Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

私は御身を信じ礼拝し希望し御身を愛します!御身を信ぜぬ人々礼拝せず希望せず愛さぬ人々のために赦しを求めます(天使の祈)

終末について書かれた福音の解説

2020年11月28日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2020年11月29日は待降節第一主日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「待降節第一主日の説教」の動画をご紹介いたします。

待降節が始まりました。クリスマスの準備をいたしましょう。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父

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2020年11月29日(主日)前後の聖伝のミサの予定:Traditional Latin Mass for November 29, 2020

2020年11月28日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)にご招待します。

最新情報は次のカレンダーをクリック



年間の予定はSSPX JAPAN MISSION CALENDARをご覧下さい。

今週末:2020年11月27日(金)28日(土)29日(主日)のミサの予定を再確定します。予定通りです。

【大阪】「聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂」 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 EG新御堂4階 〒532-0002 (アクセス)JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分(地図

 11月27日(金)  17:30 ロザリオ及び告解  18:00 ミサ聖祭

 11月28日(土) 10:00 ロザリオ及び告解  10:30 ミサ聖祭

 11月29日(日) 17:30 ロザリオ及び告解  18:00 ミサ聖祭

 11月30日(月) 06:30 ミサ聖祭

【東京】 「聖ピオ十世会 聖なる日本の殉教者巡回聖堂」 東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図

11月28日(土) 18:00 ミサ聖祭(うまれる赤ちゃんのためのミサ聖祭)

(午後2時~5時:ミサの前に、年配の方より、戦前・戦時中、第二ヴァチカン公会議以前のカトリックを振り返って、若手に届けるお話しがあります。二人の方は日本人であり、戦前・戦時中・戦後のカトリックを語っていただきます。もう一人の方は、日本人と結婚し、30年以上日本滞在のフランス人が戦後のフランスにおけるカトリックを語られます。)

11月29日(日)主日ミサが三回捧げられます。

午前8時20分頃から準備が出来次第、告解の秘蹟を受けることができます。二階です。

09:00 ミサ聖祭 歌ミサ(ライブ中継をいたします)Facebook live

11:00 ミサ聖祭 読誦ミサ
12:30 ミサ聖祭 読誦ミサ

それぞれのミサの間にも告解の秘蹟を受けることができます。二階の告解の部屋に司祭は待機しております。

【お互いに社会的距離を取ることができるように、分散してミサにあずかっていただければ幸いです。】


Ave Maria Immaculata!

My dearest Brethren!

I want to reconfirm the Mass schedule for the weekend of November 29, 2020.

Mass times in TOKYO
November 28
18:00 - Sung mass

November 29
09:00 - Sung mass Facebook live
11:00 - Low mass
12:30 - Low mass
It would help us maintain proper social distancing if you could consider spreading your mass attendance among the three masses.
Mass location:
"Holy Japanese Martyrs' Mass Center"
Akebonocho Jido-kaikan
1-12-5 Honkomagome, Bunkyo-ku, Tokyo


Mass schedule in OSAKA:

Fri, November 27: Holy Sacrifice of the Mass at 18:00

Sat, November 28: Holy Sacrifice of the Mass at 10:30

Sun, Nov 29: Holy Sacrifice of the Mass at 18:00

Mon, Nov 30: Holy Sacrifice of the Mass at 06:30 am.












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教皇大使カルロ・マリア・ヴィガノ大司教による「第二バチカン公会議の革命が、どのようにして新世界秩序に奉仕しているのか」(1)

2020年11月28日 | カトリック・ニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2020年10月24日、アメリカで行われた「カトリック・アイデンティティー講演会」で、元在米教皇大使ヴィガノ大司教(カルロ・マリア・ビガノ大司教)がビデオ動画で発表された講話の日本語訳を愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

(この日本語訳はすでになされていたのですが、発表が遅れてしまいました。温かいご理解を感謝いたします。)

長い文章ですので、分割してご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

Catholic Identity Conference

カトリック・アイデンティティー・カンファレンス
2020年10月24日

SCAPEGOATING FRANCIS

責任を他に押し付けるフランシスコ

第二バチカン公会議の革命が、どのようにして新世界秩序に奉仕しているのか

教皇大使カルロ・マリア・ヴィガノ大司教

「私に従え。死人は死人に葬らせておけ」
マテオ8章22節

1.私たちは特別な時代に生きている

私たち一人一人がおそらく理解しているように、私たちは自分が時の中で歴史的瞬間にいることを知っています。かつてはつながっていなかったように見えた過去の事件が、今では、その事件が起こるように仕向けた原理と、その原理が達成しようとしている目標の両方で、紛れもなくつながっていることを証明しています。

現在の状況を公平かつ客観的に見れば、世界的な政治的枠組みの進化と、カトリック教会が「新世界秩序」(New World Order)の確立において担ってきた役割との間に完全な一貫性があるのを把握せずにはいられません。もっと正確に言えば、教会の中の見かけ上の多数派 --- 実際には数は少ないものの非常に権力を持っている --- の役割について話すべきであり、それを私は、簡潔に言うために、「ディープ・チャーチ(deep church)」と要約します。

明らかなことですが、二つの教会がある訳ではありません。【そうだったとしたらそれは】何かありえないようなこと、冒涜的で異端的なことです。

また、キリストの唯一のまことの教会が今日、その使命を果たしておらず、一つのカルトに変質したという訳でもありません。キリストの教会は、過去60年間、教会を占拠する計画を実行している人々とは何の関係もありません。カトリックの位階階級と「ディープ・チャーチ」のメンバーが重なっていることは、神学的事実ではなく、むしろ通常の範疇(カテゴリー)を無視した歴史的現実であり、そのようなものとして分析しなければなりません。

私たちは、「新世界秩序」プロジェクトがフリーメーソンによる専制政治の確立であることを知っています。フランス革命、啓蒙の時代、カトリック君主制の終焉、教会への宣戦布告にまでさかのぼるプロジェクトです。新世界秩序とはキリスト教社会のアンチテーゼであり、光と闇、善と悪、天主とサタンの間の永遠の闘争において、「Civitas Dei(天主の国)」に対抗して悪魔的な「Civitas Diaboli(悪魔の国)」を実現することだと言うことができます。

この戦いにおいて、御摂理はキリストの教会、特に教皇を「カテコン」(kathekon)、すなわち、「罪悪の奥義」の現れをとどめているものとして位置づけました(テサロニケ後書2章6-7節)。そして聖書は、反キリストが現れる時には、この障害物である「カテコン」は存在するのをやめる、と私たちに警告しています。「カテコン」という勇敢なとどめるものがなくなることによって「罪悪の奥義」が世界中に広がったため、終わりの時が私たちの目の前に近づいているということが明らかだと私には思われます。

[天主の国と悪魔の国との間の両立不可能性に関して、フランシスコのイエズス会士の顧問であるアントニオ・スパダロは、聖書と聖伝を脇に置いて、ベルゴリオの「ハグしよう」(embrassons-nous)を自らの意見にしています。このイエズス会総合雑誌「ラ・チビルタ・カットリカ」の編集長スパダロによると、回勅「フラテッリ・トゥッティ(Fratelli Tutti)」は、

「また、強い政治的価値を持つメッセージであることも変わりはありません。なぜなら、それ【回勅】は、今日広く普及している黙示録の論理をくつがえすものだ、と私たちは言うことができるからです。黙示録の論理は、この世と戦う原理主義者の論理です。なぜなら、この論理は、この世が天主の反対、つまり偶像であり、それゆえに、時の終わりを早めるために、できるだけ早く破壊されるべきだと信じているからです。黙示録の深淵、事実、その前では兄弟は存在しなく、あるのは時に"逆らう"背教者あるいは殉教者だけとされます。[…]私たちは戦士でも背教者でもなく、みな兄弟なのです」。[1]

「教義完璧主義者 integralist」という非難【のレッテル】で対話相手の信用を失墜させるこの戦略は、明らかに教会内での敵の行動を容易にし、反対意見を無力化して異議を思いとどまらせようとすることを目的としています。

世俗の領域でもこれは見られます。世俗分野では、民主党と「ディープ・ステート」が、誰に政治的正統性を与えるか、また、上訴の余地のないメディアの村八分に誰を付すかを決める権利を自分たちのものにしているからです。方法はいつも同じです。なぜなら、インスピレーションを与えるものが同じだからです。ちょうど歴史と情報源の改竄がいつも同じであるようにです。もし過去が革命の物語を否定するならば、革命の信奉者たちは過去を検閲し、歴史的事実を神話に置き換えます。

聖フランシスコでさえも、清貧と平和主義の旗持ちとするような歪曲の犠牲者です。しかし、清貧と平和主義が支配のためのイデオロギーの道具としてあるかぎり、それらはカトリック正統の精神とは無縁です。これの証拠は、対話、エキュメニズム、およびベルゴリオの反教会の普遍的な兄弟愛を正当化するために、「フラテッリ・トゥッティ」の中で、アッシジの貧者(Poverello)に最後に、詐欺的に頼っていることです。

私たちは、現在の起きていることを「正常」として提示して、そのような正常性が前提としているであろう法的、教会法的、社会学的な補助変数(パラメーター)を用いて、今起こっていることを判断するという過ちを犯さないようにしましょう。異常な時代には、そして現在の教会の危機は確かに異常なものですが、起こっていることは、私たちの先祖たちが知っていた普通のことをはるかに超えています。

異常な時代には、一教皇が信者を欺く、と聞くこともありえますし、教会のプリンス【枢機卿】たちが、他の時代であれば恐怖を呼び起こし、厳しい罰を受けていたであろう犯罪で告発されるのを見ることさえありえますし、クランマー【元カトリック・カンタベリー大主教トマス・クランマー。プロテスタント化を推し進めた英国の宗教改革の指導者】の倒錯した心が発明したと思われる典礼の儀式を、私たちのカトリック教会で目撃すること【新しいミサのこと】もありえますし、高位聖職者たちが聖ペトロ大聖堂の中にパチャママという不浄な偶像を持ち込むのを見ることもありえますし、一人のカトリック教徒が勇気を持ってその像をテベレ川に投げ込むと、キリストの代理者が、その「偶像」(simulacrum)を礼拝する者たちに謝罪するのを聞くこともありえます。

この異常な時代には、陰謀家の一人であるゴットフリート・ダンネルス枢機卿がこう語るのを私たちは聞くこともあります。彼によれば、ヨハネ・パウロ二世の死後、「ザンクト・ガレン・マフィア(Mafia of St. Gallen)」が、自分たちのうちの一人 ---- 後にホルヘ・マリオ・ベルゴリオのことであると判明する ----- をペトロの座に選出しようと画策していた、と。この当惑させる事実の判明に直面しても、枢機卿たちも司教たちも憤りをあらわにせず、真相を明らかにすることを求めなかったことに私たちは驚くかもしれません。

[イスカリオトのユダの裏切りに始まる教会の地上で起こった事件には、常に善と悪、聖人と呪われた者が教会の体の中で共存してきました。そして、実に重要なことは、反教会がユダを、そして彼とともに最悪の異端者たちを、「反聖人」や「反殉教者」の模範として復帰させようとし、それによって自分たちの異端、不道徳、悪徳を正当化しようとしていることです。私が言いたいのは、福音が「麦と毒麦のたとえ」で語っている善人と悪人の共存は、前者より後者の方が優勢に変化してしまっているということです。その違いは、かつては軽蔑されていた悪徳や逸脱が、今日では実践され、大目に見られるだけでなく、さらに励まされ、称賛されるまでになっている一方で、聖徳やキリストの教えに対する忠実さは軽蔑され、あざけられ、さらに非難されるまでになっていることです。]

2.まことの教会の日食

60 年間、私たちは、反教会によって、まことの教会が日食のように覆い隠されていくのを目の当たりにしてきました。反教会は、教会の名前を次々に横領して、ローマ教皇庁やその部署、教区や小教区、神学校や大学、女子修道会や男子修道会をますます占拠してきました。反教会は教会の権威を奪い、反教会の聖職者たちは教会の聖なる祭服を身につけています。反教会は教会の名声と権力を利用して、教会の宝、資産、予算を簒奪しているのです。

自然界で起こるように、この日食は一度に起こるのではありません。太陽と私たちの間に天体が入り込むと、光から闇へと変化していきます。これは、比較的ゆっくりではあるものの止められない過程であり、その際に、反教会という月が太陽と重なるまで軌道をたどり、地球の上にかかる円錐形の影を発生させます。私たちは今、この教理的、道徳的、典礼的、規律的な円錐形の影の中に身を置いています。これは、反キリストの統治の下、時の終わりに私たちが見ることになる皆既日食ではありません。しかし、これは「部分」日食であって、月がつくり出した黒い円盤を取り囲んでいる輝く太陽の冠を私たちに見せてくれます。

今日の教会の日食に至る過程は、間違いなく近代主義から始まりました。反教会は、その段階では真理の輝きをもって光を放っていた教導職による荘厳な排斥にもかかわらず、自らの軌道に沿って進みました。しかし、第二バチカン公会議で、この偽りの存在による闇が教会を覆うようになりました。最初はごく一部しか見えなかったものの、闇は次第に大きくなっていきました。

その後、太陽を指さして、月が確実に太陽を覆い隠していくだろうと推論した人は誰もが、無知と偏見から生じるその種の狂信と不摂生によって、「不吉なことを言う預言者」であるとの非難を受けました。マルセル・ルフェーブル大司教と他の数人の高位聖職者たちのケースは、一方では、これらの牧者たちの先見の明、他方では、彼らの敵対者たちのバラバラな反応を裏付けています。この敵対者たちは権力を失うことを恐れて、あらゆる権限を使って証拠を否認し、自分たちの真意を隠したままにしたのです。

たとえを続けると、信仰の天空では、日食は稀で通常を超えた現象であると言えます。しかし、日食の間に闇が広がること --- 通常の状況では起こらないことであることから --- これを否定することは、教会の不可崩壊性(indefectibility)に対する信仰のしるしではなく、むしろ証拠を頑なに否定すること、すなわち不誠実(bad faith)です。

キリストの約束によって、聖なる教会は決して「地獄の門」に打ち勝たれることはありませんが、だからと言って、教会が、地獄からの「教会の偽物」によって、覆われることはないだろう --- あるいはまだ覆われていない --- ということを意味するのではありません。この偽物とは、私たちが、「黙示録の婦人」の足の下に --- 偶然ではなく --- 見ているあの月です。「壮大なしるしが天に現れた。太陽に包まれた婦人があり、その足の下に月があり、その頭に十二の星の冠をいただいていた」(黙示録12章1節)。

あらゆる変化(mutability)に超越してあり、あらゆる地上の腐敗の上にあり、運命の法則および「この世の精神」の国の上にいる婦人の足の下に、月があります。この婦人は、至聖なるマリアの象徴であると同時に教会の象徴でもあり、キリストである正義の太陽に包まれ(amicta sole)、「キリストの不変性の神秘にあずかっているがゆえに、あらゆる悪魔の力から免れている」(聖アンブロジオ)からです。婦人は無傷のままです。婦人の戦闘の国では無傷ではなくとも、煉獄での苦しみの国でも、楽園での凱旋の国でも無傷のままです。聖ヒエロニモは、聖書の言葉について語りつつ、「地獄の門とは、罪と悪徳、特に異端者の教えのことである」と私たちに思い起こさせてくれます。それゆえに、近代主義やその最新の公会議版近代主義に代表される「すべての異端の教えの総合」さえも、キリストの花嫁の輝きを完全に覆い隠すことは決してできず、それができるのは、御摂理がその無限の知恵によってさらに素晴らしい善を引き出すためにお許しになった日食の短い期間だけだということが私たちには分かります。

3.超自然的次元の放棄

この講話では、特に第二バチカン公会議の革命と新世界秩序の確立との関係を扱いたいと思います。この分析の中心的な要素は、教会の超自然的な次元とその終末論的な役割を、教会を構成する位階階級の部分が、そのトップでさえも、放棄したことを強調することにあります。公会議によって、革新主義者たちは、教会の天主的起源を神学的地平から消し去り、慈善団体に似た人間的起源を持つ存在物を創造しました。

この「存在論的転覆」による最初の結果は、キリストの花嫁が、主の御名において代理者としての権威を行使する人々が変えることのできる対象ではなく、対象でありえない、という事実を必然的に否定することです。教会は教皇の所有物でも司教たちや神学者たちの所有物でもありませんから、「アジョルナメント(Aggiornamento)」のような試みは、利益を得るために自らの商業的な売値を更新し、売れ残った株を売り、その時々の流行に従う一つの会社というレベルにまで、教会を下げてしまうことになります。一方、教会は超自然的で天主的な現実です。教会は諸国の民に福音を宣べ伝える"方法"を【時代や場所に応じて】適応させますが、その"内容"をほんの少しでも変えることはできません(マテオ5章18節)し、自らを単なる社会奉仕団体に格下げすることで超越的な動力(momentum)を否定することもできません。

反対に、反教会は、教理の説明の仕方を変えるだけでなく、教理そのものを変えることで、「パラダイム(物の考え方)の転換」を行う権利を高慢にも主張しています。[これは、新しい回勅「フラテッリ・トゥッティ」に関するマッシモ・ファッジョーリ(Massimo Faggioli)のコメントの次の言葉で裏付けられています。「教皇フランシスコの教皇職は、カトリックの教義完璧主義者(integralists)と、内容の連続性がすなわち聖伝であると同一視する人々の前に高く掲げられた旗のようです。カトリックの教理は、ただ発展するだけではありません。時には本当に変わるのです。例えば、死刑や戦争についての教理です」。[2]]

【従ってそのような反教会に】教導職が教えることを主張するのは無益です。信仰を変える権利を持つという革新主義者たちの図々しい主張は、頑なに近代主義的なアプローチに従っているのです。

公会議の最初の誤謬は、主に超越的な視点を欠いていたこと、つまりすでに潜んでいた霊的危機の結果と、不毛な人間の地平で地上の楽園を確立しようと試みたことにあります。このアプローチに沿って、「フラテッリ・トゥッティ」は、地上のユートピアの実現と社会的救済を、人間の兄弟愛、宗教間の「パックス・エキュメニカ」【宗教統一による平和】、そして移民の歓迎に見ています。

4.劣等感と無力感

私がこれまで他の機会にも何度か書いてきたように、「新しい神学(Nouvelle Theologie)」の革命的な要求は、公会議の教父たちの中に肥沃な土壌を見いだしました。何故なら【彼らに】この世に対する深刻な劣等感があったからです。戦後には、世俗的、政治的、文化的な領域でフリーメーソンが主導した革命が、カトリックのエリートたちを破りました。今では不可避となった時代を変える挑戦に直面して、カトリックのエリートたちに、自らの無力さ(inadequacy)を分からせようとした時期がありました。自分自身や自らの信仰【の弱さ】を問う代わりに、このエリートたち(司教、神学者、知識人)は、無謀にも、教会の差し迫る失敗の責任を、教会の岩のように強固な位階構造のせいに、また教会の一枚岩の教理的・道徳的な教えのせいにしたのです。

欧州文明は教会がそれを形成するのを助けたのですが、エリートたちはこの欧州文明の敗北を見て、この世との合意がないことは、「時代精神」(Zeitgeist)と折り合いをつけて「開く」ことをしたがらない教皇の非妥協的態度と司祭たちの道徳的硬直性によって引き起こされたと考えていました。このイデオロギー的なアプローチは、教会と現代世界の間には、同盟や意図の一致、友情が存在し得るという誤った仮定に由来しています。【しかしそれを仮定する以上】真理から遠く離れることは何もありえません。なぜなら、天主とサタンの間、光と闇の間の闘争には、休息がないからです。「私は、おまえと女との間に、おまえのすえと女のすえとの間に、敵意を置く。女のすえは、おまえの頭を踏み砕き、おまえのすえは、女のすえのかかとを狙うであろう」(創世記3章15節)。これは天主ご自身が意図された敵対関係であり、至聖なるマリアと教会は、いにしえの蛇の永遠の敵として位置づけられています。
この世には、そのかしら(ヨハネ12章31節)がいます。これは「敵」(マテオ13章28節)であり、「初めから人殺し」(ヨハネ8章44節)であり、「嘘つき」(ヨハネ8章44節)です。この世と戦争停止の契約を結ぶことは、サタンと折り合いをつけることを意味します。このことは、教会の本質そのものを、くつがえし、貶めています。何故なら、教会の使命とは、霊魂たちを、自分たちの方へ滅びへと引き寄せようとする者どもに反対して決して武器を降ろさずに戦い、天主のより大きな栄光のために、一人でも多くの霊魂をキリストに回心させることだからです。

[この世の前での教会の劣等感と失敗は、革命を公会議の教父たちに根付かせるため、さらに拡張してキリスト教の民に根付かせるための「大災害(perfect storm)」をつくり出しました。キリスト教徒においては、位階階級への従順が、おそらく「信仰の遺産(depositum fidei)」への忠実さ以上に培われていたのです。はっきりと言わせてください。命令が正当なものである限り、聖なる牧者たちへの従順は確かに賞賛に値するものです。しかし、それ自体が目的であるなら、また、従順が定められた目的、すなわち信仰と道徳に反している場合には、従順は聖徳であることをやめ、実際には追従になってしまいます。さらに付け加えなければならないのは、このような劣等感が、次のようなものを大舞台で見せることによって、教会に導入されたことです。それらは、パウロ六世による三重冠の撤去、レパントで打ち破ったオスマン帝国の旗艦の旗の返還、離教状態にあるアテナゴラス【コンスタンティノープル総主教】との【パウロ六世の】エキュメニカルな抱擁、十字軍に関する赦しの求め、禁書目録の廃止、ピオ十二世の凱旋主義に代わる聖職者たちによる貧しい人々に焦点を当てることです。この態度の「最後の一撃」(coup de grâce)は、「改革された典礼」において成文化されました。この典礼は、カトリックの教義を沈黙することによって、教義を恥ずかしがっていると表明しており、これによって間接的に教義を否定したのです。儀式の変更は教理的な変化を引き起こし、そのことが信徒たちに、ミサが単なる友愛の宴であって、至聖なるご聖体は、私たちの中におられるキリストの存在を象徴したものにすぎないと信じるようにさせたのです。]

5.革命と公会議の「同じ心 IDEM SENTIRE」

公会議の教父たちの無力感(inadequacy)は、革新主義者たちの活動によって、ただ高まるだけでした。彼らの異端の思想は、この世の要求と一致していたからです。近代思想の比較分析は、革命的イデオロギーのあらゆる要素と陰謀家たちの「idem sentire」[同じ感情、または同じ心]を裏付けています。
[◎カトリック君主制(教皇制を含む)という天主の権利の代わりに、権力の正当化の源泉としての民主主義の原理を受け入れること。

◎個人の責任と制度的な位階階級の代わりに、権力の機関を創造し増加すること。

◎伝統と文化的遺産を守ることができない今日の基準(パラメーター)で歴史的過去を評価し、歴史的過去を消し去ること。

◎個人の自由を強調し、責任や義務という概念を弱めること。

◎道徳と倫理が継続的に進化することで、それらの不変の性質と超越的な基準が奪われること。

◎「世俗の秩序がイエズス・キリストの王権へ正当に服従し、教会の使命が現世の領域の使命に存在論的に優越性を持つ」ということの代わりに、国家が宗教と無縁な性質を持つとされること。

◎国家の前の諸宗教の平等だけでなく、教会が守らなければならない一般的な概念としてさえも、客観的かつ必要な真理の擁護と誤謬の排斥に反する諸宗教の平等。

◎天主を喜ばせ、天主の恩寵を受け、永遠の幸いを得るための前提としての、原罪および贖罪の必要性を否定することに基づいて、人間の尊厳を人間にとって自然なものとする虚偽的で冒涜的な概念。

◎女性の役割を弱めること、母親である特権に対する侮蔑と軽蔑。

◎精神よりも物質を優先すること。

◎偽りの科学的根拠に基づく宗教への冷酷な批判に直面して、科学との信仰主義的な【信仰と理性は独立しているとする】関係[3]。

これらの原理はすべて、フリーメーソンのイデオロギー信奉者や新世界秩序の支持者によって広められたものであり、公会議の革命的な考えと一致しています。

●教会の民主化は、「教会憲章(Lumen Gentium)」で始まり、今日ベルゴリオの「シノドスの道」で実現している。

●権力の機関の創造と増加は、司教協議会、司教会議(シノドス)、委員会、司牧評議会などに意思決定の役割を委任することによって達成されている。

●教会の過去と栄光ある伝統は、現代のメンタリティーに従って判断され、現代世界に好意的になるために非難されている。

●第二バチカン公会議によって理論化された「天主の子らの自由」は、各個人の道徳的義務に無関係に確立されてきており、この個人は、公会議のおとぎ話によると、自分の内的心構えや霊魂の状態に関係なく、すべての人が救われる、とされている。

●永年の道徳に関する言い回しを分かりにくくさせ、改変された死刑に関する教理へとつなげた。そして、使徒的勧告「アモーリス・レティチア」によって、明白な姦淫状態にある者たちを秘蹟にあずからせることで、秘蹟という大建造物に亀裂を入れた。

●政教分離主義という概念が採用されたことで、カトリック諸国で国家宗教の廃絶につながった。聖座と司教たちによって奨励されたことにより、このことが、宗教的アイデンティティーの喪失、セクトの権利の承認だけでなく、自然法や天主の法に違反する規範の承認につながった。

●「信教の自由に関する宣言(Dignitatis Humanae)」で理論化された信教の自由は、今日、アブダビ宣言と最新の回勅「フラテッリ・トゥッティ(Fratelli Tutti)」によって、その論理的かつ極端な結果をもたらし、教会の救いの使命とご托身そのものを廃れたものにしている。

●カトリック圏における人間の尊厳に関する理論は、聖職者の役務者としての役割に対する信徒の役割についての混乱をもたらし、教会の位階階級の構造を弱体化している。一方で、フェミニスト・イデオロギーの受け入れは、女性の聖なる叙階の秘蹟への承認への前触れである。

●左翼に典型的なように、貧しい人々の現世での必要性に過剰なまでに執着することは、教会を一種の福祉団体へと変貌させてしまい、教会の活動を単に物質的な領域に限定し、ほとんど霊的なものを放棄するという段階にまで及んでいる。

●現代の科学技術の進歩への従属は、教会をして、「科学の女王」[信仰]を否定させ、奇蹟を「脱神話化」させ、聖書の無謬性を否認させ、私たちの聖なる宗教の最も神聖な神秘を「神話」あるいは「比喩」として見させ、冒涜的にも、全実体変化と復活そのものが「魔法」(文字通りではなく、むしろ象徴的に)であることをほのめかし、崇高なマリアの教義は「tonterias」[ナンセンス]であると記述させた。]

主流の思想に合わせて、このように位階階級を平準化させ、機能低下させるという、ほとんど奇怪とも言える一つの側面があります。自らの迫害者を喜ばせ、自らの敵に仕えようとする位階階級の願望は、常に遅れすぎで同調(シンクロナイズ)していないため、司教たちが取り返しのつかないほど「時代遅れ」であり、「時代についていっていない」という印象を与えてしまいます。彼らは、自分たちが自分たちの滅亡と熱狂的に共謀しているのを見ている人々に、この「政治的に正しい」(politically correct)ことへの高級娼婦のような従順さを示しているのは、【自分たちが主体的に行っているにもかかわらず、】本当にイデオロギー的に説き伏せられたからではなく、むしろ、流されてしまうことへの恐怖、権力を失うことへの恐怖、それにもかかわらずこの世がまだ彼らに払っている敬意をもはや持っていないことへの恐怖から来ている、と信じさせているのです。彼らは、自分たちがその管理者である敬意と権威はキリストの教会の敬意と威信から来るのであって、自分たちが作った悲惨であわれなキリストの教会の偽物から来るものではないことに気がついていないのです。

この反教会がカトリック教会の皆既日食の中で完全に確立されたとき、その指導者たちの権威は新世界秩序への服従の程度に左右されることになるのですが、この新世界秩序は、自分の信条から乖離することを一切許容せず、多くの高位聖職者たちや自称知識人たちが今日も教導職に忠実であり続ける人々において批判しているその教義主義、狂信主義、原理主義を冷酷に適用することになるでしょう。

このようにして、「ディープ・チャーチ」は「カトリック教会」というトレードマークを担い続けるかもしれませんが、ピラトの前で「私たちの王はチェザルのほかにはありません」(ヨハネ19章15節)とキリストの王権を否定した後、彼らの時代の世俗の権威の奴隷となったユダヤ民族を彷彿とさせる、「新秩序思想」の奴隷となるでしょう。今日のチェザルは、疑似パンデミックを口実に、教会を閉鎖し、マスクをつけ、ミサの挙行を中止するように命じています。中国共産党政権は中国のカトリック教徒を迫害し、世界はローマから沈黙以外何も聞きません。明日、新しい皇帝ティトが公会議の神殿を略奪し、その遺物をどこかの博物館に運び、異教徒の手をもって天主の復讐が再び達成されるでしょう。

(続く)

[1] Padre Antonio Spadaro sj, Fratelli Tutti, la risposta di Francesco alla crisi del nostro tempo, in Formiche, 4 Ottobre 2020 (qui).

[2] ≪Pope Francis’ pontificate is like a standard lifted up before Catholic integralists and those who equate material continuity and tradition: Catholic doctrine does not just develop. Sometimes it really changes: for example on death penalty, war≫,

https://twitter.com/Johnthemadmonk/status/1313616541385134080/photo/1

https://twitter.com/massimofaggioli/status/1313569449065222145?s=21

[3] ≪Dovremmo evitare di cadere in questi quattro atteggiamenti perversi, che certo non aiutano alla ricerca onesta e al dialogo sincero e produttivo sulla costruzione del futuro del nostro pianeta: negazione, indifferenza, rassegnazione e fiducia in soluzioni inadeguate≫,

cfr. https://www.avvenire.it/papa/pagine/papa-su-clima-basta-negazionismi-su-riscaldamento-globale

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2020年11月29日は、待降節第一主日です。聖伝のミサ(トリエント・ミサ、ラテン語ミサ)のテキストをラテン語・日本語・中文・韓国語でご紹介します

2020年11月28日 | ミサ聖祭

2020年11月29日は、待降節第一主日です。聖伝のミサ(トリエント・ミサ、ラテン語ミサ)のテキストをラテン語・日本語・中文・韓国語でご紹介します。

アヴェ・マリア・インマクラータ!

Dominica Prima Adventus 待降節第一主日 将临期第一主日 장림 제 일 주일
I classis 一級祝日 一等复式【紫】  (1급) 
Statio ad S. Mariam maiorem 指定巡礼聖堂。聖マリア大聖堂 集合祈祷于圣母大堂  
Ant. ad Introitum. Ps. 24, 1–3. 入祭文 詩篇  24ノ1-3 进台经(咏24:1-3,4) 초입경(성영24.1-3)
Ad te levávi ánimam meam : Deus meus, in te confíde, non erubéscam : neque irrídeant me inimíci mei : étenim univérsi, qui te exspéctant, non confundéntur. 御身に私の霊魂を上げ奉る。我が天主よ、私は御身に信頼し奉る、私は恥じないだろう。私の敵どもが私をあざわらうことのなからんことを。実に、御身に期待する全ての者たちは、辱められることなからん。 我的天主啊!我向祢举起我的灵魂。我依靠祢,求祢莫叫我羞愧。莫叫我的仇敌朝着我狂喜。没有一个期待祢的人,能蒙受羞辱。 내 천주여 내 영혼을 내게 받들어 내게 드리오며 네게 의탁하오니 나로 하여금 부끄러움을 당하지 말게 하시며 또 내 원수들이 나를 비소치 말게 하소서. 대저 네게 의탁하는 자는 누구나 부끄러움을 당하지 아니 하리이다. 
Ps. ibid., 4 詩篇24ノ4 咏24:1-3,4  (성영24.4) 
Vias tuas, Dómine, demónstra mihi : et sémitas tuas édoce me. 主よ、御身の道を私に示し給え。御身の小径(こみち)を私に教え給え。 上主啊!求祢指示我祢的道路,将祢的途径训示给我。 주여 네 길을 내게 보이시며 네 소로를 내게 가르쳐 주소서. 
V/.Glória Patri. V/. 願わくは聖父と・・・(栄誦)。 光荣归于父,及子,及圣神。起初如何,今日亦然,以至永远,及世之世。阿门。 영광이 부와 자와 성신께, 처음과 같이 또한 이제와 항상 무궁세에 있을지어다. 아멘.
Ad te levávi ánimam meam : Deus meus, in te confíde, non erubéscam : neque irrídeant me inimíci mei : étenim univérsi, qui te exspéctant, non confundéntur. 御身に私の霊魂を上げ奉る。我が天主よ、私は御身に信頼し奉る、私は恥じないだろう。私の敵どもが私をあざわらうことのなからんことを。実に、御身に期待する全ての者たちは、辱められることなからん。 我的天主啊!我向祢举起我的灵魂。我依靠祢,求祢莫叫我羞愧。莫叫我的仇敌朝着我狂喜。没有一个期待祢的人,能蒙受羞辱。 내 천주여 내 영혼을 내게 받들어 내게 드리오며 네게 의탁하오니 나로 하여금 부끄러움을 당하지 말게 하시며 또 내 원수들이 나를 비소치 말게 하소서. 대저 네게 의탁하는 자는 누구나 부끄러움을 당하지 아니 하리이다.
Oratio. 集祷文 集祷经 축문
Excita, quǽsumus, Dómine, poténtiam tuam, et veni : ut ab imminéntibus peccatórum nostrórum perículis, te mereámur protegénte éripi, te liberánte salvári : Qui vivis et regnas. 主よ、願わくは、御身の力を現して来給え。われらの[犯した]罪の[ゆえに]襲いかかる危険から主が保護し給うにより免れ、主が解放し給うにより救われるにふさわしいものと我らがならんことを。聖父なる天主と共に、(…)。 主啊!求祢大发威能,并惠然降来,使我们能于危迫的罪恶凶险中,赖祢的护佑而脱免,靠祢的援助而获救。祢和圣父、及圣神、是唯一的天主,永生永王于无穷世之世。阿门。 주여 비오니 너 대능을 떨쳐 오사 자기 죄로 인하여 장차 당할 바 위험 중에서 우리를 보호하시고 구원하시며 도우사 건지소서. 너 천주 성부와 성신과 한가지로 천주로서 세세에 생활하시고 왕하시나이다. 아멘.
Lectio Epístolæ beati Páuli Apóstoli ad Romános 使徒聖パウロの、ローマ人への書簡の朗読。 读经(罗13:11-14) 서간경
Rom. 13, 11–14. ローマ 13ノ11-14 罗13:11-14 (로마서13.11-14)
Fratres : Scientes, quia hora est iam nos de somno súrgere. Nunc enim própior est nostra salus, quam cum credídimus. Nox præcéssit, dies autem appropinquávit. Abiciámus ergo ópera tenebrárum, et induámur arma lucis. Sicut in die honéste ambulémus : non in comessatiónibus et ebrietátibus, non in cubílibus et impudicítiis, non in contentióne et æmulatióne : sed induímini Dóminum Iesum Christum. 兄弟たちよ、時を知っているあなたたちは、ますますそうしなければならない。今は眠りからめざめる時である。今、私たちの救いは、私たちが信じはじめた時よりも近いからである。夜はふけて、日が近づいた。だから、闇におこなわれる業をすてて、光の鎧をつけよう。昼のように慎んで行動しよう。酒盛、酔い、淫乱、好色、あらそい、嫉みをおこなわず、主イエズス・キリストを着よ。 弟兄们:我们知道:我们应该从睡梦中醒悟的时刻已经到了;因为得救的日子、比较我们以前开始信主的时候,现在更加近了。夜已深了,白昼快要到了。所以我们应该摆脱黑暗的行为,佩戴上光明的武器。举止要端方,就如在白昼一般;不可放纵饮食,不可酗酒,不可放荡,不可奸淫,不可争吵,不可嫉妒。相反的、你们却要佩戴上主耶稣基督。 형제들아 잠에서 깰 시간이 된 줄로 아나니 대저 지금 우리 구원이 우리가 믿게 된 때보다 더 가까우니라. 밤은 깊었고 낮은 가까웠으니 그러므로 어둠의 행실을 벗어 버리고 광명의 갑옷을 입을지어다. 백주에 함 같이 정직하게 걸을지니 폭식과 과음이나 간음과 음란한 일이나 쟁론과 질투에 나아가지 말고 오직 주 예수 그리스도를 입을지어다.
Graduale. Ps. 24, 3 et 4. 昇階誦 詩篇 24ノ3,4 升阶经(咏24:3-4) 층계경(성영24.3-4)
Univérsi, qui te exspéctant, non confundéntur, Dómine. 主よ、御身に期待する全ての者たちは、辱められることなからん。 主啊!没有一个期待祢的人,能蒙受羞辱。 주여 네게 의탁하는 자는 누구나 부끄러움을 당하지 아니 하리이다. 
V/. Vias tuas, Dómine, notas fac mihi : et sémitas tuas édoce me. V/. 主よ、御身の道を私に示し給え。御身の小径(こみち)を私に教え給え。 上主啊!求祢指示我祢的道路,将祢的途径训示给我。 주여 네 길을 내게 보이시며 네 소로를 내게 가르치소서.
Allelúia, allelúia. V/. Ps. 84, 8. Osténde nobis, Dómine, misericórdiam tuam : et salutáre tuum da nobis. Allelúia. アレルヤ、アレルヤ、V/. 詩篇84ノ8 主よ、われらに御身の憐みを示し給え。御身の救いを我らに与え給え、アレルヤ。 阿肋路亚, 阿肋路亚!(咏84:4)上主啊!求祢使我们得见祢的仁慈,又将祢的救恩赐与我们。阿肋路亚。 알렐루야 알렐루야.(성영74.8) 주여 네 자비를 우리에게 보이시며 네 구원을 우리에게 베푸소서. 알렐루야.
+ Sequéntia sancti Evangélii secundum Lucam. ルカによる聖福音の続誦。 福音 복음
Luc. 21, 25–33. ルカ 21ノ25-33. (路21:25-33) (성루까21.25-33)
In illo témpore : Dixit Iesus discípulis suis : Erunt signa in sole et luna et stellis, et in terris pressúra géntium præ confusióne sónitus maris et flúctuum : arescéntibus homínibus præ timóre et exspectatióne, quæ supervénient univérso orbi : nam virtútes cælórum movebúntur. Et tunc vidébunt Fílium hóminis veniéntem in nube cum potestáte magna et maiestáte. His autem fíeri incipiéntibus, respícite et leváte cápita vestra : quóniam appropínquat redémptio vestra. Et dixit illis similitúdinem : Vidéte ficúlneam et omnes árbores : cum prodúcunt iam ex se fructum, scitis, quóniam prope est æstas. Ita et vos, cum vidéritis hæc fíeri, scitóte, quóniam prope est regnum Dei. Amen, dico vobis, quia non præteríbit generátio hæc, donec ómnia fiant. Cælum et terra transíbunt : verba autem mea non transíbunt. そのとき、イエズスは、弟子らに仰せられた。「そして、日、月、星に、しるしがあらわれ、地上では国々の民がなやみ、海と大波とのとどろきに恐怖するだろう。人々は、この世に起ることのために、恐怖と不安とのうちに死ぬだろう。天の力がふるいうごくからである。そのとき人々は、人の子が勢力と大いなる栄光とをおびて、雲にのってくだるのを見るだろう。こういうことが起りはじめたら、あなたたちは身を立てて頭をあげよ。あなたたちの救いは近づいたのだから・・・」。そして、たとえをお話しになった。「いちじくの木と、すべての木とを見よ。木々が芽を出しはじめると、あなたたちはそれを見て、もう夏が近いと気づく。それと同じで、こういうことが起るのを見たら、天主の国は近いのだと知れ。まことに私はいう。それらがみな実現するまで、今の代はすぎ去らない。天地はすぎ去るが、しかし私のことばはすぎ去らない」。 那时候、耶稣向祂的门徒们说:“日月星辰要显异像,地上的万民要有大难,因着海浪的呼啸而惊慌。人们等着那要临到世界的事,都吓得要死:因为天德要动摇,那时还要看见人子显着大能、光荣地乘云降来。这些事发动时,你们就当挺身、仰起头来:因为你们的救赎近了。”祂又对他们讲个比喻:“你们可看无花果树、及一切的树木。他们结起果实了,你们一见、就知道夏天近了。同样、你们看见这些事情发生,也该知道天主的国近了。我切实告诉你们:这世代还没有过去,这些事情都要实现。天地要过去,我的话却不会过去。” 유시에 예수 문제들더러 이르시되 '일월성신에 괴변이 있을 것이요 땅에는 바다와 물결의 흉포한 소리가 요란하매 만민이 다 위박하리라. 온 세상에 당할 바 환난을 사람들이 무서워하며 기다리기로 마를 것이니 대저 하늘의 능력이 다 진동함일새니라. 이에 인자 큰 권능과 위엄으로 구름을 타고 옴을 보리니 이런 변이 되기 시작할 때에 너희는 머리를 들고 우러러 보라. 대저 너희 등의 구속함이 가까웠나니라' 하시고 이에 비유로써 이르시되 '무화과 나무와 및 다른 나무를 보라. 이미 그 순이 돋으면 여름이 가까운 줄을 너희가 아나니 이와 같이 너희도 이런 변이 있음을 보거든 천주의 나라가 가까운 줄을 알라. 나 진실히 너희에게 이르노니 이 인생들이 멸하기 전에 이 모든 일이 다 되리니 천지는 변할지라도 내 말은 변치 아니하리라.
Credo 信経 信经 신경외움
Ant. ad Offertorium. Ps. 24, 1–3. 奉献文  詩篇 24ノ1-3 奉献经(咏24:1-3) 제헌경(성영24.1-3)
Ad te levávi ánimam meam : Deus meus, in te confído, non erubéscam : neque irrídeant me inimíci mei : étenim univérsi, qui te exspéctant, non confundéntur. 御身に私の霊魂を上げ奉る。我が天主よ、私は御身に信頼し奉る、私は恥じないだろう。私の敵どもが私をあざわらうことのなからんことを。実に、御身に期待する全ての者たちは、辱められることなからん。 我的天主啊!我向祢举起我的灵魂。我依靠祢,求祢莫叫我羞愧。莫叫我的仇敌朝着我狂喜。没有一个期待祢的人,能蒙受羞辱。 내 천주여 내 영혼을 네게 받들어 드리오며 네게 의탁하오니 나로 하여금 부끄러움을 당하지 말게 하시며 또 내 원수들이 나를 비소치 말게 하소서. 대저 네게 의탁하는 자는 누구나 부끄러움을 당하지 아니 하리이다.
Secreta. 密誦 密祷经 묵념축문
Hæc sacra nos, Dómine, poténti virtúte mundátos ad suum fáciant purióres veníre princípium. Per Dóminum nostrum. 主よ、この聖なる[捧げ]ものが、力強き力で浄められたわれらがより清き者として、その[捧げものの]起源[なる御身]に至らしめ給わんことを願い奉る。天主として、(…)。 主,望这祭品发挥伟力,洗涤我们,使我们能日益清洁,趋就它的创造者。因我们主耶稣基督、祢的子,祂和祢、及圣神,是唯一天主,永生永王于无穷世之世。阿门。 주여 이 비사의 권력의 효능으로 우리를 조찰케 하사 더욱 조찰한 자로 제 근원이신 자에게 도달케 하시되, 네 아들 우리 주 그리스도를 인하여 하소서. 저 너와 성신과 한가지로 천주로서 세세에 생활하시고 왕하시나이다. 아멘.
Præfatio de sanctissima Trinitate ; 序誦 三位一体と主日との序誦 天主圣三的颂谢引 성삼감사경
Vere dignum et iustum est, æquum et salutáre, nos tibi semper et ubíque grátias ágere : Dómine, sancte Pater, omnípotens ætérne Deus : Qui cum Unigénito Fílio tuo et Spíritu Sancto unus es Deus, unus es Dóminus : non in uníus singularitáte persónæ, sed in uníus Trinitáte substántiæ. Quod enim de tua glória, revelánte te, crédimus, hoc de Fílio tuo, hoc de Spíritu Sancto, sine discretióne sentímus. Ut, in confessióne veræ sempiternǽque Deitátis, et in persónis propríetas, et in esséntia únitas, et in maiestáte adorétur æquálitas. Quam laudant Angeli atque Archángeli, Chérubim quoque ac Séraphim, qui non cessant clamáre cotídie, una voce dicéntes : Sanctus… 主よ、聖なる父よ、全能永遠の天主よ、われらが御身に、いつもどこにても感謝を捧げるのは、実にふさわしく正しいこと、義務と救いである。御身は、御独り子と聖霊と共に、唯一の天主、唯一の主にて在す。すなわち、御身は、一の位格の単一にて在すのではなく、唯一の実体(substantia)の三位にて在す。御身の御光栄について、御身が啓示するがゆえに、われらが信じ奉ることを、聖子について、聖霊について、差別なく、われらは信じ奉る。真の永遠の天主の本性を告白するにおいて、位格における固有性が礼拝され、本質(essentia)における唯一性と、御稜威における等しさも礼拝されるためである。これを、天使らと大天使らは、智天使も熾天使も、讃美し、絶え間なく声を上げ、日々声をあわせてこう言う。聖なるかな、… 主,圣父,全能永生的天主!我们时时处处颂谢祢,实是正义而必须的,属于我们天职的,也属我们得救的。祢与祢的独子及圣神,只是一个天主,只是一个主;不是因为位是单独一个,却是因为三位同具一个性体。的确,我们所怎样依照祢的启示,相信祢享的光荣,我们无区别地也同样确认祢的圣子,也同样确认圣神共享这个光荣。因此,我们在明认圣三真实而永在的天主性上,同时论位,我们敬拜圣三的各一,论体,我们敬拜圣三的无二,论尊荣,我们敬拜圣三的均等。这圣三的尊荣,是天神们和总领天神们,普知天神们和炽爱天神们,所虔诚歌颂的;他们日复一日,永不停止同声高呼说:圣、圣、圣…… 주여, 성부여, 전능하시고 영원하신 천주여, 우리가 어디서나 항상 주께 감사하는 것이 참으로 당연하고 옳으며, 지당하고 구령에 유익하나이다. 주는 외아들과 성신과 더불어 오직 한분의 천주시요, 오직 한분의 주이시되, 한 위가 아니시고, 한 체로서 세 위시니이다. 주의 계시로 우리가 주의 영광에 대하여 믿는 바를, 성자와 성신에 대하여서도 조금도 다름이 없이 믿나이다. 그리하여 우리는 참되시고 영원하신 천주성을 찬미함에 있어, 위로서는 각 품이시요, 체로서는 하나이시요, 지존하시기는 같으심을 찬송하나이다. 천신들과 대천신들 및 케루빔과 세라핌이 이를 찬양하며, 날마다 간단없이 제창하나이다. 거룩하시다, 거룩하시다, 만군의 천주이신 주는 거룩하시나이다. 하늘과 땅에 주의 영광이 가득하나이다. 천상에 좌정하신이여 호산나, 주의 이름으로 오시는 이는 찬미받아지이다. 천상에 좌정하신이여 호산나.
Ant. ad Communionem. Ps. 84, 13. 聖体拝領誦 詩篇84ノ13 领主咏(咏84:13) 영성체경(성영84.13)
Dóminus dabit benignitátem : et terra nostra dabit fructum suum. 主は、優しさを与え給うだろう。すると私たちの地はその実りを与えるだろう。 上主定要将遐福赐给我们,我们的地、也必生出自己的美果。 주 인자를 베푸시리니 이에 우리 땅이 제 열매를 맺으리로다.
Postcommunio. 聖体拝領後の祈 领后经 영성체후축문
Suscipiámus, Dómine, misericórdiam tuam in médio templi tui : ut reparatiónis nostræ ventúra sollémnia cóngruis honóribus præcedámus. Per Dóminum. 主よ、我らが御身の憐みを御身の聖殿の中で受けんことを。そは、我らの償いの来るべき荘厳[な祝い]を、我らが[それに]ふさわしい名誉をもって準備せんことを。天主として、(…)。 主,愿我们在祢的圣殿中、承受祢的慈惠,好能以相称的敬工、来筹备过这即将来临的我们得救之庆节。因我们主……。 주여 네 성전 가운데서 네 자비를 받게 하사 우리로 하여금 장차 임할 우리 구속의 첨례를 합당한 존경으로 예비케 하시되 네 아들 우리 주 예수 그리스도를 인하여 하소서. 저 너와 성신과 ...

 

待降節第一主日のミサの入祭唱の直前に歌う有名なトロープ:Sanctíssimus namque Gregórius - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

アヴェ・マリア・インマクラータ!愛する兄弟姉妹の皆様、今年の待降節第一主日のミサの入祭唱の直前には、聖伝に従って次の有名なトロープを歌う予定...

待降節第一主日のミサの入祭唱の直前に歌う有名なトロープ:Sanctíssimus namque Gregórius - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

 

 

【グレゴリオ聖歌】待降節第一主日のミサの入祭唱 Ad te levavi を黙想しましょう - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

アヴェ・マリア・インマクラータ!愛する兄弟姉妹の皆様、待降節第一主日のミサの入祭唱Adtelevaviを黙想しましょう。典礼暦の最初の歌は詩...

【グレゴリオ聖歌】待降節第一主日のミサの入祭唱 Ad te levavi を黙想しましょう - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

 

 

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2018年12月2日は、待降節第一主日です。聖伝のミサ(トリエント・ミサ、ラテン語ミサ)のテキストをご紹介します。 - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

アヴェ・マリア・インマクラータ!愛する兄弟姉妹の皆様、2018年12月2日は、待降節第一主日です。ミサのテキストをご紹介します。待降節第一主...

2018年12月2日は、待降節第一主日です。聖伝のミサ(トリエント・ミサ、ラテン語ミサ)のテキストをご紹介します。 - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

 

 

聖伝のミサにおける祭壇のお花の意味とは何か?【クレカリ10周年記念】 - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

 

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【再掲】1830年11月27日:不思議のメダイの聖母の御出現「これをモデルにしてメダイを作りなさい。それを身につける全ての人は、豊かな恩寵を受けるでしょう。」

2020年11月27日 | M.I.(無原罪の聖...
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

11月27日は、不思議のメダイの聖母の御出現の日です。

心のともしびウェブ・サイトの記事の抜粋をご紹介いたします。【サイトにあった誤字を訂正し加筆しました】

【カタリナ・ラブレ】

 カタリナ・ラブレは学校教育を受ける機会に恵まれなかった農家の娘でした。彼女は1806年に北フランスの片田舎、ファン・レ・ムティエ村に生まれ、9歳の時に母を失いました。この母の死は幼い少女にとって、大きなショックでありましたが、イエズスの母なるマリアに頼ることにより、慰めを見い出しました。母の死を知って、カタリナは、母の寝室の椅子に上り、高い棚においてあった聖母像を取り、それを胸に抱きしめて大声でいいました。「愛する聖母よ、私のお母さんになってください」

 以前より、教会ではマリア様への崇敬の念がありましたが、この感動的な出来事が起こってから、マリアの時代が始まったと言えるでしょう。

 その日から、カタリナは聖母に対して、より深い献身的な愛情を捧げること出来る神秘的な力を持った人になったように思えます。未だ年端もいかない少女であったにもかかわらず、母代りとなって、家族の面倒をみなければまりませんでした。父や3人の弟、1人の妹、それに14人の雇人のために、食事のしたく、裁縫、洗濯などの仕事が彼女に課せられました。これらの仕事をしたうえに、彼女は、毎朝に未だ日の昇らない前に家を出て、5キロ先の教会でミサにあずかる時間や、毎日祈る時間をもみつけたのでした。彼女は特に古くいたんだお告げのマリアの御絵の前で祈ることが好きでした。

【修道生活志願者としてのカタリナ】

 彼女が18歳になり、妹が家事を引き受けられる年齢に達した時、カタリナは、父親に修道院に入る許可を願い出ました。父親は、この願いを許すどころか激しく反対し、彼の弟がパリで経営するカフェへ、ウェイトレスとして送ってしまったのです。父親は、都会での魅惑的な生活が、カタリナに、修道女への望み忘れさせてくれるのではないかと思ったからです。

 しかし、彼の思惑通りにはなりませんでした。彼女の修道生活への望みは強まるばかりでした。

 遂に父親は、彼女の望みを入れて許可を与えました。しかしながら父親の許可だけではカタリナの問題は解決しませんでした。彼女が入会を希望していたパリの愛徳童貞会が申込みを拒んだからです。理由は彼女に教育がないということでした。

 しかし彼女は再び願い出ました。他の修道会の修道女の助けもあって、遂に彼女は教育こそ受けていないが、修道院において、手仕事、祈り、犠牲で奉仕出来ることを総長に悟らせました。

 そして1830年1月22日、彼女は志願者として会に受け入れられることになりました。

 4ケ月後にカタリナは、パリのバク通り140番地で修練女として入会を許可されました。カタリナが御出現を見はじめたのは、この修練時代でした。この修練女としての9ケ月間に、彼女は聖堂に入るたびに、聖体の中に確かに在すキリストの御姿をまのあたりに見たのです。

【聖母マリアの出現】

 このように何度も彼女がキリストの御姿に接したあと聖母マリアの御出現が続きました。カタリナは最初の御出現の様子を次のように語っております。

 「聖ヴインセンシオ(愛徳童貞会創立者)の祝日の前夜(1830年7月18日)、修院長マザー・マルタは諸聖人への信心、とりわけ聖母マリアに対する信心についての話を、私たちにしてくださいました。この話は、聖母マリアにお目にかかりたいという、私の望みを一層強くさせましたので、その夜、それが実現するかもしれないという思いで床についたのです。それは、私が長い間念願していたもの でした」

 「私たちは聖ヴインセンシオの祭服の一部をいただきました。私はその布切れを半分にさき、呑み込みました。そして聖ヴィンセンシオが聖母にお目にかかれる恵みを取り次いでくださることを確信して眠りにっいたのです」

 「11時半に『シスター、シスター』と、だれかが私の名前を呼ぶのを聞きました。はっきり目が覚めた私が声のする方を見ると、白衣をまとった4、5歳の男の子が見えました。その子は私に、『早く起きて聖堂にいらっしゃい。聖母マリアがそこであなたをお待ちです』と言いました。とっさに私には次のような考えがひらめきました。だれかが気付くのではないか、と。子供は答えました。『心配しないで。今は11時半です。みんな眠っています。いらっしゃい。待っています』

 私は子供といっしょに御聖堂の方へ歩いて行きました。非常に驚いたことには、私たちの行く先々には、燈がともされていました。聖堂の入口で私の驚きは頂点に達しました。その子が指先で扉に触れるか触れないうちに、扉がひとりでに開いたのです。すべてのランプとロウソクが燃え立っているのを眺めることはほんとうにすばらしいことでした。それは、クリスマスの深夜ミサを思わせました。しかし聖母の御姿は見えませんでした。子供は私を祭壇のそばにある司祭用の椅子の方へ連れて行き、彼もそこで待っていました。長い時間が経ったと思われましたが、遂にその時がやって来ました。子供は私に告げました。『聖母マリアがいらっしゃいます。ここにいらっしゃいます』

 絹ずれのような音が、聖ヨゼフの御絵のそばの祭壇の方から、こちらへ向かってくるのが聞こえ、一人の婦人が、祭壇の前においてある椅子に、腰をかけるのを見ました。私は、その婦人が聖母マリアであるかどうか疑わしく思いました。ずっと私の側に立っていた子供は再び言いました。『このお方は聖母マリアです』

 この瞬間に、私は自分が何を感じ、何が私を通り抜けたかをいい表わすことが出来ませんでした。なぜなら、私はそれが聖母であると思えなかったからです。その時、その子は、大人のような強い口調でいいました。『そのお方は聖母です』

 私は、聖母の前にひざまずき、手を聖母の御膝にかけたのです。私の一生涯の中で、最も甘美な一瞬が過ぎました。私は何を感じたかを述べるとは出来ません。聖母は、私に霊的指導司祭に対しては、どのようにふるまえぱよいのかを話してくださり、いくつかの話してはならない事柄をつけ加えられました。また、祭壇の下を指さして、『困難に出会った時には、ここへ来て心を開くように、そうすれば必要なすべての慰めを受けるでしょう』とおっしゃいました。

 どのぐらい聖母のもとにとどまっていたかわかりません。彼女がお去りになる時は、先程来られた祭壇の方へ消えて行かれました。

 祭壇の階段から身を起こすと子供は先程の場所におりました。彼は、『聖母は行っておしまいになりました』と私に告げました」

 「私たちは、もと来た道を通って帰りましたが、その道は燈で照らされ、子供ばずっと私の左側につきそっていました。この子供は、私の守護の天使であったと思います。私は、常に守護の天使に聖母を見るお恵みに与かれるよう祈っていましたので、彼が、私の前に現われて聖母のもとへ案内してくれたものと考えております。彼は白衣に身を包み、日光よりも輝かしい神秘的な光を発していました。ベッドに戻ると時計が2時を打つのが聞えました。その夜、私はとうてい眠ることが出来ませんでした」

 この時カタリナは、聖母と共に2時間以上過しました。彼女は、その御出現の時に語られた聖母の御言葉をつけ加えました。聖母は、神がカタリナに特別の使命をお委ねになるだろうと告げられました。またカタリナが属している修道会に関しての御勧告も与えられました。最後に、聖母マリアは、全世界に向けて御忠告なさいました。

 聖母の御言葉は、

 「現代は悪の時代です。世界はあらゆる悲惨な目にあうでしょう。けれど祭壇のもとにいらっしゃい。御恵みを願う全ての者、偉大な者にも、とるに足らない者にも御恵みはそそがれるでしょう」

【1830年11月27日:メダイを作りなさい】

  この最初の聖母御出現は、次にカタリナが述べている不思歳のメダイで有名な御出現の前ぶれでした。

 「1830年11月27日、黙想していました時、私は、聖ヨゼフの御絵近くの祭壇から絹ずれのような音を聞きました。その方を見ますと、聖ヨゼフの御絵の高さ位の所に、聖母がいらっしゃるのが見えました。聖母はお立ちになっていらっしゃいました。彼女は中背で白い衣服を召しておられました。お顔の美しさはたとえようもありませんでした」

 「彼女は地球の半分の上に立っておられ、その御足は、緑色に黄色の斑点を持つへびを踏みつけられておりました。御手は胸の下の位置迄上げられ、小さな金色の十字架を上にいただいた世界を象徴する球をあたかも神にお捧げになっているかのように、大変くつろいだ御様子でお持ちになっていらっしゃいました。

 聖母は先ず御目を天に向けられ、そして地に向けられました。私は、各々の指に三つづつ指輪がはめられているのを見ました。きらきら光る宝石で作られたそれぞれの指輪は、四方に輝き渡り、その光は御足元にまであふれ、聖母の御足も見えませんでした。その瞬間、聖母は御目を下に向けられ、私をごらんになりました。私は次のようなお声を聞きました。

 『あなたが見ているこの球は、世界を、特にフランス、とりわけ個々の人々を象徴しています。

そして、この光は願い求める人々に注がれている恵みを象徴しています』

 これによって私は、聖母に祈ることが間違いでないことがよくわかりました。また、彼女に御取次を願う人々には、豊かに報われることもわかったのです。この時聖母のまわりに楕円形のわくが出来その中には、金文字で『原罪なくしてやどり給いし聖マリア、御身に依り頼み奉る我等の為に祈り給え』と、記されていました」

 「金色の球は消え失せ、御手が差しのべられました。その御腕は御恵みの宝石の重みで下りました。そしてお声がしました。

 『これをモデルにしてメダイを作りなさい。それを身につける全ての人は、豊かな恩寵を受けるでしょう。それを首におかけなさい。深い信頼をもってそれを身につける人々は、恵みで満ちるでしょう』

 その時、私には、その絵が裏返ったように見えました。私はメダイの裏を見ました。一本の横木と、十字架をいただい大きなMの字、その下には、二つのみ心、即ち茨の冠でかこまれたイエズスのみ心と、剣でさしつらぬかれたマリアのみ心がありました。そしてその光景は失せました」

 メダイは聖母の御指示にそって作られ、広く普及されることとなりました。このメダイがあまりにも早く広がり、驚くべき恩恵をもたらしましたので、"不思議のメダイ"と名づけられました。

«原罪なくして宿り給いし聖マリア、御身に依り頼み奉るわれらのために祈り給え。»

「汚れなき聖母の騎士会の歌」

汚れ知らぬ 清きみ母
天(あめ)と地との きさいマリア
罪人らの よりどころよ
我らの愛 母なる君
主はことごとく 慈悲の恵みを
君の御手に ゆだね給う
罪ふかき 我らなれど
身許に馳せより 伏して祈る


御身こそは 「み踵(かかと)もて
蛇のかしら 踏みて砕く」
そのお方よ、ただ一人で
全ての誤謬 滅ぼし給う。
マリアの騎士は うまずたゆまで
我が身すべて 御手に委(ゆだ)ねん。
命も死も 身も心も
御旨のままにぞ 使い給え


いと優しき われらの母
汚れの無き 愛の炎 
真理(まこと)の道 避難所(よりどころ)よ、
み母を知る 慈悲の恵み
迷える子らに 与え給えよ。
主の恵みは 御手を通し
救い主の 聖心から
潤いあふれて 与えらるる。





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