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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

2018年3月23日(金)  御受難の主日の後の金曜日のミサ 「聖母の七つの御悲しみ」

2018年03月31日 | お説教・霊的講話
2018年3月23日(金)御受難の主日の後の金曜日のミサ 「聖母の七つの御悲しみ」
小野田神父 説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。

今日は御受難の主日の後の金曜日のミサをしています。今日のこの御ミサの後で、もしも時間がある方は終課を唱える事に致しましょう。明日も朝10時30分からミサがあります。

それから来たる金曜日は来週の金曜日は聖金曜日で、20歳から59歳までの成年のカトリック信者は、大小斎を守る義務があります。4月1日は復活祭です。夕方の18時からここで復活祭のミサがあります。いらっしゃる事を歓迎致します。



聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日はあと1週間で聖金曜日です。そこで教会では、この金曜日を特別にマリア様の七つの御悲しみに捧げて、その記念を行っています。そこで今日は皆さんに少しだけ、マリア様の七つの御悲しみの事を黙想する事を提案します。

イエズス様が聖木曜日に、ゲッセマニの園にてお祈りをしていた時には、人類にとって最も真っ暗闇の時でした。満月で月は光々と輝いていたのですけれども、人々の心は非常に悪に染まっていました。なぜかというと、この世を創造した天主の御一人子が人となって、そして私たちに御自分自身を御聖体として与えようとした、愛の極みを、愛の秘跡を制定したその時に、人類はこの天主の御子、愛である天主御自身を、生命であるイエズス様を亡き者にしようと企んでいたからです。

ゲッセマニの園にてイエズス様はその悪を見て、これから受けようとする苦しみを思い、罪の邪悪さを思い、そしてこれから受けようとする苦しみが無益である、多くの人々にとって無益であるという事を知り、非常に苦しまれました。「私の霊魂は死ぬほどに苦しんでいる」と弟子たちに言います。

イエズス様のこの苦しみの極致は、カトリックの選ばれた霊魂たちに特別に啓示されました。聖女ゲルトルード、聖マルガリタ・マリア・アラコック、あるいはその他有名な選ばれた霊魂たちは、イエズス様のゲッセマニの園の苦しみの秘密を教えられています。マリア様もその例外ではなかったはずです。マリア様はたとえゲッセマニの園に、園のすぐ近くにいらっしゃらなかったとしても、イエズス様の苦しみとほぼ同じような苦しみを、特別の仕方で苦しまれたに違いありません。

そのうちに、マリア様がその苦しみと悲しみでおそらく血の涙を流しておられたようなほどの、悲しみの極致におられた時に、おそらくニュースを伝える夫人が、あるいは人たちがマリア様の所にやって来たかもしれません。

「マリア様、お母様!」コンコンコン。「夜分遅く失礼します。12人の弟子たちの内の一人が、私の元に泣きながらやって来ました。イエズス様が逮捕されたそうです。ユダが接吻をもって裏切りました。でもお母様、心配しないで下さい。イエズス様はいつも危ない時には自分の身を守ってきました。大丈夫です。イエズス様は身の潔白な方ですから、今回も大丈夫に違いありません。ご心配なさらないで下さい。今日はゆっくり休んで下さい。」「ありがとう。」

マリア様はこの夜が、イエズス様のおそらく最後の夜であるという事を感付いていたに違いありません。マリア様はどうしてゆっくりと眠っている事ができたでしょうか。マリア様は苦悩の内に、御子イエズス様の為に一緒に祈っていたに違いません。

真夜中に、おそらく泣きながら使徒ヨハネがマリア様の元に、コンコンコン、「お母様!」コンコン、「お母様、お母様!」「夜分遅くすみません、こんな真夜中にすみません。」「ヨハネや、どうしたのかい?」「イエズス様が、イエズス様が捕まっています。私は大司祭の元に行きました。アンナとカイファの元に後を付いて行きました。私はこの大司祭のしもべを知っているのです。ペトロも付いてきました。そしてイエズス様がその中で、夜中に裁判を受けました。残酷に拷問を受けられました。明日はどうもピラトの元に出頭されるかもしれません。大司祭たちがそんな事を話していました。お祈り下さい。」「はい。ありがとう。ヨハネ、さぁ休みなさい。私は少しお祈りします。」

マリア様はイエズス様の為に一生懸命お祈りなさったに違いありません。徹夜のお祈りをなされたに違いありません。夜が明けて日がまた昇り、うっすらと太陽が姿を現した時も、マリア様はずっとお祈りをしていたに違いありません。

ヨハネも朝になって起きてきました。「お母様、大丈夫ですか?」「ヨハネ、お祈りをしていたのです。」「お母様、お母様もお休み下さい。」「ヨハネ、ピラトの元に行きましょう。」「あぁ、行ってはいけません。悲しい思いをするだけです。ここにいらして下さい。」「ヨハネ、私は行かなければなりません。」「お母様が行くなら私も行きます。」

おそらくマリア様とヨハネは、朝ピラトの元に、イエズス様が一体どうなるかを近くでお祈りする為にいらしたに違いありません。すでに多くの人々でピラトの官邸はいっぱいでした。ユダヤ人たちがイエズス様を連行してピラトの元に死刑を求めていました。ピラトはそれを拒否しようとしますが、しかし何とかしてユダヤ人たちを宥めようと、政治的な取引きをしていきました。イエズス様を自分の元に引き寄せて、「お前はユダヤの王なのか?」などと色々な事を聞きます。

マリア様は他の群集たちと一緒に、その庭の近くで様子を見ていました。するとピラトはイエズス様をバルコニーの所から、ベランダから姿を連れ出したではないですか。「あれがイエズス様!?」

茨の冠を被せられて、鞭打たれて傷だらけになって、嘲笑のマントを着せられて、赤いマントを緋のマントを着せられて、嘲りの王様の姿をしているイエズス様を見せられて、「この人を見よ!“Ecce homo!”」ピラトはいけにえを見出します、“Ecce”マリア様も昔、御告げの時の、「我、主の婢女なり」と“Ecce ancilla”と言った言葉をきっと思い出したに違いありません。

すると周りの人たちが、「十字架に付けよ!」「十字架に付けよ!」

ピラトはどうしようかと困ります。バラバという極悪人を連れてきました。「さぁ、毎年過越の祭りには一人の人を開放する事が許されている習慣だ。君たちはどれを選ぶか。極悪人の殺人犯のバラバか?あるいはこのキリストか、イエズスか?」
「バラバを!」「バラバを!」「バラバ!」「バラバ!」

「ではこのキリストはどうしたら良いのか!?」
「十字架に付けよ!」

それを聞いて、マリア様は一体どれほどのご心痛を受けたでしょうか。「一体イエズス様が、一体何の悪い事をしたのだろうか。なぜ、そんなに笑われるような事を何をしたのか。」

ピラトは言います、「この男が一体何をしたのか!?」
「十字架に付けよ!」

イエズス様は、この全宇宙を無から創り出して、私たちに与えた、私たちの為に、罪を犯した私たちの為に人となった、私たちを癒す為に奇跡を行なった、私たちの暗闇を照らす為に教えて歩き周った、私たちの為に御聖体を制定された、「何をしたのか?十字架に付けられるほどの事を何をしたのか?」マリア様はイエズス様のなさった全ての良い事を1つ1つ思い出して、その優しい御言葉、その奇跡を思い出して、ますます悲しみに沈まれたに違いありません。

すると、よく見るとピラトは手を洗い出したではないですか。そしてイエズス様を「十字架に付ける」と言っています。ユダヤ人たちは喜んでいます。

「お母様。」ヨハネは涙をぽろぽろと出して、マリア様の元にいます。「どうしたら良いでしょうか。」「ヨハネ、さぁ私たちもイエズス様の十字架の後を会いに行きましょう。」「あぁ、悲しむだけです。お母様、もうこの場所から去った方が良いです。さぁ、どこかに身を隠しましょう。」「だめです。」

そしてマリア様とヨハネは、イエズス様が通るだろうと思われるその十字架の道に先取りして行こうとしています。群集の中を割き分けて行きます。遠くから騒ぎ声が近付いてくるのが聞こえます。「あぁヨハネや、きっとここを通るに違いありません。ここで待っていましょう。」すると兵士たちがイエズス様の捨て札を持っているのが見えます。「ナザレトのイエズス、ユダヤの王」と書かれています。“IESUS NAZARENUS REX IUDAEORUM”

その捨て札を見ると、マリア様の心にイエズス様、「イエズス」という名前がまず目に入ます。これは天主の御告げの時に、「この名前を付けなさい」と言われたその聖なる名前。8日目には割礼をもってその正式に付けられたその名前。イエズス様の御血、イエズス様のその犠牲、「救い主」というその名前の事をしみじみと思い出します。「あぁ」御告げを受けたその昔の事を、マリア様は思い出したに違いありません。天使の事、イエズス様の御幼年の事。

「ナザレト」ナザレトでは本当に30年間、一緒にイエズス様と暮らした事を思い出したに違いありません。イエズス様はこの世界を一言で、この美しい太陽と星々と、金銀と世界中の全ての善と美を創り出した者ですから、そのイエズス様が30年間、額に汗を流して、低賃金で、非常に苦労しながら物を作っていた、ヨゼフ様の下で働いていたそのナザレト。マリア様とヨゼフ様に従順に従った、そのナザレトの御生活を思い出したに違いありません。

「ナザレトのイエズス」30年間の思い出がまざまざとよみがえっています。イエズス様のその微笑み、イエズス様のその朗らかさ、イエズス様の優しさ、親切、何としてこの隣人たちを助けた事、貧しい賃金の中から、イエズス様が貧しい人を助けた事、ただで働いてあげた事、イエズス様のその苦しい、しかし愛徳に満ちた御生活、ナザレトでの美しい生活の事を思い出したに違いありません。

「ユダヤ人の王」はい、確かにイエズス様は王の王、真の王、この世の創り主、天主の聖子、ダヴィドの子孫、そして今御血をもって人類を贖おうとする征服者、悪魔を打ち倒して人間の霊魂を全て勝ち取ろうとする真の王、その事をマリア様は黙想したに違いありません。

すると、イエズス様が十字架を担って、ヨロヨロと一歩一歩近付いて来るのが見えます。イエズス様の目がマリア様の目と合います。マリア様の御姿を見たイエズス様の悲しみはどれほどだったでしょうか。そのイエズス様を見たマリア様の御悲しみはどれほどだったでしょうか。

今日この御ミサの前に病者の訪問をしました。終油の秘跡を授けた方がいらっしゃいますが、骨折をしていて、そして足はむくんでいて、見るに堪えない、そして痛がっておられました。イエズス様の体全身が傷だらけで、茨の冠を被せられて、そして重い十字架を担がされてその歩かされている、罪のないにもかかわらず、その拷問を受けている御子を見た母マリア様の御悲しみはどれほどだったでしょう。

普通の母親でしたら、「一体私の子が何をしたのですか!やめて下さい!」と叫んだかもしれません。「さぁ誰か!誰かこの無実の子を何とかして下さい!」と言ったかもしれません。マリア様は何も言わずに、イエズス様の後を、涙を流しながら一緒に歩いて行きました。マリア様はよく知っていました。イエズス様は私たちの罪の為に、私たちを愛するが為に、私たちの代わりに、この十字架の重みを担いでおられるという事を。ですからマリア様もイエズス様と共に、私たちの為にこの十字架の後を従っておられました。

イエズス様が倒れた時に、それをご覧になったマリア様の悲しみはどれほどだったでしょうか。イエズス様が痛そうな顔をすればするほど、御心は剣で刺し貫かれたように、ズキッ、ズシンとした痛みが刺し貫いたに違いありません。

でも見て下さい。ある一人の勇敢な女性が近付いてきます。ベロニカがやって来ました。意地悪な人たちの間をすり抜けて、イエズス様の近くに寄って、きれいなタオルをイエズス様に差し出して、「御顔を拭いて下さい」と慰めの心を示しました。「あぁ、ベロニカや、ありがとう。あなたはイエズス様をこうやって慰めてくれたのね。ありがとう、ベロニカ。」そしてマリア様は、このような勇敢な霊魂が、寛大な霊魂たちが、イエズス様にタオルを、ハンカチを、あるいは慰めを、あるいは祈りを、あるいは犠牲を捧げて、何とかイエズス様の苦しみを和らげようとする時、マリア様はどれほどの喜びと慰めを受ける事でしょうか。

マリア様はシレネのシモンが十字架を担いでくれるのを見て、「あぁ、シモンや、ありがとう」ときっと思ったに違いありません。イエズス様もそのシレネのシモンにどれほど感謝した事でしょうか。「私の十字架を担ってくれた。ありがとう。」そしてマリア様も、私たちがイエズス様の十字架を少しでも担うという恵みを受けた時に、どれほど私たちに感謝をされる事でしょうか。

見て下さい。どれほどユダヤ人たちが荒々しくイエズス様を足蹴にしたり、叩いたり、侮辱したり、唾したりした事でしょうか。マリア様はそれをじっと耐え忍んでおられます。母親の心にとってどれほど引き裂かれるほどの悲しみだったでしょうか。

マリア様はイエズス様と共にカルワリオの丘に着きます。イエズス様は衣を剥がされます。十字架に釘付けにされます。釘の金槌の音を聞いて下さい。カーン!カーン!カーン!イエズス様の手足に釘がどんどん入っていきます。イエズス様の顔を見て下さい。痛そうな顔を見て下さい。手から足から、血が、血潮が流れ出しています。イエズス様はそれを食いしばって、神経に触れてビリビリとおそらく痛かったに違いありません。その顔の表情を見るだけで、どれほど苦しいかという事が分かります。それを見ているマリア様は、更に心が張り裂けるような苦しみを持っていました。

そのイエズス様が十字架に付けられて、十字架の上に立たされた時に、イエズス様にとって一番苦しかった事は何だったでしょうか?人々がイエズス様を馬鹿にして、呪いの顔をして、恐ろしい形相をしているのを見た事だったでしょうか?あるいはイエズス様が呪いの言葉を、皆から馬鹿にするような言葉を聞いた事でしょうか?「あぁ他人を救って自分を救えないのか?キリストならば自分を救えば良い!そうしたら信じてあげよう。」あるいは自分の体に走る激痛の事を悲しんだ事でしょうか?

悲しみは、すぐ近くにいる汚れなき御母が、自分の苦しみを見て、自分と同じ悲しみと苦しみを感じておられる、という事が何よりもの悲しみでした、苦しみでした。「母がこれほど苦しんでいる。」 しかしお母様がマリア様が、私たち人類の救いのために、第2のエヴァとして、自分と一緒に苦しみを捧げているという事にどれほど感謝しておられた事でしょうか。

この最愛の母を、イエズス様は聖ヨハネを通して私たちに与えます。「女よ、汝の子ここにあり。」ヨハネに向かっては、「汝の母ここにあり。」マリア様はこの言葉を確かに聞き、そして私たちをイエズス様と同じような愛をもって愛して下さっています。イエズス様を死に至らしめた私たちですが、イエズス様と同じような愛で、イエズス様を愛すると同じ心で、私たちを愛して下さっておられます。

イエズス様が十字架で、「聖父よ、なぜ私を捨て給うのでしょうか」という言葉を聞いた時に、どれほどイエズス様が悲しんでおられるか、苦しんでおられるか、という事をマリア様は思ったに違いありません。「全て成し遂げられた」と、イエズス様が最後の言葉を言って息を引き取った時に、マリア様の心もグサリと剣が走ったに違いありません。マリア様は全てのこの苦しみを私たちの為に、イエズス様と共に捧げて下さいました。

このマリア様にとっての確かに悲しみは、イエズス様の御苦しみを見たその事ですけれども、それよりももっと大きな悲しみがあります。マリア様のこの悲しみは、「十字架の下でいたこのイエズス様の悲しみと、御自分の悲しみが、全く多くの人々にとって無益となっている」という事です。イエズス様がこれほど悲しんだにもかかわらず、マリア様がこれほど悲しんで、人類の救いを、私たちが天国に行く事をこれほど望んでいるにもかかわらず、多くの人はそれを、全く考えもしなければ、認識もしなければ、ありがたくも思わなければ、何でもないように考えて、イエズス様とマリア様のこの苦しみを無益としています。それがマリア様にとって更に大きな苦しみでした。

しかし今日マリア様は、このミサに与っている皆さんを見て、大きな慰めと喜びを感じているに違いありません。少なくとも私たちは、マリア様の御悲しみに思いを馳せて、マリア様をお慰めしよう、そしてマリア様の悲しみと涙と、イエズス様の御血を決して無駄にしたくない、と思っているからです。特にマリア様は小さなお友達を見て、「今日はよく来てくれた。ありがとう」と思っているに違いありません。

今日は是非このミサの中で、「マリア様、マリア様どうぞ助けて下さい。今までマリア様の事をあんまり考えてきませんでした。マリア様の事も、マリア様にこんなに苦しみを与えてしまうという事も考えずに自分の事を、イエズス様の事を無視してきました。でもこれからはマリア様の為に、マリア様を決して悲しませる事がないように、私が良いマリア様の子であるように助けて下さい。イエズス様とマリア様を喜ばせる事ができるように、ますますイエズス様に倣うように助けて下さい。マリア様、どうぞ今後マリア様から涙を流させるよりは、涙を乾かせるように、慰める事ができるように助けて下さい。」

では、このマリア様のこの七つの御悲しみの記念のミサを、その心をもって続けていきます。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

聖ピオ十世会聖伝のミサ(ラテン語のミサ)報告 2018年3月 四旬節 次のトリエント・ミサは大阪で4月1日です。

2018年03月31日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 毎年恒例ですが、今年も日本で枝の主日のミサを捧げることができたことを嬉しく思います。

 訃報ですが、聖木曜日に私たちの姉妹の一人が霊魂を天主にお返しになりました。永遠の安息がありますように。愛する兄弟姉妹の皆様のお祈りをお願いいたします。

 さらに、カナダ管区長になられたクチュール神父様の父上様がお病気なのでお祈りをお願い致します。

 次の日本での聖伝のミサは、4月1日の復活祭のミサです。午後6時から大阪の聖母の汚れなき御心聖堂で執行されます。

4月1日:復活祭【大阪】

5月3日から8日まで:秋田巡礼【秋田】ご予約の連絡はお早目にどうぞ!

秋田巡礼の内容はこのチラシもご覧ください。

Akita Pilgrimage 2018 (English)

インターネットでのお申込みの場合

http://blog.goo.ne.jp/sspxjapan_akita_pilgrimage/
Webサイトの「メッセージを送る」で送信してください。


5月20日:聖霊降臨の主日【東京】

6月3日:御聖体の荘厳祭【東京】

7月16日(うみの日)マーチフォーライフ【東京】





8月18日:デ・ガラレタ司教様:大坂で堅振式
8月19日:デ・ガラレタ司教様:東京で堅振式

 クチュール神父様のお説教を YouTube で視聴できるウェブサイトがありますのでご紹介いたします。
Fr. D. Couture’s Conferences online


天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】【大阪】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

私たちの大切な小野田神父様こんばんは。
3月の大阪の御ミサの報告をお送りいたします。

3月23日 御受難の金曜日(聖母の七つの御悲しみの記念)ミサには20名が、
3月24日 御受難の土曜日 のミサには20名が御ミサに与るお恵みを頂きました。デオグラチアス!

御受難の金曜日のお説教では聖母の七つの御悲しみを神父様と共に黙想させて頂きました。
最後の晩餐を終えて、ゲッセマで血の汗が出るほど苦しまれたイエズス様と霊的に苦しみを共にされたマリア様、
イエズス様が捕えらえたことを聞かれた時のマリア様、
ピラトが「この人を見よ」といった時バルコニーに現れたイエズス様をご覧になったマリア様、
人々が「十字架につけよ」と叫び狂うのを聞かれたマリア様、
すて札に「イエズス」という名をご覧になられた時のマリア様、
十字架を担うイエズス様に会われたマリア様、
カルワリオでのマリア様、
イエズス様の御死去をご覧になったマリア様、、、、、

ミサの前に、十字架の道行きがありましたが、お説教の中でもう一度十字架の道行きをしたように感じました。
私達の想像を越える御苦しみと御悲しみを、イエズス様の共贖者としてイエズス様と共に天主に捧げられたマリア様 に感謝し、
これ以上お悲しませしたくない、お慰めしたいという気持ちになりました。

土曜日のお説教では枝の主日の意味を黙想し、聖週間の準備をしました。
十字架がなければ天国の門は開かれず、十字架に従い、続くならば絶対の覚悟が必要である事、棕櫚の枝をこの世の殉教者として、キリストの兵士として受けることなど、多くの意味を知りました。天国の門を開けることができる唯一の栄光の王であるイエズス様の歩まれた十字架の道を、恐る恐るではありますがマリア様にしがみついてなんとか最後まで歩きたいと思います。

御ミサの後、御聖体降福式があり、イエズス様の前でロザリオを唱えることが出来て幸福でした。御聖体「幸福」式ですね。
イエズス様とマリア様をお悲しませすることが無いよう、もっとお慰めする事ができるお恵みをお願いしました。

また、この度終油の秘跡を受けられた愛する姉妹に、イエズス様とマリア様の特別のお恵みとお助けをおいのり致します。

至聖なるイエズスの聖心我らを憐み給え
聖母の汚れなき御心よ我らのために祈り給え

【報告】【東京】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 21人(内、子供2人)
女: 31人(内、子供4人)
計: 52人(内、子供6人)


【報告】【東京】
十Ave Maria! Inmmaculata!

枝の祝別式と枝の主日のごミサをありがとうございました。
枝の祝別では、聖歌隊による「ダヴィドの子にホザンナ。祝されよ、主の名によって来るもの、イスラエルの王よ、いと高きところにてホザンナ」の歌で始まりました。一人一人司祭からいただいた枝を手に、外にでて行列をつくり、それから、扉の門を開けて御聖堂(である会場)の中に入りました。ここでイエズス様と一緒に門に入るということが重要なことで、天国の門に入ることと教えられました。棕櫚の枝というのは勝利のシンボルであり、最後まで霊的にイエズス様にお供するにはイエズス様にしたがって殉教することを意味していると伺いました。

四旬節のなかご受難の黙想をしながらイエズス様がどれほどの御苦しみを受けられて私を贖ってくださったのかを考えようとしていましたが、司祭による聖福音のご受難の朗読とあいだに入る聖歌隊による答唱は、心にしみるものでした。特に最後の場面の司祭によって歌われた場面の響きは胸のジーンと浸み渡り、ずっと余韻が残っております。

お説教でご受難でイエズス様が受けられた苦しみは肉体的なもの・精神的なもの・霊的なものであると教えられ、私たちが罪をおかすごとにイエズス様を裏切り否み、鞭打っているのだと反省いたしました。またイエズス様が御父からさえ捨てられるという想像を絶する悲しみ苦しみは、私たちを愛するが故のことであったとうかがいながら、その愛にたいして私のささげている感謝は何とちっぽけなものでほとんど忘れて思い出すことも少ないかを思い、どれほどもっと反省しなければならないかと思いました。

イエズス様はこのような苦しみを受けて死んで三日後に復活するということを必ず話されていたとのことを胸に刻もうとしていましたが、この日の枝の主日にはあらためてそのことが再現されていると感じられました。天国にいたるまでイエズス様と離れないようにしなければと思いました。

午後の公教要理の時間は、マリア様の七つの御悲しみについて黙想する講話をお話いただきました。奉献の時神殿でシメオンに出会った時のこと、エジプトへの避難、十二歳のイエズス様が迷子になった時のこと、十字架をかつぐイエズス様と会われた時のこと、十字架のもとでたたずまれた時のこと、イエズス様が十字架から降ろされて抱き給われた時のこと、イエズス様が墓に葬られ給われた時のこと。最後の方は時間が迫ってしまい残念でした。それぞれのお話を聴きながら、残る聖週間の間、このマリア様の御悲しみを深く黙想することができますよう胸に刻んで、恵みを求めました。神父さま、枝の祝別式と枝の主日のごミサをありがとうございました。

2018年3月4日(主)  四旬節第3主日 「伝統的なカトリックのミサとは何か」

2018年03月27日 | お説教・霊的講話
2018年3月4日(主日)四旬節第3主日のミサ
小野田神父 説教


“Christus dilexit nos, et tradidit semetipsum pro nobis oblationem, et hostiam.”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。聖伝のミサ、伝統的なカトリックのミサにいらっしゃる事を歓迎します。

なぜ、日本でこのカトリックの行事が行われているのでしょうか?「カトリック」というのは、この語源は「普遍」という意味です。全世界のための普遍的なという意味だからです。

日本では長い、およそ500年に渡るカトリック教会の伝統が生きています。多くの、数多くの何十万という殉教者を生み出して、日本中が殉教者の血によって染められた国です。

日本では7代にも渡って250年の間、迫害の中をカトリックの信仰を守ってきた、というカトリックの世界中の人々が知っている事実もあります。そして私たちはこの同じ信仰を持っている、という事を大変光栄に思い、嬉しく思っています。

なぜ聖伝のミサを、伝統的なミサをしているのでしょうか?この皆さんが今与っているミサは、2000年の歴史があります。

このミサは、聖ペトロ、初代ローマ教皇、イエズス・キリストの愛弟子、第1の弟子がローマで捧げたミサ、捧げ続けていたミサ、ローマの殉教者たちが与っていたミサ、聖アウグスチノ、聖アンブロジオなどが捧げていたミサです。あるいはフランスの聖ルイ9世王様が与っていたミサ。アルスの聖司祭が与っていたミサ、聖フランシスコ・ザヴェリオが捧げていた、そして日本でも500年前に捧げたミサに、皆さんが今与っています。

これは私たちがカトリック教会が最も大切にして、最も深く愛してきた、そして最も天主の心に適う礼拝の仕方を、皆さんが今与っているという事です。聖伝のミサは、その保証です。

このミサはラテン語で捧げられています。ラテン語というのは、十字架の上に書かれた3つの聖なる言葉の1つです。実はこのミサはラテン語のみならず、3つの言葉で捧げられています。ラテン語とギリシャ語とヘブライ語です。このラテン語は、時間と場所を超越して、世界の全ての人が同じミサに与かる事ができるという、バベルの塔の解決策です。

今日ここにいらっしゃる皆さんは、日本の国の方以外の、あるいは母国語として色々な言葉を話す方々が集まっていますけれども、ラテン語のミサで1つに、時と場所を超えて、国境を超えて1つになる事ができます。

では一体、ミサとは何なのでしょうか?今日この四旬節第3主日のミサで、まさに教会は「ミサとは何か」という事を説明しているように思えます。そこで、「ミサとは何か」という事を黙想する事を提案します。

ミサというのは何なのでしょうか?ミサとは、私たち罪人に対して、天主の愛がもたらした愛の最高の実りです。天主の永遠の御知恵、全てこの宇宙を創って、動植物を創って、銀河を創って、高い山々を創って、深い海を創って、海に泳ぐ魚たちや、空に飛ぶ鳥たちをデザインして、人間を創った、その天主の最高の知恵をもっても、これ以上私たちを愛する事ができないほどのものがミサです。

天主は全能の力をもって、宇宙の全ての美と善を創りました。しかしこの全能の力をもってしても、これ以上私たちを愛する事ができないほどのものをしました。これがミサです。天主の最高の力をもって愛の発明をした、これが皆さんが今与っていらっしゃるミサです。

では、ミサとは一体何なのでしょうか?ミサというのは、私たちの主イエズス・キリストが、十字架の上で御自分を捧げられた、私たちの罪の償いとして捧げられた、その同じいけにえの再現なのです。時と場所を超えて、このミサが捧げられる時に、全くそのカルワリオの十字架で行われた事と同じ効果が、その現実が、今この目の前で現れるのです。そしてそれと全く同じ恵みと、祝別と、祝福と、そして全ての天主からの力と、慰めと、助けを私たちが得ることができます、これがミサです。

私たちを助ける為に、私たちを慰める為に、私たちに力を与える為に、私たちの罪を許す為に、日々の糧となる為に、全能の愛である天主は、このミサを選定しました。

使徒聖ヨハネはこう言います、その書簡にこう書きました、「おぉ、小さな子供たちよ、言葉やあるいは舌だけでなく、行いと真実をもって愛し合おう。」

イエズス・キリストは、言葉やセンチメンタルな感情だけではなく、本当に御自分の血を流して、現実に私たちを極みまで愛して下さいました。その結果がミサです。

人類は天主の愛によって創造されました、無から創られました。その贈り物としてこの全世界が与えられました。私たちはアダムとエヴァの先祖において、原初の義において創られました。つまり私たちは、もしも全てがうまくいけば、苦しみもなければ、病もなければ、死もなければ、悩みもない、地上の至福の福楽で生活した後に、永遠の福楽天国に行く事が天主の計画でした。私たちの喜びと幸福だけを望んで、主は私たちを創造されました。

しかし、天主の御姿に似せて創られた人間を妬み、憎んで、私たちの内にある天主の像を破壊してしまおうと思った、私たちの敵、悪魔、サタンは、堕落した天使たちは、私たちを誘なって、そして私たちよりも強かった彼らは、私たちの先祖、原祖アダムとエヴァを罪に引きずり込んでしまいました。

アダムとエヴァは自らそうと知りながら、自由意志を持って、天主に逆らいました。天主によらず、自分の力によって天主の如くなろうと、神々のようになろうと思いました。そして罪を犯して、天主に反乱しました、「私は従わない!嫌だ!私は思い通りに生きる。」

この人間の状態を回復する手段は最早ありませんでした。人間は自分の力で天主の下さった元の状態に立ち戻る事はできませんでした。全くの無力でした。天主は私たちをそのままほっぽり出しておく事もできました。人間の知能の全てを使っても、罪によって天主から離れ去ってしまったという事がどれほどの損失であるか、という事を理解しつくす事ができません。把握しきれません。人間の言葉では言葉では、その恐ろしさを表現し尽くす事がません。全ての善の源から離れてしまう、永遠に切り離されてしまう。何という絶望、何という不幸でしょうか。

天主はそれによっていささかの不幸もあり得ませんでした。永遠の昔から、至福の天主には変わる事がありません。しかし、あたかも私たちがご自分の最も大切な宝であるかのように、私たちの救いを望まれました。天主聖父は御自分の最愛の聖子を、私たちの為に人となるように、この地上に送られました。

最愛の聖子は、私たちの為に人間として、第2のアダムとして、第2の贖われた人類の頭として生まれるべく、幼子として生まれる事を望まれました。罪の償いを私たちに代わって果たすことを望まれて、お生まれになりました。極めて貧しい馬小屋の中で、真冬に、人々から捨てられて、王の王が。

私たちの主は、30年間、父親と母親の元で、マリア様とヨゼフ様の元で、大工として働きました。一言、「光あれ!」と言って光を創造して、全宇宙を御言葉によって創ったその天主が、労働に身を任せて、額に汗を流して、全く知られない村の、ナザレトの村で働きました。天主はもしかしたらそのせっかく作った物を、イエズス・キリストが作った物に対して、正当な代価が払われなかったのかもしれません。あるいはあまりにも貧しいので、村の人たちが「おぉ、かわいそうだ。恵んであげるよ」言ったかもしれません。全能の天主がお貰いをする。何という屈辱でしょうか。私たちの罪の償いの為に、私たちを愛するがあまりに、この苦しみを御捧げになりました。

そればかりではありません。イエズス・キリストは、私たちの主は、人となった天主は、私たちを救う為に、御自分の命さえも与えようと望まれました。人類の歴史の中で、最も真っ暗で、暗黒のその時、イエズス・キリストの命を奪おうと企んでいたその暗闇の時、聖木曜日、私たちの主は最後の晩餐を行って、このミサを制定しました。そしてパンを御自分の体に変えて、ブドウ酒を御自分の尊き御血に変えて、私たちの為に与えられ、そして「これを私の記念として行え」と命じられました。同時にカトリックの司祭を制定しました。

そしてこのミサが今でも続けられています。愛の極みの天主の傑作です。このミサは、十字架のいけにえの再現です。最後の晩餐では、その十字架の苦しみと受難が先取りされました。

その翌日、聖金曜日には、全く罪のなかった天主の聖子イエズス・キリストは、罪がなかったにも関わらず、死刑の宣告を受け、十字架を担がれました。ポンシオ・ピラトは、「この男には何の罪も見出さない」と3回言ったにもかかわらず、鞭打たれ、茨の冠を被せられ、頭から足まで体は全身傷だらけでした。更にその上に重い十字架を担ぎ、カルワリオの上まで引き続き、そして十字架に釘付けにせられて、3時間の苦しみの後に、御自分の命と御血を全て天主聖父に、私たちの罪の贖いの為に捧げられました。それが今皆さんが集まっているミサです。これが皆さんの目の前に現れる、現実となる儀式です。

ミサでは、イエズス・キリストの流血はありません。しかし捧げる司祭は、イエズス・キリストです。カトリックの司祭はイエズス・キリストに自分の手と唇を与えて、イエズス・キリストの司祭職を執行します。捧げられるいけにえも、イエズス・キリストです。なぜならパンとブドウ酒は、イエズス・キリストの、本当の、真の、御体と御血であるからです。流血はありませんが、奇跡的に御体と御血が分離する事によって、天主の子羊が屠られた事を意味します。

ミサというのは、天主が、三位一体の天主が私たちに下さった最高の宝物であって、人間が捧げる事ができる最高のお祈りなのです。このミサを捧げる事によって、この全世界に普遍のカトリック教会がいる全ての地域に、お恵みと祝福が与えられます。ミサに与かれば与るほど、特別のお恵みが与えられます。

ですから今日このミサに、皆さんが出席なさっている事を本当に嬉しく思い、皆さんに感謝します。なぜかというと、皆さんがミサに与る事によってこのお恵みが、皆さんと皆さんのお友達や、全てに家族に行き渡る、広がり渡るからです。

では最後に、マリア様にお祈り致しましょう。マリア様は私たちに、このイエズス様をお与え下さいました。マリア様はその十字架の下で、御子、自分の子供が捧げられているのを目の当たりにしました。お母様の心にとってどれほど、自分の子供が苦しむのを見るのは辛かった事でしょうか。しかし私たちを愛するが為に、これを捧げて下さいました。

「マリア様、どうぞこのミサにマリア様と一緒に与らせて下さい。マリア様の心でこのミサを拝聴する事ができるように助けて下さい。マリア様と共にイエズス様を天主聖父に捧げる事ができるように、お恵みを祈って下さい。マリア様、私の家族と、友人たちと、周りの方々の為にお祈り下さい。ミサのお恵みが、私たちに全てに広がりますように。」

“Christus dilexit nos, et tradidit semetipsum pro nobis oblationem, et hostiam.”
「キリストは、御自分を私たちの為にいけにえとして御捧げになった。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

2018年2月18日(主)  四旬節第1主日 「待ちに待った四旬節」

2018年03月27日 | お説教・霊的講話
2018年2月18日(主日)四旬節第1主日のミサ
小野田神父 説教


聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。

今日は四旬節第1主日のミサを行っております。今日この御ミサの後に、いつもの通り感謝のお祈りを致しましょう。その後には、灰の水曜日の灰の式を受ける事ができなかった方の為に、灰の式を行いたいと思います。この式の間にはグレゴリオ聖歌が歌われて、最後に式で祈られる祈りもあります。

その後に、四旬節をよく過ごす為にも、また今日本と世界での平和が非常に脅かされているので、特に韓国の事が非常に心配ですので、また中国にいるカトリック信者の方々為にも、御聖体降福式をしたいと思っております。どうぞ皆さんできるだけ与って、イエズス様に特に平和の為にお祈り下さい。

その後には14時30分頃から、公教要理の続きをしたいと思っています。
今回は3月の初土曜日の黙想のテーマとして、イエズス様のゲッセマニの園にての玄義を、ロザリオの苦しみの玄義の第1玄義を、黙想する事を提案します。そして16時からは晩課があります。

次のミサは3月4日です、ここであります。どうぞたくさんのお友達を連れていらして下さい。


“Ecce nunc tempus acceptabile, ecce nunc dies salutis.”
「見よ、救いの日がやって来た。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、遂に四旬節がやって来ました。私たちが待ちに待った四旬節です。遂にイエズス様に、私たちの日常の犠牲をイエズス様と共に捧げる事ができます。そしてそれが特別の価値を持つようにお恵みが与えられる時です。受け入れられる時がやって来ました。私たちの惨めな貧しいものでも快く受け入れて下さる時が来ました。

そこで今日は教会の典礼の精神に従って、四旬節は何で今日こういうミサになっているのか?たとえば今日、指定巡礼教会は聖ヨハネ ラテラノ大聖堂、至聖救世主大聖堂であって、そしてなぜ詩篇90をそんなに何回も何回も、入祭誦でも昇階誦でも、また詠誦でも、そして聖体拝領でもこんなに歌うのか?等を黙想して、第1に四旬節の精神をもう一度確認します。

その次に、では四旬節の精神に従って、その結果私たちは何をしなければならないのか?「断食をしなければならない」と言います。

最後に、私たちは四旬節の遷善の決心を立てる事に致しましょう。

教会は私たちを霊的に、指定巡礼教会という、特別に指定された教会に行列で霊的に行く事を望んでいます。今日の指定された教会は、ローマの最も重要な至聖救世主大聖堂、別名はラテラノ大聖堂、洗者聖ヨハネの大聖堂です。なぜかというと、四旬節というのは私たちにとって、霊的に、内的な生まれ変わりの、新たになる時であるからです。

ちょうど洗者聖ヨハネが砂漠に行って、荒れ野に行って、ライオンのように獅子のように叫んだのを思い出します、「悔悛せよ、悔悛せよ!」「もしも悔悛しなければ、私たちは救われない!」と。私たちも洗者聖ヨハネの呼びかけに従って、荒れ野に行こうとします。ちょうどイエズス様も荒れ野に、40日間の断食をする為に行かれました。洗者聖ヨハネの大聖堂が救世主の大聖堂とも呼ばれているのは、この意味があります。

私たちはこの四旬節の時に、今までおろそかにしがちだった霊魂の世話をしなければなりません。私たちはいつも体の健康については気を使ってきましたが、ともすると霊魂の事は忘れがちでした。ですから霊的な生活にもう一度目を向けようとさせます。ですから私たちは、この世の喧騒から離れて、霊的に砂漠に荒れ野に参りましょう。霊的にイエズス様と共に荒れ野に参りましょう。何を求めて行くのでしょうか?「内的な天主様の命」を求めて行きます。

ところで、私たちはこの荒れ野に行ったイエズス様を、「あぁ、イエズス様は荒れ野に行って、40日間の断食をされた」というのをただ傍観者として見ているのではありません。ちょっとテレビのスイッチを入れると、「あぁ、イエズス様が砂漠で何かやっておられるなぁ。お祈りをしておられるなぁ。次のスイッチ」ではありません。私たちはイエズス様と一緒に行かなければなりません。イエズス様と一緒に40日間霊的な生活を送らなければなりません。今の流行りの言葉で言うと、「行こうぜ、四旬節。」

そしてもしも私たちがイエズス様と一緒に荒れ野に行って、40日間の霊的な生活をして初めて、私たちは表彰台に立つ事ができます。初めてイエズス様と共にアレルヤの、復活祭の時にアレルヤの歌を歌う事ができます。私たちはその時に初めて、イエズス様と共に王冠の、復活の深い喜びを味わう事ができます。ですから私たちにとって一番中核なのは、「イエズス様と共に荒れ野に行く」という事です。「天主様の命を求めて行く」という事です。それは復活の準備の為です。

もしも私たちが復活祭の喜びの深い喜びに入る事を望んだならば、その勝利を得たいと思うのであれば、条件があるのです、「イエズス様と共に行く」という事、そして「イエズス様と共に、私たちの自然の、肉体的な、古い、欲望だらけの邪欲の古い人間に死ななければならない。私たちの罪とその機会を皆、十字架に付けなければならない」という事です。この2つがあって初めて私たちは、イエズス様と共に復活祭の時に、新しい生活を聖徳の生活を始める事ができるのです。イエズス様のように新しい人を生きる事ができます。イエズス・キリストの命を生きる事ができるようになります。

ところで教会は、その為に3つの事を、3つの種類の人々に気を配っています。1つは、これから洗礼を受けようという人々の為です。もう1つはこれから、罪を犯した、大きな罪を犯したが為に、教会からいわば破門されたかのようになってしまって、御聖体を受ける事ができないような人々、罪を償わなければならない人々の事です。もう1つは私たち一般信徒で、そしてその3種類の人々が、「復活祭の時に、大きな復活の勝利の喜びを得る事ができるように」と気を使っています。

洗礼を受けたいという求道者の人の為には、「この間、洗礼の水に浸る事を黙想するように」教えています。痛悔をしなければならない人にとっては、「涙の水に、涙に浸かる事を、痛悔の涙に浸る事」を勧めています。そして一般の信徒たちには、「御聖体とイエズス様の御血に浸かって、イエズス様の御受難を黙想する事」を招いています。

この3つの種類の人々を全て教会が思っている、という事を見ると、やはり集祷文の意味がよく分かります。40日間のこの修行をもって、天主様は教会を全て潔めようとされている、という事だからです。ここでも四旬節の中核が分かります、核心が分かります、「私たちは四旬節を一人でするのではなくて、イエズス様と共に、教会の神秘的なキリストの神秘体の一員としてする」という事です。そして「私たち全部が、教会が全て潔められる」という事です。

ですから第2の点は、イエズス様と共に荒れ野に行って、そして断食をしなければなりません。イエズス様は仰いました。「ヨハネは断食をしていたけれども、あなたは断食をしていないではないか。なぜだ。」「なぜならば、花婿がいる時に、花婿の友達は断食をするだろうか。花婿と一緒に食べる。しかし花婿が取り去られる時が来るだろう。その時は花婿の為に断食する。」まさに今からイエズス様が御受難によって取り去られようとする事を黙想する私たちにとって、断食の良い機会です。イエズス様は普通はお食事をされていますけれども、公生活の始めに40日間断食をされました。それは私たちの断食を聖化する為です。私たちに模範を見せる為です、どのようにされるか。

聖伝によれば、40日間の断食をしていましたが、しかし現代では非常に規律が緩和されて、私たちのしなければならない義務は、灰の水曜日の大斎と聖金曜日の2回になってしまいました。しかし私たちは、確かに食べる断食はそんなにできないかもしれないですけれども、しかし罪の断食をする事ができます。

例えば、私たちが「本当は甘いおやつを食べたい。でも今は食べる時間じゃない。だからそれはお捧げしよう」とか、あるいは「本当は宿題をしなければならない、あるいはこの仕事をしなければならないんだけれども、何かインターネットでオリンピックのニュースがある。」あるいは「誰がメダルを取ったのだろうか。」あるいはもしかしたらそれよりも、もしかしたら私たちが本当なら見てはいけない、あるいは聞いてはいけない、あるいは手にしてはいけないようなものが、私たちの前に来るかもしれない。その時に私たちは、「それは食べない、それはしない」という罪の断食をしなければなりません。そこに私たちの最もしなければならない核心があります。

イエズス様は40日の間、ただ断食しただけではありませんでした。お祈りをしました。ですからこの40日間の間、復活祭まではたくさんのお祈りをなさって下さい。イエズス様はゲッセマニの園にで弟子たちに言いました、「あなたたちは私の為に、たった1時間も祈る事ができなかったのか。私の霊魂は死するばかりに悲しい」と。イエズス様は私たちに仰る事でしょう、「どうぞ私の為に祈ってほしい。私と共に祈って欲しい」と。40日間。イエズス様は私たちの為に苦しまれようとしているのですから、私たちもイエズス様に、少しのちょっとした犠牲を捧げなければなりません。

では一体どのような遷善の決心を立てたら良いでしょうか?

先ほど、教会の規律が非常に緩和されて、私たちはたった2回しか大小斎を捧げる義務がなくなってしまったと申しましたけれども、しかし残念な事に、この「四旬節」というものも、もしかしたら多くのカトリック信者にとっても、或いは私たちにとっても、名前だけになってしまっているかもしれません。四旬節というと、「あぁ、何か嫌だな」とお思うようになってしまうかもしれません。四旬節というと、「何かやろう」と思いながらも、結局何もやらなかった、と毎年過ごしていたかもません。あるいはもしかしたら、「灰を頭に付けるだけで良いのだ。」あるいは「ちょっとだけお祈りすれば良いのだ」というだけで、四旬節の事は全く忘れて過ごしている人も、他の日々と同じ生活を、あるいは他の人々とカトリック信仰を持っていない人と全く同じ生活をしている人もいるかもしれません。私たちは少なくともそういう方々に代わって、そういう方々の為にも、その分も、特に熱心にお捧げする事に致しましょう。

「あぁ神父様、どうもそれほどの事はできるようにもありません。」そこでイエズス様は教会は、詩篇の90を私たちに何度も何度も歌わせようとしています。この詩編の90は、悪魔がイエズス様を誘う為に引用した、その一部を引用しました。しかしそれは教会は、祓魔式をするかのように、「本当の使い方はこうだ」と私たちに教えるかのように、私たちに歌わせます。この詩編は信頼の歌です。特に詠誦の最後をご覧下さい、「私は彼の言う事を、祈りを聞き入れるだろう。彼を救うだろう。そして彼に栄光を与えるだろう。そして1日中、つまり永遠の間、彼を満たすだろう。そして彼に救いを示すだろう。なぜかというとたった1つ、“Invocabit”私の名を呼んだから。その為におまえを救う事を私はしよう、と天主様は約束しています。

そして今日、皆さん御聖体拝領する時に、その事が本当に起こります。なぜかというと、イエズス様こそ私たちを守る翼であって、私たちを守る糧であるからです。悪魔から守って下さる方であるからです。私たちは一人で四旬節をするのではないからです。ですから今日聖体拝領の時に、聖歌隊はこの詩編の90のそこの部分を、「天主は翼となって私たちを守ってくれる。天主の真理は糧となって守って下さる」という事を歌っています。

ですからどうぞイエズス様と共に荒れ野に参りましょう。霊的に荒れ野に参りましょう。そして最後にマリア様にもお願い致しましょう。マリア様は、マリア様こそイエズス様との40日間の断食を、ご自分でイエズス様と共に霊的になさったモデルであるからです。

“Ecce nunc tempus acceptabile, ecce nunc dies salutis.”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

2018年2月17日(土)  灰の水曜日の後の土曜日 「主がガリレア湖の水上を歩かれた奇蹟の意味とは」

2018年03月27日 | お説教・霊的講話
2018年2月17日(土)灰の水曜日の後の土曜日のミサ
小野田神父 説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。

今日は2018年2月17日、灰の水曜日の後の土曜日のミサです。今日のこのミサの後に、いつものように感謝のお祈りを致します。その直後に、昨日灰を受ける事ができなかった、あるいは灰の水曜日に灰を受ける事ができなかった方の為に、灰の式を行いたいと思います。

その後には聖時間を行います。それは御聖体降福式と共に御聖体を顕示して、そして特にこの四旬節を良く過ごす事ができますように、また特に日本と世界に平和が守られますように、朝鮮半島で多くの人々の命の奪われる事がありませんように、あるいは共産主義の手が南にまで及びませんように、中国のカトリック信者の方の為にも、ぜひお祈りをお願いします。

ミサの直後に聖時間を、聖時間の時に特に一緒に、3月の初土曜日の為の準備として、イエズス様の15の玄義の内の1つを黙想する事に致しましょう。特に練習として、ゲッセマニの園での第1玄義を黙想する事を提案します。

次のミサは1週間の後の25日、2月25日の夕方18時からワリエ神父様がここでミサをして下さいます。



「安心せよ、私である。恐れるな。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は四旬節の第1主日の直前の土曜日で、教会はぜひ私たちに、この四旬節を良くできるように色々と準備をしてきました。そし今日スタートラインを切った私たちに、終わりまでちゃんと走る事ができるように、私たちに励ましの声援をエールを送っています。

では一体どういう風に私たちを励ましているのでしょうか?3つあります。1つは今日の書簡、第2は今日の福音、第3は今日の指定巡礼教会、この3つで私たちが最後まで行き着く事ができるように、と応援しています。私たちが金メダルを取る事ができるように。
ですから、私たちがどうやって教会から応援を受けているのかを黙想する事にしましょう。

準備の段階で私たちは、「四旬節の間には、祈りと断食と、そして施しをするように」と言われました。そしてこの3つの、祈りと断食と施しは、愛徳を持って、イエズス様に対する愛を持ってやらなければなりません。断食が例えば美容の為であったり、あるいは施しが自分の名誉の為であったり、あるいは祈りが見せびらかしの為であったら、それは効果がないと教えています。

ところで、この高い私たちの目標の前に、もしかすると私たちは、「いや、私はとても力が足りないから、そこまではできない」という風に挫けてしまうのではないかと思った教会は、母なる教会は、まず書簡で「そう心配するな」と、「光が与えられる」とまず励ましています。

「光」この光とは何かというと、「天主の命」の事であって、「私たちの霊魂がちょうど天主様のいらっしゃる楽園のようになる。この私たちの霊魂には多くの花が咲き、善徳と聖徳の花が咲き、それから良い善業の実りが実るだろう」というイメージを出しています。そうした時に私たちは、「廃墟を建て直す者と言われるだろう」とか「壁を立てる者と言われるだろう」と言っています。「ただ私たちが避けなければならないのは、罪である。天主様が私たちに光を与えてくれるので、心配するな。」

第2の今日の福音は一体何でしょうか?第2は、ちょうど使徒たちがガレリア湖で船を漕いでいます。夜中でした。考えてもみて下さい。真っ暗闇です。電気はありませんし、LEDもありません、ライターもありません。あるのは星影だけです。イエズス様といえば、陸にいました。しかも風は反対側に吹いています。本当はゲネサレトの方に行きたいのだけれども、そっちの方から風が吹いてくるので、一生懸命漕いでも漕いでも漕いでも進みません、進歩がありません。努力しても努力しても、全ての努力は無駄であるかのようです。反対があまりにも強いからです。

イエズス様は一体何かというと、陸で弟子たちの為にお祈りをしています。ところがイエズス様は、弟子たちが一生懸命努力をしている事を知っていました。それで聖書の言葉によると、日本語の訳では夜明けの3時でしたが、聖書には、「夜の第4時」イエズス様は海の上を歩いて、弟子たちの近くを通って、彼らの近くを通り過ぎようとしました。薄暗くてあまりよく姿が見えなかったのですけれども、幽霊かと思ったほどでした。

するとイエズス様は近寄って来て、彼らに言いました、「安心せよ、“Confidite”私だ、何も恐れる必要はない。」そしてイエズス様はこの船に乗るのです。イエズス様が船に乗ると、その途端にあっという間に、今まであった反対がピタリと止まります。凪になって、そして安全に向こう岸まで着く事ができました。夜明けです。多くの多くの人たちがイエズス様の後を慕って、病人や病の人を運んで来て、皆が治されます。奇跡が起こります。

「これは私たちの四旬節のまさに姿である」と教会は言っているのです。なぜかというと、聖書の表現によると、「海」というのは、いつもゆらゆらと変わっている「この世界」の事を意味しています。「陸」というのは、いつも変わらないので、「天国や聖人」の事を意味しています、「天主」の事を意味しています。今日ボートに乗っているのは私たちです。使徒たちと一緒に小舟に乗って、この世を渡ろうと、天国まで行こうとしています。ちょうどこの小舟に乗って、四旬節の40日の断食を果たそうとしています。復活の岸まで行こうとしていますが、私たちにとって多くの誘惑があります。

教会は3つの敵を、私たちの救霊の敵を挙げています。1つは「肉」、私たちの利己主義、私たちの思い通りにしたい欲望。第2は「世間」、世間体、この世、財産、権力。最後に「悪魔」です。この三重の風が、私たちに吹き荒れて来るので、私たちは四旬節の間一生懸命断食や、あるいは施しや、あるいは祈りのオールを漕ぐのですけれども、進歩の兆しはありません。

夜の第4時、ちょうど四旬節の40日の断食を意味しているかのようではありませんか。イエズス様が、これまでイエズス様はこの私たちが四旬節の間ずっと、天から私たちの為に祈っていて下さっているようです。しかし遂に、「このままではだめだ」と思うその瞬間に、イエズス様は私たちの所にやって来ます。そして私たちの船に乗って下さいます、「心配するな。安心せよ。私だ、恐れるな。」しかもイエズス様は今日、皆さんを日本の各地から呼んで、そしてもう既に私たちの小さな霊魂のボートに乗りたいと思って、ミサの御聖体拝領の時には、私たちの心にやって来られます、「私だ、安心せよ。心配するな。四旬節の間は乗り切る事ができる。一緒にボートに乗ってあげよう。」イエズス様が使徒たちの船に乗った途端、反対の風がピタリと止まりました。

明日四旬節の第1主日では、教会はイエズス様が40日間断食をされて、最後に悪魔と戦う場面を見せます。イエズス様は言いました、弟子たちが一生懸命悪魔を払おうとしても、何も祈りの効果がない時には、「この種の悪魔は、祈りと断食でなければ追い払う事ができない。」ですからこの「祈りと断食には特別な力がある」という事をイエズス様は私たちに教えています。

また、「なぜ洗者聖ヨハネはいつも断食していたのに、あなたは断食しないのか?」「花婿の友達は、花婿がいる時に断食をするだろうか。花婿と一緒に祝うだろう。しかし花婿が取り去られたら、彼らは断食するだろう。」私たちはイエズス様の為に、イエズス様と共に、断食をしなければなりません。ヨハネは生涯断食しましたが、イエズス様は時々断食しました。そうする事によってカトリック信者たちに、「私たちの生活の基準は、いつも断食ではなくて、時々断食。イエズス様の為に、イエズス様と共にする断食である」という事を教えています。そして私たちに40日間の模範を見せて、「イエズス様と一緒に断食するように」と、それを聖化を、それを聖として下さいました。

もしも私たちがイエズス様と共に、イエズス様を私たちの霊魂に乗って頂いて、四旬節の間動くならば、反対の風は私たちを妨害するのがピタリと止まるでしょう。イエズス様はその模範を見せて下さったからです。

ところで最後の点は指定巡礼教会です。では一体聖トゥリフォンの教会とは一体何なのでしょうか?

実は秘密があるのです。聖トゥリフォンの教会というのは、実は今では無くなってしまいました。これはローマ皇帝デチウスの時に殉教した、祝日が11月10日の殉教者なのですけれども、この殉教者の聖遺物が奇跡を起こす事で非常に有名でした。そこで教会は、「断食によって、私たちの肉体も、そして霊魂も癒されるように。40日の私たちの聖なる修行が終わったその時には、見違えるようになっているように。癒された体と復活された体となるように」という事を望んでいます。

そこで聖トゥリフォンの教会に私たちを霊的に呼んで、そして集祷文では、「心も体も癒されますように」と祈って、そして福音書では最後に、「ゲネサレトの陸に浜辺に到着した時には、多くの人々が癒された。」これは聖トゥリフォンのイメージとぴったりと重なるものです。

今ではどうなってしまったかというと、18世紀にこの教会が破壊されてしまった時に、その聖遺物はその近くにあった聖アウグスティノ教会に移動されました。そこでそのそこの教会で、聖モニカの聖遺物を保存していた聖モニカのチャペルに聖トゥリフォンの聖遺物も移動して、今でも奇跡が起こっている、とあります。

ですから今日、このミサでこの3つの点を私たちによって、「さあ、40日の修業はどうだ。40日間の大小斎を一生懸命やるように」と励ましています。

ところで現代の規定によれば、私たちは40日間の断食をする義務は無くなってしまいました。灰の水曜日と聖金曜日だけになってしまいました。聖ピオ十世会の会員は、全ての四旬節の金曜日にも、あと四季の祭日にも大小斎を捧げますが、しかしそれは一般の方にとっては義務ではなくなってしまいました。しかし霊的に私たちは断食をする事ができます。断食をするのは、まず罪からと、罪の機会から私たちを遠ざけなければなりません、断食しなければなりません。

マリア様に、私たちが一体どのようなものを断食しなければならないか、それの教えて頂くように今日お願い致しましょう。聖トゥリフォンの御取り次ぎによって私たちの霊魂が癒されますように。

またイエズス様が今通り過ぎようとしていますから、「さぁイエズス様、どうぞ通り過ぎないで下さい。私の霊魂に来て下さい」と叫んで御聖体拝領する事に致しましょう。

「安心せよ、私である。心配するな。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

2018年2月16日(金)  灰の水曜日の後の金曜日 「四旬節の模範」

2018年03月26日 | お説教・霊的講話
2018年2月16日(金)灰の水曜日の後の金曜日のミサ
小野田神父 説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。

今日は2018年2月16日、灰の水曜日の後の金曜日のミサをしています。今日この御ミサの後には、いつもの通り感謝のお祈りをしますが、その後に灰の式をしたいと思っています。どうぞ皆さん灰を受けて下さい。この灰を受ける式は、私たちが天主の御前で罪を犯し、無であるという事、特にアダムとエヴァが最初に罪を犯した時に言われた宣告の言葉を、私たちはもう一度教会によって聞かされます、「お前は塵であって、塵に帰るものだ。その事を覚えよ。」アダムとエヴァの最初の灰の水曜日を私たちがもう一度思い出します。その後に、できれば終課の祈りを唱えましょう。

明日は10時30分からミサがありますが、特に公教要理の代わりに、御聖体降福式をして、特に中国にいるカトリック信徒の為に、ぜひ特別の御憐れみを乞い願いたいと思っています。また韓国の為にもお祈り下さい。韓国が南ベトナムのようにならない為にも、ぜひ共産主義による統一と征服が行なわれない為にも、ぜひお祈りをお願い致します。



聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は灰の水曜日の後の金曜日で、教会は聖ヨハネとパウロ殉教者の指定巡礼教会に私たちを連れて行きます。一体なぜなのでしょうか?四旬節とどういう関係があるのでしょうか?それを黙想する事を提案します。

教会が望む四旬節の模範を、聖ヨハネとパウロが私たちに示してくれているという事を黙想した後に、

私たちも遷善の決心を立てる事に致しましょう。

では第1に、なぜ私たちは聖ヨハネとパウロの殉教者の指定巡礼教会に霊的に行くのでしょうか?なぜかというと、この2人の殉教者聖人たちは、非常にローマで有名な愛徳の聖人だったからです。特に大きな自分たちの持っていた財産を、貧しい人たちに施しました。そして自分たちの家を教会として開放していました。それは、「自分たちが遂には、天主様の家に受け入れられる事ができるように」との意向でした。

このような教会の事を古代では助祭の、「助祭職の教会」と言われていました。なぜかというと、助祭というのは使徒たちの制定によって、「貧しい人たちを助ける」という特別の使命を持っていたからです、食べ物を配ったり。使徒たちが、「私たちが天主の御言葉を脇に置いて、食べ物を配って良いだろうか。これらを助祭に任せよう」と助祭を決めたからです。殉教者聖ヨハネとパウロはこの愛徳の奉仕の義務をよく行なっていました。

ところで四旬節には教会は、私たちに3つの愛徳の業を行うように、と勧めています。1つは「祈り」です。もう1つは「断食」です。そしてもう1つは「施し」なのです。特に今日聖ヨハネとパウロの模範によって、私たちにこの「施し」の事を教えようとしています。

書簡では私たちに、断食をどのように行うべきか、という事を教えています、「断食は、私たちが天主による愛によって行なわれなければならない。特に霊的に罪からの断食を行わなければならない。私たちの生活を改めるという事が目的だ」という事を教ようとしていますが、特に教会はそれと共に、断食を補完する施しについても目を向けさせようとしています。

ですから、この施しというのはどのようになさるかという事を、聖福音でもう一度言います、「施しというのは、私たちは純粋に愛によってなされなければならない。この愛というのは、敵さえも愛するという愛によって、天主を愛するが為に、私たちのエゴイズムではなく利己主義ではなく、隣人愛を施すこの愛によって施さなければならない。私たちの見栄の為でもなく、私たちの何らかの利益の為ではなく、純粋な天主への愛によって、憐れみによってなさなければならない。」

聖ヨハネとパウロはこの事を知っていました。そこで昇階誦でも、「私は1つの事だけを天主に望む。それは、天主の家にいつも居る事だ。」つまり聖ヨハネとパウロがやったように、自分の家を与えても、それをしてでも望んだ事は、「天主の家に行く」という事でした、「天国に行く」という事でした。そして天主が、「天主聖父が完壁であるように、自分も完全でありたい」と思ったのでした。

では私たちは今日、四旬節のスタートラインをすでに切った私たちは、どのような遷善の決心を立てなければならないでしょうか?

教会の声に従って私たちは、全ての事を愛に基づいて、イエズス・キリストへの愛によって為す事に致しましょう。私たちが祈りをするのも、断食をするのも、施しをするのも、利己主義のエゴイズムではなくて、自分の為ではなく、イエズス・キリストへの愛の為に、その決心を立てましょう。その今日の模範が聖ヨハネとパウロです。そして私たちのとっての模範はマリア様です。マリア様のその全御生涯がこれでした、「我、主の婢女なり。仰せの如く我になれかし。」「私の願いではなく、主の御旨がなされますように。仰せの如く我になれかし。」主の御旨、主を愛するが為に。この主を愛する四旬節となる御恵みを乞い求めましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

2018年2月12日(月)  証聖者童貞聖マリアの僕の会の七創立者のミサ 「世界に本当の平和をもたらす方法」

2018年03月26日 | お説教・霊的講話
2018年2月12日(月)証聖者童貞聖マリアの僕の会の七創立者のミサ
小野田神父 説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。

今日は2018年2月12日、7人の聖母のしもべの会の創立者の祝日を祝っています。

今日この御ミサが終わった後には、御聖体降福式、聖時間を捧げたいと思っています。特に世界の平和、日本の平和と、朝鮮半島での平和の為にお祈りをお願いします。

韓国が共産主義の手の元に入ってしまわないように、お祈りをお願い致します。また中国大陸にいるカトリック信者の人々の為にも、お祈りをお願い致します。


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、ついに明後日からは四旬節が始まります。灰の水曜日です。その灰の水曜日の前に教会は、天主様の御摂理によって、7人の聖母のしもべの会の創立者の祝日を祝うように、その模範に倣うようにと私たちを招いているようです。

そこでぜひ、この今日祝っている祝日の聖人はどのような人なのかを見て、

実は、このような聖人たちが現代必要だ、という事を黙想し、

最後に遷善の決心を立てる事に致しましょう。

7人の聖母のしもべとはどういう人たちかというと、13世紀のフィレンツェという豊かな、そしてとても富に満ちたところに生きていた人々です。今でもフィレンツェといえばドミニコ会の聖マルコ教会があったり、フラ・アンジェリコの絵画があったりしてとても有名で、とても裕福な都市でした。

しかし13世紀には、フェデリコ2世というトップが教会に対して攻撃を始め、そして貴族たちが相互に互いに争い合っていました。そして非常に残酷に殺し合ったり、分裂したり、そしてその風紀は非常に乱れていました。

そのような時に、1233年、御昇天の大祝日に、マリア様が7人の貴族の兄弟たちに現れて、1人1人に現れて、そして「より完璧な生活を送るように」と招きました。

7人の貴族たちは兄弟たちで、非常に高貴な生まれで、富も莫大な富を持っていました、権力もありました。しかしこのマリア様の特別な御旨を知ると、その富も名声も力も全て捨てて、「マリア様に従う」と言いました。

教皇様にその事を言うと、教皇様はその事を、「そうするように」と言って下さいました。そこで、ただより大きな、より完璧な生活をする、という目的で、7人の兄弟たちが兄弟愛に従って、清貧と苦行の生活を始めました。その始める日は9月8日、マリア様の誕生日から、という事になりました。

隠遁生活をして、祈りと特にイエズス様の御受難を黙想するように、そしてそれと共にマリア様の七つの悲しみを苦しみを、十字架の下に佇むマリア様の御悲しみを黙想するその団体ができました。

その兄弟たちがある時、通りすぎる時、子供たちが「マリア様のしもべたちだ!」と叫んだのです。その中にはその内の子供の中には、4ヶ月になる聖フィリッポ・ベニティオもいました。この「聖母マリア様のしもべ」という名前がそのまま残りました。

次にマリア様が聖金曜日にお現れになって、「修道服はこのようにしなさい」というご自分の望みをお知らせになって、そして教皇イノチェンテ四世によって正式に修道会として創立されました。

この聖母のしもべ修道会は特に、マリア様の御苦しみ御悲しみを黙想する、マリア様をお慰めする、という事を非常に大切に、特にその事を黙想する事をしました。マリア様の御悲しみを黙想すれば黙想するほど、その修道会はますます会員を増やし、フランスやドイツやポーランドなどにもその修道会を増やし、多くの人々を回心に導きました。

特にフィレンツェでは、この兄弟たちがマリア様の元で、富も名声も捨てて、苦行と祈りの生活に入るのを見て、貴族たちも戦いをやめて、そして街に平和が戻ってきました。

ちょうど現代の社会はまさにこれのようです。人々が自分の富と権力とを求めて、ある者は独裁者になろうとし、ある者はその独裁の権力を保持しようとますます人民を圧迫したり、世界の平和を脅かそうとしたりしています。このような時にちょうどマリア様は、それらに打ち勝つ方法は、世界に本当の平和をもたらす方法は、「私たちの祈りであって、苦行である。聖なる生活である」という事を今日お知らせになっているかのようです。

特に四旬節の始まる前には、「この7人の貴族たちの生活を見倣うように」と、目の前に模範を示しているかのようです。このそのままでいれば何の不便もない生活を送る事ができたこの貴族たちは、より高度な目的の為に、「マリア様に仕える」という目的の為に、そしてフィレンツェと世界の平和と人々の福利の為に、天主への光栄の為に、全てを捨てて祈りと苦行の生活に入ったのでした。

私たちも、私たちはその全てを捨ててこの7人の創立者のような事はできませんけれども、しかし少なくとも、マリア様の御悲しみを黙想する、祈りを捧げる、ちょっとした犠牲を捧げる、という事はできそうです。

今日は四旬節の始まる2日前です。特に良い遷善の決心を立てる事に致しましょう。7人の創立者の御取り次ぎによって、マリア様の御取り次ぎによって、私たちが今年の四旬節こそ、特に平和がこれほど現実に脅かされている現代、今年の四旬節こそ、何かをしなければ本当に戦争が勃発してしまったり、あるいは多くの人々の何百万人という人々がボートピープルになってしまったり、難民になったり、あるいは命が失われてしまう危険があるこの四旬節を、聖なるものとして過ごす事ができますように、良い決心を立てる御恵みを乞い求めましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

2018年2月11日(主)  五旬節の主日「今日は私たちは道端に座っている盲目の乞食です。」

2018年03月26日 | お説教・霊的講話
2018年2月11日(主日)五旬節の主日のミサ
小野田神父 説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。

今日は2018年2月11日、五旬節の主日のミサをしております。

2つの主日のお知らせがあります。来たる水曜日、2月14日は灰の水曜日です。四旬節が始まります。この日は成人の20歳以上59歳までの健康な男女の信者は、大小斎を守らなければなりません。1日に1回ご飯を食べて、そして肉を食べないという事です。

聖伝によれば、昔はこの灰の水曜日から40日間大小斎を捧げていました。主日を除いて復活祭まで捧げていましたが、現代では非常にそれが緩和されて、40日間の代わりに2日だけ、灰の水曜日とそして聖金曜日だけになりました。どうぞこのチャンスを逃さないようにお捧げ下さい。

明日は9時30分からミサがあります。特に明日はミサの直後に、日本の平和の為に、また朝鮮半島が共産主義の支配の下に陥ってしまわないように、特別に聖時間を設けたいと思っています。


「ダヴィドの子イエズスよ、私を憐れんで下さい。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は五旬祭の主日で、四旬節へのスタートラインがもうそこに見えていて、2月14日はすでに「位置について、よーいドン!」で、四旬節の犠牲を祈りを始めなければなりません。

最後のウォーミングアップとして、3週間続いた七旬節・六旬節の最後の準備の、最高潮に達しています。

そこで今日は、どうやって教会は私たちに四旬節の準備をウォーミングアップをさせて、今日一体どんな事を、どうゆう風にさせて四旬節の準備をするのを望んでいるかを黙想する事を提案します。

今日の主人公は、皆さんです。この前は2月2日は皆さんはシメオンでしたが、今日は道端に座っている盲目の乞食です。

今日は皆さんがこの彼なのです。そして教会はこの盲目の乞食にスポットライトを当てて、「さぁ、これが皆さんですよ。彼がやったようになさりなさい」と示しています。そこで3つの段階があります。

1つは、その為にこの道端に座っていた、この盲目の人と同じような境遇だった人を何人か、2つのグループをみせます、1人は聖ペトロです、もう1つは十二使徒です。そしてこの今日の主人公、私たちが出てきます。

そして教会はその後で御聖体拝領の時に、「しかし、私たちの望みは決して無駄にはならない。私たちは全て満たされる」という事を約束して、御聖体拝領をさせて、そして「さぁ、スタートに立つように、四旬節を張りきるように」と応援しています。

今日はその事を、どのようになっているか見てみます。

まず第1に出てくるのは、聖ペトロです。私たちを霊的に指定巡礼教会、聖ペトロ大聖堂に連れて行きます。聖ペトロのお墓の元に、殉教したそのペトロのお墓の元に行って、「ここでお祈りをするように」と招きます。聖ペトロこそ新約聖書の、新約の教えの基礎となる、イエズス・キリストがその御自分の教会をお建てになったその基礎の巌です。この基礎の巌の上に私たちの四旬節を建てるように、と求めています。

ところでこの四旬節の基礎となる聖ペトロは、私たちに何を教えているでしょうか?

実は聖ペトロは、ガリレアという田舎に住む漁夫でした、お魚の漁師でした。田舎の「おじさん」でした。すみません言葉が悪いのですけれども。しかしイエズス様がペトロを選びました。そしてご自分の畑で働くようにと呼び出しを受けました。

特別の光を受けて、イエズス様から教えを受けたにもかかわらず、このペトロはイエズス様を否みます、3度否みます、「この人を知らない」「関係ない」「何の話か分からない、俺は関係ない。」そしてイエズス様がそのようなペトロをご覧になります。聖木曜日でした。イエズス様がペトロをご覧になった時に、ペトロはイエズス様の眼差しを見て、痛悔の苦い苦い涙を流します。そして聖ペトロは以後、死ぬまで涙を流し続けます、「イエズス様を否んでしまった」と。

このペトロに復活したイエズス様が現れて、たった1つだけ、同じ事を1つの質問を3回します。聖ペトロはその事を決して忘れる事ができません。そしてこれはペトロに、「ヨナの子シモン、ペトロ、お前は私の事を愛しているか。」「主よ、御身は全て御存知です。あなたは私が愛しているという事を御存知です。」「ヨナの子シモン、お前は私を愛しているか。」「主よ、確かに私はあなたを裏切ってしまったけれども、あなたは御存知です。私は御身を愛しています。」3回同じ事を聞きます。そして聖ペトロは回心しました。イエズス・キリストに対する愛を告白しました。そしてこの愛の上に、イエズス様は教会を建てようとします。

私たちを聖ペトロの元に連れて行った教会は、「この上に四旬節を送るように」と求めています。

ところが聖ペトロは、自分の口ではなく、自分の兄弟である同じくローマで殉教したパウロの口を通して、同じ事を言うように言います、「もしも天主に対する愛がなければ、たとえ断食をしても、たとえ持っている物を全て献金しても、奉献しても、たとえ私がこの身を焼かれるほど殉教の精神を持ったとしても、主に対する愛の為でなかったら、何の利益もない。」

四旬節の全ての私たちの祈りと犠牲とその全ての行為は、イエズス・キリストに対する愛に基づかなければならない。『さぁ、四旬節が始まるけれども、あなたは私の事を愛しているか』とイエズス様は私たちに問うている。

これをぺトロはパウロの口を通して、今日書簡の中で語りかけています、「信仰は天国に行ってしまえば無くなってしまう。希望も天国に行ってしまえば無くなってしまう。しかし愛だけが永遠に残る。愛は、天主を愛して愛しすぎる事はない。四旬節もこの愛がなければ全く意味がない。」

第2は何かというと、それは十二使徒です。

遂に四旬節が始まろうとするという事は、つまりイエズス様の御受難の黙想が始まるという事です。イエズス様は何でそんなに苦しまなければならなかったのか、イエズス様は私たちを愛するが為に、これほど愛しているが為に、これほど苦しんでいる。しかし私たちはそのイエズス様の愛をどれほど理解しているでしょうか。

イエズス様はそこで、今日福音の中で、まず「さぁ、」エルサレムに行って、最後に3回目に行って、弟子たちに自分の受難と復活の予告をします、予言をします。しかし弟子たちはその事を理解できませんでした。盲目でした。何の事かさっぱり分かりませんでした。

私たちももしかしたらそうかも知れません。イエズス様が私たちはどれほど愛して下さっているか、という事に対して、実は分かっているようで理解していないのかもしれません。

イエズス様が一生懸命、「あぁ」皆さんが寒いだろうからといって、手袋を一生懸命夜なべして編んでくれたにもかかわらず、「何だこの色は、毛糸の手袋は嫌だ、毛皮の方が良い。こんなのは使えないよ。何だこれは、形が悪い、デザインが悪い」

イエズス様が私たちに贈る愛のしるし、色々な御摂理の愛のしるしは、私たちにとってイエズス様の愛として受け入れてきたのでしょうか。それとも聖ぺトロのように、「知らない、いらない」あるいはイエズス・キリストの愛を疑ったり、あるいはイエズス・キリストの御摂理に文句を言ったり、あるいはイエズス・キリストからのお恵みを、受けたお恵みをどれほど多く無駄にしてきた事でしょうか。

五旬節の主日では、教会は私たちに召命の話を聞かせました。道端でぶらぶらしていた人が、「お前、私のブドウ畑で働け。お前なんで1日中こんなに無駄にしているのか。」「お前なんでこんな所でぶらぶらしているのか、さぁお前も働け。」そして私たちも、1人では何もできず、何の事かよく分からずに道に座っていた、盲目の乞食のようでした。

しかし今日は周りの人が、特に神父様が「あぁ、2月14日だよ。四旬節だ。」と言っています。

「これは何の話だろうか?イエズス様の御受難?え?誰が通っているのですか?誰がいらっしゃるのですか?」

「イエズス・キリストが、2月14日から私たちの元にいらっしゃる。イエズス・キリストがもしもここで通ったらもう帰って来ない、一度通り過ぎたらもう戻って来る事はない。今しかチャンスがない。」

この乞食は「え?イエズス様が来た?」と聞いて、叫びに叫びました、「ダヴィドの子、憐れみ給え!」

ちょうど目が開かれていなかった使徒たちからすぐに、第3の私たちへとスポットライトが当たります。

私たちは今日、「四旬節が近い。イエズス・キリスト様が御恵みを持っていらして下さっている」という話を聞いています。

私たちはまだ何の事かよく分かりません。イエズス様がどれほど私たちを愛しておられるか、という事もよく分かりませんし、この苦しみの意味もよく分かりませんが、しかしイエズス様に多くの信頼をもって祈ります。

「ダヴィドの子よ、私を憐れんで下さい!憐んで下さい!」
「黙れ!」

「あぁ!ダヴィドの子よ!」誰も止める事ができません。そして教会は皆さんに私たちに「同じようにこの四旬節にはイエズス様が通るから、もしもこのチャンスを逃したら、もう一生盲目のまま残るかもしれない。さぁ、恐れずに祈れ。恐れずに犠牲を捧げよ。この機会を逃すな」と招いています。

そこで私たちも同じように、「主よ、憐んで下さい!」と祈り犠牲を捧げなければなりません。私たちがするのはそれです。愛に基づいてしなければなりません。

この乞食を見て、イエズス様はこの乞食を自分の元に呼び寄せます、「何をしてもらいたいのか?」
「見えるようにして下さい。」
するとイエズス様は光を与えます。

私たちもイエズス様の元に近寄らなければなりません。教会はこの私たちをイエズス様の元に近寄るように招いています。イエズス様は私たちに聞きます、「何が欲しいのか?」

どうぞ仰って下さい、「光を下さい、イエズス・キリストあなたご自身を下さい。御身はどうしてそのように苦しまれたのか、その意味を教えて下さい。イエズス様、御身はどれほど私たちの事を私の事を愛しているのか、それが分かるようにして下さい。そして私が御身を愛する事ができるように、光を下さい。」

この私たちの叫びは復活祭まで続きます。復活祭の時には、イエズス様は私たちに、復活の火を灯して下さいます。私たちに光を与えて見えるようにしてくれます。

その時に私たちは、なぜイエズス様がこれほど苦しまれたのか、理解する事でしょう。私たちに永遠の命を与える為です。復活を与える為、天主の光を与える為だと。

その時に私たちは全て満たされる事でしょう。最後に教会は、御聖体拝領の時に、聖歌隊をして私たちの耳に何度もこの歌を聞かせます、「彼らは食べて満足した、満たされた。そしてこの彼らの希望は決して無駄ではなかった。」

私たちは道に座っている、何も分からない盲目の乞食です。今日は特に、今年はルルドのマリア様の祝日でもあります。ルルドのマリア様は仰いました。まさに四旬節の言葉を仰いました、「償いをしなさい。」「償いをしなさい。」「償いをしなさい。」

聖ベルナデッタにこう言います、「私はあなたに、この地上では幸せを幸福を約束しません。しかし来世では約束します。」

私たちもマリア様のお言葉を聞いて、ぜひ良い四旬節の決心を立てる事に致しましょう。既に皆さんはもう良い決心を立てていると少し聞きました、車の中で。どうぞ寛大な決心を立てて下さい。今日のこの乞食のように、イエズス様にひたすらに祈りと犠牲を捧げて下さい。

“Jesu, fili David, miserere mei.”
「ダヴィドの子イエズスよ、私を憐れんで下さい。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

苦しみの玄義―第1玄義「主がゲッセマニの園にて死するばかり憂いたもう」の黙想

2018年03月25日 | お説教・霊的講話
苦しみの玄義 第1玄義の黙想
(2018年2月17日(土)御聖体降福式にて 小野田神父)



苦しみの第一玄義は私たちの主イエズスのゲッセマネの園での苦悩でした。

この苦悩・苦難には三つの種類がありました。

第1の苦難は、これから受けようとされる肉体的な苦しみをすでにご存じだったことです。

イエズス様の第2の苦難は、肉体の苦しみよりも、更に霊的な苦しみを受けていた、という事でした。
つまり、イエズス様は罪の、人類の罪の醜さと、恐ろしさと、その邪悪さを、まざまざと御覧になります。マリア様は罪の汚れのない御方であり、清い方であればあるほど、その罪の醜さがますますとよく分かりました。天主の目にとって罪がどれほど醜いものであるか、という事をよく理解されました。イエズス様が理解されたようにほぼマリア様も、その罪の恐ろしさを、醜さを理解されました。そしてそれに打ちのめされようとされていました。

1つの罪でさえもそうであるにもかかわらず、数えきれないほどの、世の始めから終りまでの無数の罪が、イエズス様とマリア様を襲います。天主に対する反逆、冒瀆、瀆聖、不潔、暴力、憎しみ、殺人、天に復讐を求めるような様々の罪、盗み、悪口、嘘。それらはイエズス様とマリア様を打ちのめそうとしています。

罪の汚さ、その邪悪さを、誰が正確に知る事ができるでしょうか。イエズス様とマリア様はそれをよく御存知でした。その汚い中に、イエズス様もマリア様も、あたかも溺れてしまうほど、その中に入らなければなりませんでした。何という辛い、嫌な、おぞましい事だったでしょうか。

「聖父よ、願わくは、もしも御旨ならば、このカリスを私から遠ざけて下さい。そしてマリア様からも遠ざけて下さい。」

かつて聖父は、イエズス様の御洗礼の時に、「これは我が愛する子」と宣言されました。タボル山の時に御変容の時にも、「これは我が愛する子。彼に聞け。」しかし今回は、ゲッセマネの園では、あたかも聖父はイエズス様の事を憎んでいるかのように、呪われたかのように、全く打ち捨てて、あたかも、聖父は捨て物のようにイエズス様を取り扱いました。あたかもイエズス様は聖父の敵であるかのように、イエズス様は私たちの罪を全て身に負われました。

イエズス様は聖父の御旨を果たす為に、愛する母親を残して12歳の時に神殿に残られました。「私が聖父の家に、仕事をしなければならない事を知らなかったのですか。」聖父の御旨を果たす事だけを考えてきたイエズス様。33年間、その事だけに時間を使った、生涯を尽くしたイエズス様は、その聖父からあたかも捨てられたかのように、憎まれているかのように取り扱われます。

「聖父よ、もしもできるならこのカリスを遠ざけて下さい。しかし私の思いではなく、あなたの御旨のようになりますように。」

第3の苦難は、肉体の苦難と、そして霊的な苦悩の更に大きな苦悩は、それを超える大きな苦悩は、イエズス様がこうして苦しみを受けて贖おうとした霊魂たちが、この苦しみを全く無益とする事でした

イエズス様はこれほどの苦しみの値を払って助けようとした人々が、無関心と、冒瀆と、忘恩で、それに応えようとしないのを見て、ますます御苦しみを深めます。せっかくの苦しみ、せっかくの苦悩、御血の無限の値が、無益になる。彼らを救う為に、これほど死ぬばかりの苦しみを耐え忍んでも、全くの無理解、全くの忘恩。却ってあるのは、屈辱と、馬鹿にする言葉だけ。

イエズス様はマリア様は、多くの人々がイエズス様の御受難を無益にする事をご覧になります。イエズス様からの恵みを受けたにもかかわらず、この御受難を無益にする人は、更に深い大きな罰が待っている事を、永遠の苦しみが待っている事を知っているが為に、更に苦しみます。何百万という霊魂がイエズス様の御血の功徳を無駄にしているのを、そして地獄の底に落ちるのをご覧になります。霊魂を救おうと望んでいるイエズス様とマリア様の聖心は、失われる霊魂たちを見てどれほど苦しまなければならなかった事でしょうか。自分の子供が、子供たちが地獄に落ちなければならないのを見て、どれほど苦悩で苦しまれた事でしょう。

「女よ、これ汝の子なり。」マリア様はこれらの霊魂の救いの為に、命を与えます。しかしこの霊魂たちは、このマリア様の心を理解しません。永遠にイエズス様とマリア様を冒瀆して、呪って、地獄にいなければなりません。

聖アウグスティヌスを救う為に聖モニカは、18年間祈りと償いをしました。マリア様の心はどれほどでしょうか。イエズス様の御血が救おうとしたこの霊魂たち、あるいは一度は御血によって洗われて、洗礼の恵みを受けた霊魂たちが永遠に失われる。マリア様の御悲しみはどれほど深かった事でしょうか。

「聖父よ、願わくは、このカリスを私から遠ざけて下さい。そしてマリア様からも遠ざけて下さい。しかし私の意図ではなく、聖父の御旨がなされますように。“Ecce ancilla Domini.” 我、主の婢女なり。仰せの如く我になれかし。」

第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ (続き9)【ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」】

2018年03月25日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ(続き9)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ(続き9)


 (d)内的生活は、使徒に、まことの“雄弁”をあたえる

ここにいう“雄弁”l'éloquence とは、人びとを回心させ、善徳にみちびくために、じゅうぶん力をもっている、天主の“恩寵を運ぶ者”porte-grâce ともいうべき、弁舌のことである。
 これについてはすでに、それとなく語ってきたから、ここでは、ただそれに数語を加えるのみにとどめよう。
 福音記者聖ヨハネの聖務日課の答唱に、こんな文句がある。

  主の御胸によりかかりて
  福音のきよき流れを、主の
  御胸の聖なる泉より飲みぬ、かくて
  天主のみ言葉の恩寵を、全世界にそそぎいだせり

 この短い一句のなかに、どれほど深い教訓が、 ――説教をする人、著述をする人、カトリック要理を教える人など、すべて天主のお言葉を人びとにわけあたえるべき使命をおびている人たちにとって、どれほど深い教訓が秘められていることだろう。これらの特に目立つ表現をもって、教会はその福音の働き手に、まことの雄弁の泉がどこにあるか、それを克明に教示しているのではなかろうか。
 福音記者はみな、同じように、聖霊のインスピレーションをこうむって、自分らの福音を書いた。
 各自は、それぞれ異なった、摂理的使命をもっている。だが、各自は、それぞれ独特の雄弁をもっている。わけても、聖ヨハネの雄弁は、他にぬきんでている。聖ヨハネの雄弁は、読む人の心に、“天主のみ言葉の恩寵”verbi Dei gratiam をそそぎ入れる。そして、その恩寵は、人の精神から意志の深奥に、流れこんでいく。聖パウロの書簡とともに、聖ヨハネ福音書は、イエズス・キリストとの一致なくしては、この世の人生には意味がないとする霊魂たちの愛読書である。

 人の心を魅了せずにはおかないこの雄弁はどこから聖ヨハネに来るのだろうか?その恵みゆたかな水をもって全世界をうるおすこの大河 Fluenta in toto terrarum orbe diffudit は、どんな山に、その源を発しているのだろうか?

それは、地上の楽園の河の一つである、と典礼はいう。Quasi unus ex Paradisi fluminibus Evangelista Joannes.
 多くの高い山々や氷河が、なんの役に立つのか。無知な人はこう言うかもしれない。はてしもなく連なるこれらの山々が、もし一面に広々とした平野だったら、もっと人びとの役に立ったのではないか?と。だが、これらの高い山々がなかったら、平野や谷間はサハラ砂漠同様の不毛の地となってしまうとは、彼は疑わないだろう。
 実に高い山々こそは、そこから流れくだる水の流れによって、平野をうるおし、これを肥沃な土地にするのだ。山こそは、河の流れの貯水池である。

 聖ヨハネの福音書をはぐくむ、恩寵の流れの泉が、そこからほとばしる、という地上楽園の高い峰――それは、イエズスの聖心でなくて何であろう。Evangelii fluenta de ipso sacro Dominici pectoris fonte potavit. 聖ヨハネ福音記者は、内的生活によって、人類にたいするその果てしなき愛に鼓動する、天主の人イエズス・キリストの聖心の調べを、心の耳でききとったればこそ、かれの綴る文章の一語一語は、天主のお言葉の“恩寵を運ぶ者”となったのではないか。Verbi Dei gratiam diffudit.

 これと同じく、内的生活をいとなむ人々も、ある程度において、地上楽園の河の流れといえよう。かれらは、その祈りと犠牲によって、恩寵の生ける水を、天国の楽園から、地上の涙の谷へと雨ふらせる。かくて、罪ふかき大地が当然、こうむらねばならぬ天主の罰を、未然に防ぎ、またはごく短く軽いものにする。
 そればかりではない。かれらの祈りと犠牲のこころよき香煙は、天のいと高き処まで――そこに天主の内的生命がお住まいになるイエズスの聖心まで、のぼっていく。そこには、天主的生命の泉が、こんこんと湧きでている。そして、この泉の流れをこそ、かれらは人びとの霊魂に、ゆたかにそそぎ入れるのである。「あなたがたは喜びをもって、救いぬしの泉から、生ける水を汲み取れ」Haurietis aquas de fontibus Salvatoris.(イザヤ12・3)との、イザヤ預言書の言葉そのままに。
 彼らは、天主のお言葉を、人びとにわけあたえる使命をおびている。
 そして、この使命を、かれらは雄弁をもって遂行するのである。
 なにが、かれらの言葉に、雄弁のちからをあたえるのか。
 その秘訣を知る者は、かれらだけである。
 かれらは、地上の人びとに、天主のことを語る。
 かれらが口を開くと、闇に沈んでいる人は、光りをみる。
 冷えた人は、あたためられる。泣く人は、なぐさめられる。
 弱い人、くじけた人は、強められる。

 これらの特長を、具備していないなら、かれらの雄弁も完全ではない。そして、イエズスのご生命に生きていないなら、これらの特長を、具備することはできない。かれらの雄弁に、生き生きとした力をあたえるもの――それは、念禱であり、聖体訪問であり、ミサ聖祭、わけても聖体拝領である。このことをよくさとっているかれらは、これらの信心業にこそ、雄弁のちからを期待しているのである。
 わたしも果たして、こういう人たちの中の一人だろうか。もしそうでなかったら、わたしの弁舌は“ひびくドラの音”cymbalum tinniens のようにやかましい。わたしの弁舌は“鳴る音” velut aes sonans のように、騒々しい音だけは立てることができよう。だが、それはけっして、愛の運河ではない。天主の友たる福音伝道者の雄弁をして、不可抗力的効果を発揮させる、天主の愛の運河ではない。
 学問はあるが、信心は至って平凡な説教師が、キリスト教の真理をうきぼりにして、人びとに提示する。かれの弁舌は、人びとの霊魂を、ゆり動かすことはできよう。人びとを天主に近づけ、人びとの信仰を増すこともできよう。だが、世の人びとに、善徳の芳香を味わわせるためには、どうしてもまず自分自身が、体験的に、福音の精神を味わいつくしていなければならぬ。そして使徒は、念禱の生活によってこそ、福音の精神を、おのれの生命の本質に同化するのだ。

 これにひとこと、つけ加えたい。いっさいの霊的結実性の源なる聖霊だけが、人びとの回心を実現させることが、おできになる。聖霊だけが、人びとの霊魂に恩寵をそそいで、かれらに悪をさけさせ、善をおこなわせることがおできなる。はたしてそうであるなら、人びとの聖化を第一義的使命としてもつ、この聖霊の恵みゆたかな息吹に浸透されるときにはじめて、福音伝道者の言葉は、恩寵の生ける運河となるのではないか。そしてこの運河をとおしてこそ、天主のお働きは、意のままに、成就されていくのではないか。
 論より証拠、聖霊降臨いぜんに、使徒たちはどんなに説教しても、これという効果はあがらなかった。だが、内的生活に充実した十日間の黙想ののち、聖霊はかれらの霊魂をくまなく浸透し、かれらの全人格を一変し、革新したのである。かれらの説教は、最初のテストにおいてすでに、霊魂の奇跡的大漁というすばらしい成績を収めた。
 福音のタネをまく者はみな、このような段階的拡大の過程をふまなければならない。
 内的生活によって、かれらはほんとうに“キリスト保持者”となる。
 かれらはいつも、効果的に植え、かつ水をそそぐ。
 聖霊は、かれらの植え、かつ水をそそいだものに、いつも“発育”をお与えになる。
 かれらの語る言葉こそは、霊魂の畑にまかれるタネであり、同時に、それを実らせる恵みの雨でもある。それを発育させ、実らせる義の太陽は、瞬時も、くもることはない。
 聖ベルナルドが、こういっている。

 “光輝く”だけでは、空しい。
 “熱く燃える”だけでは、小さい。
 “熱く燃えて、光輝く”それが完成だ。

Est tantum lucere vanum
tantum ardere parvum
ardere et lucere perfectum.

『あなたがたの光りを、人びとの前にかがやかせなさい』(マテオ5・16)とは、とりわけ使徒たち、および使徒職にたずさわる人たちにいわれている。かれらは、燃えていなければならない。熱烈に燃えていなければならない」
Singulariter apostolis et apostolicis viris dicitur : Luceat lux vestra coram hominibus, nimirum tanquam accensis et vehementer accensis.
(『先駆者聖ヨハネの祝日の記録』)

 使徒が“燃えて、かがやく”とき、その語るや、必らず福音的雄弁である。
 さて、使徒は、この福音的雄弁を、どこから汲みとるのか。念禱による、イエズスとの一致の生活、心の取り締まり、聖書の熱心な考究と味読――これらのうちにこそ、それを汲みとるのである。
 天主が人間に、お語りになったお言葉、イエズスのおくちびるから洩れでたすべてのお言葉――それはかれにとって、ダイヤモンドのように貴重だ。天主のお言葉のどんなに小さなかけらの中にも、無限に尊いものが凝縮されていることを、英知の賜ものによって、かれはさとっている。さとって感嘆する。
 しかしかれは、まず熱心に祈って、聖霊の光りをねがい求めた後でなければ聖書を開かない。そこにしるされている天主の教訓を、ただ感嘆するだけでなく、しみじみと心に味わう。あたかも聖霊が、自分ひとりのために、これらの教訓を物語っておられるかのように、思われてならない。
 そんなわけで、かれがひとたび説教壇に立つと、天主のお言葉の引用にさいしては、どれほど大きな感動をもって語ることだろう。ほかの説教師だったら、ただ理性の自然の光りと、無味乾燥な、ほとんど死にかかった信仰の助けによって、なんとかその場かぎりの説教はできよう。たくみな、学者らしい適用もできよう。だが、これらの小細工は、前者が聴衆の心に投げかける超自然的光りとは、くらべものにならない。
 前者は、生ける真理を、聴衆に示す。生き生きとした一つの現実をもって、聴衆の心をとらえる。このようにして、聴衆の頭を啓発するばかりでなく、その心までも生かすのである。
 後者も、真理を語りはする。だが、かれの語る真理は、ちょうど数学の方程式のようなもので、味も素っ気もない。なるほど、たしかな真理ではある。だが、なんの滋味もない。現実の生活に直結していない。かれは徒らに、宗教の真理を、抽象的にする。真理を、いわば棒暗記式のものにする。俗にいうキリスト教の審美的要素からのみ、人びとの心を感動させようとする。感傷家のジャン・ジャック・ルソーが告白している、「福音書の荘厳美は、わたしを驚倒させる。福音書の単純美は、わたしの心に語る」と。
« La majesté des Ecritures m'étonne. La simplicité de l'Evangile parle à mon coeur », avouait le sentimentaliste J.-J. Rousseau.

 だが、この漠然としてつかみどころのない、現実の生活になんの影響も及ぼさない、瞬間的な感動がなんになろう。天主の栄光のために、なんの役に立とう。
 まことの使徒は、福音書を、そのあるがままの姿において示す、秘訣を心得ている。
 その姿は、いつも現実の効果を、聴く人の心に生ずるばかりでなく、それは天主的であるから、いつも生きている姿である。たえまなく、新たにされていく姿である。
 まことの使徒が、福音書を語るとき、かれは聴く人のもろい、はかない感情なんかにこだわってはいない。聴衆が、安価な随喜(ずいき)の涙をながしたからとて、それに満足しきれない。天主的生命の言葉を語ることによって、かれは聴衆の“意志”に、じかに触れるのだ。意志にこそ、まことの生命なる“恩寵の生命”への協力が、宿っている。そのことを、かれはよく知っているからである。かくて、聴衆の心に、つよい確信を生じる。つよい確信は、愛と決心を生む。――こういう使徒だけが、ほんとうの福音的雄弁をもっているのだ。
 だがしかし、聖母マリアにたいするまことの、孝子のような信心がなければ、内的生活はけっして、完全ではありえない。聖母は、いっさいの恩寵、とりわけ特選の恩寵の運河であられるからである。聖母のみもとにいつも、馳せていって助けを求めないキリスト信者は、聖母のほんとうの子どもではない、と聖ベルナルドはいっているが、じじつ、こういう孝子的信心になれている使徒は、天主の母であって同時に、人類の母でもある聖母マリアにかんする、教会の信条を説き明かしているあいだに、聴衆の心をいたく喜ばせ、感動させるばかりでなく、なにか困難が起こった場合にはいつも、キリストの御血の功徳の分配者なる、聖母のみもとに馳せていって助けを求める、というりっぱな習慣を、かれらにも、つけさせてやることができる。
 それも、ただ自分の体験したことを語るだけで、それだけでりっぱに、人びとの霊魂を、天の元后のためにかち得ることができる。また、かちえた霊魂を、彼女によって、イエズスの聖心の愛の火中に投ずることができるのである。


2018年2月4日(主)  六旬節の主日「イエズス様の御言葉の種を受ける良い土地となる準備は良いか。」

2018年03月25日 | お説教・霊的講話
2018年2月4日(主日)六旬節の主日のミサ
小野田神父 説教


聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。

今日は2018年2月4日、六旬節の主日のミサをしています。今日の主日のお知らせがいくつかあります。

1つは、この御ミサの終わりにいつものように感謝のお祈りをしますけれども、その後で、昨日は聖ブラジオの、殉教者聖ブラジオの記念日でしたので、その聖ブラジオのローソクによる喉の祝別を皆さんに提案します。どうぞ皆さんいらして下さい。

今日の午後の14時から公教要理、今日は、一昨日の祝日であった御潔めの式とイエズス様の御奉献は、一体なぜマリア様は潔いはずなのに、なぜ潔められなければならなかったのか、あるいはイエズス様はすでに天主の御子で神殿は自分のものなのに、なぜ奉献されなければならないのか、というもっともな疑問に聖トマス・アクィナスは何と答えているか、という事を皆さんに紹介したいと思っています。16時から晩課があります。
明日もミサがあります。明日は日本26聖人のミサを捧げようと思っています。

このミサは特に毎月の最初のミサで、今年は聖ピオ十世会の総会がありますので、その総会の成功の為に特に捧げたいと思ってます、皆さんぜひ初土の信心の為に、また総会の成功の為に御聖体拝領をこのミサでお祈りなさって下さい。

最後のお知らせは、次のミサです。2月18日にミサがあります。ところで2月14日は灰の水曜日です。そしてカトリック教会の掟によると、満20歳以上59歳までの健康な成人の男女は、大小斎を灰の水曜日に守らなければなりません。昔々は以前は40日間、灰の水曜日から大小斎を守っていましたけれども、今ではそれが非常に緩和されて、灰の水曜日と聖金曜日だけになりました。ですからぜひこのチャンスを逃さずに、ぜひこの大小斎の掟を守るようになさって下さい。

日本の選手が冬季オリンピックで活躍する、金メダルを何個取るか、応援するのも非常に大切ですけれども、私たちが救いの金メダルを取る為にこの四旬節のオリンピックに参加する事は、四旬節の競技場で走る事は、もっと大切です。どうぞ良い四旬節を過ごす事ができるように、この灰の水曜日をぜひお忘れなく、2月14日です。灰の水曜日。復活祭は4月1日です。


“Libenter igitur gloriabor in infirmitatibus meis.”
「喜んで私は、私の弱さを誇ろう。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日教会は皆さんを霊的に門外の聖パウロ大聖堂に、聖パウロのお墓の元に連れて行きます。指定巡礼教会は聖パウロです。そればかりか集祷文においても、そして書簡においても、聖パウロの言葉を私たちに響かせます。そこで教会と一緒に、聖パウロの元に馳せ寄せる事に致しましょう。

四旬節が近付いてきました。四旬節の良い決心を立てる為に、教会は1つのプログラムがあります。そのプログラムに沿って私たちは、その四旬節への準備をする事に致しましょう。どんなプログラムでしょうか?

1つは、私たちを聖パウロの元に連れて行って、聖パウロが過ごした一生を私たちに見せます。まさにアスリートの人生であって、四旬節の人生でした。

第2に、イエズス様の御言葉の種を受ける準備は良いか、という事を私たちに聞かせます。

そして最後に、私たちはイエズス様の御言葉を、本当に御聖体拝領で受けます。その時に私たちはどういう決心を立てなければならないか、というプログラムです。

この3つの点を見てみます。

第1に、実は教会は聖パウロを使って私たちに、天主の御言葉の種を蒔かせようとしています。大体パウロは言っています。
「私がキリストに倣っているように、お前たちも私に倣え」と。
それでイエズス様の御言葉を一生懸命、異邦人たちに種を蒔くのです。

教会はそのパウロの言葉を非常に頻繁に書簡の中で引用して、パウロの言葉を聞かせようとします。では特に今日はどんな所が選ばれたかというと、パウロの人生が選ばれました。なぜかというと聖パウロの人生は、その広さその幅広さにおいても、その高さにおいても、深さにおいても、3次元において、まさに四旬節だからです。

[その幅広さにおいて]
なぜかというと、聖パウロは宣教旅行で色々な所に旅して、色々な困難を受けたからです。

その宣教の仕事、あるいはその受けた苦しみ、あるいはその犠牲など、他の宣教師たちと比べるべきもありません。小野田神父がこの前の雪で、成田空港のベンチで一晩を過ごしたなどというのは何でもありません。パウロは何度遭難しようとした事か、何度命を奪われようとした事か、何度断食をしただろうか、どれほど凍えて寒かっただろうか、どうぞこの書簡を読んで下さい。聖パウロのこの受けた苦難がしみじみと伝わってきます。

聖パウロは言います、もしも聖パウロに私たちが、「では聖パウロ、あなたにとって一番好きなのはイエズス様なのですね」と言ったら、聖パウロは「違う」と答えるに決まっています。

「一番ではない。イエズス様は私の全部だ。全てだ。我にとって生きるはキリストである。」まさに聖パウロがイエズス様の為に一生涯を尽くして努力した、その幅広い仕事を見ると、私たちはもう何も言う事ができません。

[その高さにおいて]
そればかりではありません。聖パウロは、「この事を誇らないけれども、しかし天の最も高い、人間の言葉で言う事ができない天主の神秘を見た。」聖パウロほど、生きている間にそれほど高い神秘的な体験をした者はない、おそらくモーゼがそれに匹敵するかどうか、それほどの高い霊的な生活を送っていながらも、聖パウロは私たちにその「そんな事は私は誇らない」と言います。私たちの祈りの生活は一体どうでしょうか。

[その深さにおいて]
しかも聖パウロは、人間として多くの苦しみがありました。聖パウロははっきりとは言わないのですけれども、棘が与えられて、何か誘惑があったのでしょうか、あるいは何か体に傷を負っていたのでしょうか、あるいは何か不自由な事があって非常に困っていた事だったでしょう。「三度ひたすらお願いした。ぜひこのこれを取って下さい。」しかしそれさえも聞いてもらえず、「お前にとって私の恵みで十分だ。」そして聖パウロは、「まさにこの私の弱さ、この苦しみ、私が受けるこの苦悩、これを誇ろう。これこそが俺のものだ」と言っています。その苦しさの深みを見ると、私たちの苦しみは一体何でしょうか。

まさに聖パウロの人生は、四旬節の人生でした。戦う者の、イエズス・キリストの人生でした。ではそのような聖パウロのような実り豊かなものを私たちに見せて、聖パウロの取り次ぎをも祈らせて、次にイエズス様の言葉を聞かせます。

第2のポイントです。それは私たちは年がら年中聖パウロの言葉を通して、あるいはイエズス様の御言葉という天主の御言葉を、イエズス・キリスト様を私たちは受けているのに、御聖体拝領をしているのに、耳で聞いているのに、しかしあまり実っていない。一体何だろうか。すると、「種は同じなのだけれども、実は受ける土地が違うんじゃないか」という事を私たちに教えてくれます。色んな種類の土地がある。

1つは、皆があっちに行ったりこっちに行ったり通って、踏み固められて硬くなって、種が入る余地のない、踏み固められた、厚い面の顔をした霊魂だ。染み透る余地がない。この世の事で、人々で、流行で、あるいは色んなこの世の行ったり来たりで、それでいっぱい、という霊魂。

もう1つは、石だらけで水が無いので、とても根が無くて、太陽が出ればすぐ乾いてしまう。あるいは土はあるのだけれども、他に雑草がたくさんいるので、結局長続きしない、窒息してしまう。イエズス様がよくきれいに分かりやすく説明されている通りです。

私たちはこの四旬節にこの例えを聞かされて、「あぁ、今まで私たちの霊魂はもしかしたら、この道路のようだったのではないか。私たちの霊魂は確かにイエズス様の御言葉を聞いた、物理的に聞いた、受けたようだけれども、しかし心はこの世の事で踏み固められていて、あるいは何を食べよう、何をどんなファッションを追おうとか、あるいはどんなYouTubeを見よう、どんなFacebookを、等と言ってそちらの方で、あるいは更に邪悪な考えによって、世俗の考えによって、イエズス様の入る余地が全くなかったのではないか。」

それで私たちは今日この福音を読むと、「どうぞイエズス様、私の心を砕いて下さい。罪に凝り固まった私の心を粉々にして、そしてイエズス様の恵みが染み透る事ができるようにして下さい。罪の痛悔を与えて下さい」と祈らざるを得ません。「どうぞこのカチコチだった心を、どうぞ柔らげて下さい。恵みで溶かして下さい。」

あるいはもしかしたら私たちの心には、お恵みの根が育つのを阻害する石がいっぱいかもしれません。「どうぞイエズス様、この石を取るのを手伝って下さい。お祈りの力でどうぞこの石を柔らかくして下さい。この固まった泥を柔らかくして下さい、石を取り除いて下さい、罪の機会を取り除いて下さい。私の取り除くべき石はどこにあるでしょうか、教えて下さい。」

あるいは「この私の周りにたくさん育っている雑草、霊魂を窒息させるという雑草、これを取るのを手伝って下さい。一人で取る事はできません。聖パウロ、助けて下さい。私たちの一人の力では何もできません、どうぞ助けて下さい、聖パウロ。」

そして私たちの雑草を取る、イエズス・キリストにお祈りをする、四旬節の犠牲を捧げるという準備をしようと、良い土地になろう、このままではだめだ、という事を私たちに気が付かせてくれます。

では最後に、私たちはどのように決心させるでしょうか?

教会のプログラムによれば、それは私たちを「皆、聖体拝領するように、イエズス様の御言葉、天主の御言葉を本当に私たちの霊魂に受けるように」と招いています。

「そして教会と一緒にこの歌を歌え、“Introibo ad altare Dei”『私は、天主の祭壇の上に行こう。』今から四旬節の犠牲を、いけにえを捧げる決心を立てよう。今から祈りをしよう。今から祭壇に昇ろう。今から四旬節に入る覚悟をしよう」と。

その時にこの教会のプログラムに従って私たちがミサに与るのならば、私たちの四旬節は実り豊かな、何百倍もの実りをもたらすものとなる事でしょう。そしてその事ができますように聖パウロに、そしてマリア様の汚れなき御心にお祈り致しましょう。

“Libenter igitur gloriabor in infirmitatibus meis.”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

2018年2月3日(初土)  「マリア様の汚れなき御心の観点から、シメオンとイエズス様との出会いを黙想する」

2018年03月24日 | お説教・霊的講話
2018年2月3日(初土)聖母の汚れなき御心の随意ミサ
小野田神父 説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。

今日は2018年2月3日、聖母の土曜日、2月の初土曜日で、聖母の汚れなき御心のミサをしております。今日のこの御ミサの後に、感謝のお祈りをいつものように致します。

その後には、今日は聖ブラジオの記念日でもありますので、聖ブラジオの喉の祝別という行事を行いたいと思います。喉の祝別をご希望の方はぜひいらして下さい。御聖体拝領のように跪いて、そして司祭からローソクの、聖ブラジオのローソクによって祝福を受けて下さい。聖ブラジオは14救難聖人の1人で、昔から特に中世では特別の信心があります。

今日は公教要理で、マリア様は御潔めの式を一体なぜなさったのか、マリア様は潔められる必要があったのか。イエズス様は天主の御子なのに、なぜ神殿に捧げられたのか。何で天主イエズス様は天主の子羊なのに、それを贖う為に子羊ではなくて鳩を1つがいを捧げられたのか、おかしいじゃないか、という疑問に対して、聖トマス・アクィナスが、「いや、それはこうだ」とズバリと答えていますので、それを皆さんにご紹介したいと思っています。

今日は初土曜、その初土のここで信心を皆さんなさって下さい。

今日は、「ファチマの聖母のグレゴリオ聖歌の会」の練習会もありますので、それも練習なさって下さい。

次のミサは2月11日主日と、12日の月曜日です。月曜日は最初は6時30分の予定でしたが、国民の祝日ですので9時30分に変更致します。主日の夕方18時と、月曜日振替休日の朝の9時30分からミサがあります。どうぞいらして下さい。



“Adeamus cum fiducia ad thronum gratiae.”
「信頼をもって、天主の恵みの玉座に近付こう。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、待ちに待った初土曜日がやって来ました。今日は初土の信心をする事ができます。私たちは初土の信心の黙想をしてきましたが、これで4回目になります。今日は初土の信心をする為にこの意向を新たに致しましょう。

マリア様は仰いました、「天主はこの地上に、聖母の汚れなき御心の信心を確立する事を望んでおられる。もしもこれが聞き入れられれば、多くの霊魂は救われて、そしてこの世に平和が訪れる。」

つまり、核戦争などない、生物兵器も使われない、化学兵器も使われない、平和が訪れるのです。

しかし「もしもこの信心を、もしもこの私のメッセージが聞き入れられないならば、多くの霊魂は地獄に落ちる。ロシアはその誤謬を世界中に広める、戦争を挑発する、飢饉と教会に対する迫害が来る。多くの国々は滅びてしまう、無くなってしまう、民族は無くなってしまう。」

つまりこの地上は地獄のようになってしまうのです。

ですから、私たちがもしも平和に生活する為には、確かに自衛隊も必要でしょう、確かに軍隊も必要でしょう、しかしもっと必要な事があります。それは、私たちがマリア様のメッセージを聞いて、汚れなき御心への信心を行う事です。

もしもこれを行なったら、私たちはどこのノーベル平和賞を頂くような政治家よりも、平和の為に貢献する事ができます。平和を作り出すものとなる事ができます。これこそが天主様のご計画で、私たちはぜひこの平和を求めています。

「もしも」とマリア様は仰います、「もしもこの汚れなき御心の信心を私たちが実践するなら、私はその人に永遠の救いを約束します。そればかりか、私の手によって天主の玉座に飾られた特別の花のように、天主にとってとても大切なものとなります。」「大聖人になります、つまり」と仰ったのです。ですからぜひこの初土の信心をなさって下さい。

とても簡単です。4つの事をすれば良いのです。1つは、今日「マリア様の汚れなき御心に対して犯される罪を償いたい、マリア様を慰めたい」という意向を持って御聖体拝領をすることです。第2にその同じ意向を持って告解をなさって下さい。第3に今日その意向を持ってロザリオを捧げて下さい。

もうロザリオは皆さん捧げました。多くの方はもう告解を済ませました。あとは御聖体拝領をするだけです。

あともう1つがあるのです。それがいつも私たちがこの初土の為に準備をしてきた、練習をしてきた、毎日備えてきた15分の黙想です。

今日この15分の黙想では、マリア様の御潔めの式、イエズス様の奉献を提案致します。昨日ちょうどその祝日を祝ったばかりでありますし、そして今日ちょうど順番によれば、喜びの第4玄義を黙想する順番であるからです。

では今日はどのような黙想を致しましょうか。昨日私たちはこの祝日にシメオンとなりました。ですから皆さん昨日黙想したようにシメオンとなって、神殿に来られた世の光を皆さんの腕に受け取って下さい。

「この世の光を遂に見た。イエズス様を御聖体拝領で受けた。もうこの世に未練はない」というこのシメオンの気持ちと心を合わせて、「主よ、御言葉の通り平和に逝かして下さい」と何度も何度もお祈りしながら黙想を、15分の黙想を終えてもとても良いと思います。

このエルサレムの神殿は、昔はモーゼの石の十戒を入れていた物がありました。しかし冷たい石で、石に刻まれた十戒が人々の心に何の響きを持っていた事でしょうか。しかし真の天主の愛に満ちたその律法を、天主の掟を私たちに実践させる事ができる御恵みを持ったイエズス・キリストが、遂にこの世の光がエルサレムの神殿に入って来た。マリア様によってもたらされた。それを待ちに待ったシメオン。何という感動的な出会いだったでしょうか。それをも黙想なさって下さい。

今日私が提案したいのは、もう少し別の角度でです。今日は初土曜なので、マリア様の汚れなき御心の観点から、このシメオンとイエズス様との出会いを黙想する事が良いと思います。もしもこれが気に入ったと思ったらそれをなさって下さい。

マリア様は救い主の母として、40日後にモーゼの掟に従って自発的に、決してそれをする義務はなかったのですけれども、イエズス様を神殿にお運びして、お連れして、そしてご自分は御潔めの式に与りました。ちょうど、税金を本当は払わなくてよいという免除を与えられているにもかかわらず、そのあえて税金を払ったとか、あるいは本当はビジネスクラスで、本当は長い行列を並ばなくてもよいのだけれども、あえて並んだとか、マリア様は特に本当ならばその義務はなかったのですけれども、そのご謙遜から、その主の律法を愛するという心から、イエズス様をお連れしました。

すると、他の女性と変わりもしなかったマリア様ですけれども、おそらく司祭たちもマリア様と聖ヨゼフ様を見て、イエズス様を見て、何ら他の女性とお母さんたちと変わらない貧しい夫婦だ、貧しい子供だ、としか見えなかったかもしれませんが、2人だけ、イエズス様を連れたマリア様の事を区別した人、識別した人がやって来ました。

見るからに敬虔で、見るからに義人。額にはシワがいっぱいあって、そして体はおそらく断食や、あるいは苦行で少し弱っていたかもしれません。年を取っていたのでちょっと体が不自由だったかもしれませんが、しかししっかりした足取りでマリア様の方にやって来る老人がいました。聖霊によって導かれて来た男でした。またすぐ近くには有名な、アンナという夫人も寡婦もやって来ました。

シメオンはマリア様の目をしっかりとご覧になり、そしてイエズス様の方を赤ちゃんをご覧になると、微笑みを浮べて、そして目からは何かうるうると涙が満ちてくるではないでしょうか。マリア様はそのシメオンの顔をじっと見つめています。シメオンはおそらく、「奥さん、どうぞこの少し赤ちゃんを抱かせて頂く事はできますか?」とお願いしたに違いありません。マリア様は微笑んで、きっとシメオンに赤ちゃんを与えました。

待ちに待った救い主を見たシメオン。有名な詩を詠います。
「主よ、平和の内に、御言葉の通り私を逝かせて下さい。私の目は、あなたが万民の前に備えたこの救い主を見たからです。」「イエズス・キリスト以外に救いはない。これこそが全人類がそれによって救われなければならない救世主だ。これこそ諸国の全ての民族を照らすべき啓示の光、輝かしい世の光、真の真理の光。そしてイスラエル、そして新しい選ばれた民イスラエルの栄光。天国での報い。そして諸聖人の栄光と喜び」と。

シメオンがこう言い終わると、マリア様は、「この人は本当に聖霊によって満たされた人なのだ」という事を深く理解します。マリア様はその言葉を、1つ1つの言葉を覚えて、心に刻んでおかれました。

するとシメオンはマリア様とヨゼフ様を祝福して、「あぁ、何とこの両親は幸せな方だろうか。祝された方だろうか」と言うのです。

今度はマリア様の方を見て言います。
「奥さん、この子は多くの人の立ち上がりと、そして滅びの為に置かれた逆らいのしるしとなるでしょう。この子によって全ての人の心が明らかにされるでしょう。この子は剣を持ってやって来ました。この子に反対する人逆らう人々と、賛成する人々、この子を信じる人々と、これを信じない人々、この子によって救われる人々と、滅びる人々がいるでしょう。この子は救いの為にやって来たにもかかわらず、罪によって盲目となって、情念によって盲目となって、この子を受け入れない闇の勢力があるでしょう。光が輝く時に、闇がこの光を覆い包んでしまおうとするでしょう。」

イエズス様に対してその預言の言葉が、マリア様になされました。
「そしてあなたの心も剣で貫かれるでしょう。」

愛する兄弟の皆さん、このシメオンの言葉を、後半の言葉も、今日、黙想なさって下さい。

イエズス様は全人類の救いの為にこの世に来られた真の光でした。しかし、光は闇に輝いたけれども、闇はこれを受け入れませんでした。イエズス様はお生まれなったその瞬間から、その最初から、この光を消してしまおうという闇の勢力、例えばヘロデによって除去されようとされました。そしてその光をイエズス様を、いつもこの光を保とうとすればするほど、闇の勢力によって私たちは苦しまなければならない、マリア様はこのイエズス様といつも一致しよう一致しようとしているが為に、光を守ろうとしているが為に「その心は剣で貫かされるだろう、死ぬほどの苦しみを受けるだろう」と預言がありました。

それは私たちにとっても同じです。もしも私たちが世の光であるイエズス様を手にとって、この闇の世を、司祭の後に従って、イエズス・キリストの後に従って、我が十字架を担って歩もうとするならば、闇の勢力は冷たい風は、このローソクの光をイエズス様の光を消してしまおうとするでしょう。私たちはそれを光を守る為に、多くの犠牲と愛を努力を払わなければなりません、苦しみを捧げなければなりません。

ではその時に一体、その光を守る為のカバーとなって下さるものは何でしょうか?マリア様の汚れなき御心です。罪人の拠り所、避難所、私たちの避難所であるマリア様の汚れなき御心です。そこに行けば、私たちはそのイエズス様の灯火を決して消す事なく守る事ができます。剣で貫かされたマリア様の汚れなき御心に今日入る事に致しましょう。

私たちはできれば、この逆らいのしるしとなるイエズス様に従って、私たちの特に態度と行動、できれば私たちの言葉によって、この世を照らし出す事ができますように、闇を照らす事ができますように。

それは私たちが傲慢であるからではなく、イエズス様の御憐れみに参与して、多くの闇が多くの方々がイエズス様の方に近寄る事ができるように、その手伝いをする事ができるように、マリア様の御心を慰める事ができるように、その為です。

どうぞ今日は初土の信心をよくなさって下さい。遂に初土がやって来ました。今日はマリア様の御潔めの式、イエズス様の奉献を黙想して下さい。

“Adeamus cum fiducia ad thronum gratiae.”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

2018年2月2日(初金)  童貞聖マリアの御浄め 「私たちはシメオンです。」

2018年03月24日 | お説教・霊的講話
2018年2月2日(初金)童貞聖マリアの御浄めのミサ:私たちはシメオンです。
小野田神父 説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。

今日は2018年2月2日、2月の初金曜日、童貞聖マリアの御潔めのミサをしております。今日はローソクの行列と聖時間がありますので、御説教は短くしたいと思っています。


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は私たちはシメオンです。

この前のミサの時に私たちは、カナの婚宴の奇跡の事を黙想しました。その時に私たちは結婚式を祝っていました。私たちの主イエズス・キリストと私たちの霊魂、つまりイエズス・キリストと教会の神秘的な婚姻の結婚式に与っていた、新郎新婦の、そこにイエズス様とマリア様をお呼びした時の事を黙想しました。

今日の祝日はその続きです。
結婚式が終わって、そして新郎新婦は二人で時を過ごす、花嫁は新郎を自分の腕に抱く、という事を教会は祝っています。ですから、「花嫁であるシオンよ、教会よ、その寝室を飾れ」と。

主を迎えよ、「王たるキリストを迎え受け入れよ」と言っています。私たちはシメオンとして、イエズス・キリスト様の花嫁として、イエズス様を私たちの胸に腕に抱こうとします。今日はシメオンになりきって下さい。

老シメオンはイエズス様をご覧になった時、マリア様にお願いして、「どうぞ腕に抱かせて下さい」と言った時に、一体何歳だったでしょうか。90歳だったでしょうか、100歳だったでしょうか、あるいは120歳だったでしょうか。

シメオンは人類を代表して、救い主と出会いました。シメオンにとってこの世の事はどうでもよかったのです。この世の事に一切未練はありませんでした。シメオンが1つだけこの世で欲しいと望んでいた事は、イエズス様を救い主を、「天主が全人類の前に準備されたその救い主を、この目で一目見たい。それができればもう十分だ。」これだけでした。救い主が来られるという事を確認したい、それだけが唯一の望みでした。その為に、聖霊に満たされて祈りと犠牲との生活を送っていました。

私たちもシメオンです。「救い主を受けさえすれば、それでその他は一切いらない」というシメオンです、花嫁です。

シメオンができなかった事を私たちはする事ができます。なぜかというと、シメオンが知らなかったような、マリア様がどのような、どれほど苦しい剣を受けたのか、イエズス様がどれほど逆らいのしるしとなったのか、という事を私たちは知らされているからです。しかも21世紀に生きる私たちは、聖骸布の秘密や、イエズス様の御復活のしるしや、その他受難の秘密を詳しく知る事ができています。

シメオンができなかった事を私たちはする事ができます。それは、ただイエズス様を目に見るのみならず、イエズス様を腕で抱くのみならず、私たちはイエズス様の教えを聞き、イエズス様の御顔を、成長して苦しみを受けた顔を見る事ができ、そして復活したイエズス様の御体を、私たちが拝領する事ができるからです。

私たちもシメオンと共に、「今こそ、御言葉の通り、安らかに逝かせて下さい。もうこれで十分です。私たちにとってイエズス様を受ける事以外、他に望みはありません。これでもう幸せです」と言う事ができますように。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。



2018年1月21日(主日)  御公現後第3主日「イエズス様は私たちを救う方、特に異邦人と罪人たちを招いて癒す方。謙遜と信頼を持って近寄れ。」

2018年03月24日 | お説教・霊的講話
2018年1月21日(主日)御公現後第3主日のミサ
小野田神父 説教


日本の聖なる殉教者巡回教会にようこそ。

今日は2018年1月21日、御公現後第3主日のミサをしております。今日御ミサの後には、いつもの通りにミサの後の祈りを致しましょう。その後に、1月の後半に恒例の踏絵の償いの儀式を行いたいと思っています。

新しく来た方の為にも説明を申し上げますと、毎年1月には特に長崎の方面では、250年間に渡って踏み絵というものが行われていました。キリスト教徒を探し出す為にされたもので、特にマリア様の御像が使われて、そのマリア様を足踏みにされていました。それが公式の行事でした。それで私たちはそのマリア様の受けたその屈辱を、その悲しみをお慰めする為に、1月にはその代わりに踏み絵に接吻をして差し上げたいと思っています。ですから皆さんも、洗礼を受けている方も受けていない方もどうぞいらして、マリア様のその踏まれた御影に、イエズス様と共に苦しんだマリア様にそれをお捧げして下さい。

今日は事情があり、公教要理を今週もお休みしなければならなくなりました。そこで晩課を14時30分頃から始めたいと思っています。どうぞご理解ご了承下さい。

明日も朝の7時からミサがあります。次の主日のミサは、2月4日です。



“Omnipotens sempiterne Deus, infirmitatem nostram propitius respice.”
「全能の永遠の天主よ、私たちの弱さを快く顧みて下さい。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日御公現後第3主日のミサで、教会は今引用したように、集祷文をもって全教会の名前で祈りました。一体なぜなのでしょうか?一体このミサは何を私たちに教えたいと思っているのでしょうか?

そこで今日のこのミサにおいて、御公現の後のミサという事で、登場人物が3グループあります。3種類の人々が出てきて、御公現の時には3人の博士たちが東からやって来ましたが、特に御公現の後のミサでは、この3つの種類の方々が登場してきて私たちに何かを教えようとしています。

特にこの第3主日では、イエズス様は私たちを救う方として、特に異邦人と罪人たちを招いて癒す方として現れます。それをぜひ知って下さい、その黙想を提案します。このミサはどうなっているのか?

最後に、私たちは遷善の決心を立てる事に致しましょう。

今日のこのミサの入祭誦を見ると、あるいは昇階誦とアレルヤ誦を見ると、3つのグループが登場するという事が分かります。

まず入祭誦では、“Adorate Deum omnes angeli ejus. ”「主を、天主を礼拝せよ。全ての主の天使たちよ。」

ここでまず現れてくるのが、天主の御稜威に満ちた、何千何万何億何兆何京という数かぞえきれないほどの、天の星々よりもはるかに多い天使たちからの礼拝を受けて、その上に燦然と支配している永遠の栄光の天主の御稜威。この主を礼拝せよ。「王たるキリスト」が現れます。昇階誦でも同じです。

次に出て来るのが、「シオン」という名前で言われる単語です。このシオンというのは昇階誦でも出てきます。聖書の考古学的な話によれば、エルサレムにそのある山をシオンの山と言って、特にエルサレムの城壁のこの砦をシオンと言ったのです。遂には山全体がシオンとなって、エルサレムの事をシオンと言うようになりました。

でもこれは典礼においては、実は「イエズス・キリストの教会」の事であって、新しいイスラエルであって、新しいシオン、カトリック教会の事です。第2に出てくるのは、つまり「教会」の事なのです。この王である方キリストは、昇階誦によると、シオンを立てる方であって、そのシオンを訪問する方であって、この第2に出てくるのはつまり教会です。

第3に出てくるのは、「ユダの娘たち」。これはもう皆さんすぐお分かりのように、「教会の子供たち」です。新しいユダであるカトリック教会のシンボルたちの事です。この昇階誦やアレルヤで歌われるような、「この地上の王、全ての王たちは、その主を礼拝せよ。」あるいは「多くの島たちは喜べ」と言った時も、やはり将来教会に属するべき異邦人たちの事です。

ではまず第1に中心に現れるのが、全能の力を持った、私たちに全ての善を施して、私たちの弱さを憐れむ力ある天主イエズス・キリスト、王たるイエズス・キリストの御姿ですけれども、第2に出てくるのが、そのイエズス・キリストの立てる教会、シオンです。

ところで教会はこのシオンに、「喜べ。この主の話した言葉を聞いたシオンよ、喜べ」と言います。なぜ「喜べ」かというと、それはすなわち福音書や書簡で読まれる教会での生活、教会でこれから1年私たちが行なわされようとする事について予告があるので、「喜べ」と言います。

では一体何があるかというと、福音では、癩病の人が癒されます。それを司祭に見せに行けと言います、報告せよと言います。あるいは百夫長のしもべが癒されます。これは教会の生活でいえば、「洗礼」や、あるいは「悔悛の秘跡」の事を表しています。イエズス様はまた更に、特に百夫長の信仰を非常に褒め讃えて、「私は言う、東の国からも西の国からも多くの人々が宴席に与って来た。アブラハムとヤコブとイサクの宴席に与るだろう。」その宴席というのは何かというと、つまり「御聖体の秘跡」の事です。また聖パウロは書簡の中で「愛徳」について語っています。

このような事がこれから行われるので、「シオンよ、教会よ、喜べ」と言います。

ではそれだけなのでしょうか?教会が一番私たちに教えたい、説得したい、ぜひそこから学んでもらいたい、というのはこの次のところです。第3の、信徒たちの事です。ユダの娘たちはどうするべきか、という事です。

「ユダの娘たちは喜んだ。喜びに踊った。地は喜びに踊った。多くの島々は喜びに踊った。」そこで教会は私たちに、「喜ぶように」と。なぜかというと、「私たちはこの栄光永遠の天主聖父によって、王たるキリストによって特別の恵みを受けるから。」特に印象的なのが奉献誦です、「天主の右の手は、私に力ある事を行った。私はもう死なない」とさえも言います。

では一体、私たちはどのように、シオンの娘としてどのような態度を取らなければならないのでしょうか?「キリストに近寄る罪人、異邦人として学べ」と教会は教えています。

聖マテオの福音の第8章です。まず癩病の人をご覧になって下さい。非常に慎ましくて、お願いではない提案をします、「もしも、主よ、もしもあなたがそういう事をお望みならば、そうする事ができるのですが。」私は何を望んでいるかとか、私は何をしてほしいとか、私はこう思うとかいう事は一切言いません。「もしもあなたがお望みであるならば、きっとそうする事ができるのです。私は知っています。」何という信頼、何という深い信仰を持って近付いた事でしょうか。どれほど癩病に苦しんで辛い思いをしていた事でしょう。どれほどもうズケズケとお願いしたかった事でしょうか。しかしこの男はそうはしませんでした。

それと同じように教会は、私たちに対して主に近寄ってお祈りをしなさい、と招いています。ですから集祷文も私たちにこうやって祈らせます、「主よ、私たちの弱さを憐れみを持って御覧下さい。もしもお望みならば。」

次に私たちに提案するのは、百夫長です。百夫長は非常に愛深い男で、自分の部下が苦しんでるのを見て助けようとします。しかし非常に謙遜に、兵士として従順を知っている者として、決して従順に背かない男として、かといってこの位階秩序をよく知っているので、その上の目上に対しては徹底的な尊敬を持つ者として、やって来ます。

「私のしもべが苦しんでおります。でも私はあなたが家に来て下さるというほどの者ではありません。どうぞ一言さえ言って下されば大丈夫です。それで私のしもべは癒されるでしょう。」

何というこれも深い信仰と信頼を持っていた事でしょうか。イエズス様は、「このユダヤの、この全イスラエルの中でこれほどの男を見た事がない、これほどの信仰を見た事がない」とさえも宣言します。

同じように、私たちもこのイエズス様に近付くように、特に御聖体拝領の時に近付くように、と教えています。ですから私たちも御聖体拝領の前に、百夫長が言った同じ言葉を繰り返すように言います、「主よ、我不肖にして、我、霊魂の我が家に迎え奉るに足らず。」

では今日このミサの黙想として、一体どのような遷善の決心を立てなければならないでしょうか?

まず教会は、この最初の御公現の直後のミサとして、この1年私たちがどのような態度でイエズス様に近付かなければならないのか、祈ならなければならないか、どれほどの信頼と、信仰と、謙遜を持って近寄らなければならないか、という事をそのマインドをセットして、教えてくれます。

「さぁ、これから1年こうしていけば良いぞ」と。私たちをユダの娘として、癩病を負う者として、異邦人として、「しかし、信頼して近付くように」と招いています。ですから私たちもどれほどの罪深い者であったとしても、どれほど弱い者であったとしても、どれほど値しない者であったとしても、安心して慎ましく主に近寄る事に致しましょう。謙遜と信頼を持って近寄る事に致しましょう。これが第1の遷善の決心の提案です。

第2は最後は、これをこのますます良くする為には、マリア様です。なぜかというと、マリア様はイエズス様に、イエズス様がお望みになるように、イエズス様に提案するからです。最初の奇跡も、カナでの奇跡もそうでした、「彼らにはもうブドウ酒がありません。」イエズス様は一体、一度拒否さえするような態度を取ります。マリア様は決してお願いしませんでした、しかしイエズス様はそれをお望みになります、あまりにもご謙遜で慎ましいので。

またある人は、「マリア様などいらない。私はイエズス様と直接関係すればそれで良いのだ」と言うのですけれども、しかしそれはあまりにも私たちの立場をよくわきまえていない態度です。私たちが一体どのような者であるかを知れば知るほど、どうしても近寄る事ができなくなりますが、イエズス様にあまりにも近寄るのが畏れ多くなってしまいますけれども、それでもマリア様と一緒に行く事によって信頼を、ますます信頼と信仰を持って近寄る事ができるようになります。

ですから今日最後の提案は、「マリア様をもって近寄る」という事です。この1年、ぜひこの態度でミサに、また御聖体拝領に与って下さい。

“Omnipotens sempiterne Deus, infirmitatem nostram propitius respice.”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


2018年1月20日(土)  殉教者教皇聖ファビアノと殉教者聖セバスチアノ 「福音に基づいた生活を送るために、イエズス・キリストの御聖体からこそ本当の力を得よ。」

2018年03月23日 | お説教・霊的講話
2018年1月20日(土)殉教者教皇聖ファビアノと殉教者聖セバスチアノのミサ
小野田神父 説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。

今日は2018年1月20日、聖ファビアノ教皇殉教者、聖セバスチアノ殉教者のミサをしております。今日この御ミサが終わりましたら、いつもの通りに感謝のお祈りがありますが、1月の後半にいつも私たちがしているように、徳川時代に250年ほど続いた踏絵の罪を償う為に、私たちはここで償いの式を毎年しているようにしようと思っています。どうぞイエズス様に対して犯された罪を償う為にどうぞご参加下さい。

それから今日は公教要理の時間に、聖書の話の代わりに、特に来月の初金曜日は2月2日の聖母の御潔めの式で、非常に特別な儀式があります。

ローソクの祝別とその行列、有名なグレゴリオ聖歌があります。そこでぜひ皆さんに、この意味とこの美しい歌を知って頂きたいと思いますので、この何でそのような儀式を行なって、その歌はどういう意味があるのか、という事を少し予習しようと思っています。どうぞその練習をなさっていって下さい。

次のミサはしたがって2月2日と3日、御潔めの式とそれから初土曜日です。2月3日は聖ブラジオの祝日であって、聖ブラジオの喉の祝別もあります。



「イエズスから、全ての病を治す力が出ていた。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は聖ファビアノと聖セバスチアノ殉教者のミサをしています。この2人の名前は諸聖人の連祷の中にも出てきます。そこでこの今日、この2人のどういう人だったのか、このもう有名な聖人ですので皆さんもよくご存知と思いますけれども、どんな人生だったのか、どんな殉教者だったのか、という事を少し垣間見て、

第2に、このミサではなぜこのように、こんなミサのテキストが使われているのか、という事を少し見て、

私たちは遷善の決心を立てる事に致しましょう。

今日2018年1月20日において、一体聖ファビアノと聖セバスチアノはどんな事を私たちに教えているのでしょうか。まず聖ファビアノ教皇殉教者について、まずざっと見てみます。

聖ファビアノ教皇様はローマの出身で、非常に奇跡的に教皇様に選ばれました。具体的にどんな奇跡が起こったのかという事については、この次に研究して申し上げます。しかし私が知っているのは、その選ばれたその過程が非常に奇跡的であって、「確かに、天主様の御旨はこの方が、ファビアノが教皇になる事だ」という事が誰でも分かったやり方で教皇に選ばれました。

教皇様に選ばれた時には、マキシミーノローマ皇帝の元でした。非常に残酷で、キリスト教徒を迫害していたのですけれども、聖ファビアノが教皇様に選ばれるや否や、しばらくするとこのマキシミーノ皇帝は暗殺されます。教会に対する迫害が中断します。聖ファビアノ教皇様の統治の間は、教会に平和が戻ります。そこで聖ファビアノ教皇様の絵や御像には時々鳩が描かれている時があります。平和のシンボルです。

教皇様がこの平和の時代を利用してローマを、今まで迫害の間うまく統治する事ができなかったこのローマを7つの地域に分けて、7名の助祭たちに担当区域を配分します。この助祭たちに、「特に貧しい人たちの世話をしなさい」と命令します。「教会の財産を使って、あるいは寄付を募って、貧しい人たちの世話をするように」と。それから新しく副助祭を作って、「多くの殉教者たちがいるので、その殉教者たちがどのように殉教したのか、という事を記録を取るように。7名のノタリウスという公証人、特別の事務を選んで、この「殉教録を作るように」と命じました。

それからこの平和の時代を使って、「聖木曜日には主の晩餐の日として、この日に聖香油を祝別する」という特別な儀式を始めました。それは今でも続いています。

こうやってローマの教会をうまく平和に統治して、多くの人々を助けて、多くの人々をカトリック教会の信仰へと導き、主の秘跡を、主の神秘をますます深く黙想している間に、新しい残酷な皇帝、デオクレチアノが皇帝の座に着きます。彼はキリスト教に対して敵意を持っており、最初の犠牲者となったのが迫害の犠牲者となったのが、ファビアノ教皇でした。250年1月20日、今日、デオクレチアノ皇帝の剣によって殉教の冠を受ける事になりました。

この遺体はカリスト教皇様のカタコンベ、アッピア街道にあるそのカタコンベに葬られました。今でもそのアッピア街道にあるカリスト教皇様の所に行くと、ファビアノ教皇様の御墓のその石が残っています。

15年間の統治の間、5回叙階式を12月に行った。22名の司祭を叙階して、7名の新しい助祭を叙階した。平和の間に色々各地に回って、11名の司教様たちを聖別した、と記録が残っています。

もう1人の聖セバスチアノは、このファビアノ教皇様よりも30年後に殉教したローマの兵士です。父親がナルボーナ出身で、母親がミラノの出身で、両者とも貴族であり、生まれが高貴、非常に勇敢で力強いリーダーの軍人だったので、第一軍隊のトップとして頭として総指揮官として、非常にデオクレチアノ皇帝に愛された軍人でした。

ところで密かに、軍隊の中にあるキリスト教徒たち、あるいはその他のキリスト教徒たちの信仰を見て、これを実践していました。特にキリスト教徒たちを助けたり、あるいは彼らに自分の持ち物や自分の奉仕などで助けていました。デオクレチアノ皇帝が知ったら非常に怒り狂うだろうと思われる事も、密かにやっていました。言葉と行いをもって、多くのキリスト教徒たちを励ましていました。

ですからある時には、弱くなって「どうしようか、殉教が恐ろしい。」あるいは恐ろしさのあまり信仰にぐらついているようなキリスト教徒を、聖セバスチアノは励まして彼らを殉教まで導いた事もあります。たくさんの人々が殉教まで導かれました。

そのような人たちの内に、2人の兄弟がいたのです。1人はマルコ、もう一人はマルチェリーノという2人の兄弟で、ローマにキリスト教信者という事で投獄されていました。その投獄されていた時のその責任者は、二コストラートという男でした。この管理者、地位の高い男でしたが、その妻がゾエという女性で夫人で、耳が聞こえなくなりました。それを知ったこの2人のキリスト教の兄弟は、聖セバスチアノをよく知っていたので、聖セバスチアノにそのような事を何らかの方法で伝えたのです。すると聖セバスチアノはこのゾエという夫人の元にやって来て、お祈りをしました。すると、ゾエという夫人の聞えなかった、耳元で騒いでも大声を出しても何も聞えなかったものが、しっかりときれいに聞こえるようになったのです。奇跡が起こりました。

その奇跡に喜んだ夫は、デオクレチアノ皇帝にその事を報告します、「セバスチアノの祈りは素晴らしい!」と「キリスト教徒の祈りで私の妻が治った!」しかしデオクレチアノの反応は、全く思っていたよりは逆でした。「何だと!?セバスチアノがキリスト教を信じている!?一体何の事だ!」セバスチアノを自分の元に召喚します。

「おまえの事を聞いた。一体お前、何を信じているのか!ローマの神々はどうなったのか!」非常に厳しく聖セバスチアノを叱ります。何とかしてキリスト教から離そうと、キリスト教の信仰を捨てさせようと色々努力します。「お前、キリスト教を捨てたら宝物を、お金をあげよう、賞金をあげよう、地位をあげよう、お前にこうしてあげよう。何が欲しいのか?家が欲しいのか?馬車が欲しいのか?軍隊が欲しいのか?何が欲しいのか?さぁみんなあげよう。もしもキリスト教を捨てないならばこんなに罰があるぞ。お前こうするぞ。殺すぞ。」セバスチアノは信仰を捨てようとしません。怒り狂ったデオクレチアノは彼を柱に付けて、弓矢で刺し殺そうとしました。

この後の話は皆様もよくご存知の通り、聖セバスチアノは弓矢をたくさん刺されて、もう死んだと思われました。そのまま死体はほっぽらかされて、そのまま刑吏たちは去って行ったところを、ひそかに夜イレーナというキリスト教の女性がやって来て、その聖セバスチアノの遺体を埋葬しようと、その自分の家に引き取りました。弓矢を取り、埋葬の準備をしていると気付いた事は、セバスチアノはまだ生きているのです。かすかに息をしている。そこで一生懸命イレーナは聖セバスチアノを看病します。薬を塗ったり、何とかして生かそうとするのですがその看病の甲斐あって、聖セバスチアノは健康を回復します。

回復すると、他のキリスト教信者は、「さぁセバスチアノ様、どうぞ逃げて下さい。またどうぞ生き延びて下さい」と言うにもかかわらず、聖セバスチアノは、「いや、私はローマ皇帝の元に行かなければならない。彼を信仰に招かなければならない」と言って、デオクレチアノ皇帝の通る道の所に待っていて、聖セバスチアノはデオクレチアノ皇帝に話しかけます、「皇帝陛下、あなたが非常に愛されたセバスチアノです。あなたの第一軍隊のトップでした、将軍でした。」

その死んだと思ったセバスチアノが生きているのを見て、非常にびっくりして恐れました。セバスチアノは、なぜこんなに良いキリスト教徒を迫害するのか、キリスト教徒を迫害するのはこれは悪である、という事をたしなめました、「どうぞ迫害をやめて下さい。キリスト教徒は良い人々です。」色々な説得を試みたのですけれども、セバスチアノが生きている事、自分のやっている事がたしなめられたという事を非常に怒ったデオクレチアノは、兵士に向かってこん棒で殴り殺すように命じ、聖セバスチアノはその場でめった打ちにされて殴り殺されて、その遺体は脇にあったドブに捨てられました。

そのままセバスチアノがどうなったのか分からなかったのですけれども、夢の中でルチノという男に聖セバスチアノが夢の中に現れて、「自分は今ここにいる。遺体がここにあって、私はここに埋葬されたい」という事を伝えました。この夢に従ってルチノは行ってみると、確かに聖セバスチアノの粉々になった傷だらけの遺体が見つかり、それを聖セバスチアノの言う通りの場所に埋葬しました、カタコンベに埋葬しました。そのカタコンベは今では聖セバスチアノのカタコンベと言われていて、大聖堂が建っています。聖セバスチアノが殉教したのが280年1月20日、今日の事でした。

教会はでは一体どのように、私たちに聖ファビアノと聖セバスチアノのミサに与るように、と言っているのでしょうか?

考えて下さい。私たちは今、1750年前のローマの教会にタイムマシンで移動したと想像してみて下さい。キリスト教は迫害されています。非合法の宗教です。たくさんの人々がそれでもカトリック教会を信じていて、イエズス・キリストを信じて、多くの人々が殉教しています。教皇様がいます。教皇様も殉教していますし、カタコンベに多くの人々が埋葬されていて、ミサは地下のカタコンベで、地下のお墓でしかミサをする事ができません。そこだけが唯一安全な場所であるからです。光が届かないような地下の、入ったら迷ってしまうような所に入って、ミサに与らなければなりません。

そのような所に教皇様やあるいは司祭たちがやって来て、多くのカトリック信者が集まって来て、殉教者の遺体を前に、埋葬される前は傷だらけの粉々になった体を目前にしながら、殉教者の遺体のもとでミサを捧げました。

その事を考えると、入祭誦が、「主よ、私たちの嘆きを聞いて下さい。殉教者の血に仇を取って下さい」という入祭誦の気持ちがよく分かります。

しかしミサが進むにしたがって、天主の仇の取り方が、天主はどのように復讐するかという事について、その復讐のやり方がますますよく分かります。どのように復讐するかというと、「天主はこのように捨てられた、迫害を受けた信仰の証を立てた、」つまり「証」というのはギリシャ語で“マルチリオン”といって、これが後に「殉教者」という意味になるのですけれども、「信仰の証を立てた人々を天主は高める。この殉教者によって天主は栄光を受けている。その栄光を受けた天主は、この彼らに最高の栄光を与える」という事で復讐をする、という意味がますます分かります。

その頂点が今日この福音であって、「私の名前の為に迫害される者は喜びに喜べ。天の国での報いはとてつもなく大きい」という言葉に要約されています。

特に今日の御ミサでは、聖セバスチアノがゾエの耳を治した、あるいは自分の体が治った、という事で、聖セバスチアノからは特別の癒しの力が出る、という事を皆が知っていました。聖セバスチアノの取り次ぎによって病が治った、という事から、特に疫病に対する守護の聖人として、特にカトリック教会では聖セバスチアノの事を崇めていました。
その聖セバスチアノのカタコンベのその墓のすぐ近くに行って、「聖セバスチアノから私たちは癒される。私たちの弱さを強めて欲しい。」あるいは「私たちの病を強めて欲しい」と言って、ちょうどイエズス様の身元に御言葉を聞く為に、あるいは癒される為に多くの人々が集まってきたように、その当時カタコンベにセバスチアノのその模範に倣いたい、あるいはそのセバスチアノから癒しの力を、癒されたいという事で、多くの人々が集まってきました。ちょうどイエズス様と聖セバスチアノの姿が重なったわけです。ですからそれにピッタリするような福音も今日取られています。

カトリック教会はそれだけでは満足しませんでした。「いや、私たちは今聖セバスチアノのカタコンベの御墓の前で、この殉教者に私たちが癒されるように、その力をもらうように、と祈っているけれども、実はこの今から起こる事は、更にすごい事だ。なぜかというと、私たちは聖セバスチアノのお墓に触るだけではなく、遺体に触るだけではなく、イエズス・キリストの御体を拝領する事ができるからだ。イエズス・キリストからこそ本当の力を得よ。罪から癒されよ。私たちの弱さを癒されよ。全ての憐れみと恵みを受けよ。さぁ、イエズス・キリストの御聖体を拝領せよ」と言っているからです。ですから聖体拝領誦も特別にその事を歌っています。

では私たちは今日、どのような遷善の決心を立てたら良いでしょうか?

私たちもこの殉教者の聖なる模範に倣って、この殉教者の御取り次ぎを乞い求めて、私たちがこのキリスト教とは関係のない近代の日本の世界で、キリスト教の福音に基づいた生活を送る事ができますように、特に愛徳の生活を、あるいはこの世の中はますます不潔な不道徳な風習で、ますます汚染されようとしていますから、テレビや映画やあるいはインターネットが私たちの精神を毒そうとしていますから、私たちはそれに対して殉教の精神、それから身を守る事ができますように、またそれらの事から癒される事ができますように、お祈り致しましょう。

その為にも、聖セバスチアノと聖ファビアノの御取り次ぎのみならず、イエズス・キリスト様の御体を受けて、そこから御力を受ける事に致しましょう。

最後にマリア様の御心に汚れなき御心に参りましょう。私たちは長崎の巡礼に行った時に学びました。殉教者たちの力は、マリア様から受けたと。私たちがこの2人の殉教についての、殉教者がどれほどマリア様に対して信心を持っていたかという記録がないので、はっきりと言う事ができませんが、しかし必ずマリア様に対して信心があったに違いません。そうでなければ殉教する力を受ける事ができなかったからです。ぜひマリア様にもその力を乞い求めましょう。

「イエズスから、病を癒す力が出ていた。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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