Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

司祭黙想会

2013年09月30日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

聖ピオ十世会のアジア管区の司祭たちは、今日から一週間の黙想会に入ります。良い黙想会になるようにお祈りください。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!!

トマス小野田圭志神父

天主様に感謝!

2013年09月19日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 天主様に感謝! 9月13日、14日と大阪で、9月15日、16日と東京で聖伝のミサが捧げられました。特に、9月16日には、台風で天候が悪かったのですが、5名の方々がミサ聖祭にあずかるお恵みをいただきました。
 今月は、14日にも大阪で新しい未信者の方が、15日には東京でカトリック信徒の方が、さらに16日に東京で別のカトリック信徒の方が与られ、新しい方々が聖伝のミサのお恵みを得たということに天主様に感謝します。

 さて、9月のミッションついて、次のようなご報告をいただきましたので、ご紹介します。

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アヴェ・マリア!

13日金曜日は、10人の方が前日の「聖母の御名の祝日」の隨意ミサに、
14日土曜日は、「聖なる十字架の称賛のミサ」には17人が預かるおめぐみを頂きました。デオグラチアス!
私達人類を救う為に、十字架に付けられて罪をあがなう事を望まれた天主様の深い愛に感謝し、自分に与えられた十字架に、イエズス様を見て、イエズス様をお愛しするように苦しみを愛せるようになりたいと思いました。お忙しい中、大きな犠牲を払って日本で御ミサを挙げて下さる神父様に、感謝致します。小野田神父様の上に天主様の大きな祝福がありますように!!

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15日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 14人(内、子供0人)
女: 15人(内、子供0人)
計: 29人(内、子供0人)

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天主様に感謝!

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


330年前、1683年9月12日ウィーンでの勝利

2013年09月12日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今から330年前の1683年9月には、第二次ウィーン包囲戦がありました。
神聖ローマ帝国の首都であるウィーン、またオスマン帝国に対峙するキリスト教世界の東の要所としてのウィーンにおける攻防戦でした。以前はキリスト教の中心地の一つであったコンスタンチノープルはイスラムに攻撃され、1453年5月29日イスラムの手に落ちました。コンスタンチノープルはイスタンブールとなりトルコのオスマン帝国の首都となっていました。
 1683年、オスマン帝国はイスタンブールを基地として、西方のキリスト教世界の首都に大攻撃を仕掛けました。
 キリスト教世界を、異教徒らの攻撃から外部から守り、異端者らの攻撃から内部から守るという使命を持っていた神聖ローマ帝国皇帝は、その当時、ハプスブルク家の皇帝レオポルト一世でした。ウィーンは自分の住む居住地でもありました。
 当時のフランス王ルイ十四世は、レオポルトよりも強くローマ皇帝を助けることができたのですが、そして教皇インノチェンテ十一世がルイ十四世に援助を求めていたのも関わらず、それを断ります。ウィーンは、ポーランドの王ヤン・ソビエスキによってきわめて劇的に救われたのでした。そしてウィーン市民たちが聖クララのアブラハム神父(Abraham a Santa Clara)に励まされて守ったのでした。エルンスト・リュディガー・フォン・シュターレンベルク(Ernst Rüdiger von Starhemberg)が、神聖ローマ皇帝レオポルト1世からウィーン防衛司令官に任じられていました。

 オスマン帝国は、1672年6月にポーランドに攻撃をかけたとき、弱いミハウ・ヴィシニョヴィエツキがポーランド王でした。(二年後にヤン三世ソビエスキが王位に就きます。)オスマン帝国の大宰相カラ・ムスタファ(Kara Mustafa)は、ポーランドからウクライナを要求しましていました。軍司令官としてヤン・ソビエスキがウクライナに行きオスマン帝国と戦争し、教皇クレメンテ十世は他のカトリック君主たちにポーランドを助けるように要請しました(答えは無し)。1676年、ミハウの死後、ソビエスキが王に選ばれました。

 1682年5月13日、オスマン帝国の第19代皇帝メフメト四世は、大宰相カラ・ムスタファにウィーンを占領するように命じて聖なる「予言者の旗」を渡しました。もしウィーンを手に入れれば、神聖ローマ帝国に対する勝利であり、その影響は計り知れないものがあります。7月13日にはオスマン帝国の大軍はウィーンに到着します。14日にはトルコの大砲がウィーンの城壁を攻撃し、26日にはウィーン市の道路でフォン・シュターレンベルクが戦いを交えています。8月初めには、ウィーンは完全に包囲されてしまいました。

 神聖ローマ帝国皇帝レオポルトはソビエスキにウィーンを守ってほしいと要請すると、すぐに自分から軍を率いてワルシャワを出発しました。7月22日にウィーンの防衛は首都ワルシャワの安全よりも重大である、と書いています。ウィーンに向かって南に行進し、途中チェンストホーバで立ち寄り祈りを捧げました。8月15日クラクフを発ったソビエスキは、オーストリアやドイツの諸侯と、ドナウ河のトゥルン(Tulln an der Donau)で集合することにしていました。8月23日、ソビエスキは教皇に最期まで戦うと書き送りました。8月末になるとウィーンの城壁内では食べ物が底をついていました。

 8月26日、オスマン・トルコはウィーンの降伏を要求しますが、フォン・シュターレンベルクはこれをあくまでも拒否します。強い雨が降り続け、オスマン帝国の攻撃は鈍っていました。9月の最初、フォン・シュターレンベルクは、ウィーンの城壁はもはや長くは持ちこたえられない、と書いています。9月4日、トルコ軍はウィーン城壁を火薬で爆破し始めます。ソビエスキ率いるポーランド軍は14日間で350キロを行進しました。9月6日、ポーランド軍はトゥルンでオーストリア皇帝軍と合流しています。

 オスマン軍はウィーンの突破口を開きつつありました。守備軍は必死に抵抗し、ウィーンは辛うじて守られていただけでした。オスマントルコ軍は大宰相カラ・ムスタファにウィーンの防御は「絶望的である」と報告します。しかし、フォン・シュターレンベルクもソビエスキも、そうは考えませんでした。ウィーンの城壁内からは聖シュテファン・ドム(聖ステファノ司教座大聖堂)の高い塔から劇的な様子を見守っていました。それと同時にソビエスキはウィーンの郊外カーレンベルク(Kahlenberg)の丘からウィーンの町並みとウィーンを包囲するオスマン軍の様子を見渡していました。

 ヤン3世ソビエスキのポーランド軍と、オイゲン・フォン・ザヴォイエン(Eugen Franz von Savoyen-Carignan、プリンツ・オイゲン(Prinz Eugen))の率いるオーストリア軍らは、偵察によりオスマン軍の情報を得て、オスマン軍は数の上で連合軍を上回っているけれども、オスマン軍の一部のタタール軍などはカラ・ムスタファに対して非協力的なこと、カラ・ムスタファの指揮が不統一であること、士気が弛緩していること、防備体制が弱体であることなどを見抜き、9月12日朝6時5分、総攻撃をかけました。連合軍による攻撃の開始は、9月13日が予定されていたのですが、ソビエスキが9月12日に連合軍に総攻撃を命じたのです。

 総攻撃の前、カーレンベルクの丘でソビエスキと指揮官たちはミサにあずかっていました。このミサ聖祭は教皇特使である、カプチン会司祭マルコ・ダヴィアノ神父によって捧げられました。ソビエスキ自身がこのミサで侍者をしました。攻撃の前、ソビエスキはチェンストホーバの聖母に熱心な祈りを捧げました。

カーレンベルクの教会
この記念として、後にこの場に教会が立てられました。


 聖母の聖誕(9月8日)の八日間内の主日であった9月12日、この決定的な日にトルコ軍には9万の兵士が、キリスト教軍には7万の兵士が戦いました。夕方6時頃にソビエスキの指揮する2万名からなる重装騎兵がウィーンの丘を駆け下り、ポーランドの有名な有翼重装騎兵がオスマン軍を大混乱に陥れました。偵察によってカラ・ムスタファの本営の位置を突き止めていたソビエスキは、オスマン軍に対して中央突破します。オスマントルコ軍司令部は混乱に陥れられ、1時間ほどの戦闘によって、カラ・ムスタファの軍は散り散りになり、戦場に1万5千の兵士を見捨てたまま潰走しました。キリスト教軍は1500名が戦場で失われました。カラ・ムスタファは着の身着のまま馬を一頭もって逃げ、その他の所持品などは陣地に残されたままでした。(戦いの後、ウィーンの市民たちはオスマン軍の残していったコーヒー豆の袋を大量に見つけ、ポーランド王ヤン三世の将校フランチシェク・クルチツキ(Franciszek Jerzy Kulczycki)がウィーンで最初の珈琲のお店を開いたとのことです。彼がそのコーヒーに牛乳を入れてのみ、マルコ・ダヴィアノ神父を記念してカプチーノと名前がつけられたそうです。ウィーンにはフランチシェク・クルチツキにちなんだ"コルシツキー通り"(Kolschitzky gasse)という道路があるそうです。)

ソビエスキ


 ソビエスキは、ユリウス・カエサルの有名な言葉(Veni, vidi, vici)をもじって、この大勝利を教皇にこう報告しています。Venimus, vidimus, Deus vicit. 私たちはやって来た、私たちは見た、天主は勝利した、と。

 夕暮れで暗くなったために追撃は早々に打ち切られたため、カラ・ムスタファは無事に逃げ延びることができたのですが、逃亡したイスラム軍は、10月9日ソビエスキによってハンガリーのパルカニの戦いによって壊滅させられました。

 戦いに負けたカラ・ムスタファは、1683年12月25日、責任を問われてベルグラードで死刑に処されました。

12. September 1683 Johann III Sobietzki, König v. Polen


Von diesen Anhöhen zogen am Morgen des 12. September 1683 Johann III Sobietzki, König v. Polen, der kaiserliche General Lieutenant Herzog Carl v. Lothringen, die Churfürsten Johann Georg III v. Sachsen und Max Emanuel v. Bayern, Fürst Georg Friedrich v. Waldeck, die Markgrafen Hermann und Ludwig Wilhelm v. Baden und andere Heerführer mit den Truppen des Kaisers Leopold I. sowie mit deutschen und polnischen Hilfsvölkern in den Kampf zur Befreiung der von der türkischen Kriegsmacht durch ein und sechzigtagige Belagerung schwer bedrängten Stadt Wien. In dankbarer Erinnerung an den ruhmvollen Sieg des Entsatzheeres die Stadt Wien: 12. September 1883.

 チェンストホーバの聖母マリアに熱心に祈って戦いに臨んだこのソビエスキは、この勝利によりイスラム教オスマン帝国の侵略からキリスト教世界を守ったのです。キリスト教連合軍の総指揮官であるポーランド王ヤン三世ソビエスキは、世界史において最も決定的な戦いに勝利を収めたのでした。これをもってオスマントルコはヨーロッパの侵略を中断します。ヨーロッパ中の王たちは、ソビエスキに祝福の言葉を贈り、ポーランド王とその軍隊は、キリスト教世界の守護者として賞賛を浴びました。(ただ、残念ながら、オーストリアは十八世紀にはポーランドを侵略します。)チェンストホーバの聖母マリア様のおかげで、ソビエスキのおかげで、今でもその昔と同じように、ウィーンには聖ステファノ大聖堂の高い塔が立ち続けています。

聖ステファノ大聖堂


聖ステファノ大聖堂


カーレンベルク


 福者インノチェンテ十一世は、ソビエスキがこの戦いにおける保護をチェンストホーバの聖母マリアに委ねていたので、このウィーンでの勝利を記念して9月12日を聖母マリアの聖名の祝日として制定しました。

Concede, quaesumus, omnipotens Deus:
ut fideles tui, qui sub sanctissimae Virginis Mariae Nomine et protectione laetantur; eius pia intercessione a cunctis malis liberentur in terris, et ad gaudia aeterna pervenire mereantur in coelis. Per Dominum nostrum Jesum Christum, Filium tuum, qui tecum vivat et regnat in unitate Spiritus Sancti, Deus, per omnia saecula saeculorum. Amen.

全能の天主よ、願わくは、至聖なる童貞マリアの名前と保護とのもとにおいて喜ぶ御身の信者らが、聖母マリアの優しき取り次ぎにより、この世においては全ての悪から解放され、天においては永遠の喜びにたどり着くにふさわしい者とならんことを。

チェンストホーバの聖母マリアよ、我らのために祈り給え!
チェンストホーバの聖母マリアよ、我らを守り給え!
チェンストホーバの聖母マリアよ、我らを憐れみ給え!

西方キリスト教世界を救ったチェンストホーバの聖母マリアに感謝!
ソビエスキに感謝!ポーランド軍に感謝!

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


明日9月13日から大阪で聖伝のミサがあります。
9月15日には東京で主日のミサ聖祭があります。


聖ピオ十世会アメリカの神学校のプロジェクト

2013年09月04日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか?昨日の9月3日は、聖ピオ十世の祝日でした。

 聖ピオ十世会本部が発行している Nouvelles de Chretiente (N. 141, mai/juin 2013) を読むとアメリカの神学校のプロジェクトの記事がありましたので、ご紹介します。



 現在、アメリカのウィノナにある聖ピオ十世会の神学校はあまりも神学生がいっぱいで全員を収容するのに困難になっています。ほかの新しいミサの神学校は第二バチカン公会議以後召命はますます少なくなっているのですが、ウィノナでは召命は毎年増加しています。この傾向はとどまることを知らず、すぐに北米では神学生を受け入れることができなくなってしまうことが予想されます。

 このうれしい叫びの問題を解決するために、いろいろな可能性と方法が研究されました。既存の神学校の建物を増築することをまず考慮しました。教室と神学生たちの部屋の棟を付け加える設計図が検討されました。しかし一番の問題は、聖堂と食堂の収容可能数を増やすことでした。これらを拡大するためには、聖堂と食堂とを全て壊してから建て直さなければなりません。古い建築物に新しい建築物を付け加えるときにいろいろな制限が法によって要求され、膨大な建築費用がかかることが予想されます。

 次に、古い神学生がいなくなった神学校を購入することが検討されました。100近くの神学校などを訪問して見学しました。それらのうちで有力な候補を詳しく検討してみた結果、広さが十分でない問題、建物の強度の問題、維持費があまりにも高価である問題、また聖ピオ十世会であるという理由で売却を拒否されるという問題にぶち当たりました。
 たとえば、或る神学校は訪問している最中に仏教のために売却されてしまいました。その周辺にも売りに出された神学校を見つけたのですが、聖ピオ十世会には売らないと拒否されました。仏教であれば良いが、カトリック聖伝にはダメだということです。そのほかにも、或る修道会に所属するよい建物があり、購入の意向があることを申し出ると、修道会としても良い返事を出したケースがあります。そこで長上に同意を求めると、カストゥリオン・オヨス枢機卿がストップをかけ、契約は成立しませんでした。

 そこで既存の神学校を残しつつ第二の神学校を建設することも検討しました。しかし、神学校の機能を二つに分けることによって、維持費、教授陣、その他全てが二倍になってしまうのです。また神学校と神学生の教育との統一性を維持するために、できる限り神学校を一つにとどめることが望まれます。それによって神学生たちを教授陣がよりよく教育し評価することができるからです。

 七年間の様々な研究の末に、2010年ウィノナの校長であるルルー神父様がフェレー司教様とアメリカのヴァージニアにある農地を視察し、アメリカの東海岸のヴァージニア州にある土地を購入することが決定されました。司祭養成に適した静かな自然に囲まれた場所であること、近辺に空港があること、税金が安いことから、ここが選ばれ、四二〇ヘクタールの土地(ウィノナの神学校の約三倍の面積)に神学校を建設することになりました。神学校に付属する農地は神学校を維持するための収入源にもなりますし、その他の活動のために利用されます。

 この計画が完成した暁には、一三五名の神学生たちと司祭とが生活し、さらに叙階式のために訪問する司祭たちやその他の来客を、四〇名受け入れることができるようになります。神学校の中心は大聖堂で、叙階式をその中で執行することができるものです。主祭壇のほかに副祭壇が三つ作られ、地下聖堂には神学校教授や訪問の司祭たちのための十の祭壇が建てられます。
 複数の教室は、各々約三五名の神学生たちを収容し、その他にも神学生全てを収容できる教室も作られます。
 新しい神学校には、神学生たちだけに限られた禁域が作られ、沈黙と祈りと勉学の雰囲気を保つための特別の区域が予定されています。また、別棟には、神学校とは区別された「黙想の家」があり、神学生のみならず、信徒たちの黙想のためにも利用されます。天主の御助けによって工事は2015年の夏には完成することが期待されています。第一期は、神学校の建設で、地下聖堂、教室、寝室、食堂などの建設が行われます。これによってウィノナからヴァージニアに移転することで、神学生たちの部屋の不足問題を解消します。第二期は、大聖堂の建設で、これは神学校が移転した後に続けて行われます。

 このプロジェクトは第一期に二千万ユーロ、第二期に一千二百万ユーロがかかります。最初の計画では、大聖堂は現在のウィノナの聖堂の三倍を予定していましたが、予算の関係で二倍に抑えることになりました。必要なものだけを残しています。

 昔であればこのような建築をする場合百年以上を掛けることができました。私たちは五年で建築をしなければならないので(建築許可の有効期間が五年間)、費用が掛かってしまいます。しかし、霊魂たちの善のために、私たちの主イエズス・キリストのためにカトリック司祭を養成するために、天主の光栄のために、この神学校を建設プロジェクトを立ち上げました。

 この神学校建設のために、ヴァージニア州バッキンガムの様々な方々がサポートしてくれています。ある日、建設許可をバッキンガムの地方行政庁から得る必要があったのですが、行政庁は聖ピオ十世会をよく知るために、二名の視察士をウィノナに派遣し神学校を視察見学しました。視察士は二日神学校に泊まり神学生たちの日常生活を見て大変感動し、私たちの神学校プロジェクトの承認を求めました。

 移転の後には、聖ピオ十世会アメリカ管区は、ウィノナの既存の建物を機能し続け、あるいは学校、あるいは黙想の家、あるいはその他の目的のために利用する予定です。

 私たちは、カトリック聖伝が果たすこの新しい神学校建設を、信仰の証として、聖伝の実りとして、世界中のカトリック教会に大きな影響を与えることができるものとして考えています。神学校は、全カトリックにとって大きな喜びであるはずです。霊魂の救いのために司祭がそこで養成されるのですから。この喜びは、二十一世紀において、この現代社会において、カトリック教会がその聖伝とともにこのような建築をすることができるという喜びであり、私たちの希望をさらに強くするものです。聖ピオ十世会がアメリカにおいて司祭養成の聖務を続けるために、どうしても必要とされるこの神学校は、カトリック聖伝の発展を明らかに示しています。新しいミサの神学校は廃校になる中、聖伝の神学校はより多くの召命を養成し続けていることを示しています。これは、全カトリック教会のための利益です。何故なら、カトリック教会のためにより多くの司祭を養成することこそ、聖伝がカトリック教会のためにすることのできる最大の奉仕であるからです。
 私たちの日本からも、多くの司祭・修道者召命が与えられるように祈りましょう。
聖ピオ十世、我らのために祈り給え!
聖ピオ十世、日本のために祈り給え!
聖ピオ十世、全世界のために祈り給え!


天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


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--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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