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誤謬または悪に対する消極的権利は存在するか?また、寛容に対する権利は?

2007年02月03日 | カトリックとは

アヴェ・マリア!

誤謬または悪に対する消極的権利は存在するか?
また、寛容に対する権利は?


人は誤ったこともしくは道徳的に悪いことを為す積極的な客観的自然権を一切有していません。このことはすでに見ました。

 例えば、誰一人として麻薬を販売したり、真の宗教に反した宗教的礼拝行為を実践したりする権利を持っていません。


「いかなる人的権威も、いかなる国家も、またいかなる諸国間の共同体も(それらがどのような宗教的性格を持っているのであれ)宗教的真理ないしは道徳的善に相反する事柄を教えたり、実践する積極的権限ないしは積極的な承認を与えることはできません。(教皇ピオ12世 回勅『チ・リエーシェ』 Documents 1953 p.614 / PIN 3038) 
http://www.ewtn.com/library/PAPALDOC/P12CIRI.HTM


「真理および道徳的法にそぐわない事柄は、客観的な見地から言うと、存在し、喧伝および活動を行なういかなる権利も有していません。」 (回勅『チ・リエーシェ』Documents 1953 p.616 / PIN 3041)
http://www.ewtn.com/library/PAPALDOC/P12CIRI.HTM


◆ しかし、人は時として宗教的真理または道徳的善にそぐわぬ事柄に対する、消極的な意味での客観的権利を持つのではないでしょうか。言葉を換えて言えば、宗教的あるいは道徳的な事柄において、たとえ当の行為が真理ないし善から離反する場合でも、それを為すのを妨げられない権利、要するに寛容を享受する権利がこのような場合、認められるのか、という問題です。


 この問いに対する答えは次の3つの言葉に要約されます。すなわち、このような「権利」は荒唐無稽であり、虚偽であり、教会によって排斥されています。


1.良識は、誤謬に対する消極的権利という荒唐無稽な概念を受けつけることができない


----ある家庭の父親が自分の息子に「おまえはマリファナを吸う権利を持っていないが、しかし私がそれを妨げない、ということに対する権利は持っている。」ということができるでしょうか。(もし言ったとしたら、間違いなく父親としての権威を損なってしまうことでしょう。)息子が麻薬に走るのを妨げることができず、あるいは妨げることをあえて望まず、結果としてこの悪事を容認する、ということは、この同じ息子に非抑圧が保証される権利を認めることとは全く別です。


-- 同様に、教会はカトリック信徒に対し次のように言うことができるでしょうか。「みなさんは自分の信仰を公に否認し、プロテスタントあるいはイスラム教の信徒となる権利は持っていませんが、もしみなさんがそうすることを望んだ場合に教会がそれを阻止しない、ということに対する権利は持っています」と。(もし、本当にそうしたら教会は人々の霊魂を指導する権利を損ない、同時に棄教を企てる者をきわめて重い教会法上の罰を持って脅(おびや)かしてきた伝統を放棄することになります。)こうした罰を規定した教会は誤っていたのでしょうか。教会は今や、いかなる人間本性の転換によってか、一切の強制から免除される権利 を要求する「現代の精神性」に順応し、これに従わねばならないのでしょうか。


-- 一般的に言って、立法権の関わる領域において一種の二元論的区別を設(もう)け、立法者が「肯定的権利」(何事かを為す権利)として認めない事柄を「消極的権利」(妨げられない権利)という名目で合法的に与えることができるようにするなら、それこそ典型的で癒しがたい精神分裂の症状に他なりません。ともかく、それは「もし全てが許されないとしても、少なくとも禁止することは禁止されている」という無政府主義者の俗諺(ぞくげん)を想起させる、立法権の実に奇妙な自己破壊行為です。



2.このような権利は健全な理性による検証に耐え得ない

 悪を為す、あるいは誤りに固執するのを妨げないことは、悪ないし誤謬への門戸を開け放つことに他なりません。これこそ「滅びの自由」であり、つまずきに対する権利です。このような自由は、それ自体として悪いものであり、たまたまある種の具体的な状況において、これがより大きな悪が生じるのを妨げるため、「より小さい悪」とみなされるべきであったとしても事情は同じです。「街の娼婦らを取りのぞいてみよ。そうすれば、騒乱の種を蒔くことになるだろう」と聖アウグスチヌスが端的に述べているとおりです。(尚、神学大全第2巻第2部第10問題11項も参照のこと)

 しかし、先に見たように、それ自体として悪いことは、いかなる権利の対象ともなり得ません。



3.教会の教導権は誤謬または悪を広める消極的権利を排斥する

「真理および道徳的法に相応しない事柄は、客観的な意味で、存在し、喧伝(けんでん)および活動を行なういかなる権利も持っていません。」(回勅『チ・リエーシェ』Documents 1953 p.616 / PIN 3041)
http://www.ewtn.com/library/PAPALDOC/P12CIRI.HTM


 著者はここに出ている「喧伝」という言葉に読者の注意を喚起したいと思います。喧伝とは定義上、妨げなしに為される普及活動を指しています。なぜなら、喧伝は人々の見解に影響を及ぼすことを目して行なわれますが、しかし妨害が入ればこの目的を果たすことができないからです。したがって、「喧伝活動を行なう権利」は、分かちがたい仕方で肯定的であると同時に消極的である権利なのです。すなわち喧伝する権利と喧伝するのを妨げられない権利とです。そのためにこそ、ピオ12世は誤謬もしくは悪を広めることに対する肯定的権利のみならず消極的権利をも排斥したのです


結論:もし誤謬または悪に対して肯定的権利はともかくとして、消極的権利があると主張するならば、たとえそれがいかなる領域のことであれ(とりわけ宗教の領域であるならば)それは自らすすんで詭弁に陥ることに他なりません 。


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