また、大天使聖ミカエルの祝日に、聖なる日本の殉教者聖堂(大宮)と聖母の汚れなき御心聖堂(大阪)では、トマス小野田神父の司祭叙階三十周年で皆様からいただいたプレゼントのカリスを使い始めました。心から感謝申し上げます。
最後に、新着のお祈りの依頼ですが、ベルナール・ティシエ・ド・マルレ司教さまのためにお祈りください。司教様は、昨日、階段で転んで、病院で治療を受けておられるそうです。
2024年9月22日聖霊降臨後第十八主日のミサの説教
トマス小野田圭志神父
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
先週は、マリアさまの七つの悲しみの祝日で、マリアさまがイエズス・キリストの伴侶――第二のエワ――として、主の御旨に従って、イエズス・キリストの功徳にまったく従属して、イエズス様において、イエズス様によって、イエズス様とともに、贖いの業を成し遂げられたということを黙想しました。
その結果として、マリアさまは御苦しみにおいてわたしたちを超自然の生命に生み出してくださった本当のお母様である、ということを黙想しました。実際に、典礼では、マリアさまがお母様であるということは、いろいろなところに出ています。聖母の連祷、サルベ・レジナ、アヴェ・マリス・ステラ、などなどに。
マリアさまは、イエズス様とともにイエズスと共同して私たちを贖った方――その結果私たちの霊的母・・・。では、このことからいったい何が、さらに導き出されるでしょうか? そのいろんなことが導き出されますが、そのうちの一つは、マリアさまが仲介者である――そういうことです。今日はそのことについて特に黙想したいと思っています。
【聖母が母であるということの結果】
マリアさまが霊的な母親である本当の母親であるということは、この世において天国への道を進んでいる私たちにとっては、マリアさまは私たちのために必要な聖寵を、お恵みを仲介して、取り次いでくださっている方ということです。もしも私たちが天国に到達したならば、マリアさまはその時、母であり、同時に聖人たちの元后・女王となられます。
聖ベルナルドは、聖母についてわたしたちは語り切れない(De Maria nunquam satis)と言いましたが、本当にその通りです。ですから今日は的を絞って、マリアさまが特に全ての聖寵の仲介者であるということをお話しします。
【全ての聖寵の仲介者】
「仲介者」というのは、いったいどういうことでしょうか。仲介者というのは、中にはいって両者の関係がうまくいくように手伝ったり取り次ぐ人のことです。
ところで、マリア様のことを聖福音に従って読んでみると、イエズス・キリストのこのご生涯のその最初から、霊的にそして物質的に取り次いで、イエズス様からお恵みを奇蹟を取り次いだ人です。
たとえば、マリアさまを通して、イエズス様は最初に洗者聖ヨハネを聖化しました。またマリアさまを通して、イエズス様は最初にカナで物質的な奇蹟を行いました。これはそののちまで世の終わりまで、イエズス様はマリアさまを通して奇蹟を行い続けますよという前兆でした。これが天主のみ旨ですよという、予告でした。
使徒行録によると、聖霊降臨のときにはマリアさまは使徒たちと一緒に祈っていました。そして聖母は、私たちの母として天に上げられた今、子供たちである私たちのために祈り続けています。絶えず祈り続けています。
では、マリアさまが「仲介者」であるということはどういうことか、そのことを深く見てみましょう。三つの点があります。
(1)【天主の御母となる恵み】
一つは、マリアさまがまず、天主の御母となるお恵みをいただいた、ということです。聖母は被造物でありながら、天主の御母となられました。これほど天主の本性とぴったりと親密な関係を持つ方は存在しえません。天主の御母――天主の母となるために、マリアさまは、満ち満ちと溢れる聖寵を受けて、そしてその溢れは私たちの上に溢れ出て、注がれるばかりでした。マリアさまが持っていたその天主の母のお恵み、これが大事です。
(2)【自由な承諾】
第二は、ただお恵みをいただいたというだけではありません。マリアさまはそれに自由に承諾しました。進んで協力したということです。救い主の母となるということは、いったいどれほどのことか、どれほどの苦しみを伴うことかということを、マリアさまは聖書を通してよくご存じでした。しかしそれに自由に承諾しました。「われ主のはしためなり。おおせのごとくわれになれかし。」そして救い主の犠牲とそのご生涯にできる限り密接に結びつこうとして、そして苦しみました。そしてそうすることによって、私たちの救いに協力しようと望みました。意志しました。ですから、マリアさまには、お恵みを受けただけでなく、自分の意志があったということがわかります。
(3)【協力の実現による功徳】
三番目は、そう望んだだけではありません。実際にそうした、それを果たした、という点です。協力を実現させた、功徳があるということです。ただそうなったらよいなあというだけではありませんでした。マリアさまは、私たちの罪の贖い・償いのために究極まで、十字架の下に佇んで、ご自分の苦しみをイエズス・キリストとともにお捧げになりました。そして、イエズス・キリストとともに溢れるばかりの功徳をお積みになりました。ですから、その功徳をもって、いま天国で、私たちの救いに役立つすべてのお恵み・聖寵を、私たちのために祈り取り次いでくださっているのです。
マリアさまが取り次ぐのは、イエズスさまとわたしたちの間です。ですから聖母は、贖い主・キリストとわたしたちの間の仲介者として、取り次いでくださっています。わたしたちのつたない祈りや犠牲を、マリアさまはイエズス様に取り次ぎ、そしてイエズス様から特別の祝福あるいは聖寵、わたしたちにとっての利益を得て、わたしたちにくださるようになさっています。こうすることによって、イエズス様に従属する・依存する普遍的な仲介者となられています。
【依存・従属する仲介とは?】
では、イエズス様に依存したり従属するというのはいったいどういうことなのでしょうか。このことを誤解のないようになさってください。贖い、つまり贖罪という大事業は、まず天主から――聖寵をわたしたちに創りわたしたちにくださる天主から、まったく由来しています。と同時に、完全な仲介者であるイエズス・キリストからも完全に由来します。さらに、従属的な仲介者であるマリアさまから、由来します。
天主、イエズス・キリスト、マリアさま、これはどういう関係になっているかというと、たとえばある荷物を3人の人が3人の紐で一緒に、「一・二・三」と引っ張ったという関係ではありません。そうではなくて、ちょうど林檎がどうやって実るかというようなのに似ています。まず、自然の創造主である天主によってあぁ林檎というものが創られたのですけれども、同時にその林檎の実がなるためには樹が生えていなければなりません・・・と同時に、その樹に枝がついていて、花が咲いて、実がならなければなりません。そのように、天主、イエズス・キリスト、マリアさまは、従属して、三つが協力されて、贖いの事業が成立しました。
つまり、すでにすばらしいやり方で無原罪の御宿りというやり方で、イエズス・キリストによって贖われて、原罪と自罪のすべてから守られたマリアさまが、わたしたちを、まず罪の赦しとそれを聖化しそして最後まで聖寵の状態に堅忍することができるように守ってくださる、そういうやり方で私たちの贖いに協力してくださっています。
これを別の言い方でいうと、マリアさまはイエズス様と一緒に二人で功徳を積んだ方です。
【聖母の功徳:全ての聖寵の仲介者】
(1)マリアさまだけが、救い主を私たちに与えました。(2)マリアさまだけが、十字架の犠牲に生贄に最も緊密に結ばれました。(3)そしてマリアさまだけが、全人類のためにすべての必要なお恵みを普遍的に仲介してくださっています。
(1)聖トマス・アクィナスは、このことをこう言っています。
「マリアさまが全く自由に聖寵の創り主である救い主の母となることに同意したので、マリアさまはあらゆる被造物の中で聖寵を創った主に最も密接に親しかった方であり、聖寵の充満を受けた。これによって聖母は聖寵に満ちた方をその胎内にお宿しになり、その方をお産みになることによって、ある意味ですべての人の聖寵の源となられた。」(III, Q. xxvii, art. 5)
(2)また、マリアさまだけが十字架と結ばれたということについては、確かにイエズス様は厳格な正義のもとに天主として功徳を積みましたが、マリアさまはいとも清い方でイエズス様を最高度に愛した方だったので、非常にふさわしいやり方で、わたしたちの罪の償いの功徳を積まれた方です。イエズス・キリストとともに積み、そして天主の正義を非常にふさわしいやり方で満足させた方です。
(3)そして、こうやってイエズス様と共に勝ち取ったこの贖いの実りを――これはイエズス様のものであると同時にマリアさまのものであるのですから――わたしたちのために自分のものとして、イエズス様と同時に共同のものとして、わたしたちのためにひとりひとりのために、特にマリアさまに助けを求める人々のために取り次ぐことができるのです。
こうやって、天主の御旨によって、あらゆる取次者の中で、マリアさまは完全な仲介者として定められました。
聖ベルナルドはこう言っています。
「私たちがマリアを通してすべての恵みを受けることは天主の御旨である」(「Serm. de aquaeductu,」 n. vii)。と。
何故なんでしょうか? それはわたしたちがあまりにも弱く、イエズス様まで到達する際にも仲介者が必要であるからです。またもう一つの理由は、マリアさまはあまりにも謙遜な方であったので、天主は聖母を高めようとお望みになられたからです。ですから、マリアさまに、救いとわたしたちの聖化のために重要な役割を果たすことができるように、それを望まれたからです。
このマリアさまの御取次の偉大さについては、聖霊の浄配という役割のためにものすごい力があったということは、さらにお話がありますが、これはまたのちの機会にしたいと思います。
【スタバト・マーテル】
最後に、この黙想を終わるについて、マリアさまが罪の贖いのために協力して、わたしたちにどれほどお恵みを勝ち取ってくださっているかということは、スタバト・マーテル(Stabat Mater)という続誦に非常に美しく表れています。その数節を引用して、この黙想を終わりたいと思います。
Eia, Mater, fons amoris me sentire vim doloris fac, ut tecum lugeam.
慈しみの泉なる聖母よ、われをして御悲しみのほどを感ぜしめ、共に涙を流さしめ給え。
Fac, ut ardeat cor meum in amando Christum Deum ut sibi complaceam.
わが心をして、天主たるキリストを愛する火に燃えしめ、一(いつ)にそのみ心に適わしめ給え。
Fac, ut portem Christi mortem, passionis fac consortem, et plagas recolere.
われにキリストの死を負わしめ、そのご苦難を共にせしめ、その御傷を深くしのばしめ給え。
Fac me tecum pie flere, crucifixo condolere, donec ego vixero.
命のあらん限り、御身(おんみ)と共に熱き涙を流し、はりつけにされ給いしイエズスと苦しみを共にするを得しめ給え。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
聖霊降臨後第十八の主日の説教―罪の赦し
ブノワ・ワリエ神父 2024年9月22日(主日)大阪
親愛なる兄弟の皆さま、
福音の冒頭で、私たちの主は、洗者聖ヨハネによって、「天主の小羊、世の罪を取り除く天主の小羊」と呼ばれています。
たとえ隣人だけしか侮辱しないように見えても、罪は何よりも天主に対する侮辱です。天主は、世の罪を取り除くために、ここにおられるのです。そして、このことは、中風の人の癒やしを語っている今日の福音に、はっきりと示されています。私たちの主がなさった中風の人の癒やしは、主がまず霊魂になさったこと、つまり霊的な癒やしを、外的な癒やしを通して、人が見て分かるようにするためなのです。
私たちの主は、この人の罪を消して、赦されました。「あなたの罪は赦された」。私たちの主は、世の罪を取り除くことのできる唯一のお方です。福音の他の箇所には、主がマグダラの聖マリアの過ちを赦される場面(多くを愛したのですから、彼女の罪は赦されたのです)、後には姦通の女の過ちを赦される場面があります。「あなたを罰した人はいなかったか。私もあなたを罰しはしない。行け、これからはもう罪を犯さぬように」。
1 人の子は罪を赦す
私たちの主が、今日の福音で語っておられるように、人の子は、ここ地上で罪を赦す力を持っています。実際、私たちの主は、天主であると同時に人間であり、福音のテキストには、天主だけでなく、「人の子は罪を赦す力を持っている」とはっきり書かれています。私たちは、天主が罪を赦す力を持っておられることを知っていますが、ファリザイ人たちはこう断言しています。「この人は冒涜の言葉を吐いた。天主でなければ、誰が罪を赦すことができようか」と。しかし、福音のテキストには、「人の子は地上で罪を赦す力を持っている」とはっきり書かれています。私たちの主は、その人間人類の本性によって、霊魂を成聖の恩寵の状態に回復させるために、この罪を赦す力を行使されたのです。それはなぜでしょうか。この天主の力を他の人々に伝えることができるようにするため、まず使徒たちに、次に聖なるカトリック教会で司祭に叙階されるすべての人々に伝えることができるようにするためなのです。
2 人の子は他の人々に自分の力を伝える
私たちの主は聖ペトロに、すでにこう告げておられました。「私はあなたに天の国の鍵を与える。あなたが地上でつなぐものはみな天でもつながれ、地上で解くものはみな天でも解かれる」。ここで、私たちの主は、聖ペトロに非常に多様な力を約束されましたが、その中には、悔悛の秘跡を通して、霊魂を天国に行かせたり行かせなかったりする力も含まれていました。
私たちの主はまた、最初にペトロに個人的に言われたのと同じ言葉を、使徒たちに繰り返して、この力を使徒たちにも与えられました。
そして次には、おそらくもっと明確にされました。ご復活の日に、私たちの主は、首を吊ったユダと不在のトマスを除いて集まった使徒たち全員にご出現になり、こう告げられました。「父が私を送られたように、私もあなたたちを送る」。この意味は、「私は父から使命を受けた。霊魂たちを救うという使命を」ということです。(洗者聖ヨハネの、「世の罪を取り除く天主の小羊を見よ」という言葉を思い出してください。)。私たちの主は、御父から救いの使命を受けられ、その同じ使命を教会に委ねられたのです(教会は、司祭の役務を通して、私たちの主イエズス・キリストの救いのみわざを継続するという使命を持っています)。
ですから、私たちの主は、ご復活の日の晩に、使徒たちに、「父が私を送られたように、私もあなたたちを送る」と言われ、そして聖ヨハネは、こう続けます。「イエズスは、そう言いながら、彼らに聖霊を与えるために息を吹きかけて、『聖霊を受けよ。あなたたちが罪を赦す人にはその罪が赦され、あなたたちが罪を赦さぬ人は赦されない』と言われた」。このように、私たちの主は、使徒たちに罪を赦す力を明確に与えられますが、同時に、悔悛者が必要な心構え(天主を侮辱したことに対する痛悔と、自分の生活を改めるという堅固な意向、あるいは真心からの望みと呼ばれるものが欠かせない心構え)を持っていない場合には、罪を赦さない力も与えられるのです。
3 司祭は罪を赦す力を使徒たちから受けた
ご復活の日に、私たちの主が使徒たちに言われた言葉を、今日(こんにち)、司祭叙階式の中で司教が繰り返すとき、この罪を赦す同じ力が司祭に与えられます。
私たちの主は、マグダラの聖マリアに、「あなたの罪は赦された」と言われました。同じように、告解室で司祭はこう言います。「Ego, autoritate ipsius, te absolvo a peccatis tuis, in nomine Patris et Filiæ et Spiritus Sancti-われ、彼の権威によりて、御父と御子と聖霊との御名によりて、なんじの罪を赦す」。ですから、司祭が世の罪を赦すのは、自分自身の権威によるのではなく、私たちの主イエズス・キリストの権威によるのです。
ファリザイ人は、私たちの主の言葉につまずきました。「この人は冒涜の言葉を吐いた! 天主でなければ、誰が罪を赦すことができようか」。そうです、繰り返しますが、罪を赦す力は天主の力です。しかし、私たちの主は、人の子として、その人間人類の本性によって、この力を行使され、その力を使徒たちに伝えられ、使徒たちはその力をカトリック教会の司祭や司教に伝えたのです。
ラザロの復活の場面で、私たちの主が使徒たちに、「解いて行かせよ」と言われたことについて、聖アウグスティヌスが注釈を加えて、こう言っています。「これは、罪に捕らわれた霊魂を解くために、彼らを解いて、成聖の恩寵の自由を、成聖の恩寵の状態を取り戻させるために、私たちの主が司祭に与えられた力のかたどりである」。ここで、聖アウグスティヌスは、そして彼とともに教会の全聖伝は、私たちの主によって制定された悔悛の秘跡を通して、罪がいつも赦されるということを明確に示しています。したがって、プロテスタントが主張するように、「悔悛の秘跡を受けなくても、天主に立ち返るだけで罪は赦される、と言うことができる」というのは偽りです。私たちは、司祭の役務を通して、この秘跡を受け、謙遜に自分の罪を告発し、天主から罪の赦しを得なければなりません。
4 なぜ直接天主から罪を赦されないのか
私たちの罪が、私たちの主から直接赦されるのではなく、司祭を通して赦されることを、私たちの主が望んでおられる理由は、二つあります。
1―本当に赦されているという確信を、私たちが持つためです(私たちは、天主を見ることはできませんが、司祭が次の言葉を繰り返すのを、見たり聞いたりすることはできます。「Ego te absolvo-われ、なんじの罪を赦す」)。
2―そしてまた、この秘跡が罪の赦しに不可欠な心構え、すなわち謙遜を与えてくれるからです。私たちは、天主の役務者である司祭から罪の赦しを得るためには、(同じく罪人である)司祭の前で謙遜にならなければならないのです。
親愛なる兄弟の皆さま、この福音を読むとき、私たちの主の行いにつまずいて、「この人は冒涜の言葉を吐いた!」と言ったファリザイ人のようにならないようにしましょう。いいえ、私たちの主は、冒涜の言葉を言ってはおられません。私たちの主は、天主であると同時に人間です。私たちの主は、罪を赦すという天主の力を持っておられ、その大いなるあわれみによって、主は、教会が霊魂を救う使命を継続できるよう、教会にその力を委ねられたのです。私たちの主は、目に見えない力である、霊魂を癒やすという主がお持ちの力の明白なしるしとして、この中風の人を外的に、明白に癒やしたいと思っておられたのです。そして、教会の役務者は、奇跡(あるいは外的な癒やし)を行う力を与えられることはあまりないとしても、その一方で、私たちが信仰の目を通してだけ見ることのできる、さらに偉大でさらに重要な目に見えない力、すなわち罪を赦す力を持っているのです。
エゼキエル書の中で、天主はこう言っておられます。「もし悪人が、自分の犯したすべての罪を悔悛し、私の掟をすべて守り、正しく行動すれば、その人は本当に生きる」、すなわち成聖の恩寵の命を取り戻し、自分自身を救うことができるということです。天主の御あわれみは、秘跡を通して、特にこの悔悛の秘跡を通して伝えられるのです。
ですから、この秘跡を利用し、「世の罪を取り除く天主の小羊」である私たちの主イエズス・キリストに頻繁に近づき、司祭の役務を通して罪の赦しを受け、救いの恩寵を取り戻しましょう。
アーメン。
教会について(2024年9月16日、札幌)
ブノワ・ワリエ神父
教会とは何かを知ることは、教会の一部であると主張しているすべてのカトリック信者にとって、今日、これまでにないほど不可欠なことです。親愛なる信者の皆さま、私は、連続2回の講話を通して、秘跡によって一致し、教皇によって導かれる、天主が立てられた社会であるカトリック教会の持つ、深遠な本質と使命を、皆さまとともに探求したいと思います。
前半の講義では、教会の分裂、教える教会員と忠実な教会員の役割、天主のみ言葉と聖伝に従う必要性について吟味します。教会の本質的な属性である可視性、永続性、不可崩壊性、不可謬性については、教会の四つのしるしである「一(いつ)、聖、公(カトリック)、使徒継承」とともに論じます。
次回行われる後半の講話では、教皇と司教の役割に重点を置きながら、教会内部の構造と権威について詳しく説明します。最後に、団体主義や信教の自由という誤った解釈など、現代的な課題についても併せて考えます。
教会の本質
カトリック教会は、キリストの真の信仰を宣言するすべての人々による、天主によって創立された社会であり、キリストが制定された秘跡によって一致し、キリストが目に見える地上のかしらである教皇の下に立てられた牧者たちによって統治されています。
教会の使命
イエズス・キリストが栄光のうちに再臨されるまで、イエズス・キリストのうちにあるすべての人を教え、統治し、聖化するために、天主の権威と委任を担っているのは、カトリック教会だけです。教会の使命は、貧困や病気、環境汚染と闘うための、また「人類の進歩と普遍的友愛」を促進するための人道的奉仕団体となることではありません。
教会の各部分
教会を、三つの部分に分けることができます。1.地上の民から成る「戦闘の教会」、2.煉獄にいるすべての霊魂から成る「苦しみの教会」、3.天国にいる民から成る「凱旋の教会」です。
一つの社会である「戦闘の教会」の持つ、二つに分けられた側面とは何ですか。
1.教皇と、教皇と一致した司教たちから成り、イエズス・キリストの地上における代理者としての権威をもって教える「教導教会」(Ecclesia Docens)、すなわち「教える教会」、2.キリストの教えを受け、それに従って生きるすべての信者から成る「聴従教会」(Ecclesia Docta)、すなわち「教えられる教会」です。
《「教えられる教会」は、啓示された天主のみ言葉に対して、最も従順で素直でなければなりませんか》。はい。教会の教導職は、「天主のみ言葉の上にあるものではなく、むしろ、これに奉仕し、伝えられたことだけを教え、天主のみ言葉を敬虔に聴き、誠実にこれを守り、忠実に説明する」のです。第一バチカン公会議は、決して教皇を絶対君主と定義しませんでした。その反対に、この公会議は、教皇を啓示されたみ言葉への従順を保証する者として提示したのです。
《この従順と素直さは、永続的な意味での教会の聖伝にも広げなければなりませんか》。はい。「教皇の権威は信仰の聖伝を守るように義務づけられており、そのことは典礼にも適用されます」。ですから、聖アウグスティヌスは、真のカトリック司教の特徴を、こう述べています。「彼らは教会の中に見いだしたものを保持し、学んだことを教え、父祖から受けたものを子らに伝えた」。
教会の必要性
救われるためには、カトリック教会に属することが必要です。これが、教父たち、教皇たち、諸公会議によってしばしば繰り返されてきた、「教会の外に救いなし」(extra Ecclesiam nulla salus)という断言の意味です。
《しかし、天主はすべての人が救われるように望んでおられませんか》。はい。愛に満ちた父として、天主は「すべての人が救われて真理を知ることを望んでおられる」(ティモテオ前書2章4節)のです。だからこそ、天主は、ご自分の教会を、通常にして普遍的な救いの手段として立てられたのです。「教会を母としない者は、天主を父とすることはできない」【聖チプリアヌス】。
《天主の啓示も天主が創立された教会も知らない人が、救われるのは可能ですか》。洞察力を求めて祈ったり真の宗教を熱心に求めたりすることを怠る人は、自分の過ちによって無知なのですから、救われるのは不可能です。同様に、いったん教会を発見しても入ることを拒む人は、天主の招きを知っていながら拒んでいるのですから、救われるのは不可能です。しかし、もし人が天主の啓示を含め、自分に与えられた恩寵を意識して拒むのではなく、また適切な心構えが加わるならば、天主が特別な方法でその人を教会に加入させることは可能です。「私たちのいとも聖なる宗教について不可抗的無知であっても、…正直で高潔な生活を送る人は、天主の光と恩寵の働く力によって、永遠の生命に達することができる。なぜなら、天主は、意識して罪を犯してはいない人が永遠の苦しみで罰せられることを、決してお許しにならないからである」【教皇ピオ九世回勅「クアント・コンフィチアムール・モエローレ」(Quanto Conficiamur Moerore)】。天主は全能ですから、通常の秘跡のしるしとは無関係に洗礼の効果を伝えることがおできになるのです。
《霊魂が、この特別な方法で救われるためには、どんな前提条件が必要ですか》。1.天主が存在されること、また天主を求める者に報いをくださることを信じること(ヘブライ11章6節参照)。2.天主が知らせてくださる御旨を知り、それを行おうとする真摯な努力をすること。3.罪に対する真の悔い改めをし、赦しを願うこと―です。しかし、このような特別な方法で教会に入ることが、頻繁にあると考えるべきではありません。そう思うのは無謀なことです。「滅びに至る門は広く、道はやさしく、そこを通る人は多い。しかし、命に至る門は狭く、道は険しく、それを見つける人も少ない」(マテオ7章13-14節)。
《教会の外にいる人とは、どのような人ですか》。ユダヤ教徒、イスラム教徒、異教徒など、洗礼を受けていないすべての人々です。洗礼を受けていても、自らの犯罪や罪が洗礼の霊印の効力を妨げ、教会の霊的な善から切り離されている人のことです。その中には、異端者、離教者、破門者、背教者が含まれます。
《教皇の命令に不従順なすべての行為は、それ自体で離教的ですか》。教皇に抵抗したり、教皇の特定の教えや命令に従うことを拒否したりしても、それが自然法や天主の法に明らかに反していたり、カトリック信仰の完全性や典礼の神聖さを傷つけたり損なったりするならば、離教的ではありません。このような場合、教皇への不従順や抵抗は許されるものであり、時には義務なのです。
《破門された人とは、どのような人ですか》。何らかの重大な罪により、教会の目に見える交わりから切り離され、教会の霊的な祝福を奪われたカトリック信者のことです。しかし、公の破門宣告は無効になる可能性があることを心にとめておきましょう。聖ジャンヌ・ダルクの場合のように、破門という法的な刑罰が不当に科され、そのため破門に司法上の適格性も効力もないことがあり得ます。教会はいつか、マルセル・ルフェーブル大司教に対してなされた告発を、完全に不当かつ無効なものと宣言するに違いありません。
《洗礼を受けたカトリック信者が大罪を犯した場合、その信者はまだ教会員でしょうか》。はい。信仰そのものに対して(例えば、異端という罪によって)重大で頑なに罪を犯さない限り、その信者は霊的には死んでいるとはいえ、教会員であり続けます。死んだ枝が、生きている木にまだついているようなものです。したがって、単に教会員であるだけでは、救いに十分ではありません。救われるためには、生きている教会員でなければなりません。つまり、成聖の恩寵の状態にいなければなりません。「教会の子らは皆、自分の優れた身分が自分自身の功績によるものではなく、キリストの特別な恩寵によることを忘れてはならない。さらに、もしその恩寵に対して、思いと言葉と行いをもって答えないならば、救われないだけでなく、一層厳しく裁かれるであろう」。
教会の属性
可視性、永続性、不可崩壊性、不可謬性は、教会の主要な属性です。《教会の可視性とは何ですか》。教会が、キリストによって歴史的に立てられた社会として、人々に公に目に見えるように現れているという事実です。教会は、プロテスタントの間で一般的に信じられているような、共通の信仰や内的な傾向によって一致した人々による、単なる目に見えない集まりなのではありません。
《教会の永続性とは何ですか》。教会が世の終わりまで途切れることなく存続するという事実です。モルモン教徒が信じているように、真の教会が一度存在するのをやめたとか、本質的に堕落したとか、あるいは近代主義者が信じているように、将来何らかの新しい形態に変わる可能性があると信じるのは間違っています。
《教会の不可崩壊性とは何ですか》。教会が、かつて天主なる創立者から受けたすべてのものを保存し、その教義、道徳、秘跡、本質的な組織は、そのまま変わることなく、また変わり得ないという事実です。地獄の門もこれに勝てぬ(マテオ16章18節参照)という天主なる創立者の約束に反して、教会の不変の教導権が、決定的に誤った教理を公布したり、異端的な礼拝を命じたり、誤った秘跡を与えたりするとか、あるいはそれらが可能だとか信じるのは間違いです。
《教会の不可謬性とは何ですか》。それが、決定的な教えにおいても、普遍的な信仰においても、いつの時代も誤謬を免れて保存されているという事実です。「あなたたちの言うことを聞く人は、私の言うことを聞く人である」(ルカ10章16節*)、「真理の御霊(みたま)が来るとき、霊はあなたたちを、あらゆる真理に導かれるであろう」(ヨハネ16章13節)。教会が教理上の誤謬を決定的かつ正式に保持したり教えたりすることができると信じたり、過去の決定的な教えが教理の進化の過程で取って代わられることがあると信じたり、不可謬性のカリスマをあまりにも広義に解釈して、あたかも教会の個々の民が誤謬を犯すことがまったくないかのように考えたりするのは間違っています。なぜなら、異端的な聖職者によってつまずかされる危険があるからであり、また、歴史上最も悪質な誤謬は叙階を受けた者の階級から生まれたという痛ましい事実があるからです。キリストは、そのような飢えた狼や偽の牧者に注意するよう警告しておられます(マテオ7章15節、23章13節、18章6節、使徒行録20章29節参照)。
《教会の不可謬性の範囲に入るのは、どのような真理ですか》。聖書と聖伝に含まれているすべての啓示された真理が、その主要な対象です。例えば、イエズスは真の天主にして真の人間である、といったことです。正式に啓示されたものではなくとも、「啓示の遺産をそのまま保存するために必然的に必要とされる」これらの真理については、「教会の不可謬性の二次的な対象である。これらの真理がなければ、信仰の遺産を守り、説明することはできない」。例えば、霊魂の霊性、人間の意志の自由、あるいは「ペルソナ」、「実体」、「全実体変化」といった、教義が公布される際の哲学的な概念や用語です。
《教皇やエキュメニカル公会議が教える教令は、それぞれ自動的に不可謬ですか》。いいえ、教会の基本原則は、「いかなる教理も、そのことが明白に表明されていない限り、不可謬的に決定されたものとはみなされない」【新教会法典(Codex Iuris Canonici)749条3項】と言っています。
《教会が不可謬的に教えた真理に関するキリスト信者の義務とは何ですか》。信者は、それをそのまま、キリストの教えであると信じて、率直に受け入れなければなりません。
教会のしるし
キリストは、唯一の真の教会であるカトリック教会を創立されました。聖ペトロの上に立てられたもので、ペトロの座はローマにあって、彼の後継者たちがその後もそこで統治しているため、その教会は、ローマ・カトリック教会とも呼ばれています。キリストによって創立された唯一の真の教会は、特に、キリストが教会に与えられた四つのしるし、すなわち特有の言葉によって見分けることができます。それを私たちは、ニケーア・コンスタンティノポリス信経で宣言しています。つまり、教会は「一(いつ)、聖、公(カトリック)、使徒継承」なのです。
1.もし教会が唯一でなければ、教会は真理のものではありません。唯一であることは真理の本質的な側面であるからです。2.もし教会が聖でなければ、教会は霊魂を聖化することができません。3.もし教会が公(カトリック)でなければ、教会は、あらゆる時代や場所で、すべての人々に救いを提供することができません。4.もし教会が使徒継承でなければ、キリストに由来する教理、使命、権威を持っていないことになり、単なる人間の組織になってしまいます。
《歴史上、教会とともにあるように思われるしるしが、もう一つありますか》。はい、迫害というしるしです。天主なるかしらに倣って、忠実なカトリック信者はあらゆる時代に迫害を受けるでしょう。「彼らが私を迫害したなら、あなたたちにも迫害を加えるだろう」(ヨハネ15章20節)。
唯一であること
カトリック教会は唯一です。なぜなら、すべての忠実な教会員は、唯一の真の天主を礼拝し、同じ教理と道徳を宣言し、同じ秘跡にあずかり、同じ牧者に従うからです。真のエキュメニズムとは、「分かれた人々が、過去に不幸にして去ってしまった唯一の真のキリストの教会に立ち戻るのを促すことによって」【教皇ピオ十一世回勅「モルタリウム・アニモス」(Mortalium animos)10番】、すべての人が、カトリック教会がすでに不滅に所有しているその一致に入るべきであるという意向を表明しなければならないというものなのです。
《キリストの霊は、分かれたキリスト教共同体を、「教会に委ねられた恩寵と真理の充満に効力が由来する救いの手段」として用いていると断言することは適切ですか》。いいえ、これは分かれたキリスト教共同体に正統性があるかのようにほのめかすものであり、カトリック教会が唯一であることを損ない、教理上の相対主義を助長するものです。実際には、天主は、カトリック教会をご自分の唯一無二の教会として、また救いの手段の所有者として、決定され創立されたのです。したがって、分かれたキリスト教共同体が多様にあることは、世界の宗教が多様にあることと同様に、キリストのご意向に反しているのです。
《分かれたキリスト教共同体の中には、真の教えを保持し、有効な秘跡を執行しているところもあるのではありませんか》。はい。しかし、それらが真理にして天主をお喜ばせするものである限り、そのような教えや儀式はカトリック教会に属するものであり、異端的あるいは離教的な共同体に属するものではありません。聖アウグスティヌスによれば、教会を去ったキリスト信者は、自分たちがカトリック教会から盗んだものを自分の所有物にしているのです。「教会はただ一つしかなく、カトリックと呼ばれているのはその教会だけであり、また、教会の一致から分かれたそれらの分派に教会の所有物のままで残っているもののおかげで、それを誰が所有していても、生むのは教会なのである」【「ドナトゥス派駁論 洗礼について」(De Baptismo, contra Donatistas)】。
聖であること
カトリック教会は聖なるものですが、その理由は以下の通りです。1.その創立者は天主の御子であり、2.それは聖霊によって活力を与えられており、3.その教義、道徳、礼拝、規律は人を悪から遠ざけて徳へと導くものであり、4.その命令を守る者はすべて善良で徳があり、その勧めに完全に従った人はすべて偉大な聖人となったのであり、5.その囲いの中では数え切れないほどの奇跡が起きている。
《では、なぜ教会の内部にしばしば、つまずきを与える罪人がいるのですか》。「教会は、自分の懐に罪人を抱えているとはいえ、」聖なるものです。「なぜなら、教会自身は恩寵の命以外の命を持っていないからです。教会員が聖とされるのは、教会の命で生きることによってです。もし教会の命から自分を引き離すならば、聖性の輝きを曇らせる罪と無秩序に陥ってしまいます」。天主は、自らの神秘的な御摂理において、あらゆる時代に生きている教会員を聖化して完成させるための御計画の一環として、教会にいる悪を行う者のつまずきを許しておられるのです。
公(カトリック)であること
カトリック教会がカトリックと呼ばれるのは、次の理由からです。1.いつの時代も、どんな場所でも、どんな人間にも完璧に適合し、2.徹底的に全世界に広がることが可能であり、3.普遍的に広がるようにという天主の衝動によって活力を与えられており、4.あらゆる超自然の真理に満ちている。教会は聖霊降臨の日に公(カトリック)となったのであり、キリストの再臨の日まで常にそうなのです。
使徒継承性
カトリック教会は使徒継承です。なぜなら、その教理は使徒たちの教理であり、その使命と権威は使徒たちを通してキリストに由来するものであるからです。教会の司教全員が、十二使徒からの途切れることのない継承によって、人から人へとその聖職をさかのぼることができるのです。
《教会に、弱かったり、世俗的でだったり、堕落したりした司教がいることが、どうして可能なのですか》。司教職とは、聖性を保証するものではなく、使徒的権威のみを保証するだけであるからです。司教が自分の召命に対して不忠実であるならば、高慢、虚栄心、あるいは慰めへの愛着が、しばしば罠となります。天主の恩寵は、地上での神聖な使命を果たすために決してなくなることはありませんが、それでも司教は、自分の召命の恩寵にお応えすることを選ばなければなりません。さもなければ、司教は堕落していくでしょう。司教は常に祈りを必要としており、天主の御前で厳しい説明責任を問われるのです(ティモテオ前書2章1-2節、マテオ18章6節参照)。
2024年9月15日(主日)聖母の七つの悲しみの祝日 東京 10時半のミサの説教
トマス小野田圭志神父
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
今日は、聖母の七つの御悲しみの祝日を祝っているので、マリアさまの悲しみ・苦しみについて一緒に黙想いたしましょう。この苦しみを通して、聖母が共償者、つまりイエズス・キリストと共同して人類の罪を贖ったという神秘を黙想いたしましょう。
いったい、まず、なぜマリアさまは苦しまれたのでしょうか。その苦しみの意味は何だったのでしょうか?
まず、マリアさまはなぜ苦しまれたのかを黙想いたしましょう。
【1:聖母はなぜ苦しまれたのか?】
考えても見てください。聖母は、「無原罪の御宿り」という特別の特権をもって、原罪の汚れを一切持たずに孕(やど)られました。マリア様は聖寵に満たされて、その充満のうちにお生まれになりました。ご生涯に亘(わた)ってひたすら天主だけをお愛しされて、罪の影さえもあらず、聖なる一生を過ごされた方です。しかし、罪のないマリアさまの御生涯は、悲しみと苦しみに満たされておられました。
『キリストに倣いて』によれば、「キリストのご生涯は、十字架と殉教とであった」とありますが、まさにそれと同じく、マリアさまのご生涯は十字架と殉教の連続でした。マリアさまは自分のためではなくて、主の御旨に従って、天主のために生き、そして天主のみ旨に生きれば生きるほど、マリアさまは人類の贖いのために、御子とともに苦しみの生涯をおくらなければなりませんでした。
今日の『七つの悲しみの典礼』――七つの苦しみそれぞれ――を黙想すると、まさにそれを教えています。
【2:苦しみの価値の違い】
なぜ、罪がなかったにもかかわらず、マリアさまは苦しまなければならなかったのでしょうか?
その答えは、イエズス様が聖母とともに贖いの事業を行うことをお望みだったからです。言いかえると、マリアさまは天主の御旨に従って、第二のエワとして、罪のない被造物として、第二のアダムであるイエズス・キリストの贖いの業に完璧に、良き伴侶として協力されたということです。
イエズス様の御苦しみ、特に十字架のご受難は、自分のためではありませんでした。そうではなく、全人類のため、この世の罪を贖うために、捧げられました。マリアさまの生涯の苦しみも、同じです。御子の苦しみと同じく、自分の罪――罪はありませんから――の償いのためではなく、イエズス様が人類のために捧げた苦しみに自分の苦しみを添えて、天主に捧げ、それを人類の贖いの業の協力と同伴と共同の捧げものとしてお捧げになったのです。
では、イエズス様とマリアさまの苦しみはおんなじだったのでしょうか?もし違ったとしたらどう違ったのでしょうか?
イエズス様の苦しみとマリアさまの苦しみの違いは、価値が違いました。なぜかというとイエズス・キリストの苦しみは天主の苦しみだったからです。人となった天主の御言葉が苦しんだので、イエズス・キリストの苦しみには、御言葉の無限の尊厳のために、無限の価値がありました。ですから、厳格な正義に基づいて、イエズス様の御苦しみにおいては、全歴史に亙(わた)るすべての人類のすべての罪を贖ってまだ余りがありました。ところでマリアさまの苦しみには、限界があります。つまり有限の価値、しかなかったということです。
【3:なぜ聖母の苦しみに偉大な価値があったのか?】
しかし、有限の価値だったとしても、イエズス様の苦しみにあまりにもよく参与していたので、マリアさまの苦しみの価値にはきわめて莫大な力がありました。苦しみが持つすべての効果は、贖いの効果は、イエズスの苦しみから由来します。マリアさまの苦しみにもしも贖いの価値があったのは、イエズス様の苦しみに与っていたからです。そしてイエズス様が、マリアさまのために特別のお恵みを与えて、マリアさまが苦しむことができるようにしました。もう少し詳しく言うと、イエズス様のお恵みは、マリアさまをして、イエズス様のために、イエズス様によって、言いかえるとイエズス様のせいで、またイエズス・キリストとともに、苦しむことができるように、お恵みを与えたのです。マリアさまはお恵みがあったからこそ、イエズス様と共に苦しみ、この全世界の罪を贖うためにそれを捧げることができました。
聖ピオ十世教皇は1904年に回勅でこう書いています。
「御子と聖母の生活とは、苦しみを絶え間なく共にし、(…)御子の最期の時が来たとき、イエズスの十字架の傍らには、御子の母マリアが立っていた。マリアは、ただ残酷な光景を眺めるだけではなく、御子が全人類の救いのために捧げられたことを喜び、御子の受難に完全に与った。そして、キリストとマリアの間で、意志と苦難とを共にしたことから、聖母は最もふさわしく、【聖寵に】失われた世界の共同の償う者【coreparatrix】となった。そして、救い主がその死と血によって私たちのために贖われたすべての賜物の分配者(Dispensatrix)となることができた。」« En vertu de la communion de douleurs et de volonté qui l'attachait au Christ, Marie a mérité de devenir la très digne Réparatrice du monde perdu, et en conséquence la Dispensatrice de toutes les grâces que Jésus nous a acquises par sa mort sanglante.» とあります。
つまり、マリアさまは、キリストともに苦しみを捧げることによって、キリストとともにその贖いの功徳を得たということです。
キリストのために苦しむことができるんでしょうか? キリストの苦しみは完全ではないでしょうか?
聖パウロはこう書いています。実は、キリストは私達がキリストのために苦しむことを望んでいる、と。聖パウロの言葉を引用します。「私は今、あなたたちのために受けた苦しみを喜び、そこで、キリストの体である教会のために、私の体をもってキリストの御苦しみの欠けた所を満たそうとする。」(コロサイ1:24)キリストの御苦しみの欠けたところを満たす――それが、キリストが望まれていることです。
こうすることによって、マリアさまはイエズス様とともに苦しみ、そして全世界の苦しみのために、必要な功徳を共に贖うことができました。
功徳というのは一体なんでしょうか?
功徳というのは、聖寵の状態で、つまり大罪を赦されて罪を赦されて、まったく自由に、天主を愛するために、ならかの善意を行ったり、苦しみを耐え忍ぶときに、わたしたちは功徳を積むことができます。この功徳というのは天主と人間との愛の交流・友情関係から生じます。
マリアさまは有限とは言え、イエズス様への深いそして強烈な愛をこめて、まったく自由にすべてをお捧げになりました。そこで、マリアさまの行いや苦しみは、まずマリアさまの聖徳の高さ、それからマリアさまとキリストの一致の深さによって、また主の深いマリアさまへの愛と憐れみと御厚意によって、天主の御心に非常に叶うものであって、最高に価値のあるものとして功徳を得ることができました。ですから、聖ピオ十世のいいかたによると、聖母は、全世界の救いのために、もっとも相応しい価値があるやり方で「デ・コングルオ」のやりかたで、功徳を得たといいます。
では、マリアさまが、キリストとともにわたしたちの罪を贖った、その功徳を得たということは、いったい何を意味するのでしょうか。その意味は、三つあります。
まず第一は、わたしたちの霊的生活にとって非常に大切なことです。これは、マリアさまは、わたしたちの霊的に生みの母となったということです。マリアさまは確かにイエズス様を肉体的に御産みになりました。マリアさまがイエズス様を御産みになったときには、陣痛の苦しみも一切の苦しみもなく、傷もつけずにマリアさまの胎内から奇跡的に御産まれになりました。マリアさまはキリストを御産みになる前も御産みになる時もその御産みになった後も、傷のない童貞でした。
ところが、イエズス・キリストとマリアさまはともに、わたしたちを霊的にお生みになります。それは十字架のもとで、のことでした。イエズス・キリストとマリアさまがともにわたしたちを霊的に超自然の命に生み出そうとするとき、その二人は苦しみました。特にマリアさまは陣痛の苦しみがありました。それが七つの悲しみにあらわれています。この苦しみがあったからこそ、マリアさまは、わたしたちを霊的に生むことができる本当の霊的な母親となることができました。
そのことを確認するかのように、イエズス様は十字架のもとで聖ヨハネを通して、全人類に宣言します。
「おまえの母親だ」と。
そしてマリアさまにはこう言います。
「婦人よ、お前の子を見よ」と。
苦しみのうちに、マリアさまはわたしたちを超自然の命に生み出した本当の母親です。ですからマリアさまは、母親のような方ではなくて、本当の母だといわなければなりません。苦しみの中に、わたしたちを生んでくださいました。
第二はその結果です。もしも、罪のないイエズス・キリストが、聖なる天主であるイエズス・キリストが、苦しみを受けたのならば、また、原罪の汚れのない罪を一切知らないお方がこれほどの苦しみを受けたのならば、実はこの世で苦しみは避けることができない、という事実があります。これが第二のわたしたちに教えることです。
第三に、キリスト教がわたしたちに捧げることができる救い・福音とは、一体なんでしょうか。これはまず、わたしたちが苦しみを避けることができない、ということです。しかし、それは第三の点に行きます。苦しみを避けることができないけれども、イエズス・キリストの十字架によって、イエズス・キリストの十字架だけによって、わたしたちはこの苦しみを救いの手段と変えることができる、天国への道とすることができる、天国への王なる王の黄金の道とすることができる、ということです。それを、マリアさまの悲しみが、わたしたちに教えています。
【4:遷善の決心】
では最後に選善の決心をたてましょう。
第一のエワは、自分の個人的な自由な行動によって、全人類の破滅のために第一のアダムに協力しました。二人で、アダムとエワは罪を犯しました。聖母は、自分のまったく個人的な自由な行動によって、愛をこめて、全人類の罪の贖いに協力しました。
聖ペトロ・ダミアノは、わたしたちにこう言っています。「一人の女性エワを通してこの地上に呪いが来たが、一人の女性マリアによってこの地上の祝福が回復した。」(A curse came upon the earth through a woman; through a woman earth's blessing is restored.) と。
聖アウグスチヌスも同じことを言っています。引用します。「人間を騙すために、一人の女エワを通して毒が人間に差し出された。人間の贖いのために、一人の女マリアを通して救いが人間に差し出された。」(In man's deception, poison was served him through a woman; in his redemption, salvation is presented him through a woman.)と。
ですから、今日、わたしたちの本当の母であるマリアさまに、そして苦しみを受けたマリアさまに、感謝いたしましょう。わたしたちが、聖母を通して超自然の命を受けたということを、感謝いたしましょう。わたしたちはでは、選善の決心として、何をたてたらよいでしょうか。わたしたちも十字架のもとに、マリアさまとともに立たなければなりません。そのために、いったい何が一番良い手段でしょうか。それはミサ聖祭です。ミサ聖祭においてイエズス・キリストの十字架が再現されるとき、マリアさまも霊的にわたしたちとともにおられるからです。
ではマリアさまとともに、わたしたちの十字架と苦しみを主にお捧げすることが出来るお恵みを求めつつ、ミサを捧げましょう。
「私にも御傷を負わせ、御血を流し給える御子の十字架によって私を酔わせ給え。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
なぜイエズスは十字架につけられたのか? なぜ天主は十字架の上で手を広げて亡くなったのか?十字架の称賛の神秘はわたしたちに教えていること
2024年9月14日(土)十字架称賛の祝日 説教
トマス小野田圭志神父
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、今日は十字架の称賛の祝日です。
十字架の称賛というのは、十字架の神秘、‟十字架というものが非常に高い賛美と栄光を受けるべきものである”ということを示す祝日です。
今日は、このミサの前に、ある方から、こんな質問を受けました。
「なんで、イエズス様は十字架につけられたのですか? なんで、天主は、この世を創った方は、十字架の上で手を広げて亡くなったんですか?」
この十字架の称賛の祝日にピッタリの質問ですので、ぜひこの答えを話したいと思います。
なぜ天主は、この世を創った方は、わたしたちを愛している方は、罪がなかったにもかかわらず、十字架の上で、こんなにも裸になって、茨の冠を被せられ、鞭を打たれて、傷だらけになって、あたかも極悪人の様になってそんな姿で、奴隷のように、十字架につけられ、捨てられて、亡くならなければならなかったのでしょうか?
なぜかというと、これは、わたしたちが犯した罪を、わたしたちに代って、償うためだったのです。
なぜかというと、罪を犯すと、その罪はどうしても償わなければならないからです。
なぜかというと、天主というのは、非常に聖なる方で、その主に対して犯した罪は、どうしてもその犯された秩序を回復しなければならないからです。
もしも誰かが、悪戯(いたずら)の男の子がやってきて、お父さんがせっかく作ったきれいなものを壊してしまった。そうしたら男の子が『お父さんごめんなさい』と涙を流して謝ってきたので『許してあげよう』・・・。でも、この壊されたのはいったいどうするんだ・・・。男の子は、できるかぎりそれを元通りにしなければなりません。でも男の子は元通りにすることはとても一人ではできません。するとお母さんがやって来て『ああ私が手伝ってあげましょう』。お母さんが、きれいにそれを直してくれた。秩序を回復してくれた。
それと同じように、似たようなことで、人間は天主に対して、無限に聖なる方に対して、罪を犯したので、それをどうしても償わなければなりません。しかし人間の限りある力では、無限の聖なる方に対して犯した罪を償うことは、とてもできませんでした。償うためには、無限に聖なる方が必要です。罪のない方が償わなければ、秩序を回復できません。
そこでイエズス・キリストが、天主の御子が、まったく罪のない聖なる天主の御子が、人間となって、わたしたちの名前でわたしたちのかわりに、わたしたちが受けるべき罪をすべて背負って、その罰を受けるわたしたちの代わりに、償ってくださったのです。
ですから、イエズス・キリストのその苦しみを見て、わたしたちの受けるべき罰は、罪は、すべてもうきれいに流された、すべて秩序は回復したんだ、もう過去のことは一切なかった、としてくださったのです。
そして、イエズス・キリストは最も苦しい苦しみを受けたので、その報いとして、最も高い栄光を受ける方となりました。
では、この十字架の称賛の神秘はわたしたちに何を教えているのでしょうか? 三つのことを教えています。
ひとつは、もしかしたら、ある嘘の宗教の人が、偽物がわたしたちにやって来て、「ああ私たちのこの宗教を信じるとこの地上では平和が来ます。そうしたらこの地上では苦しみがなくなります。この地上ではすべてが良くなります。」―――そんなことを言ったら、それは信じないでください。
この世ではどうしても苦しみがあるからです。なぜかというと、わたしたちの罪の償いとして苦しみがこの世に入ってきたからです。苦しみと死と悲しみは、わたしたちが罪を犯したので、この世に来ました。ですからわたしたちはどうしてもそれを避けることができません。
もしも誰かが、「どんな宗教でもよい、苦しみが無くなれば、平和が来れば、そしてこの世が幸せになればよい。あの世のものでなくこの世のものであること、誰かに限ったものではなく全ての人の幸せをこの世で実現することを切に、切に、祈ってやまない」と言ったとしても、でも、どのようなものでも、天主であっても、この世を創造された方であっても、それはできないのです。なぜかというと、人間が罪を犯し続けているから・・・それが第一です。つまり、この世には必ず苦しみがあるということを、私たちに教えています。イエズス様でもそれを避けることをしませんでした。
第二には、もしもわたしたちが天国に行くとしたら、行こうとするならば、むしろわたしたちは苦しみを使わなければならない、ということです。キリスト教が約束している救いとは、来世の約束です。この世では苦しみを避けることはできません。しかし、この世の苦しみは彼岸の栄光に喜びに変わる、ということです。その時、苦しみや悲しみは、避けるべき悪ではなく、愛をこめて受け入れるべき善への手段になるのです。
第三の点は、では‟苦しむのであればなんでもよいのか”というと、そうではありません。わたしたちに、本当のしあわせ、本当の栄光を与えてくれる手段は、たった一つしかありません。イエズス・キリストの十字架です。これだけが天につながる唯一の橋です。道です。イエズス・キリストの十字架を通らければ、誰も父のもとに天の国に行くことはできないんです。イエズス・キリストの十字架だけが称賛を受けて、そうでないならば称賛を受けません。しかし、苦しみをイエズス・キリストと一緒に捧げることによって、イエズス・キリストと一緒に同じような栄光にいくことができる、ということです。イエズス・キリストと一緒に苦しめば苦しむほど、栄光もますます高くなる、ということです。
その証拠が、聖金曜日にイエズス・キリストと一緒に十字架につけられた二人の泥棒がいます。盗賊です。あまりにも悪を犯したので、ついに十字架の刑を受けた二人の悪人です。一人は右に、もう一人は左につけられました。
右につけられた盗賊は、確かに自分は悪いことをした・・・だから自分が十字架につけられたのは当然のことだ・・・と、罪を悔い改めます。
ところが左は、そうではありませんでした。イエズス・キリストを罵りました。「あなたは救い主だというが、もしも救い主だというならば自分と俺を救え。さあ救ってみろ。この十字架から救ってみろ。」といろいろ罵(ののし)るのです。
すると、右にいた盗賊は、あまりにもひどいことを言うので耐えきれずに、「黙れ、この方は罪がないのにもかかわらずこうやって苦しんでおられる。お前は一体なんだ。悪いことをしていながら何を言うのか。」と言って叱るんです。その次にイエズス・キリストに向かって「主よ、あなたが天の国に行かれるときにわたしのことを思い出してください。」というと、イエズス・キリストは、この右の盗賊に向かって「お前は今日わたしとともに天国にいる」。すべての罪は赦されました。
苦しみは同じでしたが、イエズス・キリストとともに苦しむときに、それは栄光に変わります。天国行きの切符に変わります。今日の十字架の称賛の祝日は、これをわたしたちに教えています。
今日は、なぜイエズス様がこんなにも聖なる方が十字架に苦しまれなければならなかったか――それは私達を天国に導くためだ、引っ張ってくださるためだ、とわたしたちに教えている、ということを黙想しました。
最後に、マリアさまにお祈りしましょう。マリアさまはいつも十字架のもとに来て、十字架から逃げずに、イエズス様とともにおられました。マリアさまが天国でわたしたちのためにお祈りしてくださっています。わたしたちも、マリアさまのように、いつもイエズス様の十字架のもとにいることができますように、お祈りしましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
聖霊降臨後第十七の主日の説教―キリストの神性(2024年)
ブノワ・ワリエ神父 2024年9月15日、札幌
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親愛なる兄弟の皆さま、
今日の福音で、イエズスは、聖書の知識を大いに自慢しているファリザイ人に、こう尋ねられました。「あなたたちは、キリストについてどう考えているのか。…キリストは誰の子か」。
私たちの主の質問は、律法学士たちに、キリストの父について、よく考えさせようとするものでした。なぜなら、キリストは肉によれば本当にダヴィドの子(つまり子孫)であったにもかかわらず、彼らが思っていたように、キリストはダヴィドの子であっただけではないからです。キリストは、彼らに照らしを与えて、キリストが天主の本性をお持ちであることと、キリストが永遠において生まれ給うたことについて、考えさせたいと望んでおられます。そして、彼ら自身が認めている聖書そのものから、キリストは単なる人間以上の存在、単なるダヴィドの子以上の存在でなければならないことを証明されるのです。
私たちの主は、詩篇109篇を引用されました。その詩篇は、ダヴィド王によって書かれたものであること、また約千年後にダヴィドの一族から生まれることになるメシアを扱ったものであることは、ユダヤ人の誰もが認めていました。
その詩篇は、不可解な言葉で始まります。「主は私の主に言われた。私が敵をあなたの足台とするまで、私の右に座れ」。
「主」という言葉は、天主のことです。ですから、「天主は私の天主に言われた」と訳すこともできます。「私の主」とは、メシアのことです。ダヴィドは「私の」と言っていますが、それはメシアが自分の子孫であるはずだからです。
しかし、なぜダヴィドは、「主は、私の子であるメシアに言われた」と言わないのでしょうか。なぜダヴィドは、「主は私の主に言われた」と言うのでしょうか。ダヴィド王は、メシアを「私の主」と呼ぶことで、私たちの主が人間(ダヴィドの子)であると同時に天主(父なる天主の子)であることを、はっきりと告知しているのです。
しかし、ダヴィドが高慢になって間違ったと、人々に思われないように、私たちの主は、「ダヴィドが霊感を受けて」という表現を使っておられます。ダヴィド王は聖なる作家であって、天主の霊感の影響の下に、また天主の「霊」が言われたことを書き取って、聖書の一部を書いたのです。(ミサの信経で、私たちは、聖霊について「預言者によりて語り給えり」(Qui locutus est per Prophetas)と唱えているではありませんか。)
ですから、ダヴィドの預言の分かりやすい意味はこうです。「父なる天主は、肉によってまた私の子となるであろう永遠の御子キリストに、こう言われた。『あなたの死によって、あなたの栄光ある復活と昇天によって、あなたのすべての敵(死と悪魔)に打ち勝った後に、私の右に座れ』。次に、御父はキリストを『いっさいの権勢と能力…の上に、またこの世ばかりでなく来るべき世にとなえられるすべての名の上に置かれた』(エフェゾ1章21節)」。
「あなたの足台」とは、最大限の屈辱と平伏を意味します。この考えは、征服者が時々行う残酷な習慣から借りてきたもので、完全な服従のしるしとして、敗者の首に足を置くというものです。獰猛な征服者の中には、馬に乗る際に、王族の捕虜を足台にした者がいたという記録があります。ペルシャ王シャープールはローマ皇帝ヴァレリアヌスをこのように扱い、傲慢なタタールの皇帝ティムールは、トルコ皇帝バヤジッドを同じように扱いました。
このことは、キリストに関して、審判の日に成就することでしょう。
聖ヨハネ・クリゾストモスと聖アウグスティヌスは、ファリザイ人が論敵から教えられるよりも、高慢な無知のままでいることを好んだと指摘しています。彼らは、自分たちがイエズスよりも劣っていることを何度も経験していたため、「その日から、あえて問いかける者もなくなった」のです。
親愛なる兄弟の皆さま、
今日の福音から二つの教訓を引き出すことができます。
第一に、私たちの主に関する多くの預言は、主がお生まれになる何世紀も前に記録されていたもので、ユダヤ人にはよく知られていたということです。
ブッダ、ムハンマド、ルター、その他の有名な宗教指導者に関して、真の預言を一つでも挙げることができますか。
私たちは、他の人々を照らし、説得力のある証拠を通して、彼らをカトリック信仰へと導くために、護教学を知る必要があります。
第二に、そうすることは、私たちにとって大きな慰めになるはずです。私たちの主は天主です。今日、主は大いに無視されているかもしれませんが、そうであっても、主がどのようなお方であるかは何も変わっていません。
願わくは、主がすべての敵を打ち砕き、私たちを「私たちの主人の喜びに入」らせてくださいますように。アーメン。
聖霊降臨後第十六主日 大阪でのミサ 説教
トマス小野田圭志神父 2024年9月8日
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、今日はマリアさまのお誕生日の祝日でもありますから、マリアさまの誕生の神秘について、特にマリアさまが無原罪であるということについて黙想することを提案します。
何故このことを提案するかというと、実はつい最近ある日本人の神父様の本を読んだときにこの神父様は「無原罪の御宿り」の神秘について疑問を提示していて、よくわかっておられなかったからです。ですから、ぜひ皆さんには「無原罪の御宿り」について深い理解をお願いしたいと思っています。そして、もしも何か質問を受けたという場合には、正しく答えることができるようになさってください。
まず無原罪を語るために、原罪とはいったい何なのか、また無原罪とはではどういうことなのか、それから無原罪がわたしたちにとってどんな意味があるのか、ということを黙想して、そして最後に選善の決心をたてましょう。
【原罪とは何か】
では「無原罪の御宿り」を理解するために、「原罪」について少し確認いたします。皆さんよく知っていることです。
アダムとエワは無原罪において創造されました。これは何を意味するかというと、天主は人祖を創造したときに、最初の瞬間から、まったく無償で、果てしない愛と憐みによって、人間に成聖の聖寵を与えました。成聖の聖寵、つまり、人間はその本性以上の境地に高められたのです。地上においての幸せな生活を受けたというそれに加えて、天使たちが招かれたのと同じような高い身分に、つまり天主の生命そのものに与る・参与するというものと高められたのです。ですから、最初の瞬間から――人間が創造されたその最初から――、“罪が犯されない限り常に留まり続ける聖寵”の状態において、天主の子どもとなり、天主の生ける神殿となって、この世の生活の後には、天主の永遠なる福楽そのものを楽しむことさえできる――天主を至福直感で見るという幸福を受ける――、という特別の特権を受けました。これによって人間は、人間であることを失わずに天主のように――あたかも天主であるかのように――なり、そして天主の生命を生きる――それに到達することができる、という特別な地位をいただきました。このような状態を、原初の義――義というのは義人の義です――原初の義の状態と言います。
天主の生命というのは、この世の有限の世界に現れている命とは全く次元の異なるものです。天主はこの世をこの世界をすべて有らしめて存在させていますけれども、同時にこの世界を本性においては遥かに超越するお方です。ちょうど動物の命と植物の命を比べたときに、動物の命のほうが遥かに優れています。それと同じように―いやそんな感じで、天主の生命は、被造の生命を絶対的に―動物と植物の生命と比較にならないほど絶対的に、無限に凌駕しています―超越しています。
それにもかかわらず、人間が人間であるまま、人間が天主の生命に与ることができるのは、これは人間の本性に基づく当然のことでは決してありませんでした。そうではなくて、天主の愛が生み出した奇跡でした。有限な人間が、無限の天主の生命のこれに与るのです。与るといいますのは、なぜかというと、人間が天主の命をわがものにして、天主そのものになることはできないからです。そうではなくて、卑しいしもべであって―卑しい身分でありながら、天主の無限の寵愛をこうむって、そしてもともとの本当に卑賎な身分から天主の家督を相続する特別に恵まれた者とあげられました。これがアダムとエワが最初に創られた状態でした。
しかし、残念なことに不幸なことに、わたしたちの祖先、人祖アダムとエワは罪を犯します。そしてこのアダムとエワが犯した罪によって、原初の義の状態というこの贈り物は失われました。パーになりました。超自然の遺産であったはずの贈り物は、アダムが、これを捨ててしまったのです。ですからアダムのすべての子孫たちは、子供たちは、この遺産を受けることができなくなってしまいました。この意味でアダムの罪がわたしたちアダムの子孫に伝えられたのです。
アダムの犯したのはあくまでも個人の罪です。しかしアダムの自罪―自分の犯した罪が、子どもたちに子孫に伝えられる限りでこれを「原罪」と言います。アダムは原罪を犯したのではありません。アダムは「自罪」を、自分の罪を犯しました。が、その罪の結果、わたしたちは「天主から退けられた状態」に陥ってしまいました。アダムの子孫は、つまり「聖徳と義の欠如」の状態で生まれるようになってしまいました。いいかえると「天国の家督相続の権利を剥奪」されて生まれてきたのです。裏からいうと「天主が最初に人類に対して持っていたとてつもない愛に対立する状態」で生れて来ました。ですから、これは、わたしたちにとっては「原罪」として伝えられてきました。ですからこの原罪というのは、欠陥がある状態なのです。ですからわたしたちは、天主の御前に汚れのある者として生まれてきたのです。聖トマス・アクィナスは、原罪の本質というのは何かというと「原初の義の欠如である defectus originalis justitiae」と言っています(I.IIae, q.83, a.3)。
天主が定めた法則によって、アダムの子孫であれば当然のごとくこの遺産はわたしたちに伝えられなかったはずです。当然の如くすべての子孫は、原罪の汚れに感染します。そしてわたしたちすべてにとって、超自然の命――つまり成聖の聖寵――を回復することができるのは、たった一つの手段しかありません。イエズス・キリストだけです。イエズス・キリストだけが、聖パウロが言うとおりに、「すべての人、とくに信じるものの救い主」であります。ティモテオの前書4章10節に書いてあります。ですから、救われる人すべては、例外なくたった一つの例外なくイエズス・キリストの功徳によって贖われて、救われました。
【無原罪の御宿り】
では、聖母の「無原罪の御宿り」とはいったい何なのでしょうか?
福者ピオ九世は1854年12月8日の大勅令「イネファビリス・デウス」でこう言います。引用します。
「童貞聖マリアは、その受精(受胎)の最初の瞬間に in primo instanti suae conceptionis 全能の天主の特別の聖寵と特権とによって、人類の救い主イエズス・キリストの功徳を予見して、原罪の全ての汚れから前もって保護されていた praeservata immunis 。この教えは、天主によって啓示されたのであり、全ての信者によって固く常に信じられなければならないことを宣言し、発表し、定義する。」これで引用を終わります。
マリアさまに贖いが適応されたというのは、なぜかというと、人類が一般的に持っている原罪の法則があったからです。つまりマリアさまは一般的な法則によれば、お恵みがない状態で生まれなければならないはずでした。マリアさまにも本来ならばこの原罪の法則が適用されるべきところでした。しかしマリアさまの場合には特別に、それから「前もって保護されていた praeservata immunis」のです。先行的に保全されていたのです(redemptio praeservativa)。贖いの業が適用されて、マリアさまが存在しようとするその最初の瞬間に―受精の瞬間に、イエズス・キリストの贖いの功徳によって、成聖の恩寵が与えられました。罪の汚れ―原罪の汚れなく受胎されたのです。マリアさまが原罪の汚れから「前もって守られた」というのは、つまり、聖寵の状態でマリアさまのお母さま聖アンナの胎内に宿り始めたということです。
そればかりではありません。なぜかというと、確かにわたしたちも同じような効果を、洗礼を受けることによって受けることができるからです。なぜかというと、洗礼を受けると原罪を赦され、そして「罪の責務」reatus culpaeあるいは「罰の責務」reatus poenae、すべての罰を免れることができます。が、しかし、洗礼を受けたとしても、わたしたちは原罪に由来する乱れた情欲や無知というものは、癒されることはできません。
しかし教皇様の発表した信仰箇条によれば―そして聖伝の教えによれば―啓示された教えによれば、「聖母はその受胎の最初の瞬間から原罪のすべての汚れから守られたab omni originalis culpae labe praeservatam immunem」とあります。つまり「無原罪の御宿り」によって、マリアさまは、そのような心の悪への傾きや欠陥あるいは情欲や無知などという不幸からも、免れていました。ですからマリアさまは生涯、最初の瞬間から終わりまで罪がなく、汚れなく、聖寵に満ちみてる方として留まられました。これが「無原罪の御宿り」です。
【無原罪の御宿りの意義】
では「無原罪の御宿り」ということは、いったいわたしたちにとってどんな意味があるのでしょうか。どれだけの意味があるのでしょうか?
1)まず第一に、原罪ということが事実である―現実であることをわたしたちに教えています。
これについて聖ピオ十世教皇様は1904年にこう書いています。教皇様の言葉を引用します。
「カトリックの宗教の敵が、多くの人々の信仰を揺るがすような重大な誤りを種蒔く出発点は、いったい何だろうか。彼らはまず、人間が罪によって堕落し、そしてその地位から投げ落とされたことを否定することから始める。つまり彼らは、原罪とその結果である悪を単なる寓話だおとぎ話だと見なしている。原罪によって汚された人間性は、その原罪の結果、人間という種(しゅ)をすべて汚した。こうして人間の間に悪がもたらされ、救い主の必要性が生じた。しかしもしもこのようなことが否定されれば、キリスト、教会、聖寵、あるいは自然を超えて、自然を超えるために残された場所がないということは容易に理解できる。人々がマリアさまの受胎の最初の瞬間からあらゆる汚れから守られたことを信じ、信仰告白するかぎり、すでに原罪があること、イエズス・キリストの必要、そして福音、教会、そして苦しみの法則による人類の救いのすべてを認める必要が生じてくる。これによって、合理主義と唯物論は根こそぎに破壊されて、キリスト教の知恵は、真理を守り抜くという栄光が残される。」聖ピオ十世教皇様の引用を終わります。
「無原罪の御宿り」は、つまり、原罪というものが確実にあるということ、そしてそのためにキリストの救いが必要であるということを断言する、ということです。
2)第二に、マリアさまが「無原罪の御宿り」であるということは、イエズス・キリストがまことの天主であるということを確認します―明らかにします。もしもイエズス様が単なる人間だったとしたら――非常に優れた罪のない高徳の立派なお方だったとしても人類の最高の方だったとしてもしかし天主ではなかったとしたら――ただの人間だったとしたら――、どんなに素晴らしくてもマリアさまは原罪の汚れから守られる必要はありませんでした。しかし、イエズス・キリストが――マリアさまから生まれる方が――、まことの天主であったので、その御母となる方には、罪の汚れが一瞬たりともあってはならなかったのです。天主の御母はその地位にふさわしい方でなければならなかったからです。悪魔の支配下に一瞬たりともあってはならなかったからです。
3)またマリアさまが「無原罪の御宿り」であるということは、同時にイエズス・キリストが第二のアダムつまり約束された贖い主であり、聖母が第二のエワであるということを明らかにします。
【1】なぜかというと、第二のエワは悪魔に対して完全な勝利を治める方でなければなりませんでした。「私はおまえと女との間に、おまえの子孫と彼女の子孫との間に敵対を置く。彼女はおまえのかしらを踏み砕くだろう。」(創世記3:15)創世記の預言です。
【2】またマリアさまが第二のエワであるということを確認するその第二の理由は、第一のエワが創られた当初、童貞として無原罪の状態で第一のアダムの伴侶として、創られました。ですから、第二のエワであるマリアさまも、第二のアダムであるイエズスの伴侶としてそれにふさわしいように汚れなき童貞として与えられるのが非常にふさわしいからです。
4)それから、第四には「罪」というのが何かということを私たちに教えてくれます。
マリアさまは、天主によって先どって「先行的に」守られました。「無原罪」で存在をはじめました。そうすることによってごくわずかな罪の陰さえなかった。またいかなる不完全さもありませんでした。マリアさまは、地上のいかなるものにも愛着を持たずに離脱して、天主だけを愛していました。聖霊の息吹に完全に導かれていました。天主の御旨を果たすことだけを求めて生きていました。こうすることによって、わたしたちに、愛によって生きることが何かを教えています。
罪というのは、天主の御旨に背くことです。
わたしが先ほど申し上げたある日本人の神父様は、こんなことを書いておりました。人間が食べ物を食べて、いわば「他者を犠牲として生存を続ける」とか、人間が「殺生せずには生きていられない」ということを、「罪深い」ことだ、だから人間はどうしても罪深い。
(曰く「聖母マリアが人間である限り、被造物の一つである限り有限性と自己不充足性とは存在論的に無縁ではありえなく【もちろんそうです!】、従って神の御旨に従った人間の理想像から…程遠い方ではなかったか。【ここに論理の破綻があります。被造物は有限の存在としてあることが天主の御旨です。人間は、たとえ「究極的完成態、すわなち終末的約束の実現」がおこったとしても有限な存在ens finitumとして留まります。人間が天主に依存する存在であることは「怠りの罪」を構成しません。「怠りの罪」とは、為すことができ為すべきことを故意にしないことです。】)
でもわたしたちがものを食べて生きるということは、これは天主の御旨です。これは、罪ではありません。そういうことを罪というのではありません。そうではなくて、天主のみ旨に反することを罪と言います。
聖母は、自分のために生きたのではありませんでした。天主のために生き、人類の贖いのために、御子とともに苦しみました。マリアさまはすべてを与え尽くしました。これが罪のない生活であり、愛の生活でした。
ですからマリアさまは、御生涯の間、愛の功徳によって聖寵をますます増加させて完成させて、そして天主に完璧に一致したものとなり、最高の被造物となりました。これこそ、天主の聖寵の創りあげた最高傑作でした。マリアさまは、被造物への愛ではなくて天主への愛によって生き、聖霊の「浄配」として一生を過ごされました。
その結果何が起こったかというと、無原罪の御宿りのマリアさまの生涯は、十字架の生涯でした。つまりマリアさまは「十字架の御母」であり「悲しみの御母」でした。「贖い主の御母」Redemptoris Mater となるべく生まれてきたマリアさまは、贖い主に一致して、ご自分も贖いとしてお捧げになりました。つまり、罪のない被造物であったマリアさまは、罪の贖いのために苦しみを受けることによって、贖いに完璧に協力されたのでした。この贖いの神秘については、来週皆さんにお話ししたいと思っております。
【遷善の決心】
では最後に選善の決心をたてましょう。
天主はわたしたちのためにこの世に来るときに、ご自分の母となるべきお方を完璧で完成された聖人の状態での清い童貞女を創りあげて無から創造して、その方からお生まれになろうとすればそれもすることが出来ました。しかし、天主は、その永遠の愛によって、永遠の智恵によって、アダムの子孫からお生まれになることを選ばれました。それを欲しました。
今日、マリアさまがお生まれになったのは、天主の母となるべき方であり、そして、特別に無原罪の御宿りという特権を受けたお方です。わたしたちの人類の同胞として特別の御方が、今日お生まれになりました。わたしたちの母となるべく方、また、天の元后となるべき方、そして私たちに救い主を与えるべきお方が、今日お生まれになります。この途轍もないお恵みを、イエズス様に感謝いたしましょう。
そして今日お生まれになられた汚れなきマリアさまにお祈りいたしましょう。マリアさまの汚れなさはわたしたちには真似することはできませんが、しかし、マリアさまの子どもとして―愛された子供として、罪を憎み、罪の機会を避けるお恵みをこい求めましょう。そしてマリアさまに倣って、イエズス・キリストをすべてに越えて愛し続けることができるように、お祈りいたしましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
カトリック大学 第1回 ミニシンポジウム開催のお知らせ
日時:2024年9月23日(月・祝)
9:20 AM - 1:00PM (開場9:00AM)
会場 :さいたま市大宮区東町2-256-8 林ビル2F (大宮駅東口徒歩10分)
「カトリック大学」とは >
日本におけるカトリック的な学問の推進のために貢献し、多くのカトリック学者、あるいはカトリックに興味を持つ学者を集め、キリシタン史、神学をはじめ、カトリック的な視点から多岐にわたる学問を究め、得られた知識を伝え広げることを目的としている。
プログラム
■ 9:30 AM-
Tobias Bartneck
(京都大学)
「西谷啓治におけるキリスト教と近代の問題」
■ 10:40 AM-
Kevin Doak
(ジョージタウン大学)
「吉満義彦と近代 の超克」
■ 11:50 AM-
Paul de Lacvivier
(國學院大學)
「島原の乱は信仰のための戦いか」
参加費は自由会費制となっています。
みなさまの温かいご支援をお願いいたします。
Ant. ad Introitum. Ioann. 19, 25. | 入祭文 ヨハネ 19ノ25 |
Stabant iuxta Crucem Iesu Mater eius, et soror Matris eius, María Cléophæ, et Salóme et María Magdaléne. | イエズスの十字架の傍らには、その母と、母の姉妹、クレオファのマリアと、サロメと、マグダラのマリアとが立っていた。 |
Ibid., 26-27. | ヨハネ 10ノ26-27 |
Múlier, ecce fílius tuus : dixit Iesus ; ad discípulum autem : Ecce Mater tua. | イエズスは、「婦人よ、あなたの子を見よ」、そして弟子には「あなたの母を見よ」とおおせられた。 |
V/. Glória Patri. | V/. 願わくは聖父と・・・(栄誦)。 |
Stabant iuxta Crucem Iesu Mater eius, et ・・・・ | イエズスの十字架の傍らには、その母と、母の姉妹、・・・ |
Oratio. | 集祷文 |
Deus, in cuius passióne, secúndum Simeónis prophétiam, dulcíssimam ánimam gloriósæ Vírginis et Matris Maríæ dolóris gladius pertransívit : concéde propítius ; ut, qui transfixiónem eius et passiónem venerándo recólimus, gloriósis méritis et précibus ómnium Sanctórum Cruci fidéliter astántium intercedéntibus, passiónis tuæ efféctum felícem consequámur : Qui vivis. | 天主よ、シメオンの預言の通り、主の御受難のとき、苦しみの劔(つるぎ)は、光栄ある童貞にして御母なるマリアのいとやさしき霊魂を貫きたり。願わくは、御憐れみにより、その刺し貫きと御苦しみを敬いつつ記念するわれらが、忠実に十字架のもとに立つ全ての聖人らの栄光ある功徳と祈りとの御取次によって、御身のご苦難のしあわせな実を結ばせ給え。聖父なる天主とともに(…)。 |
Léctio libri Iudith. | ユディット書の朗読 ユディット13ノ22, 23-25 |
Benedíxit te Dóminus in virtúte sua, quia per te ad níhilum redégit inimícos nostros. Benedícta es tu, fília, a Dómino, Deo excélso, præ ómnibus muliéribus super terram. Benedíctus Dóminus, qui creávit cælum et terram : quia hódie nomen tuum ita magnificávit, ut non recédat laus tua de ore hóminum, qui mémores fúerint virtútis Dómini in ætérnum, pro quibus non pepercísti ánimæ tuæ propter angústias et tribulatiónem géneris tui, sed subvenísti ruínæ ante conspéctum Dei nostri. | 主は、その勢力をもって、あなたを祝し給うた。主は、あなたを通して、われらの敵を打ち滅ぼし給うた。娘よ、あなたは、地上のすべての女たちにまさって、いと高き天主なる主によって祝された。天地をつくり給うた主は、祝されんことを。今日、 主は、あなたの名を高め給えり、そは、人々の口からあなたへの賛美が無くならず、人々が永久に主の御力を記憶し、彼らのために、あなたの民の苦悩と艱難とのために、あなたは御自分の命を惜しみ給わず、われらの天主の御前で、亡びに助けに来給えり。 |
Graduale. | 昇階誦 |
Dolorósa et lacrimábilis es, Virgo María, stans iuxta Crucem Dómini Iesu, Fílii tui, Redemptóris. | 童貞女マリアよ、御身は苦しみに満ちた涙にくれて、御子、われらの贖い主、主イエズスの十字架の下に立ち給う。 |
V/. Virgo Dei Génetrix, quem totus non capit orbis, hoc crucis fert supplícium, auctor vitæ factus homo. | V/. 童貞女、天主の御母よ、全宇宙も容れえない御者、人間となった生命のつくり主は、この十字架の拷問を忍び給う。 |
Allelúia, allelúia. V/. Stabat sancta María, cæli Regína et mundi Dómina, iuxta Crucem Dómini nostri Iesu Christi dolorósa. Allelúia. | アレルヤ、アレルヤ。V/. 聖なるマリア、天の元后、世界の主なる女(かた)は、悲しみに満ちて、われらの主イエズス・キリストの⼗字架のもとに⽴ち給うていた。アレルヤ。 |
[Post Septuagesimam, ommissis Allelúia et versu sequenti, dicitur Tractus.] | 【七旬節後に随意ミサを捧げる場合、アレルヤを省略し、次の節を唱えて、詠誦を祈る。】 |
Stabat sancta María, cæli Regína et mundi Dómina, iuxta Crucem Dómini nostri Iesu Christi dolorósa. | 聖なるマリア、天の元后、世界の主なる女(かた)は、悲しみに満ちて、われらの主イエズス・キリストの⼗字架のもとに⽴ち給うていた。 |
V/. Thren. 1, 12. O vos omnes, qui tránsitis per viam, atténdite et vidéte, si est dolor sicut dolor meus. | V/. 哀歌,1ノ12 おお、あなた方、道行く全ての人々よ、立ち止まって、私の悲しみ程の悲しみがあるかを見ておくれ。 |
Sequentia (in Missis votivis ommittenda) | 続誦 (随意ミサには、続誦はとなえない) |
Stabat Mater dolorosa Iuxta Crucem lacrimósa, Dum pendébat Fílius. |
悲しみの御母は、涙にむせびつつ、御子のかかり給いし間十字架のもとに佇み給ていた。 |
Cuius ánimam geméntem, Contristátam et doléntem Pertransívit gládius. | なげき、悲しみ、苦しみ給うその御魂は、劔(つるぎ)でつらぬかれ給うた。 |
O quam tristis et afflícta Fuit illa benedícta Mater Unigéniti ! |
おお、天主の御独子のかの祝福された御母は、いかばかり悲しく、苦しみ給うたことぞ。 |
Quæ mærébat et dolébat, Pia Mater, dum vidébat Nati poenas íncliti. |
慈愛深い御母は、尊い御子の御苦しみを見ていて、悲しみ苦しみ給うていた。 |
Quis est homo, qui non fleret, Matrem Christi si vidéret In tanto supplício ? | キリストの御母がかくも悩み給うを見て、一体どのような人間が泣かないであろうか。 |
Quis non posset contristári, Christi Matrem contemplári Doléntem cum Fílio ? | キリストの御母が、御子とともに苦しみ給うを見て、一体だれがともに悲しまないことができるであろうか。 |
Pro peccátis suæ gentis Vidit Iesum in torméntis Et flagéllis súbditum. |
【御母は】 御民の罪のために、イエズスが苦しみのうちにむち打たれ給うのを見給うた。 |
Vidit suum dulcem Natum Moriéndo desolátum, Dum emísit spíritum. |
【御母は】 最愛の御子が、慰めなく死去され息絶え給うを見給うた。 |
Eia, Mater, fons amóris, Me sentíre vim dolóris Fac, ut tecum lúgeam. |
愛の泉なる御母よ、私にも御悲しみを感じる力を与え、御身とともに泣かせ給え。 |
Fac, ut árdeat cor meum In amándo Christum Deum, Ut sibi compláceam. | 天主なるキリストを愛するように、わが心が燃え立ち、御身に嘉されるものとならせ給え。 |
Sancta Mater, istud agas, Crucifixi fige plagas Cordi meo válide. |
聖なる御母よ、十字架につけられ給う御子の傷を、私の心にも印(しる)し給え。 |
Tui Nati vulneráti, Tam dignáti pro me pati, Poenas mecum dívide. |
私のためにかくもかたじけなくも苦しみ給う、傷つけられし御子の苦悶を、私にも分かち給え。 |
Fac me tecum pie flere, Crucifíxo condolére, Donec ego víxero. |
私の生きる限り、御身とともに敬虔に涙し、十字架に付けられた方【イエズス】とともに苦しませ給え。 |
Iuxta Crucem tecum stare Et me tibi sociáre In planctu desídero. |
私は、十字架のもとに、御身とともに立ち、悲しみにおいて御身とお供することを欲する。 |
Virgo vírginum præclára. Mihi iam non sis amára : Fac me tecum plángere. |
童貞女のうちで最も優れたる童貞女よ、私にたいして厳しくなさらず、私を御身とともに悲しませ給え。 |
Fac, ut portem Christi mortem, Passónis fac consórtem Et plagas recólere. | 私をして、キリストの死を身に付け、御苦難をともに受け、御傷を考えるようにさせ給え。 |
Fac me plagis vulnerári, Fac me Cruce inebriári Et cruóre Fílii. |
私にも御傷を負わせ、御血を流し給える御子の十字架によって私を酔わせ給え。 |
Flammis ne urar succénsus, Per te, Virgo, sim defénsus In die iudícii. | 童貞女よ、御身によって、私が審判の日に守まもられ、地獄の火に焼かれることのなきようにし給え。 |
Christe, cum sit hinc exíre. Da per Matrem me venire Ad palmam victóriæ. | キリストよ、ここ【この世】から【私の霊魂が】立ち去るとき、御母によって私に勝利の報いに至る聖寵を与え給え。 |
Quando corpus moriétur, Fac, ut ánimæ donétur Paradísi glória. Amen. |
肉体が死ぬ時、霊魂には楽園の栄光が与えられんように為し給え。アメン。 |
+ Sequéntia sancti Evangélii secúndum Ioánnem. | ヨハネによる聖福音の続誦 ヨハネ 19ノ25-27 |
In illo témpore : Stabant iuxta Crucem Iesu Mater eius, et soror Matris eius, María Cléophæ, et María Magdaléne. Cum vidísset ergo Iesus Matrem, et discípulum stantem, quem diligébat, dicit Matri suæ : Múlier, ecce fílius tuus. Deinde dicit discípulo : Ecce Mater tua. Et ex illa hora accépit eam discípulus in sua. Credo | そのとき、イエズスの十字架のかたわらには、その母と、母の姉妹、クレオファのマリアと、マグダラのマリアとが立っていた。イエズスは、その母と、愛する弟子とがそばに立っているのをごらんになり、母に、「婦人よ、これがあなたの子です」とおおせられ、また弟子には、「これがあなたの母です」とおおせられた。そのときから、その弟子は、マリアを自分の家にひきとった。 信経 |
Ant. ad Offertorium. Ier. 18, 20. | 奉献文 エレミア書、18ノ20 |
Recordáre, Virgo Mater, in conspéctu Dei, ut loquáris pro nobis bona, et ut avértat indignatiónem suam a nobis. | 童貞なる御母よ、主の御前で【われらを】思い出し、われらのために良いことを語り、われらから天主の御いかりを遠ざけ。 |
Secreta | 密誦 |
Offérimus tibi preces et hóstias, Dómine Iesu Christe, humiliter supplicántes : ut, qui Transfixiónem dulcíssimi spíritus beátæ Maríæ, Matris tuæ, précibus recensémus ; suo suorúmque sub Cruce Sanctórum consórtium multiplicáto piíssimo intervéntu, méritis mortis tuæ, méritum cum beátis habeámus : Qui vivis. | 主イエズス・キリストよ、われらは御身に祈りといけにえとを謙遜にささげ、祈り奉る。御母聖マリアの、甘美な霊魂がつらぬかれたことを、祈りにより思い出し奉るわれらが、願わくは、聖母の憐れみ深い御介入により、また、十字架のもとに聖母とともにいる諸聖人たちの多くのとりつぎとにより、御身の死去の功徳により、聖人らとともに報いを得るを与え給わんことを。聖父なる天主とともに、聖霊との一致において、世々に生きかつ治め給う天主よ。 |
Præfatio de B. Maria Virg. Et te in Transfixióne. | 聖母マリアの序誦 (「御貫きにおいて」とかわる) |
VERE dignum et justum est, æquum et salutáre, nos tibi semper, et ubíque grátias ágere: Dómine sancte, Pater omnípotens, ætérne Deus. Et te in Transfixióne beáte Maríæ semper Vírginis collaudáre, benedícere et prædicáre. Quæ et Unigénitum tuum Sancti Spíritus obumbratióne concépit: et virginitátis glória permanénte, lumen ætérnum mundo effúdit Jesum Christum Dóminum nostrum. Per quem majestátem tuam laudant Angeli, adórant Dominatiónes, tremunt Potestátes. Cœli, cœlorúmque Virtútes, ac beáta Séraphim, sócia exsultatióne concélebrant. Cum quibus et nostras voces, ut admítti júbeas, deprecámur, súpplici confessióne dicéntes: Sanctus, ... | 聖なる主、全能の父、永遠の天主よ、われらが、いつも、どこにても、主に感謝を捧げ、又、終生童貞なる聖マリアの御貫きにおいて、御身をたたえ、祝し、宣言し奉ることは、実にふさわしく正しいことであり、われらの義務と救いである。聖母は、聖霊の能力によって、御独り子を宿し給い、童貞性の光栄を損なうことなく、永遠の光明なるわれらの主イエズス・キリストをこの世に生み給うた。彼によって、天使らは、主のみいずをほめたたえ、主天使は礼拝し、能天使はふるえおののく。天と天の力天使と、福(さいわい)なる熾天使は共に喜び、それをたたえ奉る。願わくは、彼らの声に、われらの声をも交えさせ給え。われらは深く礼拝しつつ、こう歌うであろう。 聖なるかな、… |
Ant. ad Communionem. | 聖体拝領誦 |
Felices sensus beátæ Maríæ Vírginis, qui sine morte meruérunt martýrii palmam sub Cruce Dómini. | 童貞聖マリアの感覚は、福(さいわい)なものである。それは、主の十字架の下で、死なずしてなお殉教の報いを受け給うた。 |
Postcommunio | 聖体拝領後の祈 |
Sacrifícia, quæ súmpsimus, Dómine Iesu Christe, Transfixiónem Matris tuæ et Vírginis devóte celebrántes : nobis ímpetrent apud cleméntiam tuam omnis boni salutáris efféctum : Qui vivis. | 主イエズス・キリストよ、御母童貞マリアが劔で貫かれ給うことを信心深く祝いつつ、われらが拝領したてまつった秘蹟が、御身の慈悲により、われらに、全ての救いの良き効果を与えんことを。聖父なる天主とともに、聖霊との一致において、 |
2024年8月21日(水)マリア・アスンプタさんの葬儀ミサの説教(大阪の聖母の汚れなき御心聖堂にて)
トマス小野田圭志神父
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
マリア・アスンプタさんのご家族の皆様、そして親愛なる愛する兄弟姉妹の皆様、今日マリア・アスンプタさんの葬儀ミサを捧げながら、マリア・アスンプタさんの思い出話をするのをお許しください。
そして、一緒に、その思い出から、マリア・アスンプタさんの霊魂のためにお祈りをして、そして選善の決心を立てることにいたしましょう。
マルガリタさんのお母様は、非常に寛大で、優しくて、非常に働きものでした。愛情深くて、正義感が強い方でした。そして、いつも家族のことを思っておられました。
お母様のことを、直接は わたしは、深くお友達として付き合いさせていただいたということはないのですけれども、一度ご自宅を訪問して、一緒にお喋りをさせていただけただけなのですが、しかしこの教会のために陰で多くのことをしてくださっていました。
またマリア・アスンプタさんのことは娘さんのマルガリタを見ると、それがよくわかりました。非常に寛大で、まず他(ほか)の人の、相手のことをよく思いやって、そして非常に勤勉に働かれて、そして優しくて、思いやりのある方なのを見ていると、お母様の様子が浮かんできます。
マルガリタが、八月十六日の朝に、お母様の様子がもうよくないということをお姉さまから聴いて、そしてテレビ電話をかけました。そしてお母さんに、以前から話をしていた「お母さんは洗礼を受けるか受けないか」ということを。「お母さんは洗礼を受けるか?」と聞いたら、「洗礼を受ける」と、「受けたい」とおっしゃいました。そこでわたしたちの姉妹である、マグダレナさんとマリア・ゴレッティさんがお母様のもとに駆け付けて、そして、まだ意識があったお母様にイエズス様のことを少しお話しされました。
それから、お母様に「いまから洗礼をお授けしますよ。イエズス様はわたしたちのために、罪の償いのために十字架の上で亡くなり、そしてわたしたちのために罪の赦しのために、洗礼の秘跡を定めてくださった…」ことをお話ししてから、「いまから洗礼を授けますよ」というと、「はい」と肯かれたとのことです。
そして、‟マリア・アスンプタ” つまり天に昇られた、被昇天を受けたマリアさまの霊名を受けて、すべての罪が赦されて、天主の子どもとなって、そして三位一体の生ける神殿となって、そしてそののちに、三時間ぐらいのちに、霊魂を天に返された、と伺いました。
マリア・アスンプタさんのことを知ると、本当に日本の典型的なすばらしい方だな、ということがわかります。
日本の方は、古事記から、あるいは日本書紀から、古代の神話の時代から、非常に心の清さを求めてきました。この世界には正しいことがある、真理がある、善がある、美しいことがあるということを…超越的な何かがあるということを、よくわかっていました。
ですから、たとえば古代の神話によると須佐之男命(スサノオノミコト)という神話上の人物が出てきますが、その彼が高い天の国に入るために条件とされたものは何かというと、高天原、高い天(あま)の国に入るためにいったい何が必要かというと……武力かあるいは権力か財産かではなくて……「明き清き直き心、罪のない品格のある清い心、真理と善と美を求める心だけが天の高いところに入るための条件だとされた」と神話によると書かれています。
もちろんこれは神話でしたが、しかし、日本の方々が昔から天の高いところに行くためにはどうしてもなければならないものがあって、それが何か、それは心の清さだ、ということを知っていました――なぜわたしはいまここにこうやって生きているのか、なぜこの苦しみにまみれてこの世で生活しているのか――天の高いところに行かなければならない――でもそのためにはどうしたらよいのか、じぶんは罪に汚れているのではないか、この汚れを取るのはどうしたらよいのか、滝に打たれて修業したらよいのではないか、水をたくさん浴びたらよいのではないか…いろんな修業をして修業をしてそれでもまだ足りない…どうしたら「明き清き直き心」を持つことができるのか――日本の方々はいろいろ悩んで来ました。
しかし、遂に、救い主が、この世を創られた方が人間となって、つまりイエズス・キリストが、わたしたちにその秘密を教えてくれます。
わたしたちが「清き直き心」を持つためには、滝の水ではなくて、洗礼の水を受けることが大切だ。これは十字架の犠牲によって流された天主の御子の御血の功徳によって、わたしたちの罪がきれいに赦される、清められる――マリア・アスンプタさんはちょうどこの洗礼の水を待っていた、清き直き心を持った日本の典型的な女性だった、と私には思えてなりません。
イエズス様はそればかりか、わたしたちに更にもっと核心を教えてくれます。なぜこの世にはその清き、明き、きれいな心をした人々が苦しんでいるのか、なぜ悪人が世に憚(はばか)っているのか?
イエズス・キリストはわたしたちに、こう言います。
「最後の日には審判がある」と。すべての人々は正義の裁きを受ける。世に住んでいたすべての人類はそのすべての秘密を全人類の前に公開されて、そして裁きがある。そして清い直い心をもった――罪を赦された――本当に罪を赦された者が天国に行き、高き天が原に、天の高い国に行き、そしてそうでないものは、永遠に地獄によって滅ぼされる。そしてそればかりでなく、わたしたちは肉体をもって善をしたので、この肉体も復活して、そして永遠のよろこびに入る。
これを、わたしたちの主イエズス・キリストは教え、そして約束して、ご自分の復活をもって本当にあるということを確認されました。
そしてマリアさまの被昇天というのも、それをわたしたちに教えています。
二千年間のカトリック教会の中で、これは常に信仰の真理でした。マリアさまの聖遺物…教会では人が亡くなるとその遺体を非常に大切にします…が、マリアさまだけはその聖なる御体がないのです。なぜかというと、天に挙げられたからです。ちょうどその日の翌日にマリア・アスンプタは霊魂を天に帰されたのは、きっとマリアさまからの特別な愛を受けておられたのだと思います。
ではわたしたちは、さいごに、このお母さんのために、お祈りをいたしましょう。
そして、おそらくわたしたちのために、天で寛大な心で、家族のために、そしてわたしたちのために、きっとマリアさまの近くで取り次いで、地上にいるわたしたちのためにお祈りしてくださるようになる、と。
ですから、そのためにも、霊魂のためにお祈りをしつつ、このミサをお捧げいたしましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
聖霊降臨後第十六の主日の説教―肉体労働
ブノワ・ワリエ神父
主日と祝日を聖とすること
「安息日に人を癒やすことは合法か」
律法学士やファリザイ人は、私たちの主が安息日に病人を健康にして、愛徳のわざをなさったことを批判しましたが、彼らはその日、家畜を危険から救うことを、一瞬たりとも躊躇しませんでした。
現代のカトリック信者の多くは、その反対に、別の極端なところにまで行っています。彼らは、主日や祝日に、罪の意識を持つことなく働き、いや、「今日は休日なのだから、少しぐらい楽しんでもいいだろう」と言いながら、罪深い楽しみにふけってさえいるのです。
古代ユダヤ人の過ちと、この現代のキリスト信者たちの欺瞞から、皆さまをお守りするために、私は今日、主日と祝日を聖とすることについてお話しし、その日には何を避け、何をすべきかについて説明するよう努めようと思います。
I.主日と守るべき祝日には、肉体労働をすべて避けなければならない。
肉体労働とは、通常、使用人、日雇い労働者、職人によって行われる、骨の折れる体を使った労働のことです。つまり、精神の能力よりも肉体の力を必要とする、あらゆる労働、あるいは、人間の永遠の幸福ではなく、この世の幸福を目的とする、あらゆる労働のことです。いわゆる芸術というものは、肉体よりも精神を使うもので、理解力の発達、あるいは、無害な娯楽や精神的なリラックスを目的とするものですから、肉体労働ではないため、主日や祝日に禁じられているわけではありません。したがって、主日と祝日に、芸術や科学を教えたり、勉強、あるいは鉛筆画、絵画、音楽という芸術に取り組んだりすることは、夢中になりすぎたり、主日の義務の遂行を妨げたりしない限り、合法なのです。
ただし、肉体労働を主日と祝日に行うことが合法である場合が四つあります。
(a)食事の準備や、皿洗い、食卓の後片付けなど、短い時間の家事や軽作業の場合。
(b)絶対的な必要性がある場合。キリストご自身がそう教えておられます。したがって、消防署が火事を消そうとするのは合法です。収穫期に雨天が長く続くなら、天候が良い場合はいつでも、主日であっても、農民が作物を穫り入れることは正当化されます。
(c)教会や祭壇の掃除や装飾など、天主をたたえるために労働を行う場合。
(d)隣人愛が私たちに義務付けている場合。今日の福音にあるように、安息日に善い行いをすることは合法です。母親が病気の子どもの世話をするために、ミサを欠席しても構いません。自分の家で大掃除をすることは許されませんが、困っている人のために大掃除をすることはできます。「まことに私は言う。あなたたちが、私の兄弟であるこれらの小さな人々の一人にしたことは、つまり私にしてくれたことである」(マテオ25章40節)。
これらの例外の場合でなければ、主日や祝日に3時間以上肉体労働をすれば、重い罪を犯すことになります。
2.主日と祝日には、すべての罪深い行いを避けなければなりません。
聖なるものは聖なるものに保たなければなりません。したがって、主日と祝日には、明らかに罪深いものはすべて、特別な注意を払って避けなければなりません。「特別に主に捧げられた日を、この世の愚行やむなしい快楽に費やすことは、天主に対する大いなる侮辱、一種の冒涜とさえ言えるのではないだろうか」(聖キュリロス)
II.主日と祝日には何をしなければならないか。
1.私たちは、ミサにあずからなければなりません。主日と祝日にミサを拝聴することは、教会の厳格な戒律です。私たちは、ミサの全体にあずからなければなりません。自分の過ちのせいで遅刻した人は罪を犯しています。守るべき日のミサに、奉献誦が始まってから来ることは、大罪です。
2.その日には、悔悛の秘跡とご聖体の秘跡を受けることが勧められます。教会の最初の数世紀には、すべての主日のミサでご聖体を受けることが、信者の普遍的な習慣でした。殉教者聖ユスティヌスは、病気やその他の障害のためにミサを拝聴することができないキリスト信者には、ご聖体を持って行ったと伝えています(少なくとも、月に一度は告解に行きましょう)。
3.私たちは、主日を聖としなければなりません。これは天主の掟です。全体的には、ミサにあずかれば掟を果たします。しかし、主日は、自分のため、あるいは子どものためにカテキズムを学ぶのにふさわしい日でもあります。それは主日の義務ではありませんが、私たちには、信仰を学ぶという一般的な義務があります。(今日のカトリック信者が、カテキズムの簡単な質問にさえ答える義務があるとすれば、ずいぶんと恥ずかしいことでしょう。また、私たちには、知らなければ知らないほど、カテキズムを熱心に学ぶという義務があるのです。)
4.最後に、主日と守るべき祝日には、愛徳のわざ、特に肉体的・霊的なあわれみのわざを行いましょう。聖ヤコボが、「父なる天主に対して、清く汚れのない宗教とは、こうである。貧しい孤児とやもめを見舞い、この世の汚れに染まらず、自ら清く身を保つことである」(ヤコボ1章27節)と言うようにです。
結論として、親愛なる兄弟の皆さま、私は、初期のキリスト信者の良き模範に倣い、主日と守るべき祝日を、恩寵と祝福と救いの日とするように過ごすことを、切にお勧めします。
主日は主の日です。ミサを拝聴した後、家庭で、家族と一緒に、キリスト教的な方法で主日をお祝いしましょう。カテキズムの本や信心の本を読み、世俗的で罪深い娯楽を避け、あわれみと愛徳のわざを行ってください。
きょう私たちは聖母の誕生日を祝っていますが、願わくは私たちが主日を聖とするのを守れるよう、聖母が助けてくださいますように。
要するに、願わくは、主の次の御約束が皆さまのうちに成就しますように。「安息日を汚すことを避け、私の契約をしっかり守るなら、私は彼らを聖なる山に導く」(イザヤ56章6節)。アーメン。
ナイムの寡婦の涙と教会の涙、聖母の涙の意味
2024年9月1日 聖霊降臨後第15主日ミサ説教
トマス小野田圭志神父
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
今日、福音では、一人息子を失って涙を流す寡婦・やもめのお母さんが登場します。今日は、この涙から、教会が超自然の命を失った子どもたちについて嘆いていること、そしてマリアさまの涙について、一緒に黙想いたしましょう。
【ナイム:一人息子を失って涙をながす寡婦】
今日の福音を見ると、主はナイムという町に行かれます。ナイムというのは、語源によると、美しいとか、喜ばしいという意味です。
すると、町の門に近づくと、主は葬式の行列に出会います。誰が死んだのでしょうか。若い一人息子が担ぎだされてきました。お母さんは泣いています。やもめです。つまり、たった一人の、支えの一人息子を失ってしまった、もうこれからいったいどうしていけばいいのだろうか、と途方に暮れて涙を流しているお母さんです。
イエズス様は、このお母さんを見て非常にあわれに思ったに違いありません。きっとマリアさまのことを思ったに違いありません。なぜかという、マリアさまも聖ヨゼフ様を失ったやもめであり、そして私たちの霊魂の救いのために御一人子であるイエズス様を失うであろう、からです。そのことをよく知っていたイエズス様は、このやもめのこととマリアさまを重ね合わせたに違いありません。
イエズス様は、マリアさまにはご自分の復活をもって慰めを与えますから、ナイムのやもめにはこの子供の復活をもって慰めようと思われました。
【罪人の霊魂をおもって涙を流すカトリック教会】
この史実は、歴史上の出来事は、今でも霊的に起こっています。どういうことかというと、教父たちによると、霊的な意味では、美しい町…成聖の恩寵の状態の町から担ぎだされる死人というのは、大罪を犯したことによって天主の聖寵(gratia)を失った私たちの霊魂のことだといいます。罪こそが、私たち人類にとって最大の問題です。そして最大の不幸であり、最大の悲しみです。
天主は、すべてを尽くしてわたしたちを愛し、永遠の命に導こうとしておられます。それにもかかわらず、人類は自由を乱用して、与えられた自由をいいように使って、罪を犯し続けているからです。そして罪を犯すことによって、永遠の死に向かっているからです。これこそが、人類にとっても天主にとっても、最も悲しい出来事です。
教会の使命というのはなんでしょうか。教会の使命のこの本質、その核心というのは、この霊的に死んだ子どもたちが、超自然の命に生き返るようにと祈ることです。教会は、私たちにとって超自然の命の霊的なお母さんです。母なる教会というのはこのためです。なぜかというと、教会の懐でわたしたちは洗礼を受けて、超自然の命である天主の聖寵・成聖の恩寵を受けたからです。
この聖寵こそが、わたしたちの将来の栄光の種(semen gloriae)となるものです。これなくては、わたしたちは将来永遠の命を受けることができないからです。
私たちは霊魂を一つしか持っていません。ですからいわば一人息子です。人生はたった一回限りです。霊魂もたった一つです。これを失ってしまうと、もう取り返しがつきません。これを失ってしまうということはどういうことかというと、地獄に落ちてしまうということです。永遠の死に落ちてしまうということです。ですから、イエズス様はなんとかしてこの最大の不幸、永遠の死から、地獄の火から、わたしたちを救いたい、永遠の命へと導きたいと思われています。
カトリック教会は、キリストの花嫁です。キリストが頭であり、教会はその体です。一体となっています。ですから教会は、花婿であるキリストと同じ心・同じ願いを持っています。それは私たちの永遠の救いです。
イエズス様は十字架の死をもって私たちを贖いました。ですから花嫁である教会は、いわばやもめであるともいえます。ですから教会は、ちょうど今日の福音のナイムのやもめのように寡婦のように、わたしたちがあるいは罪人が、罪の状態から霊的に復活することができるようにと、いつも祈っています。罪を犯して霊的に死んでいる子どもたちが、罪を捨てて超自然の命に生き返るように祈っています。
ですから教会は、二千年間、罪こそが最大の悪である、と言い続けてきました。たとえこの世でどんなに不幸があったとしても病気だったとしても、貧乏だったとしても、あるいは事故にあったとしても、五体不満足だったとしても、しかし、天国に行ければ、永遠の至福を受ければ、すべては解決できます。しかし、この世でどれほどお金があってどれほど幸せで美味しいものを食べて何でもできたとしても、永遠の命を失ったならば、いったいそれが何の利益になるでしょうか。
ではどうしたらわたしたちは永遠の命を失ってしまうのでしょうか。それは罪です。たったひとつ、罪だけが、わたしたちをして永遠の命を失わせてしまうのです。
ですから教会は、罪を犯さないように、罪から立ち直るように、罪を棄てるように、聖なる生涯を送るようにと、いつも祈ってきました。償いと祈りと償いの涙を捧げてきました。特に、この「教会が超自然の命のために祈っている」ということを、今日は皆さんに訴えたいと思います。
【永遠の命】
教会は、いつも使徒信経で言います。「終わりなき命を信じ奉る」。
終わりなき命、つまり永遠の命 vita aeterna、これはわたしたちの究極の目的です。これは、ただ比喩ではありません。文字通りの本当の意味で、永遠の命をわたしたちが受けることになっています。
えっ!なぜ?どうやって? わたしたちは限りある人間なのにもかかわらず、なんで終わりなき命を受けることができるのか?
それは、限りあるわたしたちですけれども、無限の天主の超越的な絶対の至福にあずかることができるように、主がわたしたちに特別の光を与えてくれるからです。
もちろん、創造主である天主と被造物である人間との間には、無限の隔たりがあります。いわば、断絶があります。ですから、わたしたちがいくら永遠の命を持ったからといって、有限であるものが無限であるものになるわけではありません。被造物が創造主になるわけではなりません。しかし、天主は天主、人間は人間として区別されながらも、天主の光によって栄光の光によって、わたしたちは天主の永遠の至福に与ることができるようになります。
どういうことかというと、たとえでいうと、たとえばここに鉄の塊があります…硬い鉄の塊で冷たい鉄の塊ですけれども、これを竈(かまど)の中に轟々(ごうごう)と燃やしてしまうと、炎の中に入れられたこの鉄の塊は熱を帯びて、あたかも火の塊であるかのように真っ赤になって、そしてトロトロと溶け出して、そしてもっともっと熱を加えたら、もしかしたら気体になってしまうかもしれません。
それと同じように、もしもわたしたちも、天主の栄光の光の中に入ってそれにあずかると、その天主の栄光に光によってわたしたちの霊魂は沁みとおり、あたかも天主であるかのように変化してしまいます。あたかも天主の栄光に入った人は主の愛に燃やされて、自分は自分であることはやめませんが、この地上にいる人々とはまったく違ったものになります。そうしてわたしたちは、主の栄光、喜び、楽しみに満たされて、心の思いはすべてかなえられ、そしてあたかも天主であるかのようになるんです。
イエズス様はこう言いました。「永遠の命とは、唯一のまことの天主であるあなたと、あなたがお遣わしになったイエズス・キリストを知ることにあります」(ヨハネ17:3)。
聖ヨハネはこう言います。「愛するものたちよ、私たちはいま、天主の子であるが、のちにどうなるかは、まだ現われていない。それが現われるとき、私たちは天主に似たものとなることを知っている。私たちはかれをそのまま見るであろうから」(1ヨハネ3:2)。
聖パウロはこう言います。「今私たちは、鏡を見るようにぼんやりと見ている――つまり信仰を通してみている――、しかし、その時には――つまり天国の栄光では――顔と顔とを合わせて見るであろう。今私は、不完全に知っているが、しかし、その時には、私が知られているとおり知るであろう。」(コリント前13:12)
「天主を目の当たりにして、天主を見る」――これを、至福直感と言います。そうすると、天主が、このあまりにも愛に満ちた方であり、無限の善であり、最高の完全さをもっている方であることを深く理解して、天主を所有し天主とあたかも一つになるかのようになります。もちろんわたしたちは 天主とわたしたちは区別しますが、主を所有するように、そして幸福で欠けたものは全くないような幸せに満たされます。なぜならばわたしたちはすべてを持っているからです。これができるのは、栄光の光(lumen gloriae)のおかげです。そのとき、天主はわたしたちを栄光の光で照らして、その中で主を見るからです(詩26:10参照)。
この至福を、最高の宝であるわたしたちの究極の目的である永遠の至福を奪うものは、何でしょうか。たった一つあります。それは罪です。大罪です。ですから、教会はわたしたちが罪を犯すことがないように、罪を犯したらそれから超自然の命に回復するように、成聖の恩寵の状態に立ち戻るように、息を吹き返すように、いつも涙を流し、嘆き、祈っています。
【罪人の霊魂をおもって涙を流す聖母】
では最後に、つい最近秋田のマリアさまのメッセージを聴いたシスター笹川が亡くなられたので、マリアさまが涙を流したことについても一緒に黙想して、少し話をしたいと思います。
秋田でも、101回の涙を流されました。なぜ流されたのでしょうか。マリアさまの話によると、それは「世の多くの人々は、主を悲しませて」【第二のメッセージ】いるからです。罪を犯しているからです。主がそれによって悲しんでいるので、マリアさまも涙を流しています。
またマリアさまはこうも言われます。
「たくさんの霊魂が失われることがわたしの悲しみです。」【第三のメッセージ】
霊魂が失われるというのはどういうことでしょうか。これは天国へ行くことができなくなってしまう、罪を犯したがために、成聖の状態にいることができなくて、失われてしまう――地獄に失われてしまうということです。「それがわたしの悲しみです。」
守護の天使は、マリアさまの涙をこう説明しています。「聖母は、いつも、一人でも多くの人が改心して祈り、聖母を通してイエズス様と御父に献げられる霊魂を望んで、涙を流しておられます。」
ですから秋田の聖母の涙、この核心は、わたしたちが罪を犯さないように、あるいは罪を犯したらそれが回心するようにという、その涙です。この地上で、たとえば、‟天から火が来るから”ということが、マリアさまのメッセージの核心ではありません。
ファチマでも、やはり同じことをおっしゃいました。わたしたちにロザリオの時に、こう祈るようにいわれたからです。「ああイエズスよ、われらの罪をゆるし給え、われらを地獄の火より守り給え。」
マリアさまのお考えはいつも来世のことです。彼岸のことです。
ある時ルルドでは、聖ベルナデッタに こう言いました。「わたしはあなたにこの世では幸せを約束しません。しかし、来世ではします、来世の幸せを約束します」と。
ですから、こういわなければなりません。マリアさまが涙を流されているのは、わたしたちの永遠の命のためだ、と。
ですから、もしも秋田のメッセージの核心が何かというと、火が天から降ることではありません。‟マリアさまだけがわたしたちを助けることができる“というのは、そのような大天罰が来るときにマリアさまが物理的にそういう被害を与えないように守ってくださる、ということではありません。
もちろんマリアさまはわたしたちの優しいお母さまですから、わたしたちがこの世で苦しむことがないようにと、思っておられます。わたしたちがこの世で苦しむことを悲しまれます。できれば苦しませたくないと思われます。しかし、人類が罪を犯し続けるので、人類はどうしても受けなければならない罰がある、と。それを何とか避けさせるために、マリアさまはイエズス様とともに、御父にお祈りをして、それを慰めようとしてきた、宥めようとしてきた。しかしそれでも足りないので、多くの人々の祈りと犠牲が必要だ。だからマリアさまは、「助けてほしい」とわたしたちに訴えています。
ですから、マリアさまがおっしゃる警告というのは、脅迫ではありません。脅迫というのは、さあさあと言って、恐怖におとしいれて、嫌なことでもやれ、と…そういうことを要求することではありません。そうではなくて、わたしたちが永遠の命を受けるために、いまから厳しいことがあるかもしれない、とそれを予告します。心の準備をさせます。
特に、永遠の命を受けるために最も必要であるはずの枢機卿があるいは司教様たちが互いに対立してわたしたちを上手く天国まで導くことができないかもしれない…教会は荒らされる…司祭・修道者も辞めてしまう…悪魔が聖職者たちに働きかけている…わたしたちが正しい教えを聴くことができないようにさせてしまっている…そのために多くの霊魂が失われてしまっている――それが悲しい。
ですから、マリアさまは、わたしたちが悔い改めるように、罪を犯し続けるのを止めるように、と訴えています。
【遷善の決心】
では最後に選善の決心を立てましょう。
マリアさまは罪を避けるように、つまり、天主の十戒を愛をこめて守るように、そして天主を愛するがために隣人を我が身のように愛するように、祈りという天主との愛の会話をするように、わたしたちの日頃の義務を身分上の務めを愛をこめて償いとして天主に捧げるように、と招いています。そして、イエズス様とともにマリアさまとともに、わたしたちの日頃の生活を祈りと償いをもって捧げるように、と招いています。
そうすると、そのようなわたしたちを見た、マリアさまと一緒に死人を担いで出てくるその行列をするわたしたちを見たイエズス様は、きっと十字架の木に手をかけて、罪人たちにこう命じられることに違いありません。「青年よ、私はいう。起きよ!」と。
すると、罪人は、多くの人々は、霊的なよみがえりをするに違いありません。教会とマリアさまの涙をごらんになって、罪人を憐れみに思ったイエズス様が、超自然の命をわたしたちにくださるのです。
これこそが教会の存在理由であって、教会の使命の核心であり、本質です。「超自然の命を与える」。そして、これこそが、マリアさまが涙を流される理由です。
では、今日この福音を黙想しつつ、わたしたちもマリアさまの涙に教会の嘆きに合わせて、日々の生活をお捧げいたしましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。