Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

2023年12月のカトリック聖伝のミサ 東京は新聖堂にて Traditional Latin Mass for December 2023, SSPX Japan

2024年01月01日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(これは「トリエント・ミサ」「ラテン語ミサ」とも言われています)にご招待します。

2023年12月のミサの予定をお知らせいたします。

【大阪】「聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂」 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 EG新御堂4階 〒532-0002 (アクセス)JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分(地図

 12月01日 金 【大阪】 18:30 ミサ聖祭
 12月02日 土 【大阪】 10:30 ミサ聖祭
 12月03日 日 【大阪】 10:30 ミサ聖祭
 12月08日 金 【大阪】 18:30 ミサ聖祭
 12月09日 土 【大阪】 10:30 ミサ聖祭
 12月10日 日 【大阪】 10:30 ミサ聖祭
 12月11日 月 【大阪】 06:30 ミサ聖祭
 12月15日 金 【大阪】 18:30 ミサ聖祭
 12月16日 土 【大阪】 10:30 ミサ聖祭
 12月17日 日 【大阪】 10:30 ミサ聖祭
 12月24日 日 【大阪】 18:00 ミサ聖祭
 12月25日 月 【大阪】 00:00, 10:30 ミサ聖祭
 12月31日 日 【大阪】 18:00 ミサ聖祭

【東京】 東京のミサは11月26日から新しい場所で捧げられています。

住所: さいたま市大宮区東町2ー256ー8 林ビル2F

Google マップ: <https://goo.gl/maps/3AiQkmFkdGYtVC2B6>
※ JR 大宮駅から北東方向に1キロメートルほど歩いたところにある、ベージュ色の3階建のビル、林ビルの2階です。

大宮駅まで: JR 大宮駅へは、JR 宇都宮線・高崎線で東京駅から 31 分、上野駅から 25 分です。
大宮駅から: JR 大宮駅東口から、北東方向に歩いて約 14 分です。(ファイル New Chapel in Omiya-20231009.pdf をご覧ください)

大宮駅から新しい聖堂へ歩いての行き方ファイル:Walking from Omiya Station to the New Chapel

主日ミサは2回捧げられます。(9時と11時半です)
準備が出来次第、告解の秘蹟を受けることができます。
09:00 ミサ聖祭 歌ミサ(YouTube でライブ中継の予定
11:30 ミサ聖祭 読誦ミサ
ミサとミサとの間に告解の秘蹟を受けることができます。最初のミサの間にも告解をすることができるように告解のために司祭は待機しております。

【「暁の星の聖母」修道院】
修道院では平日(月曜から金曜まで)は毎朝7時15分から聖伝のミサを捧げています。土曜日は原則的に修道院で午前11時からミサが捧げられます。

住所:埼玉県さいたま市見沼区大和田町2丁目820番地3
日本聖ピオ十世会:「暁の星の聖母」修道院
T 337-0053

2023年

 11月29日(水) 【修道院】07:15 ミサ聖祭
 11月30日(木) 【修道院】07:15 ミサ聖祭
 12月01日(金) 【修道院】07:15 ミサ聖祭
 12月02日(土) 【修道院】11:00 ミサ聖祭
 12月03日(日) 【修道院】修道院ではミサはありません
 12月04日(月) 【修道院】07:15 ミサ聖祭
 12月05日(火) 【修道院】07:15 ミサ聖祭
 12月06日(水) 【修道院】07:15 ミサ聖祭
 12月07日(木) 【修道院】07:15 ミサ聖祭
 12月08日(金) 【修道院】07:15 ミサ聖祭
 12月09日(土) 【修道院】11:00 ミサ聖祭
 12月10日(日) 【修道院】修道院ではミサはありません
 12月11日(月) 【修道院】07:15 ミサ聖祭
 12月12日(火) 【修道院】07:15 ミサ聖祭

修道院では7時15分のミサで、毎月一回捧げられる「亡くなった会員と恩人の方々のため」の意向でミサ(Monthly Requiem Mass for the members and benefactors)」を行います。2023年は、11月7日、12月5日の予定です。

【名古屋】

名古屋においても毎月最終主日に、聖伝の典礼を信徒の皆様に体験していただくためにも愛する兄弟姉妹の皆様を全てご招待いたします。12月は例外的に12月17日です。

場所:愛知県名古屋市中村区名駅南1-3-14 石原ビル6階
日時:12月17日(主日) 16:50 ロザリオ及び告解  17:30(午後5時30分) ミサ聖祭
場所は松屋の入っているビルの6階です。
12月:12月17日(日)ミサ聖祭:午後5時30分
01月:01月28日(日)ミサ聖祭:午後5時30分
 
 
Ave Maria Immaculata!

My dearest Brethren!

The Traditional Latin Masses in Tokyo, will be offered at the new place from November 26, 2023.

*****Mass times in Tokyo:*****
On all Sundays in October there will be two (2) Masses.
09:00 - Sung mass : YouTube live
11:30 - Low mass

Mass location:

From November 26, 2023, we will celebrate Sunday Masses at the new location:

Address: Hayashi Building 2F, 2-256-8, Azuma-chô, Ômiya-ku, Saitama City
Google Map link: <https://goo.gl/maps/3AiQkmFkdGYtVC2B6>
* The chapel is on the 2nd floor of Hayashi Building, a beige-colored 3-story building, located approx. 1 km north-east of JR Ômiya Station.
To Ômiya Station: JR Ômiya Station is a 31-minute train ride (on JR Utsunomiya Line or JR Takasaki Line) away from JR Tôkyô Station, or a 25-minute ride from JR Ueno Station.

From Ômiya Station: From the East Exit of JR Ômiya Station, walk approximately 14 minutes in the north-eastern direction to reach the chapel. (Please see the file New Chapel in Omiya-20231009.pdf.)

File : Walking instruction from Omiya station to the New Chapel

*****Mass schedule in OSAKA:*****

 December 01 Fri 【Osaka】 18:00 Holy Mass
 December 02 Sat 【Osaka】 10:30 Holy Mass
 December 03 Sun 【Osaka】 10:30 Holy Mass
 December 08 Fri 【Osaka】 18:00 Holy Mass
 December 09 Sat 【Osaka】 10:30 Holy Mass
 December 10 Sun 【Osaka】 10:30 Holy Mass
 December 11 Mon 【Osaka】 06:30 Holy Mass
 December 15 Fri 【Osaka】 18:00 Holy Mass
 December 16 Sat 【Osaka】 10:30 Holy Mass
 December 17 Sun 【Osaka】 10:30 Holy Mass
 December 24 Sun 【Osaka】 18:00 Holy Mass
 December 25 Mon 【Osaka】 10:30 Holy Mass
 December 31 Sun 【Osaka】 18:00 Holy Mass
 January 01 Mon 【Osaka】 10:30 Holy Mass

*****Holy Masses at Stella Matutina Priory*****
On weekdays (Monday to Friday), holy Masses are offered at 7:15 am at the Priory.
On Saturdays, normally the Mass will be offered at the priory at 11am.

*****Mass schedule in NAGOYA: [Last Sunday of the month] *****

December 17, (Sun) 17:30 Holy Mass

*****New Chapel in Omiya*****

【聖ピオ十世会とは】

聖ピオ十世会、SSPX (the Society of Saint Pius X)とは、1970年11月1日にスイスのフリブール教区においてローマ・カトリック教会の教会法に従って創立されたカトリック教会の修道会の一つです。創立以来、カトリック信者の要請に応える形で、全世界での使徒活動をますます拡大しています。

* 教皇フランシスコは聖ピオ十世会の司祭たちに適法に使徒職を果たす権能をお与えになっています。教皇は書簡「ミゼリコルディア・エト・ミゼラ」で、聖ピオ十世会の司祭たちが世界中ですべての信者のために告白の秘蹟を行う権限を持つと宣言されました。さらに教皇は聖ピオ十世会の婚姻の秘蹟が有効に執行するように全世界の司教たちに彼らの協力をお求めになられました。

* 聖ピオ十世会の司祭は、ラテン語でカトリック聖伝のミサ(Traditional Latin Mass)を捧げています。ミサの典文(Canon)の中では、教皇フランシスコの名前と当地の教区長の名前(東京大司教区ではタルチシオ菊地大司教)を唱えます。教皇ベネディクト十六世は自発教書「スンモールム・ポンティフィクム」の中で、全てのカトリック司祭は聖伝のミサを捧げる権利を有していると宣言されました。何故なら、聖伝のミサは一度も廃止されたことがないからです。

「過去の人々にとって神聖だったものは、わたしたちにとっても神聖であり、偉大なものであり続けます。それが突然すべて禁じられることも、さらには有害なものと考えられることもありえません。わたしたちは皆、教会の信仰と祈りの中で成長してきた富を守り、それにふさわしい場を与えなければなりません。」(ベネディクト十六世)

* 聖ピオ十世会の司祭たちは、伝えられたままの純粋なカトリック教えをそのまま伝えようと全力を尽くしています。カトリック教会が、信じてきた全てのカトリックのドグマと信教(Credo)をそのまま変えずに信じ、信仰宣言しています。また同時にカトリック教会によって排斥された全ての異端に対して反対しています。過去から変わることなく伝えられた正統信仰こそ真理における一致を促進し、分裂を避けさせるものです。

* 聖ピオ十世会の司祭たちは、カトリック教会がそう信じ続けてきたように、特に御聖体における私たちの主イエズス・キリストの現存を深く信じています。また、カトリック教会以外には霊魂の救いがないと信じます。

*教皇庁教理省は「同会の聖職者は、教会法上の制裁から解放されている」(いかなる制裁も受けていない)と認めています。

* 聖ピオ十世会の司祭は、領域上(司教区)の法的身分(裁治権)も属人的裁治権も有しておりません。しかし必要の状況に置かれた信徒たちのために、教会法によって補足された法的身分(裁治権)を有しています。私たちの主イエズス・キリストは霊魂の救いと聖化のためにの通常で主要な手段として秘蹟を制定されました。カトリック教会は、必要とする人々が秘蹟(特に改悛の秘蹟)をいつでも受けることができることを欲しています。何故なら教会の最高の法は霊魂の救い(教会法1752条)だからです。

* カトリック教会は、教会法の規定(144条)によって、組織上の当局を通さずに法的身分(裁治権)を補足します。カトリック信者は、いつでも告解を必要とするとき、その判断と助言を信頼することができると思う司祭から改悛の秘蹟を受けることができます。しかもその司祭が通常のやり方で法的身分(裁治権)を有していなくてもそれができます。さらには、しかも教会法(1335条)の言葉によると「いかなる正当な理由でも」信徒がこれを求めるのであれば、聖職停止あるいは破門された司祭であってもこれができます。

【お知らせ】

一般社団法人日本聖ピオ十世会の銀行口座が開設されました。
御寄附や四旬節の献金、また教会維持費などのためにお使いくだされば幸いです。
愛する兄弟姉妹の皆様の暖かいご支援を感謝申し上げます。

銀行名:住信SBIネット銀行
金融機関コード(銀行コード):0038
支店番号-口座番号:106-1951537
漢字氏名:一般社団法人日本聖ピオ十世会
カナ氏名:シヤ)ニホンセイピオジツセイカイ


聖ピオ十世会の「聖母の汚れなき御心聖堂」と「聖なる日本の殉教者教会」とを聖母の汚れなき御心に奉献する

2023年12月01日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

11月29日から無原罪の御やどりの祝日を準備するノベナが始まっています。

東京では、2017年7月16日に行ったように、新しい聖堂が与えられたことを感謝して、来る12月24日(主日)の歌ミサの後にもう一度、聖母の汚れなき御心に私たちを奉献する予定です

アルスの聖司祭ヴィアンネ神父様にならって、私たちの名前を全て書き込んでマリア様の御影(ごえい)に埋め込みます。日本の最上位の守護者である聖母の汚れなき御心への奉献に私たちの名前を刻むことをご希望の方は、信徒会長あるいは受け付けの方にお名前を提出してください。

聖ピオ十世会東京の「聖なる日本の殉教者教会」を、聖母の汚れなき御心に奉献する祈り

おお、聖母の汚れなき御心よ、イエズスの聖心の母にして、われらの元后にして母なる聖母よ!
御憐れみをたれて、この 聖ピオ十世会東京の「聖なる日本の殉教者教会」  に御眼差しを注ぎ給え。われらは御身に、忠孝の愛を示し、この荘厳な奉献によって御身に崇敬を表すことを望み奉る。
われら、 聖ピオ十世会東京の「聖なる日本の殉教者教会」  の司祭、信徒は、御身にわれらの全てを、肉体も霊魂も、能力も感覚も、人生の全ての悲しみも喜びも、われらの持てる全てを、われらそれ自身を、われらが愛する全てを、御身にことごとく捧げ奉る。
汚れなき童貞女よ、天主の御母にして全ての人々の母よ、われらは御身の聖母の汚れなき御心に、われら自身とわれらの 聖ピオ十世会東京の「聖なる日本の殉教者教会」  とを奉献し奉る。われらを御身の子供として受け入れ給え。
御身の汚れなき御心が、われら 聖ピオ十世会東京の「聖なる日本の殉教者教会」  の司祭、信徒らにとって、若きも老いたるも、健康なる者も病の者も、熱心なる者も罪を犯した者も、また将来の会員らにとっても、天主へと導く道とならんことを。
われらの愛する御母よ、われらを統治し給え。われらが豊かなときも貧しいときも、喜びの時も悲しみの時も、健康の時も病の時も、生涯に亘っても死後も、いつも御身のものたるために。
聖母のいとも憐れみにあふれる御心よ、童貞の元后よ、われらの心も精神も守り給え。御身はファチマにて、人々の傲慢や不貞潔や異教精神をいたく深く嘆き悲しみ給うたり。われらをして現代にあふれるこれらの洪水から逃れしめ給え。
今より後は、御身は当会の元后にして母なり。われらの霊的かつ物体的な善を世話し給え。われらの祈りを聞き給いて、この世の悲しみと困難の時、特にわれらの臨終の時にわれらに慰めを給え。
われらは、われらの家族、当 聖ピオ十世会東京の「聖なる日本の殉教者教会」  、われらの祖国、全世界に、正義と愛徳における天主の平和を呼び求め奉る。
われらは、われらの能う限り、御身の御助けにより、償いと改悛との精神をもって御身の諸徳に倣い、真のキリスト教的生活を送り、世間体を気にせずに、頻繁な改悛の秘蹟と御聖体の秘蹟を受け、典礼に敬虔に与り、公教要理を注意深く学ぶことを謹んで約束し奉る。
おお、聖なるロザリオの元后よ、われらはロザリオの祈りを毎日欠かさずすることを約束し奉る。
われらは、御身の助けを持って、キリスト教生活が私たちに要求する犠牲を全て受け入れ奉り、それらを御身の汚れなき御心により、御身の聖子イエズス・キリストのミサ聖祭の犠牲と一致して、イエズスの聖心に捧げ奉る。
美しい愛の母よ、われらの心に、また当会とわれらの家庭に、天主を愛する愛の火を燃え立たしめ給え。願わくは、この愛の火によりて、われらの身分上の努めに常に忠実ならしめ、天主の聖寵により、われらの模範と犠牲と祈りとを通して、われらの隣人と憐れな罪人たちに対する熱心な使徒とならしめ、彼らを真の信仰生活を送るように導くことができるようなさしめ給え。
願わくは、イエズスの聖心の御国が、御身の汚れなき御心の御国と共に、 聖ピオ十世会東京の「聖なる日本の殉教者教会」  とその全ての信徒らに来たらんことを。われらの元后にして母なる聖母よ、われらが御身を愛し御身に奉仕し、御身に真に奉献された生活を送ることにより、われらがついに至聖なる三位一体との永遠の至福に至るにふさわしき者とならんことを。アメン。
「わが天主よ、われ、信じ、礼拝し、希望し、御身を愛し奉る。われ、信ぜぬ人々、礼拝せぬ人々、希望せぬ人々、御身を愛さぬ人々のため、御身に御赦しを願い奉る。」
「至聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊よ、我、御身を深く礼拝し奉る。世界中のすべての御聖櫃のうちにましまし給うイエズス・キリストのいとも尊き御体、御血、御霊魂と御神性を、イエズス・キリスト御自身が受け給う侮辱、冒涜、無関心を償うために、御身に捧げ奉る。イエズスの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳によりて、あわれな罪人の回心を御身に願い奉る。」

【大阪では、この奉献を2017年5月13日に行い、2019年7月19日に更新しましたが、再び、来る12月8日に行う予定です。】

12月25日(月)私たちの主の御降誕は、大阪では午前10時半から、東京では大宮の新しい聖堂で午後6時半から歌ミサを行う予定です。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【参考情報】イタリア人司祭は、新著で「愛のよろこび」の誤謬を批判したために聖職停職を受ける

2023年11月29日 | カトリック・ニュースなど

イタリア人司祭は、新著で「愛のよろこび」の誤謬を批判したために聖職停職を受ける

Italian priest suspended for criticizing errors of Amoris Laetitia in new book

「私たちは今、教会がこれまで直面した中で最悪の教理上の危機にあり、それは教皇のせいなのです。あり得ないことのように思えますが、そうなのです」。

マイケ・ヒクソン

米東部標準時夏時間2023年5月1日午後5時2分

(LifeSiteNews)―2004年に叙階されたイタリア人カトリック司祭ドン・トゥリオ・ロトンド【ドンとは神父という意味】は、2016年の教皇フランシスコのシノドス後の使徒的勧告「愛のよろこび」(Amoris Laetitia)に含まれる誤謬に反対する著書を出版したことで、司教から「聖職」(a divinis)停止処分を受けました。ドン・ロトンド【ロトンド神父】の本の序文を書いた世界的に有名な古典哲学者であるジョン・リスト教授は、LifeSiteに対して、彼の聖職停止処分は「全く不当なもの」であると語り、付け加えて、ドン・ロトンドは「何百年もの間、カトリックの道徳神学であると信じられてきたものを擁護したために罰せられた」と述べました。彼の聖職停職処分は、カトリック教会にはふさわしくない、一種の権威の隷属的濫用の一例です。

ドン・ロトンドはLifeSiteのインタビューに応じ(全文は下部参照)、その中で「『愛のよろこび』による健全な教理の裏切り。教皇フランシスコと協力者たちのうちの何人かが、いかにして信仰の遺産に反する道徳を広めているか」と題した自著の論旨を詳しく説明しています。ドン・ロトンドによれば、この著書は「告解の秘跡、道徳的良心、道徳律、死刑に関して、教皇と協力者たちのうちの何人かが広めているさまざまな誤謬」を浮き彫りにしています。この司祭は、いかなる秘跡の執行も禁じられるという聖職停職処分を受けていますが、心は平安です。

「今は私の人生で最も幸せな時間です」と彼はLifeSiteに語ります。「なぜなら、使徒たちが言ったように、キリストとともに、キリストのために、キリストの真理のために、苦しむことができることをうれしく思っているからです。私は内的には平安であり、自分の召命を見つけたと感じています」。イゼルニア=ヴェナフロ教区のカミッロ・チボッティ司教から著書の出版を撤回するように言われたとき、彼はそうするのを拒否しました。

教皇フランシスコがチボッティを司教に指名した後、チボッティは2014年にブルーノ・フォルテ大司教一人だけによって聖別されましたが、この大司教は2014年の家庭に関するシノドスにおいて、異端的な行動計画(アジェンダ)を押し進めるために教皇フランシスコと密接に協力し、重要な役割を果たしました。

LifeSiteNewsは、チボッティ司教が署名した2023年2月2日付の聖職停止命令を確認することができました。この命令は、「正当な教区長に対する不従順」について明確に言及しており、「警告後も不従順にとどまる」司祭は処罰される可能性があることを述べている教会法典1371条を引用しています。

イタリア人ジャーナリストのアルド・マリア・ヴァッリによって発行された自著の解説の中で、ドン・ロトンドは2022年6月、従順についての自分の理解をこう説明しました。

私はこの点に関して、明らかに法的に無能力な一部のキリスト信者が、聖書本文の誤った解釈のせいもあって、キリスト信者の従順とは、常に長上の言うこと、特にそれが教皇である場合には、それに従うことであると信じており、従って、彼らは、教皇の発言や裁定に反対する者は誰でも不従順であると指摘します。キリスト信者は、何よりもまず天主なる至高の長上に従わなければならず、従って、他の長上の指示や命令に従わなければならないのは、これらの指示や命令が天主の指示や命令と対立しない限りにおいてのみです。聖トマスはこの点について非常に明確です。

リスト教授――リスト教授自身も2019年、教皇フランシスコの異端を告発する公開書簡に署名したことで、ローマのすべての教皇庁立大学から教えることを禁じられる処分を受けた――は、ドン・ロトンドの著書の序文にこう書いています。

「現教皇職の問題の多くは、『愛のよろこび』の発表によってさらに白日の下にさらされた。この勧告が生み出した膨大な論争を通じた案内書が出版されれば、有益であることは明らかだ。そして、そのような案内書が今、トゥリオ神父によって編纂された。これは本当に『偉大で困難な仕事』(magnum opus et arduum)である。トゥリオ神父は1300ページ以上にわたって関連文書を収集し、それらを聖書および教父や教会博士たちの幅広い知識に照らして検証した」。

リストはこう付け加えています。「21世紀のカトリック教会の歴史家たちは、彼の資料を彼らの判断のための金鉱として見いだすだろう。一方、教会の信者席にいる今日のカトリック信者たちは、トップダウンの神学的刷新として私たちに提案されてきたものの特徴である傲慢、欺瞞、曖昧さ、侮辱の網の目を解きほぐそうとするとき、彼の著書の中に比類なき情報源を見いだすだろう」。

LifeSiteへのコメントで、リストはこの著書が「教皇フランシスコが、教会内にある深くて実際には根本的な分裂をいかにして挑発したか(実際には、むしろ露呈させて助長したか)」を示していると説明しています。ドン・トゥリオは、細心の注意とプロ意識をもって、『愛のよろこび』に関する論争の両面を記録している」。この英国人リスト教授は、ドン・トゥリオ・ロトンドに対する司教の聖職停止処分が不当である理由を説明し、次のように述べています。「司教はドン・トゥリオに著書を撤回するよう命じた。それよりもむしろ司教は、聖伝のカトリックの教えを熱烈に擁護するドン・トゥリオを称賛すべきだったのだ」。

リストは続けてこう述べています。「司教は、そう行動することで、教皇に、正統神学の第一の守護者(唯一の守護者ではない)としての正しく聖伝的な役割に戻るよう促すのではなく、教皇が聖伝である(すなわち、教皇が主張することがカトリックの真理である)と信じている司教団の中のかなりのグループと足並みを揃えたのだ」。

「愛のよろこび」は、多くの聖職者や平信徒にとって懸念と苦悩の原因となっています。なぜなら、教会の道徳的戒律(例えば結婚に関して)に従って生活していないカトリック信者が、それにもかかわらず悔い改めることなく秘跡にあずかる道を開くものだからです。この文書に触発されて、2016年11月にカトリック教会の4人の枢機卿は、彼らの「ドゥビア」を発表しました。彼らはすでに、教皇フランシスコに個人的にこの文書を送りました。彼らの疑問は今日に至るまで教皇によって回答を与えられていません。

ドン・トゥリオ・ロトンドはLifeSiteとのインタビューの中で、オーストリアの国際的に有名な哲学者であるヨゼフ・ザイフェルト教授が当時、この教皇文書をどのように評価していたかを読者に思い起こさせています。
「ザイフェルト教授は、『愛のよころび』の303番は、『十戒とカトリックの道徳的教えという道徳的建築物全体を崩壊させる恐れのある神学的原子爆弾である』と述べました」。ザイフェルト教授自身もまた、自分の批判に対して、2017年に自分が教えていたスペインのグラナダ教区から処分を受けました。地元の司教であるハビエル・マルティネス・フェルナンデス大司教は、彼が大学で教えることを禁じたのです。

これらすべてのカトリックの証人たちは、平信徒も聖職者も同様に、教会の道徳的教えを守るために苦しんだという事実のために、いつかたたえられる日が来るでしょう。

法学と道徳神学の大学の学位を持ち、神学博士でもある56歳のドン・トゥリオは、LifeSiteとのインタビューで、霊魂の救いのために誤った教えに抵抗するようすべての人にこう呼びかけています。

私はあえて公に言います。親愛なる兄弟である司祭の皆さん、親愛なる父である司教の皆さん、親愛なる神学者の皆さん、もし皆さんが声を上げなければ、教皇フランシスコのせいで広まっている非常に深刻な誤謬や関連するつまずきを明らかにするために、また、知っていながら声を上げない人々、つまり、これらの誤謬を認識し、それが救いに関して霊魂にもたらす大きな害を理解しながらも、声を上げず、反対しない人たちを非難するために、「石が叫ぶ」でしょう。

ドン・トゥリオ・ロトンドとのインタビュー全文は以下をご覧ください。

【問い(LifeSiteNews)】神父様がどの教区に籍を置いておられるのか、また神父様の教会における現在の状況を教えてください。

【答え(ドン・トゥリオ・ロトンド)】私はイゼルニア・ヴェナフロ教区に籍を置いており、現在は聖職停止状態です。ですから、私は家におります。

【問い】神父様を聖職停止処分にしたのは誰ですか。神父様の司教様がご自分で行ったのですか、それともローマからの介入があったのですか。

【答え】責任は司教様にありますが、司教様がローマと話し合って私にこの制裁を下したことは確実です。

【問い】聖職停止の理由は。

【答え】聖職停止命令は次の点を強調しています。

(a)2022年、私は「『愛のよろこび』による健全な教理の裏切り。教皇フランシスコと協力者たちのうちの何人かが、いかにして信仰の遺産に反する道徳を広めているか」と題する本を出版した。この本の中で私は、教皇と協力者たちのうちの何人かが、特に「愛のよころび」を通して広めている重大な誤謬を示している。
(b)司教様はこの本を公式に撤回するよう私に求められた。
(c)私はそのような撤回をしなかった。
(d)その結果、司教様は私に聖職停止処分の制裁を課された。

したがって

(a)私は、公的に役職、地位、役務を行使できない。
(b)私は、叙階の権能や、統治の権能を行使できない。
(c)また、私は、いかなる権利や特権も行使できず、いかなる記章や称号も使用できない(したがって、私は教会の衣服も着用できない)。

この制裁にせいで、私の「ミサ執行許可書」(celebret)は撤回されました。私はすべての秘跡を執行することを禁じられています。

最初に明確にしておきたいのは、この本は、教皇と協力者たちのうちの何人かがさまざまな形で広めた重大な誤謬に焦点を当てた、私が執筆中の数冊のうちの最初の一冊であることです。PDF形式のこの本は無料であり、このサイトからダウンロードすることもできます

このサイトでは、ニューラル技術を使ったさまざまな言語への自動翻訳が提供されており、この技術は自動ではありますが特に優れているはずです。英語のサイトと本はこちらから。この本の参考文献は、現在約40ページですが、今後増える予定であり、こちらで略語とともに見ることができます。

参考文献の記事の多くはLifeSiteNewsから引用されており、私はLifeSiteNewsに対して、特に教皇フランシスコの誤謬に言及し、生命と健全なカトリックの教理を守るための素晴らしい活動に心から感謝しています。このサイトのおかげで、教皇フランシスコの誤謬に勇気をもって反対しているカトリックの高位聖職者や学者たちの多くの重要な声明について知ることができました。このサイトが無料でコンテンツを提供していることは、私の仕事に大いに役立っています。

【問い】神父様の著書で、おそらく神父様の聖職停止処分の原因となったと思われる主な主張は何でしょうか。

【答え】この聖職停止処分の原因となった私の本の主な論点は、教皇の誤謬、すなわち、教皇が聖伝と聖書に反していることを強調したことです。本書の第3章から、私は、告解の秘跡、道徳的良心、道徳律、死刑に関して、教皇と仲間たちのうちの何人かが広めているさまざまな誤謬を強調しています。これらの誤謬はカトリックの教理の破壊転覆であって、進化ではありません。それらは霊魂の救いに大変有害であるため、私たちが反対すべきものです。

【問い】この本の概要を簡潔に教えていただけますか。

【答え】序章で説明しているように、第1章では教理上の問題での教皇の権力の限界について語っています。教皇が異端の可能性がある問題についてもいろいろ考えています。また、歴史が教皇の明白な誤謬をどのように記憶しているか、教皇の死後、エキュメニカル公会議によって教皇【の教え】が異端とされ、排斥されことさえあることを示しています。この第1章では、教皇フランシスコに非常に近く、使徒的勧告「愛のよろこび」のゴーストライターとされるアルゼンチン人高位聖職者、モンシニョール・V・M・フェルナンデスの発言を検証しています。本書の中で私は、「愛のよろこび」が述べていることをよりよく理解するために、モンシニョール・フェルナンデスの著作を何度か利用しています。

第2章では、「愛のよろこび」にまで至った教皇の明白な戦略と、それに続く深刻な結果を示しています。この戦略は、曖昧な発言と「暗号」(言葉と行動)から構成されており、この戦略によって、教理の変更および教皇が実行しようとしている「パラダイム・シフト」が目立たないように広まっているのです。

教皇フランシスコに最も近い協力者たち自身が、教皇フランシスコは「パラダイム・シフト」を実行していると述べています。一方、ミュラー枢機卿は、「『パラダイム・シフト』というまがいものの知的言説の背後には、天主のみ言葉を改ざんする隠しようのない異端しかありません」と述べています。教皇フランシスコの戦略は、まさにこの「パラダイム・シフト」を実行するために、2014年と2015年の2回のシノドスにおける「操作」によっても実行されました。

それ以降の章では、このような「パラダイム・シフト」がどのように実現されたのか、そしてそれゆえにカトリックの教理のさまざまな点に関して、「愛のよろこび」を通して「パラダイム・シフト」から生じる誤謬を示しています。これらの章では、教皇フランシスコと支持者たちが、誤った道徳を神学的に受け入れられるものとして罷り通らせるために、特に次の二つの手段を用いてきたことを示しています。

1.一つは、啓示された天主の法と、それとともに十戒の否定的戒律には絶対的な義務性があることを、特定の部分において、実質的に脇に置くものです。ザイフェルト教授は、「愛のよころび」の303番は、「十戒とカトリックの道徳的教えからなる道徳的建造物全体を崩壊させる恐れのある神学的原子爆弾」であると述べています。

2.一つは、特定のケースに対する不正確で誤った識別を広め、その結果、人間の行為の情状酌量すべき事情をあいまいで不正確で逸脱した表現にしたことです。これらの事情は、実際には教皇とその協力者の一部によって狡猾に拡大され、真の重大な罪を小罪や不完全なものとみなすように導くことによって、天主の戒律を実質的に破壊することができるようにされています。
これに沿って、シュナイダー司教は、「過去2回のシノドス総会(2014年と2015年)において、新たなモーゼの弟子たちと新たなファリザイ人たちは、あわれみの概念を装って、結婚の不解消性とケース・バイ・ケースでの第六戒の一時停止を実践的に否定するのを覆い隠したこと、「識別の方法」、「同伴」、「司教の方向づけ」、「司祭との対話」、「内部フォーラム」、「さらに完全な教会生活への統合」、非正規の結合による同棲に関して責任を負わせることを廃止する可能性があること、といった表現を使っていました(最終報告書、84-86番参照)」。(これらはモンシニョール・シュナイダーの言葉であり、メールで私に送られてきたものです。2023年4月28日付のRorate Caeliの記事に同じような内容あることが明記されています。この記事には実際にはミスプリントがあります。)

教皇と協力者たちの中の何人かは、こうした道筋をたどりながら(その道筋だけではありませんが)、同性愛行為、避妊行為、姦淫行為を容認する道をも実質的に開いてしまいました。… したがって、そうした行為を実践しながら悔い改めない人々に対する秘跡としての赦免と聖体拝領を実質的に容認する道も開いたのです。中絶過激派のバイデン米大統領が、フランシスコと会見した際、教皇によれば、自分【バイデン】は「善きカトリック信者」であり、ご聖体を受けることができる、と述べたのも不思議ではありません。聖座はそれを否定していないのです!

もしバイデンのような中絶推進派の同性婚擁護者が合法的にご聖体を拝領できるのであれば、事実上誰でも、悔い改めない大いなる罪人であっても、そうすることができることは明らかです。なぜなら、バイデンは彼が行う悪を明らかに悔い改めていないからです。このことはすべて、痛悔、つまり罪を犯さないという意向が、もはや秘跡としての告解に絶対必要というわけではないという誤謬と関連しています。本書は第3章で、教皇フランシスコと協力者たちの主張が、悔悛者の痛悔を欠く限りにおいて、いかに無効な秘跡としての赦免と無効な告解につながるかを指摘しています。これらの無効な赦免と無効な告解は罪を赦すのではなく、単に悔悛者を欺くだけです。悔悛者の真の痛悔がなければ、真の赦免も、真の悔悛の秘跡も、秘跡による真の罪の赦しもないからです。

第6章は、死刑に関する教皇の誤謬を検証します。死刑の合法性は、場合によっては、自然法と啓示された法によって明確に肯定されており、教皇が死刑を「許されない」と宣言した際、教皇は明らかな誤謬状態にあります。

私が強調しているのは、本書で十分に示したように、教皇が「愛のよろこび」はトミズムの道徳的教理に忠実に従っていると主張していることは真実ではなく、実際には、この勧告は多くの箇所でアクィナスの道徳に完全に反している、ということです。たとえそれが、「トミストの文書」という肩書をまとって、あたかも確かな教理のように見せかけようとしていてもです。
天主の法とその絶対的な否定的命令をさまざまな戦略で実質的に踏みにじり、健全なカトリックの教理を捻じ曲げる教皇が、明らかに偽りのことを述べながら、それを至高の真理であるかのように見せかけるのは、奇妙ことではありません。十戒の否定的な命令に対して、場合によっては合法的な方法で実質的に違反することが可能なのであれば、場合によっては人は、合法的な方法で実質的に嘘をつくことさえできてしまうことは明らかだからです。

【問い】神父様はこれまで、教会の位階階級と問題を起こしたことはおありですか。

【答え】私はこれまで制裁を受けたことはありません。私は常に教皇と司教に従順であり、聖なる生活を送り、健全な教理についてもっともっと学ぼうとしてきました。実際、私は1992年にローマのサピエンツァ大学で法学の学位を取得し、2002年には道徳神学の免許状を取得しました。2008年には、ご聖体に関する聖トマスの教理とキリスト信者の道徳生活との関係に関する論文で神学博士号を授与されました。まさに私の神学的訓練のおかげで、また祈りによって天主が私に与えてくださった光のおかげで、私は教皇フランシスコが教皇在位期間の間に、私たちが知っていることに一致しない教理を広めていることに気づきました。そのため、私は「聖伝」を深く学んでから、教皇フランシスコの発言と比較することにしました。私は、偉大な専門家たちが述べていたことを読み、教皇フランシスコが、専門家たちが真の異端と表現する非常に深刻な誤謬を広めていることを確信するようになりました。

【問い】神父様の恐ろしい運命を考えれば、この重大な不公正にもかかわらず、神父様はどのようにご自分を支え、信仰を強く保っておられるのでしょうか。

【答え】恐ろしい運命ではありません。実際、私の人生の中で非常に幸せな時間です。なぜなら、使徒たちが言ったように、キリストとともに、キリストのために、キリストの真理のために、苦しむことができることをうれしく思っているからです。私は内的には平安であり、自分の召命を見つけたと感じています。基本的に、私は自分がしていたことを続けています。つまり、キリストに従い、キリストのみ言葉を広め続けています。私は祈り続け、教皇と仲間たちが広めている非常に深刻な誤謬のことを明確に語り続けています。

何人かの人々と、オンラインで祈りのグループを作って、私たちが教会で生きている状況のために祈っています。(このグループは私のYouTubeチャンネルにもあります。)私はその日の典礼について考え、また健全なカトリックの教理に反する教皇の誤謬について語っています。

昨日、例えば、私は次のようなことを観察していました。聖ユスティヌスは、「私たちが教えることを真理と信じ、罪の赦しと再生のために制定された洗礼によって清められ、キリストが教えられた通りに生きる者以外の者にとっては、ご聖体にあずかることは合法的でない」(殉教者聖ユスティヌス「キリスト教徒を擁護する第一弁明」66-67参照PG6、427-431)と述べています。
教皇フランシスコは、バイデン大統領やナンシー・ペロシ夫人のような中絶推進派の政治家もご聖体を受けることができると明確に主張しています。実際、米国の司教たちは、中絶推進派で同性婚推進派のバイデン大統領がご聖体を(拝領するのを)阻止したかったのですが、教皇は司教たちがそうするのを明確に止めました。

バイデン大統領が教皇のもとを訪れた際、教皇によれば彼は「善きカトリック信者であり、聖体拝領を受けることができる」と報告しました。聖座はこれらの主張を否定していません。バイデン大統領は、カトリックの教理に明らかに反して、継続的にご聖体を拝領しています! ナンシー・ペロシ夫人は中絶推進派として、またその他の不道徳行為の支持者として広く知られていますが、ローマに来たとき、もちろん教皇の許可を得て、ご聖体を受けました。これは誤謬であり、聖伝に反するだけでなく、重大なつまずきです!

私たちはこの小さなグループで、天主が介入され、教会がこうした誤謬や不祥事から解放されるよう祈っています。私は、天主が介入され、霊魂をひどく傷つけるこれらの非常に深刻な誤謬から私たちを解放してくださるよう、語り続け、祈り続けます。天主の思し召しにより、いかなる制裁を受けても、私はやめません。有名なリスト教授が私の著書の序文で述べてくださっているように、また、有名なオックスフォード大学のジョン・フィニス教授(1986年から1991年まで聖座の国際神学委員会の元委員、1990年から1995年まで教皇庁正義と平和評議会メンバー、2001年から2016年まで教皇庁生命アカデミー会員)が述べておられるように、私たちは教理レベルにおいて史上最悪の教皇職に直面しているのです。

フィニスは、この著書について次のように述べています。「賞賛すべき明晰さと豊富な証拠と論証によって、この時宜を得た本は、『教皇フランシスコによって意図的に広められた異端が今日、キリスト教史上最悪の危機の主要な原因かつ現れである』と主張する主な公表文書を集めたものです」(ジョン・ラモント、クラウディオ・ピエラントーニ著「現在の異端から信仰を守るDefending the Faith Against Present Heresies」[アローカ出版Arouca Press、2021年]の編集者書評)。

私たちは今、教会がこれまで直面した中で最悪の教理上の危機にあり、それは教皇のせいなのです。あり得ないことのように思えますが、そうなのです。このような状況において、私は、天主が介入され、人々が理解し、この雪崩のような誤謬を止めるために動くように、祈り、語らなければならないと理解しました。天主はこのような誤謬を憎まれ、私たちを誤謬から救い出すために介入されます。天主はご自身ですべてをなさることを望んでおられるのではなく、そのような教理的・道徳的倒錯から私たちを解放するために、私たちの協力を望んでおられるのです。健全な教理は、私たちにこのことを理解させ、教会の歴史も理解させるのです。

【問い】カトリック信者、特に司祭や司教におっしゃりたいことは。

【答え】私はすべての人に、これらのテーマについて祈り、私の著書や他の同様のテキストを読んで、物事の本当の姿を理解する努力をしてくださるよう強く求めます。そして、これらの誤謬が消し去られ、否定され、教皇と協力者たちによって健全な教理が再び教えられるよう、祈り、行動するよう強く求めます。

人々が教皇のせいで広まっている誤謬に気づき、それに従わないようにするために、私は今の状況を理解した人々が大胆に発言するよう呼びかけます。天主は、私たちをこうした誤謬から救い出したいと望んでおられますが、私たちを使いたいと望んでおられるのです! イエズスは福音の中でこう述べておられます。「私は言う、もし彼ら(私の弟子たち)が黙ったとしても、石は叫ぶだろう」(ルカ19章39-40節)。

このテキストに関するオリゲネスの解説は照らしを与えてくれます。
Quando nos loquimur, lapides silent: quando nos tacemus, lapides clamant. Potest enim Dominus de lapidibus istis suscitare filios Abrahæ. ” Quo tempore nos tacebimus? Quando refrixerit charitas multorum, quando illud quod a Salvatore prædicatum est, fuerit impletum: Putas veniens Filius hominis inveniet fidem super terram? Propterea Domini misericordiam deprecemur, ne, nobis tacentibus, lapides clamitent; sed loquamur et laudemus Deum in Patre, et Filio, et Spiritu sancto: cui est gloria et imperium in sæcula sæculorum . Amen (オリゲネス「ルカ福音書講話」37:5)。
「われらが話すと石は黙り、われらが黙ると石は叫ぶ。なぜなら、天主はこの石からアブラハムの子らを起こすことがおできになるからだ。われらが黙るべきは、いかなる時か。愛徳が多くの者の中で冷えてしまった時、主が『人の子が来るとき、地上に信仰があると思うか』[ルカ18章8節]と予告されたことが成就する時である。それゆえ、われらは主のあわれみをもとめて祈る。それは、われらが黙っていても石が叫ぶようなことがなく、われらが語り、父と子と聖霊によって天主を賛美するためである。天主に栄光と力が永遠にあらんことを。アーメン」。

私はあえて公に述べます。親愛なる兄弟である司祭の皆さん、親愛なる父である司教の皆さん、親愛なる神学者の皆さん、もし皆さんが声を上げなければ、教皇フランシスコのせいで広がっている非常に深刻な誤謬とそれに関連するつまずきを明らかにし、知っていながら声を上げない者たちを、つまり、これらの誤謬を認識し、それが救いに関わる霊魂に大きな害をもたらすことを悟っていながら声を上げず、反対しない者たちを非難するために、「石が叫ぶでしょう」。

霊魂の救いは教会生活における基本原則であり、その救いのためにキリストは命を捧げられましたから、すべてのカトリック信者、とりわけ私たち天主の役務者は自分の命を捧げなければなりません。不幸なことに、私の著書で示したように、フランシスコの誤謬が霊魂の救いにとっていかに大きな害悪であるかを私たちは目の当たりにしています。例えば、痛悔がないために無効な告解さえももたらすのです。ある意味で、「石」はすでに「叫んでいます」。なぜなら、司祭でも司教でも神学者でもない多くの人々が事態をよく理解し、教皇の誤謬に反対して明確に語り、多くの神学者たちや天主の役務者たちの沈黙について不満を述べているのですから。

私の望みは、他の2巻を出版することに加えて、以下の通りです。

(a)教皇フランシスコと協力者たちの誤謬を暴き、それに反対するために、恒久的に介入できる専門家グループを創設すること。

(b)教皇フランシスコと協力者の誤謬が終わり、彼らの言葉を通して真理の光が戻ってくるように、祈りと償いの大きな世界的ネットワークを作ること。

私が望んでいるのは、教皇の死ではなく、教皇がこれらの誤謬から回心なさって、霊魂が聖なるカトリックの真理に生きるのを助けてくださることだということ強調したいと思います。

【問い】リスト教授は神父様の著書の序文を書いておられます。教授の主な主張は何だったのでしょうか。

【答え】まず第一に、私はリスト教授の勇気と証言に公に感謝しなければなりません。私は教授を、一種の現代の預言者とみなしています。教授は、教皇フランシスコの誤謬に反対する多くの公になった文書に署名され、そのために、大きな報復を受けなければなりませんでした。ですから、リスト教授が私の著書の序文を書こうと望まれたことを大変うれしく思っています。私にとっては大いなる名誉です。その序文で教授はまず、教皇フランシスコの在位中に教理レベルで生じた非常に深刻な状況を浮き彫りにされ、教会の一部が現教皇の広めた誤謬に追随し、別の一部がそれに反対していることを指摘され、私が書いた本がこの状況において有用性があることを強調しておられます。リスト教授が言われるように、「現教皇職の問題の多くは、『愛のよろこび』の発表によってさらに白日の下にさらされました。この勧告が生み出した膨大な論争を通じた案内書が出版されれば、有益であることは明らかです。そして、そのような案内書が今、トゥリオ神父によって編纂されました。これは本当に『偉大で困難な仕事』(magnum opus et arduum)です。トゥリオ神父は1300ページ以上にわたって関連文書を収集し、それらを聖書および教父や教会博士たちの幅広い知識に照らして検証しました」。

この仕事を私自身のものではなく、天主のものだと考えていることを明確にしておきます。この著書は祈りのうちに生まれ、祈りのうちに私はこの仕事を遂行しなければならないと悟り、祈りのうちに私はこの仕事を続けています。少なくとも私にとって、その仕事は本当に途方もないもので、ある意味では不可能なことです。そして今、私はその仕事に完全に専念しています。今のところ、たくさんの注のある約750ページの第1巻しか出版していませんが、もう少しすれば、たくさんの脚注のある約350ページの第2巻、そしてその後、同じくたくさんの脚注のある約500ページの第3巻を出版するつもりです。私が脚注を強調するのは、私自身が創作したことを書いたのではなく高名な神学者や高位聖職者が言っていることだということを、また、聖伝が述べていることを私が繰り返したということを、明確にするためです。

リスト教授の称賛は私のものではなく、私を執筆に駆り立ててくださり、続けることを助けてくださる天主のものです。リスト教授がご覧になった文章を、すべての人に状況を明確にするために、私は今も拡充しているところです。そのため、ページ数は今も増え続けていますが、教理的な内容は常に同じです。参考文献は行間の空白がない状態で、すでに40ページありますが、さらに増えることが分かっています。

リスト教授が私の著書について述べておられるように、「21世紀のカトリック教会の歴史家たちは、彼の資料を彼らの判断のための金鉱として見いだすでしょう。一方、教会の信者席にいる今日のカトリック信者たちは、トップダウンの神学的刷新として私たちに提案されてきたものの特徴である傲慢、欺瞞、曖昧さ、侮辱の網の目を解きほぐそうとするとき、彼の著書の中に比類なき情報源を見いだすでしょう」。私は以下のことを付け加えたいと思います。教皇の教理的倒錯がどこまで進み得るのか、また、司教たち、天主の役務者たち、そして天主の民が、これらすべてに対してどんな反応を示したのかを証明する膨大な資料を、私たちの後に続く人々に残しておくことは重要だということです。それは、二度とこのような事態が起こらないようにするために重要なのは何かということを、未来の学者や高位聖職者たちが理解するためです。従って、参考文献の拡充に協力したいと思われる方は、Facebookの私のページ「Don Tullio Rotondo」または「Betrayal of Sound Doctrine」、あるいは私のYouTubeチャンネル「Don Tullio Rotondo」からご連絡いただけます。

結論

私はこの仕事を聖母に、聖母の汚れなき御心にお委ねしてきましたし、お委ねし続けます。教皇フランシスコが広めたこれらの誤謬に対して、聖母の汚れなき御心の凱旋をもたらす助けとなりますように。私は、私たちが生きているこの状況は天主の御手の中にあることを強調します。天主は、これまで言われてきたように、教皇のこのような異端的な誤謬さえも許されたのであって、望まれたのではありません。「カトリック教会のカテキズム」(412)には、聖トマス・アクィナスの文章があり、こう述べています。「天主はより大きな善を生じさせるために悪が行われるのを妨げなかった。聖パウロはこれを、『罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれた』(ローマ5章20節)と言っている」。ですから、復活ろうそくの祝別【実際には、その後の「Exsultet」】において、「このような偉大な贖い主をもたらした幸いなる過失よ」と言われています。天主は、霊魂の救いと天主の栄光のために天主の真理がより強く輝くように、私たちの協力によって、このような教理の曲解を一掃されるでしょうし、この悪をより大きな善に変える方法を承知しておられるのです。


私たちが聖伝のミサの典礼を保存し守るのは、聖伝の典礼がカトリック信仰を驚くほどよく表現し、信仰を効率的に養ってくれるから

2023年11月28日 | お説教・霊的講話

典礼用具の花、ろうそく、香の意味についての説教

ドモルネ神父 2023年11月26日

はじめに

先週の主日、私は祭壇とその典礼的意味についてお話ししました。祭壇は、私たちの主イエズス・キリストを表しています。天主にいけにえが捧げられるのが祭壇の上であるように、子なる天主は、イエズス・キリストの人間の肉体と霊魂を祭壇として用い、父なる天主に御自身をいけにえとして捧げられます。祭壇が、人間が天主と出会う神聖な場所であるように、イエズス・キリストは、天主と人間を一致させる唯一の仲介者です。祭壇が、人間が天主にそのいけにえを捧げる場所であるように、私たちが天主にすべてのものを捧げるのは、イエズス・キリストを通して、イエズス・キリストとともに、イエズス・キリストにおいてです。祭壇が、石で作られねばらず、また3枚の祭壇布で覆われ、装飾を施され、ミサの間に司祭が接吻し、香を捧げ、触れるのは、それがイエズス・キリストを表しているからです。

私たちの主イエズス・キリストは、すべての被造物の中心です。この世と教会にあるすべてのものは、イエズス・キリストへと向かいます。典礼のすべては、イエズス・キリストを表すか、あるいはイエズス・キリストへと至るものです。今日は、花、明かり、香の象徴的な意味についてお話しすることで、皆さんに、引き続きこの現実をお示ししたいと思います。

1. 花

まず、花について少し触れます。私たちは、償いをするときや喪に服するときを除いて、祭壇に花を飾ります。第一の理由は、単に祭壇を飾るためです。祭壇はイエズス・キリストを表しています。祭壇を美しくするものはすべて、イエズスの美しさと栄光を象徴するという目的のためです。花は、この役割を見事に果たしています。私たちの主イエズスが、ゆりの美しさについて言われたことを思い出してください。「ゆりの花を見よ。…私は言う、ソロモンさえ、その栄華のきわみにも、ゆりの一つほどにも装わなかった」(ルカ12章27節)。

祭壇に花を置く第二の理由があります。それは天国を象徴するためです。実際、天主がアダムとエワを創造されたとき、彼らを「楽園」と呼ばれる幸福の園に置かれました。それになぞらえて、私たちは、永遠の幸福の場所である天国を、「楽園」または「天国の園」と呼んでいます。しかし、園を特別なものにするのはそこにある花です。したがって、祭壇の花は楽園、すなわち、イエズスがおられ、イエズスが私たちを連れて行ってくださる天国を象徴しています。ところで、カトリック信者が墓地に花を供えるのを好むのも同じ理由からであり、そうすることで、天国での永遠の命への希望を表わしているのです。

2. 光

さて、祭壇の光、すなわち、ろうそくと聖体ランプについて考えてみましょう。聖体ランプは、ご聖櫃にご聖体が現存していることを示す小さな灯りです。

ミサにろうそくがあることは、カタコンベの時代を思い起こさせます。キリスト信者がローマの地下墓地に隠れなければならなかったとき、彼らは、聖なるミサを捧げるために、松明とろうそくを灯していました。

しかしもちろん、ろうそくは、過去を思い起こさせるだけではありません。ろうそくは、象徴的な意味も持っています。光は、祭壇と同様、私たちの主イエズス・キリストを表しています。実際、イエズスは、「私は世の光である」(ヨハネ9章5節)と言われました。また、「私は地上に火をつけに来た。その火がすでに燃え上がっているように、私はどんなに望みをかけていることか」(ルカ12章49節)とも言われました。光と温かさを生み出す炎は、イエズスの神性を象徴しています。旧約では、天主は、火の形で、何度も御自身を現されました。例えば、モーゼに対しては燃える柴で、あるいは、出エジプトのときのヘブライ人に対しては、彼らを導いた火の柱でです。火が物質ではなく、照らし、温めるものであるように、天主は純粋な霊であり、真理で私たちの心を照らされ、愛徳で私たちの心を温められます。ろうそくの火はイエズスの神性を象徴し、白いろうのろうそくは、私たちの主の清く繊細な人性を象徴しています。中世において、童貞聖マリアに神秘の蜂という愛らしい名前が与えられていたことは、興味深いことです。ミツバチが花の間に住み、花の蜜で養われるように、童貞聖マリアは、「花」という意味を持つナザレトに住まわれ、天主のみ言葉で養われました。ミツバチがろうを作り出すように、童貞聖マリアは、私たちの主イエズスのいと清き御体を受胎されました。ミツバチが蜜を作り出すように、童貞聖マリアは、柔和であわれみ深いイエズスを私たちに与えてくださいました。

さて、聖体ランプについてお話ししましょう。伝統的に、このランプの燃料はオリーブ油です。この油もまた、私たちの主イエズスを表しています。聖ベルナルドは、これを次のように説明しています。「油は照らし、養い、強める。イエズスは、福音においては私たちの心の光であり、ご聖体においては私たちの霊魂の糧であり、その恩寵によって私たちの心の薬ではないか?」。一方、照らし、養い、強める油が、砕かれ、搾られたオリーブからできているように、私たちの主イエズスは、ご受難で砕かれることによって、私たちの光、栄養、力となられたのです。

では、光の数を考えてみましょう。それは最大で七つです。つまり、六つのろうそくと聖体ランプです。このことは何を意味するのでしょうか。聖ヨハネは黙示録の幻視の中で、七つの金の燭台を見て、このような説明を受けました。「七つの燭台は七つの教会である」(黙示録1章20節)。ですから、教会は、祭壇の七つの光を通して、私たちの主イエズスを信じるすべての民族を象徴しているのです。

最後に、読誦ミサで灯される2本のろうそくの意味を考えてみましょう。教皇インノケンティウス三世は、この2本のろうそくはユダヤ民族と異邦人、旧約と新約を意味すると説明しました。ろうそくの間には磔刑像のついた十字架があります。これは、イエズスを信じるユダヤ人と異邦人を、イエズスが一致させられること、また、イエズスとその贖いのみわざが、旧約と新約の中心であることを意味しています。

3. 香

最後に、香の意味を考えてみましょう。天に向かって立ち上るかぐわしい香の煙は、人間の天主への祈り、礼拝と感謝と赦しと祈願の祈りを象徴しています。すべての祈りは、最終的にすべての善の源である天主に向けられるものですから、香は天主のみに捧げられます。ミサの間、私たちは、天主である私たちの主イエズスに香を捧げます。祭壇に香が捧げられるのは、祭壇が私たちの主イエズスを表しているからです。福音書に香が捧げられるのは、福音書がイエズス・キリストのみ言葉であるからです。司祭に香が捧げられるのは、司祭がイエズス・キリストの役務者であるからです。ミサの侍者と信者に香が捧げられるのは、彼らが洗礼とご聖体を通してキリストの神秘体の一員であるからです。

教父たちによると、香炉そのものが私たちの主イエズスを表しています。穴の開いた香炉は、ご受難の間、釘で貫かれ、殴られ引き裂かれたイエズスを表しており、香炉の火は、すでに説明したように、イエズスの神性を表しており、香の煙は、特にご受難のときの、イエズスの御父への祈りを表しています。

香炉から立ち上る香の煙は、小さな雲のような形になります。この小さな雲は、預言者エリアの生涯に起こったことを思い起こさせます。当時、イスラエルの地は、民の罪の罰として、長い干ばつに見舞われていました。エリアは、偶像バアルの司祭たちをカルメル山に呼び寄せ、民の前で彼らの宗教の虚偽と邪悪さを証明しました。偶像崇拝と嘘の罰として、これらの司祭たちは全員殺されました。その後エリアは、雨を降らせてくださるよう、天主に祈りました。すると、手のひらほどの小さな雲が、海から立ち上ってきました。この小さな雲は、あっという間に大きくなって空を覆い尽くし、豊かな雨が国中に降り注ぎました。これは、ミサで起こることのかたどりです。小さな香の雲、すなわち、キリストの祈りが、祭壇から天主に向かって立ち上り、それに答えて、天主は世界中に豊かな恩寵を降り注がれるのです。

結論

親愛なる信者の皆さん、最後に、私たちが聖伝のミサの典礼を保存し、守るのは、過去への郷愁からではなく、この聖伝の典礼が私たちのカトリック信仰を驚くほどよく表現し、私たちの信仰を効率的に養ってくれるからだということを、ただ皆さんに思い出していただきたいのです。これらすべては、新しいミサの典礼にはないものですから。


祭壇はイエズス・キリストの人性を象徴し、祭壇には五つの十字が刻まれており、主の御体に刻まれた五つの御傷を象徴している

2023年11月28日 | お説教・霊的講話

祭壇の典礼上の意味についての説教

ドモルネ神父 2023年11月19日

はじめに

私たちの主イエズス・キリストが私たちを贖われ、私たちが永遠の命を得られるようにしてくださったのは、十字架の聖なるいけにえによってでした。十字架のいけにえは、ミサで更新されます。ですから、聖なるミサは、私たちのカトリック信仰と霊的生活の中心にあります。私たちの信仰と霊的生活を養うためには、ミサの典礼の意味、すなわち、聖なるミサが捧げられる際の祈りや儀式の意味を理解することが非常に有益です。このことを念頭に置きながら、今日は、祭壇とその意味についてお話したいと思います。

1)祭壇一般について

祭壇は、司祭が天主にミサのいけにえを捧げる場所です。祭壇は、元々は木で作られていましたが、これは、私たちの主が最初のミサを捧げられた木のテーブルと、主が十字架につけられた木の十字架を記念するものでした。6世紀以降、教会は、祭壇を石で作るように定めました。その理由は後ほど説明します。実際的な理由から、祭壇全体を石で作ることができない場合には、祭壇のうちで、ミサの際に司祭がカリスとホスチアを置く場所には、少なくとも、小さくて平らな石を挿入しなければなりません。この石は「祭壇石」と呼ばれます。

教会は通常、祭壇を墓の形に作ります。これには二つの理由があります。第一は、聖墳墓と私たちの主イエズス・キリストのご復活を思い起こすためです。第二は、最初の数世紀の迫害の間、カトリック信者がローマの墓であるカタコンベに隠れなければならなかったことと、殉教者たちの墓の上でミサを捧げていたことを思い起こすためです。

祭壇の内には、殉教者たちの聖遺物が挿入されています。これも、カタコンベでのミサの日々を思い起こさせるものです。しかし、それ以上に、この聖遺物は、私たちの主イエズス・キリストと信者たちとの間の完全な愛の一致を象徴しています。「友人のために命を与える以上の大きな愛はない」(ヨハネ15章13節)。私たちの主イエズスは、十字架上で私たちのために命を捧げられたのであり、このいけにえがミサで更新されます。殉教者たちはイエズスへの愛のために命を捧げたのであり、彼らがイエズスのために死ぬ力を見いだしたのは、ミサを通してイエズスと一致することによってでした。ですから、殉教者たちの聖遺物を祭壇内に置くことは、ふさわしいことであり、意味のあることなのです。

ご聖櫃は、ご聖体が保管される場所です。ご聖櫃の形は、何世紀にもわたって進化してきました。今日では、塔の形をしたものが最も一般的で、よく適したものです。実際、塔は強さの象徴であり、ご聖櫃の中には強き者のパン、すなわち、ご聖体が保管されています。

ご聖櫃の上には十字架が配置されています。これはもちろん、聖なるミサが十字架のいけにえを更新するものであることを思い起こさせるためです。イエズスは、十字架上でご自身を捧げられたように、祭壇の上でご自身を捧げられます。ただ、主がなさる方法が異なるだけです。十字架上では、いけにえはカルワリオにいた人々には目に見える形であり、血が流されるものでしたが、ミサでは、いけにえは秘跡の形態のうちに隠されており、血が流されるものではありません。

2)祭壇は私たちの主イエズス・キリストを象徴する

祭壇は、司祭がミサのいけにえを捧げる場所であるだけでなく、私たちの主イエズスご自身を象徴するものでもあります。そして、このことが、ミサの典礼のいくつかを説明しています。

しかし、まず、「なぜ教会は、祭壇を、私たちの主イエズス・キリストの象徴とするのか」という質問に答えましょう。祭壇は、司祭がいけにえを捧げる場所です。しかし、イエズスの御体と御霊魂は、子なる天主が御父にご自身を捧げられる場所のようなものです。実際、子なる天主が父なる天主にご自身を捧げることがおできになるのは、天主としてではなく、人間としてです。このように、祭壇は、イエズス・キリストの人性を象徴しています。このため、祭壇には五つの十字が刻まれており、これらの十字は、私たちの主の御体に刻まれた五つの御傷を象徴しているのです。

教会が祭壇をイエズス・キリストの象徴としたのには、第二の理由があります。祭壇は、司祭が人類に代わって天主にいけにえを捧げる場所ですから、祭壇は、天主と人類の接点のようなものです。しかし、イエズス・キリストは天主であると同時に人間ですから、天主と人間の間の接点、唯一の普遍的な仲介者なのです。このように、祭壇は、仲介者としてのイエズス・キリストを象徴しています。

最後に、祭壇が私たちの主イエズス・キリストを象徴するのには、第三の理由があります。私たちの犠牲も、祈りも、イエズス・キリストを通して、イエズス・キリストと共に、イエズス・キリストのうちに捧げられなければ、天主をお喜ばせすることはできません。このため、教会はすべての祈りを、「Per Dominum nostrum Jesum Christum」という言葉で締めくくっています。ですから、私たちの主イエズスは、私たちが礼拝、感謝、罪の償い、祈願を捧げる祭壇のようなものなのです。

教会は祭壇を石で作るように定めている、とさきほど申し上げました。それはなぜでしょうか。祭壇は、イエズス・キリストを象徴しているからであり、イエズス・キリストは教会が建てられている礎石であるからです。聖パウロは、エフェゾ人に対してこう言っています(2章19-22節)。「あなたたちは、聖徒たちの同市民、天主の家族である。あなたたちは、使徒と預言者の土台の上に建てられた者であり、キリスト・イエズス自身がその隅の親石である。主において建物全体が建てられ、主において聖所に発展する。主においてあなたたちも、天主の住まいとなるために、聖霊によって建てられる」。

祭壇は、3枚の布で覆われています。これには、実際的な理由があります。すなわち、司祭が誤って尊き御血をこぼしてしまっても、これらの布に吸収され、地面に流れないようにするためです。しかし、布は、祭壇の両側の地面に届くほど長くする必要はありません。これらの布には象徴的な意味があります。祭壇は、キリストを象徴しています。祭壇は、聖墳墓を思い起こさせる墓の形をしています。布は、聖骸布とキリストのご遺体が包まれた葬儀用の亜麻布を象徴しています。

祭壇を飾るすべての装飾品は、私たちの主の美しさと栄光を思い起こさせるものです。そのため、降誕祭や復活祭、聖霊降臨祭など、私たちの主の最も栄光ある称号をお祝いする一級祝日には、私たちは祭壇をさらに多くの装飾品で飾ります。その反対に、聖金曜日には、キリストがご受難の間、いかにご自身からすべての栄光を取り去られたかを示すために、祭壇からすべてのものが取り去られるのです。

3)司祭の祭壇への身振り

祭壇が私たちの主イエズスを象徴していることを理解すれば、聖なるミサのときの司祭の身振りのいくつかを理解することができるでしょう。

司祭は、ご復活後のイエズスの御足に聖なる婦人たちが接吻したように、敬意をもって祭壇に接吻します。

司祭は、信者の方を向く前に、祭壇に接吻して私たちの主イエズスと一致します。そのあと、司祭は、「Dominus Vobiscum」と唱えたり、最後の祝福を与えたりして、主を信者に与えます。

香を祝別するとき、司祭は左手を祭壇に置き、右手で祝別します。これは、司祭が与える祝別が、私たちの主イエズスから来ることを表しています。

マグダラの聖マリアが、イエズスの葬りを告知するためにイエズスに香油を塗った(ヨハネ12章7節)ように、司祭は、聖変化の前に香の煙を祭壇に撒きます。

司祭は祭壇に香を捧げ、香の香りを、祭壇から天に向かって立ち上らせます。これは、イエズス・キリストの父なる天主への祈り、特に主の十字架上の祈りを象徴しています。

結論

親愛なる信者の皆さん、カトリックの典礼は信仰と霊的生活の学校です。典礼をさらによく理解するように努めましょう。そうすれば、聖なるミサをさらに深く祈ることができるでしょう。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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