Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

聖ピオ十世会 カトリック聖伝のミサ : 3月のミサ聖祭の日時にいくつかの追加・変更があります。

2024年02月29日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

3月のミサ聖祭の日時に追加・変更があります。

【大阪】「聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂」 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 EG新御堂4階 〒532-0002 (アクセス)JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分(地図)

【大阪 Osaka】

3月 16日 SAT ミサはありません No Mass <= !
3月 17日 SUN ミサ聖祭 18:00 <= ! 午後になりました!
3月 18日 MON ミサ聖祭 06:30 <= ! 追加されました!

3月 28日 THU ミサ聖祭 18:30 
3月 29日 FRI ミサ聖祭 18:30 
3月 30日 SAT ミサ聖祭 20:00 <= ! 時間が変更されました
3月 31日 SUN ミサ聖祭 10:30 

【名古屋】場所:愛知県名古屋市中村区名駅南1-3-14 石原ビル6階

3月17日(主日) 09:50 ロザリオ及び告解  10:30(午前10時30分) ミサ聖祭 <= ! ミサが追加されました
3月31日(主日) 16:50 ロザリオ及び告解  17:30(午後05時30分) ミサ聖祭

【札幌】場所:北海道青少年会館 Compass です。
予約は必要ありません。どなたでも自由にご参加できます。
https://hs-compass.com/

3月19日(火)聖ヨゼフの祝日 18:00よりミサ聖祭
3月20日(水)春分の日    09:00よりミサ聖祭

【大宮】いつもの通りです。

3月1日(初金)午後5時20分より十字架の道行き、午後6時より至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ、聖体降福式
3月2日(初土)午前11時より聖母の汚れなき御心の随意ミサ、聖体降福式
3月3日(主日)午前8時30分(読誦ミサ)、午前10時30分(歌ミサ)


2024年2月12日無原罪聖母の騎士会霊的講話3:マリア様がわたしたちの母であるということの結論:尊敬、愛

2024年02月28日 | お説教・霊的講話

2024年2月12日無原罪聖母の騎士会霊的講話3(ファイファー神父様)

アリストテレスによると、軍隊の一番大切なポイントというのは、兵士たちがその指揮官と一致しているということです。

ところでわたしたちの指揮官は、マリア様です、無原罪の御孕(やど)りです。そしてマリア様とわたしたちは一致していますが、その理由はマリア様がわたしたちの母親であるからです。

ですからこの今日いまのお話の内容は、マリア様がわたしたちの母であるということの結果、具体的にいったい何が、どういうことが起こっているのか、ということを黙想します。

【尊敬】
まずマリア様がわたしたちの母親であるということの最初の結論は、天主の十戒の第4戒、つまり母親に対する親に対する尊敬です。

このマリア様にはどのような尊敬がなされているかということは聖書を見るとわかります。大天使聖ガブリエルは、マリア様の前で頭を下げ、そして聖寵に満ち満ちているお方、と申し上げました。

また聖ルカによると、イエズス様が御降誕されたときには、天が開いて天の天使たちが、贖い主がお生まれになったことを賛美して、そして、このベトレヘムの貧しい家族に尊敬を払いました。

また、それのみならず、天使だけでなく、羊飼いたちもそして東の国の博士たちも、マリア様の前に行って、お生まれになった王の前に跪いて礼拝しますが、もちろんこの王をわたしたちに産んでくだったお母様であるマリア様の前にも、特別の尊敬を払いました。

でもこの尊敬というのはたんなる尊敬ではなくて、宗教に基づく宗教的な尊敬で、つまり天主に向けられた尊敬の一部でした。

なぜかというと、この母と子どもに対する尊敬というのは、天主がこの子どもを送られたのであり、天主がその子供を産むようにこの母親を送ったのであって、天主がわたしたちの救いのためにこの子どもを送ったのであって、わたしたちの霊魂のために天主がこの子どもを送ったのだから、この子どもと母親に対する尊敬というのは、究極には天主に向かうものであって、天主に対する尊敬にたどり着くからです。

そこで、ところがプロテスタントの異端者の人たちは、カトリック信者がマリア様の前で跪いて尊敬を表すと、服を引き裂いて、「あー、スキャンダルだ!」「冒涜だ」「偶像崇拝だ」といいます。でも、プロテスタントは、天主とマリア様を引き離そうとしているからです。

しかし、マリア様をもしもわたしたちが尊敬するとしたら、それは実はマリア様が私たちにキリストをもたらしてくださったからです。それ以外の何物も理由はありません。ですからこのキリストをわたしたちにもたらしてくださったマリア様こそ、すべての代々はわたしを幸せなものと呼ぶだろう、とおっしゃった通りに、幸せなものと呼んでいるのです。

また“めでたし”も同じです。「御身は女のうちにて祝せられ、またご胎内の御子イエズスも祝せられ給う。」マリア様は祝せられたイエズス様をくださったからこそ、祝せられたといわれます。

【愛】
第一は、マリア様の母であるということの第一の結果は、わたしたちが宗教的な天主にかかわる尊敬をマリア様に捧げるということですけども、第二は愛です。まず母と子どもの間には愛があります。

この母と子どもの間の愛は、特に、マリア様の汚れなき御心が持っているイエズス様の聖心に対する愛、そしてイエズスの聖心が持っているマリア様への愛、これ以上のものはありません。特に、イエズス様は、マリア様との愛は愛で一致しているので、このすべての玄義を神秘をマリア様と分かち合いました。

聖ピオ十世教皇様は、無原罪の御孕(やど)りに関する回勅の中で、こう仰っています。「天主の御子がマリア様によってご托身した時に、新しい超自然の秩序、新しい超自然の世界がはじまった、と。そして救われる人は、すべてこの新しい秩序に、この世界に組み込まれなければならない。」

でも、この新しい超自然の秩序、新しい世界は、まずその最初は、二人のみこころ――イエズス様の聖心とマリア様の汚れなき御心――の愛の中で、確立しました。この愛がはじめとなって、この新しい世界の秩序が確立しました。

では、もしもわたしたちがその新しい秩序の中に入り込むにはどうしたらよいでしょうか。愛さなければなりません。もちろん天主はわたしたちを愛してくださって、その愛のおかげで洗礼を受けることができました。ですからそのお返しのためにも、その愛を返さなければなりません。ではだれを愛するのですか? 天主を、そして、イエズス・キリストとマリア様を愛さなければなりません。ですからプロテスタントのいうように、イエズス様だけを愛してマリア様を愛さないということはできないのです。なぜかというと、互いに愛するみこころは一致していて、もう分かちがたく離れがたくひとつになっているからです。愛は一つにまとめますが、誤謬は分裂させます。

ですから、わたしたちは、イエズス様とマリア様が互いに愛しあったように、わたしたちも愛さなければなりません。このわたしたちの宗教は、ここに基礎を持っています。では、どうしてわたしたちがそんなことができるのでしょう。なぜかというと、わたしたちは聖霊を受けていて、それで霊に導かれた者として「アッバ!父よ!」と呼ぶことができるからです。わたしたちは天主の子どもたちとなったからです。ちょうどマリア様を聖霊の陰がおおったように、聖霊がわたしたちに宿って天主を「父よ!」と呼ばせてくれるようになったからです。そしてその聖霊によってわたしたちは愛することができるようになるのです。

わたしたちがこどもである、養子である、ということをよく考えると、どれほど感謝しなければならないでしょうか。なぜかというと、聖パウロは「わたしたちが相続人となった」といいます。子どもとなったということは、つまり相続人となったということです。つまりイエズス・キリストにおいてのすべての富の財産が、天の宝が、わたしたちのものとなるということであるからです。つまり、「子どものなかでも二級のこどもとか三級の子どもとかがあり、本物の子どもはここにいるからこの子だけは特別だけれども、あとはもうどうでもよい」というのではないんです。そうではなくて、天主と全く同じ権利を持つ、すべての権利をわたしたちが同等に持つ、それが現実なんです。ですから、たとえこの地上で、病気とか辛いこととか悲しいこととか…があったとしても、それは大したことではありません。なぜかというと、この短い生涯の後に、永遠の現実が、わたしたちに待っているからです。ものすごい富を、相続することになっているからです。ですから、わたしたちは子どもとして、天主を愛さなければなりません。その現実を愛さなければなりません。

マリア様が母であるということの結果として愛がありますけれども、そのなぜ愛するかというその理由のさらに理由は、ただ単に相続人であるからだけではありません。つまり、わたしが相続人だから、チケットがここにあるから、そのお金をくれ、というのではなくて、実はわたしたちは、キリストの神秘体の一部に組み込まれるので、キリストはわたしたちをご自分の身体として愛されている。たとえばわたしたちが病気だとかいうときにはいつも、自分の身体を憎まずに自分の身体を大切にして、この病気を癒すようにしますが、それと同じように、わたしたちを自分の一部として愛されています。たとえば、結婚のときに聖パウロはこう言います。「夫よ、妻を愛せ。妻はお前の身体の一部だ。妻よ、夫に従え。夫はお前の頭(かしら)だ。一つの身体だ」というように、私たちはキリストの体の一部となったという非常にパーソナルな理由によって、愛されているので、わたしたちはキリストの身体を、神秘体を愛さなければなりません。

【貞潔を愛する】
もしもわたしたちがキリストの神秘体の一部であるとしたならば、天主が純潔を愛されるようにわたしたちも純潔を愛さなければなりません。不潔は、天主の神殿を汚します。ですから私たちの身体も、純潔のまま貞潔のまま守らなければなりません。天主は昨日も今日も将来も変わることがありません。天主はマリア様を童貞の母として愛されました。今日もその純潔を、貞潔を、天主は愛されています。でもいま現代は、非常に不潔の時代となって、しかもこの不潔を祝福しようと試みる教皇様さえいる時代になってしまいました。しかし天主は不潔を愛しません。聖パウロによると、不潔なものは天の国に入らない、と書いてあります。なぜかというと、不潔は神秘体の一部となることができないからです。また、「これは私の身体じゃない」と天主が拒否するからです。ですから、天の国に入ることはできません。もしもわたしたちが超自然の神秘体に組み込まれるのならば、その結果わたしたちは貞潔を、純潔をも守らなければなりません。

どれほど貞潔が重要かということを、ちょっと描写してみますと、童貞殉教者たちがそうです。殉教したというのは、まず信仰を守るため、そしてじぶんの身体の貞潔を守るために、彼女たちは、あるいは鼻を削がれ、あるいは目を引き抜かれ、あるいは胸を切りとられ、あるいはいろいろな拷問をうけて、身体は引き裂かれてボロボロになったにもかかわらず、そして宣伝のためには見た目にはもしかしたらそんなにきれいではないかもしれませんけれども、非常に美しい殉教童貞者です。ところでよくどっかの雑誌を飾るような女性は、もしかしたらお化粧もして綺麗な身体をしているかもしれませんけれども、しかし霊魂は不潔で、そして宣伝のためにはいいかもしれませんけれども、しかし永遠の命のためには何の益もありません。殉教者は、信仰の純潔のため、そして体の純潔のためにその命を落としました。

貞潔を守るために一番よいやり方は御聖体拝領です。よい、最も完全なやり方で、御聖体拝領をすることです。でもわたしたちは原罪を持っているので、わたしたちはどうしてもその貞潔を守ることができません。つまり不潔の臭いがします、ですから体に香水をつけて臭いを消すように、わたしたちの霊魂の臭いにおいを、香水をつけて消さなければなりません。そして霊的な香水というのがあります。それがマリア様です。マリア様は霊的にわたしたちといらっしゃるときに、わたしたちの臭いが取れてしまうからです。なぜかというと、例えばイエズス様はそのお生まれになったとき、あるいは最初の奇跡をされた時、あるいは十字架の下で、いろんな重要な時に必ずマリア様とともにおられたからです。それと同じようにわたしたちもマリア様と共にいる時に一番よいことができます。

【聖母と共に行う聖体拝領】
ですから、聖グリニョン・ド・モンフォールは、マリア様がなさったようにマリア様と一緒にマリア様の隣にいて御聖体拝領をするのが一番よい御聖体拝領ができるやり方だと言っています。ですからマリア様と一緒にミサに与り、マリア様と一緒に御聖体拝領に並んで跪いて、そしてマリア様と一緒に御聖体拝領をしてそしてマリア様と一緒に自分の席に戻る。そしてマリア様に「どうやってお祈りしたらよいですか?」と聞いてください。なぜかというと「私は ほんとうにこう頭がカラッカラでスカーッとまるで何もわかってないので…」と、マリア様に私の代わりにお願いしますと、マリア様に話しかけてください。マリア様と一緒に祈るのが最高の御聖体拝領ができるやり方だ、とグリニョン・ド・モンフォールは勧めています。

「御聖体拝領をマリア様と一緒にする」――この御聖体拝領は、わたしたちの全生涯のパターンでなければなりません。この御聖体拝領のように生活しなければなりません。イエズス様と一致して生活しなければなりません。わたしたちの霊的生活の目標であるべきです。ですから、もしも御聖体拝領をマリア様と共にするのならば、今度はミサの外でも、仕事をするにも朝起きるにもご飯を食べるにも、マリア様と一緒に起きてマリア様と一緒に仕事をしてマリア様と一緒にご飯を食べてマリア様と一緒になんでもする。これが「マリア様の聖なる御手の中で生きる」ということで、これこそがM.I.がその奉献を通して目標とすることです。

【イエズスは常に聖母と共に行った】
プロテスタントの人は、こう言うかもしれません。あるいはプロテスタントに影響されたカトリック信者は、こういうかも知れません。「あれっ、イエズス様はどこにもいるんじゃないですか。イエズス様と生活するのはとってもいいことだけれど、でも、なんでマリア様が必要なんですか。なぜマリア様が巻き込まれなければならないのですか。マリア様なしでもイエズス様と一緒にやることができるんじゃないですか。」

しかし、イエズス様は一人ではなにもなさらなかったんです。なにもなさりません。たとえば、イエズス様は三位一体の第二のペルソナで、常に、父と子と聖霊のその三位が働きます。そしてイエズス様は一人で人間になったのではありません。というか、バッと降りて来て人間になってババーンと降りてこられたのではなくて、マリア様のご胎内におられて、マリア様を通してわたしたちのところに人間としてお生まれになられて来られました。ですから、イエズス様はもしもわたしたちの霊魂を救うとしたら、一人でやるのではなくて、どうしてもマリア様とともにやるしかありません。

これが、イエズス様の「協力の法則」です。そして、すべてにおいて、わたしたちの協力を求めておられる、マリア様と一緒になされる、ということです。特に聖パウロは、ギリシャ語を作って、協力者と言う言葉を作って、イエズス様の協力者となるということを求めました。

聖パウロは、新しいギリシャ語の言葉を作り出して、共同行動者、共同に働く者、あるいは共同のパートナー、あるいは共同の身体を持つ者、という単語を作って、一緒にやるということを強調しますが、ではいったいマリア様はなんなんでしょうか。

では、もちろんわたしたちは、協力者、一緒に共同して働く者となりますが、ところでマリア様は、わたしたちの共同・協力のレベルをはるかに超えています。なぜかというと、マリア様は天主のすべての神秘に参与して、イエズス様と一緒にそれをおこなったからです。

マリア様が最も高いレベルにおいて協力してご一緒に働らかれた・人となった御言葉の御母となられた、ということなのですが、これはわたしたちM.I.にとってこのことを理解することが非常に大切なのですけれども、「マリア様は最も普遍的なレベルにまでその協力をなさった」ということです。わたしたちが協力するというのは、個別のところにおいてですけれども、マリア様はすべてにわたって普遍的な協力をイエズス様にされたということです。

【マリア様はわたしたちの協力を必要とする】
このことから導き出される結果は何かというと、このマリア様は絶対的に必ず必要条件として、この個別の協力者を必要とするということです。個別の働き手あるいは兵士たちを必要としていて、このことが天主の御摂理のご計画なんです。

では、マリア様はわたしたちの協力を必要とするというのは、いったいなぜなんでしょうか。そしてどのようにしようとしているのでしょうか。なぜかというと、これは天主の正義がこれを要求するわけです。なぜかというと、たとえば、もしもわたしたちの先祖のキリシタンが…おじいさん…立派な方でとても聖徳の高い方で、今は天国で栄冠を被っているとしたら、だからわたしたちはおじいさんがいるから何もしなくいいというのではなくて、もしもそのような偉大な祖先をもっているのならばわたしたちもそのような祖先のように行動しなければなりません。マリア様も、わたしたちのために貞潔を守ることはできません。もちろんマリア様が私たちのために、わたしたちが貞潔を守ることができるように、祈りそして助けることはできますけれども、マリア様はわたしのするべきことを代わりにしてくださることはできません。それはわたしたちがしなければなりません。ですから、私たちが協力することを必要とされているのです。

では私たちがやるべき協力とはなんでしょうか。わたしたちは何をすることができるでしょうか。それは、わたしたちが罪に対して戦うことです。コルベ神父様は、わたしたちは毎日わたしたちの罪をなるべく少なくするように、罪に対して罪を征服しなければならない、罪に打ち勝たなくてはならない、と言っていました。

ですから、私たちは、罪に対して戦って、罪の王国に対して戦いを挑んで、その罪の王国のテリトリーを小さくしなければなりません。私たちの霊魂にその戦いがあります。

もしも皆さんが親御さんであれば、子どもたちが今後罪を犯さないように、手伝ってあげなければなりません。

もしもみなさんが、お父さんお母さんでいらっしゃるならば、家庭という要塞を、敵に対して守らなければなりません。ですから、もしもこどもたちが罪の機会に自由にアクセスできたりするのならば、お父さんお母さんはつまり軍隊の指揮官として、作戦が失敗したということです。ですから携帯あるいはその他が、いったいどのように使われているかを、厳しくコントロールしなければなりません。

それは、もちろん簡単なことではありません。でも、目標があります。このような戦いをマリア様となさってください。もしかしたら、わたしたちは罪にたいして戦いを挑むがために、屈辱を受けるかしれません。辛い思いをするかもしれません。長い戦いをするかもしれません。でももしも、マリア様と共に行うならば、マリア様は私たちをサポートしてくれますし、マリア様はその戦いに報いを与えてくださいます。

また、自分の要塞を守る・家庭を守るという防御のみならず、攻撃も考えなければなりません。つまり、わたしたちの霊魂あるいは家庭のみならず、この世界において、マリア様の支配を確立させるということです。つまり政治においてあるいは病院あるいは間違った宗教を信じている人に対して、そのようなところからその間違いから真理へと、導き出してあげなければならないということです。これがM.I.の目標の一つでもあります。もちろんこれは難しい仕事ですけれども、マリア様と一緒にならばマリア様の助けを持っているならば、必ずこれはできます。

わたしたちは、M.I.の単純な義務を、よく実行するようにしましょう。M.I.の毎日の祈りを毎日唱えてください。もしもこれを暗記することができなかったら、おやつはないと思ってください。それから毎日不思議のメダイを身に着けてください。それができたら、そしてその次には、こんどは愛徳を持って、友だちにあるいは友達でないひとでもメダイを差し上げてください。そしてマリア様のもとに連れてきてあげてください。もちろん難しいケースがあります。でも難しいケースであればあるほど、それが回心した時には、天においてはマリア様にものすごい喜びがあることでしょう。

では、これで今回のお話はおわりますけれども、最後にM.I.の祈りを皆さんで唱えます。

三回このお祈りを唱えますけれども、まず最初に一回目は男性がこの祈りを唱えてください、二回目のお祈りは女性だけでこれを唱えてください、最後の三回目は男性も女性も声を合わせてこれを唱えて、これを終わります。

聖父と聖子と聖霊との御名において、アーメン。

(三回のM.I.の祈り)ああ原罪なくして宿り給いし聖マリアよ、御身に依り頼むわれらのために祈り給え。また御身に依り頼まざるすべての人々、特にフリーメイソン会員のため、また御身に委ねられ奉りしすべて人々のために祈り給え。


無原罪聖母の騎士会霊的講話2:聖母が使徒の元后であり、すべての人の元后であること

2024年02月28日 | お説教・霊的講話

2024年2月11日無原罪聖母の騎士会霊的講話2(ファイファー神父様)

【講話2】聖母が使徒の元后であり、すべての人の元后であること

たとえ聖伝の信者さんでなかったとしても、あるいはカトリック信者でなかったとしても、カトリックの精神をM.I.のお祈りによって教えてあげてください。
(神父様たちがお祈りのカードを信者の方々に配ってくださった。)

では、マリア様が使徒の元后すべての人の元后であることを、黙想いたしましょう。

マリア様の霊的な子どもたちはみな使徒たちでした。最初の子どもたちはみな使徒たちでした。洗者聖ヨハネも使徒だと考えることができます。

マリア様の御子であるキリストは父から使わされたものでした。そして使徒というのは、使わされた者という意味です。ですからイエズスさまもこうおっしゃいました。わたしが父から使わされたように、わたしもお前たちを使わす。そしてみなさんも、マリア様によって使わされた者たち、使徒たちとなります。

マリア様は、特に聖霊降臨の時に、特別の役割をしました。

聖ルカは、使徒行録の中で、聖霊降臨の時にこう描写しています。
「使徒たちは婦人たちと、そしてイエズスの御母マリアとともに、祈りに専念していた。」
ところで、イエズスの御母マリアという言葉を特別に出していますが、これがなぜかというと、マリア様が聖霊降臨の中でも特別な道具であったからです。

もちろん聖ペトロ、聖ヨハネ、そのほかの聖なる人たちもいましたが、マリア様が最も聖なる御方でした。教父たちは、ちょうど聖霊が降臨するために必要だった避雷針のように、聖霊の火がマリア様を避雷針として降りてきた、と言っています。

ところで、福音書を読むと、聖霊降臨には二つあります。一つはお告げの時に、聖務日課によると、「聖霊はマリア様の上に降ってマリア様を聖霊の力が覆った」とあります。そして聖霊が降って、マリア様を聖霊の陰が覆ったときに、マリア様を道具としてマリア様の身体を使って、イエズス・キリストの御体が形つくられました。ところで第二の聖霊降臨の時には、マリア様の祈りを通じて聖霊が降って、そしてマリア様の祈りを通じて聖霊の力によってキリストの神秘体が形つくられて、神秘体が生れ出ました。ですからマリア様は、聖霊降臨の特別の道具と言えます。

ところで、カトリック教会が生まれたときに何をしたかというと、まず聖ペトロが外に出て説教をして、そして4000人が洗礼を受けます。そしてそののちに使徒たちが世界中に行って、宣教使徒職を行うのですけれども、その背後にはマリア様の祈りがありました。

主を愛した聖ヨハネは、十字架のもとに立ち止まりました。聖ペトロも、復活後イエズスさまから尋ねられました「お前はわたしを愛するか」と。ペトロは答えます「はい私は愛します。」と。そして愛の使徒たちの元后がマリア様でした。また主を愛する人々は、主を愛するがゆえに、キリストを伝えますが、その主を愛する人々の女王・元后もマリア様です。

わたしたちが天主を愛すれば愛するほど、その愛は隣人に対する愛に及びます。そしてその隣人の救いを求めるようになります。ところでマリア様は、天主を最も最高に愛した方でした。ですからマリア様こそ、最も隣人のすべての人々の救いをお望みになられています。ところで、イエズス様が天国に挙げられたのちにマリア様は地上に残りました。マリア様のまわりには12人の使徒たちがいました。そして12人の使徒たちが宣教に生きそして説教をし、洗礼を授けるのですけれども、いったいマリア様はかれらのために何をすることができたのでしょうか。どうしてサポートすることができたでしょうか。マリア様はもちろん、もしも説教をしようとするとすれば、12使徒たちよりもどれほど上手い説教ができたことでしょう。また洗礼を授けたら、マリア様ほどうまく洗礼を授ける人はいなかったでしょう。しかしマリア様はそれらのことを一切なさらずに、12使徒たちの使徒職の心となって、そして聖寵のお恵みの道具となって、かれらのために祈っていました。そしてマリア様は教会の愛となって、愛の道具となって、そしてすべてのお恵みを自分のところに留めておくいわば倉庫のようになっていて、その倉庫から使徒たちがいろいろなお恵みを取りたいだけ取ることが、配りたいだけ配ることができるような、教会の愛になりました。マリア様のこころは、天主への愛に満ち満ちていたからです。

ところで、マリア様の活動は、祈りの活動・愛の活動であって、隠れた活動でした。家庭のお母さんが家の中にいながら偉大な業をするように、マリア様も隠れて愛の業をしました。M.I.の無原罪の聖母の騎士の後ろには、この愛の業があります。愛の業には、ふたつの要素があります。一つは、教会法に従った愛のあらわれであって、これが司祭やシスターたちをどこかに送る、司祭を派遣する、シスターたちを派遣する、修道会を派遣する、という教会の公式の法的な愛の業です。しかし、もう一つの愛の側面は、自発的に全く自由に、たとえば子供が、「僕司祭になりたい」、「お父さん私は司祭になりたい」、「自分をイエズス様にお捧げしたい」などというまったく自発的な愛の業です。

偉大な愛を持てば持つほど、より多くの偉大な愛の業をすることができます。たとえば聖ヨハネ・ユードという方は、フランスのとても偉大なマリア様への愛を持っている汚れなき御心への信心をもった方ですが、その聖ヨハネ・ユードは貧しい人にもあるいはフランスの王にも同じように説教し、そして多くの人々に感銘を与えました。あるいは、聖マリ・グリニョン・ド・モンフォールは、マリア様の最も偉大なマリア様のしもべとして説教をして活動された方です。愛を持てば持つほど、偉大な業をすることができます。いま現代に無いのが、この愛です。

ところでもう一つの側面を見てみます。マリア様に対する愛の使徒たちがいる一方、他方で異端者やセクトあるいはフリーメイソンとかの活動家も存在します。敵の活動家も存在します。かれらは非常に活動好きで非常に熱心で、普通の一般的なカトリック信者たちよりももっと熱心に働いているかもしれませんが、いったい彼らはどのような特徴を持っているでしょうか。

かれらの第一の特徴は、かれらが非常に人間的な手段に頼んでいる、ということです。例えばいろいろなメディアに依ったもの、あるいは強力な有事なコネがあるとか、あるいは優れたビジネスの戦術があって世界中に広がるようなビジネスの繋がり、あるいは心理学に基づいた作戦を立てている、など。

第二の特徴は、従順というものを憎んでいる、嫌っているということであって、権威に服従するということができない、あるいは軽蔑する、ということです。なぜかというと、自分の意志を否定することを、自分の意志を誰かに従わせるということができないからです。そのようなことは考えにもないし、そのような霊性もないし、そのようなつもりもないからです。ですからかれらは 自分たちで一つにまとまることができずにいろいろな分派に分かれて相互いに戦っています。

第三は、かれらは本当の祈りを無視している。もしかしたらビジネスの一部として祈りがあるかもしれませんけれども、使徒職のために絶対必要なエッセンシャルなものとしては祈りを信じていない。そうでなくて、かれらはむしろ人間的な手段を頼みにして、祈りが必ず必要だとは思いもしない、ということです。

第四は、十字架を恐れている、十字架を避けている、そして十字架の結果の屈辱・死を恐れている。キリストはもしかしたら十字架につけられてかつて亡くなったかもしれませんが、しかしだからといって私たちがそれに参与するとかそれを続けるとかということは考えもしないし、それへの愛もないし、それへの信頼もない。「十字架を恐れる」、これは非常に悪魔的であって、もしかしたら今現代カトリック信者もこれのその恐れがほとんどの人が持っています。

では「本当の使徒」の持つ愛というのは何でしょうか、どんな特徴があるのでしょうか。その「偽の使徒職」と、どのように違うでしょうか。見てみましょう。

本当の使徒職というのは、使徒職が何かということを理解することから始まりますが、使徒職とは何かというと、天主への愛です。愛であって、活動ではありません。ですから愛――イエズス・キリストへの愛――十字架につけられたイエズス・キリストへの愛が、大事になります。

十字架の力というのはイエズス様に対する愛、十字架に近寄る、イエズス様に似通ったものになる、これこそがマリア様のなさったことではないでしょうか。十字架のもとに佇まれて、そして苦しまれました。今日はルルドの祝日でありましたが、聖ベルナデッタがルルドのマリア様をご覧になったときに、マリア様のすぐ近くで何か大喧騒がありました、大きな騒ぎがありました。悪魔のような騒ぎだったのですけれども、そのとき、現れたマリア様はそのほうをゆっくりと眺めるとあっという間にこれがピタリと止まって、終わってしまいました。マリア様のただ一目が、すべてを終わらせました。悪魔の大喧騒も終わってしまいました。つまり、もしも皆さんが苦しんでおられるのなら、特にマリア様を愛するがために困難なことがあったり苦しんでいるのであるならば、マリア様はわたしたちのすぐそばにいるということです。

第二の特徴は、十字架に対する愛の結果、わたしたちはけんそんと屈辱をも愛するということです。マリア様がそうでした。マリア様は われは主のはしためなり、仰せのごとくわれになれかし。従順であってけんそんでありました。けんそんな人というのは、主の必要としていることをよく自覚している人でした。イエズス様御自身もそうでした。自分も死に至るまでの従順!十字架の死に至るまでご自分を従順にされました。

第三の特徴は、どんな手段よりも祈りこそが最も本質的で最も必要な手段であるということを確信しています。マリア様の使徒職は祈りの使徒職でした。無原罪の聖母の騎士会もこれを知っています。わたしたちにとってもっとも必要なのはこの祈りです。「原罪なくして宿り給いし聖マリア、御身により頼み奉る我らのために祈り給え。また、御身により頼まざるすべての人々、特にフリーメイソン会員のため、また 御身に委ねられ奉りしすべての人々のために祈り給え。」

第四の特徴は、教会の権威に喜んで服従して従順であるということ、ここに天主のみ旨を見るということです。マリア様はそうでした。天主のみ旨こそを、自分のやりたいことよりももっと優先させるということです。自分のことは一番最後に…です。聖ペトロがアンチオキアに教会の司教座を作ったときには、マリア様はそれに従いました。なぜかというと聖霊が教会において働いていることを知っているからです。

M.I.無原罪聖母の騎士会はマリア様の御心から生まれました。コルベ神父様はこれを軍隊と言いましたけれども、それをマリア様の御心から生まれたものとしてとらえました。マリア様の御心からうまれたこのM.I.は、キリストの神秘体の多くのメンバーやその自分の体の機能を良く果たすことにあります。眼が口になり、口が手になることではなくて、眼は眼として手は手として自分の身分上のつとめを良く果たすことによって、マリア様の使徒職を行うことにあります。

そうすることによって、マリアさまの愛とマリア様の精神によって生きることになります。たとえわたしたちが使徒でなかったとしても、わたしたちが誰かに積極的に論争したりする人でなかったとしても、わたしたちすべてが使徒的な精神を持たなければなりません。もしもそのような使徒的な精神がなければ何の役にもたちません。もしもでも、そのような使徒的な精神を持っているのならば、一般の家庭のお母さんでも、子どもを養っているお母さんでも、あるいは大工さんでも、あるいはどのような労働者でも、神秘体の働きすべてに信じられないほどの力を提供することができます。そのような精神を持って日常生活を送る人は、天主から私たちの心に多くの光を受けることになり、人々の心を回心させるのは、その紙きれのパンフレットあるいはチラシではなくて、心です。心は心からしか行きません。ですから霊的なものであって、神秘的な働きがなければ、人の心は回心することができません。でもマリア様は使徒の元后であり使徒職の元后でありすべてのこころの元后・女王であるので、マリア様の道具として使徒的な精神を持ってお捧げする一般の人たちはマリア様に多くの協力をすることになり、またマリア様の汚れなき御心からわたしたちに特別な光をいただいて、そしてわたしたちの周りに大きな影響を与えることができるようになります。

M.I.の無原罪聖母の騎士会の目的は、わたしたちをマリア様の道具として奉献することです。ただ、どのような道具かというと、使徒職の目的のために、その使徒職ということのために、道具として捧げることです。そしてこの使徒職ということは何かというと、すべての人々の回心のため、またすべての人々の聖化のため、そういう使徒職のためです。ちょうど告解の時に司祭が罪の赦しの祈りを唱えるときに、その中の一つに痛悔した人に対して「あなたが行うすべてのことはどのようなことであれすべてのことが罪の赦しのためになりますように」という祈りがありますが、それと同じように、わたしたちの行うすべてのことがマリア様の使徒職のために、回心と聖化のために役立ちますように、という意向で奉献して、捧げるのです。

四つの義務があります。一つは、わたしたちは、マリア様の道具として奉献することです、「わたし」を奉献すること。第二は、この奉献のしるしとして不思議のメダイを身に着けること。第三はわたしたちができる限りのことをマリア様の名誉のためにすること。たとえば私がいまから提案するのは、皆さんが更新の式のときに3つの不思議のメダイを皆さんにプレゼントしたいということです。このマリア様の名誉のための使徒職としてこの三つのメダイを使ってください。どうやって使うかというと、これは皆さんのボーイフレンドあるいはガールフレンドのためにプレゼントするのではなくて、そうではなくて、まずカトリック信者でない方がカトリック信仰をもってカトリック信者になることができるようにするために、これをさしあげてください。でもそれのためにはうまーくやらなければなりません。そしてもしもカトリック信者にこのメダイを挙げようとするときには、それはカトリック信者がM.I.無原罪聖母の騎士会に入会するために、差し上げてください。あげてください。どのようにするかというと、非常に簡単です。聖ピオ十世会に入会するのではなくて、聖母の騎士会に入会するのであって、これは、
「あなたはマリア様を愛していますか?」
「もちろん、マリア様を大好きです。」
「マリア様がすべての人が回心するのを望んでいるのを知っていますか?」
「もちろん、マリア様が お母さんが 回心するのを望んでいるのを知っています。」
「でもアリア様は、でも回心のためにあなたの助けが必要なんですけれども、あなたはマリアさまのために何かしてあげたいと思いませんか?」
「はい。なんでもしてあげたい。」
「じゃあM.I.に入ってください。M.I.の会員です。」
そうして、その人が会員になるときには、このようにここに連れてきて、会員の入会式をするようにしてください。そして会員になったら、皆さんこの会員になった方のフォローアップをされて、ちゃんと不思議のメダイを身に着けているかあるいはちゃんとこのM.I.のお祈りをしているかどうかを確かめて、もしもしていなかったらするように励ましてあげてください。もしも6人の人がM.I.になったらば、そして一日一回そのお祈りをするならば、マリア様に1分の祈りの武器をあたえることができるようになります。それが多くなればなるほど、マリア様にますます武器を与えることができます。大変力強いものとなります。

今から更新式あるいは入会式を、行います。入会式も更新式もまったく同じことをするのですけれども、入会されたいということのためには入会の請願書を、そして更新されたい方は皆さんのお名前とそして更新という文字を書いて、そして提出してください。そうするとそれを見てデーターのところに登録することできます。

M.I.のメンバーの方は、カルメル山のスカプラリオも持っていなければなりませんけれども、皆さんお持ちですか。

不思議のメダイはマリア様の兵士であるというしるしで、スカプラリオはマリア様の家に属する子どもであるというしるしです。M.I.に入る方は、自動的にマリア様の子どもとして、スカプラリオも身に着けてください。ではいまから更新式と入会式の準備をしますので、用紙を配ります。

 


無原罪聖母の騎士会霊的講話1:聖母マリア様がわたしたちの御母であることの理由:イエズスの御母、キリストの神秘体の御母

2024年02月28日 | お説教・霊的講話

2024年2月11日無原罪聖母の騎士会霊的講話1(ファイファー神父様)

【講話1:マリアは私たちの母】

わたしは日本に来てとてもうれしく思います。初めて日本にまいりました。子どもの頃日本の映画を見たことがあるのですけれども、来たことがありませんでした。日本語が話せなくて申し訳ございません。日本語を勉強するには長い時間がかかりそうです。

無原罪の聖母の騎士会、Militia Immaculatae、この霊的な戦いにおいて最も大切なのは、わたしたちの指揮者であるマリア様に一致していることです。

この指揮者であるマリア様は、わたしたちの御母であります。ですから、今のこのお話は「マリア様はわたしたちの母である」ということについて考察いたしましょう。なぜマリア様は私たちのお母様であって、それと軍隊とどういう関係があるのでしょうか。

マリア様がわたしたちの御母であるというのは、まずイエズス様を肉体的にお産みになったお母様であるからです。そしてそのイエズス様がこの世界にお生まれになられたその理由はたった一つであって、それは私の霊魂のそして皆さんの霊魂の救い主・贖い主となるためであった、ということです。

大天使聖ガブリエルはマリア様にこういいました。:「見よ、あなたは胎内に子を宿すだろう。そして、男の子を産むだろう。そして、この彼はいと高きものの子と呼ばれる。そしてそののちに、聖霊があなたの上に臨んで、そしていと高き者の力があなたを覆う。あなたから生まれる者は 聖なる者、天主の子と呼ばれる。」その“子ども”と言う言葉が、子を宿す、子を産む、天主の子と呼ばれる…などとその“子ども”という言葉が、(三回)出てきます。

あなたの胎内の子ども、そして、いと高き者の子・天主の子、その二つがあるのです。“あなたの子は聖なる者であって、そしてダビデの子であって、ヤコブの家を永遠に治める"という預言の言葉が出てきます。“この王国には終わりがない”とも言います。

ですから、王国のために来るのですけれども、イエズス様は征服するためにこの世に入りました。そしてその最初の勝利の者はマリア様でした。

イザヤはイエズス様についてたくさんのことを預言しているのですけれども、イザヤの預言によると「キリストの御前に常におきてがあって、そしてそのキリストの御手にはその報いがある」と。

もちろん、イエズス様のおきてが御前にあったというのは、つまり十字架のふもとにおいて死を迎えなければならないというおきてが御前にあったのであって、その報いというのは多くの霊魂たちを贖うという報いなのですけれども、しかしそのもっとも根本的なおきてと最も根本的な報いはすでにマリア様において成就されました。つまり、マリア様はイエズス様のおきてとして常に御前にあって、30年間マリア様のいう通りに(かれらに)イエズス様は従われたのであって、そしてマリア様は最初の贖いの実りとして――贖いの実りを先取りしたものとして――無原罪の御孕りとして――報いとしてできました。ですから、マリア様においてこのイザヤの預言が完璧に成就した、と言えます。

このマリア様が実は大勝利だったということは、サタンにとっては隠されていました。サタンはすでに負けたということを知りませんでした。しかしマリアさまにおいてイエズス様の贖いのすべての功徳が適応されていたので、その勝利は最初の勝利であって、完全な勝利であって、最終的な勝利でした。ですから、マリア様が今後お持ちになるすべての聖徳・愛徳、それらはすでにイエズス様の功徳によって贖われてきたものであって、そしてマリア様のその聖徳や愛徳その他すべての徳などは、わたしたち(に適応されるそ)の贖いの予告であります。

もしもわたしたちが洗礼を受けるならば、それはマリア様の無原罪の御孕りを真似することです。マリア様のような完璧なまったく罪のない者となりきることは――もしもできないかもしれませんが、しかしそれの真似を始めるわけです。またわたしたちが死後天国に行くことは、それはマリア様の被昇天を真似することです。それと同じように、わたしたちの霊魂の一人ひとりの悪魔に対する勝利あるいは贖いはマリア様の勝利の真似であって、イエズス様がマリア様の霊魂になさったことをわたしたちも真似するわけです。

マリア様はイエズス様の母でありわたしたちの母となりますが、それはただ主がそうだ!と定めたから自動的になったというだけではなく、マリア様がそのために協力されました。マリア様が信仰とそして自由意思と愛をもって、主の玄義にハイと答え、それに同意したからです。ですから、もしもわたしたちの母になるという時も、ただイエズス様がそうだと決められたのではなくて、マリア様の同意があったからこそ、母になることができました。

イエズス様は、わたしたちを贖ったのみならず、主が造ったすべての被造物を回復するためにも来られました。そのすべての天主の栄光とすべての御業をイエズス様が回復するのですけれども、それがマリア様のうちに最も完璧になされました。ですからマリア様は教会の母と言われていて、そのすべてのものを回復させる最も素晴らしい原型となっているからです。

マリア様が完璧にわたしたちの母となったのは、イエズス様がお生まれになったときです。なぜかというとイエズス・キリストとわたしたちはキリストの神秘体を作っているからです。イエズス様は神秘体の頭(かしら)であって、わたしたちはその体の一部です。でもマリア様は頭だけの怪物をお産みになったのではなくて、すべてのキリストの神秘体をお産みになったのですから、キリストの御母となるときにキリストと将来一致するべきわたしたちをもお産みになって、その母となりました。

聖マリ・グリニョン・ド・モンフォールは、多くの聖人たちの言葉を引用して、マリア様は頭(かしら)を産むと同時に体の肢体もいろいろな部分も産み出したのだから、マリア様の子どもであるということをしないで誰もキリストの神秘体の一員となることはできない、と言っています。

またマリア様は、イエズス様の御母となられたその瞬間にキリストの生涯のすべての神秘と一致して、それに協力しました。贖いのすべての業に協力しました。同意しました。それなので、イエズス様の勝ち取ったすべての功徳というのは、マリア様の協力とともに勝ち取ったものなのです。ですからマリア様がイエズス様と共にイエズス様に協力してこの地上に生きておられているあいだに積極的に協力したそのやりかたを、イエズス様はいま永遠のなかで21世紀のわたしたちにそれを適応させようとするのですけれども、マリア様も同時に1世紀にいたと同じように21世紀のわたしたちにも、積極的にそして臨在してわたしたちにそれを適用させようとしています。

マリア様がまたわたしたちの母であるというのは、苦しみの神秘の中においても明らかにされます。もちろんこの地上のお母さんたちは子供を産むときに陣痛の苦しみがありますが、イエズス様は私たちを贖うために極めて高い最高の程度の苦しみをわたしたちのために受けました。そして、マリア様も非常に高い程度の苦しみを、わたしたちの贖いに協力するために苦しみました。ところで聖パウロは、イエズス様が苦しんでいたその1世紀にはまだ生まれていなかった21世紀のわたしたちのことをさえも「キリストはわたしたちの罪のために苦しんだ」と言います。つまり、時間を超えて超越して、のちに来るわたしたちの罪のためにイエズス様は苦しんだとあるので、イエズス様の苦しみの神秘は時を超えているということがわかります。ですから、マリア様もわたしたちを聖寵に産み出すためにイエズス様と共に苦しんだといえます。ところで、キリストにふさわしい御母となるためにマリア様は無原罪の御孕りでなければなりませんでした。無原罪の御孕りになるためには、苦しみは全くありませんでした。キリストの御母となるためには苦しみは必要ではありませんでしたが、わたしたちの母となるためには、恐ろしい陣痛の苦しみをキリストとともに受けなければなりませんでした。

またマリア様は、わたしたちを代表しています。どういうことかというと、マリア様においてすべての旧約聖書と新約聖書の最も高い天主に対する愛が代表されています。たとえば、皆さんがキリストのためにやりたい・捧げたいと思われること、あるいは思わなければならないこと、あるいは聖ベルナルドあるいは聖ドミニコその他の聖人たちがキリストのためにしたこと、それらすべてはすでにマリア様において最も完全なやり方でなされています。つまりマリア様はすべての新約の聖人たち旧約の義人たちの代表であって、かれらがやったことを最も完璧な形でなされた代表と言えます。

このマリア様をご覧になると、マリア様は悲しげな御顔をしています。汚れなき御心は悲しみに満ちておられます。マリア様は天国にいるはずではないでしょうか。天主の栄光に、そして至福を楽しんでいらっしゃるはずではないでしょうか。なぜそんなに悲しそうな顔をしているのですか。なぜかというと、マリア様は私たちの永遠の救いのことを心配されているからです。なぜかというと、わたしたちが永遠の至福をいとも簡単に失うことができるからです。わたしたちがいとも簡単に大罪を犯してしまうことができるし、信仰を失ってしまうこともできるし、地獄に落ちてしまうことが簡単にできるからです。ですからマリア様は、わたしたちの救いのことを思って悲しげな御顔で心配をしているのです。

マリア様のことを考えるにおいて、聖霊の働きを見てみます。なぜかというと、聖霊の働きはわたしたちを聖化することであり、わたしたちの霊魂を聖なるものとすることです。ところで聖マリ・グリニョン・ド・モンフォールによると、天主の働きにはパターンがあって これを変えることはない、といいます。キリストは聖霊によってマリア様の胎内に形作られました。おなじように、わたしたちをキリストのようにキリストのものとして形成させるためには、聖霊の働きが必要です。その聖霊が働くのはマリア様の胎内だからです。キリストは聖霊によって、砂漠に導かれそこで断食をしました。また聖霊降臨の時にマリア様の祈りをもって聖霊は降臨しました。聖霊の働きのためにはいつもマリア様がいらっしゃるということを、マリア様によるということを、お望みだからです。それがパターンだからです。行動のパターンだからです。

イエズス様は御受難の前に「私はかれらのためにこれを捧げる……」と御父に祈られ、そしてマリア様は天国でキリストと一致してわたしたちの聖化のために祈っておられます。ところで皆さんが隣人のためにお祈りをされた時のことを思ってください。わたしたちが彼の回心のためにお祈りするというのにお祈りすればするほど実は回心どころかますますひどくなっているのを見ると、どれほど心が痛むでしょうか。あるいは彼が聖なるものとなるようにとお祈りしているにもかかわらず、全然そうでないのを見るとどれほど辛い思いをするでしょうか。マリア様も同じようにわたしたちのために、私たちの救いと聖化のためにお祈りされています。

聖霊は、マリア様の祈りとともにわたしたちの聖化をします。これは戦いの場所です。肉の欲望と霊の望みが対立しあっているからです。大きな巨大な戦いが行われています。

では、このものすごい恐ろしい戦いが続いているときに、わたしたちはどうすればよいでしょうか。ある態度はフランシスコ教皇様のようにわたしは罪人を祝福して罪に同意する――罪人に同意する、罪を祝福する、と言うべきでしょうか。それとも「ああ、あまりにも戦いが恐ろしいのでわたしには何もできない。いやっ、もうどうでもよい。なるようになればよい」というべきでしょうか。それとも、多くのカトリック信者はこのような態度をとっています…「私は関係ない!」。ところでわたしたちはそうではなくて、少数ですけれども、「いやっ、私はマリア様に協力したい。この霊魂の救いのために協力したい」と思うのでしょうか。

マリア様は、いったいどんなことをわたしたちにおっしゃるでしょうか。マリア様はこうおっしゃいます。「わたしの子どもたち、ああ息子よ、ああ娘よ、お前たちはまだこの母の心を、罪を犯し続けることによって剣で貫き続けるつもりなのですか? 無関心や罪や悪徳を続けて、わたしの心を傷つけ続けるのですか? 私に戦い続けるのですか?」

まだ日本ではそうではないかもしれませんが、しかし時は非常に近づいています。なぜかというと、あまりにもこの世界は悪徳に溺れているからです。ソーシャルメディアその他のものがわたしたちにあって、大罪を侵さないようにする唯一の手段は私たちが聖人となるしかありません。つまり御母であるマリア様を崇敬して、そして聖人になるしかありません。その時がもう来ています。

わたしたちがいま、ものすごい戦いの中に入っているということを、お判りでしょうか。もしもわたしたちがマリア様の子であるならば、マリア様を愛しているならば、それは何を意味するかというと、悪魔はわたしたちを憎むということです。もしもそうでないとしたら、ほんとにわたしたちはマリア様を愛しているのでしょうか。マリア様のように罪のない生活を心がけしているのでしょうか。わたしたちは天の遺産を受ける者であって、そのために戦っております。しかしその戦いのなかにいるということを、わたしたちがよく自覚しなければなりません。M.I.は無原罪の聖母の騎士会はそのことをわたしたちに思い出させて、そして勝利の希望を与えてその勝利の手段を与えてくれます。

わたしはフィリピンでこのMilitia Immaculatae 無原罪聖母の騎士会の指導司祭としてよくお話をするのですけれども、フィリピンの人たちは、一般には貧しい人たちが大部分です。でもそういう人たちに私はたぶん「あなたはおかあさんのために何かをしようと思いませんか。お母さんは皆さんの助けを必要としています。わたしたちのお母さんは多くの人の霊魂の救いを望んでいます。でも皆さんの協力が必要です。」するとフンフンといいます。いったい誰がお母さんからの助けてほしいというのにそれを断ることができるでしょうか。無原罪の聖母の騎士会の目的は二つあります。一つは、すべての霊魂、どのような人であったとしても、すべての人々の霊魂を救うことです。とくにフリーメイソンの霊魂たちを救おうとすることです。そしてもう一つの第二の目的・ゴール・目標は、どのような霊魂たちもそれがより聖なるものとなるようにその聖化のために尽くすということです。

マリア様の軍隊に入るにおいて一番大切なのは、マリア様のお望みのものとなるために自分を奉献することです。マリア様の目的のために奉献することです。そして、霊魂たちの救いと霊魂の聖化のために、道具となることです。ですから私たちが聖人になることを要求されているわけではありません。わたしたちに要求されていることは非常に単純なことであって、それはまず不思議のメダイを身に着けること、それから一日一回、少なくとも一回、全部で18秒しかかからないようなひとつのお祈りを唱えることです。でもこうすることによって、いま世界で約10億人いるといわれているカトリック信者、つまり戦闘の教会に属しているすべての人々が、もしもこれを自覚しているのだとしたら、その小さな協力が巨大な力となって、マリア様の勝利のために大きな貢献をなすことができます。無原罪の聖母の騎士会は、そのすべての人がわたしたちの母のために協力できるということを思い起こすことにあります。

では今から少し休息を入れて、次のお話は二時半からです。その間ここで黙想したり、あるいは外で軽いストレッチしたりして目を覚ますようになさって、次のお話を聞いてください。二回目のお話が終わりましたら、無原罪の聖母の騎士会の更新式あるいは入会式があります。それについてまた次のお話しで詳しく説明いたします。


ベザダの池の水は、洗礼の水の前兆だった。38年来病気になやんでいた男は、私たち人類を表している。イエズスは来て尋ねられる。「治してほしいか?」

2024年02月27日 | お説教・霊的講話

四旬節の四季の金曜日

トマス小野田神父 2024年2月23日

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日は四旬節の四季の金曜日です。新しい修道院長のワリエ神父様の司式でミサ聖祭を捧げています。
今日の福音書には、旧約時代にエルサレムにあったベザタ(Bethsáida, Bethesda)という治癒の池のことができてきます。多くの病人やめくらや足なえや中風の人が、この池の水が動くのを待っていました。主の天使がたびたび池に下りて水を動かすので、水が動いて最初に飛びこむと、どんな病気でもなおったからです。

この池の水は、洗礼の水の前兆でした。天からの天使によって力を受けた水が、人々を癒したからです。天主が旧約時代になさった奇跡は、時々、一回にたった一人のユダヤ人のために、目に見える体の健康のために行われました。しかし、天からの天主の御言葉が地上に来られて、ヨルダン川で受洗されることによって、洗礼の水を制定されました。世界中のどこでも、いつでも、何人でも、どのような境遇の人々にでも、霊魂の癒しを与えることができる洗礼の水の池が私たちに与えられています。

福音に出てくる38年来病気になやんでいる男は、罪に凝り固まった私たちを表しています。聖アウグスチヌスによれば40という数は完成を表しています。何故なら、福音の創始者イエズスは40日の断食を行い、律法の代表であるモーゼも40日の断食を行い、預言者の中の預言者であるエリアも40日の断食を行ったからです。人類が病に悩むのは、最も大切なものがないからです。つまり、全てを越えて天主を愛する愛と天主のために隣人をわが身のごとく愛する隣人愛の二つの掟を守っていないからです。聖アウグスチヌスによると、それが38という数で表されています。

しかし彼は、今では癒され颯爽(さっそう)と歩いてきます。何故なら、彼はイエズスに出会ったからです。イエズスから「治してほしいか?」とたずねられ、彼はこう答えたからです。「主よ、私を水に入れてくれる人がいません」と。

この池の周りに、うずくまる多くの病人やめくらや足なえや中風の人々は、現代のキリスト者の姿を示しているともいえます。病人は、病原菌に対する抵抗力を失うように、罪や罪の機会に囲まれて、罪に対する抵抗力を失い、罪を避ける決心ができない生ぬるい信者たちのようです。めくらは、天主からの真理の光を失い、霊魂の目によって自分と周りの霊的な状態を認めることができない信者たち、足なえは、霊魂の救いの道をしっかりと歩くことができない信徒たち、中風は、手足が麻痺して善を行うことができない状態の信者らを暗示しているようだからです。現代のキリスト者は、癒されるべき時を待っています。四旬節は、まさに霊魂の癒しをこい願う時です。

そんな私たちのところに、今日、イエズスは来られ、愛と憐れみにあふれてこう尋ねられます。「治してほしいか?」と。今日は、この金曜日は、御復活祭から遡って数えると、ちょうど38日前の日です。38年の病の悩みを、残る38日の四旬節の祈りと犠牲に比較できるとするなら、安息日に行われた今日の福音の癒しは、復活の徹夜祭の主の御復活の歓びに例えることができるかもしれません。

いまから38日後に、べザタという治癒の池の水に、主の天使がおりて水を動かして病を癒す奇跡をなさってくださるかのように、今日から38日のあと、復活の徹夜祭に、罪を赦す洗礼の水で清められる洗礼志願者の方々がいます。既に洗礼を受けた私たちも、自分の罪を痛悔して、主にその癒しと赦しをもとめて、残る四旬節の日々を過ごしましょう。主は私たちにこう言われるはずです。「起きて、床をとりあげて歩け」と。私たちが霊的に癒された後、こう付け加えられます。
「どうだ、あなたはなおった。さらに悪いことが起らないように、もう二度と罪をおかすな」と。

聖母に祈りましょう。残る四旬節を祈りと痛悔に過ごし、イエズスに癒されるのを待ち望むことができますように。


御変容の神秘の意味:「願わくは、われらが…祝い奉る御子のご変容の聖なる神秘を、…われらに味わわせ給え」

2024年02月26日 | お説教・霊的講話

四旬節第二主日 ― 霊魂の変容(東京―2024年)

ワリエ神父 2024年2月25日

マテオ16章で、イエズスはご自分の受難を預言されます。その後、3人の使徒、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて高い山に登られます。

ご変容の祝日の聖体拝領後の祈りはこう願っています。「願わくは、われらが…祝い奉る御子のご変容の聖なる神秘を、…われらに味わわせ給え」。

では、3人の使徒にとって、この神秘の意味は何だったのでしょうか。

聖レオは、こう言っています。「ご変容の主な目的は、弟子たちの心から十字架のつまずきを取り除くことだった。弟子たちにとって、キリストであるイエズスが屈辱的な死を受けなければならないことを理解するのは非常に困難だった(マテオ16章参照)」。この同じ3人の使徒が、オリーブの園でイエズスと一緒にいたのです。イエズスの神性は、そのご生涯を通して、飢え、渇き、疲労、睡眠、葛藤(かっとう)、逃亡にさらされる、弱い、人間の肉体のベールに包まれていました。今、使徒たちは、キリストがご変容になり、その表情から、また衣服を通して、神性が輝き出るのを見ます(マルコ9章2節参照)。

モーゼとエリアがイエズスとともに現れます。信仰深いユダヤ人にとって、この二人は律法と預言者たちを体現していました。二人はイエズスの前表(ぜんぴょう)であり、イエズスが預言されたキリストであることを証明します。イエズスは律法を尊重し、預言者たちと一致されており、したがってイエズスこそが天主から送られたお方です。

最後のクライマックスの瞬間は、御父の声が聞こえるときです。弟子たちはこの神秘を完全には理解していませんでしたが、十字架のつまずきに対して、彼らの心をあらかじめ準備させるものでした。ペトロ後書(1章16-18節)によれば、ペトロは「私たちが主とともに聖なる山にいたとき、…主は父なる天主から誉れと栄光を受けられた」と証言しています。

しかし、ご変容はまた、この祝日の集祷文(しゅうとうぶん)が述べているように、私たち全員にとっても深い意味を持っています。「御身(おんみ)は、光の雲の中から発せられた御声(おんこえ)によって、不思議にも子らの完全な世継ぎを約束し給うた」。イエズスは、私たちが聖寵によってイエズスの神性にあずかることができるように、私たちの人間性を共有してくださるのです。イエズスは私たちをご自身の体の一部とされ、養子として天主の子とされたのです(ヨハネ第一書3章1節)。

しかし、私たちはこの人生で、完全な天主の子には決してなれません。そこで、この祝日の集祷文(しゅうとうぶん)は、こうも祈ります。「われらを、いつの日か栄光の王の遺産と勝利とにあずからせ給え」。ご変容は、私たちの将来の偉大さの、また私たちのために蓄えられている遺産の啓示です。聖レオはこう言いました。「このご変容の神秘において、天主の御摂理(みせつり)は教会の希望のための堅固な基礎を築いた。それは、キリストの体全体が、その体にどのような変容が与えられるかを知るためであり、また、教会員が、自分たちのかしらにおいて輝いた栄光の共有者となることを確信するためである」。

ご変容は、私たちの聖性がキリストに似たものであること、また天主の命が私たちのうちに流れ出ることであることを示しています。聖性は、洗礼において私たちのうちに始まり、洗礼は私たちをキリストの像に変えました(ローマ8章29節)。私たちが聖霊の働きに忠実であることによって、この像は永遠の命、完全な養子へと成長するのです。私たちの主のご変容は、成聖の恩寵の状態にある霊魂の美しさを私たちに教えてくれます。聖パウロは今日の書簡の中で、「天主の思(おぼ)し召しは、あなたたちの聖徳にある」と述べています。私たちの霊魂の天主の命を守ることは、どんな代価を払っても、私たちの固い決意でなければなりません。

「彼に聞け」。イエズスはすべての人を照らす光であり、御父から聞かれたことをすべて明らかにしてくださいます。イエズスは御父の最後のみ言葉なのです。モーゼとエリアは姿を消し、イエズスだけが残られました。イエズスは、聖書において、教会(教導権と典礼)において、出来事において、ご自身の霊の霊感において、私たちに語りかけてくださいます。よく聞くためには、私たちは、しばしば自分の内で静かに祈ることによって、山に登る必要があります。苦しみや挫折があっても、信仰をもって、行動に移す信仰をもって、耳を傾ける必要があります。そうすれば、試練が私たちに及ばない幕屋を建てる時期はまだだとしても、幸福を見いだすことができます。

キリストは、栄光に入るために苦しまれなければなりませんでした。同じ道を歩む私たちは、自信を持ち続ける必要があります。イエズスは、ご自分がおられるところに私たちがご自分とともにいて、ご自分の栄光を見ることができるようにと祈っておられるのです(ヨハネ17章24節)。


灰の水曜日の意味と精神

2024年02月26日 | お説教・霊的講話

2024年2月14日 灰の水曜日の典礼の前に

トマス小野田神父

教会にはかつて「公けの悔悛者」という人々がいました。4世紀から12世紀ごろまで、教会の習慣によると、公けの大きな罪を犯した人々は誰であっても、四旬節の最初に「公けの償い」を受けなければなりませんでした。
「公けの償い」は、特に、御聖体拝領ができなくなること、また、祈りと苦行などによって罪を償うことにありました。司教は荘厳に「公けの悔悛者」に、償いの服を着せ、頭には灰を被せました。そして、教会の外に連れ出して、正面の門の前に導き出します。罪を犯してしまうと天国から除外される、悔い改めの業をして天主と和解しなければ、天国には入れないということをまざまざと見せつけていました。

後に、教会は悔悛の業を和らげ、公けの償いの代わりに私的な償いを行うようになりました。しかし、中世以降次第に、公けの悔悛者だけでなく、全ての信者が、王も皇帝も、自発的に償いの服を着て、灰を頭にかけてもらうようになります。例えば、シャルルマーニュ(742年? - 814年)は、裸足で他の信者たちと一緒に、灰を受けて四旬節の中に入りました。

灰の祝別の儀式の最初の言葉で主の憐れみと優しさを断言します。「主よ、我らの願いを聴き入れ給え。御身の憐れみは優しいものなればなり。御身の憐れみの多さに従い、主よ、我らを見給え。」
灰の祝別のための4つの祈祷は、祈るたびに短くなっていきます。祈れば祈るほど、厳しさが取れていきます。

祈りの内容は次の四つです。
祝別された灰は、救いの霊薬となり、私たちは、罪の贖いのため、身体の健康と霊魂の保護とをうけること。
灰が象徴するように、私たちは、塵であり、邪悪さの報いとして塵に帰るべき存在であること。
灰を受けた頭が、祝福と痛悔の精神で満たされること。
私たちがニニヴェの人々の悔悛の模範に従うこと。

この灰を信徒たちに付けて祝福することによって、四旬節が始まると言えます。付けるのは昨年の枝の主日に祝別された枝から作られた灰です。「人よ、おぼえよ、汝は塵であって、また、塵に帰るであろう。」(創世記、3ノ19)これは、地上の楽園で人祖アダムとエワが罪を犯した後に、天主が言われた言葉です。人類の悲しい灰の水曜日でした。灰を配る間、聖歌隊は歌います。「衣を替えよ、灰と毛衣とに。断食をしよう、そして主に御前で泣こう。何故なら我ら天主は、我らの罪を赦そうと極めて憐れみ深い方であるが故なり。」

最後に司祭はこう古代からの祈りを唱えます。「主よ、キリスト者の軍隊の隊列が聖なる断食を始めるを得させ給え。そは、悪の霊に反対して戦おうとする我らが節制の助けを装備せんがためなり。我らの主キリストによりて」と。聖ペトロはこう言います。「キリストは肉体において苦しまれたのであるから、あなたたちもその心で武装せよ。」(ペトロ前4:1)

私たちキリスト者は、罪と悪の霊に対して戦う軍隊を作ります。「主はこういい給う、お前たちは、心をつくし、断食と涙と悲嘆とによって私に立ち戻れ。」これは、内的な償いの戦いであり、共同体としての聖化の戦いです。この戦いは同時に、罪の償いと言う宝を天に蓄える時です。祈りと、断食と、施しによって、天に宝を積む時です。


自己否定とは、本質的に言えば、天主への愛の行為。イエズスに「私はあなたを愛しています」と告白すること。

2024年02月25日 | お説教・霊的講話

幼きイエズスの聖テレジアによる自己否定についての説教

ドモルネ神父 2024年2月18日

はじめに

先週の水曜日から四旬節が始まりました。この40日間は償いの期間であり、聖週間と復活祭に備える期間でもあります。四旬節の間、常に行われてきた償いは大斎と小斎です。1983年以来、教会法はカトリック信者に、灰の水曜日と聖金曜日のみ大斎と小斎を義務づけています。私たちの霊魂の霊的な善のために、主日と義務のある聖日を除く四旬節の毎日大斎をするという教会の賢明な習慣に従うことを強くお勧めします。健康や仕事の関係で毎日大斎をすることが不可能な場合は、四旬節の間小斎をし、時々、例えば毎週金曜日や土曜日に大斎をするように努力しましょう。

これらの四旬節の償い、そして一般的に言えば、キリスト教生活の一部であるあらゆる自己否定に対する、間違った見方があります。すなわち、償いを、苦痛を伴い、疲れ、悲しくなるような拘束や苦行として見ることです。これらの自己否定に対する正しい見方は、幼きイエズスの聖テレジアによって示されています。今日、四旬節の始まりにあたって、私がお話しするのはこのことについてです。

1.自己否定の必要性

私たちの人生の目的は、天国の幸福に到達することです。しかし、私たちを天国に導く道は、私たちの主イエズス・キリストです。主は、「私は、道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14章6節)と言われました。ですから、天国に行くためには、私たちは私たちの主に従わなくてはなりません。しかし、イエズスはこうも言われました。「私のあとに従おうと思うなら、自分を否定し、自分の十字架をになって、私に従え」(マテオ16章24節)。

「自分を否定する」とはどういう意味でしょうか。大聖グレゴリオは、自分を否定するとは、原罪が私たちのうちに引き起こした悪い傾きに従わないこと、自分の行いを改めること、そして自分の高慢をすべて取り除くことを意味する、と説明しています。アダムとエワの罪は高慢の罪であり、不従順の罪であり、それゆえに創造主である天主から独立するという罪でした。この罪は全人類に影響を及ぼし、そのため、私たちの意志には、「自己意志」と呼ばれる悪い傾きがあります。自己意志とは、天主のご意志と対立する私たちの意志、天主に背くことを選ぶ私たちの意志を意味し、それゆえに、私たちのすべての罪の根源なのです。自己を否定するとは、天主のご意志に従うために、進んで自己意志を犠牲にすることです。したがって、自己否定とは、本質的に言えば、天主への愛の行為です。それは私たちの天主への愛から生まれ、私たちの天主への愛の表現なのです。福音の中で、私たちの主イエズスはまず、「私のあとに従おうと思うなら」、つまり「私を愛そうと思うなら」と言われ、その後に、「自分を否定せよ」と付け加えられます。自分を否定するとは、自分の注意を自分自身からそらし、その注意を、愛をもって天主に向けることです。イエズスを愛するために自己否定をすること、あるいは自己否定を受け入れることは、イエズスに、「私はあなたを愛しています」と告白することと同じなのです。

2.幼きイエズスの聖テレジアと自己否定

幼きイエズスの聖テレジアは、このことを完璧に理解していました。彼女は、私たちの主イエズスを絶対的に愛することを選んだのですから、自分の愛を証明するために、いつも、どこでも、すべてにおいて自分を否定することを選びました。自己否定には2種類あります。私たちがイエズスに捧げる自己否定と、イエズスが私たちの生きる状況を通して私たちに負わせるために与えられる自己否定です。

第一の種類の自己否定について、聖テレジアは、それが、私たちが私たちの主に捧げる愛の証しであるとします。彼女はこう言います。「私がそれに値しないにもかかわらず、イエズスは、おやさしくも私を小さな花嫁として迎えてくださいました。今、私は、主に対する私の愛の証しを捧げなければなりません」(手紙121)。聖テレジアは、毎日訪れるあらゆる自己否定の機会をすべて、イエズスに、「私はあなたを愛しており、あなたにそれを示します」と告げる好機と受け止めていました。聖テレジアは、このような自己否定の実践において寛大さを奨励し、素朴で光り輝くように、こう言いました。「私たちの人生には、イエズスを愛するための時間はほんの少ししかありません。悪魔はそれをよく知っているため、私たちに自分の人生を無益な行いに費やさせるように努力するのです」(手紙92)。「私はどんな小さな犠牲の機会であっても見過ごしたくありません」(自叙伝:ある霊魂の物語11)。彼女はまた、イエズスは、私たちの犠牲に対する報いとして、天国での大きな幸福を私たちに与えたいと望んでおられるが、しかし、私たちが主のために何もしなかったとしたら、どうして主は私たちに報いをくださるだろうか、とも言いました。聖テレジアの日々の自己否定は、例えば、節度を欠いた望みや好奇心、あるいは嫌悪感を抑えたり、何も言いたくなかったり退屈そうに見える時にほほ笑んで親切な言葉をかけたり、誰かを助けようと思わなかった時に、助けてあげたりすることなどでした。

第二の種類の自己否定は、私たちの人生の状況や私たちの長上を通して、イエズスが私たちに与えられる自己否定であり、私たちがそれを選ぶのではないため、通常、もっと難しいものです。しかし、それは私たちの聖化にとって、最も効果のあるものです。これらの自己否定が、私たちへのイエズスの愛の証しであることを理解することが不可欠です。受け入れるべき自己否定を私たちに提示することによって、イエズスが私たちへの愛を示されるということが、どうしてあり得るのでしょうか。なぜなら、イエズスはこのようにして私たちを聖化し、霊魂の救いのみわざに私たちをあずからせてくださるからです。聖テレジアはこう書いています。「イエズスは私たちを苦しみで満たすことで苦しまれますが、それが、イエズスが御自身を知っておられるように私たちがイエズスを知って、私たち自身が神々となるように準備させるための唯一の方法であることを知っておられるのです」(手紙57)。彼女はこうも書いています。「イエズスは、霊魂の救いが私たちの犠牲と愛に依存することを望んでおられます。イエズスは霊魂たちのために、私たちに乞い求めておられるのです」(手紙96)。イエズスが私たちに負わせるために与えられる自己否定は、私たちへのイエズスの愛の証しですから、聖テレジアは、私たちがそれを受け入れるように、素朴かつ見事に、私たちを励ましています。聖テレジアはこう書いています。「受けるよりも与える方がずっと甘美だと言われますが、それは本当です。ですから、イエズスが、私たちに与えるという甘美さをご自分のものにすることを望まれるとき、それを遠慮することは、見苦しいことです…」(手紙142)。彼女はこうも言っています。「私たちは、イエズスが望まれるすべてのこと、例えそれが霊的な悲しみ、荒廃、苦悩、表面的には冷淡な態度であっても、イエズスのために耐え忍べるほど強く、イエズスを愛しましょう…イエズスへの愛の甘美さを感じることなくイエズスを愛することは、間違いなく偉大な愛です」(手紙94)。

3.自己否定と愛

キリスト教の自己否定は、絶え間ない自己吟味や、私たちの体と霊魂のすべての動きを制御するための激しく頻繁に繰り返される努力から成っているのではありません。キリスト教の自己否定は、普通の生き方に反して押し付けられる冷酷な自制ではありません。キリスト教の自己否定は、人間の本性に反するものではありません。キリスト教の自己否定は、イエズスと私たちの間の愛の交換なのです。聖テレジアはこう書いています。「イエズスという私の指導司祭は、自分の行動を数えることは教えられません。主が私に教えてくださるのは、すべてのことを主への愛から行うこと、主に対して何も拒まないこと、私が主を愛していることを証しする機会を主が与えてくださるたびに喜ぶことで、これらのことすべては、平安と自己放棄において行うのです」(手紙142)。

テレジアの姉は、人生の終わりのころ、テレジアにこう言いました。「確かに、これほど完璧に自己を否定するのに、あなたはずいぶん苦労したことでしょう」。姉は、テレジアにとって自己否定の実践はおそらく、激しく、苦しく、骨の折れる、悲しみに満ちたものだっただろうという意味で言ったのです。しかし、テレジアは深遠な表情でこう答えました。「いいえ、そんなことはありません…」。彼女が言いたかったのは、こういうことでした。「激しい自制の問題ではありません。私は愛して、たくさん愛しました! それだけです」。愛は、どんな苦難であろうとも、すべてのものを簡単で甘美なものにするのです。

結論

聖テレジアに学びましょう。この四旬節の間、教会が求めている大斎と小斎を行い、イエズスへの愛の証しとして、すべての個人的な自己否定を捧げましょう。また、イエズスが私たちに与えてくださるすべての自己否定を受け入れましょう。そうすることによって、私たちは実りある四旬節を過ごす、つまり天主への愛において本当に進歩することになるのです。

今日が私の最後の説教です。そこで、皆さん全員に、最後の推薦をさせてください。それは、幼きイエズスの聖テレジアの著作、特に彼女の自叙伝と手紙を読むことです。これらは日本語で読むことができます。そこには、誰にとっても理解しやすく、実践しやすい、非常にしっかりした教理が書かれています。皆さんはこれらの著作から、福音、イエズスの聖心、マリアの汚れなき御心についての理解を深められることでしょう。皆さんはその著作の中に、確実で素朴な聖性への道を見つけられることでしょう。


マリア様は、本当に軍隊を持っているのか?敵とは誰か?なぜ戦いがあるのか?どんな戦いを行っているか?その戦場とはどこか?私たちにとって一番大切な行動の仕方は何か?何が武器であり戦闘服なのか?

2024年02月16日 | お説教・霊的講話

2024年2月11日(主日)ミサのお説教 ファイファー神父

【小野田神父】愛する兄弟姉妹の皆様、今日は2024年2月11日五旬節の主日です。
今日、アジア管区の管区長からの特別のミッションで、ファイファー神父様M.I.の無原罪の聖母の騎士会の特別講話会に来てくださいました。ですから今日はファイファー神父様にお説教をお願いします。
神父様のお説教を聞く前に、主日のお知らせがあります。来たる水曜日2月14日は灰の水曜日です。カトリック教会の掟によれば、満18歳から59歳までのすべての健康な男女の信者はこの日に大小斎を守らなければなりません。また成人に達しない人でも、14歳以上の健康な信者は小斎を守る義務があります。また教会の掟によると、少なくとも年に一度はご復活祭のころに御聖体を拝領するという掟もあります。ご復活祭の義務です。御復活祭のころというのは日本では、四旬節第一主日から三位一体の主日までと規定されています。
2月14日灰の水曜日は、守るべき義務の日ではありませんが、しかしこの大宮のお御堂では朝の7時とそれから夕方の6時30分から、灰の儀式とミサが予定されています。
では、ファイファー神父様のお説教を聴きましょう。

【ファイファー神父】
私はアジア管区のシュテーリン神父様のアシスタントとして、アジア管区で無原罪聖母の騎士会の指導の役割をしています。今回は日本に始めて来て、この役割を果たそうとしています。

多くの皆さんはすでに無原罪聖母の騎士会の会員となっておられると思いますが、皆さんの精神をまたもう一度また活性化させて、そして多くの方をまた、この会員に招くことができるようにするために、いま話をしています。

マリア様は優しい御母であってあわれみの御母であるのですけれども、本当に軍隊というものを持っているのでしょうか?

聖書によると、特に旧約聖書そして新約聖書によっても、天主はしばしば万軍の主、つまり軍隊の主と呼ばれています。イザヤの第六章によれば「ビジョンを見た」と、イザヤによると「天の玉座に座る万軍の主なる天主が、天使たちによって讃美され礼拝されているのです。天使たちが地を見ると、地は主の栄光で満ちている」とあります。特にイザヤは、わたしたちがいつもミサでいうように"聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主なる天主!”と、万軍の主なる天主が 天使によって讃美されていることを話しています。そして地に向かっては、「主の栄光に満ちている」と言っているのです。
聖ルカの福音によると同じようなビジョンがあります。主が生まれたときには、天が開けて天使たちの軍勢が見え、そして「天使たちは天のいと高き所に天主に栄光あれ」といいます。これはイザヤと全く同じです。そして地については、栄光にみちているとはいわずに、「地には善意の人々に平和あれ」といいます。全ては、この天の究極のところ、この完全性に、聖性の頂点に根差している――そして平和というのは、天主の栄光と喜び、幸福にあります。天を見ると主の栄光に満たされており、そして地を見ても天主の栄光に満たされていますが、なぜ地が栄光に満たされているのかというと、主のものすべては主のほうへと向かって行かなければならないからです。
ではこのような美しい描写になんで”軍隊”が入ってくるのでしょうか。その理由というのはどこにあるのでしょうか。”軍隊”というのは守るためにあるのではないでしょうか。敵を倒すためにあるのではないでしょうか。敵とは誰でしょうか。――敵があります。なぜかというと、聖書によると「敵の悪魔の妬みによってこの世に罪が入り、罪によってこの世に死が入った」とあるからです。

そしてなぜこの美しい計画に“戦い”があるのでしょうか。なぜかというと、天主の力によってすべてが上にあがらなければならないところを、ルチフェルが、その別の力がこれを妨害しようとするからです。天の軍勢の中でその主将であったルチフェルは特別な能力を持っていたのでしょう、その天主の計画を知りながらも、ルチフェルは悪魔は非常に賢く、天使たちの3/1を自分のほうに引き寄せて、その計画を破壊しようとすることに成功しました。

ルチフェルは天使たちを使って天主に対して戦いを挑みます。そして「その戦いの後でルチフェルは地上に投げ捨てられた」とありますが、しかし彼らは人類の1/3ではなく、大部分を自分のほうに引入れてしまいました。わたしたちの太祖アダムとエワを自分のほうに引入れ、人類のほとんどを自分の味方につけてしまいました。ですから聖書では主は「だれでも罪を犯す者は罪の奴隷である。」と言っています。そしてイエズスさまはファリザイ人たちに対しては、「お前たちの父は悪魔であって、そして悪魔は嘘の父である。」と言っています。
こうしてルチフェルは、天使たちの3/1を、人間たちはその大部分を、自分のほうへ引き寄せて、そして天主の栄光にたどり着かせないようにしています。大天使聖ミカエルに引入れられる天主のほうにつく天使たちと、ルチフェルにつく1/3の天主に逆らう天使たち!この戦いです。

ではいったいどんな“戦い”を行っているかを見てみましょう。
どのような戦いかというと、天主の聖性に向かって登りあがろうとする者を誰かがそれを引きずり降ろそうとする、その戦いです。霊的なものに上昇しようとするその力とそしてそれを物質的なものに引きずり降ろそうとするその戦いです。純潔に潔いものへと上がっていこうとするか、あるいは不潔で汚いものへと下げようとする者との戦いです。

またこれは義と不義との戦いともいえるでしょう。義というのは、天主をすべてのものの上に置いてそれに天主の御旨に従うこと、しかし不義というのはそれに逆らって天主に不従順であること、です。天主は、この戦いを見捨てることなくこの戦いに戦いを挑みます。罪と不義に対して戦いを挑みます。

智慧の書によると、「天主は不義があれば、義を置く。罪があれば聖なるものを置く。」とあります。ソロモンは不義に対して義があると言っています。罪人に対して、そして悪魔に対して、その対立するものとして天主は人となって天から地上に降りて来られました。イエズス・キリストが置かれました。イエズス・キリストは悪に対する対立として、そして征服者として来られます。

聖ヨハネ・ユードによると詩篇73の表現をとても面白い解釈をしています。その73章12節には「御身は地のど真ん中において救いをもたらされた」とあります。聖ヨハネ・ユードによると、この悪魔によって征服され汚されたこの地上のど真ん中に、敵の陣地の真ん中に、特別に汚されなかったものを置いて、そこから救いをだされた。これは何かというと、無原罪の御孕(やど)りであって、マリア様のことだと言います。

さらに創世記3章15節によれば、天主は、マリア様についてすでに予告をしていました。それにはどう書いてあるかというと「わたしはお前つまり蛇・悪魔と女との間に、お前の蛇の種と女の種との間に、敵対を置く」と。そして蛇には「お前はこの女の踵を噛むであろうが、しかし彼女はお前の頭を踏み砕くだろう。」と言ったことが書かれてあります。

そこで天主はサタンにたいしても戦いを挑みます。不義の頭であるルチフェルに対して、義を置きます。その義というのは、御子であって、御子が十字架につけられることであって、そして不義に対して対立します。敵が動くならば天主も行動します。もしも敵がアダムとエワを奪ってしまうのならば、天主は新しいアダムと新しいエワを対立として置きます。

天主はすべてを予見していて、すべての戦いにおいてどのようにすればよいかを予見しました。そしてすべての不義の人々に対立するものとして無原罪の御孕(やど)りを置きました。

まずルチフェルはエワを誘惑します。天主はそれに対抗して無原罪の御孕(やど)りを立てます。ルチフェルは天使たちを取り込むとすると、天主は大天使聖ガブリエルを置いてそしてお告げを御子のご托身を対立として置きました。天主はいいました。天主がこのような言い方をするのは非常に珍しいのですけれども、「わたしはお前つまり蛇・悪魔と女との間に、お前の蛇の種と女の種との間に、敵対を置く対立を置く、憎しみを置く。」
(このように)聖書の言葉によると、この種という言葉を使います。種というのは多くあるということです。しかし勝利をおさめるのは唯一の方であるキリストですけれども、しかしその勝利は多くあります。悪魔たちの種、多くの者たちがともに戦うという意味で、種があります。

天主は、「悪があるところに善を置く」というそのやり方をどこでもつかいます。エワが敵にとられたならば、新しいエワつまりマリア様を置きます。そして、もしもエワを悪魔が堕落した天使が誘惑するならば、聖なる天使ガブリエルを送ってマリア様にお告げをさせます。そして悪魔の種が出るのならば、女の種つまり種というのはキリストのことですけれども、しかし同時に種というのはたくさんあるものですから、キリストに一致する多くの人々のことを意味しています。

そこでこうして私たちは、天主が女の種を使って、つまりキリスト、そしてキリストと一致している多くの人たちを使って、多くのことつまり軍隊を使って蛇の頭(かしら)を踏み砕くという計画を見ました。そしてこの軍隊はキャンペーンをします。つまり地上から天に昇って主を讃美します。そしてこれは、この罪に対して戦うキャンペーンの軍隊です。

わたしたちは信仰を得て洗礼を受けたことによって、キリストと一致しています。キリストと一致することによって、女の種と一致することになります。つまり軍隊に組み込まれたものとなります。わたしたちは不義と闘わなければなりません。そして不義と不義の人というのは何かというと、それは無信仰のことであり信仰のない者たちです。これは何を意味するかというと、私たちはかれらを信仰へと導いて霊魂を救うようにしてあげなければなりません。わたしたちは、隣人の霊魂を救うのみならず、わたしたち自身の霊魂をも救わねばなりません。ところで今現代カトリック信者たちは、霊魂を救うということを、考えることさえしなくなっています。

もしもわたしたちが救霊ということを考えたら、そしてその現実に立つのならば、そして自分の霊魂を救ってしかもそれを聖なるものとしようとするならば、わたしたちはどうしても戦いに入らなければなりません。

ではこのわたしたちが戦いに入るその戦場とはいったいどこでしょうか。それは東京ではなくて、私たちの霊魂に、その戦いの場所があります。天主によってつくられた私たちの霊魂を守ることです。

皆さん、今日もう少し、マリア様・私たちの元后・私たちの母であるマリア様について、考察する時間を取りましょう。そして、どうしたら私たちはもっと勇敢にそして効果的に霊魂を救い、そして聖化することができるか、戦うことができるか、ということを考察いたしましょう。

そこで今日講話がいくつかありますが、そのときにもしも皆さんが参加出来たらぜひ参加なさってください。わたしたちはこの女の種に加わり、この悪魔の種と女の種との戦いに参与しようとしています。それに皆さんが加わってくださればよいと思います。

皆さんのなかにはすでに無原罪聖母の騎士会の会員になっている方があって、そしてこの戦いに参加している方がいらっしゃると思います。今日の予定は、午後に二つの講話があります。それからそのあとで、もしも会員であれば会員の更新をいたします。無原罪の聖母の騎士会の更新があるのです。なぜかというと、この会員になるのは非常に簡単なのですけれども、その会員になったことを忘れるのはもっと簡単なのです。そして会員としてなすべきお祈りをしないのも、非常に簡単なのです。ですから私たちは更新をします。そしてなぜかというと私たちが会員になって一番大切なのは、そのマリア様のものとして行動することであるからです。

わたしたちの最も必要な本質的なものは私たちがマリア様に自分を奉献すること、そしてマリア様のものとなる――マリア様の道具となることです。マリア様に属することです。が、これを一度奉献しただけでなく そのままほったらかしにしておくのではなくて、その奉献を生き続けなければなりません。それを実践しなければなりません。

そこで、二つ皆さんにご質問したいと思います。これはその核心にかかわることですけれども、皆さんは不思議のメダイを身に着けていらっしゃいますか?…

第二の質問は、皆さんは聖母の騎士会の祈りを毎日少なくとも一回唱えていますか?…

私がフィリッピンでの統計を取ったところ、聖伝ではない方々にも聖母の騎士会に入会するように勧めているのですけれども、聖伝でない方々については不思議のメダイを身に着けてそしてその無原罪聖母の騎士会のお祈りをするという二つをしていらっしゃる方々いる人は1%から9%にすぎません。しかし聖伝のチャペルにいる信者さんたちにおいては、およそ40%から90%はちゃんと身に着けて無原罪聖母の騎士会のお祈りをしています。

皆さんが持っているその戦いの武器というのは、普通の武器ではなくて皆さんの制服つまり不思議のメダイです。
ですから不思議のメダイをいつも身に付けていてください。これは皆さんの戦いの中にいるというイメージであって、マリア様が皆さんの戦いにおいて助けてくださるという約束です。マリア様はけっして約束を破らない、その約束です。

それからもう一つ聖母の騎士会の祈りがあります。大阪では皆さんと一緒に唱えたとき、18秒かかりました。この小さい祈りですが、しかしこの祈りは悪魔のサタンの頭を踏み砕く祈りです。ですから皆さんがその祈りを言うたびにその蛇の頭を打ち砕いています。皆さんがたとえ18秒だったとしても、それを毎日一年365日唱えるならば、それは一時間の祈りとなって、一時間の間、悪魔の頭を踏み砕くことになります。そしてマリア様はさらにそれを多くの恵みを皆さんのもとに送ることができるようになります。もしも皆さんが365人の方々がこの祈りを一日一回18秒唱えるならば、毎日一時間の祈りが悪魔の頭をたたきます。もしも聖なる人がお祈りをするなら力がありますけれども、365人の人々が一緒に祈るというのは、特別の力があります。

わたしたちは今戦いの中にいますけれども、戦いというのは皆さんの霊魂と天主の間にあります。悪魔は皆さんを探してくるので、皆さんが悪魔を探す必要はありません。しかし悪魔が探しに来たとしてもマリア様が皆さんの助けになってくださいます。

ですからマリア様のほうに向いて、そしてマリア様の助けを求めましょう。マリア様はわたしたちを聖化してくださいます。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


十字架の道行き

2024年02月15日 | 聖伝のミサの予定
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
四旬節の金曜日には、私たちの聖なる伝統にしたがって、ミサの前に十字架の道行きを行いましょう!
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田神父








ルルドでの童貞聖マリアのご出現についての考察を通して天の母に対してより大きな愛と信心を持つようにしよう

2024年02月14日 | お説教・霊的講話

ルルドの聖母のご出現についての説教

ドモルネ神父 2024年2月11日

はじめに

今日、私たちは、1858年のルルドでの童貞聖マリアのご出現をお祝いしています。この説教では、これらのご出現についてのいくつかの考察を通して、私たちが天の母に対してより大きな愛と信心を持つように、またその教えをより寛大に実行するように、私たちの心を奮い立たせたいと思います。ルルドにおいて、聖母は聖ベルナデッタに18回ご出現になりました。これらのご出現は、論理的で指導的な順序に従っています。

1.聖母との出会い

最初の2回のご出現は、聖母と聖ベルナデッタの出会いです。ベルナデッタは13歳の少女で、健康状態が悪く、喘息に苦しみ、教育も受けていませんでした。彼女とその家族はひどい貧しさの中で暮らしていました。世間の目から見れば、ベルナデッタは何の考慮にも値しない者でした。しかし、1858年2月11日、ルルドのマッサビエルの洞窟で聖母がご出現になったのは、彼女に対してでした。聖母は大いなる優しさと愛をもって彼女にほほ笑みかけられ、もっと近くに来てロザリオを唱えるように招かれ、優しく挨拶なさってから姿を消されました。

これらの最初のご出現から、聖母が私たち一人一人を深く知り、愛しておられることを思い起こしましょう。聖母は愛をもって私たちにほほ笑みかけられ、私たちがどんなにちっぽけで惨めであっても、ご自分の近くに来るように私たちを招いてくださるのです。この現実を思い起こしましょう。私たちの肉体の目では、マリアが私たちにほほ笑んでおられるのを見ることはできませんが、信仰の目でなら見ることができます。ですから、私たちの心の中で、マリアを見つめ、自信をもってマリアに近づきましょう。しかし、私たちはマリアにどう話しかければよいでしょうか。めでたしのお祈りです。マリアとベルナデッタの特別な関係は、この美しい祈りによって始まり、発展しました。それは私たちにとっても同じです。

2.私たちに対する聖母の意向

3回目と4回目のご出現で、聖母はベルナデッタに、何度も洞窟に戻ってくるように招かれました。聖母はまた、ベルナデッタに対して、ベルナデッタのご自分への意向について警告なさいます。「私があなたを幸せにすることを約束するのは、この世でではなく、次の世でです」。

この招きと警告は私たちにも当てはまります。もし私たちが聖母との愛の一致を深めたいのであれば、思いと心の中で、しばしば聖母とともにいる必要があります。聖母は私たちに無理強いはなさいません。聖母は私たちにほほ笑みかけ、私たちを招き、私たちを待っておられます。私たちが聖母のもとに行きさえすれば、聖母は私たちのために、聖母がしようと望んでおられるすべての善を行うことがおできになるのです。

マリアが私たちのために望んでおられる善について、誤解してはなりません。マリアは私たちの真の幸福、永遠の幸福を望んでおられます。しかし、苦しみが私たちの霊的清めに必要な手段であることを完全にご存じです。ですから、私たちは、私たちの地上での生活の間、マリアがすべての苦しみから私たちを解放してくださると期待しないようにしましょう。マリアは私たちのために苦難を望んでおられますが、それはちょうど、最も優しい母親でさえ、病気の子どもの癒やしのために苦い薬を望むのと同じです。しかし、マリアは私たちに同伴してくださり、苦しみの中にいる私たちを助けてくださることを約束しておられますから、恐れてはなりません。

3.聖母との一致を深める

病人は、医者を信頼している場合にのみ、医者の痛みを伴う処方に従います。同じように、私たちは、聖母の私たちへの愛に絶対的な信頼がある場合にのみ、霊的清めの苦しみの中でも聖母に忠実であり続けることができるのです。この理由で、5回目、6回目、7回目のご出現において、霊的清めのみわざを始められる前に、聖母はベルナデッタとの愛の一致を深められたのです。聖母はベルナデッタに、自然に、親密に、簡素に祈る方法を教えられました。聖母は彼女に秘密を託され、二人の関係の親密さを深められました。

これこそ、私たちが童貞聖マリアとの愛の一致を強めるために行わねばならないことです。頻繁に、親密に、素朴な心で、聖母と語りましょう。私たちの秘密、喜びと悲しみ、希望と失望、迷いと決断を、聖母に語りましょう。決断を下す前に、しばしば聖母に助言を求めましょう。幼きイエズスの聖テレジアはこう言っています。「聖母に対しては、私は何も隠さず、すべてを告げます」。

4.私たちにおける聖母のみわざ:悔い改めと愛徳の進歩

8回目から12回目までのご出現において、聖母はベルナデッタを完全な愛徳の道に導かれました。これらのご出現の中で、聖母はベルナデッタに、膝で歩くこと、地面に接吻すること、泥水を飲むこと、泥で顔を汚(よご)すこと、草を食べることを求められました。聖母はなぜ、このような屈辱的で不快なしぐさを求められたのでしょうか。第一の理由は、私たちが罪によっていかに汚(けが)されているかを、私たちがよりよく理解するのを助けるためです。永遠の物よりもこの世の物や快楽を愛することは、自分自身を地面に引き倒すようなものです。この世の物や快楽に溺れることによって幸福を求めるのは、泥水や草の葉で自分自身を養うようなものです。罪を犯すことは、私たちの霊魂を汚(けが)すことです。ご出現のとき、ベルナデッタがこのような様々なしぐさをしているのを見ていた人々は、彼女の気が狂ったのだと思いました。実際には、ベルナデッタは狂っていませんでしたが、私たちは、罪を犯すたびに、本当の愚か者になるのです。

聖母がベルナデッタにこのような屈辱的で不快なしぐさをするよう求められた第二の理由は、完全な愛徳への道、すなわち償いの実践を、私たちに教えられるためです。償いとは何でしょうか。償いとは、私たちが自分自身よりも天主を愛していることを天主に証明するという意向をもって、自分の愛するものを諦めること、あるいは愛さないものを受け入れることです。ですから、償いとは天主に対する愛徳の行いを意味するのであり、その結果、私たちの罪を償うことを意味します。ベルナデッタにとって、泥水を飲んだり、膝で歩いたりするなどのことは明らかに不快なことでした。しかし、聖母の求めにお応えして、それを行ったのです。このようにして、彼女は、自分自身よりも天主を愛していることを示したのです。

償いをするとは、隣人に対する愛徳の行いをすることも意味します。童貞聖マリアは聖ベルナデッタに、罪人の回心のためにこれらの償いの行いをするよう求められました。しかし、私たちの償いの行いが、罪人の回心のためにどのように役立つのでしょうか。この二つにはどのような関係があるのでしょうか。私たちの主イエズスは、ご自身でこの質問に答えられました。私たちの主イエズスは、聖マルガリタ・マリアにこう言われました。「義人の霊魂は、千人の罪人の赦しを得ることができるほど、私の聖心に対する大きな力を持っている」。私たちがイエズスに一つの償いを捧げるたびに、イエズスは罪人たちの回心のために多くの恩寵を与えてくださいます。主がそのようにすることを決められたのです。

ベルナデッタの勇気ある償いの行いの後、聖母は洞窟内に清らかな水を豊富に湧き出させられました。この水は、私たちが償いを行うときに聖母が私たちに与えてくださる、清めと聖性というすべての恩寵を象徴しています。

5.聖所と巡礼のための聖母の要求

13回目、14回目、15回目のご出現の間、聖母は、ご自分のメッセージが忘れ去られることなく、確実に実践されるための措置を講じられました。聖母は人々に、ご出現の洞窟に巡礼に来るように、そしてそこに礼拝堂を建てるように求められました。礼拝堂は、ご出現の記念碑となるだけでなく、人々がご聖体におけるイエズスのもとに行き、司祭がミサを捧げて、秘跡を授けるために必要なものでした。

他方、巡礼は、償いを実践し、生ぬるい信者を熱心にさせ、信仰と天主への愛を公に証しし、罪人が回心するよう引きつけるための優れた手段です。

6.聖母への信心の実り

親愛なる信者の皆さん、この説教の締めくくりとして、最後の3回のご出現について簡単に触れたいと思います。これらのご出現は、聖母への信心が私たちの霊魂にもたらす実りを示しています。

16回目のご出現で、聖母はベルナデッタに、ご自分が何者であるかを明らかにされました。「私は無原罪の宿りです」。同様に、聖母は、聖母への信心を行うすべての人を、天主の不思議へと導かれます。

17回目のご出現のとき、童貞聖マリアを見ていたベルナデッタは、彼女の手を15分間焼いていたろうそくから、なんの傷も受けませんでした。同様に、聖母は、聖母への信心を持つ者を、この世の誘惑から守ってくださいます。

18回目にして最後のご出現は、カルメル山の聖母の祝日である7月16日にありました。このことは、カルメル山の聖母の約束を思い起こさせます。聖母は、生涯にわたって敬虔に聖母のスカプラリオを身につける者に永遠の救いを約束されました。ルルドでのベルナデッタへの聖母の最後のご出現は、その日にありました。それは、聖母への信心を持ち、聖母が教えられた通りに償いを行う者は、確実に天国に行けるという約束のようなものなのです。


無原罪の聖母の騎士会の講話会:東京でのファイファー神父様の予定です

2024年02月10日 | 聖伝のミサの予定

2024年 ファイファー神父様のミッションの予定です。

大阪では、2月10日、無原罪の聖母の騎士会の講話で、15名の方々が奉献を更新し、5名の方が新しく入会されました。ありがとうございます!


東京での講話会の予定を次のように修正いたします。ミサの時間には変更がありません。そのままです。

2月11日: 東京【ファイファー神父、東京でのミサ】

08:30 読誦ミサ(小野田神父)
10:00 ロザリオ
10:30 歌ミサ(ファイファー神父)
13:30 講話 [その1]
14:30 講話 [その2]【ロザリオの祈りは個人的にお捧げ致しましょう】
15:30 無原罪の聖母の騎士会入会式


2月12日: 東京

08:30 読誦ミサ(小野田神父)
10:00 ロザリオ
10:30 歌ミサ(ファイファー神父)
13:30 講話 [その3]

14:30 ドモルネ神父の東京での謝恩会


MI Japan missions 2024 with Tim

Feb 11: Fr Tim in Tokyo

08:30 Low Mass (Fr Onoda)
10:00 Rosary
10:30 Sung Mass (Fr Tim)
13:30 Spiritual talk [1]
14:30 Spiritual talk [2]
15:30 Enrolment to the M.I.

Feb 12: Tokyo

08:30 Low Mass (Fr Onoda)
10:00 Rosary
10:30 Sung Mass (Fr Tim)
13:30 Spiritual talk [3]

14:30 Fr Demornex's despedida party (Tokyo)




主は割礼という屈辱と苦しみのうちにイエズスという御名を受けたのだから、私たちも屈辱と苦しみを耐え忍ぶこと【霊的割礼】によってキリスト者という名にふさわしいものとなるべき

2024年02月08日 | お説教・霊的講話

「そのとき、幼児が割礼をうける八日目になったので、胎内にやどる前に天使によって呼ばれたように、その子の名をイエズスと名づけた。」(ルカ2:24)

イエズスという名前に対する愛と信心の恵みをこい求めましょう。

キリスト者と言う名前にふさわしくなるために、霊的な割礼の価値を知りこれを実践する力を求めましょう。

【1:主は屈辱と苦しみのうちに、イエズスという御名を受けた。】
キリストは、イエズスつまり救い主という名前を、屈辱と苦しみのうちに受けました。
私たちの主は、私たちを救うために、御自分が屈辱と苦しみを受けることによって私たちを救うために、この世に来られました。主がイエズスという聖なる名前を受けたのも、屈辱と苦しみにおいてでした。
割礼は、イエズスにとって屈辱的でした。何故なら、罪人の子供たちと同じ扱いを受けたからです。
割礼は、苦しみに満ちたものでした。主はもっとも繊細で敏感で完成されたお体をお持ちだったので、普通の人よりも良く痛みを感じました。主は、最初の御血を捧げることで、その後の十字架のいけにえの全ての苦痛をすでに予見し、受け入れ、捧げておられたからです。
幼き赤子となった天主が、生まれるや否やすぐに私たちのいけにえとなろうとされたその深い愛に、私たちは思いをはせましょう。私たちをこれほど愛する救い主は、苦しむことを厭わず、喜んで御血をながし、屈辱と苦しみを捧げられました。
イエズスは「死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして従われた。そこで、天主はかれを称揚し、すべての名にまさる名をお与えになった。それは、イエズスのみ名のまえに、天にあるものも、地にあるものも、地の下にあるものもみな膝をかがめるためである。」Donavit illi nomen quod est super omne nomen, ut in nomine Jesu omne genu flectatur cœlestium, terrestrium et infernorum.(フィリッピ2:9-10)
この今から代々に至るまで、主の皆は祝せられさせ給え!日野昇るところから日の沈むところまで、主の御名は賛美されるべきなり。Sit nomen Domini benedictum, ex hoc nunc et usque in seculum. A solis ortu usque ad occasum, laudabile nomen Domini. (詩篇112:2)

【2:私たちは屈辱と苦しみを耐え忍ぶことによって、キリスト者という名にふさわしいものとなるべき】
割礼を通して、天主の御子がイエズス(救い主)という名前をお受けになったように、私たちが、口先だけではなく本当に、キリスト者、あるいは、イエズスの弟子、イエズスを信じる者という名前にふさわしくなるためには、霊的な「割礼」、心の「割礼」を受けなればなりません。
肉の割礼は、何の意味も価値もありません。しかし霊的な割礼には意味があります。霊的な割礼とは、私たちの自然な悪への傾きを切り取ってしまうことにあります。これを一生に一回だけではなく、何度も何度も、毎日、一生涯行います。私たちの罪の根源は、私たちが生きている間は消えないからです。取り去ったと思っても、抜き取ったと思っても、次から生えてくるからです。私たちの中の古い人を脱ぎ、新しい人を着なければなりません。私たちが、イエズスへの愛のために、霊的な「割礼」を行えば行うほど、ますますイエズスとの一致が深くなります。

【遷善の決心】
主の割礼の神秘は、あまい神秘であり、同時につらい神秘でもあります。
あまいのは、割礼と共に、イエズスという甘美な名前を付けられたからです。
つらいのは、イエズスという聖なる名前には、屈辱と苦しみと言う高い代価が支払われたからです。
私たちがイエズスという名前を聞くとき、感謝と愛と、礼拝と賛美の念が起こります。
イエズス・キリストという主の名前をいだく主の真似をし、主を慕って、イエズス・キリストの通られた道を歩もうという決心をたてましょう。キリスト者とは、なんと栄光ある名前でしょうか!イエズスと同じ栄光を受けるべき名前なのですから。
「私のあとに従おうと思うなら、自分をすて、自分の十字架をになって、私に従え。自分の命を救おうと思う者は、それを失い、私のために命を失う者は、それをうけるのである。よし、全世界をもうけても、自分の命を失ったら、それが何の役にたつだろう。また、人は、命の代りになにを与えることができよう。人の子は、父の光栄のうちに、その天使たちとともに来て、その日、めいめいの行ないによって、むくいを与えるだろう。」(マテオ16:24)

私たちはキリスト者という名前にますますふさわしくなるように、今年、どのような霊的な割礼を行うべきでしょうか?

一つ提案します。ケータイとかスマートフォンと言われている機械です。ひと昔、ふた昔でしたらテレビでしたが、最近はそのポケット版です。
朝起きてすぐ、祈りをする最中、仕事を始めようとする時、仕事や勉強の最中、家族だんらんの食事の時、就寝しようとする時、私たちの生活を邪魔する小さなスクリーンです。
歩きながら、運転しながら、夜寝ながら、片時も手放すことができないという程、まだ中毒にはなっていないかもしれません。しかし、私たちの心は雑念と好奇心と情念とで、ケータイをいじってどれほど多くの時間を過ごしていることでしょうか?
分からない言葉の意味を検索するとあっという間に教えてくれます。世界中のニュースを瞬時に知ることができます。ありとあらゆることについての情報をいとも簡単に手に入れることができます。しかし、スマートフォンのために、私たちは深くものを考えたり、心を静めて祈ったり、一つのことに集中することがますます難しくなってしまって、私たちはスマートではなくなってしまっています。
人は好奇心から、表面的で一時的なニュースで知性と記憶をいっぱいにしています。しかしそれは人類の将来に何も深刻な影響も与えないような無益な情報で、日ごとに入ってきては忘れ去られています。しかし、私たちを満足させることはできません。情報の大洪水に飲み込まれつつ、しかし知性にはむしろ大きな虚無ができます。
ケータイをチェックしたい、ブログの記事を読みたい、YouTubeを視聴したい、この言葉を検索したい、という時、それを霊的割礼としてお捧げするのはどうでしょうか?

聖母よ、われらのために祈り給え!


すべての人々にあらわれた天主の恩寵、イエズス・キリストの恩寵とは何か?イエズス・キリストの教えとは何か?本当の愚か者とは?

2024年02月08日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2024年1月1日、主の御降誕後のミサの説教をご紹介いたします。その日の書簡は使徒聖パウロのティトへの書簡(2:11-15)からです。
「いと愛する者よ、すべての人々に、私たちの救い主、天主の恩寵があらわれた。それは、不敬虔と世俗の欲望をすてて、この世において、思慮と正義と敬虔とをもって生きるために、幸福な希望と、偉大な天主であり救い主であるイエズス・キリストの光栄のあらわれを待ちつつあれと私たちに教える。イエズスは、私たちのためにご自分をお与えになった。それは私たちを全ての邪悪からあがない、善業に熱心に従い、受け入れられる民としてご自身のためにきよめるためであった。このことを、私たちの主イエズス・キリストにおいて、話し、勧めよ。」


愛する兄弟姉妹の皆様、

今日、私たちの主は割礼を受け、イエズスという聖なる名前をつけられました。イエズスとは、ヤーウェは救うという意味です。

イエズス・キリストのおかげで、多くの聖人たち義人たちは、この世の命の後に、至福の王国で不死の命を生きることができるようになりました。シメオンは言います。「この子は、イスラエルの多くの人が、あるいはたおれ、あるいは立ちあがるために、さからいのしるしとして立つ人です。」イエズス・キリストのおかげて、立ち上がる義人・聖人たちがでました。

しかし、この世の儚いあっという間に終わってしまう哀れな快楽に目を奪われて、刹那的に自分のやりたいことを追求して罪を犯す人々は、残念にも、不幸なことにも、永遠の滅びを受けることになってしまいます。

何故なら、「すべての人々に、私たちの救い主、天主の恩寵があらわれた」にもかかわらず、それを無視したからです。聖人たちの生活を見て、彼らの清貧や謙遜を見て、自分にそんなことはできない、それは愚か者のすることだと考えたからです。

すべての人々にあらわれた天主の恩寵、イエズス・キリストの恩寵とは何でしょうか?イエズス・キリストの教えとは何でしょうか?本当の愚か者とは、どのような人でしょうか?
今日は、聖パウロの書簡を読みながら一緒に黙想しましょう。

【1:イエズス・キリストの聖寵】
聖寵とは、天主から私たちに憐れみによって与えられる聖なる寵愛です。なぜ憐れみによって与えられるかというと無償に与えられるからです。

キリストの来臨以前には、どれほど聖なる義人であれ、天国に行くことはできませんでした。しかし天主の御子が人間となり、天主の聖寵である私たちの救い主が私たちに現れました。これが聖パウロのいう偉大な「敬虔の奥義」です。「キリストは肉体にあらわれ、霊において義とされ、天使たちに見られ、異邦人に伝えられ、この世に信じられ、光栄にあげられた」(ティモテ3:16)。
寵愛は、それを与える人が偉大であれば偉大であるほど、人はそれを受けることを欲します。ですから天主が私たちに与える寵愛こそ、もっとも願わしいもの、望まれるべきものです。イエズス・キリストこそ天主の聖寵、人々が最高度に欲すべきものです。イエズス・キリストは私たちの救いのために与えられました。イザヤの預言によれば「地の果ては全て私たちの天主の救いを見るだろう」(イザヤ52:10)の通りです。「天主は、すべての人が救われて、真理を深く知ることをのぞまれる。・・・ かれは、すべての人をあがなうために、ご自身を与えられた。」(ティモテオ前2:4)

キリストのご誕生によって、この聖寵が二つの仕方で現れました。キリストは、聖寵真理とに満ちて(ヨハネ1:14)いたからです。
まず、聖寵・恵みとして、天主からの最大の贈り物として私たちに与えらました。
次に、キリストは真理として、人類に教えるために現れました。キリストの来られるの世は無知と誤謬と異端に苦しんでいました。しかし闇を歩く人々は偉大な光を見ました。(イザヤ9:2)キリストは真理を教えつつ、良い業を行うこと、また、正しい意向を持つことを教えてくれました。

【2:イエズス・キリストの教え】
良いわざについて、聖パウロは「不敬虔と世俗の欲望をすて」ることを教えています。
何故なら、良いわざを行うためにまず罪を捨てなければならないからです。罪とは、あるいは、天主に直接反することです。つまり、敬虔さに反していることです。ですから聖パウロは不敬虔をすてるようにと言います。
罪とは、あるいは、この世のものごとを乱用することです。そのような罪は世俗の欲望と言われています。全ての罪は、私たちの隣人に反対して、あるい、世俗のあるべき秩序に反対して犯されます。ですから続いて世俗の欲望もすてるようにと言います。
罪のわざをすてたのち、私たちがなすべき善に関することを言います。「思慮と正義と敬虔とをもって生きる」と。
思慮:これは私たち自身・自分自身に関すること。あるべき限度を守って、思慮が命じる限度にしたがって物事を使ったり情念をコントロールして生活することです。自己克己と賢明、正義と勇気による生活です。
正義:これは隣人との関係についてです。
敬虔:これは天主との関係についてです。

「幸福な希望」を待つように書いて、目的について教えてます。死の直後の霊魂の栄光、またキリストの再臨の時の肉体の栄光です。
「墓にいる人々がみな、そのみ声の呼びかけをきいて、墓を出る時が来る。善をおこなった人は命のために、悪をおこなった人は永遠の罰のために、よみがえる。」(ヨハネ5:28)
人間の目的は「幸福な希望」です。この世で徳のある生活をすることではたりません。たとえ「思慮と正義と敬虔とをもって生き」たとしても、何か別のものを待ち望んでいます。真の幸福を希望するから、または、私たちが真に幸福となることを待ち望んでいるからです。

「偉大な天主であり救い主であるイエズス・キリストの光栄のあらわれ」を待てと聖パウロは言います。【友を愛するものは、この友を待ち望みますが、自分のためだけでなく、彼の現れを愛する全ての人々のために望みます。】
「偉大な天主」何故なら、イエズス・キリストは「キリストは万物の上にあって、世々に賛美せられる天主である」(ローマ9:5)からです。「私たちはそのみ子イエズス・キリストによって、真実のお方のうちにいるのである。それは真実の天主であって、永遠の命である。」(1ヨハネ5:20)
「救い主」何故なら、イエズス・キリストは救い主だからです。「それはよいことであり、救い主なる天主のみまえによろこばれることである。天主は、すべての人が救われて、真理を深く知ることをのぞまれる。」(1ティモテオ2:3)天使はヨゼフにこう言います。「かれは、み民をその罪から救うお方だからである」(マテオ1:21)
「光栄のあらわれ」何故なら、イエズス・キリストは最初は謙遜のうちに来られました。「死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして従われた。」(フィリッピ2:8)「私は、心の柔和な、謙遜な者である」(マテオ11:29)しかし、キリストの再臨においては天主の本性が誰にも認識されるからです。「そのとき人々は、人の子が勢力と大いなる栄光とをおびて、雲にのってくだるのを見るだろう。」(ルカ21:27)

キリストは救い主ですが、どのようにして救い主となったのでしょうか?それは「イエズスは、私たちのためにご自分をお与えになった」からです。「私たちを愛し、私たちのために、香ばしいかおりの生贄として天主にご自分をわたされたキリストの模範に従って、愛のうちに歩め。」(エフェゾ5:2)御自分をお与えになって、つまり、御受難によってです。
御受難の実り、その効果は、私たちが邪悪から解放されることです。「それは私たちを全ての邪悪からあがない」、私たちは罪の奴隷状態から解放されました。
「受け入れられる民としてご自身のためにきよめる」とは、民を聖化して、御自分の民、ご自分のために聖別された民とするということです。天主の民は、善業に熱心に従わなければなりません。「善をおこなえ。そうすれば、かれから賞せられる。」(ローマ13:3)「善をおこないつづけて倦んではならない。」(ガラチア6:9)

【3:罪人のおろかさ】
栄光をもって再臨される「偉大な天主であり救い主であるイエズス・キリスト」の友人となる力をもちながら、主の敵となることを欲するほど、おろかなことがあるでしょうか?

「不敬虔と世俗の欲望」にまみれて、罪の中を生きること、天主の敵として生きることは、この世では不幸となり、あの世では永遠にみじめになることです。
聖アウグスチヌスによると、ローマ皇帝の宮廷に仕えていた二人の臣下が隠遁生活をするために修道生活に入ったそうです。その内の一人は聖アントニオの伝記を読み、この世の虚しさをますます理解して、もう一人にこう語ったそうです。「皇帝の友人になることは、私たちが希望することができる最高のことだ。しかし、皇帝の友となるためにはどれほど多くの危険や戦いがあることだろうか!たとえ皇帝の友となっても、それがどれほど長く続くというのだろうか?たとえ多くの危険を乗り越えて皇帝の友となっても、私たちが永遠の滅びの危険に身をさらすなら、何の利益があるだろうか?しかし、もしもそう望むなら、私はあっという間に、天主の友となることができる。聖寵という天主からの無限の宝を受け取ることができる。
キリスト教を信じない人々は、被造物である人間が天主の友となることができるとは不可能だと思うでしょう。何故なら、友情とは、友を等しくさせるからです。しかしイエズス・キリストは言われました。「私の命じることをまもれば、あなたたちは私の友人である。」(ヨハネ15:4)

私たちが創造された目的を忘れて、刹那的にこの世のことだけしか考えないのは、おろかなことです。思慮のないことです。この世の全てを儲けても、究極の目的を失ったら、それが一体なんのためになるでしょうか?私たちの本当の最終目的だけが、私たちを本当に幸せにすることができます。「心要なことは少ない。いやむしろただ一つである。」(ルカ10:42)それは、永遠の命です。「幸福な希望と、偉大な天主であり救い主であるイエズス・キリストの光栄のあらわれ」です。

それを見失ってしまっては、目的地を知らないで船を運行させる船長のようです。遭難するか、座礁するか、難船するか、です。船長がたとえ船の操縦の仕方を最高度に知っていたとしても、どのような豪華船であっても、どれほど大きなスピードで移動することができても、どの港にどうやって行くのかを死ならなければ、それが何の役に立つでしょうか?

この世の知恵者も、富と名誉を持つ人々も、愉快な生活とあらゆる娯楽を楽しんでいたとしても、霊魂を救うためにどうすればよいかを死ならなければ、何のためにこの世に生まれてきたのかを知らないならば、死後には地獄が待つだけだからです。この世の物事は、全てうずたかくかき集めても、人の心を満足させることはできません。何故なら、私たちは天主を愛するために作られているからです。天主以外のものでは、本当の平和も幸せも見出すことができないからです。

【4:遷善の決心】
新しい2024年の始めに、遷善の決心をたてましょう。
イエズス・キリストの恩寵を受けて、イエズス・キリストの教えをうけいれましょう。
私たちの人生の究極の目的は、イエズス・キリストによって与えられる永遠の命です。

聖母に御取次を祈りましょう。私たちが聖母にならい、「この世において、思慮と正義と敬虔とをもって生きるために、幸福な希望と、偉大な天主であり救い主であるイエズス・キリストの光栄のあらわれを待ちつつ」生活することができますように。

「そのとき、幼児が割礼をうける八日目になったので、胎内にやどる前に天使によって呼ばれたように、その子の名をイエズスと名づけた。」


2024年 ファイファー神父様のミッションの予定【2月9日のミサの時間が午後7時半になりました】

2024年02月08日 | 聖伝のミサの予定

2024年 ファイファー神父様のミッションの予定が変更になりました。

ファイファー神父様の飛行機の状況により、明日の大阪のミッションの予定に変更があります。
ご理解をお願いします。

2月9日:大阪【ファイファー神父、大阪でのミサ】
18:45 (6:45 PM) ロザリオ
19:30 (7:30 PM) ミサ(ファイファー神父) 

2月10日:大阪 
09:00 読誦ミサ(小野田神父)
09:45 ロザリオ
10:30 読誦ミサ(ファイファー神父)
11:30 講話 [その1]
13:30 講話 [その2]
14:30 ロザリオ
15:00 講話 [その3]
16:00 聖体降福式

Feb 9: Fr Tim in Osaka:
18:45 (6:45 PM) Rosary
19:30 (7:30 PM) Mass (Fr Tim) 

Feb 10: Fr Tim in Osaka: 
09:00 Mass (Fr Onoda)
09:45 Rosary
10:30 Mass (Fr Tim)
11:30 (7:30 PM) Spiritual talk [1]

13:30 Spiritual talk [2]
14:30 Rosary
15:00 Spiritual talk [3]
16:00 Benediction 


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】