Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

私は御身を信じ、礼拝し、希望し、御身を愛します!御身を信じぬ人々、希望せず愛さぬ人々のために、赦しを求めます(天使の祈)

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
2018年 10月の聖伝のミサの予定
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】


10月
ロザリオの月です。ロザリオを毎日できれば家族で唱えましょう。
意向:人々がイエズス・キリストを王として愛し従うため
実践すべき徳:沈潜
守護の聖人:聖シモンと聖ユダ・タデオ

愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)にご招待します

◎2018年 10月の予定
【大阪】聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂(アクセス EG新御堂4階 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 〒532-0002
(JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分)

    10月5日(初金)聖霊降臨後の平日(4級)緑 殉教者聖プラチドとその伴侶の記念
            午後5時半 ロザリオ及び告解 
            午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

    10月6日(初土)証聖者聖ブルノ(3級祝日)白
            午前10時 ロザリオ及び告解
            午前10時半 ミサ聖祭(歌ミサ)

    10月14日(主)聖霊降臨後第21主日(2級)緑
            午後5時半 ロザリオ及び告解 
            午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

    10月15日(月)童貞聖テレジア(3級祝日)白
            午前6時 ミサ聖祭

    10月19日(金)証聖者アルカンタラの聖ペトロ(3級祝日)白 ←司祭黙想会のためキャンセルとなります、何卒ご了承ください
            午後5時半 ロザリオ及び告解 
            午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

    10月20日(土)証聖者ケンティの聖ヨハネ(3級祝日)白  ←司祭黙想会のためキャンセルとなります、何卒ご了承ください
            午前10時 ロザリオ及び告解
            午前10時半 ミサ聖祭(歌ミサ)

【東京】東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図) 「聖なる日本の殉教者巡回聖堂」
    10月7日(主) 聖霊降臨後第20主日(2級)緑  ロザリオの聖母の記念 
            午前10時  ロザリオ及び告解
            午前10時半  ミサ聖祭(歌ミサ)

    10月8日(月) 寡婦聖ビルジッタ(3級祝日)白
            午前7時 ミサ聖祭

    10月21日(主) 聖霊降臨後第22主日(2級)緑 
            午前10時  ロザリオ及び告解
            午前10時半  ミサ聖祭(歌ミサ)

    10月22日(月) 聖霊降臨後の平日(4級)緑
            午前7時 ミサ聖祭

愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております。

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2018年4月8日 「白衣の主日の2つのメッセージ」

2018年04月30日 | お説教・霊的講話
2018年4月8日(主日)白衣の主日のミサ
小野田神父 説教


聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。

今日は2018年4月8日、復活の八日間の白衣の主日のミサを行なっております。

主日のお知らせが3つほどあります。

まず予定です。今日のこのミサの後にはいつものように、14時から公教要理と、あと次の4月22日のミサの聖歌の練習もしたいと思っています。これは復活祭のお休みのような感じでいらして下さい。16時から晩課があります。

明日は朝7時からマリア様の御告げの移動された祝日があります。ちょうど枝の主日であったが為に、マリア様の祝日が明日に移動されています。

第2は、大阪の信徒の方ですが、聖木曜日に霊魂を天主様の元に帰らせました。モニカさんで、私たちの教会には約20年ほど通って、いつも必ず通って来た方です。亡くなる前には終油の秘跡も、そして最後の御聖体拝領も受け、そして大阪で昨日葬儀ミサもしてきました。そこでもしも皆さんも、何かいざという時に、あるいは病気だ、あるいは何か司祭の秘跡を必要としている、病気の方がいらっしゃる、あるいは…という時には是非、あるいは会長様か、あるいは私に直接、何か私どもに一言ぜひ連絡して下さい。21世紀ですから、もう距離は関係ありません。ですからどうぞ何も心配せずにご連絡を下さい。

第3のお知らせは、聖ピオ十世会のオブレート奉献修道女の修練院長様から連絡を受けて、私たちのミサに与っていた姉妹であるヨゼフィーナさんが、今度の6月27日に、マリア様の絶えざる御助けの聖母の日に着衣式をされるとの事です。どうぞ皆さんのお祈りと、良い儀式ができますようにお願いします。もちろん7月には聖ピオ十世会の総会もありますので、総会の為にもお祈り下さい。


「お前の手を私の釘の痕に乗せよ。そしてこの釘の痕を確かめよ。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は白衣の主日で、教会は私たちに2つの事をメッセージを伝えようと思っています。

1つは、皆さんは赤子である、赤ちゃんである、という事です。

もう1つは、皆さんは今日は聖トマスになる、使徒聖トマスになる、遅れて来たそのトマスになる、という事です。

そして赤子であって、トマスである皆さんが、今日はどのようにしなければならないかという、特に今日の御聖体拝領をどのように拝領するか、という遷善の決心を立てる事に致しましょう。

「神父様、一体何の話をしているのですか?何で赤ちゃんであってトマスなのですか?」

これが今日の、主日に教会が私たちに思い出させようと、あるいはこのように行動するようにと望んでいる事です。

まず第1のポイントは、まず「私たちが赤子である」という事です。これは入祭誦からもはっきりしています、“Quasi modo geniti infantes.”「話す事ができない赤子のように、乳を求めよ。」

これは何を意味しているかというと、今から1週間前の復活の徹夜祭に、洗礼を受けた新しい受洗者の事です。と同時に、洗礼をすでに受けた私たちの事をも思い出させようとしています、「お前たちもそうだった。洗礼の約束を一緒に、洗礼志願者とした者たちである」という事を思い出させようとしています。「私たちも実は赤子である。」

その証拠に、今日の書簡書では聖ヨハネの言葉を使って、「洗礼を受けた者は、天主から生まれた者である」と言います。私たちは天主の子供であって、天主から生まれた者であって、イエズス・キリストと共に葬られて、新しい命に復活した者です。

教会が今日、洗礼の水によって生まれた私たちに、別の白いミルクで、あるいは赤い御血で、私たちを養おうとしています。聖ヨハネの書簡の中にも、水と血の話が出ますが、この白い乳であり、そしてイエズス様の脇から出る御血は、これは「御聖体」の事です。私たちはまだ生まれたばかりの子供であるので、教会は母として、私たちが早く強くなるように、ますますイエズス・キリストの命を生きる事ができるように、御聖体によって養われる事を望んでいます。私たちが子供である、という事です。

実際に、白衣の主日というのは実は、ローマでは昨日の土曜まで、毎日、洗礼を受けたばかりの人たちが新受洗者が、教会にミサに白い服を着て与っていました。なぜかというと、洗礼を受けた時に司祭からこう言われたのです、「白い衣を受けなさい。主の婚宴に招かれる日まで、この着物をこの服を汚れなく保ちなさい。」そこで、新しくイエズス・キリストを着て、そして教会に来る。

そしてちょうど実は昨日ミサでは、「イエズス様が復活した時に、聖骸布がたたまれて墓に置いてあったのを見た。墓は空だった。それだけが残っていた。イエズス様はそれを脱いで復活した。どこかに行かれた」という場面が読まれたのです。それと同じように新受洗者も、この白い服を昨日脱いで、今日初めて普通の服を着てミサに与かった、その事も意味します。

ただ地方によっては、毎日白い服を着てくる事ができずに、主日しか来れない人がいた所では、今日まで白い服を着ていました。

霊的に教会は、特に聖パンクラツィオ殉教者の元に呼び寄せます。なぜかというと、その聖パンクラツィオ殉教者は14歳で、自分の血をもってイエズス・キリストへの忠実さ、そして洗礼の汚れの無さを保ったまま血を流した子供だったからです。この聖パンクラツィオの元に、新しく洗礼を受けた天主の子供たちを呼び寄せます。「私たちも霊的にその聖パンクラツィオの元に行って、私たちも天主の子供として最後まで、天主から受けた洗礼の汚れの無さを保って、血を以てそれを証する事ができるように」という願いが込められています。

第2には、私たちは今日は聖トマスです。これは何かというと、イエズス様が復活した、その復活の主日には聖トマスはいませんでした、遅れて来ました。そして弟子たちは皆、「イエズス様を見た。信じている。」「見た」と言って、イエズス様が復活した事を信じているのですけれども、聖トマスは信じません。馬鹿にします、捨て台詞をします、「僕はね、信じないよ。君たちは夢を見ている。僕の手を本当に釘の痕に付けて、脇に手を入れて確かめたら、信じてやる。フンッ。」弟子たちが、「おぉ、トマス…」何度言っても、宥めても、何度言っても信じません。頑として信じません。

そして今日、ドアが閉まっていて、誰も本当なら入って来る事ができないはずなのに、その真ん中にイエズス様がやって来ます。イエズス様は叱るのではなく、憐れみと優しい言葉をいつものようにかけて下さいます、「お前たちに平和あれ。」

私たちは本当に、どれほどイエズス様と違うでしょうか。私だったら、「あぁ、何だお前。何で信じなかったのか。」嫌味を言ったり、文句を言ったり、叱ったり何かするのではないかと恐れます。しかしイエズス様はそのような事を一切触れずに、「お前たちに平和あれ。」

そしてトマスには、何も言わずに、「さぁ、私の傷跡に手を入れてごらん。さぁ脇に手を差し込んでごらん」と仰るだけなのです。にっこりと微笑んで、嫌味でも何でもないのです。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と。

私たちも今日ミサの時に、司祭は聖変化の言葉をします。すると戸は閉じられていても、イエズス様は私たちの間に来られます。イエズス様の仰った通りに、聖トマスはこう手を、跪いて、確かに手を触って、この釘の跡を見て、脇に手を入れて、「あぁ、十字架にかかったその通りだ。このような仰り方も、このような優しい御言葉も、イエズス様しかいない。こんな優しい方はこのイエズス様しかいない。」と確信します。そこで、「我が主、我が天主なり!」と信仰告白します。ラテン語を見てもギリシャ語を見ても、これは呼格ではないのです。呼びかけではなくて、主格であって、「そうである」という断定なのです。

するとイエズス様は、「お前は見たから信じたけれども、見ないで信じる者は幸いである。」どうぞ司祭が御聖体を上に挙げる時に、皆さんも、「これこそ我が主なり、我が天主なり」と心の中で仰って下さい。イエズス様は、「見ずに信じる者は幸いである」と仰って下さいます。そして私たちは天国において、本当にイエズス様の姿をその見る時に、もっと幸せになります。

では私たちはどのように、それだけで良いのでしょうか?実際、聖トマスのように手を伸ばして下さい、といっても、御聖体拝領の時では口で聖体拝領なさって下さい。跪いて、イエズス様の御体をお受け取り下さい。皆さんが聖体拝領するのは、ただのパンではありません。復活されたイエズス・キリストです。どうぞこのイエズス・キリストを聖トマスのように、私たちの舌で感じ取って下さい、「これこそ我が主、我が天主なり。」

では、今日はどのような遷善の決心を立てたら良いのでしょうか?

私たちは子供として、天主から生まれた子供として、イエズス・キリストへの信仰によって、この世に勝った者として、どうぞ御聖体拝領に来て下さい。御聖体拝領をするのは、真にイエズス・キリスト様です。御聖体は単なる聖なる「物」ではありません。生きている、復活されたイエズス・キリスト御自身です。今天国でいらして、私たちを愛しておられる、「お前たちに平和あれ!」と仰っているイエズス・キリスト御自身です。どうぞこのイエズス様を、復活されたイエズス様でとして、聖トマスのように拝領なさって下さい。

公教会の掟によれば、「特に一年に一度告解をする事。そして一年に少なくとも一度、復活祭の頃に御聖体拝領をする事」というのがあります。そこでぜひ、この御聖体拝領を、御復活の義務を今日捧げて下さい。「イエズス・キリスト御自身である」という深い信仰の内に、礼拝と感謝の内に、御聖体拝領なさって下さい。

最後に、マリア様にお祈り致しましょう。「マリア様、どうぞ私に力を与えて下さい。信仰をますます深くして下さい。私は今まで、『イエズス様を確かに信じている』と言いながら、『イエズス様の為に死ぬ』と言いながら、実際の行動ではそうでなかった事が何度もありました。この復活祭の主日から、イエズス・キリストこそが真の天主であるという事を確信させて下さい。イエズス様は生きておられます。復活されておられます。いつも私たちを御覧になって、愛しておられます。これを忘れる事がなく、死ぬ日まで洗礼の約束を守り通す事ができるように、お助け下さい。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


コメント

第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見 (続き6)【ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」】

2018年04月29日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見(続き6)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見

 三、典礼生活こそは、わたしの内的生活を、したがって、使徒職を生かす源泉である


(Ⅱ)典礼生活とは何か?
II Qu'est-ce que la Vie liturgique ?

 主よ、教会の規定は、きびしくわたしに、典礼の儀式を忠実に守るように、典礼の言葉を正確に発音するように、と命じています。
Seigneur, les lois de votre Eglise n'exigent strictement de moi que la fidèle observation des rites, et la prononciation exacte des paroles.

 だがしかし、あなたはわたしが、善意のありったけを傾けて、もっとたくさんのものを、あなたにおささげするように、とお望みになっていることは、疑いのないことです。あなたは、わたしが、精神をつくし、心をつくして、典礼の宝庫にかくされている無限の富を、よく利用することを、あなたの教会にわたしが、もっと深く一致することを、あなたご自身にわたしが、もっとかたく一致することを、お望みになります。
 善き師よ、わたしはあなたの忠実な、しもべたちの良い模範にしげきされて、母なる教会に招待されるままに、典礼というこのすばらしいうたげに、出席しようと決心し、また、懸命にそれを望むのです。わたしは確信しております。――聖務日課のかにこそ、その祈りの形式、その儀式、集禱文、書簡、福音書の抜粋のなかにこそ、さらにミサ聖祭、ならびにその他の、秘跡の執行のなかにこそ、わたしは自分の内的生活を、進展させるための健全な、そしてゆたかなかてを見いだすことができるのだ、ということを。

 典礼を織り成すいろいろの要素を、相互に結びつけている根本思想を、ちょっとでも考えてみますなら、また、典礼から生じる霊的効果が、どれほど自分の内的生活を進歩させるか、それをいくぶんでも考えてみますなら、この考察こそは、あらゆる信心生活の迷いから、わたしを予防してくれるにちがいありません。



 典礼の儀式の一つ一つは、高価な宝石にもくらべられよう。だが、ミサ聖祭と聖務日課の価値と光輝は、これを典礼暦年の季節にしたがって、その意味を深く味わいながら果たすとき、どれほど高く評価しても過ぎることはない。

Chacun des rites sacrés peut être comparé à une pierre précieuse. Mais à quel point la valeur et l'éclat de ceux qui se rapportent à la Messe et à l'Office se trouvent rehaussés, si je sais les enchâsser dans ce merveilleux ensemble qu'est le Cycle liturgique.

 わたしの魂は、典礼暦年の各季節ごとに、一つの大きな奥義の観想にとらえられる。聖書と聖伝は、この奥義にかんして、最もりっぱな、最も滋味ゆたかな教えをきかせてくれ、わたしの知性と心情を養ってくれる。わたしの精神は、たえまなく、典礼に盛られているあまたの思想のなかの、根本思想にむかって集中される。当然の結果として、これこれの真理、これこれの教訓にむかって、わたしの注意は凝集される。
 そればかりではない。わたしの魂は、教会が典礼の儀式において、あふれるばかりにそそいでくださる、聖なる感激にひたり、そこに自分の肉となり血となる美味な、かてを見いだし、天主が典礼の各季節、各祝日にそなえられている特別の恩寵を、自分の霊魂の利益になるように、よく利用することができる。
 典礼の奥義は、わたしの霊魂に深く、浸透する。それは単なる、抽象的真理のように、ただ漠然と浸透するのではなく、わたしの全存在をとらえて、感性能力までも動かし、これを用いてわたしの心情をしげきし、意志に確固たる決心をとらせる。典礼の儀式はけっして、生命のない過去の出来ごとの、記念行事ではない。年毎に催される、単なる記念祭ではない。それは、現在進行しつつある、一つの出来ごとのようなものを持っていて、教会はその効果を現実に、わたしの霊魂に適用してくださる。

 たとえば、ご降誕節ちゅう、祭壇のもとで、天主のみどり児のご誕生を祝う。それを祝いながら、わたしの魂は、こういうことができよう。
 「きょう、キリストはお生まれになった
  きょう、救い主は、世にお現われになった
  きょう、天使たちは、地上で讃美歌をうたう。」
Hodie Christus natus est, hodie Salvator apparuit, hodie in terra canunt Angeli.(御降誕の祝日の聖務日課より)

 典礼暦年の各季節ごとに、ミサ典書と聖務日課祈祷書は、わたしの魂に、人類にたいするキリストの愛についての、新しい光りをあたえる。この光りに照らして眺めるとき、キリストは、わたしを愛してくださる王様であり。わたしの霊魂のわずらいをいやしてくださる医者である。苦悩のときの慰め主であり、救い主であって、同時に親友でもある。ベトレヘムの馬小屋に、ナザレの仕事場に、あるいはまた、チベリアデの湖畔におけるがごとく、祭壇の上でも、イエズスは、世の人を照らす光りとして、人びとの愛をご一身にひきつける御者として、心やさしさにあふれる御者として、慈悲そのものとして、われわれの心眼に映ずる。そのなかでも、とりわけ、愛の化身として、イエズスはご自身を、お現わしになる。苦悩の化身、ゲッセマニの苦悩者、カルワリオのいけにえであられるから、当然そうなのである。

 このようにして、典礼は、聖体的生活に、究極の開花をあたえる。そして、ああ、イエズスよ、あなたのうちに、天主を見えるものとしてわれわれに示し、かつ天主をわれわれに近づけさせたご托身は、われわれが祝う奥義の一つ一つにおいて、おなじ働きをしてくれます。このような仕方で、わたしは典礼のおかげで、教会の生活とあなたのご生活に、参与するのです。典礼生活のおかげで、わたしは年ごとに、あなたのすべての奥義に、参加することができます。――ナザレトの私生活にも、公生活にも、ご受難、ご復活の奥義にも。そして、そこから、霊魂のために、ゆたかな効果を収めるのです。
 そのうえ、あなたのご生活をいちばんよく模倣した、聖母や諸聖人たちの、ときどき祝われる祝日のおかげで、わたしはあなたの諸徳を、自分お霊魂につちかうため、福音の精神を、信者の霊魂にいっそう深く浸透させるために、もっと大きな光りと力を恵まれるのです。もしわたしが、典礼の宝庫に足をふみ入れながら、そこにある驚嘆すべき珠玉に、目をとめることさえしないなら、どうしてわたしは、聖ピオ十世教皇のお望みを、わたしの使徒職に、実現することができるのでしょうか。どうしてわたしの助けによって、信者たちは、典礼の聖なる奥義、公けの祈禱、教会の祭式に、能動的に参加することができるのでしょうか。これこそは、同じ教皇様がいわれましたように、真のキリスト教的精神の流れいずる第一の、そして必要欠くべからざる源泉でありますのに。(一九〇三年十一月二二日ピオ十世『自発教令』)

 わたしの霊的生活に、もっと統一を与えるため、また、教会の生命に、もっと深く一致するために、わたしはできるだけ典礼の生活に、他の信心も加えるように精を出すでしょう。たとえば、典礼暦年の、ある季節または祝日に、関係のあることを、わたしはよろこんで、黙想の題目にするでしょう。聖体訪問のときも、典礼の奥義に応じて、あるいは幼きイエズスと、あるいは受難のイエズスと、あるいは栄光のイエズスと、よろこんで対談するでしょう。キリストの奥義にかんして、または聖人たちの生涯にかんして、かきしるされている信心読書も、わたしの典礼生活に、なんらかの助けをもたらせてくれるでしょう。



 拝むべき主よ、どうぞわたしを、まちがった、ニセものの典礼生活から救ってください。それは、あらゆる内的生活に危害を加えるもの、わけても、心戦を弱めるものですから。典礼生活を、ただ詩的興趣や宗教的考古学の、魅惑的研究のみに置く信心から、わたしを救ってください。その他、すべて静寂主義にみちびくもの、すべて内的生活を弱め、枯渇させるもの、たとえば、天主にたいする過度の恐怖、またはすべて天主への信頼、救霊と完徳への熱望、欠点との戦い、善徳を修得するための努力などを弱める、まちがった信心から、わたしを救ってください。
 多忙な、霊生に危険な、種々雑多な仕事にわずらわされながら、生きていかねばならぬ現代にあって、典礼生活は、たとえそれが完全にいとなまれていたにせよ、どうしても朝の黙想を廃してはならぬ、という強い確信を、わたしの心に与えてください。典礼生活を、ただ単なる外部からの快適な印象と瞬間的な感動におき、意志を、想像と感覚のどれいにするいっさいの甘い感傷主義から、いっさいの涙もろい子供らしい信心から、わたしを救ってください。
 むろん、あなたはわたしに、典礼のもつすべてうるわしい審美的要素にたいして、すべて詩的なものにたいして、無感覚であれ、無表情であれ、とは仰せられません。事実はこれと全く反対です。典礼の美しい讃美歌、典礼の荘厳で優雅な祭式によってこそ、教会はまず、その子らの感覚に呼びかけるのです。その目的は、典礼の意義が、その子らの魂に、もっとゆたかに浸透されますように、かれらの意志に、超自然の善をもっと鮮明に示して、それにあこがれさせるように、そのためにかれらの魂を、いっそう確実に、いっそう容易に、いっそう完全に、天主の方へ挙げるためなのです。そんなわけで、わたしは、典礼によって浮きぼりにされた教義のなかに含まれている、きわめて有益な、きわめて美しい真理を、心から味わうことができるのです。
 盛儀ミサの華麗な、荘厳な儀式をながめては、心は神々しい感動に波うちます。告解場で、罪のゆるしを与えるときの祈り、または、洗礼、終油、葬式などのときにとなえる祈り、これらの意味深い祈りを、心から味わいながら、となえることができます。しかしながら、わたしは、聖なる典礼の提供する、これらのゆたかな霊的資源が、実は内的生活の目ざす、唯一の目的にわたしをみちびく、単なる手段にすぎないのだ、という事実を見のがしてはなりません。
 その唯一の目的とは、ああ、イエズスよ、わたしの“古き人”を殺して、その代わりに、あなたがタダ一人、わたしの内に“生き、かつ統治する”この理想郷に、わたしが達することなのです。かくて、わたしが、典礼の精神に浸透されて、ミサ聖祭をよく利用し、教会との一致の生活をますます深めていくために、典礼や儀式をうまく利用し、このようにしてイエズス・キリストの内的生活に、したがってその諸徳に参与し、わたし自身の身に反映しているこの同じイエズス・キリストが、ますます鮮烈に、信者たちの目にもうつりますなら、そのときわたしは、自分はほんとうに典礼生活をいとなんでいるのだ、と言い切ることができましょう。

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第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見 (続き5)【ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」】

2018年04月28日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見(続き5)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見


  三、典礼生活こそは、わたしの内的生活を、したがって、使徒職を生かす源泉である

典礼生活の決心

 ミサ聖祭、聖務日課、およびその他の典礼行事によって、わたしは教会のえだとして、または全権大使として、教会の生命にますます溶け入って、これと一体になり、このようにして、ますますイエズス・キリスト――しかも、十字架につけられたイエズス・キリストを着る者となりたい。まして、わたしは、このイエズス・キリストのしもべ、そのお務めの代行者なのだから!

Par ma Messe, mon Bréviaire et mes autres fonctions liturgiques, je veux comme Membre ou Ambassadeur de l'Eglise, m'unir de plus en plus à sa Vie, et ainsi me revêtir davantage de Jésus et de Jésus crucifié, surtout si je suis son Ministre.

(Ⅰ)典礼とは何か?
I. Qu'est-ce que la Liturgie ?

 ああ、イエズスよ、あなたこそは、典礼生活の中心として、わたしが礼拝するお方なのです。
 あなたこそは、典礼に統一を与えられるお方なのです。
 さて、わたしは、典礼を、次のように定義することができると思います。――典礼とは、教会が天主にささげる公けの、集団的の、正式の祭式行為であると。さらにまた、こんなにいうこともできましょう。――典礼とは、教会が聖三位一体にたいして、敬神行為をあらわすため、また、人びとの霊魂を教育し聖化するために、とりわけミサ典書、定式書、聖務日課祈祷書のなかに指示している種々の手段を総合したものであると。
 ああ、わが魂よ、拝むべき三位一体の天主のふところにこそ、おまえは永遠の典礼を観想せねばならないのだ。永遠の典礼! これによって、至聖なる三位一体は、天主のご生命を、その無限の聖性を、交互に歌いかわしていらっしゃるのだ。――御父のふところからの、聖言のご誕生と、御父と御子の相互愛からの、聖霊の発出とは、そこではいい尽くしがたい賛美をもってうたわれている。――「願わくは、御父と御子と聖霊とに栄えあらんことを。初めにありしごとく、いまも、いつも、世々にいたるまで、アーメン」
 天主は、三位一体の外でも、賛美されることを、お望みになる。
 そのために、天主は天使たちを、おつくりになった。
 そして、天国は、天使たちの賛美のほぎうたで、永遠にこだまする。――「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の天主なる主よ、主の栄光は天地にみてり!」Sanctus, Sanctus, Sanctus. 天主はまた、ご自分への賛美のために、見える世界も、おつくりになった。そして、見える世界は、天主の全能をあらわす。――「もろもろの天は、天主の栄光をあらわし、おおぞらは、そのみ手のわざをあらわす」Coeli enarrant gloriam Dei.(詩篇18・1)

人祖アダムが、つくられた。かれはすぐに、全被造物の代理として、永遠の典礼のこだまなる新しい讃美歌を、天主にささげた。つづいて、アベル、ノア、メルキセデク、アブラハム、モイゼ、天主の選民たるイスラエル人、ダヴィド、および旧約のすべての聖者たちは、きそって、天主の賛美をうたった。過越の祭り、各種の犠牲および燔祭、神殿でヤーウェにささげられる公の祭典――これらはみな、一定の宗教儀式の形で、天主の賛美をうたった。だが、それらはいずれも、不完全な賛美でしかなかった。わけても、人祖の堕落いらい、「罪深い人間のくちびるにのぼる天主の賛美は、美しくはない」Non est speciosa laus in ore peccatoris.(集会の書15・9)

 完全な賛美を、天主にささげることのできる者――ああ、イエズスよ、それはただあなただけです。あなたは、御父の栄光そのものでいらっしゃるからです。あなたによらないでは、だれも、御父にふさわしい栄光をささげることはできません。「イエズス・キリストによって、イエズス・キリストとともに、イエズス・キリストにおいて、御父なる天主御身に、すべての誉れと栄光はあるなり」Per Ipsum, et cum Ipso, et in Ipso est tibi Deo Patri ... omnis honor et gloria(カノンの祈り)。

 あなたは、地上の典礼と天国の典礼を、たがいにむすびつける連結線です。あなたのご托身によって、知恵ある人間も、心なき天地自然もみな、本質的な、いきいきとした仕方で、三位一体の永遠の賛歌に参与できるようになりました。
 まことに、あなたは、天主を賛美する、天主ご自身でいらっしゃいます。
 あなたの賛美は、完全なもの、このうえなく充実せるもの、そしてその最高潮は、カルワリオの犠牲なのです。
 天主なる救い主よ、あなたはご昇天にさきだって、あまねく世の人びとに、カルワリオの犠牲の功徳を新たに施すため、新約の犠牲なるミサ聖祭を、ご制定になりました。そして、あなたは、ご自分の花嫁なる地上の教会に、ミサ聖祭や七つの秘跡を執行するにあたって、これを表象と儀式、励ましと祈りをもって、美々しく装飾するように配慮せよ、とお命じになりました。そのわけは、こういうものによって、教会が、お贖いの奥義をいっそう尊ぶことができますように、教会の子らが、救世の奥義をますます深く理解することができますように、ますます深く理解することによって、お贖いの功徳を、いっそうよく利用することができますように、そのためにかれらの心に敬神と畏敬の念をおこすことができますように、とのおはからいだからです。
 この同じ教会に、あなたはまた、あなたの聖心に、絶えまなくかなでられていた、賛美と祈りのしらべを、世の終わりまで続ける使命を、お授けになりました。このいい尽くし難いしらべをこそ、あなたはかつて地上においでになったとき、たえまなく天父にささげていられたのです。そしてご昇天後の現在もなお、あるいは聖ヒツの中で、あるいは天国の栄光のかがやきのなかで、この賛美のお務めを、続けていられるのです。
 今さき申し上げました、この二つの務めを、教会は毎日、みごとに果たしています。あなたにたいして彼女がいだいている、花嫁たるの切ない愛情をもって。また、あなたが彼女の心にそそぎ入れられた、慈母たるのこまやかな心づかいをもって……。このようにして、典礼のもろもろの宝を、その中に抱合している、これらのすばらしい祈りと賛美の集成ができあがったのです。
 それからというもの、教会はおのれの賛美を、天使たちや天国の聖者らが天において、天主にささげる賛美に合わせるのです。地上における教会の典礼――これぞ、教会が天国において、永遠に続けるその唯一の仕事、唯一の賛美の前奏曲にほかならないのです。教会は、おのれの賛美、おのれの祈りを、天主の人イエズス・キリストのそれに合わせます。ですから、教会の賛美、教会の祈りは、天主化されて、そっくりそのまま、天主の賛美、天主の祈りとなるのです。かくて、地上の典礼は、イエズスの聖心において、天国の天使、聖人たちのそれに溶け入り、それによって、至聖なる三位一体にほかならぬ、無限愛のカマドからほとばしりでる、永遠の賛美のこだまとなるのです。

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「暁の星なる聖母に対する祈り」と聖ピオ十世の繋がり:「暁の星なる聖母に対する祈り」をフランス語と英語とスペイン語でどう祈るのか?

2018年04月27日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 ミサの後の祈りの手引き(日本語・英語・フランス語・スペイン語)ができました。

 これを制作する際に、「暁の星なる聖母に対する祈り」に関していろいろなことが分かったので、ご紹介いたします。これを作成するに当たって東京の信徒会長に大変お世話になりましたので、ここでお礼を申し上げます。

 天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【2:暁の星なる聖母に対する祈り】


2.0.1. この祈りについては、パリ外国宣教会の1943年のレポートに言及があります。イエズスの聖心への呼祷とこの祈りが、フランスでも日本の回心のためにますます唱えられているとのことです。

(available at: http://archives.mepasie.org/fr/annales/la-c-glise-catholique-au-japon):

Ainsi, il y a déjà 5 évêques japonais dont l'un, Mgr Janvier Hayasaka, est démissionnaire. En juin 1942, l'intention missionnaire de l'Apostolat de la prière a été à juste titre pour le clergé indigène du Japon et de la Corée, afin qu'il augmente en nombre et en mérites. Ajoutons que, depuis quelques années, une invocation au Sacré Coeur et une prière à Marie, Etoile du matin, enrichies d'indulgences par Benoît XV le 18 janvier 1918, sont récitées de plus en plus dans beaucoup de diocèses, surtout en France, pour la conversion du Japon.

2.0.2. この祈りについて、さらに、マドリッドで2016年に出版された、ホセ・マリア・サラヴェッリ著「日本の開国期における(1888ー1931)マリア会士たち」"Los Marianistas en el resurgir del Japón (1888-1931)", José María Salaverri, SM, (2016) に言及があります。

それによると、次のことが分かります。
マリア会が日本に使徒的な学校を創立するプロジェクトのために至る所で献金が集められ、聖ピオ十世教皇ご自身もマリア会総長にこの計画を喜び、祝福するとの手紙を書いた(1907年)こと、
特にマリア会のエミリオ・ヘック(Emilio Heck)神父がヨーロッパのあちこちで日本の宣教のための募金活動をしたこと、聖ピオ十世はエミリオ・ヘック神父と個人的に謁見してご自分のお金を渡したこと、
ローマの聖マリア大学の学長エルネスト・モリス(Ernesto Maurice)神父は、東京のマリア会の学校に「暁星」という名前が付けられたことを喜んで、日本の回心のために「暁の星なる聖母に対する祈り」を作ったこと、
モリス神父はこの祈りを聖ピオ十世に提示すると、教皇は大変喜ばれ贖宥を付けたこと、
ラテン語は、1909年8月に Acta Apostolicae Sedis において発表されたこと。

要約すると、次のようになります。

(1) 「暁の星なる聖母に対する祈り」は、1907年から1909年の間に、ローマの聖マリア大学(L'Istituto Santa Maria)の学長であったエルネスト・モリス神父によってつくられた。

(2) マリア会の司祭であったと推定されるモリス神父は、おそらくフランス語(あるいはイタリア語)で書いて、マリア会を通じてヨーロッパ(特にフランス)で日本の回心のためにこの祈りが広められた。

(3) この祈りのラテン語は、モリス神父が、あるいは多分にバチカンの専門家によって作られた。

(4) この祈りを、聖ピオ十世がとても気に入って贖宥を喜んで付けた。

(5) この祈りには、300日の分贖宥が付けられ、一ヶ月続けて唱える場合通常の条件で全贖宥も付けられた。

【聖ピオ十世会の東京のミサの会場「日本の聖なる殉教者巡回教会」が、曙町会館で行われていて曙の星のようにミサをしていること、曙と曉とは似ていることがおもしろいなぁと思います。】

Buscando ayuda

El proyecto de una Escuela apostólica en Japón fue tomado con entusiasmo grande no solo por todos los marianistas del mundo, sino que trascendió fuera de los ambientes marianistas... Había que conseguir fondos para ponerla en marcha. Había que mendigar, pues los recursos de la Compañía, expulsada de Francia, eran mínimos. La revista L’Apôtre de Marie, eco de las obras y misiones de la Compañía, inició una campaña, mes tras mes. Se dieron por doquier charlas con diapositivas sobre la evangelización de Japón. El tema llegaba al corazón de los fieles. Se puso en conocimiento del proyecto a la Congregación vaticana de Propaganda fide, encargada de las misiones católicas, que también contribuyó. El mismo papa Pío X, a través de una amplia carta, dirigida al Superior general y firmada por el cardenal Merry del Val, expresó su apoyo, su alegría y su bendición. Empezaba así:

Es para mí una alegría poner en conocimiento de su Paternidad reverendísima, la alta y particular satisfacción con la que el Sumo Pontífice ha acogido la noticia de la fundación de una Escuela apostólica cerca de la ciudad de Urakami en el Imperio de Japón... etc., etc... Roma, 30 de abril de 1907.

No será la última vez que san Pío X exprese su interés por la evangelización de Japón. Cuando el P. Emilio Heck, tomando un año sabático, se dedique a recorrer los lugares marianistas o ex marianistas de Europa, dando charlas para recoger fondos, Pío X le recibirá en audiencia privada, interesándose mucho por la evangelización de Japón y le dará en mano una suma de su propio peculio.

La campaña de ayuda, además de entusiasmo, suscitó iniciativas muy variadas. El director del colegio de Santa María de Roma, el P. Ernesto Maurice, fascinado por el nombre Estrella de la Mañana dado a María en el colegio de Tokio, escribió una oración a la Virgen por la conversión de Japón.

Oh María, fúlgida Estrella de la Mañana, que al aparecer por vez primera en la tierra, anunciaste la cercana salida del Sol de Justicia y de Verdad, dígnate brillar con suavidad a los ojos de los ciudadanos del Imperio japonés, para que pronto, una vez disipadas las tinieblas del espíritu, reconozcan el esplendor de la Luz eterna, Jesucristo, Hijo tuyo y Señor nuestro. Amén.

Al P. Maurice se le ocurrió presentarla a Pío X. Le gustó tanto, que un decreto del llamado entonces Santo Oficio la aprobó como oración para pedir la conversión de Japón y le concedió indulgencias. Su versión latina apareció en Acta Apostolicae Sedis de agosto de 1909. Su gran difusión hizo que el título Estrella de la Mañana equivaliera para muchos a Nuestra Señora del Japón.

Imposible relatar tantas iniciativas de ayuda. En Bélgica encabezó los donativos el cardenal Mercier e incluso contribuyó el embajador de Japón en Bruselas...

2.1. この祈りの日本語については、1920年のものと1943年のものとを発見しました。

2.1.1.1920年の祈り:「耶蘇基督降生一千九百二十年 公教會聖歌集祈祷文 札幌教區長ヴェンゼスラウス、キノルド認可」にはこうあります。

日本國民(にほんこくみん)の感化(かんくわ)を求むる祈祷(いのり)

 嗚呼(あゝ)輝ける暁(あけ)の星なる聖瑪理亞(マリア)よ、▲御身(おんみ)は曾(かつ)て先驅(さきがけ)として地上に現はれ、正義と眞理との太陽なる耶蘇(イエズス)出現の接近(ちかづき)を示し給ひし者なれば、願わくは、御身(おんみ)の温和(やはらか)なる光を以(もつ)て、日本國民(にほんこくみん)を照し、彼等をして、速(すみや)かに其(その)心の蒙(やみ)を啓(ひら)き、永遠の光明(くわうみやう)なる御子(おんこ)、我等の主耶蘇基督(イエズスキリスト)を、正しく認むるに至らしめ給はんことを。亞孟(アメン)。

2.1.2. 1943年の祈り:「耶蘇基督降生千九百三十四年 公教會祈祷書 大阪司教認可」

日本國民(にほんこくみん)の感化(かんくわ)を求むる祈祷(いのり)

 嗚呼(あゝ)輝ける暁(あけ)の星なる聖マリアよ、▲爾(なんぢ)は曾(かつ)て先驅(さきがけ)として地上に現はれ、正義と眞理との太陽なる耶蘇(イエズス)出現の接近(ちかづき)を示し給ひし者なれば、願わくは、爾(なんぢ)の温和(やはらか)なる光を以(もつ)て、日本國民(にほんこくみん)を照し、彼等をして、速(すみや)かに其(その)心の蒙(やみ)を啓(ひら)き、永遠の光明(くわうみやう)なる御子(おんこ)、我等の主耶蘇基督(イエズスキリスト)を、正しく認むるに至らしめ給へ。亞孟(アメン)。
 至誠なる耶蘇(イエズス)の聖心(みこゝろ)、▲願はくは、我(わが)日本(にほん)に主の御國(みくに)の各(きた)らん事を。
 聖マリアの汚れなき聖心(みこゝろ)、▲願はくは、我(わが)日本(にほん)に、御子(おんこ)耶蘇(イエズス)の御國(みくに)の各(きた)らん事を。


2.2. 英語:1910年にアイルランドで出版されたパンフレット"Apostleship of Prayer"に、聖ピオ十世教皇が日本の回心のためのこの祈りに贖宥を与えた直後に載せられています。

Indulgenced Prayer for the Conversion of Japan.

In a recent audience Pope Pius X. granted an Indulgence of 300 days, once in the day, applicable to the souls in the Purgatory, to all who with at least contrite hearts devoutly recite the following prayer for the conversion of the Empire of Japan : ---

"O Mary, bright star of the morning, who, coming forth, didst first herald to the Nations the speedy rising of the Sun of justice and truth, vouchsafe to shed thy rays benignly on the inhabitants of the Empire of Japan, that the darkness of their minds being presently dissipated they may dutifully recognize the Splendour of the Eternal Light, thy Son, our Lord Jesus Christ. Amen."

300 days' Indulgence. Permissu Superiorum.
[See Roman Documents and Decrees for July-September, 1909]

2.3. この祈りのフランス語は、フランシスコ会司祭のユルバンマリ神父(R. P. Urbain-Marie, O. F. M.)の書いた「日本のこと」"Propos japonais" ケベックで1922年に出版)に次のようにあります。
(available at: https://www.forgottenbooks.com/download_pdf/Propos_Japonais_1200064166.pdf)

O Marie, brillante Étoile du matin, ▲ qui déjà, en apparaissant pour la première fois à la terre, avez annoncé le prochain lever du Soleil de justice et de vérité, daignez luire avec suavité aux yeux des citoyens de l'Empire Japonais, afin que bientôt, les erreurs des esprits étant dissipées, ils reconnaissent avec fidélité l'Éclat de la lumière éternelle, votre fils Notre Seigneur Jésus-Christ. Ainsi soit-il.

2.4. スペイン語については、前述の "Los Marianistas en el resurgir del Japón (1888-1931)"に次のようにあります。

Oh María, fúlgida Estrella de la Mañana, que al aparecer por vez primera en la tierra, anunciaste la cercana salida del Sol de Justicia y de Verdad, dígnate brillar con suavidad a los ojos de los ciudadanos del Imperio japonés, para que pronto, una vez disipadas las tinieblas del espíritu, reconozcan el esplendor de la Luz eterna, Jesucristo, Hijo tuyo y Señor nuestro. Amén.

2.5. ラテン語については、ラザロ宣教会のプランシェ神父によって1919年北京で出版された「中国と日本の宣教 三年目」 "Les mission de Chine et du Japon. Troisième Année.", J.-M. Planchet, (1919) に次のようにあります。

(available at: <imageserver.library.yale.edu/digcoll:243119/500.pdf>):

« O Maria, fulgida Stella matutina, quae jam primum terris apparens, proximum Solis justitiae et veritatis ortum significasti ; imperii Japonensis civibus suavitei illuscere dignare, ut mox, discussis mentium tenebris, Lucis aeternae candorem, Filium tuum Dominum nostrum Jesum Christum fideliter agnoscant. Amen. »

Indulgence de 300 jours chaque fois (Pie X, 8 Juil. 1909 ) et indulgence plénière pour ceux qui l’ayant récitée pendant un mois, se confesseront, communieront et prieront aux intentions du Souverain Pontife.
(Acta Apostolicae Sedis. 1918. p. 153 ).
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「ミサの後の祈り」を英語やフランス語やスペイン語でどう唱えるのか?

2018年04月27日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 ミサの後の祈りの手引き(日本語・英語・フランス語・スペイン語)ができました。

 私たちは、カトリックの聖伝のミサをラテン語で捧げ続けています。ミサの最中の司祭の唱える祈りやグレゴリオ聖歌をカトリック教会の伝統に従って、ラテン語で行います。

 ところで、お説教は日本語(と英語)でなされ、入退堂の聖歌も主に日本語です。しかし、特に東京ではいろいろな国々のカトリック信徒の方々が来られ、国際色が豊かなので、2017年には東京では、一年を通して毎月、ファチマ国際巡礼を準備するためにも、「ファチマのアヴェ・マリア」をいろいろな言葉(英語・フランス語・スペイン語・ポルトガル語など)で歌いました。

 ミサの後の祈りは、日本のカトリック教会の伝統と習慣に則って、皆で唱えております。ただし日本語で。しかし私たちがどんなお祈りをしているか参加している方々が分かるように、また、皆と一緒に声を出して同じ文章を唱えることが出来なくとも同じ祈りをその場で一緒に心の中で祈ることが出来るように、ミサの後の祈りの手引き(日本語・英語・フランス語・スペイン語)(パンフレット)を作りました。

 私たちの使っている日本語の祈りも、私たちの先代から受け継いだものをそのまま使っているように、私たちは日本語での祈りに対応する各国語の祈りが存在することと信じてそれを調査し、発見し、それをまとめてみました。これを作成するに当たって東京の信徒会長に大変お世話になりましたので、ここでお礼を申し上げます。

 研究の成果をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【1:ミサの後の祈り】

1.1. 英語:アイルランドで1910年に出版されたパンフレット"Apostleship of Prayer"によるものです。(▲は、日本語で祈るときに、先唱の後に続けて唱えはじめるところを表す印で、参考までについけています。対訳の手引きには "R." となっています。)

I return Thee infinite thanks, O my God, for permitting me to assist at this holy sacrifice, in preference to so many others more worthy of so great a favour;▲ and I hope, that through Thy great mercy, Thou wilt pardon me the faults which I may have here committed, either by my tepidity or inattention. Though I now return hence to my worldly employments, yet I will remember, through the course of the day, what Thou has here done for me; and shall endeavour that no thought, word, or action of mine, deprive me of the advantages of which I have now been a partaker. Amen.

1.2. フランス語:

Seigneur, je vous remercie de la grâce que vous m’avez faite en me permettant d’assister aujourd’hui au sacrifice de la sainte Messe préférablement à tant d’autres qui n’ont pas eu le même bonheur. Je vous demande pardon de toutes les fautes que j’ai commises par la dissipation et la langueur où je me suis laissé aller en votre présence. Que ce sacrifice, ô mon Dieu, me purifie pour le passé et me fortifie pour l’avenir.
Je vais présentement avec confiance aux occupations où votre volonté m’appelle. Je me souviendrai toute cette journée de la grâce que vous venez de me faire, et je tâcherai de ne laisser échapper aucune parole ni aucune action, de ne former aucun désir ni aucune pensée qui me fasse perdre le fruit de la Messe que je viens d’entendre. C’est ce que je me propose avec le secours de votre sainte grâce. Ainsi soit-il.

1.3. スペイン語:1843年にトロサ(Tolosa)で出版された "Horas Divinas o Colección de Ejercicios, Oraciones y Oficios" の中にあった "Oración para después de la Misa" によるものです。

Gracias os doy, Señor, por la merced que me habéis hecho, permitiéndome asistir hoy al santo Sacrificio de la Misa, con preferencia a tantos otros que no han tenido la misma dicha; y os pido perdón de todas las faltas que he cometido, por la inactividad y la disipación en que he dejado a mi pensamiento en vuestra presencia. ¡Qué este sacrificio, Dios mío, me purifique por lo pasado, y me fortifique para lo futuro!
Voy ahora lleno de confianza a las ocupaciones donde me llama vuestra voluntad. Me acordaré todo este día de la gracia que acabáis de hacerme, y me dedicaré con el mayor esmero a conservar el fruto de la Misa que acabo de oír. Esto es lo que me propongo con vuestro auxilio.


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聖ピオ十世会日本 聖伝のミサ(ラテン語のミサ、旧典礼のミサ、トリエント・ミサ)が大阪と東京で捧げられました

2018年04月24日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

4月の15日には「良き牧者の主日」の聖伝のミサを大阪でドモルネ(Demornex)神父様が捧げて下さいました。

4月20日と21日には愛する兄弟姉妹の皆様のしもべが大阪で、4月22日と23日には東京で、聖伝のミサを御捧げいたしました。

大阪では土曜日に初めて来られた方がおられて大変うれしく思いました。

東京では、ご旅行にご家族で行かれた方々が多々ありましたが、その代わりに日本をご訪問中の方々も来られました。主日のミサの参列者数は、計: 51人(内、子供8人)でした。

今年の予定は、次の通りです。

5月3日から8日まで:秋田巡礼【秋田】ご予約の連絡はお早目にどうぞ!
2018年の「秋田巡礼」へお招きいたします。
秋田巡礼の内容はこのチラシもご覧ください。

5月20日:聖霊降臨の主日【東京】

6月3日:御聖体の荘厳祭【東京】

6月16日(土):イエズスの聖心の随意ミサ【大阪】
6月17日(主):イエズスの聖心の荘厳祭【東京】+聖体降福式

7月15日(主):ミサの後で聖体降福式
7月16日(うみの日)マーチフォーライフ【東京】
【7月22日:東京での主日のミサはキャンセルすることになりました。申し訳ございません。】



8月18日:デ・ガラレタ司教様:大坂で堅振式
8月19日:デ・ガラレタ司教様:東京で堅振式

 聖伝の典礼様式で堅振式を受けることを望む方々は、その旨ご申請願います。受堅希望者の方々は、7月から始まる堅振準備の公教要理を受講しなければなりません。

さて、皆様からのミサのご報告をいただいたのでご紹介いたします。


天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【報告】【大阪】【4月15日】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
4月の大阪での主日のミサの報告をお送りいたします。

4月15日 ご復活後第二主日(善き牧者の主日)には16名、
4月16日 月 守護の天使の随意ミサには6名が御ミサに与るお恵みを頂きました。デオグラチアス!

この度デュモルネ神父様が初めて来日して御ミサを捧げて下さいました。
善き牧者の主日のお説教を拝聴して、イエズス様が私達羊を良く、世話して下さり、養ってくださり、迷子になれば探してくださり、護ってくださり、天国へ導いて下さっていることが大変よくわかりました。そして私達の方も良き牧者の声を聞いてついていく良い羊にならなければならないと思いました。

神父様が仰るように、イエズス様は私達羊に必要な善も悪もすべてをご存知なのですから、御摂理を受け入れて自分の思う通りにならなくても、色々な困難があっても、イエズス様が私の救霊のために天国への一番近い道を与えて下さっているのだと思い、少々の事でくじけてはいけないと反省しました。
デュモルネ神父様の御ミサも大変荘厳でゆったりと美しい御ミサで、特に朝日が差し込むお聖堂での朝ミサでは天国にいるかのようで、
祭壇の周りにたくさんの天使様方が見えるかのようでした。

日本に、またこのような素晴らしい神父様をお送り下さる天主様の御摂理に感謝し、良い羊になるせん善の決心をたてました。

至聖なるイエズスの聖心我らを憐み給え
聖母の汚れなき御心よ我らのために祈り給え

【報告】【大阪】【4月21日】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

大阪でのミッションありがとうございました。
ミサの報告をお送りいたします。

4月20日(金) ご復活後第2主日の平日ミサには11人が、
4月21日(土) 聖アンセルモのミサには22人が御ミサ与るお恵みを頂きました。デオグラチアス!

金曜日は、良き牧者についてのお説教を頂きました。

道を外れて迷っていた羊に、他の羊にはしなかったほどの愛を示される良き牧者のお話に、イエズス様の比類なき優しさを感じ、感動しました。

私が瀕死の状態で、ただ「メ―」と声をあげただけなのに、私を見つけて連れ戻して下さり、罰を与えるどころかこれでもかこれでもかと沢山のお恵みを下さり、
今だに時々草を食べるをの拒否している私に、もっと柔らかいもっと美味しい草をお与え続けて下さっている。
そんなイエズス様を想い、心から沢山の感謝と愛が溢れます。

いつもでものほほんとイエズス様に抱っこされてわがままいっているのではなく、良き牧者の声を聞いて、そのみ旨を実行するしっかりした羊になりたいと思います。

また、「良き牧者」と聞くと、神父様方の事を思い出します。
実際私は会話の中で「神父様がね」と話したいときに「イエズス様がね」と言い間違えることが良くあります。
これは、イエズス様が私達にお与え下さった良き牧者が、イエズス様にどれだけ倣って良い牧者でいられるかという事の証拠ではないでしょうか?

教会に多くの良き牧者の召命を祈りつつ


【報告】【東京】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

4月22日の復活節の第三の主日のごミサをありがとうございました。
(復活の)この喜びはきえることがない喜びだということが強く印象に残りました。
私たちはこの世では旅人でありそしてアッというまに過ぎゆくものであること、
悲しみ苦しみは手段で、地上のことに捕らわれることなく天で永遠に天主を崇め奉る喜びを持つように準備しているものだというお話を心に刻みました。
お勧めいただいたように、射禱をいつも唱えてイエズス様の助けを呼び求めたいと思います。
天主を愛し奉る喜びこそが、本当の愛の喜びであることを理解させていただけますように。

今回は、日本からよその国へ旅行に出かけられた信徒さんたちもいらっしゃたと伺いましたが、
逆によその国から日本に遊びに来られている信徒さんの家族やお友達の方々もたくさんいらっしゃいました。
どの国からいらした方もご一緒に同じごミサに与ることができますのが、あらためてとても良いなぁと思いました。
ご聖体降福式も挙げてくださいまして、とても幸せでした。

午後は公教要理で、私たちがつくられた究極の目的は、天主に行くことであり、
天主だけが私たちを本当に幸せにすることができる、ということを、学びました。

次にグレゴリア聖歌の練習をしました。次回の入祭唱を練習しましたが、
栄唱のメロディはその直前の詩篇の歌詞のメロディと同じだと教えていただいて、
わかりやすく覚えやすかったです。神父様いつもありがとうございます。

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栄えの玄義―第1玄義「主の御復活」の黙想

2018年04月22日 | お説教・霊的講話
栄えの玄義 第1玄義の黙想
(2018年4月7日(初土)公教要理にて 小野田神父)


今日は初土曜日です。そこで、初土の信心をよくする事ができるように、今日の、5回黙想する黙想のテーマを提案したいと思います。復活祭ですので、ぜひ御復活について黙想しましょう。15分です。

今日の御聖体拝領はマリア様の汚れなき御心に対して犯される罪を償う為に、今日の告解も、マリア様に対して犯される罪を償う為にお捧げしました。ロザリオも今日お捧げしました。あとは15分の黙想だけです。

イエズス様の御復活の黙想は色んなポイントがあります。私の提案するものには、5つの場面があります。

(1)1つは、イエズス様が御復活なさった、御墓の中で御復活なさったその瞬間の時の事。イエズス様の傷だらけの御体が突然光り輝いて、聖骸布に姿を写されて、そして復活された事。聖伝によると、復活祭の時に受けた白い衣を、ローマでは今日、ある所では明日脱ぐのですけれども、「ちょうどイエズス様が御復活なさった時に、聖骸布をそこに置いて復活された、という事も記念している」と典礼学者は言います。

(2)もう1つは、イエズス様がマリア様にすぐにお現われになった事。

(3)第3には、イエズス様が婦人たちに現れた事。特にマグダレナ・マリアに現れた事。

(4)あるいは、エンマウスの弟子たちに現れた事。

(5)そして最後に、ユダヤ人を恐れてドアを閉めきって、窓も閉めきって、雨戸も閉めて、カーテンもかけて、そして真っ暗の中でローソクを1本だけ点けて、そして隠れていた弟子たちに、イエズス様が復活の夜に現れた事。そして聖トマスにも1週間後に現わた事、などがあります。

一番、この中で一番好きなポイントを黙想なさって下さい。

イエズス様は復活された時には、この5つのみならずもっと色々御出現になりました。でも最初の1週間は主にこのようなものだったので、この事を提案します。


(1) 第1のポイントについては、もう復活の主日に私たちは黙想しました。レネー神父様のお話にもありました。三次元のイエズス様のプリントによる、聖骸布の分析した結果によると、「イエズス様の御体、その埋葬された時の御体は、首が上に上がったまま埋葬された。十字架に付けられたそのまま埋葬されいていた。その事が聖骸布にも表れる。」

そんなに固く硬直されて、傷だらけで命の無いものが、あっという間に暖かくなって、柔らかくなって、目を開いて、傷は全て消え去って、そして復活されて、光り輝いて、栄光に満ちて、傷口は却って栄光の燦然と輝くものになって、その復活されたイエズス様の事を黙想されるのもとても良いと思います。

確かに、沈黙の内に、弟子たちも誰も知らない内に復活されたイエズス様。

(2) 第2は、すぐにマリア様の元に行かれたという事。マリア様のその喜び。イエズス様を見た喜び。私たちも歌っています、“Regina caeli leatare, alleluia.”「天の元后喜び給え、アレルヤ。」マリア様はイエズス様が復活されたのを見て、どれほど喜んだ事でしょうか。

皆さんが、もしも大阪桐蔭高校の卒業生とか父兄とか在校生だったとすると、その「春の選抜で優勝した!」とすると、「2連勝だ!」とすると、もう父兄も学生も監督も、喜びに満ちていることでしょう。おそらく。

しかしイエズス様が遂に死と地獄と罪に勝って、復活して、今栄光に満ちている、この勝利を味わっている、というのは野球の優勝の喜びどころではありません。これはそのマリア様の喜びは、もうえも言えない喜びに満ちておられます。

野球部の人々は、今までのおそらく練習の成果とか、「色々な特訓の苦労が実った」とか思って喜んでいることでしょう。

しかしマリア様は、イエズス様は、30年間の御悲しみと、苦しみと、色々な困難と、十字架の道行き全ての思い出がよみがえってきて、今栄光に満ちて、もうこれは、「人類の贖いが完成させられた!」その喜び。どれほどだったでしょうか。マリア様の喜びを黙想するのはとてもよいことです。

(3) あるいは、イエズス様がエンマウスの、その復活の主日のその朝、とにかくエンマウスの弟子たち、2人の弟子たちがガックリして、「もうダメだ。」トボトボ歩いている時に現れて、「一体誰の話をしているのか?」と、とぼけたふりをして、そしてイエズス様は聖書の話をして、「キリストは、聖書にある通り、苦しんで復活するべきではなかったのか。おぉ、愚かな者よ。」と言われます。

私たちはどれほどいつも文句ばっかりだったでしょうか。十字架があると文句ばっかり言って、実はそれが贈り物だったという事をあまりよく分かっていなかったのではないでしょうか。でもイエズス様がいらっしゃると、私たちの心は生き生きとして、信仰に燃え立っているのではないでしょうか。

(4) あるいは、朝早く婦人たちが、考えもせずに、「とにかくイエズス様の埋葬を終えなければならない」と言って、朝早くから起きた、そしてそのイエズス様の元に行こうとした。皆さんこの来たる主日には、デモルネ神父様がいらして、月曜の朝早く6時からミサがあります。その為に夜明け早く、日が昇るか昇らない内に、イエズス様の御体の元に集まるその夫人の事を黙想なさって下さい。どれほど熱心だったでしょうか。

マグダラのマリアは、イエズス様の体が盗まれたと思っていたので、「私が引き取ります。さぁどこに置いたのですか、知っているなら言って下さい。」

イエズス様の十字架の元に最後まで残った人たちに、まずお現われになりました。まずはマリア様。次にこの婦人たちでした。そのイエズス様に忠実であったその報いを、イエズス様は必ずなさる方であるからです。イエズス様にした私たちのした事は全て覚えておられます。イエズス様に捧げた犠牲。この十字架の下に従っていたという事には、それの報いがあります。

(5) 今日私が特に黙想したいなぁと思うのが、今から話す第5番のテーマです。もちろん皆さん好きなものをなさって下さってください。

弟子たちが、今回は10人で、トマスはいなかったのですけれども、使徒たちがカギをかけて、チェーンもして、カーテンも閉めて、真っ暗にして、誰も人気がないように、シーンとしていて、「俺たちどうしよう。もうこれでダメだ。イエズス様は十字架に付けられた。死刑になった。全国に指名手配がまわっている。今度は俺たちの番だ。」

朝、コンコンコンコン!誰かがやって来るのです。「誰だ!?」「誰!?」「誰?」「シーッ!」コンコンコン!「私です、私、私!」マグダラのマリア。

でも非常に恐れていたので、「本当に本当なのか?」「この声を聞いて!」「誰かユダヤの警察に送られたのじゃないのか!?」と、「イエズス様の御墓が空です。」と言っても、ペトロとヨハネはそれでも墓に行って、空であるのを確認します。「確かに。」

しかし、また戻ってきますが、弟子たちにおそらく話したと思いますけれども、しかし、ただ「ちょっとそういう人、この頃多いよね」とか、何か「ちょっと春だからボケちゃったのかな」とか相手にしません。

鍵を閉めて、イエズス様が復活したという事をもう全く信じていないという態度を取ります。「どうしようか。」

そしてその不信と、落胆と、絶望のようなもう暗い、真っ暗な気持ちの時に、イエズス様が燦然とやって来て現れます。イエズス様が最初に仰った言葉を聞いて下さい。
「平和があなたたちにあるように。」

聖ヨハネは、十字架の下にずっと立ち留まったので、マリア様と共にいたので、特別のお恵みを持っていました。それでその福音書の中でこの事を詳しく書いたのはヨハネなのです。20章です。聖ヨハネによると、こうあります。

第20章
一週のはじめの日、朝まだ暗いうちに墓にきたマグダラのマリアは墓の石がとりのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロと、イエズスが愛しておられたもう一人の弟子のところに走って行って、「主が墓からとりさられました。どこにおいたのか、私たちにはわかりません!」といった。そこでペトロは、もう一人の弟子とともに出かけ、墓に行った。二人いっしょに走ったが、もう一人の弟子は、ペトロよりも早く走っていって先に墓につき、身をかがめて、そこにおかれている布を見たが、中にははいらなかった。シモン・ペトロが続いて来て墓にはいり、そこにおかれている布と、また、おん頭に置いてあった汗ふき布を見た。それは布といっしょにはなくて、他のところに巻いておいてあった。すると、先に墓についたもう一人の弟子もはいってきて、これを見て信じた。かれらは、イエズスが死者の中からよみがえると聖書にあるのを、まだ悟らなかった。それから、二人の弟子は、家に帰った。

マリアは、墓に近く、外で、泣きながら立っていた。泣きながら、墓の方にかがむと、イエズスのおん体がおかれていた所に、白い服をきた二人の天使が「頭の方にひとり、足の方にひとりすわっているのがみえた。かれらがマリアに向かって、「婦人よ、なぜ泣いているのですか?」といったので、かの女は、「私の主を、だれかが取り去りました。どこにもっていったのか、わからないのです」と答えた。こういってうしろをふりむくと、イエズスが立っておられるのが見えたが、それがイエズスであるとはわからなかった。イエズスは、「婦人よ、なぜ泣くのか、だれを探しているのか?」とおおせられた。かの女は、園の番人だと思ったので、「あなたがあの方を移したのなら、どこに置いたのかいってください。私が引き取りますから」といった。するとイエズスは、「マリアム」とおおせられた。かの女はふりむいて、「ラッブニ(ヘブライ語で先生の意味である)」といった。そのときイエズスは、「私をそんなにとめてはいけない。私はまだ父のもとにのぼっていないからだ。兄弟たちのところに行って、"私の父、またあなたたちの父、私の天主、またあなたたちの天主のもとに私はのぼる"といいなさい」とおおせられた。マグダラのマリアは、弟子たちのところに、「私は主を見ました!」と告げにいき、また、これこれのことを自分にお話しになったということもしらせた。

この日、すなわち一週のはじめの日の夜おそく、弟子たちが集まった。そのところの戸は、ユダヤ人たちをおそれて閉じられていたのに、イエズスがおいでになった。そして彼らの中に立って「あなたたちに平安!」とおおせられた。こういって、そのおん手とおん脇とをお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。イエズスはまたおおせられた。「あなたたちに平安!父が私をお送りになったように、私もあなたたちをおくる」。そういいながら、かれらに息を吹きかけて、「聖霊を受けよ。あなたたちが罪をゆるす人にはその罪がゆるされ、あなたたちが罪をゆるさない人はゆるされない」とおおせられた。

イエズスがおいでになったとき、十二人の一人で、ディディモと呼ばれるトマは、皆といっしょにいなかった。他の弟子たちが、「主を見ました!」と彼にいったが、しかし彼は、「私はその手に釘のあとを見、私の指をその釘のあとに入れ、私の手をその脇に入れるまで、信じられません!」といった。

八日の後、弟子たちはまた家にいて、トマもいっしょにいたとき、戸は閉じてあったのに、イエズスがおいでになり、かれらの真中に立ち、「あなたたちに平安!」とおおせられた。また、トマに向かって、「あなたの指をここに出し、私の手を見なさい。あなたの手を出して、私の脇におきなさい。信じない者でなく、信じる者になるように!」とおおせられた。トマは、「私の主、私の天主」と答えた。そのときイエズスは、「あなたは私を見たから信じたが、私を見ずに信じる人は幸いである」とおおせられた。

ぜひこの20章を、ぜひもう1度お読みになって下さい。

皆さんは、今日黙想する時には、使徒のトマです。使徒のトマになりきって下さい。それで今から1週間前の復活の主日、弟子たちは、「イエズス様を見た!復活した!イエズス様は手を見せてくれた。そして『何か食べ物はあるか。』食べ物を食べた。そして息も吹きかけてくれた。『罪を赦す者は赦され、罪を赦さない者は赦されない。』」

この「週の最初の日」というのは、主日の事ですけれども、このweek endというのは実は嘘で、本当は日曜日・主日というのは、第1の日なのです。それで土曜日というのは最後の日なのです。最初の日に、天主は「光あれ!」と言って、最初にこの光を作った、その最初の日なのです。そして聖霊も降臨するその日であって、そしてこの最初の日に復活されたのです。

この最初の日に息を吹きかけるのです。

この「息を吹きかける」というのは、実はアダムとエヴァを創った時(6日目ですけれどもそれは)、塵の中にフッと息をかけて、命を与えました。

同じように息を吹きかけて、イエズス様は弟子たちに、「聖霊を受けよ」と言って、今度は新しい命に生きる事ができるようにするのです。

しかしそういうのを聖トマスは見ませんでした。

この弟子たちは、イエズス様を信じずに裏切ったし、逃亡したし、隠れていたし、ぺトロなどは「知らない」と3回言ったのです。

イエズス様はそんなような弟子たちに最初に現れて、私たちと全然違う態度を取りました。嫌みとか、冷たい言葉とか、叱責の言葉とか、「ほら、言ったじゃないか」とか、そうではなくて、何と仰ったかというと「お前たちに平和があるように」でした。

弟子たちがびっくりしていると、もう一回繰り返すのです。
「お前たちに平和があるように。」

イエズス様は何と優しい方でしょうか。嫌味も叱る言葉も何もなく、ただ平和だけを下さろうとされます。

そのような裏切った人たちに、「聖霊を受けよ」と特別の御恵みを与えて、あたかももうすぐに水で流すのです。

「喜べ。平和があるように。」それだけなのです。

そういう事を、それを見た、そういう体験をした弟子たちの話を、トマスは聞くのです。けれどもトマスは答えます。「僕は信じないよ。」

私たちもトマスのようでした。イエズス様が「こうだ」と、色んなイエズス様の話を聞いても、中々信じようとせずに、お祈りもせずに、イエズス様が「こうだ」と言っても、「フンフン、フンフン。」「でもね、実際は、やっぱりちょっと…」でした。

ところが、明日の主日、復活の後の8日の後に、今度はその弟子たちと一緒に皆さんも居ます。トマスも居ます。トマスがついた悪態とか、不信の言葉とか、馬鹿にした言葉という事をイエズス様はもう知っていたのです。

やっぱりドアを閉めて、もしかしたらカーテンは閉めてなかったかもしれないのですが、とにかくイエズス様が現れて、「平和があなたたちにあるように」と言われます。

イエズス様は、すぐに皆さんの方を向いて、「さぁ、こっちにやって来なさい。手をこの傷の中に入れなさい。この脇に手を入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

イエズス様が望んでいるのは、私たちが信じるように、イエズス様の御復活を確かに確信するように。それだけでした。

そして嫌味も、嫌がらせも、叱責も、叱りも、全然ありませんでした。非常に優しく、非常に親切で、「とにかく信じてくれればそれで良い。」

トマスはもうおそらくそうしなくても、もうそれを聞いただけでイエズス様だと確信したと思います。

しかしイエズス様はトマスの手を取って、「さぁ、ここに手を入れなさい」と言ったので、イエズス様の確かに御体に触れて、目で見て、耳で聞いて、「このように言ってくれる人はイエズス様しかいない。これほど優しいのは一人しか、もう世界中一人しかいない。この優しさ、この憐れみ、この愛、この慈悲深さ、この態度、イエズス様しかいない。」と思ったに違いありません。

確信したのです、「こんな事を言う人は、イエズス・キリストしかいない。」

そこでトマスは胸に触れながら、「我が主、我が天主!」と信仰告白します。

実はここの翻訳ではですね、「私の主よ、私の天主よ」と、呼びかけになっているのですけれども、実はこのギリシャ語の原文では、主格になっているのです。呼びかけではなくて、「私の主、私の天主。」

つまり「これこそ私の天主である。私の主である」という断定の言葉なのです、呼びかけではなくて。つまり私の主観が、私はあなたの事を何と呼びます、というのではなくて、「これこそ客観的に主であり天主である」と断定をしているのです。

「あなたは私を見たから信じたが、私を見ずに信ずる人は幸いである。」

御聖体を私たちが奉挙するときに、教会は「これ我が主、我が天主なり」と言うと、贖宥が受けられると定めていますが、実はトマスのこの言葉から来ています。

そこで黙想しながらぜひ、イエズス様の御体に触れて、イエズス様に「確かに復活された。この優しさはイエズス様しかない」とおっしゃってください。

イエズス様が復活して最初に下さった、息を吹きかけて下さったのも、罪の赦しの為の御恵みでした。イエズス様が下さるのは平安です。

ですから私たちも、ぜひ御聖体拝領の時には、トマスのように、私たちの場合には口を開けて舌を出して下さい。イエズス様を受けながら、「確かに、これこそ我が主、我が天主なり」と仰って下さい。

イエズス様の御憐み、そして聖トマスがその不信から信仰者になったというその逆転を考えてください。この確信を持ってトマスはインドまで来ますから。「イエズス様の為ならどこまでも、地の果てまで。」聖トマスの信仰を見て下さい。

イエズス様が何を望んでおられるのか。「平安があるように。」

同じ所の部分で3回出てきます。最初に2回、そしてトマスの所にも1回。イエズス様のその御謙遜、私たちに対する憐れみをよく黙想なさって下さい。

実はこの後に、本当は聖ヨハネは、この後で、「イエズスは弟子たちの前で、この本にはしるさなかった他の多くのしるしをおこなわれた。これらのことをしるしたのは、イエズスが天主の子キリストであることを、あなたたちに信じさせるため、そして信じて、そのみ名によって生命を得させるためである。」と締めくくりを書いています。

おそらく最初はここでもう福音書を終わろうとされたと思うのです。しかし実際は21章が付いているのです。「その後、イエズス様はまた現れた」という話が付いているのです。

21章の話はティベリアのガリレア湖で、弟子たちが漁をしている出来事についてです。これは特に私の今回の黙想の提案ではないので、詳しくは申しません。

イエズス様は3年間、一般の人たちに色々福音を教えて、弟子たちも連れて宣教されました。しかし復活された40日間は、特に使徒たちの教育に専念します。「これからどうやって教会を指導していくか」という事を使徒たちに現れて教えるのです。

まず罪の赦しについて教えます。イエズス様の態度を見せて、どうやってイエズス様のようにしなければならないか、という事を教えます。

それで、私がすごいと思うのでは、天使たちとイエズス様の言葉遣いが違うのです。

天使たちは、これはマテオとマルコにあるのですけれど、私の記憶が正しければ。天使が現れた時に、「行って、弟子たちに告げに行け」と言うのです。「弟子たちに」と。

ところがヨハネの福音では、イエズス様はヨハネとかペトロには現れなかったのですけれども、その直後にマグダラのマリアに現れて、それで「誰を探しているのか?」と聞いたりします。その後で、「兄弟たちの所に行って、言いなさい。こう言いなさい」と言うのです。

天使は「弟子たちの所に」と言うのですけれど、イエズス様は「弟子たちの元に行って」とは言わずに、「兄弟の所に行きなさい」と言うのです。使徒たちの事を、兄弟だと考えているのです。

あと、ティベリアで漁をしているのですけれども、なかなか釣れない、でもその時にイエズス様は、「子らよ、子供たちよ。おかずにする魚があるか。」と、「子供たちよ」と呼びかけるのです。「お前ら、何かそこでやってんだか」と仰らずに、「子供たちよ、魚があるか。」

弟子たちは「ありません」と答えます。イエズス様は「右の方に網を下ろしたら獲れるよ」と教えてくれます。

本当にすごい大漁でした。すると船を着けて岸に上がると、もう既にイエズス様は、弟子たちの為に朝食を準備していたのです。炭火があって、パンもあってですね、お師匠さんがこの弟子たちの為に朝ご飯を準備する。非常に優しい、非常にご親切な態度をされる。

ぜひこの今回の黙想では、イエズス様のこの御憐れみの深さと、愛の深さと、イエズス様が真に復活された、という事を証したい、というその望みをぜひ黙想なさって下さい。

私たちはトマスと同じように、主の御復活を本当に目の当たりにして、「我が主、我が天主なり」と、申し上げて下さい。何度も何度も申し上げて下さい。「私の信仰がますます強くなりますように。」

必要であれば、イエズス様の御手にも触って、「確かに復活された。イエズス様、」と話かけて下さい。

「御身は生きておられます。私は今まで知っていましたけれども、よく理解できていませんでした。信仰を強めて下さい。」

15分間ぜひ黙想なさって下さい 。
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2018年4月7日(初土) モニカさんの葬儀ミサ 「カトリックの聖伝による葬儀ミサとは」

2018年04月21日 | お説教・霊的講話
2018年4月7日(初土)モニカさんの葬儀ミサ
小野田神父 説教


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

聖母の汚れなき御心教会にようこそ。

今日は2018年4月7日、御復活の後の土曜日で、初土曜日です。今日は聖木曜日に亡くなられた、私たちの姉妹であるモニカさんの葬儀ミサを捧げています。モニカさんの特別の遺言と希望で、4月の最初の水曜日の4月4日から、30日間のミサを捧げています。このミサもその内の1つであります。そしてご家族の皆さんがモニカさんを失った悲しみを共にしたいと思っています。

(1)今日のこの葬儀ミサ、カトリックの聖伝によると、葬儀ミサとは一体どのようなものなのか?どのようにして私たちは亡くなった霊魂の為に祈るのか?という事を黙想して、

そして(2)モニカさんの思い出話をする事を許して下さい。

その後で(3)私たちは遷善の決心を立てる事にしましょう。私たちは一体どのような事を黙想しながら、これからモニカさんの為にお祈りして、そして私たちの生活を送っていくべきか。

【1:カトリックの聖伝によると、葬儀ミサとは?】

カトリックの聖伝によると、私たちが死亡すると死を迎えると、霊魂は肉体を離れます。肉体と霊魂は1つで、霊魂は肉体を生かしていましたけれども、死を迎えるという事は、すなわち霊魂が肉体を離れる、分離するという事で、肉体は腐敗を始めます。土に戻ります。しかし霊魂は決して消滅する事がありません。どのような聖人であっても、どのような罪人であっても、罪を犯したから罰として、亡くなったから霊魂が無くなってしまうという事は決してありません。霊魂は永遠に生き続けます。

そして裁きを受けます。聖なる、また聖なる、聖なる天主によって裁きを受けるので、どのように清い霊魂であったとしても、その裁きは非常に厳しいものです。私たちの中のほんのちょっとした罪、あるいは汚れ、あるいは過失、あるいは罪の償いが残っていれば、それを私たちは何とかして浄めなければなりません。亡くなった後に罪の償いを果たして、罪の汚れなく天国に行くという、直行するという霊魂は、極めてわずかで、例外的です。

聖人たちも非常にその事を心配していました。アヴィラの聖テレジアというとても立派な方は、臨終の時にシスターたちを呼んで、「わが娘たちよ。私が死んだらすぐにたくさんのお祈りして下さい。なぜかというと、天主の裁きは非常に厳しいので、私は長い間煉獄で苦しまなければならないから。」

霊魂が聖であれば聖であるほど、清い方であれば清くなれば清くなるほど、罪の醜さ、恐ろしさ、おどろおどろしさがますますよく分かるので、そして天主の清さ、善、愛、憐れみの深さ、そしてその良さ、寛大さがあまりにもよく分かるので、すぐその清い天主に直行する事はできないだろう、と、ますます自覚しました。

そこで教会は、霊魂が亡くなると、多くの祈りと、多くの償いを捧げようと決心しました。最も効果がある、最も功徳のある、最も天主の御前に力のある祈りがミサ聖祭です。なぜかというと、天主聖子が私たちの身代わりとなって、私たちの名前によって、自分の天主の血を流して、罪の償いを果たして下さったからです。「聖父よ、彼らをお赦し下さい。彼らはその為すところを知らないからです。」

その聖子の祈りに聖父はどうして拒む事ができるでしょうか。ですから教会は、ミサを以て死者の為に、この霊魂の救いの為に、「早く天国に行く事ができるように」と祈る習慣があります。

ただし教会は、私たちにとって、天主の聖性とその清さをよく知っているが為に、私たちには喪に服すように招いています。そこで教会は、「ミサの時にはオルガンを鳴らさないように、祭壇に花を置かないように。そして私たちはこの亡くなった霊魂に代わって償いを果たすように」と招いています。

ですから、私たちの為にこのミサが捧げられるわけではないので、最後の祝福もありません。司祭は水さえも祝福しません。全ての祈りは、「この霊魂が早く天国に行く事ができるように、天主の憐れみを乞う」という事だけに集中します。

このミサの後には、普通ならば「Ite, Missa est」と言うところを、私たちは、「この霊魂たちに永遠の安息があるように」と司祭は言ってミサを終わります。皆さんは、「アーメン」と歌って答えて下さい。今日のミサの後には最後の祝福もなく、最後の福音もなく、司祭は、赦祷式というものを行います。

赦祷式というのは、「霊魂が早く天国に行きますように」という意向を持った、主の憐れみを乞い求める特別のお祈りで、もし遺体があれば遺体に、もしも遺体がなければ空の棺を置いてそれに聖水を司祭がかけます。教会を代表して聖水をかけます。香も焚きます。なぜかというと、この亡くなった霊魂は亡くなった方は、天主三位一体の神殿であったからです。

教会は、ユダヤ教の伝統とそしてカトリック教会の伝統は、天主の神殿である私たちの体を、そのまま土葬する埋葬するという習慣があります。本来ならば私たちも、日本でもできるならば 埋葬するようにしたいと願っています。将来的にその準備を進めたいと私も思っています。

カタコンベというものがローマにあります。300年間、カトリック教会は「違法」でした。教会がやっている儀式というのは禁止されていました。ローマの神々のものは良いのだけれども、しかしイエズス・キリストを信じる事は厳禁でした。イエズス・キリストを信じる事には死が待っていました。拷問が待っていました。財産の没収が待っていました。しかしローマ帝国の多くの人々、ますます多くの人々は、イエズス・キリストこそが真の天主であるとして信じていました。その信者の生活の清さ、その慎ましさは、異教の神々を信じているローマの人々の生活の、ふしだらな生活と比べると全く違っていました。イエズス・キリストの復活を信じて、私たちも復活するという事を信じて、多くの信者たちは殉教していきました。唯一、キリスト教の儀式をする事ができるような安全な場所はお墓しかありませんでした。地下のお墓なのです。なぜかというと、ローマの法律によって、「お墓は誰も暴いてはいけないし、手を付けてはいけないし、破壊してはいけない」という特別の古代からの法律があったからです。そこで安全の為に、キリスト教信者はカトリック信者は、地下のカタコンベという所のお墓でミサをしていました。殉教者もそのお墓に葬る事ができました。

ところでそのカタコンベを見ると、異教徒の人々のお墓とカトリックのお墓の違いが分かります。それは何かというと、火葬されて灰になっているか、そのまま土葬されているかの違いなのです。カトリック教会にとって、天主の神殿が火で焼かれるというのは、これは地獄の事を思い出すので、ぜひその地獄の苦しみに遭わせたくないという思いから、また復活するという、復活を待つ、復活を待って眠りに就くという信仰から、土葬をするようになっています。

日本では土葬する事は禁止されていません。しかしそれができる県は北海道と山梨県だそうです。土葬の会というのがあって、そこでは土葬をしたいという人たちのものがあるのだそうです。日本では古来から土葬が行われていました。日本人にとってとても自然なものでした。私たちもそのような、将来的に私たちもそのような形で土葬の準備をしたいと願っています、マリア様の御助けを以て。

カトリック教会はそこで、特に復活を否定するという人たちが火葬を勧めていたので、ヨーロッパでは「火葬をする人に対しては、教会の埋葬をしない」という、「儀式を拒否する」態度を取りました。

日本では迫害の最中でもあって、日本のカトリック教会が公式の認可を受けたのは戦時中だったので、ローマから第2バチカン公会議の前に、すでに火葬をする特別の許可を持っています。しかしできれば、理想は土葬なので、ぜひ私たちも土葬の事を考えています。

私が今日、主に言いたかった事はそれではありません。私たちはカトリック教会は、「復活を待って、復活の為に眠りに就いているのだ。復活の待望をもって、私たちは復活の日を待っているのだ」という事です。

ですから私たちは教会と共に、亡くなった霊魂の為にたくさん祈ります。モニカさんはまさにこの復活の、イエズス・キリストを真の天主として、イエズス・キリストと同じ復活を待つ者として、眠りに就かれました。

【2:思い出話】

モニカさんは大体20年くらい前から、毎月、私たちの聖堂に通って来ていました。欠かさず通って来ていました。家系は昔からカトリックの家系でした。とても物静かで、非常に大人しい素直な方なので、教理のカトリック要理の事をよく知っていました。そして公教要理の時間には必ず残って、公教要理をしていました。そして公教要理について深い知識を持っていた事は、その時の対話から分かりました。

ある時、いつもはお話をなさらないモニカさんですけれども、ポロリと奇跡の話の時に、こういう話をしてくれた事があります。

実はモニカさんのおじいさんが、仏教徒で、非常に頑固な仏教徒だったのです。ちょうどフランスからの宣教師が大坂に来ていて、そして小さな所を借りてミサをしていたのです。そして教会という教会もなく、ただミサの時だけにちょっと場所を借りて、という事をしていました。しかしカトリックの信仰を信じるという方が多くなってきて、そして今まで借りていた所が非常に手狭になったので、「ぜひ大きな場所が欲しい、大きな所が必要だ。何とかしてこの信者さんたちが一緒にお祈りをする場所が必要だ」ということになりました。

その時、大きな地主であったおじいさんの所に、モニカさんのおじいさんの所に、「ぜひ土地を買わせて欲しい。普通の土地よりも高いお金を払うので、ぜひ譲ってもらいたい」と宣教師の神父様がお願いに行ったそうです。この家族はカトリックでも何でもありませんでした。ただ土地を持っていただけでした。

するとそのおじいさんは、「ワシは仏教だ!耶蘇に売るくらいなら乞食にくれてやる!嫌だ!」と言って断ったのだそうです。それでも、それでも神父様はお願いに行ったのですけれども、「耶蘇は嫌だ!」と言って、「帰れ!」と言って冷たくあしらわれたそうです。その当時はカトリック教会も認められていませんでしたし、外国の宗教だと思われていたので、日本とは関係ない、よそ者だと思われていたので、これも仕方がなかったかもしれません。

ところが、そのおじいさんが癌になったのです。そして苦しんでおられるというのを聞いて、その神父様はすぐにフランスのルルドの聖水を日本に持って来ました。当時そのルルドの水を日本に持って来るのは非常に困難だったと思います。それをしてそのおじいさんに、「これはルルドの水で、これはマリア様の奇跡の水だからどうぞ召し上がって下さい、どうぞ飲んで下さい。」「ワシは嫌だ!信ぜんよ!」と言ったのですけれど、それでも、「まぁ、せっかくフランスから来たお水だ」、「貴重なお水だから」という事で飲んだところ、癌がピタリ、きれいに治ってしまった、という奇跡が起こりました。

そこでそのお礼に、そのおじいさんは持っていた土地を教会に寄付して、そして自分も洗礼を受けたのだ、という話を私にして下さいました。その後に家族代々、カトリックの信仰を受ける御恵みを受けた、という話をして下さいました。

モニカさんにとって、マリア様、イエズス様は、絶対の天主で、私たちの為に奇跡を起こす事ができて、そしてたとえ辛い思いをされて、日本の政府から認められていなかったとしても、イエズス・キリストこそが私たちに奇跡さえも起こす事ができる真の天主だ、というそのおじいさんの信仰を受け継いでおられました。そこで聖伝のミサに、ラテン語のミサに与り始めた時に、「これこそが本物だ。これこそがおじいさんから受け継いだ信仰だ。これこそが私がしなければならないイエズス様への礼拝だ」と、このミサを発見した事を非常に喜んでおられました。

なぜかというと、今から20年30年前は、日本では、「手による聖体拝領をしなければならない」と言われていたからです。今ではこれがもう当たり前になってしまっているのですけれども、しかしその時にはそれが非常に大きな問題でした。

ローマや文書では紙の上では、「信徒は自由だ。手に聖体拝領したい人はそれば良いし、しかしもしも口で聖体拝領したい人はすれば良い」とは書いてある事はあるのですけれども、でも実際にはできないのです。実際には手でないと拝領させてくれないのです。私も同じ思いをしました。ですからモニカさんの話がよく分かりました。

イエズス様をただのパンであるように、あるいは何でもないかのように、御聖体を何でもない普通の物であるように取り扱えば、日本ではお墨付きが来たのです。「よくやった!」と褒められたのです。

しかし、「イエズス様こそが真の天主だ、私たちはその前に跪きたい。その前に跪いて口で御聖体拝領したい。イエズス様の小さなかけらも御聖体だから、手に付いたら私たちは踏んでしまうかもしれない」という信仰は、「NO!ダメだ!」と言われたのです。嘘のようですけれども、本当の話なのです。

今ではもっと進んでいます。「聖体変化の時には立っていなければならない。跪いてはいけない」と言われています。「ミサの途中、日本では跪かない。これが日本の司教団の決定だ!」

ですから「跪く人は邪魔者だ!」「跪くのは違法だ!間違っている!」と言われます。もちろんベネディクト十六世教皇様も、もちろんフランシスコ教皇様も、「どちらでも良い」と言います。ベネディクト十六世引退教皇様などは、ご自分のミサの時には跪いて口でなければ拝領させません。しかし私たちは「日本ではだめだ!」と言われます。

もちろん聖パウロも聖書も、「主の前に、全てのものは膝をかがめる」と言います。しかし「日本ではだめだ!」と言われます。

これは跪くか跪かないかの問題ではないのです。この核心は「イエズス・キリストが復活した真の天主であるか、そうでないか」という問題なのです。

もしもイエズス・キリストが本当に復活して、十字架の死に至るまで天主に従順であったが為に、全てのものに優る名を与えられて、復活して、私たちはその真の天主を受けるとしたら、「天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもの、全てが膝をかがめる」という方を、もしも聖体拝領するとしたら、その前にあるとしたら、私たちがどうしても当然取るべき信仰が教えるものをするか、しないか、の違いなのです。

しかし、信仰の通りにする事はお墨付きを与えられませんでした、「これは違法だ!」とレッテルを張られます。そこで、そこで多くの方は現在でも苦しんでおられます。

しかし、モニカさんは私たちのこのミサに来て、「これこそが、これこそが私たちがやるべき真の道だ」と、このミサに与り続けました。

もちろんこのような教会の苦しみはおそらく長くは続かないと思います。今から10年前までは、聖伝のミサは禁止されている、と教区報にも出されましたし、色々なところにも出されましたが、10年前に、2007年7月7日にベネディクト十六世教皇様が、「このミサは昔から教会が愛してきたもので、いきなりこのミサが禁止される事も、いきなり悪になる事もあり得ない。だから私たちは、教会が愛したものを愛し続けなければならい」と言った時に、少しずつ態度が変わっていきました。

教会はおそらく今その受難の時ですが、もう一度聖伝が復活する時がやって来ます。「教会は今、」ベネディクト十六世教皇様の言葉によれば、「沈みかけている船のようだ」と言うのですけれど、しかしこの船が、御聖体とマリア様の2つの柱に縛り付ける時がやって来ます、聖ドン・ボスコの預言によると。「その時、教会には平和がやって来て、大きな発展がある」と言われています。ですから必ずその時は来ます。

マリア様も、ファチマのマリア様も約束されました、「汚れなき御心は勝利する、凱旋するでしょう。教皇様はロシアを私の御心に奉献するでしょう。ロシアは回心するでしょう。平和の時代がやって来るでしょう。」

【3:遷善の決心】

私たちはカトリック聖伝の復活の日を待ち続けつつ、モニカさんと同じ信仰を持ち続けたいと思います。

「イエズス・キリストは真の天主であって、復活された。そして私たちが受ける聖体拝領は、生ける天主の聖子、イエズス・キリストである。その復活されたイエズス様を私たちは今日受ける。ですから私たちは最大の礼拝と、敬意と、愛とを込めて、聖体拝領をしなければならない。」

モニカさんがやっていた事を私たちもしましょう。深い公教要理の勉強から来たその確信の通りに行動しましょう。

最後に、モニカさんの為にお祈り致しましょう。私たちもこの霊魂が早く天国に行く事ができますように、そして天国に行った暁には、天国から私たちの為にお祈りして下さるように、これからお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

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第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見 (続き4)【ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」】

2018年04月20日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見(続き3)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見


 二、黙想は、内的生活の、したがって、使徒職の必要欠くべからざる要素である(3/3)


VOLO「わたしは望む」
 わたしは、さらに一歩前進して、これから“意志”の国に入る。
 意志こそは、実行的愛の言葉である。
 情念的愛は、わたしの心に、自分の行いを改めたい、という望みを吹き込んでくれた。
 ああ、イエズスよ、わたしは巡礼の途上に、よこたわる障害物を見ました。
 わたしは、この障害物を取り除きたいのです。
 これから、天主に向かってお話をするのは、わたしの“意志”です。
 ああ、イエズスよ、わたしがこの「……したい」という望みを、あなたにくり返す熱心は、わたしが今さき、「わたしは信ずる、わたしは愛する、わたしは痛悔する、わたしは望む!」と、いくたびもくり返したその熱心から、自然に出てくるのです。
 もしこの“わたしは望む”という意志の叫びが、わたしがこいねがったほどの熱烈さをもって、心の底からほとばしらない時がありましても、ああ、最愛の救い主よ、そのときわたしはあなたに、わたしの意志の弱さを哀訴するでしょう。そして、わたしは、けっして失望することなく、あたかも疲れを知らない人のように、あなたにくり返し申し上げるでしょう。――どれほどわたしは、天父にたいするあなたご自身の、いかなるぎせいも惜まないその寛大なご奉仕のまごころに、参与させていただくことを望んでいることでしょうと。
 わたしは、黙想の終わりに取る、自身の救霊をはかり、天主を愛するために働く、という一般的な決心に加えて、ここにいま一つ、きょう一日のあいだ、わたしが出あうこともあろういろいろの困難や、誘惑や、危険などを予見して、これに善処することができるように、具体的に黙想をする――という決心を、取ることにしましょう。
 だが、特にわたしは新たに、いきいきとした愛をもって、わたしのこれこれの欠点と戦い、これこれの善徳を実行する目的のもとに、特別糾明をしよう、という決心を取る。
 この決心を強化するためには、それを刺激する要因が要る。イエズスの聖心の中に、それを見いだそう。
 この決心を守りぬくため、霊魂は、救霊の敵とほんとうに死闘を演ずることもあるのだから、そのときは、これこれの方法を取ろう、とハッキリきめておく。これこれの機会が起こった場合にはこうする、というぐあいに、前もって、霊戦の準備をしておく。放念、わがまま、不節制、屈辱、誘惑、大事なことを決行する――こういう特殊な機会がおこった場合には、大いに警戒するように、必死になるように、そしてとりわけ、イエズスに一致してとどまり、聖母マリアのみもとに馳せていくように、心を準備しておく。
 しかし、弱いわたしのことであれば、こういう至れりつくせりの警戒を施した後でさえ、過ちにおちいることがないとも限らぬ。だが、予期しない突然の過ちと故意の過ちの間には、どれほどの差異があることだろう。
 最善をつくしたにかかわらず、過ちをおかしたからとて、わたしはけっして失望などしない。倒れては起き、起きては倒れる、というぐあいに、これをいくたびもくり返しているうち、わたしは前よりいっそう意志が強くなる。天主にいっそう強く、嘆願の叫びを発するようになる。かくてわたしの失敗によって、天主はいっそう栄光を帰せられるのだ。このことを納得していればこそ、わたしはたとえ過ちをおかしても、絶対に失敗などしないのだ。こういう苦しい努力の代価を支払わねば、成功は覚束ないのである。

 VOLO TECUM「わたしはあなたと共に望む」
 ああ、わたしの救い主よ、足なえを真っ直ぐに歩かせるのは、あなたなくして成功を望むことよりはるかにたやすいことです。(聖アウグスチノの言葉)
 どうして、わたしの決心は、こんなに実を結ばないのでしょうか。――「わたしに不可能のことはない」という必勝の信念が、「わたしを強くしてくださるお方によって」(フィリッピ4・13)という、謙遜と信頼の心がまえから出ていないからです。そんなわけで、わたしは、ある意味で、黙想でいちばん大切な点、すなわち、“嘆願”または“望徳”の言葉にふれることになります。
 ああ、イエズスよ、あなたの恩寵がなければ、わたしは何もすることができません。しかも、この恩寵をいただくためにも、わたしにはその資格がありません。しかし、わたしはぞんじております。――もしわたしが、あなたに切にお願い致しさえしますなら、それはあなたをうるさがらせるどころか、かえってその切願の度合いに応じて、あなたはわたしを助けてくださることを。むろん、そのためには、わたしが、あなたのものでありたい、という望みに、はげしく渇いていなければなりません。わたし自身の力に頼っていてはなりません。あなたの聖心にたいするわたしの信頼に、限度があってはなりません。むしろ、それは、盲目的な、愚かと思われるぐらい極端な、絶対的なものでなければなりません。
 ああ、永遠に善良なおん者、ああ、イエズスよ、わたしはカナアンの女のように、あなたのみ足のもとにぬかずきます。彼女のようにしつこく、彼女のように希望にみち、謙遜にあふれて、あなたにお願いいたしたいのです。――ただ主人の食卓から落ちる一片のパンくずばかりでなく、「わたしの食物は、わたしをつかわされた御父のみ旨をおこなうことである」と、あなたが仰せられたこの霊的うたげに、わたしもほんとうにつらなることができ、天国のパンを飽きるほど食べることができますようにと。
 成聖の恩寵によって、あなたの神秘体の枝となったわたしは、あなたのご生命に、あなたのご功徳に、参与する者とならせていただきましたから、ああ、イエズスよ、わたしはあなたによって、天父にお願いするのです。――ああ、聖なる御父よ、天に向かって慈悲をさけばれる、御子イエズス・キリストの聖なる御血によって、わたしがあなたに何かをおねがい致しますとき、あなたは果たしてこのねがいを、しりぞけることがおできになりましょうか。ああ、汲めども尽きぬ永遠の富の泉よ、わたしがあなたに向かって挙げますのは、施しを乞うあわれな乞食の叫びごえです。「主よ、あなたの耳を傾けて、わたしにお答えください。わたしは苦しみ、かつ乏しいからです」(詩篇85・1)
 あなたの全能の力を、わたしに着せてください。
 わたしの弱さにおいて、あなたの全能の栄光を発揮してください。
 あなたの善良さと、あなたのお約束と、あなたのご功徳と、――これこそは、ああ、イエズスよ、わたし自身の惨めさとあなたへの信頼とともに、きょう一日、わたしがあなたに一致して、心をよく取り締まり、また、勇敢に戦い、かつ、強く生きる力をめぐんでいただくための保証となるのです。日中ある障害がおきるとき、誘惑のあらしがまき起こるとき、困難に見舞われて、わたしの五官のいずれかに、苦しいぎせいを課さねばならないとき、そのときこそは、わたしが霊的花束として、いつも心のなかに収めている、聖書の言葉や聖なる考えが、わたしの決心を包んでいた祈りの芳香を、発散させることでしょう。わたしの黙想の美しい成果である、この祈りの習慣こそは、同時に、わたしの黙想の良否を鑑別する、試金石ともなることでしょう。「あなたがたは、その実によって、木を見わけるであろう」(マテオ7・16)とのお言葉のごとく。

               *

 わたしが、信仰によって生きるようになったとき、天主に向かって絶えまない渇きを感じるようになったとき、そのとき初めて、“わたしは見る”のはたらきがなくなるであろう。“わたしは渇く”の心情は、黙想の初めから、ほとばしりでる。そうしているうちに、天主を愛し、天主に自己をささげる気持ちが湧いてくる。かたく決心したわたしの意志を、ますますかたく強めてくれる。そして、直接間接、聖母や天使、諸聖人を通じて、イエズスのみもとに行って、天父のみ旨とのいっそう深い、いっそう絶えまない一致をこい求めるように仕向けてくれるのである。
 ミサ聖祭が、わたしを待っている。黙想が、その準備をさせてくれる。黙想のおかげで、わたしは教会の名によって、カルワリオの聖なる祭に、ふさわしい心がまえをもってあずかることができる。りっぱな聖体拝領をすることができる。感謝の祈りのあいだ、わたしの願いごとは、小さな個人の利害をはなれて、教会全体の利害にまで及ぶ。わたしは、自分に委託された霊魂のため、死せる霊魂のため、わたしの使徒的事業のため、わたしの両親、友人、恩人、敵どものためにも、祈るのである。

 次に、教会と心を合わせて、聖務日課の時課を、いくつかとなえる。そのあいだ、わたしは教会のためにも、わたし自身のためにも、祈ることを忘れない。しばしば、そして熱心に、射禱をとなえる。霊的聖体拝領をする。特別糾明をする。聖体訪問をする。霊的読書をする。ロザリオの祈りをする。眠りにつくまえには、一般的糾明をする。――これらは、天主への巡礼の途上に立てられた、道しるべのようなものであって、道がけわしく長いため、疲れきったわたしの霊魂のちからを回復し、朝の黙想のときにいただいた、天主に向かっての霊的飛躍を確保してくれる。

 このようにして、わたしは、一日じゅう、イエズス・キリストの影響下にあることができる。この飛躍のおかげで、直接間接、聖母マリアをへて、イエズスのみもとに馳せていくことができる。それは、最初のころは、周期的に、しばしばくり返されるが、日がたつにつれ、だんだん習慣的になっていく。すでに習慣となれば、キリストの教えを、口で賛美するばかりでなく、それを日常生活の細部にまで、浸透させていく。また、わたしの信心と行動とのあいだには、なんの矛盾も衝突も起こらないであろう。


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Sermon for 2nd Sunday after Easter (Good Shepherd Sunday) ―Fr Etienne Demornex, FSSPX

2018年04月20日 | お説教・霊的講話
Introduction

Today’s Sunday is commonly called “Good Shepherd Sunday” because of the Mass Gospel in which Our Lord says: “I am the Good Shepherd”. In our Society it is a Sunday which is dedicated to seminaries: let us therefore not forget to pray for all the young men who prepare themselves to the priesthood or religious life in our seminaries and novitiates.
I would like today to say a few words on this title of “Good Shepherd” which Our Lord gives Himself and consequently on what should be our attitude as “good sheep”.

1. Our Lord Jesus is the Good Shepherd

What is for Our Lord a good shepherd? Somebody who cares for those under his responsibility, who defends them and looks for those who would have gone astray. Our Lord Jesus is excellently the Good Shepherd to us.

Indeed Our Lord really cares for us:
・He wants our welfare and ultimately our eternal happiness and that is why He came down from Heaven. Remember how many miracles He performed in favor of the sick, of the poor, of the sorrowful, of the hungry.

・Our Lord cares for us in the sense that He gives us the spiritual food we need. He satisfies the thirst of our soul for truth and happiness: He came to teach us about God, Heaven, and the way to Heaven. Remember His sermon on the mountain: “Blessed are the poor in spirit, for theirs is the kingdom of Heaven, Blessed are the meek, for they shall possess the land, etc…” (Mt 5;3-4). More than this, Our Lord Jesus gave Himself in the Holy Eucharist to be our spiritual food: He Himself decided to come in our soul to enlighten our minds with the truth and enflame our heart with love.

・Our Lord cares for us, it means also that He guides us in the spiritual ways: for example in the Gospel we see Our Lord teaching Nicodemus about the necessity of Baptism, instituting the Sacraments as means of getting grace, advising the young man how to become more perfect: “If you want to be perfect, go and sell what you have and give it to the poor, and you shall have treasure in heaven: and come follow Me” (Mt 19;21); during the Last Supper, Our Lord promised to send the Holy Ghost to his disciples in order to guide them: “The Paraclete, the Holy Ghost, whom the Father will send in my Name, He will teach you all things” (Jn 14;26)

Our Lord is a good shepherd because He protects us. How?

・Our Lord protects us against errors and wrong doings. Because he loves us and wants our good, He warns us against sin. Remember how He chased away twice the sellers in the temple of Jerusalem telling them: “it is written: My House shall be called the house of prayer; but you have made it a den of thieves” (Mt 21;13); remember how He reproached harshly to the Pharisees their bad will and how they were misleading people from the truth: “Woe to you scribes and Pharisees, hypocrites…, blind guides…you foolish and blind… you serpents, generation of vipers…” (Mt 23;13-33); even St Peter Our Lord did not hesitate to blame when he tried to stop Him from accepting His Passion: “Go behind Me, Satan, you are a scandal unto me” (Mt 16;23)

・Also Our Lord Jesus defends us against our enemies, the “wolf” which means the devils, the world and the flesh. He has gone to Heaven but yet He is still with us in the Holy Eucharist, still with us by the spiritual assistance He gives us at any time: “Behold I am with you all days, even to the consummation of the world” (Mt 28;20), and especially in time of persecution “I will give you a mouth and wisdom which all your adversaries shall not be able to resist and gainsay” (Lc 21;15).

・And because “Greater love than this no man has, that a man lay down his life for his friends” (Jn 15;13), Our Lord Jesus has defended us up to the point to die for the remission of our sins and to save us from hell: “I am the good shepherd… and I lay down my life for my sheep” (Jn 10;14-15).


Our Lord Jesus is a good shepherd because He looks for the lost sheep with mercy. Our Divine Master came on earth to gain salvation for all people and He calls all people to follow Him. To His Apostles, He said: “Going therefore, teach ye all nations; baptizing them in the Name of the Father, and of the Son and of the Holy Ghost, teaching them to observe all things whatsoever I have commanded you” (Mt 28;19); in today’s Gospel He says: “Other sheep I have that are not of this fold; them also I must bring” (Jn 10;16); in the Gospel according to St Luke He said: “What man of you that has an hundred sheep, and if he shall lose one of them, does he not leave the 99 in the desert and go after that which was lost until he find it?” (Lc 15;4).

2. Our response to the Good Shepherd

We have really in Our Lord Jesus Christ a perfect shepherd taking care of us, protecting us, full of mercy.
But now the question is: are we, on our side, the good sheep docile to the voice of our Master? Somebody said that one reason for which we are so poor intellectually and spiritually in the world of today is not only because of the lack of spiritual masters but more because of the lack of docile disciples capable to listen to the masters and learn from them. All the science and the care of the master is useless if the disciple is not disposed to receive it.
How should we be “good sheep”, docile disciples under the guidance of the Lord? By corresponding to His actions on us:

Our Lord cares for us, let us take advantage of this care:

・Our Lord Jesus wants our good and eternal happiness. Let us therefore accept it and live accordingly, it means to trust His Providence. We know that Jesus is God and that He is in control of everything, that He organizes everything in our life to make us grow spiritually and reach Heaven. We should then bear patiently the trials of this life and persevere in our Catholic Faith whatever happens: “Fear not little flock, for it has pleased your Father to give you a kingdom” (Lc 12;32).

・Our Lord offers us spiritual food: Himself in the Holy Eucharist and in His teachings: “Not in bread alone does man live, but in every word that proceeds from the mouth of God” (Mt 4;4). Therefore let us be attentive to eat eagerly the spiritual food we are given: there is no possible “over-eating” in that domain! Let us receive Holy Eucharist as often as possible; let us read regularly the Holy Scriptures; let us deepen our knowledge of the Catholic Faith, let us pray often.

・Our Lord knows the way to Heaven, knows what is good or bad for us. Let us therefore accept willingly His guidance: the Commandments of God and of the Church; let us put joyfully into practice the evangelical counsels (spirit of poverty, chastity, obedience).


Our Lord protects us: let us put ourselves willingly under His protection:

・Our Lord warns us against dangers, errors and wicked people who could mislead us. Let us therefore have the humility to accept these warnings which He gives us especially through the Magisterium of His Church.

・Our Lord stays with us, physically in the tabernacle and spiritually in our soul by sanctifying grace. Let us therefore stay close to Him, visiting Him often in the Blessed Sacrament if we can or at least talking to Him often in our heart.

・Our Lord gave His life for us. Can we now do less than to work and to fight and to die for His glory? As St Thomas the Apostle said: “Let us also go, that we may die with Him” (Jn 11;16) or as Jesus Himself said: “Blessed are you when they shall revile you and persecute you, and speak all that is evil against you, untruly, for my sake, be glad and rejoice for your reward is very great in Heaven” (Mt 5;11).

The sacred Heart of Our Lord was burning with love of soul and the desire of their salvation: let us have as well a great desire for our own salvation and for the salvation of the people around us. We must have a missionary spirit, that is to say to work for the salvation of souls by our prayers, our sacrifices, by living an authentic Catholic life, by professing our Faith when we have the occasion, by spreading good writings about the Faith, etc…

Conclusion

Dear Faithful, without any doubt, we have a good Shepherd: Our Lord Jesus Christ. But maybe we are not good sheep, not enough docile to the voice of Our Lord Jesus. During this Mass, let make renew our resolutions to leave behind our sinful habits and to give our entire heart to Our Lord.
May Our most Blessed Mother, the Virgin Mary, make us hear and follow the voice of the Lord her Divine Son always. Amen.
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2018年4月15日 御復活後第二主日説教 「善き牧者と善き羊」―聖ピオ十世会司祭 ドモルネ神父様

2018年04月19日 | お説教・霊的講話
2018年4月15日 御復活後第二主日(善き牧者の主日)のミサ
エチエンヌ・ドモルネ神父様(聖ピオ十世会) お説教  日本語訳


はじめに
本日の主日は、一般に「善き牧者の主日」と呼ばれています。このミサの福音において、主が「私は善い牧者である」と言っておられるからです。聖ピオ十世会においては、神学校のために捧げられている主日です。ですから、聖ピオ十世会の神学校や修練院で司祭職や修道生活の準備をしているすべての若者たちのために祈ることを忘れないようにしましょう。
私は本日、主が自分自身にお与えになった、この「善き牧者」という称号について、そしてその結果として、「善き羊」としての私たちの取るべき態度がどんなものかについて、少し述べたいと思います。

1.私たちの主イエズスは善き牧者である

主にとって、善き牧者とはどんなものでしょうか? 自分の責任の下にある人々の世話をし、彼らを守り、迷ってしまった人々を探し求める人のことです。私たちの主イエズスは、私たちにとってすばらしく善き牧者なのです。

実際、主は本当に私たちの世話をしてくださいます。

◎主は私たちの幸せを望み、そして最終的には私たちの永遠の幸せを望んでおられるのであり、そういうわけで主は天から降りて来られたのです。主が病める者、貧しい者、悲しむ者、飢えた者のためにいかに多くの奇蹟をなさったかを思い出してください。

◎私たちが必要とする霊的な食べ物を私たちに与えてくださるという意味で、主は私たちの世話をしてくださいます。主は、真理と幸せを求める私たちの霊魂の渇きを満たしてくださいます。主は、私たちに天主、天国、そして天国への道について教えるために来られました。山上の垂訓を思い出してください。「心の貧しい人は幸せである、天の国は彼らのものである。柔和な人は幸せである、彼らは地を譲り受けるであろう・・・」(マテオ5章3-4節)。これに加えて、私たちの主イエズスは、私たちの霊的な食べ物となるご聖体において、ご自分をお与えになりました。主は、私たちの精神を真理で照らし、私たちの心を愛で燃え立たせるために、私たちの霊魂に来ることを御自らお決めになりました。

◎主は私たちの世話をしてくださいますが、それは主が私たちを霊的な道において導いてくださるという意味でもあります。例えば、主はニコデモに洗礼が必要であることについて教え、御恵みを得る手段として秘蹟を制定し、若い男に完全になるためにはどうすればよいかをお勧めになりました。「もし完全になりたいのなら、持ち物を売りに行き、貧しい人々に施しをせよ。そうすれば天に宝を積む。それから私についてくるがよい」(マテオ19章21節)。最後の晩餐の間に、主は、弟子たちを導くために聖霊を送ると彼らに約束されました。「弁護者すなわち父が私の名によって送り給う聖霊は、すべてを教えてくださるだろう」(ヨハネ14章26節)。


私たちを保護してくださるがゆえに、主は善き牧者です。では私たちをどのように保護してくださるのでしょうか?

●主は、誤謬と悪しき行いから、私たちを保護してくださいます。主は私たちを愛し、私たちの善をお望みであるがゆえに、私たちに対して罪に抵抗するよう警告なさいます。主が、エルザレムの神殿で物を売る人たちを二度にわたって追い出され、「『私の家は祈りの家である』と書かれているのに、それを盗人の巣にするのか」(マテオ21章13節)と言われたかを思い出してください。主が、ファリザイ人に対してその悪しき意思をどれほど厳しく非難され、彼らがどれほど人々を真理から離れた方向に指導していたかを思い出してください。「のろわれよ、偽善者の律法学士、ファリザイ人よ、・・・盲目の案内人よ、・・・おろかもの、 盲目どもよ、・・・へびよ、まむし族よ、・・・」(マテオ23章13-33節)。聖ペトロが主にご受難を受け入れることをやめさせようとしたときには、聖ペトロに対してさえも、主は非難することを躊躇なさいませんでした。「サタン、引きさがれ。私の邪魔をするな」(マテオ16章23節)。

●さらに私たちの主イエズスは、「狼」という敵から私たちを守ってくださいます。この狼とは、悪魔、この世、そして肉のことです。主は天国へ行かれましたが、ご聖体において今でも私たちと共におられ、主がいつでも私たちに与えてくださる霊的な助けによって今でも私たちと共におられます。「私は世の終わりまで常におまえたちとともにいる」(マテオ28章20節)。また、迫害のときには特にそうです。「私自身がどんな敵も抵抗できず、反対もできない言葉と知恵を授ける」(ルカ21章15節)。

●また、「友人のために命を与える以上の大きな愛はない」(ヨハネ15章13節)のですから、私たちの主イエズスは、私たちの罪を赦すため、私たちを地獄から救うためという段階までも私たちを守ってくださいます。「私はよい牧者である。・・・こうして私は自分の羊のために命を捨てる」(ヨハネ10章14-15節)。


私たちの主イエズスは、迷える羊をあわれみ深く捜されるがゆえに、善き牧者です。私たちの天主なる主人は、すべての人に救いを得させるために地上に来られたのであり、すべての人にご自分に従うよう呼び掛けておられます。使徒たちに対して主はこう言われました。「行け、諸国の民に教え、聖父と聖子と聖霊の名によって洗礼を授け、私が命じたことをすべて守るように教えよ」(マテオ28章19節)。
本日の福音で主はこう言われます。「私にはこの柵内にいないほかの羊もある。私はそれらも連れて行かねばならぬ」(ヨハネ10章16節)。ルカによる福音において主はこう言われました。「あなたたちの中に、百匹の羊を持つ人がいるとする。その一匹がいなくなれば九十九匹を野原に置いて、いなくなった一匹を見つけ出すまで捜すに違いない」(ルカ15章4節)。


2.善き牧者への私たちのお応え

私たちは、私たちを世話し、私たちを保護してくださる御あわれみに満ちた完全な牧者を、私たちの主イエズス・キリストにおいて持っています。しかし、ここで問題があります。果たして私たちは、私たちの側は、主人の声に素直な善き羊なのでしょうか? こんにちの世界において私たちが知的にまた霊的に非常に貧しい理由は、単に霊的な教師たちがいないからだけでなく、それ以上に、教師たちの言うことを聞いて、それから学ぶことのできる素直な弟子たちがいないからだ、と言った人がいました。弟子に受け入れる心構えがないならば、どのような科学も教師の世話も役に立ちません。
いかにすれば、「善き羊」、主の導きの下に素直な弟子でいられるのでしょうか? 私たちに対する主の行動にお応えすることによってです。

主は私たちの世話をしてくださるのですから、このお世話を活用しましょう。

〇私たちの主イエズスは、私たちの善と永遠の幸せを望んでおられます。ですから、それを受け入れて、それに従って生きるようにしましょう。すなわち、御摂理を信頼することです。私たちは、イエズスが天主であり、すべてを支配しておられるのであり、私たちの人生におけるすべてが、私たちを霊的に成長させて天国へ到達させるように主が計らってくださる、ということを知っています。ですから、私たちは、この人生における試練に忍耐強く耐え忍び、何が起ころうとも私たちのカトリック信仰を貫くべきです。「恐れるな、小さな群れよ。あなたたちにみ国を下さるのは、父のみ旨である」(ルカ12章32節)。

〇主は私たちに霊的な食べ物を与えてくださいます。それは、ご聖体にまします主ご自身、主の教えの中にある主ご自身です。「人はパンだけで生きるのではない、天主の口から出るすべての言葉によって生きる」(マテオ4章4節)。ですから、私たちに与えられるこの霊的な食べ物を熱心にいただくよう気を付けましょう。この領域においては「食べ過ぎ」ということはあり得ません! 可能な限り頻繁にご聖体を受けましょう。定期的に聖書を読みましょう。カトリック信仰についての私たちの知識を深くし、頻繁に祈りましょう。

〇主は天国への道を知っておられ、私たちにとって何が善で何が悪かを知っておられます。ですから、進んで主の導きを受け入れましょう。それは天主の掟と教会の掟です。福音的勧告(清貧、貞潔、従順の精神)を喜んで実践に移しましょう。

主は私たちを保護してくださいます。私たちは進んで主のご保護の下に自分を置きましょう。
〇主は、私たちを誤った方向に導きそうな危険、誤謬、悪しき人々について私たちに警告なさいます。ですから、主が特に教会の教導職を通じてお与えになる、その警告を受け入れるという謙遜を持ちましょう。

〇主は、物質的にはご聖櫃の中に、霊的には成聖の恩寵によって私たちの霊魂の中に、私たちと共におられます。ですから、主の近くにとどまり、できるなら頻繁にご聖体にまします主を訪問するか、少なくとも心の中で頻繁に主と会話をするようにしましょう。

〇主は私たちのためにご自分のいのちをお捧げになりました。ですから私たちも今、主の栄光のために働き、戦い、死ぬ以外のことができるでしょうか? 使徒聖トマスが、「私たちも一緒に行こう、共に死のう」(ヨハネ11章16節)と言ったように。あるいは主ご自身が、「私のために、人々があなたたちをののしり、あるいは責め、あるいは数々の讒言を言うとき、あなたたちは幸せである、喜びに喜べ、あなたたちは天において大きな報いを受けるであろう」(マテオ5章11節)と言われたように。

主の聖心は、霊魂への愛と私たちの救いへの望みで燃えています。同じように私たちも、自分の救いと自分の周りの人々の救いを求める大きな望みを持ちましょう。私たちは、宣教の精神を持たねばなりません。すなわち、私たちの祈りと犠牲によって、本当のカトリック的生活によって、機会があれば私たちの信仰を告白することによって、信仰に関する良き書物を広めることなどによって、霊魂の救いのために働かなければなりません。

おわりに
親愛なる信者の皆さん、疑いなく、私たちは善き牧者を持っています。それは、私たちの主イエズス・キリストです。でも、たぶん私たちは善き羊ではなく、私たちの主イエズス・キリストの御声に十分に素直であるとは言えません。このミサの間に、罪深い習慣を捨てて、心をすべて主に捧げるという私たちの決心を新たにしましょう。
私たちのいとも祝されし御母、童貞マリアが、私たちを、主にして天主なる御子の御声を聞き、その御声に従うようにさせてくださいますように。アーメン。
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2018年4月6日(初金)  「復活の金曜日に教会が私たちに教えようとしていること―洗礼の恩恵について」

2018年04月17日 | お説教・霊的講話
2018年4月6日(初金)復活の金曜日のミサ
小野田神父 説教


「私には、天と地の全ての権能が与えられている。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

聖母の汚れなき御心教会にようこそ。

今日は2018年4月6日、4月の初金曜日、そして復活後の金曜日の特別のミサを捧げています。今日は初金曜日ですので、ミサの後には聖時間を行ない、初金の信心を致しましょう。今日の御聖体をどうぞ初金の信心をする意向で、イエズス様の聖心にお捧げ下さい。

明日は、聖木曜日に亡くなられたモニカさんの葬儀ミサを致します。10時30分からそのミサがあります。

今日御ミサの前に、いつもここに来られているクララさんが終油の秘跡を必要とされていたので、それを授けに行ってきました。痩せて非常に苦しそうでしたけれども、終油の秘跡を受けたら見違えるように微笑みをたたえていて、とても大きな慰めを受けたと思われます。皆さんのお祈りをお願い致します。

今日は聖復活後の金曜日で、このミサで一体教会が何を私たちに教えようとしているのか、その点を3つぜひ知って下さい。そしてその最後に、教会の教えようとした内容から、私たちは遷善の決心を立てる事に致しましょう。復活の喜びに入る事に致しましょう。ますます深く入る事に致しましょう。

まず第1には、今日の復活の金曜日は、「金曜日」という事で、マリア様と十字架に深い関係がある、という点です。

そこで指定巡礼教会は、殉教者のマリア教会、「殉教者の元后マリア様に、私たちが霊的に行くように」と招いています。

もちろん昔は本当に実際に、そこの教会に教皇様が行ってミサを立てました。ローマの信徒たちが皆そこに行ってミサを立てました。なぜ「殉教者のマリア教会」かというと、今から今日から1週間前は聖金曜日で、イエズス様の十字架を黙想したからです。聖金曜日には、イエズス様の血だらけの十字架が、実は本当は宝石で散りばめられた、最も価値のある十字架である、という事を黙想しました。私たちは十字架を、このイエズス様の十字架に礼拝を捧げました。

また2週間前の金曜日は、私たちはこの教会でこの御聖堂でもそのお祝いをしましたけれども、七つの聖母の御悲しみを黙想しました。ですから今日は霊的に「殉教者のマリア」教会に行くのです。

そこで今日は特に、この七つの聖母の御悲しみと十字架の称讃を兼ねて、主の御受難と聖母の悲しみをもう一度思い出させるように、殉教者たちのマリア様の御聖堂に来るようにと招いているのです。

それで特に洗礼を受けた、復活の徹夜祭に洗礼を受けた新信者は、新受洗者は洗礼を受けたばかりの信者は、この1週間ずっと明後日まで白衣を、洗礼の時に受けた白い衣を着てミサに与っていました。今日は洗礼を受けたばかりの真っ白な姿で、この殉教のマリア様の元に馳せ寄るのです。

これは何かというと、これはマリア様の兵士として、殉教者の覚悟を持って、イエズス・キリスト様の十字架の御旗の下に、マリア様が指揮官として、この白い服を着た真っ白な霊魂を持った、新しく洗礼を受けた信者たちが、マリア様の元に馳せ寄るということです。

「これから罪に戦う、罪を避ける生活をする。イエズス・キリストを着て、イエズス・キリストの聖心に適う生活をする為に、いかなる苦しみも受ける事も覚悟する。」特にその迫害の時代の記憶があった時代でしたので、その「イエズス・キリストの為に一生を捧げる覚悟はできている」という意味で、このマリア様の聖堂に集まりました。

これが第1点です。今日、洗礼を受けたばかりの人たちがマリア様の元に、マリア様の悲しみとイエズス様の十字架を記念して集まっている、という事がまず1つです。

第2点は、教会は更に、洗礼を受けたばかりの人と、洗礼を受けた全ての信者私たちに、「洗礼の恵みのものすごい価値を、もう一度理解するように」と招いています。

特に白い服を着ている洗礼を受けたばかりの人たちが、「今お前たちは自覚していないかもしれないけれども、洗礼の御恵みというのは、どれほど昔から預言されていた、計り知れない価値なのかを思い出せ。その事をよく考えろ」と招いています。

入祭誦で教会は最初から、モーゼによってエジプトの奴隷状態から解放されて、紅海を経てエジプトから脱出した、そしてエジプトの追いかける敵を海に沈めた天主の事が思い出されます。「実はこれと同じ事が私たちにも、洗礼を受けた全ての者に起きた事である」という事を思い出させる為です。

私たちも洗礼の水を通って、イエズス・キリストの御血という赤い血潮の海の中によって洗われて、悪魔と罪の奴隷から解放されました。その罪の負債から解放されました。罪を赦されて、清い者となりました。私たちの敵は、イエズス様の血潮によって全て滅ぼし尽くされました。私たちはこれからは新しい命に、清い命に、聖なる命に生きる者となっています。新しいモーゼであるキリストの下に従って、約束の地、天国まで導かれる者となりました。

もう1つ、更に教会は、入祭誦で導入をされた洗礼のそのイメージを、更に書簡では、「実はノエの箱舟もそうだ。ノエの箱舟の中に入った者たちはたった8人だったけれども、しかし大洪水によってこの地上が洗われた時に、彼らは助かった。それと同じように、私たちも洗礼の水によって洗われて、教会、十字架に付けられたイエズス・キリストの開かれた聖心の中から、ちょうど箱船の中に入るように、ここから出た水と血によって、」水は洗礼のシンボル、血は御聖体のシンボルですけれども、「そのイエズス様の開かれた聖心の中に入った、教会の中に入った。それは私たちにとっての本当のノエの箱舟であって、ノエの箱舟という前兆が実現した事である」と教えています。

福音では、この洗礼についてはっきりと言っています。イエズス様は、「全ての力は、天と地の全ての力は、私に与えられている」と。

この地上でこのような事を言う事ができる人は誰もいません。アメリカの大統領がどれほど力があっても、中国の指導者がどれほど力があっても、そんな事を言う事はできません。イエズス・キリストだけが、天と地の全ての権能が与えられているからです。

この天の全ての天使の大群も、この地上の全ての出来事も、全てイエズス様の御手の中に入っている、という事です。御望みの通りにそれを計らう事が、調整する事が動かす事ができる、という事です。イエズス・キリストの御望みの通りに全ては動く。たとえイエズス・キリストの敵が何をしようとも、逆らおうとも、全てはその掌の上にある、という意味です。

考えてもみて下さい。全能の主権がイエズス様に与えられている。この復活した真の天主、私たちを愛するこの天主が、今生きて、弟子たちを通して私たちに言います「全世界に行って、全ての民族に行って、聖父と聖子と聖霊との御名によりて、洗礼を授けよ。そして私が教えた事を全て守るように教えよ。」どれほど力強い言葉でしょうか。

このイエズス・キリストは最後にこう約束します、「私は世の終わりまで、あなたたちと共にいる。何も恐れる事はない。」

例えこのどこかの王国が起こって滅び、国が栄えて滅び、という事があったとしても、地上に色々な民族が起こって滅んでいきました。文明が起こって滅んでいきました。イエズス・キリストだけは滅ぶ事がありません。「世の終わりまで、お前たちと共にいる。」

これは、「御聖体をもって霊的に、そして超自然の聖寵をもって居る」という事ですけれど、全て、三位一体の名前によって、聖父と聖子と聖霊との御名によって、私たちが洗礼を受けた事による御恵みです。

そしてこの使徒信経の後には、奉献の時には、この主からの命令があります、「この日こそは、このエジプトから脱出したこの日は、私たちにとって特別の日である。お祭りの日である。永久に祝わなければならない。」

実は、私たちが洗礼を受けたその日というのは、特別な日であって、永久に祝わなければならない御恵みの日です。イエズス・キリストの養子となった、天主の養子となった、 イエズス・キリストの兄弟となった、イエズス・キリストの命を受けて、イエズス・キリストの御体を受ける事ができるようになった、その栄光の日です。

ですから御聖体拝領の時には、このイエズス様の御言葉が私たちの耳に響くように、イエズス様の仰った言葉を私たちがもう一度歌います。

第3の点は、これはこの洗礼によって、私たちは三位一体の名によって、イエズス・キリストの兄弟となり、そしてイエズス・キリストの御体を、復活したイエズス・キリストを私たちが受ける事ができるになった、という特別の御恵みをも考えさせます。ですから今日聖体拝領の時に、「この洗礼の御恵みを感謝するように」と教会は招いています。

では今日、教会の導きに従って、私たちもイエズス様の聖心を、至聖なる聖心の私たちに対する愛を黙想致しましょう。どれほど私たちの事を愛しておられるか。そして私たちを特別に選んで、ノエの箱船の中にはたった8人でしたけれども、世界中の中から特別に選んで私たちに、天の遺産の相続権を、自分の聖心の中に入る、教会という真の箱船の中に入る特権を下さいました。これによって私たちが救われる事ができるように、イエズス・キリストの命を受ける事ができるように、そしてイエズス・キリスト、天主を私たちが拝領する事ができるように。言葉では、感謝とその御恵みの大きさを言い表わす事ができないほどのものです。

どうぞこの御聖体拝領を、イエズス様の聖心を愛するが為に、イエズス・キリストのその燃える愛を理解する事ができるように、お祈り致しましょう、マリア様にお祈り致しましょう。

「どうぞマリア様、洗礼の御恵みを私に理解させて下さい。洗礼を受けたという事がどれほどの御恵みだったいう事が、その計り知れない御恵みを理解させて下さい。イエズス・キリストの持てる全能のその巨大さという事を理解させて下さい。その全能全権を持ったイエズス様を私が拝領する事ができる、というその御恵みの巨大さを理解させて下さい。復活したイエズス様が、生ける天主が私の元に来る、という事の愛の深さを理解させて下さい。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
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2018年4月2日(月) 復活の月曜日のミサ 「イエズス様は確かに、私たちと共に生きておられる」

2018年04月16日 | お説教・霊的講話
2018年4月3日(月)復活の月曜日のミサ
小野田神父 説教


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日の福音の話をぜひ読んで下さい。2つの事が分かります。

1つは、イエズス様の御受難が終わって、トボトボと歩いていた時、その弟子たちが、婦人の話を聞いた、噂を聞いた「復活した」という話を聞いたが、信じませんでした。ガッカリしているところにイエズス様が現れて、「キリストは、苦しみを受けて栄光に入るべきではなかったか」と言って聖書の話を聞くと、彼らの心は燃え立ち、「確かに、イエズス様は復活した」という事を確信します。そしてイエズス様がここにいらした、一緒にいらしたこの旅人こそが、イエズス様であったという事に気が付きます。このガラリと変わった変化をご注意下さい。

第2は、イエズス様は今日私たちに語りかけています。もしかしたら私たちは、辛い事がたくさんあって、あるいは友達とケンカをして、あるいは嫌がらせをされて、辛い思いでいるかもしれませんが、イエズス様は今日一緒に私たちに語りかけています、「おぉ、何と頭の堅い愚かな者だ。キリストの神秘体は、キリストと共に苦しんで、イエズス様にそれを捧げて、栄光に入るべきではなかったのか。」

そして今日御ミサで、私たちに御聖体を下さろうとします。「あぁ、イエズス様は確かに、私たちと共に生きておられる。そして私たちを守って下さっている。導いて下さっている。そして私たちはイエズス様と共に、十字架を担いで、天国に入るのだ。栄光が待っている。」

では、心が喜びに満たされて、今日ミサに与って、帰路にお着き下さい。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
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ハサミムシの折り畳みのすごいデザイン!いったい誰がこんな知的なデザインを考え付いたのでしょうか?

2018年04月15日 | 私たちが今ここで生きている宇宙
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 いったい誰がこんなすごいデザインを考え付いたのでしょうか?





欧州などに生息する「ヨーロッパハサミムシ」の羽はすごいのです。


Credit: Jakob Faber / ETH Zurich


羽をスムーズに出し入れできて、飛んでいる最中はしっかりと羽にロックがかかっています。

ハサミムシは、硬い羽の下にしまい込んであった軟らかい羽を広げて飛びます。てんとう虫のようですね。

折り目の内側にレシリンと呼ばれる弾性タンパク質が多く集まっていて、このレシリンによって、「山折り」が重なる結合部を一気に「谷折り」側にカチッと反転させるという難しいことをしているのです。

羽を広げたり、折り畳んだり自由にできる状態と、固定の状態を切り替えるスイッチとして、折り目の内側にあるレシリン使っているのです。

普段は、広げたときの約10分の1のサイズにまで折り畳んでいます。


左が折りたたんだ時の状態です。右が開いた羽根です。

研究チームが、もしもこの弾性タンパク質がなく通常の折り紙であったと仮定し、同じ時間でどれだけ折り畳めるかを実験したところ、3分の1程度にとどまり、弾性タンパク質の役割が大きいことが分かりました。

この羽根の折り畳みのデザインを動画で見てください。

いったい誰がこんな知的なデザインを考え付いたのでしょうか?

詳しくは、【動画あり・びっくりサイエンス】ハサミムシの羽、「ミウラ折り」を超え人工衛星に応用!? 驚異の折り畳み法を解明をご覧ください。
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2018年4月15日(主)復活後第2主日の聖伝のミサが大阪であります:SSPX JAPAN Traditional Latin Mass in Osaka April 15, 2018

2018年04月15日 | 聖伝のミサの予定
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

4月15日(主) 復活後第2主日(2級)白
         午後5時半 ロザリオ及び告解 
         午後6時 ミサ聖祭

4月16日(月) 平日(4級)白
         午前6時 ミサ聖祭 ← 時間が変更になりました。
【神父様の帰りの飛行機の時間の都合で、ミサは朝6時になりました!】



天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
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