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2018年7月14日(土) 聖ボナヴェントゥーラのミサ 「修道会を、カトリックをひとつに束ねる核心とは」

2018年08月31日 | お説教・霊的講話
2018年7月14日(土)教会博士証聖者司教 聖ボナヴェントゥーラのミサ 
小野田神父 説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。

今日は2018年7月14日、聖ボナヴェントゥーラの祝日です。

このミサが終わりましたら、聖体降福式をする事を提案します。特に、今行なわれている聖ピオ十世会の総会が成功の内に終わりますように。

新しく選ばれた総長様と2人の補佐の為にお祈り致しましょう。今度スイスからの管区長様からの連絡によると、今度いらっしゃる、8月の終わりにいらっしゃるデ・ガラレタ司教様は、第一補佐に選ばれて非常に御忙しいのですけれども、「日本には必ず来る」と仰っていて、ですからその時に霊的花束をお渡ししたいと思っています。皆様の寛大なお祈りをどうぞ期待しております。

デ・ガラレタ司教様はアジアを色々回る予定だったのです。けれども「フィリピンとか他の所やシンガポールはキャンセルするけれども、日本と韓国には行く」と言いましたので、歓迎して、司教様のこれからの活躍をお祈りしたいと思っています。

明日は夕方の18時から、また月曜日の海(産み)の日には午前8時からミサがあります。いらして下さい。


「聖ボナヴェントゥーラ、我らの為に祈り給え。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、そして小さなお友達の皆さん、今日は聖ボナヴェントゥーラという大聖人の祝日です。聖ボナヴェントゥーラは証聖者、そして司教様、教会博士という、教会で非常に重要な聖人なのです。

⑴ それで、この聖ボナヴェントゥーラという人が、どういう時代にどこで生活していたのか?という事を一緒に黙想しましょう。

⑵ それから、では聖ボナヴェントゥーラは私たちに、現代21世紀の私たちに何を教えているのか?という事を黙想して、

⑶ 良い遷善の決心を立てる事にしましょう。


⑴ 聖ボナヴェントゥーラは、イタリアのバニョレージオという所に生まれました。これは聖ピオ十世が今アルバノという所に、ローマのアルバノという所に修道院があるのですけれども、それのすぐ近くの所で生まれました。1217年でした。

聖ボナヴェントゥーラは13世紀という、ヨーロッパで一番カトリックの信仰が生活の隅々にまで行き渡っていて、そして文化でも、あるいは芸術においても、音楽においても、あるいは政治においても、色々な所でカトリックの信仰が支配していた、というような時代に生まれたのですけれども、それでもその信仰と文化、あるいは信心とあるいは活動行動というものが、非常に調和した形で生きた、偉大な聖人でした。

では聖ボナヴェントゥーラは一体、どんな困難があって、どんな解決をしたのでしょうか?それは私たちの時代でどうやって適応できるのでしょうか?

どうやって生まれたかというと、聖ボナヴェントゥーラの俗名は生まれた時は、ヨハネという名前でした。苗字はデ・フィダンツァと言って、そしてお父さんはお医者さんでした。ですからボナヴェントゥーラも非常に頭の良い子として生まれました。

ところがまだ子供の時に重大な病気になって、病で苦しんでいました。もう死ぬ瀕死の重病を負いました。お父さんは有能なお医者さんでしたけれども、そのお父さんでもこの息子を助ける事はできませんでした。お母さんはこの息子ヨハネが病気で苦しんでいるのを見て、一生懸命お祈りをしました。つい最近列聖されたばかりのアシジの聖フランシスコに御取次ぎをお願いしました、「アシジの聖フランシスコ、私の息子のヨハネの病気を、もしも御旨でしたら治して下さい。」するとヨハネは治りました。

この時から、聖ヨハネとアシジの聖フランシスコとの出会いが始まりました。でも子供の頃でしたから、ボナヴェントゥーラ自身については、もしかしたらあまり記憶になかったのかもしれませんが、しかしお母さんからその事をよく聞いていました、「あなたはこうやって聖フランシスコによって助けられたのよ。」

その後に、若いヨハネは聖ボナヴェントゥーラはパリに行きます。お父さんはお医者さんですからとても頭の良い子でした、そしてパリで勉強します。日本で言えば、トップの高校をトップで卒業した、という最も優れた学校で卒業をしました。でも高校を卒業した若いボナヴェントゥーラは、「自分はこの将来、どうやって人生を、どうやって過ごしたら良いのだろうか?自分は一体何をすれば良いのだろうか?この人生は一体何の為にあるのだろうか?自分は何の為に生まれてきたのか?」という事をお祈りしました。そして悩みました。

それでちょうどその時に、ボナヴェントゥーラが来る前に、パリで修道生活を始めていたフランシスコ会、アシジの聖フランシスコが創立した修道会の門を叩きました。もちろんその他にも、ドミニコ会とか色々な修道院がありましたけれども、聖ボナヴェントゥーラは特にフランシスコ会に行って、修道生活をする事を試してみる事をお願いしました。

なぜかというと、後に手紙に書いています。聖ボナヴェントゥーラによると、「フランシスコ会が、ちょうどその始まりも、そしてその発展の具合も、カトリック教会の始まりと発展と非常にそっくりだったから、イエズス様のキリストの働きがここにある、という事を見出した」と言っています。教会はちょうど、最初は漁夫から始まって、最後には偉大な教会博士たちや立派な人たちを生み出すようになりました。「それと同じように、フランシスコ会も、最初は単純な人たちが集まっていたけれども、今ではパリでこうやって勉強するような立派な学者たちを生み出しているからだ。これこそ教会がますます豊かになっている、その象りだ、という事を見出したからだ」と言っています。

こうやって1243年に、フランシスコ会の会員として着衣式を受けました。その時は「ボナヴェントゥーラ」という修道名を取りました。

聖ボナヴェントゥーラはパリでフランシスコ会として勉強を続けました。頭が良かった彼は、パリの最高の先生たちに付いて、ヨーロッパに名前を響かせていたような教授たちの教えを受けて、ますます勉強を深めていきました。聖書の事や、あるいは神学について、黙想や、祈りや、勉強を深めて後には、遂には学位を取ります、「世界中どこでも、カトリックの学者として教える事ができる」という最高の学位を取ります。

そしてその最後の博士論文で書いた、その論文のタイトルは、「イエズス・キリストの知識についての研究」でした。そしてイエズス様のこの知識という事について、生涯深い関心を持って、黙想と祈りと研究を続けます。

当時フランシスコ会とドミニコ会というのは、新しく出来た修道院でした。そこでその為に、その生活の仕方、あるいは修道生活のあり方、理想について、人々にとっては理解できないものや、誤解がたくさんありました。その為に、「この修道院は合法的ではない」とか、あるいは「無効だ」とか、「禁止されている」等と言う讒言や反対をたくさん受けました。そこで中には、フランシスコ会とドミニコ会の間でも、その修道生活の違いについて論争等もありました。

そこで聖ボナヴェントゥーラは、深い学識を使って1つの論文を書きます。そしてそれが、「福音的完徳について」でした。それは、「イエズス様の福音の勧告に従って、清貧・貞潔・従順というものがどれほどイエズス様の御旨に適うのか、このキリストの教えであるか」という事をうまく説明したものでした。そしてその美しい論文によって、今までの論争が解決を見たかのようでした。

ついに修道生活をしてから10年後、カトリックの学問の世界で一番の最高峰と言われる名誉を受けます。それは、パリの大学での博士として、あるいは師として、教師としての特別の最高の名誉を受けました。この「これに勝る最高の地位はない」と言われるほどの、日本で言えば例えば、どこか一番有名な大学の総長であって、そのトップに立ったと言えます。
ところがそれと同時に、フランシスコ会では総長の選挙があって、同じ年にこの聖ボナヴェントゥーラは、フランシスコ会の総長として選ばれたので、この大学での名誉ある地位を捨てて、総長としての務めを果たす事になりました。

17年間、総長としてフランシスコ会を指導していきます。これが聖ボナヴェントゥーラにとって第2の大きな転換期でした。実はフランシスコ会はその時に大きな危機があったのです。危機というとどういう事かというと、実はフランシスコ会は当時あまりにも急激に成長して、誕生以後多くの人々が「フランシスコ会に入りたい」「会員になりたい」と言って「修道生活を送りたい」と言って、ヨーロッパ中で3万名の会員を持っていました。

聖ピオ十世会は例えば、1970年に創立されてもうすぐ50年ですけれども、司祭の会員は650名、ブラザーは150名、オブレートシスターは150名くらいで、1000人になるかならないかです。

ところが聖フランシスコ会は、創立の直後ほぼ50年経つか経たないかの内に、3万名になっていました。それでヨーロッパ中に広まっていて、インターネットもFAXも電話もない時代でした。ヨーロッパ中のみならず、北アフリカにもありました。北アフリカではイスラム教によって殉教者も出ていました。あるいは中東にも行っていました。イスラム教のいた所で、聖フランシスコも行っています、アシジの聖フランシスコも行って、イスラム教のスルタンと言うトップは、聖フランシスコを見て、「もう少しでカトリックになるところだった」と言っています。また実は聖フランシスコ会は北京にも、中国の北京にも修道院を持っていました。

そのように爆発的に広がるフランシスコ会をどうやったら1つにまとめる事ができるか、どうやったらフランシスコ会としてアイデンティティを保つ事ができるのか、もしかしたらあまりにも広がっているので、人々の考えが統一せずに分裂してしまうのではないか、という危険がありました。

そこで聖ボナヴェントゥーラは、自分の持っていた学識と敬虔な祈りを以て、1260年の総会の時に、1つの提案をします。そしてその総会は、その聖ボナヴェントゥーラの準備した文章を承認して、「まさにこれこそ、フランシスコ会の行くべき道だ」と、これを受け入れます。

それは何かというと、「フランシスコ会が持つべき理想、持つべき動機付け、持つべき願いというのは、その創立者聖フランシスコにある、アシジの聖フランシスコにある。そして聖フランシスコは何かというと、第2のキリストだった。その生涯、その教えというのは、イエズス・キリストを真似ようと、イエズス・キリストの聖徳をそのまま自分の聖徳にしようとしている事だった。だからフランシスコ会会員は全て、この師に倣ってアシジの聖フランシスコに倣って、私たちもキリストに倣うように、キリストの聖徳を身に付けるように、第2のキリストになるようにしなければならない。これこそが昨日も今日も、また未来のキリスト者の理想であって、フランシスコ会の会員の理想である。アシジの聖フランシスコに倣うように、キリストに倣え」という文章でした。

第3の転機は、その13年後、その総会の13年後、聖ボナヴェントゥーラは教皇様によって司教となる事を命じられました。そして今までフランシスコ会を1つにまとめたその手柄と、その功績を非常に高く評価されて、その学識の深さを評価されて、聖徳を評価されて、是非、当時の課題であった、「ラテン教会とギリシャ教会の統一の為の、リヨンの公会議を準備するように」との特別の任務を任されました。

そこで聖ボナヴェントゥーラはその教皇様の命に従って、司教としてリヨンの公会議を準備しつつ、そしてその開催中に、1274年に亡くなりました。

その聖徳と、祈りと、学識は、今でも教会に影響を与えています。

⑵ 聖ボナヴェントゥーラは私たちに、一体どんな事を教えているでしょうか?

聖ボナヴェントゥーラの生涯を考えながら、聖フランシスコ会と聖ピオ十世会の姿が少し二重に重なりました。なぜかというと、つい最近総長選挙があり、そして今聖ピオ十世会の総会が行なわれているからです。きっと私の信じるところには、この新しい総長も、また今行なわれている総会も、聖ボナヴェントゥーラと同じ事を言うだろうと思っています。

つまり、聖ピオ十世会が全世界に広がっていて、たとえ会員の数は3万人には足りないとしても、司祭や修道者の数を数えると約1000人ぐらいのものですけれども、しかし全世界に渡っているので、「色んな国や、色んな言葉や、色んな習慣や考え方があるけれども、しかしその私たちのアイデンティティは、私たちの理想は1つである。イエズス・キリスト、司祭である、最高司祭であるイエズス・キリスト、この司祭の聖徳を求める事にある。」

新しく選ばれた総長様は、「共贖者である聖母の神学校」の校長を長年勤めた方でした。「聖ピオ十世会の目的は、聖なる司祭を養成する事にあるので、聖ピオ十世会の最も高い理想は、『司祭の聖徳』にあって、司祭が聖であればあるほど、学識も、また聖徳も高ければ高いほど、それだけ多く、多くの信徒の方も聖徳へと導く事ができる。」

ですから、聖ピオ十世会をもしも1つにまとめる事ができるとしたら、「高い司祭の聖徳の追求をする」という、「私たちもますます聖ピオ十世会の会憲に従って、追求する事である」と言うに違いないと思いました。そのような発表が数日後にされると思います。

この聖ボナヴェントゥーラの今日祝日は私たちに、カトリックの信仰のこの最も核心である、「イエズス・キリストに倣う、第2のキリストとなる」という事を私たちに提示していると言えます。

⑶ 今日の最後の、私たちの黙想の最後の遷善の決心として、聖ボナヴェントゥーラに倣って、私たちもイエズス様の聖徳に倣う、という決心を立てる事に致しましょう。またイエズス様の聖徳に最も倣った者は、確かにアシジの聖フランシスコであって、聖パウロでありますけれども、しかし更にそれを完成されたのが、マリア様です。
マリア様こそ、イエズス様の全くその聖徳の完璧な鋳型となる方でした。ですからますます、マリア様への信心を続けていきたいと思います。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

2018年7月13日(金) 聖母の汚れなき御心の随意ミサ 「今日、マリア様が私たちに思い出させようとされる、第二バチカン公会議の後に全く失われ、忘れ去られようとしつつある真理」

2018年08月30日 | お説教・霊的講話
2018年7月13日(金)聖母の汚れなき御心の随意ミサ
小野田神父 説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2018年7月13日、聖母の汚れなき御心の随意ミサをしています。

このミサが終わった後に、一緒に終課を唱える事に致しましょう。

聖ピオ十世会では今総会がなされています。

7月11日にまず最初に、12年の任期で新しい総長様が選ばれました。その方は日本にも来られた事がある、イタリア人のダヴィデ・パリャラーニ神父様で、そして補佐としては、今度日本にいらっしゃるデ・ガラレタ司教様が第一補佐に、そして第二補佐には、フランスの管区長を今までなさっておられたブシャクール神父様が第二補佐になられました。とても3人とも素晴らしい神父様たちで司教様で、そして私もよく存知上げているので楽しみにしております。

フェレー司教様と今までの補佐をなさって下さった方は、本当に長い間、しかし大変な仕事をなさって下さって、本当に感謝しております。フェレー司教様については、堅振などでまた日本にも度々いらして下さる事を期待しています。この新しい総長様と補佐の為にお祈り下さい。



“Adeamus cum fiducia ad thronum gratiae.”
「信頼を持って、恵みの玉座に近付こう。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は7月13日です。

「あれ?金曜日なのに、なぜマリア様の汚れなき御心のミサをするのですか。」
なぜかというと、今日は7月13日で、マリア様がファチマで子供たちに重大な秘密を与えて下さった、ファチマの中で最も重要な御出現の1つであるからです。また同時に、マリア様の汚れなき御心は、イエズス様の聖心に近付く一番の近道ですから、天主へと向かう道ですから、このマリア様の汚れなき御心の随意ミサをしようと思いました。

もう1つの理由は、日本では1948年から(私の記憶が正しければ)、本当は刑法では今でも禁止され続けているのですけれども、しかしその禁止されているはずの堕胎が、罰を受けない、という法律ができた、そこでこの日から日本での国民が、自分の最も将来の日本の未来である子供たちを、無残にも虐殺して、闇に捨て去ってしまうという悲しい戦争が始まった日だからです。

そこで、2つの意向でこのミサを立てています。1つは、マリア様の汚れなき御心の御恵みが皆さんに、聖ピオ十世会に、日本の皆さんに、たくさんありますように、皆さんの意向の為に、この前の25周年のお祝いの感謝として、皆さんの為に御ミサをしたいと思っています。

そしてもう1つは、今まで犯された日本で亡くなった多くの、3,846万人の子供たち、その罪の償いの為に、ミサを捧げたいと思っています。早くこの日本の戦争が終わりますように、との願いを込めて捧げたいと思っています。

では今日このミサでは、もう既に何度も何度も黙想しましたけれども、

⑴ 7月13日にあった事を黙想致しましょう。

⑵ そして私たちはその黙想で、マリア様が特に仰りたかったこの2つの事を黙想して、

⑶ 最後に遷善の決心を立てる事に致しましょう。


⑴ マリア様はいつもの通り7月13日に、3人の子供たちに現れました。マリア様はルチアが、「あなた様は一体何をお望みですか?」と聞くと、「私は、あなたたちが13日に毎月ここに来る事を望みます。そして平和の為にロザリオを毎日唱える事を望みます。なぜならば、私だけがそれをあなたたちを助ける事ができるからです」と仰いました。するとルチアは、あまりにも多くの人々が「嘘だろう」「嘘だろう」と言うので、マリア様にお願いをします、「是非、皆が信じる事ができるように、奇跡を行って下さい。」

ルルドでも同じ事が起こりました。ベルナデッタにマリア様が現れた時に、皆が信じないので、聖ベルナデッタは、「どうぞ奇跡を行って下さい」と言うと、マリア様はにこりと微笑むだけでした。そしてルルドから後に、「泉が湧く」という奇跡を行いました。

しかしファチマでは、「はい、10月に奇跡を行ないましょう」という約束をします。この約束は8月にも9月にも2回なされます、「10月に必ず奇跡を行う」と。そして太陽の大奇跡を、10万人の前で行ないました。そしてその後に第3に、「特に祈りと犠牲を捧げなさい」と仰いました。「特に犠牲を捧げる時には、『イエズスよ、これは御身を愛する為、罪人の回心の為、また聖母の汚れなき御心に対して犯される罪を償う為です』と言って犠牲をしなさい」と仰いました。

すると突然マリア様は、5月にも6月にもなさったように、手を広げて、御自分から光を出されます。でも今度は、子供たちが天主の中に包まれている、あるいはマリア様の汚れなき御心を見る、というのではなくて、この光は地を貫いて地面に光が貫きます。すると、地面はあたかも無かったかのようになって、火の大海原を見ます。そこには多くの霊魂たちが、雪のようにたくさん舞い降りていて、そして燃えた炭火のように、轟々と上がっては落ち、上がっては落ち、そして恐ろしい獣のような形相をした悪魔たちによって、拷問を受けている姿を見ます。その時に子供たちは、苦しむ地獄の霊魂たちの叫び声や恐ろしい様子を見ました。その時にあまりの恐ろしさのあまり、死んでしまうかのようでした。ただ見ただけで、恐怖のあまり心臓が止まってしまうかのようでした。「もしもマリア様が助けてくれなかったら、恐ろしさのあまり、もう死んでいたでしょう」と言っています。

私たちも、何か身の毛のよだつような恐ろしい光景を見た、と想像して下さい。もうこれでもう死んでしまうかもしれない、という恐ろしい恐怖を感じたと思って下さい。子供たちはそれを一瞬見ます。しかしマリア様は優しい御母であったので、本当の事を見せながらも、それをほんの瞬間で終わらせて下さいました。

「あなたたちは、かわいそうな霊魂、罪人たちが落ちる地獄を見ました。彼らを救う為に、天主はこの世で私の汚れなき御心に対する信心を確立する事を望んでいます。もしも人々がそれを聞くならば多くの霊魂は救われるでしょう。」

もしもマリア様の汚れなき御心の信心を確立できないならば、マリア様のご要求がなされないならば、「ロシアは世界中に誤謬を広めて、教会を迫害して、飢饉、戦争と、教会の迫害を以て、多くの人々は、善人も悪人も死ぬでしょう。無くなってしまう国々もあるでしょう」と、この地上があたかも地獄のようになってしまうかのような事を仰います。

しかしそれを防ぐ為にマリア様は、「後にロシアを汚れなき御心に貢献する事をお願いしに来るでしょう」と言いました。そして、「最後には汚れなき御心は勝利するでしょう。ロシアは回心するでしょう。教皇様は汚れなき御心にロシアを奉献するでしょう」と約束しました。

「ロザリオを唱える時に、一連の後に、『あぁイエズスよ、我らの罪を赦し給え。我らを地獄の火より守り給え。また全ての霊魂、殊に主の御憐れみを最も必要とする霊魂を天国へ導き給え』と祈りなさい」と仰って、ルチアに「何か願う事はあるか?」と聞くと、「ありません」とルチアは答えます。するとマリア様は話を終えて、天に戻られました。

⑵ 一体この7月13日で、私たちにマリア様は今日何を思い出させようとしているのでしょうか?

第二バチカン公会議の後に全く失われ、忘れ去られようとしつつある真理を思い出させようとしています。

1つは、「私たちは、永遠の命を受ける為にここに生まれてきたけれども、しかしそれをする事を拒否して、多くの霊魂たちが地獄に落ちている」という現実です。

イエズス様が、もしも天主の御一人子が人としてお生まれになったのも、十字架の上で亡くなったのも、御血を流されたのも、そして御聖体を制定されたのも、公教会を制定されたのも、司祭を世界中に送ったのも、世の終わりまで私たちと共に留まるのも、私たちを地獄の火から救おう、という思し召しからでした。

しかしイエズス様の聖心のこの愛の御業も、多くの人にとっては、冷淡と、忘却と、そして軽蔑とを以て報いられています。現代に至っては、未信者のみならず、イエズス・キリストを信じるという人でさえも、聖書の中でイエズス様がこれほど仰っているにもかかわらず、地獄を否定したり、あるいは「何をしても地獄には行かない、救われる。憐れみの天主は誰をも救ってくれるから大丈夫だ。何をしても良いんだ」と、そう否定する人もいます。

しかしマリア様は、そのような時代が来る事を予見したかのように、御存知であるかのように、私たちにあらかじめ警告されています、「多くの霊魂たちは、一生の、人生の目的を果たさずに地獄に落ちている。それによってマリア様は非常に悲しんでいる。天主は悲しんでおられる。

この霊魂を救う為には、天主は特別の宝物を与えられた、最高の手段を与えられた。それが聖母の汚れなき御心である。これを使わなければ、この最後の手段を使わなければ、多くの霊魂はもうこのまま地獄に行ってしまう。それを救うか救わないかは、私たちが汚れなき御心の信心をするかしないかにある」という壮烈な、最高の最後のメッセージを、私たちに下さったのです。

ですから今日の7月13日のメッセージは非常に大切です。霊魂を、たった一人の霊魂を救われる事を望んでおられるマリア様、イエズス様。この霊魂を救うか救わないかは、この汚れなき御心の信心にかかっています。

第2に私たちに教えようとしている事は、「もしも私たちが天国へのこの救い、天主への信仰・礼拝・希望・愛、霊魂を救う、というこの超自然の意向がなければ、もしもこの地上の事だけを考えてしまっていたとしたならば、この地上は地獄のようになってしまう」という事です。

「人々は人々に対して戦いを挑んで、特に弱い者は守られずに、更にロシアは無神論とそして共産主義、唯物主義による誤謬を広げて、『この地上の事だけで全てだ。人間は動物と同じだ、物質しかない。寝て食べるだけだ』という世界を作ってしまう、その挙句の果ては、人間の世界が、奴隷のような状態となってしまう、そして地獄の恐ろしい世界がやって来るのだ。」

この地獄のような世界が、共産主義の下で地上にまだあります。このような国々の話を聞くと、身の毛ものよだつばかりのかわいそうな国民たちの話を聞きます。「しかし、もしも私たちが、『マリア様の汚れなき御心』という最高の武器を使わなければ、最高の手段を使わなければ、その世界はますます広がってしまうだろう。」

今ちょっと後退したかのように見える、眠っているかのように見えるけれども、また息を吹き返して、世界中にその誤謬を浸透させて、ただ単にイデオロギーや思想だけではなく、本当にそのような世界を作り出してしまう危険があります。

昔あったソ連が世界中に広がり、世界がソビエト連邦になってしまう危険さえもあります。アメリカの大統領がどれほどネゴシエーションが上手くて、色々なやり方が上手い人であったとしても、そのような国々の会談にまんまと上手く丸め込まれて、結局は大損をした、という事もあり得ます。

私たちにとって唯一の手段は、「聖母の汚れなき御心に対する信心」です。これを以てマリア様は特別に私たちを憐れんで、特別の方法で平和を与えて下さるに違いありません。「霊魂の救い」という私たちの究極の目的と、社会の平和。ですから、特に日本が平和でありますように、特に弱い者たちが守られますように、私たちが守られますように、この為にもマリア様の汚れなき御心に対する信心を持たなければなりません。

⑶ では最後に、今日は7月13日ですから、マリア様の汚れなき御心に対して犯される罪を償う、という初土の意向を持って、今日は初土ではありませんけれども、その信心を持ってこのミサに与って下さい。御聖体を拝領して下さい。

そしてマリア様の汚れなき御心に、特別の御憐れみと御恵みを乞い求めましょう。私たちがイエズス様の聖心にますます適う者であって、救霊をより簡単に、より早く聖徳に達する事ができますように、日本と世界の平和の為に、特にマリア様の汚れなき御心にお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

2018年9月2日聖霊降臨後第15主日 二級主日の聖伝のミサのテキストを紹介します

2018年08月30日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2018年9月2日の主日の聖伝のミサのテキストをご紹介いたします。

聖霊降臨後第15主日 二級主日 緑
ミサ聖祭解説:キリストは、われらの生命であり、復活である。
ナイムの若者は、罪によって死ぬ教会の子らをかたどっている。教会が、彼らのために祈るので〈入祭文。集禱文〉、主は再び彼らを生かし、新しい歌をうたいうるようにさせ給うのである。〈奉献文〉
主はあわれみの天主であり、たえず御慈悲を下し給う。しかし、思いあやまってならぬことは、天主のあわれみにたのみすぎ、天主をあなどってはならぬということである。
われらが復活の霊を受けたのは、肉の人間としても業を行うためではなく、霊にしたがって生きるためである。だから、生きている間に、善を行うように心がけねばならない。

Dominica Decima quinta post Pentecosten 聖霊降臨後第十五の主日
II Classis 二級祝日
Ant. ad Introitum. Ps. 85, 1 et 2-3. 入祭文 詩篇 85ノ1 、2-3.
Inclína, Dómine, aurem tuam ad me, et exáudi me : salvum fac servum tuum, Deus meus, sperántem in te : miserére mihi, Dómine, quóniam ad te clamávi tota die. 主よ、御耳を傾けて私の願いをきき給え、天主よ、御身に希望する下僕を救い給え。主よ、終日主に叫ぶ私をあわれみ給え。*
Ps. ibid., 4. 詩篇 詩篇 85ノ4
Lætífica ánimam servi tui : quia ad te, Dómine, ánimam meam levávi. 主よ、下僕によろこびを与え給え、私は心を主にあげ奉る。
V/.Glória Patri. V/. 願わくは聖父と・・・(栄誦)。
Inclína, Dómine, aurem tuam ad me, et exáudi me : salvum fac servum tuum, Deus meus, sperántem in te : miserére mihi, Dómine, quóniam ad te clamávi tota die. 主よ、御耳を傾けて私の願いをきき給え、天主よ、御身に希望する下僕を救い給え。主よ、終日主に叫ぶ私をあわれみ給え。
Oratio. 集祷文
Ecclésiam tuam, Dómine, miserátio continuáta mundet et múniat : et quia sine te non potest salva consístere ; tuo semper múnere gubernétur. Per Dóminum. 主よ、たえざる御あわれみをもって、主の教会を浄め、強め給え、また、御身なくして教会は、救いの聖寵を保ちえないのである。願わくはたえず、御助力をもって教会を導き給え。天主として…。
Léctio Epístolæ beáti Pauli Apóstoli ad Gálatas. 使徒パウロの、ガラツィア人への書簡の朗読
Gal. 5, 25-26 ; 6, 1-10. ガラツィア 5ノ25-26 ; 6ノ1-10.
Fratres : Si spíritu vívimus, spíritu et ambulémus. Non efficiámur inanis glóriæ cúpidi, ínvicem provocántes, ínvicem invidéntes. Fratres, et si præoccupátus fúerit homo in áliquo delícto, vos, qui spirituáles estis, huiúsmodi instrúite in spíritu lenitátis, consíderans teípsum, ne et tu tentéris. Alter alteríus ónera portáte, et sic adimplébitis legem Christi. Nam si quis exístimat se áliquid esse, cum nihil sit, ipse se sedúcit. Opus autem suum probet unusquísque, et sic in semetípso tantum glóriam habébit, et non in áltero. Unusquísque enim onus suum portábit. Commúnicet autem is, qui catechizátur verbo, ei, qui se catechízat, in ómnibus bonis. Nolíte erráre : Deus non irridétur. Quæ enim semináverit homo, hæc et metet. Quóniam qui séminat in carne sua, de carne et metet corruptiónem : qui autem séminat in spíritu, de spíritu metet vitam ætérnam. Bonum autem faciéntes, non deficiámus : témpore enim suo metémus, non deficiéntes. Ergo, dum tempus habémus, operémur bonum ad omnes, maxime autem ad domésticos fídei. 兄弟たちよ、私たちが霊によって生きているのなら、また霊によって歩もう。いどみあい、ねたみあって、虚栄を求めることのないようにしよう。兄弟たちよ、もしある人の過失を見つけたなら、霊の人であるあなたたちは、柔和な心をもって、その人を改めさせよ。そして、自分も誘われないように気をつけよ。たがいに重荷を負え。そうすれば、あなたたちはキリストの法をまっとうできる。何者でもないのに、何者かであるかのように思うのは、自分を欺くことである。各々自分のおこないをしらべよ。そうすれば、他人についてではなく、自分についてだけ誇る理由を見出すであろう。各々自分の荷を負っているからである。みことばを教えてもらう人は、教える人に自分のもちものを分け与えよ。自分を欺いてはならない。天主を侮ってはならない。人は蒔くものを収穫するからである。すなわち自分の肉に蒔く人は、肉から腐敗を刈り取り、霊に蒔く人は、霊から永遠の命を刈り取る。善をおこないつづけて倦んではならない。たゆまず続けているなら、時が来て刈り取れる。だから、まだ時のある間に、すべての人に、とくに信仰においての兄弟である人々に、善をおこなえ。
Graduale. Ps. 91, 2-3 昇階誦 詩篇 91ノ2-3
Bonum est confitéri Dómino : et psallere nómini tuo, Altíssime. 主をたたえ、いと高き御者の御名をうたうのは、よいことである。
V/. Ad annuntiándum mane misericórdiam tuam, et veritátem tuam per noctem. V/. 朝には御いつくしみを、夜には主の真実を告げるために。
Allelúia, allelúia. V/.Ps. 94, 3. アレルヤ、アレルヤ。V/.詩篇 94ノ3.
Quóniam Deus magnus Dóminus, et Rex magnus super omnem terram. Allelúia. 主は偉大な天主であり、全地に君臨する王である、アレルヤ。
+ Sequéntia sancti Evangélii secúndum Lucam. ルカによる聖福音の続誦。
Luc. 7, 11-16. ルカ 7ノ11-16.
In illo témpore : Ibat Iesus in civitátem, quæ vocátur Naim : et ibant cum eo discípuli eius et turba copiósa. Cum autem appropinquáret portæ civitátis, ecce, defúnctus efferebátur fílius únicus matris suæ : et hæc vidua erat : et turba civitátis multa cum illa. Quam cum vidísset Dóminus, misericórdia motus super eam, dixit illi : Noli flere. Et accéssit et tétigit lóculum. (Hi autem, qui portábant, stetérunt.) Et ait : Adoléscens, tibi dico, surge. Et resédit, qui erat mórtuus, et cœpit loqui. Et dedit illum matri suæ. Accépit autem omnes timor : et magnificábant Deum, dicéntes : Quia Prophéta magnus surréxit in nobis : et quia Deus visitávit plebem suam. そののち、イエズスがナインという町においでになったときも、弟子たちとおおぜいの人とがついてきていた。イエズスが町の門に近づかれたとき、かつぎ出されてくる死人におあいになった。それはひとり息子で、その母親はやもめだった。町の人も大勢、その母親といっしょについてきていた。さて、やもめを見てあわれにお思いになった主は、"泣くではない"といい、棺に近づいて手をおふれになったので、かつぐ人も足をとめた。イエズスが、「青年よ、私がいう。起きよ!」とおおせられると、死人は起きなおって、ものをいいはじめた。イエズスは、息子を母親におわたしになった。人々はおそれ、天主をあがめ、「偉大な預言者がわれわれの中に出た!」とか、「天主が、み民を訪れてくださった!」などといった。
Credo 信経
Ant. ad Offertorium. Ps. 39,2,3 et 4. 奉献文 詩篇 . 39ノ2, 3 ,4.
Exspéctans exspectávi Dóminum, et respéxit me : et exaudívit deprecatiónem meam : et immísit in os meum cánticum novum, hymnum Deo nostro. 私は、根気強く主をまちのぞんだ、そして主は、私をかえりみ給うた。主は私の願いをききいれ、私の口に、新しい歌、天主への讃美を置き給うた。
Secreta. 密誦
Tua nos, Dómine, sacramenta custodiant : et contra diabólicos semper tueántur incúrsus. Per Dóminum. 主よ、主の聖なる秘蹟が、われらを守り、いつまでも地獄の攻撃よりわれらを守らんことを。天主として・・・。
Præfatio de sanctissima Trinitate 三位一体の序誦
Ant. ad Communionem. Ioann. 6, 52. 聖体拝領誦  
Panis, quem ego dédero, caro mea est pro sǽculi vita. 私の与えるパンは、世の生命のためにわたされる私の肉である。
Postcommunio. 聖体拝領後の祈
Mentes nostras et córpora possídeat, quǽsumus, Dómine, doni cæléstis operátio : ut non noster sensus in nobis, sed iúgiter eius prævéniat efféctus. Per Dóminum. 主よ、願わくは、この天の賜の力によって、われらの身体と霊魂とを満たし、人間的な考えではなく、この秘蹟の聖寵によってわれらを導き給え。天主として・・・・。

2018年7月8日 聖霊降臨後第7主日 「堅振の秘跡―実りと王と主への畏れ」

2018年08月29日 | お説教・霊的講話
2018年7月8日(主日)聖霊降臨後第7主日のミサ
小野田神父 説教


聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。今日は2018年7月8日、聖霊降臨後第7主日のミサをしております。

まず前回のミサの時には、私の司祭叙階25周年のために非常に盛大な祝賀会をして下さいまして感謝致します。皆さんからのお祝いの言葉と祈りに励まされて、ますます忠実な、イエズス・キリストの後を慕う司祭となる事ができるようにと思っています。

総会が7月11日から始まりますが、今日は御ミサの直後、司祭の退場の時に、総長様からの指示によって総会の準備の為のノベナをミサの退場の前にしたいと思います。

「Veni Creator」と「Sub tuum」を歌って祈ります。そこで退場の前にこれを歌いますので、皆さんもどうぞ一緒に歌って下さい。良い、実りのある総会となりますように、お祈り致しましょう。

今日の公教要理は、夏休みでここではありません。

その代わりに、岐部ホールという聖イグナチオ教会の隣にある所で、プロライフの方がDr.リガヤ・アコスタというフィリピンの方が、お話をされるので、そのお話を聞きに行きたいと思っています。

実はこの方をご家族をよく知っていて、フィリピンではいつも一緒にプロライフの話を運動をしていました。そこで聖ピオ十世会のマニラの教会にもお呼びして、お話をして下さった事もありました。ぜひ応援に駆けつけたいと思っております、どうぞ公教要理を夏休みにする事をお許し下さい。明日は7時からミサがあります。

次のミサは、すぐこの次の主日で15日、それから海(産み)の日の16日、10時30分から両方ともあります。特に7月16日の海(産み)の日は、午後16時からマーチ・フォー・ライフがあるので、もしも皆さん時間を作って頂ければ参加して下さればと思っています。

8月はやはり色々な予定があります。8月11日から15日までは聖母の小黙想会を考えています。そしてデ・ガラレタ司教様も来日されます、東京で堅振式も授けて下さいます。堅振を受けたいという方は、聖伝の儀式によって堅振を、という方は是非申請をなさって下さい。よろしければ会長にその旨をお伝え下さい。


“Nunc vero liberati a peccato, servi autem facti Deo, habetis fructum vestrum in sanctificationem.”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

「しかし、罪から解放された今、天主の奴隷となって聖徳の実を結んだ。」聖パウロはこの書簡の中でこう言っています。

典礼学者によると、「今日の主日から聖霊降臨後の主日は、これから何回か、2つの対立したイメージを私たちに示す」と説明しています。「今日のミサは、その始まりだ」と言います。

典礼学者によると、イメージは、罪の奴隷と天主の奴隷、この世の王国と天の王国、あるいは悪いキリスト信者と良いキリスト信者の対立のイメージがあります。今日のイメージは「実を結ばない木と、実を結ぶ良い木」です。

今日の書簡と福音のテーマは、「この良い実とは何か?良い実を結ぶとは何か?」という事を話しています。この今日のミサのテキストを黙想してみると、このミサについて考えれば考えるほど、「実を結ぶ」という事が出てきます。

あるいは入祭誦と昇階誦で、「永遠の偉大なる王が出て来る。全ての民よ、この王に拍手喝采を送れ。讃美せよ」という、全ての土地を支配すべき王、イエズス・キリストについて語られる、という事も出てきます。

あるいは、「さぁ子供たちよ、いらっしゃい、おいでなさい。主への畏れを教えよう」等ということも話題になっています。

これらの3つの言葉を見ると、考えれば考えるほど、ちょうどこれはこのミサは、この7月8日の、聖霊降臨後第7主日の、特に東京の私たちの為に、堅振の事を準備させる為に、御摂理によってあるミサであるように思われてなりません。

そこで今日はその堅振の準備の為の第1として、このミサを一緒に黙想する事にしましょう。

⑴ 第1の点はですから、「実りとは何か?」です。

私たちはただ葉っぱを付けるだけでは足りなくて、お花を咲かせるだけでは足りなくて、実を結ばなければならない。実りとは何か?

⑵ 第2には、この「王とは何か?」
「実は2人の王がいるのだ」と聖イグナチオは言います。

⑶ 第3に、では「その王に仕える為の、主への畏れとは何か?」

この3つがどれほど堅振の秘跡に結び付いているか、という事を黙想したいと思っています。

⑴ 第1は実り。
「実り」というのは、果実の木の、あるいは植物の一番最後に、フルーツというのは一番最後にあるものです。そしてこの実りというのは、普通は甘かったり、それを得ると非常に甘美なものです。そして私たちの人生にも、この実りをもたらさなければなりません。最後にこの何か非常に甘美な、とても甘い、デザートに使う事ができるようなものを、実らせなければなりません。

聖パウロは言います、「これは永遠の命だ。」「それに反対する実もある。罪の実であって、罪の実は、永遠の死である。永遠の苦しみ、命とは言う事ができない死である。」「それで私たちは、この本当の甘美な実りをもたらさなければならない。」

⑵ では、それを望むのは一体誰なのでしょうか? 2人の対立する王があります。

これは第2の点ですけれども、聖イグナチオの霊操には「王たるキリストの呼びかけ」という黙想があります。その黙想によると、「王たるキリストは、自分の実りを、甘美な実りをもたらす為に、兵士たちを準備する、しもべたちを準備する」という話があります。

聖イグナチオによると、「最初に出てくるのは、バビロンだ。」バビロンの平地では、煙と炎で薄暗くて、あまりよく分からない、はっきりしないのですけれども、「その奥に高い玉座があって、そこにおどろおどろしい獣のような王が座っている。サタンであって、ルチフェルであって、悪魔の頭が座っている。そしてルチフェルは、自分の支配下に人々を服させようとして、世界中の全ての所に下僕たちを送りつける、奴隷を送りつける、兵士たちを送りつける」とあります。「そしてその兵士たちは、3つの道具を以てルチフェルの方におびき寄せる、誘い寄せる」と言うのです。

「1つは、この世の地上での欲。この地上の物事を、財産をむやみに欲しがらせる。」
「第2は、この地上での虚しい名誉を、人気を望ませる。」
「そして第3には、自分でどうしようもないほどの、膨れ上がってしまった傲慢を植え付ける。」
「これがルチフェルの下僕たちに渡す指令であって、メッセージである。」
ルチフェルは傲慢によって罪を犯しました。そして人々を天主と並ぶものとさせようと、傲慢に落とさせようとするのです。

イエズス会の創立者は、さらに第2の場面を見せて、それによると、エルサレムの小高い所で、そこは天気が良くて、空気が澄み渡っていて、はっきりしています。何もかも明白です。そこにイエズス様が立って、御謙遜に立っておられます、王の王であるイエズス様が立っておられます。そして仰る事は、「私はこの全世界を、私の国の支配下に置きたい。その為に自分の国の拡張の為に、人々を送る、弟子たちを送る、兵士たちを送る。」

そしてその兵士たちに言う事は、「私は、お前たちと同じものを食べ、お前たちと同じ服を着て、お前たちと同じ苦しみを受けて、一緒に戦おう。そしてその最後には、勝った暁には、お前たちと同じものを分かち合おう。私の持っている富を、お前たちに分かち合おう。」

そしてそのこの優しい王は、この弟子たちに、兵士たちに、
「この世の財産への軽蔑」と、
「第2に、十字架とその苦しみを愛する事を教えて、」
「最後には、謙遜を教える」とあります。
「そしてこの十字架の苦しみへの愛と、謙遜の実りは、永遠の命である。」

ところで、イエズス様の為に送られる。この兵士たちというのは一体誰でしょうか?赤子ではありません、兵士です。つまりこれは、洗礼を受けて天主の子供となっただけではなくて、堅振を受けてキリストの兵士となった、私たちの事です。

⑶ 最後の点は、アレルヤ誦で、「子供たちよ、いらっしゃい。私はお前たちに、主への畏れを教えよう」とあります。この「主への畏れ」という言葉を聞いて、もちろん皆さんはピンと来たと思いますが、これは聖霊の七つの賜物の内の、第一です。

聖霊の七つの賜物は、「敬畏」、それから「孝愛」。敬畏というのは、主の畏れ“timor Domini”、そして孝愛というのは、天主を父として、孝行をする愛の事です、“pietas”
次に「剛毅」、それから「知識」。剛毅は“fortitudo”、知識は“scientia”
それから「賢慮」、賢慮というのは、「聖霊からの特別のアドバイス」という意味で、“consilium”
そして第六は「聡明」“intelligentia”これは「天主の神秘を深く知る事ができる」という特別の御恵みです。
そして最後にあるのは「知恵」“ sapientia”、「上智」と専門用語で公教要理ではなっています。

この七つの賜物の最初が出て来ています。主への畏れがなければ、上智までは辿り着けません。聖霊の七つの賜物を全て受けようと思うならば、主への畏れがなければなりません。

「主への畏れ」というのは一体何でしょうか? 「謙遜」の事なのです。なぜかというと、聖トマス・アクィナスによれば、「畏れには2つあって、奴隷の怖れと、あるいは子供の怖れ。」
「奴隷の怖れというのは、私たちが受ける罰を怖れる。」
「しかし子供の怖れというのは、悪を成した事によって、愛すべき方を悲しませてしまうような事を怖れる。」
つまり、私たちが罪を怖れるという事を、罪を犯してしまうという事を怖れる、主を悲しませてしまうという事を怖れる、これが謙遜であるからです。

では、今日聖霊降臨後第7の主日を深く黙想しつつ、堅振の準備を、堅振を受けた御恵みをもう一度確認する事に致しましょう。私たちも実をもたらす事ができますように。

今日、私たちの元にイエズス様と聖父は入って来ます。教会という畑に植えられた木を、一つひとつ、イエズス様と聖父は見ます。イエズス様はその管理人であって、聖父はその畑のオーナーです。そして聖霊は太陽のように御恵みを燦々と降らせて、私たちに「実を成るように」としています。

今日イエズス様と聖父は、一緒にこの木を一つひとつ見ていて、「あれ?この木はあんまり、葉っぱは付いているけれども、実は成っていないなぁ」という木の前に止まるかもしれません。実はこの木は私です。「この木が植わっていると邪魔だから、切ってしまった方がいいんじゃないか?」するとイエズス様は、「待って下さい。今日、この十字架の御血からの水で、肥やしで、豊かになるはずです。御聖体によって養われるはずです。豊かな実りをもたらすはずです。どうぞお待ち下さい。まだこの木は堅振の秘跡を受けていないのですけれども、もうすぐ受けるはずです。お待ち下さい。今度いらっしゃる時には、豊かな実を結んでいる事でしょう。」イエズス様は私たちの為に執り成して下さっています。

マリア様にもお祈りしましょう。マリア様は豊かな実を実らせた方でした。私たちもマリア様に倣って、豊かな実を結ぶ事ができますように。

「しかし、罪から解放された今、天主の奴隷となって聖徳の実を結んだ。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

聖ピオ十世会デ・ガラレタ司教様が日本に来られた時の写真をご紹介いたします。

2018年08月26日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

聖ピオ十世会第一補佐デ・ガラレタ司教様が日本に来られて東京と大阪でミサをお捧げくださいました。その時の写真をご紹介いたします。

天主様の祝福がいつも豊かにありますように!

トマス小野田神父






第二バチカン公会議によるよりエキュメニカルな教会に向けて。信徒中心の教会。土着化の教会。過去からの断絶。

2018年08月25日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

ローマの宣教聖省から東京大司教区に通知が届いて、東京にネオ・カテクメナートの神学校が設立されるそうです。それによると、東京大司教に何の相談も無く、バチカンが一方的に東京に設立するそうです。東京大司教様が、寝耳に水で驚いているということをニュースで読みました。

この意味は、日本は第二バチカン公会議の改革の成果であるカリスマ運動を十分に受け入れていないので、バチカンが主導して押し付ける、ということです。

それで、三十五年ほど前のことを思い出しました。

藤枝聖アンナ・カトリック教会でのことを。

藤枝カトリック教会は設立百周年を祝ったばかりのことでした。

私たちの心に深く根付いていた御聖体に対する愛と尊敬と信心が、つまりカトリックの伝統的な信仰が、新しく司教様から任命されて藤枝にいらした主任司祭によって根こそぎにされました。

キリスト教の「土着化」というイデオロギーの前に、「カトリック信仰の要請する論理的結論」は無視されました。

御聖体に対する信仰、真の現存という信仰は、理解されませんでした。

ただあったのは、従順、従順、従順。

そう決まったから。

「でも私たち、地元では、百年以上前からこうしております。」

「私たちの主の前で、膝をかがめるのが聖書の教えです。」

今までそうすべきだと教えられて、やり続けてきたことが、突然、禁止されたのです。

カトリック教会がずっと百年以上いつもやり続けてきたことをやると、突然、「教会を離れた」と言われるようになりました!一体どっちが?!

私はまだ学生だったのですが「別の教会を作ったら?」と主任司祭から言われました。一体どっちが?!

昔からの信仰を保とうとする人は「キリステ」られました。これが、聖伝をキリステる新しいキリスト教会、信徒中心の教会、土着化の教会でした。

カトリックの伝統的な信仰、つまり、聖伝の信仰を保とうとするが故に、教会から「離れた」ことになってしまいました。

それから時を経て、今では、御聖体拝領の時だけではなく、ミサの間跪くことが禁止されています。跪く人々は、一致を乱す、教会の交わりにいない人々、離れつつある人々、逆らう人々、です。

教会法はカトリック信仰を守る為に作られました。しかし、教会法の精神と目的によらず、新しいイデオロギーを押し付ける為に権威が使われました。

将来的には、もっと酷いことになるでしょう。例えば、ネオ・カテクメナートの道を公に批判する人々は、教会を離れている、逆らう人々、教皇様と一致していない人々、と。

おっと、今日の話題は、これではありません。

ネオ・カテクメナートの道は、信仰の観点から異端的だと指摘されて来ています。カリスマ運動的で、正統信仰から外れている、と。たとえバチカンがネオ・カテクメナートを「認可」したとしても。

ネオ・カテクメナートの道は、日本の高松教区で痛ましいトラウマを遺し、深い傷をつけてしまいました。苦々しい実りをもたらしました。実りを見て、日本に合わないことは、明らかです。

原因が同じならば、同じ結果になるでしょう。たとえバチカンが一方的に運営するにせよ、東京大司教区では、また同じような悲劇が繰り返されることでしょう。

それどころか日本全体(アジア全体)へとその同じ悲劇が広まり、大混乱となるでしょう。信仰の破壊が進んでしまうでしょう。

日本の司教様たちがバチカンに陳情しても、効果はありませんでした。

カトリックの信仰の観点から話すのでなければ、説得力を持たないことでしょう。

「バチカンが決めたことだから、仕方がないよ。信仰を変えないと教会から離れたことになるから。」

多くの人々は、教会の信仰がどんどん変えられるのをそうやって受け入れてここまでやって来ました。

しかし、改革はまだまだ続きます。終わりを知りません。信仰は変えられ、公教要理はますます変えられるでしょう。

カトリックらしさは失われ切り捨てられ、カトリック教会というよりは、エキュメニカル教会とならなければならないからです。

主よ、憐れみ給え!

聖母の汚れなき御心よ、我らの為に祈り給え!

2018年7月7日(初土) 聖母の汚れなき御心の随意ミサ 「イエズスの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳」

2018年08月25日 | お説教・霊的講話
2018年7月7日(初土)聖母の汚れなき御心の随意ミサ
小野田神父 説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2018年7月7日、7月の初土曜日で、そして聖母の汚れなき御心の随意ミサ、初土の信心として行なっています。

今日この御ミサの終わった後には、いつものように感謝のお祈りを致しましょう。
今日は公教要理の時間に、御聖体降福式をするのを提案します。初土の信心をする為、そして聖ピオ十世会の総会がもうすぐ始まろうとして、その総会に参加する管区長や長上たちも40名ほど黙想会をしていて、その準備をしています。この総会が聖ピオ十世会にとって非常に大切なものですので、非常にうまくなされますように、そして大阪で地震で大きな被害を受けた所もありますが、この御聖堂はそれでも大きな被害を免れた事を感謝する為に、そして今日実は大雨で来たくても来れない方がたくさんいると思うので、その方々の為にもお捧げしたいと思います。

次のミサは来週のすぐ金・土・日・月とあります、いらして下さい。


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、昨日初金曜日でイエズス様の信心をして、そして「私たちはそのイエズス様の聖心に行く為にマリア様にも、汚れなき御心、天主への道であるマリア様の汚れなき御心に行くのが最高の道だ」という事を申しました。

そこでこの今日は、「このマリア様の汚れなき御心が天主へと導く道、イエズスの至聖なる聖心へと導く道である」という事、言い換えると、「イエズス様の聖心とマリア様の汚れなき御心が、分かち難く一致している」というその神秘について、一緒に黙想する事を提案します。

⑴ 一体なぜ、マリア様の御心とイエズス様の聖心はそんなに一致しているのか?

⑵ どれほど一致しているのか?

⑶ それは現代の私たちにとってどんな意味があるのか?

⑷ そして最後に、今日の遷善の決心を立てる事に致しましょう。


⑴ では一体なぜ、イエズス様の聖心とマリア様の御心がそんなに一致しているのでしょうか?その理由は何なのでしょうか?

イエズス様は永遠の昔から天主であって、愛であります。「天主は愛である」と聖ヨハネは言います。人間としてイエズス様の聖心が、愛によって鼓動を始めた時、マリア様の御胎内で御託身された時、イエズス様の人間としての聖心が鼓動を、愛の鼓動を始めました。その時に、愛に燃えたその対象は、最高の対象は、聖父への愛でした。「天に在す我らの聖父よ、願わくは御名の尊まれん事を。御国の来たらん事を。御旨の天に行なわるる如く、地にも行われん事を。」イエズス様はこれを望んでいました。聖父の栄光が、御名が聖とされん事を。聖父の御旨が全てにおいて果たされん事を。

またイエズス様の聖心は、被造物である人間への愛に満ちていました。救霊、私たち罪人である人間を贖い、天国に導く、その為に自分の全てを与える、という愛に燃えていました。その中で一番、特別の愛の選びを受けて、イエズス様から特に愛を注がれた方が、マリア様でした。マリア様の霊魂がなぜそれほど特別だったかというと、特別の愛の選びによって、マリア様の霊魂はイエズス様の、天主からの愛を全て、全く一つの拒みもなく、躊躇いもなく、ありのままを全て受け入れたからです。太陽の光が照らされた時に、その曇りの一点のないガラスのように、光をそのまま受けた霊魂だったからです。

マリア様は、罪、あるいは怒り、あるいは汚れ、あるいは自分の思い、あるいは自分の都合、というものは全くありませんでした。天主の愛を全てそのまま、自分のものとして愛し返したのでした。マリア様こそが、その愛を全て愛で返した、被造物として出来るその最高度のものとして愛し返した方でした。ですからマリア様こそ、天主の愛を完全に透き通す被造物でした、最高の被造物でした。

⑵ ではその度合いはどれほどだったのでしょうか?第2のポイントです。

2つ例をとると、これは聖ヨハネ・ユードの言った言葉ですが、先月6月で、「司祭をイエズス様がどれほど愛されているか」という事を黙想した時に、聖パウロの事が出ました。聖パウロはイエズス・キリストの愛を受け、イエズス・キリストの愛で返そうとした最高の一人です。

聖パウロはその書簡の中で書いています、「私にとって、この世の全てのものは塵芥である。イエズス・キリストを知るという事に比べたら、全く下らない塵であり、ゴミである、芥である。」

本当は聖パウロは、トイレで私たちが捨てるような物についてラテン語で書いております「…だ」と。(- -;)

そして「我にとって生きるというのはキリストである。もはや私が生きているのではない、キリストが私において生きている。私はこの事しか知ろうしない、イエズス・キリスト、十字架に付けられたイエズス・キリストだけを。」

そこで聖ヨハネ・クリゾストモはこう言っています、「聖パウロの心はイエズス様の心である。そして聖パウロは司祭の模範だ。パウロの心はキリストの心だ」と。

このヨハネ・クリゾストモの言葉を引用して、聖ヨハネ・ユードは言うのです、「もしも聖パウロが、『聖パウロの心がキリストの心だ』と言う事ができたとしたら、マリア様の御心については更に言わなければならない」と。「マリア様の汚れなき御心は、イエズス様の聖心と全く一致している」と。

もう1つの点は、聖ヨハネ・ユードによると、「愛、あるいは友情とは何か」という事を説明してこう言います、「人が誰かを愛するようになると、誰かと友達となると、その友達となった人は、友達と同じ事を望み、友達と同じ事を望まない。もしも友達が、『この事を好きだ』と言えば、自分も『このこれが好きだ』となるし、もしも『これが気に入らない』となると、自分も気に入らなくなる」と。「これは愛の影響で、同じものを望み、同じものを望まなくなる」と。

マリア様も、天主が望むものを望み、天主が望まない罪を忌み憎むようになりました。マリア様の中には、天主への愛に燃え立ち、そして罪への忌み嫌いに燃えていました。汚れなき御心は天主への愛に燃え立っていたのです。聖寵に充ち満ちた御心だったからです。ですからマリア様の御心は、イエズス様の聖心と同じものを望み、同じものを忌み憎んでいました。

ですから聖ヨハネ・ユードは言います、「マリア様の御心とイエズス様の聖心は一致している」と。「1つだ」と。

⑶ では第3に、私たちにとってどんな意味があるのでしょうか?

ファチマの100周年を私たちは祝ってきました。その100周年を祝って、今からそのもう一度ファチマの出来事を思い返すと、こういう事に気が付きます、「天使は最初から、この2つの一致した聖心について語っていた」と。

天使が最初に現れた時に、子供たちに言います、「イエズスとマリアの聖心は、お前たちの懇願の祈りの声に、非常に注意深く耳を傾けている。」イエズスとマリアの聖心について話しています。

第2回目に現れた時には、「イエズスとマリアの至聖なる聖心は、お前たちに憐れみの計画がある」と言っています。もちろん子供たちを通して、私たちについても言っています、「イエズス様とマリア様の汚れなき御心は聖なる聖心は、私たちに、皆さんと私について、憐れみの御計画がある」と。

そして最後に天使が現れた時には、私たちがいつもお祈りしているお祈りの中でこう言いました、「イエズスの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳によりて、あわれな罪人の回心を乞い願い奉る。」私もこれを翻訳する時に、とても不思議だなぁ、と思いながら翻訳しました。なぜかというと、「無限の功徳」という言葉は、「イエズス様の聖心の無限の功徳」だけではなくて、「イエズスの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳」この「2つの聖心の無限の功徳」と天使が言っているからです。これは、この2つの聖心が一致している、という事ではなくて一体何なのでしょうか。

もちろんイエズス様は天主として、全知全能永遠の天主が人となったその聖心として、無限の功徳があります。マリア様は、イエズス様の御憐れみと、イエズス様と一致している事によって、祈りによって、無限の功徳があります。御憐れみによって無限の功徳があります。

イエズス様が天主として私たちにその御恵みを与えようと望んでいるならば、マリア様の汚れなき御心は、イエズス様の至聖なる聖心によって私たちに同じものを与えようとしています。ですからマリア様が6月13日に、「私の汚れなき御心は避難所であって、天主へと導く道である、イエズスの聖心へと導く道である」と仰ったのは当然だと言えます。なぜかというと、私たちはマリア様の御心に行くと、イエズス様の聖心を見出すからです。イエズスの御望みと、イエズスの愛を見出すからです、それだけを見出すからです。「マリア様」というものは一切無くて、イエズス様の事だけがあるからです。

ちょうどこの「イエズス様の聖心とマリア様の御心が一致している」というのを7月に黙想するのは、ファチマの100周年の直後に黙想するというのは、ですから特別に意味があると思います。なぜかというと私たちは、聖ピオ十世会の2つの聖心が合わさった、聖ピオ十世会のシンボルマーク、このロゴを抱いた修道会であるからです。聖ピオ十世会が特に総会で、総長様やその管区長たちが長上たちが、聖ピオ十世会が創立の目的に適って、教会から与えられたその創立の目的に適って、会憲と自分のこの為すべき使命を果たしているか、自分のミッションを果たしているか、という事を吟味する総会が始まろうとしますけれども、その聖ピオ十世会の最もシンボル的なものは、「この2つの聖心が一致している、イエズス様の聖心とマリア様の汚れなき御心が1つである」という事ですから、私たちにとってこれを深く極めるという事は、どれほど大切でしょうか。

⑷ では、私たちはどんな決心を立てたら良いでしょうか?

イエズス様の聖心を深く愛して知るためにも、マリア様の汚れなき御心の信心を深める事に致しましょう。そしてマリア様の汚れなき御心を深く知り、愛する為にも、そのマリア様を特別に愛したイエズス様の聖心を深く知り、愛する事に致しましょう。そしてこの2つの聖心への信心を深めるば深めるほど、私たちはこの2つの聖心が1つである、と確信せざるを得ません。

そして私たちがこの2つの聖心への信心をすればするほど、ますますより早く、より簡単に、より完璧に、この聖心に近付き、それに似通ったものとなります。なぜかというと、マリア様が私たちの心をイエズス様へと近付けてくれるからです。私たちが真似るべき鋳型となってくれるからです。その鋳型に私たちがより良く入る事ができるように、イエズス様の聖心も手伝って下さいます。

今日は、この2つの聖心の神秘の中に深く入る事に致しましょう。そしてこのミサの後の御聖体降福式の時には、ぜひマリア様の汚れなき御心の信心をする事に致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

2018年7月6日(初金) 至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ 「イエズス様の聖心と御血の関係を黙想する」

2018年08月24日 | お説教・霊的講話
2018年7月6日(初金)至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ
小野田神父 説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2018年7月6日、7月の初金曜日のミサをしています。そして今日のこの御ミサの後に、聖時間を行ないましょう。

大阪では地震がありました。私たちの聖堂では、ヨゼフ様と入り口にあったマリア様の御像が傷んで壊れてしまいました。それから2つの御聖体顕示台も少し被害を受けましたが、しかしその他は無事で、ほんのちょっとあと揺れが多かったらもっと多くの被害を受けていたと思います。しかしそれで済んだ事を感謝します。
皆さんもご家族の中に被害を被られた方もあるかもしれませんが、しかし命が大事で、無事で良かったと思っています。全ての事に感謝致します。

今日は総長様からの特別の指示で、「総会の準備の為に、聖ピオ十世会の会員は大小斎を守る」という命令を受けていますので、もしも皆さんもできれば一緒にこの犠牲を捧げて下さい。少なくとも私たちは初金の聖時間を、総会の為にお捧げ致しましょう。

明日もミサがあります。それから来週も金・土・日とミサがあります。日曜日には主日にはドゥモルネ神父様がいらして下さいます。



聖父と聖子と聖霊との、御名によりて、アーメン。

今日は7月の初金曜日です。そこで7月は特別にイエズス様の聖なるいと尊き御血へ捧げられた月ですので、イエズス様の聖心と御血の、その2つの関係を黙想する事に致しましょう。

そして「イエズス様は永遠の昔から、私たちの霊魂を養う事を、私たちを悪から救う事を、死から救う事を考えておられた」と入祭誦で言われている通りに、永遠の昔からイエズス様の聖心は、御血を、御自分の御血を流される事を御計画でした。

⑴ 一体、イエズス様はその計画をどのように旧約聖書で予言していたのか?

⑵ 第2に、イエズス様の聖心は一体、歴史的にどうやって御血を流されたのか?

⑶ 最後に、私たちはこの2018年7月6日の今日、私たちはどうやったらその予言の成就である、イエズス様の御血の御恵みの功徳を受ける事ができるのか?

その黙想をする事に致しましょう。


⑴ イエズス様の聖心は、永遠の昔から御血を流す事を考えておられました。色々な前兆が旧約聖書の中にありますが、それを全て私たちは黙想する事ができないので、今日は3つだけ、少しだけ垣間見る事にします。

まず第1は、アダムとエヴァのそのすぐに生まれた子供たち、カインとアベルの兄弟の話があります。カインはお兄さんで、アベルは弟です。カインはこの大地の実り、労働の実りを天主にお捧げ致しました。アベルは子羊をヤーウェに天主にお捧げしたのですけれども、カインの生贄は天主に嘉されずに、そうではなく、アベルの生贄を非常に快く思われました。その事を知ったカインは非常に恨み、アベルを妬み、そして妬みの罪と兄弟殺し、殺人の罪がこの世に入りました。最初に人間の血が、殺害の血が流されました。

「アベルの罪の無い血は、天に復讐を求めて叫んでいた」と旧約聖書にありますが、これは来たるべき、罪の無いイエズス・キリストの流される御血の前兆でした。妬みと嫉妬により、イエズス・キリスト様は私たちの罪の償いとして捧げられますけれども、イエズス様の御血は天に復讐を叫ぶのではなく、イエズス様の御血は私たちの為の、憐れみと、赦しと、恵みを叫んで、天に昇られました。

第2の例として、御血の前兆としてエジプトでの話があります。イスラエルの民はエジプトで奴隷状態でした。強制労働、ピラミッド等を造る為などに強制労働をさせられて、そして子供がたくさん生まれるので、その子供たちの産児制限を強制させられました。しかしヤーウェはこのイスラエルの民をエジプトから解放させ、脱出させようと思われました。そしてその時に遣わされたモーゼは、ヤーウェから命令を受けて、「一歳になる傷の無い子羊を選んで、それを屠れ」と、「そしてその子羊の血をドアの鴨居に塗れ。もしもこのドアに子羊の血が塗ってあるならば、破壊をする天使たちがこの過ぎ越しの夜にエジプト中を見て、もしもその血が塗ってあるのならば、その家は守られる。しかしその血が塗ってないのであれば、ファラオの王の子供であれ、奴隷の子供であれ、家畜であれ、最初の男の子は全て殺される、命を奪われる。」そしてそのようになりました。

この子羊の、“一歳の子羊”というのは、イエズス・キリストの、天主の子羊の前兆でした。「イエズス・キリストの御血が私たちに適用される時、私たちがその御血の功徳を受けているならば、すなわち洗礼を受けているのならば、その御血の力を受けて、私たちは地獄の力から守られる。永遠の破滅から守られる」という事の前兆でした。

今晩私が第3に挙げたいと思うのは、イザヤの預言のビジョンです。ある時、預言者イザヤは、ある人がブドウを踏んで、お酒を作る為にブドウ酒を作る為に踏んでいるのですけれども、その服が真っ赤であるのを見ました。そこで、「一体どうして、あなたの服はそんなに赤いのですか?」と聞くと、その男の人は答えて、「私は、たった一人でこの酒槽でブドウを踏まなければならなかった。そして他の人々に、私と一緒に、助けて私と一緒にやってくれるように頼んだけれども、誰も助けに来てくれる人はいなかった。私はたった一人だ」と答えたビジョンがあります。これも、たった一人で、私たちの為に御血を流されて、ブドウが踏み砕かられるように、私たちの罪の重みによって踏み砕かれて、御血を流し尽くされたイエズス・キリスト様、来たるべき御受難の前兆でした、ビジョンでした。

⑵ 実際イエズス様は、歴史上どのように粉々に踏み砕かれて、御血を流し尽くしてしまったのでしょうか?第2のポイントは、実際にイエズス様がなさった事です。

お生まれになったその最初の瞬間から、イエズス様は御血を流されました。まだ赤ちゃんであった時、その時、天主の御摂理と御計画によって、割礼を受けました、8日目。“イエズス”とは“天主は救う”という意味で、その名前を付けられる時に御血を流されました。量はほんの少しだったかもしれません。しかし天主の流された御血であって、そして苦痛をイエズス様に与えた最初の贖いの天主の御血でした。

天主がイエズス様が流された御血は、むしろもしかしたら聖書に書かれていなくてもあったかもしれませんが、私たちの知っている限り、最初に流されたのはゲッセマニの園です。ゲッセマニの園では、罪の恐ろしさのあまり、私たちが犯した全ての罪を、世の初めから終わりまでの全ての罪を、イエズス様はビジョンで御覧になりました。天主のみがその罪の醜さ、その汚らわしさ、その邪悪さを理解する事ができます。なぜかというと、天主こそ聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、三重にして聖なる御方であって、天主こそが、その光り輝く天主こそが、その闇の暗さをよく理解する事ができるからです。

イエズス様は天主としてこの罪を、たった1つの罪であったとしても、粉々に打ち砕かされてしまうほどのその恐ろしさ、この醜さ、そのおどろおどろしさがあったにもかかわらず、この全てのその罪は、イエズス様の身にかかりました。その罪の醜さのあまり、イエズス様は血の汗を流して祈りました。血の汗。私たちも恐ろしい時の冷や汗を流したり、苦しさのあまりに髪の毛が抜ける、真っ白になってしまう、一晩でやつれてしまう、という時があるかもしれません。しかし更に苦悩が募ると、血管からもはや血が流れ出てしまって、皮膚を通り越して、血の汗を出す、と医者は言います。イエズス様はその苦悩の極度で、血の汗をダラダラとゲッセマニの園で流されました。

その次に、ユダは接吻でイエズス様を売り渡します。あれほど愛された、御恵みを受けた使徒であるユダは、お金の為にイエズス様を売り飛ばしました。後にユダは言います、「私は罪の無い人の血を裏切ってしまった、売り飛ばした。」そう言いながら、絶望のあまり、その銀30シェケルを神殿に投げつけます。罪の無い人、天主の御血を裏切ってしまったユダ。

イエズス様は連行されて、どれほどの虐待を受けた事でしょうか。殴り付けられたり、蹴飛ばされたり。その御体からはきっと、傷付けられた体から血が流れ出ていたに違いありません。鎖で縛り付けられた、あるいは叩かれたかもしれません。大司祭は、「お前はどんな事をするのか」と言うと、暴力を受けました。するとイエズス様は言います、「私が一体何か悪い事を言ったのか。もしもそうなら言ってみろ」と。しかし問答無用、残酷な取扱いを受けました。

その後には、食べ物も与えられず、水も与えられず、寝る所も与えられず、捨てられて、その翌日、ポンシオ・ピラトの前に引き渡されます。ポンシオ・ピラトはイエズス様に罪を見出しませんでした。しかし「懲らしめて解放しよう」という破綻した論理によって、「罪が無いけれども懲らしめる」と言われ、鞭打ちの刑を受けました。

イエズス様の敏感なきれいな御体から、鞭を受けた傷から、大量の御血が流されます。特に私たちの肉で犯す罪の為に、償いの為に、尊き御血が流されました。体全身傷だらけになりました。傷の無い所は1つもありませんでした。

イエズス様の受けた御傷の1つを見ても、流された御血の1滴を見ても、私たちに叫んでいます、「これはこの血は、お前を愛する為に流された。私はお前の事をこれほど愛している。私の聖心はこれほど愛している。」このたった1つの御傷が、それほど私たちに叫びかけているとしたら、イエズス様の受けた全身の傷だらけの御体は、私たちにその何十倍何百倍の、何万倍の声で、私たちの事を「愛している」と叫んでいます。

これでも飽き足らなかったローマの兵士たちは、これでも十分だと思わなかったイエズス様は、ローマの兵士たちに考えを息吹かせたのでしょう、茨の冠を被せるように。非常に敏感な御頭に、茨の、大きな茨が突き刺さりました。どれほど痛かった事でしょうか。

イエズス様の流された御血は、体に傷の無い所を残しませんでした。頭の先から足の下まで、全て傷だらけでした。そしてポンシオ・ピラトは、この傷だらけのイエズス様を私たちの前に見せつけます、「この人を見よ!」

「人類をこれほど愛した、この救い主イエズス・キリストを見よ!これほどお前たちを愛した天主はいるだろうか。これほどの愛の証明を私たちに見せつけるものが他にあるだろうか。この人を見よ!」とポンシオ・ピラトは私たちに言っているかのようです。

イエズス様はこの傷だらけの体で、茨の冠を付けたまま、私たちの為に十字架を担います。「私のくびきを取って、私の心に倣え。私は柔和、心の謙遜な者である。私はお前たちを休ませよう。」

イエズス様は私たちの代わりに重い十字架を取って担って、そして私たちにはほんの軽いくびきだけを与えてくれます。イエズス様の担ぐ十字架の後を私たちに歩くように、と御血は招いています。どうやって歩いたら良いかは、その御血でいっぱいになって跡が付いている道を歩けば良いのだ、と教えているかのようです。カルワリオの道は、イエズス様の御血の跡が付いています。

ゴルゴダの上で、イエズス様は十字架に付けられます。手に足に釘を付けられます。イエズス様は全身傷だらけで、手も足も動く事ができませんでした。しかし「傷の無い所は無い、全て傷だらけだ。心臓さえも傷を付けられている」という事を示す為に、あたかもイエズス様が死の眠りについた時に、ローマの兵士が槍で、無傷であった心臓を貫きます。その時に、残っていた御血と、体液である水が流れ出されました。「これで、もうこれ以上流すものは無い。もうブドウのカスも絞り尽くされた」とでも言うかのようです。

第2のアベルの血は、聖父に、憐れみと、赦しと、御恵みを乞い求めて、天に叫んでいます。私たちの為に愛を叫んでいます。
「この御血を受けるならば、私たちは決して滅ぼされる事がない、どのような悪からも守られる」と、「さぁ、この聖心の傷から我が胸の中に入れ」と招いているかのようです。

⑶ では第3の点に、私たちは一体どうしたら良いのでしょうか?

私たちもイエズス様の流された御血、そして十字架のこの御受難の再現であるミサ聖祭に、ぜひ心して与るように致しましょう。私たちがミサに与れば与るほど、御血の功徳をますます受けます。そして私たちを通して、私たちのみならず、私たちの周囲にいる人全てが、御血の御恵みを受けます。どうぞこのミサに与って下さい。このイエズス様の聖心に湛えられた御血を全て受けるように、その意向で与って下さい。

御聖体拝領を受けて下さい。御聖体はその中に、御体と御血、そして御人性、御神性が全て入っています。ファチマの天使も言います、「人類によってかくも恐ろしく冒瀆されたイエズス・キリストを慰める為に、聖体拝領をせよ。」

今日ミサの時に御聖体拝領誦の時に、このように聖歌隊は歌います、「兵士の槍が聖心を貫くと、すぐに御血と水が出た。」

あたかも、御聖体拝領するとその聖心から、開かれた聖心からすぐに、御血とイエズス様の浄めの水の御恵みが私たちの所に注がれるかのようです。
「聖体拝領の御恵みの効果が、今こうなっている」という事を歌っているかのようです。

最後に、マリア様の汚れなき御心に、私たちがその御血の功徳と聖心の愛の中に深く入る事ができるように、お祈り致しましょう。マリア様はいつも十字架の下に留まっておられました。マリア様は仰います、「私の御心はあなたたちの避難所である。そして天主に至るイエズスの聖心に至る道である」と。私たちがイエズス様の聖心にますます近くに行く事ができるように、マリア様に御取次ぎを乞い求めましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

2018年8月聖ピオ十世会総長第一補佐デ・ガラレタ司教様の初来日、聖伝のミサ(ラテン語ミサ、トリエント・ミサ)と聖伝の堅振式の報告

2018年08月24日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

8月11日から15日までイエズスの聖心の小黙想会を行いました。
一日をおいて8月17日、18日とデ・ガラレタ司教様は大阪で聖伝のミサを捧げてくださいました。
18日は2名の方々が聖伝の儀式による堅振の秘跡を受けることができました。堅振を受けられた方々、おめでとうございます。ミサの後は簡単な歓迎会を開きました。
司教様の講話会を予定していたのですが、司教様のご希望で質疑応答の形だけでのお話になりました。そこで「司教様の紋章の意味は?」「総長第一補佐としてのやりたいことは?」「聖母のお導きを一番強く感じたときは?」「教皇さまが教会の伝統的な教えを変更しているが、どう考えたらよいのか?」などなど、いろいろな質問にお答えくださいました。
19日(主日)には東京で堅振式と聖伝のミサがありました。4名の方々に聖霊と祝福が与えられ素晴らしい堅振式でした。おめでとうございます!この日も多くの方々がミサに与りました。とても多いため祭壇から遠いところでミサに与った方々もおられます。ミサの後は司教様を囲んで記念撮影を撮りました。会場はとても盛り上がって、司教様はせっかく皆さんが平和に楽しくお話しておられるので、それを妨害したくないというお気持ちでしたが、お話をお願いいたしました。東京でも、霊的講話の代わりに質疑応答という形だけでお話をしてくださいました。
最後には主日の晩課を歌って一日のプログラムを終了しました。
20日(月)には、ミサが二回捧げられ、私を含めて22名の方々がデ・ガラレタ司教様のミサに与りました。
22日(水)の聖母の汚れなき御心の祝日には、総長第一補佐は大阪の汚れなき御心聖堂で歌ミサを捧げてくださいました。ミサの直後には聖ピオ十世会を聖母の汚れなき御心に対する奉献を更新し、終課を歌って一日を終えました。お恵みに満ちた毎日でした。
デ・ガラレタ司教様との会話や、お話を通して思ったことはいろいろありますが、それについてはまた別の機会に書きたいと思います。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【報告】【東京】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサ/パーティー/晩課の参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 30人(内、子供5人)
女: 35人(内、子供4人)
計: 65人(内、子供9人)

堅振式後のパーティー兼デ・ガラレタ司教へのQ&A
50人

晩課
19人

【報告】
十AVE MARIA‼
こんばんは。8月19日の日曜日の今日という日に私が聖ピオ十世会のミサ聖祭に与ることができた恵みを私たちの主に感謝します。
また今日は来日されているデ・ガラレタ司教様による司式という特別な日でもあり、とても多くの喜びと恵みを感じる1日になりました。
司教様のお話し、質疑応答の中で司教様が、お答えになられた言葉が、私にとっては心が揺さぶられる感動的な言葉で聞いていて涙が溢れました。

“教会の信仰は危機に晒されている。教会が健全な信仰に立ち帰る為には、私たち自身の信仰の在り方が健全であることが求められる。”

“私たちひとりひとりが教会と教皇のために祈り、ミサ聖祭に与り、自らの現実の生活の中で関わる出来事、人々の中で福音を証しし宣べ伝える生き方が大切である。”

“神の国と義を求めなさい。
そうすれば、必要なものは加えて与えられる。”
(聖マタイ6:33)

“私たちに必要なことは、祈り、ミサ聖祭に与り、私たち自身の現実の生活の中で神の国と義を求めること。”

司教様のお話しの中で私の心に改めて深く刻まれた言葉です。
今日は本当にありがとうございます。

【報告】
Ave Maria Immaculata!

堅振式と聖霊降臨第13主日の御ミサの報告をさせていただきます。
デ・ガラレダ司教様は、主イエズス様のように威厳が備わっていて温かな優しくとてもご謙遜な司教様で、すっかり魅了されてしまいました。
堅振式では、司教杖とミトラを使われて、厳かな佇まいから光が放たれているように感じられました。

司教さまは一回一回の御ミサに主イエズス・キリストの十字架のもとにおられました。思い出すだけで胸がいっぱいです。

司教さまは、カトリック信徒として現代のカトリック教会でどのように信仰生活をおくっていったらよいか、お話してくださいました。日本で本当に信仰を守り続けていくことはとても大変な事だと思っているなかで、信仰の最も基本的な大切なことに目を向けさせてくださいました。それは、洗礼によって私たちの身体が聖霊の神殿となったこと、そして堅振により私たちは証人・兵士・使徒となったとわきまえることだと思いました。キリストの教会を形作るための生ける石となるとはどういうことか、考えていかなければならないと思いました。
証人として、本当の礼拝を捧げることの出来るようにしなければならないし、兵士として主イエズスと違った教えをいうものと戦わなければならないし、使徒として、聖なる生き方を心掛けて本当の信仰を求めて来る方々へイエズスの教えを伝え広めていかなければならない、と思いました。

この最も基本的なことをするのが、なぜ困難なのでしょうか?、あたりまえのことを・・・。

それは、午後の質疑応答の時間に司教様が、信徒からの質問に答える形で、少しお話してくださったように思います。
世界ではそしてローマでは、いったいカトリック教会はどのようになっているか、限られた時間の中で話してくださいました。

現在の教皇さまが、どのような方でいらっしゃるか、特に聖ピオ十世会との関係がどのようであるか、そして全体としても、あまりに現代化リベラル化された教会の行き過ぎた改革を危惧し心配しはじめた一部の枢機卿などが聖ピオ十世会に対して協力をもとめてるようになってきたこと、そして物事を判断するうえで大切な、異端とか罪とかについて、それはどのようなものであるかを考える糸口を説明してくださったこと、いろいろお話をしてくださいました。

今の教会の問題が何であるかをとてもよく熟知されてそのために長年働かれてこられた司教様なので、私たちへのお話も分かりやすくお話くださいました。まるで簡単なことを話すかのように話されていたのですが、実際はとても深遠な内容であったことをかみしめております、私たち日本に住む信徒への愛情を感じられました、心から嬉しく思い、感謝いたしています。

そして そういったお話の中で一番感動したお話は、デ・ガラレダ司教様がこの30年間で最も悲しく辛いと思ったことは何ですかという質問への答えでした。

(小野田神父様から、デ・ガラレダ司教様はローマと聖伝の信仰における教義の対話の責任者として任命されていたということを紹介していただき)、
「過去の教導権・教皇様・教父たち・公会議の教えを引用して、カトリックの教会の信仰の真理はこうだ、こう教えられている、と見せているのですが、そのことを信仰について責任のある教会の担当する当局の人が理解することができなかった、理解する能力がなかったのか、理解したくなかったのか、過去の教導権のこういう教えをうけいれなかった教会の危機の深さを目で見て指で触れる思いで、非常に苦しく辛く悲しい思いをしました。」

対話の相手が同じカトリック信仰を持つ者という前提であるのに、信仰の教義上の問題点がどこにあるか、理解されないことの深い悲しみ!
それは、日本で私たちが、どうして跪いて舌でご聖体を拝領してはいけないのかということを日本の司教団に尋ねても会話の要点が噛み合わなかったこと以上のことなのでしょう。カトリック教会の最高のトップで起きていることですから。

信仰を持ち続ける為に、何が重要であるかを理解することができない人と会話をしなければならないとは、なんという悲劇的な矛盾のある困難であることでしょうか。

相手に理解する能力がないときの悲しみといっても、同じカトリック信者であるのに?、どうしてそのようなことが?、けれど、これがいま現実に起こっていることだということは理解できることです。日本においても、それは現実に進行していることなので。

質疑応答を聴くことで、この信仰の問題というのは、教導職にある方々でさえいま信仰を脅かされている状態にありそのことに本人自身が全く気付いていないことに端を発しているのだと、いうことがはっきりわかりました。

わたし自身、以前、友人への手紙やメールに「あの神父様は信仰のある神父様です・・」という表現をして書き送ることがありました。わたしは、はっきりと即座に、なにかの時には「あの神父様は信仰のある神父様のように感じられるから信頼出来る」というような表現の仕方をしていました。それは、自分の大切な信仰を守るために。自分の大切な信仰がダメになったら死と同じですから。心の深いところに燃える愛の火が消されそうなときは、とても警戒してしまいます。批判の意味があるわけでなく、ただ信仰を守りたい、それだけのためです。というのは最初の使徒から受け継がれてきた教義にたいして人間側の都合で変更するというようなことが許されないと、私は感じるからです。(このことを司教さまはしっかりと説明してくださいました。安心いたしました。)実際のところ、信仰のない神父が存在するなんてあり得ないはずなのに、そのことで悩まされる信徒がいるというのは、事実です。

第二バチカン公会議の後の改革により変更された神学校の内容により、この50年の間に信仰のない神父をつくりだすことに成功しようとしているのでしょうか?それはとても恐ろしいことではないでしょうか。怖ろしすぎてあまり深く考えたくなかったことですが、実際のところ司教様の深い悲しみとは何かという質問への答えを聞いて、(規模は比べようもないほどちっぽけなものであるにすぎなくとも似たようなことを経験しているゆえに)私はすぐに共感いたしました。その共感はわたしの心に深く刻まれました。言葉の壁があるために、直接司教さまにその感動をお伝えすることができませんでした。

ルフェーブル大司教さまは、第二バチカン公会議で行われたことがどのような結果を50年後にもたらすかを賢明にも即座に推察されて、司教を聖別されて神学校を建てて聖ピオ十世会の修道会を創立されたのですね。 そして、私たちは、希望を持つことができると思いました。

それから、司教さまはお話くださいました。
「聖ピオ十世会の教会法によって成立された修道院創立の目的は、司祭職の養成です。問題を解決する方法は、司祭職にかかわるすべての司祭・修道者・修道女・信徒が聖徳を高め内的な徳を高めることです。そうすればすべての問題を天主様が解決してくださる、天の国とその義を求めよその他のことは満ちるほど与えられるでしょう。」

そのような司教さまのお話を伺って私たちが受けた決意があります。それは「私たちが聖なるカトリック信者になれるように努める」ということです。後で話して友人たちも同じ感想でした。

最後にとてもうれしかったことです。司教さまは、もう既に日本に聖ピオ十世会の司祭を2~3名派遣してくださることが可能であるとお話くださいました。東京にも聖ピオ十世会の聖堂を与えてくださいと、天主さまにもっと真剣に祈ろうと思います。

この特別な機会、デ・ガラレダ司教様が、総会によって第一補佐という特別な地位に選出されたばかりというすばらしいタイミングで、初来日になったことはとても驚きで喜びでお恵みでした。司教叙階30周年という記念と、小野田神父様のデ・ガラレダ司教様による司祭叙階25周年という記念と、素晴らしい年でもあり、デ・ガラレダ司教様を日本に招聘してくださいまして、小野田神父様本当にありがとうございました。マリア様、ありがとうございます!

聖マリアの汚れなき御心のうちに


【報告】
デ・ガラレダ司教さまはたくさんの質問に誠実にお話くださいまして、一つ一つがすばらしい講話のようでした。
たとえば、破門というのはどういうことか、罪を犯すというのは、どういうことか、罪とは本人が自覚していることが必要だということ、知らずに罪を犯している時はあわれみがある・・・など、罪とは何かということを考えるときに必要な、大切なことを話していただいたように思います。人の心の中を誰もうかがい知ることができない、ということを、あらためて記憶にしっかり留めました。
「教会法では教皇様は裁かれることはない、判断されることはできない、教会法によって想定されていない」・・・これを伺っていて、教皇様のためにいつも祈っている意味がよくわかったように思います。
司教さまは聡明・明晰で美しい心の方のように思われます。聖ピオ十世会は同じ信仰を持つ家族のように感じました。

ほとんど新しい顔ぶれの若い男性が幾人もいらっしゃいました。
皆様熱心に司教さまの質疑応答のお話を聞いておられて、晩課まで残られた方もいてうれしく思いました。

私は司教様のごミサに与ることができてうれしく思いました。聖なる永遠のミサでした。
何度か頭をよぎったのは、もうこの司教さまと二度と会うことがないのだろうか、という問いでした。
でも、そのたびに、なんだか最初で最後というのではないような気がするという気持ちになりました。
また是非お会いしたいです。

東京にも聖堂をくださいますようにと、天主さまにお祈り致します。

お昼はお寿司やお赤飯、ピザ・サンドイッチ、唐揚げそしてチキンのサラダなど、いろいろの手料理も運ばれて楽しくいただくことができました。
司教様の30周年と堅振のお祝いに手作りのケーキを焼いてきてくださった方がいて感激しました。
生クリームにメロンやマスカットやその他フルーツもたっぷりで、ちょっぴりいただくことができましたが、とても美味しかったです。
飲み物もワインやお茶・ジュース・コーヒーなどたくさんでした。
皆様遠くから朝早く来ていますので、どんなに準備が大変だったことでしょう、本当にありがとうございます。

「不正な支配人のたとえについて」ー聖ピオ十世会司祭 エティエンヌ・ドモルネ神父

2018年08月23日 | お説教・霊的講話
大阪の信徒のかたがドモルネ神父様に、「不正な支配人」のたとえについて質問したところ、ドモルネ神父様から2年前に作成なさったというお説教が送られてきました。愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。


はじめに

本日の福音は不正な支配人のたとえです。これはしばしば、人々を少し驚かせるたとえです。なぜなら、主がずるい盗人をほめておられるようにみえるからです。
このたとえをすこし見て、主が私たちに教えようと望んでおられる教訓を得ることにしましょう。

1.状況:金持ちと支配人

―このたとえに出てくる金持ちとは、宇宙とすべてのものの所有者である天主ご自身です。そのすべてのものには、食べ物や飲み物、衣服、すべての目に見える世界のような物質的なもの、また知性や意志、自由のような霊的なもの、さらには成聖の恩寵や聖霊の賜物、秘蹟などのような超自然的なものがあります。

―このたとえに出てくる支配人とは、私たち一人一人です。天主は実際、私たちに天主の物質的なものと霊的なものの一部をお委ねになりました。私たちがいただく食べ物、私たちが飲む水、私たちが着る衣服、私たちが持つ理性、私たちが持つ能力、これらはすべて天主から来たものです。しかし、天主は、私たちが持っているすべてのものを、私たちが望むことは何でもするために私たちにお与えになったのではなく、天主がお望みになることを私たちがするために私たちにお与えになったのです。こういう訳で、このたとえは私たちを「支配人」と呼ぶのです。私たちは自分のものの所有権を持っているのではなく、管理権を持っているだけなのです。

―主は、この支配人は不正な者であり、主人のものを悪用していた、と指摘なさいます。私たちは不正な支配人なのです。なぜなら、私たちは、天主が私たちに与えてくださったものを、あまりにも頻繁に天主に対して罪を犯すために使っているからです。私たちは、貪食によって食べ物を悪用し、酩酊によって飲み物を悪用し、虚栄や官能性によって衣服を悪用し、吝嗇(りんしょく)によってお金を悪用し、野心によって意志を悪用するといったことをしているのです。

2.主人に呼び出された支配人

―支配人は、契約が終わる前に呼び出されました。ですから、天主は、ご自分がお委ねになったものを悪用する人々のいのちを短くなさるのです。聖書は、それについてはっきりとこう言っています。「悪人になりすぎるな。愚か者になるな。時がこないのになぜ死のうとするのか」(コヘレット7章18節)。このいのちを短くするということは、罰であると同時に御あわれみのわざでもあるのです。なぜなら、そうすることによって、天主は、この罪びとが地獄にもっともっと大きな罰を積み上げてしまうことを防ぐからです。

―この天主による審判の座への呼び出しは、警告なく突然やって来るかもしれないのですから、私たちは深く恐れなくてはなりません。あるいは、天主は私たちに少し時間をお与えになり、例えば長きにわたる病を通じて、迫り来る審判の時を私たちに分かるようにさせてくださるかもしれません。そこで、このたとえにおいては、あえて言うとすれば、主人は次のように解雇の告知をするのです。「おまえのことについてこのように聞いた。どういうことだ」。

―もし天主が解雇の告知を私たちになさるとしたら、それは、私たちが審判の時の前に償いをすることをお許しになるということです。死のあとでは、もはや赦しはなく、ただ正義だけがあり、天主は私たちにこうお尋ねになるでしょう。「おまえは、私がおまえに与えた食べ物や飲み物、衣服、家をどのように使ったのか? おまえは、私がおまえのために創造した世界をどのように使ったのか? おまえは、私がおまえに与えた人生の日々をどのように使ったのか? 私がおまえに委ねたすべての才能について説明しなさい。おまえが言った一つ一つの言葉、おまえがなした一つ一つの行い、おまえが心で楽しんだ一つ一つの思いを説明しなさい。私が秘跡を通じておまえに与えたすべての恩寵で、おまえは何をしたのか?」

これは大げさではありません。聖パウロは私たちにこう言います。「私たちはみな、キリストの審判の座の前で正体を現し、おのおのがその体で行ったことの善悪に従って報いを受ける」(コリント後書5章10節)。

3.支配人の対応

このたとえでは、その後、予想されるみじめさから自分自身を救うために、支配人がしようとしたことを私たちは読みます。その言葉の中で、主イエズスは、永遠のみじめさから自分自身を救うために私たちがすべきことを、あわれみ深く私たちに指摘なさいます。実際、私たち一人一人が、この不正な支配人であり、私たち全員が罪びとなのです。私たちは天主が私たちに委ねられたものを悪用しました。私たち全員が、この支配人の置かれた困難な状態にあるのです。私たちは、自分自身をみじめさから救うために何をすればよいのでしょうか?

―主イエズスは第一に、この世の人々がこの世のことについて勤勉であるように、私たちも自分の救いについて勤勉であるよう私たちに警告なさいます。実際、不幸なことですが、私たちは悪しき人々によって教訓を与えられることがしばしばあります。彼らは、死の時には自分にとって役に立たないお金を稼ごうと働くにあたって、いかにやる気を見せるでしょうか、でも、私たちは、永遠の幸せを求めようと働くにあたって、いかに怠惰になることがあるでしょうか!

―次に主は、私たちが自分の罪によってみずからもたらした永遠のみじめさから逃れるためにすべきことを、私たちに指摘なさいます。主は、このたとえにおいて、三つの解決法を示されます。土を耕すこと、乞食をすること、他人に対して負債を許すことです。土を耕すこととは、私たちの心のかたくなさを打ち砕くために償いをすることを意味します。乞食をすることとは、恩寵と助力と取り次ぎを求めて天主と聖人たちに祈ることです。他人に対して負債を許すこととは、天主への愛のために他人に対してする肉体的なあわれみや霊的なあわれみの行為であり、とりわけ他人が私たちに対して犯した罪を赦すことです。

それから、主は私たちにこう言われます。あなたが体や意志の弱さのせいで多くの償いができないなら、あなたが天主の御あわれみと善にほとんど信頼を持てないためにたくさん祈ることができないなら、少なくとも、あなたは、施しによって象徴される他人に対するあわれみの善行をいつもすることができます。私たちが隣人に対して行うどのような善も、私たちが隣人に与える施しのようなものです。ですから、聖書は施しについてこう言っています。「水は火を消し、施しは罪を消す」(集会書3章33節)、「施しは人をすべての罪から、死から解き、闇に行くのを防いでくれる」(トビア4章11節)、「貧しい者の心に施しをしまい込め。そうすれば、あらゆる悪に対して、あなたのために助けを得させるであろう」(集会書29章15節)。

結論

ですから、それが結論です。天主のゆえに、隣人に対する善を行うことに飽くことのないようにしましょう。人々が感謝するかしないかはまったく問題ではなく、私たちは天主への愛のために、それを行わなければならないのであり、ただ天主だけから報いを期待するのです。

2018年6月17日 聖霊降臨後第4主日 イエズスの聖心の荘厳祭「聖心の愛の傑作と究極の発明~司祭職」

2018年08月19日 | お説教・霊的講話
2018年6月17日(主日)聖霊降臨後第4主日 イエズスの聖心の荘厳祭
小野田神父 説教


聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。多くの方々がいらして本当に嬉しく思います。

今日は2018年6月17日、聖霊降臨後第4主日ですが、ミサはイエズスの聖心の荘厳祭を行なっています。

今日この御ミサの感謝の祈りの後に、短い御聖体降福式があります。その後に皆さんが司祭叙階25周年、銀祝を祝って下さるというその温かい心に感謝して、皆さんと一緒に時を過ごしたいと思っています。

明日は朝7時からここでミサがあります。
次回は7月8日と、15日、16日にミサがあります。


「愛に基づいて、あなたたちが全ての聖人たちと共に、主の聖心の愛の、その幅と、長さと、高さと、そして深みを知る事を望む。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、この前の2週間前ここで、私たちは御聖体の荘厳祭を行ないました。そこで「御聖体がどれほど私たちの主イエズス・キリストの愛の傑作であるか、愛の狂気であるか、その狂ったほどの愛であるか」という事を黙想しました。

実はその続きがあります。

イエズス様、私たちの主が私たちを愛するがあまり、その狂ったがあまり、今度はパンを御自分の体ではなく、また生けるまた別の者を、自分の体の様にしようと思った、その愛の愚かさについて、一緒に黙想したいと思っています。

今日聖パウロが書簡の中で、ぜひ私たちに呼びかけています、「全ての聖人たちと一緒になって、私たちがこの事を理解する事ができるようになる事を望む。」

何を理解するかというと、「天主の、この世界を創造した、創り上げた方の愛に基づいて、それに深く根付いて、この全てを創った方のその愛の、幅広さと、その長さと、その崇高さと、その深みを理解する事である。」

そこで私たちも、この言葉をガイドに、私たちの主の聖心の愛を黙想する事にしましょう。

聖パウロが言うこの「幅」を理解するという事は、「天主の創造は全てのものに被造物に及ぶ」という事です。天使たち、人間、あるいは動物、植物、そして鉱物、全て全宇宙に及んでいる、という事です。

つい最近、産経新聞に小さな虫の話がありました。虫は一見羽が無いように見えるのですけれども、実は巧妙に折り畳んであって、飛ぶ時にはパッと出して飛んで、いらない時にはそれを畳んで、というものなのです。その畳み方は非常に精巧にできているので、それを今度人類が人工衛星の為に使うのだと、その畳み方を学ぶのだ、と言っています。

一体誰が、この小さな動物にこの昆虫に、そのような最高の技術を教えたのでしょうか?

この地上には、全宇宙の美しさと、その精巧な作りを見れば見るほど、研究すれば研究するほど、原子から大宇宙に至るまで、その素晴らしさに目を見張るばかりです。そしてこのこれは、天主の愛によって創られました。私たちも同じです。この愛は、ただ幅が広いだけではなくて、この瞬間だけではなく、世の初めから、そしてこの永遠の昔から永遠の未来に向かって、続いています。

今日のミサの入祭誦ではこう言います、「私の考えは、代々永久(とこしえ)に、彼らを飢えから救い、彼らの霊魂を死から救う事だ。」

その愛の「高み」は崇高さは、この「被造物を、御自分の永遠の命と、永遠の喜びに、無限の喜びに入らせようとする事」です。その為に三位一体の、この世を全てを創った方が人間となって、しかも赤子となってお生まれになりました。私たちを最も高い所に連れて行く為です。

ただ赤ちゃんとして貧しく生まれたのみならず、この世の王である王は、更に私たちを高みに連れて行く為に、十字架の上で、最も酷い死刑の残酷な拷問を受けました。私たちの罪が赦される為に、私たちの罪の償いの代わりとして。

イエズス・キリストの御受難を見ると、私たちがどれほど愛されているか、という事が分かります。この十字架に架かったイエズス・キリストの開かれた聖心を見ると、私たちがどれほどこの方から愛されているか、という事を信じて、その証拠となるに十分です。私たちが高み、天へと向かう為にどうすれば良いか、という事を教えてくれています、「私たちもこのキリスト様と共に苦しむ」という事を。

そればかりではありません。私たちはもっと高い一致へと結び付く為に、この前黙想しましたように、何と、この世の創造主である天主は、私たちの為にパンとなります。私たちの糧となり、私たちに拝領されよう、と御望みになりました。御聖体の秘跡です。愛の極みです。

そしてこの私たちは、主の愛の「深み」を見ます。この愛は非常に深い、御謙遜な、そして永遠の深淵のような、地球で一番深い海よりももっと深い愛に根付いています。

ですからどんなに悪意があっても、悪魔の攻撃があっても、どんな反対があっても、決して揺るぐ事はありません。天主の愛は深く、その永遠の全能に、憐れみの深さに根付いています。悪魔の地獄の総攻撃があったとしても、決して揺らぐ事がありません。

私たちはその淵を見ると、あまりにも深いので目がクラクラとしてしまいそうです。私たちはその深みを全て理解する事はできません。ただそれを味わって、それを感謝して、その深みの中に身を投げ込むしかありません。

天主は永遠の昔から私たちを愛して、考えてきましたけれども、でもイエズス様の聖心の神秘に行くと、天主の三位一体の第2の位格が、第2のペルソナが人となられた時に、人間として天主の御言葉は、心臓の鼓動を始めました、打ち始めました。

天主よりの天主、光よりの光、創られずして生まれた、愛によって生まれた愛そのものであるイエズス・キリストは、天主のその本性によって満たされているイエズス・キリストは、御託身の時に人間となって、マリア様の御胎内に人となって宿された時に、その時、最初にこう仰いました、「聖父よ、私は来る。“Ecce venio.”」そしてその人間としてその心臓の鼓動を開始しました。その鼓動は、今復活して天国にいらっしゃるので、永遠に鼓動を止める事はありません。

ではこの愛の鼓動は、一体何の為に、何を愛していたのでしょうか?2つあります。

イエズスの聖心は、天主聖父を愛して、その為に脈打っていました。ドキッドキッドキッと鼓動を打っていました。罪によって傷付いた天主の栄光をもう一度回復させる、という愛に燃えていました。

第2は、同じくこの聖心は、人類の為への愛に燃えていました。天主の愛は、私たちの為に熱烈に、極みなく、焼き尽くされるように、恋い焦がれるように燃えていました。私たちを死と地獄から救いたい、と思っていました。私たちを贖いたい、私たちが本当ならば受けるべき罰を自分がその身によって全て受けて、全ての苦しみと罰を受けて、私たちの為に、私たちの代理として贖いたい、罪を贖いたい、と望んでいました。まず第1にマリア様の事を思っていました、汚れなき御母マリア様。そして罪を犯した人類の為に、その鼓動を鳴らしていました。

この愛の極みが、私たちと1つになりたい、という愛の極みが、御聖体でした。

しかしイエズス・キリスト様は、復活して天に昇るべき御方でした。この世の終わりまで御聖体として留まりたいと思いつつも、一体どうしたら良いのでしょうか。そこで、イエズス・キリストの愛の愚かさは、別の聖変化を、別のキリスト化を望むようになりました。

イエズス・キリストが天主聖父を愛して、人類を愛するが為に、特別に愛された人たちがいます。特別に選ばれて、選択を受けた人々がいます。それが「カトリックの司祭」です。それは天主聖父に最高の光栄と、霊魂をより良く救う事ができる為に、特別に愛された霊魂たちです。

イエズス様がお生まれになる前、まだマリア様の御胎内にいる時に、最初に霊的な奇跡を行ないました。それはマリア様によって運ばれて、洗者聖ヨハネを聖エリザベトを訪問した時に聖化した事です、聖なる者とした事です。実は洗者聖ヨハネは、司祭の家の息子でした。

イエズス様は公生活の3年間の時に、特別にお祈りをしました、ある人々の為に。そして夜中祈った後に、まず自ら行って彼らに名前を呼びかけて、12人の使徒を選びました。12人の使徒たちは、特別に選ばれて、イエズス・キリストの近くに来るように招かれました。全てを捨てて彼らは、イエズス・キリストに従いました。イエズスの聖心は彼らに、自分の持っている天国の宝を全て与えようと思っていました。

もちろんイエズス様は、彼らがどんなに貧しい、頭の疎い漁師で、あるいはその他の者で、その出来る能力にも限りもあるし、弱さもあるし、あまりにも惨めな存在だ、という事をよく知っていましたが、それにもかかわらず彼らを特別に愛して、御自分の高みまで引き上げようと思われました。それは天使たちも羨むような贈り物を与えようと、お恵みを与えようとさえ思ったのでです。

なぜ「天使たちも羨むような」と言うかというと、このイエズス・キリスト様の御受難のその最後の時に、弟子たちを御自分の前に集めて仰ったのです、「私は、この過ぎ越しをお前たちと食べる事を望みに望んだ。」キリスト様は何度も過ぎ越しを食べていました、しかしこの最後の過ぎ越しだけは別でした。なぜかというと彼らに、御自分のみができる奇跡を起こす力を与えようと思ったからです。パンを御自分の御体に聖変化させて、そしてブドウ酒を御自分の御血に聖変化させて、すると「これを私の記念として行なえ」と、それを行なう力を彼らに与えたのです。天使たちは人間よりもはるかに優れた存在ですけれども、これだけはできません。

この司祭職というのは、イエズス・キリストの御体を作る事ができる、聖変化させる事ができる、というのは、イエズス・キリストの愛の愚かさの極致でした。愛の大傑作でした。天主はこれによって私たちと共にいる事ができ、私たちの内にいる事ができます。世の終わりまで留まる事ができます。

イエズス・キリストの御自身の御業を彼らが続ける事ができます。世の終わりまで全世界で続ける事ができるようになります。その為に、御自分の持てる最高の力を特権を、彼らに与えたのでした。

イエズス様はこの弟子たちに特別の力を与えたのみならず、特別の愛情を込めていました。もしも民衆に対しては例えで話したとしても、もしも12の使徒たちが来れば、「一体これはどういう意味ですか?」と聞くと、「天の国の神秘は、お前たちには知る事が与えられている」と言って、それを説明します。

イエズス様がその弟子たちに特別の愛を注いだ、という事は、福音書を見ると明らかです。最後の晩餐の時に何と仰ったか、という事を少し引用するのを許して下さい。

「私はお前たちを孤児としては残さない。私を愛する者は、私の聖父によって愛される。聖父が私を愛したように、私はお前たちを愛した。私の愛に留まれ。」

使徒たちへの言葉で、「お前たちは私の友だ。私はお前たちをしもべとは呼ばない。私はお前たちを友と呼んだ。」

司祭はイエズス・キリストの特別の友です。イエズス・キリストから特別の愛を注がれた友です。特別に選ばれた人々です。

「聖父はお前たちを愛している。なぜならば、お前たちは私を愛したからだ。」

どれほどカトリックの司祭たちは、使徒たちの後継者は、イエズス・キリストから愛されている事でしょう。

しかし見て下さい、使徒たちが一体何をしたかという事を。それだけの特別の特権を与えられて、聖変化を起こす特権を与えられて、司祭、大司祭となり、イエズス・キリストの後継者となり、友と呼ばれ、特別な愛情と神秘を教えられたこの弟子たちは、イエズス・キリストをほっぽらかして逃亡するのです、逃げてしまいます、裏切ってしまいます。

その頭となった聖ペトロは、イエズス・キリストを、「あぁ、この人を知らない」「知らない」「関係ないよ」裏切るのです。愛しているイエズス様の聖心にとって、どれほそれはど御心痛だった事でしょうか。愛すれば愛するほど、それを裏切られたその心は、どれほど悲しかった事でしょうか。

ユダは、お金の為にイエズス様を売り飛ばします。しかしそのユダに対しても、「友よ」と言って、ユダを裏切り者を愛そうとします、極みまで愛そうとします。

イエズス様が御復活なさった後に、まず十字架の下に留まった忠実な婦人たちに、まず会います。もちろんそれに相応しい方々でした、この婦人たちは。そこでイエズス様はこの婦人たちに何と言ったかというと、あたかもその婦人たちにはあまり関心がないかのように、「さぁ、行って、私の兄弟たちに私が復活した事を告げよ。」“私の兄弟”というのは司祭たちの事です、使徒たちの事です。

そして、恐れて隠れていた新しい司祭たちに使徒たちに、イエズス・キリストは現れて、「汝らに平和があるように。」それを繰り返して仰います。そして御叱責「何で俺を裏切ったのか」「何で私を否んだのか」等と一言も仰りませんでした。

そうであるばかりか、平和を残して、更に素晴らしい贈り物をこの弟子たちに、使徒たちに与えるのです、「聖霊を受けよ。お前たちが赦す罪は天国でも赦され、お前たちが赦さない罪は赦されない、天国でも赦されない。」「お前たちの言う事を聞く者は、私の言う事を聞く者だ。お前たちを軽蔑する者は私を軽蔑する。」

そこで、天主のみがする事ができる、『罪の赦し』という特別の権利を、特権を力を、使徒たちに、そして使徒たちの後継者である司祭たちに与えます。

この為に、使徒たちは司祭は、この地上のいかなる王様や、皇帝や、この世の支配者よりも、偉大な者となるようになりました。なぜかというと、王様でさえも、皇帝でさえも、この司祭の前に、田舎の司祭の前に跪いて、罪の赦しを請わなければならないからです。なぜならば司祭のみが、天主の特権によって私たちの罪を赦す事ができるからです。

何という憐れみでしょうか。この裏切った使徒たちに、これほどの贈り物を与える事ができる、このイエズス様の聖心の愛の極みとは。

聖ペトロは頭として選ばれました。それにもかかわらず三度否みました。もちろん、もしも私たちでしたら、「あぁ、君ね、何であんな事言ったの」と言ったかもしれません。しかしイエズス様は違いました。叱るどころか、その「お前のやっていた仕事を取ってしまおう」どころか、別の事をします、1つだけ聞くのです、「シモン、ヨナの子シモン、お前は私を愛しているか。」イエズス様がこの弱い惨めな使徒たちの頭に聞いたのは、たった1つでした。どんな力があるかとか、どんな影響力があるかとか、どんなに頭が良いかとか、全然聞きませんでした。「お前は私を愛しているか。」それで十分でした。

ペトロは言います、「主よ、私は御身を愛しています。」
「私の子羊を牧せよ。」

もう一度聞きます。
「ヨナのシモン、私を愛しているか。」
2回聞いて、「確かにそうだ」という事を確認しょうとされたのでしょうか。
「主よ、もちろんです。私は御身を愛しています。」
「私の子羊を牧せよ。」

するとイエズス様は、3回目を聞きます、「ヨナの子シモン、私を愛しているか。」イエズス様が何をお求めになってるか、という事はこれでもうはっきりしています、明らかです。私たちからの愛だけを求めている、と。

すると、3回目を聞かれたペトロは少し悲しくなって、3回否んだ事を思い出したのでしょう、「主よ、御身は全ての事を御存知です。御身は私が御身を愛している事を御存知です。」これはイエズス・キリストが全知全能の天主である事の告白でした。

するとイエズス様は、聖ペトロに自分の最も大切な群れを委ねます、「私の羊を牧せよ。」

“子羊”というのは、一般の信徒たちの事でした。“羊”というのはその親、つまり司祭たちの事です。そして聖ペトロに、「全世界の司祭、司教たちを指導するように」というローマ教皇としての特権を与えたのでした。

そうする事によって、イエズス・キリストの愛が、司祭たちの中に染み通りますように、イエズス・キリストがこの司祭の中に生きる事ができるように、と御望みなのでした。イエズス・キリストの御業を遂行する事ができるように、イエズス・キリストの生き写しとなる事ができるように、この惨めな、パンよりも惨めな人間、罪人の人間、なぜかというとパンは罪を犯しません、罪人の人間を、イエズス・キリストの高みまで上げた、という愛の奇跡、これがカトリックの司祭職です。愛の大傑作です。

そこでカトリックの司祭は、第2のキリストと、イエズス・キリストの生き写しと、その繁栄とならなければなりません。もしも洗礼を受けた方が「キリスト者」という者であるならば、更にそうならなければなりません。

6月には、聖ピオ十世会では多くの新司祭が生まれます。イエズス・キリストによって特別に選ばれて愛された青年たちが、司祭の職を受けます。第2のキリストたちとなります。どうぞ彼らの為にお祈り下さい。そしてこの皆さんのしもべ、非常に下の、惨めな欠点だらけの下らない者ですが、塵の芥の者ですけれども、憐れみと、御情けと、愛情を特別に注がれて、そのイエズス様の司祭職の高みまで上げられた事を、永遠を以ても、感謝し尽くす事ができません。聖ヨハネ・ビアンネ神父様は、「司祭というものが何かという事を理解したら、もうその場で司祭は死んでしまうだろう。」まさにその通りです。私たちがもしもこの愛のその幅と、その長さと、高みと、その深さを知れば知るほど、頭がクラクラしてしまって、もうそれを味わうだけでそれを理解する事はありません。どうぞこのイエズス様の深い愛を味わって下さい。

そしてどうぞ最後に、マリア様にこの特別の御恵みを求めましょう。私たちも聖パウロが言ったように、イエズス様の私たちに対するその愛の幅と、その長さと、その崇高さと、この深みをますます理解する事ができるように、そしてマリア様がイエズス様と同じものを愛しているのは確かですから、私たちもカトリックの司祭職を愛する事ができるように、マリア様にお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


聖ピオ十世会大阪でのミサの写真 八月十八日

2018年08月18日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

聖ピオ十世会大阪での堅振の儀式とミサとは、大変素晴らしく行われました。

写真をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田神父






聖ピオ十世会の被昇天の写真を紹介します

2018年08月17日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

大阪での聖ピオ十世会の写真をご紹介します。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田神父






聖ピオ十世会総長第一補佐の初来日

2018年08月16日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

こんにちは!

8月18日は大阪で、8月19日には東京で、聖ピオ十世会総長第一補佐のデ・ガラレタ司教様がミサを捧げてくださいます。

ミサはいつもの通り午前10時半からです。

ミサ後の予定として、

1)ミサの直後、感謝の祈り

2)その場で昼食

3)霊的な講話(司教様からのお話)

4)主日の晩課

解散

というプログラムを考えています。

大変に貴重な機会です。多くのお友達を誘っていらしてください。

講話も大切ですが、その後、時間を作って質疑応答のコーナーも持ちたいと考えています。

講話のあとに質疑の時間を十分に取れるようにして、愛する兄弟姉妹の皆様からいろいろと質問をしていただくのが良いのではないかと思います。また多くの日本人にとって多数の人の前で質問することは大変不得意なことですから、事前に司教への質問事項を私に書面で提出しておいて頂いて、質疑の時間に私の方から「ある信者さんからの質問です」として、司教にご質問しようと思います。

より多くの兄弟姉妹の方々のご参加をお願いします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田神父

聖霊降臨後第十三主日(二級祝日 典礼色:緑)のミサ聖祭の固有文をご紹介いたします

2018年08月15日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
聖霊降臨後第十三主日(二級祝日 典礼色:緑)のミサ聖祭の固有文をご紹介いたします。

【解説】信仰と洗礼とによって、われらは、天主の契約にあずかる者となった。しかし、未だにわれらは世間にひきずられ、たえずおびやかされている。天主が、われらをあわれみ、われらを見捨て給わぬようにと祈る。〈入祭文、昇階誦〉 
天主が、われらのうちに、信望愛の徳をつよめ〈集禱文〉われらをますます天的なものとする天のパンを与え給うように。〈聖体拝領誦〉

Dominica Decima tertia post Pentecosten 聖霊降臨後第十三の主日
II Classis 二級祝日
Ant. ad Introitum. Ps. 73, 20, 19 et 23. 入祭文 詩篇73ノ20、19、23
Réspice, Dómine, in testaméntum tuum, et ánimas páuperum tuórum ne derelínquas in finem : exsúrge, Dómine, et iúdica causam tuam, et ne obliviscáris voces quæréntium te. 主よ、御契約を思い出し、貧しい者の霊魂を永久に忘れ給うな。主よ、起って、御身のことを審(つまびら)き、御身をさがし求める者の叫びをきき給え。
Ps. ibid., 1. 詩篇73ノ1
Ut quid, Deus, reppulísti in finem : irátus est furor tuus super oves páscuæ tuæ ? 天主よ、なにゆえわれらを永遠に見捨て給うのか。なにゆえ、御怒りを、主の牧場の羊に向け給うのか。
V/.Glória Patri. V/. 願わくは聖父と・・・(栄誦)。
Réspice, Dómine, in testaméntum tuum, et ánimas páuperum tuórum ne derelínquas in finem : exsúrge, Dómine, et iúdica causam tuam, et ne obliviscáris voces quæréntium te. 主よ、御契約を思い出し、貧しい者の霊魂を永久に忘れ給うな。主よ、起って、御身のことを審(つまびら)き、御身をさがし求める者の叫びをきき給え。
Oratio. 集祷文
Omnípotens sempitérne Deus, da nobis fídei, spei et caritátis augméntum : et, ut mereámur asséqui quod promíttis, fac nos amáre quod prǽcipis. Per Dóminum. 全能永遠の天主よ、われらのうちに信・望・愛の徳を増し、主の約束し給うたものをわれらに与え給うよう、われらに主を愛させ給え。天主として・・・。
Léctio Epístolæ beáti Pauli Apóstoli ad Gálatas. 使徒パウロの、ガラツィア人への書簡の朗読
Gal. 3, 16-22. ガラツィア 3ノ16-22
Fratres : Abrahæ dictæ sunt promissiónes, et sémini eius. Non dicit : Et semínibus, quasi in multis ; sed quasi in uno : Et sémini tuo, qui est Christus. Hoc autem dico : testaméntum confirmátum a Deo, quæ post quadringéntos et trigínta annos facta est lex, non írritum facit ad evacuándam promissiónem. Nam si ex lege heréditas, iam non ex promissióne. Abrahæ autem per repromissiónem donávit Deus. Quid igitur lex ? Propter transgressiónes pósita est, donec veníret semen, cui promíserat, ordináta per Angelos in manu mediatóris. Mediátor autem uníus non est : Deus autem unus est. Lex ergo advérsus promíssa Dei ? Absit. Si enim data esset lex, quæ posset vivificáre, vere ex lege esset iustítia. Sed conclúsit Scriptúra ómnia sub peccáto, ut promíssio ex fide Iesu Christi darétur credéntibus. 兄弟たちよ、さて約束は、アブラハムとその子孫にされたものである。聖書は複数として「子孫たちに」とはいわず、単数の形で「子孫に」といっている。この子孫はキリストである。で、私はこういう。天主があらかじめ定められた遺言は、四百三十年後にできた律法によって廃止されず、したがって約束も無効になることはない。もし遺産が律法によるのなら、約束によってくるのではない。しかし天主がアブラハムをよみされたのは、約束によってであった。それでは、なぜ律法があるのか?それは、違反あるがために加えられたもので、約束された子孫が来られる時までのものであり、天使たちによって、仲立ちの手をとおして布告された。しかし、片一方だけの場合には、仲立ちというものはありえない。そして天主は唯一である。それなら、律法は天主の約束にもとるものか?決してそうではない。命をあたえる律法が出されたとすれば、実に、義とされるのは、律法によってであろう。しかし聖書は、すべてのものを罪の下に閉じこめた。それは、信仰をもつ人たちが、イエズス・キリストへの信仰によって、約束の恵みを受けるためであった。
Graduale. Ps. 73, 20, 19 et 22. 昇階誦 詩篇 73ノ20,19,22
Réspice, Dómine, in testaméntum tuum : et ánimas páuperum tuórum ne obliviscáris in finem. 主よ、御契約を思い出し、貧しい者の霊魂を永久に忘れ給うな。
V/. Exsúrge, Dómine, et iúdica causam tuam : memor esto oppróbrii servórum tuórum. V/. 主よ、起って、御身のことを審(つまびら)き、下僕らに向けられる侮りを思い出し給え。
Allelúia, allelúia. V/. Ps. 89, 1. アレルヤ、アレルヤ。V/.詩篇89ノ1
Dómine, refúgium factus es nobis a generatióne et progénie. Allelúia. 主よ、主は、世々に、われらの避難所となり給うた、アレルヤ。
+ Sequéntia sancti Evangélii secúndum Lucam. ルカによる聖福音の続誦。
Luc. 17, 11-19. ルカ17ノ11-19
In illo témpore : Dum iret Iesus in Ierúsalem, transíbat per médiam Samaríam et Galilǽam. Et cum ingrederétur quoddam castéllum, occurrérunt ei decem viri leprósi, qui stetérunt a longe ; et levavérunt vocem dicéntes : Iesu præcéptor, miserére nostri. Quos ut vidit, dixit : Ite, osténdite vos sacerdótibus. Et factum est, dum irent, mundáti sunt. Unus autem ex illis, ut vidit quia mundátus est, regréssus est, cum magna voce magníficans Deum, et cecidit in fáciem ante pedes eius, grátias agens : et hic erat Samaritánus. Respóndens autem Iesus, dixit : Nonne decem mundáti sunt ? et novem ubi sunt ? Non est invéntus, qui redíret et daret glóriam Deo, nisi hic alienígena. Et ait illi : Surge, vade ; quia fides tua te salvum fecit. そのとき、イエズスがイエルザレムに行くために、サマリアとガリラヤとの間を通りかかられ、ある村におはいりになったとき、十人のらい病人にであわれた。かれらは、はなれた所に立ちどまり、「イエズス、先生、私たちをあわれんでください!」と大声でいった。かれらを見たイエズスは、「あなたたちの体を司祭に見せにいけ」とおおせられた。かれらは、そこに行く間になおった。そのうちの一人は、自分がなおったのを見ると、大声で天主をたたえながら引き返してきて、イエズスの足もとにひれ伏して感謝した。これはサマリア人であった。イエズスは、「なおったのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この他国人のほかには、天主をたたえるために引き返してきた人はないのか!」といい、そして、その人に向かって、「立っていけ。あなたの信仰が、あなたを救った」とおおせられた。
Credo 信経
Ant. ad Offertorium. Ps. 30, 15-16. 奉献文 詩篇30ノ15-16
In te sperávi, Dómine ; dixi : Tu es Deus meus, in mánibus tuis témpora mea. 主よ、私は主に希望し奉る。主こそ私の天主であり、私の生命は主の手中にある、と私はいおう。
Secreta. 密誦
Propitiáre, Dómine, pópulo tuo, propitiáre munéribus : ut, hac oblatióne placátus, et indulgéntiam nobis tríbuas et postuláta concedas. Per Dóminum. 主よ、願わくは、御民をいつくしみ、御民の供物を受け入れ給え。これによって御心をなだめられ、われらにゆるしを与え、われらの願いをききとどけ給わんことを。天主として・・・。
Præfatio de sanctissima Trinitate 三位一体の序誦
Ant. ad Communionem. Sap. 16, 20. 聖体拝領誦 智書16ノ20
Panem de cælo dedísti nobis, Dómine, habéntem omne delectaméntum et omnem sapórem suavitátis. 主よ、御身がわれらに与え給うのは、天のパンである。そこにはすべての楽しみと甘みとがある。
Postcommunio. 聖体拝領後の祈
Sumptis, Dómine, cæléstibus sacraméntis : ad redemptiónis ætérnæ, quǽsumus, proficiámus augméntum. Per Dóminum. 主よ、願わくは、天の秘蹟を拝領したてまつったわれらを、永遠のたすかりの道にすすませ給わんことを。天主として・・・。

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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