Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

私は御身を信じ礼拝し希望し御身を愛します!御身を信ぜぬ人々礼拝せず希望せず愛さぬ人々のために赦しを求めます(天使の祈)

スイスの教区司祭の半数は65才以上、フランスの教区司祭の半数は75才以上

2011年11月30日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか?

 フランスの日刊紙ラ・クロワ(La Croix)が発表した統計によれば、フランスの教区司祭は14000名ですが、そのうち半数は75才以上だそうです。引退の年齢を超えても、代わりの司祭がいないためにそのまま働くことになっているそうです。
 フランス北西部では司祭の数がまだあるけれども、南東部では司祭が不足しているとのことです。特にボルドーやモンプリエ、またパリ郊外が危機的な状況だそうです。
 例えばポントワーズ教区では181名の司祭のうち、62名の司祭が教区司祭で、51名が外国人司祭(主にポーランド人司祭とアフリカ人司祭)、そして68名が修道司祭です。

 参考資料 
La carte de France des pretres

Les pretres catholiques : toujours moins nombreux, toujours plus vieux

 また、ザンクト・ガレンにあるスイス司牧社会学研究所の所長ビュンカー(Arnd Bünker)などによると、スイスの教区司祭の半数は65才以上です。2009年末にはスイスの教区司祭の平均年齢は65才になりました。

 参考資料
La moitie des pretres diocesains suisses a plus de 65 ans

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

聖アンドレア、我らのために祈り給え!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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今日から、聖母マリア様の無原罪の御宿りの祝日(十二月八日)の準備を始めましょう

2011年11月29日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

 愛する兄弟姉妹の皆様、
 今日から、聖母マリア様の無原罪の御宿りの祝日(十二月八日)の準備を九日間祈祷(ノベナ)を持って始めましょう。

 何故なら、聖伝によると、11月29日から12月7日までは、聖母マリアの無原罪の御宿りの祝日までのノベナ(九日間の祈り)をする習慣だからです。

 このノベナに愛する兄弟姉妹の皆様をご招待いたします。

 ノベナのやり方は、

(1)聖母の連祷

(2)「童貞聖マリアに対する教皇聖ピオ十世の作った祈り」
天主に嘉せられ、天主の御母となりしいとも聖なる童貞女よ、御身は、御肉体にても御霊魂にても、信仰においても愛徳においても罪の汚れのなきおん方なり、御身の力強き御保護を願い奉る我ら罪人をみそなわし給わんことをこいねがい奉る。最初の呪いを受けたいにしえの悪しきヘビは、哀れなエワの子らに戦いを挑み、罠を仕掛け続けるなり。我らの聖なる母、我らの元后、代弁者よ、御身は受胎の最初の瞬間から我らの敵の頭を踏み砕き給えり。願わくは御身と心を合わせて捧げ奉る祈りを受け入れ給い、天主の御稜威の玉座にそれを捧げ給え。そは我らに対して為された罠に決して掛かることなく、我ら皆、救いの港に到着せんがため、またかくも多くの危険のただ中において、聖なる教会とキリスト信者たちが、もう一度、解放と勝利と平和の讃歌をどこででも歌うためなり。アメン
「マニラの eそよ風」212号
http://www.immaculata.jp/mag2003/manila212.html
を参照下さい。)

(3)呼祷「原罪なくして宿り給いし聖マリア、*御身に寄りすがる我らのために祈り給え!」(三回繰り返す)

愛する兄弟姉妹の皆様のうえに天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭) sac. cath. ind.  
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ローズ胡美玉 著 『楽は苦に在り』 第三十八章 碭山(ダンシャン)果樹園

2011年11月22日 | ルフェーブル大司教の言葉
第三十八章 碭山(ダンシャン)果樹園

私は投獄中に、白湖農場から碭山果樹園に送られましたが、後者は全く悪夢のようでした。碭山果樹園は、中国で二番目に大きい川である黄河の北に位置していました。そこの天候は過酷で、夏は暑くて乾燥しており、気温は43度まで上がり、さらに果樹園の力仕事もありました。冬は、零下30度位まで下がりました。私たちは、夏には扇風機が無く、冬には暖房が無い小屋に住みました。窓やドアはあっても、とてもみすぼらしいものでした。時々、激しい風が私たちの小屋の中まで強く吹いて来ましたので、野外に生活しているのも同然でした。嵐の日の雨はすなわち、私たちのベッドに雨が振りかかかって来ることを意味しました。

米と小麦の栽培出来きない碭山は、果物の栽培、特に非常に甘くて果汁の多い碭山梨で有名でした。今、私はアメリカのスーパーマーケットで、この種の梨を見てきました。おそらく人々は、それらのほとんどが労改果樹園で栽培されていることを知らないでしょう。私は碭山の労改果樹園を考える度に、私の心は震えました。それは、私たちが単にそこで非常に困難な生活をしたというだけではありません。私たちは、米の御飯やパンを貰えませんでした。私たちは腐ったヤマイモとカビの生えた野菜を食べました。果樹園の看守は、他の労働改造所よりも更に酷くカトリック教徒を扱いました。彼らは毎年、膨大な公開批判の会議を開催しました。司祭、修道女、そして信者が彼らの標的でした。そこでは、共産党の看守によって私たちを叩いたり、蹴るように強いられた3000人以上のの囚人がいたものです。会議後のお決まりとして、看守は窓のない離れの牢屋に私たちを閉じ込め、私たちの食べ物は他の囚人の半分に減らされました。その理由は、私たちが牢屋内で何も作業を行っていないということでした。私たちが進んで信仰を放棄し、彼らが言ったことに何でも従うのでしたら、彼らは私たちを解放したでしょうが、私たちは簡単には屈しませんでした。私たちが二週間抵抗し続けた場合、共産党の看守は、私たちが独房で死んでしまうかもしれないと恐れ、、私たちを出しました。私たちは、彼らの脅しに屈しなかったと心の中でました。

一部の人々は、ストレスの多い条件の下で「発狂」したり、自殺を図りました。私たちの部隊で、このように死んだのは3人でした。私たちは、共産党の看守がその人たちが政府に対して反革命的行為を行っており、その家族は厳罰に処せられると発表するのが分かっていたので、その人たちが死んだ後、同情を示すことが出来ませんでした。私に関しては、自分は決して忘れないだろうという最も過酷で恐ろしい経験をしました。碭山労改果樹園に来る前、私は、長期間の尋問の上での飢餓、寒さでの凍え、劇的な批判会議を経験して来ました。碭山に到着して後、私は想像を超えた全く新しい出来事に遭遇しました。

1970年8月の正午、私は果樹園から帰ってきたとき、共産党の看守の妻は、私たちの診療所に来て、彼女のマラリアのためのキニーネの注射をするように私に依頼しました。ちょうど彼女が依頼したとおり、私は彼女に2アンプル分を与えました。10分以内に、看守は診療所に急いでやって来て、私に叫びました。「胡美玉、妻に何をした?注射後直ぐに気絶したぞ」私は、ほとんどその場で死ぬところでした。彼は私に問い続けました。「どこにアンプルがあるんだ?おまえは間違った薬を注射したのか?」私は即座にアンプルを見付け、看守にそれを手渡しました。私の心臓はどきどきして、喉から飛び出さんばかりでした。何をなすべきでしょうか?まるで、誰かが私を地獄へ落とすかのように、恐怖の波が押し寄せました。私は必死になって、自分の心を現実に直面させるようにしました。看守の妻を救うのが、何よりも最も重要なことです。私は看守に言いました。「これは緊急事態です!先ず、病院の医師を呼びましょう」

 私はすぐに看守の家に走り、彼の妻がベッドに横たわっているのを見ました。彼女の目は固く閉じていました。私は反応を得るために、何度も何度も彼女の名前を呼びましたが、彼女は意識がありませんでした。私は、彼女の血圧を測定し、彼女の瞳孔を調べました。別に異常はありませんでした。医師が来るのに10分かかりました。彼は始めに、私がどんな囚人で、そして私の刑期がどのくらいであるか等々、私の背景について尋ねました。間違いなく私の答えは、彼が私に対してより厳しくなる多くの理由となりました。彼は、繰り返し、アンプルを調べました。「おまえは注射前に、なぜテストをしなかった?」厳しい顔で、私をにらみ付けました。私は恐る恐る、自分自身を弁護しようと試みました。「キニーネには、そのような手順はありません」彼は非常に怒りました。「とにかく、おまえは反動分子で、我々の一番の敵だ。おまえは、本当に彼女を殺そうとしたのではないか。今、揚夫人はまだ意識が無い。もし回復しなかったら、おまえは自分がやったこと全てに対して代償を払わなければならない。厳罰が待っているのが、おまえにははっきり分かっているだろう」私は何をすべきか分からず、途方に暮れていました。医者は彼女にグルコースを与えて、自身に満ちた態度で去って行きました。私はリンゴのように赤い揚夫人の顔を見ると、彼女は非常に良いリズムでいびきをかきました。おそらく、より多くのお金を得ることが出来るように、看守の家族も収穫の季節には忙しく働いていたためでした。彼女は働き過ぎでしたので、より多くの睡眠を必要としていたのかもしれません。彼女は、私が心を震わせながら、18時間以上も彼女のベッドの横に座っていたことを知らなかったでしょう。

 その間、私は12年以上投獄されていました。十五引く十二、残されたのは僅か3年間です。悪夢はすぐに終わるかもしれませんが、揚夫人の予想外の出来事以来、誰も私が自分の刑期を終わらせるとことを知りませんでした。私は、旧約聖書のヤコブでさえ、このような試練はなかったと思いました。しかし、天主様は正義と慈悲に満ちておられ、その無限の知恵は、それが起こるのをお許しになりましたので、私は不平不満を述べる理由はありませんでした。私は天主様を信頼し、彼らが私を処刑するための心の準備が出来ていました。私の両親は、二人共もう天国にいました。私自身は、この労働改造所で苦しんで償いをしましたので、もしそれが天主様の御摂理であるのならば、私は喜んで行こうと思いました。ただ、私が楊さんの家族に対して、さらに多くのトラブルや負担をもたらすことを心配していました。

私は楊夫人と夜まで過ごし、彼女は深いため息をついて言いました。「とてものどが渇いた。飲み物を下さい」この言葉を聞いて、私はほっとし、まるで哀れな霊魂が煉獄から解放されたのに似ていると思いました。私が水を取りに急いだ後、彼女はこう言いました。「私はとても疲れています。朝早くから何も食べていません」私は彼女のために、麺を料理するように彼女の夫に言いました。彼女はガツガツと食べると、ずっと気分が良くなったと私に語りました。妻のこの明らかな回復で、看守は私は疲れていたのに気付き、私が診療所に戻ることを認めました。

三ヶ月後、私は別の刑務所に移されました。私が出発する日、楊夫人は診療所に来て、別れを告げました。彼女は、とても心を込めて言いました。「前に、私はあなたに大きな負担をかけましたが、それでもあなたは私に良くしてくれました」囚人と看守の間には大きな格差があり、私たちの間ではどんな愛情や友情も育まれることが許されませんでしたので、それは労働改造所では非常にまれな会話でした。後に彼女は、私に2つのキュウリを持って行くように、彼女の幼い息子を寄越しました。「途中でのどが乾いても、飲むものがないときのために、きゅうりが役に立つってママが言ったよ」二つの小さなキュウリは、彼らが私のことを気遣っていることを示しました。いつの日か、私の愛が彼らの凍った心を溶して天主様への愛を起こすことが出来るように、私は天主様に祈りました。





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『楽は苦に在り』ローズ胡美玉 著 目次
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モンシニョール・ブルネーロ・ゲラルディーニによる聖ピオ十世会についての見解と公教会の現状

2011年11月22日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 「モンシニョール・ブルネーロ・ゲラルディーニによる聖ピオ十世会についての見解と公教会の現状」という文章を日本語に翻訳してくださった方がおられますので、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


モンシニョール・ブルネーロ・ゲラルディーニによる聖ピオ十世会についての見解と公教会の現状


 クリエ・ド・ローム(Courrier de Rome)誌の2010年5月版(第333号)で、パオロ・パスクァルッチ教授(Professor Paolo Pasqualucci)はモンシニョール・ブルネーロ・ゲラルディーニ(Msgr. Brunero Gherardini)による研究論文に関して啓発的論評を提供している。【ブルネーロ・ゲラルディーニ神父は、ローマの聖ペトロ大聖堂の教会参事会員(カノン)であり、ラテラン大学の神学部の元部長であった】

 この論文は、神学雑誌 ディヴィニタス誌(Divinitas)上に、"Quod et tradidi vobis - La tradizione vita e giovinezza della Chisa" 【私は受けたものをあなた方に与えた‐聖伝、生活、そして教会の若者たち】という題で掲載され、さらにカーザ・マリアーナ出版社(Casa Mariana Editrice)により再度一冊の本に於いて取り上げられてもいる研究論文である。(第7章 聖伝と第二バチカン公会議後 Cap. VII Tradizione e postconcilio は、ネット上で読めます。)

 今年の初めにフランス語で出版された第二バチカン:公開討論(Vatican II:An Open Discussion) の著者モンシニョール・ゲラルディーニは、Quod et tradidi vobis 論評の中で、聖伝と第二バチカン公会議との神学討論という非常に当を得た分析を紹介している。次のものは、クリエ・ド・ローム 誌上で指摘されている、9つの障害のリストの大抜粋である。このリストの後に、私たちの方で三つの寸評を加えたが、その中でモンシニョール・ゲラルディーニは、非常に明確な個人的意見を述べる事を躊躇(ためら)わない。

「聖伝に賛成するルフェーブル司教により擁護された立場の体系をまとめてみようと私は努力を払い、しかしこの問題について取り残しのないほど徹底的に論じていると主張しているわけではないが、この対立それ自体は、次のようであると私には思える:


1. 聖伝の司祭養成と新しい司祭養成
 教会の聖伝の上にまた天啓という超自然的価値の中に、その諸原則を打ち立てる聖伝の司祭養成と、永続的変化にある文化の変動的水平に開かれた新しい司祭養成との対峙。

2. 聖伝の典礼と新しい典礼
 聖伝のと呼ばれるミサに於いて確かに力強い点を持っている典礼と、[新典礼の]人間中心的で社会学的な典礼との対峙。また新しい典礼では、共同体は個人の価値に勝り、祈りは天主崇拝の側面が無視され、[司祭ではなく] 集会が主要な行為者となり、天主は人間に場所を譲っている。

3. 聖伝による自由と新しい自由
 人の「解放」を、天主の十戒や、公教会の掟、身分上の義務による拘束、天主を知り、愛し、そして天主に仕えるという義務に依存させる自由と、あらゆる形式の礼拝<=あらゆる宗教>を対等に置き、神法に関しては黙し、個人と社会を道徳と宗教の分野と無関係にし、あらゆる問題の解決策を良心にのみ委ねる自由との対峙。


4. 聖伝の神学と新しい神学
 特定の典拠(天啓、教導権、教父学、典礼)からその内容を汲み取る神学と、来る日も来る日も、その時々の文化的出現や、それどころか明らかにちょうど言及したばかりの典拠と相反したものに門戸を大きく開く神学との対峙。


5. 天主の救世論と新しい救世論
 御託身された御言葉<イエズス・キリスト>の位格とその贖いの業と聖霊の働きとに密接に結び付き、救い主の御功徳の適用や、公教会の秘蹟による介入、さらに洗礼を受けて信徒となった人々の協力とに緊密に繋がっている 救世論 (編集者注:救霊の業に関する学問)と、 人類の一致(現代世界憲章22参照)を御言葉の御託身の結果であると考え、御言葉において個々の人間が自分固有の同一性をその中に見出すとする救世論との対峙。


6. 聖伝の教会論と新しい教会論
 公教会をキリストの神秘体と同一であると見做し、キリストの秘蹟的現存の中に教会の存在と行動の極めて重要な命の秘密であると認識する教会論と、 カトリック教会を、キリストの教会を構成するその他の諸々の中の単なる一要素であると考え、このキリストの幽霊的教会において、宣教精神は眠りこけ、福音化をしない対話をし、あたかも大罪であるかのように改宗を考えてそれを放棄する教会論との対峙。


7. ミサ聖祭に関する聖伝の概念と新しい概念
 キリストの御受難、御死去、御復活の神秘を執行し、天主の正義を満足させて罪を償う贖罪を秘蹟的に再現させる、罪の償いのミサの犠牲 と、 "自分自身を啓示する天主" には基づかず、"我々に語りかける天主に対して為される存在論的返答" に基づく信仰ということにより、司祭が単なる座長であり、個々の信者がこの秘蹟に「積極的な」参加をするミサとの対峙。


8. 聖伝の教導権と新しい教導権
 天主からの啓示の聖なる遺産を守るのみならず、この天啓を解釈し未来の世代に伝える義務を持つと自覚している教導権と、 教導教会の声である事を自覚するどころか、ローマ教皇と同等の権利と義務を持つ司教団に公教会それ自体を服従させる教皇の教導権と対峙。


9. 聖伝の宗教心と新しい宗教心
 天主に奉仕する事、そして、天主への愛の故に、人類社会の兄弟たちに奉仕する事という共通の召命を実現させる宗教心と、 この自然秩序を覆して、人間をその中心とするに留まらず、理論上でなくとも少なくとも実際上、天主の地位に人間をたてる宗教心との対峙。


「今述べた事から、聖ピオ十世会が如何に聖伝を理解しているかを容易に推論することが出来ます。確かに、聖伝とは、聖ピオ十世会が否定することと反対するすべて、聖ピオ十世会が反対し対立する事柄と正反対のすべてです。直接に、あるいは間接的に発言の行間で、聖ピオ十世会は公会議の公文書に記された諸々の革新と、公会議後に行われたその適用を拒絶しており、また聖ピオ十世会は格式なく為された野蛮なやり方に反対しています。」

「聖ピオ十世会の文書に於いて、聖伝の概念が頻繁には説明されていないことは事実であり、そこでこの概念が体系的に展開されているとは思いません。しかし、そこで理解されている事は、ちょうど推測されていることのように、陰には決して留まりません。全ての基礎には『永遠の信仰』があり、この防衛の為にこそ聖ピオ十世会は誕生しました。『防衛』ということは、その反対のもの、あるいはその代用品に有利になるような何かが存在するか、又はあり得ると言うことを表しています。『永遠の信仰』こそが、ルフェーブル大司教様が守りたいと望まれた価値であり、つまり公会議から公会議後の時期に起きたありとあらゆる衰弱、再解釈、分裂や反論と入れ替えられている価値です。この『永遠の信仰』は、『Quod semper, quod ubique, quod ab omnibus creditum est‐至るところで、常に、万人によって信じられたもの . . . 』というレランの聖ヴァンサンの言葉に要約された聖アウグスチヌスの教えの鮮明なこだまなのです。まさに司祭養成を第一の目的とする聖ピオ十世会の創立は、この理想と、この『永遠の信仰』を守るための行動とに従います。信仰を守り誤謬と戦うことに。」

 「聖座と聖ピオ十世会間の難しい関係について詳細に触れるつもりはありません。私は聖伝という共通のテーマから離れないようにします。『信仰を守り誤謬と戦うこと』は、公教会のみならず、その子らにとっての、理想であり、そのために参加すべき行動であるべきです。この事を考慮するなら、1988年にヨハネ・パウロ二世により言われた『不完全かつ矛盾する聖伝』(Motu Proprio Ecclesia Dei, 1988年7月2日)に対する非難が、現実的な根拠をどうやって持ち得るのか私には理解し難いものがあります。私が理解する事は、聖伝はアシジの精神と何の関係もないという事です。
(Mgr Gherardini, Quod et tradidi vobis – La tradizione vita e giovinezza della Chiesa, Ed. Casa Mariana Editrice, pp. 241-244).

【ブルネーロ・ゲラルディーニは、ローマ学派の85歳になる高名な神学者であり、聖ペトロ大聖堂参事会員にして教皇庁立神学院秘書、また教皇庁立ラテラノ大学名誉教授、さらに雑誌ディヴィニタス の編集者である。
 その他にも『第二バチカン公会議、開かれている疑問(Vatican II, question ouverte)』という論文を書き、2011年7月12日に Catholica 誌 no. 111, pp. 39-47 に掲載された。】

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カトリック教会のためのロザリオの十字軍、現在14,513環のロザリオが集まりました

2011年11月21日 | ロザリオの十字軍
アヴェ・マリア

愛する兄弟姉妹の皆様、

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか?

 さて、2011年の復活祭からフェレー司教様が発動した第4次ロザリオの十字軍の報告を申し上げます。
 2011年4月23日から2011年10月31日までの分として、現在日本から、総計
 ロザリオ 14,513 環

 の報告を頂きました。深く感謝します。

【報告】
+アヴェマリア

 先月(10月)はロザリオの月でした。みつばちクラブの学校では特別にロザリオを奨励していまして、ごほうびも通常の五倍あり、生徒が競ってロザリオをしていました。
 その勢いに圧倒され、なんと、てんとうむしクラブがみつばちクラブに負けるという事態が発生してしまいました。

10月分 みつばちクラブ   715環
     てんとうむしクラブ 669環   
      計       1384環   

 今月は死者の月です。亡くなった親族、恩人、友人また害を加えた人のためにもたくさんロザリオをしたいと思います。

 まんがも、楽しみにしています。

 洗者聖ヨハネ 我らのために祈りたまえ。

【お返事】
 うぁー!すごい!計1384環! しかもみつばちクラブの沢山のロザリオ!ありがとうございます。感謝!感謝!

【報告】
アヴェマリア。
小野田神父様、お体の調子はその後いかがですか?もう大分良くなられましたか?どうか、お大事にしてくださいませ。11日、12日の御ミサにいらっしゃってくださるのを楽しみにしております。
遅くなりましたが、10月分のロザリオの報告をさせていただきます。

フランシスコ    31環
モニカ       93環
テレジア     124環   以上です。

小野田神父様と聖ピオ十世会の上に、神さまからの豊かな祝福とお恵みがありますように。
祈りのうちに。デオグラチアス。

【お返事】
いつもロザリオをありがとうございます。大変感謝しています。

【報告】
アヴェ・マリア!
トマス小野田神父様

ロザリオの十字軍のご報告をさせていただきます。
10月28日から11月20日18時(日本時間)まで
私と子供2人あわせて50環でした。

質問でございます。
公教要理は、カトリックの教義や教会の組織などをあますことなく、明かしていますが、その成り立ちをおしえていただけますでしょうか。
それは、トマスアクイナスの神学大全や過去の公会議で決定された内容を初学者向けにかみくだいたようなものなのでしょうか。

小野田神父様に天主様の祝福が豊かにありますように!


【回答】
 いつもロザリオをありがとうございます。トリエント公会議をうけてトリエント公会議の公教要理(ローマ公教要理)ができました。これは司牧者のためのものでした。この公教要理はトマス・アクイナスの神学大全を要約したようなものです。トリエント公会議自体も、公会議の最中には、祭壇の上に聖書とトマス・アクイナスの神学大全が置かれていました。しかしローマ公教要理は、対話式ではありません。


 私の理解が正しければ、対話式の公教要理は、その後に出来ました。トマス・アクイナスの神学大全や過去の公会議で決定された内容を初学者向けにかみくだいたようなものです。例えば、聖フランシスコ・ザベリオも対話形式の公教要理をインドで作りました。西洋では、先生が質問し、生徒が答えるという形式をとりますが、聖フランシスコ・ザベリオが日本に来て日本語の公教要理を作る時には東洋のメンタリティを考慮して、弟子が質問し、師が答えるという形式になりました。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

+ + +


愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

聖ピオ十世司祭兄弟会 (FSSPX) 創立者 ルフェーブル大司教 伝記 目次

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ローズ胡美玉 著 『楽は苦に在り』 第三十七章 雨の夜の付き添い

2011年11月21日 | カトリックとは
第三十七章 雨の夜の付き添い

黄松青博士は、全信者の中で最年長でした。彼女はかつて、上海の有名な総合病院である上海公済医院で整骨療法の看護婦長でした。その後、彼女は大学で彼女の研究を継続し、外科医になりました。彼女はレジオ・マリエの会員だったので、逮捕されて懲役四年の刑を言い渡されました。彼女の優秀な医療技術は、共産党の看守を含め、誰もが非常に彼女を尊敬しました。

労働改造所の病院には二種類の医師がいました。囚人の医師と共産党員の医師です。共産党員の医師が、患者のための腰椎穿刺をしていたことを私は覚えています。彼は続けて20回以上も患者に穿刺しましたが、成功しませんでした。最後に、医師はあきらめて誰かに黄博士を呼ように頼みました。倒着した時、彼女は謙遜してこう宣告しました。「私もこれを上手く出来ないかもしれません」彼女は背骨を診て感覚と感触で正しい箇所を探り、十分に確信した時に針を使いました。脳脊髄液の滴がすぐに見えました。その患者はとても感銘を受けたので、大声で叫びました。「黄博士、あなたは驚異の人です!」それは、彼女がどれほど賢こかったかという多くの例の一つに過ぎません。私たち看護人のために、彼女はよく自分の腕を伸ばし、私たちが彼女に対して静脈内注射をする練習が得られるようにしました。患者の静脈の代わりに彼女の静脈で練習できるので、彼女はそうしたのです。彼女はしばしば言いました。「良いカトリックの医師になるには2つの要件があります。先ず慈善と忍耐で、次は良い技能です。どちらも不可欠です。技能を無視することも、優しい心無しに熟練するだけでもいけません」この理念によって、私たちは、毎日必要な技術を練習するように導かれました。

彼女は当時50歳で、結婚したことがありませんでした。彼女の仕事のための熱意は他のすべてを上回りました。彼女はまた、若い世代の私たちを愛しました。彼女は刑に服した後、彼女は自分の仕事でよい賃金を得ました。私は後で分かったのですが、彼女は質素で私たちを援助するために自分のお金の3分の2を費やしていました。彼女はよく私たちに言いました。「中国の諺に、『他人が楽しむことができるように、花火を買いなさい』というのがあります。もし、あなたが私のお金を取らなければ、私は価値のない多くのものを買って、本当には必要としていないかもしれない人に送ったでしょう」私たちは、卵、ビタミン剤、および他の基本的な必需品を得て、いったん、それらがどこから来たのか知って彼女の優しさを考えると、私は確実に彼女を拒むことができませんでした。その時、家族は進んで私に金銭的援助を与えませんでした。彼女の助けが無ければ、私はこれらのお話を書くことはないでしょう。

私はいつも病院の結核の部門で仕事を割り当てられていました。私たちの寮から病院までは徒歩圏内で5分しかかかりませんでしたが、丘陵地帯だったので坂を上ったり下りたりしました。昼間は職場へ歩いても問題はありませんでしたが、夜間、特に雨が降っていた時は、簡単に躓いて転びました。今思い出しますが、雨が降って風の強い夜、私は夜勤のために行かなければなりませんでしたが、私は出かけてからたった2分で転びました。私は全身泥水まみれになり、やむなく、私は寮に戻って着替えなければなりませんでした。ある人は自分の同情を示し、私のぶ厚い眼鏡が雨水で覆われて、はっきりと道を確認するのが難しくなっていたのだとい言いました。他の人は、私が単に体のバランスを失ったのかもしれないと考え、一方でまた他の人は、皮肉や嘲りを口にしました。「この甘やかされた娘は、うまく歩くことさえできない。なぜ、夜勤を?」私はあらゆる種類の親切、もしくは卑劣な言葉を受け入れなけばなりませんでした。たとえ人が望んでも、この状況では私を助けられませんでした。人々が労働改造所でお互いに助け合うのは、望ましいことではなかったのです。

一言も言わず、黄博士は片手に火をつけたろうそくを持ち、もう片方の手には傘を持っていました。そして言いました。「美玉、私はあなたとそこへ行きます」私はそれ以上何が言えたでしょう?私は彼女と歩き出しました。彼女は道中ずっと私を引き寄せ、彼女の手のろうそくは嵐の中を灯し続けました。それは、突風で吹き消されることはありませんでした。そして、ろうそくの火は弱く、暗闇の中で絶え間なく揺らめきました。貧弱な傘は、激しい嵐に抵抗することができませんでしたが、2人が一緒に力を合わせていたので、嵐はそれほど酷くはないように思えました。私たちが病への道半ばだった時、涙と雨が私の顔を覆いました。どうして、他の場所でこのような真の友情を見い出することが出来るのでしょう?私の心にはさまざまな感情がありました。この医師は、反対があった場合でも、私を守るために自分の身を犠牲にしていました。あの雨の夜の彼女の付き添いは、私が自分の人生で一人ではなかったことを象徴していました。私はいつも、大変な時期を乗り切るように助けてくれる、キリストの兄弟姉妹を持っていました。

私は1998年に上海に戻り、黄博士を訪問しました。彼女の精神状態は、あまりしっかりとしていませんでした。彼女の最初の反応はこうでした。「あなたは美玉ではありません。あなたは美玉のふりをした偽者です」私は「媽媽」(ママ)と言いました。(私は労働改造所にいたとき、彼女をいつもそう呼んでいました)彼女はそれを聞いた途端、泣き出しました。「あなたは、私が日夜想っていた私の美玉です。ああ、私は死ぬ前にもう一度あなたに会えるように、毎日私たちの天の御母に祈ってきました。あなたは、まだ毎日ロザリオを唱えていますか?美玉、アメリカに帰らないで。1年か2年の間、私と一緒に住みましょう」そして、しっかりと私の手を握って、私を行かせようとはしませんでした。

彼女に何を言うことが出来たでしょう?私は、アメリカでの生活を放棄する気はありませんでした。実のところ、私は、人々に物質的で無関心な態度が見られるアメリカに留まりたくはありませんでした。ですが、私は96歳の義母、娘、そして主人のことを考える必要がありました。私は非常に多くの結び付きによって縛られていました。私は心を込めて、彼女がアメリカに来て残りの人生を過ごすように誘いましたが、彼女は同じように心を込めてそれを辞退しました。彼女は私に、さらに多くのトラブルを引き起こすことを望んでいなかったからです。私は彼女に二度会う勇気がありませんでした。どうしたら、私は今まで彼女が私に与えてくれた物全てを返すことが出来るのでしょう?今、彼女のことを考えると、私は自分の悲しみを和らげることが出来ません。私に出来ることは、彼女のために祈ることです。私の媽媽(ママ)、天主様が天と地の両方において、彼女に報いて下さいますように!




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ローズ胡美玉 著 『楽は苦に在り』 第三十六章 白湖農場の天使

2011年11月20日 | カトリックとは
第三十六章 白湖農場の天使

1962年、白湖農場の病院には12人のカトリックの看護人がいました。マリア朱奮健は、私たちの間で最も顕著な人でした。彼女は誠実で慈悲深く、親切で、あらゆる女性らしさの美徳を備えていました。

彼女は本当に、病院では天使だと思われていました。労働改造所では人が病気になった場合、改造所の病院に送られます。病院に来る前、彼らはすでに、自分たちの部隊で長い間病気だったものです。彼らが最終的に病院に着いたとき、彼ら耐え難い悪臭にまみれていました。彼らの何人かは、自分の髪にシラミを付けていました。もし、私たちが天主様の御旨を行うことを望んでいないとしたら、私たちはむしろ、彼ら患者に奉仕するよりも重い肉体労働をしたことでしょう。

朱奮健は、患者にとても忍耐強かったです。彼ら患者は、特に病気になった場合、自由を失い、そして彼らを慰める人がいませんでした。彼らが、どうして十字架を背負うためと、死に直面するための強さを持っているでしょう?彼らのほとんどは、非常に気が短く、治療を受け入れることを望んではいませんでした。奮健は言いました。「患者が落胆すれば落胆するほど、私はより彼らに近づくことを望みます。イエズス・キリスト様が彼らの中に現れるのを見たいのです。私はイエズス様を愛しているから、彼らに奉仕します」私たちにとって、それは行うよりも言う方が簡単です。奮健は、正に彼女が言ったことを行いました。

 彼女が最初に病院に来たとき、自分の手を伸ばすことのできないぼろを着た患者を見ました。彼女はすぐに、水を満たした桶を持ってきて彼を洗い、汚れた長い指の爪を切りました。私は彼女と同じ病棟で数年働きました。私は彼女が休息を取るために事務室に座っているのをほとんど見たことがありません。彼女は、彼ら患者は自由を失い、家族と離れ離れにされたことをよく知っていました。今、彼らはとても病気で、ほとんどが相次ぐ災難に遭遇して人生に自信を失っていましたので、私たちは彼らに愛徳と希望を与えることになっっていました。私は、彼女が注意を払って患者の傷口を消毒してきれいにしながら、彼らに奉仕するために後ろに反り返るのを何回見たことでしょう!どれほど、私は彼女が患者をマッサージしたり、30分あるいは1時間の脊椎指圧療法を施している間の彼女の汗ばんだ顔を見たことでしょうか!患者は彼女の世話を必要としていましたので、彼女はとても長い間、自分自身が休息を取ることはありませんでした。

その時、自分の排尿や排便をコントロールすることができない下半身が麻痺した患者がいました。患者は、彼の不注意から作業中にとても高い場所から落ちたと私たちに語りました。当時、彼は座ることもできませんでした。たとえ、患者が在宅医療を得ていた場合でも、彼と周りの人々は、疲れはててしまったでしょうが、彼は労働改造所では何かを期待することができませんでした。彼は自殺を数回試みました。朱さんがそれを聞いたとき、彼女は時間を無駄に過ごす彼に、鍼治療とマッサージを与えるための多くの時間を費やしました。この無償の愛は、彼を深く感動させました。ある日、彼はマリアに言いました。「私は、天から私たちのところに降りてくる天使を見たことがある。誰が何の罪であなたを告訴出来るだろう?どうして誰がそれを信じるだろうか?私の周りにはたくさんの天使がいる。私は、この全世界で、カトリック教徒よりも、貧しい人々や苦しんでいる人々に同情を寄せる人がいるだろうかと言わなければならない。朱看護婦は私に水と薬を持って来てくれた。彼女はまた、どんなに汚くて疲れる仕事であっても、私が必要なときに世話をしてくれた。私の大きな幸運は、家でさえ受けられないような治療を受けることだ。私は、朱看護婦のアドバイスに耳を傾けて自殺はしない。私はもう天使を見た。天国は遠くはないだろう。私は死ぬ前にカトリックの信仰を受け入れたい。私は天使に会いに天国に行けると確信している」彼は死ぬ前に洗礼を受けました。

奮健は、1982年に釈放され、1980年代後半にこの世を去りました。今、私が彼女について書いている時、私は本当に、彼女についてこれ以上何を書くべきか分かりません。彼女は殆ど話をしませんでしたが、聖母マリア様に倣おうと願っていたので、とても誠実に他人に仕えました。彼女の偉大さは、彼女の小ささと見るからに自然な英雄的美徳にありました。彼女は世界を驚かせるような事はしませんでしたが、忍耐と自己否定によって、どれだけ天主様と人間の愛に満たされていたかを示しました。彼女はいつも天主様の御旨に従い、自分のカトリック信仰に忠実なままでした。

暁の星
暁の星にあるのは何でしょう
朝と夜の入れ替わり
暗い夜は過ぎ去り
明るい日がやってきます
すべての星は消え去っても
あなただけはまだそこに立ち
太陽が出るのを待ちました
あなたは初めて公に太陽の光を受け
光の行列に身を投じます
もうあなたは見えません
贖いの御助けを残して
夜は確実に消え去ります
教えてください
いつ大司教様の日が来るかを
私たちは共にデオ・グラチアスをいいます
ありがとう
私たちを導く暁の星よ
2007年8月8日





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ローズ胡美玉 著 『楽は苦に在り』 第三十五章 彼は我々の時代の聖フランシス・コザビエルでした

2011年11月19日 | カトリックとは
第三十五章 彼は我々の時代の聖フランシス・コザビエルでした 

私が中国の上海で若い女の子だった時、私は君王堂で御ミサに与っていました。私の学校である震旦女中から歩いてしか2分かかりませんでした。これらは、天主様が私の霊魂にカトリック信仰の種を植えた主な2つの場所でした。君王堂は、アメリカのカリフォルニア州からのイエズス会の司祭によって管理されていました。いちばん最初は、フィリップ神父様が私たちの主任司祭で、彼はますます多くの中国人信者がやって来るのを目にしました。その後、フランシスコ・ザビエル朱神父様が主任司祭となりました。朱神父様は、八人の息子がいた非常に熱心なカトリック教徒の家族の出身でした。彼らの内4人はイエズス会の司祭に叙階されました。神父様は、上海の神学校に入った最年長でした。後に、彼の長上はパリ大学で地理学を学ぶために彼を海外に送り、数年の勉学の後に博士号を取得しました。彼は、共産党が中国を掌握した数年前に、自分の故郷の町である上海に戻り、そして君王堂で働きました。

 彼はしばしば、聖フランシスコ・ザビエルは、アジアのでいくつかの素晴らしい布教活動をしたとおっしゃいました。彼の最大の願望は、日本人、インド人、そして中国人を改宗することでしたが、彼は中国へ行く途中に小舟の上で亡くなりました。彼は朱神父様の守護聖人でしたので、朱神父様は、聖フランシスコ・ザビエルの夢を働き続けたいと考えていました。「この有名な聖人は、アジアでの11年間の使徒的活動で100万人の霊魂に洗礼を授けました。中国は巨大な人口を持つ自分の国ですが、とても沢山の霊魂は、未だに天主様の御名を聞いたことが無いのです!

 悪魔はとても忙しく働きかけています。私たちは償いと祈りを以って、彼らの手から霊魂を掴み取らなければなりません」彼は1953年に逮捕され、懲役20年を言い渡されました。5年後、彼は白湖農場に追放されました。囚人のほとんどは農作業をしました。ちょうど聖フランシスコ・ザビエルの足が、南インドの焼けるような砂と日本の凍てつく雪の上を歩いたのと同じように、私たちの朱神父様の足は、夏には熱くて汚い水の中を歩きました。彼は次々に籠の重い泥を運び、冬の間は飢えていました。聖フランシスコ・ザビエルと朱神父様は異なる場所と時代に生まれ、布教活動を行うために異なった方法を取っていましたが、彼らはイエズス様に仕えるという同じ目標を持っていました。私たちは霊魂を救い、異教徒を改宗させるために、代償を払わなければなりません。何事も、イエズス様の苦しみを模倣することなく達成することは出来ないのです。

何年も前から労働改造所で朱神父様と過ごした人は、彼の信じられないほどの忍耐力に驚きました。私たちは、朱神父様がユーモラスな司祭だったことを知っていますし、そしてどのような状況の下でも、彼は腹を立てませんでした。彼について、いくつかの驚くべき話があります。私たちは、寒い日にはほとんど農作業がありませんでしたので、労働改造所で私たちは毎冬に特別な洗脳のクラスがありました。共産党の幹部は、すべての囚人のために、午前中3時間、夜二時間のセッションを開催しました。これらのセッションでは、誰もが自分自身を吟味して「罪」を告白し、自分が行なったことに対して謝罪の言葉を述べる必要がありました。私たち司祭と信者にとって、私たちは何か間違ったことをしていませんでしたし、私たちが自分の国を裏切ったり、破壊したと言うことは問題外でした。共産主義者は私たちの信仰を否定したいというのが事実でした。私たちはこの組織的な精神的拷問の間、多大な圧力の下にありました。時々、相次いで会合がありました。朱神父様は主要な標的でしたので、彼らは自分の攻撃を神父様に集中させました。神父様は非常に賢明で、まるでこの世界に住んでいなかったかのように自分の目を閉じて黙っていました。どんなに共産主義者がヒステリックに叫んでも、朱神父様はそれを完全に無視して眠ってしまいました。彼はさらに、会合で大きないびきをかきました。幹部は頭を横に振って言いました。「何て頑固なやつだ!こいつを治せる薬は無い!」

別の面白い話がありました。それは1960年代の秋、労働改造所で起こりました。朱神父様は、小秋收(シャオチュショウ)と呼ばれた軽い作業である二度目の収穫を行うのに割り当てられていました。小秋收は、綿やピーナッツを集める程度でした。隊長たちは、囚人たちが徹底的にその任務を遂行しないことを恐れ、何人かの人々が一度同じ仕事を繰り返すように割り当てました。小秋收で多くの綿とピーナッツを集めた場合、共産党の隊長は、最初に収穫をした人たちに何らかの処罰を与えるでしょう。人が小秋收に何かを得ることができなかった場合、彼は時間を浪費したことでその人を責めるでしょう。かつて、朱神父様は小秋收の仕事をしていました。彼は非常に賢明でした。彼は座るための小さな椅子を持って、一つの茂みから次の茂みまでゆっくりと移動しました。4時間後、皆の籠にはその半分程でしたが、朱神父様の籠には、ピーナッツ一粒もありませんでした。私たちの司祭は、彼の部隊では有名な「お人好し」でした。

 人々が彼に願い事をする度に、彼はいつも「はい」と答えました。彼らは、少ない収穫の場合、共産党の隊長が彼らが何をしたかをチェックしたことを知っていました。ピーナッツは栄養豊富でしたので、囚人には非常に魅力的でした。彼らはピーナッツを、自分たちの口に入れるのを待つことが出来ませんでした。その後、彼らは待つのを避ける方法を考えました。彼らの多くは、次々に朱神父様のところへ行き、彼の籠からピーナッツをつかみながら言いました。「あなたはお人好しだ。今日も御世話になります!」朱神父様は微笑んで、すぐにピーナッツの殻を埋めるように彼らに頼みました。正午に隊長がやって来て、彼が神父様の籠が空になっているのを見た時、朱神父様を怒鳴り始めました。「誰もが一生懸命働いているじゃないか。おまえは一粒のピーナッツも摘まずに、5時間何をやっていたんだ?」神父様は、非常に穏やかに答えました。「今日、私は幸運です。あなたは、最初に収穫をした人々を賞賛してはいかがですか。御覧なさい、彼らは完璧な仕事をしました。私は、何も取れませんでした」

朱神父様は、中国の安徽省で1984年に亡くなりました。カトリックの信仰のために、彼は二度逮捕され、三十年以上投獄されました。彼は中国で、そして中国のために、自分の血を流しました。彼は実に、私たちの時代における聖フランシスコ・ザビエルでした!




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ローズ胡美玉 著 『楽は苦に在り』 第三十四章 記憶に残る集まり

2011年11月18日 | カトリックとは
第三十四章 記憶に残る集まり

1958年に、私は2回目の逮捕をされました。1959年9月30日、私は同じ貨物船で約500人の他の女性の囚人と一緒に白湖労働改造所に送られました。これらの500人のうち、上海の別の小教区や修道院から約15人のカトリック教徒がいました。私は全員を知っていたのではありませんが、私たちは3日から4日間の困難な旅での様々な苦しみに耐えました。木製のバケツ以外には船にはトイレがなかったため、最も困難な経験は、私たちが多くの水を飲むことを許されなかったということでした。500人が一つの大きなバケツを日夜共有することを想像してみてください。並んで待つのに、少なくとも20分はかかりました。

 カトリック教徒は多くの場合、必要に迫られた人に先に行かせる機会を与えることにより、他の人に愛徳を示しました。これは、語るにはかなり不快な対象であるかもしれませんが、これを経験してきた人々だけが、その愛徳の大きさを理解することが出来ます。この犠牲という美徳は、思いやりと大きな愛が必要です。彼女たちの一人であるマリア張茵秋は、木のバケツを使う便宜を他人に図ることで、非常な親切さを示しました。私たちは、上海ではお互いに面識が有りませんでしたので、私は労働改造所へ向かう途中でマリア張茵秋を知りました。彼女は輝く模範でした。非常に忍耐強く、穏やかで、彼女は不満を決して表さず、私がすべての苦しみを受け入れて、天主様にそれをお捧げするように励ましました。

 私たちが労働改造所に到着した後、体格が良く背の高い茵秋は、常に重労働に携わるように割り当てられていました。彼女はほんの少ししか話しませんでしたが、多くのことをしました。1959年は、中国では誰にとっても難しい時でした。私たちは、いくつかの腐ったニンジンや野草を以外には殆ど食べるものはありませんでした。時には、私たちは14時間以上も泥を運ぶ必要がありました。私は全信者で最年少であり、苦しむことへの多くの忍耐力を持っていませんでした。茵秋は多くの場合、私を励まして言いました。「この移り行く世界で、天主様は私たちを証し人としてお選びになりました。私たちは辛抱強くなければならず、そして私たち自身または他の人の罪のために、贖いをしなければなりません」彼女は口だけではなく、行いでも天主様を愛しました。

 1961年の初めから、私たちは、茵秋の消化器系に問題があったことを知っていました。彼女は一日に5、6回排便しなければならず、顔色は青白くなっていました。私は彼女に言いました。「もし、重労働を止めなければ、すぐにやつれきってしまいます。より軽い仕事を割り当てるように昭儀(彼女はカトリック信者で私たちのチームの担当者でした)に聞いて下さい」茵秋は答えました。「昭儀はもう他の病人の世話をしています。私は、彼女をこれ以上煩わせてたくはありません」そして、彼女は重労働を続けました。彼女は本当の犠牲の霊魂になりたいと思っていたのです。1962年初めに茵秋は入院し、大腸癌であると診断されました。私たちは彼女を気の毒に思いましたが、同時に彼女が私たちの中で最初の殉教者となることを喜びました。殉教者となることは、素晴らしい御恵みです。私たちは、それを考える価値さえないと思っていました。私たちの中から最適な人をお選びになったのは、天主様でした。茵秋は私たちの仲介者となるでしょう。

 それは本当に天主様の御摂理でした。茵秋は私が働いていた第六区に配属されました。毎朝、彼女の部屋に足を踏み入れた時、私は安心して彼女に挨拶しました。彼女は不平を言わず、または苦痛によるうめき声を出しませんでした。彼女は医師や看護人から何も要求していませんでした。彼女の死の2ヶ月前に、彼女は言いました。「私は十字架を持ちたいです。私はイエズス様に、自分の死に直面するための強さをお与えくださるようお願いします」

 張美瑜は、偶然にも十字架を持っていたので、彼女は茵秋のベッドの上にそれを置きました。私はこのことについて臆病でしたので、彼女に尋ねました。「茵秋、ここは労働改造所です。共産党員があなたを困らせようとするとは思わないのですか?」彼女は冷静に答えました。「私は、私たちのイエズス様に顔を合わせるのです。何も私を怖がらせるものはありません」私は続けました。「あなたは私に、あなたを訪ねるようにあなたの家族に聞いて欲しいですか?」彼女は言いました。「天主様は私をお選びになりました。私は天主様のために生まれ、天主様のために死ぬでしょう。私の家族を気にしないでください。彼らは仕事で非常に忙しいのです。私の投獄は、もう十分な負担をかけています」6月には、茵秋は水を飲むことが出来ませんでした。彼女が私たちから離れることを考えながら、美瑜は彼女のために純白の紙の花を作りました。彼女はベッドシーツの上に大きな十字架の印を描き、「マリア張茵秋」と書きました。7月28日の正午の頃、美瑜は当番で、私たちの寮に駆け込んで来ました。「急いで!茵秋が亡くなります!」私たちは、家族から送られた祝別されたろうそく持って彼女の病棟に走り、彼女がベッドに静かに横たわり、自分の手に十字架を持ってそれに接吻しているのを目にしました。彼女は話すことが出来ませんでした。私たち5,6人のカトリック教徒は、彼女のベッドの周りに立っていました。ある人は彼女のために祈りを唱えながら何本かのろうそくを持ち、またある人は手作りのロザリオでロザリオの祈りを唱えました。

 茵秋は牢獄に閉じ込められてはいましたが、非常にカトリック的な雰囲気の中におり、私たちは彼女が確実に天国へ向かっていたと信じていました。彼女が最後の息を引き取った後、私たちは彼女が手にした純白の紙の花をなで、大きな十字架のあるベッドシーツで彼女を覆いました。病院の作業者は、彼女を馬家山の上に埋葬しました。

 私たちは病棟から出たとき、人々はうわさ話を始めました。「見て!何が起こっているかを?この反革命分子は、大胆にも、労働改造所で亡くなる人のために宗教的な儀式をしたわよ」夕方には、私たちの病院は大きな批判会議を開催しました。私たちの同僚の指先は、全て私たちを指していました。彼らは、茵秋が死にかけていた時に、十字架を持ってそれに接吻し、さらに恐ろしいことに、誰かが病棟でろうそくを灯したと批判しました。共産党員の矯正官が、ろうそくを灯したのは誰かと尋ねたとき、私たちの五、六人が同時に、「それは私です」と答えました。「誰が紙の花を作ったのか?」同じ答えが、私たち皆のカトリック教徒から返って来ました。「私!」最後に、彼らは私たちが自分の意見を表明することを求め、私たち皆は言いました。「あなたが罰を与えたいのでしたら、私を罰して下さい。それは他人とは何の関係もありません」このようにして、この会議は一時間しか続きませんでした。

数日後、矯正官は個別に私たちに話しました。私は、今でも鮮明に彼の言葉を覚えています。「なぜ、おまえは罰を受けることを恐れないのか?おまえはもう15年の刑を宣告されている。我々が刑期を延長するならば、おまえは一生涯、刑務所に留まることになる」私は笑顔で彼に答えました。「私はとても弱いです。私は15年間生きられると誰が知っているでしょう。ですから、あなたが私の刑期を延長してもしなくても、それはほとんど同じです」彼は私たちの言動に感動し、終わりに言いました。「私はこのような反革命集団を見たことがない。誰もが非難のことで責任を取ろうとしている。私はおまえたち皆が、非常に良い人であると信じている。おまえは、告発されたような罪を犯したはずがない」私たちは、これはまさしく、天国で私たちのために祈り続けている茵秋からのしるしであると信じました。私たちは彼女の足跡を追い、彼女の美徳を模倣しました。彼女は聖書の「私にとって、生きることはキリストであり、死ぬことは得ることです」(フィリポ 第21章)という言葉の偉大な模範でした。

労改営当局の矯正官は、私たちに警告や罰を与えず、それを『張茵秋事件』として報告しました。中国共産党司法部門が私たちの「反抗的行為」を知った時、彼らはそれを放置しないことに決めました。結局、もう一人の信者である龔潔貞は進んで身代わりになり、そしてさらに2年が彼女の刑期に追加されました。その理由は、茵秋が非常に病気であるのを知った時、彼女が茵秋にメモを書いて、茵秋を運んで自分が世話をするよう人に頼んだことでした。

 誰かが、反革命的行動の証拠として、矯正官にメモを提出しました。龔潔貞はまるで、いけにえの小羊のようでした。数年後、龔潔貞はこれを回想した時に、涙ながらに言いました。「茵秋にとって、自分の癌が末期であった時、一日一日が彼女の背負う新たな十字架でした。労働改造所の療養所は、基本的な設備を欠いていました。茵秋のお尻には、癌細胞の拡散による大きなボールのサイズの穴があり、毎日新しいガーゼを穴に詰めなければなりませんでした。誰も、彼女の大きな痛みを想像することは出来ませんし、彼女はとても痩せ細っていました。ですが、彼女は全く不満をもらさず、穏やかに祈っていました」

 茵秋の家族がこれを聞いたとき、彼らは泣かずにはいられませんでした。茵秋の家族は、彼女の死の前に彼女を訪問したいと考えていましたが、彼女はその要望を断りました。彼女は家族に手紙を書きました。「私は、あなたたちのことを懐かしく思いますし、あなたたちに会いたいです。でも、私はためらうことなく、自分を天主様に捧げたいのです。私がこの世からの慰めを得るならば、天主様への私の犠牲は少なくなるでしょう。私の死後、白湖農場に葬って下さい」最後に、彼女の妹が彼女を訪れましたが、それは遅すぎました。茵秋は7月28日の午後一時に亡くなりました。彼女の妹は同日の午後7時に労働改造所に到着しましたが、茵秋はすでに、マタイ陳神父様とヨセフ傅神父様ような他の何人かの殉教者と共に、馬家山の墓地に埋葬されていました。天主様の御慈悲は永遠に賛美されますように。




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ローズ胡美玉 著 『楽は苦に在り』 第三十三章 摂理的な出会い

2011年11月17日 | カトリックとは
第三十三章 摂理的な出会い

 これはまるで、ファンタジー映画かちょっとしたフィクションのような感じがするかもしれませんが、私はそのような題材を書くことが出来るほどの創作力や想像力はありません。 イエズス様のように、私は厳かには以下の真実を宣言いたします。

 1958年に、私は逮捕され、以前の章で述べましたようにレジオ・マリエの会員であるという「犯罪」のために、懲役15年の判決を下されました。3年後に、安徽省の労働改造所の病院で働くために、看護人として割り当てられました。この病院の患者は、労働改造所のあらゆる部隊から来ていました。

 あの荒れた時代には、人々は国中で腹を空かせ、労働改造所で飢えることは疑いようが無い位最悪の状況です。共産党のプロパガンダは、これらの年を「3年の自然災害」と喧伝しました。

 労働改造所の囚人は、非常に空腹で栄養不良でした。彼らは非常に青ざめて見えました。彼らの体は、棒切れと同じくらい痩せていました。多くの人が過度の作業に苦しみ、結核にかかって、ある人は血を吐きました。労働改造所は彼らのための治療や食物は、殆どありませんでした。私たちの病院へ移された時、ほとんどの患者は結核の末期でした。彼らの免疫システムは慢性的に損なわれていました。一言で言えば、彼らは死ぬのを待つためにやってきたのです。彼らは中断することなく、咳をし続けました。結核菌は非常に感染性があり、痰か唾の一滴毎に無数の結核菌を含みました。私の主な仕事は、集中治療室で働いて、死ぬ人の世話をすることでした。

 おそらく、人が弱くて無力であった時、人はより容易に宗教教育を受け入れることが出来ます。ですから、それは私が瀕死の病人の間で伝道をするための良い時間でした。多くの人は言いました。「私はここに来て死ぬのを待っています。他に何を期待出来るでしょうか? 私は言いました。「死ぬのを待つのではなく、生きることを求めるのです。あなたがたがここに来たのは、病気の治癒ではなく、真理を知って永遠の命を得ることです。天国で永遠に生きるのです」約10人のカトリック教徒の看護人が病院にいました。そして私たちは、汚くて嫌がられる仕事をするのを気にしませんでした。私たちが患者を消毒したり、またはマッサージするために屈まなければならなかった時でさえ、不平不満はありませんでした。私たちは、見捨てられた人々のために進んでそうしましたが、哀れな病人が感謝していたので、報い無しではありませんでした。彼らは私たちを、「下界に降りた天使」と呼びました。

ある一つの出来事は40年以上前に起こりましたが、私の記憶にはまだ明確に刻み込まれています。 やつれていてみすぼらしい、中年の男性がいました、彼の名前は王雄で、上海の住民でした。私たちの病棟に引っ越されたとき、彼の髪は、乱雑であって、きちんとしていませんでした。そして、彼の皮膚は傷と乾癬に覆われていました。そして、よく多量の血を吐き出しました。一度、救急治療の時に、彼は突然、私の白いガウン全体の上に血を吐き出しました。彼は泣きじゃくり、しばらくして落ち着きました。彼は私を見つめて言いました。「いったいなぜ、私は7年の判決を下されて、ここにいなくてはならないのだろう? それは単に、私が陳立夫のいとこだからだ。(1900年に生まれた陳立夫は、南京政府の有名な政治家であり、内閣の文部大臣でした。共産主義者が中国本土で政権を掌握した時、彼は1949年に台湾に逃げました。共産主義者は、彼を「戦争犯罪人」と呼びました。)私の刑罰は容疑に過ぎない! 私は自分の全生涯、そのいとこを一度も見たことがないんだ。 だが、それが何になるだろう? 彼らは私を殺したがっているだけだ。今の中国では、陳立夫とのいかなる関わりも、恐ろしく、許し難い犯罪なのさ。陳立夫の親戚全員は、根絶やしにされる運命だ。今、私が死の床で持てるただひとつの慰めは、この労働改造所で私の世話をしてくれる親切な「天使」を見ることだ。あなたは親切だし、単純でそして愛らしい。どうして、この労働改造所に送られて来たのかね?」

 私は黙っていました。そして、有名な中国の詩(白居易の琵琶行)を引用して、彼に答えました。「同じく是れ天涯淪落の人」(私もこの世をさすらう旅人です)即座に彼は続けました。「相逢うは何ぞ必ずしも曾ての相識のみならんや」(出会うのに、なぜ互いに知っている必要があるだろうか)私は彼に公教要理の基礎を教え、彼は僅か死の数日前に、進んでそれを受け入れました。彼がより安らかにこの世を去るのを助けるために、彼が私にして欲しいことが無いかを聞きました。彼は、やせ細った手を伸ばして、私の手を固く握って言いました。「私には、あなたにとてもよく似た娘がいる。もちろん、娘は私の死を看取りに、私には会えない。私が死んでいく時、あなたのきれいな顔を私に見せてくれるよう、あなたがマスクを外すのを頼めるだろうか?」私は同意しました。彼は2つ目にこう願いました。「私の死んだ後に、私の家族に手紙を書いてくれないだろうか。どうか、私の妻と娘に、私は安らかに死んだと伝えてくれ」

 3つ目の願いとして、彼は言いました。「もし、いつの日か私のいとこの陳立夫と連絡が取れるのならば、どうか、いとこの王雄はこの労働改造所の死の床で、不正義と悲惨さにもかかわらず不平をいわなかったと伝えてくれ。人は自分の運命を支配できないが、安らかに死ぬのはとても幸運だ」私は一つ一つ、その通りにしました。彼が息を引き取る前、私は彼の前に立ちながら祈っていました。感染の危険にも関わらず、ちょうど娘が父の死の床でするように、私は大きなガーゼのマスクを取り外し、彼の目が安らかに閉じるのを見ました。何と幸福な死でしょう!そして、私は彼の体をきれいにし、衣服を替えて筵に包みました。そこから他の方と私で、彼を丘の上まで運んで埋葬しました。その日の夜、彼の望み通りに、私は彼の妻と娘に宛てて彼の死の報告を書きました。

 彼の3つ目の願いであるかれのいとこの陳立夫との連絡は、長年の後に実行しました。 私は1989年に中国を去ってアメリカに移住し、やっと陳氏のことを問い合わせる時間が持てました。私は、彼が生きており、台湾に住んでいることを知りました。1992年に、私は彼に手紙を書き、故王雄氏の話を伝えました。 陳氏は引退しており、体は弱く、健康が衰えていました。彼がついに私の手紙を受け取り、そして返事をして下さったことを、私は感謝しています。ここに彼の手紙の翻訳があります。

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胡女史:
 去年(1992年)の11月28日のあなたの手紙は、世界中を回り、ついにアメリカで私に届きました。何ヶ月か前に93歳の妻を無くした衝撃が大きく、手は震えて両足も力が無いので、私は長いこと手紙を書いていません。3ヶ月前に休養のためにアメリカに来ました。少しづつ回復してきているので、今はあなたの手紙に返事を出すことが出来ます。

 私の少年時代の家族は、(浙江省)呉興では有力な一族でした。私は12歳で生家を離れて上海で学びました。親戚関係については、王という姓の者はいましたが、王雄といとこの関係かどうかを思い出すのは難しく、もう高齢(93歳)なので、ますます忘れ易くなっています。ただ、王雄の言葉が間違いだとは思いません。

 あなたは人が託したことを実行する忠実な人間です。私はあなたの忠実さを有難く思います。ですから、事実を率直に申し上げました。ありがとう。あけましておめでとう。

             陳立夫
            (民国)82年1月18日

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タイタニック号と私たちの世界

2011年11月17日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 先週の土曜日、11月12日の大阪の聖母の汚れなき御心巡回聖堂での午前11時の聖伝のミサには、25名の方々が与ることが出来ました。聖母マリア様のお取り次ぎで、シャザル神父様が11時から歌ミサをすることが出来ました。天主様に感謝!

 11月13日の東京の聖なる殉教者殉教者教会での主日の聖伝のミサには、34名の愛する兄弟姉妹の皆様が参加されました。聖霊降臨後第22主日の歌ミサを10時半からすることができました。天主様に感謝!ただ、模擬試験や病気などでミサ聖祭に来られなかった方がおられて残念でした。

 11月14日には、シャザル神父様と一緒にソウルにやってきました。飛行機の中でぐうすか寝ている私の隣で、シャザル神父様はタイタニック号の映画をご覧になっていました。タイタニック号の沈むところを見たい、とのことでした。そこで私もちらりちらりと付き合うと、高級ホテルも驚くような豪華な客船、シャンデリアや階段、高級家具、陶器の備わったタイタニック号が映し出されていました。氷山を避けようと(もしも正面衝突していたら沈没は避けられたと思われるのに)その横を通ったタイタニック号は、氷山の横に突き出ていた氷によって脇をカッターのように切られ、そこから水が入り込んでしまい、沈没します。

 タイタニック号が沈むことを想定していなかったために、救命ボートの数がなく、女性と子供しか乗れないこと。男性は残っていなければならないこと。中にはブランディーを飲む客、或いは沈没の寸前まで楽器を弾く音楽家、絶望する人々、何とかして命を救おうとする主人公、船員の指示に従わない人々、救命胴衣を付けて救命ボートに乗る婦女子などが映し出されます。とてもレアリスティックです。

 シャザル神父様とタイタニック号に関して話が盛り上がりました。私たちが今住んでいる地球は、タイタニック号のようだ、豪華な客室、物質的に豊かな現代世界、超高層ビルと宝石と高級な洋酒とお金が支配する世の中、快楽と安楽な生活を追求するあまり、天主を忘れて・無視して生活する人々、物質的に豊かに見える反面、内面的には強欲と情欲と不倫と不潔に染まって生活する人々、天主から送られる宝である子供を拒否し、快楽とお金儲けだけを追求する夫婦、この世の永遠の発展と成長と金儲けを信じて疑わない人々が多く住んでいる。

 ヨーロッパの今のユーロ危機も、借金の返済能力がなくなるように子供をますます生まなくなっているにもかかわらず、利子をつり上げて危機を先延ばしし、倒産という氷山を横にかわして避けようとしている、しかし、そのことによってかえってむしろより大きな全世界を巻き込むようなクラッシュを準備しているかのようだ、タイタニック号は沈没するだろう、この現代世界物質文明は海の底に沈んでしまうだろう、私たちは救命のために全力を尽くすべきだ。霊魂の救いのため、救霊のために、全力を尽くすべきだ。

 沈没しつつある船の客は、この場に及んで、船の高級な家具や陶器を手に入れようとしてはならない、そんなものは救霊のために何の役にも立たない。救霊のためには身軽でなければならない、清貧でなければならない。

 沈没中の船に乗りつつ、腹一杯食べたり酒に酔ってしまったら泳げなくなる、肉欲を節制しなければ救われない、身分上の貞潔を守らなければならない。

 たとえ窮屈でも救命胴衣を身に付け、救命ボートに乗り込まなければならない、乗組員の指示に従わなければならない、救命胴衣は成聖の恩寵だ、救命ボートは秘蹟だ、乗組員の指示は天主の十戒だ、中にはそんなことをしなくても全員救われる、酒におぼれる人々も、チェスをする人々も、救命ボートに乗らない人々も、皆救われる、何を信じても何をしても大丈夫だ、という人々(第二バチカン公会議)があるかもしれない、私たちはその様なデマに惑わされずに、正しい緊急マニュアル(聖伝の公教要理)に従わなければならない。

 タイタニック号の映画から話に花が咲きましたが、ユーロも崩壊するかもしれませんし、アメリカ・ドルもますます価値がなくなるでしょうし、バブル経済がまたはじけるでしょうし、日本にもいつかまた大きな地震があることでしょう。私たちは皆沈没するとは誰も信じてはいないけれどもしかし沈没してしまう「タイタニック号」に乗っているかのようです。私たちがしなければならない唯一のこと。霊魂を救うこと、私たちの救霊、私たちが天国の安全な港にたどり着くこと、これです。

「主よ、あなたの教会は、しばしば、今にも沈みそうな船、あちこちからあいた穴から浸水してくる船のようです。」(ベネディクト十六世)

 愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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ローズ胡美玉 著 『楽は苦に在り』 第三十二章 善き羊飼い: 傅玉堂神父様

2011年11月16日 | カトリックとは
第三十二章 善き羊飼い: 傅玉堂神父様

 1962年、無数の囚人が白湖農場に送られ続けましたが、状況はまだずっと悪いものでした。 医師と看護人のいる現地の病院を置くことが必要であり、問題はどうやって彼らを得るかということでした。彼らを唯一の方法は、囚人の中から探すことでした。 共産党の幹部は、私たち女子部隊に来て、私たちから10人を選びました。彼女ら殆どはカトリック教徒でした。私は聖約翰大学医学院で学んでいたので、幹部は私に特に興味を持っていたように思えます。そして、テレジア、マリア、メイ及び私は、一緒に病院へ働きに行きました。

 1962年秋、40歳位のサレジオ会司祭である傅玉堂神父様が上海からやって来ました。彼は非常に痩せていました。私たちは、彼の外見から栄養失調にかかっていたのが直ぐに分かりましたが、それでも彼は依然として穏やかで安らかでした。彼は舟によって労働改造所に送られ、病院遠く離れた民家に留まっていました。神父様を連れてきた人々は、病院に着くまでに2日2晩かかり、その患者が死にかけており、十分な手当てが必要なカトリック司祭であると私たちに言いました。傅神父様は病院に着くと、私たちは彼を扱うために最善をつくさなければならないお互いにつぶやきました。すぐに彼を救急治療室に送りましたが、彼と一緒に添えられた小包の、何着かのぼろぼろな衣服と2個の壊れたカップというわずかな所有物は、この勇気のある人物に悲惨さを与えただけでした。彼は全くぼろぼろの服を着ていました。髪の毛はもつれて、呼吸するのに困難があり、完全に横たわることが出来ませんでした。ですから横たえるために、彼はひざを立てなければなりませんでした。人は彼の姿勢から、どれほど苦しでいたかが分かりましたが、彼は決してうめかず、めったに何か助けることをするように看護人に頼みませんでした。

 その時期は、多くの人々が栄養不良で亡くなっていました。毎晩、私の病室では、少なくとも12人の患者が亡くなりました。共産党の指導者は、もしあまりに多くの人々が亡くなるならば、生きている人々が造反するのを恐れていました。利己的なこの雰囲気の中で、彼らは死亡率を低下させるために、いくつかの手順を採用しました。手順の1つは、夜に看護人が一杯の砂糖水瀕死の病人に分配することでした。砂糖水は不釣り合いなほど限られており、あまりに多くの患者がそれを必要としました。私たちカトリック教徒の看護人は、最初に傅神父様のことを考えました。私たちは彼がそれからより多くの活力を得られることを望みました。私が彼に近づいて「神父様、あなたのカップを出して下さい」と言ったときは、いつも彼は1分位ためらい、十分な砂糖があるか私に尋ねたものです。「そうでなければ、私は待てます」 私は、彼の健康が他の誰よりも重要であると、彼に言いました。そして、彼は震える手で壊れているカップを私に手渡し、「ありがとう、ありがとう」と言いました。

 また、傅神父様のすぐ向かいには、陸さんというカトリック教徒の患者がいました。陸さんは時折、彼がカトリック教徒であると私に言いましたが、何年間も教会に行ったことがありませんでした。今、彼は死に直面しており、自分はとても罪深いと感じていました。彼は、司祭が臨終の秘蹟を彼に与えるだろうと望みつつ、生きていました。 時々、私は彼が夢を見ていたと思いました。この労働改造所では、私は彼のためにどうしたら司祭を見つけることが出来るでしょうか? 天主様は天主様です。その御摂理は、あらゆる不可能性の上にあります。2、3日後に答えは来ました。聖霊は目を開けました。陸さんのために何かをするのが私の仕事であり、向かいに横たわる信者がいることを知らせるために、私は傅神父様のところに急ぎました。この信者は死にかけており、司祭が罪の赦しを彼に与える必要がありました。傅神父様の回答は、簡潔でしっかりとしていました。「司祭が信者のために臨終の秘蹟をするのは、私の務めです。すぐに痛悔の行いをするように彼に言ってください。そうすれば、私はすぐに罪の赦しを与えます」私はこのことにとても心を動かされましたが、私は急いで陸さんに出来るだけ早く教えました。陸さんは顔に涙を流して十字架の印をし、心の底からの微笑みと共に、数時間後に亡くなりました。そのような祝福された死を目のあたりにするほど、慰めになることはありません。数日後に、傅神父様自身も亡くなりました。

傅神父は、多くの本を翻訳した有名な言語学者でした。共産主義政府は、彼らのために翻訳の仕事をするように神父様を誘惑しましたが、神父様は彼らの要求を拒絶しました。 カトリックの信仰を否定することを望んでいなかったので、神父様は逮捕されて、懲役7年の判決を下されました。彼は、容赦のない肉体労働と栄養の無い食物のために、白湖農場で亡くなりました。





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ローズ胡美玉 著 『楽は苦に在り』 第三十一章 彼は微笑んで亡くなりました

2011年11月15日 | カトリックとは
第三十一章 彼は微笑んで亡くなりました

 厳蘊梁神父様はイエズス会士でした。 ほとんどの人々が、彼がまさしく聖アロイジオ・ゴンザガに似て、非常に穏やかで親切であると考えました。彼は中国やフランスの文学の才能があり、両方の言語で多くの美しい詩と随筆を書きました。彼を知っていた人々は、彼を「有名な詩人及び作家」と呼びました。

 子供の頃から、厳神父様は非常に弱視で心臓に疾患がありました。しかし、誰が労働改造所で彼を心配するでしょうか? 泥棒と強盗が私たちの中にいました。厳神父の周囲の囚人の大部分は、この両目がほとんど見えない聖職者に付け込みました。彼らは、厳神父の衣服を盗んでそれを着てしまえば、神父様がそのことを全く認識出来ないことを確信していました。

 神父様は他の人の振る舞いが悪いと決して報告しない「外国の僧」(共産主義者が私たちの聖職者に与えた用語)でした。その結果、彼らは神父様の衣服、下着、ジャケット、靴、さらに歯ブラシさえ盗み、何度も彼は替えの衣服を持っていませんでした。例えば、ある冬の朝、起き上がった時、神父様は彼の枕が平らになったのを感じました。神父は枕カバーに衣服を詰める習慣でしたが、だれかが彼の外套を盗みました。既に酷い状況下で、どうしたら対処出来るでしょうか? 神父はどうしたら外套なしで暖かく自分を保つことが出来ますか? 彼が持っていたもの全部を着ても、彼はまだ寒さで震えていました。看守は、彼が家族に冬着を頼む手紙を書くのを許し、小包が届くまで一カ月以上かかりました。これらの労働改造所では、誰も他人に何かを貸し与えることができませんでした。皮肉にも、共産主義者は、囚人がお互いを助ける友情を育むことを恐れました。

 いくらか後、共産党の幹部は、食事を分配する部屋から少し遠くにあった離れの小屋に神父様を入れました。明るく晴れた日にその部屋に到着するのに、約10分かかりましたが、彼の雨靴が盗まれていたので、雨の日には、彼は泥だらけの道を自分のボロボロの靴で歩かなければなりませんでした。私たちにとって、彼が泥だらけの地面と汚れた水を通り、どうやって何とか歩くけるようにしたかを想像するのは難しいことです。

 ある嵐の日、私たちの聖なる神父様は、片手に破れた傘ともう片方の手にマグカップを持ち、大雨は彼の厚い眼鏡を曇らせてしまい、彼はほとんど何も見ることができませんでした。 強風で裏返しになって吹き飛ばされた破れた傘は、役には立ちませんでした。どうしようもなく、彼は、泥にはまって前にも後ろにも進むことができない両足の間から、マグカップと米が落ちるのを見ました。彼はただ、泥の中にはまったボロボロの靴を残して、よろよろと小屋に歩いていきました。彼はずぶ濡れでした。そして、食事は食べるにはあまりにも汚れていました。彼はものすごく空腹で寒かったのですが、何もそのような聖なる聖職者をイライラするよう追いたてることは出来なかったようでした。神父は、後に'微笑みながらこの話を私にしました。「私は雨の日には、より賢くなりました」 私は1日に一度食事を取りに行っただけです。私たちの主イエズス様は、私たちが生きるためにパンだけ当てにしないことを私たちに教えたのを覚えてください。私は小屋にホスチアと葡萄酒を持っており、自分以外に誰もいないので、毎日御ミサを行うことが出来ます。私たちの主イエズス様の御体が、私を養って下さいます。これは、身体と霊魂の両方のための最高の糧です」

 私が厳神父を最後に見たのは、1984年でした。彼は心から私に言いました。「あなたが人生の終わりまで私たちの聖母に献身し、いつも私たちのマリア様の良い娘であると私は望んでいます。彼女は確実に、臨終の時にあなたに会うでしょう。その時、あなたは死を微笑んで迎えるでしょう」この司祭は、私にして欲しかったことを彼自身が既にしました。 多くの信者が知っていたように、厳神父様は上海の近くの小さな村でこの世を去り、微笑みながら亡くなりました。ある信者は自分の棺を彼に提供しました。幸いにも、厳神父は死の数日後、火葬されずに小高い丘に埋葬されました。神父の身体が火葬にされなかったのを知っている共産主義政府は、ただ彼の亡骸を捜し求めるためにその村に行きました。(中国では、死後に亡骸は全て火葬にしなければならないという法律でした。) しかし、そこの人々は場所を明らかにすることを望んでいませんでしたので、共産主義者は厳神父様の墓を見付けませんでした。神父様は一生涯の間、実に聖なる司祭でした。厳神父様、私たちがあなたの模範に倣う勇気を持てますように祈って下さい!



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ローズ胡美玉 著 『楽は苦に在り』 第三十章 常緑の松:陳哲敏神父

2011年11月14日 | カトリックとは
第三十章 常緑の松:陳哲敏神父

 天主様の御摂理はいつもとても神秘的です。私は生まれた時から今まで、何人の神父様に出会ったか数えることができません。同じ労働改造所に、何人の殉教者が私と共にいたことしょう? 彼らは私の最高の模範です。彼らはどのように天主様を愛するか、そしてどのように自分を捧げるかを私に示しました。陳哲敏神父様はその一人でした。

 1949年は、中国における教会の歴史で非常に重要でした。共産党が中国を掌握して以来、信仰の自由は全くありませんでした。私たちは自分たちの試練の間、信仰を守るための決定をしなければなりませんでした。私たちは、狭い道をカルワリオの丘まで歩くか、ただ悪魔に従って自分たちの霊魂を失わなければなりませんでした。何人かの海外からの神父様は、中国の状況がどれくらいひどいかを非常によく知っていましたが、彼らは中国に戻ると決心しました。彼らは自ら祭壇に上り、自分自身を犠牲にしました。

 陳神父様は、非常に知的で有能な聖職者であり、勉強のためににローマまで行きました。若かった時でさえ、彼はその学識で有名でした。イタリアから戻った後、彼は震旦女子文理学院の教授でした。謙虚で親しみやすく、全ての学生は彼と話すのが好きでした。私は自分が思ったことを、何でも神父様に話すのを好みました。一度、私は陳神父様に言いました。「あなたは六ヶ国語を話すことが出来ますが、私たちの上海方言を話すとき、あなたの故郷の訛りがまだ多くあります。どうして、上海で伝道の仕事が出来ますか?」神父様は直ぐに答えました。「あなたは正しい。私を助けてもらえませんか?」彼は自分の高い学識や高貴な地位を、決して見せびらかしませんでした。私はその美徳が彼の生まれながらの習慣であったと思います。そして、彼の日常生活には偉大さがよく現れました。私たちは、陳神父様がどれほど聖なる方であったかを、彼の日常の行動から知ることができました。

 ある時、一人の信徒が、陳神父様からドイツの有名ブランドの高価なカメラを借りました。約1年後、彼はカメラを返さず、私たちの何人かがそのこと関して噂しました。神父様はそれを知ると、こう言われました。「~さんは私のカメラを返しませんでした。おそらく、何か苦しいことがあったのでしょう。彼を非難しないでください。人の欠点について、私たちはいつも過ちを隠し、長所を褒めなければなりません」

 陳神父様は、中国共産党の迫害中に、カトリック教徒の若者が重大な試練に直面しなければならないのを非常によく知っていました。私たちは、聖なる司祭によって誘導される必要がありました。彼らは、より多くの苦行と祈りを求めました。陳神父様は、私たちと連絡を取り続けるのに、あらゆる機会を利用しました。一つの幸福な思い出は、神父様がケーキ屋で私たちに御馳走したことです。

 神父様はよく、多くの信者が斬首され、十字架の上で死ぬか、または処刑されて信仰のために血を流したローマの迫害の300年に関し、私たちに話をしました。神父様は、20世紀の迫害は全く異なっていると強調されました。「10年から20年、またそれより長い試練になるでしょう」 陳神父様は何度も言われました。「どんな条件の下でも、私たちの聖母に委ねなさい。毎日ロザリオを唱え続けてください」 私は一生涯、彼の言葉を心に留め、こうして私は自分の信仰を守り通したのです。

 私が以前触れましたように、有名なレジオ・マリエの司祭であるエダン・マグラス神父様が、私を訪問しにアメリカに来ました。神父様は、1951年に逮捕されたとき、他の3人の聖職者の中に、張伯達神父様(上海における最初の殉教者)、沈士賢神父様、及び陳哲敏神父様がいたと私に言いました。彼らは皆、同じ建物に投獄されましたが、お互いに会うことができませんでした。監視が厳重な監獄では、根本的にお互いに会う術はなく、そして誰が横にいたかを知りさえしませんでした。 しかし、何でもこの世で絶対であるということはありません。牢屋にはトイレが全くなかったので、看守は排泄の処理のため、各牢屋に木製の容器を提供しました。それぞれの容器は毎日、掃除のために取り出されなければなりませんでした。こうして、囚人は情報交換するために、容器の掃除を利用しました。ある日、マグラス神父様は、英語で容器に何行か彫られていたのに気付きました。"I am Matthew Chen. About (Archbishop) Riberi, I didn't say anything. Please don't trust them."(私はマタイ陳です。リベリ(大司教)に関して、私は何も言いませんでした。 彼らを信じないで下さい)マグラス神父様は、陳神父様の勇気と知性に感動しました。

 1960年代に、陳神父様が私と共に、同じ労働改造所で非常に重い肉体労働をしていたという情報を得ました。彼は栄養不良で、しかも重病になりました。神父様が飢えで労働改造所の病院に運ばれる途中で死んだのは、驚きではありませんでした。 神父様は、現世の名声や楽しみを気に掛けなかった聖なる司祭でした。 彼は、私たちの教会のために、自分を完全に犠牲にしても構わないと思っていました。常緑の松のように、彼のイメージは決して色あせず、私たちの心にいつも生きています!





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ローズ胡美玉 著 『楽は苦に在り』 第二十九章 卵の話

2011年11月13日 | カトリックとは
第二十九章 卵の話

 1961年に白湖農場にいた間、私はマラリアにかかりました。私ば約18日間、43度の高熱がありました。医師は全く農場にいませんでした。当局は少しの薬も供給しませんでした。 運よく、私の囚人仲間の一人が、彼女の家族から送られてきた薬を私に与えました。奇跡的に私は回復しました。
 
 労働改造所の規則は、いったん熱が下がったら、患者は次の日に作業に戻らなければならないと決めていました。そこで翌朝、震える身体でかごを運びながら、綿花を集めるためにテレサと外に出ました。途中、私たちはニワトリ小屋のそばを通りました。突然、私たちは、卵が角の所にあるのを見ました。テレサは私にささやきました。「見て。天主様がどれほどあなたを愛していらっしゃるかを。あなたは病気から回復したばかりです。今、天主様はあなたを強くするために、卵を与えて下さいます」そして、彼女は慎重に卵をを拾ってエプロンに入れました。私たちが晩に小屋に戻ったとき、テレサは言いました。「あなたは台所に行って、そこの女の人にこの卵をあなたのために茹でるよう頼みなさい。でも、あなたは慎重でなければなりません。もし、改造所の看守が見つけたら、あなたを罰するでしょう」

 実は、私はこっそり何かを食べることに慣れていませんでしたので、卵を食べたくはありませんでした。「誰にも気付かれずに卵を食べるのは簡単だけど、殻はどうればいいの?」と私はテレサに言いました。「いいわ、あなたよりはるかに弱い修道女にそれをあげて下さい。彼女はより賢く、殻をどうすればいいか知っているでしょう」 ところが、その修道女は、一人では卵を食べないと言い張りました。「李シスターにあげて下さい。彼女は、より多くの栄養を必要としています」

 このように、卵は次から次へと5人か6人に渡されましたが、誰も自分たちでそれを進んで食べようとは思っていませんでした。 聖母の御誕生日である9月8日が近づいていました。また、9月8日は私たちの逮捕の記念日です。誰かが、私たちが卵を割り、水に入れて茹でるべきだと提案しました。結局、私たち15人のカトリック教徒が皆、その特別な祝日の日に、1さじの卵とじスープを飲みました。1さじの卵とじスープは何も意味もなしませんでした。しかしそれは、私たちがどれほどお互いを愛し、世話をしたかを示しました。

 私は、あの一さじの卵とじスープを決して忘れません。そして、私たちの苦しみの最中に永遠に続く友情が育まれたことを、ずっと覚えていることでしょう。




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アヴェ・マリア・インマクラータ!
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