Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

私は御身を信じ礼拝し希望し御身を愛します!御身を信ぜぬ人々礼拝せず希望せず愛さぬ人々のために赦しを求めます(天使の祈)

2020年6月7日(主日)前後の聖伝のミサの予定:Traditional Latin Mass for June 7, 2020

2020年07月01日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今週末:2020年6月5日(金)6日(土)7日(主日)のミサの予定を再確定します。予定通りです。

【大阪】「聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂」 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 EG新御堂4階 〒532-0002 (アクセス)JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分(地図

 6月5日(金)  17:30 ロザリオ及び告解  18:00 ミサ聖祭

 6月6日(土) 10:00 ロザリオ及び告解  10:30 ミサ聖祭

 6月7日(日) 17:30 ロザリオ及び告解  18:00 ミサ聖祭

 6月8日(月)  06:30 ミサ聖祭

【東京】 東京では4月12日(日)から会場をしばらく変更してミサを捧げております。

住所: 東京都台東区入谷1-27-4 
会場の名前:プラーズ入谷 『入谷ホール』  Special Mass Location-0412.pdf - Google ドライブ

6月7日(日)主日ミサが三回捧げられます。

09:00 ミサ聖祭 歌ミサ(ライブ中継をいたします)Facebook live

11:00 ミサ聖祭 読誦ミサ
12:30 ミサ聖祭 読誦ミサ

【お互いに社会的距離を取ることができるように、分散してミサにあずかっていただければ幸いです。】

Ave Maria Immaculata!

My dearest Brethren!

I want to reconfirm the Mass schedule for the weekend of June 7, 2020.

Mass times in Tokyo:
09:00 - Sung mass Facebook live

11:00 - Low mass
12:30 - Low mass

It would help us maintain proper social distancing if you could consider spreading your mass attendance among the three masses. For your information, Sunday mass attendances were as follows:

May 03
09:00 - 27
11:00 - 21
12:30 - 13

May 10
09:00 - 22
11:00 - 25
12:30 - 15

May 17
09:00 - 19
11:00 - 22
12:30 - 18

May 24
09:00 - 22
11:00 - 21
12:30 - 18

May 31
09:00 - 26
11:00 - 15
12:30 - 25

Mass location:
Iriya Hall 3F
Address: Plars Iriya 3F, 1-27-4, Iriya, Taito-ku, Tokyo (near Metro Iriya, JR Uguisudani and JR Ueno stations)
Map and directions: Please see the pdf file.

Mass schedule in OSAKA:

Fri, June 5: Holy Sacrifice of the Mass at 18:00

Sat, June 6: Holy Sacrifice of the Mass at 10:30

Sun, June 7: Holy Sacrifice of the Mass at 18:00

Mon, June 8: Holy Sacrifice of the Mass at 06:30 am.






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日本での聖伝のミサのご案内【2020】

2020年06月30日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

 

愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)にご招待します。 2020年の御ミサのスケジュール(前半)をお知らせいたします。 スケジュールについては、やむを得ず予定の変更がある場合があるかもしれません。

 

最新情報は次のカレンダーをクリック
年間の予定はSSPX JAPAN MISSION CALENDARをご覧下さい。

 

修正がある場合は、この『日本での聖伝のミサのご案内【2020】の記事も更新いたしますので、随時どうぞご確認ください。 この記事はスマートフォンでも、【カテゴリ】聖伝のミサの予定 でいつでもご確認できます。

 

【大阪】「聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂」 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 EG新御堂4階 〒532-0002 (アクセス)JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分(地図

【東京】 4月12日(日)から、東京では会場がしばらく変更になります。

住所: 東京都台東区入谷1-27-4 
会場の名前:プラーズ入谷 『入谷ホール』  Special Mass Location-0412.pdf - Google ドライブ

これまでの会場は「聖ピオ十世会 聖なる日本の殉教者巡回聖堂」 東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図

**** 2020年6月の予定  ****
 【大阪】

 6月1日(月) 聖霊降臨の月曜日(1級)赤  午前6時半ミサ聖祭

 6月5日(初金)  聖霊降臨の四季の斎日 金曜日(1級)赤  午後5時半ロザリオ及び告解  午後6時ミサ聖祭
 6月6日(初土)  聖霊降臨の四季の斎日 土曜日(1級)赤  午前10時ロザリオ及び告解  午前10時半ミサ聖祭
 6月7日(日)  聖三位一体(1級祝日)白 午後5時半ロザリオ及び告解  午後6時ミサ聖祭
 6月8日(月)  聖霊降臨後の平日(4級)緑  午前6時半ミサ聖祭

 6月11日(木)  御聖体の祝日(1級祝日)白  午後5時半ロザリオ及び告解  午後6時ミサ聖祭 ←追加されました

 6月12日(金)  証聖者聖ファクンドの聖ヨハネ(3級祝日)白  午後5時半ロザリオ及び告解  午後6時ミサ聖祭
 6月13日(土)  教会博士証聖者パドゥアの聖アントニオ(3級祝日)白 午前10時ロザリオ及び告解  午前10時半ミサ聖祭
 6月14日(日)  聖霊降臨後第2主日(2級)緑 午後5時半ロザリオ及び告解  午後6時ミサ聖祭
 6月15日(月)  聖霊降臨後の平日(4級)緑  午前6時半ミサ聖祭

 6月19日(金)  イエズス・キリストの至聖なる聖心(1級祝日)白 午後5時半ロザリオ及び告解  午後6時ミサ聖祭
 6月20日(土)  聖母の土曜日(4級)白 午前10時ロザリオ及び告解  午前10時半ミサ聖祭
 6月21日(日)  聖霊降臨後第3主日(2級)緑  午後5時半ロザリオ及び告解  午後6時ミサ聖祭
 6月22日(月) 証聖者司教聖パウリノ(3級祝日)白  午前6時半ミサ聖祭

 【東京】

主日は、しばらくミサが三回捧げられます。

09:00 ミサ聖祭 歌ミサ(ライブ中継をいたします)Facebook live

11:00 ミサ聖祭 読誦ミサ
12:30 ミサ聖祭 読誦ミサ

 6月7日(日)   聖三位一体(1級祝日)白  午前09時ミサ聖祭   午前11時ミサ聖祭   午前12時半ミサ聖祭

 6月14日(日)  聖霊降臨後第2主日(2級)緑  午前09時ミサ聖祭   午前11時ミサ聖祭   午前12時半ミサ聖祭

 6月21日(日)  聖霊降臨後第3主日(2級)緑  午前09時ミサ聖祭   午前11時ミサ聖祭   午前12時半ミサ聖祭

7月以降は、決定しましたら掲載いたします。いましばらくお待ちください。

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アベノマスク届きました!感謝!

2020年06月06日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

いかがお過ごしでしょうか?

東京では、明日のミサから、ミサの後の感謝の祈りを再開いたします。先読みの方に代表でお祈りをお願いいたしますので、愛する兄弟姉妹の皆様は、一致して心の中で唱えてくださいね。

6月7日(日)主日ミサが東京では三回捧げられます。

09:00 ミサ聖祭 歌ミサ(ライブ中継をいたします)Facebook live

11:00 ミサ聖祭 読誦ミサ
12:30 ミサ聖祭 読誦ミサ

大阪では、いつもの通り、夕方午後6時00分からです

6月7日(日) 17:30 ロザリオ及び告解  18:00 ミサ聖祭

ところで、大阪の聖母の汚れなき御心聖堂にも、アベノマスクが届けられました!深く感謝いたします。もったいない思いで使うのをためらいましたが、大切に使っております。感謝します。










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【聖体の黙想】聖体は天父に対する最上の賛美である

2020年06月06日 | カトリックとは
テニエール神父著『聖体の黙想』 (1953年) (Révérend Père Albert Tesnière (1847-1909))より

聖体の制定された理由

聖体は天父に対する最上の賛美である

 礼拝 祭壇の上においでになって、秘跡のおおいの下に隠れながら、御父なる天主の御稜威(みいつ)を拝し、完全な宗教的礼拝をおささげになるイエズス・キリストを、生きた信仰をもって黙想しよう。御言葉のご託身の理由のひとつは、被造物には不可能な、天主に対する完全な礼拝と奉仕とを、ご自分からお果たしになるためであった。聖体の制定の目的もこれと異ならない。もとより、ご託身および聖体の直接の動機は人類の救霊のためであったが、これと相並んで天父への完全な礼拝が主のみ旨であったことを忘れてはならない。『われはわが父を敬い、父に光栄を帰す』との御言葉は、今でも主が聖体の中から、おっしゃっているのである。

主がいかに完全に礼拝の義務を天父におささげになるかをみよう。礼拝とは、天主が何ものにも超えて尊くいらっしゃることを、理性と心情と意志と行為とをもって認めることである。天父の限りない敬うべき御稜威、並びない尊貴、その全能のご能力、ご威光を賛美することである。

しかしながら、なんぴともイエズスのように天父の完徳を知ることはできない。『子のほかに父を知るものなし』とご自分でおっしゃったように、主の御目にだけ父に関するすべてが明らかである。だから主のみ心から発する賛美は、まことに完全な礼拝である。主は御父の天主性の無限の富を知りつくしておられ、これを賛美し、そのご意志の力をもってご自身を全く御父にゆだね、すすんで御父の権力のもとにおとどまりになる。ああ、なんと完全な霊とまこととをもってする礼拝であろう。

御父はすべてにおいて、ご自分と等しい栄えをもつ御子が、ご自分を賛美するために、み前にひれ伏して生贄(いけにえ)とおなりになるのをごらんになる。主の主であるまことの天主なる御子が、御父の光栄のために、愛によって自らすすんで服従されるのは、なんという偉大な御父の喜びであろう。祭壇の下に集まる人々よ、永遠に休みたまわない完全な礼拝者イエズス・キリストを信仰の目をもって仰ぎ望もう。主は尊敬と愛と賛美を天父にささげて、あなたの欠けたところを補われる。すなわち、主御自ら、あなたたちが、どのように霊とまこととをもって天主を礼拝しなければならないかをお示しになるのである。

感謝 敬神徳の第一の義務を礼拝とすれば、第二のものは、すべての被造物が、尽きることのない善の源である天主にすべての御恵みを感謝することである。

そしてさらに感謝の義務を正しく果たすためには、第一に天主がどのようにあわれみ深い善でおいでになるかを知らなければならない。天主はなんぴとにもまた何ものにも負うところのない御者でありながら、ひたすら純粋な御あわれみによって、あらゆる被造物に惜しみない賜物(たまもの)を分かち与えたもうのである。

次に私たちはこれらの賜物の価値と種類とその量とをよく知らなければならない。自然の賜物、超自然の賜物、この世での賜物、来世での光栄の賜物、いっさいが天主の賜物である。

また、ふさわしく天主に感謝するためには、私たちは利己心をもってはならない。すなわちこれらの賜物を自己のものとしていたずらにむなしく驕(おご)ることがないように、かえって天主の光栄のためにだけ、忠実にみ旨に従ってそれらを用いねばならないのである。

イエズスはまたこの点で私たちの模範である。主のみひとり天父の善徳を知りつくし、その御あわれみの深さとその富の豊かさとをお測りになることができる。主はあらゆる被造物の受ける天父の賜物を知っていらっしゃると同時に、ご自身の人性が他に比べるものがない絶対的に独自な尊い賜物を与えられたことも知っておいでになるが、しかもこのために自ら高ぶられることはない。『われは、われを遣わしたまいし父の光栄のほかに、わが光栄を求めず』『なんぞわれをよきというや、よき者はただ天主のみ』とおおせられるのである。

今日も私たちの聖櫃の中から、感謝に満ちた賛美の歌が、絶え間なく天父の方に昇ってゆく。それはすべての被造物のかしらであるイエズスが、主の御血に洗われた被造物の名によって御父に感謝なさるのである。

主とともに天父に感謝しよう。あなたが受けた多くの賜物を思い出して、その価値を測ろう。そして、いっさいに超える妙なる賜物なる聖体をながめ、天主に感謝するとともに、主の謙遜、忠実、無私を学ばねばならない。それは前にも述べたとおり、まことの感謝は、謙遜、忠実、無私なるものであるからである。

償い 罪がこの世にはいってから、敬神徳は償いと離れることができないものとなった。しかし無限に尊い天主に対して犯した無限に重い罪の償いをささげるには、無限の価値ある犠牲と無限に聖なる司祭が必要である。

この犠牲と司祭こそ私たちの主イエズス・キリストである。主は御手ずから御身を十字架上におささげになったばかりでなく、天父の怒りを和らげ、その正義を満たし、罪の赦しを私たちに得させるために、贖罪の犠牲となって祭壇の上に御身を横たえられたのである。

なんという聖にして偉大な司祭であろう。天父の光栄、その御名の誉れ、御国の建設、人々の改心、罪の赦しのために、ひたすら御身をおささげになるこの尊い大司祭。

なんという完全な、そして甘美な犠牲であろう。あらゆるもののうち、最もきよく最も完全なご生命を供物にし、その主権を屈辱に、光栄を卑賤に、統治を従順にかえ、ご自身をなきものとして生きながら葬られ、屍のように世の終わりの日までいっさいを黙し忍び、すべてに絶えず従い、パンとぶどう酒との外観のもとに隠れられるこの尊ぶべき犠牲。

天使と人との光栄の主である生けるキリストの横たわれる聖体の、み墓の中にはいってみよう。御父天主を礼拝し、その正義を満足させて、御父の怒りをなだめ申しあげるために、ご受難、および今日の屈辱と清貧と従順と愛とを、衆人の侮辱、反逆、罪悪、忘恩の償いとしておささげになるイエズスを仰ごう。ああ人類によって最も無残にそむかれた御父は、この英雄的大司祭、無言にして忍耐深い犠牲によって、どれほど完全に礼拝されたもうであろうか。

祈願 創造主に対する被造物の第一の義務は、天主に対する全き信頼と、すべての賜物が天主のご好意によって与えられることを告白することである。祈りはこの義務の表現にほかならないが、人々はそれを厭(いと)い、自己と自己の力量とにたよって天主に祈ろうとしない。ところが御子は私たちにかわって天父に祈りたもうためにこの世におくだりになった。イエズスは昼夜を区別せず、御父の御前にひざまずき、その喜びたもう謙遜な、愛にあふれる祈りの香をお焚(た)きになった。今日も私たちの聖櫃は疲労することも休息することもない聖体の祈りの至聖所である。

イエズスは御父のみ旨をすべて知り、そのみ旨、そのご光栄のほかには、何ものも求めたまわないから、主の御祈りは完全である。イエズスは聖であって汚れなく、御父の愛子であって御父は何ものも御子にお拒みにならないから、主の御祈りは完全である。
だから、この愛すべき大司祭とともに祈り、天主のみ旨に従い、万事をみ摂理にゆだね、キリストとともに、キリストにおいて、キリストの御名によって祈ろう。

実行 秘跡の中においでになるイエズス・キリストを、大司祭として見ることを学ぼう。



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【聖体の黙想】聖体降福式はたやすく主に祈る最善の機会である The Exposition of the Most Holy Sacrament facilitates Prayer

2020年06月05日 | カトリックとは

テニエール神父著『聖体の黙想』 (1953年) (Révérend Père Albert Tesnière (1847-1909))より

聖体の顕示に関する黙想 The Exposition of the Most Holy Sacrament
   
聖体降福式はたやすく主に祈る最善の機会である X. The Exposition of the Most Holy Sacrament Facilitates Prayer and our Relations with Jesus.
   
 礼拝 恩恵と慈愛との玉座の上における主イエズス・キリストを礼拝しよう。主を仰ぎのぞみ、自分を主にささげ、あふれるばかりの愛と歓喜との感情をもって、あなたに呼びかけ、あなたをお招きになる主の御言葉を聞こう。 『われ、あげられんとき、人々をわれに引き寄すべし』 と。 I. Adoration. Adore Our Lord Jesus Christ, present before you on the throne of His grace and of His mercy; give yourself to Him, raise yourself towards Him by the love, the joy of seeing Him exposed before your eyes, seeming to call you and to attract you to Him. Listen to Him pronouncing from His lofty throne the words full of hope for us, of glory for Himself : " When I shall be lifted up 1 will draw all men towards Me." 
主のみ姿がはっきりと示されれば示されるほど、主が私たちをお引き寄せになる力は強い。この意味で聖体降福式は最もよい祈りの時である。なぜなら、この時、主の光栄の御姿を包む聖体の外観は消えはしないが、その他の障害物はみな取り去られ、信仰厚い人々を慰めると同時に、善意はあっても不信無頓着な人々に 『ここにあるものは何であろうか』 との疑問を抱かせるからである。まことにこの種の疑問こそ、彼らを真理の道に導く動機となる。主は暗黒な聖櫃の中にも、光まぶしい顕示台上においでになると同じに、まことに実在しておいでになるのであるが、ふだんは聖櫃のとびらは尊い救い主の御姿を隠し、恋い慕う御者の面影をさえぎるのである。 The more indeed that He manifests Himself, the more the Saviour draws us nearer to Him. The exposition shows Him under the most favorable conditions. It does not remove the Eucharistic veil which conceals the living and glorified humanity of Jesus Christ, but it removes all other barriers, and whilst marvelously consoling the faithful, it obliges the indifferent and the incredulous to say: " What is there ?" Now it is very often by means of a question of this kind that the light of truth penetrates into a soul which has remained upright in spite of its ignorance and its errors. True, the Saviour is as really present in the darkness of the tabernacle as on the splendid throne of the exposition. But the door of the tabernacle comes between our eyes and the Saviour whom we seek with so much longing. 
だから、今あらわにあなたの前に立たれる救い主を礼拝しよう。まなこをホスチアに注いで、その中においでになる御者に信仰と愛とを集中しよう。聖体が顕示されている祭壇の上には、聖画も聖像も聖遺骨も、これをおくことが禁じられている。それは人々の注意を乱す何ものもないようにとの教会の心遣いである。だから聖会のこの心を自分の心とし、至聖なる聖体の御前に出るや、すべてを忘れてホスチアを眺め、自分の目をもって信仰と愛と幸福と、さらに忠誠と服従と献身とをお語りしよう。 Adore then, the Saviour who places Himself directly before you; let your bodily eyes, fixed upon the Sacred Host, assist your faith to realize and contemplate Him whom that Host encloses. The Church wills that upon the altar, where the Most Holy Sacrament is exposed, there should be neither pictures, nor statues, nor relics, but only Him alone, so that nothing may distract the attention of the faithful who approach it. Ah! enter into this intention of holy Church, and as soon as you are in the presence of the adorable Sacrament fix your eyes upon it, do not detach them from it, let your eyes speak to it of your faith, of your love, of the delight you take in it; let them also express your docility, your submission, your obedience. 
   
感謝 礼拝するホスチアに注がれるまなざしの中には、いかなる祈りにもかわるいっさいの信心をこめることができる。目は種々、復雑な感情を語るものである。たとえば父の子に対するときのまなこには、その中に慈愛があふれ、友だち同志の目には喜びと幸福とが輝く。貧しい人の目は自分の窮境を訴え、法官の前に立つ罪人の目は侮いと、恥じと、罪の許しを願う言葉以上の情があらわれ る。このように、目は、祈り、望み、愛し、賛え、請い、願い、告白し、謙遜し抗弁することができ、また口ではとうてい言いあらわすことのできない心中の煩悶(はんもん)や苦痛を訴えることさえできるのである。福音書中の物語を見ても、哀れな中風者やらい病人たちは、多くの場合、黙って心の願いを彼らの目にあらわしただけであった。 II. Thanksgiving. Yes, a simple fixed glance directed reverentially to the adorable Host may contain all the homage of perfect piety, and stand in lieu of any prayer. How many things, indeed, may not a glance express! Does not the glance which the father directs towards his child, the friend towards his friend, express love, pleasure, the joy of seeing him ? Does not the glance of the poor directed towards the rich supplicate and implore? Does not the shamed and humiliated glance of the criminal, directing itself towards the judge, ask for pardon ? Evidently the eyes can pray; they pray, hope, love, praise, implore, supplicate, confess, humble themselves, protest; how many things indeed can they express, things which cannot issue from a heart oppressed by grief and which the lips find it impossible to translate into words ? The poor paralyzed men, the lepers of the Gospel, raised their suppliant eyes to Jesus; only rarely did they add a cry of complaint and distress; they gazed, laden with sorrow and desire, until they had that desire granted. 
それゆえ霊的な事がらに関して最も無知で無経験な者も、たやすく救い主と物語ることができるのである。顕示された聖体の前に出て、ホスチアを眺め、心の中で旧約聖書中のヨザファト王のように 『主よ、われらの天主よ、われらは敵に向かう能力なく、また、なすところを知らず、ただ御身を仰ぎのぞむのみ』Tantum nobis superest ut oculos nostros dirigamus ad te ! というならそれで十分である。 The most ignorant, the most inexperienced in spiritual things, can thus converse easily with Jesus and really and truly pray, if only they will come and place themselves beneath the sweet rays of the sun of the exposition, fix their eyes upon the Sacred Host, and say to it as did the holy King Josaphat, "Lord, our God, not knowing what to do in such great anguish, there remains for us but one sole means of salvation: it is to raise our eyes towards Thee: " Tantum nobis superest ut oculos nostros dirigamus ad te !
救い主があなたに対し慈父のような心をもっておいでになることを感謝しよう。主の喜びは人の子たちとともに語ることであるとおおせになった御言葉は決して虚偽ではない。 Ah, bless the Saviour for having by His condescension made your relations with Him so filial. He has said, and it is infinitely true, that His delight is to converse with the children of men. 
   
償い 聖体降福式は、私たちに反省の機会を与え、私たちを奮発させるために非常に有益である。私たちはこれによって、まことに心を改め、完全なキリスト教的生活の意義を理解するようになる。いうまでもなく、すべての完徳の理想と模範とは、イエズス・キリストである。主は 『われにならえ』 とおおせになって、この理想に到達するための超自然的能力を私たちに与えてくださった。 『われは道なり、真理なり、生命なり』 とは、主の中に万徳の完成があり、完全な生活に至るために必要ないっさいの法があり、完全な生命そのものがあるとの意味にほかならない。けれども顕示された聖体は、主のすべての御徳を私たちに示し何ひとつ隠すところがない。私たちはホスチアを眺めるだけで、それをさとることができる。 III. Reparation. The exposition is also very efficacious for inducing us to practice virtues and to examine our souls; to convert us and enable us to realize the true meaning of a perfect Christian life. The ideal, the type of all perfection, is Jesus Christ, who presents us with His own life as a model for ours, and gwes us the supernatural power of attaining to it. This is why He has said: "I am the way, the truth and the life"; in Me is the perfection of all virtue, the means of arriving at the perfect life and living in it. Now the exposition places so clearly before our eyes all His divine virtues, that it suffices to fix the eyes for a moment upon the Sacred Host in order to see and comprehend them. 
善悪にかかわらず、他人の行為、品性は、自然に私たちの目にうつる。また、私たちは他のどんな器官によるよりも、目を通して善事も悪事も覚えるのである。目はその受けた印象を記憶にとどめ、思想に伝達する。今、しばらく聖なるホスチアを仰ぎのぞもう。 You know what is the power of the eyes to behold the actions, the morals, the good or bad habits of men. Good, as well as evil is learned through the eyes more than through any other sense. The eye transmits the impression it receives to the imagination; the remembrance to the memory, attraction, or repulsion of the heart. Well, look attentively at the Sacred Host. 
天主の御子は、あなたたちのために秘跡の姿をとってここにおいでになる。それは、創造主に対する限りなく卑しい忘恩者なる私たちにとって、いかに驚くべき献身の模範ではないだろうか。また、主が、その御稜威(みいつ)をおおい隠し、天国の光栄を離れてパンの一片の中にひそみ暗黒のうちに隠れておられるとは、なんとすぐれた謙遜の模範ではないだろうか。なおそのうえに、主がこの秘跡の中にあって、人間の手に、しかも主を信じ、主をお愛しする人々ばかりにではなく、主を軽蔑し、主を冒瀆する人々の手にさえも御身をゆだねられるとはなんと完全な従順の模範ではないだろうか。主はすべてこれらの事がらを、私たちを愛されるあまり、また、そのご模範によって私たちを導き、すべての完徳の源なる天父の光栄をあらわされるため、ご自分からすすんで行なわれるのである。 The Son of God is there, in the sacramental state for you! What a lesson of devotedness, of love, of heroic charity, in regard to ungrateful, guilty man, who is so infinitely below his Creator! What a lesson of humility! To renounce the brilliancy of His majesty, all the splendor of heaven, and to veil Himself beneath the obscure covering of the species, put Himself into a morsel of bread! What a lesson of obedience, of poverty, of abnegation, of heroic patience! Jesus dependent upon men, not only dependent upon what faith and what love they choose to give Him, but also subject to their profanations and their sacrileges. And all this Our Lord does freely, from love to us, to sanctify us by His example and to glorify His Father, the Author of all perfection! 
主の模範は、まじめな心をもってホスチアを仰ぎのぞむ人々の目に、自然に映ずるはずである。だから、私たちはまことに心を改め、自分の罪の償いを果たすために、たびたび聖体降福式にあずからなければならない。その時、まずホスチアを眺め、次いで自分について反省しよう。あなたたちは、どんなに恐れ、また恥じなければならないだろうか。だが、幸いにも、完徳の模範であられるイエズスは、同時に人々に諸徳を分け与えようと絶えず望んでおられる方である。 Well, do not these examples strike the eyes of whoever piously looks at the Host ? Ah ! in order to make a fruitful examination of conscience capable of converting you and enabling you to do penance for all your sins, come and place yourself often in presence of the Holy Sacrament in exposition. First look at it, then at yourself, and make a comparison. Ah! the comparison would be crushing and full of despair for you, if the most merciful Master of virtues were not at the same time the inexhaustible principle of all virtues, always ready to give them to us, to develop them in our souls, especially if, after having contemplated Him in the exposition, we receive Him in communion !
   
祈願 聖体降福式にあずかり、沈黙のうちに主にならい、主に従うことを学ぼう。もし不幸にしてたびたびこの聖式にあずかることができなくとも、敬虔な心で主を仰ぎ眺めるなら、私たちが真に頑固な不信者でないかぎり、主が身をもって示される生きた教訓によって、次第にその感化をこうむるであろう。 IV. Prayer. Allow yourself therefore to be won to the Saviour by the silent persuasion of the exposition of the Most Blessed Sacrament. It would be necessary to be an obstinate unbeliever not to be touched, subjugated, by such a Teacher, however seldom we consent to come and listen to Him, provided that when we do come we will only look at Him. 
男も女も、幼い者も老人も、富む人も貧しい人も、学者も無学者も、田舎の人も都会の人も、みんな残らず聖体の前に出よう。祈る方法、反省する方法を知らない者でも、眺めることだけはできるはずである。眺めさえすればそれでよい。眺めさえするなら聖体顕示の荘厳さに心をうたれる。そして、もし自分から祈る力がないとしても、彼らのために聖体の中にとどまっておいでになる愛すべき救い主イエズスは、そのご実在の自然の能力と恩恵とをもって直接に彼らの心に働きかけたもうであろう。砂漠の中のイスラエル人は、高くあげられた銅の蛇を仰ぎのぞんだだけで病気をいやされた。救い主をひと目仰ぐことは、それよりもっと有益なことであるはずである。洗礼によって清められ、多くの恩恵をこうむった人々の霊魂は、ここに実在しておられる救い主イエズス・キリストの生きた感化をこうむって、聖徳の恵みを受けずにはいない。 Bring little children, bring the poor, the rich, the learned, the ignorant, those in the country as well as in cities, to the Holy Sacrament in exposition, whether it be for adoration, or simply for Benediction. Some of them do not know, you say, either how to pray or how to reflect? They can at least look! They will then see, and they will be touched by the splendor of the exposition, and if they are powerless to pray much of themselves, will not Jesus their Saviour, Jesus who loves them and who remains with them in the Eucharist, act upon their hearts by means of the influence and the grace of His presence ? In the desert it sufficed, in order to obtain a cure, to raise a suppliant glance towards the brazen serpent erected in the midst; will not a glance directed towards the Saviour be more efficacious ? and these souls which by baptism have been sanctified, which the spirit of grace and of prayer has consecrated, will experience the living influences, the sanctifying holiness of the real, true, living Jesus Christ, our Lord. 
   
 実行 顕示された聖体の御前で祈る機会を逃さないようにしよう。 Practice. To pray, whenever we can, at the feet of the Host exposed! 

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