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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

聖体十字軍とは何か、その発端、発展、復活

2024年01月31日 | お説教・霊的講話

聖体十字軍についての説教

ドモルネ神父 2024年1月28日

はじめに

昨日は、聖体十字軍への参加を更新した子どもたちも、初めて参加した子どもたちもいました。今日は聖体十字軍についてお話したいと思います。

1.聖体十字軍の発端;Quam Singulari

聖体十字軍は、1910年に書かれた教皇聖ピオ十世の教令「クアム・シングラーリ」(Quam Singulari)が結実したものです。この教令の中で教皇は、子どもたちが分別のつく年齢に達したらすぐ、告解とご聖体を受けさせることが必要であることを、すべての人に強く思い起こさせました。この必要性は、第一に、私たちの主イエズス・キリストが幼い子どもたちに示された愛に基づいています。教皇は次のように書いています。イエズスは「子どもたちに手を置かれるのが常であり、子どもたちを抱きしめられ、子どもたちを祝福されました。同時に、子どもたちが弟子たちによって追い払われるのを喜ばれず、次のような言葉で、弟子たちを厳しく叱られました。『子どもたちを私のところに来させよ。止めてはならぬ。天主の国を受け入れるのは、このような者たちである』(マルコ10章13-16節)。一人の子どもをご自分のもとに呼んで、弟子たちに『まことに私は言う。あなたたちが立ち戻って子どものようにならないなら、天の国には入れぬ。…私のために、こういう子どもを受け入れる者は、私を受け入れる』(マテオ18章3-5節)と言われたそのとき、主が子どもたちの無垢さとその霊魂の素朴さをいかに高く評価しておられたかが、はっきりと分かります」(「クアム・シングラーリ」1番)。幼い子どもたちの聖体拝領の必要性は、第二に、子どもたちが小罪を清められ、大罪から守られるために、ご聖体を必要とすることに基づいています。

この教皇の教令は、イエズスの子どもたちに対する愛を思い起こさせることで、イエズスの聖心に対する子どもたちの力を思い起こさせました。実際、私たちがだれかを愛すれば愛するほど、私たちはその人の願いをより簡単に、より早く、聞くのです。聖体拝領は、子どもたちが自分自身と他人のために恩寵を願って得ることのできる特権的な時なのです。

2.聖体十字軍の歴史的始まり

1914年、第一次世界大戦が勃発しました。フランスのあちこちにいた敬虔な人々は、「兵士が戦い、天主が勝利を与え給う」という聖ジャンヌ・ダルクの言葉を思い出しました。彼らはまた、イエズスの聖心に対する子どもたちの力も思い出しました。そこで彼らは、子どもたちが祈りと犠牲、そして何よりも聖体拝領を通して、イエズスから勝利と平和という恩寵を得ることができるように、子どもたちを霊的に動員することに決めました。この動員は、「子ども十字軍」と呼ばれました。

その敬虔な人々の中に、シスター・マリー・ド・ラ・プレザンタシオンという修道女がいました。彼女はフランスのボルドーの女子校の教師でした。彼女の指導の下、またイエズス会の神父たち、特にアルベール・ベシエール神父の指導の下、その子どもたちは小さな霊的軍隊のような組織を作りました。子どもたちは聖心と童貞聖マリアのご像を立て、その下に、自分たちがイエズスとマリアに捧げる祈り、犠牲、聖体拝領を記録する板を置きました。また軍隊のように、兵士、伍長、軍曹、将校という階級を設けました。子どもは、毎朝イエズスに自分の一日を捧げることを誓うことで兵士となります。次に、聖体拝領をより頻繁にすることを誓うことで、階級が上がっていきます。週に1回聖体拝領をすることを誓うことで伍長、週に3回の聖体拝領で軍曹、そして毎日の聖体拝領で将校となります。子どもたちはまた、戦争の最前線の地図に、その場所と各軍の名前を記し、戦争が進むにつれて、この軍やあの軍に霊的な支援の意向を立てて、そのことを知らせる手紙を各軍に送りました。戦争中、最前線で担架の担ぎ手をしていたベシエール神父は、定期的に手紙を送り、子どもたちの努力を励ましました。

3.聖体十字軍の発展

子ども十字軍は、司教たちによって、そして教皇ベネディクト十五世によって承認され、奨励されました。それはもはや一部の敬虔な人々の私的な取り組みではなく、教会の活動となりました。瞬く間に、この霊的な軍隊に加わる子どもたちの数は、フランスだけでなく、第一次世界大戦中にフランスと同盟を結んでいた国々、ベルギー、英国、イタリア、米国で急増しました。1916年、運営のための事務局が設立され、1917年には、十字軍の指導者たちを養成するために「ホスティア」と呼ばれる雑誌が定期的に発行され、また、子どもたちを励ますためのニュースレターも発行されました。

1918年の戦争終結は、子ども十字軍の終了を意味しませんでした。なぜなら、その主な目的は、第一次世界大戦の終結ではなく、霊魂と社会における私たちの主の王権の復興だったからです。1922年以降、子ども十字軍は、「聖体十字軍」と呼ばれるようになりました。この十字軍の活動は、「祈り、聖体拝領、犠牲、使徒職」というモットーに集約されていました。十字軍には、その誓いの段階によって、見習い、兵士、騎士の三つの階級がありました。階級が高ければ高いほど、ご聖体におけるイエズスへの献身が大きなものとなります。教皇ベネディクト十五世とピオ十一世の奨励の下、1935年までに全世界で300万人の子どもたちが聖体十字軍に登録されました。残念ながら、十字軍は1962年に、教皇ヨハネ二十三世によって打ち切られました。聖体十字軍の霊的征服の精神は、この教皇の対話とエキュメニズムの精神とは相容れなかったのです。

4.聖ピオ十世会が復活させた聖体十字軍

1979年、パリで、ルフェーブル大司教は司祭職50周年を祝いました。その際、ルフェーブル大司教は、聖なるミサと、霊魂と社会を回復させるミサの力について美しく感動的な説教を行いました。この説教の最後に、大司教はすべての善意のカトリック信者に、近代主義と自由主義に対抗して、キリスト教の信仰と文明を守るための霊的な十字軍を結成するよう呼びかけました。大司教はすべてのカトリック信者に、聖なるミサの重要性と素晴らしい豊かさを再発見し、再び聖なるミサを自分たちの生活の中心に置き、私たちの社会に私たちの主イエズスの統治を復興させるために、聖なるミサを頼りとするように呼びかけました。

ルフェーブル大司教の呼びかけに従って、聖ピオ十世会の司祭たちや神学生たちは、イエズスの聖心に多くの喜びと慰めを捧げ、イエズスから多くの恩寵を得ることのできる子どもたちも動員することに決めました。そこで、このエコンの司祭たちや神学生たちは、聖体十字軍を復活させました。今日では、聖ピオ十世会の聖堂から、約700人の子どもたちが聖体十字軍に登録されています。こどもたちの国はフランス、ドイツ、米国、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、英国、イタリア、アイルランド、ポーランド、スイス、アフリカ、ベルギー、そして…日本です。

結論

親愛なる信者の皆さん、私はこの説教の締めくくりとして、親御さんたちにご自分のお子さんたちを聖体十字軍に参加させられることを、ただお勧めしたいと思います。なぜそうすべきなのでしょうか。なぜなら、この十字軍は、イエズスとマリアをお喜ばせし、聖性において進歩し、霊魂を救い、教会を敵から守り、私たちの国々、そしてここ日本で、私たちの主イエズスの王権を拡大するための、素朴で効果的な方法を子どもたちに提供するからです。

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聖パウロの回心の祝日:全ての方々がイエズス・キリストの信仰を得ることができるように祈ろう。

2024年01月31日 | お説教・霊的講話

2024年1月25日ミサ 説教

今日は聖パウロの回心の祝日です。
ガマリエルという有名なラビの弟子で秀才であったサウロは、今日、イエズス様の特別のお恵みによって、キリスト教を迫害していた立場から、イエズス・キリストを信じる大転換をして大回心をしました。聖パウロの回心のお恵みは、最初の殉教者聖ステファノの祈りによるものだと言われています。

「日本の聖なる殉教者聖堂」の近くにある大宮の小教区の教会は、使徒聖パウロに捧げられています。この聖パウロに捧げられた小教区、ここに住んでいる方々が、聖伝のカトリック信仰に導かれるようにお祈りいたしましょう。日本の流された最初の殉教者たちの血の、その祈りの御取り次ぎによって、回心のお恵みを請い願いましょう。

新しいミサに与るカトリック信者の方々のみならず、イエズス様を知らない方すべての人たちが、この私たちの日本の聖なる殉教者教会の周りに住んでいる多くの方々、全ての方々が、イエズス・キリストの信仰を得ることができますようにお祈りいたしましょう。

「天主はおん独子をお与えになるほど、この世を愛された。それは、かれを信じる人々がみな亡びることなく、永遠の命をうけるためである。」(ヨハネ1:)

聖父と聖子と聖霊との御名により

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権威と従順についての講話:権威および従順という概念、両者の関係、そして両者の制限について

2024年01月30日 | お説教・霊的講話

権威と従順についての講話

ドモルネ神父 2024年1月8日(札幌)

はじめに

60年にわたって、カトリック教会は、自らの歴史の中でも最も深刻な危機の一つによって揺さぶられています。教皇パウロ六世が、1972年に、「どこかの裂け目を通ってサタンの煙が天主の教会に入り込みました」と言ったほどでした。その裂け目とは、実際には教皇パウロ六世自身の自由主義でした。彼は第二バチカン公会議の間に、致命的な教理が教会に浸透するのを許しました。次に、自分の権威を利用して、これらの教理を教会全体に広めたのです。そして、いわゆる従順の名の下に、カトリックの聖職者と信者のほとんどが、これらの教理を受け入れました。ルフェーブル大司教とブラジルのデ・カストロ・マイヤー司教だけが、これらの致命的な教理に公然と反対した司教でした。二人は教皇に不従順だと非難されました。今日に至るまで、これらの教理を拒否するすべてのカトリック信者は、教皇に不従順だとして、つまりは「悪い」カトリック信者であるとして非難されているのです。

今日はまず、権威および従順という概念、両者の関係、そして両者の制限についてお話しします。現在の教会の危機の中で混乱しないためには、また、この危機の真っただ中における聖ピオ十世会の立場を理解するためには、これらの概念を正しく理解することが不可欠です。

1.権威という概念

権威とは、他の人々に命令し、その人々を従わせる権利です。

次の質問をしてみましょう。「そのような命令する権利を、人はどのようにして得るのでしょうか」。それには、二つの方法しかありません。所有権という理由によるものと、受けた使命という理由によるものです。

最初の方法は、所有権という理由によるものです。人は自分の所有物に対して権威を持っています。例えば、皆さんが車を買ったとしたら、皆さんはその車に対する所有権を持っており、そのため、皆さんにはその車を好きなように使う権利があります。別の例では、異教の文明において、人が奴隷を買えば、その奴隷はその人の所有物となり、その人はその奴隷に好きなように命令することができます。全世界と人類を創造なさったのは、天主だけでした。ですから、それらの所有者は天主だけであり、それらに対する完全な権威を持っておられるのも天主だけなのです。

命令する権利を得る第二の方法は、天主から受けた使命という理由によるものです。実際のところ、天主は被造物全体を御自ら直接に統治なさることはありません。もちろん天主はそうすることもおできになりますが、具体的に言えば、天主は天使と人間を、ご自分の世界統治に参加させることに決められたのです。言い換えれば、天主は、天使と人間に何らかの使命をお与えになり、それゆえに、天使と人間にその使命を実行する権威を委任されるのです。

例えば、天主は、私たちの守護の天使に、私たちの地上での生活の間、私たちを見守って、私たちが天国に行くのを助けるという使命を与えておられます。ですから、天主は、私たちを見守って、天主の御旨に従って私たちを導くという目的のために、守護の天使に自らの権威を委任しておられるのです。このため、聖書の出エジプト記には、次のように書かれています。「天主なる主はこう言われる。私は、おまえたちの前に天使を送り、道で守らせ、そして私の備えた所に導こう。彼を尊び、その言いつけを聞き、彼に反抗するな。私の権威は彼とともにあるから、彼は、その反抗を許さないであろう。もしおまえたちが、彼の声を忠実に聞き、私の言いつけをすべて守り行うなら、おまえの敵は私の敵となり、おまえの仇は私の仇となる。私の天使は、おまえたちの前を歩むであろう」(出エジプト23章20-23節、守護の天使の祝日のミサの書簡)。

別の例があります。天主はご自身で直接、最初の男と最初の女を創造されました。しかし、人類を存続させるために、天主は人間を、人類を増やすことに参加させようと決められました。天主は、結婚している人々に、子どもを生んで教育する使命を与えられます。その結果、天主は、結婚しているカップルが天主の御旨に従って自分たちの子どもを教育するために、自分たちの子どもに対する権威を委任されたのです。

さらに別の例があります。天主は人間を、社会で共に生きなければならないように創造されました。人間は、一人では人間としての完成に到達することができず、他人の助けを必要とします。石工、大工、配管工、教師、医者、弁護士、漁師、公務員、司祭などに同時になることは、誰にもできません。人間は、組織化された社会で共に生き、互いに助け合う必要があります。しかし、指導者、つまり人々の行動を調整し、人々を共通の目標に向かわせる人がいなければ、組織化された社会は存在しません。ですから天主は、人間が誰かの指導の下で共に生きることを望んでおられるのです。天主はその指導者に、人々の物質的・霊的な福祉の面倒を見るという使命を与えられ、その目的のための彼に権威を委任されるのです。

私が申し上げたことを要約します。権威とは、他人に命令する権利です。そのような権利の起源は所有権です。全宇宙と人類の創造主は天主だけであり、ですから、天主だけが全宇宙と人類に対する権威を持っておられます。しかし天主は、天使や人間に使命を委託されることで、彼らを世界統治に参加させておられます。その結果、天主は、これらの天使や人間に、彼らの使命を果たす権威を委任されるのです。このため、聖パウロはローマ人にこう述べているのです。「天主から出ない権威はなく、存在する権威者は天主によって立てられた。それゆえ、権威に逆らう者は、天主の定めに逆らう」。


2.権威の制限

さて、次の質問をしてみましょう。「権威の制限とは何でしょうか」。天主について言えば、天主の世界に対する支配権は絶対かつ永遠であるため、制限はありません。天使や人間について言えば、彼らの権威の制限は、彼らが天主から受けた使命の制限です。

一家の父親を例に取ってみましょう。父親は妻と子どもたちの物質的・霊的な福祉を提供するという使命を受けています。この父親は、隣人の妻と子どもたちの面倒を見るという使命は受けていません。ですから、この父親の権威が及ぶのは、妻と子どもたちだけに制限されます。さらに、この父親には、妻と子どもたちの物質的・霊的な福祉に反することを命じる権威は、天主から与えられていません。例えば、父親には、妻が主日にミサに出席することを禁じる権威はありません。

同じ原則が国家の指導者にも当てはまります。彼は、他国の国民に対する使命を受けていませんから、他国の国民に命令する権威はありません。また、彼の使命は国民の物質的・霊的な福祉を提供することですから、彼には、国民の物質的・霊的な福祉に反することを命じる権威はありません。

同じ原則が教皇とカトリック教会の司教たちにも当てはまります。聖ペトロと彼の後継者たちは、私たちの主イエズス・キリストから「諸国の民に教え、聖父と聖子と聖霊の御名によって洗礼を授け、私が命じたことをすべて守るように教えよ」(マテオ28章19-20節)という使命を受けました。ですから、私たちの主イエズスは、ご自分の権威を彼らに委任されたのです。「あなたたちの言うことを聞く人は、私の言うことを聞く人であり、あなたたちを軽んじる人は、私を軽んじる人である。そして、私を軽んじる人は、私を遣わされたお方を軽んじるのである」(ルカ10章16節)。教皇や司教には、イエズスの教えや掟を変更する権威はありません。それゆえ、聖パウロはガラツィア人に、強い言葉でこう語ったのです。「私たち自身であるにせよ、天からの天使であるにせよ、私たちがあなたたちに伝えたのとは異なる福音を告げる者にはのろいあれ。私は前に言ったことを今また繰り返す。あなたたちが受けたのとは異なる福音を告げる者にはのろいあれ」(ガラツィア1章8-9節)。

権威の制限は、天主から受けた使命の制限によって定められます。自分が受けた使命に反すること、あるいはその使命を超えることを命じるために、自分の権威を行使する指導者は、自分の権威を悪用しているのです。つまり、彼は自分が持っていない権威を自分に与えているのです。

3.従順の義務と制限

権威とはどこから来たもので、権威の制限とは何かを理解すれば、従順の義務と制限を理解することは簡単です。

天主は、ご自身の権威を指導者に委任されると同時に、人々に指導者に従うよう命じられます。そして、天主が指導者の権威を、指導者の使命に関わるものに制限されると同時に、天主は人々の従順の義務を、その使命に関わるものに制限されます。

例えば、アメリカ政府がお酒を飲むことを禁じている場合、日本に住む人々も同様にお酒を飲んではならないのでしょうか。いいえ、アメリカ政府は日本の人々に対して何の権威も持っていないため、日本の人々はお酒を飲むのを控える義務はありません。

別の例を挙げましょう。日本政府が日本国民に、健康に危険であることが証明されているワクチン接種を受けるように命じた場合、日本人はその命令に従わなければならないのでしょうか。いいえ、日本政府は、国民の物質的な福祉を提供するという自らの使命に反することを命じていますから、国民はその特定の点に従う義務はありません。

また別の例を挙げましょう。ある一家の父親が息子に、隣の家に行ってお金を盗んでくるよう命じるならば、息子は父親に従わなければならないのでしょうか。いいえ、父親は、息子の霊的な福祉を提供するという自分の使命に反することを命じているのですから、息子はその特定の点について従う義務がないだけでなく、そのような命令には逆らわなければなりません。

さらに別の例を挙げましょう。教皇が同性カップルの祝福を要求した場合、司祭は教皇に従わなければならないのでしょうか。いいえ、教皇はイエズス・キリストの教えを教えるという使命に反することを要求しているのですから、司祭には従う義務がないだけでなく、そのような命令には逆らわなければなりません。

自分の指導者が天主から受けた権威を悪用するという理由で、指導者に逆らう者は不従順に見えますが、そうではありません。彼には従う義務はありません。罪を犯しているのは、自分の使命を裏切り、自分の権威を悪用した指導者なのです。

4.聖ピオ十世会の状況

カトリック教会は第二バチカン公会議以来、深刻な危機に下にあります。教皇は、私たちの主イエズスの教えに反する有毒な教理が教会に広まるのを許しました。そして、これらの教理は権威によってカトリック信者に強制的に押し付けられました。司教たちの中で、ルフェーブル大司教とデ・カストロ・マイヤー司教だけが、これらの教理に反対する勇気を持っていました。二人は不従順だと非難されましたが、実際にはそうではありませんでした。二人は過去20世紀にわたる教皇たちの不変の教えに完全に従順だったのに対して、これらの有毒な教理の推進者たちは、傲慢にもその教えを拒否したのです。

聖ピオ十世会は、ルフェーブル大司教がたどった路線を守っています。私たちは、教皇フランシスコをカトリック教会の教皇と認め、教会全体に対する彼の権威に疑問を呈することはありません。しかし、彼の権威には制限がないわけではありません。彼の権威は、私たちの主イエズスから受けた使命によって制限されているのです。ですから、彼がその権威を悪用して、過去20世紀にわたって受け継がれてきたイエズスの教えに明らかに反する教理を押し付けるたびに、私たちには従う義務がないだけでなく、私たちは彼に反対しなければならないのです。聖パウロが、かつて聖ペトロに反対した(ガラツィア2章11節参照)ように、敬意をもって、しかし断固として、です。

聖ピオ十世会は教皇に従順ではないように見えますが、実際にはそうではないのです。

結論

結論として、次の各点を覚えておきましょう。人は天主から使命を受けたから権威を持つのであって、その人の使命の制限がその人の権威の制限を決定します。指導者の下にいる人々には、天主の代理人であるその指導者に従う義務があります。人々の従順の義務は、指導者の権威の制限に従って制限されるのです。


「シノドスの過程はパンドラの箱 : 100の質問と回答」第五章 ドイツの「Synodaler Weg」【シノドスの道】

2024年01月29日 | カトリックとは

「シノドスの過程はパンドラの箱 : 100の質問と回答」

The Synodal Process Is a Pandora’s Box: 100 Questions & Answers

ホセ・アントニオ・ウレタとフリオ・ロレド・デ・イズクエ著

第五章 ドイツの「Synodaler Weg」【シノドスの道】
A ドイツのためだけではない道

53.「Synodaler Weg」とは何ですか。
54.「Synodaler Weg」は世界的シノドスとは違いますか。
55.ドイツの司教たちはどこでその考えを得たのですか。
56.「Synodaler Weg」で発言するのは誰ですか。
57.「Synodaler Weg」はどれほど重要なのでしょうか。
58.「Synodaler Weg」はなぜ招集されたのでしょうか。
59.「Synodaler Weg」の背後には下心があるのでしょうか。
60.「Weg」は教会の文化的パラダイム・シフトでしょうか。
61.Weg推進派によれば、聖職者の性的虐待を引き起こすものは何でしょうか。
62.Synodaler Wegはどのような解決策を提案しているのでしょうか。
63.これは教会の破壊につながるのでしょうか。

第五章 ドイツの「Synodaler Weg」【シノドスの道】

A ドイツのためだけではない道

53.「Synodaler Weg」とは何ですか。

「Synodaler Weg」とは、シノドスの道という意味です。それは、ドイツのカトリック教会が、世界的シノドスとは独立して、ローマの方向性を先取りし、さらにはそれを凌駕して、シノドスに適応することを選んだ特別な道です。この新造語は、教会法にも教会の聖伝にも根拠がありません。

「Synodaler Weg」は、すべての信者が教会について発言できる恒久的な議論の場として、2019年にリンゲンで開催されたドイツ司教協議会の総会で承認されました。この準備段階あるいは協議段階は2023年3月に終了しました。提案は司教団に提出され、司教団は2023年10月にローマで開催される世界的シノドスに提出するため、現在議論を進めています。

「Weg」推進派はまた、聖職者と信者で構成される常設のシノドス評議会を設置し、ドイツの教会を完全に民主的な組織に変えようと考えています。シノドス評議会は、「教会と社会についての本質的な変化に関する協議・意思決定機関」として、また「司牧計画や予算の問題に関する教区を超えた機関」として機能することになります(94)。

バチカンはこの提案に拒否権を行使しましたが、ドイツ司教団はこの路線を継続する意思があるように見えました。

「Synodaler Weg」には定義された形式はありませんが、途中で変化する「過程」として提示されています。このシノドスの道のウェブサイトはこう述べています。「シノドスの旅は、教会法によって定義された形式を持たず、独自のものです。それは、道を旅する過程として定義することができます」(95)。

この「道」は完全に開かれていなければなりません。リンゲンの総会で、ミュンヘン大司教で当時ドイツ司教協議会会長だったラインハルト・マルクス枢機卿はこう述べました。「信仰は、思考の閉塞感から解放され、自由で開かれた議論に直面し、新しい立場を取って新しい道を切り開く能力を発展させることによってのみ、成長し、深化することができます」(96)。

54.「Synodaler Weg」は世界的シノドスとは違いますか。

形式的にはそうですが、それはドイツの教会の過程であり、世界的シノドスの過程と並行して自律しているという意味です。現実には、後に見るように、「Weg」は、その主要な主人公たちの宣言された意向において、2015年に発足した世界的シノドスの過程の他の車両を牽引する機関車のように考えられています。メディアはこのように報道していますが、さまざまな大陸から集まるシノドス総会の最も進歩的な参加者たちは、ドイツの「Weg」の行動計画(アジェンダ)に含まれる問題を主張したいと考える可能性が高いのです。このように、最善の仮説を立てれば、「Weg」は、新近代主義の最も急進的な大義名分のための宣伝の場を獲得するという世界的な過程を助けることになります。

両者の提案を単純に読めば、ドイツの道の言い方の方がさらに鋭いものの、その深い類似性が分かります。

55.ドイツの司教たちはどこでその考えを得たのですか。

「Synodaler Weg」の推進派は、2015年の司教シノドス組織設立50周年に関する教皇フランシスコの演説に触発されたと主張しています。その時教皇はこう述べました。

シノダリティの道は、天主が第三千年期の教会に期待する道です。…
教会を構成する次元としてのシノダリティ(97)。

これに2019年6月29日、教皇がシノドスの道を奨励した「ドイツ巡礼中の天主の民への手紙」を加えます。

皆さんの司牧者たちは、シノドスの道を提案しています。これが具体的な言葉で何を意味し、どのように発展していくかは、まだ検討中です。私としては、司教シノドス50周年を祝う機会に、教会のシノダリティについて考察を述べました。要するに、それは聖霊の導きの下で、聖霊の光、導き、注ぎの下で、教会全体と一緒になって、共に歩み、聖霊が私たちに与えようと望んでおられる常に新しい地平に耳を傾けて識別することを学ぶシノドスに関することなのです。なぜなら、シノダリティとは、聖霊のご出現を前提とし、それを必要とするからです(98)。

ラインハルト・マルクス枢機卿とドイツ・カトリック中央委員会会長のトーマス・シュテルンベルク教授はこう宣言しました。「教皇フランシスコは、私たちがシノドスの教会となり、共に歩むよう招いています。これがドイツの教会の『Synodaler Weg』の目的です。私たち司教協議会の司教とドイツ・カトリック中央委員会の信者は、すべてのカトリック信者、修道者、司祭、そして特に若者たちとともに歩んでいきたいと願っています」(99)。

もっと広く言えば、「Weg」の推進派は、たとえば2013年の使徒的勧告「エヴァンジェリイ・ガウディウム」で表明された、シノダリティに関する教皇フランシスコの教導権に従っていると言っています。同勧告はこう述べています。「司教協議会を真の教理上の権威を含む具体的な帰属の主体とみなすような、司教協議会の法的地位は、まだ十分に練られていません。過度な中央集権化は、役に立つことが証明されているどころか、教会の生活と宣教の活動を複雑にします」(100)。

56.「Synodaler Weg」で発言するのは誰ですか。

原則的には、ドイツのすべてのカトリック信者はもちろん、参加を希望する非カトリック信者でさえも、「Synodaler Weg」で発言権を持つことになります。しかし、「Weg」の最も重要な機関であるシノドス総会(Synodalversammlung)は、ドイツ・カトリシズムの最も進歩的な派閥によって独占されています。彼らは不調和な声をすべて沈黙させ、自分たちの行動計画(アジェンダ)を実施するために、たとえそれが離教につながるとしても、ローマと対立することを恐れはしません。これらの個人や団体は、何十年もの間、ドイツの教会を破壊転覆しようと努力してきました。その中でも代表的なものが、ドイツ・カトリック教会中央委員会(Zentralkomitee der deutschen Katholiken, ZdK)です。

「Synodaler Weg」の内部で行動計画(アジェンダ)を押し付けるこの進歩的な分派は、かつてのリンクスカトリスムス(Linkskatholizismus、カトリック左派)です。ヴュルツブルクのシノドス(1971-1975年)の行動計画(アジェンダ)には、すでにいくつかの「Weg」ポイントがありました。例えば、女性の助祭職、説教への信者の参加、小教区・教区評議会制度の拡大などです。

1990年代には、「私たちは教会である」(Wir sind Kirche)のようないくつかのイニシアチブが、性道徳の緩和、避妊具の承認、司祭の独身制の廃止、教会の権威構造の民主化などを求めました。

リンクスカトリスムス全体が今、「Synodaler Weg」に集中しています。

この分派は、司教たちをより急進的な立場へと向かわせています。例えば、カトリック農村青年運動会長のダニエラ・オルドウスキーは、「(ローマとの関係において)ドイツ司教協議会は、もっと勇気をもって、もっと怒りをもって、もっと騒々しく反応しなければならないでしょう。最終的には、不従順を選択せざるを得ないかもしれません。一方では社会的価値観、男女平等、権力分立、他方ではカトリックの家父長制的君主制というギャップに、いつまで我慢するでしょうか(101)」と書いています。

57.「Synodaler Weg」はどれほど重要なのでしょうか。

「Synodaler Weg」は、ドイツの教会にとって特別な道であり、ローマで招集されたシノドス総会のモデルとして、極端ではあるものの非常に影響力のあるものとして提示されています。多くのオブザーバーは、その結論が、有名な表現によれば「ライン川がテヴェレ川に流れ込んだ」(102)第二バチカン公会議が設定した先例に倣い、普遍教会におけるシノドス全体の過程の展開にどのような影響を与え得るかを指摘しています。

例えば、著名なバチカン専門家であるサンドロ・マジステルは次のような危惧を表明しています。「教皇によってチェックされていないドイツの『シノドスの道』の伝染は、今や国境を越え、『シノダリティに関するシノドス』の総会自体に影響を及ぼす恐れがあります」(103)。

ドイツの提案にマリオ・グレック枢機卿が明らかに共感しているのを糾弾し、バチカン専門家のエド・コンドンは、ドイツの司教団が「バチカン・ウォッチャーたちの間で、世界的なシノドスの過程全体がドイツ人に対する一種の『優先的選択肢』を持っているという印象を与えた」と書いています(104)。

ドイツ司教協議会会長であり、「Weg」推進派の中心人物だったゲオルク・ベッツィング司教は、「Weg」が提示した多くの提案を含むシノドスの準備文書「あなたのテントの場所を広く取りなさい」に言及し、陶酔的にこう宣言しました。「(ドイツの)シノドスの過程はすでに教会を変えました」(105)。

58.「Synodaler Weg」はなぜ招集されたのでしょうか。

「Weg」は、理論的には、2010年に発覚したドイツの教会における性的虐待問題の解決策を見いだすために招集されました。そのとき以来、具体的な結論に達することなく、会議、委員会、作業部会が増殖してきました。この惰性に直面した一部の司教とドイツ・カトリック中央委員会は、この問題を手に取り、恒久的な議論の場を設けるという考えを打ち出しました。

前述のように、「性的虐待の問題に積極的に立ち向かい、その防止を強化する」ために、2019年12月のドイツ司教協議会総会で「Weg」が承認されました(106)。

59.「Synodaler Weg」の背後には下心があるのでしょうか。

「Weg」が述べた目標の背後には、教会改革のプロジェクトが潜んでいると指摘する声は多くあります。例えば、ウィーン大司教であるクリストフ・シェーンボルン枢機卿は、「コムニオ」誌のインタビューで次のように語っています。「虐待の道具化があります。…「虐待行為」は、それを口実に、教会改革の要求について、議論して決定するために利用されています」(107)。

「Weg」の先駆者であるラインハルト・マルクス枢機卿自身も、このことを認識しています。彼は、性的虐待事件が教会の公衆への信頼を失墜させ、司祭職に叙階された人々が教会を指導できるという考えを捨てるべきだ、と主張しています。彼はこの問題やその他の問題で聖職者を監視する新しいリーダーを、特に信者の中から見つける必要がある、とします。進歩的な「ナショナル・カトリック・レポーター」によれば、「マルクス【枢機卿】は、位階構造の性質のゆえに、説明責任の必要性に対する教会の理解は『初歩的なものでしかない』と述べた」とあります。したがって、教会に「根本的で体系的な変化」をもたらすことが急務であり、シノドスの過程が必要だとされるのです(108)。

教皇に宛てたドイツ司教協議会会長職辞任の手紙の中で、このバイエルン人の【マルクス】枢機卿は「教会における変化と改革を求める制度的失敗」について明確に語っています。彼はこう付け加えます。「この危機を脱するための転機は、私の考えでは、あなたが強調され、ドイツの教会に宛てた手紙に書かれているように、『霊の識別』を可能にする道である『シノドスの道』しかありません」(109)と。

60.「Weg」は教会の文化的パラダイム・シフトでしょうか。

はい。「Weg」推進派は、それが教会の文化的パラダイムに大きな変化をもたらすものでなければならないと認識しています。「シノドスは文化的パラダイム・シフト(Kulturwandel)と教会の実践の変化をもたらさなければなりません」とゲオルク・ベッツィング司教は言います(110)。言い換えれば、「Weg」は教会の偶発的な要素だけでなく、その基盤そのものを変えなければならないのです。

ドイツ・カトリック青年連盟の会長であり、「Weg」の中心人物であるグレゴール・ポッドシュンはこう書いています。

今必要なのは、カトリック教会とその(間違った)教理を根底から変えることです。…新しい教会を建設するために、この教会は自ら滅びなければなりません。…
過激に聞こえますが、結局はそうなのです(111)。

61.Weg推進派によれば、聖職者の性的虐待を引き起こすものは何でしょうか。

Synodaler Wegの推進者たちは、聖職者の性的虐待の主な原因は、教会に蔓延する聖職者主義にあると主張します。Weg基本文書によれば、性的虐待の原因は「教会の現在の構造と教理」であり、そのため改革が必要と主張するのです(112)。

フルダで開かれた2018年の全体会議で、ドイツ司教協議会は「司祭の独身生活やカトリックの性道徳の諸側面に関する疑問など、カトリック教会に特有の課題は、透明性のある議論の過程で、さまざまな分野の専門家の参加を得て議論される」と述べました(113)。

一方、ラインハルト・マルクス枢機卿は、「少なからず、子どもや若者への性的虐待は、(教会)運営における権力の濫用の実である」と述べています(114)。

62.Synodaler Wegはどのような解決策を提案しているのでしょうか。

Weg推進派は、教会の位階構造と道徳を変えることによって、教会に蔓延する聖職者主義を克服する、と以下のように提案しています。

a.司教の任命に平信徒が参加し、教会機構を広く民主化すること。
b.司祭の独身制を廃止すること。
c.同性愛者の聖なる品級を認めること。
d.女性に秘跡的役務を開放すること。
e.同性愛を再評価し、同性婚を受け入れること。
f.教会の伝統的な性道徳を非難すること。

Synodaler Wegのアジェンダは、カトリック道徳と教会の位階階級の解体という2点に要約できます。

63.これは教会の破壊につながるのでしょうか。

少なくとも、それが一部の人々の意図するところであると思われます。元教理省長官ゲルハルト・ミュラー枢機卿はこう述べています。「彼らはカトリックの信仰とは何の関係もない別の教会を夢見ています…そして、このプロセスを悪用して、カトリック教会を転換させようとしているのです」(115)と。

しかし、この著名な神学者【ミュラー枢機卿】自身の言葉を借りれば、これは「カトリックの信仰とは何の関係もない」ことであり、また、教会とも何の関係もないことであることに注意してください。なぜなら、前述のように、天主の約束によって強められ、教会は不可崩壊性(indefectibility)を、すなわち、その特権によって、教会は時の終わりまで耐え忍び(マテオ28章20節参照)、地獄の門も教会に打ち勝つことはない(マテオ16章18節参照)という特性を確実に持っているからです。


「シノドスの過程はパンドラの箱 : 100の質問と回答」第四章 教会改革

2024年01月29日 | 聖伝のミサの予定

「シノドスの過程はパンドラの箱 : 100の質問と回答」

The Synodal Process Is a Pandora’s Box: 100 Questions & Answers

ホセ・アントニオ・ウレタとフリオ・ロレド・デ・イズクエ著

第四章 教会改革

41.どのようなレベルで教会の構造を変えるべきなのでしょうか。
42.これらの変更は典礼にも影響を与えますか。
43.シノドス推進派によれば、教会の主な問題は何でしょうか。
44.聖職者主義をどのように治療するのでしょうか。
45.教会の現在の構造に対してどのような適応がなされるべきでしょうか。
46.この団体主義は緊張や意見の相違を生じさせませんか。
47.この過程は現代の民主主義とどう違うのでしょうか。
48.「共同体的な識別」とは何ですか。
49.教会の統治とはどのようなものになりますか。
50.信者の意見と教皇の意見が食い違う場合、どちらが優先されるのでしょうか。
51.シノドス推進派は、教会生活における共同体的共同責任を正当化するために、どのような神学的根拠を提示しているのですか。
52.「カリスマ」と信者の「役務」をどこまで認めるつもりなのでしょうか。

第四章 教会改革

41.どのようなレベルで教会の構造を変えるべきなのでしょうか。

シノドスのための準備文書によると、教会の構造は、以下の三つのレベルで変更されるべきとされています。

1.教会が普通に生活し活動するスタイルのレベル。
2.教会の構造と過程のレベル。
3.シノドスの過程と行事のレベル(78)。

「大陸ステージのための作業文書」は、司祭とそれ以外の天主の民との間の隔たりをなくさなければならないことを確認し(19番)、叙階された役務を中心に築かれた教会像(67番)や、独裁的傾向を助長したり司祭と信者の関係を分断したりする位階的構造(33番)を克服することを確認しています。同文書は、シノドス的な制度モデルを提案しており、それは、現在存在しているピラミッド型の権力を解体し(57番)、教会生活が、特に制度と統治機構に関して(71番)、聖霊が信者に授け給う賜物(66番)に応じて、すべての人の共同責任を真に実践することを本当に可能にするようなものです。同文書はまた、さまざまな評議会(小教区評議会、司祭評議会、司教評議会)が単なる協議の場ではなく、共同体的な識別過程に基づいて決定される場であることを望んでいます(78番)。

42.これらの変更は典礼にも影響を与えますか。

はい。典礼に関して、準備文書は、すべての信者の積極的な参加を可能にするシノドス方式の典礼祭儀の実施を提案し(91番)、司式司祭が過度に強調される現在の典礼を再考しています(93番)。

43.シノドス推進派によれば、教会の主な問題は何でしょうか。

シノドス推進派は、教会の主な問題は聖職者主義、すなわち、教会を聖職者と信者の間で、すなわち教導教会(Ecclesia docens)と聴従教会(Ecclesia discens)の間で分断する位階構造にあると主張しています。

準備文書は、「耳を傾けることと識別することの共同過程が欠如していること」を訴え、「独裁的傾向を助長する位階構造、個人を孤立させ、司祭と信者との関係を分断する聖職者的かつ個人主義的な文化などの構造的障害の持続」を指摘しています。同文書は結論として、「聖職者を孤立させ、信者に害を与える文化である…聖職者主義を、教会から取り除くことの重要性」(79)を強調しています。

44.聖職者主義をどのように治療するのでしょうか。

シノドス推進派にとって、聖職者主義の治療法は、洗礼を受けたすべての人の平等な尊厳と、信者のカリスマおよび役務の価値を認めることによって、「共同責任」を実行することです。なぜなら、「現在の司牧構造の指導者たちと多くの司祭のメンタリティーは、この共同責任を育んでいない」(80)からです。彼らは、「異なるカリスマと異なる役務の交わりである『すべてが役務的』である教会へと向かうために、叙階された役務を中心に構築された教会についてのビジョンを克服する」必要があると見ています(81)。

45.教会の現在の構造に対してどのような適応がなされるべきでしょうか。

シノドス推進派は、共同責任のダイナミズムが「教会生活のあらゆるレベル」に浸透すべきであると主張しています。

バチカン国務省はこう例を挙げています。「司教協議会は、団体主義を維持し、いかなる圧力も受けない意思決定の自由を維持しながら、さまざまな教区の聖職者および信者の代表を含むべき」(82)であるとされます。

教区レベルでは、司牧評議会は、「包摂、対話、透明性、識別、評価、そしてすべての人のエンパワーメントの場として、ますます制度化されるよう求められる」(83)とします。

小教区レベルでは、「教会はまた、特に統治に関して、自らの制度や機構にシノドス的な形や進め方を与える必要がある」(84)と言います。国務省はパプアニューギニアとソロモン諸島の提案を紹介します。「小教区で何かをしたいとき、私たちは一緒に集まり、共同体の皆の提案を受け、一緒に決定し、一緒に実行します」(85)と。

46.この団体主義は緊張や意見の相違を生じさせませんか。

緊張は自然に生じるものですが、「私たちはそれを恐れるのではなく、絶え間ない共同体的な識別の過程の中でそれを明確にし、破壊的なものにならないように、エネルギー源として活用するようにすべきです」(86)と説明します。

47.この過程は現代の民主主義とどう違うのでしょうか。

「シノダリティに関する強調が、教会を民主主義的な多数決原理に依存した機構や手続きの採用へと向かわせるのではないかという…懸念」を和らげるために、大陸ステージのための作業文書では、「決定は、民主主義体制で用いられる多数決原理ではなく、共同体的な識別の過程に基づいて行われます」と述べて【現代の民主主義とは違うとして】います(87)。

48.「共同体的な識別」とは何ですか。

準備文書では、「天主の民の感覚と司牧者の司牧的機能との間の実りある結びつき」(88)を通して、「相反する利害の代表ではなく、福音化という共通の使命に対する相共にする情熱」の実りである「全会一致のコンセンサス」に達するまで、耳を傾ける努力をすることが必要であるとしています。

この意味で、位階階級は、論争に独断的に決着をつけるために教える権威を行使することはありません。それでも、コンセンサスのある統合に達するまで、テーゼとアンチテーゼの間の緊張が高まるのを許します。【こうして到達した同意が「共同体的な識別」と言われます。】

49.教会の統治とはどのようなものになりますか。

シノドス推進派にとって、どのような統治の施策も、共同体内での協議と推敲、それに続くそれぞれの権威による検証という二つの段階を経なければなりません。

国際神学委員会は次のように書いています。「シノドス、集会、評議会は、その正当な司牧者なしに決定を下すことはできません。シノドスの過程は、位階的に構造化された共同体の中心で行われなければなりません。例えば、教区では、識別、協議、協力の共同行使を通じた意思決定の過程と、使徒性とカトリック性の保証人である司教の権限内での意思決定の過程とを区別する必要があります。物事を解決することはシノドスの仕事であり、決定は司教の役務的責任です」(89)。

50.信者の意見と教皇の意見が食い違う場合、どちらが優先されるのでしょうか。

教皇庁立法評議会名誉会長フランチェスコ・コッコパルメリオ枢機卿は、シノドス的な解決策をこう提案しています。「教皇は、特に重要な教導権行為や特に重要な統治行為を、個人としては決して行わないことを約束することができだろうし、その結果、共同体の主体としてそのような行為を行うよう常に司教団に要請することができるかもしれません」(90)。

従って、信者の意見と教皇の意見の間に乖離がある場合、教皇は自らの不可謬権を行使しないことを、また同時に、共同体との対話を継続することを約束することでしょう。教皇フランシスコがアマゾン・シノドスについて以下のように語るとき、そのことを示唆しているように思われます。

シノドスの教育学の豊かさと独創性の一つは、聖霊が教会に語られることに共同体で耳を傾ける方法を教えるために、まさに議会用の論理の使用を避けることです。…
私はある意味で、シノドスは終わっていないと思いたいのです。私たちが目撃した過程全体を受け入れるこの時間は、私たちが共に歩み続け、この経験を実践に移すための挑戦なのです(91)。

51.シノドス推進派は、教会生活における共同体的共同責任を正当化するために、どのような神学的根拠を提示しているのですか。

前述したように、シノドス推進派にとって共同責任とは、すべての受洗者の平等な尊厳と、信者のカリスマおよび役務の承認に基づいているとされます。

国際神学委員会が用意したシノダリティに関する文書によると、信仰の感覚(sensus fidei)と、一致と統治という司牧の役務を行使する人々の権威との間の循環性が、「すべての人の洗礼の尊厳と共同責任を促進し、聖霊によって派遣されたカリスマが天主の民の中に存在することを最大限に生かし、ローマの司教と団体主義的かつ位階的な交わりを持つ司牧者の具体的な役務を認めます」(92)とされています。

52.「カリスマ」と信者の「役務」をどこまで認めるつもりなのでしょうか。

今回の「シノダリティに関するシノドス」におけるすべてのことと同様に、信者のカリスマと役務もまたオープンな議論の対象で、これは常に進化しています。

いくつかの提案は非常に急進的に見えます。例えば、ラテンアメリカとカリブ海の大陸統合は、解放の神学と2019年のアマゾン・シノドスの結論に強く影響され、アマゾンの部族におけるものも含め、あらゆる「自発的な役務」を認めることをこう提案しています。「合法的に、自発的な役務やその他の認められた役務を含め、洗礼の召命から生じる多くの役務があり、それらは制度化されていないものであり、また、その訓練、使命、安定性をもって制度化されているものもあります。先住民の中には、自分たちは役務を持っていて、すでにその役務を生きているものの、教会制度では認められていないと指摘する人さえいます」(93)。

アマゾン・シノドス文書が、特に、魔術師やシャーマンの働きを教会の役務として認めることを暗黙のうちに要求していたことを思い起こしましょう。


ダヴィデ・パリャラーニ神父の講話(2)「フィドゥチア・スプリカンス」この世に耳を傾けるが天主の言葉には聞く耳がないシノドスの教会

2024年01月28日 | カトリックとは

「フィドゥチア・スプリカンス」
この世に耳を傾けるが天主の言葉には聞く耳がないシノドスの教会(その2)

“Fiducia supplicans”:
A synodal Church listening to the world,
but deaf to the word of God

ダヴィデ・パリャラーニ神父
聖ピオ十世会総長

https://vimeo.com/904255614

クリエ・ド・ローマ第17回神学大会
2024年1月13日、パリ

IV―「フィドゥチア・スプリカンス」:昔の話

以上のさまざまな考察により、この未婚のカップルや同性カップルを祝福する可能性の背後にある理由を整理してきました。しかし、私たちはこの最近の出来事を、もっと古い物語の新しい章として見る必要もあります。このことは、事実上、教会が現代社会の圧力に屈していることを私たちが理解する上で重要なことです。

この圧力はどこから来るのでしょうか。なぜこのような強制がそれほど強いのでしょうか。私たちが、教会が決定したことの重大さを理解したければ、教会がさらされている圧力の大きさを理解する必要があります。

第一に、私たちは原理を思い浮かべる必要があります。革命とは定義上、既成の秩序を破壊することです。私がここで述べているのは、大文字の「R」の革命(Revolution)のこと、あらゆる種類の革命を包含する言葉の最広義の意味での革命のことです。革命はすべての既成秩序を破壊し、それを達成するために、すべての区別を破壊しなければなりません。なぜなら、区別のないところには、秩序はあり得ないからです。

例えば、なぜ家族に秩序があるのでしょうか。区別があるがために秩序があるのです。父親は、母親でも、祖父でも、子どもでも、息子でも、娘でもありません。父親は父親であり、他の誰でもありません。同様に、母親は母親であり、他の誰でもありません。家族には自然に確立された秩序があり、各メンバーは、家族が目的を達成することのできる、それぞれの役割を果たすことが期待されています。

革命はあらゆる秩序を破壊するのですから、家族だけでなく社会全体のあらゆる区別を破壊しなければなりません。なぜ破壊しなければならないのでしょうか。この原理を神学的な方法で考えてみましょう。なぜ革命はすべての区別を破壊する必要があるのでしょうか。

端的に言えば、区別は何らかの形で、人間と天主との間の区別という、最も根本的な区別に由来するか、それにつながるからです。最初の革命は、自分と天主との区別を受け入れなかったルチフェルから始まりました。超自然のものと自然のものを混ぜ合わせるという近代主義の戦闘計画全体は、単にこの革命の現れにすぎません。人間の良心を神格化することは、この根本的な区別をなくすもう一つの方法です。このようにして、人間は善と悪の原理となります。人間は、真理と虚偽の原理となるのです。

この観点からすると、常識と結びついた伝統的な区別はすべて禁止されなければなりません。なぜなら、その区別はすでに述べたこの根本的な区別の痕跡だからです。その区別は、人間と天主との間の最初にして究極の区別の繰り返しなのです。これらの区別は、拒絶された秩序の不可欠な一部であり、上から下まで再考される必要があります。よくあるのは、言葉が妨げられることです。特定の表現や単語はもう使うことができません。それらは悪者扱いされ、特に、それらが伝統的な区別を反映する表現であればなおさらです。

具体的な例の中には、教師と生徒、雇用者と被雇用者、親と子、司祭と信者といった伝統的な区別があります。異なる国家間、異なる宗教信条間の区別もあります。これらの区別は排除されるか、少なくとも再評価されます。地球、私たちの共通の家、人間の尊厳、人権など、人々が共通して持っているものが強調されるのです。

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罪によって破壊され、革命によって歴史を通して破壊されつつある秩序を再建すること、これがカトリック教会の使命であり、ご托身の理由です。
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しかし、具体的に言えば、最終的に破壊される必要のある区別とは何でしょうか。人間とすべての動物の物理的本性に最も深く根ざしている区別とは何でしょうか。天地創造の日に、何が天主の御手から直接もたらされた区別でしょうか。この区別とは何でしょうか。天主は彼らを雄と雌に創造されましたか。天主は雄の動物と雌の動物を創造されました。天主は男と女を創造されました[注2]。この区別は第一のものにして最も明白なものです。そしてこの区別によって、天主は非常に具体的な機能と非常に具体的な役割を結びつけられたのです。

注2 創世記1章27-28節「天主は、ご自分にかたどって、人間をつくり出された。天主は、人間を天主のかたどりとし、男と女につくり出された。天主は、人間を祝福して仰せられた。「生めよ、増えよ、地に満ちて、地を支配せよ。海の魚と、空の鳥と、(家畜と、)地をはう生き物をつかさどれ」。マテオ19章4節「イエズスは答えて彼らに言われた。『あなたたちは読まなかったのか。初めにすべてをつくられたお方が人を男と女につくり給うた」。マルコ10章6節「だが、創造の初めから、天主は人間を男と女につくられた」。

もしこの区別をなくせば、あるいは世界がこの区別を理解できなくなれば、父性の美しさをどうやって説明できるでしょうか。父性、すなわち父親であることは、ここ地上における天主の権威の発露にして適用なのです。この美しい概念は天主の啓示の一部です。それを強調しているのは聖パウロです。天主の創造の使命の延長線上に自分の使命を見いだす父親は、とても崇高なものです! しかし今日では、このようなことはすべて理解できなくなりつつあり、破壊されなければならないものなのです。彼らは、誰が男か女か、あるいは何が男で何が女なのかさえ、もはや誰も理解できないような人類に到達させようとしています。少なくとも人々の心の中では。

ですから、現実には、この過程は長い道のりを歩んできたのであり、非常に特別な理由があったのです。その内実の一部始終を理解する必要があります。その背後には、言葉の最も深淵な神学的意味において、悪魔的な意志があるのです。この区別を最初に拒否したのはサタン自身であり、彼はすべての人に――例外なく――同じ道を歩ませようとしているのです。「あなたたちは神々のようになる」[注(3)]と。

注(3)創世記3章4-5節「へびは女に言った。『いや、おまえたちは死にはしない。おまえたちがその実を食べれば、そのとき目が開け、善悪を知る神々のようになると、天主は知っているのだ」。

そして、これらすべての区別、特にこの最後の区別をなくすことは、人類の自滅につながります。それは、もはや父親もなく、もはや母親もない人類です。なぜなら、人類は父親とは何か、母親とは何か、男とは何か、女とは何かをもはや知らないからです。これは、滅びる運命にある文明です。継続することはできません。しかし、なぜ継続できないのでしょうか。サタンが人殺しだからです。サタンは最初から、人間を破滅させるために人間を欺こうとしてきており、成功しつつあるのです! 今日、誰もがこの新しい原理を、そして区別の廃止を、ある種の寛容さと微妙な差異をもって、受け入れなければならないのです。なぜなら、真のゲームは、見えないように技術的に隠されているからです。それにもかかわらず、今日では、誰もが何らかの形で、こうした区別の廃止を受け入れざるを得ず、したがって、それが意味する新しい秩序を受け入れざるを得ないという事実があります。

しかし、なぜご托身が起こったのでしょうか。カトリック教会はなぜ創立されたのでしょうか。教会の役割とは何でしょうか。教皇の役割とは何でしょうか。このような矛盾と闘うためにこそ、カトリック教会はあるのです! 天主と人間との最初の区別から始まり、それに続くすべての区別を指摘することです。彼らの役割は、罪によって破壊され、革命によって歴史を通して破壊されつつある秩序を再建することです。これがカトリック教会の使命です。これがご托身の理由なのです。

しかし、カトリックの教会の聖職者たちは今日何をしているのでしょうか。この世に沿って、現代社会と同じ方向に進んでいるだけでなく、それを祝福しているのです! ここでようやく、「フィドゥチア・スプリカンス」の深刻さが理解できるでしょう。私たち一人一人が、今日起きていることの何が問題なのかを正確に理解する努力をすることが重要です。行動計画(アジェンダ)は確立されています。この祝福が与えられるかどうかは問題ではありません。そうではありません! 本当の問題はもっと深刻です。カトリックの教会人がこれらの原理を祝福しているのですから。では、私たちにとって、私たちは、それをどう説明することができるでしょうか。

V- 教皇フランシスコだけの責任か

ああ、こうならざるを得なかったのです。確かに私たちにはつまずきですが、過剰に驚いてはいません。しかし、なぜこうならざるを得なかったのでしょうか。道徳とは教義と信仰の実りであり、その逆ではないからです。私は、天主、人間、霊魂、罪、贖いについて自分が信じていることの観点から、自分の行動規範を定義するからです。私が真実であると信じることに基づいて、私は自分の行動規則を定めるのです。

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もし私たちが天主を選ぶことができるのであれば、私たちは自分がどうありたいかを選ぶことができることになります。
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したがって、現代の誤謬が、教理と信仰の退廃が、最も顕著に表れた結果である信教の自由を例に取りましょう。信教の自由は、公会議以来60年以上にわたって説かれてきました。では、何が予想できるのでしょうか。もし私たちが天主を選ぶことができ、自分自身の天主についての考えを選ぶことができ、あるいは天主についての考えをまったく持たないことさえ選ぶことができるのであれば、私たちは自分の行動規則や道徳を選ぶことができ、また私たちは自分がどうありたいかを選ぶこともできることになります。

天主が私たちにお与えになったものに満足しないならば、あるいは、天主が私たちを創られたやり方に満足できない(例えば自然法について奇妙な考えを持っていて)のならば、自分を変えたい、違うものになりたいと選ぶことができます。なぜいけないでしょうか?私たちが自分の天主を選ぶことができる、自分の宗教を選ぶことができる――これは今日教会が教えていることでもあります――のならば、なおさら(a fortiori)、それ以外のこと、たとえば誰と暮らすか、誰と家庭あるいはある種の「家族」のようなものを築くかを、私たちは選ぶこともできることになります。

もう一つの例はエキュメニズムになるでしょう。では、エキュメニズムとは何でしょうか。それは宗教間の戯れです! したがって、必然的に、もし私たちがこのエキュメニズムの精神に染まれば、遅かれ早かれ、乱れた道徳が後に続くことになります。道徳は教義の実りだからです。教義は、はるか昔に破壊されました。したがって、結論を出すことが必要でした。教皇フランシスコは、かなり論理的な方法でそれを行っているにすぎません。しかし、問題はフランシスコから始まったのではありません。このため、原因や元の原理に立ち返ることが聖ピオ十世会の役割です。

VI- 時のしるし

このパターンに、私たちが経験している教会の危機に特有の要素はあるのでしょうか。私たちは、何か新しいものがあることは認めなければなりません。

一つだけ挙げるとすれば、精神の盲目です。私たちは教会人が盲目になっている時代に生きています。ある疑問を解決しなければならないとき、彼らはもはや、自分たちが聖伝と連続しているのか、それとも不連続なのかを自問することさえしません。そのすべてがすでに時代遅れなのです。完全な盲目です。それこそが最悪の懲罰です。精神の盲目は間違いなく天主からの罰です。それは天主が身を引かれたしるしです。天主はご自分の光を退けられたのです。これが天主のお答えです。天主は沈黙を守られる。

なぜ天主は沈黙なさるのでしょうか。60年もの間、天主に耳を傾けようとしなかったからです。したがって、天主は退かれたのです。そして今、天主はすべての善意の人々に、天主がもはやおられないときに何が起こるかを示されます。天主が退かれた結果を示されます。これは、この世に捕らわれ、この世が提供する快適さを絶えず求め、何よりもこの世そのものに順応しようとする人間に課される罰です。遅かれ早かれ、人間は盲目になります。この世はその巧妙さで人間を盲目にします。この世は精神を盲目にし、意志を破壊します。【天主に耳を傾けないかぎり】それは避けられないことです。この世の悪しきをすべて非難するか、あるいは自分自身がこの世に取り込まれるがままになり――そして遅かれ早かれ、盲目になってしまう――かのどちらかです。

その結果、超自然の感覚と正しい判断力が完全に失われてしまいます。それは、聖三位一体や贖いのような超自然の現実についての判断力の喪失だけでなく、自然の現実についての正しい判断力の喪失でもあります。彼らはもはや、人間の本性に刻まれている最も初歩的で、最も明白な区別【例えば男女の区別】を理解することができないでいます。彼らはもはや、これらの区別が意味するものを擁護することができません。本当の精神の盲目です。

過ちと混沌と嘘の60年。この世に身を委ねてきた60年。今見ているのが、私たちのたどり着いた結果であり、彼らが祝福しているものなのです。

VII- 良心の優位から王たるキリストの優位へ

では、解決策はあるのでしょうか。

間違いなく、あります! 第一の解決策は、天主の聖寵を信じることです。

この世を喜ばせたいという願望や、この世に逆らうことへの恐れは、純粋に自然的で、純粋に政治的な物の見方から生じています。このため、私はこの言葉を本当に強く言います。それは、純粋に人間的な物の見方であり、そこでは聖寵の問題はもはや重要ではない世界観です。聖寵は単に観点から除外されています。もはや聖寵を信じていないのです。

私たちの住む世界は、必然的にその方向で進み続けるでしょう。なぜなら、それを変えることのできる超自然の要素が存在しないからです。聖寵はありません。この世を新たにすることのできる贖いはありません。贖いは今後、別のことを意味するようになるでしょう。

しかし、私たちは聖寵を信じなければなりません。

そして、聖寵と密接な関係にあり、天主の聖寵を信じることの帰結でもある、もう一つの解決策は、ルフェーブル大司教があらゆる機会に、あらゆる説教で主張した解決策です。それは、大司教が私たちに残してくださった宝の真髄です。私たちがそれをよく理解し、完全にそれに献身するならば、それは非常に単純な解決策になります。

それは王たるキリストです! 私たちは王たるキリストのもとに立ち返らなければなりません。

私たちは、これが基本的にこの世と教会に影響を及ぼしている政治的な問題であることを見てきました。

したがって、王たるキリストに立ち返らなければなりません。

何よりもまず、キリストは知性の王です。キリストは精神の王です。超自然的にも自然的にも照らすことのできる唯一のお方です。私たちは、超自然の光を失うと、遅かれ早かれ、最も明白な自然の物事に対する光をいかに失うかを見てきました。

キリストはまた、心の王、真の愛の王、真の愛徳の王でもあります。正にそれが欠けているのです。誰もが愛について語ります。しかし、愛徳という概念が失われたとき、贖いという概念が失われたとき、天主という概念が失われたとき、カトリック教会内でさえ、「愛」という言葉がいかにつまずきを与える意味を持つようになるか、愛ではないものが愛と呼ばれるようになるか、容易に理解できるでしょう。愛が祝福されますが、それはどのような愛なのでしょうか。

――――――――――
王たるキリストは抽象的な考えではありません。単純な夢ではない。夢物語でもない。キリストは、すべてのものを復興させるために教会に与えられた唯一の手段です。
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知性の王、心の王、真の愛徳の王…そしてキリストは諸国の王です。私たちは、教会が祝福するこれらすべての誤った原理の矛盾に目を向け、その結果を考えなければなりません。この世は、これまでこれほど破滅的な状況に陥ったことはありません――この世は戦争状態にあります――そして、カトリック教会の誰も、その解決策が王たるキリストにあるとは言っていません! しかし、それはなぜでしょうか。それは超自然の光を失い、それとともに自然の光さえも失っているからです。

平和の探求は、言葉の最も崇高な意味での政治的問題であり、人間と歴史についての考え方を含んでいます。それはプログラムも含みます。私たちの状況、教会の現状において、王たるキリストの至高性をもっと深く理解することができます。私たちはまた、この教理、この教義、この原理などの放棄が何をもたらすかをもっと深く理解することができます。私たちは、それがどこに至るのかを見ることができます。それは、教会とこの世におけるすべての秩序の破壊に至らせるからです。

王たるキリストは、抽象的な考えではありません。単なる夢でもありません。夢物語でもありません。王たるキリストは、すべてのものを復興させるために教会に与えられた唯一の手段であり、この手段は教会だけに与えられているのです。これは確かに、今日の教会では理解しがたいパラドックスです。教会が、この世にいることを望むだけでなく、この世のものであることを望むのですから。王たるキリストは、教会だけが理解でき、人類に提供できる手段です。王たるキリストは、教会の宝です。それは、教会の社会教理の真髄です。キリストの王権が委ねられているのは、教会に対してだけです。教会だけがそれを宣べ伝え、実を結ばせることができます。教会を通してのみ、王の王、すなわち、道であり、真理であり、命である(4)王が人間の上に君臨することができるのです。

注(4)ヨハネ14章6節参照


ダヴィデ・パリャラーニ神父の講話(1)「フィドゥチア・スプリカンス」この世に耳を傾けるが天主の言葉には聞く耳がないシノドスの教会

2024年01月27日 | カトリックとは

「フィドゥチア・スプリカンス」
この世に耳を傾けるが天主の言葉には聞く耳がないシノドスの教会

“Fiducia supplicans”:
A synodal Church listening to the world,
but deaf to the word of God

「このシノドスの教会は、天主の民の感情にしっかりと足を踏んで立ち、すべての人の意見に耳を傾けていると主張する教会です。しかし、その実態は単なるユートピアであり、千年王国です」。

ダヴィデ・パリャラーニ神父
聖ピオ十世会総長

https://vimeo.com/904255614

クリエ・ド・ローマ第17回神学大会
2024年1月13日、パリ

「シノドスの教会」が推し進めるさまざまな現実と関連して、総合的な考えを表明し、私たちの立場を説明する機会を私は得ました。

第一に、このシノドスの教会に関するさまざまな要素について整理してみる必要があります。とりわけ、すでにかなりの量の論評を生んでいる最近の文書「フィドゥチア・スプリカンス」(Fiducia supplicans)について、何らかの秩序をつけることを試みる必要があります。この出来事をその真の文脈に置く必要があります。一体どうしてこれが出てきたのでしょうか。これは何を意味するのでしょうか。聖ピオ十世会の役割は、即座にして本能的な反応だけに限定されるとすることはできません。この文書で何が問題になっているかの理解をできるだけ深めるのは、私たちの役割です。他の人々は「フィドゥチア・スプリカンス」の問題を教皇フランシスコの個人的な奇抜さに矮小化し、彼の奔放さを説明できないでいます。もし私たちの分析に深さがなければ、他の人々と同じ罠に陥る危険性があります。

他の人々の「フィドゥチア・スプリカンス」に対する反応は、これらの「祝福」の問題を、適切さの問題に還元し、このイニシアチブは特定の文化的文脈、特にアフリカでは不適切であるとしています。実際のところ、現実はもっと複雑です。とは言っても、こうしたさまざまな反応はすべて歓迎されます。それらは、まだ反応する能力があることを示すという点で良いことだからです。しかし、聖ピオ十世会はもっと深く踏み込む必要があります。したがって、メディアの騒ぎから一歩引くことから始めましょう。

I-現代世界の期待に応える教皇職

厳密に言えば、「フィドゥチア・スプリカンス」はシノドスの文書ではなく、教理省が作成し、教皇自身が署名したものです。それにもかかわらず、シノドスの準備の際に何度も提起された内容に応える文書です。したがって、この文書は現在行われているシノドスの期待にこたえるものです。

私たちが定義しようとしている「シノドスの教会」とは、周辺部や草の根の人々を含むすべての人々、つまり、完全にすべての人に、例外なく耳を傾ける教会のことです。それは「この世」そのものに耳を傾ける教会です。したがって、それは新しい感受性と、外に出てこの世と出会うという新しい意欲を持った教会です。

現実には、現在の教皇職は、現代世界、とりわけ言葉の最も広い意味での「政治」の世界の期待と要求にますます完璧に対応しています。実際、この教皇職は、一方では、今日の世界で普遍的に共有されている政治的ビジョンに対応しており、他方では、新しい社会組織を作り出そうとする政治的手法にも適応しており、それはすでにほぼ勝利を収めていることを認めなければなりません。では、この世界の再編成において、なぜ教会の代表者たちの存在がこれほど重要なのでしょうか。

このようなやり方は今に始まったことではありません。新しい原則が導入されるとき、あるいは新しい社会が建設され再編成されるとき、宗教団体はこれらの原則を「神聖」なものとする必要があります。これは極めて明確なことであり、人の心に根ざした必要性に対応しています。人間は心の奥底で常に宗教的な側面を持っています。何かを信じる必要があり、したがって、基本的にはまったく神聖でないものでさえも「神聖」にする必要があります。それは非常に多くの場合、無意識の欲求です。しかし、それは人間の本性に根ざしています。なぜそうなのでしょうか。なぜなら、人間は天主のために創造されたのであり、革命でさえ人間の本質を変えることはできないからです。

遅かれ早かれ、聖なるものは、私たちが信じるものや私たちが基本だと考える原則に、超越的な次元を与えるために、不可避的に人々に課せられます。これは歴史を見ればよく分かります。古代文明は、彼らにとって重要なものすべてを神聖化しました。権力、力、火、大地、豊穣などを神聖化しました。現代にもっと近いところでは、自由主義革命だった「フランス革命」が同じことを行いました。それは基本的に世俗のものであったため、過去を全面的に否定し、宗教などを含む旧体制の一部だったすべてのものの非中央集権化を実施しました。しかし同時に、人間の理性をいわば「聖なるもの」のレベルまで引き上げることを主張しました。もう一つの例は人権宣言です。宣言というものは日々なされています。ほとんどの宣言は、よくても数週間は記憶されますが、永久に保存されることはありません。しかし、それとは対照的に、人権宣言は歴史に永久の足跡を残しているように思えます。それはなぜでしょうか。人権宣言は単なる宣言ではなく、本格的な信条だからです! それは信仰告白のような荘厳さをもって書かれたものです。近代の現代社会がその上に築かれることになる、これらの新しい原則と新しい教義を神聖なものとする宗教的必要性に応えたものなのです。この他にも多くの例を挙げることができます。

教皇は何をしているのでしょうか。教会は何をしているのでしょうか。残念ながら、彼らは同じ方向に進んでいます。彼らは、今日のこの世の目から見て基本的とされることを神聖だとしているのです。その例をいくつか挙げましょう。私たちは皆、エコロジーが教皇によって説かれ、教えられていることを知っています。この新しい「エコロジカル」な神学は、純粋に歴史上の瞬間に結びついた単純な便宜的配慮を超えています。それは誰にでも説かれる新しい道徳です。それは無神論者にさえ提案される横断的な(transversal)道徳です。【訳者注:普遍的な一つの(uni-versal)倫理というよりは、キリスト者やマルクス主義者など対立的な思想を持つ人々でも横断的に持つことの出来る共通の枠組みの(trans-versal)倫理とされる】 なぜそうなのでしょうか。それは、私たち全員が、すべての人のこの共通の家、私たちが「被造物」と呼ぶ天主の御手から生まれたものを尊重しなければならないからであり、それ自体では、私たちがそれをどう考え、どう呼ぼうとも、すべての人の共通の家だから、とされています。これは、言うなれば、宗教的な性格、宗教的な印鑑・刻印を、宣言に、そして、今日の政治世界の緊急の要請に押印することを意味しています。そこで、教会は、自分の持つ宗教的な刻印を与えるために介入したのであって、このことは、これまで見てきたように、人間の非常に現実的なニーズに応えるものなのです。

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教皇は、今日の世界の目から見て基本的なことを神聖なものとして表現しています。「フィドゥチア・スプリカンス」は政治的な必要性に応えているのです。
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もう一つの例は、位階階級を解体する必要性を主張していることです。彼らにとっては、位階的な社会という考え方から、そして位階的な教会観から脱却する必要性があります。彼らは今、権力がもはや位階的でない社会を提唱しています。権力は分配され、再分配されます。それゆえ、権威を共有し、聖職者主義と闘い、女性の解放を推し進める必要性があるとされます。これは、ここしばらく、行動計画(アジェンダ)にある主題です。今日、教会は、女性が自分の場所を持つことを、教会統治の位階構造の中でさえも女性の場所があることを望んでいます。

これらはすべて、伝統的な家父長制に対抗して提示され、家父長制度は、歴史を通じて一連の権力濫用の組織的・制度的原因であると考えられるようになっています。そして、すべての人に提案され、特に教会に提示されている――教会が聖なるものとすることを可能にするために――これらの現代的な価値観の中には、LGBTの行動計画(アジェンダ)があります。これはこれらの「価値観」の一つだからです。シノドスの感性は、今述べたばかりの「価値観」を含め、必然的に現代の感性に適合しなければならず、私たちは、シノドスの感性というものが実行されているのを目の当たりにしているのです。

一方、私たちが注目すべきもう一つの側面もあります。教会は、さまざまな歴史的な理由から、信憑性を失い、それゆえに世界における影響力を失っていることに気づいています。このような状況の中で、教会は、信憑性を維持するために、「最新」のことを説く必要があると考えています。残念ながら、これは必然的な結果です。この世における使命の超自然の次元を見失った教会は、その威信と信用を失ったために、この世に対して「コンプレックス」を抱き始めます。したがって、教会は、信憑性を保とうとするために、他の方法を模索します。こうして、この世から理解されたいと願う教会は、この世と同じ言葉を話し始めます。しかし、教会はそのために作られたわけではないため、これは恐るべき幻想です。教会が、決して自らを水平的な視点に限定するために作られたのではないことは明らかですから。

ここですでに、私たちが「フィドゥチア・スプリカンス」を適切な文脈に置くのを助けてくれる最初の結論を導き出すことができます。なぜこのようなことが起こったのでしょうか。さて、逆説的ではありますが、世俗世界は依然として教会と、教会だけが与えることのできるこの宗教的な「刻印」とを必要としています。そして、信憑性を失った教会は、逆説的ではありますが、依然としてこの世を必要としているのです! この二重の必要性が、この政治的地形に真の共生、相乗効果を生み出しています。「フィドゥチア・スプリカンス」は、現在の政治的必要性に応えているのです。

II-教会の歩みを現代の政治的感性に合わせるとは何を意味するのか

問題の核心に入るために、少し哲学の話に脱線させてください。この現代的な政治的見方は、現代思想に依存しています。それは現代思想の反映であり、像です。そして現代思想は、集団であれ個人であれ、良心という新しい基本的なカテゴリーから出発します。現代人がまず自分自身の思考を再構築し、次に自分を取り巻く世界を再構築するのは、自分の良心からです。

しかし、良心を他のあらゆるものの原理にして基礎であるとすることは、現実から解離した原理を用いることを意味します。さて、現実から解離した原理は、あらゆる場合において、知性に対する優位性を失います。これによって、私たちは、把握すべき客観的な秩序があり、それに従わなければならないという考えを超えていきます。はい、この新しい秩序においては、秩序を確立するのは人間であり、この秩序を自分の中に発見するのは人間の良心であり、その後に、この考えに基づいて、自分を取り巻く世界を構築するのであり、これが言葉の広い意味での現代政治なのです。

言い換えれば、物事の秩序にはもはや最終目的も完全性もありません。人間や社会の幸福は、もはや、彼らが受け、彼らの本性に適合する最終目的の中に見いだされはしません。このような物事の外的な秩序は、もはや良心が定義するようなものとは一致しません。人間の良心そのものが、世界における新しい秩序の新しい原理なのです…。したがって、物事の客観的な秩序を尊重することには、もはや最終目的も完全性もないのです。

その結果、現代政治においては切っても切れない四つの特質が見いだされるでしょう。そしてそれは教皇フランシスコの教会、すなわちシノドスの教会にも同様に見いだされるでしょう。

第一に、現代政治はイデオロギー的です。現代政治は、現実を、良心が自らのために作り出した自由な表現に置き換える限りにおいて、イデオロギー的です。現代政治は自らの言葉で語ります。現代政治のあらゆる表現にはイデオロギーが伴っています。あらゆる政党の背後には、客観的な現実の把握があるのではなく、主観主義的なイデオロギーがあるだけなのです。

現代政治の第二の特徴は、自己決定的であることです。これは必然的な結果です。現代政治は、政治がどうあるべきか、人間がどうあるべきかを自ら決定します。現実を出発点とすることなく、現実の分析から始めることもなく、自らの計画やプロジェクトをすべて自分自身で構築するのです。

現代政治の第三の特徴は、全体主義的であることです。何世紀にもわたって、特にあの自由主義革命以来、喧伝されてきた「解放」という「自由」のイメージの背後にあって、現代政治は全体主義的です。なぜなら、力の行使に訴えてさえも、現実が現代政治に従わなければならないからです。個人や集団の良心で考え出された考えが、具体的な現実の上に貼り付けられ、こうして現実がそれに従うことを余儀なくされるのです。全体主義が生まれるのはここからです。私たちは、考えが現実の上に貼り付けられ、現実がある方向か別の方向へシフトすることを余儀なくされる、全体主義の世界に生きているのです。

最後に第四の特徴は、協定的(conventional)であることです。現代政治は物事の自然の摂理に基づいているのではなく、協定的な秩序に基づいています。何が善であり、何を追求すべきかは、もはや現実を検証した上で理解され受け入れられるのではなく、今や良心によって恣意的に決定され、選択されるのです。

現代政治のこれら四つの特徴は目新しいものではありませんが、特にシノドスの教会にどのように当てはまるかを見るのは興味深いことです。

しかし、それがどのようにシノドスの教会に当てはまるかを見る前に、カトリック教会がこの現代性に対して中立・無関心なままではいられないことを理解する必要があります。可能性は二つしかありません。第三の選択肢はないのです。

・一つは、現実と天主の啓示よりも良心の方が優先権をもっているという主張を教会が非難し、また、そこから派生する現代政治のすべてを非難する。
・あるいは、教会がこの新しいシステムに入る。

この二つに一つです。

しかし、この新しいシステムはどこにでもあります。物事の新しいビジョンを持つこの新しい視点は、どこにでも存在します。私たちは中立のままでいると主張しながら、このシステムに身をさらし過ぎないようにして、同時に、これを非難し過ぎるのを避けるようにしつつ、このシステムと交渉することでそこから肯定的な何かを得ようとする、などということはできません。絶対にできません! 第二バチカン公会議に至るまで、カトリック教会は何をしていたのでしょうか。教会はただ単にこのシステムを非難したのです。しかし、今日、教会はこのシステムに入り込みました。教会はそれを自分たちのものにし、そして今、教会はそれを祝福しています。私たちが理解すべき重要なことはこのことです。

このシノドス教会は、それなりに、自分のやり方で「イデオロギー的」です。司牧上の必要性は、それを思いつく人々の心の中にしか存在しません。教理はもはや受けるものではなく、つくり出されるものなのです。例えば、カトリック教会の祝福を求めているLGBTのカップルが世界に何百万組もいると皆さんは本当に思いますか。絶対にありません! しかし、今見てきたような理由から、今日の教会にとって重要なのは、しるしを出すこと、つまりジェスチャーを示すことなのです。「フィドゥチア・スプリカンス」のような文書は、祝福の実際の要求や、司牧的必要条件、実際に与えられる祝福の数に関係なく、この世にとっては政治的価値があります。それに反対する人々がいても、司教協議会全体が反対していても、少なくともそれは問題ではありません。重要なのは、これらの文章がその政治的意義のために書かれ、発表されたということなのです。

――――――――――
シノドスの教会は全体主義的かつイデオロギー的です。
――――――――――

シノドスの教会には、「自己決定的」な側面もあります。なぜなら、教会はもはや、自らを不変の目的と不変の使命をもつ天主から与えられた不変の構造体とは考えていないからです。今日、教会は、歴史的な状況に応じて、そして何よりもその時々の必要性に応じて、自らを活性化させ、自らに新たな最終目的を与えることができますが、常に進化することができるのです。

シノドスの教会も「全体主義的」です。なぜそうなのでしょうか。なぜなら、教会は社会団体として、教会にとって親和的ではない原則に従わざるを得ないからです。現実世界は激しく歪められ、それゆえにさまざまな反応――それが完全であれ不完全であれ、完成であれ未完成であれ――が生じるのです。しばしば言及されてきたことですが、誰にでも開かれ、誰もが発言して参加することができるシノドスの教会と、同時に非常に権威主義的な行為を押し付ける教会との間に、明らかな矛盾があります。特に、教皇フランシスコの側に、あるいは少なくとも彼の教皇職の始まり以来そうです。この矛盾は指摘されてはいますが、ではどうすれば解決できるでしょうか。答えは単純で、シノドスの教会が全体主義的だからです! 理論的な概念や考えは、たとえそれが現実に即していなくても、現実の上に貼り付けられるのです。

人々にやり方を強制するために暴力を使うならば、それは全体主義的です。教会の権威は、物事を強制するために使われている一方で、同時に誰もに耳を傾けていると主張しています。

最後に、シノドスの教会も協定的(conventional)です。理論的には、統治の選択を示唆するのはシノドスの基礎・基底【の人々】です。決定されたことは常にそのように提示されます。天主の民が、全体として、「信仰の感覚」(sensus fidei)を通して、進むべき特定の道や道路を示唆した、と。

以上のことから、私たちが現在の出来事を理解するための鍵が現れます。この教皇職の主要な決定は、今日の世界、そして政治的な世界の主要な原則に、そのために必要なことをすべて含めて、可能な限り忠実に適合しようとする願望であると見なさなければなりません。

III―革命の道具であるシノドス

それでは、このような観点からシノドスを見てみましょう。シノドスには演ずるべき特別な役割があるのでしょうか。

ここでは、神学的、教理的な側面については触れないことにします。シノドスとは、単に団体主義の表現であり、教会を草の根から共に統治したいという願望の表現です。

これと並行して、シノドスには実際的な、あるいは私たちが「政治的」な機能と言えるものもあります。その目的とは何でしょうか。シノドスは、彼らが伝えたい考え、法律に変えたいと思う考えを、天主の民の期待や要求あるいは必要性でさえあるとして流布させるという役割を果たしています。当然のことながら、教会内の誰もが求めていると思われることに、教会が応えないはずがありません。なぜなら、そのことは「信仰の感覚」によるとされているからです。必然的なことですが、天主の民が求めるすべてのものの中には、今日の世界が教会に期待するすべてを繰り返して見いだすでしょう。

一年少し前に発表されたシノドスの作業文書「インストゥルメントゥム・ラボリス」(Instrumentum laboris)[注1] を見れば、すべてが分かります。それは巨大な塊であり、あらゆるものがある、そしてあらゆるものの対極がある、形のない塊です。しかし、このような文書を手にして、当局は最善と思われるものを選択します。「今がこの点を行うその時だ、機は熟した、状況は整った、私たちはこの一点に関しては前進できる…」。

注1:「シノダリティに関するシノドス」第1会期(2023年10月)の作業文書「あなたの天幕の場所を広く取りなさい」。

では、その結果として避けられないことは何でしょうか。すべてのことに、そしてすべてのことの反対のことに、常に「はい」と言うことによって行動するので、教理的な原則から出発せず、現実から出発せず、皆の期待に耳を傾けることによってのみ動くので、私たちは現実からかけ離れたことをしてしまうのです。

現実との乖離という側面を強調することは重要です。何故なら、このシノドス教会は、天主の民の感情にしっかりと根を張って足をおろして、すべての人の意見に耳を傾けていると主張している教会なのですから。しかし、現実には、それはユートピア【どこにもないところ】にすぎません! 「フィドゥチア・スプリカンス」が思い描くこの「祝福」は、単なる間違いではなく、ユートピアなのです! それは、ナンセンスであり、その背後には、完全に刷新された教会とともにある新世界というキメラ的な夢があるのです。それは一種の千年王国です。それはユートピアであり、千年王国の幻想であり、完全に現実離れしたものなのです。【訳者注:キメラとは異なる動物が一体化した想像上の動物のこと。ギリシア神話では、頭はライオン、胴体は山ヤギ、尾はヘビ】

しかし、教会が知るように呼ばれている現実、教会が宣教するよう求められている具体的な現実――真の現実――とは、福音の現実であり、カトリックの教義の現実です。天主の啓示の現実であり、私たちの主イエズス・キリストの現実であり、カトリック道徳の現実であり、罪との戦いの現実です。しかし、改革者たちにとって、これらすべては、もはや日常生活に何の影響も及ぼさない抽象的な現実となっているのです。彼らの観点では、重要なのは天主の民との関係です。これは、あらゆるユートピアにもかかわらず、唯一の具体的な現実であると考えられており、教会の教理と考えられているすべてのものと根本的に矛盾しています。教会の教理は彼らによって直接否定されるのではなく、抽象的な真理としてただ脇に置かれるだけなのです。

今日の教会は、このシステムに巻き込まれています。このシステムに縛られ、このシステムに惑わされて泥沼にはまっています。教会は必要に迫られて、最終的な完成も究極的な完成も示すことなく、すべての人の期待に耳を傾け、満足させようとしています。もはや、今日永遠の命について語る到達すべき超越も至高の善もないのです。

今日の教会の状況を見てみましょう! 教会は現在、これらの「祝福」について世界中で議論を経ています。幸いにも反発はあります。しかし、私たちがどこにいるのかはお分かりでしょう。司教協議会全体と世界が同性愛者を祝福するかしないかについて議論している間、私たちはもう福音について話していません。私たちはもう私たちの主について話していません。私たちはもう成聖の恩寵について話していません。私たちはもう十字架について話していません…。なぜでしょうか。それらはみな、抽象的すぎるからです。

今日の教会の位階階級は、1968年以降の家庭の父親たちと同じような状況に置かれています。私が言っているのは、もはやなぜ子どもを持っているのかを知らない1968年以降の幻滅した父親たちのことです。1968年の危機とそれに続く徐々に進んだ悪化以来、家庭の父親は、自分がなぜ父親なのか分からなくなっています。子どもたちに何を教育すべきか、なぜ子どもたちを教育すべきなのかも分からなくなっています。では、現代の父親は何をすればいいのでしょうか。

第一に、家族をまとめる必要があります。父親と母親の役割を十分に正当化するような目標、子どもたちを教育するという達成すべき目標がもうなくなれば、家族はバラバラになる危険性があるからです。しかし、父親がなんとか家族をまとめようとしたとしても、その役割は単なる物質的・具体的要求に応えることに矮小化されます。子どもは飢えている、それなら食べ物が必要だ。子どもには教育が必要だ、それなら学校へ行かせよう。子どもには運動が必要だ、それなら医者が必要だ、服が必要だ、…でもこのすべてにおいて、私たちは"なぜか"という理由を知らないのです。目的を示す代わりに、あるのは必要に応えるーー善いか悪いかにかかわらずーーことだけです。【変わらない本質的な理由で答えるではなく】その時々の偶発的な対応でしかありません。これは壊滅的です。

シノドスの教会は、1968年以降の家庭における、このような縮小され、ハンディを置かれた父親像に対応しています。そして、子どもたちはしばしば何を求めるでしょうか。間違いなく、教育や指導ではありません。子どもたちは、最新の気まぐれを求めているのです!

【続く】


「シノドスの過程はパンドラの箱 : 100の質問と回答」第三章 シノドスの過程 : E「包摂」F大陸ステージのための作業文書 G信者は意見を述べたのか Hシノドスの核心は「セクト」か

2024年01月26日 | カトリックとは

「シノドスの過程はパンドラの箱 : 100の質問と回答」

The Synodal Process Is a Pandora’s Box: 100 Questions & Answers

ホセ・アントニオ・ウレタとフリオ・ロレド・デ・イズクエ著

E 「包摂」
30.シノドスの推進者にとって「包摂」(inclusion)とは何でしょうか。
31.「包摂」提案の背後には何があるのでしょうか。
32.今度のシノドスを理解する鍵は「根本的な包摂」なのでしょうか。
33.この「根本的包摂」は教会の構造や教理を変えるのでしょうか。
34.「包摂」は解放神学の「貧しい人々の教会」を実践しているのでしょうか。

F 大陸ステージのための作業文書
35.教区の協議で集められた証言の結果はどんなものだったのですか。
36.それはイデオロギー的に偏った文書でしょうか。

G 信者は意見を述べたのでしょうか
37.理論的には、シノドスの過程は「天主の民」全体から意見を聞くべきとされています。それは行われたのですか。
38.この数字が意味するものは何でしょうか。

H シノドスの核心は「セクト」か
39.なぜカトリック信者は無関心なのですか。
40.グリッロは、入門者のサークルの「外部」のものとしてのカトリックの大衆に言及するとき、一つの隠された集団のことを暗示していませんか。

 

E―「包摂」

30.シノドスの推進者にとって「包摂」(inclusion)とは何でしょうか。

シノドスの過程が必須の「包摂」を重要視しているにもかかわらず、公式文書の中にはこの用語を定義したものはありません。シノダリティとは「共に旅すること」ですから、その旅には誰一人排除されずに全人類が参加しなければならないという前提があるように思えます(56)。

「包摂」の宗教用語としての定義がないため、シノドス文書の起草者たちは、世俗社会における現代的な意味で「包摂」を用いていると考えられます。つまり「そうでなければ排除されたり疎外されたりするかもしれない人々に、機会や資源への平等なアクセスを提供する実践や政策」(57)です。

この用語はしばしば統合・完全性(integration)の同義語として使われますが、重要な違いが一つあります。なぜなら、「統合は環境の特性に個人を適応させることを意味する」のに対して、包摂(inclusion)は「社会のすべての構成員を多様な方法で統合できるように、社会規範、政策、現実を適応させること、つまり、多様性のために集団のアイデンティティを犠牲にして、すべての人を『ありのまま』に受け入れること、に基づいている」(58)からです。

31.「包摂」提案の背後には何があるのでしょうか。

元英国国教会主教でエリザベス二世のチャプレンを務め、カトリックに改宗し、現在は有名なカトリック日刊紙「ヘラルド」の副編集長を務めるギャビン・アシェンデンは、シノドスの「大陸ステージのための作業文書」をトロイの木馬だと非難しました。この文書は、多様性、包摂、平等といった「お守りのような言葉(talismatic words)」(59)を使って人々の心を操作しようとしています。彼はこう書いています。「このトリックはとても単純です。一見とても魅力的に見えるものの、隠されたひねりを含んだ言葉を使うことで、結局は何か違う意味、おそらくは正反対の意味になるように仕向けるのです」。

素晴らしい洞察力で、アシェンデンはこう続けます。

その文書のタイトルは『あなたの天幕に場所を広く取りなさい』(イザヤ54章2節より)と呼ばれています。この文書が目指しているのは、「根本的な包摂」です。天幕は、誰一人排除されることのない根本的な包摂の場として提示されており、この考えは文書全体を解釈するための解釈学的な鍵となります。この言葉のトリックは簡単に説明できます。排除されることとは、愛されないことです。つまり、愛である天主は、根本的な包摂を支持されるに違いありません。その結果、新約における地獄と裁きという言葉は、ある種の異常な誇張表現であり、真に受けてはならないのです。そして、この二つの概念は相互に矛盾しているため、どちらか一方が消えなければなりません。包含が残り、裁きと地獄は去るのです。これは別の言い方をすれば、「イエズスは去り、マルクスが残る」ということです。
そして、これは教会の教義的かつ倫理的な教えをすべて覆すために適用されるのです。
女性はもはや叙階から排除されることはなく、LGBTの関係も結婚として認められます。そして、進歩的野心の真の広がりが表に現れ、一夫多妻の信者に手を差し伸べ、「教会の天幕の中」に引き込むことが示唆されています。
進歩的リベラル派の考え方が、信仰の倫理を変えようとしていることに気づかないのは、重大な間違いです。そのため、「聖性と罪」というカテゴリーを「包摂と疎外」に置き換えているのです。この疎外という言葉の使い方のルーツは、もちろんマルクスにあります(60)。

32.今度のシノドスを理解する鍵は「根本的な包摂」なのでしょうか。

はい。「ハンドブック」は、「周縁にいる人々や、排除されていると感じている人々を確実に包摂するための真の努力がなされなければなりません」(13ページ)と断言しています。大陸ステージのための作業文書』によると、イザヤ書54章の冒頭にある「あなたの天幕の場所を広く取りなさい」という言葉は、教会の召命を、交わり、参加、宣教の開かれた空間として定義しており、その中で耳を傾けることは「歓迎のための開放性として」理解しなければなりません。「これは、根本的な包摂――誰一人排除されることのない――を望むところから始まります」(11-1番)。

実際、「イエズスの教えに従って、急進的な包摂のできる、共有された所属のできる、深いもてなしのできる教会というビジョンは、シノドスの過程の中心にあります」(31番)。なぜなら、それは「シノドスの教会への回心の道」へと至るからです。これは、時代のしるしに照らして、福音宣教の使命をいかにして更新し、すべての人が主人公として包摂されていると感じられるような在り方、生き方をいかにして人類に提供し続けるかを、耳を傾けることから学ぶ教会を意味するのです」(13番)。

この「包摂性」の必要性は非常に根本的であるため、「地方教会におけるシノドス開会を祝う典礼のための提案」という文書は、「他のキリスト教宗派や他の宗教の信者を含め、時には排除されるかもしれない人々をも包摂する努力がなされるべきです」と記しています(61)。

33.この「根本的包摂」は教会の構造や教理を変えるのでしょうか。

はい。シノドス推進者たちによれば、さらに大きな包摂への道は「耳を傾けることから始まり、態度や構造をさらに広く、さらに深く転換させることが必要です」(62)。作業文書はこう続けます。「この転換は、教会、その構造、そしてスタイルの継続的な改革につながります」(63)。シノドスの過程の主な目標の一つは、「私たちのメンタリティーと教会構造を更新すること」(64)であり、これは「当然、教会のさまざまなレベルにおける構造の更新を求めることになります」(65)。

米国の著名な教会法学者であり宗教分析家であるジェラルド・E・マレー神父は、これらの「疎外された少数派」を「包摂」することは、次のような直接的な結果をもたらすと正しく指摘しています。

以下の人々の信念や欲望に反対する教えを捨てることになってしまう:

―再「婚」という姦淫状態で生活している人々
―2人または3人以上の妻を持つ男性
―同性愛者や両性愛者
―自分は生まれつきの性ではないと信じている人々
―助祭や司祭に叙階されたい女性
―天主から司教や司祭らに与えられた権威を受けようと欲する平信者。

(そして、彼はこう締めくくります。)今日、教会では明らかに公然たる革命が進行しています。異端や不道徳を受け入れることは罪深いことではなく、むしろ、これまでその使命に忠実でなかった教会から疎外されていると感じている人々を通して語られる聖霊の声への応答なのだと私たちに信じ込ませようとしているのです(66)。

34.「包摂」は解放神学の「貧しい人々の教会」を実践しているのでしょうか。

はい。何十年もの間、いわゆる解放の神学者たちは、マルクス主義的な「貧しい人々」という概念、すなわち、物質的に奪われた人々という概念を、女性、先住民、黒人、同性愛者など、「抑圧されている」と感じているとされる、あらゆるカテゴリーにまで広げ始めています。

シノドスの旅を踏まえ、解放神学の強い影響を受けたラテンアメリカ・カリブ海地域シノドスの大陸ステージの統合は、「貧しい人々の教会」または「人民の教会」という古い考えを再び提案しています。

「『傷つけられ、打ち砕かれた人々(ある人は「抑圧された人々」と言うでしょう)のための避難所』である教会」について、ラテンアメリカ文書はこう断言しています。

シノドスの過程において、しばしば忘れ去られたり、脇に追いやられたりしている大きなテーマを私たちがあえて提起し、識別することは重要であり、また、私たちの教会においてさえも、人類家族の一員でありながら、しばしば疎外されている他者やすべての人々にあえて出会うことが重要です。いくつかのアピールが私たちに思い起こさせてくれるのは、イエズスの精神をもって、私たちが「貧しい人々、LGTBIQ+の共同体、第二の結合【再婚】のカップル、自分たちは新しい境遇にあるが教会に戻りたがっている司祭、恐れから中絶をする女性、囚人、病人を含めなければならない」(南回帰線以南の南米大陸)ことです。それは、「流浪者が自分の家にいるように感じられるように、あらゆる種類の流浪者に耳を傾けるシノドスの教会で共に歩むこと」に関することであり、その家とは「傷ついた者、砕かれた者の避難所」である教会です(67)。

F―大陸ステージのための作業文書

35.教区の協議で集められた証言の結果はどんなものだったのですか。

その結果は、預言者イザヤの書から引用された「あなたの天幕に場所を広く取りなさい」というタイトルの下に、シノドス事務局から送られた「大陸ステージのための作業文書」でした。この文書は「準備文書」とも呼ばれています。

この文書が発表されて以来、高い地位にある高位聖職者たちからも強い批判が寄せられています。例えば、故ジョージ・ペル枢機卿は、この文書を「ローマから送られた文書の中で最も支離滅裂な文書の一つ」と評しました。このオーストラリア人枢機卿はこうコメントしています。「それはカトリックの信仰や新約の教えを要約したものではありません。不完全であり、使徒継承の聖伝に重大な敵意があり、信仰と道徳に関するすべての教えの規範となる天主のみ言葉としての新約を認めているところはどこにもありません。旧約は無視され、教父は否定され、十戒を含むモーゼの法も認められていません」。

そして彼はこう結んでいます。「カトリック教会はこの『有毒な悪夢』から自らを解放しなければなりません」(68)。

著名な社会学者であるマーク・レグネラスは、皮肉にも「大陸ステージのための文書」を「貧しい人々から『若い人々』や文化的に疎外された人々へと優先的選択肢を変更させた、不満を抱えた改革主義者たちの願望リスト」と評しています。この論文を分析したレグネラス教授は、「社会科学者として、私はこのシノドスの大規模で扱いにくいデータ収集・分析事業を特徴づけている方法論の混乱について重大な懸念を抱いています」と結論づけています。彼によれば、この論文は客観的なデータに基づいてはいません。

さまざまな問い掛けの中には、明らかに執筆者たちの主観的な経験を狙ったものがいくつもあります。……感情的な用語が文書に溢れています(69)。

36.それはイデオロギー的に偏った文書でしょうか。

はい、「カトリック・ワールド・レポート」の編集者カール・オルソンは、準備文書について非常に興味深い見解をこう述べています。

(この文書は)…「位階階級」に3回しか言及しておらず、そのうちの2回は、「構造的な障害物の持続」の例として「独裁的な傾向を助長する位階階級の構造…」が挙げられているように、あからさまに否定的な意味合いが含まれています。
実際、与えられた印象は、教会が、絶え間なく進化し続ける水平的な社会――もちろん「天主の民」――であり、終わりのない対話、絶え間ない不平不満、多彩な被害者意識…によって動いているということです。
…「信者」が言及されるとき、それはほとんど常に不満のために使われています。信者は聖職者から受動的で距離があり(#19)、聖職者主義の犠牲者で(#58)、過重な負担があり(#66)、小教区でもっと多くのことをすることを許されず(#68、91)、もっと多くのことをする機会から遠ざけられています(#100)。
なぜ「経験」が60回以上もあって、文書で何度も繰り返されるテーマなのでしょうか。そして、なぜ「聖性」や「美徳」という言葉は合わせて0回【ゼロ】なのでしょうか。「旅」については37回言及されていますが、「天国」、「栄光」、「至福」という言葉はまさしく0回なのです。
「耳を傾ける」(listen)と「耳を傾けること」(listening)は50回以上出てくるのに、「悔い改めの」と「悔い改め」が一度も出てこないのは、何か理由があるのでしょうか。
…また、この文書では「悪」、「罪」、「咎」、あるいはそれに類するものに言及することはありません。なぜないのでしょうか。
おそらく、私は数字や言葉にとらわれすぎていて、過程や構造について十分に理解していないのでしょう。しかし、教会、教会性、信者、福音化、カトリック信者として生きることについて書かれた約15,000語の文書の中で、「礼拝」(0回)、「賛美」(0回)、「感謝」(0回)よりも「過程」(44回)や「対話」(31回)という用語がかなり多く登場するのが目立ちます(70)。

G―信者は意見を述べたのでしょうか

37.理論的には、シノドスの過程は「天主の民」全体から意見を聞くべきとされています。それは行われたのですか。

いいえ。前の何ページかで説明したように、「シノダリティに関するシノドス」を正当化する教理によれば、「天主の民」は「信仰するにおいて」(in credendo)不可謬であるとして意見を聞かれるべきです。しかし実際には、シノドスの意見聴取の過程に介入することが許されているのは、ごく少ない少数派に限られています。偶然にせよ意図的にせよ、彼らはまさに、すでに教会改革に奮闘している進歩的少数派でした。

例えば、フランス司教協議会は、15万人が「2023年のシノドスに関する考察に貢献するために動員された」と報告しています(71)。これは、主日にミサにあずかる信者のわずか3.47%、フランスの全カトリック信者の0.35%でしかありません。

スペインのカトリック教会の全国シノドスの文書は、「215,000人以上が参加し、そのほとんどが信者でしたが、奉献された人々、修道者、司祭、司教も参加しました」(72)。これは、主日のミサにあずかる信者のわずか7.7%、カトリック信者の0.77%でしかありません。

これらの数字はあらゆる国でほとんど同じです。オーストリアではカトリック信者の1.04%、ベルギーでは0.54%、アイルランドでは1.13%、英国では0.79%、ラテンアメリカでは0.21%、カトリック国ポーランドでもわずか0.58%が参加したにすぎません(73)。

ドイツでは、いわゆる「Synodaler Weg」(ドイツのシノドスの道)を支持するオンライン・イニシアチブが、わずか1万2000人の署名を集めただけでした(74)。ドイツのカトリック信者は2160万人です。

38.この数字が意味するものは何でしょうか。

前述のように世界的に一貫しているこれらの数字に基づけば、「シノダリティに関するシノドス」総会が信者の間でほとんど関心を呼んでいないことを断言できます。カトリック・ニュース・エージェンシーが「バチカン、シノドス調査に回答する若く幻滅したカトリック信者を集めるため、影響力を持つ人々を動員」と雄弁に見出しをつけたのは、このためでしょうか(75)。

いずれにせよ、シノドスのアンケートに対する信者の反応が薄いことは、シノドスを根底から無効にしかねない重大な問題を提起しています。私たちは、「天主の民」の意見を聴取したと言うことができるのでしょうか。それとも、単にわずかな少数派だけからの意見の聴取だったということができるのでしょうか。その少数派とは誰なのでしょうか。彼らを動かしているのは誰なのでしょうか。

H―シノドスの核心は「セクト」か。

39.なぜカトリック信者は無関心なのですか。

シノドスの過程に対する信者の関心の低さを説明するには、多くの理由が考えられます。その一つは、教皇庁立聖アンセルムス大学の教授であり、シノドスの最も大胆なテーゼを無条件で支持する進歩的な戦いで知られるアンドレア・グリッロによって提示されています。それは「文学ジャンル」の問題です。

シノドスの過程全体にも通じる言葉で、グリッロはドイツの「Synodaler Weg」についてこう書いています。「シノドスの道によって生み出された膨大な(文書の)作成は、解釈上の問題を引き起こす可能性があります。…それは、外部の読者にはまったく透明性のない情報源や言語に言及しているからです」(76)。言い換えれば、シノドスの道の文書は、「外部」の読者には理解できず、限られた「内部関係者」またはイニシエーションを受けた入門者だけが理解できる判読不可能な言語を用いているのです。このローマのグリッロ教授は、本来の意味とは異なる新しい意味で言葉を理解するよう、信者に慣れさせることから始める必要があると言います。言い換えれば、グリッロは、入門していない人々を入門させることを提案しているのです。

40.グリッロは、入門者のサークルの「外部」のものとしてのカトリックの大衆に言及するとき、一つの隠された集団のことを暗示していませんか。

はい。これはまた、ドイツの「Synodaler Weg」に言及したときのゲルハルト・ミュラー枢機卿の発言の要点でもあるようです。「ドイツのシノドス・セクトの『存在的に異なる』カトリシズムにおいては、あらゆる科学的、哲学的、神学的人間学に反する同性愛とジェンダー・イデオロギーが、カトリック信仰の解釈学に取って代わっています」(77)。


「シノドスの過程はパンドラの箱 : 100の質問と回答」第三章 シノドスの過程 : C – 教理の発展における信者の役割 D「疎外された少数派」の役割

2024年01月25日 | カトリックとは

「シノドスの過程はパンドラの箱 : 100の質問と回答」

The Synodal Process Is a Pandora’s Box: 100 Questions & Answers

ホセ・アントニオ・ウレタとフリオ・ロレド・デ・イズクエ著

第三章 シノドスの過程

C 教理の発展における信者の役割
22.信者は教会の教理を精緻化する役割を果たしますか。
23.それは信者が教会の不可謬性に積極的な役割を果たすという意味でしょうか。
24.シノドス推進者たちは、信仰の遺産の有機的発展において、教導権の積極的役割と信徒の受動的役割を区別していますか。

D 「疎外された少数派」の役割
25.シノドス推進派は、「疎外された少数派」の声に特に耳を傾けると主張していますか。
26.教区の協議で集められた「預言的証言」に含まれる「困難で否定的な経験」とは何ですか。
27.大陸レベルの協議はこれを反映していますか。
28.大陸ステージのための作業文書は女性の叙階について何と言っていますか。
29.これらのテーマは新しいものでしょうか。

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C – 教理の発展における信者の役割

22.信者は教会の教理を精緻化する役割を果たしますか。

はい。たしかに、単なる信者(洗礼を受けてはいるものの、聖なる叙階の秘跡を受けなかった人々)であっても、教会生活において非常に重要な役割を果たしていることは否定できません。彼らは、教会の生ける石なのですから。洗礼は彼らを教会の体の中に組み入れ、教会の使命を共にする者とし(45)、堅振が彼らを「キリストの真の証人として、言葉と行いによって信仰を広め守ることに、さらに厳格に義務づけ」させます(46)。私たちの主が使徒たちに約束された聖霊による天主の援助(ヨハネ14章16-17節、ヨハネ14章26節)は教会全体に関わるものであり、それは主に教導権(infallibilitas in docendo 教えにおいて不可謬)を通して示されますが、信者の総意を通しても明らかにされます。後者は、教会の信仰における不可謬性(infallibilitas in credendo 信じるにおいて不可謬)を表現するものであり、この不可謬性は、先に見たように、信者が洗礼において受ける信仰の感覚に基づいています。

しかし、「信者たちの信仰の共同感覚」(consensus fidei fidelium)をルソーの「一般意志」(volonté générale)と同一視することはできません。2018年4月にローマで開催された会議でヴァルター・ブラントミュラー枢機卿が指摘したように、「カトリック信者が一斉に(en masse)、離婚後に再婚することや避妊を実践することを、あるいはそれに類することを正当と考えるとき、これは信仰に対する大規模な証しではなく、集団背教です」(47)。

同じ集会で、ブラントミュラー枢機卿はまた、次のように回想しています。「信仰の感覚」(sensus fidei)は、信者があらゆる誤謬を認識し、本能的に拒絶するように導く、一種の霊的免疫システムとして働きます。それゆえ、教会の受動的不可謬性、すなわち、教会が全体においては決して異端に陥ることがないという確信が頼りにしているのは、天主の約束とともに、この「信仰の感覚」(sensus fidei)なのです」(48)。

23.それは信者が教会の不可謬性に積極的な役割を果たすという意味でしょうか。

いいえ。ここで強調されているのは受動的、つまり受容的な不可謬性です。教皇と諸公会議の教義宣言という荘厳な教導権と司教たちの通常の普遍的教導権においてのみ、位階階級の不可謬性が能動的です。聖ペトロと使徒たち(およびその後継者たち)は、「すべての民に教えよ」という使命を受け、その結果、信者たちに自分たちの教えを信じることを主が義務づけたからです。「あなたがたの言うことを聞く者は、わたしの言うことを聞く者である」(ルカ10章16節)。

24.シノドス推進者たちは、信仰の遺産の有機的発展において、教導権の積極的役割と信徒の受動的役割を区別していますか。

いいえ。グレック枢機卿は、シノドスの耳を傾ける過程を通じて、「信仰の感覚はその積極的な機能を回復する」と宣言しています。この機能は、教皇グレゴリオによる改革後に奪われたとされています(49)。グレゴリオ改革は、「教会体の硬化、特に教導教会(Ecclesia docens)と聴従教会(Ecclesia discens)の間の固定化された関係の形態」を生み出したからだと主張されます。同枢機卿によれば、そのような旧態依然とした教会では、「すべての活動能力が前者の手に集中され、聖なる天主の民である信者は従属する者に貶められていました」(50)。そこで今、この状況を元に戻すのだとされているのです。

D―「疎外された少数派」の役割

25.シノドス推進派は、「疎外された少数派」の声に特に耳を傾けると主張していますか。

「ハンドブック」は、「排除され、疎外されていると感じている人々を巻き込むためにあらゆる努力を払う」べきだと主張しています(15ページ)。この文書は、少数派に対する優遇策を表明していると言ってもいいでしょう。「総括文書は、あまり聞いてもらえない人々の声に特別な注意を払い、私たちが『マイノリティ・レポート』と呼ぶことのできるものをまとめるべきです。フィードバックは、肯定的な経験を強調するだけでなく、困難で否定的な経験も明らかにすべきです」(29ページ)。「実際、『マイノリティ・レポート』と呼べるようなものの視点が、天主が教会に伝えたいと思っておられることの預言的証言になることもあります」(57ページ)。

26.教区の協議で集められた「預言的証言」に含まれる「困難で否定的な経験」とは何ですか。

シノドスの大陸ステージのための作業文書には、いくつかの項目が挙げられています。「より有意義な対話と、より歓迎される場を求める人々の中には、さまざまな理由から、教会に属することと自分たちの愛情関係との間に緊張を感じている人々、例えば、再婚した離婚者、結婚せずに子を育てる親、一夫多妻制の結婚生活を送る人々、LGBTQの人々、なども見受けられます」(39番)(51)。

シノドス推進者にとって、それはこれらの「疎外された少数派」を教会に「含める」という問題だとされます。

27.大陸レベルの協議はこれを反映していますか。

はい。シノドスの旅における大陸ステージの結論文書(大陸統合【総括文書】)のほとんどすべてに、「疎外された少数派」と協議することに特別な配慮が払われたことが明記されています。

例えば、「北米統合【総括文書】」にはこうあります。「大陸集会では、各国の報告書と同様に、教会内の包摂性と歓迎の度合いを高めることが深く望まれていました。実際、交わりを壊しているとみなされた主な要因の一つは、特定の人々やグループが教会で歓迎されていないと感じているという多くの人々の経験でした。大陸ステージで名前を挙げられたグループには、女性、若者、移民、人種的または言語的少数派、LGBTQ+の人々、離婚して結婚無効宣言を受けずに再婚した人々、身体的または精神的な能力の程度に差がある人々が含まれていました」(26番)(52)。

28.大陸ステージのための作業文書は女性の叙階について何と言っていますか。

シノドス推進者にとって、女性は「排除された少数派」の一つです。「大陸ステージのための作業文書」は、教会の各組織の統治構造に女性が完全かつ平等に参加するために(64番参照)、新しい実践、構造、習慣(60番参照)をもって、教会に新しい文化を確立しなければならないと述べています。また、多くの女性が、自分たちの貢献やカリスマが必ずしも評価されていないことを悲しく感じていることを確認しています(61番参照)。最後に、多くの人が女性助祭と女性が説教できるよう求めているとしています。女性の司祭叙階を提案する人もいます(64番参照)。

教皇フランシスコ自身も重要な一歩を踏み出しました。4月、史上初めて、シノドスでの投票権を女性に認めたのです。ローマ教皇は、シノドス参加者の最大25%を平信徒、男女とし、全員が司教と同等の投票権を持つことを決定しました(53)。

29.これらのテーマは新しいものでしょうか。

いいえ。それらは、代表的な進歩的潮流による古い主張に一致しています。特に第二バチカン公会議以降に定型化されたかつての主張です。スイスのクール教区名誉補佐司教、マリアン・エレガンティ司教はこう語ります。「私は、タイトルにあるように、扱われるテーマは、教会の新しい『手法』(nodus operandi)とされる『シノダリティ』となるのだろうと思いました。しかし、実はそうではありません。それどころか、それは、1970年代以来、何度目か分からないほど加熱された同じシノドスの食べ残しに関するものです。つまり、民主主義、参加、エンパワーメント、あらゆる職位に女性を置くこと、女性の助祭職や司祭職、婚外性関係や再婚、同性愛に関する性道徳の見直し、典礼における司祭職の終焉などです。私たちは皆、このことを知っています」(54)。

最も顕著なケースは、1968年から1970年の3年間に、いわゆるオランダ司牧評議会が開催されたことです。これは、「シノダリティに関するシノドス」が今日提示したものと同様の様式と提案でした。このつまずきを与える会議によって、オランダの教会は深い危機に陥りました。1980年1月、ヨハネ・パウロ二世はこの危機を解決するために、オランダ司教の特別シノドスを招集しました。オランダの司教たちは、1968年から1970年の公会議で公言された多くの誤謬の撤回を表す内容の文書に署名しなければなりませんでした(55)。


「シノドスの過程はパンドラの箱 : 100の質問と回答」第三章 シノドスの過程 : A「シノダリティ」

2024年01月24日 | カトリックとは

「シノドスの過程はパンドラの箱 : 100の質問と回答」

The Synodal Process Is a Pandora’s Box: 100 Questions & Answers

ホセ・アントニオ・ウレタとフリオ・ロレド・デ・イズクエ著

第三章 シノドスの過程

A 「シノダリティ」
10.「シノダリティ」とは何ですか。
11.シノダリティは何を求めていますか。
12.シノダリティは教会生活にどのような影響を与えますか。

B 「耳を傾けること」
13.なぜ「信者の声に耳を傾ける」ことが第一の役割なのですか。
14.牧者が信者の声に「耳を傾ける」という伝統的な感覚は存在するのでしょうか。
15.「耳を傾ける」という現代的な概念に欠点はありますか。
16.民の声は天主の声ですか。
17.彼らは耳を傾けることが必要だとするためにいかなる神学的正当化を行いますか
18.では、いかなるときに信者の信仰が不可謬であるのかを、どのようにして知ることができますか。
19.シノドス推進派は誰に耳を傾けていますか。
20.このように広範囲に耳を傾けることにはどのような危険性がありますか。
21.人は誤ったつまずきを与える提案を聖霊のものだとすることができますか。

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第三章 シノドスの過程

A 「シノダリティ」

10.「シノダリティ」とは何ですか。

国際神学委員会によれば、「シノダリティ」という名詞は最近作られたものであり、第二バチカン公会議文書や教会法典には出てこない「新しい言葉」です。同委員会によれば、教会の新しいモデルの文脈において、「シノダリティは、天主の民である教会の具体的な生活様式であり、そのすべての成員が共に旅し、集会に集い、福音宣教に積極的に参加するときに、交わりとしての教会の存在を明らかにし、その実体を与えるものです」(24)とのことです。

教皇フランシスコによれば、「シノダリティは、教会の本質、形態、様式、使命の表現です」(25)。したがって、シノダリティは「教会の構成要素」(26)とされています。

11.シノダリティは何を求めていますか。

シノドス推進派は、教会生活におけるすべての信者の参加と共同責任を高めることがシノドスにとって適切であると主張します。シノドス事務局によって作成された「シノダリティに関するシノドス」のための「ハンドブック」(Vademecum)が述べているように、「シノダリティの道は、天主の民の生きた声に根拠を置きながら、天主の意志をできる限り忠実に反映した司牧的決定を行うことを目指すものです。…シノダリティは、司牧者に対し、その世話を委ねられている群れに注意深く耳を傾けるよう求めています」(28)。

12.シノダリティは教会生活にどのような影響を与えますか。

共同体全体の声に耳を傾けるということは、教会における権威の改革を意味します。教皇フランシスコによれば、教会のピラミッド構造を逆転させなければなりません。「この教会では、逆ピラミッドのように、頂点は底辺の下にある」(29)とされます。

司教シノドス事務総長のマリオ・グレック枢機卿はこう言います。教皇フランシスコは、

「位階的権威の「逆ピラミッド」のイメージの生き生きとした刺激的なモデルを提供しました。アマンダ・C・オズハイムがこう正しく観察しています。「反転したピラミッドとしての位階的権威が、教会の古いピラミッド型受胎、すなわち聖霊がまず教皇と司教に、次に聖職者と修道者に、そして最後に信者に与えられるというトリクルダウンの教会の経綸を逆転させる。…このピラミッドは、教会を事実上、教導教会(ecclesia docens)と聴従教会(ecclesia discens)に分けた。ピラミッドを反転させることで、フランシスコの類推は、権威を、教会内で他者に耳を傾け、他者から学ぶという受容に依存するものとして捉え直したのである」(30)。

教会における権威をこのように民主的に再定義することで、「聖職者主義という災いを克服する」ことが可能になるはずだとされています。なぜなら、「私たちは皆、互いに依存し合っており、聖なる神の民の中で平等な尊厳を分かち合っている」はずだからです(31)。

B 「耳を傾けること」

13.なぜ「信者の声に耳を傾ける」ことが第一の役割なのですか。

すでに述べた「ハンドブック」では、聞くという言葉が102回も登場します。信者の声については83回言及されていますが、天主の言葉については19回しか言及されていません。

バチカンのウェブサイトに掲載されたインタビューの中で、マリオ・グレック枢機卿は次のように述べています。

天主の民の声に耳を傾けることによって――これが特定の教会における意見を求めることの目的です――聖霊が教会に対して行っておられることを私たちが聞くことができるということを、私たちは知っています。このことは、教会の行く末を決めるのは天主の民であるという意味ではありません。天主の民全体(司牧者を含む)の預言的機能には、司牧者の識別という任務が対応します。天主の民が語ることから、司牧者は聖霊が教会に何を語ろうとしているのかを把握しなければなりません。しかし、天主の民の声に耳を傾けることから、識別は始まらなければなりません(32)。

14.牧者が信者の声に「耳を傾ける」という伝統的な感覚は存在するのでしょうか。

確かに、良き牧者は羊に寄り添い、羊の霊的な状況や願望に耳を傾け、理解しなければなりません。しかし、今日の「耳を傾ける」とは、羊と同調する義務を意味しています。評価基準は、啓示された真理や良心の高潔さではなくなり、信者の願望を受け入れることになります。

15.「耳を傾ける」という現代的な概念に欠点はありますか。

現代的な「耳を傾ける」の視点に立てば、教会は、司牧者たちの声を通してキリストの教えを伝える母にして教師であることをやめ(「あなたたちの言うことを聞く人は、私の言うことを聞く人である」―ルカ10章16節)、これまで議論の余地がないと考えられてきた真理を疑うことを恐れず、耳を傾け、対話し、質問する教会となります(33)。「傾聴は最初の一歩であるが、それには開かれた心とマインドが必要である」と「ハンドブック」は述べています(34)。「傾聴への第一歩は、心を偏見や固定観念から解き放つことです」(35)。さらに、「シノドスの過程は、既成の答えやあらかじめ決められた判断に頼ることなく、真正面から耳を傾けるために自らを開く機会を私たちに与えてくれます」(36)。

上に引用した文章の中で、グレック枢機卿は、司教の識別は、天主の民の言うことが天主の啓示が教えることと一致しているかどうかを確認することではなく、その逆であることを確認しています。司教の識別とは、天主の民の言うことを、聖霊の言葉として認識することとされているのです。

カトリック教会は常に逆の立場から出発してきました。啓示と聖伝によって知られる信仰の真理を土台として、それを時代と場所の状況に応じて具体的な生活に適用し、人々を永遠の救いへと啓発し導いてきました。「シノダリティに関するシノドス」は、その逆に向かっています。具体的な状況から出発して、それに適応した司牧方針と規律を練り上げるのです。このような方法は、啓示された真理から出発するのではなく、教会が適応すべき具体的な歴史的状況から出発する歴史主義的観念を前提としています。

16.民の声は天主の声ですか。

必ずしもそうではありません。教会では、「民の声」(vox populi)という表現は、多数派の声が必ず善であるという、現代の民主主義国が提示している意味とはまったく異なる意味を持ちます。この点について、元教理省長官ゲルハルト・ミュラー枢機卿は次のように語っています。

すべての信者が教会の預言職、王職、司祭職にあずかることは、父と子と聖霊の御名による洗礼に秘跡的に基づくものであり、民主国家の政体体制のように国民から発する権力に基づくものではありません。司教、司祭、助祭の役務は、キリストの権威に基づいています。…歴史上、民の訴えの声はむしろ両義的でした。アテネの民はしばしば哲学者に腹を立て、民主的にソクラテスに死刑を宣告しました。
天主の民は主に対して繰り返し不平を言いました。…ピラトは冷笑的にイエズスにこう言いました。「あなたの国の人と司祭長たちが、あなたを私に渡したのだ」(ヨハネ18章35節)。一方、新約では、メシア的な天主の民の特徴は、キリストの司祭職を共有していることからすべての信者が天主の言葉に耳を傾け、叙階された司教と司祭が、教会のかしらであるキリストのペルソナにおいて、司祭的な民を聖化し、導き、教えるという事実にあります(37)。

17.彼らは耳を傾けることが必要だとするためにいかなる神学的正当化を行いますか。

教皇フランシスコ、シノドス主催者たち、そしてその準備文書は、「信者全体は、…信仰の問題において誤まり得ません。この特徴は、超自然の信仰の感覚(sensus fidei)に示されています。…これが、有名な言葉、『〈信仰するにおいて〉(in credendo)不可謬』というものです」(38)と「吐き気を催すまで延々と」(ad nauseam)主張しています。

彼らはこのような発言をどのように神学的に正当化しているでしょうか。

2011年から2014年にかけて、国際神学委員会(ITC)は信仰の意味に関する研究を行い、その結果、「Sensus fidei in the Life of the Church」(教会の生活における信仰の感覚)という文書を発表しました。

この研究は、信者の信仰の感覚のことを、「自然的、即座的、自発的な反応であり、信者が信仰の真理に適合するものに自発的にしがみつき、それに反するものを敬遠するという、生命本能あるいは一種の『天賦の才能・直観的識別力』に匹敵するもの」(54番)と説明しています。この霊的本能は、「信仰の徳が、信じる主体と、信仰の真正な対象、すなわち、キリスト・イエズスにおいて啓示された天主の真理との間に確立する親和性(connaturality)に」(50番)由来するとされます。

この感覚は、「その対象、すなわち真の信仰に関しては、それ自体不可謬」(55番)とされます。しかし、すべての信者が不可謬なのではない、なぜなら、一方では、この感覚の発展は信仰の徳の発展に比例するからであり、そのため、それは各人の生活の聖性に比例する(57番参照)、さらに、現実の世界では、信者の直観は、純粋に人間的な意見や、文化的背景により広まった誤謬とさえ混ざり合うことがある、とされています。

このため、ITCの文書は、教理省の宣言「Donum veritatis」(真理の賜物)の35段落を引用して、急いで付け加えています。「神学的な信仰にそのようなものはあり得ませんが、信者の考えはすべて信仰に由来するというわけではないため、信者は依然として誤った意見を持つことがあり得ます。天主の民の間で流布しているすべての考え方が信仰に適合しているわけではありません」(55番)(39)と。

18.では、いかなるときに信者の信仰が不可謬であるのかを、どのようにして知ることができますか。

唯一の確実な方法は、レランスの聖ヴァンサンのルールを適用することです。それは常にどこでも、すべての人によって信じられてきたもの(quod semper, quod ubique, quod ab omnibus)は不可謬である、というものです。これは教会の聖伝の教理です。「信者の感覚」(sensus fidelium)とは、ある瞬間に信者や司祭が考えていることではなく、何世紀にもわたり、世界中で、司教と信者の最後の一人までの総意です」と、元英国国教会の主教で、現在はカトリック司祭であるナジール=アリ神父は説明しています(40)。

それゆえ、ある新奇なものに関する信者の意見が、いつでも不可謬であると考えるのは軽率です。そして、聖霊が今日の教会に何を伝えたがっておられるものが何かを知るために、深く根差した信仰を持つ高潔な人々、洗礼を受けたすべての人々、さらには他の宗教を実践している人々や無神論者にまで意見を求める必要があると考えてしまうのは、さらに無謀なことです。

19.シノドス推進派は誰に耳を傾けていますか。

シノドス主催者は、無神論者の声を聞くことを含め、可能な限り広く耳を傾けるよう呼びかけています。

洗礼を受けたすべての人々は、ともに、天主の民の生きた声である「信者の感覚」(sensus fidelium)の主体です。同時に、識別の行為に完全に参加するためには、洗礼を受けた人々が、信仰の実践から離れた人々、他の信仰伝統の人々、無宗教の人々など、それぞれの地域の文脈にある他の人々の声を聞くことが重要です。…
…私たちは、教会から離れた人々、ほとんどあるいはまったく信仰を実践していない人々、貧困や疎外を経験している人々、難民、排除された人々、声なき人々など、周縁の人々に個人的に接触しなければなりません(41)。

20.このように広範囲に耳を傾けることにはどのような危険性がありますか。

ナジール=アリ神父はこう警告しています。「意見を聞かれた人々は、カテキズムを受ける必要があります。そうでなければ、私たちが得られるものは、人々を取り巻く文化を反映したものだけでしょう」(42)。

シノドスで提示された提案の多くは、現代の傾向を反映しています。国際神学委員会は、新たな教会的風潮は「社会を動かすすべての市民の参加に関する現代意識の高度な要求をより注意深く見極めること」の成果であると述べており、このことを認めています(43)。

21.人は誤ったつまずきを与える提案を聖霊のものだとすることができますか。

いいえ。それでは冒涜的な操作になってしまうでしょう。スヘルトーヘンボスの補佐司教であるロベルト・ムツァーツ司教は次のように述べています。「現在までのところ、シノドスの過程は社会学的な実験のようなもので、聖霊がそのすべてを通してご自身の声を聞かせるということとはほとんど関係がありません。それはほとんど冒涜と言えるかもしれません。明らかになりつつあるのは、シノドスの過程がいくつかの教会の立場を変えるために利用され、聖霊が擁護者としてその論争に投げ込まれるだろうということです。たとえ聖霊が何世紀にもわたって直感に反することを息吹いてこられたとしても、です」(44)。


「シノドスの過程はパンドラの箱 : 100の質問と回答」第一章 司教シノドス と 第二章 シノダリティに関するシノドス

2024年01月23日 | カトリック・ニュースなど

「シノドスの過程はパンドラの箱 : 100の質問と回答」

The Synodal Process Is a Pandora’s Box: 100 Questions & Answers

ホセ・アントニオ・ウレタとフリオ・ロレド・デ・イズクエ著

目次

まえがき(レイモンド・レオ・バーク枢機卿)

序章

「通常」総会ではない
ドイツの「Synodaler Weg」(シノドスの道)
失敗した道
公会議主義から永続的シノダリティへ
「私は兄弟たちには他人となり、母の子らには見知らぬ人となった」

第一章 司教シノドス
1.司教シノドスとは何ですか。
2.シノドスの結論は拘束力を持ちますか。
3.教皇や司教シノドスはカトリック教会の教理や構造を変えることができますか。
4.教皇フランシスコは司教シノドスでいかなる変更を導入したのですか。
5.教皇フランシスコは司教シノドスにおけるこの急激な変化をどのように正当化しているのですか。

第二章 シノダリティに関するシノドス
6.今回のシノドスのテーマとプログラムは何ですか。
7.このシノドスの目的は、具体的な結論を得ることなのでしょうか、それとも過程を始めることなのでしょうか。
8.教皇フランシスコはなぜ集会を2回開催することを決めたのでしょうか。
9.相当数の信者がシノドスや教皇の決定に反対し、拒否したらどうなりますか。

第一章 司教シノドス

1.司教シノドスとは何ですか。

司教シノドス(Synod of Bishops)とは、カトリック教会の常設機関で、ローマ教皇庁の外部にあり、司教団を代表します。1965年9月15日、教皇パウロ六世が自発教令「Apostolica sollicitudo」によって創設しました。

シノドスは教皇によって召集され、教皇がテーマを設定します。シノドスには三つの形式があります。普遍教会の利益に関する事項のための通常総会、緊急の問題のための臨時総会、一つまたは複数の地域に関する事項のための特別総会です。総会は単なる諮問機関としての性格しか持ちませんが、教皇が許可した場合には意思決定機能を行使することができるとされています。これまで、司教シノドスの通常総会は15回ありました。今年、2023年には16回目を迎えます。

2.シノドスの結論は拘束力を持ちますか。

いいえ。かつて、司教シノドスの最終文書とは、教皇に提案する役割を担っているだけだったため、教導権としての価値はありませんでした。教皇はシノドスの考えをまとめ、シノドス後の使徒的勧告を発表し、シノドスの結論を全教会に提案しました。この教皇文書が教導権に当たります。しかし、2015年に教皇フランシスコによって導入された改革の後、ローマ教皇によって明示的に承認された場合、最終文書は直接的に通常の教導権の一部となるとされています。また、教皇が前もってシノドスに決定権を与えた場合、教皇によって批准され公布されれば、その最終文書は通常の教導権の一部となるとされます。

3.教皇や司教シノドスはカトリック教会の教理や構造を変えることができますか。

いいえ。教皇も、司教シノドスも、他のいかなる教会的、世俗的機関も、天主なる創立者によって遺産として定められ、委託された教会の教理や構造を変更する権限を持ちません。第一バチカン公会議はこう教えています。
13.天主が啓示された信仰の教理は、以下のようなものとして私たちに提示されている。
・人間の知性によって完成することが可能な哲学的発見としてではなく、
・忠実に守られ、不可謬的に公布されるようキリストの浄配に託された天主の遺産として。
14.それゆえまた、その聖なる教義の意味も、聖にして母なる教会によってかつて宣言されたように、常に維持されるべきであり、また、さらに深く理解するという口実の下に、あるいはその名の下に、この意味を放棄することは決してあってはならない(12)。

教理省はこう述べています。「すべての信者と同様に、ローマ教皇は、天主の言葉、カトリックの信仰の下にある。…教皇は自分の意志で決定するのではなく、聖伝によって生かされ、解釈される聖書の中で人に語りかける主のご意志を言葉にする。言い換えれば、総司教(Primate 首席司教)の「監督権」(episkopè)は、天主の法と啓示に含まれる教会の侵すことのできない天主由来の統治形態(constitution)によって定められた限界を持っている」(13)。

4.教皇フランシスコは司教シノドスにいかなる変更を導入したのですか。

2015年、教皇フランシスコは司教シノドス設立50周年を機に、このシノドス組織の大幅な変更を発表しました。

教皇は、シノドスの集会の準備において、天主の民全体の意見を求めるという望みを表明し、次の前提に基づく新しい「シノドスの教会」を創設する計画を提案しました。その前提とは、天主の民が超自然の信仰の感覚(sensus fidei)を持つために、天主の民全体は誤ることができず(天主の民全体は「信仰するにおいて」[in credendo]不可謬)、主が教会に対して開かれた道を見いだす「天賦の才能・直観的識別力」を持っている、という前提です。

シノドスの教会は、聖霊が「諸教会に言われる」(黙示録2章7節)ことを知るために、信者と司教団とローマ司教の間で相互に耳を傾ける一つとなります。この目的のために、すべての教会機関(小教区、教区、ローマ教皇庁)は、基底(=民)とのつながりを保ち、常に「人々と彼らの日々の問題から」出発しなければなりません(14)。

この仕事に取り掛かった教皇フランシスコは、使徒的憲章「エピスコパリス・コムニオ Episcopalis communio」(2018年9月15日)をもって、信者を参加させるように司教シノドスを変更しました。シノドスは現在、三つの段階に分けられています。それは、天主の民に意見を求める準備段階、司教の集会での会議である祝祭段階、そして教皇によって承認された集会の結論を全教会が受け入れる実施段階です。

5.教皇フランシスコは司教シノドスにおけるこの急激な変化をどのように正当化しているのですか。

教皇フランシスコによれば、司教は教師であると同時に弟子でもあるとされています。「かしらであり牧者であるキリストの御名において真理の言葉」を宣べ伝えるとき、司教は教師であるとされます。しかし、「洗礼を受けたすべての人に聖霊が授与されていることを知り、天主の民全体を通して語られるキリストの声に耳を傾ける」(15)とき、司教は弟子でもあるとされています。このように、シノドスは、司教を通して天主の民全体に発言力を与える道具となるとされています。


第二章 「シノダリティに関するシノドス」

6.今回のシノドスのテーマとプログラムは何ですか。

2021年4月24日、教皇フランシスコは、司教シノドス事務局長のマリオ・グレック枢機卿の謁見に際し、司教シノドス第16回通常総会のテーマとプログラムを承認しました。

こうして天主の民から意見を聞く地方あるいは国内ステージ【教区ステージ】が始まり、2022年に終了しました。その後、大陸ステージが始まり、2023年2月から3月にかけて大陸総会が開催され、「大陸統合」と呼ばれる結論がバチカンに提出されました。そこからシノドスは全世界的な段階へと進み、2023年10月に第1回、2024年10月に第2回の総会がローマで開催されます。2023年の総会に先立ち、参加者全員を対象とした霊的黙想会が開催されます。

選ばれたテーマは「シノドス教会のために:交わり、参加、そして宣教」です。教皇によれば、それは「信者、司牧者、ローマ司教が共に旅すること」(16)です。克服すべき最大の困難は、「司祭や司教を人々から切り離す聖職者主義です」。なぜなら、「指導者と従う者、教える者と教えられる者とに厳密に分けられた教会というイメージを超えていくことへのある種の抵抗があるからです。マリアが、『権力ある者をその座より降ろし、卑しき者をば高められた』(ルカ1章52節)と言ったように。共に旅をすることは、垂直よりも水平にしてくれます」(17)。

従って、次のシノドスで議論されるのは、通常このような集会で議論されるような特定の司牧的テーマではなく、教会の構造そのものなのです。この理由で、シノドスは「シノダリティに関するシノドス」とも呼ばれているのです。

7.このシノドスの目的は、具体的な結論を得ることなのでしょうか、それとも過程を始めることなのでしょうか。

他の一般的なシノドスとは異なり、この「シノダリティに関するシノドス」は、教理的あるいは司牧的な問題を議論し、具体的な結論を出すために開催されるのではなく、教会を改革するための過程を開始するために開催されます。その準備文書は、「参加的かつ包括的な教会的過程」(18)を開始することを提案しています。後述するシノドス準備文書では、「過程」(process)という用語が23回も使われており、それに「道」(path)、「旅程」(itinerary)、「経路」(route)などの似た言葉が伴っています。

この流動的なアプローチは、現教皇職の考えている広い視野のもとで理解されなければなりません。
つまり、現教皇は、「である」(being)ではなく「となる」(becoming)を、安定ではなく変化を、確実ではなく探求を尊んでいます。「私たちは、単にスペースを占有する【ずっしりと存在する】のではなく、過程を開始する【変化する】必要があります」(19)。

シノドス総代表のジャン=クロード・オロリッシュ枢機卿は、「座って話すことだけでシノドスになるのは、話すのが旅についてである場合です。そうでなければ、シノドスは、概念の戦いになってしまいます」【=シノドスとは、変化を求めるためにあり、何が信仰の真理であるかと議論するところではない】(20)と述べました。

8.教皇フランシスコはなぜ集会を2回開催することを決めたのでしょうか。

当初の計画では、シノドス総会は2023年10月にローマで開催されることになっていました。しかし、2022年10月16日(日)のお告げの祈りの終わりに、教皇フランシスコは、総会を1年を隔てて2回開催すると発表しました(21)。

その理由は、「シノドスの教会のテーマは、その広さと重要性から、シノドス総会のメンバーだけでなく、教会全体が長期にわたって熟慮を重ねる対象となる可能性があります」というものでした(22)。ローマで代表団が話し合った内容について天主の民に耳を傾ける新たな段階が、第1回総会の後に続くことになります。

9.相当数の信者がシノドスや教皇の決定に反対し、拒否したらどうなりますか。

教皇フランシスコが司教シノドスを変更した使徒憲章「エピスコパリス・コムニオ」には、内部矛盾があるようです。5番は、すべての司教は「洗礼を受けたすべての人に聖霊が授けられていることを知りながら、天主の民全体を通して語られるキリストの声に耳を傾け、それを『〈信ずるにおいて〉不可謬のもの』とするとき」弟子であると宣言しています。この考えは、「シノドスの過程は、その出発点だけでなく、その到着点も天主の民の中にある」と主張する7番で補強されています。そして、シノドス事務局のウェブサイトが「シノドスの結論は、ローマ教皇によって承認された後、地方教会によって受け入れられる」(23)と示唆するように、シノドスの決定の実施は、信者がそれをうまく受け入れるかどうかにかかっているように思えます。

しかし、同じ「エピスコパリス・コムニオ」の第4章は、まさにシノドスの実施段階を扱っており、教区司教は「シノドス総会の結論がローマ教皇に受け入れられれば、その受け入れと実施を見守る」(第19条第1項)のであり、司教協議会は「その領域内で前述の結論の実施を調整する」(第19条第2項)と規定しています。

シノドスの方向性の具体的な適用に関して、天主の民と司牧者との間に意見の相違が生じた場合にどうなるかについては、何も書かれていません。もし司牧者たちの意志が勝れば、耳を傾けることの過程全体がむなしく見え、シノドスのレトリックはほとんど不誠実に見えるでしょう。もし天主の民の意志が勝れば、教会は事実上の(de facto)民主主義に変貌してしまうでしょう。


「シノドスの過程はパンドラの箱 : 100の質問と回答」まえがき(バーク枢機卿)と 序章

2024年01月23日 | カトリック・ニュースなど

「シノドスの過程はパンドラの箱 : 100の質問と回答」

The Synodal Process Is a Pandora’s Box: 100 Questions & Answers

ホセ・アントニオ・ウレタとフリオ・ロレド・デ・イズクエ著

2023年8月22日

カトリック教会内の異端的な声が変化を叫んでいます。「シノダリティに関するシノドス」おける彼らの急進的な行動計画(アジェンダ)は明らかです。それは、教理を歪め、聖伝を転覆させ、教会の位階的な性質を解体することです。

著者のホセ・アントニオ・ウレタとフリオ・ロレド・デ・イズクエは、新著「シノドスの過程はパンドラの箱。100の質問と回答」の中で、現在の危機をすがすがしい明快さで説明しています。どのページも知恵、洞察、真理を与えています。どの回答も、シノドスの背後にある詭弁、意図的な混乱、異端を暴いています。

レイモンド・バーク枢機卿は、まえがきで次のように述べています。「シノダリティ」(Synodality、共に歩むこと)とその形容詞である「シノドスの」(synodal)は、今やスローガンとなっており、そのスローガンの背後では、教会が常に教え実践してきたことの多くを否定する現代のイデオロギーに合わせて、教会の自己理解を根本的に変えようとする一つの革命がうごめいているのです」。

「シノドスの過程はパンドラの箱」は警告の叫びです。自然に反する罪の常態化、女性の叙階、姦淫状態にある「再婚した」離婚者による聖体拝領の受け入れ、カトリック教会内の平等主義の民主的平準化などに抵抗し、断固として立ち向かう道徳的義務が、なぜ忠実なカトリック信者にあるのかを知ってください。

もしあなたが、カトリック教会と、私たちの主イエズス・キリストによって永遠に確立された教会の位階的な統治形態を愛しているならば、この本はあなたのためのものです。

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目次

まえがき(レイモンド・レオ・バーク枢機卿)

序章
「通常」総会ではない
ドイツの「Synodaler Weg」(シノドスの道)
失敗した道
公会議主義から永続的シノダリティへ
「私は兄弟たちには他人となり、母の子らには見知らぬ人となった」

まえがき (レイモンド・レオ・バーク枢機卿)

2023年6月16日
至聖なるイエズスの聖心の祝日

今日の教会における最も深刻な状況を明確かつ包括的に取り上げている「シノドスの過程はパンドラの箱 Il processo sinodale, un vaso di Pandora」が出版されたことを、心からお祝い申し上げます。この状況は、すべての思慮深いカトリック信者と、キリストの神秘体に与えている明白で重大な害悪を観察する善意の人々に、当然のことながら関心を抱かせるものです。

私たちは、使徒たちの時代からの信仰の先祖たちとの交わりの中で、私たちが一、聖、公(カトリック)、使徒継承であると告白してきた教会が、今や、教会の教理の中に歴史を持たず、合理的な定義もない用語であるシノダリティ(synodality)によって定義されると言われています。シノダリティとその形容詞である「シノドスの」(synodal)は今やスローガンとなっており、そのスローガンの背後では、教会が常に教え実践してきたことの多くを否定する現代のイデオロギーに合わせて、教会の自己理解を根本的に変えようとする一つの革命がうごめいているのです。なぜなら、このイデオロギーはすでに何年か前からドイツの教会で実践され、混乱と誤謬、そしてその果実である分裂――まさに離教――を広範囲に広め、多くの霊魂に重大な害を及ぼしているからです。「シノダリティに関するシノドス」が間近に迫っている今、同じ混乱と誤謬と分裂が普遍教会にもたらされるのではないかと懸念されるのは当然です。実際、地方レベルでのシノドスの準備を通して、それはすでに起こり始めています。

教会の変わることのない、また変えることのできない教理と規律において私たちに伝えられているキリストの真理だけが、今の状況に効果的に対処することができます。キリストの真理が、うごめいているイデオロギーを明らかにすることによって、また、それが広めている致命的な混乱と誤謬と分裂を正すことによって、また、教会の教え、祈りと礼拝、徳と規律の実践の中で、私たちのために生きておられるキリストに対して日々回心するという真の改革を行うよう教会員に霊感を与えることによって、効果的に対処することができるのです。「シノドスの過程はパンドラの箱 Il processo sinodale, un vaso di Pandora」は、一連の100の質問と回答を通して、キリストの光、キリストの真理を、教会の現在の最も憂慮すべき状況の上に照らしています。この質問と回答を研究することは、すべての教会の成員が召されているように、真摯なカトリック信者がキリストの「真理の協力者」(ヨハネ第三書8節)となり、それにより使徒継承の聖伝に忠実な、私たちの時代における教会の刷新の担い手となるための助けとなるでしょう。

私は、適切な質問を立てるために、また権威ある回答を提供するために、まことに熱心に、そして見事に取り組んでくださったすべての方々に感謝申し上げます。聖パウロが「むしろ、愛をもって真理を宣言し、かしらであるキリストによって、すべて愛において成長するだろう」(エフェゾ4章15節)と私たちに教えているように、彼らの労苦の実りを、教会を建て直すために、世界中のカトリック信者が利用できるようになることが私の望みです。

私たちの主が、教会での母として私たちに与えてくださった(ヨハネ19章26-27節参照)、主の童貞なる御母の執り成しと配慮によって、私たちの救いである私たちの主のみに忠実であるように、現在教会を脅かしている重大な害が回避され、この世において教会が自らの使命を果たすことができますように。

父としての深い愛情と敬意を込めて、

イエズスの聖心とマリアの汚れなき御心において、
皆さんの忠実なる

レイモンド・レオ・バーク枢機卿(署名)

____________________________

フリオ・ロレドとホセ・アントニオ・ウレタ


ローマにて

序章

教皇フランシスコは、「シノドスの教会のために。交わり、参加、そして宣教」をモットーに、ローマで「シノダリティに関するシノドス」を招集しました。これは、司教シノドスの第16回通常総会です。
革命的なインパクトを秘めているにもかかわらず、このシノドスをめぐる議論は、大部分が内部関係者だけにとどまっています。一般の人々は、このシノドスについてほとんど何も知りません。私たちはここで、何が問題になっているのかを説明することによって、このギャップを埋めようとしています。聖にして母なる教会を改革する計画が進行中であり、それが最終的な結末に至れば、教会の土台を転覆させることになりかねません。

このシノドスは通常総会ではありますが、いくつかの要因により、異例なものになっています。教会史における分水嶺、事実上の第三バチカン公会議のようなものにしたいと考える人もいるでしょう。

「通常」総会ではない

第一の要因は、シノドスの構造そのものです。広範囲にわたる国際的な意見聴取の後、参加者のための霊的黙想会を経て、2023年と2024年にローマで2回もの全体会議が計画されています。

第二の要因は、シノドスの内容です。通常総会は特定の問題(2018年は青少年、2015年は家庭など)を扱いますが、今回は、彼らは教会の構造そのものを問うつもりです。彼らが提案しているのは、教会を再考し、教会の有機的統治形態(constitution)の基本的要素を変更することによって、教会を新しい「統治形態としてシノドス的な教会」(1)へと変えることです。この変化はあまりにも急進的であるため、シノドス文書は、あたかも教会が誤った道を歩んできたかのように、そしてUターンする必要があるかのように、「回心」と述べています。

この総会を異例なものにしている第三の要因は、その過程的性格です。このシノドスは、教理的あるいは司牧的な問題を議論し、結論を出すためのものではなく、教会を改革するための「教会的過程」を行うためのものです。多くの人々は、これがパンドラの箱を開けてしまうのではないかと恐れています。

このように、「シノダリティ」(synodality)には、カトリックの思想家、プリニオ・コレーア・デ・オリヴェイラが記した「お守りのような言葉」(talismanic words)、つまり、過激化しやすくプロパガンダに悪用されやすい、非常に融通の利く言葉になるという危険性があります。プロパガンダに操られることで、「(お守りのような言葉は)新たな輝きを放ち始め、プロパガンダを受ける者を魅了し、その人が想像するよりもはるかかなたにその人を連れていく」(2)のです。

シノドスの推進者たちが言うには、この急進的な教会改革は、克服を必要とする欠陥のある位階的教会論が覇権を持っていたせいで、あまりにも長い間無視されてきた初代教会の共同体的参加の古い手順を取り戻すものとされています(3)。

このように、「シノダリティに関するシノドス」は、教会の歴史における、特に現教皇職における分水嶺として位置づけられています。教皇フランシスコが「シノダリティという重大な改革を準備しているところだ」と、バチカン専門家のジャン=マリー・ゲノワは書いています。「彼は、ピラミッド型、中央集権型、聖職者主義化した教会を、より民主的で分権的な共同体に変えたいと願っている」(4)と。

ドイツの「Synodaler Weg」(シノドスの道)

教会の「シノドスの回心」に最も熱心に取り組んでいる人々の中には、大多数のドイツの司教がいます。彼らは、自分たち自身の「道」、つまり「Synodaler Weg」(シノドスの道)を開始しました。この「Weg」(道)は、ドイツ進歩派の最も極端な主張を集約し、復活させたものです。

その推進者にとって、この「道 Weg」はドイツ国内に限定されるべきものではありません。むしろ、普遍的なシノドスのモデルとなり、推進力となるべきです。こうしてドイツ人は、シノドス推進派の広大な宇宙の中で、明確で影響力があるとはいえ、極端な一派として登場します。バチカン専門家の中には、「ライン川がテヴェレ川に流れ込んだ」第二バチカン公会議の場合が部分的にそうであったように、ドイツの進歩派の影響がシノドスの活動において決定的なものになることを危惧する者もいます(5)。

その最終的な結末に至れば、「道 Weg」は、聖なるローマ・カトリック教会の深刻な破壊転覆になることをほのめかしています。元教理省長官ゲルハルト・ミュラー枢機卿はこう述べています。「彼らはカトリックの信仰とは何の関係もない別の教会を夢見ており、…また彼らはこの過程を悪用したいと望んでいます。それは、カトリック教会を他の方向に移行させるためだけでなく、カトリック教会を破壊する方向に移行させるためなのです」(6)。

もし普遍的なシノドスがドイツの「道 Weg」の一部でも受け入れるようなことがあれば、私たちが知っているような教会の姿は失われ、終焉を迎えることになりかねません。もちろん、これでカトリック教会が終わるわけではありません。天主の約束に慰められ、教会には不可崩壊性という確実性があります。その特権のゆえに、教会は時の終わりまで存続し(マテオ28章20節参照)、地獄の門も教会に打ち勝つことはない(マテオ16章18節参照)からです。

失敗した道

シノドスの道をカトリック教会に適用する前に、その推進者たちは、失敗したと証明された他の宗教における同様の実験を研究した方がいいでしょう。1950年代に独自の「シノドスの道」に着手した英国国教会を例に取ってみましょう。

元英国国教会主教であり、エリザベス二世女王陛下のチャプレンを務め、現在はカトリックに改宗したギャビン・アシェンデンの証言は注目に値します。

「元英国国教会(アングリカン)の人々は、自分たちが何らかの助けを提供できると信じています」。なぜなら、英国国教会で使用されている「シノダリティ」という「策略」が、「分裂的かつ破壊的な効果をもたらす」のを目の当たりにしてきたためです。
「事実、元英国国教会の人々は、以前にも教会でこのようなトリックが演じられるのを見たことがあります。それは進歩主義者の霊性の一部です。ごく簡単に言えば、彼らはマルクス主義に準じた内容を霊的な慰めの毛布で包み、その後、聖霊について大いに語るのです」(7)。

同様の警告は、元英国国教会ロチェスター主教で現在はカトリック司祭であるマイケル・ナジール=アリ神父からも発せられています。彼は、英国国教会や他のプロテスタントの間で生じた「混乱と混沌」から学ぶよう、司教たちに促しています(8)。

このアプローチの失敗を見るのに、遠くへ行く必要はありません。ドイツの教会の惨状を見れば一目瞭然です。皮肉なことに、「Synodaler Weg」は、普遍教会を改革するモデルとして役立つことを意図しています。しかし、ドイツの教会は、その歴史上最悪の危機の中でほとんど消滅しようとしており、その理由は「Weg」に霊感を与えるような考えや実践に似たものを適用にしたからだと誰もが見ています。

なぜ、誰もが他のところで大惨事に至った道を教会に押し付けようとするのでしょうか。

さらに、本書が示すように、普遍的なものであれドイツ的なものであれ、シノドスの道にわくわくしている人はほとんどいません。さまざまな協議の過程に関わる人々の数は、笑ってしまうほど【少ないの】です。全般的に無関心なのです。シノドスの道の推進者たちは、この無関心を正しく解釈できるのでしょうか。空席の観客に向かって球技をしていることに気づくでしょうか。ああ、サッカーの試合ならまだしも! 問題になっているのはキリストの花嫁に他ならないのです!

公会議主義から永続的シノダリティへ

シノドスの擁護者たちは、シノドスの精神を現代的で最新のものとして提示していますが、それは古代の誤謬や異端を引きずっています。

いわゆる公会議主義の潮流は、人文主義(人間中心主義)によって生まれた新しいメンタリティーに教会を適合させるという口実のもとに、早くも15世紀には生まれました。その擁護者たちは、教皇の位階的な権力を減らして、公会議という集会に力を与えようとしました。「信者の意志」を表して、教会は、それぞれが言語と慣習を持つ、大部分が自治的な地方的・地域的なシノドスの構造となるべきだとされたのです。これらのシノドスは、定期的に、総会(あるいは聖なるシノドス)において、開かれるとされ、また、教会の最高権威をもっているとされました。教皇は「primus inter pares」(対等の中の第一人者)に格下げされて、参加者の平等な投票によって下された公会議の決定に従うとされていました。

ドイツの「Synodaler Weg」と普遍的なシノドスに力を与える精神は、その最も真正な表明において、何人かの教皇と何回かの公会議によって断罪されたこれらの古い誤謬を当然のものとし、復活させています。

ヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿(当時)は、こうした古い誤謬を糾弾しました。「教会の聖伝と、教会の秘跡的構造と特定の目的に照らせば、国内教会の最高の永続的な統治権威としての混合シノドスという考えは妄想です。そのようなシノドスはすべての正当性を欠くものであり、そのようなシノドスに従うことは断固として明確に拒否すべきです」(9)。

「私は兄弟たちには他人となり、母の子らには見知らぬ人となった」

勤勉な観察者には、このような俯瞰は黙示録的な色合いを帯びています。聖にして母なる教会の有機的な統治構造(constitution)と教理の持つ基本的な要素を消し去り、教会を認識不能にすることで、教会を解体しようとする作戦が進行中だからです。前述のように、ミュラー枢機卿は、シノドスの改革が最大限に適用されれば、推進者たちのユートピア的な意図のもと、「カトリック教会の破壊」に至るかもしれないと警告しています。この破壊は、教会をあらゆる危険から守るべき聖別された手によって実行されるため、さらに恐ろしいものとなります。パウロ六世の警告が今ほど響いていることはありません。「ある者は、…自己解体を実践しています。…教会は、教会の一部分である人々によって悪しき影響を受けています」(10)。

このような悲惨な見通しに直面した多くのカトリック信者は、迷い、落胆し、混乱し、当惑し、失望さえ感じており、みんなが適切に行動してはいません。教皇聖座空位論の誘惑に屈し、教会を捨てて自己中心的になる者がいます。背教の誘惑に屈する者もいて、教会を捨てて偽りの宗教を受け入れています。大半は無関心に沈み、教会を悲しい運命に委ねています。そのどれもがあからさまに間違っているのです! 「Amicus certus in re incerta cernitur」(不確かな事態において、確かな友が識別される。困っている時の友は本当に友である)。今こそ、聖にして母なる教会が、外敵や内敵から教会を守るために、愛と恐れを知らない子らを必要としている時です。天主は私たちに説明責任を負わせられるでしょう!

1951年にプリニオ・コレーア・デ・オリヴェイラがしたように、私たちはこう自問します。「ご受難が悲劇的であったように、悲劇的であるこの瞬間、すなわち、全人類がキリストに味方するか、キリストに逆らうかを選択するこの歴史の重要な瞬間に、教会と一致して生きている人は何人いるのでしょうか?」。そしてまた、「私たちは、教会が考えるように考え、教会の心を持ち、私たちの人生のあらゆる状況において教会が望むように進まなければなりません。…それは一生を犠牲にすることになります。この忠実さという犠牲は、それを必ずしも評価せず、時には痛烈に迫害する権力者に向けられるとき、さらに多くの痛みを伴います。

私たちは、ほとんどこう叫ぶことができます。詩篇作者の言葉を借りて、「私は兄弟たちには他人となり、母の子らには見知らぬ人となった」(詩篇68篇9節)と。そうです、他人でありながら、母の家、つまり聖なるローマ・カトリック教会にして使徒継承の教会の中にいるのです。

これが、本書の著者たちにやる気を起こさせている精神なのです。

*       *       *

この作品を書くに当たって、特にフアン・ミゲル・モンテス氏とマティアス・フォン・ゲルスドルフ氏の貴重な貢献に感謝します。

【続く】


コンピューター・スクリーン、スマホの弊害:依存症、孤立化という病の現象:癒しを求めてイエズス・キリストに近づく

2024年01月23日 | お説教・霊的講話

2024年1月21日御公現後第三主日のミサ(8時30分) 大宮 説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、今日は御公現後第三主日のミサをしています。

【1:今日の福音】
教会は、御公現後の主日のいろいろな福音を通してイエズス様がまことの天主であることを私たちに明らかにしようとしています。

今日の福音は、主が天主であるということを証明するために行われた二つの奇跡があります。ひとつはらい病の患者を癒すもので、もう一つは百夫長のしもべに対するものです。
一つはユダヤ人に対するもの、もうひとつは異邦人に対するものでした。両方とも、イエズス様は権威をもって癒しました。たとえ不在の者であっても、すぐに、治しました。この治癒が起こったときに、そのどちらの場合でも、イエズス様の神性を深く信じていました。
「主よ、あなたがおのぞみなら、私をお治しくださることができます。」
「あなたが一言おっしゃれば、私のしもべはなおります。」

彼らの非常に深い信仰は、私たちに多くのことを教えています。また百夫長の愛徳もすばらしいと思います。自分のためではなく、わざわざイエズス様のところにやって来て、しもべのために懇願しました。ですから教会は御聖体拝領の前には、百夫長に倣って、ほぼ同じ言葉でイエズス様に祈らせます。「ドミネ・ノン・スム … イエズス様、私はあなたを、私の屋根の下におむかえするには値しない者です。ただ一言おっしゃれば、わたしの霊魂は癒されます」と。

ところで、今日私たちは、同じ態度で、私たちの霊魂を癒してくださるように、そして私たちの愛する人々を癒してくださるように、イエズス様に近づきましょう。

もしかしたら私たちは気づいていないかもしれませんが、しかし多くの人は病にかかっています。スマホ、あるいは携帯というものを何度も使うことによって、多くの人がそれの中毒になっています。そして社会からますます孤立しています。今日は、私たちの霊魂の状態を振り返って、癒しを求めてイエズス・キリストに近づきましょう。

【2:いろいろな段階を経た】
このような状況になるには、いろいろな段階が踏まれました。まずテレビが入りました。第二に、コンピューターが家の中に来ました。ケータイがポケットに入りました。次には「キャプトロジー」というテクノロジーが、私たちを中毒化される技術が編み出されました。努力をせずにほんのちょっとでも「見たい」という欲求を起させて、ついにはそれにずるずると引きずられてスクリーンの上に留まるようにさせる技術です。何時間もスクロールしているという状況を生み出す技術がもたらされました。

それを、何度も何度も繰り返させることで、私たちがそれを習慣にしてしまっています。さらに、ランキングが高くなる、メンバーがフォロワーが多くなる、そして評判が高くなる、そうするとますますそこにのめりこんでしまっています。

将来的には、現実の世界ではなくて、バーチャル・リアリティと呼ばれる三次元の世界に呼び込もうとしています。

【3:コンピューター・スクリーンの弊害:中毒、孤立化】
私たちは、携帯のためにいったいどんな弊害が起こっているのか、この病を振り返ります。特に中毒、それから孤立化という非常に危険な弊害を見ましょう。それを知ったのちにイエズス様に近づいて、「癒してください」と近づきましょう。

第一の弊害は依存症・中毒です。中毒というのは、ユーザーをつまり私たちを、依存症にするように、中毒にするように、わざわざ設計されているからです。これはフェイスブックやあるいはその他の作った人々がそのように言っているから、それは本当です。

依存症とか中毒というのは何かというと、快楽が生み出される活動を止めることができない、そして止めたくてもそれなしにはどうしてもいられない、という、それに依存してしまうという現象です。特に、今若い人たちは青少年は、この携帯がなくては空白を埋めることができない、どうしても不安になってしまう、というほど中毒になっています。

第二の弊害は孤立化です。どういうことかというと、あたかもスクリーンを通してわたしたちは他の人とつながっている、コミュニケーションができているというというように思えるんです。でも、本当の友達というのは どこにいるのでしょうか? 家に帰っても学校でもどこでも、確かにここに体はいるけれども、半分不在、心は上の空、という人々があまりにも多くいます。携帯の世界に没頭してしまっているのです。ですから、わたしたちは、友人でも家族でも、そうやって半分不在の偽(にせ)の存在に慣れっこになってしまっています。本当の家族生活、夫婦生活、親子生活が犠牲になっています。特に今の若い人たちはあまりにも孤立化が進んでしまって、現実の生活は退屈だ、もっと仮想の世界に入りたい、戻りたいと願っています。あるいは学校や仕事から帰るや否や、この仮想世界の中に入りたい、ゲームに没頭したい、インターネットの誰かとチャットがしたいと、思っています。

本物の世界・現実世界にいるというよりは、睡眠術にかけられているかのような、個人がただ隣にいるという状態がいま目の前に現れています。

もしも、私たちが孤立化してしまうと、本当の社会生活をおくることができなくなるといったいどうなってしまうのでしょうか。そうすると、私はアイデンティティ、わたしがいったい何かということが失われてしまいます。どういうことかというと、私たちが一個となって、ただの砂の一粒になってしまうのです。たとえば、どこかの教会を作る一つの部分ではなくて、粉々に砕かれたただの砂の一粒になってしまうのです。自分が、いったい何なのか、わからなくなってしまう。

たとえば、私はカトリック教会に属して、聖ピオ十世会に属して、小野田家の一員で、それで日本人で、などとということがだんだん明らかになります。でも、孤立化してしまうと、ひとりぼっちになってしまうと、それがありません。

でも人は、自分が何かであることを確立しなければ、安心できません。ではどうするかというと、ソーシャルネットワークを通じて、「いいね」がたくさん押されたとか、フォロワーの数が多くなったとか、ランキングが上に上がったとか、それが人生で最も大切であるかのように錯覚してしまって、それを現実だと混同してしまって、それを中心に人生を設計してしまいます。つまり、自分の虚栄とか自己愛のイメージを他の人に見せて、それが自分だと思い込んでしまうのです。

そうすると、ますます自分が孤独になることを恐怖します。ますます、ネットでつながっていたいと思います。そうすると、IoT(アイオーテイ)と言われている、インターネットがモノとモノとをつなげてコントロールする、人間もそれの一つのモノとなってしまいます。つまり、天主の子供という最も高い尊厳が、ただのインターネットでつながっているモノ、に成り下がるということです。

私たちはその高貴な身分を失って、無になってしまい、錯覚に陥る危険があります。仮想の世界を現実だと錯覚してしまう恐れがあります。アイデンティティが喪失する、本当の自分が何かということがわからなくなってしまう、という危険です。

そうなると、私たちはいま世界で見ているように、うつが広まります。不安とうつ病が、非常にいま広まっています。

もう携帯というのは、コミュニケーションの道具とかおしゃべりするための道具ではありません。「すべての中心にある」のです。学校の先生のレポートによると、生徒たちは携帯を失うと虚無感に苛まされているという。静かにひとりで考えるということができなくなっています。

【4:道徳・霊的生活における悪影響】
スマホによって孤立化すると、社会の生活は崩壊し、知性は失われ、意志も無気力になってしまいます。さらにこれについてはもっと深いたくさんのお話がありますが、さらには、道徳的なあるいは霊的生活の2つの分野において、非常に悪い影響を与えます。

少しだけ垣間見ると、まず、道徳の崩壊があります。世界的な統計によると、大人も子供も閲覧の30%、あるいはダウンロードの50%がわいせつなものに関するものだという報告があります。子供さえもそれを免れることができません。特に幼い子供たちは、耐えられる限度を超えた見るに耐えられない画像の洪水によって攻撃を受けているといわれています。特に若い子どもが受けるショックは、非常に大きい、心理的なショックは計り知れないほど大きいと言われています。

道徳的な崩壊のみならず、さらには霊的生活においても大きな悪い影響を与えます。先ほども申しましたようにスマホは、若い人も老人も男も女も人々を催眠術にかけさせたように中毒にさせてます、依存させています。いつでもだれでも携帯を手に取って、いつでも使うことができるように準備して歩いています。帰宅の途中でも、電車のなかでも、家に帰っても、すぐさま、携帯です。

そうするとどうなるかというと、沈黙ということが失われてしまいます。私たちが考えなければならない人生にとっての重大な問題について、考えることができなくなってしまいます。祈ることも、祈ろうとすることさえも、興奮してしまってできません。精神がもしも機能しなくなってしまうと、霊魂は天主に耳を傾けようと、天主に向かおうとすることも、しなくなってしまいます。雑音、あるいは興奮に囲まれて落ち着いてどうやって心を静めることができるでしょうか。

瞬時に全てのことを知りたい、インターネットのコミュニケーションにつながりたい、現実の世界から逃げたい、逃避したい、今の仕事よりも、イイネのクリックを押すのほうが簡単、ということが、霊的生活のかわりに取って代わっています。

では私たちはどうしたらよいのでしょうか。ちょうど私たちの乗っている飛行機の隣で火が燃えているかのようです。すぐさま私たちは脱出しなければなりません。あたかも大地震があって、津波がわたしたちの霊魂を飲み込もうとしているかのようです。私たちの家族を飲み込もうとしています。ですから、百夫長のように、イエズス様のところに行きましょう。

百夫長は自分の家を離れて、イエズス様のところまで行きました。私たちもそのような環境を離れて、イエズス様のほうに近寄る努力をしましょう。イエズス様は私たちの協力を求めています。私たちが聖寵を得るには、私たちがそれを受けようとする努力と、準備が必要です。そして主に言いましょう。「私はふさわしくありません。」「ただ一言おっしゃってください。」

私は携帯をほんとうに実用的な目的のためだけに使っているのでしょうか?それとももう、それがなくてはならない「私の心の中心」になって、そのとりこになってしまっているのでしょうか。

私たちの愛する子どもたちはどうでしょうか。自分の子供たちはスマートフォンを持っているのでしょうか。もしも持っているとしたらいったいどんな何のサイトを閲覧しているのでしょうか。私たちはそれを知っているのでしょうか。ああ、たとえ子供がまだ幼くて、純粋だ、まじめだと見えたとしても、私たちは気をつけなければなりません。統計によると、多くの子どもたちがすでに汚染されています。ですからわたしたちはそのようなチェックを頻繁に行う必要があります。もしも子どもたちのスマホの内容を知るという権利を親が持っているということを放棄してしまうならば、私たちは重大な責任を放棄してしまったことになります。天主は私たちにそのことをその責任を問われることでしょう。

【遷善の決心】

ですから、私たちは遷善の決心をたてましょう。この世の精神と戦わなければなりません。私たちの真のアイデンティティーは、カトリック信者であって、天主の子どもであって、愛された永遠の命のために生きているこの地上にいる者です。

キリスト教の精神は、私たちに「レコンキスタ」ということを、つまり、領土を回復させるということを教えてくれます。スペインはそのことを成功しました。キリスト教信仰によってそれを成功しました。ですから、私たちもたとえそのような悪習があったとしても、霊魂を取り戻すことができます。「レコンキスタ」ができます。そのために確固とした信仰生活を送ろうという決心をたてましょう。私たちの世俗の欲望あるいは愛着を取り除くことができるのは、カトリックの教え、この信仰しかありません。

「心の貧しい人は幸いである」。と主は言われました。この地上のものをあたかも使っていないかのように、使うように、聖パウロは言います。私たちが天主へと心を開いて、霊魂の偉大さを取り戻すことができますように、主に近づきましょう。

そのために主は、私たちに手段を与えてくれました。秘跡を与えてくださいました。告解の秘跡、御聖体の秘跡です。そうすることによって、私たちは守られることができます。

聖パウロはこう警告しています。「悪の者は不義の惑わしを世の終わりに行うだろう。そのために惑わしを彼らのなかに働かせる。こうして彼らは誤りを信じるようになる。それは 真理を信ぜず、不義を好んだものが裁かれるためである。」(2テサ2:10-11)。と警告しています。また聖パウロは、「立っているとおもう人は、倒れないように注意せよ」(コリント前10:12)とも警告しています。

マリア様の子どもとして、毎日マリア様にお祈りしましょう。今日マリア様の御取り次ぎで、私たちの病が癒されるようにお祈りしましょう。聖母が私たちにとっての百夫長になってくださいますように、お祈りいたしましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

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新年小黙想会二日目 黙想二 ナザレトでのイエズス・キリストの従順

2024年01月23日 | お説教・霊的講話

新年小黙想会二日目 黙想二 ナザレト

「そしてイエズスは、彼らと共にナザレトに下り、彼らに従われた。」(ルカ2:51)

私たちの主をもっと良く知り、もっと熱心に愛し、もっと忠実に従うために、主の私生活の神秘を理解するお恵みを求めましょう。

【1:「イエズスは、彼らと共にナザレトに下られた」】

イエズス様が十二才のとき、エルサレムの神殿で博士たちに教えておられるのを両親が見つけたという出来事の後、直ちにナザレトに下ったと、聖ルカは書いています。イエズス様はその後少なくとも十八年間はナザレトにおとどまりになったはずです。私たちが青春時代と呼ぶ時を、ナザレトでお過ごしになりました。主の私生活と公生活の比は、少なくとも、十八年対三年、つまり六対一でした。一年の仕事に対して六年の隠れた生活です。【天地創造のとき天主様は6日働き1日休まれました。それと逆ですね。】

「天主の道は私たちの道ではない」。キリストの私生活がなぜ公生活と不釣り合いなのかという理由は、私たちにもわかると思います。キリストは「道であり、真理であり、生命」でした。もしもキリストが公けに人に教えることに全ての時をあてられたなら、「道」であることは、ほとんどできなかったでしょう。

キリストに従う人々の九十九パーセントは純粋な私生活を営んでいます。キリストは誰もが真似のできる模範をお示しにはなりませんでした。ご自分に従う人々に向かって、普通の家庭生活を送る価値を示そうと望まれたのです。内的生活のために、完徳の達成のために、世間から退いた生活が絶対に必要だと示されました。

福音書の聖マルタのように実際的な仕事にたずさわっている私たちは、「天主は孤独の中にすみたもう」こと、天主が人間の心にもっとも親しくご自身をおしめしになるのは孤独の中であることを忘れがちです。「人々の間にいたたびに、私は人間らしくなくなって帰って来た。」(Quoties inter homines fui, minor homo redii)と、イエズスの死の何十年かのち、理論と生活とがあまり一致していなかった一人のローマ人の哲学者(セネカ)は語りました。キリストに倣いて第一巻 20 章もセネカの言葉を繰り返してこうあります。2. Dixit quidam: Quoties inter homines fui, minor homo redii. Hoc sæpius experimur, quando diu confabulamur.

キリストはナザレトで、はじめは養父の手助けとして大工の仕事をされ、聖ヨゼフの死後は一人で仕事をされました。自分の手で仕事をされました。少なくとも天主の目には、人の仕事の種類は、仕事をどのような愛をこめてやったかと言うことほど大切ではないことを、お示しになりました。世界中でもっとも偉大な聖性は、二人の大工と一人の主婦のいる普通の家庭にあったのです。私たちが、つまらない仕事をするとき、どういう態度を取るべきかと教えてくれます。

ナザレトにおけるキリストはありふれた少年として、若者としての生活を営まれました。天主であることは隠されていました。ご両親はイエズスが天主であることを信じていました。ただ純粋に信仰によって信じていただけです。奇跡は起こりませんでした。村人の注意を引くようなことは何も起こりません。キリストが公生活を始めたときは、人々は「これは大工の息子ではないか」と驚いたほどです。

キリストの多くの時間は「小さなこと」すなわち、使い走りや仕事場の掃除や皿洗いの手伝いなどに、ついやされていました。キリストは特権をお求めになりませんでした。

キリストは、私生活をどのように過ごされたれたでしょうか。生まれながらに耳が聞こえずにおしの男を癒されたすぐあとで、人々は「彼は何でもよくやった」と言いました(マルコ7:37)。ナザレトにおけるキリストの御生活も、この言葉があてはまることでしょう。キリストのなさったことは何でも、たとえつまらないこと粗末なことであっても、そのなさり方は完全で、優れた行いだった、と。

キリストの生涯がすぐれているのは、またキリストに倣おうとする人々の生涯が優れたものになるのは、偉大なことを行うからではなくて、全てのことを立派に行うからです。

私たちの中で、偉大なことを行う機会のある人は、たとえいるとしても少ないと言えます。しかし私たちは、天主のお恵みによって、たくさんの小さなことを立派に行うという主のお手本に倣うことができます。天国にある私たちの冠は、多くのかがやかしい殉教者たちの冠のように、一つや二つの豪華な宝石でできているのではなく、それぞれ特別な光で輝く、かぞえきれない小さな宝石で作られています。

キリストは洗者ヨハネのように特別な肉体の苦業をなさいませんでした。それにもかかわらずキリストの全ての行動は、天主の本性と人間の本性との位格的結合のために、つねに天の御父の光栄だけを目指した御旨の完全さのために、無限に価値のあるものでした。

私たちの普通の行動もまた非常に素晴らしいものたることができます。成聖の聖寵によって、私たちは天主の本性にあずかることができるからです。私たちは天主の養子だからです。私たちが行うことは、私たちの周りの人々の目にはどんなにつまらないものであっても、天主の御前には特別の意味をもっているからです。

私たちの朝の奉献のとき、また一日中の新しい仕事の始めに当たって、私たちの意向を新たにすることによって、キリストの御旨の純粋さに倣うこともできます。「食べるにつけ飲むにつけ、何事をするにつけ、全て天主の光栄のためにせよ」(コリント前10:31)という使徒聖パウロの忠告を、私たちの生活の中に具体化することができます。

【2:「彼らに従われた」】

誰が誰に従ったのでしょうか。宇宙の創造主が被造物に従ったのです。まことに、「彼はへりくだって、死にいたるまで、十字架上の死にいたるまでも従順であられた」。

無限の智恵が有限の、限りある、誤りやすい知恵に従ったのです。命じられたことが最も良い方法ではないということが、はっきりおわかりになっていても、またそれでは失敗することが確かであっても、やはりキリストはそれをされました。何故なら聖母とヨゼフに従うことは、天の御父に従うことだったからです。「私は私の意志を行うためではなく、私をつかわされたかたの意志を行うために来た」のです。つまり「盲目の従順」をキリストは実行されました。

キリストは、たとえば大工の仕事場で、どんな手伝いをすべきか、どういう風に家具をつくるか、などなどについて、両親の・目上の「誤り・不完全さ」――罪ではない――をご存じでした。私たちは、自分の目上の「誤り・不完全さ」が分かるのでしょうか。たとえ彼らが最善とは言えないこと――しかし罪ではない――を命じるとしても、従うことによって、天主の御旨を行っているのではないでしょうか。

キリストはこう言いました。「あなたがたのいうことを聞くものは、私のいうことを聞くものであり、あなたがたを軽蔑するものは、私を軽蔑するものである」と。

キリストが確実にご存じであって、私たちが知らないことは、私たち人間の企てる「誤り」でさえも、天にいます私たちの父の御旨を行わせることができることです。これは御摂理の広大な織物の中に織りこまれた一本の特別な糸となっているのです。

キリストはご両親への服従に、何か制限をおつけになったでしょうか。たとえば、キリストの従順は実際に、ご両親の屋根の下においでになるときに、限られていたでしょうか。それとも体や健康の注意についての両親の命令に限られていたでしょうか。あるいは、ご自分が大切とお考えになることだけに限られていたでしょうか。聖ルカはただ「彼らに従われた」と言っています。そこには限定の言葉は何もありません。私たちが推測するのは、キリストの従順が絶対だったということだけです。朝はいつ起きなければならないか、何を食べるのか、何を着るのか。どの友だちと遊ぶのか、家の周りで、何ごとにもキリストはご両親に従われました。

キリストは――あきらめて――「あなたの命令は意味がないが、あなたは親だから従います」という態度で、従われたのでしょうか。自分で解釈して――自分のそのときの都合にあわせて命令を、厳密にあるいは広く解釈して、キリストは従われたのでしょうか。

殉教者のように「私は全ての不快なことを引きうける!」と言いながら、あるいは、「分かりました。そうします。しかし、こう命じないほうがよかったのに!」と言いながら、あるいは、精神分析家のように「何んで私にそれを命じたのだろう!」と言いながら、キリストは従われたでしょうか。完全な従順の価値をはっきりとご存じのキリストは、ただ正確に従われただけでした。

福音書の中に記されているように「彼は知恵も年令も天主と人からの愛も次第にましていかれた」(ルカ2:52)とすれば、これは完全な従順の結果ではなかったでしょうか。

聖イグナチオは、聖グレゴリオを引用してこう言っています。「従順は、それだけで、心の中にほかの全ての徳を植えつけ、ほかのが一度植えつけられたのちには、それらを保存する徳である」と。さらに言葉を続けて、聖イグナチオはこう言います。もしこの徳が花をひらけば、全て他の花をひらく、と。【as St. Gregory says, obedience is a virtue which alone implants all the other virtues in the mind and preserves them once implanted. To the extent that this virtue flourishes, all the other virtues will be seen to flourish and produce in your souls the fruits ... 】


2024年 ファイファー神父様のミッションの予定とドモルネ神父の謝恩会の予定をお知らせいたします。

2024年01月22日 | 聖伝のミサの予定

2024年 ファイファー神父様のミッションの予定とドモルネ神父の謝恩会の予定をお知らせいたします。

2月9日:大阪【ファイファー神父、大阪でのミサ】
17:45 (5:45 PM) ロザリオ
18:30 (6:30 PM) ミサ(ファイファー神父) 
19:30 講話 [その1]

2月10日:大阪 
09:00 ミサ(小野田神父)
09:45 ロザリオ
10:30 ミサ(ファイファー神父)
13:30 講話 [その2]
14:30 ロザリオ
15:00 講話 [その3]
16:00 聖体降福式

2月11日 (主日): 東京【ファイファー神父、東京でのミサ】

08:30 読誦ミサ(小野田神父)
10:00 ロザリオ
10:30 歌ミサ(ファイファー神父)
13:30 講話 [その1]
14:30 ロザリオ
15:00 講話 [その2]
16:00 聖体降福式

2月11日: 大阪【ドモルネ神父、大阪でのミサ】
10:30 歌ミサ
ミサの後に、ドモルネ神父さまの大阪での謝恩会

2月12日: 東京

08:30 読誦ミサ(小野田神父)
10:00 ロザリオ
10:30 歌ミサ(ファイファー神父)
13:30 講話 [その3]

14:30 ドモルネ神父の東京での謝恩会

2月12日: 大阪【ドモルネ神父、大阪でのミサ】
09:00 ミサ

MI Japan missions 2024 with Tim

Feb 9: Fr Tim in Osaka:
17:45 (5:45 PM) Rosary
18:30 (6:30 PM) Mass (Fr Tim) 
19:30 (7:30 PM) Spiritual talk [1]

Feb 10: Fr Tim in Osaka: 
09:00 Mass (Fr Onoda)
09:45 Rosary
10:30 Mass (Fr Tim)
13:30 Spiritual talk [2]
14:30 Rosary
15:00 Spiritual talk [3]
16:00 Benediction 

Feb 11: Fr Tim in Tokyo

08:30 Low Mass (Fr Onoda)
10:00 Rosary
11:30 Sung Mass (Fr Tim)
13:30 Spiritual talk [1]
14:30 Rosary
15:00 Spiritual talk [2]
16:00 Benediction of the Blessed Sacrament

Feb 11: Fr Demornex in Osaka
10:30 Sung Mass (Fr Demornex)
After the Mass, Despedida party for Fr Demornex (Osaka) 

Feb 12: Tokyo

08:30 Low Mass (Fr Onoda)
10:00 Rosary
10:30 Sung Mass (Fr Tim)
13:30 Spiritual talk [3]

14:30 Fr Demornex's despedida party  (Tokyo) 


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】