Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

私は御身を信じ礼拝し希望し御身を愛します!御身を信ぜぬ人々礼拝せず希望せず愛さぬ人々のために赦しを求めます(天使の祈)

人間の尊厳の理由は?:聖寵によって天主の本性に参与するまで高められたこと vs 人間の自由と自律

2019年11月30日 | 第二バチカン公会議
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

では、第二バチカン公会議は、どのようにして、自由が人間の尊厳の中で一番大切だと説いているのでしょうか?

カトリック教義の枠組みにおいて、教会の組織において、人間の自由を最高の価値であると、どのように説明を試みているのでしょうか。

聖伝によって伝えられるカトリックの信仰は、一人一人の人間は、聖寵によって天主の本性に参与するまで高められてたが故に、全ての被造物に勝る尊厳を持っていると教えています。

大聖レオ教皇の有名な御降誕祭の説教がそれを雄弁に語っています。
「キリスト者よ、あなたの尊厳を認識せよ、何故ならあなたは天主の本性に与るものとされたからだ。」
Agnosce, o christiane, dignitatem tuam, et divinae consors factus naturae, noli in veterem vilitatem degeneri conversatione redire!

「キリストの天主としての力は、ご自分の光栄と勢力とをもって召されたお方を私たちに知らせることによって、命と敬虔とをたすけるすべてのものをくださり、また、それによって、私たちに尊い偉大な約束をお与えになった。それは、欲情が世の中に生んだ腐敗から、あなたたちを救いあげ、天主の本性にあずからせるためであった。」(ペトロの後の手紙1章4)

天主の本性に与らせていただき、天主の養子となるという恵みこそ、人間の尊厳の基礎です。天主は、人間が天主の本性に与ることが出来るように人間にその可能性を与えて創造しました。創世記によれば、天主は人間を御自分の似姿と類似に創造された、とあります。

"Faciamus hominem ad imaginem et similitudinem nostram, et praesit piscibus maris, et volatilibus caeli, et bestiis universaeque terrae, omnique reptili, quod movetur in terra. Et creavit Deus hominem ad imaginem suam: ad imaginem Dei creavit illum, masculum et feminam creavit eos." (Gen 1:26)

聖トマス・アクィナスは、自然の秩序において、人間が霊的である点で、天主の似姿ということが人間に与えられたと指摘します。つまり、他の動物たちと異なり、知性と自由意志を持つが故に、その点で天主の似姿が認められる、と。そしてこの自然の秩序において天主の似姿により創られたので、原初の義の状態(原罪の前の状態)では超自然の秩序にまで引き上げられて完成させられた、と。

聖トマス・アクィナスは、自然の秩序と超自然の秩序を区別しつつも、結合させています。人間の尊厳は、自然の秩序において天主の似姿(知性と自由意志)によって創られた人間が、さらに天主の本性に参与することによって超自然の秩序まで高められていることにあるのです。

ところが、第二バチカン公会議は、自然と超自然を混同して区別せずに、人間が天主の似姿として持つ尊厳は、自由にある、と主張します。何故なら、天主の本性の特徴は、自由で自律独立していることだから、天主の本性に参与するということは、自由であることだ、と。

第二バチカン公会議は、「現代世界憲章」の第一章で「人格の尊厳」を取り扱ってこう言います。

「聖書は、人間が「神の像」としてつくられ、創造主を知り愛することができるものであって、地上の全被造物を支配し利用して神に栄光を帰するよう、神によってそれらの上に主人として立てられたものであることを教えている。」(12)

「人間は天主によって[原初の]義の中におかれたが、悪霊に誘われて、歴史の初めから、自由を乱用し[libertate sua abusus est]、神に対立し、自分の完成を天主のほかに求めた。(…)しかし、人間を解放し[ut hominem liberaret]力づけるために、主自身が来て人間を内部から再生し、人間を罪の奴隷として捕らえていた「この世のかしら」(ヨハネ 12:31)を外に追い出した。実に罪は人間そのものを弱くし、人間をその完成から遠ざける。」(13)

「肉体と霊魂から成り立っているが、一つのものである人間は、肉体的なものとして物質界の諸要素を自分の中に集約している。その結果、物質界は人間を通してその頂点に達し、人間を通して創造主の[自由な]賛美の歌を歌う[ad liberam Creatoris laudem vocem attollant ]のである。(…)しかし、人間は自分が肉体的な物よりすぐれており、自然の一部または人間社会の無名の一要素でないと考えるとき、まちがってはいない。人間はその内面性によって全物質界を超越している。人間が内心をふり返るとき、この深遠に帰るのである。人間の心の中には、人々の心を見通す神が待っており、人間は心の中で、神の目のもとで自分の将来を決定する[de propria sorte decernit]。」(14)
第15番では、さらりと知性の尊厳について触れ、「聖霊のたまものによって、人間は信仰のうちに神の計画の秘義を観想し、味わうようになる。」(15)観想という人間の最高の行為について言及します。

第16番は、もっと良心の尊厳について語ります。「人間は心の中に神から刻まれた法をもっており、それに従うことが人間の尊厳であり、また人間はそれによって裁かれる。」(16)

しかし、最も強調されているのは「自由の尊さ」(17)です。
「しかし、人間は自由でなければ善を指向することはできない。現代人はこの自由を大きく表かし、熱烈に求めている。確かにそれは正しいことである。ところが、かれらはしばしば自由を放縦とはきちがえて、楽しければ何をしてもよいし、悪でさえもかまわないとする。しかし、真の自由は人間の中にある神の像のすぐれたしるしである。神は、人間がすすんで創造主を求め、神に従って自由に完全で幸福な完成に到達するよう、人間を「その分別に任せること」を望んだ。したがって人間の尊厳は、人間が知識と自由な選択によって行動することを要求する。このような選択は人格としての内面的な動機に基づくものであって、内部からの盲目的本能や外部からの強制によるものであってはならない。」(17)

カトリック教義は、人間の創造主の似姿としての完成が、真理の観想にあるとしてきました。これは、プラトンやアリストテレスの思索と哲学を完成させるものでした。人間のもっとも崇高で高貴で天主的な活動とは、真理を見つめ、究極の真理である天主を愛する知です。

「人間における天主の似姿は、天主の知に関して形成された御言葉と、それから発出した愛とに従って考察される」(Attenditur igitur divina imago in homine secundum verbum conceptum de Dei notitia, et amorem exinde derivatum.)[1a q.93. a.8]

三位一体の天主は、永遠に至福を享受しています。天主は、被造物を創造しようがしまいが、至福の天主です。無限の可能性の中から、全く自由に、創造することを選択しましたが、自由に創造したから幸せになったのではありません。創造するということは、天主の"定義"の中にはありません。天主が永遠に至福なのは、永遠に無限の善を所有し直観し享受しているからです。

ヨハネの福音には私たちの主イエズス・キリストの言葉がこう記されています。「永遠の命とは、唯一のまことの天主であるあなたと、あなたがお遣わしになったイエズス・キリストを知ることであります。」(17:3)

つまり、天主が至福であるのは、観想のためであり、自由だからではありません。

人間中心主義は、人間を創造主なる天主の目的であり栄光と主張します。第二バチカン公会議は、そうだとはっきり断言はしませんが、暗に自由な創造を行ったことによって、天主は至福に到達したと前提しているようです。ちょうど、芸術家が、傑作を生み出したときに喜ぶように。

天主は、人間を御自分の似姿として創造し、この人間がその他のものを作り支配するのを見ると、天主は満足されたことになっているからです。

「事実、神の像として作られた人間は、大地とそこに含まれる万物を支配し、世界を正義と聖性のうちに統治し、また万物の創造主である神を認めて、人間自身とあらゆる物を神に関連させるようにとの命令を受けた。こうして万物が人間に服従すれば、全世界において神の名が賛美されるであろう。」(現代世界憲章 34)

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「現代世界憲章」Gaudium et Spes 第一部 教会と人間の召命 第4章 現代世界における教会の任務 の羅和対訳

2019年11月30日 | カトリック・ニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
第2バチカン公会議公文書の「現代世界憲章」の「第一部 教会と人間の召命 第4章 現代世界における教会の任務」の原文を対訳でご紹介します。

Caput IV 第4章
 DE MUNERE ECCLESIAE IN MUNDO HUIUS TEMPORIS 現代世界における教会の任務
40. De Ecclesiae et mundi mutua relatione. 40(教会と世界との相互関係)
Omnia quae a nobis dicta sunt de dignitate personae humanae, de hominum communitate, de profundo sensu navitatis humanae, fundamentum relationis Ecclesiam inter et mundum necnon basim eorum mutui dialogi (81) constituunt. Ideo in hoc capite, omnibus praesuppositis ab hoc Concilio de mysterio Ecclesiae iam edictis, eadem Ecclesia nunc consideranda venit prout ipsa, in hoc mundo exsistit et cum eo vivit atque agit.  人間の尊厳、人間の共同体、人間活動の深い意義について、われわれが述べたすべてのことは、教会と世界の相互関係の基礎ならびに両者の対話の根拠をなすものである。本章においては、教会の秘義について公会議がすでに公布したすべての事がらを前提として、同じ教会をこの世の中に存在し、この世とともに生き、そして働いているものとして考察する。
Procedens ex amore Patris aeterni (82), in tempore fundata a Christo Redemptore, coadunata in Spiritu Sancto (83), Ecclesia finem salutarem et eschatologicum habet, qui nonnisi in futuro saeculo plene attingi potest. Ipsa autem iam hic in terris adest, ex hominibus collecta, terrestris nempe civitatis membris quae ad hoc vocantur ut iam in generis humani historia familiam filiorum Dei, usque ad adventum Domini semper augendam, efforment. Unita quidem propter bona caelestia iisque ditata, haec familia a Christo "in hoc mundo ut societas constituta et ordinata" (84) est, atque "aptis mediis unionis visibilis et socialis" (85) instructa. Ita Ecclesia, insimul "coetus adspectabilis et communitas spiritualis" (86), una cum tota humanitate incedit eamdemque cum mundo sortem terrenam experitur, ac tamquam fermentum et veluti anima societatis humanae (87) in Christo renovandae et in familiam Dei transformandae exsistit.  永遠の父の愛から生まれ、あがない主キリストによって時間の中に設立され、聖霊において集められた教会は、救いと終末を目的とする。この目的は来世においてはじめて完成に到達することができる。しかし、教会はすでにこの地上に存在し、この地上の国の成員である人々によって構成されている。この人人は人類の歴史の中に神の子らの家族をつくり、主の再臨の時までそれをふやしつづけるよう呼ばれたのである。天上の宝を目ざして互いに結ばれ、またそれによって富まされているこの家族は、キリストによって「社会として、この世の中に設立され組織された」ものであり、「見える社会的一致の適切な手段」を与えられている。したがって、教会は同時に「見える団体と霊的共同体」であり、全人類とともに歩み、世と同じ地上的なりゆきを経験する。教会は人類社会の魂または酵母として存在し、それをキリストにおいて刷新して神の家族に変質させる使命をもっている。
Haec quidem terrestris et caelestis civitatis compenetratio nonnisi fide percipi potest, immo mysterium manet historiae humanae, quae usque ad plenam revelationem claritatis filiorum Dei peccato perturbatur. Ecclesia quidem, proprium suum finem salutarem persequens, non solum vitam divinam cum homine communicat, sed etiam lumen eius repercussum quodammodo super universum mundum fundit, potissimum per hoc quod personae humanae dignitatem sanat et elevat, humanae societatis compaginem firmat, atque cotidianam hominum navitatem profundiori sensu et significatione imbuit. Ita Ecclesia per singula sua membra et totam suam communitatem multa se conferre posse credit ad hominum familiam eiusque historiam humaniorem reddendam.  地上の国と天上の国とのこのような交錯は、信仰によってはじめて理解できるものであり、人類史の神秘であって、神の子らの輝きが完全に啓示される時まで罪によってかき乱される。教会は救いを固有の目的として追求し、神の生命を人間に与えるだけでなく、ある意味でこの生命が反射させる光を全世界に投げかける。それは主として、人間の尊厳を回復させ、高め、人間社会の結合を強め、日常の人間活動にさらに深い意味と重要性を与えることによって行われる。このようにして教会は、その個々の成員と全共同体とを通して人類家族とその歴史を、いっそう人間らしいものにするために大いに寄与できると信じている。
Libenter insuper Ecclesia Catholica ea magni aestimat quae ad idem munus adimplendum aliae Ecclesiae christianae vel communitates ecclesiasticae socia opera contulerunt ac conferunt. Simul sibi firmiter persuasum habet se multum varioque modo a mundo, sive a singulis hominibus sive ab humana societate, eorum dotibus ac navitate, in praeparatione Evangelii iuvari posse. Mutui huius commercii atque adiutorii, in illis quae Ecclesiae et mundo quodammodo sunt communia, rite promovendi, principia quaedam generalia exponuntur.  そのうえ、この同じ使命を果たすために他のキリストの諸教会および諸団体が協同して寄与したこと、また寄与していることを、カトリック教会は喜んで認め、高く評価する。同時に教会は、福音への準備に関連して、世から、すなわち個人からも人間社会からも、その才能と活動によって、いろいろ方法で大いに助けを受けることができると確信している。ある意味で教会と世とに共通な領域において、このような相互の交流と援助とを正しく促進するための若干の一般原則を以下に述べる。
41. De adiutorio quod Ecclesia singulis hominibus praestare satagit. 41(教会が個人に提供する援助)
Homo hodiernus in via est ad personalitatem suam plenius evolvendam iuraque sua in dies magis detegenda et affirmanda. Cum autem Ecclesiae concreditum sit manifestare mysterium Dei, qui est ultimus finis hominis, ipsa homini simul aperit sensum propriae eius exsistentiae, intimam scilicet de homine veritatem. Vere novit Ecclesia solum Deum cui ipsa inservit, profundissimis respondere desideriis humani cordis, quod nutrimentis terrestribus numquam plene satiatur. Novit praeterea hominem, incessanter a Spiritu Dei incitatum, numquam circa problema religionis prorsus indifferentem fore, sicut non solum experientia saeculorum anteactorum, sed multiplici etiam testimonio nostrorum temporum comprobatur. Semper enim homo scire desiderabit, saltem confuse, quae sit significatio suae vitae, suae navitatis ac suae mortis. Ipsa praesentia Ecclesiae haec problemata in eius mentem revocat. Solus autem Deus, qui hominem ad imaginem suam creavit atque a peccato redemit, his quaestionibus plenissimum responsum praebet, idque per revelationem in Filio suo qui homo factus est. Quicumque Christum sequitur, Hominem perfectum, et ipse magis homo fit.  現代人は自分の人格をいっそう完全に発展させ、自分の権利をより多く発見し主張することを目ざして進んでいる。人間の究極目的である神の秘義を現わすことを託された教会は、同時に人間存在の意義、すなわち、人間についての奥深い真理を明らかにする。実に教会は、自分が仕える神だけが、地上のかてによってけっして十分に満足できない人間の心の深い欲求に答えることを知っている。なお教会は、絶えず神の霊に勧められている人間が、宗教問題についてまったく無関心でいることはできないことも知っている。それは過去の諸世紀にわたる経験に照らしても、現代の数多くの証拠によっても証明される。人間は自分の生命と活動と死の意味を知ろうと、少なくともばく然と常に望むはずである。教会の現存そのものがこれらの問題を人々に思い出させる。人間を自分の像として創造し、また罪からあがなった神だけが、これらの質問に完全な答を与えることができる。神はそれを、人となった自分の子キリストにおける啓示を通して行う。完全な人間であるキリストに従う者はだれでも、より完全な人間となるのである。
Ex hac fide Ecclesia dignitatem naturae humanae omnibus opinionum mutationibus subtrahere potest, quae, exempli gratia, corpus humanum aut nimis deprimunt aut immoderate extollunt. Nulla lege humana personalis dignitas atque libertas hominis tam apte in tuto collocari possunt quam Evangelio Christi Ecclesiae concredito. Hoc enim Evangelium libertatem filiorum Dei annuntiat et proclamat, omnem servitutem ex peccato ultimatim fluentem respuit (88), dignitatem conscientiae eiusque liberam decisionem sancte veretur, omnia talenta humana in Dei servitium hominumque bonum reduplicare indesinenter monet, omnes denique omnium commendans caritati (89). Quod legi fundamentali oeconomiae christianae correspondet. Etsi enim idem Deus sit Salvator qui et Creator, idem quoque Dominus et historiae humanae et historiae salutis, tamen in hoc ipso ordine divino iusta creaturae autonomia et praesertim hominis nedum auferatur, potius in suam dignitatem restituitur atque in ipsa firmatur.  この信仰に基づいて、教会は人間性の尊厳を、さまざまに変換する見解、たとえば、肉体の過度の軽視、あるいは過度の礼賛から守ることができる。人間の定めたいかなる法律も、人間の人格的尊厳と自由を、教会に託されたキリストの福音ほど完全に確保することはできない。キリストの福音は神の子らの自由を告知宣言し、最終的には罪から出たあらゆる奴隷状態を排除し、良心の尊厳とその自由な決定を厳重に尊重し、人間のあらゆる才能を神への奉仕と人々の幸福のために有効に用いるよう絶えず教え、すべての人をすべての人の愛に託する。これらすべてはキリスト教的救いの計画の基本法則に合致する。それは、同じ神が救い主であるとともに創造主であり、また人類の歴史と救いの歴史の主であっても、神の定めたこの秩序そのものは、被造物、特に人間の正当な自主性を奪うものではなく、かえってその尊厳を回復し確立するものだからである。
Ecclesia ergo, vi Evangelii sibi concrediti, iura hominum proclamat et hodierni temporis dynamismum, quo haec iura undique promoventur, agnoscit et magni aestimat. Qui motus tamen spiritu Evangelii imbuendus et adversus omnem speciem falsae autonomiae tutandus est. Tentationi enim subiicimur, iudicandi nostra iura personalia tunc tantum plene servari, cum ab omni norma Legis divinae solvimur. Hac autem via, personae humanae dignitas, nedum salvetur, potius perit.  したがって、教会は自分委託された福音の力をもって人間の権利を宣言し、この権利をいたるところで推進させている現代の力強い動きを認め、高く評価する。ただし、この運動に福音の清心を吹き込み、あらゆる種類のまちがった自律の概念から守らなければならない。われわれは、神定法のあらゆる規則から解放されるときにこそ、はじめて人間の権利が完全に確保されるという観画に誘惑される。しかし、この道をとれば人間の尊厳は救われるどころか、かえって消滅するのである。
42. De adiutorio quod Ecclesia societati humanae afferre satagit. 42(教会が社会に提供する援助)
Unio familiae humanae unitate familiae filiorum Dei in Christo fundata (90) multum roboratur et completur.  人間家族の協和は、キリストに基礎を置く神の子らの家族の一致によって大いに強められ充実したものとなる。
Missio quidem propria, quam Christus Ecclesiae suae concredidit, non est ordinis politici, oeconomici vel socialis: finis enim quem ei praefixit ordinis religiosi (91) est. At sane ex hac ipsa missione religiosa munus, lux et vires fluunt quae communitati hominum secundum Legem divinam constituendae et firmandae inservire possunt. Item, ubi opus fuerit, secundum temporum et locorum circumstantias, et ipsa suscitare potest, immo et debet, opera in servitium omnium, praesertim vero egentium destinata, uti opera misercordiae vel alia huiusmodi.  キリストがその教会に託した固有の使命は、政治・経済・社会の分野に属するものではない。キリストが教会に指定した目的は宗教の領域に属する。ところで、実にこの宗教的使命そのものから、神定法に基づいて建設し確立すべき人間共同体のために役立つ任務、光、力が出てくる。同様に、必要とあれば、時と場所の状況によっては、死の事業やこれに類する仕事のように、すべての人、特に困窮者たちの奉仕を目的とする仕事を教会自身が起こすことができるし、また起こさなければならない。
Ecclesia insuper agnoscit quidquid boni in dynamismo sociali hodierno invenitur: praesertim evolutionem versus unitatem, processum sanae socializationis et consociationis civilis et oeconomicae. Promotio enim unitatis cum intima Ecclesiae missione cohaeret, cum ipsa sit "in Christo veluti sacramentum seu signum et instrumentum intimae cum Deo unionis totiusque generis humani unitatis" (92). Ita ipsa mundo ostendit veram unionem socialem externam ex unione mentium et cordium fluere, ex illa scilicet fide et caritate, quibus in Spiritu Sancto eius unitas indissolubiliter condita est. Vis enim, quam Ecclesia hodiernae hominum societati iniicere valet, in illa fide et caritate, ad effectum vitae adductis, consistit, non autem in dominio aliquo externo mediis mere humanis exercendo.  そのうえ、教会は現代の社会的な力強い運動の中に見られるすべてのよいもの、特に一致への進歩、健全な社会科と社会的・経済的連帯性の進展を認める。一致の促進は教会の思念名使命と一致する。教会は「キリストにおけるいわば秘跡、すなわち神との親密な交わりと全人類のしるしである道具」だからである。こうして教会は、目に見える社会的な真実の一致が精神と心の一致、すなわち、聖霊において教会の一致を不解消なものとして確立している信仰と愛から出ることを世界に示す。教会が現代社会に注入することのできる活力は、単なる人間的手段による外的な支配権の行使にあるのではなく、生活の中に実践されるこの信仰と愛に見いだされる。
Cum insuper vi suae missionis et naturae ad nullam alligetur particularem culturae humanae formam aut systema politicum, oeconomicum vel sociale, Ecclesia ex hac sua universalitate ligamen arctissimum inter diversas hominum communitates et nationes exsistere potest, dummodo ipsae ei fidant eiusque veram libertatem ad hanc suam missionem adimplendam reapse agnoscant. Qua de causa Ecclesia filios suos, sed etiam omnes homines monet, ut in hoc familiali spiritu filiorum Dei, omnes dissensiones inter nationes et stirpes superent et iustis associationibus humanis internam firmitatem praebeant.  そのうえ、教会はその使命と本質のうえから、いかなる特殊の文化形態にも、またいかなる政治・社会体制にも結ばれるものでない。この普遍性そのもののために、教会は種々の人間共同体の間や諸国家の間における強い結び目となることができる。ただし、これらの共同体や国家が教会を信頼し、教会がその使命を果たすために必要な真の自由を実際に認める限りにおいてである。それゆえ教会は自分の子らと、さらにすべての人に向かって、神の子らの家族的精神によって国家や民族の間におけるあらゆる不和を乗りこえ、正当な団体を内側から強固にするよう忠告する。
Quaecumque igitur vera, bona, iustaque inveniuntur in diversissimis institutionibus, quae genus humanum sibi condidit incessanterque condit, eadem Concilium magna cum reverentia considerat. Declarat insuper Ecclesiam omnes tales institutiones adiuvare et promovere velle, quatenus hoc ab ea dependet et cum eius missione coniungi potest. Ipsa nihil ardentius desiderat quam ut omnium bono inserviens, se libere sub quovis regimine evolvere possit quod iura fundamentalia personae ac familiae et boni communis necessitates agnoscat.  人類がすでに作り出し、また絶えず作ってゆく多種多様の制度の中に見いだされる真実と、善と正義のすべてを公会議は大きな尊厳をもって注目する。なお教会にできることであって、その使命と結びつけることができるものである限り、すべてこれらの制度を援助し促進することを望むものであると宣言する。教会はすべての人に奉仕するために、個人ならびに家族の基本的権利と共通善の要請を認めるあらゆる政治形態のもとにおいて、自分が自由に発展できることを、何事にも増して強く望んでいる。 ..
43. De adiutorio quod Ecclesia per christianos navitati humanae conferre satagit. 43(教会がキリスト者を通して社会に提供する援助)
Concilium christianos, cives utriusque civitatis, adhortatur ut sua terrestria officia fideliter implere studeant, idque spiritu Evangelii ducti. A veritate discedunt qui, scientes nos non habere hic manentem civitatem sed futuram inquirere (93), putent se proinde officia sua terrestria negligere posse, non attendentes se per ipsam fidem ad eadem implenda magis teneri, secundum vocationem qua quisque vocatus est (94). At non minus errant qui, e contrario, opinentur se ita seipsos negotiis terrestribus immergere posse, quasi ista omnino aliena sint a vita religiosa, quippe quia ipsam in solius cultus actibus et officiis quibusdam moralibus implendis consistere arbitrentur. Discidium illud inter fidem quam profitentur et vitam quotidianam multorum, inter graviores nostri temporis errores recensendum est. Scandalum hoc iam in Vetere Testamento Prophetae vehementer redarguebant (95) et multo magis in Novo Testamento ipse Iesus Christus gravibus poenis minabatur (96). Ne igitur perperam inter se opponantur activitates professionales et sociales ex una parte, vita religiosa ex altera. Christianus, officia sua temporalia negligens, officia sua erga proximum, immo et ipsum Deum negligit suamque aeternam salutem in discrimen adducit. Gaudeant potius christiani, exemplum Christi secuti, qui fabrilem artem exercuit, se omnes suas navitates terrestres exercere posse, conatus humanos, domesticos, professionales, scientificos vel technicos in unam synthesim vitalem cum bonis religiosis colligendo, sub quorum altissima ordinatione omnia in Dei gloriam coordinantur.  公会議は天上と地上とふたつの国の市民であるキリスト者が、福音の精神に導かれて、地上の義務を忠実に果たすよう援助する。われわれがこの世に永続する国を持たず、未来の国を求めることを知って、それゆえに地上の義務を怠ってもよいと考える者はまちがっている。かれらは自分の受けた召命に応じて地上の義務を果たすべきことを、信仰そのものが強く命じていることを忘れているからである。これと反対に、宗教生活を単なる祭典の行事と若干の道徳的義務の遂行にすぎないと考え、地上の仕事は宗教生活と完全に無関係であるかのように、それに没頭してもよいと思う者も同様にまちがっている。多くの人に見られる信仰と日常生活の離反は現代の重大な誤りの一つと考えるべきである。すでに旧約において預言者はこのような醜聞を激しく糾弾し、それにも増して新約においてはイエズス・キリスト自身が重い罰を警告している。したがって一方には、職業的・社会的活動、他方には宗教生活を不当にも互いに対立させてはならない。世俗的義務を怠るキリスト者は隣人とさらには神自身に対する自分の義務を怠り、自分の永遠の救いを危うくする。むしろキリスト者は、職人として働いたキリストの模範に従い、人間的・家庭的・職業的・学問的・技術的努力を宗教的価値と結びつけ、いきいきとした一つのものとして結合することによって、自分のあらゆる地上的活動を行えることを喜ばなければならない。すべてのものを宗教的価値によって秩序づけることによって、すべてが神の栄光に向けて調整される。
Laicis proprie, etsi non exclusive, saecularia officia et navitates competunt. Cum igitur, sive singuli sive consociati, ut cives mundi agunt, non solum leges proprias uniuscuiusque disciplinae servabunt, sed veram peritiam in illis campis sibi comparare studebunt. Libenter cum hominibus eosdem fines prosequentibus cooperabuntur. Agnoscentes exigentias fidei eiusque virtute praediti, incunctanter, ubi oportet, nova incepta excogitent atque ad effectum deducant. Ad ipsorum conscientiam iam apte formatam spectat, ut lex divina in civitatis terrenae vita inscribatur. A sacerdotibus vero laici lucem ac vim spiritualem exspectent. Neque tamen ipsi censeant pastores suos semper adeo peritos esse ut, in omni quaestione exsurgente, etiam gravi, solutionem concretam in promptu habere queant, aut illos ad hoc missos esse: ipsi potius, sapientia christiana illustrati et ad doctrinam Magisterii observanter attendentes (97), partes suas proprias assumant.  世俗の職業と活動は、独占的ではないにしても、信徒に固有の領域である。したがって、信徒は個人としても団体としても、この世の市民として行動する時には、それぞれの職業に固有の規則を守るだけでなく、その分野における真の専門家となるように努め、同じ目的を追求する人々と自発的に協力しなければならない。信仰の要請を自覚し、その力にささえられて、必要に際しては、ためらうことなく新しい企画を出し、実行に移さなければならない。地上の国の生活の中に神定法が刻み込まれるようにすることは、正しく形成された良心をもつ信徒の努めである。信徒は霊的光と力を司祭から期待すべきであるが、司牧者が何ごとにも精通していて、どのような問題についても、しかも重大な事がらについても、即座に具体的解決を持ちあわせているとか、それがかれらの使命であるというように考えてはならない。むしろ信徒は、キリスト教的英知に照らされ、教導職の教えに深く注意を払いながら、自分の役割を引き受けるようにしなければならない。
Pluries ipsa visio christiana rerum eos ad aliquam determinatam solutionem in quibusdam rerum adiunctis inclinabit. Alii tamen fideles, non minore sinceritate ducti, ut saepius et quidem legitime accidit, aliter de eadem re iudicabunt. Quodsi solutiones hinc inde propositae, etiam praeter partium intentionem, a multis facile connectantur cum nuntio evangelico, meminerint oportet nemini licere in praefatis casibus pro sua sententia auctoritatem Ecclesiae sibi exclusive vindicare. Semper autem colloquio sincero se invicem illuminare satagant, mutuam caritatem servantes et boni communis imprimis solliciti.  信徒は自分のキリスト教的なものの考え方に従って、ある状態において、しばしば、ある特定な解決策を選ぶであろう。他の信者は同じくまじめに考えた結果、同じ問題について異なった判断を下すこともたびたびあり、それもまた当然なことである。ところで、種々の解決策は、多くの人によって、それぞれの主張者の意向から離れて、福音の教えと結び付けられやすい。このような場合、自分の主張だけが教会の権威によって支持されていると考えてはならないことを記憶すべきである。常に誠実な話し合いによって相互に問題の理解を深め、相互に愛を実践し、共通善を第一の関心事としなければならない。
Laici vero, qui in tota vita Ecclesiae actuosas partes gerendas habent, non solum mundum spiritu christiano imbuere tenentur, sed etiam ad hoc vocantur ut in omnibus, in media quidem humana consortione, Christi sint testes.  教会の全生命において行動的な役割を果たすべきである信徒は、世の中にキリスト教精神を浸透させるだけではなく、社会のまっただ中で、万事においてキリストの証人となるように呼ばれている。
Episcopi vero, quibus munus moderandi Ecclesiam Dei commissum est, cum presbyteris suis nuntium Christi ita praedicent, ut omnes fidelium terrestres activitates Evangelii luce perfundantur. Insuper pastores omnes memores sint se sua cotidiana conversatione et sollicitudine (98) mundo faciem Ecclesiae exhibere, ex qua homines vim et veritatem nuntii christiani iudicant. Vita et verbo, una cum religiosis atque suis fidelibus, demonstrent Ecclesiam sola sua praesentia, cum omnibus quae continet donis, inexhaustum fontem esse illarum virtutum, quibus mundus hodiernus maxime indiget. Studiis assiduis se ita aptos reddant, ut in dialogo cum mundo et hominibus cuiuscumque opinionis instituendo partes suas agere possint. Imprimis vero in corde verba huius Concilii habeant: "Quia genus humanum hodie magis magisque in unitatem civilem, oeconomicam et socialem coalescit, eo magis oportet ut Sacerdotes, coniuncta cura et ope sub ductu Episcoporum et Summi Pontificis, omnem rationem dispersionis elidant, ut in unitatem familiae Dei totum genus humanum adducatur" (99).  神の教会を指導する任務を託された司教は、その司祭とともに、信者のあらゆる地上的活動が福音の光に浴するものとなるよう、キリストの知らせをのべ伝えなければならない。なお、すべての司牧者は、自分の日常の生活と配慮とが世に教会の面を示すこと、それに基づいて人々がキリスト教の知らせの力と真理を判断することを忘れてはならない。司牧者たちは修道者や信者とともに、教会がその現存だけによって、また自分の持つあらゆるたまものによって、現代世界の最も必要とする力を提供する尽きない源泉であることを、生活とことばをもって証明するべきである。絶えず研究を続けて、世とのあらゆる意見の人々との対話において自分の役割を正しく果たすことができるよう努力しなければならない。特にこの公会議の次のことばを心にとめなければならない。「今日、人類はますます政治的・経済的・社会的に一つに結ばれつつある。なおのこと司祭は司教と教皇の指導のもとに互いに力を合わせて働き、全人類が神の一つの家族となるよう、分裂のあらゆる原因を取り除かなければならない」。
Quamvis Ecclesia ex virtute Spiritus Sancti fidelis sponsa Domini sui manserit et numquam cessaverit esse signum salutis in mundo, ipsa tamen minime ignorat inter membra sua (100), sive clericos sive laicos, decurrente multorum saeculorum serie, non defuisse qui Spiritui Dei infideles exstiterint. Etiam hac nostra aetate Ecclesiam non fugit, quantum inter se distent nuntius a se prolatus et humana debilitas eorum quibus Evangelium concreditur. Quidquid de istis defectibus historia iudicet, eorum conscii esse debemus eosdemque strenue impugnare, ne Evangelio diffundendo detrimentum afferant. Pariter novit Ecclesia quantopere ipsa, in sua cum mundo relatione excolenda, ex saeculorum experientia iugiter maturescere debeat. A Spiritu Sancto ducta, Ecclesia Mater indesinenter filios suos "ad purificationem et renovationem exhortatur, ut signum Christi super faciem Ecclesiae clarius effulgeat" (101).  教会は聖霊の力によって、主の忠実な花嫁であり、また絶えず世における救いのしるしであったが、諸世紀を経過する間に、構成員である教役者と信徒との中に、神の霊に不忠実な者がいたことをけっして知らないわけではない。現代においても、教会の説く教えと福音を託された者の人間的弱さとの間に、大きな隔たりがあることを教会は知っている。このような欠陥について歴史がどのように裁くにせよ、われわれはこれらの欠陥を自覚し、福音宣布の傷害とならないよう、それらに対して熱心に戦わなければならない。同時に、教会は、世との関係を発展させるためには、諸世紀にわたる経験から、絶えずどれほど学ばなければならないかを知っている。聖霊に導かれる母なる教会は、「キリストのしるしが教会の面上にいっそう明らかに輝くために、自分の子らに自分自身を清め一新するよう勧告する」ことをやめない。
44. De adiutorio quod Ecclesia a mundo hodierno accipit. 44(教会が現代世界から受ける援助)
Sicut autem mundi interest Ecclesiam ut socialem realitatem historiae eiusque fermentum agnoscere, ita ipsa Ecclesia non ignorat, quantum ex humani generis historia et evolutione acceperit.  教会を歴史の社会現実として、またその酵母として認めることが世にとって有益であるように、教会は自分が人類の歴史と進歩から多くのものを受けたことを知っている。
Praeteritorum saeculorum experientia, scientiarum profectus, thesauri in variis culturae humanae formis absconditi, quibus ipsius hominis natura plenius manifestatur novaeque viae ad veritatem aperiuntur, Ecclesiae quoque prosunt. Ipsa enim, inde ab initio suae historiae, nuntium Christi, ope conceptuum et linguarum diversorum populorum exprimere didicit, eumdemque sapientia insuper philosophorum illustrare conata est: in hunc finem nempe ut Evangelium tum omnium captui tum sapientium exigentiis, in quantum par erat, aptaret. Quae quidem verbi revelati accommodata praedicatio lex omnis evangelizationis permanere debet. Ita enim in omni natione facultas nuntium Christi suo modo exprimendi excitatur simulque vivum commercium inter Ecclesiam et diversas populorum culturas promovetur (102). Ad tale commercium augendum Ecclesia, imprimis nostris temporibus, in quibus res celerrime mutantur et cogitandi modi valde variantur, peculiariter eorum auxilio indiget qui, viventes in mundo, varias institutiones et disciplinas callent earumque intimam mentem intelligunt, sive de credentibus sive de non credentibus agatur. Totius Populi Dei est, praesertim pastorum et theologorum, adiuvante Spiritu Sancto, varias loquelas nostri temporis auscultare, discernere et interpretari easque sub lumine verbi divini diiudicare, ut revelata Veritas semper penitius percipi, melius intelligi aptiusque proponi possit.  過去の諸世紀にわたる経験、学問の進歩、文化の諸様式の中に隠されている富は、人間の本性をいっそう豊かに現わし、真理への新しい道を開き、教会のためにも役だつものである。教会は、その歴史の最初から、キリストの知らせを種々の民族のことばと概念をもって表現することを学び、なおそれを哲学者の英知をもって解明するよう努力してきた。それは、許される限り、福音をすべての人の理解と知識人の要求とに適応させるためであった。啓示されたことばをこのように適応させて宣教することは、あらゆる福音宣教の原則でなければならない。このようにしてこそ、あらゆる国においてキリストの知らせをその国に合った方法で表現する能力が養われ、同時に教会と諸民族の文化との交流が促進される。教会はこの交流を盛んにするために、説くに変動が激しく考え方が非常にさまざまである現代においては、特に、信ずる者と信じていない者を問わず、世に生活して種々の制度や学問に精通し、それらの深い意味を理解している人々の助けを必要とする。聖霊の助けのもとに現代の種々の声に耳を傾け、それを区別し解明し、神のことばの光に照らして判断することによって、啓示された真理が常によりよく知られ、理解され、述べられるように努めることは、神の民全体、特に司牧者と神学者の努めである。
Ecclesia, cum visibilem structuram socialem habeat, signum quidem suae unitatis in Christo, etiam evolutione vitae socialis humanae ditari potest et ditatur, non quasi aliquid in constitutione a Christo sibi data deesset, sed ad eamdem profundius cognoscendam, melius exprimendam atque temporibus nostris felicius accommodandam. Ipsa grato animo percipit se, in sua communitate non minus quam in singulis suis filiis, varium adiutorium ab hominibus cuiusvis gradus vel condicionis accipere. Quicumque enim communitatem humanam in ordine familiae, culturae, vitae oeconomicae et socialis, necnon politicae tam nationalis quam internationalis, promovent, secundum consilium Dei communitati quoque ecclesiali, in quantum haec ab externis dependet, adiutorium non parvum afferunt. Immo Ecclesia, ex ipsa oppositione eorum qui ei adversantur vel eam persequuntur, se multum profecisse et proficere posse fatetur (103).  キリストにおける一致のしるしとして見える社会構造をもっている教会は、人間的社会生活の進歩によって豊かにされることができ、また豊かにされている。それはキリストから与えられた教会の構成に欠陥があるからではなく、それをいっそう深く知り、よく表現し、現代によりよく適応させるという意味においてである。教会はその共同体全体のためにも、また子らのひとりひとりのためにも、あらゆる階層と生活条件に属する人々から、いろいろの援助を受けていることを感謝の心をもって認める。家庭・文化・経済・社会・政治の分野においても、国内的にも国際的にも人間共同体の進歩に貢献する人は、神の計画によって教会共同体にも---それが外的要素に依存する限り---多くの援助をもたらすからである。なお、教会はその反対者や迫害者によるはんたいからも自分のために多くの利益を得たし、また得ることができることを認める。
45. De Christo, alpha et omega. 45(初めと終わりであるキリスト)
Ecclesia, dum ipsa mundum adiuvat et ab eo multa accipit, ad hoc unum tendit ut Regnum Dei adveniat et totius humani generis salus instauretur. Omne vero bonum, quod Populus Dei in suae peregrinationis terrestris tempore hominum familiae praebere potest, ex hoc profluit quod Ecclesia est "universale salutis sacramentum" (104), mysterium amoris Dei erga hominem manifestans simul et operans.  教会は世を助け、世から多くを受けながら、一つの事、すなわち、神の国の到来と全人類の救いの確立を目ざしている。神の民がその地上の旅の間に人間家族に提供できる善のすべては、教会が「救いの普遍的秘跡」であり、人間に対する神の愛を現わし実現する秘跡であるということから流れ出てくる。
Verbum enim Dei, per quod omnia facta sunt, Ipsum caro factum est, ita ut, perfectus Homo, omnes salvaret et universa recapitularet. Dominus finis est humanae historiae, punctum in quod historiae et civilizationis desideria vergunt, humani generis centrum, omnium cordium gaudium eorumque appetitionum plenitudo (105). Ille est quem Pater a mortuis suscitavit, exaltavit et a dextris suis collocavit, Eum vivorum atque mortuorum iudicem constituens. In Eius Spiritu vivificati et coadunati, versus historiae humanae peregrinamur consummationem, quae cum consilio Eius dilectionis plene congruit: "Instaurare omnia in Christo, quae in caelis et quae in terra sunt" (Eph 1,10).  万物がそれによって作られた神のことば自身が肉となったのは、完全な人間として、すべての人間を救い、万物をまとめるためであった。主は人間の歴史の終局、歴史と文明の熱望の焦点、人類の中心、すべての心の喜び、すべての期待の成就である。父はかれらを死者からよみがえらせ、高くあげ、その右にすわらせ、生者と死者の審判者に定めた。われわれは彼の霊によって生かされ集められて、人類史の完結に向かって旅している。それは「天と地にあるすべてのものをキリストに置いて刷新する」(エフェソ 1:10)という神の愛の計画にまったく一致する。
Dicit Ipse Dominus: "Ecce venio cito, et merces mea mecum est, reddere unicuique secundum opera sua. Ego sum alpha et omega, primus et novissimus, principium et finis" (Apoc 22,12-13).  主自身が、「わたしはすぐに来る。それぞれの人にその働きに応じて報いるために、わたしは報いを携えて来る。わたしはアルファでありオメガである。最初であり最後である。原始であり終局である」(黙示録 22:12-13)と言っている。..

(81) Cf. PAULUS VI, Litt. Encycl. Ecclesiam suam, III: AAS 56 (1964), pp. 637-659.
(82) Cf. Tit. 3, 4: «philanthropia».
(83) Cf. Eph. 1, 3; 5-6; 13-14; 23.
(84) CONC. VAT. II, Const. dogm. de Ecclesia, Lumen gentium, cap. I, n. 8: AAS 57 (1965), p. 12.
(85) Ibid., cap. II, n. 9: AAS 57 (1965), p. 14; cf. n. 8: AAS, l. c., p. 11.
(86) Ibid., cap. I, n. 8: AAS 57 (1965), p. 11. (87) Cf. ibid., cap. IV, n. 38: AAS 57 (1965), p. 43, cum nota 120.
(88) Cf. Rom. 8, 14, 17.
(89) Cf. Mt. 22, 39.
(90) Cf. CONC. VAT. II, Const. dogm. de Ecclesia, Lumen gentium, cap. II, n. 9: AAS 57 (1965), pp. 12-14.
(91) Cf. PIUS XII, Allocutio ad cultores historiae et artis, 9 martii 1956: AAS 48 (1956), p. 212: «Son Divin Fondateur, Jésus-Christ, ne lui a donné aucun mandat ni fixé aucune fin d'ordre culturel. Le but que le Christ lui assigne est strictement religieux (...). L'Eglise doit conduire les hommes à Dieu, afin qu'ils se livrent à lui sans réserve (...). L'Eglise ne peut jamais perdre de vue ce but strictement religieux, surnaturel. Le sens de toutes ses activités, jusqu'au dernier canon de son Code, ne peut être que d'y concourir directement ou indirectement».
(92) CONC. VAT. II, Const. dogm. de Ecclesia, Lumen gentium, cap. I, n. 1: AAS 57 (1965), p. 5.
(93) Cf. Hebr. 13, 14.
(94) Cf. 2 Thess. 3, 6-13; Eph. 4, 28.
(95) Cf. Is. 58, 1-12.
(96) Cf. Mt. 23, 3-33; Mc. 7, 10-13.
(97) Cf. IOANNES XXIII, Litt. Encycl. Mater et Magistra, IV: AAS 53 (1961), pp. 456-457 et I: l. c., pp. 407, 410-411.
(98) Cf. CONC. VAT. II, Const. dogm.. de Ecclesia, Lumen gentium, cap. III, n. 28: AAS 57 (1965), pp. 34-35.
(99) Ibid., n. 28: AAS l. c., pp. 35-36.
(100) Cf. S. AMBROSIUS, De virginitate, cap. VIII, n. 48: PL 6, 278.
(101) CONC. VAT. II, Const. dogm. de Ecclesia, Lumen gentium, cap. II, n. 15: AAS 57 (1965), p. 20.
(102) Cf. CONC. VAT. II, Const. dogm. de Ecclesia, Lumen gentium, cap. II, n. 13: AAS 57 (1965), p. 17.
(103) Cf. IUSTINUS, Dialogus cum Tryphone, cap. 110: PG 6, 729; ed. Otto, 1897, pp. 391-393: «... sed quanto magis talia nobis infliguntur, tanto plures alii fideles et pii per nomen Iesu fiunt». Cf. TERTULLIANUS, Apologeticus, cap. L, 13: PL 1, 534; Corpus Christ., ser. lat. I, p. 171: «Etiam plures efficimur, quoties metimus a vobis: semen est sanguis Christianorum!». Cf. Const. dogm. de Ecclesia, Lumen gentium, cap. II, n. 9: AAS 57 (1965), p. 14.
(104) Cf. CONC. VAT. II, Const. dogm. de Ecclesia, Lumen gentium, cap. VII, n. 48: AAS 57 (1965), p. 53.
(105) Cf. PAULUS VI, Allocutio die 3 feb. 1965 habita: L'Osservatore Romano, 4 febbraio 1965.

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「現代世界憲章」Gaudium et Spes 第一部 教会と人間の召命 第3章 世界における人間活動 の羅和対訳

2019年11月30日 | カトリック・ニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
第2バチカン公会議公文書の「現代世界憲章」の「第一部 教会と人間の召命 第3章 世界における人間活動」の原文を対訳でご紹介します。

Caput III 第3章
DE HUMANA NAVITATE IN UNIVERSO MUNDO 世界における人間活動
33. Ponitur problema. 33(問題提起)
Suo labore atque ingenio homo suam vitam amplius evolvere semper conatus est; hodie autem, praesertim ope scientiae et artis technicae, suum dominium in universam fere naturam dilatavit ac iugiter dilatat, et adiuvantibus imprimis auctis inter nationes multimodi commercii mediis, familia humana paulatim tamquam unam in universo mundo communitatem sese agnoscit atque constituit. Quo fit, ut multa bona, quae olim homo a supernis viribus praesertim exspectabat, hodie iam propria industria sibi procuret.  人間は労働と才能をもって、自分の生活を向上させるよう常に努力してきた。今日では、特に科学と技術によって、人間はその支配権をほとんど全自然界に広げてきたし、また常に広げている。そして特に諸国間の多種多様な交流手段の増加のおかげで、人類家族は徐々に全世界における一つの共同体として自覚を強め、またそうなりつつある。その結果、人間は過去において特に天上の力に期待した多くの恩沢を、今日ではもはや自分の努力で獲得している。
Coram immenso hoc conamine, quod totum humanum genus iam pervadit, multae exsurgunt inter homines interrogationes. Quinam est illius operositatis sensus et valor? Quomodo omnibus his rebus utendum est? Ad quem finem assequendum nisus sive singulorum sive societatum tendunt? Ecclesia, quae depositum verbi Dei custodit, ex quo principia in ordine religioso et morali hauriuntur, quin semper de singulis quaestionibus responsum in promptu habeat, lumen revelationis cum omnium peritia coniungere cupit, ut iter illuminetur, quod humanitas nuper ingressa est.  すでに全人類に行きわたっているこの巨大な努力を前にして、人々は多くの疑問をいだいている。これら懸命な人間活動の意味と価値はなにか。これらすべてのものをどのように使うべきか。これらの個人的そして社会的な努力は何を目的としているのか。神のことばの遺産を保管し、そこから宗教と道徳の分野における諸原理をくみとる教会は、個々の問題について常に解答をもち合わせていないが、啓示の光をすべての人の経験と合わせて、人類が近年踏み入った行路を照らそうと望んでいる。
34. De valore humanae navitatis. 34(人間活動の価値)
Hoc credentibus ratum est, navitatem humanam individualem et collectivam, seu ingens illud conamen, quo homines decursu saeculorum suae vitae condiciones in melius mutare satagunt, in seipso consideratum, Dei proposito respondere. Homo enim, ad imaginem Dei creatus, mandatum accepit ut, terram cum omnibus quae in ea continentur sibi subiciens, mundum in iustitia et sanctitate regeret (57) utque, Deum omnium Creatorem agnoscens, seipsum ac rerum universitatem ad Ipsum referret, ita ut rebus omnibus homini subiectis, admirabile sit nomen Dei in universa terra (58).  人間の個人活動および団体活動、すなわち人間が生活条件を向上させるために諸世紀の流れを通して行ってきた巨大な努力は、それ自体として考える場合、神の計画に沿っていることは、信仰ある者にとっては確実である。事実、神の像として作られた人間は、大地とそこに含まれる万物を支配し、世界を正義と聖性のうちに統治し、また万物の創造主である神を認めて、人間自身とあらゆる物を神に関連させるようにとの命令を受けた。こうして万物が人間に服従すれば、全世界において神の名が賛美されるであろう。
Quod etiam opera penitus quotidiana respicit. Viri namque et mulieres qui, dum vitae sustentationem sibi et familiae comparant, navitates suas ita exercent ut societati opportune ministrent, iure existimare possunt se suo labore opus Creatoris evolvere, commodis fratrum suorum consulere, et ad consilium divinum in historia adimplendum personali industria conferre (59).  この命令は日常の仕事にも適用される。自分と自分の家族のために生活費をかせぎながら、自分の活動を社会の奉仕に役立てるように働く男女は、当然、自分の労働を創造主の働きの延長、兄弟たちへの奉仕、歴史に神の計画を実現するための個人的貢献であると考えることができる。
Christiani itaque, nedum arbitrentur opera, quae homines suo ingenio et virtute pepererunt, Dei potentiae opponi, creaturamque rationalem quasi aemulam Creatoris exsistere, potius persuasum habent humani generis victorias signum esse magnitudinis Dei et fructus ineffabilis Ipsius consilii. Quo magis vero hominum potentia crescit, eo latius ipsorum responsabilitas, sive singulorum sive communitatum extenditur. Unde apparet christiano nuntio homines ab exstruendo mundo non averti, nec ad bonum sui similium negligendum impelli, sed potius officio haec operandi arctius obstringi (60).  したがってキリスト者は、人間の才能と努力が産み出した仕事が神の権力に反抗するものとか、理性をもつ被造物が神の競争相手であるとはけっして考えず、むしろ、人類の勝利は神の偉大さのしるしであり、神の計りがたい計画の結実であると確信している。しかし、人間の力が増せば増すほど、それだけ個人としても共同体としても人間の責任は大きくなる。キリスト教のメッセージは世界の建設から人々の手を引かせ、仲間たちの福祉を無視するように励ますものではなく、むしろ、これらを実行するよう強く義務づけるものである。
35. De humana navitate ordinanda. 35(人間活動の規則)
Humana vero navitas, sicut ex homine procedit, ita ad hominem ordinatur. Homo enim, cum operatur, non tantum res et societatem immutat, sed et seipsum perficit. Multa discit, facultates suas excolit, extra se et supra se procedit. Huiusmodi incrementum, si recte intelligatur, maioris pretii est quam externae quae colligi possunt divitiae. Magis valet homo propter id quod est quam propter id quod habet (61). Pariter, omnia quae homines, ad maiorem iustitiam, ampliorem fraternitatem, humanioremque ordinationem in socialibus necessitudinibus obtinendam agunt, plus quam progressus technici valent. Hi enim progressus quasi materiam humanae promotioni praebere possunt, illam autem per se solos ad actum nequaquam deducunt.  人間活動が人間から出るように、それは人間に向かっている。人間は活動することによって物と社会とを変えるだけでなく、自分自身を完成させる。人間は多くのことを学び、能力を養い、自分の外に、そして自分の上に出る。正しく理解するならば、このような成長は外的な富の蓄積よりも価値がある。人間の価値はその人の持ち物によるのではなく、その人自体によるのである。同時に、より大きい正義を行うために、さらに兄弟愛を広めるため、社会関係の中にいっそう人間的秩序を打ち立てるために行われるすべてのことは、技術の進歩よりも価値がある。技術は人間向上のための材料を提供するが、それだけでは人間向上を実現することはできないからである。
Unde haec est humanae navitatis norma, quod iuxta consilium et voluntatem divinam cum genuino humani generis bono congruat, et homini individuo vel in societate posito integrae suae vocationis cultum et impletionem permittat.  したがって、人間活動の規則は次のようなものである。すなわち、人間活動は神の計画と意志に基づいて人類の真実の福祉に合致し、また個人および社会人としての人間に自分の召命を欠けるところなく追求し実現することを許すものでなければならない。
36. De iusta rerum terrenarum autonomia. 36(地上の現実の正しい自律)
Multi tamen coaevi nostri timere videntur, ne ex arctiore humanae navitatis et religionis coniunctione autonomia hominum vel societatum vel scientiarum impediatur.  しかし、多くの現代人は人間活動と宗教との密接な結びつきは、人間や社会や学問の自律を危険にするのではないかと恐れているように見える。
Si per terrenarum rerum autonomiam intelligimus res creatas et ipsas societates propriis legibus valoribusque gaudere, ab homine gradatim dignoscendis, adhibendis et ordinandis, eamdem exigere omnino fas est: quod non solum postulatur ab hominibus nostrae aetatis, sed etiam cum Creatoris voluntate congruit. Ex ipsa enim creationis condicione res universae propria firmitate, veritate, bonitate propriisque legibus ac ordine instruuntur, quae homo revereri debet, propriis singularum scientiarum artiumve methodis agnitis. Ideo inquisitio methodica in omnibus disciplinis, si modo vere scientifico et iuxta normas morales procedit, numquam fidei revera adversabitur, quia res profanae et res fidei ab eodem Deo originem ducunt (62). Immo, qui humili et constanti animo abscondita rerum perscrutari conatur, etsi inscius quasi manu Dei ducitur qui, res omnes sustinens, facit ut sint id quod sunt. Hinc deplorare liceat quosdam animi habitus, qui aliquando inter christianos ipsos, ob non satis perspectam legitimam scientiae autonomiam, non defuerunt et, contentionibus controversiisque exinde suscitatis, plurium animos eo perduxerunt ut fidem et scientiam inter se opponi censerent (63).  地上の諸現実の自律ということによって、被造物や社会そのものが独自の法則と価値を持ち、人間はそれをしだいに発見、利用、調整していくものと解釈するならば、それを要求するのは当然である。それは現代人によって要求されるばかりでなく、創造主の意志にもそうものである。事実、万物は、造られたものという条件によって、それぞれの安定、真理、善、固有の法則、秩序を賦与されている。人間はそれらすべてを尊重し、各種の学問と技術の固有の方法を承認しなければならない。したがって、あらゆる学問的分野における研究は、真実の学問的方法と倫理の法則に従って行われるものであれば、けっして信仰に対立することはない。世俗の現実と信仰の現実とは、ともに同じ神に起源をもつものだからである。むしろ、謙虚と忍耐をもって事物の秘密を知ろうと努力する者は、万物をささえて、そのものとして存在させている神の手に知らずに導かれているのである。したがって、ときにはキリスト者自身の間にもあったが、学問の正当な自律を十分に認めないような態度を嘆かないではいられない。そのような態度は、対立や論争を引き起こし、多くの人に信仰と科学とが対立するという考えをいだかせた。
At si verbis rerum temporalium autonomia intelligitur res creatas a Deo non pendere, eisque hominem sic uti posse ut easdem ad Creatorem non referat, nemo qui Deum agnoscit non sentit quam falsa huiusmodi placita sint. Creatura enim sine Creatore evanescit. Ceterum, omnes credentes, cuiuscumque sint religionis, vocem et manifestationem Eius in creaturarum loquela semper audierunt. Immo, per oblivionem Dei ipsa creatura obscuratur.  しかし、「地上の諸現実の自律」ということによって、被造物は神に依存するものではなく、人間がそれを創造主に関係づけることなしに利用できるという意味に解釈するならば、神を認める者はだれでも、このような考え方が誤っているとみなす。事実、創造主なくしては被造物は消えうせる。それに、どのような宗教に属するにせよ、信仰者はすべて、被造物の語ることばのうちに神の現われと声とを常に聞いたのである。しかも、神を忘れることによって、被造物さえも理解しがたくなる。
37. De humana navitate a peccato corrupta. 37(罪に毒された人間活動)
Sacra vero Scriptura, cui saeculorum consentit experientia, humanam familiam edocet progressum humanum, qui magnum hominis bonum est, magnam tamen tentationem secumferre: ordine enim valorum turbato et malo cum bono permixto, singuli homines ac coetus solummodo quae propria sunt considerant, non vero aliorum. Quo fit ut mundus non iam spatium verae fraternitatis exsistat, dum aucta humanitatis potentia iam ipsum genus humanum destruere minatur.  聖書は、人間の進歩が人間に大きな福祉をもたらすが、大きな誘惑を伴うものであることを、人類家族に教える。諸世紀にわたる経験もこの教えに一致する。事実、価値の秩序が乱され、善と悪とが混同されるとき、個人や団体は自分のことだけを考えて、他人のことを考えない。その結果、世界は真の兄弟的集まりの場所ではなくなり、増大した人間の力が人類そのものを破壊するおそれが生じる。
Universam enim hominum historiam ardua colluctatio contra potestates tenebrarum pervadit, quae inde ab origine mundi incepta, usque ad ultimum diem, dicente Domino (64), perseverabit. In hanc pugnam insertus, homo ut bono adhaereat iugiter certare debet, nec sine magnis laboribus, Dei gratia adiuvante, in seipso unitatem obtinere valet.  やみの権力に対する苦しい戦いは、人間の歴史全体に行きわたっている。それは世の初めから始まったものであり、最後の日まで続く、と主は言っている。この戦いに巻き込まれている人間が、善から離れないためには常に戦わなければならず、神の恩恵の助けと大きな努力なしには、自己の統一を実現することも出来ない。
Quapropter Ecclesia Christi, Creatoris consilio fidens, dum agnoscit progressum humanum verae hominum felicitati inservire posse, non potest tamen quin illud Apostoli resonare faciat: "Nolite conformari huic saeculo" (Rom 12,2), illi scilicet vanitatis et malitiae spiritui qui humanam navitatem, ad servitium Dei et hominis ordinatam, in instrumentum peccati transmutat.  したがって、キリストの教会は、創造主の計画に信頼して、人間の進歩が人々の真の幸福に役立つことを認めるとともに、「この世に従ってはいけない」(ロマ 12:2)という使徒のことばをくりかえして叫ばざるを得ない。ここで言うこの世とは、神と人間の奉仕に定められている人間活動を、罪の道具に変えてしまう虚栄と悪意に満ちた精神を指している。
Si quis ergo quaerit, qua ratione miseria illa superari possit, christiani profitentur, omnes hominis navitates, quae per superbiam et inordinatum sui ipsius amorem cotidie in discrimine versantur, Christi cruce et resurrectione purificandas et ad perfectionem deducendas esse. A Christo enim redemptus et in Spiritu Sancto nova creatura effectus, homo ipsas res a Deo creatas amare potest et debet. A Deo enim illas accipit et quasi de manu Dei fluentes respicit et reveretur. Pro illis Benefactori gratias agens et in paupertate et libertate spiritus creaturis utens ac fruens, in veram mundi possessionem introducitur, tamquam nihil habens et omnia possidens (65). "Omnia enim vestra sunt: vos autem Christi, Christus autem Dei" (1 Cor 3,22-23).  どのようにすれば、このように不幸な状態を克服できるかと問う人に対して、キリスト者は、高慢と乱れた自己愛によって毎日危険にさらされているあらゆる人間活動を、キリストの十字架と復活によって清め、完成に導くべけいであると答える。キリストによってあがなわれ、聖霊において新しい被造物とされた人間は、神によって造られたものを愛することができるし、また愛さなければならない。事実、人間はそれらを神から受け、神の手から流れ出るものとしてながめ、尊重する。人間は被造物について恵み深い神に感謝し、清貧と自由の清心をもって被造物を使い利用し、何も持っていないが、すべてを所有している者として、真に世界を所有する者となる。「すべてはあなたがたのものである。しかし、あなたがたはキリストのものであり、キリストは神のものである」(1コリント 3:22-23)。
38. De humana navitate in paschali mysterio ad perfectionem adducta. 38(復活秘義において完成に導かれた人間活動)
Verbum enim Dei, per quod omnia facta sunt, Ipsum caro factum et in hominum terra habitans (66), perfectus homo in historiam mundi intravit, eam in Se assumens et recapitulans (67). Ipse nobis revelat, "quoniam Deus caritas est" (1 Io 4,8), simulque nos docet legem fundamentalem perfectionis humanae, ac proinde transformationis mundi, novum dilectionis esse mandatum. Eos igitur, qui divinae credunt caritati, certos facit, viam dilectionis omnibus hominibus aperiri et conamen fraternitatem universalem instaurandi non esse inane. Simul monet, hanc caritatem non in solis magnis rebus sectandam esse, sed et imprimis in ordinariis vitae adiunctis. Pro nobis omnibus peccatoribus mortem sustinens (68), suo exemplo nos docet crucem etiam baiulandam esse, quam caro et mundus pacem et iustitiam sectantium humeris imponunt. Sua resurrectione Dominus constitutus, Christus, cui omnis potestas in caelo et in terra data est (69), per virtutem Spiritus Sui in cordibus hominum iam operatur, non solum venturi saeculi desiderium suscitans, sed eo ipso illa etiam generosa vota animans, purificans et roborans, quibus familia humana suam ipsius vitam humaniorem reddere et totam terram huic fini subiicere satagit. Diversa autem sunt Spiritus dona: dum alios vocat ut caelestis habitationis desiderio manifestum testimonium reddant illudque in humana familia vividum conservent, alios vocat ut terreno hominum servitio se dedicent, hoc suo ministerio materiam regni caelestis parantes. Omnes tamen liberat ut, proprio amore abnegato omnibusque terrenis viribus in vitam humanam assumptis, ad futura se extendant, quando humanitas ipsa fiet oblatio accepta Deo (70).  万物を造った神のことば自身が受肉して地上に住み、完全な人間として世界の歴史の中にはいり、それを集めた。キリストは「神は愛である」(ヨハネ4:8)ことをわれわれに啓示し、同時に、新しい愛のおきてが人間完成と世界改革の根本法則であると教えた。したがって、キリストは神の愛を信ずる者に、愛の道がすべての人間に開かれていること、善人類の兄弟的集まりを確立する努力が無駄なものではない、という確信を与える。同時に、この愛は重大な事がらだけではなく、まず普通の生活環境の中においても実践すべきものである、と忠告する。キリストは罪びとであるわれわれのために死を甘んじて受け、自分の模範によって、肉と世が平和と正義を求める人々の肩に負わせる十字架を、われわれもになうべきであることを教える。復活によって主に立てられ、天と地における全権を与えられたキリストは、その霊の力をもって人々の心の中にすでに働いている。キリストは来るべき世に対する願望を起こさせ、それによって、生活をいっそう人間らしいものにし、地上全体をこの目的に従わせようと努力する人類家族の心をこめた願いを力づけ、清め、強める。霊のたまものはいろいろである。霊はある人を、天上の生活の望みについて公然とあかしを立て、人類家族の中にこの望みをいきいきと保つように呼ぶ。ある人を、人々に対する地上的奉仕のために身をささげ、この役務によって天国のことを準備するように呼ぶ。しかし、霊はすべての人を解放して、かれらが自己愛を放棄して、人間生活のためにすべての地上的力を結集し、人類そのものが神に喜ばれる供え物となる未来の時を目さして努力させる。
Cuius spei arrham et itineris viaticum Dominus suis reliquit in illo sacramento fidei, in quo naturae elementa, ab hominibus exculta, in Corpus et Sanguinem gloriosum convertuntur, coena communionis fraternae et caelestis convivii praelibatione.  主はこの希望の保証と人生の旅路のかてとして信仰の秘跡を残した。この秘跡において、人間によって手を加えられた自然の要素は、栄光あるキリストの体と血に変わる。それは兄弟的交わりの晩さんであり、天上の祝宴の予行である。
39. Terra nova et caelum novum. 39(新しい天と地)
Terrae ac humanitatis consummandae tempus ignoramus (71), nec universi transformandi modum novimus. Transit quidem figura huius mundi per peccatum deformata (72), sed docemur Deum novam habitationem novamque terram parare in qua iustitia habitat (73), et cuius beatitudo omnia pacis desideria, quae in cordibus hominum ascendunt, implebit ac superabit (74). Tunc, morte devicta, filii Dei in Christo resuscitabuntur, et id quod seminatum fuit in infirmitate ac corruptione, incorruptionem induet (75); et, manente caritate eiusque opere (76), a servitute vanitatis liberabitur tota creatura illa (77), quam Deus propter hominem creavit.  われわれは地と人類の完結の時を知らないし、すべてがどのように変えられるかを知らない。罪によって醜く変形した世界の様相は確かに過ぎ去る。しかし、神によって新しい住居と新しい地が用意され、そこには正義が支配し、その幸福は人間の心にある平和への願望をすべて満たし、それを超えることをわれわれは教えられている。そのとき死は打ち負かされ、神の子らはキリストにおいて復活し、虚弱と腐敗の中にまかれたものは腐敗しないものを身にまとう。そして愛とそのわざが残り、神が人間のために造ったすべての被造物は虚栄の奴隷状態から解放される。
Monemur sane nihil prodesse homini, si universum mundum lucretur, seipsum autem perdat (78). Exspectatio tamen novae terrae extenuare non debet, sed potius excitare, sollicitudinem hanc terram excolendi, ubi Corpus illud novae familiae humanae crescit quod aliqualem novi saeculi adumbrationem iam praebere valet. Ideo, licet progressus terrenus a Regni Christi augmento sedulo distinguendus sit, inquantum tamen ad societatem humanam melius ordinandam conferre potest, Regni Dei magnopere interest (79).  全世界をもうけても、自分を失うならば、なんのためにもならないとさとされている。しかし、新しい地に対する期待は、現在のこの地を開拓する努力を弱めるものであってはならず、かえってそれを励ますものでなければならない。この地上において、すでに新しい世をいくらか表わしている新しい人類家族の共同体が育っている。したがって、地上の進歩は、キリストの国の発展からはっきり区別されなければならないが、人間社会の向上に寄与することができる限り、神の国にとっても重要である。
Bona enim humanae dignitatis, communionis fraternae et libertatis, hos omnes scilicet bonos naturae ac industriae nostrae fructus, postquam in Spiritu Domini et iuxta Eius mandatum in terris propagaverimus, postea denuo inveniemus, mundata tamen ab omni sorde, illuminata ac transfigurata, cum Christus Patri reddet regnum aeternum et universale: "regnum veritatis et vitae, regnum sanctitatis et gratiae, regnum iustitiae, amoris et pacis" (80). His in terris Regnum iam in mysterio adest; adveniente autem Domino consummabitur.  事実、われわれは、人間の尊厳、兄弟的交わり、自由など、すなわち、人間の本性と努力のすばらしい実りであるこれらすべての価値あることを、主の霊において、また主のおきてに従って、地上に広めた後、それらをあらゆる汚れから清められたもの、光り輝くもの、変容したものとして再び見いだすであろう。それはキリストが「永遠普遍の国、すなわち、真理と生命の国、聖性と恩恵の国、正義と愛と正義の国」を父に返すときである。この国は地上においてすでに秘義として存在するが、主の再臨をもって完成されるのである。

(57) Cf. Gen. 1, 26-27; 9, 2-3; Sap. 9, 2-3.
(58) Cf. Ps. 8, 7 et 10.
(59) Cf. IOANNES XXIII, Litt. Encycl. Pacem in terris: AAS 55 (1963), p. 297.
(60) Cf. Nuntius ad universos homines a Patribus missus ineunte Concilio Vaticano II, oct. 1962: AAS 54 (1962), pp. 822-823.
(61) Cf. PAULUS VI, Alloc. ad Corpus diplomaticum, 7 ian. 65: AAS 57 (1965), p. 232.
(62) Cf. CONC. VAT. I, Const. dogm. De fide cath., Dei Filius, cap. III: DENZ. 1785-1786 (3004-3005).
(63) Cf. PIO PASCHINI, Vita e opere di Galileo Galilei, 2 vol., Pont. Accademia delle Scienze, Città del Vatic., 1964.
(64) Cf. Mt. 24, 13; 13, 24-30 et 36-43.
(65) Cf. 2 Cor. 6, 10.
(66) Cf. Io. 1, 3 et 14.
(67) Cf. Eph. 1, 10.
(68) Cf. Io. 3, 14-16; Rom. 5, 8-10.
(69) Cf. Act  2, 36; Mt 28, 18.
(70) Cf. Rom. 15, 16.
(71) Cf. Act. 1, 7.
(72) Cf. I Cor. 7, 31; S. IRENAEUS, Adversus haereses, V, 36, : PG 7, 1222.
(73) Cf. 2 Cor. 5, 2; 2 Petr. 3, 13.
(74) Cf. I Cor. 2, 9; Apoc. 21, 4-5.
(75) Cf. I Cor. 15, 42 et 53.
(76) Cf. I Cor. 13, 8; 3, 14.
(77) Cf. Rom 8, 19-21.
(78) Cf. Lc. 9, 25.
79) Cf. PIUS XI, Litt. Encycl. Quadragesimo anno: AAS 23 (1931), p. 207.
(80) Missale romanum, praefatio festi Christi Regis.

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「現代世界憲章」Gaudium et Spes 第一部 教会と人間の召命 第2章 人間共同体の羅和対訳

2019年11月30日 | カトリック・ニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
第2バチカン公会議公文書の「現代世界憲章」の「第一部 教会と人間の召命 第2章 人間共同体」の原文を対訳でご紹介します。

Caput II 第2章
DE HOMINUM COMMUNITATE 人間共同体
23. Quid Concilium intendat. 23(公会議の意図)
Inter praecipuos mundi hodierni aspectus, mutuarum inter homines necessitudinum multiplicatio adnumeratur, ad quam evolvendam hodierni technici progressus plurimum conferunt. Tamen fraternum hominum colloquium non in istis progressibus, sed profundius in personarum communitate perficitur, quae mutuam reverentiam erga plenam earum dignitatem spiritualem exigit. Ad hanc vero communionem inter personas promovendam, Revelatio christiana magnum subsidium affert, simulque ad altiorem vitae socialis legum intelligentiam nos perducit quas Creator in natura spirituali ac morali hominis inscripsit. 現代世界の様相の主要なものの一つとして、人々の相互関係の多様化があげられ、現代技術の進歩はその発展に大いに寄与している。しかし、人間同士の兄弟的話し合いは、このような技術的進歩の段階においてではなく、もっと深い人格的な交わりの段階において完成されるものであり、そのためには、人間の精神的尊厳を十分に相互に尊敬することが要求される。キリストの啓示はこのような人格的交わりの促進に大いに貢献するものであるとともに、創造主が人間の精神的、倫理的本性に刻み付けた社会生活の諸法則についてのいっそう深い理解にわれわれを導く。
Quoniam autem recentiora Ecclesiae Magisterii documenta christianam de societate humana doctrinam fusius exposuerunt (43), Concilium quasdam tantum principaliores veritates in memoriam revocat earum que fundamenta sub luce Revelationis exponit. Deinde in quaedam consectaria insistit quae nostris diebus maioris sunt momenti.  教会の教導権による最近の諸文献は、人間社会についてのキリスト教的教説を広範に叙述しているので、公会議は単に、その中の主要な真理を思い起こさせ、啓示の光のもとにそれらの根拠を解明する。さらに、現代において特に重要な意味をもつ若干の関連事項について詳しく述べる。
24. De indole communitaria vocationis humanae in consilio Dei. 24(人間の召命の共同体性格)
Deus, qui paternam curam omnium habet, voluit ut cuncti homines unam efficerent familiam fraternoque animo se invicem tractarent. Omnes enim creati ad imaginem Dei, qui fecit "ex uno omne genus hominum inhabitare super universam faciem terrae" (Act 17,26), ad unum eumdemque finem, id est ad Deum ipsum, vocantur.  すべての人について父として配慮する神は、すべての人間が一つの家族を構成して相互に兄弟の精神をもって接することを望んだ。事実、すべての人は神の像として創造されたのであり、神は「一つの根源から出た全人類を地の全面に住むように」(使徒 17:26)させたのであって、人はすべて唯一同一の目的、すなわち神自身をめざすよう呼ばれている。
Quapropter dilectio Dei et proximi primum et maximum mandatum est. A Sacra autem Scriptura docemur Dei amorem a proximi amore seiungi non posse: "... si quod est aliud mandatum, in hoc verbo instauratur: Diliges proximum tuum sicut teipsum... Plenitudo ergo legis est dilectio" (Rom 13,9-10; Cf 1 Io 4,20). Quod vero hominibus magis in dies ab invicem dependentibus atque mundo magis in dies unificato maximi comprobatur esse momenti.  したがって、神と隣人とに対する愛は第一の、そして最大のおきてである。聖書は神に対する愛を隣人愛から切り離すことができない教えている。「・・・他のすべてのおきては、『なんじの隣人を自分のように愛せよ』とのことばに要約される。・・・したがって法の完成は愛である」(ロマ 13:9-10、ヨハネ 4:20)。このことは、ますます相互に依存するようになってゆく人間にとって、また、日増しに一つになってゆく世界にとって、最も重要であることは明白である。
Immo Dominus Iesus, quando Patrem orat ut "omnes unum sint..., sicut et nos unum sumus" (Io 17,21-22), prospectus praebens humanae rationi impervios, aliquam similitudinem innuit inter unionem personarum divinarum et unionem filiorum Dei in veritate et caritate. Haec similitudo manifestat hominem, qui in terris sola creatura est quam Deus propter seipsam voluerit, plene seipsum invenire non posse nisi per sincerum sui ipsius donum (44).  なお主イエズスは、「われわれが一つであるように・・・・すべての人が一つになるように」(ヨハネ 17:21-22)と父に祈ったとき、人間理性が達することのできない視野を示したのであって、三位の神格の一致と、真理と愛における神の子らの一致との間の、ある類似をほのめかしている。この類似は、そのもの自体のために神が望んだ地上における唯一の被造物である人間が、自分自身を無私無欲の気持ちで与えなければ、完全に自分自身を見いだせないことを表わしている。
25. De interdependentia humanae personae et humanae societatis. 25(人間と社会の相互依存)
Ex sociali hominis indole apparet humanae personae profectum et ipsius societatis incrementum ab invicem pendere. Etenim principium, subiectum et finis omnium institutorum socialium est et esse debet humana persona, quippe quae, suapte natura, vita sociali omnino indigeat (45). Cum igitur vita socialis non sit homini quid adventicium, ideo commercio cum aliis, mutuis officiis, colloquio cum fratribus, quoad omnes suas dotes grandescit homo, et suae vocationi respondere potest.  人間の社会的性質は、人間の進歩と社会の発展とが相互に依存していることを示している。事実、人間(ペルソナ)はその本性上、どうしても社会生活を必要とするものである。そのため、あらゆる社会制度の起源、主体、目的は人間であり、また人間でなければならない。社会生活は人間に追加されたものではない。したがって、人間は他人との交流、相互奉仕、兄弟たちとの話し合いを通して自分のあらゆる才能を伸ばし、自分の召命に答えることができる。
Ex socialibus vinculis, quae homini excolendo necessaria sunt, alia, uti familia et communitas politica, intimae eius naturae immediatius congruunt; alia potius ex eius libera voluntate procedunt. Nostra hac aetate, variis de causis, mutuae necessitudines et interdependentiae in dies multiplicantur; unde diversa oriuntur consociationes et instituta sive publici sive privati iuris. Hoc autem factum, quod socializatio nuncupatur, licet periculis sane non careat, multa tamen secum emolumenta affert ad confirmandas et augendas humanae personae qualitates eiusque iura tuenda (46).  人間の発展に必要な社会的結びつきの中で、あるものは家庭や政治共同体のように、人間の深遠な本性にもっと直接に適応するものであり、あるものはむしろ自由意志に基づくものである。現代においては種々の原因によって、相互連帯と相互依存はますます多様化し、その結果、公法なたは私法上のいろいろな会や制度がつくられている。社会化と呼ばれるこの現象は、危険がないわけではないが、人間の才能の肯定と発展のため、また人間の権利を擁護するために多くの有利な条件を提供してくる。
Sed si personae humanae ad suam vocationem adimplendam, etiam religiosam, ex hac vita sociali multum accipiunt, negari tamen nequit homines ex adiunctis socialibus in quibus vivunt et, inde ab infantia, immerguntur, saepe a bono faciendo averti et ad malum impelli. Certum est perturbationes, tam frequenter in ordine sociali occurrentes, ex ipsa formarum oeconomicarum, politicarum et socialium tensione pro parte provenire. Sed penitius ex hominum superbia et egoismo oriuntur, quae etiam ambitum socialem pervertunt. Ubi autem ordo rerum sequelis peccati afficitur, homo, proclivis ad malum natus, nova deinde ad peccatum incitamenta invenit, quae, sine strenuis gratia adiuvante conatibus, superari nequeunt.  しかし、人間は宗教的召命を含む自分の召命を成就するために、社会化ら多くのものを受けとるが、人々は子供のときから自分が育ち生活してきた社会環境によって、しばしば善から遠ざけられて悪に押しやられることを否定できない。確かに、頻繁に起こる社会秩序の乱れは、一部は経済・政治・社会形態の緊張によるが、根本的には人間の高慢と利己主義に基づくものであって、これらは社会環境をも退廃させる。ものの秩序が罪の結果によって腐敗している所では、生まれつき悪に傾きやすい人間は、罪への新たな扇動を感じるものであり、恩恵の助けと熱心な努力なしにはこれに打ち勝つことができない。
26. De bono communi promovendo. 26(共通善の促進)
Ex interdependentia in dies strictiore et paulatim ad mundum universum diffusa sequitur bonum commune - seu summam eorum vitae socialis condicionum quae tum coetibus, tum singulis membris permittunt ut propriam perfectionem plenius atque expeditius consequantur - hodie magis magisque universale evadere, et exinde iura officiaque implicare, quae totum humanum genus respiciunt. Quilibet coetus necessitatum et legitimarum appetitionum aliorum coetuum, immo boni communis totius familiae humanae, rationem habere debet (47).  相互依存が日増しに緊密になり、徐々に世界に広がっていくことによって、共通善---すなわち集団とその構成員とが、より完全に、いっそう容易に自己の完成に達することができるような社会生活の諸条件の総体---は、今日ますます世界に広がりを持つものとなる。その結果、人類全体に関する権利と義務を含む者となった。どの集団も他の集団の必要と正当な要求、さらには人類家族の旧通善を考慮しなければならない。
Simul vero conscientia crescit eximiae dignitatis quae personae humanae competit, cum ipsa rebus omnibus praestet, et eius iura officiaque universalia sint atque inviolabilia. Oportet ergo ut ea omnia homini pervia reddantur, quibus ad vitam vere humanam gerendam indiget, ut sunt victus, vestitus, habitatio, ius ad statum vitae libere eligendum et ad familiam condendam, ad educationem, ad laborem, ad bonam famam, ad reverentiam, ad congruam informationem, ad agendum iuxta rectam suae conscientiae normam, ad vitae privatae protectionem atque ad iustam libertatem etiam in re religiosa.  しかし、これと同時に、人間のすぐれた尊厳についての自覚も増している。人間はあらゆる物にまさるものであり、その権利と義務は普遍的で、侵すことのできないものだからである。したがって、真に人間らしい生活を送るために必要なすべてのことを、人々が手に入れやすいようにしなければならない。それらは、たとえば食料、衣服、住居、身分選択の自由と家庭をつくることに関する権利、教育に関する権利、労働の権利、名誉と尊敬に関する権利、適正な報道に関する権利、自己の正しい良心に従って行動する権利、私生活を守る権利、信教の自由をも含む正当な自由に対する権利などである。
Ordo socialis igitur eiusque progressus in bonum personarum indesinenter cedere debent, siquidem rerum ordinatio ordini personarum subiicienda est et non e converso, ipso Domino id innuente cum dixerit sabbatum (48) propter hominem factum esse et non hominem propter sabbatum. Ordo ille in dies evolvendus, in veritate fundandus, in iustitia aedificandus, amore vivificandus est; in libertate autem aequilibrium in dies humanius invenire debet (49). Ad haec autem implenda mentis renovatio atque amplae societatis immutationes inducendae sunt.  それゆえ、社会秩序とその発展は、常に人間の福祉に奉仕すべきものである。事物の秩序は人間の秩序に従属すべきであって、その反対であってはならないからである。主自身、安息日は人間のために設けられたのであって、人間が安息日のためにあるのではないと言って、このことを示唆した。社会秩序は絶えず進歩しなければならない。それは真理に基づき、正義の上に打ち立て、愛によって生かされるべきものであって、自由の中にますます人間にふさわしく均衡のあるものとならなければならない。このような目的を達するためには、考え方を改め、社会の大きな変革にとりかからなければならない。
Spiritus Dei, qui mirabili providentia temporum cursum dirigit et faciem terrae renovat, huic evolutioni adest. Evangelicum autem fermentum in corde hominis irrefrenabilem dignitatis exigentiam excitavit atque excitat.  すばらしい摂理をもって時の動きを導き、地の面を新しくする神の霊は、この発展とともにある。福音の酵母は、人間の心の中に尊敬に対する押さえることのできない要求を起こしたし、また起こしている。
27. De reverentia erga personam humanam. 27(人間の尊重)
Ad practica urgentioraque consectaria descendens, Concilium reverentiam inculcat erga hominem, ita ut singuli proximum, nullo excepto, tamquam alterum seipsum considerare debeant, de eius vita et de mediis ad illam digne degendam necessariis rationem imprimis habentes (50), ne divitem illum imitentur, qui pauperis Lazari nullam curam egit (51).  公会議は実際的で急を要する結論に移り、人間の尊重を強調する。各自は隣人を例外なしに「もうひとりの自分」と考えなければならず、まず隣人の生活と、それを人間にふさわしく保つために必要な手段とについて考慮すべきであって、貧しいラザロのことを少しも顧みなかった金持ちになってはならない。
Nostris praesertim diebus urget obligatio nosmetipsos cuiuslibet omnino hominis proximos efficiendi et illi occurrenti actuose inserviendi, sive sit senex ab omnibus derelictus, sive alienigena operarius iniuste despectus, sive exsul, sive infans ex illegitima unione natus, immerito patiens propter peccatum a se non commissum, vel esuriens qui conscientiam nostram interpellat Domini vocem revocans: "Quamdiu fecistis uni ex his fratribus meis minimis, mihi fecistis" (Mt 25,40).  特に現代においては、われわれ自身がすべての人の隣人となり、われわれに近づく人に積極的に奉仕する緊急な義務がある。たとえば、すべての人から見捨てられた老人、理由なく軽蔑されている外人労働者、難民、自分が犯したのではない罪のために不当な苦しみを受ける私生児、「これらのわたしの兄弟、しかもいと小さい者のひとりにしたのは、わたしにしたのである」(マタイ 25:40)との主のことばを思い出させて、われわれの心をゆさぶる飢えた人などである。
Quaecumque insuper ipsi vitae adversantur, ut cuiusvis generis homicidia, genocidia, abortus, euthanasia et ipsum voluntarium suicidium; quaecumque humanae personae integritatem violant, ut mutilationes, tormenta corpori mentive inflicta, conatus ipsos animos coërcendi; quaecumque humanam dignitatem offendunt, ut infrahumanae vivendi condiciones, arbitrariae incarcerationes, deportationes, servitus, prostitutio, mercatus mulierum et iuvenum; condiciones quoque laboris ignominiosae, quibus operarii ut mera quaestus instrumenta, non ut liberae et responsabiles personae tractantur: haec omnia et alia huiusmodi probra quidem sunt, ac dum civilizationem humanam inficiunt, magis eos inquinant qui sic se gerunt, quam eos qui iniuriam patiuntur et Creatoris honori maxime contradicunt.  なお、あらゆる種類の殺人、集団殺害、堕胎、安楽死、自殺など、すべて生命そのものに反すること、傷害、肉体的および精神的拷問、心理的強制などすべて人間の完全性を侵すこと、人間以下の生活条件、不法監禁、流刑、奴隷的使役、売春、人身売買など、すべて人間の尊厳に反すること、また労働者を自由と責任のある人間としてではなく、単なる収益の道具として扱うような悪い労働条件など、これらのすべてと、これに類することはまことに恥ずべきことである。それは文明を毒し、そのような危険を受ける者よりは、そのようなことを行う者を汚すのであって、創造主に対するひどい侮辱である。
28. De reverentia et amore erga adversarios. 28(敵に対する尊敬と愛)
Ad illos etiam qui in rebus socialibus, politicis vel etiam religiosis aliter ac nos sentiunt aut faciunt, reverentia et caritas extendi debent; quo magis quidem humanitate et caritate modos sentiendi eorum intimius comprehendemus, eo facilius cum ipsis colloquium inire poterimus.  社会、政治、宗教の問題について、われわれと異なった意見を持ち、異なった行動をとる人をも尊敬し愛さなければならない。われわれが好意と親切をもって、より深くかれらの考え方を理解すれば、それだけかれらとの話し合いはもっと容易になるであろう。
Haec sane caritas et benignitas nequaquam indifferentes erga veritatem et bonum nos reddere debent. Immo caritas ipsa discipulos Christi urget ad veritatem salutarem omnibus hominibus annuntiandam. Sed distinguere oportet inter errorem, semper reiciendum, et errantem, qui dignitatem personae iugiter servat, etiam ubi falsis minusve accuratis notionibus religiosis inquinatur (52). Deus solus iudex est et scrutator cordium: unde nos vetat de interiore cuiusvis culpa iudicare (53).  言うまでもなく、この愛と好意は、けっして心理と善に対してわれわれを無関心にしてはならない。むしろ愛は、すべての人に救いの心理を告げるよう、キリストの弟子たちに迫る。ただし誤りと誤っている人とを区別し、誤りは常に排除しなければならないが、誤っている人は、たとえ宗教問題についてまちがった思想や不正確な考えを持っている場合でも、常に人間の尊厳を保持している。神だけが審判者であり、人間の心の中を知っているのであるから、われわれはどの人の内心の罪をも裁いてはならない。
Doctrina Christi ut etiam iniuriis ignoscamus postulat praeceptumque amoris ad inimicos omnes extendit, quod est Novae Legis mandatum: "Audistis quia dictum est: Diliges proximum tuum, et odio habebis inimicum tuum. Ego autem dico vobis: Diligite inimicos vestros, benefacite his qui oderunt vos: et orate pro persequentibus et calumniantibus vos" (Mt 5,43-44) (54).  キリストの教えは、われわれが受けた侮辱さえもゆるすことを要求し、新しい律法の命令として愛のおきてをすべての敵にまで広げる。「『なんじの隣人を愛し、敵を憎め』と命じられたのを、あなたがたは聞いている。しかし、わたしはあなたがたに言う、『あなたがたの敵を愛し、あなたがたを迫害する人のために祈りなさい』」(マタイ5:43-44)。
29. De essentiali inter omnes homines aequalitate et de iustitia sociali. 29(万人の本質的平等、社会主義)
Cum omnes homines, anima rationali pollentes et ad imaginem Dei creati, eamdem naturam eamdemque originem habeant, cumque, a Christo redempti, eadem vocatione et destinatione divina fruantur, fundamentalis aequalitas inter omnes magis magisque agnoscenda est.  すべての人は理性的な霊魂を恵まれ、神の像として作られ、同じ本性と同じ根源を持ち、キリストによってあがなわれ、神から同じ召命と目的を与えられている。したがって、すべての人が基本的に平等であることは、ますます認められなければならない。
Sane varia capacitate physica viriumque intellectualium et moralium diversitate non omnes homines aequiparantur. Omnis tamen discriminandi modus in iuribus personae fundamentalibus, sive socialis sive culturalis, ob sexum, stirpem, colorem, socialem condicionem, linguam aut religionem, superandus et removendus est, utpote Dei proposito contrarius. Vere enim dolendum est iura illa fundamentalia personae adhuc non ubique sarta tecta servari. Ut si mulieri denegetur facultas libere sponsum eligendi et vitae statum amplectendi, vel ad parem educationem et culturam quae viro agnoscitur accedendi.  もちろん、すべての人が肉体的な種々の能力や、知性と意志の力の面で異なっていて、同じではない。しかし、基本的人権に関するすべての差別は、それが社会的差別であろうと、文化的差別であろうと、あるいは性別・人種・皮膚の色・地位・言語・宗教に基づくものであろうと、神の意図に反するものであり、克服し、排除しなければならない。これらの基本的人権が今もなお、保障されていない所があることは、まことに悲しむべきことである。たとえば、夫を選ぶ自由や身分を選ぶ自由、男性と同様の教育や文化を身につける権利を女性に対して認めない場合などもそうである。
Insuper, quamquam inter homines iustae diversitates adsunt, aequalis personarum dignitas postulat ut ad humaniorem et aequam vitae condicionem deveniatur. Etenim nimiae inter membra vel populos unius familiae humanae inaequalitates oeconomicae et sociales scandalum movent, atque iustitiae sociali, aequitati, personae humanae dignitati, necnon paci sociali et internationali adversantur.  なお人々の間に差異のあることは当然であるが、人間の平等な尊厳は生活条件がもっと人間らしく、公正なものとなることを要求する。一つの人間家族に属する人々、または諸民族の間における経済的、社会的な大きな不平等は醜聞であり、社会正義、平等、人間の尊厳、社会的および国際的平和に反する。
Humanae autem institutiones, sive privatae sive publicae, dignitati ac fini hominis subservire nitantur, simul adversus quamlibet servitutem tum socialem tum politicam strenue decertantes, et iura hominum fundamentalia sub omni regimine politico servantes. Immo, huiusmodi institutiones spiritualibus rebus, omnium altissimis, paulatim congruant oportet, etiamsi interdum sat longo tempore opus sit ut ad optatum finem perveniant.  私的、または公的な諸制度が、人間の尊厳と目的とに奉仕し、同時にあらゆる種類の社会的、政治的奴隷制度に対して力強く戦い、あらゆる政治形態において基本的人権を保障するものとなることが望ましい。なお、たとえ、望む目的を達成するまでに長期間を要しても、これらの制度を、あらゆる現実の中の最高のものである精神的現実に徐々に適合するものにしなければならない。
30. Quod ultra individualisticam ethicam progrediendum sit. 30(個人主義的な道徳を超える必要)
Profunda et velox rerum immutatio urgentius postulat ut nemo sit qui, ad rerum cursum non attendens vel inertia torpens, ethicae mere individualisticae indulgeat. Iustitiae ac caritatis officium magis ac magis adimpletur per hoc quod unusquisque, ad bonum commune iuxta proprias capacitates et aliorum necessitates conferens, etiam institutiones sive publicas sive privatas promovet et adiuvat quae hominum vitae condicionibus in melius mutandis inserviunt. Sunt autem qui, largas generosioresque opiniones profitentes, ita tamen semper reapse vivunt ac si nullam societatis necessitatum curam habeant. Immo, plures, in variis regionibus, leges et praescriptiones sociales minimi faciunt. Non pauci, variis fraudibus ac dolis, iusta vectigalia vel alia quae societati debentur effugere non verentur. Alii normas quasdam vitae socialis, e. gr., ad valetudinem tuendam, aut ad vehiculorum ductum moderandum statutas, parvi aestimant, non animadvertentes se tali incuria vitae suae et aliorum periculum inferre.  諸般の事情の広範急速な変革は、なにびとも事態の伸展についての認識不足や無気力のままに、単なる個人主義的道徳に安んじてはならないことを強く要求している。各自がそれぞれの能力と他人の必要に応じて共通善に寄与し、さらに人々の生活条件の改善に役立つ私的または公的制度を促進し援助するならば、ますます正義と愛の義務を果たすことになる。しかし、大きく寛大な意見を公言しながら、実際には社会の種々の必要については、なんの配慮もしないような生活を続けている人々がある。そのうえ、いろいろな地域で多くの人は社会的法律や条件をほとんど無視している。種々のごまかしや偽りを用いて、正当な税金や社会的負担をのがれることを恥じない人も少なくない。また、不注意のために自分と他人の生命を危険にさらすことを考えずに、社会生活上の規則、たとえば保健衛生や自動車運転の規則などを軽視する人がある。
Sanctum sit omnibus necessitudines sociales inter praecipua hominis hodierni officia recensere easque observare. Quo magis enim mundus unitur, eo apertius hominum munera particulares coetus superant et ad universum mundum paulatim extenduntur. Quod fieri nequit nisi et singuli homines et ipsorum coetus virtutes morales et sociales in seipsis colant et in societate diffundant, ita ut vere novi homines et artifices novae humanitatis exsistant cum necessario auxilio divinae gratiae.  すべての人は社会的連帯責任を現代人の主要な務めの一つに数えて、これを果たすことを神聖な義務と考えなければならない。事実、世界が一つになればなるほど、人々の義務は個別的集団を超えて、しだいに世界全体にまで広がることは明かである。しかし、それは各個人、またその所属団体が自分のうちに道徳的、社会的力を養い、それを社会に広めるのでなければ実現できない。こうして、必要な神の恩恵の助けとともに、新しい人類を造り出すほんとうに新しい人間が出現するであろう。
31. De responsabilitate et participatione. 31(責任と参加)
Ut singuli homines suum conscientiae officium accuratius impleant tum erga seipsos, tum erga varios coetus quorum membra sunt, diligenter ad ampliorem animi culturam educandi sunt, ingentibus adhibitis subsidiis quae hodie generi humano praesto sunt. Praeprimis educatio iuvenum cuiuslibet socialis originis ita instituenda est, ut viri mulieresque suscitentur qui non tantum exculti ingenii sed et magni animi sint, utpote qui a nostro tempore vehementer postulentur.  各自が、それぞれ自分自身と自分が属する諸団体とに対する良心の義務を、もっと正確に果たすよう、今日人類の手中にある種々の手段を利用して、教養を高めるように熱心に努めなければならない。まず何よりも、あらゆる階層の青少年教育に力を入れて、有能であるばかりでなく、今日強く要望されている寛大な心をそなえた男女を育成しなければならない。
Sed ad hunc responsabilitatis sensum homo vix pervenit, nisi vitae condiciones ei permittant ut suae dignitatis conscius fiat, et vocationi suae, seipsum pro Deo et pro aliis impendendo, respondeat. Humana vero libertas saepe debilior fit, ubi homo in extremam incidit egestatem, sicut vilescit, ubi ipse, nimiis vitae facilitatibus indulgens, in aurea veluti solitudine seipsum includit. E contra roboratur, cum homo inevitabiles vitae socialis necessitates accipit, multiformes exigentias humanae coniunctionis assumit atque humanae communitatis servitio se obstringit.  しかし、このような責任感に到達するためには、自分の尊厳を自覚し、神と他人に対する奉仕という自分の召命に答えることができる生活条件が必要である。安楽な生活に甘んじて、あたかも象牙の塔に閉じこもり孤独を楽しむとき、人間の自由は枯れしぼむように、極度の貧困に陥るとき、しばしば衰退する。これに反して、社会生活上避けるころのできない束縛を甘受し、人間の連帯性に基づく種々の要求を引き受け、人間共同体の奉仕に献身するとき、人間の自由は強化される。
Ideo omnium exstimulanda est voluntas inceptorum communium suas partes assumendi. Laudanda est autem ratio agendi nationum, in quibus pars quam maxima civium in vera libertate rerum publicarum particeps fit. Ratio tamen habenda est condicionis realis uniuscuiusque gentis et necessarii vigoris publicae auctoritatis. Ut vero omnes cives proni sint ad participandam vitam variorum coetuum, quibus corpus sociale constat, necesse est ut his in coetibus bona inveniant, quae ipsos attrahant eosque ad aliorum servitium disponant. Iure arbitrari possumus futuram humanitatis sortem in illorum manibus reponi, qui posteris generationibus vivendi et sperandi rationes tradere valent.  したがって、すべての人が共同の仕事に参加する意欲をもつよう、励まさなければならない。できるだけ多くの国民が、真の自由をもって公務に参加できるよう計らう国家の施策は賞賛すべきである。ただし、各国の実状と公権が必要とする権限を考慮しなければならない。しかし、国民の全部が社会を校正する諸団体の活動に参加する意欲を持つためには、これらの諸団体は人々を引きつけ、人々を地上の奉仕に向けさせるだけの利益を提供しなければならない。人類の未来は、生きる理由、希望をもつ理由を明日の世代に提供できる人々の手中にある、と当然考えることができる。
32. Verbum Incarnatum et solidarietas humana. 32(受肉したことばと人間の連帯)
Sicut Deus homines non ad singulatim vivendum, sed ad socialem unionem efformandam creavit, ita Ipsi etiam "placuit... homines non singulatim, quavis mutua connexione seclusa, sanctificare et salvare, sed eos in populum constituere, qui in veritate Ipsum agnosceret Ipsique sancte serviret" (55). Inde ab initio historiae salutis Ipse homines elegit non ut individuos tantum sed ut membra cuiusdam communitatis. Illos enim electos Deus, suum aperiens consilium, vocavit "populum suum" (Ex 3,7-12), quocum insuper in Sinai foedus pepigit (56).  神は人間を個別に生活するためではなく、社会を構成するよう創造した。「神は人々を個別的に、まったく相互の連絡なしに聖化し救うのではなく、かれらを、真理に基づいて神を認め忠実に神に仕える一つの民として確立することを望んだ」のである。したがって、神は救いの歴史の最初から、人々を個人としてばかりでなく、ある共同体の構成員として選んだ。神は、この選ばれた人々に自分の計画を示し、かれらを「自分の民」(出エジプト3:7-12)と呼び、なおシナイ山において、この民と契約を結んだ。
Quae indoles communitaria opere Iesu Christi perficitur et consummatur. Ipsum enim Verbum incarnatum humanae consortionis particeps esse voluit. Canae nuptiis interfuit, in domum Zachaei descendit, cum publicanis et peccatoribus manducavit. Patris amorem hominumque eximiam vocationem, communissimas res sociales commemorando et locutiones figurasque vitae plane cotidianae adhibendo, revelavit. Necessitudines humanas, imprimis familiares, ex quibus rationes sociales oriuntur, sanctificavit, legibus suae patriae voluntarie subditus. Vitam opificis sui temporis et regionis propriam ducere voluit.  この共同体的性格は、イエズス・キリストのわざによって発見させられ完成された。事実、受肉したことば自身が人間連帯性に参加することを望んだのである。カナの婚宴に出席し、ザケオの家を訪れ、収税吏や罪びとたちといっしょに食事した。社会生活の普通の事がらについて語り、日常生活のことばと実例をそのまま使って、父の愛と人間のすばらしい召命を啓示した。人間関係、特に社会生活の基盤である家庭を聖化し、自発的に祖国の法律に従った。その時代とその地方の労働者の生活をすることを望んだ。
In sua praedicatione clare mandavit filiis Dei ut tamquam fratres ad invicem se gererent. In sua oratione rogavit ut omnes discipuli sui unum essent. Immo Ipse usque ad mortem sese pro omnibus obtulit, omnium Redemptor. "Maiorem hac dilectionem nemo habet, ut animam suam ponat quis pro amicis suis" (Io 15,13). Apostolos autem iussit praedicare omnibus gentibus nuntium evangelicum ut genus humanum familia Dei fieret, in qua plenitudo legis esset dilectio.  その宣教においては、神の子らが互いに兄弟として接することを明らかに命じた。その祈りにおいては、すべての弟子たちが「一つ」であるように願った。なお、「すべての人のあがない主として、すべての人のために、死に至るまで自分自身をささげた。「友のために生命をささげるよりも大きな愛はない」(ヨハネ 15:13)。人類が、法の完成としての愛が支配する神の家族となるよう、諸国民に福音のメッセージを宣教することを使徒たちに命じた。
Primogenitus in multis fratribus, inter omnes qui Eum fide ac caritate recipiunt, post mortem et resurrectionem suam, dono sui Spiritus novam fraternam communionem instituit, in Corpore scilicet suo, quod est Ecclesia, in quo omnes, inter se invicem membra, secundum dona diversa concessa, mutua sibi praestarent servitia.  信仰と愛をもって自分を受け入れるすべての人の間に、多くの兄弟たちの長子として、死と復活の後、自分の霊のたまものをもって、新しい兄弟的交わりを制定した。これは、その「からだ」である教会において実現している。このからだの中では、すべての人は互いに成員であり、与えられた種々のたまものに従って、互いに奉仕しあう。
Quae solidarietas semper augenda erit, usque ad illam diem qua consummabitur, et qua homines, gratia salvati, tamquam familia a Deo et Christo Fratre dilecta, perfectam gloriam Deo praestabunt.  この連帯性はその完成に到達する日まで常に増してゆくべきである。その日になれば、恩恵によって救われた人々は、神と兄弟キリストから愛される家族として、神に完全な栄光をささげるであろう。..

(43) Cf. IOANNES XXIII, Litt. Encycl. Mater et Magistra, 15 maii 1961: AAS 53 (1961), pp. 401-464, et Litt. Encycl. Pacem in terris, 11 aprilis 1963: AAS 55 (1963), pp. 257-304; PAULUS VI, Litt. Encycl. Ecclesiam Suam, 6 augusti 1964: AAS 56 (1964), pp. 609-659.
(44) Cf. Lc. 17, 33.
(45) Cf. S. THOMAS, I Ethic. Lect. I.
(46) Cf. IOANNES XXIII, Litt. Encycl. Mater et Magistra: AAS 53 (1961), p. 418; PIUS XI, Litt. Encycl. Quadragesimo anno, 15 maii 1931: AAS 23 (1931), p. 222 ss.
(47) Cf. IOANNES XXIII, Litt. Encycl. Mater et Magistra: AAS 53 (1961), p. 417.
(48) Cf. Mc. 2, 27.
(49) Cf. IOANNES XXIII, Litt. Encycl. Pacem in terris: AAS 55 (1963), p. 266.
(50) Cf. Iac. 2, 15-16.
(51) Cf. Lc. 16, 19-31.
(52) Cf. IOANNES XXIII, Litt. Encycl. Pacem in terris: AAS 55 (1963), pp. 299-300.
(53) Cf. Lc. 6, 37-38; Mt. 7, 1-2; Rom. 2, 1-11; 14, 10-12.
(54) Cf. Mt. 5, 45-47.
(55) CONC. VAT. II, Const. dogm. de Ecclesia, Lumen gentium, cap. II, n. 9: AAS 57 (1965), pp. 12-13.
(56) Cf. Ex. 24, 1-8.

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「現代世界憲章」Gaudium et Spes [第一部 教会と人間の召命 第1章 人格の尊厳 その2]の羅和対訳

2019年11月30日 | カトリック・ニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
第2バチカン公会議公文書の「現代世界憲章」の「第一部 教会と人間の召命 第1章 人格の尊厳 その2」の原文を対訳でご紹介します。

19. De formis et radicibus atheismi. 19(無神論の諸形態とその根源)
Dignitatis humanae eximia ratio in vocatione hominis ad communionem cum Deo consistit. Ad colloquium cum Deo iam inde ab ortu suo invitatur homo: non enim exsistit, nisi quia, a Deo ex amore creatus, semper ex amore conservatur; nec plene secundum veritatem vivit, nisi amorem illum libere agnoscat et Creatori suo se committat. Multi tamen ex coaevis nostris hanc intimam ac vitalem cum Deo coniunctionem nequaquam perspiciunt aut explicite reiiciunt, ita ut atheismus inter gravissimas huius temporis res adnumerandus sit ac diligentiori examini subiiciendus.  人間が神への交わりに召されているということが、人間の尊厳の最も崇高な面である。人間はすでにその存在の初めから、神との対話に招かれている。事実、人間が存在するのは、愛によって神から造られ、愛によって神から常にささえられているからである。神の愛を自由をもって認めて創造主に自分を託さなければ、人間は真理に基づいて充実して生きているとは言えない。しかし、現代人の多くは神とのこのような生命的な深い結びつきをまったく理解しないか、あるいは明らかに排除する。したがって、無神論は現代の最も重大な課題の一つに数えるべきものであり、真剣に検討されなければならない。
Voce atheismi phaenomena inter se valde diversa designantur. Dum enim a quibusdam Deus expresse negatur, alii censent hominem nihil omnino de Eo asserere posse; alii vero quaestionem de Deo tali methodo examini subiiciunt, ut illa sensu carere videatur. Multi, scientiarum positivarum limites indebite praetergressi, aut omnia hac sola scientifica ratione explicari contendunt aut e contra nullam omnino veritatem absolutam iam admittunt. Quidam hominem tantopere exaltant, ut fides in Deum quasi enervis fiat, magis proclives, ut videntur, ad affirmationem hominis quam ad Dei negationem. Alii Deum sibi ita effingunt, ut illud figmentum, quod repudiant, nullo modo Deus sit Evangelii. Alii quaestiones de Deo ne aggrediuntur quidem, quippe qui inquietudinem religiosam non experiri videantur nec percipiant quare de religione iam sibi curandum sit. Atheismus praeterea non raro oritur sive ex violenta contra malum in mundo protestatione, sive ex nota ipsius absoluti quibusdam humanis bonis indebite adiudicata, ita ut ista iam loco Dei habeantur. Ipsa civilizatio hodierna, non ex se, sed utpote nimis rebus terrestribus intricata accessum ad Deum saepe difficiliorem reddere potest.  無神論という用語は、相互に大きく異なった種々の現象をさしている。明らかに神を否定する人もあれば、人間は神についてまったく何も言うことができないと考える人もある。また、ある人々は、神に関する問題は意味がないと思わせるような研究方法を用いてこの問題を取り扱う。多くの人は不当にも実証科学の分野を超えて、あるいは万事が科学理論だけで説明できると主張し、あるいは反対に、どのような絶対的真理も完全に否定する。ある人たちは人間をあまりにも礼賛しすぎるために、神への信仰が無気力になってしまうが、これは神の否定よりは、人間の肯定に力を入れすぎであると思われる。ある人々は神の問題を取り上げようとしないが、それは宗教的不安を感じないと思われ、また、なぜ宗教について関心を持たなければならないかが理解できないからである。そのほか、世の罪悪に対する激しい反発から、また、ある人間的価値を不当に絶対視して神格化することからも無神論が生じることがまれではない。現代文明そのものも、その本質からではないが、あまりにも地上の事がらに夢中であるために、しばしば神への接近をいっそう困難にすることがある。
Sane qui voluntarie Deum a corde suo arcere et quaestiones religiosas devitare conantur, dictamen conscientiae suae non secuti, culpae expertes non sunt; attamen et ipsi credentes quamdam de hoc responsabilitatem saepe ferunt. Atheismus enim, integre consideratus, non est quid originarium, sed potius ex diversis causis oritur, inter quas adnumeratur etiam reactio critica contra religiones et quidem, in nonnullis regionibus, praesertim contra religionem christianam. Quapropter in hac atheismi genesi partem non parvam habere possunt credentes, quatenus, neglecta fidei educatione, vel fallaci doctrinae expositione, vel etiam vitae suae religiosae, moralis ac socialis defectibus, Dei et religionis genuinum vultum potius velare quam revelare dicendi sint.  確かに、意識的に自分の心から神を締め出し、宗教問題を避けようと努める人々は、良心の命令に従わない人々であって、あやまちを免れることはできないが、このことについては信仰者自身にも、しばしばある意味で責任がある。全体的に考察して、無神論は自発的に発生したものではなく、いろいろの原因から生じたのであり、その中には、諸宗教に対する、そしてある地域においては特にキリスト教に対する批判的反動も含まれている。したがって信仰者が無神論の発展に小さくない役割を演じていることもある。すなわち、信仰者は、信仰についての教えの怠慢、まちがった教理の解説、なお宗教的、道徳的、社会生活における欠点によって、神と宗教の真の姿を示すよりは、かえって隠すと言うべきである。
20. De atheismo systematico. 20(体系としての無神論)
Atheismus modernus formam etiam systematicam saepe praebet, quae, praeter alias causas, optatum autonomiae hominis eo usque perducit ut contra qualemcumque a Deo dependentiam difficultatem suscitet. Qui talem atheismum profitentur, libertatem in eo esse contendunt quod homo sibi ipse sit finis, propriae suae historiae solus artifex et demiurgus: quod componi non posse autumant cum agnitione Domini, omnium rerum auctoris et finis, vel saltem talem affirmationem plane superfluam reddere. Cui doctrinae favere potest sensus potentiae quem hodiernus progressus technicus homini confert.  現代無神論は、たびたび体系としての形態をも取る。このような無神論は他の種々の理由のはかに、人間の自主性を強調しすぎるため、神に対するいかなる従属にも反対する。このような無神論を主張する人は、人間が自分を自分自身の目的であるとすること、自分を歴史の唯一の制作者、創作者とすることが自由であると言う。彼らは、この見方が万物の創造主であり目的である神の肯定と両立できないし、少なくとも、このような肯定をまったく無意味なものにすると主張する。現代の技術的進歩が人間にもたらす権力感は、このような説を励ますのである。
Inter formas hodierni atheismi illa non praetermittenda est, quae liberationem hominis praesertim ex eius liberatione oeconomica et sociali exspectat. Huic autem liberationi religionem natura sua obstare contendit, quatenus, in futuram fallacemque vitam spem hominis erigens, ipsum a civitatis terrestris aedificatione deterreret. Unde fautores talis doctrinae, ubi ad regimen reipublicae accedunt, religionem vehementer oppugnant, atheismum diffundentes etiam adhibitis, praesertim in iuvenum educatione, illis pressionis mediis, quibus potestas publica pollet.  現代無神論の諸形態の中で、特に経済的、社会的解放によって人間解放を期待する無神論を見過ごしてはならない。この説によれば、宗教は死後の偽りの生命への希望をいだかせることによって、人間を地上の国の建設からわき道にそらせるものであり、本質的に人間解放を妨げるものである。したがって、このような説の主張者が国家の統治権を掌握するとき、宗教をきびしく弾圧し、特に青少年の教育に、公権がもっている圧力手段さえ用いて無神論を宣伝する。
21. De habitudine Ecclesiae ad atheismum. 21(無神論に対する教会の態度)
Ecclesia, fideliter tum Deo tum hominibus addicta, desistere non potest quin dolenter perniciosas illas doctrinas actionesque, quae rationi et communi experientiae humanae contradicunt hominemque ab innata eius excellentia deiiciunt, omni firmitate reprobet, sicut antehac reprobavit (24).  神にも人間にも忠実に仕える教会は、人間の理性と共通の経験に反し、また人間をその本来の高貴さから引きずりおろすこれらの有毒な理論と実践を、過去において糾弾したと同様に、今も悲しみをもって、しかも断固として糾弾することをやめることはできない。
Abditas tamen in atheorum mente negationis Dei causas deprehendere conatur et, de gravitate quaestionum quas atheismus excitat conscia necnon caritate erga omnes homines ducta, eas serio ac profundiori examini subiiciendas esse censet.  しかし、教会は無神論者たちの心の中に隠れた神否定の理由を発見しようと努力する。そして無神論が提起する問題の重大性を認識し、またすべての人に対する愛にかられて、これらの問題を真剣に深く検討すべきであると考える。
Tenet Ecclesia agnitionem Dei dignitati hominis nequaquam opponi, cum huiusmodi dignitas in ipso Deo fundetur et perficiatur: homo enim a Deo creante intelligens ac liber in societate constituitur; sed praesertim ad ipsam Dei communionem ut filius vocatur et ad Ipsius felicitatem participandam. Docet praeterea per spem eschatologicam momentum munerum terrestrium non minui, sed potius eorum adimpletionem novis motivis fulciri. Deficientibus e contra fundamento divino et spe vitae aeternae, hominis dignitas gravissime laeditur, ut saepe hodie constat, atque vitae et mortis, culpae et doloris aenigmata sine solutione manent, ita ut homines in desperationem non raro deiiciantur.  神を認めることは、人間の尊厳にけっして反するものではないと教会は主張する。人間の尊厳は神自身の中に基礎をもち、また神において完成されるものだからである。すなわち、創造主である神によって知性をもつ自由な社会的存在としてつくられた人間は、神のこどもとして神との交わりと神の幸福にあずかるよう呼ばれているからである。なお教会は、終末的希望が地上の諸活動の重要性を弱めるものでなく、かえって新しい動機によってその遂行をささえるものであると教える。これに反して、神に基礎を置かず、また永遠の生命に対する希望が欠けているときには、今日しばしば見うけるように、人間の尊厳はひどく傷つけられ、生と死、罪と苦しみの謎は解けず、その結果、絶望に陥る人も少なくない。
Omnis homo interea sibi ipsi remanet quaestio insoluta, subobscure percepta. Nemo enim quibusdam momentis, praecipue in maioribus vitae eventibus, praefatam interrogationem omnino effugere valet. Cui quaestioni solus Deus plene et omni certitudine responsum affert, qui ad altiorem cogitationem et humiliorem inquisitionem hominem vocat.  この間にも、すべての人にとって、自分自身はばく然と感じられた未解決の問題として残る。事実、ある時機に、解くに人生の重大なできごとに遭遇するときには、なにびとも、前に述べたような疑問を避けることはできない。神だけが、この疑問に完全な確実性のある解答を与えることができる。神はいっそう高い認識と、さらに謙虚な探求とに人間を招いている。
Remedium autem atheismo afferendum, cum a doctrina apte exposita, tum ab integra Ecclesiae eiusque membrorum vita exspectandum est. Ecclesiae enim est Deum Patrem eiusque Filium incarnatum praesentem et quasi visibilem reddere, ductu Spiritus Sancti sese indesinenter renovando et purificando (25). Id imprimis obtinetur testimonio fidei vivae et maturae, ad hoc scilicet educatae ut difficultates lucide perspicere valeat easque superare. Huius fidei testimonium praeclarum plurimi martyres reddiderunt et reddunt. Quae fides suam fecunditatem manifestare debet, credentium integram vitam, etiam profanam, penetrando, eosque ad iustitiam et amorem, praesertim erga egentes, movendo. Ad praesentiam Dei manifestandam maxime denique confert caritas fraterna fidelium, qui spiritu unanimes collaborant fidei Evangelii (26), et signum unitatis se exhibent.  無神論の対策としては、教会の教えを正しく述べることと、教会およびその構成員の生活を純粋にすることを求めなければならない。聖霊の導きのもとに絶えず自分を改め清めながら、父なる神と受肉したその子とを現存するもの、あたかも目に見えるものとすることが教会の努めである。それはまず初めに、円熟した生きた信仰のあかし、すなわち、困難をはっきり見分けたうえで、それに打ち勝つことができるように教育された信仰のあかしによって行われる。多くの殉教者がこのような信仰のすばらしいあかしを与えたし、また与えている。この信仰は俗生活をも含めて、信者の全生活にゆきわたり、特に貧しい人々に対する正義と愛に信者をかりたてることによって、その豊かさを現わさなければならない。さらに神の現存を現わすためには、福音の信仰のために心を一つにして協力し、自分たちを一致のしるしとして示す信者たちの兄弟的一致が最も役立つ。
Ecclesia vero, etiamsi atheismum omnino reiicit, sincere tamen profitetur homines omnes, credentes et non credentes, ad hunc mundum, in quo communiter vivunt, recte aedificandum opem conferre debere: quod certe fieri non potest sine sincero et prudenti colloquio. Conqueritur igitur de discrimine inter credentes et non credentes, quod quidam civitatum rectores, personae humanae iura fundamentalia non agnoscentes, iniuste inducunt. Pro credentibus vero actuosam libertatem expostulat ut in hoc mundo etiam Dei templum exstruere sinantur. Atheos autem humaniter invitat ut Evangelium Christi corde aperto considerent.  教会は無神論を完全に排斥するが、信ずる者も信じていない者も、すべての人が、ともに生活しているこの世界を正しく建設するために尽力すべきことを真心をこめて主張する。これは真心のある慎重な話し合いなくしてはあり得ない。したがって教会は、ある国家権力者たちが人格の基本的権利を認めず、不正にも信ずる者と信じていない者との間に差別待遇を設けていることを抗議する。そして、この世においても神の殿堂を建設することのできる実際の自由を信ずる者のために要求する。なお無神論者に対しては、キリストの福音を客観的に考察するようていねいに招く。
Apprime etenim novit Ecclesia nuntium suum cum secretissimis humani cordis desideriis concordare, cum vocationis humanae dignitatem vindicat, illis qui iam de altiore sua sorte desperant spem restituens. Nuntium eius, nedum hominem minuat, lucem, vitam et libertatem ad eius profectum fundit; atque praeter illud nihil cordi hominis satisfacere valet: "Fecisti nos ad Te", Domine, "et inquietum est cor nostrum, donec requiescat in Te" (27).  人間の召命の尊厳を守り、人間の崇高な未来について絶望した人々に再び希望をもたらすとき、教会のメッセージが人間の心の奥底にある望みと合致していることを、教会はよく知っている。教会のメッセージは人間の価値を下げるものではなく、光と生命と自由を与えて、人間の発展に貢献するものであり、このメッセージ以外には人間の個々とを満足させることができるものはない。主よ、「あなたは、わたしたちをあなたに向けてつくりました。あなたの中にいこうまでは、わたしの心は落ち着きません」。
22. De Christo Novo Homine. 22(新しい人・キリスト)
Reapse nonnisi in mysterio Verbi incarnati mysterium hominis vere clarescit. Adam enim, primus homo, erat figura futuri (28), scilicet Christi Domini. Christus, novissimus Adam, in ipsa revelatione mysterii Patris Eiusque amoris, hominem ipsi homini plene manifestat eique altissimam eius vocationem patefacit. Nil igitur mirum in Eo praedictas veritates suum invenire fontem atque attingere fastigium.  実際、受肉したみことばの秘義においてでなければ、人間の秘義はほんとうに明らかにならない。事実、最初の人間アダムは、未来の人間、すなわち主キリストの予型であった。最後のアダムであるキリストは、父とその愛の秘義の啓示によって、人間を人間自身に完全に示し、人間の高貴な召命を明らかにする。したがって、前に述べた諸真理がキリストにその根源を見いだし、頂点に達することは、少しも不思議ではない。
Qui est "imago Dei invisibilis" (Col 1,15) (29), Ipse est homo perfectus, qui Adae filiis similitudinem divinam, inde a primo peccato deformatam, restituit. Cum in Eo natura humana assumpta, non perempta sit (30), eo ipso etiam in nobis ad sublimem dignitatem evecta est. Ipse enim, Filius Dei, incarnatione sua cum omni homine quodammodo Se univit. Humanis manibus opus fecit, humana mente cogitavit, humana voluntate egit (31), humano corde dilexit. Natus de Maria Virgine, vere unus ex nostris factus est, in omnibus nobis similis excepto peccato (32).  「見えない神の像」(コロサイ 1:15)であるかた自身が完全な人間であり、最初の罪以来ゆがめられていた神の似姿をアダムの子らに復旧した。人間性はキリストの中に取り上げられたのであって、消滅したのではない。このこと自体によって、人間性はわれわれにおいても崇高な品位にまで高められたのである。事実、神の子は受肉によって、ある意味で自分自身をすべての人間と一致させた。キリストは人間の手をもって働き、人間の知性をもって考え、人間の意志をもって行動し、人間の心をもって愛した。かれは処女マリアから生まれ、真実にわれわれのひとりとなり、罪を除いては、すべてにおいてわれわれと同じであった。
Agnus innocens, sanguine suo libere effuso, vitam nobis meruit, in Ipsoque Deus nos Sibi et inter nos reconciliavit (33) et a servitute diaboli ac peccati eripuit, ita ut unusquisque nostrum cum Apostolo dicere possit: Filius Dei "dilexit me et tradidit semetipsum pro me" (Gal 2,20). Pro nobis patiendo non solummodo exemplum praebuit ut sequamur vestigia Eius (34), sed et viam instauravit, quam dum sequimur, vita et mors sanctificantur novumque sensum accipiunt.  汚れない小羊であるキリストは、自分の血を自発的に流すことによって、われわれのために生命を獲得した。キリストにおいて、神はわれわれを自分と和睦させ、また、われわれの間に和解をもたらし、悪霊と罪との奴隷状態からわれわれを救いだした。その結果、われわれ各自は、使徒とともに神の子は「私を愛し、わたしのために自分を渡した」(ガラテヤ 2:20)と言うことができる。キリストはわれわれのために苦しみを受けることによって、われわれがその跡を踏むよう模範を示したばけりでなく、新しい道を開いた。われわれがこの道に従うならば、生と死は聖化され、新しい意味をもつものとなる。
Christianus autem homo, conformis imagini Filii factus qui est Primogenitus in multis fratribus (35), "primitias Spiritus" (Rom 8,23) accipit, quibus capax fit legem novam amoris adimplendi (36). Per hunc Spiritum, qui est "pignus hereditatis" (Eph 1,14), totus homo interius restauratur, usque ad "redemptionem corporis" (Rom 8,23): "Si Spiritus Eius, qui suscitavit Iesum a mortuis, habitat in vobis: qui suscitavit Iesum Christum a mortuis, vivificabit et mortalia corpora vestra, propter inhabitantem Spiritum eius in vobis" (Rom 8,11) (37). Christianum certe urgent necessitas et officium contra malum per multas tribulationes certandi necnon mortem patiendi; sed mysterio paschali consociatus, Christi morti configuratus, ad resurrectionem spe roboratus occurret (38).  キリスト者は、無数の兄弟の中の長子である子の姿に似たものとなり、愛の新しいおきてを守ることを可能にする「霊の初物」(ロマ 8:23)。「相続の保証」(エフェソ 1:14)であるこの霊によって、人間全体は「肉体の復活」(ロマ 8:23)に達するまで内面的に刷新される。「死者の中からイエズスをよみがえらせた神の霊があなたがたの中に住んでいるならば、死者の中からイエズス・キリストをよみがえらせた神は、あなたがたの中に住むその霊によって、あなたがたの死すべき肉体にも生命を与えるであろう」(ロマ 8:11)。多くの苦難を通して悪と戦い、死を堪え忍ぶことは、確かにキリスト者にとって必要であり義務である。しかし、復活の秘義に結ばれ、キリストの死に似た姿となるキリスト者は、希望に力づけられて復活に向かって進であろう。
Quod non tantum pro christifidelibus valet, sed et pro omnibus hominibus bonae voluntatis in quorum corde gratia invisibili modo operatur (39). Cum enim pro omnibus mortuus sit Christus (40) cumque vocatio hominis ultima revera una sit, scilicet divina, tenere debemus Spiritum Sanctum cunctis possibilitatem offerre ut, modo Deo cognito, huic paschali mysterio consocientur.  このことはキリスト信者ばかりでなく、心の中に恩恵が目に見えない方法で働きかけているすべての善意の人についても言うことができる。事実、キリストはすべて人のために死んだのであり、人間の究極的召命は実際にはただ一つ、すなわち神的なものである。したがって、われわれは神だけが知っている方法によって、聖霊が復活秘義にあずかる可能性をすべての人に提供すると信じなければならない。
Tale et tantum est hominis mysterium, quod per Revelationem christianam credentibus illucescit. Per Christum et in Christo, igitur, illuminatur aenigma doloris et mortis, quod extra Eius Evangelium nos obruit. Christus resurrexit, morte sua mortem destruens, vitamque nobis largitus est (41) ut, filii in Filio, clamemus in Spiritu: Abba, Pater! (42)  キリストの啓示が信ずる者に照らしだす人間の秘義は、このように偉大なものである。したがって、苦しみと死の謎は、キリストにより、キリストに置いて解明されるが、キリストの福音がなければ、われわれを押しつぶしてしまう。キリストは復活し、その死をもって死を破壊し、われわれに生命を与えた。こうして、われわれは子において子となり、霊において、父よ、と叫ぶことができる。..

(24) Cf. PIUS XI, Litt. Encycl. Divini Redemptoris, 19 martii 1937: AAS 29 (1937), pp. 65-106; PIUS XII, Litt. Encycl. Ad Apostolorum Principis, 29 iunii 1958: AAS 50 (1958), pp. 601-614; IOANNES XXIII, Litt. Encycl. Mater et Magistra, 15 maii 1961: AAS 53 (1961), pp. 451-453; PAULUS VI, Litt. Encycl. Ecclesiam Suam, 6 augusti 1964: AAS 56 (1964), pp. 651-653.
(25) Cf. CONC. VAT. II, Const. dogm. de Ecclesia, Lumen gentium, cap. I, n. 8: AAS 57 (1965), p. 12.
(26) Cf. Phil. 1, 27.
(27) S. AUGUSTINUS, Confess. I, 1: PL 32, 661.
(28) Cf. Rom. 5, 14. Cf. TERTULLIANUS, De carnis resurr. 6: «Quodcumque enim limus exprimebatur, Christus cogitabatur homo futurus»: PL 2, 802 (848); CSEL, 47, p. 33, 1. 12-13.
 (29) Cf. 2 Cor  4, 4.
(30) Cf. CONC. CONSTANTINOP. II, can. 7: «Neque Deo Verbo in carnis naturam transmutato, neque Carne in Verbi naturam transducta»: DENZ. 219 (428). - Cf. etiam CONC. CONSTANTINOP. III: «Quemadmodum enim sanctissima atque immaculata animata eius caro deificata non est perempta ( theótheisa ouk anèrethè), sed in proprio sui statu et ratione permansit»: DENZ. 291 (556). - Cf. CONC. CHALCED.: «in duabus naturis inconfuse, immutabiliter, indivise, inseparabiliter agnoscendum»: DENZ. 148 (302).
(31) Cf. CONC. CONSTANTINOP. III: «ita et humana eius voluntas deificata non est perempta»: DENZ. 291 (556).
(32) Cf. Heb. 4, 15.
(33) Cf. 2 Cor. 5, 18-19; Col. 1, 20-22.
(34) Cf. I Pt. 2, 21; Mt. 16, 24; Lc. 14, 27.
(35) Cf. Rom. 8, 29; Col. 1, 18.
(36) Cf. Rom. 8, 1-11.
(37) Cf. 2 Cor. 4, 14.
(38) Cf. Phil. 3, 10; Rom. 8, 17.
(39) Cf. CONC. VAT. II, Const. dogm. de Ecclesia, Lumen gentium, cap. II, n. 16: AAS 57 (1965), p. 20.
(40) Cf. Rom. 8, 32.
(41) Cf. Liturgia Paschalis Byzantina.
(42) Cf. Rom. 8, 15; Gal. 4, 6; Io. 1, 12 et I Io. 3, 1.

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第2バチカン公会議公文書の「現代世界憲章」Gaudium et Spes [第一部 教会と人間の召命 第1章 人格の尊厳 その1]の羅和対訳

2019年11月30日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
第2バチカン公会議公文書の「現代世界憲章」の「第一部 教会と人間の召命 第1章 人格の尊厳 その1」の原文を対訳でご紹介します。

Caput I 第1章 
DE HUMANAE PERSONAE DIGNITATE 人格の尊厳
12. De homine ad imaginem Dei. 12(神の像である人間)
Secundum credentium et non credentium fere concordem sententiam, omnia quae in terra sunt ad hominem, tamquam ad centrum suum et culmen, ordinanda sunt.  地上に存在するあらゆるものは、その中心および頂点である人間に秩序づけられなければならないということについて、信ずる者も信じない者も、ほとんど意見が一致している。
Quid est autem homo? Multas opiniones de seipso protulit et profert, varias et etiam contrarias, quibus saepe vel se tamquam absolutam regulam exaltat vel usque ad desperationem deprimit, exinde anceps et anxius. Quas quidem difficultates Ecclesia persentiens, a Deo revelante instructa eisdem responsum afferre potest, quo vera hominis condicio delineetur, explanentur eius infirmitates, simulque eius dignitas et vocatio recte agnosci possint.  しかし、人間とは何か。人間自身については、多種多様の説、対立する説さえも、となえられたし、現在もとなえられている。これらの説は、しばしば、あるいは人間を絶対規範として祭り上げ、あるいは絶望におとしいれるものであって、結果として、疑問と不安が残る。教会はこのような困難を理解し、神の啓示を受けたものとして、人間の真実の状態を述べ、その弱さを解説するとともに、人間の尊厳と召命を正しく示すことによって解答をもたらすことができる。
Sacrae enim Litterae docent hominem "ad imaginem Dei" creatum esse, capacem suum Creatorem cognoscendi et amandi, ab eo tamquam dominum super omnes creaturas terrenas constitutum (9), ut eas regeret, eisque uteretur, glorificans Deum (10). "Quid est homo quod memor es eius? aut filius hominis, quoniam visitas eum? Minuisti eum paulo minus ab angelis, gloria et honore coronasti eum, et constituisti eum super opera manuum tuarum. Omnia subiecisti sub pedibus eius" (Ps 8,5-7).  聖書は、人間が「神の像」としてつくら、創造主を知り愛することができるものであって、地上の全被造物を支配し利用して神に栄光を帰するよう、神によってそれらの上に主人として立てられたものであることを教えている。「あなたが思い出してくださる人間、それは何者ですか。あなたが訪問してくださる人間の子、それは何者ですか。あなたは天使よりも少し小さいものとして人間をつくり、栄光と栄誉の冠を与え、あなたの手によってつくられた物の上におき、万物を人間の足の下におかれた」(詩編 8:5-7)。
At Deus non creavit hominem solum: nam inde a primordiis "masculum et feminam creavit eos" (Gen 1,27), quorum consociatio primam formam efficit communionis personarum. Homo etenim ex intima sua natura ens sociale est, atque sine relationibus cum aliis nec vivere nec suas dotes expandere potest.  しかし、神は人間を孤独なものとしてつくったのではない。神は最初から「人間を男と女につくった」(創世記 1:27)のであり、かれらの教導生活は人格的交わりの最初の形態である。人間はその深い本性から社会的存在であり、他人との関係なしには生活することも才能を発揮することもできない。
Deus igitur, sicut iterum in sacra Pagina legimus, vidit "cuncta quae fecerat, et erant valde bona" (Gen 1,31).  再び聖書にしるされているように、神は「つくったすべてのものを見た。それらは、非常によいものであった」(創世記 1:31)。
13. De peccato. 13(罪)
In iustitia a Deo constitutus, homo tamen, suadente Maligno, inde ab exordio historiae, libertate sua abusus est, seipsum contra Deum erigens et finem suum extra Deum attingere cupiens. Cum cognovissent Deum, non sicut Deum glorificaverunt, sed obscuratum est insipiens cor eorum et servierunt creaturae potius quam Creatori (11). Quod Revelatione divina nobis innotescit, cum ipsa experientia concordat. Nam homo, cor suum inspiciens, etiam ad malum inclinatum se comperit et in multiplicibus malis demersum, quae a bono suo Creatore provenire non possunt. Deum tamquam principium suum saepe agnoscere renuens, etiam debitum ordinem ad finem suum ultimum, simul ac totam suam sive erga seipsum sive erga alios homines et omnes res creatas ordinationem disrupit.  人間は神によって義の中におかれたが、悪霊に誘われて、歴史の初めから、自由を乱用し、神に対立し、自分の完成を神のほかに求めた。神を認識したにもかかわらず、神に栄光を帰することをしなかった。人間の心は曇って無知となり、人々は創造主よりも被造物に仕えた。神の啓示によって知らされるこれらのことは、人間の経験と一致する。すなわち、人間は自分の内心を見つめてみれば、自分が悪に傾いており、多種多様の悪の中に沈んでいることを発見する。それらの悪が、人間の創造者である善なる神から来ることはできない。人間は、しばしば神を自分の根源として認めることを拒否し、また自分の究極目的への当然の秩序ならびに自分自身と他人と全被造物とに対する調和を乱した。
Ideo in seipso divisus est homo. Quapropter tota vita hominum, sive singularis sive collectiva, ut luctationem et quidem dramaticam se exhibet inter bonum et malum, inter lucem et tenebras. Immo incapacem se invenit homo per seipsum mali impugnationes efficaciter debellandi, ita ut unusquisque se quasi catenis vinctum sentiat. At ipse Dominus venit ut hominem liberaret et confortaret, eum interius renovans ac principem huius mundi (cf. Io 12,31) foras eiiciens qui eum in servitute peccati retinebat (12). Peccatum autem minuit ipsum hominem, a plenitudine consequenda eum repellens.  したがって、人間は自分の中で分裂している。こうして人間の全生活は、個人的にも団体としても、善と悪、光とやみの間における劇的な戦いとして現われる。むしろ人間は、自分自身の力で悪の攻撃を効果的に退けることができないきとを発見し、各自が鎖で縛られているように感じる。しかし、人間を開放し力づけるために、主自身が来て人間を内部から再生し、人間を罪の奴隷として捕らえていた「この世のかしら」(ヨハネ 12:31)を外に追い出した。実に罪は人間そのものを弱くし、人間をその完成から遠ざける。
In lumine huius Revelationis simul sublimis vocatio et profunda miseria, quas homines experiuntur, rationem suam ultimam inveniunt.  この啓示の光によって、人間が経験する崇高な召命と深刻な悲惨との究極的な理由が明らかになる。
14. De hominis constitutione. 14(人間の構成)
Corpore et anima unus, homo per ipsam suam corporalem condicionem elementa mundi materialis in se colligit, ita ut, per ipsum, fastigium suum attingant et ad liberam Creatoris laudem vocem attollant (13). Vitam ergo corporalem homini despicere non licet, sed e contra ipse corpus suum, utpote a Deo creatum et ultima die resuscitandum, bonum et honore dignum habere tenetur. Peccato tamen vulneratus, corporis rebelliones experitur. Ipsa igitur dignitas hominis postulat ut Deum glorificet in corpore suo (14), neve illud pravis cordis sui inclinationibus inservire sinat.  肉体と霊魂から成り立っているが、一つのものである人間は、肉体的なものとして物質界の諸要素を自分の中に集約している。その結果、物質界は人間を通してその頂点に達し、人間を通して創造主の賛美の歌を歌うのである。したがって、肉体の生活を軽蔑することは許されない。反対に、肉体は神によってつくられ、最後の日に復活するものであるから、良いもの、栄誉に値するものとして取り扱わなければならない。しかし、罪によって傷ついている人間は、肉体の反抗を体験する。人間の尊厳そのものが、肉体においても神を賛美し、内心の悪い傾向に肉体を仕えさせないようにすることを要求している。
Homo vero non fallitur, cum se rebus corporalibus superiorem agnoscit, et non tantum ut particulam naturae aut anonymum elementum civitatis humanae seipsum considerat. Interioritate enim sua universitatem rerum excedit: ad hanc profundam interioritatem redit, quando convertitur ad cor, ubi Deus eum exspectat, qui corda scrutatur (15), et ubi ipse sub oculis Dei de propria sorte decernit. Itaque, animam spiritualem et immortalem in seipso agnoscens, non fallaci figmento illuditur, a physicis tantum et socialibus condicionibus fluente, sed e contra ipsam profundam rei veritatem attingit.  しかし、人間は自分が肉体的な物よりすぐれており、自然の一部または人間社会の無名の一要素でないと考えるとき、まちがってはいない。人間はその内面性によって全物質界を超越している。人間が内心をふり返るとき、この深遠に帰るのである。人間の心の中には、人々の心を見通す神が待っており、人間は心の中で、神の目のもとで自分の将来を決定する。したがって、自分の中に不滅の霊的な魂を認めるとき、人間は単なる物質的、社会的条件に基づく偽の想像にごまかされているのではなく、かえって実在の深い真理そのものに達するのである。
15. De dignitate intellectus, de veritate et de sapientia. 15(知性の尊さ、真理、英知)
Recte iudicat homo, divinae mentis lumen participans, se intellectu suo universitatem rerum superare. Ingenium suum per saecula impigre exercendo ipse in scientiis empiricis, artibus technicis et liberalibus sane profecit. Nostris autem temporibus in mundo materiali praesertim investigando et sibi subiiciendo egregios obtinuit successus. Semper tamen profundiorem veritatem quaesivit et invenit. Intelligentia enim non ad sola phaenomena coarctatur, sed realitatem intelligibilem cum vera certitudine adipisci valet, etiamsi, ex sequela peccati, ex parte obscuratur et debilitatur.  神の知恵の光にあずかる人間は、自分の知性によって全物質界を超越するという判断は正しい。諸世紀を通して人間は熱心に才能を働かせて、実証科学、技術、芸術を発展させた。現代においては、特に物質界の研究と支配に関して、すばらしい成果をおさめた。しかし、人間は常にもっと深い真理を求めたし、また発見した。事実、人間の知恵は現象の観察だけに限定されているのではなく、罪の結果として、いくらか曇りがあり弱められているが、真の確信をもって実在の認識に到達することができる。
Humanae tandem personae intellectualis natura per sapientiam perficitur et perficienda est, quae mentem hominis ad vera bonaque inquirenda ac diligenda suaviter attrahit, et qua imbutus homo per visibilia ad invisibilia adducitur.  なお、人間の知的本性は英知によって完成されるし、また完成されなければならない。英知は人間の精神を真と善を求め愛するように、やさしく引き寄せる。そして人間は英知に満たされて、見えるものを通して見えないものに導かれる。
Aetas autem nostra, magis quam saecula anteacta, tali sapientia indiget ut humaniora fiant quaecumque nova ab homine deteguntur. Periclitatur enim sors futura mundi nisi sapientiores suscitentur homines. Insuper notandum est plures nationes, bonis quidem oeconomicis pauperiores, sapientia vero ditiores, ceteris eximium emolumentum praestare posse.  人間が新しく発見するあらゆることを、もっと人間的なものにするために、現代は過去の時代にもまして、このような英知を必要としている。もっと英知のある人々が出て来なければ、世界の将来は危険である。なお、経済的に貧しくても英知に富んでいる国は、他の国に大きな福祉を提供できることを指摘すべきである。
Spiritus Sancti dono, homo ad mysterium consilii divini contemplandum et sapiendum fide accedit (16).  聖霊のたまものによって、人間は信仰のうちに神の計画の秘義を観想し、味わうようになる。
16. De dignitate conscientiae moralis. 16(良心の尊厳)
In imo conscientiae legem homo detegit, quam ipse sibi non dat, sed cui obedire debet, et cuius vox, semper ad bonum amandum et faciendum ac malum vitandum eum advocans, ubi oportet auribus cordis sonat: fac hoc, illud devita. Nam homo legem in corde suo a Deo inscriptam habet, cui parere ipsa dignitas eius est et secundum quam ipse iudicabitur (17). Conscientia est nucleus secretissimus atque sacrarium hominis, in quo solus est cum Deo, cuius vox resonat in intimo eius (18). Conscientia modo mirabili illa lex innotescit, quae in Dei et proximi dilectione adimpletur (19). Fidelitate erga conscientiam christiani cum ceteris hominibus coniunguntur ad veritatem inquirendam et tot problemata moralia, quae tam in vita singulorum quam in sociali consortione exsurgunt, in veritate solvenda. Quo magis ergo conscientia recta praevalet, eo magis personae et coetus a caeco arbitrio recedunt et normis obiectivis moralitatis conformari satagunt. Non raro tamen evenit ex ignorantia invincibili conscientiam errare, quin inde suam dignitatem amittat. Quod autem dici nequit cum homo de vero ac bono inquirendo parum curat, et conscientia ex peccati consuetudine paulatim fere obcaecatur.  人間は良心の奥底に法を見いだす。この法は人間がみずからに課したものではなく、人間が従わなければならないものである。この法の声は、常に善を愛して行ない、悪を避けるよう勧め、必要に際しては「これを行なえ、あれを避けよ」と心の耳に告げる。人間は心の中に神から刻まれた法をもっており、それに従うことが人間の尊厳であり、また人間はそれによって裁かれる。良心は人間の最奥であり聖所であって、そこでは人間はただひとり神とともにあり、神の声が人間の深奥で響く。良心は感嘆すべき方法で、神と隣人に対する愛の中に成就する法をわからせる。良心に対する忠実によって、キリスト者は他の人々と結ばれて、ともに真理を追求し、個人生活と社会生活の中に生じる多くの道徳問題を真理に従って解決するよう努力しなければならない。正しい良心が力をもてば、それだけ個人と団体は盲目的選択から遠ざかり、客観的倫理基準に従うようになる。打ち勝つことのできない無知によって、良心が誤りを犯すこともまれではないが、良心がその尊厳を失うわけではない。ただしこのことは、真と善の追求を怠り、罪の習慣によって、しだいに良心がほとんど盲目になってしまった人にあてはめることはできない。
17. De praestantia libertatis. 17(自由の尊さ)
At nonnisi libere homo ad bonum se convertere potest, quam libertatem coaevi nostri magni faciunt ardenterque prosequuntur: et recte sane. Saepe tamen eam pravo modo fovent, tamquam licentiam quidquid faciendi dummodo delectet, etiam malum. Vera autem libertas eximium est divinae imaginis in homine signum. Voluit enim Deus hominem relinquere in manu consilii sui (20), ita ut Creatorem suum sponte quaerat et libere ad plenam et beatam perfectionem ei inhaerendo perveniat. Dignitas igitur hominis requirit ut secundum consciam et liberam electionem agat, personaliter scilicet ab intra motus et inductus, et non sub caeco impulsu interno vel sub mera externa coactione. Talem vero dignitatem obtinet homo cum, sese ab omni passionum captivitate liberans, finem suum in boni libera electione persequitur et apta subsidia efficaciter ac sollerti industria sibi procurat. Quam ordinationem ad Deum libertas hominis, a peccato vulnerata, nonnisi gratia Dei adiuvante, plene actuosam efficere potest. Unicuique autem ante tribunal Dei propriae vitae ratio reddenda erit, prout ipse sive bonum sive malum gesserit (21).  しかし、人間は自由でなければ善を指向することはできない。現代人はこの自由を大きく表かし、熱烈に求めている。確かにそれは正しいことである。ところが、かれらはしばしば自由を放縦とはきちがえて、楽しければ何をしてもよいし、悪でさえもかまわないとする。しかし、真の自由は人間の中にある神の像のすぐれたしるしである。神は、人間がすすんで創造主を求め、神に従って自由に完全で幸福な完成に到達するよう、人間を「その分別に任せること」を望んだ。したがって人間の尊厳は、人間が知識と自由な選択によって行動することを要求する。このような選択は人格としての内面的な動機に基づくものであって、内部からの盲目的本能や外部からの強制によるものであってはならない。このような尊厳は、人間が情欲のあらゆるとりこの状態から自分自身を開放し、自由に善を選択することによって、自分の目的を追求し、効果的に巧みに適切な手段を選ぶことの中に見いだされるのである。しかし、罪によって傷つけられている人間の自由は、神の恵みによって助けられなければ、神への指向を完全に行動に移すことはできない。そして人間はそれぞれ、神のさばきの庭に、自分が行った善徳について生涯の決算報告を提出しなければならない。..
18. De mysterio mortis. 18(死の神秘)
Coram morte aenigma condicionis humanae maximum evadit. Non tantum cruciatur homo dolore et corporis dissolutione progrediente, sed etiam, immo magis, perpetuae extinctionis timore. Recte autem instinctu cordis sui iudicat, cum totalem ruinam et definitivum exitum suae personae abhorret et respuit. Semen aeternitatis quod in se gerit, ad solam materiam cum irreductibile sit, contra mortem insurgit. Omnia technicae artis molimina, licet perutilia, anxietatem hominis sedare non valent: prorogata enim biologica longaevitas illi ulterioris vitae desiderio satisfacere nequit, quod cordi eius ineluctabiliter inest.  死を前にして、人間の条件についての謎は頂点に達する。人間は苦痛と漸進する肉体の消耗だけでなく、永久の消滅の恐れによって、もっと苦しめられる。人間が自己の完全な破壊と決定的な消滅をきらい、退けるとき、心の本能によるこの判断は正しい。人間の中にある永遠なものの種は、物質だけに還元できないものであるため、死に対して立ち上がるのである。あらゆる技術的進歩は有用であるが、人間の不安を解消することはできない。生物学的年齢が延長しても、人間の心にしっかり根を張っている後生の願いを満足させることはできない。
Dum coram morte omnis imaginatio deficit, Ecclesia tamen, Revelatione divina edocta, hominem ad beatum finem, ultra terrestris miseriae limites, a Deo creatum esse affirmat. Mors insuper corporalis, a qua homo si non peccasset subtractus fuisset (22), fides christiana docet fore ut vincatur, cum homo in salutem, culpa sua perditam, ab omnipotente et miserante Salvatore restituetur. Deus enim hominem vocavit et vocat ut Ei in perpetua incorruptibilis vitae divinae communione tota sua natura adhaereat. Quam victoriam Christus, hominem a morte per mortem suam liberando, ad vitam resurgens adeptus est (23). Cuicumque igitur recogitanti homini, fides, cum solidis argumentis oblata, in eius anxietate de sorte futura responsum offert; simulque facultatem praebet cum dilectis fratribus iam morte praereptis in Christo communicandi, spem conferens eos veram vitam apud Deum adeptos esse.  死を前にして、すべての想像は消え去るが、教会は神の啓示に基づいて、神が人間を地上の悲惨の限界を超えた幸福な目的のために創造したと断言する。そのうえ、肉体的な死は、人間が罪を犯さなかったならばそれを免れたはずであって、罪のために失われた救いが、全能で慈悲深い救い主によって再び人間に返されるとき、死は打ち負かされると、キリスト教信仰は教える。神は人間がその全存在をあげて、神の朽ちることのない生命の交わりにおいて永遠に神に一致するよう人間を招いている。キリストは自分の死によって人間を死から解放して生命によみがえったとき、この勝利を獲得した。したがって、確固とした論証によってささえられている信仰は、すべての考える人に人間の将来に関する不安についての解答を与える。同時に信仰は、すでに死者となった愛する兄弟たちとキリストにおいて交わる可能性を提供し、かれらが神のもとで真の生命を得ているとの希望を与える。

(9) Cf. Gen. 1, 26; Sap. 2, 23.
(10) Cf. Eccli. 17, 3-10.
(11) Cf. Rom. 1, 21-25.
(12) Cf. Io. 8, 34.
(13) Cf. Dan. 3, 57-90.
(14) Cf. I Cor. 6, 13-20.
(15) Cf. I Reg. 16, 7; Ier. 17, 10.
(16) Cf. Eccli. 17, 7-8.
(17) Cf. Rom. 2, 14-16.
(18) Cf. PIUS XII, Nuntius radiophonicus de conscientia christiana in iuvenibus recte efformanda, 23 martii 1952: AAS 44 (1952), p. 271.
(19) Cf Mt. 22, 37-40; Gal. 5, 14.
(20) Cf. Eccli. 15, 14.
(21) Cf. 2 Cor. 5, 10.
(22) Cf. Sap. 1, 13; 2, 23-24; Rom. 5, 21; 6, 23; Iac. 1, 15.
(23) Cf. I Cor. 15, 56-57.

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第2バチカン公会議公文書の「現代世界憲章」の「第一部 教会と人間の召命 霊の呼びかけに対する答え」の対訳

2019年11月30日 | カトリック・ニュースなど

愛する兄弟姉妹の皆様、
第2バチカン公会議公文書の「現代世界憲章」の「第一部 教会と人間の召命 霊の呼びかけに対する答え」の原文を対訳でご紹介します。

PARS I 第1部
DE ECCLESIA ET VOCATIONE HOMINIS 教会と人間の召命
11. Impulsionibus Spiritus respondendum. 11(霊の呼びかけに対する答)
Populus Dei, fide motus, qua credit se a Spiritu Domini duci qui replet orbem terrarum, in eventibus, exigentiis atque optatis, quorum una cum ceteris nostrae aetatis hominibus partem habet, quaenam in illis sint vera signa praesentiae vel consilii Dei, discernere satagit. Fides enim omnia novo lumine illustrat et divinum propositum de integra hominis vocatione manifestat, ideoque ad solutiones plene humanas mentem dirigit.  神の民は全世界に満ちている主の霊によって自分が導かれていることを信じて、他の人々とともに自分も参加している現代のできごと、必要、要求の中に、この信仰に基づいて、神の現存または神の計画の真のしるしを見分けようと務める。実際、信仰は新しい光をもってすべてを照らし、人間の十全な召命についての神の意向を現わし、したがってほんとうに人間的な解決に精神を向けさせる。
Concilium imprimis illos valores, qui hodie maxime aestimantur, sub hoc lumine diiudicare et ad fontem suum divinum referre intendit. Hi enim valores, prout ex hominis ingenio eidem divinitus collato procedunt, valde boni sunt; sed ex corruptione humani cordis a sua debita ordinatione non raro detorquentur, ita ut purificatione indigeant.  公会議はまず第一に、今日特に高く評価されているような諸価値を、信仰の光のもとに判断し、その源泉である神に関係づけようと考える。これらの価値は神が人間に与えた才能から産み出されたものである限り、非常によいものであるが、人間の心の腐敗によって、それらが正しい秩序からはずされることも稀ではない。そこで浄化が必要となる。
Quid Ecclesia de homine sentit? Quaenam ad societatem hodiernam aedificandam commendanda videntur? Quaenam est significatio ultima humanae navitatis in universo mundo? Ad has quaestiones responsio exspectatur. Exinde luculentius apparebit populum Dei et genus humanum, cui ille inseritur, servitium sibi mutuo praestare, ita ut Ecclesiae missio religiosam et ex hoc ipso summe humanam se exhibeat.  教会は人間についてどう考えるか。現代社会の建設のためには何を推薦しなければならないか。世界における人間活動の究極的意味は何か。人々はこれらの問題に対する解答を期待している。この解答から人類とその中にいる神の民とは互いに奉仕し合うものであることが明かとなり、その結果、教会の使命が宗教的なものであり、それゆえにすぐれて人間的なものであることが明らかになるであろう。
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第2バチカン公会議公文書の「現代世界憲章」Gaudium et Spes [前置き 現代社会における人間の状態]の羅和対訳

2019年11月30日 | カトリック・ニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
第2バチカン公会議公文書の「現代世界憲章」の原文を対訳でご紹介します。

GAUDIUM ET SPES 現代世界憲章 CONSTITUTIO PASTORALIS DE ECCLESIA IN MUNDO HUIUS TEMPORIS
PAULUS EPISCOPUS SERVUS SERVORUM DEI UNA CUM SACROSANCTI CONCILII PATRIBUS AD PERPETUAM REI MEMORIAM CONSTITUTIO PASTORALIS DE ECCLESIA IN MUNDO HUIUS TEMPORIS (1) 司教パウルス 神のしもべのしもべ聖なる公会議の諸教父とともにことを永久に記念するために
GAUDIUM ET SPES 現代世界憲章 CONSTITUTIO PASTORALIS DE ECCLESIA IN MUNDO HUIUS TEMPORIS
PROOEMIUM 序文
1. De intima coniunctione Ecclesiae cum tota familia gentium. 1(全人類と教会との深い連帯性)
Gaudium et spes, luctus et angor hominum huius temporis, pauperum praesertim et quorumvis afflictorum, gaudium sunt et spes, luctus et angor etiam Christi discipulorum, nihilque vere humanum invenitur, quod in corde eorum non resonet. Ipsorum enim communitas ex hominibus coalescit, qui, in Christo coadunati, a Spiritu Sancto diriguntur in sua ad Regnum Patris peregrinatione et nuntium salutis omnibus proponendum acceperunt. Quapropter ipsa cum genere humano eiusque historia se revera intime coniunctam experitur.  現代人の喜びと希望、悲しみと苦しみ、特に、貧しい人々とすべて苦しんでいる人々のものは、キリストの弟子たちの喜びと希望、悲しみと苦しみでもある。真に人間的な事がらで、キリストの弟子たちの心に反響を呼び起こさないものは一つもない。それは、かれらの共同体が人間によって構成されているからである。かれらはキリストにおいて集まり、父の国への旅において聖霊に導かれ、すべての人に伝えなければならない救いのメッセージを受けている。したがって、この共同体そのものが人類とその歴史とに、実際に深く結ばれていることを自覚している。
2. Ad quosnam Concilium sermonem dirigat. 2(話しかけの相手)
Ideo Concilium Vaticanum Secundum, mysterio Ecclesiae penitius investigato, iam non ad solos Ecclesiae filios omnesque Christi nomen invocantes, sed ad universos homines incunctanter sermonem convertit, omnibus exponere cupiens quomodo Ecclesiae praesentiam ac navitatem in mundo hodierno concipiat.  そこで第2バチカン公会議は、教会の秘義をもっと深く理解するよう努力した後、今はためらわずに、教会の子らとキリストの名を呼ぶすべての人たちばかりでなく、人類全体に話しかけて、現代世界における教会の現存と活動について、教会自身がどのように考えているかを、すべての人に説明したいと望むのである。
Mundum igitur hominum prae oculis habet seu universam familiam humanam cum universitate rerum inter quas vivit; mundum, theatrum historiae generis humani, eiusque industria, cladibus ac victoriis signatum; mundum, quem christifideles credunt ex amore Creatoris conditum et conservatum, sub peccati quidem servitute positum, sed a Christo crucifixo et resurgente, fracta potestate Maligni, liberatum, ut secundum propositum Dei transformetur et ad consummationem perveniat.  公会議はここで、人間の世界、つまり人類全家族とこの家族がその中で生活している諸現実の総体を思い浮かべている。それは人類の歴史が演じられている舞台であり、人間の努力と失敗と勝利が刻みつけられている世界である。キリスト信者はこの世界が、創造主の愛によって造られ保たれ、罪のどれいの状態に陥ったが、キリストの十字架の死と復活とによって、「悪しき者」の権力が破壊され、開放された世界であり、こうして神の計画に従って改善され、ついには完成に達する世界であると信じている。
3. De ministerio homini praebendo. 3(人間に対する奉仕)
Nostris autem diebus, genus humanum, de propriis inventis propriaque potentia admiratione commotum, saepe tamen anxias agitat quaestiones de hodierna mundi evolutione, de loco et munere hominis in orbe universo, de sui individualis et collectivi conaminis sensu, denique de ultimo rerum hominumque fine. Quapropter Concilium, fidem universi populi Dei, a Christo congregati, testificans et exponens, ipsius coniunctionem, observantiam ac dilectionem erga totam hominum familiam, cui inseritur, eloquentius demonstrare non valet quam instituendo cum ea de variis illis problematibus colloquium, lumen afferendo ex Evangelio depromptum, atque humano generi salutares vires suppeditando, quas ipsa Ecclesia, Spiritu Sancto ducente, a Fundatore suo accipit. Hominis enim persona salvanda est humanaque societas instauranda. Homo igitur, et quidem unus ac totus, cum corpore et anima, corde et conscientia, mente et voluntate, totius nostrae explanationis cardo erit.  今日人類は、自分が発見した事がらと自分の力に感動している。しかし、世界の発展の現状について、全宇宙における人間の位置と役割について、個人および集団の努力の意義について、さらに事物と人間の究極目的について、しばしば疑問に悩まされる。したがって公会議は、キリストによって集められた神の民全体の信仰の証人および解説者として、これら種々の問題について人類と話し合い、福音の光に照らしてそれを解明し、聖霊に導かれる教会が、その創立者から授けられた救いの力を人類のために提供することは、神の民が属している人類全家族に対する連帯感と尊敬と愛とを最も雄弁に証明することになると考える。実際、人間こそ救うべきであり、人間社会こそ刷新すべきである。人間、すなわち統一であり全体である人間、肉体と霊魂、心と良心、思想と意志を備えた人間こそ、われわれの全叙述の中心点である。
Ideo Sacra Synodus, altissimam vocationem hominis profitens et divinum quoddam semen in eo insertum asseverans, generi humano sinceram cooperationem Ecclesiae offert ad instituendam eam omnium fraternitatem quae huic vocationi respondeat. Nulla ambitione terrestri movetur Ecclesia, sed unum tantum intendit: nempe, Spiritus Paracliti ductu, opus ipsius continuare Christi, qui in mundum venit ut testimonium perhiberet veritati (2), ut salvaret, non ut iudicaret, ut ministraret, non ut sibi ministraretur (3).  それゆえ、この公会議は人間の崇高な召命を宣言し、人間の中に神的な種子が置かれていることを肯定し、人間のこの召命に相応するすべての人の兄弟的一致を確立するために、教会の誠意に満ちた協力を人類にささげる。教会はけっして地上的野心によって動かされているのではない。教会の望むことはただ一つ、すなわち、真理を証明するために、裁くためではなく救うために、奉仕されるためではなく奉仕するために、この世に来たキリスト自身の仕事を、弁護者である霊の導きのもとに続けることである。前置き
   
EXPOSITIO INTRODUCTIVA 導入
DE HOMINIS CONDICIONE IN MUNDO HODIERNO 現代世界における人間の状態
4. De spe et angore. 4(希望と不安)
Ad tale munus exsequendum, per omne tempus Ecclesiae officium incumbit signa temporum perscrutandi et sub Evangelii luce interpretandi; ita ut, modo unicuique generationi accommodato, ad perennes hominum interrogationes de sensu vitae praesentis et futurae deque earum mutua relatione respondere possit. Oportet itaque ut mundus in quo vivimus necnon eius exspectationes, appetitiones et indoles saepe dramatica cognoscantur et intelligantur. Quaedam autem principaliores mundi hodierni notae sequenti modo delineari possunt.  このような務めを果たすために、教会は時のしるしを探求して、福音の光のもとにそれを解明する義務を常に持っている。そうすることによって教会は、人生と来世位の生命の意味、およびこの両者の相互関係について人間がいだく永久の疑問に対して、それぞれの世代に適する方法をもって答えることができる。したがって、われわれが寸でいる世界とその来たい、その希望、その劇的正確と認識し理解する必要がある。ところで、現代世界のおもな特徴を次のように描写することができる。
Hodie genus humanum in nova historiae suae aetate versatur in qua profundae et celeres mutationes ad universum orbem gradatim extenduntur. Ab hominis intelligentia et creativa industria excitatae, in ipsum hominem recidunt, in eius iudicia et desideria individualia et collectiva, in eius modum cogitandi et agendi tum circa res tum circa homines. Ita iam de vera sociali et culturali transformatione loqui possumus, quae etiam in vitam religiosam redundat.  今日、人類史の新しい時代が始まっており、深刻で急激な変革がしだいに全世界に広まりつつある。人間の知識と創造的努力の挑発によって生じたこれらの変革は、人間自身の上に、また個人および団体の判断と欲望の上に、人と物についての考え方と態度の上に、はね返ってくる。こうして、すでに真の社会的、文化的変質について論じることができ、それは宗教生活にまで及んでくる。
Ut in quavis accretionis crisi contingit, haec transformatio non leves secumfert difficultates. Ita, dum homo potentiam suam tam late extendit, eam tamen non semper ad suum servitium redigere valet. Proprii animi intimiora altius penetrare satagens, saepe de seipso magis incertus apparet. Leges vitae socialis pedetentim clarius detegens, de directione ei imprimenda anceps haeret.  あらゆる発展の危機に際して生じるように、この変質には重大な困難が伴う。たとえば、人間はその力を大きく広げてゆくが、それをいつも人間の役に立たせるようにすることができるわけではない。人間は自分の精神の深層にまで深くはいっていくように努力するが、自分自身については、しばしばいっそう確信を持てなくなっているように見える。社会生活の法則を徐々に、もっと明確に発見していくが、社会生活の方向づけについて迷っている。
Numquam genus humanum tantis divitiis, facultatibus et potentia oeconomica abundavit, et tamen adhuc ingens pars incolarum orbis fame et egestate torquetur atque innumeri litterarum ignorantia plane laborant. Numquam homines tam acutum ut hodie sensum libertatis habuerunt, dum nova interea genera socialis et psychicae servitutis exsurgunt. Dum mundus suam unitatem necnon singulorum ab invicem dependentiam in necessaria solidarietate tam vivide persentit, viribus tamen inter se pugnantibus gravissime in opposita distrahitur; etenim acres dissensiones politicae, sociales, oeconomicae, raciales et ideologicae adhuc perseverant, nec periculum deest belli omnia usque ad ima destructuri. Dum idearum communicatio augetur, verba ipsa quibus magni momenti conceptus exprimuntur sensus sat diversos in distinctis ideologiis induunt. Tandem sedulo perfectior quaeritur temporalis ordinatio, quin spirituale incrementum pariter progrediatur.  人類がこれほどの富と可能性と経済力に恵まれたことは、けっしてなかったが、他方では今もなお地球上の住民の膨大な部分が飢えと欠乏に苦しめられ、無数の人が読み書きを知らない。人間が今日ほど自由の精神を強く自覚したことは、けっしてなかったが、他方では新しい型の社会的、真理的奴隷が起こりつつある。世界が一つに結ばれていることと、各自が必然的連帯性に基づいて相互に従属関係にあることについては強く感じているが、他方、世界は相戦う力の対立によって引きさかれている。事実、政治、社会、経済、人種、そして主義上の激しい紛争がいまだに続いており、すべてを破壊する戦争の危険さえある。思想の交流は増しているが、主要な概念を表わすことば自体が、主義の違いによってかなり異なった意味をもたらしている。よりよい地上生活の建設を熱心に追求するが、精神的発展の努力がこれに伴わない。
Tot implexis condicionibus affecti, plurimi coaevi nostri impediuntur quominus valores perennes vere dignoscant et simul cum noviter inventis rite componant; exinde, inter spem et angorem agitati, de praesenti rerum cursu sese interrogantes, inquietudine premuntur. Qui rerum cursus homines ad respondendum provocat, immo et constringit.  多くの現代人は、このように複雑な事情に置かれているため、永遠に価値あるものを正しく見分けることを妨げられ、またそれを、新しく発見されたことと正しく調和させることができない。その結果、希望と不安との気持ちをもって、現代の世界のなりゆきについて自問し、不安を抱いている。この世界のなりゆきは人間に挑戦し、その答えを求め、されにそれを強要する。
5. De profunde mutatis condicionibus. 5(深刻な変革)
Hodierna animorum commotio et in vitae condicionibus immutatio cum ampliori rerum transmutatione connectuntur, qua efficitur ut in mentibus efformandis scientiae mathematicae et naturales vel de ipso homine tractantes, in ordine vero agendi technicae artes ex illis scientiis profluentes, crescens pondus acquirant. Haec mens scientifica rationem culturalem modosque cogitandi aliter quam antea fingit. Technicae artes eo progrediuntur ut faciem terrae transforment et etiam spatium ultraterrestre subigere conentur.  現代人の精神的同様と生活条件の変革は、もっと広範な変化と関連がある。すなわち、人間の精神的形成においては数学、自然科学、人間に関する科学が、そして人間の行動においてはこれらの学問が生み出した技術がますます重要視されてきたことである。この科学精神は、今までのものとは違う文化形態と思考様式とを生み出した。科学技術の進歩は地球の表面を変え、宇宙の征服にまで乗り出した。
Super tempora quoque humanus intellectus dominium suum quodammodo dilatat: in praeteritum ope cognitionis historicae, in futurum arte prospectiva et planificatione. Progredientes scientiae biologicae, psychologicae et sociales non solum homini ad meliorem sui cognitionem opem ferunt, sed ipsum etiam adiuvant ut, technicis methodis adhibitis, in vitam societatum directe influxum exerceat. Insimul genus humanum de proprio demographico incremento iam praevidendo et ordinando magis magisque cogitat.  人間理性は時間の上にも、ある意味での支配権を広げた。すなわち、歴史的知識によって過去を、また推測と計画性によって未来を支配する。生物学、心理学、社会学の進歩は人間に関する知識を深めるのに役立つばかりでなく、技術的方法を用いることによって団体生活に直接影響を与える手段を提供する。同時に、人類は人口増加の予測とその調節についてますます関心を深めている。
Ipsa historia tam rapido cursu acceleratur ut singuli eam vix prosequi valeant. Consortionis humanae sors una efficitur et non amplius inter varias velut historias dispergitur. Ita genus humanum a notione magis statica ordinis rerum ad notionem magis dynamicam atque evolutivam transit, unde quam maxima nascitur problematum nova complexio, quae ad novas analyses et syntheses provocat.  歴史の経過そのものも、動きが早く、各個人がそれについてゆけないほどである。人類社会の未来は一つとなり、もはや過去のように種々の集団に分かれて、それぞれ別個の歴史を持つようなことはない。要するに人類は、静止的世界観から動的・進化的世界観に移行したのである。そこから膨大で複雑な、新しい課題が生じ、それは新たな分析と総合とを要求している。
6. Mutationes in ordine sociali. 6(社会秩序の変革)
Eo ipso communitates locales traditionales, uti sunt familiae patriarchales, "clans", tribus, pagi, varii coetus et consortionis socialis necessitudines, pleniores in dies immutationes experiuntur.  同じように、族長的家族、氏族、種族、部落などの伝統的な地方共同体や種々の集団、社会関係などは、ますます大きく変革を経験しつつある。
Typus industrialis societatis paulatim diffunditur, quasdam nationes ad oeconomicam opulentiam adducens, et notiones et condiciones vitae socialis a saeculis constitutas penitus transformans. Similiter vitae urbanae cultus ac studium augentur sive per urbium earumque incolarum augmentum, sive per motum quo vita urbana ad ruricolas dilatatur.  工業形態の社会がしだいに広まり、それはある国々を経済的に富裕にさせ、数世紀以来続いてきた社会生活の概念と条件とを根本的に変えつつある。同様に、都市と都市生活者の増加によっても、また都会生活の農村地方への進出によっても、都会文明とその魅力が増大している。
Nova et aptiora communicationis socialis instrumenta ad eventus cognoscendos et ad modos cogitandi et sentiendi quam citissime latissimeque diffundendos conferunt, plures connexas repercussiones excitando.  ますます進歩する新しいマス・コミの手段は事件の報道に寄与し、多くの連鎖反応を呼び起こしながら、思想や意見を極めて迅速広範に普及させる。
Nec parvipendendum est quot homines, ex variis causis, ad migrandum inducti, vitae suae rationem immutent.  またいろいろな理由から、多くの人が移住を余儀なくされて、生活様式を変えなければならなかった事実も軽視してはならない。
Sic necessitudines hominis cum similibus suis indesinenter multiplicantur ac simul ipsa socializatio novas necessitudines inducit, quin tamen congruentem personae maturationem et relationes vere personales (personalizationem) semper promoveat.  このように人と人との関係が絶えず増加すると同時に、「社会化」そのものも新しい関係を生み出すが、それは必ずしも人格の完成と真の人格的関係(「人格化」)を促進させるものではない。
Huiusmodi quidem evolutio clarius apparet in nationibus quae commodis progressus oeconomici et technici iam gaudent, sed populos quoque movet adhuc ad progressionem nitentes qui, pro suis regionibus, beneficia industrializationis et urbanizationis obtinere cupiunt. Qui populi, praesertim antiquioribus traditionibus addicti, simul motum experiuntur ad maturius magisque personale libertatis exercitium.  このような進化は、経済と技術の進歩による繁栄をすでに享受している国々においてはいっそう明らかに見られるが、その動きは、工業化と都会化の恩沢によくすることを望む発展途上国の国々にも見られる。同時に、これらの国民、特に古い伝統を持つ国民は、いっそう円熟した、より人格的な方法で自由を行使したいとの動きを示している。
7. Mutationes psychologicae, morales et religiosae. 7(心理的、道徳的、宗教的変革)
Mutatio mentis et structurarum bona recepta frequenter in controversiam vocat, maxime apud iuvenes qui non semel impatientes, immo angore rebelles fiunt, et conscii de proprio momento in vita sociali, citius in eadem partes habere cupiunt. Exinde non raro parentes et educatores in muneribus suis adimplendis in dies maiores difficultates experiuntur.  人間の考え方と社会構造との変革は、これまで受けついできた諸価値について、しばしば疑問を起こさせる。特に若い人たちの間にそれが強く、かれらはときどき我慢できなくなり、不安にかられて反抗的にさえなり、社会生活における自分たちの重要性を自覚しているので、もっと早く社会において自分たちの役割を持ちたいと望む。この結果、親や教師たちがその任務を遂行するにあたって、日増しにいっそう大きな困難に遭遇することもまれではない。
Instituta vero, leges atque modi cogitandi et sentiendi a maioribus tradita non semper statui rerum hodierno bene aptari videntur; inde gravis perturbatio in modo et in ipsis agendi normis.  祖先から伝えられた制度、法律、考え方、物の見方は、現在の事態に常によく適応しているとは思われない。そこで、行動とその基準について重大な混乱が生じる。
Ipsam denique vitam religiosam novae condiciones afficiunt. Ex una parte acrior diiudicandi facultas eam a magico mundi conceptu et a superstitionibus adhuc vagantibus purificat atque magis personalem et actuosam adhaesionem fidei in dies exigit; quo fit ut non pauci ad vividiorem Dei sensum accedant. Ex altera vero parte crebriores turbae a religione practice discedunt. Secus ac transactis temporibus, Deum religionemve negare, aut ab iisdem abstrahere, non amplius quid insolitum et individuale sunt: hodie enim non raro quasi exigentia progressus scientifici vel cuiusdam novi humanismi exhibentur. Haec omnia in pluribus regionibus non tantum in philosophorum placitis exprimuntur, sed latissime litteras, artes, scientiarum humanarum et historiae interpretationem, ipsasque leges civiles afficiunt ita ut exinde multi perturbentur.  さらに、新しい諸事情は宗教生活にも影響する。一方では、批判力の発達は世界についての魔術的な考え方や、今もなお残っている迷信を宗教から排除し、日増しにもっと人格的で活動的な信仰を要求する。こうして、多くの人は、神について、もっといきいきした認識を持つようになる。ところが、他方では、宗教の実践から離れてゆく群衆の数はますます増加している。過去の時代と違って、神または宗教を否定または無視することは、もはや例外的、個人的なことがらではなくなった。すなわち今日では、それは科学的進歩もしくは新しい人間主義の必然的要請であると考えられることが少なくない。これらすべてのことは、多くの地域において、哲学者の学説の中で述べられるばかりでなく、広く文学、芸術、人文科学と歴史の解釈、法律に影響を及ぼし、その結果、多くの人が動揺している。
8. De inaequilibriis in mundo hodierno. 8(現代世界の不均衡)
Tam rapida rerum mutatio inordinate saepe progrediens, immo et ipsa discrepantiarum in mundo vigentium acrior conscientia, contradictiones et inaequilibria gignunt vel augent.  このような急激な、しばしば無秩序に行われた変革と、さらに世の中に見いだされる不調和についての鋭い意識とは、矛盾と不均衡を生み、または増大させている。
In ipsa persona frequentius oritur inaequilibrium inter modernum intellectum practicum et theoreticam cogitandi rationem, quae summam cognitionum suarum neque sibi subigere neque in syntheses apte ordinare valet. Oritur pariter inaequilibrium inter sollicitudinem efficientiae practicae et exigentias conscientiae moralis, necnon multoties inter condiciones vitae collectivas et requisita cogitationis personalis, immo et contemplationis. Oritur tandem inaequilibrium inter activitatis humanae specializationem et universalem rerum visionem.  人間の内部においては、現代的実践理性と理論的思考との間に、しばしば不均衡が生じ、理論的思考は知識の総体を統制することも、満足できる体系に総合することもできない。同様に、実用的能率のための配慮と道義心の要請との間、そして集団生活の条件と個人的思考、さらには観想のために必要な条件との間に、たびたび不均衡が生じている。なお人間活動の専門化と物事についての総合的展望との間に不均衡が生じている。
In familia autem discrepantiae oriuntur, sive ex prementibus condicionibus demographicis, oeconomicis et socialibus, sive ex difficultatibus inter generationes quae sibi subsequuntur exsurgentibus, sive ex novis necessitudinibus socialibus inter viros ac mulieres.  家庭内にも、人口的・経済的・社会的諸条件の重圧や、異なった世代の間に起こる衝突や、男女間の新しい社会関係から不均衡が生じている。
Magnae oriuntur etiam discrepantiae inter stirpes, immo inter varii generis societatis ordines; inter nationes opulentas et minus valentes egentesque; denique, inter instituta internationalia, ex pacis desiderio populorum exorta, et ambitionem propriae ideologiae disseminandae nec non cupiditates collectivas in nationibus aliisve coetibus exsistentes.  諸民族の間、社会の諸階層の間、富んでいる国とそうでない貧しい国との間、さらには平和を求める諸国民の願いから生まれた国際機関とイデオロギー宣伝の野心または国家や団体の集団的利己主義との間に、大きな不調和が生じている。
Inde mutuae diffidentiae et inimicitiae, conflictationes et aerumnae, quarum ipse homo simul causa est et victima.  これらの結果として、相互不信と敵意、争いと惨禍が生じる。人間自身がそれらの原因であると同時に被害者である。
9. De appetitionibus universalioribus generis humani. 9(人類共通の願い)
Interea crescit persuasio genus humanum non tantum imperium suum super res creatas in dies magis roborare posse ac debere; sed insuper eius esse ordinem politicum, socialem et oeconomicum statuere qui in dies melius homini inserviat et singulos ac coetus adiuvet ad dignitatem sibi propriam affirmandam et excolendam.  その間にも、人類は造物界に対するその支配権をますます強固にすることができ、またそうしなければならないとの確信が強まっている。そのうえ、人間にもっと役立ち、また個人や集団が自分の尊厳を維持し発展させることを助ける政治的・社会的・経済的秩序を制定でき、またそうしなければならないとの確信が強まっている。
Hinc plurimi acerrime exigunt illa bona quibus, per iniustitiam vel non aequam distributionem, orbatos se esse vivida conscientia iudicant. Nationes in via progressus sicut illae recenter sui iuris factae, bona civilizationis hodiernae non tantum in campo politico sed etiam oeconomico participare et libere partibus suis in mundo fungi cupiunt, dum tamen in dies augetur earumdem distantia simul ac persaepe dependentia etiam oeconomica ab aliis ditioribus nationibus citius progredientibus. Populi fame pressi populos opulentiores interpellant. Mulieres sibi vindicant, ubi eam nondum sunt consecutae, paritatem de iure et de facto cum viris. Opifices et ruricolae non solum victui necessaria comparare, sed laborando dotes suae personae excolere, immo in ordinanda vita oeconomica, sociali, politica et culturali suas partes agere volunt. Nunc primum in historia humana universi populi iam persuasum sibi habent culturae beneficia reapse ad cunctos extendi posse ac debere.  したがって、多くの人は不正または不公平な配分によって自分たちから富が搾取されたという意識を強く持ち、その返還を激しく要求している。新興独立国のように発展途上にある国は、政治面だけでなく経済面においても現代文明の恩沢に浴することと、自分の役割を世界において自由に演じることを望んでいる。しかし、これら発展途上にある諸国と他の富んでいる諸国との間では、後者の発展速度のほうが早いため、両者の間隔はますます広がっているとともに、しばしば前者の後者に対する依存度は経済面においても、男女同権がまだ実施されていない所では、婦人たちはそれを要求している。工業労働者と農業労働者は生活費をかせぐばかりでなく、労働を通して人間を豊かにすること、さらに経済・社会・政治・文化生活の組織化に参加することを望んでいる。現在、人類史において初めて、文化の恩沢は実際にすべての人に及ぶことができ、また及ぼさなければならないとの確信をあらゆる国民が持っている。
Sub omnibus autem istis exigentiis latet profundior et universalior appetitio: personae scilicet atque coetus plenam atque liberam vitam, homine dignam, sitiunt, omnia quae hodiernus mundus eis tam abundanter praebere potest proprio servitio subicientes. Nationes praeterea in dies fortius enituntur ut universalem quamdam communitatem assequantur.  これらすべての要求の中には、もっと深い、もっと一般的な期待が秘められている。すなわち、個人も集団も、人間にふさわしい満ち足りた自由な生活、現代世界が人間に豊かに提供するあらゆる可能性を利用できる生活を渇望している。そのうえ、諸国家は一種の人類共同体を作ろうと懸命に努力している。
Quae cum ita sint, mundus hodiernus simul potentem ac debilem se exhibet, capacem optima vel pessima patrandi, dum ipsi ad libertatem aut servitutem, ad progressum aut regressum, ad fraternitatem aut odium prostat via. Praeterea, homo conscius fit ipsius esse recte dirigere vires, quas ipse suscitavit et quae eum opprimere aut ei servire possunt. Unde seipsum interrogat.  このように見てくると、現代世界は強力であると同時に無力であり、最善と最悪の可能性を持ち、自由と屈従、進歩と退歩、友愛と憎しみのいずれにも道が開かれている。そのうえ、人間は、自分が発明した力が人間を苦しめることも人間に仕えることもでき、それを正しい方向に向けることは自分の責任であると自覚している。そこで人間は自問する。
10. De profundioribus interrogationibus generis humani. 10(人類の大きな疑問)
Revera inaequilibria quibus laborat mundus hodiernus cum inaequilibrio illo fundamentaliori connectuntur, quod in hominis corde radicatur. In ipso enim homine plura elementa sibi invicem oppugnant. Dum enim una ex parte, utpote creatura, multipliciter sese limitatum experitur, ex altera vero in desideriis suis illimitatum et ad superiorem vitam vocatum se sentit. Multis sollicitationibus attractus, iugiter inter eas seligere et quibusdam renuntiare cogitur. Immo infirmus ac peccator, non raro illud quod non vult facit et illud quod facere vellet non facit (4). Unde in seipso divisionem patitur, ex qua etiam tot ac tantae discordiae in societate oriuntur. Plurimi sane, quorum vita materialismo practico inficitur, a clara huiusmodi dramatici status perceptione avertuntur, vel autem, miseria oppressi, impediuntur quominus illum considerent. Multi in interpretatione rerum multifarie proposita quietem se invenire existimant. Quidam vero a solo conatu humano veram plenamque generis humani liberationem exspectant, sibique persuasum habent futurum regnum hominis super terram omnia vota cordis eius expleturum esse. Nec desunt qui, de sensu vitae desperantes, audaciam laudant eorum qui, exsistentiam humanam omnis significationis propriae expertem existimantes, ei totam significationem ex solo proprio ingenio conferre nituntur. Attamen, coram hodierna mundi evolutione, in dies numerosiores fiunt qui quaestiones maxime fundamentales vel ponunt vel nova acuitate persentiunt: quid est homo? Quinam est sensus doloris, mali, mortis, quae, quamquam tantus progressus factus est, subsistere pergunt? Ad quid victoriae illae tanto pretio acquisitae? Quid societati homo afferre, quid ab ea exspectare potest? Quid post vitam hanc terrestrem subsequetur?  事実、現代世界が悩んでいる不均衡は、人間の心の中に根を張っている根本的な不均衡と関連がある。事実、人間自身の中には多くの要素が互いに対立している。人間は、一方では被造物として多くの面において自分の限界を体験するが、他方では人間の欲求には限りがなく、また、もっとすぐれた生活へ招かれていることを感じる。人間は多くのいざないに引かれるため、いつも選択と放棄とを余儀なくされる。さらに、人間は弱く、罪びとであるため、望まないことを行い、望むことを行わないことさえ珍しくない。要するに、人間は自分自身の中に分裂をかかえていて、そのため社会の中に多くの不和が生じるのである。なるほど実際上の物質主義に染まっている多くの人は、このような劇的状況をはっきり理解することができないし、また、不幸に押しつぶされている人々はこのようなことについて考えることを妨げられている。多くの人は存在に関するさまざまな解釈の中に、心の平和を見いだしたと考えている。ある人々は人類の真の完全な開放を人間の努力だけに期待し、地上における未来の人間王国が心のすべての願いを満足させてくれると信じている。他の人々は人生の意義について失望し、人生自体には意味がないと考えて、自分の才能だけによって人生にすべての意味を与えようと努力する人々の勇敢さをたたえる。しかし、発展する世界の現状を前にして、次のような最も基本的な質問をする人、あるいはそれを新しい鋭さをもって感じる人の数が日増しにふえている。人間とは何か。偉大な進歩にもかかわらず、今もなお残っている苦しみ、悪、死の意味は何か。大きな代償を払って獲得した勝利は難のためになったか。人間は社会に何をもたらすことができるか。社会から何を来たできるか。この地上生活の後に何が続くのか。
Credit autem Ecclesia Christum, pro omnibus mortuum et resuscitatum (5), homini lucem et vires per Spiritum suum praebere ut ille summae suae vocationi respondere possit; nec aliud nomen sub caelo datum esse hominibus, in quo oporteat eos salvos fieri (6). Similiter credit clavem, centrum et finem totius humanae historiae in Domino ac Magistro suo inveniri. Affirmat insuper Ecclesia omnibus mutationibus multa subesse quae non mutantur, quaeque fundamentum suum ultimum in Christo habent, qui est heri, hodie, Ipse et in saecula (7). Sub lumine ergo Christi, Imaginis Dei invisibilis, Primogeniti omnis creaturae (8), Concilium, ad mysterium hominis illustrandum atque ad cooperandum in solutionem praecipuarum quaestionum nostri temporis inveniendam, omnes alloqui intendit.  教会は、人間がその最高の召命に答えることができるよう、万人のために死んで復活したキリストが、その霊を通して人間に光と力を与えること、またキリストの名のほかには、人間を救うことのできる名は天の下において人間に与えられなかったことを信じる。同様に教会は全人類史の鍵、中心、目的が、主であり師であるキリストに見いだされることを信じる。教会はなお、あらゆる変革の中に多くのものが変わらず、それらは究極的には、昨日も今日も、そして永久に存在するキリストの中にその基本を持っていることを信じる。したがって公会議は、見えない神の像、全被造物の長子であるキリストの光のもとに、人間の神秘に光をあて、現代の主要な諸問題の解決の発見に協力するために、すべての人に語りかけようと望むのである。第1部 教会と人間の召命

(1) Constitutio Pastoralis «De Ecclesia in mundo huius temporis» duabus partibus constans, unum quid tamen efficit. «Pastoralis» autem dicitur Constitutio ex eo quod, principiis doctrinalibus innixa, habitudinem Ecclesiae ad mundum et ad homines hodiernos exprimere intendit. Ideo nec in priori parte pastoralis deest intentio, nec vero in secunda intentio doctrinalis. In parte quidem priori, Ecclesia doctrinam suam evolvit de homine, de mundo in quem homo inseritur, et de habitudine sua ad ipsos. In secunda autem diversos aspectus hodiernae vitae et societatis humanae pressius considerat, et quidem speciatim quaestiones et problemata quae nostris temporibus hac in re urgentiora videntur. Unde fit ut, in hac posteriori parte, materia, principiis doctrinalibus subiecta, non tantum elementis permanentibus, sed etiam contingentibus constet. Interpretanda est igitur Constitutio iuxta normas generales theologicae interpretationis, et quidem ratione habita, praesertim in secunda eius parte, adiunctorum mutabilium cum quibus res de quibus agitur natura sua connectuntur.
(2) Cf. Io. 18, 37.
(3) Cf. Io. 3, 17; Mt. 20, 28; Mc. 10, 45.
(4) Cf. Rom. 7, 14 ss.
(5) Cf. 2 Cor. 5, 15.
(6) Cf. Act. 4, 12.
(7) Cf. Hebr. 13, 8.
(8) Cf. Col. 1, 15.



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ヒューマニズムは、何故、自由が人間の最高の価値だと考えるリベラリズムへとたどり着いたか?

2019年11月29日 | 第二バチカン公会議
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 ルネッサンスから近代にかけて、人間はまず教会の権威から、次に王の権威から解放されようとしてきました。

 人間中心主義という新しい精神の要求することは「自由」でした。ルネッサンスから由来するヒューマニズム(人文主義・人間中心主義)は、リベラリズム(自由主義)を生み出します。

 第二バチカン公会議が、新しい時代において人間を促進することを約束します。第二バチカン公会議が、人間の尊厳の中で一番大切だと考えていることも、自由です。

 リベラリズムは、人間の最高の価値として自由を置きます。ヒューマニズムは、何故リベラリズムへとたどり着いたのでしょうか?

 ヒューマニズムは、ルネッサンス(つまり生まれ変わり、再生、再誕生)として起こり、超自然の抜きにした、純粋に人間的な価値を擁護しようとしました。一体何故、ルネッサンスという名前のもとにそのような人間中心の運動が起こったのでしょうか?

 13世紀、中世ヨーロッパで、キリスト教世界の最盛期には、もっとも高いキリスト教的霊性が実践されていました。キリストが山上の垂訓で教えたような内容であり、三つの福音的勧告と呼ばれているものに要約されます。清貧(富を否定すること)、貞潔(肉体的な快楽を否定すること)、従順(自分の意志を否定すること)です。これは、自然な考えからは、否定的に思われます。しかし、キリスト教世界は、人間にとって価値があると思われるようなことを、十字架に付け、祭壇の上で天主に捧げました。

原罪の後の人類は、悪魔とこの世と肉との奴隷となってしまったのですから、本当の意味での自由を得させるのは、私たちの主イエズス・キリストが指し示した道に従うしかありません。それが十字架の道です。

イエズス・キリストは、ベトレヘムで清貧に生まれ、ナザレトで清貧に貞潔に従順に生活し、十字架の担って、私たちを御自分の方に招いておられます。

キリスト者たちも、ベトレヘムの優しき赤子に倣い、福音の教えに従い、イエズス・キリストの復活の栄光に入るために、主の後を慕って自分の十字架を担い、祈りと犠牲の生活、愛徳の生活を送っていました。自分たちの苦しみを主の御受難と御死去に合わせて捧げ、生活しました。

しかし、残念なことに、信心の熱が冷めた人々は十字架を担ぐことを恐れ、さらには、主に背を向けた人もいました。聖徳を求める代わりに、生ぬるくなって快適な生活を求めたのでした。

ヒューマニズムは、冷淡と無関心と背教の運動でした。
ただし、ヒューマニズムは、全てを最初から捨てたわけではありません。最初に反対したのは、もっとも高度な福音的勧告の「従順」という徳でした。従順の代わりに、自律を求め始めました。自律を求める運動は、自由放埒にどうしても向かってしまいます。しかし、ヒューマニストたちが求めたのは自由放埒と言うよりは、人権の要求でした。天主は、教会を通して、人間に聖徳を要求しすぎる、天主の権利によって、人権は侵害されている、と。

キリスト教ヒューマニストたちは、天主に直接反抗しようとしたわけではありませんでした。天主の代表者である聖職者たちに、抗おうとしました。教会の教えもそうだけれど、自分で考えて自分で信じる責任があるのではないか、自分の行動の道徳性も自分で決めることが出来るのではないか、教会の指導に従わなくても良いではないか、と。

そこで、啓示の前に人間理性を、神学に対立して哲学を、もっと大切にすべきではないか、天主の聖寵よりも人間の自然本性の価値を認めるべきではないか、と徐々に合理主義、自然主義へと向かっていきます。

もちろん、人間理性は、現実を認めなければなりません。大自然の秩序と人間の自然本性とそれを創った創造主という現実を認めなければなりません。

ところで、人間の中で、純粋に人間らしいもので天主の領域に属さないものがあるとすれば、それは自由意志です。ヒューマニズムは、「自由」を人間の最高の価値と考え始めます。

ただし、「自由」は、私たちが考える自由と、ヒューマニズムの考える「自由」とは意味が違います。

私たち人間は究極の目的であり最高の善である天主に向かって創られていますが、それへ向かう手段としての真の善を選ぶ能力としての自由を持っています。真理と善とを私たちは自由に選ぶことが出来る自由選択能力があります。神学は、私たちが常に善を選ぶことが出来るためには、天主のお恵みが必要であると教えています。私たちには、悪を選ぶ権利はありません。悪を自由に選ぶ権利がありません。私たちは善を自由に選ぶ義務があります。もしも悪を選ぶとき、人間はその尊厳を失います。以上が私たちが考える真の自由です。

ところが、ヒューマニズムの「自由」は、善と悪とを選ぶ「自由」です。自分で何が善で何が悪かを決定する自律です。「自由」が最高の人間の尊厳であり、この自由を行使するところに尊厳が輝くとされるので、悪を選んでも尊厳は保たれるとされます。

ヒューマニズムは、初めはキリスト教の運動でした。天主の権威から逃れて自律しようとする運動でした。しかし、自律し、自分の責任で行動することを追求する結果、善と悪を選ぶ能力を、人間の最高の価値としての自由と考えるようになりました。

人間の自律、天主の権威からの独立運動は、カトリック教会内では反聖職主義を生み出しました。カトリック教会外では、プロテスタント運動を引き起こしました。現実世界の外では、無神論運動にまでなりました。

第二バチカン公会議は、この分裂の運動をカトリックの一致に引き戻そうとして、自らヒューマニズムを採用します。

つまり、カトリック教義の枠組みにおいて、教会の組織において、人間の自由を最高の価値であると、うまく説明しようとします。

では、第二バチカン公会議は、どのようにして、自由が人間の尊厳の中で一番大切だと説いているのでしょうか?

(続く)


これを書くに当たってPrometeo. La religion del hombre (2010) by Padre Alvaro Calderon を参考にしました。
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2018年の人口自然減、44万人人口動態統計

2019年11月28日 | 本・新聞・ウェッブ・サイトを読んで
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
2018年の人口自然減、44万人 人口動態統計
2019/11/28 18:48朝日新聞

 厚生労働省は28日、2018年の人口動態統計(確定数)を発表した。同年に国内で生まれた日本人の子どもの数(出生数)は91万8400人、死亡数は136万2470人で、出生数から死亡数を引いた自然減は44万4070人だった。

18年の出生数91.8万人、最低を更新 出生率は1.42
2019年6月7日 14:32

厚生労働省が7日に発表した人口動態統計によると、2018年に生まれた子どもの数(出生数)は91万8397人で過去最低を更新した。3年連続で100万人を割った。1人の女性が生涯に産む子どもの数にあたる合計特殊出生率は1.42と、17年から0.01ポイント下がった。低下は3年連続だ。晩産化や結婚をしない人が増えている影響が大きい。



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コーヒーの花をご紹介いたします

2019年11月28日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

マニラの修道院に咲いているコーヒーの花をご紹介いたします。

















コーヒーの花ってかわいいですね。
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国家とカトリック教会との分離の始まりと、人間中心主義による民主主義の問題点

2019年11月27日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

先日、新しい「福音宣教」という概念について指摘し、この方針の変化は第二バチカン公会議にその原因があることを指摘しました。

 何故なら第二バチカン公会議の新しい教えは、新しい人間中心主義だからだと言及しました。

 新しい宗教である民主教とは、別の言葉で言うと、人間の宗教 religion of Man であって、人民による・人民のための・人民の宗教 Religion of the people, by the peoople, for the people です。

 人間中心主義の目的は、人間の尊厳の促進です。つまり、Ad maiorem hominis gloriam (人間のより大いなる栄光のために)です。

 人間中心主義運動は、歴史的に、権威の拒否の運動として始まりました

【国家とカトリック教会との分離の始まり:ダンテ】

人間中心主義が何をやったかというと、まず、世俗の秩序(政治の世界)で、政治権力と教会権力との関係を断ち切ります。国家とカトリック教会との分離です。国家と真の宗教との離婚です。

それまでは、カトリック教会は、国家と教会との協力と調和を訴えて実践してきました。ローマのコンスタンティノ皇帝に現れた啓示は、キリスト教の世界の実践となってきました。コンスタンティノ皇帝は空に十字架の印を見て In hoc signo vinces! という声を聞きます。「この印において勝て!」

政治秩序は、キリストの十字架の印を王の旗に付け、教会の権威に従い、剣を教会の奉仕のために使うことによってのみ、その敵に勝つ力を得ることが出来る。共和国だけの自然の力では、王国だけの内的な自然のちからでは、国を維持し続けることはできない、と。王は、権威を持って、臣下の信仰を促進させなければならない、と。国家は、真の宗教であるカトリック教会を守るべきである、と。

国民がイエズス・キリストに対する生き生きとしている信仰を持つ限り、キリストの代理者である教皇は、国家の上に権威を持ちます。王もそれを尊重しなければならなくなります。そして国民は信仰から王たるキリストの代理者として王を尊敬し、愛国心に燃えることでしょう。

しかし、人間中心主義の結果、カトリック教会の権威から逃れようとする理論が構築されました。その代表がマルシリオ・デ・パドゥア(Marsilio de Padua:1275 - 1342)です。マルシリオは、教会を政治秩序の権威の下に敷こうとする論を宣言しました。

ところで、神曲で有名なダンテ(Dante Alighieri : 1265 - 1321)は、良きカトリック信徒として政治の上に教会の権威があると主張しつつも、人間中心主義者として、政治と教会との両者を分離し、政治に宗教からの自律・独立を与えました。

ダンテの誤りは、世俗国家の目的が純粋に自然的な目的と同じである、としたことです。つまり世俗の国家は超自然と関係ないとしたことです。

確かに、キリスト教的な政治と教会との権威の区分けは、自然の秩序と超自然の秩序との区別にあります。たしかに、自然の秩序と超自然の秩序とが区別される、というところから出発しますが、しかし、だからといってただ単に「世俗国家=自然」「教会=超自然」と同一視することはできません。

例えば、理性的動物としての人間は、肉体と霊魂とに分けられますが、だからといって「肉体=動物」「霊魂=理性」だと同一視することは出来ません。何故なら、人間の肉体がただ単に動物的な目的だけのためにあるわけではないからです。人間の肉体は、理性のために、理性に奉仕するためにも存在しています。

政治も、単に、純粋に自然の秩序のためだけのものではありません。イエズス・キリストが回復させた超自然の秩序のために、超自然の秩序の奉仕のために、教会のために、高められる必要があります。

人間の永遠の命の救いのために、国家は、教会との協力して、調和良く、超自然の目的のために歩調を合わせる必要があります。

何故なら、個人としての人間も、人間の社会も、二つの究極の目的(自然の目的と超自然の目的)があるのではないからです。たった一つ、超自然の目的しかありません。永遠の命の為という目的です。

政治秩序の目的は、究極の目的ではなく、本質的に究極の目的に従属している、中間の目的です。究極の目的の達成ということは、教会の権威に直接に委ねられています。

ところがダンテは切り離せない物を切り離してしまおうとしました。生きている子供を半分に切って、自分の子供だと主張している二人の母親に与えようとしました。教会には恩寵と神学を、国家には自然と哲学を与えよ、と。

こうすることによって教皇の尊厳の体裁を保ちつつ、王には教皇からの自由を与えようとしました。国家は、教会とは独立して、哲学と理性だけで統治されている、神学も恩寵も不要だ、ただし、王は国民の道徳を向上させるために、教会を擁護すべきだ、と。これは、国家と教会との離婚の始まりでした。同じ屋根の下で生活しながらも、別々の部屋で眠る夫婦のようでした。

こうして14世紀から始まった離別運動は、16世紀にはルターによって教会の教える権威からの解放があり、これに続いて、プロテスタント運動の一般化によりキリスト教の王が教会の権威から離れようという運動が定着していきました。

17世紀にはデカルトが、方法的懐疑により、キリスト教神学の権威も捨て、異教のアリストテレス哲学の権威もかなぐり捨てました。

権威が無ければ、社会が成立しません。カトリック教会が維持して支えてきた権威の概念(「全ての権威は天主に由来する」)も現実(「キリスト教王の統治する国家」)も破壊されてしまったので、あたらしい「権威」が必要となりました。

マルシリオ・デ・パドゥア(1275 - 1342)は、国家権力を教会の権威よりも上に立つと主張しましたが、この考えはマキャベリ(1469 - 1527)によって完成されます。つまり、マキャベリによると、まず権力を行使するのが先で、それを正当化するために次に理論を構築すると唱えたからです。

教義の原理や道徳的な責任が存在しない、権威の行使としての政治行動が優先するとされたのです。これが、民主主義の詭弁を隠す理論です。

【人間中心主義による民主主義の問題点】

人間中心主義は、自由を追求します。権威を振り払います。しかし、権威がなければ自由は保つことが出来ません。

人間は権威の束縛から解放されて自由となり、全ての人々が同じく自由気ままに好き勝手なことをしていたら、強い者・力のある者が勝ち、より大きな自由を楽しみ、弱い者・力の無いものは負けて自由を制限されるか奪われてしまうからです。言ってみれば、狼が羊たちを食べてしまうからです。

カトリック教会は、真理のみが自由がある、善を行う自由がある、と教えてきました。しかし、マキャベリ主義は、真理とか善とかを考慮しない、行動の絶対自由を追求するからです。マキャベリストによる、善悪はない、あるとすれば、自由を行うことが善である、です。

善という目的のための自由、善を行い、善を得るための手段である自由が、自由という究極目的にかなうならば善とされるようになります。自由を邪魔するものは悪だ、と。

ルソー(1712 - 1778)によれば、人間は自分の自由を守るために、結社する全員が自分で自分を統治する社会を作る、とします。社会の構成員が一つの共通の意志を持って、自由を維持するという目的をもって、自分で自分を統治する。権威は自分であって、個人個人の意志は、みんなの共通の意志である共同体を構成する、とします。

ルソーは皆の共通の意志・国民の総意である「一般意志」が、共同体を指導すべきだとします。

ところで、この国民の総意は、民主的な選挙と投票で表明されるとされます。選挙の結果として表れたものが国民の総意であるとされると、これに反対するものは、国民の総意に反するものだとされて、全く無効・間違いであるとされます。共同体は、選挙の結果に絶対的に従わなければなりません。共同体に主権があり、その共同体が決定し、共同体がその決定に従うとされるからです。ルソーによれば、国民の総意に反対するような投票は間違っていた、とされます。

つまり、たとえて言うならば、勝てば官軍負ければ賊軍です。結局は、言ってみれば、狼の自由がもっとも強いので、守られます。その時、全ての人々による統治というよりは、狼の統治です。

狼は羊を守りますが、狼自身の利益のためです。

羊は、羊飼いの権威から逃れて自由になろうとして、狼に投票します。そこで、羊飼いの代わりに、狼の支配を受け入れることになります。きっと自分だけは食べられてはしまわないだろう、と思いつつ。

そこで、民主主義には、三種類の態度があります。
●羊の皮を被った狼がいて、民主主義を使って羊の群れを支配しようとします。
●狼の歯を持った羊がいて、草を食べるのはもう飽きた、肉を食べたい、と自分の自由放埒を正当化しようと民主主義を信じようとします(マキャベリスト)。
●単純な羊がいて、真理を知るのを恐れて民主主義を信じようとします。

【第二バチカン公会議は、その人間中心主義により、民主主義的な教会になろうとする】

こうして、人間中心主義から、マルシリオ・デ・パドゥアや、マキャベリを経て、ルソーを通して、現代の民主主義の考えが生まれました。

第二バチカン公会議は、人間中心主義を採用する以上、今後、カトリック教会にも民主主義を適用させようとします。

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1830年11月27日:不思議のメダイの聖母の御出現「これをモデルにしてメダイを作りなさい。それを身につける全ての人は、豊かな恩寵を受けるでしょう。」

2019年11月27日 | M.I.(無原罪の聖...
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日は、不思議のメダイの聖母の御出現の日です。

心のともしびウェブ・サイトの記事の抜粋をご紹介いたします。【サイトにあった誤字を訂正し加筆しました】

【カタリナ・ラブレ】

 カタリナ・ラブレは学校教育を受ける機会に恵まれなかった農家の娘でした。彼女は1806年に北フランスの片田舎、ファン・レ・ムティエ村に生まれ、9歳の時に母を失いました。この母の死は幼い少女にとって、大きなショックでありましたが、イエズスの母なるマリアに頼ることにより、慰めを見い出しました。母の死を知って、カタリナは、母の寝室の椅子に上り、高い棚においてあった聖母像を取り、それを胸に抱きしめて大声でいいました。「愛する聖母よ、私のお母さんになってください」

 以前より、教会ではマリア様への崇敬の念がありましたが、この感動的な出来事が起こってから、マリアの時代が始まったと言えるでしょう。

 その日から、カタリナは聖母に対して、より深い献身的な愛情を捧げること出来る神秘的な力を持った人になったように思えます。未だ年端もいかない少女であったにもかかわらず、母代りとなって、家族の面倒をみなければまりませんでした。父や3人の弟、1人の妹、それに14人の雇人のために、食事のしたく、裁縫、洗濯などの仕事が彼女に課せられました。これらの仕事をしたうえに、彼女は、毎朝に未だ日の昇らない前に家を出て、5キロ先の教会でミサにあずかる時間や、毎日祈る時間をもみつけたのでした。彼女は特に古くいたんだお告げのマリアの御絵の前で祈ることが好きでした。

【修道生活志願者としてのカタリナ】

 彼女が18歳になり、妹が家事を引き受けられる年齢に達した時、カタリナは、父親に修道院に入る許可を願い出ました。父親は、この願いを許すどころか激しく反対し、彼の弟がパリで経営するカフェへ、ウェイトレスとして送ってしまったのです。父親は、都会での魅惑的な生活が、カタリナに、修道女への望み忘れさせてくれるのではないかと思ったからです。

 しかし、彼の思惑通りにはなりませんでした。彼女の修道生活への望みは強まるばかりでした。

 遂に父親は、彼女の望みを入れて許可を与えました。しかしながら父親の許可だけではカタリナの問題は解決しませんでした。彼女が入会を希望していたパリの愛徳童貞会が申込みを拒んだからです。理由は彼女に教育がないということでした。

 しかし彼女は再び願い出ました。他の修道会の修道女の助けもあって、遂に彼女は教育こそ受けていないが、修道院において、手仕事、祈り、犠牲で奉仕出来ることを総長に悟らせました。

 そして1830年1月22日、彼女は志願者として会に受け入れられることになりました。

 4ケ月後にカタリナは、パリのバク通り140番地で修練女として入会を許可されました。カタリナが御出現を見はじめたのは、この修練時代でした。この修練女としての9ケ月間に、彼女は聖堂に入るたびに、聖体の中に確かに在すキリストの御姿をまのあたりに見たのです。

【聖母マリアの出現】

 このように何度も彼女がキリストの御姿に接したあと聖母マリアの御出現が続きました。カタリナは最初の御出現の様子を次のように語っております。

 「聖ヴインセンシオ(愛徳童貞会創立者)の祝日の前夜(1830年7月18日)、修院長マザー・マルタは諸聖人への信心、とりわけ聖母マリアに対する信心についての話を、私たちにしてくださいました。この話は、聖母マリアにお目にかかりたいという、私の望みを一層強くさせましたので、その夜、それが実現するかもしれないという思いで床についたのです。それは、私が長い間念願していたもの でした」

 「私たちは聖ヴインセンシオの祭服の一部をいただきました。私はその布切れを半分にさき、呑み込みました。そして聖ヴィンセンシオが聖母にお目にかかれる恵みを取り次いでくださることを確信して眠りにっいたのです」

 「11時半に『シスター、シスター』と、だれかが私の名前を呼ぶのを聞きました。はっきり目が覚めた私が声のする方を見ると、白衣をまとった4、5歳の男の子が見えました。その子は私に、『早く起きて聖堂にいらっしゃい。聖母マリアがそこであなたをお待ちです』と言いました。とっさに私には次のような考えがひらめきました。だれかが気付くのではないか、と。子供は答えました。『心配しないで。今は11時半です。みんな眠っています。いらっしゃい。待っています』

 私は子供といっしょに御聖堂の方へ歩いて行きました。非常に驚いたことには、私たちの行く先々には、燈がともされていました。聖堂の入口で私の驚きは頂点に達しました。その子が指先で扉に触れるか触れないうちに、扉がひとりでに開いたのです。すべてのランプとロウソクが燃え立っているのを眺めることはほんとうにすばらしいことでした。それは、クリスマスの深夜ミサを思わせました。しかし聖母の御姿は見えませんでした。子供は私を祭壇のそばにある司祭用の椅子の方へ連れて行き、彼もそこで待っていました。長い時間が経ったと思われましたが、遂にその時がやって来ました。子供は私に告げました。『聖母マリアがいらっしゃいます。ここにいらっしゃいます』

 絹ずれのような音が、聖ヨゼフの御絵のそばの祭壇の方から、こちらへ向かってくるのが聞こえ、一人の婦人が、祭壇の前においてある椅子に、腰をかけるのを見ました。私は、その婦人が聖母マリアであるかどうか疑わしく思いました。ずっと私の側に立っていた子供は再び言いました。『このお方は聖母マリアです』

 この瞬間に、私は自分が何を感じ、何が私を通り抜けたかをいい表わすことが出来ませんでした。なぜなら、私はそれが聖母であると思えなかったからです。その時、その子は、大人のような強い口調でいいました。『そのお方は聖母です』

 私は、聖母の前にひざまずき、手を聖母の御膝にかけたのです。私の一生涯の中で、最も甘美な一瞬が過ぎました。私は何を感じたかを述べるとは出来ません。聖母は、私に霊的指導司祭に対しては、どのようにふるまえぱよいのかを話してくださり、いくつかの話してはならない事柄をつけ加えられました。また、祭壇の下を指さして、『困難に出会った時には、ここへ来て心を開くように、そうすれば必要なすべての慰めを受けるでしょう』とおっしゃいました。

 どのぐらい聖母のもとにとどまっていたかわかりません。彼女がお去りになる時は、先程来られた祭壇の方へ消えて行かれました。

 祭壇の階段から身を起こすと子供は先程の場所におりました。彼は、『聖母は行っておしまいになりました』と私に告げました」

 「私たちは、もと来た道を通って帰りましたが、その道は燈で照らされ、子供ばずっと私の左側につきそっていました。この子供は、私の守護の天使であったと思います。私は、常に守護の天使に聖母を見るお恵みに与かれるよう祈っていましたので、彼が、私の前に現われて聖母のもとへ案内してくれたものと考えております。彼は白衣に身を包み、日光よりも輝かしい神秘的な光を発していました。ベッドに戻ると時計が2時を打つのが聞えました。その夜、私はとうてい眠ることが出来ませんでした」

 この時カタリナは、聖母と共に2時間以上過しました。彼女は、その御出現の時に語られた聖母の御言葉をつけ加えました。聖母は、神がカタリナに特別の使命をお委ねになるだろうと告げられました。またカタリナが属している修道会に関しての御勧告も与えられました。最後に、聖母マリアは、全世界に向けて御忠告なさいました。

 聖母の御言葉は、

 「現代は悪の時代です。世界はあらゆる悲惨な目にあうでしょう。けれど祭壇のもとにいらっしゃい。御恵みを願う全ての者、偉大な者にも、とるに足らない者にも御恵みはそそがれるでしょう」

【1830年11月27日:メダイを作りなさい】

  この最初の聖母御出現は、次にカタリナが述べている不思歳のメダイで有名な御出現の前ぶれでした。

 「1830年11月27日、黙想していました時、私は、聖ヨゼフの御絵近くの祭壇から絹ずれのような音を聞きました。その方を見ますと、聖ヨゼフの御絵の高さ位の所に、聖母がいらっしゃるのが見えました。聖母はお立ちになっていらっしゃいました。彼女は中背で白い衣服を召しておられました。お顔の美しさはたとえようもありませんでした」

 「彼女は地球の半分の上に立っておられ、その御足は、緑色に黄色の斑点を持つへびを踏みつけられておりました。御手は胸の下の位置迄上げられ、小さな金色の十字架を上にいただいた世界を象徴する球をあたかも神にお捧げになっているかのように、大変くつろいだ御様子でお持ちになっていらっしゃいました。

 聖母は先ず御目を天に向けられ、そして地に向けられました。私は、各々の指に三つづつ指輪がはめられているのを見ました。きらきら光る宝石で作られたそれぞれの指輪は、四方に輝き渡り、その光は御足元にまであふれ、聖母の御足も見えませんでした。その瞬間、聖母は御目を下に向けられ、私をごらんになりました。私は次のようなお声を聞きました。

 『あなたが見ているこの球は、世界を、特にフランス、とりわけ個々の人々を象徴しています。

そして、この光は願い求める人々に注がれている恵みを象徴しています』

 これによって私は、聖母に祈ることが間違いでないことがよくわかりました。また、彼女に御取次を願う人々には、豊かに報われることもわかったのです。この時聖母のまわりに楕円形のわくが出来その中には、金文字で『原罪なくしてやどり給いし聖マリア、御身に依り頼み奉る我等の為に祈り給え』と、記されていました」

 「金色の球は消え失せ、御手が差しのべられました。その御腕は御恵みの宝石の重みで下りました。そしてお声がしました。

 『これをモデルにしてメダイを作りなさい。それを身につける全ての人は、豊かな恩寵を受けるでしょう。それを首におかけなさい。深い信頼をもってそれを身につける人々は、恵みで満ちるでしょう』

 その時、私には、その絵が裏返ったように見えました。私はメダイの裏を見ました。一本の横木と、十字架をいただい大きなMの字、その下には、二つのみ心、即ち茨の冠でかこまれたイエズスのみ心と、剣でさしつらぬかれたマリアのみ心がありました。そしてその光景は失せました」

 メダイは聖母の御指示にそって作られ、広く普及されることとなりました。このメダイがあまりにも早く広がり、驚くべき恩恵をもたらしましたので、"不思議のメダイ"と名づけられました。

«原罪なくして宿り給いし聖マリア、御身に依り頼み奉るわれらのために祈り給え。»

「汚れなき聖母の騎士会の歌」

汚れ知らぬ 清きみ母
天(あめ)と地との きさいマリア
罪人らの よりどころよ
我らの愛 母なる君
主はことごとく 慈悲の恵みを
君の御手に ゆだね給う
罪ふかき 我らなれど
身許に馳せより 伏して祈る


御身こそは 「み踵(かかと)もて
蛇のかしら 踏みて砕く」
そのお方よ、ただ一人で
全ての誤謬 滅ぼし給う。
マリアの騎士は うまずたゆまで
我が身すべて 御手に委(ゆだ)ねん。
命も死も 身も心も
御旨のままにぞ 使い給え


いと優しき われらの母
汚れの無き 愛の炎 
真理(まこと)の道 避難所(よりどころ)よ、
み母を知る 慈悲の恵み
迷える子らに 与え給えよ。
主の恵みは 御手を通し
救い主の 聖心から
潤いあふれて 与えらるる。

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12月8日に無原罪の御孕りのための13日間の準備が始まりました

2019年11月26日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

無原罪の聖母の騎士の皆さん全員に対して、12月8日に無原罪の御孕りに対して自らの奉献を更新することを、心を込めて呼びかけます!

この危機の時代において、私たちは、すべての恵みの仲介者にしてサタンのかしらを踏み砕くお方であるマリアに私たち自身を完全にお委ねしていること、また私たちがマリアのご保護のマントの中でマリアの道具としてマリアのために戦っていることを、再確認したいと望んでいます。

私たちの熱意を深め、よみがえらせるため、私は皆さんがこの祝日のために、小冊子「Consecration to the Immaculate Conception(無原罪の御孕りへの奉献)」を使って13日間の準備をするようお勧めします。私たちは、不思議のメダイの祝日の前日である11月26日にこれを始めます。






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江田舟山の金銅製冠帽と百済の金銅冠

2019年11月26日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

九州の江田船山古墳で出土した金銅製冠帽をご紹介いたします。

中央に絡み合った2頭の龍,その外側を火焔文で縁どった文様を透彫りした2枚の爪形の金銅製側板と,半球状の飾金具を付けた蛇行状金具からなる。側板・縁金からは多数の歩揺(ほよう)を垂下する。伴出の素環頭(そかんとう)大刀の環頭部外周,帯金具(方形カ帯(かたい)金具),鏡板にも龍の文様がみられる。





百済にも似たようなものが出土しています(現在の韓国の公州市)。写真は複製物。



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--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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