Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

私は御身を信じ、礼拝し、希望し、御身を愛します!御身を信じぬ人々、希望せず愛さぬ人々のために、赦しを求めます(天使の祈)

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
2019年 8月の聖伝のミサの予定
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】


8月 聖母の被昇天を祝いましょう。
意向:聖母の汚れなき御心の凱旋のため
実践すべき徳:心の柔和と謙遜
守護の聖人:聖母の汚れ無き御心

愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)にご招待します

◎2019年 8月の予定
【大阪】聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂(アクセスEG新御堂4階 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 
〒532-0002 (JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分)

  8月2日(初金)教会博士証聖者司教聖アルフォンソ・デ・リグオリ(3級祝日)白
          午後5時半 ロザリオ及び告解
          午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

  8月3日(初土) 聖母の土曜日(4級)白
          午前10時 ロザリオ及び告解
          午前10時半 ミサ聖祭(歌ミサ)

  8月11日(主)聖霊降臨後第9主日(2級)緑
          午後5時半 ロザリオ及び告解
          午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

  8月12日(月) 童貞聖クララ(3級祝日)白
          午前10時 ロザリオ及び告解
          午前10時半 ミサ聖祭(歌ミサ)

  8月18日(主)聖霊降臨後第10主日(2級)緑
          午後5時半 ロザリオ及び告解
          午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

  8月19日(月) 証聖者聖ヨハネ・ユード(3級祝日)白
          午前6時半 ミサ聖祭(歌ミサ)

【東京】東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図)「聖なる日本の殉教者巡回聖堂」

  8月4日(主)聖霊降臨後第8主日(2級)緑
          午前10時  ロザリオ及び告解
          午前10時半  ミサ聖祭(歌ミサ)

  8月5日(月)  雪の聖母の大聖堂の奉献(3級祝日)白
          午前7時 ミサ聖祭

  8月18日(主)  聖霊降臨後第10主日(2級)緑
          午前10時  ロザリオ及び告解
          午前10時半  ミサ聖祭(歌ミサ)

愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております。

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第二バチカン公会議は、人間と天主との関係についてどのように新しく考えるようになったか

2009年03月28日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 私たちは自由について考察してきました。

 ジョージ・オーウェルの「1884年」流にいうと自由とは「2+2=4」であると言うことができるのが本当の自由であるけれども、

 現代のリベラルな思想家らは「2+2=5、あるいは10」ということが自由だと勘違いしているようです。


 さて、第二バチカン公会議は、人間についてどのように新しく考えるようになったのか?【1】人間の尊厳としての自由、および【2】人間の思想の自由では、次のことを見ました。


カトリックの真理「人間は天主によって「天主の似姿」に従って原初の義において創造された」を、

聖伝は「人間は、至福直感によって天主の永遠の至福の命を得ることができる存在として創られた」と理解。

第二バチカン公会議は「人間が自由であること、自由な選択によって行動すること、自然を支配すること」と理解。


また、

カトリックの真理「自律独立ということは天主の特徴である」を

カトリック聖伝は「天主の似姿にふさわしい人間の尊厳は、正しく自由を使うことによってのみ維持される」と理解

第二バチカン公会議は「どのような選択であれ、人間の尊厳は、人間が知識と自由な選択によって行動すること」と理解。

↓↓↓
従って、人間の尊厳とは人間の自由な選択にある。この世界の支配にある。
↓↓↓
「自由主義」「活動主義」へ。



 さらに、第二バチカン公会議は、人間についてどのように新しく考えるようになったのか?その2【3】良心と人間の行為の自由では、次のことを見ました。

カトリックの真理「人間は良心によって行動を判断する」を
↓↓↓

カトリックの聖伝は「良心の形成のための基準は、客観的な道徳秩序であり、天主に秩序づけられて、天主を究極の最高の共通善として追求することにこと、これに服従することにこそ、真の幸福がある」と理解
↓↓↓

第二バチカン公会議は「人間は良心の声に聞き従うので自由であれば十分であり、地上に存在するあらゆるものの中心および頂点、あらゆる社会制度の起源、主体、目的は人間であり、人間に秩序づけられなければならない」と理解。


 つまり、

カトリックの真理「自由意志があって初めて功徳を積むことができる」を
↓↓↓

カトリックの聖伝は「客観的に正しいことに服従しこれを選ぶことによって功徳を積む」と理解
↓↓↓

第二バチカン公会議は「人間を頂点にして正しいことが何かを作り上げ秩序付けることによって功徳を積む」と理解。


↓↓↓
従って、良心の自由という名前で人間は好きなことを何でもすることができる。
↓↓↓
「不道徳」へ。


 さらに、


カトリックの真理「天主は完全であり、何も天主の本性や実体に何かが加えられることはない」を
↓↓↓

カトリックの聖伝は「天主の外的栄光はいや増すことができるが、内的栄光は変わらない」と理解
↓↓↓

第二バチカン公会議は「天主の外的栄光はいや増さない、全ての被造物は人間の栄光のためだけにある」と理解。

↓↓↓
従って、人間は全ての中心である。
↓↓↓
人間中心主義へ。



 さらに、

カトリックの真理「人間となった天主は、真の天主であり真の人間。御托身は私たち人間のためであった」を
↓↓↓

カトリックの聖伝は「私たち人間のため、私たちの救いのため propter nostram salutem」と理解
↓↓↓

第二バチカン公会議は「純粋に人間としての人間のため、人間に人間を啓示するため」と理解。

↓↓↓
従って、キリストは人間をもっと人間とするために人間となった。
↓↓↓
人間中心主義へ。



 では、私たちの視点を人間から、天主と人間との関係に動かしてみることにしましょう。

(2)第二バチカン公会議は、人間と天主との関係についてどのように新しく考えるようになったかを考えて見ます。以下、箇条書きにして見ます。

(2)人間と天主との新しい関係について

 真の宗教は三位一体の天主を礼拝するが、これは私たちの主イエズス・キリストを通してなされる。私たちの主イエズス・キリストは、天主と人間とを結ぶ唯一の仲介者である。私たちの主イエズス・キリストのいけにえだけが唯一、天主聖父に嘉されるふさわしい礼拝である。この真理における私たちの主イエズス・キリストの礼拝と宗教を実践するために、全ての人々は私たちの主イエズス・キリストの啓示を信じなければならない。

 そこで、
【1】第二バチカン公会議によれば啓示とは何か、啓示の伝達すわなち聖伝とは何か、啓示を信じるすわわち信仰とは何か、
【2】第二バチカン公会議によれば新しいいけにえ(=「過ぎ越しの神秘」)とは何か、
【3】第二バチカン公会議によれば、イエズス・キリストとは何か、
【4】第二バチカン公会議によれば、三位一体の天主と人間との関係はどうなるのか、
 を見てみよう。



【1】第二バチカン公会議によれば啓示とは何か、啓示の伝達すわなち聖伝とは何か、啓示を信じるすわわち信仰とは何か、

【啓示とは何か】

 カトリックの聖伝によると、啓示は人間の言葉によってなされた。天主からの啓示は人間の言葉で表現されている。言葉で表現された信仰箇条とカトリック教理つまり人間の言葉による諸命題は、無限の天主の神秘を全てくまなく語りつくすことはできないが、しかし私たちの霊魂の救いのために天主の神秘を知りそれを信じるのに十分なものである。


 第二バチカン公会議によると、人間の言葉で表現された信仰箇条とカトリック教理は、無限の天主の神秘を語ることはできないので、天主に関する神秘のことは単なる言葉ではなく、体験によって伝えられる。言葉ではなく、天主のみことばであるキリストによって私たちに現われる。
 従って、第二バチカン公会議によれば、キリストは「天主の神秘を意味する効果的なしるし」すなわち「秘跡」である。


【聖伝とは何か】

 カトリックの聖伝によると、カトリック教会は、命題という手段で信仰の内容を表現し宣言するが、一度宣言した教義の意味は、いつどこでも同一の意味、同一の見解で、同質の内容で理解しなければならない。過去の教えを現代の教えで否定することはできない。

「天主が啓示した教理は,哲学的作り事や人間の知能が完成したものではなく,キリストの花嫁(教会)に与えられた天主の遺産であり,これを忠実に守り,誤ることなく解釈しなければならない。聖にして母なる教会が一度宣言した教義の意味を永久に保存しなければならない。よりよく理解するためという口実のもとに,その意味から離れてはならない(*3043)。「時代と世紀の流れとともに,各自とすべての人々の,また個人と全教会との,理解と知識と英知とが増し,また急激に発展するように。しかし,ただその正しい道において,すなわち、同一の教義,同一の意味,同一の見解において」【注:レランのヴィンセンチウス,Commonitorium primum,c.23(PL50,668A)】。 」(第一バチカン公会議 DS3020


 第二バチカン公会議によれば、啓示が人間の言葉による命題ではなされないならば、啓示の伝達すなわち「聖伝」も人間の言葉による命題ではなされない。新しい「聖伝」すなわち新聖伝とは、天主の神秘が現存している「教会」における、天主との親密な交わりの「秘跡」の延長である。また、教会も、キリストにおける「秘跡」である。

[教会憲章] 1(序文)教会はキリストにおけるいわば秘跡、すなわち神との親密な交わりと全人類一致のしるしであり道具である

 従って、第二バチカン公会議によれば、新聖伝とは今でも続いている啓示であり、使徒ヨハネの死を持って啓示が閉じられたわけではないし、諸命題によって説教されるわけでもなく、使徒とその後継者に依存するわけでもない。

 新聖伝は「生ける聖伝」と呼ばれ、文化的にも歴史的にも条件から影響を受け、主観的に、フィーリング的にますます深められ、自覚され、意識を変え、気づいていかなければならない。従って、「生ける聖伝」は絶えず変化しなければならない。


 8(聖伝について)
 この使徒たちから出る聖伝は、教会において聖霊の援助によって進歩する。実際、伝えられた事物やことばの理解は、それを心の中で思いめぐらす(ルカ 2·19 および 51参照) 信者たちの黙想と研究によって、あるいは霊的なことがらについての体験の深い理解によって、あるいはまた、司教職の継承とともに真理の確かなたまもの(カリスマ)を受けた人たちの宣教などによって、深くなる。要するに、教会は、自分に神のことばが成就するまで、時代の推移に伴って、絶えず、神的真理の充満を目ざして進むのである。


【信仰とは何か】

 第二バチカン公会議によれば、信仰を知的理解する前に、まず信仰体験がある。全ての諸宗教の「信仰」は、神との親密な交わりを可能とさせる。「信仰」とは天主の神秘を体験することであり、天主の神秘との親密な交わりに入らせ、天主の神秘の「秘跡(しるし)」の意味を解釈させる。信仰箇条や信仰の命題は、この信仰体験の後に来る。

『カトリック教会の教え』では「信仰において人は事実体験をする」(『カトリック教会の教え』34ページ)と言う。

「イエスが求める信仰とは、時として考えられがちな、知性による承認といったことではなく、神のたまものに対するまったき信頼とひたすらな姿勢です。」(『カトリック教会の教え』75ページ)

 キリストの復活とは何か、という問いには、「主との出会い」(『カトリック教会の教え』93ページ)であり、「単なる死者の蘇生などを意味しているのではなく、死んだイエスが新たな形で人々と出会ったこと」(『カトリック教会の教え』93ページ)、「この出会いを通して、神のいのちによって自分が変えられる経験」(『カトリック教会の教え』93ページ)である。

 「キリストの死と復活にあずかる過越の秘義は、わたしたちにとって一回限りのことではありません。日々の労苦や犠牲を通してわたしたちは小さな死を体験し、それと同時に神のいのちにあずかる小さな復活を体験するのです。」(『カトリック教会の教え』99ページ)

 「【聖体によって】ともに主キリストのからだにあずかることによってもたらされるいつくしみの秘跡、一致のしるし、愛のきずなであり、未来の栄光の保証が与えられる復活の祝宴でもあります。・・・聖体拝領(コムニオ)は、その聖体が食されて神の力が働き、そこに復活したキリストが現存し、人がキリストと出会うことができる、という恵みの現実を現しています。」(『カトリック教会の教え』209ページ)

 「教会においてわたしたちは復活したキリストと出会うことができるのです。」(『カトリック教会の教え』167ページ)

 「イエスご自身には、ただの人間、道徳の師、宗教家というだけではすまない何かが感じられ」(『カトリック教会の教え』99ページ)、私たちの主の行動やお言葉から何か神々しいものを感じ取り、体験することを教えた。

 「典礼を単なる義務の対象、遵守すべき儀式ではなく、いつもわたしたちとともにいてくださる神との交わり、『ともに生きる喜び』を体験し分かつ場にしていかなければなりません」(第一回福音宣教推進全国会議課題発表に際しての司教団メッセージ)

 聖書も、その意味で、信仰の体験を言葉で表したもので天主の神秘を追体験させる救いの「秘跡」となる。

 新しいミサ典書では、「教会の教導職によって告げられる限りにおいての聖書」でもなく、キリストが(教会の教導職を代表する)役務者が教えるという行為の中に現存するのでもなく、仲介者を抜きにキリストご自身が現存することになっている。

「聖書が教会で朗読される時には、神ご自身がその民に語られ、キリストは、ご自身のことばのうちに現存して、福音が告げられる」(ローマ・ミサ典書総則9番)。

「聖書朗読による神のことばは、すべての時代のすべての人に向けられ、すべての人が理解できるものである」(ローマ・ミサ典書総則9番)。



 では、
【2】第二バチカン公会議によれば新しいいけにえ(=「過ぎ越しの神秘」)とは何か、
【3】第二バチカン公会議によれば、イエズス・キリストとは何か、
【4】第二バチカン公会議によれば、三位一体の天主と人間との関係はどうなるのか、
 などについては、後ほど考察することにします。

天主の聖母、終生童貞なる聖マリア、われらのために祈りたまえ!
 聖ヨゼフ、われらのために祈りたまえ!
 聖ベネディクト、われらのために祈りたまえ!

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

文責:トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【関連記事】

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絶対的な悪は罪であってエイズではない。【私たちはベネディクト十六世に感謝します】

2009年03月28日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 ベネディクト十六世教皇様はアフリカ歴訪中に「コンドーム配布はエイズ(AIDS)対策の解決策ではない」と発言したそうです。不特定多数との性交渉を助長するとの理由から「コンドームを配ることではエイズ問題は克服できない」と語ったとのことです。

 それに対して、フランスやイタリアでは教皇様の攻撃が行われているそうです。たとえば、ローマ法王ベネディクト16世(Pope Benedict XVI)の発言を愚弄するコンドームのパッケージにデザインが、25日、パリ(Paris)に登場したとのことです。

 あるいはイタリアの市民グループは27日までに、抗議のため法王庁(バチカン)にコンドームを郵送するようインターネットで呼び掛けたそうです。

(日本のマスメディアが、安倍首相や麻生首相などに対して叩きまくった、叩きまくっているのを思い出します。)

 私たちは、立ち上がって、カトリック教会が言うべきことを言ったベネディクト十六世に拍手と声援と感謝をお送りいたします。貞潔を説教することは教皇様のなんと優れた名誉でありましょうか。

 こうすることで私たちもバッシングを受けるかもしれません。私たちは教皇様と連帯してそれを受けるつもりです。

 聖伝のミサが決して廃止されていない事実を発表し、聖ピオ十世会の司教たちの破門は無効だと宣言させた教皇様を見て、教会をますますリベラルに改革しようと思っている人たちは、教会が聖伝の方にゆっくりと方向を転換しつつあるということに危機感を持っているようです。

 教皇ヨハネパウロ二世が鋭く指摘したようにコンドームは堕胎と安楽死と共に「死の文化」を飾る装飾の一つ、霊的死の道具です。

 教皇ヨハネ・パウロ2世が説教したように、教会にはエイズに対してキリスト教的貞潔という美徳しか薬がありません。貞潔を説教することは教皇様のなんと優れた名誉でありましょうか。

 カトリック教会には、「夫婦の相互の忠実」ということ、また「天主に聖別された童貞性の聖性」ということのほかには、社会の如何なる模範もありません。


 以前、1996年にフランス司教団は、エイズとコンドームに関して出した宣言の中で、コンドームという本質的に非道徳的な手段が「必要」だと述べました。以下の文章は、それに対して出した聖ピオ10世会の宣言です

ベネディクト十六世を支持してここに再掲いたします。

+ + +


 エイズとコンドームに関するフランス司教団 (Commission sociale de l'Episcopat fran1cais, Sida, la societe en question) の破廉恥な宣言に対し力強く対抗し、聖ピオ十世司会兄弟会は、カトリック教会の変わることのできない不変な教えを支持しつつ次のようにその教えの必要な諸点を列挙する。

1.「主は、ソドマとゴモラの上に、主から出る硫黄と火の雨を降らせた。その町と、その谷と、町の住民と、その地の木々は滅ぼしつくされた。」という創世記(19:24-25)の中にある天主様の御言葉によれば、天主様からの天罰であると明らかな病や天災が存在する。

 ソドマの住民の罪は同性愛だったと誰もが知っている。(創世記19:4ー5)

 エイズはその肉体的頽廃と道徳的頽廃のうちに果たされるのでこのような天罰の一つである。なぜなら、聖パウロによれば「男もまた女との自然の関係を捨てて互いに情欲を燃やし男は男と汚らわしいことを行ってその迷いに値する報いを身に受けた。」(ローマ1:27)とあり、互いに汚らわしいことを行うというのは肉体的・道徳的頽廃の何ものでもなく、それこそが聖パウロの言う同性愛の第一の天罰である。

2.予言者イザヤを通した天主の御言葉によれば、天主すなわち私たちの主はたとえいかに忌まわしい多くの罪を犯したとしても悔悛するならどんな人をも打ち捨てることはない。

「主の御言葉を聞け、ソドマのかしらびとよ、天主のみ教えを聞け、ゴモラの民よ!・・・おまえたちの手からは血が滴っている。荒い、清め、私の前で悪の行いを取り除き、不義を止め、・・・さあ、来るが良い、話し合おう、と主は仰せられる。罪がたとい真紅でも、雪のように白くなり、緋のようであっても羊毛のようになる。」(イザヤ1;10ー18)

 私たちの主イエズス・キリストも同じことを言い給う。「義人ではなく罪人を招いて悔い改めさせるために私は来た(ルカ5:32)」

 カトリック教会はエイズに冒された自分の子らに対して憐れみ深い母である。

3.絶対的な悪は罪であってエイズではない。

 その他の多くの病と同じく、エイズは罪、原罪と人々の犯す自罪を罰する罰の一つである。「一人の人間(アダム)によって罪がこの世に入り、罪によって死が入った」(ローマ5:12)、と聖パウロは教えている。本当の悪は罪だ。つまり天主の掟に意図して背くことである。これこそが絶対的な悪だ。その他の多くの悪はこの根元的な悪の結果、実りである。そこから人間はたった一つの自発的な罪を犯して天主に背くよりはむしろ死を選ぶべきである。

 またエイズのような病気について言えばこれはこの病を大きな心を持って神秘的ではあるが常に聖なる天主のみ旨の現れとして、イエズス・キリストの十字架と一致して受け入れる人々にとっては、償い、聖寵、救いの源となる。

4.「私たちは善を引き出すために悪をして良いのか」(ローマ3:8)。より少ない悪を「黙認(tolerer)」する事はできるが、より少ないものでも悪は積極的に「する(faire)」ことはできない。これが教会の教えだ。

 中にはこう言うのもいる。「コンドームを使うのは悪である、ところでパートナーにエイズを移すのはそれよりも更に大きな悪だ。従ってより大きな悪を避けるためにより小さい悪をするのは合法的だ!」と。

 しかしそれは間違いである。コンドームは姦淫の罪にオナニスム(オナンの犯した罪、創世記38章)の罪を加える。なぜなら、肉欲行為の自然な完結を空しくさせ、同性愛という既に自然に反する罪に追加の奇形を加えるだけだからだ。従ってコンドームのために病気が移らないようになったとしても、罪は重くなる。

 ところで、たとえそこから何らかの善が出てくるとしてもそのために如何なる罪をも積極的にすることは許されていない。コンドームを使う人は「黙認」するだけではなく更に本質的に罪深い行為を「して」いる。その罪はいわゆる公共の利益のためと言われるものの如何なる理由を持ってきても正当化することは出来ない。この世全てを救うためであったとしても、またそれが小罪に過ぎなかったとしてもより小さい悪をすることは全く許されない。なぜなら、「私たちは善を引き出すために悪をして良いものか」!

5.コンドームは「必要」では決してない!その反対にだれもの良心上にも禁止されている。

 コンドームは姦淫と同性愛という本当の災いを制限するどころか、この地上での如何なる罰を被ることなしに安心してコンドームを使ってそれら本当の災いを広めることしかしない。天主が同性愛の罪を罰するためにお選びになったその天罰が新しい罪の機会になるとは、人の心も何と頑なになったことか!永遠の滅びという罰を人が避けるようにと送られたこの世的な災いが、今度は人を確実に地獄へと引きずり落とすことになるとは!「エイズ防止のコンドーム」という宣伝は、教会とカトリック道徳に反対する敵どもによって合奏された創造物である。それは、不道徳を促進させ、青少年が頽廃の道に進み、絶望と最後には永遠の滅びに落ち込むためである。

 コンドームは霊的死の道具である。教皇ヨハネパウロ二世が鋭く指摘したようにコンドームは堕胎と安楽死と共に「死の文化」を飾る装飾の一つである。

6.教皇ヨハネ・パウロ2世が説教したように、教会にはエイズに対してキリスト教的貞潔という美徳しか薬がない。これを説教することはこの教皇の名誉である。そしてこの真理をフランスの司教達は曇らしている。このことは彼らの恥である。

 教会は悔悛する罪人達に憐れみ深く、健康な子供達に美徳を引き出させる。キリストが十字架の上で流されたいとも貴き御血は、同時に、罪に落ちた霊魂たちを生き返らせる浴槽であり、「童貞たちを生み出す血」である。

 教会は夫婦の相互の忠実と天主に聖別された童貞性の聖性というこのほかには社会の如何なる模範も持ち合わせていない。

この明確な言葉遣いをあえてしようとしないので、

フランスの司教団は低俗さと混乱の暗闇に落ち込み

教会を裏切り、この世を欺いている。

 キリストがこの世を救いに来たのは、甘ったるいキリスト教と美徳の代用品を提供するためではなかった。人間の悪意のいかなる人工物も、人間をしてキリストなしで済ますようにすることはできないだろう。なぜならキリストこそがこの世の唯一の救い主であるからだ。個人個人にとっても社会にとっても「救いは主以外の者によっては得られない(使徒4:12)。」

1996年2月13日

聖ピオ十世司祭兄弟会
報道部担当ベルナール・ティシエ・ドゥ・マルレ
(Bernard TISSIER de MALLERAIS)
補佐司教


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聖ピオ十世会(SSPX)アジア管区本部の修道院の移転と新しい住所のお知らせ

2009年03月27日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖ピオ十世会のアジア管区の管区本部の修道院は、来る3月30日 (MARCH 30) より次の住所に移転しますのでお知らせいたします。よろしくお願いいたします。

St Pius X Priory
286 Upper Thomson Rd
Singapore 574402

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Please note that the SSPX District of Asia is moving to a new address this coming Monday March 30.
Please amend your mailing lists and/or address books accordingly.

The new address is:

St Pius X Priory
286 Upper Thomson Rd
Singapore 574402
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第二バチカン公会議は、人間についてどのように新しく考えるようになったのか?その2

2009年03月27日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 私たちは「第二バチカン公会議は、人間についてどのように新しく考えるようになったのか?」で、「人間は天主によって「天主の似姿」に従って原初の義において創造された」というカトリックの真理を、聖伝によれば「人間は、至福直感によって天主の永遠の至福の命を得ることができる存在として創られた」という意味に理解していましたが、第二バチカン公会議は「人間が自由であること、自由な選択によって行動すること」と理解していることを見ました。

 従って「自律独立ということは天主の特徴である」というカトリックの真理を、カトリック聖伝によれば「天主の似姿にふさわしい人間の尊厳は、正しく自由を使うことによってのみ維持される」と理解してきましたが、第二バチカン公会議は「どのような選択であれ、人間の尊厳は、人間が知識と自由な選択によって行動すること」と理解していることを見ました。

 更にこの「自由」について考察を深めていきたいと思います。 以下、箇条書きにしてみたいと思います。

【3】良心と人間の行為の自由

 カトリック聖伝によれば、キリスト教の道徳秩序については、理性と啓示とによりキリスト教信者は教えられる。

 キリスト教の道徳秩序は、キリスト教信徒たちを導き、個人の良心という手段によって彼らの行動についての実践的な判断をするようにさせる。

 キリスト教の信徒の良心がふさわしく良く養成されるなら、選択の時に判断しなければならないことと天主の御旨に一致することとを見出させる。
(創世記3:7-10、創世記4:12以下、詩篇25:1-7、知恵の書12:18、ヨブ27:6、マルコ9:44-48、ローマ2:15、ローマ13:5、ローマ14:20-23、コリント前8:7-12、ティモテオ前1:5、ティモテオ前3:9、使徒行録24:16、ピオ十二世ラジオ・メッセージ1952年3月23日、ピオ十二世訓話1952年4月18日)

 天主の御旨は、キリストの教えと教会の教導権により、聖霊の照らしを受けて、私たちに対して明らかにされるのであるから、良心は天主とキリストと教会との前駆者として確立される。
(ピオ十二世ラジオ・メッセージ1952年3月23日、ピオ十二世訓話1952年4月18日)

 カトリック聖伝によれば、従って良心を正しく養成するために注意深く気をつけなければならない。正しい良心が形成されなければ、正しい生活もありえない。

 良心が、賢明・真面目・誠実・真実へと形成されるためには、たとえそれが誠実なものであっても各々の好きなようにやりたいように信念に従ってなされてはならない。すなわち、良心は、現実に天主によって立てられた規律に従っていなければならない。

 「超自然は自然を完成させる」が、超自然のレベルまで高められて、天主に従属することによって、良心は、キリストの御旨と教えと生活とによって明らかに示された天主の御旨を私たちに示してくれる。

 従って、カトリックの聖伝によれば、良心の形成において、人間は自律的ではなくあくまでも天主の御旨に従属する。天主の御旨が人間の自由気ままな自分の思い通りに従うのではなく、人間が天主に従わなければならない。
グレゴリオ十六世回勅『ミラーリ・ヴォス』1832年8月15日、ピオ九世訓話『マクシマ・クイーデム』1862年6月9日、ピオ九世『シラブス』排斥命題15レオ十三世回勅『リベルタス』1888年6月20日

 良心の形成のための基準は客観的な道徳秩序であり、純粋に主観的な思い込み・確信ではないということは、確立された基本原理としてどのようなときでも、つまり間違って形成された良心の場合にでも、守らなければならない。間違った良心の命令が、客観的な道徳秩序を変えることは無い。

 地上に存在するあらゆるものは、天主に秩序づけられなければならない。天主に対する愛は、第一の、そして最大のおきてであり、天主の栄光ために、天主は被造物である人間を望まれた。

 従って、あらゆる社会制度の起源、および究極の目的は、その創造主である天主であり、天主を究極の最高の共通善として追求することにこと、これに服従することにこそ、真の幸福がある。

 従って、個人的良心の権利と自由と尊厳を口実に、この客観的秩序から人間を免除させることはできない。(ピオ十二世ラジオ・メッセージ1952年3月23日、ピオ十二世訓話1952年4月18日、グレゴリオ十六世回勅『ミラーリ・ヴォス』1832年8月15日、ピオ九世訓話『マクシマ・クイーデム』1862年6月9日)

 人間の本性においても、ペルソナとしての人間においても、天主と客観的秩序からから自律独立するような権利も、そのような自由も、そのような尊厳も、まったく存在していない。たとえ複数の人間が誤った原理やイデオロギーに導かれてこの反対を叫んだとしても存在しない。
(イノチェンテ十一世 Errores varii de re morali, 排斥命題4、1679年3月4日、DS2104)

 天主の子供たちの真の自由と創造されたペルソナの真の尊厳は、天主への自由な従属・依存に存する。

 従って私たちが「聖名の尊まれんことを」と祈るとき、天主の本性や実体に何かが加えられることではなく、天主の外的栄光がいや増さんことを祈る。すなわち、天国の諸天使諸聖人のように彼らに習って、私たちが言葉と行いとをもって天主に従属することである。
トレント公会議の公教要理


 第二バチカン公会議によれば、人間の良心こそ最高の法であって、人間は何もしなくとも自然と自分の内からの良心の声に聞き従うので、そのために人間は自由であれば十分である。

[現代世界憲章] 16(良心の尊厳)
 良心は人間の最奥であり聖所であって、そこでは人間はただひとり神とともにあり、神の声が人間の深奥で響く。良心は感嘆すべき方法で、神と隣人に対する愛の中に成就する法をわからせる。良心に対する忠実によって、キリスト者は他の人々と結ばれて、ともに真理を追求し、個人生活と社会生活の中に生じる多くの道徳問題を真理に従って解決するよう努力しなければならない。正しい良心が力をもてば、それだけ個人と団体は盲目的選択から遠ざかり、客観的倫理基準に従うようになる。打ち勝つことのできない無知によって、良心が誤りを犯すこともまれではないが、良心がその尊厳を失うわけではない。ただしこのことは、真と善の追求を怠り、罪の習慣によって、しだいに良心がほとんど盲目になってしまった人にあてはめることはできない。


 第二バチカン公会議によれば、キリスト者がキリストから啓示を受けた内容は、天主の御旨や天主の神秘ではなく、人間の神秘である。「超自然は自然を完成させる」が、キリストの啓示は人間の自由の尊厳であり、すべては人間に秩序付けられなければならず、人間は何にも従属する必要は無い。天主が聖とされるように祈るということは、すなわち、人間が聖とされることである。

[現代世界憲章] 22(新しい人・キリスト)
 最後のアダムであるキリストは、父とその愛の秘義の啓示によって、人間を人間自身に完全に示し、人間の高貴な召命を明らかにする。・・・事実、神の子は受肉によって、ある意味で自分自身をすべての人間と一致させた。

[現代世界憲章] 12(神の像である人間) 
 地上に存在するあらゆるものは、その中心および頂点である人間に秩序づけられなければならないということについて、信ずる者も信じない者も、ほとんど意見が一致している。

[現代世界憲章] 24(人間の召命の共同体性格)
 神と隣人と[ソノママ]に対する愛は第一の、そして最大のおきてである。
 そのもの自体のために神が望んだ地上における唯一の被造物である人間。

 25(人間と社会の相互依存)
 あらゆる社会制度の起源、主体、目的は人間であり、また人間(ペルソナ)でなければならない。


カトリック教会のカテキズムによる「主の祈り」
Ⅰ み名が聖とされますように
2807 「聖とする」ということの用語は、ここでは、他動形の意味にとってはなりません。もし(〝他動形の意味にとるとすれば、神だけがものを聖とし、聖化させるという意味になります)。むしろ、評価を示す意味にとるべきです。すなわち、これは、聖なるものとして認め、聖なる方法でとりあつかうという意味です。そのために礼拝の時に、この願いは、時によって一つの賛美、一つの感謝の意味にとられます。
 しかし、イエズスはこの願いを願望として教えてくださいます。すなわち、神と人間とどちらにも関係のある願い、望み、期待としてです。
 わたしたちの父にむける最初の願いからわたしたちはおん父の神性の内密な奥義と、わたしたち人性の救いのドラマによって浸透されています。み名が聖とされますようにと 願うことで、わたしたちは神のご計画にまきこまれます。そのご計画は、「あらかじめ神が・・・たてておられた慈悲ぶかい計画であって、愛によって【人間を】ご自分のみ前に聖なるもの、汚れないものとするためです」。

2808 救いのご計画の決定的なときに、神は、そのみ名をお示しになりますが、それは、みわざを行うことをもってです。しかしこのみわざが、わたしたちのために、そしてわたしたちのうちに実現されるのは、そのみ名が、わたしたちから、そして、わたしたちのうちに聖とされるという条件によってのみです。

2809 神の神性は、神の永遠の奥義の、近づくことのできない中心です。創造された世界と歴史の中で、この奥義について示されることは、聖書から〝み栄え〝、神の威厳の発光と呼ばれています。
 神は、「ご自分にかたどって、ご自分に似せて」(創世の書1・26)人間をお創りになるとき、人間に「栄光」の冠(詩篇8・6)をお与えになったのですが、人間はかえって罪を犯すことで、「神の栄光」(ローマ3・10)復元するために、ご自分のみ名を示したり、与えたりして、ご自分の聖性をお示しになっています。


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天主の聖母、終生童貞なる聖マリア、われらのために祈りたまえ!
 聖ヨゼフ、われらのために祈りたまえ!
 聖ベネディクト、われらのために祈りたまえ!

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

文責:トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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第二バチカン公会議は、人間についてどのように新しく考えるようになったのか?

2009年03月25日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

愛する愛する兄弟姉妹の皆様、

 今日は、聖母のお告げの祝日、またルフェーブル大司教様の命日(+1991年3月25日)でもあります。

 教皇ベネディクト16世は「ルフェーブル大司教に叙階された4司教の破門解消について」と題された書簡を、カトリック教会の司教らに宛てて記されました。これについて以前私は、感想を述べたことがありますが、そこで、私たちは第二バチカン公会議のどのような点が新しくなったか、つまりカトリック教会の聖伝による見方と変わってしまったかを見直してみる必要があると言いました。

 今回、(1)第二バチカン公会議は、人間についてどのように新しく考えるようになったのか?という点について考察してみたいと思います。


(1)第二バチカン公会議は、人間についてどのように新しく考えるようになったのか?

【1】人間の尊厳としての自由
【2】人間の思想の自由

 という二点について、以下、箇条書きにしてみたいと思います。

【1】人間の尊厳としての自由

 カトリックの聖伝の教えによれば、人間は天主によって「天主の似姿」に原初の義において創造された。「天主の似姿」に創られたとは、天主の本性に預かることができる存在として、天主の永遠の至福の命を得ることができる存在として創られたということだ。
 天主の似姿である人間の完成は、天主を至福直感でありのまま観て愛することにある。天主ご自身の至福も、全善たる御自分をありのままに観て愛することにある。天主はこの世を創造してもしなくても永遠に至福である。
 人間の尊厳は、正しく自由を使うことによってのみ維持される。
 しかし、人間は自由を濫用し、天主への従順を破り罪を犯したがゆえに、超自然の聖寵を失い、自然は傷ついた。この原罪と罪の状態から私たち人間を解放するのは唯一私たちの主イエズス・キリストの十字架である。


 第二バチカン公会議によれば、人間は天主によって「天主の似姿」に創造された。「天主の似姿」に創られたとは、人間が自由であること、自由な選択によって行動することである。以下、【1】人間の尊厳としての自由については、特別の言及が無い限り、第二バチカン公会議の「現代世界憲章」より引用。

[現代世界憲章]17(自由の尊さ)
真の自由は人間の中にある神の像のすぐれたしるしである。・・・人間の尊厳は、人間が知識と自由な選択によって行動することを要求する。

 第二バチカン公会議によれば、天主の似姿である人間の完成は、天主のように何かを自由に作ることであり、万物を支配することである。

[現代世界憲章]34(人間活動の価値)
 神の像として作られた人間は、大地とそこに含まれる万物を支配し、世界を正義と聖性のうちに統治し、また万物の創造主である神を認めて、人間自身とあらゆる物を神に関連させるようにとの命令を受けた。こうして万物が人間に服従すれば、全世界において神の名が賛美されるであろう。

 従って、第二バチカン公会議によれば、人間は観想生活(祈り)よりも活動生活(行動)のほうが重要となる。



【2】人間の思想の自由

 カトリック教会の聖伝によれば、天主は、何度も、いろいろな方法で、その昔、預言者を通じて、先祖に語られたが、この終わりの日々には、天主の聖子を通じて、人間の言葉で語られた。天主は私たちが理解できるように啓示されたのであり、天主からの啓示は人間の言葉で表現されている。言葉で表現された信仰箇条とカトリック教理は、無限の天主の神秘を全てくまなく語りつくすことはできないが、しかし私たちの霊魂の救いのために天主の神秘を知りそれを信じるのに十分なものである。 御托身によって目に見えるものとなった天主が、私たち人間の外部から信仰の言葉を啓示された。知性のそれへの同意である信仰は、聞くことから始まる。(DS1501DS3004

 カトリックの聖伝によれば、教導権こそが信仰の最高の規準である。
 従って、聖伝によれば、教会教導権の判断や定義こそが、聖書解釈者を熟させるようにする。

 「天主が啓示した教理は,哲学的作り事や人間の知能が完成したものではなく,キリストの花嫁(教会)に与えられた天主の遺産であり,これを忠実に守り,誤ることなく解釈しなければならない。聖にして母なる教会が一度宣言した教義の意味を永久に保存しなければならない。よりよく理解するためという口実のもとに,その意味から離れてはならない(*3043)。「時代と世紀の流れとともに,各自とすべての人々の,また個人と全教会との,理解と知識と英知とが増し,また急激に発展するように。しかし,ただその正しい道において,すなわち同一の教義,同一の意味,同一の見解において」【注:レランのヴィンセンチウス,Commonitorium primum,c.23(PL50,668A)】。 」(第一バチカン公会議 DS3020


 第二バチカン公会議によれば、私たち人間個々の深層心理の内部から、言葉だけではなくわざ(体験)によって啓示される。啓示は、言葉になった命題の言い回しとして伝達されるというよりも、「神と人間の救いに関する深遠な真理」として私たちに現われる。以下、【2】人間の思想の自由については、特別の言及が無い限り、第二バチカン公会議の「神の啓示に関する教義憲章」より引用。

[神の啓示に関する教義憲章] 2(啓示とは何か)
この啓示によって、見えない神(コロサイ 1·5、1テモテ 1·17参照)が・・・あたかも友に対するように人間に話しかけ(出 33·11、ヨハネ 15·14~15参照)・・・。この啓示の計画は互いに密接に関連したわざとことばをもってなされた。そのため救いの歴史において神から遂行されたわざは、教えとことばの意味を明らかに証明した。そして、ことばはわざを表示し、その中に含まれている秘義を明らかにする。この啓示が示す神と人間の救いに関する深遠な真理は、仲介者であり、同時に全啓示の充満であるキリストにおいてわれわれに現われている。

[神の啓示に関する教義憲章] 4(啓示の頂点と完了であるキリスト)
かれ(=キリスト)を見るものは父を見ると言われる(ヨハネ 14·9参照)。そのキリストは、自分自身の全的現存と顕現とにより、ことばとわざにより、しるしと奇跡により、なかでも、おのが死と死者のなかからの栄えある復活とにより、最後に真理の霊の派遣によって、啓示を完全に成し遂げた。


 第二バチカン公会議によれば、啓示の「言葉」は、人間の言葉を取ったが、「天主の言葉」(=現実)を意味するには不十分である。それは丁度、「御言葉」によって摂取された人間本性が、天主の本性を知るのには不十分であったのと同じである。

[神の啓示に関する教義憲章] 13(神のへりくだり) 
 かつて永遠の父のみことばが人間の弱い肉をつけて人々に似たものとなったように、人間の用語で現わされた神のことばは人間の話に似たものとなった。

 第二バチカン公会議によれば、信仰の最高の規準は聖書であり、それは「聖伝とともに」である。

[神の啓示に関する教義憲章] 21(聖書の尊重)
教会は、今日も、今までと同じように、聖書を聖伝とともにおのが信仰の最高の規準と考えている。実際、聖書は神の霊感によって永久に一度書かれて、神自身のことばを変わることなく伝え・・・ている。

 第二バチカン公会議によれば、教会の判断や定義を熟させるようにするのは、聖書解釈者の任務である。その反対ではない。

[神の啓示に関する教義憲章] 12(聖書の解釈について)
 このような諸原則に従って、聖書の意味を深く理解し、説明するために努力し、いわば、準備的な研究によって、教会の判断が熟するようにするのが聖書解釈者の任務である。


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 天主の聖母、終生童貞なる聖マリア、われらのために祈りたまえ!
 聖ヨゼフ、われらのために祈りたまえ!
 聖ベネディクト、われらのために祈りたまえ!

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

文責:トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
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聖ピオ十世会総長フェレー司教のアレッサンドロ・ニョッキとマリオ・パルマロとのインタビュー

2009年03月23日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 フェレー司教様がイル・フォッリョ紙(Il Foglio)になさったインタビューをご紹介いたします。イタリア語原文は、Messa in Latino.it というブログに掲載されています。

2009年3月20日、
フェレー司教は話す

 イタリアを代表する二名のカトリック知識人であるアレッサンドロ・ニョッキとマリオ・パルマロ(彼らはいろいろな著作の中でもとりわけすばらしい『ミサは終わっていない La Messa non è finita』を書いた著者である)が今日、イル・フォッリョ紙に発表した、聖ピオ十世会の総長であるベルナール・フェレー司教様とのインタビューのテキストを提供することうれしく思います。

フェレー司教様、聖ピオ十世会に関する教皇様の司教たちへの書簡が発表された後、公式の報道発表であなたは第二バチカン公会議と公会議後の教えを聖伝の光において考察したいと述べました。ジャーナリストの業界用語で言いますと、これは記事ネタなんでしょうか?

フェレー司教:神学者の業界用語で言いますと、これが実体です(つまり物事が何かをうまく言い当てています)。つまり、フィルターは、つまり公会議後の教えにその本当の意味を与える光は常に啓示の遺産であるという意味です。明確にしてくれる道具は、教皇の永遠の常なる教えであります。何故なら天主様はこの教皇に信仰の保護と伝達の使命を委託したのですから。哲学において、行為はその対象にあらかじめ秩序付けられているといわれます。この場合、行為とは教導権であり、対象とは信仰の遺産です、つまり、レランの聖ヴィンチェンチオが「常にどこででも全てによって信じいられてきたこと」として定義付けたところの聖伝です。教皇様は聖伝の最高の守護者です。


まさにそのことを教皇は、教会が第二バチカン公会議とともに生まれてきたのではなく二千年前に生まれたと説明しながら、聖伝は1962年でストップすることができないと言われました。どう思いますか?

フェレー司教:私たちは聖伝を1962年でストップさせようとは望みません。私たちが教会の全ての教えに、その全ての発展とともに、その誕生から1960年代まで従うことができたのは、私たちはよく言われるように「固定」しているわけではないということを意味しています。
 私たちが第二バチカン公会議を問題としているのは本当です。しかしながら第二バチカン公会議自身が「司牧公会議」として自分を定義したのであって「ドグマを決める公会議」として規定したのではなかったのです。このことは聖伝の継続においていかなる革新も生まれてこなかったということ、聖伝の継続においていかなる革新も挿入することが明白にできないということによっています。
 聖伝とは、教会の教えによれば、天主からの啓示の源泉であり、人間の手のなかのおもちゃではない(それが聖伝主義者たちの手であれ)ということを思い出しましょう。
 この聖伝の領域の発展は同一性を保たなければなりません。暗示的なことから明示的な表現へと歩むことでもありうるのです。しかし数世紀もの間教えられてきたことの反対ではありえません。教会の存在理由は、教皇によって指導されつつ、私たちの主イエズス・キリストによって委ねられた信仰の遺産の保全であります。

(後略;詳しくは下の英訳をご参考になさってください。)

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FRIDAY 20 MARCH 2009

Bishop Fellay speaks

We are pleased to offer the text of the interview with Monsignor Bernard Fellay, superior of the Fraternity Saint Pius X, that two Catholic intellectuals, Alessandro Gnocchi and Mario Palmaro (authors among others the excellent "The Mass is not over") published today on "Il Foglio"

Monsignor Fellay, after the publication of the Pope's letter to bishops on the issue of the Saint Pius X Fraternity, in an official communication, you said you want to consider the Vatican II and post-conciliar teaching in the light of tradition. As they say in journalistic jargon, is it news?

"As they say in theological jargon, it is the substance. It means that the filter, the light that will give its true meaning to the post-conciliar teaching will always be the deposit of the Revelation. The instrument to make clarity is the perennial and constant teaching of the Pope to whom God has entrusted the mission to safeguard and transmit the faith. In philosophy it is said that an act is preordained to its object. In this case, the act is the magisterium, the object is the deposit of faith, that is the Tradition that St. Vincent of Lerins defined as 'what has been believed always, everywhere and by all '. The Pope is the supreme guardian of the Tradition. "


Just the Pope, explaining that the Church was not born with the Second Vatican Council but two millenia before, also said that the Tradition cannot stop at 1962. What do you think?

"We do not want to stop the Tradition at 1962. When we were able to follow all the teachings of the Church from its birth to the sixties, with all its developments, it means that we are not, as they usually say, the 'fixed'. It is true that we have posed the problems on the Second Vatican Council, which has however defined itself as 'pastoral council' and not 'dogmatic'. This depends from the evident impossibility to insert in the continuity of Tradition any innovations that are not generated. Let us remember that the Tradition, according to the teaching of the Church, is a source of divine Revelation, is not a toy in the hands of men, let alone the traditionalists. The developments in this area require homogeneity, can be a step from the implicit to the explicit, but cannot be in opposition to what is taught over the course of centuries. The raison d'etre of the Church, guided by the Pope, is the preservation of the deposit of the faith that was consigned by Our Lord."


You put an ontological link between the Pope and the Tradition. Certainly, the lifting of the excommunication which had struck in 1988, calls to look in that direction. But not all do it willingly.

"Certainly they do not do it willingly, those who no longer wanted to listen to the call of the Church militant, the detachment from the world, the necessity to follow the commandments to find the eternal salvation. All of these are deeply dissatisfied by such a step."


One of the salient passages of the letter of the Pope is the one that shows awareness of the crisis of faith in which the Catholic world finds itself. What, in your view, the most worrying effect of this situation?

"If, fundamentally, the crisis of the Church is a crisis of faith, for the immediate consequence it is also a crisis of the ministers, who must transmit this faith, the priests. If there the priesthood is a crisis, the graces that are to be transmitted to men through his ministry, especially through the sacrifice of the mass, do not pass more or pass much more difficultly. So we need a reform of the priesthood, a return to the sense of the vocation and the holiness in all its forms. The priest is another Christ, nothing less."

In this regard, although not lacking of severity in some passages, the Pope has shown towards the priests of the Saint Pius X Fraternity a full attention of delicateness. What do you feel?

"I think that if the Pope has seen in some of our priests excesses or rigidity, he also sees something more. He sees the sincerity, the seriousness. He sees the love for the Church and the faith, love for the souls. A love willing to endure much suffering to fulfill the mission of saving souls."

In his letter, the Pope, referring to episcopal ordinations celebrated by Archbishop Lefebvre says "An episcopal ordination without papal mandate signifies the danger of a schism." He does not say "is a schism." So you you are not but were separated from Rome?

"We have always said. Episcopal ordinations actually occurred without the explicit agreement of Pope John Paul II. But in those historical circumstances, it was clear that this was not an act of rebellion to the Holy See, nor the attempt to establish a parallel hierarchy that, in fact, could give rise to a schism. Archbishop Lefebvre, when he decided to proceed with the consecrations, took all necessary precautions to avoid any danger of schism. Today, twenty years later, we are very happy that Rome recognizes it."

Apart from a few intellectuals, many Catholics have seen this letter from the Pope as an opportunity to call to order an episcopate little inclined to obedience. In some points. Benedict XVI shows that he felt betrayed. L'Osservatore Romano puts its finger in the wound by accusing a part of the Roman Curia for the leak of information about the Williamson case, created especially for attacking Benedict XVI. What does this all mean?

"When we talk about the problems of the Second Vatican Council, we also refer to problems of such kind, which were highlighted today by the Pope. We do not have to say, but the history, that during the Council two parties faced each other, one traditional, mostly represented by the Roman Curia, and another progressive. It was this latter to win and put an immediate target at the papacy. Today it is proving to be tired, unable to speak to new generations who want something healthier and more holy. But, it has not ceased to operate and is fighting with more diverse weapons. Our story is just the latest in the order of time."

So the Pope is the real target?

'It is obvious. The progressive world, which is allied with the modern liberal mind, barely sees the Church raise her voice loud and clear to restore the truth, reacts by attacking the Pope."

With his letter, the Pope mentions the confrontation with the Saint Pius X Fraternity on its natural level, that of doctrine. This means that the Holy Father will judge interlocutors worthy of attention. With what spirit and with what expectations you prepare for this debate?

"It is what we asked for some time now. We have always said that the most serious problem is the conciliar texts are in certain ambiguities that offer the possibility of multiple interpretations. From the text of a Council that waits for clarity and not the ambiguity which requires subsequent considerations to determine the correct interpretation. Otherwise, you always ask what is more important: the text or the interpretation of the magisterium? Furthermore, it must be said that there is also a philosophical problem. The conciliar documents were not written in the language of 'perennial philosophy', but according to that of modern philosophy. From this descend other interpretive questions. Therefore we believe that we must work hard and we must take the difficulties into account. But we are preparing seriously. When working for the good of the Church, the difficulties do not scare us."

Bishop Fellay, who are these traditionalists?

"They are Catholics who want to live as Catholics of all ages, who seek the salvation by imitating the saints and by following what the Church has always taught. In short, they are normal Catholics very attentive not to be surprised by the siren call that invites them to marry in a world hostile to Our Lord."

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■ 聖伝のミサ(いわゆるトリエントミサ、「ローマ典礼様式のミサ」)にようこそ!

2009年03月23日 | 聖伝のミサの予定
アヴェ・マリア!

 愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサに歓迎します! 
何故なら、オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ両枢機卿とがパウロ六世教皇聖下へ報告したように、「新しいミサの式次第は、その全体といいまたその詳細といい、トレント公会議の第二十二総会で宣言されたミサに関するカトリック神学から目を見張るばかりに逸脱している」からです。
何故なら、「この新しいミサの典礼様式が新しい信仰を表明している」から「この新しい信仰は私たちの信仰ではない、カトリック信仰ではない」(ルフェーブル大司教)からです。
何故なら、新しいミサはエキュメニズムのために作られたからです。

2009年3月の聖伝のミサの予定


【東京】東京都文京区本駒込1-12-5曙町児童会館1F 「聖なる日本の殉教者巡回聖堂」

21日(土)午後6時30分 グレゴリオ聖歌に親しむ会
      午後8時30分 グレゴリオ聖歌による終課

22日(主)午前10時   ロザリオ及び告解
      午前10時半   四旬節第四主日(一級)バラあるいは紫
      午後2時ごろ  公教要理の勉強
      午後3時ごろ  休憩
      午後4時   グレゴリオ聖歌による主日の第二晩課

23日 月 東京 7:00 平日(3級)紫
24日 火 東京 7:00 平日(3級)紫 +1) 大天使聖ガブリエル(3級祝日)の記念

皆様のおこしをお待ちしております。
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教皇様の「ルフェーブル大司教に叙階された4司教の破門解消について」と題された書簡を読んで

2009年03月21日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する愛する兄弟姉妹の皆様、

 教皇ベネディクト16世は、「ルフェーブル大司教に叙階された4司教の破門解消について」と題された書簡を、カトリック教会の司教らに宛てて記されました。この書簡は2009年3月10日付のもので、バチカンの広報局を通し12日発表されました。

 この書簡については、聖ピオ十世会総長のベルナール・フェレー司教が感謝と信頼の見解を発表しています。

 フェレー司教様は、教皇様が議論をその置かれるべき高みに、つまり信仰の高さにおいて下さったことを心から教皇様に感謝し、教皇様の最優先の気配りが、「あたかも燃料となるものもなく消え尽きてしまおうとしている炎のように、この地上の広大な地域において信仰が消えうせてしまう危険がある現代において」信仰を説教すること、信仰こそが最優先課題であるということに感謝しています。故なら、私たちは洗礼を受けた時に教会に信仰を求めたからです。何故なら、正しい信仰がなければ天主に嘉されることができないからです。本来、カトリック信徒の皆様のカトリックの信仰生活を擁護し保護し守る責任は、教皇様にある、その次には司教様たちにあるからです。

 ですから、私はもうそれ以上なにも言い加えることはありません。ただ、今日聖ベネディクトの祝日に当たり、教皇様のお手紙を読んで思ったことをひとり言のように述べることをお許しください。

 確かに教皇様はこの手紙の中で、聖ピオ十世会について「お小言」を言われています。教皇様の許しなくしかし有効に行われた4名の司教の聖別ことを、あるいは「傲慢、無謀、頑固」など。それと同時に教皇様は、聖ピオ十世会から「オープンな心を明らかに示す感謝の感動的な証言」を受けたとも言われます。

 それに引き換え、教皇様が他のカトリックの人々から受けた攻撃については、教皇様はこんなご自分の悲しみを訴えておられます。教皇様の深い悲しみは、聖ピオ十世会に対する「お小言」のレベルを遥かに超えています。彼らは不寛容と憎しみとで心が閉ざされている、と。


 ベネディクト十六世教皇様はこういいます。
 「カトリックでさえも、究極のところ、現状についてよく知っていたはずのカトリックでさえも、自分たちはあからさまな敵意をむき出しにして私を攻撃しなければならないと考えたという事実に、私は悲しみました。・・・時として、現代社会は少なくともひとつ、いかなる寛容も与えられてはならないグループを必要としているかのように思われます。つまり誰でも簡単に攻撃し憎むことができる攻撃対象のグループです。そして誰であれ彼らに敢えて近づこうとするものがいるとすると、今回の場合はそれは教皇でしたが、この人でさえも寛容を受ける権利をまったく失ってしまうのです。そして不安に思うことも制限もなく、彼も憎しみを込めて取り扱われさえするのです。
(I was saddened by the fact that even Catholics who, after all, might have had a better knowledge of the situation, thought they had to attack me with open hostility…. At times one gets the impression that our society needs to have at least one group to which no tolerance may be shown; which one can easily attack and hate. And should someone dare to approach them – in this case the Pope – he too loses any right to tolerance; he too can be treated hatefully, without misgiving or restraint.)

 教皇様、私もその憎しみと不寛容をひしひしと体験してきました。とりわけ一部のカトリックの人々から。小さい規模ですが、この身で。教皇様、現代社会が、私たちの生きているこの社会が、いかなる寛容も与えられてはならないものは、正確に言えば「グループ」ではありません。その「グループ」が代表している内容です。

 教皇様、いかなる寛容も与えられてはならないこと、そしてそれに、誰であれ彼らに敢えて近づこうとするものがいるとするなら、どんな人でさえも寛容を受ける権利をまったく失ってしまうようなこと、それは、カトリック教会の昔のままの信仰です。カトリック教会の聖伝の信仰です。


 教皇様、教皇様は、人類の歴史の今の時点での本当の問題は何かをこう断言しています。
「あたかも燃料となるものもなく消え尽きてしまおうとしている炎のように、この地上の広大な地域において信仰が消えうせてしまう危険がある現代において、・・・人類の歴史の今の時点での本当の問題は、人間的水平線から天主が消え失せつつあること、そして天主から来る光が減少するなかで、人類はその光を失いつつあり、同時に明らかに破壊的効果が増加していることです」と。
In our days, when in vast areas of the world the faith is in danger of dying out like a flame which no longer has fuel, ... The real problem at this moment of our history is that God is disappearing from the human horizon, and, with the dimming of the light which comes from God, humanity is losing its bearings, with increasingly evident destructive effects.

 教皇様、多くの人々は、そしてカトリック信徒の方々も、信仰という超自然の命を失いつつあります。それは、信仰を養うべきものが、あるべきものが、与えられていないからではないでしょうか。昔のままのカトリックの信仰生活を送ることが困難であるからではないでしょうか。カトリック教会の指導者たちの目が、信仰(救霊・超自然・祈り)というよりはむしろ社会活動(法律・経済・政治)に向けられているのではないかと疑わせるような状況があるからではないでしょうか。



 教皇様、教皇様はこの前のシドニーのワールド・ユース・デイで、たとえ周りの司祭たちが、立ったままの平信徒の手に御聖体を授けようとも、ご自分だけはたった一人で、信徒たちを跪かせて口での聖体拝領をさせておられました。カトリック教会のあるべき姿はこうである、カトリックらしい信仰生活の実践とはこうであると、不言実行された形を取られました。

 教皇様、私は1980年に日本の横浜教区の藤枝聖アンナ・カトリック教会で受洗しました。私が洗礼を受けたときには、聖アンナ・カトリック教会の全信徒は跪いて口で聖体拝領をしていました。教皇様の言われるようにこれこそがカトリック教会のあるべき姿です。ところが私の受洗後まもなく転任されて来られた神父様は、突然、全信徒を立たせ、ついには手による聖体拝領を強制しました。そうなると中には行く教会を無くしてしまう信徒の方もおられました。家をなくした野宿者のようです。

 教皇様、私もそうでしたが、できる信徒の方々は、跪いて御聖体拝領ができる教会を探して、「良いミサ」を探して、どんなに遠くでも通っていました。しかし、司祭の都合でこのように昔の信仰を守りたいと思うような信徒たちは、いわば「自己責任」として多く切り捨てられていきました。ついに教会に行けなくなってしまった信徒の方々もおられます。カトリック信仰を無くしてしまった方もおられます。この世の旅路で、信仰という命を失い、路上死してしまったかのようです。教皇様、私は日本のみならず、韓国でも、ニュー・ジーランドでも、そのような多くの方々に会いました。

 弱い立場にいる信徒の方々は、追いやられ、迫害を受け、今までの天主との信仰関係を断たされてしまった方々もいました。私たちは、突然、今までのカトリックらしい信仰生活が損なわれ、あるいは妨げられてしまいました。


 教皇様、聖ピオ十世会は第二バチカン公会議を受け入れないと非難されていますが、第二バチカン公会議の最初の文献「典礼憲章」(1963年12月4日)には何とかかれているのでしょうか? 

22(典礼の規制権)「従って、他の何人も、たとえ司祭であっても、自分の考えで、典礼に何かを加え、除去し、変更してはならない。」
36(典礼言語)「ラテン語の使用は、ラテン典礼様式において遵守される。」
116(グレゴリオ聖歌と多声音楽)「教会は、グレゴリオ聖歌をローマ典礼に固有な歌として認める。従ってこれは、典礼行為において、他の同等のものの間で、名誉ある地位を占めるべきである。」
とあります。

 教皇様、残念ながら、日本ではこれらの第二バチカン公会議の規定が守られている教会は一つもありません。

 教皇様、ラテン語の使用は、今いったい、どれだけラテン典礼様式において遵守されていると言えるのでしょうか? 教皇様もご存知かもしれませんが、日本では聖フランシスコ・ザベリオによってカトリック信仰が伝えられてから、今日で460年です。恐るべき迫害によって司祭が不在の時期が250年も続きましたが、その間、潜伏信徒はラテン語の祈りで信仰を守っていました。

 超自然の信仰の命が「あたかも燃料となるものもなく消え尽きてしまおうとしている炎のように」消え尽きてしまっても、驚くべきではありません。


 教皇様、教皇様はナチス時代に青年時代をすごし、大変苦しめられました。第2次世界大戦下、日本人の中にはリトアニアの日本領事代理の立場を使って、ナチス・ドイツから逃げるユダヤ人へ、日本の外務省の二度にわかる禁止命令にもかかわらず、つまり外務省に背いて、領事の権限で日本通過ビザを発給した人がいます。

 この方は、杉原千畝(ちうね)といって、1900年岐阜県生まれのロシア正教徒でした。リトアニアの日本領事代理になり、1940年7月29日から大量の日本通過ビザを発行する事を決断します。ソ連(当時)からの国外退去命令を数回受け、外務省からの領事館退去命令を受けましたが、それを無視して同年9月5日までビザを書き続けました。しかしソ連と外務省からの度重なる退去命令のために9月5日に引き上げしました。こうして発給されたビザによって救われたユダヤ人は6000人以上だそうです。帰国後は外交官としての辞職勧告を受け、職を転々とし、86年に亡くなりました。妻の杉原幸子(ゆきこ)さんはこう言っています。「私たちにとっては、ユダヤ人を救うことは当然のことでした。夫は後になって、『私を頼ってくる人々を見捨てるわけにはいかない。見捨てれば私は神に背く』と語っていました。…」


 教皇様、第二バチカン公会議後の「沈黙の背教」の今、教会が「沈みそうな船」に比較できるような現代、つまり「あたかも燃料となるものもなく消え尽きてしまおうとしている炎のように、この地上の広大な地域において信仰が消えうせてしまう危険がある現代において、・・・人間的水平線から天主が消え失せつつ、そして天主から来る光が減少するなかで、人類はその光を失いつつあり、同時に明らかに破壊的効果が増加している」この現代、カトリックの信仰を守りたいというカトリック信徒たちを見捨てることができなかった司教がいました。ルフェーブル大司教です。

 カトリック信徒たちの信仰の命を守るためだけに、ルフェーブル大司教様は、聖伝の信仰をそのまま信じている司教たち、私たちの主イエズス・キリストの建てたカトリック教会だけが唯一のキリストの教会だ、と信じている司教たち、聖伝の教えを信じる司祭を叙階する司教たちを、生き残るために、4名聖別しました。

 ルフェーブル大司教は、困ったカトリック信徒たちを見捨てることができなかったからです。カトリックの伝統的な信仰や実践を維持しようとする弱い立場にある信徒たちは、カトリックらしい信仰生活ができずに苦しんでいたからです。
「貧しく弱い立場に追いやられ、大切な天主との信仰関係を断たされてしまっている人々、カトリックらしい信仰生活が損なわれ、あるいは妨げられている人々の側に立って、この世界を見ていかなければなりません」とルフェーブル大司教様ならおっしゃっていたことでしょう。

 教皇様、教皇様が目をかけてくださっている491名の司祭と215名の神学生、6校の神学校、88校の学校、2校の大学レベルの機関、117名の修道士、164名の修道女と、全世界で何千人もの信者を抱える共同体は、ルフェーブル大司教様によって信仰の命を救われたカトリックの共同体です。

 教皇様、ルフェーブル大司教様の遺志を継ぐ聖ピオ十世会の望みは、世界中でまだカトリックの信仰を持っている方々が聖伝のカトリック信仰に従った信仰生活ができるように緊急避難的に援助することです。聖ピオ十世会は、できる限りこの貴重な信仰の宝、聖伝の宝、特に聖伝のミサを多くの愛する兄弟姉妹に伝えたいと思っています。何故なら、カトリックの聖伝は聖ピオ十世会の独占物ではないからです。全カトリック教会の遺産であるからです。そして、カトリック信仰に反対する異端と誤謬に対して、警告の声を上げなければならないと思っています。つまり、聖ピオ十世会はカトリック信仰を守ることをのみ望んでいます。

 教皇様、確かに天主様は全能ですから、聖ピオ十世会など無くても、聖ピオ十世会が何もしなくても、路頭に迷ったカトリック信徒の方々を助けることができることでしょう。しかし天主は、これを口実に、奇跡を待つだけで、私たちが何もせずに指をくわえていることを望まれません。私たちができる限り人事を尽くすことをお望みです。

 それは、天主様は全能だから私たちが何もしなくても、自然に金融危機も経済危機も収まることだろう、だからといって何もせずにいればいいのではなく、各地で、雇用停止となった方々への支援や、野宿を余儀なくされた方々のための炊き出し、夜回り、医療・法律相談活動などするのは素晴らしい大きな愛徳の業であるというのと同じです。

 教皇様、聖伝の信仰生活ができず路頭に迷ったカトリック信徒の方々への緊急避難所を提供するなどの対応をしてくださったルフェーブル大司教と聖ピオ十世会の司教様たちとに感謝するとともに、さらにより多くの方々がその活動に参加・協力されるよう、教皇様は願っているはずだと思います。


 教皇様、教皇様が聖ピオ十世会に目をかけたが故に、聖ピオ十世会に歩み寄ったが故に、教皇様が受けた憎しみと迫害、非難の罵声は、悲しいかな、カトリック教会全体が今もっている、カトリック教会の過去と聖伝に対する憎しみの表れなのではないでしょうか。

 残念なことに、今、カトリック教会は教会の過去とますます離れつつ、ますます断絶しつつあるようです。今回、教皇様が味わわれた攻撃と憎しみは、カトリック教会全体がその過去の教会からの分断・離れ(過去の教会から離れているという意味での「離教」)つつあることを示しているのではないでしょうか。

 教皇様、何故なら、第二バチカン公会議が過去に目をやるよりも「現代化」を目指しすぎてしまったからではないでしょうか。第二バチカン公会議文書の現代世界憲章の「前置き」をみると教会が「新しさ」に目を奪われているのがよくわかります。

4(現代世界における人間の状態--希望と不安)
 今日、人類史の新しい時代が始まっており、深刻で急激な変革がしだいに全世界に広まりつつある。・・・
 人間が今日ほど自由の精神を強く自覚したことは、けっしてなかったが、他方では新しい型の社会的、心理的奴隷が起こりつつある。

5(深刻な変革)
 人類は、静止的世界観から動的・進化的世界観に移行したのである。そこから膨大で複雑な、新しい課題が生じ、それは新たな分析と総合とを要求している。

6(社会秩序の変革)
 ますます進歩する新しいマス・コミの手段は事件の報道に寄与し、多くの連鎖反応を呼び起こしながら、思想や意見を極めて迅速広範に普及させる。

7(心理的、道徳的、宗教的変革)
 さらに、新しい諸事情は宗教生活にも影響する。・・・過去の時代と違って、神または宗教を否定または無視することは、もはや例外的、個人的なことがらではなくなった。すなわち今日では、それは科学的進歩もしくは新しい人間主義の必然的要請であると考えられることが少なくない。

8(現代世界の不均衡)
 家庭内にも、人口的・経済的・社会的諸条件の重圧や、異なった世代の間に起こる衝突や、男女間の新しい社会関係から不均衡が生じている。

10(人類の大きな疑問)
 発展する世界の現状を前にして、次のような最も基本的な質問をする人、あるいはそれを新しい鋭さをもって感じる人の数が日増しにふえている。人間とは何か。偉大な進歩にもかかわらず、今もなお残っている苦しみ、悪、死の意味は何か。大きな代償を払って獲得した勝利は何のためになったか。人間は社会に何をもたらすことができるか。社会から何を来たできるか。この地上生活の後に何が続くのか。

また、第2部の第2章を見ると、第1節 現代世界における文化の諸条件として、

54(新しい生活様式
 現代人の生活条件は社会的、文化的観点から大きく変動したので、人類史の新時代について語ることができる。したがって、文化を向上させ広めるためにも、新しい道が開けている。自然と人間と社会とに関する学問の大きな進歩、技術の発達、人間交流の手段の進歩と組織化がこれらの新しい道を準備した。・・・
 共同体的生活を促進させる工業化と都市化とその他の原因は新しい文化形態(大衆文化)を産み出し、そこから新しい考え方、新しい行動方法、新しい余暇の使い方が生まれ、・・・

55(文化を作り出す人間)
 世界の統一と真理および正義の中によりよき世界を建設すべきわれわれの使命とを考えるならば、それはいっそう明きらかである。こうして、われわれは新しいヒューマニズムの証人であり、・・・

 ですから、私たちは第二バチカン公会議にどのような点が新しくなったか、つまりカトリック教会の聖伝による見方と変わってしまったかを見直してみる必要があると思います。そこで、

(1)第二バチカン公会議は、人間についてどのように新しく考えるようになったかのか?
(2)第二バチカン公会議は、人間と天主との関係についてどのように新しく考えるようになったかのか?
(3)第二バチカン公会議は、教会についてどのように新しく考えるようになったかのか?

などという3点を考察してみる必要があると思われます。

 聖ヨゼフ、われらのために祈りたまえ!
 聖ベネディクト、われらのために祈りたまえ!

文責:トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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聖ピオ十世会総長のフェレー司教講話:教会の状況及び聖ピオ十世会とローマとの関係(1)

2009年03月20日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2008年2月17日に聖ピオ十世会総長のベルナール・フェレー司教様が、聖ピオ十世会アメリカ管区の聖イグナチオ黙想の家(コネチカット州)でなさった講話をご紹介いたします。


教会の状況及びローマとの関係


 皆さんは多くのご質問や話題にご興味があることだと思います。特に、教会の状況及び私たちとローマとの関係についてはとりわけそうであることでしょう。そこで私は今回、これらのことを取り上げてお話してみたいと思います。してみたい、と申し上げるのは、何故なら状況は単純ではないからです。

 教会の状況と状態はますます複雑で多岐にわたってきています。モートゥー・プロプリオ、つまり、2007年7月7日のベネディクト十六世教皇の自発教書の発表以前、私たちは幾つかの原理原則を守るために闘ってきました。この点については、モートゥー・プロプリオの前後では同じで何も変わってはいません。しかし、モートゥー・プロプリオは、決定的に、多くの人々をして状況は今ではもう同じではないと考えさせるようにしました。そこで、モートゥー・プロプリオ以前と以後とで変わったことと変わらなかったこととを考察することにしましょう。


背景: 第二バチカン公会議

 モートゥー・プロプリオ(2007年7月7日のベネディクト十六世教皇の自発教書)の価値をもっとよく理解するために、過去を返り見て、自発教書がどのような状況で発表されたかに注目しなければなりません。

 簡単に言うと、第二バチカン公会議は教会の血液の中に多くの観念を導入する事件でした。

 公会議の開かれるまでは、大学及び神学校でひそかに培養されていた新しい観念に、教導権は対立して戦い、断罪して来ました。

 しかし公会議はそのような観念を、特にこれに付いてきた精神を「合法化」してしまいました。
 それにしたがってその観念は、公式的に教会の血液の中に入って来たのです。
 これが危機の中でも一番有害な側面です。

 公会議に参加した人々の中で一番重要な人々名前は、公会議の開かれる約十年前に異端説などで断罪された事がある司祭及び高位聖職者たちの名前なのです。これを知ると、本当にびっくりします。

 1950年に、教皇ピオ十二世は現代の誤謬に関する回勅である Humani Generis を発表しました。指摘された誤謬の中には自然的秩序と超自然的秩序の間を混同する間違いがありました。主張者の名前は言及されませんでしたが、この回勅の直前に一イエズス会司祭は『超自然』という題の本を出版しました。この本の中では、自然的秩序と超自然的秩序との二つの秩序が混同されています。彼は 1950年に、フランスのリヨンでの教職を辞めさせられ、彼の本は禁書処分にされました。

 彼の名前は、アンリ・ド・リュバック (Henri de Lubac) といいます。 ド・リュバックは、第二バチカン公会議の時、極めて強い影響力を発揮した人と考えられています。 教皇ベネディクト十六世は、彼のことを自分に対してインスピレーションを与えて影響を及ぼした人物だと言っています。公会議が開かれる直前に異端説のために解任されたこの男は、公会議後に自分の神学のおかげで枢機卿になったのです。

 1952年には、後に公会議の最中にド・リュバックと似たような影響を与えたドミニコ会司祭が、『教会の真の改革と偽りの改革』という本を書きました。その本も禁書処分を受け断罪されました。この本の著者であるイヴ・コンガール (Yves Congar) 神父は追放され、教える事をやめなければなりませんでした。

 コンガール神父は後日、教皇自身によって第二バチカン公会議の顧問として呼び出されました。そのときにはコンガール自身の方がびっくりし、「私は断罪されたが、彼らが私を指名するのか?」と言うほどの驚きであった。当時、彼でさえも健全な反応を見せたのです。

 1954年には、或るアメリカ人司祭がアメリカで特に流行っている理論を弁護する文を書いてくれという頼みを受けました。これは政教分離に関するものでした。これはジョン・カートニー・マーレイ (John Courtney Murray) 神父で、彼も異端断罪を受けたのですが、彼の思想は公会議で「信教の自由」という名前で、一部よみがえりました。

 また他の有名なイエズス会士であるカール・ラーナー(Karl Rahner) 神父も、公会議の時にはあまりにも大きい影響を与えていたので、 Rahner locutus est、causa finita (ラーナーが話し、一件落着。本来なら「ローマが話し、一件落着」という)という新しい表現を作るほどでした。

 しかし、1960年代にはラーナーは、事前にローマの検邪聖省に提出検査を受けなければ、いかなる本を発行することが許されなった程、検邪聖省の要注意危険人物として考えられていました

 このことはローマが彼を危険人物だとして目を離さなかったということを意味します。ドイツの宰相であるアデナウアー (Adenauer) の仲裁で、彼に対する監視が終わりました。

 私たちはベネディクト会員 (OSB) で、エキュメニズムの父と考えられている、ドン・ランベール・ボドワン (Dom Lambert Beauduin) にも言及することができます。 彼は公会議の前に世を去りました。

 しかし、とても明らかなことは、第二バチカン公会議の時それこそこの上なく大きい影響を与えたその人々が、教皇ピオ十二世時代には教会の排斥され断罪と叱責を受けていたという事実です。

 典礼学者であると同時に新しいミサを作った者である有名なブニーニ (Bugnini) は教皇ヨハネ二十三世の統治下でさえも、自分の近代主義ゆえにローマで教える職務を強制的に退職させられました。彼は後に、教皇パウロ六世の呼び出しを受けて、とりわけ新しいミサなどを創りました。

 このことは、教会の中で、まったく非正常的な何かが起こったということを見せてくれます。

 私は、本当に、司教様たちの大部分は伝統的な考え方を持っていながら公会議に参加しながら、どうしてそのように態度を一変することができたのか、解き明かすことができません。
 公会議の準備中にローマに送付された質問表などを見ると、自分の羊の群れの救霊を望む司教たちの真実な心遣いを表明しています。それから五年後、それらはまったく変わってしまって、エキュメニズム、信教の自由及び司教団体主義などの新しい考えで満ちるようになってしまったのです。

 この世の中に対する態度が変わってしまいました。
 第二バチカン公会議までは、この世は、この世は救霊の敵であると思われていました。これは福音と一致する考えです。私たちの主は、天国に行く道は険しいと説教なさった一方、世の中は快楽と安楽な生活の幅広い道であると説教しました。公会議以後、すべてのキリスト者の生活はとても易しくなりました。

 公会議文献の中に、このことを厳密にそう書いてあると見つけるか否かにかかわらず、公会議文章はこの精神が入って来ることができるよう、多くの門戸を開いたままにしてあります。

 公会議は、極めて曖昧です。言い換えると、カトリックの色眼鏡をかけて見れば、公会議をカトリック的に解釈することができます。しかし他のいろいろな色眼鏡をかけて見ると、まったく違って解釈することができるようになるのです。

 これは曖昧な言葉の表現による問題です。皆さんは、公会議に明確・明快で正確な文言を期待しています。しかし、いくつかの明らかで明白な誤謬がいくつかあるほかにも、私たちは公会議文書に多くの曖昧な言い方及び多義的に解釈されることができる用語を見いだすのです。
(つづく)

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ルフェーブル大司教の伝記 13.1.13.スキャンダルの権利とスキャンダルの結果を持つ権利

2009年03月19日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
第13章 王たるキリストの使者

I. 公会議におけるルフェーブル大司教の発言


スキャンダルの権利とスキャンダルの結果を持つ権利

 ルフェーブル大司教はたびたび「信教の自由とは、スキャンダルの権利だ」と口にした。何故なら、信教の自由は、宗教に関する誤りとこの誤りの伝播とその誤りの道徳的結果とに市民権を付与するからである。


 大司教は信教の自由の結果の中で次のようなものなどを告発した。

--- 不道徳: 「29 番に言及された人間社会におけるすべての宗教共同体の自由を主張するためには、その共同体に道徳に関する自由を同時に許容しなければならない。道徳と宗教とは密接に結びついているからだ。例えば、重婚とイスラム教とは密接に連関されている。」(75)

--- カトリック国家の終末: 「カトリックの法律が付与された市民社会はもはや存在しなくなるだろう。」(47)

--- 「教理に関する相対主義と実質的宗教無関心主義」(47)
--- 「霊魂を回心させようとする宣教精神の消滅」(47)


 この反対に、これらすべての極めて重大な不都合は、次のことを公会議が宣言したらたちどころに消え去ってしまうだろう。

「キリストの教会 [カトリック教会] のみが、天主の自然法と超自然の天主の法を一つも漏らさず完璧に保持し、このキリストの教会だけがそれを教える使命とそれを遵守する手段とを受けた。このキリストの教会にのみ真にそして現実に私たちの法であるイエズス・キリストがましましたもう。従って、キリストの教会だけがいつでもどこでも信教の自由への真の権利を保持している。」(97)

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第13章 王たるキリストの使者
I. 公会議におけるルフェーブル大司教の発言
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教皇ボニファチオ八世1302年11月18日の大勅書ウナム・サンクタム(Unam Sanctam)

2009年03月18日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

愛する愛する兄弟姉妹の皆様、

 教皇ボニファチオ八世が1302年11月18日に発布した大勅書(Bulla)ウナム・サンクタムをご紹介いたします。

大勅書 Unam Sanctam の教えるキリスト教世界のあるべき姿


天主の僕たちの僕、司教であるボニファチオは、将来の記念のために
(教皇ボニファチオ八世、1302年11月18日発布)

一にして聖なる(Unam Sanctam)カトリックそして使徒継承である教会を、信仰に促されて、私たちが信じ保持するように義務づけられているが、私たちはこの教会を堅く信じ単純に信仰告白する。この教会の外には救いもなく、罪の赦しもなく、雅歌において花婿がこう宣言しているように「私の雌ハト、私の完全な彼女は一羽、彼女の母の、彼女を生んだ女性の選ばれた方は一人だけ [Cant. 6:9]」。この雌バトこの唯一の選ばれた女性は、キリストの唯一の神秘体を表現している。この神秘体の頭はキリストであり、キリストの頭は天主である。この唯一の教会において、唯一の主と唯一の信仰と唯一の洗礼とがある。大洪水の時代においてノエの方舟は唯一であったが、これは唯一の教会を前兆しており、一クビト単位において完成され、ノエを唯一の船長および水先案内人として持ち、この方舟の外の地上の全ての存在は破壊されたと私たちは読む。

 主が預言者において言い給うように、私たちはこの唯一の教会を敬う。「天主よ、我が霊魂を剣から救い出し、我が唯一のものを犬の手から救い出し給え [Psalm 22:20]。霊魂のために、つまり、自分自身のために、頭は体とともに祈り給うた。神秘体が唯一のものと、すなわち唯一の教会と名指したことは、花婿が唯一であること、信仰の唯一性、諸秘跡の唯一性、教会の愛徳の唯一性の故である。これこそが、ちぎれていなかったのでくじを引いた、主のかの継ぎ目のない衣服である(ヨハネ19章)。

 従って、唯一の御方の唯一の教会に属するものとして、一つの体、怪物のような二つの頭ではなく一つの頭であり、すなわちキリストとキリストの代理者であるペトロとペトロの後継者である。主はこのペトロに「私の羊を牧せよ(ヨハネ21:17)と言われた。主は、一般に、私の羊をと言われ、この羊をとかあの羊をと個別に言われたのではなかった。これによりて普遍的な羊を委ねられたのだと理解できる。従って、ギリシア人らがあるいはその他の人々が、自分たちについてはペトロとその後継者たちに委ねられなかったと言うとしたら、彼らは必然的に自分がキリストの羊の群れに属していないということを告白していることになる。何故なら主はヨハネにおいて、一つの群れ、一つの牧者である(ヨハネ10:16)と述べるからである。

 このそして彼の権能において、私たちは福音の記述によると、二つの剣、すなわち霊的な剣と世俗の剣とがあることを私たちは知る。何故なら使徒たちはこう言っているからである。「見よ、ここに二振りの剣があります(ルカ22:38)」と。これは教会において、ということである。使徒たちがそう言うと主は「多すぎる」とは言わずに「十分である」と答えられた。確かに、ペトロの権能において世俗の剣があることを否定するような者は、主の言われる言葉をよく聞いていない。主、曰く「お前の剣を鞘に収めよ(マテオ26:52)。」霊的な剣も物質的な剣も両者とも教会の権能においてある。しかし後者(物理的剣)は教会のためにあり、前者(霊的剣)教会によって執行すべきであり、前者は司祭たちによって、後者は王と軍人の手においてしかし司祭の同意と苦しみとに従って執行される。

 剣は剣の下に置かれるべきである。世俗の権威は霊的権威の下に置かれるべきである。何故なら、使徒聖パウロ曰く「天主に拠らない権能はない、あるものは全て天主によって秩序付けられたものである(ローマ13:1)。さて剣が剣の下にあるのではないのなら、そして劣ったものが他者によって優位に還元されないのなら、何も秩序付けられなかっただろう。何故なら、至福なるディオニジウスに従えば、劣ったものは中間のものによって優れたものにあげれるというのが天主の法であるからである。従って、宇宙の秩序に従えば、全てが等しく中間なのではなく、中間によって劣ったものが、そして上位のものによって下位のものが秩序に還元されるのである。ところで霊的権能は、尊厳によってもまた高貴さによってもいかなる地上の権能に勝っており、霊的なものが地上のものに優先するその程度に応じてはっきりと私たちも言う必要がある。これについては、10分の1税の支払いと祝福と聖別とからも、権能自体の受け入れからも、物事の統治からも、私たちはこの目にはっきりと知ることができる。何故なら、真理を証言するが故に、霊的権能は地上の権能を打ち立てさせ、もしもそれが良いものではなければ地上の権能を裁く力を持つからである。かくして教会について及び教会の権能について、預言者エレミアの予言が確認される(エレミア1:10)。「見よ、私はお前を今日、異邦人と諸国とその他の上に建てた、云々」と。

 従って、地上の権力が道を外れるとすると、霊的権力によって裁かれるであろう。しかし、霊的小人が道を外れるとその長上によって裁かれる、もしも霊的最高の権力については天主によってのみ裁かれ、人間によっては裁かれることができないだろう。これは使徒聖パウロが証言している。「霊的人間は全てを裁く、彼は誰によっても裁かれない(コリント前書2:16)」と。たとえ人間に対して与えられたとしても、そして人間を通して行使されるとしても、この[最高の霊的]権威は人間的なものではなくむしろ、天主の口からペトロに対してそしてキリストにおいてその後継者たちに対して与えられた天主的な権威である。ペトロは堅固な巌として、このキリストを信仰告白し、主はこのペトロにこう言われた。「お前がこの地上で繋ぐものは、云々(マテオ16:19)」。従って、誰であれ、天主によってこのように秩序付けられたこの権威に逆らうものは、秩序付ける天主に逆らうものである。さもなければマニ教徒らのように、善と悪との二つの原理(原初)があるとでっち上げるものであるが、これは私たちは偽りであり異端であると判断する。何故なら、モーゼの証言に拠れば、原初(複数)ではなく、原初(単数)において、天主は天と地とを造り給うた(創世1:1)からである。

 更に、私たちは、全ての人間的被造物がローマ教皇に従うことは、救いのために全く必要であると宣言し、断言し、定義し、発表する。

[ラテン語]
Unam Sanctum

Bonifatius, Episcopus, Servus servorum Dei. Ad futuram rei memoriam.

Unam sanctam ecclesiam catholicam et ipsam apostolicam urgente fide credere cogimur et tenere, nosque hanc firmiter credimus et simpliciter confitemur, extra quam nec salus est, nec remissio peccatorum, sponso in Canticis proclamante: Una est columba mea, perfecta mea. Una est matris suae electa genetrici suae [Cant. 6:9]. Quae unum corpus mysticum repraesentat, cujus caput Christus, Christi vero Deus. In qua unus Dominus, una fides, unum baptisma. Una nempe fuit diluvii tempore arca Noë, unam ecclesiam praefigurans, quae in uno cubito consummata unum, Noë videlicet, gubernatorem habuit et rectorem, extra quam omnia subsistentia super terram legimus fuisse deleta.

Hanc autem veneramur et unicam, dicente Domino in Propheta: Erue a framea, Deus, animam meam et de manu canis unicam meam. [Psalm 22:20.] Pro anima enim, id est, pro se ipso, capite simul oravit et corpore. Quod corpus unicam scilicet ecclesiam nominavit, propter sponsi, fidei, sacramentorum et caritatis ecclesiae unitatem. Haec est tunica illa Domini inconsutilis, quae scissa non fuit, sed sorte provenit. [John 19.]

Igitur ecclesiae unius et unicae unum corpus, unum caput, non duo capita, quasi monstrum, Christus videlicet et Christi vicarius, Petrus, Petrique successor, dicente Domino ipsi Petro: Pasce oves meas. [John 21:17.] Meas, inquit, generaliter, non singulariter has vel illas: per quod commisisse sibi intelligitur universas. Sive ergo Graeci sive alii se dicant Petro ejusque successoribus non esse commissos: fateantur necesse est, se de ovibus Christi non esse, dicente Domino in Joanne, unum ovile et unicum esse pastorem. [John 10:16.]

In hac ejusque potestate duos esse gladios, spiritualem videlicet et temporalem, evangelicis dictis instruimur. Nam dicentibus Apostolis: Ecce gladii duo hic [Luke 22:38], in ecclesia scilicet, cum apostoli loquerentur, non respondit Dominus, nimis esse, sed satis. Certe qui in potestate Petri temporalem gladium esse negat, male verbum attendit Domini proferentis: Converte gladium tuum in vaginam. [Matt. 26:52.] Uterque ergo est in potestate ecclesiae, spiritualis scilicet gladius et materialis. Sed is quidem pro ecclesia, ille vero ab ecclesia exercendus, ille sacerdotis, is manu regum et militum, sed ad nutum et patientiam sacerdotis.

Oportet autem gladium esse sub gladio, et temporalem auctoritatem spirituali subjici potestati. Nam cum dicat Apostolus: Non est potestas nisi a Deo; quae autem sunt, a Deo ordinata sunt [Rom. 13:1], non autem ordinata essent, nisi gladius esset sub gladio, et tanquam inferior reduceretur per alium in suprema.

Nam secundum B. Dionysium lex divinitatis est infima per media in suprema reduci. Non ergo secundum ordinem universi omnia aeque ac immediate, sed infima per media et inferiora per superiora ad ordinem reducuntur. Spiritualem autem et dignitate et nobilitate terrenam quamlibet praecellere potestatem, oportet tanto clarius nos fateri, quanto spiritualia temporalia antecellunt. Quod etiam ex decimarum datione, et benedictione, et sanctificatione, ex ipsius potestatis acceptione, ex ipsarum rerum gubernatione claris oculis intuemur. Nam, veritate testante, spiritualis potestas terrenam potestatem instituere habet, et iudicare, si bona non fuerit. Sic de ecclesia et ecclesiastica potestate verificatur vaticinium Hieremiae. Ecce constitui te hodie super gentes et regna et cetera, quae sequuntur.

Ergo, si deviat terrena potestas, judicabitur a potestate spirituali; sed, si deviat spiritualis minor, a suo superiori si vero suprema, a solo Deo, non ab homine poterit judicari, testante Apostolo: Spiritualis homo judicat omnia, ipse autem a nemine judicatur. [1 Cor. 2:16.] Est autem haec auctoritas, etsi data sit homini, et exerceatur per hominem, non humana, sed potius divina potestas, ore divino Petro data, sibique suisque successoribus in ipso Christo, quem confessus fuit, petra firmata, dicente Domino ipsi Petro: Quodcunque ligaveris, etc. [Matt. 16:19.] Quicunque igitur huic potestati a Deo sic ordinatae resistit, Dei ordinationi resistit, nisi duo, sicut Manichaeus, fingat esse principia, quod falsum et haereticum judicamus, quia, testante Moyse, non in principiis, sed in principio coelum Deus creavit et terram. [Gen. 1:1.]

Porro subesse Romano Pontifici omni humanae creaturae declaramus dicimus, definimus et pronunciamus omnino esse de necessitate salutis.


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聖ピオ十世会創立者ルフェーブル大司教の伝記 13.1.12.信教の自由: フリー・メーソンの勝利

2009年03月18日 | ルフェーブル大司教の伝記
第13章 王たるキリストの使者

I. 公会議におけるルフェーブル大司教の発言


信教の自由: フリー・メーソンの勝利

 ルフェーブル大司教は、歴史的に聖書の中には、信教の自由は存在しない、と主張した。

 これはコンガール神父(Père Congar)が後に次のように認めたとおりだ。
「聖書は、人間の良心だけではなく人間のあらゆる全てをひたすら天主に、そしてキリストに、また教会に服従させる義務だけを証明することができる。・・・どこにもまた誰にも聖書は、はなはだしくは、自分の過ちではないが間違った良心を持っている場合にも、躓きの権利を与えてはいない。」(46)

 むしろ反対に、信教の自由の起源は「教会外に」見出される。つまり「十八世紀のいわゆる哲学者を自任する者等、すなわちホッブス (Hobbes)、ロック (Locke)、ルソー (Rousseau)、ヴォルテール (Voltaire) 」などのに起源を持つ。

 十九世紀中盤に為された、無駄に終わった試みとして「ラムネとともに自由主義カトリックらが、そのような概念を教会の教理と調和させようとしたが、ピオ九世は彼らを断罪した。この概念を、レオ十三世は、回勅 Immortale Dei の中で「新しい権利」と呼び、健全な哲学及び聖書と聖伝とに反対するものとして荘厳に断罪した。」(96)

 最後に、大司教は信教の自由が起源的に捏造された薄暗い巣窟を次のように告発した。

「今年 [1965年]、フリー・メーソンであるイブ・マルソドン (Yves Marsaudon) が伝統的フリー・メーソンが見たエキュメニズム (L'oecumenisme vu par un franc-maçon de tradition)という本を発刊しました。その中で著者は、私たちの公会議が信教の自由を荘厳に宣言すると言うフリーメーソンの願いを表明しています。・・・ 皆さんにこれより更なる情報をお望みでしょうか?」(96)

【Stjepan Schmidt, Agostino Bea, cardinale dell'ecumenismo e del dialogo, ed. San Paolo, Milan, 1996, pp. 139-141 によると、American Council for Demorcracy under God の主催で1963年4月1日にニューヨークで開催された重要な会合で、ベア枢機卿が座長をした。そのときの主題は「世俗世界の一致と天主のもとの自由 Civil Unity and freedom under God」であった。】


 イブ・マルソドンはこう書いている。
「キリスト者たちは、すべての道が天主へと続いていることを忘れてはならない (私の聖父の家には部屋が多い) また、この思想の自由という勇気ある概念を維持することが、これについては本当に革命、私たちフリー・メーソンのロッジのから始まった革命であると言うことができるのであるが、聖ペトロ大聖堂のドームの上に素晴らしく広がったということである。」
【Y. Marsaudon, L'oecumenisme vu par un franc-maçon de tradition, ed. Vitiano, Paris, 1965, p. 121; quoted by Permanences n. 21 (juillet 1965), p. 87.】

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第13章 王たるキリストの使者
I. 公会議におけるルフェーブル大司教の発言
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聖ピオ十世会の四名の司教たちが、2009年1月29日の教令の後、教皇様に送った手紙

2009年03月18日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖ピオ十世会の四名の司教たちが、2009年1月29日の教令の後に、教皇ベネディクト十六世に送った手紙をご紹介します。


Lettre des quatre évêques de la Fraternité Saint-Pie X
au souverain pontife Benoît XVI suite au décret du 21 janvier 2009


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聖ピオ十世会

ベネディクト十六世教皇聖下へ

教皇様


 聖下の聖父としての優しさと使徒的な勇気の行為に対して聖下に向けて私たちの深い謝辞を表明することを望むのは感謝の中であります。聖下はこの行為によって、二十年前に私たちの司教聖別の後に私たちに対してなされた対処を無効にしてくださいました。2009年1月21日の教令はある意味で私たちの聖ピオ十世会の敬愛する創立者、マルセル・ルフェーブル大司教の名誉を回復しています。この教令は、カトリック教会の聖伝に愛着している全世界の司祭たちと信徒たちとに正義をもたらし、彼らは祖先からの信仰を維持したことについて不正にも排斥されることは無くなることだろうと思われ、カトリック教会大きな善をももたらしました。

 この信仰を守る戦いという理由において、聖下がそう望まれるように「まだ開かれている事柄についての聖座の当局と必要な話し合い(colloqui)を深めていく如何なる努力も惜しまない」ことを聖下に保障いたします。私たちは聖下の代表の方々とともに、永遠の教導権と対立している教えについて意見交換をできる限り早期に始めたいと望んでおります。

 聖下がお認めになったまだ必要であるこの道により、私たちは教会内部における信仰の喪失に対する有効な対処策を講じるに当たり聖座を助けることができると期待しております。

無原罪の童貞聖マリア様は、私たちが会うようにと明らかに聖下の足を導いてくださっておられます。聖母はその優雅な御取次ぎを続けられることでしょう。私たちが普遍の牧者である聖下に、ペトロの後継者に愛着しまた主の子羊と羊とを牧する教皇職とに最も愛着しているその4名の息子たちを祝福してくださるように忠孝の念を持って願うのは、この確信によるのです。

メンツィンゲンにて、2009年1月29日、サレジオの聖フランシスコの祝日にて

+ベルナール・フェレー
+ベルナール・ティシエ・ド・マルレ
+リチャード・ウィリアムソン
+アルフォンソ・デ・ガラレタ

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フランス語原文は次のとおりです。

FRATERNITÉ SACERDOTALE SAINT-PIE X

A Sa Sainteté le pape Benoît XVI

Très Saint-Père,

C’est dans l’action de grâces que nous désirons exprimer à Votre Sainteté notre profonde reconnaissance pour l’acte de Sa paternelle bonté et de Son courage apostolique par lequel Elle a rendu inopérante la mesure qui nous a frappés il y a vingt ans à la suite de notre sacre épiscopal. Son décret du 21 janvier 2009 réhabilite de quelque façon le vénéré fondateur de notre Fraternité sacerdotale, S. Exc. Monseigneur Marcel Lefebvre. Il procure aussi un grand bien à l’Église, nous semble-t-il, en faisant justice aux prêtres et aux fidèles du monde entier qui, attachés à la Tradition de l’Église, ne seront plus injustement stigmatisés pour avoir maintenu la foi de leurs pères.

C’est en raison de ce combat de la foi que nous assurons votre Sainteté, comme Elle le souhaite, de « n’épargner aucun effort pour approfondir dans de nécessaires entretiens avec l’Autorité du Saint-Siège les questions encore ouvertes ». Nous désirons en effet commencer dès que possible avec les représentants de Votre Sainteté des échanges concernant des doctrines en opposition avec le Magistère de toujours.

Par ce chemin encore nécessaire qu’évoque Votre Sainteté, nous espérons aider le Saint-Siège à porter le remède approprié à la perte de la foi à l’intérieur de l’Église.

La Vierge Marie Immaculée a visiblement guidé les pas de Votre Sainteté à notre rencontre, elle Lui maintiendra sa gracieuse intercession. C’est avec cette assurance que nous demandons filialement au Pasteur universel de bénir quatre de ses fils les plus attachés au Successeur de Pierre et à sa charge de paître les agneaux et les brebis du Seigneur.

Menzingen, le 29 janvier 2009, en la fête de saint François de Sales

+Bernard Fellay
+Bernard Tissier de Mallerais
+Richard Williamson
+Alfonso de Galarreta

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聖ピオ十世会創立者ルフェーブル大司教の伝記13.1.11.信教の自由: 偽善

2009年03月17日 | ルフェーブル大司教の伝記
第13章 王たるキリストの使者

I. 公会議におけるルフェーブル大司教の発言


信教の自由: 偽善

 ド・シュメット(De Smedt)司教は、公会議会場でその日和見主義の大物の守護者であり、委員会のための報告者として活動した。彼はマーレイ神父の考えに従い、政府権威は或る宗教が真理であるか偽りであるかを判断区別する能力がないと主張した。【Relatio de reemendatione schemati emendati, 28 mai 1965, pp. 48-49, Acta Synodalia, IV, I, 191.】


 概要は、それほど露骨的ではない(第2章 4番)が、ルッフィーニ枢機卿が「極めて間違っている」と宣言したこの原則の上に成り立っている。

 この国家権威が宗教に関して無能であると言うことは、特にレオ十三世が回勅『Immortale Dei』の中で提示した「カトリックの教理に明らかに矛盾している」(44)とルフェーブル大司教は強調した。

「この草稿を作成した者たちは、まさしくキリスト者である国家元首に真理に対する感覚を拒否しており、これは間違いであります。経験上そのような意見は全く間違っていると証明されます。どのようなやり方であろうと、信じる者に反対し迫害する者たちであろうと、真理と真理を信じている人々に敬意を払う未信者達であろうと、皆が真理を見抜きます。」(76)

 敬愛するヴェグトリ神父(Pere Voegtli)の文体に多く入っているこのような逆説に照らして、国家の世俗主義 -- これはド・シュメット司教のような聖職者によるものであろうと、フリー・メーソンによる反聖職者的な世俗主義であろうと -- が真っ昼間の光のもとに姿を現した、つまり、偽善という姿を。

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I. 公会議におけるルフェーブル大司教の発言
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聖伝のミサ(いわゆるトリエントミサ、「ローマ典礼様式のミサ」)にようこそ

2009年03月15日 | 聖伝のミサの予定
アヴェ・マリア!

■ 聖伝のミサ(いわゆるトリエントミサ、「ローマ典礼様式のミサ」)にようこそ!

 愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサに歓迎します! 
何故なら、オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ両枢機卿とがパウロ六世教皇聖下へ報告したように、「新しいミサの式次第は、その全体といいまたその詳細といい、トレント公会議の第二十二総会で宣言されたミサに関するカトリック神学から目を見張るばかりに逸脱している」からです。
何故なら、「この新しいミサの典礼様式が新しい信仰を表明している」から「この新しい信仰は私たちの信仰ではない、カトリック信仰ではない」(ルフェーブル大司教)からです。
何故なら、新しいミサはエキュメニズムのために作られたからです。

2009年3月の聖伝のミサの予定



【大阪】大阪市東淀川区東中島1-18-5 新大阪丸ビル本館(JR新大阪駅の東口より徒歩5分)「聖母の汚れ無き御心巡回聖堂」

3月13日 金 大阪 17:30 平日(3級)紫 小斎
3月14日 土 大阪 11:00 平日(3級)紫
3月15日 日 大阪 10:30 四旬節第3主日(1級)紫


皆様のおこしをお待ちしております。

For the detailed information about the Mass schedule for the year 2009, please visit "FSSPX Japan Mass schedule 2009" at
http://immaculata.web.infoseek.co.jp/tradmass/

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聖ピオ五世教皇 大勅令『クォー・プリームム』(Quo Primum)
新しい「ミサ司式」の批判的研究 (オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿)Breve Exame Critico del Novus Ordo Missae
■ カトリック典礼が普通に有するべき三つの性質:新しいミサはこの三つの特徴を満たすか?
■ モンシニョール・クラウス・ガンバー(Msgr Klaus Gamber)の「ローマ典礼の改革」
■ 今日経験している教会の危機は典礼崩壊が原因であると、私は確信する。(ベネディクト十六世)
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