Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

私は御身を信じ、礼拝し、希望し、御身を愛します!御身を信じぬ人々、希望せず愛さぬ人々のために、赦しを求めます(天使の祈)

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
2019年 8月の聖伝のミサの予定
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】


8月 聖母の被昇天を祝いましょう。
意向:聖母の汚れなき御心の凱旋のため
実践すべき徳:心の柔和と謙遜
守護の聖人:聖母の汚れ無き御心

愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)にご招待します

◎2019年 8月の予定
【大阪】聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂(アクセスEG新御堂4階 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 
〒532-0002 (JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分)

  8月2日(初金)教会博士証聖者司教聖アルフォンソ・デ・リグオリ(3級祝日)白
          午後5時半 ロザリオ及び告解
          午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

  8月3日(初土) 聖母の土曜日(4級)白
          午前10時 ロザリオ及び告解
          午前10時半 ミサ聖祭(歌ミサ)

  8月11日(主)聖霊降臨後第9主日(2級)緑
          午後5時半 ロザリオ及び告解
          午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

  8月12日(月) 童貞聖クララ(3級祝日)白
          午前10時 ロザリオ及び告解
          午前10時半 ミサ聖祭(歌ミサ)

  8月18日(主)聖霊降臨後第10主日(2級)緑
          午後5時半 ロザリオ及び告解
          午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

  8月19日(月) 証聖者聖ヨハネ・ユード(3級祝日)白
          午前6時半 ミサ聖祭(歌ミサ)

【東京】東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図)「聖なる日本の殉教者巡回聖堂」

  8月4日(主)聖霊降臨後第8主日(2級)緑
          午前10時  ロザリオ及び告解
          午前10時半  ミサ聖祭(歌ミサ)

  8月5日(月)  雪の聖母の大聖堂の奉献(3級祝日)白
          午前7時 ミサ聖祭

  8月18日(主)  聖霊降臨後第10主日(2級)緑
          午前10時  ロザリオ及び告解
          午前10時半  ミサ聖祭(歌ミサ)

愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております。

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聖ピオ十世会ボホル巡礼 SSPX BOHOL PILGRIMAGE

2015年04月21日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

如何お過ごしでしょうか?

こちらフィリピンでは、先週、例年のボホル巡礼がありました。

三日間かけて、タグビラランからカルメンまで歩きます。今回は、820名が登録して(登録料は1000ペソです)、参加しました。

たくさんのロザリオを唱え、歩き、聖歌を歌いました。

司祭は11名、また全てのブラザーたちとシスターたちとが参加しました。

このお恵みを天主さまに感謝します。

巡礼により、ブログの更新が遅れてしまいましたことを、ご了承ください。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!!

トマス小野田圭志神父
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聖ピオ十世会 SSPX Japan 2015年4月 聖伝のミサ(トリエント・ミサ、ラテン語ミサ)の報告

2015年04月14日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

 愛する兄弟姉妹の皆様
 いかがお過ごしでいらっしゃいますか?

 マニラでは、聖週間は、多くの行事がありました。
 聖木曜日から三日間は事実上、休日です。私たちはグレゴリオ聖歌によるテネブレ(Tenebrae)の聖務(聖なる三日間の朝課と賛歌)を三日間、歌いました。
聖木曜日には、教会訪問(Visita Iglesia)といって多くの信徒の方々がマニラの聖ピオ十世会の教会(勝利の聖母の教会 Our Lady of Victories Church)を訪問し、警備員がしたカウントによると1443名の方々が訪問されました。天主様に感謝!
また復活の徹夜際とそのミサ、復活の主日の日中のミサなど3回のミサで、1052名の信徒の皆様が参加されました。天主様に更に感謝!この復活のミサに与った方々が、毎週聖伝のミサに与るお恵みを得ますように!

 さて、先日は日本の大阪と東京とで聖伝のミサを捧げる喜びがありました。

 東京では、4月12日の主日に成人の求道者女性が受洗の恵みを受けました。天主様に感謝! また、妊娠をされている二人のお母さんたちが安産の祈りと祝福を受けました。天主様のお恵みによって十人以上の子供たちが授かることができれば、教会の宝であり、日本の財産ですね、と申し上げると、お父さんもお母さんも本当にそうだ、というような顔をして微笑んでおられました。特にこどもが日本から消えつつあるので、天主様のお恵みを乞い求めます。

 また、東京では13日の月曜日には、私たちの信徒の二名が婚姻の秘蹟の恵みに与り、婚姻のミサをお捧げしました。いつもの曙町会館ではなかったのですが、聖なるお恵みで、ステンドグラスの美しいカトリック教会のような立派な結婚式場で執り行いました。天主様に感謝します! 今回、天主様の御前で結ばれた二人が、この聖なる婚姻を、天主様の聖なるお恵みに支えられて、清く聖なるものとして守り築き上げていきますように!

 では、以下に頂いた報告をご紹介します。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】【大阪】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
大阪での御ミサの報告を致します。
10日、御復活後の金曜日の御ミサには10名が、
11日、白衣の土曜日の歌ミサには14名の方々が御ミサに預かるお恵みを頂きました。デオグラチアス
御復活の喜びを小野田神父様と分かち合う事が出来て大変幸福でした。
公教要理では三位一体について勉強致しました。
永遠に御父から生まれていらっしゃる御子と、御父と御子の愛の息吹きである聖霊に、代々永遠に栄え在らんことを
私達のような惨めで取るに足らない者に、それを信じる御恵みを下さる事に感謝致します。デオグラチアス

【報告】【東京】
Dear Fr Onoda:
今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 16人(内、子供1人)
女: 23人(内、子供0人)
計: 39人(内、子供1人)






《罪なく宿り給いし聖マリアよ、御身に寄り頼み奉る我らのために祈り給え。また、御身に寄り頼まぬ全ての人々のため、ことに、フリーメーソンのため、また、御身に依頼された人々のために、祈り給え。》

幼きイエズスの聖テレジアの最後の言葉「祈りと犠牲とを持ってだけ、私たちは教会のためになることが出来ます。...カルメルでは、私たちは霊魂を買い取るために偽のコインを偽造してはなりません。綺麗な言葉を書いたり受け取ったりすることは、しばしば偽造貨幣を交換するだけでしかありません。」

シスター・ルチア「神父様、この世を救う手段は2つあります。祈りと犠牲です。」

「わが天主よ、私は御身を信じ、礼拝し、御身に希望し、御身を愛します!御身を信じない人々、礼拝しない人々、御身に希望しない人々、御身を愛さない人々全てのために、赦しを乞い求めます。」

「至聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊よ、私は御身を深く礼拝いたします。私は、世界中のすべての御聖櫃の中にましまし給うイエズス・キリストのいとも尊き御体、御血、御霊魂、神性を、天主御自身が犯されている侮辱、冒涜、無関心を償うために、御身にお捧げいたします。イエズスの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳により、私はあわれな罪人の回心を御身に願います。」

ああ、イエズスよ、われらの罪を赦し給え。われらを地獄の火より守り給え。また、すべての霊魂、殊に最も必要としている霊魂を、天国に導き給え。

「聖マリアの甘美なる御心よ、ロシア、ヨーロッパ、中国、韓国、日本、そして全世界の救いとなり給え。」

「ああ聖マリアよ、御身の清き汚れなき御宿りによりて、ロシア、ヨーロッパ、中国、韓国、日本、そして全世界の回心を得させ給え。」


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聖ピオ十世会 SSPX 大阪での復活の主日のミサ 【聖伝のミサ Latin Traditional Mass】 報告

2015年04月07日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 大阪での復活の主日のミサ聖祭のご報告を頂きましたので、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

 改めて、レネー神父様に感謝いたします。

 来る、金、土曜日と大阪で聖伝のミサがあります。また、主日には東京でいつもの通り聖伝のミサがあります。

 天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】

Alleluia !

主のご復活のお慶びを申し上げます。

2015年4月5日 主のご復活の主日には、17人、
翌日6日 ご復活の月曜には9人の方々が御ミサに与るお恵みを頂きました。 デオグラチアス!!

キリストの神秘体は、現在美しさや輝きを失い、惨めで軽蔑されてはいるけれども、それでも唯一まことの神秘体であるのだから、
受難の間も危機の時も最後まで聖母とともに忠実であり続け、主イエズス・キリストの権威のうちに私達も復活させて頂くよう願わなければならないと本日のお説教にありましたように、
私たちの今の状況は仮の聖堂、少人数で、まわりからはミサに列席する事を反対されたり文句を言 われたり、まったく惨めな神秘体のようでありますが、最後まで十字架の元にいらしたマリア様と一緒に信仰をたもち、十字架の友としてイエズス様に忠実でいられるようにとの決心を新たにいたしました。お説教を聞いていたのに、聖土曜日の「洗礼の約束の更新」をしたような気持ちになりました。

御ミサが終わってから神父様をかこんでささやかなご復活のお祝いパーティーをいたしました。ミサ会場と同じ場所でそのまま和やかな時間を過ごせて、コロナホテルでご復活の御ミサが出来て、良かったと思います。

お説教にもありましたように16世紀後半から世界中で色々な宣教会が活躍されましたが、まさに現代では、聖ピオ十世会の神父様方が多くの聖人、宣教師の意を継がれて働いて下さっているのだと思います。 

お説教は以下のとおりです。

2015年4月5日 御復活の主日の大阪での説教

親愛なる兄弟の皆さん、

アレルヤ! 私の司祭叙階の日である1982年6月29日、ルフェーブル大司教は、教会を十字架につけられたキリストの御体にたとえました。キリストの実在した御体はむちで引き裂かれ、茨やくぎで突き刺され、兵士たちによってつばをかけられ、たたかれ、(外見では)誰だかよく分からないようになりました。イザヤは言いました。「彼には、私たちの目を引くほどの美しさも輝きもなく、楽しめるほどの姿形もない。彼は人々から軽蔑され、捨てられた、苦しみの人、苦しみに慣れた人。見下され、無視された人」(イザヤ53章2-3節)。それでもキリストの御体であり、ほかの何物でもありませんでした。聖母、使徒のうちただ一人聖ヨハネ、そして数人の聖なる女性たちは忠実でした。この御体こそが復活の主日の朝、よみがえられたのです。同じように、現代主義者の醜聞(スキャンダル)と誤謬によって、キリストの神秘体は美しさや輝きを失い、惨めで軽蔑されるようになっています。それでもキリストの神秘体であり、ほかの何物でもありません。私たちは聖母と共に、唯一のまことの教会に忠実であり続けなければなりません。キリストの神秘体はほかにないのですから。この体こそが将来、私たちの主イエズス・キリストによって、美しさと活力を回復させていただくのですから。

教会の始まりのころ、天主の御子が苦しんだという十字架の醜聞(スキャンダル)に直面して、二つの異端が発生しました。最初の異端者たちは、キリストの天主の本性を否定しました。彼らは主の人間性を認めましたが、天主の本性を認めるのを拒絶しました。このように、この異端者たちにとっては天主の御子が苦しみを受けたこと(を認めるの)に困難はありませんでした。それは、彼らが、キリストが天主の御子だともはや信じなくなったからです。彼らはアリウス派でした。もう一つの異端者たちはキリストの御体が肉体として実在したことを否定し、キリストは苦しみを受けたように見えただけだと言いました。そして、キリストは霊にすぎないのであって苦しみは受けることができなかったと結論づ けてしまったのでした。彼らはキリストの人間性を否定したのです。彼らはグノーシス派でした。しかし教会は、天主の本性と人間性のどちらも真理と認めます。キリストがまことに天主の御子であって御父と等しく、まことにマリアの子であって本当の人間性を持っていたことを認めています。天主と人間の二つの本性が一つのペルソナ、天主の御子のペルソナで一つに結ばれているのです。

そののち、ルフェーブル大司教は、その話を私たちの時代に当てはめていきました。キリストの神秘体である教会の受難に直面して、教会の信仰が変えることのできないものであることを否定する人々がいます。彼らは、教会は世とともに変わるべきであると主張しています。彼らは現代主義者です。彼らは、キリストの神秘体である教会の超自然的な面を、実践において否定しています。他方で、そのような醜聞(スキャンダル)がキリストの教会に起こりうるはずがなく、教会は霊的であって実際にはもう目に見えないのだと結論づけ、その理由はもう教皇も司教もいないからだ、などと言う人々がいます。彼らは教皇聖座空位論者であり、「腐ったものはすべて」カトリックではありえないという口実のもと 、苦しむ教会を離れ、苦しむ教会と関係を持とうとしない人々なのです。

しかし、キリストは永遠ですし、教会には「地獄の門もこれに勝つことはできない」という約束がありますから、受難は決して永遠には続きません。受難ののちには復活がやって来ます。左や右に落ちてしまった人々は戻って来る必要があります。私たちの主イエズス・キリストの御復活は、私たちに希望を与えます。私たちは聖母と共に確実に知っています。忠実であることが報いを受けることと、私たちがもう一度、教会が現在の危機から脱出するのを見るだろうということを。例えば、日々のミサ典書にある聖人たちの生涯の生没年(生きた時代)を見れば、トレント公会議後の偉大な聖人たちの数の多さに感動するでしょう。十六世紀の後半には、実際にカトリック生活の素晴らしい刷新があったのです。 南アメリカへの福音宣教の開始、インドそして遠くは日本への新しい福音宣教。フランス革命ののち、フランスには多くの聖人たちが現れ、フランスは十九世紀の宣教において目立つ存在でした。それはアフリカ(聖霊修道会、白衣司祭会、リヨン宣教会)、アジア(朝鮮と中国でのパリ外国宣教会)、オセアニア(太平洋の島々とオーストラリア・ニュージーランドでのマリスト会による福音宣教)においてでした。

重要なことは、受難の間、危機の時代にも忠実であることです。右や左に落ちることなく、キリストの天主の本性や人間性を否定せず、教会を変えようとしたり教会との関係を拒絶して離れたりしないことです。天主は変わることがありません。信仰は変わりえず、天主の約束は真実で信頼できます。「私がこう言うのは、私によってあなたたちに平和を与えるためである。あなたたちはこの世で苦しむだろう。だが勇気を出せ。私はこの世に勝ったのだ」(ヨハネ16章33節)。教会の歴史の中では危機があったのち、教会の中に祝福と聖人たちが見られました。高慢な反逆者たちは教会の外に落ちていきました。悪い枝は切り取られ、腐っていきました。良い木は生き残ってさらに生き生きとなりました。私たちは何としてでも木に残っていなければなりません。今、木に悪い枝があるからという口実のもとで、自分で自分を木から切り取ってしまうのは愚かなことです。

教会を愛さず、自分を教会から引きはがし、教会との一致を拒絶する人たちは、カトリックの教理に忠実ではありません。私たちの主イエズス・キリストは「教会を愛し、そのために命を与えられた。キリストが命を捨てられたのは、水を注ぐことと、それに伴う言葉とによって教会を清め聖とするためであり、またしみもしわもすべてそのようなもののない、輝かしく清くけがれのない教会をご自分に差し出させるためであった」(エフェゾ5章25-27節)。主は、教会のためにそのいと尊き御血を流されたのです。主はいかに教会を愛されたのでしょうか。

私たちの主イエズス・キリストの御復活は、私たちに希望を与えます。徳に対しては報いがあるのです。私たちの主イエズス・キリストは、十字架の死に至るまで御父に忠実でした。ですから、御体への報いをお受けになりました。栄光の御復活です。私たちも、キリストの神秘体のメンバーすべてに対する報いを信じています。キリストと共に死に至るまで忠実であるならば、キリストと共に栄光を受け、最後の日に栄光のうちによみがえり、キリストと共に天国で限りない幸せを得るのです。私たちの主イエズス・キリストは「万物を支配下に置くことによって、私たちの卑しい体を光栄の体のかたどりに変えられるであろう」(フィリッピ3章21節)。

これは信仰箇条です。「われは…肉身のよみがえりを信じ奉る」。ただ、私たちの主イエズス・キリストが言われたこと、復活には二種類あるということを知っておく必要があります。義人の復活は栄光の体と共に栄光に入ります。義人は「永遠の命」を得るのですから、主はそれを「命のよみがえり」と呼ばれます。しかし、復活にはもう一つあります。悪人の「罰のためのよみがえり」です。悪人の体は霊魂と再び結ばれますが、それは霊魂が罰を受け、地獄の宣告を受けるためです。これが完全な正義です。実際、その体は罪と共にあったため、罰と共にあるのが正義なのです。私たちの主イエズス・キリストのお言葉はこうです。「善を行った人は命のために、悪を行った人は永遠の罰のためによみがえる 」(ヨハネ5章29節)。

世のあらゆる不潔なことから自分の体を守ることは、栄光の復活に参加するために価値のあることなのです。世の誤った楽しみで自分の体を堕落させ、その報いを永遠に支払わねばならないのであれば、そんなことをする意味があるでしょうか。このように、童貞を捧げることは、天使の徳と呼ばれます。それは、もうすでに復活の命を実践しているからです。「復活の時の人間は、めとりもせず、嫁ぎもせず、天にいる天使と同じようなものになる」(マテオ22章30節)。

復活の時には、人は栄光の体を持ちますが、それだけでなく、天使たちや聖人たちとの交わることもできます。それは天国であってこの世ではありませんから、もはや善と悪が交じり合っているのではなく、善い者たち、聖人たちとのみ交わります。まことに驚くべきことです。この世での友との交わりが良いものであるならば、天国での聖人たちや天使たちとの交わりは実に素晴らしいものでしょう。

復活の時には、天主を見ることができます。これは聖人たちと交わるという喜びを無限に超えた喜びです。聖ヨハネは言います。「考えよ、天主の子と称されるほど、御父から計りがたい愛を受けたことを。私たちは天主の子である。この世が私たちを認めないのは御父を認めないからである。愛する者たちよ、私たちはいま天主の子である。後にどうなるかはまだ示されていないが、それが示されるとき、私たちは天主に似た者になることを知っている。私たちは天主をそのまま見るであろうから。主が清いお方であるように、主に対するこの希望を持つ者は清くなる」(一ヨハネ3章1-3節)。さらに聖パウロは言います。「今私たちは鏡を見るようにぼんやりと見ている。だがそのときには顔と顔を合わせて見るであろう」(一コリント13章12節)。

私たちの主イエズス・キリストは私たちに、ご聖体により、この体を復活させてくださる美しい保証を与えてくださいました。復活された主の御体を実際に頂くことによって、私たちは主と共に復活するというしるしと保証を得るのです。「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を有し、終わりの日にその人々を私は復活させる」(ヨハネ6章54節)。もちろん、ご聖体を頂くのにふさわしくなければなりません。なぜなら、ご聖体について乱用があるならば、正反対になってしまうからです。「主のお体をわきまえずに飲食する者は、自分自身へのさばきを飲食することである」(一コリント11章29節)。

主は、いとも聖なる御母の御体を復活させることによって、私たちの体も復活させてくださるという二番目の保証をお与えになりました。聖母の被昇天において、主は、世の終わりに教会の残りの人々に対してなさるであろうことを、すでに聖母に対してなさいました。御体とご霊魂において、聖母はすでに地上でもっとも美しい女性でしたが、今やさらに美しい方となられました。聖母は地上において私たちの主イエズス・キリストを完全にまねておられたため、天において主と共に栄光を受けるべき方だったのです。

童貞聖マリアに祈りましょう。私たちの主イエズス・キリストの権威に信頼して、私たちが希望の徳を増し、聖母の復活と似た栄光の復活を私たちが望むよう、聖母が取り次いでくださいますように。この権威によって主はご自分の御体を復活なさいました。主はおっしゃいました。「私には私の命を与える権威があり、また取り戻す権威もある」(ヨハネ10章18節)。この権威によって主は聖母の御体を復活させられました。この同じ権威によって、主は私たちの体を復活させてくださるのです。聖母に祈りましょう。聖母が十字架の下から最後に至るまで主に忠実でおられたように、私たちもこの背教と裏切りの時代において私たちの主イエズス・キリストに忠実であり、全時代の信仰に忠実であり、聖人たちの道徳に忠実であり、聖人たちの典礼に忠実であるようお助けくださいますように。

アーメン。





《罪なく宿り給いし聖マリアよ、御身に寄り頼み奉る我らのために祈り給え。また、御身に寄り頼まぬ全ての人々のため、ことに、フリーメーソンのため、また、御身に依頼された人々のために、祈り給え。》

幼きイエズスの聖テレジアの最後の言葉「祈りと犠牲とを持ってだけ、私たちは教会のためになることが出来ます。...カルメルでは、私たちは霊魂を買い取るために偽のコインを偽造してはなりません。綺麗な言葉を書いたり受け取ったりすることは、しばしば偽造貨幣を交換するだけでしかありません。」

シスター・ルチア「神父様、この世を救う手段は2つあります。祈りと犠牲です。」

「わが天主よ、私は御身を信じ、礼拝し、御身に希望し、御身を愛します!御身を信じない人々、礼拝しない人々、御身に希望しない人々、御身を愛さない人々全てのために、赦しを乞い求めます。」

「至聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊よ、私は御身を深く礼拝いたします。私は、世界中のすべての御聖櫃の中にましまし給うイエズス・キリストのいとも尊き御体、御血、御霊魂、神性を、天主御自身が犯されている侮辱、冒涜、無関心を償うために、御身にお捧げいたします。イエズスの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳により、私はあわれな罪人の回心を御身に願います。」

ああ、イエズスよ、われらの罪を赦し給え。われらを地獄の火より守り給え。また、すべての霊魂、殊に最も必要としている霊魂を、天国に導き給え。

「聖マリアの甘美なる御心よ、ロシア、ヨーロッパ、中国、韓国、日本、そして全世界の救いとなり給え。」

「ああ聖マリアよ、御身の清き汚れなき御宿りによりて、ロシア、ヨーロッパ、中国、韓国、日本、そして全世界の回心を得させ給え。」


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聖ピオ十世会 レネー神父様 聖伝のミサ 復活祭のお説教 SSPX Fr Laisney's Sermon on Easter Sunday

2015年04月06日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 レネー神父様が御復活の主日に、大阪で聖伝のミサを捧げて下さいました。その中でなさったお説教は、ルフェーブル大司教さまの思い出です。ルフェーブル大司教さまがなさった考察、カトリック教会の危機と、イエズス・キリストの御受難との比較の考察です。

 御受難を苦しむキリストの体は、本当の天主の体だと認識するのが難しいほどでした。しかし、この死を身に受けた体が復活しました。

 現在、キリストの神秘体も美しさを失いつつありますが、それでもキリストの神秘体であり、唯一のまことの教会でありつづけています。しかし、教会の危機もある日終わりを告げるでしょう。カトリック教会は、かならず栄光ある体に復活します。

 私たちは、今ここで危機に苦しんでいる一致し、この教会を愛し、この教会を救うために私たちに出来ることを全てしようとします。

 願わくは、天主の聖母、終生童貞なる聖マリアが、私たちの主イエズス・キリストの権威にたいする信頼を増し、希望の徳を増し、聖母の復活と似た栄光の復活を私たちが望むよう、取り次いでくださいますように。

 願わくは、聖母が十字架の足下で、最後まで主に忠実でおられたように、私たちもこの背教と裏切りの時代において私たちの主イエズス・キリストに忠実でありますように!

 どうぞレネー神父様のお説教をお読み下さい。

 レネー神父様を日本に送って下さっている天主様に感謝します。レネー神父様に感謝します。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2015年4月5日 御復活の主日の大阪での説教



親愛なる兄弟の皆さん、

アレルヤ! 私の司祭叙階の日である1982年6月29日、ルフェーブル大司教は、教会を十字架につけられたキリストの御体にたとえました。キリストの実在した御体はむちで引き裂かれ、茨やくぎで突き刺され、兵士たちによってつばをかけられ、たたかれ、(外見では)誰だかよく分からないようになりました。イザヤは言いました。「彼には、私たちの目を引くほどの美しさも輝きもなく、楽しめるほどの姿形もない。彼は人々から軽蔑され、捨てられた、苦しみの人、苦しみに慣れた人。見下され、無視された人」(イザヤ53章2-3節)。それでもキリストの御体であり、ほかの何物でもありませんでした。聖母、使徒のうちただ一人聖ヨハネ、そして数人の聖なる女性たちは忠実でした。この御体こそが復活の主日の朝、よみがえられたのです。同じように、現代主義者の醜聞(スキャンダル)と誤謬によって、キリストの神秘体は美しさや輝きを失い、惨めで軽蔑されるようになっています。それでもキリストの神秘体であり、ほかの何物でもありません。私たちは聖母と共に、唯一のまことの教会に忠実であり続けなければなりません。キリストの神秘体はほかにないのですから。この体こそが将来、私たちの主イエズス・キリストによって、美しさと活力を回復させていただくのですから。

教会の始まりのころ、天主の御子が苦しんだという十字架の醜聞(スキャンダル)に直面して、二つの異端が発生しました。最初の異端者たちは、キリストの天主の本性を否定しました。彼らは主の人間性を認めましたが、天主の本性を認めるのを拒絶しました。このように、この異端者たちにとっては天主の御子が苦しみを受けたこと(を認めるの)に困難はありませんでした。それは、彼らが、キリストが天主の御子だともはや信じなくなったからです。彼らはアリウス派でした。もう一つの異端者たちはキリストの御体が肉体として実在したことを否定し、キリストは苦しみを受けたように見えただけだと言いました。そして、キリストは霊にすぎないのであって苦しみは受けることができなかったと結論づけてしまったのでした。彼らはキリストの人間性を否定したのです。彼らはグノーシス派でした。しかし教会は、天主の本性と人間性のどちらも真理と認めます。キリストがまことに天主の御子であって御父と等しく、まことにマリアの子であって本当の人間性を持っていたことを認めています。天主と人間の二つの本性が一つのペルソナ、天主の御子のペルソナで一つに結ばれているのです。

そののち、ルフェーブル大司教は、その話を私たちの時代に当てはめていきました。キリストの神秘体である教会の受難に直面して、教会の信仰が変えることのできないものであることを否定する人々がいます。彼らは、教会は世とともに変わるべきであると主張しています。彼らは現代主義者です。彼らは、キリストの神秘体である教会の超自然的な面を、実践において否定しています。他方で、そのような醜聞(スキャンダル)がキリストの教会に起こりうるはずがなく、教会は霊的であって実際にはもう目に見えないのだと結論づけ、その理由はもう教皇も司教もいないからだ、などと言う人々がいます。彼らは教皇聖座空位論者であり、「腐ったものはすべて」カトリックではありえないという口実のもと、苦しむ教会を離れ、苦しむ教会と関係を持とうとしない人々なのです。

しかし、キリストは永遠ですし、教会には「地獄の門もこれに勝つことはできない」という約束がありますから、受難は決して永遠には続きません。受難ののちには復活がやって来ます。左や右に落ちてしまった人々は戻って来る必要があります。私たちの主イエズス・キリストの御復活は、私たちに希望を与えます。私たちは聖母と共に確実に知っています。忠実であることが報いを受けることと、私たちがもう一度、教会が現在の危機から脱出するのを見るだろうということを。例えば、日々のミサ典書にある聖人たちの生涯の生没年(生きた時代)を見れば、トレント公会議後の偉大な聖人たちの数の多さに感動するでしょう。十六世紀の後半には、実際にカトリック生活の素晴らしい刷新があったのです。南アメリカへの福音宣教の開始、インドそして遠くは日本への新しい福音宣教。フランス革命ののち、フランスには多くの聖人たちが現れ、フランスは十九世紀の宣教において目立つ存在でした。それはアフリカ(聖霊修道会、白衣司祭会、リヨン宣教会)、アジア(朝鮮と中国でのパリ外国宣教会)、オセアニア(太平洋の島々とオーストラリア・ニュージーランドでのマリスト会による福音宣教)においてでした。

重要なことは、受難の間、危機の時代にも忠実であることです。右や左に落ちることなく、キリストの天主の本性や人間性を否定せず、教会を変えようとしたり教会との関係を拒絶して離れたりしないことです。天主は変わることがありません。信仰は変わりえず、天主の約束は真実で信頼できます。「私がこう言うのは、私によってあなたたちに平和を与えるためである。あなたたちはこの世で苦しむだろう。だが勇気を出せ。私はこの世に勝ったのだ」(ヨハネ16章33節)。教会の歴史の中では危機があったのち、教会の中に祝福と聖人たちが見られました。高慢な反逆者たちは教会の外に落ちていきました。悪い枝は切り取られ、腐っていきました。良い木は生き残ってさらに生き生きとなりました。私たちは何としてでも木に残っていなければなりません。今、木に悪い枝があるからという口実のもとで、自分で自分を木から切り取ってしまうのは愚かなことです。

教会を愛さず、自分を教会から引きはがし、教会との一致を拒絶する人たちは、カトリックの教理に忠実ではありません。私たちの主イエズス・キリストは「教会を愛し、そのために命を与えられた。キリストが命を捨てられたのは、水を注ぐことと、それに伴う言葉とによって教会を清め聖とするためであり、またしみもしわもすべてそのようなもののない、輝かしく清くけがれのない教会をご自分に差し出させるためであった」(エフェゾ5章25-27節)。主は、教会のためにそのいと尊き御血を流されたのです。主はいかに教会を愛されたのでしょうか。

私たちの主イエズス・キリストの御復活は、私たちに希望を与えます。徳に対しては報いがあるのです。私たちの主イエズス・キリストは、十字架の死に至るまで御父に忠実でした。ですから、御体への報いをお受けになりました。栄光の御復活です。私たちも、キリストの神秘体のメンバーすべてに対する報いを信じています。キリストと共に死に至るまで忠実であるならば、キリストと共に栄光を受け、最後の日に栄光のうちによみがえり、キリストと共に天国で限りない幸せを得るのです。私たちの主イエズス・キリストは「万物を支配下に置くことによって、私たちの卑しい体を光栄の体のかたどりに変えられるであろう」(フィリッピ3章21節)。

これは信仰箇条です。「われは…肉身のよみがえりを信じ奉る」。ただ、私たちの主イエズス・キリストが言われたこと、復活には二種類あるということを知っておく必要があります。義人の復活は栄光の体と共に栄光に入ります。義人は「永遠の命」を得るのですから、主はそれを「命のよみがえり」と呼ばれます。しかし、復活にはもう一つあります。悪人の「罰のためのよみがえり」です。悪人の体は霊魂と再び結ばれますが、それは霊魂が罰を受け、地獄の宣告を受けるためです。これが完全な正義です。実際、その体は罪と共にあったため、罰と共にあるのが正義なのです。私たちの主イエズス・キリストのお言葉はこうです。「善を行った人は命のために、悪を行った人は永遠の罰のためによみがえる」(ヨハネ5章29節)。

世のあらゆる不潔なことから自分の体を守ることは、栄光の復活に参加するために価値のあることなのです。世の誤った楽しみで自分の体を堕落させ、その報いを永遠に支払わねばならないのであれば、そんなことをする意味があるでしょうか。このように、童貞を捧げることは、天使の徳と呼ばれます。それは、もうすでに復活の命を実践しているからです。「復活の時の人間は、めとりもせず、嫁ぎもせず、天にいる天使と同じようなものになる」(マテオ22章30節)。

復活の時には、人は栄光の体を持ちますが、それだけでなく、天使たちや聖人たちと交わることもできます。それは天国であってこの世ではありませんから、もはや善と悪が交じり合っているのではなく、善い者たち、聖人たちとのみ交わります。まことに驚くべきことです。この世での友との交わりが良いものであるならば、天国での聖人たちや天使たちとの交わりは実に素晴らしいものでしょう。

復活の時には、天主を見ることができます。これは聖人たちと交わるという喜びを無限に超えた喜びです。聖ヨハネは言います。「考えよ、天主の子と称されるほど、御父から計りがたい愛を受けたことを。私たちは天主の子である。この世が私たちを認めないのは御父を認めないからである。愛する者たちよ、私たちはいま天主の子である。後にどうなるかはまだ示されていないが、それが示されるとき、私たちは天主に似た者になることを知っている。私たちは天主をそのまま見るであろうから。主が清いお方であるように、主に対するこの希望を持つ者は清くなる」(一ヨハネ3章1-3節)。さらに聖パウロは言います。「今私たちは鏡を見るようにぼんやりと見ている。だがそのときには顔と顔を合わせて見るであろう」(一コリント13章12節)。

私たちの主イエズス・キリストは私たちに、ご聖体により、この体を復活させてくださる美しい保証を与えてくださいました。復活された主の御体を実際に頂くことによって、私たちは主と共に復活するというしるしと保証を得るのです。「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を有し、終わりの日にその人々を私は復活させる」(ヨハネ6章54節)。もちろん、ご聖体を頂くのにふさわしくなければなりません。なぜなら、ご聖体について乱用があるならば、正反対になってしまうからです。「主のお体をわきまえずに飲食する者は、自分自身へのさばきを飲食することである」(一コリント11章29節)。

主は、いとも聖なる御母の御体を復活させることによって、私たちの体も復活させてくださるという二番目の保証をお与えになりました。聖母の被昇天において、主は、世の終わりに教会の残りの人々に対してなさるであろうことを、すでに聖母に対してなさいました。御体とご霊魂において、聖母はすでに地上でもっとも美しい女性でしたが、今やさらに美しい方となられました。聖母は地上において私たちの主イエズス・キリストを完全にまねておられたため、天において主と共に栄光を受けるべき方だったのです。

童貞聖マリアに祈りましょう。私たちの主イエズス・キリストの権威に信頼して、私たちが希望の徳を増し、聖母の復活と似た栄光の復活を私たちが望むよう、聖母が取り次いでくださいますように。この権威によって主はご自分の御体を復活なさいました。主はおっしゃいました。「私には私の命を与える権威があり、また取り戻す権威もある」(ヨハネ10章18節)。この権威によって主は聖母の御体を復活させられました。この同じ権威によって、主は私たちの体を復活させてくださるのです。聖母に祈りましょう。聖母が十字架の下から最後に至るまで主に忠実でおられたように、私たちもこの背教と裏切りの時代において私たちの主イエズス・キリストに忠実であり、全時代の信仰に忠実であり、聖人たちの道徳に忠実であり、聖人たちの典礼に忠実であるようお助けくださいますように。

アーメン。

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Be Faithful to the Holy Church, and The Joy of The Heaven(The Resurrection Day 2015-04-05)

My dear brethren,

Alleluia! On the day of my ordination, 29th June 1982, Archbishop Lefebvre compared the Church to the body of Christ crucified: the physical body of Christ had been lacerated by the whips, pierced by the thorns and nails, spit upon and hit by the solders, and had become somehow unrecognisable, as Isaias said: “there is no beauty in him, nor comeliness: and we have seen him, and there was no sightliness, that we should be desirous of him: despised, and the most abject of men, a man of sorrows, and acquainted with infirmity: and his look was as it were hidden and despised,"(Is. 53:2-3).

Yet it was the Body of Christ, and there was no other: Our Lady, one apostle St John, and a few holy women remained faithful. And it was THIS BODY that rose again on Easter morning. In a similar way, by the scandals and errors of the modernists the mystical body of Christ has somehow lost its beauty and comeliness, and has become abject and despised. Yet it is the mystical Body of Christ, and there is no other. We must with Our Lady remain faithful to that One True Church, for there is no other mystical Body of Christ! And it will be THIS BODY that will be restored to beauty and vigour by our Lord Jesus Christ!

At the beginning of the Church, faced with the scandal of the Cross, the sufferings of the Son of God, there were two kinds of heretics; the first denied the divinity of Christ: they acknowledged His human nature, but refused to acknowledge His Divine Nature; thus there was no longer a difficulty with the sufferings of the Son of God, since they no longer believed that Christ was Son of God. These were the Arians.

And there were other heretics who denied his physical body, saying that he merely seemed to suffer: thus they ended up by saying that he was just a ghost and could not suffer; they denied the humanity of Christ: these were the Gnostics. The Church held both truths, that Christ was truly the Son of God, equal with the Father, and truly son of Mary, with a real human nature: two natures, the Divine and the human, in the unity of one Person, the Person of the Son of God.

Archbishop Lefebvre then went on to develop a parallel with our times: faced with the Passion of the Church, the mystical Body of Christ, there are some who deny that the Church’s Faith is unchangeable, they claim that the Church should change with the world: they are the modernists.

They practically deny the supernatural dimension of the Church, as Mystical Body of Christ. On the other hand, there are those who, saying that such scandals could not happen to the Church of Christ, conclude to a ghostly church, practically no longer visible, since it would have no pope, no bishop, etc. These are the sedevacantists and all those who leave the suffering Church and want no relation with the suffering Church under the pretext that “all that rot” could not be Catholic.

But as Christ is eternal, the Church has the promises that the gates of hell shall not prevail against her, and the passion never lasts for ever: after the Passion comes the resurrection. And those who have fallen on the left or on the right need to come back.

The Resurrection of our Lord Jesus Christ gives us hope: we know for certain, with Our Lady, that fidelity will be rewarded and that we will see again the Church come out of this crisis. For instance, if you look at the dates of Saints’ lives in your daily missal, you will be impressed by the number of great Saints after the Council of Trent: there was really a great renewal of Catholic life in the second half of the 16th century, and the beginning of the evangelisation of South America, a new evangelisation of India and as far as Japan.

Also after the French revolution, there were many Saints in France and France was prominent in the missionary work in the XIX century, in Africa (the Holy Ghost Fathers, the White Fathers, the Missions of Lyon), in Asia (the MEP in Korea and China) and in Oceania (Pacific islands and Australia/New Zealand, evangelised by the Marist Fathers).

The important thing is to remain faithful during the Passion, in the time of crisis, neither falling on the left nor on the right, neither denying the Divinity of Christ nor His humanity, neither changing the Church nor leaving the Church by refusing relations with the Church.

God does not change; the Faith cannot change and His Promises are true and reliable. “These things I have spoken to you, that in me you may have peace. In the world you shall have distress: but have confidence, I have overcome the world” (Jn. 16:33).

After each crisis in the Church’s history, there were blessings and Saints IN the Church – and the proud rebels had fallen outside the Church. The bad branches had been cut off, and were decomposing; the good tree survived and was more vigorous. We must at all cost remain in the tree: we would be fool to cut ourselves off under the pretext that there are presently some bad branches in the tree.

They are not faithful to the Catholic Doctrine, those who do not love the Church and fear not to tear themselves apart from her, refusing communion with her. Our Lord Jesus Christ “loved the church, and delivered himself up for it: That he might sanctify it, cleansing it by the laver of water in the word of life: That he might present it to himself a glorious church, not having spot or wrinkle, or any; such thing; but that it should be holy, and without blemish” (Eph. 5:25-27). He shed His most Precious Blood for her! That is how much He loved her.

The Resurrection of our Lord Jesus Christ gives us hope: there is a reward for virtue! Our Lord Jesus Christ was faithful to His Father up to the death on the Cross, and now He received the reward for His Body: the glorious resurrection! We believe also that for all the members of His Mystical Body, if they are with Him faithful until death, they will also be glorified with Him, will rise glorious in the last day and be infinitely happy with Him in Heaven. Our Lord Jesus Christ “will reform the body of our lowness, made like to the body of his glory, according to the operation whereby also he is able to subdue all things unto himself” (Phil. 3:21).

This is an article of Faith: “I believe… in the resurrection of the dead.” Yet we need to know what our Lord Jesus Christ said, that there will be two kinds of resurrections: the resurrection of the just will be unto glory, with a glorious body, and our Lord calls it the “resurrection of life” because they will have “life everlasting”; but there is also another resurrection, the “resurrection of judgement” for the wicked: their body will be reunited with their soul, but in order to share the punishment and condemnation of the soul.

This is perfect justice: indeed the body has shared in the sin, it is just that it shares in the punishment. These are the words of our Lord Jesus Christ: “they that have done good things, shall come forth unto the resurrection of life; but they that have done evil, unto the resurrection of judgment” (Jn. 5:29).

It is worth keeping our body away from all the uncleanness of the world, in order to have part in the glorious resurrection! What does it serve to corrupt one’s body with the false pleasures of the world, if one will have to pay for eternity? Thus consecrated virginity is called an angelic virtue, because it already practices now the risen life: “in the resurrection they shall neither marry nor be married; but shall be as the angels of God in heaven”(Mt. 22:30).

In the Resurrection, one enjoys not only a glorious body, but even more the company of the Angels and of the Saints, and there – in heaven, not on earth – there will no longer be a mixture of good and evil, but there will be only the company of the good ones, of the Saints! This will be truly marvellous: if friendship on earth is already a good thing, that heavenly friendship of the Saints and angels will be a most wonderful thing!

In the Resurrection, one enjoys the vision of God, which will be a joy infinitely above even that of the company of the Saints. St John says: “Behold what manner of charity the Father hath bestowed upon us, that we should be called, and should be the sons of God. Therefore the world knoweth not us, because it knew not him. Dearly beloved, we are now the sons of God; and it hath not yet appeared what we shall be. We know, that, when he shall appear, we shall be like to him: because we shall see him as he is. And every one that hath this hope in him, sanctifieth himself, as he also is holy” (1 Jn. 3:1-3). And St Paul says: “We see now through a glass in a dark manner; but then face to face” (1 Cor. 13:12).


Our Lord Jesus Christ has given us a beautiful guarantee of that Resurrection of the body in the holy Eucharist itself: by eating really His Body, which is risen, we have a token and guarantee of rising with Him: “He that eateth my flesh, and drinketh my blood, hath everlasting life: and I will raise him up in the last day” (Jn. 6:55). This must of course be a worthy reception of the Holy Eucharist, because if one abuses of the holy Eucharist, one ends up at the opposite, “for he that eateth and drinketh unworthily, eateth and drinketh judgment to himself, not discerning the body of the Lord”(1 Cor. 11:29).

He also gave us a second guarantee of the resurrection of our body by rising the body of His most holy Mother: in her Assumption, Our Lord has already done for her what He will do for the rest of the Church at the end of the world. She was already the most beautiful woman on earth, she is now even more beautiful, in her body and soul. Because she imitated our Lord Jesus Christ perfectly on earth, she deserved to be glorified with Him in Heaven.

Let us pray to the Blessed Virgin Mary that she may obtain for us an increase of the virtue of HOPE, to desire the glorious resurrection similar to hers with confidence in the power of our Lord Jesus Christ. By this power He rose his own body, as He said: “I have power to lay [my life] down: and I have power to take it up again”(Jn. 10:18).

By this power Our Lord rose her body; by this same power He will rise our body. Let us pray to our Lady that she may help us to remain faithful to our Lord Jesus Christ in this time of apostasy and betrayal, faithful to the faith of all times, faithful to the morals of the Saints, faithful to the Liturgy of the Saints as she remained faithful at the foot of the Cross until the end. Amen.

Fr. F. Laisney (FSSPX)





《罪なく宿り給いし聖マリアよ、御身に寄り頼み奉る我らのために祈り給え。また、御身に寄り頼まぬ全ての人々のため、ことに、フリーメーソンのため、また、御身に依頼された人々のために、祈り給え。》

幼きイエズスの聖テレジアの最後の言葉「祈りと犠牲とを持ってだけ、私たちは教会のためになることが出来ます。...カルメルでは、私たちは霊魂を買い取るために偽のコインを偽造してはなりません。綺麗な言葉を書いたり受け取ったりすることは、しばしば偽造貨幣を交換するだけでしかありません。」

シスター・ルチア「神父様、この世を救う手段は2つあります。祈りと犠牲です。」

「わが天主よ、私は御身を信じ、礼拝し、御身に希望し、御身を愛します!御身を信じない人々、礼拝しない人々、御身に希望しない人々、御身を愛さない人々全てのために、赦しを乞い求めます。」

「至聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊よ、私は御身を深く礼拝いたします。私は、世界中のすべての御聖櫃の中にましまし給うイエズス・キリストのいとも尊き御体、御血、御霊魂、神性を、天主御自身が犯されている侮辱、冒涜、無関心を償うために、御身にお捧げいたします。イエズスの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳により、私はあわれな罪人の回心を御身に願います。」

ああ、イエズスよ、われらの罪を赦し給え。われらを地獄の火より守り給え。また、すべての霊魂、殊に最も必要としている霊魂を、天国に導き給え。

「聖マリアの甘美なる御心よ、ロシア、ヨーロッパ、中国、韓国、日本、そして全世界の救いとなり給え。」

「ああ聖マリアよ、御身の清き汚れなき御宿りによりて、ロシア、ヨーロッパ、中国、韓国、日本、そして全世界の回心を得させ給え。」


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コメント

私たちの主イエズス・キリストの御復活のお喜びを申し上げます。

2015年04月06日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

主イエズス・キリストは、まことによみがえり給えり!
私たちの主イエズス・キリストの死者から復活され給えり!





天の元后、慶び給え アレルヤ!
御身に宿り給いし者は。アレルヤ!
宣える如くよみがえり給えり。アレルヤ!
われらのために天主に祈り給え。アレルヤ!
童貞マリア、慶び喜悦し給え。アレルヤ!
主まことによみがえり給いたればなり。アレルヤ

私たちの主イエズス・キリストは、初めであり、終わりです。私たちの主は、道であり、命であり、真理であり、復活です。

イエズス・キリストは、人間として、永遠の生命に入った初子であり、永遠の生命の根源です。私たちに救いを与える源であり、私たちの永遠の命の根源であり、模範です。

イエズス・キリストは、私たちのために、御受難と十字架の死によって、栄光ある復活を勝ち取りました。

十字架のいけにえを通して、私たちの主は罪に対する勝利を勝ち取り、御復活をもって死に対する勝利を得ました。

イエズス・キリストの真の友は、十字架の友です。謙遜、従順、柔和をもって十字架を担い、イエズス・キリストに従う者です。

十字架の友は、全てに超えて主を愛し、その愛の限度は、限度なく愛することです。

十字架の友は、天主を究極の目的として愛します、天主を無条件に愛します。力を尽くし、心を尽くし、精神を尽くして愛します。天主を信じすぎることもあり得ないし、天主に希望しすぎることもあり得ないし、天主を信じすぎることもあり得ません。

 私たちの主はこう言われました。「あなたたちは、私を愛するなら、私の掟を守るだろう。...私を愛する人は、父にも愛され、私もその人を愛して、自分をあらわす。」
「私を愛する人は私の言葉を守る。また父もその人を愛される。そして私たちはその人のところに行って、そこに住む。」
「私はあなたたちに平安をのこし、私の平安を与える。...父が私を愛しておられるように、私はあなたたちを愛した。私の愛にとどまれ。」
「私が愛したように、あなたたちがたがいに愛しあうこと、これが私の掟である。」(聖ヨハネによる福音14章、15章より)

私たちは、天へと向かう巡礼者です。この地上は永遠に留まる場所ではありません。この地上は過ぎ去る場所です。十字架の友は、天国への巡礼者は、つねに永遠の慶びへと向かっていなければなりません。

イエズス・キリストという無限の宝を胸に秘めつつ、天主の聖寵にいつも助けられて、天国への歩むのです。

天主を愛するという北極星をひたすらに目指して、この大海原の航路一途に、永遠の安全な港にたどり着くまでです。たとえ、私たちの主が、嵐の海に休んでおられように見えようとも、主に信頼して、進むのです。

この地上で、タボルの山頂にテントを作ってそこで幸せに過ごすのではなく、イエズス・キリストと共にカルワリオに登ること、十字架を宝のように見なすこと、この地上での生活が逐謫の追放の身であるから、十字架の友は、苦しみのうちに愛に生きる身であることを自覚することです。

主の受けたあざけりを黙想し、主の聖名を永遠に愛しましょう。私たちは、イエズス・キリストの受ける侮辱を償い、御顔の汚れをぬぐい、罪人らのために罪の赦しを、ただこいねがいます。復活の主を最初に見たマグダラをまね、私たちも主の御足に愛の口づけをし、愛の香油を主に捧げましょう。

この世を愛する人々は、この地上のことに究極の目的を置きます。ですから、この世の人々は、十字架の敵として生きています。十字架を愛する私たちを見て、愚かなことだ、時間の無駄だ、と軽蔑します。それよりもこの地上に楽園を建設することを夢見ています。

愛する兄弟姉妹の皆様、この聖なる復活の夜に、私たちの主の聖寵を求めましょう。私たちがイエズス・キリストに忠実でありますように、私たちの主の御教えに忠実であり、私たちの主への愛に忠実でありますように。

復活のロウソクの火からともされ、私たちがついに、愛の炎に焼き尽くされ、私たちの主と共の復活を目指して、愛に死すことができますように。この世から離脱し、いつも主を愛し、主への愛に生き続けますように。そして、私たちの本当の報いである私たちの主を、至福直感によって見える日まで、主への愛に生きることができますように。

多くの霊魂が私たちの主を知り、愛することが出来るお恵みを祈りましょう。

幼きイエズスの聖テレジアの詩(Vivre d'amour)から:


愛の主は、秘密を明かす。「愛すとは、主のみことばを、守る者なり。」
「愛ゆえに、また聖父も聖子と共に来て、愛し給いて、慈しむなり。」
「合い共に住処を定め、聖父と聖子は、平和をのこし、恵みを与ゆ。」

愛に生く、主の御言葉を守り時、三位は我に留まり給う。
愛に生く、我を愛してホスチアに隠れ留まる御身のために。
愛に生く、御身と共に、十字架を宝の如く担い苦しむ。

愛に生く、この世に生きるその間、御身のために愛に生きたい。
愛に生く、報い求めず惜しみなく、主の聖心に全て与える。
愛に生く、過ぎし過ち、罪、とがは、主の愛の火に焼き尽くされて。

愛に生く、無限の宝、胸に秘め、いつも恵みに助けられつつ。
愛に生く、慶び平和まき散らし、隣り人らに、主を見いだして。
「愛に生く」、帆に書かれたる合い言葉、愛の星へと航路一途に。

愛に生く、嵐の海に休む主よ、眠り続けよ!主に信頼す。
愛に生く、御身をまみゆその日には、信仰は失せ、希望は消える。

愛に生く、天使らよりも司祭らが愛に燃ゆるを祈り求める。
愛に生く、主の教会が栄ゆため、いけにえとして我を捧げる。

愛に生く、御顔をぬぐい、罪人の罪の赦しを、ただこいねがう。
愛に生く、主のあざけりを思いつつ、我、主の聖名をとわに愛さん。

愛に生く、香油を捧ぐマグダラをまねて御足に口づけをせん。
愛に生く、御顔に捧ぐ、わが香油、それはわが愛、主にのみ捧ぐ。

愛に生く、この世は叫ぶ、さげすみて「愚かなことよ、時間の無駄だ」と。
愛に生く、なんと豊かな損失か!ついに歌わん「我、愛に死す!」

愛に死す、焼き尽くしませ、愛の火よ、わが夢に見るは愛に死すこと。
愛に死す、主こそ報いよ、わが希望、主を見る日まで、我、愛に生く。

Vivre d’amour


Au soir d’Amour, parlant sans parabole
Jésus disait : "Si quelqu’un veut m’aimer
Toute sa vie qu’il garde ma Parole
Mon Père et moi viendrons le visiter.
Et de son cœur faisant notre demeure
Venant à lui, nous l’aimerons toujours !…
Rempli de paix, nous voulons qu’il demeure
En notre Amour !…"

Vivre d’Amour, c’est te garder Toi-Même
Verbe incréé, Parole de mon Dieu,
Ah ! tu le sais, Divin Jésus, je t’aime
L’Esprit d’Amour m’embrase de son feu
C’est en t’aimant que j’attire le Père
Mon faible cœur le garde sans retour.
O Trinité ! vous êtes Prisonnière
De mon Amour !…

Vivre d’Amour, c’est vivre de ta vie,
Roi glorieux, délice des élus.
Tu vis pour moi, caché dans une hostie
Je veux pour toi me cacher,ô Jésus !
A des amants, il faut la solitude
Un cœur à cœur qui dure nuit et jour
Ton seul regard fait ma béatitude
Je vis d’Amour !…

Vivre d’Amour, ce n’est pas sur la terre
Fixer sa tente au sommet du Thabor.
Avec Jésus, c’est gravir le Calvaire,
C’est regarder la Croix comme un trésor !…
Au Ciel je dois vivre de jouissance
Alors l’épreuve aura fui pour toujours
Mais exilée je veux dans la souffrance
Vivre d’Amour.

Vivre d’Amour, c’est donner sans mesure
Sans réclamer de salaire ici-bas
Ah ! sans compter je donne étant bien sûre
Que lorsqu’on aime, on ne calcule pas !…
Au Cœur Divin, débordant de tendresse
J’ai tout donné… légèrement je cours
Je n’ai plus rien que ma seule richesse
Vivre d’Amour.

Vivre d’Amour, c’est bannir toute crainte
Tout souvenir des fautes du passé.
De mes péchés je ne vois nulle empreinte,
En un instant l’amour a tout brûlé…..
Flamme divine, ô très douce Fournaise !
En ton foyer je fixe mon séjour
C’est en tes feux que je chante à mon aise :
« Je vis d’Amour !… »

Vivre d’Amour, c’est garder en soi-même
Un grand trésor en un vase mortel
Mon Bien-Aimé, ma faiblesse est extrême
Ah je suis loin d’être un ange du ciel !…
Mais si je tombe à chaque heure qui passe
Me relevant tu viens à mon secours,
A chaque instant tu me donnes ta grâce
Je vis d’Amour.

Vivre d’Amour, c’est naviguer sans cesse
Semant la paix, la joie dans tous les cœurs
Pilote Aimé, la Charité me presse
Car je te vois dans les âmes mes soeurs
La Charité voilà ma seule étoile
A sa clarté je vogue sans détour
J’ai ma devise écrite sur ma voile :
« Vivre d’Amour. »

Vivre d’Amour, lorsque Jésus sommeille
C’est le repos sur les flots orageux
Oh ! ne crains pas, Seigneur, que je t’éveille
J’attends en paix le rivage des cieux…
La Foi bientôt déchirera son voile
Mon Espérance est de te voir un jour
La Charité enfle et pousse ma voile
Je vis d’Amour !…

Vivre d’Amour, c’est, ô mon Divin Maître
Te supplier de répandre tes Feux
En l’âme sainte et sacrée de ton Prêtre
Qu’il soit plus pur qu’un séraphin des cieux !…
Ah ! glorifie ton Eglise Immortelle
A mes soupirs, Jésus ne sois pas sourd
Moi son enfant, je m’immole pour elle
Je vis d’Amour.

Vivre d’Amour, c’est essuyer ta Face
C’est obtenir des pécheurs le pardon
O Dieu d’Amour ! qu’ils rentrent dans ta grâce
Et qu’à jamais ils bénissent ton Nom….
Jusqu’à mon cœur retentit le blasphème
Pour l’effacer, je veux chanter toujours :
"Ton Nom Sacré, je l’adore et je l’Aime
Je vis d’Amour !…"

Vivre d’Amour, c’est imiter Marie,
Baignant de pleurs, de parfums précieux,
Tes pieds divins, qu’elle baise ravie
Les essuyant avec ses longs cheveux…
Puis se levant, elle brise le vase
Ton Doux Visage elle embaume à son tour.
Moi, le parfum dont j’embaume ta Face
C’est mon Amour !…

« Vivre d’Amour, quelle étrange folie ! »
Me dit le monde, " Ah ! cessez de chanter,
Ne perdez pas vos parfums, votre vie,
Utilement sachez les employer !…"
T’aimer, Jésus, quelle perte féconde !…
Tous mes parfums sont à toi sans retour,
Je veux chanter en sortant de ce monde :
« Je meurs d’Amour ! »

Mourir d’Amour, c’est un bien doux martyre
Et c’est celui que je voudrais souffrir.
O Chérubins ! accordez votre lyre,
Car je le sens, mon exil va finir !…
Flamme d’Amour, consume-moi sans trêve
Vie d’un instant, ton fardeau m’est bien lourd !
Divin Jésus, réalise mon rêve :
Mourir d’Amour !…

Mourir d’Amour, voilà mon espérance
Quand je verrai se briser mes liens
Mon Dieu sera ma Grande Récompense
Je ne veux point posséder d’autres biens.
De son Amour je veux être embrasée
Je veux Le voir, m’unir à Lui toujours
Voilà mon Ciel… voilà ma destinée :
Vivre d’Amour !!!…


TO LIVE OF LOVE


The eve His life of love drew near its end,
Thus Jesus spoke: "Whoever loveth Me,
And keeps My word as Mine own faithful friend,
My Father, then and I his guests will be;
Within his heart will make Our dwelling above.
Our palace home, true type of heaven above.
There, filled with peace, We will that he shall rest,
With us, in love.

Incarnate Word! Thou Word of God alone!
To live of love, 'tis to abide with Thee.
Thou knowest I love Thee, Jesus Christ, my Own!
Thy Spirit's fire of love enkindleth me.
By loving Thee, I draw the Father here
Down to my heart, to stay with me always.
Blest Trinity! Thou art my prisoner dear,
Of love, to-day.

To live of love, 'tis by Thy life to live,
O glorious King, my chosen, sole Delight!
Hid in the Host, how often Thou dost give
Thyself to those who seek Thy radiant light.
Then hid shall be my life, unmarked, unknown,
That I may have Thee heart to heart with me;
For loving souls desire to be alone,
With love, and Thee!

To live of love, 'tis not to fix one's tent
On Tabor's height and there with Thee remain.
'Tis to climb Calvary with strength nigh spent,
And count Thy heavy cross our truest gain.
In heaven, my life a life of joy shall be,
The heavy cross shall then be gone for aye.
Here upon earth, in suffering with Thee,
Love! let me stay.

To live of love, 'tis without stint to give,
An never count the cost, nor ask reward;
So, counting not the cost, I long to live
And show my dauntless love for Thee, dear Lord!
O Heart Divine, o'erflowing with tenderness,
How swift I run, who all to Thee has given!
Naught but Thy love I need, my life to bless.
That love is heaven!

To live of love, it is to know no fear;
No memory of past faults can I recall;
No imprint of my sins remaineth here;
The fire of Love divine effaces all.
O sacred flames! O furnace of delight!
I sing my safe sweet happiness to prove.
In these mild fires I dwell by day, by night.
I live of love!

To live of love, 'tis in my heart to guard
A mighty treasure in a fragile vase.
Weak, weak, am I, O well beloved Lord!
Nor have I yet an angel's perfect grace.
But, if I fall each hour that hurries by,
Thou com'st to me from Thy bright home above,
And, raising me, dost give me strength to cry:
I live of love!

To live of love it is to sail afar
And bring both peace and joy where'er I be.
0 Pilot blest! love is my guiding star;
In every soul I meet, Thyself I see.
Safe sail I on, through wind or rain or ice;
Love urges me, love conquers every gale.
High on my mast behold is my device:
"By love I sail!"

To live of love, it is when Jesus sleeps
To sleep near Him, though stormy waves beat nigh.
Deem not I shall awake Him! On these deeps
Peace reigns, like that the Blessed know on high.
To Hope, the voyage seems one little day;
Faith's hand shall soon the veil between remove;
'Tis Charity that swells my sail always.
I live of love!

To live of love, 0 Master dearest, best!
It is to beg Thee light Thy holiest fires
Within the soul of each anointed priest,
Till he shall feel the Seraphim's desires;
It is to beg Thee guard Thy Church, 0 Christ!
For this I plead with Thee by night, by day;
And give myself, in sacrifice unpriced,
With love always!

To live of love, it is to dry Thy tears,
To seek for pardon for each sinful soul,
To strive to save all men from doubts and fears,
And bring them home to Thy benign control.
Comes to my ear sin's wild and blasphemous roar;
So, to efface each day, that burning shame,
I cry: " 0 Jesus Christ! I Thee adore.
I love Thy Name!"

To live of love, 'tis Mary's part to share,
To bathe with tears and odorous perfume
Thy holy feet, to wipe them with my hair,
To kiss them; then still loftier lot assume,
To rise, and by Thy side to take my place,
And pour my ointments on Thy holy head.
But with no balsams I embalm Thy Face!
'Tis love, instead!

"To live of love, what foolishness she sings!"
So cries the world. "Renounce such idle joy!
Waste not thy perfumes on such trivial things.
In useful arts thy talents now employ!"
To love Thee, Jesus! Ah, this loss is gain;
For all my perfumes no reward seek I.
Quitting the world, I sing in death's sweet pain:
Of love I die!

To die of love, O martyrdom most blest!
For this I long, this is my heart's desire;
My exile ends; I soon will be at rest.
Ye Cherubim, lend, lend to me your lyre!
O dart of Seraphim, O flame of love,
Consume me wholly; hear my ardent cry!
Jesu, make real my dream! Come Holy Dove!
Of love I die!

To die of love, behold my life's long hope!
God is my one exceeding great reward.
He of my wishes forms the end and scope;
Him only do I seek; my dearest Lord.
With passionate love for Him my heart is riven.
O may He quickly come! He draweth nigh!
Behold my destiny, behold my heaven,
OF LOVE TO DIE.


復活のミサ聖祭を大阪で執行して下さったレネー神父様に感謝します。

よき復活節をお過ごし下さい!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)







《罪なく宿り給いし聖マリアよ、御身に寄り頼み奉る我らのために祈り給え。また、御身に寄り頼まぬ全ての人々のため、ことに、フリーメーソンのため、また、御身に依頼された人々のために、祈り給え。》

「わが天主よ、私は御身を信じ、礼拝し、御身に希望し、御身を愛します!御身を信じない人々、礼拝しない人々、御身に希望しない人々、御身を愛さない人々全てのために、赦しを乞い求めます。」

「至聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊よ、私は御身を深く礼拝いたします。私は、世界中のすべての御聖櫃の中にましまし給うイエズス・キリストのいとも尊き御体、御血、御霊魂、神性を、天主御自身が犯されている侮辱、冒涜、無関心を償うために、御身にお捧げいたします。イエズスの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳により、私はあわれな罪人の回心を御身に願います。」

ああ、イエズスよ、われらの罪を赦し給え。われらを地獄の火より守り給え。また、すべての霊魂、殊に最も必要としている霊魂を、天国に導き給え。

「聖マリアの甘美なる御心よ、ロシア、ヨーロッパ、中国、韓国、日本、そして全世界の救いとなり給え。」

「ああ聖マリアよ、御身の清き汚れなき御宿りによりて、ロシア、ヨーロッパ、中国、韓国、日本、そして全世界の回心を得させ給え。」


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コメント

私たちの主イエズス・キリストの御復活

2015年04月05日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、私たちの主イエズス・キリストの御復活のお慶びを申し上げます。

今日の午後には、大阪で聖伝のミサがあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!!

トマス小野田圭志神父
コメント (1)

聖ピオ十世会の大阪の聖伝のミサ会場 4月の復活祭から変更になります

2015年04月01日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

大阪では、4月の復活祭からミサの住所が変更になります!

「聖母の汚れ無き御心巡回聖堂」
大阪コロナホテル 
〒533-0031大阪府大阪市東淀川区西淡路1丁目3番21号 (JR新大阪駅の東口より徒歩3分)です。

 変更の理由は、大阪では過去一年以上にわたって、降誕祭、復活祭、また主日のミサを毎月行っておりますが、(1)万が一、神父様の飛行機が何かの理由で遅れたり、神父様の到着が遅れた場合のことを考えて、或いは、(2)神父様が月曜日に早朝ミサをしなければならない場合のことを考えて、さらに(3)今年から初金・初土に聖伝のミサが大阪で予定されるようになりましたが、年末年始にミサをする場合のことを考えて、時間の融通がきくところがよいと考えたからです。

 新しい場所は、すでに何度か年末年始に使わせてもらった場所で、昨年はクリスマスのミサの後にささやかなクリスマスの一時を一緒に過ごした場所です。来る復活祭からの変更になります。また、今まで10年近くお世話になった丸ビルの方々には、そのご親切な対応に感謝しつつ、丸ビルさんのますますのご発展を祈ります。

 復活祭から新しい会場ですので、どうぞお間違えのないようにお願いいたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)





《罪なく宿り給いし聖マリアよ、御身に寄り頼み奉る我らのために祈り給え。また、御身に寄り頼まぬ全ての人々のため、ことに、フリーメーソンのため、また、御身に依頼された人々のために、祈り給え。》

「わが天主よ、私は御身を信じ、礼拝し、御身に希望し、御身を愛します!御身を信じない人々、礼拝しない人々、御身に希望しない人々、御身を愛さない人々全てのために、赦しを乞い求めます。」

「至聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊よ、私は御身を深く礼拝いたします。私は、世界中のすべての御聖櫃の中にましまし給うイエズス・キリストのいとも尊き御体、御血、御霊魂、神性を、天主御自身が犯されている侮辱、冒涜、無関心を償うために、御身にお捧げいたします。イエズスの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳により、私はあわれな罪人の回心を御身に願います。」

ああ、イエズスよ、われらの罪を赦し給え。われらを地獄の火より守り給え。また、すべての霊魂、殊に最も必要としている霊魂を、天国に導き給え。

「ああ聖マリアよ、御身の清き汚れなき御宿りによりて、ロシア、ヨーロッパ、中国、韓国、日本、そして全世界の回心を得させ給え。」


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