって普遍的な贖いを行った。キリストは聖父の愛を示す人間にすぎない。


 従って、典礼儀式は、感謝とお願い以外の何ものでもありえない。



 他方で、トリエント公会議は、こう教えている。


「ミサにおいて真実の固有のいけにえが天主に捧げられない」とか
「捧げられるというのは、キリストが・・・私たちに与えられることに他ならない」とかと言う者は排斥される。


 また、

「ミサのいけにえはただ賛美と感謝のいけにえである、あるいは、十字架上で行われたいけにえの単なる記念であって、罪の償いのいけにえではない」と言う者は排斥される。


 そこで、聖伝のミサは、古典的な神学の観点に立ち、キリストの死の償いの価値を贖いの業にとって本質的なものと捉えている。



 従って、新しいミサとは、新しい「贖い」の概念の上に成り立って作られているものだ。



【何故??】
 では、何故、新しいミサは、新しい「贖い」の概念の上に成り立ちえるのか。一体新しい神学の基礎になっている考えとは何なのだろうか? なぜ新しい神学・新しい考え方が生じてきたのか? 



 これを見るためにカトリックの聖伝の教えをまず見よう。


 キリスト教において、何が最も本質的に啓示されたことがら、キリスト教が創立以来、キリスト教がキリスト教となさしめている最も本質的な啓示、信仰をもって受け入れられるべきこととは、「天主の聖子が人の子になった filius Dei filius hominis factus est」ことである。


 これこそが、天主から人間に啓示され、人間がそれを信仰をもって受け入れるべき事柄の核心であるからだ。


 だからこそ、公教要理はこう説明しているのだ。

106 天主の正義にふさわしいつぐないをするために、イエズス・キリストは天主であると同時に人間である必要がありましたか。


 苦しみ死去するためにイエズス・キリストは人間でなくてはならず、この苦しみが無限の価値を有するためには同時に天主でなければなりませんでした。


 ここにキリスト教の核心がある。これがなければキリスト教は本当のキリスト教ではなくなってしまう。

 


【新しい教え】


 では、今、教会内部で流行している新しい神学は何と言っているだろうか?


 たとえば百瀬文晃著『イエス・キリストを学ぶ』(サンパウロ1989年)によると、ヴィーダーケアを引用して「イエスは神の子になるという在りかたで神の子である」(219ページ)と言い、パネンベルクを引用し「イエスの復活というできごとは、ただ単に認識の餓えでのみならず、真に存在それ自体においてイエスを神の子とし、いわば遡及的に、生前のイエスの生の全体を神の子のそれとするのだ」(220ページ)という。


 つまり『イエス・キリストを学ぶ』の「下からのキリスト論」によれば、復活というできごとによって「人の子は神の子となった」としている。


 つまり「下からのキリスト論」は、「天主の聖子が人の子になった 」ことのではなく、復活というできごとによって「人の子は神の子となった」とするのだ。だから「下からのキリスト論」は、私たちの信じているキリスト教ではない。


 しかし、新しいミサでは、まさにこの「下からのキリスト論」に従って、復活が強調されている。


「『神の子』の意味は、イエスにおいて神が現在し、イエスを通して神が働き、イエスの生と死と復活を通して神がご自身を表現されるといういみである。」(上掲書219ページ)


 「贖い」とは、聖父が私たちに持つ無償の溢れるばかりの愛を十全に啓示すること。聖子(キリスト)ではなく、聖父が愛によって普遍的な贖いを行った。キリストは聖父の愛を示すにすぎない


 「下からのキリスト論」はこう言う。「新約聖書の根本的な確信、そしてキリスト教信仰の神髄は、神がナザレのイエスをとおしてご自身を最終的、決定的な形で啓示された、という信仰である。」(上掲書221ページ)


 従って、典礼儀式は、感謝とお願い以外の何ものでもありえない。


 だから、新しいミサの定義において、ミサはまず「集会」であり、十字架の犠牲ということは重要な要素ではないのだ。


 曰く「主の晩餐、またはミサは、聖なる集会の儀、すなわち「主の記念」を祝うために、司祭を座長として、一つに集まった神の民の集会である。したがって、「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいる」(マタイ18・20)というキリストの約束は、とくに教会が、それぞれの地域で集まる時に実現される。」(新しいミサの総則の第7条)



【結論】


 私たちは既に、新しいミサと新しい神学が密接に関係していることを見てきた。従って、私たちは次のように言うことが出来るのではないだろうか。



聖伝のミサは、
「天主の聖子が人の子になった」ということの上に成立している。
従って、「人の子になった天主の聖子」イエズス・キリストは、真の意味で私たちの贖い主である。
だから、聖伝のミサにおいて、真実の固有のいけにえが天主に捧げられ、罪の償いのいけにえである。

 



新しいミサ(現行のミサ、1969年から始まったミサ)は、
復活というできごとによって「人の子は神の子となった」ということの上に成り立っている。

従って、復活というできごとによって「人の子を神の子とした」父なる神が、私たちを救った
だから新しいミサによれば、捧げられるというのは、キリストが私たちに与えられることに他ならない、だから、私たちは天主から与えられたことを賛美し感謝し受けるだけである。これが「過越の神秘」である。


聖伝のミサと新しいミサとでは、こんなにも違うのだ!!


 では、一体何故、新しいミサを成立させた新しい神学が生まれてきたのか? 一体どこで道を間違えたのか? 新しい神学はどこからおかしくなったのか? 何故か? そのために新しいミサはどこがおかしくなってしまっているのか? 




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コメント (6)

キリスト教の核心とは何か? キリスト教創立以来、一貫して変わらない信仰箇条の本質は何か?

2006年10月18日 | カトリックとは

アヴェ・マリア!


キリスト教の核心とは何か? キリスト教創立以来、一貫して変わらない信仰箇条の本質は何か?



 キリスト教において、何が最も本質的に啓示された現実なのだろうか? キリスト教が創立以来、キリスト教がキリスト教となさしめている最も本質的な啓示、信仰をもって受け入れられるべきこと(現実)とは何か? それの一つでも否定されてしまったらキリスト教がキリスト教ではなくなってしまう、というその核心は何なのだろうか? キリスト教の本貫であるカトリックの信仰の山とは何なのだろうか?


 聖アウグスティヌスは、それは「天主の聖子が人の子になった」ことであると答えている。De Trinitate, I, c. 13, n.28. filius Dei filius hominis factus est.


 これこそが、天主から人間に啓示され、人間がそれを信仰をもって受け入れるべき事柄の核心である。


 だからといって、その他のことがらは非本質的な事柄であるという意味ではない。信仰箇条にあることは全て信ずるべき真理であるが、それを信ずるべきである根拠はすべて、天主の聖子であり人の子となったイエズス・キリストによって語られたことにある。


 ここで私たちが「天主の聖子」という時、比喩的な意味ではない。現実的に、レアルに、文字通りの天主の聖子である。これは人々がナザレトのイエズスにつけた尊称ではなく、まさに「人の子」イエズスご自身が、「天主の聖子」としてキリストを告白することを弟子達に容共なさっている。人の子イエズスは、真実の意味で、レアルに、比喩的な意味ではなく天にまします天主を自分の聖父と呼んだ。司祭長の前で自分が「天主の聖子」であると認めたことが、死刑に処せられる決定的な原因となった。ユダヤ人らがイエズスを殺そうと決意したのは、イエズスが「天主を私の聖父と呼び、自分を天主と等しいものとした」からである。


 この言葉の固有の意味での「天主の聖子」が「人の子」となるのであるが、一個の人間としての、人間を親として持ち、この世に生まれ、この世の生活を送り、苦難を忍び、殺され、死んでいる「人の子」である。


 キリストは単なる優れた人間や義人、聖人として記念され讃えられる義人の一人ではなかった。それ以上のものだった。


 この世に生きて死んだ人の子イエズスは、「人の子」でありながら「天主の聖子」だった。しかも崇高な人間だったといういみでの「天主の聖子」ではなく、真実に天主の聖子なのである。イエズスは弟子達に向かって、この信仰告白を要求している。


 イエズスが本当に真実に、人類の救い主であるためには、真実に「人の子」であるとともに、また真実に「天主の聖子」でなければならない。


 イエズスが十字架に付けられた時、苦しいふりをしていたのではなかった。苦痛のふりを見せただけではなく、真実に肉体的苦痛をうけた。もしも単なる見せかけや「ぶりっこ」にすぎなかったら、イエズスの苦しみは意味を失う。従って、罪の贖いのいけにえの意味もなくなる。従って、イエズスは救世主ではなくなる。


 また同様に、イエズスが単なる「人の子」にすぎないならば、たとえ偉大な預言者であったとしても、有限な「人の子」のいけにえの価値は有限であり、天主に対して犯された罪を贖うことは出来なかった。イエズスが真に救い主であるためには、真に「天主の聖子」でなければならない。しかも尊称としての名目上の、比喩的な意味で「神の聖子」ではなく、真実に天主であり、「父なる天主」と真実に等しい、真実の「天主の聖子」でなければならない。


 そしてこの真実の天主の聖子が、真実の人の子となった、ここにキリスト教の啓示の核心がある。


(以上は、山田晶著『トマス・アクィナスの《レス》研究』の中の第5論文「レスとラチオ」を参考にしました。)

 



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コメント (1)

心から聖伝のミサにご招待いたします。

2006年10月18日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア!


 ■ 聖伝のミサにようこそ! ■ WELCOME TO THE TRADITIONAL MASS!


 兄弟姉妹の皆様、


 兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサに心から歓迎します! 


(聖伝のミサは、本来なら「ローマ式典礼様式のミサ」と呼ばれるべきでしょうが、第二バチカン公会議以前のミサ、聖ピオ5世のミサ、古いミサ、昔のミサ、旧典礼、ラテン語ミサ、トリエントミサ、トリエント公会議のミサ、伝統的ミサ、伝統ラテン語ミサ、・・・などとも呼ばれています。)



 何故なら、新しいミサについて、典礼聖省の新しい事務総長であるランジット大司教様はこう言っているからです。


■2006年6月22日■


【ランジット大司教】:
 不幸なことに、第二バチカン公会議以後に、幾つかの変化は充分な考察無しに、あわてて、その時の熱狂にかられて、過去からの行き過ぎの拒否としてなされている。このことのために望まれたこととは全く反対のことへと状況を導いた。・・・私たちは典礼が間違った方向に行ったと見ることが出来る。たとえば、聖なるものと神秘を捨てたことだ。これは(信徒の)共通司祭職と(叙階を受けた者の)特別な召命である職務的司祭職との混乱を引き起こした。言い換えると、平信徒の役割と司祭の役割との混乱がある。また、聖体祭儀は、キリストのカルワリオにおけるいけにえの記念でありこのいけにえの救いのための秘跡的効力ということに強調がおかれる代わりに、共同の会食と考えられる概念がある。まだそのほかにも変化があり、教会を空にして「プロテスタント化」した事実というようなこともある。



(2006年6月22日、ローマのIメディアのインタビューで、典礼聖省の事務総長、ランジット大司教の言葉)

 


■2006年6月25日■


【ランジット大司教】:
 (第二バチカン公会議後の典礼改革で)多くの移行がなされ、それは典礼の本当の感覚を見えなくしてしまった。第二バチカン公会議後の開学において典礼の祈りの指針(方向付け:オリエンテーション)は必ずしも第二バチカン公会議の文書を反映しているものではないと私たちは言うことが出来る。


(2006年6月25日、フランスの公式カトリック紙である「ラ・クロワ紙」のインタビューで、典礼聖省の事務総長、ランジット大司教の言葉)



■2006年7月13日■


【ランジット大司教】:
 公会議後の改革は・・・あまり肯定的ではない結果を生み出した。

 典礼聖省は、新しいミサにおける典礼の乱用を嘆く人々からの手紙を毎日受け取っている。司祭は好き勝手なことをし、司教らは目をつぶっている、或いは司祭たちのすることを「刷新」の名によって正当化している。・・・私たちは黙っていることができない。気を付けて見張っているのが私たちの責務だ。何故なら、ついに人々はトリエント・ミサに与りに行くようになるだろう。私たちの教会は空っぽになってしまうだろうからだ。トリエント・ミサは、ルフェーブル派の所有物ではない。


(2006年7月13日、ローマのIメディアのインタビューで、典礼聖省の事務総長、ランジット大司教の言葉)


【詳しくは次をご覧下さい:フランス語】
http://www.dici.org/actualite_read.php?id=1296&loc=Fr
【英語】
http://www.dici.org/actualite_read.php?id=880&loc=US



何故なら、聖伝のミサは、聖ピオ5世教皇様の大勅書によって義務化され永久に有効なミサ聖祭だからです。


「余によって命ぜられたものより他のやり方でミサ聖祭を捧げる事が無いように。又、何によってであろうともこのミサ典礼書を変更すべく強いられ、強制される事無く、又この手紙が決していつの時代でも変更されることの無く、却って〔この手紙が〕常に堅固、且つその適応範囲において有効であるように、同じく余は規定し宣言する。」


「・・・ 故に、絶対に誰一人として、余のこの許可、規定、命令、勅令、決定、認可、許可、宣言、意志、政令及び禁止のページに背反し、或いはそれに大胆にも背く事のないように。もしも、誰かがそれを企てようと敢えてするとしたら、全能の天主〔の憤慨〕及び使徒聖ペトロとパウロの憤激をかうと言う事を覚えよ。」

(1570年7月14日聖ピオ5世の大勅令『クォ・プリームム』)



「聖ピオ5世のミサ典書は、一度も廃止されたこともないし禁止されたこともありません。」
(2006年7月21日、ローマのIメディアのインタビューで、典礼聖省の事務総長、ランジット大司教の言葉)

 


     <2006年10月>


【大阪】大阪市東淀川区東中島1-18-5 新大阪丸ビル本館(JR新大阪駅の東口より徒歩5分)「聖母の汚れ無き御心巡回聖堂」


20日(金)証聖者ケンティの聖ヨハネ(3級祝日)白 大阪 午後5時半
21日(土)聖母の土曜日(4級)白 大阪 午前11時


【東京】東京都文京区本駒込1-12-5曙町児童会館1F 「聖なる日本の殉教者巡回聖堂」

21日(土)午後6時半 グレゴリオ聖歌に親しむ会(http://sound.jp/gregorio/
     午後8時40分 グレゴリオ聖歌による終課

22日(主)午前10時  ロザリオ及び告解
          聖霊降臨後第20主日(2級)緑 午前10時半
     午後2時半 公教要理の霊的講話
     午後4時半 グレゴリオ聖歌による主日の第二晩課

23日(月)平日(4級)東京 午前7時
24日(火)大天使聖ラファエル(3級祝日)白 東京 午前7時

 

 詳しいご案内などは、
http://fsspxjapan.fc2web.com/ordo/ordo2006a.htm
http://fsspxjapan.fc2web.com/2.html

または
http://immaculata.web.infoseek.co.jp/manila/manila351.html

 などをご覧下さい。


それでは、皆様のおこしをお待ちしております。


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兄弟姉妹の皆様の応援を感謝します!


天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

 


 

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 ジンギス・カンと金正日: 私たちは一体どうすればよいのか?

2006年10月16日 | 本・新聞・ウェッブ・サイトを読んで

アヴェ・マリア!


 ジンギス・カンと金正日: 私たちは一体どうすればよいのか?



 ソウルからマニラに移動する時、飛行機の中でBBC 制作のジンギス・カン(チンギス・ハン、成吉思汗、Genghis Khan)を紹介する短いフィルム(BBC Genghis Khan)が上映されていた。


 モンゴルに生まれたテムジンは、今から丁度800年前の1206年にジンギス・カンとなりモンゴル帝国の支配者となった。


 モンゴル民族は、遊牧民であり放牧生活をしていた。モンゴルには歴史上テムジンのような男は存在したこともなかったし、今に至るまで存在していない。突然変異のように世界征服者がモンゴルに誕生した。彼は全世界を征服し破壊し尽くすことを天が自分に与えた使命だと信じていた。


 幼少の頃、兄弟が自分に食べ物を分けてくれないのを怒り、兄弟に矢を放ったテムジン。兄弟はその傷が原因で死亡した。モンゴルでは当時、遊牧民ごと互いに争い合っていたが、別のライバル遊牧民に自分の天幕部族が襲われ、妻を盗まれたことを怒ったテムジンは、仲間を連れてそのモンゴルにいた最強の部族を全滅させて妻ボルテを奪い返した。まだ二十歳だった。テムジンは、さらに自分の部族内にいたライバルのジャムカとの戦いに勝ち抜き、遂に「天下の大王」(ジンギス・カン)となる。


 ジンギス・カンが最初にやったことは、自分の存在を許さないであろう最強の隣国を倒すことだった。それは金であり、その首都(今の北京)に長城を超えて行き、その豊かな都市を全滅させたことだった。馬に乗って自由に動き回る彼らにとって、都市や建築物や文明は邪魔者であり、異物であり、奇怪であり、脅迫であった。永遠の青空の子らは、都市などないほうが快適であった。彼らにとって戦いが始まれば、相手を老若男女、何も残さずに滅ぼし尽くすまで続けられた。略奪・強姦・虐殺、何でもやった。


 中国の北方のほとんどと中央アジアを征服し、カラコルムに帝国の中心地を構えたジンギス・カンは、西に使者をやった。西のイスラム大王国であったホラズムである。しかし地方の豪族の誰かはこの使者を殺害してしまった。使者の首が自分の元に届けられたジンギス・カンは怒り、西征を始め、豊かなボハラやサマルカンドは何も残されずにことごとく破壊尽くされた。ホラズムの王ムハンマド二世は逃亡したが殺された。1220年のことだった。


 ジンギス・カンの子供達は西征を続け、豊かな都市を全滅し続けた。西征の総司令官は、ジンギス・カンの孫(長男ジュチの子供)バトゥだった。彼らの敵は彼らよりもはるかに多かった。しかし戦いに慣れた彼らは彼らを打ち倒し続け、古代からの由緒ある都市を多く破壊し続けながら南ロシアまで進んだ。住民は容赦なく虐殺された。敵との約束を裏切ることも平気だった。ジンギス・カンは帰国後西夏を再征して滅ぼした。1227年、全世界を征服することを天命であると信じていた男は、その帰途に病死した。しかしジンギス・カンの子供達が彼の使命と信じていたことを続けた。テムジンの第3子であるオゴタイが彼の跡を継いだ。


 南ロシア・ポーランドから1241年のクリスマスにモンゴル族は凍てつくダニューブ河を超えた。ブダを攻略し、クロアチアに侵略し、ウィーン近辺までオーストリアを壊滅状態にしていった。彼らに敵はいなかった。そんな時、西征の総司令官バトゥのもとにオゴタイ病死の知らせが届いた。オゴタイの後、誰が皇帝の地位を後継するかを決めるクリルタイ(集会)でバトゥが影響力を及ぼすために、バトゥはモンゴルに戻ることを望んだ。突然彼らは撤退した。ヨーロッパは崩壊を免れた。彼らは突然現れ、突然消えていった。ただし彼らは南ロシアには拠点を残し、キプチャク(金の天幕)と呼ばれる帝国を作った。


 モンゴル帝国は、アジアでは南宋を滅ぼし、チベットと高麗を征服し、ヴェトナム、ビルマ、ジャワを従えた。日本侵略も試みたが神風がふき失敗した。日本は天主の御恵みでモンゴルの侵略を免れた。天主に感謝! またバグダードを滅ぼしアッバース朝を滅ぼした。モンゴル帝国は、アレキサンドロ大王の帝国よりもローマ帝国よりもはるかに広範囲にわたり、テムジンがやった程の広範囲の世界を征服した男はかつていなかった。彼の遺骸はモンゴル高原に運ばれたが、その埋葬地は今もって誰も知らない。



 その当時に生きていた諸民族にとってモンゴル帝国は恐るべき威嚇であった。戦々恐々として生きていたに違いない。短い映画だったが、とてもリアルに出来ており、私はおそろしいことだったと思った。テムジンが幼少にして兄弟を死に至らしめたのを見て、その姿は、幼いシューラを溺死させたと言われる金正日と重なった。


 何故、天主は800年前に、テムジンのような男が出現するのを許したのか? テムジンのような残虐な男は何人か存在した。レーニンがそうであり、スターリンがそうであり、ヒトラーもポルポトも毛沢東もそうだった。バチカンの跋魔師ガブリエレ・アモルト師によると、ヒトラーとスターリンは悪魔にとりつかれていた、という。そして旧ソ連の傀儡である金日成やその後継者の金正日もそうだ。ヒトラーの場合には、天主は世界征服を許されなかった。西側諸国はそれを阻止することに成功した。



 北朝鮮は、自国民を餓死させながら何故核開発をし、ロケットを開発しているのか? そのために何故、麻薬や覚醒剤また偽札を製造しているのか? 何故、北朝鮮は核実験をしたのか? 何故、数年前にした南北非核宣言を無視するのか? 何故、ウソとデタラメを言い続けているのか? 彼らのやることは私たちの理解を超えている。



 北朝鮮は、いわば、モンゴル帝国の遊牧民のようではないだろうか。彼らはもはや軍事組織以外に何も持っていないように思われる。産業も大都市もないが、しかし攻撃して何かを破壊しようと思えばそれが出来る。日本製のGPSやリモコンを飛行機に付けて核弾頭を付けるだけで、どこにでも攻撃を仕掛けることが出来るではないか。そんなことをやったら、韓国やアメリカから武力的な反撃が来るからできない? 反撃をしたところで今と比べてどれ程のダメージがあるのだろうか? それよりも北朝鮮からの一発でも、核爆弾がソウルではじけたら、あるいは東京ではじけたらどれ程のダメージを与えることが出来るかしれない。北朝鮮がロシアと組んで、金正日体制死守のために、ロシアの代理戦争を始めるかもしれない。彼らのやることは私たちの理解を超えているから、「彼らがそうすることは有り得ない」と言うことさえ有り得ない。


 ヒトラーの時、ヒトラーへの宥和政策と譲歩はファシストを増長させただけだった。ヒトラーは軍事行動を取ると脅迫し続け、譲歩を迫っていた。


 私たちは平和を望む。戦争はいやだ。しかしもしも挑発があり攻撃されたならどうしたらよいのか? 北朝鮮が攻撃しないと言う保証はどこにあるのか?


 私たちは一体どうすればよいのか?


 ファチマにおける聖母の汚れ無き御心のメッセージにはこうある。


「ロザリオの聖母を崇敬するために、世界が平和を得、戦争の終わりを勝ち取るためにロザリオを毎日唱え続けることを望みます。なぜなら、そのお方(=ロザリオの聖母)だけがあなたたちを助けることが出来るからです。


 罪人たちのために犠牲をしなさい。たくさんこう言いなさい。特に何か犠牲をするときにこう言いなさい。"イエズスよ、これは御身を愛するため、罪人たちの回心のため、そしてマリアの汚れ無き御心に対して犯される罪を償うためです"、と。・・・


 もし天主を侮辱することを止めないなら、ピオ11世の統治下で別の更にひどい戦争が起こるでしょう。


 あなたたちが未知の光を見るとき、天主がこの世をその罪のために戦争と飢饉、教会と教皇に対する迫害を使って罰を下そうという大いなる印を天主様があなたたちに下さっているのだと言うことを知りなさい。


 これを避けるために私はロシアを私の汚れ無き御心に奉献することと、月の初土曜日に償いの聖体拝領をすることとを求めに来るでしょう。


 もし人が私の要求を聞くなら、ロシアは回心し平和がやってくるでしょう。さもなければロシアはその誤謬を世界中に広め、戦争と教会に対する迫害とをもって挑発するでしょう。多くの善良なものが殉教し、教皇様は多く苦しまねばならないでしょう。無くなってしまう国々もあるでしょう。


 最後には、私の汚れ無き御心が勝利を収めるでしょう。教皇様は私にロシアを奉献するでしょう。そしてロシアは回心するでしょう。そして世界には平和の一時期が与えられるでしょう。」

 



 戦争は、人類の罪への天主の正義の罰だ。回心への呼びかけの憐れみの罰だ。戦争を避けるためには、私たちがまず天主を侮辱することを止めなければならない。罪を避けなければならない。また聖母マリア様だけが私たちを助けることが出来る。ロザリオの祈りを毎日唱えなければならない。償いを捧げなければならない。



 天主は人間となって、天主御父の聖心に適う唯一の贖いと償いの犠牲を制定した。それがミサ聖祭だ。聖伝のミサだ。ミサ聖祭はなによりもまず天主への礼拝だ。天主の御稜威に嘉されるものだ。


 しかし残念なことに、天主よりも人間に取り入るために、人間を喜ばせるために、ミサ聖祭は変えられてしまった。それが現行の新しいミサだ。パウロ六世の作った新しいミサだ。第二バチカン公会議の新しいミサだ。そこでミサはもはや罪の償いのためのものではなくなってしまった。


 戦争を回避するためにも、聖伝のミサを捧げなければならない。償いの犠牲、唯一天主御父に嘉される犠牲を捧げなければならない。


 ジンギス・カンの短い映画を観て、こう思った。



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北朝鮮、核実験実施を発表

2006年10月09日 | 本・新聞・ウェッブ・サイトを読んで

アヴェ・マリア!


北朝鮮、核実験実施を発表





 AP通信によると、北朝鮮は9日、同国初となる地下核実験を安全に実施したと発表した。国営朝鮮中央通信が同日午前11時50分ごろ配信したもので、科学的計画と綿密な計算によって行われた核実験は成功し、放射能漏れは確認されていないとしている。同通信は、「核実験は、我が軍および人民に幸福をもたらす歴史的な出来事であり、朝鮮半島と周辺地域の平和と安定の維持に貢献するものだ」としている。ただ、具体的な場所や時間、規模などの詳細は明らかでない。

【ライブドア・ニュース 10月09日】より
http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__2548406/detail?rd



【コメント】


 アメリカで、アーミッシュの子供達を殺した犯人は、天主を憎んでいた。天主を憎む人は、天主の似姿である人間を破壊しようとする。悪魔は、最初からウソツキで人殺しだ。


 共産主義も同じだ。ピオ11世教皇様は「共産主義は本質的に邪悪だ」と言った。


 共産主義は、世界革命を起こすことをその存在目的としている。革命とは全てを破壊し尽くすことだ。


 北朝鮮も中国も共産主義が人民を支配している。そこではウソと恐怖が人間を支配している。


 たとえば、公開処刑というテロ。
http://www.youtube.com/watch?v=CJNM4OjCFDA


 ファチマの聖母の第3のメッセージ(1917年7月13日)で聖母マリアはこう言われた。

「もし人が私の要求を聞くなら、ロシアは回心し平和がやってくるでしょう。さもなければロシアはその誤謬を世界中に広め、戦争と教会に対する迫害とをもって挑発するでしょう。多くの善良なものが殉教し、教皇様は多く苦しまねばならないでしょう。無くなってしまう国々もあるでしょう。」


 ファチマの聖母の第3のメッセージ(1917年10月13日)では、

-私をたたえてここに聖堂を建てることを望んでいます。私はロザリオの聖母です。毎日ロザリオの祈りを続けて唱えなさい。戦争はまもなく終わり、兵士たちは自分たちの家に帰って来るでしょう。-
-ある人々を癒しますが、ある人々は癒しません。人々はその生活を改め、罪の赦しを願わなければなりません。-
-彼らはもうこれ以上私たちの主に背いてはなりません。なぜなら、すでに彼らはあまりにも主に背いているからです。-
http://www.d-b.ne.jp/mikami/fatima1.htm#11

 とも言われた。



 私たちは、罪を避けて生きなければならない。ロザリオの祈りをしなければならない。



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「米小学校射殺事件:身を挺した13歳の少女、・・・」を読んで

2006年10月09日 | 本・新聞・ウェッブ・サイトを読んで

アヴェ・マリア!

「米小学校射殺事件:身を挺した13歳の少女、犯人を恨まないよう呼びかけた祖父」を読んで



 10月2日に起きた、米国ペンシルベニア州ランカスター郡のニケル・マインズにアーミッシュの小学校の射殺事件は、女子児童と教員補助の女性を合わせ、計5人死亡、6人重症の大惨事として、アメリカでは国民の悲鳴と世論の注目を浴びた。


 死亡した13歳の少女は自らを犠牲にして年下の女子児童を救おうとしたという。また、殺されたマリアンさんの祖父は、悲しみを抑えながら、犯人に恨みを抱かないよう呼びかけたという。


 米国メディア6日の報道によると、他の女子児童とともに人質にされた13歳のマリアン・フィッシャーさんは、年下の女子児童を救おうと前に出て、銃を向けている容疑者に「私を撃って他の子は解放して」と訴えた。13歳のマリアンさんは、人質の中の最年長児。


 マリアンさんに続き、12歳の妹バビーさんも前に出て、「次は私にしてください」と要求した。バビーも撃たれたが、奇跡にも命を取り留めた。


【大紀元日本10月8日】より
http://www.epochtimes.jp/jp/2006/10/html/d96863.html



【コメント】
 これを読んで、私たちも学ばなければならないものがたくさんあると思いました。
 聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈り給え。


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5. 2. 霊的生活に関する至福の教え (ルフェーブル大司教の伝記の続き)

2006年10月09日 | ルフェーブル大司教の伝記

第5章 修練者司祭(1931年 - 1932年)


霊的生活に関する至福の教え


 修道院の長上で、聖霊会員の最高齢者であるジョゼフ・オステル (Joseph Oster) 神父はサンピエール・エ・ミクロン (Saint-Pierre-et-Miquelon) の知牧 【 prefectus apostolicus 布教地で司教区になる前の司牧管理地域の責任者、司教に相当する権威を持つが司教より下位の聖職者】だった。しかし修練院で若い新参者とずっと接触していた司祭は、修練長であるノエル・フォール (Noel Faure) 神父だった。フォール神父は、先任者のアンリ・ニック (Henri Nique) 神父の後を受け継ぐように 1929年グァダルーペから召還された。彼は厳格ではあったが親切であり、鋭い心理学者として修練者たちをして霊魂をまったく開き尽くすように招いていた。彼は良き教師として、会憲をも扱いながら霊性生活及び修道生活に関する情熱的な講座を開いていた。


 副修練長であるガストン・コセ (Gaston Cosse) 神父はロアンゴ (コンゴ) から到着し、睡眠病を治療しようとしていた。彼は布教活動に関する講座を開いた。シャルル・デマ (Charles Desmats) 神父はこの修練院の聴罪司祭だった。彼は眼科疾患で苦痛を経験していたにも関わらず、修道者の規律にかんする講座を受け持った。彼は講義の中で、修道者の身分に関して詳細に説明し、従順の徳つまり「意志の燔祭であり修道者の体の力」について強調した。


 デマ神父を助けるためにマルセルは講座を引き受けて教えるように命じられた。聖書に関して綿密に記録されたノートが、この修練者であり教師の講義原稿であるに違いない。彼はその中で、イエズス・キリストの精神として要約する至福八端で結末をつけながら、福音、使徒行録及び書簡に関して取り扱った。



 フォール (Faure) 神父の霊的生活に関する講座は私たちの修練者マルセル・ルフェーブルを幸せにする講座だった。彼はローマにいた時、これを主題とする本当の講座がとれかったのを辛く思っていた。グレゴリオ大学では講義科目があまりにも多く、イエズス会司祭であるジョゼフ・ド・グィベール (Joseph de Guibert) 神父の霊的神学講義をしっかり出席するゆとりがなく残念がっていた。マルセル・ルフェーブルは後にこう言っている。「私たちには、この省察と祈祷の年、内的生活と完徳の生活とは本当にいったい何なのかということを勉強する年を欠いていた。」 「私たちの主イエズス・キリストと一致した真摯な内的生活をするために、そして私たちを私たちの主と同一化させるために必要な諸徳を習得するように私たちの心は作られている。」 ロムで助任神父だった時にも、ルフェーブル神父は霊的教えの講座が足りないことを感じていた。彼は「内的な生活に熱望している信者たちの水準で合わせて、霊的な教理の知識を伝達すること」を望んでいた。


 フォール神父は、三回の重要な黙想会すなわち「回心の黙想会」と「祈りの黙想会」と「誓願の黙想会」とで調和良く完璧に補完しながら、タンクレー (Tanquerey) の古典的な、『修養神学と神秘神学の概要 (Precis de theologie ascetique et mystique) を活用していた。

 


(つづく)

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「1988年、エコンで聖別された聖伝のカトリック司教たち」

2006年10月07日 | カトリック・ニュースなど

アヴェ・マリア!



兄弟姉妹の皆様、


「1988年、エコンで聖別された聖伝のカトリック司教たち」
Traditional Catholic bishops consecrated at Econe in 1988


というドキュメンタリー・フィルムがYOUTUBEにアップされているそうです。

http://www.youtube.com/watch?v=gAr0psfJGeg



ロザリオの聖母マリア様の佳き祝日をお過ごし下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!

 


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5. 1. 本当に天主を探し求めているか否か (ルフェーブル大司教の伝記の続き)

2006年10月07日 | ルフェーブル大司教の伝記

第5章 修練者司祭(1931年 - 1932年)


本当に天主を探し求めているか否か


 宣教になろうという多くの召命が、聖霊司祭会に嬉しくも一度にどっと押し寄せたため、------1929年には司祭たちになろうとする修練者の修練院だけでも 120人の青年が志願した----- フランスの聖霊会員たちは仕方なく修練院をふたつに分けたざるをえなかった。オルリー (Orly) の他にもう一つ、ロレーヌ地方のヌェフグラングジュ (Neufgrange) の修練院を作った。


 マルセル・ルフェーブル神父が 1931年 9月 1日に行ったのは、オルリーの修練院であった。パリの南方オルリーのド・グリニョン通り (Rue de Grignon) 126番地に位置し、敷地には直角に立てられた二つの建物があり、その本館には地上階と二階、及び宿泊用に改造された屋根裏の階があった。それには多くの付属の建物やきれいで大きんなゴシック様式の聖堂もあった。お互いに見合わせる四列の修道者席がこの教会の建物全体を占めており、聖歌隊用の聖堂二階にはパイプ・オルガンがあった。


 やや小さい庭園と菜園とがある中庭は、歩き回る空間や夢想する余地をほとんど残しておかなかった。また接した野原は共同体が遠距離散歩をする日に休息用としてのみ使われた。これが若い修練者を待っていた厳格な受け皿だった。オルリーという名前は確かに空港を思い浮かべるが、「当時には、まだ現在の空港は存在しなかった。ただ一つの空軍基地だけがあった。ヘリコプターの前身である'ジャイロコプター'が私たちの頭の上を飛び回っていた。」と 1934-1935年の修練者は追憶する。


 1931年 9月の初日にマルセル・ルフェーブル神父は、聖霊修道会に召命があるのか試してみようとする弟のジョセフ ---- しかし彼はその道を長続くことはなかった ------ を連れて夕方に'グリニョン'と呼ばれる門の前に到着した。彼は、門の向かえの土手に座っている青年達のグループに気が付いた。彼らは嘲笑的なめでマルセル・ルフェーブルを眺めていた。マルセルは彼らに近付いた。


「こんにちは。ここで何をしているのですか? 呼び鈴を鳴らすべきでしょうか?」
「その必要はありませんよ。鳴らしても返事がないから。」
「だららこうやって待っているんですか?」
「そうです。待っています。」
「それでは何を待っているのですか?」
「決まっているじゃないですか。門が開くのを。」
「でも何故開かないのでしょう?」
「私たちを試すためにわざとそうしているのです。扉を閉めて。」
そこでマルセルは言った。
「ああ、なるほど。それは聖ベネディックトの規律のようですね。『初心者を修道生活に易々と受け入れるべきではない』とあります。」


 聖ベネディックトは、ただずっと門を叩き続けなければならないと言ったのだった。
 そこでマルセル神父はしつこくベルを長く鳴らし続けた。が、無駄だった。

「聖ベネディックトが暗示するように『四、五日間』私たちを待ちぼうけにさせておかない限り!」


 いよいよ待ったかいがあって、たとえ夕やみがせまる前ではあっても、志願者たちは小さなドアがあくのが見えた。しかしこの冷ややかな夕立ちのような最初は、彼らの食欲を増幅させた。また彼らはただ黙々と食べることではあっても暖かいスープによって元気を取り戻した。彼らは、他のどんな難しさにも耐える覚悟を押し堅めたのだった。昔から言い古された金言によれば、修練期とは「修道生活に入ろうとする候補者が、共同体が自分にあうかどうかを調べるために、自分の力と性格を試す時期、修練長は修練者が共同体に適しているかどうかを見るために研究して試す期間」である。


 マルセルはいま引用した聖ベネディックトの章を何度も何度も読んでいた。


 聖なる太祖聖ベネディクトはこう書いている。
「初心者の世話をするために、霊魂たちの信頼を勝ち取るに適しているような古参の修道者を任命すること。彼は、全てにおいて初心者を監督し、初心者が真に天主を探し求めているか否か、彼が天主の御業と従順と屈辱とを熱心に追い求めているかを心使って心配すること。」


 そうだ。マルセルは「天主を探し求める」こと以外の他の理由でここへ来たのではなかった。従順と屈辱の試練に関することは、マルセル・ルフェーブルはそれを実践することを望んだ。何故なら、従順と屈辱を受ける試練は修練期のプログラムの一部であるからだ。


 世界各地 ----- カナダからポーランドまで、トリニダードからモーリス島(マダガスカルの東方にある)---- から来た 60人の修練者の中には布教事業を呼びかける教皇様の呼びかけを聞いた神学生たちがかなり多くいた。この「より良い使命」の呼びかけに引きつけられたなかには、2人の司祭を含むサンタ・キアラから来たマルセルの同僚 3名もいた。3名のうち最初の、ジャン・ウォルフ (Jean Wolff) はフランスのサン・メクサン(Saint-Maixent) 教会の助任として2年を過ごしたばかりだった。彼は後にマダガスカル (Madagascar) のディエゴ・スアレズ (Diego-Suarez) の司教になるだろう。次は 1923年にマルセルと一緒にサンタ・キアラに入ったエミール・ロラン (Emile Laurent) で、入学当時、彼は最年少学生だった。ローマで特別研究の一年を過ごした。エミール・ロランとともに、ルフェーブル神父は「ますます大いなる友情を新たにした」。他の修練者たちでは、トゥルクワンの聖母聖堂主任司祭の甥で、将来の「ガボン人」になるジャン・ムケー (Jean Mouquet) がいた。さらに、教会に 7名の子供達を聖職者に出したブルトーニュ地方の家族の12人の子供達の中で9番目であるジョセフ・ミシェルもいた。12月には将来また別の「ガボン人」となるジーユ・シヤール (Gilles Sillard) や、将来コナクリ (Conakry) の大司教になるジェラール・ド・ミルヴィル (Gerard de Milleville) が修練者のグループに合流した。他方で、ロベール・デュゴン(Robert Dugon)は 12月 8日に修練生活を終えた。



(つづく)

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教皇のイスラム聖戦批判発言? アシジとレーゲンスブルク、夢と現実

2006年10月05日 | カトリック・ニュースなど

アヴェ・マリア!


アシジとレーゲンスブルク、夢と現実


 9月4日アシジでは、ヨハネ・パウロ二世が望んだ諸宗教の集いの20周年を祝っていた。

 9月12日レーゲンスブルク大学では、信仰と理性との関係の講話において、ベネディクト十六世はイスラムに関する引用をした。教皇はこれについて何ら自分の立場を表明しなかった。イスラム世界の抗議が過熱した。


 アシジでは、宗教統合の危険はないと声高らかに主張しながら平和のために祈っていた。アシジでは一緒に祈っていたのではなく、祈るために一緒にいた、という主張だ。それは丁度、同棲する若いカップルが反対をうけて自分たちは一緒に生活しているのではなく、生活するために一緒にいるのだ、と言っているかのようである。


 レーゲンスブルクでの講義の後に、ローマ当局は事態の沈静化に努力し、教会と非キリスト教との関係に関する第二バチカン公会議の宣言『キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言』の方針においてアシジの意向を新たにした。これは夢によって現実の火事を消そうとするようなものだ。


 しかしながら、教皇様のドイツでの講話において、カントの不可知論を告発、またハルナックの合理主義(理性主義)の批判、現代の宗教的主観主義の批判があった。ベネディクト十六世は、近代理性の批判が「啓蒙の時代の前へと近代の確信を捨て去って」後戻りすることではないかと思われることをおそれている。しかしフランス人哲学者マルセル・デ・コルト(Marcel De Corte)が正しく指摘したように「死の危険がある知性」への薬は、後戻りというよりも現実に立ち返ることである。



ベネディクト十六世のレーゲンスブルク大学での発言内容


  2006年9月12日レーゲンスブルク大学での神学講義で、ベネディクト十六世教皇のイスラムについての発言は、イスラム教徒の間で問題となった。教皇様の講義は信仰と理性との関係についてであった。問題となった部分は以下の通り。


「私は最近、ビザンチン帝国の学識高いマヌエル二世パレオロゴス皇帝(Manuel II Paleologos)がおそらく1391年の冬の間にアンカラで或るペルシアの高名な学者とキリスト教とイスラム教について、またそれらそれぞれの真理について対話をしたが、その内容をミュンスターのテオドール・コウリー(Theodore Khoury)教授が出版した書籍で読んだことがある。それらが私の記憶に蘇ってきた。これは1394年と1402年の間のコンスタンチノポールが包囲をうけている間に多分にビザンチン皇帝自身がこの対話を記録したのだった。そう考えると、皇帝の考えの方が、対話の相手であるペルシア人の答えよりももっと詳しく書かれていることの説明がつく。

 対話は、聖書とコーランとに含まれている信仰の構造の次元全てにつて及んでいる。そして特に天主の似姿と人間とについて立ち止まっている。そして3つの「法」つまり旧約聖書と新約聖書とコーランとの関係についても新たに考察してもいる。


 私はこの講義では、この対話全体の構造においてはむしろ脇に置かれている議論にのみ話を限りたい。この議論は『信仰と理性』というテーマの文脈において私を魅惑したし、このテーマについて私の考察の出発点として役に立つだろう。


 コウリー教授によって出版された第七の対話(ディアレクシス-論争)において、ビザンチン皇帝はジハード(聖戦)のテーマについて言及すした。確かに皇帝はコーランのスラート2章256節においてこう書かれていることを知っていた。「信仰に関することにおいていかなる強制もない」と。


 これはコーラン成立初期のスラートの一つである。ムハンマド自身が権力も脅威も持っていなかった頃のものである。しかし当然ながら、皇帝は、コーランにおいて聖戦についてその次に発展し定められた内容のことも知っていた。「書」を持っている人々と「不信仰者」とをどのように区別して取り扱うかなどという詳しいことには立ち入らないで、皇帝は驚くべき乱暴さで、対話の相手に対して、一般に宗教と暴力との関係についての中心的な質問を次のように単にしただけだった。
『ムハンマドが新しくもたらしたものを私に見せてみよ。そこにおまえは単に、彼が教えていた信仰を剣という手段で広めよという命令のように、悪しき非人間的なことだけしか見いださないだろう。』


 皇帝は暴力による信仰を広めることが非理性的なことであるというその理由を詳しく説明する。暴力は、天主の本性と霊魂の本性とに対立する。『天主は血を喜ばない。理に従って(シュン・ロゴー)行動しないことは天主の本性に反する。信仰は霊魂の実りであり、肉体の実りではない。従って、誰かを信仰へと導こうとする者はよく説明し正しく理を説くことができる者でなければならない。それは暴力や脅迫に依るのではない。理性的な霊魂を説得するためには、腕力もうち叩く道具も誰かに死の威嚇を与えるようなその他いかなる道具も使う必要がない。』


 暴力を使った回心に反対するこの議論の決定的な断言はこれである。つまり、理に従って行動しないことは天主の本性に反する、ということ。この書籍の編集者であるテオドール・コウリーはこうコメントを寄せている。ギリシア哲学において成長したビザンチン人である皇帝にとって、この皇帝は明らかである。イスラムの教義にとって、その反対に、天主は絶対的に超越している。天主の意志は、たとえそれが「理に適う」というものであったとしても、私たちのいかなるカテゴリーにも束縛されていない。この文脈において、コウリーはR.アルナンデス(R. Arnaldez)という有名なフランス人イスラム学者の著作から引用している。イブン・ハズナ(Ibn Hazn)はアラーが自分自身の言った言葉にもさえ束縛されていないこと、またアラーをして私たちに真理を啓示しなければならないとするものは何も存在しないことを宣言することさえしているとアルナンデスは説明している。アラーの意志であれば人間は偶像崇拝さえも実践しなければならない、と彼は言う。


 ここで、天主を把握することにおいて、つまり宗教の具体的な実現において、今日私たちに直接に挑戦しているジレンマが生じている。理に反して行為することは天主の本性と矛盾するという確信は、単にギリシア的な思索方法にすぎないのであろうか? それともこの確信は、常にそれ自体で通用することなのか? 私はここで、言葉の最上の意味におけるギリシア的であることと聖書の基礎にある天主に対する信仰とは何かということの深い調和が現れてくると思う。創世記の最初の節を少し変えて、ヨハネはその福音の序を次の言葉で始めた。『始めに御言葉(ロゴス)があった。』これこそがビザンチン皇帝が『天主は理(ロゴス)に従って行為する』といった言葉の正確な意味である。


 理(ロゴス)とは、理と言葉を会わせた意味を持つ。理とは創造するものであり、正に理として自分を伝えることのできるものである。ヨハネはかくして私たちに、天主の聖書的概念に関する言葉の賜物を与えた。聖書的な信仰のしばしば難しいそして曲がりくねっている全ての道が、そこに繋がりその統合を見いだす言葉である。『始めに御言葉(ロゴス)があった。そして御言葉(ロゴス)は天主である』と福音師家ヨハネは私たちに言う・・・。」

 




「どのような小さなものであれ風刺画も侮辱も全くなかった」


 9月16日付のイタリアの日刊紙イル・ジョルナーレ Il Giornale で、イエズス会司祭サミール・カリル・サミール(Samir Khalil Samir)神父(ベイルート聖ヨゼフ大学文献調査センター CEDRAC 創立者及び所長)は、教皇発言について謝罪を要求する大衆について残念に思うと述べた。


「恥ずかしいのは、たとえ全てではないとしても、ほとんど大部分のデモンストレーションがこの大学講話を読んでもいないことである。もしこれを読んでいたとしても、この発言がどこまで及んでいたかを知るのは困難だったろう。私たちはそこまで水準が下がってしまっている。今年の1月と2月にイスラム預言者の風刺画が出回った時のシナリオが繰り返されているように思える。ただし違いは、ここではどのような小さなものであれ風刺画も侮辱も全くなかったことだ。その反対に、考察は全ての思索家に信仰と理性との関係を反省させるものであり、私たちアラブのキリスト者とイスラム教徒らが極めて必要としている反省である。」


 このイエズス会のサミール・カリル・サミール神父は、この事件では西側の報道機関の責任が極めて重いと評価する。

「西洋のマスメディアはこの文書をイスラム世界を挑発するために利用することを望んだ。メディアはこの学問的文書を西洋対イスラム世界という対立の文脈に位置づけた。あたかも教皇様がサムエル・ハンチントンの言い出した『文明の衝突』理論を承認してそれに依っていたかのように! しかし現実は、この大学講義での対象は、諸文化と諸宗教との対話にあった。」


 イスラムについて取り扱った段落は極めて少なく、全体の一割ほどである、とエジプト出身のサミール・カリル・サミール神父は言う。そこで教皇様はコーランの一節を引用し「宗教に関して強制はない」(2,256)と言う。おそらくこれは西洋でいちばん良く引用されるコーランの一節である。これはコーランは良心の自由を説くと強調するために引用される。もし教皇様がイスラムをこの点について攻撃しようと望んだなら、その他の多くの節を引用する方が容易だった。同じスラートの190-193節からこう始まっている。「アラーの小道においておまえたちと闘う者たちと闘い、法を犯すな。アラーは法を犯すものを愛さない。おまえたちが彼らと出会うところで彼らを殺せ。或いは、彼らがおまえたちを追放したところから彼らを追放せよ。反乱 (fitna) は殺人よりも罪が重い。反乱 (fitna) が無くなるまで彼らと闘え。宗教が全くアラーのみのものとなるまで闘え。もし彼らが止むなら、敵対は無くなるだろう。ただし不正義に反対する場合を除いて。」


 サミール・カリル・サミール神父は、対話とは真理を隠してなされるものではなく、真理を述べることによってなされると指摘する。

「コーランにおいて寛容に対して開かれている部分があるが、暴力を先導しているところもあると認めなければならない。テロは社会政治学的動機によってなされるのみならず、コーランの文章の暴力的な部分の解釈からもなされている、ということを認めなければならない。」と神父は強調した。結論として「解決は、教皇様によって提案されていることだ。つまり理性を使うことだ。」



【参考資料】
http://www.dici.org/actualite_read.php?id=1319
http://www.zenit.org/english/visualizza.phtml?sid=94748
神学講義要旨は、9月17日づけ産経新聞朝刊にも掲載されていました。

 



【コメント】


 何故、西側のマスメディアは教皇のこの講義を文脈を超えて引用したのか? カトリック教会の攻撃と迫害の準備のために世論を作っているように思えてならない。何故、そのようなことが起こりつつあるのか? 聖母マリア様の警告を私たちは思い出す。天主がこの世をその罪のために戦争と飢饉、教会と教皇に対する迫害を使って罰を下そうとされている。人類の罪のを償うために、戦争と教会に対する迫害とが準備されつつあるのではないか。そして全人類にたいして、ノアの大洪水よりも重い、いままでにない罰が準備されているのだろう。人類のほとんどの人々が死んでしまうような、そして、よい人も悪い人と共に、司祭も信者とともに死んでしまうような、生き残った人々には、死んだ人々を羨むほどの苦難があるでしょう。
 今回の教皇様の発言に対するマスメディアの態度は、それらの苦難の序曲にすぎないのだろう。

 



1973年7月6日 守護の天使が秋田の聖体奉仕会のシスター笹川に
「あなたの罪のみでなく、すべての人の償いのために祈ってください。今の世は、忘恩と侮辱で、主の聖心を傷つけております。」



秋田の聖母の第1のメッセージ(1973年7月6日)より

「教皇、司教、司祭のためにたくさん祈ってください。」




秋田の聖母の第2のメッセージ(1973年8月3日)

「世の多くの人々は、主を悲しませております。わたしは主を慰める者を望んでおります。天のおん父のお怒りをやわらげるために、罪びとや忘恩者に代わって苦しみ、貧しさをもってこれを償う霊魂を、おん子とともに望んでおります。おん父がこの世に対して怒りたもうておられることを知らせるために、おん父は全人類の上に、大いなる罰を下そうとしておられます。おん子とともに、何度もそのお怒りをやわらげるよう努めました。おん子の十字架の苦しみ、おん血を示して、おん父をお慰めする至愛なる霊魂、その犠牲者となる集まりをささげて、お引きとめしてきました。」



秋田の聖母の第3のメッセージ(1973年10月13日)

「もし人々が悔い改めないなら、おん父は、全人類の上に大いなる罰を下そうとしておられます。そのときおん父は、大洪水よりも重い、いままでにない罰を下されるに違いありません。火が天から下り、その災いによって人類の多くの人々が死ぬでしょう。よい人も悪い人と共に、司祭も信者とともに死ぬでしょう。生き残った人々には、死んだ人々を羨むほどの苦難があるでしょう。その時わたしたちに残る武器は、ロザリオと、おん子の残された印だけです。毎日ロザリオの祈りを唱えてください。ロザリオの祈りをもって、司教、司祭のために祈ってください。」



ファチマの聖母の第3のメッセージ(1917年7月13日)より

「もし天主を侮辱することを止めないなら、ピオ11世の統治下で別の更にひどい戦争が起こるでしょう。あなたたちが未知の光を見るとき、天主がこの世をその罪のために戦争と飢饉、教会と教皇に対する迫害を使って罰を下そうという大いなる印を天主様があなたたちに下さっているのだと言うことを知りなさい。これを避けるために私はロシアを私の汚れ無き御心に奉献することと、月の初土曜日に償いの聖体拝領をすることとを求めに来るでしょう。もし人が私の要求を聞くなら、ロシアは回心し平和がやってくるでしょう。さもなければロシアはその誤謬を世界中に広め、戦争と教会に対する迫害とをもって挑発するでしょう。多くの善良なものが殉教し、教皇様は多く苦しまねばならないでしょう。無くなってしまう国々もあるでしょう。」




「いとも聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊よ、私は御身を深く礼拝し奉る。私は御身に、全世界のすべての聖櫃にましまし給うイエズス・キリストのいとも尊き御体、御血、御霊魂、天主性を御身に捧げ奉る。そは、侮辱、冒涜、無関心によって三位一体が傷つき給う罪を償うためなり。主の至聖なる聖心と聖母の汚れ無き御心の無限の功徳によりて、私は御身に、哀れな罪人たちの回心を乞い求め奉る。」
(ファチマで天使が三人の牧童に教えた祈り)



 だから、私たちは聖母マリア様のロザリオの祈りをこの十月、ロザリオの聖月にたくさん唱えよう。


 だから、教皇様のために、司教様たちのために、カトリック司祭らのためにたくさんロザリオの祈りをしよう!


 全世界は、ロザリオの元后である聖母への兄弟姉妹の皆様の祈りを必要としています。



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秋田の聖母は、兄弟姉妹の皆様の祈りを必要としています。

2006年10月04日 | カトリック・ニュースなど

秋田の聖母は、兄弟姉妹の皆様の祈りを必要としています。

全世界は、秋田の聖母への兄弟姉妹の皆様の祈りを必要としています。






(秋田の聖母の御出現については教会から公式認可が出ています。
http://www.bishop-jp.com/syokan.html

 


(1969年、風邪の高熱で倒れ意識不明となって妙高病院に入院していた時。守護の天使)

「ロザリオの各連のあとにこの祈りをつけ加えなさい。
“ああ、イエズスよ、われらの罪を許し給え。われらを地獄の火より守り給え。またすべての霊魂、ことに主のおん憐れみをもっとも必要とする霊魂を、天国に導き給え。アーメン”」


(1973年6月29日 守護の天使)
「おん父のおん子なる主イエズス・キリストよ、おんみの霊をあまねく全世界につかわし給え。しかして聖霊がすべての民の心に宿り退廃と凶災と戦争から彼らを守らしめ給え。すべての民のおん母が、われらの擁護者ならんことを。アーメン」


(1973年7月6日 守護の天使)
「恐れおののくことはない、あなたの罪のみでなく、すべての人の償いのために祈ってください。今の世は、忘恩と侮辱で、主の聖心を傷つけております。あなたの傷よりマリア様の御手の傷は深く、痛んでおります。さあ行きましょう」



秋田の聖母の第1のメッセージ(1973年7月6日)


「わたしの娘よ、わたしの修練女よ。すべてを捨てて、よく従ってくれました。耳の不自由は苦しいですか。きっと治りますよ。忍耐してください。最後の試練ですよ。手の傷は痛みますか。人々の償いのために祈ってください。ここの一人一人が、わたしのかけがえのない娘です。聖体奉仕会の祈りを心して祈っていますか。さあ、一緒に唱えましょう」


「御聖体のうちにまことにましますイエズスの聖心よ、一瞬の休みもなく、全世界の祭壇の上にいけにえとなられ、おん父を賛美し、み国の来たらんことをこいねがう至聖なる聖心に心を合わせ、わが身も心も全くおんみに捧げ奉る。願わくは、わがこのつたなき捧げを受けとり、おん父の光栄と魂の救いのために、聖旨のままに使用し給わんことをこいねがい奉る。
幸いなるおん母よ、おんみのおん子より引き離すを許し給わざれ。おんみのものとして守り給え。アーメン」


教皇、司教、司祭のためにたくさん祈ってください。あなたは、洗礼を受けてから今日まで、教皇、司教、司祭のために祈りを忘れないで、よく唱えてくれましたね。これからもたくさん、たくさん唱えてください。今日のことをあなたの長上に話して、長上のおっしゃるままに従ってください。あなたの長上は、いま熱心に祈りを求めていますよ」



秋田の聖母の第2のメッセージ(1973年8月3日)

「わたしの娘よ、わたしの修練女よ。主を愛し奉っていますか。主をお愛しするなら、わたしの話を聞きなさい。
 これは大事なことです。そしてあなたの長上に告げなさい。
 世の多くの人々は、主を悲しませております。わたしは主を慰める者を望んでおります。天のおん父のお怒りをやわらげるために、罪びとや忘恩者に代わって苦しみ、貧しさをもってこれを償う霊魂を、おん子とともに望んでおります。
 おん父がこの世に対して怒りたもうておられることを知らせるために、おん父は全人類の上に、大いなる罰を下そうとしておられます。おん子とともに、何度もそのお怒りをやわらげるよう努めました。おん子の十字架の苦しみ、おん血を示して、おん父をお慰めする至愛なる霊魂、その犠牲者となる集まりをささげて、お引きとめしてきました。
 祈り、苦行、貧しさ、勇気ある犠牲的行為は、おん父のお怒りをやわらげることができます。あなたの会にも、わたしはそれを望んでおります。貧しさを尊び、貧しさの中にあって、多くの人々の忘恩、侮辱の償いのために、改心して祈ってください。聖体奉仕会の祈りを心して祈り、実践して、贖罪のために捧げてください。各自の能力、持ち場を大切にして、そのすべてをもって捧げるように。
 在俗であっても祈りが必要です。もはやすでに、祈ろうとする霊魂が集められております。かたちにこだわらず、熱心をもってひたすら聖主をお慰めするために祈ってください」
 (ちょっと間をおいて)
「あなたが心の中で思っていることは、まことか?まことに捨て石になる覚悟がありますか。主の浄配になろうとしているわたしの修練女よ。花嫁がその花婿にふさわしい者となるために、三つの釘で十字架につけられる心をもって誓願を立てなさい。清貧、貞潔、従順の三つの釘です。その中でも基は従順です。全き服従をもって、あなたの長上に従いなさい。あなたの長上は、よき理解者となって、導いてくれるでしょうから」

 


秋田の聖母の第3のメッセージ(1973年10月13日)

「愛するわたしの娘よ、これからわたしの話すことをよく聞きなさい。そして、あなたの長上に告げなさい」
(少し間をおいて)
前にも伝えたように、もし人々が悔い改めないなら、おん父は、全人類の上に大いなる罰を下そうとしておられます。そのときおん父は、大洪水よりも重い、いままでにない罰を下されるに違いありません。火が天から下り、その災いによって人類の多くの人々が死ぬでしょう。よい人も悪い人と共に、司祭も信者とともに死ぬでしょう。生き残った人々には、死んだ人々を羨むほどの苦難があるでしょう。その時わたしたちに残る武器は、ロザリオと、おん子の残された印だけです。毎日ロザリオの祈りを唱えてください。ロザリオの祈りをもって、司教、司祭のために祈ってください。
 悪魔の働きが、教会の中にまで入り込み、カルジナルはカルジナルに、司教は司教に対立するでしょう。わたしを敬う司祭は、同僚から軽蔑され、攻撃されるでしょう。祭壇や教会が荒らされて、教会は妥協する者でいっぱいになり、悪魔の誘惑によって、多くの司祭、修道者がやめるでしょう。特に悪魔は、おん父に捧げられた霊魂に働きかけております。たくさんの霊魂が失われることがわたしの悲しみです。これ以上罪が続くなら、もはや罪のゆるしはなくなるでしょう。
 勇気をもって、あなたの長上に告げてください。あなたの長上は、祈りと贖罪の業に励まねばならないことを、一人ひとりに伝えて、熱心に祈ることを命じるでしょうから。・・・」
(さらにつづけて)
 ロザリオの祈りをたくさん唱えてください。迫っている災難から助けることができるのは、わたしだけです。わたしに寄りすがる者は、助けられるでしょう



 その後、1975年1月4日から1981年9月15日まで聖母マリアの像から101回の涙が流れる。


(1975年1月4日初土曜日 守護の天使)
「聖母のお涙を見てそのように驚かなくてもよいのです。聖母は、いつも一人でも多くの人が改心して祈り、聖母を通してイエズスさまと御父に献げられる霊魂を望んで、涙を流しておられます。
 今日、あなた方を導いてくださる方が、最後の説教で言われた通りです。あなた方は見なければ信心を怠ってしまう。それほど弱いものなのです。聖母の汚れなき心に日本を献げられたことを喜んで、聖母は日本を愛しておられます。しかし、この信心が重んじられていないことは、聖母のお悲しみです。しかも秋田のこの地をえらんでお言葉を送られたのに、主任神父様までが反対を恐れて来ないでいるのです。恐れなくてもよい、聖母はおん自ら手をひろげて、恵みを分配しようとみんなを待っておられるのです。聖母への信心を弘めてください。今日聖母を通して、聖体奉仕会の精神に基づいて、イエズスさまと御父に献げられた霊魂を喜んでおられます。このように献げられる準会員の霊魂を軽んじてはなりません。あなた方が捧げている“聖母マリアさまを通して、日本全土に神への改心のお恵みを、お与えくださいますように!”との願いをこめての祈りは喜ばれています。
 聖母のお涙を見て改心したあなた方は、長上の許しがあれば、主と聖母をお慰めするために、一人でも多くの人々に呼びかけ、聖母を通して、イエズスさまと御父に献げられる霊魂を集めて、聖主と聖母の御光栄のために、勇気をもってこの信心を弘めてください。
 このことをあなた方の長上とあなた方を導くお方に告げなさい。」

 

秋田の聖母について詳しくは次をご覧下さい。
http://www.bishop-jp.com/lady.html

 



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米の歌手マドンナ:来日公演、「十字架はりつけ」を披露:償いのお祈りの必要性

2006年10月03日 | カトリック・ニュースなど

アヴェ・マリア!


兄弟姉妹の皆様、


私たちは何故償いの祈りをするのでしょうか?


「天主の建てたもうた唯一の教会を認めない棄教者や異端者や異教徒、そして天主の定めたもうた公教会の正しい教義を信ぜず、冒涜的ミサを捧げて恥じない者たちのために償いなどする」のは本当に意味があることなのでしょうか?


「もはや彼ら天主の冒涜者に対する罪の償いは彼らに対する改心に役に立つどころか、彼らを益々勢いづかせている」のではないでしょうか?、彼らのために祈って「彼らに時間を与えることは、彼らにさらに、より一層の罪を犯す機会を与えることにほかならない」のではないでしょうか?


「今祈るべきは天主の正義が一日も早く地上に実現すること」つまり天罰が下って悪人が滅ぼされることなのでしょうか?


 それを考えてみたいと思います。


▼△▼△▼△▼△▼△▼△


 Credidimus Caritati. 天主は愛である。私たちはその愛を信じた。


 天主の愛は私たちの想像を超えるものです。


 真の人間となった真の天主、イエズス様は私たちを救うために人間となることを甘受しました。


 私たちはうける資格などなかったけれど、私たちは罪を犯してしまった身だけれども、天主は全くただで私たちに先立ち、ふさわしくない私たちに光とめぐみを与え続けておられます。


 私たち被造物の忘恩、抵抗、侮辱にもかかわらず、私たちの天主は忍耐強く、罪人たちの回心を待ち望んでおられます。


 天主は、侮辱と屈辱を受けて、人間に与えたものを全て奪い取り、滅ぼし尽くし、人間にふさわしい正義の鉄槌をいつでも下すことができたでしょう。しかし天主は、私たちに新たな賜物とめぐみと慈しみと憐れみを注いで下さっています。


「私は罪人が死ぬのを喜ばない。むしろ罪人が悪の道から立ち返り生きることを喜ぶ」(エゼキエル33章)。


 使いの弟子達が、私たちの主イエズス・キリストのために準備をしようと、サマリア人のある村にはいっていったけれど、サマリアの村人は主を受けいれようとしなかったことがありました。これを見た弟子のヤコボとヨハネとが、「主よ、おのぞみなら天から火をふらせて、この人たちを亡ぼしてしまうように命じましょうか!」といったので、イエズスはふりかえって、かれらをお叱りになりました。

「あなたたちは、自分がどんな精神にしたがっているかを知らない。人の子は、魂を亡ぼすためではなく、救うために来たのだ」とおおせられそして、イエズスと一同は他の村に行ったのです。(ルカ9章)


 私たちの主イエズス・キリストはこう教えて下さいました。天主の御助けによって実行ができるように努力しなければなりません。


「あなたたちも知っているとおり、"隣人を愛し、敵を憎め"と教えられていた。しかし、私はいう。あなたたちは、敵を愛し、迫害する人のために祈れ。こうして、あなたたちは、天においでになるあなたたちの父の子となるのである。天の父は、悪人の上にも善人の上にも、陽をのぼらせ、義人にも不義の人にも、雨をお降らせになる。自分を愛してくれる人を愛したとて、なんのむくいがあろう?そんなことは、税吏でさえも、しているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したとて、なんのすぐれたことがあろう?そんなことは異邦人でさえも、しているではないか。あなたたちの天の父が完全であるように、あなたたちも完全なものになれ。」


 「敵を愛する」とは、敵の霊魂にとってももっとも大切なものである救霊を望み願いそのために祈ると言うことです。


 天主の憐れみとは、天主が私たちのもつ哀れさを取り除こうとされる愛のことです。私たちをみじめにする唯一のものは罪です。


 天主は罪を憎みます。何故なら、罪こそが天主と私たちとの愛の交流を壊すものだからです。しかし私たちをみじめにし哀れなものとする罪を私たちから取り除こうとするのです。


 どのような大きな罪でも、天主の憐れみを妨げません。もしも罪を後悔するならば。何故なら、傲慢だけが、天主の憐れみを嘲る傲慢だけが、天主の憐れみを妨げるからです。


 主は、おごる思いの人々を散らし、権力者をその座からおろし、富む人を空手で返します。


 だから、聖母マリア様はこう歌いました。

「わが霊魂は主を崇め奉り、
わが精神はわが救い主なる天主によりて喜びに堪えず。
そは御召使いのいやしきを顧み給いたればなり。見よ、今よりよろずよにいたるまで、人われを幸いなる者ととなえん。
けだし全能にまします御者、われに大事をなし給いたればなり。
聖なるかな、その御名(みな)。
その御あわれみは、世々これをおそるる人々の上にあり。
みずから御腕の権能を現し、おのが心の思いにおごれる人々を打ち散らし、
権力ある者をその座よりおろし、いやしき者をば高め、
飢えたる者を佳き物に飽かせ、富める者をば手を空しうして去らしめ給えり。
御あわれみを忘れず、そのしもべイスラエルを引き受け給い、われらの先祖に宣(のたま)いし如く、そをアブラハムにも、その子孫にも世々に限りなく及ぼし給わん。」


 そして天主は罪人を罰する時でさえ、人間が罪から離れるために罰し給うのです。「主は愛するものを懲らしめる」からです。天主において正義とは愛と憐れみの業でもあるのです。


 私たちの主イエズス・キリストは言います。「あなたたちは、おん父が慈悲深くあらせられるように、慈悲深いものであれ。」(ルカ6章)


 だからイエズス様は、罪人である私たち人間に代わって贖いの果たし、めぐみを与え続けておられるのです。


 そしてイエズス・キリストの神秘体の一部となった私たち本当のキリスト者には、イエズス・キリストの苦しみの足りないところを補い、イエズス・キリストとともに贖いのわざに参与することをお望みなのです。


 だから、私たちはイエズス様に倣って、祈り償いを捧げなければならないのです。


 だから「天主の建てたもうた唯一の教会を認めない棄教者や異端者や異教徒、そして天主の定めたもうた公教会の正しい教義を信ぜず、冒涜的ミサを捧げて恥じない者たちのために償いなどする」のは、彼らの救霊のため大変に意味があります。私たちはイエズス・キリストを真似するわけです。


 そして聖母マリア様も同じことしており、同じことをすることを私たちに願っておられます。



「私はこの地上に緊急の呼びかけを送っています。私は天で生きかつしろしめし給う天主の真の弟子たちに呼びかけます。私は、人となり給いしキリスト、人類の唯一かつ真の救い主に真に倣う人々に呼びかけます。私の子供たち、私への真の信心を持つ人々、私が御子へと彼らを導けるように自らを私に委ねた人々、私がいわば両腕に抱いて運んでいる人々、私の精神において生きた人々に呼びかけます。そして最後に、最後の時代の使徒たちに、世をさげすみ、自分自身をさげすみ、清貧に謙遜に、軽蔑と沈黙の内に、祈りと苦業の内に、愛徳と天主との一致の内に、苦しみの内に、世に知られずに生きてきた、『イエズス・キリストの忠実な弟子たち』に呼びかけます。今や彼らが出て地上を照らしに来る時なのです。さあ、私の愛する子らとして自分たちを示しなさい。あなた方の信仰が、この不幸な時代にあなた方を照らす光でありさえすれば、私はあなた方と共に、あなた方の内にいます。あなた方が、熱心によってイエズス・キリストの光栄と誉れとに飢え渇く人になりますように。光の子らよ、戦いなさい、あなた方がたとえ少数でしかなくとも。何故ならごらんなさい、すべての時の時、すべての終りの終りだからです。 ・・・もし天主が艱難の時を短くされないなら、一体誰が打ち勝てるものでしょうか。義人の血と涙と祈りとを通して天主はなだめられ給うでしょう。・・・」
(1846年9月19日 ラ・サレットで)


ラサレットの聖母について、詳しくは次をどうぞ。
http://fsspxjapan.fc2web.com/maria/lasalette.html


また

「世の多くの人々は、主を悲しませております。わたしは主を慰める者を望んでおります。天のおん父のお怒りをやわらげるために、罪びとや忘恩者に代わって苦しみ、貧しさをもってこれを償う霊魂を、おん子とともに望んでおります。
 おん父がこの世に対して怒りたもうておられることを知らせるために、おん父は全人類の上に、大いなる罰を下そうとしておられます。おん子とともに、何度もそのお怒りをやわらげるよう努めました。おん子の十字架の苦しみ、おん血を示して、おん父をお慰めする至愛なる霊魂、その犠牲者となる集まりをささげて、お引きとめしてきました。
 祈り、苦行、貧しさ、勇気ある犠牲的行為は、おん父のお怒りをやわらげることができます。あなたの会にも、わたしはそれを望んでおります。貧しさを尊び、貧しさの中にあって、多くの人々の忘恩、侮辱の償いのために、改心して祈ってください。・・・」
(1973年8月3日 秋田で)


秋田の聖母について、詳しくは次をご覧下さい。
http://www.bishop-jp.com/lady.html

 


 だから「もはや彼ら天主の冒涜者に対する罪の償いは彼らに対する改心に役に立つどころか、彼らを益々勢いづかせている」のではないか、という判断や、彼らのために祈って「彼らに時間を与えることは、彼らにさらに、より一層の罪を犯す機会を与えることにほかならない」のではないのか、また「今祈るべきは天主の正義が一日も早く地上に実現すること」つまり天罰が下って悪人が滅ぼされることなのでしょうか?ということについては、天主の無限の上智に委ねるのです。まさに私たちの主イエズス・キリストと同じ態度です。


天にましますわれらの父よ、
願わくは御名(みな)の尊まれんことを!
御国(みくに)の来らんことを!
御旨(みむね)の天に行わるる如く地にも行われんことを!




▼△▼△▼△▼△▼△▼△



 マドンナについて、読者の方から次のようなことを教えてもらいましたので、お知らせします。このことを教えて下さってありがとうございます。感謝します。


 マドンナも様々な悲しいことがあったのだと思います。お母さんを失い、継母に育てられて辛い思いをしたのでしょう。マドンナとマドンナのファンの方々のために祈りましょう。私たちの主イエズス・キリストの憐れみと回心のお恵みがありますように祈りましょう。



▼△読者の方から▼△


 ブログにありましたマドンナの件ですが、マドンナ自身は、カトリックの信仰自体は捨ててないと思います。(教えは守ってないでしょうけれど)


確かにカバラに夢中のようですが、カトリックから改宗したとか、棄教したとかと言うニュースは、聞いたことがないですし、多くのサイトでも「マドンナは改宗はしてない」とあります。娘にも「ルルドちゃん」と名付けてるくらいですからね。


マドンナは、敬虔なカトリック信者の両親の元、産まれましたが、幼い頃に母を癌で亡くし、親の愛に飢えていたようです。


父親に愛してもらおうと、色々頑張りますが、カトリックの厳格な教えに基づく父親の教育や・・・特に父親の再婚によって、反抗そして、マドンナは裏切られたような気持ちになり、父との仲が悪くなったようです。


その後、家出。そしてポルノ女優を経て今の歌手への道に進んでいきます。近年、父親とは和解したようです。父親がやってるワインのHPです。http://www.cicconevineyards.com/


▼△▼△▼△▼△▼△▼△

 


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