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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

キリストの教会は使徒継承的である

2014年08月29日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 この項は、これから洗礼を受けようとされている方のために書いています。

 キリストは、人間の社会組織として教会を創立しました。イエズス・キリストが創立した教会は、四つの特性をもっています。それは、唯一で、普遍的で、使徒継承的で、聖であるという、ことです。

【ポイント】キリストによって創設された教会は、唯一、公、使徒的で、聖なる教会

 それでは、キリストによって創設された教会が、使徒継承的であるということを見てみましょう。

キリストの教会は使徒継承的である

キリストの教会が使徒継承的であるという意味は、いつの時代でも、キリストの教会の統治者たちが、キリストによって使徒たちに与えられたそのおなじ権威を受け継いでいなければならないという意味です。

キリストは、自分の名において話す権能を使徒たちに与えている。「あなたたちに平安!父が私をお送りになったように、私もあなたたちをおくる」と。

また、「あなたたちのいうことを聞く人は私のいうことを聞く人であり、あなたたちをこばむ人は、私をこばむ人である。そして、私をこばむ人は、私をお送りになったお方をこばむのである」と。

キリストは、世界に終末がくるまでは、必要なご自分の聖なる事業を使徒たちに委託して、彼らをつかわしたのです。使徒たち自身はみな死んでいきましたが、キリストの決定的なことばから考えると、彼ら使徒たちは、なんらかのかたちで、世のおわりまで生きていかなければならないことになる。

彼らは、天主の教導によって、自分たちがえらんで任命した、後継者による以外には、この世にとどまることができなかった。

従って、彼らの後継者たちに、その権がわたされ、代々の教会の司牧統治者たちが、《私たちの権は、キリスト自身から受けついだ、生きた権であり、私たちの権は使徒たちからの権です。なぜなら、私たちは合法的な継承によって、使徒と同一人物である》と言うことができるように、使徒たちはあらかじめこの問題を解決しておかなければならなかったのです。

キリストのことばによれば、使徒たちが、天主の意志によって人類に遣わされた、最後の特使になったことは明瞭です。キリストが、使徒たちと、使徒たちの後継者たちに与えた権は、ほかのだれにも与えられていません。

使徒たちの派遣は、最後の、そして、いつまでもつづく派遣でした。使徒たちが、彼らの任務をはたすために、ほかの人たちを補助者にえらんだということは、新約聖書を見れば、あきらかに記されています。

そのうえ、後世のために、彼らの後継者をたてる、たしかな規定をあらかじめ用意したということも、おおくの権威ある記録によって、立証されています。
たとえば、およそ一〇〇年頃に死んだ聖クレメンスは、《キリストは、天主からつかわされ、使徒たちはキリストによってつかわされた。彼らは司教と助祭とを任命した。・・・そして、彼ら(司教、助祭)が死ぬと、しつかりした、他の有徳の人びとが、彼らの聖務につく規定をつくった》と言っています。
I Clem, xlii, xliv I Clem, xlii, xliv


聖イレネウスは、第二世紀の後半、《司教と彼らの後継者たちは、今日においても、使徒たちによって任命された人びとである》と書きのこしています。
Adv. Haer. Liber III, cap. iii
It is within the power of all, therefore, in every Church, who may wish to see the truth, to contemplate clearly the tradition of the apostles manifested throughout the whole world; and we are in a position to reckon up those who were by the apostles instituted bishops in the Churches, and [to demonstrate] the succession of these men to our own times;

だからといって、キリストはご自分の教会をおさめる司牧統治権を使徒たちに与えることによって、彼らをひとりひとり相互に独立させたというのではありません。キリストは、聖ペトロをかしらにたてて、一つの使徒団をつくりました。

(1) キリストは、この団体をささえる岩に、聖ペトロを任命し、聖ペトロのうえに教会を建てました。したがって、他の使徒たちは、聖ペトロから、彼らの権力の力をもらったわけです。彼らは、聖ペトロにしたがっていたからこそ、教会の使徒たちであったのです。

(2) キリストは、天の王国の鍵を聖ペトロに与えました。これは要するに、聖ペトロが、天の王国の門をまもる主人で、他の使徒たちも、聖ペトロにうけいれられなければ、天の王国にはいることができないことを意味するものです。

(3) キリストは「善き牧者」というかれの任務を、聖ペトロにゆずりました。キリストは、「私の小羊を牧せ」「私の羊を牧せ」と聖ペトロに命じ、この命令によって、キリストがただひとりの牧者であったように、聖ペトロが、キリストの地位にたつ、ただひとりの牧者になります。聖ペトロは、かれの兄弟たちである、他の使徒たちをもふくめた、すべての人びとにおよぶ権力をもつ、最高牧者にたてられたのです。したがって、すべての人は、例外なく、聖ペトロのいうことをきき、かれにしたがわなければならなかったのです。従って、聖ペトロとかれの後継者とにたいする恭順が、キリストによってたてられた教会の明瞭な特徴になります。

以上が、シーアン司教による『護教』の説明による、キリストの教会が持つ「使徒継承性」です。ここでは、特に、キリストから使徒ら(特に使徒のかしらである聖ペトロ)に与えられた権威に注目が与えられています。


最近似通った別の本も見つけました。それは『私たちの信仰の証拠 Evidence for Our Faith』(by Joseph H. Cavanaugh, C.S.C., 1959, University of Notre Dame Press)です。ここでは、更に、教えと秘蹟(聖化の手段)についての使徒継承性にも言及しています。


 次回には、キリストが建てた教会が、聖なるものであることを見てみます。
 その後に、キリストが創立した教会の特徴を持っている教会が、今現在どこにあるかを、考察しましょう。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

聖伝のミサ(いわゆる「トリエント・ミサ」と呼ばれているローマ式典礼様式のミサ)にようこそ!

ローマ・カトリックの聖伝のミサ vs エキュメニカルな新しいミサ(第二バチカン公会議のミサ)




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聖ピオ十世会のシスター会の修道院での誓願式のミサ(2012年10月7日)

2014年08月25日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖ピオ十世会のドイツ管区にある、聖ピオ十世会のシスター会の修道院で2012年10月7日に行われた誓願式のミサをご紹介します。





Youtube チャンネルPIUSFILMの動画より

Schwestern der Bruderschaft St. Pius X.
Noviziat St. Pius X.
Biberacher Str. 2/1
88527 Göffingen
Tel: 07371 - 13736

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一九九六~二〇一四 アジア管区長クチュール神父より、最後の手紙

2014年08月25日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2014年8月15日付けで、聖ピオ十世会アジア管区長は、クチュール神父様からシュテーリン神父様に交代しました。

 聖ピオ十世会アジア管区のApostles誌 第38号に「クチュール神父の別れの言葉」が掲載されています。今日は、愛する兄弟姉妹の皆様にその日本語訳をご紹介します。クチュール神父様、長い間、ありがとうございました。深く感謝します。クチュール神父様の新しい任地において、天主様が祝福し給いますように!
 クチュール神父様と共に、アジア管区の管区長となられたシュテーリン神父様のためにも、たくさんのお祈りをいたしましょう!

 愛する兄弟姉妹の皆様に天主様の祝福が豊かにありますように!


「クチュール神父の別れの言葉」の原文はこちらです。


クチュール神父の別れの言葉

一九九六~二〇一四 アジア管区長クチュール神父より、最後の手紙

私とともに主をたたえ、ともにそのみ名をあがめよう(詩編33:4)

 親愛なる友人と恩人の皆さん、

 世界の片隅から、皆さん全員と、すべての読者の皆さんに別れの挨拶を述べる時が来ました。私たちが十八年間に渡って、植え、水を注ぎ続けた場所に、代わりのさらに勇敢な司祭に収穫を刈り取らせるよう、そして水を注ぐ別の場所に、私たちのすなどりの網をもたらすようにと命令が下ったからです。聖主が「それと同じことで、あなたたちも、命ぜられたことをみななし終えたら、"私たちはとるに足らぬしもべである、すべきことをしたにすぎない" といえ」(ルカ17:10)と仰せられたみことばは、天主としてふさわしいものです。私たちは実際、役に立たないしもべです。超自然の恩寵は私たちから来るのではなく、ただ私たちを通り過ぎていくだけです。私たちは「キリストのしもべ、天主の恩寵の管理者」(コリント1 4:1)に過ぎません。

 この十八年、世界中からの、特にアジア管区のために捧げられた霊魂たちからの祈りのおかげで、すべての私たちの司祭たちの両手を通して絶えざる恩寵が流れ出ていくのを私は見続けており、このことを確かに証言できます。庭師にできるのは、庭の雑草を抜き、刈り取り、水を注ぐことだけですが、庭師はその後、創造主のおん力を通して成長する花々の美しさを心から喜ぶのです。

 私たちはすべての栄光を、あらゆる聖寵の仲介者である方に帰し、そのけがれなき御心は過去の偉大な英雄たちが足跡を残した東洋において、天主のみ国を広げるために私たちをお使いになるよう計画されました。A Domino factum est istud! これをなされたのは主です! 「これは主のみ業で、われらの目には不思議なことである」(詩編117:23)私たちが切に乞い願うただ一つのことは天主のあわれみです。というのは、私たち自身の「数えきれない罪、無礼、怠慢」は、多かれ少なかれ、まことに「収穫の用意ができている」この国に恩寵が降り注がれるのを台無しにし、 衰えさせるからです。

 次に述べる出来事の数々は、アジアの国々の庭より咲いた生ける霊魂たちからなる霊的花束として、女王である聖母の足元に置かれています。Non nobis, Domine, non nobis, sed nomini tuo da gloriam. 「主よ、光栄を帰せよ、われらにではなく、われらにではなく、あなたのみ名に」(詩編113:9)「あなたたちが見たことを見る目は、しあわせである」(ルカ10:26)事実、私たちは、奇跡を起こされる天主の恩寵の選びの証人、カトリック聖伝の隠された宝、その尊敬すべき古いラテン・ローマ典礼で征服の領土を広げていく選びの証人であり続けています。

 アジア管区は、インド(一九八六年)とフィリピン(一九九二年)の自治修道院の統合によって、一九九六年八月十五日に設置されました。まさにその日の朝、私は、一八五八年に聖ベルナデッタに十七回に渡って無原罪のおん宿りがお現れになった有名なグロトー(洞窟)の足元にひざまずく栄誉に浴していました。そして、聖母が私に世話するよう命じておられるこの巨大な領土を彼女に奉献し、委ねました。

 信じ難い任務……世界の人口の半分です。一人当たりの所得が豊かな国々(シンガボール、日本)から貧しい国々(インド、スリランカ)に至るまで、現在も八十二パーセントのカトリック信者を擁する国(フィリピン)からカトリック信仰がごくごくわずかしか存在していない国々(日本とタイにはそれぞれ0.4パーセントしかいません)に至るまで、人口のほぼ百パーセントがイスラム教徒の国々(インドネシア)、八〇パーセントがヒンズー教徒の別の国(インド)、大多数が仏教徒の他の国々(スリランカ、中国、韓国、日本)。この任務は、人間の能力を超えるものでしたし、今なおそうです。ですが、無原罪のおん宿り、インマクラータにとってはそうではありません。Monstra te esse Matrem! 幸いなるおん母よ、願わくは御身の母たるを我らに示し給え!

 アジア! アフリカとともに、宣教師たちの大地、とりわけ、百年以上に渡る宣教の歴史を紐解いて知る、殉教者たちの大地なるアジア。私は「聖母の乗客」そして伝達者として、運転席の聖母にお任せしていましたから、聖母のおん力、祈りのおん力、諸聖人の通功のおん力を証言できますし、至るところに示された恩寵をこの眼で見ました。その中でも最大の喜びは、霊魂のうちに働く天主の恩寵を勘定に入れなければなりません。私たちの管轄下にあるすべての国々で同じ聖性の実りを生みだす同じ聖霊のみわざです。「すべての国と、民族と民と、ことばとの、数えきれない、おびただしい大群衆が、玉座のみ前と子羊のみ前とに立っていた」(黙示録7:9)

 同じ質問を問いかけ、同じ聖伝の秘跡を熱望し、同じ説教と公教要理に感動する人々。私たちを自由にし、心を清める真理を聞くことで、いくつもの顔が生き生きと輝き、恩寵を受け取ったために喜びの涙が頬をつたりました。かつて中央ベトナムの辺鄙な片田舎でミサを捧げた後、人々は私が現実に存在するのかどうかを見ようと、私に触るためにやって来ました! 彼らは黒のスータンを来ている司祭を四十年間見たことがなかったのです。

 一九九六年にマニラに到着すると、新たに聖伝へと回心したサルバドール・L・ラゾ司教様がいらっしゃいました。私たちの三名の信者から渡された本を二年間読み続けた後、二十六年間に渡って新しいミサを唱え続けた誤りを悟る謙遜をお持ちであった、第二バチカン公会議以来の唯一の司教様です。司教様は現在、マニラにある私たちの勝利の聖母教会に埋葬されています。フィリピンでの最初の数年間に、神学校と男女の修道生活への召命(三十名以上)の素晴らしい実りがありました。彼らは現在、ニュージランドからイギリス、アルゼンチン、メキシコ、ジンバブエからヨーロッパに至る聖主のぶどう畑のさまざまな場所で働いています。インドでの私たちの最高の喜びの一つは、天主のご意志に全面的に明け渡した謙遜な霊魂のうちに働く、聖母の恩寵を証言することです。天主のみ摂理への信頼に満ちたこのような委託の結果は、今や私たちのインドの使徒職の真珠です。五名のシスターからなる共同体、児童養護施設、ゆうに百名は収容可能な老人施設があり、現在、四〇パーセントが埋まっています。

 一九九六年九月十一日、私はフィリピンの土を踏み、四名の司祭たちがいる小さな修道院を一つと、約五百名の信者たちを持つ巡回教会を作りました。二〇一四年八月十五日現在、九名の司祭たちを持つ三つの修道院があり、そこにはブラザーのための修練院と、五名の奉献女(オブレート)と召命を探し求める若い女性たちのためのベタニアの家と、小学校と中学校(二〇一四年六月で六十三名の生徒を持つ勝利の聖母学校)と、二十七の定期巡回教会に散らばっている二五〇〇名の信者達が付属しています。

 その後、スリランカにも二名の司祭と五十名の信者たちを持つ修道院を作りました。この修道院は、シンガポールで修道院が開かれたのち、二〇〇〇年に閉鎖されました。スリランカには今も、月に一回、シンガポールの司祭たちが訪問するチャベルがあり、約四十名の信者たちがいます。

 一九九六年にできた三つめの修道院はインドにあり、三名の司祭たちがおり、八つの巡回教会と約三百名の信者たちがいました。現在も三名の司祭たちがおりますが、ブラザーが一人とシスターたちの二つの共同体があり(慰め手なる修道女会と償いの修道女会、総勢十名のシスターたち)、三十五名の男の子の孤児たちと寄宿生たちがいる修道院、四十九名の女の子たちと十名の老女たちがいる児童養護施設と老人ホーム、学校が一つ(今のところ六十九名の生徒たちがいるヴェリタス・アカデミー)、そして約八二〇名の信者たちのための十七の巡回教会があります。

 一九九六年には、東京(二十五名の信者)と韓国(四十名)へ行き、同じく香港(十五名)、マレーシアのクアラルンプール(二十名)、そしてシンガポール(三十名)へも行きました。現在では、東京(四十名)、ソウル(五十名)、クアラルンプール(五十名)は少しずつ大きくなっており、修道院のあるシンガポールは一五〇名にまで数を増やしました。日本の大阪(二十五名)、韓国の全州(二十名)、ジャカルタ、インドネシア(十五名)、マレーシアのコタキナバル(三十五名)、ドバイ(八名)、そしてアラブ首長国連邦のアブダビ(二十五名)、最後に大事なことを言い忘れていました、中国(七十名)も加わっています。

 つい先日、中国へ三日間の旅行で、私たちの司祭は十五人の通常の告解を含む、七時間に及ぶ告解を聞く大いなる喜びを得ました。そのほとんどは通訳を通してでした! 謙遜とはまさにこのことです! ほとんどが若者であるこの霊魂たちが、この偉大な価値を持つ真珠を得るために払おうとしている代価がどれほどのものかを皆さんが見るなら、告解のこのような偉大な秘跡対して、ごくわずかな不愉快しか感じないでしょう。

 二〇〇五年から二〇一二までの七年間、ニュージランドとその近海の太平洋の宣教地(ニュー・カレドニア、バヌアツ、一時的にサモア)もまた、アジア管区の管轄下にあったことを忘れてはなりません。しかしながら、いくつかの国々では、さまざまな理由により、私たちが望んだように種が育つことはありませんでした。タイ、ベトナム、台湾です。天主のみが知る神秘です。

 また、ローマを通して、ローマ的信仰、ローマ的道徳、ローマ的典礼、言語、典礼暦と聖歌を通して、真実に普遍的な、霊魂たちを主イエズス・キリストへと結びつける、唯一のローマ・カトリック教会のための宣教師の職務の喜びをも、私は付け加えねばなりません。このすべての真ん中で、インカルチュレーション、エキュメニズム、司教団体主義を武器とする、まごうことなきローマ的伝統の破壊を押し進めている人々によって、私たちは離教者と呼ばれる皮肉に直面しています。

 例を挙げましょう。一九九八年、ローマで開かれたアジア・シノドの日本人司教たちは、教皇ヨハネ・パウロ二世に「私たちは東洋人だから、聖トマス・アクィナスの西洋哲学と神学を望まない」と公に言ったことを思い出します。また、数年後にタイの唯一の大神学校の校長神父が、神学生たちがタイ語以外の言語を知らないので、一九六〇年以前の聖トマスの著作物、トリエント公会議の公教要理や回勅に触れる術がないと私に言ったことも。私は彼に尋ねずにはいられませんでした。若者たちにとってカトリック教会は一九六〇年に始まったに過ぎないのだから、あなたは彼らをまことの離教的精神のうちに育てているのだとわかっているのですか、と。答えはありませんでした。

 A Domina factum est istud! これをなされたのは聖母です! 「これは聖母のみ業で、われらの目には不思議なことである」(詩編117:23参照) Fecit mihi magna qui potens est 「全能のお方が私に偉大なことをなさいました」(ルカ1:49)この数年間の間に、私たちは実際に sicut sagittae in manu potentis──「つわものの手にある矢のような」あちらこちらに飛び回る諸天使の元后を感じていました。

 涙のうちに種を蒔き、いつの日か喜びのうちに刈り取るでしょう。なすべきことは今なおたくさんあり、「おぼしめしのままにおのおのに分け与えられる」(コリント1 12:10)善き主は、この広大な東洋の国々に「赤々と火を燃え上がらせる」ために、間違いなくふさわしい人物を私の後継者としてお選びになりました。ドイツ人のカール・シュテーリン神父様です。神父様は二十年間ポーランドと東欧諸国におられました。神父様は十四名の司祭、七名のブラザー、十五名のシスター、力強い「レジオ・マリエ」と多くのカテキスタたち(フィリピン南部のミンダナオのみに六十九名)からなる素晴らしいチームの支援を受けるでしょう。ですが、とりわけ、シュテーリン神父様もご存知なことは、無原罪のおん宿り、インマクラータは戦闘隊形における一軍団のようなお方であり、地獄の全勢力を合わせたよりも力強いお方であり、イエズスの聖心の勝利以外のものをお求めにならない、ご自分のけがれなき御心の凱旋をもたらすため、あらゆる手段をお使いになることに熱心なお方だということです。「目をあげて国々を見よ、もう刈り入れを控えて白んで来ている」(ヨハネ4:35)

 刈り入れは多けれども働く者は少ないがゆえに、皆さんすべての祈りと支援によって神父様を支え続けて下さい。同時に、我が親愛なるカナダ、新たな使徒職の畑における私を、どうぞ忘れないで下さいと懇願します。

 そうです、私とともにマグニフィカトを唱えて下さい。そして主のみ名をともにあがめましょう。聖母はまことに私たちの母であることを示して下さいました!

 「それは、イエズス・キリストによってすべてについて神に光栄を帰するためである。光栄と力とは世々にかれの上にあれ。アメン」(ペトロ1 4:11)
 
 天主が祝福し給わんことを!

 管区長 ダニエル・クチュール神父

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聖ピオ十世会ドイツ管区の「カトリック青年会」を紹介します

2014年08月25日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖ピオ十世会ドイツ管区の「カトリック青年会」Katholische Jugendbewegung (KJB) を紹介します。

 天主様の祝福が豊かにありますように!





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聖母の共同受難の祝日のためのルフェーブル大司教の説教

2014年08月22日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 日本の守護者である聖母の汚れなき御心の祝日、おめでとうございます。8月22日は、聖母の被昇天の八日間の最後の祝日でもあり、(イエズス・キリストの昇天の後で、イエズス・キリストの聖心を祝うというリズムが尊重されています。) 
 今から480年前の、1534年8月15日、聖イグナチオ・デ・ロヨラは、別の六名の同志たちと、パリのモンマルトルの丘のふもとの、小さな聖堂で「清貧」「貞潔」「聖地巡礼」の誓願をたてました。これが、イエズス会の実質的な始まりでした。この聖イグナチオの同志六名の内の一人が、それから十五年後(1549年8月15日)に日本に上陸する聖フランシスコ・ザベリオでした。

 イエズス会の実質的な創立480年と、イエズス会の復興200周年を、天主様に感謝しつつ、聖母の被昇天と、聖母の汚れなき御心の祝日を過ごしました。

 願わくは、聖母の汚れなき御心が私たちを導き、聖ピオ十世会の会員である私たちが聖母の汚れなき御心の従順な道具であり続けますように!

 聖母の汚れなき御心よ、我らのために祈り給え!
 聖イグナチオ、我らのために祈り給え!

 今日は、ルフェーブル大司教様のなさった「聖母の共同受難の祝日」のためのの説教を日本語でお届けいたします。


天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖母の共同受難の祝日のためのルフェーブル大司教の説教


原文はこちら


聖母の共同受難の祝日のためのルフェーブル大司教の説教
一九八一年四月十日、スイス、エコンにて

【Compassionは、ラテン語の語源を尊重して、Cum 共に passio 苦しむから「共同受難」と訳しました。バルバロ神父様の毎日のミサ典書の、七つのおん悲しみの祝日の説明の中では「同感受難」とも訳されています。】

父と子と聖霊とのみ名によりて。アーメン。

十字架のみ足元に立つ聖母

 一本の剣が聖母の御心を刺し貫くでしょう、と福音書には書かれています。この剣で刺し貫かれた御心は、言うまでもなく彼女の天主なるおん子のご受難と結びついている、ということに他なりません。福音書はまたこうも言っています。主イエズス・キリストのご受難の間、そしてご死去の瞬間、聖母はおん子のかたわらに佇んでいた、と。"Stabat Mater iuxta Crucem. おん母は十字架の下に佇み給えり"

 ですから、天主のみ摂理は、聖母がおん子の誕生、おん子が地上にお下りになられたこと、おん子の幼少時代、おん子の隠れた生活と公生活に結びつくのを望まれただけでなく、なによりもまず、おん子のご受難に結びつくことを望まれたのだということを、私たちは否定してはなりません。事実、最も重要な瞬間──聖主イエズス・キリストの "時"──は、彼の十字架上での死、ご受難の時であったなら、聖母のそれは、彼女の共同受難(Compassion)、主イエズス・キリストのご受難との親密な一致でした。

聖母の七つのおん悲しみへの信心

 この信心は教会内に大変古くからあるものです。聖母の七つのおん悲しみと童貞女の共同受難の祝日がいつ始まったのか、正確にはわかっていません。しかしながら、教会内では、聖母のおん悲しみ、とりわけ共同受難を黙想するために、童貞マリアご自身の直接のご介入を通して、いくつかの修道会が創立されました。童貞マリアのご要求により、七人の創立者たちによって設立されたマリアの下僕会(The Servites of Mary)が良い例です。会員たちは、特別に聖母のおん悲しみを黙想するために、悲しみに満ちた童貞女に一致するために捧げられています。

 この観想へと捧げられたもう一つの修道会は、十字架の聖パウロの御受難会です。御受難会には、この会出身のたくさんの聖人たちがおります。その中の一人、おん悲しみの聖母の聖ガブリエルは、修道名に「おん悲しみ "Addolorata"」を取りました。まさしく彼は童貞マリアのおん苦しみを黙想しつつ生涯を送ったからです。

ご苦難のイエズスに自らを結びつけること

 なぜ,これについて黙想するのでしょうか? なぜ聖母がご自身の共同受難のうちに、ご自身の苦しみのうちに、ご自身の釘付けのうちに聖主のご受難に一致しておられたことを黙想するのでしょうか? 聖主イエズス・キリストのご受難に、さらに親密に私たち自身を結びつけるためです!

 かつて、十字架上で刺し貫かれたイエズスの聖心とともに苦しみ、十字架上の聖主イエズス・キリストのお考えに一致した魂が存在したとするなら、それは童貞マリアの御心でした! 彼女は決して罪を犯したことがなく、聖主のように、自分自身のために償いをする必要はありませんでした。しかしながら、このお二人は苦しむこと、恐ろしく苦しむこと、深く苦しむこと、お二人の肉体において苦しむことを望まれました。

愛に燃える二つのみこころ

 では、この二つのみこころ、イエズスとマリアのみこころがお感じになられたことに、私たちは入り込もうとしてみましょう。聖主イエズス・キリストのご受難と童貞マリアの共同受難は、二つとも、愛徳によって深く突き動かされていたことは間違いありません。

 お二人のみこころは愛徳に食い尽くされ、聖霊の愛とともに燃えておられました。天主のみことば、聖霊とともに一つの本性なる聖主は、聖霊の愛、ご自分の存在そのものが火となって燃え上がるこの霊によって食い尽くされました。天主のみことばのペルソナは、聖主の霊魂、肉体、肉の心臓のみならず、聖霊によって燃え上がりました。童貞マリアはご自分の天主のおん子を模倣され、彼女もまた天主なるおん子のそれについてのご自分の感情を合わせようとされました。彼女もまた聖霊に満たされておられました。

おん父の光栄を回復するために

この聖霊によって燃え上がった二つのみこころの最初の、そして中心となる目的は、おん父への愛であったと、私たちは決して忘れてはなりません。

 事実、聖霊の愛、この「焼き尽くす炎」はおん父へと導きます。天主の愛とは「天主は愛にてまします」と、これに他なりません。ですから、聖霊は私たちを天主へと導くこと、おん父へと導くこと以外のことをなさいません。従ってイエズスはまず最初に、おん父なる天主の光栄を回復するために苦しまれました。童貞マリアもまた、おん父の光栄の回復のため、天主なるおん子の苦しみに一致されました。

 おん父は無限の、間違いなく無限の栄光を、ご自分の天主なるおん子よりお受け取りになられました。おん父はまた、特別の栄誉をいただいた被造物より生み出された、最大の栄光をお受け取りになられました。この被造物とは、天主なるおん子に一致した童貞マリアのことです。聖母はまことに贖われた最初の者となりました。聖母は罪をまったく知らなかったという意味で完全に贖われたのです。それは、聖主のご託身を考えに入れたために、聖母は無原罪でお宿りになられ、そうして罪を決して知ることはなかったのです。

 十字架の足元にて、聖母は苦しみのうちにおん父の栄光を歌いました。悲しみのうちに天主の栄光を歌いました。聖母は地上における天主の光栄、そして栄光の回復を望んでいたのです。

あわれみに満ちた愛

 お二人を食い尽くしたこの愛は、お二人をあわれみで満たしてくださいました。事実、すぐれた愛、すぐれた慈悲の直接の結果は、あわれみです。なぜなら、二つのみこころに取り付いたこの愛が広められることを望み、この愛を持たない人々、この愛が欠けているすべての人々に伝えられることを望んでいるからです。

 聖主イエズス・キリストは、アダムとエワ以来のすべての罪深い人類、この世界に生まれたすべての人間たちをごらんになって──ご自分が人類の造り主で贖い主であるがゆえに、ご自分の神性によって、このことについてはっきりと見ておられ、完全な知識を持っておられました──このすべての惨めさ、おん父について、造り主にして贖い主について考えない、天主から遠く離れてしまったすべての人間たちをご存知でした。聖主はすべてをごらんになって、その聖心はあわれみで満たされました。このあわれみは犠牲へと導きます。あわれみは犠牲の源です。あわれみは、愛徳が人類の心に打ち立てられるよう、完全に犠牲にする覚悟ができているがゆえに、犠牲へのすべての道なのです。

 こうして聖主は苦しまれました。聖主は肉体において苦しまれました──ゲッセマニでの激しい悶えの中、おん血のしずくが聖主のおん額から滴り落ちました。聖主はあわれみに満ちておられました。そして童貞女は、まったく同じ理由のために、聖主のおん苦しみを共有することを望まれました。彼女も、このすべての霊魂たちについて考えておられました。お二人は死に至るまで、殉教に至るまでともに苦しまれ、苦しむことを望まれたのです。

 聖主イエズス・キリストは、聖霊が至聖三位一体の愛ですべての心とすべての霊魂を燃え上がらせることができるよう、おん父と霊魂の贖いのために、ご自分の最期をまことに与えたのならば、童貞マリアはその瞬間に死ななかったにせよ、ご自分の命を捧げ、殉教を苦しまれたのです。聖母はまことに殉教者の元后と呼ばれます。聖母もまたご自身を、ご自分のおん血を、ご自分の命を、ご自分のすべての所有物、とりわけ、ご自分の天主なるおん子をお与えになりました。聖母は霊魂たちの贖いのため、善き主にすべてをお与えになりました。Mater Misericordiae あわれみのおん母よ。これこそが、童貞マリアのおん悲しみの原点なのです。


平和と喜びとともに苦しむこと

 ご受難において、悲しみは絶望へと導き、この悲しみが絶望のたぐいをイエズスとマリアの霊魂に置いたかも知れないと、私たちは決して考えてはなりません。いいえ、決してそうではありません! この苦しみの原点であったまさしく愛徳の故に、愛徳はお二人のみこころに平和と喜びをもたらしました。受難と苦しみとあわれみが、深い喜びとともに一つになることは信じ難いことかも知れません。ですが、聖主イエズス・キリストの聖心は真実に喜びに満たされていました。そして、聖主と一つに結ばれた童貞マリアの御心もそうでした。

 お二人は至聖なる三位一体の喜び、偉大な愛徳によって与えられた喜びに満たされていました。愛徳が霊魂にもたらす平和は、言葉では言い表せない平和です。イエズスとマリアは、肉体において苦しみ、深い悲しみや絶望の感情の中にある多くの霊魂たちのように、拷問を受けていたのではありませんでした。いいえ、イエズスとマリアはそのようなやり方で苦しんだのはありませんでした。お二人は苦しまれました。でもお二人のみこころは、間違いなく安らぎのうちに、平和のうちにあり、そのために聖母は十字架のみ足元に佇んでいることができたのです。もし聖母がこの平和を、この愛徳を、ご自分のおん子の苦しみに結びつく親密さと深い喜びを、おん子の愛徳に結びつく喜びを、聖霊とともに満たされている喜びを持っていなかったら、聖母は十字架のみ足元に佇んでいることはできず、福音書は「Stabat Mater おん母は佇めり」とは言わなかったでしょう。聖母を取り囲む三つのペルソナは、お二人の外見上の苦しみ以上のもの──おん涙と外見に表れた感情を通して──をほぼ確実に教えてくださいました。聖母は平穏なまま、平和のうちにとどまられました。

聖ピオ十世会の奉献女(オブレート)の保護者

 親愛なるシスターたちよ、ここにあなた方の保護者がおられます。あなた方は自分たちを私たちに結びつけるためにここに来ることを選び、とりわけ、ほぼすべての奉献女たちの場所である、ここエコンの修道院、少なくともすべての奉献女たちが結びついてるところへとやって来ました。あなた方は自分自身を司祭たちに結びつけるために来ました。司祭はもう一人のキリストだからです。司祭はみずからを聖主イエズス・キリストのご受難に、特に彼が捧げるミサ聖祭の犠牲を通して結びつけなければなりません。従って司祭はイエズスの聖心の思い、そしてまたマリアの思いと一体とならねばなりません。司祭は童貞女に、我をしてこのお二人の思いを理解せしめ給えと懇願しなければなりません。お二人の思いをさらに感じ取り、より一体となるためにです。

 ですから、司祭たちの助け手となりなさい。あなたたちの両手で助けるだけではなく、霊魂と精神をもって、聖主の統治、聖主の愛を広げるために、司祭職における、聖主イエズス・キリストの犠牲の精神における、十字架における助け手となりなさい。

 このようにして、あなた方は自分たちを特別なやり方で童貞マリアに一致させるでしょう。聖母が天主なるおん子にご自身を一致させたようにです。そしてあなた方は聖主の苦しみを共有するでしょう。あなた方は霊魂の贖いにとても力強いやり方で貢献するでしょう、あなた方ができる手段に従って、天主のみ摂理がお与えになった手段に従って。あなた方は、あなたがたが仕える司祭たちのために、神学生たちのために、彼らがまことの司祭になりますように、まことのもう一人のキリストになりますように、彼らが自分たちをさらにもっと深遠な、もっと完全なやり方で聖主イエズス・キリストのご受難に結びつけますようにと祈ることで、みずからをさらに深遠な方法で司祭職へと結びつけるのです。

 あなた方は童貞マリアにこの恩寵を乞い求めるでしょう。そうして、聖主イエズス・キリストの統治が広がるように、あなた方の苦しみ、あなた方の犠牲を、この意向のためにお捧げしなさい。

父と子と聖霊のみ名によりて。アーメン。

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2014年8月18日の東京での聖伝のミサの報告です。天主様に感謝!

2014年08月18日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 8月17日の東京での聖伝のミサの報告を戴きましたので、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。日本でのミッションに行ってくださったレネー神父様に心から感謝します。レネー神父様のような聖なる学識の深い司祭に私もなれるように聖母マリア様に祈ります。

 シュテーリン神父様は、8月16日にシンガポールに到着されたとのことです。
昨年の8月は、私はアジア管区を代表してポーランドのチェンストホーバへの巡礼する恵みを受けましたが、シュテーリン神父様は、今年の8月は東欧の管区長として最後の時をチェンストホーバへの巡礼で過ごされたようです。ポーランドの方々が私たちに「大きな挨拶」を送り、シュテーリン神父様に、アジア管区の信徒の皆様と一緒にまたチェンストホーバへ巡礼に招待しているとのことです。


 8月18日の聖霊降臨後第10主日のミサは、いつもの聖歌隊の方々が数名、仕事や家庭の関係でどうしても参加することが出来ませんでした。しかし、有志の方々の練習とがんばりで、全曲歌い切り、立派な歌ミサになりました。

 聖歌隊の方によると「各自全力を尽くし何とか歌い切れたというだけで十分な達成感でした^^;」
「なんとかかんとか歌えたと思います。(;´∀`)」
とのことです。本当にありがとうございます。

 報告によると、18日の主日のごミサの人数は24名でした。
男9人(侍者2人を含みます)
女15人

霊的講話は10名でした。
男4人
女6人

晩課は5名でした。
男2人
女3人

 19日の月曜日の朝ミサ聖祭に与った方々は、
男:5人
女:2人
の計7人でした。


 来月は、東京では9月14日に聖伝のミサが行われます。ミサ聖祭は「聖十字架称賛」で、聖霊降臨第14主日のミサとは別のものになります。来月は、シュテーリン神父様と参ります。その日を楽しみにしています。

 もしも出来ましたら、シュテーリン神父様のために霊的花束を日本からお送りしたいと思っています。シュテーリン神父様が来日するときまでお祈りをして(或いはお祈りの約束をなさって)、霊的花束のご報告をいただければ幸いに思います。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


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 それではレネー神父様のお説教をご紹介いたします。大阪(8月15日)東京(8月17日)

親愛なる兄弟の皆さん、

【大阪】本日は、童貞聖マリアの被昇天をお祝いしています。
【東京】二日前、童貞聖マリアの被昇天をお祝いしました。

 被昇天の際、聖母の御体は霊魂とともに天に上げられました。それから聖母は、天主に、私たちの主イエズス・キリストに完全に忠実であった生涯にふさわしい報いをお受けになりました。聖パウロは、ローマ書8章17節で「もし私たちが、キリストと共に、自分の苦しみを天主に捧げる生き方をするならば、永遠の命を受け、キリストと共に栄光を受けるようになる」と教えています。聖母は、私たちの主イエズス・キリストと共に十字架の下でお苦しみになりました。そこでは、聖母は主の苦しみと最も密接に一致しておられました。ですから、聖母は、天に上げられ、イエズス様の栄光に最も密接に一致するにふさわしい方となりました。そして、この報いは、被昇天において与えられたのです。

さて、聖母が豊かな恵みの報いをこの日にお受けになったのなら、この真理は、生涯の最初からすでに聖母が「聖寵充ち満てる」状態だったという教会の教えと、どのようにして矛盾無く両立するのでしょうか? 聖トマス・アクィナスはこの疑問に対して、「豊かさ」を3種類に区別することによって答えました。つまり、「ご托身の天主の御母」になるという、聖母の使命を果たすために必要な完璧なdisposition , すなわち日本語でいうところの心構え、精神的態度、準備された心を持っていたという豊かさ、聖母の使命それ自体の豊かさ、そして聖母が受けた報いの豊かさです。

この心構え、精神的態度の豊かさとは、聖母が無原罪の御宿りにおいてお受けになった恩寵の豊かさの結果なのです。この第一の豊かさ、恩寵による豊かさによって、聖母の心は、次の段階の豊かさをお受けになれるよう完璧に準備されていました。それは、へりくだりの豊かさ、従順の豊かさ、忠実さの豊かさでした。さて、ヤコボ書4章6節は「天主はおごる者に逆らい、へりくだる者を恵まれる」と言っています。ですから、このへりくだりという精神的態度が、聖母がさらなる恩寵をお受けになる準備となったのです。すなわち、ルカ1章48節で、聖母御自身がおっしゃられたように「主は、そのはしための卑しさをかえりみてくださった」のです。

第二の豊かさは、聖母の使命の豊かさです。お告げの日に、聖霊の影が聖母を覆ったとき、聖母はこの使命をお受けになりました。そのとき、聖母は「天主の御母」になられました。これが聖母の偉大な使命でした。それは、天主の賜物のうち最も偉大なもの、すなわち、天主の御子であるまさにその方、私たちの主イエズス・キリストが、ご自分の子になることでした。聖母は、聖霊の御働きによって、そのいとも清らかな御胎内にイエズスを宿されました。聖母はイエズスの世話をし、誰よりもイエズスを愛し、誰よりもイエズスに仕え、誰よりもイエズスと一致するようになられました。聖母は、イエズスの生涯の初め、幼子のときだけでなく、イエズスの地上生活の終わりのときにも、すなわち「世の罪を取り除く天主の小羊」(ヨハネ1章29節)としてイエズスがご自分の命をお捧げになるときにも、イエズスにお仕えになりました。聖母が、この使命を完全に果たすことができるように、この第二の豊かさ、恩寵による豊かさをお受けになったのです。

ところで、第一の豊かさがすでに充ち満てる程のものであるのなら、第二の豊かさが、さらに大きな豊かさであったというのは、どのようにして可能だったのでしょうか? これは、恵みを受けて容れて置く聖母の霊魂の側の容量が増えたからなのです。受ける容量が大きくなれば、つまり器が大きくなれば、小さな器よりも多くの豊かさを受けられるようになります。しかし、聖母の使命を成し遂げるには、単なるその使命のための「心構え」以上のさまざまな「質」、素養、美点が必要とされました。このポイントを、さまざまな聖人の中から、一つの例を取って考えてみましょう。例えば、聖ピオ十世は、司祭時代、既に良き司祭になっていましたが、司教になったとき、その職務を果たすため、より大きな「質」、美点、素養が必要とされました。その後、教皇になったときには、既に良き司教になっていましたが、さらに大きな「質」、美点、素養が必要とされました。でも、小教区での司祭としての良き運営の経験が、彼に良き司教となる素養、準備、質を与えました。そして、司教として、自分の教区で、良き霊的指導を与え続けた経験が、良き教皇となる準備となりました。

第三の豊かさとは、聖母が受けた報いの豊かさです。聖母は、それを被昇天の際にお受けになりました。地上の命というのは、天国の永遠の命への準備に過ぎません。人生の究極の完成というのは、天国で天主と顔と顔を合わせて完全に一致するときの、その天主との一致にしかないのです。聖母にとってさえも、地上生活の間に、私たちの主イエズス・キリストと完全に一致して協力したことは、イエズスと天国で最も完全にそして最も密接に一致するための準備でした。そこでは、今も、また、これから先も、聖母は、王たるキリストの右に座す元后として、この王と協力して、いとも聖なる三位一体への讃美を捧げつつ、全ての恩寵を私たち信者のために分配してくださっているのです。ですから、被昇天の祝日は、童貞聖マリアの終わりのときに起きたことを私たちに黙想させてくれるのです。それは、どんな被造物も、かつて持ったことのない、今も持っていない、またこれからも永遠に持つことのない最も美しい栄光なのです。「壮大なしるしが天に現れた。太陽に包まれた婦人があり、その足の下に月があり、その頭に十二の星の冠をいただいていた」(黙示録12章1節)。

聖母がほかのすべてのものの上にいらっしゃるのならば、聖母の栄光は私たちすべての模範であり、天主が私たちにお与えになりたがっているもののモデル、ひな型、模範なのです。もっとも、私たちが聖母のへりくだりや信仰、希望、愛、そして完璧な忠実さの模範に従って生きていこうとするならば、私たちにも、栄光と救いを与えてくださるという話なのですが。

聖トマスは、道徳についての論文の最初に次の原則を置いています。「主体は皆、ある目的のために行動する」。これは言い換えれば、私たちの選択はすべて、次のものによって動機づけられるということです。つまり、私たちが求める目標、私たちの考慮する目的、私たちが獲得し到達しようと願う善です。直近の目標は、長期にわたる目標を考慮して選ばれ、長期にわたる目標は、最終の目的を考慮して選ばれます。ビジネスの言葉で言えば、「強いモチベーションを持ち、自分の目標に突き動かされて行動するビジネスマンは成功する」ということになります。キリスト教の言葉で同じ真理を言えば、「聖人とは、天主に対する愛に満ち、それに突き動かされて生きた人間である」ということです。このように、私たちの人生の終わりを、人間の究極の目標、そして聖母マリアの被昇天の祝日の意味を黙想することは大変有益です。天主が、童貞聖マリアの一生の最後にお与えになったものを黙想することは、私たちの霊的生活に非常に役立つのです。

私たち人間は自分で自分をつくったわけではありません。両親でさえも、私たちを創造したわけではありません。両親は、自分たち自身もその親から受けとった命を私たちに伝達しているだけです。両親は、私たちが二つの目や二つの耳などを持つことを意図して、決定したわけではありません。両親は、私たちの体を設計したわけでもありませんし、まして、私たちの霊魂を設計することなどできません。両親は、私たちに命が伝達された際に使われた道具に過ぎません。命の作者は天主です。天主は偉大なる設計者であり、すべてのもの、特に私たちの命に秩序を与えた至高の知性的存在であり、私たちの体のような目に見えるものと、私たちの霊魂のような見えないものすべての創造主です。誰かが何かをつくるとき、その人には何か考えがあり、それをつくる目的があります。自動車をつくる技師には、うまく運転でき、安全に運転できる機械をつくろうという目的があります。家をつくる建築家には、実際的で心地よい住居にしようという目的があります。それと同じように天主は、私たちを創造なさったときにも、ひとつの目的を、しかも驚くべき目的をお持ちだったのです。自然のレベルにとどまる目的ではなく、超自然的な目的をお持ちだったのです。それは、天主ご自身の幸福へ私たちを参加させようという目的なのです。天主は、私たちを天国で天主と共に、永遠の祝福に満たして生きさせたいのです。「よくやった、善良で忠実なしもべよ。おまえはわずかなものに忠実だったから、多くのものを管理させよう。おまえの主人の喜びに入れ」とマテオ25章21節が述べている通りなのです。これが私たちの最終目的であり、私たちは常にこれを考えておく必要があります。私たちがつくられたのは、地上の喜びのためではなく、天国の喜びのためなのです。聖アウグスティヌスは美しく言っています。「主よ、御身はわれらを、御身に向けて、つくり給えり。されば、われらが心、御身のうちにやすろうまでは、安らかならず」

さて、私たちは人間ですから、人間らしいやり方で、すなわち、意図的な、計画的な方法で、目的に到達しようと努めるべきです。人は知性と意志を与えられているのですから、これらの能力を上手に使えば、目標に到達できます。言い換えれば、最終目標に到達するのにも、放っておけばそうなるというものではありません。私たちがそれについて考えをめぐらさなかったとしても、また、その目的のために意志の力を使わなかったとしても実現するような、自動的なものではありません。私たちは、自分の全生涯を積極的にこの目標に向けて、秩序立ててゆくことが必要です。知性をもって天主を求めて選択し、何にも超えて天主を愛し、天主を悲しませるだろうと思われることを避ける必要があります。聖アウグスティヌスは、これを次のような言葉で単純に表現しました。「gressibus amoris – 一歩一歩、愛の手段を重ねてゆくことによって」と。最も重要なのは、力を尽くして、決意と忍耐をもって、この至福に到達しようと本当に願うこと、そして、この偉大な望みを他のすべての望みに優先させることです。別の言葉で言えば、天主を喜ばせようと努めることです。

人間の人生のドラマは罪であり、これがあるために、私たちは 天主という最終目標を脇に片付けて、創造主の中でなく、被造物の中に、私たちの幸福を探し求め始めます。私たちの最高の目標として、創造主の場所に被造物を置くのです。これは大罪であり、人を天主から引き離してしまいます。なぜなら、この態度が、すべてに超えて天主を愛すべきという掟と相容れないからです。聖母はそのようなことは決してなさいませんでした。小罪さえも犯しませんでした。小罪とは、本質的に、これらやがては過ぎ去ってしまうような被造物を人生の最終目的としたり、また、天主よりもそれらをもっと好むというところまでいかなくても、あまりにもそれら過ぎ行く被造物に愛着しすぎることなのです。

現代世界において、極めてよく見られる大きな罪、それは絶望です。テサロニケ前書4章13節が指摘するように、今日、多くの人々には「希望がありません」。希望がないということは、天主を私たちの人生の最終目的として、求め、望みということに完全に矛盾します。絶望は人々を自殺や、合法的な安楽死に導きます。今日の世界は、安楽死を強く推し進めようとしています。現代人の多くの人生目標は、お金や楽しみ、権力といったこの世的なものだけです。彼らは自分たちが最早それを獲得することができないと分かると、特に老いが苦しみとともにやって来ると、特に死の近い病気になると、自殺をします。彼らにとって、苦しみは十分悪いものですが、絶望は苦しみをさらに悪くします。そして自殺は、人生最後の罪によって、天主なき人生の最後を飾るということと同じです。故意に自殺をする人々はすべて、罪びとして死にます。自殺する前に既に罪びとであったのか、あるいは、その人が成聖の恩寵の状態にあったとしても、そのような自分自身を殺すことによって、大罪者になるかのどちらかです。苦しみを避けるどころか、彼らは自分たちを永遠の苦痛の中に投げ込んでしまうのです。本当に悪いことであり、自分を殺すことで、悔い改めるのに必要な時間をなくしてしまいます。この大きな罪を防ぐために、教会は、教会による埋葬を拒否することによって罰してきました。私たちは、自殺の誘惑にさらされている人々のために、私たちの主イエズス・キリストに祈らなければなりません。彼らがそのような行為に出る前に天主が恩寵を持って彼らの霊魂に触れてくださり、そのような最終的な罪を避けることが出来るように祈らなければなりません。彼らには希望が必要です。まさしくこのポイントに関して、聖母の被昇天は希望を与えるものです。天主が私たち一人一人について、素晴らしい目的、すなわち永遠の命を与えるという目的をお持ちだということを教えてくれるからです。天主の愛に応え、信仰を自分の人生の宝物とし、私たちの罪を悔い改めるようにいたしましょう。

自殺は悪いこと、大変悪いことですから、安楽死によって自殺を助けることも悪いこと、大変悪いことであるのは明らかです。さらに悪いことは、年老いた病気の患者や死が近い病気の患者に自殺するようプレッシャーをかけることです。これらの患者は、家族や友人たちに対して負担をかけるものです。(年老いた両親や親族の面倒を見るのは簡単ではありませんし、経済的負担がかかります。)安楽死が法律によって認められているならば、患者たちには自殺するようにプレッシャーがかかってしまい、こうして永遠に霊魂を失ってしまうきっかけとなる心理的圧力がかかってしまうのです。現代人は、人間社会が制定する法律が安楽死を許すならば、しても構わないと考えます。ですから、さらに多くの人々が、実質的に自殺であるこの恐るべき犯罪によって自分たちの命を終わらせようとし、多くの人がこの犯罪の共犯者になってしまうのです。これは、まさに現代世界を脅かしている悪なのです。人々はまず、始まったばかりの命を殺す中絶という恐るべき罪を受け入れました。そして今や、終わろうとしている命を殺す安楽死という恐るべき罪を受け入れようとしています。これはまことに死の文化です。まことに「罪にたいして与えられる報酬は死である。しかし天主の恵みは、主イエズス・キリストにおける永遠の命である」とローマ書が、6章23節で述べている通りです。

聖母の被昇天はこの絶望から人を癒やし、人生に意味を与え、人のために天主が定めた人生の目的を教えてくれます。しかも、聖母の被昇天は、苦しみそれ自体にも意味があることを教えてくれるのです。聖母は、十字架の下にたたずんで苦しむ御子イエズスを天主に捧げたとき、御自分の苦しみをキリストの苦しみと一致させてお苦しみになりましたから、苦しむすべての人々、特に死が近い病気の患者にとって、偉大な模範であり、インスピレーション(励み)になる御方なのです。この模範から学ぼうとすれば、全ての苦しむ人と死が近い患者たちは、自分の苦しみを私たちの主イエズスの苦しみと一致させ、自分自身の過去の罪を償うだけでなく、他の人々の贖いに協力し、参加することができるのです。彼らは、自分を十字架に上げられた私たちの主と一致させることの中に、いつの日にか、聖母に起こったのとまったく同じように、天の栄光に包まれた主イエズスと自分を一致させることができるのだという最上の保証を見出すでしょう。

私たちは命のために立ち上がる必要があります。中絶に反対することにより、始まったばかりの命を守り、安楽死に反対することで、終わろうとしている命を守るのです。私は、日本の「プロライフ運動」のことはよく知りません。しかし、多くの国々では、この運動は、それを見た多くの人々がカトリックの信仰に改宗する機会になってきています。なぜなら、カトリック教会は、全力で命のために立ち上がる唯一の組織であるからです。近代主義者はこの点で弱いのですが、カトリック教会の公式な立場は、ピオ十二世が述べたように、非常に明確です。

聖母は、母そのものです。命を与えてくださる方です。聖母は、至高の命そのものである御方、すなわち、私たちの主イエズス・キリストを与えてくださいました。コロサイ書の3章4節が教えるように、イエズスこそ「私たちの命である方」なのです。聖母は、あらゆる死の文化に対する最上の治療薬であり解毒剤なのです。受胎から死に至るまでの命を保護し、老いた者にも死にゆく者にも希望を与え、被昇天において、人生の美しい目的が何であるか、また、わたしたち皆が人生において追い求めるべき目標が何であるかをお示しになりました。その目的とは、天主と共に永遠に生きるのにふさわしい者となるように生きるということなのです。

私たちは、私たちの主イエズス・キリストへの忠実とへりくだり、従順において、童貞聖マリアの模範に従うならば、この目標を達成することができます。また、私たちの主イエズス・キリストの恩寵によって、これを達成することができます。この偉大な祝日において、聖母が、私たちのためにこの恩寵を獲得してくださいますように。アーメン。

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聖ピオ十世会日本 聖母被昇天のミサの報告です。天主様に感謝!

2014年08月16日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!


愛する兄弟姉妹の皆様、

 昨日は、聖母の被昇天の大祝日でした。おめでとうございます。
日本では、大阪でレネー神父様が聖母被昇天のミサを捧げてくださいました。私の記憶が正しければ、これは聖ピオ十世会が日本で初めてささげる聖母被昇天のミサでした。レネー神父様に深く感謝します。
 私は、司祭となって始めて8月15日にマニラで、特に勝利の聖母教会(Our Lady of Victoires Church)で、ミサ聖祭を捧げました。(叙階のその年から毎年8月15日は、天主様のお恵みで、私はソウルでミサ聖祭を捧げていました。)昨日のミサは荘厳ミサで、その直後に聖母行列も行いました。天主様に感謝します。
 大阪のミサ聖祭について次のようなご報告を戴きましたので、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

今月の大阪での御ミサの報告です。

15日(金曜)聖母の被昇天 歌ミサ には、24人の方々が、
16日(土曜)聖ヨアキム  歌ミサ には、25人の方々が御ミサに与るお恵みを頂きました。デオ・グラチアス!

日本で、マリア様の大祝日の御ミサが捧げられた大きな御恵みに感謝いたいします! マリア様のこの世でなさったすべての事が報われて、天主様と一致された大きな祝日を一緒にお祝い出来て、幸せでした。御ミサに来られていた方々のお顔にもどこか嬉しさが漂う金曜日でした。(*´▽`*)
また、今月も真夜中にシンガポールを発たれて大きな犠牲を払って日本の為にミッションに来て下さったレネー神父様にも感謝の気持ちでいっぱいです(;_;)

土曜日の御ミサの後、自然法についてのお話をして頂きました。

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キリストの教会は、全世界におよぶ、普遍的(カトリック)な教会

2014年08月14日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 この項は、これから洗礼を受けようとされている方のために書いています。

 キリストは、人間の社会組織として教会を創立しました。イエズス・キリストが創立した教会は、四つの特性をもっています。それは、唯一で、普遍的で、使徒的で、聖であるという、ことです。

【ポイント】キリストによって創設された教会は、唯一、公、使徒的で、聖なる教会

 ここでは、キリストによって創設された教会が、全世界に及ぶもの、普遍的な(ギリシア語で「カトリックな」)教会であることを見てみましょう。


キリストの教会は、全世界におよぶ、普遍的(カトリック)な教会

キリストの教会は普遍的、あるいはカトリックです。キリストは使徒たちに、非常に力強く命令を与えましたが、それはある特定の民族とか、社会層とかにその教えを限定するためではありませんでした。

キリストは、「すべての国」「すべての人びと」に福音をのべつたえることを、使徒たちに命じました。

「私には、天と地との一切の権力が与えられている。だからあなたたちは諸国に弟子をつくりにいき、聖父と聖子と聖霊とのみ名によって洗礼をさずけ、私があなたたちに命じたことをすべて守るように教えよ。私は、世の終わりまで、常にあなたたちとともにいる。」(マテオ28章)

「あなたたちは、全世界に行って、すべての人々に福音をのべ伝えよ。信じて洗礼をうける人は救われ、信じない人は亡ぼされる。信じる人々は、私の名によって悪魔をおい出し、新しいことばを話し、へびを握り、毒をのんでも害をうけず、病人に手をおいてなおすなどのしるしを見せるだろう。」(マルコ16章)

 使徒たちは、従順にイエズス・キリストのことばをまもり、たとえば、聖パウロは、こう言っています。

「信仰は宣教により、宣教はキリストのみことばによる。しかし私はいう。かれらには聞こえなかったのか?決してそうではない。"その声は全地に響き、そのことばは世界の果てまで及んだ"」と。

 従って、聖パウロは、コロサイ人たちに、福音は「全世界で実をむすんでいる」と書きおくることができました。

【ここで注意しなければならない点は、この場合、聖パウロは絶対的な普遍性(catholicitas absoluta)を指していったのではなく、比較的な普通性(catholicitas moralis)として、全世界に福音が実をむすんでいるといったということです。すなわち、キリスト教徒がひろくどこにも見られるという意味で、一般的な表現にしたがって、世界に実をむすんでいる、または、普過的であると言いました。
 教会の比較的な普遍性は、また、社会的な面と、数的な面とにおいて、それぞれの普遍性が考えられます。
 社会的普遍性というのは、教会のメンバーが、いろいろな文化面とか、階級にわたって、ひろがっている場合にいわれます。
 教勢が伸び、教会が世界的にひろがっている場合には、数的普遍性をもつといわれます。】

 キリストの教会には、創設後、相当の期間をへた後には、比較的普遍性がなくてはなりません。なぜなら、教会の宣教者たちは、世界につかわされるために、キリストご自身の支持を受けているし、その教えは天主の教えであるから、善意の人びとの精神と心とに強くうったえる力があるからです。

 キリストの教会は不朽であるから、現世にいまも存在しつづけ、おなじ理由によって、すなわち、天主の助けと、人間の要求をみたす教えをもつという理由で、比較的普遍性をもっていなくてはなりません。

 キリストの真の教会である、だから、全世界の人々の大部分がこれを信じている、という数的な普遍性を必ずしも常に維持しているとは限りません。キリストの教会が普遍性とは、信じる人々の数が減少しようとも、キリストの教会が持つ普遍的な性格のことです。

 つまり、一切の人の救霊がキリストの意志なので、キリストの教会はこの意志にしたがって、実際的な、組織だった機構をそなえ、絶対的な普遍性の理想にすすんでいかなければならない、という性格です。


【キリストが建てた教会が、普遍的であるとうことから帰結すること】


キリスト教徒になる義務


「あなたたちは諸国に弟子をつくりにいき、聖父と聖子と聖霊とのみ名によって洗礼をさずけ、私があなたたちに命じたことをすべて守るように教えよ。」(マテオ28章)

「あなたたちは、全世界に行って、すべての人々に福音をのべ伝えよ。信じて洗礼をうける人は救われ、信じない人は亡ぼされる。」(マルコ16章)

「全世界に行って、すべての人々に福音をのべ伝えよ」という、使徒たちに与えられたキリストの命令には、立場をかえると、別の大きな意味があります。つまり、人類の側からも、それに相当する義務があり、すべての人は使徒たちとその後継者らの教えを聞き、それに従う義務があるということです。

つまり、キリストの教会のメンバーになる義務があるということです。

「すべての人々に福音をのべ伝えよ。信じて洗礼をうける人は救われ、信じない人は亡ぼされる」といわれているのであるから、まことの教会を知っていながら、故意に信者にならない人たちは、だれも救われません。

まことの教会に属していながら、異端や分派をつくって教会をすてる人も救われません。

「異説を立てる者は、一度か二度いましめてのち、それから遠ざかれ。このような人々は、罪をおかして自分自身を罰した人であると、あなたも知っている」と、聖パウロもいっています。

教会は、キリストをかしらにいただく、生きた体であると聖パウロは教えていますが、教会から自分を切りはなす人は、キリストから分離するわけであるから、救われるはずがありません。

なぜなら、救霊は、キリストにあるだけで、ほかにはないからです。「私はぶどうの木で、あなたたちは枝である。私にとどまっていて、私もまた彼のうちにいるなら、その人は多くの実を結ぶ。なぜなら、私がいないと、あなたたちにはなに一つできないからである。私にとどまらない人は、枝のように外に投げすてられて、枯れはててしまい、人々にひろい集められて、火に投げいれられ、焼かれてしまう」とキリストは言っています。

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キリストの教会は唯一

2014年08月06日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 この項は、これから洗礼を受けようとされている方のために書いています。

 キリストは、人間の社会組織として教会を創立しました。イエズス・キリストが創立した教会は、四つの特性をもっています。それは、唯一で、普遍的で、使徒的で、聖であるという、ことです。

 ここで、さらにくわしく見ておきましょう。

キリストによって創設された教会は、唯一、公、使徒的で、聖なる教会

キリストの教会は唯一


キリストの教会が一つであること

(a) 最後の晩餐がおわってから、キリストは祈って言う。「また、彼らのためだけではなく、彼らのことばによって私を信じる人々のためにも祈ります。父よ、あなたが私の中においでになり、私があなたの中にあるように、皆が一つになるように。そして、かれらも、私たちにおいて一つになるように。それは、あなたが私をお遣わしになったことを、世に信じさせるためであります」と。

 これらのことばによって明瞭であるように、キリストは、自分の教会に、絶対的な一性を要求しています。

 これは、いかなる分裂もない一性であって、たとえそれが、統治上のものであろうと、教義上のものであろうと、祭式の面におけるものであろうと、一致を欠くものはなにもない唯一の教会をのぞんでいるのです。なぜなら、キリストは、教会の唯一性を、おん父とおん子との完全な一致になぞらえているからです。また、この唯一性は、キリストの天主的権の証明をひきだすことができるほどあきらかな、奇跡的な一致でなければならないといっているからです。

(b) 聖パウロも、あくまでも、唯一性が教会の根本的な特徴であることを主張します。かれは繰り返し繰り返し、教会を生きている人のからだにたとえています。

「体は一つであるが肢体は多く、体の全肢体は多くても体は一つであるが、キリストもそれとおなじである。私たちは、ユダヤ人もギリシア人も奴隷も自由民も区別なく、一つの体となるために、一つの霊によってみな洗礼を受け、そして、みな、一つの霊を注がれた」と。

 聖パウロは、教会の信者たちをひとつの生きた有機体のおおくの部分であると見ていました。何故なら、ひとつの霊によって生かされ、同一の教えを信じ、同一の礼拝にあずかり、ひとつの同じ権威にしたがっていくからです。


キリストの教会は、統治において唯一

(1)キリストは、自分の教会を、一度も複数で呼んだことがありません。したがって、キリストの教会は、唯一の統治権によっておさめられる唯一の社会組織体であって、けっして、それぞれ別な統治権によっておさめられていく、たくさんのちがった社会組織体ではありません。

(2)キリストは、自分の教会を、《羊の群》《都市》《王国》などにたとえています。これまた、統治権がひとつであることを、それぞれものがたっています。

(3)使徒たち自身も、教会が統治において、唯一であるということを例外なく認めていました。

(4)キリストは、「相互にわかれてあらそう国はほろびる」と、はっきりいっています。不朽の社会につくられたキリストの教会においては、統治上の分裂などゆるされません。

(5)聖パウロは教会に関して、「体はひとつ、精神はひとつ」でなければならないといっています。したがって、教会は生きている人のからだに似ていなければなりません。生きている人には、唯一の統治意志しかないように、教会においても、ただひとつの統治支配権があるたけでなくてはならない。


キリストの教会は、信仰においても唯一

(1)キリストは使徒たちにこう言いました。「だからあなたたちは諸国に弟子をつくりにいき、聖父と聖子と聖霊とのみ名によって洗礼をさずけ、私があなたたちに命じたことをすべて守るように教えよ」と。

 それゆえ、使徒たちは、キリストの教えをみな、すべての人におしえなくてはなりませんでした。

 使徒たちは、信者ひとりひとりがみな、同一の真理体系を信じているかどうかに、注意してゆかなければならなかったのです。つまり、キリストの教会は信仰において唯一でなければならないのです。

(2)聖パウロによれば、教会の「主は一、信仰は一、洗礼は一」です。またかれは、教会を生きているからだにたとえて、この表現をなんどもくりかえしていますが、生きているからだには、唯一の精神があるだけです。従って、教会には、ただひとつの信仰しかありえません。

 かれがローマのキリスト教徒におしえているところによると、キリスト教徒は、「忍耐と慰めの天主が、キリスト・イエズスにならうあなたたちにも、たがいに同じ心をもたせてくださるようにと祈る。それは、あなたたちが、みな一致し、一つの口をもって、私たちの主イエズス・キリストの父であり、天主である者をほめたたえるためである」といわれています。

 コリント人たちには、「兄弟たちよ、主イエズス・キリストのみ名によって、私はあなたたちに切に勧める。みな同じく語り、たがいに分裂せず、同じ心、同じ考えをもって完全に一致せよ」といっています。

 また「兄弟たちよ。あなたたちが受けた教えにたいして、争いと躓きを起こす者を警戒せよと勧める。かれらから遠ざかれ。かれらは、主キリストの奴隷ではなく、自分の腹の奴隷であって、甘いへつらった話をして、質朴な人々を騙している」、ともいっています。


キリストの教会は、礼拝においても唯一

 この主張は、前述したことから自然に帰納されるものです。というのは、礼拝というのは、信仰の実践だからです。

 キリストの教会のメンバーは、唯一の信仰をもっています。それゆえ、かれらは、礼拝においても一致していなくてはならないのです。唯一の信仰は、人びとの聖化と、天主の礼拝とのために、天主がさだめた典礼に関する意見の相違をゆるさないからです。

 以上、三つの唯一性について説明しましたが、そのなかで一番重要視されなければならないのは、信仰に関する唯一性です。

 なぜなら、信仰の唯一性は、他の二つの、いわば、根の役割をはたしているからです。

 キリスト教に改宗する人は、まず、キリストとキリストの教えとを信ずることからはじめます。キリストの教えを信ずることによって、その教えの一部として、キリストが制定した方法によって、天主を礼拝しなければならないこと、かれらの教導のために、キリストが指定した司牧者にしたがわなければならないこと、などがわかってくるからです。

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キリストによって創設された教会は、可視的である。

2014年08月04日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 イエズス・キリストはご自分の教会を創立しましたが、このキリストによって創設された教会は、可視的であることが分かります。

 「可視的な教会」というのは、「目に見えない霊の教会」の反対で、今この世に現実に生きている人々から成り立っている教会、従って"目に見える"教会」という意味です。

キリストの教会は可視の教会

 キリストは、教会を目に見える社会としてつくりました。

 これはどう言うことかというと、ひとつの組織体として、人びとの目のまえに、はっきりわかる教会をつくったという意味です。

 この組織体は、おしえる人びととおしえられる人びと、司牧する人びとと司牧される人びとによって形成されていて、いずれもみな、おおやけの礼拝において一つになり、かれらの信仰を宣言していくのです。

 使徒たちは、洗礼をもって、人びとを教会の信者にうけいれました。

 また使徒たちは、信者の外的行動を規定する律法をつくり、これにしたがうことを命じました。

 使徒らは、信仰をおおやけに宣言するために、キリストの命令をそのまま与えている。「人々の前で、私の味方だと宣言する人を、私もまた、天にいます私の父のみ前で、その人の味方だと宣言しよう。人々の前で私をいなむ者を、私もまた、天にいます私の父のみ前でいなもう」(マテオ10:32)と。

 「目に見える教会」ということを言い換えると、キリストの建てた教会は、社会として人々が認識することが出来るもの、その他の組織と区別することが出来るものであるということです。

 つまりキリストの教会に属する人々は、秘密結社のように誰も知らない秘密のつながりでつながれるのでは無く、公の入会で属する社会である【認識することが出来る】こと、を意味します。

 さらに、単に人間社会の組織として認識するだけではなく、天主の御子によって創立された社会組織として区別されうること、人間の救いのために天主様によって与えられた救いの手段であると認識されうること、をも意味します。

 キリストの教会は、その存在が全ての人々によって認識され、天主が創立したものとしての印を持っていなければなりません。天主が創立した組織としての印には4つがあります。それがキリストの教会が、一であり、聖であり、公【全世界に亘る不変的なという意味】であり、使徒継承である、という他の組織から区別される印です。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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キリストによって創設された教会は、不朽である

2014年08月04日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今から2000年前にイエズス・キリストがお生まれになり、ご自分の教会を創立しました。

 この教会の特徴を見てみましょう。すると、このキリストによって創設された教会は、不朽であることが分かります。

キリストの教会は不朽

 不朽というのは、滅びることが無い、という意味です。
 何故こう言うかというと、天主の名において人びとに話す権利をもつ社会であるキリストの教会は、ある時代に限定されるような、その時かぎりのものではありえないからです。

 このことは、キリストご自身と聖霊とが、たえずこの教会とともにいて、助け導くという、キリストの約束を見れば、あきらかです。

 イエズス・キリストは、いつまでも弟子たちと共にいると約束してくださいました。

 この約束は、けっして一時的なものではなく、いつまでも続くものでした。

「私には、天と地との一切の権力が与えられている。だからあなたたちは諸国に弟子をつくりにいき、聖父と聖子と聖霊とのみ名によって洗礼をさずけ、私があなたたちに命じたことをすべて守るように教えよ。私は、世の終わりまで、常にあなたたちとともにいる。」(マテオによる福音28章18-20)

「そして、私は父に願おう。そうすれば、父は、ほかの弁護者をあなたたちに与え、永遠にいっしょにいさせてくださる。それが真理の霊である。」(ヨハネによる福音14章16)

 キリストは聖ペトロにこう約束しました。
「私はあなたにいう。あなたはペトロである。私はこの岩の上に、私の教会をたてよう。地獄の門もこれに勝てないだろう。」(マテオによる福音16章18)

 《地獄の門》というのは、闇の勢力、悪魔の仕業とその勢力、死、滅亡、などという意味です。ここでは、キリストが建てる教会は、岩の上に立てられた要塞・家として理解されています。要塞都市の「門」とは、その都市にとって、商業や公共の広場として生命線です。とくに古代は、城塞の門はその最も大切なところでした。そこで、古代は、都市のことを「門」と言うこともありました。(たとえば、創世記22章17には「おまえの子孫は敵らの「門」を所有するだろう」(possidebit semen tuum portas inimicorum suorum)とあります。イザヤの預言には、「泣け、門よ、叫べ、都市よ」Ulula, porta; clama civitas ともあります(イザヤ14章31)。)つまり、キリストの教会という要塞都市に対立して、地獄の勢力は、総攻撃をかけますが、キリストの教会に勝つことはない、と言うことです。

 キリストは、自分がたてた社会である教会に、こういうはっきりした約束を与えた。この約束は、教会に「不朽性」というしるしを刻印したということです。

 したがって教会は、世界に終末がくるまで人びとをおしえ、司牧し、聖化しつつ、存在していくべきなのです。


天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

========== 2014年8月10日追記 =================


 この項は、"Apologetics and Catholic Doctrine" by the Most Rev. M. Sheehan (日本語訳は、「護教」光明社)第9章を参考に書かれました。

 マテオ16章18節の注については、Sheehan 司教の説明のほかにも、以下の二つを参考にしました。

Douay-Rheims Bible + Challoner Notes

[18] The gates of hell: That is, the powers of darkness, and whatever Satan can do, either by himself, or his agents. For as the church is here likened to a house, or fortress, built on a rock; so the adverse powers are likened to a contrary house or fortress, the gates of which, that is, the whole strength, and all the efforts it can make, will never be able to prevail over the city or church of Christ. By this promise we are fully assured, that neither idolatry, heresy, nor any pernicious error whatsoever shall at any time prevail over the church of Christ.

もう一つは
A Catholic Commentary on Holy Scripture (Dom Bernard Orchard, 1953) で、Biblical Evidence for Catholicism に掲載されているものです:

Simon is to be the ultimate authority on earth of this society which is itself the hierarchical body described in 18:15-18. By reason of this rock-foundation the malignant powers will not prove stronger than the citadel-society. The phrase 'gates of Hell' needs some explanation. The term 'gates' in Hebrew is often used of the fortified city itself (Gen 22:17; 24:60; Is 14:31, etc.) 'Hell' (Hades), dwelling place of demons (four times in this sense in the Apocalypse, . . . cf. Lk 16:23) is not merely 'death' (an idea which would confuse the warlike image) but the activity of forces hostile to the cause of Good. . . . In 19 the metaphor changes: the besieged citadel founded on a rock now becomes the Kingdom with its Chancellor to whom Christ will in due time commit his own keys, Jn 21:15-17 . . . This idea serves as a bridge from the rock-metaphor to the more direct definition of Peter's powers (Lagrange).


 この項は、これから洗礼を受けようとされている方に、導入部として書かれました。

 カトリック教会の不朽性、或いは、不可破壊性については、後に詳しく取り上げることにしましょう。

 ただ、もしも一言付け加えることが許されるとすれば、 Catholic Encyclopedia のオンライン版 Church の項の中の「Indefectibility of the Church」にあるように、

Among the prerogatives conferred on His Church by Christ is the gift of indefectibility. By this term is signified, not merely that the Church will persist to the end of time, but further, that it will preserve unimpaired its essential characteristics. The Church can never undergo any constitutional change which will make it, as a social organism, something different from what it was originally. It can never become corrupt in faith or in morals; nor can it ever lose the Apostolic hierarchy, or the sacraments through which Christ communicates grace to men.

 キリストの建てた教会は、単に、教義を変えないのみならず、その本質的性格を世の終わりまで保つ、ということです。教義、道徳などが変わらないのみならず、その組織も、秘蹟も変わらないということです。

 これについては、後に、お話しすることにいたしましょう。

 私たちは、すでに、直接お目にかかって公教要理のお話をしたときに、次のことを学びました。

(1)私たちが生きているこの世界を見て観察すると、その運動していることや、動植物の体の構造とデザインや、秩序などから、どうしてもこの世界の創造主がいなければならないこと。私たちはこの創造主を「天主」と呼んでいます。

(2)この天主が歴史上救い主を約束されたこと。天主は様々な預言者をとおして、様々な時代に、様々なやり方で、救い主が来ることを約束し預言し、それらがすべてイエズス・キリストで成就していること。
 イエズス・キリスト自身も、天主でしか出来ない奇跡や預言をして、それを成就させていること。
 私たちは、イエズス・キリストこそが真の救い主であり、真の天主(人間となった天主)である、と言わざるを得ないこと。


 直接、公教要理のお話しができないので、このブログの場所を借りて、お話の続きをしているのですが、

(3)ここでは、イエズス・キリストが、教会を創立したことを見ます。キリストの作った教会の特徴をこれから詳しく見てみます。

 キリストの教会が、不朽で、可視の人間組織であること、
 キリストの教会が、一で、聖なるもので、全世界に亘るもので、使徒継承のものであること、
 キリストの教会が不可謬(誤謬を教えることがあり得ない)であること

(4)その後に、キリストが創立した教会の特徴を持っている宗教団体が何かを、調べてみることにします。

 その後に、ご質問があれば、私の能力の及ぶ範囲でお答えしたいと思っています。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

========== 2014年8月10日追記はここで終わります =================



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