Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

私は御身を信じ、礼拝し、希望し、御身を愛します!御身を信じぬ人々、希望せず愛さぬ人々のために、赦しを求めます(天使の祈)

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
2018年 11月の聖伝のミサの予定
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】


11月
死者の月です。煉獄の霊魂たちのために祈りましょう。死について黙想しましょう。
意向:死せる信者のため、よき死を迎えるため
実践すべき徳:祈り
守護の聖人:聖アンドレア

愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)にご招待します

◎2018年 11月の予定
【大阪】聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂(アクセス EG新御堂4階 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 〒532-0002
(JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分)

    11月2日(初金)全ての死せる信徒の記念(1級)黒
            午後4時半~ ミサ聖祭を2回捧げます ←追加されました 
            午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

    11月3日(初土)聖母の土曜日(4級)白
            午前10時 ロザリオ及び告解
            午前10時半 ミサ聖祭(歌ミサ)

    11月6日(火)聖霊降臨後の平日(4級)緑
            午後5時半 ロザリオ及び告解 
            午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

    11月7日(水)聖霊降臨後の平日(4級)緑
            午前6時半 ミサ聖祭

    11月11日(主)聖霊降臨後第25主日(2級)緑(御公現後第5主日)
            午後5時半 ロザリオ及び告解 
            午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

    11月23日(金)殉教者教皇聖クレメンテ1世(3級祝日)赤
            午前10時 ロザリオ及び告解
            午前10時半 ミサ聖祭(歌ミサ)

    11月24日(土)教会博士証聖者十字架の聖ヨハネ(3級祝日)白
            午前10時 ロザリオ及び告解
            午前10時半 ミサ聖祭(歌ミサ)

    11月30日(金)使徒聖アンドレア(2級祝日)赤
            午後4時半 ミサ聖祭(読誦ミサ) 
            午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

【東京】東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図) 「聖なる日本の殉教者巡回聖堂」
    10月22日(月) 聖霊降臨後の平日(4級)緑
            午前7時 ミサ聖祭

    11月4日(主) 聖霊降臨後第24主日(2級)緑(御公現後第4主日) 
            午前10時  ロザリオ及び告解
            午前10時半  ミサ聖祭(歌ミサ)

    11月5日(月) 聖霊降臨後の平日(4級)緑
            午前7時 ミサ聖祭

    11月25日(主) 聖霊降臨後第27主日(2級)緑(聖霊降臨後第24主日) 
            午前10時  ロザリオ及び告解
            午前10時半  ミサ聖祭(歌ミサ)

愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております。

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韓国ナジュ(羅州)の聖母巡礼所に関する通達(日本カトリック司教協議会常任司教委員会)

2018年11月11日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ナジュの「聖母」についての、カトリック中央協議会による参考資料です。

ナジュの「聖母出現」はすでに何度も当地の司教によって排斥されていました。私たちにはこれに反対するようなカトリック聖伝の教えは全くありません。(第二バチカン公会議の幾つかの新しい教えが過去の教導職や歴代の教皇様たちの不可謬の教えと矛盾しているので、どちらかを選ばざるを得ない、ということとは、私的啓示の場合、話は全く違います。)私たちは20年前から一貫して光州教区の大司教の判断に従い、ナジュの「聖母出現」に反対してきました。私的啓示を信じることはドグマではありません。ましてや当地の司教はこれを判断する最良の立場にいます。私たちはナジュの「聖母出現」は非常に危険なものであり、カトリックの信仰によるものではない、と判断します。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2018年11月1日

韓国ナジュ(羅州)の聖母巡礼所に関する通達

日本カトリック司教協議会常任司教委員会

 韓国カトリック司教協議会秘書のキム・ジョンチュル神父は、クワンジュ(光州)教区大司教で韓国カトリック司教協議会会長のキム・ヒジュン大司教の名代として、同国ナジュの聖母巡礼所に関する書簡(2018年9月21日付)と二つの文書を、アジア司教協議会連盟会長オズワルド・グラシアス枢機卿宛てに送付し、それらをアジア各国の司教協議会へ配信するよう要請しました。書簡と一緒に送付された文書は、クワンジュ大司教区の前教区長チェ・チャンム大司教のナジュの聖母像にまつわる現象に関する教令(2008年1月21日)と現教区長キム・ヒジュン大司教のガイドライン(2012年7月6日)です。
 教令とガイドラインによると、1985年6月30日に始まった、ジュリア・ユンの家の聖母像の目から血の涙が流れ出るという現象は、2008年と2011年に発表された教皇庁教理省の公式見解をもって確認できるように、超自然的なものではありません。すなわち神に由来するものでもありませんし、健全なキリスト教信心とも関係がないということです。
 上記書簡は、韓国カトリック司教協議会が、ナジュの聖母巡礼所に関するクワンジュ教区大司教の教令とガイドラインの内容を支持し、アジアの司教、司祭、信者たちにナジュの聖母巡礼所を訪問することのないよう求めています。
 そこで、2018年11月1日に開催された日本カトリック司教協議会常任司教委員会において、日本の教会でも「ナジュへの訪問を控えること」を周知徹底することを申し合わせました。

背景解説

 韓国・クワンジュ(光州)教区において、「聖母の奇跡」として話題を呼んできた「ナジュ(羅州)の聖母像」については、以前からクワンジュ教区から警戒されており、チェ・チャンム(崔昌武)大司教(クワンジュ教区、2001年当時)は、この「奇跡」を信奉するグループに関与または参加しないように警告を発していた。
 このナジュの聖母像は、1985年にユン・ホンソン(尹洪善)氏の所有する聖母像が「泣き出した」として、「啓示」を受けるようになったと主張して以来、一部で話題となり、支持者が集まり、「血の涙を流した」「香油を目から流した」などと話が大きくなっていたが、98年、チェ大司教の前任のユン・コンヒ(尹恭熙)大司教も「奇跡とみなす根拠が存在しない」と宣言しており、当時の韓国司教協議会(CBCK)会長チョン・ジンスク(鄭鎭奭)大司教も、教区の決定は「バチカンとの緊密な連絡を経て」行われたと明言していた。
 以後も、ユン氏は「ナジュの奇跡」を訴え続け、08年には、チェ・ヨンス(崔龍洙)大司教(テグ教区)が、ユン氏の信奉者たちが「ナジュの聖母聖堂での宗教的活動に参加したことにより伴事的(自動的)破門を招いた」が、「真に彼らの過ちを悔い改め、教会に戻るなら」ゆるしを得ることができる、と警告していた。
 09年には、「ナジュの奇跡」支持者を伴事的破門としたクワンジュ教区の決定を、バチカンも支持している。

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2018年11月7日は、聖ヨゼフの初水曜日です。聖ヨゼフ、われらのために祈り給え!

2018年11月07日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

きょう2018年11月7日は、聖ヨゼフの初水曜日です。聖ヨゼフ、われらのために祈り給え!

聖ヨゼフのその栄光の、その力の強さの、その偉大さの秘密とは

アメリカのサンタ・フェにある有名な聖ヨゼフの階段の動画を紹介します

聖ヨゼフの階段(アメリカのニューメキシコ、サンタ・フェにあるロレット・チャペル)についてご紹介します



天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
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映画「殉教血史 日本二十六聖人 -- われ世に勝てり--」池田富保監督 1931年(昭和6年)9月製作

2018年10月29日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

「殉教血史 日本二十六聖人」という映画をご紹介いたします。

この映画は、京城(今のソウル)のカトリック信者である平山政十氏の斡旋により ローマ教皇の後援のもとに製作された殉教映画です。池田富保監督作品。
副題は「われ世に勝てり」1931年(昭和6年)9月製作。





天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
コメント

【聖伝のミサ トリエント・ミサ】聖霊降臨後第二十二の主日のミサのテキストをラテン語と日本語訳・中国語訳の対訳でご紹介します

2018年10月22日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
聖霊降臨後第二十二の主日のミサのテキストをラテン語と日本語訳・中国語訳の対訳でご紹介します。
【解説】
聖寵なくしては、われらには何一つできない、われらのなし得ることは罪だけである。この事実こそ、<入祭文>の信頼の祈りの説明である。囚人となっていたパウロは、信仰の賜物、洗礼の時から始めた善業を、最後まで守り続けよと教える。キリストの来臨を待ちつつ、われらの心には、ますます愛が増さねばならぬ。
今天我们所念的一段福音中,耶稣攻破了祂仇人的阴谋,训示世上教权与政权当分划清楚,但彼此并不站在对立的地位。然而在这礼节年度将告终之时,我们把这段福音,也领悟到另一层的意义,即作为准备最后审判的警告。我们是天主的钱币似的,在我们身上刻有天主的肖像。就是说的,天主造我们,是依照祂的肖像;后因这个肖像由于罪恶而毁坏了,祂又用圣洗圣事把这个肖像给我们恢复:因圣洗圣事正在我们灵魂上刻下天主子女的神印。本日福音中所说的:“天主的归给天主”,便是指的,朝拜天主作为我们的造物主,爱慕天主当如我们的父,以及完全献身为衪服务。在最后审判之时,向我们要清算的账,便是关于这个问题。所以在每主日上,当我们把完美的敬礼——弥撒圣祭献给天主时,该呼求祂的宽赦和祂的恩宠(集祷经),使我们的神生藉爱德而发展。至于领圣体的成效,也正是这事:基督来到我们心中,充为我们身上爱德与勇力的泉源,使我们在天主子女的圣化生活中向前迈进,直至基督的重临——死候或公审判(书信)。
【トリエント・ミサについての参考資料】
オッタヴィアーニ枢機卿が、新しいミサの出来たときに警告したとおりに

Dominica Vigesima secunda post Pentecosten 聖霊降臨後第二十二の主日 降临后第二十二主日
II Classis 二級祝日 复式【绿】
Ant. ad Introitum. Ps. 129, 3-4. 入祭文 詩篇 129ノ3-4 台咏(咏129:3-4)
Si iniquitátes observáveris, Dómine : Dómine, quis sustinébit ? quia apud te propitiátio est, Deus Israël. もし主が、われらの罪に御目をとどめ給うなら、主よ、主よ、誰がわれらを支え得ようか。しかし、イスラエルの天主よ、主のうちにわれらは御あわれみを見奉る。 上主啊!若是祢察罪愆,吾主!谁还能立得住呢?伊撒尔的天主啊!惟独祢怀宥。
Ps. ibid., 1-2. 詩篇129ノ1-2 咏129:1-2
De profúndis clamávi ad te, Dómine : Dómine, exáudi vocem meam. 主よ、私は深い淵より主に向かって叫ぶ、主よ、私の声を聞き給え。 上主啊,我自深渊向祢呼吁。吾主啊!求祢俯听我的声音。
V/.Glória Patri. 願わくは聖父と・・・(栄誦) 光荣于父……。
Si iniquitátes observáveris, Dómine : Dómine, quis sustinébit ? quia apud te propitiátio est, Deus Israël. もし主が、われらの罪に御目をとどめ給うなら、主よ、主よ、誰がわれらを支え得ようか。しかし、イスラエルの天主よ、主のうちにわれらは御あわれみを見奉る。 上主啊!若是祢察罪愆,吾主!谁还能立得住呢?伊撒尔的天主啊!惟独祢怀宥。
Oratio. 集祷文 集祷
Deus, refúgium nostrum et virtus : adésto piis Ecclésiæ tuæ précibus, auctor ipse pietátis, et præsta ; ut, quod fidéliter pétimus, efficáciter consequámur. Per Dóminum. われらの避難所であり、力にてまします天主よ、信心のつくり主なる天主よ、主の教会の祈りを聞き、信頼をもってわれらの乞い奉ることを、事実において受けさせ給え。天主として・・・。 天主,祢是我们的避难所、我们的能力,祢的教会凭祢所赋予的虔诚向祢恳切祈祷;求祢俯听此祷,并恩使我们能实获以信心所求于祢的。因我们主……。
Léctio Epístolæ beáti Pauli Apóstoli ad Philippénses. 使徒聖パウロの、フィリッピ人への書簡の朗読。
Philipp, 1, 6-11. フィリッピ  1ノ6-11 斐1:6-11
Fratres : Confídimus in Dómino Iesu, quia, qui cœpit in vobis opus bonum, perfíciet usque in diem Christi Iesu. Sicut est mihi iustum hoc sentíre pro ómnibus vobis : eo quod hábeam vos in corde, et in vínculis meis, etin defensióne, et confirmatióne Evangélii, sócios gáudii mei omnes vos esse. Testis enim mihi est Deus, quómodo cúpiam omnes vos in viscéribus Iesu Christi. Et hoc oro, ut cáritas vestra magis ac magis abúndet in sciéntia et in omni sensu : ut probétis potióra, ut sitis sincéri et sine offénsa in diem Christi, repléti fructu iustítiæ per Iesum Christum, in glóriam et laudem Dei. 兄弟たちよ、あなたたちのうちに、このすぐれた業を始められたお方が、それをキリスト・イエズスの日までに、ますます完成してくださるであろうことを、私は確信している。私が、あなたたちみなにたいして、こう考えているのは当然である。なぜなら、あなたたちを、私は心に抱いているからである。私の投獄においても、福音を守り固めることにおいても、あなたたちはみな、私の恩寵に与っている。私があなたたちみなを、キリスト・イエズスの心をもって慕っていることは、天主が証明してくださる。あなたたちの愛が、ますます深い知識と理解とにおいて、増し加わることを祈る。あなたたちが、よりよいことをわきまえ、キリストの日に、清い、とがめのない者となり、天主の光栄と誉れとを表わすために、イエズス・キリストから来る正義の実にみたされるように。 弟兄们:我们靠着主耶稣确信,天主在你们心中开始了圣化你们的善工,也必定要完成它,直到基督耶稣的日子来到。我对你们怀着这样的感情,是很合理的,因为你们都常在我心中;无论我在枷锁中,或在防护和坚固福音的工作中,你们都分享我所得的圣宠。天主能给我作证,我是以基督耶稣的心肠热爱你们。我也求祂,使你们的爱德在知识和智慧方面日日增长;这样你们能辨别什么是更纯全的;因此,直到基督的日子来到,你们能成为纯洁无瑕而无可谴责的人,充满着由耶稣基督而来的义德之果,使光荣和颂扬归于天主。
Graduale. Ps. 132, 1-2. 昇階誦 詩篇 132ノ1-2 台阶咏(咏132:1-2)
Ecce, quam bonum et quam iucúndum, habitáre fratres in unum ! 兄弟たちが一致して生きるのは、何と快く、何と楽しいことであろう。 看!弟兄和睦同居,何其佳美,何其怡
V/. Sicut unguéntum in cápite, quod descéndit in barbam, barbam Aaron. この一致は、アアロンのひたいから髭に滴る香油のようである。 这好比珍贵的油,浇在亚郎头上,流到他的胡须。
Allelúia, allelúia. V/.Ps. 113, 11. アレルヤ、アレルヤ。詩篇 113ノ11 阿肋路亚, 阿肋路亚!(咏113:11)
Qui timent Dóminum sperent in eo : adiútor et protéctor eórum est. Allelúia. 主を畏れる者は、主に依り頼め、主こそ、彼らの支え、守り手にてまします、アレルヤ。 阿肋路亚,阿肋路亚。望敬畏上主的人,都依靠上主;祂是他们的助佑与保障。阿肋路亚。
+ Sequéntia sancti Evangélii secundum Matthǽum. マテオによる聖福音の続誦 福音
Matth. 22, 15-21. マテオ 22ノ15-21 玛22:15-21
In illo témpore : Abeúntes pharisǽi consílium iniérunt, ut cáperent Iesum in sermóne. Et mittunt ei discípulos suos cum Herodiánis, dicéntes : Magíster, scimus, quia verax es et viam Dei in veritáte doces, et non est tibi cura de áliquo : non enim réspicis persónam hóminum : dic ergo nobis, quid tibi vidétur, licet censum dare Cǽsari, an non ? Cógnita autem Iesus nequítia eórum, ait : Quid me tentátis, hypócritæ ? Osténdite mihi numísma census. At illi obtulérunt ei denárium. Et ait illis Iesus : Cuius est imágo hæc et superscríptio ? Dicunt ei : Cǽsaris. Tunc ait illis : Réddite ergo, quæ sunt Cǽsaris, Cǽsari ; et, quæ sunt Dei, Deo. そのころ、ファリサイ人たちが出てきて、イエズスをことばのわなにかけようと相談し、自分の弟子たちをヘロデ党の人々といっしょにイエズスのもとにおくって、こういわせた。「先生、あなたが真実な方で、真理によって天主の道をとき、人の顔色をうかがわず、だれをもはばからない方だと、私たちは承知しています。さて、あなたのご意見をいってください。チェザルにみつぎを納めることは、ゆるされていますか?どうでしょう?」。イエズスは、かれらの狡猾を見ぬき、「偽善者よ、なぜ私にわなをかけるのか。みつぎの金を私に見せよ」とおおせられた。かれらが、デナリオを一つもってくると、「これは、だれの像、だれの銘か?」とお問いになった。かれらが、「チェザルのです」というと、イエズスは、「それなら、チェザルのものはチェザルに、天主のものは天主にかえせ」とおおせられたので、かれらはこれをきいて、おどろいて離れ去った。 那时候,法利塞人退去,商议想在耶稣的话中寻找错处。他们就遣几个门徒,同着黑落德党的人,去见耶稣,说:“师傅!我们知道祢是真实的,并且按照真实传授天主的道,祢不顾情面,因为祢不看人的外貌。请祢告诉我们:祢看怎样?给凯撒纳税,可以不可以?”耶稣看出他们的恶意,就说:“伪君子,为什么试探我?拿一个纳税的钱来给我看。”他们就拿出一个钱来给衪看。耶稣问他们说:“这是谁的像?谁的号?”他们说:“凯撒的。”耶稣说:“那么,凯撒的归给凯撒,天主的归给天主。”
Credo 信経
Ant. ad Offertorium. Esth. 14, 12 et 13. 奉献文 エステル  14ノ12,13 奉献咏(艾14:12-13)
Recordáre mei, Dómine, omni potentátui dóminans : et da sermónem rectum in os meum, ut pláceant verba mea in conspéctu príncipis. 主よ、わたしを思い出し給え、すべての勢力を支配し給う御者よ、王に嘉せられるために、私の口に智慧ある言葉を置き給え 统治一切权势的上主啊!求祢想到我,赏我口在君王面前能说动听的言辞,使成为他所喜悦的。
Secreta. 密誦 密祷经
Da, miséricors Deus : ut hæc salutáris oblátio et a própriis nos reátibus indesinénter expédiat, et ab ómnibus tueátur advérsis. Per Dóminum. 慈悲深き天主よ、願わくは、この救いのいけにえにより、われらの罪の鎖が解かれ、すべての災いが退けられんことを。天主として・・・。 主,求祢开恩:使在此救赎性的祭献,不断解救我们于一切的本罪,并保护我们免遭一切的侵害。因我们主……。
Præfatio de sanctissima Trinitate 序誦 三位一体と主日との序誦 天主圣三的颂谢引
Ant. ad Communionem. Ps. 16, 6. 聖体拝領誦 詩篇 16ノ6 领主咏(咏16:6)
Ego clamávi, quóniam exaudísti me, Deus : inclína aurem tuam et exáudi verba mea. わが天主よ、私は主に乞い願い奉る、御身は私の願いを聞き給うからである。御耳を傾け、私の祈りを聞き給え。 天主啊!我呼号祢,祢必垂允我;求祢侧耳俯听我的言语。
Postcommunio. 聖体拝領後の祈 领后经
Súmpsimus, Dómine, sacri dona mystérii, humíliter deprecántes : ut, quæ in tui commemoratiónem nos fácere præcepísti, in nostræ profíciant infirmitátis auxílium : Qui vivis et regnas. 主よ、聖なる奥義に養われたわれらは、ひれ伏して願い奉る。御身の命じ給うたとおり、御形見のいけにえを行うわれらに弱さの助けをそこに見いださせ給え。聖父なる天主とともに・・・。 主,我们拜领了祢神圣奥迹的恩锡之后,谦恭求祢,使祢所命我们为纪念祢而行的圣祭,扶佑我们的软弱。祢和天主父……。
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回勅『パッシェンディ・ドミニチ・グレジス』 近代主義の誤謬について 聖ピオ十世教皇(3)

2018年10月04日 | カトリックとは
回勅『パッシェンディ・ドミニチ・グレジス』
近代主義の誤謬について
聖ピオ十世教皇

訳者 聖ピオ十世司祭兄弟会

Copyright (c) Society of Saint Pius X, 2001
All rights reserved

スコラ哲学

  45.第一に、学問研究について述べるならば、私はスコラ哲学が聖なる諸学問の基礎とされることを望み、かつ厳格に定めます。無論、「もし何であれスコラ学の博士たち[の思想]の中で、過度の細緻さをもって考究された、ないしは充分な考察を欠いて教えられたと考え得るもの、また後生の研究によって得られた確実な研究成果にそぐわないもの、要するに、もっともらしさに甚だ欠ける一切のものを、現代の人々に、倣うべきものとして提示する意志を私はいささかも有していません。」また、何よりもまず、私がスコラ哲学を用いるべきものとして指定する際、私が主に意図するのは天使的博士(聖トマス・アクィナス)が私たちに残したところのものである、ということをよく了解して下さい。そしてこのため、この問題に関して前任者[レオ十三世]が定めた全ての教令は、完全にその効力を保持しているのであり、また、必要である限り私自身も、それらが全ての人によって厳格に遵守されるべきことを新たに布告かつ確認し、命令します。これらの教令が守られていなかった神学校については、今後それらの遵守をより厳しく課し、要求することが司教たちの務めとなりますが、同様の務めは諸修道会の長上にもあります。さらに、私は教授たちに「特に形而上学的な問題を扱うに当たって、聖トマスをないがしろにするなら、重大な不都合を生む」ということをよく念頭に置くよう勧告します。

健全な神学の促進

  46.この哲学的基盤の上に神学の構築物が注意深く築き上げられねばなりません。尊敬する兄弟たちよ、持てる限りの力を尽くして神学の学習を奨励しなさい。そうすれば、あなた方の聖職者たちが神学校から出てくる時には、それに対する深い嘆賞と愛好心とを抱いており、そしてその中にいつも喜びの源を見出すことができるでしょう。と言うのも、「真理を求める精神の前に開かれた広大かつ多様な学問研究の中にあって、神学が支配的な地位を占めることは、皆に知られていることです。古の賢者の格言に従えば、神学に奉仕し、下女のようにかし仕えることが他の諸学芸の義務なのです。」私はこれにつけ加えて、伝統ならびに教父、および教会の教導権に対するこの上なく深い尊敬を心に抱き、よく均衡のとれた判断に基づき、そしてカトリックの諸原理によって導かれて(誰もがこのような態度を有しているわけではありません)実証神学に真正な歴史の光を投じようと努力する者たちは、称賛に値するということを述べておきます。実証神学が過去におけるよりも、より高く評価されることは確かに必要なことです。しかるに、このことはスコラ哲学に損失を与えることなしに為されねばなりません。そして、スコラ的神学を軽視するように見受けられるほど実証神学を礼賛する者は、近代主義者として拒絶されねばなりません。

神学以外の学問の役割

  47.神学以外の学問に関しては、私の前任者が見事に言い表したことを思い起こすにとどめておきます。「自然科学の研究に熱心に励みなさい。この学問分野において、かくも輝かしく発見され、かくも有益な仕方で応用されて、現代の人々の感嘆をさそっている諸々の事物は、私たちの後に続く者たちにとって称賛の的、また倣うべき模範となるでしょう。」しかるに、これは聖なる諸学問に干渉することなしに為されねばなりません。同じ前任者[レオ十三世]が、次のいたって重みのある言葉で定めているようにです。「もしあなた方がこれらの誤謬の原因を注意深く探るならば、あなた方はそれが、自然科学がかくも多くの研究の対象となっている近年、より峻厳で高尚な諸学問がその分だけ疎(うと)んじられている事実に存することを見い出すでしょう。その中のいくつかは、ほとんど忘却に付され、また他のいくつかはぞんざいな、あるいは表面的な仕方でしか考究されず、そして残念なことに、旧来の地位の栄華がかげりを見せるにつれ、これらの学問は有害な教条と甚だしい誤謬とによって醜く歪曲されてしまうに至りました。」それゆえ、私は神学校における自然科学の学習がこの法規に則ってなされるよう命じます。

実際上の適応

  48.私自身および私の先任者たちによるこれら一切の規定は、神学校およびカトリック大学の校長と教授の選出に当たって常に遵守されるべきものです。どのような点であれ、近代主義に染まっていることが分かった者は誰でも、管理ないしは教授に携わるこれらの役職からためらうことなく除外され、またすでにそういった役職に就いている者たちは、その座を追われねばなりません。同様の方針が、密かにあるいは公然と近代主義を支持する者たちに対して適用されなければなりません。このような者たちとは、つまり、近代主義者たちを誉めそやしたり、彼らの咎むべき所行を弁護したり、あるいはスコラ主義、教父、および教会の教導権に言い掛かりをつけて非難したり、さもなくば教会の権威に対する従順を、どのような種類の権威に対してであれ、拒む者たちです。この方針はまた、歴史や考古学、聖書釈義学において新奇な説を立てたがる者たち、さらには神聖な諸学問を軽視し、世俗的な学問を優先するように見受けられる者たちにも適用されます。尊敬する兄弟たちよ、学問研究に関するこの問題において、あなた方は警戒しすぎたり、堅実すぎることはあり得ませんが、とりわけ教授の選択において特にそうです。と言うのも、概して生徒[の心]は自分の教師の模範にしたがって形成されるからです。この問題に当たっては、自らの義務を強く自覚しつつ、常に賢慮と力強さをもって行動するようにして下さい。

教育の分野で求められる慎重さ

  49.司祭叙階の候補者を審査し、選択する際にも、同様の慎重さと厳格さをもって当たらなければなりません。聖職者には新奇なことがらに対する愛好心が微塵もありませんように!天主は傲慢で頑なな心を嫌われます。今後は、神学および教会法の博士号は、まず第一にスコラ哲学の正規の課程を修了した者以外には、決して授与されないようにしなければなりません。もし、この規定に反して授与された場合には、全く無効のものとして見なされます。1896年にイタリアの「在俗ならびに修道司祭のための司教・律修者聖省」により定められた大学の頻繁な視察に関する規定が万国に範囲を広げて適用されることを私は命じます。カトリックの研究所もしくは大学に在籍する修道者ならびに司祭は今後、自らが所属する研究機関で開講されている科目を、カトリック以外の大学で履修してはいけません。もし、旧来このようにすることが許されていた所があれば、今後はもはやそれが許されないようにすることを私は定めます。カトリックの研究所ないしは大学の理事会に名を連ねる司教たちは、私が定めるこれらの命令が不断に守られるよう、細心の注意をもって見張らねばなりません。

出版物の入念なチェック

  50.近代主義者たちの著作、あるいは何であれ近代主義の気味があるか、それともこれを支持する著作が、もしすでに出版されているなら、これが読まれることを、そしてもしまだ出版されていないならば、その刊行を妨げることもまた、司教らの義務です。この種の書籍、新聞、定期刊行物は何であれ、神学校あるいは大学の学生の手に渡らないようにしなければなりません。このような著作によって彼らにもたらされる害は、不道徳な書物の読書による害に劣りはしません。いいえ、それどころか前者による害は後者によるそれよりも大きなものであるでしょう。なぜなら、この種の著作はキリスト教的生活を、そのまさに源において毒してしまうからです。同様の処置が、悪意があるわけはないにしても、神学の正しい素養に欠け、現代哲学にそまり、これを信仰と調和させ、そして彼らの言うところによれば、これを信仰の益となるものへと転ずるよう努める一部のカトリック者に対しても取られるべきです。こういった著者の名声と評判は、その著作を疑いの念をもたずに読ませることとなり、それゆえ彼らは近代主義への道を徐々に準備するという意味で、いっそう危険なのです。

印刷出版許可と無害証明

  51.尊敬する兄弟たちよ、さらにいくつかの一般的な指示を加えるならば、このように重大な事柄において、あなた方が持てる力を尽くして、自らに託された司教区から必要ならば荘厳な発行禁止処分をもって、当地に出回っている有害な書物を排除することを命じます。聖座はこの種の著作を除去するに当たって、可能な限りの手段を講じますが、こういった出版物の数があまりにも増えたために、その全てを検閲することはほとんど不可能です。そのため、治療薬が届くときには、もう遅すぎるということが往々にしてあります。と言うのも、病気はこの遅延の間に根を張ってしまうからです。それゆえ私は、司教らがあらゆる恐れと肉の賢慮とを打ちやり、悪意の人々の上げる叫び声を横目に、無論優しく、しかし断固として、教皇教令『オフィチオルム』におけるレオ十三世の次の指示を念頭に置いて、この事業における自らの分担を果たすことを望みます。「この事柄においても聖座の代理者である司教たちは、自らの司教区内で出版され、あるいは出回っている有害な書籍ないしはその他の出版物を禁止し、信徒の手に届かないようにするよう勉励しなければなりません。」この一節において、司教たちが一定の行動をとる権限を付与されているのは事実ですが、しかし彼らは自らに課せられた義務をも有しています。いかなる司教も、一つないし二つの書籍を私のもとに、排斥されるべきものとして報告することで自分の義務を果たしたと思い、それに類したおびただしい数の書籍が出版され、流通するままにしておくなどということがありませんように。また、あなた方は、ある書物が他の所で一般に印刷出版許可と呼ばれる許可を得たからといって、それで自分の務めの執行が妨げられるようなことがあってはいけません。なぜなら、これは単に[そのような許可を得たと]見せかけることも可能であり、またこれは不注意もしくは行き過ぎた寛容さ、あるいは著者に対する過度の信頼のために与えられたかも知れないからです。特に最後のケースは、ともすれば修道会において往々にしてあったことではないでしょうか。また、ちょうど同じ食べ物が誰の体質にも合うのではないのと同様に、ある書物が、ある場所では無害なのに、状況の相違のために他の場所では有害である、ということがあり得ます。ですから、ある司教が賢明な者たちの助言を得て、自らの司教区でこの種の著作のあるものを排斥するのが適当である、と判断したとすれば、私は彼がそのように行う充分な権能を与え、かつそのように行う義務を課します。これら一切のことは[状況に応じた]ふさわしい仕方で為されねばなりませんが、ある場合には、聖職者のみに対象を限定した禁止を出すことで事足りるでしょう。しかし、いずれにせよカトリックの書籍販売者には、司教によって排斥された書物を店頭に置かないようにする義務があります。そしてこの問題を扱うに当たって、私は司教らに、書籍商が利得への熱望に駆られて悪辣な商売に身を染めることのないよう注意することを望みます。一部の書籍商のカタログにおいて、近代主義の著作が往々にして、決して少なからぬ賞賛と共に広告されているということは、確かな事実です。彼らが従順を拒むならば、司教らはしかるべき勧告の後に、彼らからカトリック書籍商の称号を一切の会釈なく奪わなければなりません。このことは、より一層重大な理由のために、司教付き書籍商の称号を持つ者たちに当てはまります。もしも[近代主義をはらんだ書物を販売するところの]彼らが教皇庁付き書籍商の称号を有しているならば、彼らは使徒座へ告発されねばなりません。最後に、私は皆に前述の教皇令『オフィチオルム』の第26条を思い起こさせて、この章を閉じることにします。「禁止された書物を読み、かつ保管する教皇よりの権能を得ている者は誰であれ、このことにより、当該地区の管轄司教によって禁じられた書籍ならびに定期刊行物を読みかつ保管する権限を与えられているわけではありません。このようにすることが許されるのは、教皇より与えられた権能が、誰によって排斥された書物であれ、これを読み、保管する許可を明示的に与えている場合に限られます。」

検閲

  52.悪書の読書と販売を妨げるだけでは充分ではありません。こうした書物が出版されるのを防がなければならないのです。それゆえ、司教らは出版許可を与える際には、最大の厳格さをもってなさなければなりません。教令『オフィチオルム』において定められた規則にしたがって、多くの出版物は管轄司教の認可を必要とし、また一部の司教区では、著作物の審査のための公式の検閲者を適当数置く───これは、司教がそれら全てを自ら逐一目を通すことができないからですが───ことがならわしとなっています。私はこのような検閲者の制度をきわめて高く評価しており、それゆえ私はこの制度が全ての司教区に広げられることを勧めるのみならず、命じます。したがって、全ての司教教区庁において、出版を意図した著作の検定のための検閲者を任命し、また、検閲者は在俗および修道者という聖職者の2つの身分から選ばれた、その年齢、知識、ならびに賢慮のゆえに、判定を下すに当たっては安全かつ至当な手段を採択するような者たちでなければなりません。出版の許可を必要とする一切の著作物を、先述の教令中の第41条ならびに第42条にしたがって検閲することが彼らの職務となります。検閲者は判定を文書のかたちで出します。もしその判定が肯定的なものであれば、司教は「印刷出版許可」という言葉で出版の許可を与えますが、これは必ず「無害証明」および検閲者の氏名の後に記されねばなりません。ローマ聖庁においては、他の司教区と同様に公式の検閲者が任命され、その選出はローマ司教総代理によって推挙され、教皇により承認され、受け容れられた上で、教皇宮廷付き神学顧問によって任命されなければなりません。また、個々の著作に対して検閲者を割り当てることも教皇宮廷付き神学顧問の職務となります。出版の許可は、この教皇宮廷付き神学顧問もしくはローマ司教総代理ないし教皇総代理枢機卿によって与えられることになりますが、これは先に述べたとおり、「無害証明」と検閲者の氏名との後に記されねばなりません。司教の賢明な決断に基づいて、きわめて稀で特別な場合にのみ、検閲者の氏名を省略することができます。検閲者の氏名は、彼が肯定的な判定を下すまでは、決して明かされてはなりませんが、それは、彼が著作物の検閲に当たっている間、また万一承認を出すのを手控えた場合に不都合を被らないためです。検閲者たちは、管区長、あるいはローマの場合、総長の[当の者たちに関する]私的な見解が得られた上でなければ修道会からは決して選出されてはならず、またこの際、管区長ないし総長は、当の候補者の人格、知識、ならびに[信仰・思想上の]正統性について誠実に述べなければなりません。私は諸修道会の総長に、彼らの管轄下にある修道会員が、彼ら自身および教区司教の許可なしにいかなる著作も刊行することを決して許さない、というきわめて厳粛な義務を忘れぬよう勧告します。最後に、検閲者の称号は、[それ自体として]何の価値もなく、また、それを与えられる者の私的な見解に信頼性をもたせるために利用されることは一切できないことを私は断言し、かつ宣言します。

編集者として働く司祭についての注意

  53.以上のことを一般的に述べた上で、私は特に、先述の教令『オフィチオルム』の第42条がより注意深く遵守されることを命じ、定めます。すなわち、この条項では「在俗司祭が教区司教の事前の許可なしに新聞もしくは定期刊行物の編集に当たることは禁じられる」と、されています。この許可は、誰であれ、勧告を受けながらもあえてそれを濫用する司祭からは剥奪されなければなりません。定期刊行物の通信員ないし寄稿者である司祭については、彼らが近代主義に染まった記事を自分たちの新聞や定期刊行物に寄稿するということが往々にしてあるので、司教らは、彼らがこの点について過誤を犯さないように目を配る必要があります。そして、もしかかる事態が生じたならば、当の者に警告を発し、執筆を禁じなければなりません。私は同様に、諸々の修道会の総長にもこの同じ義務を果たすよう荘厳に命じ、そしてもし彼らがこの職務をよく果たさないならば、司教たちが教皇からの権威をもって適当な措置を講じなければなりません。また、それが可能である限り、カトリック者によって書かれた新聞ならびに定期刊行物を担当する特別の検閲者が任命されるようにして下さい。その職務は、刊行された新聞および定期刊行物の毎号に適宜目を通し、もし何か危険な要素を見つけたなら、これがすぐさま訂正されるよう命じることです。司教も同じ権限を有しますが、司教はこれを、検閲者がある出版物中に何ら問題を見出さなかった場合でも行使することができます。

司祭会議

  54.私は先に、会議や公の会合を、近代主義者たちが自分たちの見解を喧伝かつ擁護するために用いる手段の一つとして挙げました。今後、司教らは司祭たちによる会議を非常に稀な場合を除いて許可してはなりません。もし司教たちがこれを許可する場合、司教たちもしくは使徒座に属する事柄がそこで取り扱われず、また神聖な権威の横領を暗に意味するような決議もしくは請願を出すことが許されず、さらに、近代主義や長老主義、あるいは俗化主義の気味のあることが全く何一つ発言されない、という条件でのみ、これを許すことができます。文書での許可が適宜、個々の場合に与えられた上でのみ開くことのできるこの種の会議においては、他の司教区の司祭が自分の属する教区の管轄司教の文書での許可なしに臨席することは法規上許されません。さらに、いかなる司祭もレオ十三世の荘重な推奨の言葉を忘れてはなりません。「司祭たちは自らの牧者[である司教]の権威を、神聖なものとして捉えるようにしなければなりません。また司祭たちは、司祭としての役務がもし司教らの指導のもとに行われるのでなければ聖くも、甚だ実り豊かであることも、あるいは尊敬に値するものでもないことを確実なこととして見なさなければなりません。」

司教区ごとの「警戒協議会」の設置

  55.しかし、尊敬する兄弟たちよ、こうした私の命令と規定のすべては、もしそれらが忠実かつ断固として実行に移されるのでなければ、一体何の役に立つでしょうか。そのためには、何年も前に、ウンブリアの司教たちが優れた知慮をもって彼らの教区民のために定めた規定を、全ての司教区に拡大して適用することが適当であると思われます。その規定とはすなわち、「すでに広められた誤謬を根絶し、また、それがさらに伝播してしまうのを防ぐため、さらにはこのような誤謬の伝播によるきわめて悪い影響を恒常化させている、不敬虔の教師らを取り除くため、この聖なる会議は聖カルロ・ボロメオの範に倣い、各司教区に協議会を設置することを決定しました。この協議会は、承認を受けた、聖職者の2つの区分からのメンバーによって構成され、その職務は、種々の誤謬ならびに新たな誤謬が紹介され、伝播される手段の存在を察知し、司教にそれら一切を報告することです。これを受けて司教は、彼らと協議をはかり、害悪をその端緒でくい止め、それが広まって人々の霊魂の堕落へとつながること、あるいはさらに悪いことに勢力を得て増大することを防ぐために最良の手段を模索するのです。」ですから、私は全ての司教区において「警戒協議会」とでも言うべきこの種の協議会が直ちに設立されることを命じます。この成員となる司祭らは、先に検閲者の選出について述べたのと同じような仕方で選ばれ、司教の立ち会いのもと、2か月ごと決められた日に会合することになります。同協議会のメンバーは、討議ならびに決定の内容に関して秘密を守る義務を課されますが、その職務には次のことが含まれます。すなわち、出版物および教育において見出される近代主義のあらゆる痕跡と印をきわめて入念に見張り、そして聖職者および若者をこれから守るために、あらゆる賢明かつ迅速で効果的な手段を用いることです。彼らがレオ十三世の次の訓戒を思い起こして新奇な言葉遣いと闘いますように。「カトリックの出版物中に、信徒の敬虔な信心を嘲笑い、キリスト者の生活の新しいあり方の導入や教会の新たな方針、現代人の霊魂の新たな渇望、聖職者の新しい社会的召命、ならびに新しいキリスト教的文明、その他これに類した多くの事について述べ立てるように見受けられる、不健全な新思想に息吹かれた文体を認めることは到底できません。」ここで指摘されているような言葉遣いは、書籍においても講義においても許されてはなりません。当協議会はさまざまな所で保持されている敬虔な伝統、あるいは聖なる遺物を取り上げている書物を省みずにおくことはできません。当協議会はまた、信心を育むべき新聞または定期刊行物において、こうした事柄が嘲笑や軽蔑の念をにじませた表現で、あるいはあたかも教義であるかのように断定的な筆致で取り扱われることを許さないようにしなければなりません。後の点に関しては、確実な事実として述べられていることが、───しばしば見受けられるように───蓋然性の域を出ないか、あるいは先入観の混じった見解に基づいている場合、特に注意しなければなりません。聖遺物については、以下の規則に従わねばなりません。もしこの種の事柄における唯一の判定者である司教たちが、ある遺物が真正なものでないことを確実に了解したならば、即刻それを信徒の崇敬から遠ざけるように。また、もしある遺物の証明が国内情勢の混乱や、その他の事情により紛失してしまっている場合、司教がその真正さを確認するまでは、それを公の崇敬のために公開しないように。時効あるいは「充分な根拠のある想定」という議論は、ある聖遺物が、1896年に免償・聖遺物聖省から発布された以下の法令における意味での「古さ」のゆえに[それに対する信心が]推奨に値する場合にのみ、有効なものとなります。「古えの遺物は、個々のケースにおいて、それが偽造あるいは偽物である、ということを実証する明白な議論が存在するのでない限り、それが常に受けてきた崇敬を保持するべきである」からです。

敬虔な伝統について判断を下す際には、この事柄について教会は最大の賢慮を払っていること、さらに教会は、この種の伝統がきわめて慎重な注意をもって、またウルバノ8世教皇により義務として課された宣言文が挿入されるのでない限り、書物にて言及されないことを常に念頭に置かなければなりません。そして、この場合にも教会はそこで述べられている事実の真正さを保証するのではなく、ただ単に、人間的な意味での証拠に欠けていない事物を信じるのを禁じはしない、ということにとどまります。この問題について30年前、礼部聖省はに次のように規定しました。「これらの出現や啓示は聖座によって承認されたのでも排斥されたのでもなく、ただそれらが純粋に人間的な信仰によって、またそれら[自体]が語るところの伝統に基づき、信憑性のある証言ならびに文書記録によって裏打ちされた限りで、[人々によって]信じられることを許す、ということに過ぎません。」誰であれ、この規則に従う人は何も心配する必要がありません。何らかの出現に基づく信心については、それが事実自体に関する限り、すなわちその信心が相対的なものである限り、当の事実が真実のものである、という条件を常に含みます。他方、それが絶対的なものである限りにおいては、その対象となるものが崇敬されている聖人たちの人格であるという意味で、それは常に真実に基づいています。同じことが聖遺物に関しても言えます。最後に、私は諸々の警戒協議会に、たゆまず熱心に社会的組織ならびに社会的問題に関する著作を監査し、それらが近代主義の痕跡をいささかもとどめず、かえって歴代ローマ教皇の定めた規定に従うように取り計らう義務を託します。

3年ごとの申告制

  56.私がこれまでに述べたことが忘却に付されてしまうことのないように、私は全ての司教区の司教たちが、当書簡発布の1年後およびそれ以降は3年ごとに、私のこの書簡中で定められた事柄、ならびに聖職者の間で、殊に神学校やその他のカトリック学校───教区司教の管轄下にないものも含めて───において流布している種々の教理について精勤で宣誓を伴った報告書を聖座に提出することを望み、かつ制定します。そして私は、同様の義務を諸修道会の総長に、彼らの下にある者たちに関して、附与します。

結び

  57.尊敬する兄弟たちよ、以上が全ての人の救霊のために、あなた方に書き送る義務があると私が考えたことです。無論、教会の敵対者は私がここで述べたことを取り上げて、教皇が科学と人類の進歩の敵だと誹謗する旧来の中傷をむしかえすことでしょう。キリスト教の歴史がまごうことのない証拠をもって反駁する、このような非難に対する新たな回答として、学識にすぐれて秀でたカトリック者の協力のもとに科学および知識のその他あらゆる部門の進歩が、カトリックの真理の導きと教導とにしたがって促進される特別な研究機関を、私の力の及ぶ限り、あらゆる手段を尽くして設立することを望みます。願わくば、キリストの教会に対する真摯な愛を抱く全ての者の助力に支えられて、私が首尾良くこの自らの企図を実現することを天主が嘉みし給いますように。しかるに、この企画については別の機会に述べることとしましょう。

使徒的祝福

  尊敬する兄弟たちよ、あなた方の熱意と精力とにまったき信頼を置きつつ、私は真心より、あふれるほど豊かな天からの光をあなた方のために祈ります。こうして、あらゆる方向から狡猾に忍び寄る誤謬が及ぼす人々の霊魂への大きな危険のただ中で、あなた方が、何が為されるべきであるかを判然と見定め、また自らの持てる力と勇気を尽くしてそれを実行に移すべく努めますように。私たちの信仰の創始者かつ完成者であるイエズス・キリストが、その御力においてあなた方と共にいて下さいますように。また、あらゆる誤謬を打ち砕く方である無原罪の童貞[マリア]が、その祈りと助力とをもってあなた方のそばにいて下さいますように。そして、私の愛情および逆境における天主からの慰めの印として、私はあなた方およびあなた方の聖職者と信徒とに使徒的祝福を愛に満ちた心から与えます。

1907年(教皇在位第5年)9月8日

ローマ、聖ペトロ大聖堂にて

教皇ピオ十世

コメント

回勅『パッシェンディ・ドミニチ・グレジス』 近代主義の誤謬について 聖ピオ十世教皇(2)

2018年10月04日 | カトリックとは
回勅『パッシェンディ・ドミニチ・グレジス』
近代主義の誤謬について
聖ピオ十世教皇

訳者 聖ピオ十世司祭兄弟会

Copyright (c) Society of Saint Pius X, 2001
All rights reserved


これまでにも排斥されてきた近代主義

  28.尊敬する兄弟たちよ、出版物の著者としてであれ、思想の宣布者としてであれ、近代主義者たちにとって、教会には安定したもの、変わり得ないものは何一つありません。実際、彼らは自らの教説を唱えるに際し、[思想的]先駆者を有していないわけではありません。と言うのも、先任者ピオ九世が次のように述べたのは、こういった者たちについてだったからです。「天主的啓示の敵であるこれらの者たちは、人間の進歩を天上にまで祭り上げ、かつ向こう見ずで涜聖的な大胆さでこれをカトリック教の中に取り入れようとするのです。あたかもこの宗教が天主のではなく人間の業、または人間の努力によってより完全なものと成され得る、ある種の哲学的発見であるかのように。」かかる宣言によって私たちの認識が、信仰に関する認識も含めて、妨げられるわけではなく、反対に、支持かつ保持されます。なぜなら、その同じ公会議は続けて、次のように述べているからです。「それゆえ知性、学知、知恵が個人において、また大衆において、信仰者において、また教会全体において豊かに、そして力強く世々代々にわたって増大し、前進せんことを。しかるに、それはその種類においてのみ、すなわち、同じ教義、同じ意味、同じ解釈に基づいてである。」

近代主義のさらなる検証

  29.私たちは哲学者、信仰者、それに神学者としての近代主義者を研究してきました。私たちはこれから歴史学者、批判学者、護教論者、ならびに改革者としての近代主義者を考察してみなければなりません。

歴史学者としての近代主義者

  30.ある近代主義者たちは、歴史の研究に専念し、哲学者として見られることを極度にきらうようなそぶりを見せます。「哲学については全く何も知らない」と彼らは公言しますが、ここにおいて彼らは非凡な抜け目なさを示します。と言うのも、彼らは自分たちが客観的と称するところから外れているとの非難を自らの身に招くことのないよう、種々の哲学的理論に対して、どのようなものであれ好意的先入見をもっているとの嫌疑を免れることを何よりも望んでいるからです。しかるに、彼らの歴史学および批判学には、彼らの哲学が浸透しており、また彼らの導き出す諸々の歴史批判的結論は、彼らの哲学的原理の当然の帰結なのです。このことは、誰であれじっくりと考えてみる人には、いたって明らかでしょう。彼ら近代主義者の3つの主な法則は、すでに扱った彼らの3つの哲学的原理の中に含まれています。すなわちそれは、不可知論の原理、信仰による事物の変容の定理、および歪曲化と称し得るもう一つ別の原理です。これらの原理のそれぞれから、どのような結果が生じてくるのかを見てみることにしましょう。「不可知論によれば、歴史は科学と同様、まったく現象のみを扱い、その結果、天主、また人間的事柄に対する天主の一切の介入は、信仰のみに属するものとして、信仰に委ねられねばなりません。それゆえ、天主的ならびに人間的という2重の要素が結び合わさっている事物、たとえばキリスト、または教会、あるいは秘跡、ないしはそれに類したその他多くの事物においては、区別と分離が成されねばならず、人間的要素は歴史に委ねられ、他方、天主的な要素は信仰に割り当てられなければなりません。ここから、近代主義者たちの間で非常に広まっている、歴史上のキリストと信仰上のキリストとの区別、歴史上の秘跡と信仰上の秘跡ととの区別、およびこれに類した事柄における同様の区別という、よく知られた区別が出てくるのです。次いで私たちは、歴史学者が取り扱うべき、文書中に現れている限りでの人間的要素は、信仰によって変容されたもの、つまり、本来の歴史的状況よりも高く上げられたものとして見なされるべきである、ということを了解します。このため、キリストを扱うに当たって、心理学が人間について述べること、あるいは彼が生きた場所と時代から私たちが推測するところにしたがって、歴史学者は、自然的条件における人間[の域]を越え出る一切のことを除外しなければなりません。」最後に彼らは、第3の原理に基づいて、歴史の領域に属する事柄さえもふるいにかけられ、彼らの判断に即して事実の論理[的関係]に合わないことや、取り扱われている人物に似つかわしくないことは全て除外され、信仰に委ねられることを求めます。こう言うわけで、彼ら近代主義者は、キリストが彼の話を聞く群衆の[知解]能力の範囲外のことを、たとえ一度であれ口にしたということを認めようとしないのです。このため、彼らはキリストの現実の歴史から、その説教中に見出される全ての寓話をのぞき去り、それらをことごとく信仰の手に委ねるのです。私たちは、いかなる原理に基づいて彼らがこういった区別を成すのか問うてみることができるでしょうか。彼らの返事は、自分たちは当の人物の人格、彼の生活状態、教育、諸々の事実が生じた状況の複雑な絡み合いに即して議論しているのだというものです。つまり要するに、───もし私が彼らを正しく理解しているのであれば─── 主観的なものにすぎない原理に基づいて議論しているのです。このようにして、徹頭徹尾ア・プリオリに、また、それについて無知であると公言しながら、[実際は]支持している種々の哲学的原理に立脚し、彼らは自分たちがキリストについての現実の歴史と称するものに即してこう宣言します。すなわち、キリストは天主ではなく、したがって天主的なことは一度として行わず、また人間として、その生活した時代から判断して彼が言い、また為したであろうと、彼らが見なすところのことのみを言い、行ったのだと。

批判学者としての近代主義者

  31.歴史がその種々の結論を哲学からとるように、同様に批判学も歴史から自らの諸結論をくみとります。批判学者は、歴史学者から供給されたデータに基づいて、自分の取り扱うあらゆる文書を2つの部分に分類します。先に述べた3重の除外をくぐり抜けて残ったものは現実の歴史を構成し、その他の部分は信仰の歴史ないしは内的と称される歴史を構成します。近代主義者たちは、これら2種類の歴史をきわめて入念に区別するのですが、ここで注意すべきなのは、彼らが信仰の歴史を現実の歴史と対置させる際、後者をまさに、事実に即したものとして見なしている、という点です。こういうわけで、先述したように、「現実のキリスト」および「実際には存在しなかった信仰上のキリスト」からなる2つのキリストという概念が生まれるのです。一方は「特定の時間と特定の場所で生きたキリスト」であり、他方は「信仰者の敬虔な観想の外では決して存在したことのないキリスト」です。後者の例として、たとえば近代主義者によれば始めから終わりまで単なる観想でしかない聖ヨハネ福音書中に見出されるキリストがこれに当たります。

近代主義者の批判学の原理

  32.しかるに、歴史に対する哲学の支配はこれに止まりません。今述べた、種々の文書を2つの部分に分ける区別が成された後、哲学は再び生命的内在という自らの教義を従えて介入し、「いかに教会の歴史における一切の事物は、生命的発出によって説明されねばならないか」を示します。[彼らによれば]「あらゆる生命的発出の原因ないし条件は、何らかの必要ないし欠乏の中に見出されるべきものですから、したがっていかなる事実も、それをつくり出した必要に先行するものとは見なされ得ません。歴史的には、事実が必要より後になるのです。」それでは、歴史学者はこの原理を念頭に置いて、何をするのでしょうか。彼は研究の対象となっている文書を ───それが聖書に含まれているものであろうと、あるいはその他の書物から取られたものであろうと─── 再度見直し、それらの文書から教会が殊更抱いている必要のリストを独自に作り上げます。ここで言う「必要」とは教義に関するもの、あるいは典礼、あるいはそれらの文書中で叙述されている当の教会において見出される他の事柄に関するもののことを指しますが、歴史学者は自分の作成したこのリストを批判学者に託します。批判学者は信仰上の歴史を取り扱っている文書を手にとり、それらを時代ごとに分類し、そうして必要のリストと完全に対応するようにします。これは批判学者が「諸々の事実は必要にしたがって生じるのと同様、叙述もまた事実に引きつづいてなされるものである」という信条を常に自らの指導原理としているからです。[彼らによれば]「時として聖書中のある部分───例えば[使徒]書簡───それ自体が、必要によって創り出された事実を構成している、ということが起こり得ます。しかし、たとえそうではあっても、いかなる文書の年代も、個々の必要が教会の中で表面化した年代によってのみ確定され得るという原則は依然として有効です。さらに、ある事実の発端および発展とを区別しなければなりません。ある日生まれたものが成長するには時間を要するからです。」それゆえ「批判学者は、自らの取り扱う時代ごとに分類された文書をもう一度見直し、種々の事実の起源に関するものを、当の事実の発展を扱ったものから分離するという仕方でそれらを再び2つの部分に分け、そしてこれらを各々の時代ごとにもう一度分類しなければならない」のです。

近代主義の歴史書に見られる混乱

  33.そこで、再び哲学者が介入し、歴史学者に、彼のなす全ての研究において進化の掟と法則に従う義務を課します。これを受けて歴史学者は、もう一度自分の扱っている文書を吟味し、異なった時代において教会に影響を及ぼした状況および諸々の条件、教会が前面に出してきた保守の力、教会を刺激して進歩を遂げるよう駆り立ててきた教会内外の必要、教会が直面しなければならなかった障害、つまり、進化の法則が教会においてどのようなかたちで実現されてきたかを見定めるのに役立つ一切のことを入念に検証します。この作業をすませた後、歴史学者は自分の仕事の仕上げとして、[教会の]発展の歴史を概略的に描き出します。引き続いて、批判学者が当の文書の残りの部分を埋め合わせることになります。批判学者は歴史学者が記述していない箇所を埋めるべく筆を執り、こうして歴史が完成します。ここで私は尋ねます。誰がこの歴史の著者なのでしょうか。歴史学者でしょうか。それとも批判学者でしょうか。無論、このどちらでもなく、哲学者です。この歴史中に記されてあることは、始めから終わりまで一切がア・プリオリであり、また異端の気味のある、体験に基づかない空理空論です。これらの人々は確かにあわれむべき者たちであり、使徒パウロの次の言葉は、まさに彼らによく当てはまるものと言えましょう。「彼らは自分の考えに傲り高ぶり...(中略)...自ら知者と称えて愚かな者となった。」その一方で、彼らは教会が独自の流儀で自らに都合のいいように種々の文書を編纂し、かつ混交している、と非難して教会に対する反感をあおっています。このようにする際、彼らは自らの良心が直截に自分たちを咎める、他でもないそのことについて教会を断罪しているのです。

近代主義者による聖書の扱い方

  34.[文書のかたちで残された]記録をこのように分断し、世紀ごとに分ける結果、[彼らによれば]「当然のごとく聖書の諸書典はもはやその名をもって呼ばれている著者の作とされることはできなくなってしまう」のです。近代主義者たちは、「一般的に言ってこれらの書───とりわけモーセ五書ならびに3つの共観福音書───が度重なる付け足しと神学的ないしは寓意的解釈、あるいは種々の異なる文章をつなぎ合わせるためにだけ書き加えられた箇所の挿入によって、原初の簡潔な叙述から徐々に形成されていった」と何のためらいもなしに断定します。「これははっきり簡潔に言うならば、聖書に含まれる諸書典の中に、私たちは信仰の進化から由来し、これに対応する生命的進化の存在を認めねばならない」ということです。彼らの述べるところによれば、「かかる進化の痕跡はあまりにも明瞭であり、およそこの進化の歴史を綴ることができる」くらいです。実際、彼らはそのような歴史をしたためるのであり、しかも、あまりに安易な確信をもってそれを著すため、ほとんど、いく時代にもわたって聖書の諸書の記述を水増ししていった著作者たちの仕事を、その目で見てきたかのように思われるほどです。このような見解を保持するに当たって、彼らはテキスト批判と彼ら自身が称する批判学の一分野を援用し、何某かの事実あるいは文章の一節が正しい本来の箇所にないということを、その他これに類した議論をもち出して実証するよう腐心します。実際、彼らは自らのために、あるものがその本来の場所にあるか否かについて彼らが確信をもって下す判定の基準となる、特殊な形態の叙述ないし論述を編み出したように見受けられます。しかるに、彼らは一体このような識別をする資格がどれほどあるでしょうか。聖書について行っている作業について彼らがとうとうと説くのを聞く人は、彼らがかくも多くの欠陥を見つけ出すことのできた聖書というものを、彼ら以前の誰一人としてひもといてみたことがなかったかのように感じられることでしょう。しかし、実際のところは、才知、学識、聖性において彼らをはるかに凌ぐ数多の教会博士たちのことごとくが聖書の各書をありとあらゆる仕方でふるいにかけた結果、その中に何か一つでも難ずべきことを見つけるどころか、それらを深く調べれば調べるほど、このようなかたちで人々に語りかけてくださった天主の慈愛に一層、心からの感謝を捧げたのです。残念ながら、これらの偉大な博士たちは、近代主義者たちが有している「研究の助力」なるものを持っていませんでした。天主の否定に根ざす哲学ならびにそれ自体で存立する [近代主義者たちの] 基準を、自らの規範ないし導きとして抱いていなかったからです。

カトリックの教えと矛盾する近代主義

  以上、近代主義者の歴史学的手法を充分明晰に示してきたことと信じます。哲学者が先頭を切り、歴史学者がそれに続き、そして、しかるべき順序にしたがって内的批判およびテキスト批判がその後を締めくくります。そして、第一原因は諸々の二次的原因に自らの力をわかち与えることをその特徴とするため、ここで私が問題としている批判がただ無差別にどのような批判でもというわけではなく、正しくも不可知論的、内在論的、そして進化史観的と呼ばれている批判である、ということは明らかです。そのため、誰であれこれを採用し、適用する人はその中に含まれている誤謬をも奉じていることを公言することになり、自らをカトリックの教えに対立する立場に置くはめになります。このようなわけで、一部のカトリック者の間で、この近代主義がかくも広く受け容れられるに至ったということは、実に驚くべき事態です。この原因として2つのことが挙げられるでしょう。第一に、近代主義学派の歴史学者ならびに批判学者があらゆる国籍ないし宗教の壁を越えて互いの間で結ぶ緊密な同盟、第二には、彼らの限りを知らぬ厚顔無恥です。すなわち、彼らの中誰か一人が何か口に出して言えば、他の者は科学がさらに一歩前進したとこぞって賞賛の声を上げるのですが、他方、外部の者が当の新しい発見を自分で調べてみようと思うと、彼らはその人に対して共同戦線を張るのです。その新説を否定する人は無知な者としてこきおろされる一方、それを支持し擁護する人は彼らからの惜しみない賞賛をほしいままにします。このようにして彼らは少なからぬ者たちを陥れていますが、その同じ人たちがもし自分が何をしているかに気づいたならば、恐れをなして後込みするに違いありません。謬説を教える者たちの横柄で威圧的な態度は、彼らに賛同する、より浅はかな者たちの無思慮な追従を得て、いたるところに蔓延し、病毒の感染をもたらす腐敗しきった空気を生み出しています。しかし、[批判学者としての近代主義者についての考察はひとまず終えて] 今度は護教論者としての近代主義者に論究を進めねばなりません。

護教論者としての近代主義者

  35.近代主義の護教論者は2つの意味で[近代主義の]哲学者に依存しています。第一に、間接的に依存しており、それは彼が主題とするものが歴史───先に見たように哲学者によって述定された歴史───であるからです。第二に近代主義の護教論者は哲学者に直接的に依存しており、それは彼が自らの教条ならびに結論を哲学者からゆずり受けるからです。ここから、「新しい護教論において宗教的事柄に関する論争は心理学的および歴史学的研究によってその正否が判定されなければならない」という近代主義学派に共通の定理が出てくるのです。さて、近代主義の護教論者は表舞台に躍り出、唯理主義者たちに向かって、「自分たちはたしかに宗教を擁護しているが、しかし聖書からのデータもしくは今日教会で一般的に用いられている、古い線に沿って書かれた歴史を使う意志はいささかもなく、ただ現代的原理に立脚し、現代的手法にしたがって作成された現実の歴史のみを用いるだけだ」と公言します。このように語る際、彼らは聞き手に応じた論法を用いているわけではありません。なぜなら「ただこの種の歴史にのみ真理が見出され得る」と彼らは心から信じているからです。彼ら近代主義の護教論者には、著作中で自分たちに裏表がないことをわざわざ披瀝する必要はないと感じられるのです。彼らはすでに唯理主義者たちから、同じ旗印の下に闘う仲間として知られ、賞賛されています。そして彼らはこういった礼賛を得て得意になるばかりでなく、───それならば、真のカトリック者に嫌悪感をもよおさせるだけのことでしょうが───それを教会からの譴責に対する埋め合わせとして利用するのです。

近代主義護教論の方法論

  ここで、近代主義者がどのように彼独自の護教論を展開するかを見てみることにしましょう。彼が自らに課す目的は、いまだ信仰をもたない人に、近代主義の体系において信仰の唯一の基礎とされるところの、カトリック宗教の体験を得させることです。彼は客観的手法、ならびに主観的手法という2つの方法から自由に選ぶことができます。このうち前者は、不可知論を出発点とし、「宗教、とりわけカトリック教は、『誠意のある全ての心理学者および歴史学者をして、その歴史には何か不可知なるものの要素が隠されている』と認めざるを得なくするほどの生命力を宿したものである」ということを示そうとします。この目的を果たすためには、今日あるカトリックの宗教がイエズス・キリストによって創立されたところのものであること、すなわち、それが、イエズス・キリストがこの世にもたらした芽生えが漸進的に発達したものに他ならないことを証明する必要があります。このため、まず第一に、そもそもこの芽生えがどのようなものであったかを特定することが絶対必要となりますが、近代主義者は次の定式文によってその問題を解決することができるとしています。すなわち、「キリストは天主の御国の到来を告げましたが、これは短期間のうちに実現すべきことであり、またキリストはそのメシア、天主から与えられた創立者かつ統治者となるべき者でした。次に、カトリック教の中に常に内在し、永在するこの芽生えが、どのように歴史の流れをつうじて徐々に発達してきたかが示されなければなりません。実際、この芽生えは様々な状況に次々と自らを適合させ、そういった状況から自らの目的のために役立つあらゆる教義的、文化的、教会的な形態を生命的同化吸収によって借り受けて発達してきたのです。その一方で、この芽生えはあらゆる障害を克服し、全ての敵を打ち負かし、あらゆる攻勢、戦闘に耐え抜いてきました。この山のような数多の障害、敵対勢力、攻撃、闘争、ならびに教会がこれら全てを通して示してきた生命力と豊饒性をじっくりと、しかるべく考えてみる人は誰でも、たとえ進化の法則が教会の生活において目に見えるかたちで現れているにしても、かかる法則をもってしてはその歴史の全てを説明することができない、と認めざるを得ません。不可知なるものがそこから立ち現れ、私たちの前に姿を現します。」このように彼らは議論を立てるのですが、その際彼らは、原初的萌芽に関して自分たちの成す確定が、不可知論および進化論に根ざす哲学によるア・プリオリな仮定にすぎないこと、またこの芽生え自体も、自分たちの主張にうまく合うよう、何の根拠もなく定義されたものであることに気づいていません。

内的混乱をはらんだ近代主義

36.このような論法によってカトリック教[の卓越性]を証明し、弁護しようとする彼ら新しい護教論者たちはしかし、この宗教の中に多くの好ましからざることがあると認め承知するのにやぶさかではありません。それどころか、彼らは「その教義さえもが誤謬と矛盾とから免れていない」ということを発見したと、あからさまに、満足を下手に隠そうとしながら、告白するのです。彼らはつけ加えて、これは酌量の余地のあることであるばかりでなく、───奇妙なことに─── それは正しく、適当なことであると言うのです。彼らによれば「聖書の各書の中には、科学や歴史に関して明らかな誤りのある箇所が多く見出される」のです。しかるに、彼らの言うには、「これらの書の主題は科学や歴史ではなく、ただ宗教と道徳なのであり、これらの書において、歴史と科学は一種の覆いとして働き、その中に包み込まれている宗教的および道徳的体験が、より容易に衆人の間に浸透するのを助けるだけのものである。民衆は科学と歴史とを、これらの書において表現されているままのかたちで理解するのであり、そしてもし科学と歴史がより完全な仕方で表現されたならば、[理解の]助けとなるどころか、妨げとなってしまうのは明らかなこと」なのです。さらに彼らは「本質的に宗教的なものである聖書は、必然的に生命に満ちあふれたものであるはずだ」と補足します。ところで、[彼らによれば]「生命はそれ自身の真理と論理とを有していますが、それは理性によって把握される真理および理性によって構築される論理とはまったく異なり、別の次元に属するものです。すなわち、この真理とは適合、ならびにそれ(真理)がその中で生きるいわゆる媒体と、それが生きる目的との比例関係の真理なのです。」最後に、抑制の感覚を一切失った近代主義者たちは、「生命によって説明されることは、たとえ何であれ真実であり、正当である」と宣言するまでに至ります。

真理の単純さ

  尊敬する兄弟たちよ、一つの、ただ一つの真理のみ存在すると信じ、また聖書が「聖霊の霊感を受けて書かれ、天主をその著者とする」と信じる私たちは、このような教説は天主ご自身が便宜上の嘘をつかれた、と言うことに等しいと断言します。そして、聖アウグスチヌスと共に、こう述べるのです。「かくも崇高な権威において、ただ一つでも便宜上の嘘[の存在]を認めるならば、一見実践あるいは信じることが困難に見える命題の中で、その同じこの上なく有害な原則に基づいて、その書の著者が故意に、ある目的のためについた嘘であると説明しおおせない、ただ一つの文もなくなるでしょう。」そして、このようにして、この聖なる博士が続けて述べているような事態が生じるのです。つまり、「誰もが自分の好む、好まないに応じて、これらの文章───すなわち聖典───に記されていることを信じ、あるいは信じるのを拒むようになる」のです。しかし、近代主義者たちは自分たちの定めた方向に邁進してゆきます。彼らはまた「ある特定の教理の証明として持ち出されるある種の議論、例えば預言に基づいた議論は、何らの理知的根拠も有していない」と認めます。しかるに、彼らはこれらさえ宣教のための術策であり、生命[の必要]によって正当化され得るものだとして擁護するのです。それのみならず、彼らは「キリストご自身さえもが天主の御国の到来の時期について明らかな間違いをおかされた」ということを認める、否、声を大にして主張するのです。そして彼らの言うには、これについて驚くにはあたりません。なぜなら、[彼らによれば]「キリストご自身も生命の法則に服されていた」のですから!こうなれば、教会の諸々の教義は一体どうなってしまうでしょうか。近代主義者たちに言わせれば、「これらの教義は甚だしい矛盾に満ちています。しかし、それに何の問題があるでしょうか。なぜなら、生命の論理がそれらを認め、受け容れているという事実はさておき、それらの教義は象徴的真理にそぐわぬものではないからです。問題となっているのは無限なるものであり、しかるに無限なるものは無限に多様な側面をもっているのではないでしょうか。」つまるところ、こうした諸説を主張し、弁護するために、彼らは、「無限なるものに対して捧げることのできる最も気高い礼賛は、互いに相矛盾する命題をこの存在に帰することである」、と憚(はばか)ることなく宣言するのです。しかし、もし彼らが矛盾さえも正当化するのなら、彼らが正当化するのを拒むようなものが、一体何かあるでしょうか。

主観的議論

  37.しかるに、[近代主義に従えば]不信仰者をして信仰を受け入れるよう導くのは、客観的議論によってだけではありません。主観的な議論もまた存在するのであり、このために近代主義の護教論者は内在という教説にその根拠を求めます。彼らは事実、自分たちが関わる当の不信仰者が、自らの本性ならびに生命の奥深いところに、何かある宗教、それもただどんな宗教でもよいのではなく、カトリック教の名で知られている特定の宗教に対する必要および欲求が隠れていることを納得させようと努めます。「この宗教こそが生命の完全な発達のために絶対必要なものとして要請される宗教だから」です。ここでもまた私は、内在を教説としては否定しながら、それを護教論の手法として用いるカトリック者がいることに不服の念を表わす充分な理由をもっています。実際、こうした人々はあまりに賢明さを欠いた仕方でそうするので、カトリックの護教家たちによって常に、しかるべき限度をまもって強調されてきたように、人間には超自然的事柄に対する受容能力ならびに適合性がある、と認めるに止まらず、「人間本性には超自然的次元に対する真の、厳密な意味での必要がある」と認めさえするように見受けられるほどです。実のところ、カトリック宗教に対するこのような[人間本性の根元からの]切迫した必要という論拠を用いるのは、まだ穏健な方の近代主義者たちです。その他の徹頭徹尾のとでもいうべき近代主義者は、不信仰者に、彼の存在の内に、キリストご自身がその意識の中に持っておられ、人類に伝達されたのとまさに同一の芽生えが潜んでいる、ということを示そうとします。尊敬する兄弟たちよ、以上が近代主義たちの用いる、彼らの教説と完全に調和した護教論の手法の概略的な説明です。こういった誤謬にあふれた手法ならびに教説は、建設のためではなく破壊のためのもの、また、カトリック信者をつくるためではなく、すでにカトリック信者である人を異端へと誘い入れるためのものであり、宗教全体の完全な転覆へと導く種類のものです。

改革者としての近代主義者

  38.さて、私はここで、改革者としての近代主義者について少し述べておかなければなりません。これまで述べてきたことから、このような人々が抱く刷新への熱情がどれほど強く、どれほど激しいものであるかは充分すぎるほど明らかです。カトリシズムの中で、かかる熱情の対象とならぬものは、実に一つとしてありません。彼らは哲学が、特に神学校において刷新されることを望んでいます。彼らはスコラ哲学が哲学史の単なる一章として種々の絶対的体系の中に位置づけられること、また「唯それのみが真でありかつ私たちの生きる時代に適合したものである現代哲学」が青少年に教えられることを望んでいます。さらに、彼らは神学の刷新を希求しています。合理的神学は現代哲学をその基礎とし、また実証神学は教義[発達]の歴史に基づいてなされるべきである、としています。歴史に関していえば、歴史は彼らの方法論ならびに現代的原理にしたがって書かれ、教えられなければなりません。教義とその進化は科学と歴史とに調和されねばならない、と彼らは力説します。「公教要理においては、刷新されたものおよび一般の人々の理解能力の及ぶものをのぞいて、いかなる教義も記されるべきではありません。」礼拝について彼らが言うには、「外的な信心の数は減らされ、これ以上それが増えることのないように手段が講じられなければなりません。」もっとも、彼らの中で象徴主義を信奉する一部の者は、このことに関しては、より寛容な姿勢を見せるのですが。

  彼ら近代主義の改革者は、教会の統治機構がその全ての部門において改革されること、特に規律および教義に携わる部局の改革を声を大にして唱えます。彼らは外部に向かっても、また内部においても、「教会の統治機構が、今やことごとく民主主義を志向する現代人の意識に合致されねばならず、したがって聖職者の中でも低い階級に属する者たち、さらには一般信徒にさえも同機構において何がしかの役割が与えられるべきであること、また、過剰に一点集中している権威もまた、分権化されねばならないこと」を強く主張しています。ローマ聖省、中でも特に図書検閲聖省ならびに検邪聖省も同様に改変されなければなりません。教会の権威は社会的および政治的な世界において、その行動方針を変えなければなりません。すなわち、政治的機構の外にありながら、自らをそれに適合させて、これに自らの精神を浸透させることを図るべきなのです。道徳に関しては、彼らは活動的な徳が消極的な徳よりも重要であり、その実践が、より奨励されるべきであるとするアメリカ主義者の原理を採り入れています。彼らは「聖職者が原初の謙遜と清貧とに立ち帰り、また思想と活動において近代主義の原理を認め受け入れること」を求めます。さらに一部の者は、プロテスタントの教師の教えに喜んで聞き入り、「聖職者の独身制の廃止」を望んでいます。こうなると、教会の中で彼らによって、彼らの原理にしたがって改革されるべきでないものが一つでもあるでしょうか。

あらゆる異端の総合である近代主義

  39.尊敬する兄弟たちよ、ある人たちには、私がこのように近代主義の教条をあまりに長々と詳細に敷衍してきたと思われるかもしれません。しかし、自分たちの思想を理解していない、という彼ら近代主義者のおきまりの非難に答え、またさらに、彼らの体系がばらばらで互いに関連のない理論ではなく、かえっていわば密接に結びついた一つの全体であり、その中の一つを認めたならば、全てのを認めざるを得なくなるということを示すために、こうすることが必要だったのです。それゆえ、私はこの解説をいくぶん教育的な形式で行い、また近代主義者たちが導入した、ある種の耳慣れない用語をはばからずに用いざるを得ませんでした。さて、こうしてその体系全体に眼を注いだならば、私がこれをあらゆる異端を総合したものである、と断じたところで、誰一人驚く者はないでしょう。もし誰かが[カトリック]信仰に対して打ち出されてきた全ての誤謬を一つに集め、それらみなの樹液と実質とを一つにまとめようとしたとしても、近代主義者たちがしたよりも、首尾よくそれを成し遂げることはできないでしょう。否、彼ら近代主義者は、それよりももっとひどい結果を招こうとしているのです。なぜなら、先にほのめかしたように、彼らの体系は単にカトリック教の抹殺ではなく、宗教全体の抹殺を意味するものだからです。それゆえ唯理主義者たちは近代主義者に惜しみない賞賛を浴びせ、その上、彼らの中でもとりわけ率直でうそ偽りのない者たちは、近代主義者たちを、あらゆる盟友の中でももっとも価値のある盟友として得た、と言って喜んでいるほどです。

  尊敬する兄弟たちよ、ここでしばしの間、破滅的な教説である不可知論にもう一度、注意を向けてみることにしましょう。この教説によって、天主に対する知性の側からのいかなる道も人間には閉ざされてしまうのですが、他方、霊魂のある種の感覚、ならびに活動の側から、よりよい道が開けるのだとされています。しかし、このような主張がいかに誤ったものであるか気づかぬ者があるでしょうか。と言うのも霊魂の感覚とは、知性もしくは外的感覚が[霊魂に対して]現前させる事物の活動に対する反応に他ならないからです。知性を取り去ってしまうならば、元来感覚に追従しがちな人間は、これの奴隷となってしまいます。また、もう一つ別の観点からも、このような主張は二重の誤りをおかしていると言えます。なぜなら、宗教的感覚にまつわるこれらの夢想とも言ってよい理論は決して常識を破壊してしまうことはできず、そしてその常識は感情ならびにその他、心を虜にしてしまう一切のものは、真理を発見する助けとなるどころか妨げとなることを私たちに教えているからです。私がここで言う真理とは、それ自体における真理のことです。と言うのも、内的な感覚ならびに活動の結実に他ならない、もう一つ別の純粋に主観的な真理は、たとえ言葉の遊びのために有用であるとしても、自分の外の世界に、その手の内にいつの日か身を横たえねばならない天主が存在するのか否かを、他の何事にも先んじて知ることを望む人には、まるで何の役にも立ちません。無論、近代主義者たちは体験というものを持ち出して、自分たちの体系の欠陥を補おうとするのですが、当の霊魂の感覚に、かかる体験は一体何をつけ加えるでしょうか。対象の現実性についての確信をある程度強め、これを[当の体験自体の]程度に比例して深めること以上には、全く何も付け足しはしません。しかるに、これら2つのことは霊魂の感覚を、感覚の他の何ものかに変えることは決してなく、また、知性によって導かれるのでなければ誤りに陥りがちなその性質を改変させることもありません。反対に、これら[の作用]は、ただ感覚の持つこの性質を固め、一層強いものとするだけです。と言うのも、感覚とは、激烈であればあるほど、それだけ一層本当の意味での感覚であるからです。そして、私たちがここで取り扱っているのは宗教的感覚およびそれに含まれている体験であるため、この種の事柄において、いかに賢慮およびその賢慮の規範となる学識が必要であるかは、尊敬する兄弟のみなさんには周知のことでしょう。あなた方はそれを自ら自身、人々の霊魂、殊に感情がその中において支配的立場にある霊魂に接することを通じて熟知しています。あなた方はまた、修徳神学のさまざまな著作を読むことを通じてこのことを承知しています。[ちなみに]この種の著作の価値を近代主義者たちは、まったく軽視していますが、これらは学知ならびに堅実さにおいて、彼らの著作をはるかに凌ぎ、さらに近代主義者たちが自ら具備すると思いなしているものよりもはるかに緻密で洗練された観察に基づいています。近代主義者がかくも誇りとする、これらの不完全な体験を検証もせずに真実のものとして受け容れることは、ほとんど狂気の沙汰か、あるいは少なくともこの上なく向こう見ずな行為であるように思われます。私たちはここで、次のように問いかけてみましょう。もし体験が彼らの目には、それほどの力と価値とを有しているのであるとしたら、どうして彼らは、近代主義者たちが誤った道を歩んでいるという、かくもおびただしい数のカトリック信徒が抱く体験にも同等の価値を置かないのでしょうか。それはつまり、カトリック者の体験だけが誤り、欺瞞を含む体験である、と言うことでしょうか。人類の圧倒的に大多数は、感覚と体験だけでは───もしそれらが理性によって照らされ、導かれるのでないなら───天主の認識には達し得ないという見解を抱き、また常に抱き続けるでしょう。もし近代主義者たちの見解が正しいとすれば、無神論と一切の宗教の欠如以外の何が残るでしょうか。もちろん、私たちをこの窮地から救い出すのは象徴主義の教条ではありません。なぜなら、もし宗教の含むあらゆる知性的な───と彼らの称する─── 要素が単に天主の象徴でしかないのであれば、天主の御名自体、もしくはその天主的な位格さえも同様に象徴に過ぎぬものとなり、そしてもしこれを認めるならば天主の位格もまた疑念をゆるす事柄となり、汎神論への門が開かれるでしょう。そして純然たる汎神論へと、天主的内在という別の教条が真っ直ぐ導くのです。と言うのも、私が問うているのは、次の問いだからです。かかる内在[の教説]は、依然として天主を人間から区別されたものとして認める余地を残すのでしょうか。もし、そうであれば、それはカトリックの教理とどこが違うのでしょうか。また、どうしてそれは外的な啓示という教理を拒絶しなければならないのでしょうか。もし、天主と人間とを区別する余地を残さないのであれば、それは汎神論になります。さて近代主義者の理解する限りでの内在の教条は、あらゆる意識[内]の現象は人間たる限りでの人間から出来するという見解を保持し、表明するものです。ここから厳密な論理にしたがって導き出される結論は、人間と天主との同一性であり、これは汎神論に他なりません。近代主義者たちが科学と信仰との間に成す区別も同じ結論へと至らせます。彼らの言うには科学の対象は可知的なものの現実であり、信仰の対象はその反対に、不可知なるものの現実だからです。ところで、不可知なるものをして不可知なるものたらしめるのは、対象となるものと知性との間に一切の均衡関係が存しない、───これは近代主義者の教説においてさえ、いかなるものによってもうめることのできない、とされる均衡の欠如です───という事実に他なりません。そのため、不可知なるものはそのまま残り、信仰者にとっても、哲学者にとっても永遠に不可知なるものとしてとどまることになります。したがって、もし何らかの宗教が存在する余地があるとすれば、それはただ不可知なるものの宗教でしかあり得ません。そして、この不可知なるものが、一部の唯理主義者たちが語るところの、宇宙の霊魂とは異なると主張されるとすれば、それは私には了解しかねることです。これらの論拠によって、近代主義がいかに多くの道筋を通して無神論ならびに一切の宗教の抹殺へと導くかが、充分すぎるほど明らかに示されたでしょう。プロテスタント主義は、この道の第一歩を踏み出し、近代主義が二歩目を印し、無神論がさらにもう一歩、歩を進めるのです。

好奇心の危険

  40.尊敬する兄弟たちよ、近代主義のもつ意味に一層深く分け入り、これほど深い傷に対する適当な治療策を見出すために、私たちはそれを生み出し、その成長を育む諸々の原因を究明しなければなりません。その近接的、直接的原因が知性における誤りであることには疑いの余地がありません。近代主義の遠因となるものについては、2つの項目にまとめることができます。好奇心と傲慢です。好奇心は、もし賢明に律されるのでなければ、ただそれだけで全ての誤謬の充分な理由となります。先任者グレゴリオ16世は、このような見解に基づいて次のように記しています。「理性が新奇なものを求める精神に屈するとき、使徒[パウロ]の警告に反して、それが本来知るべきものよりさらに知ろうとするとき、また、自ら[の力]を過信し、真理が誤謬のわずかの陰さえも被らずに見出されるカトリック教会の外に真理を見出すことができると考えるとき、人間の理性の逸脱は見るに堪えない光景を呈します。」

近代主義の中に居を構える傲慢

  しかるに、霊魂の上に[好奇心よりも]比較にならないほど大きな影響力を及ぼしてそれを盲目にし、誤謬へと導くのは傲慢です。そして傲慢は近代主義の中に、それが自分の住居であるかのようにあぐらをかきます。傲慢は、近代主義の教えのいたるところに自らを養うものを見出し、そのあらゆる側面に潜みます。実際、近代主義者をして、自分たちが万事の基準[を定める者]であると見なし、かつそのように振る舞うほどに自信で満たすのは、この傲慢です。彼らを虚しい傲りで満たし、知識の唯一の保持者を自認させるのも、また、得心し、僭越心にふくれ上がって「我々は他の者たちとは違う」と言わせるのも、さらに、自分たちが他の人々と同じように見えることのないよう、最も愚昧な新説さえをも採り入れ、また自ら考案するよう導くのも傲慢です。さらに、彼らの心中に不従順の精神をかき立て、権威と自由との間に歩み寄りを要求させるのもまた傲慢です。傲慢のゆえにこそ、彼らは自らを改めることを忘れて他の者たちを矯め直す者となることを欲し、また、権威に対する敬意に、───最高の権威に対してさえも─── 甚だしく欠くようになるのです。まことに傲慢ほど近代主義へと直接に、また速やかに導くものはありません。もしカトリックの一般信徒もしくは司祭が、キリストに従うために己れを捨てるよう強いるキリスト教生活の戒律を忘れてしまい、傲慢を自らの心から引きはがすのを怠るならば、彼は他の誰にもまして近代主義の誤謬の格好の標的となります。それゆえ、尊敬する兄弟たちよ、このように傲慢の餌食となった者たちに対抗し、彼らを最も低い、目立たない役職にのみ用いることがあなた方の第一の義務となります。彼らが高い所に上ろうとすればするほど、それだけいっそう彼らを低い位置に置かなければなりません。それは彼らの地位の低さのゆえに、彼らの及ぼす害悪が制限されるためです。あなた方のもとにある若い聖職者らをあなた方自身で、また神学校の校長を通し、きわめて入念に審査しなさい。もし傲慢の精神を彼らの中に見出したならば、呵責なく彼らに司祭職の道を閉ざしなさい。倦むことのない用心深い警戒によって、今日に至るまでずっとこのことが為されていたならば、どれほどよかったでしょう。

近代主義者たちの無知

  41.近代主義の道徳的原因から知的原因へと視点を移すならば、第一の主要な原因として、無知が見出されます。そうです、教会の教師として目されることを望む近代主義者たち、現代哲学をかくも称揚し、スコラ哲学に対してあれほどの軽蔑を表す当の彼らが前者をその全ての偽りの魅力と共に受け容れたのは、まさに後者についての無知のために、彼らは思考の混乱を識別し、詭弁的論法を論駁する能力を持ち合わせていなかったからです。実に、かくも多くの、かくも甚だしい誤謬を含んだ彼らの体系全体は、信仰と誤った哲学との結合から生まれたものです。

宣布のための手段

  42.彼らがこれほどの熱意と精力を注いでその宣布に努めなかったとしたら、どれほどよかったでしょう。しかるに、自分たちの主義のためになす彼らの活動とたゆまぬ骨折りとはかくも大きいので、彼らがそれほどの精力を、教会の衰亡を招くために無駄に費やすのを見て、心を痛めずにはいられないくらいです。もし彼らの努力が、より良い方向に向けられていたならば、教会に対してきわめて大きな貢献を成すことができたでしょうから。彼ら近代主義者は2つの術策を用いて人々の知性を欺きます。第一のものは、自分たちの進路の妨げとなるものを取り除くために、第二のものは、自らの目的の達成の助けとなる、あらゆる手だてを積極的に、かつ根気よく開発および適用するために用いられます。自分たち[の計画実現]を阻む3つの主要な難点がスコラ的方法論に基づく哲学、教父の権威ならびに伝統、教会の教導権にあることを認識している彼らは、これらに対して容赦のない戦いを挑むのです。スコラ的哲学と神学とに対し、彼らは嘲笑と軽蔑という武器を用います。彼らにこのような行動をとらせるのが恐れであれ、あるいは無知、もしくはその両方であれ、確実なのは、彼らの心中で新奇なものへの情熱がスコラ学に対する憎悪といつも結びついていること、そして、ある人が近代主義に傾く場合、スコラ的手法に対する嫌悪感を示し始めるのが、その最も確かな印になる、ということです。近代主義者たち、ならびに彼らの信奉者たちが、ピオ九世によって排斥されている次の命題を心に呼び起こしますように。すなわち、「古えのスコラ学の博士たちが神学に取り組む際に用いた手法と原理は、現代のさまざまな必要あるいは科学の進歩にもはや対応することができない」という命題です。彼らは持てる限りの巧知を駆使して伝統の力を弱め、その性格を歪めるよう腐心します。しかるに、カトリック者に対して、何ものも[以下の決定を下した]ニケア第2公会議あるいはコンスタンティノープル第4公会議の権威を取り去ることはできません。すなわち、ニケア第2公会議は「異端者らの不敬な態度にならって教会の伝統を嘲笑し、何か新奇なことがらを案出し(中略)、あるいは悪意または術策によってカトリック教会の正当な伝統の何か一つでも覆そうと大胆にも試みる者たち」を排斥し、そしてコンスタンティノープル公会議は次のように宣言したのでした。「それゆえ、私たちは聖にしていとも栄えある使徒たちによって、また全ての正統な普遍的および地方的公会議によって、さらには神聖なことがらを解釈する者たち、すなわち教会の教父ならびに博士のことごとくによって、聖なる普遍の使徒的教会に伝えられている諸々の原則を保存し、守る[べき]ことを公言する」と。それゆえ、ピオ四世ならびにピオ九世教皇は、信仰宣言において下記の宣誓文を挿入するよう命じたのです。「私は使徒伝来のものである教会の伝統、およびその他教会が定めた儀典ならびに教令をいともかたく認め、受け容れます。」

教父を軽視する近代主義者たち

  近代主義者たちは、伝統に対してそうするのと同様、教会の聖なる教父たちに対しても審判を下します。途方もない大胆さをもって、彼らは「教父たちが、人格の面ではあらゆる崇敬にこの上なく値するとはいえ、歴史と批判学については全く無知だったのであるが、これは教父たちが生きた時代を考慮に入れれば、しかたのないことである」と衆人に説き聞かせるのです。最後に、近代主義者たちは、あらゆる手だてを尽くして教会の教導権自体の権威を減じ、弱めようとします。そのため彼らはその起源、性格、ならびにその諸々の権利を涜聖的に歪曲し、また、教会の敵対者らの中傷をそのまま繰り返して攻撃するのです。近代主義者の徒党のことごとくに、私の前任者が悲痛な心持ちで記した言葉が当てはまります。「真の光であられるキリストの神秘的な花よめに軽蔑と憎悪とをふり向けるために、闇の子らは世人の目前で彼女の顔に愚にもつかない中傷を投げかけ、そして種々の事物や言葉の意味ないしは真意をねじ曲げて、彼女を暗闇と無知との友、光明と科学、進歩の敵という烙印を押すのを常としてきました。」 このようなわけですから、尊敬する兄弟たちよ、近代主義者たちが持てる限りの辛辣さと憎悪を、教会のための戦いを熱心に戦うカトリック者にぶつけてくるのも、何ら不思議なことではありません。近代主義者たちは、ありとあらゆる侮辱をカトリック者に加えますが、ふつう、無知または頑迷さというレッテルを貼るのが彼らの用いる常套手段です。学識と力によって脅威となるような反対者が立ち上がると、彼らはその人の周りに沈黙の策略を張りめぐらして、彼の攻撃の効力をなくしてしまおうとします。カトリック教徒に対してとられるこのような方策の理不尽なところは、自分たちの側につく著述家たちには、感嘆を込めた、とどまるところを知らぬ賞賛を浴びせ、ほとんど毎頁に新奇な思想をにじませる彼らの著作を、声を合わせて歓呼する、という点です。彼ら近代主義者にとって、ある著述家の学識は、彼が古代(から)の事物に対してどれだけ軽率・短絡に非難を浴びせ、また教会の教導権と伝統を覆す努力を為しているかに直接比例して決まるのです。もし彼らの中の誰かが教会による排斥を被るならば、残りの者は善良なカトリック信徒をよそおって当の人の周りに群れ集い、公衆の面前で声を大にして彼を賞賛し、まるで真理のための殉教者でもあるかのように祭り上げます。年若い者たちは、かかる賞賛と讒言(ざんげん)の叫び声に刺激されたり、困惑させられたりして、ある者は無学の烙印を押されることを恐れて、またある者は学のある人の仲間入りをする熱望に駆られて、───そしてこの両者は共に好奇心と傲慢にせきたてられて───往々にして近代主義に屈し、身を委ねてしまうのです。

近代主義者たちの大胆不敵さ

  43.近代主義者が自分たちの思想を売り込むために用いる数々の術策のいくつかが、こうして出そろいました。新たな賛同者を勝ち取るために、彼らはどれほどの努力を払うことでしょうか!彼らは神学校と大学の教授職に矛先を向け、徐々にそれを有害な思想の座と変えてゆきます。説教台から与える説教の中で、彼らは自分たちの教理を、たとえ、時としてそれとない言い回しを通してであれ、広めます。会議や会合において、彼らは自らの教説をより公然と表明します。彼らはそれを社交的な集いにおいても、他の人々に紹介し、薦めます。彼らは実名あるいは偽名でおびただしい数の書籍、新聞、雑誌を発行し、また時には同一の著者がいろいろな偽名を用いて、注意力を欠いた読者にあたかも多数の著述家が存在するかのような印象を与えようとすることさえあります。要するに、熱烈な精力でもって行動、言論、および著述を通し、ありとあらゆる手段を尽くして自らの目的を果たそうとするのです。しかし、ここからどのような結果が生じたでしょうか。かつては有望で教会のために大きな働きを為し得た数多くの若者が、今や道を誤ってしまっている光景を目の当たりにして、私は嘆かずにはいられません。その上、他の多くの者たちが、先の者たちほどではないのは確かだとしても、やはり毒を帯びた周りの空気を吸ってこれに冒され、カトリック者に相応しからぬ、奔放な考え方、話し方、書き方をしていることも、私の悲しみの種となっています。この種の人々は一般信徒の中に、また聖職者階級の中にも見出され、最も思いがけない場所、すなわち修道会の中にすら存在しています。もし彼らが聖書を扱うとすれば、それは近代主義の諸原理に基づいてであり、歴史を著すなら、注意深く、そして下手に満足を隠そうとしながら、真理全体を述べるためと称して、一見、教会の顔に泥を塗るように思われることを全て明るみに出します。ある種のア・プリオリな観念に基づいて、彼らは能うる限り人々の敬虔な伝統を破壊し、その古さのゆえに、非常な崇敬を払うべき特定の聖遺物への敬意を損なわせています。彼らは自分たちの名が衆人の口にのぼることへの虚しい望みに駆られており、そして万人によって常に言われてきたことを述べたなら、この望みは決して実現しないことを彼らは承知しています。その一方、彼らはこういったこと全てを通じて天主と教会とに事実、奉仕しているのだと信じ込んでいるのかも知れません。しかし実際には、彼らはその両者にただ侮辱と危害のみを加えています。そして、それは彼らの著作そのものによってよりも、むしろ彼らがそれらを著す際の精神によって、また彼らがこのようにして近代主義者たちのもくろみに与えてしまう力づけによってです。

警戒への呼びかけ

  44.これら一連の重大な誤謬、およびそれらの密かなあるいは公然の進展に対して、思い出深い前任者レオ十三世は言葉と行いとをもって果敢に対抗しましたが、それは聖書の研究に関して特にそうでした。しかし、先に見たように、近代主義者たちはこのような武器によっては、易々と[その活動を]阻まれません。強い服従と敬意をよそおい、彼らは同教皇の言葉を自分たちの意味にねじ曲げてしまい、その一方で教皇の行為を、別の者たちに対して向けられたものだと述べ立てます。このようにして、害悪が日に日に増大してゆきます。それゆえ、尊敬する兄弟たちよ、私はこれ以上の遅れを許さず、より有効な手段を適用することを決断するに至ったのです。私は、このいたって重大な事柄において、誰もあなた方がたとえほんのわずかでも警戒心、熱意、あるいは強固さに欠けていた、と言う余地のないように注意するよう、あなた方を励まし、かつ命じます。そしてあなた方に要請し、かつ期待することを、同様に他の全ての霊魂の牧者、全ての教育者、ならびに聖職者の教育を担当する教授、そして特別に修道会の長上に要請し、期待します。

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回勅『パッシェンディ・ドミニチ・グレジス』 近代主義の誤謬について 聖ピオ十世教皇(1)

2018年10月04日 | カトリックとは
回勅『パッシェンディ・ドミニチ・グレジス』
近代主義の誤謬について
聖ピオ十世教皇

訳者 聖ピオ十世司祭兄弟会

Copyright (c) Society of Saint Pius X, 2001
All rights reserved

尊敬する兄弟のみなさんに健康と使徒的祝福をおくります

使徒座の責務

1.主の群を養う[Pascendi Dominici gregis]という、天主から私に託された職務にキリストによって定め与えられた主要な責務の一つは、涜聖的な新しい言葉づかいと、誤って知識と呼ばれる異議異論とをしりぞけ、最大の注意を払って聖徒らに託された信仰の遺産を守ることです。最高の牧者である教皇におけるこのような警戒心が教会全体にとって必要でなかった時は、かって一度もありませんでした。なぜなら、人類の敵の働きのゆえに、「よこしまなことを語る人々」、「自ら誤り、人を誤りへと引き込む」「むなしいことを語り、惑わす者たち」のいないことは、たえてなかったからです。しかしながら、昨今、キリストの十字架の敵が目に見えて増している事実を認めざるを得ません。彼らは全く新しい、狡猾な手管(てくだ)によって教会の生命力を破壊し、そして力の及ぶ限りキリストの御国自体を覆そうとしているのです。それゆえ、私はこれ以上沈黙を保つことはできません。もしそうするなら、私は自らの最も神聖な責務を怠るものと見なされ、また、彼らが考え直すことを期待してこれまで示してきた好意が、私の職務の執行における熱心さの不足に堕してしまうこととなってしまうでしょう。

迅速な対応の必要性

2.この問題に関して、即座に行動に出ることが、必要不可欠なこととなっています。それはなによりも、誤謬に与する者が教会の公然の敵の中だけでなく、きわめて恐れかつ嘆くべきことに、教会のただ中においても見出され、そして表立っていないだけに、なおさら一層質(たち)が悪いという事実によります。尊敬する兄弟たちよ、私がここで問題にしているのは、多くのカトリック一般信徒、そしてさらに一層憂うべきことに司祭階級自体に属する者たちのことです。誤った教会に対する熱意に駆られている彼らは、哲学と神学の確固とした知的防御に欠け、さらに、教会の敵たちによって教えられているきわめて有害な教理に骨の髄まで染まっています。彼らは一切の慎みをかなぐり捨て、教会の改革者として名乗り出、しかる後、より大胆に攻勢に移り、キリストの御業の中で最も神聖なるもの、天主なる贖い主の位格さえも攻撃するのです。と言うのも、彼らは涜聖的な大胆さをもって、主キリストをただの何の変哲もない人の境地に落としめるのです。

近代主義者の特徴

3.私が彼らを教会の敵たちの中に数えることに対して彼らは驚きの色を示すのですが、ただ天主のみが審判者となる魂の内的な意向を考慮に入れず、彼らの教条、彼らの語り口、彼らの行動とに眼を注ぐならば、分別のある者の中、誰一人として私がこのようにすることに驚きはしないでしょう。また、彼らを教会のあらゆる敵の中で最も有害な敵であると考えることも誤りではありません。なぜなら、すでに述べたとおり、彼らは教会の瓦解をはかる自分たちの計画を教会の外側ではなく、内側から実行に移すからです。したがって、危険はおよそ教会の血管ならびに心臓に存し、彼らが教会をより近しく知っているという事実自体により、一層確実に危害を及ぼすものとなっています。さらに、彼らは斧を枝や芽にではなく、根、すなわち信仰とその最も内奥の繊維に振るうのです。そして、一旦この不滅の根に斬り付けた彼らは、木全体に毒を広げるのです。それは、カトリックの真理のいかなるものも、彼らが手を付けず、腐敗しようと試みずにおくものがないようにです。その上、ありとあらゆる有害な術策を操るに当たって彼らほど巧妙で抜け目のない者はいません。なぜなら、彼らは唯理主義者とカトリック者との2重の役を演じ、しかも、不用心な者を容易に誤りへと導くほど巧みに演じるからです。そして持ち前の大胆不敵さのゆえに、彼らは自らが標榜する主義から帰結するところのいかなる結論からもしり込みするということがなく、却ってそのことごとくを頑迷に、しかも確信をもって提唱するのです。さらに付け加えておくべきことは、彼らがきわめて活動的な生活を営み、あらゆる分野の学問に勤勉かつ熱心に取り組み、その上、概して、非の打ちどころのない品行の評判を得ているのが常であるという点です。最後に、自らが唱える教説自体の性格によって影響された彼らの心はあらゆる権威を軽視し、いかなる抑制も受けつけようとせず、このため、彼らの治癒回復の見込みは、ほとんどありません。こうして誤った良心に依拠する彼らは、傲慢と頑迷さの結果に他ならないものを、真理への愛によるものだと称するのです。

失敗に帰した説得の試み

一度は私も、彼らに考えを改めさせることができるとの望みを抱いていたのであり、このために始めは私の子供たちとして優しく、その後は厳しく、最後には、きわめて遺憾ながら公の譴責をもって彼らに対したのです。しかし、の努力が徒労に帰したことを、尊敬する兄弟のみなさんはよくご存じです。ほんのつかの間、彼らは頭を下げたのですが、すぐに以前よりもっと尊大に頭をもたげました。もし問題となっている事柄が彼らにのみ関することだったなら、私もおそらく見過していたかもしれません。しかし、カトリックの名声の保全がかかっているのです。それゆえ私はこれ以上引きのばすならば過失となるであろう沈黙を破り、全教会に、まずく変装した者たち ───彼らは実際そのようなものです─── を指し示さなければなりません。

本回勅の構成

4.近代主義者たち(これは一般に、正しくも彼らに付されている名称ですが)最も巧妙な手管の一つは、自らの教説を、順序や系統だった配列なしに、バラバラで相互につながらない仕方で提示し、あたかも彼らの心が疑いや、ためらいの状態にあるかのように見せかけることです。しかしながら、実際には、彼らの見解は固く定まっており、揺らぐことがありません。このため、尊敬する兄弟たちよ、彼らのさまざまな教えを一つのカテゴリーにまとめ、それらの相互連関を指摘し、こうして種々の誤謬の起源の検証に移り、そこから帰結する悪い結果を回避するための対処策を提示することが有益であると思われるのです。

近代主義者の人格

5.このいささか難解な主題を順序立った仕方で取り扱うために、近代主義者は自らの内に多重の人格を抱き、含んでいることを念頭に置かなければなりません。彼は哲学者であり、信仰者、神学者、歴史家、批評家、護教家、改革者であるからです。彼らの体系を理解し、彼らの教説の諸原理ならびに[論理的]結論を余すところなく把握しようとする人は誰でも、[近代主義者の演じる]これらの役割をはっきりと区別する必要があります。

不可知論

6.それでは、哲学者としての近代主義者から始めましょう。近代主義者たちは宗教哲学の基礎を一般的に不可知論と呼ばれている教説に置いています。この教えによれば「人間の理性はことごとく現象の領域、即ち現れ見えるもの、およびそれらのものが現れ見える様態に限定されているのであり、理性にはこの限界を越える権利も力もない」とされています。したがって、「人間の理性は目に見えるものを通して天主にまで自らを上げること、および天主の存在を認識することができない」ことになります。この結果、「天主は決して学問の直接の対象たり得ず、そして、歴史学に関しては、天主は歴史的主題と見なされてはならない」ということが導き出されます。これらの前提を前にすれば、誰もが直ちに自然神学、[カトリック信仰の]信憑性の根拠、外的啓示といった事柄がどのようになってしまうかを見て取るでしょう。近代主義者たちは、これらを完全に取り除けてしまい、彼らがばかばかしく、また久しくすたれた体系と見なす主知主義の中に含めるのです。また、教会がこれらの忌まわしい誤謬を正式に排斥してきたという事実も、彼らにいささかの歯止めを利かせることにもなりません。しかし、ヴァチカン[第1]公会議は、次のように定義したのです。『もし誰であれ、私たちの創り主にして主である真の天主が、創られたものを通して人間の理性の自然的な光によって確実に知られ得ない、と述べるならば、彼は[教会から]排斥されるように。』 さらに、『もし誰かが、人間が天主および天主に対して払うべき礼拝について、天主的啓示を通して教えられることが不可能、あるいは適当ではない、と述べるならば、彼は排斥されるように。』 そして最後に、『もし誰かが、天主的啓示は外的なしるしによって信憑性を得ることができず、また、したがって人は自らの個人的、内的な体験あるいは詩的霊感によってのみ信仰に引き寄せられるべきである、と述べるならば、彼は排斥されるように。』 と定めています。近代主義者たちがどのようにして「全き無知の状態に他ならない不可知論」から「断定的な否定の教説である科学的および歴史的な無神論」に至ろうとするのか、またこの結果として、いかなる推論をもって、天主がじっさい人類の歴史に介入したのか否かについて無知である[はずの]彼らが、この歴史を天主を全く度外視して、あたかも天主が事実それに介入しなかったかのように説明するのか疑問に付すことができます。いったい誰がこのような疑問に答えることができるでしょうか。しかるに、「科学と歴史とは共に無神論的でなければならない」というのが、彼らの間では定まった、すでに確立した原理なのです。すなわち、この両者の範囲内には、ただ現象のみしか含まれる余地がないのであり、天主およびすべて天主的なるものは完全に除外されるのです。私たちは少し後で、この非常に荒唐無稽な教説の論理的結果として、キリストのこの上なく神聖なペルソナ、その生涯と死去、復活と天国への昇天の奥義に関してどのように考えねばならないかを、はっきりと見ることになります。
生命的内在

7.しかしながら、かかる不可知論は近代主義者たちの体系の否定的側面にすぎません。彼らの体系の積極的側面とは、彼らが生命的内在と称するところのものです。このようにして、彼らは一つの教条から他の教条へと進んで行くのです。自然的なものであれ、超自然的なものであれ、宗教は他のあらゆる事象と同じく、何らかの説明の余地を有しています。しかるに、自然的神学が排除され、また信憑性を裏打ちする議論の拒否によって啓示に対する道が閉ざされ、そしていかなる外的啓示も完全に否定されれば、この種の説明は人間自身の外には求められ得なくなってしまいます。したがって、これは人間の内に探し求められねばならないことになります。そして、宗教とは一種の生命なのであるから、かかる説明は当然のごとく人間の生命の内に見出されなければなりません。このようにして、宗教的内在の原理が定式化されるのです。さらに、あらゆる生命的現象 ───上で述べられたように、宗教もこのカテゴリーに含まれます─── のいわば最初の活動は、ある種の必要ないし衝動によるとされます。しかるに生命について特に述べるとすれば、それは心の動きに源を発するのであり、この動きは感覚と呼ばれます。したがって、天主こそが宗教の対象なのですから、宗教全体の土台にして基盤である信仰は、天主的なるものの必要に起因する、ある種の内的感覚に存するのであると結論せざるを得ません。天主的なるものに対するこの必要は、それ自体としては意識の領域に属し得ず、かえって意識の下に、あるいは近代哲学の術語を借りるなら、潜在意識の中に潜んでいるのだとされています。そこで、かかる必要の根源は見つけられずに隠れているのです。
天主的なるものの必要

  人間が自らの内に経験する、この天主的なるものに対する必要がどのようにして宗教に転ずるのかとの疑問が出るかもしれません。この問いに対する近代主義者の返答は次のようなものでしょう。「科学と歴史は2つの境界の中に含まれるのである。すなわち、1つは外的な境界、すなわち可視的な世界であり、もう1つは内的な境界、すなわち意識である。これら2つの境界の1つあるいは両方がふみ越えられた場合、それ以上前に進むことはできない、なぜならその先にあるのは不可知なるものだからだ。人間の外側にあり目に見える自然界の彼方にあるそれであれ、あるいは無意識の内に隠れているそれであれ、この不可知なるものを前にして、宗教に対する傾きを有した霊魂に存する、天主的なるものの必要は、ある種の特別な感覚を喚起する。それは唯信主義の原理に即して、精神によるいかなる先行的気付きなしに起こる。そして、この感覚は自らの対象として、および自ら自体の内属的原因として、自らの内に天主的現実そのものを有し、さらにある意味において人間を天主に一致させる」と。この感覚にこそ、近代主義者たちは信仰の名を与えるのであり、これこそ彼らが宗教の始原と見なすものなのです。

近代主義者にとっての啓示

  8.しかし、私たちはまだ彼らの哲学的思索、あるいはもっと正確に言えば彼らの愚考の終局に至っていません。近代主義者は「この感覚の中にただ信仰のみならず、信仰の中に、また信仰と共に ───このように彼らは理解しているのですが─── 啓示もまた見出されるべきである」と主張するのです。なぜなら、「啓示を構成するために他にこれ以上なにが必要だろうか。良心の中に感じられる宗教的感覚こそが啓示、もしくは少なくとも啓示の始まりではないか。否、むしろ天主ご自身が自らを不明瞭な仕方であるにせよ、この同じ宗教的感覚において霊魂にお現しになるのではないか。」[と言うのです。] さらに彼らは、次のように言い加えます。「天主が信仰の対象かつ原因なのであるから、この啓示は同時に天主のおよび天主からのものである、つまり、天主こそが啓示者であり、かつ啓示の内容である」と言うのです。

宗教的意識と信仰

  尊敬する兄弟たちよ、ここから近代主義たちの最も愚かしい教条が生じてくるのです。すなわち、「宗教というものはことごとく、それがどのような観点の下に見られるかに応じて自然的、また超自然的なものとなる」のです。このように、彼らは意識と啓示とを同義的なものとします。今述べたことから、彼らは普遍的基準として彼ら自身が定めるところの法を引き出します。その法とはすなわち、「宗教的意識が啓示と同列に置かれ、この意識に全ての者、はては教師として、あるいは聖なる典礼または規律の領域における立法者としての教会の最高の権威までもが服従しなければならない」ということです。

宗教の歴史の歪曲

  9.信仰と啓示とがそこから源を発すると近代主義者たちが目するこの過程において、1つの点が殊に留意されるべきです。と言うのも、この事は彼ら近代主義者がそこから引き出す歴史的結論のゆえにきわめて重要であるからです。彼らの言う不可知なるものは、信仰に対してなにか単一で、他の者と区別されたものとして現前するのではありません。反対に、[彼らによれば]「それは科学または歴史の範疇に属しながらも、それをある程度越え出るようなある種の現象と密接につながったかたちで現れる。そのような現象とは、それ自体何か神秘的なことを含んだ自然の事実の場合もあれば、あるいは、人格、行動、言葉が一見、通常の歴史の法則と合致させることができないように思われる人物の場合もある。現象と結びついた不可知なるものによって惹きつけられた信仰は、当の現象全体を捉え、そして、いわばそれに自らの生命をしみ通らせる。ここから、2つのことが結果として生じる。第一のことは当の現象の変容である。これは、そのもの自体の真の境位より以上に引き上げることを意味し、かかる昇化によって当の現象は、信仰がそれに付与する天主的な性格を帯びるのにより適したものとなる。第二の結果は、当の現象の一種の歪曲化とでも呼ぶことができるものである。これは、信仰が時間と場所の状況が取捨されたとき、信仰がその現象に、それが本当は有していない種々の特性を帰するという事実に起因する。そして、このような事態は特に過去の現象の場合に生じ、その現象の起こった年代が古ければ古いほど、より一層十全なかたちで発現する。」これら2つの原理から近代主義者たちは2つの法則を引き出します。そして、この2つの法則が彼らがすでに不可知論から導き出したところの第三の法則と結び合わされるとき、歴史的批判の基盤を構成することとなります。一例として、キリストのペルソナ[に関して彼らが立てている説]を挙げることができます。キリストのペルソナにおいて科学と歴史とは人間的でないものを何一つ見出さない、と彼らは言います。したがって、不可知論から導き出された第一の規範に基づき、キリストについて伝える歴史の中で何であれ彼の天主性を示唆する要素をことごとく排除しなければいけません。さらに第二の規範に従えば、キリストのペルソナは信仰によって変容させられたのですから、これを歴史的諸条件を越え出るほどに高めているものをすべて取り除かねばなりません。最後に、キリストのペルソナは信仰によって歪曲されたとする第三の規範は、キリストの人格、境遇、教育ならびに彼が生活した時代と場所に厳密に調和一致しない行い、言葉およびその他全てはことごとく除外されることを要求します。甚だ奇妙な推論の立て方ですが、ここにこそ近代主義的批判が存するのです。

宗教的感覚

  10.[彼らによれば]「このようにして、宗教的感覚は生命的内在を媒介として潜在意識の密やかな場から一切の宗教の芽生え、かついかなる宗教においてかつてあり、あるいは将来あるであろう全ての要素の説明となる。始めは未発達で、およそ形の定まらないものでしかなかったこの感覚は、それの起源である、かの神秘的な原理の影響を受けて、人間的生命 ───先に述べたように、この感覚は人間の生命のある種の形相であるが─── の進歩と共に徐々に成熟し[てき]た。そしてこれこそが、超自然的なものも含めてあらゆる宗教の起源である。なぜなら、諸々の宗教は、この宗教感覚の発展したものに過ぎないからである。カトリック宗教も、この例に漏れず、他の諸々の宗教と同列に置かれる。と言うのも、カトリック教も生命的内在の過程によって、ただこの過程を通してキリスト ───最も優れた性質に恵まれ、これに並ぶ者はかつてなく、これからもいないであろうこの人物─── の意識の中で生成されたものだからである。」こういったことを耳にするとき、私たちはかくも恐れ知らずの主張と涜聖とに身震いを禁じ得ません。しかるに尊敬する兄弟たちよ、これらは単に不信仰者の愚かしいたわごとではないのです。これらのことを公然と述べるカトリック信徒、および、あろうことか司祭らがいるのです。そして彼らはこれらのうわごとによって教会を改革しようとしているのだと豪語するのです。[ここで]問題となっているのはもはや、人間の自然本性が超自然的事物に対する一種の権利を有しているとする旧来の誤謬の一つではありません。近代主義の誤謬はこれをはるかに越え、私たちのいとも聖なる宗教が、キリストという人物においても、また私たちにおいても、自然本性から自発的に自ずから発生したと断定するとき、その頂点に達しました。確かに超自然的次元全体をこれほど徹底的に打ち壊してしまうものはないでしょう。このため[第1]ヴァチカン公会議が次のように定めたのは、きわめて正当なことでした。「もし誰かが、人間は天主によって自然本性を超える認識と完全性とにまで高められることができず、かえって自ら自身の努力ならびに着実な発達によって最後にはあらゆる真理と善とを所有するに至ると言うならば、彼は排斥されるように。」

知性と宗教的感覚

  11.尊敬する兄弟たちよ、これまで知性については一切ふれませんでした。近代主義者たちの教えに従えば、知性もまた信仰の行為において一定の役割を担っているのです。そして、それがどのような役割であるかを見ることは、[たいへん]重要です。これまで再三述べてきた当の感覚の中に ───と言うのも、感覚は知識ではないので─── 天主はご自分をお現しになるのだと彼らは言います。しかし彼らによれば、この意味では、天主は信仰者によってほとんど認識され得ないほど、混迷かつ不明瞭な仕方でしかご自分をお現しになりません。したがって、天主がくっきりと明るみに出され、感覚自体からは区別されるために、この感覚の上にある種の光が投げかけられる必要があります。そして、これこそ反省し、分析することを本分とする知性に課せられた務めなのです。そしてこれによって初めて人間は自らの内に生成する生命的現象を知的な図象に転じ、それをさらに言葉で表現するのです。ここから、近代主義者たちが共通に用いる言い回しが生まれます。すなわち、「宗教的な人は自分の信仰を考えなければならない」と。[彼らによれば]「この感覚に直面した知性は自らをその上に投じ、その中で年月と共にかすんでしまった描線をよりくっきりと修復する画家の要領で働きます。(この比喩は近代主義の指導者の一人によるものです。)この働きにおいて知性は二重の活動を果たします。第一に、自然的かつ自発的な行為によって知性は自らの概念を単純で通俗的な命題で表わします。」それから反省とより深い考察の上で、あるいは彼らの言い方を借りれば、自らの思惟を推敲することによって、その思念を、第一のものから由来しながらも、より正確かつ判然とした二次的な命題で表現するのです。これらの二次的な命題は、もしそれらが最終的に教会の最高教導権の承認を得るならば教義(ドグマ)となるのです。

教義の起源

  12.こうして私たちは近代主義者による体系の中でも主要な点の一つにたどりきました。すなわち、教義の起源および本性です。なぜなら、彼らは教義の起源を一定の側面の下では信仰に必要である種々の単純素朴な定式文に置くからです。と言うのも、啓示が真にその名に値するものであるためには、意識における天主についてのはっきりとした知識を必要とするからです。しかるに教義自体は二次的な定式文の中に存すると彼らは信じているように見受けられます。

教義の本性

  教義の本性を定めるために、私たちはまず宗教的定式文と宗教的感覚との間にある関係を見出さねばなりません。この関係は、これらの定式文が信仰者に自らの信仰についての説明を与える役割しかもたないとする者たちには、即座に把握されるでしょう。信仰との関係において、これらの定式文は、その対象となるものの不充分な表現であり、ふつう象徴(シンボル)と呼ばれます。[彼らによれば]「信仰者との関係において、それら定式文は単なる道具に過ぎません。」

象徴としての教義

 [彼らによれば]「したがって、それらの定式文が絶対的なかたちで真理を含んでいるという立場を保つことがおよそ不可能となります。なぜなら、それら定式文が象徴である限り、それらは真理の似像に過ぎず、それゆえ人間との関係における宗教的感覚に適合されねばなりません。また道具として、これら定式文は真理の伝達媒介であり、したがって、この意味では宗教的感覚との関係における人間に適合されねばなりません。しかるに、宗教的感覚の対象は絶対的なるものに含まれた何かとして、無限に多様な側面を有しており、あるときにはその中のあるものが、また別のときには別のものが姿を現すのです。同様に、信じる者もさまざまな状況を利用することができます。したがって、私たちが教義と呼ぶ種々の定式文は、こういった[状況的]変転に服さねばならず、それゆえ変化を被るものです。こうして、教義の内因的進化への道が開けるのです。」そして、ここに私たちは宗教全体を滅ぼし、荒廃させる巨大な詭弁の構造を見るのです。

教義の進化

  13.「教義は進化し得るだけでなく、進化しなければならず、また、変えられなければならない。」これは近代主義者たちによって強く主張されている点であり、彼らの奉じる原理に明白に由来するものです。と言うのも、彼らの教えの主要な点の中には、彼らが生命的内在の原理から導き出す次の教条があるからです。すなわち、「宗教的定式文が単に知的な思弁に止まらず、真に宗教的であるためには、生きたものでなければならず、宗教的感覚の生命を生きる必要がある」という主張です。かかる信条は、これら定式文が、特にそれらが単に想像の産物である場合、宗教的感覚のために案出されるべきである、という意味に解されてはなりません。これらの定式文の起源は、それらの数や質と同様、まったく重要ではありません。必要なのは、宗教的感覚が ───もし必要であれば何らかの調整・変更を加えて─── それらを生命的に同化吸収することです。言い換えれば、原初的な定式文が[信仰者の]心情によって受け容れられ、裁可されることが必要なのです。同様に、それに引き続いてなされ、二次的な定式文がそこから引き出されることになる知的労作もまた、心情の導きの下に進められねばならないのです。ここから、これらの定式文が生きたものとなるためには、信仰および信じる者に適合したものでなければならず、またそうあり続けねばならない、という結論が出てくるのです。したがって、もしいかなる理由によってであれ、この適合が存在しなくならば、それら定式文は始めに持っていた意義を失い、それゆえ変えられねばならなくなります。教義的定式文の性格ならびに命運がこのように不安定なものであるということを見れば、近代主義者たちがそれらをかくも軽視し、かくも公然と不敬の態度を示し、宗教的感覚および宗教的生活に対して以外は、いかなる考慮も賞賛も持ち合わせていないという事実はまったく驚くに値しません。そういうわけで、彼らはこの上ない大胆不敵さで教会を批判するのです。[彼らによれば]教会は種々の定式文の宗教的および道徳的意味とそれらの表面上の意味との区別をつけないことによって、また宗教[心]自体が失墜するのをみすみす見逃しながら、無意味な定式文にむやみやたらと頑迷に執着することによって、正道からはずれてしまったのです。[このような主張を成す]彼ら近代主義者は「盲人」、また学問という誇らしげな名におごり高ぶった「盲人の導き手」であり、永遠にすたれることのない真理の概念、および宗教の意味をねじ曲げるまでの愚昧の深淵に至ったのです。そこにおいて「彼らが新奇なものへの盲目で歯止めを欠いた情熱にかき立てられている様が見受けられます。彼らは何らかの、真理の強固な基盤を見出すことなどおよそ眼中になく、聖なる使徒伝承の伝統を蔑視して、他のむなしく不毛で不確かな、教会によって認められていない教理を奉じ、その上に真理そのものを打ち立て、保持し得ると、高慢のきわみをもって考えるのです。」

信仰者としての近代主義者

  14.尊敬する兄弟たちよ、これまで私たちは哲学者としての近代主義者を考察してきました。ここで、もし信仰者としての近代主義者を考察し、そして近代主義に従えば、どのように信仰者が哲学者から区別されるかを知ろうと思うならば、次のことに留意しなければなりません。すなわち、[近代主義によれば]「哲学者は天主的なるものの現実を信仰の対象として認めるとしても、この現実は哲学者によって見出されるものではなく、信仰者の心中に感情ならびに肯定の対象として、したがって現象の領域に限定されたかたちで見出される」のです。しかし[彼らによれば]「かかる現実がそれ自体として当の感情と肯定の外に存在するのかどうかという問いは、哲学者が看過し、なおざりにする問題です。反対に、信仰者としての近代主義者にとっては、天主的なるものがそれ自体として存在し、それを信仰する者におよそ依存しないということは、すでに確立した確実な事実です。」そしてもし、信仰者によるこの確固とした肯定はどのような根拠に基づいているのかと尋ねるならば、彼は「各人の個人的体験」こそそれであると答えるでしょう。この点において近代主義者は合理主義者と異なっており、むしろプロテスタントおよびエセ神秘家の見解に与する者となります。近代主義者は次のように問題を提示します。宗教的感覚において、人間を天主の現実と直接に接触させる一種の心の直感があることを認めなければなりません。この直感は天主の存在および人間の内と外における働きかけについて、いかなる科学上の確信をもはるかに超える確信を注ぎ込むのです。それゆえ、彼らは「現実的経験が存在し、それはあらゆる理知的経験をも凌駕するものである」と主張するのです。もし、かかる経験[の存在]が誰か、たとえば合理主義者によって否定されるなら、彼らは「それはこのような人々は、かかる経験を生み出すのに必要な道徳的状態に自らを置こうとしないからだ」と言います。「かかる経験こそが、それを得る人をして本来の意味で真の信仰者とする」と言うのです。

唯一の真の宗教の抹殺

  このような立場は、いったいどれほどカトリックの教えから離れていることでしょうか。すでに私たちは、このような見解に基づく種々の誤謬が[第1]ヴァチカン公会議によって排斥されたことを見ました。これから後、私たちはどのようにこれらの誤謬が、上で言及した種々の謬説と合わさって、無神論への広い道を開くかを見ていくことにしましょう。ここで、この体験についての教説が象徴主義の教説と結びつけられるとき、あらゆる宗教、異邦の宗教までもが真なるものとして見なされねばならなくなる、ということを指摘しておかなければなりません。いったい、このような体験がいかなる宗教においても見出されることを妨げるものがあるでしょうか。実際、この種の体験がいかなる宗教においても見出されると主張する者が少なからずいます。一体、いかなる根拠をもって近代主義者たちはイスラム教の信奉者によって断定される体験の真実性を否定することができるでしょうか。近代主義者たちはカトリック信者だけが真の経験を独占していると主張するでしょうか。果たして、近代主義者たちは否定するどころか、ある者はあいまいに、またある者はあからさまに、あらゆる宗教は真なるものであると主張しています。彼らが別様に感じることができないのは明らかなことです。なぜなら、彼らの理論に従う限り、いかなる根拠をもって、何某(なにがし)かの宗教の虚偽性を語ることができるでしょうか。無論、それは宗教的感覚の虚偽性のためか、あるいは精神によって述定された定式文の虚偽性のためか、そのいずれかでしょう。さて、宗教的感覚は、たとえその完全性に上下の差があるにしても、常に同一のものです。そして知的な定式文が真なるものであるためには、宗教的感覚ならびに信仰者 ───たとえ彼の知的能力がいかほどであろうと─── に呼応するだけで足りるのです。異なる宗教が対峙するにあたって近代主義者たちが主張できることは、せいぜいカトリック教はより多くの真理を持っている、なぜなら他の宗教にまして生気に満ち、またキリスト教の起源により充全に対応しているため、キリスト教の名により値するものであるからだ、ということくらいです。このような結論が[彼らの立てる]前提から出てくるということは、誰の目にも当然のことでしょう。しかるに、何よりも驚くべきことは、カトリック信徒や司祭の中に、このように甚だしく劣悪な理論を嫌悪しつつも ───そうであると私は信じます─── 、あたかもそういった考え方を完全に認めているかのように行動する者たちがいる、という事実です。と言うのも、彼らはこれらの誤謬を教える者たちに賞賛を惜しみなく与え、また公の栄誉を授けており、こうすることを通して、彼らの賞嘆が単に人物 ───称賛の対象となっている当の者たちが何らかの優れた点をもっているということは充分あり得ますから─── に対してだけでなく、むしろ、これらの者たちが公言してはばからず、力の限りを尽くして広めようとする誤謬のためである、という確信に至らせるからです。

宗教的体験と聖伝

  15.しかるに、カトリックの真理に完全に反した彼らの教説中のこの部分には、もう一つ別の要素があります。すなわち、体験に関して述定されることはカトリック教会によって絶えず保持されてきた聖伝にも当てはめられ、破滅的な結果を引き起こします。近代主義者たちによって理解される限りの伝承ないし伝統とは、「原初的体験を理知的な定式文を通して他の者たちと分かち合うこと」です。かかる定式文に彼らは、再現的価値の他に一種の暗示的効果があるとします。「この暗示的効果とは、まず第一に信仰者の内に宗教的感覚を惹起し、もしこの感覚が弛緩してしまうならば一旦獲得された体験を新たにするというかたちで働き、そして第二に、まだ信じていない者の内で初めて宗教的感覚を呼び覚まし、体験を生み出すというかたちで働きます。このようにして、宗教的体験は諸民族の間に広がるのです。そしてこれはなにも同時代の人たちの間に宣教を通してなされるだけでなく、未来の世代にも書物や口頭の伝承によってある者から他の者へと伝えられていくのです。ある時にはこのような宗教体験の伝達は根を下ろし、活気に満ちていますが、また別の時には、またたく間に枯れ衰え、死に絶えてしまいます。」近代主義者たちにとっては[あるものが]生きていること即ちそれが真であることの証明であり、それは彼らにとって生命と真理とはまったく同一のことだからです。このようなわけで、「現存している全ての宗教は等しく真なるものである」という結論に至るよう促されます。[彼らによれば]「もしそれらが真なるものでなければ生き残らないはず」だからです。

信仰と科学

  16.尊敬する兄弟たちよ、ここまで私たちは近代主義者たちが信仰と科学 ───この中に彼らは歴史学をも含めます─── との間に打ち立てる関係を把握するために、充分あるいは充分すぎるほどの材料を得るところまで考察を進めてきました。[彼らによれば]「まず第一に、このうちの一方にとっての対象物は、もう一方にとっての対象物とは異質で別々のものであるということが受け容れられなければなりません。なぜなら、信仰は、科学が自らにとって不可知なるものであると宣言するところのもののみに関わるからです。したがって、それぞれは自らに定められた別個の視野を有していることになります。科学は全く現象[のみ]に関わり、信仰はそれ(現象)にいっさい立ち入りません。反対に、信仰は天主的なるものに携わり、科学にとってそれは全く不可知な事柄です。」こういうわけで、「信仰と科学との間には決して反目が生じ得ない」という主張がなされるにいたります。なぜなら、もしそれぞれが自らに固有な場に留まるならば、両者は決して出会うことができず、そのため決して互いに矛盾対立し得ないからです。また、もし目に見える世界においては、キリストの人間としての生活のように、信仰に属する事柄がある、という反論がなされるならば、近代主義者たちはこれを否定するかたちで答えます。すなわち、「そういった事柄は確かに現象のカテゴリーに入りますが、しかるにそれらが信仰によって生きられ、また先に述べた仕方で信仰により変容および歪曲される限りにおいて、そういった事柄は感覚の世界から取り去られ、天主的なるもの[を形成するため]の素地となる」のです。それゆえ、キリストが本当の奇跡を行い、また、本当の予言を語ったのか、そして真に死者の中から復活して天に昇ったのかと、さらに問わねばならなくなりますが、不可知論の立場をとる科学の答えは否定的であり、信仰の側の答えは肯定的なものとなります。しかるに、このために両者の間に対立が生まれることは一切ありません。なぜなら[彼らによれば]「この種の事柄は哲学者に対して語り、キリストをその歴史的現実においてのみ考察する、哲学者たる限りでの哲学者によっては否定されますが、信仰者に語りかけ、キリストの生涯を信仰によって、また信仰の内に再び生きられるものとして捉える信仰者たる限りでの信仰者によっては肯定されるから」です。

科学に従属する信仰

  17.しかしながら、これらの理論に従う限り、信仰と科学とは互いに対して完全に独立していると考えて差し支えないと推量するなら、大きな誤りを犯すことになるでしょう。科学の側に関する限り、実際それはきわめて真実かつ正しいのですが、しかし信仰に関しては、まるでそうではありません。[彼らによれば]「信仰は科学にただ一つのみならず、三つの理由によって従属するからです。なぜなら第一に、あらゆる宗教的事実において、天主的現実ならびにそれについて信仰者が有する体験を取り去るなら、他の一切のもの、特に宗教的定式文は現象の領域に属すこととなり、したがって科学の支配下にくだることになります。もし望むならば信仰者に世界の外に行かせましょう。しかし、それは彼が世界の中に留まる限りの話です。好もうと好ままいと、彼は科学と歴史の法則、観測、判断とから逃れることはできないのです。さらに、天主は信仰のみの対象であると唱えられているにしても、これはただ天主的現実のみについて言われていることであり、天主の観念については当てはまりません。後者はまた科学の考察主題でもあるからです。すなわち、科学が論理的次元と呼ばれるものにおいて哲学的思索をめぐらすとき、絶対的なもの、観念的なものにいたるまで舞い上がるからです。それゆえ、天主の観念についての認識を形成し、それをその進化[の過程]において導き、かつその中に混じり込んでしまっているかもしれない外から加えられた異質な要素の一切から浄めるということは、哲学ならびに歴史の権利に属することです。」ここから、「宗教的進化は道徳的・理知的事柄と一致するようにはかられねばならない」、もしくは彼らが指導者と目するある者が言い表したように、「宗教的進化は道徳的・理知的事柄に従属されねばならない」という近代主義者の定理が出てくるのです。結局、人間は自らの内に二重の原理が存在するということに耐えられず、また、それゆえ信仰者は自らの内に信仰を科学と調和させ、そうすることによって科学が宇宙について定める一般的概念に信仰が決して対立しないようにする、駆り立てるような必要を感じるのです。

  このようなわけで、科学が信仰に全く依存しないとされ、他方、その両者は互いに縁遠いはずなのにも関わらず、信仰は科学に従属するものとされるのです。尊敬する兄弟たちよ、こういったこと全ては、私の前任者ピオ九世の教説に明らかに反しています。同教皇は、次のことをしかと定めたのでした。「宗教的事柄における哲学の務めは命令することではなく仕えることであり、信じられるべきことを定めるのではなく、理性的な恭順をもって信じられるべき事柄を拝受することであり、天主の神秘の深みを詮索するのではなく敬虔に、そして謙虚にそれを崇敬することです。」 

  近代主義者は、この順序を完全に逆転させてしまいます。したがって彼らには、私のもう一人の前任者グレゴリオ9世が、当時のある神学者たちに対して述べた言葉が当てはまるでしょう。「あなた方のなかのある者たちは高慢の精神で浮き袋のようにふくれ上がり、涜聖的な種々の新思想によって、教父たちにより定められた境界を乗り越えようとするのです。この際、彼らは理性主義者の哲学的教条に合わせて聖なる原典の意味をねじ曲げるのですが、それは聴衆の利益のためではなく、学識のあるところを見せびらかすためなのです。これらの者たちは種々の珍奇な教説にたぶらかされて上のものを下にし、女王を下女に仕えるよう無理強いするのです。」

近代主義者の用いる方法

  18.誰であれ、近代主義者たちの行動を研究する者には、その教えるところに完全に合致する彼らの方法論は、より明らかに知られるでしょう。著作および講演において、近代主義者は互いに対立する教理を提唱しているように見受けられることが少なからずあり、このため、ともすれば彼らの態度を裏表があり、疑わしいと見なしてしまうことにまります。しかし、これはわざと熟慮の上でなされるのであり、その理由は信仰と科学の相互の分離に関する彼らの思想の内に求められなければなりません。このようなわけで、近代主義者の著作をひもとけばカトリック信者によって承認され得ることがいくらか見出されるのですが、ページを繰るうちに、いかにも理性主義者によって述べられそうなことを記した他の箇所に出くわします。近代主義者が歴史を書く際、彼らはキリストの天主性についていかなる言及もしませんが、説教台に立てばはっきりとこれを言明するのです。また、歴史[の研究]に携わる際、彼らは教父や諸公会議のことを気にも留めませんが、人々に要理を教えるにあたっては、それらを恭(うやうや)しく引用します。同様に、彼ら近代主義者は、神学的および司牧的な聖書釈義と科学的で歴史的な聖書釈義とを区別します。したがって、彼らが科学は信仰に全く依存しないという原則に基づいて哲学や歴史、批判学に携わる際、ルターの足跡にしたがって歩むことに彼らは別段何の恐れも抱かず、かえってカトリックの教理、諸々の教父と公会議、教会の教導権に対する軽蔑を表わすのが常です。そしてこのために非難される場合、彼らは「自分たちの自由が奪われている」と不服を申し立てます。「信仰は科学に従属しなければならない」という理論を支持する彼らは、「教会が自らの教義を哲学の憶説に従属かつ適合させることを頑なに拒んでいる」として非難します。しかるに、他方、上述の目的のために旧来の神学をぬぐい去った彼らは、哲学者の逸脱した諸説を支持する新しい神学を導入すべく努めるのです。

神学者としての近代主義者

  19.尊敬する兄弟たちよ、ここにいたって神学の領域における近代主義者について考察する道が開けました。これは困難な課題ですが、簡潔に処理し得ることでもあります。[ここで]問題となるのは信仰と科学の和合を成し遂げることですが、これは常に一方を他方に従属させるというかたちでなされます。この問題において近代主義者の神学者は、近代主義者の哲学者によって用いられるのと全く同一の原理、すなわち内在ならびに象徴主義を採用し、それらを信仰者に適応します。このプロセスはきわめて単純なものです。[近代主義の]哲学者が「信仰の原理は内在する」と宣言すれば、信仰者はそれに「この原理は天主である」と言い加え、神学者は「天主は人間の内に内在している」という結論を導き出すのです。こうして神学的内在という理念が生まれます。同様に哲学者はまた、「信仰の対象を表現したものは単に象徴的なものに過ぎない」ということを確実なこととして見なします。信仰者もまた同様に「信仰の対象は天主それ自体である」と言明し、神学者は「天主的現実を表現したものは象徴的なものである」と断定します。このようにして神学的象徴主義が生まれます。これらの誤謬はまことに誤謬の中でも最も重大な部類に属するものであり、両者の有害な性格は、それらの生む結果を検証することを通じて明らかに知られます。と言うのも、まず象徴主義から始めるなら、「象徴はその対象となっているものに対しては[あくまで]象徴であり、また信仰者に対しては単なる道具にしか過ぎない」ため、近代主義者の教えるところに従えば「信仰者は定式文たる限りにおいての定式文に過大な強調を置かないことが第一に必要となる」のです。したがって「信仰者はかかる定式文を、それが同時に明かし、かつおおい隠す、すなわち表現しようとしながら決してそれを完遂しないところの絶対的真理へと自らを一致させる目的でのみ用いるようにしなければならない」のです。近代主義者はまた、信仰者が種々の定式文を、それらが彼にとって助けとなる限りにおいてのみ用いさせようとします。と言うのも、かかる定式文は妨げとしてではなく、助けになるものとして与えられているものだからです。しかしながら、この際に公の教導権が一般共通の意識を表わすのに適当だと判断した定式文に対して、その同じ教導権が別様に規定する時まで払われるべき社会的敬意へのふさわしい配慮を怠らないようにしなければなりません。内在に関しては、近代主義者たちがそれをもって厳密に何を意味するのかを見定めることは容易ではありません。なぜなら、これについて彼らの見解はまちまちだからです。ある者たちはこの言葉を、「人間の内に働く天主は、人間が自分自身の内にあるよりも、より親密に現存している」という意味に解しますが、かかる概念はもし適当に理解されるならば非の打ちどころのないものです。他の者たちは、「天主の働きは自然本性の働きと同一である、なぜなら第一原因の働きは二次的原因の働きと同一であるから」と主張します。このような考え方は超自然の次元を抹消してしまうことでしょう。最後に、また別の者たちは内在という概念を汎神論がかった流儀で説明するのですが、実際これが近代主義者が標榜する他の諸々の教条に最もよく適合する意味なのです。

天主的永在の原理

  20.この内在という原理には、天主的永在と呼ぶことのできる、もう一つの原理が関連しています。後者と前者との違いは、「個人的な体験」と「伝承によって伝えられる体験」との間にある違いと、ほぼ同じです。この天主的永在というものが何を意味するかを明らかにする例が、教会と秘跡との中に見出されるでしょう。近代主義者によれば、「教会および秘跡はキリストによって制定されたものと見なされるべきではない」のです。「このように見なすことは、キリストの中に、全ての人と同様その宗教的感覚が徐々に段階を追って形成されていった一人の人物しか認めない不可知論によって禁じられている」からです。それはまた、近代主義者が外的適用と呼ぶところのものを否定する「内在の法則」によっても禁じられます。それはさらに、種子の発達のためには時間、および特定の一連の状況が必要だとする「進化論」によって禁じられています。最後にそれは、事実、このように物事は進んできたのだと示す「歴史」によって禁じられるのです。しかるに近代主義者は、「教会および秘跡のどちらも、キリストによって間接的に制定されたと信じるべきだ」としています。しかし、どのようにと言うのでしょうか。それは次のようにしてです。近代主義者によれば、「全てのキリスト者の良心ないし意識は、ちょうど植物が種の中に含まれているように、キリストの意識の中にある意味で、実質的に含まれていたのです。しかし、枝々が種の生命を生きるように、全てのキリスト者もまた、キリストの生命を生きると言われねばなりません。しかるに、キリストの生命とは、信仰に従えば天主的なるものであり、したがってキリスト者の生命も天主的なるものとなります。そして、もしこの生命が長い年月を経て教会ならびに秘跡を生み出したのであるとすれば、それらはキリストに起源を発し、天主的なものであると言って全くさしつかえないことになります。」同様の論法で、彼らは聖書ならびに教義が天主的であることを論じ立てます。そして、ここにおいて近代主義の神学はその完成を見ると言うことができるでしょう。まことに脆弱な思想体系ですが、科学の結論はそれがどのようなものであろうと常に受け入れられねばならない、と公言する神学者にとっては、これで充分すぎるほどなのです。誰でも、これらの理論を私が取り扱おうと試みる[近代主義の教条の]他の諸点に容易に当てはめてみることができるでしょう。

教義と秘跡

  21.これまで私たちは[近代主義の教条に即して]信仰の起源と本性についてふれてきました。しかるに、信仰には多くの区別された部分があり、そしてその中でも主要なものに教会、教義、礼拝、信心、ならびに私たちが「神聖な」ものと呼ぶ諸書があるので、近代主義者がこれらについて何を教えているかを知ることが、私たちの[当面の]課題となります。まず教義について言うと、私はすでにその起源と本性とを指摘しました。教義は一種の衝動あるいは必要から生まれます。これ(教義)によって信仰者は自分の思念を練り上げて、自らの意識と他者のそれとにとって、より明白なものとするのです。かかる練り上げはことごとく、原初的で素朴な精神内の定式文を検証し、洗練する過程の中に存しています。しかるにそれは、それ自体において、何らかの論理的説明に即してなされるのではなく、状況に即して、あるいは近代主義者たちが用いるこれよりいささか解りにくい表現に従えば、生命的になされるのです。そのようなわけで、始原的な定式文を取り囲むようにして二次的な種々の定式文が ───すでに私が指摘したように─── 徐々に形成され続け、そしてこれらは引きつづいて一つのかたまり、ないしは一つの教理的構築物にまとめられ、さらに公の教導権によって一般共通の意識に呼応するものとして承認され、教義と呼ばれるにいたるのです。教義は神学者たちの思索から慎重に区別されるべきですが、後者もそれなりの有用性をもっています。と言うのも、かかる思索は教義のもつ生命にみなぎっていないとしても、宗教と科学を調和させ、両者の対立を取りのぞくと共に、宗教を外側から照らし、擁護するために有益であり、さらには将来定められる教義のための材料を準備することにもなるからです。礼拝については、この題目の下に、それに関して近代主義の誤謬がこの上なく深刻な様相を呈するところの秘跡が含まれている、ということの他にはあまり言うことはないでしょう。近代主義者にとって「秘跡とは二重の衝動ないし必要から結果するもの」です。なぜなら、すでに見たように、彼らの体系においては「万事が内的な衝動ないし必要によって説明される」からです。「最初の必要とは宗教に何か感覚で捉え得る表明[の手段]を与えることであり、第二の必要とは、それを表現することです。しかるに、これは何らかの感覚で捉え得る形および聖化の行為なしには成され得ず、それらを称して秘跡と呼ぶ」のです。しかし、近代主義者にとって「秘跡はある一定の効能に欠けるものではないにしても、ただの象徴あるいは印でしかない」のです。彼らの言うところによると、「かかる効能とは、一般民衆の耳を捉えるべく通俗的な表現を用いたある種の言い回しが持つのと同様のもの、すなわち、何かの枢要な理念を巷に広め、そして精神に著しい印象を与える力を有しているという意味での効能」なのです。「言い回し」が「理念」に対するのと同様の関係を「秘跡」は「宗教的感覚」に対して持つに過ぎません。もし近代主義者が、秘跡はただ信仰を育むために制定されたと言明したなら、それは彼らの考えるところをより明白に表わすことになるでしょう。しかるに、これはトリエントの公会議によって排斥されています。「もし誰かが、これらの秘跡は信仰を育むためだけに制定されたと言うならば、彼は排斥されるように。」

聖書

  22.聖書の本性と起源については、すでにふれました。近代主義者の原理に従えば、聖書は体験の集大成と呼んでさしつかえのないものです。しかるに、ここで言う体験とは、誰にでも時として起こり得る種類のそれではなく、「あらゆる宗教が有している並外れた顕著な体験」のことです。そして、これこそ近代主義者が旧・新約聖書に含まれる諸書典について教えるところなのです。しかし、自分たちの理論に適合させるために、彼らはたぐいまれな巧知をもって、こう指摘するのです。「たしかに体験は現在に属する事柄であるが、信仰者が記憶によって現在と同様の仕方で過去を再び生き、未来をすでに期待によって生きる限りにおいて、その素材を過去および未来からも同様に汲み取ることができる」のだと。こう考えることによって、歴史的ならびに黙示的な書が正典の中に含まれているという事実の説明がつきます。天主は事実、これらの著作において信仰者を通して語られるのですが、しかるにそれは近代主義神学に基づき、ただ内在と生命的永在によってのみ、そうされるのです。それでは一体、天主的霊感はどうなるのでしょうか。彼らは答えて、「天主的霊感とは信仰者が自らの内にある信仰を著述を通して啓示するようにつき動かすところの衝動と、おそらくその激しさの他は全く変わるところがないものである」と言います。「これは詩的な霊感において起こることと同様のものです。さて、この詩的な霊感については、次のように言われてきました。『私たちの中には天主がいて、天主が動くとき、私たちは炎で燃え立たされる』と。この意味においてのみ、天主が聖書の霊感の起源であると言われる」のです。近代主義者はさらに、この天主的霊感ということについて、聖書の中にはそれに欠くものは一切ない、と断言しています。この点に関して、ある人たちは、彼らが天主的霊感[の及ぶ範囲]をいささか限定する ───例えば、いわゆる暗黙の引用と称されるものに限ってそれを認める─── 近年のある著作家たちに比して、より正統であると考えてしまうかもしれません。しかし、こういったことすべては単なる言葉上の作り事に過ぎません。なぜなら、もし聖書を不可知論の基準にしたがって、つまり人々によって人々のためにつくられた人間の所作として ───もっとも[近代主義の]神学者はそれが内在によって天主的なるものであると述べることが許されますが─── 見なすならば、一体、天主的霊感の余地はどこにあるでしょうか。近代主義者たちは聖書に一般的なかたちで及ぶ霊感が存在するとは言うのですが、カトリック的な意味での天主的霊感は一切認めないのです。

教会

  23.近代主義学派が教会の本質と見なすところのものについては、非常に多くのことを述べることができます。彼らはまず、「教会は二重の必要に基づいて生まれた」という憶測から論議を始めます。「第一に、個人としての信仰者が、殊に彼が何か他に類を見ない特別な体験をした場合に、自分の信仰を他者に伝達する必要が生じ、第二に、信仰が多くの人に共通のものとなったとき、一つの社会へと発展し、共通善を守り、促進し、伝播するための集団としての必要です。それでは、教会とは一体なんでしょうか。それは集団的意識、すなわち個々人の良心ないし意識の集合から生じるものであり、内在の原理によって一人の最初の信仰者たる者 ───それはカトリック者にとってはキリストです─── にことごとく依存するものです。ところで、あらゆる社会はその成員を共通の目的へと導き、一致団結を生む要素 ───宗教的社会においては教理および礼拝です─── を育む指導的権威を必要とします。ここからカトリック教会における規律、教義、典礼を司る三重の権威が生じます。この権威の本質はその起源から、またそれが有する諸々の権利ならびに義務は、その本質から推し量られるべきものです。過去には、権威が教会の外から、すなわち天主から来るというのが一般の誤謬でした。そして当時、かかる権威は正しくも専制的なものと見なされました。しかし、今ではこのような概念はすたれてしまいました。と言うのも、教会が集団的良心ないし意識の生命的発出であるのと同様、権威もまた、教会自体から生命的に発出するからです。したがって、権威は教会と同様、宗教的感覚の内にその起源を有しており、そのため、これに従属するのです。もし権威がこの依存関係を否定するならば、専制になってしまいます。実際、私たちは自由の感覚が最高の発展を遂げた時代に生きているからです。世俗的領域においては、民衆の意識が人民的政府の導入にいたらせました。ところで、人間の中には、ちょうど一つの生命しかないように、一つの意識しかありません。したがって、民主的形態を採択するのは教会の権威 ───もっとも、当の権威が人類の意識の中に内部的対立を引き起こし、助長することを望むなら話は別ですが─── ということになります。これを拒否することは破滅的な結果をもたらします。なぜなら、今日当たり前となっている自由の感覚が後退し得るということは、あろうはずもないからです。もしそれが力ずくで抑圧され、束縛されたならば、その爆発はより恐ろしいものとなり、教会と宗教をひとまとめに一掃してしまうことでしょう。」近代主義者の心中に思い描かれた状況はかくのようなものであり、したがって彼らが大いに心にかけている一事は、教会の権威と信仰者たちの自由との間に折り合いをつける手段を見出すことです。

教会と国家の関係

  24.しかるに、教会が折り合いをつけなければならないのは、その内輪だけではありません。内側にいる者たちとの関係の他に、外側にいる者たちとの関係があるからです。教会は世界全体を埋め尽くしているわけではありません。世界には他の諸々の社会があり、教会は必然的にそれらと交渉ならびに接触を持たなければならないのです。したがって、教会が世俗的社会に対して有する諸々の権利と義務は無論、教会自身の本性によって、すなわち近代主義者がすでに描き出してみせたところの本性によって決定される必要があります。この問題において適用されるべき原則は明らかに科学と信仰のために定められたものと同一ですが、後者の場合、問題は対象であったのに対し、今取り扱っている事柄においては目的が問題となります。したがって同様に、「信仰と科学はそれぞれが対象とするものの相違のゆえに互いに無関係であるように、教会と国家とは両者の目的の相違のために互いに無関係なものとなる」のです。すなわち「教会の目的が霊的なものであるのに対し、国家の目的は地上的なものだから」です。[彼らによれば]「一昔前は地上的な事柄を霊的な事柄に従属させ、ある種の問題を混合的な問題として扱い、教会にそういった事柄全てにおいて女王ならびに女主人の地位を与えることが可能でした。と言うのも、教会はその当時、超自然的次元の造り主たる天主によって直接打ち立てられたものだと見なされていたからです。しかし、このような教理は今日、哲学者によっても歴史家によっても認められていません。したがって国家は教会から分離されなければならないのであり、またカトリック信徒[としての個人]は市民[としての個人]から分離されなければならないのです。各々のカトリック信徒は、彼がまた同時に市民でもあるという事実により、自分が一番適当だと思うやり方で共通善のために働く権利と義務とを有しているのです。この際、彼は教会の権威にいちいち配慮する必要はないのであり、教会の望みや勧め、命令に少しも留意せず、否、教会の譴責に反してまでも行動する権利を持っています。教会が市民のために行動の指針を策定し、指示することは権威の乱用を犯すこととなり、これに対して人は全力を尽くして戦う義務があります。」尊敬する兄弟たちよ、これらの教条の元となっている諸々の原理は、先任者ピオ六世により、使徒教令『アウクトレム・フィデイ』を通して荘厳に排斥されたものです。

教会の教導権

  25.しかるに近代主義派にとって、国家が教会から分離されるということだけでは充分ではありません。と言うのも、[彼らによれば]「現象的な事柄に関する限り信仰が科学に従属させられるべきであるのと同様、地上的事柄において教会は国家に従属せねばならないから」です。このことを近代主義者たちはまだ公然と口にすることはないかもしれませんが、しかし彼らは自分たちの指示する命題の論理的帰結として、これを認めないわけにはいきません。なぜなら、[彼らによれば]「地上的事柄において国家のみが権利を有しているとするならば、信仰者が宗教の単に内的な行為だけで飽き足らず、例えば秘跡の授受などのような外的行為に及ぶとき、これらは国家の規制の下におかれます。そうすれば外的行為のみによって行使され得る教会の権威は一体どうなってしまうでしょうか。当然それは完全に国家の支配下におかれることになる」からです。まさに、この避けることのできない結論のために、多くのリベラルなプロテスタントは一切の外的礼拝、否、一切の宗教的共同性を拒絶し、そして彼らが言うところの個人的宗教を標榜しているのです。もし近代主義者たちが、あからさまにはまだそこまで行っていないとしても、彼らは「自分たちの示す方向付けに教会が自発的に従い、かつ国家の形態に自らを適合させる」ことを求めるのです。以上が規律的権威についての彼らの考え方です。しかるに、教理的また教義的な権威に関する彼らの見解は、はるかに悪辣かつ有害なものです。教会の教導権について彼らが抱く概念は以下のようなものです。彼らが述べるところによれば、「その成員の宗教的意識が一致し、かつ彼らが採択する定式文もまた一致しているのでなければ、いかなる宗教的社会も本当の意味で一つにまとまった集団となり得ないのです。しかるにこの二重の一致のためには、この共通意識に最もよく適合する定式文を見出し定める一種の共通精神が必要となります。さらに、決定された宗教的定式文を共同体に課する権威がなければなりません。」近代主義者に言わせると、「これら二つの要素の結合および一種の融合から、教会の教導権の観念が生まれる」のです。そして「この教導権は、つまるところ個々人の意識から発生するのであり、公共の利便をはかるべく附与される委任権をそれらの人々の益のためにこそ有するのですから、当然、教会の教導権はその成員に依存するのであり、それゆえ一般民衆の理想となっているところのものに追従しなければならないのです。個人の良心が自ら感ずるところの衝動を自由に公然と表明するのを妨げること、教義がそのたどるべき必然的進化の道のりをたどるよう強く促す批判の働きを阻むことは公共の福利のために与えられた権利の正当な行使ではなく濫用に他なりません。同様に、権威の行使においても、しかるべき方法と度合いとが守られなければなりません。著者の与り知らぬうちに、本人の説明を聞くことも話し合うこともなしに著作を排斥し、発禁処分にすることは、およそ圧制と変わりないことです。ここでもまた、問題となるのは、権威の側の十全な権利と自由の側の十全な権利との間で折り合いをつける方法をなにか見つけ出すことです。カトリック者にとっての取るべき道は、権威に対する深い尊敬を抱いていると公言しつつも、決して自分自身の判断に従うことをやめないことです。」教会に対して近代主義者たちは次のような方向付けを示します。すなわち、「教会の権威は、自らの目的が完全に霊的なものであることに鑑みて、公衆の眼前にその姿を飾るところの外的な壮麗さを脱ぎすてなければなりません。」かかる主張を成すに当たって、彼らは宗教は霊魂のためのものであるとは言え、ただ霊魂のためのみのものではなく、また権威に対して払われる敬意は、それを制定したキリストご自身に帰されることになる、という事実を忘れているのです。

教義の進化

  26.尊敬する兄弟たちよ、信仰とその多様な部分についてのこの問題を総括するに当たって、私たちはまだ近代主義者たちが信仰とそれを構成する各部分の発展について述べていることに考察を加えてみなければなりません。まず第一に、彼らは「生きた宗教においては一切が変化に服しており、また事実、変えられなければならないという一般的原理」を定めます。このようにして彼らは、事実上彼らの中心的教条となっているもの、すなわち「進化」へと議論を進めるのです。[彼らによれば]「進化の法則には一切のものが服しており、これに背くことは死を意味します。教義、教会、礼拝、神聖なものとして私たちが崇敬する書典、そして信仰そのものさえ、この例にもれません。」この原則をあからさまに述べたところで、近代主義者がこういった事柄のそれぞれについて唱えていることを念頭に置く人の中、誰も驚きはしないでしょう。この進化の法則を打ち立てて後、近代主義者たちは自ら、どのようにそれが働くかを説明します。まず第一に、信仰について彼らは説明します。彼らの述べるところによれば、「信仰の原初的形態は未発達で万人に共通なものでした。それは、かかる形態が人間の自然本性および人間の生命に起源を有するものだったからです。生命的進化は進歩をもたらしましたが、それは新しい、純粋に付帯的な形態を外部から増し加えられることによってではなく、宗教的感覚が良心内に一層深く浸透することによって生じました。さて、この進歩には2つの種類があります。消極的進化とは、例えば家系や国籍に由来するもののような、本質的でない要素をことごとく排除することによって生じる進化です。積極的進化とは、人間の知的および道徳的洗練によってもたらされる進化であり、これによって天主的なるものについての観念はより十全かつ明晰なものとなり、また宗教的感覚は一層鋭敏になります。信仰の進歩に対しては、先に信仰の起源を説明するために挙げられたのと同じ諸原因が当てはめられます。しかるに、これらの原因に加えて、私たちが預言者と呼ぶところの並外れた人たち ───この中でキリストは最も偉大な者でした─── を挙げなければなりません。それは、一つには彼らの生活ならびに言葉の中に、信仰が天主的な存在に由来するものとした、神秘的な何かがあったからであり、もう一つには、これらの人々は、彼らの時代の宗教的必要に完全に合致した新しい独自の体験をする命運を有するにいたったからです。教義の進歩は主に、信仰に対する障害は乗りこえられねばならず、その敵はうち負かされ、異論は反駁されねばならない、という事実によるものです。また、これに加えて信仰の奥義に含まれている事柄に、より一層深く分け入ろうとするたゆまぬ努力を挙げねばなりません。このようなわけで、他の例はさておき、キリストにおいてはこのような事態が生じたことがわかるのであり、彼において、信仰が彼の中に認めるところの、かの天主的な何かがゆっくりと徐々に拡大されてゆき、終いには天主であると見なされるまでになったのです。礼拝の進化を生じさせる主要な刺激は、さまざまな民族の風俗習慣に適合する必要、ならびに特定の行為が慣習として得ることになった価値を利用する必要のうちに存します。最後に、教会自体における進化は、歴史的状況に適合し、既存の社会の形態に自らを調和させる必要によって力を得[て進行し]ます。」以上が、これらのものそれぞれの進化についての彼らの見解です。さてここで、これ以上先に進む前に私は必然性ないし必要に関するこの理論全体にあなた方の注意を喚起したいと思います。なぜなら、私たちがこれまで見てきたことの何物にも優って、この教条は彼ら近代主義者が歴史と呼ぶ、かのよく知られた手法の基礎かつ土台であるからです。

伝統と進歩

  27.進化は諸々の必要ないし必然性によって促されるとはいえ、もし、ただこれらのみによって統御されるならば伝統の境界線をたやすく越え出てしまい、こうして、その原初的な生命原理から切り離された進化は、進歩よりもむしろ衰退をもたらすこととなるでしょう。このため、近代主義者の近代主義者のをつぶさに研究する者たちによって、「進化とは、一方は進歩に、もう一方は保守へと向かう2つの力の拮抗から生じるもの」として説明されています。[彼らによれば]「保守をはかる力は教会の中に存し、また伝統の中に見出されます。伝統は宗教的権威によって代表されますが、これは正当な権利に基づいて、また事実としてそうなっているのです。正当な権利に基づいて、というのは、伝統を保護することが権威の本性自体に属することだからです。また、事実として、というのは、生活上の具体的な事柄のはるか上に上げられた権威は、進歩のつき動かす力をほとんど、あるいはまったく感じないからです。それと反対に、内部の必要に呼応する進歩的な力は個々人の良心の中にあり、そこで働きますが、これは生活と密接かつ親密な接触を持っている人々の良心において特にそうです。」尊敬する兄弟たちよ、すでに私たちは一般信徒をして教会における進歩の要因たらしめる、この上なく有害な教説が導入されるのを目にしています。さて、保守と進歩というこの2つの勢力間、すなわち権威と個々人の良心との間でなされる一種の協定および妥協によって変化ならびに進歩が生まれるのです。個々人の良心または、ある特定の人々の良心が集合的良心に働きかけ、この集合的良心は権威の保持者に、それらの人々の良心と折り合いをつけ、またそれに従うよう圧力をかけるのです。

近代主義者たちの屈折した性質

  こういったことをみな考慮に入れれば、近代主義者たちが譴責や処罰を受ける際に表わす驚きのわけが分かります。誤ちとして彼らに帰せられることを、彼ら自身は神聖な義務と見なしているからです。彼らは人々の良心の必要を他の誰よりもよく理解しています。なぜなら、彼らは教会の権威よりも、より緊密に人々の良心と接して [と考えて] いるからです。否、彼らはいわば自らのうちに人々の良心を体現している[と考えている]のです。このため、彼らにとって公然と語り、著述をおこなうことは決して怠ってはならない義務なのです。もし望むならば権威は彼らをとがめればいいでしょう。彼ら近代主義者は自らの良心、ならびに自分たちは非難ではなく、称賛にこそ値するという確信を抱かせる直接の体験を自らの側にもっています。それから彼らは、結局のところ逃走なしに進歩なく、また犠牲者のでない逃走もないと考え、そして預言者やキリストご自身のように自分たちが犠牲者となることをあえて辞しません。彼らは自分たちを荒々しく取り扱う権威に対して、いささかの恨みも心に抱いていません。なぜかと言うに、彼らは結局のところ権威は権威としての義務を果たしているに過ぎないと認めるのにやぶさかではないからです。彼らにとっての唯一の悲しみは、権威が彼らの発する警告に耳を閉ざし、こうして人々の霊魂の進歩を妨げていることです。しかるに、これ以上[進歩を]引きのばすことがもはや不可能となる時が来ることは、およそ確実です。なぜなら、たとえ進化の法則はしばらくの間押し止められ得るとしても、最終的には、それから免れることはできないからです。このように考えて、彼らは譴責や排斥にも関わらず、信じがたい大胆さを見せかけの謙遜で覆いかくし、自らの道を行くのです。頭を下げるふりをしつつも、彼らの心と手は自分たち退きとを成し遂げるべく、以前にもまして大胆となるのです。そして彼らはこのようなやり方に、望んで知りつつ従うのです。それは、権威は転覆されるのではなく、刺激されるべきものである、ということが彼らの思想体系の一部を成しているからであり、また集合的良心を徐々に改変するために、彼らが教会の階層中に留まることが必要だからでもあります。そして、このように述べるに当たって彼らは、集合的良心は彼らの許にないこと、また、彼らはかかる良心の解釈者を名乗るいかなる権利もないことを告白していることになります。

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人である聖体 聖体は父である: 天にましますわれらの父よ、願わくは御名(みな)の尊まれんことを、御国(みくに)の来らんことを、御旨(みむね)の天に行わるる如く地にも行われんことを。

2018年10月03日 | カトリックとは
人である聖体

聖体は父である

 礼拝 最後の晩さんの席上で、別離の御言葉をお告げになったとき、悲しみに沈んだ人たちに向かい、『小さき子よ、恐るるなかれ、われなんじらを、みなし子として残さじ』とおおせになって彼らを慰められたイエズスよ、私たちは、聖体の中においでになる御身を『父』という甘美なみ名のもとに、子の信頼をもって礼拝したてまつる。『父よ』しかり、御身は父である。御身のような父は、ほかにまたとこの世にいない。子に生命を与え、これを育て、保護するのが父である者の務めであるなら、これこそ、御身が聖体の中で日夜をわかたず営まれるそのみわざでなくて何であろうか。

 私たちが超自然的生命を得たのは、御身の尊い御血の功徳によってである。主よ、御身は寸時もお休みにならず御血を流し、天主の子の数をふやしておいでになる。私たちの受けたこの生命は、いとも尊く、いとも神聖な天主の生命、不朽にして祝福された生命であった。ああ、主はいかに恵み深く、いかに偉大な父であることだろうか。

 次に、御身によって与えられたこの生命は、つづいて高価な要素、材料によって養われ成長する必要がある。この世でも、子どもらの生活を保障し、彼らに財産をわかち、少なくとも、毎日のかてを与えることは、一家の父の大きな心づかいではないだろうか。家族を養うために彼は日々労働し、苦心する。疲労して倒れる生涯の最後の日まで、彼はただそのためにだけ生きている。そして、その最後にあたって、わが子の教育のために必要な貯蓄を残すことができたのを喜び、安心して死ぬのである。ああ、わがあわれみ深く何ごとをも予知なさる父よ、御身は聖体の秘跡を定めて、私たちのため、すべてこれらのことを用意されたのである。

 御身はカトリック教会の穀物倉に尊い麦を山と積み上げ、その穴倉に無尽蔵のぶどう酒を貯えて私たちのために食卓を準備し、また、そこに無数の子どもを連れる使者まで用意された。そして小から大に至るまでのすべての人々が、御身の汗のかたまり、御血と御肉とからなるパン、御身ご自身と御身の生命とにほかならない尊いパンを、ここで飽きるまでに与えられるのである。ああ、いともやさしき忠実なる父よ、御身の子どもが飢餓の悩みを味わうことは決してないのである。

 父なる者の第三の務めは、危険あるいは敵の襲撃に際し、ゆだんしないで勇ましく家を守り、子どもたちを保護することである。されば、ああ、イエズスよ、私たちの父よ、御身が、監視と守護とのとりでのように建てられた地上くまなき無数の聖ひつの中でなしたもうことは何であるか。御身が昼夜をわかたず絶えずそこより見守られるのは、子どもたちを保護するためでなくて何であろう。御身は天主の御怒りに対しては御身の聖徳をもって、また悪魔の攻撃に対しては御身の偉力をもって楯とされる。御身が夜もすがらまどろみもせず私たちを守り、御あわれみの腕(かいな)を伸ばして私たちを保護されるあいだ、すなわち御身が地上においでになり、私たちがみそば近くいるあいだは、だれが主の子らなる私たちを害することができようか。

 イエズスよ、いとも聖にして、いともあわれみ深く、いとも献身的な父よ、御身は私たちの父にてまします。私たちは御身の従順な愛子にふさわしく、御身を愛し、御身を敬い、御身の御言葉を聞き、御身にならうことを望みたてまつる。

 感謝 父よ、私の父よ、ああ父たるみ名のなんと甘美なことよ。なんとやさしくたのもしいことよ。なんたる平和と安心とを私たちに与えることよ。

 イエズスよ、御身は私たちの創造者、力ある天主、審判者でおいでになる。御身はそれだけで少しもさしつかえのない御方である。しかしそれに満足されず、御身は私たちの父となることを望まれた。これはいかなる御いつくしみ、いかなる愛であろうか。しかも御身は、父として愛されることを望まれ、私たちがどれい、召使いのようではなく、子として御身に仕えるのを望んでおられることを、福音書を通じて教えられたのである。しかし、御身の父の愛を最も深く私たちに味わわせようとされたのは、理想的な家族が食卓をともにされた最後の晩さんの時、およびその継続である聖体の秘跡においてであった。聖堂は私たちの家、聖ひつはかまど、聖体拝領台は食卓であって、家の子である私たちは、常にここに近づく権利をもっている。私たちは決して他人ではない。

 いともいつくしみ深い私の父よ。御身とともにいるとき、私たちは心が安らかで、まことの安全を楽しむことができる。御身のそば近くにいる者の味わう平和を、なんと言いあらわそうか。どんなに私たちは御身の愛に引きつけられるであろうか。御身が私たちと全く同じ人間になられたのは、なんというへりくだりであったろうか。御身は私たちの言葉の足りないところを理解され、私たちの矛盾にも怒りたまわず、私たちの忘恩をもお忍びになる。イエズスよ、限りない慈愛の秘跡のうちにおいでになる御身は、いかによき父にてましますことよ。御身は『わが小さき子よ、われなんじらをみなし子として世に残さじ』とのうれしい御言葉をここに実行されたのである。ああ御身がとこしえに祝され、感謝され、愛されんことを。わが愛する父よ、もし、御身が、わが保護者、わが友でなかったなら、この世はどんなに悲しく、暗いことであろうか。そしてだれがこの世の艱難に堪え、危険をおかし、暗礁を避けることができるだろうか。御身がおいでにならなかったなら、この世はどんなに苦しいちくたくの地であることだろうか。御身がおいでになればこそ、私たちはまことのふるさとなる天国を知り、そこへ帰ることができるのである。ああ父よ、私の感謝の心を証明するために、いつも、御身の子にふさわしい信頼の心をもって、隔てなくうちとけて御身をお愛ししよう。

 償い ああイエズスよ、御身のごときよい父をもちながら、御身のあまりにも愛すべき聖心を悩ませ、苦しませる私は、いかに不孝者であろうか。
 よき父よ、いかに多くの子どもが、財産の分け前を要求する福音書中の放蕩息子であることか。彼らは恥ずべき快楽にふけり、財宝を湯水のように捨てようとして、御身をあなどり、御身にそむくのである。御身は彼らが御身から遠く離れ去るのを、心配げにながめられる。御身は彼ら忘恩の子を責められるにもかかわらず、かえって彼らを待ちわび、不安と焦燥とをもって彼らのうえを案じわずらい、絶えいるばかりに聖心を痛ませられるのである。ああどのような心づかいと激しい愛とにうるんだ御身の御まなこが、はるか遠くさまよう彼らの上に注がれていることだろう。

 しかし、御身はついに彼らを改心させられた。彼らは飢えと悩みとを知り、はじめて後悔の念に胸を刺されたのである。こうして彼らは『父のパン』を思い出し、初聖体の日の幸福を思い浮かべて、恥じためらいながら、わが家をさして帰って来る。御身は、そこに彼らの帰りを待ちわびておられる。司祭が彼らに罪の許しを与え父の家の門を開くと、すぐ御身は彼らの手をとって、彼らを胸に抱きしめ、わぼくのしるしであるなつかしいせっぷんをもって彼らを迎え、彼らのために喜びの祝宴を開かれるのである。ああこの平和と、いうにいえない感激とを、私たちは決して忘れてはならない。よき父は、痛悔の涙を喜びの涙に変えられた。主よ、感謝したてまつる。私たちは不幸な放蕩息子であったが、きょうからは常に忠実な御身の子どもとなるであろう。聖体が私たちの父でおいでになることを、私たちはいかにして、ふさわしく御身に感謝することができようか。

 祈願 聖体中のイエズスを見つめながら、その一句一句を味わいつつ、静かに主禱文を唱えよう。

天にましますわれらの父よ
願わくは御名(みな)の尊まれんことを、
御国(みくに)の来らんことを、
御旨(みむね)の天に行わるる如く地にも行われんことを。
われらの日用の糧を、今日(こんにち)われらに与え給え。
われらが人に赦す如く、われらの罪を赦し給え。
われらを試みに引き給わざれ、
われらを悪より救い給え。
アーメン。

 実行 たとえ何ごとが起っても、天主が私に関してはからってくださるすべてのみ摂理は、私たちのためにすべてよいとお望みになる父の限りない御いつくしみから出るものであることを記憶しよう。
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2018年10月7日聖霊降臨後第20主日の聖伝のミサの固有分を紹介します Traditional Latin Mass 20th Sunday after Pentecost

2018年10月03日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
聖霊降臨後第20主日(二級主日 緑)のミサ聖祭の固有分をご紹介します。
聖パウロは今日、主の与え給うた時を賢明に利用せよと教える。罪を避け、天主の慈悲を待ち望もう<入祭文>。キリストの約束に対して、生ける信仰を持とう<聖福音、聖体拝領誦>。キリストは、われらをバビロンより解放し給うであろう。
我们的大祸患便是我们所犯的罪恶;因它是我们一切不幸及一切忧虑的根源。凭藉了圣洗,我们已由这罪恶中获得拯救,而出了象征罪犯囚城的巴比伦(奉献咏)。然而在我们生活悠长的过程中,依然有奋勉的必要,务使仗圣宠的作用,把罪恶彻底的消除于我们的心中才行。为达成这个目的,在每主日的弥撒中,我们应以信心和热望与基督接近(福音)。这样,我们每周用更大的努力,奋勉前行,忠实地事奉天主,并运用我们生活上的一切变故,作为涤除我们罪恶及愈益接近天主的机会(书信)。

Dominica Vigesima post Pentecosten 聖霊降臨後第20主日 降临后第二十主日
II Classis 二級主日 复式【绿】
Ant. ad Introitum. Dan. 3, 31, 29 et 35. 入祭文 ダニエル書 3ノ31,29,35 台咏(达3:31,29,35)
Omnia, quæ fecísti nobis, Dómine, in vero iudício fecísti, quia peccávimus tibi et mandátis tuis non obœdívimus : sed da glóriam nómini tuo, et fac nobíscum secúndum multitúdinem misericórdiæ tuæ. 主よ、われらに対して行い給うたことは、すべて、正義の審きによることであった。われらは、罪を犯し、掟に背いたのである。しかし、御名に光栄を表し、われらを、豊かな御あわれみによってあしらい給え 主啊!祢所行的一切,都是照正确的判而行的:因犯了罪背了祢,没有听祢的命。但求祢光荣祢的名吧!按祢大量的慈悲待我
Ps. 118, 1. 詩篇118ノ1 咏118:1
Beáti immaculáti in via : qui ámbulant in lege Dómini. 生涯、清く生きる人、主の掟を守る人は幸せである。 品行淳厚,遵守上主法律的,是有福的人。
V/.Glória Patri. 願わくは聖父と・・・(栄誦) 光荣于父……。
Omnia, quæ fecísti nobis, Dómine, in vero iudício fecísti, quia peccávimus tibi et mandátis tuis non obœdívimus : sed da glóriam nómini tuo, et fac nobíscum secúndum multitúdinem misericórdiæ tuæ. 主よ、われらに対して行い給うたことは、すべて、正義の審きによることであった。われらは、罪を犯し、掟に背いたのである。しかし、御名に光栄を表し、われらを、豊かな御あわれみによってあしらい給え 主啊!祢对我们所行的一切,都是照正确的审判而行的:因为我们犯了罪背负了祢,没有听祢的命。但求祢光荣祢的名吧!按祢大量的慈悲对待我们。
Oratio. 集祷文 集祷经
Largíre, quǽsumus, Dómine, fidélibus tuis indulgéntiam placátus et pacem : ut páriter ab ómnibus mundéntur offénsis, et secúra tibi mente desérviant. Per Dóminum. 主よ、願わくは、主を信じる人々に、許しと平和とを与え給え。そして、彼らの過ちを清め、澄んだ心で主に奉仕させ給え。天主として・・・。 主,求祢慈惠地赐给祢的信众宽恕与平安,使他们的过犯都得洗净,以便安心事奉祢。因我们主……。
Léctio Epístolæ beáti Pauli Apóstoli ad Ephésios. 使徒聖パウロのエフェゾ人への書簡の朗読。
Ephes. 5, 15-21. エフェゾ 5ノ15-21 (弗5:15-21)
Fratres : Vidéte, quómodo caute ambulétis : non quasi insipiéntes, sed ut sapiéntes, rediméntes tempus, quóniam dies mali sunt. Proptérea nolíte fíeri imprudéntes, sed intellegéntes, quæ sit volúntas Dei. Et nolíte inebriári vino, in quo est luxúria : sed implémini Spíritu Sancto, loquéntes vobismetípsis in psalmis et hymnis et cánticis spirituálibus, cantántes et psalléntes in córdibus vestris Dómino : grátias agéntes semper pro ómnibus, in nómine Dómini nostri Iesu Christi, Deo et Patri. Subiecti ínvicem in timóre Christi. 兄弟たちよ、愚かな者ではなく、つつしんで、知恵ある者のように歩んでいるかどうかを調べよ。今の時をよく利用せよ、時が悪いからである。あなたたちは、思慮のないものとならず、主のみ旨を理解せよ。ぶどう酒に酔うな、それは淫乱のもとである。かえって、霊に満たされよ。詩の歌と賛美の歌と霊の歌をとなえ、あなたたちの心を挙げて主に向かって歌い、そして賛美せよ。主イエズス・キリストのみ名によって、すべてのことについて、たえず父なる天主に感謝せよ。キリストを畏れて互いに従え。 弟兄们:你们要注意谨慎你们的行为,不要愚蠢地,却要明智地处世为人。现在的时代是险恶的,所以你们要利用种种机会行善。你们千万不要作愚鲁的人,却要明了天主的意旨如何。不要喝醉酒,因为醉酒是放荡的根源,却要充满圣神;你们要共同诵圣咏、圣诗和圣歌,全心颂扬和歌咏主。你们应该时时处处以我们主耶稣基督的名感谢天主圣父。应该怀着敬畏基督的心,彼此互相顺从。
Graduale. Ps. 144, 15-16. 昇階誦 詩篇 144ノ15,16 台阶咏(咏144:15-16)
Oculi ómnium in te sperant, Dómine : et tu das illis escam in témpore opportúno. 主よ、皆の目は、御身を待ち望む。主は、ふさわしい時に、彼らに糧を与え給う。 主啊!一切人都目瞻仰祢,祢赐给们应时的食粮。
V/. Aperis tu manum tuam : et imples omne ánimal benedictióne. V/. 御手を開き給うて、すべて生ける者を祝福し給う。 祢伸开祢的手,使一切有生气的,都随意食。
Allelúia, allelúia. V/.Ps. 107, 2. アレルヤ、アレルヤ、 詩篇 107ノ2 阿肋路亚。阿肋路亚!(咏107:2)
Parátum cor meum, Deus, parátum cor meum : cantábo, et psallam tibi, glória mea. Allelúia. 私の心は準備を終えた、偉大な天主よ、御身に歓呼するために、御身に詩を歌うために、私の心は準備を終えた。これが、私の誇りである、アレルヤ。 天主啊!我心已定,我心已定,我要歌祢,我要赞扬祢。阿肋路
+ Sequéntia sancti Evangélii secúndum Ioánnem. ヨハネによる聖福音の続誦。 福音
Ioann. 4, 46-53. ヨハネ 4ノ46-53 若4:46-53
In illo témpore : Erat quidam régulus, cuius fílius infirmabátur Caphárnaum. Hic cum audísset, quia Iesus adveníret a Iudǽa in Galilǽam, ábiit ad eum, et rogábat eum, ut descénderet et sanáret fílium eius : incipiébat enim mori. Dixit ergo Iesus ad eum : Nisi signa et prodígia vidéritis, non créditis. Dicit ad eum régulus : Dómine, descénde, priúsquam moriátur fílius meus. Dicit ei Iesus : Vade, fílius tuus vivit. Crédidit homo sermóni, quem dixit ei Iesus, et ibat. Iam autem eo descendénte, servi occurrérunt ei et nuntiavérunt, dicéntes, quia fílius eius víveret. Interrogábat ergo horam ab eis, in qua mélius habúerit. Et dixérunt ei : Quia heri hora séptima relíquit eum febris. Cognóvit ergo pater, quia illa hora erat, in qua dixit ei Iesus : Fílius tuus vivit : et crédidit ipse et domus eius tota. そのとき、そこに一人の王官がいた。その人の子はカファルナウムで病床に就いていた。イエズスが、ユダヤからガリラヤにおいでになったと知った彼は、イエズスのところに行って、すでに死の迫っている子を治しに来てくださいと頼んだ。イエズスが、「あなたたちは、しるしと奇跡とを見ないと信じないのか?」と仰せられた。王官は、「主よ、あの子が死なないうちに来てください」と答えた。イエズスは、「あなたの子は生きている。行きなさい!」と仰せられた。そこで彼が、イエズスのお言葉を信じて去ると、その途中、彼の下男たちに出会って、子どもは生きていると知らされた。いつごろからよくなったかと聞くと、「きのうの午後一時ごろから熱が去りました」と下男たちは答えた。父親は、その時刻が、「あなたの子は生きている」とイエズスが仰せられたのと同じ時刻だと知った。そして彼とその家の人は、皆イエズスを信じた。 那时候,耶稣又来到加黎利的卡纳;有一位王臣,他的儿子在葛法翁生病。那人得悉耶稣从犹太到了加黎利,就来见耶稣,请下去治好他的儿子,因为儿子快要死了。耶稣对他说:“若不看见灵迹和奇迹,你们就不信。”那王臣求祂说:“主!趁我儿子还没有死,请下来吧!”耶稣对他说:“去吧!你的儿子活了。”这人信了耶稣的话,回去了。正下去的时候,仆人们迎见他,报告说:“你的儿子活了。”他问儿子什么时候转好的。他们说:“昨天第七时辰,热退了。”父亲就知道那正是耶稣对他说:“你的儿子活了”的时刻。他自己和全家都信了。
Credo 信経
Ant. ad Offertorium. Ps. 136, 1. 奉献文 詩篇  136ノ1 奉献咏(咏136:1)
Super flúmina Babylónis illic sédimus et flévimus : dum recordarémur tui, Sion. われらは、バビロンの川岸に座って、シオンの町、汝を思い出して泣いた。 熙雍啊!我们会坐在巴比伦的河畔,一追想你,就垂泪了。
Secreta. 密誦 密祷经
Cæléstem nobis prǽbeant hæc mystéria, quǽsumus, Dómine, medicínam : et vítia nostri cordis expúrgent. Per Dóminum. 主よ、願わくは、この奥義を、われらの天的な薬となし、われらを悪より浄め給え。天主として、・・・。 主,祈望这奥迹赐给我们天上的圣宠,并涤除我们心中的邪恶。因我们主……。
Præfatio de sanctissima Trinitate 三位一体と主日との序誦 天主圣三的颂谢引
Ant. ad Communionem. Ps. 118, 49-50. 聖体拝領誦 詩篇 118ノ49-50 领主咏(咏118:49,58)
Meménto verbi tui servo tuo, Dómine, in quo mihi spem dedísti : hæc me consoláta est in humilitáte mea. 主よ、下僕への約束を思い出し給え。その御約束によって、主は、私に希望を与え給うた。悲しみのときに、私の慰めとなるのはそれである。 主啊!求祢追忆向祢仆人所说的话:祢因祢的诺言叫我企望,在忧患中,这诺言就是我的安慰。
Postcommunio. 聖体拝領後の祈 领后经
Ut sacris, Dómine, reddámur digni munéribus : fac nos, quǽsumus, tuis semper obœdíre mandátis. Per Dóminum nostrum. 主よ、われらが、聖なる賜物にふさわしいものとなるために、主の掟に、常に服従させ給え。天主として・・・。 主,求祢使我们常常遵循祢的诫命,为使我们能配领祢的圣恩。因我们主……。
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2018年10月3日は、聖ヨゼフの初水曜日です。聖ヨゼフ、われらのために祈り給え!

2018年10月03日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2018年10月3日は、聖ヨゼフの初水曜日です。聖ヨゼフ、われらのために祈り給え!

聖ヨゼフのその栄光の、その力の強さの、その偉大さの秘密とは

アメリカのサンタ・フェにある有名な聖ヨゼフの階段の動画を紹介します

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天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
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聖伝のミサ(トリエント・ミサ、ラテン語ミサ、旧典礼のミサ)の報告:聖霊降臨後第18主日「中風の人に向かい、『起きて、床をとって家に帰れ』とおおせられた。」

2018年10月02日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2018年9月23日には東京で聖霊降臨後第18主日のミサを行いました。

 聖伝のミサにあずかった方が、福音のイエズス様の御言葉「中風の人に向かい、『起きて、床をとって家に帰れ』とおおせられた。」を黙想して、報告を下さいました。

「家に帰る」とは、パライソへ参ること。天国が自分のほんとうの帰る家だから。
「中風の人」は、巨大な血栓ために聖寵の血液が正常に流れず、脳細胞にも血液がうまく行かず、体が麻痺し、判断も正常にできなくさせている状態。御聖体に対する不敬や、超自然の聖寵の命の軽視、使徒継承の聖伝の教えからの断絶によって、血栓が生じている。だから、心を天高く上へ上げることができず、床に伏せている。

私たち自身が、この中風の病から、治されますように!立ち上がって、自分の帰る家を思い出して、心がいつも天へ向かうことができますように!いつも主の現存を思うことができますように!
御聖体とカリスが高く掲げられた時、中風のような私たちに、どうぞ「起きて、床をとって家に帰れ」とおおせください!
いつの日か本当の家であるところの天国に行くことができますように!

愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【報告】
Ave Maria Immaculata!

ごミサの報告をさせていただきます。三週間ぶりだったのでとても待ち遠しかったです。それなのに報告は遅くなりましたことすみません。

『中風の人に向かい、「起きて、床をとって家に帰れ」とおおせられた。』

聖福音のなかの家へ帰るというのは、実は天国へ参りましょうという意味だということを伺ってハッといたしました。パライソへ参ろうといっていたという殉教者の言葉を思い出します。

日本の殉教者が、各地で、ごミサをあげてくださる司祭が少ないのも関わらず、ご聖体のうちにまことにましまし給うイエズスは賛美されさせ給え、と唱えながら殉教されたということを伺ったばかりでした。当時日本には、聖寵を与えられてよい霊的恵みをいただき、カトリック信仰を生きるとはどういうことかをよく理解していたカトリック信者が、おられたのだと感じられました。

奇跡を行うというのは、肉体の病を直して身体の健康を取りもどすということ以上に、霊魂の病を治して天国が自分のほんとうの帰るところだとわかることができることだとわかりました。

主はこの時、中風の病に伏せっていた人に向かい、奇跡をおこなわれたのですね。ずっとこの言葉を思いめぐらしていて、私は、この中風の人とは現代の迷えるカトリック教会なのではと思いました。

日本語で対面式の新しい形式のミサは、プロテスタントの考え方が色濃く反映されてしまっているものだということを理解できるようになり、プロテスタント風のミサは、カトリック信者を、中風の病に陥らせてしまうのかもしれないと思ったのです。

今は、中風という病気は、悪玉コレステロールが、血管にへばりついて、血管に血栓ができて、その血栓が移動して、脳の中の細い血管に移動していってそこで血管が詰まり、血液が流れなくなり、脳細胞が死んでしまうことで起きると言われています。その脳細胞のある部分に対応する四肢などが動かなくなります。他にも、血液の汚れは、また脳の認知機能が衰えてしまって、記憶がなくなったりよく考えたり理性的な判断ができなくなってしまうことにもつながるともいわれているようです。このようなことを、いまや、お医者さんでなくても普通の人でも知るようになりました。

日本中のほとんどのカトリック共同体では、パライソへ参ろうと、いう言葉も、殉教時代の過去の言葉と思っているかもしれません。御聖体にたしかにいらっしゃいますイエズスさまへの公然の不敬もなされていて、何かの断絶があるのでしょうか。

どの宗教でも救われるという教えに変えられたそうですから、このようなことを、ないがしろにするようになってしまったのでしょうか。それに、安易な優しさからからかもしれませんが、誰でも亡くなった方は天国へ行かれたという話が普通になされますので、洗礼を受けなければならない理由も周囲にもあえてはっきりと話されないように思います。

現代の日本のカトリック教会の中に、巨大な血栓ができてしまっていて、正常に聖寵が流れなくなってしまい、脳細胞にも血液が行かなくなって、酷い中風のような判断も正常にできなくなっているような、そんな、こわいことが起きているのではと、心配です。

悪さをするのは、悪玉コレステロールというそうですが、正常な行いをすることができなくなっていくのではと、怖いです。

教会にはいり込んだといわれる悪玉コレステロールが、これほど中風の患者を生みだすようになるとは、です。

計り知れない障害が、カトリック信者を麻痺させているように思われます。心を天高く上へ上げることができず、床に伏せているといってもよいくらいに。

「大通り、路地、野原で、おなかがすいているのに食べ物が何もないので泣いている人たちがたくさんいるのが見えない?」という聖ヤシンタの言葉も思い出されてしまいます。自分たちにはもう本当の霊魂の食物が与えられなくなっていることすらわからなくなっている憐れな子どもを、マリアさまは、見せてくださったのでしょうか。マリア様もどれほど、お悲しみでしょう。

でも私はそのように考えてから、なんとなく居心地の悪い思いがおさまらなくて、しばらくもう一度考えておりました。そしてようやく自分自身の生活スタイルがどんなにひどいかを反省することができました。恥ずかしいことです。自分の中にこそすっかり入り込んでしまっている悪玉コレステロールの数値を下げるように、これから努力しようと思います。

私自身が、この中風の病から、治されて、立ち上がって、自分の帰る家を思い出して、心がいつも天へ向かうことができますように、いつも主の現存を思うことができますように、と思います。

つい、ロジックにひっかかってしまい、自分のことを振り返り反省することを怠っていたように思います。これこそまさしく私の中に悪玉コレステロールを生みだしていたものにちがいありません。、

ごミサの中でイエズス様はまことにいらっしゃいます、その時イエズス様が私に、起きて床をとって家に帰れ、と言ってくださいますようにと思います。

ご受難を受けられたイエズス様のお姿が、高く掲げられた御聖体とカリスをとおして、心の眼に見えますとき、その時流される血によって私の病は癒されることを信じます。哀しくもその時のイエズス様とマリア様のお苦しみを私はあまり感じることができないのですが・・。

そうしたらわたしは、まずしい供え物の小さな犠牲を主にお捧げして、主の神殿に入って深く主を礼拝することでしょう。いつの日か本当の家であるところの天国に行くことができて、光栄の主を讃え礼拝することができますように。

「起きて、床をとって家に帰れ」という御言葉からこのようなことを黙想するとは思いもよらないことでしたが、イエズス様のいらっしゃるところまで自分の身を運んでいくことがどれほど大切かということを教えられた思いです。

このような聖伝のミサに一回でも多く与ることができますようにと思います。そして、そのミサの中では、聖ピオ十世会の司祭のためと家族・友人・自分のことだけのみならず、日本の回心のためにもよく祈りたいと思います。

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
ブログに、『聖体の黙想』テニエール著を掲載して下さりありがとうございます。
9月15日の七つの御悲しみの祝日に、最後の101回目の涙を流されて、共贖の玄義の啓示を完成された、秋田のマリア様。
主のおもてをぬぐい、主の御恥辱をお慰めしたヴェロニカはいないのか。十字架をになうシモン、十字架の下にたたずむヨハネはいないのか。救い主の御苦しみをわかつ悲しみの聖母にならう人はいないのか。
マリア様と共に、“ecce ancilla domini”と言う事ができますように。

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
聖マリアの七つの御悲しみとともにお祈りいたします。
カトリック教会を離れたのは、むしろ新しい流れに誘おうとしたものに騙されたものたちのほうだと、この「聖体の黙想」聖体の制定された理由 聖体はカトリック教会の保護、慰め、浄化であるをしながら思いました。


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

公教要理の時間の報告です。

この日は、フランスから、聖ピオ十世会の韓国出身の修道女のシスターマリア・ヨゼフが、来てくださっていました。

午後の公教要理の時間には、スライドショーが用意されていて、アグネスさんのお声で聖ピオ十世会修道女会の修道院の説明を聞くことができました。

フランスから帰国されていた夏のバカンスの間、私たちのためにたいせつな時間を費やしてくだったことでしょう、アグネスさんに心から感謝いたします。

この時の聖ピオ十世会修道女会のスライドでのご案内のことをちょっとだけですが、まとめてみました。(間違えていましたら、すみません。)

修道会の創立者は、マルセル・ルフェーブル大司教様と妹君のマリー・ガブリエル修母様で、その霊性は、聖なる犠牲のミサ聖祭への献身であり、司祭を助けること・とりわけ祈りによって司祭職を支えることであり、守護者は共贖者なる聖母と聖ピオ十世でいらっしゃるとのこと。

そして、真のカトリック要理の教育のために、フランス語での「ファチマの聖母の通信教育カテキズム」が修道女によりおこなわれて、今は英語とドイツ語にも訳され世界中に1500人の生徒がいるとのこと。いつか日本語でもそのような通信教育が行われるようになればよいなあと思わず思いました。

18歳から30歳までの方なら、修道女への志願ができるとのこと。現在は、フランス(ルフェック)・アメリカ(ミネソタ)・ドイツ(ゲッフィンゲン)・アルゼンチン(ピラール)の4つの国に修練院があるとのこと、それはフランス語圏・英語圏・ドイツ語圏・スペイン語圏に住む志願者に対応するものということです。ミネソタの写真は雪景色のものでしたが、冬は-40から-50度にも下がりとても寒いのだそうです。

そして毎日の生活の様子が紹介されて、誓願を立てるまでのことなどもご紹介くださいました。早朝からの祈禱と黙想とミサ聖祭、それから共同体での日常の種々の仕事を分担して行い、様々な授業を受け、レクリエーションの時間も過ごされ、ご聖体礼拝の時間やロザリオその他の祈りで一日を終えられるとのこと。

今は、誓願を立てた修道女が175人以上10の国の26の使節で働いていらっしゃるそうです。

印象に残ったのは、司祭が祭壇上で十字架の犠牲を新たにするたび、修道女たちは、聖母の十字架のもとでの共同受難を、・・・つまりイエズス様とマリア様が、現代の霊魂のために耐えておられる苦しみを分かち合う・・司祭職と司祭職の内に生き給う私たちの天主イエズス・キリストに仕える・・というこの修道会の霊性のことです。これこそ誓願を立てて自分を奉献することの意味なのだなぁと感じつつ、その道の崇高さ険しさも想像いたしました。

シスターご自身のお話によるものですが、誓願とはイエズス様にすべてをあたえることであり、自分の自由意志を与える従順の誓願、自分のからだを与える貞潔の誓願、自分の所有物を与える清貧の誓願を立てられて、その婚姻の徴に指輪を身につけていらっしゃるのだそうです。そして、この世に死んでいるという意味で黒い喪服のような修道服を身につけられているとのことでした。でも、シスターの修道服姿、とても可愛らしかったです。

本当の奉献をしたいと望む召命がある方は、この聖ピオ十世会修道女会に招かれるだろうと思いました。観想と活動が合わせられているような使徒職の紹介に、このような霊性のところで修練することができれば、完徳をめざしてなおかつ司祭を助けて働くという、”イエズスとマリアのみ心に忠実な信仰生活”を送ることができるのではと思いました。

素晴らしいことに、スライドショーの画面と音声での紹介だけでなく、実際に誓願を立てられ長年働かれていらっしゃるシスターがいらしてくださっていましたので、聖ピオ十世会修道女会の聖なる香りが印象がいっそう強く刻まれたように思います。

質問などにもお答えくだり、修道会のお年寄りの生活のことについての質問がありました。

シスターからは、「聖ピオ十世会修道女会には、まだ老後の問題はありません、みなとても若い修道女ばかりですから。これまでに亡くなられた修道女はまだ三人しかいません。マリー・ガブリエル修母さまと、若い二人の修道女の方々ですが、同じところに眠っています。でも、今から将来の老後をすごすためのケアハウスも建設中?です」と、お答えくださいました。

シスターマリア・ヨゼフ修道女は、とても快活で明るくて、非常に私たちのことを常に気遣ってくださるやさしい方でした。

シスターは、ご両親が敬虔な仏教徒であったにもかかわらず、(おそらく20歳の頃よりずっと以前に)カトリックに導かれて、とても若いうちから修道生活を志したということを伺いました。そして、彼女の熱心な祈りでご両親や周りの方々も受洗されたことを伺い感動しました。小野田神父様は、叙階されてすぐ韓国にも宣教に通われ始めたのではと想像するのですが、小野田神父様の熱心な宣教活動がこのよう実りをアジアにもたらしてくださったと思いました。今では韓国ではたくさんの司祭の召命もあり、なお神学生の希望者も多いと伺います。聖ピオ十世会の司祭の宣教を支えることが、どんなに大切で必要なことか感じさせられました。

シスターは英語・フランス語・韓国語を話されるのだと思いますが、さらに日本語も幾つか憶えて来てくださっていて、私たちとの意志疎通を図るためにとても努力をしてくださったことに頭が下がりました。

最後に一緒に写真を撮らせていただきましたが、本当にいつも笑顔で微笑んでいらっしゃるのが印象的でした。

素晴らしい機会を設けてくださいまして、ありがとうございました。

日本からも司祭と修道者の召命がたくさんありますように、もっといっそうのお祈りをいたします。


【参考記事】
ルフェーブル大司教の従順:自分の過去と断絶してしまった教会、それはカトリック教会ではありません。
「私たちは教会から離れたくありません。その全く反対です。私たちは、カトリック教会を続けたいのです! 自分の過去と断絶してしまった教会、それはカトリック教会ではありません。・・・ 将来、真理が再び明らかになることでしょう。私たちはそれを確信しています。それ以外では有り得ないからです。天主様は、ご自分の教会をお見捨てにはならないからです。」
(ジュネーブにおいての説教1978年5月15日)





THE SISTERS OF SAINT PIUS X 聖ピオ十世修道女会

聖ピオ十世会のシスター会

聖ピオ十世会のシスター会 (Sisters of the SSPX) 誓願式 アメリカ

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10月は毎日ロザリオを ― 教皇が呼びかける

2018年10月02日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 10月はロザリオの聖なる月です。毎日ロザリオを唱えましょう。ファチマの聖母は、私たちに毎日ロザリオを唱えるようにお願いされました。教皇フランシスコも毎日ロザリオを唱えることを呼び掛けています。

 バチカンが9月29日、発表した声明によりますと、教皇フランシスコは全世界のカトリック信者に向けて、10月の「ロザリオの月」の間、毎日「ロザリオの祈り」を唱えるよう呼びかけています

 教皇はカトリック信者に、「神の民としての交わりと悔い改めのうちに一致して、私たちを神から引き離し、仲たがいさせようと絶えず試みている悪魔からの保護」を願い、「神の聖なる母と聖ミカエル大天使に祈る」よう促しています。
 教皇は「ロザリオの祈り」の最後に、古来の聖母への祈り「Sub tuum praesidium」【(スブ・トゥウム・プレシディウム)】

“Sub tuum praesidium confugimus Sancta Dei Genitrix. Nostras deprecationes ne despicias in necessitatibus, sed a periculis cunctis libera nos semper, Virgo Gloriosa et Benedicta”.

と、

悪との闘いでの保護と助けを願って「大天使聖ミカエルに向(むこ)う祈り」

“Sancte Michael Archangele, defende nos in proelio; contra nequitiam et insidias diaboli esto praesidium. Imperet illi Deus, supplices deprecamur: tuque, Princeps militiae caelestis, Satanam aliosque spiritus malignos, qui ad perditionem animarum pervagantur in mundo, divina virtute, in infernum detrude. Amen”.

を唱えるよう勧めています。

 教皇はマリアに教会の保護を願って祈ると同時に、「教会がその罪と過ち、現在と過去に犯した虐待をより深く意識し、悪がはびこらないように、ためらいなく闘う決意を固める」ことも願っています。

カトリック中央協議会編の『公教会祈祷文』(絶版)などに掲載の邦訳の「聖母への祈り」と「大天使聖ミカエルに向う祈り」は以下の通りです。


聖母への祈り(終業の祈り)

天主の聖母のご保護によりすがり奉る。
いと尊く祝せられ給う童貞、
必要なる時に呼ばわるを軽んじ給わず、
かえってすべての危うきより、
常にわれらを救い給え。アーメン。

大天使聖ミカエルに向う祈り

大天使聖ミカエル、戦いにおいてわれらを守り、
悪魔の凶悪なるはかりごとに勝たしめたまえ。
天主の彼に命を下したまわんことを伏して願いたてまつる。
ああ、天軍の総帥、霊魂を損なわんとて、
この世を徘徊するサタンおよびその他の悪魔を、
天主のおん力によりて地獄に閉じこめたまえ。アーメン。

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聖体礼拝の理由 聖体の礼拝はこれに対して犯される罪の最善の償いである

2018年09月28日 | カトリックとは
聖体礼拝の理由


聖体の礼拝はこれに対して犯される罪の最善の償いである

 礼拝 今世界のどこかで必ず行なわれているにちがいない聖体に対する汚聖を、できるかぎり償うために、愛と尊敬と痛悔とをこめて聖体を礼拝しよう。

 悲しいことに、地獄の凶悪なのろいが、聖体に対する恐ろしい汚聖となってあらわれない日は一日としてないのである。

 昔、イエズスがそうであったように、聖体は今日つまづきのしるしとなっている。一方にこれを愛する人があれば、他方にこれを憎む人がある。これを尊敬する人があれば、これを冒瀆する人がある。これを求める人があれば、これを忌み嫌う人がある。これを拝領することを最大の幸福とする人があれば、決してこれを拝領しない人がある。熱心な信者がふさわしくこれを受けるために、どんな準備も足りないと考えているかと思うと、偽善者は大罪に汚れた霊魂の中に、これを受けるようなことをしている。聖体をめぐって敬虔な祈りがささげられている他方では、聖体を盗み出してこれに種々の無礼を加えるようなことさえある。

 このような聖体に対して、絶えず、忘却、けいべつ、不敬、憎悪、冒瀆など無数の罪が犯されているのである。

 このような無礼と汚聖との対象となっている聖体に対して、償いの義務のあることを理解しない人があるだろうか。悪人が聖体をあなどるなら、信者たちは聖体に対して尊敬と愛とを尽くさなければならないということをさとるべきである。そしてこのためには、熱心な聖体拝領をもってはじめた一日を、敬虔な聖体礼拝で終わるよりも適当な方法がないのである。

 あなたの幸福だけを考えて全く献身的な愛をお示しになった天主に対し、人々の忘却を償うために愛を、人々の不敬を償うために敬虔な礼拝を、人々の冒瀆を償うために主のたえなる完徳に対する賛美を、人々の憎悪を償うために子どものような信頼を、そしてまた人々の無礼を償うため感じやすい主の聖心に同情と涙とをおささげしよう。主がすべてのはずかしめをお忘れになられるよう、主にふさわしいいっさいの賛美をおささげしよう。汚された聖ひつのそばで悲しみ嘆いている天使に、その助けをお求めしよう。御子に加えられたすべてのはずかしめが再び聖体に加えられるのを考えて聖母とともに嘆きまた礼拝しよう。

 感謝 よい償いをするためには大きな愛が必要である。ところが、この愛を起こすためには、主が聖体の中で種々の冒瀆をお忍びになる無限の愛を思いめぐらすよりよいものはない。

 主が聖体の中においでになるのは、私たちに対するひたすらな愛のみによるのであって、主がそこにとどまっておいでにならなければならない義務はないのである。そのうえ私たちの無関心も憎悪も、また私たちの冒瀆的行為でさえ、主のご勇気をくじく力はない。主はいっさいを顧みないでこの世にとどまり、迫害する者にも御恵みを施しつづけられるのである。

 もしお望みになるなら、人々の無礼に対して、すぐに天の万軍を遣わし、一瞬にして冒瀆者をお滅ぼしになることも主には不可能ではない。ところが主はかえって迫害を許し、主の敵をしてその望むままに行なわさせられる。

 主は秘跡の中に隠れて、ののしる人のために祈り、あなどる人のために彼らの改心を天父に願ってくださる。主は、冒瀆する者の憎悪に満ちた心を愛の泉に化することをお望みになる。もし彼らが改心するなら、たとえそれが臨終の日であっても、主は喜んでその病床に近づいて、平和のせっぷんを彼らに与えられるのである。

 冒瀆されるときの聖体の忍耐、沈黙、慈悲は、主の愛の勝利の偉大なしるしである。このようなすぐれた愛をもって私たちを愛されるのに、このような大きな憎しみをもって傷つけられる主の聖心に対して、どうして深い同情をささげ、真心からの愛をもって祈らない者があるのだろうか。

 償い 聖体が何であるかを知ったなら、これに対する冒瀆をどんなに深く恐れないでいられよう。聖体は実に諸天使が礼拝し、天地さえもそのみ前に平伏する天主である。最も清いセラフィンでさえ、聖なるおそれに自らのおも(面)をおおうところの至聖全能にして、みいついとも高い御者である。それは永遠のみ言葉、万事について御父と等しい天主の御ひとり子であって、聖母の汚れない御手だけがこれに触れることのできたいとも清い御肉と御血とである。この聖体を、冒瀆者はあえてけいべつし、汚辱するのである。彼らはユダよりも罪が深く、刑吏よりものろわしい。今日のように聖体の冒瀆が広く行われている以上、世界に平和がなく幸福のないのは、少しも怪しむに足りない。

 信心深い信者たちよ、いつも償いをしよう。主は日夜聖体の中で冒瀆されていたもうから、日夜聖体を礼拝する人の数を増加するようにしよう。

 祈願 私の救い主であるイエズスよ、私は、主が祭壇上で、信者と自称している人々から、絶えず多くのはずかしめを受けられているのを見て、ふさわしい償いを御身におささげしようと望む。慈悲と愛とに満ちた主よ、御身を聖ひつの中に閉じこめている大いなる愛が、いずこにおいても出あわれる冷淡と無関心とを許したまえ。御身の受けられる無礼とけいべつとを許したまえ。御身の受けられるはずかしめと冒瀆とを許したまえ。

 愛すべき救い主よ、私の兄弟と私とを許したまえ。それは私自身たびたび侮辱するからである。私もまた不敬虔に祈り、罪に汚れた心の中に御身をお受けした。慈悲とあわれみとの泉である主よ、さらに再び私を許したまえ。

 今ここにささげる償いを受け入れ、私のすべての過去の罪を許したまえ。

 いとも尊き大祭司、私のたすかりのいけにえよ、私は、御身に私の心をささげたてまつる。願わくは、これを受けて絶対の君主として統治したまえ。

 御身の奥義中のいとも尊き奥義に対する私の信心を日々に増し、御身ととともに生きることを最大の喜びとならせたまえ。

 御身を賛美し、御身を愛し、御身に感謝する機会を、ひとつなりとも決して失うことのない決心を、今、諸天使の前にささげたてまつる。願わくはこれを祝福したまえ。
 御身の恩恵によって、私を聖体のふさわしい礼拝者として、力のあるかぎり御身のみ栄えを増す幸福をえさせたまえ。アーメン。

 実行 祈りと善業とをする際に、聖体に対しての侮辱と冒瀆とを償う心を忘れないようにすること。
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天主である聖体 : 聖体は至聖なる秘跡である

2018年09月26日 | カトリックとは
天主である聖体


聖体は至聖なる秘跡である

 礼拝 聖体は、ホスチアの陰に、実際に、真実に、実体的においでになる天主にして人なる私たちの主イエズス・キリストである。

 ホスチアの中においでになる主の神性を礼拝しよう。聖体は天主である。限りなく完全な霊、天地の創造主、万物の支配者である。

 聖体の中においでになる主の人性を礼拝しよう。主のご肉身、御血、聖心、ご霊魂を礼拝しよう。

 聖体の中に主が人としてまことに生きておいでになることを確信しよう。主は単に記念あるいは象徴としておいでになるのではなく、ペルソナ的にまことにおいでになる。

 主が、あなたの天主、あなたの救い主、あなたの目的、あなたのいっさいであることを告白しよう。そしてあなたが主の被造物、主の従者、主のしもべであることを認めよう。ベトレヘムでのマリアとヨゼフとにならって、また天にある天使らにならって主を礼拝しよう。主の実在を信じ、主の権力に服し、主のみ旨に自己をゆだねることを約束し、自己を全く主にささげ、永久に主に忠実であり主を愛することを誓わねばならない。

 感謝 聖体はあなたにとって限りないあわれみの主である。聖体はあなたの大恩人であって、あなたはすべてのたまものを聖体から受けている。あなたが悪魔の手のとりことならないように、また少しの危害も受けないように、あなたを守りたもうのは主である。主はあなたを愛し、あなたを守護し、あなたが主を愛さないときにも、無数の恩恵をあなたに与えつづけてくださる。ああ主の慈愛のいかに深いことよ。

 聖体は、あなたのために生まれ、あなたのためにおなくなりになった救い主である。主が聖体をお定めになったのは、主のご生涯とご死去との功徳と効果とをすべてあなたに与えられるためであった。主は聖体の中において、へりくだられ、また必ずお受けになる迫害もいとわず、この方法によってあなたのもとに来られ、あなたに御身を与えて、どのようにあなたをいつくしみになっているかをお示しになったのである。

 主に感謝しよう。ご慈愛を祝福し、聖体の中で、あなたにすべてを与えられたことを感謝しよう。いとも熱き愛のほのおに焼きつくされた聖心、あなたのために開かれた聖心を仰いで、聖母、聖ヨゼフ、天国の天使聖人らといっしょに主を愛し、主に感謝しよう。
 
 償い 聖体はいとも恐るべき御稜威の主にましますと同時に、また愛すべき御あわれみの主である。まことに聖にして聖そのものにまします主のみ前にひれ伏し、あなたが罪と汚れに満ち満ちていることをけんそんに告白しよう。主に対する愛のために、過去の罪科をすべて忌み嫌おう。また、罪の償いとして日々の労働と、苦痛と、わずらいとをおささげしよう。

 イエズスは償いの供物として、聖体の中においでになり、カルワリオ山上の犠牲を継続し、ミサ聖祭をもってその功徳を全世界に分けてくださる。だから、この祭りをあなたとあなたの家族とあなたの同胞との罪のためにささげ、あらゆる罪人のために祈ろう。

 主はこのようにあわれみに満ちておられるのに、聖体の中にあってどのようにそむかれ、あなどられていられるだろうか。いかなる汚聖が現在実際に行なわれているだろうか。あなたはすべてこれらの事がらを思い出して、傷つけられた主の聖心を慰めるために心のかぎり主をお愛ししなければならない。主のみそばにいて、主をお愛し申しあげることを告げよう。

 しかし、主に対する人間の忘恩を少しでも少なくするため、なによりもまず第一に、かりにどんなに軽い小罪であっても、罪であることを知っているかぎり決してこれを犯さないと決心し、このことを主に約束しよう。そして、カルワリオ山で聖母がおしのぎになった御悲しみを主にささげ、また主の祭壇が人々から忘れられていることを嘆く天使らに、心を合わせるようにしよう。

 祈願 聖体はお恵みに富み、御あわれみに豊かな主である。だからあなたは聖体に向かって、あらゆる善の源なる最善の父に向かうようにふるまうのである。主は、ひたすらあなたを愛しておられるから、あなたを造り、あなたを守って、いつでも必要な助けを与えようとその機会を待っておいでになる。そしてあなたの肉体についても、また霊魂についても、精神についても、あなたについても、またあなたの親しい者についても、いっさいをあなたのためにはからい、万事についていとも尊い配慮をめぐらされる。なぜなら、主はあなたの永遠の救霊のために流された尊い御血をお思いになられるからである。

 これをもってイエズスを通じて、またイエズスのみ名によって天主に祈ろう。祭壇の上においでになる主は天主と人との仲介者、天主のみ前にあなたのために祈りたもう弁護者にてましますのである。

 次に善をなしつつガリレアの地を行きめぐり、すべての悩む者をお恵みになった主の聖心に御あわれみを願い、信仰をもって熱心に祈ろう。あなた自身は、きょうから恩恵の御助けによって救霊を全うするために力を惜しまないことを約束し、その実行をまじめに計画しよう。まことの祈りとはこのようなものである。

 あなたの愛している者、および、あなたの祈らなければならない人々のためにも、熱心に主の御慈悲を願おう。煉獄にいる霊魂も忘れないように。イエズスをあがめ、イエズスを慰めるために主にささげた尊い一時間の終わりには、あなたは必ず主の聖心に対して大いなる力をもつようになるであろう。

 最後に聖時間の免償を得るために、教皇のご意向に従い、五度ずつ主禱文と天使祝詞とを唱えよう。そしてひれ伏して主の掩祝を願い、この一時間を主とともに過ごして強められ、あたためられたあなたの霊魂をたいせつに胸にしまって退出しよう。

 実行 聖体のみ前に出たときには必ず深い尊敬の念を抱くように。
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聖体の制定された理由 : 聖体は私たち各自に対する主の変わらぬ愛のあかしである

2018年09月25日 | カトリックとは
聖体の制定された理由


聖体は私たち各自に対する主の変わらぬ愛のあかしである

 礼拝 聖体の中にまします主イエズス・キリストを仰いで感謝し、賛美し、礼拝して、聖体がここにおいでになるのは、ある意味で全くあなたひとりのためであることをさとること。これはまことに不思議なことで、地上での主の慈愛の極みである。主が私たちに、これよりもっと親密に、もっと完全に主と一致することを許してくださるのは、天国以外にない。キリストがこれによって実際に、そして完全に、私たち各自に尊い御からだをお与えになることができるというのが、聖体の特徴であり、ねらいどころであり、目的であった。

 だからトリエント公会議は、聖体は主の愛のあふれであると教えた。その意味は、ちょうど高い崖からこんこんと湧き出る泉の水が谷間をうるおすように、ご托身の際の救い主の愛が、聖体によっていや増し強められて、私たちに及ぶということである。

 聖トマはこの事実を『み言葉が人となりたまいて、世界の全体にもたらされたすべての恩恵を、聖体は人間のひとりひとりに別々に与えたもう』といみじくも言いあらわした。なるほど、この秘跡を想起することによってはじめて私たちは『主はわれを愛して、わがために御自らを与えたまえり』との聖パウロの言葉の意味をさとることができる。

 カルワリオの頂で、主は一度死にたもうただけである。しかし聖体を拝領するたびに、主のご死去の効果は私たち各自にわかち与えられる。私たちが主を受けるとき、私たちはもはや主がたしかに私たちのものであることを疑うことはできない。私たちは主をもち、主を捕え、私の胸の中に抱いてしまう。主は私の愛のとりこである

 聖体拝領台で主と私との親しい会見がはじまる。しかし御からだを私に与えられることは決して主の義務ではないから、この御恵みが純粋に主の愛から出たことは明らかである。主はちょうど私たち各自が主の限りない愛の唯一の対象であり、主のご受難の目的のすべてであるかのように、私たちひとりひとりを愛してくださる。

 この驚くべき愛の証拠に感じ、イエズス・キリストを礼拝しよう。

 いと高き無限の御者、天地の主宰者が、天からくだってあなたのために聖体となり、あなたのもとに来て、あなたの中にはいり、あなたのため、虚無であるあなたのために、あなたの過去現在の過失をいやそうと、あなたに御身を与えたもうからである。聖体を拝領するとき、主は全くあなたのものとおなりになるから、世界にはただ主とあなただけしか存在しないのである。

 上記の事実、この親しい一致が、いとも感嘆すべき、いとも玄妙な聖体の奥義である。

 感謝 イエズスが聖体を私たち各自に与えられるその大いなる慈悲に感じ、聖心の限りない愛を感謝しよう。

 聖心は私たちの心を知っておられる。主は至上の愛の要求が、完全で直接な贈り物、親密な一致であるのを知っておられる。主は私たちと別々に一致し、各自にたまものを与えなければ、主がいかに激しく私たちを愛したもうても私たちの満足をかち得ないだろうとお考えになった。これによって慈愛深い救い主は私たちのために生まれ、私たちのために死し、私たちのためにいっさいをお尽くしになったのに、なおそのうえに私たちのひとりひとりに、各別にご自身を与えて、その愛を完成されたのである。

 主は私たちの性質、境遇、使命、必要、困難、誘惑、試練の違うままに、それぞれ違ったお恵みを与えて、主がどんなに私たちにとってなければならない御方であるかを知らせようと望まれた。実に、かずかぎりない多くの霊魂の中に、全く等しい霊魂はひとつとして存在しない。だからこれらすべて相異なった霊魂のひとつひとつの要求に応じて、それに適した祝福を与えなければ、愛の勝利を得ることができないわけである。これが救い主のなされたところである。すなわち聖体をふやして、これを私たち各自の養いとなさるのも、ただ私たちの完全な愛を得ようとされるからである。

 だから感謝し祝福しよう。主のご慈愛がいかに深いかをさとろう。かつてさばくの中で、数千のイスラエル人のかてとして与えられたマンナよりも、はるかにすぐれたたまものである聖体は、最後の晩さんの時から最後の審判の日に至るまで、人生のさばくをさまようかずかぎりない群衆の、そのひとりひとりの望みに応じて与えられるのである。
 
 償い 与えられたご恩の大小に応じて感謝の程度も異なり、たまものによって感謝の方法も変化するのが当然ではないだろうか。もしはたしてそうであるなら、イエズスが私たちを別々にいつくしみたまい、私たちひとりひとりをその愛の対象となさったから、私たちもまた他の何ものをも顧みないで、ひたすら主だけを愛する全き愛、特別な愛をもって、主の愛にこたえなければならないであろう。だから、主が私たちを愛される聖体の中で、私たちも主をお愛ししよう。私たちが失敗して悲しむときにも、成功して喜ぶときにも、また働いて苦しむときにも、いつも聖ひつのみ前に走り出て、主に私の愛をあかし、心を打ち明け、主のみ名を賛美しよう。

 私たちは、まるで見知らぬ神に対するように、莫然として主に仕え、聖体に対して少しの親しみも示さず、被造物に対してあふれるばかりの愛情はあっても、主に対しては冷淡であり儀礼的であったり、ただ利益のためか、恐怖のためにだけ主を愛しているか、これが、あれほどまでも惜しげなく、あれほどまでも激しく、私たちを愛し、ついにご自分さえも私たちにお与えになった愛すべき救い主に対する返報であろうか。この世の親子、友だち同志であっても、もっとこまやかな愛情を私たち相愛しているではないか。主にとって私たちはいっさいであるのに、なぜ私たちにとって主がいっさいではないのだろうか。あなたは恥知らずだ、赤面すべきだ。私たちの心はそれほどまでに鈍いのだろうか。このように愛してくださる主を、なぜこのようにわずかしか愛さないのか。
 
 祈願 イエズスを親しくお愛しする恩恵を熱心に請い求めよう。親しく愛するとは、イエズスをイエズスのために、あなたの心のすべてを傾けつくしてお愛しすることなのである。

 常に主を思い、胸の中にたいせつに主を宿し、主のために働け。主のため、主の愛のため、主の聖心にかなうため、主に光栄を帰すために万事をなすように。また、常に主がおいでになる聖堂を訪れることを喜んで、できるだけ多くの時間を主のみ前に費やすように。友は相ともにとどまることを好むが、どれいや召使は用事があるときにしか主人の前に出てこない。用事がすむと自分のへやに引きさがることを好むものである。聖体の秘跡によって私たちの友となることを望まれたイエズスに対して、私たちの方でむしろ主のどれいとなり召使いとなろうとしているのは、主のご好意を無にすることではないだろうか。主の御喜びは人の子とともにおいでになることである。だから私たちもまた主といっしょにいることを私たちの幸福としなければならない。ああイエズスよ、私の最上の友よ、どのような被造物よりも大いなる愛をもって私をお愛しになる友よ。私もまたすべてにこえて御身を愛したてまつる。これこそ私の神聖な、そして同時に最も幸福な義務である。

 実行 愛によって聖体の中においでになるイエズスを思い、聖体により頼み聖体に祈願しよう。 
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