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私は御身を信じ、礼拝し、希望し、御身を愛します!御身を信じぬ人々、希望せず愛さぬ人々のために、赦しを求めます(天使の祈)

第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 自由な国家における自由な教会?

2007年06月22日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

■ 自由な国家における自由な教会?

1-『信教の自由に関する宣言』 13
「教会の自由は、教会と公権および全ての社会秩序との関係の根本原理である。」

【疑問点 18】 「教会の自由」という言葉をとおして、第二バチカン公会議は、「信教の自由を保護する政治体制」においてカトリック教会のみならず、他の諸宗教にも保証される自由を意味しているのか。もしそうであるとすれば、第二バチカン公会議は、かかる「教会の自由」が、教会と国家との関係を律する「根本原理」であることを、しかも単に教会を抑圧する国家という特殊な状況にかぎらず、あらゆる状況に適用する原則としての根本原理であることを教えているのか。もしそうなら、この教説は聖書ならびに諸教父、諸教皇の教えと合致するのか。なぜなら、この[伝統的]教えによれば、教会と国家の関係を律すべき根本原理は、「充全な自由」、すなわちキリストが正当に国家社会の王であるのと同様、教会が女王として君臨するところの自由———かかる自由を教会はたえず要求するのだが——したがって、国家(civile)の法制をキリスト教的、カトリック的原理によって「形相付け」し、浸透する自由に他ならないからである。

 実際、第二バチカン公会議の説くこの教えが、ピオ9世、レオ十三世両教皇による「自由な国家における自由な教会」をモットーにしたカトリック・リベラル派の排斥と矛盾するのではないかと正当に問うことができる。次に挙げる引用文は、まさに両者が矛盾背反することを示している。

「彼(キリスト)は統治しなければならない。」(コリント前書15章25節)

「私は、忠実な友としてあなたに願います。(中略)天主の法の下に生き、あなたの意志をことごとく天主の御旨に従わせなさい。あなたが天主の御旨にそって統治するとき、はじめてあなたはあなた自身にとって有益なかたちで統治するのです。多くの悪い王のように、教会が、奴隷が主人に対するが如く、あなたの手に委ねられたと思いこんではなりません。教会は、その弁護者、かつ守護者に対するが如くあなたに託されたのです。この世の中で、教会の自由ほど天主の御目に尊いものはありません。天主は、その花嫁[である教会]が奴隷ではなく、自由であることをお望みになります。子が母親に対する敬意をもって教会を処遇する者たちこそ、自らが教会の子、天主の子であることを証明するのです。」
(聖アンセルモ、エルサレム王ボドアンへの手紙 PL CLIX, 206)

「君主の中のある者が、異教徒流の独裁政治の専制的な処し方を捨てきれず、[教会に対する]合法的な保護を早々に抑圧へと化し(中略)、かつキリスト教的精神にそぐわない五剛猛さをもって行動したことは否めないとしても、教会においては、聖ヒラリオや聖マルチノ、聖アタナジオ、聖アンブロジオならびにそれに類した多くの信仰の人、温かい心情を持った人が輩出し、これらの暴君にキリスト教的柔和の精神を思い起こさせ、剣による使徒職を放棄させ、宗教上の信条は決して暴力によって課されるべきではないことを宣言し、そして君主らの迫害にも関わらず広まったキリスト教は、同じく君主らの優遇なしに存続、発展することができ、かついかなる専政にも臣従するべきでないことを公言したという事実を忘れてはなりません。私たちは、信仰および母なる教会の自由のために闘ったこれらの気高い英雄の発した一つ々々の声明を知っており、これを熟慮してきました。しかしながら、行き過ぎ、権利の濫用に対して抗議し、また時期外れで不賢明な、[旧体制への]回帰―これは時として聖職者特権の原則ならびに規範を侵害するものでした―を弾劾したこれらのカトリック教会博士たちの誰一人として、キリスト教の真理を公に表明し、これに自らの行動および制度をしたがわせることが諸国民、ならびにその首長の義務であることを疑いませんでした。彼らはまた、諸国家および国家首長の義務となるところには、公然の不敬神としての性格を帯び、かつ世俗的ならびに宗教的社会の只中に混乱と無秩序とを引き起こす不当な侵害を、時代および人々の性向に応じて予防的、あるいは抑圧的な法規によって禁止することをもがふくまれることを、夢にも疑いませんでした。」
(ルイ・エドゥアルド・ピ枢機卿 「現今の社会における主要な誤謬についての司教会議 第三訓話」Œuvres V p.177-178)

「実際、あなたたちの国(=アメリカ合衆国)では、国家の良好な憲法のためにいかなる法の束縛によっても縛られず、慣習法によって侵害行為から守られている教会は・・・何らの障害無しに存続し、行動する自由を確かな形で獲得したのでした。上記のことは全て正確な事実です。しかしながら、ここで一つの誤りに陥らないように注意しなければなりません。すなわち、教会にとっての最良の状態がアメリカにおいてそれが与っているところの状態である、或いはまた教会と国家との利害を分離・分断することが常に許され、かつ有益である、とする誤りです。・・・教会はもしもそれが法律上の優遇と公権の保護とを得るならば、はるかに多くの実りを生み出すでしょう。」
(レオ十三世、回勅『ロンジクァ・アチェアーニ』 Actus IV, p. 163-165)

「毎年くり返されるこの[王たるキリスト]の祝日は、個人と同様に、政府も為政者もキリストに対して公の礼拝と服従を示さねばならないことを、全ての国々に思い出させるでしょう。(中略)キリストの王としての権威は、全ての国家が天主の掟をキリスト教の原則に従い、それによって法を作成し、裁判を行い、青少年には健全な知識と道徳を教えるのを要求する以上、それは当然のことです。


2-『信教の自由に関する宣言』 13
「教会は主キリストから建てられ、全世界に行って、すべての被造物に福音をのべる義務を神から負わされている精神的権威者として、人間社会において、また全ての公権の前で、自由を要求する。」

【問題点 5】 第二バチカン公会議は、キリストが「天と地における」(マテオ 28章18節)その普遍的全能のゆえにご自分の教会にお与えになった神的掟、全ての民、すなわち個人のみならず、諸々の民ならびに国家を、まさに国家としてこれを教え、洗礼を授け、キリストの法に従わせるという掟から帰結すべき諸々の実際的結論を、しかるべく導き出しているのか。(例えば、カトリック教を国家の宗教として法的に認知すること。)


3- 『信教の自由に関する宣言』 13
「教会はまた、キリスト教の信仰の掟に従って市民社会に生活する権利をもつ人々の社会[=団体] としても、自由を要求する。」

【疑問点 19】 教会が帯びる「完全な社会」としての性格を括弧に入れ、「市民社会における他の諸団体」と同列に置くこの原則は、第二バチカン公会議によって、それ自体として、また全ての場合において有効な原則として保持されているのか。もしそうだとすれば、この原則はカトリック国家において、教会を国家内における他の全ての団体・組織に共通の権利に引き下ろす法律を排斥する教会の教えに相容れるのか。この点に関する教会の教えは、例えば次に引用する文書に如実に示されている。

「司教であるあなたに、フランスにおけるカトリシズムが、この条項[フランス憲法第二8条]によっていかに致命的な傷を被るかを明らかに理解させるために、長々と述べる必要はないでしょう。全ての宗教に見境なく自由を与えること自体によって、真理と誤謬とを混同し、キリストの聖にして汚れのない花嫁、その外では決して救いが得られない教会を、諸々の異端宗派はおろか、[主を]裏切ったユダヤ教と同列に置くことになります。」
(ピオ7世 回勅『ポスト・ディウトゥルナス』PIN 19)

「国家が、今日大いにもてはやされている当の原理[教会と国家の分離]に依拠しているかぎり、教会がいかに不当な地位に置かれているかは、およそ容易に見てとることができます。事実、かかる教説に沿って物事が取りはこばれている所では、カトリック教は国家において、それとは異質な種々の団体・組織と同列に、はてはそれに劣った地位に置かれているからです。教会法は考慮に入れられず、すべての国々、すべての民を教え導く、という命令と使命をイエズス・キリストから受けた教会は、公教育における一切の介入を禁じられています。(中略)要するに、[諸国の首長は]教会を、あたかもこれが完全な社会としての権利ならびに性格を有せず、国家において存在する他の諸団体と同類の組織であるかのように扱っています。」
(レオ十三世 回勅『インモルターレ・デイ』Actus II p.35-37 / PIN 144)

「現代の病、それは、いわゆる政教分離主義、その誤りと悪質な策動です。尊敬する皆様、皆様もご存じの通り、この悪は一日でできあがったものではありません。それはもう長い間いろいろな国のうちに隠れていたのです。そしていつの間にかキリストの全人類に対する支配が拒まれ、教会がキリストご自身から受けた権利さえも否定されてしまったではありませんか。そのため教会がその権利を持って人類を教え、法を制定し、永遠の救いに導くために人々を治めることが認められなくなったのです。そしてついに、キリストは誤った宗教と同列に扱われ、それと同等の地位にまで落とされるようになりました。その上、教会は国家の権力のもとにおかれ、元首や為政者が多かれ少なかれ意のままに扱っています。ある人たちは、更に進んで天主が啓示された宗教を捨てて自然宗教、つまり自然的な心情をその代わりにしなければならないとさえ考えてきました。また国家のうちにも、天主なしにやっていけると考えているものがあるのです。その国では邪悪と天主とを疎(うと)んずる思想を自分たちの宗教観と思っているのです。このような個人および国家のキリストに対する反逆はたびたび嘆かわしい結果を生んできました。既に回勅「ウビ・アルカノ」で遺憾の意を表しましたが、今再びそれについて新たに考えたいと思います。」
(ピオ十一世教皇 回勅『クアス・プリマス』Actus II p.83-84 / PIN 552-554)

【疑問点 20】 第二バチカン公会議は共通の権利」を、あらゆる状況を含む絶対的原理として要求しているのか。[第二バチカン公会議は、あらゆる状況を含む絶対的原理として「共通の権利」を要求しているのか。] もしそうだとすれば、かかる論説は、現代最良の神学者の一人、「ローマ的神学者」と呼ばれるレジナルド・ガリグー=ラグランジュ神父が以下に解説するところの教説とどうやって両立することができるのか。

「無論、私たちは信教の自由を起点として、この信教の自由を標榜しつつ、なおかつ真の教会を迫害し、その礼拝行為を禁止する者たちに対して、彼らだけを対象とした方便的な議論を展開することができるでしょう。このような、特定のグループを対象とした議論は正当であり、カトリック教会はこれを蔑ろにせず、かえって自らの権利と自由とを守るためにこれを用います。しかし、この事実から、「信教の自由」が、まさにそれ自体としてカトリック信者により絶対的な仕方で養護され得るということは導き出されません。なぜなら、信教の自由は、それ自体として不条理かつ不敬神なことだからです。実際、真理と誤謬とは、同一の権利を有し得ないのです」。(De Revelatione, Rome-Paris, Ferrari-Gabalda, 1921 t.II p.451)

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