Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

私は御身を信じ礼拝し希望し御身を愛します!御身を信ぜぬ人々礼拝せず希望せず愛さぬ人々のために赦しを求めます(天使の祈)

霊魂の生命なるキリスト 第1講の二 天主は我等を聖ならしめ天国の至福に入らしめんがために御自分の生命に与らしめ給う

2020年07月10日 | カトリックとは
霊魂の生命なるキリスト

第1講 イエズス・キリストによって我等を養子となし給う天主の計画

二 天主は我等を聖ならしめ天国の至福に入らしめんがために御自分の生命に与らしめ給う。

これより使徒聖パウロのテキストに従って話を進めて行くが、中には重複する所があるかも知れない。しかし問題は我等の永遠の生死に関することなので、極めて重要、深遠である。また深い沈思、観想によらなければ、よく会得できない偉大、崇高なる教義であるので、幾度繰返されようとも無益ではないだろう。さればわが霊的生命を深め、これに豊かなる果を結ばせたいと望む人は、ここに充分な時間と智と意とを用いて教義の観想に深く入り行く必要がある。

基礎的知識の必要なること。何の研究にしてもまずぜひ持たなければならないものは、それに関する原理と基礎的知識である。それはある事物に関して原理と基礎的知識を持たないでは、どのような研究も健全なる成果は挙げられないからである。しかして基礎は、これが上に築かれこれによって実現されるべき結果が重大深遠なものであればあるほど、それだけ深い精密なる考究と注意を必要とする。しかるに純理論や基礎的な学問、観察、研究は一般に無味乾燥なために敬遠され易い。しかし、これを持つ者でなければ――たとえ外観上の進歩はあろうとも――真の確実な進歩はありえない。またたとえなんらかの結果は挙げえようとも、それには確固たる安定なく、危かしさは免れない。これがここで再び霊的生活の基礎的原理を取上げて述べるゆえんである。また実際について観るに、霊的な生命、実り、歓喜は真の教義(ドグマ)の基礎を持ち、これに固められた霊魂にこそ恵まれるものである。

天主の御計画の実現はイエズス・キリストによる。さて冒頭に引用した聖パウロの考によれば天主の御計画は、
(1)天主御自らの聖徳を我等に通ずるにある。「天主は我等を御前において聖にして汚れなき者たらしめんがために選み給えり」(エフェゾ1:4)。
(2)この聖德は恩寵を原理とし超自然的性質とする養子の生活より成立っている。
(3)また特に天主の御計画は、人の言には表わしがたき深い教義であり、すなわちキリスト・イエズスによらなければ実現されがたい。

以上の三点に要約される。天主は我等が聖であることを望み給う。これ天主の永遠の御意志であり、このためにこそ我等を選み給うたのだ。「天主は我等を御前において聖にして汚れなき者たらしめんがために選み給えり」(エフェゾ1:4) 「天主の御旨は汝等の聖たらんことに在り」(テサロニケ4:3)。これを我等に望み給うのは、御自ら聖に在しこれを我等にも通じて我等を望ならしめ、もって我等を御自分の御光栄に与からしめ、またこれをもって御自分の御喜びとも御光栄ともしようと欲し給うからである。「わが父の拠りてもって光栄を得給うは汝等がわが弟子とならんこと〔聖ならんこと〕これなり」(ヨハネ15:8)。

さらば聖とはどんなことであろう? 聖とは本性より完全無欠の状態を言う。しかるに本性より完全無欠なる者は天主以外にはない。故に聖は独り天主に在すのみである。「汝独りが聖に在す」。 天主の聖はこれを人間的に言えば、次の二つの要素、すなわち一つは、天主と被造物との間に横たわる無限距離と、他の一つは、天主は永遠に現在にして不変不動なる意欲的行いによって御自らの無限なる完全なる善に固着し給うことより成立っていると思われる。

御自らを完全に識り給う天主の叡智は、本性そのものがすべての行動の最上規範であって、天主はこれに適合することでなければ、望みも承認も行動もあえて起し給わない。この最上の規範である本性への意志の合致は――天主にあっては本性と意志とは本質的に一つなるが故に――完全にして、人間の想像などの及ぶ所ではない。言いかえれば、天主の聖とは天主が無限、不変不動の完全なる愛をもって自らを愛し給うことに帰着する。しかして天主の叡智は独り天主のみが必然的なる唯一の存在、全善に在し、他の万物、万事は天主御自身に帰着してその光栄を表わすものなることを我等に教える。

天主の聖すなわち完全無欠の状態こそは、天国における天使聖人等の永遠観想の的であるが、地上の人にして天国の光栄を見た者は極めて少ない。聖書によると地上の人にして天国を垣間見たのは旧約のイザヤ預言者と新約の聖ヨハネの二人である。彼等は無数の天使聖人が天主の玉座をとりかこみ永遠の讃美を歌い捧げている光景を見たのであるが、天国での讚美の的は天主の完全な美でもなく愛でも隣みでもなく正義、御威光でもなくただ聖のみである、と伝えている。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の天主なる主よ、全地はその光栄に充ち満てり(イザヤ6:3・黙4:8)。

これはあたかも「天主よ、御身は非常に高く聖に在し最上の叡智をあって相応しくも完全に自らを讃美し給うなり」とでも歌っているかのようであるが、またそれは被造物が天主に捧げることのできる当然の讃美と言わなければならない。それは、天主の聖は被造物の成聖の基礎、唯一の源泉、普遍的規範であり、無限完全なる愛をもって自らを愛し給う天主は、作品なる被造物もまた各々その分にとどまり、創造主への依存、法則の規範に合致して、天主が自らの中に見いだし給う御光栄と、創造の目的並びにこれを実現しようとするために立て給う御計画を表わすのを望み給い、被造物は創造主、天主が立て給える法則を離れては一瞬時たりとも生存出来ないものだからである。されば我等人間が自由意志をもって天主の創造目的に合致した生活、行をなすのは、これ天主に依存することをあらわし、御光栄を揚げ、天主を愛し奉るゆえんである。従って天主への依存、愛、我等の本来の目的(天主の御光栄を発揚すること) に自由意志をもって合致したいとの念が深ければ深い程、それだけ我等は被造物から離脱してただ天主に親密に固着する者となり、成聖はそれだけ高いものとなるわけである。

聖トマは成聖の要素として純潔(即ちすべての罪や不完全の汚れなく、すべての被造物よりの完全な離脱)と天主への確固不動の固着の二つを挙げて、この二要素は天主における無限、超絶、存在の全き完全と、その御意志が永遠に変りなく御自身に固着し給う不動性に相通ずるものであると述べている。



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霊魂の生命なるキリスト 第1講 の一、天主の計画の概念―我等が天主の養子たるが為に必要なる成聖

2020年07月08日 | カトリックとは
霊魂の生命なるキリスト

第1講 イエズス・キリストによって我等を養子となし給う天主の計画

一、天主の計画の概念―我等が天主の養子たるが為に必要なる成聖

―成聖とはキリスト・イエズスによりて天主の生命に与ること

万物の第一原因たる絶対者、被造物界を宰(つかさど)るその御摂理、我等の行為に報い給う最高権威者、万物の究極目的たるものの存在することは人間の理性によって証明されるが、この論理的認識と、これによって明らかにされる造物主と被造物との関係より、人間には造物主に対しまた人間相互間に一つの義務―総括的に自然法と呼ばれ、これを遵守する者には自然宗教的な義務―が生じて来る。しかし人間理性がいかに偉大であろうとも、無限距離の彼岸、不可知の超自然境に在す絶対者なる天主を、直接、完全に知り尽すことは不可能である。「彼は、近づくべからざる光に住み給い、一人もかつて見奉りしことなくまた見奉る能わざる者に在す」(テモテ前6:16)。

然るに天啓は来りて我等を照らし、天主は言うべからざる隣み深き親心を有し給う父なることを告げた。「天主は人の父にて在す」。これは天主の御教の基礎的教義である。ああ 「天主は人の父にて在す」とは、美しくもまた何と大なる教義であろう! この偉大なる教義の前に人の智は考え究むる所を知らず、ただ困惑するのみであるが、信仰の霊は雀躍たる喜びを禁じ得ないものあるを覚ゆる。

天主は人の父にて在すことと三位一体の奥義。「天主は人の父にて在す」。天主の御手に造られたる光が世の東方に立昇る遮か以前に、天主御父は永遠に御子を生み、これに御自分の生命、神性、完全、至福を伝え給うた。生むとは、自己の存在及び生命を他に与えることである。「汝はわが子なり。我、今日汝を生めり」(ヘブレオ1:5)「光より前に我、胎より汝を生めり」 (詩109:3)。実に生命は独り天主の中に在り、聖子(おんこ)はこれを聖父(おんちち)より与えられこれを受け給うた。これを受け給うた聖子はすべてにおいて聖父と等しく同一にて在す。「神の独子」(ヨハネ1:18)。彼は独子にて在し、聖父と同じ神性を有し、しかも聖父と聖子とは各々固有の特性を有し給い、判然たる位格的区別はありながらも、その間に実在する愛によって一連に結合し、この結合より第三位すなわち聖霊が出で給う。これ、天啓が啓示する至聖三位一体の天主に在し、信仰が識り得る限りの天主の生命の奥義である。この生命の充満と豊けさは、至聖三位の量るべからざる至福、言うべからざる愛と歓喜の源泉であり、しかして天主の愛は、そのすべてを我等被造物にまで分ち与えんと欲し給う。

天主はいかにして自らの生命を我等に伝え給うか。しかし天主はその生命をいかにして我等被造物に分ち与え給うであろうか? 天主は自ら充ち満ち給う御者に在すが故に、他に何物をも必要とし給わない。それで天主が何かなし給うとすれば、それは御自分のためでなく我等人間のためである。しかるに天主の生命は聖父によって御独子に伝えられ、聖父と聖子によって共通の霊に伝えられたが、遂にこれを被造物人間にまで分ち与えんと計り給うた。すなわち止ることを知らぬ天主の愛は、無より抽(ひ)き出し給うた被造物我等人間に御自分の生命を通じ、もって人間を聖化し、御自分の子たらしめ、優しくも「天主の子」なる名をもって呼ばしめ、本来から言えば、子としては聖子イエズス御一人しか有し給わぬ天主は、愛と恩寵によって無数の子を有し給うことになった。

もともとこの恩寵は人祖アダムに与えられたものであったが、不幸にしてアダムは天主の御旨に叛き罪を犯しこれを失った。全人類の元たる人祖の罪は原罪と呼ばれ、その結果は子孫たる全人類―聖マリアを除いては―世に生れ出ずるすべての人の上に及び、人は皆罪の中に天主の敵として生れ、罪の中に死する憐れな者となり果てた。しかるに天主の愛は人をこの不幸より救い上げんと欲し、聖父天主の御懐の中に永遠に生き給う御独子は、人性を取り人となりて世に生れ出で、自ら十字架に磔付けられて死し、もって人の罪を贖い、人類救済の業をなし遂げ給うた。天主が人の救霊の為に十字架上に磔付けられて死し給うとは、何と不思議な大なる愛の御業であろう!憐みの御業であろう!実にイエズス・キリストは人類の救主にて在すのだ。

真の神人イエズス・キリストの御降世。救主イエズスは童貞聖マリアによって人性を取り給い、人性は神性に結合せしめられ、ここに神人イエズス・キリストが人の世に出現し給うたのであるが、神人の結合たるや、人性は人性としてそのままでイエズスの天主の位格に完全かつ最も緊密に属し、天主の生命はそのままで天主の聖子の人性を成したので、イエズス・キリストは完全なる天主にして完全なる人に在すのである。すなわちいかに緊密なる神人の結合はあっても、真の天主にしてイエズスと呼ばれ給う、この真の人キリストが本性より天主の子たり給うことには、何等変化はなく、また変化など有り得ないのだ。しかし永遠の輝きの中に本性よりの天主の御独子が、人性を取って神人として世に生れ、御自分をうけ奉るすべての人の長子、多くの兄弟の頭と樹(た)てられ給いしイエズス・キリストは、人類贖罪の御業によって天主の恩寵を我等の上に回復し、我等に救霊の道を開き給うた。

天主の生命恩寵が我等の中に流入する道筋。今、天主の恩寵がいかなる道筋を通って我等の上に注がれるかを見るに、聖父より聖子に通じたる天主の生命は、また聖子よりイエズスの人性の中に流入し、さらにこれがキリストによりて彼を信じてうけ奉るすべての人に通じ、もってすべての人を聖父の至福なる御懐の中に導き入れるのである。「イエズスをうけし人々には各々天主の子となるべき権能を受けたり」(ヨハネ1:12)。しかしてキリストは地上において人類の贖(あがない)の御業を完成し給うた後、人に先立ちて天に昇り、聖父の懐に入り給うた。「これ、御子が多くの兄弟の中に長子たらんためなり」(ロマ8:29)。

成聖とは。これ以来、我等の成聖すなわち我等が天主の生命を蒙(こうむ)るとは、自ら天主にて在しその中より溢れ出ずる生命を人に分配する仲介者となり給うたキリストより、またキリストによってのみ、これを受けこれを己の内に保ち成長せしむることとなった。別な言をもって言えば、人が、与えられ自ら受入れた天主の生命に与かるに外ならぬこととなった。「与えられ」とは、天王の中においては、言い表わし難い神秘的発生によって聖父より聖子に伝えられたる生命が、天主の外においては、聖子によって御托身の玄義の中に完全なる一致を成せる人性に伝えられ、しかして聖子の人性を通じて人の霊魂に、予定せられたる量に応じて与えられ、受け入れられることを意味する。これ、キリストが人の霊魂の生命にて在し、同時に生命の分配者たり給うゆえんである。

天主の生命に与かれる霊の歓喜と幸福。天主の生命は、その永遠の定めによって決定されているその日―地上において御業の完成するその日―まで教会の中に入り、永遠より予定されたる数に満つるまでのすべての人に与えられる。これら予定せられたる霊魂の大群集は、キリストによって聖父に奉呈され、天主の玉座を囲繞(いにょう)し、活ける永遠の生命の泉より純潔なる浄き至福を吸い、天王の壮麗なる慈愛と栄光とを限りなく讃美し奉る者となり、かくして天主と人との一致は永遠に尽きず、彼等に取って「天主はすべてにおいてすべてにて在す」御者となり給うであろう。これが天主が人の上に有し給う御計画と御業の大体の筋を示す図表であり、天主の聖子イエズスが世に来り給うた目的である。

この偉大なる御業をしかも何の功もなき我等のために天主御自ら計画し給うとは、ただ深き御慈愛による外なきを知らざるを得ない―天主の御慈愛を観想しては、我々に「天主の子」なる名を与え、慈愛の御業を我等の上に実現せしめんがために、卑しく貧しく弱き人性を取り身を低くして世に来り給う無限永遠の存在、生命なる天主を礼拝し高く讃え奉らざるを得ない。
「おお主よ、汝の御業の何と偉大なることよ、汝の御思慮の何と深遠なることよ」と深き感激の叫びを揚げざるを得ないであろう。「わが天主よ、誰か汝に似たるや、汝は我等のために奇しき御業と計(はかりごと)を殖やし給えり、誰も汝に比(くら)ぶべき者なし」(詩39:6)「天主よ、汝は汝の御業をもって我を楽しましめ給う、我は汝の手の御業の前に歓喜の余り身顫(ぶる)うなり」(詩91:5)「この故に我は生くる限り汝を歌わん、我に生命の息あらん限り汝を賞め讃えん」(詩103:32)「汝の光栄を讃えんがためにわが口、終日(ひねもす)賛美に満たされんことを!」(詩70:8)と歌い奉らざるを得ない。




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霊魂の生命なるキリスト(ドン・マルミオン)第1講 イエズス・キリストによって我等を養子となし給う天主の計画 序説

2020年07月07日 | カトリックとは

霊魂の生命なるキリスト 

第1講 イエズス・キリストによって我等を養子となし給う天主の計画

序説―霊的生活において、天主の計画を識るは非常に重要なること―

一、天主の計画の概念―我等が天主の養子たるがために必要なる成聖―成聖とはキリスト・イエズスによりて天主の生命に与かること。

二、天主は我等を聖ならしめ天国の至福に入らしめんがために御自分の生命に与からしめ給う。

三、至聖三位における天主の聖―天主は御自分の充満てる生命に我等を予定し給う。

四、天主の計画は聖寵によって我等を養嗣子とならしむるにあること―霊的生命の超自然的特質。

五、人祖アダムの罪によりて破壊され、イエズスの御托身によりて回復されたる天主の御計画。

六、天主の計画実現のために聖寵を以て我等を養子とならしめ給う―霊的生命の超自然的特質。

七、天主の計画の結果―聖霊において一致し給える聖父と聖子との光栄。

序説
「天主は我等を、御前において聖にして汚れなき者たらしめんとて、寵愛を以て、世界開闢前よりキリストによりて選み給い、思召のままに、イエズス・キリストを以て己が子とならしめんことを予定し給うた。これ最愛なる御子において我等に賜いし栄光ある恩寵の誉の為なり」(エフェゾ1:4-6)。

多くの人の中より天主に選み出され、第三天まで上げられたる大使徒聖パウロは、この言葉を以て、天主が我等人間の上に有し給う御計画を知らせ、世々の昔より天主の裡に隠れたる奥義の度(はかり)のいかなるかを明らかに我等に見せんとするのである。天主が我等の上に有し給う御計画とは、これ我等の霊魂の成聖に外ならぬのであるが、聖パウロはこれを世に知らせんがために、生涯弛みなき活動を続けたのだ。

彼は自ら言っている通り、何のために全生涯、全精神をあげて「天主の御計画の度を明るみにあらわさんがために」努力したのであろうか? それは、我等が天主に至り得んがために何をなすべきか、またこれがために、天主が我等に何をなさしめんと望み給うかを知らせ得るのは、我等の救霊と成聖の源なる天主御一人にて在すからである。

世には天主を探求し天主との一致に至る成聖の道を歩むのに、非常な困難を感じたり、迷ったりする人があるが、これは、天主自ら作り、我等に与え給うた、人の全生涯を規定する原理原則と成聖計画を知らないでか、あるいはこれを無視して、成聖を自分で考案した自己中心の指導原理によって出来るものだと思ったり、あるいは成聖について余りに些細末梢な個々の事物や一時的の感情や気分にのみ囚われて、全体としての綜合的観念を欠く所から起り来るものである。

この点に関して聖パウロは、早くも初代教会の信者に忠告を与えて「わが走るは目的なきが如くには非ず」(コリント前9:26)、目的に達し得べきよう走れ、「汝等賞を受け得べきように走れ」(同9:24)と教えている。我等にしても、天主を探求し自己の成聖を望むならば、まず成聖の目標とこれに至る道を明らかに知り、これに従って生活して行くことが極めて大切である。さもなければ、成聖どころか、救霊までも、取外す恐さえないとは言えない。それに、天主は既に既に誤りなき叡智より出でたるすべての真理の究極の規範、我等の成聖の道を、我等のために備えていられるので、我等においては天主の備え給う道すなわち御計画に自分を適合せしめさえすれば成聖は成就する訳である。我等の成聖には、これ以外に何も必要としない。サレジオの聖フランシスコは「万事は天主の御旨に従って判断せねばならぬ。たとえ自己の考によっては、聖人であろうとも、それは確実ではない。天主の御判定による聖人こそ聖人である」と言っている。実に、人智で量り知るべくもない天主の叡智より出ずることは、何事にせよ、それ自体の中に内的な矛盾、欠陥、齟齬等があって、本来の目的が完成しないようなことはあり得ない。我等の成聖にしても同様、我等が天主の御計画を知り、これに忠実に従い、自己を適合せしめて行きさえすれば、天主の御考は我等の上に活溌に働き、我等は天主の御光に照らされ、天主が我等の上に有し給う御計画を明らかに知らされるであろう!これは我等に取っては光と力と歓喜との源泉となるであろう! それで我等は今、成聖について天主の有し給う御計画の全般的観念と冒頭に引用した聖パウロの言について詳しく見たい。

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2020年7月5日は聖霊降臨後第五主日(二級祝日 緑)です。来る主日の聖伝のミサのラテン語と日本語・中文・韓国語の対訳のテキストをご紹介いたします

2020年07月01日 | カトリックとは

聖霊降臨後第五の主日(二級祝日 緑)
【ミサ聖祭】
聖霊降臨によってわれらに与えられたキリストの霊は、われらを愛にと押しすすめる。われらが、全き愛によって天主に至ろうとすれば、すなわち隣人に対して正義と愛とを実行すべきである<書簡、聖福音書>。隣人への愛は、天主自身への愛であると、聖レオは言っている。

上爱天主如我们的父,下爱众人如我们的兄弟,这便是基督徒应守的法令。凡为一个天主的子女,总不该任自己入于仇恨,却该以德报怨;即使遭受迫害时,也该如基督为爱主人之故、接受窘难。这个爱德极为重要:尤其是在每主日基督团体的集合中,为参加弥撒的圣祭(福音)。因为我们欲妥善地结合于基督与圣教的圣祭中,必须具有对我们兄弟的爱德。我们若不爱他们,便算不爱基督,并不是属祂的人。就是说的:我们虽然参与弥撒,决不会为天主喜悦,也不配许入祂的圣殿中(领主咏)。

『가서 네 형제와 화목하고 이에 와서 네 예물을 드리라』(복음) 오늘은 형제의 주일이다. 인간의 경험은 천주의 가르침의 필요성을 확인한다. 천주께서 아버지가 되심을 인정되었을 때에만 인류가 서로 형제됨이 실현될 것이다. 악을 선으로 갚는다는 것은 천주를 사랑하는 사람들에게만 가능하다.(서간경) 서로 미워하고 할퀴는 사람들에게 다음의 기구가 얼마큼 요긴한지 모른다.『우리 마음에 너를 사랑하는 정을 부으소서…』(축문) 황금률을 실천하는데 있어서 우리들은 세속적인 박해(초입경)와 악마의『적』(영성체후 축문)에 대항할 수 있도록『구원자』이신 천주께 호소한다. 이웃에 대하여 분노, 시기, 매서움, 무관심 및 어떤 염오의 정을 지닌 사람이, 어떻게 원수를 위하여 자기를 바치신 그리스도의 희생에 참여할 수 있겠는가? 우리 이기심의 희생, 혹은 그리스도를 위하여 상처를 받은 감정을 제대 앞에…머물러 두기에 가장 합당한 『선물』이다. 

Dominica Quinta post Pentecosten 聖霊降臨後第五の主日 降临后第五主日 성신 강림 후 제5주일
II Classis 二級祝日 复式【绿】 *
Ant. ad Introitum. Ps. 26, 7 et 9. 入祭文 詩篇、 26ノ7-9 进台咏(咏26:7,9) 초입경(성영 26․7-9)
Exáudi, Dómine, vocem meam, qua clamávi ad te : adiútor meus esto, ne derelínquas me neque despícias me, Deus, salutáris meus. 主よ、御身に叫び奉った私の声を聞きいれ給え。私の助け手たり給え、天主よ、私の救いよ、私を見捨て給う勿れ、私を軽んじ給う勿れ。 上主啊!我向祢呼吁,求祢垂听我的号声;救我的天主啊!祢向来就是我的助佑,其祢莫要远离我,也不要舍弃我。 주여 네게 부르짖는 내 소리를 들으소서. 나의 구원이신 천주여 너 나의 도움이 되사 나를 버리시거나 업수이 여기지 말으으소.
Ps. ibid., 1. 詩篇、26ノ1 (咏26:1) (성영 26․1) 
Dóminus illuminátio mea et salus mea, quem timébo ? 主は、私の光、私の救い、私は誰を恐れよう? 上主是我的光明,我的救护。我还畏惧谁呢? 주는 나의 빛이시오 나의 구원이시니 나 누구를 무서워 하리오. 
V/.Glória Patri. V/. 願わくは、聖父と・・・(栄誦) 光荣归于父……。 영광이 부와 자와... 
Exáudi, Dómine, vocem meam, qua clamávi ad te : adiútor meus esto, ne derelínquas me neque despícias me, Deus, salutáris meus. 主よ、御身に叫び奉った私の声を聞きいれ給え。私の助け手たり給え、天主よ、私の救いよ、私を見捨て給う勿れ、私を軽んじ給う勿れ。 上主啊!我向祢呼吁,求祢垂听我的号声;救我的天主啊!祢向来就是我的助佑,其祢莫要远离我,也不要舍弃我。 주여 네게 부르짖는 내 소리를 들으소서. 나의 구원이신 천주여 너 나의 도움이 되사 나를 버리시거나 업수이 여기지 말으으소.
Oratio. 集祷文 集祷经 축문
Deus, qui diligéntibus te bona invisibília præparásti : infúnde córdibus nostris tui amóris afféctum ; ut te in ómnibus et super ómnia diligéntes, promissiónes tuas, quæ omne desidérium súperant, consequámur. Per Dóminum. 天主よ、御身は主を愛する者たちに、見えざる善きものを準(ととの)え給う、われらの心に、御身の愛の愛情を注ぎ給え。我らが、すべてにおいて、且つすべてにまさって、御身を愛しつつ、すべて望みを超える御身の約束をわれらが得んがためなり。天主として、(…)。 天主,祢为爱祢的人们、预备了肉眼所未曾见过的福乐;求祢在我们心下灌入爱祢的热情,使我们能爱祢于万事之中,和在万有之上,以膺受祢出乎我们望外的恩许。因我们主……。 천주여 너 너를 사랑하는 자들을 위하여 눈으로 능히 보지 못할 보화를 예비하신지라. 우리 마음에 너를 사랑하는 정을 부으사 하여금 너를 만사 만물위에 사랑하여 아무 원의도 뛰어나는 네 허락하신 바를 얻게 하시되, 네 아들 우리 주 예수․그리스도를 인하여 하소서. 저 너와 성신과... 
Léctio Epístolæ beáti Petri Apóstoli. 使徒聖ペトロの書簡の朗読。 书信 서간경
I Petri 3, 8-15. ペトロ前書、 3ノ8-15 (伯前3:8-15) (베드루전서 3․8-15)
Caríssimi : Omnes unánimes in oratióne estóte, compatiéntes, fraternitátis amatóres, misericórdes, modésti, húmiles : non reddéntes malum pro malo, nec maledíctum pro maledícto, sed e contrário benedicéntes : quia in hoc vocáti estis, ut benedictiónem hereditáte possideátis. Qui enim vult vitam dilígere et dies vidére bonos, coérceat linguam suam a malo, et lábia eius ne loquántur dolum. Declínet a malo, et fáciat bonum : inquírat pacem, et sequátur eam. Quia óculi Dómini super iustos, et aures eius in preces eórum : vultus autem Dómini super faciéntes mala. Et quis est, qui vobis nóceat, si boni æmulatóres fuéritis ? Sed et si quid patímini propter iustítiam, beáti. Timórem autem eórum ne timuéritis : et non conturbémini. Dóminum autem Christum sanctificáte in córdibus vestris. 愛する者よ、最後に、あなたたちはみな心を一つにせよ。同情、兄弟愛、あわれみ、謙遜をもつように。悪に悪を、侮辱に侮辱をかえすことなく、かえって祝福せよ。あなたたちは、祝福の世嗣となるために、そう召されたからである。「命を愛して幸せな日をおくろうとする者は、舌を悪から、唇をいつわりから守れ。悪を遠ざかって善をおこない、平和を求め追え。主の目は義人の上にそそがれ、その耳はかれらの祈りにかたむく。しかし主の顔は悪をおこなう者に向く」。あなたたちがもし善に熱心なら、だれがあなたたちに悪をおこなえよう。たとい正義のために苦しめられても、あなたたちは幸せである。かれらの脅しをおそれるな。とまどうな。心の中で、主キリストを聖なるものとして扱い、あなたたちのうちにある希望の理由をたずねる人には、やさしく、うやまいつつ常に答える準備をせよ。 挚爱的弟兄们:你们都要在祈祷上一心一意,彼此同情,凡爱众弟兄,存心仁慈、温和、谦逊。不要以恶报恶,以骂还骂;相反的、要向人祝福,因为你们是为了承继真福而蒙召的。“谁愿意爱惜生命,并过幸福的日子,要抑制他的舌,莫说恶言,抑制他的唇,莫说诡话。要弃恶为善,寻求和平,之前追寻。因为上主的双目垂视义人,祂的两耳俯听他们的祈求。上主的面敌视作恶的人。”你们若热心行善,谁还能损害你们呢?你们若为正义遭受痛苦,便是有福的!不要畏惧他们的恐吓,不要心心慌意乱,却在你们心中颂扬主耶稣基督的至圣吧! 사랑하온 자들아 너희는 다 일심하여 기구하며 서로 동정하고 형제를 사랑하며 인자하고 공손하며 겸손하고 악을 악으로 갚지 말며 악담을 악담으로 갚지말고 오직 축복할지니 대저 너희는 축복을 유업으로 받기 위하여 부르심을 받았도다. 대저 생명을 사랑하고 좋은 날을 보려하는자는 그 혀로 하여금 악을 피케 하고, 그 입술은 간사함을 말하지 말게 하며, 악을 멀리 하여 선을 행하고, 평화를 찾아 따라 갈지니 대저 주의 눈이 의민을 돌아보시고, 저의 귀는 저들의 기구에 기울이시되, 저의 얼굴은 악을 행하는자들을 거슬려 계심이로다. 너희가 열심히 선을 행할진대 누 능히 너희를 해하리오. 그러나 너희가 또한 의덕을 위하여 고난을 받으면 복되리라. 저들의 위협을 두려워 하여 마음을 어지럽히지 말고 오직 너희 마음 속에 주 그리스도를 거룩케 할지어다. 
Graduale. Ps. 83, 10 et 9. 昇階誦 詩篇、 83ノ10,9 台阶咏(咏83:10,9) 층계경(성영 83․10,9)
Protéctor noster, áspice, Deus, et réspice super servos tuos. われらの保護者よ、みそなわし給え、天主よ、御身の下僕らをかえりみ給え、 天主,我们的保护者啊!求祢垂顾,并注视祢的众仆。 우리 보호자이신 천주여 네 종들을 굽어보소서. 
V/. Dómine, Deus virtútum, exáudi preces servórum tuórum. V/. 主よ、万軍の天主よ、御身の下僕らの祈りを聞き入れ給え。 上主、万军的天主啊!其祢俯听祢众仆的祈祷。 주 군대의 천주여 네 종들의 기구를 들어 허락하소서. 
Allelúia, allelúia. Ps. 20, I アレルヤ、アレルヤ。詩篇、 20ノ1 阿肋路亚,阿肋路亚!(咏20:1) 알렐루야 알렐루야.(성영 20․1) 
V/. Dómine, in virtúte tua lætábitur rex : et super salutáre tuum exsultábit veheménter. Allelúia. V/.主よ、王は主の力において喜ぶだろう、主の救いについて強烈に喜び踊るだろう、アレルヤ。 上主啊!祢的被选者必因祢的全能欢愉,因祢的救助、他是如何的喜悦!阿肋路亚。 주여 네 능력을 인하여 임금이 기뻐하고 네 구원을 인하여 저 크게 용약하리로다. 알렐루야. 
+ Sequéntia sancti Evangélii secúndum Matthǽum. マテオによる聖福音の続誦。 福音 복음
Matth. 5, 20-24. マテオ、 5ノ20-24 (玛5:20-24) (성마두 5․20-24)
In illo témpore : Dixit Iesus discípulis suis : Nisi abundáverit iustítia vestra plus quam scribárum et pharisæórum, non intrábitis in regnum cælórum. Audístis, quia dic tum est antíquis : Non occídes : qui autem occídent, re us erit iudício. Ego autem dico vobis : quia omnis, qu iráscitur fratri suo, reus erit iudício. Qui autem díxerit fratri suo, raca : reus erit concílio. Qui autem díxerit, fatue : reus erit gehénnæ ignis Si ergo offers munus tuum ad altáre, et ibi recordátus fúeris, quia frater tuus habet áliquid advérsum te : relínque ibi munus tuum ante altáre et vade prius reconciliári fratri tuo : et tunc véniens ófferes munus tuum. そのとき、イエズスは、弟子らにおおせられた。もしあなたたちの正義が、律法学士やファリザイ人たちのそれにまさらないかぎり、たしかに天国にはいれないだろう。あなたたちも知っているとおり、昔の人は"殺すな、殺す者は審判される"と教えられていた。しかし、私はいう、兄弟に怒る人はみな審判をうけ、兄弟に向かって"白痴"という人は衆義所にわたされ、"気違い"という人はゲヘンナの火をうけるであろう。だから、あなたが、祭壇にそなえものを捧げようとするとき、兄弟が、何かあなたに対して、ふくむ所があるのを思い出したら、供え物を、そこ、祭壇の前において、まず、兄弟のところに行って和睦し、それから帰って、供え物をささげよ。 那时候、耶稣向门徒们说:“我告诉你们:你们的义德若不胜过经师和法利塞人的义德,你们不能进天国。你们听到对古人说:‘不可杀人,谁杀了人,要受审判。’而我对你们说:谁向弟兄发怒,要受审判;谁骂弟兄“笨伯”,要受‘议会’的审判;谁骂弟兄“疯子”,要受地狱的火刑。所以,你把礼物献上祭台时,如果到了那里、想起你的弟兄对你有怨,把你的礼物留在台下,先去同你的弟兄和睦,然后再来献礼物。” 유시에 예수 그 제자들더러 이르시되「너희 의덕이 학자들과 바리서이의 의덕보다 더 낫지 아니하면 천국에 들어가지 못하리라. 옛 사람에게 이르신바 살인치말라 누구든지 살인하는자는 심판받을 죄인이라 함을 너희가 들었으나 나는 너희게 이르노니 누구든지 제 형제에게 분노하는 자는 심판받을 죄인이오 제 형제더러 미련한 놈이라 하는 자는 공회의 죄인이 될것이오 미친놈이라 하는 자는 지옥불의 죄인이 되리라. 이러므로 네 예물을 제대 앞에서 드리려 할 때에 만일 네 형제가 너를 거슬려 무슨 혐의가 있는 줄을 거기서 생각하거든 거기서 네 예물을 제대앞에 머물러 두고 먼저 가서 네 형제와 화목하고 이에 와서 네 예물을 드리라.」 
Credo 信経 信经 신경
Ant. ad Offertorium. Ps. 15, 7 et 8. 奉献文 詩篇、 15ノ7,8 奉献咏(咏15:7,8) 제헌경 (성영 15․7,8)
Benedícam Dóminum, qui tríbuit mihi intelléctum : providébam Deum in conspéctu meo semper : quóniam a dextris est mihi, ne commóvear. 私に知性を与え給うた主を私は祝し奉る。私は、常に目の前に、天主を見奉る。主は私の右にましまし、私は揺るがぬだろう。 我将感谢教导我的上主;我时常将上主置于我目前;我不动不移,因为祂在我的右边。 내게 명오를 주신 주를 나 찬양하리로다. 나 항상 내 면전에 천주를 두리니 대저 저 내 우편에 계시어 나로 하여금 흔들리지 않게 하시도다. 
Secreta. 密誦 密祷经 묵념축문
Propitiáre, Dómine, supplicatiónibus nostris : et has oblatiónes famulórum famularúmque tuárum benígnus assúme ; ut, quod sínguli obtulérunt ad honórem nóminis tui, cunctis profíciat ad salútem. Per Dóminum. 主よ、願わくは、われらの懇願を、受け入れ給え。御身の下僕らとはしためらのこれらの供え物を優しく嘉して受け入れ給え。かれら各々が、御名の名誉のために捧げ奉ったものを、それぞれにとって救いに役立たんことを。天主として、(…)。 主,求祢怜听我们的恳祷,惠纳祢仆婢们的献品,使他们各自为光荣祢圣名所献的礼物,供助大众获得救恩。因我们主……。 주여 비오니 우리 기구로 의노를 풀으시고 네 남녀종들이 네 제대위에 놓은 예물을 너그러이 받으사 우리가 각각 네 이름의 영광을 위하여 드린바로써 다 구원에 유익이 되게 하시되, 네 아들 우리 주 예수․그리스도를 인하여 하소서. 저 너와 성신과... 
Praefatio de sanctissima Trinitate ; 序誦 三位一体と主日との序誦 天主圣三的颂谢引 성삼감사경
Vere dignum et iustum est, æquum et salutáre, nos tibi semper et ubíque grátias ágere : Dómine, sancte Pater, omnípotens ætérne Deus : Qui cum Unigénito Fílio tuo et Spíritu Sancto unus es Deus, unus es Dóminus : non in uníus singularitáte persónæ, sed in uníus Trinitáte substántiæ. Quod enim de tua glória, revelánte te, crédimus, hoc de Fílio tuo, hoc de Spíritu Sancto, sine discretióne sentímus. Ut, in confessióne veræ sempiternǽque Deitátis, et in persónis propríetas, et in esséntia únitas, et in maiestáte adorétur æquálitas. Quam laudant Angeli atque Archángeli, Chérubim quoque ac Séraphim, qui non cessant clamáre cotídie, una voce dicéntes : Sanctus… 主よ、聖なる父よ、全能永遠の天主よ、われらが御身に、いつもどこにても感謝を捧げるのは、実にふさわしく正しいこと、義務と救いである。御身は、御独り子と聖霊と共に、唯一の天主、唯一の主にて在す。すなわち、御身は、一の位格の単一にて在すのではなく、唯一の実体(substantia)の三位にて在す。御身の御光栄について、御身が啓示するがゆえに、われらが信じ奉ることを、聖子について、聖霊について、差別なく、われらは信じ奉る。真の永遠の天主の本性を告白するにおいて、位格における固有性が礼拝され、本質(essentia)における唯一性と、御稜威における等しさも礼拝されるためである。これを、天使らと大天使らは、智天使も熾天使も、讃美し、絶え間なく声を上げ、日々声をあわせてこう言う。聖なるかな、… 主,圣父,全能永生的天主!我们时时处处颂谢祢,实是正义而必须的,属于我们天职的,也属于我们得救的。祢与祢的独子及圣神,只是一个天主,只是一个主;不是因为位是单独一个,却是因为三位同具一个性体。的确,我们所怎样依照祢的启示,相信祢享的光荣,我们无区别地也同样确认祢的圣子,也同样确认圣神共享这个光荣。因此,我们在明认圣三真实而永在的天主性上,同时论位,我们敬拜圣三的各一,论体,我们敬拜圣三的无二,论尊荣,我们敬拜圣三的均等。这圣三的尊荣,是天神们和总领天神们,普知天神们和炽爱天神们,所虔诚歌颂的;他们日复一日,永不停止同声高呼说:圣、圣、圣…… 주여, 성부여, 전능하시고 영원하신 천주여, 우리가 어디서나 항상 주께 감사하는 것이 참으로 당연하고 옳으며, 지당하고 구령에 유익하나이다. 주는 외아들과 성신과 더불어 오직 한분의 천주시요, 오직 한분의 주이시되, 한 위가 아니시고, 한 체로서 세 위시니이다. 주의 계시로 우리가 주의 영광에 대하여 믿는 바를, 성자와 성신에 대하여서도 조금도 다름이 없이 믿나이다. 그리하여 우리는 참되시고 영원하신 천주성을 찬미함에 있어, 위로서는 각 품이시요, 체로서는 하나이시요, 지존하시기는 같으심을 찬송하나이다. 천신들과 대천신들 및 케루빔과 세라핌이 이를 찬양하며, 날마다 간단없이 제창하나이다. 거룩하시다, 거룩하시다, 만군의 천주이신 주는 거룩하시나이다. 하늘과 땅에 주의 영광이 가득하나이다. 천상에 좌정하신이여 호산나, 주의 이름으로 오시는 이는 찬미받아지이다. 천상에 좌정하신이여 호산나.
Ant. ad Communionem. Ps. 26, 4. 聖体拝領誦  詩篇、 26ノ4 领主咏(咏26:4) 영성체경 (성영 26․4)
Unam pétii a Dómino, hanc requíram : ut inhábitem in domo Dómini ómnibus diébus vitæ meæ. 私は、一つのことを主に願い、これを求めた。私の全生涯、私が主の家に住むことを。 有一件事,我曾请求上主,我仍切求这事:就是我一生日日住在上主的的殿里。 나 주께 청한 한가지 일을 원하오니 이는 내 평생에 주의 집에 거함이로다. 
Postcommunio. 聖体拝領後の祈 领后经 영성체후 축문
Quos cælésti, Dómine, dono satiásti : præsta, quǽsumus ; ut a nostris mundémur occúltis et ab hóstium liberémur insídiis. Per Dóminum nostrum. 主よ、御身は天の賜物によって満足させた我らは祈り奉る、願わくは、われらの隠れた罪からわれらが浄められ、敵のわなより救われんことを。天主として、(…)。 主,祢既赏赐了我们饱享祢的天恩,求祢洗去我们隐蔽不明的过恶,并救我们脱于仇敌的谋害。因我们主……。 주여 비오니 네 천상 예물을 충만히 받은 우리를 숨은 죄악에서 조찰케 하시고 원수의 계교에서 구원하시되, 네 아들 우리 주 예수․그리스도를 인하여 하소서. 저 너와 성신과... 

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【聖体の黙想1】聖体は天主のご托身の継続である The Eucharist Continues and Extends the Coming of God upon Earth

2020年07月01日 | カトリックとは

テニエール神父著『聖体の黙想』 (1953年) (Révérend Père Albert Tesnière (1847-1909))より

聖体の制定された理由 The Reasons of the Eucharist. 
   
聖体は天主のご托身の継続である I. The Eucharist Continues and Extends the Great Blessing of the Coming of God upon Earth. 
   
 礼拝 聖体の中にまことにこもります天主にして人なる私たちの主イエズス・キリストを、大いなる信仰をもって拝したてまつろう。そしてかつてベトレヘムにて天使と三博士とが主を拝んだような、心からの礼拝を主にささげたのちに、この秘跡が、天主が地上におくだりになった大きな恩恵をいつまでも継続し、またその影響の範囲を広めるために定められたものであるとの、たいせつな真理をよく黙想し、その深い意味を理解するよう努めなければならない。 I. Adoration. Recognize and adore, with all the power of your faith, Our Lord Jesus Christ, God and man, really present in the Blessed Sacrament. And after having saluted Him with profound reverence, as the angels and the Magi did at Bethlehem, prepare yourself to comprehend and to be profoundly penetrated with this capital truth, namely, that the Eucharist was instituted to continue and extend the great blessing of the coming of God upon earth. 
   
 あなたたちは天主のご托身の奥義を知り、かつこれを信じている。至聖なる三位一体の第二のペルソナであるみ言葉は、天主になしましながら人となり、私たちのもとにおいでになり、私たちとともにお住みになった。 You know and profess the mystery of the Incarnation, in which the Word, the Second Person of the Most Holy Trinity, the only Son of God, became man, without ceasing to be God, and began to dwell among us, similar to one of us. 
   
ご托身によって天主ご自身が実際に地上に生活したもうたのである。天主は見ることのできない、近づくことのできない御者であるが、イエズスにおいて、私たちは、天主に近づき、天主に語り、天主の御からだに触れることができるようになった。それはまことの人であるイエズス・キリストはまた同時にまことの天主にてましますからである。 In virtue of this fact God Himself, God in person, corporally inhabited the earth. He ceased to be invisible and inaccessible; He was seen in Jesus, He was approached and spoken to, and He was touched in Jesus; for Jesus, truly man, was also truly God. 
   
 イエズスのご来臨までは、私たちは被造物という不完全な鏡を通じて天主を見るだけであった。しかし主において、天主はまことに、直接にペルソナ的におあらわれになった。天主は無限の存在と、あまねき全能の御力とをもって、宇宙のどこにもましましながら、イエズスにおいてひとつの場所に限定され、霊魂と肉体、血液と心臓、頭と手足を有する人となり、その御口によって語り、その手足によって働かれた。主は私たちのように労働し、疲れ,飢え、渇かれた。主は御血をもってするまえに御汗をもって地を潤わされた。主は私たちの不幸をあわれみ、これに同情し、病と悩みと死を司る全能の御手をかざしてもろもろの奇跡を行われた。また、主は人間の理知のあこがれ慕う真理、すなわち天主に関し、そのみいつ、慈愛、あわれみに関し、また、私たちの終わりなき生命に関する誤りのない真理を教えられた。さらにまた、主は正義の天主と罪人との両極を一身のうちに結びつけるためにおいでになった。主はそのご来臨と恩恵とによって、最も完全な罪の許しの証拠、並びに将来の平和と幸福との安心を人々に与えて、彼らを天主とわぼくさせられた。 Until then, God was seen only in inanimate creatures and in rational creatures, which are but imperfect images of Himself. But in Jesus He was seen in His reality, in an immediate manner, and in person. Whilst continuing to be everywhere diffused by means of His infinite being and the universal action of His power, He was nevertheless circumscribed in Jesus; He had a soul, a body, blood, a heart, and human limbs— He spoke and acted by the mouth and by the hands of Jesus. He was one of us, like to us, born in poverty, of a human mother. He labored, was weary, He was hungry and thirsty, as we are; He performed miracles, placing at our service, in His benevolence and His compassion for our miseries, His marvellous omnipotence, which rules over sickness, afflictions and death, and made them retreat. He announced the truth for which human reason longs, the eternal truth, without any mixture of error, with regard to God, His majesty, His goodness, His mercy, and with regard to our sublime destinies. Jesus was God come upon earth, inhabiting it, treading on it with His feet, watering it with His sweat before watering it with His blood; He was come to unite in Himself these two extremes: sinful man and a justly irritated God; and He reconciled the world to Himself, giving to it by His presence and His benefits a warrant of the most complete of pardons, the assurance of future peace and happiness. 
   
 天主の地上へのご来臨は、長くやみの中に嘆き苦しんでいた全被造物によって待ち望まれ、慕い求められていた。それは、天主のみわざの中の最も偉大なみわざ、天主のたまものの中で最も尊いたまもの、その全能のこのうえない大傑作、御あわれみの最大の祝福であった。もし、主のご来臨がなかったなら、世界はあげて悩みと罪と失望の中にとどまり、永遠の死の深くて暗いふちの中に沈まねばならなかったであろう。だから、み言葉のご托身は天主の摂理の最終目的であり、その最大の祝福であったともいえる。 This fact of the coming of God upon earth had been awaited, desired, demanded by the anguish and sufferings of the creature and of the whole world during more than forty centuries; it was the work of works, the gift of gifts, the masterpiece of omnipotence and the greatest blessing which had ever emanated from the goodness of God. If it had not been for His coming, the world would have cast itself down the deep and sombre precipices of suffering, of sin, and of despair — unto eternal death. Therefore the Incarnation of the Word is the end and the reason of everything in the works of God. 
   
 そうして、聖体はこのうえない大傑作、この最大の祝福を引きつづき世界に与えてくださるのである。天主はこの秘跡の中にペルソナ的に、肉身と霊魂とをそなえられるイエズス・キリストとして来たり、私たちとともに住み、私たちが主に近づいて祈るのを許し、また私たちの姿を見、私たちの言葉を聞き、人間の心をもって私たちを愛してくださる。しかも主は以前ユデアにお住みになったときのように、ただひとところにおとどまりにならず、同時に地球上のあらゆる場所にあり、また、わずかに数年ないし数十年を私たちとともにおいでになるのでなく、世の終わりまで常に絶え間なく私たちとともにとどまられるのである。 The Eucharist continues to give to the world this great blessing, this incomparable masterpiece. Through the Sacrament God is present in person, in body and in soul, in all parts of the globe; God is amongst us; God has dwellings; God can be approached, supplicated. He sees us, He hears us, He loves us with His human heart, in all things like to ours, and His presence is no longer confined to one point as it was formerly in Judea, but it is to be found in all parts of the earth at one and the same time: it is not there for a few years only, but always, until the end of the world. 
   
 だから、大いなる信仰と愛とをもって、聖体の中においでになる人となられた天主の御子、托身なさったみ言葉を拝もう。また、天主にして人である主のご能力と、その中にたたえられる豊かなご生命とを拝もう。 Adore then with faith, with loving gratitude, the Son of God made man, the Man-God, the Incarnate Word, present and living in the Holy Eucharist; believe in the truth of His power, in the perfection of His life, divine and human at the same time. 
   
 感謝 救い主が周囲の人々にお与えになった無数の御恵みを聖福音書の中で読むとき、私たちは主に近づき、主にまみえ、主の御口から奇跡的治癒を命ずるお言葉を聞くことができた人々の幸福を、うらやましく思うのである。ユデア人らは主をさして『なんびともこの人のように語った者はない』と感嘆し、また地上での主のご生涯を『彼は善をなしつつ過ぎゆきたまえり』の一句で総括した。 II. Thanksgiving. It is certainly impossible to read in the Gospel of the numberless blessings which the Saviour bestowed all around Him, without envying the happiness of those who were able to approach Him, to see Him, and to receive from Him a word of peace or a miraculous cure. His countrymen exclaimed with admiration: "No one ever spoke like this man." And His life upon earth is summed up in these words: He went about doing good. 
   
しかし、同一の存在は同一の結果を生ずるはずである。もしイエズスが聖体によって地上に存在をおつづけになるならば、やはり以前と同一の能力、同一の慈愛を示されねばならない。だから、罪の中に沈んでいた世界の建てなおしが、ご托身によって成就したものであるならば、それが今日なお保たれて、あらゆる時代、あらゆる場所で、新しい生命が、私たちに与えられるのは、ひとえに聖体の秘跡のおかげである。なぜなら、この聖体は、天主の全能なる御子にして童貞母のあわれみ深き御子なるキリストご自身にほかならないからである。実にイエズスが聖体の中にましまして、この世界におとどまりになる事実そのものによって、また、聖体の能力と不思議な御働きによって、真理も、善徳も、秩序も、平和も、世界並びに霊魂の中でのあらゆる調和も存在するのである。また、まずかずの罪悪が絶え間なく世に行われるにもかかわらず、天主と人間の交渉が依然として存続するものも、同じく聖体のおかげである。もし、かりに一瞬間でも聖体が地上から消失したならば、霊魂の世界に非常な無秩序と混乱とが生じ、この物質世界から突如として太陽が取り去られ、宇宙がこなごなになる場合よりも、もっとはなはだしいであろう。 Now the same presence ought to produce the same results. If Jesus continues and perpetuates Himself upon earth, He will do so with the same power, the same goodness and for the same merciful and beneficent object as ever. Therefore it is true to say that in the same way in which all good things were restored to the guilty world by the Incarnation, they are preserved and applied to it at all times and in all places by the Eucharist: seeing that the Sacrament is the same Christ, the omnipotent Son of the Father, the wholly merciful Son of the Virgin Mother. Truth, virtues, order, peace, harmony in the world and in souls, the continuation of the relations between the earth, in spite of its crimes, and a justly irritated God — all is preserved for us, continued and given ceaselessly, by means of the fact, the power, and the admirable efficacy of the presence of Jesus perpetuated here below in the Eucharist. If it were to disappear for one moment, there would be a chaos in the world of souls worse than that which would be caused by the disappearance of the sun or the falling into ruin of the universe. 
   
 だから、イエズスがあなたたちのためにこの世にとどまり、あなたたちのその存在のすべての恩恵を与えられることを思い、その深き慈愛を感謝しよう。主が聖体の中においでになって、あなたたちに与えられる恩恵は、主がユデア国にお住まいになったときと同じく、いや、なおいっそう大である。なぜなら、ユデア人らは主の御からだを見、御言葉を聞いただけであるが、あなたたちは主によって養われ、主を完全に所有し、主は全くあなたたちに属したまうからである。 Thank Jesus, therefore, for the love which makes Him remain here below for you, and enables you to enjoy all the advantages of His presence as much as did those who lived with Him during the days of His mortal life, and even more still; for if they saw Him and heard Him, you feed on Him in reality, and you possess Him so fully that He is yours fully and entirely. 
   
 償い イエズスがこの世においでになったとき、ユデア人らが犯した罪は、主を知らず、主を認めず、かえって主を迫害し、カルワリオ山上にて主を殺したてまつったことであった。これが十九世紀間、ユデア人の上にとどまった天主の御怒りの理由である。ところが悲しいことに、今日の国々も主を認めず、聖体中の天主の愛の統治を拒み、人々の信仰を滅ぼし、主を迫害して人間の間より追い出そうとしているのである。この大いなる罪の償いとして、あなたたちはますます聖体に忠実であり、できるだけ多くの人々、特に子供らの霊魂を聖体の秘跡に近づけるよう努めなければならない。 III. Reparation. The great crime of the Jews, at the time of the first coming of Jesus Christ, was to repel Him, to refuse to acknowledge Him, and to persecute Him down to His death on Calvary. Hence the malediction which has pursued them during nineteen centuries. Alas! the great crime of nations at the present hour is, also, to refuse to the God of the Eucharist the means of establishing His beneficent empire and ruling it for the good of souls. Disowned and persecuted, men desire to make Him disappear, even from His material temples, after having snatched from Him through infidelity the souls of children and of Christians of all conditions. Oh! make reparation for this great crime, by becoming more and more faithful to the Eucharist and by bringing souls to it as fast as it is possible for you to do so, above all the souls of children. 
   
 祈願 天主にして人である存在を、あなたたちのために地上にてつづけたもう聖体の秘跡に対する熱烈な信仰を与えられるよう祈ろう。聖体がイエズスご自身にほかならないことを確固不抜の信仰をもって信ずる御恵みをお願いしよう。そうすればこの信仰によって、あなたたちは主に引きつけられ、聖体のみ前に出るたびごとに、ちょうど馬ぶねの中、あるいはタボル山頂、あるいは十字架に救い主を拝して起したような信心をもつようになるであろう。 IV. Prayer. Ask for the grace of a lively, hearty faith in this great fact of the Eucharist perpetuating for you upon earth the presence of the Incarnate Word. Ask to believe so easily and in so lively a manner that the Eucharist is Jesus in person, that it may draw you towards Him, and that His presence may impress you and excite in you the same feelings you would have if you were to see the Saviour in His crib, upon Thabor, or on the cross. 
   
 実行 聖堂内にはいったならばすぐに聖ひつに向かって『御身は生ける天主の御子キリストなり』と唱えながら主を拝もう。 Practice. As soon as you enter a church, salute Jesus in the tabernacle in these words; "Thou art Christ, the Son of the living God!" 

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今日、2020年7月1 日は、七月の初水曜日(月の初めての水曜日)です 聖ヨゼフ!我らのために祈り給え

2020年07月01日 | カトリックとは

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日、2020年7月1 日は、七月の初水曜日(月の初めての水曜日)です。
初水曜日に「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想することをご提案します。


聖ヨゼフはこの世で天主イエズス様と浄配なる聖母マリア様を最も良く知り、愛された御方であり、その隠れた徳ゆえに偉大なる御方、イエズス様とマリア様の最大の命の恩人であられました。

また、聖ヨゼフは、この世では、全てを天主の栄光のために、隠れてその生涯をささげられたが故に、天にて聖母の次に最大の栄光をあたえられていらっしゃいます。

聖伝では、水曜日は聖ヨゼフに捧げられた曜日であり、月の最初の水曜日を聖ヨゼフに捧げることで、聖ヨゼフを讃え、その御取次に信頼し、その御徳に倣って、聖ヨゼフを通して、天主イエズス様とマリア様をお愛しすることができますように。

初土曜日の「聖母の汚れ無き御心」への信心にならって、この「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」のどれかを「15分間黙想」することにいたしましょう。

聖ヨゼフの帯の信心については、下記リンクをごらんください。
聖ヨゼフの帯 cingulum Sancti Joseph

聖ヨゼフの御取次ぎにより、聖母の汚れ無き御心とイエズスの至聖なる聖心ヘの愛をますます与えてくださいますように!
聖ヨゼフの御取次ぎにより豊かな祝福がありますように!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖ヨゼフの7つの苦しみと喜び

1 ああいと潔き御母マリアの浄配、栄えある聖ヨゼフよ、御身のいと清き妻を失なわんと心に思い煩いし時の苦しみはいと大いなるものなりき。
されど天使が御託身の玄義を御身に伝えられし時の喜びは、またひとしお大いなりき。この苦しみ、この喜びにより、今も臨終の時も我らの心を潔き良心の喜びと、イエズス、マリアのうちに自我を滅する尊き御身の心を示し、我らを慰め給え。



2 ああいと幸いなる保護者聖ヨゼフよ、御身は人となり給いし御言葉の潔き養父の位にあげられたれども、御身は幼きイエズスがいと貧しき中に生まれ給うを見て大いに悲しみ給いしが、
天使らのたえなる歌声を聴き、その輝ける夜の栄えを見給うや、その悲しみは天的の喜びと変じたり。御身のこの悲しみ、この喜びによりて、我らもまたこの世の歩みを終えたる後、天使らの賛美の歌声を聴き、天的光栄の輝きを受け得んことを願い奉る。



3 ああ御摂理にいと従順なしもべなる、栄えある聖ヨゼフよ、幼きイエズスが割礼にて流されたる尊き御血は御身の心を苦痛もて貫きたれども、
イエズスと命名されるや御身の心は喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らをこの世の悪徳より離れしめ、イエズスのいと尊き御名を心から唱えつつ心満たされてこの世を去るを得しめ給え。



4 ああいと忠誠なる聖ヨゼフよ、御身は救世の玄義の成就に身をもって大いなる役を果たされしが、シメオンの預言によりイエズスとマリアが受け給うべき苦難を予知せられ苦しみ給いたれど、
数限りなき人々の霊魂がこれによって救わるるとの預言によりて、天的喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らがイエズスの功徳と聖母マリアの御取次ぎにより、終わりなき栄えを得てよみがえる人々のうちに数えられる御恵みをとりなし給わんことを願い奉る。



5 ああ人となり給いし天主の御子のいとも注意深き保護者なる栄えある聖ヨゼフよ、御身はいと高きものの御子を養い給い、これに仕えるために多くの辛酸をなめられたり。わけてもそのエジプトへの逃避はいと苦しきものなりしが、
御身が常に天主御自身と共におられし喜び、またエジプト人らの諸々の偶像が地に落とされしを目の当たりに見られし時の安心はいと大いなりき。この御身の辛酸と喜びとによりて、我らが地獄的暴君より免れて、わけても危険なる機会より逃避する事を得しめ、我らの心のうちに地上的執着が落とされ、ひたすらイエズスとマリアに仕え奉りつつ日々の生活を送り、この世を幸いに終わる事を得しめ給え。



6 ああこの地上の天使なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の心を天の王に全く捧げられたり。御身がエジプトより戻られる喜びは、アルケラウスに対する憂慮にて不安の闇となりしが、
天使は再び御身にイエズスとマリアと共にナザレトにて楽しく住み給う事を約束せられたり。御身のこの苦しみ、この喜びによりて、我らの心を深い恐怖より免れしめ、潔き良心の平和を楽しみ、イエズスとマリアと共につつがなく世を送り、臨終においてはイエズスとマリアの御手に我らの霊魂を捧ぐる事を得しめ給え。



7 ああ全ての徳の鑑なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の誤りにあらずして幼きイエズスを見失い、三日の間苦しみもて捜し求められたり。
されど神殿の中に博士らに取り巻かれたるイエズスを見出されし時の喜びはいかに大いなりや。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らが大罪を犯しイエズスを失いたりせば、たゆまず彼を捜し求め、遂に再び巡り会えるよう、わけても臨終の時に彼と共にありて天国に至り、御身と共に天主の終わりなき御恵みを賛美し奉るようとりなし給わんことを心から願い奉る。



交唱 イエズスが教えをはじめたりしは三十歳ごろなり、人々、イエズスをヨゼフの子なりと思いたり。(ルカ3:23)

V 聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え。
R キリストの御約束に我らをかなわしめ給え。

祈願 天主、御身のかしこき御摂理のうちに祝せられたヨゼフを至聖なるマリアの浄配に選び給いたれば、願わくはこの世の我らの保護者として崇め奉る彼が、我らの天のとりなし手となり給わんことを。 アーメン。

参考リンク
サンタフェ~奇跡の階段 コラレス通り1丁目 この記事に昔の階段の様子の写真があります。

聖ヨゼフの階段(アメリカのニューメキシコ、サンタ・フェにあるロレット・チャペル)



英語ではこちら。
THE SEVEN DOLOURS AND SEVEN JOYS.

i. St. Joseph, pure spouse of most holy Mary, the trouble and anguish of thy heart were great, when, being in sore perplexity, thou wast minded to put away thy stainless spouse: but this joy was inexpressible when the archangel revealed to thee the high mystery of the Incarnation.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee comfort our souls now and in their last pains with the consolation of a well-spent life, and a holy death like unto thine own, with Jesus and Mary at our side.
Pater, Ave, and Gloria.

ii. St. Joseph, Blessed Patriarch, chosen to the office of Father of the Word made Man, the pain was keen that thou didst feel when thou didst see the Infant Jesus born in abject poverty; but thy pain was changed into heavenly joy when thou didst hear the harmony of angel-choirs, and behold the glory of that night when Jesus was born.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee obtain for us, that, when the journey of our life is ended, we too may pass to that blessed land where we shall hear the angel-chants, and rejoice in the bright light of heavenly glory.
Pater, Ave, and Gloria.

iii. St. Joseph, who wast ever most obedient in executing the law of God, thy heart was pierced with pain when the Precious Blood of the Infant Saviour was shed at His Circumcision; but with the Name of Jesus new life and heavenly joy returned to thee.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, being freed in our life from every vice, we too may cheerfully die, with the sweet Name of Jesus in our hearts and on our lips.
Pater, Ave, and Gloria.

iv. St. Joseph, faithful Saint, who wast admitted to take part in the redemption of man; the prophecy of Simeon foretelling the sufferings of Jesus and Mary caused thee a pang like that of death; but at the same time his prediction of the salvation and glorious resurrection of innumerable souls filled thee with a blessed joy.
By this thy sorrow and thy joy, help us with thy prayers to be of the number of those who, by the merits of Jesus and his Virgin Mother, shall be partakers of the resurrection to glory.
Pater, Ave, and Gloria.

v. St. Joseph, watchful Guardian, friend of the Incarnate Son of God, truly thou didst greatly toil to nurture and to serve the Son of the Most High, especially in the flight thou madest with Him unto Egypt; yet didst thou rejoice to have God Himself always with thee, and to see the overthrow of the idols of Egypt.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us grace to keep far out of the reach of the enemy of our souls, by quitting all dangerous occasions, that so no idol of earthly affection may any longer occupy a place in our hearts, but that, being entirely devoted to the service of Jesus and Mary, we may live and die for them alone.
Pater, Ave, and Gloria.

vi. St. Joseph, angel on earth, who didst so wonder to see the King of heaven obedient to thy bidding, the consolation thou hadst at His return was disturbed by the fear of Archelaus, but nevertheless, being reassured by the angel, thou didst go back and dwell happily at Nazareth, in the company of Jesus and of Mary.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, having our hearts freed from idle fears, we may enjoy the peace of a tranquil conscience, dwelling safely with Jesus and Mary, and dying at last between them.
Pater, Ave, and Gloria.

vii. St. Joseph, example of all holy living, when, though without blame, thou didst lose Jesus, the Holy Child, thou didst search for Him for three long days in great sorrow, until with joy unspeakable thou didst find him, who was as thy life to thee, amidst the doctors in this Temple.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee with our whole heart so to interpose always in our behalf, that we may never lose Jesus by mortal sin; and if (which God avert) we are at any time so wretched as to do so, that we pray thee to aid us to seek Him with such ceaseless sorrow until we find Him, particularly in the hour of our death, that we may pass from this life to enjoy Him for ever in heaven, there to sing with thee His divine mercies without end.
Pater, Ave, and Gloria.

Ant. Jesus Himself was about thirty years old, being, as was supposed, the son of Joseph.

V. Pray for us, holy Joseph.
R. That we may be made worthy of the promises of Christ.

Let us pray.
O God, who in Thine ineffable providence didst vouchsafe to choose blessed Joseph to be the husband of Thy most holy Mother; grant, we beseech Thee, that we may have him for our intercessor in heaven, whom on earth we venerate as our holy protector. Who livest and reignest world without end. Amen.

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【聖体の黙想】聖体は慈悲深い天主である

2020年06月30日 | カトリックとは
テニエール神父著『聖体の黙想』 (1953年) (Révérend Père Albert Tesnière (1847-1909))より

天主である聖体

聖体は慈悲深い天主である

 礼拝 聖体のいともやさしく、いとも近づきやすい被(おお)いの下に在す恐るべき天主を礼拝しよう。特に、天主の神聖なご性質の中で私たちだけをその目的、その理由とするようにみえる天主の御慈悲を礼拝しよう。天主の御慈悲は、御自らの正義に打ち勝たれた天主の愛であり、あらゆる徳において無限に完全な天主のすべての完徳のかしらであり、冠である。聖書には『主のあらゆるみわざの上に主の慈悲あり』とある。
天主の御慈悲は、天主が罪人を見逃しになる忍耐であり、確かに行なおうとされる天主の正義のご命令を妨げる力であり、あるいは万物を見通しになる天主が、見えぬようにと罪の上に投げかけられる被いであるといえるであろう。またそれは、ほとんど浪費であるかのように人々に賜物と恩恵とをお分かちになる愛のみわざ、最も巧みに、最も気長に罪人の改心の機会と手段とをおつくりになる天主の摂理である。そしてまたそれは、罪をその根本から滅ぼし、その汚れを洗い清めて雪のようにし、罪人が失った天国の宝を彼に取り戻し、永福の権利を再び彼に与え、最後の審判の日においても彼の罪悪が思い出されないようにしてくださる御恵みである。
負債を赦し、汚れを清め、罪をお忘れになる天主の御慈悲は、ただ天主にだけ属する大いなる権能である。それは、天主が他の何ものにも依存せず、他の何ものよりも束縛されず、また欲したもうままに万事を処理なさることがおできになるからである。
ああ拝すべき完徳よ、天主の御慈悲はなんと尊く好ましく頼もしいものであろうか。この完徳こそ私たちにとって唯一の救かりの希望であり、唯一の宝である。もし私たちが永遠に生きることができるとするなら、全く天主のこの御徳によると言わなければならない。それは私たちが仰いでいる天主のみ姿である。天使の天主がいとも聖なる天主でおいでになるなら、私たちの天主はいとも慈悲深い天主にて在すのである。
天主の御慈悲を、恩恵を与え罪の赦しをお分かちになる玉座の上において礼拝しよう。聖体とは何か。聖体とは、地上に続けられる贖罪であって、罪人の改心をいつまでもお待ちになる忍耐であり、和睦の接吻であり、罪の赦しの証印であり、子たる喜びと平和と名誉とが、放蕩息子に回復される祝宴ではなかろうか。聖体の被いは忍耐、柔和、同情、憐れみの被いではなかろうか。天主の御慈悲を、そのいとも慈悲深い表現のもとに礼拝しよう。

感謝 感謝はここでは礼拝とほとんどひとつになってしまう。なぜなら私たちは、天主の御慈悲を眺め、研究し、礼拝するとき、心の底から幸福と喜びと感謝との念があふれ出るのを抑えることができないからである。
注意して聖体の中にあらわれる天主の御慈悲を研究しよう。救い主はかつて自分に従ってくる群衆を見て、荒野の中で彼らのためにパンを増やし『われ、もし彼らを空腹にて帰さば、おそらくは道にて死なん』と仰せになった。主はこれと同じように、まず第一に憐れみ深い心づかいをもって私たちのために聖体をお定めになった。
次に聖体は十字架上の贖罪の実を確実に私たちに与えるものである。そのためにだけ主は聖体の秘蹟を十字架上の犠牲の絶え間ない繰り返しとされて、私たちが必要に応じていつでもこれを利用できるものとされたのである。
さらに聖体は告解の秘蹟に始まる罪の赦しを私たちのために完成する。すなわち、聖体は罪によって生じた霊魂の傷を癒し、その名残りを滅ぼすだけでなく、腐敗した天性の源泉を乾かし、罪の最も隠れた種子をも根絶するのである。
それだけではない。聖体は罪人の立ち帰りをたやすくし、罪の赦しを飾るものである。それで罪人は告解の秘蹟の法廷から出てくるや、義人とともに天使のパンを食し、救い主の御血で洗い清められた霊魂の中にお臨みになる天主を礼拝することができるのである。彼は痛悔の苦しいわざを終えて、今もまだ自分の赦しの真偽を疑いためらいながらいるのに、さきの恐ろしい審判者はおいでになって平和の接吻を彼に与え、『わが子は失われたるに、また、見出だされたり。われなるぞ、恐るるなかれ、われは世の罪を除く天主の小羊なり』とささやかれるのである。
あなたは、かつて祭壇の前で、天主の御慈悲を感じて流した涙を忘れてはならない。たとえば、あなたの初聖体の前にした総告解の日、あるいは天主を離れて過ごした幾年かのあとに天主があなたをその御もとに導いて戻されるその日、または少しずつの不熱心や怠惰、恩恵に対する不忠実などによってだんだん大罪の谷底に陥ったあとに天主があなたをもう一度その谷間から逃れさせてくださったその日、すべてこれらの時に、あなたがした聖体拝領を思い出そう。そうすればたやすく聖体の無限の御慈悲に対して感謝の賛美を捧げることができるであろう。

償い 聖体の中にかくも明らかに、かくも恵み豊かに、かくも自分を犠牲として存在されている天主の御慈悲を軽蔑する者の罪の重さと、その罰の恐ろしさとは、どれほどであろう。私たちによって無視され、無益になった天主の御慈悲、私たちの恩知らずの心に触れることができなくて、虚しく天に戻られた天主の御慈悲は、ついに、どんな恐ろしい罰と変わるであろうか。
天主の正義の御腕を支え留めていた御慈悲が、現世とともに過去のものとなってしまったならば、天主の正義はどれほど激しい御力をおあらわしになるかわからない。天主の御怒りは長い間、御慈悲の下に埋(うず)まっていた。それが突然に爆発する恐ろしさはどうであろうか。天主の御慈悲が忍耐深いだけに、それだけこれをふくしゅうする天主の正義が厳しいということを忘れてはならない。あなたが、のちに天主の正義のふくしゅうの鞭(むち)の下に落ちないように、急いで、憐れみ深い天父の御慈悲のもとに来なければならない。

祈願 不幸にして罪を犯すことがあっても、決して天主の御慈悲に対する信頼を失うまいと決心し、その恩恵を求めよう。どんなにあなたの罪が多く大きく、また繰り返して犯されたとしても、慈悲深い聖体の秘蹟の前に祈ってその赦しを請い、またすぐに告解の秘蹟を受けに行く力を願うようにしよう。絶対的になおすことのできない唯一の罪というのは、天主の御慈悲について失望することだけである。
また、天主の御慈悲に対する感謝のために、あなたは兄弟たちに対して、心と言葉と行ないとをもって慈悲深くなければならない。

実行 あなたが聖体の秘蹟の中においでになるイエズスの御慈悲に対して、いつも大いなる信頼をもつことを、人々にも知らせよう。



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【聖体の顕示に関する黙想】 聖体降福式は仲介者イエズス・キリストに捧げる賛美である

2020年06月29日 | カトリックとは
聖体の顕示に関する黙想

聖体降福式は仲介者イエズス・キリストに捧げる賛美である

礼拝 祭壇上の私たちの大司祭、仲介者、弁護者なるイエズス・キリストを礼拝しよう。聖体降福式は、まことにこれらの重要なご職務を執行される主のみ姿を明らかに私たちに示す聖式である。
聖書を黙想しながら、今、天地の間にあげられる聖体が、いかに完全にこのあわれみのご職務を満たしてくださるかを感嘆しよう。
聖パウロは、主がメルキセデクのように天父に選ばれて永遠の大司祭となり、天主の幕屋の中に自ら入り、人々の罪のために犠牲と供え物とを捧げて天主の御あわれみと慈しみとを願ってくださること、またこの唯一の仲介者イエズス・キリストのみ、天主と私たちとの間、すなわち審判者と罪人との間の深い淵を渡ることがおできになることを教えている。
また、聖ヨハネは、私たちが義者イエズス・キリストを全能の弁護者としてもっているから、たとえ罪を犯す不幸に陥ったとしても決して失望してはならないと教えている。
絶え間なく天主と人との間に立って私たちのために祈られる、この拝すべき大司祭の御仲介と御執り成しとの御効力は、まことに無量である。
聖体降福式は以上の事実をはっきり示し、キリストは、ここに永遠の大司祭のたえなる御姿をもって、すべての信者の眼前に聖櫃の中からお出ましになるのである。それまでは主の存在は、ほのかなランプの光、ひと張りのカーテンによって示されるだけであった。ところが今、主は無数の光に囲まれ、燦爛(さんらん)たる聖体顕示器の輝きのうちに、いと高き玉座におのぼりになるのである。
使徒たちは復活された主のご肉身、御手足、御脇腹の傷をはっきり見た。主は今日もこれらの傷を御父に示されて、その求められるところのものが、すでに御血をもってあがなわれ、その代償をお支払いになったことを力説されるのである。
だから、聖体降福式の玉座の上における天主なる仲介者、力強い弁護者を、その御祈りと御執り成しとのみわざのうちに礼拝しよう。

感謝  聖体降福式をこのように理解することは、私たちの信仰をふるい起こし、熱心な礼拝を行なわせ、また、私たちの心を燃やし、感謝の念を盛んにさせるためにも非常に有益である。聖パウロやヘブレオ書の中で、私たちの大司祭がいかにあわれみ深く、いかに私たちに同情されるかを、感謝をもって語っている。私たちもまた大いなる信頼と感謝とをもって主のもとに急がなければならない。『われらが有せる大司祭は、われらの弱点をいたわりえたまわざる者にあらずして、罪を除くほか、万事においてわれらと同じく試みられたまえる者なり。ゆえに、われらは慈悲をこうむらんため、また、適切なる助けとなるべき恩恵を見出ださんために、はばかりなく恩恵の玉座に至りたてまつるべし』と。このように、主は種々の試練に悩み、かずかずの罪に陥る私たちをお助けになるために、ご自分から試みられ、すすんで多くの苦しみを受けられたのである。
まことに、主が私たちの弱さに深く同情され、罪人に対するあわれみに富んでおられるのは、主ご自身の御苦しみの経験によるのである。主はご自分の過去を思い起こされるとき、今日、人性の苦悩を忍んでいる私たちのために、同情の念の油然と湧き出るのを制したもうことができない。しかも主が聖体の秘蹟の中にとどまり、私たちと一緒にこの涙の谷をたどられるのは、なおいっそう御身の過去を思い起こし、かつての経験をよみがえらせ、私たちの重荷をおわかちになるためにほかならない。ああイエズスよ、信じられないまでに善良なみあるじよ。

償い 礼拝すべき仲介者のあわれみ深い不断の御執り成しは、最も力強い助けであり、それとともに私たちに極めて重大な祈禱の義務をも課すものである。
私たちはすでに被造物として、またさらにキリスト信者として祈禱の義務がある。私たちは自分の貧しさと無力とを告白して、天主の大能と恩恵により頼まなければならない。これは日常の義務、規則正しくなすべき本質的義務で、決して、不幸、艱難(かんなん)の場合だけに限られるものではない。祈りの怠慢は、天主に対する義務の不履行であるばかりでなく、私たち自身の救霊に関する不熱心を示しているのである。そのうえ、この義務は、私たちの大司祭なるイエズスが、聖櫃の中から、または顕示台の上から、絶えず公の祈りを御父に捧げておられる事実によって、なおいっそう重大なものとなる。
多くの犠牲を伴っている主の不断の御祈りは、あらゆる意味で、あなたが受けなければならない審判の標準となる。主がこれほどまでにお祈りになるなら、あなたはどれほど熱心に祈らなければならないことであろうか。
『われ、ひねもすわが民に腕(かいな)をさし伸べしも、彼らはわれを見ず、われを捨てたり。』これはユデア民族に対しての天主の非痛なお嘆きであり、お叱りである。ホスチアの中においでになる慈愛深い大司祭の御口から、これと同じ寂しいお叫びが漏れている。私たちは主の御言葉に感激して、祈禱の義務を十分に果たすよう心がけなければならない。

祈願 主に祈りの恩恵を願い、主のみ前で必要な決心を作るのに今は最もふさわしい瞬間である。なぜなら、聖体中の大司祭が今、大いなる光栄のうちに公の仲介の任務を尽くされながら、聖会の上に新しい祈りの霊を豊かにくだしておられるからである。この霊を受け、すべての祈りの機会をとらえよう。特に、聖体礼拝の時間を利用して、全能な仲介者のみ前で、主とともに、また主によって、あなたの祈りの義務を遂行しよう。また恩恵の玉座のみ前に出て、許しと助力とを請い求めよう。

実行 聖体降福式に与るため、どんな犠牲も惜しまないようにしよう。主は百倍の報いを与えてくださるだろう。



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【聖体の黙想】聖体の礼拝は最も有効な祈りである

2020年06月28日 | カトリックとは
テニエール神父著『聖体の黙想』 (1953年) (Révérend Père Albert Tesnière (1847-1909))より

聖体礼拝の理由

聖体の礼拝は最も有効な祈りである

 礼拝 尊敬と愛とをもって、秘蹟のおおいの下にまことにおいでになる救い主イエズス・キリストを礼拝しよう。主は教会の名において天父に祈り、またそのご生涯のすべての御功徳、ご受難ご死去の時の御苦しみをこれとともに捧げて、祈りの効果をさらに有力にしてくださる。
イエズス・キリストは全世界のために祈り、また取り次ぎをしてくださる最高の大司祭である。主は地上で、ご生涯の間、特に十字架上でこのみわざを始められ、今もなお、これを天国または聖体の中で継続される。主の御祈りは無限の価値を有し、主の天主性、主の望徳、ご受難の無限の御功徳、および天父の無限の愛に支えられるから、必ず天父の聞き入れられるものとなるのである。
在天の仲介者、至聖なる大司祭であるイエズスを礼拝しよう。主はあなたのために天主の正義に赦しを願い、天主の慈愛に平和を願い、天主の寛仁(かんにん)に豊かなる賜物を願われる。主に一致し、主に寄り頼み、主とともに祈り、あなたの心の中で、天地の間、すなわちあなたと天主との間に、主を高くささげて、大いなる信仰と謙遜とをもって次のように言おう。『天にましますわが父よ、御身の愛したまえる御子をみそなわして、わが不義と忘恩とを忘れたまえ。御身のすべての喜びと楽しみであるキリストに御まなざしをめぐらしたまえ。彼の聖徳、彼の大功徳、御身の聖名の光栄のためには死をすらも辞したまわざりし彼の無限の愛を思い出したまえ。至聖なる天主よ、いかに彼が御身のみ前にへりくだりたまいしかをみそなわしたまえ。恐るべき正義よ、彼の御手、御足、御脇腹の大いなる傷口を眺めたまえ』と。
私たちの祈りが、このようにイエズスの御祈りと合わせられ、主の聖名と、主の御功徳によって、いわば主のみ手から天父に捧げられるとき、それは最も有力で最も効果ある祈りとなるのである。

感謝 主が聖体のおおいに隠れ、私たちのために取り次ぎをしようとして、ここにおいでになるのは、私たちの祈りを助け、これを支え、これを励まされるためである。だから、この秘蹟の中における天主なる大司祭の祈りに対する私たちの信頼は、無限でなければならない。
最大の感謝をもって主に感謝しよう。この秘蹟は、信頼をもって主に祈るすべての人々になさった主の御約束の保証である。最後の晩餐の時、使徒たちに愛の秘蹟をお授けになった直後はじめてなさった、あの愛にあふれた偉大な主の御約束の言葉を聖櫃のみ前で黙想しよう。
『なんじらは天主を信ずればわれをも信ぜよ。なんじら父のわれにましまし、わが父のうちにあることを信ぜざるか。まことにわれ、なんじらに告ぐ、すべてわが名において父に願うことはわれこれをなさん。そはわが父はその御子において光栄を受けたもうべければなり。なんじらわが名においていかなることを願わんとも、われ必ずこれをなすべし。』
『われはぶどうの木にしてなんじらは枝なり。わがうちにとどまり、わがそのうちにとどまる者は多くの実を結ぶ。われなくして、なんじら何ごともなすあたわざればなり。もしなんじらわれにとどまり、わが言葉なんじらのうちにとどまらば、なんじの欲するところは、われこれをなさん。』
『われ、もはやなんじらをわがしもべと呼ばずしてわが友と呼ぶ。そはわが父より受けしものは、ことごとく、われ、なんじらに与えたればなり。われこそなんじらを選べり。そはなんじらが多くの実を結ばんためなり。すべてなんじらがわが名において父に請うところのものは、父なんじらに与えたまわん。』
『われ去るがゆえに悲しみなんじらの心に満てり。されどわれは、なんじらをみなし子として残さじ。われ、帰り来たらんとき、なんじらの心喜ぶべく、しかしてなんぴとも、なんじらの喜びを奪い去る者なし。まことにまことに、われなんじらに告ぐ、なんじら、わが名によりてわが父に願うところは、何ごとにてもあれ、なんじらにこれを与えたまわん。今までは、なんじらわが名において何ごとをも願わざりしも、願え、さらば与えられん。かくてなんじらの喜びは全かるべし。』
私たちの祈りを聞き入れてくださるという、以上の御約束は、最後の晩餐の直後になされ、最初の聖体の授与によって保証されたことを、今いちど思い出そう。私たちが今礼拝しつつある聖体は、最後の晩餐の賜物を世の終わりに至るまで継続し、イエズス・キリストによって祈る者には、なんぴとにもこの御約束が守られることを示すものである。
それでは、愛の秘蹟のみ名によってささげられる祈りに無限の信頼をおこう。天父は聖体のみ名によって祈る者になにも拒まれない。それは聖体がイエズスご自身であって、絶えずその御役目を果たされる仲介者にほかならないからである。

償い もしも、聖体の秘蹟における仲介者によって捧げられる祈りが、それほど有力ならば、私たちが、彼によって彼とともに祈ることの少ないのは、いかに大いなる損失であろう。
地獄に落ちた者が最も残念に思うのは、彼らがこのような有力なたすかりの手段をもっていたにもかかわらず、永遠の不幸を逃れるためにこれを用いなかったということである。
私たちもまた臨終の時、この完全な祈りの取り次ぎの力を無視したことを後悔するのではなかろうか。臨終まで待つ必要はない。私たちに必要な一切の助けを得るため、聖体の秘蹟がこのように有力であることを知りつつ、これを無視していたことを、今心から嘆こうではないか。
私たちは盲目で、 私たちの中においでになる御者を知らないでいる。 これは、真実である。私たちは、主の愛、主のご親切、主の聖心のあたたかさ、私たちの友情を求めておられる主のお心持、主の御力、天父に対する主のご権利、絶えることのない主の御祈りなど少しも知らずにいるのではなかろうか。私たちはこの無知を償い、これからは主によって、主において、主とともに祈るよう努めよう。

祈願 聖体の偉大な御力にふさわしい、堅固な生きた信仰を与えられるよう祈ろう。熱心な信仰によって主が何者にましますか、また何ごとをなしえたもうかを知ることは、一切の賜物にまさる最大の祝福である。しかし私たちには、聖体が、無限の愛の全体であり、無上の能力の全体であり、天主のご慈愛の全体であること、また、人とおなりになった天主が、その人性と天主性との全能力を尽くして私たちを天国に導くために私たちに仕え、私たちを助けるすべての恩恵の与え主でいらっしゃることを知り尽くすことはとうていできない。
ああ主よ、御身の愛の秘蹟に対する私の信仰を強めたまえ。

実行 常に聖体の秘蹟中における大司祭なる仲介者の前で、主とともに、また、主の聖名によって祈ることを学ぼう。






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【聖体の黙想】聖体は摂理の天主である

2020年06月27日 | カトリックとは
テニエール神父著『聖体の黙想』 (1953年) (Révérend Père Albert Tesnière (1847-1909))より

天主である聖体

聖体は摂理の天主である

 礼拝 聖櫃の沈黙のうちに、無感覚の眠りに沈んでおられるようにみえる天主と、その尊い摂理とを礼拝しよう。イエズスは聖体の中から、あなたの必要を満たし、やさしく賢明に、無数の障害をおかしてあなたを永遠の目的地に導いてくださるのである。
聖なるホスチアは、ただ天主の摂理の御知恵と愛とを最もよくあらわしているだけではない。それはいとも尊い摂理それ自身である。なぜなら、それはまことに天主ご自身であられるからである。摂理とは、天主がご自分でお造りになったすべてのものをお保ちになる御徳である。いや、それだけではない。天主がその全能をあらわして、前もって永遠の御知恵をもってお定めになった目的に、一切のものを誤りのないよう導いてくださる方法のすべてであって、創造の際に、お示しになった愛の継続である。だから摂理は天主の御愛と御力と御知恵から成立する。すなわち、御愛はすべてのものにその目的、すなわち最上の完成を与え、御知恵はすべてのものがこの目的に達するために歩まなければならない道を定め、これに必要な手段を彼らのために選び、御力は彼らのおのおのを天主の目的を妨げるすべての危険から守り、何ものも抵抗することのできない力をもって、あらゆるものを目的にまで導くところのものである。
私たちは、自然界においても超自然界においても、万事について、またあらゆるできごとに際して、この全能なる摂理に頼らなければならない。私たちは自由をもつ被造物である。だが天主から独立することはできない。私たちは、私たちが望まなくても、摂理によって導かれ、支配される。だから、もしも私たちが、摂理に協力するなら、私たちは天主のお定めになった幸福な目的に進むことができて、どんな妨げも私たちを阻止しないし、どんな過失も私たちに重大な損害を与えることをしない。なぜなら摂理は私たちの敗北も勝利と変えるすべを知り、私たちの弱さをもって大事を成就することをわきまえ、死の中から生命をお造りになることもできるからである。
しかしながら、もしもこれに反して、摂理の御導きに抵抗するなら、第一にこの抵抗は罪である。もとより一時の間は、摂理はその知っておられる深い理由によって、私たちの抵抗をお許しになることもある。しかし私たちは抵抗しながらもやはり摂理の下にある。天主はそのみわざを行なわれるにあたって、なんぴとの助力も要されない。その時、私たちは、ちょうど苦しい軛(くびき)の下におかれた謀反の奴隷のようなもので、早くても遅くても、この地上においてか、または死後においてか、必ず天主の正義に裁かれ、その報いを受けなければならないのである。聖体のおおいの彼方に隠れておいでになる天主の摂理を礼拝しよう。
従順な道具のようにその御導きを尊び、躊躇しないでその御勧めに従おう。

感謝 天主が万物を創造されたときにもっておられた目的は、天主のご生命とその無限の完徳との幾分かを、ご自分以外のものに分け与えることであった。そして摂理は、前に述べてあるように、天主の愛と、ご好意とに基づいて、天主のこのご計画を実現し、それを完成するものである。『ああ父よ、万物を治むるものはなんじの摂理なり。』との勤勉で注意深い摂理の愛が、いかにうまく聖体の秘蹟のうちにあらわれていることであろう。子どもも老人も、尊い人も卑しい人も、万人みな聖体のご保護を受け、そのおかげを受けないものはひとりもない。聖体の住んでおいでになる聖櫃は、地球上のあらゆる場所にある天主の望樓である。天主はそこからすべての人々を眺め、彼らを守ってくださる。なお、聖体は天主が慈母のような心づかいをもって、敬虔な人々のために用意された食卓であることはいうまでもなく、もしも子どものひとりでも病の床に横たわっているなら、主はすぐにそのそばに来て彼を慰め、必要の際には永遠の国に旅立つための伴侶となってくださるのである。
ああ、もし私たちが、どれほど天主に見守られているかを知っていたなら、また、聖体の白いおおいの下から、戦いの世界に住んでいる私たちを、いかに注意深く、大いなる愛をもって、天主の摂理が守りたもうかを知っていたなら、私たちはどれほどの信頼を天主にもつことであろうか。

償い だから天主の摂理を公に否定する人々の罪悪はどれほど大きいことだろう。また、たとえこれを否定しなくて少しも摂理に依頼しないで暮らす人々は、なんという不幸な誤りの中にいることであろうか。天主の大いなるみわざを見ながら、これをなしとげられる全能のみ手を見ず、宇宙の中に存在する微妙な秩序を前にして天主の御知恵を拒み、または万事が天主の慈愛と寛仁とを示すにもかかわらず、天主の愛を知らないとは、なんという恐ろしい盲目であろうか。
けれども天主の摂理をあなどって、天主のみ前において人間の絶対的独立自由を主張する大胆な冒瀆者は決して少なくない。また世の中には、たくさんの無頓着者がいる。彼らは必要の中にあっても祈ることをしないで、また、助けが必要な時にも人間の手にこれを求めるばかりである。これらはみな摂理に対しての罪である。
これらの罪は、天主の摂理が聖体をそのお住まいとしてお定めになったことによっていっそう大きくなるのである。聖体の中には、私たちの救済に必要な一切が含まれ、生きた摂理がおいでになるから、必要において、また必要の程度に応じて、聖体を訪問しない者、聖体に祈らない者、聖体を礼拝しない者は、みな天主の摂理にそむく者である。これによって彼らの困難は、ますますその度を加え、彼らの力はますます衰えて、ついに飢饉のために倒れるであろう。しかも彼らの苦しみには弁解の余地がない。なぜなら、彼らは愚かな誇りによって、天父の摂理が無尽蔵の愛をもってお与えになる食物と助力とを拒んだからである。
摂理に対するこのような罪が、どれほど多く行なわれているかということを考え、できるだけの熱心をもってこれに対する償いをしなければならない。

祈願 最善の償いは、あなたが天主の摂理の御導きのもとに生き、そのご計画を実現し、その教えられるあらゆる方法、お示しになるすべての道について、最も従順にこれに従い、どこでも、どんな事がらに関しても、これを認め、これを礼拝することを決心して、この決心を忠実に守ることである。

実行 毎日摂理を尊敬し、これに従うことを約束し、このために聖体拝領に際して、そのつど自分自身を新たに天主に捧げよう。




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【聖体の黙想】聖体の礼拝は、いともたやすく最も楽しい祈りである

2020年06月26日 | カトリックとは
テニエール神父著『聖体の黙想』 (1953年) (Révérend Père Albert Tesnière (1847-1909))より

聖体礼拝の理由

聖体の礼拝は、いともたやすく最も楽しい祈りである

 礼拝 あなたに間近く、あなたの眼前においでになる祭壇上の主イエズス・キリストを礼拝しよう。あなたが努力をしないで、容易に楽しく祈らせようとして、あなたのそば近くにおいでになる慈愛にあふれる天主を礼拝しよう。
祈りは、私たちが聖徳に進んで確実に天国の幸福を得るために必要で欠くことのできないものである。しかし、もし天主がこの世においでになり、聖体の秘蹟によって私たちの目を見えるものとされなかったなら、私たちは信頼と愛と忍耐とをもって、ふさわしく祈ることは、かなり困難であったにちがいない。けれども幸いに、主は聖堂を祈りの家とされたから、そこにはいれば、私たちは主のここにおいでになることを感じて自然に祈ることができるのである。ことに祭壇に近づいて、聖櫃のみ前に出ると、私たちは、その中にとどまっておられる御者の気配を感じて、祈りをやめようとしても祈らなければならなくなる。
この祝福、この恩恵、自然にあふれ出るこの熱情は、いうまでもなくイエズスの賜物である。このためにこそ主は私たちに近づいて、私たちのために卑しい姿をおとりになった。もしこのことがなければ、自分の虚無と卑賤とをわきまえ知るなんぴとか、あえて至聖なる天主の御稜威のみ前に進み出ることができよう。
だから、あなたの祈りを聞き入れるために、あなたに近づかれたホスチアの中の愛すべき天主を礼拝しよう。
しかしながら主は、まだこれで十分と思われず、さらに天主と人間との仲介者として、また祈りの大司祭の資格をもって聖体の中にとどまられ、万人の名において祈り、万人のために天父の御怒りを和らげて罪の赦しをお願いになる。聖体が私たちの祈りをたやすくする第二の理由はこれである。私たちは罪によって、天主にふさわしくない反逆者となって、天主の怒りと憎しみと復讐とに価する者となった。刑罰を受けなければならない罪人だと知るとき、私たちは、どうして天主の祝福をあえて願うことができようか。しかし、イエズスは罪人のために祈り、御血とご受難の際の苦痛とを天父に捧げてくださる。だから私たちがこの全能なる仲介者の背後に隠れ、主の御功徳を利用して折るならば、私たちの罪悪を忘れて私たちの祈りを受け取ってくださるのである。
ああ愛すべき慈悲に富んだ聖なる秘蹟よ。私たちを天主の御もとに導いて、私たちのためにその御憐れみをたれたもう御者よ。私は心の底から御身に感謝し、御身を礼拝し、無限の信頼をもって御身に祈りたてまつる。

感謝 私たちは安心して、祝福と喜びとに満ちたこの秘蹟を賛美しよう。この秘蹟によって、私たちは地上のどこにも、またどんな日にも、慈悲と柔和の限りない救い主をもっている。主は恵みを施し、私たちを癒し、救い、慰め、照らし、赦すためにのみ、私たちのもとに来たもうた。
その昔、ユダとガリレアとの地で、病人、不具者、その他ありとあらゆる不幸な人々が、主に従い、主に願って、必ずその求める賜物を得ることができたように、私たちもまた主をもち、主に願うことができる。
主の清い御まなこは、悲しみのうちにある者らの上にいつも同情深く注がれ、主の御耳は、罪人の叫びを聞き、主の聖心は、彼らに対する憐れみに鼓動した。その同じ主を私たちは今、所有している。
主は一度も祈りを拒むことがおできにならなかった。主は自ら自分が医者であり、よきサマリア人であり、友であり、幼児の父であるとおっしゃった。その同じ主を今、所有しているのである。
その昔、ユデアの国を巡られたように、主は今日、聖体の中に隠れて、荒涼とした地上にさすらいの旅を重ね、恵みと情けとの聖役を続けられている。
主は私たちの間に実在を続け、(ちょうど私たちにとって最も有利な状態のもとに)私たちの祈りを促される。これについて、私たちはどれほど主に感謝しなければならないだろうか。主のホスチアは、どこにあっても『われに来たれ、われなんじを慰めん、そはわれは心柔和にして謙遜なればなり』と言っておいでになるのである。

償い イエズス・キリストが、聖体の秘蹟によって祈りをこのようにたやすくしてくださった以上、私たちが主に祈らず、必要に際して主の御助けを願わず、主を少しも信頼しなかったなら、それが主にとってどれほどの苦痛であり、辱めであるか、あらためて説く必要もない。
恩を知らないエルサレムは、主を信じようとせず生命の御言葉を聞こうとも思わない。せっかく主がもたらされた救いをも受けなかった。主はこれを見て、いかに激しくお悲しみになったことか。今では、主が地球上のすべての地点においでになるにもかかわらず、人々は歓楽を追い、黄金を求めて主を忘れ、主にそむいているのである。あなたはこの聖体の中から『われ終日慈悲のかいなを伸ばせども、わが民はわれにそむき、われを受け入るることを拒めり』との御嘆きの声の聞こえるのに気がつかないのか。
主は使徒たちに『求めよ。わが名によりて祈れ。今までなんじらはわが名によりて求むること知らざりしも、求めよ、さらば与えられん』と仰せになった。これは主がすべての人々に対して仰せになったお叱りの言葉である。主の友と自称する私たちもまた、十分な信頼をもって主に祈ろうとせず、主の御力と、愛と、私たちに恵んでくださろうとする主のお望みとを信じようとしない。
ああ、聖体の秘蹟によって、私たちのために祈りをかくもやさしくしてくださった救い主なる天主に、もっと多く信頼し、もっとたびたび祈り、これによって必要な償いをしよう。

祈願 深い信頼の念をもって、祈りの恩恵を熱心に願おう。私たちが祈りの大切なことを悟り、祈りの中に、まことの平和と幸福とを発見できるのも、全く天主の恩恵によるからである。
旧約時代において、天主は預言者に『彼らの上に祈りの霊を注がん』と仰せになった。この祈禱の霊は、おもにイエズスの永遠の祈り、秘蹟なる聖体によって与えられる。私たちが聖櫃の前に出るとき、特に顕示された聖体のみ前にひれ伏すとき、私たちは自然に神聖で甘美な感情に満たされ、それが私たちを自然に出る祈りへと導く。また聖体拝領の時に、私たちの心は自然にイエズスを思い、イエズスと一致して、主は私たちの中でお祈りになり、私たちはまた主において祈るようになる。これらはすべて祈りのあらわれである。
だから、私たちは毎日聖体を訪問し、できるなら毎日聖体を拝領し、そこで他の一切にまさる賜物、すなわち信頼と愛とをもって祈禱する恩恵を請い受けなければならない。

実行 よく祈るために、たびたび聖体のみ前に出ることを決心しよう。









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【聖体の黙想】聖体はわがしもべである

2020年06月25日 | カトリックとは
テニエール神父著『聖体の黙想』 (1953年) (Révérend Père Albert Tesnière (1847-1909))より

人である聖体

聖体はわがしもべである

 礼拝 『わがしもべを見よ』。天父のこのお言葉は、イエズス・キリストの他のみ名を示すものである。私たちはこのみ名を拝し、このみ名の中に愛と憐れみとの他の証拠を発見する。昔はしもべとはむしろ奴隷の意味であった。主イエズスは天父のみ前においてご自分を奴隷のようにみなしておいでになり、また、私たちに対してもこのようにふるまわれたのである。
聖パウロの証言によると『天主と並ぶことを盗みと思いたまわざる主は、へりくだりて奴隷のかたちをとり』たもうたのである。 しかしこのため、すなわち天父と人々との目に奴隷のようになられるためには、主はアダムの罪によって堕落したありさまの人間の性をおとりになればそれで足りた。なぜなら、人が、天主の富を受け継ぐ天主の子として天主の恩恵に浴していたあいだは、彼の霊魂は天主に服し、彼の肉体は霊魂に服して、そこに麗しい調和があったが、罪に汚され天主の家を追い出されてからは、天主はもう人間を子とみなされず、ただ、そむいた奴隷として、なんらの報酬をも約されないで苦役に従うことを命じられたからである。
天主の御ひとり子のおいでになったのは、このような状態においてであった。彼は人となって、苦しみと死と、その他一切の天主の正義の懲罰を受ける者として、絶対的君主である天主のみ前に、その全生涯と全存在とを少しも余さないで捧げるところの従順な奴隷となられたのである。
イエズスは奴隷であることを示すために、旧約の預言者の口を借りて『なんじはわが耳を貫きたまえり』と仰せになった。ローマ人のもとで、奴隷は耳を貫いて輪をはめ、これに紐(ひも)を通していた。これは彼が主人の僅少の命令にも従順であることをあらわす象徴であった。
主は、ご幼少の時から三十才に至るまで、大工小屋で労働に従事された。その御手は材木を運び、大工道具を使用するために荒れて、醜いたこができていた。
また、そのご教訓と奇跡とをもって、人類の無知と傷とを癒されたあとにも、主は裾を端折り前掛けを掛け、御腕をまくり、たらいに水を汲み、人々の前にひざまずいて彼らの足を洗われた。人々、すなわち奴隷のうちに最も卑しいもの、奴隷の家に生まれて自分の罪によって最も低く堕落したもの、それが主の主人たちであった。『人の子は仕えられるためならずして、仕えんために来たれり』とは、この時における主の御言葉である。
次に主は、食卓において弟子たちに給仕された。主は、かつて、そのご教訓と汗と祝福と功徳とを、彼らをはじめすべての人々に与えられたが、今度はさらに進んで、主ご自身を人類にお与えくださった。しかも、奴隷が主人の意のままに物品のように取り扱われ、どんな待遇にも甘んじるように、天主の御子、永遠の大王は、御身を聖体と化して、これを全く私たちの手に委ねられたのである。
ああ、わが魂よ、この奥義を理解するよう努め、これを驚嘆しよう。沈黙し、礼拝し、この奥義の中に没入しよう。光栄の大王が奴隷となられたのは、私たちを恥じさせ、私たちに自分の虚無を悟らせるためである。

感謝 大能の天主の奇跡は不可思議であるとともに、常に諧調に富んでいて、一見非常に矛盾するように、また最も普遍的な観念、最も確実な法則と衝突するようにみえるときにも、甘美な魅力を有して、いとも愛すべきものとなる。イエズスが人々の奴隷となられたというその驚くべきへりくだりも、同様に愛と柔和と親切と同情との空気に包まれて、そのために私たちは驚嘆するよりも、むしろおのずから感謝の念に打たれるのである。
『終わりまで愛したまえり』と福音書にあるように、主のこの最後の御へりくだりも、またその絶大な愛から出るものであった。このように主は、私たちが愛と感謝とをもって、主のご奉仕を受け入れることをお望みになる。ちょうどヤコブがおとめラケルの愛を得ようとして、その父ラバンに仕えたように、主は私たちを愛し、私たちの霊魂を望まれるあまり、私たちに仕えられるのである。主はまたこのご模範によって、天主と隣人とに対しての私たちの奉仕を、主と同様に愛によって任意的になされるものとし、必要に際しては英雄的犠牲行為にまで至らせようとお望みになるのである。主はこのために、特に聖体の秘蹟に数多い愛すべき奉仕の特徴を与えられた。
ホスチアの中にいらっしゃる忠実で愛すべきしもべを見よう。彼は昼夜をわかたずそこにとどまり、常に謙遜で尊敬の態度を失わず、貧しい衣を着して、沈黙を守り、常に注意深く、常に準備をととのえ、熱心に私たちの命令を待ち、決してこれにそむかれず、また、躊躇されない。彼はすべての主人に仕えられる。よい者もいれば悪い者もおり、親切な者も残酷な者もいる。まことに十人十色のあるじであるのに、主は同じくその命に服され、同じく彼らに献身的に仕え、よき者の仕事を助け、あしき者のためには祈りと償いとをもってその改心をお待ちになる。主は、柔和で同情に富み、善意にあふれ、私たちに仕えるのを喜んで、私たちのしもべであることを最大の幸福となさっていることを、その御言葉から、またそのご態度から私たちに感じさせてくださる。
ああ、聖体の中にいらっしゃる愛すべきしもべよ、人々から主の聖心が理解され、賛美と愛とをお受けになられるように。

償い 主のご模範をみるとき、天主のご命令にそむくことが、いかに傲慢で憎まねばならないものであるかがわかるであろう。主の謙遜で英雄的な服従と比べるとき、私たちの傲慢と不従順とが、どんなに大きな罪であるかが明らかになる。人は天主に対し『われはなんじに仕えじ』との傲慢無礼な冒瀆の言葉を発して、その罰として悪魔という最も残忍な主人の奴隷とされた。主はこれに反して『父よ、われはなんじのしもべなり、みよ、なんじのおぼしめしをなさんがために来たれり』と仰せになった。この対照に注意しよう。イエズスの従順は、私たちの傲慢と不従順とをいっそう明白にし、私たちの刑罰をいっそう重くするものである。
しかしまた同時に、聖体の中において万人の奴隷となられるイエズスのご模範は、私たちが兄弟に仕え、彼らの多くの欠点を忍ぶために、いかに大いなる教訓であろうか。
すべてのホスチアの上には次の文字が書かれている。『なんじらはわれを師または主と呼ぶ、そのいうことやよし、われはそれなればなり。しかるに主たり師たるわれにしてなんじらの足を洗いたれば、なんじらもまた互いに足を洗わざるべからず』と。
これは非常に大切な糾明の一点である。私たちは自分のわざを反省して、これを改めるとともに、天主に赦しを願い、必要な償いをしなければならない。

祈願 聖体において、私たちのしもべ、奴隷とさえおなりになる救い主であるキリストに、いとも忠実に仕える決心をして、主に必要な恩恵を願おう。主を使役するのはよい。しかしあなたもまた主に仕えなければならない。主はこれに価し、これを待ち望んでおられる。主があなたにお仕えになるように、あなたもまた主にお仕えして、奉仕に報いるに奉仕をもってしよう。少なくとも絶えず主を眺め、主を愛する者は、いかに奉仕するかを学ぼう。

実行 絶えず聖体中においでになる主であり天主である御者に自分を捧げ、今日なすわざ、また忍ばなければならない苦痛を、主への奉仕のために用いる決心をしよう。





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【聖体の黙想】聖体は私の兄弟である

2020年06月24日 | カトリックとは
テニエール神父著『聖体の黙想』 (1953年) (Révérend Père Albert Tesnière (1847-1909))より

人である聖体

聖体は私の兄弟である

 礼拝 私たちは聖体の中にいらっしゃる私たちの兄弟であるイエズスを堅固な信仰をもって礼拝し、深い感謝の念をもって敬わなければならない。愛と、やさしさと、熱心とに満ちたイエズスは、私たちと結ばれた兄弟の契りを永遠につなごうとして、今ここに聖体の中においでになるからである。
私たちは真心から、イエズスが私の兄弟であることを信じているだろうか。天主の御ひとり子が、その被造物の兄弟となるまでにへりくだられたことを信じているだろうか。被造物である人間が、創造主の兄弟とされるまでに高められたということを、まことに信じているだろうか。ああ、しかし、それはまことにそうであったのである。
聖アウグスチヌスは次のようにいった。『彼こそは造られざる御父の御胸の中に永遠から永遠においでになる天主の御ひとり子であった。ところが私たちの兄弟となるために、私たちと同じ被造物の性を受け、御母の胎内を過ぎて、天からおくだりになったのである』と。
このようにして、ひとつのペルソナのうちに人性は天主性と合わされ、天主の御子は人の子となられた。それゆえ天主の御子は、人として同じ性、同じ血を有している多くの兄弟をもたれるに至ったのである。天主の御ひとり子は人類の兄となられた。すべての人、人である以外には主と共通するものを何ひとつ持たない者でも、主の弟とされたのである。そればかりではない。主はご自身がおとりになった同じ人性をもっている私たちに、ある意味でその天主性をも分け与えて、私たちを天主の子らとし、なお完全にご自身の弟とされた。これによって、私たちは主と人性を同じくするばかりでなく、主と同じ天主の生命にあずかって、天国の家督をいっしょにする身分となった。聖書に『天主は予知したまえる人々を御子の姿にあやからしめんと予定したまえり。これ御子が多くの兄弟のうちに長子たらんためなり』とあるのはこのことである。
だから私たちとイエズス・キリストとの兄弟的関係は、人性と恩恵とのふたつの基礎の上に建てられている。すなわち主が私たちからとられた人性と、私たちに与えられる天主性とのふたつ、言いかえるなら主がおいでになって私たちとお分かちになったこの朽ちるはずの生命と、現世においては恩恵をもって、天国においては光栄をもって私たちを飾られる天主の生命とのふたつによって、 との兄弟的関係が成り立つ。 そしてこの関係は、聖体によって継続され、保証される。すなわち、よみがえられたイエズスは、私たちと同じご肉身と御血、人としてのご霊魂と、また人であるすべての性とを聖体の中に有しておられ、聖体によって天主の性を私たちに与え、これを保護し、これを養われるのである。
私たちは、私たちの最上の光栄、最大の幸福である、このように真実で尊い兄弟の契りを結ばれた主に深く感謝しながら申しあげよう。『イエズスよ、天主の御言葉、いと高き者の御ひとり子、わが天主なるイエズスよ、主の光栄は限りない。これに反して私たちは、いともあさましく虚無であるのに、御身は私たちの兄とおなりになった。主は聖であって、私たちは罪人なのに、御身と私たちとは同じ肉体をもつことになった。私たちは天において御身と同じ父をもち、地においてもまた同じ母をもつ光栄を与えられた。ああ、わが兄よ、わが骨肉よ』と。

感謝 主の信じがたいほどの御いつくしみ、私たちを兄弟としてくださる最も真実で、偽りない愛を考えよう。なんのために主は私たちの兄弟となられたのか。それは義となさる主と、義とされるであろう私たちとが、同一の聖徳を分けるためではないだろうか。まさにこのためにだけ、主は私たちのひとりとなって私たちを兄弟と呼ぶことをいとわれなかったのである。主は兄弟の名にふさわしくなるため、また、聖パウロもいったように、私たちの弱点をいたわるために、『罪を除くのほか、万事において、私たちと同じく試みられる者』となられたのである。
実に、主のご生涯を見るなら、どれほどそれが私たちの生涯と同一であったかがわかるであろう。主は私たちの貧しい家、粗末な食物、困難な労働をお分かちになった。主は飢えと渇きと暑さと寒さをお感じになった。さらに特別に私たちの試練と艱難、すなわち憎悪、讒言(ざんげん)、迫害、憂い、恐怖、疲労などをも知り、いろいろな心の苦悩、たとえば忘恩、背信、遺棄、別離の悲しみなども経験された。またそのご肉身に加えられた暴力については、主の受けられた無法な打擲(ちょうちゃく)、非道な取り扱いのありさまは、かつて人間が受けたことがないほどのものであったといっても言い過ぎではない。
光栄のうちにおいでになる今日でも、主はなお私たちの兄弟であることをお望みになる。主は私たちがこれをよく理解するために、復活のあと、御墓に行った婦人たちに、すぐに、『行きてわが兄弟たちに告げよ』とおっしゃった。そして聖体の秘蹟をもってこの荒涼たる地上に戻られたのである。主は弱く、貧しく、無力にして、反対を受け、讒言(ざんげん)され、迫害され、裏切られ、捨てられ、冒瀆されながら、どこにおいても私たちのひとりとして存在を続けられる。
実に、主は私たちの兄弟、私たちのひとりである。主は兄として私たちを導き、私たちを保護し、私たちを助け、天のふるさとと、そこにおいでになる私たちの天父とを私たちに語られる。そして、懐かしい天国にはいる日まで、主の御家、すなわち教会は、主とともに私たちを宿し、主の食卓はまた同時に私たちの食卓でもあって、私たちが主とともに分けるパンは、主が最後の晩餐にあたってまず最初に食されたパンである。
これ以上に真実な、親密な、そしてまた幸福な兄弟の生活が他にあるであろうか。私たちは聖櫃の中においでになる主を兄弟として愛し、聖体拝領によって主を求め、主と一致するようにしよう。

償い イエズスが兄弟たちに売られたのは、ただしるしとしての旧約のヨゼフの物語としてだけでなく、実に悲しむべき現実であった。
だれが主を銀三十枚で売りたてまつったのか。それは主と同じ屋根の下に眠り、食卓を共ともにし、一緒に親しく生活して主に兄弟と呼ばれた者のひとりではなかっただろうか。だれが主を今日聖体の秘蹟において、あるいは自分の卑しい欲情に、あるいは憎むべき冒瀆者の手に裏切っているのか。ああ主の食卓に列し、平和の接吻を主になし、ともにパンを裂きながら、アベルよりも正しく、ヨゼフよりも罪のない主の御血を悪魔にわたす偽兄弟は、いったいなんぴとであろうか。
これらすべての憎むべき背信の行ないが今も行なわれていることを思い、兄弟としての愛とまこととを主に示して、尊い兄弟の悩む聖心をお慰めしよう。

祈願 肉身の兄弟に対すると同じような真実、熱心、献身的な愛をもって隣人を愛することができるよう、愛徳の賜物を主にこいねがおう。そのためには、犠牲をいとわず、謙遜、親切でなければならない。イエズスは聖体の秘蹟の中で、どのようにあなたに対されるだろうか。『わがなんじらを愛するごとく、なんじら互いに相愛せんことを。これわが命なり』とおっしゃったのは、主が聖体を定められたときのことであった。だから聖体拝領に際して、特に隣人に対する愛徳の賜物を求めなければならない。
 
実行 互いに熱心に祈ろう。特に目下の者のために。



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【再掲】洗者聖ヨハネの賛歌 Ut queant laxis resonare fibris

2020年06月24日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

6月24日は洗者聖ヨハネの祝日です。そこで、聖ヨハネの祝日に聖務日課で歌う有名な Ut queant laxis resonare fibris という賛歌にまつわるお話をご紹介します。

Ut queant laxis resonare fibris という賛歌の翻訳をご紹介します。

ラテン語

Ut queant laxis resonare fibris
mira gestorum famuli tuorum,
solve polluti labii reatum,
Sancte Iohannes.

このラテン語に一番正確なフランス語の訳は次の通りです。

« Afin que les serviteurs (de Dieu) puissent clamer à pleine voix les merveilles de tes actions, ôte l'erreur de leurs lèvres impures, saint Jean. »

インターネットで見つける訳では、本当は、gestorum tuorum (あなたの行為(複数)の)という意味なのに、リズムの関係で famuli tuorum となっていることに引きずられてか、famuli tui (あなとのしもべたち)という意味で訳したもののコピペが氾濫しています。

洗者聖ヨハネには、しもべたちがおらず、これは天主のしもべたちが、あなた(つまり洗者聖ヨハネ)の驚くべき生涯を歌うことができるようにして下さい、という意味なのです。そのところをこのフランス語はちゃんと理解しています。

英語で凝った訳として、ラテン語のリズムを生かして訳した次のものあります。

Let thine example, Holy John, remind us
Ere we can meetly sing thy deeds of wonder,
Hearts must be chastened, and the bonds that bind us
Broken asunder.

あるいは、

O for thy Spirit, Holy John, to chasten,
Lips sin-polluted, fettered tongues to loosen,
So by thy children might thy deeds of wonder
Meetly be chaunted

ベネディクト会のシスターであった Cecile Gertken, OSB (1902-2001) は次のように、ド・レ・ミという音を生かして訳しました。英語では Do が「ド」ではなく「ドゥ」ですけれど。

Do let our voices
resonate most purely,
miracles telling,
far greater than many;
so let our tongues be
lavish in your praises,
Saint John the Baptist.

日本語では、次のような意味になります。

しもべらがゆるやかな声帯で
御身の驚くべき行為を歌い響かせ得るように
けがれた唇の罪を赦したまえ
聖ヨハネよ。



韓国語の訳は次の通りです。

세례자 요한이여 들어주소서
위대한 당신업적 기묘하오니
목소리 가다듬어 찬양하도록
때묻은 우리입술 씻어주소서

中国語では、次のようです。

神的僕人以誠摯的歌聲
讚美令人驚嘆的神蹟,
以除去他們言語間的罪惡,
啊!聖若翰我們讚美你。

==2016年12月19日追記==

洗者聖ヨハネと使徒聖ヨハネ、の「ヨハネ」は、日本語では同じですが、中国語では(そして韓国語でも伝統的に)、別人だということを区別させるために、別の言葉で訳します。

天主教(カトリック教会)では、中国語訳(汉譯)として、
洗者聖ヨハネを「圣若翰洗者」と「若翰」とし、
福音史家使徒聖ヨハネを「约翰」として訳し分けています。

プロテスタント(新教)では、どちらも「约翰」とされているようです。

韓国語では、現代伝わるカトリックの教えは中国語経由で導入されたので、当時の漢字の韓国語読みを採用し、洗者聖ヨハネと使徒聖ヨハネとでは「ハン」に当たる漢字が別に当てられていたために、

洗礼者聖ヨハネを、요안
使徒聖ヨハネは 요왕
と訳し分けていました。

天主様の祝福が豊かにありますように!

==追記終わり==


では、日本語をもう一度ご紹介します。
聖務日課では、晩課、朝課、讃課の三回に分けて歌います。

【晩課】

Ut queant laxis resonare fibris しもべらがゆるやかな声帯で
mira gestorum famuli tuorum, 御身の驚くべき行為を響かせることが出来るよう
solve polluti labii reatum, けがれた唇の罪を赦したまえ
Sancte Iohannes. 聖ヨハネよ。

Nuntius celso veniens Olympo 高き天より御使いが来たりて
te patri magnum fore nasciturum, 偉大なる御身が生まれることを
nomen et vitae seriem gerendae 御身の名とその一連の生涯を
ordine promit. 正しく御身の父に預言する。

Ille promissi dubius superni 父は天からの預言を疑い
perdidit promptae modulos loquelae, 意のままに話す力を失った
sed reformasti genitus peremptae しかし御身は生まれると
organa vocis. 失われた声の喉を直した。

Ventris obstruso positus cubili 御身は閉ざされし母胎にあるとき
senseras regem thalamo manentem; 寝室にいる王を察知した
hinc parens nati meritis uterque ここから両の親は子供の功徳により
abdita pandit. 秘密のことを明らかにする。

【朝課】

Antra deserti teneris sub annis 御身は少年のとき民の喧騒を避けて
civium turmas fugiens petisti, 荒野の洞穴におもむいた
ne levi saltem maculare vitam 軽薄な会話でその生きざまを
famine posses. せめて汚すことがないように。

Praebuit hirtum tegimen camelus 駱駝が剛毛の衣服を、羊が腰紐を
artubus sacris, strophium bidentes, 聖なる体に与えた
cui latex haustum, sociata pastum 飲物は水であり食物は
mella locustis. 蜂蜜といなごであった

Ceteri tantum cecinere vatum 他の予言者達が予感の心で告げたのは
corde praesago iubar adfuturum, ただの光の到来にすぎなかった
tu quidem mundi scelus auferentem ところが御身は世の罪を取り除くお方を
indice prodis. 指を指して明らかにした。

Non fuit vasti spatium per orbis 広き世界の中でもヨハネに以上に
sanctior quisquam genitus Iohanne, 聖なる人が生まれたことはない
qui nefas saecli meruit lavantem 彼は世の罪を洗い清めるお方を
tingere lymphis. 水で濡らすを許された。

【讃課】

O nimis felix meritique celsi, ああ余りにも幸福で高き功徳の人
nesciens labem nivei pudoris, 白い純潔の汚れ知らず
praepotens martyr eremique cultor, いとも力ある殉教者にして隠遁の信奉者
maxime vatum! 最大の予言者!

Serta ter denis alios coronant 三十の果実をつけた冠が、他の人達を飾り
aucta crementis, duplicata quosdam, 別の人達をその倍の果実の冠が飾る
trina centeno cumulata fructu ところが聖者よ御身を飾るのは
te, sacer, ornant. 三百の果実を盛った冠なのだ

Nunc potens nostri meritis opimis 最善の功徳もて力ある御身は今こそ
pectoris duros lapides repelle, われらの胸の堅き石を除きたまえ
asperum planans iter et reflexos 起伏多き道をならし
dirige calles, 曲がれる小道を伸ばしたまえ

Ut pius mundi sator et redemptor 世の優しき救い主かつ贖い主が
mentibus pulsa livione puris 邪念の去った清い人々の心に
rite dignetur veniens sacratos 正しく聖なる足取りを置いて
ponere gressus. かたじけなくも来給わんことを。

Laudibus cives celebrant superni 天の住民は御身を称賛し奉る
te, Deus simplex pariterque trine, 一にして三位なる天主よ、
supplices ac nos veniam precamur, われらもまた伏して許しを願い奉る
parce redemptis.  贖われた者たちを容赦し給え。

Sit decus Patri genitaeque Proli 聖父および生まれし聖子に
et tibi, compar utriusque virtus, 聖父と聖子との等しく両者の力なる聖霊よ御身にも、
Spiritus semper, Deus unus, omni 唯一の天主よ、常に栄光あれ
temporis aevo. いつの世にも

Amen.アーメン

韓国語の訳もご紹介します。

세레자 요한이여 들어주소서
위대한 당신업적 기묘하오니
목소리 가다듬어 찬양하도록
때묻은 우리입술 씻어주소서

저높은 하늘에서 내려온사신
위대한 주님탄생 알려주시고
이름과 생애까지 일러주시며
낱낱이 아버지께 예고하였네

그약속 의심했던 당신아버지
그즉시 언어능력 잃으셨으나
당신이 이세상에 태어나시자
잃었던 목소리를 돌려받았네

어머니 모태속에 숨어계실때
태중의 임금님을 알아보시니
양친도 당신덕에 눈이밝아져
놀랍게 숨은사실 드러내셨네

드높은 하늘나라 시민들이여
하느님 삼위일체 찬미하여라
저희도 겸손되이 용서비오니
저희죄 사하시고 구원하소서

높은덕 빛나시는 세례자요한
죄없이 눈과같이 깨끗하시네
사막의 은수자요 크신예언자
용감한 순교자로 복되시도다

꽃으로 곱게꾸민 빛나는화관
성인들 머리위에 올려지나니
어떤이 이중화관 받아쓰지만
당신은 삼중화관 받아쓰셨네

무수한 공로세운 능하신이여
저희의 굳은마음 녹여주시고
함한길 고르시어 평탄케하사
굽어진 오솔길도 곧게하소서

만물을 지어내신 우리구세주
마음의 어지러움 물리치시고
깨끗한 저희마음 찾아오시어
거룩한 당신거처 마련하시리

드높은 하늘나라 시민들이여
하느님 삼위일체 찬미하여라
저희도 겸손되이 용서비오니
저희죄 사하시고 구원하소서

아멘.








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テニエール神父著『聖体の黙想』 聖体降福式に対する義務

2020年06月23日 | カトリックとは

 

テニエール神父著『聖体の黙想』 (1953年) (Révérend Père Albert Tesnière (1847-1909))より THE ADORATION OF THE BLESSED SACRAMENT by Father Albert Tesnière
聖体の顕示に関する黙想 The Exposition of the Most Holy Sacrament
   
聖体降福式に対する義務 XIL Our Duties in Regard to the Exposition of the Most Blessed Sacrament. 
   
 礼拝 I. Adoration. 
   
 天上における諸天使、諸聖人、地上における母なる教会とともに、愛の玉座の上に座したもう最上の主を礼拝しよう。どこでも、主のおいでになるところ、主の光栄の表にあらわれるところには、主の側からは豊かな恩恵、私たちの側からは重大な義務が存在する。 Adore your Lord and your King upon the throne of His love, in union with the angels in heaven, and with holy Church upon earth. In all places where He manifests His presence and His glory, He imposes duties at the same time that He sheds down blessings. 
   
主は天上では、ご自分を少しも隠すことなく示される。すなわち、天主性と人性、すべての恩恵と御稜威(みいつ)、完徳と功徳とがあるがままにあらわれ、天使と聖人とは主のみ前にふさわしい礼拝をささげ、そのご期待にそうのである。 In heaven, where He is in the full and perfect manifestation of all that He is, where He is seen not only in His holy, glorified humanity, but revealing the treasures of graces, of virtues, of merit, of the dignity of His august person, in heaven where He is seen, where all that He is, is acknowledged by all the angels and saints, who render Him that exterior and interior homage which His humanity and His divinity merit, the worship accorded Him fully equals His expectations. 
   
天上の礼拝のありさまを想像しよう。天軍の絶え間ない賛美の調べと偉観とは、誰も言葉に言いあらわすことができない。彼らは、あるいは立ち、こうべをあげて主を仰ぎ、あるいはひざまずいてそのおもてをおおう。地上に伏して礼拝する者もあり、自分の冠を玉座の前に投げている者もいる。あるいは黄金の香炉をゆり動かし、あるいは歌い、あるいは黙している者もいる。しかし、この時の沈黙は言葉と同じく礼拝なのである。玉座にいて微動もしない者もあれば、小羊のあとに従って進む者もいる。 It is all homage, rendered in perfect harmony, with unfailing perpetuity, and astonishing abundance; splendor which no one can estimate; glorious praise, canticles, songs, acclamations. They are standing, they are contemplating, their heads are raised; they are on their knees, and they are veiling their faces; they prostrate themselves with their foreheads in the dust; they cast their crowns at the foot of the throne, they wave their golden censers; they speak, they are silent, and their silence is adoration as well as their speech; they stand motionless around the throne, and they march triumphantly in the train of the conquering Lamb; lastly, from their soul, their heart and their whole interior being, filled with light, with love, with divine strength, issue without ceasing, all that perfect homage which the elect can offer to their divine King. 
   
彼らの霊魂と心、いや、彼らのすべてが、光と愛と力とに満ち満ちて、かの完全な賛美をなすのである。 Such is the glorious adoration of heaven : angels and saints give themselves up to it without reserve; all the duties of the creature towards the King of glory are accomplished by them in the utmost perfection. 
   
地上においても、恩恵の玉座の上にまします主は、私たちから同じ礼拝を期待される。いうまでもなく、たとえ恩恵を保有していたとしても、私たちは、主のお望みになるような完全な礼拝を捧げることができない。 The same King, upon His throne of grace, claims those duties in which we are instructed by holy Church. The earth, even when filled with grace, is certainly very powerless to honor the ever-present God, as He desires, but the religion of grace will one day be completed by that of glory, and God will have received, from His redeemed creature, all that He desires to receive. 
   
しかし、せめて典礼儀式に関する教会の規則を守り、その精神に従って、祭壇の上においでになる憐れみの主に向かい、礼拝の義務の最善を尽くさなければならない。 Meanwhile it is in following the rules of the Church with regard to her religious ceremonies, it is by entering into the spirit of her councils, it is by aiming to reach perfection, for the purpose of honoring and worshipping the royal Spouse, that we may accomplish the duties of a Christian towards the King of grace exposed on our altars. 
   
だから、聖会とともに主の教えられる一切の真理を信じ、聖会とともに献身的で忠実な愛を持とう。また聖会の典礼を尊重し、聖式に際して尊敬を失わないようにしよう。すなわち怠慢、無頓着は、いうまでもなく不敬の極みであるが、世俗的な音楽、悪趣味な電気装飾なども、また同様に不敬である。 Adore then, with the faith of the Church, believing firmly, explicitly and lovingly. Adore with her love and her generosity, that of a perfect bride, heroically devoted to her Spouse; follow strictly her liturgy, in order to adore in union with her. Give splendor, maintain reverence; take care that the praiseworthy desire of making a beautiful, dazzling, imposing display, does not make you lose sight of the awful majesty, the adorable holiness, the august and holy attributes of Him whom you adore. Negligence constitutes a shameful irreverence; worldly pomp, theatrical or profane music, illuminations such as are used in worldly festivals, constitute another. 
   
だから聖体降福式は荘厳で典礼的で、敬虔と信心とに満ちたものでなければならない。目に深い印象を与えるとともに、心に感激を起こさせるようなものであることを必要とする。 Let the worship of the exposition be royal; let it remain liturgical; let it be of great solemnity; let it excite much interior religion in souls; let the eyes be impressed; but above all, let hearts be given. 
   
感謝  II. Thanksgiving. 
   
教会の精神を重んじて典礼を守り、規則に忠実なることは、至聖なる聖体の秘跡を尊敬することであるとともに、この聖式に参列する人々に、最も有益な効果を与えずにはおかないのである。 Besides, in this fidelity in following the rubrics of the Church, in entering into her spirit in everything that she ordains, and in fulfilling her counsels in so far as is possible to us, the worship of the exposition will produce all the fruits of her teaching in our souls. 
   
この時、聖式のために犠牲と労苦とを少しも厭(いと)わなかった人々は、主がそれらを喜んで受け取られた徽(しるし)として、彼らの心に注ぎ入れられるまことの深い喜悦を味わうであろう。また、この聖式に忠実な教会は、モイゼがイスラエルの民に与えた賛辞を自分のものとして誇ることができるであろう。『なんじらは主なるわれらの天主に命じたまいしごとく、わがなんじらに掟と律法とを教えたることを知れり。これを守り、これを実行せよ。これぞ諸国の前におけるなんじらの知恵と悟りなる。彼らはこれらの掟を聞きて「賢くして理解に富みし大いなる国民よ」というべし。われらの天主のごとく、その神々を近くに有する民は他にあらざるなり』と。 It is then that all those who have consecrated to it their cares and their labors will enjoy the real pleasure which the divine Master infuses in souls when He is pleased with His children. It is then that we shall merit the eulogium, traced by Moses for the people of God, and which is so great an honor for a parish, an association or a town: "You know that I have taught you statutes and justices as the Lord my God hath commanded me. . . , And you shall observe and fulfil them in work. For this is your wisdom, and understanding in the sight of nations, that hearing all these precepts they may say, Behold a wise and understanding people, a great nation. Neither is there any other nation so great that hath gods so nigh them as our God is present to all our petitions." (Deut. iv. 5-7.) 
   
償い  III. Reparation. 
   
聖体降福式は、愛の天主を敬い、聖櫃中においでになる救い主に対して人類の忘恩を償うための最上の方法であるが、しかし悲しいことに、この償いにもまた償いの必要があり、この聖式の日でさえも、主は数々の御苦しみを受けられるのである。 Although the exposition has solely as its object the honoring of the God of love, and although it is one of the best and most efficacious reparations which can be offered to Him for the ingratitude and the outrages committed against His beneficent presence in the tabernacle, it must nevertheless be sorrowfully stated that this very reparation itself requires reparation, and that it is necessary to weep over the negligence Christ suffers, even on the days of the most pious solemnities. 
   
その証拠に、主は聖体の大祝日の八日目、聖女マルガリタ・マリアにおあらわれになって、この祝日およびそれに引きつづいて行なわれる聖体降福式の間に受ける忘恩不敬を償うため、聖心を礼拝せよとお命じになった。 Our Lord appearing to Blessed Margaret Mary at the end of the octave of Corpus Christi, asked of her the worship of His heart as a compensation for the ingratitude, the irreverence, the outrages with which He had been afflicted during the days of His royal manifestation. 
   
だから、人々が不従順、もの惜しみ、無頓着などによって礼拝を怠った不敬に対し償いを捧げよう。聖体降福式の間には、深い沈黙と大いなる信心がいるにもかかわらず、たびたびこれに十分な注意がはらわれていない不敬に対して償いを捧げよう。聖体降福式に与ることを拒む者、または人前をはばかって、外面的にはこれに与り、また聖体を拝領するが、自分の霊魂をこれにふさわしく準備しない者の大不敬に対しても償いを捧げよう。 Make reparation then for irreverence committed in His divine worship, by disobedience, by parsimony, by negligence in maintaining an uninterrupted adoration before the throne; by the small degree of reverence shown by the faithful in the Church, the Holy Sacrament exposed requiring a more profound silence, a more perfect recollection; by the contempt of those who will not yield to the exhortations of pastors begging them to receive the King on His triumphal visit; by sacrilegious communions of some whom human respect perhaps has induced to celebrate the solemn adoration by receiving Christ's body and blood, and who have not had the courage to put their heart in unison with their outward show of religion. 
   
償いは必要である。主は光栄ある凱旋の日にも苦しみを受けられることが多いからである。イエズスのエルサレム入城の日に、群衆は狂喜し、喝采した。しかし、その陰に、主を罵(ののし)り、主に対してつぶやくファリザイ人がいた。同様に黄金の聖体顕示器も時として、主にとって恥辱の冠となり、四方に放射する光の中にも、尊いみ頭(かしら)を傷つける棘(とげ)が混じっていることがあるのである。 Oh yes! make reparation: for even His triumph is not devoid of pain for the divine King. As the Pharisees murmured and insulted Him in secret whilst the people were celebrating His triumphal entrance into Jerusalem, so now the golden crown of the monstrance is, for our King, a victim even in His glory here below, a crown of ignominy; and the rays which radiate from it enclose more than one thorn which pierce His adorable head. 
   
祈願  IV. Prayer. 
   
聖体降福式に関する教会の規定を守り、典礼の精神を尊重しよう。 Make the resolution always to observe, in so far as is possible, everything that is suggested by the holy Roman Church in regard to the worship of the exposition; never to do anything or assist in doing anything that you know is forbidden by her or contrary to her spirit. 
   
祈りと信心とによって、この聖式の普及をはかり、聖体による王国の拡張をはかろう。 Have in all your prayers, in the whole of your religious life, a fixed and invariable intention to pray for the extension of the reign of the King of the Eucharist by means of the worship of the exposition. 
   
実行  Practice. 
   
聖体に対する信心が常に聖会の祈り、また典礼と合致するよう努力しよう。 Endeavor in your devotion to the Blessed Sacrament to be more and more imbued with the sentiments and the formulas of prayer and of worship of the holy Roman Church. 

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