Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

私は御身を信じ礼拝し希望し御身を愛します!御身を信ぜぬ人々礼拝せず希望せず愛さぬ人々のために赦しを求めます(天使の祈)

【拡散願います】ヴィガノ大司教「私たちが無条件で支持すべきだとされているのは聖伝ではなく、その聖伝に矛盾しその聖伝を汚した唯一のイベントなのです」

2020年09月04日 | カトリック・ニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ヴィガノ大司教は、「教会の真の聖伝を守ること」とは何か?という問いについて、1985年にラッツィンガー枢機卿が発言した言葉を考察します。

ラッツィンガー枢機卿はこう答えています。「私たちは教会の今日に忠実であり続けなければならないのであって、教会の昨日や明日にではありません。…教会の今日とは、第二バチカン公会議の諸文書です。」

ヴィガノ大司教はこう指摘します。「公会議の名によって、「古い宗教」の教義的、道徳的、典礼的、霊的、規律的な体系が破壊され、二千年に及ぶ無謬の教導職への忠実は捨てられたが、しかし、「教会の今日」の新奇性を守るための無条件の服従と弁護が「教会の真の聖伝を守ること」とされている、第二バチカン公会議のほうが、過去からの「信仰の遺産」よりも重要になってしまっている」と。

「さらに、これは「連続性の解釈学」とも矛盾している、何故ならもし昨日の教会が存在しないなら「連続性」とは意味を失うからだ」と。

では、ヴィガノ大司教の手紙の日本語訳をお読みください。これをいつものように素晴らしく訳してくださった大阪と東京の両の信徒会長に感謝申し上げます。

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ヴィガノ大司教「第二バチカン公会議とバロン司教のウェブサイト『Word on Fire』について」マイケル・J・マット(The Remnant編集者)

イタリア語

(マイケル・J・マットによるまえがき)
2020年8月

大司教様、

おそらく、あなたはこの件を興味深く思われることでしょう。ご存知のように、ロバート・バロン司教は米国で最悪の司教でないのは確かです。私は過去に彼のいくつかの講演から恩恵を受けてきましたので、彼の誠実さに疑問を投げかけたくはありません。しかし、彼が最近投稿した第二バチカン公会議についての捉え方には、ここで詳細に述べているように、多くのレベルで問題があると感じています。

このイニシアティブが開始されたことが、この同じテーマに関するあなた自身の最近の手紙の数々と何らかの関係があったかどうか私にはわかりません。しかしこのイニシアティブは、第二バチカン公会議の悲惨で、また拘束力に欠ける様々な新奇性に対する伝統的なカトリックの抵抗に対して、(それを中傷するとは言えないまでも)、それを不適切なものとさせようとする見え透いた試みのように、私には見えるのです。

バロン司教と「Word on Fire」【米ロサンゼルス大司教区の補佐司教である同司教を支援するメディア使徒職やそのウェブサイトのこと】のチームが行う主張に対するあなたの反応を私はぜひ知りたいと思います。もしそれを読者の皆さんにもご紹介することをお望みでしたら、喜んで公開させていただきます。あなたに天主の祝福がありますように、マリア様があなたを守られますように。

王たるキリストにおいて
マイケル・J・マット

【ヴィガノ大司教の返答】

親愛なるマイケル、

「Word on Fire」が公表した「公会議に関するカテキズム(catechism on the Council)」を見ましたので、ご要望にお応えして、簡潔な考察をお送りします。

よくある質問(FAQ)の詳細には触れません。なぜならこのFAQは、道具の使い方やコールセンターの管理方法についての説明書のような用途のために、よりふさわしいようなものに思えるからです。その代わり、私はベネディクト十六世による序文に焦点を当ててみたいと思います。

「今日、教会のまことの伝統を守ることは、公会議を守ることを意味します。・・・私たちは教会の今日に忠実であり続けなければならないのであって、教会の昨日や明日にではありません。そして、この教会の今日とは、第二バチカン公会議の諸文書であって、それらの文書を切り刻むような留保も、歪曲するような恣意性もあってはなりません」。

“To defend the true tradition of the Church today means to defend the Council. . . . We must remain faithful to the today of the Church, not the yesterday or tomorrow. And this today of the Church is the documents of Vatican II, without reservations that amputate them and without arbitrariness that distorts them.”

教皇【ベネディクト十六世】は、確実なこととして、「今日、教会のまことの伝統を守ることは、公会議を守ることを意味します」と述べ、そして「私たちは教会の今日に忠実であり続けなければならない」と述べています。 この二つの命題は、互いに補完し合うものですが、聖伝の中にはそれを支持するものは何もありません。それは、教会の今が、いつも教会の過去と切っても切れない関係で繋がっているからです。

殉教者たちが「昨日」証ししたことを、
私たちは「今日」守り、私たちの子どもたちは
「明日」告白するのです。 ―ヴィガノ大司教

教会は三つの次元から構成されています。一つは天国の「凱旋の教会」、一つは地上の「戦闘の教会」、もう一つは煉獄の「苦しみの教会」です。同じ教会のこれら三つの次元は密接に結びついており、凱旋の教会の次元と煉獄の教会の次元は、「超歴史的」あるいは「超時間的」な形而上学的現実の中に存在しており、一方、戦闘の教会だけは時間の経過によって与えられた偶発的なものである「今日」を持っていることが明らかですが、教会の本質、使命、そしてとりわけあらゆる教理を変えられるものは何も存在しないのです。したがって、「昨日」が取り返しのつかない過去のものであり、「明日」がまだ起こっていないことであるというような、「今日」だけから成る教会などというものは存在しません。キリストが「昨日」教えられたことを、私たちは「今日」繰り返し、キリストの代理者たちは「明日」告白します。殉教者たちが「昨日」証ししたことを、私たちは「今日」守り、私たちの子どもたちは「明日」告白するのです。

また、「私たちは教会の今日に忠実であり続けなければならないのであって、教会の昨日や明日にではありません」というもう一つの命題も提示されています。重要なことは、この命題が第二バチカン公会議の支持者たちによって採用されたことであって、まさにその目的は、「過去」を消し去り、当時の「今日」の公会議革命を肯定し、そして今私たちが直面している「明日」の危機を準備するためだったのです。そして、ラッツィンガーの言葉を使って言い換えるならば、まさしくそのような公会議を望んでいた革新主義者たちは、教会の途切れることのない教導職をまさに「切り刻むような留保」と、それをまさに「歪曲するような恣意性」によって、その命題を実行したのです。

私たちが無条件で支持すべきだとされているのは
聖伝ではなく、その聖伝に矛盾し、
その聖伝を汚した唯一のイベント
なのです。 ―ヴィガノ大司教

革新主義者たちが、「昨日」第二バチカン公会議において聖伝に反して実行したことが、「今日」彼らに当てはまらない理由が私には分かりません。公会議の名によって、司牧的であるという名目で(彼らの言うところの)「古い宗教」の教義的、道徳的、典礼的、霊的、規律的な体系を破壊することを躊躇しなかったこれらの革新主義者たちが、今日、自分たちの無謀な新奇性を守るために恥ずかしげもなく要求するのは、彼ら自身が二千年に及ぶ無謬の教導職には適用することを望まなかったまさに無条件の服従と弁護なのです。そして私たちが無条件で支持すべきだとされるのは聖伝ではなく、その聖伝に矛盾し、その聖伝を汚した唯一のイベントなのです。純粋に論理的な観点からだけから見ても、このような推論にはたいして信頼性がなく、「公会議の教会」の自己参照性を再確認することに限定されており、公会議以前の教皇たちの途切れることのない教えとは断絶しているように思えます。

さらに、このベネディクト十六世からの引用はまた、公会議を教会の過去との断絶としてではなく、まさに教会の過去との連続性の中で受け入れられるべきだとする【同教皇の】「連続性の解釈学」とも矛盾しているように私には思えます。しかし、もし昨日の教会が存在しないとすれば、公会議解釈の想定されている「連続性」とは、いったい何を指していることになるのでしょうか。これはまたひとつの哲学的な語呂合わせのようなものであって、残念ながらそれが定式化された時から失敗の兆しを見せていたのですが、今日では最高の玉座【教皇】から否定されているのです。

もし昨日の教会が存在しないとすれば、
公会議解釈の想定されている「連続性」とは、いったい何を
指していることになるのでしょうか。 ―ヴィガノ大司教

私たちは、第二バチカン公会議の熱心党の者たちが「公会議のカテキズム」ごときを作成するところまで「彼らの公会議」の擁護に献身していることを、「驚き」をもって見ます。もし彼らが、まさに「公会議の刷新」の名によって教会の不変の教理が否定されたり沈黙させられたりしたときに、それと同じような献身をもって、労を惜しむことなくその教理を再確認していたならば、今日みられるような信仰についての無知は広がらず、混乱も少なくなっていたことでしょう。しかし残念なことに、【彼らにとっては】第二バチカン公会議を擁護することが、永続する「信仰の遺産(depositum fidei)」を擁護することよりも重要なことなのです。

+カルロ・マリア・ヴィガノ
2020年8月14日
童貞聖マリアの被昇天の前日




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【拡散希望】ヴィガノ大司教:私たちの主がその絶対的首位権を認められる典礼へと立ち返りましょう。まさに天主の御稜威への憎しみから改革主義者たちが改悪した以前の、本来の礼拝へと立ち返りましょう。

2020年09月02日 | カトリック・ニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2020年8月6日に、LifeSiteNewsのスタッフの方々のために、ヴィガノ大司教は小黙想会を指導しました。この日本語訳をご紹介いたします。

その内容は、Ap. Viganò: Christ the King has been ‘dethroned’ not only ‘from society but also from the Church’として掲載されています。

この内容は、すぐにイタリア語や、スペイン語、フランス語などに訳されました。

VIGANÒ: CRISTO NON È PIÙ RE. NEANCHE NELLA CHIESA. MEDITAZIONE.

Mgr Viganò : le Christ-Roi a été « détrôné », non seulement « dans la société, mais dans l’Église »

Cristo Rei foi “destronado” não apenas “da sociedade, mas também da Igreja”, declara Viganò

Monseñor Viganò: “Cristo Rey no sólo ha sido destronado de la sociedad, sino también de la Iglesia”

MONSEÑOR VIGANÒ: “CRISTO REY NO SÓLO HA SIDO DESTRONADO DE LA SOCIEDAD, SINO TAMBIÉN DE LA IGLESIA”

Erzbischof Viganò über das Königtum Christi

ヴィガノ大司教

「王たるキリストは『社会からだけでなく教会からも退位』させられた」

2020年8月12日 米国東部標準時間午後4時25分

TE ADORET ORBIS SUBDITUS
服従したこの世が御身を礼拝せんことを。

O ter beata civitas
cui rite Christus imperat,
quae jussa pergit exsequi
edicta mundo caelitus!

三重(みえ)に幸いなる国よ、
そこにキリストが合法的に命令し、
天からこの世へ命じられた
法の順守を実行する社会!
【王たるキリストの祝日の賛歌より】

イエズスはペトロとヤコボとその兄弟ヨハネを連れて、人里離れた高い山に登られた。そして、彼らの前で姿が変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。そのとき、モーゼとエリアが現れ、イエズスと語り合った。ペトロが口をはさみ、「主よ、私たちがここにいるのはよいことです。お望みなら、私はここに三つの幕屋をつくります。一つはあなたのために、一つはモーゼのために、一つはエリアのために」とイエズスに言った。ペトロがなお話し続けていると、光る雲が現れ、雲の中から、「これは私の愛する子、私の心にかなうものである。これに聞け」と声があった。弟子たちはこれを聞いて、恐れて倒れ伏した。するとイエズスは近づいて彼らに触れ、「起きよ、恐れることはない」と言われた。彼らが目を上げてみると、イエズスのほかには誰も見当たらなかった。山を下りるときイエズスは彼らに、「人の子が死人の中からよみがえるまでは、見たことを誰にも言うな」と命令された。(マテオ17章1-9節)

愛する友人の皆さん、私たちが今日お祝いする御変容において明らかにされた私たちの主イエズス・キリストの王権についての黙想について、皆さんにお話しさせてください。この御変容は、主の地上での生活における他の重要な出来事であるベトレヘムの洞窟の上に現れた天使たちから、三博士の礼拝、ヨルダン川での洗礼に続くものです。

私がこのテーマを選んだのは、ある意味で、私たちと皆さんのカトリック教徒としての責任の焦点が、私生活や家庭生活だけでなく、とりわけ社会生活や政治生活において、このテーマに集約されていると信じているからです。

まず第一に、私たちの天主なる救い主の普遍的な王権への信仰を復活させましょう。

主は本当に普遍的な王でいらっしゃいます。すなわち、すべての被造物、人類、すべての民、さらには聖なる、カトリックの、使徒継承の、ローマ教会という主の囲いの外にいる人々にさえも、絶対的な主権を持っておられるのです。

一人ひとりの人間は本当に天主の創造物です。すべての人は、その全体としての本質においても、身体、霊魂、能力、知性、意志、感覚といった全体を構成する個々の部分においても、その存在全体が天主に帰せられるものです。これらの能力の働きと身体のすべての器官の働きは天主の賜物であり、天主の支配権は、天主の計り知れない自由の実として天主の善のすべてに及んでいます。誰も自分が地上で属する家族を選ばず、選べないという事実を考えるだけで、私たちが自分の存在に関するこの根本的な真理を納得するのに十分です。

このことから、天主なる私たちの主はすべての人間の主権者であり、それは個人としても、社会的集団の一員としても同じことです。なぜなら、人がさまざまな共同体を形成しているというからといって被造物としてみずから与えられた条件を失うことはないからです。実際、市民社会の存在そのものが、人間の本性を社会的なものとされた天主の設計に従っているのです。ですから、すべての民、すべての国家は、最も原始的なものから最も文明化されたものまで、最も小さいものから超大国まで、すべて天主の主権に服しており、その民や国家自体、みずからこの甘美なる天の支配を認める義務を負っているのです。

イエズス・キリストの王権

聖書がたびたびに証言しているように、天主はこの主権を御独り子に授けられました。

聖パウロは、総括的に、天主が御子を「万物の世継ぎ」(ヘブライ1章2節)になさったことを断言します。聖ヨハネも、みずからの福音書の多くの箇所で、異邦人の使徒【聖パウロ】の考えを裏付けています。例えば、彼が「父は審判をされず、子に審判のことをまったく任せられた」(ヨハネ5章22節)と思い起こすときがそうです。審判を行う特権は実際には王に属しているので、その特権を持っている者は誰であれ、主権者としての権力を(王から)委任されているからこそその特権を持つのです。

御子が御父から受け継がれたこの普遍的な王権は、ただ、天主の本質の一致において、いとも聖なる三位一体の第一のペルソナと等しくかつ本質を同じくする属性のすべてを、御子の天主としての本質ゆえに外面的に引き継がれたというだけの理解では足りません。

この王権はまた、イエズス・キリストがまことの人間にして天と地の仲介者であるという特別な理由によって、イエズス・キリストに属しているのです。事実、ご托身のみ言葉の使命は、まさに天主の御国を地上に確立することなのです。イエズス・キリストの王権に関する聖書の種々の表現を見てみると、それらは疑いの影もなく、イエズス・キリストの人間という状態に言及しているのです。

イエズス・キリストは、ダヴィド王に代わって、地の果てまで及び、年を数えることすらできない永遠のものである父の王座を受け継ぐために来た、ダヴィド王の子として世に示されました。ですから、大天使ガブリエルはマリアの御子の尊厳を次のように告げたのです。「あなたは子を生む。その子をイエズスと名付けなさい。それは偉大な方で、いと高きものの子と言われます。また、その子は主なる天主によって父ダヴィドの王座を与えられ、永遠にヤコブの家を治め、その国は終わることがない」(ルカ1章31-33節)。

さらに、彼を礼拝するために東方からやって来た博士たちは、王としてのイエズスを探していたので、エルサレムに到着したとき、「お生まれになったユダヤ人の王はどこにましますか」とヘロデに尋ねるのです(マテオ2章2節)。ご托身の神秘において永遠の御父が御子に託される使命は、地上に御国、すなわち天の国を打ち立てることです。この御国を打ち立てることを通じて、天主が人間を永遠から愛され、御あわれみをもってご自身のもとに引き寄せてくださった計り知れない愛徳が具体化するのです。「Dilexi te, ideo attraxite, miserans.」「私は永遠の愛をもって愛し、おまえに私の慈悲を保っておいた」(エレミア31章3節)。

イエズスは、「天主の国」と呼ばれることもあれば、「天の国」と呼ばれることもある、ご自分の国をのべ伝え、確立するために公生活を捧げられます。東方の慣習に従って、私たちの主はご自身が確立するために来られたこの国についての観念と本質を教え込むために、魅力的なたとえを用いられます。主の行われる奇跡の目的は、主の国はすでに来ていて、それは民の中にあるのだということを人々に納得させることです。「Si in digito Dei eiicio daemonia, profecto pérvenit in vos regnum Dei」―「私が天主の指によって悪魔を追い出しているのなら、もう天主の国はあなたたちのもとに来たのである」(ルカ11章20節)。

イエズス・キリストの使命において、ご自分の国の確立がそのあまりに本質的な部分であったため、彼の敵が背教したときもこの考えを利用して、ピラトの法廷でイエズスに対する非難を正当化する際、この観念を逆に利用したのです。「Si hunc dimittis, non es amicus Caesaris」―「もしあの人をゆるすなら、あなたはチェザルの友ではない」。彼らはポンティオ・ピラトにこう叫びました。「自分を王だと言う者はチェザルの反逆者です」(ヨハネ19章12節)。イエズス・キリストは、ご自分の敵の意見を確認して、ローマ総督に対して自分が本当に王であることをお認めになります。「あなたの言うとおり私は王である」(ヨハネ18章37節)。


本当の意味での王

イエズス・キリストのみわざの持つ、王としての性格に疑問を呈することはできません。イエズスは王でいらっしゃいます。

しかし、私たちの信仰においては、天主なる贖い主が王であるということの範囲や意味をよく理解することが必要です。ピオ十一世は、私たちがその在り方や行動について人間的に優れたものなら何であれ「王(king)」と呼んだり、「王的な(kingly)」と呼んだりする比喩的な意味を真っ先に排除しています。そうではありません。イエズス・キリストはこのような比喩的な意味での王ではありません。彼は王という言葉の本来の意味での王です。聖書の中で、イエズスは主権国の王としての大権を行使し、法を定め、法に違反する者たちに罰を与えておられるように見えます。有名な山上の垂訓では、救い主は御国の律法を公布されたと言うことができるでしょう。まことの主権者として、主はご自分の律法への服従を求められ、それに従わない者に対しては永遠の地獄以外のなにものをも与えられないのです。また、世の終わりを告げる審判の際には,天主の御子が生ける者と死せる者に裁きを下すために来られ、「人の子は、その栄光のうちに、・・・光栄の座につく。そして、・・・ちょうど牧者が羊と雄やぎを分けるように、羊を右に雄やぎを左におく。そのとき王は右にいる人々に向かい、『父に祝せられた者よ、来(なさい)、・・・』と言う。また王は左にいる人々に向かって言う、『呪われた者よ、私を離れて・・・永遠の火に入れ・・・』。そしてこれらの人は永遠の刑罰を受け、義人は永遠の生命に入るであろう」(マテオ25章31節以下参照)。甘美であると同時に、恐ろしい判決です。義人にとっては、彼らを待っている類い稀なる褒美のゆえに甘美なものですが、悪人にとっては、彼らが永遠に地獄に落とされるという恐ろしい審判のゆえに、それは恐怖に満ちた恐るべきものとなります。

このような考察をするだけで、イエズス・キリストの御国がここ地上にあるということを人々が正しく認識することが極めて重要であることが理解できます。なぜなら、この国に属するか属さないかということが、私たちの永遠の運命を決定するからです。「ここ地上に」と言ったのは、人が来世に良き報いを受けるか罰を受けるかがこの世において決まるからです。それゆえ地上では、人は、この一時的でもあり永遠でもある神聖な天主の国に入って、その一員となるべきなのです。なぜなら、天主の国はこの世において形作られていますが、天において完全に花開くからです。

現在の状況

人類を憎む敵【悪魔】の怒りは、主にキリストの王権の教理に向けられています。なぜなら、その王権はまことの天主でありまことの人である私たちの主のペルソナに繋がっているからです。19世紀の世俗主義は、フリーメーソンに煽られて、自らをさらに倒錯したイデオロギーに再編成することに成功しました。なぜならこの世俗主義は、贖い主の王権の否定を、市民社会に対してだけでなく教会の体にまで拡大したからです。

この攻撃は、ローマ教皇の持つ天主の代理者としての王権という概念そのものを教皇が放棄するというところにまで達しました。これによって、すでに国家と支配者の権威を弱体化させるために使われてきた民主主義と議会主義への要求が、教会のまさに中心にまで持ち込まれたのです。

第二バチカン公会議は、永遠の大司祭の持つ天主の王権を暗黙のうちに否定したため、教皇の君主制を大幅に弱体化させ、またそれによってそれまでキリスト教社会の世俗化に対する防壁として立っていたこの制度に対して横柄にも一撃を加えました。天主の代理者の主権は縮小し、続いて漸次、キリストの神秘体に対するキリストの主権が否定されてゆきました。そして、パウロ六世が、あたかも聖なる天主の代理者の君主制を放棄するかのような仰々しい身振りで王の三重冠を脱ぎ捨てたとき、また私たちの主からも王冠も取り去り、主の王権をただ終末論的な領域のみに限定してしまったのです。その証拠は、王たるキリストの祝日の典礼が大幅に変更され典礼年の最後に移されたことです。

この祝日の目的、すなわちキリストの社会的な王権を祝うことはまた、暦の中でその光を放っています。伝統的な典礼では、(天において)参加することによって君臨する諸聖人の祝日に先立って、御自らの権利によって君臨するキリストの祝日がくるように、10月の最終日曜日に割り当てられていました。1969年にパウロ六世によって認可された典礼改革により、王たるキリストの祝日は典礼年の最終主日に移され、キリストの王権の社会的な面が消し去られ、キリストは単なる霊的、終末論的な面へと追いやられることになったのです。

「信教の自由に関する宣言(Dignitatis Humanae)」に賛成投票し、パウロ六世と共に信教の自由を宣言したこれら公会議の教父たちは全員、自分たちが実際には私たちの主イエズス・キリストを追放し、彼の社会的な王権の冠を奪って【退位させて】しまったことを理解していたのでしょうか。彼らは、私たちと全世界の上に立つ天主としての玉座から、私たちの主イエズス・キリストを現実的に引きずり降ろして【退位させて】しまったことを理解していたのでしょうか。彼らは自分たちが背教した国々のスポークスマンとなって、これらの卑劣な冒涜をイエズス・キリストの王座に向けて投げつけたことを理解していたのでしょうか。

「私たちは彼が王になるのを望まぬ」(ルカ19章14節)、「私たちの王はチェザルのほかにはありません」(ヨハネ19章15節)と。しかし、無分別な人たちの混乱した噂に直面した主は、彼らから聖霊を取り除かれました。

偏見に目がくらんでいない人にとっては、ピオ十一世によって制定された祝日とそれによって表現された教理を矮小化しようとする邪悪な意図をここに見ないわけにはいきません。キリストの王座を社会からだけでなく教会からも奪ってしまったことは最悪の罪であって、それによって位階階級が救い主の教えの管理者としての役割を果たさなかったという汚点を残したかもしれません。

この裏切りの必然的な結果として、主によって使徒のかしらに与えられた権威は実質的に消滅してしまいました。はっきりとした異端でないとしても強く異端の疑いのある曖昧な言い回しの定式が作られる状況をつくりだした司牧性を支持し、ローマ教皇の不可謬の権威を意図的に排除した第二バチカン公会議の教令以来、私たちはこの確証を得てきました。

それゆえ私たちは、何世紀にもわたって闇の勢力がキリストの優しいくびきを拒否し、背教と罪という憎むべき暴政を国々に押し付けてきている世俗の領域において自分たちが包囲されているだけでなく、権威者が自らを破壊し、天主なる王が教会やその牧者たち、その信徒たちの上にも君臨すべきであることを否定している宗教の領域においても、自分たちが包囲されてしまっていることに気づくのです。

この場合もまた、キリストの甘美なるくびきは、世俗の革新主義者たちの権威主義と変わらない権威主義によって、新しい教理、新しい道徳、新しい典礼を押し付ける革新主義者たちの憎らしげな暴政に取って代わられています。そのようなところで私たちの主の王権が言及されるのは、別の宗教、別の教会からの気まずい遺産として扱われるときだけです。聖パウロが言ったように「天主は、惑わしを彼らの内に働かせられる。こうして彼らは偽りを信じるようになる」(テサロニケ後書2章11節)。

それゆえ、世俗において、裁判官が正義を覆して無実の者を断罪し、有罪の者を無罪にし、支配者が権力を乱用して市民を虐げ、医師がヒポクラテスの誓いに反して病気を蔓延させ、病人を慢性的な患者に変えようとする者たちの共犯者となり、教師が生徒に知識への愛を教えるのではなく無知を養い、イデオロギー的な操作を助長するように、キリストの花嫁の中心にも、みずからの非難されるべき道徳的行為によって信徒たちをつまずかせ、説教壇から異端を広め、世界統一主義(globalism)が意図した(教会の)解体計画と完全に一致して明白にフリーメーソン的な基盤に基づいた環境主義(ecologism)の名の下に、パチャママをたたえ、母なる大地(Mother Earth)を礼拝することで偶像崇拝を支持する枢機卿たち、司教たち、聖職者たちがいるのを見ても、それは不思議なことではありません。

「今はあなたたちの時である。くらやみの力だ」(ルカ22章53節)。もし私たちが、私たちの救い主、世の主、歴史の主、そして教会自身の主の約束が確実であることを知らなければ、カテコン(kathèkon)【適宜行為(正しい行為)】は消えてしまったように見えることでしょう。

【訳注:ヴィガノ大司教はここで、kathèkonと、ギリシア語の単語をラテン文字で書いて使っている。kathèkonとは古代ギリシアのストア派が作り出した語彙で、その意味は「ふさわしい行為」「自然に適した行為」である。これは「完全な行為」に対照的な概念であるとされる。ところで、テサロニケの後の手紙の第二章には「かの者が、時いたってあらわれ出るまでとどめているのはなにかを、もうあなたたちは知っている。罪悪の奥義はすでに内にはたらいている。ただ、それを止めているものがいつか除かれるときまでのことである」とある。つまり、反キリストの来臨は、それを「止めているもの」το κατεχον(katechon)が、取り去られて無くなるまでは来ない、とされている。さてフランス語では、katechonとkathekonとを混同していることが見受けられる。例にとると、フランスのブルーノ・ラトゥールという哲学者とされる人は、ある世界的に有名になったエコロジストの少女は、黙示録的な災害を止めるkathèkonである、と感想を述べている。しかし、ヴィガノ大司教のように教養のあるカトリック聖職者が、katechonとkathekonとを混同するとは考えにくい。とはいえ、ヴィガノ大司教が聖書を引用して、暗闇の力の時を語っているので、反キリストの到来の時について語っているようにも思われる。英語やイタリア語やポルトガル語では、あえて訳し出そうとせずにkathèkonのままである。フランス語では、kathèkonの意味をそのままストア派の意味で取ろうとしている。スペイン語とドイツ語では、kathèkonをテサロニケ人への手紙の中にあるkatechonの意味で理解して、el katejón、der Aufhalter, vgl. 2 Thess 2,6としている。】

結論

しかし、彼らが破壊する一方で、私たちは再建するという喜びと名誉を持っています。また、さらに大きな幸福があります。それは、新しい世代の信徒たちと司祭たちが霊魂の救いのための教会の再建というこの仕事に熱心に参加していることであり、また彼らが自分たちの弱さやみじめさを十分に認識しながらも、天主の御手にある従順な道具、つまり、助けの手、強き手、全能者の手として天主に用いていただいているということです。私たちのもろさが、特にこの人間的なもろさに謙遜が伴っているところでは、これが主のみわざであるという事実がさらに明確になります。

この謙遜は「instaurare omnia in Christo(キリストにおいてすべてを復興させる)」ことへと私たちを導いてくれるはずですし、それは信仰の中心、即ち教会の公式な祈りから始まるものです。

私たちの主がその絶対的首位権を認められる典礼へと立ち返りましょう。創造主を貶め、全能の妄想の中で王に反抗する権利を主張し、主に当然なされるべき礼拝に反して自分たち自身の「non serviam(私はお仕えしない)」を口にして、被造物を誇らしげに高揚させるために、まさに天主の御稜威への憎しみから改革主義者たちが改悪してしまった、それ以前の本来の礼拝へと立ち返りましょう。

私たちの人生は一つの戦いです。聖書はこのことを私たちに思い起こさせてくれます。しかしそれは、「sub Christi Regis vexillis militare gloriamur(王たるキリストの御旗のもとに戦うを誇りとする)」(王たるキリストのミサの聖体拝領後の祈り)戦いであり、その前ではこの世や地獄の砦さえ何の力も及ばない天使の軍団の配備、という非常に強力な霊的武器をもって私たちが取り組む戦いです。

私たちの主が、(王家の血筋であることから)世襲の権利によって、(位格的結合のために)天主の権利によって、また(十字架上のみずからの犠牲によって私たちを贖われた)征服の権利によって王であられる一方、天主の御摂理の計画においては、この天主なる主権者のおそばには、聖母にして元后であり、主ご自身の荘厳なる御母、至聖なるマリアがおられることをも私たちは忘れてはなりません。

マリアが甘美にして母なる元后であることを抜きにして、キリストの王権はありえません。聖ルイ・マリー・グリニョン・ド・モンフォールが私たちに思い起こさせてくれるのは、この元后が、王の前で取り成しする王妃として、御子の御稜威の王座の前で、私たちの仲介者でいてくださるということです。

社会と国々における天主なる王の凱旋の前提は、天主がすでに私たちの心と霊魂と家族の内に君臨しておられることです。キリストが私たちの内にも君臨してくださり、キリストとともにその至聖なる御母も君臨してくださいますように。Adveniat regnum tuum: adveniat per Mariam.(御国の来らんことを、マリアを通して来らんことを。)

Marana Tha、Veni Domine Iesu ! マラナ・タ、主イエズスよ、来り給え!

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ

【参考資料】【王たるキリストの祝日の賛歌より】

Vexilla Christus inclita キリストは誉れ高き御旗を
Late triumphans explicat: 凱旋して大きく広げ給う、
Gentes adeste supplices, 民々よ、跪いて来たれ、
Regique regum plaudite. 王の王に喝采せよ。
   
Non Ille regna cladibus: 彼が諸国を服従させるのは、破壊によるのでもなく、
Non vi metuque subdidit 暴力によるのでも、恐怖によるのでもない。
Alto levatus stipite, [十字架の]木に高く挙げられて、
Amore traxit omnia. 全てを愛によって引き寄せた。
   
O ter beata civitas 三重(みえ)に幸いなる国よ、
Cui rite Christus imperat, そこにキリストが合法的に命令し、
Quæ iussa pergit exsequi 天からこの世へ命じられた
Edicta mundo cælitus! 法の順守を実行する社会!
   
Non arma flagrant impia, 不敬な戦争は火を噴かず、
Pax usque firmat fœdera, 平和は条約を固め、
Arridet et concordia, 心の一致も微笑み、
Tutus stat ordo civicus. 市民秩序は安全に立ち留まる。
   
Servat fides connubia, 忠誠は、婚姻を守り、
Iuventa pubet integra, 若者は、貞潔を尊び、
Pudica florent limina 家庭生活の諸徳により、
Domesticis virtutibus. 慎み深い家族は花咲く。
   
Optata nobis splendeat 望まれたこの光は私たちに光り輝かんことを、
Lux ista, Rex dulcissime: いとも甘美なる王よ、
Te, pace adepta candida, 燦然たる平和を楽しむことにより、
Adoret orbis subditus. [御身に]服従したこの世が御身を礼拝せんことを。
   
Iesu, tibi sit gloria, イエズスよ、御身に栄光あれ、
Qui sceptra mundi temperas, 御身は世の王笏を統括し給う、
Cum Patre, et almo Spiritu, 聖父と聖霊と共に、
In sempiterna sæcula. Amen. 代々に至るまで、アメン。

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ソウル大司教区長アンドレア・ヨム枢機卿は、2020年8月15日明洞大聖堂で、平壌教区をファチマの聖母に奉献し、ファチマの聖母像に王冠を捧げました

2020年08月22日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

平壌教区長を兼任しているソウル大司教区長アンドレア・ヨム枢機卿は、2020年8月15日明洞大聖堂で、平壌教区をファチマの聖母に奉献し、ファチマの聖母像に王冠を捧げました。











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【拡散希望】ヴィガノ大司教(ビガノ大司教)「教会へのよこしまで卑劣な裏切りが行われている」

2020年08月19日 | カトリック・ニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ヴィガノ大司教が、トマス・ワイナンディ神父に宛てた手紙の日本語訳をご紹介いたします。
英語VIGANÒ: A SNEAKY AND COWARDLY BETRAYAL OF THE CHURCH IS TAKING PLACEはここ
イタリア語VIGANÒ: IN ATTO UN SUBDOLO E VILE TRADIMENTO DELLA CHIESAはここ
スペイン語VIGANÒ: SE ESTÁ PRODUCIENDO UNA TRAICIÓN FURTIVA Y COBARDE A LA IGLESIAはここです。

この手紙の背景は、次の通りです。

まず、ヴィガノ大司教がシュナイダー司教の論考についてのコメントを発表すると、それに対して、トマス・ワイナンディ神父はつぎのように答えます。

ワイナンディ神父にとっては、現代の教会の危機、多くの教義的かつ司牧的問題は第二バチカン公会議がその直接の原因とするのはしっくりこない(uncomfortable)。すでに、第二バチカン公会議以前に教会は危機的状況だったのではないか(第二バチカン公会議はそれを明らかにしただけで原因ではない)、第二バチカン公会議によりカリスマ運動などの以前では考えられなかったことが起こっている(これは実りだ)、と。

これに対して、ヴィガノ大司教は、ワイナンディ神父が第二バチカン公会議前後の危機的現実の違いをあまりにも無視していることを個別には直接に指摘せずに【たしかに第二バチカン公会議以前に、聖ピオ十世教皇が指摘していたように、カトリック教会内部にがん細胞のような不良分子はあったが、神秘体全体には広がっていなかったこと、がん細胞を教会の権威をもって広げたのは第二バチカン公会議だったこと、第二バチカン公会議による「実り」と言われていること自体が、その他の病気の苦しみや破壊と比較するとあまりにも極小なことなど:以上は訳者による指摘】、もっとその奥にある核心に言及します。

第二バチカン公会議については【これを批判すると罰を受けることを恐れるのか、自己検閲をするのか】だれも直接批判しようとしないけれど、しかしヴィガノ大司教は、ワイナンディ神父がフランシスコ教皇に関する分析をする場合には、きわめて鋭い批判を行っていることを認めます。

ワイナンディ神父の指摘によれば、一人の教皇が、カトリック教会の教皇であると同時に、実質的には離教している教会の事実上の指導者でもあるので、彼は同時に二つの教会のかしらである、とあります。

ヴィガノ大司教は今回の手紙で、それとまったく同じことが第二バチカン公会議についても言える、と指摘します。教皇が、教皇の権威を使って教皇制を破壊しようとしているように、公会議という教会の権威を使って、教会制度を破壊しようとしている、と。教会の破壊という意図を持つ活動に、表面的な権威を与えるためにキリストの代理者の権威が用いられている、と。

この手紙を素晴らしい日本語に訳してくださった大阪と東京の両の信徒会長に心から感謝申し上げます。

ヴィガノ大司教「教会へのよこしまで卑劣な裏切りが行われている」
2020年8月11日掲載

【マルコ・トサッティによるまえがき】
親愛なる「Stilum Curiae(教皇庁のペン)」【トサッティ氏のブログ】の読者の皆さん、カルロ・マリア・ヴィガノ大司教は、トマス・ワイナンディ神父【米国人のカプチン・フランシスコ会司祭】の論文に対するこの回答を、私たちに送ってくださいました。これは、教会の現状や、第二バチカン公会議から現れ出た危機や実体の根源についての評価のため、私たちにとって非常に興味深いと思われます。どうぞお読みください。

2020年8月10日
殉教者聖ラウレンチオの祝日

トマス神父様、
2020年7月27日に「インサイド・ザ・バチカン(Inside the Vatican)」のウェブサイトに掲載されたあなたの論文「第二バチカン公会議とその精神の働き(Vatican II and the Work of the Spirit)」を、私は注意深く読みました。あなたの考えは以下の二つの文に要約されているように思えます。

「私は、すでに表明されている懸念事項の多くに共感し、そこで列挙されているような、いくつかの問題ある神学的問題や教理的問題が存在することを認めます。しかし、現在の教会が置かれた失望すべき状態について、第二バチカン公会議が、何らかの形で、その直接的な起源であり原因であるという結論は、私にはしっくりこないものです」。

神父様、2019年10月8日にウェブサイト「The Catholic Thing」に掲載されたあなたの興味深い著作の一つである「教皇フランシスコと離教(Pope Francis and Schism)」を、「権威あるもの(auctoritas)」として使うことで、あなたに回答することをお許しください。あなたの見解から、私は一つの相似関係を浮き彫りにすることができます。この相似関係が私の考え方を明確化し、また、天主の栄光、教会の名誉、霊魂の救済をその主要な目的とする有益な議論のおかげで、いくつかの見かけ上の意見の相違が解決されることを読者に示す助けとなってくれることを、私は望みます。

論文「教皇フランシスコと離教」の中で、あなたは次のことを非常に適切に観察されていますが、それはあなたの見解を特徴づける洞察力を示しています。すなわちそれは、「教皇のペルソナを持つ人物(persona Papae)」と「ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ」の間には、ある種の「解離」があること、つまりキリストの代理者が沈黙し、議論をやめてしまう一方で、今日サンタ・マルタ館に住んでいる活気あるアルゼンチン人は話し、行動するという「二項対立」があるということです。ドイツの教会の非常に深刻な状況に言及しながら、あなたは次のように書いておられます。

「第一に、ドイツの位階階級内の多くの人々は、離教すると、自分たちがカトリックとしての声と身分を失ってしまうことを知っています。これは彼らにはできかねることです。彼らは教皇フランシスコとの友好関係を保つ必要があります。なぜなら、教皇こそが、彼らが今実現しようとしている『シノドス性【共働性:ギリシア語のシノドス(synodos)の語源はsyn(同じ)hodos(道)で、シノドス性という新しい語は「共に同じ道を歩むこと」を意味するとされる。しかし正確な定義は誰も知らない。】』という考えを促進してきたまさにその本人であるからです。したがって、彼こそが、彼らの究極的な保護者なのです」。

「第二に、教皇フランシスコは、彼らが教会の教えに明らかに反することを行うことはさせないかもしれませんが、教会の教えに反しているか曖昧なことを行うのは許すのです。それは、そのような曖昧な教えや司牧的実践がフランシスコ自身の教えや実践と一致することになるからです。教会がこれまで決して予想だにしなかった状況に陥っているのは、まさにこの点においてです」。

あなたは次のように続けておられます。

「ドイツの状況は、より広い文脈の中で見なければならないことを心に留めておくことが重要です。その文脈とは、使徒的勧告『アモーリス・レティチア』中の神学的曖昧さ、同性愛の容認作戦の明らかな推進、また(ローマの)『結婚と家庭の科学のためのヨハネ・パウロ2世神学研究所』の『再設立』、すなわち、特に結婚の不解消性、同性愛、避妊、妊娠中絶に関する道徳的・秘蹟的絶対性についての教会の首尾一貫した教えの阻害などです」。

「同様に、アブダビ声明がありますが、これは御父のご意志に直接矛盾し、それゆえに、決定的な主にして普遍的な救い主である御子イエズス・キリストの首位性を損なうものです」。

「さらに、現在のアマゾン・シノドスは、上記のすべてに共感し、支持する参加者たちであふれています。同様に、フランシスコが支持し、教会の高い地位に昇進させている多くの神学的に疑問のある枢機卿たち、司教たち、司祭たち、神学者たちのことも考慮に入れなければなりません」。

そして、あなたはこう結論付けておられます。

「このことをすべて念頭に置くと、次のような状況が存在し、かつそれが激化する一方であることがわかります。その状況とは、世界の信徒の過半が、聖職者も信徒も同様に、教皇の活動には批判的でありながらも、彼が自分たちの教皇であるがゆえに、教皇に忠誠心を持ち、忠実であると同時に、他方で世界の多くの信徒は、聖職者も信徒も同様に、まさにフランシスコが自分たちの曖昧な教えや教会的実践を許し、促進するがゆえに、彼を熱狂的に支持していることです」。

「ですから、教会が結局どうなってしまうかと言えば、一人の教皇が、カトリック教会の教皇であると同時に、実質的には離教している教会の事実上の指導者でもあるということなのです。彼は両方のかしらであるため、一つの教会の見かけが残っていますが、実際には二つの教会があるのです」。

教皇を公会議に、ベルゴリオを第二バチカン公会議に置き換えてみることにしましょう。こうすると、ほとんど文字通りの並行関係があることがお分かりいただけると思いますが、これは大変興味深いことです。実際、カトリック教徒は、教会が求めるように、教皇制と公会議の両方に対する尊敬と敬意の念を持っています。一方ではキリストの代理者に対して、他方では、私たちの主の声がローマ教皇および教皇に一致した司教たちを通してお話しになる教導職の行為に対してです。聖ピオ五世とトリエント公会議、あるいはピオ九世と第一バチカン公会議のことを考えれば、「これらの教皇」と教皇制との間の完全な調和を、また「これらの公会議」と教会の不可謬の教導職との間の完全な調和を見るのは難しいことではありません。実際、それらの間に「二項対立」の可能性があると考えることさえも、当然教会法上の制裁の対象となり、また敬虔な耳を持つ信徒たちを怒らせることになるでしょう。

しかしながら、あなたが自らご指摘のように、ホルヘ・マリオ・ベルゴリオが使徒のかしらの後継者の衣をまとっているという不条理な状況下では、「この状況を描写するために考えられる唯一の表現は、『教皇の内なる離教』です。なぜなら、この教皇は、教皇でありながら、その教理的、道徳的な教えや教会的構造を通じて実質上離教している教会の一部分の事実上の指導者となるからです」。

では、親愛なるトマス神父様、あなたにお尋ねします。もし、最もふさわしくない教会の信徒たち、特にその指導者たちの過ちのゆえに教会を罰するために御摂理が教会に与えておられる苦しい試練として、「教皇の内なる離教」を語ることができるほどにまで教皇自身が教会との離教状態にあることをあなたがお認めになっているのならば、なぜ、同じことが一つの公会議のような荘厳な行為に起こったこと、そして第二バチカン公会議が「教導職の内なる離教」のケースだったことを、あなたはお認めになれないのでしょうか。

もしこの教皇が、「実質的に離教している」ことが可能であるならば、私は異端的でもあると言いたいところですが、教皇と公会議のどちらもが、信仰と道徳において兄弟たちを固めるために私たちの主によって制定されたという事実にもかかわらず、なぜ公会議もそうだったということができないでしょうか。あなたにお尋ねします。最高の牧者【教皇】自身が先任者たちの教えを否定することができるなら、第二バチカン公会議の教令が聖伝の道から逸脱することを妨げるものがあるというのでしょうか。(これを妨げ得るものはありません。)そしてもし教皇のペルソナを持った人物が教皇制からの離教の状態にあるのなら、司牧的であることを望み、教義を公布するのを差し控えた公会議が、なぜ、教会法で認められた他の諸公会議に矛盾して、カトリックの教導職からの「事実上の」離教の状態に入ることができなかったというのでしょうか。(実際はそれができたのです。)

この状況は「孤語(hapax)」、すなわちそれ自体が教会の歴史の中で決して見られることのなかったケースであることは真実ですが、もしこれが教皇にあてはまるのなら(ロンカリ【ヨハネ二十三世】からベルゴリオ【フランシスコ】にかけてその傾向は強まりましたが)、なぜそれが第二バチカン公会議に当てはまり得ないのか私には理解しかねます。なぜなら、第二バチカン公会議は最近の教皇たちによって、まさにそれ自体がイベントであるとされ、またその支持者たちがそのように利用してきているからです 。
【孤語(hapax)とは、言語データを収集して単語の使われ方を研究するコーパス言語学で、特定の文脈で1回しか使われない単語。ここでは第二バチカン公会議が他のどの公会議とも異なる特殊性を持つことを指す。】

あなたの言葉を使って、「教会が結局どうなってしまうか」と言えば、ある公会議が、カトリック教会の公会議であると同時に、実質的に離教的した教会、言い換えれば自らが第二バチカン公会議において生まれたとみなす「公会議の教会(conciliar church)」、の「事実上」の最初の公会議でもあるということです。第二バチカン公会議は、エキュメニカルな公会議【正統な公会議】であると同時に、「不正公会議」(conciliabolo)でもあるため、単一の公会議の見かけを保持ししていますが、実際には二つの公会議なのです。また次の点も付け加えておきます。一方の公会議は合法的かつ正統的なものでしたが、準備草案に対する破壊主義的活動によってその誕生を中絶させられましたが、もう一方の公会議は非合法的かつ異端的なもの(あるいは少なくとも「異端を促進するもの[favens haeresim]」)であって、ベルゴリオを含む革新主義者たちによって自分たちの教理的、道徳的、典礼的な逸脱を合法化するために引き合いに出されるのはこちら側の公会議です。「フランシスコが支持し、教会の高い地位に昇進させている多くの神学的に疑問のある枢機卿たち、司教たち、司祭たち、神学者たち」が、ホルヘ・マリオの行う統治行為や教導職の行為においてはキリストの代理者の権威が認められるべきであると主張するのですが、彼が「実質的に離教している」ことを自ら証明するような行為を行うまさにその瞬間に、彼らはその主張をするのです。

そして、一方で「教皇フランシスコは、彼らが教会の教えに明らかに反することを行うことはさせないかもしれませんが、教会の教えに反しているか曖昧なことを行うのは許すのです。それは、そのような曖昧な教えや司牧的実践がフランシスコ自身の教えや実践と一致することになるからです」というのがまさに真実であるとすれば、あなたの言葉を言い換えて言うならば、「ヨハネ二十三世とパウロ六世は、近代主義者たちが教会の教えに明らかに反することを行うことはさせなかったかもしれませんが、教会の教えに反しているか曖昧なことを行うのは許したのです。それは、そのような曖昧な教えや司牧的実践がロンカリやモンティニの教えや実践と一致していたからです」というのも同様に真実です。

ですから、神父様、この公会議に関する「論争」の発端となった論文で私が断言したこと、すなわち破壊主義的な意図を持つイベントにうわべの権威を与えるために「器としての公会議」が用いられたということを、あなたに確認していただけるのではないかと私は思います。それはまさに今、私たちの目の前で、破壊主義的な意図を持つ活動にうわべの権威を与えるためにキリストの代理者が用いられているのと全く同じことです。どちらの場合においても、信徒や聖職者の側にある、キリストの教会を敬うという生来の感覚が、聖なる城塞に持ち込まれた「トロイの木馬」という地獄の策略として利用されているのです。そしてその目的は、信者や聖職者の義務としてのいかなる異議も、いかなる批判も、いかなる正当な糾弾をも思いとどまらせることなのです。

この見方が、第二バチカン公会議を本来の状態に戻すどころか、権威それ自体に反して自分たちの権威を乱用してきた反乱者たちの行動によって起こされた教会制度全体の危機、教皇制自体に反する教皇の権力という危機、教会自体に反する公会議の教父たちの権威という危機、これらの深刻な危機を確認するものである、ということを思うと心が痛みます。聖ピオ十世が既に回勅「パッシェンディ(Pascendi)」において 近代主義者たちが「教会にとって最も有害な敵」であると指摘してこれを予言し、断罪していたように、よこしまで卑劣な裏切りが教会自体の内部から行われているのです。

ダンテが詐欺師を地獄の第八圏に置いていることを忘れないようにしましょう【最下層の裏切り者を罰する第九圏に近い】。

親愛なるトマス神父様、私の祝福を受けてください。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ

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マディソンでは8月15日聖体行列 御聖体のイエズス・キリストこそが解決策である

2020年08月18日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

アメリカのウィスコンシン州マディソンでは、2020年8月15日に聖体行列を執行しました。

2000人が参加しました。













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ヴィガノ(ビガノ)大司教「異端、同性愛、腐敗というこの三つの要素は、非常に頻発するため、ほぼディープ・ステートとディープ・チャーチのしるしと言ってよいでしょう」

2020年08月14日 | カトリック・ニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

いかがお過ごしでしょうか?ヴィガノ大司教のマルコ・トサッティとのインタビュー記事の日本語訳をご紹介いたします。

英語訳はここに、あるいは、LifeSiteNewsのここにあります。
イタリア語の原文は、ここにあります。

 

この記事に接した最初の反応は、驚きでした。ローマの最も高い地位の一つに就いてカトリック教会のために一生を捧げている元駐米教皇大使が、大きな躓きを覚悟の上で、隠蔽工作を告発をしているからです。

ノエ(ノア)はブドウ酒の効果を知らずにブドウ酒に酔っぱらって裸で寝てしまった時、ノエの子供たちは、父親ノエに、その姿を見ないように後ろを向いて近づいて布団を被せてあげました。おそらくヴィガノ大司教も、できればノエの子供たちのようにかばってあげたい、とどれほど思ったことでしょうか。

しかし、もしも、だれかがそうと知りつつブドウ酒に酔ってそれを正当化しようとするなら、もしもマフィア的な団体の存在が信仰と道徳を変えるという陰謀を企んでいるのなら、カトリック教会のより大きい善のために、霊魂が悪に惑わされて躓かないように、行動を起こさなければならないとヴィガノ大司教は思ったのでしょう。

何故なら、闇は光を憎むからです。勇気をもってヴィガノ大司教は「善良な人々に戦争を仕掛けている人々の企みや犯罪を明るみに出し」て、真理を述べなければならないと訴えます。

現代のカトリック教会の危機のもっとも根本的な原因は「教会の王である私たちの主から王冠を取り去ろうと望んだことによって引き起こされた」つまり「公会議の精神」にあるということをヴィガノ大司教は指摘しようとしています。

最後に、この長いインタビューを素晴らしいやり方で日本語に翻訳してくださった大阪と東京の両信徒会長に深い感謝を申し上げます。

被昇天の聖母よ、われらのために祈り給え!

***

【マルコ・トサッティによるまえがき】聖職者による性的虐待事件の取り扱いに関する沈黙のベールと隠蔽工作を糾弾する、元駐米教皇大使カルロ・マリア・ヴィガノ大司教の献身的な取り組みはよく知られています。この闘志あふれる高位聖職者(ヴィガノ大司教)による綿密な議論に基づいた論駁に対して、バチカン当局者たち、特にさまざまな高位聖職者たちが辛口で苛立った反応を示すこともよく知られています。このインタビューでは、大司教閣下とともにマカリック元枢機卿の事件の進展について吟味します。その際、「マカリック騒動(The McCarrick Bombshell)」と題した米ニュースサイト「チャーチ・ミリタント(Church Militant)」の最近の記事も参考にしています。(1)

しかし、この記事の内容に入る前に、簡単におさらいをしておきましょう。2019年2月21日から24日にかけて、ローマで「教会における未成年者の保護」を主題とした各国司教協議会の会長たちによる会議が開催されました。(2) その数日前の2019年2月16日、教理省は、他の重大な罪状で告発されたセオドア・マカリックの聖職者の資格のはく奪を発表し、そしてこう付け加えました。「教皇は、法に従ってなされたこの決定が最終的な性質を有していることを認め、その決定を『既判力(res iudicata)』(一切の不服申立が認められない効力)を持つものとした」。(3)


インタビュー 
【マルコ・トサッティ】大司教様、マカリック事件についての最新のニュースをお聞かせいただけますか?

【ヴィガノ大司教】残念ながら新たなニュースがないのですが、このニュースがないという事実それ自体がまさにニュースなのです。マカリックが司祭職を奪われて平信徒にされたことによって、2018年に私の証言によってようやく初めて明るみに出た、長年にわたる問題に終止符が打たれることが期待されていましたが、その解決手続きに関する詳細や結果が表に出ないようにするため、可能な限りあらゆることが行われてきたのです。司法的にではなく行政的に手続きを進めるという戦略が実行されたという欺瞞、また[一切の不服申立が行えないようにするため]その判決を自らの権威をもって確定させるというベルゴリオの決定によって、マカリックによる犯罪の客観的事実が明るみに出るのが妨げられただけでなく、さらには、彼が犯した犯罪の本質とその程度を隠すことを長年にわたって助長したり、 彼の共犯者たちをかくまったりした人々や、また彼の犯罪について沈黙することによって、それを隠蔽してきた人々の責任を追及することも妨げられてしまったのです。このようにして、被告人は有罪判決を受けたものの、それによってこの犯罪の不透明な詳細が明らかにされることはありませんでした。マカリック氏は、単なる平信徒として、今や完全な移動と行動の自由を享受しており、現在でもあらゆるレベルにおいて介入することができているのです。教会内では、バチカンやその他の場所で、彼のために犯罪を隠蔽し、彼を支えた人々に対して介入し、また政治的、社会的、金銭的な面では、彼と連絡を取り続け、そして彼から利益を受け取った人々に対して介入することができるのです。(本来この犯罪者には尊厳が欠けていることが証明されているので、治療効果のある罰が与えられることがまず最低限必要な前提となるところですが)司祭職を奪い平信徒の身分とした決定自体は、そのような治療効果のある罰には全くなっていないばかりか、その決定にはいかなる形の償いも含まれてはおらず、また被害者たちに正義をもたらすのものでもなく、むしろマカリック氏に性犯罪を含む犯罪行為の数々をそのまま継続する能力を与えるものとなっているのです。

また行政的手続を採用したことで、被害者たちの声を聞くことが妨げられました。一方、聖座の法的代理人である弁護士ジェフリー・レナ氏によってやっと最近になって集められた証言の数々は、誰かの口述に従って書かれたかのようです。そこでは、ハラスメントに苦しんだ人々が、報告書の公表が遅れたことについて証言が大量だったためだと弁解していたり(4) さらにその数々の証言は、被告人が否定している犯罪の極度の深刻さからすれば理解困難なほど甘く、あたかもそれらの犯罪を正当化するかのような調子で述べられていたりします。(5) 匿名の被害者たちの中には、聖座の責任を軽減して、世論の前に聖座が主張しているストーリーを正当化することを目的とした作戦に協力した人々もいるように見えます。また、これらの匿名の証言が全くの作り話ではないかという疑惑もあります。いずれにせよ、これは強く非難されねばならない欺瞞です。なぜなら、高位聖職者一個人の腐敗自体がスキャンダルですが、教会を代表する者【フランシスコ教皇】の罪深い沈黙はさらに大きなスキャンダルであるからです。もしこれらの犯罪がベネディクト十六世の教皇在位期間中に確認されていたならば、メディアはそのことに怒りを爆発させていたことでしょう。ホルヘ・マリオ【フランシスコ教皇】に対するメディアの理解ある控えめな態度を見れば、主流派のメディアがそれに共謀するような態度をとっていることが明らかです。

【マルコ・トサッティ】バチカンでのサミットの招集は、聖職者の性的スキャンダルに対する断固かつ決然とした対応を決定する機会として告知されたものです。フランシスコ教皇はサミット冒頭の演説でこう宣言しました。「この会議では、教会と人類を悩ませているこの悪にどのように立ち向かうべきかについて、シノドス的で率直かつ綿密な方法で、私たちは互いに議論せねばならないという司牧的かつ教会的責任の重さを感じます。天主の聖なる民は、単なる、意外性のない断罪ではなく、実行さるべき具体的かつ効果的な対策を定めることを私たちに期待しています。私たちは具体的である必要があります」。(6)

【ヴィガノ大司教】この会議に先立って、あるいはこの会議と共に、またこの会議後に行われた荘厳な宣言は、事前に期待されていたような、具体的で実践的な行動にはおよそ結びつかないものでした。(7) それは、私の糾弾に続いて、2018年8月26日にジャーナリストたちがベルゴリオに対して行った正当かつ執拗な要求に対して、会議中に何らの回答も与えられなかったことによっても示されています。(8)

サミットでの種々の発言の内容に関して言えば、聖職者の性的スキャンダルについてさえ、それに対する罰則を厳格化し、そのような事件に対する介入をより強化するのではなく、むしろ、 教会の新たな「シノドス的な」面についての強迫観念的とも言えるほどの発言を繰り返しているに過ぎないように見えました。これらの発言は、教会の制度を民主的な調子にする、というまさにその意向に対応するものです。セオドア・マカリックの友人であり、このバチカン・サミットの議長でもあったシカゴのブレーズ・スーピッチ大司教は、サミット中の彼自身の発言において「シノドス性」に焦点を当てました。この「シノドス性」とは、虐待を食い止めるとは名目だけで、「構造的・法的・制度的改革」(9)という(教会が)通らねばならない通過点について話したのです。

【マルコ・トサッティ】聖職者による虐待の問題を解決するのに、「シノドス性」はどのような形で司教たちの助けとなるのでしょうか。

【ヴィガノ大司教】2018年11月の米国カトリック司教協議会総会で策定された、司教たちの作業を監督するべく独立した平信徒たちによる委員会を設置する、という提案は司教省長官マルク・ウエレット枢機卿によって阻止されました。(10) バチカンによるこの介入は、司教協議会の決定がローマが望むものと一致しない場合には、たちまち「シノドス性」の宣言であっても否定する、というものでした。しかし、ウエレット枢機卿閣下は上から押し付けられた作戦の実行者に過ぎなかったと私は考えています。

【マルコ・トサッティ】バチカンが教理的かつ道徳的な問題に関係する決定権を自らにのみ留保しているのは良いことではないのでしょうか?

【ヴィガノ大司教】ローマ教皇の権威は教皇庁各省を通じても示されます。ただその権威が、いかなる裁治権も持たず、キリストが制定した教会の位階階級の一部でもない単なる諮問機関に委任され得ないことは明らかです。この点について、私たちは明確にしておく必要があります。しかし、注目すべきことは、ローマの最高権威者たちが望んでいる「シノドスの道」はいかなる障害にも遭遇しないとされるにもかかわらず、司教たちに対する弾劾を受理するよう任命された特別委員会の場合のように、メディアにおいて恥ずかしい問題となる危険性がある場合には、それが当てはまらなくなる、ということです。

この「シノドス性」への呼びかけは、教会から位階構造を取り去ることを望んでいる進歩的な神学潮流にとって大切なテーマです。この点については、マッシモ・ファッジョーリ氏が最近の記事で非常に明確に述べています。彼は米国のヴィラノヴァ大学の教授ですが、まさにこの大学で2013年10月11日、当時のマカリック枢機卿は、わずか数か月前に開催されたコンクラーベ前の全体集会で彼がベルゴリオ枢機卿の選出を支持したことや、「非常に影響力のあるイタリア人の紳士」(11)と話をしたところ、その紳士が彼に、新教皇は5年以内に教会を改革するであろうことを打ち明けたことを断言したのです。

今日その同じ派閥が、ベルゴリオの仕事への不満を表し、「裏切られた人々」は、この教皇職が「危機に」あると評価している、という不穏な兆候を示していますが、これに対して警鐘を鳴らさなくてはなりません。(12)これはおそらく、マカリックが言及した5年の間に、彼らが望んでいた結果が得られていないことがその理由でしょう。

【マルコ・トサッティ】ラインハルト・マルクス枢機卿はバチカン・サミットに関して行った演説の中で次のように述べています。「適切な法的手続は真実を確定するのに役立ち、また当該犯罪に適切な罰を課すための基礎となります。教会の中の人々もまた、この裁判官がいかにしてその判決に至ったのか、そしてその判決がどのような内容のものであるのかを見ることができるようにする必要があります。ところが、ほとんどすべてのことが秘密とされているため、私たちはこれを見ることができません。私たちが今置かれている状況は良くないと思います。さらに、そのような法的手続によって、その組織と組織の指導層への信頼が確立されます。裁判手続きが適切に行われているかどうかについての疑念が残れば、その組織の評判や機能が損なわれるだけです。この原則は教会にも当てはまります」。(13)

【ヴィガノ大司教】手続に則った[司法]行為を公表することが、聖職者による虐待の被害者たちに対する透明性と誠実さを実現していくための礎石の一つであるべきです。マカリック事件から始まって、まさにベルゴリオのイニシアチブによってマルクス枢機卿の言葉が無視されていることが明らかであると私には思えます。

さらに思い出して頂きたいのは、米国司教協議会の会長であるダニエル・ディナルド枢機卿が、バチカンの介入によって、ほとんど無視され、翌年2月にローマで開催された会議では、彼の代わりにブレーズ・スーピッチ(Blase Cupich)、ジョゼフ・ウィリアム・トービン両枢機卿が起用されたことです。この二人については、彼ら自身の行為に関する疑いが晴れていた訳ではなかったにもかかわらずです。これらの介入は明らかに上から望まれたものであり、単なるプロパガンダの目的のために、ベルゴリオが実在しない改革の立役者(architect)として描かれるという、現実とは一致しないメディア上のイメージを生み出しています。フランシスコがチリの司教全員の辞任を求めた要求でさえも、それは事実によって明らかに否定されており、見かけ倒しの作戦の一部に過ぎません。

米国とフランスの両司教協議会に向けられた二重の基準がこれを象徴するものだと私は思っています。米国側では、ベルゴリオの介入主義が、権威によって透明性の実現を妨げました。ところがフランス側では、教会法と世俗法に明らかに反して、教会内の調査を安楽死にも賛成しているフリーメーソンの裁判官に委ねることを認めたのです。しかし、児童虐待で告発されたフランスの聖職者たちを追及するジャコバン派的精神も、ローマにおいても実際上強化されている同じ隠蔽工作の罪を犯した教区長たちや修道会総長たちの責任を認めることはできなかったのです。【注:ジャコバン派的精神とは、ジャコバン派がフランス革命の時、反対者の粛清を厳しく行い恐怖政治を行ったがその態度をさす。】

【マルコ・トサッティ】でも私たちは、教皇が2018年にすでにローマ教皇庁に対して話していた次の言葉を、最後の演説で思い起こすのも聞いています。「教会がいかなる事件も隠蔽しようとしたり、過小評価しようとしたりすることは決してありません」。

【ヴィガノ大司教】この荘厳な確約は、最も象徴的な事件であるセオドア・マカリックの事件それ自体において無視されました。またこのことから、この問題を行政的手続の道を通じて、そしてさらに深刻なことには司法行為を公表することなしに片付けてしまう、という決定が、他の利害関係のためになされたのではないかと私たちは考えざるを得ません。

【マルコ・トサッティ】あなたのお考えでは、他の利害関係とは何でしょうか。

【ヴィガノ大司教】彼らは未成年者への虐待に注意を集中させることによって、しばしばこれらの虐待の原因である同性愛行為を明確に、断固として断罪することから目を遠ざけようとするのです。ベルゴリオと彼の取り巻きたちにとっては、同性愛は、カテキズムが教える、天主の前に復讐を叫ぶ罪ではないのです。これに関するベルゴリオの言葉や、さらには彼を取り巻く人々の行動や言葉によって、残念なことに同性愛の正当化作戦が現在進行中であること、そして、カトリックの教えに不忠実であることを疑いなく示している高位聖職者たちや神学者たちがこの議論を進めていることが裏付けられています。

トービン枢機卿自身、彼の携帯電話の恥ずかしいメッセージ【訳注:2018年2月、自らの公式ツイッターに投稿した「おやちゅみ、ベイビー。君を愛しているよ」(Nighty-night, baby. I love you.)のこと。その後削除された。後に枢機卿は、自分の妹へのプライベートなメッセージであったと説明した。】が全てを物語っています(14)が、枢機卿は、カテキズム中にある同性愛の断罪に同意しないとはっきりと述べ、同性愛行為を「本質的に病的である(intrinsically disordered)」と定義することを拒否しています。(15) そして、トービン枢機卿のこれらの発言は、それと同じ内容を含んでいるジェームズ・マーティン神父(イエズス会)の著書「橋を架ける(Building a Bridge)」を彼が支持したことに続くものでした。このように、枢機卿がLGBT運動に賛同を表明するマカリックの友人であったり、またこのイエズス会士がベルゴリオによって聖座広報事務局(Secretariat for Communications)【訳注:2018年6月23日からは「広報のための部署」(Dicastery for Communications)に改称】の顧問として任命され、さらには2018年にダブリンで開催された「世界家族の出会い(World Encounter of Families)」で講演するよう招待され、教皇に謁見を許されたりしているのです。(16)

スーピッチ枢機卿は自ら何度も同性愛者への支持を表明してきており、「青少年に関する世界代表司教会議(シノドス)」では、米国の司教団の代表に選出されなかったにもかかわらず、教皇による直接の指名によってそれに参加するよう派遣されました。そこでは、問題となっていた同性愛関係のテーマが、どの青少年のグループからも要請されなかったにもかかわらず、(シノドスの)「討議要綱(Instrumentum Laboris)」に挿入されました。ちなみに、ベルゴリオがシカゴの司教座にスーピッチを押し込んだことも、駐米教皇大使としての私の意見に反してであったことを思い出します。

したがって、明らかにその利害関係というのは、教会に侵入した「ゲイ・ロビー」【同性愛者の圧力団体】の利害関係であって、そのゲイ・ロビーが国務省やローマ教皇庁の各省、各教区、そして教会全体に対して行使している影響力を良き牧者たちが明らかにすることを、ゲイ・ロビーは文字通り恐れているのです。

パリア大司教がテルニの大聖堂のために依頼した、卑猥で冒涜的でさえある同性愛的なフレスコ画(17)は傲慢でイデオロギー的な声明[マニフェスト]でしたが、これまでいかなる当局もこれを非難したり、これに対して遺憾を表明したりすることはありませんでした。一方、国務省長官代理(総務局長)のエドガル・ペーニャ・パラ大司教 --- 彼はマラディアガ枢機卿とつながっています(マラディアガ枢機卿は、フアン・ホセ・ピネダ補佐司教による同性愛虐待のスキャンダルに関わっていましたが、この司教に対して教会におけるなんらの措置があったというニュースもありません)--- による過剰な財政支出問題(18)があり、同大司教の第六戒に関する非常に重大な告発
(19)、そしてそれについて私が詳細に糾弾した事実(20)があるにもかかわらず、バチカンにおける彼の昇進コース(cursus honorum)は全く妨げられていません。グスタボ・オスカル・ザンチェッタ大司教についても同様です。(21) 彼の刑事裁判が継続中であるにもかかわらず、ベルゴリオは彼を昇進させ、最近彼を使徒座財産管理局(APSA)の評価官に再任したのです。(22) 世界中の教区と修道会の当座預金勘定をすべてAPSAに取りまとめる命令の後、このザンチェッタ自身が教会全体の財政を管理することになったのです(彼が自分の履歴書の中で自慢できるのは電気技師という権威ある免状です)。また同時に、彼は教会内外から、いかにも恐喝の対象になりやすい男となりました。(23) そして、司教省次官であり枢機卿団秘書長かつ聖なるローマ・カトリック教会の副カメルレンゴであるイルソン・デ・ジェズス・モンタナリ大司教
がなした仕事も忘れてはいけません。彼は、忠誠の報いとして自分をローマ教皇庁の最高位の一人に昇格させた人々の名において、そしてその人々に代わって、[隠蔽工作などの]仕事をしてきました。

同性愛と小児性愛の間に密接な結びつきがあることは統計自体によっても確認されており、 これを断固として明確にすることが不可欠だと私は信じています。バチカン・サミットにおいては、この結びつきについて細心の注意を払いながら沈黙が守られました。それは多くの高位聖職者の間にでさえも、広まってしまっている流行りのメンタリティーを傷つけないようにするためです。しかし、現行の民法に照らし合わせて小児性愛を断罪しながら、同性愛を同様に断罪しないことは偽善的であり、罪深いことです。今流行の考え方によると、同性愛は犯罪に問わないとされるかもしれませんが、しかし教会はそれを天主の前に復讐を叫ぶ罪のうちの一つとしています。

しかし、まだもう一つ政治的な性質の利害関係があり、これについても過小評価すべきではありません…。

【マルコ・トサッティ】何のことをおっしゃっているのでしょうか。

【ヴィガノ大司教】私が話しているのは、米ニュースサイト「チャーチ・ミリタント(Church Militant)」の最新の記事でも次のように言及されているマカリックの政治的役割についてです。

「フランシスコ教皇から個人的に与えられた任務として、バチカンと中国の合意を取りつけたのはマカリックだった。フランシスコは、教皇になったわずか数週間後に、彼を、ベネディクトが課した制限から解いた。その事実はヴィガノ大司教によって確認されている。同様に、中国の複数の情報筋によると、・・・マカリックは、現在進行中である中国共産党からフランシスコのバチカンへの数十億ドルの秘密の資金提供の実現を主導してきた可能性がある。もしそれが真実であれば(それはマカリックの共産主義者たちとのつながりや北京との友好関係を考えるともっともらしく見えるが)、[ヴィガノ大司教の]報告書が発表されることなく教皇の机の上に置かれたままである理由がよく説明できることになる。」

ここ数日前にニュースサイト「クリスチャン・トゥデイ(Christian Today)」では、「中国が、キリスト教徒の村人たちに信仰を放棄して、代わりに共産党の指導者たちを礼拝するように命じた」というニュースが報じられたばかりです。(24) 共産党独裁政権によるキリスト教徒たち、そして聖座に忠実なカトリック教徒たちへのこのような迫害を目の当たりにしていても、数日前のお告げの祈りのメッセージの際、香港における問題についての訴えを、それを事前に報道機関に公開していたにもかかわらず、ベルゴリオが省いてしまったことから明らかなように、聖マルタの家【フランシスコ教皇の住居】の沈黙はまさに恐るべきものです。(25) 香港の陳枢機卿が公に糾弾してきた聖座と北京との間で交わされた秘密合意は、ベルゴリオの教会が中国共産党独裁政権の絶対的命令(diktats)に服従していることを示しており、そのため、地元の位階階級の聖職者たちを迫害者の手に引き渡し、またこの独裁体制によって行われている人権侵害について沈黙を守っているのです。

2014年の春、私は国務長官のパロリン枢機卿に手紙を書き、マカリックが米国務省の代理として中央アフリカ共和国を訪問したことを報じたワシントン・タイムズ紙掲載の記事を受けて、ベネディクト十六世がマカリックに課した制限がいまだ有効かどうかを尋ねたことを思い出します(26)。パロリン枢機卿からの返答はありませんでしたが、最近出てきているニュースから、これらの面も明らかになっているように思えます。マカリックに与えられた移動の自由についても知られていました(27)し、彼自身も2012年にこう書いています。「私は先週ドーハにいて、今からアイルランドに行きます・・・それに続いて・・・私の最長の旅行の一つを始めます。ベイルート、ヨルダン、エジプト、タイ、ミャンマー、カンボジア、香港・・・その後、私は旅行を再開して聖地とベラルーシへ」。 (28) そして2014年にはこう書いています:「私は27日の木曜日に中国に向けて出発します・・・[国務長官]パロリン枢機卿は私の中国旅行に関わっているので、きっと私に会ってくれるでしょう」。(29)

また、北京の独裁政権に対するバチカンの外交的な動きについてのイエズス会の協力が、同会発行の雑誌「チヴィルタ・カットリカ(Civiltà Cattolica)」の中国語特別版を皮切りに、中国にお墨付きを与えようとする聖座の意思を裏付けています。ちょうどこの間、国際的な地政学的バランスを不安定化させるために新型コロナウイルスを蔓延させた中国の責任についての疑惑が登場しているにもかかわらずです。アントニオ・スパダロや他のイエズス会士(全員ヴィラノヴァ大学をよく訪問しています)の役割は象徴的であり、それは教理的進歩主義と道徳的倒錯や政治的腐敗を結びつける赤い糸を示しています。一方で、異端、同性愛、腐敗というこの三つの要素は、非常に頻発するため、ほぼ「ディープ・ステート」と「ディープ・チャーチ」のしるしと言ってよいでしょう。
【訳注:ディープ・チャーチ(deep Church)とは、バチカン内部で秘密裏に力を持つグループのこと。アメリカ合衆国(The United States of America)は、50の州(states)の連邦で構成されているが、そのもっと深いところで米国を操るとされるディープ・ステート(deep state)--「闇の政府」あるいは「国家内国家」とも言われる -- になぞらえてヴィガノ大司教が名付けた。】

「ディープ・ステート」といえば、世界保健機関(WHO)が中国を喜ばせるための世論操作の作戦に自ら加担していることも、トランプ大統領がこれまでそのために使われてきた資金提供を撤回することを決定したことも、驚くべきことではありません。むしろ驚くべき、かつスキャンダラスなことは、共産主義専制政治の庇護と、世界統一主義(globalist)の諸政党の共謀の下で、ベルゴリオの教会を世界政府の霊的部門【宗教担当】にする一種のクーデターに直面していながら、バチカンがそれに共謀するように沈黙していることです。

イタリアは、選挙を通さずに選ばれた政府と、最も深刻な政治的危機に陥っている議会多数派の下、この作戦の進行に従い、北京に対する自らの立場を見直す気がないように見えます。新型コロナウイルスによる緊急事態や都市封鎖への回帰の絶え間ない脅威の直接の結果、民主的に招集された選挙があればその矛盾が示されるはずであるにもかかわらず、現行の権力が維持されています。確かなことは、主流派のストーリーに今より少しばかり辛辣になり、今ほど同調しなければ、有権者やイタリアの国際的なパートナー国の両方から肯定的に見られる可能性があるということです。

【マルコ・トサッティ】聖職者のスキャンダルの問題に戻りましょう。2019年2月19日、スーピッチ枢機卿が議長を務めるサミットが始まる2日前に、レイモンド・バーク枢機卿とヴァルター・ブラントミュラー枢機卿が各司教協議会の会長に宛てて書いた公開書簡が発表されました。
「順序だてて趣旨を議論する前に、まずこの難しい問題が未成年者の虐待問題に矮小化されているように見えます … しかし、それははるかに大きな危機のごく一部に過ぎません … 性的虐待は聖職者主義のせいであるとされています。しかし、聖職者の第一にして主要な過ちは、権力の乱用にあるのではなく、福音の真理から遠ざかってしまったことにあります … このような状況に直面しても枢機卿たちや司教たちは沈黙しています。あなた方も沈黙するのでしょうか。… 今日、[私たちの]ドゥビア【訳注:教皇宛に提出した、教理に関する疑いを挙げた書簡】に対して[教皇から]何らの応答も得られていないだけでなく、その内容もさらにより総合的な信仰の危機の一部にすぎません。ですから、教会の教理の完全性を守り、宣言するために、私たちはあなたがたが声を上げてくださるよう促しているのです」。(30) この著名な高位聖職者たちの訴えは、どのような結果をもたらしたのでしょうか。

【ヴィガノ大司教】バーク枢機卿とブラントミュラー枢機卿のしたことは、他の高位聖職者たちと同様、あっぱれにもカトリックの教理を再確認する以外のなにものでもありません。ところが、前代未聞であることは、教会組織の中では彼らの方が「奇妙」だと見なされ、他方では自分たちの知り合いのゆえに、自分たちのLGBT是認論への支持のゆえに、そしていくつかのケースでは自分たちの行為に懸かる疑いのゆえに、発言権が与えられているのは、本来なら教会から排除され厳しく罰を受けているべきである人々だということです。

2019年4月、ベネディクト十六世は「クレルスブラット(Klerusblatt)」【訳注:ドイツ・バイエルン州の教区の聖職者のための月刊誌】に、今の路線に対する強い反対意見を発表しましたが、これはその後イタリアで日刊紙「コリエーレ・デラ・セラ(Corriere della Sera)」に転載され、(31) 日刊紙「イル・ファット・クオティディアーノ(Il Fatto Quotidiano)」においてマルコ・ポリティ氏がこれに対する猛烈な非難をすることとなりました。(32)
この論文は実は、国務省を通じてローマでのバチカン・サミットに向けに書かれたものでしたが、ボイコットされたのです。このことは、前教皇がこの問題に関する自らの立場を司教たちに知らしめるのを妨害するために、「ラベンダー・マフィア」【訳注:"lavender mafia", 教会内で同性愛受け入れを推進するとされる一派】が介入したことを裏付けています。

【マルコ・トサッティ】このベネディクト十六世の意見がどのようなものだったのか、私たちにもう一度教えていただけますか。

【ヴィガノ大司教】ベルゴリオの支持者たちを激怒させたラッツィンガーのこの論文の焦点は、まさに同性愛と小児性愛との関連性および、公会議後の道徳の緩みと虐待という疫病の蔓延との関連性とを指摘したことでした。

目前にある証拠に頑なに自分の目を閉じたまま、進歩主義者のマルコ・ポリティ氏はこう書きました。「自然法に基づいた倫理を教会が放棄することと、小児性愛との間に何の関係があるでしょうか。カトリックの道徳神学の変化に何の関係があるでしょうか。神学校内のゲイの徒党と何の関係があるでしょうか。ポルノ映画と何の関係があるでしょうか。価値観や道徳的判断の相対化と何の関係があるでしょうか」と。(33) しかし、司祭の候補者や修道者の候補者の養成において、規律や内的生活を放棄してしまうところでは、悪徳や罪が増し、それらが未成年者に対する最も重大な犯罪にまで堕落してしまうのは明らかですし、それだけでは済みません。

この変化の原因はまさしく「公会議の精神」にあります。ベネディクト十六世はそれをただ言及したかっただけなのですが、まさに(第二バチカン公会議という)スーパー教義が問題視されているのを見抜いた人々は、これをたちまち十分に理解しました 。「本当にグロテスク(原文ママ)なのは、『有罪の者の断罪を事実上排除するという段階に至るほど』、被告人を最後の最後まで保護する目的のために教会手続を極端にまで保証するという立場を、『公会議の』精神に結びつけようとする前教皇の試みです」と、マルコ・ポリティ氏はこの文章中で述べています。

「そうであるならば、もし子供を食いものにする聖職者たちの裁判や断罪をこれまで妨害しつづけ、また今もなお妨害しようとする隠蔽工作員たちや悪徳弁護士たちのネットワークが、常にこれほどまで横柄かつ強力であったことが明らかになったとしても、それが公会議の擁護者たちの過ちであり、もっとはっきり言えば、改革主義者たちの過ちだということになるのでしょうか」。(34)

【マルコ・トサッティ】マルコ・ポリティ氏の言い分は正しいとお考えですか。

【ヴィガノ大司教】バチカン専門家であるポリティ氏のこの修辞的な質問に対する答えは、議論の余地なく、肯定的でありうると私は信じます。それは、教会の教理上の危機と、つまずきとなるほどに位階階級の最も高いレベルにまで達している聖職者の不道徳性との間には、非常に厳密な関係があるからです。しかし、さらにまたうかがえることは、この危機が急進的進歩派によって、偽りの教理と一緒に偽りの道徳性を強制するためだけでなく、信徒や世界の前で、自らの指導者たちの行為を通じて聖なる教会と教皇制の信用を回復不可能なほど貶めるために使われているということです。

【マルコ・トサッティ】最終的には、みなが待ち望んでいる報告書が公表されるとはお思いになりませんか。

【ヴィガノ大司教】もしこの事件に光を当てることが可能であるとすれば、それはバチカンの抵抗にもかかわらず実現するということになるでしょう。しかし、それに懸かる利害関係は巨大なものであって、教理的、道徳的、教会法的な問題だけでなく、政治的、外交的な面においても、即ち聖座の主権と独立を守るべきであった人々の共謀によって、聖座がクーデターの対象となってしまったことに関しても、教会の最上層部に直接影響するものです。ベネディクト十六世の教皇在位期間中には成功しなかったことが、彼の辞任後に実を結んだのです。

中国との密約の主要な推進者の一人であったマカリックに自らの選挙で借りを作った人物が、その彼が個人的に関与した一連の出来事を明らかにして、聖座に忠実なカトリック教徒たちに対する中国独裁政権の行為に対する黙認を証明したり、おそらくはベネディクト教皇の辞任に対する中国政権の責任をも明らかにしたりすることなど、私たちがいかにして望み得るでしょうか。ザンクト・ガレンにおける怪しげな出来事【訳注:フランシスコ教皇の選出に大きな役割を果たした改革派の高位聖職者による非公式の集まりがあったとされる】について、まさにそこで陰謀家たちがベルゴリオの選出を計画したというのに、その暗い事実が明らかにされるなどということが、どうしたら想像できるでしょうか。またこの彼らが、異端者たち、変質者たち、裏切り者たちとの共謀のネットワークの内に権力を握り、最高位にまで昇進しているというのに、聖職者たちや高位聖職者たちの腐敗や悪徳を教会がその中から排除するなどということが、どうしたら信じられるでしょうか。

スキャンダルを調査すべき人物が、有罪である人々の任命、昇進、保護に大きく関与しているのです。ベルゴリオは、妥協し、またその結果脅迫されている人々で自らを取り巻いており、彼のメディア上のイメージを損なう危険性がある者は誰でも、すぐにも迷うことなく排除することでしょう。同性愛の合法化は、ベルゴリオの教会が公然と、無条件に支持する「新世界秩序(New World Order)」の作戦進行の一部であることを忘れてはいけません。同性愛の合法化は社会における価値観を不安定化させるだけでなく、また敵【悪魔】がカトリックの司祭職を破壊し、天主の役務者たちの霊魂を堕落させるための主な手段でもあるからです。

このような理由で、少なくとも可能と思われる限りにおいては、マカリックに関する全真相が公式に明らかになることは決してないでしょう。

【マルコ・トサッティ】私たちはこの腐敗にどのように対抗することができるでしょうか?

【ヴィガノ大司教】今日先延ばしにできないのは、善良な人々、つまり私がトランプ米大統領への公開書簡で聖書的に「光の子」と定義した人々が、新世界秩序を打ち立てるために善良な人々に戦争を仕掛けている人々の企みや犯罪を明るみに出すよう、共同で行動することです。この真理と透明性の作戦においては、とりわけ、本来バチカンから貢献すべき人々、貢献し得る人々が、沈黙の掟を守っている今、米国の役割が決定的なものになるかもしれません。主が言われたように、「私は言う。彼らが黙ったとしても石が叫ぶだろう」(ルカ19章40節)。(35)

しかし、さらに重要な霊的側面があります。教会の危機は、教会の王である私たちの主から王冠を取り去ろうと望んだことによって引き起こされたものであることを、私たちが理解しなければなりません。主は私たちの心や家族においてだけでなく、市民社会、そして何よりも教会において、王として治めるために必ず戻って来られなければなりません。Oportet illum regnare.【彼[キリスト]は支配せねばならぬ(コリント前書15章25節)】そして、王の中の王と共に、ロシアを汚れなき御心に奉献せず不従順の罪を犯している教会の元后にして母なる聖母も、また必ず治められます。私の最も切実な願いはこれです。どうか、すべての善意の皆さんが団結してくださるようにお願いします。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ
2020年7月22日
聖マリア・マグダレナの祝日

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1.https://www.churchmilitant.com/video/episode/vortex-mccarrick-bombshell
2.http://www.vatican.va/resources/index_it.htm
3.https://www.vaticannews.va/en/vatican-city/news/2019-02/holy-see-mccarrick-dismissed-from-clerical-state-for-abuse.html
4.https://essayforthefaithful.com/
5.Crimes to which are added others that have recently been documented: cf. https://www.catholicnewsagency.com/news/lawsuit-claims-ex-cardinal-theodore-mccarrick-headed-abusive-sex-ring-names-alleged-procurer-63583
6.http://w2.vatican.va/content/francesco/en/speeches/2019/february/documents/papa-francesco_20190221_incontro-protezioneminori-apertura.html
7.Cf. ad esempio https://www.ilpost.it/2019/02/25/incontro-abusi-sessuali-vaticano/
8.http://www.vatican.va/content/francesco/en/speeches/2018/august/documents/papa-francesco_20180826_irlanda-voloritorno.html
9.http://www.vatican.va/resources/resources_card-cupich-protezioneminori_20190222_en.html
10.https://www.lastampa.it/vatican-insider/it/2018/11/13/news/le-ragioni-del-rinvio-del-voto-sulle-norme-anti-abusi-negli-usa-1.34060080
11.https://youtu.be/b3iaBLqt8vg 【18:26 頃から当時枢機卿だったマカリックは、«a very influential Italian gentleman» について語っている。】
12.https://international.la-croix.com/news/the-limits-of-a-pontificate-part-i/12170
13.http://www.vatican.va/resources/resources_card-marx-protezioneminori_20190223_en.html
14.https://www.churchmilitant.com/news/article/tobin-tarmac-tweet-raises-eyebrows
15.https://www.today.com/video/how-cardinal-joseph-tobin-found-his-calling-in-the-catholic-church-1496688707952
16.http://press.vatican.va/content/salastampa/en/bollettino/pubblico/2019/09/30/190930a.html
17.https://lanuovabq.it/it/e-paglia-ando-in-cielo-con-trans-e-gay
18.https://www.repubblica.it/cronaca/2020/06/07/news/vaticano_il_verbale_di_mos_carlino_pena_parra_mi_disse_come_procedere_su_torzi_-258667074/
19.https://espresso.repubblica.it/attualita/2018/10/12/news/le-condotte-immorali-del-nuovo-braccio-destro-del-papa-spunta-un-dossier-che-fa-tremare-il-vaticano-1.327763
20.https://www.marcotosatti.com/2019/08/01/accuse-di-vigano-a-pena-parra-conferme-da-maracaibo-vigano-accuses-pena-parra-confirmations-from-maracaibo/
21.http://magister.blogautore.espresso.repubblica.it/2017/12/28/vaticano-senza-pace-soldi-sesso-e-presepe-lgbt/
22.http://www.korazym.org/44412/lo-strano-caso-del-presunto-abusatore-zanchetta-riapparso-e-il-processo-promesso-dal-papa-a-carico-del-suo-amico/
23.http://www.korazym.org/44391/saga-60sa-inchiesta-della-magistratura-vaticana-per-scandalo-finanziario-in-segreteria-di-stato-riflettore-sulle-normative-vaticane-vigenti/
24.https://www.christiantoday.com/article/china-tells-christians-renounce-faith-in-jesus-worship-president-xi-jinping/135221.htm
25.https://www.lanuovabq.it/it/hong-kong-la-santa-sede-si-inchina-al-regime-cinese; https://www.liberoquotidiano.it/news/italia/23616123/papa-francesco-socci-hong-kong-cina-angelus-passaggio-sparito.html
26.McCarrick, in his correspondence with his secretary Msgr. Figuereido, qualified himself as “an adjunct member of the foreign service.”; cf.https://www.cbsnews.com/news/cardinal-theodore-edgar-mccarrick-vatican-restrictions-anthony-figueiredo-letters-report-2019-05-28/
27.According to Catholic News Agency: “In a 2009 visit to China, then-Speaker of the House Nancy Pelosi conveyed McCarrick’s greetings to Bishop Aloysius Jin of Shanghai, a priest who was a leading Chinese Jesuit, then spent decades in prison on charges of aiding counterrevolution before his release in 1982. He was ordained an auxiliary bishop without Vatican approval in 1985, though he received Vatican recognition in 2005. The bishop said he and Cardinal McCarrick had exchanged visits “beginning when the latter was Bishop of Newark (sic).” Pelosi said she would convey the bishop’s greetings back to Cardinals McCarrick and William Keeler, then an Archbishop emeritus of Baltimore».; Cf.https://www.catholicnewsagency.com/news/despite-mccarrick-abuse-claims-state-department-leaves-questions-unanswered-70448
28.https://www.cbsnews.com/news/cardinal-theodore-edgar-mccarrick-vatican-restrictions-anthony-figueiredo-letters-report-2019-05-28/
29.Ibid.
30.https://www.ncregister.com/blog/edward-pentin/cardinals-burke-brandmueller-abuse-crisis-symptom-of-turning-away-from-trut
31.https://www.corriere.it/cronache/19_aprile_11/papa-ratzinger-chiesa-scandalo-abusi-sessuali-3847450a-5b9f-11e9-ba57-a3df5eacbd16.shtml; cf https://www.catholicworldreport.com/2019/04/10/full-text-of-benedict-xvi-the-church-and-the-scandal-of-sexual-abuse/
32.https://www.ilfattoquotidiano.it/2019/04/12/pedofilia-qualcosa-non-torna-nel-contromanifesto-di-papa-ratzinger/5104990/
33.Ibid.
34.Ibid.
35.Lk 19: 39

コメント

新使徒憲章 Praedicate Evangelium プレディカーテ・エヴァンジリウム【福音を宣教せよ】(その2)

2020年08月10日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

今年の12月8日、第二バチカン公会議の閉幕55周年を迎えます。公会議でまかれた種が木になり、実を結び続けています。アマゾン・シノドスは「新たな聖霊降臨」とされましたが、教皇フランシスコは「新たな聖霊降臨」を待望しています。

新使徒憲章 Praedicate Evangelium プレディカーテ・エヴァンジリウム【福音を宣教せよ】公布は間近いとのニュースを耳にします。これにより、バチカン改革と主要枢機卿ポストの交替が目前に迫っています。

第二バチカン公会議以前には、カトリック信仰こそがカトリック教会の宝であり、最も大切なものでした。したがって、検邪聖省(Holy Office)が、最も重要な機関でした。

しかし、第二バチカン公会議以後は、検邪聖省は単なる「教理省」となり、「国務省」が「教理省」より大きい権力を持つようになりました。

新しい使徒憲章によって、教理省は「教理部署」になるか、あるいは、リストの順位が一位になる「福音宣教部署」に統廃合されて飲み込まれて、無くなってしまう可能性もあります。

女性が様々な部署の長官になるでしょう。

世俗の国家のように、国務省と財務部署が、権力を振るうでしょう。

計算し尽くせない結果が新しい使徒憲章から生じると思います。しかし、教皇の使命は「兄弟たちの信仰を固める」ことです。

私たちは、今までに増して、教皇聖下の為に祈ります。

さて、日本語に訳された記事から、以下、要点をご紹介いたします。

カトリック教会の中心にあるバチカン、その官僚機構のメンタリティと構造を改革しようする教皇フランシスコの現在の最も野心的なプロジェクトだ。

フランシスコは2013年3月に教皇に選出されてちょうど一か月後、「枢機卿顧問会議(C9)」を設けた。

当初、世界各地から教皇が選んだ9人で構成され(現在メンバーは6人)、そして、現在のバチカンの体制を規定している使徒憲章『Pastor Bonus』に代わる新使徒憲章によって、バチカンを抜本改革する計画を策定するという具体的な使命も与えられている。

『Praedicate Evangelium』の草案は1年以上前に完成しているが、教皇は世界各国の司教協議会、特定の修道会の総長たち、そして何人かの神学者たちから、追加の提案を受けることを希望された。

今年の2月22日の聖ペトロの使徒座の祝日、遅くとも6月末の聖ペトロ・聖パウロの祝日までに最終文書が発表される、ということが、今年の年初には言われていた。

バチカンの情報筋によると、新使徒憲章『Praedicate Evangelium』は完成し、教皇フランシスコが既に署名を終え、主要言語への翻訳作業に入っている。翻訳が完成すれば、新使徒憲章は正式に公開される、という。

新使徒憲章がいつ発表されようと、それは歴史的なものとなり、影響は多岐にわたると予想される。

新使徒憲章が実施に移されると、バチカン幹部の大規模な人事異動だろう。

間もなく、バチカンを拠点に活動する枢機卿20人以上が司教定年=現職の閣僚ポストからの退職の年令=を迎える。このため、あたらな指導者たちの任命が必要となる。

・司教省長官
教皇フランシスコは、司教省の長官、マルク・ウエレット枢機卿の後任を決めねばならない。

・典礼秘跡省、東方教会省、教育省の長官
典礼秘跡省の長官を務めているロバート・サラ枢機卿も6月15日で75歳になった。

・東方教会省長官のレオナルド・サンドリ枢機卿も76歳で、交替期を迎えている。

・教育省長官も交替するだろう。現長官のジュゼッペ・ベルサルディ枢機卿は今月末に77歳になる。

・聖職者省長官、列聖省次官
聖職者省の長官を務めてきたベニアミノ・ステラ枢機卿も交替が求められている。
聖職者省の次官、ジョエル・メルシェ大司教も交替となる可能性がある。年初に75歳になっているからだ。
列聖省の次官、マルチェッロ・バルトルッチ大司教も、このほど76歳となったため、教皇フランシスコが彼の辞表を受理すると予想される。

・バチカン市国の管理者たち、内赦院長
現在の行政庁長官のジュゼッペ・ベルテッロ枢機卿は2011年からこの職に就いており、あと3か月で78歳の誕生日を迎える。
総務局長を2013年から務めている大司教フェルナンド・ヴェルジェス・アルザガ大司教も定年だ。2人とも交替となる。
内赦院長のマウロ・ピアチェンツァ枢機卿もそうだ。
・教理省長官
教理省長官のルイス・ラダリア枢機卿。スペイン人イエズス会士は今年4月に76歳になった。

・新福音化推進評議会議長サルバトーレ・フィジケッラ大司教
教皇フランシスコは現在、 同評議会の廃止、福音宣教省への機能統合を進めている。教皇は福音宣教省の長官に63歳のフィリピン人アントニオ・タグレ枢機卿を任命したばかりだ。

経済評議会(財務評議会)the Council for the Economyを構成する8人の枢機卿のうち、5人ないし6人が退任する。
経済評議会の座長で66歳のミュンヘン大司教、ラインハルト・マルクス枢機卿は同評議会に残る。

教皇は、バチカン財務の実権握る財務評議会議員に女性6人任命
バチカンは6日、教皇フランシスコが財務評議会の新議員に女性6人を任命した、と発表した。
財務評議会は、教皇庁の各省庁や聖座とバチカン市国に関連する諸機関の財務の管理・運営を監督する機関。
議長に教皇の腹心とされているラインハルト・マルクス枢機卿を置き、教皇がバチカンで最重要視する機関の一つ。これまで全員が男性で占められていた定員15人の議員ポストに一挙に6人の女性任命。

バチカン改革で枢機卿も欠員を補充せねばならないが、対象者はまだ枢機卿になっていない者も含まれる可能性がある。そのような予想の根拠は、近く開かれるであろう枢機卿会議に備えて15個の指輪を発注したことにある。








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公式発表が間近に迫ると言われている新しい使徒憲章「Praedicate Evangelium プレディカーテ・エヴァンジェリウム」

2020年08月10日 | カトリック・ニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

すでに一年前に報道された内容ですが、あまり知られていませんし、公式発表が間近に迫ると言われているので、新しい使徒憲章「Praedicate Evangelium プレディカーテ・エヴァンジェリウム」についてご紹介いたします。

草案をもとに一年前に報道された内容によると、新しい使徒憲章「Praedicate Evangelium プレディカーテ・エヴァンジェリウム」は、国務省への権力の集中化と、教義的規律の弛緩化につながるだろうと予想されています。要点を挙げます。

*バチカンの行政機構を完璧に変革させる。バチカンの様々な部署を合理化し統廃合しスリム化する。
*「省 Congregations」などは皆、「部署 dicasteries」に名前を変える(格下げされる)。

*「福音宣教部署」がリストの最初に挙げられる。教会が何を優先するかを暗示させる。(今までは「教理省」がリストの最初にあり、省の中で一番重要であると考えられていた。)

*すべての部署は、互いに法的に平等だとされる。ただし、例外は「国務省」(Secretariat of State)である。国務省は、名前もそのまま残る。

*いままでは、各省は、教皇からの恒常的な委任を受けていたので、教皇の権威をもって一般法令を発布することができたが、これからは、すべてにおいて教皇の特別の許可が必要となり、教皇に権力が集中する。しかし、教皇の許可を一つ一つ、各部署が取ることは極めて困難になるので、国務省の力がますます強くなる。

*平信徒も(女性を含めて)各部署の長官となることができる。(今までは聖職者のみが統治の行使を実行できると教会法の規定があった。)ただし、国務省の長官だけは、枢機卿でなければならない。(現在は、ピエトロ・パロリン枢機卿)

*新使徒憲章は、前書きで団体主義 collegialityや、補完性 subsidiarity について語っているが、実際は単なる「国務省」への権力の集中化。教皇の承認なくしては何もできず、教皇に近づくには国務省長官を通さなければならない。

*部署の長官たちは、頻繁で定期的な会合を行うことが想定されている。「崇高な原理」だが「デザインにより不効率」に終わるだろう。ソヴィエト式モデルに従って、話し合いは多いが、国務省[書記長]が全てを決める。計画的に教皇の承認を受けるのが難しくしてある。

*国務省への権力の集中化にバランスをとるために、各国の司教評議会により大きな権力が移譲される。

*改革された「教理部署」は、「信仰の擁護」のために、地方の司教評議会と協力することになり、補完性の原理を適応する。個別教会については地方の司教評議会が「主要な責任」を負い、彼らが「正真の教義的権威」を享受する。

*この草案に対する反応をいくつか挙げると、今後は、ローマは、地方のことに口をはさまない。離婚して再婚した人たちに聖体拝領をするか否かで大きな混乱が起こったばかりであるが、地方の司教たちに「真正の教義的権威」があるとすることは、より大きな混乱が予想される。各国の司教評議会との「連邦制」の始まり。これは、教皇庁が解決するために存在している諸問題を、まさに、作り出すために計画された新しいシステム。権力と資金は全て国務省に行く。そのほかは全て窓から捨てられる。

Analysis: New Vatican constitution to centralize power in state secretariat

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【ショッキング!】このイラストは、私たちの主の御変容・洗礼の神秘のパロディー

2020年08月06日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

いかがお過ごしでしょうか?

次のブログの記事を読みました。

この記事には、「フィリピン・アフリカを助ける会だより」というニュースレターの写真もありました。


イエズス・キリストの御洗礼の時、イエズス・キリストに鳩の形の聖霊が下りました。Columba Spiritus sanctus est 。

私たちの主イエズス・キリストは天の高いところから地上に降りて人間の本性を受け人となり私たちのあいだに住み給うたので、また、私たちの無数の罪を一身に引き受けてヨルダン川で洗礼を受けられたので、聖霊は山鳩ではなく鳩の形で現れたとも言われています。

その時、天から御父の声がしました。「これは私の愛する子である」と。

御変容の時も同じ言葉を御父は言います。
天から声が聞こえて、聖父が、「これは私の愛する子である。彼の言う事を聞け」と。御変容を見た三人の使徒らは死んだようになると、イエズス様が彼らを戻して「恐れるな」と言います。彼らはイエズス様だけを、イエズス様をしか見る事がなかった、とあります。

山の上に立つ地蔵菩薩に聖霊が下り、案ずるな、恐れるな、と言わせているこのイラストは、イエズス・キリストの御変容と洗礼の神秘のパロディーです。

聖霊は地蔵菩薩にも働きかける、とはっきり伝えようとしています。

何故?これは第二バチカン公会議に誤った命題【カトリック信仰に反する文章】が挿入されているからです。

「われわれは、これらの分かれた諸教会と諸教団には欠如があると信じるが、けっして救いの秘義における意義と重要性を欠くものではない。なぜならキリストの霊はこれらの教会と教団を救いの手段として使うことを拒否しないからであり、これらの救いの手段の力はカトリック教会にゆだねられた恩恵と真理の充満に由来する。」(エキュメニズムに関する教令§3)

「キリストの霊【聖霊】はこれらの教会と教団を救いの手段として使うことを拒否しない」、つまり、どんな宗教でも聖霊が働いていて、救われる、と言うことです。

だから、第二バチカン公会議の種は、今や大きく育ち、アシジの諸宗教の集会となり、パチャママ(母なる大地)崇拝となり、アブダビ宣言となりました。まだまだ、大きくなるでしょう。

しかし、私たちは聖ペトロの言葉を信じます。第二バチカン公会議の巧みな作り話を信じません。

「私たちは、主イエズス・キリストの力と来臨とを知らせたとき、巧みな作話をしなかった。私たちはそのみいつの目撃者であったからである。おごそかな光栄の中から「これは私の愛する子である。私はかれをよろこびとする」と声があって、主は父なる天主から、ほまれと光栄とを受けられた。私たちも、かれとともに聖なる山にいたとき、天からくるこの声を聞いた。こうして私たちは預言のことばに深く信頼をおいた。夜明けがはじまり、あけの明星があなたたちの心にのぼるまで、暗闇にかがやくともし火として、預言のことばにたえずより頼むのは、よいことである。」(ペトロの後の手紙)







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【拡散希望】ヴィガノ大司教とタウシグ司教との二つのパレーシア(臆することなく発言すること):ヴィガノ大司教のサン・ラファエル教区の神学校の閉鎖に関する手紙

2020年08月05日 | カトリック・ニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2020年7月30日付でヴィガノ大司教はタウシグ司教に手紙を書きました。

【手紙の背景:手による聖体拝領の強制:サン・ラファエル司教区の神学校の閉鎖】


アルゼンチンのメンドーサ州、サン・ラファエル司教区のエドゥアルド・マリア・タウシグ(Eduardo Maria Taussig)司教は、アルゼンチンで一番神学生が多い保守的な神学校を廃校にすることを決定しました。

タウシグ司教は、コロナウイルスによる教会閉鎖が終わって、教会が再開された時に、コロナウイルスを口実に、聖体拝領は手だけに与えることを命じました。しかし、サン・ラファエルの神学校では150以上の家族と神学生たちは手による聖体拝領を拒否しました。神学校校長は神学生たちには口で聖体拝領をする当然の権利があると、跪いて口による聖伝のやり方を弁護しました。そこで、司教は校長の司祭を解任して復讐し、さらに他の教授の司祭たちも口に聖体拝領を授けているので、「聖座からの指導に従い」、2020年末に「天主の御母聖マリア神学校」を廃止することを7月27日に発表しました。

サン・ラファエル司教区長は、廃校までの間、一時的にビクトル・トレス・ホルダン(Víctor Torres Jordán)神父を新しい校長として任命しました。

この神学校は1984年に創立され、現在39名の神学生がおり、アルゼンチンでは、Instituto del Verbo Encarnado修道会の神学校の次に、大きい神学校です。この神学校で学んだ司祭たちは、司祭職を辞める人の率が最低で、過去15年でたった一人のケースだけでした。

口による聖体拝領を許していた問題で、サン・ラファエル司教区近隣の司教がつい最近そのポストを失ったので、タウシグ司教はそれを恐れているのかもしれません。手による聖体拝領を押し付けるために神学校を閉じさせる、それが「聖座からの指導」つまり「憐み」の聖マルタの家からの命令だったのでしょう。(1976年にも似たようなことがエコンの神学校にもあったことを思い出します。)「手による聖体拝領」が、教会改革を推進する人々にとって、どれほど最重要課題なのかを、垣間見ることができます。

(上の写真は、司教に懇願する信徒たち)

【手紙の内容】
そのショッキングなニュースを受けて、ヴィガノ大司教はタウシグ司教に手紙を書きました。イタリア語版は、いくつかのウェブサイトなどで読むことができます。英語版はここにあります。

ヴィガノ大司教は、手紙の中で、パレーシア(これはギリシア語で、危険を冒してもあえて話すことを含め、包み隠さず、全てを"臆することなく話す"(使徒行録4:13)こと)という単語を出して、パレーシアをしていてそれは良いことであるとタウシグ司教を褒めます。

元駐米教皇大使は、最高の玉座に座すフランシスコ教皇から、私たちがパレーシアを実行するように招かれていることを想起させ、教皇がこのパレーシアによって聖職者中心主義を打ち砕き、教会をもっと改革するように進めておられることにも触れています。

まさに、このパレーシアこそ、この手紙のキーワードだと思います。

ヨハネ・パウロ二世は1986年のアシジの諸宗教の集まりこそが、第二バチカン公会議を正しく理解するためのイラストレーションである、と言いました。

ブラジルの引退司教クラウジオ・ウミス(Cláudio Hummes)は、アマゾン・シノドスが第二バチカン公会議の結論であると説教で説明しました。

教皇フランシスコは、アブダビ宣言の「文書は第二バチカン公会議から一ミリもずれていない、この文書は第二バチカン公会議の精神において作られた」と包み隠すことなくはっきり言い、パレーシアを実践しました。“dal punto di vista cattolico il documento non è andato di un millimetro oltre il Concilio Vaticano II. Niente. Il documento è stato fatto nello spirito del Vaticano II”

【教皇フランシスコとアル=アズハルの大イマームが署名した世界平和と共存のための人類の兄弟愛に関する文書、いわゆるアブダビ宣言には、天主が性別(人間の本性に基づく)を欲するように、宗教の多様性も欲する、「宗教の多元性と多様性」が「天主の知恵深い御旨」である、という天主の第一戒に反する内容がある。】

たとえ第二バチカン公会議の中に明記されていなくとも、たとえそれが第二バチカン公会議以降、例外事項として特例として許されている事柄であったとしても、第二バチカン公会議の正しい解釈の仕方が何かを、実際の行動で示しそれを強制することもパレーシアです。

本当は違法なのだけれど、本当はカトリック教会がかつては禁止してきたことだけれども、その違法と禁止条項を行うことこそが、第二バチカン公会議の精神による正しい行いであって、いままでのような信仰は、「考え方」を変えなければならない、とはっきり力づくで押し付けるパレーシアです。第二バチカン公会議は過去と断絶しているものだとはっきり言うボローニャ学派の主張です。この主張は「連続の解釈学」ではなく「断絶の解釈学」です。

いままでは、「一部の司教や司祭の権力の乱用」だとか、「第二バチカン公会議を誤解」しているとか、ごまかしていたけれども、じつは乱用でも誤解でもなく、第二バチカン公会議後の新しい教会は、乱用とか誤解と思われていたことをしなければならない、それが公会議後の、with公会議の「新しいノーマル」だ、「教会は元には戻らない」ということを臆面もなく言い放つパレーシアです。たとえば、口による聖体拝領はもう終わった、と。

フランシスコ教皇は、現在はC6と呼ばれている六名の枢機卿たちを顧問としたグループを任命していますが、教会の行政機構をもとに戻すことができないほど変更させると言っています。教会は、「健全な非中央集権化」され「交わりのプラットフォーム」「情報・意見交換のためのフォールム」となる、と言われています。

第二バチカン公会議後、カトリック信仰の正統性については、ますます重要性を失わされてきています。例えば、第二バチカン公会議により、公会議以前にはもっとも重要であった検邪聖省(Holy Office)が教理省になり下がりました。第二バチカン公会議の正しい理解をはっきりと示すために、パレーシアを実践するために、もしかしたら、「教理省」はもっとその力を弱めるようになるかもしれません。もしかしたら、将来、例えば、タグレ枢機卿(ボローニャ学派と言われている)が現在長官である「福音宣教省」に飲み込まれてしまう、とか。あるいは、平信徒(女性を含める)が、司祭の代わりに小教区を運営する、とか。

だから、アルゼンチンのタウシグ司教は、神学校廃校をもってそのパレーシアを実践しました。

だから、スイスのバーゼル教区のフェリックス・グミュール司教は、女性が祭服を着て「ミサの真似」を定期的に行っていても、何の処罰も受けないのです。これもパレーシアの実践です。

だから、日本でも、いろいろな口実を使って手による聖体拝領が強制させられ、もしも、誰かが新しいミサの最中に跪くのならば罰を受けるのです。これも第二バチカン公会議後のやり方は過去とは断絶してこれからは新しい教会、「手作りの教会」を作るのだから、おまえらは新しい宗教についてこい、と行動をもって発言しているパレーシアです。

だから、ヴィガノ大司教もパレーシアを実践します。聖霊にみたされたペトロが、ユダヤ人のかしらたち、長老たち、律法学士たちに対して「臆することなく話した」ように、空気を読むことなく、ヴィガノ大司教は言うべきことをズバリと言います。

● 手による聖体拝領を拒否した平信徒や神学生たちは、福音が「羊は彼の声を知っている」と言う良き牧者たちに従っている。

● 手による聖体拝領を強制するのは「羊のことを心にかけぬ」雇い人であり、そのような司教には、彼らは従わない。

● 雇い人のような司教らにとっては、手による聖体拝領を強制して御聖体を冒涜しても、たいしたことではないし、定期的に不正かつ冒涜的に女性が「ミサを挙行」しても、同じくどうでもいい問題だ。

● 手による聖体拝領を拒否した平信徒や神学生たちがいるということは、教会において聖霊が働いていることを証明している。慰め主なる聖霊は、謙遜な人々や弱い人々に剛毅の賜物を注入し、御聖体への信仰を明らかに宣言させている。

● 手による聖体拝領の強制には、父や兄弟として気遣いも無ければ、まことの愛徳もまったく存在していない。そこには善と真理とがないからだ。キリストの教会の破壊に参加していることだからだ。

● 手による聖体拝領を強制することは、重大な悪であり、重大な償いの義務を課す。


では、次に日本語訳をご紹介いたします。

ヴィガノ大司教のタウシグ司教への手紙

2020年7月30日

司教様、

サン・ラファエル教区の神学校を閉鎖し、同校の校長アレハンドロ・ミゲル・シアロッチ神父(Fr. Alejandro Miguel Ciarrocchi)を解任するという決定について国際的な報道で知って、私は戸惑い、心を痛めています。

この決定は、あなたの熱心な求めにより、ローマの聖職者聖省によってなされたと言われています。ローマの聖職者聖省は、あなたの裁治権下にある一部の聖職者たちが、いとも聖なる御聖体を、舌の代わりに手に授けたり受けたりするのを拒否しているのが容認できないと考えた、と。サン・ラファエル司教区の司祭たち、聖職者たち、信徒たちの称賛に値する首尾一貫した態度を絶好の口実にして、アルゼンチン最大規模の神学校を閉鎖し、他の場所で、あまりにも模範的なために今では空っぽになっているいろいろな神学校で神学生らを再教育するために彼らを散り散りにさせたのではないかと、私は思いました。司教様は、パレーシア[parrhesia]【訳注:危険を冒してもあえて話すのを含め、包み隠さず洗いざらい全てを"臆することなく話す"(使徒行録4:13)こと】への招きを実際の行動に移すという非常によい仕事をされています。私たちは、そのパレーシアの名によって、最高の玉座【教皇】によって糾弾された聖職者主義という災いを打ち負かすこととされていますから。

過去数十年の間にわたって行われてきた超近代主義者による教化という弛まぬ叩き込みにもかかわらず、司教の宮廷への臣下の服従を優先させるよりは、御聖体が当然受けるべき敬意を払う勇気ある司祭たちや聖職者たちがいまだに存在するのを見て、あなたが失望したのを私は理解できます。また「アンデスのヴァンデ」【訳注:フランス革命時のカトリック王党派による革命に反対したヴァンデ地方の民衆になぞらえている】と呼ばれてきた地域の平信徒や全家族さえもが、福音が「羊は彼の声を知っている」と言う良き牧者たちに従い、「羊のことを心にかけぬ」(ヨハネ10:4,13)雇い人たちには従わないのを見たことによる、あなたのいらだちを私は想像することができます。

これらのエピソードは、教会における聖霊の働きを裏付けています。慰め主なる聖霊が謙遜な人々や弱い人々に剛毅の賜物を注入し、高慢な人々や権力を持つ人々を戸惑わせ、一方では祭壇の至聖なる御聖体の秘蹟への信仰を明らかにし、他方では世間体による罪深い冒涜を明白にします。この世の考え方に従うことで、司教様は教会の敵による安易で利己的な喝采を得るかもしれません。しかし、良き人々が全員一致で認めないことは避けられないでしょうし、御聖体のベールの下に御自身の御体、御血、御霊魂、御神性においてまことに現存され、聖なる牧者たちに御自分の証人となることを、御自身への裏切り者や迫害者ではなく証人となることをお求めになる天主の御裁きをも避けられないでしょう。

司教様、あなたが司教の紋章にお選びになった標語「Paterna Atque Fraterna Charitate(父として、兄弟としての愛徳)」とあなたの行動とには一種の矛盾がある、と私が指摘することを司教様は許してくださることでしょう。聖なるホスチアを冒涜したくない司祭を罰することについては、父として気遣いは何もありませんし、また、不当な命令に従わなかった人々へのまことの愛徳も、いかなる形であれ何もありません。
愛徳とは、善と真理のために行使されるものです。もしそれが誤謬を起源とし、悪を目的とするならば、それは聖徳の奇怪な猿真似にすぎません。王の中の王に帰されるべき名誉を擁護し、この崇高な目的のために努力する人々を称賛する代わりに、栄えている神学校を閉鎖し、公に自分の聖職者を叱責するまでに至った司教は、愛徳の行為ではなく、むしろ嘆くべき虐待を行っているのであり、天主の御裁きの座の前で責任を問われるでしょう。
永遠の観点のもとで(sub specie aeternitatis)その行為自体において、更にまた、その行為が小さき人々につまずきを起こしているという理由で、あなたの行為がどれほど深刻なものであるかをあなたが理解なさることを私は祈っています。教皇庁立聖トマス・アクィナス大学(Angelicum)であなたは学んだのですから、司教様の健全な悔い改めのわざの助けになるはずですし、この悔い改めは、[司教様に]重大な(sub gravi)償いの義務も課します。

報道によると、バーゼル教区[スイス]のリギ・カルトバート教会では、祭服を着た女性が、叙階された司祭の不在の中、聖変化の言葉のみを省略しつつ、ミサの挙行の模倣を定期的に行っているとのことです。バーゼルのフェリックス・グミュール司教は、ローマの聖省に依頼して、ミサの冒涜的な模倣を模範的に処罰することで、あなたが持っておられるのと同じような熱意を持って、功績を挙げてくださるのでしょうか。

しかし、私は、あなたに従わない義務を果たした司祭らを罰するためにあなたが示した柔軟性のなさを、スイスでは競ってやろうとはしないと思います。確かに、もしある司祭がリギ・カルトバートの同じ祭壇でトリエント典礼のミサを挙行していたならば、教区長の矢が彼を射って撃ち落するのはすぐになされたでしょうが、不正かつ冒涜的に「ミサを挙行する」女性は、今日では、たいしたことではなく、ちょうど祭壇の聖なる秘蹟である御聖体を冒涜するのと同じように無視できるものと考えられているのです。

あなたが不当に処罰し、重大な侮辱を与えた教区の聖職者たちや信徒たちとともに、司教様、私はあなたのために、また聖座の高官たちのために、そして特に、ベニアミノ・ステラ枢機卿のために祈ります。
私はこの枢機卿のことを、私が教皇使節代理の資格でコロンビアのボゴタを訪問した時、熱心な司祭であり忠実な教皇大使として知っていました。彼はかつて私の友人でした。私は何年にもわたって彼とともに国務省で働いていました。残念なことに、今やもうこの頃では、彼がキリストの教会の破壊に参加しているために、私は彼をもはや昔のままの彼を認めることができません。

私たちは、あなたの回心のために祈ります。その回心は、私たち全員が呼ばれているものですから。しかし、天主の栄光のためというよりも霊魂たちの善に反し教会の名誉に反して働いている人々にとっては、この回心をもはや先延ばしにすべきではありません。

司教様、あなたが宣戦布告なさったサン・ラファエルの神学生と信徒のために私たち全員で祈りましょう。
真理において、兄弟の愛をもって

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ

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【再掲】第二バチカン公会議の徹底的検討を求める教皇ベネディクト十六世への嘆願書

2020年08月01日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 さて、イタリアの知識人たちが2011年9月に第二バチカン公会議の徹底的検討を求める教皇ベネディクト十六世へ嘆願書を提出しました。その日本語訳を作って下さった方がおられますので、ご紹介いたします。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

***

第二バチカン公会議の徹底的検討を求める教皇ベネディクト十六世への嘆願書

<>和訳者補足

教皇聖下、

プラート教区司祭であり聖ペトロ大聖堂参事会員、さらに教皇庁立ラテラノ大学の元教会論教授にして、イタリア人神学者たちのうち最年長者として著名なモンシニョール・ブルネーロ・ゲラルディーニ(Mons. Brunero Gherardini)は、2009年に第二バチカン公文書に関する批評的な討論、つまり冷静かつ公な方法で開かれる批評討論会の開始がなされるために、非常に恭しくも切迫した嘆願書を聖下宛に送られました。この嘆願手続きには、ローマ欧州大学の教会史及びキリスト教史の教授であり、国民研究評議会(Consiglio Nazionale delle Ricerche)副議長であるロベルト・デ・マッテイ(Roberto de Mattei)が2010年に加わっております。

 嘆願書の中に、モンシニョール・ゲラルディーニはこう書きました:

「カトリック教会の善の為にこそ‐また特にその中でも、第一にして最高の教会法である、霊魂の救いの実現の為に‐、第二バチカン世界教会会議の名による 聖書解釈学及び神学、さらに史料編纂学及び“司牧活動の”自由創意から成る数十年間を終え、当公会議とそれまでに開かれた諸々の公会議との継続性に関する疑問、つまり当公会議はカトリック教会の聖伝に忠実なのかという疑問に、権威を持って答える事により(今回に関して言えば、単なる宣言ではなく、実際の証明を提出するというやり方に基づく)僅かなりとも明瞭化が施される事は急を要すると私には思えます。(…)

 実際、先ずあの公会議全体や、当公会議の各公文書、当公文書の各テーマ、さらにこれらのテーマ並びに公文書にある直接及び間接的な典拠について、入念かつ学術的な分析を実施せずに、聖下がお望みになっている[これまでの全教導権との]継続性の解釈学を浮上させようとするのは、もし不可能でないのであれば、かなりの無理があるように思えます。公会議についてその内容を繰り返すか、それをあたかも絶対的な新しさでもあるかの様に提示するだけで語り続ける事は、却って無駄骨に終わるでしょう。

 しかしこの様な広範囲に亘る検討は、これと同じ主題が、異なる水準(歴史学的、教父学的、教会法学的、哲学的、典礼学的、神学的、聖書解釈学的、社会学的、学術的水準)に於ける進展を要求するという理由のみならず、各公会議文書が何十もの主題と関係があり、唯一これらの主題の専門家だけが効果的に取り組めるという理由により、一人だけの能力を遥かに超えているのです。

 かなり前から、私には既に先の公会議に関して、要するに当公会議の諸側面とその内容に関して、壮大かつ、出来るなら決定的な<公会議の>確認に関する考え(ここで私が厚かましくも聖下に提案致します)が浮かびました。

 実際に<第二バチカン公会議の>各側面と内容が、それ自体、その他のあらゆる背景との前後関係に於いて、またその典拠となったもの全てを注意深く観察する事を通して、荘厳教導権であれ通常教導権であれ、カトリック教会のこれまでの教導権との継続性という特定の角度から検証される事は筋が通っていると思われますし、私には急務だと思えるのです。カトリック教会の聖伝に基づく教導権との関係に於いて、詳細かつ可能な限り非の打ち所のない学術的で批評的な知的労働から、次に第二バチカンに対する確実で客観的な評価の材料を引き出す事が可能になります。

 こうする事は、数多くある中から抜粋した、特に次の質問への回答を可能ならしめるでしょう:

1) 第二バチカンの真の性質とは何でしょうか?

2) 第二バチカン公会議が持つ司牧的性質(この概念について権威をもって明確化する必要あり)と、場合によっては、帯び得る教義的性質にはどのような関係があるのでしょうか? 司牧的公会議は、教義的なそれと両立可能なのでしょうか?司牧的とは教義的性質を前提とするのでしょうか? 前者は後者に反するのでしょうか? それとも前者は後者を無視するのでしょうか?

3) 第二バチカン公会議を“教義的”として定める事は本当に可能でしょうか? つまりこの公会議を教義的として取り扱う事は可能でしょうか? 第二バチカン公会議に基づいて新しい神学的断言をすることが出来るのでしょうか? どういう意味でそれが可能なのでしょうか? どういう制限の下、それが可能なのでしょうか?

4) 第二バチカンは、ボロ-ニュ学派の観点においての“出来事”、即ち、過去との関係を断ち切り、あらゆる角度に於いて、新しい時代を築くという意味においての“出来事”なのでしょうか? それともあらゆる過去は、第二バチカン公会議に於いて、同じ意味と同じ理解とで eodem sensu eademque sententia (デンツィンガー3020:第一バチカン公会議、第三総会、第四章「信仰と理性」、レランの聖ヴィンセンティウスの規範からの引用‐和訳者)> 生き返っているのでしょうか?

 断絶の解釈学と継続性の解釈学とは、これらの質問への回答にかかっている事は明らかです。しかし、もしこの徹底的検討の学術的結論が、継続性の解釈学を唯一受諾可能で、唯一考えられるものとして認める事に至るなら、その時はこの継続性が現実であり、またそれは 教義の本質的同一性 の内に示されているという事を(あらゆる反対を超えて論駁し)証明する必要があるでしょう。

 全てもしくは一部分に関して、この継続性が学術的に証明され得ない場合には、ほぼ半世紀も前から待たれていた問題の明瞭化への要望に対する答えとして、そのことを平静かつ誠実に伝える事が必要となります。」 (注1 B. GHERARDINI, Supplica al Santo Padre, in appendice a: ID., Concilio Ecumenico Vaticano II. Un discorso da fare, Casa Mariana Editrice, Frigento (AV), 2009, pp. 254-256. Nei testi riportati nella presente Supplica, tutti i passi in parentesi quadre sono del Relatore, non dell’Autore citato.)


前二十回の公会議との継続性を立証する為に

 きわめて多くの資料を参照した革新的な第二バチカン公会議の歴史の最近の著書の中で、デ・マッテイ教授は、本公会議の起伏に富んだ劇的な展開について、正確で現実に基づく概要を公にし、次の様に締めくくっています:

「本書の終わりに当たり、私が離れられないように結び付けられていると考えるペトロの後継者である教皇聖下ベネディクト十六世に対し、第二バチカン公会議についての真剣な討論に扉を開放して下さった事に関して、心からの謝意を表明しつつ、敢えて恭しく言葉を申し上げます。私はこの討論の中で、神学者としてではなく、歴史学者として協力の手を差し伸べたいと望んでいる事を繰り返し申し上げるのですが、それはやはり、前二十回の公会議とこの公会議との継続性を立証する為、また地獄の門はそれに打ち勝つ事はない(マテオ16:18)との確信を以って、ほぼ半世紀前からカトリック教会を苦しませている闇と疑いを追い払う為に、それに伴うあらゆる複雑さと全発展にも拘らず、第二バチカン公会議の徹底的検討の推進を、地上に於けるキリストの代理者に対して、丁重かつ子として要求しておられる神学者たちの嘆願と一つとなってそうするのであります。
(注2 - R. DE MATTEI, Il Concilio Vaticano II. Una storia mai scritta, Lindau, Torino, 2010, p. 591.)


 そして単なる信徒に過ぎない私たち署名者と致しましては、これらの丁重かつ許された懇願に全く同調致します。聖下に対する子としての敬意を欠く事はないと確信する私たちは、私たちの考えによれば、モンシニョール・ゲラルディーニや公会議後の初期から第二バチカンに関する説明(chiarezza)を得ようと戦ってきた、神学者及び知識人たちの分析から生じるものと同じような明快な回答に確かに値する、数多くの疑問から選んだ幾つかの質問を(この上で致しました四つに)付け加えさせて頂きます:


5) 天啓に関する憲章 Dei Verbum <神の啓示に関する教義憲章>に現れる「生きる聖伝」という概念に与えられている正確な意味とは何でしょうか? カトリック的聖伝の概念に関する最近の根本的な研究論文の中で、モンシニョール・ゲラルディーニは、第二バチカンに於いて、聖伝の教義的価値が明確に定義されなかったが為に(DV, 8)、カトリック教会の聖伝の理解方法に「コペルニクス的革命」が起きてしまったと断言しておりますし、カトリック教会で常に認められたものであり、珍しいやり方でトレント及び第一バチカン教義的公会議により批准されて来た(DV, 9)天啓の二つの典拠(聖書と聖伝)が聖書に一本化(ad unum)されているのが分かります。またそこでは、聖書の無謬性の教義への攻撃(attentato)さえ表明されておりますが(DV, 11.2)、それならどうして「神感を受けた聖書記者たちの主張するものは全て聖霊から来ると宣言して後、<聖書の>無謬性の特質が、(veritatem, quam Deus nostrae salutis causa Litteris sacris consignari voluit:天主が我々の救いの為に聖なる書物に記録される事を望まれた諸真理)全体の一部分として、“救いに役立つ(salutare)”か“救いをもたらす(salvifica)”真理にのみ与えられているのでしょうか? もし聖霊が、聖書記者の書き著したもの全てを霊感したのであれば、聖書の無謬性は救いをもたらす諸真理のみならず、聖書全体に当てはまるはずなのです。従いまして、この文書は非論理的だと思われます。」
(注3 - B. GHERARDINI, “Quod et tradidi vobis”. La Tradizione vita e giovinezza della Chiesa, in ‘Divinitas’, Nova Series, 2010 (53) nn. 1-2-3, pp. 165-186. Corsivi nostri.)


6) カトリック教会に関する教義憲章(しかし教義について定義していない)Lumen gentium <教会憲章>に含まれたカトリック教会に関する新しい定義に与えるべき正確な意味とは何でしょうか?もしこの新しい定義が<常に変わらぬ>永遠のそれと一致するものであるならば、即ち、我らの聖主から伝えられ、さらに聖霊の導きの下で使徒たちから伝えられた信仰の遺産(il deposito della fede)を何世紀にも亘り保ってきた唯一のものという理由で、カトリック教会だけが唯一真のキリストの教会であるとするならば、例え天主の賜物によりキリストの教会に固有のものとして属し、自ずとカトリック的一致を要求する聖化と真理の基本要素<自然徳や助力の恩恵など>が、このカトリック教会の外に数多く見出されるにしても、何故、一般の信徒にとっては殆ど理解不可能で、決して明快に説明のされない手法を用いて(これは申し上げなければなりません)キリストの「唯一の」教会は「ペトロの後継者及び彼に一致する司教たちに統治されたカトリック教会に存する(subsiste)と書く事により、それ<キリストの唯一真の教会はカトリック教会であるという永遠の定義>を変えようと望んだのでしょうか。」この明確な記述に於いて、カトリック教会はキリストの教会の単なる一部分として現れるようには思えないでしょうか?単なる一部分とは、キリストの教会は‐カトリック教会以外に‐カトリック教会の「外に」ある「聖化と真理の基本要素」をも包含するからなのですか?そうなれば、「カトリック教会内に存続する唯一真の宗教(信教の自由に関する宣言Dignitatis humanae)」は、カトリック教会の外に「<聖化と真理の>基本要素」を有する「キリストの教会」の宗教となってしまうことでしょう。さらに考え方によっては、「唯一真の宗教」は、公会議の言に拠れば、「キリストの教会」にある非カトリック的な「基本要素」にも等しく存続しているかのように受け止められはしないでしょうか?


7) 「神の民」(教会憲章、9-17)として全体的に理解されている教会の概念に与えるべき本当の意味とは何でしょうか? この概念は、過去に於いては単に全体の一部分<平信徒のみ>を表わすものでありましたが、それに反して、全体は「キリストの神秘体」と言われていました。


8) 公会議の諸公文書で為された「超自然」及び「全実体変化(transustanziazione)」という用語の省略にはどのような意味があるでしょうか?この省略は、一部の方々が主張する通り、当用語の基本概念の中身も変更するのでしょうか?


9) 団体性(la collegialità)という新しい概念の正確な意味とは何でしょうか? 教会憲章 の冒頭に置かれた Nota explicative praevia (予備解説注釈‐公会議に招集された司教たちの間の議論に決着をつける為に配置された注釈)による解釈をカトリック教会の不変なる教えの光に照らし、どう考えたら良いのでしょうか? 私たちはロマーノ・アメリオ(Romano Amerio)氏が明確に述べている疑問を参照致します:

「“予備解説注釈”(Nota Praevia)は、司教団体性の古典的解釈を拒絶しています。この古典的解釈に拠ると、カトリック教会に於ける最高権力の主体は唯一教皇のみであり、彼が望む時に、自分が公会議へと招集した全司教とこの権限を共有します。最高権力は、教皇によって、教皇の望みのままに(ad nutum)、伝えられる場合のみ、団体的なものとなります。
 さらに“予備解説注釈 ”は、改革者たちの見解をも同時に拒絶しています。彼らの見解に拠ると、カトリック教会に於ける最高権力の主体は、教皇と一致した司教団であり、その中の頭である教皇無しではなく、しかし教皇がたとえ自分一人で最高権力を行使する場合でも、前述した司教団の頭として、またそれ故にこの司教団を代表するものとして、教皇はまさにそれを行使することについて司教たちに意見を表明するように求めざるを得ない。
これは、どんな権威も自分の権力を大衆に由来すると主張する理論を真似たもの<教皇の最高権力は団体としての司教団に由来するという考え方>であって、これは(人民によるのではなく、天主を起源とする位階的)カトリック教会の神的創立と和解し難い理論です。
“Nota Praevia”は、これら二つの理論を否定し、最高権力は頭<教皇>と一致した、団体としての司教団に属していること、ただし、司教団は頭から独立してこれを行使する事は出来ないが頭は司教団から独立してそれを行使する事が出来ること(後者は聖伝への譲歩と取れます)を言明しています。」

 司教評議会制度に対する、法的権能(正当かつ固有の司教団の法的権限)の授与は、司教としての機能を実際に軽視するだけではなく、それを歪曲してしまったと主張する事は間違いないでしょうか? 確かに、今日のカトリック教会では、個別に見た場合、司教たちは事実上ほとんど無視されているように見えます(聖下、私たちの率直さをお許し下さいますように)。
 この点について、再度アメリオ氏を参照します:

公会議後のカトリック教会の最も際立つ 新しさ とは、栽治権の限定された諮問機関である、教区及び国レベルでのシノドス<司教会議>や、司牧顧問会、司祭顧問会などのカトリック教会のありとあらゆる機関に、参与に門戸を開放した事です。[…]司教評議会の成立は、二つの結果をもたらしました:つまりそれはカトリック教会の 有機的構造 を歪め、司教たちの 権威 の喪失を引き起こしたのです。公会議前に効力を持っていた教会法に拠れば、司教たちは使徒たちの後継者であり、各自が自らの教区に於いて、立法権、司法権、行政権を行使する事によって、霊的かつ現世的事柄に対する通常の権能を持ち、統治します(教会法329及び335条)。
 この権威は正確に定められたかつ個人的に属するものであり、司教総代理の設立の場合は別として、委任の余地がありません(司教総代理の任命は、教区司教の意向に従属する‐ad nutum‐)。[…] 公会議の教令 Christus Dominus <教会に於ける司教の司牧任務に関する教令>は 、「全世界の教会に対する最高かつ完全な権能」を持つものとして(権能の一つの主体としての)団体制(la collegialità)を司教らの団体に帰属させています。このことは、もしも司教団が教皇の同意なしにこの権能が行使し得たとするなら、すべてにおいて教皇の権能と全く等しいということになります。
 この最高権力は、教皇により公会議として招集された司教たちの集いに於いて常に認められて来ました。しかし問題は、上級の決定機関よってのみ実際のものとなり得る権威とは、最高のものと見做され得るのか、さらにそれは単なる潜在能力(mera virtualità)、つまり単なる思考上のみに存在するもの(ens rationis )に帰するのではないのかという事です。
 ところで第二バチカンの精神に従えば、この団体性が具体化される司教権能の行使とは、司教評議会の権能行使です。


「以下は奇抜な言行です:当教令は、同じ国の司教たちが協力して行動する必要性においてこの新しい制度の存在理由を(第37項に)認め、この新しい協力関係だけしか見ていないが、しかしこれは、今後はその教会法上の形態を持ち、司教の代わりに司教らの団体と置き換え、さらに個人の責任を団体責任つまり細分化された責任と置き換え、カトリック教会の秩序を改変させるのです。[…]司教評議会を通して、カトリック教会は多極主義的(polycentrico)団体となってしまいました。[…]従いまして、この新しい組織体がもたらした 第一の 結果とは、[教皇との]一致の絆の弛緩であり、それは最も重大な数々の点[例えば、避妊家族計画法の使用を禁じた1968年7月25日公布の回勅フマーネ・ヴィテ(Humanae vitae)の教え]を巡っての途方もない反乱により示されました。新しい組織体がもたらした 第二の 結果は、司教として個別に考えられた、各司教が持つ権威の喪失です。彼らは自分自身の教区民や聖座の前でもはや責任がありません。何故なら、彼ら個人の責任は集団全体のものに取って代わり、もはやこの集団を構成する様々な構成員たちの責任は問われ得ない団体責任と入れ替わったからです。

今日の司祭は神の民の集会の司会者兼座長役へと還元されているのではないか

10)今日、司祭職というカトリック教会の真の制度に付される正確な意味とは何でしょうか?公会議以降、司祭は、「天主の司祭」から「天主の民の司祭」へと還元されており、それは主として「神の民」の「集会の司会者」かつ「座長」へと、さらに「民生委員(assistant social)」へと還元されたのは本当でしょうか? これに関して、以下のものは批判の対象となっています。
 「職位的」又は「位階的」司祭職と、いわゆる‐かつては単なる敬称と考えられていた‐「信徒らの共通」司祭職とを、両者は「相互に秩序づけられている、ad invicem tamen ordinatur 」(LG、62,2も御覧下さい)という断言をもって、同次元に置こうと望んでいるように思えること(教会憲章, 10項.2)
司祭職を「神の民」の単なる「職務」として描写しているように思えること(教会憲章, 13項.3)
福音の説教を司祭の「職務」の第一に置いていること(司祭の役務と生活に関する教令 Presbytorum Ordinis, 4 項:司祭たちは「司教の協力者として、神の福音を告げる 役目をもっている。」)に対して、トレント公会議はその反対に、司祭の使命を特徴付けるものは、第一に「聖主の御身体と御血を聖別し、捧げ、授ける権能」、また第二には「罪を赦す或いはそれを保留する」権能である事を想起させた(デンツィンガー、1764/957)。第二バチカン公会議が、「キリストから勧められたものである、天の御国にとって完璧かつ永続的な禁欲は、司祭職の本質それ自体から要求されるものではない[にしても]、司祭生活には特に相応しいものであると常にカトリック教会から見做されて来た」(司祭の役務と生活に関する教令, 16項)と主張する事によって、聖職者の独身制を事実上評価しなかったことは本当でしょうか。また今引用したこの主張は、1ティモテ3章2-5節やティト1章6節に対する誤った解釈を用いて初めて正当化されるのではないでしょうか。

11)典礼に於ける「創造性」の原理の正確な意味とは何でしょうか? その創造性は、礼拝の新しい形態を諸民族の特性及び慣習に適応させ、それを最大限に簡素化する事を目的として、これを実験する自由を含んだ、典礼分野に関する広大な権限を司教評議会に与えてしまったという事実から間違いなく生じています。このことは全て、典礼憲章Sacrosanctum Concilium に於いて提案されています。司教評議会の新しい権限に関して(22項2節)、諸民族の特質と慣習への適応及び典礼全般の適応基準に関して(37、39項、さらに40項)、典礼の簡素化に関して(21項と34項)です。
 似たような典礼に関する改革の裁量権というものは、過去において常にカトリック教会の教導権により排斥されてきたのではないでしょうか? 典礼憲章 Sacrosanctum Concilium は、典礼や諸々の刷新を常に聖座の規制下に置いている(典礼憲章22項1節、40項1節と2節)というのは本当であるにしても、この規制は、典礼上に広まる荒廃を防げることができない事を証明しており、この荒廃は信徒たちを教会から遠ざけてしまい、さらに、聖下から要求された、悪弊に対する懲戒行為や除去にも拘らず、今日でも未だに続き、ますます荒れ狂っています。専門の調査こそが、この失敗の理由を白日の下に曝す事が出来るのではないでしょうか?

公会議が宣言した信教の自由と、世俗的良心の自由との間にはどんな違いがあるのか?

 公会議の諸公文書が提起するすべての疑問、またカトリック教会の現状に関連する疑問を一つ残らず表明する事は、もちろん私たちには出来ません。この主題に関して、私たちは次のもののみ付け加えさせて頂きます:

12)教会史上初めて、信奉する宗教は関係なく「人権」もしくは人格の「本性的なもの」として、公会議によって宣言された信教の自由の原理、すなわち、唯一の啓示された真理(私たちのカトリック宗教)が真の宗教として宣言される権利よりも勝る権利であり、啓示されたのではない他の宗教、従って天主に由来しない他の諸宗教、の方がより尊重される権利として宣言された権利、この信教の自由なる原理は、全ての宗教が平等であるという前提に成り立ち、その適用は、宗教無関心主義や不可知論、さらに行き着く先として無神論という結果をもたらすものです。こうしたものとして、信教の自由は公会議によって理解されていますが、そのまま理解されたものとして、それは、反キリスト教的フランス革命の「人権」のうちの一つとして敬意を表される世俗的良心の自由と何を以って区別されるのでしょうか?


13)現在のエキュメニズムも同様に、それが主に目的としているものが、(一人でも多くの)人類のキリストへの改心というよりはむしろ、全民族間に平和と兄弟愛があるメシアの時代を開幕する事が出来る一種の新しい教会、あるいは世界宗教として人類を一致、さらには統一させることであるように見えるゆえに、同様な結果(無関心主義と信仰の喪失)に至らせているとは思われませんか? もし以上のものが、現在のエキュメニズムの究極目的であるならば‐そしてこれらの究極目的が、カトリック教会と現代世界に関する司牧憲章 Gaudium et spes <現代世界憲章> の内に一部見出されるのですが、‐、このエキュメニカルな対話は、ある種の「キリストとベリアルと間の同意」へと危険にも滑り込んでいる様には見えませんか? 公会議後の教会が現代世界と行ったあらゆる対話は、再検討されるべきではありませんか?


教皇聖下へ、

 私たちがこの粗末な嘆願書に於いて大胆にも聖下に表明させて頂きました質問は、既に二年前にモンシニョール・ゲラルディーニによる嘆願書などは評価しないと言明した聖職位階を間違いなく立腹させるかも知れません。この五十年以来、カトリック教会を深く苦しめている危機の例外的な深刻さを未だに理解していないように思われる一部の聖職位階が問題なのです。それは、デ・マッテイ教授の本が示したように、そして彼の前にも、より要約された形で、神言会 (S.V.D.) 司祭のラルフ・ヴィルトゲン神父(P. Ralph Wiltgen) や、ロマーノ・アメリオ教授の著書が証明している様に、公会議の際に公会議前にはその前兆だったものが炸裂した危機なのです。

 私たちが持つ信仰者としての霊魂と良心に於いて、敬意の全てをあげて聖下に書かれましたこの嘆願書は、敢えて申し上げるならば、知らない者もいない、ありとあらゆる抵抗や困難にも拘らず、聖下によって勇敢に開始されました、この戦闘の教会の復興と刷新とそして浄化との仕事に完璧に調和していると私たちには思われます。
 私たちは、一部の聖職者に浸透してしまった道徳の腐敗に対して聖下がお取りになった不屈の行動や、カトリックとは名ばかりとなってしまった、良く知られた福祉事業、愛徳の施設や福祉施設に対して、それを健全化させる活動だけに言及しているのではありません。
 私たちは、(確かな聖伝に拠れば使徒たちの時代にまで遡る典文を見ると、ふさわしくなく「トリエント」典礼と呼ばれている)旧ローマ典礼様式によるミサの執行と、さらに公会議前の儀式書(rituale)に則った諸秘蹟の授与と払魔式の「解放」にも言及します。
 私たちは、マルセル・ルフェーブル大司教によって創立された聖ピオ十世兄弟会の司教たちに(知られている規律上の理由により)重くのし掛かったあの破門宣告の教皇聖下による免除にも言及します。これについては、信徒たちの間で広く賛同を得た「ロザリオの国際十字軍」がその撤回という目的の為に開始され、恭しくも根気強く、聖下に対して懇願していました。

 カトリック教会にとっては間違いなく最重要のものである、聖主の教会全体に対する聖下のpotestas jurisdictionis <裁治権> に由来する教皇の全権限をもってmotu proprio <自発的に> 与えられた、上述した一連の措置の全てにおいて、単純なカトリック教徒としての私たちの sensus fidei <信仰の感覚> は、聖霊による明白な業を認めます。
 私たちは、カトリック世界の中心に於いてキリストがもう一度確立される事業計画に、聖下が望まれている、公会議の見直しをもその中に加える事が出来るように、聖霊の御助けを求めつつ、私たちの粗末な嘆願書を締めくくります。

私たちの忠孝の念をこめた熱意とまた私たちの敬意を保証しつつ、

In Domino et in corde Mariae <聖主とマリアの御心に於いて>

2011年9月24日

 50名近い署名がここに続く。その中には次の名前が見える。

パオロ・パスカルッチ教授(Prof. Paolo Pasqualucci)、哲学教授;
モンシニョール・ブルネーロ・ゲラルディーニ(Mgr Brunero Gherardini)、教会論教授、イタリアの最年長神学者;
モンシニョール・アントニオ・レヴィ(Mgr Antonio Livi)、ラテラン大学に於ける認識哲学の名誉教授;
ロベルト・デ・マッテイ教授(Prof. Roberto de Mattei)、ローマ欧州大学;
ルイジ・コーダ・ヌンズィアンテ教授(Pro. Luigi Coda Nunziante)、個人的かつファミリア・ドマーニ協会(l’association Famiglia Domani)会長として;
パオロ・デオット博士(Dott. Paolo Deotto)、リスコッサ・クリスチアーナ(カトリックニュースサイト、www.riscossa cristiana.it)管理者;
ピエロ・ヴァッサロ教授(Prof. Piero Vassallo)、哲学教授、リスコッサ・クリスツィアーナの共同管理者;
ヴィルジニア・コーダ・ヌンツィアンテ博士(Dr.ssa Virginia Coda Nunziante);
プッチ・チプリアーニ博士(Dott. Pucci Cipriani);
マルチェッロ・スタンズィオーネ神父(Don Marcello Stanzione)及び大天使聖ミカエルの軍団一同(toute la Milizia de San Michele Arcangelo);
ダンテ・パストレッリ教授(Prof. Dante Pastorelli);
フローレンス市、聖フィリッポ・べニズィ(St. Filippo Benizi)の聖ジロラモと聖フランチェスコ・ポヴェリーノの尊き兄弟会の理事、フローレンスのウナ・ヴォーチェ連盟会長;
カロジェーロ・カンマラータ(Calogero Cammarata)氏、トリノのインテル・ムルティプリチェス・ウナ・ヴォックス(Inter Multiplices Una Vox)連盟会長;
クリスティーナ・スィッカルディ博士(Dr.ssa Christina Siccardi)-カスティリオーネ・トリネーゼ町(ピエモンテ州トリノ市);
カルロ・マネッティ博士(Dott. Carlo Manetti)-カスティグリオーネ・トリネーゼ町(ピエモンテ州トリノ市);
アレッサンドロ・ノッキ(Alessandro Gnocchi)氏;
マリオ・パルマーロ(Mario Palmaro)氏;
マリオ・クリスコニオ(Mario Crisconio)氏、マルタ騎士修道会騎士(chevalier de l’Ordre de Malte)、ピオ・モンテ・デッラ・ミゼリコルディア(ナポリで1601年創設された慈善施設)理事、ナポリのウナ・ヴォーチェ連盟会長;
エンリコ・ヴィッラーリ(Enrico Villari)氏、技師、哲学博士‐ナポリ在住;
マルチェッロ・パラトーレ(Marcello Paratore)氏、哲学教授、ナポリ在住;
ジュゼッペ・デ・ヴァルガス・マクカ(Giuseppe De Vargas Machuca)氏、レアーレ・アルチコンフラテルニータ・エ・モンテ・デル・サクロ・サンクト・サクラメント・デイ・ノービリ・スパニョーリ(Reale Arciconfraternita e Monte del SS. Sacramento dei Nobili Spagnoli)会の理事長‐ナポリ;
ジョヴァンニ・トルテッリ(Giovanni Tortelli)氏、作家、教会法及び教会史研究者(フローレンス)。

 この嘆願書はリスコッサ・クリスティアーナ・<カトリックニュース>サイト(Riscossa cristiana)によって広められており、サイト上でイタリア語原文を読む事が出来ます。

SUPPLICA Al Santo Padre Benedetto XVI,
Sommo Pontefice, felicemente regnante,
affinché voglia promuovere un approfondito esame del
pastorale Concilio Ecumenico Vaticano II




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アメリカのテキサス州のジョセフ・ストリクランド司教は、今年の御聖体の祝日に生まれて最初の聖伝のミサを捧げつつ、深い感動を受けたとインタビューに答えています。

2020年07月29日 | カトリック・ニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

アメリカのテキサス州のジョセフ・ストリクランド司教は、今年の御聖体の祝日に生まれて最初の聖伝のミサを捧げつつ、深い感動を受けたとインタビューに答えています。

「そこには畏敬の念以外の何物もありません。ただコルポラーレ(御聖体を置く特別の聖布)の美しさと、御聖体とカリス(聖杯)がどのように扱り扱われているかには、私は…[長い沈黙]、私はほとんど聖変化の言葉を発声することができませんでした。私は感動に包まれ、その聖変化の言葉に心を打たれてしまったからです」とテキサス州タイラー司教区の司教は、Catholic Register紙の長いインタビューに答えました。

「私が司教として体験した後では、ミサの特別形式の美しさのうちに、素晴らしくも、イエズスと会いに行くように全ての人を励まさざるを得ません。」

“There’s nothing but awe. Just the beauty of the corporal and how the Host and the chalice are treated — and I have to say [long pause] I could hardly say the words of consecration because I became so filled with emotion, so deeply struck by those words,” the bishop of Tyler, Texas, told the Catholic Register’s Bree Dail in a lengthy interview.

“After what I have experienced, as bishop, I cannot help but encourage everyone towards meeting Jesus in wonder, within the beauty of the extraordinary form of the Mass,” Strickland said.

 

A US Bishop Discovers the Traditional Latin Mass

Bishop Joseph Strickland discusses what inspired him to celebrate the ...

National Catholic Register

 

 

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【参考資料】カルロ・ヴィガノ大司教の駐米教皇大使としてのクリスマス・メッセージ(2012年)

2020年07月27日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

カルロ・ヴィガノ大司教の駐米教皇大使としてのクリスマス・メッセージ(2012年)です。






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ヴィガノ大司教のマジステル氏への回答「公会議を強く批判する意見をあえて表明したことが、異端審問的な精神を呼び起こすに十分であったことは承知しています」

2020年07月23日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

有名なバチカン専門のジャーナリストであるサンドロ・マジステル氏は、第二バチカン公会議の批判をしたヴィガノ大司教に対して厳しい批判の記事を書きました。マジステル氏は、ヴィガノ大司教をあたかも異端審問するかのように、酷い言葉で「離教の瀬戸際」であるとしました。

それに対してヴィガノ大司教は、強く非難するマジステル氏に礼儀正しく、知的に鋭く同時に皮肉交じりに返答しています。マジステル氏に対する答えの行間からは、ヴィガノ大司教の怒り心頭の様子さえもうかがえます。その背後には分かってもらえない悲しさとあわれみがあるのかもしれません。

要点を列挙するのをお許しください。

* 誰かが批判意見をしても、まともな考えを持った人なら、その批判意見に異端審問のような発言は決してしない。しかし、公会議を強く批判する人にだけは、異端審問のような酷い非難がなされる。[だからあなたもそうしたのだろう。]

* 公会議を批判したことを非難する人は、議論の根拠を吟味もせずに「離教の瀬戸際」と悪口を言うだけだ。しかし「離教ぎりぎり」という悪口を受けるに値する進歩主義の司教や枢機卿らは他に多くいる。[あなたは非難の相手を間違えている。]

* 進歩主義者たちは首位権を主張し、自分の敵を劣ったものとし、注意を払ったり応答したりせず、ルフェーブル派、ファシスト、とレッテルを張って粛正する。しかし彼らには議論がないので、議論のルールを指示したり、誰が発言できるかを決める正当性はない。[あなたは、進歩主義者と同じ態度を取っている。]

* あなたの「離教の瀬戸際」という記事は、最初は、バチカン宮殿やあなたのオフィスにその肖像が飾ってある君主[フランシスコ教皇]について書いた記事だと思った。それならごもっともな"賛辞"だと思った。しかしヴィガノ大司教のことであるなら、それは"不正確"だ。

* 公会議を「器」として、公会議の本来の目的を歪めて、利用した人々によって、私たちは全員がだまされた。公会議の中心で組織化された少数の「陰謀家たち」が教会を内部から破壊するためにこの公会議を利用したりすることなど、またその陰謀家たちが、教会の権威者の沈黙や無為を当てにしてそのような陰謀ができたなど、私たちは教会と教皇制を愛するがゆえに、想像すらできなかった。

* 公会議を伝統的に意味においての再解釈を行うというベネディクト十六世の最近の立場は、1970年代の神学者ヨゼフ・ラッツィンガーの立場とはまったく異なっていた。ラッツィンガー自身が公会議に悪意の存在を認めている。諸文書中の意図的なあいまいさが存在する目的は、対立して相容れないビジョンを保持し、啓示された真理を損なうことであった。

* 第二バチカン公会議の支持者らは、第二バチカン公会議以前のカトリック教会があたかも存在していなかったかのようにその痕跡を抹消した。記憶の抹殺である。あたかも、第二バチカン公会議が"新しい教会"の最初の公会議で、第二バチカン公会議により"古い宗教"と"古いミサ"は終わったかのようになった。

* あなたが「第二バチカン公会議は途切れることのない一連の出来事の最新のもので、聖霊は第二バチカン公会議を通して語る」と言いたいのなら、なぜ、新しい典礼と新しい暦、新しい教理、「新しい祈りの法は、新しい信仰の法」が与えられ、過去を軽蔑して距離を置いたのか?

* 第二バチカン公会議の正しい解釈とはいったい何なのか?第二バチカン公会議は、対立する解釈や逆の解釈を正当化することができるように不明瞭にした言葉をわざと採用したので、その解釈は数えきれない。つまり誤謬が支配している。誤謬のある所には愛徳はありえない。この大混乱から、凍りついた実りのない例の"公会議の春"が起こった。

* 解釈法とは"おとぎ話"だ。教会を貶める罠に「公会議」という権威を与えようとする試みの一つだ。公会議を神聖化しようとして、公会議を開催した教皇たちが「公会議の教皇」であったことを理由に、次々に列聖されている程だ。

* マリア・グァリーニ博士の言うとおり、第二バチカン公会議は言葉の意味を変え、同じ単語に別の意味が与えたので、進歩派と保守派が何かについて話をしようとしても、言葉自体の意味が違うので会話にならない。今の教皇や枢機卿たちは新しい主張をするときにいわば問答無用で宣言するので、その新しい主張がどうしてそうなのかを説明しようとさえしないし、議論をしようとしても話にさえならない。伝統的な教えは固定しているが、新しい教えは液体のようでとらえどころがなく、議論のしようがない。

* 公会議という触れてはならない偶像に触れるようなことを言ったからこそ、あなたはこのように無礼な批判をする訳だが、一応、そうではないことを望むと言っておこう。

* ドイツの司教たちは『離教の瀬戸際』どころか、とっくに離教している。しかも、狂ったイデオロギーや行為を奨励して、恥ずかしげもなく全世界の教会に押し付けようとしている。

* ちなみにわたしは決して離教などするつもりはないのでご心配なく。親愛なるサンドロ、あなたの最善を祈る、頑張ってくれ給え。

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親愛なるマジステル様

6月29日にブログ「Settimo Cielo(第七天)」に掲載されたあなたの記事「ヴィガノ大司教、離教の瀬戸際に」に回答することをお許しください。

私が公会議を強く批判する意見をあえて表明したことが、異端審問的な精神を呼び起こすに十分であったことは承知しています。もし他の場合であれば、そのような精神はまともな考えを持った人々による憎悪の対象である筈ですが。それでも、聖職者と能力ある平信徒との間の敬意をもった論議において、今日まで未解決のままの諸問題を提起することが不適切だとは思いません。そのような問題の最たるものは、第二バチカン公会議以来教会を苦しめ、今や荒廃の段階にまで到達した危機です。

公会議の「虚偽の説明」ということを語る人々がいます。また、公会議を聖伝との継続のうちに読むことに戻る必要性ということを語る人々もいます。また、公会議に含まれているあらゆる誤謬を訂正したり、あるいはそのあいまいな諸点をカトリック的な意味で解釈したりする機会ということを語る人々もいます。一方その反対の立場からは、第二バチカン公会議のことを、教会を、時代に合わせてまったく新しく現代的な組織へと変化・変換するという「革命」を押し進めるための「青写真」ととらえる人々にも事欠きません。これは「対話」の普通のメカニズムの一部ですが、そのような「対話」は、いつも想定されているだけでほとんど実現することがありません。私が述べてきたことについてこれまで反対意見を表明した人々は、決してその議論の根拠に立ち入ることがなく、私の悪口を言うだけにとどまっていますが、そのような悪口を受けるに値するような、私よりずっと著名で敬うべき司教職に着く兄弟たちは他にいます。興味深いことは、教理的な場においても政治的な場においても、進歩主義者たちは自分たちが選挙の結果という首位権をもっていると主張することです。そしてその論理的帰結として、敵は存在論的に劣ったものであり、注意を払ったり応答したりするには値せず、教会の場においてはルフェーブル派、また社会政治の場においてはファシスト、と単純化して粛正できるとするのです。しかし、彼らは議論をしないため、彼らには議論のルールを指示したり、誰に発言する権利があるのかを決めたりする正当性がありません。とりわけ、欺瞞がどこにあるのか、その欺瞞の立案者は誰なのか、そしてその目的は何なのかについて、信仰以前に、理性がそれを証明した場合にはそれがあてはまります。

当初、あなたの記事の内容は、その肖像がバチカン宮殿第三開廊のフレスコ画で飾られたサロンや、編集者であるあなたのおしゃれなオフィスにあるような君主への、ある意味ごもっともな賛辞ととるべきであるかのように思えたのです。ところが、あなたが私の主張だとされる部分を読むうちに、あえて言うならば、ある不正確さ、を見つけました。これは誤解の結果だと願っています。ですから、私があなたのブログ「Settimo Cielo」でお答えする場を与えてくださるようお願いします。

あなたは、ベネディクト十六世について、「第二バチカン公会議が異端の影響を受けておらず、さらに、まことの永続的な教理との完全なる継続性のうちに解釈されるべきだということを教会全体に信じ込ませることによって、教会全体を『欺いた』」、として私が彼を非難しているかのように述べられています。私は、この教皇についてそのようなことを書いた覚えは一切ありません。そうではなく、私が述べたこと、そしていま一度再確認したいことは、この公会議を、公会議自体の暗黙の権威および公会議に参加した教父たちの権威性を備えた「器」として、その目的を歪めつつ利用した人々によって、私たちは全員、あるいはほとんど全員が、だまされたということです。そして、このように人々がこの欺瞞に陥ってしまったのは、教会と教皇制を愛するがゆえに、第二バチカン公会議の中心で、非常に組織化された少数の「陰謀家たち」が教会を内部から破壊するためにこの公会議を利用したり、またその陰謀家たちが、教会の権威者の共謀があったわけではないにせよ、沈黙したり無為であったりすることを当てにしてそのような行動をとることができる、などということを想像すらできなかったからです。これらは歴史的事実であり、それについて私は自分で個人的な解釈をしていますが、他の人も同じ解釈をしておられるものと思います。

また次の事実も、その必要さえないかもしれませんが、あなたに思い起こしていただきたいのです。それは、公会議の控えめに批判的な、伝統的に意味においての再解釈を行うというベネディクト十六世の立場は最近の賞賛に値する出来事ですが、一方で、恐るべき1970年代には、当時の神学者ヨゼフ・ラッツィンガーの立場はまったく異なっていたということです。権威ある研究によれば、このチュービンゲンの教授であったヨゼフ・ラッツィンガーはその同じことを認めていましたし、それが名誉教皇による部分的な悔い改めの証拠です。

「ベネディクト十六世による『継続の解釈法を用いて公会議の行き過ぎを正そうとする試みの失敗』を理由としてヴィガノがベネディクト十六世に対して行った無謀な告発」を私がした覚えはありません。なぜなら、これは保守派の間だけでなく、とりわけ進歩派の間でも広く共有されている意見だからです。また言っておかなくてはいけないのは、革新主義者たちが欺瞞、狡猾さ、脅迫によって獲得に成功したその中身は、後に使徒的勧告「アモーリス・レティチア」というベルゴリオ流「教導権」において最大限に適用されたビジョンの結果だということです。ラッツィンガー自身が悪意の存在を認めています。「教会の中には今や不動なものは何もなく、すべてが修正される余地があるという印象が着実に強まっていきました。ますます公会議は、自分たちの望みに従ってすべてを変え、すべてを再構築することができる、教会の大きな議会のように見えてきたのです」(ヨゼフ・ラッツィンガー『わが信仰の歩み』英訳 Milestones, Ignatius Press, San Francisco, 1997, p. 132参照, イタリア語 "La mia vita", Edizioni San Paolo, 1997, pp. 99)。しかし、ドミニコ会士エドワード・スキレベークスの次の言葉では、その悪意がさらにはっきりと認められています。「われわれはそれを外交的に表現しているが、公会議の後には、その暗示している結論を引き出すことになる」(De Bazuin, n.16, 1965)。

諸文書中の意図的なあいまいさの目的が、有用性の評価の名の下に、対立して相容れないビジョンを保持し、啓示された真理を損なうことであったことを私たちは確認しました。真理は、それが完全に宣言されるとき、分裂をもたらさざるを得ません。それは、私たちの主が分裂をもたらされるのと同じです。「あなたは、私が地上に平和をもたらすために来たと思っているのか? むしろ分裂である」(ルカ12章51節)。

私たちは第二バチカン公会議を忘れるべきだと提案することに、非難されるべきところは全くないと私は思います。公会議の支持者たちはこの「ダムナチオ・メモリエ(damnatio memoriae)」【記憶の断罪:あたかも存在していなかったかのようにあらゆる痕跡を抹消すること】を、公会議によってだけでなく、すべてのことによって、自信を持って行使するすべを知っていました。それはさらに、彼らの公会議が新しい教会の最初の公会議であり、そしてこの公会議から始まって古い宗教と古いミサとが終わったことを断言するほどにまで達していたのです。

あなたは私にこうおっしゃるでしょう。それは過激論者の立場であり、徳は中庸にある、すなわち、第二バチカン公会議は途切れることのない一連の出来事の最新のものに過ぎず、聖霊は唯一無二にして不可謬の教導権の口を通して語ると考える人たちの内にこそ徳がある、と。もしそうだとすれば、なぜ公会議の教会には新しい典礼と新しい暦が与えられ、その結果として新しい教理、つまり「新しい祈りの法は、新しい信仰の法(nova lex orandi, nova lex credendi)」が与えられ、自らの過去を軽蔑してそこから距離を置いたのか、が説明されねばなりません。

この公会議を捨てる、というアイディアそれ自体が、あなたのように、近年の危機を認識しながらも第二バチカン公会議とその論理的かつ必然的な影響との間の因果関係を認識することを望まないと言い続ける人々にさえ、つまずきを引き起こすのです。あなたはこう書いておられます。「注意:悪い解釈をされた公会議ではなく、公会議として全体を一括して【忘れ去る】」と。

では、あなたにお尋ねします。この公会議の正しい解釈とはいったい何なのでしょうか? あなたが与える解釈でしょうか、それとも公会議の企画をした勤勉な人たちが教令や宣言を書いているときに与えた解釈でしょうか? それともひょっとしてドイツの司教団の解釈でしょうか? それとも教皇庁立大学で教え、世界で最も人気のあるカトリックの定期刊行物に掲載されている神学者たちの解釈でしょうか? それともヨゼフ・ラッツィンガーの解釈でしょうか? それともシュナイダー司教の解釈でしょうか? それともベルゴリオの解釈でしょうか? 対立する解釈や逆の解釈を正当化することができるように不明瞭にした言葉をわざと採用したことで、どれだけひどい害が引き起こされたか、そしてそれに基づいて有名な"公会議の春"が起こったことを理解するには、これで十分でしょう。その集会を「公会議として全体を一括して」忘れ去らねばならない、と私は躊躇することなく言うのは、また、教会の一致を攻撃することによる離教行為の罪に陥ることなしにそれを表明する権利が私にある、と私が主張するのも、この理由からです。教会の一致は愛徳と真理において分かちがたく存しており、誤謬が支配しているところ、あるいはただ一つの誤謬でも入り込んでいるところには、愛徳はありえないのです。

解釈法という"おとぎ話"は、たとえその作者のゆえに権威あるものだとしても、それでも、教会に対する真の固有の意味の待ち伏せ攻撃そのものに、公会議という尊厳を与えんとする試みであることに変わりはありません。そのような試みは、その公会議自体に加えて、その公会議を望み、強制し、再提案した教皇たちの信用を落とさないようにするためです。それが進んだ結果、その同じ教皇たちが次々と「公会議の教皇」であったことを理由に祭壇のほまれに上がる【列聖される】までになっています。

マリア・グァリーニ博士が、「Settimo Cielo」に掲載されたあなたの記事に答えて6月29日にブログ「Chiesa e postconcilio(教会と公会議後)」に発表された、「ヴィガノ大司教が離教の瀬戸際にいるのではなく、多くの罪が表に現れつつある」と題された記事から引用させてください。彼女はこう書いておられます。

「そしてまさにここから生まれ、この理由のために(これまでのところ、ヴィガノ大司教によって引き起こされた議論を除いて)成果のないまま、継続しているのは、耳の聞こえない人同士の対話であり、それは対話の相手方同士が異なる現実の枠組みを用いているからです。第二バチカン公会議は言葉を変えることによって、現実へのアプローチの枠組みをも変えたのです。ですから、私たちが同じものごとについて話すときも、そのもの自体にまったく異なる意味が与えられている、ということが起こるのです。とりわけ、今の高位聖職者たちの主な特徴は、議論を許さない断言をしますが、それらを証明しようともせず、あるいはしたとしても誤った詭弁によって証明だけです。いえ、新しいアプローチと新しい言葉が最初からすべてを破壊転覆してしまっているので、彼らには証明する必要すらないのです。そして、定義された神学的原則に全く欠ける、異常な「司牧性」が何なのかは証明されることがないために、まさに議論の対象となる内容が取り去られてしまうのです。それは、明確で、曖昧さがなく、定義された真の構築物に代えて、形のない、変化し続け、溶解していく液体が進んでいくようなものです。これが、光り輝く永遠の堅固さを持った教義と、汚水やうつろう砂のように移り行く新教導権の違いです。」

教会の組織内における多くの、あまりにも多くの人々が、教会の歴史の中での唯一無二のもの(unicum)、ほとんど手を触れることさえできない偶像のようにみなしているこの公会議についての議論を私があえて再開する、というただその事実によって、あなたの記事の論調が決められてしまったのではないことを願い続けています。

ドイツのシノドスの道の司教たちのように、すでに離教の瀬戸際をはるかに超えて、常軌を逸したイデオロギーや行為を奨励し、恥ずかしげもなくそれらを全世界の教会に押し付けようとしている多くの司教たちとは違って、私は母なる教会から離れるつもりはまったくありませんのでご安心ください。私は母なる教会を賞賛するため、自分の人生の奉献を毎日更新しています。

Deus refugium nostrum et virtus,
populum ad Te clamantem propitius respice;
Et intercedente Gloriosa et Immaculata Virgine Dei Genitrice Maria,
cum Beato Ioseph, ejus Sponso,
ac Beatis Apostolis Tuis, Petro et Paulo, et omnibus Sanctis,
quas pro conversione peccatorum,
pro libertate et exaltatione Sanctae Matris Ecclesiae,
preces effundimus, misericors et benignus exaudi.

われらの依り頼みと力とにまします天主、
御あわれみを垂れ、主に叫ぶこの民を顧み給え。
永福にして原罪なき童貞天主の聖母マリア、
その浄配聖ヨゼフ、
使徒聖ペトロ、聖パウロおよび諸聖人のとりなしにより、
罪人の改心、
および、母なる公教会の自由と栄えとのために
捧げまつるわれらの祈りを御慈悲をもって聴き容れ給え。

親愛なるサンドロ、キリスト・イエズスにおいて、最高のご多幸を祈って、私の祝福とあいさつをお送りします。






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【再掲】ベネディクト十六世:堕胎は人権であり得ない。まさに人権に反対している。

2020年07月23日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

堕胎は人権であり得ない。まさに人権に反対している。
Abortion cannot be a human right -- it is the very opposite



兄弟姉妹の皆様、
オーストリア訪問中に言われたベネディクト十六世教皇様の言葉を引用します。

「その他の多くの権利の前提である基本的人権は、生命それ自身への権利である。」

「これは受胎の瞬間からその自然な終わりまでの生命に関して真である。」

「従って、堕胎は人権であり得ない。まさに人権に反対している。」

"The fundamental human right, the presupposition of every other right, is the right to life itself," the pope told members of the government and the diplomatic corps at the Hofburg, the seat of the Austrian presidency.

"This is true of life from the moment of conception until its natural end," he said in German

"Abortion, consequently, cannot be a human right -- it is the very opposite."

From Pope Benedict XVI slams abortion on Austria visit

聖母の汚れ無き御心よ、私たちのために祈り給え!

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オーストリア訪問:教皇、大統領を表敬訪問(2007.9.8)
Abortion not a human right, says Pope Benedict XVI
Benedict makes statement on abortion



■ 第二ヴァチカン公会議の「洗礼の秘跡による信徒の祭司職」について
■ 何故、新しい神学が過去の公教要理の教えを否定してまでも新しい教理を教えているのか?
■ 「贖い」ということについて公教要理をみてみます。
■ ピストイア教会会議って知っていましたか?
■ だから私たちは「カトリック新聞」の聖福音の説明を読むとびっくりするのです
■ 第二バチカン公会議の『教会憲章』の曖昧な表現についてどう考えるべきか?
■ 第二バチカン公会議の文書の曖昧な性格は何に由来するのか?



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--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
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