Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

私は御身を信じ、礼拝し、希望し、御身を愛します!御身を信じぬ人々、希望せず愛さぬ人々のために、赦しを求めます(天使の祈)

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
2019年 8月の聖伝のミサの予定
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】


8月 聖母の被昇天を祝いましょう。
意向:聖母の汚れなき御心の凱旋のため
実践すべき徳:心の柔和と謙遜
守護の聖人:聖母の汚れ無き御心

愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)にご招待します

◎2019年 8月の予定
【大阪】聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂(アクセスEG新御堂4階 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 
〒532-0002 (JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分)

  8月2日(初金)教会博士証聖者司教聖アルフォンソ・デ・リグオリ(3級祝日)白
          午後5時半 ロザリオ及び告解
          午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

  8月3日(初土) 聖母の土曜日(4級)白
          午前10時 ロザリオ及び告解
          午前10時半 ミサ聖祭(歌ミサ)

  8月11日(主)聖霊降臨後第9主日(2級)緑
          午後5時半 ロザリオ及び告解
          午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

  8月12日(月) 童貞聖クララ(3級祝日)白
          午前10時 ロザリオ及び告解
          午前10時半 ミサ聖祭(歌ミサ)

  8月18日(主)聖霊降臨後第10主日(2級)緑
          午後5時半 ロザリオ及び告解
          午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

  8月19日(月) 証聖者聖ヨハネ・ユード(3級祝日)白
          午前6時半 ミサ聖祭(歌ミサ)

【東京】東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図)「聖なる日本の殉教者巡回聖堂」

  8月4日(主)聖霊降臨後第8主日(2級)緑
          午前10時  ロザリオ及び告解
          午前10時半  ミサ聖祭(歌ミサ)

  8月5日(月)  雪の聖母の大聖堂の奉献(3級祝日)白
          午前7時 ミサ聖祭

  8月18日(主)  聖霊降臨後第10主日(2級)緑
          午前10時  ロザリオ及び告解
          午前10時半  ミサ聖祭(歌ミサ)

愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております。

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イエズス様はマリア様の子で、マリア様と瓜二つだった

2016年01月30日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 1月16日に大阪で行った聖伝のミサ(教皇殉教者 聖マルチェッロ)のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

2016年1月16日 土曜日 教皇殉教者 聖マルチェッロ(歌ミサ)
小野田神父 説教



 聖母の汚れ無き御心巡回教会にようこそ。今日は2016年1月16日、聖教皇、聖マルチェロ殉教者のミサをしております。このミサの直後、1月にはいつも恒例の、踏み絵で犯された罪の償いをする事を提案します。どうぞ皆さん御聖体拝領のようにいらして、踏み絵に接吻をなさって下さい。

 その後に公教要理をまた始めたいと思います。1月、2016年からは、レネー神父様は、新しく「十戒」の連続御説教を始めましたし、ちょうど私たちも公教要理で、「イエズス・キリスト」について到達しました。そこで、1月のこの今年からの、ちょうどイエズス様の御生涯を深く黙想する前に、その付録として、信仰について、信仰の徳について、希望の徳について、愛の徳について、それを振り返ってから、またイエズス様の話に戻りたいと、イエズス様の信仰に関する、信仰を深く、深める事をする事はどうか、信仰にも色々あるけれども、「信仰が強い」とか、信仰が、「完全な信仰だ」とか、「不完全な信仰だ」とか、或いは、信仰に反する罪はどれほど重いのか、とか色々な観点から、公教要理を今年からまた学んでいきたいと思います。

 2月10日は灰の水曜日で、私たちは21歳以上59歳までの健康なカトリック青年男女は、大小斎を守らなければなりません。また14歳以上のカトリック信者は、年齢の制限なしに小斎を守らなければなりません。また聖ピオ十世会では、四旬節中の全ての金曜日に、大小斎を守っていますので、もしも皆さんご一緒にできる方がいらっしゃれば、どうぞなさって下さい。また、シュテーリン神父様は、2016年の決心として、毎月13日には、大小斎をファチマのマリア様の意向で捧げる事を提案しています。マニラの司祭とブラザー、シスターたちは、さっそく1月13日にこれを捧げましたけれども、皆さんももしもよろしかったら、毎月13日に大小斎を捧げて下さい。

 
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 愛する兄弟の皆さん、昨日私たちは、イエズス様の聖心を是非私たちの心に頂いて、私たちがイエズス様の心を以って、マリア様を愛する事ができるように、最高の諸聖人が、今までマリア様に対する信心を行った中で、最高のやり方の信心を、私たちは黙想しました。イエズス様の聖心を私たちの心の中に頂いて、それを以って、マリア様を愛する。では、これをする為に、どうやったら良いか、という事も黙想しました。それをする為には、私たちはいつもお祈りをして、この御恵みを求めなければならない。特に、御聖体拝領の中で、このお祈りを、この御恵みを祈り求めなければならない。毎日、射祷で、朝起きた時に、また日々思い出すごとに、「イエズス様、聖心をどうぞ私の心に下さい。その御身の聖心で、マリア様を愛する事ができますように」と、祈らなければならない、と黙想しました。

 私たちはそれだけでなくて、実際にイエズス様のなさったように、私たちも努力しなければならない、と黙想しました。どんな事をするかというと、昨日黙想したのは、「イエズス様のように、マリア様に従順でなければならない」。マリア様をお喜ばせる為に、マリア様のお望みのままに、私たちも従順となる。イエズス様の30年間の御生涯に、全くピタリと一致して倣う、という事です。

 また、マリア様を尊敬して、崇敬して、マリア様を褒め讃えなければならない。マリア様の名誉の為に、何かをしなければならない、と黙想しました。

 今日提案するのは、イエズス様がマリア様の子だ、という事で、マリア様と瓜二つだった、という事で、「マリア様の御徳と、イエズス様の徳が似ていた」という事、それで、「イエズス様がマリア様の真似して、マリア様に従順であって、崇敬して、それを真似した」という事を考えたら、「マリア様は、私たちにも、イエズス様になさると同じ様な事を、私たちになさって下さる」という事を黙想したいと思います。

 第1の点は、イエズス様がマリア様に対してなさった事、第2の点は、ですから、マリア様が私たちに於いて、あたかもイエズス様に対してなさるかのようにする、この事をみて、それで最後に、私たちは遷善の決心を立てる事に致しましょう。

 それで、私たちがこの黙想の結果、どうやって、この黙想がよくできたか、できなかったか、或いは、この黙想が実りがあったか、なかったか、という判断はどうやってつけたら良いのか、どうやって私たちのその黙想を評価したら良いか、という事も、黙想を考えてみます。

 イエズス様はでは、マリア様に従順で、マリア様に尊敬を払っていた。その結果、マリア様の事を真似よう、真似よう、と思っていました。イエズス様の笑い方、イエズス様の口調、イエズス様の物腰、イエズス様の仕草は、マリア様そっくりでした。

 マリア様はどんな方だったでしょうか?マリア様の事をよくご覧になって下さい。マリア様は童貞の内の童貞であり、とても清い方でした。イエズス様も全く純潔の純潔、清い方でありました。マリア様はご自分の事を、「主の婢女なり」と、天使に言いました。「主の婢女なり。自分の事はどうでもいいのです、主の御旨が行われますように。たとえ、主の御旨が何か見た目には不可能であるかのように見えるけれども、私は童貞でありながら、母親となる。あたかも、モーゼの青い、青々とした木が、轟々と火で燃えているかのように」しかしマリア様は、深い信仰を以って、「我は主の婢女なり、仰せの如く我になりかし」ご謙遜と深い信仰と、自分の利益を忘れるほどの謙遜を以って、ご自分が何であるかを示しました。

 イエズス様も全く同じでした。「イエズス様もこの世に入る時に、『見よ、私は御身の御旨を果たす為に来ます。』と、イザヤの預言書に書かれてある通りの事を言った」と、聖パウロは証言しています。イエズス様のその従順、御謙遜、これはマリア様と瓜二つです。

 マリア様は、深い信仰と、その全てが不可能であるかのようにも思われたそのお告げの時から、カナの婚宴、イエズス様からあたかも拒まれたかのようにも見えた、「これが、あなたと私の間に一体何の関係があるのか」それでも、「さあ、この人の通りになさりなさい」として、奇跡を起こさせた、起こしてもらった。

 或いは、天主であるにもかかわらず、死を迎えた。「キリストは死なない」と、書かれてあるのに、目の前で死んでいる。その不可能であるかのような現実、天主の御子であるはずなのに、何故この私の息子は、「主よ、何故我を見捨て給うのか」と言う、あたかも絶望したかのような言葉を仰っている。しかしマリア様は、全てを超えて信じていました。深い信仰を持っていました。

 マリア様は、天使のお告げを受けてからすぐに、エリザベトの事を聞き、愛徳を以って実践しました、「あぁ、エリザベトはもう年をとっている。助けてあげよう、さぞかし苦しんでいるに、さぞかし大変な事に違いない」自分の地位、自分の「天主の御母」という素晴らしい事はすっかり忘れて、エリザベトの愛徳の奉仕の為に行きます。マリア様の霊的な、マリア様を通して、イエズス様は霊的な奇跡さえも行います。

 イエズス様は、そのようなマリア様の行いを、そのようなお姿を、いつも真似しておられました。

 第2のポイントで、マリア様はでは、イエズス様にどのような事をなさるのでしょうか?いえ、もっと言うと、イエズス様の聖心を私たちが頂いた、イエズス様の聖心を頂いている私たちに、マリア様は一体どのような事をなさるでしょうか?

 マリア様は、イエズス様になさるのと同じ様な事を私たちになさいます。どういう事かというと、マリア様は、私たちに於いてイエズス様が形作られる様に、イエズス様がますます生きる様に、私たちにとって生きる、というのはイエズス・キリストであるように、私たちが、イエズス様のように考えて、イエズス様のように話して、イエズス様のように行う事ができるように、マリア様は育ててくれます。私たちの中にイエズス様をますます形作ってくれます。ますます、言ってみれば、養い、育てて、教育してくれます。マリア様は、私たちに於いて、イエズス・キリストをますますご覧になるからです。

 イエズス様の聖心を頂けば頂くほど、マリア様がますます私たちにイエズス・キリストを形作ろうとして、私たちに色々な助言やアドバイスや教えを与えてくれます、よく聞いて下さい。ちょうど司祭がホスチアを聖変化させて、イエズス様の御体にするように、マリア様も私たちに語りかけて、私たちを、見た目にはパンのまま、見た目にはそのままだけれども、実は、イエズス・キリスト自身である、というように変えて下さいます。

 では、マリア様の話を、言葉を、よく聞いて下さい。マリア様は一体、何と仰るでしょうか?マリア様は、イエズス様の聖心が私たちの心にますます入るように、私たちの心をきれいにしなさい、イエズス様に対して戦っている、イエズス様に反対している様なものを、ますます取り除きなさい、とアドバイスして下さいます。

 何故かというと、賢い母は、イエズス様が入ろう、と、イエズス様が御自分の聖心を下さろうとしているにもかかわらず、それを妨害している私たちに気が付いているからです。ですから、イエズス様がせっかく、「自分の心を以ってマリア様を愛しなさい」と、あげたくてあげたくてたまらないにもかかわらず、マリア様も、「あぁ、早く受け取って欲しい、受け取って欲しい」と言うにもかかわらず、私が、それを邪魔して、邪魔ものを付けているので、どうしてもイエズス様がそれを下さる事ができない。マリア様がそれを願っても、その邪魔ものがあるので、ハラハラハラハラしながらも、まだこれを受け取れないでいるのを見て、はがゆい思いをしている。

 「では、マリア様、一体どうしたら良いのですか?」

 すると、イエズス様の聖心を私たちが受けるに邪魔する様なものは、私たちの欠点だ、私たちの悪い傾きだ、私たちがよく深く根強く持ってしまっている、悪い癖がある。その癖の為に、イエズス様を素直に聖心を素直に入る事ができなくなっている。

 「では、その癖は一体何なのでしょうか?」マリア様は私たちに、「どんな癖があるか考えてごらんなさい?」と、招いておられるようです。

 もしかしたら私たちは、虚栄を追っていて、人からいつも褒められたり、ちやほやされるのを望んで、隠れて望んでいるのかもしれません。

 或いは、私たちには、「いやぁ、大した事ないですよ」と、口先だけでは言うけれど、本当は傲慢で、「大した事がないんですね」と、そのまま言われると、「え!?」と、却って怒ってしまったりするかもしれません。

 或いは、私たちは非常に短気で、ちょっとした事によっても、すぐ敏感に、「え!?」と怒るのだけれども、他の人が怒るのを見て、「何だ、この人は」と言うのかもしれません。

 或いは、私はもしかしたら、とても野心家で、人の上に立ちたい、人の上に号令をして、「こうだ、こうだ」とやりたい、と、「仕切りたい」と、思っていて、でも他の人が何か選ばれてやると、「あ!何だこの人は」と言って、妬みを起こしたり、嫉妬を起こしたりしているのかもしれません。もしかしたら、その仕返しをしてやろうとか、復讐をしてやろうとか、今度会ったら見返してやろうと思っているのかもしれません。

 イエズス様の柔和、謙遜な心とは反対なのかもしれません。

 或いは、私たちはとても性格が良くて、「さあ」良い事を聞くと、「さあ、やろう!」と思うのだけれども、ちょっと経つと、「あぁ、もうやめた」と、すぐに根気が無くて、すぐに、「もう難しいから」或いは、「あぁ、めんどくさいから」或いは、「あぁ、気が散った」と言って、すぐにやめてしまって、せっかく立てた決心も3日坊主どころか、3時間で終わってしまうかもしれません。

 或いは、私たちの行いはあまりにも見かけだけで、心の底には全然響いてなくて、外見だけ、見かけだけで、心が伴っていなかったのかもしれません。

 或いは、私たちの行動は、いつも肉欲に、或いは情欲に動かされていて、いつも、「楽をしたい、怠惰に時を過ごしたい」或いは、「つまらない情欲に流されたい。食べて、飲んで」という事だけを求めていたかもしれません。

 或いは、私たちは、私は自分の事だけを考えて、マリア様のように、「あぁ、隣人が困っている」或いは、「天主様の為に」という事よりは、自分はこんなに困っていて、自分はこんなに疲れていて、自分はこうで、自分は、自分は、自分は自分は、としか考えていなかったかもしれません。

 マリア様は、そのよう私たちに於いて、「イエズス様の精神と反対の精神は有りませんか?」と、今日尋ねておられます。

 私たちがそれを、自分のその欠点を、或いはその主要な不足な所を発見するのは、御恵みが必要です。中には自分の正直な姿を見るのは怖いし、或いは嫌だし、或いは正直な姿を見ても、自分が自分で以って思っている姿というのと、もしかしたら一致しなくて、正直な所を見る事ができないかもしれません。

 でもマリア様の御取次ぎによって、ますます私たちがイエズス様を受け入れる事ができるように、その自分、私の欠点が、或いは不足の所が、妨害物が何かをよく悟らせて下さるようにお祈り致しましょう。

 もしも、もしもそのような主要な欠点が何か分かったら、私たちはどうしたら良いでしょうか?

 一番よく勧められているのが、私たちの欠点に反対する様なイエズス様の善徳を、聖徳を、美徳を、私たちがそれを見て、そこに於いて、イエズス様に倣うように努力する、という事です。

 例えばもしも、私はとても根気が無くて、ちょっとすると、「あぁ、ダメだ」「あぁ、もう気が散った」「もう、インターネットだ」「あぁ、テレビを見ちゃおう」さあ本を開いたけれども「あぁ、もうダメだ」というような人には、イエズス様の十字架の道行き、倒れても倒れても歩いたイエズス様、「イエズス様、どうぞ、その根気を下さい」というお祈りをしたらどうでしょうか。イエズス様にその根気を願ったらどうでしょうか。一度にアッと、もちろんイエズス様は下さらないかもしれませんけれども、しかし、少しずつ少しずつ、その力を与えてくれるはずです。

 もしも、私がとても傲慢で、「私の名誉が傷付いた」といつも敏感になっている場合には、イエズス様の柔和、謙遜である聖心に祈って、イエズス様が、屈辱を受けても、何も返答せずに、黙ってそれを耐え忍んでおられた御受難を黙想する事によって、お捧げするのはどうでしょうか。

 第2に、もしも私がその欠点を犯してしまったら、どうしたら良いでしょうか?

 マリア様は、欠点を犯したら、「すぐに、償いをしなさい」と、仰います。もしも私たちがそれをすぐに償うならば、どうやって償ったら良いか、という事も、どうぞマリア様にお伺い下さい、マリア様はここで、「また気を散らしてしまいました」「あぁ、短気になってしまいました」或いは、「こうなってしまいました、どうしたら良いでしょうか?」マリア様は、「では、それの償いに、この十字架を受けなさい」「この今の仕事を終わらせてしまいなさい」などと仰るかもしれません。私たちはその、或いは償いにめでたしをここで、或いは償いの祈りを唱えよう、と思うかもしれません。すぐに償えば償うほど、それは私たちの犯した過失は、恵みの源となります。

 こうやってマリア様は私たちに、イエズス様と反対する様なものを、イエズス様の御恵みを妨害する様なものを浄めよう、浄めようと教えてくれます。

 では今日、どのような遷善な決心を立てたらよろしいでしょうか?

 1つは、イエズス様の聖心を頂くように、ますます今日も、毎日、御聖体拝領の時に、霊的聖体拝領によって、或いは日々のお祈りによって、イエズス様の聖心を求めましょう。イエズス様の聖心を以ってマリア様をお愛しする事ができるように、マリア様に従順であり、マリア様を褒め讃えて、マリア様の真似をするように致しましょう。

 第2に、マリア様の勧めに従って、私たちの心から、イエズス様を邪魔をするようなものを浄める事ができるように、今日是非、私にとって、イエズス様に一番反対する様なものは何かを、ちょっとボヤッとではなくて、一体本当は、具体的に、「本当の所は何なのだろうか」と、マリア様にお伺いしてみる事に致しましょう。マリア様に、どうぞ、そのイエズス様から邪魔するものを、ますます少なくして下さるように、私たちに、それに反対する徳を実践する事ができるようにお祈り致しましょう。

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
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理解するとは、どういうことか。分かる、理解する、ということのいろいろな意味

2016年01月29日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様

 理解するとは、どういうことでしょうか。
 よく考えると、分かる、理解する、ということはいろいろな意味があると分かります。

 私たちは、自分が見聞きするいろいろな体験や現象やデータを分析して、そこに法則を見いだしたり、関係を見いだしたり、何らかの意味を見いだして「理解」しようともします。犬や猫やその他の動物は、現象を体験するかもしれませんが、それを理論化したり、体系化したりすることはありません。

 たとえば、私たちの周りにはいろいろな自然現象があります。人間は、気圧の配置や風や雲の動きなどを観測して、天気予報をしたりします。動物は、気圧や気温の変化や電磁波などを微妙に感じ取って本能的に行動するかもしれませんが、理由を説明したり、推理したり、例証したりはできません。

 古代ギリシアのアルキメデスは、お風呂に入った時、水があふれる出てそれと同時に自分の体が軽くなったことに気がつき「浮力の原理」を発見しました。アルキメデスは、重さが同じ純金と合金の不純の王冠は空中では天秤で釣り合いがとれているのに、水の中ではそうならない、密度が違うからだ、だから、純金とそうでないものとを見分けることができるということに気がつきました。


 岐阜県の神岡鉱山跡にある有名な実験装置カミオカンデ(KamiokaNDE)は、神岡鉱山の地下1000メートルに、可能な限り純水に近い水が3,000トン溜められています。新しいスーパーカミオカンデには50,000トンの超純粋が蓄えられています。陽子が崩壊する時に、いろいろな粒子が放出されるますが、その中にニュートリノがあります。普通、ニュートリノは地球を貫通してすり抜けてしまいます。しかし、まれにニュートリノは蓄えられた水の中の電子に衝突することがあります。ニュートリノにぶつかると電子からチェレンコフ光という青白い光が出ます。カミオカンデは、このチェレンコフ光を光電子増倍管で検出します。カミオカンデは、大マゼラン星雲でおきた超新星爆発によって発生したニュートリノを世界で初めて検出しました。
 また「大統一理論」という物理学の理論が正しいとすると論理的に陽子崩壊がカミオカンデで観測されるはずです。しかし、カミオカンデでも、スーパーカミオカンデでも、今のところ陽子崩壊は観測されていません。この意味を理解しようと、人々はいろいろな説明をしたり、解釈をしたりしています。


 八ヶ岳南麓天文台の天文台長、串田嘉男氏によると、FM電波を利用した流星のモニター観測中に、地震活動に先行して、FM電波観測のデータに独特の変動が出現することを観測しました。特に、1995年の兵庫県南部地震前に顕著な変動が観測されたそうです。
通常は届かないFM放送局電波が、地震発生前に震源上空で散乱変化が生じ、通常と比較して、受信強度変化等が観測される現象であろうと、串田氏は理解しました。さらに、前兆変動の時間的変化には一定の時間比率が認められると解釈しました。その解釈が正しければ、地震の発生時期を推定することができると理解しました。
【私の意見としては、たとえそのような現象が実際に関連して起こっていたとしても、地震という現象は、FM電波のみならず、いろいろな自然現象に影響を及ぼすものでしょうから、FM電波の変動現象のみでは全てを説明できないと思います。FM電波の変動現象は、おそらく重要な要素の一つであるかもしれませんが、それ以外の要素も考慮しなければならないのではないか、と思います。たとえて言うと、ちょうど、聖書はキリスト教の教えを知る大切な源泉の一つですが、それだけで全ては説明できない、ということに似ていると思います。】


 旧正月に、中国では「福」という文字を飾る慣習があります。この「福」文字はよくひっくり返っています。頭が下になって足が上を向いています。日本人の感覚では、福を否定しているような感じがします。なぜ、上と下が逆なのか?迷信深い中国人にとって、これは縁起が悪いのではないか?とも思います。

 しかし、中国語では「福が倒れた」を「福倒了」と言って、「福が到達した、福がやって来た」つまり「福到了」につながる言葉遊び(ダジャレ)なのだそうです。縁起がよいとされます。


 フランス語が分かる方は、次のフランス語の「詩」を読むと、まぁ何となく意味が分かるような感じがします。Eh! dites-le, dites-le というのは、「さぁ、それを言いなさい、それを言いなさい」という意味ですし。

Eh! dites-le, dites-le,
De quatre et méfie de le.
Haine de caoutchouc me Douvres de mou.
Le lit le dos que l'a fait de
Tous s'y sèchent à c'port
Et de digérant, ohé! Ouida, ce pou.

 しかし、単語の一つ一つの意味を超えて、もしも、上がマザーグースの有名な次の歌の「フランス語訳」だと知ったら、なぁんだと「納得」するのではないでしょうか。

Hey, diddle diddle,
The cat and the fiddle
The cow jumped over the moon.
The little dog laughed
To see such a sport
And the dish ran away with the spoon.


 ここまでは、前口上です。
 以上のことで、何を言いたかったというと、先日の1月17日(主日)に、東京で聖伝のミサで

御聖体は、神道の御神体や仏教秘仏などのようなシンボルでも偶像でもなく、真に私たちを創造された天主ご自身である、だから、有り難く伏し拝むどころでは足りない、体は跪いて、精神を込めて心から、私たちを全てを捧げて、愛の礼拝をしなければならない、それが、御聖体の本来の意味だ、

という内容を申し上げました。しかし、なぜそのような表現を使ったのか、聖伝のミサに参加された方々にとっては、意味がわからなかったと思います。

 それは、その前日に東京カテドラルの「せきぐち」の12月号を読んでびっくりした方から、その記事をいただいたからです。私も記事を読んでびっくりしました。何故なら、小田武彦神父の指導による待降節黙想会で、「聖体は、神道の御神体や仏教の秘仏のように、ありがたく伏し拝む対象ではない」と主張しているからです。


天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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聖ピオ十世会 2016年 2月の聖伝のミサ(トリエント・ミサ、ラテン語ミサ)の予定

2016年01月29日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
2016年 2月の聖伝のミサの予定
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】

◎2016年2月の予定

【大阪】昨年4月よりミサの場所が変更になりました!
大阪コロナホテル(アクセス
大阪府大阪市東淀川区西淡路1丁目3番21号 (JR新大阪駅の東口より徒歩3分)
「聖母の汚れ無き御心巡回聖堂」 (月によって会場の部屋が異なりますので、入り口に貼り出されてある案内をご覧ください。)

   2月10日(水)灰の水曜日(1級)紫 
           午後5時  ロザリオ及び告解
           午後5時半 ミサ聖祭

   2月11日(木)四旬節の平日(3級)紫
           午前10時  ロザリオ及び告解
           午前10時半 ミサ聖祭

【東京】東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図) 「聖なる日本の殉教者巡回聖堂」

   2月 7日(主)五旬節の主日(2級)紫
           午前10時  ロザリオ及び告解
           午前10時半 ミサ聖祭

   2月 8日(月)証聖者マタの聖ヨハネ(3級祝日)白
           午前7時 ミサ聖祭

   2月 21日(主)四旬節第2主日(1級)紫
           午前10時  ロザリオ及び告解
           午前10時半 ミサ聖祭

   2月 22日(月)使徒聖ペトロの司教座(2級祝日)白(聖パウロと不可分の記念)
           午前7時 ミサ聖祭

◎愛する兄弟姉妹の皆様を2016年「長崎・秋田巡礼」へお招きいたします。

 聖ピオ十世会日本 2016年 長崎・秋田巡礼 10周年記念 天主の憐れみを感謝して

 SSPX Japan Nagasaki Akita Pilgrimage in 2016
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「婚姻の神秘」---真の天主である「御聖体」へのふさわしい態度とは---

2016年01月25日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2016年1月17日(主日)に東京で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年1月17日(主日) 御公現後の第2主日ミサ
小野田神父 説教


 日本の聖なる殉教者巡回教会にようこそ、今日は2016年1月17日、御公現の後の第2主日ミサです。

 1月は日本では過去250年の間、毎年この時期になると、踏み絵を踏まされてきました。そこで、いつも1月にやっている通り、それの償いの為に、私たちは踏み絵に接吻をする儀式をします。

 明日はここで7時からミサがあります。2月は、2月の最初の主日2月7日、ミサがここであります。2月7日と、そして第3主日の2月21日です。
そして今日午後14時30分頃から、公教要理の勉強と、16時から、御公現後第2主日の第2晩課があります。どうぞいらしてください。

 
“Nuptiae factae sunt in Cana Galilaeae”

 「ガリレアのカナで、婚礼の式があった」

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 愛する兄弟の皆さん、今日カナでの婚礼の式で、イエズス様が、マリア様の介入で、時がまだ来ていないにもかかわらず、水をブドウ酒に変える奇跡を行いました。

 ちょうど今日から4日前、1月13日の主の洗礼の記念の時には御公現の聖務日課をもう一度繰り返しつつ、私たちは朝課と晩課で、「主の洗礼」と、そして「カナでの婚宴の奇跡」と、そして「3人の博士たちの贈り物」の3つ話が、1つになった話がされます。どんなことかというと、「主が洗礼を受けたのは、これは、私たちの霊魂と天主様が結婚する話だ、霊的に結婚して1つとなる話だ。そこで私たちの主は、水で洗礼を受けたけれども、その結婚式に、私たちの主は水をブドウ酒に変えて、婚宴を祝った。その婚宴の式に、3人の博士は贈り物を贈ってきた。」と、言っています。

 そこで、私は今日皆さんを、このカナでの婚宴の式の福音を黙想しつつ、このカナでの婚宴の式にイエズス様が招かれたように、実は私たちも霊的に、ミサに於いて、イエズス・キリストとの婚宴の式に招かれている、という事を一緒に黙想しましょう。

 皆さんが霊的な婚宴の式に与っている、結婚式に与っている、という事を黙想して、それに招待したいと思います。そこで、その結婚式に於いて、婚宴の式に於いて、私たちは、新郎である天主であるイエズス・キリスト様に対してどういう態度を取らなければならないのか、どういう風に接しなければならないのか、という事を黙想して、そして最後に、遷善の決心を取る事に致しましょう。

 第1のポイントは、では、カナでの結婚式とミサというのは、どんな関係があるのか?という事です。カナの結婚式は、もちろん2つの部分があります。1つは結婚式と、婚宴と、そして後は、宴会です。カナでイエズス様は、宴会の式で、水をブドウ酒に変えましたけれども、私たちは、特に婚姻の最も中核な、最もその核心である両性が、2人が一体となる、男と女が一体となる、という1つの体となる、という所に、婚姻の本質がある、という所に注目します。すると、ミサはまさに、そのイエズス・キリスト、真の天主であるイエズス・キリストと、その花嫁である教会との一致を表しているという事ができます。

 何故かというと、ミサというのは、十字架の生贄の再現であるからです。十字架の生贄ではイエズス様は、第2のアダムとして、死の床に着きました。第2のアダムの脇腹から、水と血が流れ出ました。水は、洗礼の象りであって、教会の入り口の象りです。血は、教会の中心、御聖体の象りであって、シンボルであって、これは教会の中心です。つまり、水と血が出た、という事は、キリストの花嫁である教会が、第2のアダムの脇腹から出て来た。そしてこのキリストは、花嫁である教会と一体である。1つの神秘体を司っている、という事です。

 そして、キリストの神秘体というのは、何か具体的な何か抽象的な、宙に浮いた餅の、絵で描いた餅のような、何か食べる事もできない、見る事もできないものではありません。キリストの花嫁、天主の教会カトリック教会は、私たち1人1人がその肢体の、体の一部となっています。イエズス・キリストが教会と1つになっている、1つの体を作っている、という事は、私たちの霊魂とも1つとなっている、という事です。霊的に、キリストは私たちと婚姻状態となる事を望んでいるのです。洗礼を受けた時に、私たちの中には、イエズス様の天主の命が生きる事によって、1つの体となりました。

 このイエズス様は、カナでは招かれた身でした。しかし本当の婚姻では、霊的な私たちとの婚姻では、新郎です、単なる傍観客ではありません。そこでイエズス様は、水をワインに変えるのみならず、ブドウ酒を御血に変えて、私たちに飲ませようと思われました。パンを御自分の体に変えて、私たちをそれを以って養おう、私たちと一致しようと思われました。そして本当に、私たちがイエズス・キリストと一体となる事を、霊的にも、体的に於いても、一体となる事を望まれました。

 婚姻では、両性が1つの体となるので、もしもそれを別ってしまうような、これを分断してしまう様な事があれば、これは罪となります、大きな罪となります。天主がなした事を、人間がそれを壊そうとするからです。

 私たちに於いては、天主様との一致は、罪によって、分断されてしまいます。罪を犯す事によって、天主の命は私たちの中から死んでしまいます。私たちは、霊的な愛の交友、婚姻状態を、罪を避ける事によって、愛徳の業を行う事によって、保たれなければなりません。

 では第2のポイントです。そのような婚姻の席に招かれた特に私たちは、ミサ聖祭に招かれて、イエズス様と教会との、そのキリストの教会、真のキリストの教会カトリック教会とのイエズス様との一致の神秘を私たちが今与っているその時に、どのような態度を取らなければならないのでしょうか。

 御聖体の本来の意味とは、一体何なのでしょうか?

 イエズス様は私たちを愛する、私たちと一体となろうとする新郎であります。私たちは花嫁ですが、単なる花嫁ではなく、被造物の花嫁であって、罪を犯した花嫁です。それに引き換え、イエズス・キリストは真の天主です。私たちを創り、愛し、養い、全てを私たちに下さった大恩人である、創造主である、天主である、新郎です。そしてこのような身分の違いにも、無限に身分の違いがあるにもかかわらず、私たちをあわれんで、私たちと1つになろうとする、愛の無限をご覧ください。無限の愛をご覧ください。

 ですから、私たちのカトリック信仰によれば、「御聖体」というのは、「キリストの真の体」です。シンボルではありません、象徴ではありません、それを意味するだけではありません。例え、目で或いは鼻で、口で、触角で、それでないと思われようとも、イエズス様がそうはっきり仰ったので、御聖体は、本当に、天主の、人となった天主の、イエズス・キリストの御体となります。もはや普通のパンではありません。パンの中にイエズス様がおられるのでもありません。イエズス・キリストの御体と実体が変化します。

 イエズス様は真の天主ですから、御聖体は、真の天主です。御聖体は、私たちを創り、創造し、養い、愛しておられる、新郎であるイエズス・キリスト、真の天主です。

 イエズス様は、愛を与える為に、御聖体を制定したのではありません。「愛を与える」といえば、例えばお花を与えたり、プレゼントをしたり、自分以外のものを何か贈るかもしれません、ラブレターを書いたり。

 イエズス様は、御自身を、自分自身を、「御自分の御体と命と全て」を私たちに与えようとしました。愛のゆえに。

 ですから、そのような私たちとの霊的な結婚を前に、そしてこのミサは、特にミサでの御聖体拝領は、私たちにとってイエズス・キリスト様との愛の一致を意味するものです。「イエズス・キリスト化」する事です。ですから私たちは、それに相応しい態度を取らなければなりません。

 では、どのような態度が相応しいのでしょうか?

 御聖体というのは、神道の御神体のようなものではありません。仏教の秘仏のようなものでもありません。何故かというとそれらは、単なる物であって、剣とか刀とか剣とか鏡とか、勾玉とか、或いはどこかの彫刻とか、或いはそういうシンボルでも、それを表すような偶像ではありません。

 御聖体というのは、そのような神道の御神体、仏教秘仏などのような物ではなくて、シンボルでもなくて、真に私たちを創造された、生きてまします、私たちを在らしめて下さる、私たちの為に命を下さった、十字架で贖いをなさった、そして私たちを永遠の命に導いて下さる、わたしたちと愛の一致を望んでおられる、「真の天主」であるからです。

 ですから、御神体のように、或いは仏像のように拝んではいけません、もっとしなければなりません。跪いて礼拝して、心から愛の礼拝を、イエズス・キリスト様に対する、私たちを全てを捧げる礼拝をしなければなりません。有り難く伏し拝むどころでは足りません。私たち全てを捧げて、私たちをイエズス様へのものとして、イエズス様が私たちの為に罪の生贄となって下さったのですから、私たちも、同じくイエズス様のものとして、与え尽くさなければなりません。夫婦とはそうではないでしょうか。私たちただ平伏して、「ははぁー!」この恐ろしい、おどろおどろしい、「何かおっかない偶像だ。怒ってる何とかの神様だ」というのではなくて、私たちをあわれんで、愛して、私たちに全てを、御自分全てを与えるものとして、私たちは、更に深い、礼拝と感謝と讃美、そして罪の償いを捧げなければなりません。それが、御聖体の本来の意味です。

 天主様は、私たちを創り、全ての美しいものを下さり、そしてその私たちを愛するが為に人となられた、そして私たちの為に苦しまれた、十字架の上で生命を与えられた、全ての血を流されただけではありません。私たちと1つになろうと思って、御自分をパンとして与えて下さろうとするのです。そのような愛の極みに向かって私たちは、どうして冷淡で、どうして冷たい態度で、突っ立ったままいる事ができるでしょうか。

 イエズス・キリスト様が御聖体を下さったのは、聖パウロが言うように、「全てをキリストに於いて1つにまとめる為、復興させる為、“Instaurare omnia in Christo”の為です。“キリスト”というキーワードがなければ、全く意味がありません。全世界を、全人類を1つに一致させる為ではありません。キリストに於いて、全てを統合させる為です。キリストを頭として、その元に集める為。キリストのない一致を求める為ではありませんでした。そしてその為にこそ、御聖体が与えられました。全ての舌が、イエズス・キリストを主として崇める為に、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもの、地獄のものも全て、キリストを、「主である。」と、告白する為です。キリストがいなければ何の意味もありません。全てが、イエズス・キリストを真の天主として、全てこれよりも、天上天下、これよりも高い名前はない、と崇める為です。

 ですから、もしも私たちが相応しい態度でイエズス様を礼拝して、イエズス様を拝領するならば、私たちはますますキリストのようになります。相応しい態度である、というのは、私たちが、イエズス様に対する愛の状態に、成聖の状態にあって、相応しい礼拝を捧げ、罪の償いを捧げる事です。

 今から100年前に、ちょうど100年前の1916年、マリア様はファチマで、ポルトガルの天使を子供たちに3回送りました。ポルトガルの天使は、子供たちに御聖体を持って来て、「見よ」、そしてその御聖体を宙に浮かせたまま、その御聖体からは御血がタラリ、タラリと滴りて落ちています。その天使は、額を地面に付けて、御聖体を宙に浮かせたまま平伏して、「御聖体のうちに真に在し給う、イエズス・キリストの御神性、御人性、霊魂を礼拝致します。御身を礼拝しない人に代わって、私は礼拝します。」と、祈りました。子供たちもそれと同じお祈りをしました。

 これが、相応しいやり方です。天使が私たちに教えて下さったやり方です。これが、私たち全世界の人間が被造物が、日本人であろうと何人であろうと、御聖体に対して、真の天主に対して、なさなければならない態度です。この天が教えたやり方を拒否する事は、私たちにはできません。私たちを愛する新郎、この前に私たちはどうして、愛と感謝と礼拝をする事ができないのでしょうか。禁止されるのでしょうか。

 もしも私たちが、イエズス・キリストの弟子となったのならば、洗礼を受けて、キリストの神秘体の一部となったならば、ますますキリストのようにならなければなりません。第2のキリストとならなければなりません。キリストに真似なければなりません。という事は何かというと、私たちはますます、イエズス様と共に十字架の道を歩かなければなりません。世の罪の贖いの為に協力しなければなりません。多くの方が、イエズス様の御血潮の功徳に与る事ができるように、イエズス様を知り、愛し、そして讃美し、その永遠の命に与る事ができるように、キリストの神秘体の一部となる事ができるように、キリストの下に集められるように、祈らなければなりません。

 御聖体拝領をするという事は、単にご飯を食べる、パンを食べるのではありません。イエズス・キリストの生贄に、私たちも生贄として捧げて、1つの生贄となる事です。第2のキリストとなる事です。そうすると、私たちは徐々に、徐々に変えられて、遂には天国の永遠の婚宴の席に於いて、本当にもう決してイエズス様と離れる事のない、罪を犯す事のない、永遠の神秘的な婚姻が完成するのです。その時に私たちは初めて、「あぁ、キリスト教徒となって、遂にキリストとなった。」と、その時に言う事ができるでしょう。

 そして私たちは、このミサに於いて、その神秘的な婚宴の席に与るように、もっともっと一致するように、と招かれています。

 では、どのような遷善の決心を立てたら良いでしょうか。

 どうぞ、イエズス様に対して、自由に、愛を込めて、心から、心の底から、礼拝と、感謝と、讃美と、罪の償いを捧げて下さい。そしてそれができない、或いはそれをしない多くの人々に代わって、それをなさって下さい。特に御ミサの中で、跪いて、口によって、礼拝をしつつ、御聖体拝領をして下さい。この御聖体拝領が、私たちの永遠の婚姻の秘跡への前兆である、とよく自覚して下さい。イエズス・キリストといつも一致している花嫁である、という事を自覚して下さい。決して、この私たちが、イエズス・キリストと一つの体となった花嫁として、夫である主イエズス・キリスト様を悲しませる事がないように、罪を以って、「イエズス・キリストよ、どっかに行け」などと言ってしまう事がないように、恩人であるイエズス様に対して、冷たい態度や暴力をふるう事がないように、特に御聖体拝領でお祈り致しましょう。御聖体拝領をしつつ、私たちは幾度も過去イエズス様に対して背き、イエズス様の御血を無駄にし、御聖体に対して相応しい態度を取ってこなかったかを辛く思い、決してそういう事がないように、特別の遷善の決心と御恵みを求めましょう。

 マリア様に、「どうぞマリア様、マリア様はイエズス様に対して、いつも相応しい態度を取っておられました。イエズス様を決して悲しませる事がないように、イエズス様と決して離れる事がないように、」その特別の御恵みを求めましょう。

 “Nuptiae factae sunt in Cana Galilaeae”

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
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イエズス様に倣う為の、イエズス様に近付く為の一番の近道とは

2016年01月24日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 1月15日に大阪で行った聖伝のミサ(最初の隠遁者証聖者 聖パウロ)のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

2016年1月15日 金曜日 最初の隠遁者証聖者 聖パウロ(歌ミサ)
小野田神父 説教



 聖母の汚れ無き御心巡回教会にようこそ。今日は2016年1月15日、最初の隠遁者聖パウロの祝日です。

 今日このミサの後に、いつも新年に行っている、踏み絵に対して行われた罪の償いの式をする事を提案します。どうぞ皆さん、踏み絵に愛の接吻をなさって下さい。
 
“Confiteor tibi, Pater ,Domine coeli et terrae,quia revelasti ea parvulis.
Abscondisti prudentibus et sapientibus et revelasti ea parvulis.”

「天と地の聖父よ、私は御身に感謝します。何故ならば、あなたはこの事を、知恵ある者や世の賢い者には隠し、小さな者たちに教えて下さったからです。」

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 愛する兄弟の皆さん、今日福音でイエズス様は、御自分の福音、御自分の教えは、「小さな者たちに表されたものだ」という事を仰っています。この福音の、一番のイエズス様の福音に倣おうと、イエズス様に倣おうと、多くの聖人たちが努力してきました。例えば今日の聖パウロは隠遁者となって、砂漠でたった一人で、113歳になるまで、お祈りと、苦行と、断食の生活をして、イエズス様に倣おうとしてきました。

 ところで、イエズス様に倣う為の、一番の、イエズス様に近付く為の一番の近道があります。それは、マリア様です。マリア様に倣う事です。「マリア様を愛する、マリア様を敬う」という事の一番のやり方があります。それは、「イエズス様の聖心を私たちが頂く」という事です。

 では、今日は、「イエズス様の聖心をいただく」という事は、一体結局何を意味するのか?イエズス様の聖心を頂いて、マリア様を愛する、という事はどうしたら良いのか?第3番目に、イエズス様の聖心を頂いてマリア様を愛する、という事をすると、どんな、どんな変化が私たちに起こるのか?色々、色々な事が起こるかもしれませんけれども、特に今日はその2つをみて、最後に、私たちは何か遷善の決心を立てる事に致しましょう。

 では、マリア様の、マリア様を愛する、という事がよくできる為に、イエズス様の聖心を頂く、という事はどういう事でしょうか?これは、すなわち、「イエズス様の心を心とする」「イエズス・キリストを着る」「イエズス・キリストが私たちに於いて生きている。もはや生きるのは私ではなく、キリストが生きる」というその事なのです。イエズス様が一番大切にして、イエズス様が一番心にして、イエズス様が一番一生涯をかけて、その最も多くの時間をかけてやろうとした事を、私たちもする、イエズス様のやっていたその通りを、私たちもする、という事です。これが、イエズス様の心を頂いて、マリア様を愛する、という事です。つまり、「キリストにますます一致する」「イエズス様と瓜二つになる」「イエズス様化する」という意味です。

 では、イエズス様の心を頂いてマリア様を愛して、イエズス様のようにますますなるには、どうしたら良いのでしょうか?

 これは、特別の御恵みなのです。これは、知恵ある者や賢い学者たちには隠されていて、小さな者にのみ与えられる、特別の御恵みです。

 でも、イエズス様はこれを望んでいます。私たちがイエズス様の真似をする事を望んでいます。ですから、このお恵みを私たちは求めなければなりません。祈って求めなければなりません。何故かというと、イエズス様はそれを望んでいるからです、「祈れ、さらば与えられん。叩け、さらば開かれん。」

 私たちは、「イエズス様の心を下さい」と、いつも、毎日、頼まなければなりません。

 もしも私たちが、「きっとイエズス様は、そういう事を頼んでも、もしかしたらくれないかもしれない。」という事は、それはイエズス様はとても悲しく思われる事です。何故かというと、イエズス様は私たちが同じ心を持つ事を望んでおられるからです。

 ですから、私たちは毎日お祈りしなければなりません。特に勧められているのが、御聖体拝領の時に、イエズス様を私たちが受けた時に、その時こそ、「チャンスだ。」と、狙って、「私たちの心にイエズス様の心が来ますように。イエズスス様の心を以って、私たちがマリア様を愛する事ができるように。」と、祈る事です。毎日の黙想の時にも、マリア様を愛する心を、イエズス様に乞い願う事です。

 では第3に、もしもそういう風に、イエズス様にお願いして、イエズス様の心を私たちのものとしたら、私たちにはどんな変化が起こるでしょうか?

 イエズス様の御生涯をよくみると、特に2つの点が輝いています。1つは、「イエズス様がマリア様に対して従順であった」という事です。マリア様に必ず従っていて、マリア様に依存していた、という事です。他の言葉で言うと、「マリア様に自分を委ねていた、預けていた、奉献していた。」「イエズス様は、マリア様のものと全くなりきっていた」という事です。福音の中には、それが3つのラテン語の言葉で書かれています、「“erat subditus illis.”《イエズス様は、彼らに、服従していた》」30年間、マリア様とヨゼフ様に服従していた、という事です。

 ベトレヘムでお生まれになる時にも、エジプトに逃げて、連れて行かれて逃げて行く時にも、或いはまた、エルサレムの神殿に奉献される時にも、毎年エルサレムに登る時にも、ナザレトに行かれる時にも、いつでもイエズス様は従順でした。イエズス様は、マリア様に従順である、という事を非常に喜びとして来ました。マリア様から、「イエズスや、こうしてなさい。」と、言われた時に、「はい。」と、答えて、マリア様のお望みの通りしようとした時の、イエズス様の喜びはどれほど大きかった事でしょうか。マリア様をお喜ばせる事ができる、というのは、イエズス様にとってどれほどの慰めだったでしょうか。

 イエズス様は、マリア様のお話しをよく聞いて、マリア様の言葉を、マリア様の望みを、全て叶えようといつも思っていました。小さな時から、30歳になるまで、宣教の生活を始める時まで、いつもそうでした。マリア様がイエズス様をとても尊敬するので、イエズス様もマリア様を、マリア様に倣って尊敬していました。イエズス様の話し口調、或いは行動は、マリア様そっくりでした。

 マリア様は、イエズス様がそうやって従順でなさるのを見て、その天主様の神秘、御謙遜を讃美しながら、もちろん、大きな喜びと感動と、至福の感情に満ちていたに違いありません。イエズス様が、ほんの小さなことでも、マリア様の望みを叶えてくれるのを見ると、助けてくれるのを見ると、マリア様は、どれほど大きな喜びを感じた事でしょうか。

 これが、イエズス様がなさった従順です。これが、イエズス様がいつも心の中に持っていた、従順の心です。イエズス様は私たちに、その心を与えようとしております、「いつもマリア様を喜ばせたい、マリア様に従順でありたい」という心を私たちに下さいます。

 第2に、イエズス様は、マリア様に特別の崇敬と、尊敬の念を持っていました。もちろん、マリア様は、イエズス様のお母様で、天主聖父の代理者であるからもちろんですけれども、マリア様にイエズス様は、特別の尊敬の念として、特別の特権も与えられました。無原罪の御孕り、全ての不完全から逃れていた事、或いは被昇天、或いはマリア様の、マリア様がいつもイエズス様の側に居て、マリア様と共に、イエズス様の贖いの業をする、という特権、等々。

 マリア様は、聖エリザベトに、「我が魂は主を崇め、我が霊魂は主を仰ぎ奉る。全ての世の人々は、世々代々、私を幸せな者と呼ぶ事でしょう。」と、予言されました。この予言は現実になっています。イエズス様の聖名によって、イエズス様の御前に於いて、カトリック教会は、マリア様を讃えて尊敬し、イエズス様の心を以って、イエズス様の神秘体として、マリア様をできるだけ讃えようとしています。

 では、私たちは、どうしたら、どのような遷善の決心を取ったら良いでしょうか?私たちは2つあります。

 まず1つは、イエズス様の心を頂く事ができるように祈らなければなりません。これは超自然の御恵みだからです。

 第2に、お祈りをして、超自然のお祈りをして、「超自然だからお祈りだけで良いんだ。知らない、あとは知らない。」のではなくて、その後に、イエズス様の心を以って、私たちもマリア様を、マリア様に従順であり、マリア様を尊敬するようにしなければなりません。イエズス様の真似をして、イエズス様の心を以って、マリア様に従順であるように。特に私たちが、日常の義務をマリア様に従順であるが為に、イエズス様の心を以って、果たす事ができるように。

 私たちの日常の義務は、時々単純であったり、時々それほど華々しいものでなかったり、それほど、「何かこの世の為になるのかなぁ?」とも思われるような事だったり、或いは、本当の単純な手作業だったりします。或いは、辛い事だったり、或いは自分が受けた、自分から選んだものではない、与えられた十字架であったり、或いは、悪意から来る十字架や苦しみだったりするかもしれません。

 しかし私たちは、そのような日常の義務と務めを、マリア様への従順を以って、お捧げ致しましょう。イエズス様の心により、従順である為に、お捧げ致しましょう。

 また、その努力のもう1つは、マリア様を崇敬する事です。マリア様に、できるだけの敬意と、尊敬を払う事に致しましょう。マリア様をお愛しして、できる限り、私たちの力の及ぶ限り、マリア様が愛されて、マリア様が崇敬されるように、より多くの人が、マリア様を知り、愛し、崇敬する事ができるように、マリア様を尊ぶ事ができるように、努力致しましょう。お祈りと努力を致しましょう。マリア様を辱める、或いはマリア様を傷付けるような、悲しめる様な事をする人々に代わって、私たちがその罪の償いを致しましょう。そうする事によって、私たちはイエズス様の心をますます自分の心とする事ができます。そうする事によってますます、私たちが、「イエズス化」する事ができます。私たちはますます、イエズス様が最も生涯でなさりたかった、その時間を使った、そのものを実現する事ができます。

 これこそが、マリア様が私たちに、こうやって私たちの中に於いて形成しようとしている、私たちによって実現を求めている事なのです。ますます私たちが、「イエズス様のようになる」という事です。

 1月13日は、一昨日は、ファチマの日でした。ですから特に、ファチマのマリア様にお祈りして、イエズス様の心を私たちが頂いて、マリア様をお愛しする事ができるように、お祈り致しましょう。

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
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命の掟、十戒。「第一戒について(第一部)」:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

2016年01月23日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 レネー神父様が1月11日(月)にしてくださった、「第一戒について」についてのお説教をご紹介いたします。

 第2回目の11日は、「第一戒」についてです。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年1月11日―大阪 お説教「第一戒について(第一部)」


親愛なる兄弟の皆さん、

 私たちが前回見たのは、天主の掟が天国への道であること、また、この掟は本質的に、私たちの主イエズス・キリストに倣うことにあり、その命を生きることにあり、あるいはむしろ主が私たちのうちに生きておられ、私たちの中で主の徳を継続させてくださることにあるということです。永遠の命に到達するためには、十戒を守ることが必要です。しかし、十戒自体が「命の掟」なのです。

天主は生きているお方であり、すべての命の源です。さて、天主の命は動物の命、感覚的な命ではなく、むしろ至高の霊的な命です。天主の命は本質的には何でしょうか? 天主は純粋な霊、至高の知性と意志です。天主の命は、天主ご自身である至高の真理を知る命であり、また、これも天主ご自身であるまことの無限の善を愛する命です。天主の命は観想的な命です。天主は非常に偉大であるため、非常に完全であるため、被造物の知性では天主が何者であるかを適切に表現することができません。最も偉大な科学者でも、最も偉大な神学者でも、最も高貴なセラフィムやケルビムでさえ、天におられる童貞聖マリアでさえできないのです。天主のみが、ご自分が何者であるかを適切に言うことがおできになります。ですから、天主は永遠のみ言葉によって、ご自分が何者であるかを言われます。「初めにみ言葉があった、み言葉は天主と共にあった、み言葉は天主であった」(ヨハネ1章1節)。この天主のみ言葉は「愛を呼吸するみ言葉」であると聖トマス・アクィナスは言います。御父と御子は共に、愛の霊、すべてのものを超えた天主の愛、天主のためのすべてのものの愛である聖霊を「呼吸する」のです。永遠において御父からそのみ言葉である御子が生まれ、御父と御子は共に共通の愛の霊、聖霊を呼吸するのです。これが天主の永遠の命なのです! それを見ることを許された聖人たちは、この最も驚くべき黙想において永遠に、うっとりとして心を奪われているのです! 「永遠の命とは、唯一のまことの天主であるあなたと、あなたの遣わされたイエズス・キリストを知ることであります」(ヨハネ17章3節)。「私たちは天主に似た者になることを知っている。私たちは天主をそのまま見るであろうから」(ヨハネ第一3章2節)。

このように、イエズスが私たちのうちに生き始められるとき、主がなさる最初のことは私たちをして、完全に御父のために生きるように、天主の神殿として完全に天主のために生きるようにさせることです。ですから、これが第一戒なのです。天主は「アルファでありオメガであり、最初の者であり最後の者であり、初めであり終わりである」(黙示録22章13節)。天主は私たちの生活において第一の場所に値するお方であり、私たちの最終的な目的です。天主は私たちの心において第一の場所に値するお方であり、第二の場所に置くべきではありません。私たちは、自分自身を含め、すべてのものと比べてさえも、天主を優先しなければなりません。天主は私たちのうちで統治なさらなければなりません。「み国の来らんことを! み旨の天に行わるるごとく、地にも行われんことを!」(マテオ6章10節)。被造物に最終的な目的という価値を与えることは一種の偶像崇拝であり、第一戒で厳しく禁じられています。多くの人々が「私は殺さない、盗まない。だから私は良い人間だ…」と思っていますが、その最終的な目的は天主に置かれていません。彼らは富や楽しみ、その他造られたものである目標を追求しています。これはまさに第一戒に反する罪です。彼らは自分たちの生活において、天主に第一の場所を提供していないのです。彼らは「金の子牛を崇拝」しており、つまり唯一のまことの天主よりもむしろ、自分自身を崇拝しているのです。

さて、私たちに対する天主の統治は、第一に内的なものです。私たちの知性を統治すること、私たちの意志を統治することです。天主は私たちの知性を信仰の徳によって統治なさいます。つまり、私たちが、私たちの主イエズス・キリストにおいて自ら啓示なさった至高の真理として、天主に忠実を尽くすということです。天主は、私たちの意志を、希望と愛の徳によって統治なさいます。つまり私たちが、すべてに超えて天主を愛し、天主のために他のすべてのものを愛すということです。このように、これらは第一戒によって課された最初の二つの義務であるのです。まことの信仰、カトリック信仰に忠実をつくす義務、そしてすべてに超えて天主を愛する義務です。ここにおいて、霊的な命、まことの信仰と愛によって、いとも聖なる三位一体を愛する観想の命があるのです。

現代世界の多くの人々は、天主は私たちが信じていることに無関心だと思っており、特に私たちが天主について信じていることにさえ無関心だと思っています。そのような「神」は、まことの神、天主ではありません。まことの天主は、すべての真理、とりわけ被造物の真理をご存じである至高の知性でなければならず、自分自身をご存じです。天主がご自分の秘密を人間に啓示され、ご自身のことを話されるとき、天主が話されたことを私たちが信じるか信じないかについて、天主は無関心ではいらっしゃいません。天主は私たちに、ご自分が話されたことを信じるよう望んでおられます。天主は、ご自分が話されたことをすべての人間が信じるよう望んでおられるのです。天主を信じようとしない人々がいるからといって、天主の善さが少なくなるというのではなく、私たちが天主を信じようとしないのは、私たちにとって悪いことなのです。なぜなら、そのとき私たちは闇の中に、真理について無知の中にいるからです。中には、すでに知られている真理を拒否する状態(これは聖霊に対する罪です)にさえいる人々もいます。天主は私たちを愛しておられるのですから、天主は私たちが無知のままでいることをお望みではなく、むしろ天主は「すべての人が救われて真理を深く知ることを望まれる」(ティモテオ前2章4節)のです。真理は天主が啓示されたもので、天主がご自分の教会に託されたものであり、天主は信仰というその「委ねられたよいもの」(ティモテオ後1章14節参照)を教会が保存するのを助けてくださるのです。天主の御子として私たちの主イエズス・キリストは、啓示を完成されました。主が啓示されたのち、聖ヨハネの黙示録を含めた主の啓示されたものには、誰も付け加えることはできません。「信仰の遺産(委ねられたもの)」は、最後の使徒である聖ヨハネの死によって閉じられました。すべての人は、それを信じる義務があるのです。

でもこれは、聖書の一言一句を誰もが暗記する必要があるという意味ではありません。そうではなく、「教会が教えること」を信じれば、また聖三位一体の神秘、ご托身の神秘、ご復活の神秘をはっきりと知れば、私たちは救いに必要な信仰を持っている、ということです。同様に旧約においては、民は「モーゼと預言者の信仰を持っている」ことで十分でした。さらにアブラハム以前においてさえ、人々は天主がアダムに啓示され、「女のすえ」としての救い主についての知識を含む「原始的啓示」として伝えられてきたことを信じれば十分でした。善意の人々に対しては、天主は、必要なら少なくとも天使たちの働きを通じて、啓示の本質的な部分について知るようにしてくださるでしょう。しかし通常これは、宣教師や、よきカトリック信者のあかしを通じて行われます。啓示された天主の権威のゆえに天主が啓示されたすべてのことを信じること、これが信仰の徳です。まことの信仰は救いに必要なのです。「信仰がなければ天主の嘉されることはできない」(ヘブライ11章6節)。

このように、信仰に反する罪は第一戒に反する罪です。信仰に反する第一の罪は異端です。すなわち、啓示の中で自らが望むものを選び取ることです。つまり、自分の判断を、私たちに教えるべくキリストによって指名された権威であるカトリック教会の権威の上に置くことです。ただ、無知は異端ではありませんから注意してください。教えを自分勝手に選ぶことはしないものの、説教者によって欺かれる人々がいます。そのような場合、まことの信仰についての知識が欠如しているだけであり、公式な異端の罪ではありません。このことは、カトリック教会の外の異端のセクトの中で生まれた人や、異教からそのようなセクトに改宗した人にしばしば起こっています。しかしながら、彼らが真剣に天主を探し求めているなら、真理を探し求めているなら、彼らは遅かれ早かれ、このセクトはキリストによって立てられた教会ではないという結論に到達するでしょう。ニューマン枢機卿のような人々にとっては、そのように真理を探し求めることに長い時間がかかるため、彼らに対して私たちは忍耐強くあるべきです。でも、その一方で、彼らが真理を見いだすよう助け、唯一のまことの教会へ移るよう彼らを励ますべきです。

信仰に反する第二の罪は背教です。これは信仰のすべてを拒否することです。真の信仰を知ったのちには、それを拒否すべき良き理由はあり得ません。なぜなら、真理を拒否すべき良き理由などあり得るはずがないからです! 悪しき司祭たちのスキャンダルは彼らの極めて重い責任ですが、それでさえも、私たちの主イエズス・キリストを拒否すべき理由にはなり得ません。これらの悪しき司祭たちがいるにもかかわらず主に忠実にとどまる人々に、主は永遠の報いを与える主人でい続けられるのです。不道徳な生き方をする悪しき司祭たちに従ってはなりません。悪しき司祭たちが新奇なことなどを教えるとき、彼らに従ってはなりません。そうではなく、これら悪しき司祭たちや聖職者たちがいるにもかかわらず、私たちの主イエズス・キリストに忠実でなければなりません。背教は極めて重い罪です。天主を完全に拒否することなのですから。その原因は、地上のものへの愛着と傲慢です。聖トマス・アクィナスは言います。「不信仰という罪は傲慢から起こり、傲慢を通して人は自分の知性を、信仰の支配に服従させること、教父たちの正しい解釈に服従させることを拒むのである」。

さて、信仰は霊的な命における一番最初の徳であり、とにかく、ほかのあらゆる徳の根本ですから、信仰を持っていない人々はキリストの命のうちに生きることができません。ですから、異端と背教が非常に重い罪であるだけでなく、信仰について無知であること自体が人を大きく傷つけるものですから、私たちは、このように主から遠く離れている人々をあわれみ、彼らを信仰の光のもとにもたらすようにすべきです。それは、信仰を宣教する熱意、霊魂たちを主に回心させようとする宣教の熱意が、信仰というこの偉大なる天の宝をその人々と分かち合うことによってです。

信仰の偉大な模範は童貞聖マリア、「Virgo Fidelis-いとも忠実なる童貞(信実なる童貞)」です。聖エリザベトは聖母に声を上げて言いました。「ああ幸せなこと、主から言われたことの実現を信じた方は」(ルカ1章45節)。聖母は、良き天使を信じた忠実な童貞であり、「その実を食べると死ぬことになる」と言われた天主のみ言葉を信じず、反対に蛇の言葉を信じた忠実ならざる童貞エバがしでかしたことを償われたのです。聖母は信仰と黙想の美しい模範です。聖母が幼きイエズスをご覧になるときはいつでも、「彼はいと高き者の子と言われます」という天使の言葉を思い出され、イエズスの神性に対する信仰の祈りをされ、十字架の下に至るまで主に忠実であり、そこに至っても、主は「いと高き者の子」であると信じ続けておられたのです。

まことの信仰は、霊的な命の第一の徳です。これによって、天主のみ言葉であるイエズス・キリストは私たちのうちにとどまり、私たちを照らしてくださいます。しかし、それはまた天主が私たちのために用意された目標である永遠の至福に、私たちの目を開かせてくれます。そして、私たちがその目標へ到達できるよう、天主は私たちを非常に気にかけてくださるので、私たちを罪から救うため、私たちに天国へ行くための力を与えるため、この世に御独り子を送られた、ということを私たちに確信させてくれます。そのため、信仰は人を希望へと導きます。天主を望むこと、天主の至福直観を待ち望むこと、永遠の命を待ち望むこと、そして私たちの主イエズス・キリストの恩寵によって私たちがそこへ到達することを確信することです。希望は、第二の対神徳です。希望はすべて天主へと方向づけられています。「サルヴェ・レジーナ」で歌うように、私たちはここ地上で、この「涙の谷」で「逐謫(ちくたく)の身」であるかのようです。私たちがここ地上に永遠にいるかのように、そこに落ち着いてしまうのは、いかに間違っていることでしょうか! 私たちは、ただほんの一時的にここ地上にいるだけなのですから。私たちの地上での全生涯は、天国への準備であるべきであり、すべてが天国へと方向づけられているべきです。希望の徳を通じて、私たちの主イエズス・キリストは、美しい方法で私たちの心を主へと引き寄せてくださいます。

希望に反する第一の罪は失望です。これがしばしば起こるのは、私たちが善を行う自分の力に依り頼むからです。そして、うまくいかず、あきらめるのです。また、これやそれやの誘惑を克服できるよう、熱心に祈って天主の恩寵を願い求めるのですが、代価を払ったり、自分を捨てたり、これやそれやの地上の人間や物に対する愛着を捨てたりすることに気乗りしません。ですから、この気乗りしないがために誘惑を克服するのがうまくいかないのです。実際、私たちの主は言われました。「あなたたちも自分の一切の持ち物を放棄する者にならなくては、私の弟子にはなれぬ」(ルカ14章33節)。天主は私たちに、永遠の命を、天の至福を、天主の至福直観という幸福をくださろうとします。しかし天主は、私たちにその代価を払うよう、十字架を担うよう、自分を捨てるよう強く求められます。私たちが天主に対して「はい」と言うとき、制限があったり条件があったりしてはなりません。天主の恩寵に対して、すべてをお委ねしなければなりません。そうすれば私たちは、天国へと私たちを導く天主の恩寵の効力を、天主の助けの効力を実感できるのです。しかし、天主に完全に自分をお委ねするのが気乗りしないなら、そういう人は自分が誘惑に弱いことを感じ、簡単に罪を犯し、そのため失望に襲われるのです。聖アウグスティヌスは、私たちの主を優れた医者にたとえています。しかし病気の人は、この医者の処方箋に対して素直でなければならず、そうでなければ癒やされません。さて、失望はそれ自体で大変重い罪です。さらに、それが危険なのは、霊魂をあらゆる種類の誘惑に任せてしまうように導き、そしてあらゆる悪徳に、しばしば品位のない悪徳にその身を投じてしまうからです。そのための薬は、心を挙げて私たちの主イエズス・キリストに立ち戻ること、天主に立ち戻ることです。そうすれば天主は、その霊魂を清め、癒やしてくださいます。

希望に対する第二の罪は僭越(思い上がり)です。これは、希望の行き過ぎではなく(私たちは天主を信頼し過ぎということはなく、天主の助けに依頼し過ぎということもありません)、希望を歪めているのです。私たちを導いて罪から遠ざけてくださる私たちの主イエズス・キリストの恩寵に素直である代わりに、僭越は、罪から離れる必要なしに、そのままでも天国へ行くことができる、と言い張るのです! この僭越の罪はプロテスタントに典型的です。彼らは自分たちが「すでに救われている」と考えています。ほかにすべきことは何もなく、掟を守る必要もなく、何をしようとも天国へ行くことを確信しているかのようです。この僭越の近代主義的な変種は、「天主の愛は無条件である」ため、天主は人が行うことが何であれ常にお赦しになると主張します。これは希望を歪めることであり、天主の聖性をまったく尊重していません。天主は、ご自分が聖であるがゆえに私たちも聖であるようお望みだからです。このように、私たちの主イエズス・キリストの恩寵に依り頼む代わりに、霊魂における恩寵の働きに反対したり、私たちの主イエズス・キリストの恩寵に抵抗したりするなど、僭越は希望の行き過ぎというより、むしろまことの希望から離れてしまうことです。これもまた、大変重い罪であり、さらにまた、ほかの多くの罪に導いてしまうのです。

希望の偉大な模範は、再び童貞聖マリアです。特に十字架の下において、使徒たちが主を捨てて逃げてしまったとき、聖母は常に忠実で、主の復活を希望し続けておられました。これが、聖母が十字架の下に最初におられたにもかかわらず、主に塗るための油を買いに行く女たちの中におられなかった理由なのです。聖母は主が復活されることをご存じであり、確信しておられたのです!

永遠の至福の希望は、霊魂を愛の徳へと導きます。愛の徳は、霊的な命の最高の徳であり、天主と一致する徳です。「天主は愛である。愛を持つ者は天主にとどまり、天主は彼にとどまられる」(ヨハネ第一4章16節)。愛によって私たちは、天主のために天主を愛し、詩篇作者が言うように、天主を喜びとします。「私は主において喜ぶ」(詩編103章34節)。「主を喜びとすれば、主はあなたの望みをかなえられる」(詩篇36章4節)。

愛は、第一の最大の掟の対象です。ある日、一人の律法学士がイエズスのところに来て、彼に尋ねました。「『先生、律法のうちどの掟が一番大切ですか』。イエズスは、『〈すべての心、すべての霊、すべての知恵をあげて、主なる天主を愛せよ〉。これが第一の最大の掟である。第二のもこれと似ている、〈隣人を自分と同じように愛せよ〉。すべての律法と預言者はこの二つの掟による』と答えられた」(マテオ22章36-40節)。

信仰は希望へと導きます。希望は愛へと導きます。信仰、希望、愛は三つの対神徳です。これらの徳によって、私たちは、ここ地上において、いとも聖なる三位一体を黙想し、天主の真理を愛し、天主の光において喜び始めることができるのです。聖パウロは私たちに言います。「今あるものは信仰と希望と愛の三つである。そのうちで最も偉大なものは愛である」(コリント前13章13節)。実際、愛がなければ、信仰と希望だけでは天国へ行くのに十分ではありません。同じ聖パウロが私たちに言います。「たとい私が山を動かすほどの信仰を持っていても、愛がなければ無に等しい」(コリント前13章2節)。自然的な善業でさえ、愛がなければ救いに役立ちません。「たとい私がすべての財を施し、この体を焼かれるために与えても、愛がなければ益するところはない」(コリント前13章3節)。

愛の徳は、驚くべき徳です。この徳は、天主のために、私たちにすべてに超えて天主のために天主を愛させるのです。これは、私たちのうちにある聖霊の偉大な賜物です。「私たちに与えられた聖霊によって、この心に天主の愛が注がれたからである」(ローマ5章5節)。聖霊は霊魂を変えてしまうのです。聖霊は「聖化する方」であり、(天主の)愛によって、すべてが愛に変えられ、毎日の業が、芳しい香りの中で天主に捧げられるのです。「実に愛される子らとして、天主に倣う者であれ。私たちを愛し、私たちのために芳しい香りのいけにえとして天主にご自身を渡されたキリストの模範に従って、愛のうちに歩め」(エフェゾ5章1-2節)。このように、愛は功徳の源であり、最終的に愛は永遠の報いに値するのです。なぜなら、愛から行われたことは、天主を大変お喜ばせするからです。

愛の徳は霊魂を導いて祈らせ、黙想させます。これは霊的な命の中心です。これによって、まことにイエズスは私たちのうちに生きられるのです。私たちは「聖霊によって動かされ」、そのため、まことに「天主の子」(ローマ8章14節)であるのです。愛の徳は、すべての掟を守るように導きます。「あなたたちは私を愛するなら、私の掟を守るだろう」(ヨハネ14章15節)。掟を守ることは愛のために必要なことです。「私の掟を保ち、それを守る者こそ、私を愛する者である。私を愛する者は父にも愛され、私もその人を愛して自分を現す」(ヨハネ14章21節)。「私を愛する者は私の言葉を守る。また父もその者を愛される。そして私たちはその人のところに行ってそこに住む」(ヨハネ14章23節)。

天主に対する愛は、天主のために、隣人への愛を要求されます。「天主を愛する者は自分の兄弟も愛せよ。これは私たちが天主から受けた掟である」(ヨハネ第一4章21節)。愛によって、私たちは隣人のために天主を望み、私たちの主イエズス・キリストがその隣人を統治するよう望み、隣人のために永遠の至福を望むのです。聖トマス・アクィナスは、次のように要約します。私たちは「ut in Deo sint - 彼らが天主のうちにいる」ように望む、と。実際、「よし全世界をもうけても、命を失えば何の役に立つだろう。また、人は命の代わりに何を与えられよう」(マテオ16章26節)。ですから、隣人が私たちの主イエズス・キリストを持っていないならば、彼らが自分の霊魂に天主を所有していないならば、もし私たちが彼らに全世界を与えたとしても、それは彼らに何の利益ももたらさないでしょう。

それゆえに、隣人への愛は、まったく自己中心ではありません。それどころか、私たちの主イエズス・キリストの偉大な模範に従って、隣人の救いのために喜んで自分を犠牲として捧げるのです。それゆえに、「愛は寛容で、愛は慈悲に富む。愛はねたまず、誇らず、高ぶらぬ。非礼をせず、自分の利を求めず、憤らず、悪を気にせず、不正を喜ばず、真理を喜び、すべてをゆるし、すべてを信じ、すべてを希望し、すべてを耐え忍ぶ」(コリント前13章4-7節)のです。

大罪ならどんなものであれ、愛に反し、愛とは相いれません。しかし、この偉大な徳に直接反する罪があります。天主を憎むことは最悪です。しかし、隣人を憎むことはずっと普通に見られることです。でも、明らかに愛とは相いれません。

第一戒が要求する心の中の義務があります。それは、まさにの掟、私たちの主イエズスが私たちのうちに生きる、その命の掟です。永遠の命の始まりである霊的な命の掟です。地上においては信仰、希望、愛の命が、天国においては永遠の命へと花を咲かせるのです。その霊的な命の食べ物は、ご聖体です。この最も優れた秘跡を通して、私たちの主イエズス・キリストは、ご自身の御体、御血、ご霊魂、ご神性を私たちに与えてくださるのです。主は私たちのうちに、もっともっと生きるため来られます。そうすれば、私たちは主のうちに、もっともっと生きるのです。「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、私に宿り、私もまたその者のうちに宿る」(ヨハネ6章56節)。「天主は愛である。愛を持つ者は天主にとどまり、天主は彼にとどまられる」(ヨハネ第一4章16節)。「私たちに対する天主の愛はここに現れた。すなわち、天主はその御独り子を世に遣わされた。それは私たちを御子によって生かすためである」(ヨハネ第一4章9節)。

童貞聖マリアがそうなさったように、天主がどれほど私たちを気にかけ、私たちを愛し、私たちが完全に天主のために生きることを望まれているかを私たちが実感できるよう、マリア様が私たちをお助けくださいますように。そして、私たちが天国にいくことができますように。アーメン。
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聖ピオ十世会、聖伝のミサの報告 ブログ Credidimus Caritati の開設10周年 

2016年01月21日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今日は、ブログ Credidimus Caritati の開設10周年です!2006年の1月21日の東京は、雪が降っていました。とても美しい雪でした。

 今月の1月18日(月)も、夜半から東京に雪が降り積もり、朝7時からのミサに与りたくても与れない方々がいらっしゃいました。それでも六名の方々が早朝ミサに与りお恵みをお受けになりました!

 1月15日、16日には大阪で、17日と18日には東京で聖伝のミサを捧げることができたことを天主様に感謝します。

 次のようなご報告をいただいておりますので、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介します。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

御ミサの報告をお送りいたします。

1月15日(金)最初の隠修者聖パウロ のミサには14名が、
1月16日(土)教皇殉教者聖マルチェロ のミサには16名の方々が御ミサに与る御恵みを頂きました。デオ・グラチアス!

ミサの後には毎年恒例、禁教令時代の絵踏みの償いのとして、「踏絵への接吻」をいたしました。

お説教でイエズス様の聖心が私達を愛して私達と一致したいと望んでくださっているにも関わらず、私達のうちにあるイエズス様に反するものつまり、罪がその御恵みを拒絶してしまっていること、その罪、欠点を真剣に取り去り、克服する事によってイエズス様と完全に一致する事が出来るようになると伺いました。私は自分の弱い部分をずいぶん昔から気づいているのに、今だに克服できていないことがあることを深く反省し、恥ずかしくなりました。神父様がおっしゃるようにイエズス様を完全にお受けする事が出来るよう『真剣に』毎日、自分の欠点を克服できるよう、善きお母様であるマリア様に必死で助けて頂く決心をいたしました。


16日の御ミサあとには公教要理がありました。対神徳のひとつ「信仰」について深く勉強しました。

●信仰は、唯一の真理である天主を対象とし、その動機も天主の権威に基づき、天主が述べられたが故に信じなければならない、天主からくる超自然の徳である。

●人間には自由意志が与えられており、自分の意志で天主を信じることを選ぶときそれは功徳になり、逆に言えば信仰の徳を与えるために天主は私達に自由をあたえられたとなる。

●信仰には「完全な信仰」(fides formata)と、「不完全な信仰」(fides informis) とがあり、どちらもまことの天主を信じているが、「完全な信仰」が真理を知り、その掟に従い、善を行い聖性の状態であるのに対し、「不完全な信仰」は頭の中で知識的に天主が真の天主であると知ってはいるが、罪の状態で聖性の状態ではなく、信仰の徳ではない。

●信仰が深いとか浅いとかどのようにはかるのかというと、聖トマス・アクイナスによれば、人は「知性」と「意志」の両方をもって信仰の大小をはかる。つまり天主の神秘をよく知り、意志を持って善行をおこなうこと両方を加味して信仰が深いかどうかをはかっているのです。(聖母マリア様ほど信仰が深い方はいらっしゃらないというのは、マリア様ほど天主の神秘をよくご存知で、ご自分の意志を聖霊と一致されて聖霊のお望みのまま全てを善く行われたという意味になるだろう。)

●信仰を得るには
1、信じるべき事柄を提示される恵みと、
2、それに同意する恵みの二つのお恵みが必要である。
●信仰を持つと、1、天主に対する畏れ(畏敬)が生じ、2心が浄められる。


【報告】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 14人(内、子供1人)
女: 27人(内、子供2人)
計: 41人(内、子供3人)

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聖ピオ十世会の司祭からゆるしの秘跡を有効かつ合法なものとすることを認めます【教皇フランシスコ】

2016年01月21日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
聖ピオ十世会の司牧する教会に参加することを
選んでいる信者の皆さん(…)
聖ピオ十世会の司祭からゆるしの秘跡を
有効かつ合法なものとすることを認めます。
【教皇フランシスコ】


アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 フランシスコ教皇様が、特に聖ピオ十世会について、「彼らはよい信仰を持ち、秘跡を執行しています」、「聖ピオ十世会の司祭からゆるしの秘跡を受けた信者の罪のゆるしを、有効かつ合法なものとすることを認めます」と述べています。

 御聖体のうちに真にましまし給うイエズス・キリストを礼拝するために、多くのカトリック信徒の兄弟姉妹を聖伝のミサに招待いたします。

 フランシスコ教皇様は、さまざまな理由により、聖ピオ十世会の司祭が司牧する教会に参加することを選んでいる信者の皆さんのことを考えておられます。

 御聖体の前で突っ立って、あたかも単なる普通のパンであるかのように手で聖体拝領をすることは、私たちにはできません。イエズス・キリストをふさわしく礼拝し、賛美し、感謝し、懇願するために、私たちは主の御前にひざまづかなければなりません。

 天主が人となって、さらに小さな幼子となって私たちのうちに住み給うたのに、私たちは突っ立ったままでいることができるでしょうか?

 詳しくは、フランシスコ教皇様の、「いつくしみの特別聖年」に際して与えられる特別免償に関する書簡の日本語訳がカトリック教会中央協議会のサイトで公開されていますので、そこでお読みください。

「最後に、聖ピオ十世会の司祭が司牧する教会に、さまざまな理由により参加することを選んでいる信者の皆さんのことを考えます。いつくしみの特別聖年は誰も除外しません。彼らはよい信仰を持ち、秘跡を執行していますが、司牧的な観点から見て不安定な状況にあると、さまざまな地域の司教がわたしに報告してくれました。わたしはこの会の司祭や上長との十全な交わりを回復するための解決策が、近い将来、見いだされると信じています。一方、それらの信者の善に応える必要があることに促され、わたしは、特別な配慮として、いつくしみの特別聖年の間に聖ピオ十世会の司祭からゆるしの秘跡を受けた信者の罪のゆるしを、有効かつ合法なものとすることを認めます。」

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【参考資料:韓国語】
자비의 특별 희년 대사에 관한 프란치스코 교황 성하의 서한

마지막으로 고려할 사항은 비오 10세 형제회 사제들이 직무를 수행하고 있는 성당의 여러 가지 사정이 있는 신자들에 관한 것입니다. 이 자비의 희년은 그 누구도 배제하지 않습니다. 여러 지역에 있는 형제 주교님들께서 그들이 사목적으로 어려운 상황 속에서도 지키고 있는 깊은 신앙심과 성사 생활의 실천에 대하여 저에게 말씀해 주셨습니다. 저는 머지않아 비오 10세 형제회의 사제들과 장상들과 완전한 친교를 회복할 수 있는 해결책을 찾을 수 있을 것이라고 믿습니다. 그 사이에 이러한 신자들의 선익을 위하여, 저의 권한으로, 비오 10세 형제회의 사제들에게 고해성사를 보러 가는 이들은 자비의 희년 동안 유효하고 합법적인 사죄를 받을 것이라고 결정합니다.

【参考資料:中国語 バチカンのウェブ・サイトより】
http://w2.vatican.va/content/francesco/zh_tw/letters/2015/documents/papa-francesco_20150901_lettera-indulgenza-giubileo-misericordia.pdf
最後,我要特別考慮一些信徒們,他們因為各種原因,選擇前往部分聖堂,參加由聖庇護十世司鐸兄弟會的司鐸所舉行的各項禮儀。本次慈悲禧年,不排斥任何人。來自不同的地區的幾位主教弟兄們,讓我知悉他們的善意和施行聖事的良好作法,儘管從牧靈的角度上,他們身處在一個並非理想的情況。我希望在不久的將來,我們可以尋得方法,和聖庇護十世司鐸兄弟會的長上,恢復完全的共融。但在此刻,為了該團體信徒的益處,我規定在慈悲禧年期間,那些尋求聖庇護十世司鐸兄弟會的司鐸舉行和好聖事的信徒們,將有效的及合法的獲得罪過的赦免。



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聖伝のミサにおける祭壇のお花の意味とは何か?【クレカリ10周年記念】

2016年01月21日 | 質問に答えて
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今日は、当ブログ Credidimus Caritati 開設10周年です。このことを天主様に深く感謝します。

 祭壇のお花について、ご質問をいただきました。お答えいたします。

 レデンプトール会の Joseph Wuest C.SS.R. 神父の書いた Collectio Rerum Liturgicarum によると、祝日に花束を花瓶に生けて祭壇を飾ることが命じられている【Caeremoniale Episcoporum I, caput XII, N. 12 及び 教皇ピオ六世 Auctorem Fidei 】。
 花は花瓶に趣味よく飾られ、ろうそく台の間に置かれなければならない【Caeremoniale Episcoporum I, caput XII, N. 12】。
 ただし、待降節や四旬節・受難節の聖務やミサをするとき(待降節第3主日と四旬節第4主日、聖木曜日は例外)、死者のための聖務やミサのときは、花を飾らない。

 お花の意味は、天主の祭壇を飾るために「切り取られ」て、奉献されるということです。ロウソクが自らを燃やして光と熱を出すように、お花も自分を捧げて天主に捧げられるという意味があります。私たちも、罪から切り離されて、この地上から離脱して、自分をイエズス・キリストのために与え尽くすことができますように!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

追記

Collectio Rerum Liturgicarum には、こうあります。
次の日に祭壇に花を飾ることは禁止されてはいない。幼子殉教者の祝日、祈願祭の日々、祝日の前日(vigilia)、七旬節、六旬節、五旬節の主日。【Ephemerides Liturgicae (Ius et Praxis) LII, p.169】

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私達の究極の幸せとは何であるか。「十戒」:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

2016年01月20日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

レネー神父様が1月10日(主)にしてくださった、「十戒」についてのお説教をご紹介いたします。

今年はレネー神父は、「十戒」についてシリーズでお説教をしてくださるそうです。第1回目の10日はまず「十戒」についてです。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年1月10日―大阪 お説教「十戒」



親愛なる兄弟の皆さん、

 今年は、十戒に関する一連の説教をしたいと思います。十戒の重要性を理解するために最も良いのは、私たちの主イエズス・キリストのみ言葉を聞くことです。ある日、若い男が主のところへ来て尋ねました。「『よき師よ、永遠の命を受けるために私はどんなよいことをすればよいのでしょうか?』。イエズスは、『なぜ私に、よいことについて尋ねるのか。よいお方はただ一人である。命を受けたいなら掟を守れ』と答えられた」(マテオ19章16-17節)。このように、十戒は、永遠の命に到達するためにしなければならないことを私たちに教えてくれます。

あるものは目的として私たちがそれを望み、また別のものは単に何かほかのものを得るための手段として私たちが望みます。例えば、私たちが薬を求めるのは、薬のためではなく健康のためです。私たちは健康を重要なものと考えますから、健康を回復させるために苦い薬さえすすんでのみます。健康のために手段として必要ならば、痛みを伴う外科手術さえも望みます。さて、健康それ自体も究極の目的ではありません。実際、健康であるときは、その健康を使って何をするのでしょうか? 健康は幸せの一つの条件ですが、幸せそれ自体ではありません。それでは、私たちが究極の目的として求めるものが何かありますか?

すべての人が幸せになりたいと望んでいます。すべての人の究極の目的は幸せです。しかし、幸せはどこにありますか? 幸せは単に主観的なものでしょうか? 単なるよい気分でしょうか? まったく違います。実際、誰かが皆さんにこう言ったと考えてみてください。「あなたは宝くじで大きな賞金を獲得しました」、すると皆さんは幸せと感じるかもしれません。でも、それはその人が本当のことを言ったと皆さんが思うからです。翌日、皆さんがそれは本当ではなかったと知ったなら、最初に感じた気分は台無しになり、その上、皆さんは欺かれたことに傷つくでしょう。真実に基づかない幸せは単なる夢にすぎず、石鹸の泡のようにはじけてしまいます。これは詐欺です。誰も欺かれたくはありません。それは本当の幸せではありません。私たち誰もが望むものではありません。

聖アウグスティヌスは説明します。本当に幸せになるためには、私たちは私たちの望みすべてを満足させるであろう善きものを所有する必要があり、それを私たちが所有していることを知って、それを好む必要があります。もし大きな金額を相続したとしても、それを知らなければ、まだ幸せではありません。もし何かを持っていて、それを知っていても、それを好んでいなかったら、それがあっても幸せではありません。また、自分の好むものを持っていても、それが本当によいものでないならば、この状況ではまだ幸せではありません。この最後のケースの典型的な例は、悪しき結婚です。ある人を愛し、その人と結婚しても、その人が本当によい人でないならば、大きな失望と激しい悲しみの源になります! 本当の幸せを与えるためには、本当によいものを必要とするのです。「私は自分にとって何がよくて何が悪いかを自分で決めることができる」と言うのは真実ではありません。なぜなら、私たちはもののよさをつくることができず、単に私たちが決定しただけでは、ものを私たちにとってよいものとするのに有効ではないからです。これはいろいろな意味でまったく明らかです。私たちが病気になって薬が必要な場合、単に私たちが決定しただけでは、これやそれやの製品を私たちの病気に有効な薬にするのに十分ではありません。その薬が客観的に効能があるかないかは決まっており、私たちの決定がその有効性を変化させるのではありません。それゆえに、私たちの決定はその薬が私たちにとってよいものかどうかを変化させません。私がこのことを強く主張する理由は、私たちが生きているこの時代は、多くの人々が「理想主義」によって欺かれている時代だからです。この理想主義は例えば、まるで誰もが自分の望むことを何でも考えだすことができるとか、まるで誰もが「自分自身の真理をつくる」ということです。これは確かに非常に非科学的であり、正しい哲学に反しており、最も単純な常識に反してさえいます。

すると、人はどんなものに完全な幸せを見いだすことができるでしょうか? 聖トマス・アクィナスは異なる種類の善きものを順番に調べて、完全な幸せはそのどれにも見いだし得ないことを証明します。まず、完全な幸せがお金に見いだし得ないことを証明します。お金の本質そのものによって、それは目的ではなく単なる手段です。銀行口座に大きな残高があることは、それで何かを購入することができるという以外に、何か利益をもたらすでしょうか? このように富は手段にすぎず、究極の目的ではありません。成功した人々はさらにお金を儲けるためにお金を使う方法を知っている、と言う人々がいます。しかし、それは悪循環です。この彼らが儲けた「さらに増えたお金」で、彼らは何をするのでしょうか? 彼らは、それ以上に儲けるためにそのお金を使うのでしょうか? そうしていくと、果てしなく続きます。これは悪循環です。お金は手段であってそれ自体が目的ではないということを証明しているだけです。

次に聖トマスは続けて、幸せは名誉や名声、栄光にあるのではなく、また権力にあるのでもないことを証明します。これらのものはすべて、人の外側にあるものであり、その人自身をよりよくするのではありません。さらに幸せは、究極的に体の善さや快楽にはあり得ません。なぜなら、それは人間の本質のうち、より低い部分にすぎず、霊的部分よりずっと下にあるからです。聖トマスは続けて、幸せは霊魂の善さそれ自体にもあり得ないとさえ述べます。なぜなら、これらの善さは制限されているからであり、何であれ私たちの所有するものが制限されているのなら、私たちはもっと多くを望むからです! 制限されているものは、私たちの霊魂を満足させるのに十分ではないのです。

幸せは無限の善を所有することにのみあり得るのです。そして天主のみが無限の善です。ですから、人間の幸せは、天主を所有することにのみ見いだされ得るのです! そして、天主を所有するということは永遠の至福直観にあるのです。ここにおいて、永遠の命があるのです! 天主は私たちをご自分のために造られました。天主は私たちをご自分のために創造されました。実際、私たちの主イエズス・キリストは言われました。「永遠の命とは、唯一のまことの天主であるあなたと、あなたの遣わされたイエズス・キリストを知ることであります」(ヨハネ17章3節)。「主よ、あなたは私たちをあなたのためにお造りになり、私たちの心はあなたにおいて憩うまで安らぐことはない」(聖アウグスティヌス)。

さて、私たちはどのようにすれば、天主を見いだすことができるでしょうか? どのようにすれば、天主と一緒にいる永遠の命に到達することができるでしょうか? どのようにすれば、永遠において天主を所有することができるでしょうか? 天主へ至る道は何でしょうか? それは私たちの主イエズス・キリストです! 実際、主は言われました。「私は道であり、真理であり、命である。私によらずには誰一人父のみもとには行けない」(ヨハネ14章6節)。私たちの主イエズス・キリストは御父へ至る道であり、主は天主へ至る唯一の道であって、ほかに道はありません。「法」はすべて、立法者によるいくつかの「言葉」から成っています。さて、天主のみ言葉は、まさに聖三位一体の第二のペルソナ、私たちの主イエズス・キリストです。ですから、主は永遠の法なのです。ご托身によって、霊的な永遠の法は目に見えるようになられました。聖アウグスティヌスは、それを人間の言葉と比較します。私たちが考えるとき、私たちは心の中で言葉を発しますが、誰もそれを聞くことはできません。私たちが話すとき、私たちはそれらの言葉に体を与え、物質的な方法(音波は物質の振動です)で表します。このように、ご托身になった天主のみ言葉は私たちの法です。イエズス・キリストは私たちの法なのです!

これは、私たちの主イエズス・キリストがすべてのことをなさったので、私たちには何もすることがない、という意味でしょうか? あるいは、プロテスタントが言うように、私たちは主を信じなければならないだけで、私たちは罪を犯すのを続けてもいい、ということでしょうか? まったく違います。これが意味するのは、キリスト教徒としての私たちの全生活は、私たちの主イエズス・キリストに従うことにあり、私たちの主イエズス・キリストに倣うことにあり、私たちのうちに生きているキリストにあるということです。これについては聖パウロが美しく言っています。「実に愛される子らとして、天主に倣う者であれ。私たちを愛し、私たちのために芳しい香りのいけにえとして天主にご自身を渡されたキリストの模範に従って、愛のうちに歩め」(エフェゾ5章1-2節)。「だから私は切に望む、あなたたちは私に倣う者となれ、私がキリストに倣っているように」(コリント第一4章16節、11章1節)。私たちの主イエズス・キリストご自身はこう教えられます。「私のしたとおりするようにと私は模範を示した」(ヨハネ13章15節)。また聖ペトロは言います。「キリストはあなたたちのために苦しみ、その足跡を踏ませるために模範を残されたのである」(ペトロ前2章21節)。

しかし、これは、キリストの来臨の前には、人々は天主へ至る道を、天主の法を知ることができなかったという意味でしょうか? いいえ。最初から天主は人間に、掟の本質を見いだすのに十分な理性の光をお与えになっていました。これが自然法です。しかし、罪が多くなったがゆえに、天主は自然法を思い出させるものとして、モーゼに再びこの基本的な掟、十戒をお与えになりました。次に天主はさらに加えて、メシアの来臨を準備するための儀礼的な法をお与えになり(このように、旧約のいけにえに関する教えはすべて、私たちの主イエズス・キリストの十字架上の完全ないけにえの前じるしです)、またある罪にはある罰を当てるという「裁判の法」をお与えになりました。このように、旧約には三種類の教えがあります。十戒のように道徳的な教え、儀礼的な教え、裁判上の教えです。

さて教会は、旧約の儀礼的な法は新約においてはもう有効ではないと教えています。旧約は新約の光で置き換えられた影(コロサイ2章17節、ヘブライ8章5節)のようであり、あるいは、それが表したもの自体で置き換えられた前兆(コリント第一10章6節)のようなものだからです。裁判の法は、特に一部の罪の重さに対して、指標的価値を保っています。旧約において死によって罰せられたものは大罪を表しており、それらは偶像崇拝、冒涜、殺人、姦淫などです。新約においては、ここ地上で負わせられる罰はもっとあわれみ深いものですが、これらの罪はやはり大罪であり、その罪に対して本当の償いがなされない限り、地獄での永遠の罰に値するのです。旧約の道徳の法はキリストによって廃止されたのではありません。まったく違います。むしろ道徳の法は、キリストによって、より高い基準にまで引き上げられました。私たちの主イエズス・キリストご自身が言われます。「あなたたちの正義が律法学士やファリザイ人たちのそれに優らぬ限り、決して天の国には入れぬ」(マテオ5章20節)。そして主は続けていくつかの掟を説明され、新約においてはどんなに高い聖性が要求されているかを示されます。「知ってのとおり、昔の人は『殺すな、殺す者は裁かれる』と教えられた。だが私は言う、兄弟に怒る人はみな裁きを受け、…」(るであろう)(マテオ5章21-22節)。

プロテスタントはカトリック教会の知恵を拒否しているため、これら三つの教えを区別することができなくなり、十戒を含めた旧約の律法を新約においてはもはや義務ではないものとして考えがちです。これは悪魔による大変な欺きです。悪魔は、あたかも彼らが罪を犯し続けてもよいかのように、「信仰のみ」で十分であるかのように、彼らを欺いているのです。しかし、私たちの主イエズス・キリストは非常にはっきりと言われました。「私に向かって『主よ、主よ』と言う人がみな天の国に入るのではない、天にまします父のみ旨を果たした人だけが入る。その日多くの人が私に向かって『主よ、主よ、私はあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪魔を追い出し、あなたの名によって不思議を行ったではありませんか』と言うだろう。そのとき私ははっきりと言おう、『私はいまだかつてあなたたちを知ったことがない、悪を行う者よ、私を離れ去れ』」(マテオ7章21-23節)。ですから、信仰を持つ者(すなわち『主よ、主よ』と言う人たち)が誰でも救われるのではなく、掟を実際にきちんと守り、御父のご意志を行う者だけが救われるのです。聖パウロはローマ人に対して同じことを言っています。「天主のみ前に義とされるのは、律法を聞く人ではなく律法を守る人である」(ローマ2章13節)。十戒を守るということは、基本的には愛さなければならないということです。「あなたたちは私を愛するなら私の掟を守るだろう」(ヨハネ14章15節)、また、「あなたはすべての心、すべての霊、すべての力、すべての知恵をあげて主なる天主を愛せよ」(ルカ10節27章)は、「第一の最大の掟である」(マテオ22章38節)。

これは、私たちが自分の力で「律法を守る人」になり得るという意味でしょうか? いいえ。律法を守るために私たちにはイエズス・キリストの恩寵が必要です。私たちが掟を守るから義とされるのではなく、むしろ私たちの主イエズス・キリストによって私たちが義とされるから私たちは掟を守ることができるようになるのです。言い換えれば、義化は掟を守ることに続くのではなく、掟を守ることの前に義化があるのです。天主は過去の罪をお赦しになり、私たちに与えられる聖霊によって私たちの霊魂に恩寵を注いでくださいます。そして、私たちが十戒を実際に守ることができるようにしてくださるのです。これが大変重要です。「私はぶどうの木で、あなたたちは枝である。私がその人のうちにいるように私にとどまる者は多くの実を結ぶ。私がいないとあなたたちには何一つできぬからである」(ヨハネ15章5節)。私たちの主イエズス・キリストがいないと私たちは何一つできず、永遠の命のために有益なことは何一つできません。しかし主と共に、主にとどまり、信仰、希望、愛によって主の愛にとどまるなら、私たちは「多くの実を結ぶ」のです。すなわち、多くの本当の善業を行うのです。「私たちは天主に創られた者であり、天主があらかじめ備えられた善業を行うために、キリスト・イエズスにおいて創造された」(エフェゾ2章10節)。主こそが私たちに、本当の善業を行うことのできる力を与えてくださるお方であり、その善業は私たち自身の栄光ではなく、主の栄光であり、御父の栄光のためなのです。主は言われます。「あなたたちも、人の前で光を輝かせよ。そうすれば、人は、あなたたちのよい行いを見て、天においでになるおん父をあがめるであろう」(マテオ5章16節)。「天主はあなたたちに常に十分に足るほどの物を持たせ、すべての善業のために余分な物があるほどの、あふれる恵みを与えられる」(コリント第二9章8節)。

私たちは、私たちの主イエズス・キリストの法を守るため、私たちの主イエズス・キリストの恩寵を必要とします! そしてこの恩寵を、私たちは祈りと秘跡によって受けるのです。毎日祈りましょう! 善を行うために、私たちの主イエズス・キリストの助けを願いましょう! 特に誘惑を感じたときには祈りましょう! 祈りましょう、そうすれば罪に陥ることはないでしょう。主が皆さんを助けてくださいますから。

さて、モーゼがシナイ山で旧約の律法を受けたように、私たちの主イエズス・キリストは山の上で新約の法を明らかにされました。有名な「山上の垂訓」で、聖マテオの福音書の第5、6、7章にあります。真福八端で始まり、その後、新約の法では旧約の法よりさらに高いものが求められること、すなわち完徳が求められることが述べられます。「天の父が完全であるようにあなたたちも完全な者になれ」(マテオ5章48節)。聖ルカの福音書においては同じ掟が与えられますが、ニュアンスがついています。「御父が慈悲深くあらせられるように慈悲深いものであれ」(ルカ6章36節)。

旧約は石の板に書かれており、これは多くのヘブライ人の心が固いことを表していました。モーゼが旧約の律法を受けたのは、最初の過越祭である紅海渡海から五十日後にシナイ山ででした。新約は「墨ではなく生きる天主の霊によって記されたもの、石の板ではなくあなたたちの肉体の心の板に書かれている」(コリント後3章3節)のです。ですから、天主の霊は、新しい過越祭である御復活の五十日後の聖霊降臨のとき使徒たちに与えられました。私たちの心に書かれたということは、誰もが自分の好きなことをするという意味ではなく、むしろキリスト教徒としての全生活が天主の愛によって、つまり新しい掟によって突き動かされるという意味です。「私は新しい掟を与える。あなたたちは互いに愛し合え。私があなたたちを愛したように、あなたたちも互いに愛し合え」(ヨハネ13章34節)。天主の愛によって突き動かされるということは、「天主の霊によって導かれる」(ローマ8章14節)ことであり、それは私たちに天主をお喜ばせすることをさせ、つまり私たちを掟に従わせるのです。そうするのは、奴隷的な恐れからではなく、天主への愛からなのです。

今年の初めにあたり、強い決意を固めましょう。私たちの主イエズス・キリストをお喜ばせするため、掟を守り、天国へ至る道を歩み、主に従い、主に倣うという決意です。洗礼の約束を更新しましょう。「私は悪魔を捨てます、そのすべての業を捨てます、そのすべての栄華を捨てます」、つまり悪魔の欺き、悪魔の誘惑…を捨てるのです。詩篇作者が次のように言うように、私は喜んで掟の道を走ります。「私はあなたの掟の道を走り、あなたは私の心を広くされた」(詩篇118章32節)。

私たちは、聖人たちの模範によって、とりわけ童貞聖マリアの模範によって、掟を守る道を歩むよう、大変勇気づけられます。聖母は天主の霊に非常に忠実だったため、掟を守る道から少しでも外れることは決してありませんでした。聖母はどんなことにおいても決して罪を犯しませんでした。聖母とすべての聖人が、私たちの主イエズス・キリストの掟を守る道を歩む私たちを強く助けてくださり、私たちが天主の恩寵によって本当に天主をお喜ばせすることができ、そうすることで天国へ行くことができますように! アーメン。
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“主は私たちを救う” 『イエズス』。いと貴きその聖名について

2016年01月19日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2016年1月3日(主日)に東京で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年1月3日(主日) イエズスの聖名の祝日
小野田神父 説教


 聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。今日は2016年1月3日、イエズス様のいと貴き聖名の祝日を祝っています。

 主日のお知らせをする前に、皆さんに新年のお慶びと、皆さんに新しい新年が、恵みが豊かで、天主様からの祝福が溢れて、聖なる実り豊かな1年となりますように、心からお祈り申し上げます。大晦日のミサと、元旦の三が日の3日のミサは、皆さんの意向で捧げています。今日のミサも皆さんの意向で捧げていますので、どうぞ皆さんの良い1年を祈って、一緒にミサを捧げて下さい。

 このミサの後に、1月で、ローマでは、主の御公現の頃まで、イエズス様の礼拝式をやっているので、その私たちもそのローマの伝統と習慣に従って、イエズス様の御足に接吻の儀式を、ミサの直後に、ミサの後の祈り、お告げの祈りが終わったら、皆さんと一緒にしようと思っています。

 それから今日はミサの前に、ここでいつもミサに通って公教要理を受けて、洗礼の準備をしていた、ピオ・アウグスチヌスさんが、めでたく洗礼を受けて、天主様の子供となりました。どうぞ皆さん、この受洗者の為にお祈り下さい。ピオ・アウグスチヌスさんは、本当なら家族の方が今日いらっしゃる事を期待して、この日に日程を設定したのですけれども、できれば、ご家族の方が皆、洗礼の御恵みを受けますように、どうぞお祈り下さい。
14時30分から公教要理の勉強があります。それから、16時からは晩課があります、主日の晩課があります。今日は、イエズス様の聖名の祝日の晩課です。明日は7時からミサがあります。それから2週間の後に、1月17日にも朝10時30分からミサがあります。どうぞいらして下さい。

 
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 “In nomine Jesu omne genu flectatur,”こう入祭誦で、聖パウロのフィリピ人への手紙を使って、イエズス様の祝日を公教会は祝って、こう歌っています、「イエズス様の聖名に於いて、全ての膝は、天にあるものも、地にあるものも、地獄のものも、全ての膝は、膝をかがめる。全ての口は、イエズス・キリストを、『主である。』と、告白する。」

 ですから今日は、イエズス様の聖名がどれほどすごいものか、その聖名の力の素晴らしさを見て、一体何でそんなにイエズス様の聖名には力があるのか、その理由を少し黙想して、第3に、では私たちはこの新年、ミサを捧げながら、どういう決心を取ったら良いか、黙想してみる事に致しましょう。

 救い主、私たちを救う為にこの地上に来られた真の天主、私たちの為に人となった天主の名前は、永遠の昔から、“主は私たちを救う”『イエズス』という風に決められていました。そこで天使は、その事を聖ヨゼフに、「イエズスと名付けよ。何故ならばこの子は、全ての民を救う方であるからだ。」と、言います。イエズス様は、ユダヤのしきたりに従って、生まれてから八日目に御割礼を受けて、その時に『イエズス』という名前を、つまり『救い主』という名前を受けました。イエズス様が天主様として最初の血潮を流されたその時に、『救い主』“天主は私たちを救う”『イエズス』と名前を受けたのは、全く相応しい事でありました。天主様の御摂理通りでありました。

 聖人たちは、このイエズスの聖名を黙想し、それを光として、或いはそれを糧として、これを慰めとして、これを愛の対象として、いつも祈り、考え、愛してきました。これは、使徒聖パウロ、使徒聖ペトロの時代、使徒の時代から伝わるものです。

 今日、書簡で読まれたのもそのエピソードの1つです。ある時聖ペトロが、初代教皇様が、街を歩いていた時に、乞食が、「恵んでくれ」という顔をして、手を差し出したのです。するとペトロはそれを見て、「あぁ、かわいそうな方よ、私はあなたに与える何もお金もない、金も銀も持っていない、だけれども、金よりも銀よりももっと素晴らしいものをあなたに与えよう。イエズス・キリストの聖名によって立ち上がれ。」と言うと、この人は今まで生まれた時から立った事のない方でしたが、立ちあがって、「あれ?」歩くようになったのです。

 すると、このペトロがトラブルに巻き込まれてしまいました、「一体この人をどうしたのか、お前一体何をしでかしたのか。」という事で、そこでペトロが、今日書簡にある事を読むのです、「私は、あなたたちが十字架に付けた命の与え主の聖名によって、この方を治したのです。あなたたち、家の造り主が捨てた、その隅の親石が、このイエズス・キリストです。天上、天下、私たちが救われる聖名は、この方以外にはないのです。天上、天下、私たち人間には、イエズス・キリスト以外の名前は与えられていません。」こうはっきり言うと、もうペトロを、或いはキリスト教徒を迫害していた人は、何も言う事ができませんでした。

 これが、初代教皇様が、はっきりと、ユダヤ人を通して、全人類に宣言した事です、「イエズス・キリスト様の聖名は、金よりも銀よりも、この地上の全ての宝よりも、黄金よりも、もっと価値がある、このイエズス・キリスト様の聖名によって、奇跡さえも起こる。天主はそれほどの力を与えている。この私たちが救われる為には、これ以外には他にはない、名前がない、イエズス・キリストだけが、唯一の救い主である。」と、はっきり宣言します。一体何故なのでしょうか?

 何故かというと、イエズス様がこう言ったからです、亡くなる前に、「今までお前たちは私の聖名で祈った事がない。しかし、これからは私の名前によって祈れ。聖父が、もしお前たちが私の名前で祈るならば、何でもお前たちの望むものは与えるだろう。さあ、望め、求めよ、さらば与えられる。」と、仰ったからです。ですから、イエズス様の聖名には、これほどの力があるのです。

 アシジの聖フランシスコを見て下さい、イエズス様の聖名に対してどれほどの信心があったか、イエズス様の聖名を色んな所に書いて、家に飾りとして付けていました、『IHS』これは、“Iesus Hominum Salvator”という意味のラテン語の略でもありますが、それを飾っていました。

 聖イグナチオは、この自分の創った修道会のグループを、“イエズスの伴侶”『イエズス会』と付けました。「イエズスの聖名が全世界に広まるように、愛される様に。」と望んでいました。イエズス会の創立メンバーの一人、聖フランシスコ・ザヴェリオは、日本にまでやって来て、イエズス様の聖名を届けました。

 一体何故、イエズス様の聖名にはこれほどの力があるのでしょうか?

 何故かというと、イエズス様は天主聖父に、死に至るまで、十字架の死に至るまで、従順であったからです。御自分を無とされて、天主であったにもかかわらず、人となり、私たちの為に、全く無罪であったにもかかわらず、私たちの罪を全て負って、十字架に付けられ、私たちの為に、聖父の光栄の為に、御血潮を全て流し、聖父に、「父よ、彼らを赦し給え、彼らはその為すべき所を知らざればなり。」と、言って、十字架の死に至るまで、父に、聖父に、その御旨を果たす事だけを考えていたからです。その贖いの業を果たす事だけを考えていたからです。これは、聖パウロの説明です。

 だから聖パウロによれば、「聖父は、イエズス・キリストを、イエズス様を全ての名に勝る名前を与えた。天上、天下、イエズス・キリストよりも貴い名前はない。」

 全て、天にある全ての天使たち、ケルビム、セラフィム、大天使、諸天使たち、聖人、聖女、殉教者、博士、預言者、全てはイエズスという聖名に於いて、深く、深い讃美と感謝と礼拝を捧げるのです。天上に於いて、『イエズス』と言えば、もう聖人たちが全てその前に「ははぁーっ!」と平伏す聖名なのです。

 地上に於いても、イエズスの聖名によって、私たちは救いを得ます。この地上に於いて、イエズス・キリストの名前以外に、永遠の命を受けるべき道はありません、名前はありません。イエズス様が教えた通り、聖父と、聖子と、聖霊の御名に於いて洗礼を受けなければなりません。

 地獄に於いても同じです。地獄、悪魔たちは、自分からは跪く事ができないので、膝がないと言われていますけれども、もちろん悪魔は、体が無いので、膝も体もありません。しかし、『イエズス・キリスト』という、地獄に打ち勝った、死と地獄と罪に打ち勝った者の前には、どうしても平伏す事しかできないのです。何もイエズス・キリストの前に抵抗する事ができないのです。

 ですから私たちは、イエズス・キリストの聖名が与えられている、イエズス・キリストの秘跡が与えられている、イエズス・キリスト御自身が与えられている、という事を、何と感謝しなければならないでしょうか。

 考えてもみて下さい。誰かがもしも、例えばお母さんは子供の事をいつも考えて「太郎ちゃんは、ちゃんとやっているか、花子ちゃんは、ちゃんと元気か、ご飯は食べているか。」と、いつも考えます。奥さんは、お父さんが外に出れば、「ちゃんと新幹線に乗れたか、ちゃんと児童会館には着いたか。」或いは、「ちゃんと家に帰る道は間違えないか。」などと思います。ところでイエズス・キリストほど、私たちを愛する方がいるでしょうか?

 もしも私たちがイエズス様を愛するのであれば、イエズス様の事をよく、どうしてもよく考えなければなりません。イエズス様のなさった事を黙想すればするほど、お生まれになった秣桶(まぐさおけ)になって、貧しく私たちの為に生まれて下さったイエズス・キリスト様が、私たちの為に血潮を全て流された天主イエズス・キリスト様を思うと、この全世界で、これほどまで私たちを愛している名前はありません。

 『イエズス・キリスト』この聖名を、どうぞ私たちも愛して、この名前を敬う事に致しましょう。

 では、どのような決心を今年立てたら良いでしょうか?カトリック教会は、イエズス・キリストの神秘体であって、イエズス・キリストの花嫁ですが、イエズス様の聖名の前では、例えば司祭は、ビレッタという帽子をかぶれば、それを脱帽します。或いは祭壇の上であれば、『イエズス』という名前を言うと、十字架の方を向いてお辞儀をします。聖務日課の時には、或いはミサの時も、イエズス様の名前を言う時には、司祭は頭を軽く会釈します。

 聖パウロが、「イエズスの聖名に於いて、全ての膝はかがまる。」と、言うのですから、イエズス様の聖名にこうやって敬意を表すのは、最も当然な事です。ですから私たちも、今年もイエズス様の聖名を愛して、イエズス様の聖名を愛を込めて唱え、それに敬意を払うようになさって下さい。イエズス様の聖名を愛を以って唱える、というのは、これは教会がやっていたり、或いは修道士の方がやっているように、「イエズス様」「イエズス、御身を愛し奉る。」「イエズス・マリア・ヨゼフ、御身を愛し奉る。」「イエズス、我らをあわれみ給え。」「イエズス、我らを助け給え。」「イエズス、あわれみ給え」「イエズス、御身を愛し奉る。」「イエズス・マリア・ヨゼフ」と、いつも心の中で、イエズス様の聖名を呼んで、お祈りして、お願いしたり、感謝したりする事です。どうぞ実践なさって下さい。絶えざる感謝の祈りをなさって下さい。

 第2に、私の、最後に、提案したいのは、イエズス様の聖名を心から愛して、それを、それにいつも讃美をしていたのはマリア様です。ですから今日は、マリア様の御心を私たちが頂く事ができるように、お祈り致しましょう。私たちにマリア様の御心を、私たちに於いてマリア様の御心を以って、マリア様が、私たちに於いて、イエズス様を愛して下さいますように。私たちのやる事は、とても足りない所がたくさんあるので、マリア様が私たちの所に来て、マリア様の心を以って、イエズス様を愛する事ができますように、お祈り致しましょう。

 マリア様は、イエズス様の聖名に於いて、全ての日常生活を捧げてきました。イエズス様をお呼びする時の、マリア様の幸せなお顔を考えてみてください、「イエズスや、」「イエズスよ、」「さあイエズス、」また、イエズス様からの言葉を聞いて、マリア様がイエズス様にどうやってお話しなさったかも想像なさって下さい。

 イエズス様とマリア様はいつも一体でした。イエズス様はそのようなマリア様を非常にお愛しされて、30年間、マリア様の元を離れませんでした。イエズス様の聖名によって、マリア様は十字架の下まで、全ての苦しみを私たちの為に捧げられました。

 願わくは、マリア様に倣って、イエズス様をこの今年1年ますます愛して、讃美する事ができますように、従順である事ができますように、お祈り致しましょう。そうする事によって、私たち、この地上でイエズス様の名前を讃美する私たちが、イエズス様御自身を見て、お会いして、永遠に愛する事ができますように。イエズス様の名前をいつも私たちの心に刻んでいる私たちが、天国にも私たちの名前が刻まれますように、お祈り致しましょう。

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
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私たちがマリア様をお愛しする「理由」

2016年01月18日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 1月2日に大阪で行った聖伝のミサ(初土曜日 聖母の汚れ無き御心の随意ミサ)のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

2016年1月2日 初土曜日 聖母の汚れ無き御心の随意ミサ
小野田神父 説教



 聖母の汚れ無き御心巡回教会にようこそ。今日は2016年1月2日、2016年の初土曜日の聖母の汚れ無き御心の随意ミサを捧げています。今日このミサの後では、まだ御公現までの時期ですので、ローマの習慣に従って、幼きイエズス様の礼拝式を行いたいと思います。

 今年は、ファチマ100周年のその前の準備の特別の年です。どうぞその準備が良くできるように、秋田・長崎巡礼、それから聖母の黙想会が準備されています。どうぞ、ご参加する事を是非よろしくお願い致します。

 
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 愛する兄弟の皆さん、2016年、この年が、全くマリア様に捧げられた年でありますように、ファチマ100周年への準備が良くできますように、特にこの初土のミサで、私たちはマリア様に対してどのような愛を為すべきか、その為に、私たちがマリア様を愛する、その動機を、理由を、色々黙想してみる事にします。その後に、では具体的に、マリア様を愛する為にどうしたら良いか黙想して、遷善の決心を取る事に致しましょう。

 聖グリニョン・ド・モンフォールによると、「天主様は、マリア様が、現在より多く知られ、より多く愛され、より多く崇敬され、尊敬される事を望んでいる。今まで、マリア様が生きておられた時より以上に、よりよくそうなる事を望んでおられる。」「もしも、あるべく、私たちの主が、イエズス・キリストが知らされていなければならないように、今知らされていないとしたら、愛されていないとしたら、それは、マリア様がまだよく知られていないからだ。」「この世に一番最初に、救い主をもたらしたのはマリア様であって、第2の、次の、第2の時にも、つまり現代、マリア様を通して、御子はこの世に与えられる。」と、聖グリニョン・ド・モンフォールは言います。

 願わくはこの新年が、この1年が、私たちがマリア様をますます知り、愛し、崇敬する事によって、イエズス様がますます知られ、愛される年となりますように、黙想致しましょう。

 では一体、私たちはどういう理由でマリア様をお愛しすれば良いでしょうか?

 今日提案するのは、私たちがイエズス様の神秘体の一部である、という事からです。つまり、イエズス様と私たちは同じ命を生きていて、聖パウロによれば、「我にとりて生きるはキリストなり。イエズス・キリストを着よ。イエズス・キリストの心を心とせよ。」というその論理的結論として、「マリア様を愛する」という事です。

 この、「イエズス・キリストの心を心とする。イエズス・キリストが私たちに於いて生きている、イエズス・キリストこそが私たちの原動力だ」という事を、2つの側面から見る事ができます。

 1つは、イエズス様の聖心を、私たちが頂いている、イエズス様が私たちの心に生きている、という事から、私たちが「イエズス様が愛するその愛を以って、マリア様を愛する事ができる」からです。

 では、イエズス様はどういう理由でマリア様を愛しておられたのでしょうか?イエズスス様に是非、「聖心の秘密を教えて下さい。イエズス様、イエズス様の聖心を私にも下さい。私がそれを以って、マリア様を愛する事ができますように教えて下さい。」と、お願いする事に致しましょう。

 色々な理由がありすが、今回は3つに絞ります。

 1つは、マリア様が、イエズス様のお母様であったからです。マリア様は、イエズス様が特別に選んだお母様であって、マリア様ほど完璧で、美しい、清い霊魂の、徳に溢れた母はいない、それほどの母親であったからです。

 イエズス様をお喜ばせする為に、諸聖人は色々な努力をしました。ある者は殉教し、イエズス様の為に多くの童貞女たちは殉教し、命を捧げました。或いはイエズス様の為に、私たちの祖先、日本の殉教者も命を捧げました。或いはイエズス様の為に、修道会を創ったり、全生涯を捧げて一生懸命働いた聖人、宣教師たちがいます。イエズス様の命令をいつも果たそうとする天使たち、それらの色々な多くの聖人、聖女、証聖者、殉教者、大天使、聖天使、全てを集めても、マリア様ほど、イエズス様を喜ばせる事ができる方はいなかったからです。イエズス様をいつも愛しておられた、イエズス様の為だけに生きておられたお母様であったからです。

 マリア様の御生涯を見ると、イエズス様を愛し、イエズス様の為に全ての苦しみと犠牲を喜んでお捧げした全ての聖人、聖女、殉教者たちの苦しみを全て集めても足りないほど、マリア様の受けたその御苦しみと、その御悲しみは、イエズス様の為だけに捧げられたものでした。

 第2の理由は、マリア様がイエズス様のお母様であったのみならず、マリア様はイエズス様から特別に選ばれた第2のエヴァだったからです。イエズス様の贖いの業を遂行すべき選ばれた、贖いの伴侶でした、共贖者でした。イエズス様に御肉体を与え、イエズス様を養い育て、イエズス様が犠牲として捧げられる事ができるように、イエズス様が自分を贖い主として捧げられる事ができる為に、マリア様は全てを捧げて協力されました。

 イエズス様に肉体を与えたのみならず、マリア様の意志も望みも、喜びも苦しみも、生贄も犠牲も全て、イエズス様と離れずに、最後まで、十字架の下に至るまで、イエズス様と共に一致しておられたからです。贖いの業を完成する為に、いつも共に働いておられたからです。イエズス様が、そのようなこのマリア様を、どうして愛さないわけがあるでしょうか。

 そればかりではありません。イエズス様が人となってお生まれになったのも、私たちを天国に導く為でした。私たちが永遠の命を得るためでした。その為に、私たちがイエズス様の元へと戻って来るように、回心するように、マリア様はいつも私たちを助けて下さっています。罪人が回心するように、或いは、敬虔な者がますます熱心になるように、聖である者がますます聖徳を高める事ができるように、マリア様はいつも私たちの為に助けて下さるので、このようなマリア様を、イエズス様はどうして愛さないわけがあるでしょうか。

 第3の理由は、マリア様ご自身、イエズス様の贖いの最高の実りだったからです。イエズス様の創造と贖いの最高の傑作でした。このような素晴らしい傑作マリア様を、どうして天主の御子イエズス様が、愛さないわけがあるでしょうか。

 イエズス様が人となったのは、私たちの救霊の為、と同時に、聖父に栄光を捧げる為だからです。

 イエズス様は、マリア様からの協力と承諾を得て、人として、人間として、天主聖父に栄光と贖いの業を捧げる事ができるようになりました。マリア様の子となる事によって、聖父に最高の賛美と感謝と栄光を捧げる事ができるようになりました。そのマリア様の協力に、イエズス様は深く感謝しています。ですからイエズス様は、聖父に栄光を帰する事ができるためにも、マリア様に感謝と愛を表しています。

 またマリア様ご自身も、イエズス様と共に、諸聖人、天使たちが合わせても、決してする事ができないほどの、賛美と感謝と愛を、天主聖父に捧げておられるからです。イエズス様は、このようなマリア様を、どうして愛さずにおられるでしょうか。



 もしも私たちがイエズス様の心を頂くならば、以上のような3つの動機でマリア様を、「あぁ、ますます愛そう」と、「イエズス様と同じ心で愛そう」と、なるに違いありません。

 もう1つの側面は、「もしも私たちの中にイエズス様が生きているならば、イエズス様と一体であるならば、マリア様も同じく、私たちをそう考えられる」という事です。

 イエズス様は言われました、「子よ、これ汝の母なり。」「女よ、これ汝の子なり。」

 マリア様は、たとえそれがどのような者であっても、イエズス様が愛される者を、愛し給う者を、マリア様も愛されます。マリア様は、私たちは本当につまらない罪人ですけれども、罪を犯して、主に背く者ではありますけれども、しかし、イエズス様が私たちの贖いの為に御血潮を流して、私たちを極みまで愛された事を知っておられるので、イエズス様が愛しておられる私たちを、マリア様も愛しておられます。

 マリア様は、私たちを御子のように、御子の愛した者として愛されるのであれば、大切に扱って下さるのであれば、私たちはどうしてこの愛を、愛を以って返さないわけにいられるでしょうか。

 イエズス様は私たちを、マリア様の子供として宣言されました。マリア様は私たちを、イエズス様と同じ愛を以って愛されます。マリア様がイエズス様にされた愛は、私たちの想像を超える、とてつもない愛でした。シュテーリン神父様が、それは本当に詳しく教えて下さいました。全ての世の中の最高の母の愛を以って集めたとしても、マリア様がイエズス様を愛する愛に及ぶものはない。その同じ愛を以って、私たちを愛して下さる。どうして、私たちがそのマリア様を愛さないでおられるでしょうか。

 マリア様は、私たちを十字架の苦しみを通して、超自然の命に産み出されました。超自然の命を与えて下さった、本当のお母様です。私たちを天国の命に産み出してくださった、本当の、霊的なお母様です。本当の母が、このような苦しみをもって産んだ子供である私たちを、どうして愛さないでおられるでしょうか。このような苦しみを以って生んで下さった私たちが、その御母を、お母様を、愛さないでどうしていられるでしょうか。

 もしも私たちが、「イエズス様と一体である」という事を深く理解しているとすると、マリア様は更にもっと、理解しています。「イエズス様と私たちが一体である」という事を、マリア様はよく、深く理解して、私たちの事を見ています。つまり、マリア様にとって、「私たちを愛する」という事は、「イエズス様を愛する」と同じなのです。「イエズス様を愛する」という事は、「私たちを愛する」と同じなのです。

 ですから、私たちに与える事は、皆イエズス様に与える事であって、イエズス様に与える事は、私たちに与える事です。ですから、「そのイエズス様と私たちが一つである、イエズス様が私たちに於いて生きている」という事をよく理解すると、私たちは、マリア様からのイエズス様への愛を受け、またイエズス様の愛を以って、マリア様を愛する事ができるようになります。


 では、私たちはこの新年に、「マリア様を、イエズス様の愛を以って愛する」とその遷善の決心を立てる事に致しましょう。では、一体どうすれば良いでしょうか?

 私たちは既に、マリア様の道具として、マリア様の子供として、マリア様の騎士として、インマクラータの騎士として、既にマリア様に捧げられたものですけれども、この今年の1年の全てを、私たちの全ての活動と、思いと、言葉と、行いと、私たちの全ての義務と、十字架、苦しみを、あらかじめマリア様にお捧げ致しましょう。私たちの日常の生活全てを、ますます大きな愛を以って、マリア様にお捧げいたしましょう。

 私たちの起床から、朝の祈りから、私たちの日常の義務、単純な平凡な義務、それを、マリア様をますます愛する心を以ってお捧げいたしましょう。もしも私たちが、小さな事に忠実である事ができるならば、大きな事も忠実である事ができるはずです。小さな事を、大きな愛を以ってお捧げ致しましょう。マリア様にいつも従順でありますように、私たちの義務に忠実であるように、決心を致しましょう。

 マリア様の御助けを以って、私たちが隣人に対して親切でありますように、愛徳を以っていつも接する事ができますように、忍耐と柔和をいつも欠く事がないように、決心を立てる事に致しましょう。毎日の生活をお捧げするのみならず、この2016年が、マリア様の汚れ無き御心にますます一致したものとなるように、イエズス様の心で、マリア様を愛する事ができるように、イエズス様がマリア様になさった事を黙想して、考えて、色々な本を読んだりする決心を立てましょう。

 イエズス様はマリア様に、色々な特権や、栄光や、完徳を与えて下さいました。それらの祝日を、或いはそれらの、イエズス様がマリア様になさったその色々な御恵みを考える事に致しましょう。

 また、マリア様がイエズス様になさった事も考える事に致しましょう。マリア様がイエズス様をどのように愛されたのか、イエズス様と共にどのように苦しまれたのか。

 幼きイエズスの聖テレジアは、終わりに、あるシスターにこう言ったそうです、幼きイエズスの聖テレジアの言葉によれば、「私は、神父様たちの御説教によっては、あまり感動を受けませんでした。しかし、福音を読んで、マリア様が私たちの為にどれほど苦しまれたか、という事を黙想して、それから、大きな霊的な利益を得ました。」と。「何故かというと、神父様たちは、マリア様の特権や、色々な栄光をこう話されるので、あまりにも、こうマリア様が素晴らしい、素晴らしい、と言って、それの事だけで、あまりにも遠くにおられる方のように仰るのですけれども、でも福音を読むと、マリア様は私たちと同じ苦しみを受け、私たちと同じ清貧、或いは十字架の苦しみを苦しまれた。その、だからもっと私たちに対する愛を感じる。」と、幼きイエズスの聖テレジアは言っています。

 マリア様の事を考える。最後に、私の提案するのは、マリア様に対する信心は、これは天主様からの特別の御恵みです。ですから、そのマリア様の信心を得る御恵みを祈りで求める事に致しましょう。イエズス様は、「私の名によって祈れ。そうすれば、聖父は必ずお前たちに与える。」と、言われました。イエズス・キリストの御名によって、ひたすらに、マリア様に対する信心を、愛を、乞い求める事に致しましょう。マリア様に倣う事ができるように、お祈り致しましょう。

 ちょっと前に、北朝鮮に拉致された、めぐみさんのお母様が動画に出ていて、そのめぐみさんの産んだ、子供の娘だ、と言われる孫さんの動画が出ていて、それを見ていてお母さんが、「あぁ、この子の笑い方はめぐみそっくりだ。この子を見ると、ほんとこれはもうDNAとかそんなのなくても、これはもうめぐみの子供だとすぐ分かる、もう生き写しだ。」というような事を言っていたのを思い出します。

 時々、出会う信徒の方の親子を見ると、「本当にそっくりだ、お母さんそっくりだ。」という方がいます。イエズス様は、マリア様の瓜二つだったに違いありません。誰が見ても、「あぁ、イエズス様は、全くそっくりだ、マリア様の子供だ。すぐ分かる。話し方も、笑い方も、言う内容も全てそっくりだ。瓜二つだ。」

 私たちもマリア様にお祈りして、イエズス様にお祈りして、マリア様の信心や愛を頂き、マリア様に瓜二つになりますように。マリア様の、童貞の内の童貞であるマリア様から、貞潔の徳を。また、「我は主の婢女なり、仰せの如く我になれかし。」と言ったマリア様に、謙遜と、従順の徳を。主の御旨に対していつも従順である事ができるその徳を、マリア様を真似る徳を。また、すぐにエリザベトに訪問されたマリア様を見倣って、愛徳と奉仕の徳を得る事ができるように。また羊飼いの言葉や、博士たちの言葉を、皆胸に留めて心で思っておられたマリア様に倣って、私たちもマリア様に倣って、いつも黙想と、主の事を考えている事ができるように。

 また、イエズス様を愛し、ヨゼフ様を愛したマリア様に倣って、私たちも、ヨゼフ様を愛する事ができますように。

 お祈りを以って、特別のマリア様に対する愛と、マリア様の子供として、道具として、いつも従順である御恵みを乞い求めましょう。

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
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新年にあたって、イエズス・キリストの心を心とせよ。

2016年01月16日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2016年1月1日に大阪で行った聖伝のミサ(御降誕の大祝日の八日目)のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

2016年1月1日 御降誕の大祝日の八日目
小野田神父 説教



 聖母の汚れ無き御心巡回教会にようこそ。今日は2016年1月1日、元旦、イエズス様の御降誕の八日目のミサをしています。今日は、日本では守るべき祝日であって、そして明日も10時30分からミサがあります。今日は、また特に初金曜日ですので、ミサの直後、聖時間をイエズス様の聖心にお捧げしたいと思います。1月は、10日・11日と御ミサがあります。また、15・16日と、金・土とミサがあります。どうぞ、皆さんのお越しをお待ちしております。
この今日は、初金で、聖時間があって、その後に、できればお正月ですので、皆さんと一緒に時を過ごしたいと思ったのですけれども、病気の方がいらっしゃって、病院に入院された方がいるのですけれども、その終油の秘跡の為に行かなければならなくて、この皆さんに失礼してしまうかもしれませんが、どうぞご了承ください。
明日はイエズス様の、幼きイエズス様に礼拝の接吻をしつつ、礼拝する儀式を一緒にする事に致しましょう。
新年は、この遂にファチマの100周年の1年前となりました。そこで特に今年は、秋田と長崎に巡礼に行こうと思っています。今年は特別に長崎も付け加えました。このような機会は、将来おそらく無いと思います。そして皆さんと一緒に長崎に行くというのは、非常に貴重な、おそらく又と無いチャンスですので、是非皆さん、是非、ファチマ100周年を準備する為にも、良く参加する事ができる、良くご計画を、いらっしゃる事を、是非是非、考えて下さる事をお願い致します。
そして8月13日からは、9ヶ月におけるノベナが始まります。今年は特に、ファチマの準備をする大切な年ですので、良い年となりますようにお祈り致しましょう。
また8月には、ここで大阪で、聖母の特別のマリア黙想会、聖母の黙想会が開かれます。8月の10日から15日まで、皆さん10日に集合で、15日まで、どうぞ皆さんこれも、非常に貴重な機会ですので、ファチマのマリア様100周年の為に、是非ご参加をご考慮くださる事を、深くお願い致します。
それから、今年は復活祭が少し早く、3月30日が復活祭で、2月10日は灰の水曜日です。灰の水曜日には、私たちはここでミサをする事を予定しています。皆さん、そこでご家庭に枝があればですね、今度私が参ります時に、枝をお持ち下されば幸いです。


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日、この御降誕八日目のこのミサは、八日間の間、イエズス様の色々な神秘を黙想して、典礼によると、或いは聖務日課によると、聖務日課の色々なAntifonaや色々な言葉は、「イエズス様が真に天主であった」という事をよく黙想するように私たちに導いています。そしてこの、「イエズス様が真に天主であった」という事をもっとはっきり言う為に、公教会の典礼によると、「マリア様が童貞であり、同時に、天主の御母である」という事が非常に強調されています。「実際に、マリア様が天主の御母である」という事は、「イエズス様が天主であった」という事の、コインの表と裏であるからです。「イエズス様が天主であった」という事を否定する人は、どうしても、「マリア様が天主の御母である」という事を否定します。

そこで、「天主の御母であるマリア様」という事は、ではマリア様は、「天主を産んだ」という事は、天主を創造したのか?「天主」というものを生み出したのか?のではなくて、もちろん、これは、「マリア様がお産みになったイエズス・キリストは、真の天主であった。」という事です。これはちょうど例えて言えば、例えば、ベートーベンを産んだお母さんは、「音楽家のお母さん」だったけれども、ベートーベンのお母さんが、音楽家そのものを生んだわけではなくて、「産んだ子供が音楽家だ」という事です。

それと似た様に、マリア様からお生まれになったイエズス様が、「真の天主」であるが為に、「マリア様は、天主の御母である」という事です。

では、今日そこから、マリア様とイエズス様の関係を黙想する事を提案します。

イエズス様は、「マリア様からお生まれになる」という事を望んだ、天主は、「マリア様からお生まれになる」事を望んだ。という事は、イエズス様は、私たちにどのような事を模範で示そうとされたのか、そして、マリア様は、私たちにとってどのような御方なのか、最後に、私たちは、この新年にどうしなければならないのか、新年をかけて、どのように、どのような目標を設定しよう、するのが良いか、何を新年の希望として立てるか、という事を黙想したいと思います。

天主様が、マリア様を選んで、マリア様からお生まれになったという事は、これは天主が全く自由に、無限の可能性の中から1つを選んで、知性を以って選んで、そしてこうする事を望んだ、という事です。これは、天主が自由意志を使って、自由選択能力を使って、本能でも、運命でも、義務でも、何でもなく、無限の可能性の中から、このマリア様からお生まれになる事を望んだ、という事です。これを望まれた、という事です。そしてこれを、そうする事が、「最高の業であって、最高の事である。」と思われたからです。何故ならば、天主の御業は全て完璧であるからです。そしてイエズス様はこうする事によって、天主はこうする事によって、私たちに模範を示しました。

聖パウロは言います、「キリストの心を心とせよ。」或いは、「古いパン種を捨てて、イエズス・キリストを着よ。」或いは、「私がそうしているように、お前たちもイエズス・キリストを学べ、その真似をしろ。私がイエズス・キリストの真似をしているように、お前たちも私の真似をして、イエズス・キリストを真似よ。」と。

イエズス様も私たちに仰います、「私は、お前たちに模範を残した。」イエズス様が、私たちにマリア様を選ばれたという事は、自由意志によって選ばれた、という事は、私たちに模範を残しているという事です。もしも私たちが、聖パウロと同じように、「私にとって生きるとはキリストである。」のであれば、イエズス・キリストの模範を真似なければなりません。そしてイエズス様は、マリア様を御自分の母として選んだ、という事を、まず私達は真似なければなりません。これが、天主御父に対する、最高の愛の表明であって、そしてマリア様に対する愛の表明として、イエズス様は御母として選ばれました。

イエズス様は、30年間、マリア様の元にいつもおられました。離れずにおられました。そしてマリア様の元を離れたのはたった3年間で、その3年間に、他の人の為に尽くされました。しかし、贖いの業の為には、十字架の最後の時には、マリア様と共に時を過ごす事を、贖いの業を成し遂げる事を望まれました。

最初の奇跡も、マリア様を通して起こす事を望まれました。贖いの業も、マリア様を通して起こす事を望まれました。

そればかりではありません。イエズス・キリストは、単なる、単にこの地上に於いて生きている間、マリア様を崇敬したばかりか、天に於いても、今でもずっと、マリア様を母として尊敬し、マリア様のいつも祈りを聞き入れ、そしてマリア様をいつも喜ばせようとされておられます。

そればかりではありません。イエズス・キリスト様の神秘体のカトリック教会も、天上の凱旋の教会も、地上の教会も、心を合わせて、マリア様を賛美しています。そして苦しむ教会は、マリア様を通して、多くの恵みを受けています。全神秘体が、キリストの神秘体が、マリア様を色々な方法で、色々な祝日で、色々なマリア様の特権を賛美する事によって、天上でも地上でも賛美しています。マリア様の為に色々な修道会が作られました。マリア様の為に色々な信心をしています。

そして、私たちも、このイエズス様の神秘体を真似なければなりません。天に於けるイエズス様、地上に於けるイエズス様、そしてイエズス様の神秘体を真似なければなりません。これが、聖パウロが私たちにしきりに勧めている、「イエズス・キリストの心を心とせよ。」という事です。

では第2のポイントで、マリア様は私たちにとって、どのような御方なのでしょうか?

皆さんもご存知の通り、マリア様は私たちにとって、本当の母です。それは単にイエズス様が十字架の下で、「見よ、これが汝の母なり。」と、聖ヨハネを通じて、マリア様を私たちの母としてくださった、という事を宣言して下さったというだけではありません。何故かというと、もしかしたら誤解する人がいて、「じゃあ、ただの宣言をしただけならば、ちょうど私たちが養子に取られたように、養子に与えられたように、マリア様が法律的に名前だけ、マリア様となった、マリア様がお母様となった。でも、本当に私たちに命を与えてくれるお母さんは別にいて、名前だけはお母さんだ。」と、誤解する人がいるからです。

それだけではありません。確かにイエズス様は十字架の上で荘厳に、「これ汝の母なり。」と、宣言して、ハンコを打って、確証しましたけれども、しかしマリア様はナザレトで、「仰せの如く我になれかし。」と仰って、イエズス・キリストをご胎内に宿した時に、キリストの神秘体の頭を宿した時に、それと同時に、私たちに全てを、神秘体の成員を全て、可能性の内に全て、神秘的にお宿しになったのでした。

そして実際にカルワリオに於いて、イエズス様と共に御苦しみを受けて、贖いの業を成し遂げたその時に、産みの苦しみを以って、私たちに超自然の命を与えて下さったのです。もちろん、超自然の命を私たちが現実に受けるのは、洗礼を受けた時です。しかし既にマリア様は私たちに、十字架の下で私たちに、超自然の命を与える母となられたのです。

ですからマリア様の事を、「ちょうどマリア様は、私たちのお母様のような方だ。」などと言っては、これはマリア様にとって、本当に大きな悪口となってしまいます。何故かというと、マリア様というのは本当に、私たちに超自然の命を与えた、超自然の命の母であるからです。

第3に、私たちはでは新年に、どのような、何を、どんな良い決心を立てたら良いでしょうか?

初詣に行く人は、「交通安全」「家内繁盛」「事業の成功」とか、色々な現世的な事をお祈りするかもしれません。しかし私たちは、人生の究極の目的が、「霊魂の救いである」「天国に行く事である」という事を知っていますから、イエズス様が御誕生になったその目的も、「私たちに永遠の命を与える事である」という事を知っていますから、私たちの究極の目的が与えられるようにお祈り致しましょう。私たちが天国に真っ直ぐに行く事ができますように。それこそが、新年の最高のお祈りです、願いです。

では、その為にはどんな手段が良いのでしょうか?それは、私たちがイエズス・キリスト様の、イエズス様をすっかり真似て、イエズス様の心を心として、ますますイエズス様に似通った者となる事です。そうする事によって、イエズス様が開いて下さった天国に、真っ直ぐ、まっしぐらに行く事ができるからです。私たちの心の中に、イエズス様の心が、内的なエンジンとして、動力として動いて、私たちを動かして下さいますように。イエズス様の考えが、私たちの考えとなりますように。イエズス様が仰ったように、「私はぶどうの木である。私を離れては、何の実も付ける事ができない。」イエズス様の幹から来る木の汁が、聖寵の恩寵と、そしてイエズス様の息吹と、イエズス様の考えと、イエズス様のお望みが、私たちの息吹と望みになりますように。イエズス様がなさるように、私たちも行動する事ができますように。イエズス様が頭であるのですから、その頭の思うように、望むように、私たち手足が動く事ができますように。それこそが、新年の私たちの願いであり、望みであります。

では、その為にはどうしたら良いでしょうか?私はこの新年に、ファチマの100周年を準備する為にも、イエズス様に倣って、イエズス様の心を心として、私たちの心も、霊魂も、全く、マリア様にお捧げする事を提案します。皆さんは、毎日きっとなさっています。朝起きた時に、御聖体拝領した時に、イエズス様のように、私たちの心も霊魂も、過去、現在、未来、全て、そして物体的なものも、霊的なものも、全て、自然の恵みも、超自然の恵みも、全て、マリア様にお委ねする。まさにイエズス様がなさった、その事です。

この新年にあたって、是非、この1年の全ての御恵みと、全ての行動、思い、言葉を、マリア様にお委ね致しましょう。そしてイエズス様が私たちの中にいらして、私たちを動かして下さって、イエズス様がなさったように、私たちもマリア様を愛する事ができまように、マリア様の良き子供となる事ができますように、マリア様の良き道具として、マリア様の元にいる事ができますように、お祈り致しましょう。

イエズス様がなさったように。「あぁ、こうすると何か、利益があるから、得があるから。」現世利益を求めて、ではなくて、イエズス様がマリア様をただただ愛して、マリア様にひたすら愛したように、私たちもイエズス様に倣って、マリア様をひたすらお愛しする事ができますようお祈り致しましょう。

願わくは、私たちがイエズス様の心を以って、マリア様を愛する事ができますように。そしてその為にも、どうぞ遷善の決心を立てて下さい。今年1年、変わらずに、朝起きたら、マリア様に奉献の祈りをする、御聖体拝領の時に、イエズス様に倣って、マリア様に奉献をする、そして頻繁に、「イエズス様がどれだけマリア様をお愛しされたか」という事を考えて、私たちも、「イエズス様のようにマリア様を愛したい」と思う。

最後に、マリア様は私たちのお母様ですから、マリア様がイエズス様をお愛しすると同じ愛を以って、私たちを、「私たちのようなものを愛して下さっている」という事を考えましょう。マリア様が、私たちがどれほど惨めでつまらないものであったとしても、イエズス様を愛すると同じほどの愛を以って、愛しされているという事は、どれほどの愛でしょうか。私たちの想像を絶する愛を以って、愛されている事を考えましょう。

この、イエズス様のようなマリア様への愛は、天主様からの特別の御恵みです。ですから、このような愛を私たちも頂く事ができますように、特に2016年の特別の御恵みとして、この賜物を、マリア様を通して、イエズス様に乞い願いましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
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去年受けた「枝」についてのご連絡

2016年01月14日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

いかがお過ごしでいらっしゃいますか?

連絡が非常に遅れてしまい、行き届かなかったのですけれども、去年受けた「枝」をお持ちの方は、

大阪は今回の1月の御ミサで、東京は2月の最初の御ミサの時にどうぞ私のほうへお戻し下さい。

今回、間に合わない方は、もしよろしければ次の機会にお持ち下さい。
 
2月10日は『灰の水曜日』です。

大阪では夕方の5時半から御ミサがあります。どうぞ御ミサに預かりにいらしてください。

日本の教会の掟によれば『灰の水曜日』は21歳から59歳までの健康な成人信者は大小斎を守らなければなりません。

また、14歳以上のすべての健康な信者は小斎を守らなければなりません。この大小斎の義務もどうぞ捧げるようになさって下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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イエズス様は、悪と罪に打ち勝つ全てのものを、手段を私たちに与えて下さった。

2016年01月14日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 12月31日に大阪で行った聖伝のミサ(御降誕の大祝日の八日間中の七日目)のお説教をご紹介いたします。


天主様の祝福が豊かにありますように!

2015年12月31日 御降誕の大祝日の八日間中の七日目
小野田神父 説教



 聖母の汚れ無き御心巡回教会にようこそ。今日は2015年12月31日の大晦日の、一年の最後の御ミサを捧げています。そこで今日の御ミサは感謝の意味で、イエズス様とマリア様に、皆さんの全てのご意向の為に、このミサを捧げています。今日と、今日のミサと明日と明後日の3日間のミサは、皆さんの為にミサをお捧げいたします。どうぞ心を合わせて下さい。

 特に、この一年の終わりに、私は天主様に、イエズス様に、マリア様に、本当に感謝しています。特に今年は、初金、初土曜を、新しいコロナホテルでやるようになって、御復活祭のミサもでき、クリスマスのミサも日本で初めて、深夜のミサからずっとする事ができました。本当に御恵みで、今年は大晦日の最後のミサもする事ができます。本当に感謝します。何よりも感謝したいのは、秋田の巡礼に多くの方が参加して良い巡礼ができた事です。また、8月には聖イグナチオの霊操による黙想会ができたことです。本当に感謝します。とても良い、実りの多い一年が今、過ぎ去ろうとしています。

 この聖ピオ十世会の大阪の信徒会長にも色々お世話になりました。ありがとうございます。侍者をして下さった方々や、聖歌隊の方々にも感謝致します。この会場を準備して下さる方や、お花を準備して下さる方や、秋田の巡礼の為の準備や、黙想会の為にしおりを作ったり、予約をして下さった方々に感謝致します。どうぞ、千倍もの一万倍もの多くの御恵みがありますように。

 今日はこの御ミサの後に、カトリック教会の習慣に従って、ローマの習慣に従って、「テ・デウム」を歌いたいと思います。特に一年の終わりですから、最後の、一年最後の聖体降福式も、短いものではありますけれども、それをイエズス様の前で感謝して、感謝を込めて聖体降福式をして、イエズス様に感謝と賛美を捧げて、この一年を締めくくろうと思います。この聖体降福式の時に、ローマの伝統に従って、「テ・デウム」という感謝の歌を歌います。どうぞ、皆さんも一緒に歌って下されば嬉しく思います。

 
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 愛する兄弟の皆さん、小さなお友達、今日はこのミサにいらして下さってとても嬉しいです。イエズス様を、秣桶(まぐさおけ)にこうやって寝ておられるイエズス様を、今日は私たちは見て、イエズス様の元に近寄って、イエズス様、かわいい赤ちゃんとなって生まれて下さったイエズス様、イエズス様は、真の天主様であるのに、全能の天主様であるのに、どうしてこんなに幼い赤ちゃんになったのですか?という事を黙想しましょう。

 「イエズス様が全能の天主である」という事は、「何でもできる、力のある、この全てのものを創った御方だ」という事です。「力がある方」という事は、イエズス様は、こうも言いました、「信頼せよ、私はこの世に勝ったのだ。」と。イエズス様は御受難の時に弟子たちに向かって、「私は、この世に勝った。力ある天主だ。この世の罪も、悪も、悪魔も、全てのこの世の勢力に、私は勝った。だから心配するな、安心せよ。私は真の天主だ、全能の天主だ。」と、仰っています。

 また黙示録を見ると、聖ヨハネはこう言います、「ユダの獅子は勝った。」「ユダの獅子」というのはイエズス様の事で、「イエズス様は最高の、最後の勝利者である」という事です。

 聖パウロという使徒は、イエズス様について、「私を強めて下さる方において、私は全ての事ができる。」と、言っています。「私を強めて下さる方」というのは、もちろんイエズス・キリスト様の事です。

 イエズス様は、弟子たちにもこう言いました、「お前たちは、私がいなければ何もできない。お前たちはぶどうの枝だ。私はぶどうの木だ。お前たちは、私を離れては何もできない。何も実を結ぶ事ができない。」

 イエズス様は、力に満ちた、私たちに全ての御恵みと、全ての力を与える御方で、その力ある方が、この全てを創って、全てのものに命を与えている方が、こんなに小さく赤ちゃんになりました。一体何故なのでしょうか?

 何故かというと、イエズス様は私たちに力を与える為に、こうやって弱くなりました。御自分の弱さによって、私たちが力をつくように。イエズス様は赤ちゃんになったばかりではありません。生けるパン、天から下った生けるパンであるイエズス様は、まず私たちに、命を与えるパンとなって、もう人間ではないかのように、ただのパンの欠片であるかのようにもう見えて、私たちに力を与えようとしています。

 イエズス様はこうやる事によって、私たちに特別の力、武器を与えてくれました。「秘跡」と「お祈り」による武器です。特に秘跡は、7つの秘跡の内に、御聖体の秘跡が、最も私たちにとって力を与えて下さる、私たちに、悪に対して抵抗力を下さる武器です、助けです。

 この幼きイエズス様が真の天主である、と同じように、今、御聖体に、今ミサの後に御聖体礼拝をしますが、御聖体降福式をしますが、また御ミサの時に御聖体拝領をしますけれども、このパンのように見えるこの御聖体は、もはやパンではありません。これは、真にイエズス様の御体なのです。私たちを生かして、私たちに力を与え、私たちに罪に対する抵抗力を与え、聖徳を増し、成聖の恩寵を増す、天主の御子、イエズス・キリスト様の御体です。これを与える為に、イエズス様は幼子となって、人間となって、私たちの元にやって来られました。

 このイエズス様の御聖体がますます愛されますように、ますます礼拝されますように、感謝されますように、イエズス様に、イエズス様の御聖体がますます愛を込めて拝領されますように、お祈り致しましょう。イエズス様の愛の秘跡である御聖体が、愛されますように、お祈りしましょう。

 残念ながら、この一年を振り返ると、イエズス様の御聖体を、感謝を以って礼拝したり、相応しい態度で御聖体拝領をするような方は、ますます少なくなっているようです。私たちが、どうぞこのミサの時に、また御聖体降福式で、御聖体に相応しい、感謝と賛美をお捧げ致しましょう。

 イエズス様が下さった第2の武器は、小さくなったイエズス様が下さった第2の武器は、それは「お祈り」です。イエズス様は、生まれてから8日後、『イエズス』という名前をとる事をお望みになりました。天使から言われた通り、『イエズス様』という名前をとりました。『イエズス様』というのは、私たちを救う、『天主は私たちを救う』という意味で、イエズス様は私たちにこう言いました、「私の名前によって求めよ。聖父に求めよ。そうすれば何でも与えられる。」と。「聖父はお前たちに、何でも与えるだろう。」と。

 ですから、私たちもイエズス様の聖名によってお祈り致しましょう。御聖体を礼拝致しましょう。イエズス様の御名によってお祈り致しましょう。すると、この弱いイエズス様の力が私たちにますます、弱くなったイエズス様の力が私たちに与えられます。

 聖アウグスティヌスは私たちにこう言っています、こう書いています、「イエズス様が、こんなにも私たちに、この悪に打ち勝つ力と手段と与えているのに、『秘跡』と『祈りに』よって手段を与えているのに、私たちが、『あぁ、私たちは弱いから罪を犯すのだ。』という言い訳はもうできない。」と、言っています。

 「ちょうどそれはお医者さんが、最高のお医者さんが、『じゃあ、この簡単だ、この病気は簡単だ。この病気を治すには、毎日このこれを、この私の名前で病気が治るようにお願いして下さい。』或いは、『こうして下さい。』と、薬を与えられているにもかかわらず、それを敢えてしないものである。」

 或いは、「悪魔はイエズス様によってもう鎖に付けられてしまって、捕えられている。だから悪魔は私たちに何の害もする事ができない。もしも害をするとしたら、私たちが、悪魔が害を与える事を望むしかない。例えて言えば、犬に、獰猛な犬が鎖に繋がれているんだけれども、ただワンワン吠えているだけだ。この犬は鎖に繋がれているので、絶対私たちに咬み付く事はない。もしも咬み付かれるとしたら、わざわざその悪魔に近付いて、『さあ、さあ、咬み付いて。』と、手や足を出す愚か者しかいない。」

 「イエズス様は、悪と罪に打ち勝つ全てのものを、手段を私たちに与えて下さった。その為にこんなに小さくなったのだ。その為にこれほど苦しまれたのだ。この為に十字架の苦しみを全て引き受けたのだ。こうして弱くなったのだ。」と。

 愛する兄弟の皆さん、私たちは何と愚かだったでしょうか。イエズス様の下さった手段を使わずに、悪魔に手を差し出したり、吠えている犬に近付いて何と愚かにも咬まれてしまったり、危険な所に行ってしまった事が何度あった事でしょうか。イエズス様が、この一年たくさんお恵みを下さって、更に下さって、更に下ったにもかかわらず、イエズス様が私たちに、「秘跡」と「祈り」の効果を下さったにもかかわらず、そのお恵みにうまく応える事ができませんでした。

 願わくは、マリア様の御取り次ぎによって、この幼きイエズス様の元にいつも馳せ寄り、イエズス様を礼拝し、御聖体を礼拝し、イエズス様の御名によっていつも祈り、マリア様の御取り次ぎによっていつも祈り、私たちが悪と罪に打ち勝ち、ますます聖徳の道に行けますようにお祈り致しましょう。この一年受けた全ての御恵みを感謝致しましょう。

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
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