Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

4 /22(火曜日)現在のロザリオの総数は、7708環です

2014年04月22日 | ロザリオの十字軍
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

こんにちは!
4 /22(火曜日)現在のロザリオの総数は、7708環です。
天主様に感謝!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
エリザベト様 62環(体調が、お悪かったとの事です、、でも、御復活の御ミサ!!!♪♪に、お与りにお出でになられまして、安心しました♪)


非常なお恵みの秋田巡礼!!♪♪
2週間を切りましたね!♪
全行程の参加の御恵みを頂けます様に!♪
御祈り御願い致します!!  もしかして、前にも御願しましたかもしれませんが<m(__)m> 非常な楽しみなものですから!♪
もし宜しければ、どうぞ宜しく御願い致します!!

御復活下さいました!♪天主イエズス様!!!♪♪♪
秋田の聖母マリア様!!♪♪
秋田の聖ヨゼフ様!!♪♪
 デオ・グラチアス!!

【報告】
修院長様、主の御復活の御慶びを申し上げます。
大変ご無沙汰しております。

本題の2、3月のロザリオのご報告ですが、81環でございました。
どうかよろしくお願い致します。


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聖ピオ十世会日本は、毎年恒例の公式秋田巡礼を5月2日から6日まで行います。特に今年の巡礼に、多くの兄弟姉妹の皆様を巡礼にご招待いたします。

今年で8回目になる巡礼ですが、ご参加希望の方々は、聖ピオ十世会日本 秋田巡礼 SSPXJAPAN PILGRIMAGE TO AKITAなどを通してお申し込みください。



レネー神父様の御復活祭のミサでのお説教 大阪2014年4月20日

2014年04月21日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、
私たちの主イエズス・キリストの御復活のお喜びを申し上げます。

真の天主イエズス・キリストは、私たち(ふさわしくない者ですが!)に永遠の命を与えるために、死者のうちから蘇り給いました!御復活祭を日本で捧げてくださったレネー神父様に心から感謝申し上げます。
次のような報告を戴きましたので愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。
また、レネー神父様のお説教を翻訳してくださる東京の信徒会長様には心から感謝申し上げます。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

*****



アベマリア!アレルヤ!!
ご復活おめでとうございます!
今日大阪で行われたご復活の主日のごミサには、26人の方が与るお恵みを頂きました。デオグラチアス!

韓国での御ミサを終えてすぐ日本にお越し下さったレネ-神父様に天主様の沢山のお恵みと祝福がありますように!

テレジアさんがお持ち下さったイ-スタ-エッグと手作りケ-キや、色々な方の差し入れを御ミサ後神父様と一緒に頂きました。皆さん顔には特別な幸福が溢れ、主の御復活の喜びを分かち合う素敵一時になりました。
アレルヤ アレルヤ

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アヴェ・マリア!

本日21日ご復活の月曜日には、15名の方々がごミサに与るお恵みを頂きました。
デオグラチアス!


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2014年 4月20日 復活祭(ソウル/大阪)説教

親愛なる兄弟のみなさん、

「死者からよみがえられたキリストは、もう死ぬことがないと私たちは知っている。かれに対してもはや死は、何の力ももっていない。」(ローマ人6章9節)私たちの主イエズス・キリストは「死者の中から最初に生まれたお方であ」(コロサイ人1章18節)り、即ち、体が永遠の命へとよみがえる最初のお方になられたのです。永遠の命は、本質的に霊魂の中にありますが、体へも流れ出るのです:聖人たちの体は霊魂の栄光や喜びに参与することによって永遠に生きるのです。

注意していただきたいのは、地獄に堕ちた人達の体も霊魂と結びつけられ、永遠に結びついたままになるのですが、その条件はあまりに悲惨なものですから、「命」という名にも値しないものです:それは永遠に続く罰、「苦しみ」、「咎(とが)め」です。その意味でこう書かれています:「だから悪人はさばきに、罪人は正しい人の集会に耐えられない。」(詩編1篇5節)と。罪人たちの霊魂は体と結びつけられますが、罪人は再びですから、立ち上がるのではなく、永遠に押し砕かれるという意味で、「復活する」ことはありません。

私たちが「永遠の命」という時、それはこの世の終わりの後、義人達の永遠の状態のことをいっているのです。私たちの主イエズス・キリストは「義人」であり、永遠の命に入る全ての人達を義化してくださるお方です。イエズス・キリストは私たち全てのかたどりであり、また救いの原因でもあるのです。イエズスは、人としては永遠の命に最初に生まれたお方であり、また天主としては「命」(ヨハネ14章6節)であり、全ての命の源です。イエズス・キリストは「万物を支配下に置く力によって、私たちの卑しい体を、光栄の体のかたどりに変えられるであろう。」(フィリッピ人3章21節)

罪が死の原因ですから、聖金曜日の十字架上の犠牲による罪に対する勝利こそが復活の主日の死に対する勝利の原因なのです。このように、私たちの主イエズス・キリストは自らの御受難といけにえとによって、このような栄光の復活のための功徳を私たちのために積んでくださったのです。イエズスの功徳は全ての人にも有り余るものですが、全ての人が栄光に復活するのではありません。どうしてでしょうか?それは、私たちがイエズス・キリストの功徳のお蔭をこうむるためには、キリストと一致していること、愛によって一致していることが必要だからです。愛は天主からの贈り物です:「私たちに与えられた聖霊によって、この心に神の愛が注がれたからである。」(ローマ人5章5節)しかし愛のために、私たちもまた、「すべての心、すべての霊、すべての力、すべての知恵をあげて、主なる神を愛」し、「また隣人を自分と同じように愛」(ルカ10章27節)さねばなりません。

ひとつ非常に重要な概念があります:「究極の目的」です。私たちは他のなにものよりも私たちの主なる天主を、私たちの究極の目的として愛さねばなりません。究極の目的への意志には限りがありません:究極であるからです。ですから教会が教えるのは、人は天主を愛して愛しすぎる事はない:天主は無限に愛すべきお方であり、私たちはいつも天主をもっと、もっと愛すようにすべきだということです!人が天主を究極の目的とする時、行き過ぎを恐れていけません:私たちの天主への信仰が強すぎることはありませんし、私たちの天主への希望がありすぎることもありませんし、私たちが天主を愛しすぎることもありません!それは、天主が客観的にみて、無限に信用できるお方であり、無限に助けを下さるお方であり、無限に愛すべきお方であるからです。

しかし、もし人が被造物を究極の目的としてしまったら、被造物は無限に良いものでも、無限に愛すべきものでもありませんから、人がそのような被造物を愛しすぎることによって、たちまち混乱が生じてしまいます。被造物は天主という究極の目的への手段です。人が目的ではなく手段に過ぎないものに目的を定めてしまう時、混乱が生じ、続いて破滅が起こります。目的は手段を計る物差しです:私たちは、自らの目的を達するにあたって助けとなる範囲で手段を用い、目的を達する障害になるのであればその手段を使ってはなりません。私たちはこの物差しに従って手段を愛します。つまり、その手段が私たちを目的の方に導いてくれる範囲で愛するのですが、私たちの目的に対する愛は物差しとは関係なく、無限定のものです。

私たちが手段を通して進むのは、人が旅の目的地まで途中の地点を通して旅するのに似ています:私たちがこの地上にいるのは、天国への巡礼の途中としてです。旅の目的地に到着するときのように、私たちは目的地で憩います:聖人達はこのように天主に憩いでいるのです。ですから私たちは亡くなった信者のために彼らが「安らかに憩わんことを」、つまり安らぎを得る天主において憩うように、と祈ります。「実に神の国は、飲食にあるのではなく、正義と平和と聖霊とによるよろこびにある」(ローマ人14章17節)が、「『悪人には平和がない』と、私の神は仰せられる。」(イザヤ57章21節)そこで聖パウロはこのように書いています:「私たちはここに不変の都をもっていない。私たちは未来の都を探している。」(ヘブライ人13章14節)と。そして聖パウロは太祖の例を挙げて次のように言っています:「信仰によって、[アブラハム]は、他国にいるかのように約束の地に住まい、同じ約束を嗣(つ)ぐイザアクとヤコブとともに幕屋に住んだ。かれは、神が設計し、建造される、たしかな基礎をもっていたからである。…それらの人々は、みな信仰を保って死んだ。…かれらは…この世では他国人であり、旅人にすぎないことを認めた。そういった人々は、自分たちが一つの故国を求めていることをあらわしていた。それがもし、かれらが出てきた国[アブラハムの出身地はカルデアのウール。]のことであったのなら、いつでもそこに帰れたはずである。事実、彼らは、天にあるさらにすぐれた故国を慕った。そのために、神はかれらの神と呼ばれるのを恥とされなかった。かれらのために、一つの町をそなえられたからである。」(ヘブライ人11章9-16節)


これこそ真にキリスト的な生活の本質的な側面のひとつです:即ち、私たちはこの地上では巡礼者であり、天国に向かって巡礼をしている、ということです。私たちがこの地上でずっと留まる場所はありません:私たちは皆ここを通り過ぎるのであって、この地上に永遠にいるのではありません。ですから、真の信者はすべての心をもって天国に向かい、祝福された報いと永遠の喜びを望みます。この希望によって、信者はこの世で毎日自分の十字架を担うための慰めと力とを得るのです。しかしながら、もし信者が天国のことを忘れてしまえば、聖パウロが言うように、「私たちが、キリストに希望をかけたのが、この世のためだけであるなら、私たちは、すべての人の中で、もっともあわれなものである。」(コリント前15章19節)ことになってしまいます。しかし私たちはこの世の生活のためだけに生きるのではなく、聖パウロが書いているように、「さて私たちも、これほど多くの証人[即ち、天国にいる聖人達]に雲のようにとりかこまれているのであるから、すべての障碍物と包まれている罪とをのぞき、忍耐をもって、私たちにさし出された競争をきそい、信仰の創始者であり、完成者であるイエズスに目をそそぐようにしよう。かれは、さし出されたよろこびのために、恥をもかえりみずに十字架をしのび、今や神の玉座の右にすわっておられる。」(ヘブライ人12章1-2節)

これが、「この世の人々」と真のキリスト教信者との最も大きな違いです。(今日の朝課で)聖アウグスティノが言うように、「この世の人々は、この世を愛する人々」であり、自らの究極の目的をこの世の物に置く人々です。しかし私たちの主イエズス・キリストを本当に信ずる者は、この世から離れ、天国を渇望して、「今の時の苦しみは、私たちにおいてあらわれるであろう光栄とは比較にならないと思う」(ローマ人8章18節)がゆえに、十字架を恐れません。真の信者は十字架を愛し、十字架においてキリストの勝利に参加します。しかしこの世を愛する人々は、「キリストの十字架の敵…かれらの行先は亡びである。かれらの神は自分の腹であり、自分の恥にほこりをおいている。かれらは、この世のことにだけしか興味をもたない。」(フィリッピ人3章18-19節)

この重大な真理を黙想するのは大切なことです。第一の理由は、ここにこそ、「この涙の谷」における真の喜びがあるからです:その喜びとは、聖パウロが「希望のよろこびをもち、艱難(かんなん)に耐え、祈りにうまず」(ローマ人12章12節)と言う、希望の喜びです。また第二の理由は、カトリック教会の現在の危機の根本にあるのが、「この世を愛すること」、つまりこの世の物や目的に意識して向かうことにあるからです。フランシス教皇は治世のはじめ、自分にとって今日の最大の問題は「失業中の若者と孤独な老人」であると言われなかったでしょうか?教皇はもっと大きな問題を考えるべきではないのでしょうか?例えば、何百万人もの人々の信仰の喪失、さらには司祭達の信仰の喪失のような、より高い次元の問題を考えるべきではないのでしょうか?私たちの主イエズス・キリストがこの「世」―つまりこの世を愛する人々―からお受けになった反対のことを考えてみれば、教皇が雑誌タイムの「今年の人」に選ばれるというのは相当恐ろしいことです。教皇が自らの義務に本当に取り組むならば、沢山の人々、特に熱心な信者達の支持と承認とを得るでしょうが、私たちの主イエズス・キリストがファリザイ人やピラトやヘロデのような当時のこの世を愛する人々から強烈な反対をお受けになったように、そのような教皇はこの世を愛する人々から間違いなく強烈な反対を受けることでしょう。聖ピオ十世のように真に聖なる教皇達はこの世に軽蔑され、この世からひどく攻撃されました。聖ピオ十世は、真の教会のしるしは「一にして、聖、公、使徒伝来、…そして迫害をうけること」とおっしゃいました。

ヨハネ・パウロ二世とヨハネ二十三世の列聖を推進しているのも、またこの同じこの世の愛です:しかしこの二人の教皇としての実績を信仰の光、永遠の光で見るならば、アッシジの教皇、即ち仏教徒達が自分達の偽りの神を礼拝するように教会を提供した教皇、コーランに接吻した教皇、躓(つまず)きとなるような公式のミサ(例えば、明らかに正しい服装をしていない現地の女性ダンサーの参加するミサ)や、また御聖体が正しく敬われていないようなミサを捧げた教皇、さらにはマシエル神父やその他躓(つまず)きとなるような司祭達を保護した教皇がいかにして列聖され得るのでしょうか?しかしながら今日、このような信仰に関する問題は横に置かれて、注意を払われていないのです。この世は喝采し、それが重視されています…しかし永遠の光から見ればそうではありません。聖書にはこうあります:「『私は罪を犯したが、私の身になにか起こったか』と言うな、主は待つことを知っておられる。」(集会5章4節)言い換えれば、主は罰を下すのを待ち、痛悔の時間を与えられますが、この時間を悪用して罪を続け、天主の掟を無視する人もいます。恐るべき怠慢です:天主が私たちに罰を下すのを待たれれば待たれる程、天主の罰がより突然、さらに恐ろしいものになるのだと聖アウグスティノは私たちに警告しています。今日、私たちの多くは突然の死に襲われますが、誰もこれを気にしていないのです。

現代におけるもう一つの大きな誤りに「過ぎ越しの神秘の神学」と呼ばれるものがあります。「過ぎ越しの神秘」というような旧来からの言葉の裏には、新しい、非常に深い誤り、いえむしろ異端が隠されています。この誤りは時間と永遠の違いを実質的に否定するもので、私たちが既に「復活した命」にあると主張し、あらゆるもの、あらゆる聖なる行為に「秘蹟」という言葉を使うことによって、七つの秘蹟とその特別の効果と恩寵の具体性を破壊してしまいます。外的な行為、特に典礼における外的な行為は霊的な行為を示しています:例えば外的な礼拝という行為は、霊魂の礼拝、天主に対する霊魂の崇拝を示しています…しかしこの一般的な「意味」に加えて、七つの秘蹟の各々には、私たちの主イエズス・キリストの御制定によって、非常に特別な力が備わっています:霊魂を清める力、恩寵を与える力、霊魂を挙げ、聖化する力、そしてとりわけ御聖体には、私たちの主イエズス・キリストの現存があります。ところで、典礼におけるすべての行為、例えば聖書の朗読、撒香(さんこう)、聖水の灌水(かんすい)等をあたかも「秘蹟」であるかのように扱ってしまうと―ちなみにこれらは「準秘蹟」であって「秘蹟」ではなく、信心をもって用いられる範囲において恩寵が与えられるものですが、特別な「力」はもっていないものです―これらの準秘蹟と七つの秘蹟との違いが見えなくなってしまい、秘蹟をこれら通常の行為に格下げすることになってしまいます。

この近代的な神学は理解するには相当複雑なものですが、今日では大変広く知られていて多くの人の信仰を傷つけており、またとりわけ近代的な神学校では非常によく教えられているので、多くの司祭の信仰を危うくしています。非常に近代的な司祭が正しい信仰を持っていないと、信者は満たされないままにされ、また度々誤った道に導かれてしまうのです!


ですから今日、私たちの主に忠実であり、また、主が使徒にお与えになった後、カトリック教会の中で何世紀にもわたって正しく守られて来た主の教えに従う御恵みを豊かにくださるよう、復活されたキリストにお祈りいたしましょう。この世から離れ、そして天国に、なにものをも超えて限りなく愛されている天主に向かう御恵みを求めましょう。多くの霊魂が改宗し、彼らにキリストの数えきれない宝が与えられる御恵みを求めましょう。童貞聖マリアが、常に主において喜ぶ御恵みを下さいますように。

アーメン。


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聖ピオ十世会日本は、毎年恒例の公式秋田巡礼を5月2日から6日まで行います。特に今年の巡礼に、多くの兄弟姉妹の皆様を巡礼にご招待いたします。

今年で8回目になる巡礼ですが、ご参加希望の方々は、聖ピオ十世会日本 秋田巡礼 SSPXJAPAN PILGRIMAGE TO AKITAなどを通してお申し込みください。



レネー神父様のお説教 4月11日金曜日―大阪―聖母の七つの悲しみ:共贖

2014年04月19日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

聖土曜日です。レネー神父様がなさってくださった受難の金曜日のお説教をご紹介します。(ご紹介が遅れてしまい、大変申し訳ありません。)

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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4月11日金曜日―大阪―聖母の七つの悲しみ:共贖

親愛なる信者の皆さん

日本は聖母の汚れなき御心に奉献されています。聖母は汚れなきお方です。これは教会の古くからの信仰です。聖母が汚れなきお方であるということは天使の証言に基づいています。即ち、聖母は「恩寵にみちたお方―ギリシャ語では『κεχαριτωμένη(ケハリトーメネー)』、恩寵において完全であるという意味」(ルカ1章28節)です。聖母こそがイザヤが預言(7章14節)した完全なる、即ち罪に犯されていない処女なのです。また初期の教会はアダムとエバのかたどりからもこれを証明します。即ち、キリストは新しいアダムですが、アダムが天主の手によって、手つかずの、つまり童貞である土から直接造られたように、新しいアダムであるキリストは童貞マリアから聖霊の働きによって生まれました。ところで、アダムが造られた土はまだ罪のない土でしたから、新しいアダムが生まれた童貞マリアも罪のない人であったのです。

私たちの聖母は天主の母、即ち天主の御子であるイエズスの母としてふさわしい母となるため、汚れなきお方です。それだけではありません。私たちの主イエズス・キリストが私たちを救うために人となってくださったように、私たちの聖母は贖罪の神秘に参加するために汚れなきお方なのです。実際、聖書で「汚れのない」という言葉を探してみれば、生け贄の条件として使われているのがほとんどです。旧約では、いろいろな種類の生け贄が捧げられました:子羊、子牛、山羊、などです。しかし捧げられる子羊は汚れのないもの、子牛も汚れのないもの、山羊も汚れのないものでなくてはなりません。新約においてさえ、汚れのないという言葉が使われているのはヘブライ人への手紙の中で私たちの主イエズス・キリストについて書かれているところのみで、それは聖パウロがキリストの生け贄に関して述べているところです。「山羊と雄牛の血、牝牛の灰などを、汚れた人々にそそいでその肉体をきよめるのなら、ましてや永遠の[聖]霊によって、汚れのないご自分を神に捧げられたキリストのおん血が、私たちの良心を死の業(わざ)からきよめて、生きる神に奉仕させ得ないことがあろうか。」(ヘブライ人9章13-14節)また聖ペトロもこういっています。「あなたたちが、祖先からうけついだむなしい生活からあがなわれたのは、金銀などの朽ちるものによるのではなく、きずもなく汚点(しみ)もない子羊のような、キリストの尊いおん血によるのであることを、あなたたちは知っている。」(ペトロの前の手紙1章18-19節)

汚れのないことが生け贄の第一のそして最も重要な性質であるならば、聖母マリアはイエズスと共に生け贄となり、十字架の下でイエズスと一致するために汚れなきものであったのです。

実際、天主がアダムにエバを「彼に似合った助け手」(創世記2章18節)としてお与えになったのは、新しいアダムにも、また「彼に似合った助け手」であるあたらしいエバ、即ち、彼とともに汚れなき生け贄として贖罪の神秘に参加する聖母マリアがいるためであったのです。

大天使ガブリエルがマリアが天主の御子の母になることを告げた時、マリアは「主のはしため」(ルカ1章38節)としてご自分をお捧げになりました。聖母こそ、はじめにおいてばかりではなく、イエズスのこの世でのご生活のすべてにおいて、そしてイエズスが十字架にかけられた最後の日まで、はしためであり、助け手であったのです。聖母は十字架の下でイエズスと共に自らをお捧げになっておられました。

私たちの主イエズス・キリストも、聖母も、全く罪のない、汚れのない方でしたから、ご自分たちのために苦しむ必要はありませんでした。天主はお二人を理由なく苦しめるような不正義な方ではありません!罪人である私たちこそ苦しむべきなのです!お二人の苦しみはお二人を益することはありませんから、その効果は贖罪であり、キリストが贖い主、聖母が共贖者となられたのです。天主は水の一杯でも与える人に必ず報いをくださる(マテオ10章42節)ほどのお優しいお方ですから、十字架の下でキリストとキリストの母が受けられた沢山の深いお苦しみを、贖罪、無数の罪の赦し、数多くの聖人達の聖化など数えきれないお恵みをもって報いてくださらないことがあるでしょうか!実際私たちの主の御受難はアダムから始まる全ての人間一人一人の罪を贖って余りあるものですから、もしだれかが贖われないのであれば、それは私たち自身の過ち、私たち大人の個人的な過ちのためなのです。「その審判というのは、次のようなことである。光は世に来たが、人々は、その悪いおこないのために、光よりもやみを好んだ。悪をおこなう人は光を憎み、そのおこないがあらわれることをおそれ[る。]」(ヨハネ3章19節)光を拒むということ、私たちの主イエズス・キリストの愛を拒むこと、私たちの聖母の母としての愛を拒むことはなんと恐ろしいことでしょうか!

私たちは、私たちの主、イエズス・キリストの無限の功徳、そして十字架の下での私たちの聖母の数えきれない功徳を大いに信頼し、自分自身をお二人に、イエズスの聖心に、聖母マリアの汚れなき、悲しみの御心にお捧げしなくてはなりません。私たちはまた、私たちの全ての友人、親戚、その他私たちの大切にする人たち、私たちの国、大陸、そして全世界をお捧げしなければなりません。

今日悪がはびこっています。イエズスとマリアの犠牲に一致して自分自身を捧げ生け贄となる霊魂が大変必要とされています。このようなあらゆる悪を目の当たりにして、これを止めるためには私たちは何をすることができるのでしょうか?私たちはイエズスとマリアを見て、お二人が何をなさったかを学ばなくてはなりません。お二人は私たちの救いのためにご自分をお捧げになりました。ですから、私たちも、私たちの救いのため、他の多くの霊魂の救いのためにイエズスとマリアに一致して自分自身を捧げなければなりません。私たち自身をお捧げするというのは、天主が私たちに既に送ってくださったあるいはこれから送ってくださる十字架や苦しみを受け入れるだけではありません。それはまた、大罪だけではなく(それは全く問題外ですが)、あらゆる罪を避け、小罪や熱意のなさをも避け、私たちの隣人に喜んで与え、私たちの隣人を赦すというしっかりした努力をすることにあります。

私たちの捧げものが天主に喜んでいただけるものであるためには、汚れなき童貞と汚れなき子羊である私たちの主イエズス・キリストの例にならい、キリストのお恵みによって、私たち自身の霊魂をできるだけ純粋に、できるだけ汚れなきものとしておかなければなりません。私たちの苦しみを私たち自身の罪のためにお捧げしなくてはならない分が増えれば増える程、私たちの隣人や友人のためにお捧げする分が減ってしまいます。もし私たちが一方で犠牲を行い、他方で私たちの隣人を非難したり無分別に裁いたりしていれば、「一人が建て、他が打ち壊す、苦労以外のどんな利益があるのか?」(集会の書34章28節)

実際、十字架の下がもっとも安全な場所、悪魔が来ようとしない場所です。そこでは、私たちは自分の霊魂をキリストの血で何度も何度も洗う事ができます:「深い憐憫によって、私のとがを消したまえ。」(詩編50篇2節)そこでは、「私を守り、翼のかげに、[隠したまえ。]」(詩編16篇8節)翼は鳥が空に飛び上がるときに広げる腕の延長であるように、十字架の上に広げられたキリストの腕は、「すべての人を、[主]のもとに引きよせる。」(ヨハネ12章32節)「私は御手に魂をゆだねる。真実の神よ、あなたはすでに私を救われた。」(詩編30篇6節)私たちの精神はしばしば、いいえ常に、この十字架の下に戻って、黙想の内にそこに留まらねばなりません、とりわけ聖週間の間においては。

十字架の下では、私たちの聖母が私たちの大いなる助け手です。聖ヨハネと聖なる女達は、聖母への崇敬のゆえに、聖母と共に十字架の下にいるお恵みを受けました。もしキリストのお苦しみを黙想するのが難しければ、十字架の下で私たちの聖母が何を感じられたかを考えてみましょう。聖母がファリサイ人たちの冒涜を聞かれた時、ご自分の息子の両手が十字架に打ち付けられた時、ご自分の息子の体が鞭打たれた時、ご自分の息子の頭にいばらの冠がかぶせられた時、ご自分の息子の心臓が貫かれた時。聖母は何をお考えになったでしょうか?聖母は何をお感じになったでしょうか?どんなにお苦しみになったでしょうか?



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聖ピオ十世会日本は、毎年恒例の公式秋田巡礼を5月2日から6日まで行います。特に今年の巡礼に、多くの兄弟姉妹の皆様を巡礼にご招待いたします。

今年で8回目になる巡礼ですが、ご参加希望の方々は、聖ピオ十世会日本 秋田巡礼 SSPXJAPAN PILGRIMAGE TO AKITAなどを通してお申し込みください。



この聖週間の間、贖いの神秘に深く入り、常により深く罪に死に、私たちの主イエズス・キリストと共に永遠の命に復活することができるよう、私たちの汚れなき聖母、私たちの共贖者である聖母が私たちを助けてくださいますように。

アーメン。


苦しみの玄義 第三玄義、イエズス・キリスト、茨の冠を被らせたもう

2014年04月19日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

十字架の道行きの十四留の中にはありませんが、ロザリオの苦しみの玄義 第三玄義、イエズス・キリスト、茨の冠を被らせたもうを黙想をすることを提案します。

特に、茨の冠は、上からの正式な命令なしに、部下らが勝手に課した拷問でした。(マテオ27:27-30)

天主の計画としては、ユダヤ人たちがイエズスをキリストであり自分たちの王であると宣言することでした。ユダヤ教の存在の目的がまさに真のメシアを宣言することでした。しかしユダヤ人たちはこれに値しませんでした。
しかし真のメシアの王国はこの世からのものではありませんが、イエズス・キリストには真の天主として、王として、最高の司祭として、戴冠式が行われるべきでした。
イエズス・キリストは、大司祭カイファの前で天主の聖子であることを宣誓しました。真の天主は戴冠されるべきでした。また、ピラトの前で自分が王であると宣言しました。王である主の頭には王冠があるべきでした。旧約の大司祭はいけにえを捧げるときに三重冠(ティアラ)を頭に戴きます。十字架上で新約のいけにえを捧げる大司祭イエズス・キリストも王冠を戴かなければなりませんでした。主は言います。「私はこの世に勝った」と(ヨハネ16:33)。凱旋将軍であるイエズス・キリストは王冠を被る権利がありました。ユダヤ人の習慣では花婿は婚姻の式である種の冠を被りました。イエズス・キリストは、真のソロモンとして、自分の聖なる血で、自分の花嫁である教会をあがない、清め、霊的な婚姻のちぎりを結びます。

私たちの主イエズス・キリストは、もっとも純粋な黄金と銀とで出来た、高価な真珠と美しい宝石とダイアモンドとがちりばめられた王冠を被るべきでした。しかし、罪を犯したアダムとエワとのためにこの地が受けた「茨とあざみが生え出る」呪いを取り除くために、この真の王かつ救い主は、この呪いの印を持つことを天主は計画されました。

アブラハムによって屠られるべきだったイサアクの代わりのいけにえは、その角が茨に刺さって動きが取れなくなっていた雄羊でした。あたかもこの雄羊は、頭に茨の冠を被って、もがいているかのようでした。
ローマ軍人たちは、イエズス・キリストに対してあざ笑いながらこう言ったことでしょう。「頭をまっすぐにして動くな、おまえが長い間待ち望んだものを与えよう」と。確かにイエズス・キリストは、この茨の冠をかぶせられる時を待ち焦がれていました。人類が頭で犯す罪を償うことができるために、この時を待っていました。傲慢の罪、虚栄の罪、愛徳に反する考え、世俗的な考え、不潔な不純な考えや想像の罪を償うために。
もしも頭が苦しむのなら、体全体も苦しみます。もしもキリストの神秘体のかしらであるイエズス・キリストが苦しむのにもかかわらず、苦しむことを拒むのなら、快楽の生活と、罪の喜びを望むのなら、頭と一致していることはできません。

ローマ軍人は、私たちの主イエズス・キリストに茨の冠を押し被らせます。あざけりと軽蔑を込めて。茨はイエズス・キリストの頭に突き刺さり、血潮は流れ、顔は赤の血に染まります。聖伝によると茨は私たちの主の目にも刺さったと言われています。イエズス・キリストは全てを私たちの罪の償いのために堪え忍んでいます。

Popule meus, quid feci tibi? Aut in quo contristavi te?
我が民よ、私がおまえにいったい何をしたのか? いったい何においておまえを悲しませたことがあるというのか?
Ego propter te Chananaeorum reges percussi: et tu percussisti arundine caput meum.
私は、おまえのためにカナアンの王たちを打ちやった。しかしおまえは私の頭を葦で打った。
Ego dedi tibi sceptrum regale: et tu dedisti capiti meo spineam coronam.
私はおまえに王の笏を与えた。しかしおまえは私の頭に茨の冠を与えた。
Responde mihi.
私に答えよ。

私たちは時に、間違いを犯して注意されることがあり、叱られることがあります。私たちは頻繁にその間違いを指摘されても、偽りの弁解や、言い訳をしたりするのではないでしょうか。アダムとエワも言い訳をしました。「私の責任ではなかった、エワのせいだ」「蛇のせいだ」と。私たちはどうでしょうか?「病気だったので」?「天気のせいだ」?
私たちは、人から悪口や侮辱を言われたりすることもあります。しかし私たちの主は、どれほどの侮辱を受けたことでしょうか。

主の茨の冠を黙想し、いつも心の平和を保ち、イエズス・キリストともに苦しみを捧げる恩寵を願い求めましょう。悲しみの聖母よ、我らのために祈り給え!


さて、すでに報告しましたが、11月10日の主日にはフィリピンの台風被災者のために22020円の特別献金が自発的に集まりました。12月には東京で JPY48,350 (approx. USD462)が集められました。感謝します。さらに、12月のボーナスミサの時に、大阪で5万円の特別献金が集まりました。
それ以外にも、フィリピン台風募金として、ある方が11月26日に1万円、11月29日には5万円、入金がございました。総計で日本からは、180370円が集まりました。
韓国からも、現金として172万ウォンと200米ドルが集まりました。
これらの合計をフィリピンのペソに換算した161,212ペソが、レイテ島の被災者の復旧作業をしているダニエルス神父様の元に届けられました。
天主様に感謝します!ありがとうございます。

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


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今年で8回目になる巡礼ですが、ご参加希望の方々は、聖ピオ十世会日本 秋田巡礼 SSPXJAPAN PILGRIMAGE TO AKITAなどを通してお申し込みください。




キリストの偉大さについて(4月12日土曜日―大阪、枝の主日―東京 レネー神父説教)

2014年04月18日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様

 聖金曜日です。予定が遅れてしまいましたが、枝の主日のレネー神父様がなさったお説教の日本語訳をご紹介します。お説教を日本語にすばらしく訳してくださる信徒会長様には、心から感謝します。

 愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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キリストの偉大さについて(4月12日土曜日―大阪、枝の主日―東京)

親愛なる兄弟のみなさん、

今日群衆は「ダヴィドの子にホザンナ」(マテオ21章9節)と叫んで、私たちの主イエズス・キリストが王であることを歓喜の声で宣言します。しかし私たちの主は謙遜な方で、驢馬にまたがっておられます。ご自分を守る軍隊を持っていらっしゃる訳でもありません。私たちは、私たちの主イエズス・キリストが卑下(ひげ)されたこと、とくに御受難の際にお示しになった驚くべき卑下(ひげ)、すなわち「死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして従われた」(フィリッピ人2章8節)ことを、いつも考えることには慣れています。しかし私たちの主の偉大さの方を忘れてしまいがちではないでしょうか。聖パウロはその節の冒頭で、「かれは、本性として神であった」(フィリッピ人2章6節)と言っているのです。この本性という言葉は哲学の用語で、本質のことを意味しています。キリストは天主の本質をもっておられるのです!

天主の偉大さについて、聖パウロはヘブライ人への手紙の中で美しい描写をしています。このヘブライ人への手紙の書き方が聖パウロの他の手紙と違うところは、おそらく聖パウロが自分と同じヘブライ人達に対して話しかけているということ、つまりヘブライ人達が異教からの改宗者達よりも旧約聖書のことについてずっとよく知っていることを意識して書いていることです。ここでの聖パウロは、ガマリエルの下で学び(使徒行録22章3節)、「先祖の伝えにたいして非常に熱心で、同族の同年輩の多くの人々よりも、ユダヤ教の教えにすすんでいた」(ガラツィア人1章14節)ユダヤ人の律法学者サウロとして語っています。このヘブライ人への手紙では、聖パウロは他のどの手紙よりも多くの旧約からの引用を行ないますが、それは手紙を読む人達が自分の引用する聖書の箇所の背景に通じていることを前提として書いているからです。

聖パウロは長さの異なる三つの論を述べますが、それは全て新約が旧約にまさっていることの証明をするためのものです。聖パウロはまずイエズスを旧約での仲介者であった天使と比較してこう言います:「神はどんな天使にむかって、『あなたは私の子である、私は今日あなたを産んだ』、また『私はかれの父となり、かれは私の子となる』とおおせられたことがあろうか。」(ヘブライ人1章5節)と。聖パウロはここで詩編の第2篇と第88篇とを引用していますが、共にメシアがまさに天主の御子であることを明確に預言しているものです!彼こそが本性において子であり、それゆえに父と同じ天主の本性、即ち神性をもっているのです。なぜなら父から生まれる子は父と同じ本性を持っているからであって、そうでなければその子は怪物ということになってしまうでしょう。これによってメシアが全ての天使にまさるものであることが示されます。

聖パウロは続けます。「そして神は、長子をこの世に入れられたとき、『神のすべての天使は、かれを礼拝せよ』とおおせられた。」(ヘブライ人1章6節)と。ここで聖パウロは詩編第96篇を引用しています。もし全ての天使がメシアを礼拝せねばならないのであれば、メシアは全ての天使にまさるものであって、造られたものではなく、また天使達は創造物の中で至高のものであるから、メシアは創造主ご自身である、と言います。天使達は最初に次のように試されました。すなわち天主は天使達を創造されるとすぐ、天使達に御托身の計画を明かされました。良い天使達は、私たちの主イエズス・キリストにお仕えするため、すぐさま自分自身をお捧げしました。このような天使達が実際に主にお仕えするところを福音の中に見ることができます。例えば大天使ガブリエル、あるいは砂漠での試みの後、また十字架上でのお苦しみの間などです。良い天使達は、メシアが真の天主、真の人であることを信じ、自分たちがメシアにお仕えしてメシアを礼拝することに同意したと同時にその報いを受け、直接天国に行きました。悪い天使達はキリストを礼拝せよとの天主の命を拒み、悪魔とともに「ノーン・セルビアム―もうお仕えしない。」(エレミア2章20節)と言って、直ちに地獄に送られるという罰を受けました。

次に聖パウロは、王と王妃、花婿と花嫁、王たるキリストと王妃である教会、王妃であるマリアについて書かれた詩編第44篇を引用しています。この詩編はユダヤ人達によってメシアのことについて書かれていると広く認められていた大変美しい詩編です。この詩編では、王のことについて、「神よ、あなたの王座は世々とこしえにあり、あなたの王国の笏(しゃく)は正義の笏(しゃく)である。」(ヘブライ人1章8節)と書かれています。この詩編の作者は王に対して、『神よ』と呼びかけるのです!

異教徒の人達がキリストの神性を否定するのは無知によるものです。私たちには、彼らが真の知識を得るのを助ける義務があります。しかし、いわゆるキリスト教徒、例えばエホバの証人の人達がキリストの神性を否定するのはずっと深刻なことであって、冒涜にあたります。私たちが今見たように、聖書には明らかにキリストの神性、すなわちキリストが真の天主であり、真の人であることの証明が載っており、彼らはこれを知っているべきであるからです。

このように、私たちの主イエズス・キリストは天主の御子であり、真の天主であって、至高の天使に無限にまさるお方です。ヘブライ人への手紙の続く章で聖パウロは次の結論を導きます。即ち、天使によって命じられていた古い律法の下でそれに反抗する者達がその場で罰を受けたのであれば、真の天主、真の人である私たちの主イエズス・キリストによって命じられる新しい律法に、どれほどより忠実に従わねばならないであろうか、と。

聖パウロはさらに続けて、キリストと、天主の古い律法をヘブライ人達に伝えたモイゼとを比べます。モイゼは天主の家の「忠実なしもべ」でした。天主の家というのは当時のイスラエルの民のことであり、現在ではカトリック教会のことです。しかし、私たちの主イエズス・キリストがこの家におられるのは子として、さらにはこの家の造り主としてです。聖パウロは「キリストが私たちを造られたから」と言うのです!まことに聖ヨハネは「万物はかれによってつくられた。つくられた物のうちに、一つとしてかれによらずにつくられたものはない。」(ヨハネ1章3節)と言っています。また聖パウロ自身もヘブライ人への手紙の冒頭でこう言っています。「このおわりの日々には、子を万物の世つぎと定め、また、よってもって万物をつくられたその子を通じて語られた。神の光栄のかがやき、神の本性の型である子は、その勢力あるみことばによって宇宙を保ち、罪のきよめをおこなって、高いところの[神の]みいつの右にすわられた。」(ヘブライ人1章2-3節)ですから、家の造り主が家のしもべにまさっているように、キリストはモイゼにまさっておられるのです。

そしてこのヘブライ人への手紙の残りの部分では、私たちの主イエズス・キリストと、旧約の最初の大司祭であったアアロンとが比べられています。まず聖パウロは、司祭の定義をして、イエズスが司祭であることを示します。「大司祭はすべて、人間の中から選ばれ、神に関することについて、人間のために任命されている。それは、罪をあがなうそなえものといけにえとをささげるためである。かれも弱さに包まれているのだから、無知な者と迷う人々とに同情することができる。そのために、かれは、人々のため、自分のために、罪について犠(いけに)えをささげる義務がある。そして、アアロンのように神に召されたもの以外は、この誉れを自分でうけることができない。キリストも大司祭となる誉れを自分でうけられたのではなく、こうかれにおおせられたお方によって立てられた、『あなたは私の子である。私は今日あなたを生んだ』。他のところでは、『あなたはメルキセデクの位(くらい)にひとしく、永遠の司祭である』といわれている。」(ヘブライ人5章1-6節)これは詩編第109篇からの引用で、主日や全ての祝日の晩課に含まれているものです。メルキセデクの名は旧約聖書全体の中で、ただ2度しか登場しません!一度目はアブラハムの勝利の後、メルキセデクは感謝の生け贄を捧げ、アブラハムを祝福し、アブラハムからすべてのものの十分の一を受け取りました。二度目はこの詩編の中で、メシアは「メルキセデクの位に等し」い永遠の祭司であるとダヴィドが預言した箇所です。そして聖パウロはヘブライ人への手紙の中で、この二つの短い記述から全く驚くべき結論を導き出すのです!

人類が始まった時、長男は父から王権、司祭職と倍の相続権を引き継ぎました。しかしモイゼから後、古い律法が与えられてからは司祭職と王権とは切り離されました。王はユダ族から(例えばダヴィドが)、司祭はレヴィ族から(例えばアアロンが)選ばれました。ダヴィド王は、メシアが再びこの二つを結びつけ、メシアが至高の王であるばかりでなく大司祭でもあることを、預言の光の中に見るのです!

次に聖パウロはキリストがアアロンよりもずっとまさっていることを示します。アブラハムがメルキセデクに十分の一を払い、メルキセデクから祝福をうけた時、アアロンや全てのレヴィ族の人々は「まだ生まれていなかったから」です。十分の一を受ける者は十分の一を払う者よりもまさっており、祝福を与える者は祝福を受ける者よりもまさっています(第7章)。司祭職が変われば、儀式に関する法や司法に関する法も変わらなくてはなりません。なぜなら旧約における司祭の義務は儀式や司法に関するものだったからです。このようにして、聖パウロは旧約の儀式や司法に関する法は新約の下ではもう適用されないことを示します(ただ倫理に関する法、例えば十戒やその他倫理的な教えはそのまま適用され、旧約の下よりも新約の下ではより高い聖性が求められます)。まことに、古い律法によって定めされた旧約はキリストと共に終わりを告げ、新しい永遠の契約が私たちの主イエズス・キリストによって定められました。この契約はずっと完全な契約、即ち、新しいものを告げるかたどりや将来起こることの前触れに過ぎないものではなく、赦しと救いという事実そのものなのです。

聖トマスは、御聖体におけるキリストの現存を次のように証明します:聖トマスは、犠牲のいけにえ、即ちキリストご自身の御体と御血が単なるかたどりではなく、現実に存在するということは、旧約に対する新約の完成による、とします。御聖体にキリストが現存するという事実を否定するプロテスタント教徒達は、旧約に戻ってしまい、事実上新約を否定してしまっています。

事実、聖パウロはこのヘブライ人への手紙の続きで、もしキリストが司祭であるならば、キリストは何かを捧げている筈だ、と説明します。キリストは何を捧げるのでしょうか?キリストご自身の御体と御血です(第9章・第10章)。パウロの結論は次の通りです。「山羊と牡牛(おうし)の血、牝牛(めうし)の灰などを、汚れた人々にそそいでその肉体をきよめるのなら、ましてや永遠の[聖]霊によって、汚れのないご自分を神にささげられたキリストのおん血が、私たちの良心を死の業(わざ)からきよめて、生きる神に奉仕させ得ないことがあろうか。そのためにかれは、新しい契約の仲立ちであって、前の契約のときの違反をあがなうために死なれた。それは、選ばれた人々に、約束された永遠の遺産をうけつがせるためである。」(ヘブライ人9章13-15節)

キリストの犠牲は完全なものです。それ以外の犠牲は必要ありません。これこそが唯一かつ完全な犠牲です。私たちはみなこの犠牲を必要としています。そこで私たちの主イエズス・キリストは御聖体を制定され、キリストの唯一の犠牲が全ての新約の祭壇の上に存在し、奉献されるようにしてくださいました。主はご自分の犠牲をご自分の教会に与えられ、いやむしろ、ご自分の司祭達の奉仕を通して、選ばれた者のうち最後の者があがなわれるまで、ご自分の唯一の犠牲を捧げ続けていらっしゃるのです。

聖パウロは主日の礼拝―ミサのこと―について第10章で取り上げています。「約束されたお方は忠実であるから、私たちは、宣言した希望にしっかりとふみとどまり、愛と善とをたがいにはげましあうように、注意しよう。ある人々の習慣をまねて、集会をおろそかにすることなく、たがいにすすめあおう。かの日が近づくのを見て、なおさらそうせよ。私たちが、もし、真理を深く知ってのち、故意に罪をおかすなら、罪のためのいけにえはもうのこらない。ただ、審判のおそるべき待期(たいき)と、反逆者をやきつくす復讐の火だけがのこる。」(ヘブライ人10章23-27節)聖パウロが「集会をおろそかにすることなく」と言っているのは、信者に主日のミサの義務について注意しているのです。聖パウロはまた、主日の義務を果たさない「習慣」のある人々は「真理を深く知ってのち、故意に罪をおかす」のだと言っています。そのような人々には「罪のためのいけにえはもうのこらない」、つまり自分たちが捨ててしまっている唯一の犠牲以外の犠牲はない、と言っているのです。実際それに続いて、聖パウロはこのような人々はキリストの御血そのものを見くびってしまったとします:「それならなおさら考えよ。神の子をふみつけ、自分が聖とされた契約の血をけがし、恩寵の霊を侮(あなど)った者の罰は、どれほどひどかろうかと。『仇(あだ)は私がとる。報いるのは私である』、また『主はその民を裁く』とおおせられたお方を私たちは知っている。生きる神のおん手におちるのは、おそろしいことである。」(ヘブライ人10章29-31節)この節は簡単ではありませんが、これがミサの犠牲としての性質とキリストの御血の現存を教えていることはおわかりいただけるでしょう。しかし警告されていることは明らかです:罪は恐ろしいことであり、御聖体への不敬も恐るべきことで、恐ろしい罰が下されるということです。

このヘブライ人への手紙の最後の箇所で―その前には大変重要な教えが沢山あるのですが、今日全てについてお話しすることはできませんので―聖パウロはミサが犠牲であると非常に明白に言っています:「私たちは祭壇をもっているが、幕屋に奉仕する人々は、祭壇のものを食べる権利がない。」(ヘブライ人13章10節)今犠牲が捧げられる「祭壇」とは何でしょうか?旧約の「幕屋」では何が行なわれたのでしょうか:様々な犠牲の奉献です。私たちは祭壇を持っており、これが教会の中心です。プロテスタント教徒は祭壇を持っていません。したがって彼らはキリストに忠実ではないのです。しかし、近代主義者達はこの教会の中心そのものを攻撃し、ミサの犠牲としての性質を隠したり、否定したりもしてきました。こうしてみると、教会の中心自体が攻撃されたのですから、教会に沢山の問題があっても驚くにはあたりません。

これらすべてのことを考え、私たちの主イエズス・キリストの偉大さを、よりうやまうようにいたしましょう。私たちの主イエズス・キリストは真の天主、御父の独り子、真の天主かつ真の人であり、また仲介者、救い主、大祭司、至高の王でもあるのですから。

私たちが主の偉大さを知ると、主の謙遜について黙想するとき、より大きな驚きを感じます。そして私たちがこの大祭司、汚れなき生け贄になられたお方について知るとき、十字架とミサの犠牲の価値をもっとよく理解することができるようになるのです!

私たちが私たちの主イエズス・キリストをさらによく知り、愛し、忠実にお仕えし、聖父と聖霊と共に永遠に統治しておられる天国で私たちが主を目の当たりにすることができるよう、私たちの主イエズス・キリストの偉大さと謙遜とを共に完全に知っておられた童貞聖マリアが、いつも私たちを助けてくださいますように。アーメン。


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聖ピオ十世会日本は、毎年恒例の公式秋田巡礼を5月2日から6日まで行います。特に今年の巡礼に、多くの兄弟姉妹の皆様を巡礼にご招待いたします。

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天主様に感謝! 今日、東京で聖伝のミサによる枝の祝日が執行されました

2014年04月13日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

天主様に感謝! 今日、東京で聖伝のミサによる枝の祝日が執行されました。次の通りご報告を戴きましたのでご紹介いたします。レネー神父様には感謝します。レネー神父様のお説教については、明日、改めてアップいたします。
愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


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今日レネー神父はお説教で主キリストの偉大さについてお話しくださいまし
た。聖パウロのヘブライ人への手紙に沿って、新約は旧約にまさり、キリスト
が真に造り主であることからモイゼにまさり、大祭司としてアアロンにまさ
り、さらに旧約を完成する永遠の新約を定めてくださったこと、また主キリス
トは大祭司として、唯一かつ完全な犠牲をご自分の教会を通じてミサという形
で捧げ続けておられること等を教えていただきました。

昼食後の霊的講話は教会の教父についていろいろ説明していただきました。教
父たちは聖人であり、教会の初期(5世紀まで)に活躍し、書物を残している
人々で、私たちは教父たちの著作をみることによって、例えばカトリックの教
えはいつも使徒から代々伝承されたことにあり("Nihil innovetur, nisi quod traditum est")、真の意味で使徒継承のものであること、初期の教会の
時代からローマの首位権があまねく認められていたことがわかること等、教父
たちの著作を直接引用しながら、また聖ステファヌス教皇と聖キプリアヌスと
の論争などの具体例を挙げながら解説していただきました。

その後、枝の主日の晩課を歌って終了しました。

ミサの参列者数
男: 15人(内、子供1人)
女: 17人(内、子供1人)
計: 32人(内、子供2人)

霊的講話の参加者数
男: 5人
女: 7人
計: 12人

晩課の参加者数
男: 5人
女: 4人
計: 9人


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4月の大阪での聖伝のミサについてのご報告をお知らせいたします

2014年04月12日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 天主様に感謝!4月の大阪での聖伝のミサについて次のようなご報告を頂きましたのでお知らせいたします。レネー神父様は、アメリカ管区長やオーストラリア管区長を歴任された方で、とても頭脳の明晰な方です。このようなすばらしい人材が、私たちの日本に来てくださっていることを天主様に感謝します。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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アヴェ・マリア!

4月大阪での御ミサにはレネー神父様がお越しくださり、11日金曜日には17人が、12日土曜日には18人が与るお恵みをいただきました。デオグラチアス!!

金曜日と土曜日のお説教については、信徒会長の翻訳をアップしていただけることを期待しています。すばらしいお説教で、時代が時代なら、レネー神父様はきっと教父様か教会博士になられていただろうと思いました。

土曜日の歌ミサの後には公教要理がありました。初代教会から、聖伝は伝え続けられ、今日に至っており、教会の教父方によって残された教理も今もなお受け継がれていることや、異端や誤謬の間違いをを教父方がいかに聖伝に基づいて明らか にされたかなどを例をたくさんあげてお話頂きました。
(東京でも同じカテキズムがあったのでしたらぜひアップしていただきたいです。レネー神父様の次から次へと溢れる出る様々な例えやお話に、ノートをとる暇もありませんでしたので・・・。よろしくお願いいたします。(;´∀`))

天主様に感謝!
マリア様に感謝 !
レネー神父に感謝!

翻訳してくださった信徒会長にも感謝いたします。


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聖ピオ十世会日本は、多くの兄弟姉妹の皆様を秋田の聖母への巡礼にご招待いたします

2014年04月11日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

聖ピオ十世会日本は、毎年恒例の公式秋田巡礼を5月2日から6日まで行います。特に今年の巡礼に、多くの兄弟姉妹の皆様を巡礼にご招待いたします。

今年で8回目になる巡礼ですが、その意向の抜粋に手を加えて、愛する兄弟姉妹の皆様に紹介しつつ、巡礼にお招きします。

ご参加希望の方々は、聖ピオ十世会日本 秋田巡礼 SSPXJAPAN PILGRIMAGE TO AKITAなどを通してお申し込みください。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


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2014年は、私たちにとって特別の年であります。何故なら、ちょうどロザリオが聖母マリア様によって聖ドミニコに与えられて、800周年でもあるからです。さらに今年は日本が聖母の汚れなき御心に公式に奉献されて170周年だからです。

御摂理により、今年は1月1日から聖ピオ十世会総長のフェレー司教様の呼びかけにより、第5次ロザリオの十字軍が起動しました(6月8日まで)。聖ピオ十世会アジア管区では、管区長の指導の下、2014年(1月1日から12月31日まで)を、ロザリオの聖なる年として過ごすこととなっています。

また今回の巡礼は、アジア管区長クチュール神父様やポーランドからコヴァルスキ神父様、またカトリック・ファミリー・ニュースのジョン・ヴェナリさんも参加され、世界各国からの巡礼者の皆さんと共により有意義な時を過ごそうと思っています。

そこでこの秋田巡礼をよりよく行うために、二つのことを提案したいと思います。一つは、この巡礼をロザリオの巡礼とすることです。
「その時わたしたちに残る武器は、ロザリオと、おん子の残された印だけです。毎日ロザリオの祈りを唱えてください。ロザリオの祈りをもって、司教、司祭のために祈ってください。」(秋田の聖母)
「ロザリオの祈りをたくさん唱えてください。迫っている災難から助けることができるのは、わたしだけです。わたしに寄りすがる者は、助けられるでしょう。」(秋田の聖母)

 ロザリオ800周年を記念して、この巡礼の間、巡礼者たちが唱えるロザリオの数が、皆で合わせて800環になることを望んでいます。

もう一つの提案は、日本が聖母の汚れなき御心に捧げられたことを重んじて感謝する巡礼とすることです。故安田神父様は次のように書いています。

【引用開始】
 殉教の血にいろどられた二九五年を経て、ようやくフランスの外国宣教会の一員フォカード師が、日本の再布教を志して渡来した。一八四四年五月一日、琉球の那覇港に到着した彼は、軍艦内の病室でミサを捧げ、感謝の祈りにつづいて“聖母の汚れなきみ心”にこの新布教地を奉献して祈った。この祈りを、少し長いが、浦川和三郎師著の「切支丹の復活」(前篇)から左に引用紹介しておきたい。

 「ああマリアの至聖なる聖心、諸の心の中にも至って麗しく、清く、気高き聖心、善良柔和、哀憐、情愛のつきぬ泉なる聖心、諸徳の感ずべき奥殿、いと優しき美鑑なる聖心、ただイエズスの神聖なる聖心に遜色あるばかりなる聖心よ、我はきはめて不束なる者なれども初めてこの琉球の島々に福音宣伝の重任を托されたるにより、我力の及ぶ範囲内に於て、この島々をば特に御保護の下に呈し奉り、献納し奉る。その上、いよいよ布教を開始して、その基礎を固め、この島人を幾人にても空しき偶像礼拝よりキリスト教信仰に引き入れ、一宇の小聖堂にても建設するを得るに至らば、直ちにローマ聖座に運動してこの国を残らず、公にまた公式に御保護の下に托すべきことを宣誓し奉る。
ああ慈悲深きマリアの聖心、神聖なるイエズスの聖心の前に於ていとも力ある聖心、何人たりともその祈祷の空しかりしを覚えしことなき聖心よ、卑しき我祈願をも軽んじ給はず我心を一層善に立帰らしめ、数々の暗黒に閉され居るこの心の雲霧を払ひ給へ。我は大なる困難、危険の中に在るものなれば、願くは謙遜、注意、鋭智、剛勇の精神を我が為に請求めさせ給へ。全能、哀憐の神なる聖父と聖子と聖霊とはこの賤しき我を用ひて「強き所を恥かしめ、現に在る所を亡し(コリント前1,28)」幾世紀前より暗黒と死の蔭とに坐せるこの民をば福音の光と永遠の生命とに引き戻し、之に立向はしめ、辿り着かしめ給へ。アメン。」

 その後日本の政治の流れも変わり、鎖国の長い眠りも破られ、切支丹迫害の血なまぐさい歴史も一応幕をおろした。しかし、迫害が止んだからといって、日本のキリスト教化がたちまち進展するものでもなかった。むしろ遅々として、布教の効果は一向にあがらないのが実情であった。
 やがて、日本民族にとって有史以来最大の惨事ともいうべき大東亜戦争が起こり、ついに広島・長崎の大いなる犠牲をもって終局を迎えたが、一九四五年のその記念すべき日が、八月十五日という聖母被昇天の祭日であった。このことは、終戦当時九万そこそこのカトリック信者に、神の摂理による暗合を思わせ、聖母とのゆかりをあらためて想起させるものであった。
 このとき、日本の司教団は一致して、先に述べたフォカード師の範にならい、「聖母の汚れなき聖心に日本を捧げる」ことを決議し、信者たちにもその信心がすすめられたのであった。
 ところで、一九七五年一月四日、聖母像から三回も涙が流された日に、天使から姉妹笹川に告げられた言葉の中に「聖母の汚れなきみ心に日本を献げられたことを喜んで、聖母は日本を愛しておられます。しかし、この信心が重んじられていないことは、聖母のお悲しみです」との指摘がある。
 昔から、神のおん母、人類に賜った母、聖マリアを愛し尊ぶ聖母信心は、教会の伝統から言っても聖書に照らしてみても、もっとも正統な、いつの時代にも重んずべきものであった。先の切支丹たちも聖母への信心によって、苛酷な迫害に堪え、殉教をとげる力を与えられていたのであった。そのように、聖母はいつも日本を愛し、日本民族を心にかけてこられた。その聖母が、なぜ今涙を流されるのであろうか。
「聖母の汚れなき御心に日本を献ぐる祈」は、今でも“公教会祈祷文”の二四一ページに、そのまま記載されている。しかし、もし誰かが、天使のような眼力をもって、現在の日本のカトリック教会をくまなく見わたしたとしたら、どこかでこの祈りが唱えられているのを発見できるであろうか。口に出して唱えぬまでも、この心を忠実に保って聖母信心にはげんでいる教会を、いくつか見いだせるであろうか。
【引用終わり】

 フォルカード神父が日本を聖母の汚れなき御心に奉献すると、状況が急速に変わり、踏み絵は中止され、カトリック教会の活動に門戸が開かれ、30年後にはキリスト教禁止の高札は撤去されるようになっています。次をご覧ください。

 1549年8月15日、聖フランシスコ・ザベリオ来日。
 1597年2月5日、日本二十六聖人、日本人の初穂として殉教。
 1615年2月5日、ユスト高山右近、マニラにて帰天。
 1622年9月10日、元和の大殉教
 1633年10月21日、ジュリアン中浦神父殉教(長崎・西坂)
 1644年、小西マンショ神父が最後の司祭として殉教。(キリシタン潜伏の時代の開始)


 1830年11月27日、フランスのパリのバック通り(Rue de Bac)にある愛徳姉妹会の聖カタリナ・ラブレ修道女(1806 - 1876)に童貞聖マリアが現れ、不思議のメダイを与える。
 1836年12月3日、やはり同じフランスのパリにある「勝利の聖母」の教会の主任司祭シャルル・デジュネット神父(1778 – 1860)は、ミサ聖祭を捧げている時「あなたの小教区を私の汚れなき御心に奉献しなさい」とのインスピレーションを受け、12月11日に小教区教会を聖母の汚れなき御心に奉献。その直後、奇跡的な恵みを受け、聖母の汚れなき御心への信心の中心地となる。

 1844年5月1日、フォルカード神父(当時28歳)は那覇港で日本を聖母の汚れなき御心に奉献(小西マンショの殉教200年後)。その後フォルカード神父は琉球に2年とどまる。その後1846年7月29日長崎に来港、しかし上陸不可。

 1846年に、フォルカードを初代教区長として日本使徒座代理区が設立され、フォルカード師は司教に聖別される。

 1847年10月22日、フランスのディーニヤ村のレオン・ロバン(Robin)神父は、フォルカード司教の書簡(祈って、祈って、祈って下さい)に感銘して日本改宗のための祈り会を創設し、ド・シャモン司教(Bishop Antoine-Jacques de Chamon)により公式認可を受る【メモ1】。会則は、宣教師が日本に入ることができるように、そして日本人がいつの日にかキリスト教を信じるように、毎日祈ること。村民550人のうち最初450人が会員に登録し、3年後に会員は1800人。1862年の横浜天主堂創立の頃には会員が3000人を超える。

 1856年2月11日から、フランスのルルドで無原罪の聖母が聖ベルナデッタに出現(全18回)。聖母マリアは、自分の名前を聞かれて「私は無原罪の御孕りです」と答える。(2月11日という日付は、『日本書紀』によると、日本を統一した神倭伊波古命(カムヤマト イワレビコノミコト)が初代天皇の神武天皇として即位したとされる日(辛酉年春正月庚辰朔 現在の暦に直すと紀元前660年2月11日)で、大和の橿原の宮で即位したとされ、日本の建国記念の日。)

 1857年 ジラール師(Girard)は、日本使徒座代理区長代理に任命される。

 1858年2月 長崎奉行荒尾石見の守、絵踏みの中止

 1858年10月9日 日仏修好通商条約が結ばれ、日本入国が可能になった。メルメ・カション(Mermet-Cachon)は函館に赴き、ジラール師は、仏総領事によって政府通訳官兼領事館付司祭として、江戸を経て横浜に。

 1862年1月12日に横浜開港後の日本で初めてキリスト教会が建設され、イエズス・キリストの聖心に奉献さる。当時はまだ禁教だが、横浜の外国人居留地内では教会建設は許された。横浜に天主堂が出来たこの日を日本におけるキリスト教再建の日とし、その100年後の1962年に天主堂跡地(天主堂は1906年に、現在の山手カトリック教会がある場所に移転)に記念碑が建てられる。

 1862年6月8日、ローマで日本二十六聖人列聖式が行われ、フォルカード司教はフランスのヌヴェールの司教(1861 - 73)として、フランス政府の反対を押し切って列聖式に列席。

 1865年3月17日、イサベリナ杉本ゆりら長崎浦上村の潜伏キリシタンたちの発見。

 1866年、プティジャンは再宣教後初の日本司教となる。

 1867年 フォルカード司教は、ヌヴェールの司教として、ベルナデッタの修練者としての誓願に立ち会う。

 1873年(明治7年)キリスト教禁令高札が撤去される。


メモ1:1864年から、レオン・ロバン神父は、聖フランシスコ・ザベリオが日本に携えて来たと伝えられる聖母の画像にちなんで六体のブロンズの聖母像をローマで鋳造。
1865年、教皇ピオ九世から祝別を受け、「都の聖母」と命名。
1866年、一体をパリから日本にもって来て、横浜にいたジラール神父のもとに届ける。
1873年、ヴィグルー神父によって「都の聖母」像は市内を見おろす東山将軍塚の六本の松の木のそばにひそかに埋められる。
1879フランス語教授として最初に京都に赴任したヴィリオン神父(A. Villion)は、将軍塚に登り、聖母像を掘り出し、御像を持ち帰り、高倉二条の借家に設けた仮聖堂に安置。
1890年5月1日、河原町教会の献堂式の日、中日本代牧区長のミドン司教は、「都の聖母」京都で最初に献堂された河原町教会に安置。】



 さて、ファティマの聖母マリア様も聖母の汚れなき御心への奉献がどれほど力強いものであるかを、ポルトガルなどをモデルに示してくれています。

 1931年5月13日、ポルトガルの司教様たちは、ファティマに集まった三十万人の信徒たちを前に、ポルトガルを聖母の汚れなき御心に奉献しました。この結果、ポルトガルは三重の奇跡を体験します。

 第一には霊的善です。奉献の直後から司祭の召命が突然増加し、十年後には修道者らの数が四倍に増えます。カトリック信仰の広大な刷新が生じました。1942年にポルトガルの司教様たちが共同の司牧書簡を発布しますがそこには「25年前に目をつぶって、現在目を開いてみたとすると、誰であってもポルトガルであるとは思わないだろう。それほど大きな変化が、ファティマの聖母マリアの御出現の慎ましい目に見えない要素によって生じている。本当に、聖母は、ポルトガルを救うことを望んでおられる。」

 第二には、カトリックの社会原理に従った政治的・社会的改革です。サラザール大統領が安定した政権を保ちました。

 最後に、ポルトガルは、スペインの市民戦争から免れ、また第二次世界大戦にも巻き込まれませんでした。ポルトガルは、1938年5月13日に、スペインの市民戦争に巻き込まれずにすんだことを、聖母マリアにその保護を感謝し、聖母の汚れなき御心への奉献を更新しました。

 1939年3月19日付けでシスター・ルチアはイエズス会のアパリシオ神父(Fr Aparicio S.J.)に次のように書いています。
「世界平和か世界戦争かは、聖母の汚れなき御心への信心の実行とこの聖心への奉献とに掛かっています。これが理由で、私がこれをそれほどまでに大きく広げたいと願っています、また、特にこれが天主様と私たちの愛する天の母の御旨だからです。」

 スペインのトゥイにいたシスター・ルチアは、1940年12月2日付けで、ピオ十二世にこう書き送りました。
「教皇聖下、(...)私たちの主は、ポルトガルの高位聖職者たちによってこの国が聖母の汚れなき御心に奉献されたために、この戦争中に私たちの国に特別の保護を約束してくださいました。これはもしも他の国々も聖母の汚れなき御心に奉献されたのならその他の国々にも与えられていただろうお恵みの証拠としてです。」

 従って、日本は、聖母の汚れなき御心に奉献されていたために、特別の恵みを頂いてきたのです。終戦後、日本の司教様たちは、聖母の汚れなき御心への奉献を更新し、日本はさらに、司祭と修道召命、改心、受洗という霊的恵みと、平和と政治的安定と経済的祝福などのお恵みを頂いています。私たちは今まで受けたお恵みを感謝しなければなりません。

 私たちが聖母の汚れなき御心への信心を忘れることなく続けるために、聖母の汚れなき御心に奉献されていることを記憶し続け、感謝しつづけるために、この巡礼で特別にその恵みを感謝しましょう。


【参考資料】
1844年5月1日に、フォルカード神父が那覇港でフランスの船艦の上でした奉献の祈りのラテン語原文

« O cor Mariae sanctissimum, cor omnium cordium ornatissimum, puris-simum, nobilissimum ; cor bonitatis, mansuetudinis, miscricordiae, et am-oris fons perennis ; cor omnium virtutum mirandum sanctuarium et suavissimum exemplar ; soli divino cordi Jesu cor inferius ; insulas illas Lieu-Kieu, (Riu-Kiu), primum evangelisandas mihi licet indignissimo commissas. tunc temporis, quantum in me est, et ad me pertinet, sub spe-ciali patrocinio tuo offero, pono, dico, consecro; insuper vovens me, ubi ali-quot tantummodo et earum incolis ab inani idolorum cultu ad christianam fidem transierint ubi sacellum etiam minimum aedificatum fuerit, vere in-coeptâ stabilitâque missione, omnia sine ullâ mora acturum esse, ut a Sancta Sede Apostolica, sub eodem speciali patrocinio totum regnum istud aperte et, authentice ponatur.
« O cor piissimum, apud divinum cor Jesu cor potentissimum, cor quod nullus inanibus precibus unquam exoravit, humillimas deprecationes meas ne aspernare, miserrimum cor meum ad melius converte, mentis istius tôt tenebris circumfusae caliginem discute, spiritum humilitatis, prudentiae, sapientiae et fortitudinis inter tantas difficultates tantaque pericula mihi obtinere dignare : Teque mediante, omnipotens et misericors Deus, Pater Filius, et Spiritus Sanctus, vili isto instrumenta uti non dedignetur, ut confundat fortia, ut ea quae sunt destruat; populumque istum a tôt saeculis in tenebris et umbra mortis sedentem ad sancti Evangelii lumen aeter-namque vitam demum convertat, dirigat, perducat. Amen.
Haec in portù Napa, in navi Alcmene post missam celebratam, die 1a maii 1844 vota precataque fuêre.

【参考資料二】
ルフェーブル大司教様は、聖ピオ十世会を聖母の汚れなき御心に奉献。
1993年、聖ピオ十世会日本と聖ピオ十世会韓国とは、正式に聖母の汚れなき御心に奉献されている。

【参考資料三】秋田の聖母のメッセージ

第一のメッセージ 1973年7月6日(初金曜日)
「わたしの娘よ、わたしの修練女よ。すべてを捨てて、よく従ってくれました。耳の不自由は苦しいですか。きっと治りますよ。忍耐してください。最後の試練ですよ。手の傷は痛みますか。人々の償いのために祈ってください。ここの一人一人が、わたしのかけがえのない娘です。聖体奉仕会の祈りを心して祈っていますか。さあ、一緒に唱えましょう」
「教皇、司教、司祭のためにたくさん祈ってください。あなたは、洗礼を受けてから今日まで、教皇、司教、司祭のために祈りを忘れないで、よく唱えてくれましたね。これからもたくさん、たくさん唱えてください。今日のことをあなたの長上に話して、長上のおっしゃるままに従ってください。あなたの長上は、いま熱心に祈りを求めていますよ」

第二のメッセージ  1973年8月3日(初金曜日)
 「わたしの娘よ、わたしの修練女よ。主を愛し奉っていますか。主をお愛しするなら、わたしの話を聞きなさい。
 これは大事なことです。そしてあなたの長上に告げなさい。
 世の多くの人々は、主を悲しませております。わたしは主を慰める者を望んでおります。天のおん父のお怒りをやわらげるために、罪びとや忘恩者に代わって苦しみ、貧しさをもってこれを償う霊魂を、おん子とともに望んでおります。
 おん父がこの世に対して怒りたもうておられることを知らせるために、おん父は全人類の上に、大いなる罰を下そうとしておられます。
おん子とともに、何度もそのお怒りをやわらげるよう努めました。おん子の十字架の苦しみ、おん血を示して、おん父をお慰めする至愛なる霊魂、その犠牲者となる集まりをささげて、お引きとめしてきました。
 祈り、苦行、貧しさ、勇気ある犠牲的行為は、おん父のお怒りをやわらげることができます。あなたの会にも、わたしはそれを望んでおります。貧しさを尊び、貧しさの中にあって、多くの人々の忘恩、侮辱の償いのために、改心して祈ってください。聖体奉仕会の祈りを心して祈り、実践して、贖罪のために捧げてください。各自の能力、持ち場を大切にして、そのすべてをもって捧げるように。
 在俗であっても祈りが必要です。もはやすでに、祈ろうとする霊魂が集められております。かたちにこだわらず、熱心をもってひたすら聖主をお慰めするために祈ってください」
 (ちょっと間をおいて)
「あなたが心の中で思っていることは、まことか?まことに捨て石になる覚悟がありますか。主の浄配になろうとしているわたしの修練女よ。花嫁がその花婿にふさわしい者となるために、三つの釘で十字架につけられる心をもって誓願を立てなさい。清貧、貞潔、従順の三つの釘です。その中でも基は従順です。全き服従をもって、あなたの長上に従いなさい。あなたの長上は、よき理解者となって、導いてくれるでしょうから」

第3のメッセージ 1973年10月13日(土曜日)
「愛するわたしの娘よ、これからわたしの話すことをよく聞きなさい。そして、あなたの長上に告げなさい」
(少し間をおいて)
「前にも伝えたように、もし人々が悔い改めないなら、おん父は、全人類の上に大いなる罰を下そうとしておられます。そのときおん父は、大洪水よりも重い、いままでにない罰を下されるに違いありません。火が天から下り、その災いによって人類の多くの人々が死ぬでしょう。よい人も悪い人と共に、司祭も信者とともに死ぬでしょう。生き残った人々には、死んだ人々を羨むほどの苦難があるでしょう。その時わたしたちに残る武器は、ロザリオと、おん子の残された印だけです。毎日ロザリオの祈りを唱えてください。ロザリオの祈りをもって、司教、司祭のために祈ってください。
悪魔の働きが、教会の中にまで入り込み、カルジナルはカルジナルに、司教は司教に対立するでしょう。わたしを敬う司祭は、同僚から軽蔑され、攻撃されるでしょう。祭壇や教会が荒らされて、教会は妥協する者でいっぱいになり、悪魔の誘惑によって、多くの司祭、修道者がやめるでしょう。特に悪魔は、おん父に捧げられた霊魂に働きかけております。たくさんの霊魂が失われることがわたしの悲しみです。これ以上罪が続くなら、もはや罪のゆるしはなくなるでしょう。
勇気をもって、あなたの長上に告げてください。あなたの長上は、祈りと贖罪の業に励まねばならないことを、一人ひとりに伝えて、熱心に祈ることを命じるでしょうから」
「まだ何か聞きたいですか。あなたに声を通して伝えるのは今日が最後ですよ。これからはあなたに遣わされている者と、あなたの長上に従いなさい。ロザリオの祈りをたくさん唱えてください。迫っている災難から助けることができるのは、わたしだけです。わたしに寄りすがる者は、助けられるでしょう」


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170年前にフォルカード神父様がなさった奉献の祈りのラテン語原文、英語訳、日本語訳

2014年04月10日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 170年前にフォルカード神父様がなさった奉献の祈り(原文ラテン語)から、いいに忠実な、英語と日本語の訳を作りましたので愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介します。英語の訳をチェックしてくださったレネー神父様とクチュール神父とに心から感謝します。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


ラテン語原文
« O cor Mariae sanctissimum, cor omnium cordium ornatissimum, purissimum, nobilissimum ; cor bonitatis, mansuetudinis, miscricordiae, et amoris fons perennis ; cor omnium virtutum mirandum sanctuarium et suavissimum exemplar ; soli divino cordi Jesu cor inferius ; insulas illas Lieu-Kieu, (Riu-Kiu), primum evangelisandas mihi licet indignissimo commissas. tunc temporis, quantum in me est, et ad me pertinet, sub spe-ciali patrocinio tuo offero, pono, dico, consecro; insuper vovens me, ubi aliquot tantummodo et earum incolis ab inani idolorum cultu ad christianam fidem transierint ubi sacellum etiam minimum aedificatum fuerit, vere incoeptâ stabilitâque missione, omnia sine ullâ mora acturum esse, ut a Sancta Sede Apostolica, sub eodem speciali patrocinio totum regnum istud aperte et, authentice ponatur.
« O cor piissimum, apud divinum cor Jesu cor potentissimum, cor quod nullus inanibus precibus unquam exoravit, humillimas deprecationes meas ne aspernare, miserrimum cor meum ad melius converte, mentis istius tôt tenebris circumfusae caliginem discute, spiritum humilitatis, prudentiae, sapientiae et fortitudinis inter tantas difficultates tantaque pericula mihi obtinere dignare : Teque mediante, omnipotens et misericors Deus, Pater Filius, et Spiritus Sanctus, vili isto instrumenta uti non dedignetur, ut confundat fortia, ut ea quae sunt destruat; populumque istum a tôt saeculis in tenebris et umbra mortis sedentem ad sancti Evangelii lumen aeternamque vitam demum convertat, dirigat, perducat. Amen.
Haec in portù Napa, in navi Alcmene post missam celebratam, die 1a maii 1844 vota precataque fuêre.

英語訳
"Oh, most holy Heart of Mary, most ornate of all hearts, most pure, most noble; heart of goodness, of meekness, of mercy and fountain of everlasting of love; admirable sanctuary of all virtues, and most sweet model; Heart inferior only to the Divine Heart of Jesus; since these Ryu-kyu islands have been entrusted to me in the first place though very unworthy, to be evangelized, at the present time, thus, as far as it is my capacity, and as much as it belongs to me, I offer, I place, I dedicate, I consecrate them under Thy special patronage. Especially, I promise, if, even only for the few islanders, who will be converted from their vain cult of idols to the Christian faith, where a very small chapel will be constructed, with the mission being started and established, I shall do all without any delay, so that this entire kingdom [of Japan] may be placed publicly and officially under [Thy] same patronage by the Holy Apostolic See."

"Oh, most merciful Heart, most powerful Heart towards the Divine Heart of Jesus, Heart which no one ever prayed in vain, despise not my most humble prayers, convert my most miserable heart to better disposition. Dissipate the evil of this mind so surrounded by so much darkness. Deign to obtain for me the spirit of humility, of prudence, of wisdom, and of fortitude among such difficulties and such dangers."
"And through Thy mediation, may the Almighty and merciful God, Father, Son and Holy Ghost, not disdain to use this vile instrument so that "He may confound the strong", "that He might bring to nought things that are" (1 Cor 1:27-28); and may God, at last, convert, guide, lead this people sitting in the darkness and the shadow of death from long centuries, to the light of holy Gospel and the life everlasting. Amen."
This was vowed and prayed in the port of Naha, in the boat Alcmene after the celebration of Mass on the 1st May 1844.


日本語訳
ああマリアの至聖なる御心、全ての心の中にも至って麗しく、いと清く、いと気高き御心よ、善良と柔和と憐れみと愛とのつきぬ泉なる御心、全ての徳の驚くべき至聖所にして、いと優しき鑑なる御心よ、ただイエズスの神聖なる聖心にのみ劣る御心よ、初めて宣教すべきをいとも不肖なれども我に委託されたかの琉球の島々を、この時、我にある限り、また我に属する限り、御身の特別なる御保護のもとに奉献し、置き、宣言し、聖別し奉る。とりわけ、布教が開始され確立し、それがたとえ幾ばかりかであれ、空しき偶像礼拝よりキリスト教信仰に移ったかの島々の住民らのために、たとえごく小さき聖堂にても建設したならば、いかなる遅れもなく、使徒聖座によって、この国全てが、公にまた公式に、特別の御保護の下に置かれるように全てをなすことを宣誓し奉る。
ああ慈悲深き御心よ、神聖なるイエズスの聖心の前に於ていとも力ある御心よ、何人たりともその祈祷の空しかりしことなき御心よ、卑しき我が祈願を軽んじ給はず、みじめなる我が心を一層善に改心せしめ、かくも暗黒に取り囲まれたるこの心の悪を払い給え。謙遜、賢明、上智、剛勇の精神を、かくも多くの困難と、かくも多くの危険との中において、我が為に勝ち取り給え。願わくは、御身の御取り次ぎによりて、全能にして憐れみ深き天主、聖父と聖子と聖霊が、この賤しき道具を使い給うことをかたじけのうさせ給え。そは「強い者を辱しめるため、有る者を空しくするため(コリント前1:27-28)」なり。幾世紀前より暗闇と死と陰に座るこの民を聖なる福音の光と永遠の生命とについに改心させ、導き、辿り着かしめ給え。アメン。


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4 /4 (金)現在のロザリオの総数は、7565環です

2014年04月04日 | ロザリオの十字軍
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、
こんにちは!4 /4 (金)現在のロザリオの総数は、
4987環+16環+360環+46環+155環+1586環+419環=7569環です。
天主様に感謝!

「めでたし聖寵満ちみてるマリア!」
ロザリオを唱えながら、大天使ガブリエルが聖母マリアにお告げをしたことを黙想しましょう。天使が童貞女に救い主の母となることを告げたのは、大変ふさわしいことでした。

 童貞女がキリストを身ごもることを告げられたことはふさわしいことでした。何故なら、(1)天主の聖子が童貞マリアに結合するその順序が、肉体の前に精神的なものであったからです。「聖母マリアは、キリストの肉体を宿すよりもキリストの信仰を持つことによってより聖なる方である」(聖アウグスティヌス)だからです。「キリストを体によるよりも、心によってより幸福に抱いていたのでないならば、肉体的密接さは聖母マリアにとって何らの利益もなかっただろう」(聖アウグスティヌス)からです。また、(2)天主からのものとして教えられ、この秘密の確実な証人となることができるためでした。さらに、(3)自分の意志によって天主に自分を捧げるため、すぐに自己奉献をすることができるためでした。実際童貞マリアは「我は主の婢なり」と答えています。また(4)天主の聖子と人間の本性とが何らかの霊的婚姻関係を結ぶためでした。そのために全人類を代表して童貞マリアがその同意を表明することがこのお告げにおいて期待されていたからです。

 さらに、天使によって、童貞女がキリストを身ごもることを告げられたことはふさわしいことでした。何故なら、(1)天主に関することは天使の中継を通して人間たちに伝えられるという天主の秩序が保たれることができたからです。従って、大天使ガブリエルが、ザカリアに将来のことを教え、童貞マリアには天主の神秘がどのように起こるかを教えたのでした。次に(2)人類の罪の償いのために天使が童貞女に告げるのがふさわしかったからです。何故なら、人ル次の最初の罪は、悪魔によって蛇が女(エワ)に傲慢の考えを吹き込んだことから始まったので、償いには天主によって天使が童貞女に天主に奉献することを告げるのがふさわしいことだったからです。また(3)人間ではなく天使が告げることは、天主の聖母の終生童貞性にふさわしかったからです。何故なら、童貞性は天使的な徳であると言われ、童貞性を守ることによって、完璧な肉体において、肉体の外に生きることであり、地上の生活と言うよりは天上的な生活であると言うことができるからです。

 さらに天使が人間の姿で肉体的な様子でお告げをしたことはふさわしいことでした。何故なら、(1)天使は、天主が人間となることを告げに来たのであり、目に見えない存在である天使が、このことを目に見える形で告げたことはふさわしいことだったからです。また(2)精神的だけでなく肉体的に天主の聖子を宿すべき天主の聖母の尊厳にふさわしいことでした。ですから夢の中での精神的なお告げではなく、肉体的な視覚によって天使を見ることがふさわしいことでした。さらに(3)お告げを受けた内容の確実性のためにもふさわしいことでした。

 この天使によるお告げの順序もふさわしいものでした。(1)まず、天使はかくも偉大な現実に童貞マリアが注意して考察するように促したからです。何故なら、天使はきわめて普通ではない挨拶からお告げを始めているからです。「聖寵満ちみてる方よ!」と。次に「主は御身と共にまします」と。これは身ごもることを予期する言い方でもあり、その結果も告げます。「御身は女の内にて祝せられ給う」と。次に(2)天主の御托身の玄義を童貞マリアに教えているからです。「あなたはみごもって子を生むでしょう」と、子供を宿し生むことを予言し、その聖子の尊厳を告げているからです。「それは偉大な方で、いと高きものの子といわれます。また、かれは、主なる天主によって父ダヴィドの王座を与えられ、永遠にヤコブの家をおさめ、その国は終ることがありません」と。さらにはどのようにして身ごもるのかも説明しているからです。「聖霊があなたにくだり、いと高きものの力のかげがあなたをおおうのです」と。このお告げの順序がふさわしかったのは、最後に(3)童貞マリアの霊魂を、エリザベトの例を出して、天主の御旨に同意するように促しているからです。「あなたの親族のエリザベットも、老人ながらみごもったではありませんか。うまずめといわれた人なのに、もう六ケ月目です。天主には、おできにならないことはありません」と。

愛する兄弟姉妹の皆様からの、たくさんのロザリオの報告をお待ちしております。
ロザリオの聖母よ、我らのために祈り給え!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

*********************************

【報告】

アヴェ・マリア!
いつもありがとうございます。

中間報告です。
私...前回報告したあとからですので
3/25-4/2 16環  2連

↓Rosary crusade SSPX JAPANに報告してくださった方に感謝!!
イエズスのマリア・テレジアとその友人達
2014年1月1日から2014年3月31日まで
合計: 360環

よろしくお願い致します。

【報告】

十アヴェ・マリア!!♪♪
*マリア・ルチア・フィロメナさん 46環

【報告】

アヴェマリア!
小野田神父様、お元気ですか?ロザリオの十字軍3月の報告をします。

フランシスコ   31環
モニカ      31環
テレジア     93環

【報告】

アヴェ・マリア!!♪♪
聖なるロザリオの十字軍の!!♪♪御報告です♪

*シスター                   93環
*ヨゼフさん、 マリアさん         317環
*ヨゼフ・パウロ              100環
*マリア・クリスティーナ・ヨハネ     413環
*マリア・テレジア              12環
*マリア・ベルナデッタ・ヨゼフィーナ   250環
*バルナバ                  60環
*幼きイエズスのテレジア         100環
*マリア・クリスティーナ           30環
*マリア                    19環
*マリア・ローザ                31環
*マリア・エリザベト・ベルナデッタ     40環
*マリア・ローザ・デオ・グラチアス     64環
*アンナ                    57環

以上で、1586環です、どうぞ宜しく御願い致します。

秋田の聖母マリア様!!♪♪聖ヨゼフ様!!♪♪への御恵みの巡礼!♪まで、後、1ヶ月になりました!♪
全行程の参加の御恵み頂けます様に!♪御祈り御願い致します!!
4月の全部の至福の御ミサ!!!♪♪♪にも与る御恵み頂けます様に!♪御祈り御願い致します!!
本当に御優しいイエズス様!!!♪♪♪
聖なるロザリオの聖母マリア様!!♪♪
聖会の保護者なる御力のあられます聖ヨゼフ様!!♪♪
非常な御恵みの♪有り難い♪トマス・マリア小野田主任神父様を!御護り下さいませ!!
デオ・グラチアス!!

【報告】
+Ave Maria!

小野田神父様、聖務にお忙しいのに私たち日本の信徒のためにブログやご連絡をありがとうございます。拙くもロザリオ十字軍の意向で唱えましたロザリオの報告をさせていただきます。8人で3月分として419環を御捧げいたしました。

まだまだがんばりが足りないようで、申し訳ありません。
今月4月、頑張ります。
また毎日の自分の職務や境遇、つらいことを御ミサの犠牲に一致して、
また特に四旬節の犠牲として
聖母の汚れ無き御心にお捧げいたします。

小野田神父様、どうぞお身体を大切になさってくださいますように。

至聖なるイエズス様の聖心よ、我らをあわれみたまえ。
聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈りたまえ。
いとも尊き聖ヨゼフ、我らのために祈りたまえ。
秋田の聖母、我らのために祈りたまえ。


4/1(火)現在のロザリオの総数は、4987環です

2014年04月02日 | ロザリオの十字軍
+Ave Maria!

愛する兄弟姉妹の皆様、
こんにちは!
4/1(火)現在のロザリオの総数は、4694環+15環+93環+33環+68環+84環=4987環です。

多くのロザリオをありがとうございます。
天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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【報告】

アヴェ・マリア!
トマス小野田神父様

ロザリオの十字軍のご報告をさせていただきます。
3月17日から3月31日9時(日本時間)まで私と子供あわせて15環でした。

トマス小野田神父様に天主様の祝福が豊かにありますように!
第5次ロザリオの十字軍が成功しますように!

P.S. 古い枝を3月の御ミサで回収していただきました。ありがとうございます。

【報告】

+アヴェ・マリア!
小野田神父様、ロザリオ十字軍のためのロザリオ環数のご報告です。
今年の初めから3月31日まで合計で93環です。

3月のミサのとき、クチュール神父様に励まされておりますので、これからもう少し頑張ろうと思います。
では神父様とご両親、聖ピオ十世会の指導者の方々に、絶えざる御助けの聖母と秋田の聖母の豊かな御取り次ぎがありますように。

【報告】

JMJ
遅くなりました。二月と三月分の報告です。三十三環です。

秋田巡礼は全日程参加します!
大阪のご復活のごミサにも行く予定です。(*´∀`)

【報告】

小野田神父様
3月のロザリオ数を報告させていただきます。

①御聖堂・教会敷地内ルルド 26環
②移動中のiPhone(教皇様のCD) 17環
③You-Tube動画 25環
計68環

iPhoneに録音している教皇様のCDを
映像化したものが下記です。
https://www.youtube.com/watch?v=Kh2Ldl3Kw8o

公共交通機関での移動中に小声で唱えています。
それでもよろしいのでしょうか…

【報告】
第五次ロザリオ十字軍の報告

小野田神父様 こんばんは。
3月のロザリオは84環でした。

いと尊きロザリオの元后
われらのために祈り給え

聖ヨゼフにもたくさん祈りました。

いつくしみ深き父よ、われらのために、すべての誤りと腐敗との伝染を防ぎたまえ。

私たちは、日々の生活の中で、経験し、見、聞き、触れ、味わっていることを、自由に観察することができます。

はじめて気づいたり、知ったり、思い至ることなどもあるでしょう。それは、その人の経験にとって「新しい」ことと言えるかもしれません。
個人的には「はじめて」で「新しい」かもしれませんが、人類の歴史においては、どうなのでしょうか?

私たちが、天主様から自由を与えらえているのを、実際に生活において用いることができるようにされ、それを知るようにされたのは、善悪の知識の木の実を食べてはならないことの命令を受けたからなのだと思います。
それを食べると必ず死んでしまうということも知らされました。
終わりなき命も、終わりなき死も、天主様が与えてくださった自由によって、私たち一人ひとりが選ぶことができます。

誤ったことを知るようにされ、終わりなき死に向かうことを選んでしまうことがあっても、命のないところに死もないわけですから、必ず、そこには、終わりなき命の道を見出すことが、できるように思われます。

私たちが、自由だと思うとき、ちゃんと自分で識別できなければなりません。
私たちが、抑圧されていると思うとき、むしろ、識別は、「自由」な状態よりも、実ハ、より少ない困難でできるようにされているといえるかもしれません・・・?

天主の聖母の浄配 われらのために祈り給え
童貞マリアの操正しき守護者 われらのために祈り給え
天主の御子の養育者 われらのために祈り給え
キリストの注意深き保護者 われらのために祈り給え


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
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