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第二バチカン公会議についての疑問および問題点:誤った諸宗教の有する権利?

2007年06月21日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

■ 誤った諸宗教の有する権利?

『信教の自由に関する宣言』 4
「なお宗教団体は、自分の信仰を言論および出版物をもって公に教え、また宣布することを妨げられない権利を持っている。」

【疑問点 12】
「信仰」という言葉は、カトリック信仰のみを指しているのか。それとも諸々の偽りの宗教が説く誤った信念をも同様に指しているのか。もしそうなら、第二バチカン公会議は、全ての誤った宗教に伝道の自由を認めているのか。もしそうであるとすれば、第二バチカン公会議は、かかる伝道活動が善であり、なおかつカトリック信者の信仰、カトリック教会がもつ全ての民を教え導く使命、ならびにカトリック諸国の宗教的一致を害するものではない、と主張しているのか。

【疑問点 13】
 第二バチカン公会議が諸々の誤った宗教に対して認めている伝道活動を行う権利は、教皇ピオ十二世の教えと両立し得るか。
「真理ならびに道徳法にもとる事柄は、客観的に見て、存在、宣布、活動を為すいかなる権利をも有しない。」(回勅『チ・リエーシェ』Documents 1953 p.616 / PIN 3041)
あるいはまた、回勅『リベルタス・プレスタンティッシムス』(Actus II p.197 / PIN 207)における教皇レオ十三世の教えと相容れるか。


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2 コメント

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なぜ数知れぬほどの殉教者が (M.C.)
2007-06-22 00:21:05
カトリック史上なぜ無数の殉教者が存在するか考えるだけで、諸宗教間「対話」の類いが、いかにカトリックの伝統と相容れぬものか、容易に理解できましょう。いったん「諸宗教間対話」的な発想を受け入れたら、教会自身の伝統の擁護より外向きの「対話」の方が優先されてしまったどころか、伝統があたかも速やかに放棄すべきものであるかのように邪険に扱われたというのが、実際でしょう。「エキュメニズムはフリーメーソンの嫡子である」と言った人がいるようですが、「諸宗教間対話」という発想がどこに由来するか、ピオ12世以前の諸教皇がなぜその発想を峻拒されてきたのか。過去45年間にカトリックが蒙った損失・喪失がどれほどのものかを考えると慄然とするほかありません。
日本カトリック司教協議会に伝わるような方法は・・・? (Unknown)
2007-06-22 02:21:50
 過去45年間にカトリックが蒙った損失・喪失がどれほどのものか、お若い司教様方に、正しく伝えるべきですね。文書や書簡で、感情的・闘争的にならないように、冷静に、知的に・・・。まだ、手遅れではないと思います。このブログのメッセージに共感できる世代の神父様方、信者の方がお元気なうちに(約10年?)、過去の誤りに気づかれますように。

 諸宗教間、または非カトリックキリスト教諸教派と、安易に宗教的交流をするべきではないですね。宗教抜きの一般的交流は日本では避けられないですが・・・。
 ヨハネ・パウロ2世がやられて失敗した事を、平信徒の方が深い思慮もなく思いつきで企画する・・・教派を超えた音楽会、祈りの会。音楽会では、世俗的な発声と安物のメロディーが、祈りの会では、自我優先の長文の朗読文が、当たり前のようにカトリック教会の中に侵入します。子どもたち、若い方への影響を心配します。
 「対話と宣教」。諸宗教、諸教派はカトリックに対して、極めて綿密な「宣教」を意図しているように思えます。こちらは、余りにも人が良すぎ、無防備すぎます。

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