Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

私は御身を信じ、礼拝し、希望し、御身を愛します!御身を信じぬ人々、希望せず愛さぬ人々のために、赦しを求めます(天使の祈)

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
2018年 8月の聖伝のミサの予定
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】


8月
聖母の被昇天を祝いましょう。
意向:聖母の汚れなき御心の凱旋のため
実践すべき徳:心の柔和と謙遜
守護の聖人:聖母の汚れ無き御心

愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)にご招待します

◎2018年 8月の予定
【大阪】聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂(アクセス EG新御堂4階 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 〒532-0002
(JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分)

    8月3日(初金)聖霊降臨後の平日(4級)
            午後5時半 ロザリオ及び告解 
            午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

    8月4日(初土)証聖者聖ドミニコ(3級祝日)白
            午前10時 ロザリオ及び告解
            午前10時半 ミサ聖祭(歌ミサ)

    8月11日(土)~15(水) 聖母小黙想会 (毎日午後) 
            午前10時 ロザリオ及び告解
            午前10時半 ミサ聖祭(歌ミサ)

    8月17日(金) 証聖者聖ヒヤチント(3級祝日)白
            午後4時半 ロザリオ及び告解 
            午後5時 ミサ聖祭 
            午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

    8月18日(土)聖母の土曜日(4級)白
            午前8時 ミサ聖祭
            午前10時 ロザリオ及び告解
            デ・ガラレタ司教様による堅振式
            午前10時半 ミサ聖祭(歌ミサ)

    8月22日(水)聖マリアの汚れ無き御心(日本では1級祝日)白
            午後5時半 ロザリオ及び告解 
            午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

    8月31日(金)証聖者聖ライムンド・ノンナート(3級祝日)白
            午後5時半 ロザリオ及び告解 
            午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

【東京】東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図) 「聖なる日本の殉教者巡回聖堂」
    8月5日(主) 聖霊降臨後第11主日(2級)緑 
            午前10時  ロザリオ及び告解
            午前10時半  ミサ聖祭(歌ミサ)

    8月6日(月) 私たちの主イエズス・キリストの御変容(2級祝日)白
            午前7時 ミサ聖祭

    8月19日(主)聖霊降臨後第13主日(2級)緑  
            午前8時 ミサ聖祭
            午前10時  ロザリオ及び告解
            デ・ガラレタ司教様による堅振式
            午前10時半  ミサ聖祭(歌ミサ)

    8月20日(月) 教会博士大修院長聖ベルナルド(3級祝日)白
            午前7時  ミサ聖祭
            午前7時45分  ミサ聖祭

愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております。

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聖霊降臨後第十三主日(二級祝日 典礼色:緑)のミサ聖祭の固有文をご紹介いたします

2018年08月15日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
聖霊降臨後第十三主日(二級祝日 典礼色:緑)のミサ聖祭の固有文をご紹介いたします。

【解説】信仰と洗礼とによって、われらは、天主の契約にあずかる者となった。しかし、未だにわれらは世間にひきずられ、たえずおびやかされている。天主が、われらをあわれみ、われらを見捨て給わぬようにと祈る。〈入祭文、昇階誦〉 
天主が、われらのうちに、信望愛の徳をつよめ〈集禱文〉われらをますます天的なものとする天のパンを与え給うように。〈聖体拝領誦〉

Dominica Decima tertia post Pentecosten 聖霊降臨後第十三の主日
II Classis 二級祝日
Ant. ad Introitum. Ps. 73, 20, 19 et 23. 入祭文 詩篇73ノ20、19、23
Réspice, Dómine, in testaméntum tuum, et ánimas páuperum tuórum ne derelínquas in finem : exsúrge, Dómine, et iúdica causam tuam, et ne obliviscáris voces quæréntium te. 主よ、御契約を思い出し、貧しい者の霊魂を永久に忘れ給うな。主よ、起って、御身のことを審(つまびら)き、御身をさがし求める者の叫びをきき給え。
Ps. ibid., 1. 詩篇73ノ1
Ut quid, Deus, reppulísti in finem : irátus est furor tuus super oves páscuæ tuæ ? 天主よ、なにゆえわれらを永遠に見捨て給うのか。なにゆえ、御怒りを、主の牧場の羊に向け給うのか。
V/.Glória Patri. V/. 願わくは聖父と・・・(栄誦)。
Réspice, Dómine, in testaméntum tuum, et ánimas páuperum tuórum ne derelínquas in finem : exsúrge, Dómine, et iúdica causam tuam, et ne obliviscáris voces quæréntium te. 主よ、御契約を思い出し、貧しい者の霊魂を永久に忘れ給うな。主よ、起って、御身のことを審(つまびら)き、御身をさがし求める者の叫びをきき給え。
Oratio. 集祷文
Omnípotens sempitérne Deus, da nobis fídei, spei et caritátis augméntum : et, ut mereámur asséqui quod promíttis, fac nos amáre quod prǽcipis. Per Dóminum. 全能永遠の天主よ、われらのうちに信・望・愛の徳を増し、主の約束し給うたものをわれらに与え給うよう、われらに主を愛させ給え。天主として・・・。
Léctio Epístolæ beáti Pauli Apóstoli ad Gálatas. 使徒パウロの、ガラツィア人への書簡の朗読
Gal. 3, 16-22. ガラツィア 3ノ16-22
Fratres : Abrahæ dictæ sunt promissiónes, et sémini eius. Non dicit : Et semínibus, quasi in multis ; sed quasi in uno : Et sémini tuo, qui est Christus. Hoc autem dico : testaméntum confirmátum a Deo, quæ post quadringéntos et trigínta annos facta est lex, non írritum facit ad evacuándam promissiónem. Nam si ex lege heréditas, iam non ex promissióne. Abrahæ autem per repromissiónem donávit Deus. Quid igitur lex ? Propter transgressiónes pósita est, donec veníret semen, cui promíserat, ordináta per Angelos in manu mediatóris. Mediátor autem uníus non est : Deus autem unus est. Lex ergo advérsus promíssa Dei ? Absit. Si enim data esset lex, quæ posset vivificáre, vere ex lege esset iustítia. Sed conclúsit Scriptúra ómnia sub peccáto, ut promíssio ex fide Iesu Christi darétur credéntibus. 兄弟たちよ、さて約束は、アブラハムとその子孫にされたものである。聖書は複数として「子孫たちに」とはいわず、単数の形で「子孫に」といっている。この子孫はキリストである。で、私はこういう。天主があらかじめ定められた遺言は、四百三十年後にできた律法によって廃止されず、したがって約束も無効になることはない。もし遺産が律法によるのなら、約束によってくるのではない。しかし天主がアブラハムをよみされたのは、約束によってであった。それでは、なぜ律法があるのか?それは、違反あるがために加えられたもので、約束された子孫が来られる時までのものであり、天使たちによって、仲立ちの手をとおして布告された。しかし、片一方だけの場合には、仲立ちというものはありえない。そして天主は唯一である。それなら、律法は天主の約束にもとるものか?決してそうではない。命をあたえる律法が出されたとすれば、実に、義とされるのは、律法によってであろう。しかし聖書は、すべてのものを罪の下に閉じこめた。それは、信仰をもつ人たちが、イエズス・キリストへの信仰によって、約束の恵みを受けるためであった。
Graduale. Ps. 73, 20, 19 et 22. 昇階誦 詩篇 73ノ20,19,22
Réspice, Dómine, in testaméntum tuum : et ánimas páuperum tuórum ne obliviscáris in finem. 主よ、御契約を思い出し、貧しい者の霊魂を永久に忘れ給うな。
V/. Exsúrge, Dómine, et iúdica causam tuam : memor esto oppróbrii servórum tuórum. V/. 主よ、起って、御身のことを審(つまびら)き、下僕らに向けられる侮りを思い出し給え。
Allelúia, allelúia. V/. Ps. 89, 1. アレルヤ、アレルヤ。V/.詩篇89ノ1
Dómine, refúgium factus es nobis a generatióne et progénie. Allelúia. 主よ、主は、世々に、われらの避難所となり給うた、アレルヤ。
+ Sequéntia sancti Evangélii secúndum Lucam. ルカによる聖福音の続誦。
Luc. 17, 11-19. ルカ17ノ11-19
In illo témpore : Dum iret Iesus in Ierúsalem, transíbat per médiam Samaríam et Galilǽam. Et cum ingrederétur quoddam castéllum, occurrérunt ei decem viri leprósi, qui stetérunt a longe ; et levavérunt vocem dicéntes : Iesu præcéptor, miserére nostri. Quos ut vidit, dixit : Ite, osténdite vos sacerdótibus. Et factum est, dum irent, mundáti sunt. Unus autem ex illis, ut vidit quia mundátus est, regréssus est, cum magna voce magníficans Deum, et cecidit in fáciem ante pedes eius, grátias agens : et hic erat Samaritánus. Respóndens autem Iesus, dixit : Nonne decem mundáti sunt ? et novem ubi sunt ? Non est invéntus, qui redíret et daret glóriam Deo, nisi hic alienígena. Et ait illi : Surge, vade ; quia fides tua te salvum fecit. そのとき、イエズスがイエルザレムに行くために、サマリアとガリラヤとの間を通りかかられ、ある村におはいりになったとき、十人のらい病人にであわれた。かれらは、はなれた所に立ちどまり、「イエズス、先生、私たちをあわれんでください!」と大声でいった。かれらを見たイエズスは、「あなたたちの体を司祭に見せにいけ」とおおせられた。かれらは、そこに行く間になおった。そのうちの一人は、自分がなおったのを見ると、大声で天主をたたえながら引き返してきて、イエズスの足もとにひれ伏して感謝した。これはサマリア人であった。イエズスは、「なおったのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この他国人のほかには、天主をたたえるために引き返してきた人はないのか!」といい、そして、その人に向かって、「立っていけ。あなたの信仰が、あなたを救った」とおおせられた。
Credo 信経
Ant. ad Offertorium. Ps. 30, 15-16. 奉献文 詩篇30ノ15-16
In te sperávi, Dómine ; dixi : Tu es Deus meus, in mánibus tuis témpora mea. 主よ、私は主に希望し奉る。主こそ私の天主であり、私の生命は主の手中にある、と私はいおう。
Secreta. 密誦
Propitiáre, Dómine, pópulo tuo, propitiáre munéribus : ut, hac oblatióne placátus, et indulgéntiam nobis tríbuas et postuláta concedas. Per Dóminum. 主よ、願わくは、御民をいつくしみ、御民の供物を受け入れ給え。これによって御心をなだめられ、われらにゆるしを与え、われらの願いをききとどけ給わんことを。天主として・・・。
Præfatio de sanctissima Trinitate 三位一体の序誦
Ant. ad Communionem. Sap. 16, 20. 聖体拝領誦 智書16ノ20
Panem de cælo dedísti nobis, Dómine, habéntem omne delectaméntum et omnem sapórem suavitátis. 主よ、御身がわれらに与え給うのは、天のパンである。そこにはすべての楽しみと甘みとがある。
Postcommunio. 聖体拝領後の祈
Sumptis, Dómine, cæléstibus sacraméntis : ad redemptiónis ætérnæ, quǽsumus, proficiámus augméntum. Per Dóminum. 主よ、願わくは、天の秘蹟を拝領したてまつったわれらを、永遠のたすかりの道にすすませ給わんことを。天主として・・・。
コメント

ドイツ パルツハムの聖コンラード修士(St. Conrad of Parzham)の伝記(続き)

2018年08月06日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

独逸パルツハムの聖コンラード修士の伝記の続きをご紹介いたします。

【東京では8月12日の午後6時にミサが追加されました!】

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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 彼は如何なる仕事をも之を聖化するという術(すべ)を知っていた。最も卑しい働きも「天主の御名に由って」と云う射禱と共に一息毎に高き目的へと高められ運ばれて行った。「祈祷と労働」とが一つの流れに合流して流れ、そして、彼の働きと彼の全生涯とは間断(たえま)なき天主への讃美、天主への永続奉仕と化していたのであった。

 聖務日課や共同で誦える口祷の貴いものであることを見たが、日中は務めのためそれ等の仲間入りをする事が出来なかった。それで非常な疲労を感じながらも、真夜中の朝課には生涯の最後の日まで一度も欠かさずに出席していた。これは大きな苦業であった。何故かと云うと、平常(ふだん)は十時前には決して床に就かない。時にはもっと遅るる事もあるので、玄関の呼鈴はやっと睡眠(ねむり)に入ったか入らないかの彼を呼び起こすことさえ稀でなかった。その上長年(ながねん)の間、朝課の後にはもう再び床に入らず、亡くなった修士達の墓のある聖堂の中で夜を祈り明していたが、長上(めうえ)から禁じられて止めた。

 日中一寸(ちょっと)した暇がある時は、修院の階下の小部屋に身をかくして、其処から聖堂が見えるので、御聖体を拝礼していた。しかし彼は職務中にも決して祈りを止めなかった。彼と一緒に暮らした人々が度々見ることの出来た様に、どこにいても、部屋の中(うち)か外か、勤務中か休憩中を問わず、何處にあっても祈っていた。斯くして彼の生涯は絶え間なき祈祷(いのり)であった。

 ギルベルト修士は彼に就いて次の様に語っている。「或日(あるひ)聖修士が夜更けに聖アレクシウスの聖堂の床に倒れているのを見た。眠さと過労の為め疲れに負けてしまったのであった。後日(ごじつ)他(ほか)の修士が彼に頭の傷はどこで作(こしら)えたのかと訊ねると、彼は正直に眠って倒れたのだと答えた。

 何處でもいつも熱心ではあったが、彼が特に好む場所があった。それは聖アレクシウスの小部屋と、地下室に在る亡くなった修士等の墓、憐れみの聖母の像のある聖堂、血の流れているキリストの十字架のある自分の小部屋、殊に聖母に捧げられた聖堂が一番好きであった。すべて是等の場所は皆、彼の熱心な祈を直接目撃していたのであるから、言葉あらば、それについて多くを語り得たであろう。

 彼は又特別の愛情を込めてご苦難の救い主を尊敬し奉っていた。毎日十字架の道行を為し、こう書いている、「十字架は私の書物である。十字架を一目見ると私が瞬間毎に如何に振舞うべきかを教えて下さる。其処で、私は、万事(すべてのこと)が十字架によって忍耐強く謙遜になれることを学びます。そして苦しみが却って甘美にそして軽く感じられるまでになります。」

 祈祷(いのり)と労働(はたらき)と苦しみとが41年余りの聖コンラードの修道生活を満たした。間もなく彼の休みの時を告げる天のラッパが聞こえるであろう。

 75歳の時、突然重い病にかかった。皆は彼の死を予感したので、彼が病床から聖堂の聖母の祭壇を見ることの出来る様にと他の小部屋に病室を移した。苦痛が酷いにも拘(かかわ)らず彼の顔には常に喜びが溢れていた。

 最後が又、実に立派なものであった。歓喜(よろこび)に満たされた、幸福な最後であった。

 彼の愛する聖母(みはは)の御像から目を離したかと思うと、彼は其の時から永久に彼の御やさしき聖母と再び一緒に在ることが出来たのである。時は1894年4月24日であった。

 1934年の聖霊降臨の大祝日に、永遠の都ローマに於いて、聖なるコンラード修士の荘厳なる列聖式が執行(とりおこな)われた。(終了)

 ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇ 

重大な苦難に際して 聖修士コンラードの助けを求むる祈

聖なるコンラード修士よ、御身は聖にして犠牲に充ちたる生活によりて、今永久に、天(あま)つ故郷(ふるさと)にて、天主の御(み)すがたを目前(まのあたり)に見奉りて楽しみ給ふ。又、栄光(さかえ)の冠は天使の群の中に、御身の徳の報(むくい)として御身の上に在るなり。御身は我等すべての信者等より愛され給ふ。我等の中(うち)、多くの者は、御身の取次の功力(くりき)に、大いなる信頼を置き、既に彼等の祈祷(いのり)の聞き入れられしこと数多し。故に最(いと)も善良なるコンラード修士よ、我が此の重大なる困難に当(あた)りて我を顧み、憐み深き天主の玉座の御前にて我が為に取次ぎ給へ。御身が嘗(かつ)て此の世に在りし時、総べての必要応じて、出来得(できう)る限り、人々を助け、慰め、励ますことを以て、御身の唯一の喜びと為し給ひしを思い給へ。天国にても御身の特性は変る事なく、却って御身の愛徳が愛そのものにて在(ましま)す御者と一致し給ふが故に、我等に対する愛の理解力も情(なさけ)も弥(いや)勝(まさ)るなり。イエズスの御許にて我が為に取次ぎ給へ。御身は救主(すくいぬし)の御苦難を最(いと)もやさしき情(こころ)もて敬ひ、又御聖体の中の聖主(みあるじ)への訪(おとづ)れは地上に於ける御身の楽園なりしなり。イエズスは御身の願(ねがひ)を決して軽んじ給ふことなかるべし。聖母は尚のことなり。何故なれば御身は聖母の忠実なる僕にて在りしが故なり。聖母は御身の願に御自らの願をも合せ給ふ。然(しか)れど我は、総べてに於て只管(ひたすら)主の御思召(おんおぼしめし)のみを望み主の聖心を喜ばせ参せし御身の愛と忠実さとを以て、主の御旨に我が身を委(まか)せ参らせむと望み奉る。されど現在(いま)の我が苦難(くるしみ)に当りて、我は必ずや御身の助けと慰めとを受け得(そ)むことを信じ且つそを希望し奉る。我は主の御掟(おんおきて)を己(おの)が行為(おこない)の鑑(かがみ)と為す眞(まこと)のキリスト信者の生活を営みて御身に感謝を表し度(た)き心なり。聖コンラード修士よ、我は我が苦しみに於て御身が我が助け手となり給はんことを御身に希(こいねが)ひ奉る。
主禱文………………

 ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇ 

苦難に於て忍耐を得るための祈

 十字架にかかり給へる救主(すくいぬし)よ、主は御身の僕コンラードに、聖なる十字架の玄義を表し給へり。この貴き十字架こそは彼が忍耐、謙遜及び総べての徳を学びし彼の書物なりしなり。我にも彼の取次によりて十字架の聖(とうと)さを知り、これを愛し、忍耐もて我が罪の償(つぐのひ)となし、生涯の苦難を甘んじて堪へ忍ぶやう誨(おし)へ給はん事を、偏(ひとへ)に希(こいねが)い奉る。
 主禱文………………

聖コンラード修士に対する九日間の祈

 最(いと)もやさしき聖コンラード修士よ、我は御身と共に天主の御霊威を恭しく礼拝し奉る。主の御慈悲が御身が現世(このよ)に在(いま)しし間に惠み給へる数々の御恩寵と死後に与え給ひし永遠の光栄(さかえ)とを心より慶び奉る。又、我は御身に切に願ひ奉る。我にも聖なる生涯及び幸福(さいわい)なる死の惠を得しめ給はんことを。聖主(みあるじ)は御身の御取次によりて此の願を必ずきき入れ給はんと信ずるが故に、我は今、此の難儀(なんぎ)に際して御身によりすがり奉る。然(さ)れど此の願(ねがい)の天主の御光栄(みさかえ)と我が霊魂に障害(さまたげ)となるものならば、希(こひねが)はくは我が救霊(たすかり)に適ふべき他の惠を与え給はん事を。
(この祈りは毎日其日の祈に合せて誦へる)


第一日目
 聖なる修士よ、御身は幼き時より天主をよろこばせ奉れり。そは天主が御身を母の胎内より特に選み給ひしが故なり。我は天主の此の御身に対する御寵愛を喜び、御身と共に主に感謝し奉る。而して御身の聖徳の功力によりて、我にも此の選まれし者の中に属する惠を得しめ給はん事を偏(ひとへ)に希(こいねが)い奉る。聖主(みあるじ)よ、主の僕(しもべ)聖コンラード修士を重んじて今我が願ふ祈をきき入れ給へ。我自らの徳には頼り得ざれば彼(か)の聖なる修士の懇願に依りて我を助け給はんことを希願(こいねが)ひ奉る。

第二日目
 諸徳の泉、清き霊魂に愛され給ふ御者、且(かつ)悪魔の最(いと)も強き勝利者に在(ましま)すイエズスよ、いと弱き我に御憐みの眼(まなこ)を注ぎ給へ。聖母及び主の僕聖コンラードの御取次によりて、罪悪(つみ)の快楽(たのしみ)を軽んじ、天上の富を愛せん為め、御身の惠を与え給へ。我をして犯せる罪を深く悔み、誘惑(いざない)に打ち勝ち、徳の道を歩み、終まで忠実に堪え忍ばしめ給はん事を只管(ひたすら)に希願(こいねが)ひ奉る。

第三日目
 嗚呼(ああ)天主、独り御身をのみ愛せんとの正しき意向(こころあて)を我が心の中(うち)に見給ふ上智・賢明に在(ましま)す主よ、我れ偏(ひとへ)に希(こいねが)くは、聖コンラードの取次によりて、我をして常に又総べてに於て、主の聖旨(みむね)を悟らしめ、雄々しき心もて之を完(まった)うし、以て主の御光栄(みさかえ)を挙げ、我が救霊(たすかり)を成就し、主の聖旨(みむね)を忠実に果す者に約束せさせ給ひし天国の永福を得しめ給はんことを。

第四日目
 嗚呼(ああ)主よ、我が生命(いのち)は例へ如何なる境遇にあろうとも常に御身のものなり。然(さ)れば我れ聖コンラードと共に言わん、「主よ我は御身の僕とならん」と。而して主が我に与え給ふもの或(あるひ)は人々が我に為す総べては御身の御業(みわざ)、御身が斯く為すべく許し給ふ事なりと常に考へんと欲す。主よ聖コンラードの心を我に与え給へ。主よ、御身が彼に求め給ひし総べての犠牲を捧げつくせし彼の寛大なる心、困難に際して挫けざる雄々しき心、且つ有害なる情欲の何物にも繋がれざる自由なる心を、我にも与え給はんことを切に希願(こいねが)ひ奉る。

第五日目
 聖コンラードよ、御身は幼き時より心の清浄無垢を保たれしに尚も苦業・犠牲・自己放棄の厳しき道を歩め
り。これ我にとりて最(い)と善き模範にこそ。そは天主、我にも犠牲を求め給へばなり。主は我に主の十字架を下し、我が情欲の苦き盃(さかづき)を飲ましめんとて其を与え給ふ。然れば聖コンラードよ、我をも、御身に倣いて、苦業と自己放棄の峻(けわ)しき道を雄々しく犠牲心もて歩ましめ、我を助けて此の惠を得しめ給へ。

第六日目
 最(いと)も愛すべき聖母(みはは)マリア、御身はいと汚れなく、上智なる天主の宿らせ給ふ生(い)ける聖櫃に在(ましま)し給ふ。めでたき哉(かな)天地の元后よ、御身の忠実なる僕(しもべ)聖コンラードの取次によりて我にも眞(まこと)の上智を与え給はんことを御身に願い奉る。
 御身が愛し、教え、導き、育て、護(まも)り給ふ御身の特に愛し給ふ子供の中(うち)に我をも加え給へ。そは聖なるコンラードの如く御身を見出すは、生命(いのち)、超自然の聖寵の生命(せいめい)、完全なるキリスト教的生命(せいめい)、又、天の諸聖人等の生命(せいめい)を見出すことなればなり。
 
第七日目
 聖コンラードよ、御身は統べての犠牲と困難に際し、御身の務(つとめ)を忠実に果さん為に聖体のイエズスの中に力と勇気とを求められたり。十字架への一瞥(いちべつ)、ミサ聖祭、聖体拝領、之等(これら)又、御身が一切の苦しみを和(やわら)げたり。我も御身の模範(かがみ)に倣いて、イエズスを御身が愛せし如く深く愛せしめ給へ、十字架を観想し聖体を敬い尊ぶところに、我が唯一の慰安(なぐさめ)と扶助(たすけ)とを見出すことを教へ給はん事を希(こいねが)い奉る。

第八日目
 聖コンラードよ、我をして幸(こう)にも不幸(ふこう)にも、悩みにも喜びにも、我が心に天主への愛の焔(ほのお)を燃(もや)さしめ給へとの我が祈を、御身は必ずきき入れ給ふべきを我は信ず。今日(こんにち)よりは我が聖主(みあるじ)の愛より何物も我を引き離す事あらざるべし。この地上の苦難に於て、「天主を愛する者にとりては、総べて益ならざるは無し」との言葉の幸(さち)を味はしめ給へ。嗚呼(ああ)、天主をのみ愛せば最早(もはや)我を害する何物も在らじ。そは総べては我にとりて善に化すべければなり。如何に頼もしき事ならずや。

第九日目
 聖コンラードよ、我にとりて最上(さいじょう)の惠(めぐみ)は死に至るまで忠実に堪へしのぶ恩寵(めぐみ)なり。そは天主は最後まで熱心に保つ者にのみ永遠の生命(いのち)の冠を与えんと約束し給へばなり。御身はこの世にて堪えさる心戦と熱心なる祈とによりて光栄(さかえ)の冠をば獲得し給へり。然れば我が生命(いのち)の流転の中に我をも励(はげま)し、特に今乞い願ふ所の惠(めぐみ)を得しめ給へかし。我をして常に罪を避け、一生涯、死に至るまで、天主に忠実に仕え奉らしめ給はん事を偏(ひとえ)に祈り奉る。
(をはり)

コメント

ドイツ パルツハムの聖コンラード修士(St. Conrad of Parzham, O.F.M. Cap., Hl. Bruder Konrad von Parzham)

2018年08月03日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ドイツ パルツハムの聖コンラード修士(St. Conrad of Parzham, O.F.M. Cap., Hl. Bruder Konrad von Parzham)についてご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)





 ドイツのバイエルン州の最も豊饒な土地の一つであるロット川(Fluss Rott)の谷間の一村に、極く質朴な村民が住んでいた。彼らの目附きはすっきりと澄んで、心は如何にも素直で飾気なく、新奇な物にはすぐに心を引かれると云う様な特徴をもっていた。祖先の遺風はどこまでも尊重し、昔から伝えらえて来た伝説や旧慣(ふるいならわし)等を、他ではめったに見られない程の忠実さを以て守り通していた。又その上、彼等村民の心には、真(まこと)の信仰が根ざしていたので、カトリック教会の熱心な信者として如何なる場合にも彼等の熱烈な信仰を表している。

 この村民の一人が私共の物語の主人公なる聖修士で、彼は1818年パルツハム(Parzham)の小さな村の「ヴェヌスホフ Venus-Hof」と呼ばれる農場の地主であったビルンドルフェル(Bartholomäus Birndorfer)の十二人の子供の十一番目の息子であった。洗礼のとき、ヨハネ(Johann)と命名された。小さいヨハネが生い立って行ったこの家庭には、キリスト教的精神がただよっていた。朝夕は家中そろって祈を為し、主日祝日を祝い貴(たうと)び、その他聖(とうと)い秘蹟に度々与っては幼子の心も日々養われて行ったのであった。毎年、大天使聖ミカエルの祝日から御復活祭までは、家族そろって毎晩、ロザリオを誦えるのであった。家には六人の下男がいたが、皆子供達と同じ様にかわいがられた。家の中には常に秩序と整頓がある様に努め、一人も不真面目な者がいるような事を許さなかった。斯様にしてヴェヌスホフの土地は、経済的に宗教的に困難な問題が国家に襲いかかっていたその時代に、安全な要塞となり、そこには他の多くの地方のように、信心、労役、質素、純なるドイツ魂とキリスト教的家庭の精神等、美しい雰囲気が漲っていた。

 金髪の青い目の小さなヨハネは、至って信心深い、静かな子供であった。余り無邪気なので、皆は彼を「小さな天使」と呼んでいた。(„Der Birndorfer Hansl ist ein Engel“, sagten die Leute.) 毎日どんなにひどい雨でも、大風でも、家から可成遠いヴェンク(Weng)と云う村まで、御ミサに与りに行った。又彼は幼い頃から聖母マリアに孝愛の情を表していた。ロザリオの祈りは彼を日々天の聖母に親しく一致させた。学校へ行く道には彼の小さな手の中に自分の宝の如くロザリオをかくして、騒がしい友達等から離れて、一人静かに誦えるのであった。もっと後になって、彼が立派な青年になってからも、農場で仲間の者が皆一緒に集まって仕事の疲れを休め、互いによろこび興ずる休憩時間に、誰にも気づかれずに静かに、ロザリオの宝石(たま)が我等のヨハネの豆の出来た手から滑り落ちて行ったのであった。

 青年ヨハネはバイエルンの有名な巡礼地アルテッティング(Altötting)へ屡々参詣した。彼は家で祈るよりは此の聖所で天の聖母(みはは)に祈る方が聖母(せいぼ)にもっと近く在る様に感じ、従って聖母からお恵みを受けるにもっと有効だと考えた。そしてこの天の元后への彼の心の捧げを外部の目に見える奉献によって尚一層確証する為にとて、彼は1843年、アルテッティングの聖母会に自らの名を記名して、聖母の子供となった。

 青年ヨハネの厳格な苦業の生活は遊んだり煙草をふかしたり御酒を飲んだりして主日や祝日を過ごしていた同年輩の仲間の青年たちの生活に合わなかった、日増しに彼等の反感を招く様になった。最も軽率浮薄な者等は口をそろえて彼の信心を嘲り、彼の家の下男等が前にいるのもかまわず、皮肉な戯談(たわむれごと)を彼に吹きかけたりした。然しいくら何と云われても、彼は平静を保っていて、誰も彼をその目的からそらす事が出来なかったので、間もなく嘲弄も止み、遂にはこの労働と祈祷と苦業と慈善とがよく結合されている徳高い百姓の青年の生活に感心し、褒めそやす程までに至った。

 1840年から41年まで、彼はイン川(Fluss Inn)の流れるアイゲン市(Aigen)の巡礼所に居た。ドウリンゲール霊父を指導者と仰いで、毎週か一週間おきに、彼の元へ告解をするため又良き勧めを受けるため、五時間もかかる道程をも厭わず訪ねて行った。一生を修道士として天主にささげようという彼の希望(のぞみ)はその頃から起り、日増しに加わり、アルテッティングのカプチン会修院の労働修士として身を捧げるまではじっとしていられなかった。遂に望は聴き入れられて修院に入り、名もヨハネを変え、コンラードと呼ばれる事になった。

 この修士は世間にいる時から既に修道生活を営んでいたようなものである。今までの彼の沈黙と大斎、小斎、祈祷(いのり)、及びその他の己に対する如何にも厳格な鍛錬生活によって、世の総べての罪の危険に在りながら、洗礼の時の清浄無垢を保つ事が出来ているのであるから、修道生活の厳しさにも容易く慣れた。然し、たった一つまだ専心修養を積まなければならない点があった。それは己れの遺志の放棄であった。今までは自分の思うままに何でも行っていたが、これらは聖書の「他の者汝に帯して、好まざる所に導かん」との言葉が実現されなければならなかった。

 相当の年輩になってから修院に入り、しかも世間にいる時から既に徳にすぐれた信心深い生活を送っていた者には、普通有りがちの事であるが、新しい生活に入っても、今までやってきた信心業や、他にも何か妙な癖をもっていて、それを取除くのはなかなか骨の折れるものである。彼にもこの事が烈しい心の戦の機会を与え、多くの償いとはずかしめとを齎(もたら)す原因となったとはいえ、彼の仲間の修士等は皆、彼は修練期間にも非常に熱心であったと云っている。

 三年の試練機関に長上者(めうえたち)はコンラード修士の精神と彼の自然的傾向とを充分に調べた。

 既に彼は34才にもなっているのであるから、世間ならば立派な一人前の男とみなされるはずであるが、然し修院では、未だ何と云っても初心者、見習の取扱しか受けられなかった。その上、彼が誓願を立てて後、修院長が彼をアルテッティングの聖アンナ修院の門番の役を命じたので、尚お妙に思う者もあった。

 此の役目は毎日あらゆる階級の人と交渉を持たなければならない。なぜかというと、この有名な修道院の玄関には、ひっきりなしに沢山の人達が押し寄せて来るのであったから。その中には、巡礼者も、乞食も、貴族も、平民も、老若男女、貧富貴賤を問わず我も我もと玄関へおしかけるのであった。この様な総べての人達にコンラード修士は対応しなければならないのであるが、それには、非常に賢明な分別と手腕(うで)とが必要で、のみならず多大の犠牲心をも有合(もちあわ)せなければならなかった。可愛相に、31年ものあいだ、静かな片田舎のパルツハム村に住んで、人々との交際を常に避けて、修道院の隠れた孤独に憧れていたこの気の小さい農夫のコンラードは、生憎と彼の性質に全く反対な仕事、騒がしい商売の様な事務の真中に置かれたのであった。偉大な事を為さしめんが為に屡々弱い者を選び給う天主は、斯くお計らい給うたのである。コンラード修士は、これからはこの修院と世間との間の用務に携わらなければならないのであった。この仕務(つとめ)こそは、彼自身にとっては非常に辛いものであったが、世の人の為には多くの祝福を齎すものであったのである。彼は天主と隣人とへの愛の使徒たるべき者であった。彼の姿を見ただけで人々は尊敬の念を起し、罪人は改心し、貧乏人は慰め助けられ、不幸な者には希望を呼び起さしたのであった。かくして彼は沈黙の説教家となったのである。

 初めアルテッティング修院の玄関番の役にあてられると云う通知を受けた時、彼は一時は強い恐怖感に襲われた。然し長上(めうえ)の命令に対して忠実に、少しも躊躇うことなく、この新しい務めに立ち向かった。この恐怖感なるものは彼が新参の玄関番として是から打ち克って行かなければならぬ総べての困難に対する予感であったと推察されるのであるが、その困難と云うのも、務めそれ自体に対するそれではなく,寧ろ長上(めうえ)や修院の他の修士達から生ずるものであった。

 彼のこの務めは隣人への奉仕に於いて己れを全く犠牲にする事であって、最大の努力を要するものであった。修院を訪れる多数の訪問者を丁寧に迎えたり、商人等に対する勘定の支払、通帳の控え、又は多くのミサ謝礼を記載したり、後援者から寄付を受けたり、告解や霊的相談をしたいと願う人の為に各々(めいめい)の望に応じて霊父を呼びに行ったり、或は貧乏人にパンを与えたり、種々様々の用事が彼を求めていた。彼は此のために間断なく修院内を往き来した。こうした終日の烈しい労働にぐたぐたに疲れるのであったが、それでもいつも喜んで聖修士は自分の尊い役目を完全に果たしていた。

 七時の夕食の後、コンラード修士は聖アレキシウスの部屋に黙想しに行くことになっていたのであるが、この間こそ彼の真の慰安(なぐさめ)の時で、此の避難所で彼はゆっくりと愛する聖主のお側で身心を休めることが出来た。然しその時でさえ玄関の呼鈴はおかまいなく鳴る事があるが、それでも彼は忠実に急ぎ馳せつけるのであった。然し冬期は八時に、夏期は九時に、修院と聖堂の門が閉じられるので、それからは一日の疲れの後に思う存分祈祷(いのり)に耽る事が出来た。この時は最早誰も彼の祈を邪魔する者がないので、彼は聖なる黙想を充分に満足するまで長く続けていた。夜中に修士等が朝課(ちょうか)を誦える為に起きる頃には、こんにちは!ちゃんと先に聖堂に行っていた。彼は非常な疲労の為に鐘が聞こえないことがあり得るのを恐れて、当番の者に皆よりニ三分前に彼を起してくれる様にと頼んであった。然し大抵の時は当番が起しに来る前に目ざめていて、その親切に対して「有りがとう」といつもやさしく返礼した。そして夜明けの三時半には又もう起床しているのであった。というのは聖堂係りの修士が少し体が弱かったので、これに代って教会の入口を開ける為で、後引続き自分の玄関番の務めにかかるのであった。

 斯うして役目を果たしながら短気も起さず、常に忍耐心を保つことは彼にとって決して容易な事ではなかった。

 殊に乞食の群にとり囲まれたり、子供達がパンをもらいにやって来たり、果ては聖堂巡礼者等が到着して、どっと押寄せる時など真(まこと)に以て困難な時であった。一人はミサを頼みたいと云う、一人の巡礼は蝋燭とロザリオとメダイを祝福してもらいたい、三人目のは某(それがし)霊父に面会を申し込む等、銘々がそれぞれ異(ちが)った事を云うのである。

 それを彼は一々皆を満足させなければならないのである。しかし勤勉な玄関番はそれを自分のつくすべき義務と考え、あくまでも忠実につとめた。仲間の修士ギルベルトは彼と一緒に同じ務めに当っていたが、次の様に彼について語っている。

「年々歳々幾千もの人が修院の玄関へ押掛けて来るのであるが、有(あ)らゆる種類の人がいて、中には無作法や横着な貧乏人等もいて、乱暴な振舞いを彼に見せる事もあったが、私は長年の間に一度でも彼が怒ったり興奮したりするのを見た事がなかった」と。

 手仕事を途中で何度遮(さえぎ)られても彼はいやな顔一つ見せず、忍耐強く人の云う事を聞いてやり、親切な優しい調子で対応し、落ちついて仕事を続けた。これは己れを制し、天主をその中(うち)に有(も)っている魂の徴(しるし)である。此の様な人はめったにいるものではない。彼の此の従容(しょうよう)乱されざる如何にも温和な物腰が世人に大きな感銘を与えるのであった。人々が「あなたのところの玄関番は聖人ですね。どんな事があってもいつも落ちついていますよ。そしてけっしていらいらした様子を見せませんよ」と幾度口にしていた事であろう。

 コンラード修士は貧しい者に対しては真(まこと)の父の様であった。心からの喜びを以て、聖なる服従の誓願に背かない範囲で出来るものは之を皆彼等に分配していた。彼は非常に言葉数の少ない人で、彼を列福する為の調査中にも、一人の証人は彼についてこう云っている。

「毎日一緒に働いていた間、用事で二人は話をしなければならないのであったがそれでも百度も話したかどうか疑われる程無口な人であった。天主の僕コンラードは、一見して近寄れぬ一種の威厳の如き性質(もの)を有(も)っていた。が、それにも拘らず私には少しも厭な感じを与えなかった。今から考えてみるとそれは彼の一つの大きな徳の宝の様に思われる。この性格は世間の人達との交際、特に女性との応対に於いて大いに助けとなったにちがいない。」

 此の聖修士を知っている人達はいずれも、彼の深い沈黙について語り、愛徳に背くようなことを口にするようなことは、決してなかったと云っている。

 聖コンラードの生涯は毎日々々が同じ様な平凡な日の連続であった。祈祷と労働、来る日も来る日も、肩の上に同じ重荷を負うて暮らせば、大抵の人は気が弛み、緊張を欠き、果ては怠惰に流れ、不機嫌にもなり勝ちなものである。しかるに此の聖なる修士は41年間というもの、彼の任務(つとめ)の重みを終始一貫些(いささ)かも変るところなく一つの愚痴さえこぼさず、他に何の野心を抱くこともなく、周囲の者が皆驚嘆する程の喜悦(よろこび)をもって此の務めを果たしたのであった。鐵の如き忍耐力と不平を云わずに己を棄てること、―之こそは人間の強い意志の二つの大きな特徴なのである。

 聖コンラードに於いても同じで、最(いと)も高き御者に対する完全な奉献によって、彼の愛を証拠だてる堅固な意志は、彼に、最後の一息までも、断固たる決心と不動性とを与えたのであった。実に彼は一生を天主への全き奉仕に委ねてしまっていた。そして只天主の中に天主の為のみに生きていた。このことの故に、いと高き所より、恰(あたか)も電流が機械を動かす如く、力強い惠(めぐみ)の扶助(たすけ)が彼を動かしていたのであった。

「独逸バルツハムの聖コンラード修士」より

アルテッティンの聖母よ、われらのために祈り給え!
聖コンラードよ、われらのために祈り給え!
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今日、8月1日は初水曜日(月の初めての水曜日)です「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」

2018年08月01日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日、8月1日は初水曜日(月の初めての水曜日)であります。

「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想することをご提案します。



なぜなら、聖ヨゼフはこの世で天主イエズス様と浄配なる聖母マリア様を最も良く知り、愛された御方であり、その隠れた徳ゆえに偉大なる御方、イエズス様とマリア様の最大の命の恩人であられました。

また、聖ヨゼフは、この世では、全てを天主の栄光のために、隠れてその生涯をささげられたが故に、天にて聖母の次に最大の栄光をあたえられていらっしゃいます。

聖伝では、水曜日は聖ヨゼフに捧げられた曜日であり、月の最初の水曜日を聖ヨゼフに捧げることで、聖ヨゼフを讃え、その御取次に信頼し、その御徳に倣って、聖ヨゼフを通して、天主イエズス様とマリア様をお愛しすることができますように。

初土曜日の「聖母の汚れ無き御心」への信心にならって、この「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」のどれかを「15分間黙想」することにいたしましょう。

聖ヨゼフの帯の信心については、下記リンクをごらんください。
聖ヨゼフの帯 cingulum Sancti Joseph

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖ヨゼフの7つの苦しみと喜び

1 ああいと潔き御母マリアの浄配、栄えある聖ヨゼフよ、御身のいと清き妻を失なわんと心に思い煩いし時の苦しみはいと大いなるものなりき。
されど天使が御託身の玄義を御身に伝えられし時の喜びは、またひとしお大いなりき。この苦しみ、この喜びにより、今も臨終の時も我らの心を潔き良心の喜びと、イエズス、マリアのうちに自我を滅する尊き御身の心を示し、我らを慰め給え。



2 ああいと幸いなる保護者聖ヨゼフよ、御身は人となり給いし御言葉の潔き養父の位にあげられたれども、御身は幼きイエズスがいと貧しき中に生まれ給うを見て大いに悲しみ給いしが、
天使らのたえなる歌声を聴き、その輝ける夜の栄えを見給うや、その悲しみは天的の喜びと変じたり。御身のこの悲しみ、この喜びによりて、我らもまたこの世の歩みを終えたる後、天使らの賛美の歌声を聴き、天的光栄の輝きを受け得んことを願い奉る。



3 ああ御摂理にいと従順なしもべなる、栄えある聖ヨゼフよ、幼きイエズスが割礼にて流されたる尊き御血は御身の心を苦痛もて貫きたれども、
イエズスと命名されるや御身の心は喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らをこの世の悪徳より離れしめ、イエズスのいと尊き御名を心から唱えつつ心満たされてこの世を去るを得しめ給え。



4 ああいと忠誠なる聖ヨゼフよ、御身は救世の玄義の成就に身をもって大いなる役を果たされしが、シメオンの預言によりイエズスとマリアが受け給うべき苦難を予知せられ苦しみ給いたれど、
数限りなき人々の霊魂がこれによって救わるるとの預言によりて、天的喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らがイエズスの功徳と聖母マリアの御取次ぎにより、終わりなき栄えを得てよみがえる人々のうちに数えられる御恵みをとりなし給わんことを願い奉る。



5 ああ人となり給いし天主の御子のいとも注意深き保護者なる栄えある聖ヨゼフよ、御身はいと高きものの御子を養い給い、これに仕えるために多くの辛酸をなめられたり。わけてもそのエジプトへの逃避はいと苦しきものなりしが、
御身が常に天主御自身と共におられし喜び、またエジプト人らの諸々の偶像が地に落とされしを目の当たりに見られし時の安心はいと大いなりき。この御身の辛酸と喜びとによりて、我らが地獄的暴君より免れて、わけても危険なる機会より逃避する事を得しめ、我らの心のうちに地上的執着が落とされ、ひたすらイエズスとマリアに仕え奉りつつ日々の生活を送り、この世を幸いに終わる事を得しめ給え。



6 ああこの地上の天使なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の心を天の王に全く捧げられたり。御身がエジプトより戻られる喜びは、アルケラウスに対する憂慮にて不安の闇となりしが、
天使は再び御身にイエズスとマリアと共にナザレトにて楽しく住み給う事を約束せられたり。御身のこの苦しみ、この喜びによりて、我らの心を深い恐怖より免れしめ、潔き良心の平和を楽しみ、イエズスとマリアと共につつがなく世を送り、臨終においてはイエズスとマリアの御手に我らの霊魂を捧ぐる事を得しめ給え。



7 ああ全ての徳の鑑なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の誤りにあらずして幼きイエズスを見失い、三日の間苦しみもて捜し求められたり。
されど神殿の中に博士らに取り巻かれたるイエズスを見出されし時の喜びはいかに大いなりや。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らが大罪を犯しイエズスを失いたりせば、たゆまず彼を捜し求め、遂に再び巡り会えるよう、わけても臨終の時に彼と共にありて天国に至り、御身と共に天主の終わりなき御恵みを賛美し奉るようとりなし給わんことを心から願い奉る。



交唱 イエズスが教えをはじめたりしは三十歳ごろなり、人々、イエズスをヨゼフの子なりと思いたり。(ルカ3:23)

V 聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え。
R キリストの御約束に我らをかなわしめ給え。

祈願 天主、御身のかしこき御摂理のうちに祝せられたヨゼフを至聖なるマリアの浄配に選び給いたれば、願わくはこの世の我らの保護者として崇め奉る彼が、我らの天のとりなし手となり給わんことを。 アーメン。



英語ではこちら。
THE SEVEN DOLOURS AND SEVEN JOYS.

i. St. Joseph, pure spouse of most holy Mary, the trouble and anguish of thy heart were great, when, being in sore perplexity, thou wast minded to put away thy stainless spouse: but this joy was inexpressible when the archangel revealed to thee the high mystery of the Incarnation.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee comfort our souls now and in their last pains with the consolation of a well-spent life, and a holy death like unto thine own, with Jesus and Mary at our side.
Pater, Ave, and Gloria.

ii. St. Joseph, Blessed Patriarch, chosen to the office of Father of the Word made Man, the pain was keen that thou didst feel when thou didst see the Infant Jesus born in abject poverty; but thy pain was changed into heavenly joy when thou didst hear the harmony of angel-choirs, and behold the glory of that night when Jesus was born.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee obtain for us, that, when the journey of our life is ended, we too may pass to that blessed land where we shall hear the angel-chants, and rejoice in the bright light of heavenly glory.
Pater, Ave, and Gloria.

iii. St. Joseph, who wast ever most obedient in executing the law of God, thy heart was pierced with pain when the Precious Blood of the Infant Saviour was shed at His Circumcision; but with the Name of Jesus new life and heavenly joy returned to thee.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, being freed in our life from every vice, we too may cheerfully die, with the sweet Name of Jesus in our hearts and on our lips.
Pater, Ave, and Gloria.

iv. St. Joseph, faithful Saint, who wast admitted to take part in the redemption of man; the prophecy of Simeon foretelling the sufferings of Jesus and Mary caused thee a pang like that of death; but at the same time his prediction of the salvation and glorious resurrection of innumerable souls filled thee with a blessed joy.
By this thy sorrow and thy joy, help us with thy prayers to be of the number of those who, by the merits of Jesus and his Virgin Mother, shall be partakers of the resurrection to glory.
Pater, Ave, and Gloria.

v. St. Joseph, watchful Guardian, friend of the Incarnate Son of God, truly thou didst greatly toil to nurture and to serve the Son of the Most High, especially in the flight thou madest with Him unto Egypt; yet didst thou rejoice to have God Himself always with thee, and to see the overthrow of the idols of Egypt.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us grace to keep far out of the reach of the enemy of our souls, by quitting all dangerous occasions, that so no idol of earthly affection may any longer occupy a place in our hearts, but that, being entirely devoted to the service of Jesus and Mary, we may live and die for them alone.
Pater, Ave, and Gloria.

vi. St. Joseph, angel on earth, who didst so wonder to see the King of heaven obedient to thy bidding, the consolation thou hadst at His return was disturbed by the fear of Archelaus, but nevertheless, being reassured by the angel, thou didst go back and dwell happily at Nazareth, in the company of Jesus and of Mary.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, having our hearts freed from idle fears, we may enjoy the peace of a tranquil conscience, dwelling safely with Jesus and Mary, and dying at last between them.
Pater, Ave, and Gloria.

vii. St. Joseph, example of all holy living, when, though without blame, thou didst lose Jesus, the Holy Child, thou didst search for Him for three long days in great sorrow, until with joy unspeakable thou didst find him, who was as thy life to thee, amidst the doctors in this Temple.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee with our whole heart so to interpose always in our behalf, that we may never lose Jesus by mortal sin; and if (which God avert) we are at any time so wretched as to do so, that we pray thee to aid us to seek Him with such ceaseless sorrow until we find Him, particularly in the hour of our death, that we may pass from this life to enjoy Him for ever in heaven, there to sing with thee His divine mercies without end.
Pater, Ave, and Gloria.

Ant. Jesus Himself was about thirty years old, being, as was supposed, the son of Joseph.

V. Pray for us, holy Joseph.
R. That we may be made worthy of the promises of Christ.

Let us pray.
O God, who in Thine ineffable providence didst vouchsafe to choose blessed Joseph to be the husband of Thy most holy Mother; grant, we beseech Thee, that we may have him for our intercessor in heaven, whom on earth we venerate as our holy protector. Who livest and reignest world without end. Amen.
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【ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」】 結び

2018年07月23日 | カトリックとは
結びのことば

原罪のけがれに染まれない聖母よ、私はあなたの祭壇のまえで、このみすぼらしい著作をおえます。

いとも聖なる童貞マリアよ、私はあなたのお心のなかに、使徒職の完全な理想を見いだします。ちょうど、四世紀のビザンチンの彫刻が、それをみごとに表現していますように。その彫刻は、次のような構想です。


――聖母は、お胸のなかに、光につつまれた御子イエズスさまを、受肉されました天主の聖言を、愛情こめていだいておられます。御父が、御子をお生みになって、これを世におつかわしになっても、それでもいつもこの同じ御子を、ご自分の“ふところ”にいだいておられますように、聖母もご自分のお胸に、ひとたび世にお与えになったこの同じ御子を、おいだきになっておられます。

ロオルト・ド・フレウリー(Rohault de Fleury)の表現をかりて申しますれば、「救世主は、聖母マリアのお胸のなかに、光りかがやいていらっしゃいます。あたかも、ご聖体のなかで、そのお姿をかくす幕が破れたようなお格好で」« le Sauveur brille au milieu de sa poitrine comme une Eucharistie dont les voiles seraient déchirés ».

イエズスは、聖母のなかに、生きておられる。イエズスは、聖母の心である。聖母の呼吸である。聖母の中心である。聖母の生命である。これこそ内的生活のイメージである。
Jésus vit en elle. Il est son coeur, sa respiration, son centre et sa vie: image de la vie intérieure.

しかし青年となった天主は使徒職を行う。その態度、左手にもつ福音の巻物、右手でのジェスチャー、その眼差し、全ては主が教えていることを示している。聖母は主の御言葉に一致している。聖母の御顔は聖母ご自身もお話になりたいかのようである。聖母の両目は大きく開き、聖子を伝えることが出来る霊魂たちを探している。これこそ説教と教えによる活動生活のイメージである。

Mais le divin Adolescent exerce l'apostolat. Son attitude, le rouleau de son Evangile qu'il tient dans sa main gauche, le geste de sa main droite, son regard, tout indique qu'il enseigne. Et la Vierge s'unit à sa parole. L'expression de son visage semble dire qu'elle aussi veut parler. Ses yeux grands ouverts cherchent des âmes auxquelles elle puisse communiquer son Fils: image de la vie active par la prédication et l'enseignement.

聖母の手はカタコンベの壁画「祈る人たち」(オランテス)のように、あるいは、聖なる犠牲を捧げる司祭のように両手を広げており、特に祈りとイエズスの犠牲との一致によって私たちの内的生活も深まり、私たちの使徒職も実り豊かになると思い出させている。

Ses mains étendues comme celles des Orantes des Catacombes, ou du prêtre qui offre la Victime sainte, rappellent que c'est surtout par la prière et l'union au sacrifice de Jésus que sera profonde notre vie intérieure et fécond notre apostolat.

聖母は、イエズスから、イエズスによって、生きておられる。イエズスのご生命そのものによって、イエズスの愛によって、イエズスの犠牲との一致によって、生きておられる。イエズスこそは、聖母の生命であり、聖母はイエズスの保持者、イエズスの代弁者、イエズスの顕示台である。

最も卓越した事業のなかの事業である、使徒職にたずさわる霊魂も、ちょうど聖母のように、天主によって、イエズスによって、生きなければならない。そのとき始めて、天主について、効果的に説教をすることができよう。くり返していうが、そのとき始めて、外的生活は、かれの霊魂の秘奥に深くたたえられた内的生活の、自然の流露となるのだ。

Elle vit de Jésus, par Jésus, de sa vie, de son amour, d'union à son sacrifice, et Jésus parle en elle et par elle. Jésus est sa vie et elle est le porte-Verbe, le porte-voix, l'ostensoir de Jésus.

Ainsi l'âme vouée à l'oeuvre par excellence, l'apostolat, doit vivre de Dieu afin de pouvoir efficacement parler de Lui, et la vie active, répétons-le encore, ne doit être en elle que le débordement de la vie intérieure.

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第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見 (続き18)【ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」】

2018年07月22日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見(続き18)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見


五、使徒は、無原罪の聖母に対して、熱烈な信心をもっていなければならぬ。

(b)聖母マリアにたいする信心は、使徒職をみのりゆたかにするために、なくてはならぬものである

使徒職にたずさわる人が、人びとの霊魂を罪のドロ沼から引きあげねばならないとき、または、かれらの善徳の花々でかざらねばならないとき、そのような場合には必らず、聖パウロのように、“イエズス・キリストを、人びとの霊魂に生む”ということを、第一の目的としなければならない。ところで、ボスエ司教がいっているように、天主は聖母マリアのお手をへて、御子イエズス・キリストを、われわれ人類にお与えになった以上、この天主的秩序は絶対に、お変えにならないのである。――すなわち、聖母は、神秘体の頭なるイエズス・キリストを、お生みになったからには、その肢体も、お生みにならなければならぬ。この天主的秩序を無視して、聖母マリアを、使徒職から除外するなら、それは天主のご計画の本質的部分を、忘却することにほかならない。聖アウグスチノはいっている。

「選ばれた者はみな、この世では、聖母のご胎にかくされている。聖母のご胎においてこそ、かれらはよく保護され、よく世話を受け、すくすくと成長していく。これが聖母マリアのお務めである。そして聖母はこのお務めを、その子らの死んだのち、栄光の生命にかれらを生む日まで、お続けになるのである。」

シエナの聖ベルナルディノは、いっている。
「わが主のご托身いらい、聖母は、聖霊の地上におけるすべての使命にかんして、一種の管理権を天主から授けられた。この管理権の行使によって、いかなる被造物も、聖母のみ手をへないでは、一つの恩寵も、天主から賜わることは絶対にないのである」

聖母マリアへのまことの信心をもっている人は、聖母のみ心のうえに、全能にちかい力をふるうことができる。だから、聖母にたいして、まことの信心をもっている使徒なら、自分の使徒職の成果を、すこしも疑うことができない。救世主の尊い御血の分配者なる聖母マリアのお力を、自由に自分のものにし、意のままに活用することができるからである。

そんなわけで、罪びとを改心させることに定評のあった人たちはみな、聖母マリアにたいして、特別の信心をもっていた。罪の深淵におちこんでいる霊魂を、罪の絆から解放しようとするとき、かれらはいかに説得力に富む熱弁をふるうことか! かれらはあたかも自分自身が、罪びとであるかのように信じ込み、罪にたいする憎悪と清浄にたいする愛を、罪びとの心に吹き込むのに、どれほど雄弁であることか! 原罪のけがれなき聖母との、一致の生活を送っているかれらにとって、それはまた、なんと自然なことだろう!

先駆者の聖ヨハネは、聖母のお声を耳にしたればこそ、それによって、イエズスの現存を実感し、自分の母の胎内で、喜びおどったのではないか。聖母はどれほど力づよい雄弁を、ご自分の崇敬者たちに、お与えになることだろう。いままで氷のように固くつめたく閉ざされていた罪びとの心のとびらを、イエズスに向かって大きく開くために! 

聖母マリアにたいして、まことの信心をもっている使徒は、どれほど力づよく優美な言葉をもって、いままで恩寵を濫用しつづけてきた霊魂たちを、失望の深淵から救いだす、すべを心得ていることだろう! 

ここに、聖母マリアのことを知らない、一人の罪びとがいる。聖母の使徒はかれに、聖母マリアこそは、あなたのほんとうの母である、聖母マリアこそは、罪びとのよりどころである、と力づよくいいきかせる。罪びとはこのことを確信する。かくて、希望と歓喜の地平が、かれの眼前に展開するのだ。

アルスの聖司祭は、ときどき妙な罪びとたちに出あった。かれらは錯覚におちていて、聖母にたいして、ある外面的な信心をしてさえいれば、それでいい、心は平和だ、罪をおかしてもいっこう差し支えない、地獄の猛火もすこしも恐わくない、というぐあいに考えていた。これを知った聖司祭は、烈火のように怒り、かれらの信心が、慈悲の母なる聖母マリアにたいして、いかに冒瀆的であるか、かれらのおちっている錯覚から抜けでるために、どうしなければならないか、聖母マリアにたいするまことの信心とはどんなものか、ということを、強い語調で、かれらにいいきかせるのだった。

聖母マリアにたいして、あまり信心をしない使徒は、罪びとにどんな説教をしても、その語る言葉は氷のように、つめたい。熱もない。ちからもない。あわれな罪びとは、おぼれる者が一本のわらをつかむように、かれの説教に救いの期待をかけても、しょせん無駄なことだ。

使徒の心に聖母が生きているなら、かれは罪びとを改心させるための、まことの雄弁を修得する。そのとき使徒は、どんなに絶望的な罪びとでも、これをりっぱに改心させることができる。罪びとの霊魂の征服という、いちばんむずかしい使徒職は、聖母のお取り次ぎによらない限り、主はこれをお与えにならない。聖母と親密に生きている人いがいには、このお恵みを、だれにもお与えにならないのである。「聖母よ、主はあなたによってこそ、われわれのすべての敵を、お打ち砕きになります……」(典礼の祈り)

聖母にたいして、まことの信心をもっている使徒は、絶対に行き詰まらない。論戦においても、手段においても、創意においても。そして、最も絶望的な場合にも、かれはみごとに、弱い者を強め、悲しんでいる者をなぐさめることができる。

聖マリアの連禱に“よきすすめの御母”とあるのは、彼女の“恩寵の宝庫”(Cœlestium gratiarum thesauraria)と、いま一つ、“すべての憂うる者の御なぐさめ”(Consolâtrix universalis)との二つの称号に基づいている。よきすすめの御母なる聖マリアは、ご自分にたいしてまことの信心をもっている人にだけ、よいすすめをお与えになる。――あたかも、そのむかし、カナの結婚披露宴におけるごとく、力と喜びのぶどう酒を手に入れ、かつ、これを他の人びとにもわけ与えるための、秘訣となるよいすすめを!

だが、とりわけ、“人びとの心を魅了するおん者”« Ravisseuse des coeurs »と聖ベルナルドがお呼びしているこの聖母が、ご自分の信心者のくちびるに、火のような言葉をおのせくださるのは、かれが天主の愛について、人びとに語るときである。そしてかれが、聖母から霊感されて語るその言葉こそは、イエズスへの愛を人びとの心に燃えたたせ、そこにあらゆる善徳を芽ばえさせる。

使徒であるわれわれは、ピオ九世教皇が“司祭なる童貞女”とお呼びしたこの聖母を、熱情的にお愛ししなければならぬ。聖母のお位は、すべての司祭、すべての司教の位よりはるかに高い。
Apôtres, nous devons aimer passionnément Celle que Pie IX appelle Virgo sacerdos et dont la dignité dépasse en tout celle des prêtres et des pontifes.

われわれがもし聖母を愛しているなら、もしわれわれの事業を、聖母と共に始めたのなら、また、聖母と共にそれを継続しているのなら、無駄な事業というものは一つもないはずだ。げに、聖母マリアこそは、天主のみ国に関連のあるすべての事業において、その基礎であり同時に完成なのである。

だがしかし、ここに一考をうながしておきたい。――聖母マリアの祭壇を美しく飾りさえすれば、聖母マリアの讃美歌をにぎやかに歌いさえすれば、それで“聖母と共に事業をやっている”と信じてもいい、などと考えてはならぬことだ。聖母がわれわれからお求めになるのは、聖母にたいするまことの信心なのである。自分はたえまなく、常時に、聖母と一つ心になって生きている、自分はいつも聖母のみもとへ馳せていって、よいすすめを、おたすけを、ねがっている、自分の心のなかにある愛情はすべて、聖母のみ心をとおってきたものであるから、すべてが純潔である、自分の願いごとはすべて、聖母のみ手をへて、天主にまでのぼっていく、自分はこれらのことを確信している、といい切れるまでに、強い確信を心にもたせるような、それほどまじめな信心なのである。

だが、とりわけ、聖母がわれわれの信心に期待しておられることは、われわれがこの信心によって、彼女のすべての善徳を模倣すること、聖母が御子イエズスを、われわれに着せてくださるために、われわれが聖母のみ手に、身も心もすっかり委託すること、これである。

いつも聖母のみもとに馳せていく――というこの条件を果たすことによって、われわれも、かつてイスラエルの軍隊がデボラにいった次の言葉を、聖母にむかって申し上げることができよう。「もしあなたが、私とごいっしょに、おいでくださるなら、私は行きましょう。でないと、私は行きますまい」。このようにして、われわれはほんとうに、われわれのすべての事業を“聖母と共に”していくことができるのだ。そのとき聖母は、ただ事業遂行中の大切な、決定的な役割をもつ事がらばかりでなく、万事を――不意の出来ごとも、また、どんなに小さな事がらも――ご自分で、配慮してくださるのである。

聖母はまた、“イエズスの聖心の御母”とも呼ばれているが、この称号のなかに、聖母の他のいっさいの称号も、含まれているように思われる。この聖母と一つ心になって、使徒的事業にたずさわっていきさえすれば、われわれは絶対に、事業を誤る心配はない。その事業によって、自分の内的生活をそこなわれる気づかいはない。その事業の遂行によって、天主の光栄よりも自分の光栄を、求めるような愚を演じない。かえって、事業そのものが、われわれの内的生活を促進してくれる。かくて、聖母との一致もますます深まっていく。聖母との一致によって、御子イエズス・キリストを、永遠にわがものにする、という確信も、ますます深く強くなっていくのだ。
(第五部  終了)

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第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見 (続き17)【ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」】

2018年07月21日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見(続き17)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見


五、使徒は、無原罪の聖母に対して、熱烈な信心をもっていなければならぬ。

筆者は、聖母マリアに奉献された修道会である、厳律シトー(トラピスト)会の一員として、また、約半世紀にわたって、ヨーロッパの比類なき使徒としての盛名を馳せた聖ベルナルドの子どもの一人として、わが聖なる父ベルナルドについて一言しなければ気がすまないと思う。

聖ベルナルドは、おのれのイエズスとの一致における進歩をすべて、聖母マリアに帰していた。おのれの使徒職における成功もすべて、聖母に帰していた。

聖ベルナルドは、修道者の太祖といわれている聖ベネジクトの、最も卓越した子どもである。かれが、当時の民衆にたいして、王侯らにたいして、カトリック公会議にたいして、教皇たちにたいして、どれほど有力な使徒職を発揮したかは、万人のひとしく認めるところである。

聖ベルナルドを知る人は、みな一様に、かれの聖徳、かれの宗教的天才を称揚する。かれの深遠該博な,聖書知識をほめたたえる。聖ベルナルドは、“最後の教父”といわれているが、かれの著書には至る所に、聖霊の感動があふれている。

この卓越した教会博士に、もろもろの世紀がささげる最大の賛辞は、かれが“マリアの歌い手”である、ということである。そしてこれこそは、かれを他の教父たちと区別する特長とさえなっている。

マリアの歌い手! げに、聖ベルナルドは、聖母の栄光をうたったすべての人にもまさって、聖母の賛美をみごとにうたった。シエナの聖ベルナルディノ、聖フランシスコ・サレジオを始め、ボスエ司教、聖アルホンソ、聖グリニョン・ド・モンホールらは、聖ベルナルドの宝庫から、聖母マリアを賛美するための、豊富な材料を入手した。かれらは、聖ベルナルドが口ぐせのように強調していた、「いっさいの恩寵は、聖母の御手をへて、われわれに与えられる」という真理を、自分たちも更に解説し、敷衍している。

聖ベルナルドの左の一句は、とくに有名である。
「兄弟たちよ、天主は、私たちが熱烈な信仰をもって、聖母マリアさまを崇敬することを、どれほどお望みになることでしょう。天主は、聖母マリアさまのみ手に、あらゆる恩寵を、あふれるまでにお置きになりました。

私たちが、何かの希望をもっておりますなら、何かの恩寵を、何かの救霊の保証をもっておりますなら、それはみんな、恩寵に満ちみてるおん者――聖母マリアさまのみ手から、私たちの霊魂にそそぎ入れられたのである、ということを、かたく信じなければならないのです。

聖母は、この世を照らす太陽でいらっしゃいます。この太陽を、取り去ってごらんなさい。この世は、常闇(とこやみ)です。どこに光りがありますか。

聖母は、海の星でいらっしゃいます。浮き世――というこの巨大なわだつみの、その星でいらっしゃいます。この星を取り去ってごらんなさい。なにが残りますか。浮き世は、まっくらな闇に包まれます。死の影が、ふかい濃厚な闇が、そこには、ただようだけです。

ですから、私たちは、心の底から、はらわたをしぼって、そして熱烈な念願をかたむけて、この聖母を尊ばなければなりません。なぜなら、そうすることは、私たちがいっさいの恩寵を、聖母マリアさまのみ手をへて頂くようにとお定めになった、天主のご意志なのですから……」(『聖母のご誕生の祝日の説教』)

筆者は、右の教えを、心から信じる者である。だから、なんのちゅうちょもなく、こう断言することができる。――使徒が、もし聖母マリアにたいして、特別の信心をもたないなら、また、その活動もこの信心のうえに土台をおいていないなら、かれがどんなに懸命におのれの救霊のために、おのれの霊的進歩のために、おのれの使徒職がゆたかな実を結ぶために、どれほど必死に働いても、それは結局“砂の上に家を建てる”ようなものだ。

(a) 聖母マリアにたいする信心は、使徒にとって、かれ自身の内的生活のために極めて必要である

もし使徒が、聖母マリアにたいして、絶対的信頼をもっていないなら、その信頼にいっこう感激がともなっていないなら、また、かれの聖母マリアにたいする信心が、ただうわべだけのものに過ぎないのなら、かれの聖母信心は、十分に熱烈であるとはいえない。

御子イエズス・キリストがそうされるように、聖母もまた、われわれの心だけしかごらんにならない。われわれの聖母への愛が、聖母のわれわれへの愛に、強く応えるときにのみ、聖母はわれわれを、ご自分のほんとうの子どもとして、お受けになるのだ。

聖母マリアのほんとうの子どもとなるためには、その心が、天主の母であり同時に人類の母でいらっしゃる聖母マリアの、偉大な尊厳について、その特権、そのご使命について、強い確信をもっていなければならぬ。

もし、使徒の心が、右の真理を体得したら、おのれの欠点との戦いにおいて、あらゆる善徳の修得において、イエズスのみ国がおのれの霊魂に来たることにおいて、そして必然的に、おのが救霊と聖化の安全確保において、どんなにすばらしい成果を収めることができるだろうか。

聖母と共に、聖母と一致して仕事をするとき、内的生活のいとなみにおいては、すべてがいっそうやさしくなる。いっそう確実になる。いっそう甘美になる。いっそう迅速になる。――この真理を、使徒は心に銘記していなければならぬ。

使徒の心はまた、聖母への子たる信頼に波うっていなければならぬ。どんな出来ごとが、どのように起こっても、かれは自分の経験によって、聖母のおやさしさを知っている。ご愛情の深さを知っている。ご慈悲とご寛容を知っている。だから、すこしも悲観しない。

使徒の心はまた、聖母への愛にますます燃えて、かれのすべての喜び、すべての悲しみは、聖母に披歴され、すべての愛情は、聖母にそそがれねばならぬ。

このような心をもっている使徒は、さいわいである。かれこそは、本当に聖母の子どもだからである。そして、これらの心のすべてを、聖ベルナルドはもっていたのだ。かれの心は聖母にたいして、右にいった聖なる感動のしらべに、いつも鼓動していた。かれが弟子たちの前で、聖ルカ福音書の一節(受胎告知の記事)を解説するとき、その魂の秘奥からほとばしりでる感激のしらべについては、なにをいったものだろう。かれはこう叫んでいる。

「あなたは、浮き世の荒波にもてあそばれ、浮きつ沈みつしている。あなたは、たけりくるうあらしと暴風雨のまっただなかに放りだされ、陸地から遠く離れて、波間にただよっている。こんなとき、ああ、人よ、この星を眺めなさい、海の星を! 
あらしのなかで滅びないために、ぜひそうしなさい。
誘惑のあらしが、あなたのまわりに吹きすさぶとき、試練の波が、あなたの魂の小舟を海底に沈めようとするとき、ああ、人よ、この星をあおぎなさい。“マリア!”――と、ひとこと呼ばわりなさい。
憤怒と貪欲、邪欲と過激のあらしが、あなたの魂のもろい小舟を襲うとき、目をあげて、マリアを、あおぎなさい。
こしかたの罪とがの大きさに驚き入るとき、良心の恐ろしい傷に恥じ入るとき、天主のさばきの恐怖に心がわななくとき、あなたの魂は、悲愁と絶望の大海に沈もうとする。ああ、そんなとき、人よ、マリアを心に念じなさい。
危険にとりかこまれるとき、苦悩にあえぐとき、懐疑の雲が魂の空にひくく立ちこめるとき、ああ、そんなとき、人よ、マリアのことを考えるがいい、マリアのお助けを呼ばわるがいい!
マリアのみ名が、いつでも、どこでも、あなたの心から離れないように! 
聖母からききいれて頂くためには、彼女の生涯を、まねることを忘れてはならない。
聖母の後からついてさえいけば、道に迷うことはない。
聖母に祈りさえすれば、失望することはない。
聖母に目をそそいでさえいれば、わき道にはずれることはない。
聖母に支えてさえ頂けば、倒れる心配はない。
聖母に護ってさえ頂けば、なんの恐れるところもない。
聖母にお手ずから導いてさえ頂けば、疲れることはない。
聖母が慈悲のおまなざしをそそいでさえくだされば、あなたの霊魂は確実に、救いの港に到着することができるであろう……」

聖ベルナルドの、聖母についての教えをみごとに集約したものに、ルモー師の『聖グリニョン・ド・モンホールの学校における内的生活』があるから、聖母のほんとうの子どもとなるためには、右の本の教えにまさるものはないと思うゆえ、筆者は敬愛する同僚の聖職者諸賢に、この本を推奨してやまない。

聖アルホンソの著作といい、これを解説したデシュルモン師の著作といい、フェーバー師、ラ・サレット師、ルモー師らの著作といい、これらはいずれも、聖ベルナルドの聖母神学の忠実な解説であって、深奥な神学に基づき、感動にあふれ、実行的であり、したがって聖ベルナルドの持論であった、“いつも聖マリアのみもとに馳せていく必要と、聖母と一つ心になって生活する”ということを、読者の霊生に確立させるために、すばらしい効果がある。

最後に、聖女ジェルトルードが、親しく聖母のお口からうけたまわった、というお言葉を左にしるして、本項を結ぶことにする。
「私のいともやさしいイエズスのことを、福音書には、私の独り子とはいわないで、私の“初児(ういご)”と呼んでいる点に注意していただきたいのです。私が最初に、おなかに宿しましたのは、イエズスでした。しかし、その次に、いいえむしろ、初児のイエズスによって、私はあなたがたすべての人類を、私のいつくしみのおなかに宿したのです。――あなたがたすべての人類を、イエズスの兄弟となすために。したがって、あなたがたすべての人類を、イエズスによって、私の養子となすために……」

聖女ジェルトルードの著作には、その師父聖ベルナルドの精神が、力づよく脈打っている。とくに、聖母と一つ心になって生きる、という内的生活にかんして。
(五章 つづく)
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第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見 (続き16)【ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」】

2018年07月19日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見(続き16)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見


四、“心の取り締まり”は、内的生活の鍵である。ゆえに、使徒職には本質的な修業である

心の取り締まりの決心(3/3)

(Ⅳ)心の取り締まりの修業

悲しいかな、私は仕事のあいだ、ずいぶん長く、天主の現存の意識をもたず、天主が自分の霊魂に内住しておられる事実を、忘れて生活している。

悲しいかな、私はこのようにすっかり外面の世界に流された、うわべだけの生活をしているうちに、たくさんの過ちにおちいりながらも、それに気がつかないでいる。霊魂は、熱心であると思っても、それに不完全と、時には冷淡さえ混じていることに気づかないでいる。これからは、心の取り締まりの修業をして、この悪習をためなおさねばならぬ。きょうから早速、それに取りかかろう。

朝、黙想するとき、次のような決心をとる。この決心は、強固で具体的なもの、明確なものがなければならぬ。――仕事のあいだ、一定の時間をもうけて、その時刻のあいだは、天主のみ旨に成るこの仕事に、懸命に没頭する。同時に、できるだけ完全に、内的生活をいとなむ。心の取り締まりを実行する。すなわち、ああ、イエズスよ、あたかも私が、あなたのみまえにいるかのように、私自身の上に警戒の目を光らせる。あなたのみもとに馳せていって、助けをこい求める。“何事も、いちばん完全に果たす”という誓願を立てているかのごとく、できるだけ完全に、この仕事をなしとげることができますように。

朝と晩に、五分間、いや、それよりもっと少ない時間でもいい、一定の時間をもうけて、次の反省をし、決心をとる。――私は、この修業の長さよりむしろ、その完全さにねらいをおく。この修業が、ますますうまくいくように努力する。仕事のあいだは、たとえそれがどんなに多忙をきわめ、注意力を独占するものであっても、いや、そうであればあるだけ、私はいっそう精を出して、ちょうどどこかの聖人でもそれをしているかのような仕方で、この仕事をする。――純潔な意向によって。心の取り締まりによって。私の霊肉のすべての能力を、よくコントロールすることによって。りっぱな堂々たる振舞によって。……一言でいうなら、あたかもイエズス・キリストご自身が、もしこの仕事をなされたとしたら、こんな風になされたにちがいない、と思われるような仕方で。

これこそは、実行的内的生活の修業なのだ。
これこそはまた、私の放心、精神の散漫への、事実上の反抗なのだ。
私がほしいのは、イエズスである。
私がほしいのは、イエズスのみ国である。
私がほしいのは、私の霊魂の内部における、イエズスの支配である。

私がほしいのは、たとえ多忙をきわめた仕事の時間がやってきても、イエズスの支配が依然、私の霊魂のなかで持続されることである。霊魂は、カーテンがはずれて、冷たい外気が遠慮なくはいってくる。そのために、イエズスとの一致ができなくなる。イエズスのみまえにめざめていることが、祈ることが、惜しみなき奉仕をすることが、できなくなる。こういう不幸を、私はがまんできない。

仕事のあいだ、ちょっと霊魂の内部に、警戒の目を光らせる。霊魂の動き、行為の動機のうえに、しばらく反省のまなざしをそそぐ。不純なもの、いけないものがあったら、なさけ容赦なく、霊魂からしめだす。私の意志も、この短い間、私に協力して、完全な生活をいとなむためには、だれとも、何事とも安易な妥協はしない、障害物があったら遠慮会釈なくこれを排除する、と固く決心している。私の心もまた、私に加勢して、“聖人修業”をしている私が、どうかいつまでも根気強く、この修業を続けることができるように、とイエズスに祈る。

心の取り締まりの修業は、やり甲斐がある。それにはいつも喜びが伴っている。それをやれば、必らず心が大きくなる。むろん、心で、天主のみまえに長くとどまっているためには、また、私の霊魂の諸能力、すべての感覚から、不純なもの、あまりに自然なものを、みんな排除するためには、たえまなく自分を警戒し、自分を抑制していなければならぬ。だが、私はこのような、消極的修業にばかり満足してはいられない。

とりわけ、私はこの修業を、聖主への深い愛の獲得のために役立てたい。この愛があれば、私はまず純潔な意向のもとに、次に熱心とか没我とか、つねにまさりゆく聖主の奉仕への惜しみなき心とか、こういうものによって、“汝が現在なしつつあることをなせ”の教訓を、最大の注意をかたむけて実行するようになり、私のなす業に、大きな完全と価値を付与してもらえるからである。

夕がた、一般糾明のとき、(または特別糾明のとき、もしこの修業を糾明の題目にしているなら)、イエズスのおそばで、心の取り締まりにあてられた数分間を、どのように使ったか、について厳密な糾明をする。まずい成績だったら、自分に制裁を加える。小さな償いをかける。(たとえば、愛用のぶどう酒、またはおサケをすこし減らす。あるいは食後品に手をつけない。むろん、みんなの目につかないようにすることがカンジン。両手を十字架の形にのばして、短い祈りをとなえる。からだに軽いムチの一打ちか二打ちを加える。指のうえにかたい物をおいて、痛い思いをするなど)

もし私が、心の取り締まりの修業――つまり、活動的生活に内的生活を加味した、理想的な修業において、じゅうぶんまじめでなかった、じゅうぶん熱心でなかった、じゅうぶん祈らなかった、じゅうぶん乗り気でなかった、ということに気がついたら、いつも、右にいったようにしなければならぬ。

心の取り締まりの修業からは、どんなにすばらしい効果が生まれることだろう。心の取り締まりは、どんなにすばらしい聖徳の学校だろう。いままでは、それと気づかないで、平気でおかしていた多くの罪、多くの過ちが、心の取り締まりを実行してからは、どんなにハッキリ目につくことだろう。罪がふえたのではない。罪が目につくのだ。聖霊の光りに照らしだされて! 

ああ、祝福された、心の取り締まりの瞬間よ! それはすこしずつ、次の瞬間にも恵みの余波を伝える。しかし、私はこの瞬間にあまり長くとどまっていない。聖性の地平線がうすれようとするとき、仕事の遂行の完全性がそこなわれようとするとき、愛がその深さを減じようとするとき、そういうことが予感されるとき始めて、私は心を取り締まるために、必要な数刻を都合するであろう。

私は、量より質に、重きをおきたい。あとでは、わずか数刻の、心の取り締まりでは、どうも我慢できなくなる。私の霊魂は、現在この瞬間、どんなものだか、イエズスは私から、何をお求めになっておられるか――こういうことが、ハッキリわかるようになってからは、とくに習慣的な心の取り締まりに向かって、心は渇いていく。そしてすこしずつ、この修業になれてくると、やがて私は心の底から、心の取り締まりの必要を痛感し、その習慣を身につけるようになる。そしてイエズスは、完全にきよめられた私の霊魂のなかに、ご自分と私との一致の生活の秘訣を、お見いだしになるのだ。

(Ⅴ)心の取り締まりに必要な条件

私の日常生活のいとなみ――それは、多少けがれに染まっている。この事実を”確信“する。この確信があれば、私は自身にたいして、被造物にたいして、すこしも信用をおかない。悪魔は、この確信を、私から奪おうと、やっきになっている。この確信は、どうかしてイエズスのものになりきってしまいたい、との私の切望に基づいているから、次のようなりっぱな結果を生む。

まず、私自身に”警戒“を施してくれる。しかもこの警戒は、忠実なもの、正確なもの、静かで、おだやかで、天主の恩寵に信頼し、私の放心をなくし、自然の性急さをなくしてくれる。

それはまた、私の決心を”更新“してくれる。心の取り締まりの理想像に達しようと、一生懸命にたたかっている霊魂にたいしては、イエズスは至って慈悲深くいますゆえ、私をしてこの事実に信頼させて、倒れても倒れても、あらたに立ち上がる勇気をあたえてくれる。自分は単独でたたかっているのではない。イエズス・キリストが、自分にはついていてくださる。母なる聖マリアが、守護の天使が、もろもろの聖人が、私の味方になっていてくださるのだ――との信念を、ますます深めてくれる。天国の有力な味方が、毎瞬、私に加勢してくださる。もし私さえ、心の取り締まりを実行しているなら、もし私さえ、かれらの助けから身をそむけなければ――との信念を、ますます強固にしてくれる。

最後に、心の取り締まりの修業は、私をしばしば、そして熱心に、天主のお助けにおもむかせる。このお助けのおかげで、私は、天主が今私から、お求めになっていられることをする。天主がそれを、お望みになる仕方でする。さらに天主がそれをお望みになるから、自分もする、というぐあいに、一事が万事、天主中心の生活へと向上していくのである。

ああ、イエズスよ、このように心の取り締まりを実行して、私の心を、あなたの聖心に一致させますなら、私の生活はどれほど一新して、あなたのご生活に変容することでしょう。

私の知性よ、おまえは現在の業務に、全精力をうちこむことはできよう。だがしかし、私は経験によって知っているのだ。――ひじょうに多忙をきわめた人たちでも、そのなかには、仕事のあいだ絶え間なくイエズスに向かってあえいでいる、その心は絶えずイエズスと物語っている、感心な霊魂もいるのだ、ということを。私もこの人たちのようでありたい。どんなに忙しい仕事をしている最中でも、かれらのように、私の心も、たえまなく、イエズスに向かって、あえいでいたいものだ。

私は心から悟っている、――心の取り締まりは決して、私が現在果たさねばならぬ身分上の義務をりっぱに遂行するのに、私の霊魂の諸能力から、その自由を奪ってしまうものでない、ということを。それどころか、イエズスという愛のふんい気に、私の霊魂は絶えずひたっている関係上、精神はいっそう伸び伸びと自由になり、かくて私の生活は以前よりいっそう晴々しく、愉快になる。いっそう生気にみなぎり、充実したものとなる。

心の取り締まりを実行しているあいだに、私はけっして傲慢の奴隷となるのではない。利己主義の奴隷、怠慢の奴隷となるのでもない。わるい欲情と空虚な外来の印象の重圧下に、呻吟するのでもない。それどころか、かえって私は、いっさいの束縛から解き放たれて、ますます自由になっていく自分自身を見いだすばかりである。

そして、ああ、天主よ、この完成され理想化された自由を使って、私はあなたに、自分があなたに絶対に従属している、という事実を証明し、これをたぐいない礼拝のみつぎとしておささげすることができるのです。

このようにして、私は“まことの謙遜”の徳に、ますます強く固定されていくでしょう。この謙遜の徳に基づかないなら、内的生活はすべて空虚なもの、うわべばかりのものになってしまいます。かくて、私は心のなかに、あなたへの絶対従属の基本精神を、発展させることができます。この精神――この“天主への絶対従属”――こそは、われらの主イエズス・キリストのご生活の精髄にほかなりません。

ああ、イエズスよ、あなたの聖心の愛の炎に――天父のみ心をお喜ばせしようと、いつも気を配り、いつもそのことに忠実でいらしたあなたの聖心の愛の炎に、私も投げ込んでもらいたいものです。そう致しましたら、天国で、あなたのご光栄にもあずかることができましょう。謙遜と愛によって、あなたのご人性が天父にたいしてなされた、感嘆すべき絶対従属の報いとして、いま天国で享受されているそのご光栄にも! 「キリストはおのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。…それゆえに、天主はかれを最高に引き上げて…」(フィリッピ2・9)。
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第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見 (続き15)【ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」】

2018年07月16日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見(続き15)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見


四、“心の取り締まり”は、内的生活の鍵である。ゆえに、使徒職には本質的な修業である

心の取り締まりの決心(2/3)

(Ⅰ)心の取り締まりの必要
わが天主よ、あなたは“聖”そのものでいらっしゃいます。ですから、ある霊魂が、あなたとの親しい一致の生活にはいるためには、どうしても、自分の心をけがすものを、すべて滅ぼし尽くすか、またはこれを遠くに捨て去らねばなりません。けがれたものを離脱する努力の度合いに応じて、かれとあなたとの親密さは深さを増していきます。

そんなら、どんなことがあなたとの親睦を妨げるもの――したがって私が、それを遠くに捨て去らねばならぬ、または全く滅ぼし尽くさねばならぬもの――なのでしょうか。

あなたに心を挙げることを面倒くさがって、それをしない精神的怠け、被造物にたいする過度の愛着、粗暴、すぐに怒りやすいこと、うらみ、移り気、柔弱、あまりに身の安楽を求めること、正当な理由もないのに他人の過失を人前にあばくこと、放念、好奇心――こんなものは、あなたの光栄のためには、なんの役にも立ちません。

まだまだ、たくさんあります。――無駄口、おしゃべり、他人をみだりに審くこと、うぬぼれ、他人を軽べつすること、他人の行為をみだりに批判すること、他人から尊敬されたい、賞賛されたい、という動機から、ある仕事をする、自分のためになることなら、なんでもこれを人前に見せびらかす、自負心、頑固、嫉妬心、権威者への尊敬の不足、不平不満、飲食の不節制、などなど。こういうものは、たくさんの小罪を、たくさんの故意の不完全を私におかさせ,どれほどゆたかな恩寵を、私から奪ってしまうことでしょう。永遠の昔から、あなたが私に、お与えになろうと当てにしておいでになる恩寵を。

私は黙想をしている、私は典礼生活をいとなんでいる。――なるほど、そうだろう。それなのに、私の霊魂はいっこう、内部に沈潜しない。沈潜して、純然たる弱さのために心ならずもおちいる過ちを、できるだけ避けようと警戒しない。私の意志が、ある誘惑にあって、まさにくじけようとしている。勇気をふるって、早く立ちなおりたい。だが、だれも助けてくれない。不幸にも、過ちにおちいる。良心に制裁を加えようともしない。――こんな調子では、どうして、私は黙想をしている、典礼生活をいとなんでいる、といえるのだろう。そんなものをやっていたにしても、それが何になろう。無用の長物である。

ああ、イエズスよ、心の取り締まりが十分でないため、私はこのように、私の霊魂におけるあなたのおはたらきを、台なしにしているのです。

私はどれほどしばしば、ミサ聖祭にあずかり、聖体を拝領し、告解の秘跡を受け、そのほか信心の務めにもあずかることでしょう。私の救霊のために、あなたの摂理はどれほど特別の保護を、私に加えてくださるのでしょう。私の守護の天使のご保護については、なんといったものでしょう。ああ、聖母よ、あなたの慈しみ深い母ごころのご加護にたいしては、申し上げることばもありません。ああ、それなのに、このありがたいすべてのお恵みも、せっかくのご聖寵も、ご保護も、私には何の役にもたっておりません。なんの実も結んでおりません。私の過ちのために、心の取り締まりが十分でないために。

ああ、イエズスよ、あなたはおっしゃいました――「天国は、暴力におそわれ、暴力の者のみ、これを奪い取る」(マテオ11・12)と。もし私が善意を欠いで、この“暴力”のみを私に加えませんなら、悪魔は絶え間なく活動し、どうかして私の心を迷いにおち込ませよう、どうかして私の心の力を弱めてやろうと、必死になることでしょう。そして最後には、私の良心を錯覚におちいらせ、すっかり堕落させてしまうのです。

わが魂よ、おまえはよくいっている。――これこれの過ちは、人間性の弱さから、やむをえず、おちいった過ちである、自分には責任がない、あってもごく軽いのだと。だがしかし、天主のおまなざしには、はたしてそれが、純然たる人間性の弱さからおちいった過ちだったろうか。それとは全然ちがったものではなかったろうか。――そうではない、純然たる人間性の弱さの過ちだ、とおまえは断言できるだろうか。 

もしおまえが、“心の取り締まり”の修業をしていないのなら、もしおまえが、自分は一つ一つの行いの動機を、みんなイエズスのために留保しておく、というプログラムを実行していないのなら、どうしておまえは、それが純然たる人間性の過ちだといって、すましておれるだろうか。

心の取り締まりの決心を取らなかったら、私は煉獄で恐ろしい、長い償いをしなければならない。そればかりか、なるほど今、大罪はおかさないだろう。大罪は避けることができるだろう。だが、おまえは、大罪の谷底を見おろす断崖のふちに立っているのだから、宿命的にそこに墜落していくだろう。

わが魂よ、おまえはまじめに、このことを考えたことがあるだろうか。

(Ⅱ)天主の現存の意識――これこそは、心の取り締まりの土台である
至聖なる三位一体の天主よ、もし私が“恩寵の状態”におりますなら――私は、そう信じているのですが――あなたは、私の心のなかに、お住まいになっておられます。あなたのすべての光栄、すべての完徳とともに。ですから、あなたは天国にお住まいになっておられるとおりに、いま、私の心のなかにも、お住まいになっていらっしゃるのです。むろん、信仰のとばりに、かくれてはいらっしゃいますが……。

あなたのおまなざしは、いつも、私の行為のうえにそそがれています。私の行為がどんなものだか、それを見究めるために、あなたが私の行為を、ごらんになっていない瞬間というものはありません。

あなたの正義も、あなたの慈悲も、たえまなく私の内に、救霊と聖化のしごとをしておられます。私があなたに不忠実なとき、その罰として、あなたは私から、特選の恩寵をお奪いになることもあるし、また、すべての出来ごとを私の利益のために、役立てようとの親ごころから出る、み摂理の御手のはたらきを、お止めになることもあります。しかしながら、私を再びあなたのもとにつれもどそうと、新しい恩寵をお恵みくださることもあります。

私の霊魂のなかに、あなたがお住まいになる――これは、私にとって、このうえない幸福であり光栄であって、また、最高に私の注意をひく出来ごとなのですから、どうして私がしばしば、そして長いこと、これを考えないで過ごされましょうか。

私の人生問題の根本をなす、この重要な事実に、私が注意しなかったからこそ、つまり、心の取り締まりをしなかったからこそ、私はこれまでいろいろの、失敗をしでかしたのではないでしょうか。

私が日中たびたびしている射禱こそは、私の霊魂の内部における、あなたの愛にみてるお住まいの事実を、私に思い起こさしてくれたはずなのに、いっこうにそうでなかったのは、いったいどうしたことでしょう。わが魂よ、おまえはこれまで、毎時間せめて一度、自分の生涯の旅路に里程標を立てることを、自分の生活に区切りをつけることを、十分に実行してきたろうか。

おまえはときどき、たとえ数秒間でもいい、おまえの内心の奥間にしりぞいて、至聖なる三位一体の天主を礼拝するために、毎日の黙想を、典礼生活を、よく利用できたろうか。――無限の美なる天主、広大無辺な天主、全能の天主、聖の聖なる天主、生命そのものなる天主、愛そのものなる天主、一言でいえば、最高善、最高完全の善なる天主、しかもおまえの内にお住まいくださり、かしこくもおまえの原初(はじめ)となり終局となってくださる、この三位一体の天主を礼拝するために。

霊的聖体拝領――これは、私の一日の生活において、どんな地位をしめているだろうか。わが魂よ、おまえはこれをよく利用するなら、おまえの内にお住まいくださる至聖なる三位一体の天主の現存を、身にしみて意識することができるはずだ、心ゆくまで。そればかりか、救い主の御血の功徳を、あらたに私の霊魂にそそぎ入れていただくことによって、この天主の現存意識を、ますます深めていくことができるはずだ。

私はこれまで、私の巡礼の途上に咲き乱れていた、これらの信心の花々を大切なものだと思って、これを尊重してきたろうか。それを手折るには、ただ少しだけ腰をかがめさえすればよかったのだ。私はなぜ、この美しい花々で、内心の天主の祭壇をかざらなかったのだろう。

世の中には、感心な霊魂もいる。かれらは、たとえ忙しい仕事にたずさわってはいても、たとえ他人と話はしていても、一日にいくたびとなく、内心の天主に、内心の賓客に、心をよびもどし、礼拝と感謝、祈願と贖罪のささげものをしている。この美しい習慣を、すでに身につけている。そしてかれらの宝のある処に、心もあるのだ。わが魂よ、おまえはどれほど、かれらから遠く離れていることか。どれほどかれらに、似かよっていないことか!

(Ⅲ)聖母マリアの対する信心は、心の取り締まりを容易にする
ああ、原罪のけがれなき童貞聖マリアよ、カルワリオの丘で、あなたの御子イエズスが、「婦人よ、ごらんなさい。これがあなたの子です」(ヨハネ19・26)と仰せられて、私をあなたの子にしてくださいましたのは、とりもなおさず、イエズスによって、至聖なる三位一体の天主と一つになった私の心を、よく取り締まることができるように、あなたが私を助けてくださるためでした。

私はあなたに向かって、ますます熱心なお祈りを、おねがいの叫びを挙げることでしょう。それは、とりわけ、心の取り締まりをめざしての祈りであり、念願なのです。――私の心を、すべての悪い傾向から、すべての不純な意向から、すべてのみだらな愛情と意欲から、きよめていただくためなのです。

私は、あなたのやさしいお声から、心の耳をはなしたくありません。あなたのお声は、私にこう申しておられます。「わが子よ、ちょっとお立ち止まり。そしてあなたの心をまっすぐにおし。いいえ、いいえ、あなたはいま、ただ天主さまのみ栄えばかり求めているとは申せない!」

私が放心しているとき、私が仕事の忙しさに取りまぎれて、心を見だしているとき、聖母よ、そのようなときどれほどしばしば、あなたはこういうやさしいお言葉を、私におかけくださったことでしょう。それなのに、どれほどしばしば、私はこのやさしいお言葉に、耳をかさなかったことでしょう。

ああ、わが母よ、こんご私は心して、慈母のお心からほとばしりでるこのお言葉に、耳をかたむけるでしょう。そして、このお言葉が、私の魂の秘奥にひびきわたりましたら、電光石化、すぐに飛び立って、あなたのお呼びごえに、忠実に従いますでしょう。私は次の問いを自分にかけるのです。『私は、誰のために、いま、この行為をしているのか。もしイエズスさまが、私の立場におありだったら、どんな風に、この仕事をなされるだろうか』と。このような自問自答が、私の心奥にくり返されて、やがてそれが一つの習慣となるとき、そのときこそ私は、心の取り締まりの習慣を身につけるのです。そしてこの習慣こそは、私の霊肉のすべての能力、すべての傾向を、日常生活のすべてのいとなみにおいて、私の霊魂に内住される天主に、常時に従属せしめ、この天主への従属をますます、完全なものにしてくれるのです。
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第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見 (続き14)【ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」】

2018年07月14日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見(続き14)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見


四、“心の取り締まり”は、内的生活の鍵である。ゆえに、使徒職には本質的な修業である
4. La Garde du Coeur, clef de voûte de la Vie intérieure, donc essentielle pour l'Apostolat.

心の取り締まりの決心(1/3)
Résolution de Garde du Coeur.

ああ、イエズスよ、願わくは私がいつも心遣いをしますように。それは、私の心がすべての罪のけがれから守られ、ますます御身の聖心と一つになること、日常生活のすべてのいとなみにおいて、会話の時も、休息の時も、その他どんなことをするときも。
Je veux, ô Jésus, que mon coeur ait la sollicitude habituelle de se préserver de toute tache, et de s'unir de plus en plus à Votre Coeur, dans toutes mes occupations, conversations, récréations, etc.

心の取り締りというこの決心は、消極的な要素ですが、必要欠くべからざるもので、私の行為の動機に、その遂行過程に、忍び入る不純な要素を、私から排除してくれます。(どうしたら意向の純粋さを得ることが出来るだろうか?それは自分に対して大きな注意を払うことによって、私たちの行動の初めと特にその課程において注意することによって得ることが出来る。Comment s'acquiert la pureté d'intention? — Elle s'acquiert par une grande attention sur soi, au commencement et surtout dans le progrès de nos actions.)

心の取り締まりには、しかし、積極的な要素も含まれています。それは、私の聖なる野心をかり立てて、私の行為を霊感する信望愛を、ますます深めようとの熱意に燃えたたせます。

心の取り締まりの決心は、私の朝の黙想と典礼生活の実績を検査するバロメーターです。なぜなら、私の内的生活は、せんじつめれば、心の取り締まりに帰着するからです。「油断することなく、あなたの心を守れ。いのちの泉は、これから流れ出るからである」(格言の書4・23)

黙想と典礼生活は、私の心に飛躍をあたえて、天主と一致させます。

霊魂は、天主との一致をめざして、勇み足で順礼の旅路につく。旅びとがいつも勇ましく、巡礼の途をたどりうるためには、出発の前に用意しておいた旅のかてをとらねばならぬ。また、巡礼の途上で見いだすかてを、常に摂取していなければならぬ。これらのかてを、霊魂に摂取させてくれるのが、“心の取り締まり”である。

では、心の取り締まりとは、どんなことをいうのか。――私の行為を、その動機においてか、遂行過程においてか、そのいずれかにおいて、不純にし有害にするものがある。それが霊魂に忍び入るや否や、すぐにこれを排除しようと、私は絶え間なく、またしばしば、警戒の目を光らせている。――これを、心の取り締まりというのである。

心の取り締まりは、一つの心づかいである。――冷静な、おだやかな、さわがしくない心づかい。同時に、謙遜にみちた、強固な心づかいである。なぜなら、それは、子供のような心で、天主に助けを求める、天主のお助けに絶対に信頼する、という二つのことに基づいているからである。

心の取り締まりは、頭のはたらきというよりむしろ、心と意志のはたらきである。このはたらきは、私の義務を果たすために、精神をいっさいの束縛から解放してくれる。心の取り締まりが、私の行為を束縛して、自由のきかないようにする、と思ったら大間違いである。かえってそれは、私の行為を、天主の精神にしたがって善導し、私を身分上の義務に順応させてくれるから、心の取り締まりは、私の行為を完成する、といわなければならない。

心の取り締まりの修業――私は、これを、時々刻々実行したい。それは、心の目で、私が現在なしつつある行為を、ちらッと眺めることである。私が、これからなそうとしている行為の、いろいろちがった構成要素に、じッと注意をかたむけることである。心の取り締まりは、とりもなおさず、「おまえが現在、なしつつある事をなせ」すなわち、全心全霊をかたむけて、おまえが現在なしつつある業に没頭せよ、との格言を、地で行くものである。

わが魂よ、おまえはちょうど忠実な歩哨のように、私の心のすべての動きに、心の目を光らせている。とりわけ、私の内心に去来するすべてのものにたいして、そうである。すなわち、私の受ける印象にたいして、意向にたいして、欲情にたいして、自然の傾向にたいして、一言でいえば、私の内的・外的のすべての行為にたいして、さらに別言すれば、私のすべての思い、言葉、行いにたいして。

心の取り締まりには、たしかに、ある程度の“潜心”が要求される。私の魂が、いつも気を散らしたままでいるなら、心の取り締まりは実現できない。
しかし、しばしば練習しているうちに、心の取り締まりの“習慣”が身についてくる。
「私は、どこへ行くのか? そして何をしに?」
イエズスだったら、この場合、なにをなされたろうか。イエズスが、私と同じ立場、同じ境遇におかれたら、どうなされたろうか。この場合、なにを私からお求めになるのだろうか。――このような質問が、内的生活に飢えている私の霊魂に、自然に発せられるのである。私がもし、聖母をへてイエズスに行く、という気持ちになるなら、そのとき、この心の取り締まりは、一つの新しい特長をおびる。すなわち、愛情にみちたものとなる。そうなれば、慈しみ深い天上の母君のみもとに馳せていって、そのお助けを求める、ということは、私の心にとって、一つの絶え間なき要求にすらなってくる。

このようにして、「あなたがたは、私につながっていなさい。そうしたら、私もあなたがたに、つながっていよう」(ヨハネ15・4)とのイエズスのお言葉が、私において、めでたく実現する。そして、このお言葉のなかに、内的生活のあらゆる原理が含まっているのだ。

ああ、イエズスよ、「私におり、私もまたその人におる」(ヨハネ6・56)とは、ご聖体の効果について仰せられたお言葉ですが、私はこのお言葉の実現を、私をあなたに一致させる“心の取り締まり”によって、手に入れたいのです。

「私におる」――そうです。主よ、私は、あなたの聖心のなかでは、ちょうど自分の家におるような気がしてならないのです。あなたのすべての宝を、意のままに処置する権利を、私は頂いております。成聖の恩寵のかぎりなき宝を、あなたの尽きざる助力の恩寵を、自由自在に利用する権利を、頂いております。

「私もまた、その人におる」――だがしかし、私の実行する心の取り締まりの修業によって、わがいとも愛する救い主よ、あなたもまた、私の心の中では、ちょうどご自分の家におられるような、気安さをお感じになります。なぜなら、私は絶え間ない努力を傾けて、あなたの支配が、私の霊肉のすべての能力のうえに及びますように、そのためには、あなたのお望みにならないことは何もしないようにと、いつも警戒し、用心しているからです。そればかりか、私の行いの一つ一つに、あなたにたいする愛熱の火をそそぎ入れるように、そしてこの愛熱の火が、日一日と盛んにもえていくようにと、いつも念願しているからです。

主よ、心の取り締まりからは、いろいろりっぱな効果が生まれます。――潜心の習慣が、心戦の習慣が、規則正しい生活が、超自然的功徳の限りない増加が、生まれてまいります。

このようにして、ああ、イエズスよ、私の業によるあなたとの間接的一致――換言すれば、私があなたのみ旨にしたがって、被造物と結ぶいろいろの関係を通じての、あなたとの一致は、黙想とか、典礼生活とか、秘跡とか、こういうもの通じてあなたと結ぶ、直接的一致の必然的結果となってくるのです。そのいずれの場合におきましても、あなたとの一致は、信仰と愛から生まれるのです。そしてあなたとの一致は、いつも、恩寵の影響下にいとなまれます。

直接的一致において、私がねらっておりますのは、ああ、わが天主よ、それはあなたご自身、ただあなただけなのです。間接的一致におきましては、私はあなた以外のものをねらっています。だが、それはただあなたのみ旨に従うためですから、私の注意の焦点をとらえているこれらの被造物は、私があなたとよく一致するために、あなたがお望みになった手段となります。私がいつも、おさがししている者は、主よ、ただあなただけなのです。一途に、そしてみ旨にしたがって……。

あなたのみ旨こそは、私があなたへの奉仕に、何かの活動をおこすとき、この活動を正しい方向にみちびくために、心の取り締まりがいつも、私に目をそそがせ、見つめさせる燈台なのです。直接一致をめざして、ひたすらあなただけをお探しする場合にも、また間接的一致をめざして、その一致の手段として、被造物をあいてにする場合にも、私はいつもこういうことができます。「私にとって、天主と一致することは、よいことだ」(詩篇73・28)と。

ですから、ああ、わが天主よ、あなたと一致するためには、私はこれこれの業を延期しなければならぬ、これこれの業がすむのをまっていなければならぬ、などと考えているなら、大きなまちがいです。ある仕事は、その性質上、またはそれをしている時間のあまり長い関係上、すっかり私の注意力を独占し、精神の自由を奪ってしまう、その結果、あなたのとの一致を不可能にしてしまう、などと考えるのもまた、大きなまちがいです。

いいえ、いいえ、けっしてそんなものではありません。あなたは、私を自由にしたいおぼし召しです。仕事が私を奴隷にし、身動きできないようにすることを、あなたはけっしてお望みになりません。私こそは、仕事の主人であって、けっして仕事の奴隷であってはならぬ。もし私が、心の取り締まりの修業に忠実でさえあれば、そのために必要な恩寵は、きっとあなたから与えて頂きます。

ですから、日中、私の生活に起きるいろいろの出来ごとや、いろいろの事態や、また、あなたの摂理によって、アレンジされる日常の茶飯事を通じて、これこれの仕事はあなたのみ旨から出ている、と私が超自然的感覚で悟るや否や、私の務めは、この仕事を絶対に拒否しないこと、同時に、あなたをすっかり忘れ去ってしまうほどに、この仕事に没頭しないことです。私はこの仕事を、ただあなたのみ旨を果たすため、というただ一つの目的をもって、それに着手し、それを遂行しなければなりません。なぜなら、もしそうでなかったら、私の自愛心が、知らぬ間に霊魂に忍び込んで、この仕事の超自然的価値も功徳も滅殺してしまうからです。

ああ、イエズスよ、もし私が、これこれの仕事はあなたのみ旨である、しかもあなたは、これこれの仕方で、それがなしとげられるのを望んでおられる、ということを悟りましたら、そのとき私は、ただあなたかこれをお望みになられるから、自分はこれをするのだ、というただ一つの動機から、この仕事をしたいのです。そんなわけで、仕事をしながらでも、あなたとの一致は、さまたげを受けるどころか、かえってますます深さを増していくだけです。
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今日、7月4日は初水曜日(月の初めての水曜日)です「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」

2018年07月04日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日、7月4日は初水曜日(月の初めての水曜日)であります。

「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想することをご提案します。



なぜなら、聖ヨゼフはこの世で天主イエズス様と浄配なる聖母マリア様を最も良く知り、愛された御方であり、その隠れた徳ゆえに偉大なる御方、イエズス様とマリア様の最大の命の恩人であられました。

また、聖ヨゼフは、この世では、全てを天主の栄光のために、隠れてその生涯をささげられたが故に、天にて聖母の次に最大の栄光をあたえられていらっしゃいます。

聖伝では、水曜日は聖ヨゼフに捧げられた曜日であり、月の最初の水曜日を聖ヨゼフに捧げることで、聖ヨゼフを讃え、その御取次に信頼し、その御徳に倣って、聖ヨゼフを通して、天主イエズス様とマリア様をお愛しすることができますように。

初土曜日の「聖母の汚れ無き御心」への信心にならって、この「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」のどれかを「15分間黙想」することにいたしましょう。

聖ヨゼフの帯の信心については、下記リンクをごらんください。
聖ヨゼフの帯 cingulum Sancti Joseph


天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖ヨゼフの7つの苦しみと喜び

1 ああいと潔き御母マリアの浄配、栄えある聖ヨゼフよ、御身のいと清き妻を失ならんと心に思い煩いし時の苦しみはいと大いなるものなりき。
されど天使が御託身の玄義を御身に伝えられし時の喜びは、またひとしお大いなりき。この苦しみ、この喜びにより、今も臨終の時も我らの心を潔さ良心の喜びと、イエズス、マリアのうちに自我を滅する尊き御身の心を示し、我らを慰め給え。



2 ああいと幸いなる保護者聖ヨゼフよ、御身は人となり給いし御言葉の潔き養父の位にあげられたれども、御身は幼きイエズスがいと貧しき中に生まれ給うを見て大いに悲しみ給いしが、
天使らのたえなる歌声を聴き、その輝ける夜の栄えを見給うや、その悲しみは天的の喜びと変じたり。御身のこの悲しみ、この喜びによりて、我らもまたこの世の歩みを終えたる後、天使らの賛美の歌声を聴き、天的光栄の輝きを受け得んことを願い奉る。



3 ああ御摂理にいと従順なしもべなる、栄えある聖ヨゼフよ、幼きイエズスが割礼にて流されたる尊き御血は御身の心を苦痛もて貫きたれども、
イエズスと命名されるや御身の心は喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らをこの世の悪徳より離れしめ、イエズスのいと尊き御名を心から唱えつつ心満たされてこの世を去るを得しめ給え。



4 ああいと忠誠なる聖ヨゼフよ、御身は救世の玄義の成就に身をもって大いなる役を果たされしが、シメオンの預言によりイエズスとマリアが受け給うべき苦難を予知せられ苦しみ給いたれど、
数限りなき人々の霊魂がこれによって救わるるとの預言によりて、天的喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らがイエズスの功徳と聖母マリアの御取次ぎにより、終わりなき栄えを得てよみがえる人々のうちに数えられる御恵みをとりなし給わんことを願い奉る。



5 ああ人となり給いし天主の御子のいとも注意深き保護者なる栄えある聖ヨゼフよ、御身はいと高きものの御子を養い給い、これに仕えるために多くの辛酸をなめられたり。わけてもそのエジプトへの逃避はいと苦しきものなりしが、
御身が常に天主御自身と共におられし喜び、またエジプト人らの諸々の偶像が地に落とされしを目の当たりに見られし時の安心はいと大いなりき。この御身の辛酸と喜びとによりて、我らが地獄的暴君より免れて、わけても危険なる機会より逃避する事を得しめ、我らの心のうちに地上的執着が落とされ、ひたすらイエズスとマリアに仕え奉りつつ日々の生活を送り、この世を幸いに終わる事を得しめ給え。



6 ああこの地上の天使なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の心を天の王に全く捧げられたり。御身がエジプトより戻られる喜びは、アルケラウスに対する憂慮にて不安の闇となりしが、
天使は再び御身にイエズスとマリアと共にナザレトにて楽しく住み給う事を約束せられたり。御身のこの苦しみ、この喜びによりて、我らの心を深い恐怖より免れしめ、潔き良心の平和を楽しみ、イエズスとマリアと共につつがなく世を送り、臨終においてはイエズスとマリアの御手に我らの霊魂を捧ぐる事を得しめ給え。



7 ああ全ての徳の鑑なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の誤りにあらずして幼きイエズスを見失い、三日の間苦しみもて捜し求められたり。
されど神殿の中に博士らに取り巻かれたるイエズスを見出されし時の喜びはいかに大いなりや。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らが大罪を犯しイエズスを失いたりせば、たゆまず彼を捜し求め、遂に再び巡り会えるよう、わけても臨終の時に彼と共にありて天国に至り、御身と共に天主の終わりなき御恵みを賛美し奉るようとりなし給わんことを心から願い奉る。



交唱 イエズスが教えをはじめたりしは三十歳ごろなり、人々、イエズスをヨゼフの子なりと思いたり。(ルカ3:23)

V 聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え。
R キリストの御約束に我らをかなわしめ給え。

祈願 天主、御身のかしこき御摂理のうちに祝せられたヨゼフを至聖なるマリアの浄配に選び給いたれば、願わくはこの世の我らの保護者として崇め奉る彼が、我らの天のとりなし手となり給わんことを。 アーメン。



英語ではこちら。
THE SEVEN DOLOURS AND SEVEN JOYS.

i. St. Joseph, pure spouse of most holy Mary, the trouble and anguish of thy heart were great, when, being in sore perplexity, thou wast minded to put away thy stainless spouse: but this joy was inexpressible when the archangel revealed to thee the high mystery of the Incarnation.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee comfort our souls now and in their last pains with the consolation of a well-spent life, and a holy death like unto thine own, with Jesus and Mary at our side.
Pater, Ave, and Gloria.

ii. St. Joseph, Blessed Patriarch, chosen to the office of Father of the Word made Man, the pain was keen that thou didst feel when thou didst see the Infant Jesus born in abject poverty; but thy pain was changed into heavenly joy when thou didst hear the harmony of angel-choirs, and behold the glory of that night when Jesus was born.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee obtain for us, that, when the journey of our life is ended, we too may pass to that blessed land where we shall hear the angel-chants, and rejoice in the bright light of heavenly glory.
Pater, Ave, and Gloria.

iii. St. Joseph, who wast ever most obedient in executing the law of God, thy heart was pierced with pain when the Precious Blood of the Infant Saviour was shed at His Circumcision; but with the Name of Jesus new life and heavenly joy returned to thee.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, being freed in our life from every vice, we too may cheerfully die, with the sweet Name of Jesus in our hearts and on our lips.
Pater, Ave, and Gloria.

iv. St. Joseph, faithful Saint, who wast admitted to take part in the redemption of man; the prophecy of Simeon foretelling the sufferings of Jesus and Mary caused thee a pang like that of death; but at the same time his prediction of the salvation and glorious resurrection of innumerable souls filled thee with a blessed joy.
By this thy sorrow and thy joy, help us with thy prayers to be of the number of those who, by the merits of Jesus and his Virgin Mother, shall be partakers of the resurrection to glory.
Pater, Ave, and Gloria.

v. St. Joseph, watchful Guardian, friend of the Incarnate Son of God, truly thou didst greatly toil to nurture and to serve the Son of the Most High, especially in the flight thou madest with Him unto Egypt; yet didst thou rejoice to have God Himself always with thee, and to see the overthrow of the idols of Egypt.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us grace to keep far out of the reach of the enemy of our souls, by quitting all dangerous occasions, that so no idol of earthly affection may any longer occupy a place in our hearts, but that, being entirely devoted to the service of Jesus and Mary, we may live and die for them alone.
Pater, Ave, and Gloria.

vi. St. Joseph, angel on earth, who didst so wonder to see the King of heaven obedient to thy bidding, the consolation thou hadst at His return was disturbed by the fear of Archelaus, but nevertheless, being reassured by the angel, thou didst go back and dwell happily at Nazareth, in the company of Jesus and of Mary.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, having our hearts freed from idle fears, we may enjoy the peace of a tranquil conscience, dwelling safely with Jesus and Mary, and dying at last between them.
Pater, Ave, and Gloria.

vii. St. Joseph, example of all holy living, when, though without blame, thou didst lose Jesus, the Holy Child, thou didst search for Him for three long days in great sorrow, until with joy unspeakable thou didst find him, who was as thy life to thee, amidst the doctors in this Temple.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee with our whole heart so to interpose always in our behalf, that we may never lose Jesus by mortal sin; and if (which God avert) we are at any time so wretched as to do so, that we pray thee to aid us to seek Him with such ceaseless sorrow until we find Him, particularly in the hour of our death, that we may pass from this life to enjoy Him for ever in heaven, there to sing with thee His divine mercies without end.
Pater, Ave, and Gloria.

Ant. Jesus Himself was about thirty years old, being, as was supposed, the son of Joseph.

V. Pray for us, holy Joseph.
R. That we may be made worthy of the promises of Christ.

Let us pray.
O God, who in Thine ineffable providence didst vouchsafe to choose blessed Joseph to be the husband of Thy most holy Mother; grant, we beseech Thee, that we may have him for our intercessor in heaven, whom on earth we venerate as our holy protector. Who livest and reignest world without end. Amen.
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7月はイエズスのいと尊き御血の月です。イエズスのいと尊き御血の連祷を毎日唱えましょう

2018年07月01日 | カトリックとは
いと尊き御血(おんち)の連祷
主憐れみ給え ▲キリスト憐れみ給え。
主憐れみ給え。
キリスト我らの祈りを聴き給え ▲キリスト我らの祈りを聴きいれ給え。
天主なる御父 ▲我らを憐れみ給え。
天主にして世のあがない主なる御子▲我らを憐れみ給え。
天主なる聖霊 ▲我らを憐れみ給え。
唯一の天主なる聖三位▲我らを憐れみ給え。

永遠の父の御独り子なるキリストの御血▲我らを救い給え。
人となり給える天主の御言葉なるキリストの御血▲我らを救い給え。
新たにして永遠なる契約のキリストの御血▲我らを救い給え。
御心痛のうちに地にしたたり落ちたるキリストの御血▲我らを救い給え。
鞭打ちによりて多量に流されたるキリストの御血▲我らを救い給え。
茨の冠によりて流されたるキリストの御血▲我らを救い給え。
十字架の上にて溢れいでたるキリストの御血▲我らを救い給え。
我らの救霊の代価なるキリストの御血▲我らを救い給え。
罪の赦しの条件なるキリストの御血▲我らを救い給え。
聖体の秘跡において心の糧にしてみそぎなるキリストの御血▲我らを救い給え。
憐れみの本流なるキリストの御血▲我らを救い給え。
悪魔に打ち勝ち給えるキリストの御血▲我らを救い給え。
殉教者の勇気なるキリストの御血▲我らを救い給え。
証聖者の力なるキリストの御血▲我らを救い給え。

童貞者を育くむキリストの御血▲我らを救い給え。
滅びゆかんとするものの救いなるキリストの御血▲我らを救い給え。
重荷を負える者の支えなるキリストの御血▲我らを救い給え。
悲しむ者の慰めなるキリストの御血▲我らを救い給え。
悔い改むる者の希望なるキリストの御血▲我らを救い給え。
死に臨める者の助けなるキリストの御血 ▲我らを救い給え。
心の平和と柔和との源なるキリストの御血 ▲我らを救い給え。
永遠の生命の保証なるキリストの御血▲我らを救い給え。
煉獄より霊魂を解放するキリストの御血▲我らを救い給え。
全ての栄えと誉れとにいともふさわしきキリストの御血 ▲我らを救い給え。
世の罪を除き給う天主の子羊 ▲主、我らを赦し給え。
世の罪を除き給う天主の子羊 ▲主、我らの祈りを聴きいれ給え。
世の罪を除き給う天主の子羊 ▲我らを憐れみ給え。
主よ御身は貴き御血によりて我らを罪よりあがない給い▲我らをもって天主の王国をつくり給えり。

祈願 全能永遠なる天主、主は御独り子を世の贖い主となし、その御血を我らの罪の代償と定め給いたれば、我らをして、救霊の代価なる御血をふさわしき心もて礼拝し、御血のみ力によりて、この世においては もろもろの悪よりのがれしめ、 天においては、御血の永遠の実りにあずかるを得しめ給わんことを、我らの主キリストによりて願い奉る。 アーメン。
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イエズス・キリストの新約の司祭職への愛を考え、司祭職と洗者聖ヨハネの関係について考察する

2018年06月27日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様

 6月24日は、洗者聖ヨハネの祝日でした。イエズス・キリストの新約の司祭職、カトリック司祭職と洗者聖ヨハネの関係について考察することを提案します。

 イエズス・キリストは、光よりの光、天主よりの天主、真の天主よりの真の天主、創られずして生まれ、天主聖父と同一の本性をもつ天主です。天主の御言葉が人となって、天主の聖母、終生童貞なる聖マリアの御胎内において、人間としてその聖心の鼓動を打ち始めたとき、天主聖父への愛に燃え立っていました。ご自分の汚れなき聖母への愛に燃え焦がれていました。

 イエズス・キリストは、人となったその直後、聖母マリアに特別の望みを起こさせました。聖母をして、イエズスを御胎内に秘めつつ、急いで司祭ザカリアの家へと旅立たせました。イエズスは、まだ母の胎内にいた洗者聖ヨハネに、純潔さと崇高な聖性を与えようと望まれたのです。イエズスは、ご自分の司祭職たちに対する愛の故に、洗者聖ヨハネへのもとへとまず駆けつけました、マリア様とご一緒に。

 イエズスこそが唯一の最高の司祭、メルキセデクの司祭職による永遠の司祭です。その他の司祭たちは、最高司祭であるイエズスから、権能と尊厳を受けているに過ぎません。イエズスの聖心はご自分の司祭たちを愛して鼓動しています。

 両者ともアアロンの家系である、ザカリアとエリザベトの子供である聖ヨハネは、旧約の司祭職と新約の司祭職とを結びつけるものでした。たしかに洗者聖ヨハネは父親の職業を継ぎませんでした。したがって旧約の司祭ではありませんでした。エルサレムの神殿に入って香を焚いたこともなければ、犠牲を捧げたこともありません。また洗者聖ヨハネは最後の晩餐にも同席せず、新約の司祭達のように聖変化をさせることもしませんでした。したがって新約の司祭でもありませんでした。洗者聖ヨハネは、同時に旧約の司祭職と新約の司祭職とを持ち、両者を重ね合わせるものでした。

 しかし、洗者の神殿は荒野でした。この世俗から切り離されて、天空をドームとする荒野という神殿で、礼拝と愛と祈りの香を焚きました。自分を犠牲として厳しい苦行の生活を捧げました。

 カトリック司祭がミサの時に言うように、洗者聖ヨハネもイエズス・キリストを指し示して言います。「天主の子羊を見よ!Ecce Agnus Dei!」と。聖ヨハネは改悛せよと呼びかけ、イエズス・キリストを指し示して福音を告げます。自分の純潔と霊魂たちの救いの熱烈な望みをもって、新約の司祭たちの模範となっています。

 イエズスは、ご自分の司祭たちへの燃える愛を持って、聖母の胎内に宿るや否や、洗者のもとに行き、彼を聖化し、潔め、聖寵の激流を与えました。

 後にイエズスは、ヨルダン川にいる洗者のもとに行き、彼から洗礼を受けることでしょう。イエズスは洗者聖ヨハネにご自分を全く委ねるのです。

 これこそ、イエズスが新約の司祭たちの手にご自分の体を委ねきるということの準備でなくて何でしょうか。


 イエズスは、洗者聖ヨハネにおいて、ご自分の聖心の最初の愛を、ファースト・ラブを与えました。イエズスの聖心は、まずご自分の司祭たちのために鼓動を打っていたのです!司祭にまず最高の贈り物をしました。最初の奇跡を行いました。司祭たちは、どれほどイエズスの聖心を愛し返さなければならないことでしょうか!


 聖母の汚れなき御心よ、カトリック司祭たちを照らし、守り給え!



天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
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第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見 (続き13)【ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」】

2018年06月08日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見(続き13)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見


三、典礼生活こそは、わたしの内的生活を、したがって、使徒職を生かす源泉である

(Ⅴ)典礼生活の実行(2/2) 

(c)典礼の務めは、どのように果たさねばならないか
 ああ、わが天主よ、典礼の務めをりっぱに果たす、ということは、あなたの大きな恩寵のおかげです。「全能であって、慈悲ふかい天主よ、主の信徒がふさわしく、ほむべき奉仕をなしえますのは、ひとえに主の恩寵によるのです」(聖霊降臨後第十二主日の集禱文)
 主よ、典礼の務めをりっぱに果たす恩寵を、どうぞわたしにもお恵みください。わたしは典礼の務めを果たしているあいだ、天主の“礼拝者”として、いつまでもとどまっていたいのです。“礼拝”という言葉こそは、典礼の務めを完全に果たすための、すべての様式を、みごとに集約しています。
 わたしの意志は飛躍して、わたしの心を高く天主の稜威(みいつ)のまえに運び、いつまでも、礼拝のうちに、そこにとどまらせます。わたしは、典礼の務めを完全に果たすための全要領を、三つの言葉――「ふさわしく」「注意して」「信心ぶかく」――のなかに、集約します。そして、「主よ、わたしのくちびるを開きたまえ」の祈りこそは、わたしが典礼の務めを果たす間に、どんな態度を保っていなければならないか、わたしのからだ、わたしの知性、わたしの心は、どんな態度をとっていなければならないか、それをみごとに、適確に表現しつくしています。
 ふさわしく、聖務にたずさわる。
 つつましい態度。聖務の言葉は、正確にとなえる。重要な部分は、他の部分よりもっとゆっくりとなえる。聖務の規則を、注意して、適確に守る。声も、きめられたとおりに出す。十字架のしるしも、りっぱに、正確にする。定められた箇処では、正確にひざまずく、などなど。――このようにして、主よ、わたしの“からだ”は、いま自分がだれとお話をしているのか、自分はいま何をお話しているのか、ということをハッキリ、人にもわかるようにふるまうのです。このようにして、わたしはどれほどすばらしい使徒職を、発揮することができるのでしょう。そればかりか、外部の態度の謹厳さによって、わたしの“心”も、必然的に、内部のつつましさにさそわれていきます。
 地上の国王らの宮廷においては、いちばんつまらない侍臣ですら、自分にあてがわれた仕事がどんなに、いやしいものであったにしても、これを最も光栄ある役目だと思い、知らぬ間に、重々しくいかめしい態度で、その仕事をりっぱに果たすではありませんか。わたしも、自分の典礼の務めを果たすときには、かれらに劣らぬ高貴な態度をとり、いかめしい威厳を発揮できないということはありません。そのためには、霊魂の礼拝にぬかずく態度を、からだの謹厳にみてる風格を、そのまま外部に表わせばよいのです。ましてや、わたしは、王らの王、稜威(みいつ)きわまりなき天主の侍従なのですから!
 注意して、聖務にたずさわる。
 典礼のなかには、わたしの霊魂のかてとなるりっぱな言葉や儀式が、豊富に盛られている。わたしの心は、そういう霊の宝を集めるために、懸命に努力しなければならない。
 それで、わたしは聖務の“言葉の意味”に、注意を集中せねばならぬ。わたしは、一句一句を、注意してとなえる。聖務を、口でとなえながらも、心では特に深い印象を受けた語句について、長く黙想する。他の語句について、また同じように強い印象を受けるまでは、それを続ける。とにかく、聖ベネジクトがいっているとおり、わたしも「精神を、くちびるがとなえる所に一致させる」(『戒律』の言葉)ように、努力しなければならぬ。さらに、わたしの知性は、その日の奥義なり、典礼の季節の主要思想について、ふかく考究しなければならぬ。
 だが、知性のはたらきは、意志のはたらきより強いものであってはならない。意志のはたらきは、わたしの霊魂を、天主のみまえに、礼拝のうちにぬかずかせること――この礼拝の態度をいつまでも持続させること、忘れたら再びそれにもどすこと――にあるのだから、この意志のはたらきこそ第一義的であり、知性のはたらきはその次にくるもの、意志のはたらきを助けるもの、その手伝いでしかないのだ。
 放心が、どれほどしばしば起こって、わたしの礼拝の態度をつきくずしにかかっても、わたしはすぐに立ち上がって、この放心を霊魂から駆逐し、また元どおり、礼拝者の態度にかえりたい。――静かに、しかし、強い態度で。主よ、あなたのお助けに信頼いたしますから、静かな、安らかな努力で、それができるのです。あなたのお助けに協力いたしますから、それはあくまでも忠実な、忍耐づよい努力がないなら、とうていできないことです。
 信心ぶかく、聖務にたずさわる。
 主よ、この点が、いちばん大切です。かんじんなのは、“聖務日課、その他典礼のすべての務めを、”信心業“にすること、したがって”心から出る行為“にすることです。
 「性急に果たすのは、信心の死滅」(聖フランシスコ・サレジオの言葉)です。聖務日課をとなえるにさいして、ましてやミサ聖祭をささげるにさいして、聖フランシスコ・サレジオは右の格言を、自分の“原則”にしました。ですから、わたしも、ミサ聖祭を執行するにあたって、これに半時間をささげましょう。そういたしましたら、たいせつなミサのカノンばかりではなく、その他すべてのミサの部分を、信心ぶかく、熱心にとなえることができましょう。
 ミサ聖祭は、わたしの一日の太陽であり、中心行為であらねばなりません。これを大急ぎで果たすためのすべての“口実”を、わたしはなさけ容赦もなく、排斥しなければなりません。もしわたしが不幸にも、過去のわるい習慣のために、ミサ聖祭のある言葉か儀式を飛ばしている、早口のためにとなえないでいる、といたしましたら、時にはわざとその部分だけ、ゆっくりすぎるほどゆるやかに、となえることにいたしましょう。
 程度の差こそあれ、わたしはミサ聖祭をゆっくり、信心ぶかくささげる、というこの決心を、他のすべての典礼の務めにもおしひろげていきたい決意です。――すべての秘跡の執行にも、聖体降福祭にも、死者の葬式・・・などにも。
 聖務日課を、何時何分にとなえるか、その時刻を、わたしはちゃんと前もって定めておきます。その時刻がやってくる。わたしはどんな犠牲を払っても、いっさいの雑務からはなれる。どんな犠牲を払っても、わたしは聖務日課をとなえることが、心から出るほんとうの祈りであるように、ふかく念願しているのです。

 ああ、イエズスよ、わたしがあなたの代理を努めますとき、または教会の名によって行動しますとき、そのような場合にはいつも、性急に大いそぎで、大切な典礼の言葉をとなえることがどんなに恐ろしいことか、どうかわたしに教えてください。
 大いそぎで果たすことは、偉大な準秘跡たる典礼を、台なしにするのだということを、わたしの心にふかく確信させてください。典礼の務めを、大いそぎで果たせば、念禱の精神が確保できなくなる。そしてこの念禱の精神がなければ、わたしは人の見たところでは、なるほどりっぱな、熱心な、よく活動する司祭ではあっても、あなたの目にはごく冷淡な、不熱心な司祭でしかない、いやそれどころか、わるい司祭でしかない、ということを、納得のゆくまで悟らせてください。ちょっときいただけで身ぶるいするような、それほど恐ろしい次の言葉を、わたしの良心に深くきざみつけてください。「天主のわざを、なおざりに果たす者は、呪われねばならぬ」(イエレミア48・10)
 心が躍動しますなら、信仰の精神によって、聖節において典礼が祝わう、天主とキリストの奥義の一般的意味を、わたしは容易にとらえることができます。そしてそれによって、自分の霊魂を養うことができます。
 このようにして、典礼の奥義の黙想は、わたしにとって、一つの長い法悦となります。信仰と希望、願望と悔恨、献身と愛――これらの心情を、わたしは長時間にわたって、心ゆくまで味わうことができます。
 時には、ただ一回の“眺め”だけで足りることもあります。心の目で眺める、じーっと眺める。―― 一つの奥義を、天主の完徳を、イエズス・キリストのご性格の一面を、教会を、わたしの虚無なることを、わたしの悲惨を、わたしの入り用を、わたしのキリスト信者としての尊厳を、司祭という者の、修道者という者の高い尊い身分を、心の目で眺めるのです。
 この眺めは、たとえば神学研究のときのような、冷やかな、純然たる理知的行為ではなく、意志の滋味を加えた、熱い、うるおいのある眺めです。それはまた、わたしの信仰をふやしてくれる眺めです。信仰以上に、わたしの愛をますます深めてくれる、ますます盛んにもやしてくれる眺めです。
 この眺めは、むろん、至福直観のあわい反映にすぎませんが、しかしそれは同時に、あなたがすでにこの世ながらに、心のきよく熱心にもえた霊魂たちにお約束になったものを、実現してくれます。すなわち、「心のきよい人たちは、さいわいである。かれらは天主を見るであろう」(マテオ5・8)
          *
このようにして、典礼の務めの一つ一つは、わたしにとって、このうえなくありがたい“息抜き”となるのです。なぜなら、多忙な日常生活のいとなみによって、ともすれば窒息しようとするわたしの霊魂の呼吸を、典礼は容易に円滑にしてくれるからです。
 ああ、聖なる典礼よ、あなたはそのいろいろちがった“務め”によって、どれほどかんばしい香りを、わたしの霊魂に放ってくださることか。あなたは、わたしにとって、荷の重い、いやな苦役どころか、かえってわたしの生活を慰めで満たしてくれる、最大の恩人なのです。そうではない、とどうしていわれましょう。なぜなら、わたしはあなたのおかげで、自分は教会の子どもである、自分は教会の使節である、自分はイエズス・キリストの肢体である、聖役者である、この位階はきわめて神聖だ、との自覚を、いつも心に持つことによって、“選ばれた人びとの歓喜なる”イエズス・キリストを、ますます身に着けていくからです。
 イエズスとの一致によって、わたしはこの世の十字架をよく利用することができ、この世の苦難をうまく利用して、永遠の幸福のもとでにするすべを修得するのです。そのうえ、典礼生活によって、わたしは他の人びとも、自分の後から、救霊と聖性の途にみちびいていくことができます。こう考えてまいりますと、典礼生活は、他のいかなる使徒職にもまさって、いっそう効果的である、といわなければなりません。

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イエズスの至聖なる聖心の祝日おめでとうございます

2018年06月08日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日は、私たちの主イエズスの至聖なる聖心の祝日です!

愛熱のかまどなるイエズスの聖心よ、我らを憐れみ給え!

愛する兄弟姉妹の皆様の上にイエズスの聖心の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田神父
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