Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え! 聖ヨゼフの特別聖年(2020年12月8日〜2021年12月8日)

【再掲】聖体の制定された理由 : 聖体は私たち各自に対する主の変わらぬ愛のあかしである

2021年06月03日 | カトリックとは
2021年6月3日、御聖体の祝日おめでとうございます!

聖体の制定された理由

聖体は私たち各自に対する主の変わらぬ愛のあかしである

 礼拝 聖体の中にまします主イエズス・キリストを仰いで感謝し、賛美し、礼拝して、聖体がここにおいでになるのは、ある意味で全くあなたひとりのためであることをさとること。これはまことに不思議なことで、地上での主の慈愛の極みである。主が私たちに、これよりもっと親密に、もっと完全に主と一致することを許してくださるのは、天国以外にない。キリストがこれによって実際に、そして完全に、私たち各自に尊い御からだをお与えになることができるというのが、聖体の特徴であり、ねらいどころであり、目的であった。

 だからトリエント公会議は、聖体は主の愛のあふれであると教えた。その意味は、ちょうど高い崖からこんこんと湧き出る泉の水が谷間をうるおすように、ご托身の際の救い主の愛が、聖体によっていや増し強められて、私たちに及ぶということである。

 聖トマはこの事実を『み言葉が人となりたまいて、世界の全体にもたらされたすべての恩恵を、聖体は人間のひとりひとりに別々に与えたもう』といみじくも言いあらわした。なるほど、この秘跡を想起することによってはじめて私たちは『主はわれを愛して、わがために御自らを与えたまえり』との聖パウロの言葉の意味をさとることができる。

 カルワリオの頂で、主は一度死にたもうただけである。しかし聖体を拝領するたびに、主のご死去の効果は私たち各自にわかち与えられる。私たちが主を受けるとき、私たちはもはや主がたしかに私たちのものであることを疑うことはできない。私たちは主をもち、主を捕え、私の胸の中に抱いてしまう。主は私の愛のとりこである

 聖体拝領台で主と私との親しい会見がはじまる。しかし御からだを私に与えられることは決して主の義務ではないから、この御恵みが純粋に主の愛から出たことは明らかである。主はちょうど私たち各自が主の限りない愛の唯一の対象であり、主のご受難の目的のすべてであるかのように、私たちひとりひとりを愛してくださる。

 この驚くべき愛の証拠に感じ、イエズス・キリストを礼拝しよう。

 いと高き無限の御者、天地の主宰者が、天からくだってあなたのために聖体となり、あなたのもとに来て、あなたの中にはいり、あなたのため、虚無であるあなたのために、あなたの過去現在の過失をいやそうと、あなたに御身を与えたもうからである。聖体を拝領するとき、主は全くあなたのものとおなりになるから、世界にはただ主とあなただけしか存在しないのである。

 上記の事実、この親しい一致が、いとも感嘆すべき、いとも玄妙な聖体の奥義である。

 感謝 イエズスが聖体を私たち各自に与えられるその大いなる慈悲に感じ、聖心の限りない愛を感謝しよう。

 聖心は私たちの心を知っておられる。主は至上の愛の要求が、完全で直接な贈り物、親密な一致であるのを知っておられる。主は私たちと別々に一致し、各自にたまものを与えなければ、主がいかに激しく私たちを愛したもうても私たちの満足をかち得ないだろうとお考えになった。これによって慈愛深い救い主は私たちのために生まれ、私たちのために死し、私たちのためにいっさいをお尽くしになったのに、なおそのうえに私たちのひとりひとりに、各別にご自身を与えて、その愛を完成されたのである。

 主は私たちの性質、境遇、使命、必要、困難、誘惑、試練の違うままに、それぞれ違ったお恵みを与えて、主がどんなに私たちにとってなければならない御方であるかを知らせようと望まれた。実に、かずかぎりない多くの霊魂の中に、全く等しい霊魂はひとつとして存在しない。だからこれらすべて相異なった霊魂のひとつひとつの要求に応じて、それに適した祝福を与えなければ、愛の勝利を得ることができないわけである。これが救い主のなされたところである。すなわち聖体をふやして、これを私たち各自の養いとなさるのも、ただ私たちの完全な愛を得ようとされるからである。

 だから感謝し祝福しよう。主のご慈愛がいかに深いかをさとろう。かつてさばくの中で、数千のイスラエル人のかてとして与えられたマンナよりも、はるかにすぐれたたまものである聖体は、最後の晩さんの時から最後の審判の日に至るまで、人生のさばくをさまようかずかぎりない群衆の、そのひとりひとりの望みに応じて与えられるのである。
 
 償い 与えられたご恩の大小に応じて感謝の程度も異なり、たまものによって感謝の方法も変化するのが当然ではないだろうか。もしはたしてそうであるなら、イエズスが私たちを別々にいつくしみたまい、私たちひとりひとりをその愛の対象となさったから、私たちもまた他の何ものをも顧みないで、ひたすら主だけを愛する全き愛、特別な愛をもって、主の愛にこたえなければならないであろう。だから、主が私たちを愛される聖体の中で、私たちも主をお愛ししよう。私たちが失敗して悲しむときにも、成功して喜ぶときにも、また働いて苦しむときにも、いつも聖ひつのみ前に走り出て、主に私の愛をあかし、心を打ち明け、主のみ名を賛美しよう。

 私たちは、まるで見知らぬ神に対するように、莫然として主に仕え、聖体に対して少しの親しみも示さず、被造物に対してあふれるばかりの愛情はあっても、主に対しては冷淡であり儀礼的であったり、ただ利益のためか、恐怖のためにだけ主を愛しているか、これが、あれほどまでも惜しげなく、あれほどまでも激しく、私たちを愛し、ついにご自分さえも私たちにお与えになった愛すべき救い主に対する返報であろうか。この世の親子、友だち同志であっても、もっとこまやかな愛情を私たち相愛しているではないか。主にとって私たちはいっさいであるのに、なぜ私たちにとって主がいっさいではないのだろうか。あなたは恥知らずだ、赤面すべきだ。私たちの心はそれほどまでに鈍いのだろうか。このように愛してくださる主を、なぜこのようにわずかしか愛さないのか。
 
 祈願 イエズスを親しくお愛しする恩恵を熱心に請い求めよう。親しく愛するとは、イエズスをイエズスのために、あなたの心のすべてを傾けつくしてお愛しすることなのである。

 常に主を思い、胸の中にたいせつに主を宿し、主のために働け。主のため、主の愛のため、主の聖心にかなうため、主に光栄を帰すために万事をなすように。また、常に主がおいでになる聖堂を訪れることを喜んで、できるだけ多くの時間を主のみ前に費やすように。友は相ともにとどまることを好むが、どれいや召使は用事があるときにしか主人の前に出てこない。用事がすむと自分のへやに引きさがることを好むものである。聖体の秘跡によって私たちの友となることを望まれたイエズスに対して、私たちの方でむしろ主のどれいとなり召使いとなろうとしているのは、主のご好意を無にすることではないだろうか。主の御喜びは人の子とともにおいでになることである。だから私たちもまた主といっしょにいることを私たちの幸福としなければならない。ああイエズスよ、私の最上の友よ、どのような被造物よりも大いなる愛をもって私をお愛しになる友よ。私もまたすべてにこえて御身を愛したてまつる。これこそ私の神聖な、そして同時に最も幸福な義務である。

 実行 愛によって聖体の中においでになるイエズスを思い、聖体により頼み聖体に祈願しよう。 
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SYMBOLUM ATHANASIANUM, アタナシオ信経, Symbole de Saint Athanase, Athanasian Creed

2021年06月02日 | カトリックとは

SYMBOLUM ATHANASIANUM アタナシオ信経 Symbole de Saint Athanase Athanasian Creed 亞他那修信經
QUICUMQUE vult salvus esse, ante omnia opus est, ut teneat catholicam fidem: 救われることを望む者は誰であれ、全てに優先して、カトリック信仰を持つ必要がある。 Quiconque veut être sauvé, doit avant tout tenir la foi catholique : 1. Whosoever will be saved, before all things it is necessary that he hold the catholic faith; 人要得到上帝的拯救,最重要的是:必須要持守大公教會的信仰。
Quam nisi quisque integram inviolatamque servaverit, absque dubio in aeternum peribit. この信仰を、誰でも完全に汚されずに守ならければ、疑いなく永遠に滅びるだろう。 Celui qui ne la conservera pas intègre et inviolée périra, sans aucun doute, pour l'éternité. 2. Which faith except every one do keep whole and undefiled, without doubt he shall perish everlastingly. 人必需要篤信無疑的、完整的、純潔的持守此信仰。
Fides autem catholica haec est: ut unum Deum in Trinitate, et Trinitatem in unitate veneremur. さてカトリック信仰は次の通り。すなわち、我らは三位における唯一の天主、一性における三位を礼拝する。 Voici quelle est la foi catholique : c'est que nous vénérions un seul Dieu dans la Trinité et la Trinité dans l'unité. 3. And the catholic faith is this: That we worship one God in Trinity, and Trinity in Unity; 大公教會信仰即是:我們敬拜三位一體的獨一神;這獨一神裡的三位乃是合而為一的。
Neque confundentes personas, neque substantiam separantes. 位格を混同することなく、実体(substantia)を分けることなく。 Sans confondre les personnes, ni séparer la substance. 4. Neither confounding the persons nor dividing the substance. 獨一神裡的三位彼此間不混亂,其本質也不分開。
Alia est enim persona Patris alia Filii, alia Spiritus Sancti: 御父の位格は別であり、御子の位格も別、聖霊の位格も別である。 Autre est en effet la personne du Père, autre celle du Fils, autre celle du Saint-Esprit : 5. For there is one person of the Father, another of the Son, and another of the Holy Spirit. 此三位乃是:聖父、聖子、聖靈。
Sed Patris, et Filii, et Spiritus Sancti una est divinitas, aequalis gloria, coaeterna maiestas. しかし、御父と御子と聖霊との天主性は一であり、栄光は等しく、御稜威(みいつ)は共に永遠である。 Mais du Père, du Fils et du Saint-Esprit, il n'est qu'une seule divinité, une gloire égale, une majesté coéternelle. 6. But the Godhead of the Father, of the Son, and of the Holy Spirit is all one, the glory equal, the majesty coeternal. 然而聖父、聖子、聖靈乃是在同一個神性本質內;祂們的榮耀及永恆中的威嚴也是相同的。
Qualis Pater, talis Filius, talis Spiritus Sanctus. 御父がまします如く、御子もましまし、聖霊も、あします。 Tel est le Père, tel est le Fils, tel est le Saint-Esprit. 7. Such as the Father is, such is the Son, and such is the Holy Spirit. 聖父是怎樣的神,聖子也就是那樣的神,聖靈亦是那樣的神。
Increatus Pater, increatus Filius, increatus Spiritus Sanctus. 御父は創造されず、御子も創造されず、聖霊も創造されない。 Le Père est incréé, le Fils est incréé, le Saint-Esprit est incréé. 8. The Father uncreated, the Son uncreated, and the Holy Spirit uncreated. 聖父並非是受造的,聖子也是如此,聖靈亦是如此。
Immensus Pater, immensus Filius, immensus Spiritus Sanctus. 御父は測り知れず、御子も測り知れず、聖霊も測り知れない。 Le Père est immense, le Fils est immense, le Saint-Esprit est immense. 9. The Father incomprehensible, the Son incomprehensible, and the Holy Spirit incomprehensible. 聖父是無限的,聖子也是無限的,聖靈亦是無限的。
Aeternus Pater, aeternus Filius, aeternus Spiritus Sanctus. 御父は永遠、御子も永遠、聖霊も永遠である。 Le Père est éternel, le Fils est éternel, le Saint-Esprit est éternel. 10. The Father eternal, the Son eternal, and the Holy Spirit eternal. 聖父是永恆的,聖子也是永恆的,聖靈亦是永恆的。
Et tamen non tres aeterni, sed unus aeternus. しかし、三つの永遠なるものではなく、一なる永遠なるものである。 Et pourtant il n'y a pas trois éternels, mais un seul éternel. 11. And yet they are not three eternals but one eternal. 然而祂們並不是三位永恆的神,而是獨一的永恆神。
Sicut non tres increati, nec tres immensi, sed unus increatus, et unus immensus. 三つの創造されないものでもなく、三つの測り知れぬものでもなく、一なる創造されぬもの、一なる測り知れぬものである。 De même, il n'y a pas trois incréés, ni trois immenses, mais un seul incréé et un seul immense. 12. As also there are not three uncreated nor three incomprehensible, but one uncreated and one incomprehensible. 也不是三位非受造的無限之神,而是獨一的非受造的無限之神。
Similiter omnipotens Pater, omnipotens Filius, omnipotens Spiritus Sanctus. 同じく、御父は全能、御子も全能、聖霊も全能である。 De même, le Père est tout-puissant, le Fils est tout-puissant, le Saint-Esprit est tout-puissant. 13. So likewise the Father is almighty, the Son almighty, and the Holy Spirit almighty. 相同的,聖父是全能的,聖子也是全能的,聖靈亦是全能的。
Et tamen non tres omnipotentes, sed unus omnipotens. しかし三つの全能なものではなく、一なる全能なるものである。 Et pourtant, il n'y a pas trois tout-puissants, mais un seul tout-puissant. 14. And yet they are not three almighties, but one almighty. 然而祂們並不是三位全能的神,而是獨一的全能神。
Ita Deus Pater, Deus Filius, Deus Spiritus Sanctus. そのように御父は天主、御子は天主、聖霊は天主である。 De même, le Père est Dieu, le Fils est Dieu, le Saint-Esprit est Dieu. 15. So the Father is God, the Son is God, and the Holy Spirit is God; 聖父是神,聖子也是神,聖靈亦是神。
Et tamen non tres dii, sed unus est Deus. しかし、三つの天主ではなく、唯一の天主である。 Et pourtant, il n'y a pas trois dieux, mais un seul Dieu. 16. And yet they are not three Gods, but one God. 然而祂們並不是三位神,而是獨一的神。
Ita Dominus Pater, Dominus Filius, Dominus Spiritus Sanctus. そのように御父は主であり、御子は主であり、聖霊は主である。 De même, le Père est Seigneur, le Fils est Seigneur, le Saint-Esprit est Seigneur. 17. So likewise the Father is Lord, the Son Lord, and the Holy Spirit Lord; 相同的,聖父是我們的主,聖子也是我們的主,聖靈亦是我們的主。
Et tamen non tres Domini, sed unus est Dominus. しかも、三つの主ではなく、一なる主である。 Et pourtant, il n'y a pas trois seigneurs, mais un seul Seigneur. 18. And yet they are not three Lords but one Lord. 然而,我們並非有三位主,而是只有獨一的主。
Quia, sicut singillatim unamquamque personam Deum ac Dominum confiteri christiana veritate compellimur: ita tres Deos aut Dominos dicere catholica religione prohibemur. なぜなら、キリスト教の真理によって、それぞれの位格は天主であり主であると我らが告白するべきであるように、三つの天主、あるいは三つの主を語ることは、我らはカトリックの宗教によって禁ぜられている。 De même que la vérité chrétienne nous oblige à confesser que chaque personne est Dieu et Seigneur, ainsi la religion catholique nous interdit de dire qu'il y a trois dieux ou seigneurs. 19. For like as we are compelled by the Christian verity to acknowledge every Person by himself to be God and Lord; So are we forbidden by the catholic religion to say; There are three Gods or three Lords. 因此,我們受到基督真理的催促而承認:聖父、聖子、聖靈每一位都是神、都是我們的主。大公基督教也禁止我們說:有三位神、或三位主。
Pater a nullo est factus: nec creatus, nec genitus. 御父は何によっても作られず、創造されず、生まれない。 Le Père ne vient de nul autre : ni fait, ni créé, ni engendré. 21. The Father is made of none, neither created nor begotten. 聖父並非是經由某某或某物而產生的;並非是受造的,也非被生的。
Filius a Patre solo est: non factus, nec creatus, sed genitus. 御子は御父のみよりであり、作られず、創造されず、生まれた。 Le Fils est du Père seul : ni fait, ni créé, mais engendré. 22. The Son is of the Father alone; not made nor created, but begotten. 聖子是單單是經由聖父而產生的;但並不是被聖父所造,而是經由聖父所生出。
Spiritus Sanctus a Patre et Filio: non factus, nec creatus, nec genitus, sed procedens. 聖霊は、御父と御子とより、作られず、創造されず、生まれず、発出する。 Le Saint-Esprit est du Père et du Fils : ni fait, ni créé, ni engendré, mais procédant. 23. The Holy Spirit is of the Father and of the Son; neither made, nor created, nor begotten, but proceeding. 聖靈是經由聖父和聖子而產生的;但並不是被造,也不是被生出,而是從聖父和聖子而發出。
Unus ergo Pater, non tres Patres: unus Filius, non tres Filii: unus Spiritus Sanctus, non tres Spiritus Sancti. 従って、一なる御父であり、三つの御父ではない、一なる御子であり、三つの御子ではなく、一なる聖霊であって、三つの聖霊ではない。 Il y a donc un seul Père, et non trois Pères ; un seul Fils, et non trois Fils ; un seul Saint-Esprit, et non trois Esprits Saints. 24. So there is one Father, not three Fathers; one Son, not three Sons; one Holy Spirit, not three Holy Spirits. 因此有一位聖父,而非三位聖父;有一位聖子,而非三位聖子;有一位聖靈,而非三位聖靈。
Et in hac Trinitate nihil prius aut posterius, nihil maius aut minus: sed totae tres personae coaeternae sibi sunt et coaequales. この三位においては、より先もより後もなく、より大いなるもより小さきもない。三位は全て、共に永遠であり、互いに共に等しい。 Et en cette Trinité, il n'y a rien d'antérieur ou de postérieur, rien de plus grand ou de plus petit, mais les trois personnes sont tout entières coéternelles et coégales entre elles. 25. And in this Trinity none is afore or after another; none is greater or less than another. But the whole three persons are coeternal, and coequal. 在此三位一體獨一神中的三位之間,並無前後、尊卑、大小之分別。三位乃是共同的永恆及同等。
Ita ut per omnia, sicut iam supra dictum est, et unitas in Trinitate, et Trinitas in unitate veneranda sit. このように、すでに上に述べた如く、全てを通して、三位における一性が、かつ、一性における三位が礼拝されなければならない。 En sorte qu'en toutes choses, ainsi qu'il a été dit plus haut, on doit vénérer l'unité dans la Trinité, et la Trinité dans l'unité. 27. So that in all things, as aforesaid, the Unity in Trinity and the Trinity in Unity is to be worshipped. 因此,如前所述,這合一的三位一體神,或說是三位一體的合一神,當受我們敬拜。
Qui vult ergo salvus esse, ita de Trinitate sentiat. 従って、救われることを望む者は、三位一体について以上のように考えるように。 Que celui qui veut être sauvé pense donc ainsi de la Trinité. 28. He therefore that will be saved must thus think of the Trinity. 所以人要得到上帝的拯救,必須要思想這位三位一體之神。
Sed necessarium est ad aeternam salutem, ut incarnationem quoque Domini nostri Iesu Christi fideliter credat. しかし、永遠の救いのために必要なことは、我らの主イエズス・キリストの御托身もまた忠実に信ずることである。 Mais il est nécessaire au salut éternel de croire aussi fidèlement à l'Incarnation de Notre Seigneur Jésus-Christ. 29. Furthermore it is necessary to everlasting salvation that he also believe rightly the incarnation of our Lord Jesus Christ. 此外,要得到上帝的救恩,也必須要篤信我們主耶穌基督的道成肉身。
Est ergo fides recta ut credamus et confiteamur, quia Dominus noster Iesus Christus, Dei Filius, Deus et homo est. 従って、正しい信仰とは、我らの主イエズス・キリストは、天主の御子であり、天主であり人間であると信じ告白することである。 La rectitude de la foi est de croire et confesser que Notre Seigneur Jésus-Christ, Fils de Dieu, est Dieu et homme. 30. For the right faith is that we believe and confess that our Lord Jesus Christ, the Son of God, is God and man. 因為純正的信仰乃是我們宣告相信:上帝的兒子,我們的主耶穌基督是神、也是人。
Deus est ex substantia Patris ante saecula genitus: et homo est ex substantia matris in saeculo natus. 主は、御父の本質(substantia)から代々の時の前に生まれた天主であり、御母の本質(substantia)から時において生まれた人間である。 Il est Dieu, engendré avant les siècles de la substance du Père : il est homme, né dans le siècle de la substance de sa mère. 31. God of the substance of the Father, begotten before the worlds; and man of substance of His mother, born in the world. 祂是神,在諸世界存在之前被聖父生出,有著聖父的本質;祂也是人,生出在這個世界之中,有著祂母親的本質。
Perfectus Deus, perfectus homo: ex anima rationali et humana carne subsistens. 完全なる天主であり、理性的な霊魂と人間の肉とから自存する完全なる人間である。 Dieu parfait, homme parfait subsistant d'une âme raisonnable et d'une chair humaine. 32. Perfect God and perfect man, of a reasonable soul and human flesh subsisting. 祂是完全的神,也是具有理性之靈魂及人類血肉實體之完全的人,
Aequalis Patri secundum divinitatem: minor Patre secundum humanitatem. 天主性によって、御父と等しく、人性によっては、御父より低い。 Égal au Père selon sa divinité, inférieur au Père selon son humanité. 33. Equal to the Father as touching His Godhead, and inferior to the Father as touching His manhood. 就衪的神性而論,祂與聖父同等;就衪的人性而論,祂低於聖父。
Qui licet Deus sit et homo, non duo tamen, sed unus est Christus. 天主にして且つ人間であるが二つではなく、キリストは一である。 Bien qu'il soit Dieu et homme, il n'y a pas deux mais un seul Christ. 34. Who, although He is God and man, yet He is not two, but one Christ. 雖然祂同時是神、也是人,然而並非是兩位,而是一位基督。
Unus autem non conversione divinitatis in carnem, sed assumptione humanitatis in Deum. 天主性が肉へ変化したのではなく、天主のうちに人性が取られたことにより、一である。 Il est un, non par conversion de la divinité en chair, mais par l'assomption de l'humanité en Dieu. 35. One, not by conversion of the Godhead into flesh, but by taking of that manhood into God. 祂是將人性帶進神之中的那一位,而不是將神性轉變為血肉之軀的那一位。
Unus omnino, non confusione substantiae, sed unitate personae. 本質(substantia)の混同によるのではなく、位格の一性により、全く一である。 Un absolument, non par confusion de substance, mais par l'unité de la personne. 36. One altogether, not by confusion of substance, but by unity of person. 祂完全是一位,但並非藉著祂的神性和人性本質兩者間互相混合成為一,而是藉著位格的聯合為一。
Nam sicut anima rationalis et caro unus est homo: ita Deus et homo unus est Christus. 理性的霊魂と肉体とが一つの人間であるように、天主かつ人間は一位のキリストである。 Car, de même que l'âme raisonnable et la chair est un seul homme, ainsi le Dieu et l'homme n'est qu'un seul Christ. 37. For as the reasonable soul and flesh is one man, so God and man is one Christ; 就如同祂的理性之靈魂和肉體之軀聯合成為一位人;相同的,神和人也是聯合為一位基督。
Qui passus est pro salute nostra: descendit ad inferos: tertia die resurrexit a mortuis. 主は、我らの救いのために苦しみを受け、古聖所に降りて、三日目に死人のうちよりよみがえり。 Il a souffert pour notre salut, il est descendu aux enfers, et le troisième jour il est ressuscité des morts. 38. Who suffered for our salvation, descended into hell, rose again the third day from the dead; 衪為了拯救我們而受難,並下到陰間,但在第三天從死裡復活。
Ascendit ad caelos, sedet ad dexteram Dei Patris omnipotentis: inde venturus est iudicare vivos et mortuos. 天に昇り、全能の父なる天主の右に座し、かしこより、生ける人と死せる人とを審かんために来り給う。 Il est monté aux cieux, il est assis à la droite de Dieu le Père tout-puissant : d'où il reviendra juger les vivants et les morts. 39. He ascended into heaven, He sits on the right hand of the Father, God, Almighty; From thence He shall come to judge the quick and the dead. 衪升到天上,坐在全能父神的右邊。將來要從那裡降臨,來審判活人和死人。
Ad cuius adventum omnes homines resurgere habent cum corporibus suis: et reddituri sunt de factis propriis rationem. 主の来り給う時に、すべての人間は、自分の肉体をもってよみがえり、自分の行いについて報告するであろう。 À son avènement, tous les hommes seront appelés à ressusciter avec leurs corps, et à rendre raison de leurs propres actes. 41. At whose coming all men shall rise again with their bodies; and shall give account of their own works. 當祂降臨時,所有的人必然會從肉身中復活。所有的人必要供認他們自己所做過的事。
Et qui bona egerunt, ibunt in vitam aeternam: qui vero mala, in ignem aeternum. 善を行った者たちは永遠の生命に入り、悪を行った者どもは永遠の火に行く。 Ceux qui auront fait le bien iront à la vie éternelle, ceux qui ont fait le mal, au feu éternel. 43. And they that have done good shall go into life everlasting and they that have done evil into everlasting fire. 那些行善的人必要進入永生,為惡的人必要進入永火中。
Haec est fides catholica, quam nisi quisque fideliter firmiterque crediderit, salvus esse non poterit. Amen. これがカトリック信仰である。誰であれこれを忠実に固く信じなければ、救われることはできない。アメン Telle est la foi catholique : quiconque ne la croira pas fidèlement et fermement ne pourra pas être sauvé. 44. This is the catholic faith, which except a man believe faithfully he cannot be saved. 以上乃是大公教會的信仰,除非人虔誠篤信,否則便無法得到拯救。阿們。

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今日、2021年6月2日は、6月の初水曜日(月の初めての水曜日)です 聖ヨゼフ!我らのために祈り給え

2021年06月02日 | カトリックとは

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日、2021年6月2日は、6月の初水曜日(月の初めての水曜日)です。今年は、聖母の汚れなき御心と聖ヨゼフとの取り次ぎを通して、私たちの主の御聖体に対する冒瀆的な取り扱いに対する償いを捧げましょう。

初水曜日に「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想することをご提案します。


聖ヨゼフはこの世で天主イエズス様と浄配なる聖母マリア様を最も良く知り、愛された御方であり、その隠れた徳ゆえに偉大なる御方、イエズス様とマリア様の最大の命の恩人であられました。

また、聖ヨゼフは、この世では、全てを天主の栄光のために、隠れてその生涯をささげられたが故に、天にて聖母の次に最大の栄光をあたえられていらっしゃいます。

聖伝では、水曜日は聖ヨゼフに捧げられた曜日であり、月の最初の水曜日を聖ヨゼフに捧げることで、聖ヨゼフを讃え、その御取次に信頼し、その御徳に倣って、聖ヨゼフを通して、天主イエズス様とマリア様をお愛しすることができますように。

初土曜日の「聖母の汚れ無き御心」への信心にならって、この「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」のどれかを「15分間黙想」することにいたしましょう。

聖ヨゼフの帯の信心については、下記リンクをごらんください。
聖ヨゼフの帯 cingulum Sancti Joseph

聖ヨゼフの御取次ぎにより、聖母の汚れ無き御心とイエズスの至聖なる聖心ヘの愛をますます与えてくださいますように!
聖ヨゼフの御取次ぎにより豊かな祝福がありますように!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖ヨゼフの7つの苦しみと喜び

1 ああいと潔き御母マリアの浄配、栄えある聖ヨゼフよ、御身のいと清き妻を失なわんと心に思い煩いし時の苦しみはいと大いなるものなりき。
されど天使が御託身の玄義を御身に伝えられし時の喜びは、またひとしお大いなりき。この苦しみ、この喜びにより、今も臨終の時も我らの心を潔き良心の喜びと、イエズス、マリアのうちに自我を滅する尊き御身の心を示し、我らを慰め給え。



2 ああいと幸いなる保護者聖ヨゼフよ、御身は人となり給いし御言葉の潔き養父の位にあげられたれども、御身は幼きイエズスがいと貧しき中に生まれ給うを見て大いに悲しみ給いしが、
天使らのたえなる歌声を聴き、その輝ける夜の栄えを見給うや、その悲しみは天的の喜びと変じたり。御身のこの悲しみ、この喜びによりて、我らもまたこの世の歩みを終えたる後、天使らの賛美の歌声を聴き、天的光栄の輝きを受け得んことを願い奉る。



3 ああ御摂理にいと従順なしもべなる、栄えある聖ヨゼフよ、幼きイエズスが割礼にて流されたる尊き御血は御身の心を苦痛もて貫きたれども、
イエズスと命名されるや御身の心は喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らをこの世の悪徳より離れしめ、イエズスのいと尊き御名を心から唱えつつ心満たされてこの世を去るを得しめ給え。



4 ああいと忠誠なる聖ヨゼフよ、御身は救世の玄義の成就に身をもって大いなる役を果たされしが、シメオンの預言によりイエズスとマリアが受け給うべき苦難を予知せられ苦しみ給いたれど、
数限りなき人々の霊魂がこれによって救わるるとの預言によりて、天的喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らがイエズスの功徳と聖母マリアの御取次ぎにより、終わりなき栄えを得てよみがえる人々のうちに数えられる御恵みをとりなし給わんことを願い奉る。



5 ああ人となり給いし天主の御子のいとも注意深き保護者なる栄えある聖ヨゼフよ、御身はいと高きものの御子を養い給い、これに仕えるために多くの辛酸をなめられたり。わけてもそのエジプトへの逃避はいと苦しきものなりしが、
御身が常に天主御自身と共におられし喜び、またエジプト人らの諸々の偶像が地に落とされしを目の当たりに見られし時の安心はいと大いなりき。この御身の辛酸と喜びとによりて、我らが地獄的暴君より免れて、わけても危険なる機会より逃避する事を得しめ、我らの心のうちに地上的執着が落とされ、ひたすらイエズスとマリアに仕え奉りつつ日々の生活を送り、この世を幸いに終わる事を得しめ給え。



6 ああこの地上の天使なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の心を天の王に全く捧げられたり。御身がエジプトより戻られる喜びは、アルケラウスに対する憂慮にて不安の闇となりしが、
天使は再び御身にイエズスとマリアと共にナザレトにて楽しく住み給う事を約束せられたり。御身のこの苦しみ、この喜びによりて、我らの心を深い恐怖より免れしめ、潔き良心の平和を楽しみ、イエズスとマリアと共につつがなく世を送り、臨終においてはイエズスとマリアの御手に我らの霊魂を捧ぐる事を得しめ給え。



7 ああ全ての徳の鑑なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の誤りにあらずして幼きイエズスを見失い、三日の間苦しみもて捜し求められたり。
されど神殿の中に博士らに取り巻かれたるイエズスを見出されし時の喜びはいかに大いなりや。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らが大罪を犯しイエズスを失いたりせば、たゆまず彼を捜し求め、遂に再び巡り会えるよう、わけても臨終の時に彼と共にありて天国に至り、御身と共に天主の終わりなき御恵みを賛美し奉るようとりなし給わんことを心から願い奉る。



交唱 イエズスが教えをはじめたりしは三十歳ごろなり、人々、イエズスをヨゼフの子なりと思いたり。(ルカ3:23)

V 聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え。
R キリストの御約束に我らをかなわしめ給え。

祈願 天主、御身のかしこき御摂理のうちに祝せられたヨゼフを至聖なるマリアの浄配に選び給いたれば、願わくはこの世の我らの保護者として崇め奉る彼が、我らの天のとりなし手となり給わんことを。 アーメン。

参考リンク
サンタフェ~奇跡の階段 コラレス通り1丁目 この記事に昔の階段の様子の写真があります。

聖ヨゼフの階段(アメリカのニューメキシコ、サンタ・フェにあるロレット・チャペル)



英語ではこちら。
THE SEVEN DOLOURS AND SEVEN JOYS.

i. St. Joseph, pure spouse of most holy Mary, the trouble and anguish of thy heart were great, when, being in sore perplexity, thou wast minded to put away thy stainless spouse: but this joy was inexpressible when the archangel revealed to thee the high mystery of the Incarnation.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee comfort our souls now and in their last pains with the consolation of a well-spent life, and a holy death like unto thine own, with Jesus and Mary at our side.
Pater, Ave, and Gloria.

ii. St. Joseph, Blessed Patriarch, chosen to the office of Father of the Word made Man, the pain was keen that thou didst feel when thou didst see the Infant Jesus born in abject poverty; but thy pain was changed into heavenly joy when thou didst hear the harmony of angel-choirs, and behold the glory of that night when Jesus was born.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee obtain for us, that, when the journey of our life is ended, we too may pass to that blessed land where we shall hear the angel-chants, and rejoice in the bright light of heavenly glory.
Pater, Ave, and Gloria.

iii. St. Joseph, who wast ever most obedient in executing the law of God, thy heart was pierced with pain when the Precious Blood of the Infant Saviour was shed at His Circumcision; but with the Name of Jesus new life and heavenly joy returned to thee.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, being freed in our life from every vice, we too may cheerfully die, with the sweet Name of Jesus in our hearts and on our lips.
Pater, Ave, and Gloria.

iv. St. Joseph, faithful Saint, who wast admitted to take part in the redemption of man; the prophecy of Simeon foretelling the sufferings of Jesus and Mary caused thee a pang like that of death; but at the same time his prediction of the salvation and glorious resurrection of innumerable souls filled thee with a blessed joy.
By this thy sorrow and thy joy, help us with thy prayers to be of the number of those who, by the merits of Jesus and his Virgin Mother, shall be partakers of the resurrection to glory.
Pater, Ave, and Gloria.

v. St. Joseph, watchful Guardian, friend of the Incarnate Son of God, truly thou didst greatly toil to nurture and to serve the Son of the Most High, especially in the flight thou madest with Him unto Egypt; yet didst thou rejoice to have God Himself always with thee, and to see the overthrow of the idols of Egypt.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us grace to keep far out of the reach of the enemy of our souls, by quitting all dangerous occasions, that so no idol of earthly affection may any longer occupy a place in our hearts, but that, being entirely devoted to the service of Jesus and Mary, we may live and die for them alone.
Pater, Ave, and Gloria.

vi. St. Joseph, angel on earth, who didst so wonder to see the King of heaven obedient to thy bidding, the consolation thou hadst at His return was disturbed by the fear of Archelaus, but nevertheless, being reassured by the angel, thou didst go back and dwell happily at Nazareth, in the company of Jesus and of Mary.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, having our hearts freed from idle fears, we may enjoy the peace of a tranquil conscience, dwelling safely with Jesus and Mary, and dying at last between them.
Pater, Ave, and Gloria.

vii. St. Joseph, example of all holy living, when, though without blame, thou didst lose Jesus, the Holy Child, thou didst search for Him for three long days in great sorrow, until with joy unspeakable thou didst find him, who was as thy life to thee, amidst the doctors in this Temple.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee with our whole heart so to interpose always in our behalf, that we may never lose Jesus by mortal sin; and if (which God avert) we are at any time so wretched as to do so, that we pray thee to aid us to seek Him with such ceaseless sorrow until we find Him, particularly in the hour of our death, that we may pass from this life to enjoy Him for ever in heaven, there to sing with thee His divine mercies without end.
Pater, Ave, and Gloria.

Ant. Jesus Himself was about thirty years old, being, as was supposed, the son of Joseph.

V. Pray for us, holy Joseph.
R. That we may be made worthy of the promises of Christ.

Let us pray.
O God, who in Thine ineffable providence didst vouchsafe to choose blessed Joseph to be the husband of Thy most holy Mother; grant, we beseech Thee, that we may have him for our intercessor in heaven, whom on earth we venerate as our holy protector. Who livest and reignest world without end. Amen.

コメント (1)

今日、2021年5月5日は、5月の初水曜日(月の初めての水曜日)です 聖ヨゼフ!我らのために祈り給え

2021年05月05日 | カトリックとは

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日、2021年5月5日は、5月の初水曜日(月の初めての水曜日)です。今年は、聖母の汚れなき御心と聖ヨゼフとの取り次ぎを通して、私たちの主の御聖体に対する冒瀆的な取り扱いに対する償いを捧げましょう。

初水曜日に「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想することをご提案します。


聖ヨゼフはこの世で天主イエズス様と浄配なる聖母マリア様を最も良く知り、愛された御方であり、その隠れた徳ゆえに偉大なる御方、イエズス様とマリア様の最大の命の恩人であられました。

また、聖ヨゼフは、この世では、全てを天主の栄光のために、隠れてその生涯をささげられたが故に、天にて聖母の次に最大の栄光をあたえられていらっしゃいます。

聖伝では、水曜日は聖ヨゼフに捧げられた曜日であり、月の最初の水曜日を聖ヨゼフに捧げることで、聖ヨゼフを讃え、その御取次に信頼し、その御徳に倣って、聖ヨゼフを通して、天主イエズス様とマリア様をお愛しすることができますように。

初土曜日の「聖母の汚れ無き御心」への信心にならって、この「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」のどれかを「15分間黙想」することにいたしましょう。

聖ヨゼフの帯の信心については、下記リンクをごらんください。
聖ヨゼフの帯 cingulum Sancti Joseph

聖ヨゼフの御取次ぎにより、聖母の汚れ無き御心とイエズスの至聖なる聖心ヘの愛をますます与えてくださいますように!
聖ヨゼフの御取次ぎにより豊かな祝福がありますように!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖ヨゼフの7つの苦しみと喜び

1 ああいと潔き御母マリアの浄配、栄えある聖ヨゼフよ、御身のいと清き妻を失なわんと心に思い煩いし時の苦しみはいと大いなるものなりき。
されど天使が御託身の玄義を御身に伝えられし時の喜びは、またひとしお大いなりき。この苦しみ、この喜びにより、今も臨終の時も我らの心を潔き良心の喜びと、イエズス、マリアのうちに自我を滅する尊き御身の心を示し、我らを慰め給え。



2 ああいと幸いなる保護者聖ヨゼフよ、御身は人となり給いし御言葉の潔き養父の位にあげられたれども、御身は幼きイエズスがいと貧しき中に生まれ給うを見て大いに悲しみ給いしが、
天使らのたえなる歌声を聴き、その輝ける夜の栄えを見給うや、その悲しみは天的の喜びと変じたり。御身のこの悲しみ、この喜びによりて、我らもまたこの世の歩みを終えたる後、天使らの賛美の歌声を聴き、天的光栄の輝きを受け得んことを願い奉る。



3 ああ御摂理にいと従順なしもべなる、栄えある聖ヨゼフよ、幼きイエズスが割礼にて流されたる尊き御血は御身の心を苦痛もて貫きたれども、
イエズスと命名されるや御身の心は喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らをこの世の悪徳より離れしめ、イエズスのいと尊き御名を心から唱えつつ心満たされてこの世を去るを得しめ給え。



4 ああいと忠誠なる聖ヨゼフよ、御身は救世の玄義の成就に身をもって大いなる役を果たされしが、シメオンの預言によりイエズスとマリアが受け給うべき苦難を予知せられ苦しみ給いたれど、
数限りなき人々の霊魂がこれによって救わるるとの預言によりて、天的喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らがイエズスの功徳と聖母マリアの御取次ぎにより、終わりなき栄えを得てよみがえる人々のうちに数えられる御恵みをとりなし給わんことを願い奉る。



5 ああ人となり給いし天主の御子のいとも注意深き保護者なる栄えある聖ヨゼフよ、御身はいと高きものの御子を養い給い、これに仕えるために多くの辛酸をなめられたり。わけてもそのエジプトへの逃避はいと苦しきものなりしが、
御身が常に天主御自身と共におられし喜び、またエジプト人らの諸々の偶像が地に落とされしを目の当たりに見られし時の安心はいと大いなりき。この御身の辛酸と喜びとによりて、我らが地獄的暴君より免れて、わけても危険なる機会より逃避する事を得しめ、我らの心のうちに地上的執着が落とされ、ひたすらイエズスとマリアに仕え奉りつつ日々の生活を送り、この世を幸いに終わる事を得しめ給え。



6 ああこの地上の天使なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の心を天の王に全く捧げられたり。御身がエジプトより戻られる喜びは、アルケラウスに対する憂慮にて不安の闇となりしが、
天使は再び御身にイエズスとマリアと共にナザレトにて楽しく住み給う事を約束せられたり。御身のこの苦しみ、この喜びによりて、我らの心を深い恐怖より免れしめ、潔き良心の平和を楽しみ、イエズスとマリアと共につつがなく世を送り、臨終においてはイエズスとマリアの御手に我らの霊魂を捧ぐる事を得しめ給え。



7 ああ全ての徳の鑑なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の誤りにあらずして幼きイエズスを見失い、三日の間苦しみもて捜し求められたり。
されど神殿の中に博士らに取り巻かれたるイエズスを見出されし時の喜びはいかに大いなりや。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らが大罪を犯しイエズスを失いたりせば、たゆまず彼を捜し求め、遂に再び巡り会えるよう、わけても臨終の時に彼と共にありて天国に至り、御身と共に天主の終わりなき御恵みを賛美し奉るようとりなし給わんことを心から願い奉る。



交唱 イエズスが教えをはじめたりしは三十歳ごろなり、人々、イエズスをヨゼフの子なりと思いたり。(ルカ3:23)

V 聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え。
R キリストの御約束に我らをかなわしめ給え。

祈願 天主、御身のかしこき御摂理のうちに祝せられたヨゼフを至聖なるマリアの浄配に選び給いたれば、願わくはこの世の我らの保護者として崇め奉る彼が、我らの天のとりなし手となり給わんことを。 アーメン。

 

参考リンク
サンタフェ~奇跡の階段 コラレス通り1丁目 この記事に昔の階段の様子の写真があります。

聖ヨゼフの階段(アメリカのニューメキシコ、サンタ・フェにあるロレット・チャペル)



英語ではこちら。
THE SEVEN DOLOURS AND SEVEN JOYS.

i. St. Joseph, pure spouse of most holy Mary, the trouble and anguish of thy heart were great, when, being in sore perplexity, thou wast minded to put away thy stainless spouse: but this joy was inexpressible when the archangel revealed to thee the high mystery of the Incarnation.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee comfort our souls now and in their last pains with the consolation of a well-spent life, and a holy death like unto thine own, with Jesus and Mary at our side.
Pater, Ave, and Gloria.

ii. St. Joseph, Blessed Patriarch, chosen to the office of Father of the Word made Man, the pain was keen that thou didst feel when thou didst see the Infant Jesus born in abject poverty; but thy pain was changed into heavenly joy when thou didst hear the harmony of angel-choirs, and behold the glory of that night when Jesus was born.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee obtain for us, that, when the journey of our life is ended, we too may pass to that blessed land where we shall hear the angel-chants, and rejoice in the bright light of heavenly glory.
Pater, Ave, and Gloria.

iii. St. Joseph, who wast ever most obedient in executing the law of God, thy heart was pierced with pain when the Precious Blood of the Infant Saviour was shed at His Circumcision; but with the Name of Jesus new life and heavenly joy returned to thee.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, being freed in our life from every vice, we too may cheerfully die, with the sweet Name of Jesus in our hearts and on our lips.
Pater, Ave, and Gloria.

iv. St. Joseph, faithful Saint, who wast admitted to take part in the redemption of man; the prophecy of Simeon foretelling the sufferings of Jesus and Mary caused thee a pang like that of death; but at the same time his prediction of the salvation and glorious resurrection of innumerable souls filled thee with a blessed joy.
By this thy sorrow and thy joy, help us with thy prayers to be of the number of those who, by the merits of Jesus and his Virgin Mother, shall be partakers of the resurrection to glory.
Pater, Ave, and Gloria.

v. St. Joseph, watchful Guardian, friend of the Incarnate Son of God, truly thou didst greatly toil to nurture and to serve the Son of the Most High, especially in the flight thou madest with Him unto Egypt; yet didst thou rejoice to have God Himself always with thee, and to see the overthrow of the idols of Egypt.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us grace to keep far out of the reach of the enemy of our souls, by quitting all dangerous occasions, that so no idol of earthly affection may any longer occupy a place in our hearts, but that, being entirely devoted to the service of Jesus and Mary, we may live and die for them alone.
Pater, Ave, and Gloria.

vi. St. Joseph, angel on earth, who didst so wonder to see the King of heaven obedient to thy bidding, the consolation thou hadst at His return was disturbed by the fear of Archelaus, but nevertheless, being reassured by the angel, thou didst go back and dwell happily at Nazareth, in the company of Jesus and of Mary.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, having our hearts freed from idle fears, we may enjoy the peace of a tranquil conscience, dwelling safely with Jesus and Mary, and dying at last between them.
Pater, Ave, and Gloria.

vii. St. Joseph, example of all holy living, when, though without blame, thou didst lose Jesus, the Holy Child, thou didst search for Him for three long days in great sorrow, until with joy unspeakable thou didst find him, who was as thy life to thee, amidst the doctors in this Temple.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee with our whole heart so to interpose always in our behalf, that we may never lose Jesus by mortal sin; and if (which God avert) we are at any time so wretched as to do so, that we pray thee to aid us to seek Him with such ceaseless sorrow until we find Him, particularly in the hour of our death, that we may pass from this life to enjoy Him for ever in heaven, there to sing with thee His divine mercies without end.
Pater, Ave, and Gloria.

Ant. Jesus Himself was about thirty years old, being, as was supposed, the son of Joseph.

V. Pray for us, holy Joseph.
R. That we may be made worthy of the promises of Christ.

Let us pray.
O God, who in Thine ineffable providence didst vouchsafe to choose blessed Joseph to be the husband of Thy most holy Mother; grant, we beseech Thee, that we may have him for our intercessor in heaven, whom on earth we venerate as our holy protector. Who livest and reignest world without end. Amen.

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ピーター・レッドパス教授「聖トマス・アクィナスのキリスト教哲学に関するアメリカからの観点:聖トマスは新しく且つ改善された世界的な自由な文明の誕生を助けた助産師である!」

2021年04月27日 | カトリックとは
An American Perspective on the Christian Philosophy of St. Thomas Aquinas: Midwife to Birth of a New and Improved Global Civilization of Freedom!
Professor Peter Redpath,

「聖トマス・アクィナスのキリスト教哲学に関するアメリカからの観点:聖トマスは新しく且つ改善された世界的な自由な文明の誕生を助けた助産師である!
アドラー・アクィナス・インスティテュート
ピーター・レッドパス教授






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「反イエズス会主義と啓蒙思想について」 イエズス会司祭トマ神父 Antijésuitisme et Lumières: R P J François S J

2021年04月27日 | カトリックとは
Antijésuitisme et Lumières: R P J François S J
「反イエズス会主義と啓蒙思想について」
イエズス会司祭トマ神父




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「フランスの教会と啓蒙思想家」ビルコック神父 L' église de France et les lumières par M l'Abbé G BILLECOCQ

2021年04月27日 | カトリックとは
L' église de France et les lumières par M l'Abbé G BILLECOCQ

「フランスの教会と啓蒙思想家」ビルコック神父






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マイケル・マット【レムナント紙編集長】本来の「グレート・リセット」:啓蒙主義 対 キリストの光

2021年04月26日 | カトリックとは
【参考情報】Michael Matt : the original Great Reset: Enlightenment vs Lumen Christi. (字幕付き)






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憎しみの世紀 Le siècle de la haine マリオン・シゴー Marion Sigaut

2021年04月26日 | カトリックとは






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ヴィガノ大司教「トリエント・ミサにあずかることが可能であれば、改革されたミサよりもトリエント・ミサを優先すべきである。勇気を持って聖伝の典礼を行う司祭たちに物質的・精神的な援助を与えよう。」

2021年04月15日 | カトリックとは

ヴィガノ大司教「私たちは、司祭たちに、聖なるミサを人生の最初で最後のミサであるかのように捧げるように願い、世俗的な儀式を廃止し、司祭たちがかたくなに隠している宝物を私たちに返してくれるようにお願いしましょう。勇気を持って一貫して聖伝の典礼を行う司祭たちに、物質的・精神的な援助を与えることを覚えましょう。いつの日か、彼らがキリスト教社会を回復するための基盤を再構築する人となるでしょう。」

ヴィガノ大司教「もし私たち自身が、使徒たちによって私たちまで受け継がれた典礼によって、定期的に聖なる犠牲(ミサ聖祭)にあずかることができないのであれば、祝された秘跡(御聖体)を冒涜し、説教壇を使って信仰と道徳を堕落させる人々から距離を置きましょう。しかし、重大な不都合を伴わずにトリエント・ミサにあずかることが可能であれば、改革されたミサよりもトリエント・ミサを優先すべきであることを、自分の良心の義務として私は繰り返し述べたいと思います。」

Interview of Aldo Maria Valli with Mons. Carlo Maria Viganò
アルド・マリア・ヴァッリによるモンシニョール・カルロ・マリア・ヴィガノとのインタビュー

アルド・マリア・ヴァッリ(イタリア人ジャーナリスト)

【アルド・マリア・ヴァッリ】大司教様、あなたの度重なる発言やさまざまなブログの活動を通して、私たちは、新世界秩序(New World Order)のイデオロギーによって押し付けられた暴政であるかのように教会内に広がっている背教をあらゆる方法で非難しています。そしてこの新世界秩序に教会の位階階級は完全に服従しているように見えます。

これらのテーマに関しては、家族そして友人の間でも、分裂がこれまで以上の速さで進んでいることが注目されています。この世と教会の問題に関しては、根本的に分かれた判断があり、相互理解を認めないような二極化があります。それはまるで、二つの異なる文化、二つの異なる人間学、そして二つの異なる信仰が現れたかのようです。このような状況の中で、私たちが真理への愛を守りたいと願うなら、どのように振る舞うべきなのでしょうか。

【カルロ・マリア・ヴィガノ大司教】あなたの言われる通りです。いわゆるパンデミックを口実に始まった新秩序の構築は、多くの人に心の平穏と静けさを失ったと感じさせ、私たちを圧倒してその前では無力だと感じる悪を認識させ、家族や親戚、友人の間の分裂や争いを激しくさせます。私たちは、十分に成長して善悪を見分けることができると信じていた身近な人々を、嘘が説得に成功してしまうのを見て、悲しくなることがよくあります。私たちの友人たちが、主流メディアの大げさな宣伝に惑わされ、実に催眠術をかけられていると言ってもいいほど、信じられないように思えます。私たちが良心的だと思っていた医師たちは、ある種の狂った迷信の名の下に合理性を放棄することで、自らの科学的知識を抹消してしまったかのようです。昨日までナチズムや共産主義の恐怖を非難していた知人たちは、これらの独裁政権の恐怖が、より非人間的で冷酷な形で再提案され、強制収容所での実験や世界の人々の天賦の権利の侵害がより広い規模で再現されていることに気付いていません。

私たちは、教区の司祭が新型コロナウイルス感染症についてあたかも疫病のように語り、市長が位階階級の人物のように振る舞い、家族がテラスでバーベキューをしたからといって隣人が警察に通報するということがどうして起こり得るのか理解できません。かつて勇猛果敢に戦い、命をかけていた高齢者が、治療可能なインフルエンザによって文字通り恐怖にさらされています。しっかりとした倫理観を持った家庭の父親は、自分の子どもが悪徳や倒錯した教育を受けていることを容認し、自分が受け継いできたものや信じてきたものにはもはや価値がないかのようにしています。国を愛すること、国境を守ること、国家主権について語ることは、今やファシストとみなされています。

そこで、私たちは自問するのです。私たちが愛してきたイタリアはどこにあるのでしょうか。私たちに信仰を教え、天主の聖寵の中で私たちを成長させてくれた教会はどこにあるのでしょうか。わずか数年の間に、これらすべてが取り消されてしまったということはあり得るのでしょうか。

今起こっていることは、世俗の領域でも宗教の領域でも、何十年も前から計画されていたことは明らかです。また、多くの人々が、非常に多くの人々がこれまで騙されてきました。つまり、まず、私たちの信仰や価値観を共有していない人々に権利を与えるように説得し、次に、カトリックであるという事実や、彼らの考え、彼らの過去に対して、多くの人々にほとんど罪悪感を抱かせるまでにしたのです。今日、私たちは時代に逆行した者、狂信者としてかろうじて許容されるというところまで来ていますが、一方では、数千年もの間、文明生活の基礎を構成してきたことを行うことを犯罪としようと望み、天主に反する、自然に反する、そして私たちのアイデンティティーに反するあらゆる行為を正当なものとするだけでなく義務と宣言しようを望んでいる人々もいます。

私たちの社会全体を巻き込んだこの激動に直面して、光の子と闇の子の間に生じる分裂は、ますます明確になっています。これは、勇気ある断固とした選択をするために、天主から与えられた聖寵です。主の言葉を思い出しましょう。「私が地上に平和をもってきたと思ってはならぬ。平和ではなく剣(つるぎ)を持ってきた」(マテオ10章34節)。

数十年にわたって私たちが耳にしてきた平和主義は、善き人々を武装解除し、悪しき人々を自由にして彼らの不正な行いをさせるだけのものです。ですから、「神の国」に属する者とこの世の君に仕える者との間の分裂や分極化も、私たちの目を開かせるのに役立つのであれば歓迎すべきことなのです。真理を愛するということは、必然的に嘘を憎むということであり、二人の主人に仕えることができると考えるのは、思慮が浅く、幻想に過ぎません。

今日、キリストの御国と新世界秩序の専制政治との間で選択を求められているのであれば、私たちはこの選択を避けることはできず、首尾一貫して実行し、殉教に至るまで主の証人となる力を主に求めなければなりません。福音が 世界統一主義(globalism)という反福音と和解できると言う人は嘘をついています。それは、すべての宗教が平和的に共存できる戦争のない世界を提案する人も嘘をついているのと同じです。キリストの御国以外に平和はありません。「pax Christi in regno Christi」(キリストの御国におけるキリストの平和)。

もちろん、戦闘を成功させるためには、私たちを導いてくれる将軍たちや司令官たちを頼りにしなければなりません。しかし、彼らのほとんど全員が脱走や裏切りを好んでいたとしても、私たちは無敵の指導者である至聖なる童貞を頼りにすることができ、聖母の子らと教会全体への保護を呼び求めることができます。聖母の強力な導きの下で、私たちは何も恐れることはありません。なぜなら、聖母こそがいにしえの蛇の頭を打ち砕き、サタンの傲慢が壊した秩序を回復してくださるからです。

【ヴァッリ】典礼と聖なるミサについてお話ししましょう。いくら善意のカトリック信者であっても、「古い典礼のミサ」(Vetus Ordo Mass)に参加できるわけではなく、本当の正しい意味での乱用はないとしても、しばしば典礼的に礼を失した小教区のミサで「自らを満足させ」なければなりません。これらのミサでは、ご聖体を立ったまま手で受け、「天にまします」は[イタリア語で行われるミサでは]新しい定式文に従って唱えられ、出席者は[平和のしるしの代わりに]「平和の視線」を交わすように招かれ、(いくつかの側面に触れただけの)ベルゴリオ主義に沿った説教を聞くのです。結局のところ、彼らは悲しい気持ちで、控えめに言っても、天主や兄弟と和解した平和な気持ちではなく、ミサを後にするのです。では、彼らはどうすればいいのでしょうか。

【ヴィガノ大司教】私たちはまず、カルワリオの犠牲による無限の聖寵を祭壇の上で血を流すことなく永続させるために、主によって制定された最高の礼拝行為が、霊的進歩と内的平和の機会ではなく、信徒の聖化の障害物となってしまったということが、いかにしてあり得るのかを自問すべきです。他の時代には、ミサはこの世の試練と混沌の中で天国を垣間見させてくれましたが、今日では、この世の喧騒は、沈黙、祈りによる礼拝、そして聖なるものや天主の現存という感覚を追い出すための不可欠な要素であるように思われます。しかし、自然の秩序において、健康的な食べ物で体を養い、毒や混ぜ物の入ったものを避けることが私たちの義務であるならば、超自然の秩序において、健康的な栄養で霊魂を養い、霊的に毒となるものを避けることは、なお一層私たちの義務です。

もちろん、聖伝のミサ聖祭が行われている教会を見つけるのが難しいという信徒の気持ちは理解できますが、主は、聖なる犠牲が私たちの霊魂にとって重要であることを認識している人々の善意を評価する方法も知っておられると思いますし、特に私たちが経験しているような大きな危機の時には、その理由のために、信徒は、少なくとも日曜日には、主日をふさわしく聖別するための小さな努力をする方法を知っていると思います。

カトリック教徒が迫害され、ミサに出席することが困難で危険な時代や場所があったにもかかわらず、信徒たちは天主を敬い、天使のパンで自らを養うために、森の中、地下室、屋根裏に密かに集まることに成功したのです。私たちは、言い訳や口実を作らずに、このような信仰の兄弟にふさわしい者になる義務があります。

一方で、自発教令「スンモールム・ポンティフィクム」(Summorum Pontificum)は、聖伝のミサを持つ信徒の権利(特権ではなく権利)を認めていますし、これがどこでも実現していないとすれば、それは信徒がいかにして自分を強く主張するかを知らないことが大きな原因です。これは、美学への関心や、ラテン語やグレゴリオ聖歌への愛、あるいは一種の自分の過去を懐かしむこととしての問題ではありません。

私は、多くの信徒の皆さんが、時には何マイルも離れた場所にある聖伝のミサを探し求めるために、自分の教区の生活を放棄するかどうかを決断しなければならないとき、少なくとも人間的な観点から見て、困難な状況に置かれていると思っているのを理解しています。少なくとも、舌の上にご聖体を授ける敬虔な司祭が礼儀と敬意を込めて捧げるミサを探すことは、信徒の持つ重大な道徳的義務でしょう。

パンデミックは、典礼行事に対して不正に制限を加える口実となりました。私たちは、品のないミサや冒涜的なミサを押し付けられるのを黙認したり、諦めたりすることで、これらの不正の責任を自ら負わないようにしましょう。天主は、私たちに対する天主の愛に私たちがお返しする際の無関心と無頓着さにも怒っておられます。この無関心さは、聖土曜日に教会でワクチン接種を受けることさえ許し、「終わりのこと」【四終=死、審判、天国、地獄】に関する黙想を肉体的の死への根拠のない恐れに置き換えている信徒の中にますます見受けられます。

聖職者と位階階級が腐敗して腐敗させる権威の「絶対的命令」(diktats)の奴隷となっているのがこのように明らかであることに直面して、大きく声を上げることは道徳的な義務であるだけでなく、司祭職の感覚と召命の魂を忘れてしまった多くの教会人の行き過ぎた行為にブレーキをかけることでもあります。特に、疑似科学的な迷信が信仰の唯一の形態となり、一つの宗教の象徴、語彙、儀式性を流用する場合には、新型コロナウイルス感染症の物語に協力することがいかに深刻なことであるかを彼らは真剣に考えるべきです。聞く耳のある人には理解してもらいましょう。

ですから私たちは、私たちの司祭たちに、聖なるミサを人生の最初で最後のミサであるかのように捧げ、このような世俗的な儀式を廃止し、司祭たちがかたくなに隠している宝物を私たちに返してくれるようにお願いしましょう。勇気を持って一貫して聖伝の典礼を行う司祭たちに、物質的・精神的な援助を与えることを忘れずに覚えていて、いつの日か、彼らがキリスト教社会を回復するための基盤を再構築する人となるであろうことを覚えておきましょう。

そして、もし私たち自身が、使徒たちによって私たちまで受け継がれた典礼によって、定期的に聖なる犠牲(ミサ聖祭)にあずかることができないのであれば、祝されし秘跡(御聖体)を冒涜し、説教壇を使って信仰と道徳を堕落させる人々から距離を置きましょう。しかし私は、重大な不都合を伴わずにトリエント・ミサにあずかることが可能であれば、改革されたミサよりもトリエント・ミサを優先すべきであることを、自分の良心の義務として繰り返し述べたいと思います。

【ヴァッリ】「誰が教皇で、誰が教皇でないのか」という問題が再び提起されていることを、大司教様は間違いなく、もうご覧になっていることと思います。「ベルゴリオがザンクト・ガレン・マフィアの工作に基づいて選出されたことや、おそらくコンクラーベでの不正があったであろうことを考えると、彼は教皇ではない」と言う人々がいます。その代わりに、ラッツィンガーは、自由に教皇の聖座を放棄したのではなく、強い圧力によって強制されたと言われているため、さらに、辞任のラテン語の文章を無効にするためにわざと間違って書いたと言われているため、ラッツィンガーが教皇であると言われています。これは「幻想の教会」(fantasy church)なのでしょうか。それとも、真剣に検討すべき要素があるのでしょうか。

【ヴィガノ大司教】ベネディクト十六世をして辞任宣言をするに至らせた背景には、教会外部からと位階階級の有力者たちからの強くて不当な圧力、ヨゼフ・ラッツィンガーの個人的な性格など、複数の原因があると言われており、教会は深刻な不確実性と混乱の状態に陥っています。進歩的な陰謀家たちのグループの策動によって、ベルゴリオが候補者として指し示され、そのあと、ローマ教皇の選出を規定した使徒憲章「ウニヴェルシ・ドミニチ・グレジス」(Universi Dominici Gregis)に違反したコンクラーベの中で、選出されたと言われています。これらの要素は、ラッツィンガーの退位を無効にし、2013年のコンクラーベを無効にし、後継者の選出をも無効にすると言われています。

しかしながら、それらのことについて広まっていて否定できない話も存在しますが、これらの要素は、教会の最高権威による確認、そして何よりも宣言が必要です。それを行う権威を持たない人々が行う宣告は軽率です。また、現在の状況では、誰が現在の教皇であるかという論争は、すでに分裂している教会の体の健全な部分を弱め、善き人々の間に分裂をもたらすだけだと私は考えています。

真実を明るみに出し、進むべき道を示していただけるよう、信頼を持って主に祈りましょう。今は、究極の目的に向かって手段を講じる「思慮分別」という聖徳を強く持って、教会が常に信じてきたこと、「常に、どこででも、すべての人によって、信じられていたこと」(quod semper, quod ubique, quod ab omnibus creditum est)に忠実であり、油断なく守っていきましょう。

【ヴァッリ】多くの点で複雑で混乱しているこの時代に、あなたの祈りはどのようなものですか。どのようにして私たちの主に立ち返ればいいのか、私たちに提案していただけますか。

【ヴィガノ大司教】今日起こっていることは、国々の公の罪、個人の罪、そして恐ろしく聞こえるかもしれませんが、教会人の罪のせいです。私たちは、国々の罪にも位階階級の罪にも介入することはできませんが、謙遜さと、自分の罪や不忠実、生ぬるさを改めるというまことの回心の精神を持つことから始めることができます。ですから、新ファリザイ派の人々がこの世の評価を喜んでいるとき、彼らの回心を祈ることに加えて、私たちは次の福音の言葉で自分のために主の御あわれみを懇願しなければなりません。「ああ、天主よ、罪人の私をおあわれみください」(ルカ18章13節)と。

社会、そしてなおさら教会は、私たちの忠実さと、天主の聖寵と至聖なる童貞のご保護のもとに私たちのために用意された聖性の道を歩むことによって、大きな利益を得ることになるでしょう。私たちの主が十字架上で私たちの母として与えてくださった聖母に依り頼むことに信頼を置くのを、自ら奪い去らないようにしましょう。

【ヴァッリ】間もなく復活祭です。すべてのことにもかかわらず、主は復活されます。私たちは、希望の理由を見つけたいと思います。これは難しい企てですが、私たちにできるでしょうか。

【ヴィガノ大司教】私たちにできるというだけではありません。私たちはその信仰を持たなければならず、さらに希望の徳をも働かせなければなりません。この希望の徳によって、罪を避け、善を行い、天国の永遠の至福を得るために必要な聖寵を主が与えてくださるのだということを知るのです。私たちは、「in hac lacrimarum valle」(この涙の谷)の巡礼者であり、私たちの故郷は、天使や聖人とともに、三位一体の栄光のうちにある天のエルザレムであることを忘れないようにしましょう。

「Surrexit Dominus vere」(主まことによみがえり給えり)、復活祭の典礼はそう宣言しています。主は決定的に復活し、サタンに対して勝利を収め、アダムが原罪で署名した自筆の奴隷証書をサタンから奪い取ってくださいました。現在の試練、つまり、私たちを押しつぶし、打ち負かそうとする強力な戦列に対して、見捨てられ、孤独であることへの恐れは、私たちを怯えさせるものではなく、ご自身のことを次のように言われた方への信頼を新たにするように駆り立てるものです。「私がこう言うのは、私によってあなたたちに平和を与えるためである。あなたたちはこの世で苦しむだろう。だが勇気を出せ。私はこの世に勝ったのだ」(ヨハネ16章33節)。

この聖なる復活祭が、私たちを天主へと立ち返らせ、私たちに罪びとの回心のために贖罪と償いの精神をもって試練と苦難を捧げさせ、それによって、ゲッセマネの杯を分かち合った後に、私たちが復活の栄光に値する者となることができますように。

2021年の聖木曜日

このインタビューはイタリア語版ではこちらで初公開されました。ヴィガノ大司教のご要望により、英語版はThe Remnantに掲載されています。

Intervista / Carlo Maria Viganò: “Possa questa Santa Pasqua spronarci a un ritorno a Dio. Dobbiamo avere fede ed esercitare la virtù della Speranza”

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イエズス会士 ルイ・ラルマン師の小伝 LA VIE DU PERE LOUIS LALLEMANT

2021年04月09日 | カトリックとは
『霊的生活指針』 イエズス会士 ルイ・ラルマン著


イエズス会士 ルイ・ラルマン師の小伝


LA VIE DU PERE LOUIS LALLEMANT DE LA COMPAGNIE DE JESUS. (pp. 1-35)

ルイ・ラルマン師は、1587年シャンパーニュのシャロン・シュル・マルヌにおいて、かつてフランス王女の領地だったヴェルテュの伯爵領判事の一人息子として生れた。

父は彼を幼い頃からブールジュに送って、イエズス会経営の中等学校で学ばせた。

天主は、御自らの大いなる御計画を彼の上に仕遂げ給うに必要なすべての自然的超自然的素質を彼に与えおかれたのであった。すなわち高貴な精神とあらゆる種類の智識に応じうる知力、透徹した確固たる判断力、また優しく率直で誠実な性質、学問に対する強い愛好心、罪悪と特に不潔なことへのはなはだしい嫌悪、天主への奉仕に関する高尚な観念さらに内的生活への殊さらなる愛着、等である。

まだごく幼いころから、彼はそれとは知らずに内的潜心を実行していて「僕はいつも自分の中に留まっていなければならない。そこからすっかり外に出てしまってはいけない」などと云っていた。人に教えられずして聖霊に学んだこの金言を彼は心に深くきざみつけていたので、このように早くから常に自己を看視し、不用意な心の散慢になることを何より恐れていたのであった。

聖母に対しては厚い信心を持っていたので、ブールジュの中学校における聖母会に入会することを望んだ。これはすでに修道生活を胸に描いていた彼にとって、その第一の修練期となったと言ってよいであろう。

天主が彼に示し給うた完徳の理想は、よろこびに満ちた魅力をもってその心に絶えず浮かんでいた。友達と休憩時間を過している時でさえも、彼はしばしば完徳への熱望にとらえられ、感動のあまり顔は火のように燃え、眼は光り輝いて、遂にはひそかに聖寵の御働きに身を委ねるべくその場をはずさねばならぬほどであった。

ブールジュで古典文学を修め、修辞学の第一年を終えたので、彼の父はその第二年をさせるためにヴェルダンへ送ろうとして彼を呼び戻した。彼はそれを好成績で終了した後、イエズス会への入会を願い、許されて、1605年12月10日、十八歲でナンシーの修練所に入ったのである。

天主は最初から彼に、聖イグナシオがその子等に教えた完徳の真の観念を了解する聖寵を与え給うた。この聖なる父の生涯と行動こそは、彼が見倣っていたモデルで、殊にこの聖人の模範に従って本性の働きを抑え、一切の心の動きを聖寵に従わせるように努力した。やがてこの点において長足の進歩をとげ、以前から彼を知っていた人々は、彼がかくも短期間に完徳の特性である精神の平衡と平安とをかち得たことを見て驚嘆したほどである。

彼は修練期を終えるとすぐにポン・タ・ムツソン(Pont-à-Mousson)で哲学と神学の勉強をすることとなった。本来ならばイエズス会の慣習として、ここで下級生の受持あるいは 古典学級の教職につくはずであるが、頭痛と胃病に絶えず悩まされていた彼のために、長上はこれを許さなかったのである。

1616年にシャンパーニュとブルゴーニュとロレーヌにおけるイエズス会の各修道院は、その後シャンパーニュの名を冠する一つの管区を成すために、フランス管区から分離したが、ルイ・ラルマン師はフランス管区に留まり、1621年10月28日にパリで四つの荘厳誓願を立てたのである。彼は数箇所で論理学を教え、哲学を三年、数学を四年、倫理神学を三年、またパリではスコラ哲学を二年教えた。その後四年間、修練の係長をし、修練長となり、三年間、第二次修練者の指導者となり、上級学科の係長をし、またブールジュの学校長として二、三ヶ月在職した。

以上が彼の経歴で、その就任の順序である。これらの務をこの上なく立派に果したところから、彼はイエズス会中もっともすぐれた会員の一人に数えられうるのである。しかし、何事をもよくした中にも殊に、管理と指導の二つの任務には確かに稀な才能を天より与えられていたのである。

聖霊は、彼が自ら完全な長上且つ指導者となり、他の多くのすぐれた人材を養成し得る者となることを望み給うたので、御自ら彼の師となって、先にも述べたように、幼少のころから霊的生活について親しく教え給うたのであった。聖霊は御自身の尊きペルソナに関する特別の信心で彼を惹きつけ、聖寵のもっとも奥深い神秘をことごとく示し給うた。また聖霊の各種の賜を深く悟らせ、またそれらを、最高の聖徳に挙げんとし給う者にのみゆるされる惜しみなさをもって、与え給うたのであった。

他の賜の根抵をなし霊的殿堂全体の基礎であるところの敬畏は、彼の不断の心境であった。これは天主の真の子として、ふさわしい心がまえであり、堅固な謙遜の上に築かれ、また他の徳を伴うものである。すなわち、敬畏は、無垢・純潔・克己、さらにこの世のあらゆる事物よりの離脱、等の徳へ人を導き、且つその徳を保持するのである。

自己の空しさまた天性の堕落と浅ましさ、天主の偉大さ、ならびに、創造主に依らずして被造物の存在し得ぬことなどを深く悟った彼は、拝すべき至上者の御前に絶えず己を卑下し続けるのであった。かく自己を蔑視するところから、彼は自らの卑賤を愛し、卑賤への愛にかられて、己を卑しめまた卑しめられるあらゆる機会を求め、それを歓びむかえたのである。

御託身において天主の御子の示し給うた自己絶滅の精神に、彼は謙遜の鑑を見出で、託身せられし聖言の聖心に、この徳の実践を学んだのであった。この聖なる学び舎に於いて天主なる師から彼が教えられたのは、謙遜、自己忘却、己の無の中に埋められて生きること、等の最高の学課であった。それゆえに彼は自分自身にかかわることには、全然関心をもたず、心要に迫られるかあるいは明白な聖寵のすすめによらぬ限り、そのような事は語りもせず思いもせず、あたかも自己が存在しないかのように、ふるまったのであった。

彼の外観も態度も謙遜そのものであった。何をなすにもあわてず、ひそやかに、さながらそれを自分自身にさえも隠したいかのように何気なくする。それほど彼はつつましく、見せびらかすということを嫌ったのである。同じ理由から、善業も、自ら行うよりは他人の業に目立たぬように協力するのを好んだ。そこで事業の表面にこそ立たなかったが、忠告や奨励をもって企画をすすめ、あるいは彼自身の信用や権威で支持し、または人一倍の指導や配慮を与えなどして、実際は彼自身がその善業の主役となっていることもしばしばであった。ラルマン師の考えによれば、長上たるものはすべからく目下の者の仕事に関心を寄せ、必要な世話を惜しまず、彼等の聖なる事業を援助すべきである。かように、天主の光栄をあげ、人々の利益をはかる機会が恵まれれば、常に彼等を起用するようにし、万事を長上自身でなしとげようとして、外部的仕事を多量に背負いこまぬように心せねばならない。何故なら外的業務を持ちすぎることは、一般に、修院管理という自己の本分を果すために妨げとなるからである。ラルマン師はまた、長上のかかる態度は目下の者の心を得る上に非常に力があり、一方目下の者としては、自己にとって天主の代理者たる人々からかく援助され補佐されるのを見て、その任務を果す上に非常に励みを感じるものである、と言っている。

師が幼少のころから持っていた天主の子としての敬畏の精神は、洗礼の時に受けた無垢の衣と童貞の貴重な宝とを汚さぬよう、それらの忠実な護衛となって彼を守ったのであった。彼の最後の病の時に総告解を聴いた霊父は才能ゆたかな特に何事にも慎重な人であったが、「もし必要とあらば、彼が大罪を一度も犯さなかったということを誓って断言してもよい。彼の貞潔の徳のすぐれていたことは、天性の堕落を少しも持たぬように見えたほどである」と明言した。彼は純潔に反する誘惑や衝動を感じたことがなかったと云う。

彼の大いなるモットーは、完徳への進歩は心の浄化の進歩に比例する、すなわちこれは天主との一致に達する上に最短の確実な道で、天主との深いまじわりを結ぶために我等自身を備える誤りなき手段であるというにあった。

彼は自己の経験によってこれを知り、天主の御眼をけがす最小の汚点も許さず、霊魂を純潔に保つことに専心努力したのである。そのために彼はその内心を絶えず看視しつづけ、心の動きをことごとく注意ぶかく検討し、また毎日この上なく正確に告解したのであった。

この毎日の告解ということは、彼が霊父等の中で特に完徳への強い望みを抱いていると認めた人々に対して、もっとも力を入れて奨めたことの一つであった。彼等の日常生活における最小の過失をも自白し、その霊的傾向に関する一切を報告するために日々悔悛の秘蹟に与るようにと彼は勧めるのである。

彼自身常にそのように実行し、告解に際して一切の必要な心構え――すなわち司祭の人格におけるキリストの現存に対する強い信仰、彼等に与えられた権能への完全なる信賴、自己の罪過に対する謙遜なる愛の痛悔、その罪を償い天主を充分に満足させ奉らんとの熱誠――等を絶えず抱いていたので、彼は秘蹟の效果を明らかに経験し得た。その效果とは良心を潔める特殊の聖籠である。

彼は聖寵に対しては特に忠実で、故意に罪を犯すということは一度もなかった。ごく僅かな罪の影でさえも、認めればただちに、全力を尽くしてこれを遠ざけた。リゴルウ師も証言していることであるが、休憩時間などに、彼は、云いかけた事に何か不完全さのあることを天主の光に教えられて、急に口をつぐむこともあった、ということである。

彼は霊魂の汚れとなりやすい満足を身体に与えぬばかりでなく、五官を完全に抑制するということを絶えず心がけていた。彼の肉体的苦業がその体力を超えたものであったことは確かで、もっとも親しかった友人たちは、そのきびしさが彼の生命をよほど縮めたものと判断している。

霊的犠牲の最上部分を占める内的克己を彼はたゆみなく非常な厳格さをもって実行し、自己のすべての傾向と戦い、それを聖霊に従わせた。それゆえ情慾の上に完全な勝利を得て、幸なる「死」の境地に達したのである。かかる境地では本性はまったく聖寵に従うので、聖霊が霊魂に与えんとし給う天主の生命を、もはやいささかも妨げないのである。

世間が普通貧困を嫌うと同じ程度に、彼は貧しさを愛した。彼はイエズス・キリストの御跡に従いはじめた時から、絶対的に必要な物か家の中で一ばん粗末な、もっとも使い古され、もっとも不便なもののみを使用するのを好んだ。粗末な小さい寝床、テーブル、二個の椅子、祈祷台、聖務日禱書、聖書、それと、なくてはならない三四冊の書物とが、彼の部屋の家具の全部であった。彼は清貧を絶えず実行するために、常に何かに不足していることを喜び、その不足と些細な不便を、吝嗇漢が財産を隠すよりももっと細心に隠すのであった。それは長上の慈愛の眼に、あるいは院内の係の眼にふれて、この忍耐の機会の奪われることを恐れたからである。しかしながら、福音的清貧について彼が懐いていた観念は、外的事物の剥奪のみに限られてはいなかった。彼はそれを、高め得る頂点にまで徹底させたのである。すなわち一切の被造物よりの完全なる離脱、天主の聖寵や賜さえも超越して、ただ天主のみを求め、天主のみを眺め、天主のみに愛着する完全なる精神的赤裸である。これこそ彼がもっとも強調した教訓の一つで、これを実行することによって、彼は純粋なる愛に到達したのである。

彼は生来勇敢で、自分の計画を遂行し目的を追求するにあたっては何物にも挫かれぬ堅固な精神をもっていた。しかしそのおもな力は聖寵の賜から来たのである。それは彼を天主の精神で被い、天主のために一切を行わしめ、一切の苦しみを甘んじて受けしめた。彼はこの点きわめて力強い鼓舞を感じていたので事業の困難や労苦、世間の反対や人間的思慮から来る考量、不成功の懼れ等の何ものにも引止められることはなかった。彼としてはその企画が天主の聖旨であると云うことを知るだけで、勇躍、事に当るを得た。そうして必ず成し遂げられようと信じ得たのである。

彼は特に壮健という方ではなかったが、如何なることにも骨身を惜しまず、職務に、あるいは天主の光栄と隣人奉仕のため従順と愛徳とが彼を招くすべての業に、倦まず撓(たゆ)まず働いた。精神の熱誠は身体の虚弱を補い、疲労を知らぬと思われるほど彼を支えていたのである。

忍耐と柔和は、剛毅の賜のもっとも貴重な結果であり、又確実な証拠である。ラルマン師はこの双方の徳に卓越していた。苦しみの最中にあっても、誰にもそれと悟られぬほど、にこやかに苦しみを忍んだのである。彼は完全に自己を支配していて、その精神上にも気分の上にもついぞ何らの動揺も認められたことはなかった。彼はその魂を完全な平安の裡に持していたので、容貌は常に明朗であった。また人よりも声を高めるようなことは決してなかった。

彼の中に鼓吹されていた超自然の勇気は、聖イグナシオのごとく、彼をして、その計画があらゆる人から反対され妨げられることを天主に願わしめるほどであった。それは苦難の機会をもたらすばかりでなく、事業遂行の困難が大きかったほどその成功は、天主の光栄を一入(ひとしお)輝かせ得るからである。

彼は外国への布教に、殊にどこよりも改宗者の少ないカナダに、派遣されることを三年の間願い続けた。そこの宣教は労苦と十字架に富んでおり、華々しさのないかわり、宣教師自身の成聖のためには他のいずれの職よりも多く貢献するものであった。この故に、彼は他の万事に越えてそれを望んだのである。しかし自身そこに行くことは許されなかったので、その布教のための熱心な働き手を得ることに絶えず尽力し、フランスにあって、彼の手の及ぶ範圍で出来るかぎりの奉仕をそれがために捧げたのである。

布教に対する彼の愛は、孝愛の精神から生れたものであった。この精神がまず彼に、人々の霊魂を、天主に似る特性を与えられ、聖子の血によって贖われた天主の像(かたど)りとして眺めさせ、ついで、かかる霊魂の滅びを悲しむ心と救霊の熱望とを吹き入れたのである。実に、孝愛の賜こそ聖人等の心に、天主ならびに隣人に対する熱い愛情と熱誠とを注ぎ込むものである。この賜こそ愛徳にそれなくしては得られぬ魅力と甘味とを与えるものである。しかもこの賜は貴重なだけにまた稀なものであるが、学者や福音のために働く人々のためには、必要欠くべからざるものである。それによって、勉学や多忙な活動生活によって精神の冷淡になることが防ぎ得られるからである。

ラルマン師が孝愛の情に満たされていることは、そのすべての行為にあらわれていたが、殊に天主に直接かかわりある業において著しかった。たとえば聖務日禱を誦え、ミサを捧げ、秘蹟を授ける時など顕著であった。また十字架の印をしたり聖水をつけたりする場合のごとく極く些細なことにまでそれは及んでいたのである。彼がこれらを行う時の態度には、いかにも堅実なしかも優しい信心が奥底にうかがわれるのであった。

彼にとっては、天主と共に親しく語り合うことよりも甘美な喜びというものはなかった。祈禱は地上における彼の至福であるとして、他の如何なる仕事よりも多くの時間をそれに当てていた。時には睡眠の時を割いて夜の数時間を祈りにふけったこともある。ある日炉辺に一人の友と差し向かっていた時、彼は、天主に心を挙げることは少しも難しく思わないと打ち明けた。彼にとってそれは暖炉の薪台に眼をむけると同じ位にたやすいことだというのであった。

天主の御光栄に関係のないことは何事も彼を動かさなかった。彼の心づかいのすべては、あらゆる個々の事柄の中に天主の御計画を見、一旦それを確かめれば、聖寵の光にしたがい、キリストの精神によってこれを成しとげるべく天主に身を委ねることに尽きていた。

彼は常に、念禱の中に明らかに聖霊の御指導を経験した。それは神秘家が受動的あるいは超自然的念禱と称する状態にまだ到達しないうちからであった。(そのように呼ばれるのは、ここに於ける霊魂はその自然性を超えた方法で、天主の御業を受諾するのみだからである)彼は念禱に入るや否や天主の光に照らされそれによって黙想の題と要点を示され、一切の行為をも提示されたのであって、それは彼自身著作の一つの中に証言しているところである。

彼の特別の信心の対象は御託身の御言(イエズス・キリスト)であった。彼の霊魂の全能力は、聖主の尊きペルソナと、その種々の御状態と玄義とを考えることによって占められていた。聖体は彼のさらなる尊敬の的であり、またその談話中にもっともよく出る話題であった。聖体について語る時の彼は特にすぐれていた。彼の信心業の一切は神人に向い聖主にかかわり、そして聖主への愛は彼の行為全体の土台となっていたのである。彼にとって諸徳は、イエズスにおいて神化された有様で考察するとき、最も好ましく思われた。この見方によれば、自然的にもっとも厭わしくもっとも困難な徳行も、彼には大きな魅力をもつようになったのである。

天主の聖子のしるしを帯びている一切のもの、聖主に何等かの縁があり、あるいは直接に関係あるものは、ことごとく彼には限りなく貴く愛すべきものであった。その理由から、彼は聖母と聖ヨゼフに対し、無量の愛情をいだいていたのである。また、特に御託身の聖言とそのいと聖き御母に奉侍する天使の中のあるものと親しい愛の交りを結んでいたのである。

彼は毎日ロザリオの一部を誦えていたと言われている。しかし彼は、その外面的な信心業によるよりも、内心の尊敬と愛と信賴の高い精神によって聖母に一層の恭敬をつくしていたのである。

彼は、聖ヨゼフへの信心をすべての人に吹き込むために、特別の恩恵を与えられていた。霊的生活に入ろうと望む人に対する彼の勧告は、謙遜にはイエズス・キリストを、純潔には聖母を、内的生活には聖ヨゼフを、模範とすることであった。彼自身、これらの聖なる模範にしたがって、完徳へ精進していたのであるが、そのモデルを己が中によく表わしていたことは、容易に認められるところであつた。

聖ヨゼフを敬って、彼は毎日四つの小さい信心業を実践し、そこから驚くほどの利益を受けていたのである。その最初の二つは午前中に、他の二つは午後に行った。
第一は、精神を揚げて聖ヨゼフの心に通わせ、聖人がいかほど聖寵に忠実であったかを考え、次に己が心に眼を移し、その不忠実さを見出して遜(ヘりくだ)り、奮発心を起すのであった。
第二は、聖ヨゼフがいかに内的生活を外部の活動に完全に調和させていたかを考察する。そして自分自身とその仕事について反省し、モデルの完全さに及ばぬ点を認めるにあった。この修業によって彼は非常に進歩し、その生涯の終には内的潜心の状態が決して破られることなく、外部に向けられる注意も天主との一致を弱めるよりもむしろそれを強めるために役立つほどになったのである。
第三は、聖母の浄配としての聖ヨゼフに近づき、聖母の童貞性と母性についてこの聖人の有していた感ずべき知識を黙想し、また、彼が御託身の玄義に関する天使の御告げを信じた謙遜な服従を考えることであった。この業によってラルマン師は、聖ヨゼフがそのいとも聖なる浄配に持たれた愛の故に彼を愛するよう努めたのである。
第四は聖ヨゼフが聖き幼児イエズスに払われた拝礼と敬愛と、感謝の念とを思い起すことである。そして彼とともに、自分としてなし得る限りの深い尊敬と優しい愛のこころをもって、神聖なる幼児を拝し愛することを願うのであった。彼は聖ヨゼフに対する自分の篤い信心の印しを墓まで携えてゆきたいと思い、この愛する保護者の聖像を棺の中に彼と共に納めることを請うたのであった。

また聖ヨゼフも彼の求めに何一つ拒まれなかったことも、種々の場合に認められたのである。そしてラルマン師は人々に聖ヨゼフを敬わせようと思う時は、その御取次によって得られない御恵みが一つもないということを断言するのを常としていた。

ブールジュの中学校の下級生受持だった、ポ―ル・ラグノー師やジャック・ヌエー師に対する場合もこの行き方であった。当時ラルマン師はそこの校長だったのであるが、彼はこの二人が著しく徳に向って進みゆくことを認め、その霊的進步のために特に心を配っていたのである。聖ヨゼフの祝日が近づいたとき、彼は二人を呼び、もし彼等がその生徒に聖ヨゼフへの信心を奨励し、その祝日に何か特別によいことをするなら、自分はこの偉大な聖人にその御とりなしを願って、彼等の望むものをことごとく得させるであろう、と約束した。二人の若い教師は彼の言葉に従うことを約し、その祝日には彼等の生徒全部に聖体拝領をさせた。次いで二人は校長の許におもむき、各々が聖ヨゼフの御取次によって獲たいと願う事柄を伝えた。

ヌエー師は、聖主について立派に語り且つ書く恵みを願ったが、次の朝ラルマン師を訪ねて、熟考の結果、完徳のために更に有益であると考えた他の恵みを願いたい、と告げた。ところがラルマン師は、もう他の恵みを願うには遅過ぎること、最初の願いはすでに与えられたのであるし、彼が引受けたのはその一つのためだけであった旨を答えた。この恩恵はヌエー師の全生涯を通じて明らかに顕われ、彼の説教、著述に輝き出ている。殊に長年辛苦の末、世を去る少し前にはじめて完成した聖主イエズス・キリストについての偉大なる著作は、それを証明するものである。

ラグノー師の方は、このことをすべてモンマルトルのベネディクト会の修道女マラン童貞に話したのであるが、彼がラルマン師によって聖ヨゼフに求めてもらった恩恵が何であつたかは話そうとしなかった。多分それは何等かの内的の聖寵であったが、彼はそれを天より賜わった他の多くの恩恵や貴重な賜と同様に秘めて謙遜の心からそれを云い表わすことを欲しなかったのであった。事実、彼は、宏大な精神、鋭い洞察力、確かな判断、英雄的勇気、偉大なる事業をなし得る能力、聖なる単純さ、天主への感嘆すべき信賴、霊的な事柄に対するすぐれて行き届いた経験等を有する完全な修道者であった。あらゆる現世の利益をまったく離脱し、天主への愛と救霊のための熱心のみを念じていた人であった。彼はカナダ(la Nouvelle France)の最初の宣教師の一人で、彼と使徒としての労苦を共にした二人の聖なる修道者、ジョゼフ・ポンセ師(P. Joseph Poncet)とフランソア・ル・メルシェ師(P. François le Mercier)は、カナダ教会のために彼ほど役に立ち、彼ほど使徒の名にふさわしい人はなかった、と私に知らせてくれた。後年、彼が意を注いだこの布教の会計係としてフランスに帰り、以後は、天主に与えられた稀なる指導者としての才能を発揮したのである。非常に多くの敬虔な霊魂、殊に特殊な道を歩まされている人々が、御摂理によって、彼の許にみちびかれ、彼はそれらの人々に対して、大いなる愛をかたむけ、直接に言葉をもってする、あるいは手紙による援助を惜しまなかったのである。人々は到る所から彼に手紙をよこしたが、彼の返事は受取る人の心に光と聖霊の御働きをもたらすのであった。彼はパリにおいて、1680年9月3日に七十五歲をもって、聖なる死を遂げた。彼の書簡が、他日、篤志家によって収集され、公刊されることを希望する次第である。さて、ラルマン師の伝記に戻ろう。

天主の御独子の御託身が天使らに伝えられた時、すべての天使は神人に尊敬を捧げたが、特にある天使等は神人と、そを産み給うべき聖母に対して身を献げ、この御二方の現世の御生活中常に御傍に侍(はべ)っていた。しかしてその任務の一つは、御二方への彼等の熱誠と愛を人々に吹き込み、またこれを敬虔に献げる人々をあらゆる方法で助けることである、と云う認を信ずる人々にラルマン師も組みしていた。この理由から彼はこれらの聖なる天使を特別に尊敬し、すべての人々にイエズスとマリアを知らしめ愛せしめるため、またその御光栄増進のために、御二方に敬愛を献げるべく、その天使らと霊的に結束したのである。彼は、託身せられし御言の天使らに祭壇における附添いを願わずに、ミサを捧げたことはなかった。また、聖務を誦え始める時には、聖母に侍る天使らを招いて、共に天主に向い讃美の歌を歌わしめたものであった。

彼はイエズス会に入る志をいだいた時から聖イグナシオを父と考え、子のこころをもって彼に仕へ、必要なものはすべて、信頼をもって彼に願っていた。

彼は孝愛の賜を豊かに与えられていた。この天よりの賜は彼において望みうる限りの效果をあらわし、長上に対しては子供のごとき服従を、目下に対しては父のごとき思い遣りを、すべての人に対しては兄弟のような愛を、常に抱かしめていたのであった。

長上の中に天主のみを眺めさせ、彼等に対して子の心を持たしめて、従順の徳を完成するのは、孝愛にほかならない。ラルマン師はこの心構えをもつ人であった。それで彼の喜びは、己の職務や一切の行動を、天主の聖旨の真の解釈者なる従順によって律することであった。これを一層完全に行うために、彼は何物も求めず何事も拒まず、好き嫌いの自由さえ己にゆるさなかった。またひとたび長上の望みと知るや、それが命令として言葉に表わされるのを待たず、もっとも困難な、あるいはもっとも好みに合わないことをしようと、常に心がけていた。

彼は修練者等に特に従順の徳を強調し、この徳を五ヶ月あるいは六ヶ月続けて彼等の特別糾明の対象とさせた。そして常にこう云っていた。「兄弟等よ、私が従順についてこれほど長く諸君に糾明させることをうるさく思ってはいけない。もし諸君がそれを完全に行い得るようになれば、聖徳の道を真直に確実に歩みつつあると信じてよい」と。

彼が会則を正確に守ったことも同じ主義から来たのである。それは天主が彼に求め給うことを詳しく指示するものにほかならないからである。彼は会則を殊のほか尊重し、完全なる修道者の特徴である愛の精神をもって守った。

しかし彼の孝愛の精神が一段と目立って顕われたのは、同僚と目下に対する態度においてであった。この点では全く並ぶ者がなかったと云い得よう。

聖パウロが愛徳に帰したあらゆる特性は、彼の中に見えていた。彼ほど堅忍、柔和、謙遜、無欲、寛大、親切な人はなかった。

彼のすぐれた性質、人をひきつける真摯な態度、稀に見る惧しみ深さ、柔和と聖なる厳格さの調和した姿、また面にも言葉にも溢れていた聖い表情は、直ちに人々の心をとらえ、彼に胸襟をひらかせるのであった。一度でも彼と語りあうと、人は再び彼に聞き且つ語ることを切望せずにいられなかったのである。

彼は御摂理によって身近に与えられる人々と和合する術をよく知っていた。彼等の欠点を忍び、彼等に奉仕する機会を探し、彼等の心に入りこみ、かように身を屈した親切と忍耐によってついに全く人心を収攬(しゅうらん)してしまうのであった。

彼は、近づいて来る人には誰に対しても、何時でも、どれほど忙しくても、笑顔をもって心から迎へ入れるのであった。そして、うるさそうな態度を一度も示したことがなく、ただ彼に語らうとする人々の話を聞く以外には、何も用事がないかのように見えたのである。

リゴルウ師(P. Rigoleu)はその手紙の一つに次のことを記している。「自分と共に第三期修練をこの聖なる指導者の許で過した神父等のうち数人は、ラルマン師の意見に最初は幾分反対していたのである。しかし彼はよく柔和と親切と謙遜によって彼等の心をかち得たので、三ヶ月と経たぬ中にその指導に身を委ね切らぬ人は一人もないほどになった。そして誰も例外なく、かかる立派な長上に会ったことはないと云い合ったものであった」と。

ところで彼のためには、天主の思召によって、長上として親切に彼に臨むべき者、また目下や弟子として彼に尊敬と服従を示すべき者が、あるいは彼の心を痛め、あるいはその義務をおろそかにして彼を悲しませることも稀ではなかった。しかしこれに対して彼は夢にも遺恨を含み不平を云うことなく、むしろ喜びを感じ、なおよく彼等に仕えようと努めたのである。彼の報復は、彼等の霊的進歩を一層烈しく望むことに終ったのである。これについて彼はある日一人の友に語って、この望みは非常に強く、その烈しさを耐えることができないほどで、それがために自分は消耗しつくされると打ち明けたことがある。実際、彼を一番よく知っていた人々は、ラルマン師を燃えたたせていたあの熱愛の火は、きびしい苦業に劣らず、彼の生命を縮めることになったものと信じたのである。

彼がブールジュの中学校長となって間もない頃のことである。パン焼き係であった一修士がある日師の許に来て、その仕事が余り多過ぎることを荒々しい口調で訴え、事実を調べた上で代りの人を置いて欲しいと云った。ラルマン師はおだやかにそれを聞いて、彼の荷を軽くする約束をした。次いで師はパン焼き所にひそかに自らおもむき、力一杯捏粉をこね始めた。先の修士は興奮から覚めてパン焼き所に帰って来ると、校長が彼に代って働いているのを見付けてすっかり驚き、直ちに師の足許に身を投げ恥じ入って己が罪を詫びたのであった。そして、かくまでに愛情深い長上の慈しみと謙遜に、感服したと云うことである。

こうした場合、彼はいつもこのように慈しみ深く振舞ったので、誰でもが結局彼の望むままになるのであった。イエズス会を管理するにはきわめて柔和でなければならない、ということを、日々の経験によっていや増しに教えられる、と彼は常々言っていた。さらに長上は恐れよりは愛によって従わせる方法を学ばねばならぬこと、規律を正す手段は厳格さと懲罰によるのではなく、長上の慈父のごとき親切と、目下の者の不足を助ける注意深さ、また彼等の中に内的精神と祈禱の心を保たしめ増大せしめる配慮等によるべきであることを説いていた。

彼の秀でた才能は、そのやさしい愛徳が人々の心をかち得たと同様に、彼等の尊敬と信頼をひき寄せた。生れながらのすぐれた理解力と公正堅固な判断力による光と、神学への深い造詣と個人的体験より得た光に加えて、さらに天主が聖職者等に己自身のためあるいは他人の指導のために与え給う天来の光によって、彼はすばらしく照されていたのである。

彼は、みずから聖霊に関する講義の中で述べているごとき、聖人等の知識を所有していた。その説くところをみても、彼が霊的生活に最も通じていた人の一人であることが、みとめられる。彼はこの事柄に関しては真に霊妙に語るのであった。そして彼の指導のもとに第三修練期を送った神父等は、彼の稀なる天賦の学才と超自然の事柄に関する豊かな諸種の知識に感嘆したものであった。これは明らかに彼の天主との一致から来たことであって、それらの知識は天来のものたる印を帯びていたのである。と云うのは彼には勉学の暇がなく、時間の多くは祈禱と修練者に語ることで過されていたし、彼が日々与えた訓誡や講義を準備する時間はほとんどなかったからである。それにもかかわらずそれらは非常に充実していて美しく、その準備には彼の時間全部を宛てたことと思われるほどであった。

霊父等の中の最年長者や一番おも立った人々も彼の談話を非常に喜び、彼が霊的な事柄について語るのを聞く利益を得るために休憩時間の一瞬をも失うのを惜しんだのであった。一人の特に才能をめぐまれた霊父は、この聖なる人と語って何か新しい知識をもうけぬことはなかった、と断言している。即ち、師がすぐれて通暁(つうぎょう)していた聖書の意味に関して、あるいは神学上また霊性上の諸点について、いずれの方面においても獲るところに乏しくなかったという。

その著述と秀でた徳によってすべての人の尊敬を受けていた、ジュリアン・エイヌーヴ師(P. Julien Hayneuve)がルーアンの修練院長だった時、ラルマン師は同院で第三期修練を過す霊父等の指導者であった。院長はかかる完全な指導者の弟子になることを望み、修練者とならんで師の訓誡や講話にことごとく出席した。そして師の話に、彼がこれまでどんなところでも受けたことのない光と感動を与えられたということである。

師の話がいかに感化力に富み、人々の心に感銘を与えたかは、想像できぬほどである。聖パウロが言語の賜と称したその天来の恵みは、彼の勧告にも警告にも激励にも慰撫にも、あきらかに認められた。彼の唇をついて出るただの一言が、みだれた心を静め、かたくなな精神を承服させたことはしばしば見られたことである。

ある人々は、ルイ・ラルマン師のフランスのイエズス会に於ける存在に、スペインの同会におけるアルヴァレス師(P. Alvarez)の存在と等しい意義をみとめているが、いかにもうなずかれることである。たしかにラルマン師はかの聖テレジアの有名な指導者と同じく、神秘神学のすぐれた知識と経験とを合せもっていた。そしてアルヴァレス師のごとく、その弟子等の中にかつてイエズス会が有したもっとも霊的な、もっとも内的な人々を数えしめているのである。彼の指導下に第一次あるいは第二次修練を過した人々はいずれも、敬虔かつ端正な態度において他の人々とかけはなれるものとなったことは、前に述べたごとくである。彼等の態度は、師より学んだすぐれた教訓、わけても潜心と内的生活を愛する念を得たことに負うていたのである。

彼は、イエズス会に属する人々をみちびく特殊の才能を天主に与えられていることを自身承知していた。彼等の上にかけられた天主の御意向、それに対する彼等の側からの障碍、また、完徳達成のために彼等の歩むべき道などについて、知識を与えられていることを自認していた。イエズス会員が招かれているところの聖徳は、想像も及ばぬほどのものであること、そして各自のために天主がそなえ給う聖寵を見るならば、それらは実にもう一人の聖イグナシオ、もう一人の聖フランシスコ・ザベリオたるべき者にのみ宛てられてあることがわかる筈である、と彼は常に断言していた。

彼は明確な分別と賢慮とを常にもっていた。その光によって、万事に最善のもの、その時と所と状態とにもっとも適合するもの、人が志す目的にもっとも合うこと、天主の御旨に最もかなうことを識別することができた。彼がその死去の七八年前に、人間の弱さをはるかに超えた勇敢な願を立てたのもこの光によってである。それは万事において彼がもっとも完全と判断したことを行うことであった。しかし彼はこれを非常に慎重に行ったのであって、最善と思うことを選びつつも、もし特にすぐれたものであれば、やや下位に属する善を拒みはしなかった。

彼がよく語ったことは、聖人たちに於いて我等が見習うべきは、彼等の非凡な徳の手本の中のきわ立って輝きを放つものではなく、万事に、そしてごく些細なことにも聖寵に従ったその不断の忠実さをまねるべきであるということであった。そしてもし我等が彼等のごとく忠実かつ勇敢であるならばたとえ彼等と同じことを行わず、同じ苦しみを味わわなくとも、功徳においては匹敵する、ということである。

彼の管理の態度はまったく超自然的で、そこに策略的精神などはいささかもなかった。彼はこの精神を以てふるまう長上を戴く修院のあることを思って嘆いていた。目下の者は、人々を天主にみちびくキリストの代理者なる長上に、従順と信頼の情をもたねばならぬのに、策略的精神はそれをつまずかせ妨げるものであると、彼は言っていた。

彼は決してあわてて事をなさず、聖霊の光に計らずにはいかなる決心も立てなかった。聖寵の御働きに先走る性急な熱望と、内部の光にろくに心を留めぬ烈し過ぎる熱心とは、內的生活を営む人に対する天主の御働きを最も妨げる欠点の一つであって、福音のために働く者にも、その労務と聖職の努力の成果を減ぜしめるものであるというのが、彼の持論であった。実際、彼はいかなる振舞いにおいても賢慮に反する過ちというものを犯したことがないようである。

霊魂のもつとも崇高な光は、照明と上智の賜より来るものである。聖霊は、霊的教訓を説いたもっともすぐれた師父等になし給うたごとく、ラルマン師にもそれらの賜をゆたかに恵み給うた。我らの信仰の玄義、わけても神人の玄義について、彼ほど深く悟り究めた人を見出すのはむずかしいであろう。彼は、聖パウロと共に、キリストのはかり知られぬ富を世に知らせる恩寵を受けた者である、ということができよう。

彼は一般の人のように、御託身の玄義や、聖人たちの行為に関して、その外部にあらわれたところや、外形に目をとめるに止まってはいなかつた。聡明の賜は彼をしてその精神にまで分入らせ、イエズス・キリスト、聖母、諸聖人の感嘆すべき内的状態を悟らせたのである。また、これこそ彼がもっとも努力をかたむけたところであった。彼が聖母に対して懐いていた気高い観念は、そのたぐいなき完徳と、原罪の汚れなき御孕りのその瞬間から、御生涯を通じて、殊に御告げの玄義において天主の御母となり給うた時、聖母の上に行はれた霊妙について、深く観想し悟らされたことに基づいていたのである。彼は聖母が原罪を免れさせられたばかりでなく、その結果負うべき義務からも解放されい給うたと信じていた。(註、勿論この当時は無原罪の御宿りの信仰箇条はまだ定められていなかった)

諸聖人の中で彼がもっとも広いもっとも明らかな知識をもっていたのは、聖ヨゼフと聖イグナシオに対してであった。聖イグナシオは彼に己が精神を与え、その子等にもこれを伝える力を、天主に乞うて彼に与え置いたようにも思われる。彼は「この偉大な聖人のもろもろの徳と聖寵について世に知られて居り、またその伝記作者がみとめているものも、彼の霊魂の奥底に隠れている内的完徳にくらべるならば、殆ど無にひとしい」とよく言っていた。

彼は聖書を解釈し、その種々の意義をさぐる上に独特の聖寵を有していた。彼は絶えず聖書を読んで居り、又それをほとんど唯一の学問としていた。しかしそれも聖書註釈書によるよりは、むしろ祈りつつ教えられたのである。天主の聖言を読みつつ種々の難点に遭遇すると彼は祈禱にたすけを求めた。それで時としては、ある一句の意味について、一年間聖主に光を請い続けたこともあったということである。

聡明の賜は天主に関する事柄を第一の対象とするのではあるが、それのみに限られてはいない。それは人間的行為やこの世の事物にまでも及んで、そこに天主の御計画を見出し、それらが如何に天主の御光栄に寄与しあるいは反するかを知らしめるのである。ただし、純潔で利己心なく、潜心し天主に親しく一致している人々のみが、この聖き洞察をなし得るのである。ラルマン師は天主のみを眺め、万事に天主のみを求めていたので、天主の現存を体験する恵みや純い意向の光によって、人間的精神から来る手管や欺瞞を見すかし、諸種の事件や企の中に天主の御計画、御利益と人間のそれとを見分け、また万事に天主よりのものと被造物よりのものとを区別し得たのである。

己を注意ぶかく見張り、その心の動きをことごとく監視し整へる労をいとわぬ人は、やがて人々の心の秘密をも看破する特殊の能力を受けるものである、と彼は云っていた。それは、彼等が自己の内心に対して払った努力に天主がこの恵みをもって報い給う故であり、あるいは彼等自ら感じた経験が他人の心中を正確に判断させる故である、という。

そうとすれば、ラルマン師が実際に人々の心の奥を見透し、彼等が隠そうとしたもっともひそかな思いさえも看破し得たことは不思議ではない。

修道士の一人の証言によると、ある時彼が師に告解したとき、この聖なる人は彼が告白を略した一つの隠れた罪を知らせた、またある時は、彼が心にいだいていた考えを言いあらわし、襲われていた誘惑の詳細をすべて言いあてたということである。

他のある人は自分の魂のひそかな悩みを師に打ち明けるつもりで彼をおとずれたが、その部屋に入ると恥かしくなって急に心を変え、他の事柄について語り始めた。すると、ラルマン師は彼が隠していた心の苦痛を悟って、そのあえて語り得ぬ事柄について、あたかも彼が心を全部師に開いたかのようにはっきりと答えたという。

ある日若い修士がはるかに来かかるのをみた師は、(この修士は何かの思惑から師の前に出るのを恐れ、出遇わないですむように種々の口実を探していたのだが)彼を呼びとめ、あたかもその眼で見たように彼の心に起っていたすべてのことを看破して告げた。青年は師に心を見透されたことを非常におどろき、自己の弱点を率直に自白し、ただちに元の信頼を取戻したのであつた。

このようにしてラルマン師は、その霊的子弟の幾人かを、まさに堕ちようとしていた不幸から守ったのである。また、自己の召命について迷いはじめていた者には力を附け、ゆるみ始めて来た者にはあらたな熱を吹きこんでふたたび燃え立たせたものであった。

上智の賜は、聡明の賜に感動と甘味とを与えてこれを完成する。それなくしては、聡明の賜より受ける一切の智識は無味乾燥となるであろう。

ラルマン師が聡明の賜を受けたのは上智の道によってであった。聖主が御弟子等に曰うた御約束の效果を彼はまさしく経験したのである。聖霊の御働きは彼の師となった。天の黙示、甘味、天主よりの慰めを、祈禱の中にあるいは祭壇においてしばしばめぐまれ、それらは信仰の小暗い真理を明白にし聖書の意義をあらわし、教義の奥ふかく隠された秘義をくりひろげたのである。

ある夜キリストは彼を呼びさまし給い、今は御託身の玄義が成就した時刻であると曰うて、この大いなる玄義において聖母にあたえられた恩寵にいささかあずかるべく用意するよう仰せられた。そこで彼は起きて祈りはじめた。しかしてその熱心な祈禱のうちに、密なる一致によってあたかも神人イエズスを身に帯び、その存在に貫き占められるごとくにおぼえた。そしてその一致によって霊肉共に不思議な方法で浄められたのである。同時に聖母もあらわれて、彼をわが子と呼びかけられ、特にいつくしみ給うことを保証し、また、人々からほとんど忘れられている御子の聖なる御人性に特別な信心と熱誠をささげることをすすめ給うた。そこで師は、二つの恵みをあえて聖母に請うた。第一は彼が常に聖母を忘れぬこと、――というのは時として聖母を考えずに、幾時間かを過すことのあるのが彼に幾分苦痛だったからである。第二は、彼がその心をささげていた拝すべき聖主の御人性から決して引き離されないことであった。聖母はその恵みを両方とも約し給うたが、事実それ以来、師は聖子と聖母の御前に在る恩恵に絶えず浴することとなった。

その後しばらくして、自己の救霊について懸念と疑いの誘惑におそわれた時、師は、聖母が御子の聖き御人性より決して離されまいと約束して下さったかの保証をおもい起して、誘いを斥けた。ところが後にこの保証を頼むそのよりどころを省りみて、そこには何か僭越なものが含まれていはせぬかという恐怖に捕われはじめたのである。その不安のさなかに聖母は現われて、彼の危懼を除き給うた。そうして、彼が己に頼ることなく、約束された聖寵によりすがっている以上、その信賴は僭越ではないということ、又この種の約束は常に条件付きで、それを受けた人が充分に忠実であると仮定されてのことであり、もしも忠実さが欠ける時は、聖母がさきに天主から彼のために乞い給うた恩寵にもかかわらず、失墜は可能である、ということを知らせ給うたのであった。

彼の第二次修練期にあたって、聖主は彼の霊的生活を教えみちびくために、守護の天使のほかにより上位の一天使を与え給うた。この二人の天使の一人かあるいはある聖人が夜なかに彼を起して祈禱に招くことがあった。しかし最もしばしばこの恵みを彼に与えたのは、聖主御自身あるいは聖イグナシオであった。

聖イグナシオは、彼が哲学科の学生だった時に、奇蹟的にその病を癒したことがある。それから第三次修練期中、すでに九年間の勉学中に悩まされていた持病の頭痛から全く癒されたのも、この聖人が天主より彼のために請い受けた恩恵である。

ある日は、執拗な烈しい誘惑におそわれて祈りはじめると、聖テレジアが現われて敵を追い払い彼の霊魂に平和を恢復させた。後にまた同じ誘惑が戻って来た時、彼は例のごとく祈禱に援けをもとめた。すると聖イグナシオと聖テレジアがあらわれて、悪魔を追い払い、以後永久にその種の攻擊から彼を解放したのであった。

またある日、ルーアンの修練院の聖堂で天主に祈っている時、彼は聖ヨゼフの訪問を受けた。そして諸種の恩恵を蒙ったのであるが、その詳細は彼が受けたその他の天来の多くの訪問と同様、人に知られていない。しかし彼はそれらによって、疑いの起る時には教えられ、悩む時には慰められ、労苦する時は力づけられ、また天主がその御光栄のために鼓吹し給う事業を行う時は励まされるのであった。

彼が煉獄の霊魂の有様について数度の黙示を受けたことは確かであると云われる。彼はその霊魂達の苦痛をながめ、その原因を悟り、また彼等が華々しく天国に凱旋するのを見て慰められることが度々あったのである。たとえば聖イグナシオのごとき聖人がそれらの霊魂を聖主に献げ、キリストはどのようにしてそれを受け容れ給うたか、また、守護の天使が光栄の座に伴い行く霊魂を天使聖人等が歓迎し、救主が備えの玉座に就かしめ給うさまなどを見たのである。

彼の祈禱、読書、研究は通常、聖寵の慰めと甘味で味つけられていた。聖霊の甘味な働きは彼の唇から流れ出で、言葉の中におのずとそれが感じられたのであった。

聖霊の御導きに完全に自己をゆだね奉ることについて、彼が人々に特に力を入れて勧めたことを自身どれほど完全に実行していたかは、想像に難くない。彼は幼少の頃から聖霊の御指導に身を献げていたのであり、その全生涯はこの至上の霊の御指図に対する一の不断の服従にほかならなかった。聖霊は夙(つと)にその賜もて彼を満たし、そのすべての御働きに対する感嘆すべき順応性と従順さを与えい給うたのである。

聖霊はまた神秘神学に於ける彼の師に在した。彼はそれを人から学んだのではなかった。たしかに立派な徳と才能を具えた修道者等を指導者に戴いてはいたが、彼等に負うところも、シュラン師(le Pere Scurin *)やリゴルウ師があの域に至るについてラルマン師自身に蒙った御蔭には遠く及ばないのである。彼が驚異的進歩をとげた内的生活の崇高な道において、導き手であったのは聖霊にほかならなかった。その心に聖霊の刻み給うた内的掟は彼のよって立つ原則となり、彼は万事についてそれにしたがい、それのみに依って行動したのであった。彼の振舞いはことごとく超自然的で、その感情、言葉、行為はまったく天主に占められた心の下地から来るように思われた。そこにはいささかの欠点もみとめられず、結局、彼において内面と外面とは完全に一致していたのである。彼の内的生活はキリストと共に天主の中にまったく隠されていた。しかして、イエズスの御精神は彼の內的生活のうちに鏡にみるごとくあきらかに映し出されていたので、彼を見る人はおのずと信心の感動を覚え潜心に惹かれるのであった。

彼は、聖イグナシオの精神によって立ち、この聖人に真に似通っている点、当時のもっとも完全なイエズス会員の一人であると一般にみとめられていた。諸修道会の長上達、特にカルメル会や訪問会の修道女等、また彼が居住した諸所の特に信心深い人々はみな彼との聖い交際を続けていた。そして彼等は自身のためにも、あるいは彼等に託された霊魂を指導するためにも、彼の助言を求め、それを聖霊の神託でもあるかのごとくに傾聴したものである。

彼の弟子等はみな師の徳について非常に高い評価をもっていたので、私の見るところでは、折にふれて師のことを感嘆して語らぬ者は一人もないほどである。中でもジャン・ジョゼフ・シュラン師(Pere Jean Joseph Scurin)とジャン・リゴルウ師(P. Jean Rigoleu)とは、師に対して、人が聖人にささげるような尊敬と崇拝をいだいていた。そして彼等の著述は、彼等がその精神にも心情にも師の教訓と聖徳とを完全に引きうつしていることをよく示しているのである。

彼の名声は外国にまで行きわたった。その聖徳は、当時スペインのカリオンに住んでいたクララ会の御昇天のルイズ童貞に奇蹟的に天の啓示としてあらわされたのであった。この修道女はかねて聖寵の不思議な御働きを蒙ることで世に聞えていた人である。彼女に聖なる人ラルマン師が、そのすでに達している完徳の高さの度合と共に、心眼に示されたのであった。それでこの修道女は彼と聖き友情を結びたいと望み、ルーアンに行く人の幸便に托して、イエズス会のルイ・ラルマン師に挨拶を送り、また自分のため彼の祈を願ったのであった。

主の御光栄の増進のことをおもえば、そのために資するかぎりの長壽を天主が彼に与え給うことは望ましかったかも知れぬ。しかし天主の御判定は我等の測り得るところではない。長上はルーアンの修練所における職務の過労がラルマン師の健康を害ったことを認めて、そこから転任させ、ブールジュの中学校の上級生徒監とし、次いで同校の校長とした。しかしその間、彼は生に倦み悩んでむしろ死にあこがれていたのであった。死というものは、我等の意に反して罪の法の支配下にあるこの堕落した状態を脱して、天主を明らかに観奉り、永遠に罪を犯すことの不可能な聖き自由の幸幅な状態へと移らせるその通路であると思っていたからである。死期の迫るのを感じた彼は片手に十字架を取り、片手に聖母像を持ち、それらを交る交るながめていた。そして、あるいは愛情をもって語りかけ、あるいは信賴と親愛の念をあらわに示して交互に見やるさまに、居並ぶ人々はみな涙にくれたのである。この敬虔の念にひたりつつ、彼はその霊を静かに創り主に帰し奉ったのであった。時あたかも1635年4月5日、聖木曜日にあたり、享年四十七歳であった。その中の二十九年はイエズス会で過されたわけである。

彼の死の報せが町中にひろがると、師に対する尊敬の情は更に高められた。誰もが彼について聖人に対する如くに語り合い、その遺骸に敬意を表するために群をなして学校に集ってきた。ある者はロザリオを触れ、ある者は彼の髪や衣服を切り取るなどして、すべての人が遺物を手に入れようとし、又彼の手足に接吻しようとした。多くの人は、敬虔の情のたかまるあまり、涙をおさえかねていた。

大聖堂で四旬節の説教をしていたアウグスチノ会の一霊父は、聖金曜日に聖主御受難の説教を行った後、この死者に対して短い讃辞を述べ、その夕行われる筈になっていた彼の葬儀に出席するよう聴衆にすすめた。そしてそれは、その言によれば、人々の祈りでこの死者を助けるといるよりはむしろ彼等の方が、逝けるラルマン師を天国に於ける保護者と仰ぎ、全市民の守護者として、且つは天主の御前の力強き代願者として、その取次ぎを求めるためであった。また実際に市民ばかりでなく、司祭も修道者も更に家柄地位ともに世に聞えた人々が、彼の葬儀に参列して、その聖徳と天主の御前における取次の力に対する信頼の程を示したのであった。

彼の光栄のかがやきは数度にわたって世に顕わされた。そして多くの人が彼の執成によって特別の恩恵を受けたと信じたのである。

師は丈高く威厳のある容姿の人であった。額はひろく清朗で、髭と髪は濃い栗色、頭髪はすでにうすくなっていたが、顔だちは面長でよく整い顏色は浅黒い方であった。その頬はおおむね心内に燃える天来の火に映え、魅力あるやさしさにみちた眼は、判断の確実さと精神の完き平静を表わしていた。彼ほど容姿すぐれてすべての動作が調和し、また深い信心と潜心を外にあらわしていた人を見たことがない、と彼を知る人のうちでも特に眼識ある人々が語るのを私は聞いた。それで、人はみな一見したばかりで彼に惹きつけられ、尊敬を抱くのであった。

彼の霊魂の内的状態を描き出すもっとも忠実な肖像画は、リゴルウ師によって編集され刊行されるこの「霊的教訓」であろう。私はこれを一つの贈物として、内的潜心を切望する人、特にイエズス会の会員に呈する。彼等はここに、その身分にふさわしい完徳をことごとく見出すことであろう。

【*le Pere Scurin は、この本の中では六か所に出てくる。小伝記の中の二か所では Scurin となっているが、他の四か所では Seurin となっている。Seurin の方がよりフランス語らしいが、ここではそのままにしてある。】

コメント

今日、2021年4月7日は、4月の初水曜日(月の初めての水曜日)です 聖ヨゼフ!我らのために祈り給え

2021年04月07日 | カトリックとは

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日、2021年4月7日は、4月の初水曜日(月の初めての水曜日)です。今年は、聖母の汚れなき御心と聖ヨゼフとの取り次ぎを通して、私たちの主の御聖体に対する冒瀆的な取り扱いに対する償いを捧げましょう。

初水曜日に「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想することをご提案します。


聖ヨゼフはこの世で天主イエズス様と浄配なる聖母マリア様を最も良く知り、愛された御方であり、その隠れた徳ゆえに偉大なる御方、イエズス様とマリア様の最大の命の恩人であられました。

また、聖ヨゼフは、この世では、全てを天主の栄光のために、隠れてその生涯をささげられたが故に、天にて聖母の次に最大の栄光をあたえられていらっしゃいます。

聖伝では、水曜日は聖ヨゼフに捧げられた曜日であり、月の最初の水曜日を聖ヨゼフに捧げることで、聖ヨゼフを讃え、その御取次に信頼し、その御徳に倣って、聖ヨゼフを通して、天主イエズス様とマリア様をお愛しすることができますように。

初土曜日の「聖母の汚れ無き御心」への信心にならって、この「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」のどれかを「15分間黙想」することにいたしましょう。

聖ヨゼフの帯の信心については、下記リンクをごらんください。
聖ヨゼフの帯 cingulum Sancti Joseph

聖ヨゼフの御取次ぎにより、聖母の汚れ無き御心とイエズスの至聖なる聖心ヘの愛をますます与えてくださいますように!
聖ヨゼフの御取次ぎにより豊かな祝福がありますように!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖ヨゼフの7つの苦しみと喜び

1 ああいと潔き御母マリアの浄配、栄えある聖ヨゼフよ、御身のいと清き妻を失なわんと心に思い煩いし時の苦しみはいと大いなるものなりき。
されど天使が御託身の玄義を御身に伝えられし時の喜びは、またひとしお大いなりき。この苦しみ、この喜びにより、今も臨終の時も我らの心を潔き良心の喜びと、イエズス、マリアのうちに自我を滅する尊き御身の心を示し、我らを慰め給え。



2 ああいと幸いなる保護者聖ヨゼフよ、御身は人となり給いし御言葉の潔き養父の位にあげられたれども、御身は幼きイエズスがいと貧しき中に生まれ給うを見て大いに悲しみ給いしが、
天使らのたえなる歌声を聴き、その輝ける夜の栄えを見給うや、その悲しみは天的の喜びと変じたり。御身のこの悲しみ、この喜びによりて、我らもまたこの世の歩みを終えたる後、天使らの賛美の歌声を聴き、天的光栄の輝きを受け得んことを願い奉る。



3 ああ御摂理にいと従順なしもべなる、栄えある聖ヨゼフよ、幼きイエズスが割礼にて流されたる尊き御血は御身の心を苦痛もて貫きたれども、
イエズスと命名されるや御身の心は喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らをこの世の悪徳より離れしめ、イエズスのいと尊き御名を心から唱えつつ心満たされてこの世を去るを得しめ給え。



4 ああいと忠誠なる聖ヨゼフよ、御身は救世の玄義の成就に身をもって大いなる役を果たされしが、シメオンの預言によりイエズスとマリアが受け給うべき苦難を予知せられ苦しみ給いたれど、
数限りなき人々の霊魂がこれによって救わるるとの預言によりて、天的喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らがイエズスの功徳と聖母マリアの御取次ぎにより、終わりなき栄えを得てよみがえる人々のうちに数えられる御恵みをとりなし給わんことを願い奉る。



5 ああ人となり給いし天主の御子のいとも注意深き保護者なる栄えある聖ヨゼフよ、御身はいと高きものの御子を養い給い、これに仕えるために多くの辛酸をなめられたり。わけてもそのエジプトへの逃避はいと苦しきものなりしが、
御身が常に天主御自身と共におられし喜び、またエジプト人らの諸々の偶像が地に落とされしを目の当たりに見られし時の安心はいと大いなりき。この御身の辛酸と喜びとによりて、我らが地獄的暴君より免れて、わけても危険なる機会より逃避する事を得しめ、我らの心のうちに地上的執着が落とされ、ひたすらイエズスとマリアに仕え奉りつつ日々の生活を送り、この世を幸いに終わる事を得しめ給え。



6 ああこの地上の天使なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の心を天の王に全く捧げられたり。御身がエジプトより戻られる喜びは、アルケラウスに対する憂慮にて不安の闇となりしが、
天使は再び御身にイエズスとマリアと共にナザレトにて楽しく住み給う事を約束せられたり。御身のこの苦しみ、この喜びによりて、我らの心を深い恐怖より免れしめ、潔き良心の平和を楽しみ、イエズスとマリアと共につつがなく世を送り、臨終においてはイエズスとマリアの御手に我らの霊魂を捧ぐる事を得しめ給え。



7 ああ全ての徳の鑑なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の誤りにあらずして幼きイエズスを見失い、三日の間苦しみもて捜し求められたり。
されど神殿の中に博士らに取り巻かれたるイエズスを見出されし時の喜びはいかに大いなりや。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らが大罪を犯しイエズスを失いたりせば、たゆまず彼を捜し求め、遂に再び巡り会えるよう、わけても臨終の時に彼と共にありて天国に至り、御身と共に天主の終わりなき御恵みを賛美し奉るようとりなし給わんことを心から願い奉る。



交唱 イエズスが教えをはじめたりしは三十歳ごろなり、人々、イエズスをヨゼフの子なりと思いたり。(ルカ3:23)

V 聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え。
R キリストの御約束に我らをかなわしめ給え。

祈願 天主、御身のかしこき御摂理のうちに祝せられたヨゼフを至聖なるマリアの浄配に選び給いたれば、願わくはこの世の我らの保護者として崇め奉る彼が、我らの天のとりなし手となり給わんことを。 アーメン。

参考リンク
サンタフェ~奇跡の階段 コラレス通り1丁目 この記事に昔の階段の様子の写真があります。

聖ヨゼフの階段(アメリカのニューメキシコ、サンタ・フェにあるロレット・チャペル)



英語ではこちら。
THE SEVEN DOLOURS AND SEVEN JOYS.

i. St. Joseph, pure spouse of most holy Mary, the trouble and anguish of thy heart were great, when, being in sore perplexity, thou wast minded to put away thy stainless spouse: but this joy was inexpressible when the archangel revealed to thee the high mystery of the Incarnation.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee comfort our souls now and in their last pains with the consolation of a well-spent life, and a holy death like unto thine own, with Jesus and Mary at our side.
Pater, Ave, and Gloria.

ii. St. Joseph, Blessed Patriarch, chosen to the office of Father of the Word made Man, the pain was keen that thou didst feel when thou didst see the Infant Jesus born in abject poverty; but thy pain was changed into heavenly joy when thou didst hear the harmony of angel-choirs, and behold the glory of that night when Jesus was born.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee obtain for us, that, when the journey of our life is ended, we too may pass to that blessed land where we shall hear the angel-chants, and rejoice in the bright light of heavenly glory.
Pater, Ave, and Gloria.

iii. St. Joseph, who wast ever most obedient in executing the law of God, thy heart was pierced with pain when the Precious Blood of the Infant Saviour was shed at His Circumcision; but with the Name of Jesus new life and heavenly joy returned to thee.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, being freed in our life from every vice, we too may cheerfully die, with the sweet Name of Jesus in our hearts and on our lips.
Pater, Ave, and Gloria.

iv. St. Joseph, faithful Saint, who wast admitted to take part in the redemption of man; the prophecy of Simeon foretelling the sufferings of Jesus and Mary caused thee a pang like that of death; but at the same time his prediction of the salvation and glorious resurrection of innumerable souls filled thee with a blessed joy.
By this thy sorrow and thy joy, help us with thy prayers to be of the number of those who, by the merits of Jesus and his Virgin Mother, shall be partakers of the resurrection to glory.
Pater, Ave, and Gloria.

v. St. Joseph, watchful Guardian, friend of the Incarnate Son of God, truly thou didst greatly toil to nurture and to serve the Son of the Most High, especially in the flight thou madest with Him unto Egypt; yet didst thou rejoice to have God Himself always with thee, and to see the overthrow of the idols of Egypt.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us grace to keep far out of the reach of the enemy of our souls, by quitting all dangerous occasions, that so no idol of earthly affection may any longer occupy a place in our hearts, but that, being entirely devoted to the service of Jesus and Mary, we may live and die for them alone.
Pater, Ave, and Gloria.

vi. St. Joseph, angel on earth, who didst so wonder to see the King of heaven obedient to thy bidding, the consolation thou hadst at His return was disturbed by the fear of Archelaus, but nevertheless, being reassured by the angel, thou didst go back and dwell happily at Nazareth, in the company of Jesus and of Mary.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, having our hearts freed from idle fears, we may enjoy the peace of a tranquil conscience, dwelling safely with Jesus and Mary, and dying at last between them.
Pater, Ave, and Gloria.

vii. St. Joseph, example of all holy living, when, though without blame, thou didst lose Jesus, the Holy Child, thou didst search for Him for three long days in great sorrow, until with joy unspeakable thou didst find him, who was as thy life to thee, amidst the doctors in this Temple.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee with our whole heart so to interpose always in our behalf, that we may never lose Jesus by mortal sin; and if (which God avert) we are at any time so wretched as to do so, that we pray thee to aid us to seek Him with such ceaseless sorrow until we find Him, particularly in the hour of our death, that we may pass from this life to enjoy Him for ever in heaven, there to sing with thee His divine mercies without end.
Pater, Ave, and Gloria.

Ant. Jesus Himself was about thirty years old, being, as was supposed, the son of Joseph.

V. Pray for us, holy Joseph.
R. That we may be made worthy of the promises of Christ.

Let us pray.
O God, who in Thine ineffable providence didst vouchsafe to choose blessed Joseph to be the husband of Thy most holy Mother; grant, we beseech Thee, that we may have him for our intercessor in heaven, whom on earth we venerate as our holy protector. Who livest and reignest world without end. Amen.

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聖ピオ十世の最初の回勅『エ・スプレーミ・アポストラートゥス』

2021年03月16日 | カトリックとは
聖ピオ十世の最初の回勅『エ・スプレーミ・アポストラートゥス』

エ・スプレーミ・アポストラートゥス
1903年10月4日

全てのキリストの下に集めるという
教皇職についての聖ピオ十世の回勅
日本語訳:聖ピオ十世会

聖ピオ十世

 尊敬する兄弟たちである、聖座と平和と交わりを保つ全ての総大司教、首座大司教、大司教、司教、および、その他の教区長たちに、教皇ピオ十世は、教皇のあいさつと祝福をおくる。

1. 使徒座の最高の高みから(E supremi apostolatus cathedra)、私が天主の計り知れない配慮によって上げられたこの職座から初めてあなたたちに発言するとき、私が教皇職の重い責任をどれほどの涙と篤い祈りをもって避けようと努力したかと言うことを思い出させることは無駄なことではない。功徳は全く対応してはいないけれども、聖アンセルモが、自分はそれに反対で嫌であったにもかかわらず司教職の誉れを受け入れるように強いられた時の嘆きを私のものとすることが出来るようである。

 彼がその時あかしした悲しみの証言を私も今回再現する番であった。それは私がイエズス・キリストの群れの牧者という恐るべき使命をどのような霊魂の状態と意志とを持って受け入れたかを示すためである。彼はこう書いていた。

 「私の目の涙も叫びもその証人である。深い苦悩の内にある私の心からでる嘆きもそうである。それらは、私の上にカンタベリーの大司教職という天災が降り落ちてくる以前には、似たような悲しみが私に襲ってきたことが無かったと思われるほどであった。この日、私の顔をそばで見た人々はそれを無視することが出来なかった。生ける人と言うよりもむしろ死体にずっと近かった。私は驚きと苦しみとで蒼白だった。この選挙、いやむしろこの暴力に私はここまで抵抗した。私は真実を言う。私にできるかぎり抵抗した。しかし、望もうと望むまいと、今では私はますますはっきりと天主の計画が私の努力とは反対であると言うことを認めざるを得ない。私にとってどんな方法によってもこれを避けることが出来ないほどである。人々からの暴力と言うよりも、いかなる知恵もそれに打ち勝つことの出来ない天主からの暴力に負け、このカリスを私が飲まないで済むようにこれが私から遠ざかるようにと私にできるかぎりのすべての努力をした後に、私はついに自分自身の意見、自分の意志を捨てると言う決意以外のいかなる決意もないこと、そして天主の裁きと御旨とに完全に任せきるしかないと分かった。」

2. 確かに、私にとってこの重荷を避ける多くの真剣の動機が不足していたわけではない。私が小さいものであるという理由により、私が教皇職の名誉にふさわしいなどと決して考えることが出来ないということを考えなくとも、レオ十三世という、ほとんど26年の間教会を完全な知恵を持って統治し、その業績の輝きによって、敵どもの感嘆さえも勝ち得るほどであった、精神の崇高さと気高い徳を現し、その記憶を不死のものとした教皇の後継者に、私が選ばれるのを見て、どうして深く感動しないでいられようか?

 さらに、その他多くの理由には沈黙するとして、私は現代の人類の不吉な条件を考えて一種の恐怖に囚われていた。かつて無かったほど、今この時代に、人類社会が苦しんでいる深く深刻な病を誰が無視することが出来るだろうか。この病気は日に日に深刻に重大になっており、神髄まで犯しつつ、人類の廃墟へと引きずっている。この病とは、尊敬する兄弟たちよ、あなたたちがよく知っているとおり、これこそ天主を打ち捨てることであり、背教である。預言者のこの言葉に従って、この背教以外のいかなるものも、いささかの疑いもの無く、人類を確実にその崩壊まで導くものである。「見よ、あなたを離れるものは滅びる。」(詩篇73:27)かくも大いなる悪に対して私は、自分に委ねられた教皇職の力によって、解決策をもたらす義務をもっていると理解していた。私は天主のこの命令が私に与えられていることを理解していた。「今日、私は諸々の民の上に、国々の上に、おまえを立てた。根こそぎするために、倒すために、壊すために、打ちひしぐために、立てるために、植えるために。」(エレミア1:10)しかし、私は自分の弱さを良く自覚しており、かくも多くの困難を伴い、しかしいささかの遅れも許さないこの職務を担うのを恐れていた。

3. しかしながら、天主は、私の低さを権能のこの充満まで高めてくださることを良しとされたのであるから、私を強めてくださる方において勇気づけられる。天主の力に強められてこの仕事に着手する際、私は、教皇職の行使における私の唯一の目的がすべてをキリストの下に集める(エフェゾ1:10)ことであること、それはキリストが全てであり、全てのうちにまします(コロサイ3:11)ためであることを宣言する。

 おそらく、天主のことを人間的な短い測りで計ろうとして私の内密な考えを探り出そうとしそれを彼らの地上的な見方と彼らの派の利益に向けさせようとする者がいることだろう。これらの虚しい試みの出鼻をくじくために私は、まったき真実において、こう断言する。私は天主の御助けを持って、人類社会のまっただ中において、私にその権威を着せてくださった天主の役務者以外の何ものであることも望まず、それ以外の何ものでもないであろう。

 天主の利益こそが私の利益であり、その利益のために私の力と命を捧げ尽くす、これが私の確固不動の決意である。だから、もし私が霊魂の奥深くにある私のモットーを尋ねられるなら、私はこれ以外のものを与えることが出来ない。すなわち「キリストの下に全てを集める」である。

4. この大いなる業に着手し遂行することを望み、尊敬する兄弟たちよ、私の熱意を駆り立てることがある、それはあなたたちが私にとってこの事業における勇敢な援助者であるのが確実なことである。もし私がそれを疑っていたなら、天主に反乱してほとんどどこででも起こされた、そして今でもなされている不敬な戦争に直面しているにもかかわらず、私は不正にも、あなたたちがその戦いを知らない、あるいは無関心であると思っていたことになっただろう。現代についてこそ、天主に反乱して「異邦の民は乱れて騒ぎ、国々の民は虚しく吠え猛る」(詩篇2:1)ということがこれ以上真実ではありえない。そして天主の敵どものこの叫びはほとんどどこでも聞かれるものとなった。「われらから去り給え。」(ヨブ21:14)そこから、ほとんどの人々は、天主に対する敬意を全く捨て去ってしまった。そこからプライベートな生活においても公的生活においても天主の御稜威に対していかなる敬意も払われないのが生活習慣となってしまった。更には天主についての記憶と概念さえも完全に廃止してしまおうとあらゆる努力と作業を続けている。

5. 慎重に物事を考える人は、かのような精神の廃退は時の終わりについて告げられた諸悪の始まりではないかと恐れることが出来る。そしてこの地上との接触として聖パウロが語る滅びの子(2テサロニケ2:3)が本当に私たちの間に到来したのではないかと。かくも大きな大胆さと怒りを持って人はどこででも宗教を迫害し、信仰の教義に戦いを挑み、天主と人との全ての関係を無に帰そうと頑固な努力を続けている! 他方では、聖パウロの言うには、人としての反キリストの固有の性格は、それに相応しい単語がないほどの厚かましさで、天主の聖名を持つ全ての上に自らを挙げて創造主の地位を横領した、ということにある。それは天主の概念を完全に消し去ってしまうことは不可能ではあるが、反キリストは天主の御稜威を軽蔑し、目に見える世界を自分のために神殿のようなものとさせ、そこで同類のものたちから礼拝を受けると主張するのである。彼は天主の神殿に座し、そこであたかも自分自身が天主であるかのように示してしている。(2テサロニケ2:4)

6. 弱き死すべき人間たちが天主に対して挑む戦いの結果がどうなるかは、健全な精神の持ち主であれば、全く疑うことが出来ない。確かに自分の自由を乱用することを望む人間が、創造主の最高の権利と権威を犯すことができるかもしれない。しかし勝利は常に創造主のものである。それではまだ言い足りない。人間が勝利の希望を持って全く大胆にも天主に戦いを挑むとき人間にはほとんど完全な廃墟しかない。天主ご自身がそれについて聖書の中で私たちに教えている。聖書は、天主があたかもご自身の力と偉大さを忘れて、「あなたは、人間の罪に目を閉じてくださる」(知恵の書11:23)が、しかし後退したかのように見えた後には、「主は眠っていたもののように、ぶどう酒に倒された勇士のように目覚め」(詩篇77:65)、「天主は敵の頭を打ち砕かれた」(詩篇67:22)、それは全てのものが「地の果てまで全て天主が王である」(詩篇66:8)ことを知るためであり、「彼らが人間に過ぎぬことを思い知らせる」(詩篇9:21)ためである。

7. 尊敬する兄弟たちよ、私はこれら全てを揺るがない信仰をもって信じ期待している。しかしだからといって、各自に与えられた能力に従って天主の仕事を早めるために努力しないで良いというわけではない。うまずたゆまずする「主よ立ち給え。人間に勝たせ給うな」(詩篇9:20)という祈りのみならず、更には、これはもっと重要なことであるが、言葉と行いとによって皆の前で、天主が人間と全ての被造物について持つその主権の充満を、天主のために肯定し要求することである。それは天主の権利と命ずる権能が全ての人々によって崇敬を込めて認められ、実際に遵守されるためである。

 この義務を達成することは、自然法に従うばかりではなく、人類の利益のために働くことに繋がる。尊敬する兄弟たちよ、人類の大部分が、一方では文明の進歩を相応しく高揚するのだが、他方ではあたかも全てが全てに対立する戦いであるかのように互いに熱烈に相争っているのを見て、おそれと悲しみとに霊魂がつままされるのを誰が感じないでいられようか? おそらく、平和の望みは全ての心に宿され、平和を願ってそれを口にしないものは誰もいない。しかしこの平和を天主の外に探すものは正気を失ったものである。何故なら天主を追放したところには、正義も追放される。正義がないところには平和のためのいかなる希望も幻想になってしまう。平和は正義の業である(イザヤ22:7)。平和、つまり秩序の平穏を愛するが故に、「秩序の党」と呼ぶところのものを作るためにグループを作っている人々が存在し、しかもそのような者たちが多くあると言うことを私は知らないわけではない。しかし、何と言うことか! 彼らの期待は全く虚しく、全くの骨折り損だ! この世の物事の大混乱のまっただ中で平穏を再確立することが出来る秩序の党はただ一つしかない。それは天主の党である。天主の党こそを私たちは促進しなければならない。そしてこれにこそ私たちのできるかぎりの支持を与えなければならない。もしも私たちが公の安全保障を少しでも願っているのなら。

8. しかしながら、尊敬する兄弟たちよ、天主の御稜威と主権に関して諸国が戻ってくるために私たちがいろいろな努力を払ってきたが、イエズス・キリストによる以外には達成しえないだろう。使徒聖パウロは私たちに「既におかれているイエズス・キリスト以外のほかの土台を誰も置くことが出来ない」と言っている(1コリント3:11)。キリストだけが「聖父が聖別して世に送られた」(ヨハネ10:36)者であり、「聖父の栄光の輝き、天主の本性の型」(ヘブレオ1:3)、真の天主かつ真の人であり、彼無くしては誰も、正しく天主を知ることが出来ない方である。何故なら、「聖父が何ものかを知っているのは、聖子と聖子が示しを与えた人のほかにはない」(マテオ11:27)からである。

 ここから、全てをキリストの下に集めることと、全ての人を天主への従順へと導くことは唯一の同じ事であることが分かる。従って、私たちの全ての努力が向かわなければならない目的とは、人類をキリストの支配下におくことである。こうすることによって、人は天主へと導かれるのである。

 それは、唯物論者が狂った夢物語の中で考え出した人間のことに無関心で死んだ神ではなく、生ける真の天主、本性の一性において三のペルソナの天主、この世の創造主、その無限の摂理によって全てのことに関わる天主、悪人を罰し善徳に報いを与える極めて正義な立法者である天主のことを語っているのである。

9. さて、キリストにまで辿り着く道はどこにあるのだろうか? それは私たちの目の前にある。それは教会である。聖ヨハネ・クリゾストモは私たちに正しくもこう言っている。「教会はおまえの希望である。教会はおまえの救いである。教会はおまえの避難所である。」(Hom. de capto Euthropio, n. 6.)

 そのためにこそキリストは、その御血の代価を持って勝ち取った後に、教会を創立したのである。そのためにこそキリストは教会にご自分の教えと掟を委ね、同時に、人々の聖化と救いのために、教会に天主の聖寵の宝を惜しみなく注いたのである。

 尊敬する兄弟たちよ、私とあなたたちとにどれほどの業が委ねられているかを見てほしい。それは、キリストの知恵から遠く離れて道に迷っている人類社会を、教会への従順へと導くことである。教会は彼らを今度はキリストに服従させるだろう。そしてキリストは天主へと服従させるだろう。もしも天主の聖寵によってこの事業が私たちに与えられているとするなら、願わくは不正が正義に場所を譲るのを見る喜びを私たちが持つだろう。そして私たちは天のいと高きところでこのとどろく声を聞き幸せであろう。「天主の救いと力と国とそのキリストの権威は既に来た。」(黙示録12:10)

 しかし結果が私たちの望みに対応するためには、全ての手段を使ってどのような犠牲を払っても、現代私たちが生きる時代に固有の、この怪物のような厭うべき不敬を全く根こそぎにしなければならない。この不敬によって人は天主の代わりに立っている。聖なる福音のいとも聖なる法律と勧告を、かつての尊厳まで高め直さなければならない。婚姻が聖なるものであることについて、青少年の教育について、この世の物の所有と使用について、国家の行政を司る者の義務について、教会によって教えられてきた真理を高く宣言しなければならない。最後に、法とキリスト教的制度に従って社会の諸階級の間にある正義に適ったバランスを再確立させなければならない。

 これこそが、天主の明らかな御旨に私を従わうために、私の教皇職の間、私の霊魂の全ての力を使って達成しようとする原理である。

 尊敬する兄弟たちよ、あなたたちの役割は、全てにおいてイエズス・キリストを形作る(ガラチア4:19)以外の何ものをも求めずに、あなたたちの聖性とあなたたちの知識、経験、徳に天主の栄光を求める熱心とによって私を助けてくれることである。

10. かくも高い目的に達成するために相応しい手段は何であろうか。それらは自明と心に浮かぶものであるから、それらを指摘するのはよけいなことであると思われる。願わくはあなたたちの第1の心遣いが、彼らの召命による義務により他の人々においてキリストを形作るように召されている人々においてキリストが形作られるようにとすることであるように。尊敬する兄弟たちよ、私はここで司祭たちについて語っている。何故なら、司祭職の名誉を持つ者たちは、彼らが共に生きる人々の中において、聖パウロが受けたと証言しているのと同じ使命を持っていると言うことを知らなければならない。聖パウロはこの優しい言葉を語っていた。「小さな子らよ、あなたたちのうちにキリストが形作られるまで、私はまた産みの苦しみを受ける。」(ガラチア4:19)ところで、もし彼らがまずキリストを着ていなかったら、聖パウロと共に「私は生きているが、もう私ではなく、キリストが私の内に生き給うのである」(ガラチア2:20)「私にとって生きるのはキリストである」(フィリッピ1:21)と言うことが出来るまでキリストを着ていなかったら、彼らは一体どのようにしてこの義務を果たすことが出来るだろうか。また、全ての信者たちは、キリストの充満の年齢の測りに従って、完全な人間の状態へと向かわなければならないが、この義務は主要には、司祭の役務を行使する者たちに属するものである。それはただ単に彼らがイエズス・キリストの権能に参与するからだけではなく、イエズス・キリストの御業を真似て、それによって自分の内にキリストの御姿を再生しなければならないからである。

11. もしそうであるなら、尊敬する兄弟たちよ、聖職者たちを聖性へと養成するためにあなたたちがどれほど大きな心遣いをしなければならないだろうか! これを犠牲にするために譲歩することの出来るものは一つもない。従って、あなたたちの熱心の最善のかつ主要な部分はあなたたちの神学校へと向かわなければならない。それは神学校において教えの内容の完璧さと同時に道徳上の聖性が花咲くのを見るほど、神学校には秩序が導入され、学校運営が確保されるためである。神学校をあなたたちの心の最も甘美なところとせよ。この制度の繁栄を保証するためにトリエント公会議がそのいとも高い知恵において規定した全てのことを少しも蔑ろにすることがないようにせよ。青少年の候補者たちを聖なる叙階の秘跡に挙げるときには、聖パウロがティモテオへ書いていたことを忘れることがないように。「軽率に人に按手するな」(1ティモテオ5:22)。非常にしばしば、あなたたちが司祭職に上がるのを認めた者たちがそうあるように、彼らに委ねられた信者たちものちに同じようなものであるだろう(「この父にして、この子あり」と言うように、司祭と信者との間にも頻繁に言える)ということを確信してほしい。それがどのような性格ものであれ、いかなる個人的な利益も顧みてはならない。ただ天主の観点、教会と霊魂の永遠の幸せの観点から考えよ。それは聖パウロが私たちに警告したように「他人の罪に与らない」(1ティモテオ5:22)ためである。

 他方で、神学校を卒業したばかりの新司祭たちについてあなたたちの熱心が行き届かないことがないようにせよ。私はあなたたちに心の底から勧めるが、天の火に燃えているはずのあなたたちの心で、彼らを頻繁に抱きかかえるように。彼らをもう一度暖め、燃え立たせよ。それは彼らが天主と霊魂を勝ち得ることしか願わないようになるためである。尊敬する兄弟たちよ、私は真理の仮面を付けているがイエズス・キリストの香りが全くない或る新しい学問の邪悪な動きに、聖職者たちがつかまされないようにいとも大きな注意を払っている。これは偽りで邪険な議論を帯びて理性一本主義(=合理主義)や、半合理主義の誤謬の道を歩ませようとしている偽りの学問であり、これに対して既に聖パウロはティモテオにこう書いて警戒するように促していた。「あなたに委ねられたものを守れ、虚しい世間話と、偽学問の論争を避けよ。ある人々はそれに執心して信仰の道から迷ったのである。」(1ティモテオ6:20-21)これを言ったのは、学問の全ての分野において有益な学業に身を捧げ、より良く真理を弁護し、信仰の敵のする讒言を論破して勝利を収める準備をしている、称賛に値するこれらの若き司祭たちを裁くためではない。しかしながら、私はこのことを隠すことが出来ない。いや、私はそれをはっきりと公言しよう。私は、教会の聖なる諸学問と世俗の学問を蔑ろにすることなく、天主の名誉を求める熱心に駆られた司祭に固有の諸般の役務を執行しながら、霊魂の利益のために特に身を捧げる者たちを常に優先するし、将来にわたって優先するだろう。

 「子供たちがパンを求めても、さいてやるものはない。」(哀歌4:4)預言者エレミアがかつてしたこの嘆きを現代私たちに当てはめることが出来るのを見て、「私は心に大きな悲しみと絶えまない苦しみを感じている」(ローマ9:2)。実に、聖職者の中には個人的な好みを優先させて、現実に有益であると言うよりも見せかけだけの利益のことに勢力を使って活動しているものは不足していない。他方で、彼らよりも数は少ないかもしれないが、キリストの模範に倣って預言者の言葉を自分のものとしている司祭たちもいる。「主の例は私の上にある。私に油を注いで聖別されたからである。霊は貧しい人々に良い便りをもたらし、捕らわれ人に解放を、盲人に見えることを告げる」(ルカ4:18-19)。

12. しかし、人の道案内は理性と自由であるから、天主に霊魂に対する支配権を復権させる主要な手段は宗教教育であるということが分からない人がどこにいるだろうか。

 イエズス・キリストに敵対し、教会と福音を恐れる人々は、そのどれほど多くが悪意と言うよりもむしろ無知のためにそうしているであろうか! 彼らについてこう言うことが出来るだろう。「かの人々は自分たちの知らぬことを冒とくする」(ユダ10)これは一般大衆や、その社会条件が誤謬に最も近づきやすくしている最も卑しい社会階級の人々のみならず、極めて特別な高等教育を受け上の社会階級にいるような人々にさえもそのことが言えるのである。そこから多くの人々において信仰が喪失している。何故なら「科学の進歩が信仰を窒息させた」のではなく、むしろ無知がそうしたのであると認めなければならない。無知が大きければ大きいほど不信仰というより大きな害を引き起こしている。そのためにこそキリストは使徒たちにこの掟を与えた。「行け、諸国の民に教えよ」(マテオ28:19)。

13. 教える熱心が、それによって全てにおいてキリストを形作ることを期待し役立つような実りをもたらすために、愛徳以外に効果的なものは何もない。おお、尊敬する兄弟たちよ、このころを私たちの記憶の中にしっかりと刻みつけよう。何故なら「主は地震中にはおわさない」(列王上19:11)からである。苦々しい熱心によって霊魂を天主に引き寄せることが出来るなどと期待するのは虚しいことである。誤謬を厳しくしかり、悪徳を荒々しく辛辣に矯正することは非常にしばしば利益よりも大きな損害をもたらすだけである。聖パウロはティモテオに勧告して正しくこう言っている。「繰り返し論じ、反駁し、とがめよ」そして聖パウロは直ぐに言葉を加えて「全ての寛容を持って」(2ティモテオ4:2)と言っている。これ以上にイエズス・キリストが私たちに残された模範に適うものはない。

 イエズス・キリストこそ私たちにこう招いて下さった。「労苦する人、重荷を負う人は、すべて私のもとに来るが良い。私はあなたたちをやすませよう」(マテオ11:28)。私たちの主のお考えでは、この労苦する人、重荷を負う人とは誤謬と罪との奴隷状態にある人々に他ならなかった。この天主なる師には、何と大きな柔和があったことであるか! 不幸な全ての人々に対して何という優しさと、何という同情心をお持ちだったか! 天主の聖心は素晴らしくもイザヤによって私たちにこう描かれている。「私は彼のうちに霊をおく。彼は叫ばず、声を立てず、彼は折れかけたあしを折らず、弱い炎の灯心を消さない」(イザヤ42:1-3)。

 この「寛容で、慈悲に富む」(1コリント13:4)愛徳こそが、私たちに敵意を抱く人々、私たちを迫害する人々までも行き渡らなければならない。聖パウロが高らかに言うように、「侮辱されては祝福し、迫害されては堪え忍び、そしられては慰める」(1コリント4:12-13)のである。もしかしたら、彼らは実際そうあるよりももっと悪いように見えるだけなのかもしれない。彼らが他の人々とつき合っていること、彼らが持つ偏見、彼らが受けた教えや悪い模範、世間体、彼らの受けた愚かな忠告などのために、彼らが不敬の派に与するようになってしまった。しかし、彼らがそう思わせようとしているほどは実際、その心の底では彼らは悪たれてはいない。愛徳の炎がついには彼らの霊魂にある暗闇を追い払い、そこに光と共に天主の平和が支配するようになると期待できないなどと誰が言うことが出来るだろうか? しかし天主はその結果ではなく善意に報いを与えると確信し、うまずたゆまず愛徳を続けなければならない。

14. 尊敬する兄弟たちよ、しかしながら、キリストによる諸国の刷新というこの極めて困難な事業において、あなたたちとあなたたちの聖職者たちが助けもなくそのままであるということは、決して私の考えではない。天主がそれぞれ各自に自分の隣人の世話をするように命じたことを私たちは知っている。(シラの書17:14)司祭職をまとったものだけではなく全ての信者は例外なく天主と霊魂の利益のために働かなければならない。確かにそれは、各々の見解と傾きに従ってであるが、しかしそれは常に司教たちの方針と意志に従ってである。何故なら教会において、命じ、教え、指導する権利は「天主の教会を牧するために、聖霊によって教会の監督と定められたあなたたち」(使徒20:28)司教、以外の誰にも属していないからである。

 常に宗教の善のためという、さまざまな目的のためにカトリック信者たちがグループを作ることは、長い間、私の先任者の教皇たちによって承認され祝福されてきたことである。私も、喜んでこのように美しい事業を褒め、これが広がり、都会でも田舎でも、どこででも栄えるようにとの篤く望む。しかし、それと同時にこれらのグループに参加する人々がキリスト教的生活の義務を忠実に果たすことを、このグループの第1のそして主要な目的として持つように私は求める。実際、権利と義務について数多くの議論を手際よく提示し、それらに雄弁を持って回答を与えたとしても、もしもそれら全てが実践に結びつかなかったら、ほとんど意味がないからである。

 現代が要求しているもの、それは実践である。そしてそれは、無条件に天主の掟と教会の掟を完全に厳しく守ること、宗教を高らかに率直に表明すること、全ての形の愛徳を、自分のためとかこの地上での利益を求めずに実行すること、そのような実践である。

 多くのキリストの兵士たち(=カトリック信者のこと)が示したこのような種類の輝くばかりの模範は、多くの言葉と崇高な議論よりももっと多くの霊魂たちを揺さぶり導いてくれる。その時、おそらく無数の人間が世間体を踏みにじり、全ての偏見と躊躇を取り除いてキリストに帰依し、今度は彼らが、真の確実な至福の保証であるキリストに関する知識とキリストへの愛を促進するのを見ることになるだろう。

 すべての町と村とにおいて、主の掟が入念に遵守され、聖なるものが尊敬され、頻繁に秘跡を受けるようになると、一言で言うとキリスト教的生活があるべき姿に戻されるその日には、尊敬する兄弟たちよ、私が考えていたキリスト教に下に全てを集めるということが実現するのである。それは永遠の善を勝ち取ることが出来るということだけでなく、非常に幸福にも同時にこの世の福利と公の繁栄とも得られるだろう。

 何故なら、この結果がひとたび得られるなら、貴族も金持ちも小さい人々に対して正義を尽くし、愛徳を尽くすだろうし、この世の小さき者たちも、不幸な生活条件による不足を平和と忍耐を持って堪え忍ぶだろうからである。市民は自分のわがままではなく法律に従うだろうからである。皆が、「天主から出ない権威はない」(ローマ13:1)のであるから統治する人々に対して尊敬を愛を持つことを自分の義務と見なすだろうからである。

 更に、その時、皆の前で、イエズス・キリストによって創立された教会が、まったく完全な自由を享受しなければならず、いかなる人間の支配も受けてはならないことが明らかになるだろう。私はこの教会の自由を主張することによって、宗教の聖なる権利を保全するばかりか諸民族の共通善と安寧を計らうのである。「敬虔は全てに役立つ」(1ティモテオ4:8)のであり、敬虔が支配しているところは「民は平和の家に住む」(イザヤ32:18)からである。

15. 願わくは「慈悲に富む」(エフェゾ2:4)天主が、御憐れみによってイエズス・キリストにおける人類のこの刷新を早め給わんことを。何故なら、これは「望む者や走る者によらず、天主のあわれみによる」(ローマ9:16)からである。尊敬する兄弟たちよ、私たちは皆、「謙遜の霊において」(ダニエル3:39)絶え間ない熱烈な祈りによって、イエズス・キリストの功徳に頼って、天主にこの恵みを求めよう。また天主の御母のいとも力強い取り次ぎに頼ろう。それをもっと豊かに得るために、私があなたたちにこの書簡を与えるこの日は、聖なるロザリオの祈りを荘厳に祝うために定められているが、私は、前任者レオ十三世が十月を天主の御母にして童貞女なる聖母に捧げたその命令を再確認し、全ての教会において公にロザリオの祈りを唱えることを命じる。私はさらにあなたたちに、取りなしてとして、カトリック教会の守護者、聖母のいと浄き浄配である聖ヨゼフ、使徒たちの頭である聖ペトロと聖パウロとにも祈ることを勧告する。

16. これら全てのことが、私の望みに従って実現し、あなたたちの全ての仕事が成功を収めるように、私はあなたたちの上に天主の聖寵のたまものを豊かにあふるるばかり祈り求める。尊敬する兄弟たちよ、私があなたたち、また天主の御摂理によってあなたたちに委ねられた信者たちに対して抱く誠実な愛徳の証拠として、私は寛大な心の天主において、あなたたちとあなたたちの聖職者たちまたあなたたちの信者たちに、教皇祝福を送る。

ローマ、聖ペトロの傍らにて、
私の教皇職の第1年、1903年10月4日、
ピオ十世、教皇

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ルフェーブル大司教著 『DUBIA 信教の自由に関する私の疑い』

2021年03月16日 | カトリックとは
ルフェーブル大司教著 『DUBIA 信教の自由に関する私の疑い』
第一章
■ 自由についての一般的考察 「自由」の3つの意味



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「み旨のままに」全き "お任せ"を愛し尊ぶこと 1 J・P・ド・コッサード神父

2021年03月13日 | カトリックとは

み旨のままに 下巻 J・P・ド・コッサード S.J.著 水谷愛子訳

L'abandon à la Providence divine par Pere Jean-Pierre de Caussade S.J. 

第一巻の最初の手紙をご紹介いたします。

LIVRE PREMIER ESTIME ET AMOUR DE L'ABANDON  第一巻 全き「お任せ」を愛し尊ぶこと
LETTRE 1 A LA SŒUR ÉLISABETH BOURCIER DE MONTHUREUX  第一信
Bonheur et paix inaltérable de l'âme qui s'abandonne entièrement à DIEU. 主に全く己れを任せる霊魂の味わう変りない幸福と平和に就いて
Madame et très chère Sœur. Vous faites bien de vous attacher fortement et presque uniquement à l'excellente pratique de l'entier abandon à la volonté de DIEU. C'est là que gît pour vous toute la perfection; c'est la voie la plus simple, celle qui conduit plus tôt et plus sûrement à une paix profonde et invariable; c'est aussi la sauvegarde assurée qui conserve cette paix au fond de notre âme, au milieu des plus furieuses tempêtes. L'âme qui s'abandonne vraiment à DIEU n'a rien à craindre de la violence des orages. Loin de lui nuire, ils serviront infailliblement, non seulement à accroître ses mérites, mais encore à l'affermir de plus en plus dans cette union de sa volonté à la volonté divine, qui rend la tranquillité de l'âme invariable.  主のみ旨に全く己れをお任せしようという、この上ない美しい生き方に、ひたすら又深く心を引かれているとのお手紙を大変結構なことと拝見しました。そういう風に生きることによって、完徳の凡てを修めることができます。これは一番簡単な方法で、しかもより早く、より確かに深い変らない平和に、あなたを導きます。極く激しい嵐のさ中にも、霊魂の奥底に平和をたたえさせ、それをしっかりと保たせてくれます。主に全く己れを委ねた霊魂は嵐の激しさなど意に介しません。嵐は、このような霊魂に害を及ぼすどころか却って功徳を積ませ、霊魂の変りない平和の源である「み旨との一致」を益々堅固にするばかりです。
O quel bonheur, quelle grâce, quelle sûreté pour l'autre vie et quelle paix inaltérable pour celle-ci que d'être en DIEU seul, de n'avoir plus que DIEU seul; plus d'autre appui, d'autres secours, d'autre espérance qu'en DIEU seul! O la belle lettre que vient de m'écrire sur cela une de vos Sœurs! Durant un mois, dit-elle, cette seule pensée :DIEU seul, je n'ai plus que DIEU seul, cette seule pensée la consolait, la soutenait, l'encourageait si fortement, qu'au lieu de regrets, elle sentait un fonds de paix et de joie inexplicable. 11 lui semblait que DIEU prenait la place tout entière de directeur, d'ami, et que lui seul voulait lui être toute chose.   主にのみ生き、最早主しか所有せず、主以外に何の助けも支えも希望も持たないことは霊魂にとって何と大きな幸福、何という恵み、そして、どんなにか来世を保証し又とない恒久的な平和を与えてくれるでしょう。 先日あなたのところの一修女がこのことに就いて素晴らしい手紙を書いてよこしました。「この一か月というものは『主のみ』という考えで一ぱいでした。私は最早主しか所有していません」と。このことを思い出すことが彼女を慰め、支え、勇気づけ、又めそめそさせるどころか言い知れぬ平和と喜びに浸らせるのでした。主は唯一の指導者、唯一の友として彼女の心を全部占められ御自身だけが彼女の凡てでありたいと望んでおられるかのようです。
Plus nous nous pénétrerons de ces sentiments, plus notre paix sera solide; car cette détermination bien arrêtée de ne chercher que DIEU et de vouloir tout ce qu'il veut, c'est par excellence la bonne volonté à laquelle la paix a été promise. Comment les créatures pourraient-elles troubler l'âme qui n'a plus à leur égard ni désir ni crainte? Efforçons-nous d'en arriver là, et notre paix sera vraiment imperturbable. Imitons le saint archevêque de Cambrai qui dit de lui-même : « Je porte tout au pis aller ; et c'est au fond de ce pis aller que je trouve ma paix dans l'entier abandon. »   こうした気持を深く心に留めれば留める程、私共の平和は益々しっかりしたものとなります。主だけを求め、主の望み給うものは凡て望むという固い決意は、おもに根強い平和を約束する素晴らしい善意に懸っています。もはや被造物に対して何の魅力も恐れも持たない霊魂を被造物は乱すことができましょうか。そこまで行き着くように努めましょう。そうすれば私共の平和は真に動じないものとなります。カンブレの聖なる大司教が御自分に就いて言われたことを真似ようではありませんか。すなわち「私は物事の最悪の場合を考える。そしてその最悪の奥に完全な〈お任せ〉を以て平和を見い出す」と。

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