Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

私は御身を信じ礼拝し希望し御身を愛します!御身を信ぜぬ人々礼拝せず希望せず愛さぬ人々のために赦しを求めます(天使の祈)

ポルトガルの聖エリザベト女王、寡婦。女王、家庭の母、国民の模範的な母: 生まれた時に「平和の為の仕事が始まった」

2019年07月31日 | お説教・霊的講話
2019年7月8日(月)寡婦聖エリザベト女王のミサ ミサの前のお話
聖ピオ十世会司祭 小野田神父

今日は、聖エリザベト女王、寡婦のミサです。
1271年に生まれたポルトガルの女王、家庭の母、国民の模範的な母です。

ポルトガルの聖エリザベトに、集祷文では、「平和を与えて下さるように」天主に祈ります。聖エリザベトが生まれた時から、ポルトガルの王たちの間の、あるいは国民たちの間の平和を得たからです。

生まれた時に「平和の為の仕事が始まった」と言われています。
なぜかというと、生まれたその時に、仲の悪かったいがみ合っていた、自分の父親とおじいさんが、その喜んだあまり仲良くなったからです。

若くして、ポルトガルのディオニジウス王と結婚します。人民の為に、そして王の為に、天主の為に、非常に敬虔に尽くしました。子供を天主の畏れの内に教育しようと、一生懸命しました。

王が亡くなると、自分は天主への祈りに専念しました。そして一年のほとんど半分は、パンと水で断食していたそうです。

聖エリザベト、その当時王女であれば、女王であれば、面白おかしく暮らす事ができたにもかかわらず、祈りと、苦業と、愛徳に敬虔に暮らしたこの態度を、私たちも真似る事ができるように、お祈り致しましょう。


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キリストの神秘体であるキリストの教会とは、カトリック教会である。カトリック教会こそ、乗らなければ私たちが救われない舟。「沖に出よ。魚を救え。多くの魚をこの舟に乗せよ。」

2019年07月31日 | お説教・霊的講話
2019年7月7日(主日)聖霊降臨後第4主日のミサ
聖ピオ十世会司祭 小野田神父 説教


聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。
今日は2019年7月7日、聖霊降臨後第4主日のミサをしております。

今日お知らせがあります。

1つは、良いニュースです。5月の第3の主日に、大阪で私たちは聖母行列をしました。ファチマの聖母マリア様と一緒に。

御聖堂からロザリオを唱えながら聖母行列をして、御聖堂の近くにある公園で、マリア様の前で、大阪の御聖堂と私たちを聖母の汚れなき御心に奉献する式の更新をしました。

すると6月には、大阪の大司教様である前田枢機卿様の指導の下に、大阪教区を、マリア様の汚れなき御心に奉献する式が行なわれました。

私たちはファチマのマリア様の事をよく黙想した時に、「マリア様の汚れなき御心こそが、天が望んだ、世界の平和の為の確実な唯一の手段である」という事を知っていたので、日本がもう一度汚れなき御心に奉献されますように、という事をいつも望んでいました。

秋田のマリア様も、天使を通して、聖母の汚れなき御心への信心の事を仰っていました。ですから、大阪大司教区が聖母の汚れなき御心に奉献された、という事を知って、とても嬉しく思いました。

そこで今日は、月の最初の主日なので、皆さんに提案します。私たちのいつもやっている御聖体降福式の時に、聖母の連祷の後で、日本を聖母の汚れなき御心に奉献します。

その意向は、「日本の大司教様たちが、この教皇様がいらっしゃる11月に、教皇様と一緒に揃って、日本を聖母の汚れなき御心に奉献して下さる」という事を祈って、その為の御恵みを求めてです。

日本の平和の為にも、世界の平和の為にも、この奉献がなされるように、緊迫している時代ですから、ますます必要です。

「ヨハネ・パウロ2世とレーガン大統領の時代に鉄のカーテンが落ちたように、フランシスコ教皇様とトランプ大統領の時代に竹のカーテンが落ちますように、北朝鮮と中国が共産主義をやめますように、ベトナムが共産主義を捨てますように、是非その為に日本の聖母の汚れなき御心への信心が世界の模範となりますように」との願いを込めて、日本を、私たちの出来る限り、マリア様の汚れなき御心に奉献したいと思っています。皆さんもそれに、一緒に心を合わせて下さい。

今日はその御聖体降福式の後に、2人の子供たちの洗礼式があります。皆さんどうぞお時間があったら参加なさって下さい。

それから洗礼式の後に簡単なお祝いがあります。
そのお祝いの後に、侍者の方の来週のミサの練習があります。

次のミサは来週の主日です。ここで10時半から荘厳ミサがあります。3人の司祭で、荘厳ミサがあります。

来たる土曜日と主日の午後には、国際シンポジウムが、「フランス革命を見直そう」という国際シンポジウムがあります。

7月15日の海(産み)の日にはここでミサがあり、また午後にはマーチ・フォー・ライフもあります。皆さんいらして下さい。

再来週の主日にもここでミサがあります。3週ミサが続けてあります。どうぞいらして下さい


「沖に乗り出せ。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日福音では、聖ペトロの舟にイエズス様がお乗りになって、そして御説教をされた、群衆に説教をされた、そしてその後にイエズス様がペトロに、「さぁ、沖に乗り出せ。網を下ろせ」と言います。するとペトロが、「夜中じゅう一生懸命働いても、一匹も、雑魚一匹も取れませんでした。しかし、お言葉ですから行きましょう」と言うと、網がはち切れて、魚がどこに行ってるか分からないほど、もう舟が沈んでしまうほどの大漁の魚が捕れた、という史実が読まれました。

今日は、この史実が霊的に、今現在2019年に意味している事を黙想して、そして私たちは遷善の決心を立てる事に致しましょう。


この逸話がここにあるのは、「ペトロの舟」というのは、「カトリック教会」の事です。聖ペトロの舟、イエズス・キリスト様がそこに乗って、私たちに説教されて、そして多くの魚たちをそのペトロの舟に乗せようとする、その舟の事です。

典礼歴によれば、待降節とそして御降誕節において、「イエズス・キリストこそが、旧約時代によって預言された、この全宇宙を創った創造主からの送られたその聖子、真の救い主、預言の成就、それが全て正確に成就されて、そして生まれた本当のメシア、救い主、唯一の救い主である」という事を私たちは確認して、黙想しました。

四旬節とそして復活された時には、「このメシアが、預言の通り全てを成就させて、私たちの罪の償いの為に、御自分がその尊い天主の御血を流されて、私たちの為に苦しみを受けて、死を受けて、そして罪の赦しとなって、私たちの為に亡くなられた、十字架によって亡くなられた事。そして予言の通り、御自分が真の天主であり、救い主であるという事を示す為に、復活された事。その歴史的な事実は、誰も否定する事ができない事」を黙想しました。

そして復活祭を祝った後に、私たちは主の昇天、そして聖霊降臨も黙想しました、「真に私たちの為に生まれたイエズス様は、肉体と霊魂を以て天に、御自分の力で上がった事」を、「そして私たちを天で待っている事。私たちの目的は、人生の目的は、この地上ではなくて、永遠の命である事。その為に聖霊を私たちの贈り物として無償で頂いた事。御聖体を頂いた事。イエズスの聖心の愛」を黙想しました。

その論理的な続きが、「カトリック教会」です。イエズス様が創った、天主が創った唯一の救いの方舟カトリック教会について、教会は私たちに黙想するように招いています。

旧約の時代には、この前兆がありました。
「ノアの方舟」でした。

ノアの方舟では、古い時代では、水によってきれいに洗い流されてしまいました。全く残らないように。洪水によって。これは「洗礼の水」を表しています。

「洗礼によって、私たちがどれほど醜い、恐ろしい罪を犯したとしても、きれいさっぱりに洗わされる、全く流されてしまう、天主が綺麗にして下さる」事を意味しています。

しかし人類は、そして動物たちは、昆虫も、その他どのような獣たちも、ノアの方舟にさえ入りさえすれば、助かりました。しかし入らない者は、滅ぼされてしまいました。

これも、来たるべき唯一の救いの方舟、イエズス・キリストの立てた教会、ローマ・カトリック教会、聖なる、使徒継承の教会についての前兆でした。イエズス様が選んだのは、「聖ペトロ」です。「聖ペトロの舟」です。


そこで第2のポイントとして、私たちはこのカトリック教会の特徴を1つ、教皇様の声を聞きながら黙想致しましょう。

「カトリック教会こそが、天主が創った唯一の救いの箱舟である」という事は、これは私たちが勝手に思い付いた事ではないのです。

初代から、聖ペトロとパウロの時代から、そして聖アウグスチヌスも、教皇様たちが、歴代の教皇様たちが、口を酸っぱくして、何度も何度も言い続けてきた事で、公会議でも何度も同じ事が定義されてきた事で、これほど同じ事が定義された決議が、決定がないほどの事です。

それは、「カトリック教会が、イエズス・キリストの唯一の宗教で、教会で、イエズス・キリストの教会とカトリック教会は全く同じものだ。この他には救いがない」という教えです。

例えば1208年12月18日、イノチェント3世教皇様は信仰宣言の中で、「『唯一の聖なるローマ・カトリック、使徒教会の教会にこそ、救いがあって、その他においては誰も救われる事ができない、と私たちは信じている』と信仰宣言をするように」と命じました。

あるいは、ボニファチオ8世がその100年後に、有名な『ウナム・サンクタム“Unam sanctam”』という勅令を出しています、「イエズス・キリストがその頭である神秘体とは、唯一の、聖なる、そしてカトリックの使徒継承の、教会である。」

あるいはピオ十二世教皇様も、『ミスティチ・コルポリス“Mystici Corporis”』という回勅の中で仰っています、「キリストの神秘体であるキリストの教会、この地上におけるその神秘体というのは、つまりカトリック教会の事である」と。

そして同じくピオ十二世教皇様は、ミスティチ・コルポリスの数年後、『フマニ・ジェネリス“Humani generis”』という回勅の中で、1950年、「ある人々は、私がミスティチ・コルポリスの中に書いた事を『信じなくても良い』と誤解としている人がいるけれども、しかし私がその中で言った教えというのは、啓示によって、啓示を源泉として基礎を持っている信仰の教えである。だから誰も、信じなくて良いというわけではない。必ず信じなければならない。その教えというのは、啓示された教えというのは、『ローマ・カトリック教会とキリストの神秘体というのは、全く同じの、唯一の同じ現実である』という事だ」と教えています。

私が今引用したのはほんの少しですけれども、教会の教導権は2000年間の間、同じ事を、同じ言い方で、言い続けてきました。
「天主が、私たちを救う為に使うその道具は、人間たちに御自分の教えとそして聖寵を伝えようとするその道具は、それはローマ・カトリック教会である。そして例え異端者、あるいは離教者、あるいは偽りの宗教たちが教会の中の一部の要素を使ったとしても、それは全く残骸であって、役に立たない。救いの為には役に立たない。」

更に同じピオ十二世教皇様は言います。
「たとえ例外的に、天主が救いの御恵みを、目に見える教会の範囲の外に於いても与えたとしても、それはグループとしてではなく、個人個人、一人の為に特別に与えたものであって、それ以外のものでは何でもない。天主の立てた救いの方舟は、カトリック教会だ。だから私たちはその事を知らなければならない。」

これは私たちに一体、2019年に何を教えているのでしょうか?

まず第1に私たちは、「その真理を知っている」という事を深く感謝致しましょう。これは、この舟に誰が乗っているか、乗っている人が偉いか、乗っていない人がどうのこうの、という話ではありません。

「舟」の問題なのです。どの舟が沈むか、沈まないか。どの舟が最後まで大洪水に耐え切れるか、耐え切れないか。どの舟に乗れば、救いの港まで安全に辿り着くか、辿り着かないか。その「舟」の問題なのです。

その舟に乗るのが、獣でも、動物でも、何でも良いのです、救われる為には。

そして、「あぁ、もしもそのような事を言うと、他の舟に乗っている人がかわいそうじゃないか。傷付く」という問題ではないのです。
「本当のことを言わない」事こそが、「愛と真理に反する」のです。

「その舟に乗ったら危ない!沈んでしまう!港に辿り着かない!危ない!早く早く!命を助けなければならない!今雨が降っている!命の問題だ!永遠の命の問題だ!」愛徳の問題です。

その為にこそ、聖フランシスコ・ザヴェリオは、全てを置いて、東洋の日本まで来ました。その為にこそ、多くの方々が殉教の血を流しました。その為にこそ、チマッチ神父様は日本にまでやって来ました。

この「救いの箱舟に」ついて、「ペトロの舟」について、「カトリック教会」について、「私たちがそうしなければ救われない舟」について、「天主の創った救命ボート」について、教えたいと思ったからです。

そして今日福音の中で、教会はこの事を私たちに教えようとして、「たとえそのような事を言う事が、他の人たちを傷付けるんじゃないか」とか、あるいは「そんな事を言っては、独善的だ」と言われるかもしれません。一生懸命今まで働いても、何も捕れなかったかもしれません。

しかしイエズス様は、その事は関係ありません。なぜかというと、これが真理だからです。これこそが方舟、これに乗らないと、救いの港まで到達しないからです。「さぁ、これに乗って下さい。」

だからペトロに言います、「沖に出よ。魚を救え。多くの魚をこの舟に乗せよ。」

網が割れて、逃げてしまう異端者が出るかもしれません。しかしイエズス様の御恵みによって、大漁となる事でしょう、ペトロの舟が沈むほどになるかもしれません。

私たちはそれを祈りましょう、多くの霊魂たちが救われますように、ペトロの舟に救われてきますように、それをお祈り致しましょう。

マリア様にお祈りします。多くの方が、その真理を、客観的な真理を認める事ができますように。

「沖に乗り出せ。Duc in altum!」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
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私たちには教皇様の来日を準備するため以外にも、教皇様のために多く祈る理由が多くある

2019年07月30日 | カトリック・ニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 フランシスコ教皇様のために私たちの祈りを倍増しましょう。私たちには、教皇様の来日を準備するため以外にも、教皇様のために多く祈る理由が多くあります。


 第二バチカン公会議後、教会の大混乱を見たルフェーブル大司教はこう言います。

「教皇のために祈ることを拒否するなどということから遙か遠く、私たちは聖霊が、教皇が信仰を断言し擁護するために教皇に光と力とを与えてくださるように、私たちの祈りと懇願を倍増している。」

 来たる10月にローマで開催される "アマゾン・シノドス"が計画されています。その準備資料(Instrumentum Laboris)を分析して、元教理聖省長官であったミュラー枢機卿は「教皇といえども、公会議といえども、女性が司教、司祭、助祭に叙階ことを可能にすることは出来ない」と批判しました。

 ミューラー枢機卿は、ベネディクト十六世の元で教理聖省長官でしたが、2017年フランシスコ教皇が退任させました。

 ミューラーはこのシノドスは「解体用の鉄の玉」で、「普遍教会を再建築する」ことを目的としている、と警告しています。



 エレガンティ司教は、この準備資料にある考えが採用されるなら、「カトリック教会という全神秘体を汚染し、重大な結果を及ぼすだろう」と語ります。

 ニコラ・ブックス(Bux)師は、アマゾン・シノドスを、内部から真の教会を「破壊し」て、「別の教会を作る」試みである、と呼んでいます。

 シュナイダー司教は、教皇フランシスコには司祭独身制という使徒継承の遺産をまもる厳格な義務があると発言しています。

 フランシスコ教皇は、教皇として、イエズス・キリストの代理者です。イエズス・キリストの教えをそのまま変えずに教えてくださるように、祈りを持ってお支えいたしましょう。

 このことを今、心ある日本中のカトリック信徒の方々に呼びかけます。私どもが教皇聖下のために多くの祈りやロザリオや犠牲をその意向でお捧げすることです。

 もちろん、私どもは報道によって、フランシスコ教皇様の過去の発言、特に問題発言を存じ上げています。

*「祈りを数えるのはペラジウスの異端だ
*同性愛の人々や離婚して別のパートナーと同棲している人々に、御聖体拝領を認める道を開こうとしていること(アモーリス・レティチア)、
*「無神論者らは天国に行く
*「自然に反する罪に強迫観念を持つべきではない
*「改宗させるのは荘厳なナンセンスだ。」Proselytism is solemn nonsense
*「聖母は御自分の聖子の御受難のあいだ、騙されたと感じたかもしれない。」Our Lady may have felt deceived during Her Son’s Passion.
*「地獄に落ちた霊魂たちは、無となり無くなってしまう。」The souls of the damned are annihilated.
*「カトリック信徒らは "ウサギのように" 子供を産むべきではない。Catholics shouldn’t breed “like rabbits”
*「教会を襲う最大の悪は、若者の失業と年寄りの孤独である。」The greatest evils afflicting the Church are youth unemployment and the loneliness of the aged.

最近では、ますます多くの枢機卿、司教、神学者のグループ、司祭、平信徒たちが、ドグマと道徳の重要な点について、教皇様の発言に異議を唱えています。

アモーリス・レティチアに関する「疑惑 Dubia」が2016年9月19日、ブランミュラー枢機卿、バーク枢機卿、カファラ枢機卿、マイスナー枢機卿らによって教皇に提出されました。

*2017年7月16日付けで異端を広めたことについての忠孝からの矯正」は、2017年8月11日に教皇に提出されました。

*アモーリス・レティチアに反対して、2017年12月31日、アスタナの聖マリア大司教区のトマシュ・ペタ(Tomash Peta)大司教とカラガンダのヤン・パウェル・レンガ(Jan Pawel Lenga)大司教、アタナシウス・シュナイダー司教が「婚姻の秘蹟に関する不変の真理の宣言」を発表しました。後にはこれにリガ大司教区のヤニス・プジャツ枢機卿(Cardinal Jānis Pujats)、カルロ・マリア・ヴィガノ(Carlo Maria Viganò)大司教、フェラーラ司教区のルイス・ネグリ司教、ザルツブルク司教区のアンドレアス・ラウン司教、クール司教区のマリアン・エレガンティ司教、コルプス・クリスティ司教区のルネ・グラシダ、フェルトキルヒェ司教区のエルマー・フィッシャー司教が賛同しました。

*2018年4月7日に、その4名の枢機卿のうち2名(ヴァルター・ブラントミュラー枢機卿とレイモンド・バーク枢機卿)がローマでのカンファレンスで信仰宣言「Declaratio」を発表し、教皇にも同じ信仰宣言を求めました。

*元教皇大使であったヴィガノ大司教は、2018年8月22日付けで告発の手紙を書いて発表しました。さらに2018年9月29日付けで第二の手紙も発表します。

フランシスコ教皇聖下とグランド・イマームとの「世界平和と共存のための人類の兄弟愛に関する文書」(2019年2月4日)に関連して、聖ピオ十世会総長はコミュニケ「まことの兄弟愛」を発表しました。

2019年2月8日、ミュラー枢機卿は「信仰の宣言」マニフェストDas Manifest des Glaubens を発表しました。これはアブダビの宣言「世界平和と共存のための人類の兄弟愛に関する文書」に反対するものです。

アメリカ人のカプチン会司祭ワイナンディ神父(Fr. Thomas G. Weinandy)は、カトリック・ワールド・リポート紙にアブダビの宣言「世界平和と共存のための人類の兄弟愛に関する文書」について批判を寄せています。

ロベール・サラ枢機卿は自書『夕暮れが近づいた、日は既に暮れかけている』(Le soir approche et déjà le jour baisse, 2019) で、「現在の危機は教会の最高のレベルに位置しているというのは本当だ。もしももはや私たちが教義や道徳を教えることが出来なくなり、模範を示すことが出来ないのなら、危機は極めて重大となっている。」と発言しています。

*2019年1月に出版された『私の祖国の人々への愛のために私は黙っていない For Love of My People I Will Not Remain Silent』、香港の陳日君枢機卿は、バチカンと中国との協定を「間違った戦略」であり「妥協と降参でしかない」と批判しています。

*「教皇フランシスコを異端の罪で告発するカトリック教会の全司教たちへの公開書簡」が、20名の大学教授や神学者たちによって署名され、2019年4月30日に発表されました。これは全世界の司教たちが介入して、教皇にその異端を捨てるようにさせることを懇願するものです。もしも教皇がこれを受け入れず異端を捨てない場合、公式の異端者となるので、司教たちがフランシスコ教皇を「教皇の地位を失った」と宣言することが出来るようになる、と説明されています。

 このような流れで、今回、アマゾン・シノドスが準備されています。

 ブラントミュラー枢機卿(Cardinal Walter Brandmüller)は、10月に開催予定の準備中のアマゾン・シノドが女性の助祭と司祭の結婚を求めていることについて、2019年7月にその動きを批判して「カトリック教会を根本的に再構造する」作戦にすぎない、司祭独身制は使徒からの聖伝の正真正銘な一部である」と断言し、アマゾン・シノドスの準備資料のことを「異端的」であり、天主の啓示からの「背教」であると言います。

 こういった一連の教皇様の発言や行動に躓いて、教皇座空位論に陥ってしまう不幸な人々がいることも事実です。

 しかし、私たちは教皇座空位論を受け入れません。現代の私たちがみている教会の危機は、第二バチカン公会議の中に含まれていた毒の種が大きくなって実りを付けている結果にすぎません。

 ここにおいて私たちは、天主の御恵みに助けられ、傷ついたキリストの花嫁であるカトリック教会と、教皇聖下への最大の奉仕をすることを望みます。それは、私たちが聖伝の信仰を守り、教会と教皇聖下のために祈ることによってです。

 シスター・ルチアは、わたしたちが教皇のためにたくさん祈らなければならないこと、教皇のためにどれほど祈らなければならないかを訴えています。

 秋田のマリア様も仰っています。「教皇、司教、司祭に為にたくさん祈って下さい」「悪魔の働きが、教会の中にまで入り込み、カルジナルはカルジナルに、司教は司教に対立するでしょう。」「ロザリオの祈りをたくさん唱えてください。」

 元后憐れみ深き御母マリア様からの奇跡を、乞い願いましょう。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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教皇聖下の日本訪問が霊的なものとなるために、まず私ども日本の信徒らが霊的に祈りでもって準備をして教皇聖下をお迎えする

2019年07月30日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 報道によるとフランシスコ教皇聖下は今年の11月下旬に日本を訪問されます。

 教皇様は、キリストの地上における代理者ですから、地上における最高の権威者が日本に来られるということは、私どもカトリック信徒にとって大きな喜びです。

 あたかも、1549年の聖母被昇天の祝日に、イエズス会の聖フランシスコ・ザベリオが教皇の公使として来日し、カトリック教会の発展のための計り知れない成果を上げたように、今回の教皇聖下の来日が、より霊的なものとして、より実り豊かなものとなることを望みます。

 教皇聖下のご訪問が、ますます霊的なものとなるために、まず私ども日本の信徒らが霊的に祈りでもって十分に準備をなし、教皇聖下をお迎えすべきだと考えます。

 そこで私ども聖ピオ十世会日本では、教皇聖下のご来日を準備するために、信徒の方々に、ロザリオや聖体降福式などによる教皇様のためへの霊的花束を提案いたします。

 教皇聖下のご来日が霊的な意味を持つという意味で、今回のご来日が他の政治家の訪問とは、その意義がまったく違っていることを一般の国民にはっきりと印象づけられることが大切であると考えます。

 そのようになりますよう私ども日本中のカトリック信徒が、はっきりとした自覚を持って霊的な祈りをお捧げして準備をすべきだと考えます。来日する教皇聖下が、天主のみ旨のために働かれるよう願い、真面目に祈るのは、私たちカトリック信徒の義務であります。

 フランシスコ教皇聖下が、470年の時を経て、日本にとって現代の「聖フランシスコ・ザベリオ」となられることができるために、多くのロザリオの祈りを、教皇聖下のために、カトリック教会のために、祈るように呼びかけます。

 教皇様が、イエズス・キリストの教えに忠実なその代理者として訪日され、聖フランシスコ・ザベリオが日本に伝えたのと同じイエズス・キリストの教えをそのまま変えずに教えてくださるように、祈りを持ってお支えいたしましょう。このことを今、心ある日本中のカトリック信徒の方々に呼びかけます。

 私どもが教皇聖下のために多くのロザリオをその意向でお捧げすること、日本のカトリック信徒としてこれに勝る最高のプレゼントはありません。

 私たちは教皇座空位論を受け入れません。現代の私たちが見ている教会の危機は、第二バチカン公会議の中に含まれていた毒の種が大きくなって実りを付けている結果にすぎません。

 この危機において私たちは、天主の御恵みに助けられ、傷ついたキリストの花嫁であるカトリック教会と、教皇聖下への最大の奉仕をすることを望みます。それは、私たちが聖伝の信仰を守り、教会と教皇聖下のために祈ることによってです。

 2019年4月に離教の英国教会カンタベリー大主教ジャスティン・ウェルビ(Justin Welby)による黙想会がバチカンで行われ、その最終日である4月11日、フランシスコ教皇様は、戦争の火を今後全て消すことを三人のスーダンのイスラム教指導者らに求めて、彼らの足に接吻をしました。(これをあざ笑うかのように、この直後4月15日、パリのノートルダムでは大火災が起きました。)

 フランシスコ教皇様は、その個人としての行動や考えがどうであれ、依然としてこの地上に置けるイエズス・キリストの代理者としての権威を持って、来日されます。

 フランシスコ教皇様は、王の王であるイエズス・キリストの地上における代理者なのですから、イエズス・キリストの御名の故に、全地の全ての人々が例外なく敬意を表するべき人です。しかし、敬意を表すのみだけでは足りません。私たちは、教会とキリストの代理者に対する愛の火に燃えて、教皇聖下の訪日に向けて多くの祈りを呼びかけます。

 いまカトリック信者として真摯な祈りでお迎えする準備をすることが、教皇が日本で聖なるキリストの代理者としてご活躍をなさるために大きな力となるはずだからです。

 フランシスコ教皇のお姿と祈りと言動に触れることで日本の多くの方が本当のカトリック信仰に近づくきっかけとなることができるようになることを祈り求めて、フランシスコ教皇がそうしてくださいますよう 天主様に祈らなければならないからです。ロザリオの祈りをもって、祈りましょう。

 キリストの代理者の日本訪問により、日本に住む多くの愛する兄弟姉妹がイエズス・キリストを知る機会となりますように!

 フランシスコ・ザベリオが教えた時と全く同じカトリックの教えが、フランシスコ教皇様来日を機に、もう一度日本で教えられるようになりますように!

 そして470年前のその時と同じミサが、これを機に、今後、日本各地でも捧げられるようになりますように!

多くの善意の方々がこの呼びかけに答えてくださることを祈ります。

聖母の汚れなき御心よ、我らのために祈り給え!
秋田の聖母よ、我らのために祈り給え!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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【質問】 新しいミサ(Novus Ordo Missae パウロ六世のミサ)は有効か、無効か?ルフェーブル大司教の答え

2019年07月28日 | ルフェーブル大司教の言葉
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ご質問をいただきましたので、ルフェーブル大司教のお答えをご紹介します。

【質問】
新しいミサ(Novus Ordo Missae パウロ六世のミサ)は、有効でしょうか、それとも無効でしょうか?

【お返事】
結論を先に言います。結論は「新しいミサが無効であることは証明されていない」です。これがルフェーブル大司教と聖ピオ十世会の考察の結果です。

(ここでは「有効」とは「聖変化が起こる」、「無効」とは「聖変化が起こらない」という意味です。)

これについては、What Archbishop Lefebvre said about the New Massをご覧ください。

1975年には、ルフェーブル大司教は新しいミサについてこう指摘しています。

「新しいミサは、曖昧で多様な意味を持ちうる。何故なら、ある司祭は、ミサが犠牲であるという全くカトリック的な信仰で新しいミサを捧げることも出来る。・・・別の司祭は、(カトリック的ではない)別の意向で新しいミサを捧げることもできるからだ。何故なら、新しいミサで司祭が言う祈りの言葉やしぐさは(カトリック的ではない別の意向に)矛盾しないからだ。」

エキュメニカルな典礼様式をもつ新しいミサは、極めて曖昧であり、カトリック信仰にとって危険である。「主日の義務を果たすためでも、これに与ることが強制され得ない」と評価しました。

「新しいミサを司式する司祭たちの精神に少しずつ起こる変化に同調することを避けるために、私たちは新しいミサに与ることを --- 完全にと私はほぼ言うことができます --- 避けるべきだ。」

1979年11月8日には、ルフェーブル大司教は自分と聖ピオ十世会の、新しいミサと教皇に関する立場を明確にしました。

これはApologia pro Marcel Lefebvre Volume 2, Chapter XL "The New Mass and the Pope"をみると明らかなとおりです。

聖伝のカトリック信徒たちの中には、新しいミサは教皇が認可したラテン語の規範版でさえもそれ自体で無効である、と主張する人々や、あるいは、聖座は空位だと主張する人々が多数出てきたので、この二つの点について明確にする必要があったからです。

新しいミサについては、それ自体では、有効だという立場を保持しました。

ただし、時が経つにつれて典礼の状態は悪化するばかりであり、新しいミサの捧げ方は多くの小教区教会で、容認することが出来ないほど悪くなり、1980年にはヨハネ・パウロ二世教皇が、新しいミサが頻繁に捧げられているやり方が信者たちにとってスキャンダルであり躓きとなっていることを謝罪した[Dominicae Cenae, 1980: "I would like to ask forgiveness ... for everything which ... may have caused scandal and disturbance concerning the interpretation of the doctrine and the veneration due to this great sacrament."]ほどでした。

ルフェーブル大司教は、現代では、ほとんどの新しいミサが「カトリック信仰を減少させ、信仰を変えてしまうような冒涜的行為になっている」と警告しました。

ルフェーブル大司教の文章を引用します。

新しいミサと教皇

過去10年の間、どれほど頻繁に私は新しいミサと教皇の重い問題についての問いに答える機会があったことだろうか。これらに答えつつ、私は常に教会の精神を汲むように最善の注意を払ってきた。カトリック教会が神学の原理において表明された信仰と、倫理神学と教会史の長い経験において表明された司牧的賢明さとに自分自身を合わせるように努めた。

私は、数年の間の自分の見解が変わらなかったと言うことが出来ると思う。そしてこの見解は、幸福なことにも、カトリック教会の破壊され得ない聖伝に密着している司祭と信徒たちの大多数の見解でもある。

次の数行は、これらの問題に関する徹底的な研究ではないことは明らかである。この目的は、聖ピオ十世会の公式な立場に関して誰も間違わないようにするために私たちの結論を明確にするためのものである。

私たちは次のような不合理な考え、つまり「新しいミサが有効であるなら、私たちはそれに自由に与ることが出来る」とは考えないとすぐに理解されなければならない。

教会はたとえそれらが有効であっても異端者や離教者のミサに与ることを常に禁止してきた。私たちの信仰を危険にさらすミサや冒涜的なミサにだれも与ることが出来ないのは明らかである。

公式に権威を授けられた公会議典礼委員会によって説明されたとおり、ブニーニ師の説明を伴って考察されると、新しいミサは、プロテスタントの神学と典礼に説明の出来ない親和性がある。次のミサ聖祭の犠牲に関するカトリックの基礎的なドグマは、新しいミサでは明らかに表明されておらず、矛盾さえしている。

●司祭が典礼様式の本質的奉仕者であること
●ミサ聖祭が本当の犠牲であり、犠牲を捧げる行為であること
●パンとぶどう酒の外見のもとに、御体と御血と霊魂と神性をもって現存するいけにえ(ホスチア)が私たちの主イエズス・キリスト御自身であること
●この犠牲は罪の償いのためのものであること
●犠牲と秘蹟が、聖別の言葉だけによって生じること、その前や後に続く言葉によるのではないこと

新しいミサにおけるいくつかの革新的な要素を指摘するだけで、プロテスタントとの親和性があることを確信するには十分である。

●祭壇は、聖遺物のない食卓に変えられた
●ミサは、会衆に向かって捧げられ、共同司式が行われ、大きな声で唱えられ、俗語でなされる
●ミサは、御言葉の典礼と聖体の典礼という二つの区別される部分に分けられた
●カリスやパテナが貴金属から安物に変わり、酵母の入ったパンが使われ、平信徒によって、しかも女性によって手に聖体拝領が配られる
●御聖体は、教会の中心から脇に隠される
●書簡は女性によって読まれる
●平信徒が聖体拝領を病者に運ぶ

上記の全ての新しいことは、許可された。これらのほとんどの新しいミサは、カトリック信仰を減少させ、信仰を変えてしまうような冒涜的行為になっていると、誇張することなく公平に言うことが出来る。

非神聖化はあまりにもなされ、これらの新しいミサはその超自然的特徴、その信仰の神秘を失う危険を持ち、新しいミサが自然宗教の行為以外の何ものでも無くなっているほどである。

これらの新しいミサは、私たちの主日の義務を果たす能力がないのみならず、正教会やプロテスタントのセクトとのcommunicatio in sacrisに適応する教会の通常の教会法的規則を新しいミサに適応すべきほどである。
[注:教会法 1917: 1258条§1. 信者が非カトリック者の聖式に能動的にあずかること、すなわち宗教的行為を行うことは許されない、とある。しかし新教会法 1983: 844条は、エキュメニズムのためにこの規定に例外をもうけてしまった。]

では、これらの新しいミサは無効だと結論しなければならないだろうか?有効性のために必要な本質的な条件(質料、形相、意向、有効に叙階された司祭)がそろっている限り、どうやってこれを断言することが出来るのか私には分からない。
[つまり、質料、形相、意向、有効に叙階された司祭など、秘蹟の有効性のために必要な本質的な条件がそろっている限り、無効であるとは言えない。]

聖変化の言葉を取り囲む、奉献文(Offertorium)や典文や司祭の聖体拝領の時の祈りは必要であるが、秘蹟の有効性のために必要ではなく、むしろミサの完全性のために必要である。

しかしながら、今日では、司祭らの信仰が破壊されるにつけ、また司祭らが教会が行っていることをするという意向 -- 教会が変えることが出来ない意向 -- をもはや持たなくなっていくにつけ、有効なミサがますます少なくなっている。

今日、神学生と呼ばれている人々が受けている養成は、ミサを有効に捧げるように彼らを準備していない。ミサ聖祭の贖罪のいけにえを捧げることが、司祭の本質的な仕事であるとはもはや考えられていない。公会議後の司教たちが、召命に関する説教、あるいは司祭叙階の時にする説教や教えを読むことほど、ますます悲しくなり、残念に思うことは他にない。司教たちは、司祭が何であるかもはや知っていない。


(…)私たちはローマとペトロの後継者につながっていることを望むと同時に、教皇の前任者たちの歴代教皇たちへの忠実さにより、教皇の自由主義を受け入れない。ちょうど聖パウロが聖ペトロにしたように、私たちは、尊敬を込めてしかししっかりと教皇に話すことを恐れない。

さらに、教皇のために祈ることを拒否するなどということから遙か遠く、私たちは聖霊が、教皇が信仰を断言し擁護するために教皇に光と力とを与えてくださるように、私たちの祈りと懇願を倍増している。

従って、聖ピオ十世会とその司祭、修道者、修道女、奉献修道女らは、教皇のために祈ることを拒否するような人々、或いは、新しいミサがそれ自体で無効であると断言する人々を、その会員として容認することは出来ない。

結論として、私たちは教会の真の精神である宣教精神を持たなければならない。
私たちは、私たちの聖なる守護者である聖ピオ十世の言葉に従って私たちの主イエズス・キリストの統治をもたらすために全てをしなければならない:キリストにおいて全てを回復させる。Instaurare omnia in Christo.

私たちは、キリストにおいて全てを回復させなければならない、そして、私たちの主が霊魂の救いのために、また真理の凱旋のために、御受難においてそうしたように、私たちも全てをそのために従わせなければならない。私たちの主はピラトに言われた。"In hoc natus sum, ut testimonium perhibeam veritati." 真理を証明するために、このために私は生まれた、と。

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キリストの花嫁たち 聖ピオ十世会の修道女会終生誓願式 アメリカ

2019年07月27日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

今年2019年4月28日、白衣の主日 Quasimodo Sunday、アメリカのミネソタ州のイエズスの聖心修練院で、二名のアメリカ人女性が着衣式を受け、二名のフィリピン人修道女らが終生誓願を立てました!






日本からも多くの聖伝に従うキリストの花嫁たちが生まれますように!

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田神父



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聖霊によりて童貞マリアから生まれたイエズス・キリストを信じ奉る。聖霊は永遠の昔から御托身の道具としてマリア様を使う事を望み聖母を準備された。「無原罪の御孕り」だ。

2019年07月26日 | お説教・霊的講話
2019年7月6日(初土)聖母の汚れなき御心の随意ミサ
聖ピオ十世会司祭 小野田神父 説教

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2019年7月6日、聖母の初土のミサをしています。

今日このミサを、御聖体拝領を、マリア様の汚れなき御心への償いとして、このミサの後には、初土の信心、御聖体降福式を行ない、そして15分間の黙想も致しましょう。「マリア様の汚れなき御心に対して犯される罪を償う」という意向で捧げて下さい。

とても良いニュースがあります。

それは、5月の第3の主日に、私たちは聖母行列をして、大阪の私たちの御聖堂をマリア様の汚れなき御心に奉献し、その奉献を更新しました。聖母行列をした後にそうしました。

先月は6月には、大阪の大司教区、前田枢機卿様のご指導の元で、大阪の大司教区がマリア様の汚れなき御心に奉献されました。

私たちはいつも、日本の全ての司教様たちが、日本の回心の為に、日本の本当の幸せの為に、日本の平和の為に、日本が本当に世界をリードする国になる為にも、マリア様の汚れなき御心に全ての司教様が日本を奉献するという事をして下さるように、いつも願っていましたけれども、大阪の大司教区は、その一歩を踏み出されました。

そこで非常にこの嬉しいニュースで、私たちももう一度、私たちの御聖堂を、大阪の大司教区を、そして日本を捧げて、マリア様の汚れなき御心に奉献したいと思っています。この御聖体降福式の時にそれを行ないたいと思っています。

その意向は、大阪大司教区のみならず、日本の全ての司教様たちが、日本を全てマリア様の汚れなき御心に捧げて下さいますように、です。

特に11月には、その23日から4日間の予定で、教皇様が日本に来られるというニュースがあります。是非教皇様が一緒に、日本の司教様と、マリア様の汚れなき御心に日本を奉献して下さいますように。

日本の方々にとって、これが「教皇様の来日」という事が、単なるどこかの外国の大統領や王様が来た、というのではなく、日本の回心の為の良いきっかけになりますように、日本の方々がイエズス様と福音とカトリック教会、そしてまた本当の救い主がどこにあるか、という事を知る、あるいはその興味を持つきっかけになりますように、日本の方が光を受ける、その御恵みのきっかけとなりますように!

是非それらを願って、御聖体降福式の時に、聖母マリア様の汚れなき御心に対する奉献を更新したいと思います。どうぞ皆さん、心を合わせて参加して下されば嬉しく思います。


「そして、弟子たちに向かって言った、『汝の母を見よ。』」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、昨日夕食の時、とても興味深い話をしました。それは、マリア様、「聖霊によりて、童貞マリアから生まれたイエズス様」の事です。一体、イエズス様が人となられた、天主の御言葉が私たちの救いの為に人となられたその玄義に、マリア様は一体どう関わっていたのか?「聖霊によりて、童貞マリアより生まれ」という事はどのような玄義であって、私たちにどのように関わっているのか?私たちにどんな意味があるのか?私たちに何をするように提案しているのか?という事を一緒に黙想したいと思っています。

この世で、被造物を激震させた2大事件がありました。「激震した」というのは、「被造物の存在それ自体が、根本から大変化した」という事です。

2回あったその1つは、「創造」の時です。それは、私たちが無で、全く無かった、存在していなかった、何も無かった、それが有るようになった、という事です。これは私たちにとって、存在の根底を変える大変化の時でした。創造の時です。天主には変化がありませんでしたが、私たちは無から有に大変化しました。

第2の時は、この創造よりも更に素晴らしい大変化が起きました。それは有限の、無に等しいような私たちの、無きに等しいような小さな存在が、特に「人間が、天主と一致した」という事です。つまり、「イエズス・キリストが、永遠の御言葉、天主の聖子、無限の知恵が、私たちの人間性を取って、そして人となられた」という事です。

その時、天主にとっては全く変わりがなかったのですけれども、変化がなかったのですけれども、被造物である、特に人間の本性は、今後「天主と一致する事ができる」という、特別の高みに上げられました。無に等しいような存在が、無限の天主と一致する可能性を受けたのです。

天主が人となられた。この天主の聖子が、天主の永遠の御言葉が人間となる事を、託身、「御託身」と言います。これは最高の、聖霊の為した業でした。聖霊はこの時に、天主の本性と人間の本性を、イエズス様の天主の三位一体の第二のペルソナにおいて、一つにしました。分離できないほど一つにしました。

聖霊はしかし、この究極の無限の存在である天主と、有限のちっぽけな存在である人間の本性を一つにする時に、そうする必要性は全くなかったのですけれども、しかし聖霊は永遠の昔から、その事が起こる為の道具として、マリア様を使う事を御望みになりました。

マリア様、その最高の傑作を作る為の、いわばそこに於いて、マリア様に於いて、マリア様と共に、マリア様から、マリア様を使って、それを起こす事を御望みになりました。自由にそれを御計画されました。

そしてその為に聖霊は、マリア様を準備されました。どうやって準備したかというと、それが「無原罪の御孕り」でした。

マリア様は、ご自分のお母様聖アンナのその胎内に孕るその瞬間から、聖霊の特別な働きによって、原罪の汚れを全く無しに、聖霊の天主の聖寵の充満を、充ち満てる御恵みを受けて、最初から存在しました。つまり天主に反するものは全く無い状態で、無原罪の状態で御孕りになりました。無原罪の御孕りです。

ルルドでマリア様はこの事を仰いました。
「あなたのお名前は何ですか?」
「私は、無原罪の御孕りである。」

この事は、マリア様が無原罪の御孕りであるという事は、旧約の時代から既に預言されていました。

例えば、ゲデオンと言う旧約の太祖は、天にしるしを求めました、「もしもあなたの言う事が本当ならば、この毛皮の羊毛の羊のマントだけがぐしょぐしょに濡れていて、他の草はカラリと、露が一つも落ちないようにして下さい。」それを見たら、『確かに天主からのものだ』と信じましょう。戦いに出ましょう。たとえ少数でも。」

すると、その通りになりました。

これはマリア様が、聖寵の充満を受けて、聖寵に充ち満てる御方、「主、御身と共に在す」という事を、「常に在す」という事を前兆していました。

ゲデオンはその次に更に言います、「これでは、もっとしるしが欲しい。今度は、この私の持っている毛皮の、羊の羊毛のマントだけが乾いて、他が皆露で湿っても、これだけはカラリと乾くようにして下さい。

その次の日には、そうなりました。これは、マリア様が無原罪の御孕りであり、マリア様だけが、天主の子羊を産むべきマリア様だけが、原罪の汚れを受けずに、カラリと綺麗である、という事の前兆であった」と教父たちは言います。

これを以てゲデオンは、「確かにそうだ。」戦いに出ます。

マリア様はまさに、この羊の衣でした。

マリア様のこの無原罪の御孕りを通して、汚れない聖母を通して、聖霊は、天主の聖子のペルソナにおいて、天主の本性と人間の本性が一つになるように働かせました。最高の傑作を作りました。無原罪の御孕りの為に。

そこで聖グリニョン・ド・モンフォールはこう言います、「聖霊は、マリア様と共に、マリア様に於いて、マリア様から、御自分の、『人となった天主』という御自分の最高傑作を作った。その為に聖霊は、マリア様と婚姻をした。マリア様と愛によって一つになった。あたかも聖霊とマリア様は全く一体となったかのようであって、もう切り離す事ができないほど一つになっているかのようであって、あたかも聖霊がマリア様の身に写ったかのようになって、」教父たちによると、「聖霊のイコンとなって、聖霊の見える御姿となって、マリア様が行動された。そこで、天主聖子を御胎内に孕す事にした。」

もちろん聖霊は天主であって、マリア様は肉体を持った人間ですから、婚姻などという事は全くありません、ふざけています。

「しかし、あまりにもマリア様が聖霊と一つだったので、人間の言葉で表現するには、『婚姻』という言葉を使うしかなかった」と教父は言います。聖グリニョン・ド・モンフォールも、どうしてもその愛による一致を言う為に、全くそうではないのですけれども、そうしか表現しようがなかったのです。

こうして聖霊は、マリア様と完璧に全く一致していました。マリア様はあたかも聖霊の生き写しであるかのように、この地上で存在していました。

ちょうど、聖霊によりて童貞マリアからイエズス様が生まれたように、「キリストの神秘体の頭」が生まれたように、聖霊によりてマリア様から、その「神秘体の肢体」である私たちも、キリストの一部として生まれなければなりません。これがこの神秘の論理的な結論です。

愛による一致によって、マリア様は天主の婢女、奴隷として行動しました。そしてこの愛によるこの御謙遜と、その奴隷として、婢女として、主の御旨を果たそうとしたその望みは、御自分をはるかに超える業を、「天主の本性と人間の本性を一つに結ぶ」という業を成し遂げる事ができるようにしました。

マリア様の愛は、聖母の天主に対する愛は、「天主の本性と人間の本性を一つに結ぶという天主の最高の業を生み出した愛」です。「これに比べるものが全く無いほどのとてつもない巨大な愛であった」と言わなければなりません。

もしもマリア様が聖霊の生ける似姿であって、イコンであったとしたら、御影(ごえい)であるとしたら、マリア様の下で30年間従順に従っていたイエズス様は、マリア様に於いて聖霊を見ていたに違いありません。天主の愛である聖霊の生き写しをイエズス様は常に見て、そしてマリア様に従っていました。

これは私たちにも「どれほど聖母に対する奉献が必要であるか」という事を示しています。

なぜかというと、もしも私たちが天主の御旨に従って、聖霊の息吹に従って生活しようとするならば、マリア様に奉献されるのが一番の近道であるからです。もしも私たちがこの地上で、霊的にも、あるいは肉体的にも、奇跡が必要なほど必要に迫られている時に、マリア様に行かなければなりません。

最初の奇跡で、7月2日に私たちが記念した、マリア様の御訪問による洗者聖ヨハネの聖化。これはマリア様の介入によって、お言葉によってなされました。あるいはカナでの、水がぶどう酒になる奇跡も、マリア様によってなされました。

今でも、もしも必要であれば、マリア様によってのみそれがなされます。私たちの身も心も、マリア様によって奇跡が起こります。聖化の奇跡です。必要な全ての恵みが与えられます。

ある日イエズス様は言われました、「私の母とはどこにいるのか?聖父の御旨を果たした者、それこそが私の兄弟、姉妹だ。」

聖父の御旨を果たした、完璧に果たした、そして聖霊の生ける御姿であるマリア様。これこそ、聖父の御旨を完璧に果たした最高の方ではないでしょうか?

イエズス様は、そしてその御言葉に続けてこう言われます、「聖父の御旨を果たす者こそ、私の兄弟、姉妹、そして私の母だ。

愛する兄弟の皆さん、マリア様のその聖霊との一致の神秘の中に、ますます入って下さい。そして今日その黙想をなさる事によって、私たちがマリア様の聖霊の御孕りとしてしつらえられた、マリア様の汚れなき心がどれほど大切であるか、黙想致しましょう。そしてこの御心に奉献される事がどれほど必要であるか、黙想致しましょう。

そして私たちがそのマリア様の御心の中にますます入る事ができますように、そしてイエズス様に倣って、マリア様の汚れなき御心に奉献されて従って生活する事ができますように、つまりそれこそが聖霊の息吹に従う事になる、という事を理解できますように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

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人類を裁くべき最高の裁判官イエズス・キリストの聖心には赦しと憐れみと愛のみで満たされていた。私たちの考えとどれほど離れている事か。

2019年07月26日 | お説教・霊的講話
苦しみの玄義 第2玄義黙想 2019年7月6日(初土)御聖体降福式にて
聖ピオ十世会司祭 小野田神父

『苦しみの玄義 第2玄義:この一連を捧げて、主が鞭打たれ給いたるを黙想し、聖母の御取次ぎによりて、罪を償う恵みを乞い願わん。』

初土の信心として、15分間、ロザリオの玄義を黙想致しましょう。今日は7月は御血の、イエズスのいと尊き御血の聖なる月ですので、苦しみの玄義の第2玄義、イエズス様が鞭打たれ給う、そして全身で御血を流され給う、その玄義を黙想する事を提案します。



イエズス様の聖心の、燃えるような私たちへの愛、この愛は、何をもイエズス様をひるませませんでした。どのような苦しみも、辛い事も、残酷な拷問も、喜んで受けて立つ、その愛で燃えていました。

私たちがその受けるべき、肉の罪によって受けるべき苦しみを、罰を、イエズス様が全て、御自分の身に引き受け給い給うたのです。刑吏の残酷な鞭の前に、清らかな肌を晒し給うて、マリア様からお受けになったその繊細な御体、頑丈な肉体、それが鞭によって砕かれ、傷付き、血潮でまみれ、御筋肉も、肌を通して骨が見えるかのように、鞭はイエズス様の御肉体をえぐり、傷付け、痛めつけました。

イエズス様は、不平を漏らさず、この侮辱を、私たちの為に御捧げになっておられます。

「私は彼に、何の罪も見出さなかった。だから、鞭打ちの罰を凝らして、解放しよう。」

罪が無かったにも関わらず、残酷な鞭打ちを受けたイエズス・キリスト。イエズス様のこの御痛みと、私たちに対する愛を黙想致しましょう。

鞭打たれ給うイエズス様の聖心の御考えは、何だったのでしょうか。

受けた不正義への不平、文句、あるいは皆の前で受ける屈辱、辱め、それへの抗議、あるいはその痛みと苦痛の、それに対する反感、あるいは復讐の思いだったのでしょうか?

いえ、イエズス様の聖心は、ただ「聖父への愛」と、「哀れな私たちに対する愛」だけで満たされていました。

「私たちを赦そう。」聖父に赦しを乞う、その祈り。「苦しみを捧げよう」というその望み。「人類を赦したい」というその愛。それしかありませんでした。

人類を裁くべき最高の裁判官、イエズス・キリスト。イエズス様のその聖心には、赦しと、憐れみと、私たちに対する愛のみで満たされていました。私たちの考えとどれほど離れている事でしょうか。

不正な裁判を受け、人民によって裁かれた、不当な宣告を受けた天主。辱めに飽かされ、全身傷だらけになりながら、私たちの罪を償う事のみ望む、イエズスの聖心。

その聖心を遠くにご覧になったマリア様の心は、どれほど感動と、祈りに満ちておられた事でしょうか。

イエズス様を馬鹿にする、冒瀆する人々の声を聞き、イエズス様に対して為される暴力を見て、その鞭の音を聞き、飛び散る血潮をご覧になり、悪の、罪の重さを目前にして、マリア様の汚れなき聖心は、イエズス様と共に、私たちへの愛と赦しを求める心でますます満たされます。

「マリア様、イエズス様のこのような御苦難を見て、鞭打ちを見て、私の心はあまりにも冷淡で、無関心で、冷たい心をいつも取っていました。マリア様の汚れなき御心にあやからせて下さい。」

イエズス様を打つ鞭の音が聞こえます。イエズス様を罵る人々の呪いの声が、冒瀆の声が聞こえます。

「私はあまりにも無関心でした。非常にしばしば、冒瀆の声に一緒になってイエズス様を鞭打っていました。マリア様の心にあやからせて下さい。聖母と共に、イエズス様をお慰めする恵みをお祈り下さい。イエズス様を冒瀆する声は、テレビで、インターネットで、映画で、ラジオで、新聞で、雑誌で、ますます声が大きくなっています。マリア様の心に、御心に近付くを得させて下さい。」

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来年の復活のロウソクを準備中です

2019年07月26日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

来年の復活祭のために、復活のロウソクを準備中です。






天主様の祝福が豊かにありますように!

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従順のために「黒」を「白」だと言う時、「個」としての私は、天主の御前で無罪なのか?

2019年07月25日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

以前、巡礼者の小道さんは、

信仰に反すること・信仰が禁止することを信じてはならない・行ってはならないと客観的に訴えている自分の良心の声を否定して、信仰に反すること・信仰が禁止することを「良いことだ」と教会の権威に従属させることが、天主の主権に従順であることなのか?

従順のために「黒」を「白」だと言う時、「個」としての私は、天主の御前で無罪なのか?責任は問われないのか?

ということを問うていました。

====引用開始====

仮に「黒」が「黒」であった場合、上への恭順心からそれを「白」であると捉えようとした私の過ちの咎及び責任は、自分個人に帰されるのであろうか。それとも、それは組織の中の権威側の責任とされ、私は一切の倫理責任から解放されるのだろうか。

====引用終了====

私はそれについて兄弟的矯正について記事を書きました。

では、今回は、もしも従順から「黒」を「白」だと言う時、私の責任は問われないのか?全ては権威側の責任とされ、私は一切の倫理責任から解放されるのだろうか?という問いに答えたいと思います。

教皇様が「黒」を「白」と間違っても、盲目的にそれに従うべきで、従う限り私には責任はないのでしょうか?

否です。天主よりも人間に従った場合、私にはその責任があります。

確かに教皇はカトリック教会において重要な権威です。

しかし、

例えば、教皇様が「黒」を「白」と間違って言っても、盲目的にそれに従うべきで、従う限り私には責任はないのでしょうか?

いえ、私たちには責任があります。

では、「教皇に反して正しいよりも、教皇と共に間違うことを選ぶ」
「もしも教皇様が間違うなら、私は教皇様と一緒に間違いたい」
「教皇に反対して真理のうちにいるよりも、教皇と一緒に間違う方が良い」
などと言うことはできるのでしょうか?

いえ、出来ません。

何故なら、これはつまり、
「教皇と共に私たちの主イエズス・キリストに反している方が、教皇に反して私たちの主イエズス・キリストと共にいるよりも良い」
と言っていることだからです。

教皇は、イエズス・キリストではありません、イエズス・キリストの代理者です。

教皇の権力は絶対ではありません。この意味は、教皇はこの地上で最高の権威ですが、その権力と権威は、天主に服従していなければならないという条件があるので、絶対ではない、ということです。

天主の教えと権威と力は、聖伝と聖書と過去の不可謬の教導権による定義とのうちに表明されています。教皇といえども、不可謬の教えを変えることは出来ません。教皇は天主からの啓示に奉仕するために存在しています。

最後の使徒の死を持って、啓示は閉じられました。その死を持って、もはや預言者はいなくなりました。予言の時代は終了しました。その死から、ドグマの時代に入りました。今、私たちはドグマの時代に生きています。

私たちの主イエズス・キリストが最後の最大の預言者で、啓示を私たちに与え、それを使徒たちが私たちに伝えました。最後の使徒の死で、この啓示は閉じられたのです。この死を持って、新しい聖書もありません。

ドグマの時代において、歴代の教皇や歴代の公会議の役割は、何が啓示に含まれるのかを定義することです。

教皇や公会議の役割は、いきなり「現代は、現代人の考え方に合わせなければならない」などと言うことではありません。そんなことは、過去の歴代教皇らが啓示について定義したことに反しています。

教皇がカトリック教会を新しい道に引き入れようとするとき、啓示に基礎をおかない道に教会を導こうとするとき、教皇は教皇としての役割を果たしていないことになります。

課長の命令が部長の命令と矛盾するとき、私たちは部長の命令を行わなければなりません。

課長と部長の命令が社長の命令と矛盾するとき、私たちは社長の命令を行わなければなりません。

教皇様のお言葉も、もしも歴代の教皇や歴代の公会議の不可謬の教え(つまり天主の教え)と矛盾しているのなら、私たちは天主に従わなければなりません。

これについて、巡礼者の小道さんが、シュナイダー司教の論文を紹介しつつ次の話を引用しています。

ある日、一人のカトリック教徒が、年老いた聖者であり賢人に助言をもらうべく修道院を訪れました。教会の不穏な状況に不安を覚えていたのです。

彼は隠遁士に訊ねました。「自分の教区の司祭が異端者である場合、私はどうすればいいのでしょうか?」

「司教の元に行きなさい。」隠遁士は答えました。

「はい。ですが、、その司教もまた異端者であった場合、どうすればいいのでしょうか?」

「教皇の元に行きなさい。」隠遁士は答えました。

「そして、、その教皇も異端者であった場合は?」とりすがるように男は訊ねました。

「その時には、カトリック教徒がこれまで常に行なってきたことを知り、それを行ないなさい。」

カトリック教会が常に信じ行い続けてきたこと、これを私たちは忠実に行い信じ続けなければなりません。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
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「カトリックの信仰」というのは「それが現実、本当、真理だから」それを「正しい、真理だ」と、同意すること。イエズス様の聖心の信仰もまさにこれだ。天主の人類への愛が真理だから

2019年07月25日 | お説教・霊的講話
2019年7月5日(初金)至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ
小野田神父 説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

「そして、これを見た者がその証言をする。そしてこの証言は真実である。」


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愛する兄弟の皆さん、聖母の汚れなき聖心聖堂にようこそ。
今日は2019年7月5日、7月の初金曜日のミサを捧げています。

今日この御ミサの後に、初金曜日の聖時間を設けて、御聖体の前でイエズス様の聖心を礼拝致しましょう。

今日初金曜日ですので、イエズス様の聖心の黙想を致しましょう。聖ヨハネ・ユードの黙想を皆さんにご紹介したいと思っています。

カトリックの信仰というのは、「自分の思う、自分が思うから、自分がこうあると都合が良いから、だからそうだ」というのではありません。

「自分がこうであるに違いないと思っている、だからそれが正しい」のではありません。

「カトリックの信仰」というのは、「それが現実だから、それが本当だから、それが真理だから、それが実際、現実の事なので、本当なので」それを「正しい、真理だ」と、私たちはそれに同意しています。

イエズス様の聖心の信仰もまさにこれです。私たちが、イエズス様の聖心が、想像で、私たちの思い、勝手な作り話で、それを思うと確かに自分の気持ちが、気持ち良くなるから信じている、のではありません。これを信心しているのではありません。

全宇宙を創ったこの創造主が、「御自分がどれほど人類を愛しているか」という事を、本当に歴史の事実として私たちに教えて下さったので、それを「確かに、本当だ」として受け止めています。

ではこの全宇宙を創って、この私たちを今在らしめて下さっている唯一の創造主、天主が一体、何を私たちに啓示して下さったのでしょうか?

聖ヨハネ・ユードはこう言います、「イエズス様の聖心は一つだけれども、しかし三つの事を考える事ができる。天主としてのイエズス様。人間としてのイエズス様。そしてそれが二つが、天主との本性と人間の本性が合体して、肉となって、私たちの為に鼓動している、イエズスの聖心。」

現実の、私たちが、この「前に壁がある」というのを、どうしても「本当だ」と言わなければならない、私たちがこう肉を以て、ご飯を食べて、「それが本物だ」というのと同じ程度の、その同じ現実に、今ここに蚊がいれば、「蚊が!嫌だ!」、車が来たら、「車だ!危ない!そうしなければ轢かれてしまう!」

それと同じ現実で、私たちを今生かして下さる天主が、その永遠の昔から聖子を愛していた、天主聖父は聖子を愛して、「この、これこそ我が子である。これに私は喜びを置く」と啓示された、その天主聖父。

そしてその聖子も、「私の喜びは、」旧約聖書の啓示によると、「私の喜びは、人の子らと共にある事である。」

その天主の愛を以て、人間をこの世を、聖子を与えるまで愛されたその聖父。そしてその同じ愛を以て、聖子は私たちを愛しておられる。その天主の永遠の愛。

「私の考えは、代々永遠に、その愛を以て私たちを愛して下さる」というその愛の事を、ヨハネ・ユードは「まず考えよ」と言います。


第2に、人間として天主イエズス・キリストは、天主聖父の命令を、その御旨を果たそうとします。

「聖父よ、もしもできる事ならば、この杯を私から遠ざけて下さい。しかし私の願いではなく、御旨が果たされますように。」

なぜかというと、イエズス様は私たちの救いを求めていたので、私たちの永遠の救いの為に、「自分の苦しみを捧げたい」と言うよりは、「聖父天主の御旨を果たしたい」と、私たちの救霊を望みました。

イエズス様が私たちの永遠の喜びの為に、自分の事を全く捨てようと、苦しみを喜んで受けようと思ったその愛、人間としての愛を、聖ヨハネ・ユードは「考えよう」と「黙想しよう」と。

どれほど私たちは、イエズス様の為に自分の苦しみを喜んで受けようとした事でしょうか?

あぁ、それともどれほど多く、自分のちょっとした楽しみの為に、都合の為に、イエズス様を悲しめてしまったり、あるいは聖心に背いたり、あるいはその御旨に逆らって来てしまった事でしょうか。


第3に、聖ヨハネ・ユードは、「この二つの、『天主の愛』と、この『人間としてのイエズス様の愛』が、この聖心において合体している」と。

イエズス様は私たちに言います、「恐れるな、小さな群れよ。お前たちに天の御国を与える事は、聖父の御旨だ。おまえたちの髪の毛一本さえも、ちゃんと数えられている。」

そして聖父に願ったのは、「御身が私に与えて下さったこの彼らが、常に永遠に、私と共にいますように。永遠の命とは、御身と、御身の遣わし給うたイエズス・キリストを知る事にあります。彼らが共にありますように。」

私たちの救いと、永遠の事だけを思っておられました。

愛に燃え、そして遂に、この聖心で鼓動をしていた御血は、流れ尽くしました。兵士によって、槍によって貫かされた時に、その聖心は開いて私たちを、あたかも新しい救いの箱舟であるかのようにその脇が開いて、残っていた、聖心に残っていた御血は、水と共に流れ出てしまいました。「もうこれ以上、お前たちに流すべき血は無い」と言わんばかりに。

この私たちは、イエズス様の愛、現実の愛、私たちの勝手な想像ではなく、「本当に、天主が、私たちをその永遠の愛で、天主として、人間として、そしてこの二つが合体した聖心として、愛しておられる」という事を黙想致しましょう。

今日ミサの後に御聖体降福式があります。イエズス様の聖心は、この御聖体の中にも在し給い、私たちを愛して、報いて下さろうと、恵んで下さろうと、私たちの祈りと、愛を、待っておられます。

「人類を、かくも愛した聖心」

私たちはそれに対して、何もせずにいる事ができるでしょうか?

この聖心は、私たちを愛したにも関わらず、私たちに恵みを与えようとしているにも関わらず、それが本物であるにも関わらず、人々は却ってこれを拒否しようとします。それを、「都合が悪いから」あるいは「理解できない」「何の事か分からない」聞こうともしません。そして自分の主張だけを、あたかも自分が全てを決定しなければならないかのように、天主の座に立とうとしています。

イエズス様の聖心は愛されていません。認められていません。軽蔑と、冷淡と、侮辱と、無関心を以て、無理解を以て、答えられています。

今日ミサに与った愛する兄弟の皆さん、私たちは少なくともイエズス様をお愛し申し上げましょう。私たちの愛を以て、無関心を償う事に致しましょう。

マリア様に、その事ができますように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

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聖ピオ十世会 聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ) SSPX Japan Traditional Latin Mass

2019年07月23日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 大阪では7月19日(金)と20日(土)に聖伝のミサを捧げました。
 土曜日には、聖体降福式を行い、その後東京のシンポジウムに参加することの出来なかった方々のために、その時の講話の一つであったマリオン・シゴ(Marion Sigaut)女史のお話しをさせていただきました。特にリヨンでの虐殺の史実を今回始めて知り、是非このことをお伝えしたいと思ったからです。

 マリオン・シゴ女史のお話の内容は、次の動画でも見れます。



 報告を感謝して頂きました。愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

大阪でのミッションありがとうございました。
先週からシンポジウム、マーチフォーライフ、などお忙しくしておられましたので、さぞかしお疲れになったのではないでしょうか?
どうぞご自愛くださいませ。

ミサの報告をお送り致します。

7月19日(金) 聖ヴィンセンシオ・パウロのミサには15人、
7月20日(土) 聖ヒエロニモ・エミリアニのミサには18人が御ミサに与るお恵みを頂きました。デオグラチアス!

19日は聖ヴィンセンシオの、20日は聖ヒエロニモの生涯を黙想しました。
お説教の中で神父様は、聖ヴィンセンシオが天主の庭園でその枝を世界中に広げる大きな棕櫚のようだと仰った事がとても印象に残りました。
私も必ず天主の庭園に入って精一杯の花や木や、草になる事を信じてヴィンセンシオのお取次ぎによってこの世に勝利しなければと思います。

20日には御ミサの後に世界中から、特に日本から多くの聖なる召命を願って御聖体降福式がありました。
聖ヒエロニモのようにマリア様のおん助によって日本の多くの霊魂も罪の鎖から解き放たれ、そしてその鎖と一緒に自分をマリア様に捧げることができるようにと祈りました。

フランス革命の真実についての講話は大変興味深く、多くの今まで知らなかった真実に驚きました。

一部の革命家が天主の元にあった美しい国家を嘘と、殺戮と不正によって手にいれた結果、フランスは大きな不幸に見舞われました。

イエズス様も不正な裁判によって裁かれて十字架につけられましたが、復活された事を思い、今後のフランスの逆転勝利を祈りたいと思います。

至聖なるイエズスの聖心我らを憐み給え
聖母の汚れなき御心よ我らのために祈り給え

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ

19日(金)20日(土)の非常な御恵みの聖なる至福の御ミサ、20日(土)の嬉しい嬉しい、御聖体降福式、本当に有難うございました。

フランス革命の本当の実態、とても怖いと思いました、リヨン、可哀相を超えていました。カトリックの長女であるフランスを・・・。
フランス革命で殺された信者は、殉教でしょうね。

【参考資料】


Marion SIGAUT au Parlement Européen sur les massacres de Lyon
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聖ピオ十世会 聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)報告 SSPX Japan Traditional Latin Mass

2019年07月22日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

聖ピオ十世会の聖伝のミサの報告を頂きましたので、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



【報告】
Ave Maria Immaculata!

7月の所感をご報告いたします。

7月13日・14日の東京でのシンポジウムのために、フランスから聖ピオ十世会のビルコック神父様とイエズス会のトマス神父様が来日されて、
大阪では、9日から12日まで毎日3つの御ミサを捧げてくださいました。
また14日には、アジア管区長のサマーズ神父様が大阪で主日の歌ミサを捧げてくださるために、
東京の前に大阪にお立ち寄りくださりくださいましたこと、天主様に感謝申し上げます。

私たち日本の信徒にとって、ビルコック神父様はお会いする前から、存じ上げていた神父様でした。
毎週日曜日に、有志の信徒の方が、ビルコック神父様のカテキズム動画に日本語字幕をつけてアップしてくださり、毎週楽しみに視聴していたからです。

※聖ピオ十世会フランス管区のWEBサイトでビルコック神父様によるカテキズム動画(1話10分ほど)がアップされています

カテキズムのお話は簡潔でわかりやすく、毎回、初めて知ることがあり、「天主様に感嘆、感謝」せざるを得ません。

動画を拝見していると、神父様は頭脳明晰で、厳格であられるイメージを持っておりましたが、実際のお人柄は、柔和で高貴な聖なる雰囲気をたたえた神父様でした。

歌ミサでは聖歌隊となって一緒にグレゴリオ聖歌を歌ってくださったり、終課を一緒に歌いました。

神父様が素朴な美しい声でお歌いになると、教会の祈りであることを思い起こされ、感激いたしました。

イエズス会のトマス神父様は、威厳があられるのに、お優しく、控え目で謙遜な雰囲気を持っておられました。

東京で、マーチフォーライフの前のビルコック神父様の講話中に、どなたかが階段をすべらせたような音がしたときに、トマス神父様が咄嗟に階段に助けに向かわれたお姿が印象的でした。

2点についてご報告したいと思います。

その①
このたび「フランス革命」と「マーチフォーライフ」に関係性があることを理解しました。
特に、ビルコック神父様の講演と講話でお話になられておられていたと思います。

【マーチフォーライフの前の講話の要旨】をまとめてみました。

・「革命」の真の姿は「天主に対する憎しみ」「天主の秩序に対する憎しみ」「天主をひきずりおろして玉座についた人間」だと。(講演より)

・本来革命を阻止すべき役割、できるはずだった聖職者は啓蒙主義の毒に冒されて、自らが崩壊のために働き犠牲となってしまったと知りました。(講演より)

・堕胎・同性愛・安楽死の考え方は罪の精神(悪魔の精神)であり、生命を攻撃するのは「自由享楽の精神」・「個人主義」の精神。

・自由の精神こそ「革命の精神」であり「人間が天主になろうとすること」

・人間中心主義は、人間の死に行き着く。自由を求めて生命に逆らうほど不幸になる。現代社会は人類の自殺の文化(死の文化)といえます。

・マーチフォーライフは単なる堕胎反対のみならず、生命の掟十戒に逆らう全ての文化に対する反対を表明するものなので、
 私たちカトリックはマーチフォーライフなどで戦うことが必要。

・マーチフォーライフに参加することは勇気のあること。それは国の法律に反対の声を挙げることだから。私たちの知性と意志を罪の精神から守ることです。

・聖フィリッポ・ネリは毎朝、天主に祈っていた。「主よお護りください。主の御助けなくしては、夜にはイスラム教徒となってしまうでしょう」と。祈りこそ重要。

・ですからマーチに参加にしながら、お祈りしてください。私たちが快楽・自由の精神から守られるように。

・マーチは自然の生命だけを守るのではなく、超自然の行為であって「信仰宣言」なのです。

・天主ご自信が生命であり、生命は全て天主のものである。生命である天主が人間となり、人間の生命を贖うためにこの世に来られた。

・マリア様の胎内から、洗者聖ヨハネを聖別され、病人を癒し、死者には生命をお与えになって、天主自らが、どれほど人間の生命を大切にされたかを示された。

・堕胎はイエズス様の事業を軽蔑し、主ご自身をも軽蔑することになる。

・なぜ主は人間の生命を大切に思われたのか?それは身体を活かしているのは霊魂であり、霊的生命は永遠であるから。

・肉体を滅ぼさない状態で、人間の霊魂を殺すことができる。それは霊魂に天主に対する敵対をおく(罪の状態にあること)ことで、罪は永遠の地獄を招く。
 よって死の文化=地獄の文化といえる。

・1917年7月にファチマの聖母は三人の子供たちに地獄のビジョンを見せられた。1917年には堕胎法も安楽死もなく、教会にはまだ多くの信徒がいて、教会の権威もあった時代だった。もしも今日、マリア様が地獄を見せられたら、どれほど多くの人が地獄に落ちていることか?

・霊魂の生命を殺すことは、もっと重大なこと、マーチフォーライフは胎児のために生命を守るために、また超自然の生命を守り生きることを願って歩きましょう。

・マーチフォーライフに参加することは良いことだが、最も大切なことは祈ること。

・カトリック信者は個人的にそして公的に祈る義務がある。公的に祈るのは、信仰を告白し、生命である主に属していることを表明するためです。

・大切なのはマーチで歩きながら、祈ること。周囲の人々に生命を守ることが大切だと見せるとともに、もっと高貴な霊魂の生命を守るために歩かなければいけない。

・霊魂の生命は本当の光、生命は真の光であったと聖福音に書かれている。祈りながら生命を守るだけでなく、周囲の人々の光とならなければならない。

・こうすることで主の真の弟子となることができる。主のように生命と光をもたらすからだ。

・生命を守る最善の方法は、ロザリオを祈ること。ファチマの聖母は地獄のビジョンを見せられたときに、地獄にいかない薬もお示しになられた。ロザリオを祈ることだ。

・ロザリオの祈りの単純さは天主から来たことを証明している。ロザリオは単純で、普遍的。三歳の子供でさえも、老人も一緒にロザリオを唱えることができる。

・頻繁に多くロザリオを唱えることは、天国を約束されているといえる。

・現代社会に生きて仕事をしておられる皆さんにもロザリオは大変重要です。時間の隙間で三分で一連唱えれば、いちにちに一環以上のロザリオとなるでしょう。

・今日のみならず、いつもロザリオを唱えましょう。

・今日はファチマの聖母と一緒に歩きましょう。ファチマの聖母はロザリオの聖母でもあられます。

・ロザリオはフランス語で「王冠」という意味。肉体と霊魂の生命を守るために歩くように、おみこしのバラの花、物質的な冠と霊的な王冠をマリア様に差し上げるために歩きましょう。


その②
このたび初めてマーチフォーライフに参加いたしました感想としましては、

・今年はカトリックの司教様がお二人も参加されて、神父様やシスターがたもおられ、大変嬉しく心強かったです。

 カトリック教会への良い影響となり、来年は更に多くの司教様、神父様、シスターが参加されますように!

・うれしいことに、今年は前年より多い300人以上の方が参加されたそうで、築地教会の正面のお庭には人があふれているようでした。

・今後さらに参加人数が増えることを想定すると、日比谷公園などの大きな公園での集合→大きな公園までのマーチとなっていくのかな?と思いました。

・私たちは、小野田神父様のご指導どおり、ファチマのマリア様から離れずに、ロザリオで祈りの行進をすることができたと思います。
 アヴェ・マリアとグロリアの歌声があるほうが、沿道の通行人の方がたへ「祈り」をアピールできたのでは?と思いました。

小野田神父様は、シンポジウムの準備、通訳、マーチフォーライフ、来日された神父様がたのお世話や案内、日本のミッションでの細かなことまで気配りをされて、
大変お疲れになられたことと思います。充分に休養される間もなく、いつものように次のミッションに向かわれてしまいましたが、
くれぐれもご無理なさいませんように。

聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈りたまえ。
ファチマの聖母、ロザリオの聖母よ、このたび来日くださった神父様がた、小野田神父様をお護り、御助けください。
ファチマの聖母、ロザリオの聖母よ、我らのために祈りたまえ。



【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

今年も、小野田神父様のロザリオの先導で、百合や薔薇で飾られたファチマのマリア様とマーチフォーライフを歩けましたことありがとうございました。
サマース神父様、ビルコック神父様、トマス神父様と、4人の神父様達もご一緒でした。
北から南から遠くからおいでになった友人たちも、今回マーチフォーライフに初めて参加したけれど、とても素晴らしい体験だったと話してくださいました。

私たちはマーチフォーライフに参加する前、フランスからおいでくださったパリのサン・ニコラ・ドゥ・シャルドネ教会で働いておられる司祭であるビルコック神父様から、いのちをテーマにした霊的講話を拝聴し、カトリックの祈りをこのような形で公式に表明することもとても大切なことですというお話を伺って、カトリックの精神に従って、築地カトリック教会から日比谷公園まで祈りの行進をいたしました。

私自身が周りのカトリック信者さんにマーチフォーライフのことをお伝えして、一緒に参加できるとよいですねと申し上げると、「中絶反対とか堕胎はダメというのは現実の世の中の厳しさ悲惨さを知らないからで、生まれてこないほうが親のためにお腹の子のためにも良い場合があるのよ、それに第一私たちの行っているカトリック教会では神父様がマーチフォーライフで訴える内容を話しているのを聞いたことがない」という答えが返ってくるのが多く、悲しい思いをしてしまいました。

“今回は司教様達も参加してくださるんです”と言っても参加の反応がよくなくて、インターネット上にも中傷の記事が見られるなど、まことにカトリック信徒としてあまりに情けない様子が見られました。

このまま日本の東京近辺のカトリック教会が、中絶も堕胎も場合によっては仕方ないことという態度を表立っていわないとしても、このようなマーチフォーライフという活動を敢えて無視する態度を取るということは、一体どういうことなのだろうかと、考えこんでしまいました。どんな活動でも、その過度期というのは、いつでもこんな具合なのでしょうか。

でも実際のマーチフォーライフでは、いくつものカトリック教会から来られたかたや、プロテスタント教会の方や一般の市民の方々大勢のかたと警察の方に助けていただきながら、東京のど真ん中を歩けたことを感謝申し上げます。

私自身、カトリック教会がいのちのことをどのように教えているのかをよくわかっていないものですから、これからもっと学ぶ機会が与えられますようにと思っています。同じ気持ちの方が手を取り合って連絡しあって、もっとこの東京・千葉・神奈川・埼玉のカトリック信者のなかにおいてもカトリック教会が教えているいのちの尊厳のことを、神父様たちや専門の博士(リガヤ博士)から学んでいくことが大切かなと感じられました。

教皇様も教皇大使も枢機卿様も司教様も、マーチフォーライフを応援してくださるメッセージをくださいました。そして、海の日のマーチフォーライフでは、命を尊ばなければならないというカトリック精神を、一緒にアピールできましたこと、ありがとうございました。

来年こそは、カトリック教会全体の中で、このマーチフォーライフの盛り上がりが興りますように、心からお祈り申し上げます。

【報告】
Dear Fr Onoda:

今日(2019年7月21日)の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

男: 25人(内、子供5人)
女: 26人(内、子供4人)
計: 51人(内、子供9人)

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

聖霊降臨後第六主日のミサをありがとうございました。

今月は3回も主日ミサが東京で捧げられて、全部で21回のミサが捧げられました。
そのうちの一回は、初めて与る素晴らしい荘厳ミサでした。デオ・グラチアス!
たくさんのミサに与ることができましたこと、感謝申し上げます。

7月は、なかには500キロメートルとかあるいは700キロメートルも遠い所にお住まい方々も、久々の御ミサに与られたご様子に、とてもうれしくマリア様に感謝いたしました。

昨日はこのミサで、「ミサはいつも聖週間の縮小版が行われているが、来年の復活節には日本で初めて典礼の頂点となる聖週間のミサが行われる予定となっています」ということをお話しいただきました。修道院設立のために本当にたくさんの祈りが必要だとお話しくださいました。

そして2000年の間、カトリック教会では、この伝統的な聖伝のミサを通して、たくさんの聖人や教会博士・神学者たちが輩出されてきたことを、お話しくださいました。

現在、それでは、プロテスタント化されたかのような全く替えられてしまったミサを通しては、どうなっているのでしょう。

友人が今日、最近お友達が亡くなったのだけれど、彼女こそは人知れぬ大聖人だと思うと話してくださいました。

そのお話にもっと耳を傾けてみると、その理由は、そのお友達の方が、地方の教会にお住まいだったこと、跪きの廃止や手でのご聖体拝領のみ許可というここ数年に一気に強まりを佩びている“伝統的なカトリック信仰を守り通したいという信者”を迫害するような上層部からの指導に、断固として抵抗した方だから、というのです。

その方は、亡くなるまで最後まで、御自分がかつて神父様から教えていただいたままのカトリック信仰を貫き通して、けっして立ったまま手でご聖体拝領をしなかったのだそうです、ごく最近亡くなったのだそうですが。

ご自分は何時間もかかるけれど聖ピオ十世会のミサに通えるところに住んでいるから今は安心して御ミサに与れるけれど、そのお友達は最後まで大変な辛い思いをしなければご聖体拝領をすることができない状況で苦しまれていた様子を、お話しくださいました。

でもそのご老人だったというカトリック信者さんは、伝統的なカトリック信仰を伝統的な司祭から教えていただいたからその信仰を保とうとすることができたのだと思います。聖変化の意味・ご聖体を礼拝しなければならない理由などを教えていただいていて、しっかりとした信仰が身についていたのだと思います。 そもそも、伝統的なカトリック信仰を教えられる機会がないままに洗礼を受けている信者の運命は、いったいどうなるのでしょうか。

現代の第二バチカン公会議後のミサ典礼のあり方に反対して、アンケートなどの集計結果を拝見したこともあります。いま昨今は、聖人は、自分の信仰を守るために、周囲からの嫌がらせや迫害に耐えることを、求められているとしたら、何とも皮肉な!という以上にもっと深刻な、恐ろしい事態にあることを、考えさせられました。

そして、そのお話を伺いながら、ミサが内側から変えられようとしていることの深い理由と実情を、神父様から教えていただくことができました。

私たちにできることはカトリック教会のためにお祈りをすることしかできませんね、ということになり、今は少ない人数ですが励ましあってお祈りを続けていきましょうということになりました。

このイベントを機会に、毎回ミサに与るようになられた方も増えていらっしゃるご様子に心強く思いながら。

東京に修道院が設立できることのために一生懸命お祈りいたします。

小野田神父様、いつも私たちのために、聖伝のミサをお捧げくださいまして本当にありがとうございます。
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旧約のいけにえという前兆の、成就であり完成であり現実である新約のいけにえ:聖霊によって花嫁であるカトリック教会に息吹かれた、イエズス・キリストの詩、愛する人々会話としての聖伝のミサ

2019年07月21日 | お説教・霊的講話
2019年6月30日(主日)ラファエル・デュ・シャゾ神父様霊的講話
「旧約のいけにえという前兆の、成就であり完成であり現実である新約のいけにえ:聖霊によって花嫁であるカトリック教会に息吹かれた、イエズス・キリストの詩、愛する人々会話としての聖伝のミサ」

同時通訳:東京信徒会長



昨日初めて日本に来ました。日本が大変好きです。

今日は、この私たちの宗教の一番大事な事、「御ミサ」の事についてお話したいと思います。

教理の事をご説明するのではなくて、典礼の方からご説明したいと思います。なぜかというと、この典礼というのは、実はカトリックの教義を示すものだからです。

昔、旧約の話なのですけども、脱出記の頃ですが、ヘブライ人がエジプトから逃げた時に、モーゼを通してイスラエルのヘブライ人の民は、天主様から「典礼をどうするか」という規則を頂きました。

聖書に詳しく書いてありますが、その規則を読むと非常に面白いのですけれども、例えば祭壇の大きさがどのくらいであるとか、祭壇のどこにどういう石を使いなさいとか、ものすごく細かいルールがあります。そしてその中で特に面白い部分は、二人若い男の人が、この典礼に使う器とかを作る方法というのが、これも規定されています。

ただ知っておいて頂きたいのは、この典礼の規則というのは、天主がそのイスラエルの民に直接渡された、「天主の定められた規則である」という事です。

今申しましたように、この典礼の規則というのはどういう風になっているかというと、ただそういう風に私たちが天主を礼拝するというだけでなくて、実際典礼でどのようにこういう風にしなければいけない、という事が詳しく書かれています。

もちろんその教えて下さった事の中には、「天主様がこういう方である」とか、「メシアが来るのだ」とか何だとか色々色々あるのですけれども、非常に興味深いのは、その「私たちが天主に向かってどのように礼拝するか」という事を、天主から詳細に私たちに教えて下さって、指示して下さっている、という事です。

例えば、「私たちがどういうように礼拝するか」という、近代的な今の人たちは、「いや、私が神様をこうやって礼拝したいという気持ちがあるので、こう礼拝する」というのと対照的に、この時代を見ると、天主から私たちに、「こうやって私を礼拝しなさい」という規則が来て、私たちはそれを受けたという、これが非常に特徴的です。

この今思い出して頂きたいのは、旧約に書いてあるこの詳しい典礼は、「こうこうこうこうしなさい」という規則というのは、旧約の時の規則です。

旧約というのは、思い出して頂きますと、新約の象りに過ぎなかったものですから、そこにそれだけ詳しい規則が決まっているという事は、新約に関してももっと詳しく「こうやりなさい」というのを、天主様から指示があります。

それでヘブライ人が旧約の時代に、砂漠であったり、あるいはエルサレムの神殿であったりでやっていたその典礼というのを、私たちが今現在やっているものと同じなんだ、という事を知って下さい。

この旧約の時代の典礼というのは、いわば象徴的な象りの典礼をしていました。そして私たちがそれに比べて今やっている事というのは、本当の、真の典礼をやっています。

私たちの御ミサで見るこの典礼というのは、本当の司祭、本当のいけにえで、本当に救いの力のある典礼をしています。

それと比べてみますと、旧約の時は色んな事をしています。例えば、色んな牛だとか、羊だとか、鳥だとか、色んな生贄を捧げたり、油を注ぐんだとか、ブドウ酒を注ぐんだとか、色々な儀式がありましたけれども、それは何をしていたかというと、それらの生贄というのが、新約のいけにえの象りであったからであって、新約ではご存知のように、本当の司祭(それはイエズス・キリスト御本人です)が、本当のいけにえ(これもイエズス・キリスト御本人です)を本当に捧げて、救う力がある、という本当の典礼を今行なっています。

イエズス様がこの地上に来られた時というのは、おそらくこれは大変な事業だったと思います。というのは、旧約の色々な司祭がたくさんいて、そして色々な生贄が行なわれていました。

ところがイエズス様が来られて、その旧約の色々な生贄と色々な司祭が色々やっていた事を全部一人で、「新しいものと交換する」という風に仰いました。そしてこの「交換する」と仰ったその実態が、「御ミサ」です。

私たちは現在御ミサが起こっているという時には、この先ほど申しましたように、本当の司祭が、本当のいけにえを、天使たちの前で捧げているという事です。そして神父様が思われるのにこの動き、旧約のその象りである色々な生贄が、新しい本当のいけにえと替わるというのは、イエズス様がサマリア人の女性とお会いになった時に始まったものです。

そしてヨハネにあるのですけれども、弟子たちが何か買い物に行って、このサマリア人の女性とイエズス様がお話をされた、そしてそこでイエズス様が仰るのは、「時は来ている」という風に仰います。そして「時は来ている」というのはどういう時かというと、「この旧約で預言された色々色々の象徴が、本物になる」と、「その象徴だけではなく、本当になる。そして本当のそのいけにえを、本当に礼拝する時が来る。」

そしてそれが実際に実現したのは、イエズス様が十字架の上で亡くなられて、「全て成し終えた」と言われた時に、その時から、永遠に至るまで、本当の一つの完全ないけにえが、完全な司祭によって続けられる、というのが始まったと言えると思います。

「新約の典礼というのは、真理における典礼だ」という風にヨハネの4章に書いてあります。

そして「真理における」というのはどういう事かというと、このミサというのは、神秘的に行なわれている、神秘的になされている、そしてこのイエズス様の死というのが永遠の犠牲になっている、そしてミサの時にイエズス様の御血というのは、カリスの中に注がれて、そのまま神秘的にその信者の元に流れているという事ですけれども、これを旧約と比べてみると、旧約の祭壇では何が起こっていたのかというと、旧約の神父が、例えば先ほどの牛や羊を生贄にして殺して、その血を皆にこう実際に撒いている、という事をやっていました。

ですから、新約の同じ「ミサ」というのは、「神秘的に血が流されて、信者の元にその救いの御血が行く」というところが違います。そしてこれは本当に、先ほど申しましたようにイエズス・キリストがサマリア人の女性に、「もうこの時間は来た」「時が来る」と仰った事だと思います。

そして先ほど申しましたように、新約のいけにえというのは、イエズス・キリスト御本人です。私たちのミサではイエズス・キリスト御本人です。旧約の時はその象りのものが捧げられていたに過ぎませんでした。

マラキアの書にありますが、そこで預言されています、「後に、こういう時代が来る。犠牲が、太陽の昇る所から沈む所まで捧げられる時代が来る」という風に言われています。

そしてこれはどういう事かというと、「カトリックの教会が、全世界にこのキリスト教を広めて、ミサが全世界で行なわれる」という事を示している文章です、旧約にあります。

そしてまたそこで述べられているのは、「綺麗な捧げ物がなされ、」それは何を言っているかというと、イエズス様が亡くなられた時は大変な事がありました。イエズス様の御体から血が流れていましたし、鞭で打たれましたし、とても綺麗なものとは言えませんが、それが神秘的にこのような形でミサになると、綺麗な生地の色で、いわば「無血のいけにえが捧げられる」という事ですので、これが先ほどの旧約に書かれている預言されている事です。

旧約の頃の礼拝の話で、パウロがユダヤ人への手紙で書いていますけども、「これは、イエズス・キリストがなさるのが似つかわしい。なぜなら彼は罪を犯さなかったから」と書いていますけれども、この大祭司、「イエズス・キリストが大祭司」というのは、もちろん旧約の時代にはレヴィ族という人がいて、祭司をやっている人たちの一族というのがいました。彼らがこの役割を担っていました。その中でもアーロンの家族というのが有名だと思います。そしてその祭司が旧約で何をやっていたかというと、「人々、信者の為に、それに代わって、天主と話す」という事をやっていました。

私たちの大祭司イエズス・キリストにいくと、もちろん罪を犯しておられませんし、純粋の御方ですし、それに重要なのは、「彼は同じように、私たちと同じ人間の一人でもある」という事であります。そして私たちになり代わって、天主と話して下さっています、という事です。

そして旧約で、では祭壇というものも決まっているのですけれども、祭壇というのはどういう風になっているかというと、これも色々なルールが規則がありまして、「人々の住んでる所から別の所で、こういう囲いをして、こうやって、こうやって」そして「祭壇はこういう風に油を塗って、祭壇で使う容器の蓋はこう油を塗って」という風に詳しく書いてありました。

ところがイエズス・キリストはマテオの中で、その祭壇の重要性に関するもので、「祭壇というのが、贈り物を聖化するのだ」という事を仰います。

私たちのでは祭壇はどこかというと、教会の中にあります。そしてその私たちの教会の祭壇というのは、これで分かる通り、旧約のどんな祭壇よりもより聖なるものであります。なぜかというと、イエズス・キリスト、大祭司イエズス・キリストが使われる祭壇であるからです。

新約の中では、一番最後の黙示録というのが、先ほどの旧約の脱出記に対応するようなものなのですけれども、今日は時間がないのであまりお話できませんが、先ほど申しましたように、私たちの見ているこの新約の典礼というのが、旧約の典礼が現実になったものである、という事を知って頂きたいと思います。

この新約の典礼というのは、今起こっているのは犠牲なのですけれども、それはまた先ほどの新約を最後まで見て頂きますと、天国で天上で、この後起こる、どのような礼拝が起こるかという事の予告でもある、という事が分かります。

例えばその祭壇というものに関しては、よく「天の国の基礎である」というのが聖書にあります。そしてこの天の国というのはご存知のように、カトリックの教会であったり、聖人たちであったりするわけですが、それも聖書に出てきます。

この祭壇というものに関してまた別の点から見ますと、昔エジプトにいた時は、イスラエルの人々が使っていた祭壇というのは動かせるもので出来ていました。定住していたわけではないので、動かせるもので、木で出来ていました。ところがエルサレムに来てからは、彼らは定住できましたので、祭壇というのは石で造られるようになりました。

この「石」というのは、もちろん「天主」の象徴、シンボルで、例えばヤコブがカナアンにいた時、この「天主の住んでおられる石」という話が出てきます。

もっと分かりやすいのが、例えばモーゼが砂漠にいた時に、皆が喉が乾いて大変だというので、自分の持っていた棒で、岩を叩いたら、生命の水が出てきた、というお話があります。今日お話した通り、このモーゼは何をしているかというと、イエズス・キリストの胸を槍で刺した兵士の象りをしていた、という事です。「彼が棒で突いたら、生命の水が出てきた」というのが、新約の、「ローマの兵隊がイエズス様の胸を突いたら、血と水が出てきた」というものの象りであった、という事です。

最後にお話したいと思いますが、この典礼の規則というのは色んな規則があります。例えばどういう服を着て、どういう色の服を着て、どういうカレンダーで、どういうお祈りとどういう祈りが今日やって、繋がっていて、どういうジェスチャーをして、目をどっちに向けて、どこで跪いて、そしてお香を使うとか、十字架を使うとか、十字の印をするとか、ローソクだとか、灰だとか、聖水だとか、色々色々あります。

色々あるのですけれども、これらのものはどうやって出てきたかというと、これもやはり旧約と同じように、「天主様から明らかにされた」、そしてどうやって明らかにされたかというと、「その権威を持ったカトリック教会に、聖霊によって明らかにされてきたもの」と、「教会がまとめてきた」というものが典礼です。ですから旧約と非常に似た構造になっています。

例えば今、神父様がなさったミサの途中に、神父様が階段の前で手をこう置くとか、こう置くとか、こう置くとか、色んなジェスチャーで、そしてそれに関して色んな聖人が色んな事を書いています、「こういう精神的な意味がある」とか「こういうような」と書いています。

ただし、どんなに「こういう意味とこういう意味とこういう意味がある」と言っても、全部意味が分かるという事はあり得ません。なぜなら、このミサというのはある意味では、イエズス・キリストの書かれた詩であるからです。

例えば、「雅歌」というのが旧約にありますけれども、そこで花嫁が花婿に最初に、「私の愛する人」という風に呼びかけています、「私の愛する人、来て下さい」と言っています。

そして典礼というのは、この愛する人たちの間の会話ですから、「これはこういう意味だ、こういう意味だ」と、その愛する花婿と花嫁、「イエズス・キリスト」と「教会」の間の会話なので、ある程度分かるかもしれませんが、やってもやっても尽きない意味があるものだと思います。

ありがとうございました。
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今日(2019年7月21日)東京で聖伝のミサが午前10時半からあります。

2019年07月21日 | 聖伝のミサの予定
アヴェ・マリア・インマクラータ!

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今日(2019年7月21日)東京で聖伝のミサが午前10時半からあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田神父







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