アヴェ・マリア!
2007年2月21日付で、日本カトリック司教団は
「信教の自由と政教分離に関する司教団メッセージ」を発表しました。
カトリックにとって信教の自由と政教分離は、どう考えれば良いのでしょうか。そこで少し考察してみましょう。
全ての人間は、唯一の真の創造主に創られたことを認証し、この唯一の天主を創造主として認め崇敬し礼拝する義務をもっています。従って、例外なく全ての人間は、真理の信仰を知り認めこれを奉じなければなりません。真理の天主かつ救い主である私たちの主イエズス・キリストを受け入れるか否かに、人間個人の永遠の救いがかかっています。
それと同様に、国家にも同じことが言えます。「国が幸せになるには、一人の人間が幸せになるのとは別のことによってではありません。何故なら、国とは多くの人々の共同生活に他ならないからです。」(聖アウグスチノ)
AUGUSTINUS MACEDONIO; EPISTOLA 155
3. 9. ... non enim aliunde beata civitas, aliunde homo; cum aliud civitas non sit, quam concors hominum multitudo.
従って、個人個人がするのみならず、国家(政治的社会)も国家として真の天主を公式に崇敬する義務があります。レオ十三世はこう教えています。
「政治社会は公式の礼拝によって、社会を天主と結びつけている多くの重要な義務を果たすことができるとはあまりにも明らかです」と。
Libertas
何故なら、レオ十三世はその理由をこう説明しているからです。
「共通の社会の絆で一つに結ばれた人々は、ばらばらの個人としてあるときに比して天主に対する依存の度合いが減ずるということはありません。少なくとも個人と同等に社会は、自らの存在、存続、ならびにを負うところの天主に感謝をささげる義務を有します。それゆえ、誰一人として天主に対する己の義務をなおざりにすることが許されず、またすべての義務の中で最大の義務は、各人が好むところのではなく天主が定めたところの宗教を知性と心情とをもって奉持することであり、そして確実で疑いの余地を許さぬ証拠が数々の宗教の中で唯一の真の宗教を確証付けているように、これと同様に政治社会は、あたかも天主がいささかも存在しないかのように振舞うこと、あるいは宗教が特異で意味のないものであるとしてこれなしにすませること、あるいは自らの気ままな好みにしたがってある特定の宗教を無差別に選ぶということは許されません。実際これは大きな犯罪です。天主の神性を崇め尊ぶにあたって政治社会は天主ご自身がどのように崇敬されることをお望みになるかを示された、その規定、様式に厳密に従わなければなりません。」
(レオ13世回勅『インモルターレ・デイ』Actus II p.21-23 / PIN 130)
Libertas
何故なら、私たちの主イエズス・キリストは天主と人々との唯一の仲介者であり、キリストの唯一の花嫁であるカトリック教会は、イエズス・キリストのお望みによって、これを選ぶことは、真理を選ぶということだからです。だからこそ「天主の神性を崇め尊ぶにあたって政治社会は天主ご自身がどのように崇敬されることをお望みになるかを示された、その規定、様式に厳密に従わなければなりません。」
確かに国家は、自分の思う通りに宗教に関する法律(たとえば宗教儀式のやり方などの法)を作ることはできません。しかし、国家は真理の宗教を、真理のしるしに従って認め、その真理の宗教に従うことができます。レオ十三世教皇はこう言います。
「国家社会は天主を自らの創立者かつ生みの親として認めねばならず、同時にその権能と権威とを尊び、従わなければなりません。ですから、国家が天主を認めないこと、あるいはそのような不敬神にいたらせるような政策 ――― すなわち、さまざまな宗教(あるいはそう自称するものを含めて)を同様に扱い、それらに対し無差別に同等の権利と特権を与えること ――― をとることを正義は禁じ、理性自体も禁止します。したがって、国家において1つの宗教が公に表明されることが必要なのですから、その宗教は、ただ真の宗教だけであり、また容易に見分けられることのできるものでなければなりません。ところで、殊にカトリック国家においてはこの唯一の宗教を認めることが容易であるはずです。なぜなら、真理の印がその宗教、つまりカトリック信仰に言わば刻みつけられているからです。それゆえ、もし国家が賢明かつ有益なしかたで共同体の善を取り計らうならば ――― 無論、国家は当然このようにすべきなのですが ――― この宗教を保ち、守らねばならないのです。」
回勅「リベルタス」
【英語】
LIBERTAS, ENCYCLICAL OF POPE LEO XIII ON THE NATURE OF HUMAN LIBERTY
国家は、真理の宗教によって、真の天主に公式の礼拝を捧げる義務があるのみならず、国家独自の分野に止まりながら、国民の永遠の救霊を促進しなければなりません。
天主は、固有の意味で宗教に関する社会(聖なるカトリック教会)を創造し、これは市民社会と区別されます。すべての人間は、この二つの社会に属さなければなりません。しかし人間の究極の目的は唯一でありそれは救霊です。この世の生活は永遠の生命を得るためにある手段です。国家の固有の分野は、世俗に関することですが、人間の究極目的である永遠の救霊とは独立自律に、市民社会を組織することはできません。国家も、間接的に、私たちをして永遠の至福を勝ち取ることができるようにさせる義務があります。国家がこの間接的な貢献を無視する時には、共通善の最も重要な部分を失うことを意味します。以上が
教父と聖トマス・アクィナス、教皇様たちの一貫した教えです。
聖アウグスチノはこう言います。
「普通の人間が天主に奉仕するやり方と、王の奉仕の仕方は違う。普通の人間は忠実に生活することによって天主に仕える。しかし王であるなら、正しい法を制定し不正を厳しく制裁することによってふさわしく禁止することによって天主に仕えるからだ。・・・王たちは、王として王でなければすることができないことをすることによって天主に仕えなければならない。」
5. 19. ... Aliter enim servit, quia homo est; aliter, quia etiam rex est: quia homo est enim ei servit vivendo fideliter; quia vero etiam rex est, servit leges iusta praecipientes et contraria prohibentes convenienti vigore sanciendo. ... In hoc ergo serviunt Domino reges, in quantum sunt reges, cum ea faciunt ad serviendum illi, quae non possunt facere nisi reges.
EPISTOLA 185
DE CORRECTIONE DONATISTARUM LIBER
また、更にはこうも言います。
「王は、自分の王国において、人間社会に関することのみならず天主の宗教に関することでさえも善を命じ、悪を禁止するなら、王として天主に仕えることになる。」
51. 56. ... Deo serviunt in quantum reges sunt, si in suo regno bona iubeant, mala prohibeant, non solum quae pertinent ad humanam societatem, verum etiam quae ad divinam religionem.
CONTRA CRESCONIUM GRAMMATICUM DONATISTAM LIBRI QUATUOR
LIBER TERTIUS
「私たちは彼らのことを幸せな王であるという。もしも正しく支配し、・・・自ら人間であることを忘れないなら。もしも自分の権力を天主の礼拝に最高に使ってその御稜威の奉仕に使うなら。もしも天主を畏れ、愛し、礼拝するなら・・・。
24. ... Sed felices eos dicimus, si iuste imperant, si inter linguas sublimiter honorantium et obsequia nimis humiliter salutantium non extolluntur, et se homines esse meminerunt; si suam potestatem ad Dei cultum maxime dilatandum maiestati eius famulam faciunt; si Deum timent diligunt colunt...
De Civitate Dei contra Paganos libri XXII
LIBER V
聖アンブロジオは、ローマ皇帝への書簡でこう書いています。
「ローマの命令の下にある全ての人々は、あなたローマ皇帝かつ地の君主のために闘うように、あなた自身は全能の天主と聖なる信仰とのために戦うのです。さもなければ、各々が真の天主を、即ちすべてのものが支配を受けている、キリスト教徒たちの天主を真実に礼拝するのでなければ、救霊は安全に勝ち取ることができないでしょう。これこそ唯一の真理の天主であり、心の奥底より崇敬される方です。他方、聖書に言う通り、異教の神々は悪魔であります。」
[Col. 0961B] 1. Cum omnes homines, qui sub ditione Romana sunt, vobis militent imperatoribus, terrarum atque principibus, tum ipsi vos omnipotenti Deo et sacrae fidei militatis. Aliter enim salus tuta esse non poterit, nisi unusquisque Deum verum, hoc est, Deum christianorum, a quo cuncta reguntur, veraciter colat; ipse enim solus verus est Deus, qui intima mente veneretur: Dii enim gentium daemonia, sicut Scriptura dicit (Psal. XCV, 5).
EPISTOLA XVII.
AMBROSIUS episcopus beatissimo principi, et christianissimo imperatori VALENTINIANO.
大聖レオはローマ皇帝レオ一世にこう書いています。
「主は、あなたの慈悲を主の秘跡の照らしによってかくも拡大されたのですから、あなたの皇帝の権能がただ単にこの世の支配のためだけではなく、特に教会の保護のためにあなたに与えられたということをあなたは注意しなければなりません。」
Cum enim clementiam tuam Dominus tanta sacramenti sui illuminatione ditaverit, debes incunctanter advertere, regiam potestatem tibi non ad solum mundi regimen, sed maxime ad Ecclesiae praesidium esse collatam ...
(Ep. Ad Leonem Augustum, PL 54, col. 1130)
大聖グレゴリオもこう断言します。
「全ての人々の上に天から権力が与えられたのは、善を望む人々は助けられ、天の道がより大きく開かれ、地上の王国が天の王国に仕えるためである。」
Ad hoc enim potestas super omnes homines dominorum meorum pietati coelitus data est, ut qui bona appetunt adjuventur, ut coelorum via largius pateat, ut terrestre regnum coelesti regno famuletur.
(Ad Mautitium Augustum, PL 77, col. 663.)
聖トマス・アクィナスはこう言います。
「現世において私たちが良く生きるこの命の目的は、天国での至福であるから、王の職務は、天の至福を勝ち取るためにふさわしいように、すなわち、天の至福に関わることを、多くの人々の良き生活に関することを提供することにある。そしてそれらに反することは、出来る限り禁止することにある。」
Quia igitur vitae, qua in praesenti bene vivimus, finis est beatitudo caelestis, ad regis officium pertinet ea ratione vitam multitudinis bonam procurare secundum quod congruit ad caelestem beatitudinem consequendam, ut scilicet ea praecipiat quae ad caelestem beatitudinem ducunt, et eorum contraria, secundum quod fuerit possibile, interdicat.
Sancti Thomae de Aquino
De regno ad regem Cypri Caput 16
教会博士たちもこの点で一致しています。1789年のフランス革命の直前に、
聖アルフォンソ・デ・リグォリは、聖アウグスチノと同じ言葉遣いで同じことを言っています。
「私的な人間には天主の法を守るだけで、救霊を得るには充分である。しかし王にとってはそれだけでは充分ではない。自分で天主の掟を守るというだけでなく、国民の悪しき習慣を改善し躓きをなくすという別のことをできるか切りする必要がある。
天主を崇敬することに関しては、君主は不敬の説教者たちを全てその王国から追放し、悪しき教義に汚染された書物が国内に持ち込まれるところで没収することをためらってはならない。この種の本を根絶することに気を配らなかった君主達は、その王国の破滅の原因をおくことになる。
6. ... Ad un uomo privato basta che osservi la divina legge per salvarsi; ma ad un re non basta: gli bisogna inoltre che si adoperi quanto puo, affinche i suoi sudditi osservino la divina legge, procurando di riformare i mali costumi e di estirpare gli scandali...
9. Con modo speciale devono attendere i principi a tener purgati i regni da gente di mala dottrina. Pertanto parecchi cattolici sovrani non ammettono al loro servizio ne eretici ne scismatici. Percio anche proibiscono con sommo rigore che nel regno entrino libri infetti di dottrina avvelenata; la poca cautela di alcuni principi in estirpar questa sorta di libri e stata la causa della ruina di piu regni.
S. Alfonso Maria de Liguori
La fedelta dei Vassalli verso Dio li rende anche fedeli al loro principe
1789年の革命後、教皇様たちはこの点について長くはっきりと説明しています。
グレゴリオ十六世はこう言います。
「彼らに権威が与えられたのは、世を統治するためだけでなく、教会を支援し、保護するために特に与えられていることを、彼らがよく考えますように。また、教会の保護のためになされることは同時に彼ら自身の安寧および彼らが有する権威の維持のためになるということをよく思いめぐらしますように。いや、むしろ信仰のためとなることがらが彼らの王国のためとなることがらよりも、はるかに大切に感じられるべきことであると君主らが確信し、また聖レオ教皇の言うように、主の手によって彼らの王冠に信仰の冠がつけ加えて置かれることが彼らの最大の関心事となりますように。国々の父および守護者として立てられた彼らは、もしその太腿に王の王、主の主と書かれている天主に対して、敬虔さをともなって宗教が栄えることを自らの第一に配慮することとするなら、平和と豊かさに満ちた真のゆるぎない幸福を確保するでしょう。」
回勅 『
ミラリ・ヴォス』 教皇 グレゴリオ16世
第二バチカン公会議まで全ての教皇様たちは同じことを教えています。
教会と国家は決して混同されるべきではありません。この両者は区別されます。しかし政治と宗教とが分離しなければならないという「原則」は、自然に反しています。国家は真の宗教を認め、真の宗教には自由を与える義務があるからです。
教会と国家の分離は、歴代の教皇によって排斥されてきました。
ピオ九世は次の命題を間違いであると排斥しました。
排斥命題 55「教会は国家から、国家は教会から分離されなければならない。」
シラブス (近代主義者の謬説表:ピオ9世の数多くの訓話、回勅、書簡による大勅書)
聖ピオ十世はこう言います。
「
国家が教会から分離されていなければならないということは、絶対的に間違っている命題で、最も危険な誤謬である。これは国家はいかなる宗教も認めてはならないという原理に立つ命題であり、これは天主に対して大いなる不義の罪である。何故なら、人間の創造主は、人間社会の創立者でもあり、その存在を維持する方であるからだ。従って、私たちは天主に私的な礼拝のみならず、天主を崇敬するための公的な社会的な礼拝をしなければならない。更に、この説は、明白な超自然の秩序の否定である。これは国家の行動が、この世の生活での公的な繁栄の追求だけに限定している。しかしこれは政治社会の近接の対象にすぎない・・・。」
VEHEMENTER NOS
ENCYCLICAL OF POPE PIUS X ON THE FRENCH LAW OF SEPARATION