Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

私は御身を信じ、礼拝し、希望し、御身を愛します!御身を信じぬ人々、希望せず愛さぬ人々のために、赦しを求めます(天使の祈)

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
2018年 6月の聖伝のミサの予定
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】


6月はイエズスの聖心の月です。イエズスの御心の連祷を毎日唱えましょう。
意向:多くの司祭・修道者の召命が与えられるため
実践すべき徳:御聖体への愛徳と頻繁な霊的聖体拝領
守護の聖人:ゴンザガの聖アロイジオ

愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)にご招待します

◎2018年 6月の予定
【大阪】聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂(アクセス EG新御堂4階 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 〒532-0002
(JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分)

    6月1日(初金) 童貞聖アンジェラ・メリチア(3級祝日)白
            午後5時半 ロザリオ及び告解 
            午後6時 ミサ聖祭

    6月2日(初土) 聖母の土曜日(4級)白 殉教者司教聖マルチェリノ、ペトロ、エラスモの記念
            午前10時 ロザリオ及び告解
            午前10時半 ミサ聖祭

    6月10日(主) 聖霊降臨後第3主日(2級)緑
            午後5時半 ロザリオ及び告解 
            午後6時 ミサ聖祭

    6月11日(月) 使徒聖バルナバ(3級祝日)赤
            午前6時半 ミサ聖祭

    6月15日(金) 聖霊降臨後の平日(4級)緑
            午後5時半 ロザリオ及び告解 
            午後6時 ミサ聖祭

    6月16日(土) 聖母の土曜日(4級)白
            午前10時 ロザリオ及び告解
            午前10時半 ミサ聖祭

【東京】東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図) 「聖なる日本の殉教者巡回聖堂」
    6月3日(主) 御聖体の荘厳祭 白  
            午前10時  ロザリオ及び告解
            午前10時半  ミサ聖祭(歌ミサ)

    6月4日(月) 証聖者聖フランシスコ・カラッチョロ(3級祝日)白 
            午前7時 ミサ聖祭

    6月17日(主) 聖霊降臨後第4主日(2級)緑  
            午前10時  ロザリオ及び告解
            午前10時半  ミサ聖祭(歌ミサ)

    6月18日(月) 教会博士証聖者助祭シリアの聖エフレム(3級祝日)白 
            午前7時 ミサ聖祭

愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております。

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大阪北部地震による聖ピオ十世会聖堂の被害について

2018年06月18日 | 聖伝のミサの予定
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今朝、午前八時ごろに発生した大阪北部地震で、被災された方々に慰労の言葉とお見舞いを申し上げます。

ご心配の方々がいらっしゃると思いますので、報告申し上げます。

大阪にある、私ども聖ピオ十世会の「聖母の汚れなき御心聖堂」では、ちょうどその時に、聖堂で祈って聖体訪問をしている信徒がおりました。この方の報告によると、聖ヨゼフ像や御聖体顕示台や燭台らが転倒して破損したリ歪んだりしてしまったのですが、それ以外は大丈夫だったようです。

また、大阪に住んでいる信徒の方々は少なくとも怪我はせずに無事だったとの報告を受けています。

天主とマリア様に感謝いたします。

昨日、東北新幹線の運行停止で、ミサに来られた方々が帰ることができず立ち往生してしまったのですが、今朝、無事に盛岡まで戻られたと伺いました。

全ては、御摂理。お捧げいたします。

マリア様、日本をお守り下さい!

天主様の祝福が愛する兄弟姉妹の皆様の上に豊かにありますように!

トマス小野田神父
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2018年6月1日~3日の聖伝のミサ・ラテン語ミサ(聖ピオ十世会)の報告:Traditional Latin Mass SSPX

2018年06月13日 | 聖伝のミサの予定
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今日は6月13日、マリア様が汚れなき御心を啓示なさった日ですね。

 この前の聖伝のミサの報告をご紹介いたします。

 今度のミサの予定は、次の通りです。

【大阪】

6月15日(金) 聖霊降臨後の平日(4級)緑
         午後5時半 ロザリオ及び告解 
         午後6時  ミサ聖祭

6月16日(土) 聖母の土曜日(4級)白
         午前10時  ロザリオ及び告解
         午前10時半 ミサ聖祭【聖母の汚れなき御心の随意ミサ】
         午後12時頃 聖体降福式

【東京】

6月17日(主) 聖霊降臨後第4主日【イエズスの至聖なる聖心の荘厳祭(白)】
         午前10時  ロザリオ及び告解
         午前10時半 ミサ聖祭【イエズスの至聖なる聖心の随意ミサ】

6月18日(月) 教会博士証聖者助祭シリアの聖エフレム(3級祝日)白 
         午前7時   ミサ聖祭


天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】【大阪】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

大阪でのミッションありがとうございました!!!
6月の初金、初土の御ミサの報告をお送りいたします。

6月1日(初金) 至聖なるイエズスの聖心のミサには10名が、
6月2日(初土) 聖母の汚れなき御心のミサには20人が御ミサに与るお恵みを頂きました。デオグラチアス!

5月の聖母月を通ってイエズス様の聖心の月に突入するこの2か月は年中でも最も美しい、大好きな時節です。
沢山の御ミサと、御聖体降福式にまで与る事が出来たことを天主様に感謝致します。

最近小野田神父様から、「イエズス様は、ほんっっっとにお優しいです」という言葉をよくお聞きします。
イエズス様の聖心について両日のお説教で、天主様が愛である事、イエズス様がどれ程私たちを愛して下さっているか、そのお返しに私達は何をするべきかを黙想できました。
自分には聖ピオ十世会の神父様方や色々な聖人方のような大きな犠牲や深い祈りが出来ない事がもどかしく、申し訳なさでつぶれそうな気持にさえなる事がありますが、神父様が繰り返し教えてくださって、今は自分の心にも焼き付いた「マリア様の汚れなき御心を通して」を実践しながらイエズス様に愛をお返し続けたいと思いました。
お優しいイエズス様をマリア様のお手を借りてもっともっと完全にお喜ばせ出来るようになりたいと思います。

初金曜、初土曜日と続けてミサの後に御聖体降福式をして頂けて、イエズス様の愛を身近に感じ、礼拝する事ができました。
ミサに与れて、皆でロザリオを祈り、御聖体に讃美を捧げる事ができた素晴らしい2日間でした。このような日がずっと続けばいいなあと思うのは贅沢ですね。

また次の御ミサが待ち遠しいです。
今月は毎日イエズス様の聖心を黙想しながら次の御ミサを待ちたいと思います。

至聖なるイエズスの聖心我らを憐み給え
聖母の汚れなき御心よ我らのために祈り給え


【報告】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 24人(内、子供4人)
女: 24人(内、子供4人)
計: 48人(内、子供8人)

【報告】
Ave Maria Immaculata!

6月3日のご聖体の祝日の御ミサをありがとうございます。

ご聖体を私たちがいただくということは、どれほどありがたいこと、お恵みであるかということ、神父様のお説教を拝聴し胸にしみいりました。
とりわけ深い感動を覚えましたのは、“天主さまがわたしの心に来たいと願っている”と聴き、ご聖体拝領によって“天主さまご自身をこの心にお迎えするのだ”と感じたことでした。

ごミサのなかという厳かな粛々とした空気に包まれ、これからイエズス様の生贄が再現されるその直前という時に、このすべての中ですべてでありすべてのなかで唯一存在される御方である天主様ご自身を、わたしの心のなかにお迎えすることに注意を向けさせていただき、いまいちどそのことの意味深さを感じようとして、しばし感覚を集中いたしました。すると、このようなこの上もない恩寵を平気でお受けしていたのは、わたしの心と感覚がいとも鈍感で粗雑だからであったからだということを、理解させられました。

もしわたしが、お受けするご聖体の深い意義をもっと十分にわかっていたなら、きっとあまりの緊張と感動でどうにかなることでしょう。気を失ってしまうほどまでになるかもしれません。昔読んだ聖人様の本のなかには、そういう表現がされていたことをおぼろげながら思いだしました。

非常に鋭敏で細やかで澄みきった霊魂にいらっしゃるとき、ご聖体はどれほどご自身をそのままお現わしになられることでしょう。そして、そのような方の霊魂のなかで天主様はどれほどおよろこびになられることでしょう。そしてその霊魂の人は、愛に満たされて、この世を忘れてあまりのかたじけなさに気を失うほどまでに打ち震えることでしょう。そのようになることもなくご聖体をお受けしているのは、わたしが鈍感で粗雑なものであるからとわかった次第です。

このように、天主さまご自身をわが霊魂の内に迎えることが本当はどれほどのことであるかを、すこし垣間見させていただいたように思います。霊的聖体拝領をするときも、このことを思いだし、天主さまご自身を迎えるにふさわしく自分の霊魂を準備する努力をしなければならないと痛感させられました。

長々と書いてしまいましたこと、申し訳ありません。
また、この日は、前田大司教さまが枢機卿に挙げられたことをお祝いして、私たちも前田枢機卿さまのためにお祈りという霊的な花束をお届けいたしましょうとお話しくださいました。

わたしはお祈りをする約束を届けて帰ったものの、大阪の前田大司教さまのことを何も知ることがなく、どのような方が日本の枢機卿になられたかを知りたく思い少し調べてみました。
すると、前田大司教さまの霊的講話が掲載されているところが見つかりました。大司教様が俳句とともに書かれている講話は読みやすく、書かれているお話のすごさに思わず引き込まれて、長文でしたが一気に読んでしまいました。(―俳句を嗜まれる枢機卿様でした―)

前田大司教さまは、明治になってからも続いた長きに渡る殉教・迫害のカトリック信者の流れに身を置く潜伏キリシタンの一族のご出身であり、司祭になられたのもご自分だけの希望というよりも先祖から受け継いだカトリック信仰のゆえに、神父の道を歩まれているということを知りました。その霊的講話のなかのお話の一つ一つが、体験からにじみ出る信仰の証であることに驚きました。

二年まえに、聖ピオ十世会の巡礼で長崎に行くお恵みをいただきました。そのとき初めて、長崎の殉教者のものすごく壮絶な生死を賭けた信仰について見聞いたしましたが、そのことには続きがあって、それをこの前田大司教さまの講話で読んでいるような気持ちになってしまいました。近代において明治の初めのカトリック信者も、どれほどひどい迫害を受けていたかということをよくわかっていなかったことをあらためて気づかされました。当時の信者は、現代と違う信仰を生きていたのではなく、今と同じ信仰を生きていたはずなのでは、と思います。・・それとも、もし現代において、当時と同じ信仰を生きようとするなら、やはり迫害やいじめや嫌がらせを受けるでしょうか?

わたしがいまこうしてトリエントミサに与るようになりましたその理由には、伝統的なカトリック信仰が感じられないかのような現代の教会の典礼のこととともに、昔の人(先祖・使徒)から受け継いでいる信仰が守られているかどうかということも根本にあったように思います。私の場合は、カトリック信者としての自分の先祖とは、血統における先祖というよりも、霊的な先祖のことになると思うので、継承されて受け継がれてきている信仰を守る使徒ということにもなるのでは、と思います。親からの信仰を引き継ぐことができないものは、神父様から正しいカトリック信仰の導きを受けるしかありません。初代教会から続く伝統的なカトリックの教育の行われる神学校で学ばれた司祭は、確かにこの使徒から受け継がれてきている信仰を伝えてくださるということを、日々ますます感じさせていただいております。

前田枢機卿さまは、先祖から受け継いだ信仰を胸に深く強く抱かれつつ、日本のカトリック信者に、先祖から受け継いだ信仰と使徒から受け継いだ信仰がちゃんと伝わっていくように司牧してくださるに違いないという、大きな希望をもっています。このような素晴らしい前田大司教さまを日本の枢機卿に選ばれるようにしてくださいましたこと、マリア様、本当にありがとうございます。

私たちの教会には、若いご夫婦が何組もいらっしゃいます。先日一緒に日本のためにロザリオを祈ったときにも、お茶を飲みながらいろいろお話を聞いていて、この若い方たちは頭で知的に理解しただけとは違う、先祖という使徒から受け継がれてきている確固としたカトリック信仰をハートにお持ちの家族なのだということが感じられました。きっとご自分の子供たちにも、その信仰をしっかりと伝えていくに違いありません。

わたしは、このような使徒から継承されたカトリックの典礼をしてくださる小野田神父様の司祭叙階25周年の記念ミサが、すぐ間近の次の主日6月17日に行われることを、とても楽しみにしております。司祭叙階の記念ミサではたくさんのお恵みが、参列した方に降ると聞いたことがあります。小野田神父様が、スイスの聖ピオ十世会の神学校で使徒継承の脈々と受け継がれたカトリック信仰を伝えるトリエントミサをお捧げする司祭になってくださらなければ、日本に居てこのごミサに与れなかったと思うのです。

25年の年月のなかでは、日本での宣教のため、どれほど困難がおありだったことでしょうか。いつも神父様には深く感謝申しあげております。一人でも多くの方に来ていただいて、どなたにも記念ミサと祝賀会にご参列いただけますよう、お祈りとささやかな準備を皆で致しています。心からの感謝と喜びをもって、6月17日の小野田神父様司祭叙階25周年記念ミサに与りたいと思っておりますので、どうぞよろしくお願いいたします。


【参考資料】
前田枢機卿様の興味深い記事を教えてもらいました。

http://www.catholic-honjyo-church.org/sp58_main2.htm

前田枢機卿様のお話から、血と涙の信仰が伝わってくるようですね。

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Sermon for the 3rd Sunday after Pentecost ―Fr. Benoit Wailliez, FSSPX

2018年06月13日 | お説教・霊的講話
Sermon for the third Sunday after Pentecost
Fr Benoit Wailliez, FSSPX


Last Friday, we celebrated the feast of the Sacred Heart of Jesus.
As St. John the Apostle, who rested on the heart of Jesus, stated: "We looked upon him whom we have pierced" and elsewhere "We have come to know and have believed the love that God has for us".
Today, Mother the Church has picked one of Our Lord's parables to keep emphasizing His tenderness and compassion.
Let us have a look and explain what Our Lord meant in today's Gospel.

A man, who had hundred sheep, lost one of them. He left the 99 in the desert and went after the lost sheep. When he found it, he laid it upon his shoulders and brought it back home. He called all his friends and rejoiced because he had found the sheep that was lost.

The owner of the flock is God.
The sheep represents all of us. As Psalm 94 says: "We are His people and the sheep of His flock".
According to Scripture, the desert is "the resting place" of the Lord. For instance, God says: "I will lead her to the desert". It is an image of God's intimacy. We can only find God in silence, away from the noise of this world; in the desert. That is where God keeps His sheep close to him.

The lost sheep is the sinner. It went away from God, probably attracted by a more "exciting life".
Our Lord is the Good Shepherd, who knows His sheep and call them by their name. He notices the loss of His sheep and immediately leaves His flock in order to find the lost one.
This is an image of God leaving, so to say, the restful place of heaven and going into this world, through His Incarnation, to save us. Elsewhere in the Gospel, Our Lord says: "The Son of man came to save what was lost".
He goes after the lost sheep. We always have to remember that when we convert, for instance through a good confession, we are not the ones coming back to God: He is the one who went after us and found us and brought us back to Him, to His Sacred Heart.

The parable says: "He goes after the lost sheep until he find it". Meaning, Christ won't return to His restful place until He has found the sinner. And how does He bring it home? Putting it upon His shoulders. He saved us through His heavy cross, image of the weight of our sins. As a good Shepherd, He puts the lost sheep upon his shoulders and saves it from eternal loss.
Is the owner angry at the sight of his lost sheep, after so many efforts, so much sweat spent for that unfaithful sheep? No, he rejoices. And he wants all his friends to rejoice with him.

The Sacred Heart is so happy to bring us back to Him. He wants the rest of us, in heaven and on earth, to rejoice at the conversion of sinners.
Sometimes we are bitter with non-believers or with people who left the flock. But are we searching for them, at least through prayer? And are we rejoicing if they end up joining the flock or reincorporating it?
Have we forgotten that the "lost sheep" is firstly ourselves before being our neighbor?...

When we will receive communion and be closely united to our Shepherd and Savior, the choir will sing the beautiful concluding words of this parable: "There is joy before the angels of God upon one sinner doing penance". Amen.
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2018年6月10日 聖霊降臨後第三主日の説教 「失われた羊とイエズスの聖心」―聖ピオ十世会司祭 ワリエ神父様

2018年06月12日 | お説教・霊的講話
聖霊降臨後第三主日の説教
ブノワ・ワリエ神父(聖ピオ十世会)


この前の金曜日に、私たちはイエズスの聖心の祝日をお祝いしました。
イエズスの胸元、聖心である心臓の上で頭を休ませた使徒聖ヨハネが、「私たちは自分たちが刺し貫いた人を仰ぎ見る」(ヨハネ19章37節)と述べ、また別の箇所で「私たちは天主の愛を知り、それを信じた」(ヨハネ第一4章16節)と述べたようにです。
本日、母なる教会は、主の優しさとあわれみを強調し続けるために、主のたとえ話の一つを取り上げました。
本日の福音で主が言おうとなさったことを少し眺め、説明してみましょう。

百匹の羊を持つ男が、そのうちの一匹を見失いました。彼は九十九匹を砂漠に置いたまま、失われた羊を捜し求めて行きました。その羊を見つけたとき、彼は羊を肩に乗せて連れ帰りました。失われた羊を見つけたので、彼はすべての友人を呼び集めて喜びました。

羊の群れの持ち主は天主です。
は私たちみんなのことです。詩篇94番が「われらは主の民、その群れの羊」というようにです。
聖書によると、砂漠は主の「住まい」(詩編132章14節)です。例えば、天主は「私は彼女を誘って砂漠に連れていく」(ホゼア2章16節)と言われます。それは、天主の近しさのかたどりです。私たちは、この世の喧騒から離れて、砂漠において、沈黙のうちにでなければ、天主を見いだすことはできません。砂漠は、天主が羊たちをご自分のそばに留めておられるところなのですから。

失われた羊は罪びとです。羊は天主から離れて行きました。多分、もっと「わくわくする生活」に惹きつけられたのでしょう。
主は善き羊飼いであり、ご自分の羊のことを知っておられ、それぞれの名前で羊を呼ばれるのです。主は羊を見失ったことにお気づきになると、すぐに失われた一匹を見つけるために羊の群れから離れられます。
これは、いわば天国の住まいを離れて、私たちを救うために、ご托身によって、この世に来られた天主のかたどりです。福音書のほかのところで、主は「人の子は見失ったものを救うために来た」(ルカ19章10節)と言われます。
主は失われた羊の後を捜して追いかけられます。私たちが、例えば良い告解によって回心したとき、私たちがみずから天主のもとへ戻ったのではないことをいつも思い起こさなければなりません。主こそが、私たちを追いかけて捜し、私たちを見いだし、私たちをご自分のもとに、主の聖心のもとに連れ戻してくださったのです。

このたとえは、「彼は見つけ出すまで失われた羊を捜して追いかける」(ルカ15章4節)と言います。その意味は、キリストはその罪びとを見つけるまでは、ご自分の住まいにお戻りになるおつもりはない、ということです。では、主はどのようにして罪びとを連れ戻されるのでしょうか? ご自分の肩に乗せてです。主は、私たちの罪の重さのかたどりである、重い十字架によって私たちを救われました。善き羊飼いとして、主は失われた羊をご自分の肩に乗せて、永遠の喪失から救われるのです。
羊の群れの持ち主は、この失われた羊を見て、この不信仰な羊のために費やした多くの努力、幾多の辛苦の故にお怒りになるでしょうか? そうではありません。羊の群れの持ち主はお喜びになるのです。そして、ご自分の全ての友に、ご自分と一緒に喜ぶことをお望みになるのです。

イエズスの聖心は、私たちをご自分のもとに連れて帰ることができて大変お幸せです。主は天と地にいる私たちが、罪びとの回心を喜ぶことをお望みです。
時に私たちは、不信仰者や群れから離れた人々に対して苦い思いをもっています。しかし、私たちは、少なくとも祈りによって、彼らを探し求めているでしょうか? また、彼らが最終的に群れに加わるか、再び一体となるなら、私たちはそれを喜んでいますか?
私たちは、「失われた羊」が、私たちの隣人である前に、まずは私たち自身であることを忘れてしまっていませんか?

私たちがご聖体を受け、私たちの羊飼いにして救い主であるお方と密接に一つになるとき、聖歌隊は、このたとえの美しい締めくくりの言葉を歌うでしょう。「悔い改める一人の罪びとのために、天主の天使たちの間には喜びがある」。アーメン。
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来たる6月17日(主日)の聖ピオ十世会東京でのミサは、イエズスの至聖なる聖心の荘厳祭です

2018年06月11日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
 来たる6月17日(主日)の聖ピオ十世会東京でのミサは、イエズスの至聖なる聖心の荘厳祭として「イエズスの至聖なる聖心」のミサを行います。

Introitus: Psalmus 32:11,19 Introit: Psalm 32:11,19 入祭文: 詩篇 32:11,19 进台咏(咏32:11,19)
COGITATIÓNES Cordis ejus in generatióne et generatiónem: ut éruat a morte ánimas eórum et alat eos in fame. THE thoughts of His Heart are from generation to generation: To deliver their souls from death, and feed them in famine. 主の聖心の想いは、霊魂を死から奪い取り、飢えるとき養うために、世々にわれらの傍らにとどまり給う。 祂心中的意念代代常存:祂要救我的生命脱离夭亡,并且使我饥馑之日、得到滋养。
Ps. 32:1 Exsultáte, justi, in Dómino, rectos decet collaudátio. Glória Patri et Fílio et Spirítui Sancto. Sicut erat in princípio et nunc et semper et in sǽcula sæculórum. Amen. Ps. 32:1 Rejoice in the Lord, O ye just: praise becometh the upright. Glory be to the Father, and to the Son, and to the Holy Ghost. As it was in the beginning, is now, and ever shall be, world without end. Amen. 詩篇32:1義人らよ、主において喜びおどれ。天主を讃美することは、義人にふさわしいことである。願わくは聖父と聖子と聖霊とに光栄あれ。はじめと同じく、今もいつも、世々に、アメン。 人啊!您们应当凭上主喜悦;因为颂扬原是正直者的事。光荣于父……。
Cogitatiónes Cordis ejus… The thoughts of … 主の聖心の想いは、… 心中的意念代代常存
Collectus Collect 集祷文 集祷经
  DEUS, qui nobis in Corde Fílii tui, nostris vulnerátio peccátis, infinítos dilectiónis thesáuros misericórditer largíri dignáris: concéde, quǽsumus ut illi devótum pietátis nostræ præstántes obséquium, dignæ quoque satisfactiónis exhibeámus offícium. Per eúmdem Dóminum nostrum Jesum Christum Fílium tuum, qui tecum vivit et regnat in unitáte Spíritus Sancti, Deus, per ómnia sǽcula sæculórum. O GOD, Who in the Heart of Thy Son, wounded by our sins, dost mercifully bestow on us infinite treasures of love: grant, we beseech Thee, that whilst we render It the devout homage of our affection, we may also fulfill our duty of worthy satisfaction. Through the same our Lord Jesus Christ, Thy Son, Who liveth and reigneth with Thee in the unity of the Holy Ghost, God, world without end. 天主よ、われらの罪のために傷つけられた御子の聖心において、御身は愛の無限の宝を、御慈悲をもってわれらに与え給う。願わくは、聖心に対して厚き敬虔のつとめを果たさせ、適当なつぐないの奥義をもわれらに行わせ給え。その同じわれらの主イエズス・キリスト、天主として、聖霊との一致において、御身と共に世々に生き且つ治め給う聖子によりて。 天主,祢既在祢圣子由我所受的圣心内,将无限情的宝藏仁慈地赐给,求祢开恩:使我们对于圣心不地献出心的敬礼,且能相称地尽到赔补债务。因我主……。
書簡Epistle エフェゾEphesians 3:8-12,14-19 书信(弗3:8-19)
LÉCTIO Epístolæ beáti Pauli Apóstoli ad Ephésios LESSON from the Epistle of blessed Paul the Apostle to Ephesians 使徒聖パウロのエフェゾ人への書簡の朗読
Fratres: Mihi ómnium sanctórum mínimo data est grátia hæc, in géntibus evangelizáre investi- gábiles divítias Christi: et illumináre omnes, quæ sit dispensátio sacraménti abscónditi a sǽculis in Deo, qui ómnia creávit: ut innotéscat principátibus et potestátibus in cœléstibus per Ecclésiam multifórmis sapiéntia Dei: secúndum præfinitiónem sæculórum, quam fecit in Christo Jesu Dómino nostro, in quo habémus fidúciam et accéssum in confidéntia per fidem ejus. Hujus rei grátia flecto génua mea ad Patrem Dómini nostri Jesu Christi, ex quo omnes patérnitas in cœlis et in terra nominátur: ut det vobis secúndum divítas glóriæ suæ, virtúte corroborári per Spíritum ejus in interiórem hóminem: Christum habitáre per fidem in córdibus vestris: in caritáte radicáti et fundáti: ut possítis comprehéndere cum ómnibus sanctis, quæ sit latitúdo, et longitúdo, et sublímitas et profúndum: scire étiam super- eminéntem sciéntiæ caritátem Christi, ut impleámini in omnem plenitúdinem Dei. Brethren: To me, the least of all the saints, is given this grace, to preach among the Gentiles the unsearchable riches of Christ: and to enlighten all men, that they may see what is the dispensation of the mystery which hath been hidden from eternity in God, Who created all things: that the manifold wisdom of God may be made known to the principalities and powers in heavenly places through the Church, according to the eternal purpose which he made in Christ Jesus our Lord: in Whom we have boldness and access with confidence by the faith of Him. For this cause I bow my knees to the Father of our Lord Jesus Christ, Whom all paternity in heaven and earth is named, that he would grant you according to the riches of His glory, to be strengthened by His Spirit with might unto the inward man, that Christ may dwell by faith in your hearts: that, being rooted and grounded in charity, you may able to comprehend with all the saints, what is the breadth and length, and height and depth: to know also the charity of Christ which surpassed all knowledge, that you may be filled unto all the fullness of God. 兄弟たちよ、私は、すべての聖徒の中で、最も小さい者よりも小さい者であるが、キリストの底知れない富を異邦人に告げ、万物の創造主なる天主のうちに、永遠から隠されていたこの奥義の啓示を表す恩寵を受けた。それは、天主の多種多様の上智を、天の権勢と能力とに、教会によって、いま知らせるためである。それは、われらの主キリスト・イエズスにおいて、天主が企て給うた永遠の計画によるのである。われわれは、彼に対する信仰によって、信頼してあえて天主に近づくことができる。それがために私は、われらの主イエズス・キリストの御父の御前(みまえ)にひざまずこう―[御父から]天と地とのすべての家族が起こったのである―。彼が、その光栄の富にしたがって、その霊によって、あなたたちの内的な人間を力強く固め、また信仰によってキリストがあなたたちの心に住み給うて、あなたたちの根と基(もとい)とを愛に置き、そしてあなたたちに、すべての聖徒とともに、[かの奥義の]広さと長さと高さと深さとを理解させ、計り知ることのできないキリストの愛を知らせ、充ち満てる天主によって満たし給うように祈る。 弟兄:我本是圣徒中最卑小的,天主竟我特恩,使我向外邦人宣基督深不可的富藏,并且把从永远隐藏在造生天地万物的天主内的奥秘划,启示众人。天主依照祂从永所定、而在我主基督耶内完成的划,愿意藉着教会、向天上的权者天神和异能者天神表示祂各式各的智慧。我信了基督,便因着祂坦然无畏地、满怀信心地、到天主台前来。为了这个原因、我在我们主耶稣基督的大父前屈膝。天上地下的一切父权、都是由祂而得名的。我求祂藉着祂光荣的富藏、赏赐你们赖着祂的圣神完全地坚强起来,使你们的内心、成长发展。愿基督藉着信德、居住在你们心中,愿你们在爱德中生根植基,和诸位圣徒一起明了基督的爱如何长、如何阔、如何高、如何深、得以明悉基督的爱远远超过人所意想的限度,而这样你们充满了天主完满无缺的美好。
Graduale : Psalmus 24:8-9 Gradual : Psalm 24:8-9 昇階誦 : 詩篇 24:8-9 .
DULCIS et rectos, Dóminus, propter hoc legem dabit delinquéntibus in via. Díriget mansuétos in judício, docébit mites vias suas. THE Lord is sweet and righteous: therefore He will give a law to sinners in the way. He will guide the mild in judgment: He will teach the meek His ways. 主は、正しくよい御者にてまします、故に主は、直(すぐ)なる道から外れた人々に、救いの法を示し給う。主は、柔和な人々を正義によって導き、へりくだる人々に主の道を教え給う。 主是良善公正的,因此、祂指导罪人走祂的道。——祂引谦虚人走公平的路,将自己的道指示给良善人。
Alleluia : Matthaeus 11:29 Alleluia : Matthew 11:29 アレルヤ誦 : マテオ 11:29 阿肋路亚!(玛11:29)
ALLELÚIA, allelúia. Tóllite jugum meum super vos et díscite a me, quia mitis sum et húmilis Corde, et inveniétis réquiem anímabus vestris. Allelúia ALLELUIA, alleluia. Take my yoke upon you and learn of Me, because I am meek and humble of heart: and you shall find rest to your souls. Alleluia. アレルヤ、アレルヤ。私は、心柔和で謙遜な者ゆえ、私のくびきをとって、私にならえ、そうすれば心の平和を見出すであろう、アレルヤ。 阿肋路亚,阿肋路亚。你们负我的轭吧!向我学习心中的温良和谦逊:你们将获得心中的安息。阿肋路亚。
Evangelium : Ioannes 19:31-37 Gospel : John 19:31-37 聖福音: ヨハネ 19:31-37 福音(若19:31-37)
  In illo témpore: Judǽi (quóniam Parascéve erat), ut non remanérent in cruce córpora sábbato, (erat enim magnus dies ille sábbati), rogavérunt Pilátum ut frangeréntur eórum crura et tolleréntur. Venérunt ergo mílites, et primi quidem fregérunt crura et altérius qui crucifíxus est cum eo. Ad Jesum autem cum veníssent, ut vidérunt eum jam mórtuum, non fregérunt ejus crura: sed unus mílitum láncea latus ejus apéruit, et contínuo exívit sanguis et aqua. Et qui vidit testimónium perhíbuit: et verum est testimónium ejus. Et ille scit quia vera dicit, ut et vos credátis. Facta sunt enim hæc ut Scriptúra implerétur: Os non commninuétis ex eo. Et íterum ália Scriptúra dicit: Vidébunt in quem transfixérunt.  At that time: The Jews (because it was the Parasceve), that the bodies might not remain upon the cross on the Sabbath day (for that was a great Sabbath day) besought Pilate that their legs might be broken, and that they might be taken away. The soldiers therefore came: and they broke the legs of the first, and of other that was crucified with Him. But after they were come to Jesus, when they saw that He was already dead they did not break His legs. But one of the soldiers with a spear opened His side, and immediately there came out blood and water. And he that saw it hath given testimony: and his testimony is true. And he knowth that he saith true, that you may believe. For these things were done that the Scripture might he fulfilled: You shall not break a bone of Him. And again another Scripture saith: They shall look on Him Whom they pierced. そのとき、(用意日だったので)安息日に体を十字架の上に残しておかないように(この安息日は、大いなる日であったから)ユダヤ人は、ピラトに、彼らの脛(はぎ)を折って取り除くように願った。それで、兵隊たちが来て、第一の者と他の者との脛を折った。イエズスのところに来るともはや死んでおられるのを見てその脛を折らなかった。しかし、一人の兵隊が、槍で御脇腹を突いたので、すぐ、血と水とが流れ出た。これを見た者が証明する―この証明は真実である、彼は自分の言葉が真実であると知っている―あなたたちが信じるためである。これらの事が起こったのは、「その骨は一つも折られないであろう」という聖書の言葉が成就されるためであった。また「彼らは、自分らが刺した者を仰ぎ見るであろう」という聖書の言葉もある。 那天正是巴斯挂的预备日。犹太人为使尸体、在安息日、不留在十字架上——因为那安息日是个大节日——,请求比拉多折断他们的腿,把他们拿走。兵士们来了,折断了第一个人的腿,及与耶稣同钉的第二个的。来到耶稣那里,见祂已经死了,就不折断祂的腿;但有一个兵拿枪刺开了祂的肋旁,立刻流出了血和水。那个看见的就作了见证,他的作证是真的;他知道说真话,好使你们也相信。——这件事发生了,使圣经这句话应验:“祂的骨头、你们一根也不要折断。”经上另一处又说:“他们瞻望他们所刺透的人。”
Credo Creed 信経
Offertorium : Psalmus 68:21 Offertory : Psalm 68:21 奉献文 : 詩篇 68:21 奉献咏(咏68:21)
IMPROPÉRIUM exspectávit Cor meum et misériam, et sustínui qui simul mecum contristarétur et non fuit: consolántem quæsívi et non invéni. MY Heart hath expected reproach and misery: and I looked for one that would grieve together with Me, but there was none: and for one that would comfort Me, and I found none. 私の心は、侮りと悩みしか期待できなかった。私は誰かが、共に苦しんでくれると期待していた。しかし誰も苦しんではくれなかった。私は人から慰められるのを待っていたが、慰めてくれる人は一人もなかった。 耻辱和忧闷、折伤了我的心,我指望了有人体恤我,却没有一个;我渴望了有人安慰我,可是寻不着。
Secretum Secret 密誦 密祷
RÉSPICE, quǽsumus, Dómine, ad ineffábilem Cordis dilécti Fílii tui caritátem: ut quod offérimus sit tibi munus accéptum et nostrórum expiátio delictórum. Per eúmdem Dóminum nostrum Jesum Christum Fílium tuum, qui tecum vivit et regnat in unitáte Spíritus Sancti, Deus, per ómnia sǽcula sæculórum. HAVE regard, we beseech Thee, O Lord, to the inexpressible love of the Heart of Thy beloved Son: so that what we offer may be a gift acceptable to Thee, and an expiation for our offenses, Through the same our Lord Jesus Christ, Thy Son, Who liveth and reigneth with Thee in the unity of the Holy Ghost, God, world without end. 主よ、願わくは、愛し給う御子の聖心の、言い尽くせぬ愛をかえりみ、われらの捧げ物を嘉し、われらの罪のつぐないとならせ給え。その同じわれらの主イエズス・キリスト、天主として、聖霊との一致において、御身と共に世々に生き且つ治め給う聖子によりて。 主,求祢顾及祢爱子心中不可名言的圣爱;望我们所献的、成为中悦祢的礼品,并成为补赎我们罪过的代价。因我们主……。
Prefacium Sacratissimi Cordis Iesu The Preface for The Feast of The Sacred Heart 聖心の序誦 耶稣圣心的颂谢引
VERE dignum et justum est, æquum et salutáre, nos tibi semper et ubíque grátias ágere, Dómine sancte, Pater omnípotens, ætérne Deus: Qui Unigénitum tuum in cruce pendéntem láncea mílitis transfígi voluísti: ut apértum Cor, divínæ largitátis sacrárium, torréntes nobis fúnderet miseratiónis et grátiæ, et quod amóre nostri flagráre nunquam déstitit, piis esset réquies et pœniténtibus patéret salútis refúgium. Et ídeo cum Angelis et Archángelis, cum Thronis et Dominatiónibus, cumque omni milítia cœléstis exércitus, hymnum glóriæ tuæ cánimus, sine fine dicéntes: Sanctus... IT is truly meet and just, right and for our salvation, that we should at all times and in all places give thanks to Thee, holy Lord, Father Almighty, eternal God: Whose will it was that Thine only-begotten Son, while hanging on the cross, should be pierced by the soldier’s lance: that the Heart thus opened should, as from a well of divine bounty, pour over us streams of mercy and of grace: and that the Heart which never ceased to burn with love for us, should be for the devout a haven of rest and for the penitent an open refuge of salvation. And therefore with Angels and Archangels, with Thrones and Dominations, and with all the hosts of the heavenly army, we sing a hymn to Thy glory, evermore saying: Holy… 聖なる主、全能の父、永遠の天主よ、われらが、いつも、どこにても、主に感謝を捧げるのは、実にふさわしく正しいことであり、われらの義務と救いである。御身は、十字架にかかり給う御独り子が、一人の兵卒の槍に突き刺されることを許し給うた。それは、天主の御寛仁の聖所であるその開かれた聖心が、われらの上に御あわれみと聖寵との流れを注ぎ、われらに対する愛に燃え続け給うその聖心が、善人の憩いの所となり、痛悔する者の救いの避難所となり給うためであった。故に、天使、大天使と共に、座天使と主天使と共に、また、天の万軍と共に、われらは、きわまりなく、主の御光栄の讃歌を歌い続けよう。聖なるかな、… 主、至圣的父、全能永生的天主,我们时时处处颂谢祢,是正而必的,属于我的,也属我得救的。祢曾欲祢的独子身苦架之,受了兵丁矛的刺透,使此大开了的心即天主博施的圣所、湧泄祢仁慈和恩的激流;也使此无或息燃火的心,对热诚者成安息之所,对忏悔者敞开救之门。为此、我们随同诸位天神、总领天神、上座者和宰制者以及天上万军、合唱光荣祢的圣歌,无穷期地说:圣、圣、圣……。
Communio Ioan. 19:34 Communion : John 19:34 聖体拝領誦 : ヨハネ 19:34 .
UNUS míitem láncea latus ejus apéruit, et contínuo exívit sanguis et aqua. ONE of the soldiers with a spear opened His side, and immediately there came out blood and water. 一人の兵隊が、槍で御脇腹を突いたので、すぐ、血と水とが流れ出た。 有一个兵、拿枪刺开了祂的肋旁,立时流出了血和水。
Postcommunio Postcommunion 聖体拝領後の祈 领后经
PRǼVEANT nobis, Dómine Jesu, divínum tua sancta fervórem: quo dulcíssimi Cordis tui suavitáte percépta, discámus terréna despícere, et amáre cœléstia: Qui vivis et regnas cum Deo Patre, in unitáte Spíritus Sancti, Deus, per ómnia sǽcula sæculórum. MAY Thy holy mysteries, O Lord Jesus, impart to us divine fervor: wherein we may taste the sweetness of Thy most loving Heart, and learn to despise what is earthly and love what is heavenly: Who livest and reignest with God the Father in the unity of Holy Ghost, God, world without end. 主イエズスよ、この聖なる秘蹟によって、われらの厚い信仰心を起こさせ、優しい聖心の甘美さを味わわせ、地上のことを軽んじ、天を愛することを教え給え。聖父なる天主とともに、聖霊との一致において、世々に生き且つ治め給う天主よ。 主、耶稣,祈望祢的圣事、赐给我们神圣的爱火;望我们尝到了祢圣心甘怡的挚爱,因而学得轻看世物、但爱天上之事。祢和天主父……。
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