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2019年5月26日(主)  キンボル神父様お説教「ジンバブエ/ローデシアの宣教の歴史とシルヴェイラ神父の殉教について」

2019年05月30日 | お説教・霊的講話
ジンバブエ/ローデシアの宣教の歴史とシルヴェイラ神父の殉教について
ポール・キンボル神父(聖ピオ十世会)




ザンベジの宣教は1877年に創設され、イエズス会の英国管区に委託されました。1879年、最初の長上であるアンリ・ドペルシャン神父の指導の下で最初の宣教師たちが、ケープ・コロニーのグラハムズタウンから出発しました。牡牛に引かれた4台の荷車で、5〜6カ月かけて、千マイル内陸にあるブラワヨまでの旅でした。そのころ、この国に鉄道はありませんでした。連絡手段は遅くて困難で、生活必需品の価格は大変なものでした。熱や窮乏から、多くのいのちが失われました。マタベレの原住民はまだキリスト教を受け入れる用意ができておらず、専制君主ロベングラの残酷な支配が、宣教師たちのあらゆる努力を実りのないものにしていました。ドペルシャン神父自身によって率いられた遠征隊は、ザンベジ川を超えて更に北に、より有望な地を探して進みました。しかし、さまざまな原因からこの試みは失敗に終わりました。ほかにも、オーガスタス・ロー神父の率いる遠征隊が300マイル東に進み、ポルトガル領との国境まで行きましたが、成功しませんでした。1893年、ロベングラ王は権力を奪われ、首都のブラワヨは占領され、マタベレランドは征服されました。宣教師たちは、新たな統治が保証した便宜を利用しました。宣教基地にふさわしい場所が選ばれました。聖ドミニコ修道女会が同じころにこの国に入り、公立病院の責務を担い、後には入植者の子どもたちのための学校を開きました。

1912年に書かれた「ザンベジ宣教知牧区」に関する「カトリック・エンサイクロペディア」の記事によると、宣教の進展は遅れるのを余儀なくされていました。異教徒としての慣習、特に一夫多妻を行っていた大人の原住民の人々からは、ほとんど期待はできませんでした。ですから、大きく成功する共同体をつくるという希望は、主に子どもたちの教育の上に打ち立てられねばなりませんでした。さらにまた、この仕事は、ジンバブエの物質的発展を遅らせてきた困難によって、繰り返し妨げられてきていました。その困難とは、国の内外における戦争や家畜の疫病、飢餓、イナゴの大量発生などでした。その一方で、鉄道の導入は、宣教基地の建設に対する大きな障害のひとつを取り除きました。一本の鉄道路線が、南から北までの宣教地区を縦断します。(1912年には)32人のイエズス会司祭と22人のイエズス会修道士、そしてマリアンヒル修道会の3人の司祭と6人の修道士がいました。ブラワヨ、ハラレ、グウェロ、ウムタリの各都市には、それぞれ一つの教会と一人の駐在司祭がいました。チシャワシャには、原住民のための大きな[イエズス会の]宣教基地がありました。聖ドミニコ修道女会は、チシャワシャの宣教基地に原住民の少女たちのための学校を持っていました。ヨーロッパ人の数は約1300人でした。南ローデシアでは、原住民の人口は概略でさえも分かっていませんでした。カトリックの人口は、だいたい740人のヨーロッパ人とインド人、そして1400人の原住民からなっていました。ローデシアで話されている四つの言語で何冊かの本が書かれました。ほとんどは、神父たちによる宣教師用文法書、カテキズム、祈祷書、聖書の物語でした。

他の多くの物質的動機もありましたが、この地域がローマによってイエズス会に委託された理由は、ここが、ジンバブエの最初の使徒であるイエズス会士、ゴンサロ・ダ・シルヴェイラ神父の労苦と殉教の地であったからでした。

アフリカ大陸におけるイエズス会の最初の殉教者ゴンサロ・ダ・シルヴェイラ神父は、ポルトガルのリスボンの近くに生まれました。彼は、ソルテリャ伯爵の十番目の子どもでした。母親は彼が生まれたときに亡くなり、父親もその後すぐに亡くなりました。彼は、結婚していた姉によって、王の宮廷の中の地位に就くように養育されました。姉の夫であるタヴォラ侯爵は、モガドウロ地区の「大領主」でした。幼いゴンサロは、貧しい人々を非常に愛しており、彼らに与えるべき施しをもっていないときは、彼らを自分の家に連れ帰り、自分の家族に必要な施しを乞い求めました。彼は貧しい人々の家を訪問し、食べ物や衣類、そしておもちゃを持っていきました。彼は、おもちゃにはまったく興味がなかったのです。

一度、彼と兄のアルヴァロが他愛のないいたずらをしたことがありました。それが侯爵に伝えられると、二人は伝えられたようなことをしたのかどうか尋ねられました。兄の方は決して関わっていないと否定しましたが、ゴンサロは自分のしたことを認めました。どちらが悪いのか突き止めようとして、侯爵は怒ってゴンサロに言いました。「悪いことをしただけでも十分なのに、さらに悪いことに、おまえは恥ずかしげもなくそれを告白するのか?」。「本当に恥ずかしく思っています、侯爵」とゴンサロは答えました。「それについては申し訳ありません。でも、うそをつくことによって罰から逃れようとしたとしたら、ぼくはその方がもっと申し訳なくて、恥ずかしく思うはずだったでしょう」。

ゴンサロは聖マルガリタ修道院のフランシスコ会士によって、17歳になる1542年まで教育を受け、更に勉学を修めるためにコインブラ大学に行きました。彼はそこで一年と少し過ごしたのち、1543年、他の多くの貴族の息子たちと共にイエズス会に入会しました。彼の兄の一人は、彼がこの召命に従うのをやめさせようと試みましたが、それは無駄に終わりました。その兄は、弟の議論を聞いた後、自分にもそのような召命がなかったことを悲しみながら弟のもとを去りました。

ゴンサロは丸太をまくらにして堅い床に寝ました。彼の部屋には、むき出しの四面の壁のそれぞれに一つずつ架けられた四つの十字架だけが飾られていました。彼は毎晩、血を流すまで修行をしました。けんそんのため、彼は一度、両方の眉毛を剃り、別の機会には気の狂った人のようなふりをしました。しかし、校長はローマの聖イグナチオ・ロヨラにこのような手紙を書きました。「ここに貴族出身の者が一人います。名前はゴンサロ・ダ・シルヴェイラです。大きなことをなし遂げるために生まれてきた、健全で落ち着いた判断のできる若者です。彼は永遠の真理を理解するようになり、その思いで奮い立っています。彼は心にその思いを刻印したかのようです。彼の体は力強く頑健で、厳しさが過ぎるため見張って抑えておく必要があります。しかし、正されたときには、彼は大変素直でうまく応じます。彼には特筆すべき賜物があります」。何年もの間、彼は殉教者になることを熱望しており、しばしば殉教の栄光について語っていました。一度、彼が病気のため死にそうになったとき、彼の管区長が彼のためにミサを捧げましたが、ミサの間に彼は突然具合がよくなりました。そのため、彼は、自分の名前を、彼が回復したその日を祝日とする聖人であるシルヴェストロの名前に変えるよう望みました。

彼は人気のある説教師になり、ある修道女は、シルヴェイラ神父が彼女の共同体に対して説教したときほど、聖歌隊席で皆が涙を流すのをこれまで見たことがなかったと言いました。一度、彼が偶然に説教台の釘に手を当ててしまい、それに気づかずに、説教の終わりまでひどく血を流したままだったこともありました。そのころ、説教はしばしば2、3時間という長さでしたが、聖週間の説教では12時間の間、彼は聴衆の注意を引き付け続けました。彼は人の忠告をよく受け入れ、目下の者たちにはやさしく忠告しました。彼がミサを捧げるときは、恍惚状態になり、どこまで進んでいたのかを侍者に聞かざるを得ませんでした。彼がロザリオを祈るとき、すべての「めでたし」で片膝をつきました。彼はしばしば、一日に2、3回告解に行きました。彼は、自分の兄に対して、兄の対トルコ艦隊戦での勝利を正確に予言しました。彼がある犯罪者の処刑に参列したとき、キリストの苦しみと死を自分にも分け与えて下さるよう祈ったところ、主は彼に、彼がいつか主の御名のために殉教者として死ぬことを約束されました。のちに、彼がミサ中、カリスを奉挙したとき、全会衆は彼の両手に血がついているのを見て、彼が将来、キリストへの信仰のために死ぬことになるしるしだと理解したのです。彼はリスボンで有名な説教師になり、そののち1555年、30歳という若さで、聖フランシスコ・ザビエルの後任としてインドの管区長に任命されました。この任命は、聖イグナチオによって死の数カ月前に承認されました。

彼は、リスボンからモザンビークまでの海旅についてこう書きました。「死は、死の床に臨んだ者でなければうまく描写することができないように、ポルトガルからインドまでの旅も、実際経験した者でなければ、それについて語ったり、更には信じることさえもできないものである」。シルヴェイラ神父のインドでの統治の任期は三年間続きました。彼は1549年にインドを去った聖フランシスコ・ザビエルにふさわしい後継者となりました。彼の使徒的な労苦と彼の下にいた100人のイエズス会士の労苦は大変な成功に恵まれましたが、彼は管区長の完璧な模範とはみなされてはいませんでした。彼はよく、天主は自分に対して、統治には不向きであるという素晴らしい恩寵を与えてくださった、と言っていました。どうやら、人間的な弱さに対する機転が利かなかったのです。

1560年、シルヴェイラ神父はモザンビークでの新たな宣教に呼ばれました。原住民の酋長ガンバが、ポルトガル人の商人によって新たに改宗した自分の息子に説得されて、自分の国にキリスト教の宣教師を要望していたのです。シルヴェイラ神父ともう一人の司祭であるフェルナンデス神父、そして一人の修道士が、1560年2月、モザンビークに到着し、2カ月後にガンバの住むオトングウェに向けて進みました。フェルナンデス神父はこの旅についての手紙の中で、シルヴェイラ神父が、船長の乗るもっと快適な船で移動することを受け入れなかったと不平を言っています。「シルヴェイラ神父は、船長の船に乗ることを拒否して、かわりに人が立ったり座ったり横になったりする余裕もない小さな船でソファラに行こうとしました。私はこんな乗り物で旅をすることの困難さや危険について神父に説明しましたが、その乗り物で行くという彼の望みは大変なもので、私たちがそれでもその乗り物で行くべきだという彼の望みは変わりませんでした。愛する兄弟たち、断言しますが、その乗り物には人が快適に過ごす余地がないことに加えて、揺れによって困難さが増したため、私はずっと疲れっぱなしだったのです」。シルヴェイラ神父は旅の間、四旬節中だったため、コメと豆しか食べようとしませんでした。到着すると、彼はマラリアによる熱で大変弱り、いのちの危険に陥りましたが、回復しました。最小限の要理教育ののち、ガンバと宮廷の人々、そして他の500人が改宗しました。シルヴェイラ神父はこれに勇気づけられて、南および中央アフリカを改宗させようとの希望を持ちました。そしてそのための最も簡単な方法は、南アフリカで最も力のある王、首都がジンバブエの北100マイルにあるモノモタパの王を改宗させることでした。シルヴェイラ神父は、その新たな宣教のために懸命に準備しました。その年の終わりにかけて、彼はモノモタパの首都に向けて遠征隊とともにザンベジ川を上りました。この首都は、ザンベジ川の南の支流の一つであるムジンゲジ川に近いヌパンデ集落にあったようです。彼は目的地に着くのに何百マイルも歩きました。仲介人としてモノモタパから大変な信頼を受けていたポルトガル人アントニオ・カイアドの助けを得て、1560年12月26日、シルヴェイラ神父は王の村に到着しました。そこで彼は、その地の若き酋長チサンフラ・ノゴモに会いました。彼の治める地域で金が発見されたため、彼は新たに「黄金の王」となったところでした。

王はこの宣教師に対して、砂金、牡牛と何人かの女奴隷という贈り物を申し出ました。ところが驚いたことに、シルヴェイラ神父はそれらの贈り物を断り、自分は酋長からの贈り物を求めているのではなく、酋長自身を求めていると言いました。酋長はこれに大変驚いて、酋長はこの来客の偉大さと権威を再認識したのです。数日後、シルヴェイラ神父がミサを捧げている小屋の前を、小酋長の一人が通りかかりました。彼は、シルヴェイラ神父の前に美しい女性が立っていると思って、これを目に留めました。彼はすぐ酋長のところに行って、司祭が愛らしい女性を連れてきていると告げました。そこで酋長は、シルヴェイラ神父に使いを送って、自分が聞いた美しい、神父の妻であろうと思ったその女性の美しさを自分にも見せてもらえるよう願いました。この聖なる宣教師は少し驚きましたが、使いが、話に出ていた妻として、祭壇の後ろにつるされている恩寵の聖母の大きな絵を指し示したとき、すぐに理解しました。これこそはシルヴェイラ神父にとってすばらしい機会であったので、神父は天に熱心な感謝を捧げました。彼は絵を高価な布で注意深く包んで、酋長の小屋へ運びました。しかし、酋長の熱心な目に絵を見せる前に、神父は少し説明をしました。神父は酋長に、天主という方について、善に報い悪を討つお方であり、私たちを私たち自身から救うため、そして私たちのために将来の幸せを勝ち取るため、天から下り、御自ら汚れなき御母の柔らかで優しい肉を身にまとい給うた御方であると説明しました。そして、これが、聖霊の浄配なるその聖なる童貞のことを描いたものです、と。その後、覆いを脇に引いて、絵の前に敬意を込めてひざまずきました。酋長はその光景にうっとりとし、絵から目をそらすことができませんでした。シルヴェイラ神父は、この絵のために簡素な聖堂をつくり、酋長の小屋の内部にそれを置きました。しかし、次の5日の間に、天主の御母はこのアフリカの酋長に生きている形でご出現になり、知らない言葉を話されました。酋長はシルヴェイラ神父にこのことを詳しく報告し、ご出現の言葉を自分が理解できないのを嘆きました。そこで宣教師は、洗礼によって霊魂が清められた者だけがこれを理解することができる、と答えました。2日後、酋長とその母は、自分たちが喜んで洗礼を受け、キリスト教徒の礼拝に加わるとの言葉を伝えてきました。彼らは信仰の基本的な真理について教えを受けて約3週間後に洗礼を受け、少し後には300人がそれに従いました。このことは、近くの村に住んでいたイスラム教徒の商人たちに嫉妬を起こさせました。今やポルトガル人たちがすべての貿易を抑えてしまうのではと恐れたからです。そこで彼らは、酋長の心に毒を仕込みました。彼らは王に対して、ポルトガル人たちはこの国を乗っ取ろうと企んでおり、シルヴェイラ神父はスパイであり、この国に干ばつと飢饉をもたらすために来た魔術師であって、その後王を殺すだろうと話したのです。酋長はこの嘘とばかげた話を信じ、シルヴェイラ神父を殺さねばならないと決心しました。

シルヴェイラ神父は酋長に変化が起きていることを感じました。酋長が神父を殺そうと計画していることをカイアドが突き止めたとき、カイアドは神父にすぐにここを去るように勧めましたが、神父はこの忠告を気に留めませんでした。それどころか、シルヴェイラ神父は自分の最期のための準備を行いました。1561年3月15日、神父は新たな改宗者50人に洗礼を授け、周囲の地域から呼び出したポルトガル商人たちの告解を聞き、彼らに自分のミサの道具を委託し、自分は磔刑像つき十字架だけを持つようにしました。その夜、神父は寝る前に、カイアドにこう言いました。「私は、イスラム教徒たちが私を殺す準備をしている以上に、もっと死ぬ準備ができています。私は若い王とその母を赦します。彼らは騙されてしまったのですから」。その後、カイアドは、しもべのうち二人に、夜いっぱいシルヴェイラ神父と一緒にいるように命じました。

シルヴェイラ神父は磔刑像つき十字架の前で祈り、夜遅くまで落ち着かず歩き回っているのを目撃されましたが、その後眠りにつきました。真夜中前に、殺人者たちが司祭の小屋を急襲し、ロープで神父の首を絞めて殺し、その後、死体を引いて、ムセンゲジ川に投げ入れました。彼の死に対して復讐するために送られた遠征隊が目的地に着くことはありませんでした。そして彼の使徒活動は、それを続けるべき宣教師がいなかったため、突然の終わりを迎えました。この殉教によって、イエズス会のモノモタパへの最初の宣教は終わりました。

1625年、イエズス会士であるアルフォンソ・レオ・デ・バルブダス神父が、インド総督によってザンベジ川流域に送られました。彼は、以下の説明が真実であると宣誓して報告しています。彼は、川の中にある島のところで止まりましたが、おそらく上流から流れ着き、この島に打ち上げられていた一本の丸太に気づきました。その丸太の上には色鮮やかな鳥が何羽も止まっていて、甘いメロディーで歌っていました。原住民の漁師たちが、鳥たちはいつもそこにいて互いに交代して歌っている、と彼に教えてくれました。神父は丸太に近づいてよく見るために島に上陸することを望みましたが、原住民たちは次のように彼に警告しました。島にはライオンやほかの動物たちがいて、誰も島にいれないようにしています。ずっと昔、デ・バルブダス神父と同じ修道服を着た一人の白人の男の遺体が、木の幹につながれて川を下ってきました。その幹がこの島に着き、一緒に死体も着きました。多くのライオンが草の中から出てきて、死体をつないでいたひもを切って、死体を森の中に引きずっていき、土手の上に丸太が残されました。そのときから、この丸太はさっき言った鳥たちにずっと守られてきました。さらに彼らが言うには、これらのことは、まだ生きている記憶の範囲で、60年前かそれ以前に起こったというのです。その人は、野獣でさえもがその遺体に敬意を払っていたのですから、非常に聖なる人であった、というのが言い伝えです、と。一人の年老いた漁師の話では、彼の記憶によると、近隣の酋長がこの話が本当かどうか確認しようと決心したのだそうです。多くの原住民が一方から島に近づき、そこにライオンたちの注意を引き付けました。一方、二人の原住民が反対側に上陸し、一本の高い木の一番上の枝にひそみました。二人はその位置から森の真ん中にある開けた土地を見ることができ、そこには黒い服を着た男性の死体があり、周りをライオンたちが囲んでいて、丸太の上の鳥のように交代で守っていました。二人はその日じゅう島に留まり、[翌日、]前の日に使ったのと同じ作戦で脱出しました。デ・バルブダス神父は、この死体がダ・シルヴェイラ神父以外の何者でもあろうはずがないと確信しました。シルヴェイラ神父の記憶が、この国のこれほどへんぴな場所であっても、原住民の心から消え去っていなかったのですから。

シルヴェイラ神父の死後344年経った1905年、彼の殉教を立証するため、そして彼の列福の手続きを開始するため、公式な調査が始まりました。最初に述べたように、ジンバブエのこの地域がローマにおいてイエズス会に委託された理由は、ここが、ジンバブエの最初の使徒であるイエズス会士、ゴンサロ・ダ・シルヴェイラ神父の労苦と殉教の地であったからでした。

研究発表会:ジェイソン・モーガン麗澤大学准教授「南北戦争」とポール・ド・ラクヴィヴィエ氏「父親の使命」2019年6月1日(土)午後1時

2019年05月28日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

研究発表会のお知らせです。

●ジェイソン・モーガン麗澤大学准教授(Prof. Jason Morgan)
「南北戦争」American civil war and Catholic

PROFILE:ジェイソン・モーガン助教は、1977年、アメリカ合衆国生まれ。歴史学者。日本史研究者。テネシー州立大学チャタヌーガ校で歴史学を専攻。2014~15年、フルブライト学者として早稲田大学ロースクールで研究。現在、麗澤大学で教鞭を執っておられる。「アメリカはなぜ日本を見下すのか?」などの著者

●ポール・ド・ラクヴィヴィエ氏(Paul de Lacvivier)国学院後期博士課程・比較法制史
「父親の使命」The Mission of the Father in Family

研究発表の日時:2019年6月1日(土)午後1時から午後4時

場所:曙町会館

どなたでもご自由に聴講できます。知的なひとときをお過ごしください!


2019年5月29日、ポール・ド・ラクビビエ氏講話「フランス革命は人間を解放しただろうか」のご案内

2019年05月28日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2019年5月29日、王権歴史期研究会・第3例月会にて「フランス革命は人間を解放しただろうか」と題して、ポール・ド・ラクビビエ氏(國學院大學 博士院生)は、フランス革命に光を当てて、考えを深めていきます。

場所:曙町児童会館
日時:2019年5月29日(水) 午後7時~9時

【Billecoq神父の「ジャン=ジャック・ルソー・その人生・その思想(1)」の動画の上映もあります。】

ポール・ド・ラクビビエ氏が、2019年4月23日、王権歴史期研究会・第2例月会にて「啓蒙思想は人間を解放しただろうか」と題して行った講演「啓蒙思想は人間を解放しただろうか」の動画をご紹介いたします。

ポール・ド・ラクビビエ氏は、フランス革命以前の君主制の基礎について、特に啓蒙思想に光を当てて、考えを深めていきます。





聖ピオ十世会 聖伝のミサ(トリエント・ミサ、ラテン語ミサ)5月の報告 SSPX Japan Traditional Latin Mass

2019年05月28日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 大阪では4月28日の主日から毎主日に御ミサがありました。聖ピオ十世会が日本での活動の歴史の仲で初めてのことでした。
 東京では、4月28日から(5月12日を除いて)毎週主日に聖伝のミサがありました。これらを可能にしてくれた、天主様の御恵みと、日本でミサを捧げて下さったサマース神父様とドモルネ神父様とキンボル神父様に感謝します!

 ずっとこういう状態になるように、日本に司祭が常駐するようになることを祈ります!

 ドモルネ神父様も、キンボル神父様も、お二人とも日本の修道院設立のためにとおっしゃって日本のために寛大な献金をしてくださいました!ありがとうございます!

 聖伝のミサのご報告を頂きましたので、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介します。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】【大阪】
アヴェ・マリア!
キンボル神父様のミサに毎日与りました。

火曜日は聖マリアの汚れなき御心の歌ミサ、終課でした。
水曜日は聖ヨゼフの読誦ミサ、SSPXアフリカのスラドショー、終課でした。
木曜日は御聖体の読誦ミサ、御聖体降福式、終課、でした。
金曜日、イエズスの御心ミサ読誦、講話、終課、でした。
土曜日、教皇聖グレゴリオミサ読誦、講話でした。deogratias!!!
日曜日は歌ミサでした!deogratias!!!

【報告】【大阪】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
小野田神父様、ポール・キンボル神父様のミサにあずかりました。

なお、聖ピオ十世会の残り二人のキンボル神父様、ウィリアム、パトリック各神父様は、二人ともポール・キンボル神父様の甥御さんだそうです。
ポール・キンボル神父様は、小野田神父様と同い年です。
27日の月曜日は、朝のミサのあと、関空発で出発、マニラ、シンガポール、エチオピア、ザンビア経由でジンバブエだそうです。大変です。

【報告】【東京】
Dear Fr Onoda:

今日はポール・キンボル神父の主日のミサがありました。

ミサの御説教は茶色のスカプラリオについてのお話しでした。このスカプラリオは古くはカルメル山の隠修士たちの衣にその起源をもち、その後十字軍の後にイギリスに移り住んだカルメル会の当時の総長であった聖シモン・ストックに聖母がお現れになって、その衣の色のスカプラリオをお授けになったことが始まりであること、また、このスカプラリオには土曜日の特権という非常に重要な特権がついており、それがいくつかの奇蹟によっても証明されてきたこと、などを説明していただきました。

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 24人(内、子供4人)
女: 29人(内、子供4人)
計: 53人(内、子供8人)

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
ご復活後第五主日のミサの報告をさせていただきます。

先月にはまだ予定がないことだったのですが、もう一回多く今月は主日のミサをしていただくことができました。

キンボル神父様、素晴らしいごミサをありがとうございました。
とても背が高くいらして、そういえば大阪の信徒の方が書いておられたようにどことなくレネー神父様に雰囲気が似ていらっしゃるように思いました。

お説教ではファチマのマリア様が、「スカプラリオとロザリオを通してこの世を救われる」という約束のこの2つの信心をしなさいと言われたことに触れられました。スカプラリオの信心そのものは二番目に古い信心ということで、その由来やカルメル会との関係や実際にどういった恵みがあったかということ、などいろいろなことをたくさんお話しくださいました。これは迷信ではなく、聖母にずっと信心をもち続けることができるなら霊魂を天国に持って行けるということだとお話しくださいました。

「エリヤが干ばつのために祈り続け7度目にようやく白い雲が足の形で海の方からやってきたこと」を話された時、なぜこれ(足の形をした白い雲)がマリア様をあらわしているかというと、旧約聖書にマリア様の足が悪魔の頭を砕くと書かれていることと関係あるからだとお話しくださったことで、私の持っていた謎が解けました。

薄い夏服から、周りの人もスカプラリオの信心をしていることが目につくようになりました。秋田巡礼ではスカプラリオの授与式も行われていました。私もいつも身から離すことなく着ているので、スカプラリオのお話を聞くことができてうれしく思いました。最後までマリア様に信心をもち続けることができますようにと願いました。

キンボル神父様は、今日は、主日のミサがもう一度大阪の聖堂でもあるとのこと、東京でのミサの終わった後はすぐ東京駅に向かわれました。この暑さの中でのごミサだけでも大変と思いますのに、新幹線での長距離の移動を経て続けてのごミサをしてくださいますこと、どんなにかお疲れになられますことでしょう。本当に感謝申し上げます。キンボル神父様ありがとうございました。

聖マリアの汚れなき御心のうちに

Sermon on Easter about Jonas the Prophet Fr Etienne Demornex, SSPX

2019年05月25日 | お説教・霊的講話
Sermon on Easter about Jonas the Prophet
Fr Etienne Demornex, SSPX


Introduction


You know that the Old Testament was the announcement and the preparation to the New Testament, to what Our Lord Jesus Christ and His Church would do and say. We are in Easter Time, celebrating the Resurrection of Our Lord Jesus from the dead after His Passion. Were Jesus’ Passion and Resurrection announced in the Old Testament? Yes, by the prophet Jonas. Our Lord Jesus Himself established a link between Himself and Jonas: “As Jonas was in the whale’s belly three days and three nights: so shall the Son of man be in the heart of the earth three days and three nights”. (Mt 12;40).

Today let us consider the story of the prophet Jonas through which we can get a deeper understanding of Our Lord Jesus in His Passion and Resurrection.



1. Disobedience of Jonas: summary of the story

Jonas was a true prophet in the continuity of Elias and Eliseus. But with one big difference: Elias and Eliseus worked in Israel for the conversion of their own race, but Jonas was sent by God to work for the conversion of pagans, namely the inhabitants of the city of Ninive. Why did God send him to these pagans? In order to make ashamed the Jews who, being themselves so rebellious to God, would see the docility with which the Gentiles would listen to God’s warnings and commandments. It is what God told the Prophet Ezechiel: “If you were sent to the gentiles, they would hearken to you, but the house of Israel will not hearken to you because they will not hearken to Me, for the all the house of Israel are of a hard forehead and an obstinate heart.” (Ez 3;6-7).

Jonas was not happy at all with this mission. First of all because he had a strong aversion against all the pagans, their idolatry and immoralities. Then Jonas knew from the Prophecies that the conversion of the Gentiles would mean the end of the mission of Israel: since he loved his people, he did not want to help in anyway for its decline. And at last, as he said it later, Jonas foresaw that God would forgive in His mercy the people of Ninive, that his prophecy of the destruction of the city would not happen and therefore that he would look like a fool who does not know what he says. So, Jonas tried to escape God by boarding on a boat going far from Israel. We can wonder: how could Jonas think that he would escape God? Did he not know that God is everywhere? He knew perfectly that God is everywhere and that everything is under his control, but he knew also that God usually did not intervene visibly outside Israel, and so by running away far from Israel, Jonas hoped that God would not do anything against him.

Actually, God did intervene against him. A big storm came on the sea but only localised on the boat where Jonas was. The sailors understood quickly that this storm was not a natural one but was due to the fault of one of the passengers. They discovered that Jonas was the guilty one, and Jonas confessed it. The sailors then asked him respectfully what was to be done to calm down the storm threatening their lives. And Jonas sacrificing himself said courageously: “Take me up, and cast me into the sea and the sea shall be calm to you”. But the sailors, being good men, could not accept this idea of throwing into the sea one of their passengers, and so they tried to reach back the seashore rowing very hard. But in vain, the storm was too strong. Finally, seeing that it was definitively the will of God that Jonas be cast into the sea, they said this admirable prayer: “We beseech Thee, O Lord, let us not perish for this man’s life, and lay not upon us innocent blood: for Thou O Lord, hast done as it pleased Thee.” (Jonas 1;14) They took Jonas and respectfully, says the tradition, cast him into the sea, and the sea ceased from raging. And the sailors believed in the true God and offered to Him sacrifices.


2. Disobedience of Jonas: the mystical meaning

Let us see now how Jonas was a figure of Our Lord Jesus in this part of the story.

Jonas did not want to preach to the Gentiles out of his love for his own race. Our Lord Jesus as well restricted his preaching to the Jews, out of love for them. He told for example the woman from Canaan asking for the cure of her daughter: “I was not sent but to the sheep that are lost of the house of Israel” (Mt 15;24). He told His Apostles explicitly: “Go ye not into the ways of the Gentiles and into the city of the Samaritans enter ye not” (Mt 10;5). Our Lord Jesus loved his own nation, he showed it for example when He cried over Jerusalem. He knew perfectly that after his preaching and death, the Jews would become the race universally despised, carrying the shameful stigmata of having crucified Him, the Son of God, the most beautiful Son of man, the honor and the glory of mankind. Our Lord Jesus was like delaying therefore the preaching to the Gentiles in order to give more time and a last chance to the Jews to convert.

Jonas on the boat was the image of Jesus in the boat of St Peter, symbol of the Church He founded to continue His Mission. The storm on the sea means all the hatred, jealousy and awful persecution of the Jews against Jesus. As Jonas told the sailors that the only way to calm down the storm and for them to be saved was to cast him into the sea, so Our Lord Jesus spoke many times to His Apostles of the necessity of His death for the salvation of the world. As the sailors refused at first to cast Jonas in the sea, so the Apostles refuse God’s plan of Jesus’ death: St Peter explicitly spoke against it. At last the sailors facing the imminent danger of their own death, praying to God not to hold them guilty of what they were forced to do, and respectfully lowering Jonas in the sea, were the image of what should have been the death of Christ: to be done since it was the will of God for the remission of sins, but with deep respect and humble prayers offered to God. On the contrary, the Jews treated Jesus shamefully with an incredible cruelty, and proudly they called upon themselves and their children the responsibility of shedding His innocent blood.


3. Jonas swallowed by the whale: summary of the story

Let us come back to the story of Jonas. As soon as Jonas was abandoned in the sea, God sent a huge fish, a whale says the Holy Scripture, to swallow Jonas alive. And by an obvious miracle of God, Jonas stayed alive three days and three nights in the belly of that whale in the depths of the sea. Jonas kept on praying during these days. And after this time, the whale vomited him on the seashore of Israel, for him to go and accomplish the mission given him by God to preach to the people of Ninive.


4. Jonas swallowed by the whale: mystical meaning

This stay of Jonas in the belly of the whale was an announcement of the burial and resurrection of Our Lord Jesus: “For as Jonas was in the whale’s belly three days and three nights: so shall the Son of man be in the heart of the earth three days and three nights”.

But here we may wonder: Jesus was not 3 days and 3 nights in the sepulchre, but only for around 36 hours. St Augustine explained this difficulty: it was common for the Jews to name the whole thing by one of its part, so in our case to call “one day” what was in reality only a few hours of the day, or to call “night” what was in reality only a few hours of the night. Jesus was in the sepulchre for the last hours of the day of Good Friday and then for the night up to midnight: these were the first day and the first night. Jesus was then in the sepulchre for the whole Saturday: these were the 2nd day and the 2nd night. At last He was in the sepulchre for the last hours of the night on Sunday morning and the first hours of the day: these were the 3rd night and the 3rd day.

Jonas going to preach the Ninevites and to tell them to do penance for their sins is the image of Our Lord Jesus through His Church preaching to people and applying the fruits of the Redemption.


Conclusion

What to say to conclude? Let us beware of the warning of Our Lord Jesus: “The men of Nineveh shall rise in judgment with this generation and shall condemn it: because they did penance at the preaching of Jonas. And behold a greater than Jonas here.” Let us therefore listen attentively to Christ and His Church and let us do penance for our sins. As God spared the Ninevites, so He will spare us in His mercy and applying to us the merits of Our Lord Jesus risen from the dead, He will grant us the eternal life. Amen.

2019年5月 復活節の説教 ドモルネ神父様「預言者ヨナについて」

2019年05月24日 | お説教・霊的講話
復活節の説教「預言者ヨナについて」
2019年5月12日(大阪)・19日(東京)
エティエンヌ・ドモルネ神父(聖ピオ十世会)


はじめに

旧約は、新約についての予告であり準備、私たちの主イエズス・キリストとその教会が行ったり言ったりするであろうことについての予告であり準備であったのは、皆さんご存じの通りです。今は復活節で、イエズス・キリストがご受難ののち死者の中から復活されたことをお祝いしています。イエズスのご受難とご復活は、旧約において予告されたのでしょうか? そうです、預言者ヨナによって予告されました。私たちの主イエズスは、御自らご自分とヨナとの関係を立証されました。「ヨナは三日三晩、クジラの腹の中にいたが、同様に人の子は三日三晩、地の中にいる」(マテオ12章40節)。

本日は、預言者ヨナの話を考察し、それによってご受難とご復活における私たちの主をもっと深く理解できるようにしましょう。


1.ヨナの不従順:話の要約


ヨナは、エリアやエリゼオに続くまことの預言者でした。しかし、大きな違いが一つあります。エリアとエリゼオは、イスラエルで自分たちの民の回心のために活動しましたが、ヨナは、異邦人すなわちニネべの町に住む人々の回心のために活動するよう天主によって遣わされました。天主はなぜ、この異邦人に彼を遣わされたのでしょうか? それは、ユダヤ人を恥じ入らせるためでした。異邦人が天主の警告と掟を聞き入れようとする素直さをもっていることを、 天主にひどく反逆していたユダヤ人が見るようにするためでした。それは、天主が預言者エゼキエルに言われたことでした。「もしおまえが異邦人に送られたら、彼らはおまえの言うことを聞くだろう。だが、イスラエルの家は、私の言うことを聞かないのであるから、おまえの言うことを聞かない。なぜなら、イスラエルの家はみな、固い額と強情な心を持っているからである」(エゼキエル3章6-7節)。

ヨナは、この使命、役割をまったくうれしく思いませんでした。第一に、ヨナはすべての異教徒に対して、その偶像崇拝や不道徳に対して、強い嫌悪を持っていたからです。さらにヨナは、異邦人の回心がイスラエルの使命の終わりを意味することを預言書から知っていました。ヨナは自分の民を愛していましたから、その没落に繋がることにはまったく手を貸したくはなかったのです。そして最終的に、ヨナがのちに言ったように、天主がニネべの人々を御あわれみによってお赦しになるであろうこと、ニネべの破滅という彼の預言が実現しないこと、そのため自分が自分の言うことが分かっていない愚か者のようにみなされるであろうことを、ヨナは予見しました。そこで、ヨナは、イスラエルから遠く離れて行く船に乗って、天主から逃げ出そうと試みました。ここで私たちは驚くのです。ヨナはいったい、どうして天主から逃げ出すことができるなどと思ったのでしょうか? 彼は天主がどこにでもおられることを知らなかったのでしょうか? 彼は、天主がどこにでもおられること、そしてすべては天主の支配下にあることを知ってはいましたが、天主が通常イスラエルの外では目に見える形で介入されることはないことも知っており、イスラエルから遠く離れたところに逃げ出すことによって、ヨナは天主が自分に対して何もなさることはないことを望んだのです。

実際には、天主は彼に対して介入されました。大あらしが海の上に起こりましたが、ヨナの乗った船の上だけにとどまりました。水夫たちは、このあらしが自然のあらしではなく、乗客のうちの一人のせいだと、すぐに理解しました。彼らはヨナこそがその乗客だと突き止め、ヨナもそれを告白しました。そこで水夫たちは、自分たちのいのちを脅かしているこのあらしを鎮めるために何をすればよいかを丁重にヨナに尋ねました。するとヨナは自らを犠牲にしようとして、勇敢に言いました。「私を捕らえて、海に投げ込んでください。そうすれば、海は鎮まるでしょう」(ヨナ1章12節)。しかし水夫たちは良き人々だったので、乗客の一人を海に投げ込むという考えを受け入れることはできませんでした。そこで、懸命にこいで、岸に戻ろうとしました。しかし、あらしはあまりにも強かったため、無駄でした。ついに、ヨナが海に投げ込まれることが天主のご意志だと分かり、彼らは次の見事な祈りを唱えました。「主よ、この男のいのちのために、私たちを死なせないでください。罪のない者の血を、私たちのせいにしないでください。主よ、あなたがこう行われたのは、み旨によることだからです」(ヨナ1章14節)。彼らはヨナを捕らえて、聖伝によると、丁重に、海に投げ込みました。すると、海は怒りを鎮めました。水夫たちはまことの天主を信じ、天主にいけにえを捧げました。


2.ヨナの不従順:神秘的な意味

さて、この箇所において、どのようにヨナが私たちの主イエズスの象徴であったかを見てみましょう。

ヨナは、自分の民を愛していましたから、異邦人に対して宣教したくはありませんでした。私たちの主イエズスも、ユダヤ人を愛していましたから、ユダヤ人に対する宣教に限定しておられました。例えば、主は、自分の娘の癒やしを求めたカナンの女に対して、こう言われました。「私は、イスラエルの家の迷える羊以外に対しては遣わされていない」(マテオ15章24節)。主は使徒たちにはっきりとこう言われました。「あなたたちは異邦人の国への道には行ってはならぬ。サマリア人の町にも入るな」(マテオ10章5節)。私たちの主イエズスはご自分の民を愛しておられ、例えばエルザレムについて嘆かれたとき、それを示されました。主は、ご自分の宣教と死のあと、ユダヤ人たちが世界中で軽蔑され、天主の御子、いとも美しい人の子、人類のほまれと栄光である主を十字架につけたという恥ずべき汚名を背負う民となるであろうことを完全にご存じでした。それゆえに、私たちの主イエズスは、ユダヤ人に対して回心するためのさらなる時間と最後の機会をお与えになるため、あたかも異邦人への宣教を遅らせたいと思っておられたかのようです。

船の上のヨナは、聖ペトロの船におられるイエズスのかたどりであり、その船は、主の使命を継続するために主が創立された教会の象徴です。海のあらしは、ユダヤ人のイエズスに対するあらゆる憎しみ、嫉妬とおそろしい迫害を意味します。ヨナが水夫たちに、あらしを鎮めて自分たちを救う唯一の方法は、彼を海に投げ込むことだと言ったように、私たちの主イエズスは、世を救うためにご自分の死が必要であることについて使徒たちに何度も言われました。水夫たちが最初はヨナを海に投げ込むことを拒否したように、使徒たちはイエズスの死という天主のご計画を拒否しました。聖ペトロははっきりと、それに反対しました。ついには、自分たちの死という緊急の危険に直面し、自分たちが強いられて行ったことの罪を自分たちに負わせないように天主に祈り、丁重にヨナを海に下ろした水夫たちは、キリストの死とはどうあるべきだったのかということのかたどりでした。それは、罪の赦しに必要な天主のご意志であったため、なさなくてはいけないことでしたが、天主に対する深い敬意とけんそんな祈りが伴うべきだったのです。その反対に、ユダヤ人たちは、信じられないほどの残酷さをもってイエズスを辱めて扱い、高慢にも自分たちと自分たちの子孫に主の無実の血を流した責任を望んだのです。


3.クジラに飲み込まれるヨナ:話の要約

ヨナの話に戻りましょう。ヨナが海に捨てられるやいなや、天主は、聖書がクジラと言っている巨大な魚を送られて、ヨナを生きたまま飲み込ませました。明らかな天主の奇蹟によって、ヨナは生きたまま三日三晩、深い海にいるそのクジラの腹にとどまりました。ヨナは三日間祈り続けていました。そののち、クジラはヨナをイスラエルの海岸に吐き出しました。それは、ニネベの民に宣教するよう天主によって彼に与えられた使命を、彼が行って果たすためでした。


4.クジラに飲み込まれるヨナ:神秘的な意味

このヨナがクジラの腹にとどまったことは、私たちの主イエズスの埋葬と復活の予告でした。「ヨナは三日三晩、クジラの腹の中にいたが、同様に人の子は三日三晩、地の中にいる」。

しかし、ここで私たちは不思議に思います。イエズスは三日三晩、墓の中におられたのではなく、約36時間に過ぎません。聖アウグスティノは、この疑問を次のように説明しました。ユダヤ人は全体のものをその一部によって名付けるのが普通であった。それゆえに、この場合、実際には一日のうちの数時間であったものを「一日」と呼び、あるいは実際には一晩のうちの数時間であったものを「一晩」と呼んだのである。イエズスは、聖金曜日の一日の昼間にあたる最後の数時間と、真夜中までの晩の間、墓の中におられた。これが最初の一日と最初の一晩であった。その後、イエズスは土曜日の一日中、墓の中におられた。これが二日目と二晩目であった。最後に、イエズスは日曜日の朝、晩の最後の数時間と朝の最初の数時間、墓におられた。これが三晩目と三日目であった。

行ってニネべの民に宣教し、彼らに罪を悔い改めるよう告げたヨナは、教会を通じて人々に宣教し、あがないの実を授けようとする私たちの主イエズスのかたどりです。


結論

では結論として言うべきことは何でしょうか? 私たちの主イエズスの警告を知っておきましょう。「裁きの日、ニネべの人は今の代の人とともに立ち上がり、今の代を罪に定めるだろう。彼らはヨナの言葉を聞いて悔い改めたからである。しかもヨナにまさる者がここにいる」(マテオ12章41節)。ですから、キリストとその教会の言うことを注意して聞き、私たちの罪を悔い改めましょう。天主がニネべの民を赦されたように、御あわれみによって私たちを赦し、死者の中から復活された私たちの主イエズスの功徳を私たちに授けてくださり、私たちに永遠のいのちを与えてくださいますように。アーメン。

ウォンダー司教とパリャラーニ神父の共同コミュニケ: SSPX Joint communiqué of Bishop Huonder and Father Pagliarani

2019年05月23日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
Joint communiqué of Bishop Huonder and Father Pagliarani

ウォンダー司教とパリャラーニ神父の共同コミュニケ

2019年5月20日  FSSPX.NEWSサイト

2019年5月20日の月曜日、教皇フランシスコは、ヴィトゥス・ウォンダー司教をクール司教区 Chur [仏 Coire, 伊 Coira](スイス)の司教としての義務を解き、後継者の選出を視野に入れて(教区)管理者を指名した。

以前から既に司教が言明していた意向に従って、ウォンダー司教は聖ピオ十世会の修道院で引退生活を送る。このことの唯一の目的は、祈りと沈黙に専念すること、聖伝のミサのみを捧げること、そして教会を刷新する唯一の方法である聖伝のために働くことである。


聖ピオ十世会はウォンダー司教の勇気ある決断に感謝し、彼が非常に深く希求している霊的かつ司祭としての環境を彼に提供できることを喜ぶものである。「キリストにおいてすべてを復興する」ために、願わくは他の方々がこの模範に倣われんことを。

2019年5月20日

ヴィトゥス・ウォンダー司教         ダヴィデ・パリャラーニ神父

クールの引退司教              聖ピオ十世会総長


Invitation to the March for Life 2019: 4 PM, July 15th, 2019, Tsukiji Catholic Church

2019年05月21日 | カトリック・ニュースなど
Ave Maria Immaculata!

Invitation to the March for Life 2019

Time and Date: 16:00, Monday July 15th, 2019
Departure: Tsukiji Catholic Church
End: Hibiya Park
Every one is invited!










聖ピオ十世会:日本での聖伝のミサ(トリエント・ミサ)の報告2019年5月19日

2019年05月21日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

 聖母聖月は、聖母からのお恵みの聖なる月です。

 ドモルネ神父様は、大阪で5月12日(主日)から5月17日まで、東京の「聖なる日本の殉教者巡回聖堂」では5月18日、19日、20日の三日間、聖伝のミサを捧げて下さいました!

 さらに愛する兄弟姉妹の皆様のしもべは、大阪の「聖母の汚れなき聖心聖堂」で5月18日、19日、20日の三日間、聖伝のミサを御捧げいたしました。大阪では、聖母聖月の主日ミサの後で、特に5月13日のファチマの聖母の最初の御出現の日を記念して、ファチマの聖母行列を行い、聖母マリア様に大阪と大阪の人々を、日本と日本に住む人々を守って下さるようにお願いいたしました。

また、【大阪】では5月21日から5月27日まで毎日、【東京】では5月26日(主日)にも聖伝のミサがあります。

 天主様の祝福が、愛する兄弟姉妹の皆様の上に豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

写真は2019年 秋田巡礼

【報告】【大阪】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

大阪でのミッションありがとうございました。
簡単ですが、ミサの報告をお送り致します。

12日の主日からデモルネ神父様が休暇に日本に来られたので、大阪で12日から17日まで毎日デモルネ神父様が歌ミサを捧げてくださいました。
また、ミサの後には毎晩終課を皆で唱え、木曜日には御聖体降福式をして下さったのも大きなお恵みでした。
デモルネ神父様の御ミサは所作が大変美しく、小野田神父様のミサと似ている印象を受けました。良き先輩をまねていらっしゃるのではないでしょうか?
大阪では聖エリザベトの「主のおん母が私を訪問してくださったのですか!これほどのことが、どうして私にめぐまれたのでしょう!」ということばを真似て、「我が主が私を訪問してくださるとは、どうしてこのようなお恵みが与えられたのでしょう!!」というのが流行っていますが、この度の連日のミサでも全く同じ気持ちを私達は持つことが出来ました。天主様に感謝します!!

休暇に来られていたのに、色々とハードなスケジュールをこなしていただいてしまったのですが、これに懲りずにまた日本へ来て頂きたいと願っています。

土曜日、主日にはデモルネ神父様と入れ替わりに小野田神父様が来て下さり、連日の大きなお恵みに聖母行列を通して感謝を捧げました。
御ミサが終わってすぐに行列に出発したので、御聖体 のイエズス様が一緒にマリア様の行列をして下さっているようで、マリア様がとっても喜んで下さっているように思いました。

日本の為に翻弄してくださる小野田神父様、日本に早く修道院ができて神父様が常駐されることを沢山のミサの中、ミサのノヴェナでお願いしています。

【報告】【大阪】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

大阪でのミッションありがとうございました。

キンボル神父様は無事に大阪にご到着されました。
小野田神父様が仰るように、レネー神父様に色々な意味でよく似てらっしゃいますね。・・・ 秋田についてお詳しいことにびっくりしました。
キンボル神父様を日本にお誘い下さって、本当にありがとうございます。


【報告】【東京】
Dear Fr Onoda:

今日5月19日(土)はエチエンヌ・ドモルネ神父の東京での初めてのミサでした。

御説教では、聖母マリアの三つの言葉、「ecce」、「fiat」、「magnificat」に沿って、その一つ一つがいかにして私たちのこの地上での見本となるのか、なぜそれらを真似ることが私たちが天国に行けることに繋がるのが、についてお話ししてくださいました。

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 11人(内、子供1人)
女: 9人(内、子供1人)
計: 20人(内、子供2人)

【報告】【東京】
Dear Fr Onoda:

今日はエチエンヌ・ドモルネ神父の主日のミサ、霊的講話、そして晩課がありました。

ミサの御説教では、旧約の預言者ヨナがとった行動、そのために天主が彼になさったこと、そして彼を船に乗せた水夫たちがとった行動などについて、それらがどのようにイエズスの死と、埋葬、復活の前表であったかを詳しく説明していただきました。

また霊的講話では、現代の教会の危機に関して私たちがどのような考えを持ち、どのような行動をとるべきかについてお話し頂きました。とくに天主がラザロのよみがえりにおいてなさった手順に着目して、私たちもまず自分の信仰を守ること、祈りと犠牲を捧げ続けること、そして決して落胆したり絶望したりせず、また逆に慢心することなく、私たちが具体的にできる信心、信仰を広めるための活動などを続け、栄光を天主に帰すことが大事である、ということを教えていただきました。

最後に復活節の晩課を歌って解散しました。

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 29人(内、子供5人)
女: 27人(内、子供6人)
計: 56人(内、子供11人)

霊的講話の参加者数
男: 13人(内、子供4人)
女: 12人(内、子供3人)
計: 25人(内、子供7人)

晩課の参加者数
男: 6人(内、子供1人)
女: 6人(内、子供1人)
計: 12人(内、子供2人)

【報告】【東京】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

ドモルネ神父様のご復活後第五の主日のミサをありがとうございました。

前日には、殉教者・聖ヴェナンツイオのごミサをしていただきました。
土曜日の夕方――聖母の土曜日でもあり――、聖母マリア様の聖性のことをお話してくださいました。

印象に残ったことは、『(天国に行くために大切なことは・・、成聖への道を歩むとは・・・、聖人になるには・・・、)天主様が私たちに働きかけてくださることに同意することであり、私たちの霊魂の中に働いてくださる天主様の働きに同意することだ』ということでした。

自分が聖性に達しようとして何かをすることができるのではないこと、ただ自分の中で働かれている“天主様が私達を聖化してくださろうとすること”に抵抗しないことが大事だと教えていただきました。
抵抗しないだけでよいという、そのことこそ難しいことだと思いました。自分の霊魂の中で行われる天主様からの働きかけがあったから、私はカトリック信仰をいただくことができて、そしてこの聖伝の御ミサに与っていることをあらためて思いました。

けれどここまで来るにはあまりにひどい遠回りをしなければなりませんでした。ようやく本来のカトリック信仰に導いていただいたことは、感謝でしかありません。それはひとえに聖母マリア様の御助けのおかげとも感じられるものでした。やはり同じように聖母によってこちらのごミサに来られるようになった方から、その体験を伺ったばかりです。私たちは何もわからなかったけれど、ただロザリオを通してマリア様に助けていただいたのだと思います。

今回ドモルネ神父様が教えてくださったマリア様の三つの「Ecce ancilla Domini.」「Fiat」「 Magnificat 」という強力な具体的な方法で、これからもいつもマリア様に助けていただけますようにと思いました。

“マリア様の真似をすること”つまり「天主様のなさりたいように、どうぞ私になさってください。」というようにいつも申し上げていこうと思います。続くミサの中でマリア様の真似をする秘訣を実行する恵みを願い求めました。私たちを天国へ導いてくださるためにいつも熱心にご指導してくださいます聖ピオ十世会の司祭様達に感謝申し上げます。

それから、翌日の主日のミサではニネヴェのヨナのお話をしていただきました。旧約聖書のこのヨナのお話は興味深いものでした。

私はイエズス様に対するユダヤ人の態度は、旧約聖書における水夫たちのヨナに対する態度と違うという説明のことが、印象に残りました。もしも、イエズス様が自分たちの救いのために犠牲になってくださることに対してユダヤ人たちがもっと違うふうに対処していたら・・・これが天主様の救いの御業として与えてくださったみ旨であることをしっかりとらえていたら・・・、ユダヤ人たちの救いのことは今と違っているのでは、と思われます。イエズス様は何といってもますユダヤ人の救いのために遣わされた方だから。
(水夫たちは、「主よ、この男の命のために、私達を死なせないでください。罪のないものの血を、私たちのせいにしないでください。罪のないものの血を、私たちのせいにしないでください。主よ、あなたがこう行われたのは、み旨によることだからです。」と天主様に希ったから。)

でも、ユダヤ人は、イエズス様が贖罪の業をなさいますときに、これとは違う態度を取られました。(ユダヤ人は、十字架につけられるイエズス様にひどいことばと態度で侮辱や虐待や怒声を浴びせ、まして自分たちがその血の責任を負うなどと叫んだ。)

どのようなことが起ころうとも、理解が難しい思いがけないことが起ころうとも、み旨のままにおこなわれますようにという、清い心で祈る生活をすることが大切だと感じました。

そして私は自分の罪の悔い改めがどれほど難しいかを感じさせられ、イエズス様の御言葉によってまことの悔い改めがいつもしっかりとできますようにと祈りました。

午後の霊的講話は、たくさんの方が参加されました。
ドモルネ神父様のお話は、とても広い見地から述べられていて、いま自分の置かれている状況を客観的にみる助けとなりました。フランスのジロン・ワキエという方の神学をもとにしているとのことでしたがこの素晴らしい講話をありがとうございました。

ドモルネ神父様は、2つのレベルの戦いについてまず触れられました。一つの戦いは「注意しなさい、死ぬ準備をしなさい。」ということであり、もう一つの戦いは「敵の存在にもかかわらず、私が治める。」ということである、という表現で。

それは、自分たち自身の個人的な信仰を守るためにする私たちが参与している戦いと、信仰をもって地上を天国に向かって歩もうとする人たちを欺くものに対する天主様がなさる悪魔との戦いについてのように思われました。それぞれ、低いレベルでの戦いと高いレベルでの戦いともいえるものであって、私達はいまこの二つの次元での戦いに臨んでいるとの前置きで講話が進められて行きました。

低いレベルの戦いのことでは、私達はイエズス様から伝えられたものを保持しなければならない、モラルはカトリック信仰から出ている、次の世代にカトリック信仰を伝えるために学校をつくらなければならないことなどをお話しくださいました。そして私たちのできる範囲でカトリック信仰を広める務めをすることだ、と。本当の信仰について学ぶ機会を与えられなかった善い人たちがいて、このような知識のない善い人たちに誰かがどうにかして知識を伝えることの大切さなどお話しいただきました。

高いレベルの戦いのことでは、王たる主イエズス・キリストと悪魔の間での戦いがあるが、主イエズスは世界の終りまで私たちと共にいると約束してくださったのだし、地獄の門は教会に勝たなかった、最後の勝利は私たちのものであるとわかっているが、ではそうやってその勝利が起こるのだろうか、と。

講話をお聞きしながらあらためて、この聖ピオ十世会の東京の信徒たちは本当の信仰について学ぶ機会を与えられている恵まれたグループであることを、理解できました。(善い人かどうかは全然別としてですが、恵まれているのだけは本当だと思いました。)

そしてそういう恵まれた者であるというなら、どうしてこんなに少数のグループでしかないのかということの理由を説明していただいたことがとてもよかったです。ドモルネ神父様は、「天主様は小さい信者のグループを使ってその業を始められる」ということを紹介してくださったからです。私達が(人数が)少ないというだけで恐れてはいけないと励ましてくださいました。デオ・グラチアス!

天主様がそのように小さいグループを使われるのは、すべての仕事の栄光は天主様にあるということを示すためだということでした。自分たちの自己満足のためではなく、天主様の栄光のためにこそ働きたいものだとあらためて思いました。

それから、この危機状態にあるカトリック教会の状況が生き返るためには、ラザロの復活を見るのがよいのですと、その見方(解読)を4つのステップに分けて詳しくお話しくださいました。これはとても興味深いお話でした。

ドモルネ神父様は、近代主義に毒されたまま運営されている今の教会の危機に対してこの混乱に引きずられてしまうのを避けるためにどのような見方をすればよいか、低いレベル・高いレベルにおける具体的なことに言及されて、たくさんのことをお話しくださいました。ありがとうございました。

この主日には、新しい方たちもたくさん見えられていて子供たちもたくさん来ていて、聖堂として使わせていただいている会場はいっぱいでした。神父様はごミサの後も告解の秘蹟を授けてくださっておりました。霊的講話の後は、晩課も皆で一緒にいたしました。

ドモルネ神父様はまだ若い方でとても素晴らしい神父様でした。今回は休暇で日本を訪問されているということでしたが、初めての東京でもこのような素晴らしいミッションをありがとうございます。


秋田巡礼-霊的講話【1】-2019年5月1日サマーズ神父様「霊的生活の重要性と必要性、完徳を目指さす義務、霊的生活に関するよくある誤解」

2019年05月20日 | お説教・霊的講話
2019年5月1日 秋田巡礼 サマース神父様霊的講話【1】
「霊的生活の重要性と必要性、完徳を目指さす義務、霊的生活に関するよくある誤解」
同時通訳:小野田圭志神父



【小野田神父】
秋田の巡礼者の皆さん、では今から講話を始めますけれども、サマース神父様が午前中の話を2回、そして最後に私が話をします。

【サマース神父様】
皆さん、この美しい秋田の巡礼に来て下さいましてありがとうございます。感謝します。

そこで私は、霊魂の生活、つまり「霊的生活」について話をする事が有益であると思います。

なぜかというと、今この現代では、物質的な、あるいは物体的な肉体的な事だけを追求する世の中に生きているからです。皆さんの国でも、汚い物や、あるいはバイ菌・細菌などについて、本当に非常に心配されています。私たちは手では、手を洗ったりあるいは殺菌消毒をしたりしますけれども、しかし同時に内側では、腐敗や罪にまみれた生活をしています。

では一体霊的な生活とは、肉体的ではなく霊的な生活とは、男性も女性も、あるいは子供たちにとっても、どのようなものか?という事を皆さん研究しましょう。もちろん私たちに与えられた時間によってですけれども、できるだけ多くの、深く、私たちの肉体ではなく、霊的な生活を正しくして、そしてそれを成長させる為にどのようにしたら良いか、という事を考察しましょう。

そして私たちの霊的な生活が強められて、そして養われて、成長していくならば、この地上でどのようなものも、私たちを恐れさせたり、心配させたりする事はなくなります。

なぜかというと、私たちが申し上げている「霊的生活」とは、実は天主様へのその命自身、生命自身に参与する事だからです。天主様が私たちの内にお住まいになり、生活され、そして私たちも天主の中に生活する、生きる、という事だからです。

もしも私たちの中に天主の命が生きているならば、そしてそれを分かち合っているならば、一体この地上で誰が私たちに心配や、恐れなどを与える事ができるでしょうか。私たちの内に天主様が功徳を積ませて下さり、そして報いを下さり、成聖の恩寵のみならず助力の恩寵を以て、私たちを瞬間、瞬間に助けて下さる、という運動があります。この天主の命を分かち合って、それに参与するという事が、天主様の三位一体の命に与る事です。

マリア様の霊的生活こそ、成聖の聖寵の命であって、生活であって、それへの参与の生活でした。私たちの主が生活された通りに、それと同じ命をマリア様も、御霊魂の中に生きていました。

そしてマリア様がイエズス様の御母であったと同じく、イエズス様はマリア様が私たちの母となるという事を御望みであります、それを意図されています。

そこで今回は、
まず第1に、「聖三位一体の神秘について、命について」

第2に、「マリア様の霊的な命について、生活について」

最後に第3に、「諸聖人の通功について、諸聖人との霊的な交わりについて」話します。
天国にいる聖人たちとの命の交わりと共に、煉獄にいる霊魂たちと私たちの関係についても話します。そしてこの地上における全て、霊的生活において成聖の恩寵を保っている人たちとの一致も話します。この地上に生きている、成聖の恩寵にいるすべてのカトリック信者と皆さんは、夫婦が一緒にいるよりも更に緊密な関係を持っています。

この真理は、カトリックの教える事実・真理は、私たちの生活を本当に慰めに満たして、そして強めてくれます。これを知る事は天主からの特別の御恵みであります。なぜかというと、この地上での生活というのは難しいものであって、戦いであるからです。なぜかというと、私たちは地獄の勢力に対して戦わなければなりません。そして地獄の同盟者、つまりこの世の精神に対して戦い、また私たち自身にある三重の肉欲、目の欲、生活の傲りなどに対して戦わなければならないからです。私たちの周囲を見ると、私たちはもう落胆しかねてしまう、その誘惑もあります。

ところで、私たちの受ける慰めというのは、この真理を知る事によって、天主の命を分かち合って、そして天主が全てにおいてコントロールをしている、全て天主の御手の下にある、という事を知る事ができるからです。もしも天主の御摂理に、そして御計画に信頼するならば、私たちは最後の勝利を収める、凱旋をする、という信頼があります、慰めがあります。そうする事によって私たちは、霊的な生活を健康に、そしてますます成長させて、そして養われて送る事ができて、そうすると毎日の生活が喜びに満たされたものになります。

ちょうどこの事を言うと、ロヨラの聖イグナチオが求めたある1つの質問に答える事ができると思います。多くの困難と難しい問題が立ち上がった時、イエズス会の創立者聖イグナチオはこういう質問を受けました、「もしも、イエズス会の敵がイエズス会を廃止させたらどうしますか?」すると答えて、「それは大きな悲劇だけれども、私はもしもそのような事が起こったら、御聖体の前に行って、数分お祈りします。そうすれば、もう心の平和を受ける事ができるだろう。」

なぜかというと、聖イグナチオは、「霊的な生活というのは、私たちが何を選ぶか、どのような成功を収めるか、どのような事をするか、という事ではなくて、天主との一致にある」という事を知っていたからです。「そして天主との一致は、天主様によって色々な道が与えられる。そしてその天主に従う事である」と知っていたからです。

もちろん自由意志、自由決定能力という選択もありますけれども、この私たちが選ぶ、「自由に決定する、選択する」のは、「全てを、私たちにとって全て最高の事をよく知っておられる天主様の御旨を選ぶ」という事です。

それはちょうど、マリア様が受けた美しい驚きと似ています。まずそれは、大天使聖ガブリエルがマリア様に、「天主様は、あなたが天主の御母となる事を御望みだ」と告げた時に起こりました。マリア様が大天使聖ガブリエルからの御告げを受けた時に、少し当惑してしまいました。なぜかというと、天主様が自分に、この「天主の母となるという事を、どう思いますか?同意されますか?」という風に、アドバイスを求めてきたかのように思われるからです。

そこでマリア様は美しく答えました、「私は主の婢女です。もちろん、天主様の御望みの事だけを、御望みのままにします。」


今申し上げたのが導入で、これから入る主題についてのこの原理について申し上げました。


まずこの主題について話す時に、よく正しく理解する事ができる為に、それに反対するような間違った考え方についてまず見ると、それがどこが間違っているかを知る事によって、正しい理解が求められます。

まず、カトリック信者の方々が普通に持っている間違いというのは、「霊的生活というのは、偉大な霊魂たちだけのものであって、修道院に閉ざされた奥深い霊魂たちだけの特別なものであって、私たちには関係ない」という考えです。「キリスト教の完徳というのは、修道服を着た1%のみのエリートだけのものである」と考えています。

そしてこのよくある間違いは、「カトリック生活というのは、天主の十戒を守る、そして主日にミサに与って、そして大罪を犯さないようにそのギリギリの所までには行かないで、それだけをやっていれば良いのだ」という間違いです。

しかし、私たちはまず知らなければならないのは、「キリスト教的な完徳を目指すというのは、全てのキリスト教信者のためのもの、全ての信徒が完徳を目指さなければならない」という事です。

私たちの過去にも、どのような時代においても、どのような階級の人々でも、男性も、女性も、大人も、子供も、どのような身分の人も、聖人がいました。聖人になっています。どのような状況にあっても、何百万という多くの聖人たちが、どの時代にも居たという事は、聖徳というのは完徳というのは、一部の人の為だけのものであるというのは間違いである、という事が分かります。

第2の間違いは、「完徳というのは、あるいは聖徳というのは、どれだけお祈りの数を増やすか、どのようなたくさんのお祈りの種類をするか、という事にかかっている」という間違いです。「霊的生活というのは、その度合いは、お祈りのその量にかかっている」と考える人です。あるいは「霊的生活というのは、断食をする事にある、あるいは苦業をする事にある、それだけだ」と考える人です。あるいは「お祈りをした時に、どのようなこの感情を受けるかという、その感情の度合いこそが、その霊的生活である」と誤解する人もいます。

ところで過去偉大な聖人であればあるほど、お祈りをするのに難しかったり、それをするのが苦痛であったり、という事がありました。

あるいはある人は、「霊的生活というのは、使徒職をする事であって、多くの人に色んな話をしたり、多くの人に活動をする事にある、それだけだ」と誤解する事です。

ところで、どこが間違っているかというと、もちろんそれらの事は素晴らしい事ですけれども、お祈り、多くのお祈り、あるいは苦業、あるいは愛徳の業、あるいは使徒職などは素晴らしい業ですけれども、しかしそれは「手段」であって、究極の目的に到達する為の「道具」に過ぎないという事です。

例えば、これはある国での例ですけれども、ある人は、「神父様、ある御出現で、『このお祈りをしなさい』と言ったのですけれども、もしもこのお祈りをしないのならば、それはとても悪いものです。神父様はしていないので、このお祈りを唱えるようにして下さい。」別の言葉で言い換えますと、その人の言いたかった事は、このお祈りはとても自分にとって気に入ってるので、それをするのはとても良いのであって、それをしなければならないけれども、それをしないと駄目だ、霊的な効果が無くなってしまう、という誤解です。

そこで私が答えたのは、「もちろん、このお祈りもとても良いお祈りですけれども、しかし他にもマリア様の御出現で良いお祈りがあるので、それを全部唱えたらどうですか?」例えばマリア様はエクアドルのキトという所に現れて、とても美しいお祈りを教えて下さったのですけれども、しかし他のそれの事を知らない人が、そのお祈りを唱えなかったからといって、完徳に到達する事ができない、という事はありません、お祈りは手段でしかありません。

私たちの霊魂が求めている「完徳」というのは、一体何なのでしょうか?
私たちは、「完徳」というのは、「完成された」という事で、「霊的な完成」を求めています。

「完成された」というのはどういう事でしょうか?
「完成された」というのは、その「人」が、あるいはその「物」が、「その為に創られた、その究極のゴールに到達した、目的に、終点に到達した」という事です。

桜は、この芽を出したばっかりでは、まだ完成されていません。その桜が満開で綺麗に咲いた時に、あるいはもしもそれが木の実をもたらすものでしたら、そのさくらんぼの実が実って、人間が食べるようになったら、その熟された時に、「完成された」と言います。

完成された、徳に「完徳に到達する」という事は、私たちがその創られた創造の目的に、創られた私たちの目的に到達する事です。私たちは天主によって、天主と共に完璧な幸せに、至福に至る為に創造されました、創られました。ですから私たちが天主に近付けば近付いて、そして天主に一致すれば一致するほど、完徳に近付くという事です。

完徳というのはつまり、究極の目的に到達すればするほど近付くので、この世においては見出す事ができません。ですからこの世ではその幸せが欠如しています。

「では、この地上で見出す事ができる完徳の、完成の本質というのは何なのでしょうか?」と、聖トマス・アクィナスは自問しています。聖トマス・アクィナスによれば、「本質的に完成されたという事は、天主の愛にあって、そして天主の為に隣人を愛する事である」と言います。

しかし、この「天主を愛する」という事は難しい事であって、私たちにとって犠牲を要求するものであります。ですから霊的生活について、これをよく知らなければなりません。私たちは霊的生活を求めなければなりません。

では、私たちが霊的生活を送り、完徳を求めるという義務は持っているのでしょうか?

川で泳ぐ事を考えて下さい。もしもちょっとこう流れに抵抗するように泳ごうと努力しない限り、流されてしまいます。ところでこの川というのは、私たちの持っている原罪の結果の霊魂にある弱さの事を表します。私たちはともすると簡単な方に、悪に流されがちです。私たちは洗礼の水を受けて浄められましたが、原罪を持っているので、川の流れがあるので、もしも何もしないでじっとしていれば、悪の方へと流されてしまいます。

そればかりか、イエズス様は私たちに実定的に命令をされました、私たちにこう仰いました、「天の聖父が完全であるように、あなたたちも完全でありなさい。」

そしてこの完徳を求める、完全であるという事を求めるには、犠牲の心や、あるいは放棄の心が必要です。イエズス様はこんな事も仰います、「もしも私に従って、そして自分の父や、母や、妻や、子供や、自分自身さえも憎まないならば、私の弟子にはふさわしくない」とさえ仰いました。もちろんイエズス様は私たちの家族の一員をですね、憎悪する憎むという事を教えているのではなくて、イエズス様の仰りたい事は、「もしも天主の御旨に反するならば、そのようなものであっても家族の一員であっても、それを放棄しなければならない」という事です。

イエズス様は私たちに、全て同じレベルの聖徳に達するようにとは求めていません。色々な段階があります。3歳の子供が洗礼を受けて間もなく病気で亡くなってしまった、もちろん聖なる霊魂で天国にいますが、それは洗者聖ヨハネの到達した聖徳と全く同じではありません。

イエズス様は、「狭い門から入るように努めよ」と、私たちに努力するように求めました。全ての人が同じ聖徳ではありません。私たちは常に霊的生活を進歩させるように努力する務めがあります。

聖パウロは肉体的な完成と比較します。私たちは、肉体的に完成された人々に対して賞賛の声をあげます。スポーツとか、あるいは競技とかで格闘とかで、優勝したらものすごい大金が栄誉が与えられます。聖パウロは少し象徴したような言い方で、「このような格闘をする人たちは、きっと訓練して、自制して、激しい練習をして、そしてその栄冠を勝ち取ろうとするけれども、その栄冠というのはこのたかがちょっとした飾りで、一体何の価値もないようなものの為にこれほどの努力をしている。」しかし私たちの目指している完徳というのは、この肉体的なその栄誉よりも更にものすごい価値のあるものであるので、私たちはより多くの努力をしなければなりません。

ところで、私たちの霊的な生活は、辛い事や悲しい事だけではありません。それどころか多くの良いものが待っています。

まず第1に、霊魂は不死であって、決して死ぬ事がなくて、そして永遠のものであるからです。私たちの霊魂を救う為に、イエズス様は天主は人となって、苦しみを受けて、そして死の苦しみさえも受けたのです。なぜかというと、私たちの霊魂がそれほどの価値があるからです。

第2の理由は、副次的なものですけれども、この私たちが霊的生活をする為に、その動機付けをするのは、霊魂の価値のみならず、この地上における最高の、この地上で受ける事のできる最高の幸せを、霊的生活が私たちに与えてくれるからです。天主との一致の喜び、幸せ、霊魂の清さの幸せ、喜び、あるいはその霊的生活の平和、というのは、この地上の誰も、どのようなものでさえも、私たちから奪い取る事ができないものです。

そして隣人の為に、最も価値のある長く永続する善をもたらす為に、私たちがまずその永続する善を持っている事ができるからです。私たちが苦しむ人や罪に陥っている人、あるいは弱い人々にする事のできる最高の善は、「天主様にますます近付ける」という事です。もちろんこう貧しい人を助けるとか、こう人類愛の為に医療活動をする等という事は、それ自体は悪い事ではありません。しかしその私たちの隣人に永遠の命を与える、永遠の癒しを与えるという事ほどの善はありません。そしてこれこそ、人類の求めている問題の最高の解決です。

では10分休憩を取ります。

麗澤大学助教 ジェイソン・モーガンによる講演「革命、不安定、帝国:過去500年の歴史の捉え方と秩序の取り戻し」の動画紹介

2019年05月19日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

麗澤大学助教 ジェイソン・モーガンによる講演「革命、不安定、帝国:過去500年の歴史の捉え方と秩序の取り戻し」の動画をご紹介いたします。

2019年4月23日、王権歴史期研究会・第2例月会にて「革命、不安定、帝国:過去500年の歴史の捉え方と秩序の取り戻し」と題して、ジェイソン・モーガン教授は、フランス革命以前の君主制の基礎について語り、何故革命はさらなる革命へと進んでいくのか、この革命的な思考回路に対してどのように対抗して秩序を回復することが出来るのかについて、考えを深めていきます。





聖ピオ十世会:日本での聖伝のミサがさらに増えます!【大阪】5月21日から5月27日まで毎日、【東京】5月26日(主日)

2019年05月19日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 5月は聖母聖月で、聖母からのお恵みの聖なる月です。日本では、4月28日から5月27日まで(5日間を除いて)、毎日聖伝のミサが、しかも時には2回、捧げられることになりました。つまり、4月28日から5月6日まで(サマーズ神父様)、5月12日から5月22日まで(ドモルネ神父様)日本で聖伝のミサを捧げて下さる(下さった)からです。
 さらに、5月21日から5月27日まで(ポール・キンボル神父様)が特別に日本にいらしてくださるようになったからです!次のようにミサが付け加えられます。 天主様に感謝!

天主様の祝福が、愛する兄弟姉妹の皆様の上に豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

5月19日(主)復活後第4主日(2級)白
【東京&大阪】 午前10時  ロザリオ及び告解
【東京&大阪】 午前10時半 ミサ聖祭(歌ミサ)
【大阪】    聖母行列があります
【東京】    ドモルネ神父様の霊的講話があります

5月20日(月)
【大阪】    午前6時半 ミサ聖祭
【東京】    午前7時  ミサ聖祭

5月21日(火)平日(4級)白
【大阪】    午後5時半 ロザリオ及び告解
【大阪】    午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)(ポール・キンボル神父様)

5月22日(水)平日(4級)白
【大阪】    午後5時半 ロザリオ及び告解
【大阪】    午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)(ポール・キンボル神父様)

5月23日(木)平日(4級)白
【大阪】    午後5時半 ロザリオ及び告解
【大阪】    午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)(ポール・キンボル神父様)

5月24日(金)平日(4級)白
【大阪】    午後5時半 ロザリオ及び告解
【大阪】    午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)(ポール・キンボル神父様)

5月25日(土)
【大阪】    午前10時 ロザリオ及び告解
【大阪】    午前10時半 ミサ聖祭(歌ミサ)(ポール・キンボル神父様)

5月26日(主)復活後第5主日(2級)白
【東京】    午前10時 ロザリオ及び告解
【東京】    午前10時半 ミサ聖祭(歌ミサ) (ポール・キンボル神父様)

【大阪】    午後5時半 ロザリオ及び告解
【大阪】    午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)(ポール・キンボル神父様)

5月27日(月)
【大阪】    午前6時半 ミサ聖祭(ポール・キンボル神父様)

2019年5月19日 御復活後第四の主日二級祝日 白

2019年05月19日 | カトリックとは

御復活後第四の主日二級祝日 白
ミサ聖祭<入祭文>は、御復活の祝日によって受けた聖寵を思い出させるが、<聖福音>と<聖体拝領誦>とは、復活し給うた御者の御昇天と聖霊降臨という、他の重大な出来事を記している。主が、天にお昇りになることは、必要なことである。そうでなければ、あがないの御計画は、半途で終わることになり、また、弟子らは、天主の国がこの世にはないことを、確と知りえなかったであろう。

Dominica Quarta post Pascha 御復活後第四の主日
II classis 二級祝日
Ant. ad Introitum. Ps. 97, 1 et 2. 入祭文  詩篇  97ノ1,2
Cantáte Dómino cánticum novum, allelúia : quia mirabília fecit Dóminus, allelúia : ante conspéctum géntium revelávit iustítiam suam, allelúia, allelúia, allelúia. 主に新しい歌を歌え、アレルヤ、主は不思議を行い給うたからである、アレルヤ。万民の前に、天主は御自分の正義を啓示し給うた、アレルヤ、アレルヤ、アレルヤ。
Ps. ibid, 1. 詩篇97ノ1
Salvávit sibi déxtera eius : et bráchium sanctum eius. 主の御右の手は御自分のために【我らを】救い給うた、そして、主の聖なる御腕は。
V/.Glória Patri. V/. 願わくは、聖父と……(栄誦)。
Cantáte Dómino cánticum novum, allelúia : quia mirabília fecit Dóminus, allelúia : ante conspéctum géntium revelávit iustítiam suam, allelúia, allelúia, allelúia. 主に新しい歌を歌え、アレルヤ、主は不思議を行い給うたからである、アレルヤ。万民の前に、天主は御自分の正義を啓示し給うた、アレルヤ、アレルヤ、アレルヤ。
Oratio. 集祷文
Deus, qui fidélium mentes uníus éfficis voluntátis : da pópulis tuis id amáre quod prǽcipis, id desideráre quod promíttis ; ut inter mundánas varietátes ibi nostra fixa sint corda, ubi vera sunt gáudia. Per Dóminum. 天主よ、御身は信徒たちの心を、一つの意志のものとなし給う、御身の民々に、御身の命令し給うことを愛し、御身が約束し給うことを望む恵みを与え給え、そは、この世の移ろいゆくことどもの中にあって、われらの心が、まことの喜びのあるところに固定されんことを。天主として、(…)。
Léctio Epístolæ beáti Iacóbi Apóstoli. 使徒聖ヤコボの書簡の朗読
Iac. 1, 17-21. ヤコボ  1ノ17-21
Caríssimi : Omne datum óptimum, et omne donum perféctum desúrsum est, descéndens a Patre lúminum, apud quem non est transmutátio nec vicissitúdinis obumbrátio. Voluntárie enim génuit nos verbo veritátis, ut simus inítium áliquod creatúræ eius. Scitis, fratres mei dilectíssimi. Sit autem omnis homo velox ad audiéndum : tardus autem ad loquéndum et tardus ad iram. Ira enim viri iustítiam Dei non operátur. Propter quod abiiciéntes omnem immundítiam et abundántiam malítiæ, in mansuetúdine suscípite ínsitum verbum, quod potest salváre ánimas vestras. 愛する者よ、すべての最高の賜物と、すべての完全な贈り物は、変わることなく、変化の影さえもない光の父から降り、上からのものである。彼は御旨のままに、われわれを被造物の初穂とするために、真理の言葉をもってわれわれを生み給うた。愛する兄弟たちよ、すべての人は、聞くに早く、語るに遅く、怒るに遅くあらねばならないことを知れ。人間の怒りは、天主の義を果たし得ない。であるから、すべての汚れとあふれる悪とを捨て、あなたたちのうちに植えられていて、あなたたちの霊魂を救う力のある言葉を素直に受け入れよ。
Allelúia, allelúia. V/. Ps. 117, 16. Déxtera Dómini fecit virtútem : déxtera Dómini exaltávit me. アレルヤ、アレルヤ、 V/. 117ノ16 主の御右手は力【ある業】をなした、主の御右手は私を高め給うた。
Allelúia. V/. Rom. 6, 9. Christus resúrgens ex mórtuis iam non móritur : mors illi ultra non dominábitur. Allelúia. アレルヤ、V/. ローマ 6ノ9 キリストは死者からよみがえり給い、もはや死に給わない。死は、彼に対して、もはや支配することはないだろう、アレルヤ。
+ Sequéntia sancti Evangélii secúndum Ioánnem. ヨハネによる聖福音の続誦。
Ioann. 16, 5-14. ヨハネ  16ノ5-14
In illo témpore : Dixit Iesus discípulis suis : Vado ad eum, qui misit me : et nemo ex vobis intérrogat me : Quo vadis ? Sed quia hæc locútus sum vobis, tristítia implévit cor vestrum. Sed ego veritátem dico vobis : expédit vobis, ut ego vadam : si enim non abíero, Paráclitus non véniet ad vos : si autem abíero, mittam eum ad vos. Et cum vénerit ille. árguet mundum de peccáto et de iustítia et de iudício. De peccáto quidem, quia non credidérunt in me : de iustítia vero, quia ad Patrem vado, et iam non vidébitis me : de iudício autem, quia princeps huius mundi iam iudicátus est. Adhuc multa hábeo vobis dícere : sed non potéstis portáre modo. Cum autem vénerit ille Spíritus veritátis, docébit vos omnem veritátem. Non enim loquétur a semetípso : sed quæcúmque áudiet, loquétur, et quæ ventúra sunt, annuntiábit vobis. Ille me clarificábit : quia de meo accípiet et annuntiábit vobis. そのとき、イエズスは、弟子らに向かって言い給うた。「いま私は、私をおつかわしになったお方のもとに行くのに、あなたたちの中には"どこに行かれるのですか?"と聞く人もない。こう話したので、あなたたちの心は悲しみにあふれた。しかし、私はあなたたちに真実をいう。私が去るのはあなたたちにとってよいことである。私が去らないなら、あなたたちには弁護者が来ないからである。しかし去ればそれを送る。そして彼が来るとき、罪について、義について、審判について、この世のあやまちを指し示すであろう。罪についてとは、彼らが私を信じないからであり、義についてとは、私が父のもとに行き、あなたたちは、もう私を見ないからであり、審判についてとは、この世のかしらが審判されるからである。私にはまだあなたたちに話したいことがたくさんあるが、いまあなたたちは、それにたえられない。しかし、彼、つまり真理の霊が来るとき、彼はあなたたちをあらゆる真理にみちびくであろう。それは、みずから語るのではなく、聞いたことを語って、未来のことを示すであろう。また彼は私に光栄を与える。なぜなら、彼は、私のものを受け、それをあなたたちに知らせるからである。」。
Credo 信経
Ant. ad Offertorium. Ps. 65, 1-2 et 16. 奉献文 詩篇 65ノ1,2,16
Iubiláte Deo, univérsa terra, psalmum dícite nómini eius : veníte et audíte, et narrábo vobis, omnes qui timétis Deum, quanta fecit Dóminus ánimæ meæ, allelúia. 全地よ、天主に喜び歌え、その御名に詩を歌えよ。天主を畏れる全ての者らよ、来て、聞け、私はあなたたちに語ろう、どれほどのことを主が私の霊魂に行い給うたかを、アレルヤ。
Secreta. 密誦
Deus, qui nos, per huius sacrificii veneránda commércia, uníus summæ divinitátis partícipes effecísti : præsta, quǽsumus ; ut, sicut tuam cognóscimus veritátem, sic eam dignis móribus assequámur. Per Dóminum. 天主よ、御身はこのいけにえの尊い交換により、われらを御身の唯一・最高の神性にあずからせ給うた。願わくは、我らが御身の真理を知るように、ふさわしい生活によって、その真理に我らが至らんことを。天主として(…)。
Præfatio paschalis, in qua dicitur : in hoc potíssimum. 御復活の序誦
VERE dignum et justum est, æquum et salutáre, te quidem,  Dómine, omni témpore, sed in hoc potíssimum gloriósius prædicáre, cum Pascha nostrum immolátus est Christus. Ipse enim verus est Agnus qui ábstulit peccáta mundi. Qui mortem nostram moriéndo destrúxit et vitam resurgéndo reparávit. Et ídeo cum Angelis et Archángelis, cum Thronis et Dominatiónibus, cumque omni milítia cœléstis exércitus, hymnum glóriæ tuæ cánimus, sine fine dicéntes: Sanctus... 主よ、われらがいつも、どこにても、主に感謝を捧げるのは、実にふさわしく正しいことであり、われらの義務と救いである。特にこの聖節において、より大いなる光栄を盛大に讃えることは。なぜなら、われらの過ぎ越しなるキリストが、屠られ給うたからである。彼は、世の罪を除き給うたまことの小羊であって、死なれることによってわれらの死を亡ぼし、御復活されることによって、生命を取り戻し給うた。ゆえに、天使ら、大天使らと共に、座天使らと主天使らと共に、また、天の万軍と共に、われらは、御身の光栄の讃歌を終わりなく、こう言いつつ歌う。聖なるかな…
Ant. ad Communionem. Ioann. 16, 8. 聖体拝領誦  ヨハネ 16ノ8
Cum vénerit Paráclitus Spíritus veritátis, ille árguet mundum de peccáto et de iustítia et de iudício, allelúia, allelúia. 真理の霊なる弁護者が来給うとき、これは、罪について、義について、審判について、世の過ちを認めさせるであろう、アレルヤ、アレルヤ。
Postcommunio. 聖体拝領後の祈
Adésto nobis, Dómine, Deus noster : ut per hæc, quæ fidéliter súmpsimus, et purgémur a vítiis et a perículis ómnibus eruámur. Per Dóminum nostrum. われらの天主なる主よ、われらの側に居給え。信仰をもって我らが受け奉ったこの秘蹟によって、われらが悪徳から浄められ、すべての危険より免れんことを。天主として、(…)。

5月18日殉教者、聖ヴェナンツィオ 三級祝日 赤

2019年05月18日 | カトリックとは

殉教者、聖ヴェナンツィオ 三級祝日 赤
アンコナ付近のカメリーノ(イタリア)の少年であった聖ヴェナンツイオは、十五才のとき、信仰を守って殉教した。(二百五十年頃)
ミサ聖祭

SANCTI VENANTII 聖ヴェナンツィオ
Martyris 殉教者
III classis  三級祝日
Ant. ad Introitum. Ps. 63, 3. 入祭文  詩篇、63ノ3
Protexísti me, Deus, a convéntu malignántium, allelúia : a multitúdine operántium iniquitátem, allelúia, allelúia. 天主よ、御身は私を悪人らの集いから守り給うた、アレルヤ、邪悪を行う人々の群れから、アレルヤ、アレルヤ。
Ps. Ibid., 2. 詩篇、63ノ2
Exáudi, Deus, oratiónem meam, cum déprecor : a timóre inimíci éripe ánimam meam. 天主よ、私が祈るとき、私の祈りを聞き入れ給え、私の霊魂を敵の恐怖から救い出し給え。
V/.Glória Patri. V/. 願わくは、聖父と……。(栄誦)
Protexísti me, Deus, a convéntu malignántium, allelúia : a multitúdine operántium iniquitátem, allelúia, allelúia. 天主よ、御身は私を悪人らの集いから守り給うた、アレルヤ、邪悪を行う人々の群れから、アレルヤ、アレルヤ。
Oratio. 集祷文
Deus, qui hunc diem beáti Venántii Martyris tui triúmpho consecrásti : exáudi preces pópuli tui et præsta : ut, qui eius mérita venerámur, fídei constántiam imitémur. Per Dóminum. 天主よ、御身はこの日を、御身の殉教者聖ヴェナンツィオの凱旋によって聖となし給うた。御身の民の祈りをききいれ給え、彼の功徳を崇敬するわれらが、信仰の固さを真似る恵みを与え給え。天主として(…)。
Léctio libri Sapiéntiæ. 智書の朗読
Sap. 5, 1-5. 智書 5ノ1-5
Stabunt iusti in magna constántia advérsus eos, qui se angustiavérunt et qui abstulérunt labóres eórum. Vidéntes turbabúntur timore horríbili, et mirabúntur in subitatióne insperátæ salútis, dicéntes intra se, poeniténtiam agéntes, et præ angústia spíritus geméntes : Hi sunt, quos habúimus aliquándo in derísum et in similitúdinem impropérii. Nos insensáti vitam illórum æstimabámus insániam, et finem illórum sine honóre : ecce, quómodo computáti sunt inter fílios Dei, et inter Sanctos sors illórum est. 義人らは、自分たちを迫害し、あるいは自分たちの労苦を侮っていた人々に対して毅然として立ち、大いなる安全さの中にある。これを見て悪人らは、非常におそれ、思いがけなかったこの突然の救いを見て驚嘆するであろう。 かれらは、呵責を受け、心は思い乱れ、嘆きつつこういうであろう。「われわれがかつて、あざけり、あなどったあの人々を見よ。われわれは、実におろかであった。われわれは、かれらの生活を狂気かのように、かれらの死を恥辱かのように考えていた。それなのに、かれらは天主の子らとして教えられ、聖人らとともに遺産をうけるのだ」と。
Allelúia, allelúia. V/. Ps. 88, 6. Confitebúntur cæli mirabília tua, Dómine : étenim veritátem tuam in ecclésia sanctórum. アレルヤ、アレルヤV/. (詩篇、88ノ6) 主よ、天は主の不思議を語るだろう、実に、聖人らのつどいにおいて、御身の真理を。
Allelúia. V/. Ps. 20, 4. Posuísti, Dómine, super caput eius corónam de lápide pretióso. Allelúia. アレルヤ V/.(詩篇 20ノ4) 主よ、御身は、彼の頭の上に、貴重な宝石の冠を置き給うた、アレルヤ。
   
+ Sequéntia sancti Evangélii secúndum Ioánnem. ヨハネによる聖福音の続誦
Ioann. 15, 1-7. ヨハネ 15ノ1-7
In illo témpore : Dixit Iesus discípulis suis : Ego sum vitis vera : et Pater meus agrícola est. Omnem pálmitem in me non feréntem fructum, tollet eum : et omnem, qui fert fructum, purgábit eum, ut fructum plus áfferat. Iam vos mundi estis propter sermónem, quem locútus sum vobis. Mane te in me : et ego in vobis. Sicut palmes non potest ferre fructum a semetípso, nisi mánserit in vite : sic nec vos, nisi in me manséritis. Ego sum vitis, vos pálmites : qui manet in me, et ego in eo, hic fert fructum multum : quia sine me nihil potéstis fácere. Si quis in me non mánserit, mittétur foras sicut palmes, et aréscet, et cólligent eum, et in ignem mittent, et ardet. Si manséritis in me, et verba mea in vobis mánserint : quodcúmque voluéritis, petétis, et fiet vobis. そのとき、イエズスは、弟子らにおおせられた。「私は本当のぶどうの木で、私の父は栽培者である。父は、私にあって実を結ばない枝をすべて切りとり、実を結ぶのをすべて、もっと豊かに結ばせるために刈りこんでくださる。あなたたちは、私の語った言葉を聞いたことによって、もう刈りこまれたものである。私にとどまれ、私があなたたちにとどまっているように。木にとどまっていない枝は自分で実を結べないが、あなたたちも、私にとどまっていないならそれと同じである。私はぶどうの木で、あなたたちは枝である。私にとどまっていて、私もまた彼のうちにいるなら、その人は多くの実を結ぶ。なぜなら、私がいないと、あなたたちにはなに一つできないからである。私にとどまらない人は、枝のように外に投げすてられて、枯れはててしまい、人々にひろい集められて、火に投げいれられ、焼かれてしまう。あなたたちが私にとどまり、私のことばがあなたたちにとどまっているなら、あなたたちは、のぞみのままにすべてを願え。そうすればかなえられるだろう。」
   
Ant. ad Offertorium. Ps. 88, 6. 奉献文 詩篇 88ノ6
Confitebúntur cæli mirabília tua, Dómine : et veritátem tuam in ecclésia sanctórum, allelúia, allelúia. 主よ、天は主の不思議を語るだろう、実に、聖人らのつどいにおいて、御身の真理を、アレルヤ、アレルヤ。
Secreta 密誦
Hanc oblatiónem, omnípotens Deus, beáti Venántii mérita tibi reddant accéptam : ut, ipsíus subsidiis adiuti, glóriæ eius consortes efficiámur. Per Dóminum. 全能の天主よ、この供物を、聖ヴェナンツィオの功徳によって、よみし給わんことを。かれの助けに助けられ、われらをも、彼の光栄を共にする者らとなさしめ給え。天主として(…)。
Præfatio paschalis. 序誦  御復活の序誦
VERE dignum et justum est, æquum et salutáre, te quidem,  Dómine, omni témpore, sed in hoc potíssimum gloriósius prædicáre, cum Pascha nostrum immolátus est Christus. Ipse enim verus est Agnus qui ábstulit peccáta mundi. Qui mortem nostram moriéndo destrúxit et vitam resurgéndo reparávit. Et ídeo cum Angelis et Archángelis, cum Thronis et Dominatiónibus, cumque omni milítia cœléstis exércitus, hymnum glóriæ tuæ cánimus, sine fine dicéntes: Sanctus... 主よ、われらがいつも、どこにても、主に感謝を捧げるのは、実にふさわしく正しいことであり、われらの義務と救いである。特にこの聖節において、より大いなる光栄を盛大に讃えることは。なぜなら、われらの過ぎ越しなるキリストが、屠られ給うたからである。彼は、世の罪を除き給うたまことの小羊であって、死なれることによってわれらの死を亡ぼし、御復活されることによって、生命を取り戻し給うた。ゆえに、天使ら、大天使らと共に、座天使らと主天使らと共に、また、天の万軍と共に、われらは、御身の光栄の讃歌を終わりなく、こう言いつつ歌う。聖なるかな…
Ant. ad Communionem. Ps. 63, 11. 聖体拝領誦 詩編 63ノ11
Lætábitur iustus in Dómino, et sperábit in eo : et laudabúntur omnes recti corde, allelúia, allelúia. 義人は主において喜び、主に希望するだろう、全ての心正しい人々は讃美するだろう。アレルヤ、アレルヤ。
Postcommunio. 聖体拝領後の祈
Súmpsimus, Dómine, ætérnæ vitæ sacraménta, te humiliter deprecántes : ut, beáto Venántio Mártyre tuo pro nobis deprecánte, véniam nobis concílient et grátiam. Per Dóminum. 主よ、我らは、御身にひれ伏して願いつつ、永遠の生命の秘蹟をうけ奉った。願わくは、御身の殉教者、聖ヴェナンツイオが我らのために祈ることにより、われらにゆるしと恩寵とを与え給わんことを。天主として(…)。

2019年秋田巡礼 5月1日(初水) サマーズ神父様お説教「童貞聖マリアの浄配、勤労者聖ヨゼフ」

2019年05月18日 | お説教・霊的講話
2019年5月1日(初水)秋田巡礼 証聖者、童貞聖マリアの浄配、勤労者聖ヨゼフのミサ
サマース神父様御説教
同時通訳:小野田圭志神父



聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


神父様、そして親愛なる兄弟の皆さん、今週、また偉大な巡礼を始める御恵みが、特権が与えられました。

皆さんと共に、特に聖ヨゼフの大祝日において巡礼を始める事ができるというのは、とても偉大な名誉です。

聖ヨゼフのみならず、それ以外にも多くの美しい典礼暦の祝日に囲まれています。昨日はシエナの聖カタリナの祝日で、ローマの教皇様を助けた偉大な聖人でした。今日聖ヨゼフは、母なる教会の守護者の聖人でもあります。明日は聖アタナジオの祝日でもあり、信仰の為に戦った人で、そして同僚の聖職者たちからも迫害を受けた方です。

では今日は、短く聖ヨゼフ様の聖徳を見てみます。

私たちの主の養父であり、そしてマリア様の夫であった聖ヨゼフについて、非常に少しの事しか知られていません。聖家族においては、聖寵のレベルに段階においては、一番下の方でした。しかしながら聖家族においては、聖ヨゼフをその頭として選びました。

聖ヨゼフは特別な称号で呼ばれています、「義人である」と。

これは、現在カトリック教会の危機において、私たちに良い、大切な点を思い出させて下さいます。つまり「危機」は、特に男である、男性としての父性の、「父親の危機」でもあるからです。

「男性としての徳」というのは、「義人である事」であって、特につまり「天主に与えなければならない相応しいものを与える」という事です。

また、その「義」という事は「正義」という事は、「天主に自分の務めを果たし、そして家族に対する務めも果たす」という事です。

今日ミサで、この偉大な義人、聖人、聖ヨゼフにお祈り致しましょう。聖ヨゼフ様の徳に倣い、そしてそれを真似する事ができますように、お祈り致しましょう。

また、聖ヨゼフ様がマリア様の近くにいらして、そしてイエズス様を養い、愛されたように、私たちも聖ヨゼフに倣ってそうする事ができますように、お祈り致しましょう。

聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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