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私は御身を信じ、礼拝し、希望し、御身を愛します!御身を信じぬ人々、希望せず愛さぬ人々のために、赦しを求めます(天使の祈)

モンシニョール・クラウス・ガンバー(Msgr Klaus Gamber)の「ローマ典礼の改革」

2007年07月20日 | ミサ聖祭
 モンシニョール・クラウス・ガンバー(Monsignor Klaus Gamber)の「ローマ典礼の改革」The Reform of the Roman Liturgy (Die Reform der roemischen Liturgie の英訳) を読んで

 クラウス・ガンバー師は、1919年4月23日生まれ。1948年6月29日レーゲンスブルクで司祭叙階。叙階後司牧に従事していたが病気のため司牧活動ができなくなる。
 1957年、レーゲンスブルグに「典礼研究所(Institute of Liturgical Science)」を創立し所長となり、1989年6月2日に70歳で亡くなるまで、所長として活動。

 所長ガンバー師は、神学博士であり後に哲学名誉博士号を贈られている。1958年、ローマの教皇庁立典礼アカデミーの名誉会員となり、1965年教皇付き司祭となり、1966年に教皇付き秘密チェンバレイン(secret chamberlain)となる。

 ガンバー師の「ローマ典礼の改革」のフランス語版へラッツィンガー枢機卿は「序言」を書いて、彼の功績を讃えてこう言った。

「第二バチカン公会議後に起こったことは、全く違うことだった。発展の実りとしての典礼の場所に、捏造された典礼が来た。私たちは、数世紀にわたる成長と発展のオーガニックな生きている過程を捨てさり、その代わりに、丁度制作過程で起こるかのように、作り上げられたものを、平凡でその場しのぎの産物を置いた。ガンバーは、真の預言者の警戒と真の証人の勇気とを持って、この捏造(falsification)に反対した。そして、彼の信じられないほど豊かな知識をもって、疲れを知らずに私たちに真の典礼の生きる充満性について教えてくれた。・・・」

"What happened after the Council was something else entirely: in the place of liturgy as the fruit of development came fabricated liturgy. We abandoned the organic, living process of growth and development over the centuries, and replaced it--as in a manufacturing process--with a fabrication, a banal on- the-spot product." (Cardinal Joseph Ratzinger)

 クラウス・ガンバーは、聖伝主義者と呼ばれるような人では全くなかった。(Klaus Gamber was neither a traditionalist at any price, nor one who could come to terms with the perhaps too hastily introduced reforms of the liturgy after the last council.

 そのガンバー師は「ローマ典礼の改革」の第三章で「トリエント・ミサ Tridentine Mass」も「聖ピオ五世のミサ Mass of St Pius V」も厳密な意味では存在しないという。何故なら、トリエント公会議の結論として、新しいミサが創造されたわけではないからだ。「聖ピオ五世のミサ」とはローマ・クリアのミサ典書(Missale secundum consuetudinem Romanae Curiae)以外の何でもないからだ。このミサは、数世紀も前からずっとローマで行われており、ローマ以外でも多くの西欧の国々にフランシスコ会士たちによって広められた。聖ピオ五世によってなされた変更は、専門家にしか分からないほどごく僅かでしかない。

 モンシニョール・ガンバーは断言する。「パウロ六世がそうするまで、教皇たちは固有の意味におけるミサ式次第(Ordo Missae)には一切変化を加えたことがない、ただし、特にトリエント公会議以後は、教皇たちは新しい祝日のために新しい固有文を導入した。

 新しい条文が法律(たとえば刑法)に加えられたとしても、それによって刑法が廃止されることにもならないように、新しい祝日が加えられたことによっていわゆる「トリエント・ミサ」がなくなったことにはならない。1570年に発布された「トリエント・ミサ」が1604年以後、いろいろな祝日を加えられたが、祝日の導入によって「トリエント・ミサ」或いは「聖ピオ五世のミサ」は34年で終わったというのは詭弁に過ぎない。

 クラウス・ガンバーは新しいミサの現代典礼様式(Ritus Modernus)に対して「ローマ典礼様式」(Ritus Romanus) と正確に言わなければならないと言う。ローマ典礼様式はその重要部分が、四世紀、より正確に言うと、教皇ダマソ(在位366-384年)の時代に少なくとも遡ることができる。教皇ジェラジオ(在位492-496年)の時代には、大聖グレゴリオ(在位590-604年)が手を付けた僅かな変更を除いて、現代にまで伝えられている形のミサ典文であることが確認できる。五世紀以来、教皇たちはただ一つのことを要求してきた。それはローマ典文を使わなければならないということであった。何故なら、教皇たちの理由は、使徒聖ペトロに由来するものだからだ。しかしその他の部分に関しては、地方の教会の習慣が尊重された。

 聖ピオ五世はローマで使われていたミサ典書を修正して(聖人の祝日の数を減らして)それをローマ・ミサ典書として出版しただけだった。聖ピオ五世は、ローマ・ミサ典書を全教会に強制しなかった。もしも或る司教区、あるいは或る修道会が、ただ200年以上別の典礼様式をする習慣があるなら、それを尊重した。

 しかし、今では、私たちの足元に瓦礫を見つめている。トリエントミサの瓦礫ではなく、あれほど長い期間にわたって成熟まで発展し成長してきた古代ローマ典礼様式の瓦礫である。
"... and we now contemplate at our feet the ruins, not of the Tridentine Mass, but of the ancient Roman Rite which had developed and grown to maturity during that long period." (p. 26)


 「ローマ典礼の改革」の第4章では「教皇は典礼様式を変える権威をもっているか」という主題を扱っている。

 「典礼様式」と訳されるものは、ラテン語で ritus と言われているものだ。典礼様式の本質的要素を変えることは、その典礼様式全体を破壊することに等しい。これがマルチン・ルターがミサの典文を取り除き、聖変化の言葉と聖体配布の部分を変えたことによって宗教改革の時にやったことだ。明らかにこの変化は、たとえ伝統的な典礼形式が変わらずに続いたかのように見えたが(初期は、祭服や聖歌はそのまま残っていた)、ローマ・ミサを破壊した。聖伝の典礼様式が放棄されるやいなや、しかしながら、プロテスタント共同体において更なる典礼変化が加速化しだした。

 教皇聖ピオ十世がグレゴリオ聖歌をその原初の形に戻した時、或いはマイナーな聖人の祝日が主日に当たる時に、主日を優先させるようにして per annum 典礼暦を再導入した時、伝統的なローマ典礼様式とは断絶させたわけではない。

 同じように、教皇ピオ十二世が復活の徹夜祭の古代のローマ典礼を復興させた時、典礼様式を変えたわけではない。ヨハネ二十三世のもとで典礼法規(rubrics)の再構成が行われたが、それでも典礼様式の根本的な変化ではなかった。第二バチカン公会議閉会直後の1965年に出され、出されてから4年しかもたなかったミサの式次第も、典礼様式を変えるものではなかった。

 教皇は、使徒からの聖伝に基礎を持ち、数世紀にわたって発展してきた典礼様式を変える権威をもっているのだろうか? 過去、教会位階は典礼の形式に強い影響を与えてきたのではなかった。

 しかし、1969年の新しいミサ式次第の発表は、新しい典礼様式を創造した。言い換えると、聖伝の典礼様式は単に改正されたばかりではなく、むしろ完全に廃止された。そして数年後には、事実上、聖伝の典礼様式は禁止された。

 そのようなこと全ては次の疑問へと導かれる。そのようなラディカルな改革は教会の聖伝に従うものなのか? 新しい典礼様式を導入するという教皇の権威は、公会議の決定無しにそうする権威であり、それは教皇が教会においてもっている「完全で最高の権能(plena et suprema potestas)」(第一バチカン公会議)に由来する、と議論されうるかもしれない。第一バチカン公会議はこう言う。「全世界の教会の規律と統治に関することがらについて全教会に対して最高の裁治権( quae ad disciplinam et regimen Ecclesiae per totum orbem diffusae pertinent)DzS 3060(Dz1827)及び DzS 3064(Dz1831)」を持つ、と。第一バチカン公会議 (第20回公会議)決議文(抜粋)

 しかし規律(disciplina)ということは、ミサの典礼様式には全く関わらない。何故なら、教皇たちはこの典礼様式は使徒からの聖伝に基づくと何度も繰り返し述べている事実があるからである。

 たとえば、教皇インノチェンチオ一世(在位402年-417年)は、エウグビノの司教に書簡をこう書いている。
使徒の頭であるペトロによってローマ教会に伝えられてきたもの、そして今においても守られているものが、全ての人々によって保守されなければならないこと、更にそこの何ものをも加えても或いは導入されてもならないこと、そのように(付け加えたり)する権威は誰にもなく、或いはその他の場所からの例に倣うように見えるようなことも(できない)。」(PL 20:552)

INNOCENTIUS DECENTIO episcopo Eugubino salutem.
2. Quis enim nesciat aut non advertat, id quod a principe Apostolorum Petro Romanae Ecclesiae traditum est, ac nunc usque custoditur, ab omnibus debere servari; nec superduci aut introduci aliquid, [Col. 0552B] quod auctoritatem non habeat, aut aliunde accipere videatur exemplum? praesertim cum sit manifestum, in omnem Italiam, Gallias, Hispanias, Africam atque Siciliam, et insulas interjacentes, nullum instituisse ecclesias, nisi eos quos venerabilis apostolus Petrus aut ejus successores constituerint sacerdotes. Aut legant, si in his provinciis alius Apostolorum invenitur, aut legitur docuisse. Qui si non legunt, quia nusquam inveniunt, oportet eos hoc sequi, quod Ecclesia Romana custodit, a qua eos principium accepisse non dubium est, ne dum peregrinis assertionibus student, caput institutionum videantur omittere.

 或いは教皇ヴィジリオ(在位538年-555年)は、ブラガの総大主教にこう書いている。

「従って、上記に述べた、そして天主の憐れみによって使徒継承の聖伝から私たちの受けたその典文の祈りの文書(=ミサ典文)を私は配置した」(PL 69:18)
Quapropter et ipsius canonicae precis textum direximus supradictum, quem Deo propitio ex apostolica traditione suscepimus.


 この理由だけからでも、典礼様式は「教会の規律と統治」というカテゴリーには入らない。更に付け加えることができるのは、カトリック教会法典を含めて、教皇には教会の最高牧者として聖伝の典礼様式を廃止する権能があると述べられている文章は一つも存在していない。事実、教皇にたった一つの地方の典礼の伝統を変える権威があるなどと述べているような文書は何処にも無い。このような権威が何処にも言及されていないことは、私たちのケースの議論を極めて強めてくれる。

 明らかに教皇の「完全で最高の権能(plena et suprema potestas)」には限界がある。たとえば、教義に関しては、教皇といえども普遍教会の聖伝に従わなければならない。つまりレランのヴィンチェンチオが言う通り「常に何処でも全てによって quod semper, quod ubique, quod ab omnibus 信じられていたこと」に従わなければならないのは、疑問の余地もない。事実、聖伝の典礼様式を廃止することは教皇の権威外である、と極めてはっきりと述べている権威のある著者らが何名もいる。

 従って、著名な神学者であるスアレス(Suarez 1617年没)は、やはり神学の権威であるカイェタノ(Cajetan 1534年没)を引用して「もしも教皇が自分の義務であるにもかかわらず、教会の神秘体と全き交わりを保たなかったとしたら、たとえばもしも教皇が全教会を破門したとしたら、或いはもしも教皇が使徒継承の聖伝として保たれてきた教会の典礼様式を全て変えてしまったとしたら」彼は離教的(schismaticus)となるだろうという立場を取っている。

 確実な史実によれば、パウロ六世がそうするまで、私たちが目前にしているような典礼形式における根本的な変化の型を導入した教皇はただの一人も存在していない。事実、典礼において教皇によって導入された極めて小さい変化であったとしてもすぐに受け入れられたことは決してなかったということを私たちは述べなければならない。

 教皇大聖グレゴリオ(604年没)が、ビザンチン典礼様式に倣うために、パンを割く式をミサ典文()の終わりから聖体拝領の典礼様式の始めに移動することを決断したことがあった。そして、この小さな変更をローマの教会においてだけ導入した。しかし大聖グレゴリオ教皇は厳しく批判された。シラクサの司教への書簡の中で自分が導入したその小さな変化について弁明している。(PL 77:956) 大聖グレゴリオの改革がいろいろなところで完全に受け入れられるようになったのは八世紀になってである。

 しかも、ローマの指定巡礼教会において教皇司式の典礼のためだけに使われるミサ典書を編集しただけだった。ローマの小教区教会のためのミサ典書(Liber sacramentorum Romanae ecclesiae)でさえもなかった。大聖グレゴリオは「教会が一つの信仰を保っている限り、異なる典礼様式の習慣は教会を害しない (quia in una fide nihil officit sanctae Ecclesiae consuetudo diversa)」(PL 77:497 C)と言っていた。

 大聖グレゴリオの秘跡書(Sacramentarium)が後にローマ・ミサ典書(Missale Romanum)の基礎を形づくった。大聖グレゴリオがそれを強要したのではなかったが、聖ペトロへの崇敬からローマで使われていた典礼様式を皆が自然と真似るようになったからだった。

 例えば聖ボニファチオは、意味もないような些細なことでさえもローマからの指導を仰いでいた。しかし聖ボニファチオはローマ・ミサ典書を使っていたわけではない。彼はイングランド北部の大修道院で使われてたミサ典書を使っていた。そこの集祷文や序誦などはローマで使われていたものとは全く違っていたが、ミサ典文(Canon Missae)だけが同一であった。しかもこのミサ典文は大聖グレゴリオよりも前の時代の典文であった。

 全く確かなことは、教会改革を導入することが聖座の機能ではない。教皇の第一の義務は第一司教(episcopus = 監督者)として教会の聖伝、教義・道徳・典礼の聖伝を注意深く上から (epi-) 見張る (scopos) ことである。

 トリエント公会議に始まって、聖座の最高権威は典礼文を見直すことにまで広がった。つまり新しく印刷された版を点検し、新しい祝日のためのミサ固有文を導入するという小さな改正をすることである。これを聖ピオ五世が行った。つまり聖ピオ五世は、ローマと西欧の多くの地域で使用されていたローマ・クリアのミサ典書(Curiae Missale)を、ローマ・ミサ典書(Missale Romanum)として1570年に出版した。私たちは、聖ピオ五世によって出版されたのは「新しい」ミサ典書ではなかったと決定的に断言できる。

 1969年のミサ式次第は典礼様式を変えたのみならず、典礼暦年や諸聖人の祝日を大幅に変えてしまった。一つ二つの祝日を付け加えることは、それ自体としては、典礼様式を変えることではない。しかし無数を変更を導入し、聖伝の典礼形式は形を全く変えてしまった。

「現代の教会は、新しいミサの必要が全くない。教会に必要なのは霊的生活を充足させることだ。これこそが信仰の危機を乗り越えうる。この危機は権威の危機でもある。少なくとも部分的には、権威の危機の責任は、ローマに基因されなければならない。」 (p. 68)

「私たちは東方教会にも、西方教会にも、会衆と対面して versus populum 儀式などというものは存在していなかったことと言うことができるし充分に証明することもできる。むしろ存在していたのは、祈る時に東方を向くということだけであった。」 (p. 77)

「初代教会において、そして中世において、祭壇の位置を決定したのは東方を向くと言うことである。聖アウグスティヌスを引用すると、『私たちが立って祈る時、天が始まる東を向く。天主が東におられるからという理由で(あたかも天主が東から西に移動されるかのように)そうするのではない。そうではなく、私たちの心を高い秩序に、つまり天主へと向けることを思い出させてくれるためである(cum ad orationem stamus, ad orientem convertimur, unde coelum surgit: non tanquam ibi habitet et Deus, quasi caeteras mundi partes deseruerit qui ubique praesens est, non locorum spatiis, sed majestatis potentia ; sed ut admoneatur animus ad naturam excellentiorem se convertere, id est ad Deum)。』」


「典礼の歴史においても神学においても社会学的にもいかなる根拠もないが故に、会衆と対面した versus populum ミサの儀式というのは徐々に姿を消すべきである。」 (p. 92)

「『牧者 The Pastor』誌において、第二バチカン公会議のすぐ後に発表された『荘厳ミサ Missarum Sollemnia』という著名な本の著者であるユングマンを引用したいと思う。ユングマンはこう書いている。『初代教会の祭壇が、常に会衆と対面して儀式をするように作られていたと、しばしば繰り返し主張されるが、それはおとぎ話以外の何ものでもない nothing but a fairy tale ことが分かった』と。」

「焦点は常に天主に向かっていなければならない。人間にではない。このことは、司祭が会衆の方に顔を向けるのではなく、祈る時に皆が天主に向かっていなければならないということを常に意味した。従って、対面式の儀式は、事実上、間違っていると結論付けなければならない。結局、対面式の儀式は、天主から離れさせ、人間に向かわせるものである。」

 ガンバー師は言う。聖伝の「ローマ典礼様式」と「現代典礼様式」と二つの典礼様式が存在する、と。

「パウロ六世の典礼形式は事実上新しい典礼様式を作り上げた。」
"the liturgical forms of Pope Paul VI created a de facto new rite... " (p. 39)

「今日、私たちは、教会の聖伝ほぼ二〇〇〇年の廃墟を前にして立っている。私たちはこう思わざるを得ない。多くの改革は教会の聖伝に損害を与え、それはそれを元に戻すのが難しいほどだ。今日、かくも酷い破壊の後に、聖伝の秩序を再建築するのが可能なのかと疑問にさえ思う。しかし、私たちは希望を諦めてはならない。」(p. 95)

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1 コメント

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昔は~だったんですよ (M.C.)
2007-07-21 00:14:22
「昔は~だったんですよ」という言い方を古い信者の方々の口から聞くことが本当によくある。懐かしむニュアンスがないではないが、かといって「あの時代に戻りたい」とまでの強さは感じられない。むしろ「昔は昔、今は今」という割切りが感じられることの方が多い。「昔」とは、ほとんどいつもあの第2バチカン公会議以前を指している。古い信者の方々のそういう言い方を耳にするたび、あの公会議は「伝統との断絶」という概念を教会内に導入したのだな、と痛感せずにはいられない。あたかも「とにかく変わらねば(変えねば)ならない」という強迫観念がカトリック教会全体にとりついてしまったかのようである。この強迫観念こそ、まさに「革命の論理」そのものである。「古いものは古いというだけで忌まわしく、新しいものは新しいというだけで素晴らしい」という話である。あの第2バチカン公会議はまさにカトリックにおけるフランス革命そのものだった。フランス革命はとにかく「旧体制(アンシャン・レジーム)」を憎悪してやまなかったが、「公会議後の教会」はどうだろうか。そして「アジョルナメント」という概念こそ「革命の論理」への呼び水ではなかったのか。

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