Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

【参考資料】フランシスコの10年 北朝鮮のようなバチカンでの再建なき破壊 アルド・マリア・ヴァッリ

2023年03月31日 | お説教・霊的講話

フランシスコの10年 北朝鮮のようなバチカンでの再建なき破壊 アルド・マリア・ヴァッリ

  • 破壊プロジェクトには、第二バチカン公会議という名前があり、近代主義という正確な根源がある。

Ten Years of Francis: Destruction without Reconstruction in a Vatican that feels like North Korea -- by Aldo Maria Valli

フランシスコの10年(2013―2023年)

あなたたちは高値で買われた。
人間の奴隷にはなるな。
コリント前書7章23節

アルド・マリア・ヴァッリ

フランシスコの教皇在位の10年間を評するには、1年前にデモス(本名は故ペル枢機卿)が全枢機卿に配布しようと望んでいた覚書の中に書いた、次の言葉で十分であろう。「ほとんどの点で災難、大惨事」

ベルゴリオは、再建することなく破壊するという、ある種の特別な才能を持った人物にのみ可能な素晴らしい技能を成功させた。彼は、新鮮な空気をもたらすために選ばれた。10年後、その空気は息苦しくなっている。そして、この記念日を機に猛威を振るう教皇崇拝(papolatry)は、その空気をさらに有害なものにしている。

バチカンでは、専制的で気まぐれで残酷な政権のもと、まるで平壌のように感じられる。帝国末期の雰囲気の中で、スパイや情報提供者がその場を支配している。しかし、陰謀以上に、震えがある。誰もが暴君の視線にさらされることを恐れているのだ。有罪であれ、突然の愛の発露であれ、かしら(Prince)に注目されてしまうことは、致命的な抱擁で潰されることなのだ。だから、多くの人は、見られないようにするために、死んだふりをすることを好むのである。

従順なジャーナリストたちは、いつも彼に無難な質問をし、彼はいつも同じ答えをする。インタビューは増えていくが、苦行を強いる敬虔さという旗の下で、コピー&ペーストばかりだ。

一方、カトリック教会は混乱し(ドイツを見よ)、ペトロは岩のように行動する代わりに、混乱と曖昧さを煽っている。

この状況において、多くの人がベネディクト十六世を失って残念に思うのは当然だが、はっきりと言わなければならないのは、ラッツィンガーが災難に気づいていたとしても、その流れに対して何もできなかったということである。なぜなら、彼自身が、破壊プロジェクトの一員であったからだ。そのプロジェクトには、第二バチカン公会議という名前があり、近代主義という正確な根源があるのだ。

逆説的だが、私たちはフランシスコに感謝すべきである。フランシスコは、その奔放さによって、近代主義が目指し、最終的に達成したこと、すなわち教会を世に隷属させることを、誰にでも(もちろん、見たくない人々を除いて)明らかにした。ベネディクト十六世がその後ろ向きの行進で、少なくとも部分的には破局を何とかして隠すことができたとすれば、フランシスコによってすべてが明らかになった。近代主義者たちが提唱した流動的なカトリシズムは、ペトロの座を完全に征服してしまっている。実際、そこからやって来る説教は、フリーメーソン・グローバリストの言説とあらゆる点で似通っている。もはや区別はない。溶接が行われたのだ。

ベルゴリオを非難するのは、壊滅的な腫瘍と急速に進む転移によって弱った体で、最新の風邪を心配するようなものだ。

その証拠は? 現代の良きカトリック信者、おそらく今でも定期的にミサに通っている人に、イエズス・キリストの社会的王権を信じるかどうか尋ねてみればよい。イエズス・キリストが本当にすべての国の王であり、宇宙の主であることを信じているかどうかを。人間の本性の創造主であり贖い主である主は、結果として、個人としても社会共同体としても、人間に対する主権の力を有していると信じているかどうかを。

そのカトリック信者が、火星人を見るようにあなたを見て、あなたの言葉を理解したと仮定して、その人は、実は信仰とこの世とを和解させなければならない、と議論するだろう。何も押し付けることはできない、対話や識別や共に歩むことが必要である、と言うだろう。信教の自由はある、人権を考慮しなければならない、他の信仰にも良いものがある、などと議論し始めるだろう。

教皇たちがまだキリストの社会的王権を宣言していたのは、千年どころか百年ほど前のこと(王たるキリストの祝日を導入したピオ十一世の回勅「クアス・プリマス」(Quas primas)は1925年)だが、その教会とその教えについては、私たちはわずかな記憶さえ保っていない。革命は教会に浸透し、教会を内部から征服した。近代主義の破壊者たちは、自分たちが懸命に働いてきた目的を達成した。人間は天主の座に就いたのである。

近代主義が行った仕事(教会という生ける有機体に多数のトンネルを掘って、背教のウイルスを埋め込むこと)を考えると、フランシスコの教皇職は論理的な帰結であり、私たちは、そのように考えなければならない。

だからどうだと言うのか? 革命に直面したとき、唯一の解決策は反革命である。しかし、それは殉教を伴うものであることを知らなければならない。それを取るか、取るまいか。あなたが殉教を選ぶなら、迫害と苦しみを避けることができる、などと自分を欺かないでほしい。

英語版

Ten Years of Francis: Destruction without Reconstruction in a Vatican that feels like North Korea -- by Aldo Maria Valli

イタリア語版

Sui dieci anni di Francesco (2013 – 2023) - Aldo Maria Valli

Photo Credit: Pope Francis leads alone the Special Urbi et Orbi blessing on 27 March 2020 


【参考資料】ヴィガノ大司教「市民から奪われた権力を取り戻す反グローバリズム同盟が私たちに必要である」

2023年03月31日 | カトリック・ニュースなど

ヴィガノ大司教「市民から奪われた権力を取り戻す反グローバリズム同盟が私たちに必要である」

2023年3月17日

Viganò: "We need an Anti-Globalist Alliance that returns to citizens the power that has been taken from them"
カルロ・マリア・ヴィガノ

前駐米教皇大使カルロ・マリア・ヴィガノ大司教の
「国際ロシア愛好家運動」(MIR)設立会議へのメッセージ

2023年3月14日

親愛なる友人の皆さん、「国際ロシア愛好家運動」設立の機会に、皆さんに短いメッセージをお話しすることができるのを、大変うれしく思っております。この団体のマニフェストは、西洋の語彙から消えてしまったように思われる言葉、「友情」で始まっています。この場合、それは、世界中の非常に多くの人々が共有しているロシア国民に対する友情であり、また、ロシア国民の他国民に対する友情であり、唯一の永遠の御父の子として、また、私たちの主イエズス・キリストにおける兄弟姉妹として私たちが自認することにその基礎を置く、兄弟愛の精神におけるものです。

西ローマ帝国が蛮族の侵略の圧力で政治的役割を喪失したとき、そのバトンはコンスタンティノープルに渡されました。そして、メフメト二世によるビザンチン征服によって東ローマ帝国も滅亡したとき、聖人たちや聖王たちとともにその宗教的・政治的遺産を救ったのはモスクワでした。現在の危機が私たちに示しているのは腐敗した西洋の崩壊であり、西洋には、その破滅に至る運命(fate)から救うべき【第二の】大教皇レオは存在しませんが、自らの御摂理的使命を再発見し、自らの使命をロシアの使命と一致させるものを認識することができれば、西洋はまだ永らえる運命(destiny)があります。

最近の出来事が私たちに示しているのは、1917年以来、ロシア帝国と世界を荒廃させた唯物論的無神論は、至聖なる童貞マリアがファチマで告知なさったように、今日では自由主義に合流して、新世界秩序の妄想的プロジェクトを支えるグローバリズムのイデオロギーとなっていることです。ウラジーミル・ウラジーミロヴィチ・プーチン大統領が最近の演説で正しく指摘したように、キリスト教文明に対する憎悪が、ダボスのエリートたちに従属する奴隷の社会を作ろうと欲している、地獄のプロジェクトがあります。それは、過去も未来もなく、信仰も理想もなく、文化も芸術もなく、父親も母親もなく、家族も霊性もなく、教師も霊的指導者もなく、高齢者への尊敬も子どもたちへの希望もない、ディストピア社会です。

西洋諸国を脱キリスト教化させた後、このエリートたちがロシアを打倒すべき敵とみなしていることに、私たちは驚きません。ロシア連邦は、紛れもなく、野蛮に対する文明の最後の砦として立っています。NATOや国連、世界保健機関、世界銀行、国際通貨基金などによる植民地化を拒否し、さらに、大衆の教化や情報操作、合法的に選ばれた政府を不安定化させる「色のついた春【カラー革命】」の創造を目的とし、混乱、戦争、悲惨さを「支配の道具」(instrumentum regni)として撒き散らす多くの財団による植民地化に服従するつもりはないすべての国々を、ロシアはその周りに集めています。

最近のパンデミックの茶番劇は、2020年の初めから私が躊躇なく非難してきた犯罪的な手法で行われたものですが、それに続いて、ウクライナ危機を含む新たな緊急事態が意図的に引き起こされており、その目的は、各国の社会的・経済的基盤を破壊し、世界人口を減少させ、誰も選挙で選ばなかった寡頭制――この少数の人々が現実の世界クーデターを実行した――の手に支配権を集中させることです。そのクーデターに対して、エリートたちは遅かれ早かれ世界の前でその責任を問われるでしょう。

このクーデターの理論家には名前と顔があり、ジョージ・ソロスやクラウス・シュワブ、ビル・ゲイツに始まります。今日、ロシアを敵だと宣言する人々は、欧州人、米国人、オーストラリア人、カナダ人を敵だとみなし、そのように扱い、迫害し、困窮させています。西洋の政府にいる世界経済フォーラムの使者は、自国民の利益に反する立法を行い、世界の指導者たちを手のひらに載せることができますが、しかし他の国々で成功した体制変更は、ロシアの国境で止まっています。一方、2020年の米国の不正選挙も、ドナルド・トランプ大統領の確定を阻止するために不可欠なものでした。それはちょうど、2013年にディープ・ステートとディープ・チャーチが教皇ベネディクト十六世を何とかして辞任させ、新世界秩序を喜ばせる人物、イエズス会士ホルヘ・マリオ・ベルゴリオの選出に成功したのと同じです。
皆さんの取り組みが、賢明な長期的政治ビジョンにおいて、グローバリズムの単極化に対抗する最善の方法である「多極化」の原則に従って、ロシアによるあらゆる国民との友好関係を促進しなければならないのは確かです。しかし、この友情、調和、相互協力の関係は、人類に対して行われたクーデターを告発・非難するのを軽んじることはできません。このクーデターの目的は地獄の専制政治の確立であると公然と発表した危険な破壊分子によって行われ、そこには、天主への憎悪、天主の像(似姿)として造られた人間に対する憎悪、病気、死、無知、貧困、暴力、利己主義、腐敗が最高に支配します。つまり、反キリストの国なのです。

このレヴィアタンを、特定して戦わなければなりません。すべての自由な各国民を巻き込んだ行動で、まず第一に、アジェンダ2030とグレート・リセットのプログラムのポイントを、共有のイニシアチブで拒否することによって、戦うべきです。

私たちは、市民から奪われた権力を市民に返し、ダボス・ロビーに侵食され譲り渡された主権を国家に返す反グローバリズム同盟を必要としています。ロシア連邦はこの努力において決定的な役割を果たすでしょう。また、「国際ロシア愛好家運動」が西洋諸国の人々にもたらすであろうメッセージは、自らの信仰に誇りを持ち、聖チリロと聖メトディオも貢献した文明に誇りを持つことに戻る必要があります。

私たちは、歴史的な戦いを行っているところです。私たちは、大天使聖ミカエルとともに、栄光のニコペイア(Nikopèia)【勝利をもたらすお方】である童貞聖マリアのマントの下にとどまるのです。勝利は、キリストと、十字架の聖なる御旗の下に身を置くことを選んだ人々のものなのです。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ

英語版

 

Viganò:

MESSAGE of Archbishop Carlo Maria Viganò Former Apostolic Nuncio to the United States of America to the Founding Congress of the International Movement of R...

The Remnant Newspaper

 

イタリア語版: Viganò. Messaggio al Congresso Internazionale dei Russofili. (MIR).


LGBTへの真の司牧的アプローチとは、罪を認め、性別に関する真理を宣言するものでなければならない

2023年03月29日 | お説教・霊的講話

LGBTへの真の司牧的アプローチとは、罪を認め、性別に関する真理を宣言するものでなければならない

カトリックの視点からLGBTイデオロギーにアプローチする 第3回

A truly pastoral approach to LGBT persons must acknowledge sin and proclaim the truth about sexuality

同性愛者や性別に違和感を持つ人々に対して真にキリストのような支援をする際に必要なのは、罪とは何かを述べて、天主の聖寵に癒やす力があることを認識することです。

ルイス・ナフク

2022年12月5日(月曜日) 米東部標準時間午後6時48分

カトリックの視点からLGBTイデオロギーにアプローチする連載記事の第3回です。同性愛やトランスジェンダーの無秩序な本質を説明した第1回の記事はこちらで、LGBTアジェンダ(行動計画)と戦うための道徳的義務を論じた第2回の記事はこちらでお読みください。

(LifeSiteNews)LGBTの自己認識や同性愛の罪が増大する中、カトリック信者は、LGBTのライフスタイルを持つ人々に対して、彼らが天主をひどく怒らせていること、また天主は彼らの無秩序な傾きを癒やすことがおできになるのだということを明確にさせなければなりません。

私たちの国、私たちの結婚、そして私たちの子どもたちのために、LGBTアジェンダ(行動計画)に公然かつ断固として反対することに加えて、この問題に対する純粋にカトリック的な視点は、個々の人に対する司牧的アプローチを持つ必要性を無視することはできません。しかし、そのようなアプローチが真にキリスト教的であるためには、現実と天主の啓示に基づくものでなければなりません。

超自然の愛徳は、理性がその愛徳自体について理解できる真理と、天主自らが啓示された真理の両方に基づかなければ、愛徳とは言えません。自然の秩序を創造され、人間が救いを得るために何をしなければならないかを啓示され、その救いに必要な聖寵を取りなすために十字架上で死なれたのは、同じ天主です。

LGBTの人々に対して真の司牧的アプローチを展開するためには、聖寵の力と働きに関するいくつかの基本的な真理を、明確に理解する必要があります。

聖寵と徳は、正しい理性と信仰の双方に従って、さらに完全に癒やし、高め、秩序づけるのです。聖寵と徳は、自然のものを前提とし、それを修正し、高め、完成させるのです。

天主は無秩序なLGBTの傾向を癒やすことがおできになる

徳の秩序から逸脱した性的な罪においてでは、欲求そのものは依然として自然であり、異性へと向かう自然の傾きはそのまま残っています。聖寵と徳は、この自然な欲求を、忠実で実りある結婚と家庭において、天主をお喜ばせするものに変えることによって癒やすのです。

しかし、同性愛のように、自然の秩序から逸脱した性的な罪においては、性的な欲求が歪んで不自然になり、間違った対象に向けられています。ここにおいては、さらに深い癒やしが必要とされます。しかし、これは、天主の聖寵の力が及ばないものではありません。これは極めて重要なポイントです。この点に関して、善意のカトリック信者がしばしば思い込んでいるのが、二つの基本的な誤謬です。

最初の誤謬は、人は時には自然でないものに不変的に固定される、すなわち、根深い同性愛の傾きや「性別違和」(gender dysphoria)は、変えることも癒やすことも不可能である、と考えることです。

もう一つの誤謬は、同性愛者にとっての貞潔の徳とは、"同性――自分が傾いているのと同じ性――の人との性行為を行うことは許されない"ことを意味するにすぎない、と考えることです。前者は聖寵の力に関する誤謬であり、後者は貞潔の徳に関する誤謬です。

次に、理解しなければならないことがあります。それは、天主の聖寵が霊魂において行う最初のことは、意志を天主に向けさせ、罪から遠ざけることによって、その意志と天主との間に平和をもたらすこと、その後で、人間の本性のレベルで善であるものを回復させ始めることである、ということです。性的傾きの癒やしとは、この傾きの自然の対象に立ち返ることです。これは、天主が聖寵の力によって霊魂をご自身の方に引き寄せられることによる、自然の効果です。異性愛への傾きの持っている自然の秩序とは、創造主としての天主が持っておられる"生命を与える愛"に与ることです。天主の愛への、創造された参与です。結婚の秘跡において、異性愛への傾きはキリストの教会に対する浄配としての霊的な愛にあずかることです。聖寵は、人間の心の無秩序な欲求と傾きを癒やすことが可能であり、またそうします。この生命には、その正す力の及ばないものは何一つありません。

貞潔の徳は、適切に言うならば、すでに適切な自然の対象に向けられている性的傾きを正しく秩序づけるものです。つまり、貞潔の徳は、異性に対する自然な欲求を取って、それを配偶者に向けるものです。これは、正しい理性によって定められた手段であり、その理性は、人間の本性に注目して、性交渉とは、男女の揺るぎない愛の実である子どもの出産と教育のためにあり、そのため結婚という生涯にわたる交わりに属するものだということを理解しています。次に、貞潔は、男女間の性的な愛のための適切な場である結婚に向けられ、結婚を守るものです。しかし、それはまた、男女が互いに惹かれ合うという基本的な傾きを前提としています。

だからと言って、このことは、同性愛の傾きを持つ人々が貞潔を遵守することについて何も話すことでがきない、と言う意味ではありません。実際、教会もこのような意味ではないと言っています。しかし、教会が言わんとすることは、貞潔の徳の最も固有なことは、同性の人との性行為を控えることにあるのではない、ということです。貞潔とは、最も適切に言えば、自分の配偶者でない異性の人々との性行為が起こるのを防ぐことです。積極的に言えば、貞潔とは、人が自分の配偶者を適切に愛するための徳なのです。

司牧的なアプローチであるためには、罪は罪であると明確にしなければならない

天主の掟を守ることが必要であるということについて、最後にひとこと述べておかなければなりません。天主ご自身が、天主の掟を守らなければ誰も救われないことを啓示されました。また天主は、キリストの死を通してもたらされる聖寵がなければ、誰も天主をお喜ばせする形で天主の掟を守ることはできないことを啓示されました。有名な話ですが、聖アウグスティヌスは「告白録」の中で、「天主よ、御旨に適うことを命じ給え、また、命じ給うことを行う聖寵を与え給え」と祈りました。キリストご自身も、福音の中で金持ちの若者に、永遠の命を受けるためには何をすればよいかと問われ、「掟を守れ」(マテオ19章16章)と答えられました。また、主は、罪を悔い改めて、もう二度と罪を犯さないように教えることなしに、罪人を赦されたことは決してありません。キリストは、人間の罪を確認するために来られたのではなく、ご自分の御血を流すことで罪を取り除くために来られたのです。

この点で、罪が天主をどれほど怒らせるものであるかを完全に理解することは、どんな人間にも不可能であると言うべきです。キリストの十字架上での血を流された死は、私たちに人間の罪の持つ悪と悪意を少し垣間見せてくれます。善そのものである天主の本質を見るまでは、私たちは常に、罪による堕落の深さを十分に推し測ることができないでしょう。

また、キリストの宣教には、罪に対する天主の忌み嫌う心が明白に現れていると言うべきでしょう。聖書全体の中で、キリストご自身ほど地獄について語り、罪人を強く断罪する人物はいません。姦淫で捕らえられた女を赦し、もう二度と罪を犯さないようにと言われたのと同じキリストが、姦淫、私通、邪欲、離婚という性的な罪を犯したファリザイ人や司祭長も断罪なさっています。また、悔い改めを拒む者に相対されたときには、「あなたたちは、罪のうちに死ぬだろう」(ヨハネ8章21節)とはっきり言われ、主は言葉を濁されることはありません。ファリザイ人に対する呪いの言葉の中で、律法学士たちが、キリストは自分たちも侮辱することだと反論すると、私たちの主は語気を弱めるどころかさらに強めて、ファリザイ人と同じ罪を犯している律法学士たちに対して、これまで以上に断罪の言葉を放たれたのです(ルカ11章46節)。

キリストを司牧的ではないと非難するキリスト教徒はいません。ですから、この断罪は考察する価値があります。キリストが断罪なさるものは、高慢による強情さだけではなく、性的な罪、つまり外的な行動と同様に内的な思いや欲望も同じく断罪されます。また、キリストは、み言葉を、心の清さや、結婚での配偶者に対する独占的な忠実さを要求しているみ言葉を信じない者、それを拒絶する者も断罪なさいます。

ですから、罪深い生き方をする人々に対する真のキリストのような司牧的アプローチは、まず第一に、罪は罪であると明確に述べることを必要とします。心のかたくなさや罪への執着に直面した場合、キリストの例にならって、鋭い非難さえを求められることさえあります。この点で、教会は、はっきりと、そして弁明せずに、天主の善に反する罪を断罪する義務を話さなければなりません。この義務を後回しにすることはできません。

ところで、断罪は、最終の言葉ではありません。キリストの十字架と血を流された御死去は、罪の邪悪さだけではなく、さらには主の贖いの愛――私たちを罪から聖寵の生活へと導くために御死去をためらわれなかった主の愛――をより一層明らかにするものです。個人的な、司牧的な全ての支援において、最終の言葉を持つべきは希望です。聖寵の持っている変容させる力、癒やす力を希望するのです。

私たちが、天主が啓示されたことを本当に信じるならば、私たちはこう確信します。人間の心は、それがどんなに困難であっても、真理を求めている、と。また、人間がその真理に従って生きることができるようにしてくれる聖寵を求めている、と確信します。霊魂の救いを願う真の愛徳は、他の人々がその真理とキリストだけお与えになる癒やしの聖寵を受け入れてくれるように力を尽くすのです。

性倫理に関する教会の教えと聖書

以下は、教導権と聖書のテキストです。教会の教えの連続性と天主の啓示の中にあるその教えの基礎を確認するために、ここにいくつか示します。

教理省(CDF)「ペルソナ・フマナ」(Persona Humana、1975年)

現在、心理学的な観察に基づき、ある人々の間の同性愛関係を、やりたい放題に判断し、さらには完全に許すまでのことを始めている人々がいます。彼らはこれを、教導権による不変の教えと、キリスト教徒の道徳的感覚に反して行っています。

誤った教育や、正常な性的発達の欠如、習慣、悪い模範、あるいは他の類似の原因から来る傾向を持ち、その傾向が一時的、あるいは少なくとも不治ではない同性愛者と、ある種の生来の本能、あるいは不治と判断される病的体質のために決定的にそうである同性愛者とは、区別がなされており、ある程度の理由があるようにも思えます。

この第二のカテゴリーの対象者については、その傾向がまったく自然なものであるため、そのような同性愛者が孤独な生活に耐えられないと感じる限りにおいて、結婚に類似した生活と愛による誠実な交わりの中での同性愛関係を正当化すると結論づける人々がいます。

司牧の場では、このような同性愛者は、彼らの個人的な困難や社会に適合できないことを克服することを願って、理解をもって接し、支えなければならないのは確かです。彼らの罪の重さは、賢明に判断されるでしょう。しかし、このような人々の状態に合致しているという理由で、これらの行為を道徳的に正当化するような司牧的方法は採用できません。なぜなら、客観的な道徳的秩序によれば、同性愛の関係は、本質的かつ不可欠な最終的状態を欠く行為だからです。聖書の中では、同性愛の関係は深刻な堕落として断罪され、天主を拒絶するという悲しい結果として提示されるまでに至っています[18]。この聖書の判断から、もちろん、この異常に苦しむすべての人々が、その異常に個人的に責任があると結論づけることができませんが、その聖書の判断は、同性愛行為が本質的に無秩序であり、いかなる場合も承認できないという事実を立証しています。

教理省(CDF)カトリック教会の司教たちへの手紙:同性愛者の司牧的ケアについて

CDF, Letter To The Bishops Of The Catholic Church On The Pastoral Care Of Homosexual Persons, 1986:

宣言発表後の議論では、同性愛の状態そのものに対して過度に温和な解釈が示され、同性愛の状態を中立的、あるいは善とまで言う人もいました。同性愛者の持つ特殊な傾きは罪ではありませんが、本質的な道徳的悪へと向かう多かれ少なかれ強い傾向であり、したがって、その傾きそのものを客観的な無秩序とみなさなければなりません。

したがって、このような状態にある人々に対しては、特別な関心と司牧的注意を向けるべきであり、同性愛の行動のこのような方向性で生きることが道徳的に受け入れ可能な選択肢であると、彼らに信じるに至らせることのないようにしなければなりません。そうではありません。

「カトリック教会のカテキズム」(第2版)、2000年。

同性愛の行為を重大な堕落の行為とする聖書そのものに基づき、聖伝はつねに、「同性愛の行為は本質的に秩序を乱すものである」と宣言してきました。同性愛の行為は自然法に背くものです。これは、性行為を、生命の賜物に対して閉ざすものです。真の感情的・性的補完性から生じるものではありません。どのような場合であっても、これを認めることはできません。【2357】

かなりの男性や女性が、同性愛の根強い傾向を持っています。この傾向は、客観的には逸脱ですが、彼らの大部分には試練となっています。彼らを軽蔑することなく、同情と思いやりの心をもって迎え入れるべきです。【2358】

同性愛的な傾向を持つ人々は貞潔を守るよう招かれています。内的自由を培う自制の徳によって、時には友人の献身的な助けのもとに、祈りや秘跡の恵みによって、少しずつではあっても確実にキリスト教的完全さに近づくことができるし、またそうしなければなりません。【2359】

創世記13章13節、18章20節。

「ソドムの人々は性質がよくなくて、主に対しても多くの罪を犯していた」。「また主は仰せられた…ソドムとゴモラに対する叫びはあまりに激しく、その罪はあまりに重い」。

ローマ人への手紙1章24-27節。

「そこで天主は、彼らをその心の欲にまかせ、互いにその身をはずかしめる淫乱に渡された。彼らは天主の真理を偽りに変え、創造主の代わりに被造物を拝み、それを尊んだ。天主は代々に賛美されますように。アーメン。天主はは彼らを恥ずべき欲に打ちまかせられた。すなわち女は自然の関係を自然にもとった関係に変え、男もまた女との自然の関係を捨てて互いに情欲を燃やし、男は男と汚らわしいことを行って、その迷いに値する報いを受けた」。

コリント前書6章9-11節。

「不正の人は天主の国を継げないことを知らないのか。思い誤るな。淫行する者も、偶像崇拝者も、姦通する者も、男色する者も、泥棒も、貪欲な者も、酒飲みも、讒言する者も、略奪する者も、天主の国を継がぬ。あなたたちの中にも、そんな人があったが、主イエズス・キリストの御名により、私たちの天主の霊によって自分を洗い、そして聖とされ、そして義とされた」。


聖トマス・アクィナスの教え(神学大全第III部 第47問)によると、キリストを死に追いやった人々が誰か、彼らがそうした理由は何か

2023年03月29日 | お説教・霊的講話

キリストを死に追いやった人々についての説教

ドモルネ神父 2023年3月26日

はじめに

ご受難節が始まりました。この時期は、一年のうちで、私たちの主イエズス・キリストの苦しみと死について黙想するのに特に適した時期です。私たちがその黙想をする助けになるように、今日は、聖トマス・アクィナスの教え(神学大全第III部 第47問)に従って、キリストを死に追いやった人々と彼らがそうした理由についてお話ししたいと思います。

イエズス・キリストを死に追いやった者たち

私たちの主イエズス・キリストは、ひどい苦しみを受けられた後、十字架上の死に追いやられました。ユダは、自分の主人を裏切って、その敵であるユダヤ人たちに渡しました。ユダヤ人たちは私たちの主を虐待し、不当にも断罪し、そしてローマ総督ポンシオ・ピラトに主の十字架刑を要求し、それを実現させました。ユダは金のためにイエズスを裏切り、ユダヤ人たちは妬みの憎しみからイエズスの死を要求し、ピラトは臆病さからイエズスを断罪し、兵士たちは無慈悲な残酷さをもってその刑を実行しました。これらの人々はみな、イエズスの死に責任があります。彼らは、イエズスの死を望み、そのために必要なすべてのことを行いました。このため、イエズスは福音の中で、ご自分について次のように告知なさったのです。「彼らは彼を鞭打ち、そして彼を死に追いやるであろう」(ルカ18章33節)。

しかし、ある意味では、イエズスが、ご自分の死の原因であると言うこともできます。実際、イエズスがユダヤ人たちやローマ人たちからの攻撃を受けて死なれたのは、イエズスが進んでそれに同意なさったからです。イエズスは天主ですから、あらゆる敵を難なく追い払うことがおできになり、ご自分に対するすべての攻撃を止めることがおできになったはずなのです。オリーブ園でのイエズスを思い起こしてください。ユダヤの民兵たちがイエズスを逮捕しに来たとき、イエズスは一言で彼らを全員後ずさりさせ、地面に倒れさせられました。聖トマスはこう言っています。「暴力によって受けていた受難が、彼の霊魂を引き裂くものではないことを示すために、キリストは、その肉体の本性の力を、完全に維持された。このため、キリストは最後の瞬間に、大声で叫ばれたのである。これは、キリストの死にかかわる奇跡のひとつである」。イエズスが死なれたのは、この死に同意なさったからです。そのため、イエズスはこう言われたのです。「私の命は、私から奪い取るものではなく、私がそれを与えるのである」(ヨハネ10章18節)。

イエズスが自分の死に同意された理由

論理的に言えば、次の質問はこうなります。なぜイエズスは、ご自分のご受難と死に同意されたのでしょうか? それは、御父への愛と従順からでした。父なる天主は、イエズス・キリストのご受難と死によって人間が贖われることを、永遠の昔から計画しておられたのです。ですから、御父は、御子のご受難の時に御子をお守りにならず、御子を迫害者たちの手に渡されたのです。そして、このため、イエズスは、十字架上でこう言うことがおできだったのです。「私の天主よ、私の天主よ、なぜ私を見捨てられたのですか」(マテオ27章46節)。

しかし、なぜ「天主は、ご自分の御子を惜しまずに、私たちすべてのために渡された」(ローマ8章32節)のでしょうか? なぜ父なる天主は、イエズスの聖心に、苦しみへの望みを置かれたのでしょうか? なぜイエズスは、父なる天主に、これほど完全に従われたのでしょうか? なぜなら、死にいたるまで、十字架上の死にいたるまでのイエズスの従順は、アダムとエワの不従順にふさわしい償いだったからです。聖パウロは、ローマ人に対してこう言いました。「あの一人の人の不従順によって多くの人が罪人とせられたように、あの一人の従順によって多くが義とされた」(ローマ5章19節)。また、イエズスの従順は、天主と人間に対する最も崇高な愛をはっきりと表しています。聖パウロはエフェゾ人にこう言いました。「イエズスは、私たちのために、芳しい香りのいけにえとして、天主にご自身を渡された」(エフェゾ5章2節)。

ユダヤ人とローマ人の罪

天主が、ご受難を人類を贖う手段とお決めになり、またイエズスご自身が、ご自分のご受難と死に同意されたのですから、ユダヤ人たちやローマ人たちを、イエズスに対する全ての不正や罪から放免させたいと思っている人々がいます。この理屈は、まったく間違っています。聖トマスはこう答えています。「キリストは、天主が望まれたように、自らの受難を望まれたのは事実であるが、ユダヤ人の悪行を望まれたのではない。そして、この理由から、キリストを殺した者たちは、不正を免れないのである」。

おそらく、皆さんはこう自問なさることでしょう。ユダヤ人たちが一つの罪も犯さずに、イエズスのご受難と死は、どのように起こるべきだったのでしょうか? それは、父アブラハムによるイサクのいけにえのように、起こるべきだったのです。アブラハムは、独り子のイサクを死なせることに同意し、イサクは、自分の父によって自分がいけにえとされることに同意しました。それは、命の究極の主である天主が、それをお命じになったからです。アブラハムとイサクは、互いに憎しみ合っていなかったどころか、その反対に、心から互いを愛していました。しかし、二人は自分たち自身よりも天主を愛していたため、このような非常につらい命令においても、天主に従ったのです。イサクは、私たちの主イエズスのかたどりであり、アブラハムは、ユダヤの民のかたどりでした。ご受難の間、イエズスはイサクのように、さらにはイサクよりも素晴らしい振る舞いをされました。一方、ユダヤ人たちは、先祖のアブラハムのように振る舞うことは全くありませんでした。ユダヤ人の指導者たちは、妬みと憎しみからイエズスを死に追いやり、最も基本的な正義を踏みにじり、イエズスを天主の御子、メシアとして認めることを、悪意から、拒否しました。彼らは、イエズスの最も驚くべき奇跡を目の当たりにしても、自ら進んで盲目となったのです。彼らは、考えうる最大の罪、すなわち天主殺しで、真に有罪となりました。そして、この罪の結果は、今日までユダヤの民に重くのしかかっているのです。

天主殺しに参加したユダヤの民は、自分たちの指導者たちに欺かれました。したがって、彼らの方が、指導者たちよりは罪が軽いのです。イエズスが十字架上で次のように言われたのは、この民と異邦人についてです。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているか知らないからです」(ルカ23章34節)。しかし、ユダヤの民は、イエズスに対する告発が偽りであることを簡単に見抜くことができたのですから、非常に深刻な罪を犯したのです。たとえイエズスをメシアと認められなかったとしても、彼が無実であり聖人であることは、簡単に理解できたのです。

ローマ人たちは、モーゼの律法を全く知らず、イエズスを他の者たちと同じ囚人の一人にすぎないとみなしていたのですから、最も罪が軽いのです。

結論

親愛なる信者の皆さん、ご受難節の初めにあたって、私たちの主イエズスが、私たちの罪を償うために十字架上で死なれたことを、もう一度思い起こしましょう。私たちはみな罪人ですから、私たちもこの死に対する責任の一部を負っています。ですから、自分の罪に対する心からの痛悔を新たにしましょう。そして、十字架上のイエズスのいけにえを通して私たちが罪の赦しを得ることが天主のみ旨であり、また、ミサは十字架のいけにえの継続なのですから、アブラハムが自分の子イサクを捧げたときと同じ気持ちをもって、ミサでイエズスをお捧げしましょう。マリアが十字架のもとでなさったように、ミサでイエズスをお捧げしましょう。


司祭とは何なのでしょうか?なぜキリストは大司祭と言えるのでしょうか?なぜカトリック教会は十字架に付けられたキリストを礼拝するのでしょうか?

2023年03月28日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2023年3月26日は御受難の第一主日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「御受難の第一主日の説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本にチャンネル登録もお願いいたします。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父


聖ピオ十世会 カトリック聖伝のミサの報告【東京】【大坂】【名古屋】 Traditional Latin Mass in Japan SSPX Japan

2023年03月26日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ついに受難節に入りました。十字架や聖像、聖画は紫色の布で覆われました。

2023年3月26日、今日の東京のミサではアジア管区長のサマーズ神父様が9時のミサを捧げられました。今日のミサに来られた方は、子供達も入れて合計100人でした。先週の2023年3月19日、東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計105人でした。

今日、大阪のミサに来られた方は合計30人でした。先週の3月19日の大阪のミサも30人でした。

今日、名古屋のミサに来られた方は合計18人でした。

来週は枝の主日です。天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【報告】【2023年3月19日】
For records: Shown below are the number of attendees at the masses in Tokyo on March 19, 2023, and the amounts of donations received. The total number of attendees at the masses in Tokyo today was 105 including children.

09:00 mass
M: 28 (incl. 4 children)
F: 36 (incl. 13 children)
Total: 64 (incl. 17 children)

11:30 mass
M: 19 (incl. 3 children)
F: 22 (incl. 2 children)
Total: 41 (incl. 5 children)

Total of 2 masses (without excluding eventual persons who participated in multiple masses)
M: 47 (incl. 7 children)
F: 58 (incl. 15 children)
Total: 105 (incl. 22 children)

【報告】【2023年3月26日】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at the masses in Tokyo today. The total number of attendees at the masses in Tokyo today was 100 including children.

09:00 mass
M: 31 (incl. 5 children)
F: 31 (incl. 9 children)
Total: 62 (incl. 14 children)

11:30 mass
M: 17 (incl. 1 child)
F: 23 (incl. 2 children)
Total: 40 (incl. 3 children)

Total of 2 masses (excl. 2 persons who participated in multiple masses)
M: 47 (incl. 6 children)
F: 53 (incl. 11 children)
Total: 100 (incl. 17 children)


カトリック信者には、LGBTの狂気から子どもたちと社会を守る道徳的義務がある:同性愛活動家があらゆる公的機関、政策、学校、企業、教会を掌握しよう試みている中で無関心なままでいることはできない

2023年03月26日 | プロライフ

カトリック信者には、LGBTの狂気から子どもたちと社会を守る道徳的義務がある

カトリックの視点からLGBTイデオロギーにアプローチする 第2回

Catholics have a moral obligation to protect children and society from LGBT insanity

カトリック信者は、同性愛活動家があらゆる公的機関、政策、学校、企業、教会を掌握しよう試みている中で、ただ無関心なままでいることはできません。

ルイス・ナフク

2022年12月2日(金曜日) 米東部標準時間午後2時42分

今回は、カトリック信者としてLGBT思想にアプローチする連載記事の第2回です。同性愛およびトランスジェンダーという無秩序について説明した第1回の記事は、こちらでお読みいただけます。

(LifeSiteNews)マスメディアの見出しが次々と出てくるにつれて、LGBTイデオロギーの真の標的がますますはっきりしてきています。ターゲットは、キリスト教的な結婚と幼い子どもたちです。

なぜ、この二つなのでしょうか? なぜなら、結婚はあらゆる社会の自然の基盤であり、子どもたちはその社会の将来の世代だからです。このイデオロギー全体の二つの前線は、
(1)政治による立法と教会による「祝福」という両方を通して、同性愛者の結合を別の種類の結婚として認めるのを確実にするよう公的に試みること、および
(2)公立でも私立でも、学校で恥じることなく同性愛者の結合を教えることによって、これらのライフスタイルを子どもたちに押し付けること――にあります。

このような状況の中で、カトリック信者には、これらの問題に対する意識を高め、LGBTイデオロギーを支持または促進する公共政策や法律に反対し、結婚および幼い無垢の子どもたちを守る法律を求めて積極的に活動する義務があります。

政治で同性婚法を求め、教会で同性カップルの「祝福」を求めるという積極的かつ先を見越したロビー活動に直面して、カトリック信者は、同性愛活動家があらゆる公的機関、政策、学校、企業、教会を掌握しよう試みている中で、ただ無関心なままでいることは不適切です。

ここで求められているのは、真の結婚とされるものと同じ公的な平等です。私が言っているのは、「聖伝の」結婚のことではなく、単純明快な結婚のことです。なぜなら、結婚の本質とは、一人の男と一人の女の間の揺るぎない結合であるからです。人間を男と女に創造された天主は、創造の最初にこの結合を定められました。人間は、自分自身の本性を変えることができないのと同じように、これをなかったことにすることも変えることもできません。

この文脈では、同性愛とトランスジェンダー・イデオロギーにもう一つの類似性があることが、さらに簡単に理解できます。同性愛やレズビアンの運動が結婚の本質を変えようとするのと同じように、トランスジェンダーの運動は男性と女性の肉体の根本的な本質を変えようとするものです。どちらも創造主としての天主に反逆することです。前者は、結婚の作者としての天主に反逆することであり、後者は、生命、すなわち肉体にある生命の作者としての天主に反逆することです。

LGBT運動は、自分たちのアジェンダ(行動計画)を学校に押し付け、幼い子どもたちの多感な精神や心を餌食にすることで、特に悪意を示しています。その中でも最悪なのは、「ジェンダー・アファーミング」(性別確認または性別肯定、gender-affirming)の「思春期ブロック剤(思春期ブロッカー)」(puberty blockers、【第二次性徴に伴う体の変化を一時的に抑制する薬】)を、親に知らせずに、あるいは親の意向に反して投与することです。

この問題は、最近、州法のレベルにまで上がってきており、カリフォルニア州の新しい法律で、州外から来た未成年者が親の同意なしに「ジェンダー・アファーミング」の介入を受けることができるようになっています。このような介入の記録はすべて、子どもの医療記録から削除され、そうすることで、将来、このような処置をめぐる法的な争いを妨げるようにすることまで、この法律は規定しています。

親の意思に反してこのような治療を行うことは、親の権利を著しく踏みにじるだけでなく、治療そのものが極めて犯罪的です。思春期ブロッカーの投与は、医学的には正式かつ合法的に「化学的去勢」に該当し、以前は罪を繰り返す性犯罪者にのみ行われていた実践でした。この実践は、心も体も十分に発達していない子どもに対して、実質的に不妊手術を行うものです。すべての州ではないにせよ、ほとんどの州の法律では、このようなことは子どもに対する極度の性的・肉体的虐待にも該当します。

ここにおいて、トランスジェンダー・イデオロギーの悪意の全貌が明らかになります。トランスジェンダーの擁護者たちは、混乱した成人を説得して不可逆的な切除手術を受けさせ、犠牲者たちに欲望も子孫も残さないようにすることだけで満足していません。そうではなく、彼らは、自然の秩序と天主の計画に従って愛する人々の美しい子孫である無垢な子どもたちを探し求めなければならないのです。彼らは、若者の無知や不安を食い物にして、自分たちが、社会の最も貴重な成員を犯罪的に不妊化して切断するために、邪悪にも法律や親を妨げるのです。

これらの幼い子どもたちや将来の世代のために、カトリック信者は、自分たちの学校や病院、議会、教会が、科学や平等、包括性、同情、慈愛の名によって前進していくトランスジェンダーの熱狂に乗っ取られるのを、黙って見ていることはできません。

かつて家庭を持つ父親たちが、死を覚悟して守っていたものがあります。その中に数えられるものは、子どもの命と子どもの無垢な心です。今、この運動に反対しなければ、遅かれ早かれ、好むと好まざるとにかかわらず、子供たちの破壊は私たちの目の前に現れ、その時には手遅れになってしまうでしょう。


同性愛とトランスジェンダー主義は自然そのものに反する罪である。「包括性」の余地はない。

2023年03月26日 | プロライフ

「包括性」の余地はない。同性愛とトランスジェンダー主義は自然そのものに反する罪である

―――カトリックの視点からLGBTイデオロギーにアプローチする (第1回)

No room for ‘inclusion’: Homosexuality and transgenderism are sins against nature itself

カトリック神学は、同性愛やトランスジェンダーのライフスタイルを、善からの逸脱のうちで最も過激な種類のものだと認識している。

ルイス・ナフキ

2022年11月1日(火曜日) 米東部標準夏時間午前11時30分

分析

ローマ(LifeSiteNews)LGBT問題について、教会とカトリック神学はどう教えているのでしょうか? この記事では、カトリックの視点からLGBTイデオロギーにアプローチする連載の第1回として、以下の内容を取り上げます。

  • 教会中に広がっているLGBTイデオロギー
  • 人間の行動におけるさまざまな種類の秩序
  • 徳の秩序からの逸脱
  • 自然の秩序からの逸脱
  • 悪徳が極端になれば、さらに多くの極端な悪徳を生み出すのは、どのようにしてか

LGBTイデオロギーが教会中に広がっている

カトリック神学によれば、徳は中庸にありますが、その一方で、悪徳は人間の行動が極端になるところにあります。経験が裏付けるように、徳の中庸から逸脱する形はたくさんあり、複数の悪徳が極端になると、しばしば極端な悪徳を互いに生み出し合います。「滅びに至る門は大きく、道は広く、そこを通る人は多い。しかし、命に至る門は狭く、その道は細く、それを見つける人も少ない」(マテオ7章13節)。

そのことは、カトリックの性道徳に関する教えに当てはめてみても、違いはありません。貞潔の徳から逸脱する形はたくさんあり、性的な悪徳が極端になれば、実際、互いに生み出し合います。貞潔の徳については、「門は狭く、その道は細く、それを見つける人も少ない」というキリストの言葉を正しく適用することができますが、その一方、性的放縦の道は大きくて広く、それを歩む人は多いのです。

LGBTアジェンダ(行動計画)が社会、学校、家族、ティーンエイジャー、そして幼い子どもたちにまでますます押し付けられる一方で、これらのライフスタイルの嘘と悲劇的な影響が、左派の政治家や目覚めた社会学者、そして巨大製薬会社によって沈黙させられるのを拒否する人々によって、続々と明らかになっています。巨大製薬会社は、親の意向に反してまで子どもに押し付けるトランスジェンダー手術から何百万もの利益を得る立場にあります。

教会内では、LGBTの「包括性」(inclusiveness)【受け入れ】の新しい波が、あらゆる階級の聖職者にまで広がっており、それは、LGBTのグループを謁見するローマにいる教皇から、虹をテーマにしたミサを公然と捧げ、同性婚を祝福し、秘跡としての結婚という「理想」とは異なるライフスタイルをさらに「受け入れ」るために教会の道徳的教えを変えるよう声高に呼びかけている司祭や司教にまで至っています。

これらの問題について、教会は正確にはどう教えているのでしょうか? 聖アウグスティヌスの格言「罪を憎むが罪人を愛する」を、カトリック教徒はどのように適用するのでしょうか? LGBT推進派がそう見せかけているように、キリストは「包括的」だったのでしょうか? これらのことは断罪されるべきものなのでしょうか、それとも耳を傾けて共に歩むという新しく発見された愛徳の名の下に受け入れるべきものなのでしょうか?

明確にするために、教会とカトリック神学がこれらの問題について教えていることを、ここでは体系的なアプローチで提示します。こうすることで、主にこれらの問題の道徳性を見ることになるでしょう。さらに完全な対策をするには、医学的で心理学的な側面からの考察が必要となりますが、それは他の人にお任せすることにします。

人間の行動における三つの異なる種類の秩序

性道徳の問題についてさらに具体的に特定の判断を見ていく前に、人間の行動には三つの基本的な秩序があって、それぞれに、その行動が善か悪かを判断する原則があることに注目すべきです。

第一の秩序は、人間の本性そのものから生じる最も基本的な秩序であり、それによれば、人間には、自分を完成または完全にしたり、あるいは人間の生活と繁栄に必要だったりする、いくつかの基本的な種類の善への傾きがあります。
第二の基本的な秩序は、正しい理性から生じる秩序であり、この秩序は、真理を理解し、いくつかの善は慎重かつ決定的な方法で求めるべきものだとみなします。人間にとって真に善であると理解されるものを求める、この慎重な方法が、徳の秩序です。
人間の行動の第三の秩序は、天主の聖寵によってもたらされるものであり、この秩序によって、人間は、主に秘跡を通して伝えられる、キリストの贖いの死の力および聖寵を通して、天主を信じ、天主に希望し、天主を礼拝し、天主を愛するように超自然的に高められます。

人間の行為の連続した各秩序は、前にある秩序を前提にし、それを高め、それを完成させます。これらの人間の行為の秩序は、時間的に連続しているのではなく、むしろ完成させるために連続しているのです。例えば、婚姻の秘跡において、キリスト教徒の配偶者の愛が、教会に対するキリストの愛を意味すると言うとき、これは同時に、配偶者が婚姻の貞潔において互いに忠実であるという徳の秩序と、互いへの愛がそれぞれ成熟した大人の男女の愛であるという自然の秩序を前提としています。

つまり、自然の欲求は、徳によって高められ、徳は聖寵によって高められます。そして、人間の本性は、創造主なる天主によって私たちに与えられています。

これらの原則を人間の性に当てはめると、カトリックの教えの基本的な概略は以下のようになります。性欲とは、子どもを残すために異性との性交渉に向かう自然な傾きです。この自然の欲求は、家族を増やすために婚姻状態にある配偶者との性交渉に限定されるとき、徳によって高められます。これが婚姻の貞潔の徳です。最後に、洗礼を受けた人同士の結婚は聖寵によって高められますが、それは、その結婚がキリストによって秘跡とされるからであり、またキリストの花嫁である教会に対する、キリストの忠実で実りある霊的な愛を表すものであるからです。このように、貞潔の徳は、聖寵によって高められ、完全になるのです。

自然または徳または聖寵の正しい秩序に反して、人間は、これら三つの秩序のいずれにおいても、天主が人間に望まれる特定の善に反して行動することによって、天主を怒らせるという方法で罪を犯すことがあり得ます。性的な罪は、具体的には、秘跡的な聖寵の秩序から、あるいは理性的な徳の秩序から、あるいはさらに深く基本的で根本的な自然の秩序から逸脱することがあり得ます。LGBTは、特に貞潔の徳に反する罪と、男女の自然で性的な違いと補完性に反する罪を犯しているため、ここで私は、LGBTのライフスタイルに内在する、徳の秩序と自然の秩序からの道徳的逸脱について考察してみます。

徳の秩序からの逸脱

婚姻の貞潔の徳に反して、避妊を実践して、第一の目的である出産を妨げながら性交渉を行うことで、配偶者とともに罪を犯すことがあり得ます。このような行為は結婚の範囲内にとどまりますが、それにもかかわらず、夫婦行為をその自然の第一の目的から切り離しているため、徳から逸脱することになります。姦淫の場合は他人の配偶者と婚姻外の、私通の場合は完全に婚姻外の性交渉を行うことによって、婚姻の貞潔の徳からさらに逸脱することがあり得ます。どちらの場合も、性交渉は婚姻の絆による安定した結合から切り離されています。

その他の罪は、性的な満足を性交渉そのものから切り離すもので、これらの罪の中には、ストリップクラブへ行くこと、ポルノを使うこと、自慰行為などがあります。いずれも、婚姻外だけでなく、婚姻において自然に一緒になるものを切り離すことで、性的な満足を得ることにより、徳の正しい秩序からさらに逸脱しています。このような罪では、快楽は、触れることなく視覚によって、あるいは個人と個人との関係なしに技術によって、あるいは他人がいなくても触れることによって得られます。これらの行為はすべて、性交渉そのものから切り離されており、個人同士の関係のない、まったく不毛なものとなっています。

自然の秩序からの逸脱:同性愛、トランスジェンダー主義

上記の貞潔に反する罪は、すべてが正しい理性によって確立された徳の秩序から逸脱していますが、それでも異性に対する自然の欲求や傾きはそのまま残っています。そうは言っても、人間が貞潔の徳から逸脱すればするほど、自然の秩序そのものが壊れ始めます。それについては、以下でさらに明らかになるでしょう。

自然の秩序に反する典型的な罪は、同性愛行為を通して、異性への傾きから逸脱することにあります。両性愛の行為やライフスタイルは、男女の違いを区別することさえせず、どこにでも性的満足を求めます。これは、多くの若い異性愛者が「一夜限りの関係」を通じて実践する、多くの性的パートナーとの無計画な性関係と類似しており、性交渉を最低限の特定の関係に制限することさえありません。

性的な逸脱やライフスタイルの中で最も憂慮すべきなのは、トランスジェンダー・イデオロギーです。ここでは、自然の秩序から逸脱した二つのカテゴリーに大別されるものがあるように思えます。

第一に、単に自分が異性だと認識するだけの人々がいます。これは、自分が違う種類の肉体を持っていると考えたり、想像したりする、主に心理的な状態にあります。肉体的な変更を求めずに、異性のスポーツ大会に参加したり、異性の浴室やロッカールームを使用したりすることを要求します。その結果、レイプや肉体的な性的虐待の事例が増加し、それは通常、自分を女性として認識している男性によって犯されることになります。性的衝動の強さを考えれば、男女の違いについて正しく考える人にとっては、このようなことは驚くことではないはずです。

第二に、「思春期ブロック剤」(puberty blockers)、ホルモン注射、肉体手術を受けて、自分がそうだと認識している異性の外見的特徴を獲得しようとする人々がいます。このような手術には、男性の場合は性器を、女性の場合は乳房を切除することや、異性の性器の「構築」などが含まれます。公式には、法律、医学、カトリックの道徳の枠内では、このような行為は、新しい子どもの生命を生み出して維持するために必要とする、健康で機能する肉体の一部を切除することです。このような切除は、無知で脆弱な犠牲者に対して頻繁にしつこく勧められるのとは逆に、元に戻すことはできません。また、その切除は、親の知らないところで、親の同意に反して、10代の若者、さらには思春期前の子どもたちに押し付けられることも頻繁にあるのです。

極端な悪徳がさらに多くの極端な悪徳を生み出す

社会が、ある極端な悪習をさらに受け入れ、さらに一般化するようになると、二つのことが頻繁に起こります。第一に、かつては当然と思われていた道徳の基本原則が疑われ始めること、第二に、社会に道徳の危機をもたらした小さな一歩一歩が簡単に忘れ去られることです。

カトリックの性道徳の基本原則を説明した上で、過剰な性的放縦という滑りやすい坂道が、まさに私たちが今いるところにいかにして私たちを連れてきて、私たちをLGBTプロパガンダの最前線に相対させているのかを説明したいと思います。

この文脈で注目すべきなのは、オープンな異性間セックスが過剰になると、欲望が満たされなくなるのは避けられず、現代のテクノロジーが指先に与えた、いつでも利用可能なポルノのようなものでしか、その欲望をなだめられなくなることです。インターネットやスマートフォンがどこでも利用可能になると、ポルノやそれに付随する性的満足は、ブラウザを開くだけで利用できるようになり、ポケットに入れてどこへでも持ち歩き、退屈な時間のほとんどで使えるようになっています。このような男女双方の目や想像力を使った私通は、結婚生活を破綻させる大きな原因の一つとなっており、その結果、過剰な視覚による性的刺激を受け続けるために性交渉ができなくなってしまうことさえあります。

このような状況において、私たちが扱おうとしているのは、単に婚姻内の性交渉から婚姻外の性交渉への移行だけではありません。むしろ、私たちが目撃しているのは、性交渉による性的満足から、性交渉を伴わない性的満足への移行、あるいは触れることや他人との親密な関係による性的満足から、触れることや親密な関係を伴わない性的満足への移行、あるいは自然に生命を生み出す性的行為から、新しい生命を生み出すことができない性的行為への移行なのです。

この最後の移行については、避妊、ポルノ、自慰行為、同性愛、トランスジェンダーの性行為に共通しているのは、子どもを得られないことであると認めなければなりません。このようなすべての行為において、性的快楽は、性交渉の主要かつ自然な目的である、新しい人間の生命を生み出す能力から切り離されています。この文脈において、避妊がいかに深刻なものであるかを、さらに深く理解することができます。たとえ婚姻内で行われたとしても、避妊は、出産の自然の秩序からの第一にして深刻な逸脱なのです。

また、不特定多数の異性との過剰な乱交は、不特定多数の同性との乱交の主要な原因の一つであることが、研究によって示されています。異性の肉体を単なる快楽の対象として完全に物とみなした後で、自分の同種の肉体も同様に物とみなせば、今度は同性から得られる性的快楽への転換は難しくないでしょう。同様に、避妊による異性との不毛な性交渉、ストリップクラブやポルノによる不毛な性的満足から、同性との性的満足を伴う不毛な性行為に移行することは簡単です。出産という最終目的がなければ、セックスは、異性への自然な傾きからさえも簡単に放たれてしまうのです。

同性愛により、男女を正しく区別する能力の崩壊が本格的に始まります。異性か同性かの確定した性行為から、両性との性行為を行うという確定していない流動性が、簡単に受け入れられるようになります。異性か同性かを選べるのであれば、同じ原理で両方を選んでもいいのではないでしょうか? その結果、同性に惹かれることを肯定して男性と女性の区別を維持した後、異性への傾きに戻るのですが、今度は同性に惹かれることを排除するわけではありません。なぜなら、両性愛者は単に、惹かれる対象として男女を区別しないからです。

性道徳における自然の秩序からの、両性愛者のライフスタイルの流動性からの、おそらく最も過激な逸脱においては、一方の性から異性への完全な「移行」が、男性または女性としての自身の肉体に不幸や不満を感じることの解決策になります。

このような「移行」は、同性愛から異性愛への一種の倒錯した回帰であり、あるいは異性愛から同性愛への倒錯した道です。同性愛の男性あるいはレズビアンの女性が異性に「移行」すれば、その同性愛的な愛は倒錯した形で「異性愛的」となり、その一方で、異性愛の男性や女性が異性に移行すれば、その異性愛的な愛はさらに倒錯した形で「同性愛的」となります。

悲劇的なことに、「移行」あるいは「脱・移行」した後、性的欲求自体が破壊され、新しい生命を生み出す能力が完全に損なわれることが頻繁にあります。その結果、新しい生命を生み出す可能性を奪われた関係、性交渉のない関係、そして性的欲求さえも奪われた関係になります。このような場合、自然からの逸脱がまさに完全になるため、自然な欲求がすべて破壊されてしまうのです。このようなイデオロギーによる真の犠牲者である「移行」手術を受けた人々が、若い年齢であっても自殺を考えることが頻繁にあるのも不思議ではありません。

今、学校や法律で、トランスジェンダー・アジェンダ(行動計画)の押しつけに最も率直な反対意見を持っている人々は、このような犠牲者たちなのです。


愛する兄妹姉妹の皆様からの特別のサポートと、お祈り、奉仕、それから忠実さ、信心、良い模範に心から感謝いたします。

2023年03月24日 | お説教・霊的講話

2022年12月31日 修道院ミサ 説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄妹姉妹の皆様、今日は一年の最後のごミサです。
教会の伝統に従って、今日御聖体降福式の時に、テ・デウムを歌いましょう。テ・デウムを歌うのは、年の最後の教会の習慣ですから。

今年、イエズス様から多くのお恵みをいただきました。多くの方々が聖伝のカトリックを発見して、これこそが本物だと、たくさんの方が集いました。

2020年には、復活祭は東京と大阪を合わせて80人でしたが、今年は180名でした。今年のクリスマスは少なくとも193名、夜中のミサにも来た人々を入れると200名以上の方々がミサに与りました。

日本中から、北海道から沖縄からまで多くの方々がミサに与りました。総長様やアジア管区長様の訪問もありました。6名の方々が洗礼を受けました。中には奇跡的に洗礼を受ける恵みを受けた方もあります。来年も、新年すぐに洗礼を受ける方々がいらっしゃいます。多くのお恵みを感謝いたします。

そして、愛する兄妹姉妹の皆様からの特別のサポートと、お祈り、奉仕、それから忠実さ、信心、良い模範に心から感謝いたします。皆様のその愛に、イエズス様が百倍の何百倍もの報いとして祝福してくださいますように、お祈りいたします。今日このミサは、クリスマスの時から毎日やっている皆さんのためのミサ、7回目をいま捧げています。どうぞ私の感謝、そして聖ピオ十世会の心からの感謝の気持ちをお受けください。来年も多くのお恵みが待っていると期待しています。これほど皆さんが寛大であるので、イエズス様も寛大でいらっしゃらないはずがありません。

今日、教会は聖シルヴェストロ教皇殉教者の記念も行っています。この祝日は、もともと年の終わりとは特に関係はなかったのですけれども、昔から、初代から、この12月31日に聖シルヴェストロのミサをします。この教皇様はどんな人だったのかと言うと、特にコンスタンティノというローマ皇帝に洗礼を授けたということで有名です。ローマ皇帝コンスタンティノは、キリスト教に迫害を中止して――お母さんが聖ヘレナです――そして自分はまだカトリックではなかったにも関わらず教会に平和を与えて、キリスト教は自由だ、と。

今までその直前まではローマ帝国の最大の迫害の時代だったのです。しかし、あっという間にそれを変えて、キリスト教に平和を与えました。教会は、地上に教会を建てることができるようになりました。カタコンベではなく、地上に建物を建てることができるようになり、そして今まで奪われてしまっていたような物を教会に返却したり、あるいはローマ皇帝が自ら進んで教会を建てるように援助しました。そんな時代の教皇です。聖シルヴェストロは、ニケア公会議を裁可した制裁した教皇様としても有名です。この教皇様は私たちに大きな希望を与えています。どんなに迫害があったとしても、どんなに苦しい時代があったとしても、お祈りの力はもっと強く、そしてあっという間に状況は変わることができるということです。

ぜひ、マリア様を通して聖シルヴェストロを通してこのお恵みをいただき、2023年が私たちにとってより良い恵みに溢れた年となりますように、お祈りいたしましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


「闇は光を知らなかった。これを受け入れなかった。しかしこの光を受け入れたすべてのものには天主の子供となる力が与えられた。」

2023年03月24日 | お説教・霊的講話

2022年12月25日 大阪夕方6時ミサ 説教

聖母の汚れなき御心聖堂へようこそ。
私たちの主の御降誕の喜びを申し上げます。

今日は私たちの主の御降誕ですから、イエズス様がお生まれになったその神秘を一緒に黙想いたしましょう。

天皇陛下に皇太子様がお生まれになった、男の子がお生まれになったとすれば、日本国民で大いに祝います。

今日お生まれになったのは、全宇宙の支配者、統治者、所有者、全能の永遠の御父の御ひとり子、永遠の御言葉、それによって全てがつくられて統治されている永遠の知恵、その全能の天主が、人となって、人間となって、初めて私たちのもとにお生まれになった。天使たちは、大声をあげて、歌を歌って、歓喜の喜びを捧げています。

人類は、この主の御降誕をどれほど喜ばなければならないでしょうか。この王の王のために、皇帝のさらに皇帝のために、きれいな壮大な宮殿、あるいはきれいな清潔なベッド、お付きの者もの、暖かいお部屋、金銀豪華な飾り、また羽毛の柔らかい暖かい布団などがもちろん準備されて当然です。なぜならすべてはこの方の所有物ですから。しかし、私たちの主がお生まれになった時には、私たちの思ったようではありませんでした。

天使たちが、牧場(まきば)の羊飼いたちにこう言います。「恐れることはない、全ての人々のための大きな喜びの知らせをあなた達に告げよう。ダビドの街で今日あなたたちのために救い主がお生まれになった。主キリストである。あなたたちは布に包まれて、まぐさ桶に寝かされてあるみどりごを見るだろう。それがしるしだ。」

王の王は、生まれた時に、自由に身体を動かすことができませんでした。布に包まれておられました。あたかもゲッセマネの園にて逮捕されて縄目を受けて縛られることをすでに受け入れていたかのように、堅く包まれています。鞭打たれるために柱に縛られているのをすでに受け入れたかのように、十字架に釘付けられるのをすでに受け入れられているかのように、布の中に閉じ込められていました。ご聖櫃の中に世の終わりまでずっと閉じ込められて、そして私達の愛を待っている御聖体を予告するかのようでした。

なぜかと言うと、私たちは罪の奴隷となって悪魔と地獄の鎖にしっかりと縛られて身動きができない状態であったからです。これを解放するために、全能の天主は私たちのためにご自分の自由を全て捧げて放棄して、私たちを自由にしようとしました。イエズス様はこうやって、固く結ばれて私たちと愛によって結ばれることをお望みである、ということを言いたいかのようです。イエズス・キリストを着るように、イエズス・キリストの聖寵の衣を着るように、私たちに招いているかのようです。

天使たちによると、キリストのしるしは布に包まれてそしてまぐさ桶に置かれてある、と言います。まぐさ桶というのは、動物が食べる餌の入れ物なんです。えっ、全能の天主のお生まれになるところは暖かい羽毛のベッドではないんですか? 動物の食べ物の入れ物の上に置かれていました。心地よいものではありませんでした。痛く、家畜のためのものでした。何という屈辱だったでしょうか。

なぜかと言うと、なぜこのようにこれほどの屈辱を受けたかと言うと、なぜ地上の暖かい快適なものを放棄してこの動物のためのものの中に置かれていたかというと、それは私たちに一番良いものを与えるためでした。なぜかというと、私たちは罪と悪魔の奴隷となって、汚らわしいものだけを見つめて、汚らわしいものだけを食べて、そして汚らわしいものに身を捧げて、汚(きたな)らしくなっていたからです。

それから救うために、ご自分はむしろ動物のものの中に飛び込んで、そして私たちをもっと高く天主のものへと引き揚げようとされたからです。こうやってイエズス様は、私たちのためにどんなことでも、どんな苦しいことでも喜んで捧げることができると、私たちに示して下さいました。

天使の言葉によると、みどりごがそのしるしだとあります。みどりごというのは、赤ちゃんという小さな可愛いかよわい優しい愛らしい話すこともできない赤ちゃんという意味ですね。えっ、全能の知恵が、永遠の知恵が話すこともできないこんなちっぽけな赤ちゃんになったんですか? ハイ、それは私たちが力あるものになることができるため、私達が偉大なものとなることができるため、私たちが知恵のある者となることができるために、その交換にご自分はむしろ小さくなられました。

また、アダムとエワは罪を犯した後に、天主が探していた時、「アダム、お前はどこにいるんだ」と言った時に隠れました。なぜかというと、恐れたのです、罰を受けるかと。しかし、こんなに可愛い赤ちゃんであれば、誰が恐れることができるでしょう。こんなに可愛らしい赤ちゃんが、しかも手がくるまって、私たちを罰することもできない状態でおられます。

これは、全て私たちをどれほどお愛しになって、そして私たちの愛をどれほど求めているかということを教えるためでした。

主は旅人として生まれました。ナザレトからベトレヘムまで旅の間に、人間のための家ではなく家畜の小屋にお生まれになりました。いったいなぜ? それは私たちにメッセージがあったからです。私たちも旅人だ、天国への旅人だ、この地上のモノに愛着することはできない、もしも私たちが地上のことに愛着していたら、イエズス様の愛が入る余地がなくなってしまう。

ところで、これほど私たちのためにお愛しくださる天主を、残念ながら人々は受け入れようとしませんでした。お生まれになるその最初から、宿屋はイエズス様のためにありませんでした。お生まれになったその直後から、それを聞いたヘロデはイエズス様を殺害しようとします。最後も、ローマ総督ポンシオ・ピラトがイエズス様を亡き者としようとします。いったい、私たちを愛する主が、なぜこのように迫害されるのでしょうか?

今日の福音では、聖ヨハネはこう言います。「闇は光を知らなかった。これを受け入れなかった。しかしこの光を受け入れたすべてのものには天主の子供となる力が与えられた。」

愛する兄弟姉妹の皆様、今日私たちの主は、私たちの本当の幸せ、本当の宝、本当の知恵、本当の喜びがいったいどこにあるか、そしてそれを私たちに与えるためにお生まれになりました。主は変わることはなく、私たちの喜びも変わることがありません。永遠に残る確実な幸せ、これを主が今日私たちに与えるためにお生まれになりました。この主の御降誕を心からお祝いいたしましょう。そして、イエズス様に「私たちの心にも来て下さい、生まれてください」とお祈りいたしましょう。

この祝日があるはマリア様のおかげです。マリア様だけが私たちにイエズス様をお与えくださったからです。マリア様にぜひお願いして、私たちにいつもイエス様を離れることがないように、この特別の恵みを請い願いましょう。


ベトレヘムでの幼子イエズス様を真似する

2023年03月24日 | お説教・霊的講話

2022年12月25日 東京 ミサ説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄妹姉妹の皆様、私たちの主、イエズス・キリストのご降誕の喜びを申し上げます。
今日お生まれになった、イエズス・キリストの黙想を一緒にいたしましょう。

ある王国で王子様が、初めての王子様がお生まれになった、王国を継ぐ方が生まれになったとすると、その国ではどれほどの喜びがあることでしょうか。これでこの王国も安定する、ついに王子さまが与えられた!人類は4000年間、救世主の到来を待っていました。ついに天地の創造主、全世界の所有者、星々も支配しており、動物も支配して、全宇宙を統治しておられる御方の御ひとり子が、私たちのもとにお生まれになった!人間としてお生まれになった!天から降(くだ)って来られた!私たちのために来られた!何と喜ばしい知らせでしょうか。

天の大群は、このことを牧場(まきば)の羊飼いたちに知らせて、「天のいと高きところには天主に栄光、地には善意の人には平和あれ!」と大きな歌を歌いました。

ところで、主が初めて私たちのもとに来られた時、人間として来られた時のそのご様子は、私たちの想像するものと全く違っていました。

王様ですから、きっと立派な御殿や宮殿、きれいな寝台で、清潔なお部屋で、おつきの者もたくさんいて、豪華な金と銀のまばゆきのあるお部屋で、暖か-くスヤスヤと羽毛の中にくるまってお眠りになっていられるのではないか。

でもそうではありませんでした。預言の通り、主は、旅人として、まぐさ桶の中に置かれてお生まれになりました

天使は、羊飼いたちにこう言いました。「キリストがお生まれになったそのしるしはこれである。布に包まれて、まぐさ桶に寝かせてあるみどりごだ」と。

布に包まれておられました。よく絵を見ると、イエズス様が真っ裸で~というのがありますが、それは本当ではありません。マリア様は、イエズス様を布に固く包んで置かれました。なぜでしょう。

なぜかというと、イエズス様は、私たちが罪と悪魔と地獄の鎖に繋がっているので、それを解放するために、あえて御自分が包まれていたのでした。身動きできないようにされていたのでした。なぜかというと、私達が自由を乱用して悪く使って天主に逆らったからです。イエズス様は従順に従いました。

ちょうどこの布に包まれているイエズス様をご覧になると、きっとイエズス様の人生をさまざまと思い浮かべるかもしれません。

あぁイエズス様はゲッセマネの園にて逮捕されて手足を縛られた時のことを、すでにこうやって準備されているのかなぁと。イエズス様が鞭打たれたときに柱に縛りつけられた時、やっぱり幼子の時から準備されているのかなぁと。十字架に釘付けにされて手も足も動くことができない時、あぁ幼子の時から手足を縛られているのかなぁと。また世の終わりまで御聖櫃の中に御聖体としてじっとして留まっている時、私たちを待っておられる時に、あぁイエズス様はすでに布に包まれて御聖体としておなりになる準備をされているのかなぁ、と思われるのかもしれません。

私たちには、二つに一つしかありません。
イエズス様と一緒に包(くる)まれて一緒に結ばれているか、そして、悪魔と切り離されている。
あるいは、悪魔の奴隷となって鎖につながれて、イエズス様と離れているかです。
イエズス様は自分が包まれることによって「さぁ私と一緒にこちらにおいで」と招いておられます。

マリア様はどうして、ご自分の胸にイエズス様を抱いておられずに、堅いまぐさ桶に動物の餌が置かれているところに置かれたのでしょうか。

聖人たちはこのことを黙想して「これは本当に深い神秘だ、きっと聖霊がマリア様にこのことを教えたに違いない」と言っています。

ベトレヘムというのは、つまりパンの家と言う意味です。ベト・レヘム。まぐさ桶は、動物が食べる餌が置かれる場所です。イエズス様は、ご自分が御聖体となって私たちのために食べられるものとなるということを、すでに幼い時から暗示していたかのようです。イエズス様のためには堅い心地の悪い痛かった藁屑の上しかベッドがありませんでした。動物の餌の上でした。何という屈辱でしょうか、天主に対して!

アシジの聖フランシスコは、イエズス様がこのまぐさ桶の上に置かれたというのを食事中に聞いて、いきなり涙を流して立ち上がって、そして自分は床の上に身を投げ出して、残ったご飯を少し食べ、食事を終えたそうです。イエズス様がこんなにも苦しんでおられるのにどうして私は椅子に座ることができようか、と言ったそうです。そして、イエズス様の苦しみを想って涙に明け暮れていたと、伝記に書いてあります。

では、いったい何でイエズス様はこんなに小さな赤ちゃんになったのでしょうか。それは私たちを偉大なものとするためです。私たちを、天主のような、天主の命に与らせるためでした。私たちが恐れずにイエズス様に近寄ることができるために、かわいい何もすることができない何も言うこともできない赤ちゃんとなって、ちっぽけな赤子となって、お生まれになりました。

ですから、どんなに貧しいもの、どんなに罪人も、どんな人でも、子供も大人も恐れることなくイエズス様の近くに行って「イエズス様、お愛ししています」ということができるためでした。

イエズス様は、何でこんなに貧しくなられたのでしょうか。それは私たちを本当に豊かにするためでした。同時に、私たちに、本当の宝がどこにあるかということを教えるためでした。

なぜかと言うと、この地上のものはあっという間に過ぎ去ってしまうからです。この地上のものに愛着するがために、この地上のものを欲しがるがために、多くの人は罪を犯します。嘘をついたり、盗んだり、あるいは他の人に害を与えたり…。しかしイエズス様は「そんなことは重要ではない、主を愛することのほうがもっと重要だ、その主を愛するがために苦しみを捧げることの方が重要だ」と教えています。

この幼いイエズス様、貧しいイエズス様を見て、「全能の天主が私達を富ますために、これほど謙遜になられたのならば」と、多くの人々がイエズス様を倣った生活をしました。

聖ベネディクトという有名な修道士がいます。青年真っ盛りの時に、お父さんの家の莫大な財産を、快適な生活を全て放棄して、モンテカッシーノという山の洞窟に行って、祈りの生活を始めました。イエズス様に倣いたい…と。

アシジの聖フランシスコもそうでした。お父さんには自分の財産を全て与える、着ていた服も返して、イエズス様と同じようになりたい…と修道生活を始めました。

大修道院長聖アントニオという人も、祖先からの莫大な財産を全て売り渡して、そして貧しい人に配って、自分は砂漠で祈りの隠遁生活を始めました。

聖フランシスコ・ボルジアという人もいます。スペインの宰相でした。首相でした。スペインの女王様の死を見て、あー人間は死ぬとみんな蛆虫になるんだな、と自分の地位と財産をすべて捨ててイエズス会に入りました。

皆、イエズス様のベトレヘムでのこの幼子を真似して、このような生活をしたのでした。

そのような人々は世界中にたくさんいます。そしてそこに、イエズス・キリストのうちに、本当の喜びと宝を見出したのでした。なぜかと言うと、地上のことに愛着をして、地上のことでいっぱいの人には、イエズス様が入る余地がなくなってしまうからです。ちょうどベトレヘムの家には、聖ヨゼフとマリア様を受け入れる場所がなかったのと同じです。

愛する兄妹姉妹の皆さん。ですから、主が、どれほどこのような私たちをお愛ししてくださっているか、私たちをどのように富ませようとしているか、どのように力あるものとするのか、偉大なものとしようとされるかを、そのためにご自分はますますちっぽけな赤ちゃんになられたことを黙想して感謝いたしましょう。ここに三位一体の究極の愛があります。私たちがどれほど愛されているかということの証拠があります。

では、マリア様にお祈りしましょう。マリア様こそが、私たちに主を与えてくださいました。マリア様を通さなければ、私たちはイエズス様を受けることができません。イエズス様の富を受けることができません。是非マリア様に、このお恵みを今日お求めいたしましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


旧約聖書のヤコブの子である太祖ヨゼフがどういう人物かを見れば、聖ヨゼフがどういう人物で何をするのかということが部分的に明らかになる

2023年03月23日 | お説教・霊的講話

聖ヨゼフと太祖ヨゼフについての説教

ドモルネ神父 2023年3月19日

はじめに

今日は四旬節第4主日で、聖ヨゼフの祝日は明日の月曜日に延期されました。それでも、今日は聖ヨゼフについてお話ししようと思います。聖ヨゼフは、とても控えめな人物です。聖ヨゼフの尊厳と、世界の歴史と私たちの人生において果たす大きな役割を、さらによく理解するためには、聖ヨゼフの予告となった、かたどりの人々のことを考察するのが、大変役に立ちます。聖ヨゼフの予告となった人々のうちで、今日は、旧約聖書に登場する、ヤコブの子である太祖ヨゼフのことを考察してみましょう。太祖ヨゼフがどういう人物で何をしたのかを見れば、聖ヨゼフがどういう人物で何をするのかということが、部分的に明らかになるのです。

1.ヨゼフの美しさ

ヤコブの子であるヨゼフは、肉体的にも精神的にも非常に美しい人物でした(創世記49章22節を参照)。彼は、父から特に愛されました。そして、その愛のしるしとして、父はヨゼフに、兄弟たちと見分けるための「そでの長い服」【創世記37章3節】を与えました。

ダヴィド王の血を引く聖ヨゼフは、肉体的にも精神的にも非常に美しい人物でした。童貞聖マリアと結婚したとき、彼は老人ではなく、美男で高貴な若者でした。年老いた聖ヨゼフが聖母と結婚するというイメージは、霊感のほとんどない芸術家たちが創作したものです。聖ヨゼフは、あらゆる女性の中で最も美しい、童貞聖マリアにふさわしい夫となることが予定されていました。ですから、マリアの肉体的、道徳的な美しさは、ヨゼフの肉体的、道徳的な美しさにぴったりでした。天主は、聖ヨゼフを特別に愛されたため、他のすべての聖人と見分ける恩寵、他のすべての聖人より高く上げるという恩寵を与えられました。聖書では啓示されていませんが、おそらく聖ヨゼフも、洗者聖ヨハネや預言者エレミアのように、母親の胎内にいるときに原罪から清められていたのでしょう。

2.ヨゼフの貞潔

ヤコブの子であるヨゼフは、英雄的な貞潔の徳で卓越していました。実際、エジプトで奴隷だったとき、彼は主人の妻と姦淫を犯すよりも、偽りの告発を受けて一生の間牢に入れられる方を選びました。

ダヴィドの子である聖ヨゼフは、さらに完全に貞潔でした。彼自身、生涯童貞の誓いを立てており、聖霊の浄配であるマリアの童貞性を、完全に尊重しました。若くて美男の聖ヨゼフが、生涯にわたって悪しき望みを持つことなく、最も美しい女性である童貞聖マリアと同居することが、果たして可能だったのでしょうか? そうです、可能だったのです。そのわけは、天主の恩寵は他の何よりも力あるものであり、聖ヨゼフが天主の恩寵に満ちていたからです。また、マリアの美しさは、男性の心に抑えきれない愛を起こさせますが、それは完全に純粋な愛だからです。

3.天主の神秘の確信者であるヨゼフ

ヤコブの子であるヨゼフは、天主の神秘についての知識の中に招き入れられるという特権を得ました。天主は彼に、ファラオの夢を理解する力を与えられました。天主はヨゼフに、将来のこと、つまり、7年間の豊作と7年間のひどい飢饉が到来することをお見せになりました。

ダヴィドの子である聖ヨゼフは、さらに偉大な天主の神秘についての知識の中に招き入れられました。聖ヨゼフは、ご托身の神秘の啓示、すなわち、聖霊の御働きによって童貞聖マリアのご胎内で人となられた御子なる天主の神秘の啓示を、真っ先に受けた人でした。マリアを除けば誰よりも、彼はこの神秘を深く理解する力を与えられました。そして、聖三位一体の神秘、ご托身の神秘、贖いの神秘は密接に関連しているため、聖ヨゼフは、聖三位一体の神秘と贖いの神秘についての知識に深く招き入れられました。

4.賢明な管理者である聖ヨゼフ

ヤコブの子であるヨゼフは、非常に賢明な管理者でした。彼がエジプト人ポティフアルの家と財産を管理していたとき、その家に繁栄と豊かさが流れ込みました。彼がファラオの国を管理していて、ひどい飢饉のときに、「彼は、エジプト人とその隣人たちの必需品を非常に賢明に提供したため、王は、彼を世界の救い主と呼ぶようにと定めた」(レオ十三世)。ですから、王は民に対して、必要とするものを受け取るために「ヨゼフのところに行け」と言いました。

聖ヨゼフは、ヤコブの子であるヨゼフよりもさらに賢明で、さらに力ある管理者でした。教皇レオ十三世の言葉に耳を傾けてみましょう。「聖ヨゼフは聖家族の守護者であり、管理者であり、正当で自然な擁護者であった…。彼は、自分の浄配と天主なる御子を、家長としての愛と日々の配慮をもって、保護することに専念した。彼は、二人の衣食に必要なものを、きちんと自分の仕事によって得た。王のねたみで脅かされる幼子を、避難所を提供することで死から守った。旅のときの不便さや、エジプトに逃れた際の苦しみの中でも、彼は常に、聖母とイエズスの伴侶であり、助け手であり、支え手であった」。聖ヨゼフは、キリストの神秘体、すなわちカトリック教会に対して、同じ父としての配慮をもって、非常に賢明な管理をし続けています。また、天主は私たちに対しても、エジプト人に対するファラオのように、私たちが必要とするものをヨゼフから受け取るために、「ヨゼフのところに行け」と言っておられるのです。

5.パンを与える者である聖ヨゼフ

ヤコブの子であるヨゼフは、エジプト人にパンを与える者でした。大飢饉の時代に、飢えたエジプト人が食べ物を求めて彼のところに来たとき、彼は、賢明にも自分の倉庫に蓄えておいた小麦を、彼らに与えました。しかし、それだけではありませんでした。ヨゼフは、彼らにパンを与える際、その引き換えに、彼らの土地をすべて王に明け渡させたのです。こうして、ヨゼフのおかげで、ファラオはエジプト全土の所有者となり、エジプト人はすべてファラオのしもべとなりました。

ダヴィドの子である聖ヨゼフは、それ以上のことをしています。聖ヨゼフは30年の間、天から下ったパンである私たちの主イエズス・キリストの守護者でした。彼は、永遠の救いのためにイエズスを人間に与える時まで、イエズスを大切に守り、保護しました。聖ヨゼフの栄光は、私たちにイエズスを与え、私たちに、自分自身と持っているすべてのものを、イエズスのために捧げるようにさせることです。しかし、イエズスは、マリアを通してのみ私たちのところに来られ、マリアを通してでなければ、私たちから何も受けようとはされませんから、聖ヨゼフの栄光は、私たちをマリアに導くことなのです。皆さんはイエズスをお愛ししたいですか? では、マリアのところへ行ってください。マリアをお愛ししたいですか? では、ヨゼフのところへ行ってください。イエズス・マリア・ヨゼフ、このお三方を切り離すことはできないのです。

結論

親愛なる信者の皆さん、最後に、フランシスコ会士、カザーレのウベルティーノの、素朴で美しい祈りを引用します。彼は14世紀の初めの、聖ヨゼフの最初の偉大な信奉者の一人でした。

「幸いなるヨゼフよ、われらを思い出し給え、また、御身の祈りの取りなしによりて、天のパンを常にわれらに与え給え。かたじけなくも、御身の浄配なる童貞聖マリアをして、われらを好ましく思わしめ給い、われらふさわしくなき者なれど、聖母がわれらを最愛の子として養子とされんことを、聖母に取りなし給え」。アーメン。


布に包まれてまぐさ桶に寝かされてあるみどりご:あたかもゲッセマネの園での逮捕、鞭打ちの時に柱に縛られること、十字架の上での釘付け、御聖体として御聖櫃の中にとどまることを受け入れていたかのよう

2023年03月22日 | お説教・霊的講話

2022年12月25日 大阪 真夜中のミサ 説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄妹姉妹の皆様、
私たちの主イエズス・キリストの、聖なる御降誕のお慶びを申し上げます。

今日は一緒に、ベトレヘムの厩(うまや)で私たちのためにお生まれになった主イエズス・キリストについて、一緒に黙想いたしましょう。

今日お生まれになったお方は、全宇宙を創られた最高の主権者、全能の、永遠の至福の天主であります。全宇宙、果てしない銀河、すべては、この主の所有物です。動物も植物もみな、主のものです。支配しておられます。王の王、そのすべて御手の内にあります。その天主、永遠の御言葉が、今日人間として、小さな赤ちゃんとして、私たちのためにお生まれになりました。

その時、今日福音で読んだように、主の栄光が辺りを照らして、近くにいた羊飼いたちに、こう告げます。「恐れることはない。すべての人々のための大きな喜びの幸せを、あなたたちに告げよう。今日ダビドの町で、あなたたちのために救い主がお生まれになった。すなわち、主キリストである。あなたたちは、布に包まれてまぐさ桶に寝かされてある嬰児(みどりご)を見るだろう。それが印である。」

この全能の天主が人間となって、私たちのために生まれた時には、いったいどれほど大きな大宮殿が必要で、どれほどきれいなベッドが必要だったことでしょうか。もしも冬にお生まれになるのでしたら、羽毛の毛布あるいは暖かいお部屋、きれいで清潔な場所、そして何百人もの召使い、そしてしもべたちが側(そば)について、大歓迎をするはずです。

しかし天主の御ひとり子が、全てを所有された方が、私たちのためにお生まれになった時には、誰も主を迎え受ける人はいませんでした。主が生まれたのは馬小屋でした。洞窟でした。寂しい、暖房もベッドもない、何もない、寒いところに寝かされてお生まれになりました。暖房としてあったのは、動物の口から出る息ぐらいでした。

いったいなぜ、主はこれほどまでに小さくなって、これほどまでに貧しくお生まれになったのでしょうか。

天使は羊飼いたちに言います。「布に包まれてまぐさ桶に寝かされてある嬰児(みどりご)を見るだろう」。布に固く縛られて自由もなく包まれている赤ちゃん、これは自分の自由を捧げて私たちを罪から自由にするためでした。なぜかと言うと、私たちは罪の奴隷になっていて、罪にくるまっていたので、これから解放するために、あえてご自分で進んでくるまるのを望んでいたかのようです。

あたかもゲッセマネの園で逮捕される、縄目で縛られることをすでに受け入れていたかのようです。すでに鞭打たれる時に柱に縛られるのを、赤ちゃんの時から受け入れていたかのようです。十字架の上で釘付けにされて、身動きができない将来を、すでに受けいれていたかのようです。御聖体のうちに、世の終わりまで御聖櫃の中にとどまることを、すでに受け入れたかのようです。

まぐさ桶に寝かされていたというのは、まさに動物の食べる餌の置かれるその桶に置かれたということですから、まさにベトレヘム、つまりパンの家で生まれた主が、私たちのために食されるために置かれるというのは、すでに御聖体のことを暗示していたに違いありません。

この全能の天主が、こんなにも小さな弱々しい可愛らしい、身動きもできない、話もできない赤ちゃんとなって生まれたのは、一体何故でしょうか。それは、こうすることによって、天主が私たちをどれほどお愛しになっているかということを、伝えるためでした。愛のために、主はこれほどまでになさいました。なぜかと言うと、私たちが主を簡単に愛することができるようになるためです。恐れて近寄らないのではないかということを、恐れました。赤ちゃんならば、誰でも近寄ってくれるだろうと思いました。赤ちゃんならば、誰もが愛するだろう、こんなに貧しいものであるから、誰でもが近寄るであろう、と。ここに、主の深い愛があります。無限の愛があります。

どうぞ今日、イエズス様を心からお愛しして、私たちの胸に受け入れましょう。「主よ、イエズス様、来てください」と言いましょう。なぜかと言うと、聖なる2022年前の、聖なる夜、主を受け入れる人は誰もいなかったからです。しかし、少なくとも今夜、私たちの心はイエズス様のために開かれています。聖家族のために開かれています。「イエズス様、マリア様、ヨゼフ様、来て下さい。」

イエズス様は、私たちに、地上のものに愛着をしてはいけないということを教えています。なぜかというと、この地上のものに愛着するがために多くの人は、ちょっとしたお金のために、ちょっとした名誉のために、嘘をついたり、盗んだり、あるいは時には人を害したりしているからです。そうではなくて、それよりもむしろ苦しんでも、天主を愛する方がよっぽどよいと、幼子イエズス様は教えています。

私たちは、イエズス様がちょうど旅の途中でお生まれになったように、私達も旅人です。天国に行く旅人です。ですから、イエズス様の近くにいて天国にイエズス様と一緒に行こうと 招いておられるのです。さあ、私のもとにおいで!と。

最後に、マリア様にお祈りしましょう。マリア様が、私たちにイエズス様を与えてくださるのは、永遠の昔からの主の御計画でした。天主御父はマリア様を通してのみ、イエズス様を私たちに与えるようと思いました。天主御子は、マリア様を通してのみ、私たちのためにお生まれになろうと計画されました。天主聖霊は、マリア様の御胎内を通してのみ、イエズス様を形づくろうと思われました。マリア様なしに私たちはイエズス様を受けることはできません。

マリア様にぜひ今日このクリスマスの夜に、お祈りしましょう。どうぞ私たちの心に、イエズス様を生みだしてください。マリア様がイエズス様をいつもお持ちになったように、私たちにもイエズス様を抱く喜びを与えてください。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


ルフェーブル大司教を擁護する:【付録】ルフェーブル大司教の賢明の徳

2023年03月21日 | カトリックとは

ルフェーブル大司教を擁護する:【付録】ルフェーブル大司教の賢明の徳

In defence of Archbishop Lefebvre

付録1 ルフェーブル大司教の賢明の徳

ルフェーブル大司教は、司祭生活の最初から行動の人でした。アフリカで神学校校長、宣教責任者、モルタンの修練院長、教皇使節にしてダカール大司教として責任ある立場にあり、次に聖霊修道会総長、そして聖ピオ十世会の創立者にして初代総長でした。さて、指導者に求められる特別な徳は、賢明の徳です。ルフェーブル大司教の賢明さは、超自然の賢明さであり、自分の意志ではなく、天主の御摂理によって現れた天主のご意志に注意深く対応するものでした。大司教は祈り、助言を求め、信仰の原則に照らして状況を徹底的に分析し、次に勇気をもって決断し、実行しました。大司教がかかわったものはすべて繁栄しました。おそらくそれは、大司教が自分の意志ではなく、まさに聖なる天主のご意志を探し求めていたからでしょう。

大司教は、これまでの宣教で、「通常ではない」(extraordinary)状況に対処することに慣れていたのであり、これは、欧州では通常の司祭(あるいは司教)が直面することのなかったものでした。ですから大司教は、私たちの状況が【宣教地の状況に】いかに似ているものであるかを、エコンでよく私たちに説明してくれました。

さて、聖トマス・アクィナスの教えによれば、賢明には或る特別な徳、つまり賢明の「能力の部分」(potential part)があり、それはまさに、例外的な状況下で何をすべきかについて正しい判断を下す能力を扱うものです。
「さて、通常の行動規則が当てはまらないことをしなければならない場合が時に起こる。…それゆえ、通常の法よりも高度な原則に従って、そのような事柄を判断する必要がある。…そして、そのようなより高度な原則に対応して、より高度な判断の徳を持つ必要がある。それは、『明察』(gnome、γνώμη)と呼ばれ、判断におけるある種の洞察力(perspicacity)を意味する」。

洞察力とは、状況あるいは環境を機敏に評価して、健全な結論を引き出す能力と定義されています。ルフェーブル大司教にはその徳があったのです。ルフェーブル大司教が教会の通常の法に従わなかったことを非難する人々は、教会の危機という例外的な状況を無視または否定しているように思えます。このことは、重大な見落としであり、彼らが明察(gnome)を持っていないことを意味しています。

ルフェーブル大司教は、4人の司教を聖別するという決断のために、文字通り何年も費やして内省し、祈り、助言を求めました。これはおそらく、大司教の人生の中で最も重要な決断でした。大司教は「天主の御摂理のしるし」を待ち、それはやって来ました。つまり、アッシジの諸宗教の集会と、「疑問点」へのローマからの回答でした。こういった非常に重大な誤謬をもっていない聖職者を信者が切実に必要としていることを示していました。

大司教は、アッシジの後の教理上の混乱という非常に「通常ではない」(extraordinary)状況の中で、霊魂の善のために、聖伝の存続のために、その決断を下したのです。ですから、聖伝は生き延びました。結実によって、天主は大司教の決断の正しさを示され、いつの日か教会もその決断を認めることになるでしょう。そのとき、大司教に、「並外れた」(extraordinary)程度の、これらの徳があったことが、認識されることでしょう。

付録2 ルフェーブル大司教の遺書

「愛する兄弟の皆さん、私は最後に、私の遺言と呼ぶべきものを述べたいと思います。遺言とは非常に深遠な言葉ですが、その理由は、私はこれを、私たちの主の遺言『Novi et aeterni testamenti.』(新たにして永遠の契約【遺言】)をまねたものにしたいと思っているからです。

『Novi et aeterni testamenti』――尊き御血の聖変化の際にこの言葉を唱えるのは司祭です――『Hic est enim calix Sanguinis mei: novi et aeterni testamenti.』(これ、新たにして永遠の契約なる、わが血のカリスなればなり)。イエズス・キリストが私たちに与えられたこの遺産、それは主のいけにえであり、主の御血であり、主の十字架です。すべてのキリスト教文明を、救いに必要なすべてのものを醸成させるものなのです。

ですから、私も、同じように、皆さんにこう言います。

●至聖なる三位一体の栄光のために、
●私たちの主イエズス・キリストへの愛のために、
●童貞聖マリアへの信心のために、
●教会への愛のために、教皇への愛のために、
●司教、司祭、すべての信者への愛のために、
●世の救いのために、霊魂の救いのために、
●私たちの主イエズス・キリストのこの遺言を守りなさい!
●私たちの主イエズス・キリストのいけにえを守りなさい。
●全時代のミサを守りなさい!

そうすれば、皆さんは文明が再び栄えるのを見るでしょう。この世の文明ではなく、天であるカトリックの国へと至る文明です。この世のカトリックの国がつくられているのは、他の何物のためでもなく、まさに天のカトリックの国のためなのです。

ですから、私たちの主イエズス・キリストの御血を守り、主のいけにえを守り、このミサ――先人たちから私たちに遺言として残されたこのミサ、使徒の時代から今日に至るまで伝えられてきたこのミサ――を守ることによって、です。あと少しで、私はこの言葉を叙階式のカリスの上で発しますが、50年前にこの同じカリスの上で発した言葉以外を、叙階式のカリスの上で発するなどと、どうして考えることができるでしょうか――それは不可能です! 私にはこの言葉を変えることなどできません! したがって、私たちは、先人たちが教えてくれたように、また、私たちの教師であった教皇たち、司教たち、司祭たちが教えてくれたように、私たちの主イエズス・キリストが統治されるよう、私たちの天の良き母の御取り次ぎによって霊魂が救われるよう、この聖変化の言葉を発し続けるのです。

アーメン!」。

今から20年前の1989年11月19日は、ルフェーブル大司教様の司祭叙階60周年でした - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

 

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大麦のパン五つと魚二匹の奇跡は現代でも 続いています|レターレの主日の教会の喜びの3つの理由

2023年03月20日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2023年3月19日は四旬節第四主日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「四旬節第四主日説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本にチャンネル登録もお願いいたします。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
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