Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

私は御身を信じ、礼拝し、希望し、御身を愛します!御身を信じぬ人々、希望せず愛さぬ人々のために、赦しを求めます(天使の祈)

自由についての一般的考察 「自由」の3つの意味

2007年01月28日 | カトリックとは

アヴェ・マリア!

自由についての一般的考察


 人間の自由は3つの意味に理解することができます。

 第1の意味は「心理的自由」ないし自由意志(自由選択能力)であり、これは自らの随意的な決断にしたがって行動する能力に他なりません。この場合、人間の意志は1つのものに固定されてしまうことなしに、他の善ではなく、ある特定の善を目して行動するよう促すのです。
 第2の意味は「道徳的自由」であり、これは善に向かって動く能力のことを言います。
 第3の意味は「行動の自由」または強制に対する自由で、これは自らの良心に反して行動することを強制されたり、あるいは自らの良心に従って行動することを妨げられることなしに行動する能力を意味します。


● 心理学的自由ないしは自由意志(自由選択能力)
 これは自然本性上の事実です。この自由は、人間が理性的存在であるという事実に伴い、理性の行使能力を有した全ての人間に属するものです。


● 道徳的自由
 これは善の領域でのみ成立し得る自由です。もしも、この領域から出てしまえば、この自由は腐敗し、放縦と化します。真と善のみが、この自由の基盤となります。


「自由とは目的に対する秩序を保ちつつ、複数の手段の中から選択する能力のことです。」(サンチアゴ・ラミレス神父の著書からの引用。これは「適当な目的に対する秩序付け」の外では自由の濫用が生ずることを意味しています。)


「自由とは善に向かって動く能力です。」(教皇レオ13世)
 
「自由という、人間の完成の要素は、真なるもの、および善なるものに専心しなければなりません。」(教皇レオ13世回勅『インモータレ・デイ』Actus II p.39  /  PIN 149)


「実際に錯誤を犯しうるというのは、知性における充全な完全性の欠如を示す欠陥です。同様に、見せかけだけの偽りの善に執着することは、ちょうど病気が生命のしるしであるのと同じく、自由意志をもっているしるしであるにしても、自由の欠陥であることに変わりありません。」 (教皇レオ13世回勅『リベルタス・プレスタンティッシムム』 http://fsspxjapan.fc2web.com/papal/leo_13_libertas.html   Actus II p.177 / PIN177)


「罪を犯す能力は自由ではなく、隷属状態です。」(教皇レオ13世回勅『リベルタス・プレスタンティッシムム』 http://fsspxjapan.fc2web.com/papal/leo_13_libertas.html   Actus II p.179 / PIN178)


「真理はあなた方を自由にする。」(ヨハネによる福音8:32)


▼結論:誤りもしくは道徳的悪のための自由は存在しない。


● 行動の自由ないし外的強制からの自由
1.かかる自由は、特定の社会の巧益が自ずと定める適当な限度の中では正当です。


「先に述べたように、個人または家庭が国家によって吸収されてしまわない、ということが正しい物事の秩序に属しています。この両者が、一般的善益を損なったり、他の者に危害を加えるということがないかぎり、自由をもって行動する能力を持つことは正当です。」(教皇レオ13世回勅『レールム・ノヴァルム』Actes III p.47 / PIN 305)


2.この自由は決して絶対的なものではありません。なぜなら、強制というものは、それ自体としては道徳的に見て中立的な事柄であり、しばしば善いものだからです。犯罪行為を犯した者にとって刑務所は善いものであり 、またある種の強制は、無知な者や[真理の認識について]無頓着な者が真理を知り、ついで善い行為を自由に為すよう強いるために善いものであり得ます。実際、これこそ教育および権威の行使の原動力となるものなのです。
 

「今やあなたは、単にある人が強制されているという事実だけでなく、何に向けて強制されているのか、善に向けて強制されているのか、それとも悪に向けて強制されているのか、という点に注目されることでしょう。誰も自ら望まずして善い者となることができるというのでは[無論]なく、被りたくない事柄に対する恐れが、それまで妨げとなっていた心の頑なさに終止符を打ち、知らずにいた真理を学ぶよう促すのです。強制はそれまで支持していた偽りの事柄を捨てさせ、それまで知らずにいた真理を追求させます。こうして人は以前まで望まずにいたことを望むようになるのです。」
(聖アウグスチヌス  書簡93『ヴィンセンチオに宛てて』PLXXXIII 321-330)


「同様に、人間の自由をあらゆる強制からの解放として定義することはできません。そうすれば一切の権威を抹消してしまうことになるでしょう。強制は物理的あるいは精神的なものであり得ます。宗教に関する事柄において、精神的強制は甚だ有益であり、これは聖書中随所に見出されます。「天主に対する畏れは知恵の始めである。」(中略)現今の状況に即して見るかぎり、より大きな自由が必要であり、権威当局によってこれに大幅な制限が加えられるべきでない、と主張することと、かかる状態が人間の尊厳に、より適合したものであると断定することは別のことです。このように断定するならば、悪い行いによってであれ、謬見によってであれ、つまずきを与える権利を暗に認めることになってしまいます。天主様が私たちをそのような誤りから守ってくださいますように。」(ルフェーブル大司教 第2ヴァチカン公会議の事務局に宛てた意見書[1964年12月30日] "J'accuse le Concile" (「私は公会議を弾劾する」)1976年 p.42)


3.人間にとっての主要な善であると[誤って]見なされている「あらゆる強制からの自由」は、リベラリズムの法外な教条に他なりません。


「次のような主張ほど荒唐無稽かつ常識外れなことを述べることも想像することも難しいでしょう。すなわち、本性上自由な存在である人間は、あらゆる法[の拘束]から免除されるべきである、という主張です。」(教皇レオ13世回勅『リベルタス・プレスタンティッシムム』  http://fsspxjapan.fc2web.com/papal/leo_13_libertas.html  Actus II p.18 / PIN180)


「このリベラリズムの根本的原理は荒唐無稽です。(中略)かかる原理が荒唐無稽であるのは、人間の主要な善が、自らの自由を妨げあるいは制限し得る一切の絆の欠如にある、としている点にあります。(中略)自由は、それ自体のゆえに追求される目的ないし究極目的たり得ません。なぜなら、自由とは行動のための力ないし潜在力でしかなく、しかるに一切の力ないし潜在力は行動のためにあり、そして一切の行動は、この世におけるかぎり 、ことごとく特定の善の追求に尽きるものだからです。」(ルイ・ビヨ枢機卿『デ・エクレジア・クリスティ(キリストの教会について)』II. p.20)


▼結論: 「人間は本性上自由であり、自由を希求する。したがって、人間は強制からの自由を有する権利がある」と宣言することは、たびたび排斥されてきたリベラリズムの荒唐無稽な原理を公言することに他なりません。



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