Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

私は御身を信じ、礼拝し、希望し、御身を愛します!御身を信じぬ人々、希望せず愛さぬ人々のために、赦しを求めます(天使の祈)

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
2018年 11月の聖伝のミサの予定
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】


11月
死者の月です。煉獄の霊魂たちのために祈りましょう。死について黙想しましょう。
意向:死せる信者のため、よき死を迎えるため
実践すべき徳:祈り
守護の聖人:聖アンドレア

愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)にご招待します

◎2018年 11月の予定
【大阪】聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂(アクセス EG新御堂4階 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 〒532-0002
(JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分)

    11月2日(初金)全ての死せる信徒の記念(1級)黒
            午後4時半~ ミサ聖祭を2回捧げます ←追加されました 
            午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

    11月3日(初土)聖母の土曜日(4級)白
            午前10時 ロザリオ及び告解
            午前10時半 ミサ聖祭(歌ミサ)

    11月6日(火)聖霊降臨後の平日(4級)緑
            午後5時半 ロザリオ及び告解 
            午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

    11月7日(水)聖霊降臨後の平日(4級)緑
            午前6時半 ミサ聖祭

    11月11日(主)聖霊降臨後第25主日(2級)緑(御公現後第5主日)
            午後5時半 ロザリオ及び告解 
            午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

    11月23日(金)殉教者教皇聖クレメンテ1世(3級祝日)赤
            午前10時 ロザリオ及び告解
            午前10時半 ミサ聖祭(歌ミサ)

    11月24日(土)教会博士証聖者十字架の聖ヨハネ(3級祝日)白
            午前10時 ロザリオ及び告解
            午前10時半 ミサ聖祭(歌ミサ)

    11月30日(金)使徒聖アンドレア(2級祝日)赤
            午後4時半 ミサ聖祭(読誦ミサ) 
            午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

【東京】東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図) 「聖なる日本の殉教者巡回聖堂」
    10月22日(月) 聖霊降臨後の平日(4級)緑
            午前7時 ミサ聖祭

    11月4日(主) 聖霊降臨後第24主日(2級)緑(御公現後第4主日) 
            午前10時  ロザリオ及び告解
            午前10時半  ミサ聖祭(歌ミサ)

    11月5日(月) 聖霊降臨後の平日(4級)緑
            午前7時 ミサ聖祭

    11月25日(主) 聖霊降臨後第27主日(2級)緑(聖霊降臨後第24主日) 
            午前10時  ロザリオ及び告解
            午前10時半  ミサ聖祭(歌ミサ)

愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております。

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聖ピオ十世会アジア管区長パトリック・サマーズ神父とのインタビュー

2018年11月14日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
サマーズ神父とのインタビュー


パトリック・サマーズ神父は、今年の8月に新しいアジア管区長となった。彼は、すでに4年の間ここで管区長を務めたカール・シュテーリン神父と交代している。シュテーリン神父は、以前20年間にわたって管区長として務めを果たしたポーランド・東欧に戻った。
アポストル誌(Apostle Magazine)[聖ピオ十世会アジア管区発行のニュースレター]は、サマーズ神父とインタビューする機会を得た。

アポストル:アジア管区へようこそ。それとも、「お帰りなさい」と申し上げるべきでしょうか。

サマーズ神父:はい、ありがとう。高名なダニエル・クチュール神父様のもと、この巨大な管区ですでに働いていたことがあるというのは、その通りです。インドに3年間駐在していましたが、スリランカやマニラ、シンガポールも訪問したことがあります。


アポストル:この新しい任務を与えられて驚かれましたか。

サマーズ神父:私の人生の中で、言葉を失ってしまったことのある何回かのうちの一つだと思います。私は13年間母国を離れて駐在し、昨年、アイダホ北部にある無原罪の御宿り教会の修道院長として、ついに「自由の国」に戻りました。アメリカでアメリカ人として、まさ快適に過ごしていましたが、総会のときに、もう一度海外に行くようにとの電話を受けました。


アポストル:あなたが去って以来、この12年間でアジア管区に多くの変化があったと思われますか。

サマーズ神父:その質問には、多くのレベルに対応した多くの答えがあると思います。短い答えは、「そうです、聖ピオ十世会の使徒職は発展し、私が去ったときよりも、多くの教会、多くの司祭、多くの召命、多くの信者がいます」です。しかし、私は、その情景の背後にある、あらゆる挑戦、あらゆる好機、あらゆる困難についての相当な厚さの本が書かれ得たであろうと確信しています。


アポストル:あなたはここですでに数カ月間を過ごされ、非常に広範囲にわたって旅行なさっています。あなたの新しい責任についてのそういった面をどのようにして見つけるのでしょうか。

サマーズ神父:可能なあらゆる手段(バス、タクシー、人力車、飛行機、その他)によって私たちが行う旅行は、管区長が司祭たちと管区を見るための最上の方法です。
この管区は多くの意味で、聖ピオ十世会の中でユニークです。管区長が、司祭たちに別々にシンガポールの管区本部に飛行機で来るように頼むよりも、自分が行って実際に司祭たちに会う方がはるかに簡単です。地理的に、ここは多くの場所、多くの文化、多くの民族、多くの時間帯がある管区です。旅行が常に悪いことだとは限りません。座りながら机で公式報告書を読むよりも、「手をよごすこと」によって、仲間の司祭たちとともに働くことによって、使徒職をずっとよく理解できることがしばしばあります。


アポストル:事務の仕事や報告書はお好きではないですか。

サマーズ神父:まともな人なら、誰も事務の仕事が「好き」ではないでしょう。でも、管区の行政管理のためには、事務の仕事は必要かつ有益な道具です。


アポストル:あなたは、前任者が二人しかいない地位に就かれています。そのお二人はダニエル・クチュール神父様とカール・シュテーリン神父様です。クチュール神父様は管区長として18年間過ごされ、シュテーリン神父様は良き4年間を過ごされました。これまでに置かれた方向性を変更しようとお考えですか。

サマーズ神父:そのお二人の高名な司祭の良き仕事の全体を見て、その上ですべてを変更しようと考えることは、最も愚かなことだと私は思います。最初の1年は管区の行政や司祭、修道者、数多くの信者を知るために使います。願わくは来年の夏までには、この広大な管区の強みと弱みをよりよく理解できればと思っています。


アポストル:管区長として、あなたはご自分の中心となる義務は何だと思われますか。

サマーズ神父:われらが親愛なる聖ピオ十世会の規則は明確に、管区長の義務は仲間の司祭たちの才能と熱意をうまく使って、聖ピオ十世会の目的を達成することとしています。またこの規則は、管区長は、霊的な、司牧的な、物質的なレベルにおいて、管区の賢明な行政管理のために総長に責任を負っている、と言っています。


アポストル:あなたは、管区の教会やチャペルについて責任があると言っておられませんが。

サマーズ神父:通常、それはそれぞれの地の修道院長の責任です。私はただ、司祭が私に助けを求めるときや、あるいは司祭が必要なときに相談に応じるために、かかわるだけです。私には、御摂理によって、私の管理下に置かれた司祭たちの世話をするという、また司祭たちが状況に応じた義務を果たすために全力を尽くすことと永遠の大司祭である私たちの主の模範にならうことを確実にするという、明確な義務があります。


アポストル:最後に、読者にお言葉をいただけますか。

サマーズ神父:おそらく、この素晴らしい雑誌の寛大な読者の皆さんは、私たちの仕事のために毎日の祈りをしてくださるでしょう。クチュール神父様とシュテーリン神父様がすでにアジア管区をいとも聖なる童貞のご保護のもとに置かれていますから、私はただ、良き霊魂である皆さんに対して、毎日のロザリオのときに私たちを思い出してくださるようお願いするだけです・・・なぜなら、天主の恩寵は、無原罪の御母を通して確かにやって来るからです。


アポストル:お時間をいただき、ありがとうございました。

コメント

聖ヨハネによる福音の第一章(途中まで)をギリシア語とラテン語と日本語でご紹介いたします

2018年11月13日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

聖ヨハネによる福音の第一章(文字数の制限があるので途中まで)をギリシア語とラテン語と日本語でご紹介いたします。リンクは朗読ファイルです。

Κεφάλαιο 1 Capitulum 1 第1章 
1 Ἐν ἀρχῇ ἦν ὁ Λόγος, καὶ ὁ Λόγος ἦν πρὸς τὸν Θεόν, καὶ Θεὸς ἦν ὁ Λόγος. 1 in principio erat Verbum et Verbum erat apud Deum et Deus erat Verbum はじめにみことばがあった。みことばは天主とともにあった。みことばは天主であった。
2 οὗτος ἦν ἐν ἀρχῇ πρὸς τὸν Θεόν. 2 hoc erat in principio apud Deum かれは、はじめに天主とともにあり、
3 πάντα δι᾿ αὐτοῦ ἐγένετο, καὶ χωρὶς αὐτοῦ ἐγένετο οὐδὲ ἕν ὃ γέγονεν. 3 omnia per ipsum facta sunt et sine ipso factum est nihil quod factum est 万物はかれによってつくられた。つくられた物のうちに、一つとしてかれによらずにつくられたものはない。
4 ἐν αὐτῷ ζωὴ ἦν, καὶ ἡ ζωὴ ἦν τὸ φῶς τῶν ἀνθρώπων. 4 in ipso vita erat et vita erat lux hominum かれに生命があり、生命は人の光であった。
5 καὶ τὸ φῶς ἐν τῇ σκοτίᾳ φαίνει, καὶ ἡ σκοτία αὐτὸ οὐ κατέλαβεν. 5 et lux in tenebris lucet et tenebrae eam non conprehenderunt 光はやみに輝いたが、やみはかれを悟らなかった。
6 Ἐγένετο ἄνθρωπος, ἀπεσταλμένος παρὰ Θεοῦ, ὄνομα αὐτῷ Ἰωάννης. 6 fuit homo missus a Deo cui nomen erat Iohannes さて、天主からつかわされた人がいて、その名をヨハネといった。
7 οὗτος ἦλθεν εἰς μαρτυρίαν, ἵνα μαρτυρήσῃ περὶ τοῦ φωτός, ἵνα πάντες πιστεύσωσιν δι᾿ αὐτοῦ. 7 hic venit in testimonium ut testimonium perhiberet de lumine ut omnes crederent per illum この人は、光を証明するために、またすべての人がかれによって信じるために、証人として来た。
8 οὐκ ἦν ἐκεῖνος τὸ φῶς, ἀλλ᾿ ἵνα μαρτυρήσῃ περὶ τοῦ φωτός • 8 non erat ille lux sed ut testimonium perhiberet de lumine この人は、光ではなく、光を証明するために来た。
9 ἦν τὸ φῶς τὸ ἀληθινὸν ὃ φωτίζει πάντα ἄνθρωπον ἐρχόμενον εἰς τὸν κόσμον. 9 erat lux vera quae inluminat omnem hominem venientem in mundum すべての人をてらすまことの光は、この世に来ようとしていた。
10 ἐν τῷ κόσμῳ ἦν, καὶ ὁ κόσμος δι᾿ αὐτοῦ ἐγένετο, καὶ ὁ κόσμος αὐτὸν οὐκ ἔγνω. 10 in mundo erat et mundus per ipsum factus est et mundus eum non cognovit かれは世にあり、世はかれによってつくられたが、世はかれを知らなかった。
11 εἰς τὰ ἴδια ἦλθεν, καὶ οἱ ἴδιοι αὐτὸν οὐ παρέλαβον. 11 in propria venit et sui eum non receperunt かれは、ご自分の家に来られたが、その人々はうけいれなかった。
12 ὅσοι δὲ ἔλαβον αὐτόν, ἔδωκεν αὐτοῖς ἐξουσίαν τέκνα Θεοῦ γενέσθαι, τοῖς πιστεύουσιν εἰς τὸ ὄνομα αὐτοῦ, 12 quotquot autem receperunt eum dedit eis potestatem filios Dei fieri his qui credunt in nomine eius しかし、かれをうけいれた人々には、みな、天主の子となれる能力をさずけた。そのみ名を信じるすべての人たち、
13 οἳ οὐκ ἐξ αἱμάτων οὐδὲ ἐκ θελήματος σαρκὸς οὐδὲ ἐκ θελήματος ἀνδρὸς ἀλλ᾿ ἐκ Θεοῦ ἐγεννήθησαν. 13 qui non ex sanguinibus neque ex voluntate carnis neque ex voluntate viri sed ex Deo nati sunt それは、血統ではなく、肉体の意志ではなく、人の意志ではなく、ただ天主によって生まれた人々である。
14 Καὶ ὁ Λόγος σὰρξ ἐγένετο καὶ ἐσκήνωσεν ἐν ἡμῖν (καὶ ἐθεασάμεθα τὴν δόξαν αὐτοῦ, δόξαν ὡς μονογενοῦς παρὰ Πατρός) πλήρης χάριτος καὶ ἀληθείας • 14 et Verbum caro factum est et habitavit in nobis et vidimus gloriam eius gloriam quasi unigeniti a Patre plenum gratiae et veritatis みことばは肉体となって、私たちのうちに住まわれた。私たちは、その栄光を見た。それは、おんひとり子としておん父からうけられた栄光であって、かれは、恩寵と真理とにみちておられた。
15 Ἰωάννης μαρτυρεῖ περὶ αὐτοῦ καὶ κέκραγεν λέγων • Οὗτος ἦν ὃν εἶπον Ὁ ὀπίσω μου ἐρχόμενος ἔμπροσθέν μου γέγονεν, ὅτι πρῶτός μου ἦν • 15 Iohannes testimonium perhibet de ipso et clamat dicens hic erat quem dixi vobis qui post me venturus est ante me factus est quia prior me erat ヨハネは、かれを証明して、「"私のあとに来るお方は、私よりすぐれた方で、私より前に存在しておられた"といったのは、この人のことだ」と宣言した。
16 ὅτι ἐκ τοῦ πληρώματος αὐτοῦ ἡμεῖς πάντες ἐλάβομεν, καὶ χάριν ἀντὶ χάριτος. 16 et de plenitudine eius nos omnes accepimus et gratiam pro gratia そうだ、私たちは、そのみちあふれるところから、恩寵に次ぐ恩寵をうけた。
17 ὅτι ὁ νόμος διὰ Μωϋσέως ἐδόθη • ἡ χάρις καὶ ἡ ἀλήθεια διὰ Ἰησοῦ Χριστοῦ ἐγένετο. 17 quia lex per Mosen data est gratia et veritas per Iesum Christum facta est なぜなら、律法はモイゼを通じて与えられたが、恩寵と真理とは、イエズス・キリストによって私たちの上に来たからである。
18 Θεὸν οὐδεὶς ἑώρακεν πώποτε • ὁ μονογενὴς Υἱὸς ὁ ὢν εἰς τὸν κόλπον τοῦ Πατρός, ἐκεῖνος ἐξηγήσατο. 18 Deum nemo vidit umquam unigenitus Filius qui est in sinu Patris ipse enarravit 天主を見た人は一人もいない。おん父のふところにおいでになるおん独子の天主が、これをお示しになった。
19 Καὶ αὕτη ἐστὶν ἡ μαρτυρία τοῦ Ἰωάννου, ὅτε ἀπέστειλαν οἱ Ἰουδαῖοι ἐξ Ἱεροσολύμων ἱερεῖς καὶ Λευίτας ἵνα ἐρωτήσωσιν αὐτόν • Σὺ τίς εἶ; 19 et hoc est testimonium Iohannis quando miserunt Iudaei ab Hierosolymis sacerdotes et Levitas ad eum ut interrogarent eum tu quis es ところで、ユダヤ人が、イエルザレムから、司祭たちとレヴィ人たちとをヨハネのもとにおくり、「あなたはだれですか?」と問わせると、ヨハネは次のように証明した。
20 καὶ ὡμολόγησεν καὶ οὐκ ἠρνήσατο, καὶ ὡμολόγησεν ὅτι ἐγὼ οὐκ εἰμὶ ὁ Χριστός. 20 et confessus est et non negavit et confessus est quia non sum ego Christus かれは、否定することなく宣言し、「私はキリストではない」と宣言した。
21 καὶ ἠρώτησαν αὐτόν • Τί οὖν; Ἡλίας εἶ σύ; καὶ λέγει • Οὐκ εἰμί. Ὁ προφήτης εἶ σύ; καὶ ἀπεκρίθη • Οὔ. 21 et interrogaverunt eum quid ergo Helias es tu et dicit non sum propheta es tu et respondit non 「すると、だれですか?エリアですか?」とまたたずねたが、「いや、私はそれではない」と答えた。「あの預言者ですか?」とたずねると、また「いや」と答えた。
22 εἶπον οὖν αὐτῷ • Τίς εἶ; ἵνα ἀπόκρισιν δῶμεν τοῖς πέμψασιν ἡμᾶς • τί λέγεις περὶ σεαυτοῦ; 22 dixerunt ergo ei quis es ut responsum demus his qui miserunt nos quid dicis de te ipso そこでかれらは、「あなたはだれですか?私たちをつかいによこした人々になにか返事をもっていかしてください。あなたは自分をだれだといわれるのですか?」ときいた。
23 ἔφη • Ἐγὼ φωνὴ βοῶντος ἐν τῇ ἐρήμῳ • Εὐθύνατε τὴν ὁδὸν Κυρίου, καθὼς εἶπεν Ἡσαΐας ὁ προφήτης. 23 ait ego vox clamantis in deserto dirigite viam Domini sicut dixit Esaias propheta ヨハネは、「預言者イザヤがいっている"荒れ野に叫ぶものの声、主の道を正しくせよ"とは私のことである」と答えた。
24 καὶ ἀπεσταλμένοι ἦσαν ἐκ τῶν φαρισαίων. 24 et qui missi fuerant erant ex Pharisaeis さらにまたあるファリザイ人がつかわされた。
25 καὶ ἠρώτησαν αὐτὸν καὶ εἶπον αὐτῷ • Τί οὖν βαπτίζεις, εἰ σὺ οὐκ εἶ ὁ Χριστὸς οὐδὲ Ἡλίας οὐδὲ ὁ προφήτης; 25 et interrogaverunt eum et dixerunt ei quid ergo baptizas si tu non es Christus neque Helias neque propheta そして「あなたがキリストでもなく、エリアでもなく、あの預言者でもないとしたら、なぜ、洗礼をさずけるのですか?」とたずねた。
26 ἀπεκρίθη αὐτοῖς ὁ Ἰωάννης λέγων • Ἐγὼ βαπτίζω ἐν ὕδατι • μέσος ὑμῶν ἕστηκεν ὃν ὑμεῖς οὐκ οἴδατε, 26 respondit eis Iohannes dicens ego baptizo in aqua medius autem vestrum stetit quem vos non scitis するとヨハネは、「私は水によって洗礼をさずけているが、あなたたちの中に、見知らぬ人が一人立っている。
27 ὁ ὀπίσω μου ἐρχόμενος, οὗ ἐγὼ οὐκ εἰμὶ ἄξιος ἵνα λύσω αὐτοῦ τὸν ἱμάντα τοῦ ὑποδήματος. 27 ipse est qui post me venturus est qui ante me factus est cuius ego non sum dignus ut solvam eius corrigiam calciamenti それは、私のあとに来る人で、私はそのはきものの、ひもをとく値打ちもない」と答えた。
28 ταῦτα ἐν Βηθανίᾳ ἐγένετο πέραν τοῦ Ἰορδάνου, ὅπου ἦν Ἰωάννης βαπτίζων. 28 haec in Bethania facta sunt trans Iordanen ubi erat Iohannes baptizans これらのことがあったのは、ヨハネが洗礼をさずけていたヨルダンの向こうのベタニアであった。
29 Τῇ ἐπαύριον βλέπει τὸν Ἰησοῦν ἐρχόμενον πρὸς αὐτόν, καὶ λέγει • Ἴδε ὁ ἀμνὸς τοῦ Θεοῦ ὁ αἴρων τὴν ἁμαρτίαν τοῦ κόσμου. 29 altera die videt Iohannes Iesum venientem ad se et ait ecce agnus Dei qui tollit peccatum mundi 翌日、ヨハネは、自分の方にむかってこられるイエズスを見て、「世の罪をとりのぞく天主の小羊を見よ。
30 οὗτός ἐστιν περὶ οὗ ἐγὼ εἶπον • Ὀπίσω μου ἔρχεται ἀνὴρ ὃς ἔμπροσθέν μου γέγονεν, ὅτι πρῶτός μου ἦν. 30 hic est de quo dixi post me venit vir qui ante me factus est quia prior me erat 私が、かつて、"私のあとに来るお方は、私よりすぐれたもので、私より前に存在しておられた"といったのは、あのお方のことである。
31 κἀγὼ οὐκ ᾔδειν αὐτόν, ἀλλ᾿ ἵνα φανερωθῇ τῷ Ἰσραήλ, διὰ τοῦτο ἦλθον ἐγὼ ἐν ὕδατι βαπτίζων. 31 et ego nesciebam eum sed ut manifestaretur Israhel propterea veni ego in aqua baptizans 私はかれを知らないが、しかし、私が水で洗礼をさずけに来たのは、かれがイスラエルにおあらわれになるためである」といった。
32 Καὶ ἐμαρτύρησεν Ἰωάννης λέγων ὅτι τεθέαμαι τὸ Πνεῦμα καταβαῖνον ὡς περιστερὰν ἐξ οὐρανοῦ, καὶ ἔμεινεν ἐπ᾿ αὐτόν. 32 et testimonium perhibuit Iohannes dicens quia vidi Spiritum descendentem quasi columbam de caelo et mansit super eum それからまた、「私は、霊が鳩のような形で天からくだり、かれの上にとどまるのを見た。
33 κἀγὼ οὐκ ᾔδειν αὐτόν, ἀλλ᾿ ὁ πέμψας με βαπτίζειν ἐν ὕδατι, ἐκεῖνός μοι εἶπεν • Ἐφ᾿ ὃν ἂν ἴδῃς τὸ Πνεῦμα καταβαῖνον καὶ μένον ἐπ᾿ αὐτόν, οὗτός ἐστιν ὁ βαπτίζων ἐν Πνεύματι Ἁγίῳ. 33 et ego nesciebam eum sed qui misit me baptizare in aqua ille mihi dixit super quem videris Spiritum descendentem et manentem super eum hic est qui baptizat in Spiritu Sancto 私はかれを知らなかったが、水によって洗礼をさずけるようにと私をつかわされた方が"あなたは、その人の上に霊がくだり、そしてとどまるのを見る。それこそ聖霊で洗礼をさずけるものである"とおおせられた。
34 κἀγὼ ἑώρακα, καὶ μεμαρτύρηκα ὅτι οὗτός ἐστιν ὁ Υἱὸς τοῦ Θεοῦ. 34 et ego vidi et testimonium perhibui quia hic est Filius Dei 私はそれを見、そして、かれこそ天主のみ子であると証明した」と語った。
コメント

レジス・アルノーの「「妊娠中絶後進国」の日本女性に感じる哀れさ」という上からの目線の日本人女性を馬鹿にしている記事を読んで

2018年11月13日 | プロライフ
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

レジス・アルノーというフランス人男性が「「妊娠中絶後進国」の日本女性に感じる哀れさ」という記事を上からの目線で書いて、日本人女性を馬鹿にしている。その論調はあたかも彼が製薬会社から金をもらって書いたかのようだ。確かに、最も多く「いいね」をつけたコメントは、薬の話をしている。

【日本は「中絶後進国」?】

日本は、第二次世界大戦直後すでにアメリカの占領下のもとに1948年に「妊娠中絶」が合法化した。旧ソ連が世界で初めて1920年に人工妊娠中絶を合法化したのに続いたのが日本だ。フランスは1975年に合法化した。

米民間団体「グローバル・ライフ・キャンペーン(GLC)」「中絶世界報告書」の発表によれば、過去1世紀で10億を超える胎児が母親の胎内で殺された。累計の1位中国で、2位はロシアで、3位は米国、4位はウクライナだ。日本は5位だ。更に言えばベトナムが6位、インドが7位、ルーマニアが8位、韓国が9位、カザフスタンが10位だ。

しかし、堕胎は犯罪だ。何故なら胎内の胎児は立派な人間だからだ。たとえ胎児が目も見えず話すことも出来ないとしても。堕胎は殺人だ。無辜の命を奪う極悪の行為だ。私たちにはこの小さな命を守る義務がある。

1988年にフランスでは世界で最初の経口妊娠中絶薬(アボーション・ピル)と呼ばれる堕胎のための毒薬がフランスの厚生大臣によって認可された。「ミフェプリストン」別名 RU-486だ。きれいなお母さんのお腹の中を、恐ろしい砂漠のような荒地に変化させて赤ちゃんがそこに住めなくする毒薬だ。女性の体にとって健康なものであるはずがない。

最近日本で話題になった避妊ピル(モーニングアフターピル)「ノルレボ錠0.75mg」も同じだ。受精の瞬間から立派な一人の人間だが、この避妊ピルは受精卵が子宮内膜に作用し、お母さんのお腹を荒らして受精卵を着床しにくくして堕胎をさせる毒薬だ。政府が使用を認めたとしても、殺人は殺人だ。

【日本の女性はアジアの発展途上国と比べても後れを取っている?】

レジス・アルノー氏は宣言する。「日本の女性は、現代的な避妊薬の使用に関して多くの先進国に後れを取っている。… 日本の女性はアジアの発展途上国と比べても後れを取っている。2015年の国連の調査によると、タイの女性のピルの使用率は33.7%で日本の女性の1.1%を大きく上回る。云々」

ピルの使用率が低い=後れている、とは誰が決めたのか?製薬会社か?

アメリカのCIAのレポートによると、フランス(人口67,106,161人)では、200,000人がHIV/エイズに罹病している。一万人のフランス人のうち29.8人がこの病気にかかっている。Index Mundiによると、フランスの罹病数は世界で30位だ。
同じレポートによれば、タイ(人口68,414,135人)ではHIV/エイズにかかっている人々は440,000人いる。タイの一万人のうち64人がこの病気にかかっている。Index Mundiによると、タイの罹病数は世界で16位だ。
日本(人口126,451,398人)でHIV/エイズにかかっている人々は28,000人だ。日本人一万人にたった2人だ。

アルノ―氏から日本はHIV/エイズでも、アジアの発展途上国と比べても確かに後れを取っていると言う声が聞こえてくる気がする。(なるほど多くの人がHIV/エイズになれば製薬会社がもうかるだろう。)

HIV/AIDS - people living with HIV/AIDS TOP 100

【日本の女性の美しさ】

日本人は昔から子供を大切にしてきた。母親が自分の子供を愛さないわけがあるだろうか?日本の女性たちは子供を産んで育てるのを幸福だと考えている。

アルノー氏は「フランスの女性と比較して、日本の女性は性と生殖に関する権利に関する限りいまだに縄文時代に暮らしていると言える」と侮辱して挑発しようとする。

フランス人女性は、自分の胎内に宿った別の生命を自分勝手に殺すことを「権利」だと考えているから美しいのか? それは身体障害者や優生学的に劣った者たちの生命を殺害していったナチスと同じ考えだ。ナチスの信奉者がそれほど美しかったのか? それともナチスについて行けない私たちはあまりに大きな暗闇の中にいるので、自分たちが暗闇にいることがわかっていないとでも言うのか?

小さなかけがえのない生命を大切にしない人々こそ、縄文時代以前の野蛮ではないのか。自分たちが遅れているのかを自覚していないのはどちらだろうか。

日本の女性は自然を愛する。日本の女性の中には、お産婆さんのところで自然なお産をしたいという方もいる。麻酔出産だけが良いとは誰が決めたのだ?私の友人のフランスの女性も日本で産婆さんによって自然にお産をすることを選んでそれを喜んでいる。フランス人女性が日本の良さを知って感謝したのだ。

フランス人が日本人に、フランスではそうしているから日本人女性もそうしなければならない、という上からの目線での論理はおかしい。日本人は自分たちが自覚的に自分たちのものとして大切にしているものがあるからだ。

【フランスの人々の美しさ】

私は日本人だ。しかしフランス人の友人たちがいる。確かにフランスの女性の美しさに驚嘆する。しかし、彼女たちの本当の美しさとは彼女たちの信仰と貞潔の美しさだ。フランスに住む私の友人たちは、聖伝のカトリック信仰を守っている。彼女たちはお母さんになると、7~9名の子供たちを産んで幸福な母親となっている。彼女たちはフランスを愛している。子供たちをたくさん育てることは、容易なことではない。自分の自由も子供たちのために犠牲にしなければならないからだ。しかし愛によって、あえて多くの子供を育てることを自ら進んで多くの子供たちの母親となることを望み選んでいる。マスコミに左右されずにより気高い理想のために自分の人生を送っている。

女性だけではない。フランスでは若者たちがいま「生き残った者たち」Survivants というグループを作っている。なぜなら堕胎が女性だけの問題であるとはウソだということに若者たちが気が付いたからだ。堕胎「天国」(地獄?)の現代社会に今生きている私たちはみな「生き残った者たち」だからだ。

フランスの統計では、お母さんのお腹に身ごもった5人のうち一人は、お腹の中で殺されて生まれてくることが出来なかったからだ。もしかしたら私たちもそのうちの一人だったかもしれない。私たちには本当は、お姉さんが、お兄さんが、妹が、弟がいたはずだった。私たちは皆、たまたま中絶されていなかったことという意味での生き残りだからだ。

しかも、もしも私たちが「体外授精」の赤ちゃんだったとしたら、私は生き残ったけれども、その陰で、私の知らない多くの兄弟姉妹たちが殺された、どこかで冷凍されている、何かの変な実験材料の対象になって虐殺されている、という事実に気づいたからだ。マスコミの世論操作から独立して、立ち上がっている気高い青年たちがフランスに多く存在しているのは本当に美しい。

日本では公式の統計によると、2017年に16万4621人の赤ちゃんが、2016年には16万8015人が堕胎された。2017年に生まれた子どもの数(出生数)は94万6060人、2016年の出生数は97万6979人だった。2017年には本当なら16万4621+94万6060=111万0681人生まれるはずだった。2016年には114万4994人が生まれるべきだった。日本では15%が、7人に1人が殺されている。7人のうち6人が生き残って生まれてきたのだ。

フランスでは多くのそしてますます増え続けるイスラム教徒のフランス人たちもいる。彼女たちは堕胎をしない。

フランスでは中絶手術が払い戻されて、無料でできるようになったのかもしれない。フランスでは簡単に避妊薬を得ることができて、血税がそれを支払っているのかもしれない。統計によると、数十年後には、フランスでは第一言語がアラビア語になる、シャリーア(イスラム法)の支配するイスラム共和国になるだろうと読んだことがある。

ワシントン・タイムズによると2057年にはイスラム教徒が多数派になるそうだ。

何故ならフランスに元々いたフランス人たちの出産率は女性一人あたり1.4人だが、フランスのイスラム教の女性は一人あたり3.4から4人の子供を産むからだ。現在、フランスの人口は6800万だが、その内10%はイスラム教の人々だ。

イスラム教徒のフランス人たちは将来、ますます姿を消そうとしている元々のフランス人たちについて何と言うのだろうか?「白人のフランス人女性は、堕胎と避妊をして性と生殖に関する「権利」を謳歌して自由奔放に子供を殺していたから美しかった」と言うのだろうか? それとも「フランス人女性たちは野蛮時代にいた遅れた人々だった、イスラム化したお陰で、彼女たちは堕胎や避妊から守られるようになった」と言うのだろうか?

アルノー氏のいう「自立」というのは、とどのつまり「妊娠しないための薬を安く合法的に簡単に手に入れたい」ということだ。こんなのは自立ではない。何故なら、彼の言っている「自分の運命を自分で決める力」とか「自立」というのは、薬物(避妊薬・麻酔・堕胎の薬)の力にでなにもかも解決しようということだからだ。とどのつまり「自分で」とか「自立」ではなく、女性をより簡単に薬漬けにして薬物に依存させることだ。これでは薬の奴隷ではないか。

もしも本当に美しさというものが、「自立」や「自分の運命を自分で決める力」に由来して、製薬会社のロビー活動によるものでないとしたら、日本人は、フランス人が何をしようと私たち自身の価値を大切にする。

日本人は、日本の将来である自分たちの子供の命を自立して守る、日本の運命を自分で守る、日本を製薬会社に売り飛ばさないことを選ぶべきだろう。

もちろん、お金の誘惑や貞潔に反するものの誘惑の力は大きい。誘惑に負けないように、私たちは天主の聖母、終生童貞なる聖マリアに祈る。

聖母よ、日本の女性たちとフランスの女性たちを守ってください。

聖母よ、日本の女性とフランスの女性たちが、聖母マリア様のように、本当の意味で美しくありますようにお祈り下さい!

聖母よ、お母さんの胎内にいる罪なき小さな命たちを、堕胎という大人の自分勝手な犯罪行為から守ってください!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
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2018年9月23日 聖霊降臨後第18主日のミサ 「立ち上がって、床を取って、家に帰れ」の深い意味を黙想する

2018年11月12日 | お説教・霊的講話
2018年9月23日(主日)聖霊降臨後第18主日のミサ
小野田神父 説教


日本の聖なる殉教者巡回教会にようこそ。

今日は2018年9月23日、聖霊降臨後第18主日です。

今日この午後は特別のプログラムがあります。聖ピオ十世会のシスターがいらしており、14時半からシスター会のどのような生活をしているか、という事をスライドショーで皆さんにお見せしたいと思っています。14時半からです。どうぞなるべく多くの方が、シスターの特別のご紹介にいらして下さる事を期待しています。よろしくお願いします。

そして今日は16時から主日の第2晩課があります。明日は休日ですが、7時からミサがあります。次のミサは、10月7日です。



“Surge, tolle lectum tuum, et vade in domum tuam.”
「起きて床を取りなさい。そしてお前の家に帰りなさい。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日聖霊降臨後第18主日のこのミサでは、イエズス様が奇跡を行なった事を、この史実を読みました。なぜでしょうか?

なぜかというと、今日のこの福音書に出てくる中風の半身不随の人は、皆さんであり、私であります。私たちは今日、教会に運ばれて来ました。今日イエズス様と会って、イエズス様からこの言葉を聞かなければなりません、「さぁ、起き上がって、床を取って、家に帰りなさい。」

この奇跡が今日起こらなければなりませんが、

⑴なぜ一体、今日こんな話が出るのか?

⑵次に、この奇跡が起こる為には、私たちはどうしなければならないのか?一体何が起こるのか?という事を黙想して、遷善の決心を立てる事にします。


⑴では一体、今日何でこの話が出たのでしょうか?

なぜかというと、8月15日、聖母の被昇天、マリア様が天に上げられた祝日の次、9月14日、イエズス様の十字架が天高くに上げられて、称讃させられた事を見ました。教会はこの2つの祝日から、「主の来臨は近い。世の終わりは近い」としるしを、時のしるしを見ています。

なぜかというと、世の終わりには、人の子のしるしが、十字架のしるしが、空に現れるからです。なぜかというと、世の終わりには、十字架によって私たちは裁かれるからです。

ですから教会は既に、私たちの祖国である天国での、私たちの本当の家に帰る事を予感しています。ですから、私たちが天国に天の家に帰る事ができるように、私たちを既に準備させようとしています、「十字架のしるしはもう現れた。世の終わりは近い。さぁ、主の裁きを受ける準備をしなさい」と。

そこで今日この教会は、「教会」というのはつまり「天のエルサレム」の象りでもあります。「エルサレム」というのはヘブライ語で「平和のビジョン」という意味です。「サレム」というのは「平和」という意味です。「平和を、私たちがこの目で見る事。」つまり天主の至福直観を、顔と顔を合わせて見る事、天国の象りでもあります。

教会はですから、私たちが教会に入るやいなや、司祭が教会に入場するやいなや歌った、歌う歌が、「主よ、私たちに平和を下さい。平和のビジョンを下さい。本当の天国での至福直観の平和を下さい」と歌っています。「主の家に行こうと言われて、」つまり、「天国に行こうと言われて、天国での幸せを一緒に味わおうと言われて、私は喜んだ。」「あぁ、主の、天主の家に行くというのは、天国に行くという事は、どれほど嬉しい事でしょうか。」私たちは喜びに満ちています。

では、この事が起こる為に、一体教会は何を祈っているかというと、「主の憐れみの力がありますように。」“tuae miserationis operatio.”これがありますように、と言いますが、つまりこれは、「主の憐れみの働き」というのは、「ミサ聖祭」の事であります。

ミサ聖祭によって、私たちがイエズス様と出会って、イエズス様を目の前にして、イエズス様が私たちの現前に来られて、そして私たちの心の中にも、聖体拝領によって来られる、という憐れみの御業が行なわれるところだからです。

聖パウロは今日は、私たちが主の裁きを受ける準備をする事ができるように、2つの事を提案しています。

まず、「感謝」をする事。私たちが受けた全ての御恵みを感謝する事。

私たちがこの目で美しい世界を見る事ができるというのも、指がこうやって動く事も、健康である事も、この自然の御恵みだけでもものすごい御恵みです。私たちが生きているという事だけでも御恵みです。

しかしイエズス様は、それよりもはるかに超えた、超自然の御恵みを下さいました。洗礼の御恵み。罪の赦しの御恵み、告解の秘跡の御恵み。聖体拝領の御恵み。堅振の御恵み。この超自然の御恵み一つ一つは、大自然、全宇宙の創造全部の美しさをはるかに超える御恵みです。それを私たちは次から次へと受け続けてきました。

聖パウロは私たちの名前によって感謝しています、「私たちの受けた御恵みによって感謝する。これが、主の現れる日まで、最後の日まで、私たちがこの御恵みによって固められるように祈る。イエズス・キリストの御来臨の時まで祈る」と「固められるだろう」と言っています。

この聖パウロの2つの提案を受けて、「感謝」と、そして「最後までこの御恵みを守る」という事を「裁きの日まで堅忍する」という事を、2つの事を思うと、教会はあたかも聖パウロの話を聞いた言葉を、こだまして歌っているかのようです。

まずGradualでは昇階誦では、「あぁ、『主の家に行こう』と言われて、喜んだ。『天国に行こう』と言われて、喜んだ。『天主の家に行く』というのは、何という御恵みだろうか。感謝する。」

そしてその次に、「イエズス様からの裁きが来る。裁きの時には、私たちは御恵みを受けたけれども、しかし異邦人たちは、その裁きの主が来る時には恐れおののくだろう、震えるだろう。そしてこの世でどれほど力のある王であったとしても、その富と、その武力と、武器と、軍隊と、名声と、自分の頭脳に信頼していた、しかし天主に信頼していなかった王たちは、恐れるだろう。しかし私たちは喜ぶ。主の家に行こうと言われた。」これがアレルヤです。

私たちが天主のしるしを見て、主の来臨を準備する。これが為に今日は、私たちは教会に運ばれて来ました。

⑵なぜかというと、第2の点は、私たちは今、裁きを受ける、今、「主の家に行こう」と言われたとしても、その準備ができていないからです。

見て下さい。私たちは全身麻痺しているかのように、道端で動く事もできずに、家に帰る事もできずに、苦しんでいる状態です。なぜ家に帰る事ができないか、なぜ体を動かす事ができないかというと、自分の思う通りに「こうしなければならない」と思っても、体が動かないのです。手が震えてるし、動かそうと思っても動かない。精神は、「天に上がろう」と思っているのですけれども、肉体は地上の事だけを考えています。この地に這いつくばっているのです。その為に私たちは、家に帰る事ができずにいます。

そこでイエズス様は今日、私たちにこう仰って下さいます、人の子が罪を赦す事ができる事を示す為に、奇跡を行ないます、「起き上がって、床を取って、家に帰りなさい。」するとこの男はすぐ起き上がって、床を取って家に帰ります。

これは、過去の私たちの洗礼の象りでもありますし、そして今日この御ミサで、イエズス様が私たちの霊魂に働きかけて下さる事の象りでもあります。

今日では私たちはどうやったら、この起き上がって、床を取って、家に帰る事ができるのでしょうか?

それは、聖体拝領の時の聖体拝領誦に書かれているようです、“Tollite hostias, et introite in atria ejus: adorate Dominum in aula sancta ejus.”

私たちは麻痺していますが、なぜかというと、この地上の事で、天の事を、天を見ようとするのを嫌がっているからです。イエズス様の後に従う事を躊躇しているからです。イエズス様の近くに行く事を躊躇しているからです。でもイエズス様はどこにいらっしゃるかというと、十字架のもとにおられます。「もしも私に従いたいと思うならば、自分の十字架を取って、我に従え。」

ですから私たちも、自分の十字架を取って、いけにえを取って、イエズス様に従わなければなりません。イエズス様に会いに行かなければなりません。

第2には、これがちょうど「自分の床を取る」という事と同じではないでしょうか。そして「立ち上がって家に帰る」と。これはちょうど、「主の中庭に、主の家の中庭に入りなさい」という事と同じではないでしょうか。つまり「私たちは聖体拝領をする時に、主の十字架を取って、イエズス様のいけにいえに合わせて、私たちもいけにえとして自分を捧げて、そして私たちの心の中に主が、イエズス様が入って下さるように、私たちもイエズス様の聖心の中に入ろう。そしてイエズス様を礼拝する。」イエズス様を礼拝する、すなわちこれが天国への幸せの味見であり、前兆であります。

最後に、永遠にイエズス様を礼拝する事ができる為に、天国の家に行く事ができる為に、教会は今日、このリハーサルをするように、私たちを招いています。その時に私たちは、イエズス様からの声を聞くでしょう。最後に、「立ち上がって、床を取って、家に帰れ。」私たちはその時に復活して、そしてイエズス様の準備して下さった私たちの本当の家、天国に帰らなければなりません。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
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韓国ナジュ(羅州)の聖母巡礼所に関する通達(日本カトリック司教協議会常任司教委員会)

2018年11月11日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ナジュの「聖母」についての、カトリック中央協議会による参考資料です。

ナジュの「聖母出現」はすでに何度も当地の司教によって排斥されていました。私たちにはこれに反対するようなカトリック聖伝の教えは全くありません。(第二バチカン公会議の幾つかの新しい教えが過去の教導職や歴代の教皇様たちの不可謬の教えと矛盾しているので、どちらかを選ばざるを得ない、ということとは、私的啓示の場合、話は全く違います。)私たちは20年前から一貫して光州教区の大司教の判断に従い、ナジュの「聖母出現」に反対してきました。私的啓示を信じることはドグマではありません。ましてや当地の司教はこれを判断する最良の立場にいます。私たちはナジュの「聖母出現」は非常に危険なものであり、カトリックの信仰によるものではない、と判断します。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2018年11月1日

韓国ナジュ(羅州)の聖母巡礼所に関する通達

日本カトリック司教協議会常任司教委員会

 韓国カトリック司教協議会秘書のキム・ジョンチュル神父は、クワンジュ(光州)教区大司教で韓国カトリック司教協議会会長のキム・ヒジュン大司教の名代として、同国ナジュの聖母巡礼所に関する書簡(2018年9月21日付)と二つの文書を、アジア司教協議会連盟会長オズワルド・グラシアス枢機卿宛てに送付し、それらをアジア各国の司教協議会へ配信するよう要請しました。書簡と一緒に送付された文書は、クワンジュ大司教区の前教区長チェ・チャンム大司教のナジュの聖母像にまつわる現象に関する教令(2008年1月21日)と現教区長キム・ヒジュン大司教のガイドライン(2012年7月6日)です。
 教令とガイドラインによると、1985年6月30日に始まった、ジュリア・ユンの家の聖母像の目から血の涙が流れ出るという現象は、2008年と2011年に発表された教皇庁教理省の公式見解をもって確認できるように、超自然的なものではありません。すなわち神に由来するものでもありませんし、健全なキリスト教信心とも関係がないということです。
 上記書簡は、韓国カトリック司教協議会が、ナジュの聖母巡礼所に関するクワンジュ教区大司教の教令とガイドラインの内容を支持し、アジアの司教、司祭、信者たちにナジュの聖母巡礼所を訪問することのないよう求めています。
 そこで、2018年11月1日に開催された日本カトリック司教協議会常任司教委員会において、日本の教会でも「ナジュへの訪問を控えること」を周知徹底することを申し合わせました。

背景解説

 韓国・クワンジュ(光州)教区において、「聖母の奇跡」として話題を呼んできた「ナジュ(羅州)の聖母像」については、以前からクワンジュ教区から警戒されており、チェ・チャンム(崔昌武)大司教(クワンジュ教区、2001年当時)は、この「奇跡」を信奉するグループに関与または参加しないように警告を発していた。
 このナジュの聖母像は、1985年にユン・ホンソン(尹洪善)氏の所有する聖母像が「泣き出した」として、「啓示」を受けるようになったと主張して以来、一部で話題となり、支持者が集まり、「血の涙を流した」「香油を目から流した」などと話が大きくなっていたが、98年、チェ大司教の前任のユン・コンヒ(尹恭熙)大司教も「奇跡とみなす根拠が存在しない」と宣言しており、当時の韓国司教協議会(CBCK)会長チョン・ジンスク(鄭鎭奭)大司教も、教区の決定は「バチカンとの緊密な連絡を経て」行われたと明言していた。
 以後も、ユン氏は「ナジュの奇跡」を訴え続け、08年には、チェ・ヨンス(崔龍洙)大司教(テグ教区)が、ユン氏の信奉者たちが「ナジュの聖母聖堂での宗教的活動に参加したことにより伴事的(自動的)破門を招いた」が、「真に彼らの過ちを悔い改め、教会に戻るなら」ゆるしを得ることができる、と警告していた。
 09年には、「ナジュの奇跡」支持者を伴事的破門としたクワンジュ教区の決定を、バチカンも支持している。

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