Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え! 聖ヨゼフの特別聖年(2020年12月8日〜2021年12月8日)

聖体は、天国の幸福の希望であり、約束であり、先験であり、初穂である。

2020年05月31日 | カトリックとは
テニエール神父著『聖体の黙想』 (1953年) (Révérend Père Albert Tesnière (1847-1909))より【アルベール・テニエール神父は、聖ピエール・ジュリアン・エマールの創立した聖体修道会の司祭で、聖体修道会の総長(1887-1893)も務めた。】

聖体礼拝の理由

聖体は地上における天主の最大のたまものである

 礼拝 聖体は天主が地上で私たちに与えてくださる多くの恩恵の中で、いとも尊く、いとも有益なたまものである。あなたの眼前にある甘美な秘跡をよりよく礼拝し、賛美し、これに感謝することができるために、以上の真理を深く理解するよう努めよう。
 聖体の中には何があるのか。天主の恩恵で、たしかにいとも豊富な、いとも強力な恩恵である。なぜなら、恩恵とともに、恩恵の与え主ご自身を与えるものであるからである。
 聖体の中には何があるのか。イエズスのご生涯とご聖徳との記憶だろうか。しかり、それ以上のものである。なぜなら聖体は、常に柔和に、謙遜に、従順に、熱心に、忍耐深く幼児として、職人として、また伝道者としての主のご聖徳そのものをあらわすからである。
 聖体の中には、そのほか何があるのだろうか。主のご受難の記念だろうか。しかり、しかし聖体は、なおそれ以上に、主のご受難、ご死去のまことの再現であって、地上のすべての祭壇上では、天主の正義の満足、全世界の罪の赦しである贖(あがな)いの生贄(いけにえ)が日々ささげつづけられているのである。
 だが聖体は、なおそれ以上に天国の幸福の希望であり、約束であり、先験であり、初穂である。なぜならその中には諸聖人の幸福であるイエズスご自身がおいでになって、ご自分を人々に与えられるからである。
 だから、この尊く偉大なたまものの驚嘆すべき富を礼拝しよう。

 感謝 聖体のたまものの偉大さが、私たちの礼拝に価するとすれば、天主がこのたまものを分けてくださるときの御慈悲は、私たちの心を感謝の念に燃えたたせずにはおかないのである。
 実に、イエズスが聖体の中にとどまって、ご自分を私たちに与えてくださるのは、純の純なる恵みである。主には、これを人に与える義務はなく、また私たちはこれを期待する権利はない。言いかえるなら、私たちのうちには主を引きつける何ものもない。それなのに、主は侮辱、忘恩、軽蔑、冒瀆を覚悟されなければならない。それにもかかわらず、主はご自身を与え、ご自身をわたされる。主は、哀願し、希求し、仕事をされる。しかも特殊の日、特殊の必要に際してだけではない。常に、どんな場合でも人間のためにご自身を生贄として、ついにはご自身を食物と化して、その時その時の必要に応じて、私たちのために、光となり、力となり、養いとなり、休息となり、慰安となられたのである。この恩恵の泉は決して枯渇せず、この光明の源は決して減衰しないで、常に人を愛し、絶えずご自分を与えつづけられる。ああ限りない天主の愛よ、だれが御身をふさわしく理解し、ふさわしく祝福し、ふさわしく愛しかえすことができるであろうか。

 償い すべての恩恵はこれを受ける者の感謝、または少なくとも認識を要求する。恩人に対する忘恩は、たとえそれが小事であっても良心の苦痛となって、一般の排斥をかう。人間の間においてさえそうならば、ああ天主よ、御身の御恵みのうち最大なものを受ける私たちの態度は、いったいどうあらねばなかろうか。聖体の愛に対する人類の忘恩を、私たちはどんなに嘆き、どんなに償ったらよいのであろうか。
 多数の人々は、この恵みと愛とを全然知らないでいる。彼らにこれを語ると、彼らはあざけりまたは冒瀆する。聖体がなんであるか知っていてさえ、愛をもって愛に報い、このたまものをたびたび利用してその御助けによって徳に進み、これを尊敬しようともしない者がたくさんいる。では自分はどうであろうか。私はこの生命の種子より百倍、六十倍、いや、十倍だけの実でも結ぶことができただろうか。それとも、私は利用するために預けられたタレントを地に埋めて無用のものと化した、あの怠惰なしもべと同じ宣告を受けなければならない者ではないだろうか。
 今よく反省して、自分の感謝が聖体の大恩にふさわしかったかどうか考えよう。この反省は私に罪の赦しを願わせ、償いの決心を固めさせるはずである。

  聖体は、前に考えたように、絶対的に無償の御恵みである。すなわち私たちはこれに関してなんらの権利をも持っていない。だから、これを熱心に請い求めることが、そのままこれに対して敬意をあらわすことになるのである。それでエンマウス途上の弟子たちと一緒に、『主よわれらとともにとどまりたまえ、日すでに傾きてまさに暮れなんとす』 と申しあげよう。願わくは聖体の中にとどまりたまえ。わたしのうちに信仰と愛と聖体に対する信頼とを堅固にしたまえ。
 私をしてこのたまものを受け悪を避け、善を行ない、長く生きることをえしめたまえ。

 私をして今日、またことに臨終の時、聖体を受ける幸福をえさせたまえ。かくして聖体によってよい終わりをとげ、地獄を免かれ、天国に入ることをえさせたまえ。御母マリアの御功徳と御取り次ぎとによりこれを願いたてまつる。

 実行 聖体に対する信仰を守ってくださるよう毎日、特に聖母マリアに祈ろう。
 





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2020年5月31日(主日)前後の聖伝のミサの予定:Traditional Latin Mass for May 31, 2020

2020年05月31日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今週末:2020年5月29日(金)30日(土)31日(主日)のミサの予定を再確定します。予定通りです。

【大阪】「聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂」 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 EG新御堂4階 〒532-0002 (アクセス)JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分(地図

 5月29日(金)  17:30 ロザリオ及び告解  18:00 ミサ聖祭

 5月30日(土) 10:00 ロザリオ及び告解  10:30 ミサ聖祭

 5月31日(日) 17:30 ロザリオ及び告解  18:00 ミサ聖祭

 6月01日(月)  06:30 ミサ聖祭

【東京】 東京では4月12日(日)から会場をしばらく変更してミサを捧げております。

住所: 東京都台東区入谷1-27-4 
会場の名前:プラーズ入谷 『入谷ホール』  Special Mass Location-0412.pdf - Google ドライブ

5月31日(日)主日ミサが三回捧げられます。

09:00 ミサ聖祭 歌ミサ(ライブ中継をいたします)Facebook live

11:00 ミサ聖祭 読誦ミサ
12:30 ミサ聖祭 読誦ミサ

【お互いに社会的距離を取ることができるように、分散してミサにあずかっていただければ幸いです。】

Ave Maria Immaculata!

My dearest Brethren!

I want to reconfirm the Mass schedule for the weekend of May 31, 2020.

Mass times in Tokyo:
09:00 - Sung mass Facebook live

11:00 - Low mass
12:30 - Low mass

It would help us maintain proper social distancing if you could consider spreading your mass attendance among the three masses. For your information, last Sunday mass attendances were as follows:

May 03
09:00 - 27
11:00 - 21
12:30 - 13

May 10
09:00 - 22
11:00 - 25
12:30 - 15

May 17
09:00 - 19
11:00 - 22
12:30 - 18

May 24
09:00 - 22
11:00 - 21
12:30 - 18

Mass location:
Iriya Hall 3F
Address: Plars Iriya 3F, 1-27-4, Iriya, Taito-ku, Tokyo (near Metro Iriya, JR Uguisudani and JR Ueno stations)
Map and directions: Please see the pdf file.

Mass schedule in OSAKA:

Fri, May 29: Holy Sacrifice of the Mass at 18:00

Sat, May 30: Holy Sacrifice of the Mass at 10:30

Sun, May 31: Holy Sacrifice of the Mass at 18:00

Mon, June 1: Holy Sacrifice of the Mass at 06:30 am.





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何も恐れないでください。イエズス・キリストを礼拝してください。_聖霊降臨の大祝日の説教 Sermon for Pentecost 2020

2020年05月30日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

2020年5月31日、聖霊降臨の主日

愛する兄弟姉妹の皆様、2020年5月31日は聖霊降臨の主日、公教会の大祝日です。

カトリック教会は、使徒たちに対する聖霊のはたらきを賛美しています。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「聖霊降臨の主日の説教」の動画をご紹介いたします。

旧約の過ぎ越しの50日後、モーゼはシナイ山の上で天主の十戒の二枚の石板を受けましたが、これは来るべき現実の前兆でした。

聖霊降臨で起こったこととは?その結果は何なのでしょうか?聖霊のはたらきとは何でしょうか?

今年は聖母聖月の最後の日に聖霊降臨の主日を祝います。この日を聖として良くお過ごしください。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父

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ただしばらくの間、祭壇上にお宿りになる聖体も、実は永遠の天主でおいでになることは、誤りない真理の御言葉の上に建てられた教会の信仰である

2020年05月30日 | カトリックとは
テニエール神父著『聖体の黙想』 (1953年) (Révérend Père Albert Tesnière (1847-1909))より【アルベール・テニエール神父は、聖ピエール・ジュリアン・エマールの創立した聖体修道会の司祭で、聖体修道会の総長(1887-1893)も務めた。】
 
天主である聖体
 
聖体は永遠の天主である
 
 礼拝 うやうやしく祭壇の下にひれ伏し、今朝のミサ聖祭の間に聖別されたばかりの聖体を礼拝しよう。聖体は非常にもろいものである。人の目にはパンとしか見えない。そよ風にもてあそばれる木の葉よりもかよわく、少し手あらく取り扱うとすぐにこなごなにこわれてしまうほどである。しかし、ただしばらくの間、祭壇上にお宿りになる聖体も、実は永遠の天主でおいでになることは、誤りない真理の御言葉の上に建てられた教会の信仰であるから、あなたはかたくこれを信じなければならない
 聖体は永遠である。なぜなら、それは、はじめにあったみ言葉、天主の御もとにあったみ言葉、天主にましますみ言葉、それによって万物が成ったみ言葉であるからである。
 聖体は永遠である。なぜなら、それは『万物のはじめ』にして『われと父とは一なり』とおっしゃったイエズスご自身であるからである。
 しかも永遠のしるしは聖体の中に明らかにあらわれている。いったい永遠とは何か。またその特性は何であるか。永遠とは、完全な生命の全き所有である。すなわち過去も未来もなく、常に変わらない現在であることである。そこには継続も、形成も、変化も、減少もない。常に所有される全き生命、はじめなく、限りなく、終わりない無限の生命が永遠である。
 では私たちは聖体の中に何を礼拝するのか。今はいつも、世々においでになる、人となられたみ言葉である。そこには主の天主性と永遠の完徳とがあって、私たちはそれにより、それにかたどられて天主の子としての生命を受けるのである。また、そこには地上のご生涯、ご苦難、ご死去の功徳を分けて、絶えずよい模範をお示しになる主の人性がある。この人性は、今は光栄の中にあって、私たちに天国の光栄の先験とそれに至るために必要な恩恵をお与えになるのである。このように聖体の中には人となりたもうたみ言葉の歴史的過去と、到着された天国の光栄とがあり、聖体こそすべての奥義の焦点である。このように見るとき、聖体はその中にひそんでおられるイエズスの永遠性をよく表現しているのではないだろうか。 
 次にこのかよわい外観の中にあって、聖体はいつも同一である。最後の晩餐(ばんさん)に際して、救い主の御手、救い主の御言葉、救い主のみ心からお出になったときと等しく、ホスチアの陰に隠れて生きた天主は常に自分に来る者を生かし、恩寵を与え、あわれみに満ち満ちていらっしゃるのである。人が去って国が滅びる現世の栄枯盛衰をよそに、聖体はいつも変化しない。また聖体は過去において絶えず異端の攻撃の的、不敬、冒瀆、迫害の対象であったが、しかし常にあらしをしずめ、聖会の運命をささえ、世の希望を保ちたもうたのである。かよわく見える聖体のこの驚くべき永遠性こそ、実に永遠の天主の光栄であり、実証でなければなんであろう。
 だから礼拝しよう、永遠の聖体を。過ぎ去ることのない天主なる聖体を。そして今から自分の生命を主にささげ、主に仕え、主をあがめよう。
 
 感謝 聖体の永遠性についての黙想は、山あいに湧く清水が汲んでも尽きないように、あとからあとから流れ出る限りない感謝の源である。
 聖体は永遠であるから不変である。私たちはこの不変の御あわれみに、私たちのはかない望み、変わりやすい意志、弱い徳行、定まりのない生涯をすべておまかせすることができる。
 だから万物はみな一瞬にして過ぎ去る『存在』の有為転変の旋風の中にあっても、また、人生の勤労、希望、愛情、保証などことごとく押し流す『時』の激流の中にあっても、私たちは安心して聖体にたより、これに私たちの生命の小船をつないでおくことができる。
 聖体は永遠であり、永遠の恵み、宝、希望を私たちに与える。救い主はこれを永遠の生命のパン、すなわち私たちを死から救い、天主のいのちそのものを与え、私たちを永遠に生かす天よりのパンと呼びたもうた。それは、このパンが私たちの生命を完全なもの、私たちの勤労を不変なものとし、私たちの善業に最後までの忍耐を賦与するからでなくてなんであろうか。また、これを食する者が、在天の諸霊のために用意された永遠の幸福の所有と歓喜との幾部分かを分け与えられるからでなくてなんであろうか。
 ああ、人生の暴風雨に難破した人々よ、『時』の力に打ちひしがれ、過ぎ去ってしまうものに失望し、永遠につづくものを求める人々よ、あなたのまなこを天にあげよ。そして聖体の中に永遠を発見し、聖体を拝領して、きょうから永遠に至るまであなたの住まいを主の中につくろう。
 
 償い かよわい者のためにかよわいものとなりたもうた永遠無窮の天主のみ前で、私たちはいかに永遠のものを評価しているか、またいかに永遠に対して準備しているかをまじめに糾明しよう。
 無限が有限にまさり、永劫(えいごう)が刹那(せつな)にまさり、実体が陰影にまさり、生命が死にまさっていると同じく、永遠が『時』にまさっていることは、あまりにも明らかである。
 私たちが造られた理由、私たちの仕事、私たちの勤労の目的は、永遠の幸福の獲得にある。私たちの終極の目的は知識でもない。財産でもない。その他、健康、友情、生命などでもない。これらを捜し求め、これらに執着し、これらに依頼することは至愚といわなければならない。たった一日の所有を終わりない所有と交換することは愚かさ以上の愚かさである。
 しかしながら他方において、私たちが永遠の生命を所有することができるのは、『時』の中に営まれる仕事、ぎせい、功徳によるのである。だから時間を浪費し、永遠の幸福を築きあげるために仕事を怠り、むなしく一日を過ごす者はわざわいである。もし、主のみ旨に従い、恩恵によって生きるなら、寸時であっても永遠の実を結び、私たちの幸福と光栄との原因となるであろう。だから、結局、私たちの永遠は私たちの手中にあるわけである。私たちが恩恵の勧めに従い、主のみ旨のお命じになるままに、境遇から生じるもろもろの義務を、毎日毎日、毎時間毎時間、忠実に尽くすか尽くさないかによって、私たちが幸福になるか不幸になるか、永遠の生命を得るか永遠の死にはいるか、天国に行くか地獄に陥るかが定まるのである。
 永遠のために時間の中に造られた天主の被造物よ、永遠のはかりで万事を測るように。そうすればあなたはまじめに、賢明に、注意深く、天主を恐れて生きるであろう。これが信者の生活の土台である。
 
 祈願 恩恵を熱心に請い求め、永遠の真理についてたびたび黙想しよう。そしてできるならば聖体のみ前でこれをしよう。これによってあなたは黙想の楽しみを解し、たやすくこれを実行できるようになるであろう。あなたがもし永遠の価値を知りたいなら、聖体中にとどまっていられる救い主は、永遠をあなたに与えようとして、お忍びになった十字架上の御恥辱、ご苦難、ご死去を、あなたに思い起こさせてくださるであろう。そしてすでに光栄の中におはいりになったにもかかわらず、再び聖体の卑しい外観のもとにこの世においでになったのは、やはりあなたに永遠の生命を確保するためにほかならないことをお教えになるであろう。
 では永遠の生命を得るために、生命のパンによって力づけられ、主のみ前で働き、また苦しもう。
 
 実行 一週間のうち少なくとも一度は永遠の価値について黙想しよう。



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教皇によるロザリオの祈り、5月30日、バチカン庭園で

2020年05月30日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

聖母聖月です。ロザリオを唱えましょう。

参考情報】教皇によるロザリオの祈り、5月30日、バチカン庭園で

イタリア時間5月30日(土)17時30分より、バチカン庭園で、教皇フランシスコによるロザリオの祈りがとり行われる。この模様は、バチカン・ニュースでビデオ中継される。
「聖母月」の終了を前に、教皇フランシスコは、イタリア時間の5月30日(土)17時30分(日本時間:5月31日(日)0時30分)より、バチカン庭園にある「ルルドの洞窟」前でロザリオの祈りをとり行われる。

この模様は、バチカン・ニュースを通しビデオ中継される。

教皇によるこのロザリオの祈りは、教皇庁新福音化推進評議会(議長:サルバトーレ・フィジケッラ大司教)の企画によるもの。

パンデミック危機に苦しむ人々に教皇はあらためて寄り添い、神に救いと助けを祈り求め、聖母の取り次ぎを願う。

このロザリオの祈りは、現在の状況下、通常の活動や巡礼者が途絶えている、世界の巡礼地、ルルド(フランス)、ファティマ(ポルトガル)、チェンストホヴァ(ポーランド)、サン・ジョヴァンニ・ロトンド(イタリア)、ポンペイ(イタリア)、エレレ(ナイジェリア)、ルハン(アルゼンチン)、グアダルーペ(メキシコ)などからの中継を交えて行われる予定。





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2020年5月31日聖霊降臨の主日 聖霊降臨のミサのラテン語・日本語・中文・韓国語の対訳のテキストをご紹介いたします

2020年05月29日 | ミサ聖祭
DOMINICA PENTECOSTES 聖霊降臨の主日  圣神降临主日 성신 강림 주일
Ant. ad Introitum. Sap. 1, 7. 入祭文 知恵  1ノ7 进台咏(智1:7) 초입경 (지서 1․7)
Spíritus Dómini replévit orbem terrárum, allelúia : et hoc quod cóntinet ómnia, sciéntiam habet vocis, allelúia, allelúia, allelúia. 主の霊は全地球を満ちた、アレルヤ、万物を保ち給うこのお方は、【いかなる】声の知識をも持ち給う、アレルヤ、アレルヤ、アレルヤ。 上主的圣神、充满了世界,阿肋路亚。这包罗万象的圣神,通晓众人的声音,阿肋路亚,阿肋路亚,阿肋路亚。 주의 성신이 보천하를 충만케 하시며 알렐루야. 만물을 포함하시는자 그 소리를 아시는도다. 알렐루야 알렐루야 알렐루야.
Ps. 67, 2. 詩篇68ノ2 咏67:2 성영 67․2
Exsúrgat Deus, et dissipéntur inimíci eius : et fúgiant, qui odérunt eum, a fácie eius. 天主は立ち給わんことを、主の敵どもは敗走せんことを。主を憎む者は、主の御顔【の前】から逃げ去らんことを。 —愿天主兴起,使祂的仇敌沦灭,使恼恨祂的,都由祂面前逃遁。— 천주 일어나사 네 모든 원수들을 흩어지게 하시며 너를 미워 하는 자들을 네 면전에서 피하게 하실지어다.
V/.Glória Patri. V/. 願わくは、聖父と……。(栄誦) 光荣归于父……。 영광이 부와 자와...
Spíritus Dómini replévit orbem terrárum, allelúia : et hoc quod cóntinet ómnia, sciéntiam habet vocis, allelúia, allelúia, allelúia. 主の霊は全地を満たした、アレルヤ、すべてのものを存在させ給う御者は、また、言葉の師にて在す、アレルヤ、アレルヤ、アレルヤ。 上主的圣神、充满了世界,阿肋路亚。这包罗万象的圣神,通晓众人的声音,阿肋路亚,阿肋路亚,阿肋路亚。 주의 성신이 보천하를 충만케 하시며 알렐루야. 만물을 포함하시는자 그 소리를 아시는도다. 알렐루야 알렐루야 알렐루야.
Oratio. 集祷文 集祷经 축문
Deus, qui hodiérna die corda fidélium Sancti Spíritus illustratióne docuísti : da nobis in eódem Spíritu recta sápere ; et de eius semper consolatióne gaudére. Per Dóminum . . . in unitáte eiúsdem Spíritus. 本日、聖霊の照らしを以って信者の心を教え給いし天主、同じ聖霊を以って我等に正しき事を悟らしめ、その御慰めによりて常に喜ぶを得しめ給え。その同じ聖霊との一致において、天主として、(…)。 天主,祢今天以圣神的光照、训导了众信者的心灵;求祢恩赐我们也能藉此圣神、体味正直的事,并因祂的安慰、常欣常乐。因我们主……。 천주여 너 모든 신자들의 마음을 성신의 비추심으로 훈회하신지라, 비오니 우리로 하여금 또한 이 성신을 인하여 바른 것을 맛들이고 그 안위하심으로 항상 즐기게 하시되, 네 아들 우리 주 예수․그리스도를 인하여 하소서. 저 너와 성신과...
Léctio Actuum Apostolórum. 使徒行録の朗読。 书信 독서
Act. 2, 1-11. 使徒行録 2ノ1-11 宗2:1-11 종도행정 2․1-11
Cum compleréntur dies Pentecóstes, erant omnes discípuli pariter in eódem loco : et factus est repénte de cælo sonus, tamquam adveniéntis spíritus veheméntis : et replévit totam domum, ubi erant sedentes. Et apparuérunt illis dispertítæ linguæ tamquam ignis, sedítque supra síngulos eórum : et repléti sunt omnes Spíritu Sancto, et cœpérunt loqui váriis linguis, prout Spíritus Sanctus dabat éloqui illis. Erant autem in Ierúsalem habitántes Iudǽi, viri religiósi ex omni natióne, quæ sub cælo est. Facta autem hac voce, convénit multitúdo, et mente confúsa est, quóniam audiébat unusquísque lingua sua illos loquéntes. Stupébant autem omnes et mirabántur, dicéntes : Nonne ecce omnes isti, qui loquúntur, Galilǽi sunt ? Et quómodo nos audívimus unusquísque linguam nostram, in qua nati sumus ? Parthi et Medi et Ælamítæ et qui hábitant Mesopotámiam, Iudǽam et Cappadóciam, Pontum et Asiam, Phrýgiam et Pamphýliam, Ægýptum et partes Líbyæ, quæ est circa Cyrénen, et ádvenæ Románi, Iudǽi quoque et Prosélyti, Cretes et Arabes : audívimus eos loquéntes nostris linguis magnália Dei. さて、五旬祭の日が来て、かれらがみないっしょに集まっていると、突然、天から、烈しい風が吹いてくるような音が聞えて、かれらが座っていた家にみち、火のような舌があらわれ、分れて、おのおのの上にとどまった。すると、かれらはみな、聖霊にみたされ、霊がいわせるままに、色々の国のことばで話しはじめた。そのころイェルザレムには、天下のあらゆる国から来た敬虔なユダヤ人たちが住んでいたが、その音がひびきわたったので、人々が集まりよってきた。そしてかれらは、それぞれの国語で使徒たちが語すのを聞いて、みな仰天し、おどろき感嘆して、「話しているこの人々は、みなガリラヤ人ではないか。それなのにどうして私たちは、おのおのの生国のことばを聞いているのだろう?パルト人、メド人、エラミト人、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポント、アジナ、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などの人々、ここに住んでいるローマ人、ユダヤ人と改宗者、クレタ人、アラビア人などの私たちは、天主の偉大な業を、私たちの国のことばで話すかれらの話を聞いている」といった。 在五旬节那一天门徒们都聚在一处。他们坐在屋内,忽然从天上起了一阵响声,好像暴风吹来,充满了全部房屋。他们看见好像火舌般的形象,分布停息在每人的头上。他们顿时都充满了圣神,并按照圣神所赏给他们的能力,说起各国的话来。那时在耶路撤冷的,有从天下各国来的虔诚的犹太人。众人听到这种大声音,便成群结队地跑来;每人一听见他们说自己本国的话,很是惊奇。他们惊慌出神地说:“这些讲话的人,不都是加黎利人吗?我们怎样每一个人听到他们说我们本国的话来?我们:巴尔特人、美德人、厄拉米特人、住在美索保大米、犹太、加巴刀斯、本都、亚细亚、弗利吉、邦非利、埃及、和靠近西来乃城利比亚第的人,在这里路过的罗马人,犹太教人和奉犹太教的外邦人,克来特人和阿剌伯人,都听见他们用我们的言语称赞天主的伟业。” 오십일이 바야흐로 마칠때에 모든 문제들이 일심하여 한 곳에 모였더니 (홀연 하늘로조차 소리나 마치 큰 바람이 밀려옴 같아여 그 앉았던 온 집에 충만하고) 불같은 혀의 형상이 저들에게 나타나며 흩어져 각사람 위에 좌정하매 모든이가 성신을 충만히 받고 비로소 여러 나라 말을 하여 성신이 저들에게 말할 것을 주시는대로 말하더라. 봉교하는 유데아인들이 천하 각국에서 와 예루살렘에 머물더니 이 소리가 나매 허다한 백성들이 모여와 문제들이 말하는 것을 저 각각 본말로 알아 듣고 정신이 어지러워 다 놀라고 기이히 여겨 이르되「문득 이 말하는 자들은 다 갈릴레아 사람들이 아니냐. 그러면 우리 각 사람이 어떻게 우리 태생 지방의 말로 알아 들어지느냐」하며 발티사람과 메디사람과 엘람사람과 및 메소뽀다미아와 유데아와 가바도치아와 뽄도와 아시아와 프리지아와 밤필리아와 에집드와 시레네 근처에 있는 리비아지방에 사는 사람과 로마에서 온 나그네와 유데아 사람과 유데악를 새로 받드는 사람과 그레따사람과 아라비아 사람들이 다 이르되「우리가 들으매 저들이 우리 방언으로 천주의 큰 일을 강론 하는도다」하더라.
Allelúia, allelúia. V/. Ps. 103, 30. Emítte Spíritum tuum, et creabúntur, et renovábis fáciem terræ. Allelúia. アレルヤ、アレルヤ。V/.詩篇103, 30.  聖霊を遣わし給え、しかしてよろずのものは造られん。地の面は新たにならん。アレルヤ。 阿肋路亚!(咏103:30)阿肋路亚,阿肋路亚。求祢发出祢的神,万物便能复苏,祢便使地面更新。 알렐루야 알렐루야.(성영 103․3) 네 성신을 보내시면 만물이 조성하여지리로다. 또한 너 땅의 외면을 새롭게 하시리로다.
Allelúia. (Hic genuflectitur) V/. Veni, Sancte Spíritus, reple tuórum corda fidélium : et tui amóris in eis ignem accénde. アレルヤ。(ここでひざまずく) V/.聖霊来たり給え、信者の心に満ち給え、主の愛熱の火を我等に燃えしめ給え。 阿肋路亚。(此处跪下。)至圣圣神,请祢降临,充满祢信徒的心;在他们心内、燃起祢圣爱的火焰。 알렐루야. (여기서 무릎을 꿇고) 성신이여 임하사 네 믿는자들의 마음을 채우시며 저들 안에 사랑의 불을 놓으소서.
Sequentia. 続誦 (ヴェニ・サンクテ・スピリトウス) 继抒咏 부속가
Veni, Sancte Spíritus,et emítte cǽlituslucis tuæ rádium. 聖霊よ、来給え、天より、御光の輝きを送り給え。 1. 圣神,恳求祢降临,并求祢从天射发祢的光明。 1. 임하소서 성신이여, 하늘에서 내 광채를. 내마음에 내리소서,
Veni, pater páuperum ;veni, dator múnerum ;veni, lumen córdium. 貧しき者の父、天の賜物の分配者、心の光なる御者よ、来給え。 2. 祢是贫乏的慈父,祢是恩惠的施主,祢又是灵性的光,请求祢降临。 2. 임하소서 내 온주여, 빈곤자의 아버지여, 네 광명을 내리소서.
Consolátor óptime,dulcis hospes ánimæ,dulce refrigérium. 御身は、優れた慰め主、霊魂の甘美な客、優しくさわやかな御者に在す。 3. 祢是充满慈心的施慰者,祢是心灵甘饴的宾客,祢又是温柔的休养处所。 3. 임하소서 위로자여, 뭇 영혼의 참빛이여. 지극히 단맛이여,
In labóre réquies,in æstu tempéries,in fletu solácium. 労苦する者の憩い、暑熱の時の涼味、泣く時の慰めにて在す。 4. 祢是劳苦的安息,祢是热情奔放的缓和,祢又是悲泣中的慰藉。 4. 수고함의 안식처여, 더울때의 그늘이여, 우는자의 위안이여,
O lux beatíssima,reple cordis íntima tuórum fidélium. ああ、いと幸いなる光よ信者の心にしみ込み給え。 5. 具有万福万乐的神光,求祢对于信仰祢的人们,充满他们的心坎。 5. 극히 복된 광명이여, 너를 믿는 무리들의 마음속에 내리소서.
Sine tuo númine nihil est in hómine, nihil est innóxium. 御身の保護なくしては、人には有害なもの以外の何ものもない。 6. 非有祢的佑助,在人中全无可贵的美善,一切都成了累人的罪辜。 6. 내 성총을 안입으면, 이세상의 모든 사람 , 아무 희망 없나이다.
Lava quod est sórdidum,riga quod est áridum, sana quod est sáucium. 汚れたものを清め、荒れた所を潤し、病む者をいやし給え。 7. 求祢洗涤我的秽污,求祢灌溉我的干枯,又求祢把我的损伤治愈。 7. 더러운 것 씻으시며, 병든것을 고치시며. 마른곳을 적시소서.
Flecte quod est rígidum, fove quod est frígidum, rege quod est dévium. 剛きものを柔らげ、冷えたものを暖め、曲ったものを直し給え。 8. 凡为硬的,求祢使它柔软;凡为冷的,求祢使它温暖;凡为偏曲的,求祢使它正直。 8. 굳은 마음 녹이시며, 냉한 마음 덥히시며, 우리 앞길 이끄소서,
Da tuis fidélibus, in te confidéntibus, sacrum septenárium. 主に信頼する信者らに、七つの聖なる賜物を下し給え。 9. 求祢给信赖祢的信徒,赏赐七种的神恩。 9. 성신이여 비옵나니, 신자들이 마음속에, 네 칠은을 내리소서.
Da virtútis méritum, da salútis éxitum, da perénne gáudium. Amen. Allelúia. 善徳の功徳を積ませ、救いに至らせ、永遠の幸福を与え給え、アメン、アレルヤ。 10. 求祢赐我立功的德能,求祢赐我死候的救恩,求祢赐我永远的福乐。阿们。阿肋路亚。 10. 덕행공로 주시오며, 선종은혜 내리시며, 영복상 베푸소서, 아멘. 알렐루야.
+ Sequéntia sancti Evangélii secúndum Ioánnem. ヨハネによる聖福音の続誦。 福音 복음
Ioann. 14, 23-31. ヨハネ  14ノ23-31 若14:23-31 (성요왕 14․23-31)
In illo témpore : Dixit Iesus discípulis suis : Si quis díligit me, sermónem meum servábit, et Pater meus díliget eum, et ad eum veniémus et mansiónem apud eum faciémus : qui non díligit me, sermónes meos non servat. Et sermónem quem audístis, non est meus : sed eius, qui misit me, Patris. Hæc locútus sum vobis, apud vos manens. Paráclitus autem Spíritus Sanctus, quem mittet Pater in nómine meo, ille vos docébit ómnia et súggeret vobis ómnia, quæcúmque díxero vobis. Pacem relínquo vobis, pacem meam do vobis : non quómodo mundus dat, ego do vobis. Non turbátur cor vestrum neque formídet. Audístis, quia ego dixi vobis : Vado et vénio ad vos. Si diligere tis me, gaudere tis utique, quia vado ad Patrem : quia Pater maior me est. Et nunc dixi vobis, priúsquam fiat : ut, cum factum fúerit, credátis. Iam non multa loquar vobíscum. Venit enim princeps mundi huius, et in me non habet quidquam. Sed ut cognóscat mundus, quia díligo Patrem, et sicut mandátum dedit mihi Pater, sic fácio. そのとき、イエズスは弟子たちに仰せられた、「私を愛する人は私の言葉を守る。また父もその人を愛される。そして私たちはその人のところに行って、そこに住む。私を愛さない人は私の言葉を守らない。あなたたちがきいているのは、私の言葉ではなくて、私をおつかわしになった父のみことばである。私は、あなたたちといっしょにいる間に、こういうことを話した。しかし、弁護者、すなわち父が私の名によっておつかわしになる聖霊が、すべてを教え、あなたたちの心に私の話したことをみな思い出させてくださるだろう。私はあなたたちに平安をのこし、私の平安を与える。私は、この世が与えるようにして、それを与えるのではない。心配することはない、おそれることはない。"私は去って、またあなたたちのもとに帰ってくる"と私がいったのをあなたたちはきいた。もし私を愛しているなら、私が父のもとに行くのを喜んでくれるはずである。父は、私よりも偉大なお方だからである。私は、ことが起るとき信じるようにと、ことが起るまえに、こうあなたたちに話しておいた。この世のかしらが来るから、私はもう長くあなたたちと話しあわない。彼は私にたいしてなにもできないが、私が父を愛しており、父の命令のままにおこなっていることを、この世は知らねばならない。 那时候、耶稣向祂的门徒们说:“谁爱我,必遵守我的话,我父要爱他,我们要到他祂那里去,在他祂那里、作我们的居处。谁不爱我,必不遵守我的话。你们听到的话,并不是我的,𨚫是遣我来的父的话。我留在你们身边时,对你们说了这些话;但是那位恩保——我父因我名而将遣来的圣神——要教导你们一切,使你们想起我对你们所说的一切。我将和平留给你们,我将我的和平赐给你们。我给你们的,不像世界给你们的。你们的心不要乱,也不要怕。你们听过我对你们说了:‘我去,但我要到你们这里来。’你们如果爱我,必因我到父那里去而欢欣:因为父比我大。今在事前,我就告诉了你们,好使事情发生之后,你们相信。我不再和你们多谈了,因为世界的首领来了;可是牠在我身上一无所能,但为使世界知道我爱父,父怎样给我命令,我就照样举行。” 유시에 예수 문도들에게 일러가라사대「누 만일 나를 사랑하면 내 말을 준행할 것이니 성부 저를 사랑하실 것이요, 또 우리등이 정에게 와 한가지로 거처하려니와 나를 사랑하지 아니하는 자는 내 말을 준행치 않음이니라. 너희가 들은바 말은 내 말이 아니오, 오직 나를 보내신 성부의 말씀이니라. 이것은 나 너희와 한가지로 보내실 바라글리도 성신이 너희게 모든 것을 가르쳐 주실 것이요 또 내가 너희게 말한바 모든 것을 너희게 깨우쳐 주시리라. 나 너희게 평화함을 끼쳐주며 내 평화함을 너희게 주되 내가 너희게 주기를 세속이 줌과 같이 아니하노니 너희는 마음에 산란치 말며 겁내지 말지어다. 나 너희게 평화함을 끼쳐주며 내 평화함을 너희게 주되 내가 너희게 주기를 세속이 줌과 같이 아니하노니 너희는 마음에 산란치 말며 겁내지 말지어다. 나 너희게 이른바 내가 가고 또 너희게 온다 함을 너희가 들었으매 너희가 과연 즐거워 하리니 대저 성부 나에서 초월하심이니라. 지금 일이 되기전에 나 너희게 말함은 일이 된 후에 너희로 하여금 믿게코저 함이로다. 이후는 나 너희게 많은 말을 하지 아니하리니 대저 이 세상 임자 와서 내게 아무 상관이 없으나 그러나 세상으로 하여금 내가 내 성부를 사랑하고 또한 성부 내게 명하신대로 나 행하는 줄을 알게함이니라」
Credo 信経 信经 신경
Ant. ad Offertorium. Ps. 67, 29-30. 奉献文 詩篇  67ノ29,30 奉献咏(咏67:29-30) 제헌경 (성영 67․29,30)
Confírma hoc, Deus, quod operátus es in nobis : a templo tuo, quod est in Ierúsalem, tibi ófferent reges múnera, allelúia. 天主よ、御身が我らのうちに行い給えることを固うし給え。エルサレムにある御身の神殿より、王たちは礼物を御身に捧げん。アレルヤ。 天主啊!求祢坚固祢为我们所行的事业!在祢耶路撒冷的圣殿,诸王必将向祢敬奉献仪。阿肋路亚。 천주여 우리안에 행하신바를 예루살렘에 있는 네 성전으로 조차 견고케 하소서. 제왕들이 네게 예물을 드리리로다. 알렐루야.
Secreta. 密誦 密祷经 묵념 축문
Múnera, quǽsumus, Dómine, obláta sanctífica : et corda nostra Sancti Spíritus illustratióne emúnda. Per Dóminum . . . in unitáte eiusdem Spíritus. 主よ、願わくは、捧げられた礼物を聖化し、聖霊の光もて、われらの心を清め給え。その同じ聖霊との一致において、天主として、(…)。 主,求祢祝圣我们所呈奉的献仪,并以圣神的光照、净化我们的心灵。因我们主……。 주여 비오니 우리가 드린 제물을 거룩케 하시고 우리 마음을 성신의 비추심으로 조찰케 하시되, 네 아들 우리 주 예수」그리스도를 인하여 하소서. 저 너와 성신과...
Ant. ad Communionem. Act. 2, 2 et 4. 聖体拝領誦 使徒行録  2ノ2,4 领主咏(宗2:2,4) 영성체경 (종도행전 2․2,4)
Factus est repénte de cælo sonus, tamquam adveniéntis spíritus veheméntis, ubi erant sedéntes, allelúia : et repléti sunt omnes Spíritu Sancto, loquéntes magnália Dei, allelúia, allelúia. 突然、彼らの座っていた場所で、天から、烈しい息の到来するような音がした、アレルヤ。すると皆は聖霊に満たされ、天主の大いなる御業を語った、アレルヤ、アレルヤ。 突然从天上起了一阵声响,好像暴风吹来,充满了他们所坐着的全部房屋,阿肋路亚。他们顿时都充满了圣神,传扬天主的秒工,阿肋路亚,阿肋路亚。 홀연 하늘로 조차 소리 나 마치 큰 바람이 밀려옴 같아여 그 앉았던 온집에 충만하고 알렐루야. 모든이가 성신을 충만히 받고 비로서 천주의 기묘한 일을 말하더라. 알렐루야 알렐루야.
Postcommunio. 聖体拝領後の祈 领后经 영성체후 축문
Sancti Spíritus, Dómine, corda nostra mundet infúsio : et sui roris íntima aspersióne fecúndet. Per Dóminum ... in unitáte eiusdem. 主よ、聖霊の注入が、われらの心を清め、聖霊が、その露(つゆ)の染み入る散布により、[われらの心を]豊饒ならしめんことを。その同じ聖霊との一致において、天主として、(…)。 主,惟愿圣神的降临、净化我们的心;并望祂以自己的甘露深润我们的灵魂,使我们多产善果。因我们主……。 주여 성신을 부으사 우리 마음을 조찰케 하시고 저의 신묘한 이슬을 뿌리사 우리 심중에 싹이 나게 하시되, 네 아들 우리 주 예수․그리스도를 인하여 하소서. 저 너와 성신과...

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聖体降福式は主の勝利の凱旋式である

2020年05月29日 | カトリックとは
テニエール神父著『聖体の黙想』 (1953年) (Révérend Père Albert Tesnière (1847-1909))より【アルベール・テニエール神父は、聖ピエール・ジュリアン・エマールの創立した聖体修道会の司祭で、聖体修道会の総長(1887-1893)も務めた。】
 
聖体の顕示に関する黙想
 
聖体降福式は主の勝利の凱旋式である
 
 礼拝 花やろうそく、その他多くの装飾で、凱旋門のようになった祭壇の上に、お出ましになられる勝利の主イエズスを礼拝しよう。主の凱旋を歌い、その勝利をお祝いするしるしとして、奉仕、忠純、愛を主にお誓いしよう。聖体降福式の目的のひとつは、世間と悪魔と死とを征服されたイエズスのご勝利を祝うことにほかならない。
 トリエント公会議は、聖体の祝日に慣行されていた凱旋的聖体行列の儀式を是認して、この意味を肯定した。聖体降福式は聖体の祝日の延長である。この公会議は次のように宣言している。 『毎年、特に公の祭式をもって、いとも尊い聖体を敬い、盛大な行列を挙行して町々村々の街路に聖体をお運びするのは、非常に敬虔で適当なことであるといわなければならない。一定の期日に、すべての信者がその力の許すかぎり荘厳な儀式によって、主であり、救い主なる御方に感謝と愛とをあらわすのは当然である。なぜなら、主は死に打ち勝たれた生ける証拠として、人々に天上の祝福を与えられたからである。また、これによって、不滅の真理は異端と虚偽とに対して勝利を占める。すなわち、私たちの敵対者たちは、衆人の喜びであるこのような盛観を見て恥辱にたえず、痛悔の念を起こすに至るのである』 と。
 
 されば、私たちの眼前においでになるホスチアの中にあらわれるイエズスの勝利をお祝いしよう。主の御戦い、主のご受難を回想しよう。そのすべての中で、主はいかに勇ましく、いかに完全に自分を忘れ、いかに慈悲深くおいでになるかをお思いしよう。主の用いられた武器と戦略とが、忍耐、けんそん、祈祷、受難にほかならなかったことを黙想しよう。
 主の戦いの目的は、天父の御名を敬い、御国を到来させ、ご光栄を輝かせるためであったのである。また、それは罪人を恥ずべき生活から救い出して、彼らに永遠の生命を与えるためであった。また、同時にそれは、真理をして正義と平和とのうちに統治させるためでもあった。しかし敵はなかなか頑強で、この御企てを全うされることは非常に困難であった。悪魔は世間を自分の奴隷として、その長となり、あらゆる快楽をもって堕落した人間を魅惑した。彼は手中に地上のすべての権力を握り、天主の選民を自分の手下とし、神殿を占領するまでとなった。このような時、イエズスは、かよわい幼な子となってこの世においでになり、貧しい職人として成長し、やさしい御言葉で天主の教えを説き、人々に多くの恩恵を施し、彼らの心を得られたのである。悪魔は驚いて自分の輩下の心に憎悪と呪いとを満たし、彼らをして主を襲わせ、ついに主を殺させたのである。
 けれども悪魔の勝利は結局彼の敗北であった。なぜなら、すべては、正義を償うために十字架上の死を天父に約されたことの実現にすぎなかったからである。だから、主のご死去はやがてご復活の光栄と勝利とになり、悪人たちのあらゆる努力に関係なく、主は悪魔と死と世間とを征服した勝利者となってよみがえりになったのである。この日から、主は恩恵によって現世を統治され、永遠の光栄のうちに天国を世々に限りなく統治されるのである。
 御稜威(みいつ)尊き永遠の勝利者よ、屠られた子羊に栄誉と尊貴と光栄と祝福とがあられるように。
 
感謝 キリストの勝利は、主の勝利というよりも、むしろ私たちの勝利である。ああキリストよ、祝福と感謝とを受けさせたまえ。
 
 聖体の制定は主の勝利を私たちに分けたもうためであった。聖体は強き者のパン、選ばれたキリストの兵士のパンである。聖トマがつくった聖体拝領の感謝の祈りの一節に左の言葉がある。 『聖体は信仰の武器、善意の楯、目に見えると見えざるとを問わず、いっさいの敵の罠(わな)に対する守り、かつ、われらの情欲に対する抑制と勝利とである』 と。
 もし私たちがホスチアの中においでになる勝利者と、まことに堅固な一致を営んだなら、私たちは内外のいっさいの敵に対して、どれほど強くなることであろうか。少なくとも私たちは、これまでに得た過去の勝利のすべてを聖体によって得たことを忘れてはならない。聖ベルナルドはいう。 『なんじらのうち、誰にてもあれ、おのが心中に、怒り、傲慢、邪欲などが、あるいは少なく、あるいは弱くなったことを感じたならば、聖体に向かって感謝しよう。なんじらは聖体によって、ついに最後の勝利を得ることができるのだから、どんな時にも勇気を失ってはならぬ』 と。
 
 償い もしあなたが、その御助けを仰いで十分に信頼すれば、必ず勝利を得させてくださる勝利者のみ前に出て、過去の無数の罪を嘆こう。わずかな誘惑すら、すぐあなたを倒してしまうではないか。種々な口実のもとに、いかなる弱さ、いかなる卑劣、いかなる不従順が隠されていることだろう。あなたは、なんとたやすく自分の最も醜い失敗を弁解していることだろう。
 しかも救い主が悪魔に打ち勝たれたのは、絶対の犠牲をおはらいになってのことであった。かくも尊い高価な代償を、あなたはみな空費しているのである。あなたは主の御血を汚し、ご受難、ご死去を忘れ、ご復活をむなしくした。
 また、諸国がイエズス・キリストとその教会に対して加えている迫害と攻撃とを嘆こう。教会に対するすべての迫害は、キリストが戦いによって得ることのできた勝利に対する否定であり、勝利者である救い主に対する不正であり、乱暴であり、冒瀆である。このことをよく胸におさめ、教会に対する熱愛によって、主の聖なる権利に反抗するいっさいの不義を憎むことを学ばなければならない。
 
 祈願 イエズス・キリストに仕えるために、いつもおおしく強くあるように決心しよう。主は、あとからあとからつづく勝利を占められた偉大な征服者である。主はこれによって私たちのためにも戦いが任務であることの模範を示されたのである。
 内面的な敵、すなわち家庭においても、学校においても、教会においても、社会においても、どこにあっても、戦って常に勝つためには、まず第一に内面的な戦いによって、あなたの欲望、あなたの天性を制し、あなた自身に対して絶えず戦いを仕掛けてくる悪魔と手をゆるめず戦うことに慣れなければならない。この内面的な戦いは外にはあらわれない。けれども、それは戦場にあって兵士に大勝利を得させるのに必要な、ふだんの規則正しい訓練となるのである。
 勇ましく戦おう。だがその前に、十分な力を与えられるよう主に祈ろう。あなたの武器をまず子羊の尊い御血の中にひたすことを忘れないで、『戦いて勝ちし者には隠れたる甘きマンナを与えん』 とおおせになった天主の御約束を思い起こそう。この地上の血戦で勝利を占めるなら、最上の報賞が天国であなたのものとなる。そしてまた毎日の誘惑と戦って勝つたびに、そのいくぶんかの甘味を、すでに地上で味わうのである。
 
 実行 あなたの主な欠点と戦おう。そうすれば朝ごとの聖体拝領は、あなたの勝利を飾る勲章となるであろう。









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「聖マリアへの真の信心で得られる効果の続き」 2020年5月24日、小野田神父のメッセージ

2020年05月29日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2020年5月24日、ご昇天後の主日に東京で録画した聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父メッセージです。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄妹姉妹の皆さん、お元気ですか?

ミサに与れないで、今こうやってFacebookでミサに与っている方々、お祈りしております。もうお姿を見られなくなって長くなっている兄妹姉妹の方々がいらっしゃいます。どうしていらっしゃるかなぁ、と思っております。どうぞお体に気を付けて、元気でいらして下さい。いつもお祈りをしています。

この前、私たちは「聖母に対する真の信心」、聖ルイ・マリ・グリニョン・ド・モンフォールの真の信心の「効果」について話をしました。7つある効果の内の最初の2つだけをみましたが、今日はその続きの、3・4・5を見てみます。

ドン・ボスコ社から出ている『聖母マリアに対するまことの信心』、これを是非読んで、勉強なさって下さい。これをこの私たちのミサの会場でも手に入れる事ができます。どうぞ読んで下さい。

この聖グリニョン・ド・モンフォールによると、「第3の効果は、私たち第1・第2の効果の、その論理的な結果として、私たちの心の中にますます、恐れとか小心とか、『罰が起こるんじゃないが』とか、『罰せられるんじゃないか』とか、『何か恐ろしい』というような気持ちがますます無くなっていく、それよりももっと、子供のような単純な信頼の心がますます増えて、純粋に天主を愛する事ができるようになる」と説明しています。

第4の効果は、その結果です。「マリア様に対して、今度はますます大きな信頼が増えて、『マリア様に全てお捧げしよう』、私たちの持つものを全てマリア様にお捧げするようになるので、聖ボナヴェントゥーラと一緒にこう言う事ができる、『私は、全くマリア様のもの。私の持っているものは皆、マリア様のものです。』」

それから最後に、第5に今日お話したい事は、その結果私たちは、マリア様の心の中に、マリア様の精神と、マリア様の霊魂の中に深く沈んでいくので、マリア様にピッタリこう満たされて、マリア様とピッタリ一致して、あたかもマリア様の中に居るようになるのでこの信心によって、すると聖霊は私たちを御覧になると、「あぁ、ここにも私の浄配マリアがいる!」となって、そして私たちもマリア様の心で天主を讃美するようになります、「私の霊魂は主を崇め、私の精神は、主によって喜ぶ!」と、マリア様と同じ事をする事ができるようになります。

もっと詳しい説明がこの本の中にあるので、是非お読み下さい。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。





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【聖体の黙想】聖体はわが宿主であり、また客である

2020年05月28日 | カトリックとは

テニエール神父著『聖体の黙想』 (1953年) (Révérend Père Albert Tesnière (1847-1909))より【アルベール・テニエール神父は、聖ピエール・ジュリアン・エマールの創立した聖体修道会の司祭で、聖体修道会の総長(1887-1893)も務めた。】

人である聖体

聖体はわが宿主であり、また客である

 礼拝 宿主であるイエズス、これもまた愛と同情とを意味する甘美な御名である。主は愛にあふれて私たちを招き、私たちを宿される。しかしまた同時に、救い主は私たちに招かれ、私たちより宿されることをお望みになる。私たちの宿主は、また私たちの客である。この両面から、私たちは聖体のイエズスを仰ぎ、礼拝し、お愛ししなければならない。
 イエズスとのこの関係は、私たちにとってまことに楽しく、まことに幸いなものであり、私たちはいかにして、救い主のこの御名の示す愛とご好意とを測り知ることができるだろうか。
 まず第一に、あなたを招いてあなたをお宿しになる宿主として主を礼拝しよう。あなたは『なんじら、みなわれに来たれ Venite ad me omnes』との御声を聞くことができないであろうか、主は絶え間なく招いてくださる。主の御招きはご命令にほかならない。私たちの町または村の中にある主のお住まいは、いつも開かれてなんぴとの入るのも妨げない。それは万人の家であって、主はまことにそこにとどまって私たちを迎えてくださるのである。
 主は私たちの祈りを聞き、私たちと親しむために私たちを迎えてくださる。私たちの望み、求め、嘆きを、みな喜んで聞いてくださる。
 主はまた私たちを養うために、その食卓で待っておられる。主の食卓は、いつもひろげられ、豊富に準備され、天使らによって給仕されている。私たちはたった一度だけでなく、実に毎日主の食卓、天主の宴会に招かれているのである。
 主はこれだけでまだ満足されず、『われにとどまれ』とおおせになって、私たちを主ご自身、すなわち、み心の中に入らせ、宿らせ、とどまらせようとお望みになる。私たちがこの世に生きているあいだ、ここに休み、ここに隠れて、最も懇切な宿主のお心遣いを受けるようにと、望ませてくださるのである。主の客室は、主の有しておられるものの中で最もうるわしく最も聖なるもの、すなわち主の愛、主のみ心である。
 そのうえに、主は、私たちを主の栄光の宮殿に導くことを約束される。私たちは間もなく永福の世界に連れられて、永遠に主とともに住み、片時も主を離れることがなく、主と私たちとの間にはなんらの隔たりもなくなるはずである。ああ主は主の御招きに従う人々に対して、いかに好意と慈愛とに満ち、いかに親切、懇篤でおいでになることであろうか。
 これと同時に、主はまた私たちに宿をお求めになる客人(まろうど)である。天主が人となって、この世で貧しい旅人とおなりになったのは、主の被造物である私たちに、主を宿す光栄と功徳と喜びとをお与えくださるためであった。『われ旅人なりしに、なんじらわれを宿らしめたりHospes eram, et collegistis me』と、茅屋(ぼうおく)にお宿しした人々に、主は他日その壮麗な宮殿でおおせになるであろう。主が幼子であったころ、マリアとヨゼフは主をナザレトでお養いになった。のちに主が布教で疲れた旅人となられたとき、ラザロは主を自分の家に迎え、マリアとマルタとは心を尽くして主を歓待申しあげた。この同じイエズスが、今は卑しい聖体の秘跡の陰に隠れて、私たちにそのお宿りになる聖堂と聖櫃とをお求めになるのである。主は決して気むずかしい客人ではない。私たちが貧しいなら、主はわら屋でもバラックでもおいといにならない。
 だが、まだこのほかに、主のいとも望まれる客室がある。それは私たちの心の密室、霊魂の神殿である。主はおおせられた。『われにとどまれ、われなんじにとどまらん。Manete in me et ego in vobisわれわが父のもとにおけるがごとく、なんじの中にとどまり、なんじを愛し、なんじに愛されて、なんじを生かし、なんじを祝福し、なんじを幸福ならしめん』と。主を愛する純潔な霊魂は、いかに貧しく無知とはいえ、金銀をちりばめた大理石で飾られた大聖堂よりも、主の愛好される住み家である。主が天国の光栄を捨て、この世においでになって苦しみと悲しみとを重ねて、ついに十字架上で死なれたのは、私たちを富ませ、私たちのうちに住んで、私たちを天主に似たものとするためにほかならなかった。
 天主である客人を礼拝し、主をふさわしくお宿しするようあなたの心を開き、主を永遠にあなたの中におひきとどめしよう。

 感謝 イエズスがあなたを宿して、あなたにお与えくださるすべての宝、すべての幸福を思い出そう。 『なんじの宮殿の中における一日は、人々ともにある千日にまされりMelior est dies una in atriis tuis super millia』 といったダヴィド王は、これゆえにまた 『主の宮殿にのぼらんといいしによりわが心喜べり Laetatus sum in his quae dicta sunt mihi: in domum Domini ibimus.』 『これぞ世々におけるわが休息の家なるHaec requies mea in saeculum saeculi.』とも歌った。
 実に、私たちがイエズスとともにあって、イエズスを有しているとき、またイエズスによって守られるとき、私たちは敵の攻撃を恐れない。イエズスとともに、またイエズスのうちにあるとき、私たちは天主と交わる幸福を感じる。イエズスとともに、またイエズスのうちにあるとき、私たちの労働は正しく導かれ助けられ、たやすくされ効果に富んだものとなる。イエズスとともに、またイエズスのうちにあるとき、私たちはこの世で可能な範囲において、いとも聖なる天国的な生命を得ることができるのである。
 預言者エリアはサレプタの寡婦(やもめ)の家に宿って、奇跡をもってこれに報いた。このようにイエズスのおいでになるとき、 『すべての宝は彼とともに来る Omnia bona venerunt mihi pariter cum illa.』のである。主はベッサイダのペトロの家に宿られたとき、熱を病んでふしどに横たわっていた彼のしゅうとめを癒してくださった。ザケオの家においては、救済が彼の家に臨んだ。ベタニアではラザロをよみがえらせて、姉妹マリアとマルタとに彼を返し与えられた。このように、私たちも主をお宿しするなら、主は私たちを癒し、私たちを教え、私たちを富ませ、私たちを祝してくださるのである。こうして主の祝福は、この世または来世でのいっさいの幸福の保証である。
 それで、たびたび主を宿し主を歓待して、主をお喜ばせすることのできる人はまことに幸いである。

 償い このように偉大で、また親切な宿主のお招きに応ぜず、また主を客人として受けることを拒む人々の罪の重さを考えよう。
 彼らの行為は、第一、主に対して赦されない侮辱であり、まことの無礼である。彼らは天主に近づく光栄を嫌い、無限の幸福にあずかる喜びと絶大な恩恵とを無視する。しかも、どんなにつまらぬ口実、愚かな観楽のためであろうか。だが天主の御子のお招きは決して無視されるのではない。もし受け入れられなければ、それは恐ろしい宣告と変わる。 『わが招きたる者のうち、ひとりもふさわしき者なし,行きて彼らを外の闇に投げいだせ』 と。
 また、主をお迎えしないことは、無情、冷酷、残忍な心の表現である。主は貧しく、飢え渇き、怒り狂う敵に追われ、たけき虎狼(ころう)の群れに囲まれて私たちの心の戸口にお立ちになるのである。主の御言葉を聞こう。 『みよ、われは立ちてたたく Ecce sto et pulso!』 『我が愛ずる妹よ、戸を開け、われは夜もすがら外に立ちて、わが髪は露にぬれたり Cincinni mei pleni sunt rore noctium.』 と。このように哀切な御言葉をもって宿泊を願う旅人を、すげなく拒絶するのは、まことに残酷なことではないか。
 しかも主を拒み、主を追い払う人がどんなに多いことだろうか。かつては主を迎えても、きょうは主に門戸を閉ざす者、またはやむをえず、いやいやながら主を受ける者、または他人の意を考えて形式的に主を迎える者、このような者もいかに多いことだろうか。彼らはいっそう主を傷つけ、主のみ心を引き裂くのである。 『おのが方に来たりたまえども、彼らこれを受けたてまつらざりき』 とあるごとくである。
 彼らはそのわざに当たる刑罰を受けなければならない。今しばらくして、この貧しい旅人は、天上の威光に包まれて立ち上がられ、『わざわいなるかな、われなんじらを知らず、そは、旅人なりしに、なんじわれを宿さざりしをもってなり Hospes eram et non collegistis me!』とおおせられるであろう。

 祈願 天主である客人にあなたの無知と怠慢と不忠実との赦しを願い、あらためてあなたのもとに来てくださるようお願いしよう。 『主よ、私たちとともにとどまりたまえ Mane nobiscum Domine』と。
よい盗賊とともに主のみ国に入れるよう祈ろう。 『主よ、み国に至りたまわんとき、われを覚えたまえ Domine, memento mei cum veneris in regnum tuum !』と。

 実行 やむを得ない理由があるときのほか、聖体を拝領して主のご訪問を受けるのを怠らず、また、聖体拝領のできないことを、まことの不幸だと思うこと。

XII. Jesus in the Sacrament is Our Host.

1. Adoration.
"Jesus, our Host." Another sweet name, a name of kindness which signifies love and condescension ! — the love of our King, who invites and receives us ; the condescension of our Saviour, who wills to be invited and received by us. The hospitality is at once active and passive, and it is under this double aspect that Jesus is our Host and ought to be looked upon, saluted, adored, and loved.
Oh, how true all these titles of His goodness arel What sweet and touching, what beneficent relations they establish between Jesus and ourselves! Shall we ever appreciate them to the extent of loving and treating the Saviour of the Sacrament as all these names of love, of kindness, and benevolence invite us to do!
Adore Jesus, then, as your Host, who desires to receive you and who invites you. Do you not hear Him say, Venite ad me omnes : " Come ye all to Me " ? He presses us, He insists; His invitations are commands. His dwelling towers above ours, it is visible, always open, always accessible, it is really the common home, the home of all. And the Saviour remains there and receives.
He receives you, that He may listen to you and hold intercourse with you ; and He hearkens to your desires, your requests, your complaints.
He receives you at His table that He may feed you, and His table is always laid, magnificently furnished, served by angels; it is the feast of a King, the feast of God, to which He invites you, not once, but every day of your life!
Still more, He invites and engages you to enter, to remain, and to make your dwelling in Himself, in His heart: "Abide in Me." He desires that it should be there that you should take your rest, during this life, that you should take shelter, that you should enjoy all the attentions, all the charms of the most exquisite, of the most benevolent hospitality ! " Abide in My love! " In what He has that is the richest, the most sacred, and the best, His love and His heart— it is there that He desires to receive us and lodge us: it is His guest chamber! s
And He promises that hereafter He will receive us into the palace of His glory, that we shall enter into His felicity, that we shall dwell forever in Him, without even a shadow between us, without any possible separation; He invites us and summons us there. Oh, what a good and magnificent Host, generous and benevolent in rendering happy, in overwhelming with kindness those who accept His hospitality !
But, at the same time, He desires to be received by us; and God became man, a poor traveller, a stranger in this world, that He might give to His creature the honor, the merits, and the joy of offering Him hospitality. Hospes eram, et collegistis me: "I was a stranger, a traveller, a pilgrim without a dwelling, and you gave Me hospitality," He will hereafter say to those whom He will receive into His beautiful palace because they had received Him beneath their roof. When He was a child, Mary and Joseph gave Him hospitality at Nazareth; when He had become a man, after the fatigues of His apostolate He was received in the house of Lazarus, where Martha and Mary loaded Him with attentions and with love. Now, in the lowliness of His Sacrament, He asks us for churches, for tabernacles. Oh, He is not difficult to please! And if we are poor, persecuted, He contents Himself with a thatched roof or a garret!
But there is a dwelling which is dearer to Him than all those and where above all He desires to be received; it is the inner room, the chamber set apart, the sanctuary of the heart and of the soul : Manete in me et ego in vobis: " Let Me abide in you! " Yes, in you, even as I abide in My Father, loving and loved, living and vivifying, happy and blessing! " Thou in Me, Father, and I in them!" He prefers the most ignorant and the poorest soul, if it be only pure and loving, to the most sumptuous of temples, to the basilica of marble and of gold. His last object in quitting the sojourn of His glory, in living in labor and dying in pains, was thereby to merit and obtain the power of dwelling in us, to enrich us, to honor us, and to deify us by remaining in us!
Oh, adore this divine Guest, open to Him your heart; do all in your power to receive Him aright, and treat * Him so well that He may never desire to leave you any more.

II. Thanksgiving.
Enjoy the charms and recall to mind all the good things you find in the hospitality which Jesus offers you. Melior est dies una in atriis tuis super millia : a day with Thee, oh God of the tabernacle, is better than a thousand in the most hospitable dwelling upon earth. Therefore the prophet was thrilled with gladness when the possibility was put before him of going into the house of the Lord: Laetatus sum in his quae dicta sunt mihi: in domum Domini ibimus. "He called it the dwelling of his peace, he longed to take his rest therein forever: " Haec requies mea in saeculum saeculi.
It is, in fact; because when we have Jesus with us and are in Jesus, when we are guarded by Him, we are insured against the attacks of the enemy; with Jesus, and in Him, we enjoy the charm of the divine conversation; with Jesus and in Jesus, we find our labors directed, aided, rendered easy and fruitful; near Jesus, and in Jesus, we possess a sanctified life, beatified in as far as life can be here below.
But what shall we say of the blessings His visit brings us when we receive Him; the grateful Guest who so largely repays the hospitality which we offer Him?
Like to the prophet Elias, who repaid by miracles the hospitality of the widow of Sarephta; like to those holy pilgrims whose temporary stay with charitable hosts always left the luminous trace of some long desired favor miraculously obtained by their guests — so when Jesus comes, "all good things come to us with Him : " Omnia bona venerunt mihi pariter cum illa. He is received into the house of Peter at Bethsaida, and He cures the mother-in-law of the apostle of the burning fever which keeps her confined to her bed. He goes to Zacheus and "salvation comes to his house." He is received at Bethany, and He restores the risen Lazarus to his hosts, the sisters who were weeping over him. And if we receive Him cordially, whether we be rich or poor, if the dwelling of our soul be clean, He will cure us, He will teach us, He will pacify us, He will enrich us, He will bless us ; and His benediction is the warrant of ail good things in time and in eternity.
Happy then the soul which often receives Him and which treats Him so well that it makes Him happy to go back to it, there to take His rest and to enjoy the delights of hospitality.

III. Reparation.
Endeavor to understand the gravity of the fault committed by those who refuse to be received by so great and good a Host, and by those who refuse to receive Him.
They first perpetrate an insupportable injury, an act of contempt, a real outrage. They reject the honor of approaching a God, the joy of participating in infinite felicity, the advances of a princely liberality; and under what miserable pretexts, on account of what stupid preferences! But the invitations of the Son of God cannot return to Him in vain; if they are rejected, they are changed into condemnations. "None of those whom I invited were worthy, go and cast them into the exterior darkness."
But, also, not to receive Him is hardness, a want of mercy, a cruelty. He is there, at the door of our heart, poor, hungry, thirsty, pursued by furious enemies, by raging wolves. Listen to Him: Ecce sto et pulso! " Open to Me, that I love as a sister, and from whom I expect succor and affection, open to Me, for I have passed the night outside and My hair is moist with the cold dews of the morning:" Cincinni mei pleni sunt rore noctium." To repel a wanderer who supplicates in so touching a manner, is it not barbarity ?
Alas! how many souls are nevertheless pitilessly closed to Him ? How many, who formerly received Him, reject Him now, adding still more to His sorrows! How many receive Him because they are, so to say, forced to do so, or who do so from ostentation, but do not treat Him when once they have received Him as He deserves to be treated. " He came to His own and His own received Him not."
What they have done will be repaid to them, and they will be obliged hereafter to hear from the mouth which so humbly asked for hospitality the terrible words: "Go, ye cursed, I know ye not, for I was without a home and you did not receive Me." Hospes eram et non collegistis me!

IV. Prayer.
Ask the divine Guest to forget your ignorance, your negligence, your infidelities, and never to weary of coming to you. Mane nobiscum Domine : " Lord remain with us."
Ask Him, with the good thief, to be received into His kingdom: Domine, memento mei cum veneris in regnum tuum !

Practice.
Never to fail to receive a visit from Jesus in the Communion except for unavoidable reasons, and if the privation be imposed upon us to look upon it as a real misfortune.

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聖体は主の聖徳の模範の継続である

2020年05月27日 | カトリックとは
テニエール神父著『聖体の黙想』 (1953年) (Révérend Père Albert Tesnière (1847-1909))より【アルベール・テニエール神父は、聖ピエール・ジュリアン・エマールの創立した聖体修道会の司祭で、聖体修道会の総長(1887-1893)も務めた。】

聖体の制定された理由

聖体は主の聖徳の模範の継続である

 礼拝 人としても祭壇上にまことに生きたもう私たちの主イエズス・キリストを礼拝し、謹んで主の御言葉を聞こう。『われは世の光なり。われに従う者は暗やみを歩まず』『われは道なり、真理なり、生命なり』『われは心柔和けんそんなるがゆえにわれに学べ』『われなんじらに例を示したるは、わがなんじらに為ししごとく、なんじらにも為さしめんためなり』と。
 救い主はこれらの御言葉によって、私たちに与えてくださる最も大きな御恵みのひとつ、また地上での最も大きなご使命のひとつは、示されたご模範であることを教えてくださったのである。それまでの人間は自然徳についてもたびたび誤謬に陥り、超自然徳については全く知るところがなかった。だから、もしも『天主の聖なるもの』救い主キリストがみ教えと御行ないとによって、真理と完徳の模範を示してくださらなかったならば、世はまだ死の暗黒に坐して、腐敗の道をたどりつづけていたであろう。
 人となりたもうた御言葉によって示されたご模範の中に含まれる聖徳の教えは、実に無限の御恵みである。主は天主の愛と他人への愛と、また貞潔、けんそん、忍耐、従順などの諸徳とを世に教えてくださり、その際ご自分からこれらの諸徳を実践して、その愛好すべきさまを示し、私たちの怠惰心を励まされた。主はさらに主の愛によって行われるすべての善業の報いは、天国での主ご自身の所有であることを私たちに約束された。これによって人々はこのような言語に絶する大いなる賞与をめざし、どんな艱難(かんなん)ぎせいにも堪え、英雄的な聖徳をさえ実現しようと奮起するようになったのである。
 聖体は世々に至るまで、人となりたもうた御言葉の地上的なご生涯を継続する。イエズスが聖体の外観のもとで実行される諸徳、いわば聖体の状態におとどまりになるための条件ともいう諸徳の輝きをながめたてまつるには、聖体を仰ぎ望み、信仰をもって黙想すれば、それで足りるのである。
 卑しいパンの状態で貧しい聖櫃の中におとどまりになったのは、いかなる御方であろうか。これこそ全能の天主であり、同時に人なる尊い救い主にほかならない。それならば、それはなんという謙そんであり、なんという貧しさであろう。
 司祭の奉献の言葉に服従されるのは、いかなる御方であろうか。聖体拝領者の祈りに答えてご自身をお与えになるのは、どんな御方であろうか。天地の支配者であり、万物の創造主ではないだろうか。であるならば、それはなんという従順、なんという完全な服従であろうか。
 日々、聖体に加えられる不敬、侮辱、冒瀆(ぼうとく)に対してさえ、これを黙しお忍びになるのはいかなる御方であろうか。御稜威尊き天主、天使さえも恐れおののいてお仕え申しあげる全能の天主ではないだろうか。ではそれは、いかなる忍耐であろう。
 最後に、あらゆる人々に、いつまでも常に聖体と恩恵とを与えてくださるのは、どんな御方であろうか。なんぴとにも何ものにも負うところのない天主、地上での御務めをことごとく果たされた救い主ではないだろうか。にもかかわらず主はまだなんらのみわざを営みたまわなかったように、聖体の中で、御恵みに御恵みをお重ねになるのである。ああなんという御慈悲であろう。
 実に聖体の秘跡は、かねて主が地上で人々にお与えになったみ教えとご模範とを、このように世の終わりまで継続されるのである。
 だから礼拝しよう。秘跡の中においでになるイエズスを。聖体が聖徳そのものなる救い主に在(ましま)すことを黙想し、聖体の信心に関する最も重要な右の真理をよく会得しよう。

 感謝 この真理を黙想するとき、あなたは主の感ずべき謙そんとご慈悲とに対して、無感覚ではおられないであろう。聖徳を理解するには、聖徳の生きた教えがぜひ必要である。そしてこのために主が地上的ご生活を秘跡によって今に至るまで継続し、すべての人々に完徳の鑑(かがみ)をお示しになるのは、まことにきわまりない御恵みといわなければならない。私たちは福音書によって、主の言行を知ることができる。しかし私たちの目前で、主の聖徳の模範が引きつづいて行われるのを見るとき、私たちはさらにいっそうの感激をおぼえるのである。しかもこの時における主のご模範は非常に顕著であるから、無知で単純な心の持ち主でも容易にみ教えの意味をさとることができる。聖櫃の貧しさ。ホスチアの卑しさ。忘れられ、辱められ、侮られたもうたにもかかわらず、常にお守りになる沈黙と忍耐、友と仇(あだ)との区別なく、すべての人々に御身をお与えになるご寛仁。すべてこれらは、誰にも見え、誰にもわかる事実であって、これを了解するには、聖体のおおいの下においでになる御者が、天主にして人なるイエズス・キリストであるという公教要理の初歩の信仰をもつならば十分である。主が貧困、忍耐、謙そん、犠牲などをよぎなくされる聖体の状態にあることを承諾されたのは、明らかに主がすすんでこれをお選びになったからではないだろうか。だからこれらは、主が私たちのための模範として聖体の中で実行される御徳であるに相違ない。
 しかもあわれみ深い主は、聖体の中で、このような貴重な模範をお示しになっただけではなく、私たちの力を養うために聖体そのものを与えられる。すなわち、聖体拝領に際し、万徳の主は私たちの霊魂の中におくだりになり、私たちと一致し、その全能をもって私たちを助けて徳を行なわさせてくださる。一方、この聖体拝領は、私たちが望めば毎日でも可能であり、主はその尊い模範を示されるとともに、徳の実行に必要な恩恵を絶えず私たちに与えてくださるのである。
 ああ恵み豊かな天主の富の偉大さ、なんぴとがこれを知り尽くし、これにふさわしく主を賛美することができるであろうか。

 償い これに関した償いは、二つの理由から必要である。第一に、主は無限の御あわれみをもって善徳の模範を私たちの目前に示し、私たちの霊魂を助けてくださるのに、私たちは平然として罪悪、怠惰、卑怯な生活を送っている。私たちのこのような状態は、いかにも卑しく、また醜く、厳罰に価するものではないだろうか。主は恩恵を与え、模範をたれ、決して倦(う)みたまわないのに、どうして私たちは惰眠をむさぼっているのだろうか。これはいかに恥ずべきことであろう。私たちがいかにへりくだってもそれで十分ということはできないだろう。
 償いの第二の理由は、聖体のお示しになるご模範に信者が多くの注意をはらわない事実である。実際、ほとんどすべての信者が、主ご自身の誉れと栄えとを犠牲にして、私たちにお与えになるこの宝をおろそかにしている。主の御知恵とご慈愛との最大の傑作がこのように無視され、侮られているのは、まことに嘆き悲しむべききわみではないだろうか。私たちは自分のため、並びに人々のためにこれを嘆き『おのが輩(やから)』から忘れられた救い主に心から同情をお寄せしなければならない。

 祈願 私たちは自分の生活をもっと聖体に近く、親しいものとする決心をつくり、必要な恩恵を主に請い求めよう。なお聖体を通じてイエズスの聖徳を学び、これをよく理解するために、しばしば聖体のみ前で福音書を黙想し、特に私たちの境遇に適した模範に注意し、これによって、利益を得るために主の御助けを祈ろう。願わくは、聖体の秘跡が、私たちにとって『道であり、真理であり、生命にてまします』ように。

 実行 今後、徳について黙想するとき、必ずイエズスがご聖体の中でお示しになるご模範を考え、また修徳のために聖体拝領をよく利用しよう。

II. The Eucharist Continues the Admirable Example given by the Earthly Life of the Incarnate Word


The Reasons of the Eucharist.

II The Eucharist Continues the Admirable Example Given by the Earthly Life of the Incarnate Word.

I. Adoration.

Adore Our Lord Jesus Christ, truly and personally present and living upon the altar, and listen to the consoling words issuing from the depths of the Sacrament: " I am the light of the world; he who follows Me does not walk in darkness." " I am the way, the truth and the life; learn of Me who am meek and humble of heart." "I have given you an example, that as 1 have done so you yourselves may also do."
When Our Saviour said these words, He testified to one of the greatest blessings, one of the most important ends of His mission upon earth. Humanity had perverted the notion of natural virtues and it was totally ignorant of supernatural ones. Without the revelation of Christ, the Saviour, of the "holy One of God," who taught by His words and by His example the real idea and the perfect practice of virtues, the world would have continued to live in darkness, and to walk in the evil paths of moral corruption, soiled with all the infamy of paganism.

The idea of virtue taught by such clear words, and sustained by such encouraging examples as those given by the Incarnate Word, is therefore an immense boon. It is He who taught the world what the love of God is, what love towards our neighbor is; in fine, what are chastity, humility, patience, obedience, and all other virtues. By first practising them, the Saviour rendered them amiable and attractive; He counteracted by His example our repugnance against making any efforts. By rendering Himself the recompense of every act of virtue performed through love of Him, He has given to pur combats in the cause of virtue such magnificent compensations that man has reached the point of joyfully embracing the greatest sacrifices that he may practise it.

The Eucharist perpetuates before the eyes of all generations the virtues of the terrestrial life of the Incarnate Word; it suffices to look at it, to know what faith teaches in regard to the Sacrament, in order to behold, shining in it, the most sublime, the most heroic virtues, those which come forth from the very Eucharistic state itself and seem to be the condition of it.

Who is it that remains in such a state of inertia in a poor tabernacle under such humble appearances?
The all-powerful Man-God, the triumphant king. But, then, what poverty, what humility! Who is it that obeys the words of the consecrating priest; who is it that gives Himself to the prayers of the communicant ?
The King of kings, the sovereign Master! But, then, what ready obedience, what unreserved submission! Who is it that bears in silence the irreverence, the outrages, the sacrileges by which the Sacrament is daily attacked ? The God of majesty, the God whom the angels adore in trembling J But, then, what heroic patience! Who, lastly, is it that gives the Eucharist with all its graces to all, always, and without end? The God that owes nothing to any one, the Saviour who finished His task on earth down to the last iota. But, then, how sublime is His devotedness in the Sacrament! What charity, what forgetfulness of Himself!

Thus, all the virtues are taught and practised by the Saviour in the Eucharist, where He perpetuates in His sacramental life the teaching and the examples given during His human life.

Adore, then, Jesus in the Sacrament, praise Him and contemplate Him as the master of all virtues; penetrate your soul fully with this truth, which is one of the most important in regard to Eucharistic piety.

II. Thanksgiving.

It would not be possible for you to meditate upon this consoling truth without your soul feeling itself to be penetrated with gratitude for the sweet kindness, the touching condescension of Our Lord. For if the teaching of virtues is absolutely necessary in order that we may comprehend them, is it not infinitely kind of Him to perpetuate, in the Sacrament, the virtues of His earthly life, so that all may see them there practised before them in all their perfection? Doubtless it is much to read of them in the Gospel, but is it not more efficacious still to see the practice of them continued in our presence ?

And the examples are so striking that the most simple among us can easily understand them. The poverty of the tabernacles; the fragility of the sacred species; the silence and the patience observed by the Saviour in the Sacrament, where He is forgotten, where injuries are inflicted on Him, or where He is maltreated; the readiness He shows to give Himself to all of us, friends or enemies — all this is visible, accessible, palpable to everyone; it suffices to have the faith of the catechism which teaches that Christ, God and man, is present under the veils of the Sacrament. If He accepts and submits to all the conditions of such a state, poverty, patience, humility, sacrifices, it is evident that He wills them, that He has chosen and adopted them; these conditions are therefore virtues which He practises and of which He gives us the example. Therefore, there is nothing to do, in order to understand it all, but to place ourselves before the Eucharist, and to recall to mind the precept of St. Peter: "Behold and do!"

But His goodness, which places before our eyes such luminous and perpetual examples, does still more: it gives us the Sacrament itself as nourishment, which means that, by the Communion, we receive grace, strength, and the means of practising what is taught us. The Communion gives to the soul power to practise what has been taught us by example. The Master of virtues descends into us, unites Himself to us, practises His virtues with us; He gives us, by His presence in our souls, the power and the facility of virtue, of its sacrifices and of its combats. It is more than example, it is the divine strength infused into the depths of our soul, appropriated to our faculties. And as the Communion is offered to us all the days of our life, in all the situations in which we may be placed, it is therefore in an uninterrupted manner that the Eucharist communicates to us the grace of Christian virtues, even as it is without interruption that it shows us the examples of them.

Oh abundance of the riches of our God, bestowed so lavishly in the Sacrament! Who is able to understand thee sufficiently in order to praise thee worthily ?

III. Reparation.

Two thoughts ought to furnish reparation in regard to this subject. The first is, that the example of the virtues of Jesus continued before our eyes so mercifully, and its succor so abundantly diffused in our souls, render our vices, our sins, our cowardice in doing what is right, our voluntary defects, incomparably more disfiguring, more guilty and more worthy of chastisement. To be what we are, in presence of what He is, and of what by His grace and His example He labors so perseveringly to render us — oh shame! oh horror! oh stupidity! How can we sufficiently despise ourselves ?

The second source of reparation springs from so few Christians thinking of the virtues of Jesus in the Eucharist; nearly all of them neglect the treasure which Jesus offers us at the price of immense sacrifices imposed upon His glory, His honor, and His royalty. It is sad, painful, and lamentable that so great a masterpiece of wisdom and of love should be so ignored and so neglected. We cannot but deplore it for ourselves and for others, and take opportunity from it to compassionate the Saviour, " ignored by those in the midst of whom He lives," and so really too!

IV. Prayer.

Let us ask for grace, and let us make the resolution henceforth to live in nearer and more loving relations with the Eucharist; to study in it the virtues of Jesus; to apply to them, in order the better to understand them, all that the Gospel relates of them; lastly, in the contemplation of the Eucharist, to derive from it examples of the virtues of our state; and on the reception of the communion, the graces and succor necessary to reproduce in us these divine examples. May the Eucharist be to us indeed, "the way, the truth, the life!"

Practice,

Never meditate upon a virtue without studying the way in which Jesus practises it in the Sacrament, and the help holy Communion offers to us for the practice of it.




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今日の富士山

2020年05月27日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!
今日の富士山です。







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私たちの主イエズス・キリストが天主御父の右に座したことは、私たちにとってどんな意義があるか?何を意味するのか?

2020年05月26日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

2020年5月24日(主日)御昇天後の主日のテレ説教です。



聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆さん、今日は御昇天後の主日です。御昇天の神秘を、続けて黙想致しましょう。

【1: 御昇天の神秘】
私たちの主イエズス・キリストは、天に昇られました。イエズス・キリストは、人となった真の天主です。真の天主にして、真の人。天主の御言葉のペルソナにおいて、天主の本性と人間の本性とが合体した御方です。

主は、天主としては天国に常にましますけれども、御昇天で人間として、つまり肉体と霊魂とを伴って、天国に入りました。

イエズス様は天国に凱旋するのみか、天の最も高い所に、つまり、天主御父の右の座に座しておられます。主はこの玉座で、全被造物から礼拝を受けなければなりません。

聖パウロは言っています、「イエズスの御名の前に、天にあるものも、地にあるものも、地の下にあるものも、みな膝をかがめ、全ての舌が、父なる天主の光栄を崇め、『イエズス・キリストは主である』と言い表す」(フィリッピ人への手紙2:10-11)為です。

【2:何故御昇天か?】
では、何故御昇天なのでしょうか?

イエズス・キリストが、この地上で生活をしておられた時、ほとんどの人々は、主の事をそうとは知らずに、主に鞭打ち、茨の冠をかむらせ、十字架に釘付けにしました。そんなに大切な御方だとは知らずに、命の主を虫けらのように足で踏みにじりました。

私たちの主は、これら全ての屈辱の苦しみのカリスを、御父に全く服従するために甘受しました。御父の御旨と御自分とを全く一致させて、いけにえとなる事に同意しました。

イエズス様の人間本性は全く完璧で美しく、主は全ての人の子の中で最も美しい方、最も完成された方でした。全ての天使たちはイエズス・キリストを、我を忘れて感嘆し、讃美していました。

この人類の最高の人間、人間となった天主イエズス・キリストは、御自分の兄弟である私たち人類の罪の負債を完全に、しかも有り余るほど支払う為に、辱めと苦しみの大海原の中に喜んで身を沈められました。

聖パウロは言っています、イエズス・キリストは「死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして従われた。そこで、天主は彼を称揚し、全ての名にまさる名をお与えになられた」(フィリッピ人への手紙2:8-9)と。

愛する兄弟姉妹の皆さんは、この地上での主の悲しみに寄り添って、主のカルワリオへの巡礼の道に従ってこられました。主の御苦しみを黙想してこられました。今日は頭を上げて、御昇天された主を見上げてください。主のおられる天のいとも高い所をご覧ください。悲しみの人であった私たちの主イエズス・キリストは、今や栄光の王となっておられます。

【3:結果】
では、私たちの主イエズス・キリストが、栄光の内に天主御父の右に座しておられる、という事は、私たちにとって、人類にとって、どんな意義があるでしょうか?これは何を意味するのでしょうか?

2つあります。

[1] 第1に、御父はイエズス・キリストを、「生ける人と死せる人との裁き主」として定められました。つまり、兄弟の皆さんも、私も、また私たちは誰一人として例外なく、イエズス・キリストによって裁かれます。今、人の子イエズス・キリストが座しておられるその玉座に、この裁判の席の前に、私たちは必ず出頭しなければなりません。誰もこれを避ける事ができません。

まず、私たちの霊魂が肉体を離れたその瞬間、つまり私たちの死のその直後、私審判があります。この私審判を受けるために、私たちの霊魂は主の前に現れます。私たちが受けるべき、受けるにふさわしい宣告を主の御口から聞く事になります。その時、私たちの永遠の運命が決まります。天国に行くか、あるいは地獄の火に燃やされるか、です。

そして、世の終わりに、全人類がもう一度、イエズス・キリストの前に呼び集められます。公審判です。

公審判では、最初の人間アダムとエヴァに始まって、最後の人間まで、全てが一堂に会します。

各自の裁きが、全人類の前で明らかにされます。人の子イエズス・キリストは、偉大な威厳と御稜威の内に再び地上に現れて、義人と悪人とを分ける事になります。

主の恐るべき威厳ある、権威ある御声が全世界に響き渡り、悔い改めなかった罪びとたちは、永遠の地獄の火に落ちていきます。肉体を以って焼かれる為に、落ちていきます。

義人たちに対しては、私たちの主は、肉体を以って永遠の喜びの報いを受けるように、招かれる事でしょう。

私たちにとって一番重要なのは、「イエズス・キリストによる裁き」です。永遠の命がこの裁きにかかっているからです。私たちの主は、私たちがいかに義務を果たしたか、について裁かれます。愛の義務です。主の御旨とは、「私たちが天主を全てに超えて愛し、そして隣人を我が身の如く愛する」ここにかかっています。

イエズス様は私たちにこう祈れと仰いました、「天にまします我らの父よ、 願わくは、御名の尊まれんことを、 御国の来たらんことを、 御旨の天に行わるる如く地にも行われんことを。」

御旨が天に行われる如く、地にも行われん事を。御国が今天にあるように、この地にも来たらん事を。

イエズス・キリストが今、天で王として、最高の裁き主として座しておられるその御国が、この地上にも来たらん事を。その為にも御旨が地に行なわれん事を。愛の掟が実行されん事を。

この「愛の掟」について、「天主の御旨を果たしたか否か」について、私たちは裁かれます。

私たちが恐れるべきは、この主の裁きです。人民裁判や、Twitterでの噂話や、支持率とか人気投票とか、風評、世間体、人々からの評判や人の目が、私たちの永遠を決めるのではありません。実際、命の主である私たちの主は、国民投票で十字架の死に渡されました。

私たちを永遠に地獄の火に投げ込む事ができる、あるいは天国に永遠の幸せに行く事を裁く事ができる方は、イエズス・キリストです。

今であれば、生きている間であれば、どのような罪びとであっても、回心して、イエズス・キリストに憐みや、情状酌量や、赦しを懇願する事ができます。しかし私たちが死んだ後には、既に時遅しです。生きている間に、キリストを無視して、キリストに対立して、攻撃して、無関係に生活したのに、死んだ途端いきなり、キリストと共にこのキリストの勝利を分かちあう、という事はできません。それは無理な相談です。

[2] イエズス様が昇天されて、最高に地位に付けれらた、というこの現実から導き出される、次の結論もあります。

それは、裁き主のみならず、イエズス様は、この地上の全ての国々と民々の「王」としての、この支配の、統治の権能を、権力を、御父から受けました。

「天と地の全ての力は私に与えられている」(マテオ28:18)とイエズス様は仰いました。

ですから、イエズス・キリストこそ私たちの主であり、王の王です。誰もイエズス・キリストによらなければ、地上の誰も正当に統治する事はできません。誰もイエズス・キリストの支配を逃れる事ができません。イエズス・キリストの関係のない、自律的な空間というものはあり得ません。どんな民族といえども、どんな国といえども、この世界を創った真の天主から独立して、無関係に生活するという事はできません。

聖パウロは言います、“Oportet illum regnare.”(コリント人への第1の手紙15:25) 「彼は、イエズス・キリストは、全ての敵をその足の下に置くまで支配しなければならない」と。

これはどういう事かというと、「イエズス・キリストは、生ける人と死せる人とを裁きに来られるその時まで、この世を統治しなければならない」という事です。「道、真理、命であるイエズス・キリストの快いくびきの教えに従わなければならない」という事です。

なぜかというと、主が、この全宇宙を創った天主であり、被造物の究極の目的、アルファでありオメガ、始めであり終わり、始原であり究極だからです。

ですからこそ、使徒たちから始まって、多くの司教たち、司祭たち、また数万の宣教師たちも、唯一の天主、救い主、贖い主、イエズス・キリストを宣教しました。命がけで宣教しました。これらの努力は、私たちが、イエズス様の教えと恩寵に助けられて、イエズス・キリストのおられる御国、天の国に入る事ができる、永遠の至福を私たちがこの地上にいる時から準備する事ができる、そして地上で生活している内から、愛徳に従って、幸せである、幸せな生活を送る事ができるためです。

イエズス様の御旨は、「天主を愛し、隣人を愛する」ここにあります。これこそ、主の御国です。この愛徳にが実践されるほど、喜ばしい、幸せな国というのは一体どこにあるでしょうか。

そうする事によって、私たちが主の愛の掟を守る事によって、主に祈り、国法を遵守し、弱い人を憐れんで助け、特に婦女子を助けて、また愛徳についての良心を究明して、罪を告白して、聖徳を実践するように努力する事になるでしょう。

これこそ、使徒の時から脈々と続く使徒継承の信仰です。この一致を乱してはなりません。

イエズス様は、御自分を信じて従う人々を、祝福と、優しさと、特別の御恵みで導かれます。

しかし、もしもそうでない場合にはどうでしょうか。イエズス様は、御自分の支配を拒む人々をも、正義によって統治されます。

つまり、自分の蒔いた毒の種を刈り取らされるがままにさせて、自分の行なった結果がブーメランのように戻ってくるがままにされるという事です。

現代では、義務、特に「愛徳の実践、愛の掟の実践、天主を愛する」という事よりも、「権利」が謳われています、「自由」が謳われています。「自分の好きにする権利がある」「自分が好きな道徳、モラルをする自由がある」と。「それが権利だ!」

天主から独立した、キリストも天主もいない自由、権利が主張されています。でももしも、イエズス様の教えた真理が認められないならば、嘘と誤謬によって支配されてしまいます。遂には、真理を言う事さえも、禁止され、罰せられるようになってしまう事でしょう。ちょうどジョージ・オーウェルの小説で書かれた、1984年の世界が、現実のものとなってしまいます。

皆が一斉にバラバを!我々はバラバを求める!と叫んだ聖金曜日の世界が再現してしまいま。

その時には、「真理」「天主の御旨」というよりも、声が大きい人が勝つ事でしょう。武力や、お金や、権威がある人が支配する、弱肉強食の世界ができてしまいます。名医が処方した良い薬を拒む病人たちは、やはり闘病生活を続けて重症化する事を覚悟しなければなりません。

「自由」「権利」だけが主張されるところでは、不道徳や、暴力や、猥褻や、不倫や、離婚、避妊、堕胎、自殺、安楽死などが、権利として至る所で増え続けて、この世界は、死の苦しみにもがかなければならなくなる事でしょう。そうなってしまえば世界は、不幸な人類を奴隷化する反キリストの到来を準備する事になります。

【4:遷善の決心】
では、愛する兄弟の皆さん、主のまします天に頭を上げましょう。目を眼差しを向けましょう。

かつて、人々はそうとは知らず、私たちの主を十字架に釘付けにしてしまいました。しかし私たちは、イエズス・キリストがどのような御方であるかを知っています。栄光の王です。私たちを裁く、人類全てを裁く、例外なく裁く、唯一の、真の、審判者です。私たちはしばらくしたら、主の来臨の時に、燦然と光り輝く、威光に満ちたイエズス・キリストを見る事でしょう。裁きに来られる主を見る事でしょう。

これが、カトリック教会が二千年間信じ続けてきた信仰です。

マリア様がこの信仰を守ったように、イエズス・キリストが復活し、真の天主であるという事を信じ続けたように、私たちもこれを守る事ができますように、マリア様にお祈り致しましょう。

マリア様は私たちに、きっとカナの婚宴の時と同じ事を仰るに違いありません。福音に記録されているマリア様のお言葉で、隣人に対して仰った言葉は、たった一つ残されています。カナの婚宴で働いていた使用人に仰った言葉です、「イエズス様の仰る事を、全て何でもやりなさい」と。

マリア様が私たちの信仰をいつも守って下さいますように、そしてマリア様の仰ったように、イエズス・キリストの御国が来たらん事を、その為に御旨が行なわれるように、イエズス様の御旨をいつも常に果たし続ける事ができますように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。



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聖体は仲介者である

2020年05月26日 | カトリックとは
テニエール神父著『聖体の黙想』 (1953年) (Révérend Père Albert Tesnière (1847-1909))より【アルベール・テニエール神父は、聖ピエール・ジュリアン・エマールの創立した聖体修道会の司祭で、聖体修道会の総長(1887-1893)も務めた。】

人である聖体

聖体は仲介者である

 礼拝 たとえホスチアの陰に隠れておられても、信仰の目にはきわめて明らかにみ姿を示される天主にして人なる私たちの主イエズス・キリストを、天主と人との間の仲介者として礼拝しよう。

 天主にして人なる御ありさまのうちで営まれる仲介者のご任務は、主にとっていちばん大切なお仕事である。なぜなら、これこそ宗教の本質であり、天主に最もふさわしく、同時に人間に最も必要なものであるからである。すなわち天主は、仲介者なるキリストによって、その正義を満足させ、無限の御稜威に対してささげなければならない宗教の務めを私たちに尽くさせ、また人は仲介者によってはじめて罪の赦しを受け、天父と和睦(わぼく)し、天主に嘉納される確信をもって、主に仕えることができるからである。

 人が罪を犯してから、天主は天主と人との間に存在していた愛のつながり、すなわち恩恵のつながりを切断された。本来人間は、自分を自然以上にあげる恩恵の助けがなければ、天主の御もとに至り、天主を賛美し、天主に嘉納されて、天主を所有することができないのである。ところが一方にはお怒りになる天主があって、これに対して他方には永遠に天主から分離した罪人がある。これが原罪によってもたらされた状態であった。天主と人間との間にあったのは、単に無限と有限との差だけではない。それよりもっと大きい差、聖なる御者のみ前において汚れた者、愛のみ前においての忘恩者、傷つけられた正義のみ前において償いをすることのできない者、これが天主と人間との間に横たわっていた距離である。

 天主の御子は、この深い淵(ふち)をうずめ、この相隔たる両岸をつなぐ橋とおなりになった。それは、御托身、すなわち天主たることをやめず人とおなりになったことによってである。私たちはこの御托身によって、主において人性と天主性とが和睦し、一致し、天主と人、無限と有限とがひとつのペルソナにおいてひとつとなられるのを見た。

 キリストの中における人性は、私たちの人性と同一であって、これを代表するものである。そしてこのキリストの中での尊い人性は恩恵と天主の愛とに満たされ、天主の生命、天主のあらゆる完徳と無限の幸福とを受けられた。そしてあらゆる人類にかわって、天父に罪の赦しを願い、そのために十分な償いをされた。すなわち、これが、御父におささげになった主の完全で無限の価値ある宗教的ご任務である。み言葉のペルソナは、キリストの人性に無限の価値を与えるから、この人性は御父のみ旨にかない、天主の無限の御稜威にふさわしい愛と尊敬とをおささげになることができるのである。

 だからこの尊い仲介者を礼拝し、感謝し、賛美しよう。キリストが人と天主との間の仲介者であるのは、単に一時的なことでなく、またある特殊なみわざをなさるときにかぎるのでもない。いや、それは御托身の後、永遠に、常にそうである。なぜなら、キリストは永遠に、常に、天主にして人に在(ましま)すからである。

 さきに説明したように、み言葉の御托身が、すでにそれ自身、仲介者であることである。主は、ほかになんらかのことをなさらなくても、すなわち、私たちのために天父に御あわれみを請い、償いをささげ、大司祭として祈らなくても、天主にして人に在す事実だけによって、永遠に天主と人間との仲介者でいらっしゃるのである。それは主のペルソナの中には、天主性と人性とが和睦し、一致して存在されているからである。

 聖体の中においでになるのは、この生きた天主の人キリストである。それで私たちは主を礼拝し、自分を主にささげ、主の仲介者の利益を受けるために祈らなければならない。

 感謝 イエズス・キリストの仲介の利益の第一は、これによって不可能事がなくなったことである。私たちは、イエズスの仲介によって、私たちの超自然的目的であり永遠の幸福である天主をたやすく見出すようになり、また天主に対する信心の不足と貧しさと不完全さとを絶えず補うことができるようになった。実際私たちは、たとえ恩恵の御恵みに浴し、思いのままに救霊の手段をとることのできる身であっても、主の仲介がなければ主にふさわしく仕えることは不可能である。

 その理由は、天主は無限に神聖で、天主に対しての奉仕は無限に完全でなければならないのに、私たちはこの奉仕を可能にする恩恵に、十分にまた常に一致していくことができないからである。尊い仲介者なるイエズスは、このような私たちの不足を補ってくださるのである。主は、主おひとりのためだけではなく、私たちすべての名において祈り、苦しみ、功徳(くどく)を積み、この測り知れない御功徳をことごとく私たちの上に注がれる。しかも主は、この愛深く、慈愛あふれるみわざを、尊い聖体の中において、うまずたゆまず、世の終わりまでつづけられるのである。

 パンとぶどう酒との外観のもとに死の状態をとり、祭壇上にご自身を供えられることによって、主は、毎朝この礼拝、償い、祈りの犠牲を新たに天父にささげられる。これこそ主の仲介の大いなるみわざである。しかも主は、父の御あわれみをただ一時的に請い求められるばかりでなく、天主の光栄、私たちの救霊のために供えられた生贄(いけにえ)の状態で、常に御身を天父の御目の前に横たえられるのである。

 だから天父は、謀反人(むほんにん)なる私たち、不敬な私たちをながめられるとき、同時にこの最愛の御子、天主にして人なるイエズスをごらんになるのである。ここにこそ私たちの救いがあり、富がある。だから、私たちはこのあわれみ深い仲介者を常に賛美しなければならない。

 償い 私たちはこのようなあわれみ深い仲介者の功力を無視し、主の多大な犠牲をたびたび無意味にささげている。人間はとかく、天主のご助力なしに事をするのを好み、自分にのみたよっているが、これは傲慢(ごうまん)の結果であって、実に憎むべき盲目といわなければならない。すべての罪の出発点は傲慢である。傲慢者は天主を忘れ、創造主の権力を退けひたすら自力をもって成功しようとする。このように超自然を認めないで、天主を恐れず、イエズスのご教訓と、ご模範とのいっさいを顧みない人々については特にいう言葉がない。それは聖なるものを汚すことであり、主の仲介に対する完全な拒絶であるからである。しかしこの礼拝すべき仲介者を全く無視するまでに至らなくても、主のご助力を軽々しく考える人がどれほどあるであろうか。彼らは祈りを好まず、たびたび聖体を拝領せず、何ごとをするにも自然の動機に従い、天主の思し召しに無関心であり、またほんとうに天主に依頼しない。彼らはまたイエズスを自分の生活の中心とせず、自己の霊魂の中にイエズスを宿らせないのである。このような人々は、イエズスのいつくしみ深い仲介をないがしろにする名ばかりの信者であって、主は最後の審判の日に必ず彼らに厳重な清算を求められるであろう。だからあなたは適当に自分を省み、救霊のために欠くことのできない尊い仲介を最もたいせつに利用すべきである。

 祈願 何ごとを決心し、何ごとを求め、何ごとをするにも、すべて私たちの主イエズス・キリストによってこれをなし、万事において主のみ旨を求め、どんな計画を立てるに際しても、必ず、第一に自分の考えを告げ、これに関した誘惑、恐怖、希望などを主に打ち明け、必要な恩恵を請い、繰り返し主に祈り、主の有力なご助力をお願いしよう。できるだけ親しく主と一致し、主に依頼し、困難に際しても落胆せず、また主のお助けがおくれることがあっても決して失望してはならない。たびたび主を思い出し、あなたの意向を清めよう。

 こうするなら、あなたは決して孤独ではない。またあなたの仕事はむなしくならず、すべてが聖にして、永遠のためによい実を結ぶものとなるであろう。なぜなら、それらのわざは、みな天主と人との間の唯一の仲介者なるイエズスとともに、イエズスにおいて、イエズスによって、霊感を与えられ、遂行され、完成されるからである。

 実行 あなたの行なうすべてのわざを主にささげ、天主である仲介者のいつくしみ深い御助けのもとにおこう。





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2020年5月31日聖霊降臨の主日(一級祝日・八日間付 赤)聖霊降臨のミサのラテン語と日本語の対訳のテキストをご紹介いたします

2020年05月26日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
2020年5月31日は、聖霊降臨の主日(一級祝日・八日間付 赤)です。
東京と大阪とでそれぞれ聖伝のミサがあります。
【東京】
09:00 ミサ聖祭 歌ミサ(ライブ中継をいたします)Facebook live
11:00 ミサ聖祭 読誦ミサ
12:30 ミサ聖祭 読誦ミサ
【大阪】
18:00 ミサ聖祭 歌ミサ
聖霊降臨祭は、御復活の祝日と並んで典礼暦年の最も重大な祝日で、特に、聖ピオ十世会大阪の聖母の汚れなき御心聖堂で最初のミサが行われました(2016年5月15日聖霊降臨)。
聖霊降臨のミサのラテン語と日本語の対訳のテキストをご紹介いたします。日本語訳がラテン語にできるだけ忠実であるようにしてみました。

DOMINICA PENTECOSTES 聖霊降臨の主日 
I classis cum Octava I classis 一級祝日・八日間付 
Statio ad S. Petrum (指定巡礼教会)聖ペトロ大聖堂
Ant. ad Introitum. Sap. 1, 7. 入祭文 知恵  1ノ7
Spíritus Dómini replévit orbem terrárum, allelúia : et hoc quod cóntinet ómnia, sciéntiam habet vocis, allelúia, allelúia, allelúia. 主の霊は全地球を満ちた、アレルヤ、万物を保ち給うこのお方は、【いかなる】声の知識をも持ち給う、アレルヤ、アレルヤ、アレルヤ。
Ps. 67, 2. 詩篇68ノ2
Exsúrgat Deus, et dissipéntur inimíci eius : et fúgiant, qui odérunt eum, a fácie eius. 天主は立ち給わんことを、主の敵どもは敗走せんことを。主を憎む者は、主の御顔【の前】から逃げ去らんことを。
V/.Glória Patri. V/. 願わくは、聖父と……。(栄誦)
Spíritus Dómini replévit orbem terrárum, allelúia : et hoc quod cóntinet ómnia, sciéntiam habet vocis, allelúia, allelúia, allelúia. 主の霊は全地を満たした、アレルヤ、すべてのものを存在させ給う御者は、また、言葉の師にて在す、アレルヤ、アレルヤ、アレルヤ。
Oratio. 集祷文
Deus, qui hodiérna die corda fidélium Sancti Spíritus illustratióne docuísti : da nobis in eódem Spíritu recta sápere ; et de eius semper consolatióne gaudére. Per Dóminum . . . in unitáte eiúsdem Spíritus. 本日、聖霊の照らしを以って信者の心を教え給いし天主、同じ聖霊を以って我等に正しき事を悟らしめ、その御慰めによりて常に喜ぶを得しめ給え。その同じ聖霊との一致において、天主として、(…)。
Léctio Actuum Apostolórum. 使徒行録の朗読。
Act. 2, 1-11. 使徒行録 2ノ1-11
Cum compleréntur dies Pentecóstes, erant omnes discípuli pariter in eódem loco : et factus est repénte de cælo sonus, tamquam adveniéntis spíritus veheméntis : et replévit totam domum, ubi erant sedentes. Et apparuérunt illis dispertítæ linguæ tamquam ignis, sedítque supra síngulos eórum : et repléti sunt omnes Spíritu Sancto, et cœpérunt loqui váriis linguis, prout Spíritus Sanctus dabat éloqui illis. Erant autem in Ierúsalem habitántes Iudǽi, viri religiósi ex omni natióne, quæ sub cælo est. Facta autem hac voce, convénit multitúdo, et mente confúsa est, quóniam audiébat unusquísque lingua sua illos loquéntes. Stupébant autem omnes et mirabántur, dicéntes : Nonne ecce omnes isti, qui loquúntur, Galilǽi sunt ? Et quómodo nos audívimus unusquísque linguam nostram, in qua nati sumus ? Parthi et Medi et Ælamítæ et qui hábitant Mesopotámiam, Iudǽam et Cappadóciam, Pontum et Asiam, Phrýgiam et Pamphýliam, Ægýptum et partes Líbyæ, quæ est circa Cyrénen, et ádvenæ Románi, Iudǽi quoque et Prosélyti, Cretes et Arabes : audívimus eos loquéntes nostris linguis magnália Dei. さて、五旬祭の日が来て、かれらがみないっしょに集まっていると、突然、天から、烈しい風が吹いてくるような音が聞えて、かれらが座っていた家にみち、火のような舌があらわれ、分れて、おのおのの上にとどまった。すると、かれらはみな、聖霊にみたされ、霊がいわせるままに、色々の国のことばで話しはじめた。そのころイェルザレムには、天下のあらゆる国から来た敬虔なユダヤ人たちが住んでいたが、その音がひびきわたったので、人々が集まりよってきた。そしてかれらは、それぞれの国語で使徒たちが語すのを聞いて、みな仰天し、おどろき感嘆して、「話しているこの人々は、みなガリラヤ人ではないか。それなのにどうして私たちは、おのおのの生国のことばを聞いているのだろう?パルト人、メド人、エラミト人、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポント、アジナ、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などの人々、ここに住んでいるローマ人、ユダヤ人と改宗者、クレタ人、アラビア人などの私たちは、天主の偉大な業を、私たちの国のことばで話すかれらの話を聞いている」といった。
Allelúia, allelúia. V/. Ps. 103, 30. Emítte Spíritum tuum, et creabúntur, et renovábis fáciem terræ. Allelúia. アレルヤ、アレルヤ。V/.詩篇103, 30.  聖霊を遣わし給え、しかしてよろずのものは造られん。地の面は新たにならん。アレルヤ。
Allelúia. (Hic genuflectitur) V/. Veni, Sancte Spíritus, reple tuórum corda fidélium : et tui amóris in eis ignem accénde. アレルヤ。(ここでひざまずく) V/.聖霊来たり給え、信者の心に満ち給え、主の愛熱の火を我等に燃えしめ給え。
Sequentia. 続誦 (ヴェニ・サンクテ・スピリトウス)
Veni, Sancte Spíritus,et emítte cǽlituslucis tuæ rádium. 聖霊よ、来給え、天より、御光の輝きを送り給え。
Veni, pater páuperum ;veni, dator múnerum ;veni, lumen córdium. 貧しき者の父、天の賜物の分配者、心の光なる御者よ、来給え。
Consolátor óptime,dulcis hospes ánimæ,dulce refrigérium. 御身は、優れた慰め主、霊魂の甘美な客、優しくさわやかな御者に在す。
In labóre réquies,in æstu tempéries,in fletu solácium. 労苦する者の憩い、暑熱の時の涼味、泣く時の慰めにて在す。
O lux beatíssima,reple cordis íntima tuórum fidélium. ああ、いと幸いなる光よ信者の心にしみ込み給え。
Sine tuo númine nihil est in hómine, nihil est innóxium. 御身の保護なくしては、人には有害なもの以外の何ものもない。
Lava quod est sórdidum,riga quod est áridum, sana quod est sáucium. 汚れたものを清め、荒れた所を潤し、病む者をいやし給え。
Flecte quod est rígidum, fove quod est frígidum, rege quod est dévium. 剛きものを柔らげ、冷えたものを暖め、曲ったものを直し給え。
Da tuis fidélibus, in te confidéntibus, sacrum septenárium. 主に信頼する信者らに、七つの聖なる賜物を下し給え。
Da virtútis méritum, da salútis éxitum, da perénne gáudium. Amen. Allelúia. 善徳の功徳を積ませ、救いに至らせ、永遠の幸福を与え給え、アメン、アレルヤ。
+ Sequéntia sancti Evangélii secúndum Ioánnem. ヨハネによる聖福音の続誦。
Ioann. 14, 23-31. ヨハネ  14ノ23-31
In illo témpore : Dixit Iesus discípulis suis : Si quis díligit me, sermónem meum servábit, et Pater meus díliget eum, et ad eum veniémus et mansiónem apud eum faciémus : qui non díligit me, sermónes meos non servat. Et sermónem quem audístis, non est meus : sed eius, qui misit me, Patris. Hæc locútus sum vobis, apud vos manens. Paráclitus autem Spíritus Sanctus, quem mittet Pater in nómine meo, ille vos docébit ómnia et súggeret vobis ómnia, quæcúmque díxero vobis. Pacem relínquo vobis, pacem meam do vobis : non quómodo mundus dat, ego do vobis. Non turbátur cor vestrum neque formídet. Audístis, quia ego dixi vobis : Vado et vénio ad vos. Si diligere tis me, gaudere tis utique, quia vado ad Patrem : quia Pater maior me est. Et nunc dixi vobis, priúsquam fiat : ut, cum factum fúerit, credátis. Iam non multa loquar vobíscum. Venit enim princeps mundi huius, et in me non habet quidquam. Sed ut cognóscat mundus, quia díligo Patrem, et sicut mandátum dedit mihi Pater, sic fácio. そのとき、イエズスは弟子たちに仰せられた、「私を愛する人は私の言葉を守る。また父もその人を愛される。そして私たちはその人のところに行って、そこに住む。私を愛さない人は私の言葉を守らない。あなたたちがきいているのは、私の言葉ではなくて、私をおつかわしになった父のみことばである。私は、あなたたちといっしょにいる間に、こういうことを話した。しかし、弁護者、すなわち父が私の名によっておつかわしになる聖霊が、すべてを教え、あなたたちの心に私の話したことをみな思い出させてくださるだろう。私はあなたたちに平安をのこし、私の平安を与える。私は、この世が与えるようにして、それを与えるのではない。心配することはない、おそれることはない。"私は去って、またあなたたちのもとに帰ってくる"と私がいったのをあなたたちはきいた。もし私を愛しているなら、私が父のもとに行くのを喜んでくれるはずである。父は、私よりも偉大なお方だからである。私は、ことが起るとき信じるようにと、ことが起るまえに、こうあなたたちに話しておいた。この世のかしらが来るから、私はもう長くあなたたちと話しあわない。彼は私にたいしてなにもできないが、私が父を愛しており、父の命令のままにおこなっていることを、この世は知らねばならない。
Credo 信経
Ant. ad Offertorium. Ps. 67, 29-30. 奉献文 詩篇  67ノ29,30
Confírma hoc, Deus, quod operátus es in nobis : a templo tuo, quod est in Ierúsalem, tibi ófferent reges múnera, allelúia. 天主よ、御身が我らのうちに行い給えることを固うし給え。エルサレムにある御身の神殿より、王たちは礼物を御身に捧げん。アレルヤ。
Secreta. 密誦
Múnera, quǽsumus, Dómine, obláta sanctífica : et corda nostra Sancti Spíritus illustratióne emúnda. Per Dóminum . . . in unitáte eiusdem Spíritus. 主よ、願わくは、捧げられた礼物を聖化し、聖霊の光もて、われらの心を清め給え。その同じ聖霊との一致において、天主として、(…)。
Præfatio, 聖霊降臨の序誦 (その八日間の土曜日まで)
Vere dignum et iustum est, æquum et salutáre, nos tibi semper et ubíque grátias ágere : Dómine, sancta Pater, omnípotens ætérne Deus, per Christum, Dóminum nostrum. 主よ、聖なる主よ、全能永遠の天主よ、われらが、いつも、どこにても、われらの主キリストによって、主に感謝を捧げるのは、実にふさわしく正しいことでありわれらの義務と救いである。
Qui ascéndens super omnes cælos, sedénsque ad déxteram tuam, promíssum Spíritum Sanctum hodiérna die in fílios adoptiónis effúdit. 主は全ての天の上に昇り、御身の右に座し給い、御約束の聖霊を、この日、養子の子らに注ぎ給うた。
Quaprópter profúsis gáudiis, totus in orbe terrárum mundus exsúltat. Sed et supérnæ Virtútes, atque angélicæ Potestátes, hymnum glóriæ tuæ cóncinunt, sine fine dicéntes : Sanctus… 故に、喜びにあふれて、全地球において全世界はいさみことほぐ。さらに天上の力天使らも、能天使らも、御栄光(みさかえ)の讃歌をきわまりなく歌う。 聖なるかな…
Infra actionem Communicantes et Hanc igitur propria. 聖変化の部 コムニカンテス(その八日間の土曜日まで)
Communicántes, et diem sacratíssimum Pentecóstes celebrántes, quo Spíritus Sanctus Apóstolis innúmeris linguis appáruit : sed et memóriam venerántes, in primis gloriósæ semper Vírginis Maríæ, Genetrícis Dei et Dómini nostri Jesu Christi : (...) 聖なる一致において、聖霊が、使徒たちに数多くの舌の形をとって現れ給うた、至聖なる聖霊降臨の日も祝いつつ、かつ、まず、天主の御母にして我らの主イエズス・キリストの御母、終世童貞なる光栄あるマリアの記念をつつしんで行い奉る:(...)
Hanc igitur oblatiónem servitutis nostræ, sed et cunctæ famíliæ tuæ, quam tibi offérimus pro his quoque, quos regeneráre dignatus es ex aqua et Spíritu Sancto, tríbuens eis remissionem ómnium peccatórum, quǽsumus, Dómine, ut placátus accípias : (...) 故に、我らの奉仕の、また、御身の各々の家族のこの捧げものを快く受け入れ給わんことを。我らはこれを、御身が水と聖霊とから再び生まれさせ、全ての罪の赦しを与え給うた人々のためにも御身に捧げる (...)
Ant. ad Communionem. Act. 2, 2 et 4. 聖体拝領誦 使徒行録  2ノ2,4
Factus est repénte de cælo sonus, tamquam adveniéntis spíritus veheméntis, ubi erant sedéntes, allelúia : et repléti sunt omnes Spíritu Sancto, loquéntes magnália Dei, allelúia, allelúia. 突然、彼らの座っていた場所で、天から、烈しい息の到来するような音がした、アレルヤ。すると皆は聖霊に満たされ、天主の大いなる御業を語った、アレルヤ、アレルヤ。
Postcommunio. 聖体拝領後の祈
Sancti Spíritus, Dómine, corda nostra mundet infúsio : et sui roris íntima aspersióne fecúndet. Per Dóminum ... in unitáte eiusdem. 主よ、聖霊の注入が、われらの心を清め、聖霊が、その露(つゆ)の染み入る散布により、[われらの心を]豊饒ならしめんことを。その同じ聖霊との一致において、天主として、(…)。

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「聖マリアへの真の信心で得られる効果の続き」 2020年5月24日、ご昇天後の主日に東京で録画した小野田神父のメッセージ

2020年05月25日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2020年5月24日、ご昇天後の主日に東京で録画した小野田神父のメッセージをご紹介いたします。

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--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
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