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第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 『信教の自由に関する宣言』かクァンタ・クラか?

2007年07月19日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

■ 『信教の自由に関する宣言』か、それともクァンタ・クラか?

 公会議宣言『信教の自由に関する宣言』と、19世紀の諸教皇の教皇としての通常教権との対立は、教皇福者ピオ九世の回勅『クヮンタ・クラ』に関するかぎりにおいて、ことさら明白である。最後の4つの疑問 を裏付けるために、福者ピオ九世回勅『クヮンタ・クラ』で排斥されている三つの命題と公会議宣言『信教の自由に関する宣言』においておしえられている三つのこれに対応する命題とを、両者の論理的含意をも含めて検討してみたいと思う。

* * *


(A)- 福者ピオ九世回勅『クヮンタ・クラ』
「市民社会にとって最良の状態とは、カトリック宗教を侵す者たちを、公共の平和がそれを必要とする場合を除き、法制に基づく刑罰によって抑圧するいかなる義務も、世俗権力に対して認められていないことである」

(A’)- 公会議宣言『信教の自由に関する宣言』
「宗教問題において、何人も、自らの確信に反して行動するよう強制されることなく、また私的あるいは公的に、単独にあるいは団体の一員として、正しい範囲内で自らの確信にしたがって行動するのを妨げられない」

● (A)と(A’)の比較
 「正しい範囲」の問題については後ほど検討することとして、当座のところ、(A)と(A’)という2つの命題間の論理的関係(同一性、もしくは内包ないしは含意、あるいはまた他の関係)を確定することから始めなければならない。

◆ まず最初に、(A)が述べるところの社会の状態(a)は、宗教上の事柄における社会的権力からの干渉の免除(a’)に他ならない。事実、(a)と(a’)という2つの命題は、互いにもう一方を含意するという関係にある。
(a)社会的権力に、カトリック宗教を傷つける者たちを抑圧する職務を認めない。
(a1) カトリック宗教を傷つける者たちは、国家の権力からの干渉を免れる。
(A’)の述べるところの社会の状態(a’)は、すべての宗教の信奉者、とりわけカトリック教を傷つける者たちが、一切の人的権力、特に国家の権力からの干渉を免れる特権を享受する状態である。
 したがって、(a1)ならびに(a)が(a’)の個別的なケースであることが明白となる。その結果、(a’)と(a)の間に論理的関係が存在することになる。

◆ 第二に、(a)と(a’)について下される(A)ならびに(A’)という2つの判断の様式は、次のとおりである。
―(A)は、社会にとって最良の状態を述定する。
―(A’)は、社会において存在しなければならない状態を述定する。
したがって、(A’)は(A)と同一の命題ではないことが分かる。しかるに、次のように言うことができる。たしかに最良のものは、必ずしもそうでなければならないものではない、なぜなら具体的な最良の状況は理論上の理想以下のものたり得るからである。反対に、存在しなければならないものは(少なくとも具体的状況を捨象するかぎりにおいて)必然的に最良のものである。したがって(A’)<存在しなければならない> と(A)<最良の>という述定様式の間には論理的な含意の関係があると言うことができる。

* * *


(B) - 福者ピオ九世回勅『クヮンタ・クラ』
「良心および信教の自由は、各人に固有の権利である」

(B’) - 公会議宣言『信教の自由に関する宣言』
「人間は信教の自由に対して権利を持つ。この自由は(中略)、何人も、私的あるいは公的に、単独にあるいは団体の一員として、正しい範囲内で自らの良心に反して行動するのを妨げられないことにある。」

● (B)と(B’)の比較
 (B)の意味は、拙著の端々ですでに十分説明したし、また(B’)の意味も公会議宣言『信教の自由に関する宣言』自体が命題(A’)で与えている説明から容易に把握される。したがって、(B)の排斥と(B’)における、同じ権利の肯定、すなわち宗教上の事柄における、外的かつ公的な、いかなる宗教の信奉者であれ例外なく全ての人に認められる行動の自由の肯定が、矛盾していることは明白である。
 しかし、次のように反論する人もいるだろう。(B’)は(A’)の「正しい範囲内で」という条件を認めている。しかるに(B)は、何らの制限なしに要求される権利であるように思われる。言葉を換えて言えば、クァンタ・クラが(制限なしの)見境のない放逸な自由を排斥しているとすれば、第二バチカン公会議は、中庸な、度を過ごさない自由をうたっているのであり、したがって福者ピオ九世回勅『クヮンタ・クラ』の定める排斥を免れる。
 この反論に答えるのは、いたって容易である。(B)が述べているのは、ただ当の自由が権利であるということにすぎない。しかしこの権利は、(A)が明白に述べているように、それを行使するにあたって、公共の平和が要請するところによって制限される。したがって、福者ピオ九世回勅『クヮンタ・クラ』は当の自由を見境のない放逸な自由として排斥しているのではないことが分かる。
 無論、「公共の平和」は、第二バチカン公会議の示す「正しい範囲」が指す内容をすべて含むわけでは到底ないだろう。先に述べたように『信教の自由に関する宣言』が指定する正しい範囲は「公の秩序」が要求するところのものである。しかるに、この「公の秩序」という概念は、公共の平和のみならず、各人の権利の尊重および「客観的道徳秩序」にしたがうべき公共道徳の保護をもその意味内容に含むからだ。
 しかし実際のところ、この違いは取るに足らないものである。(B)と(B’)は、当の信教の自由が(特定の宗教が偽りのものであるという)本質的な理由 によってではなく、公共の平和ないしは客観的道徳秩序という付帯的な理由によってのみ制限され得る、という点において共通している。
 実にこれこそ第二バチカン公会議が、例えば次のように述べるとき提唱しているところである。「公権が、宗教行為を(中略)妨害することができると考えるならば、その限界を超えていると言わなければならない。」(『信教の自由に関する宣言』 第三項末)すなわち、公権が宗教行為を、それらが誤った宗教である、ないしはカトリック教にもと;悖るものであるという理由のみによって、あるいは、何であれ、当の宗教の宗教としての本質に属する理由から妨げるならば、自らの権利を逸脱するというのだ。
 また、これは福者ピオ九世回勅『クヮンタ・クラ』が命題(A)において、一方で「カトリック宗教を侵す者たち」、すなわちカトリック教会の純粋に礼拝行為または規律に関する規定を破る者たち(当の宗教の本質に関わる動機)、また他方で「公共の平和」を乱し得る者たち(当の宗教の信奉に付帯的な要素)とを区別することによって現していることである。したがって(B)と(B’)は同一の権利を主張していることになる。そして、この権利の行使に関して言えば、(A)と(A’)は共にその範囲を指定し、また信教の自由に対する権利は、当の宗教の本質に関わる理由からは制限され得ないとしている点で共通している。
 そしてこれこそ、第二バチカン公会議が提唱し、福者ピオ九世回勅『クヮンタ・クラ』が排斥していることである。あるいはより正確に言うと、これこそ第二バチカン公会議が無条件的に、そのもの自体として提唱し、ただ、ある特定の観点からのみ制限を加えるところのこと、また福者ピオ九世回勅『クヮンタ・クラ』が無条件的に、そのもの自体として排斥し、また単に特定の観点からのみ設けられる制限は、信教の自由を抑制すべき唯一の制限範囲ではないことを明言するところのことである。

結論: 命題(B)と(B’)は、信教の自由に対する権利を主張していること、またかかる自由の行使における制限範囲は、当該宗教の本質に即した制限範囲であってはならないとしている点において全く一致している。

* * *


(C)- 福者ピオ九世回勅『クヮンタ・クラ』
「しかるべく構築された全ての社会において宣言され、保証されなければならない」 

(C’)- 公会議宣言『信教の自由に関する宣言』
「信教の自由に対する人格のこの権利は、社会の法的制度において、市民的権利として受け入れられるべきものである。」

● (C)と(C’)の比較
 命題 (C)と(C’)は、両者共に、宗教上の事柄にける行動の自由に対する自然的権利が市民的権利として認められ、法律によって保証されなければならない、と主張している点において一致している。
  
* * *


 先に反論に対する返答として示した、両文書によって無条件的に、そのもの自体として表明されている事柄、すなわち信教の自由と、この自由の、当該宗教自体の本質に基づく制限を被らない行使についての解説を念頭に置くかぎりにおいて、公会議宣言『信教の自由に関する宣言』により表明されている諸命題と、福者ピオ九世回勅『クヮンタ・クラ』により排斥されている諸命題との間には、同一性[命題(B’)と(B)および(C’)と(C)]、ないしは少なくとも含意[命題(A’)と(A)]という論理的関係が存在していると言わなければならない。
 したがって、もし誰かが、信教の自由について第二バチカン公会議が公言していることを主張するならば、必然的に、福者ピオ九世回勅『クヮンタ・クラ』によって排斥されているところのことを主張することになる。あるいは、言葉を換えて言えば、福者ピオ九世回勅『クヮンタ・クラ』が定める排斥は、必然的に『信教の自由に関する宣言』が公言していることの排斥を含むことになる。
 これらの前提を示した上で、以下に私の疑問を呈したい。

【疑問点 36】
 先に引用した三つの命題に関して、公会議宣言『信教の自由に関する宣言』福者ピオ九世回勅『クヮンタ・クラ』に矛盾していると言うことができるか。もしできるとすれば、公会議宣言『信教の自由に関する宣言』福者ピオ九世回勅『クヮンタ・クラ』によって打ち出された排斥に該当すると言うことができるか。

【疑問点 37】
 先述の三つの命題に対して福者ピオ九世回勅『クヮンタ・クラ』が定める排斥は、教皇の通常教権の最高段階の権威に基づいて、ないしは不可謬の聖座宣言(エクス・カテドラ)としての定義として発されているのか。もしそうだとすれば、公会議宣言『信教の自由に関する宣言』は、教会の教導権による不可謬の排斥の対象となる、と言えるのではないか。

【疑問点 38】
 公会議宣言『信教の自由に関する宣言』が表明する信教の自由に対する権利は、福者ピオ九世回勅『クヮンタ・クラ』って排斥された諸命題と同様の神学的譴責の対象とならないか。そして、その結果、当の権利は「カトリック教会および霊魂の救いに及ぼす影響において至って致命的な見解、「常軌を逸した考え」、聖書と教会、教父らの教えに反し、拒絶され、禁止され、排斥され、またそれらがカトリック教会の全ての子らによって拒絶され、禁止され、排斥されたものとして見なされなければならない」と形容されるのに値するものとならないか。

【疑問点 39】
 信教の自由が「真の宗教とキリストの唯一の教会とに対する(中略)団体[したがって市民社会の]道徳的義務に関する伝統的なカトリックの教説に、いかなる変更をも加えない」と言明し、パウロ6世教皇が1965年12月7日に「自らの教皇としての権能に基づき(中略)聖霊において承認し、制定し、布告し、神の栄光のためにこれが発布されることを命じ」た信教の自由に関する公会議宣言は、きわめて重大な教会論上の問題を生むものである、と言うことができるか。そしてこの問題を、教会は早急に解決しなければならず、さもなくば同宣言が発布されて20年以上経た後に、なおもつまずきの石、教会史上先例を見ないつまずきの石を残し続けることになる、と言うことができるか。

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