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信教の自由とその新たな「根拠」:およびそれへの反駁

2007年02月24日 | カトリックとは

アヴェ・マリア!


人間の人格の尊厳は信教の自由の根拠たり得るでしょうか?


1.信教の自由とその新たな「根拠」


 第2ヴァチカン公会議前の期間に、信教の自由についての新しい論説が生まれました。この論説は、以前のものと同様、信教の自由をあらゆる宗教、礼拝行為の実践に対する消極的権利として示すものでしたが、第2ヴァチカン公会議によって用いられたため、広く人の知るところとなりました。


 当の論説によれば、宗教に関する事柄において全ての個人が有すべき行動の自由は、人間の人格の尊厳に基づくものです。かかる人格の尊厳は、――真理についての考慮は一切取捨した上で――、人間は本性上、その存在の性質において 天主に先験的かつ失われ得ない秩序付けで「結ばれている」という事実に存する、と主張しています。


 この見解に従えば、全ての人は、その主観的状態・態度[傾向] (真理あるいは誤謬、誠実な意向あるいは悪意)のいかんによらず、天主に対する自らの「関係」を実践するための行為、言い換えると、神的なるものの個人的な探求-これは宗教的および文化的行為、私的ならびに公的な行為、個人的あるいは集団的行為を伴いかつ伴われます-において侵すことができません。


 かかる見地によれば、宗教的領域における行為を為す権利は、もはや19世紀の自由主義思想家たちが目したような「神も主人も持たない」、権利の絶対的保持者ではなく、天主に本質的に結ばれている主体の権利と見なされ、これはたとえ当人が自らの自由な選択において誤り、「実際に」天主を敬う義務、ないしは真の宗教の礼拝行為をとおして天主を敬う義務を果さない場合も全く同様です。


 議論の仕上げとして、次のような理由付けがなされました。すなわち、信教の自由に対する[全く]同じ権利が、当の権利が理知主義的かつ個人主義的なリベラリズムを前提としていたために19世紀の諸教皇によって排斥され、しかるに今日では人間人格の尊厳の名において提唱され得るという主張です。言い換えると、権利の内容は同じであっても、その根拠が根本的に異なる、というのです。


「憲章『信教の自由に関する宣言』第2節をとおしてなされた、第2ヴァチカン公会議による信教の自由の提唱」が1864年のシラブス(誤謬排斥表)と別のこと、また後者の第15、77、79命題に関しては、ほとんど反対のことを述べているという事実を否定することはできません。」
(イヴ・コンガール神父『La crise dans L'Eglise et Mgr Lefebvre(教会の危機とルフェーブル司教)』Cerf, 1976, p.51)


「知的かつ宗教的エリートに属するジョン・カートニー・マレイ神父は、[信教の自由に関する]宣言がシラブスと(同文書は1864年のものであり、ロジェ・オベールが証明したように、きわめて具体的な歴史的状況によって条件付けられたものである)文面上は反対のことを述べつつも、中央集権的な共和主義と全体主義とに対峙して、当時の諸教皇が、天主にかたどってつくられた人間の人格の尊厳と自由とを守るために日ごと勢いを加えておこなった闘争の結実であることを示した。」
(イヴ・コンガール神父  『A propos d'Econe et de la presente tempete"(エコン[神学校]と目下の混乱した状況)』 Documentation Catholique 1704, 5-19 septembre 1976, p.790)


「レオ13世ならびにピオ12世の教えるところに比して --と言っても、当の動きはこれらの教皇の時から始まったのだが」--、この教説の新しいところは、この自由の固有かつ近接的な根拠を定めている点にある。当の根拠は、もはや道徳的ないし宗教的善の客観的真理の中にではなく、人間人格の存在論的性質の中に求められている。」
(イヴ・コンガール神父 Bulletin "Etudes et documents du Secretariat de l'episcopat francais" 5, 15 juin 1965, p.5)


 上に挙げた引用ほど、信教の自由の新たな根拠に関するこの理論を的確に特徴付け、これが公会議宣言『信教の自由に関する宣言』の指導的精神となったことをよく示すものはないでしょう。

 


2.信教の自由に関するこの新しい理論の反駁


 A) 信教の自由に関する新説は、宗教的事柄における行動の自由(行動するのを妨げられない、という意味でのそれ)を人格の存在論的な尊厳に依拠させています。しかるに、これは誤っています。人間の存在論的尊厳とは、単に人間が有する自由意志を表すに過ぎず、道徳的自由あるいは行動の自由をいささかも意味しません。実際、道徳的自由および行動の自由は、個々の人間の行為に関与することであり、その本質的存在に関連することではありません。したがって、これらの自由は人間の行為的尊厳、もしくは --これはつまるところ同じことを述べているに過ぎませんが-- 真理、すなわち当人の真理への実際的な恭順  をその根拠としなければなりません


 反対に、人が誤りまたは道徳上の悪に固執する場合、人は自らの行為的尊厳を失い、当の失われた尊厳は何らの根拠にもなり得ません。

「知性が誤った見解に固執する場合、また意志が悪を選び、これに執着する場合、このいずれの能力もその完全な発展にいたることができず、かえってその生来の尊厳を喪失し、堕落します。そのため、徳と真理とに反する事物を人々の目にさらすことは許されず、ましてやかかる放縦を法律の監督と保護の下に置くことにいたっては言うに及びません。」
教皇レオ13世回勅『インモータレ・デイ』、Actus II p.39 / PIN149)

 

「初めの ― そして新しい ― 論点は“人格の尊厳”の上に、全ての人が自分の好きな宗教の内外的実践に関する自由を基づかせるものです。従って、この議論によれば、自由はこの尊厳に基づき、そして尊厳は自由にその存在理由を与える、とします。人はその尊厳の名によってどんな誤謬でも信奉することができる、というものです。これは馬の前に馬車をつけるようなもので、本末転倒しています。何故ならば、誰でも誤謬に執着すればみずからの尊厳を失うので、もはや尊厳の上に何も築くことが出来ないからです。むしろ自由の根源は真理なのであって尊厳ではないのです。「真理はあなた方を自由にするだろう」と聖主はおっしゃいました。」
ルフェーブル司教『 Lettre Ouverte aux catholiques perplexes (迷えるカトリック信者たちへの公開書簡)』Albin Michel, 1985, p.103-104.)

 

 したがって、もし人が宗教的自由に対する人格の権利を是が非でも人間人格の尊厳に立脚しようとするならば、その場合、打ち立てられるのは、ただ真の宗教に関しての宗教的自由に対する権利であり、決して諸々の誤った宗教、あるいは見境なく全ての宗教に関しての権利ではありません。実際、これこそレオ13世が「良心の自由」という言葉に与える正当な意味なのです。すなわち、真の宗教に即しての自由、および真の人間の尊厳に調和する唯一の自由のことです。


「ひろく喧伝(けんでん)されているもう一つ別の自由があり、それは「良心の自由」と呼ばれるものです。もしこの言葉によって表されるのが、人は誰でも天主を礼拝するかしないかを自らの好むままに選択する自由があるということなら、それはこれまで示してきた論拠によって充分反駁されます。しかし、この言葉はまた、国家において誰もが天主の御旨に従い、また[果たすべき]義務という意識から、いかなる妨げもなしにその戒律を遵守する権利を有するという意味にも解することができます。この意味でなら、これは真の自由であり、天主の子らにふさわしい自由です。この自由は人間の尊厳を栄(は)えある仕方で保ち、いかなる暴力、不正よりも強いものであり、また教会が常に望み、特別心にかけてきたものです。これこそ使徒たちが臆することのない大胆さで主張した自由、また護教家たちが著作を通して確証した自由であり、さらにはおびただしい数の殉教者たちが自らの血をもって確立したところの自由です。そしてそれは至極もっともなことでした。なぜなら、キリスト教的な自由は、天主の人間に対する絶対的かつこの上なく正当な主権、ならびに人間の天主に対する主要かつ最高の義務を証し立てるものだからです。」
レオ13世回勅『リベルタス』Actus II p.203 / PIN 205)


 ここで言われている「天主の御旨に従う」および「天主の戒律を遵守する」、それに「キリスト教的自由」といった表現が指しているのは、当然のことながら真の宗教に属するところの義務であるという点を、再度指摘する必要はおよそないでしょう。



 B)人間がもつ「天主を称え、敬い、仕える」存在論的能力は、すでにそれ自体において、またそれが実際に働かされる前にも、何か非常に尊く、失われ得ないものです。一切の人間は、たとえどれほど堕落、変節しようとも、この「神的なる事象に対する能力」を潜在的なかたちで保持し、天主は、もしそうすることをお望みになれば、いつでもこれを「現実化」することがおできになります。実際、天主はその成聖の恩寵により、罪人を聖人へと変えることがおできになるからです。そして、今述べた一切のことは、一定の限度の下で、宗教的誤謬に陥っている隣人に対する賢慮と愛徳の義務の根拠となるものです。そして、これは「傷んだ葦を折らず、くすぶる灯心も消さない」(マタイ12章20節)主イエズス・キリストの範に倣うことです。

 しかるに、回心してくれることを願って、道を誤っている者に対して示す浩瀚(こうかん)さ、ないしは愛徳による「寛容」は、当の誤謬の中にある人に、[かかる誤謬に基づいて]行動する自由への権利-すなわち、正義に即して  -を与えるということを意味するわけではありません。愛徳(私は「自分のもの」をあなたに与える)と正義(私はあなたに「あなたのもの」あなたに当然与えられるべきものを与える)とを混同しないようにしなければいけません。実際のところ、ただ真理と道徳的善に応える者のみが行動の自由に対する権利を有するのです。(後述「寛容」についての項参照)


 C)最後に、宗教的自由に関する当の新説を立てる可能性そのものの根拠として持ち出される中心的議論、すなわち「根拠の変化」は、見え透いた詭弁に他なりません。

 

◆ 論理的に考えるならば、もし全ての宗教に関する宗教的自由がそれ自体として善いものであったならば、19世紀に当の自由が依って立っていたとされる「諸々の悪い原理」――すなわち、個人主義に基づく理知主義ならびに一元的国家統制主義――のために排斥することはできず、排斥されるのは、ただこれらの原理だけとなるはずです。自由は、その根拠とするところではなく、その関わる対象によって 善いものであるか悪いものであるかのいずれかである他ありません。しかし、次に示す寓話は、これと反対の原理に立っています。

 17才の少女ヴァレリー(カトリック信者)は、ある日父親にこう宣言します。「私、統一教会に入ることにしたの。」
「えっ、どうしてだい?」父親は、きわめて好意的な態度で娘に尋ねます。
「なぜって、私、自分の気に入ったことをする自由があるからよ。」
「ああ、そういう前提でなら、お前にはそうする権利はないよ。」と、父親は残念そうに言います。
 翌日、ヴァレリーは再度、攻勢に出ます。
「お父さん、私クリシュナ教に入ることにしたわ。」
「どうしてだい?」父親は、昨日ほど好意的にでなく答えます。
「私の人間としての人格の尊厳においてよ...。それに...-ヴァレリーは考え深げに言い足します- 私、真理を探求しているのよ。そしてこの宗派にハマっちゃったの。」
「うん、なるほど。今度は、お前にはそうする権利がある、と言わなくちゃならない。」と、父親は興奮した口調で同意します。


 より一般的に言うと、人間の行為は行為する者の意向によってではなく、まず何よりも、その道徳的対象によって種別化されます。したがって、ある人たちが19世紀の理知主義、あるいは20世紀の何某かの人格主義 を引き合いに出そうが、それはおよそ意味のないことです。それ自体において、もしくはその実りによって評定すべきなのは宗教的自由そのものだからです。


◆ しかるに、この信教の自由(一切の宗教に無差別に与えられる、宗教的事柄における行動の自由)というものは、まさしく19世紀の諸教皇によって、それ自体において「滅びの自由」として、あるいはむしろその結実ないしその直接的かつ必然的な結果、すなわち教会の公的権利を侵害する、ということのために排斥されたのです。信教の自由は、当時の歴史的な動機のために排斥されたわけでは断じてありません。これは、当の教皇らによる排斥文を注意して読めばすぐに分かることです。



結論: 信教の自由を正当化するために一部の人々が据えようとする「新たな根拠」、すなわち人間の人格の尊厳は偽りの口実にしか過ぎません。あらゆる宗教に分け隔てなく与えられる宗教的自由は、虚偽かつおよそ不条理な自由、イエズス・キリストならびに教会の統治権を侵害する自由、さらには人々の魂に宗教無差別主義の毒を注ぎ込むものとして、まさしくそれ自体において排斥され、今日においても常に変わらず排斥されるべきものだからです 。

 


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