Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え! 聖ヨゼフの特別聖年(2020年12月8日〜2021年12月8日)

Saint Francis Xavier, Saint Michael and Japan

2020年09月28日 | お説教・霊的講話

The message from Fr Onoda

+Ave Maria Immaculata!

My dearest Brethren, September 29th is the feast of Saint Michael, Second Primary Patron saint of Japan!

 

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聖フランシスコ・ザビエルと大天使聖ミカエルと日本

2020年09月28日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2020年9月27日、聖霊降臨後第17主日に東京で録画した小野田神父のメッセージをご紹介いたします。

チャンネル登録をなさいますと、新しくアップされた動画の通知が届くので便利です。チャンネル登録は、ここ「SSPX JAPAN 聖ピオ十世会日本」をご覧ください。

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最大の2つの掟はイエズス・キリストへ向かっている。イエズス・キリストは、天主であることを言葉と行いで証明された。だから私たちはイエズス・キリストに真の礼拝を捧げ、愛を捧げる義務がある。

2020年09月28日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2020年9月27日は聖霊降臨後第十七主日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「聖霊降臨後第十七主日の説教」の動画をご紹介いたします。

今日の主日を聖として良くお過ごしください。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父

【説教全文】

兄弟たちよ、主において鎖につながれた[囚人となった]私は、あなたたちに願う。あなたたちが召し出された召命にふさわしいように歩き[生き]、すべての謙遜と柔和と忍耐とをもって、互いに愛によってたえ忍び、平和の鎖[きずな]において精神の一致を守るようにせよ。体は一つ、精神は一つ、あなたたちが召出しによって一つの希望に召されたのと同様に、主は一つ、信仰は一つ、洗礼は一つ、天主は一つで、すべてのものの父であり、すべてのものの上にあり、すべてのものの上に働き、すべてのものの内に在す。

そのとき、ファリザイ人たちがイエズスの近くに相集まった。そしてそのうちの一人の律法学士が、イエズスをこころみるために、「先生、律法のうちどの掟がいちばん大切ですか?」とたずねた。そこでイエズスは、「"あなたは、すべての心、すべての霊、すべての知恵をあげて、主なる天主を愛せよ" これが第一の、最大の掟である。第二のも、これと似ている。

"隣人を自分と同じように愛せよ"。全律法と預言者とは、この二つの掟による」とお答えになった。ファリザイ人たちが集まっていた時、「あなたたちはキリストについてどう考えているのか?それはだれの子か?」とイエズスがお問いになると、かれらは「ダヴィドの子です」と答えたので、イエズスは、「そうすると、ダヴィドが霊感をうけて、かれを主と呼ぶのはなぜだろう?"主は私の主におおせられた。私があなたの敵をあなたの足の下におくまで、私の右にすわれ"と書かれている。ダヴィドはかれを主と呼んでいるのに、なぜ、子なのか?」とおおせられた。だれも一言も答えられず、またその日から、あえて問いかける者もなくなった。

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日は2020年9月27日聖霊降臨後第十七主日です。一緒に主日の黙想をいたしましょう。

【天主の十戒の第一戒】

「天主は愛である」と使徒聖ヨハネは宣言します。天主は愛によって私たちを、天国での永遠の婚宴に招いておられます。これこそが、今日聖パウロの語る、私たちが「召し出された召命」です。

私たちは、天主との愛による一致による永遠の幸せという「召出しによって一つの希望に召された」のです。従って、私たちを愛する天主を、私たちが愛し返すのは全く同然です。私たちにとって第一の最大の掟は「あなたは、すべての心、すべての霊、すべての知恵をあげて、主なる天主を愛せよ」です。

天主の十戒の要点は、天主を愛し(一戒~三戒)、天主のために、天主に従って隣人を愛する(四戒~十戒)です。十戒の内で、一番重大で、荘厳で卓越している掟が第一戒です。つまり「第一 われはなんじの主なり。われを唯一の天主として礼拝すべし。」です。第一戒に反する罪は、第五戒の殺人罪よりも、第六戒の邪淫の罪よりも、重大な罪です。

第一戒は、超自然の徳である愛徳を命じるだけではありません。第一戒は、超自然の徳である信仰の徳をも私たちに命じます。聖パウロは言います。「信仰がなければ、天主によろこばれることはできない。天主に近づく者は、天主が存在しておられること、天主を求めるものに報いをくださることを信じなければならないからである。」(ヘブレオ11:6)また「「義人は信仰によって生きる」と書きしるされているとおりである。」(ローマ1:18)

【第二バチカン公会議で活躍した神学者イエズス会のカール・ラーナーは「無名のキリスト者」論を提唱しました。キリストを知っていようがいまいが、宗教を信じていようがいまいが、「無神論者」であろうが、良心の命令に従って生きていればすべての人は「キリスト者」であり、キリスト者という名前だけがない「無名のキリスト者」で救われているとしました。残念ながら、ラーナーはよく聖書を読んでいなかったようです。「信仰がなければ、天主によろこばれることはできない。」ということさえ知らなかったのですから。】

第一戒は、超自然の徳である希望の徳も命じています。私たちが希望するのは、完全な絶対の果てしない幸福です。全能永遠で無限の天主のみが私たちに与えることができる、無限の幸せです。

私たちが希望しているのは、この世界の進歩でもなければ、世界の統一でも、地球環境保全でもありません。聖パウロはこういいます。「私たちが、キリストに希望をかけたのが、この世のためだけであるなら、私たちは、すべての人の中で、もっともあわれなものである。」(コリント前15:19)

聖パウロはまたこうも言います。「今の時の苦しみは、私たちにおいてあらわれるであろう光栄とは比較にならないと思う。…霊の初穂をもつ私たちも、心からの嘆きをもって、自分が養子とされ、自分の体があがなわれることを期待している。まことに私たちが救われたのは、希望においてである。目に見える希望はもう希望ではない、見えるものをどうして希望することができよう。私たちがもし、見えないものを希望しているのなら、忍耐をもってそれを希望しよう。」(ローマ18:18, 24-25)

私たちの望徳はこの祈りにうまく表されています。「恵みの源なる天主、主は約束を違(たが)えざる御者にましますが故に、救世主イエズス・キリストの御功徳によりて、その御約束の如く、われに終りなき命と、これを得(う)べき聖寵とを、必ず与え給わんことを望み奉る。」

私たちは、信仰・希望・愛徳をもって、真の天主を愛さなければなりません。私たちの主イエズス・キリストは、こういわれました。「まことの礼拝者が、霊と真理とをもっておん父を拝む時がくる。いやもう来ている。おん父は、そういう礼拝者をのぞんでおられる。天主は霊であるから、礼拝者も、霊と真理とをもって礼拝しなければならない。」(ヨハネ4:23)

礼拝(latria)とは、いとも高き創造主にのみなされなければなりません。いかなる被造物にも礼拝を捧げることをしてはなりません。

【約束のキリストは、真の天主である】

ところで、私たちの主は、ファリザイ人たちにご自分が誰であるかをわからせるために、次のように質問します。「あなたたちはキリストについてどう考えているのか?それはだれの子か?」と。ファリザイ人らはイエズスに反対し、キリストをただの人間であると思っていました。そこでかれらは「ダヴィドの子です」と答えます。しかしこれに対して、イエズスは詩篇109を引用して言います。ダヴィドは、自分の考えではなく、聖霊によって、キリストを主であると呼んでいる、と。

「主(御父)は私の主(キリスト)に言われた、私(御父)の右に座れ」これは、御父の御稜威と同じ御稜威と光栄を受ける方である、という意味です。つまり、キリストは、肉体によっては、本当にダヴィドの子孫ですが、天主の本性によってはダヴィドの主(天主)であるということです。御父は、キリストの敵どもを、キリストの足の下に置く、と。

「私があなたの敵をあなたの足の下におくまで、私の右にすわれ。」sede a dextris meis, donec ponam inimícos tuos scabéllum pedum tuórum. 聖レミジオは、この「まで」donec という言葉は「無期限」を意味し、永久に私の右に座れ、永久に敵をキリストの足の下に置く、という意味であると言っています。御父によって敵が足元に置かれるのは、御父と御子キリストとが同じ天主の本性を持っているということを意味しています。

「ダヴィドはかれを主と呼んでいるのに、なぜ、子なのか?」これにはこう答えるしかありません。聖霊によって息吹かれたダヴィドは、キリストがダヴィドの子孫であると同時に完全な真の固有の意味で天主である、と言っているからだ、と。

時において人としてダヴィドの子孫として生まれなければならなかったが、時の始まる前から、永遠の昔から、天主であり天主の御子であったからだ、と。

同じ詩篇109にはこの一節もあるからです。ex útero ante lucíferum génui te.「私はおまえを暁の前、懐から生んだ」と。ファリザイ人らは「だれも一言も答えられず」、ちょうど、御父が御子キリストの敵を足の下に置いたかのようです。

イエズス・キリストに関する真理の中核はまさにここにあります。イエズス・キリストは言葉の固有の意味で、完全な真の人間となった完全な真の天主である、ということです。

もしも「キリストはとても聖なる方で預言者だったとしも単なる人間だ」と考えるのならそれは間違っています。イエズス・キリストは、御父天主によって「御子」の地位を与えられて「天主」となった人間でもありません。

単なる被造物である人間を「主」(つまり天主)と呼ぶことは絶対に許されないことです。また、時間のうちに存在をし始めた有限の単なる人間が、本性による永遠の昔から始めなく存在している無限の天主になる、などというようなことは、全能の天主でもできないことです。

そうではなく、イエズス・キリストこそが、旧約の預言を全て成就した約束の救い主で、人となった真の天主です。

【イエズス・キリストは天主として行動した】

この詩篇の一節ばかりではありません。イエズスは天主御自身として多数の奇蹟を行っています。「私が父のわざをしないなら、私を信じないでもよい。しかし、もししているなら、たとえ私を信じないでも、私のすることを信じよ。そうすれば、父が私におられ、私が父にいることを、知って悟るだろう。」(ヨハネ 10:38)

イエズスはこうも言います。「私の羊は私の声をききわけ、私にしたがい、私もかれらを知っている。私はかれらに永遠の命をあたえる。かれらは永遠に亡びず、そして私の手からだれも、かれらをうばえない。父が私にくださったものは、なにものにもまさって尊いもので、それを私の父の手からうばえるものはない。私と父とは一つである。」

イエズスは人々に自己を天主として礼拝することを要求しています。キリストが生まれつきの盲者を癒した時その盲者に尋ねて言います。「「あなたは天主の子を信じるか?」とおおせられた。そこで彼が、「主よ、それはだれのことですか?私がその方を信じますように」といった。イエズスは、「あなたはそれを見ている。あなたに話しているのがそれだ」とおおせられた。すると彼は、「主よ、私は信じます」といって、そのみ前にひれ伏した。」(ヨハネ 9:35-38)

【「あなたは天主の子を信じるか?」συ πιστευεις εις τον υιον του θεου の「天主」は、一部のギリシア語の写本では「人」となっていると指摘されています。ηκουσεν ο ιησους οτι εξεβαλον αυτον εξω και ευρων αυτον ειπεν αυτω συ πιστευεις εις τον υιον του θεου [ἀνθρώπου WH NIV ] θεοῦ Treg RP]】

イエズスは天主に固有の権をもって罪を赦します。「イエズスが、かれらの信仰を見て、「子よ、あなたの罪はゆるされた」と中風の人におおせられると、そこに座っていたある律法学士たちが、「この人はなぜあんなことをいうのだろう。あれは冒涜だ!天主以外に罪をゆるせるものはない!」と、心の中で考えた。

すると、イエズスは、かれらがそう考えているのをすぐ心に悟り、「なぜ、そんなことを考えているのか。中風の人に、"あなたの罪はゆるされた"というのと、"起きて、床をとって行け"というのと、どちらがやさしいか。人の子が、地上で罪をゆるす権力をもっていることをあなたたちに知らせよう!」。

そして中風の人に向かい、「私は命じる。起きよ、床をとって家に帰れ!」とおおせられるや、病人は、起きて、すぐ床をとり、人々の目のまえを出ていった。皆はおどろいて、天主をあがめ、「今まで、こんなことを見たことがない!」といった。」(マルコ 2:5-12)と。

ある時には、泣きながら、イエズスのうしろ、そのおん足の近くに立ち、涙でおん足をぬらし、自分の髪の毛でそれをぬぐい、おん足にくちづけして、香油をぬった罪の女性がいました。共に食卓についていた人々に向かってイエズスは言います。「私はいう。この人の罪、その多くの罪はゆるされた。多く愛したのだから。」(ルカ 7:48)それからマグダレナに向かってこう言います。「あなたの罪はゆるされた。」

天主に対する愛によってのみ罪は赦されるのです。イエズスは自分に対する愛によって赦されるというのですから、自分に対する愛は天主に対する愛に等しいと宣言しています。別の言葉でいえば、イエズスは天主であることを断言しているのです。

【イエズス・キリストは、天主である】

イエズス・キリストはご自分の権力と知識とにおいて天主と等しいと主張しています。「すべてのものは、私の父から、私にまかせられました。子が何者かを知っているのは、父以外にはなく、父が何者かを知っているのは、子と、子が示しを与えた人の他にはありません。」(ルカ 10:22)

イエズス・キリストは、更に、全人類を裁くために再臨することを宣言しています。天主だけが、全ての人々の良心の秘密を知り、それにふさわしい正義の賞罰を与えることができますが、イエズスは全人類の最後の審判者であると宣言しています。「人の子は、その栄光のうちに、多くの天使をひきつれてきて、光栄の座につくであろう。そして、諸国の人々を前に集め、ちょうど牧者が羊と牡山羊とを分けるように、羊を右に、牡山羊を左におくだろう。」(マテオ 25:31-32)

審判の日に、イエズスは善人に向かってはこう言うでしょう。「まことに私はいう。あなたたちが、私の兄弟であるこれらのもっとも小さな人々の一人にしてくれたことは、つまり私にしてくれたことである"というであろう。」

悪人たちに向かってはこう言うでしょう。「まことに私はいう。これらのもっとも小さな人々の一人にしてくれなかったことは、つまり私にしてくれなかったことだ」と。

またこうも宣言します。「御父が、死者を復活させて命をおあたえになるように、御子もまた、自分の望む者たちに命を与えるのである。御父は、審判をなさらず、御子に審判のことを全くお任せになった。それは御父を尊ぶのと同じように、みなが御子を尊ぶためである。」(ヨハネ 5:22-23)

イエズス・キリストは、天主御自身であることを言葉と行いで証明しています。ですから、私たちはイエズス・キリストに真の礼拝(latria)を捧げ、愛を捧げる義務があります。

しかし、ファリザイ人らをはじめとする人びとは、イエズス・キリストを受け入れず十字架に付けることによって、天主に対する愛と隣人に対する愛とに背いてしまいました。天主への愛と天主のための隣人への愛にこそ、全律法があったにもかかわらず、です。私たちの主は今日の福音でこう言います。「全律法と預言者とは、この二つの掟による。」

しかし、私たちがイエズス・キリストを愛するなら、全ての法を全うすることができます。何故なら、イエズス・キリストこそ、真の天主であり同時に真の人間、しかも私たちを極みまで愛された救い主なる恩人、王、大司祭、この地上でのすべての正しい愛の直接の対象であるからです。

聖アウグスチヌスは、天主が私たち人間を愛するのは、御子の神秘体の一員であるから、或いは一因となることができるからだ、天主が人類全てにおいて愛しているのは御子である、と言っています。

もしも私たちが天主を愛するなら、その愛とは天主においてある愛であって、私たち被造物である人間に聖霊によって伝えられた愛によって天主を愛するのです。この愛によって私たちが愛さなければならないのは、私たちにおける、また隣人における、天主の御言葉なるイエズス・キリストです。

もっとも小さい者たち、もっとも憐れな者たちにすることは、善であれ、悪であれ、イエズス・キリストにするのです。私たちは、イエズス・キリストのために、隣人を私たち自身のように愛するのです。

聖パウロはこう言います。「律法の目的は、清い心と、よい良心と、偽りのない信仰から生じる愛をひろめることである。」(ティモテオ前1:5)またこうも言います。「キリストは律法の目的である。」(ローマ10:4)

つまり、法の目的とは、愛徳であり同時にキリストです。ですから、私たちの行動を律する法は、愛徳のうちに完成されますが、その愛徳の究極の対象はキリストである、ということです。

私たちがキリストのおいて完全となること、私たちの完成とはキリストに到達すること、これが私たちの完徳です。聖アウグスチヌスの有名な言葉を借りて言えばこうです。「主にのみ愛着しよう、主をのみ楽しもう、主と一つに留まり続けよう」haereamus uni, fruamur uno, permaneamus unum.

私たちが、真の天主であるイエズスだけを全てを超えて愛することができますように!天主の聖母マリア様が、いつも私たちのために祈り続けてくださいますように!

"あなたは、すべての心、すべての霊、すべての知恵をあげて、主なる天主を愛せよ"これが第一の、最大の掟である。

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「真の天主を信じない」は「不信」の罪 「偽りの神々を信じる」という事は「迷信」の罪

2020年09月28日 | お説教・霊的講話
2020年9月20日(主日)聖霊降臨後第16主日

聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父メッセージ

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄妹姉妹の皆さん、
来たる水曜日・金曜日・それから土曜日は四季の斎日で、四季の斎日の水・金・土です。伝統的には、この水・金・土には大小斎を行なっていました。

今ではその義務が無くなってしまいましたけれども、聖ピオ十世会の会員たちは、これを守る義務があります。

それで、愛する兄弟姉妹の皆様にとっては義務ではないのですけれども、来たる水・金・土、もしもできる事なら、一緒に大小斎を捧げてはいかがでしょうか。

罪の償いと、そして多くの御恵みを求める為に、とても良い機会だと思います。どうぞなさって下さい。

今日、イエズス様は福音の中で、「婚宴に招待された時には、上席を探してはいけない」と、「むしろ進んで下の方の、貧しい謙遜な席を探して、下座を探して、そして上にあげられるのを待て」と仰いました。ドン・ゲランジェという大修道院長によると「これは、天での婚宴の座の事だ」と言っています。

私たちは皆、天での結婚式に招かれています。「三位一体との霊的な一致、永遠の幸せの結婚に入る、という神秘の事だ」と言っています。
「その時イエズス様は、謙遜な者たちを『あぁ、もっと私の近くに来なさい』とお呼び下さるだろう」と。ですから、「その私たちは皆、この結婚の式に与る為に準備しなければならない」と言っています。

ところで、これは天主様の創造の定めた事によって、結婚は「唯一の真の天主」と「私たちの霊魂」との一致ですから、私たちは本物の真の天主を、真理のみを、天主として礼拝しなければなりません。

これが天主の十戒の第一戒にある事です、「真理の、本当の、三位一体の天主を、真の創造主なる天主として信じて、礼拝する」という事です。「それ以外を拝んではいけない」という事です。

「天主を信じない」という事は、「不信」の罪ですけれども、「間違った事を、偽りの神々を信じる」という事は、「迷信」の罪です。間違っているから罪です。ですから、この世にはたくさんの迷信があるので、気を付けて下さい。

自分の力や富や権力を天主を超えて信じる事も迷信です。
あるいは「あぁ、今日は仏滅だから」とか、あるいは「あぁ、今日は風が東から吹いたから」とか、「猫が目の前を通ったから、あぁ不吉だ」とか、「あぁ、旅行の前に靴の紐が切れちゃった」とか、全く現実とは関係がありません。

私が聞いた話によると、あるカトリック信者さんは、十字架のプレゼントをしないのだそうです。
「なぜですか?」と言ったら、「いや、この方に十字架が与えられると、苦しみが来ると困るから」と。これは全く迷信です。「くだらない事を言わないで下さい」と怒ってあげて下さい。

私たちが十字架像をプレゼントしようがしまいが、小さかろうが大きかろうが、天主様はそれによって左右されません。どんな星の元に生まれたか、星座が何かに関わらず、私たちは善をすれば報いられますし、悪を行なえば、罪を行えば罰を受けます。

たとえ星の動きがどうであろうと、太陽の黒点の数がどうであろうと、またその他、何があろうとも、私たちには自由選択能力を持っていますから、自由意志で私たちが善を選ぶか悪を選ぶかによって、私たちは裁かれます。

私たちがどんな遺伝子を持っていようが、どんな先祖からの者であろうが、全く関係ありません。聖マテオの系図によると、イエズス様の家系には女性の名前が二人出てきます。ラハブとウリアの妻(ベトサベ)です。この二人とも罪人の女性でした。二人とも罪によって子供を生みました。ですから「私の先祖はこうだから、呪われている…」などと心配しないで下さい。全く関係ありません。

私たちはただ、真の天主をのみを愛して、そしてそれに礼拝して、それに仕えて、それの御旨を果たす、それだけで幸せになります。

私たちにどんな十字架が来ようと、苦しみがあろうと、それはイエズス様からのプレゼントです。それを受け止めて捧げる事によって、更に大きな報いが待っています。

では愛する兄弟の皆さん、では天国での婚宴の式に良く与る事ができますように、準備致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。



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ヴィガノ大司教:キリスト教文明の至高の価値とは、生命であり、一人の男と一人の女と子供たちからなる自然な家族、祖国愛だ

2020年09月28日 | プロライフ

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

以下は、2020年9月23日に開催された「全米カトリック祈祷の朝食会」にカルロ・マリア・ビガノ大司教が送ったメモです。今年はオンラインで行われたのですが、イベントの主催者はこのイベントで、ヴィガノ大司教のメモを声に出して読むことをしませんでした。ライフサイトニュースは、次のように全文を掲載しました。

愛する兄弟姉妹の皆様に日本語訳をご紹介いたします。

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私はドナルド・J・トランプ大統領が9月23日に開催される「全米カトリック祈祷の朝食」(National Catholic Prayer Breakfast)に参加することを、深い感慨をもって知りました。

この機会に、ウィリアム・バー司法長官が、教皇ヨハネ・パウロ二世による「一般信徒に関する使徒的勧告」にちなんで名付けられた「全米カトリック祈祷の朝食」の キリスト一般信徒賞 (Christifideles Laici Award)を受賞します。

もしもできるなら私は、この記念すべき機会に私自身も出席したいと思います。私は、教皇大使としてワシントン D.C.での任務中(2011年~2016年)、この集いに非常に熱心に参加したことがあります。

そこで私は、この特別な祝典に参列するすべての人びととすべてのアメリカのカトリック教徒たちと一緒にこの記念すべき祝典に出席したいと思います。何故なら彼らは、ドナルド・トランプ大統領においてキリスト教文明の最高の価値観の最大の擁護者であることを見ているからです。キリスト教文明の至高の価値とは、生命であり、つまり受精から自然死に至るまでの生命、また、一人の男と一人の女と子供たちからなる自然な家族というものの価値、さらに祖国愛、天主のもとにある一つの国という価値です! そして最も重要なことは、トランプ大統領は、私たちの信仰を自由に実践する権利を擁護し、それによって私たちがより完全に天主を敬うことができるようにしているということです。

11月に行われるアメリカ大統領選挙は、画期的な挑戦であり、聖書的な挑戦であります。その結果はアメリカ合衆国のみならず、全世界にとって決定的なものとなるでしょう。

アメリカのカトリック信者の全ての皆さんは、御摂理が皆さんの大統領に託された役割を十分に認識し、天主が、ディープ・ステートや新世界秩序という悪魔的勢力に対抗して戦うように備えている、通常を超えた戦いを認識している必要があります。

私は、何百万人ものカトリック信者たちそして世界中の善意の人々と共に、熱烈な祈りをもってあなたの側にいます。

私たちの信頼は、全能の天主にあります。その右の手は常に不思議な業を行います。

+ カルロ・マリア・ヴィガノ
ウルピアーナ名義大司教
元ワシントンD.C.の教皇大使(2011年~2016年)

【訳注:アメリカ合衆国(The United States of America)は、50の州(states)の連邦で構成されているが、そのもっと深いところで米国を操るとされるエリート・グループのことを、ディープ・ステート(deep state)と呼び、「闇の政府」あるいは「国家内国家」「深層国家」とも訳される。】

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2020年9月27日(主日)前後の聖伝のミサの予定:Traditional Latin Mass for September 27, 2020

2020年09月28日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)にご招待します。

最新情報は次のカレンダーをクリック
年間の予定はSSPX JAPAN MISSION CALENDARをご覧下さい。

今週末:2020年9月25日(金)26日(土)27 日(主日)のミサの予定を再確定します。予定通りです。

【大阪】「聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂」 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 EG新御堂4階 〒532-0002 (アクセス)JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分(地図

 9月25日(金)  17:30 ロザリオ及び告解  18:00 ミサ聖祭

 9月26日(土) 10:00 ロザリオ及び告解  10:30 ミサ聖祭

 9月27日(日) 17:30 ロザリオ及び告解  18:00 ミサ聖祭

 9月28日(月)  06:30 ミサ聖祭

 9月29日(火)  17:00 頃 ロザリオ  18:00 ミサ聖祭

 9月30日(水)  17:00 頃 ロザリオ  18:00 ミサ聖祭

 10月1日(木)  17:00 頃 ロザリオ  18:00 ミサ聖祭

 10月2日(金)  17:00 頃 ロザリオ  18:00 ミサ聖祭

 10月3日(土)  10:00 ロザリオ及び告解  10:30 ミサ聖祭

【東京】 「聖ピオ十世会 聖なる日本の殉教者巡回聖堂」 東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図

9月27日(日)主日ミサが三回捧げられます。

午前8時20分頃から準備が出来次第、告解の秘蹟を受けることができます。二階です。

09:00 ミサ聖祭 歌ミサ(ライブ中継をいたします)Facebook live

11:00 ミサ聖祭 読誦ミサ
12:30 ミサ聖祭 読誦ミサ (ミサの直後に赤ちゃんの洗礼式があります)

それぞれのミサの間にも告解の秘蹟を受けることができます。二階の告解の部屋に司祭は待機しております。

【お互いに社会的距離を取ることができるように、分散してミサにあずかっていただければ幸いです。】

Ave Maria Immaculata!

My dearest Brethren!

I want to reconfirm the Mass schedule for the weekend of September 27th, 2020.

Mass times in Tokyo:
09:00 - Sung mass Facebook live
11:00 - Low mass
12:30 - Low mass
It would help us maintain proper social distancing if you could consider spreading your mass attendance among the three masses.
Mass location:
"Holy Japanese Martyrs' Mass Center"
Akebonocho Jido-kaikan
1-12-5 Honkomagome, Bunkyo-ku, Tokyo

Mass schedule in OSAKA:

Fri, September 26: Holy Sacrifice of the Mass at 18:00

Sat, September 27: Holy Sacrifice of the Mass at 10:30

Sun, September 28: Holy Sacrifice of the Mass at 18:00

Mon, September 29: Holy Sacrifice of the Mass at 06:30 am.

Tuesday, Sept 30 to Friday Oct 2 : Holy Sacrifice of the Mass at 18:00

Sat, Oct 3: Holy Sacrifice of the Mass at 10:30

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聖伝のミサ(トリエント・ミサ)の報告 東京94名、大阪27名 Traditional Latin Mass in Tokyo and Osaka, SSPX Japan

2020年09月27日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

今日もお恵みに溢れた主日でした。幸せな一日でした。

東京では、ルチアさん家族で4番目に生まれたばかりのかわいいヨゼフ君が天主の子供になり、天国の遺産相続人になりました。
日本では、今年五人目の洗礼式でした。

今日東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計94人でした。
大阪では、27人の方々がミサに与りました。
日本では、合計121名でした!天主様に感謝いたします!

御報告を頂きましたので、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

【報告】【東京】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

今日東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計94人でした。

09:00のミサ
男: 18人(内、子供1人)
女: 20人(内、子供2人)
計: 38人(内、子供3人)

11:00のミサ
男: 11人(内、子供2人)
女: 15人(内、子供3人)
計: 26人(内、子供5人)

12:30のミサ
男: 19人(内、子供3人)
女: 20人(内、子供3人)
計: 39人(内、子供6人)

3回のミサの合計(ダブルカウントの9人を除く)
男: 46人(内、子供6人)
女: 48人(内、子供8人)
計: 94人(内、子供14人)







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第一戒_迷信について_日本人の陥りやすい危険!被造物に祈っても何にもなりません。

2020年09月27日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、天主の十戒の「第一戒」で、今回は特に「迷信」について説明します。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「【天主の十戒】第一戒_迷信」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父

【動画全文】

愛する兄弟姉妹の皆様、天主の十戒の内で、もっとも重大で、荘厳な掟が第一戒です。「第一 われはなんじの主なり。われを唯一の天主として礼拝すべし」です。これに反する罪のうち、迷信について見てみましょう。

【迷信は、礼拝の対象や目的に従って分類される】

偽りの天主を対象として礼拝する、或いは偽りの方法で天主を礼拝することを、迷信と言います。とりわけ、偽りの神々を信じ、礼拝することを「迷信」と言います。つまり、迷信は、礼拝してはならないものに礼拝をすることです。

或いは、真の天主に対してであっても、そうしてはならないやり方で礼拝することも、迷信と言われます。【例えば、約束された救い主であるイエズス・キリストの到来によって、廃止された旧約のやり方によってヤーウェを礼拝しようとするのは、迷信です。】

天主が私たち人間に礼拝を求める究極的目的は、人間が天主に栄光を帰し、心も体も天主に従わせること、です。ですから、真の天主に対する礼拝の目的は三つあります。すなわち、①真の天主を認めて拝むこと、②知性を天主に挙げて天主からの真理の啓示を知ること、③不秩序な情欲を天主の掟に従わせて行動すること、です。天主の掟と教会の掟・一般的な聖伝の習慣に従わせることです。

この目的に従っても、迷信も分類されます。

(1) 真の天主を認めずに拝む、つまり被造物に礼拝を捧げることを「偶像崇拝」idololatria, idolatry といいます。

(2) 天主から啓示された真理を教えられる代わりに、悪魔などとの交渉を企てること通して、或いは無力の手段を通じて、隠れたことを知ろうとするのを「占い」「占卜(せんぼく)」「卜術(ぼくじゅつ)」 divinatio, divinatory などと言います。

(3) 更には、悪魔などとの交渉を企てること通して、或いは無力の手段を通じて、何らかの効果を得ようとすることを幻術(げんじゅつ) vana observatio, ovservances と言います。

これらについて少し説明します。

(1) 作られた偽りの神々の姿や形を「偶像」と言います。聖パウロはこういっています。「かれらは愚かな思いにふけり、その無知の心はくらんだ。かれらは、みずから知者と称えておろかな者となり、不朽の天主の光栄を、朽ちる人間、鳥、獣、はうものに似た形にかえた。…かれらは、天主の真理を偽りに変え、創造主の代りに被造物を拝み、それを尊んだ。」(ローマ1:23-25)

実際、人間が死後「神」になって祀られていたり、恐ろしい形相の偶像が祀られていたりするのを見ます。これらは偶像崇拝です。被造物である太陽、月、星々、山、海、大地などを拝むことも、偶像崇拝です。

偶像崇拝は、重大な罪です。人間が、真の王であり創造主である天主を王として認めず、それ以外のものを最高の王として立てるとすれば、これは反逆罪であり、全宇宙の秩序を乱すという最大の罪を犯すことになるからです。

(2) 「占い」は、非合理的に、してはいけないやり方で、未来のことを永遠の天主だけが知ることができるにもかかわらず、それを天主から横領して自分のものとしようとするので大きな罪です。

天主のみが知る秘密の情報を、天主以外のものから得ようとするのは、愚かであり、間違っています。いえ、きわめて危険です。占いをするのは、私たちを愛する天主に信頼せず従おうとしないことだからです。それよりも私たちの悪を望む悪魔に信頼することだからです。

もしも小さな子供が、子供を愛する生みの母親の手を取って歩いているなら、子供は母親を信頼し、母親が連れて行ってくれるところであればどこでも喜んでいき、母親のくれる食べ物を食べ、母親の与える服を着て、母親の言いつけを素直に聞いて安心しています。

それを、自分がこれからどうなるのか、母親の思いを知ろうと、どこかの知らない人に、無責任な人に、母親や子供に危害を加えようとする人に、伺いを立てたら、それは重大な非礼ですし危険なことです。

何故なら、占いには、天主の御旨に逆らって知ろうとする事実から、明示的に、暗示的に、悪魔との交渉があるからです。明示的にとはあからさまに悪魔の助けや助言を得ようとしたりすることです。暗示的にとは、秘密のうちに、自然を超える悪魔の助けを信じることです。

例えば、神智学とか人智学と言われる近代のグノーシス主義は、空想や感情の透視によって、自然界や霊界の秘密を知ろうとします。

或いは、媒体とかイタコとかと呼ばれる人を通じて、そうしようとする人もいます。あるいは「コックリさん」という危険な死者やその他の霊と交流して知識を得ようとする心霊術を行う人もいます。

ある新興宗教の創始者は「日蓮の霊言」「空海の霊言」「天照大神の霊言」「守護霊メッセージ」などを受けていると、証拠なく主張しています。

太陽や星や星の動きや位置で占おうとする占星術、鳥や動物の鳴き声、人の生年月日や、時にはくしゃみの仕方(!)などで人間の運命を知ろうとする占い、建物や町の位置の吉凶を占う風水(ふうすい)、手の皺(しわ)や形で人間の運命を知ろうとする手相術、水晶の中を覗き込んで幻影を見て行う占い、人の顔を見て占う人相術などがあります。

或いは、カードを使ってどのカードが出るかとか、文字の書かれた石、竹の棒や亀の甲羅やその他の動物、火の形、水の様相、サイコロなど使って未来や吉凶を占ったりすることもあります。

占いは天主の愛に逆らう罪で、非常に危険なものです。どうぞ近寄らないようにしてください。私たちは悪魔と同盟を組むことができないからです。何故ならそれは地獄との契約だからです。さらに、そのために悪魔に犠牲が捧げられたとしたら、もっと危険です。恐ろしいことです。

悪魔は、人間の永遠の滅びを意図しています。悪魔は時には真実を語ることがあるかもしれません、それは人間をよりよく騙すためです。しかし悪魔は嘘を混ぜて人間に教えます。悪魔は最初から嘘つきで人殺しだからです。

ルカによる聖福音には、汚れた悪霊につかれた人が「ああ、ナザレトのイエズス、あなたと私たちとになんのかかわりがあろう?あなたは私たちを亡ぼそうとしておいでになったのか?私はあなたがいかなるお方かを知っている。あなたは天主の聖なるものだ!」と大声に叫んだ。

イエズスがそれを叱って「だまれ!この人を出よ」とおおせられたという史実が記録されています。聖アタナシウスは、これを解説して、悪魔は真理を告白したが、キリストは悪魔を黙らせた、それは悪魔が真理と共に邪悪なことを言わせないためであり、私たちが悪魔の発言を軽んじるためである、と言っています。

占いがたとえ悪魔と明示的な関係がないとおもわれても、それは少なくとも理性に反しています。何故なら、天体やその他の自然界の物体的な事象の偶然の動きや配置は、天主の定めた物体の自然の法則に従っています。(自然法則を計算して予測する天気予報や天文学は占いではありません。)

しかし、天主が自由に愛して与える超自然のお恵みは、自然の法則を超えた最も深い原因(全知全能の天主が無限の可能性の中から完全な自由をもって選ぶ愛)を原理としています。しかも私たちには理性があり自由決定能力があります。たとえ全てを失うぞと脅されようとも、私たちは天主のお恵みにより善を選ぶことができます。

私たちは、天主の愛の御恵みによる御摂理と、私たちの理性とによる協力によって、私たちの人生を、特に永遠の幸せを決定します。いかなる物体も(それが天体であれ)人間の非物体的な知性や意志を決定することはありません。いかなる物体的な影響力や本能にもかかわらず、私たちは知性で真理を知り意志で善を選ぶ自由選択能力を持っています。

(3) 幻術(げんじゅつ)は、魔術ともいわれます。ある自然な原因が自然にある結果をもたらすことは、もちろん不法なことではありません。しかし、自然にそのような結果をもたらすことができない時は、危険です。

或る高額な壺を買って置くと幸福が来るとか、あるネックレス、ブレスレット、指輪などを付けると恋愛成就・商売繁盛・健康長寿・病気平癒・安産子宝だとか、あるお守り、護符(ごふ)を付けると家内安全・試験合格・無病息災(むびょうそくさい)で、金運を呼び起こすとか、その他いろいろな話を御耳にするかもしれません。しかし、そのようなことはありません。ありえません。

本当の幸福は、本当の天主イエズス・キリストを信じ、礼拝し、希望し、愛することによって与えられます。

大天使聖ミカエルに、私たちが悪魔やサタンの攻撃から守られるように祈りましょう!

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【再掲】2018年9月22日(土) 四季の斎日土曜日のミサ 「イエズス様の憐れみ深い奇跡を起こす日―感謝と償いの日」

2020年09月26日 | お説教・霊的講話
2018年9月22日(土)四季の斎日 土曜日のミサ
小野田神父 説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。

今日は2018年9月22日、四季の斎日の土曜日のミサをしております。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

今日はとても長いミサなのですが、簡単な説教をする事を許して下さい。

今日のポイントは3つあります。

⑴ローマでは、最初の迫害の300年の間、いつも主日の前には土曜日には、徹夜でミサの前の準備をしていました。迫害が特に厳しくなって、デオクレチアノ皇帝の時には、その事は既にする事が非常に困難になっていましたが、それでも復活の徹夜祭や、この四季の斎日にはその名残りが残っています。そこで多くのお祈りと読書があります。

⑵第2のポイントは、今日特にミサで、ミサのでテキストで強調されているのは、「新約のこのミサは、新約の全ての儀式は、旧約の影を実現させるものである」というところです。

特に旧約時代には、月の第7番目、第7の月には、秋の収穫の感謝と、そして幕屋祭のお祭りをしていました。これはどういう事かというと、「罪を犯していたにも関わらず、天主が憐れみを以て、これほどの地上での実りを送って下さった事を感謝する」という事、「その感謝の為に、断食や、そして祈りを捧げる」ということです。

もう1つは、「ヤーウェが、旧約の時代にモーゼを通してエジプトから脱出させてくれて、そしてシナイの砂漠をさまよっている間、マンナで養って下さった。そしてその間に天主は幕屋にも住み給うた。その幕屋を感謝する。天主がいつも私たちと共に居られる」という事を感謝する祈りです。

それが旧約の時代という影が、新約の実体ではこの9月です。9月というのは実はラテン語では「7番目の月」と言うのです。“september(セプテンベール)”というのはつまり、「7(septem)の月」といういみです。「それによって完成させられた。なぜかというと、霊的な実りを私たちは受け取って、そしてこの地上で悪魔から、洗礼を以て解放されて、そしてイエズス・キリストの御体によって、天からの本当のマンナによって養われ、そして天主の本当の幕屋である教会を持っている。私たちの霊魂が天主の幕屋となる」という事を実現しているからです。


⑶第3のポイントは、福音です。これは福音では、2つの話が語られます。関係ないように見えて、実は深い関係があります。

1つは、私たちは新約の時代に生きていて、イエズス様の為に多くの実りをもたらさなければならない者であるにも関わらず、しかしあまりにもこの地上の事に関わっているが為に、天主に祈りを捧げる事ができない、霊的に実をもたらしていない、イエズス様の為に実を付ける事ができない、役に立たない木のようである。しかし、そのような私たちを見て天主聖父(おんちち)は、「あぁ、この木を植えて、洗礼を授けて、もう何年にもなるにも関わらず、全く実りを付けない。何で私のこの公教会という畑に植わっているのか。実りは無いではないか」と言うと、農夫であるイエズス様が天主聖父に、「お待ち下さい。この根の周りに溝を掘って肥やしをやります。水をかけます。太陽がちゃんと照るように心を砕きます。どうぞもう少しお待ち下さい。しかしそれにもかかわらず実を付けないのであれば、抜き取って焼いて下さい。火にくべて下さい。」

「イエズス様は私たちの為に、私たちが霊的な実を付けるように心を砕いて下さる。その為に肥やしとして、御自分の御体を与えて、聖父に執り成して下さる。御血を、御自分の御血を以て、手で作られない幕屋に入って、そして私たちの為に、永遠の大司祭として執り成しをして下さる」という事が話されます。

そしてそればかりか、今日は土曜日ですけれども、旧約の時代ではこの土曜日の事を “sabbato” 「安息日」と言っていました。この土曜日に、あまりにも地上ばかりを見て、この地上の事だけを見て、背中が曲がってしまった老人のように、真っ直ぐになる事ができない私たちにイエズス様がやって来て、「18年間、天を見る事もできないのか。真っ直ぐになれ」と言うと、今日この安息日に、おばあさんがシャキッと天を見る事ができて、天主を讃美した奇跡が起こります。

もしもこのおばあさんの腰をも真っ直ぐにする事ができたのであったならば、イエズス様は私たちの霊魂をも、この地上の事から引き上げて、引き離して、真っ直ぐに上げる事ができます。「今日その事が起こる」と教会は言っています。なぜかというと、聖体拝領誦の時に私たちは、「旧約の時代が過ぎ去って、新約の時代が、御聖体拝領によって完成させられる」事が歌われるからです。イエズス様が御体を、御血をも、肥やしとして私たちに与えて下さるからです。

ですから今日は、このイエズス様の憐れみ深い奇跡を起こす日である、という感謝と償いの日として、そして四季の土曜日を過ごす事に致しましょう。マリア様に御取り次ぎを乞い求めましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。








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ナイムの寡婦の一人息子を復活させたイエズス様の様子を見ると私たちには2つの事が分かる

2020年09月26日 | お説教・霊的講話
2020年9月13日(主日)聖霊降臨後第15主日
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父メッセージ



聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄妹姉妹の皆様、今日のミサの福音では、イエズス様が奇跡を行なった歴史的な出来事を読みました。

「ナイムの寡婦の一人息子を復活させた」このイエズス様の様子を見ると、私は本当に、私たちには2つの事が分かると思います。

1つは、イエズス様が、私たち人間の事をどれほど深い愛を以って愛しておられるかという事です。

第2は、イエズスがマリア様をどれほど愛しておられるかという事です。

イエズス様は、私たちを愛して、そして私たちから悲しみを取り除いて、私たちを喜ばせようと、いつも思っておられます。

そして今日ナイムの青年が復活したように、私たちも洗礼を受けた時に、霊的に復活しました。
私たちにとって最も大事な価値は、最も重要な大切な宝物は、この「三位一体の超自然の命が、私たちの中に生きている」という事です。この「命」こそが、「イエズス様と一致している」という事こそが、私たちにとって最も大切な価値を持っています。

なぜかというと、これこそが、私たちを永遠の命に導くからです。もしもこれを失ってしまっては、もしも罪を犯す事によってこれを無くしてしまっては、成聖の恩寵を失ってしまっては、私たちはもう天国に行く事はできなくなってしまいます。私たちには尊厳を失ってしまいます。私たちは地獄に行くにふさわしい者と、永遠の死を受けるにふさわしい者となってしまうからです。

ですから、この私たちが洗礼の時に頂いたこの超自然の命、三位一体の命を大切に守るように致しましょう。天主様の御恵みによって守る、という決心を立てましょう。

そして私たちには、問題・不幸な事・あるいは辛い事・嫌な事がたくさん身に降りかかるかもしれません、「あぁ、何でこんな事が」「何でそんな事が」と。

しかし私たちは、「十字架の中」にのみ、本当の解決策、本当の手段、本当の答えを見つける事ができます。

そうすると、私たちにとって最も大切なのは、イエズス様と一致している事ですから、天主の命を守る事ですから、むしろ「十字架の中」にこそ、実はイエズス様との一致を見出して、イエズス様の愛を感じて、私たちにとっては喜びの元となったり、幸せの、幸福の元となります。

ですから、この「イエズス様との一致こそが大切だ」という事をいつも頭に、念頭に置く事ができるようにお祈り致しましょう。

第2に、今日ナイムの寡婦を自分で進んで慰めようと思ったのは、これはもちろんイエズス様が、マリア様の事を思ったからに違いありません。

なぜかというと、「もうすぐ、寡婦のマリア様も、ご自分の御一人子を十字架の上で失ってしまう」という事を思いやったからに違いありません。ですから「ぜひ、」マリア様とこのナイムの婦人がこの一致して、「あぁ、何とか、何とかしたい」と思ったに違いありません。

ですから、頼まれもせずに、このお母さんを慰めました。

ですから私たちも、マリア様を、イエズス様と同じように愛する事に致しましょう。そしてマリア様を御悲しませさせないように、マリア様をできるだけお喜ばせする事ができますように、お祈り致しましょう。

明日は、十字架の称讃の祝日で、明後日は、マリア様の御悲しみの祝日です。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。





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日本は聖母からいつも愛されています。聖母は日本にいる私たちをいつも母の心で愛しておられます。

2020年09月25日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2020年8月23日に録画した、聖母マリアの母親の心と日本の歴史のお話をご紹介します。

聖母マリアの汚れなき御心と日本

1549年の被昇天の日、聖フランシスコ・ザビエルは日本にたどり着きました。聖フランシスコ・ザビエルは地球の西の果て、日の沈む国であるポルトガルから、同じ地球の東の果て、日の昇る国である日本へと、正義の太陽なるイエズス・キリストの光をもたらすためにやってきたのです。

聖フランシスコ・ザビエルは、日本に到着する15年前の1534年、聖イグナチオ・デ・ロヨラや仲間たちと共にパリのモンマルトルで誓いを立て、イエズス会を創立しました。それもまた被昇天の祝日でした。聖母は聖フランシスコ・ザビエルを、教皇パウロ3世の大使として、エルサレムへの巡礼に代えて、インドへ、そして日本へとお送りになりました。

聖フランシスコ・ザビエルが被昇天の祝日に日本に到着したお蔭で、私たちの幾千万の先祖たちが、身分の高い者も低い者も、男も女も、天国への道を知ることとなりました。皆は洗礼の秘蹟を受け、イエズスを長子に、マリアを天の母に戴く天主の養子となりました。私たちの主は十字架の上で、「これがあなたの母です」とおっしゃいました。日本にいる私たち全てにとって、聖母はいつも慈しみ深い御母であってくださいます。

殉教者の元后である聖母は、日本のカトリック信者を守ってくださいました。幾千万のカトリック信者が、主の御体と御血に養われ、イエズス・キリストの御神性を証すために自らの血を流し、自らの体を御捧げしました。雲仙での殉教者たちは、「御聖体の秘蹟は讃美せられさせ給え」と叫んで殉教しました。島原では、迫害された信者たちは、撃たれた鉄砲の弾をロザリオの珠としてロザリオを祈りました。これが信者たちの反撃の武器だったのです。西坂で最初に穴吊りの刑に処された福者ニコラオ福永は、最期の言葉として聖母の連祷を唱えながら天主に霊魂をお返ししました。

しかし私たちの先祖たちへの最も恐るべき拷問は、(1660年代から1858年に至る)およそ200年間、聖なるピエタ(聖母子像)を足で踏み付けにすることを強制されたことでした。私たちのために十字架に付けられた天主の御子イエズス・キリストの御像、そして主の死を嘆き悲しみ、主の御体を御胸に抱かれた聖母、また私たちの永遠の救いのためにいたくお苦しみになった私たち自身の御母の御像、これらの御像を踏み付けにすることは、いかに辛いことであったでしょうか。キリスト信者が迫害に遭う時、聖母も子どもたちとともにお苦しみになったのです!

長年にわたって司祭のいない間、姿を隠したカトリック信者たちは、天主の御母の御像を隠し、聖なるロザリオを唱え続けました。喜びの玄義、悲しみの玄義、栄えの玄義を黙想しました。司祭たちに代わって私たちの先祖を力づけ、支えたのは、天主の御母だったのです。日本各地に残る数多くの切支丹遺物が、信者たちの御母への愛を証しています。

イタリア人のシドッティ神父は日本での宣教の望みを持ち、命の危険をも顧みず、1708年屋久島にたどり着きました。シドッティ神父は、カルワリオで悲しみと、慰めなき御苦しみを涙をもって御捧げする悲しみの聖母の御影(ごえい)をもって来ていました。1714年にシドッティ神父が切支丹牢獄で殉教した後も、今日まで、この御影は東京国立博物館に残されています。日本の子どもたちのために涙を流された悲しみの聖母の御影です。

パリ外国宣教会の司祭であったフランス人のフォルカード神父もまた、汚れなき御心に霊感を受けて、日本への初めての宣教を行いました。300年にわたる血なまぐさい迫害の後、1844年、マリアの月の最初の日、今の沖縄県の那覇港において、フォルカード神父は日本を、聖母のいと清き御心に、無条件に御捧げしました。1856年2月11日には、フランスのルルドにおいて無原罪の御宿りが聖ベルナデッタにお現れになりました。天主のみ旨によって、何故か2月11日は日本の建国の記念日とされています。汚れなき御母の計らいで、後に司教となったこのフォルカード司教が、フランスのヌヴェールの司教として、聖ベルナデッタに召命をもたらすこととなるのです。

1865年3月17日、御母は隠れていた子どもたちをご自分の麗しい像の下へとお招きになりました。「サンタマリアの御像はどこ?」これこそが子どもたちの探し求めていたものでした。「ほんとにサンタマリアさまだ!」「御子ゼスス様を抱いていらっしゃる!」遂に子どもたちは、喜びのうちに御母を見つけたのです!彼らはカトリックの宣教師である司祭(パドレ)に自分たちの信仰を明かしました。彼らは後に、自分たちの「旅」と呼んだ追放処分を受けてしまいますが、御母は流された子供たちに付き従い、津和野において優しき御母としてお現れになり、彼らによりそってお慰めになります。

今から約100年前の1917年、ポルトガルのファティマにおいて、聖母は私たちを愛する御心である汚れなき御心をお示しになりこう言いました。「私はあなたたちを決して見捨てません。私の汚れなき御心があなたの避難所となるでしょう。天国に天主様へと導く道となるでしょう。」

その同じ年、聖母は聖母のしもべ聖マキシミリアノ・コルベに、聖母への奉仕に全く奉献された「無原罪の聖母の騎士会」をローマにおいて設立するという燃える望みをお与えになりました。そして聖母は、特別の賜物として、このしもべを日本の長崎にお送りになりました。

第二次世界大戦中、数多くの司祭が、戦争の終結を願い、ファティマの聖母に毎晩長い祈りを捧げました。1945年8月9日、被昇天の大祝日の準備中、長崎の数多くのカトリック信者が核爆弾の犠牲となりました。聖母の愛する子どもたちとともに、汚れなき御宿りの御像もこの犠牲となりました。御母は子どもたちを決してお見捨てにはなりません。子どもたちは愛をもって、御母とともに、死の苦しみをいけにえとしてお捧げしたのです。また同じ頃ポーランドでは、聖マキシミリアノ・コルベが同じように自らの命をお捧げしたのです。

パウロ永井隆博士は長崎のカトリック教会の信徒代表として、葬儀の弔辞の演説でこのように述べました。
「日本は聖母に献げられた国であり、吾浦上の天主堂もまた特に聖母に献げられたものであることを想い出すなり。・・・いくた殉教の血を流しつつ四百年、正しき信仰を守り通したわが浦上教会こそはまこと世界中より選ばれて、天主の祭壇に献げられるべき潔き羔の群れではなかりしぞや。・・・浦上教会が世界中より選ばれ燔祭に供えられたことを感謝致し奉る。」

聖母のとりなしにより、聖母の被昇天の大祝日に日本は終戦を迎えました。日本の司教たちはたちまちこれを認めて、一致して日本を聖母マリアの汚れなき御心にお捧げしました。教会の鐘が私たちを主の讃美へと招き、1549年のごとく、被昇天の祝日が日本に再び響きわたったのです。1951年、聖母の御生誕の祝日に日本はサンフランシスコ講和条約に調印し、その結果、戦争状態は正式に終結し、日本の主権が承認されました。それは、聖母がいつもやさしい母として子どもたちのことをみておられるように、御母の誕生日に起こったのでした。

1975年の初土曜日から、1981年の9月15日、聖母の御悲しみの記念日に至るまで、聖母は秋田においでになり、101回涙を流し、子どもたちの救いのためのファティマのメッセージを繰り返しお伝えになりました。小さき子どもたちを自らに招くため、聖母は数多くの涙を流されました。聖母は子どもたちを愛するご自分の汚れなき御心が愛されていないこと、そして、ご自分の訴えがご自分の子どもたちに無視されていることを嘆いておられます。

日本は聖母からいつも愛されています。聖母は日本にいる私たちをいつも母の心で愛しておられます。私たちの瞼の母である聖母は、天国から私たちの名前を呼んで、探してくれています。放蕩息子で家出した子供であっても、たとえお恵み目当てであったとしても、もしも私たちが聖母を探して行くなら、会いに来た私たちを温かく受け入れてくれます。
「ああ、我が子や、よく来たね。つらいことがいっぱいあったね。お母さんがここにいるからね。もう大丈夫だよ。お母さんはおまえたちを決して見捨てないからね。」

おおわが愛すべき御母よ、我らに御身を愛させ給え!


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日本は聖母マリア様から特別に愛されてきた!日本と聖母マリア様の歴史をお話しします - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

アヴェ・マリア・インマクラータ!愛する兄弟姉妹の皆様、2020年8月23日、聖霊降臨後第12主日に東京で録画した小野田神父のメ...

日本は聖母マリア様から特別に愛されてきた!日本と聖母マリア様の歴史をお話しします - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

 

 

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2020年9月24日ルフェーブル大司教の遺体を今までのお墓から、聖母の汚れなき御心教会の地下の墓に移動させます

2020年09月24日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

Transfert de Mgr Lefebvre - 24 septembre 2020

2020年9月24日、エコン神学校開校50年を記念して、ルフェーブル大司教の遺体を今までのお墓から、聖母の汚れなき御心教会の地下の墓に移動させます。

Le 24 septembre 2020, le Séminaire International Saint Pie-X célèbre le jubilé d’or de son ouverture à Écône. Après la messe d’action de grâce pour ces 50 années, le corps de S. E. Mgr Marcel Lefebvre sera transféré du caveau du séminaire à la crypte de l’église du Cœur Immaculé de Marie.

Accédez à la diffusion vidéo de la cérémonie en direct:

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2020年10月4日は、聖霊降臨後第十八主日(降临后第十八主日: 성신 강림 후 제 십팔 주일)です。聖伝のミサのラテン語と日本語・中文・韓国語の対訳のテキストをご紹介いたします

2020年09月23日 | お説教・霊的講話

2020年10月4日は、聖霊降臨後第十八主日(降临后第十八主日: 성신 강림 후 제 십팔 주일)です。聖伝のミサのラテン語と日本語・中文・韓国語の対訳のテキストをご紹介いたします

聖霊降臨後第十八主日: 降临后第十八主日: 성신 강림 후 제 십팔 주일

【ミサ聖祭】本日より典礼は、聖霊降臨後の第二期に入る。「人が、私に、主の家の方に行こうと告げたので、私は喜んだ。」〈入祭文、昇階誦〉聖パウロのように、教会は、主の来臨による完きよろこびを待ちのぞんでいる。本日の典礼は、次の主日と同様に、キリストの光栄の来臨の方にとわれらの目を向けさせ、義人にとってうたがうべからざる平和をのぞませる。〈聖福音〉は、キリストが司祭を通じてわれらに与え給う罪のゆるしを信頼せよと教える。

由本主日开始,我们已到了圣神降临后的尾期,这是基督徒对基督重临所期望的时期。所说的基督重临,是指世界的末日或各人的死候,而我们与祂再次相遇。弥撒中给我们所申述的,是“天主的家”。所谓天主的家,首先便指天堂,即天主子女永久的家乡。在圣洗时,我们得了基督的宽赦和祂的治疗,祂把我们改造,凭藉祂的圣宠而成为天主的子女。耶稣又因着圣体圣事,在我们身上不断的继续祂圣化的工作;祂又不断的对我们注意,务使我们不缺乏任何的恩宠,使我们坚持到底,忠实无罪,直至进入天父的家(书信)。“天主的家”也指我们本区的堂口,在那里我们领受了圣洗,在那里每主日我们聚集一起,为在与我们的元首基督结合之下,献给天主赎罪的祭献。(旧约的祭献【奉献咏】便是这圣祭的预像。)所以每主日,我们该热切的会集于这圣堂之中,并恳切呼求圣宠,使我们在通往天上家乡的道路上,常能以真的天主子女自持自处(密祷经)。

'예수, (반신불수를 데려온 자들의) 신덕을 보시고 이르시되...'아들아 안심하라, 네 죄를 사하느니라' (이 사죄를 비난하는 사람들 때문에) 그런다음 예수 반신불수더러 이르시되 '일어나 네 평상을 가지고 네 집으로 가라'... 백성이 .... 이러한 권을 사람에게 주신 천주를 찬양하니라'(복음)
교회력은 주년 말에 가까웠다. 우리도 또한 완숙기를 향해서 자라왔다. 젊은 시절에 우리는 완전하게 되는 것을 그저 쉬운 것으로만 여겼었다. 그러나 이제 우리는 구원을 간구하고 있다. 즉 오늘날 우리가 간구하는 것은 '오! 주여, 평화를 주소서' 하는 외침이다. 이웃과의 평화, 나라 사이의 평화를 위해서 필요한 조건은 무엇인가? 그것은 천주와의 평화이다. 우리가 평화를 간구한다는 것은 우리 자신을 바로 천주께 합치시키고자 원한다는 것을 말한다.
우리 인생의 '저녁때'에(제헌경), '우리의 마음을 인도하시는'(축문) 천주의 자비를 간구하여, 우리의 제물이 당신의 것과 합하게 함으로써, 우리로 하여금 '주의 궁전'에로 들어갈 수 있도록 빌 것이다.(서간경) 우리는 '참을성 있게 천주를 기다린다'(초입경). 그러나 어떠한 태도로 기다릴 것인가? 이는 물질적 재물을 축적함으로써가 아니고, 오직 '주안에서 부한자'가 됨으로써이다. 
우리는 과연 다른이들에게 대해서  평화의 사자가 되어 있는가? 저 '중풍 환자'는 자기 스스로는 아무 것도 할 수 없었다. 그러나 그의 친구들이 그를 데리고 오고 또 예수께서 그들(친구들)의 신덕을 봄으로써만, 그 환자를 고쳐주었으며 죄를 면해 주시지 않았던가?

Dominica Decima octava post Pentecosten 聖霊降臨後第十八の主日 降临后第十八主日 성신 강림 후 제 십팔 주일
II Classis 二級祝日 复式【绿】  (2급) 초록색
Ant. ad Introitum. Eccli. 36, 18. 入祭文 集会書、36ノ18 进台咏(德36:18) 초입경(엑클레시아스디구스36.18)
Da pacem, Dómine, sustinéntibus te, ut prophétæ tui fidéles inveniántur : exáudi preces servi tui et plebis tuæ Israël. 主よ、御身を待ち望む人々に平和を与え給え、御身の予言者たちが忠実であると見出されんために。御身の下僕かつ御民イスラエルの祈りをききいれ給え。 主啊!求祢将平安赐给期望祢的人民,好使祢的先知们被人认为忠实。上主,求祢俯听祢仆人和祢子民伊撒尔的祈祷。 주여 너를 꾸준히 기다리는 자들에게 평화를 주사 네 선지자들을 성실한 자로 드러내시며 또한 네 종과, 네 백성 이스라엘의 기구를 들으소서.
Ps. 121, 1. 詩篇、121ノ1 咏121:1 (성영121.1) 
Lætátus sum in his, quæ dicta sunt mihi : in domum Dómini íbimus. 私に言われたことのために私は喜んだ、主の家へ私たちは行くだろう、と。 当人对我说:“我们到上主的圣殿”时,我欢乐盈盈。 내게 말하되 우리는 주의 집에 들어가리로다 하매 기뻐하였노라. 
V/.Glória Patri. V/. 願わくは聖父と・・・(栄誦)。 光荣归于父……。 영광이 부와 자와 ...
Da pacem, Dómine, sustinéntibus te, ut prophétæ tui fidéles inveniántur : exáudi preces servi tui et plebis tuæ Israël. 主よ、御身を待ち望む人々に平和を与え給え、御身の予言者たちが忠実であると見出されんために。御身の下僕かつ御民イスラエルの祈りをききいれ給え。 主啊!求祢将平安赐给期望祢的人民,好使祢的先知们被人认为忠实。上主,求祢俯听祢仆人和祢子民伊撒尔的祈祷。 주여 너를 꾸준히 기다리는 자들에게 평화를 주사 네 선지자들을 성실한 자로 드러내시며 또한 네 종과, 네 백성 이스라엘의 기구를 들으소서.
Oratio. 集祷文 集祷经 축문
Dírigat corda nostra, quǽsumus, Dómine, tuæ miseratiónis operátio : quia tibi sine te placére non póssumus. Per Dóminum. 主よ、願わくは、御あわれみのわざが、私たちの心を導かんことを。何故なら御身なしには、私たちは御身に嘉せられることができないからである。天主として、(…)。 主,求祢行使祢的仁慈,指导我们的心灵:因为没有祢,我们便不能中悦祢。因我们主……。 주여 너 없이는 우리가 능히 네 성의에 합하지 못하오리니 빌건대 네 인자를 베푸사 우리 마음을 인도하시되, 네 아들 우리 주 예수 그리스도를 인하여 하소서. 저 너와 성신과 ...
Léctio Epístolæ beáti Pauli Apóstoli ad Corinthios. 使徒パウロの,コリント人への書簡の朗読 书信 서간경
1. Cor. 1, 4-8. コリント前書、1ノ4 - 8 (格前1:4-8) (고린토전서1.4-8)
Fratres : Grátias ago Deo meo semper pro vobis in grátia Dei, quæ data est vobis in Christo Iesu : quod in ómnibus dívites facti estis in illo, in omni verbo et in omni sciéntia : sicut testimónium Christi confirmátum est in vobis : ita ut nihil vobis desit in ulla grátia, exspectántibus revelatiónem Dómini nostri Iesu Christi, qui et confirmábit vos usque in finem sine crímine, in die advéntus Dómini nostri Iesu Christi. 兄弟たちよ、あなたたちがキリスト・イエズスにおいて賜わった天主の恩寵のために、私は絶えず天主に感謝している。あなたたちは、かれにおいて、全てのこと、つまり全ての言葉と全ての知識に富んだものとなったからである。それほど、あなたたちの中に、キリストの証明が固められた。こうしてあなたたちは、霊的なたまものにも欠けることなく、主イエズス・キリストのあらわれを待っている。かれはあなたたちを、主イエズス・キリストの日に、咎なきものとするために、終りまで固め守られるだろう。 弟兄们:我时常为你们感谢我的天主,因为衪藉着基督耶稣,把自己的圣宠赏给了你们,使你们藉着衪在一切事上,无论在言语或知识方面都得以富足;对基督所作的证明,在你们中间已经坚固地建立了;因而当你们切望着我们主耶稣基督再显现的时候,任何特恩都不缺少。衪自始至终坚固你们的心,使你们在我们主耶稣基督降临的日子,没有可责斥的地方。 형제들아 너희가 예수 그리스도 안에 받은 천주의 성총을 나 항상 너희를 위하여 내 천주께 감사하노니 이는 너희가 저 안에 모든 교훈과 모든 지식과 만사에 부한자 되고 또한 그리스도의 증거하심이 너희 안에 견고케 되었음이로다. 그러므로 너희는 아무 성총에도 결함이 없이 우리 주 예수 그리스도의 발현하심을 기다리나니 저는 또한 끝까지 너희를 견코케 하사 우리 주 예수 그리스도의 오시는 날까지 무죄하게 하시리로다.
Graduale. Ps. 121, 1 et 7. 昇階誦 詩篇、121ノ1, 7 台阶咏(咏121:1,7) 층계경(성영121.1,7)
Lætátus sum in his, quæ dicta sunt mihi : in domum Dómini íbimus. 私に言われたことのために私は喜んだ、主の家へ私たちは行くだろう、と。 当人对我说:“我们到上主的圣殿”时,我欢乐盈盈。 내게 말하되 우리는 주의 집에 들어가리로다 하매 나 기뻐하였노라. 
V/. Fiat pax in virtúte tua : et abundántia in túrribus tuis. V/. 御身の力において平和があらんことを、繁栄が御身の塔らにあらんことを。 愿和平在祢的城垒内,愿康泰在祢的宫殿中。 네 적루에 평화함이 있고 네 고루에 충일함이 있을지어다.
Allelúia, allelúia. V/.Ps. 101, 16. アレルヤ、アレルヤ。V/.詩篇、101ノ16 阿肋路亚。阿肋路亚! 알렐루야 알렐루야. (성영101.16) 
Timébunt gentes nomen tuum, Dómine, et omnes reges terræ glóriam tuam. Allelúia. 主よ、異邦人らは、御身の御名をおそれるだろう、また地上の王たちは、御身の光栄を[畏れるであろう]、アレルヤ。 上主啊!万国都要敬畏祢的名;世上的列王都要敬畏祢的荣耀。阿肋路亚。 주여 외인들이 네 이름을 무서워하고 천하의 제왕들이  네 영광을 두려워하리로다. 알렐루야.
+ Sequéntia sancti Evangélii secundum Matthǽum. マテオによる聖福音の続誦 福音 복음
Matth. 9, 1-8. 9ノ1 – 8 (玛9:1-8) (성마두9.1-8)
In illo témpore : Ascéndens Iesus in navículam, transfretávit et venit in civitátem suam. Et ecce, offerébant ei paralýticum iacéntem in lecto. Et videns Iesus fidem illórum, dixit paralýtico : Confíde, fili, remittúntur tibi peccáta tua. Et ecce, quidam de scribis dixérunt intra se : Hic blasphémat. Et cum vidísset Iesus cogitatiónes eórum, dixit : Ut quid cogitátis mala in córdibus vestris ? Quid est facílius dícere : Dimittúntur tibi peccáta tua ; an dícere : Surge et ámbula ? Ut autem sciátis, quia Fílius hóminis habet potestátem in terra dimitténdi peccáta, tunc ait paralýtico : Surge, tolle lectum tuum, et vade in domum tuam. Et surréxit et ábiit in domum suam. Vidéntes autem turbæ timuérunt, et glorificavérunt Deum, qui dedit potestátem talem homínibus. そのとき、イエズスは、舟にのって海を渡り、ご自分の町においでになった。すると、人々が、床に寝ている中風の人を、みもとにつれて来た。イエズスは、かれらの信仰を見て、中風の人に向かい、「子よ、信頼せよ。あなたの罪は、ゆるされた」とおおせられた。そのとき、ある律法学士たちは、心の中で、「この人は、冒涜のことばを吐いた」と思った。イエズスは、その人たちの考えをみぬいて、「なぜ、あなたたちは、心の中で、よからぬことを考えているのか。あなたの罪はゆるされた、というのと、起きて行け、というのと、どちらがやさしいか?人の子が、地上で、罪をゆるす権力をもっていることを知らせるために……」。そういって、中風の人に向かい、「起きて、床をとって家に帰れ」とおおせられた。病人は、起きて、家へ帰った。群衆はこれを見ておそれ、これほどの権力を人間にお与えになった天主を賛美した。 那时候,耶稣上了船过海,来到本城(葛法翁),有人给衪抬来一个躺在榻上的瘫子。耶稣看见他们的信德,就对瘫子说:“小子!信任吧!你的罪赦了。”有几个经师心中说:“这人亵渎了天主。”耶稣看出了他们的心意,就说:“你们为什么心中起恶念?说‘你的罪赦了。’或说:‘你起来走吧!’那个更容易说?——现在叫你们知道:人子在世上有赦罪的权柄……”于是祂对瘫子说:“起来,拿起你的榻,回到家里去吧!”瘫子就起来,回到家里。群众看见了,都敬畏起来,而颂扬天主赋给人们这样的权柄。 유시에 예수 거루를 타시고 건너사 본읍에 오시니 문득 평상에 누운 반신불수 하나를 메어오는지라. 예수 저들의 신덕을 보시고 반신불수더러 이르시되 '아들아 안심하라 네 죄를 사하느니라' 하시니 문득 학자중 몇이 제 속으로 이르되 '이 사람이 천주를 설독하는도다.' 하거늘 예수 저들의 생각하는 것을 보시고 이르시되 '어찌 너희 마음에 악한 것을 생각하느냐. 네 죄를 사하느니라 하거나 혹 이르되 일어나 다니라 하는 것이 어느 것이 더 쉬우뇨. 인자 세상에서 사죄하는 권이 있는 줄을 너희로 하여금 알게 하리라' 하시고 이에 반신 불수더러 이르시되 '일어나 네 평상을 가지고 네 집에로 가라' 하시니 일어나 제집으로 갈새  백성이 보고 놀라며 이러한 권을 사람에게 주신 천주를 찬양하니라. 
Credo 信経 信经 신경 외움
Ant. ad Offertorium. Exodi 24, 4 et 5. 奉献文  出エジプト記、24ノ4 . 5  奉献咏(出24:4,5) 제헌경(출애급기24.4,5)
Sanctificávit Móyses altáre Dómino, ófferens super illud holocáusta et ímmolans víctimas : fecit sacrifícium vespertínum in odórem suavitátis Dómino Deo, in conspéctu filiórum Israël. モイゼは主のために祭壇を聖別した、その上で燔祭をささげ、いけにえを屠りつつ。イスラエルの子らの前で、主なる天主のために甘美な香りの夕べの犠牲(いけにえ)を行った。 梅瑟同主祝圣了祭坛,在祭坛上奉献全燔祭与牺牲;他在伊撒尔全体民众前献给了上主天主馨香的晚祭。 모세 주를 위하여 제대를 축성하고 그 위에 제물과 희생을 드려 이스라엘 자손들 앞에서 유쾌한 향기로 주 천주께 저녁 제사를 드리니라.
Secreta. 密誦 密祷经 묵념축문
Deus, qui nos, per huius sacrifícii veneránda commércia, uníus summæ divinitátis partícipes éfficis : præsta, quǽsumus ; ut, sicut tuam cognóscimus veritátem, sic eam dignis móribus assequámur. Per Dóminum. 天主よ、御身は、この犠牲(いけにえ)の尊い交換を通して、われらをして唯一の最高の天主性に参与する者らとなし給う。願わくは、われらが御身の真理を知るように、相応しい生活によってその真理に我らが従わんことを。天主として、(…)。 天主,祢藉着这圣祭的奇异交换,使我们分享祢独一无二、至高无上的天主性;求祢恩赐我们,既然认识祢的真理,也能把此真理在行为上表现出来。因我们主……。 천주여 너 우리로 하여금 이 공경하올 제사의 네게 통함으로 인하여 하나이시요 지극히 거룩하신 네 천주성에 참여케 하신지라 비오니 또 네 진리를 앎과 같이 합당한 행실로 이를 얻게 하시되, 네 아들 우리 주 예수 그리스도를 인하여 하소서. 저 너와 성신과 ...
Præfatio de sanctissima Trinitate ; 三位一体と主日との序誦 天主圣三的颂谢引 성삼감사경
Vere dignum et iustum est, æquum et salutáre, nos tibi semper et ubíque grátias ágere : Dómine, sancte Pater, omnípotens ætérne Deus : Qui cum Unigénito Fílio tuo et Spíritu Sancto unus es Deus, unus es Dóminus : non in uníus singularitáte persónæ, sed in uníus Trinitáte substántiæ. Quod enim de tua glória, revelánte te, crédimus, hoc de Fílio tuo, hoc de Spíritu Sancto, sine discretióne sentímus. Ut, in confessióne veræ sempiternǽque Deitátis, et in persónis propríetas, et in esséntia únitas, et in maiestáte adorétur æquálitas. Quam laudant Angeli atque Archángeli, Chérubim quoque ac Séraphim, qui non cessant clamáre cotídie, una voce dicéntes : Sanctus… 主よ、聖なる父よ、全能永遠の天主よ、われらが御身に、いつもどこにても感謝を捧げるのは、実にふさわしく正しいこと、義務と救いである。御身は、御独り子と聖霊と共に、唯一の天主、唯一の主にて在す。すなわち、御身は、一の位格の単一にて在すのではなく、唯一の実体(substantia)の三位にて在す。御身の御光栄について、御身が啓示するがゆえに、われらが信じ奉ることを、聖子について、聖霊について、差別なく、われらは信じ奉る。真の永遠の天主の本性を告白するにおいて、位格における固有性が礼拝され、本質(essentia)における唯一性と、御稜威における等しさも礼拝されるためである。これを、天使らと大天使らは、智天使も熾天使も、讃美し、絶え間なく声を上げ、日々声をあわせてこう言う。聖なるかな、… 主,圣父,全能永生的天主!我们时时处处颂谢祢,实是正义而必须的,属于我们天职的,也属我们得救的。祢与祢的独子及圣神,只是一个天主,只是一个主;不是因为位是单独一个,却是因为三位同具一个性体。的确,我们所怎样依照祢的启示,相信祢享的光荣,我们无区别地也同样确认祢的圣子,也同样确认圣神共享这个光荣。因此,我们在明认圣三真实而永在的天主性上,同时论位,我们敬拜圣三的各一,论体,我们敬拜圣三的无二,论尊荣,我们敬拜圣三的均等。这圣三的尊荣,是天神们和总领天神们,普知天神们和炽爱天神们,所虔诚歌颂的;他们日复一日,永不停止同声高呼说:圣、圣、圣…… 주여, 성부여, 전능하시고 영원하신 천주여, 우리가 어디서나 항상 주께 감사하는 것이 참으로 당연하고 옳으며, 지당하고 구령에 유익하나이다. 주는 외아들과 성신과 더불어 오직 한분의 천주시요, 오직 한분의 주이시되, 한 위가 아니시고, 한 체로서 세 위시니이다. 주의 계시로 우리가 주의 영광에 대하여 믿는 바를, 성자와 성신에 대하여서도 조금도 다름이 없이 믿나이다. 그리하여 우리는 참되시고 영원하신 천주성을 찬미함에 있어, 위로서는 각 품이시요, 체로서는 하나이시요, 지존하시기는 같으심을 찬송하나이다. 천신들과 대천신들 및 케루빔과 세라핌이 이를 찬양하며, 날마다 간단없이 제창하나이다. 거룩하시다, 거룩하시다, 만군의 천주이신 주는 거룩하시나이다. 하늘과 땅에 주의 영광이 가득하나이다. 천상에 좌정하신이여 호산나, 주의 이름으로 오시는 이는 찬미받아지이다. 천상에 좌정하신이여 호산나.
Ant. ad Communionem. Ps. 95. 8-9. 聖体拝領誦  詩篇 95ノ8 - 9  领主咏(咏95:8-9) 영성체경(성영95.8,5)
Tóllite hóstias, et introíte in átria eius : adoráte Dóminum in aula sancta eius. いけにえを取れ、そして主の中庭に入れ。主の聖なる部屋で、主を礼拝せよ。 请你们带着供物进入上主的庭院,来到衪圣殿中朝拜衪。 제물을 들고 저의 궁전에 들어가 저의 거룩한 궁전에서 저를 흠숭할지어다. 
Postcommunio. 聖体拝領後の祈 领后经 영성체후축문
Grátias tibi reférimus, Dómine, sacro múnere vegetáti : tuam misericórdiam deprecántes ; ut dignos nos eius participatióne perfícias. Per Dóminum. 主よ、聖なる賜(たまもの)に養われたわれらは、御身に感謝し奉る。御身の憐みを願いつつ、われらをしてその[賜の]参与にふさわしいものとなし給え。天主として、(…)。 主,我们蒙受了圣恩的养育,向祢千感万谢;更求祢垂悯,使我们配得参享此圣恩。因我们主……。 

주여 네 거룩한 예물로 보양한 우리가 네게 감사하며 또한 네 자비를 간구하오니 우리로 하여금 이 예물에 참여하기에 합당한 자 되게 하시되, 네 아들 우리 주 예수 그리스도를 인하여 하소서. 저 너와 성신과 ...

 

コメント

私たちが愛するのは、天主の与える喜びではなく、喜びを与える天主御自身です。天主に反する地上の欲への愛着に打ち勝つには?

2020年09月23日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2020年9月20日は聖霊降臨後第十六主日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「聖霊降臨後第十六主日の説教」の動画をご紹介いたします。

今日の主日を聖として良くお過ごしください。

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天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父

【説教全文】

愛する兄弟姉妹の皆様、今日は2020年9月20日聖霊降臨後第十六主日です。一緒に主日の黙想をいたしましょう。

【人間の創造の目的】

天主は愛である、と使徒聖ヨハネは断言します。天主は、無から私たち人間を創造しました。聖なるカトリック教会は、私たちに人間創造の究極の最高目的を明らかにします。今日の福音で語られる「結婚式」とは、天における婚姻です。つまり、天主と私たちの霊魂との霊的な婚姻のことで、この愛の一致はこの地上で始まり、天国での永遠の聖なる宴会で完成されます。私たちはこの婚宴の式に招待されています。

愛である天主は、私たち全てをこの終わることのない究極の喜びに招いています。天におけるこの婚宴への招きは、地上の結婚式や披露宴への招待のようではありません。この世の結婚式では婚姻の契りを結ぶ夫婦の婚礼に家族や友人が招かれますが、婚姻をするのは一組の夫婦だけです。

しかし、天の婚姻では、新郎はキリスト、教会が花嫁です。私たちは教会の肢体として、教会の一員として、この婚姻は私たちの婚姻でもあります。ですから、婚宴には、いわば夫婦の部屋のように結婚の当事者だけが入ることができ、よそ者は誰も入ることができません。天国では、私たちは天主からますます愛され、しかも、自分がどれほど愛されているかをますますよく知り、愛の天主を愛し返そうとします。

聖パウロは、今日の書簡の中で、私たちにこう願っています。「愛に根ざし、愛に基をおくあなたたちの心に、信仰によってキリストが住まわれるようにと願う。あなたたちは、すべての聖徒とともに、かの奥義の広さと長さと高さと深さとを理解する力を受けるであろう。あなたたちは計り知れないキリストの愛を知り、満ち満ちる天主によって満たされるであろう。」

この天での婚姻に与るために、霊魂はすでにこの地上に生活する時から、一時的な愛ではなく、継続的な愛を忠実に示さなければなりません。

つまり、私たちの日常の単純な生活を、天主への愛のために捧げることです。天主の掟を守ることです。天主の掟とは、法の字面を上っ面だけ行うことではなく、天主を愛すること、善を愛することです。妻が夫を愛し夫を喜ばせようと何かをするように、霊魂はイエズス・キリストを愛し、主を喜ばせようとします。

天国での至福の喜びは、天主を享受すること、天主を完全に所有して楽しむことですから、この地上のありとあらゆる喜びを凌駕しています。ですから千万の言葉を尽くしても、誰にもそれをイメージすることさえもできません。

地方の農家出身の青年が、いつも誠実に仕事をして、たたき上げで内閣総理大臣になって、国民全てから祝福を受けた喜びも、ある一般の慎み深い女性の素晴らしさゆえに皇太子から熱烈の求婚を受けて結婚し、皇室に入り世界中の人々から祝福を受けた喜びも、或るお母さんが我を忘れて身を粉にして子供たちの世話をして、立派に育った多くの子供たちから、年をとっても「お母さん、お母さん」と慕われている喜びも、天の喜びにと比べると、燦然と輝く太陽と小さなマッチの火のようです。この地上の最高の最大のすべての幸せを合わせて受けても、天の幸福と比べると空しく、つまらなく、空虚に思える程です。

聖パウロはこう書いています。「かきしるされているとおり、「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心にまだ思い浮ばず、天主がご自分を愛する人々のために準備された」ことを、私たちは告げるのである。」(コリント前2:9)

私たちの想像を、その重要さ、その偉大さ、その崇高さにおいて何百万倍も超える幸福が準備されているのです。天主の愛は、思いも浮かばないようなすべての祝福で私たちを満たそうしておられます。

【天主への愛と被造物への愛】

イエズス・キリストは、全てを超える愛を私たちに要求します。私たちが創造主を被造物より多く愛することにこそ、私たちの真の幸せがあるからです。ですから主は「嫉妬深い愛」で私たちを愛すると言われます。

何故なら、私たちは(アダムとエワに由来する)原罪の傷を負っているので、私たちは被造物を愛するあまり、被造物に目がくらんで、被造物への愛の奴隷となってしまう危険があるからです。弱い私たちは警戒していないと、しばしば、いえほとんど常に、被造物への愛が、天主への愛に勝り、天主よりも被造物を選んでしまうからです。

被造物への愛着が、天主への愛の玉座に座り込み、被造物を熱烈に楽しむあまり、天主への愛が冷え切ってしまう危険があります。だから愛の使徒である聖ヨハネもこう言います。

「世と、世にあるものを愛するな。世を愛するなら、おん父の愛はその人のうちにはない。世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、生活のおごりなどはすべて、おん父から出るのではなく、世から出る。世と世の欲とはすぎ去るが、しかし、天主のみ旨をおこなう者は永遠にとどまる。」(1ヨハネ2章)

つい最近、フランシスコ教皇が食と性の喜びについて述べたインターネット・ニュースについて質問を受けましたので、一言、申し添えます。

天主は、私たち人間が生命を容易に維持することができるように配慮されました。天主は本能といわれるものを下さり、これは人間以外の動物たちも持っています。

  • 生命維持のために食べる楽しみ

私たちが個人として、食べ物から栄養を摂って生存することが容易になるように、天主は食べることにある種の喜びを付けてくださいました。食べるときに美味しいとかいい匂いがするなどは、味もそっけもない段ボールのような食感よりも食べることを容易にさせてくれます。しかし、食べる楽しみは、あくまでも手段であって目的ではありません。目的は、私たちが生命を維持すること、健康です。

ところで味わう楽しみが目的となってしまうと、栄養を摂るための行為(つまり食べたり飲んだりすること)は手段となりさがってしまいます。もっと楽しむためには、栄養を摂ることは不必要になり、食べたものを吐き出してさえも、味わうために食べ続ける、飲み続ける、というような倒錯した行為がなされてしまいます。

これは罪です。暴飲暴食、泥酔などは、味わう楽しみを追求し続けた結果であって、手段を目的と取り違えてしまったためにおきることです。わかっちゃいるけどやめられない。美味しいお菓子をパクパク、美味しいお酒をぐびぐび。テレビではいつも食べ物の話をしています。美食に走るのは、原罪の傷を負っている私たちには、ありがちなことです。

もしも、天主が与えた「喜び」なのだから全ては無条件に良いとすると、麻薬も良いことになります。そうではありません。私たちの究極の目的は天主です。天主を知り、天主を愛し、天主に仕えることです。被造物はそのための手段です。

もしも天主の御旨を果たすために、必要な限り、必要なだけ、必要なやり方で被造物を使うのであれば、被造物は善となります。しかし、私たちをして天主に反するようにさせる限り、被造物はなんであれ、悪となります。このことは、イエズス会を創立したロヨラの聖イグナチオの「霊操」における「原理と基礎」です。これは強調してしすぎることはありません。

  • 子孫を増やす喜び

個人の生命維持と同様のことが、種の保存という観点でも言えます。私たちが人類という「種」として、生存し続けるのが容易となるために、天主は子孫の出産ということにも、ある種の喜びを付けてくださいました。

子孫を残すということには喜びが付随していますが、性の喜びは手段であって目的ではありません。目的は子孫の永続です。しかし、もしも喜びが目的になってしまうと、その快楽を追求するという目的のために、ありとあらゆる淫行が目的追求の手段として犯される危険があります。口に出して言うのもいとわしい罪です。

ポルノ、自慰行為、避妊、結婚していない男女の邪淫の罪、婚姻の外の姦淫、ソドマやゴモラで行われていたような自然に反する同性愛の罪、などなどです。原罪の傷を負っている人類は、近くで情欲の火花が散ると、ちょうど蓋を取ったアルコール・ランプのように、あっという間に燃え上がる危険があります。

以上のような本能的な喜びは、敢えて言うなら、カトリック的喜びでも、キリスト教的喜びでも、なく、単純に本能的な喜びです。"It is neither Catholic, nor Christian, nor anything else. It is simply instinct." 化学反応的だといってもよいかもしれません。

しかし、天主を愛するために、本能に打ち勝って、情欲に打ち勝って、理性と天主の掟に踏みとどまるとき、十字架を愛するとき、超自然の喜びに満たされます。これこそが、天主からの喜びです。THIS is divine. かといって、私たちは、天主の与える喜びを愛しているのではありません。

私たちが愛するのは、天主の喜びではなく、喜びの天主です。喜びを与える天主御自身です。何故なら天主こそが私たちの究極の目的だからです。

これこそが、ローマ・カトリック教会が喜びについて過去に公然と教えていたことです。これは「あまりにも過度な道徳規範」overzealous moralityなどではありません。

【安息日を聖とするとは】

今日の福音に話を戻しましょう。天主への愛こそが掟の中核ですが、今日の福音ではファリザイ人らは、注意深くイエズスをうかがっていました。彼らは、イエズスが安息日の掟を守るか否か、取り調べをするように見張っていました。

天主は安息日を祝福しましたが、彼らは安息日に善を行うことを禁止していました。しかし、善を行なえない日があるなら、それは呪われた日です。

ところで主の御前に水腫にかかった人がいたので、イエズスは尋ねます。「安息日に人を治すことは、許されているか、どうか?」彼らは、答えることができませんでした。沈黙したままです。

イエズスは憐みに満ちて、その病人の手をとって、治してお帰しになりました。ファリザイ人が不快に思おうが、イエズスは癒しを必要としていたこの病人が治癒を受ける善をお考えになりました。ファリザイ人たちは黙ったままでした。

そこでイエズスはこういいます。「自分の子か、牛かが井戸に落ちたとき、安息日だからといってすぐそれを引き上げないものが、あなたたちの中にあるのか」と。つまり「もしも安息日に憐れむことが禁止されているなら、安息日に自分の子供が危険に直面しても無視せよ、しかし、あなたたちは、自分の子供どころか、牛でさえ助けようとするではないか?お金儲けのために動物を助けるではないか?動物よりも価値のある人間を助けることはどれほど必要なことか!」

「水腫」とは、体にたまる水で苦しむ病気ですが、水腫にかかった人と井戸の水に落ちた動物とが、共に水で苦しんでいるだけではありません。

尊者ベーダは神秘的意味として肉体の喜びの流れが体にあふれて、快楽におぼれ、渇いている人を意味していると言います。

聖アウグスティヌスも、水腫にかかって、体に水が溜まるればたまるほど病人は渇きを覚えるので、この世の富や快楽を追求する人がそれを求めれば求める程、楽しめば楽しむほど、もっともっと、果てしなく更に富と快楽を求めるのに似ていると言います。

尊者ベーダによると、牛はユダヤ人を意味しています。何故なら、旧約の律法のくび木を担って、富の欲望の水の中に落ち込んでいたからです。

しかし、イエズス・キリストは「世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、生活のおごりなどはすべて」に溺れている人々を全て助け出すことができます。私たちの主の言葉に、ファリザイ人たちは何も返答ができませんでした。

【謙遜とは】

天主への愛に反する地上の欲への愛着を打ち勝つために、特に、生活のおごり・傲慢を癒すために、私たちの主は、謙遜についてすぐに語ります。名誉や権力を得ようと忙しく立ち回る人は、不名誉を得るだろう、と。

慎み深くあれ、高い地位ではなく、低い地位を求めよ、上座の代わりに下座を選べ、謙遜は賞賛されるだろう、と。世の終わりに、永遠に続く天国での婚姻の席で、私たちの主は謙遜なものを高めるからです。その時、私たちの主は、謙遜な者に「友よ!」と呼びかけてこう言うことでしょう。「友よ、どうぞもっと上に進んでください」と。

この世においてでさえも、イエズス・キリストは傲慢な者を軽蔑し、謙遜な者にしばしば頻繁に聖霊の賜物を授けます。「すべて自ら高ぶる人は下げられ、自らへり下る人は上げられる」からです。

本当の謙遜とは、天主に対して真理の態度だからです。つまり、私たちは被造物であり、全ては天主の愛によって受けたのであり、私たちは無にすぎないという真理に基づくからです。

謙遜とは、まず人間が天主に従う、真理に従うということを意味します。徳としての謙遜は、まず、人間の天主に対する服従、そして天主に服従するがゆえに、隣人にも従うのです。

聖アウグスチヌスによれば謙遜な者とは「心の貧しいもの」で、自分に希望する・自分を信頼するというよりも主に希望・信頼を置き、主を畏れるという聖霊の賜物に通じ、天主に服従します。私たちが天主に信頼して従えば従うほど、天主の御前で私たちは高められます。

過去の聖人たちを見ると、天主に全ての信頼を置いたがゆえに、偉大な業を成し遂げました。その反対に、天主に反対して自分を高めようとすればするほど、人間は卑しいものとされます。先日その祝日を祝った謙遜なクペルティーノの聖ヨゼフは、生きている間、肉体さえも上に挙げらています!

私たちが謙遜であるとき、天主から送られる十字架を喜んで担うことができるようになります。イエズス・キリストが愛した十字架、聖母が悲しみに満ちてその足元にとどまった十字架、アシジの聖フランシスコが聖痕を受ける程に従った十字架です。

【遷善の決心】

私たちが天国での婚姻の席に招かれていることを感謝し、天主の御恵みによりいつも思い出しましょう。

マリア様にお祈りいたしましょう。この地上で謙遜に隠れておられた聖母は、マニフィカトでこう歌います。「我が霊魂は主を崇め奉る。…そは御召使のいやしきをかえりみ給いたればなり。見よ、今よりよろず世に至るまで、人われを幸いなるものと唱えん。」

聖母の御取次で、この世では軽んじられ、虐げられ、侮辱されるのを、甘んじてお捧げすることができますように祈りましょう!天の婚姻にふさわしいものとなることができますように!

「結婚式に招待されるとき、あなたは上席についてはいけない。」

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2020年9月27日は、聖霊降臨後第十七主日(二級祝日 典礼色:緑)です。聖伝のミサのラテン語と日本語・中文・韓国語の対訳のテキストをご紹介いたします

2020年09月22日 | ミサ聖祭

2020年9月27日は、聖霊降臨後第十七主日(二級祝日 典礼色:緑)です。聖伝のミサのラテン語と日本語・中文・韓国語の対訳のテキストをご紹介いたします

ミサ聖祭
<書簡>において、囚人聖パウロは、まことのキリスト教生活を行えとわれらに教えている。この生活は、神祕体の一致性を実現することである。すなわち、平和と愛徳とにむすばれた一つの身体と一つの霊魂となるべきである。天主の掟は、同じことを目的とするものである。この一つの目的とは、愛である。<聖福音>聖体を制定してのち、死地におもむこうとするキリストは、普遍的愛の新しい掟を宣言し、御父にむかって、われらを一つに結び給えと祈り給うた。

天主把世界各地的人聚集于祂的教会中,联合成美妙的团体:因圣洗使一般的人成为以基督为首的唯一奥体,并以天主为父的唯一家庭(书信)。不仅如此,他们在圣体中同样的受养以基督的血肉,因而变成祂的妙身。从此,唯一整个(奥义)的基督,生活于祂许多的肢体中,并在我们身上继续爱祂的圣父天主,及爱祂的兄弟世人。因此,爱德正是主的唯一法律,人们欲知道基督是否在他们身上活着,该看他们是否有了基督真的爱德(福音)。

『네 천주를…사랑하라…남을 네 몸 값이 사랑하라』(복음) 『모든 계명과 신조는 이 두가지(사랑)에 의존한다』매일 우리들은『(이)법률안에서 걸으며』(초입경),『마귀의 유감을 물리침』뿐만 아니라『너희는 그리스도에 대해서 어떻게 생각하나?』하는 물음에 응답한다. 우리는 행동을 가지고 그리스도는『나의 주』이시라고 우리의 신덕을 드러낸다.(복음) 성세를 통하여 천주께서는『모든 이의 성부』(서간경)가 되셨으므로 우리는『서로 사랑하여 참고 살아간다』 

Dominica Decima septima post Pentecosten 聖霊降臨後第第十七主日 降临后第十七主日 성신 강림 후 제 17 주일
II Classis 二級祝日 复式【绿】  (2급) 초록색
Ant. ad Introitum. Ps. 118, 137 et 124. 入祭文 詩篇、118ノ137、124 进台咏(咏118:137,124) 초입경(성영 118 137,124)
Iustus es, Dómine, et rectum iudicium tuum : fac cum servo tuo secúndum misericórdiam tuam. 主よ、御身は義なり、御身の審きは正しい。御あわれみに従って下僕を扱い給え。 上主啊!祢是公义的,祢的判决也是正直的;求祢照祢的仁慈待祢的仆人。 주여 너 공의하시고 네 심판이 옳으시니네 자비를 따라 네 종을 대우하소서.
Ps. ibid., 1. 詩篇、118ノ1 咏118:1 (성영 118․1) 
Beáti immaculáti in via : qui ámbulant in lege Dómini. 生涯において汚れなき者たち、主の掟において歩む者らは幸いなるかな。 品行淳厚,遵守上主法律的,是有福的人。 무죄하게 길을 다니고 주의 법 안에서 걷는 자들은 복되도다. 
V/.Glória Patri. V/. 願わくは聖父と・・・(栄誦)。 光荣归于父……。 영광이 부와 자와... 
Iustus es, Dómine, et rectum iudicium tuum : fac cum servo tuo secúndum misericórdiam tuam. 主よ、御身は義なり、御身の審きは正しい。御あわれみに従って下僕を扱い給え。 上主啊!祢是公义的,祢的判决也是正直的;求祢照祢的仁慈待祢的仆人。 주여 너 공의하시고 네 심판이 옳으시니네 자비를 따라 네 종을 대우하소서.
Oratio. 集祷文 集祷经 축문
Da, quǽsumus, Dómine, pópulo tuo diabólica vitáre contágia : et te solum Deum pura mente sectári. Per Dóminum. 主よ、願わくは、御身の民に悪魔的な汚染をさける恩寵を与え給え、清い心で、天主なる御身のみに従わせ給え。天主として、(…)。 主,求祢恩赐祢的子民能躲避魔鬼的接触,并能以净心跟从祢,唯一天主。因我们主耶稣基督……。 주여 비오니 네 백성에게 모든 마귀와 유감을 물리칠 은혜를 태워 주시며 또한 그들로 하여금 오직 하나이신 너 천주를 조찰한 마음으로 섬기게 하시되, 네 아들 우리 주 예수․그리스도를 인하여 하소서. 저 너와 성신과... 
Léctio Epístolæ beáti Pauli Apóstoli ad Ephésios. 使徒聖パウロの、エフェゾ人への書簡の朗読 书信 서간경
Ephes. 4, 1-6. エフェゾ 4ノ1-6 (弗4:1-6) (에페소서 4 1-6)
Fratres : Obsecro vos ego vinctus in Dómino, ut digne ambulétis vocatióne, qua vocáti estis, cum omni humilitáte et mansuetúdine, cum patiéntia, supportántes ínvicem in caritáte, sollíciti serváre unitátem spíritus in vínculo pacis. Unum corpus et unus spíritus, sicut vocáti estis in una spe vocatiónis vestræ. Unus Dóminus, una fides, unum baptísma. Unus Deus et Pater ómnium, qui est super omnes et per ómnia et in ómnibus nobis. Qui est benedíctus in sǽcula sæculórum. Amen. 兄弟たちよ、主において鎖につながれた[囚人となった]私は、あなたたちに願う。あなたたちが召し出された召命にふさわしいように歩き[生き]、すべての謙遜と柔和と忍耐とをもって、互いに愛によってたえ忍び、平和の鎖[きずな]において精神の一致を守るようにせよ。体は一つ、精神は一つ、あなたたちが召出しによって一つの希望に召されたのと同様に、主は一つ、信仰は一つ、洗礼は一つ、天主は一つで、すべてのものの父であり、すべてのものの上にあり、すべてのものの上に働き、すべてのものの内に在す。 弟兄们:我这因主被囚而带着枷锁的人,谆谆劝告你们:你们的生活要和你们所蒙受的圣召相称;你们在一切事上要用谦逊、温和、坚忍,彼此因相爱而互相容忍;努力在和平的联系中保持一心一意。你们原是一个身体,你们都有同一的圣神,你们也蒙召具有同一的希望;只有一位主,同一的信德,同一的洗礼;只有一位天主,作万有的大父;祂在一切之上通过一切,在我们众人内。愿祂世世代代享受赞美!阿门。 형제들아 주안에 죄수가된 나 너희게 간청하노니 너희는 맡은바 성소에 합당하게 모든 겸손과 양순으로써 걷고 인내하여 사랑으로써 서로 참고 평화의 끈으로써 정신의 일치를 보존하기로 주의할지어다. 몸이 하나요 영신이 하나이니 너희가 받은바 성소의 희망이 하나인것과 같도다. 주 하나이시오 신덕이 하나이요 성세가 하나이요 모든이 위에 모든 것을 인하여 우리 모든이 안에 계신 모든 이의 아비이신 천주 하나이시로다. 저는 세세에 찬미를 받으실지어다. 아멘. 
Graduale. Ps. 32, 12 et 6. 昇階誦 詩篇、32ノ12、6 台阶咏(咏32:12,6) 층계경(성영 32 12,16)
Beáta gens, cuius est Dóminus Deus eórum : pópulus, quem elégit Dóminus in hereditátem sibi. 彼らの天主がその主である民は幸せなるかな。主が、世嗣としてえらび給うた民は。 认天主为上主的民族是有福的,上主选为自己产业的民族是有福的。 그의 천주 주시요. 또한 주 그를유업으로 간선하셨으면 그 백성은 복되도다. 
V/. Verbo Dómini cæli firmáti sunt : et spíritu oris eius omnis virtus eórum. V/. 天は、主の御言葉によって固められ、天のすべての力は主の口の息吹きによる。 诸天的造成,由于天主的一语;万象的产生,由于他口中的嘘气。 주 말씀으로 하늘을 설정하시고 당신 입김으로 저의 모든 군대를 세우셨도다. 
Allelúia, allelúia. V/.Ps. 101, 2. アレルヤ、アレルヤ、 詩篇、101ノ2 阿肋路亚。阿肋路亚!(咏101:2) 알렐루야 알렐루야.(성영 101․2) 
Dómine, exáudi oratiónem meam, et clamor meus ad te pervéniat. Allelúia. 主よ、私の祈りを聞き入れ給え、私の叫びが御身に至らんことを、アレルヤ。 上主啊!求祢谛听我的祈祷;愿我的哀号上达于祢。阿肋路亚。 주여 내 빎을 들어 허락하소서. 내 부르짖는 소리 네게 사무쳐지이다. 알렐루야. 
+ Sequéntia sancti Evangélii secúndum Matthǽum. マテオによる聖福音の続誦 福音 복음
Matth. 22, 34-46. マテオ 22ノ34-46 (玛22:34-46) (성마두 22․34-46)
In illo témpore : Accessérunt ad Iesum pharisǽi : et interrogávit eum unus ex eis legis doctor, tentans eum : Magíster, quod est mandátum magnum in lege ? Ait illi Iesus : Díliges Dóminum, Deum tuum, ex toto corde tuo et in tota ánima tua et in tota mente tua. Hoc est máximum et primum mandátum. Secúndum autem símile est huic : Díliges próximum tuum sicut teípsum. In his duóbus mandátis univérsa lex pendet et prophétæ. Congregátis autem pharisǽis, interrogávit eos Iesus, dicens : Quid vobis vidétur de Christo ? cuius fílius est ? Dicunt ei : David. Ait illis : Quómodo ergo David in spíritu vocat eum Dóminum, dicens : Dixit Dóminus Dómino meo, sede a dextris meis, donec ponam inimícos tuos scabéllum pedum tuórum ? Si ergo David vocat eum Dóminum, quómodo fílius eius est ? Et nemo poterat ei respóndere verbum : neque ausus fuit quisquam ex illa die eum ámplius interrogáre. そのとき、ファリザイ人たちがイエズスの近くに相集まった。そしてそのうちの一人の律法学士が、イエズスをこころみるために、「先生、律法のうちどの掟がいちばん大切ですか?」とたずねた。そこでイエズスは、「"あなたは、すべての心、すべての霊、すべての知恵をあげて、主なる天主を愛せよ"これが第一の、最大の掟である。第二のも、これと似ている。"隣人を自分と同じように愛せよ"。全律法と預言者とは、この二つの掟による」とお答えになった。ファリザイ人たちが集まっていた時、「あなたたちはキリストについてどう考えているのか?それはだれの子か?」とイエズスがお問いになると、かれらは「ダヴィドの子です」と答えたので、イエズスは、「そうすると、ダヴィドが霊感をうけて、かれを主と呼ぶのはなぜだろう?"主は私の主におおせられた。私があなたの敵をあなたの足の下におくまで、私の右にすわれ"と書かれている。ダヴィドはかれを主と呼んでいるのに、なぜ、子なのか?」とおおせられた。だれも一言も答えられず、またその日から、あえて問いかける者もなくなった。 那时候,法利塞人到了耶稣面前,其中有一个法律学士试探耶稣,问祂说:“师傅!法律上的诫命,哪一条最大?”耶稣对他说:“‘你当全心、全灵、全意爱上主你的主、天主。’这是最大的,也是第一条诫命;第二条与第一条相仿,就是当‘爱你的近人、如同你自己一样。’一切法律和先知都系属这两条诫命。”那时法利塞人正聚在一起,耶稣问他们说:“对于基督,你们意见怎样?祂是谁的儿子?”他们答说:“祂是达味之子。”耶稣说:“那么达味蒙神默启,怎么还称祂为主呢?说:‘主对我主说:祢坐在我右边,直等我把祢的仇敌放在祢的脚下。’达味既称祂为主,祂怎么又是达味之子呢?”他们中谁也不能回答一句。从那天起,没有一个人再敢问他了。 유시에 바리서이들이 예수께 가까이 와 그중에 법률학사 하나이 예수를 시험하여 물으되「스승이여 법률에 어느 계명이 제일 크오니까.」예수 가라사대「네 주 천주를 온전한 마음과 온전한 영신과 온전한 뜻으로 사랑하라 하였으니 이는 가장 크고 제일 으뜸 계명이요 제이는 이와 같으니곧 남을 네몸 같이 사랑하라 하였으니 모든 교법과 선지자의 글이 이 두 계명에 달렸느니라」하시니라. 바리서이들이 모이매 예수 저들에게 물어 가라사대「너희 생각에 그리스도는 어떤자이며 뉘 자손이뇨」저들이 이르되「다위의 자손이니다.」가라사대「그러면 다위가 성신을 인하여 어찌 그리스도를 불러 주라하여 이르되 주 오주더러 이르시되 나 네 원수들로써 네 발판을 삼기까지 내 우편에 앉으라 하셨다 하였느뇨. 그러면 다위가 저를 불러 주라 하였으니 어떻게 그 자손이 되겠느뇨.」하시니 아무도 능히 예수께 한말도 대답치 못하고 또 그날부터 아무도 감히 다시 예수께 힐문하는 이 없더라. 
Credo 信経 信经 신경
Ant. ad Offertorium. Dan. 9, 17, 18 et 19. 奉献文 ダニエル書、9ノ17、18、19 奉献咏(达9:4,17,18,19) 제헌경(다니엘 9․17,18,19)
Orávi Deum meum ego Dániel, dicens : Exáudi, Dómine, preces servi tui : illúmina fáciem tuam super sanctuárium tuum : et propítius inténde pópulum istum, super quem invocátum est nomen tuum, Deus. 私、ダニエルは、我が天主に祈った、「主よ、下僕の祈りを聞き入れ給え、御身の聖所の上の御身の顔を照らし給え。また、天主よ、その上に御名を呼び求めたこの民[の祈り]を、いつくしみ深く聞き給え。」 我、达尼尔,曾向我的天主祈祷说:“主,请祢垂听祢仆人的哀祷!使祢的慈颜光照祢的圣所。天主,请祢惠然垂顾以祢名为称号的这班人民。” 나 다니엘이 주께 기구하여 말하기를 주여 네 종의 기구를 들어 허락하사 네 얼굴을 네 성소 위에 비추시며 천주여 이 백성을 위하여 네 이름을 불렀으니 저를 인자로이 굽어보소서 하였노라. 
Secreta. 密誦 密祷经 묵념 축문
Maiestátem tuam, Dómine, supplíciter deprecámur : ut hæc sancta, quæ gérimus, et a prætéritis nos delictis éxuant et futúris. Per Dóminum. 主よ、われらは、へり下って御稜威に祈り奉る。我らが行うこの聖なるものが、過去の罪と、将来の罪よりわれらを取りださんことを。天主として、(…)。 主,我们俯伏恳求祢的尊威,使我们在此举行的奥迹,解除我们的罪孽,并保存我们脱免未来的过恶。因我们主……。 주여 엄위하신 네 대전에 간구하오니 우리로 하여금 지금 거행하는 바 거룩한 비사로 인하여 과거와 장래의 죄악에서 구함을 얻게 하시되, 네 아들 우리 주 예수․그리스도를 인하여 하소서. 저 너와 성신과... 
Præfatio de sanctissima Trinitate  三位一体と主日との序誦 天主圣三的颂谢引 성삼감사경
Vere dignum et iustum est, æquum et salutáre, nos tibi semper et ubíque grátias ágere : Dómine, sancte Pater, omnípotens ætérne Deus : Qui cum Unigénito Fílio tuo et Spíritu Sancto unus es Deus, unus es Dóminus : non in uníus singularitáte persónæ, sed in uníus Trinitáte substántiæ. Quod enim de tua glória, revelánte te, crédimus, hoc de Fílio tuo, hoc de Spíritu Sancto, sine discretióne sentímus. Ut, in confessióne veræ sempiternǽque Deitátis, et in persónis propríetas, et in esséntia únitas, et in maiestáte adorétur æquálitas. Quam laudant Angeli atque Archángeli, Chérubim quoque ac Séraphim, qui non cessant clamáre cotídie, una voce dicéntes : Sanctus… 主よ、聖なる父よ、全能永遠の天主よ、われらが御身に、いつもどこにても感謝を捧げるのは、実にふさわしく正しいこと、義務と救いである。御身は、御独り子と聖霊と共に、唯一の天主、唯一の主にて在す。すなわち、御身は、一の位格の単一にて在すのではなく、唯一の実体(substantia)の三位にて在す。御身の御光栄について、御身が啓示するがゆえに、われらが信じ奉ることを、聖子について、聖霊について、差別なく、われらは信じ奉る。真の永遠の天主の本性を告白するにおいて、位格における固有性が礼拝され、本質(essentia)における唯一性と、御稜威における等しさも礼拝されるためである。これを、天使らと大天使らは、智天使も熾天使も、讃美し、絶え間なく声を上げ、日々声をあわせてこう言う。聖なるかな、… 主,圣父,全能永生的天主!我们时时处处颂谢祢,实是正义而必须的,属于我们天职的,也属我们得救的。祢与祢的独子及圣神,只是一个天主,只是一个主;不是因为位是单独一个,却是因为三位同具一个性体。的确,我们所怎样依照祢的启示,相信祢享的光荣,我们无区别地也同样确认祢的圣子,也同样确认圣神共享这个光荣。因此,我们在明认圣三真实而永在的天主性上,同时论位,我们敬拜圣三的各一,论体,我们敬拜圣三的无二,论尊荣,我们敬拜圣三的均等。这圣三的尊荣,是天神们和总领天神们,普知天神们和炽爱天神们,所虔诚歌颂的;他们日复一日,永不停止同声高呼说:圣、圣、圣…… 주여, 성부여, 전능하시고 영원하신 천주여, 우리가 어디서나 항상 주께 감사하는 것이 참으로 당연하고 옳으며, 지당하고 구령에 유익하나이다. 주는 외아들과 성신과 더불어 오직 한분의 천주시요, 오직 한분의 주이시되, 한 위가 아니시고, 한 체로서 세 위시니이다. 주의 계시로 우리가 주의 영광에 대하여 믿는 바를, 성자와 성신에 대하여서도 조금도 다름이 없이 믿나이다. 그리하여 우리는 참되시고 영원하신 천주성을 찬미함에 있어, 위로서는 각 품이시요, 체로서는 하나이시요, 지존하시기는 같으심을 찬송하나이다. 천신들과 대천신들 및 케루빔과 세라핌이 이를 찬양하며, 날마다 간단없이 제창하나이다. 거룩하시다, 거룩하시다, 만군의 천주이신 주는 거룩하시나이다. 하늘과 땅에 주의 영광이 가득하나이다. 천상에 좌정하신이여 호산나, 주의 이름으로 오시는 이는 찬미받아지이다. 천상에 좌정하신이여 호산나.
Ant. ad Communionem. Ps. 75, 12-13. 聖体拝領誦 詩篇、75ノ12-13 领主咏(咏75:12,13) 영성체경(성영 75․12,13)
Vovéte et réddite Dómino, Deo vestro, omnes, qui in circúitu eius affértis múnera : terríbili, et ei qui aufert spíritum príncipum : terríbili apud omnes reges terræ. 主の周りで贈り物を捧げるすべての者らよ、おまえたちの天主なる主に願いをし、[讃美を]捧げよ。君主らの息[生命]をうばい給うおそるべき天主、地のすべての王にとっておそるべき天主に。 你们居留在上主、你们的天主附近的,和拿献仪给可畏之主的,都该向祂许愿,向祂偿还;祂要摧毁首领们的自尊心,祂是地上诸王所敬畏的。 둘러있어 예물을 드리는 모든이들아 두려워할자시오 제왕의 생명을 앗는자시오 천하만왕 앞에 두려워 할 자신 주 너희 천주께 허원하고 허원한 바를 지킬지어다. 
Postcommunio. 聖体拝領後の祈 领后经 영성체 후 축문
Sanctificatiónibus tuis, omnípotens Deus, et vítia nostra curéntur, et remédia nobis ætérna provéniant. Per Dóminum. 全能の天主よ、願わくは、御身の聖化の業により、我らの悪徳が癒され、我らに永遠の薬が与えられんことを。天主として、(…)。 全能的天主,切望祢使人圣化的圣事,疗愈我们的不良倾向,并供予我们得永生的神粮。因我们主……。 전능하신 천주여 네 성사의 은혜로 인하여 우리 악습을 고치시고 영생의 신약을 태워주시되, 네 아들 우리 주 예수․그리스도를 인하여 하소서. 저 너와 성신과... 

 

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