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アタナシウス・シュナイダー司教:新しい「シノドスの教会」はカトリック教会を弱体化させている

2023年07月31日 | カトリック・ニュースなど

新しい「シノドスの教会」はカトリック教会を弱体化させている
祈りと内省の訴え

  • 《討議要綱》は、一・聖・公・使徒継承の教会を、世俗的・官僚的・人間中心主義的・新ペラギウス主義的・曖昧な・空想上の「シノドスの教会」で置き換えている。
  • 私たちは「シノドスの教会」を信じない。私たちは、私たちの主イエズス・キリストによって創立された、一(いつ)、聖、公、使徒継承の教会を信じ、無数のカトリックの殉教者がそのために血を流してきた真理を固く守る。

A new “synodal church” undermines the Catholic Church.
An appeal for prayer and reflection

新しい「シノドスの教会」はカトリック教会を弱体化させている
祈りと内省の訴え

アタナシウス・シュナイダー司教

現在の「シノドスのプロセス」について、多くの疑問が提起されています。そこで、キリストの群れの助けとなるために、私は2023年10月に開催される「シノダリティーに関するシノドス」の《討議要綱》(Instrumentum Laboris)について、重要な点をいくつか述べたいと思います。
この作業文書は、カトリック教会の生命および使命についての天主の定めた規定(Divine constitution)と使徒継承の性格を弱体化させて、それらを、主としてプロテスタント的、社会的、人間中心的な範疇にヒントを得て作り出された「シノドスの教会」に置き換えているように見えます。以下は、懸念される五つの主要分野です。

教会の天主の定めた規定が弱体化させられている

《司教の権威》が、《討議要綱》によって主に二つの点で弱体化させられています。第一に、「すべての信者がさらに大きく関わることと、それによって司教の役割が『より少なく排他的』に行使されること」(B 2.5, c)を要求することによって、また、「共同体の識別プロセス」(B 3.2, 7)を促進することによってです。第二に、世俗の組織がすることを真似させて、司教の権威を位階階級ではない諮問機関に依存させ、またその諮問機関に対して説明責任を負わせることによってです(B 3.3.8参照)。

《教皇の権威》が、主に二つの方法で弱体化させられています。第一に「いくつかの地方教会グループ(個別の地方教会会議、司教協議会など)が同じ問題において一緒になること」は「ローマの司教がその問題に普遍教会のレベルで取り組むようにさせる」だろうと示唆しています(B 3.4)。第二に、さまざまな地域の「地方の団体機関」が、ローマ司教とは「異なるアプローチを採用する」ことができ、それをローマ司教は受け入れるべきであると示唆することによってです(B 3.4.)。

  • しかし、以下の教導権の断言は依然として有効です。「ペトロの後継者は、恣意性と適合主義に対抗する、天主の言葉への厳格な忠誠を保証する岩なのです」(i)。

《教会の位階構造》が、「役務」(ministry)という言葉を曖昧に使用することで弱体化させられています。この言葉は無益なことに、叙階された者と叙階されていない者双方の特質とされています。例えば《討議要綱》「叙階された役務だけに還元されない役務の理解を促進」(B 2.4, 6)(ii)しようとしているからです。

  • しかし、以下の教導権の断言は依然として有効です。「洗礼による司祭職と叙階による司祭職との間に存在する『段階においてだけでなく本質における』違いが存在します。その違いがどのような形であれ曖昧にされるときはいつでも、言葉は不確かで混乱したものとなり、したがって信仰の教理を表現するのに有用でなくなることを認識しなければなりません」(iii)。「聖なる叙階によってのみ、『役務』という用語は、聖伝が常に与えてきた意味を、完全に、かつ唯一無二のものとして得る」(iv)のです。

《教会の位階構造》はまた、「世話役(ファシリテーター)」(42番)――彼らは「教会生活のあらゆるレベルで…共同体に同伴する」であろう――を押し付けることによって弱体化させられ、また、次のことを優先させることによって弱体化させられています。「女性の参加という結末を、教会のあらゆるレベルにおける、統治、意思決定、使命、役務へ求め[る]」(B 2.3. 3)。

  • しかし、以下の教導権の断言は依然として有効です。「また、あらゆるレベルにおいて、つまり、言語、教育、司牧実践、統治の選択において、聖なる役務は、その存在論的特異性において提示されなければならず、断片化や不当な流用(appropriation)が許されないことを保証する必要があるでしょう」。(v)

《叙階の秘跡の一体性が弱体化させられています》。それは、女性の助祭叙階を「問題として取り上げる」ように教会に「呼びかける」ことによってです。「女性を助祭職に含めるという問題を検討することを求めます」(B 2.3, 4)。

  • しかし、以下の教導権の断言は依然として有効です。「教会は女性に司祭叙階を授けるいかなる権限も持たず、この判断は教会のすべての信者によって決定的に保持されます」、そして叙階の秘跡は一なる【司祭叙階も助祭叙階も同じ一つの叙階の秘跡である】ため、女性が秘跡的に叙階されることはまったくあり得ません(vi)。

天主によって啓示された道徳律が主要に三つの方法で弱体化させられている

第一に、《重大な欠落》が存在します。それは、罪、十戒、貞潔の徳についての議論がないからです。
第二に、《いわゆるLGBTQ運動が暗黙のうちに助長されています》。これには同性愛活動や現在の世界規模の全体主義的「ジェンダー・イデオロギー」を助長することも含まれます。このように、《討議要綱》は、「LGBTQ+のカトリック信者…のように、教会に受け入れられていないと感じている人々」(B 1.2 a)を嘆き悲しみ、「自分の地位や性的指向のせいで教会から排除されていると感じている人々(例えば…LGBTQ+の人々など)を歓迎するように」と教会に呼びかけています(B 1.2, 6)。

  • しかし、以下の教導権の断言は依然として有効です。「尊重し差別をしないという原則は、同性愛の結合の法的承認を支持するために持ち出すことはできません。…婚姻関係になく、かつ婚姻関係になり得ない同棲という形態に対して、婚姻の社会的・法的地位を否定することは、正義に反するものではなく、かえって反対に正義がそれを要求しているのです」(vii)。

第三に、《結婚に関する不道徳が暗黙のうちに助長されています》。それは、この文書が「離婚して再婚した者、一夫多妻婚の人々など、教会に受け入れられていないと感じている人々」(B 1.2 a)を嘆き悲しみ、「地位や性的指向のせいで…排除されていると感じている人々(例えば、離婚して再婚した者、一夫多妻婚の人々など)(B 1.2, 6)を歓迎するように」と教会に呼びかけているからです。

  • しかし、以下の教導権の断言は依然として有効です。「性的な領域に関する限り、イエズス・キリストが結婚の不解消性を擁護するために取られた確固たる立場は知られており(マテオ19章3-9節参照)、単なる心の中の姦通に対しても断罪が宣告されています(マテオ5章27-28節参照)。中絶、婚前行為、婚外行為、同性愛行為に関して、結婚生活の分野で『寛容な』キリストを想像することは現実的でしょうか? もちろん、原始キリスト教共同体は寛容ではありませんでした…この問題に触れているパウロ書簡の箇所は数多く(ローマ1章26節以降、コリント前書6章9節、ガラツィア5章19節参照)、…明確さと厳しさを欠いていないのは確かです。そして、それらは上からの霊感を受けた言葉です。それらは、全時代の教会の規範であり続けています」(viii)。
  • 「婚姻外の(すなわち、生命の伝達に開かれた男女の不解消の結合以外の)性行為を伴う関係やパートナーシップに祝福を与えることは、たとえ安定した関係であっても合法的ではありません…同性間の結合を祝福することを合法的なものとみなすことはできません。なぜなら、それは、婚姻の秘跡で結ばれた男女を思い起こさせる婚姻の祝福を模倣したり、同じものとさせたりすることになるからです。しかし実際には、『同性間の結合が、結婚と家族に関する天主の計画と似ているところがあるとか、さらには同じであるとかとみなす根拠はまったくありません』(教皇フランシスコ、使徒的勧告『愛のよろこび』[Amoris laetitia]、251番)」(ix)。

教会の生活と使命が弱体化させられている

教会の生活と使命の使徒継承的かつ超自然的な特徴は、三つの主要な方法で弱体化させられています。

第一に、《重大な欠落》が存在します。それは、聖体礼拝やキリストの十字架、永遠における人間の最終的な終末についての議論が欠けているからです。

第二に、《教会の世俗的な官僚化》が存在します。一種の新ペラギウス主義的な、活動の異端【活動のみに重点をおき祈りを軽視する】が助長されています。つまり、機構や会議回数が増やされ、「合意形成」や「意思決定」というキーワードが使われ、あたかも、教会が人間中心のビジネスであるかのように扱われています。

第三に、《教会の生命の主観主義的な「聖霊降臨運動化」》が存在します。それはおこがましくも、「聖霊による会話」(32-42番参照)「聖霊によって召される」、「聖霊の主役性」といった曖昧な霊的性質を、人間の対話、非公式な祈り、相互の意見交換に、帰属させているからです。

  • しかし、以下の教導権の断言は依然として有効です。「教会は、『その性質上、単なる人間社会とは異なる現実』であり、それゆえ、『いくつかの文化的潮流に存在するメンタリティーや実践を、私たちの時代の社会政治的存在である教会そのものに、自動的に移すことはできないことを確認する必要がある』」(x)。

他の重大な害悪がなされている

第一に、《ラテン教会における司祭の独身制という使徒継承の法が弱体化させられています》。それは、「少なくともいくつかの地域で、既婚男性が司祭職に就くことについての規律に関する再考がなされる」(B 2.4, 9)ように求めているからです。

第二に、《エコロジーという唯物論的イデオロギーが助長されています》。それは、「共通の家を大切にすること」(n.4)を優先させ、「気候変動は、人類家族全体が関わることを求めています。私たちの共通の家を大切にするために協力することです」(B 1.1.b)と主張しているからです。

  • しかし、以下の教導権の断言は依然として有効です。「生命および自然死に対する権利の尊重が欠如し、人間の受胎、妊娠、出産が人為的に行われ、人間の胚が研究のために犠牲となるならば、社会の良心は人間的エコロジーの概念を失い、それに伴って環境的エコロジーの概念も失ってしまいます。…環境に対する私たちの義務は、人間に対する私たちの義務と結びついており、人間自体において、また他者との関係において考察すべきです」(xi)。

結論
「シノダリティーに関するシノドス」の2023年10月の総会のための《討議要綱》は、さらに洗練された方法ではあるものの、本質的には、ドイツの「シノドスの道」が提唱したのと同じ異端的な考えを助長しています。

《討議要綱》は、一(いつ)、聖、公、使徒継承の教会を、世俗的で、官僚的で、人間中心主義的で、新ペラギウス主義的で、位階的にも教理的にも曖昧な、空想上の「シノドスの教会」で置き換えています。

しかし、私たちは「シノドスの教会」を信じません。また「シノドスの教会」のために命を捧げる人は誰もいないでしょう。私たちは、私たちの主イエズス・キリストによって創立された、一(いつ)、聖、公、使徒継承の教会を信じ、無数のカトリックの殉教者がそのために血を流してきた、主の変わることのない神聖な真理を固く守ります。

2023年6月29日、使徒聖ペトロと聖パウロの大祝日

+アタナシウス・シュナイダー(アスタナの聖マリア大司教区補佐司教)

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脚注

  1. (i)全文引用。「ローマ教皇は、すべての信者と同様に、天主の言葉とカトリックの信仰に服従するのであり、また教会の従順を保証する者です。この意味で、教皇は『天主のしもべのしもべ』(servus servorum Dei)です。教皇は独断で決定を下すのではなく、聖書の中で人に語りかけ、聖伝によって解釈される主の意志の代弁者なのです。言い換えれば、首位権の司教権(episkope)には、天主の法と、啓示に見られる教会の神聖で侵すことのできない構造(constitution)によって定められた限界があります。ペトロの後継者は、恣意性と適合主義に対抗する、天主の言葉への厳格な忠誠を保証する岩なのです。(教理省「教会の神秘におけるペトロの後継者の首位権」、1998年10月31日、7番)。
  2. (ii)以下の記述も参照のこと。「"教会内の全ての能動的な機能を叙階された役務者(司教、司祭、助祭)だけに留保し、洗礼を受けた人々の参加を従属的な協力に矮小化する考え"を克服すること」(B 2.2. a)、「地域教会で共に歩むという経験は、シノドスの教会に奉仕する新しい役務を想像することを可能にする」(B 2.2. c)、「自発的な役務と、制度化されていないその他の認可された役務」(B 2.2. d)。
  3. (iii)全文引用。「従って、『司祭の司牧的役務への信者の参加』について語るには、まず第一に、『役務』という用語と、それが神学的・典礼的言語において想定しうるさまざまな意味について注意深く考察する必要があります。…洗礼による司祭職と叙階された司祭職との間に存在する『段階においてだけでなく本質における』違いが、どのような形であれ曖昧にされるときはいつでも、言葉は不確かで混乱したものとなり、したがって信仰の教理を表現するのに有用でなくなることを認識しなければなりません(第二バチカン公会議『教会憲章』、10番参照)。同時に、司牧実践においてでさえ、洗礼による司祭職と位階的な司祭職とを明確に区別することを怠ることは、信徒の神学的『固有性』を軽んじ、『最高の司祭でありよき牧者であるキリストと司祭を結びつける特別な存在論的結びつき』を忘れるという危険性もはらんでいます」(ヨハネ・パウロ二世「現代の司祭養成」[Pastores dabo vobis]、1番)
  4. (iv)全文引用。「一方、この用語が、異なる『任務』(munera)と『職務』(officia)の関係と比較において区別される場合、聖なる叙階によってのみ、『役務』(ministry)という用語は、聖伝が常に与えてきた意味を完全に、かつ唯一無二のものとして得るのだということを明確に警告する必要があります。言葉を特定し、浄化することは司牧上の緊急課題となります。なぜなら、その背後には、人が考えるよりもはるかに危険な落とし穴が潜んでいる可能性があるからです。現在の言語から概念化へとは、その歩みは短いのです」(ヨハネ・パウロ二世「聖職者省が推進する会議参加者への演説」、1994年4月22日、4番)。
  5. (v)ヨハネ・パウロ二世「聖職者省が推進する会議参加者への演説」、1994年4月22日、6番。
  6. (vi)ヨハネ・パウロ二世「司祭の叙階」(Ordinatio Sacerdotalis)、1994年5月22日、4番。
  7. (vii)全文引用。「尊重し差別をしないという原則は、同性愛の結合の法的承認を支持するために持ち出すことはできません。個人を区別したり、社会的承認や利益を拒否したりすることは、それが正義に反する場合にのみ容認できません(聖トマス・アクィナス「神学大全」II-II, q. 63, a.1, c.参照)。婚姻関係になく、かつ婚姻関係になり得ない同棲という形態に対して、婚姻の社会的・法的地位を否定することは、正義に反するものではなく、かえって反対に正義がそれを要求しているのです」。(教理省「同性間の結合に法的承認を与える提案に関する考察」、2003年6月3日、8番)。
  8. (viii)全文引用。「性的領域に関する限り、イエズス・キリストが結婚の不解消性を擁護するために取られた確固とした立場は知られており(マテオ19章3-9節参照)、単なる心の中の姦通に対しても断罪が宣告されています(マテオ5章27-28節参照)。また、その手足が「つまずき」になる場合、「目を抜き出す」あるいは「手を切り捨てる」(マテオ5章29-30節参照)という戒律に感銘を受けないはずがありません。このような正確な福音的言及がある以上、中絶、婚前行為、婚外行為、同性愛行為など、結婚生活の分野において「寛容な」キリストを想像することは現実的なのでしょうか。もちろん、キリストを個人的に知っていた人々によって教えられた原始キリスト教共同体は寛容ではありませんでした。ここでは、この問題に触れたパウロ書簡の数多くの箇所を参照すれば十分でしょう(ローマ1章26節以降、コリント前書6章9節、ガラツィア5章19節参照)。使徒の言葉が明瞭さと厳密さを欠いていないのは確かです。そして、それらは上からの霊感を受けた言葉です。それらはあらゆる時代の教会にとって規範であり続けます」。(教皇ヨハネ・パウロ二世「アマスフォートの若者たちとの会見」、オランダ、1985年5月14日)。
  9. (ix)全文引用。「【祝福が】準秘跡の本性に適合するためには次のことが必要です。すなわち、祝福が特定の人間関係に呼び求められるとき、【人間関係に】参加する人々の正しい意図に加えて、祝福されるものが、客観的かつ肯定的に(positively)、恩寵を受け・表現するように秩序づけられている――被造物に刻まれ、主キリストによって完全に啓示された天主の設計に従う秩序によって――ことです。したがって、教会によって与えられる祝福の本質と一致するのは、それ自体がそのような目的に奉仕するように整えられている現実だけです。このため、同性間の結合【結婚とは言わない】のように、婚姻外の(すなわち、生命の伝達のために開かれた男女の不解消の結合以外の)性行為を伴う関係やパートナーシップに祝福を与えることは、たとえそれらが安定した関係であったとしても合法的ではありません(「カトリック教会のカテキズム」2357番参照)。このような関係には、それ自体が評価され感謝されるべき肯定的な要素が存在しますが、その肯定的な要素は創造主の計画に則していない結合の文脈の中に存在するため、このような関係を正当化し、教会の祝福の正当な対象とすることはできません。さらに、人に対する祝福は秘跡と関連しているため、同性間の結合を祝福することを合法的なものとみなすことはできません。なぜなら、それは、婚姻の秘跡で結ばれた男女を思い起こさせる婚姻の祝福を模倣したり、同じものとさせたりすることになるからです。しかし実際には、『同性間の結合が、結婚と家族に関する天主の計画と似ているところがあるとか、さらには同じであるとかとみなす根拠はまったくありません』(教皇フランシスコ、使徒的勧告『愛のよろこび』[Amoris laetitia]、251番)」(教理省「同性の人々の結合の祝福に関する疑問に対する回答」、2021年3月15日)。
  10. (x)全文引用。「教会は、『その性質上、単なる人間社会とは異なる現実』であり、それゆえ、『ある文化的潮流に存在するメンタリティーや実践を、私たちの時代の社会政治的存在である教会そのものに、自動的に移すことはできないことを確認する必要がある』ことを常に忘れてはなりません」(ヨハネ・パウロ二世「聖職者省が推進する会議参加者への演説」、1994年4月22日、3番)。
  11. (xi)「生命に対する権利および自然死に対する権利への尊重が欠如するならば、人間の受胎、妊娠、出産が人為的に行われ、人間の胚が、研究の犠牲になるならば、社会の良心は人間的エコロジーの概念を失い、それに伴って環境エコロジーの概念も失ってしまいます。未来の世代が自然環境を尊重することを主張する一方で、彼らが自らを尊重するよう教育システムや法律が手助けしないのは矛盾しています。自然という書物は一つであり分けることはできません。それは環境だけでなく、生命、性的指向、結婚、家族、社会関係、つまり人間の総合的な成長をも含んでいます。環境に対する私たちの義務は、人間に対する義務と結びついており、人間自体において、また他者との関係において考察すべきです」(教皇ベネディクト十六世、回勅「真理に根ざした愛」[Caritas in Veritate]、51番)。

Une nouvelle « Église synodale » sape l'Église catholique - Un appel à la prière et à la réflexion - Renaissance Catholique

Une nouvelle « Église synodale » sape l'Église catholique - Le Salon Beige


聖ピオ十世会 カトリック聖伝のミサの報告【東京】【大坂】Traditional Latin Mass in Japan SSPX Japan

2023年07月31日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2023年7月30日(主日)、東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計102人でした。大阪では42人でした。

今回も、東京、大阪では、新しく来られた方々がおられました。東京では「ずっとこの聖伝のミサを探してようやく、この入谷ホールで今日あるというのがわかって来れました」とのことでした。「ますますこの聖伝のミサに与ってみたいという方がくるようになると思います」というコメントもいただきました。

8月の東京でのミサは、入谷ホールです。お間違えの無いようご注意ください。

【札幌】

8月18日(金)午後6時 19日(土)午前9時 には、札幌で聖伝のミサが予定されています。

【報告】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at today's Sunday masses in Tokyo. The total number of attendees at today's Sunday masses in Tokyo was 102 including children.

09:00 mass
M: 38 (incl. 9 children)
F: 31 (incl. 12 children)
Total: 69 (incl. 21 children)
11:30 mass
M: 17 (incl. 0 child)
F: 20 (incl. 1 child)
Total: 37 (incl. 1 child)

Total of 2 masses (excl. 4 persons who participated in multiple masses)
M: 53 (incl. 9 children)
F: 49 (incl. 13 children)
Total: 102 (incl. 22 children)

 


フェレー司教の霊的講話「カトリックの真の従順は、必ず天主に対する従順です。聖トマス・アクイナスがすでに問い、かつ完璧に答えました。」

2023年07月29日 | お説教・霊的講話

2023年1月29日(日)フェレー司教様霊的講話

「カトリックの真の従順は、必ず天主に対する従順です。聖トマス・アクイナスがすでに問い、かつ完璧に答えました。」

親愛なる信徒の皆様、
小野田神父様から霊的講話をするようにと依頼されたので、今日は二つ重要な点を申し上げたいと思っています。

第一点は、今の教会の状況が非常に悪化しているので、大きな疑問が起きています。その疑問とは、従順に関してです。私たちは従順というものをどう考えたら良いのだろうか、ということです。

もう一つは、やはり教会の内部で起きている状況が非常に悪くなっているので――私たちが持つべき徳は希望の徳です――ですから、希望の徳についてお話ししたいと思っています。

まず第一のポイントとして、皆さんが今日ここに、つまり教会の中ではなくて教会の信徒会館ではなくて、このような場所にいらしてミサをしたりいまお話を聞いていらっしゃるのは、それはある一人の司教様が「違う!」と言ったからです。この司教様は「新しいミサを立てない!」とおっしゃって、そして教会の中に新しい新奇な特別のことを導入するといったときに「いや、それはしない!」とおっしゃったので、私たちは今ここにいます。

しかし、この新しいものを取り入れないとか教会の法を変えないという態度のために、この司教様は「不従順だ」とか、あるいは「反抗している」とか、「反乱を起こしている」などというレッテルを貼られました。これは50年以上前の話で、今でもそうです。ですから私たちは、もっと否定的な反乱とか反抗とか離教とかあるいはその他の名前をつけられて、捨てられているかのような表現を受けています。

カトリック信者にとって、従順というのは最も大切な基本的なことです。なぜかというと、従順というのは私たちの意志を天主に服従させて天主に従わせるということにあるからです。そして天主の御旨に従わせるのみならず、天主の権威を代表している方々である人間にも、従わせるからです。なぜかというと、私たちにとっての目上の“権威”は、天主の声を代表するからです。もちろん私たちにとって、完璧な全知全能の天主に対して「はい、従順にします。従います」というのは簡単です。しかし、不完全で間違いを起こすことができる人間に、「はい、あなたに従います」というのは、時には大変な難しいところがあります。でも人間の権威は天主の意志を代表しているので、 私たちは従わなければなりません。天主はこの従順を望んでおられます。私たちが従順であることを望んでおられます。

その最も良い模範が、私たちの主イエズス・キリストです。フィリピ人への手紙の中に「イエズス・キリストは死に至るまで、十字架の死に至るまで従順だった」と書かれています。御父に最後まで、全く完全に従順になられたということです。では、もしもイエズス様がそうであったのならば、私たちはどこまで従順であるべきなのでしょうか。すべてにおいて従順であるべきなのでしょうか。

ところで私たちは、この問題について、この答えを発見する必要はありませんでした。なぜかというと、13世紀にすでに聖トマス・アクイナスという立派な神学者が、このことについて問いをかけて、それに対して完璧な答えを与えているからです。聖トマス・アクイナスは、「私たちは常に教会の長上たち、つまり司教様や教皇様たちに、いつでもすべてにおいて従順であるべきだろうか」という問いを立てて、それに回答しています。

聖トマス・アクイナスによると、私たちが長上からの命令に「いいえ、それには従うことができません」と言う時に、「はい」ということができない時に、三つの状況があると言います。そのときに従うことができないというのは不従順のように見えるんだけれども、しかしそれは不従順ではないと言っています。

その最初のケースは簡単なものです。それは、長上の命令が天主の命令に直接に反対している時です。これは、長上が天主の名前によって発言・命令しなければならないのに、その天主に逆らっているのですから、これは権威の濫用だと言わなければなりません。

この例は、つい最近ありました。たとえば、家族に関するシノドにおいて、教皇様はアモーリス・レティティア(Amoris Laetitia)という有名な文書を発表しました。それによると、結婚した人が、結婚した相手と離れて、誰か別の人とあたかももう一度結婚したかのように一緒に住んでいる人が、御聖体拝領をすることができるか否か、という問いに、このアモーリス・レティティアというものによれば「できる」という方向に書かれています。

これはイエズス様がおっしゃったこととは、全く正反対のことです。なぜかと言うと、もしも結婚した人が離れて他の誰かと一緒になるならばそれは姦淫の罪を犯すことになるのだ、とおっしゃっているからです。姦淫の罪というのは重大な罪であって、これは大罪の状態です。で、そのような状態においては、罪の状態においては、御聖体拝領をすることができません。ですから、本来ならばこのような人たちには御聖体拝領をすることができないのにもかかわらず、その文書には「できる」というように書かれています。ですから、私たちが「そうではありません」という時に、これは天主に対して不従順であることではありません。なぜかというと、教皇様や司教様たちが天主様の命令に反することを教えているからです。

アモーリス・レティティアの8番、しかもその脚注に、離婚して再婚した人が御聖体拝領をすることができるというようなことが書いてあるのですけれども、この書き方があまりにも曖昧なので、これを解説する司教様たちでさえも、中には互いに反対の解釈をする司教様たちがいます。

たとえば、アルゼンチンではこの司教様たちが、このところを見て「あぁ再婚した人たちは御聖体拝領をすることができる、OK だ!」といいます。でもポーランドの方は「だめだ!」「けっしてできない」といいます。ドイツでは「できる!」といいます。ですから司教様たちにおいても意見が違っています。

私は、実際にアルゼンチンの一人の司教様にお会いしました。この司教様は、現役時代に自分の教区の信徒たちに司教書簡を出して、教皇様のアモーリス・レティティアの解説をして、「離婚してしまってそして再婚した人は、御聖体拝領をすることができない。私たちはそのような方に御聖体を配ることができない。」と書きました。すると、この司教様は、そう書いたがために、ローマによって司教を首にされました。罰を受けました。

ではいったい、本当の従順というのはどこにあったのでしょうか。この司教様こそが本当に従順でした。昔からのイエズス様の教えに従順でした。なぜかというと、私たちのカトリックの従順というのは、超自然の従順であって、必ず「天主に対する従順」であるからです。どのような人間に対しても従順という、人間的な従順のことではないからです。

カトリックの従順というのは、こうです。「私は自分をこの人のもとに従わせる、なぜかというと、この人において天主の権威を認めるからだ」と。「この人は天主を代表しているからだ」と。「正当な代理者であるからだ」と。これがカトリックです。ですから、もしも天主の掟に反するときには、私たちは、人間の命令に「それはできない」と言わなければならない時があります。もしもそうできないと言ったがために、人間の当局からは罰を受けるかもしれません。しかし、不従順ではありません。 

第二のケースです。これは理論的には非常に単純で、何をしたらよいか、もう誰でもわかるものです。しかし実際にこれを実践するには大変です。どういうことかというと、自分の直接の上司がそれよりもさらに高い上司と反対の命令を私たちにする時です。もちろん、私たちは理論としては、その上の権威に従う、もっとも高い権威の望みに従うべきです。しかし直接の上司がやっていることを、その上の上司は知らないかもしれません。そしてその直接の上司が自分の思い通りに私たちが動かないがために、私たちは罰せられるかもしれません。つまり権威を濫用するかもしれません。このことは本当に起こりました、教会の中で。

この実際の例を――これは私たちにとって非常にデリケートなので本当はこう説明したくないのですけれども、少し説明させてください。教会の中で最も高い権威というのは教皇様ですから、教皇様がサインした教会法というのがありますが、その教会法というのはすべてのカトリック信者に適用されるべきもので、私たちが従わなければならない法律のことです。掟です。

ところで、この教会法によると、新しい教会法によると、全てのカトリック信者は御聖体拝領のやり方を選ぶ権利があると言われています。口によって聖体拝領するか、あるいは手によるかは自由に選ぶことができるとあります。もちろん、私たちは手による聖体拝領に反対していますし、そのような権利があるとは私たちは思っていませんけれども、しかし、新しい教会法によると手と口と両方に権利があると言われています。まあこれがあるとしましょう。これは教皇様によって発布されたものですから、これは全てのカトリック信者に与えられた権利と考えられています。

ところで、コロナのために世界中で、司教様や司祭たちが口による御聖体拝領を禁止しました。手による聖体拝領を押し付けました。しかし、それは教会法に反していることです。なぜかと言うと、教会法では、私たちは口で聖体拝領することができるとしているからです。ですから私たちは「いや、私は教会法に従って口で聖体拝領をします」とか「教会法に従います。従順にします。」ということができます。それが最も高い法律であるからです。しかし、司教様がそれはだめだというと、いったい私たちはどうなるのでしょうか。

実際に起こった例があります。二つの神学校が、教会法に従ったがために、二つとも廃止されました。 一つはハンガリー 、もう一つはアルゼンチンで起こったことです。2021年に廃校になりました。なぜかというと、そこの二つの神学校の神学生たちが、全員、司教様の命令にもかかわらず、 皆教会法に従いたい、つまり口によって御聖体拝領をしたいといって、手による聖体拝領を皆拒否したからです。そのために司教様は、その神学校を閉鎖してしまいました。国も違えば状況も違いましたけれども、原理は同じでした。しかもそのうちの一つの神学校の廃止については、ローマがそれをよろしいと認可しました。つまりこの神学生たちは、教会法の通りに行動していたにもかからず、司教様の権力の濫用によって罰を受けてしまったのです。彼らは罰を受けたにもかかわらず不従順ではありませんでした。なぜかというと教会法に従っていたからです。権威の濫用による罰を受けるということは、だからといって不従順ということではありません。可哀想なのは、このような被害を受けた人々で、多く苦しまなければなりませんでした。

第三のケースは、ちょっと複雑です。しかしこのことを理解すると、従順とは何かということに、光りをよくあててくれます。私たちは従順にしなければならないのですけれども、その命令を下す方が、もしも自分の持っている権威以外のところを命令するときに、それは私たちを縛る力がありません。私たちは従順する義務はありません。

これはちょっと複雑かもしれませんけれども、説明します。たとえば、この一番よい例が裁判所です。裁判官がもしも何かこう訴訟を受ける時には、そのときに自分の管轄下にあるかどうかを調べます。そして、自分がそれに審判を下すことができる力があるかどうかを、まず見ます。たとえば大阪で起こったケースを、誰かが、札幌のテリトリーしか裁判することができない裁判官に持って行っても、ここは大阪のケースを扱う所ではありません、と言われるだけです。それはテリトリーだけではなくて、どのようなケースを取り扱うかということもあります。たとえばある裁判所では、刑法・犯罪に関する告訴を取り扱う権威を持っている、そういう力を持っている、裁治権を持っている。ところがあるところは、たとえば遺産の相続に関する民法のものを取りあつかうところもあるかもしれません。ですからそのようなところに犯罪のケースが上がっても、それはお門違いということです。これは裁判所のみならず、人間の組織のどのところでもこれがあたります。教皇様にとっても同じです。なぜかというと、教会も人間たちがつくる組織だということができるからです。教皇様も地上における最高の権威を持っていますけれども、しかし教皇様の権威とて無限ではなくて、限界があります。

第三のケースの最も基本的な原理というのは、これです。いろいろな団体組織は違いがあります。いったいなぜ違いがあるのでしょうか。それは設立された目的が違うからです。ゴールが違うからです。確かにいろいろな人々が集まって、いろいろな組織がつくられていますけれども、それはある特定の目標のためにあります。そしてそこにある長上、責任者あるいはボスは、そこのメンバーの意志を一つにして、その目的に向かって到達することができるようにするためにあります。ですから、励ましたりとか、動機付けをしたりとか、あるいは規則を作ったり、そして人々を一つにまとめて、その目的に容易に到達できるようにするのです。これは全ての団体について言えます。例えばスポーツクラブとか、あるいは銀行、あるいは学校、あるいは教会についても同じです。人々がある特定の目的のために集まって、そして権威が与えられているという構造があります。組織があります。でもその権威というのは、権威があるというのは、その目的に到達するために与えられた権威です。ですから、もしも長上が、その設立された団体の目的以外のことを命ずる時に、その力がありません。その範囲外と言わなければなりません。

例えば、スポーツクラブの監督が、選手に、トレーニングではなくて誰それと結婚しなさいと命令したとしても、それは監督のテリトリーの権威の外にあるものです。あるいは銀行の頭取が、出勤後の職員に「では明日選挙だから、なんとか党の誰それに投票しなさい」と命じたとしても、それはいくら銀行の頭取であってもそれは銀行の目的ではありませんし、頭取にはそういうことを命じる資格がありません。学校でも、学校の先生が生徒たちに「じゃあ、みんな、生徒たち、今から命令します。今から私のために三週間どこかに行ってお牛さんのお乳を絞ってきてください。私が飲みますから。」と言ったとしても、それは先生のテリトリーの力のことではありません。

教皇様もそれと同じです。教皇様も教会の設立の目的のために権威が与えられました。教会の目的というのは、霊魂の救いです。永遠の命、つまりすべての人間の究極の目的のために設立されていました。ですから、教会というのは、すべての団体よりもさらに高い最も最高の権威が与えられています。しかし、この霊魂の救いという目的のためにこの権威が与えられているので、これ以外のことについては教皇様といえども、私たちに命令する資格というかその権威はありません。たとえば教皇様が、気候変動について、あるいは地球の温暖化について、私たちにこうしなさいと教える時には、それは霊魂の救いのこと以外のことですから、それは「教皇様、それは科学のやることであって、教皇様のテリトリーの権威のもとにあるものではありません」ということができます。 

それから、もう一つ言葉をつけ加えるならば、教皇様の不可謬性ということについて、言及しなければなりません。なぜかというと、天主様は非常に私たちのことを愛しておられるので、教皇様には特別のお恵みがくだされていて、教皇様には不可謬権という特別のお恵みを与えました。教皇様は間違ったことを教えることができないということですけれども、これはいったいどういうことでしょうか。これについて多くの人たちが誤解をしてしまっています。ですから、これについて説明させてください。

確かに教皇様は不可謬ですけれども、しかしその不可謬のためには条件があります。もしもその条件を――これは四つあるんですけれども――その条件を満たす時にそのときにはじめて教皇様が不可謬である、となります。ですから、もしもその条件を満たしていない場合には、必ずしも不可謬であるとは限りません。

第一の条件は、教えなければならないということです。つまり、教皇様が全教会の頭(かしら)として権威をもって教える、ということです。ですから、「これは私の意見だ」というのではありません。たとえばヨハネ・パウロ二世教皇様の回勅のほとんどは、このように始まっています。「これは私の黙想の結果である。黙想である。」と。不可謬性を帯びるためには教えなければならなくて、黙想するのはもちろんよいことですけれども、黙想を伝えたとしても、これは不可謬とは限りません。

第二の条件は、これは何を教えるかについてです。つまり、信仰とあるいは道徳に関することであるならば、これは不可謬性の条件を満たすということです。ですから、先ほど申し上げましたように、地球の温暖化について話されても、これは不可謬性を保証する内容ではありません。

第三は、教皇様は、はっきりした明確なそして正確な定義を、教えなければなりません。たとえば、夢について語ったり、あるいは詩を私たちに語ったりしても、それは不可謬ではありません。この最も典型的な例は、第二バチカン公会議でその公会議の最中、その司教様たちは「この公会議の内容の言いたいことが何かはっきりわかるように、定義を作りましょう」と教皇様に提案したのですけれども、しかし公会議は「いや、定義は与えない。なぜかというとこれは教義の公会議ではなくて、司牧的公会議に過ぎないからだ」と言って、明確な定義は与えられずに終わってしまいました。

この公会議について少し話を付け加えると、では公会議に参加した司教様たちは「それでは第二バチカン公会議というのは不可謬なんですか、それとも不可謬じゃないのでしょうか。」と聞いた時に、公会議は公会議の記録の中に二つの答えがあって、それによると「第二バチカン公会議は必ずしも不可謬ではない」と搭載があります。

第四の条件は、教皇様が、良心に、私たちの心に、それを信じることを命ずる、私たちが信じることを義務付けるという時です。たとえば例があります。ヨハネ・パウロ二世教皇は、堕胎は罪である、あるいは、安楽死は罪である、としました。堕胎と安楽死を排斥しました。また同じくヨハネ・パウロ二世は、女性司祭というものも、これは「女性が司祭になることはできない」として、不可謬権の四つの条件を全て満たして、排斥しました。ですから、もしもこれに反することを発言するとか行うことは信仰に反する罪となって、そして、これは私たちがもしもそうしてしまったらカトリック信仰を失ってしまうことになります。特に女性の司祭ということについては、これは教会法の中にも書かれていて、これは信仰に反する罪であるとあります。つまり、四つの条件を満たして不可謬権を行使して出されたそのような教えは、もう後の教皇様も新しい教皇様も、私たちが一体何をしようとも、変えることはできない信仰のドグマであると宣言されたことになります。ですから、もはやこれに逆らおうとする人、これを何か反対することを行おうとする人は、カトリックではなくなってしまいます。 

従順についてもう一つ言いたいのは、教会が「新しいことを導入しろ」という時に、私たちは「それはできない」と言わなければなりません。それは教会の全歴史がそう教えています。例えば最も有名なのは、西暦450年頃にレランの聖ヴィンチェンツオ(Vincent de Lérins [Vincentius Lirinensis])という聖人が、

私たちにコンモニトリウム・アドヴェルスス・ヘレセス(Commonitorium Adversus haereses)という「異端に対する警告の書」という本を書いています。それによると、もしも、教会の一部に病気の部分があるならば、私たちは健康な健全な部分に一致しなければならないと言っています。ではもしも、教会全部が異端によってダメージを受けているならば、私たちは健全だった過去の教えに忠実にならなければならないと教えています。これは、健全な過去というのは、すなわち聖伝のことです。これはただ一人聖ヴィンチェンツオが言ったのみならず、この教えを第一バチカン公会議もそれを取り入れて、この彼を引用して、同じことを教えています。

私たちが今直面している問題は確かに難しい問題ではありますけれども、しかし過去、すでに同じようなことが取り交わされているので、私たちは今ひとりで戦っているわけではありません。私たちは教会の聖伝と一致しているからです。もしも私たちが、教会の過去の教えにそのまま従順であるならば、それは不従順ではなくて、本当の従順だと言わなければなりません。 

第二のポイントは希望の徳です。今の状況は大変難しいにもかかわらず、天主は私たちのために働いてくださっているということを見ることができるので、本当に慰めに満たされています。特に、ルフェーブル大司教様のなさったお仕事に、主は多くの祝福を与えてくださって、そして多くの実りを下さったということをみることができ、そしてそのことはローマも認識しています。

たとえば、1988年にルフェーブル大司教様が四人の司教様を聖別していたときに、ああルフェーブル大司教様にしては破門だと言われて、その十年後、2000年に初めて、ローマと初めて正式の面会会合がありました。その時に、カスティリオン・ホヨス枢機卿さまが、そこに居合わせた3人の司教たちに「はあ、聖ピオ十世会の実りはすばらしい、とても良いものである、だからこれは聖霊が働いているということの証拠だ」と言いました。

フランシスコ教皇様も、ボット枢機卿様に「私は聖ピオ十世会のことをアルゼンチン時代からよく知っている。彼らはよい仕事をしている」と言いました。

ポッツォ枢機卿様という方は、聖ピオ十世会と直接に関わり合った枢機卿様なのですけれども、お会いした時にこう仰いました。「聖ピオ十世会は、今の教会を危機の状態から脱出させてくれるすべての手段を持っている」

この、いま枢機卿様の名前を明かすことはできないのですけれども、しかしローマで、ある責任を持っておられる枢機卿様が、3回私こうおっしゃいました。3回です。「教会の救いは聖ピオ十世会のなかにある」と。

これは、聖ピオ十世会を栄光化させるとか自慢するというつもりではなくて、このことで私が言いたいのは、天主はもしも私たちがその主の栄誉のためにその誉れのために働くならば、そして天主をその最高の第一の場所につかせて、そのために何も惜しまないで働くならば、そのような人たちに天主は顔を遠ざけたりあるいは逃げ去ったりしまったりするようなことは決してしないということです。その反対にそのような人々を主が助けて、そして守って、そして祝福して、そして多くのもので満たしてくださるということです。

ですから、もしもある霊魂達が天主の方に行くのなら、近づくのならば、そして助けを求めるならば、必ず助けてくれます。「求めよ、さらば与えられん。叩け、さらば開かれん。」と約束されました。そしてこの約束は必ず守られます。イエズス様は言いました。「もしもあなたたち人間に子どもがあったとして、子どもが『玉子が欲しい』と言ったのに蛇をあるいはサソリをあるいは石コロをあげる父親がいるだろうか。もしもお前たち人間でもそんなことをするならば、天にまします御父はどれほどおまえたちに良いものを与えてくれないはずはないだろうか。」ですから、私たちは信頼して主に近寄らなければなりません。なぜならば、必ず救うというのは、主が約束されたことであるからです。

私は、総長として聖ピオ十世会における状況を見てきて、奇跡を見てきました。確かに主は働いておられている、ということをこの目で見てきました。もちろん主は、通常は通常の手段で私たちを助けてくださいますが、しかし通常の手段でも足りない時には、それよりももっと上の手段を使って助けてくださいました。これは非常に大切なことです。私たちは、このことをいつも覚えていなければなりません、知っていなければなりません。主は、私たちをけっして捨てることもないし、そして天主はすべてのことを管理しておられる、統治しておられる、主宰しておられます。

ですから、すべてのことは主の許しがあってのみ、初めて起こることなのです。この世でもしも何か悪が生じたとしても、それは主の許しがあったからこそ起ったのであって、許しなくして起ることは一切ありません。で、もしも何かが被造の世界において悪が起こってしまったとしたら、それは主が、それをその悪を治すことができるからであり、しかもその悪には限度をつけます。そしてこれ以上私たちが耐えることができない以上のことは、決して限界を超えないようにされています。主の御手から逃れるものは何もありません。すべてが主のもとにあって、そして、もしも悪が主に許されて起ってしまったとしたら、それは私たちを害するためではなくて、この悪の中からそれよりもさらにもっとよい善を引き出す為にこの悪を許されます。それほど主には力があって全能なのです。ですからこの悪があったとしたら、それよりもかならずもっとより良いもの、これよりも偉大なものが、これよりも崇高なものが与えられる、私たちの善のためにある、この悪よりももっと利益が私たちのために待っている、ということを知ってください。

もちろんこの悪があることによって私たちは苦しまなければならないかもしれません。しかし、罪の入ってしまったこの世においては、十字架あるいは苦しみというのは避けることができないものです。しかし、私たちに害のためにあるのではなくて、私たちによりよい大きな善をひきだすためにあるのです。歯医者のことを考えてください、私たちが虫歯になってしまった時に、歯医者に行って、器械でガガーンと削られるかもしれません。しかしその痛みや不愉快なものは、それは私たちを害するためでなくて、私たちの歯を治すためです。それとこれとは全くお粗末なイメージですけれども、天主も私たちに悪を許すことによって、それよりも偉大な善を引き寄せようとなさっています。ですから、私たちはいつもこの希望を持っていなければなりません。そして確信を持っていなければなりません。すべては主の御手のなかにあって、すべては、主を愛する者にとっては善となるということです。

これをもう一度強調させてください。もしも霊魂達が天主の方に行くならば、必ず天主は助けてくださいます。つまり、天国へと導いてくださいます。これは教会が不可謬だと教えた祈りです。もしも私たちがこの祈りをするならば、必ず主はこれを聞き入れるという祈りです。教会はこのような祈りについては、あえて不可謬であると宣言しました。そのような必ず聞き入れられる祈りとは、私たち自身の救い・永遠の救霊を祈る祈りのことです。

しかし、ただ「天国に行きたい、行かせてください。これでさあ終わった。」のではありません。四つの条件があります。これは、信仰を持って、信頼を持って、謙遜に、そして堅忍してつまり祈り続けている時に、必ず主は、私たちに天国…永遠の祝福・永遠の救いを保証してくださる、必ず保証してくださる、確かである、ということです。ですから、このことを教会から教えられると、私たちの霊魂には平安が来ます。私たちの主の愛を理解します。もちろん、私たちはとても弱々しくて、そして力のないものですけれども、今日のミサの集祷文を見てください。「天主よ、御身はかくも多くの危険において成り立つ我らが人間的なもろさゆえに自存しえぬことを知り給う。我らに心と肉体の健康を与え給え。そは、我らの罪ゆえに我らが苦しむことを、御身が助け給うことによりて我らが打ち勝たんがためなり。」つまり、私たちは本当に人間の弱さに囲まれていますけれども、か弱いすぐに壊れてしまうものですけれど、どうぞ御身の力で助けてください、力づけてください、と祈っています。これこそが教会の精神であって、教会は私たちにこの精神で祈らせてくれます。

ですから、私たちは、天主の方へとますます寛大であってください。そして主にどれほど寛大であっても主は必ずその寛大さに報いてくださいます。主のためにしたことには、それにまさる報いがあるということです。そして主はその寛大さにおいて、私たちに負けることは決してありません。もしも私たちがこれほど主のために尽くしたら、信じられないほどの寛大な答えが返って来ます。なぜかというと、主は私たちを愛しておられて、主は私たちの善を望んでおられるからです。確かに今現在の生きている私たちの世界は、難しい十字架の道です。天国へとたどる道は、十字架の道です。しかし、アヴィラの聖テレジアはこう言いました。「この世というのは嫌な旅館に泊まる嫌な一夜(ひとよ)のようなものだ。しかし翌日には、素晴らしい朝が待っている」と。

では、いろいろな実際にあったお話があるのですけれども、その中から一つだけ話をすることにして、この講話を終わりにします。それは、天主様が普通の手段では足りない時にはどれほど私たちのために働いてくださるか、ということです。

二年前に私は、カリブ海にあるマルティニーク諸島というところに行きました。そこには聖ピオ十世会の修道院があるのですけれども、ちょうどつい最近に聖ピオ十世会を発見して聖伝のミサに与り始めた女性の方と会いました。そして、その女性の方が別の女性の方にその話をしたことなのですけれども、その最近発見した方は聖伝というミサのことも聖ピオ十世会のことも全く知らずにそこに住んでいました。新しいミサに与っていた方で、とても敬虔で熱心にお祈りをした方で、聖グリニョン・ド・モンフォールに従ったマリア様への奉献とか、あるいは霊的指導者について霊的な道を進んでいた方なんですけれども、かといって、聖伝については全く知識がありませんでした。聖ピオ十世会があるということも知りませんでした。

その方がある時、夢を見たのです。夢の中では、三人の男性の方がおしゃべりをしていたんです。そのうちの二人は誰かが判りました。ひとりはビアンネ神父様――アルスの聖なる司祭――で、もう一人はパードレ・ピオでした。もう三人目は男の方ですけれども誰だかよくわからなかったんです。それはその夜はそのような夢を見たということでそのまま何もすることができずに時が経ったんですけれども、そのうちにはっきりとした声を聞くようになり非常に正確な内容が伝えられました。それによると「なんとか通りの何番地にあるミサに与りに行きなさい。この住所のミサに与りなさい」。という内容でした。実はそこに聖ピオ十世会の教会があるということも知らずにいたんですけれども、その声を聞いてからどれほどの時があったのかもよくわかりませんが、最後についにはその声に従って行ってみると――教会があったということも知らなかった――行ってみると、聖ピオ十世会の修道院があるんです。で、ところでそのフォール=ド=フランスという首都の修道院には入り口が二つあって、一つは教会のほうへ直接に行くのと、もうひとつは本屋・信心用具を売っているお店を通して教会に行く道があるんですけど、みんながその本屋さんの方に行くので、おしゃべりをしたりとかいろいろみんなと仲良くするために行くので、入り口はそっちだと思って本屋の方に行きました。すると、その本屋には綺麗な額縁に男の人の写真があって、それがその人物は夢で見た三番目の方と同じ人でした。ところで実はこの写真はルフェーブル大司教様であって、そのルフェーブル大司教様だということを見た瞬間、この方はそのままずっとここでこのミサに与るようになりました。

この話をサントドミンゴという島にあるシスターたちに話したのです。するとシスターたちは「実はね、司教様、私たちも同じ話があるんです」と言ってシスターたちの経験を話してくれました。それによるとシスターたちは首都から車で2時間ぐらいのちょっと郊外に修道院があるんですけれども――そこのシスターたちが知っている話は「ある人が、その首都のサントドミンゴに住んでいる人が夢を見た。夢の中で教会の姿が現れてしかも電話番号も現れたと。それでその電話番号がくっきりと浮かんできたので、起きた時にその番号の通りに電話してみたら、聖ピオ十世会の修道院だった。で、修道院だということを聞いて、じゃあ行ってみるといって、行ってみると、修道院の教会が実は夢で見た教会のまさにそれだった。それで聖ピオ十世会の教会のミサに与るようになった。」というものです。

この話で言いたいのは‥‥天主様はまことに在しまして、皆さんと一緒におられて、霊魂の救いのために心を使っておられるので、主を信頼してください。信仰を持ってください。私たちの身分上の務めをよく果たしてください。そして主を愛してください。主は、私たちの父として私たちを見守ってくださっているので、どうぞそれに信頼してください。どうもご静聴ありがとうございました。


【参考情報】団体「EXSURGE DOMINE」がベルゴリオの粛清の犠牲者である司祭や修道者の支援のために誕生

2023年07月29日 | カトリック・ニュースなど

【参考情報】団体「EXSURGE DOMINE」がベルゴリオの粛清の犠牲者である司祭や修道者の支援のために誕生

2023年7月3日(月曜日)

[For your information only] The Association “EXSURGE DOMINE” is born to help priests and religious who are victims of the Bergoglian purges

カルロ・マリア・ヴィガノ

報道発表
2023年7月1日

団体「EXSURGE DOMINE」が
ベルゴリオの粛清の犠牲者である
司祭や修道者の支援のために誕生

教会は、世俗の政府の危機と同じように、非常に深刻な危機を経験しています。権力の座に就いている者たちが、自らが監督する組織と、自らの権威を行使する人々の敵であることを示しています。この破壊転覆的な行動は、裏切りを受け入れようとしない人々を迫害の対象へと導きます。パンデミックの間、患者を治療することを選んだ医師たちが免許を失い、給料を剥奪されたように、ベルゴリオ革命に適応しない司祭や修道者たちは、教会から追い出され、修道院から追放され、支援の手段を失っていきます。そして最も不愉快なのは、善良な人々への迫害が平然と拡大する一方で、それを実行する人々が教会の敵に対して融和的で「包括的」であることを示していることです。異端者、変質者、堕落した人々はその地位にとどまり、実際、彼らは、キリストが強欲な狼から群れを守るように命じられたまさにその人々によって、罪と悪において昇進し、励まされているのです。一方、サンタ・マルタ館の驚嘆すべき世界では、修道院や宗教施設を、リゾート施設や儲かる移民「歓迎センター」に変えるために売却しなければなりません。あるいはもっと単純に言えば、堕落した聖職者の犠牲者のため、そして信者の離反から生じた財政的穴埋めのため、各教区が支払わなければならない数百万ドルの賠償金を補填するために売却されるのです。

ベルゴリオの子分たちが平然と支配しているバチカンによる迫害は、教会の法と、それらの法が正当性を持つ目的そのものに違反する懲戒処分にも現れています。教区や修道団体を教皇庁の役人の下に置くこと、威圧的な査察、まやかしの使徒的訪問、司教の解任、その一方で、カトリック信仰を棄てたくなかったことだけが過ちである司祭は、聖職停止(suspended a divinis)処分を受けたり、平信徒の身分に格下げされたりするという事例が数え切れないほどあります。イタリアのピエンツァのベネディクト会修道院とテキサスのアーリントンのカルメル会修道院という最近の事例は、あまり知られていない多くの事例に加え、カトリシズムの最後の名残を歪め、破壊しようとする意図的な意志が確認されるものです。

この目的のために、私の個人的な後援のもと、市民団体「Exsurge Domine」(主よ立ち上がり給え)が設立されました。この団体の社会的目的は、「経済的、物流的に特に困難な状況にある聖職者、修道者、奉献された信者に援助、支援、物的援助を提供すること。カトリック信仰の不変にして腐敗し得ない聖伝を擁護すること。聖伝の典礼を保存し、促進させること。キリスト教の膨大な宗教的、歴史的、芸術的遺産の研究、神学的かつ文化的認識を奨励すること。カトリック教会の永続的な聖伝の中で活動するさまざまな団体、経験、グループ間の対話と出会いの機会を促進すること」です。

「Exsurge Domine」は最終的には財団となる可能性がありますが、すでに国際的なレベルで活動しており、聖伝に忠実であるがゆえに迫害されている修道者の支援に従事しています。この趣旨に賛同される方は、どなたでも支援者としてご寄付いただけます。

ウェブサイト(www.exsurgedomine.org)が開設されており、現在進行中のプロジェクトを確認したり、支援したりすることができます。

私のスピーチを収録した英語のビデオは下記からご覧いただけます。

この真のキリスト教的兄弟愛の精神と、信仰と希望と愛の絆における新たな一致の中で、私たちは迫害されている兄弟姉妹に啓発的な模範を、不誠実な牧者たちに警告を、そして私たちの子どもたちに希望を与えることができるのです。なぜなら、聖なる司祭たち、福音に忠実な司祭たち、キリストを愛する司祭たちだけが、私たちがあまりにも長い間破壊するのを許してしまったものを、明日、いやすでに今日から再建することができるからです。

+カルロ・マリア・ヴィガノ(大司教、教皇大使)
2023年7月1日
われらの主イエズス・キリストのいと尊き御血の祝日
Pretiosissimi Sanguinis Domini Nostri Jesu Christi

英語版 The Association “EXSURGE DOMINE” is born to help priests and religious who are victims of the Bergoglian purges

イタリア語版 Per iniziativa di monsignor Viganò nasce un’associazione che aiuta sacerdoti e religiosi vittime delle epurazioni bergogliane - Aldo Maria Valli


私審判の時に憐れみを乞うことはできません。この世に生きている間に天主の憐みと赦しを乞い求めなければなりません。

2023年07月25日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2023年7月23日は聖霊降臨後第八主日でした。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「聖霊降臨後第八主日の説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本にチャンネル登録もお願いいたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父


【参考資料】ヴィガノ大司教、コンクラーベ、挑発と離教について語る。「フェルナンデスはベルゴリオにとって、ゼレンスキーがバイデンにとってそうであるようなもの」

2023年07月25日 | カトリック・ニュースなど

【参考資料】ヴィガノ大司教、コンクラーベ、挑発と離教について語る。「フェルナンデスはベルゴリオにとって、ゼレンスキーがバイデンにとってそうであるようなもの」

2023年7月15日(土曜日)

Archbishop Viganò on the Conclave, Provocations & Schism: "Fernández is to Bergoglio what Zelenskyy is to Biden”

アルド・マリア・ヴァッリ

フランシスコが、9月30日に予定されている21人の新枢機卿任命のための枢機卿会議について発表したことを受け、アルド・マリア・ヴァッリは、カルロ・マリア・ヴィガノ大司教にこの件についてインタビューを行いました。

【解説】前在米教皇大使であるカルロ・マリア・ヴィガノ大司教は、最近、枢機卿に任命された人々をみると、最悪の人選であることを指摘しているので、あくまでも参考情報としてご紹介します。イタリア人ジャーナリストであるアルド・マリア・ヴァッリとのインタビューで、ヴィガノ大司教は、教会内の重要な地位に任命される新しい枢機卿たちは、教会内部でカトリック聖伝のミサを望む信徒たちが増えないようにさせるための布石だと言います。
聖伝の信仰を守るのは、天主の力によります。聖伝を守るために御摂理によって作られた聖ピオ十世会は、教会によって公式に認可されています。人間の考えではなく、天主の御摂理に従えば、聖ピオ十世会の力が強くなればなるほど、教会を聖伝に戻らせる力が強くなります。教皇様と言えども、聖伝を「破門」することはできません。




【問い(ヴァッリ)】大司教様、この最新の枢機卿たちの中に、フランシスコの後継者がいるのではないかと言っている人たちもいます。大司教様もそう思われますか。

【ヴィガノ大司教】私は、枢機卿会(かつては聖なる枢機卿会)が保守派の教皇、あるいは穏健進歩派の教皇を選出するのを望むとは思っていません。次のコンクラーベが挑発的なものになることは明らかです。ほとんどすべての枢機卿はベルゴリオの「像と似姿に」作られ、彼らが後継者を選ぶことになるのですから。引退という新しい潮流を考えれば、彼はまだ存命しているのかもしれません。しかし、この有権者たちが持っている教会への愛が最低限だったとしても、彼らは聖霊の行いに素直にならなければならないはずなのです。しかし、私たちには、この異端者らの集まりが、まれな例外を除いて、主イエズスにそれをさせるつもりはない【聖霊の息吹きに逆らう】ことが分かっています。しかし、善き主は時には予期せぬサプライズを用意されます。



【問い】この任命でベルゴリオが従っている論理とはどのようなものでしょうか。

【ヴィガノ大司教】ベルゴリオの論理は完全に明らかです。彼は、離教(schism)の口実を作り出そうと望んでいるのです。言葉では離教を否定して嘆いてはいるものの、しばらく前から離教を準備しているのです。ベルゴリオは何とかして、信者や聖職者の善き部分を公式の教会から分離させたいと思っています。そしてこれを成し遂げるために、その人々が近代主義の最高法院(サンヘドリン)から距離を置くのを確実にするために、ローマ教皇庁の重要な地位に、部署の管理を可能な限り悪いものにするのを保証する人物たちを配置して、教会の体にとって可能な限り最も悪い結果と最も大きな損害をもたらすようにしたのです。

古代の典礼の挙行を漸進的に制限することは、保守派を"狩猟保護区"に閉じ込めて、その後、聖ピオ十世会へ向かわせるのに役立ちます。シノドスが、現在進行中の教理的、道徳的、規律的な変更という悲劇的な結末を迎えるや否や、-- エクレジア・デイ団体の廃止または正常化【新しいミサを受け入れさせること】の後 ---、聖伝の独占者となるであろうもの【聖ピオ十世会】へとカトリック信者らの大脱出が起こるでしょう。

しかし、その時、つまり、聖伝のカトリック信者たちが聖ピオ十世会に移行して、同会の指導者たちが、廃止された「スンモールム・ポンティフィクム」(Summorum Pontificum)との競争に勝利したと信じるとき、新たな耐え難い挑発がなされ、聖ピオ十世会の少なくとも一部は、ベルゴリオのローマから距離を置くのを余儀なくさせることでしょう。これにより聖伝主義は「破門」されます。聖伝主義は、公式の教会内では代表することは――過去にはそうだったとしても――もはやなくなるでしょう。このような理由から、私の考えでは、聖伝のカトリック信者を教会の体から追放するという悪意ある作戦をさらに複雑にするために、何らかの抵抗の断片化を維持することが重要です。

女性助祭、教会の独身制の廃止、同性愛カップルの祝福、一夫多妻制の容認、ジェンダー論、LGBTQイデオロギー、テイヤール・ド・シャルダンのような環境保護主義的な汎神論。これらは、ベルゴリオが意図的に拡大している保守派(すでに距離を置いていて、構図から外れている聖伝派ではありません)と超進歩派の対立点です。彼の目的は、対立を作り出して、それを大きくさせ、最も極端な要求の支持者を励まして任命したり昇進させたりし、残っている数少ない良き司教、司祭、修道者らが非難されることへの予想通りの反応を目にすることなのです。良き司教や司祭らは、ベルゴリオの落とし穴に直面して、二者択一を迫られることになるでしょう。つまり、沈黙のうちの苦しみに戻るか、それとも、立ち上がってカトリックの真理に対する裏切りを糾弾し、自分の地位を辞さざるを得なくなり、地下で役務を行使するか、あるいは、少なくとも見かけ上は教会法的には正常ではない立場におかれるか、です。

いったん不都合な牧者たちが追放され、忠実な保守派らが解任されれば、ベルゴリオの位階階級は聖職者と人々を完全に支配することができるようになるでしょう。残った人々の従順は確実なものとなります。するとこのセクトは、カトリックという名前を持っているだけで(おそらくそれさえもなくなるでしょう)、キリストの教会を破壊するためにキリストの権威を濫用する裏切り者で腐敗した位階階級という逆説の中で、小羊の花嫁を完全に日食で覆い隠すでしょう。

これこそが、ベルゴリオとその手下たちが望んでいることですが、聖なる天主の民の「信仰の感覚」(sensus fidei)は、多くの人々がこの詐欺を拒絶し、断固とした抵抗と断固とした糾弾の行動に参加するように導くでしょう。主は、教会が死んだように見えるのを許され、地獄の勢力は自分たちが教会を打ち負かしたと信じるでしょう。なぜなら、神秘体が復活の栄光のうちに主に到達したいのであれば、天主なるかしらと同じように、神秘体が十字架の道と埋葬をたどることを主が望んでおられるからです。

【問い】フランシスコが望んだように、枢機卿会は普遍教会を代表すると言われていますが、本当でしょうか。

【ヴィガノ大司教】もし、枢機卿会の最も著名なメンバーに匿名のアンケートをし、その中で、すでに教導権が不可謬であることを表明している一連の命題について「真」なのか「偽」なのかを答えさせれば、恐ろしいことに、枢機卿のほぼ全員とは言わないまでも、絶対多数がカトリックではないことが分かるでしょう。そして、その中には保守派も含まれていることでしょう。多くの高位聖職者が異端であることはよく知られていますが、枢機卿たち自身の声明によって確認されています。そのような声明を前にして、ベルゴリオは自分の口を開かないように注意していました。彼はその代わり、【信仰に】忠実であり続けた数少ない高位聖職者に対しては、あまり気後れすることなく【厳しく】対応する方法を知っています。現在の枢機卿会は、ベルゴリオの教会の真髄です。そのメンバーは、世界における近代主義と公会議の進歩主義が世界に広く拡散していることを象徴しています。

しかし、彼らが普遍的な教会が表明するものでないのは確かです。第一に、彼らは、異端者であるため、見かけ上だけでしかその一部ではないからです。第二に、天主の恩寵によって、信者と聖職者たちは(恐ろしいことが続いた60年の後、最近の10年間はもっと明らかになった)、教皇、司教、教区司祭の口から出るすべてのものを額面通りに受け取らないことを学んでいるからです。ですから、これらの【信仰のない】人々は、真の教導権への不従順を説いた後、今度は【信仰に忠実なカトリックたちの】善きあるべき不従順――キリストへの従順のために――という結果に苦むことになるのです。

私たちは、教会の一部が全て――地理的にもイデオロギー的にも特定可能な、まだカトリックである部分です――組織的に取り消されるのを目撃しているところです。米国の一部の司教らはその司教区とともにカトリック的です。アフリカの多くの司教はとりわけ道徳的な問題に忠実です。ますます増え続けている数の教区司祭、司祭、男女の修道者は、自分たちがサンタ・マルタ館の粛清の次の犠牲者であることに気づいてきています(ピエンツァ修道院やマラディ修道院のケースも見逃されてはいません)。彼らは、代替的な形態の役務を準備し、団結し、比較し、組織化しています。これこそが、団体「Exsurge Domine」(www.exsurgedomine.org)の目的です。この団体は、私の後援の下に設立され、アルゼンチン人の「軍事政権」によって迫害された聖職者や修道者の抵抗を支援し、組織する役割を担っています。

【問い】なぜフランシスコはミラノ、トリノ、べネチア、ジェノバ、ナポリといった司教座を無視し続けるのでしょうか。

【ヴィガノ大司教】彼がそうするのは、伝統的に枢機卿の座である特定の司教座の道徳的威信を奪いたいからです。それは、あからさまなイデオロギー的縁故主義(nepotism)に基づく枢機卿の任命管理に有利になるようにするためです。ベルゴリオの友人や友人の友人は皆、スキャンダルや教理上の誤謬、明らかな不適格さや無能さを頑なに否定するという代償を払ってでも、良いキャリアを与えられます。彼は「羊のにおいを発する羊飼い」が好きなのであり、たとえ彼らが傭い人であっても、羊が彼らに導かれることを望んでいなくても、です。このことは、対神徳がまったく存在しないこと以上に、人間としての徳が欠如していることを露呈しています。ミラノ大司教を枢機卿に任命しなかったことは不名誉なことではありませんが、ベネチア総大司教のことは残念だと言わなければなりません。まさに彼のとても穏健な保守主義のために、自分の前任者が全てそうだったような枢機卿の服が彼には与えられませんでした。バチカンの「昇進コース」(cursus honorum)志願者へのメッセージは、宮廷的な隷属性をもって権力に迎合することなのです。さもなければ、管財人の管理下に置かれ(commissariamento)、使徒的訪問、転任、あるいは、新たな任命地位のない解任(とりわけバークとゲンズヴァインを参照)という罰則を受けることでしょう。

【問い】トゥチョ・フェルナンデスが枢機卿になります。つい最近まで、それは冗談のように思えました。それにもかかわらず。

【ヴィガノ大司教】それは冗談のまま残ります。なぜなら、10年前から起きていることは、悲劇というより、今や茶番劇に近いからです。サンタ・マルタ館のセクトが生み出すものはすべて詐欺です。「シノダリティーに関するシノドス」の「民主化」とされるものでは、地方共同体に提出される質問が、常にベルゴリオ自身から始まる正確な破壊転覆的計画に従って、望ましい答えを得るような形で定式化されています。

教会の統治に女性が関与することは嘘であり、これは私たちの主のご意志に反しており、いかなる権力であっても、それがいかに専制的で権威主義的であろうとも、叙階の秘跡の質料を変えることはできません。いわゆる「LGBTQコミュニティー」の悪徳行為やライフスタイルに対する高位聖職者や聖職者たちのつまずきを与える頷きは欺瞞であり、彼らは、目覚めた(woke)イデオロギーに惑わされた信者たちの弱点を利用して、自分たちの個人的な罪を正当化しているのですが、その罪は遅かれ早かれ恥ずべき平凡さとなって現れるでしょう。

フェルナンデス自身もまた造られた人物であり、ベルゴリオへの尊敬の念、その改革能力への信頼、教会の最高牧者としてのベルゴリオの「預言者的」行動(公会議のニュースピーク【新語法】では、「異端的」と同義語です)への動かしがたい確信を公の場で表明することで、何年にもわたってベルゴリオに【昇進を】求め続けてきたのです。

フェルナンデスはベルゴリオにとって、ゼレンスキーがバイデンにとってそうであるように、操り人形の手中にある操り人形なのです。ホワイトハウスとバチカン、ポデスタのメールとラッツィンガーの退位、ディープ・ステートとディープ・チャーチ、ナンシー・ペロシとイエズス会のジェームズ・マーティン「神父」を結びつけるのと同じ破壊転覆的エリートが、常に操り糸を引いているのです。

確かにフェルナンデスは、旧検邪聖省の責任者となりました。この非常に重要な、今は部署に格下げされた教理省長官がなすべきことを何もしないためです。彼はまったく正反対のことをするでしょう。彼は、異端者たちや、今日流行している神学者たち、サンタ・マルタ館ホテルへの移転を急ぐ司教たち、ジェンダーの擁護者たちの異端や道徳的逸脱を奨励し、その代わりに、ベルゴリオやその子分の一人が異端を肯定するのを批判する司祭、シノドスの逸脱を糾弾する司教、第二バチカン公会議以前の教導権の決議をいまだに教えている神学校教授に対して、冷酷な毅然とした態度で行動するでしょう。自分のスポンサーを喜ばせようとするこのフェルナンデスの熱意がどこまで続くのか、そしてパチャママのタリバン【フェルナンデス】に狙われた人々【忠実なカトリック】が、こうした攻撃に応じず、あるいは単に無視するだけで、いつまで我慢するのか見てみましょう。

【問い】フランシスコが求めている枢機卿たちはイエスマンばかりなのでしょうか、それとも独立した判断ができる者がいるのでしょうか。

【ヴィガノ大司教】今日、枢機卿になるには、細かいことにくよくよしない必要があります。粛清は60年間容赦なく行われ、ベネディクト十六世が任命したもっとも優れた枢機卿たちでさえ、忠実な保守派の期待にはまったく応えておらず、日和見主義者や卑怯者であることが少なくないことが証明されました。「ドゥビア」(Dubia)を書いた勇敢な人々――そう言っておきましょう――は、そう多くは生き残っていません。この優れた枢機卿たちは、前回のコンクラーベで【あってはならない】いろいろなことを目撃してしまったのですが、彼らはそれを公には糾弾しません。ですから、彼らは皆イエスマンなのです。つまり「血を流すまで」(usque ad effusionem sanguinis)聖なる教会を守るべき人々【枢機卿】にとっては、控えめに言っても、一貫性がないということです。

現在の危機は、主の役務者たちや諸国の支配者たちの不忠実のために、主が教会と世界を懲らしめられる罰です。この鞭を、あまりにも長い間侮辱されてきたものの、それでもなお私たちを救いたいと願っておられる御父の厳しいしぐさとみなしましょう。回心が唯一の可能な道です。御あわれみが正義に道を譲る前に、天主のもとに立ち返りましょう。


2023年7月14日
司教証聖者教会博士聖ボナヴェントゥーラの祝日
S. Bonaventurae Episcopi Confessoris et Ecclesiae Doctoris

このインタビューの元のイタリア語版はこちら





聖ピオ十世会 カトリック聖伝のミサの報告【東京】【大坂】Traditional Latin Mass in Japan SSPX Japan

2023年07月24日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2023年7月23日、聖霊降臨後第八主日、東京の曙町会館でのミサ聖祭に来られた方は、子供達も入れて合計110人でした。大阪では38人でした。天主に感謝いたします。

来週の7月30日(主日)は、東京でのミサ聖祭は、入谷ホール二階で行います。お間違えの無いようによろしくお願いいたします。

愛する兄弟姉妹の皆様のしもべの叙階30周年の記念カードを、大阪の信徒の方々の御厚意で作らせていただきました。30年の司祭生活で、日本には毎月のように聖伝のミサを捧げることができ、そのたびに「暁の星の聖母」に皆様と祈ってきました。日本における「暁の星の聖母」修道院ができたことは、30年のお恵みの中で最も大きいものの一つだと聖母に感謝しています。そこでカードにはその御影(ごえい)を使わせていただきました。



【ラロシュ神父様】
ラロシュ神父様は、45年前の1978年6月29日に叙階されました。初ミサとして荘厳ミサを7月16日に行われました。45年前も今年と同じように7月16日は主日だったそうです。初ミサのキリアーレは、アンリ・デュ・モン(Henri Du Mont)作曲の「王のキリアーレ」Kyrie missa regia - messe royale - だったとのことです。
そのことを知らずに、フランスから来られたラロシュ神父様を歓迎して、大阪の聖歌隊が「ロワイヤル」のキリアーレを歌うことを提案したところ、ラロシュ神父様はびっくりされ、神父様にとっての懐かし思い出の話を聞くことができました。

【長崎巡礼】
国際シンポジウムを機会に来日された神父様たちと一緒に、愛する兄弟姉妹の皆様のしもべは数日長崎に巡礼に行き、殉教の地に詣でて殉教者たちに祈ってきました。イエズス・キリストへの信仰のために殉教の血を流した私たちの祖先が、私たちのために取り次いでくださいますように!

今回はイエズス会司祭である有名なトマス神父様(P. Jean-François Thomas sj)と長崎を訪れることができて光栄でした。

【7月・8月の予定:東京】
7月30日(主日):入谷ホール二階:ミサ 午前9時、午前11時30分
8月06日(主日):入谷ホール二階:ミサ 午前9時、午前11時30分
8月13日(主日):入谷ホール二階:ミサ 午前9時、午前11時30分
8月15日(火)聖母被昇天:入谷ホール三階:ミサ 午前9時、午前11時30分
8月20日(主日):入谷ホール二階:ミサ 午前9時、午前11時30分
8月27日(主日):入谷ホール二階:ミサ 午前9時、午前11時30分

【8月の予定:札幌】
8月18日(金):北海道青少年会館 Compass:ミサ午後6時(18:00)
8月19日(土):北海道青少年会館 Compass:ミサ午前9時(09:00)

【8月の予定:名古屋】
8月27日(主日):ミサ 午後5時30分

[Mass venue in Tokyo for the month of July and August]
- 07/30 Iriya Hall 2F
- 08/06 Iriya Hall 2F
- 08/13 Iriya Hall 2F
- 08/15 Iriya Hall 3F <== !
- 08/20 Iriya Hall 2F
- 08/27 Iriya Hall 2F

【報告】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at today's Sunday masses. The total number of attendees at today's Sunday masses in Tokyo was 110 including children.

09:00 mass
M: 36 (incl. 7 children)
F: 30 (incl. 9 children)
Total: 66 (incl. 16 children)

11:30 mass
M: 20 (incl. 1 child)
F: 29 (incl. 3 children)
Total: 49 (incl. 4 children)

Total of 2 masses (excl. 5 persons who participated in multiple masses)
M: 53 (incl. 8 children)
F: 57 (incl. 12 children)
Total: 110 (incl. 20 children)


2023年7月23日のカトリック聖伝のミサの予定 Traditional Latin Mass Schedule, SSPX Japan, July 23, 2023

2023年07月23日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(これは「トリエント・ミサ」「ラテン語ミサ」とも言われています)にご招待します。

2023年7月23日(主日)前後のミサの予定をお知らせいたします。

【大阪】「聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂」 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 EG新御堂4階 〒532-0002 (アクセス)JR「新大阪駅」の西口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分(地図

 7月23日 日 【大阪】 18:00 ミサ聖祭(歌ミサ)【夕方のミサです】
 7月24日 月 【大阪】 06:30 ミサ聖祭

【東京】 「聖ピオ十世会 聖なる日本の殉教者巡回聖堂」 東京都文京区本駒込1-12-5 曙町会館(地図

7月23日(日)主日ミサは2回捧げられます。(9時と11時半です。) 

午前8時20分頃から準備が出来次第、告解の秘蹟を受けることができます。
09:00 ミサ聖祭 歌ミサ(ミサのライブ中継はYouTubeを使う予定です)
11:30 ミサ聖祭 読誦ミサ
それぞれのミサの間にも告解の秘蹟を受けることができます。告解のために司祭は待機しております。

【暁の星の聖母修道院】
修道院では平日(月曜から金曜まで)は毎朝7時15分から聖伝のミサを捧げています。
土曜日は原則的に修道院で午前11時からミサが捧げられます。

埼玉県さいたま市見沼区大和田町2丁目820番地3
日本聖ピオ十世会:「暁の星の聖母」修道院
T 337-0053

2023年
 7月21日(金) 【修道院】06:45 ミサ聖祭
 7月22日(土) 【修道院】11:00 ミサ聖祭
 7月23日(日) 【修道院】修道院ではミサはありません😓🙇
 7月24日(月) 【修道院】修道院ではミサはありません😓🙇
 7月25日(火) 【修道院】修道院ではミサはありません😓🙇
 7月26日(水) 【修道院】07:15 ミサ聖祭
 7月27日(木) 【修道院】07:15 ミサ聖祭
 7月28日(金) 【修道院】07:15 ミサ聖祭
 7月29日(土) 【修道院】11:00 ミサ聖祭

修道院では7時15分のミサで、毎月一回「亡くなった会員と恩人の方々のためのミサ」(Monthly Requiem Mass for the members and benefactors)を行います。8月1日、9月7日、10月5日、11月3日、12月5日(意向のみ)の予定です。

【名古屋】

名古屋において最終主日にミサが行われます。愛する兄弟姉妹の皆様を全てを聖伝の典礼にご招待いたします。予約不要です。8月は、8月27日午後5時30分からです

9月:9月18日(月)ミサ聖祭:午前10時30分
10月:10月29日(日)ミサ聖祭:午後5時30分
11月:11月23日(木)ミサ聖祭:午前10時半
12月:12月17日(日)ミサ聖祭:午後5時30分
 
場所:愛知県名古屋市中村区名駅南1-3-14 石原ビル6階
日時:8月27日(日) 10:00 ロザリオ及び告解  10:30(午前10時半) ミサ聖祭
場所は松屋の入っているビルの6階です。
OGPイメージ

松屋 納屋橋店 · 〒450-0003 愛知県名古屋市中村区名駅南1丁目3−14 石原ビル 1F

★★★★☆ · 牛丼屋

松屋 納屋橋店 · 〒450-0003 愛知県名古屋市中村区名駅南1丁目3−14 石原ビル 1F

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Ave Maria Immaculata!
My dearest Brethren!
aI would like to reconfirm the Mass schedule:

*****Mass times in Tokyo:*****
July 23 (Sunday) : TWO (2) Masses.
09:00 - Sung mass No Facebook live
https://www.youtube.com/@sspxjapan3916
11:30 - Low mas

Mass location:
"Holy Japanese Martyrs' Mass Center"
Akebonocho Jido-kaikan
1-12-5 Honkomagome, Bunkyo-ku, Tokyo
Map: http://g.co/maps/nxeh5

*****Mass schedule in OSAKA:*****

Sun, July 23 : Holy Sacrifice of the Mass at 18:00 [←!!!]
Mon, July 24 : Holy Sacrifice of the Mass at 06:30

*****Holy Masses at Stella Matutina Priory*****
On weekdays (Monday to Friday), holy Masses are offered at 7:15 am at the Priory.
On Saturdays, normally the Mass will be offered at the priory from 11am.

Society of Saint Pius X Japan
Stella Matutina Priory
Owada-cho 2-820-3, Minuma-ku, Saitama-City, Saitama,
T 337-0053

We offer a Montly Requiem Mass for the deceased members and benefactors. The dates of Requiem Mass will be : August 1st, September 7, October 5, November 3, December 5 (intention only) .

*****Mass schedule in NAGOYA: [ normally last Sunday of the month] *****
Sun, August 27  : Holy Sacrifice of the Mass at 17:30

 

松屋 納屋橋店 · 〒450-0003 愛知県名古屋市中村区名駅南1丁目3−14 石原ビル 1F

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一般社団法人日本聖ピオ十世会の銀行口座が開設されました。
御寄附や四旬節の献金、また教会維持費などのためにお使いくだされば幸いです。
愛する兄弟姉妹の皆様の暖かいご支援を感謝申し上げます。

銀行名:住信SBIネット銀行
金融機関コード(銀行コード):0038
支店番号-口座番号:106-1951537
漢字氏名:一般社団法人日本聖ピオ十世会
カナ氏名:シヤ)ニホンセイピオジツセイカイ

***2023年の大阪でのミサの予定 ***

やむを得ない事情により変更されることもあります。

 07月23日 日 【大阪】 18:00 ミサ聖祭
 07月24日 月 【大阪】 06:30 ミサ聖祭

 07月30日 日 【大阪】 18:00 ミサ聖祭
 07月31日 月 【大阪】 06:30 ミサ聖祭
 08月06日 日 【大阪】 18:00 ミサ聖祭
 08月07日 月 【大阪】 06:30 ミサ聖祭
 08月13日 日 【大阪】 18:00 ミサ聖祭
 08月15日 火 【大阪】 18:00 ミサ聖祭
 08月16日 水 【大阪】 06:30 ミサ聖祭
 08月20日 日 【大阪】 18:00 ミサ聖祭
 08月21日 月 【大阪】 06:30 ミサ聖祭
 08月25日 金 【大阪】 18:30 ミサ聖祭
 08月26日 土 【大阪】 10:30 ミサ聖祭
 08月27日 日 【大阪】 10:30 ミサ聖祭
 09月03日 日 【大阪】 18:00 ミサ聖祭
 09月04日 月 【大阪】 06:30 ミサ聖祭
 09月10日 日 【大阪】 18:00 ミサ聖祭
 09月11日 月 【大阪】 06:30 ミサ聖祭

 09月17日 日 【大阪】 18:00 ミサ聖祭
 09月18日 月 【大阪】 06:30 ミサ聖祭

 09月24日 日 【大阪】 18:00 ミサ聖祭
 09月29日 金 【大阪】 18:30 ミサ聖祭
 09月30日 土 【大阪】 10:30 ミサ聖祭
 10月01日 日 【大阪】 10:30 ミサ聖祭
 10月06日 金 【大阪】 18:30 ミサ聖祭
 10月07日 土 【大阪】 10:30 ミサ聖祭
 10月08日 日 【大阪】 10:30 ミサ聖祭
 10月15日 日 【大阪】 18:00 ミサ聖祭
 10月16日 月 【大阪】 06:30 ミサ聖祭

 10月22日 日 【大阪】 18:00 ミサ聖祭
 10月23日 月 【大阪】 06:30 ミサ聖祭

 10月27日 金 【大阪】 18:30 ミサ聖祭
 10月28日 土 【大阪】 10:30 ミサ聖祭
 10月29日 日 【大阪】 10:30 ミサ聖祭

 11月02日 木 【大阪】  ミサ聖祭
 11月03日 金 【大阪】 18:30 ミサ聖祭
 11月04日 土 【大阪】 10:30 ミサ聖祭
 11月05日 日 【大阪】 10:30 ミサ聖祭
 11月12日 日 【大阪】 18:00 ミサ聖祭
 11月13日 月 【大阪】 06:30 ミサ聖祭

 11月19日 日 【大阪】 18:00 ミサ聖祭
 11月20日 月 【大阪】 06:30 ミサ聖祭

 11月24日 金 【大阪】 18:30 ミサ聖祭【予定】
 11月25日 土 【大阪】 10:30 ミサ聖祭【予定】
 11月26日 日 【大阪】 10:30 ミサ聖祭【予定】
 12月01日 金 【大阪】 18:30 ミサ聖祭【予定】
 12月02日 土 【大阪】 10:30 ミサ聖祭【予定】
 12月03日 日 【大阪】 10:30 ミサ聖祭【予定】
 12月08日 金 【大阪】 18:30 ミサ聖祭【予定】
 12月09日 土 【大阪】 10:30 ミサ聖祭【予定】
 12月10日 日 【大阪】 10:30 ミサ聖祭【予定】
 12月14日 金 【大阪】 18:30 ミサ聖祭【予定】
 12月15日 土 【大阪】 10:30 ミサ聖祭【予定】
 12月16日 日 【大阪】 10:30 ミサ聖祭【予定】

 12月24日 日 【大阪】 18:00 ミサ聖祭
 12月25日 月 【大阪】  ミサ聖祭
 12月31日 日 【大阪】 18:00 ミサ聖祭


聖ピオ十世会 カトリック聖伝のミサの報告【東京】【大坂】【名古屋】Traditional Latin Mass in Japan SSPX Japan

2023年07月22日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2023年7月16日(主日)には、

東京ではランポン神父様(聖ピオ十世会)とトマス神父様(イエズス会)の二人がミサを捧げてくださいました。この日、東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計111人でした。

二つのミサの間には、ランポン神父様が講和をしてくださいました。講話では、社会に君臨すべき平和と、私たちが呼ばれている永福との間の関係について、お話してくださいました。社会の自然的な秩序と、超自然的な秩序との間の関係というとても興味深いお話でした。

「もし、人の目的が健康であると判断するのであれば、私たちを治めるのは医者で十分です。もし、人の目的が富を得ることであると判断するのであれば、国内総生産の拡大に専念する銀行家や政治家が、権力を持つことでしょう。しかし、人の目的は何でしょうか?永遠の命を得るために、徳に従って生きることです。したがって、社会の目的は、徳を通して、人々に超自然の命を得させることです。人々が栄福を得ることができるように、徳に従って生きるようにさせることです。」(ランポン神父)

大阪では、ラロシュ神父様がミサを捧げてくださいました。ラロシュ神父様は1999年9月に日本に来られて依頼の第四回目の日本訪問でした。大阪では38人の方々がミサに与りました。ラロシュ神父様「偽(いつわ)りの預言者を警戒しなさい」というお説教は、多くの方々の心に響いたとか、「今日のお説教、すごいことおっしゃっていらっしゃったね。あのお説教、もしノブスオルドの教会でなさったとしたら、大騒ぎになるんじゃない?」「びっくりした」「あのお説教の原稿、手に入れることできないかしら?」などというお声をうかがいました。

この日は名古屋でも午前10時30分にミサがありました。愛する兄弟姉妹の皆様のしもべがミサをお捧げ致しました。名古屋では夕方のミサには来ることが難しく聖伝のミサに与ることができずにいた方々も参加できました。名古屋では19人が参加されました。

午後は、東京でマーチフォーライフに参加しました。多くの愛する兄弟姉妹の皆様が参加してくださいました。たくさんの子供たちも参加しました。司祭は5人が参加しました。イエズス会司祭1名、コロンバン会司祭1名、聖ピオ十世会司祭3名でした。来年もマーチフォーライフがあります。愛する兄弟姉妹の皆様のご参加をお待ちしております。









7月15日(土)と7月17日(月)には、国際シンポジウムも開催されました。これには各地からゲストスピーカーの皆様が来られて発表してくださいました。マイケル・マットさんも動画で発言を寄せてくださいました。

国際シンポジウムで話された主なことは次のようなことです。カトリック的な反革命とは、革命に反対する別の革命を起こすことではありません。革命の反対をすることです。革命が壊した秩序を築き上げていくことです。まず、革命が破壊しようとしている私たちの心の秩序、霊魂の秩序と平和を取り戻すことです。次に家庭の秩序と平和を築き上げることです。その次に、愛する祖国の秩序と平和を築くことです。キリストが私たちを愛する王として君臨されることです。
そのために必要なのがカトリックの信仰です。聖伝の信仰です。この信仰を守るために絶対に必要なのが、真にカトリック的なミサの犠牲です。聖伝のミサです。使徒の時代から伝えられた信仰を守ることほど、価値があることはありません。祖先のキリシタンたちは、命がけで信仰を守りました。

【報告】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at today's Sunday masses and spiritual conference in Tokyo. The total number of attendees at today's Sunday masses in Tokyo was 111 including children.

09:00 mass
M: 30 (incl. 5 children)
F: 31 (incl. 10 children)
Total: 61 (incl. 15 children)

11:30 mass
M: 28 (incl. 1 child)
F: 29 (incl. 2 children)
Total: 57 (incl. 3 children)

Total of 2 masses (excl. 7 persons who participated in multiple masses)
M: 54 (incl. 6 children)
F: 57 (incl. 12 children)
Total: 111 (incl. 18 children)

Spiritual conference (by Fr Alexis Rampon)
M: 17 (incl. 2 children)
F: 19 (incl. 3 children)
Total: 36 (incl. 5 children)


教会は「聖性」・「真実」・「愛徳」のような良い実しか保存しません。

2023年07月21日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2023年7月16日は聖霊降臨後第七主日でした。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeでの「聖霊降臨後第七主日の説教(イエズス会司祭トマ神父様)」の動画をご紹介いたします。

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SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本にチャンネル登録もお願いいたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父


善が悪より優れている「四つの理由」

2023年07月21日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2023年7月16日は聖霊降臨後第七主日でした。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeでの「聖霊降臨後第七主日の説教(聖ピオ十世会司祭ランポン神父様)」の動画をご紹介いたします。

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天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父


偽りの預言者というのは、天主の名において話すと称(しょう)して誤った信仰や道徳を教える人です。

2023年07月17日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2023年7月16日は聖霊降臨後第七主日でした。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeでの「聖霊降臨後第七主日の説教(聖ピオ十世会司祭ラロシュ神父様)」の動画をご紹介いたします。

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天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父


「告解は難破した後の第二の板である」 悔悛の秘跡(告解の秘跡)を良く受けるためには?

2023年07月17日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2023年7月9日は聖霊降臨後第六主日でした。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「聖霊降臨後第六主日の説教」の動画をご紹介いたします。

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天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父


「恥知らずの政治家が考え出した」:カミナンテ・ワンダラー・ブログはシノドスとその「悲痛要綱」(Instrumentum Doloris)について語る

2023年07月12日 | 聖伝のミサの予定

「恥知らずの政治家が考え出した」:カミナンテ・ワンダラー・ブログはシノドスとその「悲痛要綱」(Instrumentum Doloris)について語る

"Conceived by an unscrupulous politician": Caminante Wanderer on the Synod and Its "Instrumentum Doloris"

「シノダリティーに関するシノドス」は今年の10月4日に始まり、2年にわたって行われますが、先週、その「討議要綱」(Instrumentum laboris)が公表されました。

カトリックのメディアはすでに、この非常に長い文書の分析をいくつか公表しています。私がお勧めするのは、「Missa in Latino」ブログにあるこの投稿です。そこには、その分析(イタリア語)のいくつかへのリンクがあります。

そこで、すでにこれまで語られてきたこと、しかもよく語られたことを繰り返えすのではなく、私たちはここでさらなる考察をいくつか提案したいと思います。

その一つ目は、最も明らかなことです。これはすべて「デジャビュ」(既に見たもの)であり、この文書【討議要綱】は、フランシスコの教皇職が取り組んだすべてを、順序を少し変えて提案した練り直し版なのですが、今回は新たな追加要素があって、それは文書のあらゆる場面で登場していますし、文書発表の記者会見のときのオロリッシュ枢機卿とグレチ枢機卿の回答においてはそれが常に感じられていました。

私が述べようとするのは、このすべてのパントマイムの自己満足的な性格です。なぜなら、討議要綱は、互いに愛し合いたい同性愛者についてや、離婚したい既婚者あるいは、結婚したい司祭について(以上は第六戒を破棄しようとする試み)、さらには、司祭に叙階されたい女性、レイプされたくない母なる大地などの、型通りの説教に関するものだけではもはやなく、「シノドスに関する最も重要なことはシノダリティー自体だ」と、私たちは聞かされているからです。

つまり、歩むためだけに歩むことであり、その道が私たちをどこに導くかを考えずに歩くことです。シノドスとは「共に歩むという事実、この経験の意味について自問することです」とグレチ枢機卿は語りました。教皇フランシスコのような恥知らずの政治家が考え出した、自己満足的な運動なのです。

教皇は、解体の局面にある教会において、ある種の「主導権」(initiative)のように見えるものを保つために、絶えず帽子からウサギを取り出します。死を迎えようとする教皇職に心臓マッサージを施すようなもので、あえぎ声に基づくだけであっても、活力のあるように見せかけることを可能にしており、この目的のために使用される手段が引き起こす結果にはまったく注意を払うつもりはないのです。

なぜなら、どの観察者にとってもまったく明らかな事実がもう一つあるからです。このシノドスは、フランシスコが後継者に残す「小さな贈り物 (regalitos)」のもう一つなのです。(ガルシア・クエルバ司教【が2023年5月26日ブエノスアイレス司教として任命されたこと】はブエノスアイレスの信者への「小さな贈り物」、コボ・カノ司教はマドリードの信者への「小さな贈り物」、テルリンデン神父はブリュッセルの信者への「小さな贈り物」です。)

シノドスで本当に重要で決定的なのは、教皇によって公布されるシノドス後の使徒的勧告であり、これには会議【シノドス】が残した教導権の教えが含まれており、通常はシノドス終了から1年後に出されます。つまり、この文書は2025年末までに日の目を見るはずです。教皇フランシスコの年齢と病弱さを考えると、その頃にはこの世を去っているか、最後の準備に入っていることでしょう。「次の教皇に管理してもらいましょう」と彼は言っています。これはペロン主義政権の永続的な戦術に倣ったものであり、アルゼンチンではよく知られていることです。政権の任期中、ペロン主義政権は大衆と自分たちの懐を満足させるために浪費し、浪費し、浪費し、借金をし、そして自分たちが引き起こした混乱を解決するという「小さな贈り物」を後任の政権に残すのです。

2013年7月8日、ベルゴリオ選出から百日余りたった頃、私たちはこのブログで、新しく生まれたばかりの教皇職の特徴は「神学的に一貫した演説がないこと、そして何よりも含蓄のある演説がないことであり、その代わりにあるのは、日替わりの『ベルゴリオ流話法』(bergologoumena, bergoglemas)であり、結局は何の意味もないおしゃべりである」と述べました。

【訳注】スペイン語では、bergoglismos あるいは bergoglemas。英語のbergologoumenaは、啓示から導かれたものではない神学的主張、あるいは権威ある教理ではなく個人的な神学的見解を表す「theologoumena」からの造語と思われる。 bergoglemas については以下のリンクを参照。

Semántica del discurso bergogliano, o la apologética desorbitada

Semántica del discurso bergogliano (II): La increpación

Los santos de antes no usaban gomina

François et le tournant anthropologique de la liturgie | Benoit et Moi】

ほぼ四千日たった今日、私たちは同じことを言わなければなりませんし、「討議要綱」がそれを裏付けています。教皇フランシスコは、三つか四つの貧弱で破壊的なアイデアでローマでのキャリアを始めました。それは、教会を刷新し、世界における進歩主義の指導力を体現するためにやって来た教皇として自らを提示するためです。そのキャリアの終わりを迎えた今、私たちは彼が同じ三つか四つの使い古されたアイデア(アイデアであって行動ではありません。なぜならシノダリティー【共に歩む】とは言葉だけであり、行動においては独裁的な教皇職だからです)を主張し続けていることに気づきます。彼は教会の最終的解体への歩みを早め、彼の見せかけの世界的な指導力には、あわれな猿芝居しか残されていません(ロシアとウクライナの戦争で彼が演じた役割が、効果がなく存在しないのを、彼のおしゃべりを通して見るだけで分かります――これをズッピ枢機卿がフランシスコを救い出さなければなりませんでした――)。

冒頭で述べたように、「デジャビュ」なのです。「討議要綱」に登場するテーマ、そして言葉でさえも、10年前に発表されることが可能だったものであり、そのためには預言者である必要はありません。

最後に、何人かの論者によって指摘されてきたように、「討議要綱初版」(Instrumentum "Labori")(そうです、最初の版では、ラテン語のスペルミスが顕著に現れていました)は、少数の禁欲の修道者だけが読むための文書です。近年見られるように、前代未聞の大量の言葉を作り出し続けてもそれが何も語っていないという、このような巨大な文書を、平均的な敬虔さや精神的健康を持つ忠実なカトリック信者が、家で座って、宗教的情熱をもって読むことはないでしょう。

司教、司祭、修道女、信者の男性、信者の女性がこれらのページと「取り組む」光景は圧巻なものでしょう。会議がシノドス・ホールではなく、パウロ六世ホールで行われることが発表されたのは、12人ずつの作業チームが集まる多数のテーブルを設置するためです。ジャコモ・コスタ神父は、この地形的な配置は「霊における対話の力学を促進する」と説明します。教育科学の専門家グループが、シノドスの教父たちや「母親(教母?)たち」に、塑像でこねた小さな動物を通して自分たちの考えや感情を表現するよう求め、共同でポスターを作成し、最後に劇を上演することを要求しても不思議ではないでしょう。これらはすべて、「霊の息吹」の問題なのです。

パチャママが聖ペトロ大聖堂の周りを歩き回る(最後にはテヴェレ川の中に投げ入れられる)というまさに奇怪な見世物に行きつくという、大きなストレスに教会を陥れたアマゾン・シノドスがそうであったように、今年もまた、この教皇職の全てがそうであるように、信者をつまずかせ、キリストの花嫁に害を与える運命にある、痛ましい教皇の演芸が行われることになるでしょう。

カミナンテ・ワンダラー・ブログ
2023年6月26日
原文はスペイン語


聖ピオ十世会 カトリック聖伝のミサの報告【東京】【大坂】【沖縄】Traditional Latin Mass in Japan SSPX Japan

2023年07月11日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

2023年7月9日、東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計98人でした。大阪の午後のミサに与った方は、41人でした。天主に感謝いたします。

7月10日(月)大阪ではマリア・テレジアさんが受洗され天主の子供となりました。愛する兄弟姉妹の皆様のお祈りをお願い致します。

沖縄では、7月10日(月)26人以上の方々が夕方のミサに与りました。7月11日(火)にも午前中のミサだったにもかかわらず、25~26人の方々がミサに与りました。沖縄で聖伝のミサが捧げられることについて皆さんから感謝と喜びのお声を伺いました。この機会が与えられたことを聖母に感謝いたします。明日7月12日(水)は、午前09時から聖伝のミサが行われます。ミサの会場は、北中城村(きたなかぐすくそん)和仁屋(わにや)(字)275 Caleb J です。予約は不要です。








<<来週の主日>>

【東京】
東京での来る主日のミサ聖祭の会場は、入谷ホールです。お間違えの無いようお願い致します。
09:00   ランポン神父(聖ピオ十世会司祭):歌ミサ:
10:30-11:30ミサの後の祈りのあと、ランポン神父様の特別霊的講話があります。【<==!!乞うご期待!多くの愛する兄弟姉妹の皆様のご参加をお願い致します。】
11:30   トマス神父(イエズス会司祭):読誦ミサ

【大阪】
大阪の次の主日のミサ聖祭は、ラロシュ神父様が捧げてくださいます。ラロシュ神父様は今年で叙階45年の大ベテランの司祭で、今はドイツのツァイツコーフェンの神学校で教鞭をとっておられます。

【名古屋】
名古屋では、次の主日の午前10時半にミサがあります。小野田神父が司式します。

【マーチフォーライフ】
来週の主日(7月16日)には、マーチフォーライフ(第十回目)があります。マーチは午後4時に日比谷公園内の日比谷文化図書館から始まります。私たち司祭は主日のミサが終わり、かたずけが次第、大阪や名古屋からも日比谷公園に午後3時40分までに集合します。

【国際シンポジウム】
今週の土曜日と来週の月曜日には国際シンポジウムがあります。
テーマ:革命に反対するとはどういうことか?
7月15日(土曜日) 午前10時~午後5時30分:台東区入谷ホール2階
7月17日(海の日) 午前10時~午後5時30分:新宿アイランドタワー4階

【報告】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at today's Sunday masses in Tokyo. The total number of attendees at today's Sunday masses in Tokyo was 98 including children.


09:00 mass
M: 28 (incl. 7 children)
F: 30 (incl. 8 children)
Total: 58 (incl. 15 children)

11:30 mass
M: 19 (incl. 1 child)
F: 25 (incl. 3 children)
Total: 44 (incl. 4 children)

Total of 2 masses (excl. 4 persons who participated in multiple masses)
M: 44 (incl. 8 children)
F: 54 (incl. 11 children)
Total: 98 (incl. 19 children)


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】