Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

教会はイエズスの聖心の愛のプレゼント:確実に、正確に、疑いなく、真理を教える権威を持った組織:聖書だけでは足りない

2024年06月22日 | お説教・霊的講話

2024年6月16日 聖霊降臨後第四主日 東京10時30分ミサ 説教

トマス小野田圭志神父

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、先週、私たちは、イエズス様の聖心の愛の神秘について黙想しました。
今日は、イエズス様の聖心の私たちへのプレゼント、教会について、一緒に黙想いたしましょう。
イエズスの聖心は、私たちに対する愛によって、私たちが永遠の栄光にたどり着くための真理を、確実に、そして正確に間違いなく、疑いなく、教える権威を持った組織を作りました。これが、教会です。イエズス・キリストの愛する花嫁、神秘体である教会です。

【1:聖書だけで十分か?】
これについて、ある人は教会を否定しようとします。キリストの教えについて正確で十分な知識を得るには、最も優れた安全で確実な手段は聖書だというのです。聖書だけが、キリストの教えを説明する手段であって、教師であって、キリストの代理だと主張します。

でも、イエズス様は本当にそのことをお望みだったのでしょうか。イエズス・キリストは、私たちが自分の思うところに従って聖書を読みさえすれば、そしてそれを自分の思うように解釈すれば、永遠の命に到達することができると教えたのでしょうか?

いいえ、そうではありませんでした。何故かというと、まず聖書はキリストの真理を明瞭に教えていないからです。たしかに、一部の真理は平易に誰にもわかるように書かれています。例えば地獄とか。しかし、その他の部分は、曖昧で難しい表現で書かれている部分が多くあります。

天才的な頭脳を持っていた聖アウグスチヌスでさえも、長い間聖書の研究をした結果、自分が理解することができたことよりも、理解できなかったことの方が遥かに多い、と晩年に公言しています。
聖ペトロは聖書の解釈がむずかしいことについてこういいます。「聖書のどんな預言も、自分勝手に解釈してはならないことを知らなければならない。」(ペトロ後1:20)そしてその少し後に、こうも書いています。「無学な人や心の定まらない人々は、…その意味をまげて、自分自身の亡びを招いてしまう。」(ペトロ後3:16)

たしかに聖パウロはこう言います。「聖書はみな天主の霊感を受けたものであって、教えのために、いましめのために、矯め直すために、正義を教えるために、有益である」(ティモテオ後3:16)。
でも、聖書が唯一の手段である、とはいえません。

なぜでしょうか?なぜかというと、聖書は自分自身で自分こそが正真正銘の天主の御言葉だと保証することができないからです。なぜかというと、もしもそうであるならば、現在までいろいろなでてきた聖書のどの版が純粋な天主の御言葉であって、どの翻訳にあるいは写本に誤りがないと誰がわかることができるでしょうか。

またイエズス様御自身も、聖書については、お命じになっていません。
もしも聖書だけが唯一のキリストの真理を教えるための手段だったとしたならば、なぜイエズス様はご自分で聖書を書かなかったのでしょうか?聖書のどこにもイエズス様が聖書を書けと弟子たちに命じたところはありませんでした。使徒たちの中で福音を書いたのはたった二人です。聖マテオと聖ヨハネです。聖ヨハネの福音は、イエズス様の復活の60年以上も経ったあとから書かれました。そして、福音の最後にはこうも言っています。「イエズスが行われたことは、この他にも多いけれども、一つ一つ記していたら、その書かれた本を入れるためには、全世界でさえもたりないと思う。」(ヨハネ21:25)つまり聖ヨハネはイエズス様のすべてを書いたわけではなかった、というのです。使徒たちの中で 書簡を書いたのは たった五人です。もしも、キリストが使徒たちに聖書がそれほど大切だとしたならば、なぜ他の使徒たちは説教をしただけで満足したのでしょうか。使徒でなかった聖ルカは、他の人びとに書いたというよりは、多くの人々というよりは、自分の知っていた改宗者の友人に宛てて、テオフィロに宛てて、書かれたものです。

しかし聖書が書かれる以前に、新約聖書が一言も書かれていないその前に、聖ペトロは何千人もの人々に洗礼を授けて、すでに教会が成立しています。

なぜ、聖書だけでは足りないのでしょうか。なぜかというと、聖書を研究した多くの人々のなかでも、いろいろな解釈をする人々があり、それだけでは、意見の一致を見ることはまったく不可能であるからです。つい最近私は40年以上、プロテスタントの牧師を努めていた方のお見舞いに行ってきました。その方がつい最近書かれた一節には「教会史における論争は、聖書から直ちに解決を見出すことができないから起こるのである。聖書によってキリスト教が一致できるのならばどうして教会の分裂がおこるのだろうか。異端でさえ、聖書を根拠にするのである。」とあって、そして、聖書だけではだめだとおっしゃっています。そうではない…自分だけで聖書の深い意味を知る、というほど、私たちは思いあがることができません。エティオピアの女王のカンダケの高官が助祭のフィリッポに、この聖書の意味がわかるかと尋ねられて、こう答えました。「だれかが導いてくれなければ、どうしてわかりましょう」…「教えてください」(使徒行録8:31)。そうです。私たちは、誰かが教えてくださらなければ、その聖書の意味の深い意味がわからないのです。

【カトリック教会】
では、いったいどこにおいて、いったい誰に聞けば、イエズス様ご自身の権威と確実性をもって、確かに、キリストの教えを受けることができるでしょうか?イエズス様はわたしたちに何を求めていたのでしょうか。誰に聞けと言ったのでしょうか。イエズス様は私たちのために教会を残してくださいました。これがイエズスの聖心の愛のプレゼントです。

天主は人間となって、全人類にこの世の終わりまでの人々に、永遠の救いの道を教えました。霊魂の救い、これという崇高な事業をするための教え、永遠の至福に至るという崇高な真理、この真理の伝達は一冊の本ではまったくできません。キリストの愛は、私たちに、生きている、目に見える、そして教え導く母親のような組織体を通して、人類を教え導くことを良しとしました。それこそが、最適であると考えました。イエズス様はこの組織体の頭であって、その王です。イエズス様は公生活をはじめるや否や、最初にしたのはこの特別の弟子たちを作るということでした。かれらを使徒と名付けました。この使徒には十二人いますが、そのうちの一人シモン・バルヨナを選び、彼にはペトロという名前を特別につけて頭とします。イエズス様はこう言います。「私はあなたにいう。あなたはペトロである。岩(いわお)である。私はこの岩の上に、私の教会をたてよう。地獄の門もこれに勝てないだろう。私は天の国の鍵をあなたに与えよう。」(マテオ16:18)

この言葉は決定的です。イエズス様は御昇天の時、天に昇られるときには、イスカリオトのユダをのぞいた十一人の弟子たちを集めてかれらにこう言われました。「私には、天と地の一切の権力が与えられている。だからあなたたちは諸国に弟子たちをつくりにいき、聖父と聖子と聖霊との御名によって洗礼をさずけ、私があなたたちに命じたことをすべて守るように教えよ。私は、世の終わりまで、常にあなたたちとともにいる。」(マテオ28:20)と。

【カトリック教会の教導権】
ですから使徒たちはイエズス・キリストのみ教えの通り、これを実践しました。教会は、初代から永遠の救いにたどるのには何が必要であるかを教え続けました。説教し続けました。聖パウロもこういうではないでしょうか。「私はイエズス・キリストを、十字架につけられたイエズス・キリストのみを説教する。」と。

たとえば聖パウロは、聖霊降臨後直後、数千人の異邦人たち、つまりユダヤ教ではない人たちにも、洗礼を授けていました。でもその直後には問題が起こりました。福音には書かれていない問題です。「割礼を受けていないなら救いを受けることができるかできないか」という問題でした。使徒たちはエルサレムに集まって論議をして、話し合い、そして、ペトロが代表に立って言います。「聖霊と私たちは、必要なこと以外はどんな荷も(重荷も)あなたたちに負わせないほうがよいと考えました。」割礼を受ける必要はありません。(使徒行録15:28)

四世紀には アリウスという男が、おかしなことを主張したがために人々の信仰が動揺しました。彼は、キリストは天主の子ではあるが被造物で、永遠からのものではない、と言ったのです。聖書だけでは解決になりませんでした。しかし教会はニケア公会議を開催して、いや、アリウスは間違っていると、イエズス・キリストは天主御父と同じ本質をもつ、ホモウシオスである、と宣言して、アリウスは異端であると排斥されました。

実際、聖書が私たちにあたえられたのも、教会を通してでした。実は、初代、私たちが知っている聖書以外の福音あるいは書簡というものも、出現しました。中には非常に敬虔に満ちて書かれていたので『もしかしたら本物かもしれない』と『聖霊の霊感を受けて書かれたものかもしれない』と思わせるようなものもありました。しかし教会はキリストから与えられた権威をもって、聖霊の導きによって、本物の聖書正真正銘の聖書と偽物の聖書を識別しました。天主の物と人間の物を区別しました。そして新約聖書のリスト――これをカノンと言いますけど――これを発表しました。これは、教皇聖ダマススの指導のもとで行われました。つまり、新約聖書がいったいどれだというのは、教皇とまたカトリックの司教様たちによって人類に与えられたのです。言いかえるとカトリック教会が私たちに聖書というプレゼントを与えたのであって、聖書から教会が生まれたのではないということです。

【今日の福音】
今日の福音は、まさにこれを暗示しています。イエズス様は、二せきの舟があるなかでそのうちのシモン・ペトロの舟にのられます。ペトロを選ぶのです。将来イエズス・キリストがペトロを選んで、自分の教会つまり新約のノエの方舟、これにお入りにならなければ、救われることができないという箱舟を建てることを前兆しました。
そして、シモンの舟に乗って、その中から、人々にお教えになります。言葉でお教えになります。これはイエズス様が「世の終わりまで、私はあなたとともにいる」とシモン・ペトロにいったその約束でなくてなんでしょうか。
また、教えたのちに、シモンに命じて、「沖にのり出して、あみをおろして漁をせよ」といいます。これはイエズス様が「諸国に弟子をつくりにいけ、洗礼をさずけよ、教えよ」という前兆でなくて何でしょうか。
その通りにすると、あみが破れそうになるほどの大漁になります。二艘の舟が沈みそうでした。これは将来ペトロの上にたてられたカトリック教会が全世界に広がって、莫大な数の人々を救うということを暗示しています。聖ペトロの上に立ったイエズス・キリストの教会。まさにこれこそが、人類に与えられた聖心の愛のプレゼントです。聖パウロはこうも言っています。「これは真理の柱であり、基礎であり、生きる天主の教会である」(ティモテオ前3:14)と。

では最後にマリア様にお祈りいたしましょう。マリア様は、天主の御母であり、またキリストの神秘体である教会の母でもあります。全ての人々が、イエズスの聖心が打ち立てた教会に入り、そして安全な救霊の港まで到達することができますように、お祈りいたしましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


イエズス様の聖心の愛の神秘:忘恩の私たちにイエズスはさらなる愛を示した。それがイエズスの聖心の約束

2024年06月21日 | お説教・霊的講話

2024年6月9日(主日)イエズスの至聖なる聖心の荘厳祭 東京での10時30分のミサ説教

トマス小野田圭志神父

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、
一昨日の金曜日は、イエズス様の聖心の大祝日でした。ですから私たちは、今日、聖心の荘厳祭を祝いつつ、聖心の神秘を一緒に黙想いたしましょう。

【天主の愛】
あたかも四週間連続で、毎週のように教会は私たちに対する天主の愛を確認させようとしていたかのようです。なぜかというと、聖霊降臨の主日では、愛である聖霊が私たちに与えられたことを祝いました。またその次の三位一体の主日では、愛である聖三位一体が私たちの霊魂にお住まいである、という神秘を祝いました。そしてその次の御聖体の荘厳祭では、愛の秘蹟である御聖体が私たちに与えられてイエズス様がすっかり全てわたしたちのものになった、ということを祝いました。そして今日は、イエズス様の聖心、愛の炎で燃える聖心を祝っているからです。

天主はまさに愛です。イエズス・キリストは天主として永遠の昔から私たちを愛しておられます。今日の入祭唱はまさにこのことを歌っていました。
四つの場所が特に主の愛を明示しているといわれています。すべてが主の愛を示していますが、この四つが特にそうです。
まず、馬小屋:聖ヨハネは言います、「天主はおん独子をお与えになるほど、この世を愛された。」(ヨハネ3:16)
次は十字架:聖パウロは言います、「キリストが私たちの為に死去されたことによって、天主は私たちへの愛を示された。」(ローマ5:8)
その次に御聖櫃にまします御聖体:聖ヨハネはこうも言います、「イエズスは、…この世にいるご自分の人々を愛し、限りなくかれらに愛をお示しになった。」(ヨハネ13:1)
では第四は何でしょうか。イエズスの聖心です:聖ヨハネはこうも言っています、「私がいないと、あなたたちにはなに一つできない。…父が私を愛しておられるように、私はあなたたちを愛した。私の愛にとどまれ。」(ヨハネ15:5-9)

イエズスの愛の聖心、これは天主の愛がすべて凝縮されて含まれています。この世を創造された愛、わたしたちに御言葉を告げられた啓示の愛、そしてご托身の愛、贖いの御業の愛、聖霊を渡してくださった愛、そして御聖体における愛、そしてわたしたちが天国で永遠に幸せになるその愛、すべてこの聖心に詰まっています。

【私たちの忘恩】
いったいなぜこれほどわたしたちを主は愛してくださるのでしょうか。
私たちにいったいどんないいところがあったんでしょうか。いいえ、天主は、全ての至福をお持ちのお方で、私たちを一切必要としていません。私たちがもっているものは全て主から頂いたもので、私たちが自分のものだといえるのは、罪しかありません。

ではいったいなぜ主はわたしたちをこれほどまで愛してくださるのでしょうか。それはただ単に主があまりにも良い方であり、憐れみの愛を持ちの方であるからです。わたしたちはここにして、主の愛に狂ったような聖心を垣間見ます。そのようなものを見ると私たちはどうしても、愛に、愛を以って返したいと思わざるを得ません。もしも私たちが友達から、愛を受けたら御礼をしたいと思う、それが人情です。もしもそれが友達よりももっと高貴な人から恩人からたくさんの恩を得たとしたら、もっとそう思います、御礼をしたいと。王様から、天皇陛下からもしかしたら、特別の寵愛を得たとしたら、そのような王様のためには特別に献身したい、報いたいと思って当然です。

ところが、残念ながら、天主の愛は、愛されていません。あまりにも愛されていないので、イエズス様は、ついに、フランスのパレ・ル・モニアルというところで、聖マルガリタ・マリア・アラコックという修道女にあらわれて、御自分の聖心を見せてお嘆きになりました。(1673-1675)悲痛を聞いてください。どれほど辛いかということをイエズス様はわたしたちに訴えています。
「この聖心を見よ。この心は人々を愛して何ものをも惜しまなかった。愛を証するためには、いさぎよくすべてを犠牲にして燃えつくした。それなのにこの返礼として、私は、多数の人がこの愛の秘跡――つまり御聖体に対して見せる彼らの不敬と冒瀆、冷淡と軽蔑によって、忘恩以外の何ものをも受けていない。」

もしも私たちが誰かに善を施して親切をしたら、そのかわりになにもなかったとしたら、あるいは忘恩…悪口が返ってきたとしたら、いったい私はどのように思うでしょうか。

【聖心の約束】
イエズス様の聖心は、氷のようにつめたいわたしたちに愛想をつかして、当然でした。「あっそう。ならいいよ。ああおまえ何様だよ。えっ、知らんよ。」と、おっしゃって、当然です。

しかし、イエズス様はこの忘恩の私たちにさらなる愛を示してくださったのです。
それがイエズスの聖心の極み、限りない愛でした。わたしたちをも招いて、この忘恩をわたしと一緒に償ってほしいとおっしゃったのです。もしもそうしたらわたしはおまえに特別の祝福を与えると約束する、それがイエズス様の聖心の約束といわれているものです。これにはたくさんあります。祝福の約束がたとえなかったとしても、当然このような恩をわたしたちは愛するべきです。しかしわたしたちがあまりにも冷淡で忘恩で利己的なので、主はその愛のあまり、約束さえも付けてくださいました。たくさんある約束の中で今日は三つをご紹介します。

●聖心の御影が崇敬される家庭のため
一つは ほんの小さなことなんですけれども、イエズス様の御影が崇敬される家庭のためには特別の約束をされました。聖マリア・マルガリタ・アラコックの言葉を聞いてください。
「主は、御自分が聖心に満たされておられるすべての聖寵の宝を、イエズスの聖心の御影を崇敬するすべての人の心に豊かに注ぐと私に約束されました。この御影が特別の崇敬のために飾られるところはどこでも、ありとあらゆる祝福を呼び下すでしょう。」(I, 244.)また別のところではこうも言っています。
「主はすべての祝福の源ですから、この愛すべき聖心の御影が、愛され、尊ばれるために飾られるすべての場所に、主は祝福を豊かに注ぐでしょう。」(II, 296, 300, 532.)

For Homes in Which His Image is Revered
“He promised me that He will abundantly pour out all the treasures of grace with which He Himself is filled on the hearts of all who revere it (i.e. the image of the Heart of Jesus); wherever this image is displayed for particular honor, it will call down all sorts of blessings.”(I, 244.)
“Since He is the source of all blessings, He will pour them out abundantly upon all places where this image of His lovable Heart is displayed to be loved and honored.”(II, 296, 300, 532.)

●イエズスの聖心の祝日を祝う人々のために
また第二に、イエズス様の聖心の祝日を祝う人々のためにこんな約束をされました。「私は、聖体の祝日の八日後の金曜日が、私の聖心を崇敬するための特別の祝日と指定されることをおまえに求める。その日には、聖体拝領をして、荘厳な行為によって聖体に対して償いをなし、御聖体が祭壇に顕示される間に受ける冒辱(ぼうじょく)をつぐなうためである。私は、このように聖心を崇敬する人々、また聖心を崇敬させる人々に、私の聖心が天主の愛の影響を豊かに広く与えることを約束する。」(II, 103.)
また別のところでは、
「この祝日は、謙遜で誠実な心で、名誉をもって祝うすべての人にとって、救いと永遠の祝福の日である。」(II, 444, 439.)とも仰せられました。

For Those who Celebrate the Feast of the Heart of Jesus
“I ask you that the first Friday after the Octave of Corpus Christi be dedicated to a special feast to honor My Heart.... I promise you, that My Heart will expand so as to pour out abundantly the influence of its divine love on those who pay it this honor and work to promote it.”(II, 103. The promise concerns first all who institute the feast and then those who celebrate it.)
“The day of this feast is a day of salvation and eternal blessing for all who celebrate it with honor, with a humble, sincere heart.”(II, 444, 439.)

●「九つの初金曜日 」
また、最後に、今日の最後は九つの初金曜日の約束です。イエズス様の言葉を引用します。
「私の聖心の憐れみの溢れにおいて、私は、9ヶ月間連続して毎月、初金曜日――つまり月の最初の金曜日――に聖体拝領するすべての人に、最後まで堅忍する恵みを約束する。彼らは私の侮辱・面汚しとして死ぬことはなく、秘跡を受け、私の聖心は臨終の時に彼らの確かな避難所となるだろう。」

For The Practice of the “Nine First Fridays”
“In the abundance of the mercy of My Heart I promise the grace of final perseverance to all those who, during nine consecutive months, will receive Holy Communion on the first Friday of every month; they will not die in My disgrace, but will receive the Sacraments, and My Heart will be a sure shelter for them in their final hour.”

この最後のイエズス様のみ言葉を少し説明します。
最後まで堅忍する恵み、というのはわたしたちが成聖の恩寵の状態で臨終を迎えることができる、つまり天国に行くことができるという約束です。
初金の信心はたったこれだけです。毎月、月の最初の金曜日に連続して9回、聖体拝領を受けることです。これだけを条件にしました。この聖体拝領はイエズス様の聖心を敬い、約束された効果を受けたいという意向を持ってなされれば それで充分です。そしてこの意向は撤回しない限り、九か月間その時その時思い出す必要はなくて、一度そのために九か月間行うという意向を立てればそれで十分とされています。いいかえれば習慣的な意向だけで、十分だということです。そしてこの九か月の連続した聖体拝領というのは、何度でも繰り返すことができます。

【遷善の決心】
では最後に遷善の決心を立てましょう。昔、ローマ帝国は、非常に危機の時がありました。その時に、コンスタンティヌスという軍人に十字架のしるしを見せて、そしてこうそこには書かれていました。
In Hoc Signo Vinces! この印によって勝て!これによって勝利をおさめろ!
彼はローマ皇帝となってキリスト教に自由を与えます。キリスト教は迫害を終えました。

現代、イエズス様は、聖心のしるしをもって勝て!悪魔に勝て!罪に勝て!天国に入れ!と、招いておられます。この聖心の御影(ごえい)を このこれがどれほど愛と尊敬と名誉と崇敬と信頼との対象であるかということを、イエズス様は望まれておられます。この聖心の御影は天主御父の正義の怒りを宥めるに非常に効果があるからです。

では私たちは遷善の決心をして、イエズス様の聖心の御影を家に飾り、そしてこれを愛し、崇敬することにいたしましょう。もしもまだ飾られていない家庭がありましたら、ぜひ、この六月に飾るのはいかがでしょうか。イエズス様がそのような家庭にどれほど大きな恵みをもたらしてくださることでしょうか。

また第二にイエズス様の聖心の祝日は年に一回だけです。この前の金曜日だけです。しかし、初金曜日には、教会はこれと同じミサを随意ミサとして捧げることを許しています。このミサに与ることによってわたしたちは同じ効果を受けることができます。そうすることによって、初金のミサに与ることによって、「救いと永遠の祝福の日」とすることができます。しかも9ヵ月間連続して御聖体拝領をするならば、聖心は永遠の救いをわたしたちに約束さえしてくださっています。

わたしたちが最後の審判の時に、あるいは私審判の時に、主から何と言われるでしょうか。忠実な僕よ、さあこの世の初めからお前たちのために準備された永遠の国に入れ。といわれるのでしょうか。それとも、イエズス様は、お前は私が家に入った時にも足を水で洗ってもくれなかったし、髪を洗ってもくれなかったし、何もしてくれなかった。と、仰るのでしょうか。

マリア様はイエズスの聖心を最も愛されました。汚れなき御心をもって愛されました。ですから最後に、マリア様にイエズスの聖心を愛する恵みを請い求めましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


イエズスの聖心は聖母を御父のつぎにすべての天使たちや人間に勝ってお愛しされた

2024年06月20日 | お説教・霊的講話

2024年6月8日(土)東京 御聖体降福式での黙想

昨日はイエズスの聖心の祝日でした。
愛熱の燃えるかまどである聖心の愛を黙想しましょう。
イエズスの聖心は、マリア様を、御父のつぎに、すべての天使たちや人間に勝って、お愛しされました。
イエズスの聖心は、マリア様のためには、人類のすべてを覆っていた原罪の法則を特別に免除されました。
イエズスの聖心はすべての被造物のなかから聖母の霊魂を選ばれました。マリア様は天主の御母に選ばれました。
イエズス様が御住みになる生ける御聖櫃となるにふさわしいマリア様は、いつもイエズス様への愛に燃えていました。「心を尽くし力を尽くし霊魂を尽くし精神を尽くしすべてを超えて天主を愛する」、この掟を完璧に守ろうと、聖母は生涯これを貫き通しました。
天主の御子の聖心は、マリア様の子どもとなることをお望みになったのみならず、マリア様と一緒に三十年間一緒にご生活されることを望みました。あたかもマリア様のために、地上に天国を運んできたかのようです。
天主の御子は、マリア様の命令に従順に従いました。

イエズスの聖心の愛を見て、聖母はイエズスを愛します。
マリア様は、ご自分が天主から心から愛されていることをよく御存じで、天主の愛を、愛で返答しようとされました。
マリア様の御心に燃える愛の火は、イエズス様の聖心にある燃える愛の火と、まったく一心同体であったのです。
マリア様の御心は、イエズスの聖心の愛を持って、天主御父の栄光と霊魂の救いのために、愛の炎を轟々(ごうごう)と燃やしておられました。

イエズス様の聖心は、わたしたちをも愛しておられます。
マリア様のご胎内には一度だけお孕(やど)りになりましたが、御聖体拝領によってわたしたちの心には何度も本当にいらっしゃろうとされます。
マリア様は一度無原罪の御孕(やど)りによって原罪の汚れなくすべての罪・汚れなく孕(やど)られましたが、わたしたちも洗礼の秘跡で罪と罰を赦されました。しかも告解の秘跡を何度も何度も繰り返そうとされます。罪の赦しを与えようとされます。
マリア様は三十年間イエズス様と生活を共にしましたが、イエズス様は御聖櫃のうちに留まることによって、わたしたちと世の終わりまで、生活を共にされるのです。
マリアさまは、イエズス様の聖心から愛されていることをよく御存じです。すべてを愛によって返そうとします。残念ながら私たちは、愛されていることを知ろうともせず、あるいは知っていてもあまりにも冷淡な心で、それに返答していません。
マリア様は、イエズス様をお愛しするがあまり十字架の下(もと)まで立ち留まりましたが、わたしたちは十字架を避けようとします。
マリア様は、イエズス様をお喜ばせするために罪を一切犯しませんでした、全てに超えて天主をお愛しなさいましたが、残念ながらわたしたちはいつも自分ばかり愛しています………。

しかし、イエズス様は、わたしたちの弱さをよく御存じでしたので、わたしたちにマリア様をくださいました。汚れなき御心をわたしたちにくださいました。
ですからわたしたちの足りないところはマリア様が補ってくださるようにしてくださいました。
イエズス様の聖心の愛に感謝いたしましょう。


イエズスの聖心の嘆きを聞いてください。聖心をお慰めしなければなりません。

2024年06月10日 | お説教・霊的講話

2024年6月7日東京 イエズスの聖心の大祝日のミサ

トマス小野田圭志神父

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、今日はイエズスの至聖なる聖心の祝日です。天主なる主が、その御稜威を愛をもって座したもう玉座のみ前に跪(ひざまず)き礼拝いたしましょう。

イエズス様の聖心は、十七世紀(1673-1675)にフランスのパレ・ル・モニアルという修道院で、聖女マルガリタ・マリア・アラコックに御自分の聖心をお見せになってこう言われました。イエズス様の言葉を引用します。
「この聖心を見よ。この心は人々を愛して何ものをも惜しまず、愛を証するためには、いさぎよく万事を犠牲にして燃えつくした。それなのにこの返礼として、私は、多数の人がこの愛の秘跡――すなわち御聖体に対して見せる彼らの不敬と冒瀆、冷淡と軽蔑によって、忘恩以外の何ものも受けていない。しかも、私がもっとも敏感に感じるのは、私に捧げられた聖職者たちの心が、私をそのように取り扱うことだ。」

イエズス様は言葉を続けてこう仰います。
「だから、私は、御聖体の祝日の八日目の後の金曜日が――つまり今日です――私の聖心を崇敬するための特別の祝日とされることをおまえに求める。その日には、聖体拝領をして、荘厳な行為によって御聖体に対して償いをして、御聖体が祭壇に顕示される間に受ける冒涜をつぐなうためである。私は、このように聖心を崇敬し、また聖心を崇敬させる人々に、私の聖心の恵みが広く与えられることを約束する。」

そこで、教会の望みによって、今日聖心の祝日が制定されました。そして今日、皆さんと一緒にミサの後に御聖体降福式を行いたいと思います。そうすることによって、イエズス様の聖心のお望みの通り、聖心に対してなされる冒涜・冒辱(ぼうじょく)また御聖体に対してなされる忘恩、これを皆さんと一緒に償いたいと思います。

イエズス様は、わたしたちに対する愛を証しするために、証明するために、何も惜しみませんでした。すべてを犠牲にしました。その極みが御聖体の秘跡です。すべてを与えてくださったにもかかわらず、わたしたちはなぜ主に対する感謝をすることができないのでしょうか。
私たちは最少限・最低限を満たすだけでなく、すすんでそれ以上のことをすべきではないでしょうか。すべてを捧げて、すべてを捨てることほど、幸福であることをわたしたちはどうして知ろうとしないのでしょうか。

何故かというと、本当のしあわせというのは、愛する方のために全てを与えて、何ものをも惜しまないところにあるからです。イエズス様はまさにご生涯を通じて、わたしたちを愛するがために、天主御父を愛するがために、ご自分を無とされました。十字架の上においてご自分を極限まで無にされました。そしてご聖体の中においては、まさにパンとなって、ご自分をすべて、御父と、私たちの救霊のために、お捧げになっています。この極みのない限りのない愛に対する感謝として、私たちは当然、感謝と奉献とそして礼拝を尽くして、主の愛に報いようとすることをして、あまりにも当然です。

わたしたちがもしもご聖体の愛と祝福を理解するならばするほど、わたしたちはどうしてもご聖体を讃美したい、御聖体を礼拝したいと、思わざるを得ません。ですからわたしたちはどうしても聖体降福式に与りたい、御聖体をなるべく荘厳に礼拝したいと、思わざるを得ません。それはわたしたちにとってこのうえのない慰めとなります。なぜかというと、こうすることによって、私たちは主に感謝の負債を感謝の義務を果たすことができるようになるからです。

考えても見てください。わたしたちのために何をも惜しまなかった主と、主のために努力や苦しむことを恐れているわたしたち、どれほど大きな違いがあることでしょうか。
イエズス様は、わたしたちにこう訴えます。「多くの人々」が主に忘恩で返礼していると。
イエズス様はいいます、不敬と冒涜、冷淡と軽蔑を受けていると。

「冷淡」というのは、御聖体に関する無関心、愛のなさです。どうでもいいよという態度です。
「軽蔑」というのは、さらにこれよりもひどいことです。御聖体を軽んじることです。御聖体をそんなにありがたがらなくていいんじゃないの、という態度です。
「不敬」というのは、御聖体の前で、礼拝や感謝や賛美することをしないことです。
「冒涜」というのは、さらに御聖体を侵すことです。たとえば手による聖体拝領、あるいは罪の状態での涜聖の聖体拝領などです。

イエズス様は言います。「これらのことは、受難の時に感じたすべての苦しみよりももっと大きな苦しみだ」と。このことを聞いて、私たちはそのまま冷たい心でいることができるでしょうか?
私たちは、不敬のかわりに「敬意」を、冒涜のかわりにこころのこもった「礼拝」を、冷淡の代わりに「熱烈な愛」を、軽蔑の代わりに「賛美」「感謝」をお捧げしたいと思います。
特に新しいミサで主が受けている冒涜を、冷淡を償いましょう。

イエズス様はこうも仰いました。
「しかも、私がもっとも敏感に感じるのは、私に捧げられた聖職者たちの心が、私をそのように取り扱うことだ。」
今日、御聖体降福式で、特に新しいミサで受ける冒涜を償うことにいたしましょう。

【秋田の聖母の要求】
秋田のマリア様の言葉を最後に聞いてください。特に日本にいるわたしたちにマリア様は直々に天から来られてこう訴えられました、「今、御子と共に、御父の御怒りを宥める霊魂を求めております。御父の怒りの手を何とか抑えようとしています。犠牲の霊魂が必要です。祈りと犠牲を捧げて下さい。」
マリア様は涙をこめて訴えます、「先程も申しましたように、御父はこの地上を、ノアの洪水よりも更に恐ろしい罰で罰しようとしています、この世の罪の為に。もしこれ以上人類が罪を犯し続けるならば、罪の赦しが無くなってしまうでしょう。」
「教会の祭壇は荒らされるでしょう。枢機卿と枢機卿は対立し合うでしょう。司教と司教は対立するでしょう。私に聖別された霊魂は失われるでしょう。私を敬う司祭たちは軽蔑されるでしょう。」
いったい何のために何について枢機卿たちは対立するのでしょうか。御聖体をどのように敬うか、聖伝のミサを捧げ続けるか、捧げ続けないか、これではないでしょうか。

21世紀の私たちは、目を覚まさなければなりません。わたしたちはいま危機の時代におります。御聖体を礼拝し、大切にし続けなければなりません。
イエズスの聖心をお慰めしなければなりません。聖心の嘆きを聞いてください。
聖母の涙の訴えを聞いてください。

【遷善の決心】
今日、初金でもあります。イエズスの聖心の初金です。ですからわたしたちは今日遷善の決心を立てましょう。
初金の信心を行って、そして九か月間、月の最初の金曜日にミサに与り、御聖体拝領をし、そして御聖体降福式をして、イエズスの聖心をお慰めする。そして罪を償う。そしてわたしたちのできる最も最高の讃美と感謝をイエズスの聖心にお捧げしよう、という良い決心を立てましょう。マリア様はわたしたちをみてどれほどお喜びになることでしょうか。
今日わたしたちはイエズスの聖心を讃美しつつこの決心をお捧げいたしましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


至聖なるイエズスの聖心の祝日にあたりての連祷【ゲルトルード・フォン・ル・フォール作】

2024年06月06日 | カトリックとは

至聖なるイエズスの聖心の祝日にあたりての連祷
ゲルトルード・フォン・ル・フォール作

御身の声[キリストの神秘体なるカトリック教会の声]は語る。
大連禱を祈るように、私は霊魂の熱情を祈ろう。
私は、讃美の歌声をあげよう。歌ではなく、愛によって。

御身は、聖なる心、天主の聖心、全能の聖心、
御身は、全てのことの、血のような真っ赤な秘義、
愛よ、愛されよ、永遠の愛よ、永遠(とわ)に愛されよ。

凍り付いた世の暗闇のなかの火の炉よ、
愛よ、愛されよ!

世のすべての偽りの明るさをおおう焔の影よ、
愛よ、愛されよ!

世のすべての偽りの安息のうちに燃えさかる赤き印よ、
孤独なる聖心よ、燃えさかる聖心よ、渇きを癒やしがたき聖心よ、
永遠の愛よ、愛されよ!

顔の無い夜々のように深き聖心よ、
愛されよ!
岸辺の無い波浪(なみ)らのように強き聖心よ、
愛されよ!

苦々しさを知らぬ小さな子供たちのようにやさしい聖心よ、
永遠(とわ)に愛されよ!

見えざる者の花壇からの薔薇よ、
謙遜な童貞女のカリスからの薔薇よ、
天と地とが互いに絡み合う花咲く薔薇のしげみよ、
永遠の愛よ、愛されよ!

御身の血潮の流れるマントにある王の聖心よ、
愛よ、愛されよ!

荊棘(いばら)の冠の野蛮なあざけりにおける兄弟愛の聖心よ、
愛よ、愛されよ!

御身の致命傷の不動の飾りをつけた破れた聖心よ、
玉座を追われた聖心よ、裏切られた聖心よ、残酷に殉教せる聖心よ、
愛よ、愛されよ!永遠の愛よ、永遠に愛されよ!

力たけき者たちもその御前では跪きを見出す聖心よ、
私たちは、御身に御身の愛を乞い願う!

こころ冷たき者たちもその御前では涙を見出す聖心よ、
私たちは、御身の愛を乞い願う!

盗賊も殺人者もその御前では赦しを見出す聖心よ、偉大なる聖心よ、
憐れみの聖心よ、栄光の聖心よ、
私たちは、御身の愛を乞い願う!

私たちの歓びの赤き茨よ、私たちの改悛の悲しみの茨よ、
私たち自身の日没の美しき夕映えよ、
私たちは、御身の愛を乞い願う!

その御前では罪も死んだように蒼ざめる緋の衣よ、
私たちは、御身の愛を乞い願う!

病める霊魂らが渇き求める真紅の泉よ、
私たちは、御身の愛を乞い願う!

別れた友らが再会することのできる囁くほどの近さよ、
私たちは、御身の愛を乞い願う!

悲しめる者たちを慰める灯火よ、
迫害され、のけ者にされた者たちの灯台よ、
そこにおいては穏やかな死者たちがまだ息づくことのできる隠された部屋よ、
すべてを知る聖心、すべてを導く聖心、究極の聖心よ、
私たちは、御身の愛を乞い願う!

私たちすべてを御自分へと抱きたもう聖心よ、私たちすべての心の中央を打ち給う聖心よ、私たちすべての傲れる心を砕きたもう聖心よ、
私たちは、御身の愛を乞い願う!

孤独を偉大な民と成し給う聖心よ、
私たちは、御身の愛を乞い願う!

分裂を一致した民族と成し給う聖心よ、
私たちは、御身の愛を乞い願う!

そこにおいて全世界が御身の民となる聖心よ、
私たちは、私たちを御身の愛に奉献し奉る!
あふれて流れる(überströmendes)聖心よ、燃えさかる(überflammendes)聖心よ、たぎりたつ(überbrausendes)聖心よ、
愛よ、愛されよ、永遠の愛よ、永遠(とわ)に愛されよ!

願わくは御身の一日が燃え立たん(anbrenne)ことを、
私たちは、私たちを御身の愛に奉献し奉る!

御身の一日が私たちすべてのこころを燃え立たせん(aufbrenne)ことを、
私たちは、私たちを御身の愛に奉献し奉る!

御身の一日が私たちすべてのこころを御身の聖心のなかへ焼きつくさん(verbrenne)ことを、
私たちは、私たちを御身の愛に奉献し奉る!

力強き聖心よ、遁れがたき聖心よ、すべてを焼き尽くす聖心よ。 - 火よ!火よ!天使たちの翼は燃えている、ケルビムらの剣が燃えている!
天の光らは燃えてる!地の底は燃えている!岩や星たちが燃えている!
すべての被造物の期待が燃えている!人間の頭の暗がりで精神が燃えている!
すべては愛に抱かれた。すべては愛にならねばならない。"聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな"と歌え! セラフィムたちの焔よ!

天にその栄光を授ける聖心よ、
太陽らと天の星々とにその始まりと終りとを授ける聖心よ、
至福の霊魂たちにその至福直観を授ける聖心よ、
世界に秩序を与える聖心よ、世界を征服する聖心よ、御身、全ての心の唯一なる聖心よ、
アーメン。アーメン。御身の永遠の愛の一日(Tag)が到来して燃えさかりますように。


2024年6月5日は、6月の初水曜日(月の初めての水曜日)です 聖ヨゼフ!我らのために祈り給え

2024年06月05日 | カトリック・ニュースなど

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日、2024年6月5日は、勤労者聖ヨゼフの祝日、六月の初水曜日(月の初めての水曜日)です。聖母の汚れなき御心と聖ヨゼフとの取り次ぎを通して、私たちの主の御聖体に対する冒瀆的な取り扱いに対する償いを捧げましょう。また、聖ヨゼフに、東京に聖伝のミサの聖堂が与えられたことを感謝しましょう!

初水曜日ですからいつものように「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想することをご提案します。


聖ヨゼフはこの世で天主イエズス様と浄配なる聖母マリア様を最も良く知り、愛された御方であり、その隠れた徳ゆえに偉大なる御方、イエズス様とマリア様の最大の命の恩人であられました。

また、聖ヨゼフは、この世では、全てを天主の栄光のために、隠れてその生涯をささげられたが故に、天にて聖母の次に最大の栄光をあたえられていらっしゃいます。

聖伝では、水曜日は聖ヨゼフに捧げられた曜日であり、月の最初の水曜日を聖ヨゼフに捧げることで、聖ヨゼフを讃え、その御取次に信頼し、その御徳に倣って、聖ヨゼフを通して、天主イエズス様とマリア様をお愛しすることができますように。

初土曜日の「聖母の汚れ無き御心」への信心にならって、この「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」のどれかを「15分間黙想」することにいたしましょう。

聖ヨゼフの帯の信心については、下記リンクをごらんください。
聖ヨゼフの帯 cingulum Sancti Joseph

聖ヨゼフの御取次ぎにより、聖母の汚れ無き御心とイエズスの至聖なる聖心ヘの愛をますます与えてくださいますように!
聖ヨゼフの御取次ぎにより豊かな祝福がありますように!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖ヨゼフの7つの苦しみと喜び

1 ああいと潔き御母マリアの浄配、栄えある聖ヨゼフよ、御身のいと清き妻を失なわんと心に思い煩いし時の苦しみはいと大いなるものなりき。
されど天使が御託身の玄義を御身に伝えられし時の喜びは、またひとしお大いなりき。この苦しみ、この喜びにより、今も臨終の時も我らの心を潔き良心の喜びと、イエズス、マリアのうちに自我を滅する尊き御身の心を示し、我らを慰め給え。



2 ああいと幸いなる保護者聖ヨゼフよ、御身は人となり給いし御言葉の潔き養父の位にあげられたれども、御身は幼きイエズスがいと貧しき中に生まれ給うを見て大いに悲しみ給いしが、
天使らのたえなる歌声を聴き、その輝ける夜の栄えを見給うや、その悲しみは天的の喜びと変じたり。御身のこの悲しみ、この喜びによりて、我らもまたこの世の歩みを終えたる後、天使らの賛美の歌声を聴き、天的光栄の輝きを受け得んことを願い奉る。



3 ああ御摂理にいと従順なしもべなる、栄えある聖ヨゼフよ、幼きイエズスが割礼にて流されたる尊き御血は御身の心を苦痛もて貫きたれども、
イエズスと命名されるや御身の心は喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らをこの世の悪徳より離れしめ、イエズスのいと尊き御名を心から唱えつつ心満たされてこの世を去るを得しめ給え。



4 ああいと忠誠なる聖ヨゼフよ、御身は救世の玄義の成就に身をもって大いなる役を果たされしが、シメオンの預言によりイエズスとマリアが受け給うべき苦難を予知せられ苦しみ給いたれど、
数限りなき人々の霊魂がこれによって救わるるとの預言によりて、天的喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らがイエズスの功徳と聖母マリアの御取次ぎにより、終わりなき栄えを得てよみがえる人々のうちに数えられる御恵みをとりなし給わんことを願い奉る。



5 ああ人となり給いし天主の御子のいとも注意深き保護者なる栄えある聖ヨゼフよ、御身はいと高きものの御子を養い給い、これに仕えるために多くの辛酸をなめられたり。わけてもそのエジプトへの逃避はいと苦しきものなりしが、
御身が常に天主御自身と共におられし喜び、またエジプト人らの諸々の偶像が地に落とされしを目の当たりに見られし時の安心はいと大いなりき。この御身の辛酸と喜びとによりて、我らが地獄的暴君より免れて、わけても危険なる機会より逃避する事を得しめ、我らの心のうちに地上的執着が落とされ、ひたすらイエズスとマリアに仕え奉りつつ日々の生活を送り、この世を幸いに終わる事を得しめ給え。



6 ああこの地上の天使なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の心を天の王に全く捧げられたり。御身がエジプトより戻られる喜びは、アルケラウスに対する憂慮にて不安の闇となりしが、
天使は再び御身にイエズスとマリアと共にナザレトにて楽しく住み給う事を約束せられたり。御身のこの苦しみ、この喜びによりて、我らの心を深い恐怖より免れしめ、潔き良心の平和を楽しみ、イエズスとマリアと共につつがなく世を送り、臨終においてはイエズスとマリアの御手に我らの霊魂を捧ぐる事を得しめ給え。



7 ああ全ての徳の鑑なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の誤りにあらずして幼きイエズスを見失い、三日の間苦しみもて捜し求められたり。
されど神殿の中に博士らに取り巻かれたるイエズスを見出されし時の喜びはいかに大いなりや。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らが大罪を犯しイエズスを失いたりせば、たゆまず彼を捜し求め、遂に再び巡り会えるよう、わけても臨終の時に彼と共にありて天国に至り、御身と共に天主の終わりなき御恵みを賛美し奉るようとりなし給わんことを心から願い奉る。



交唱 イエズスが教えをはじめたりしは三十歳ごろなり、人々、イエズスをヨゼフの子なりと思いたり。(ルカ3:23)

V 聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え。
R キリストの御約束に我らをかなわしめ給え。

祈願 天主、御身のかしこき御摂理のうちに祝せられたヨゼフを至聖なるマリアの浄配に選び給いたれば、願わくはこの世の我らの保護者として崇め奉る彼が、我らの天のとりなし手となり給わんことを。 アーメン。

参考リンク
サンタフェ~奇跡の階段 コラレス通り1丁目 この記事に昔の階段の様子の写真があります。

聖ヨゼフの階段(アメリカのニューメキシコ、サンタ・フェにあるロレット・チャペル)



英語ではこちら。
THE SEVEN DOLOURS AND SEVEN JOYS.

i. St. Joseph, pure spouse of most holy Mary, the trouble and anguish of thy heart were great, when, being in sore perplexity, thou wast minded to put away thy stainless spouse: but this joy was inexpressible when the archangel revealed to thee the high mystery of the Incarnation.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee comfort our souls now and in their last pains with the consolation of a well-spent life, and a holy death like unto thine own, with Jesus and Mary at our side.
Pater, Ave, and Gloria.

ii. St. Joseph, Blessed Patriarch, chosen to the office of Father of the Word made Man, the pain was keen that thou didst feel when thou didst see the Infant Jesus born in abject poverty; but thy pain was changed into heavenly joy when thou didst hear the harmony of angel-choirs, and behold the glory of that night when Jesus was born.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee obtain for us, that, when the journey of our life is ended, we too may pass to that blessed land where we shall hear the angel-chants, and rejoice in the bright light of heavenly glory.
Pater, Ave, and Gloria.

iii. St. Joseph, who wast ever most obedient in executing the law of God, thy heart was pierced with pain when the Precious Blood of the Infant Saviour was shed at His Circumcision; but with the Name of Jesus new life and heavenly joy returned to thee.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, being freed in our life from every vice, we too may cheerfully die, with the sweet Name of Jesus in our hearts and on our lips.
Pater, Ave, and Gloria.

iv. St. Joseph, faithful Saint, who wast admitted to take part in the redemption of man; the prophecy of Simeon foretelling the sufferings of Jesus and Mary caused thee a pang like that of death; but at the same time his prediction of the salvation and glorious resurrection of innumerable souls filled thee with a blessed joy.
By this thy sorrow and thy joy, help us with thy prayers to be of the number of those who, by the merits of Jesus and his Virgin Mother, shall be partakers of the resurrection to glory.
Pater, Ave, and Gloria.

v. St. Joseph, watchful Guardian, friend of the Incarnate Son of God, truly thou didst greatly toil to nurture and to serve the Son of the Most High, especially in the flight thou madest with Him unto Egypt; yet didst thou rejoice to have God Himself always with thee, and to see the overthrow of the idols of Egypt.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us grace to keep far out of the reach of the enemy of our souls, by quitting all dangerous occasions, that so no idol of earthly affection may any longer occupy a place in our hearts, but that, being entirely devoted to the service of Jesus and Mary, we may live and die for them alone.
Pater, Ave, and Gloria.

vi. St. Joseph, angel on earth, who didst so wonder to see the King of heaven obedient to thy bidding, the consolation thou hadst at His return was disturbed by the fear of Archelaus, but nevertheless, being reassured by the angel, thou didst go back and dwell happily at Nazareth, in the company of Jesus and of Mary.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, having our hearts freed from idle fears, we may enjoy the peace of a tranquil conscience, dwelling safely with Jesus and Mary, and dying at last between them.
Pater, Ave, and Gloria.

vii. St. Joseph, example of all holy living, when, though without blame, thou didst lose Jesus, the Holy Child, thou didst search for Him for three long days in great sorrow, until with joy unspeakable thou didst find him, who was as thy life to thee, amidst the doctors in this Temple.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee with our whole heart so to interpose always in our behalf, that we may never lose Jesus by mortal sin; and if (which God avert) we are at any time so wretched as to do so, that we pray thee to aid us to seek Him with such ceaseless sorrow until we find Him, particularly in the hour of our death, that we may pass from this life to enjoy Him for ever in heaven, there to sing with thee His divine mercies without end.
Pater, Ave, and Gloria.

Ant. Jesus Himself was about thirty years old, being, as was supposed, the son of Joseph.

V. Pray for us, holy Joseph.
R. That we may be made worthy of the promises of Christ.

Let us pray.
O God, who in Thine ineffable providence didst vouchsafe to choose blessed Joseph to be the husband of Thy most holy Mother; grant, we beseech Thee, that we may have him for our intercessor in heaven, whom on earth we venerate as our holy protector. Who livest and reignest world without end. Amen.


「愛である」天主は人々から愛されていません。「愛である」天主をまことに愛しましょう

2024年06月05日 | お説教・霊的講話

聖霊降臨後第二の主日 ― ご聖体にまします天主への愛

ワリエ神父 2024年6月2日

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

親愛なる兄弟の皆さま、

アッシジの聖フランシスコは、イエズスがこの世のために命を捧げられたその愛を体験できるようにと天主に願いました。聖フランシスコが十字架刑について観想したとき、「愛が愛されていない」と嘆いて泣いたものでした。13世紀、アッシジの聖フランシスコはカトリック信者に囲まれていました。今日も同様に、「愛である」天主は、カトリック信者にもカトリック信者でない人にも愛されていません。

そうです、私たちはカトリック信者として、ご聖体への信仰を持っています。言い換えれば、私たちは、ミサのいけにえの間、私たちの主がご聖体に本当に現存しておられ、そして聖体拝領のときに私たちは主をお受けしている、と信じています。私たちの主が「これは私の体である」、また「私は命のパンである。私が世の命のために与えるパンは、私の肉である。私の肉はまことの食べ物であり、私の血はまことの飲み物である」(ヨハネ6章)と断言して言われたことを、私たちは信じています。

異教徒だけでなくプロテスタントも、私たちの主が本当に現存しておられることを信じていません。ですから、ご聖体の神秘に対する私たちの信仰は良いものであり、称賛に値するものであるのは確かです。

しかし、それで十分なのでしょうか。なぜ私たちは、私たちの主に対してしばしば冷淡なのでしょうか。私たちは、主に対する尊敬を欠いていないかもしれませんが、主が私たちに求めておられるのは尊敬だけでしょうか、それとも尊敬と愛の両方でしょうか。私たちは、ただ主のしもべにすぎないのでしょうか、それとも主のしもべであると同時に主が愛される子どもなのでしょうか。「愛が愛されていない」。私たちは、少し、(祭壇の上にあるような)聖人の遺物を扱うように、主を扱っているのです。聖遺物とはラテン語でいわゆる「遺物」を意味し、通常は聖人の衣服か骨です。私たちは聖遺物を敬い、接吻したり、香をたいたりします。聖遺物は私たちのために恩寵や奇跡さえ、もたらしてくれるかもしれませんが、聖人たちは天にいるのであって、ここ地上にはいないという意味で、言ってみれば、これらは死んだもの、あるいは、静物です。ご聖体は単なる聖遺物でしょうか。そうではありません! 私たちの主は生きておられ、私たちの間に住んでおられます! 私たちの主は、二千年前にパレスチナにおられ、今天におられるのと同じように、祭壇の上に存在しておられます。主がこの愛の秘跡をおつくりになったのは、「私たちを孤児(みなしご)にしないため」ばかりではなく、最後の晩餐での聖ヨハネのように、私たちが主の胸に憩うことができるようにするためでした。主は、私たちが「途中で倒れること」を望まない良き父のようなお方であり、そのため主は私たちに「日用の糧」を与えてくださるのです。

私たちはこのことについて真剣に考え、黙想することがあるでしょうか。私たちは天主を愛することに時間を費やしているでしょうか。まことに愛すべき天主を…。それとも、私たちの宗教は単なる形だけのものなのでしょうか。「今日は主日だ。私はミサに行く必要がある。そうしたら、するべきことを一つ終えることができる。完了だ!」

親愛なる兄弟の皆さま、ご聖体は、何かではなく何者かなのです。

ご聖体の祝日を機会に、私たちの聖体拝領の質を高めましょう。私たちの天主である「愛」と親密になるその瞬間のために、より良い準備をしましょう。

「愛である」天主をまことに愛しましょう。アーメン。


聖体行列とは、御聖体が本当にイエズス・キリストの御体であることについての論理的な結論

2024年06月04日 | お説教・霊的講話

2024年6月2日 東京 10時30分のミサ 説教

トマス小野田神父

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、今日は聖体の荘厳祭を祝っています。
先週の木曜日は、御聖体の秘跡を祝う祝日でした。これは十三世紀に制定されて、この祝日のミサそのテキスト聖務日課のテキストは、聖トマス・アクィナスによってつくられました。特にさきほど歌われた続誦というのは内容が非常に深くとても美しいものです。そこではこう歌っていました。「おまえの出来るかぎり、それだけ大胆になれ。全ての賛美に優るお方であるがゆえに、単なる賞賛では足りない。」
そこで、聖体の秘跡を祝う祝日が制定されて、祝われてからすぐに御聖体の祝日には聖体行列を行うことが教会の古くからの聖なる習慣となっています。ですから今日は、一緒に聖体行列について黙想いたしましょう。

【典礼としての行列】
最初に典礼としての行列を垣間見ます。
旧約というのは、新約という本物を予告する影にすぎないものでした。旧約時代には、御聖体を予告するいろいろな前兆がありました。たとえばアブラハムが屠ろうとした自分の子どもイザク、あるいは大司祭メルキセデクの捧げたパンとブドウ酒、あるいは過ぎ越しの小羊、あるいは天からふったマンナ、などです。
行列についていえば、旧約時代から特にエルサレムの神殿では典礼による行列がありました。
イエズスさまが枝の主日にエルサレムに入城したときの行列も、典礼によって世界中に行われるようになりました。司祭がミサを始める時に入堂するときも、もともとは典礼による行列でした。
行列というのは、私たちが天の国を目指して歩む旅人であるということを示しています。これは旧約時代にモーゼが砂漠を聖なる土地…約束の土地まで歩いてさまよったことに前兆されています。
ですから聖トマス・アクィナスは今日の続誦ではこう歌っています。「見よ、天使達のパンを。旅人の糧となったパンを。これは正に子どもたちのパンであり、犬へ投げやってはならない。」

【聖体はイエズス・キリストの御体】
まさに天主の子どもたちの食するパン、なぜかといいますと、御聖体は三位一体の第二のペルソナ、天主の御一人子ご自身だからです。イエズスさまは、はっきりと予告されました。今日の福音にそう書いています。その予告がしるされています。「私の肉はまことの食物(たべもの)であり、私の血はまことの飲み物である。私の肉を食べ、私の血をのむ人は、私におり、私もまたその人のうちにいる。私を食べる人も、私によって生きる。天からくだったパン、これは、先祖が食べてなお死んだそのようなものではない。このパンを食べる人は永遠に生きる」と。

この御聖体の予告を聞いた時、人々の態度は二つに一つでした。光を拒否するかあるいはこれを信じるかです。光を拒否した人は、立ち去りました。主は、そのときに、「ああ、私が言ったのはたとえだ。だから、象徴だ。」とは言いませんでした。そうして人々を引き留めようとはしませんでした。言い換えると、人々が、イエズス様がどのようにしてご自分の血と肉を与えるのかということは正確に理解したわけではなかったのですが、たとえ人々が人食い人種の宴会でもやるんじゃないかと思ったかもしれませんが、イエズス様は、けっして取り消しはしませんでした。一歩も譲ろうとはしませんでした。
最後の晩餐のときには、つまり最初のミサ聖祭で、使徒たちは御聖体を制定するのを見て、イエズス様がかつて言われた命のパンの意味をはっきり理解しました。聖変化の言葉によって、パンがほんとうにキリストの体となって、ブドウ酒がキリストの御血となるのだ、と理解しました。

聖パウロははっきり言っています。「私たちが祝する祝聖の杯は、キリストのおん血にあずかることではないか。私たちが裂くパンは、キリストのおん体にあずかることではないか。」(コリント前10:16)
今日の書簡にもこうあります。「ふさわしい心を持たずに、主のパンを食べ、その杯を飲む者は、主のおん体とおん血とを犯す。」と。

一世紀から教会の初代から六世紀の間だけでも、数えても、少なくとも63人の教父たちが、御聖体はまさにイエズス・キリストのほんとうの体であると断言しています。63人の名前をすべて挙げるのは時間が足りないのですが、例をあげれば、一世紀にはアンティオキアの聖イグナチオ、二世紀には殉教者聖ユスティヌス、三世紀にはオリゲネス、四世紀にはエルサレムの聖チリロ、五世紀には聖アウグスチヌス、などなどがいます。

プロテスタントの聖書の自由解釈というものが生まれるまで1500年のあいだ、教会は明確に御聖体におけるイエズス・キリストの現存を現実の存在を、その通りに理解し続け信じ続けてきました。世界はそれに対する疑いさえも聞いたことはありません。

【なぜ御聖体が制定されたのか】
なぜ御聖体が制定されたのでしょうか。聖トマス・アクィナスはこの祝日の聖体の祝日に唱えられる聖務日課のなかでこう言っています。御托身の目的は、人間天主が、つまり、天主が人間となったことの目的は、私たち人間を天主のするようにすることだ、と。聖トマス・アクィナスの言葉を引用します。
「天主の御一人子は、私たちがご自分の天主の本性の参与者となることを望んで、私たちの人間の本性を受け給うた。それは天主が人となって、人々が天主となるためである。」
【Immensa divinae largitatis beneficia exhibita populo Christiano inaestimabilem ei conferunt dignitatem. Neque enim est aut fuit aliquando tam grandis natio quae habeat deos appropinquantes sibi sicut adest nobis Deus noster. Unigenitus siquidem Dei filius, suae divinitatis volens nos esse participes, nostram naturam assumpsit ut homines deos faceret factus homo. Et hoc insuper quod de nostro assumpsit, totum nobis contulit ad salutem. Corpus namque suum pro nostra reconciliatione in ara crucis hostiam obtulit Deo patri, sanguinem suum fudit in pretium simul et lavacrum, ut redempti a miserabili servitute a peccatis omnibus mundaremur.】

天主の命を受ける、私たちの想像を絶する至福の命を受ける…このためでした。そのためにイエズス様は、ご自分の体で私たちを養おうとすることを望まれたのです。「まことに、私はいう。人の子の肉を食べずに、その血をのまなければ、あなたたちの中に命がない。私の肉を食べ、私の血をのむ者は永遠の命を有し、終りの日にその人々を私は復活させる。…このパンを食べる人は永遠に生きる。」
これがイエズス様のご計画です。

【聖体行列】
聖体行列に話を戻すと、聖体行列というのは、御聖体が本当にイエズス・キリストの御体であることについての論理的な結論です。プロテスタントの人々が「ああ、それはむずかしい話だ、誰がそんな話に耳をかせようか」と、昔イエズス様の聖体の予告のことを聞いたユダヤ人たちと同じようなことを言いだしたとき、パンはイエズス様の体の象徴だ、譬えだ、パンというものの意味が変わるのだ、などと言い出したとき、カトリック教会はノーと言いました。違う。そうじゃない。イエズス・キリストの本当の体だ。トリエント公会議、第13総会で1551年10月11日に次のように宣言しました。
「聖なる公教会は、次のように宣言する。この崇高で尊敬すべき聖体の秘跡が毎年定められたた祝日においてつまり御聖体の祝日において、特別の崇敬をもって荘厳に祝われる習慣、つまり、御聖体がうやうやしくかつ名誉ある仕方で道や公けの場所を行列で奉持される習慣は、極めて敬虔で宗教的に天主の教会に導入されたのである。全てのキリスト者たちが特別の方法で、普通のやり方ではないやり方で、彼らの心が救い主であり贖い主に対して、主が死に勝利し凱旋したことが明らかに分かる、言葉で言い尽くせない天主の恵みについて感謝していることを、そしてそれに記憶していることを証しするために聖なる日としてこの記念日を設けることは極めて合理的である。…」

もしも聖体拝領でイエズス様は、王として、私たちの心にわたしたちを祝福されるためにいらっしゃるとしたら、御聖体行列とは、イエズス様が天主として、私たちの住んでいる街を共同体を、社会を、祝福して、恵みで満たされるために、歩まれる、行幸される、巡幸行列されるということなのです。たとえこの行列を見て何も分からない人がいたとしても、主は必ずお恵みをくださいます。

ルルドで病気の人が癒されるのも、非常に多くの間、聖体行列の間、聖体の祝福を受けたときです。

【日本と御聖体】
私たちの祖国では、キリシタンの時代から特に盛んな信心が二つありました。それは御聖体への信心とマリア様への信心でした。
日本で最古のカトリックの宗教画は、マリア様と御聖体への信仰を表す「ご聖体の連祷と黙想の図」というものです。これは今でも現存しています。そこには「至聖なる御聖体は賛美せられさせ給え」と言う言葉があります。それは、キリシタンたちの合言葉でもありました。
1627年に雲仙の拷問で熱湯の地獄に雲仙の地獄に突き落とされて殉教していった16人がいます。みな最後の言葉は「至聖なる御聖体は賛美せられさせ給え」でした。
国の重要文化財「天草四郎陣中旗」――これは十字軍の旗や、聖ジャンヌ・ダルクの旗とともに世界三大聖旗、聖なる旗と言われていますが――これは、「ご聖体の組」という御聖体の信心会の旗でした。ここにも同じ合言葉が書かれています。「至聖なる御聖体は賛美せられさせ給え!」

【遷善の決心】
では最後にわたしたちは遷善の決心を立てましょう。
残念ながら新しいミサによって、カトリックの教会がいつもやり続けてきた御聖体に対する信心、そして大和魂が大切にしてきた御聖体に対する信心が、非常に軽視され、御聖体が粗末に扱われるようになってしまいました。特に手による立ったままの聖体拝領によって、人々の間には無関心冷淡が広がり、イエズス様の御聖体に対して愛の秘跡に対して忘恩と冒涜でお返ししているかのようです。今残念ながら、イエズス様は多くの場所で、無視と嘲り不信仰を受けています。ですから、すくなくとも私たちは、今日、イエズス様の愛に愛で応えて、御聖体を礼拝いたしましょう。

私たちの先祖がいつも口ずさんでいたように、「至聖なる御聖体は賛美せられさせ給え!」といつも口ずさむことができますように。

最後にマリア様にお祈りいたしましょう。マリア様こそイエズスさまを最初に御胎内に宿された方、わたしたちもマリア様のように、イエズス様を礼拝してそして賛美し続けることができますように。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


召命のための母たちの祈り:イタリアのル(Lu)村の母親たちの祈り

2024年06月03日 | カトリック・ニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

来る6月21日(金曜日)アメリカのバージニア州にある聖ピオ十世会の神学校で司祭叙階式があります。そこで聖ピオ十世会の最初の韓国人司祭が誕生する予定です。お祈りください!

日本にも多くの聖なる司祭・修道者の召命が与えられますように!そこで、召命を求める母親たちの祈り、「召命のための母たちの祈り」をご紹介します。これはイタリアのル(Lu)という村の母親たちが祈ったもので、これにより4000人ほどの寒村から50年の間に500名以上の召命が与えられました。

召命のための母たちの祈り

天主よ、わが子の一人を司祭にならしめ給え! 我は良きキリスト者として生き、敬虔と徳においてわが子らを育てることを望む。そは御身に聖なる司祭を捧げる恵みを賜らんがためなり。
主よ、我らを救い給え。我らは今や滅びつつあるなり。教会を根底から揺れ動かす前代未聞の嵐の中に我らはいるなり。世俗の精神は我らの家庭にまで侵入し、わが子らを惑わすなり。わが天主なる救い主よ、我らは、以前にもいや増して、多くの聖なる修道者と司祭の召命を必要とす。
わが天主よ、洗礼の恵みによりて、御身はわが子ら全てを御身の愛子となし給えり。それゆえ、我は御身に信頼し、敢えて乞い願い奉る。願わくは、わが子らのうちから、良き堅固な修道者と司祭の召命を呼び起こさしめ給え。
〔我は、イエズスの聖心に適うこの意向で、この御ミサと聖体拝領の実りを捧げ奉る。〕
わが天主よ、我については、聖寵の御助けによりて、キリスト教的母の模範となるを望む。ことにわが子らを育てるにあたり、敬虔と心の純真、精神の従順と素直な喜び、忍耐強い努力と霊魂に対する熱心、世俗の精神からの離脱において、教育せんと心を配り奉る。
ああ、全ての聖寵の仲介者なる聖マリア、教会の母よ。天主なる御子に我らのために取り次ぎ給え。アーメン。

    • 毎月第一主日の御ミサで、この意向とともにご聖体を受くること。
    • 御ミサの奉献のとき、あるいは御ミサの後に、母親が自己を奉献すること。


【信心について】
イタリア北部のルーという小さな村に4000人が住んでいた。その村の家族には、平均して7人から10人の子供がいた。1919年から1929年にかけて、出生数が死亡数を上回った。1881年、ルーの母親たちは、毎月第一主日に非常に具体的な目的のために聖体拝領を捧げることを決めた。その目的は彼女たちが唱えた祈りの中で完璧に表現されている:

「天主よ、わが子の一人を司祭にならしめ給え! 我は良きキリスト者として生き、敬虔と徳においてわが子らを育てることを望む。そは御身に聖なる司祭を捧げる恵みを賜らんがためなり。」

これがルーの女性たちの祈りの方法であった。祈りは短いが非常に効果的であったため、その教区では数多くの司祭召命があった。50年間で、この小さな地域には500名の司祭と修道者・修道女が集まった。50年間、ルーでは毎年初ミサという花が咲き誇ったが、近隣の村ではそのような花は一輪も出なかった。実に祝福に満ちた幸せな教区である! 母親が司祭を求める祈りには、これほどの力があるのだ。天主は、5月の花のように召命を開花させる母たちの祈りを待っておられる。

教会の危機は何よりも司祭職の危機である。あなたが聖なる教会の勝利を望んでいるのであれば、あなたの家族のうちから聖なる司祭と修道者の召命があるように毎月第一主日の聖体拝領を捧げるのが良い。
それを実現させる方法として、教会は以下のことを提案する。
    • 「ルーの女性たち」の祈りを唱える(「天主よ、わが子の一人を司祭にならしめ給え![...]」)。
    • 「主よ、我らを救い給え。我らは今や滅びつつあるなり[…]」の祈りを唱える。
    • 御ミサの奉献の間または御ミサ後に、祭壇の元であるいは自分がいる場所で(その場の状況に合わせて)自己を奉献する。

(出典:FSSPXサイト:Porte Latine, « Seigneur, donnez-nous des prêtres ! Prières des mamans pour les vocations », URL : https://laportelatine.org/spiritualite/prieres-et-devotions/seigneur-donnez-nous-des-pretres-appel-aux-mamans-et-aux-grand-meres-en-faveur-du-sacerdoce-catholique


2024年6月から11月までの大阪での聖伝のミサの予定

2024年06月03日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

大阪での聖伝のミサの予定です。

日付     曜日  祝日                        ミサの時間

2024/06/09 聖霊降臨後第3主日(2級)緑 18:00
2024/06/10 寡婦聖マルガリタ女王(3級祝日)白 6:30
2024/06/16 聖霊降臨後第4主日(2級)緑 18:00
2024/06/17 証聖者司教聖グレゴリオ・バルバディコ(3級祝日)白 6:30
2024/06/23 聖霊降臨後第5主日(2級)緑 18:00
2024/06/24 洗者聖ヨハネの誕生(1級祝日)白 6:30
2024/06/28 使徒聖ペトロとパウロの前日(2級)紫 18:30
2024/06/29 使徒聖ペトロとパウロ(1級祝日)赤 10:30
2024/06/30 聖霊降臨後第6主日(2級)緑 10:30
2024/07/07 聖霊降臨後第7主日(2級)緑 18:00
2024/07/12 大修院長聖ヨハネ・グアルベルト(3級祝日)白 18:30
2024/07/13 聖母の土曜日(4級)白 10:30
2024/07/14 聖霊降臨後第8主日(2級)緑 10:30
2024/07/19 証聖者聖ヴィンチェンチオ・ア・パウロ(3級祝日)白 17:30, 18:30
2024/07/20 証聖者聖ヒエロニモ・エミリアノ(3級祝日)白 8:30, 10:30
2024/07/21 聖霊降臨後第9主日(2級)緑 8:30, 10:30
2024/07/26 童貞聖マリアの御母聖アンナ(2級祝日)白 18:30
2024/07/27 聖母の土曜日(4級)白 10:30
2024/07/28 聖霊降臨後第10主日(2級)緑 10:30
2024/08/02 教会博士証聖者司教聖アルフォンソ・デ・リグオリ(3級祝日)白 18:30
2024/08/03 聖母の土曜日(4級)白 10:30
2024/08/04 聖霊降臨後第11主日(2級)緑 9:00
2024/08/11 聖霊降臨後第12主日(2級)緑 18:00
2024/08/12 童貞聖クララ(3級祝日)白 10:30
2024/08/18 聖霊降臨後第13主日(2級)緑 18:00
2024/08/19 証聖者聖ヨハネ・ユード(3級祝日)白 6:00
2024/08/23 証聖者聖フィリッポ・ベニチオ(3級祝日)白 18:30
2024/08/24 使徒聖バルトロメオ(2級祝日)赤 10:30
2024/08/25 聖霊降臨後第14主日(2級)緑 18:30
2024/08/30 童貞リマの聖ローザ(3級祝日)白 18:30
2024/08/31 証聖者聖ライムンド・ノンナート(3級祝日)白 10:30
2024/09/01 聖霊降臨後第15主日(2級)緑 10:30
2024/09/06 聖霊降臨後の平日(4級)緑 18:30
2024/09/07 聖母の土曜日(4級)白 10:30
2024/09/08 聖霊降臨後第16主日(2級)緑 10:30
2024/09/15 聖霊降臨後第17主日(2級)緑 18:00
2024/09/16 殉教者教皇聖コルネリオ、殉教者司教聖チプリアノ(3級祝日)赤 10:30
2024/09/20 9月の四季の斎日 金曜日(2級)紫 18:30
2024/09/21 使徒福音史家聖マテオ(2級祝日)赤 10:30
2024/09/22 聖霊降臨後第18主日(2級)緑 10:30
2024/09/23 殉教者教皇聖リノ(3級祝日)赤 8:30
2024/09/27 殉教者聖コスマとダミアノ(3級祝日)赤 18:30
2024/09/28 殉教者聖ウェンチェスラオ王(3級祝日)赤 10:30
2024/09/29 大天使聖ミカエル(1級祝日)白 10:30
2024/10/04 証聖者聖フランシスコ(3級祝日)白 18:30
2024/10/05 聖母の土曜日(4級)白 10:30
2024/10/06 聖霊降臨後第20主日(2級)緑 10:30
2024/10/13 聖霊降臨後第21主日(2級)緑 18:30
2024/10/14 殉教者教皇聖カリスト1世(3級祝日)赤 8:30
2024/10/18 福音史家聖ルカ(2級祝日)赤 18:30
2024/10/19 証聖者アルカンタラの聖ペトロ(3級祝日)白 10:30
2024/10/20 聖霊降臨後第22主日(2級)緑 10:30
2024/10/27 王たるキリストの祝日(1級祝日)白 18:30
2024/10/28 使徒聖シモンとユダ(2級祝日)赤 6:30
2024/11/01 諸聖人の祝日(1級祝日)白 18:30
2024/11/02 全ての死せる信徒の記念(1級)黒 10:30
2024/11/03 聖霊降臨後第24主日(2級)緑(御公現後第4主日) 10:30
2024/11/10 聖霊降臨後第25主日(2級)緑(御公現後第5主日) 18:30
2024/11/15 教会博士証聖者司教大聖アルベルト(3級祝日)白 18:30
2024/11/16 童貞聖ジェルトルード(3級祝日)白 10:30
2024/11/17 聖霊降臨後第26主日(2級)緑(御公現後第6主日) 10:30
2024/11/24 聖霊降臨後第27主日(2級)緑(聖霊降臨後第24主日) 18:30
2024/11/25 殉教者童貞聖カタリナ(3級祝日)赤 6:00
2024/11/29 聖霊降臨後の平日(4級)緑 18:30
2024/11/30 使徒聖アンドレア(2級祝日)赤 10:30
2024/12/01 待降節第1主日(1級)紫 10:30
2024/12/08 聖母マリアの無原罪の御宿り(1級祝日)白 18:30
2024/12/09 待降節の平日(3級)紫 6:00
2024/12/13 殉教者童貞聖ルチア(3級祝日)赤 18:30
2024/12/14 待降節の平日(3級)紫 10:30
2024/12/15 待降節第3主日(1級)バラ色(或いは紫) 10:30


今日は御聖体の祝日の荘厳祭を祝いました!

2024年06月02日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日は御聖体の祝日の荘厳祭を祝いました。大宮と大阪と札幌では聖伝のミサが捧げられました。

大宮では、聖体行列の間だけ雨がピタリと止み、典礼に従ってとても荘厳に聖体行列を行うことができました。私たちの主イエズス・キリストが私たちの聖堂の周りを祝福して、超自然の恵みという雨を多く降らしてくださったことを確信しております。

聖体行列を含めて御聖体の祝日の荘厳祭を準備し、うまくいくように協力してくださった全ての方々に心から感謝します。特に侍者の方々、聖歌隊の方々、香部屋係の方、カテキスタの方々、YouTubeライブのためにプロのような撮影を行って下さる方々、交通整理を行ってくださった警察官の方々にお礼申し上げます。

聖ピオ十世会日本のYouTubeチャンネル「SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本」は、さまざまの方々のご協力を得て画質や音声がますます良いものとなっています。愛する兄弟姉妹の皆様も是非とも登録をなさって見過ごしのないようになさってください。
https://www.youtube.com/@sspxjapan3916

来年の大宮での御聖体の荘厳祭には、パリのサン・ニコラ・ドュ・シャルドネ教会のような聖体行列になると良いなと夢みています。

次の金曜日はイエズスの至聖なる聖心の祝日です。大宮の聖堂では午後6時から聖伝のミサが捧げられ、ミサの直後に聖体降福式もあります。愛する兄弟姉妹の皆様をお招きいたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】