Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

私は御身を信じ、礼拝し、希望し、御身を愛します!御身を信じぬ人々、希望せず愛さぬ人々のために、赦しを求めます(天使の祈)

諸教皇は何故「良心ならびに信教の自由」を排斥したのか、理由は?

2007年02月23日 | カトリックとは

アヴェ・マリア!


諸教皇は何故「良心ならびに信教の自由」を排斥したのか、理由は?


 A) それ自体として考えた場合、このような自由は偽りであり、まったく不条理なものです。なぜなら、かかる自由は理性によって把握される自然の秩序に反するから。


◆ ピオ6世は、フランスでの「世俗聖職者基本法 Constitution civile du clerge」 の問題を取り扱った「回勅『クオド・アリクアントゥム』  において、次のように述べています。

「 [聖職者基本法により] 社会における人間の権利として、この絶対的な自由が打ち立てらます。すなわち、これは自らの宗教上の見解について、干渉、規制を受けない権利を保証するにとどまらず、宗教に関する事柄について、最も常軌を逸した想像力がほのめかすままのことを一切の制裁の恐れなく考え、述べ、執筆し、さらには出版する放埒な自由を与えるものです。実に非道きわまる権利と言わねばなりません。(Recueil, p.53 / PIN 1)
http://digilander.iol.it/magistero/p6quodal.htm


◆ ピオ7世は、回勅『ポスト・タム・ディウトゥルナス』において、かかる自由の排斥の第1の理由を挙げています。
「何らの区別なく、全ての信教の自由を打ち立てる、というそのこと自体によって、真理と誤りとを一緒くたにすることになります。」
http://sedevacantist.com/encyclicals/Pius07/post_tam_diuturnas.html


◆ グレゴリオ16世は、回勅『ミラリ・ヴォス』中、先に引用した箇所において、「良心の自由」を「誤りかつ荒唐無稽な格律、否むしろ妄想」として、また聖アウグスチヌスが「人々の霊魂にとって真実最も破滅的な死と見なす「誤りの自由」であるとして排斥しています。
http://fsspxjapan.fc2web.com/papal/mirari_vos.html


◆ ピオ9世は、回勅『クアンタ・クラ』において、先に挙げた第1命題(「市民社会にとって最良の状態とは、カトリック宗教を傷つける者たちを、公共の平和がそれを必要とする場合を除き、法律上の刑罰によって抑圧するいかなる義務も、世俗権力に対して認められていないことである。」)を「聖書、ならびに教会と教父らの教えるところに反し、社会の管理についての全く誤った思想」であるとして排斥しています。同教皇はまた、グレゴリオ16世に倣い、良心ならびに礼拝行為の自由が「カトリック教会と救霊にとってこれ以上考えられないほど有害な、誤まった見解」、また「破滅の自由」であるとして排斥しています。(Recueil p.5 / PIN 40)
http://fsspxjapan.fc2web.com/papal/pius_9_quanta_cura.html

 


 B) その直接の実りにしたがって考察した場合、「良心ならびに信教の自由」は教会の公的権利、すなわち主イエズス・キリストの社会的王権ならびに教会の神的起源の教義から必然的に帰結する諸々の原理に抵触するから。


◆ ピオ7世は、回勅『ポスト・タム・ディウトゥルナス』の中で、排斥の第2の、最も重要な理由を挙げています。
「無差別に、全ての信教の自由を打ち立てること自体によって、(中略)諸々の異端的セクトはおろか、裏切りのユダヤ教 をキリストの聖にして、しみも汚れもない花嫁であり、この外では救いがあり得ない教会と同列に置くことになります。」(PIN 19)
http://sedevacantist.com/encyclicals/Pius07/post_tam_diuturnas.html


◆ レオ13世は、回勅『インモータレ・デイ』において、信教の自由の直接の結果を指摘しています。
「国家が、今日大いにもてはやされているこれらの原理に依拠しているという事実から、教会が不当にも、どのような地位に格下げされているかを容易に見てとることができます。事実、このような教条が実践に反映されているところでは、カトリック宗教は国家の中で、これとは全く無縁の団体組織と同等な、はてはそれ以下の地位に置かれています。また、イエズス・キリストから全ての民に教えをのべる命令と使命を受けたカトリック教会の教会法は全く考慮に入れられず、教会は公教育における一切の関与を禁じられています。教会と国家の双方が関与する事柄においては、国家の首長が自ら専断な法令を定め、この点において教会の聖なる法に対する軽蔑を示しています。したがって、彼らはキリスト教信者の結婚を自分たちの権限の下に置き、婚姻の絆ならびにその一性と安定性とに関する法を定めます。また、聖職者の財産をその掌中に収め、教会が財を所有する権利を否定します。詰まるところ、彼らは教会を、あたかもこれが完全な社会に相応(ふさわ)しい性格および諸権利を有さず、単に、当の国家に存在する他の団体と同類の一つの組織に過ぎないかのように扱うのです。このようなわけで、彼らは、教会が持つ一切の権利および活動に関する正当な権能を政府の認可と好意とに依存させるのです。」
http://www.vatican.va/holy_father/leo_xiii/encyclicals/documents/hf_l-xiii_enc_01111885_immortale-dei_en.html


 法制が教会にその自律を保持させ、公式の政教条約が国家と教会との間に結ばれている国家においても、教会の事柄を国家の事柄から分離すべきだという主張が声高になされています。しかるに、これは自らを一切の事柄についての判定者となし、一切の障害を取りのぞいて、罰を受けることなしに自ら誓ったカトリック信仰に反して行動できるようになることを目的としています。
http://www.vatican.va/holy_father/leo_xiii/encyclicals/documents/hf_l-xiii_enc_01111885_immortale-dei_en.html

 

  C) 良心および礼拝行為の自由がもたらすもう一つの弊害は、かかる自由が宗教無差別主義(これこそ現今の誤ったエキュメニズムの父とも言うべきものですが)という疫病を蔓延させるから。


◆ ピオ7世は、回勅『ポスト・タム・ディウトゥルナス』において、次のように述べています。
「さらに、異端者のセクトならびにその祭式執行者らに好遇と援助とを約束することによって、これらのセクトに属する人々のみならず、彼らの誤謬さえも容認し、助長することになります。これは潜在的に、聖アウグスチヌスが次の言葉で示している破滅的で、常に嘆くべき異端に他なりません。『この異端によれば、全ての異端者はよい道を歩んでおり、真実のことを述べている。あまりにも荒唐無稽な考えなので、異端教派が実際にこのような説を唱えているということが、私には到底信じられない。』」(PIN 19)
http://sedevacantist.com/encyclicals/Pius07/post_tam_diuturnas.html


◆ ピオ9世は、『シラブス(異端排斥表)』にいおいて、次の命題(第79命題)を排斥しています。
「国家・社会におけるあらゆる信教の自由、また同様に、自らの見解を公かつ開け広げに表明する十全な権能を万人に付与することは諸国民の風紀・道徳ならびに精神をより容易に堕落させ、宗教無差別主義という疫病の蔓延につながる、というのは誤っている」(Recueil p.35)
http://fsspxjapan.fc2web.com/papal/pius9_syllabus.html

 

結論: 「良心ならびに信教の自由」という言葉で表される信教の自由、すなわちあらゆる宗教の信奉者に対して認められた、宗教に関する事柄における行動の自由を保持する自然的かつ市民的権利としての信教の自由が、はや19世紀に排斥されたということを、いささかのためらいもなく断言せねばなりません。

 そしてこれは、
―― 単に、当時広まっていた絶対的リベラリズム、という「前提」のためだけでなく、
―― それ自体として不道理かつ誤ったものとして、またそこから直接に生じてくる結実、すなわち教会の公的権利に対する侵害、ならびに個人のレベルにおける宗教的無差別主義、という実りのためになされた、という事実も認めなければなりません。

 

★ それでは、信教の自由の排斥における教導権の権威はどれ程のものだったのでしょうか? 単なる注意? それとも最高度の権威を持った教え?だったのでしょうか★

 

 信教の自由の排斥が終始一貫して、また再三再四繰りかえしなされたという事実は、当の排斥に、通常教皇教導権における最高度の権威を与えます。


 しかるに、回勅『クアンタ・クラ』によって表明された信教の自由の排斥は、聖座宣言 (ex cathedra ) の4つの条件をそなえているように思われ、その場合、不可謬の宣言であることになります。

 ―― 排斥された命題
 以下に、すでに引用した3つの命題を前後の文章を含めて再度示します。
  
「さらに、聖書、ならびに教会と教父らの教えるところに反し、彼らは『市民社会にとって最良の状態とは、カトリック宗教を傷つける者たちを、公共の平和がそれを必要とする場合を除き、法律上の刑罰によって抑圧するいかなる義務も、世俗権力に対して認められていないことである』と主張してはばかりません。この社会管理についての全く誤った見解のために、彼らは思い出深い先任者グレゴリオ9世が妄想と呼んだ、カトリック教会ならびに人々の救霊に対して、これ以上考えられないほど致命的な謬説を何のためらいもなく支持するのです。すなわち『良心ならびに信教の自由は各人に固有な権利であり、しかるべく構築された全ての社会において宣言されるべきものである。また、市民は、たとえそれがどのようなものであれ、自らの見解を言論、刊行物、あるいはその他の手段によって公に表明する権利を有し、教会もしくは国家の権威はこれを制限することができない』(Recueil p.5 / PIN 39-40)。
http://fsspxjapan.fc2web.com/papal/pius_9_quanta_cura.html


 ―― 同回勅中ですでに糾弾された緒論説の包括的排斥
「ですから、変節した諸謬説の悪質な様を目の当たりにして、私は自らの使徒的責務を念頭に置きつつ、私たちのいとも聖なる宗教、神聖な教え、および天主から私たちに託された霊魂の救い、さらには人間社会の福利への熱意に駆られて、私は再度使徒[の継承者]としての声を上げることが適当であると判断しました。それゆえ、常軌を逸した見解の全て、その一つ一つならびにこの書簡中で詳細にとり挙げられた種々の教説を、私は教皇としての権威をもって非難し、禁じ、排斥します。私はカトリック教会の全ての子らがこれらの見解ならびに教説を非難し、禁止され、排斥されたものとして見なすことを望み、かつ命じます。」(Recueil p.11)
http://fsspxjapan.fc2web.com/papal/pius_9_quanta_cura.html


 ―― 不可謬権を伴う聖座宣言の4つの条件の確認(ヴァチカン第1公会議、憲章『パストール・エテルヌス』[DS 3074]に即して)
http://fsspxjapan.fc2web.com/vat1/index.html

● 教皇はここで、全キリスト教信徒の牧者かつ教師として語っている。
● その内容は信仰もしくは道徳に関する教理であり、当の教理は神的啓示に密接に結びついた事柄として提示されている。
● 教皇は「定義を下し」ている。すなわち、定義づけられた、ないしは排斥された諸命題中の言葉づかいを厳密に定め、当の命題に最終的かつ撤回不能な宣告という性格を帯びた判定を下している
● 教皇は、信徒が提示された教理を保持する義務があることを明言している



結論: 回勅『クアンタ・クラ』において排斥されている諸々の教説は、不可謬権をもって排斥されていると考えられます。これは少なくとも、明確な言葉遣いで定義づけられた教説に関しては確実です。しかるに、第1から第5節にかけて引用されている3つの命題は、まさにこの種の教説です。したがって、これら3つの命題は不可謬権をもって排斥されたものです。このため、良心と信教の自由は排斥されたのであり、回勅『クアンタ・クラ』で精確に定められた表現において、およそ間違いなく、不可謬権をもって排斥されていると考えられます

 

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●聖ピオ十世会韓国のホームページ
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●トレント公会議(第19回公会議)決議文
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●第一バチカン公会議 (第20回公会議)決議文(抜粋)
http://fsspxjapan.fc2web.com/vat1/index.html


●聖ピオ五世教皇 大勅令『クォー・プリームム』(Quo Primum)
http://fsspxjapan.fc2web.com/pro_missae/dqpt1.html


●新しい「ミサ司式」の批判的研究 (オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿)Breve Exame Critico del Novus Ordo Missae
http://fsspxjapan.fc2web.com/pro_missae/ottaviani2.html


 

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