Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

私は御身を信じ、礼拝し、希望し、御身を愛します!御身を信じぬ人々、希望せず愛さぬ人々のために、赦しを求めます(天使の祈)

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
2018年 4月の聖伝のミサの予定
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】


意向:聖なる復活節を過ごす
実践すべき徳:実践すべき徳:天主を愛するために苦難を甘んじ受ける
守護の聖人:悲しみの聖母マリア

愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)にご招待します

◎2018年 4月の予定
【大阪】聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂(アクセス EG新御堂4階 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 〒532-0002
(JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分)

    4月1日(主) 復活祭(1級及び1級の八日間付き)白
            午後5時半 ロザリオ及び告解 
            午後6時 ミサ聖祭

    4月2日(月) 復活の月曜日(1級)白
            午前6時半 ミサ聖祭

    4月6日(初金) 復活の金曜日(1級)白
            午後5時半 ロザリオ及び告解 
            午後6時 ミサ聖祭

    4月7日(初土) 白衣の土曜日(1級)白
            午前10時 ロザリオ及び告解
            午前10時半 ミサ聖祭

    4月15日(主) 復活後第2主日(2級)白
            午後5時半 ロザリオ及び告解 
            午後6時 ミサ聖祭

    4月16日(月) 平日(4級)白
            午前6時 ミサ聖祭          ← 時間が変更しました

    4月20日(金) 平日(4級)白
            午後5時半 ロザリオ及び告解 
            午後6時 ミサ聖祭

    4月21日(土) 教会博士証聖者司教聖アンセルモ(3級祝日)白
            午前10時 ロザリオ及び告解
            午前10時半 ミサ聖祭

【東京】東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図) 「聖なる日本の殉教者巡回聖堂」
    4月8日(主) 白衣の主日(1級)白  
            午前10時  ロザリオ及び告解
            午前10時半  ミサ聖祭(歌ミサ)

    4月9日(月) 童貞聖マリアの御告げ(1級祝日)白 
            午前7時 ミサ聖祭

    4月22日(主) 復活後第3主日(2級)白
            午前10時 ロザリオ及び告解
            午前10時半 ミサ聖祭

    4月23日(月) 平日(4級)白 殉教者聖ジョルジオの記念
            午前7時 ミサ聖祭

愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております。

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【聖ピオ十世会 聖伝のミサ】【大阪】6月2日(初金)、6月3日(初土)、【東京】6月4日(聖霊降臨の大祝日)

2017年05月31日 | 聖伝のミサの予定
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

こんにちは!
いかがお過ごしでいらっしゃいますか?

今週末に、大阪と東京とで聖伝のミサがあります。
6月4日の主日は、聖霊降臨の大祝日です! 前回のように、10時からのロザリオの前に当日のグレゴリオ聖歌の練習を皆さんとしたいと思っています。
どうぞいらして下さい!

聖霊来たり給え!信者の心に満ち給え!聖母の汚れなき御心を通して来たり給え!

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【大阪】聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂
EG新御堂4階 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 〒532-0002

  6月2日(初金) 平日(4級)白
           午後5時半 ロザリオ及び告解
           午後6時 ミサ聖祭

  6月3日(初土) 聖霊降臨の前日(1級)ミサは赤
           午前10時 ロザリオ及び告解
           午前10時半 ミサ聖祭


【東京】「聖なる日本の殉教者巡回聖堂」
東京都文京区本駒込1-12-5 曙町会館

   6月4日(主) 聖霊降臨(1級及び1級の八日間付き)赤
           午前09時 当日のミサのグレゴリオ聖歌の練習(及び告解)
           午前10時 ロザリオ及び告解
           午前10時半 ミサ聖祭

   6月5日(月) 聖霊降臨の月曜日(1級)赤
           午前7時 ミサ聖祭

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秋田巡礼-霊的講話【3】-2017年5月3日シュテーリン神父様「ファチマの聖母:牧童フランシスコの生活:天主を慰める」

2017年05月31日 | お説教・霊的講話
2017年5月3日 秋田巡礼 シュテーリン神父様霊的講話3
「ファチマの聖母:牧童フランシスコの生活:天主を慰める」

同時通訳:小野田圭志神父

ファチマにマリア様が天から来られて、私たちにもう一度カトリックの真理を思い出させている、その重要なテーマを見てみましょう。

ファチマというのは、天主様の偉大な憐れみの、罪人である私たちに対する憐れみについての啓示です。この天主の無限の愛と憐れみが、マリア様の汚れなき御心において現れます。

マリア様の汚れなき御心は、天主がこの世に与えようとした全てのものは何かを示してくれます。この御心から、回心と聖化の全てのお恵みが来ます。この御心を通して、聖霊の息吹きと全ての聖徳が与えられます。

ファチマのテーマのまた別の点は、これは汚れなき御心と関連しているのですけれども、「マリア様が全てのお恵みの仲介者、全ての聖寵の仲介者である」という事です。

この「仲介」というのは、「天主から私たちに」、そして「私たちから天主へ」という二重の行動となっています。

「天主から私たちに」というのは、マリア様の汚れなき御心を通して、全てのお恵みが与えられるという事です。全てのお恵みの根源は、その泉は源は天主様であり、その十字架の御苦難の功徳です。しかしこの泉から、湧き出る泉からそのお恵みが流れ出る運河として、イエズス様は御自分の御母マリア様を選びました。

第2に、「私たちの方から天主に向かう時」には、私たちはマリア様を通してのみ行く事ができます。ファチマについて黙想すればするほど、マリア様は霊妙なる器であって、私たちが天主へと戻る道、唯一の道であるという事が分かります。

第2バチカン公会議の教父たちの望みで最も多くの望みがあったのは、「マリア様が全ての恵みの仲介者である」という事を信仰のドグマとして発表するという事でした。312名の教父たちがそれを要求、お願いしていました。

しかし実際に起こったのはこの反対でした。この要求が願いが完全に無視され拒否されたのみならず、それのみか、マリア様について既に決定されていて発表されたドグマに対しても、一言も言及がなされませんでした。何故かというと、マリア様について話す事は、プロテスタントが喜ばなかったからです。

こうする事によって、第2バチカン公会議はファチマに、マリア様に対して反対する事になりました。

では、マリア様を直接見た人々について見てみましょう。それを見る事によって、その正当な解釈とは何か、内容を知る事ができるからです。マリア様のお言葉自体も大切ですけれども、その言葉を実践した子供たちの生活も更に重要です。マリア様が人間に現れ、この現れを受けた人間はマリア様のメッセージを運ぶ器となります。マリア様はこの器を道具として使って、ご自分のお恵みを全世界に配る道具として使います。

ルルドのメッセージをよく知る為には、マリア様に会って話しを聞いた、聖ベルナデッタの生涯を知らなければなりません。マリア様を直接見た目撃の証人の言葉を吟味する事が非常に大切です。

ところでこの3人の子供たちの全生涯が、このファチマの御出現の後に変わりました。マリア様が望んでいる事を実践したのは、この子供たちが最初でした。ちょうどマリア様の現存を映し出す鏡のようになりました。

マリア様がなさった十字架のしるし、或いは手を合わせる、或いは微笑みを見たベルナデッタは、その通りに十字架を切って、手を合わせて、マリア様の通りに微笑みをした、それを見た人々は回心しました。何故かというと、マリア様を映し出す鏡で、超人間的であったからです。

マリア様を私たちは直接見る事はできないのですけれども、この現れを受けた子供たちの生涯を通して、これを鏡としてマリア様を映し出す事ができます。そこで子供たちの生涯を、マリア様が映し出された鏡として見て、それを真似る事ができます。

マリア様は違ったやり方で3人の子供たちを使います。3人の子供たちは全く性格が違っていました。

まずジャシンタは非常に活動的で活発で、いつも踊っているような子供でした。背は一番小さかったのですけれども、他の2人の子供たちをリードしているエネルギーでいっぱいな子供でした。

そのお兄さんのフランシスコはその反対でした。フランシスコはその体質としてその反対の体質で、プラグマチックな子供、いつも1人でいるのが好きで、考え事をするのが好きな子でした。

ルチアはこの2人のちょうど中間ぐらいでした。しかし、忠実な証人としての性質を持っていました。自分の周囲に何が起こるか、注意深く観察して、それをよく記憶していました。良い記憶力を持っていました。誠実さがありました。

この3人の子供たちのそれぞれの特徴を上手く使いながら、マリア様はご自分のメッセージの核心を本質を伝えます。

フランシスコから始まります。何故かというと、フランシスコが最初に亡くなるからです。フランシスコは御出現があってまだ2年にも経たないような、1919年4月に亡くなるからです。

特にフランシスコは、マリア様を見る事はできたのですけれども、お話しを聞く事はできませんでした。ですから御出現の後にルチアとジャシンタはフランシスコに説明しなければなりません、一体マリア様は何と仰ったのか。

或る人は、「あぁ、フランシスコはそれほど敬虔ではなかったので、マリア様の言葉を聞くほどの資格がなかったのだ」と言います。しかし、それは間違っています。何故かというと、マリア様は理由があって、フランシスコには見せたけれども、聞かせなかったからです。

フランシスコは、孤独であったり、観想したり、物事を深く考えるのが好きな子でした。そこでフランシスコにとって得意なのは、聞くというよりはじっと見つめて、その内容を考えるという事でした。見ながら何か別の事を聞く、というと集中ができないからです。例えば、何かよく話を聞くという時には、よく聞く為に目をつぶって耳を澄ます、という事があります。

ルチアにとっては、マリア様が仰っているという事を聞くという事は非常に大切でした。

でもマリア様は、フランシスコが雑念なしに、見る事だけに専念する事をお望みになりました。そのおかげでフランシスコは、一番深くファチマのビジョンについての理解を得る事ができました。

では、そのような見る事に専念したフランシスコに一番感動を与えた、一番印象を与えたものは何だったのでしょうか?

「僕は、天使を見るのが大好きです。でもマリア様を見るのはもっと好きです。でももっと一番好きなのは、イエズス様を見る事で、マリア様が私たちの心に染み通るような光の内に見せてくれたイエズス様を見るのが好きだ。天主様を本当に愛している。でもこの世の多くの罪の為に、天主様は非常に悲しんでおられる。」

フランシスコは話をすると、いつも天主のこの悲しみについて話します。マリア様の御心における天主のビジョン。しかし罪の為に非常に悲しんでおられる天主。そこでフランシスコの人生は、これからどうやって天主をお慰めするかに尽くすようになりました。

ある時ルチアはフランシスコに言います、「ねぇ、天主様をお慰めするのと、罪人の回心、どっちの方がいい?」
「あぁ、僕は天主様をお慰めする方がいい。その後で罪人を回心するのがいい。何故かというと、罪人が回心したら、天主様をこれ以上悲しませないから。」

これが死に至るまで、フランシスコの生涯の全てでした。フランシスコは身を隠して、天主を祈りと犠牲を以て、天主を慰めよう、慰めようとしていました。

スペイン風邪というインフルエンザで苦しんでいたフランシスコにルチアは聞きます、「あぁ、フランシスコ、苦しい?痛い?苦しいですか?」「はい、とっても苦しい。でもこの苦しみを、主をお慰めする為に捧げています。」

フランシスコが死ぬ前の言葉を聞いてください、「天国に行ったら、天主様をもっと慰めたい。」

このフランシスコが言ったのが、ファチマの霊性の1つです。ファチマの中心は天主です。人間ではありません。

ところでこの世は、天主の御稜威、天主のそれについて全く忘れ去ってしまっています。私たちはともすると、被造物で最も大切だと言われていますが、でも本当は何でもありません。全ての天使と人間を合わせても、天主様と比べれば一滴の水でもありません。

諸聖人は私たちに教えています、「天主様の前で私たちは、全くゴミのような塵のようだ。天主の御前で私たちは全く無に等しい」という事を諸聖人は教えています。フランシスコは、「あぁ、天主様とは本当に素晴らしい方で、言葉にも表せない」と言います。

フランシスコを知っている周りの人々は、「あぁ、ファチマの偉大な御出現を受けたこのフランシスコは、将来一体何になるだろうか?」「ねぇ、フランシスコは大きくなったら何になりたいの?」
「僕は何にもなりたくない。天国に行って、天主様を慰めたい」と言います。

何故かというと、マリア様が既にフランシスコに、「フランシスコは早く天国に連れて行く」と約束していたのを知っていたからです。

「天主が第1である。」そして天主のその御稜威というものを、この小さなフランシスコは私たちに思い出させてくれます。

フランシスコは言います、「この世で存在する唯一の悪がある、それは罪だ。」

ファチマは私たちに、罪とは一体何であるかをよく教えています。ところで最も恐るべき罪というのは、天主の憐れみ、天主の愛を侮辱する事です。被造物が創造主に対して為す、最も恐るべき忘恩であり無関心が、罪です。

もしも私たちに寛大に恵んで下さる恩人がいて、その恩人からもう数知れないほどの恩恵を受けて、恵みを受けたにもかかわらず、その恩人に対して唾を吐きかけて、そしてその殺害さえもしようとするならば、本当に私たちが、罪が一体どのようなものか、という事理解するイメージとなります。

「天主よ、御身は私に全てを、その苦しみ全てを下さいました。しかし私たちはそのような無限の愛に対して、しばしば、非常にしばしば無関心で、しかもその尊い御顔に唾を吐きかけ、そして天主を私たちの霊魂から追い出してしまっています。」

罪とは、この恐ろしさ、このこれほど恐ろしい事であるという事を、フランシスコはよく知っていました、「罪を犯すという事は、本当に恐ろしい事である。」

ところで、天主は罪に対してどのように反応するでしょうか?

もしも皆さんが、皆さんの持っている物を全て誰かに与えようとして、与えたにもかかわらず、その恩を受けた人がそのお礼に、私たちを亡き者にしようと殺害しようとして来るるとしたら、そのような人々に私たちはどのように向かうでしょうか?「怒り」「罰」「追放」などが考えられます。

フランシスコは天主がその反応として、「悲しんでおられる」という事を見ます。「愛する父親は、その子供が、その子供から拒否を受けて非常に悲しんでいる」その悲しみをフランシスコは見ます。

その父親は、私たちを救う為に、御一人子を死にさえも渡してしまうのですけれども、その価値の無いような私たちの為に。その代わりに、私たちから無関心と冒瀆を受けています。その天主の悲しみを黙想すると、天主の悲しみというのは、天主の神秘の内の神秘です。

これはすでに旧約のエレミヤの預言書の中に、天主の悲しみについて、「天主の民が主を拒否する、それに対して悲しんでおられる」という事について語っています。

イエズス様の御生涯は本当に無限の悲しみの生涯でした。御受難の直前にイエズス様はこう言います、「私の霊魂は死なんばかりに悲しむ。」

聖マルガリタ・マリア・アラコックにイエズス様は言います、「聖心は非常に悲しい。何故ならば、愛の代わりに無視と無関心、冒瀆とを受けているから。」

フランシスコは私たちに最善の答えを与えます。それは、「私たちが天主を慰める事ができる」という事です。天主は私たちの心を叩いて、門を叩いてドアをノックするのですけども、人々はそれを開けようともしません。

「おぉイエズス様、あなたは多くの霊魂の門を叩いているのですけれども、誰もあなたに開こうとする人はいません。」
「おぉイエズス様、イエズス様は社会から、或いは家庭から、或いは教会からも追い出されています。」
「御身は創造主であって、師であり、指導者であるにもかかわらず、たった一人ぼっちで、誰も御身の事を気をかけようとしません。」
「国が御身を受ける事を拒否しています。私は自分の心を大きく開いて、御身を受けようと望みます。貧しいながらも、心からの歓迎をしたいと思います。」
「イエズス様、御身は頭を乗せる所さえも、それはないかもしれません。どうぞ私の心に来て下さい。」
「この世の人々がますます御身を拒否するならば、私は御身をますます受け入れたいと思います。」
「御身の事を人々が忘れれば忘れるほど、私は御身の事を考えたいと思います。」
「御身の事を世の人々が『あっちに行け!』と言えば言うほど、私たちは『こっちに来て下さい!』と申します。」
「御身の愛を軽蔑すれば軽蔑するほど、私は御身の愛を敬いたいと思います。」
「この世の人々が御身を悲しみと涙で満たすとすれば、私はますます御身を慰めたいと思います。」

この私たちのような貧しい罪人にとって、このフランシスコの「慰めたい」という望みほど素晴らしい望みはありません。現代において、「天主を愛する」という事が一体何かという事は、非常に重要なレッスンがあります。偉大な神秘家ではなくて、単なる単純な子供たちに、マリア様はその教えを教えてくれます。

フランシスコは偉大な宣教師となって世界中を駆け回るとか、修道生活を送って神秘家となって神秘体験をしたというわけではありません。フランシスコがやったのは、祈りと犠牲を捧げただけでした。ちょうど十字架の道行きで、聖ベロニカがイエズス様に白い布巾を与えたと似ています。たとえその行為自体がそれほど偉大なものでなかったとしても、愛に燃えられたものだったので、非常に大きな意味を持つ事ができます。

マリア様は皆さんに呼びかけています、「じゃあ皆さん、皆さんはこの小さな子供を真似して、主を慰める事はできませんか?」

フランシスコの模範を通して、天主の愛の掟を私たちに教えています。天主を愛する、天主を慰めるという事によって、私たちは天主に対する愛をますますかきたてる事ができます。この世の罪を見ると、或いはこの主を知らない人々が多くいるのを見ると、私たちはますます主を慰めたいと思うようになります。私たちの日常の苦しみや痛みを主に、慰める為に主に捧げようと思うようになります。

このフランシスコの模範は実は、マリア様の持っていた天主に対する偉大な愛を映し出す鏡であったという事が分かります。マリア様が十字架の足もとに立って、麓に立っていた時に、マリア様は何も大きな事を語ったわけではありません。ただイエズス様を慰めようとしていました。

現代、天主の為に使う時間はほとんどありません。ほんの数分お祈りをすると、「あぁ、もうこれはもう退屈だ。あぁ、さぁ何か別の事をしよう」と思うようになります。

しかし、「天主を慰めよう」という思いがあると、私たちの現存、或いは私たちの祈り、或いは私たちの犠牲によって、主に対する愛が沸き起こります。このような態度から来る効果とは、どんな事が引き起こされるでしょうか?

フランシスコは、その「慰めたい」という望みによって聖人になりました。マリア様の助言を聞いて、ファチマのメッセージを実践しようとすると、私たちは非常に短期間の間に、大聖人になる事ができます。
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秋田巡礼-霊的講話【2】-2017年5月3日シュテーリン神父様「イエズス様はあなたを使って、私の事が愛され知らされる事を望んでいます」

2017年05月30日 | お説教・霊的講話
2017年5月3日 秋田巡礼 シュテーリン神父様霊的講話2
「イエズス様はあなたを使って、私の事が愛され、知らされる事を望んでいます」

同時通訳:小野田圭志神父


では、お話しを続けましょう。

ではファチマ自体で、ファチマの場所でなされた、マリア様のお言葉と出来事を黙想してみる事にします。

先ほど太陽の奇跡についてお話しましたけれども、太陽の奇跡について詳しいどのような事があったかという事を、写真を持って、或いはそのような本を持って、無関心な人でも、或いはキリスト教を全然を知らないような人にも教えてあげれば、「へぇ~、こんな事もあったのか」ときっとそれに感動すると思います。おそらく日本でもそのような事を知らない人々がたくさんいらっしゃると思います。

教会に敵対していたような人でも、多くの人々が太陽の奇跡で回心しました。その太陽の奇跡の後でも何百、何十万という人々が回心しましたけれども、それはそのような太陽の奇跡があったという事を知らされて、それをそういう事を読んで、或いはそういう事を知って回心しました。

もしもこの日本のような国でも、ファチマで起こっているような事が写真付きで解説付きで、「このような事が起こったのだ」という事を知れば、それを見た人は、「えぇ!そんな事があったのか!信じられない!」という事で、多くの人々がお恵みを受けると思います。

マリア様は皆さん一人一人にこう呼びかけています、「イエズス様はあなたを使って、私の事が知られ、愛されるのを望んでいます。」

もしも皆さんが他の人に、「あぁ、マリア様がファチマで100年前に現われましたよ」と言っても、「ふ~ん、そう」と言うかもしれません。私は東欧の諸国に任命されて、ロシアとか共産主義の下にあった国々に行って、黙想会を開かなければなりませんでした。そこでは無神論の人々がたくさんいました。そこでそのような人々に、ファチマで何が起こったのか、ファチマの奇跡のお話をしたのですが、そうすると今まで何も信じていなかった人が回心して、カトリックを信じるようになりました。

この日本のように物質主義の中にいる国々の中で、ファチマの奇跡というものは非常に重要な意味を持っています。ですからその皆さんこそが、このような出来事があったという事を知らせなくて、一体誰がなさるでしょうか。

もちろん太陽の奇跡というのは、一番重要な内容ではありません。メッセージのもっと重要な内容がありますけれども、その重要なメッセージの内容が本物であるという事を記すハンコが、太陽の奇跡ですから、このハンコも大切なのです。

私はファチマの本を書きました。天使が3回現れて、その次に10月13日までマリア様が現れたお言葉を全てここに書かれています、黙想も書かれています。マリア様が言った言葉それ自体は、 1枚の紙に書き尽くす事ができるほどしかありません、分量としては。イエズス様が仰ったその言葉は、聖書の中ではそんなに分量が多くありませんけれども、1つ1つの言葉について何時間でも黙想する事ができますし、それについて多くの本を書く事もできます、それと同じです。

ファチマのマリア様の一番の重要なテーマが何かという事が分かると、本当にびっくりします。マリア様は、教会が50年間過去無視して、そして時には否定しているような事を強調しているからです。

マリア様がファチマで強調する第1のテーマは、「永遠」に関する事です。

マリア様が強調する私たち一人一人にとって一番大切な事は、「霊魂を救って、一人一人が天国に行く」という事です。「私たちの与えられた短い人生を使って、永遠の命を得る。これこそが最も本質的な事である」とマリア様は言います。

「私たちの人生は非常に短いけれども、永遠を準備する期間である」というこの真実を、現代では皆が忘れ去っていて、誰もその事について話す人はいません。

現代の人々は、「この地上の世界でどれほど楽しむか」だけを考えています。もしもそのような人々がお祈りするとしたらば、この世の地上で「何とか何とかほしい」とか「何とか何とかありますように」という事をお祈りしています。祈るとしても、「この地上で健康で長生きしたい。」「死を迎えるとか、或いは天国に行く、等という事などはそれは一番最後、できるだけ避けて通りたい。」

でもファチマの子供たちは、「私は天国に行けますか?」これです。

「ジャシンタも天国に行けますか?」「はい、天国に行けます。」
「フランシスコはどうですか?」「はい、フランシスコも行きます。でもたくさんのロザリオを唱えなければなりません。」
「では、マリア・ダスネヴェスちゃんは天国にいますか?」「はい、天国にいますよ。」

マリア様は、「私たちにとっての救霊」という非常に大切な問題を、率直にお話しになります。

「アメリアも天国にいますか?」「彼女は、世の終わりまで煉獄にいるでしょう。」

その後にマリア様は、子供たちに地獄の火を見せます。それほど多くの、ものすごい数の霊魂たちが地獄に落ちているという事を見せます。ファチマの最も重要なテーマの1つは、「あぁイエズスよ、地獄の火より守り給え。地獄の火より救い給え。」というこの事です。

マリア様は、「来たる将来、地獄の事を否定する人々が来るだろう。或いは地獄の事を無視して、地獄の事を話さない時が来るだろう。或いは、地獄がたとえあったとしても、『ほぼ空っぽだ』などと言う人が来る時代があるだろう」という事を知っていました。

ファチマのメッセージの内容と第2バチカン公会議の内容を比べるのは、非常に興味があります。

ファチマの最も重要なテーマは、第2バチカン公会議では全く話されていません。地獄の「じ」の字もありません。煉獄の「れ」の字もありません。「天国に行く為に、永遠の命を受ける為に、私たちは戦わなければならない、努力しなければならない」という事は書かれていません。ファチマのマリア様のお言葉はですから、「伝統的な聖伝の公教要理」という事ができます。

第2のファチマの重要なメッセージであって、ファチマのメッセージの核心であり、最も重要なメッセージは、「マリア様の汚れなき御心をこの世に表した」という事です。

歴史の中で最初に、ご自分の汚れなき御心を人類に表した。これが第2回目のご出現です。これこそマリア様の最も深い神秘を、この子供たちを通して世界に知らせた、秘密を明かした事です。マリア様の汚れなき御心という、最も深い神秘と、最も内的な親密な神秘を、世界に啓示したという偉大な日が、この6月13日です。

汚れなき御心を私たちに与えたという事は、マリア様はその存在、マリア様のお持ちになっている全てを私たちに与えた、という事です。終末の時代に天主様が私たちに下さる事ができる最後の手段であり、最後の特効薬です。

1917年6月13日、マリア様はご自分が一体どなたであるか、という事を表わして下さいました。

「おぉ、マリア様よ、あなたは一体どなたですか?」
「はい、私はこれです。汚れなき御心です。」

イエズス様はご自分のお望みの深い秘密を私たちに与え教えてくれました。この事を1語1語、全て暗記していなければなりません。

イエズス様は「私はこれを望んでいる。極めて強い望みを以て、そして願いを以て望んでいる」と言います。

福音によると、イエズス様が最後の晩餐をする時に、「私はこの事を、望みに望んでいた」と言ったその同じ言葉を使って、イエズス様は「私はこの事を望む」と言います。

「私はこの計り知れないほどの大きな望みを以て、マリア様の汚れなき御心の信心が広がる事を望む」と。

なぜイエズス様にとって、そして私たちにとって、汚れなき御心がそれほど重要なのかという理由を、イエズス様は、3つの絵を通して知らせます。

第1、「何故ならば、この汚れなき御心は、霊魂たちを私に引き寄せる磁石だから。」

磁石の効果、効能とは何でしょうか?強力な磁石があると、金属にピタッと引き寄せられてしまいます。一回ピタリとくっ付いてしまうと、磁力が強ければ強いほど、それを離す事はできません。マリア様の汚れなき御心は磁石です。磁石ですから、普通の磁石でしたら引力を自分の方にピタリと付けてしまいます。しかしマリア様の磁石はあまりにも強力なので、この世のもうどうしようもないような罪人でさえも。マリア様の御心へとピタリと引き寄せてしまいます。ところで、この磁石は非常に特殊な磁石で、自分の方に引き寄せるのではなくて、イエズス様に引き寄せる磁石です。

マリア様は自分でもご説明になります、「私の汚れなき御心は、天主へと導く道です。」

この御聖櫃が磁石であると考えてみましょう。この磁石はあまりにも強いので、皆さんがこう御聖堂のドアを空けて入った途端、グワッと引き付けられてしまいます。この御聖櫃は、マリア様の汚れなき御心です。でもマリア様の御心の中にこの御聖櫃の中に、イエズス様がいらっしゃるのです。

イエズス様が使う第2のイメージは、「世界を照らし出す、燃える火の焦点である。」

焦点であるという事は、この光が集中する点であるという事であって、「私は世の光である」と言ったイエズス様の光が全て、マリア様の心に集中して、そしてその集中した光を以てこの世を照らし出しているのです。

イエズス様は、「私の光と、私の愛の焦点である」と言います。光というのは真理の事です。もしも私たちが真理を知ると、「あぁ、」光に照らされて、「あぁ、そうか」と分かります。

マリア様の汚れなき御心のおかげで、私たちは真理、光であるイエズス様を知りました。真理というのは、現実を知る事です。真理だけではありません。天主と私たちを一致させる愛が、私たちを愛するが為に十字架で亡くなったその愛が、マリア様の汚れなき御心を通して、私たちに降り注がれます。

第3のイメージは、「私の憐れみである、生ける水を流し出す泉である。」

この3つのイメージはあまりにも深いので、人間の頭では聖人であっても考え出す事ができなかったと思います。

この3つの事をみると、マリア様の汚れなき御心は、天主様が皆さんと私にどれほど愛を注がれているか、という事を教えてくれます。

天主は憐れな罪人たちを救おうと、極度の、そのできるだけの最高限まで行きます。「私は汚れなき御心に対する崇敬と、そして信心を望んでいる」と言います。

「信心」というのは、個人的なマリア様に対する愛と奉仕の事です。私たちの小さな心とマリア様の偉大な汚れなき御心との一致が、信心です。信心というのは、子供が自分の母親に対して、愛と注意と尊敬を捧げる事です。

しかし「崇敬」というのは、公式な私たちの、私たちが話す天主の最高傑作に対する崇敬の事です。この崇敬というものは、公式の公の儀式によって表されます。

もしもこの2つが地上に確立されているならば、天主様は多くのお恵みを人々に与えます。もしも私たちが少しでもマリア様に信心と崇敬を捧げようと努力するならば、それだけで多くのお恵みを与えます。

しかし第2バチカン公会議においては、この20世紀のこの偉大な出来事については、一言も触れられていませんでした。

1917年6月13日、マリア様はご自分の汚れなき御心の重要さについて説明なさいます。

7月13日には、マリア様はご自分の秘密を明かされます。その秘密というのは、マリア様の汚れなき御心が世の終わりに、終末の時代に一体どのように働いて、どのように事業を達成するのかという事を明かします。汚れなき御心の要求を満たすという事は一体何なのか、後にマリア様は説明します。

マリア様のファチマのテーマは、まず第1には「永遠」についてでした。地獄、煉獄、天国、救霊。

第2は、「汚れなき御心」でした。

第3のテーマは、これは天使のご出現の時から既に表れていますけれども、「罪人の回心の為に力を尽くす」という事です。

ファチマの天使はまず、祈りを以って回心を求めます。この世の人たちは政治・経済などにまずこう集中するかもしれません、「この大臣が何をやったか。」しかし天使は、私たちの注意を別の方に向けます。「我が天主よ、我信じ、」そして天主、真の天主に集中させて、そして私たちと天主との正しい関係を確認させます。

「我、御身を信じ、礼拝し、希望し、御身を愛し奉る。」

対神徳といわれている、私たちにとって最も大切な徳をまず確立させます。この世の事、或いは自分の事、或いはこの世に楽園を建設する事だけを考えている人々に、まず天主の事で心を満たすように私たちに呼びかけています。

この地上の政治経済の新聞、或いはニュースだけにあまり捕われずに、天主の知識に満たされて下さい。天主様は私たちの為に、一体どなたであり、一体何をなさって下さっているのかをまず考えてください。しかし、天主については、私たちは信仰によって、信仰を通して学びます。そして天主の事を知れば知るほど、その雰囲気の中にその中に生活し、生きるという事を望むようになります。

天主様の偉大さのみを考えると、天主を礼拝するようになります。このような偉大な天主、そして私の無。私の何でも無いという事を理解すると、私たちは天主を益々愛するようになります。

その後に、「御身を信ぜぬ人々、礼拝せぬ人々、希望せぬ人々、愛さぬ人々の赦しを乞い求め奉る」と赦しを願うようになります。

この世は2つに分かれています。YesとNo。天主を信じるか、信じないか。礼拝するか、しないかです。

この2つの対立の中には対話がありません。対話ではなくて、赦しを乞い求める行為があります。この天主を拒否する事はありえないので、それに対する赦しと回心を求めるのです。

これが今日いう2つの国であって、霊的な戦いです。一方で、天主イエズス様に付き従い、マリア様に従う人々。一方でイエズス様に反対する人々。狭い門を通って、難しい困難な道を通りつつ、天国に行く人々と、多くの亡びの道を簡単な道を歩む人々、2つがあります。

私たちはその2つの道を同時に行く事はできません。2つの主人に同時に仕える事はできません。イエズス様に従わない人々に対して言う事ができるのはこの事だけです、「回心」或いは「赦しを求める」

天主を信ぜぬ人々によって傷付けられ冒されている天主を見ると、私たちはこの彼らの赦しを乞い求めるしかありません。そしてこのそのような人々に対しては回心を乞い求めて、何故かというと、もしも彼らはそのまま、天主に反対したまま生活を終えるならば、永遠に不幸が待っているからです。

第2バチカン公会議の文書の中には、「罪人の回心」とか或いは「罪を償う」という事については一言も言及がなされていません。

マリア様の仰ったのは少ない言葉ですけれども、その内容は非常に重要です。カトリックの真理を認めない人々に対して、1つの態度しかありません。

マリア様がロシアの誤謬について話す時があります。マリア様が「ロシアを汚れなき御心に奉献するように」と求める時があります。2つの効果を約束します。1つは、「ロシアの誤謬が除去される。」つまり共産主義や物質主義が除去される、無くなるという事です。そして「ロシアの離教の人々が、カトリックの真理に立ち戻る」という事です。

これが、マリア様の他の宗教に対する態度です、「告解をしなさい。」或いは「罪の償いの為に御聖体を拝領しなさい。」或いは、「天使が子供たちに、罪の償いの為の聖体拝領させる」という事はプロテスタントでは考えられない事です。プロテスタントにマリア様がどれほど反対されているかという事を示しています。

ファチマはですから、最初から最後までエキュメニズムに反対しています。ですから第2バチカン公会議とファチマは、相入れないものとなっています。

ですからローマが、ファチマの要求されているロシアの汚れなき御心に対する奉献に対して、不誠実なやり方をしている、という事がよく分かります。何故かというと、マリア様の出した条件というのは、非常に単純だからです。マリア様が出された条件の内の半分も満たされずに、奉献がなされています。

私は今ファチマの本の第3巻を書いているのですけれども、そこに詳しくロシアの奉献について皆さんによく知らせたいと思っています。私の今書いている本では、マリア様がロシアの奉献についてこう条件で「こういう風に奉献しなさい」という条件をそのまま書き出して、そしてそれに、それが満たされてないか、かつてなさった教皇様がなさった奉献について吟味してみますが、全て満たした奉献はなされていません。

シスタールチアも自由に話す事ができる間は、そして自分の手紙などで書いた内容を見てみると、「まだなされていない」と言っています。ところがバチカンから突然ニュースを聞いて、「あぁ、もうOKだ。シスタールチアは『もうなされた』という風に言っている」と聞きます。

そこで私の書いた本は、11の理由を挙げて、「それはあり得ない」という事を、「ですからこれは嘘だ」という事を説明しています。

何で私は今こんな事を言わなければならないのでしょうか?

何故かというと、「ファチマ」と「現代の教会の危機」というのは、非常に深い繋がりがあるからです。

「枢機卿様があんな嘘を付くわけありません。」「そうやって嘘を付く事ができるわけありません」などとおっしゃるかもしれません。

でも、「イエズス様は、私たちの宗教と他の宗教たちが1つとなる事を望んでいる」というのはやっぱり嘘じゃないでしょうか?

第2バチカン公会議の、「他の宗教もイエズス様の聖心を喜ばせている」というのは嘘ではないでしょうか?

オッタヴィアーニ枢機卿様の分析によると、「新しいミサはプロテスタントの考えから来て、私たちをプロテスタントの方に引っ張り導くもの」です。それにもかかわらず新しいミサを「偉大なカトリックのミサだ」と提示しているのは、これは嘘ではないでしょうか?

ところで、ファチマのマリア様のメッセージを聞いたり、或いはそれを実行するというような人々を見て、突然「これは冒涜だ!」と言う事ができるでしょうか?いえ、できません。

マリア様のメッセージを聞いて、それを実践する人々は、単純に、伝統的な聖伝の教えに惹かれ、立ち戻る事ができるようになります。


では今から10分の間休憩を取ります。
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秋田巡礼-霊的講話【1】-2017年5月3日シュテーリン神父様「イエズス様はあなたを使って、私の事が愛され知らされる事を望んでいます:ファチマの奇跡の数々」

2017年05月29日 | お説教・霊的講話
2017年5月3日 秋田巡礼 シュテーリン神父様霊的講話1
「イエズス様はあなたを使って、私の事が愛され、知らされる事を望んでいます:ファチマの奇跡の数々」
同時通訳:小野田圭志神父

このお話を、ファチマのマリア様の呼びかけの為に特別に使いたいと思っています。それは、ファチマのマリア様がシスタールチアを通して私たちになさった呼びかけで、この言葉です、「イエズス様はあなたを使って、私の事が愛され、知らされる事を望んでいます。」

100年後の今日、この呼びかけは私自身の生活のパターンとなり、私自身の生活の一部でなければなりません。御聖櫃の中に真に在し給うイエズス様は皆さんに、御自分の望みをマリア様を通して今、こう言っています。

「イエズス様は、あなたを使いたいと望んでおられる。マリア様の汚れなき御心が知られ、愛されるようにする事を望んでいる。あなたを使って。」

もしも「誰かの事を知らせたい」と、「他の人に知ってもらいたい」と思っていながら、自分が知らないのならば、どうやって知らせる事ができるでしょうか?

この荘厳なマリア様からの呼びかけに応える為に、皆さんは私たち一人ひとりは、一体ファチマで何が起こったのかをよく知らなければなりません。

ファチマというのは場所の名前です。しかし私たちが普通ファチマと言うと、この場所で起こった出来事で、天主様からのどのような介入が起こったかという事全てを、その起こった全ての場所の事を示しています。私たちが普通考えているよりも、ファチマというものはもっと深いものがあります。「マリア様が6回お現れになった、このファチマ」と普通考えます。

しかしその前にも3回、天使が現れました。マリア様は5月13日から10月13日まで6回現れました。更に8月19日には特別なやり方で子供たちに現れました。更にマリア様はシスタールチアに、ご自分が既に予告された通り、マリア様の汚れなき御心に対する信心を確立する為に、特別のメッセージを与えました。

最後のいくつかのご出現は、ファチマという場所では行われませんでしたけれども、ファチマに属する出来事です。ポンテベドラで1925年12月10日になされたご出現、トゥイで1929年6月13日になされたご出現もあります。これに更に付け加えるものもあります。このご出現の他にも、ルチアはマリア様やイエズス様からの内的な語らいを何度も受けていました。

ファチマに属するものとしては、子供たちの生活、生涯の事があります。子供たちは、マリア様が彼らから何を望んでいるかという事をよく知っていましたので、彼らの生き方、生き様というものを見ると、マリア様が何を望んで、何を語りかけていたのか、という事を正しく解釈する理解する模範となります。

一人ひとりの子供たちは、ファチマの1つ1つの別の観点をよく理解しました。それでこの子供たちの受けた特別の使命、特別の生き方を見ると、ファチマの完全な霊性が分かります、霊的な特徴が分かります。

元々、この3人の子供たちは田舎の子供たちで、とりわけ聖なる子供たちであったというわけではありませんでした。ところで、このような子供たちであったとしても、ファチマのマリア様の特別なおかげで、1年半、2年、短い期間の間に、子供たちは瞬く間に成長して、変わっていきました。

「天主様は、このような子供たちを大聖人に変える事が、あっという間に瞬く間に変える事ができる」というこの奇跡的な行いを見てください。

子供たちに一体何ができるでしょうか?子供たちは子供ですから、教会で何か偉大な仕事を役割を果たす、という事もできません、子供ですから。これを見ると、本当に誰であったとしても、もう本当に何か重要な役割をする事ができるかと思われるような人であったとしても、マリア様を通して偉大な業をする事ができる、という事が分かります。

小さなジャシンタやフランシスコが、マリア様の望むままに、なされるがままにさせていたように、私たちもマリア様がなされるままにさせてしなければなりません。こうするとファチマは聖徳の学校になります。

これだけでもありません。もしも私たちがファチマという、偉大な世界的な出来事を把握する為にはもっとあります。

マリア様のメッセージを受けた霊魂たちが、全世界で数えきれないほどの多くの人たちが受けた奇跡的な出来事を1つ1つ見なければなりません、その事実を見なければなりません。

その事を考えると、ファチマという出来事はまだ終わっていません。まだ今でも続いています。

1つは、マリア様は「ロシアをご自分の汚れなき御心に奉献する事」を要求されました。

マリア様がお与えになった条件を満たしながら、この奉献がなされない限り、ファチマの出来事が終わったとは言えません。まだこの条件が満たされていないので、ファチマで約束された約束も成就していません。

「ロシアがまだ条件を満たして奉献されていない」という事と、そして「ファチマの第3の秘密がまだ公開されていない」この2つの出来事があります。

この事を考えると、ファチマの出来事はまだ続いている、しかも100年間この世界の歴史の中に影響を及ぼし続けている特別のご出現であると分かります。

皆さんの人生において、或いは教会の歴史において、或いは全人類の歴史において、ファチマがどれほど特別な役割を果たしているのかという事を知り、その事について確信を持たなければ、私たちはファチマの事をよく知ったとは言えません。

もしもまだファチマについて疑問が、疑いがあるのであれば、ファチマで起こった奇跡の事を少し考えてください。この奇跡の事を見ると深く知って、天からの介入があった奇跡的な事があったという事を、はるかに抜きん出て特別な奇跡が起こったという事が分かります。

ルルドで聖ベルナデッタがマリア様にお願いしました、「皆が信じる事ができるように、奇跡を起こしてください。」マリア様はそれに、微笑んだだけでお答えはしませんでした。

グァダルーペではホアン・ディエゴが、「司教様が見る事ができるように、司教様が信ずる事ができるように、お願いだからしるしを与えて下さい」とお願いしたので、そこで特別の奇跡が起こりました。

ファチマの場合にはシスタールチアがお願いすると、「はい、そうします」とすぐに答えて、そして3ヶ月後にそうします。その日付さえも与えて下さいました。そしてそればかりではなく、その来たる2ヶ月の後に、「奇跡の起こる日はこの日ですよ」また「この日ですよ」と何度も繰り返されて、その奇跡をするという事を確認しました。

かつてその小さな村の僻地で10万人の人々が集まったという事はありませんでした。しかしマリア様は何度も何度も「奇跡が起こる」という事を仰ったので、その人々が集まってきたのでした。

もしも他の方々に、「マリア様の事を知って頂きたい、知らせたい」と思うのならば、10月13日に一体何が起こったのかを教えてあげてください。

ですからこの日に一体何が起こったのかをよく知って、そしてできればその時の写真なども手に持ってください。そうすればマリア様の事やキリスト教を知らないような人々も、「あぁ、こんな事もあったのか」とびっくりすると思います。

ファチマの奇跡を見ようとした人は、ただ信じて、その「奇跡が起こる」と確信して来た人だけではありません。それ以外の多くの人々は、このこの出来事を嘲る為に、或いは批判する為に、或いは「さぁみた事か。これは教会の敵であり、天主の敵であり、これは全くふざけた事だ」と言う為に来ました。

もしもその時に何日も何日も何日も降り続いている雨が、降り続いていなかったならば、更にもっと多く人々が来ていた事でしょう。秋の冷たい夜、雨のザーザーと降り注ぐ中、肩まで水が染み込んでずぶ濡れになったとしても、そこに行こうとした人々はそれほどたくさんいたのです。

ルシアのお母さんはもちろん信じていませんでした、「奇跡が起こるわけがない。その奇跡が何も無かったという事を知ったこの群衆は、暴動を起こしてこの子供を、自分の子は殺されてしまう、殴り殺されてしまう」と、それを恐れていました。

今までの経験から言うと、もしもマリア様が奇跡を起こすとしたら、その奇跡を目撃する人々は選ばれた人々であって、少数の人々であって、聖なる人々でありました。ところでその10月13日には、嘲笑いに来た人、信じていなかったような人々、批判する為に来た人々でさえも、全てその奇跡を見ました。

この日には1つの奇跡ではなくて、8つの違った奇跡が起こりました。

まず、マリア様がおられた現れた場所に、全ての人が雲の柱を見ました。ミサの時に香を焚くと煙が昇りますけれども、たくさんの香でたくさんの煙を祭壇に献香したかのように、マリア様が現れた木の所に雲の柱が登りました。

第2の奇跡は、雨がずっと絶え間なく止まずに降り続いてきたという事です。そして雨が一番激しく降ったのは、マリア様が来られた時でした。「太陽をご覧下さい!」とルチアが叫んだ時には、空にあったのは雨と雲だけだったのですけれども、そのルチアが言ったその瞬間、ほんの1分そこいらの間に、瞬く間に雲も消え、雨も無くなって、青空が見えて、太陽が輝き出しました。

第3の奇跡は、太陽がカンカンと輝き出した時に、ほぼ10万人の人々は、太陽を直視する事ができたという事です。10分もです。太陽を今外に出て直視したとしたら、1分ずっと見つめていただけで、もう目が網膜が焼き付けてしまって目が見えなくなってしまいます。ところでこの時には 、10分以上その太陽の奇跡を見ていた人々は、目が見えなくなってしまったという事はありませんでした。

第4の奇跡は、この突然現れた太陽が躍り出した、非常に大きなスピードでぐるぐる回転したという事です。太陽が回転し出したのは3回でした。そしてそれを見て人々は非常に驚きました。自然の法則を超えた事が起こったからです。

第5の奇跡は、太陽から出た七色の虹のような光が、この地上のあらゆるものに色を付けたという事です。

特に人々を驚かせた事は、そのような踊っていた太陽が、人々の上に落ちて来たという事です。その時に現場に居合わせた人々が、口を揃えて証言を残しているのは、「太陽が落ちてき出した時に、皆叫び出して泣き出して、そしてパニックが起こった」という事です。或る者はこの地上に泥の中に平伏して、自分の今まで犯した罪を告白した人もいました。フリーメーソンや、教会を破壊しようとする敵や、批判しに来た新聞記者などは、非常に死なんばかりに恐れました。多くの人々が叫び出して、「これでもう世の終わりだ!」と思っているのです。この太陽が近付いて近付いて、この地上に衝突して人々を押し潰してしまうかのその瞬間、太陽は自分の場所にゆっくり戻って行って、そして何もなかったように、地上を照らし出し続けていました。

誰も、これは「幻覚を見た」とか或いは「催眠術だ」という事はできません。何故かというと、「何も信じない」という敵が、嘲笑いに来た人たちが、これを見て恐れたからです。

第7番目の奇跡は、この太陽の衝突の奇跡の直後に、今までずぶ濡れになっていた人々の服がカラッと乾燥していた事です。皆さん雨が、夜中に雨がザーザーザーザー降る中に、外に何時間も夜通し立っていたと考えてください。ずぶ濡れになっているという事を考えてください。その後で太陽が照らして、何時間か日向ぼっこをしたとしても、それでも服はまだ完全に乾いている事はありません。ところでこの時には、あっという間に人々の服は乾燥してしまいました。

この太陽が落ちて来るというのを見たのは、そこのファチマに居たそこの人だけではありませんでした。離れた、5kmとか10kmとか離れた人もそういうのを見ていました。

そこでこのファチマの奇跡は、過去起こった奇跡に無かったような特別の重大なものだという事が分かります。この太陽の奇跡は最後に書かれた署名のように、「確かにこれは天国からのしるしだ。これは本物だ」という事を証明するサインでした。

このようなこれほどの大きな奇跡は、イエズス様の御復活以後ありませんでした。或いはシナイ山でモーゼに天主が現れて、十戒を与えた以後なかったような奇跡でした。

しかも、天主の敵たちが多くそれを見たという。その多くの人々がその後回心しました。

なぜ天主様はそのような奇跡を起こしたのでしょうか?

「奇跡が大きければ大きいほど、そのメッセージの内容も重要である」という事です。「マリア様が私たちに伝えようとしたメッセージは、非常に特別で、極めて重要な内容がある」という事を理解しなければなりません。

この奇跡は、信じていないような人々に、何か特別な重要な事が起こっている事を知らせる為にありました。

しかし、太陽の奇跡よりももっと重要な奇跡があります。これは罪人が回心する時です。単純な人々が聖人になる事です。太陽の奇跡は今でも続いています、この罪人の回心を通して。朝の祈りも夕の祈りも知らなかったような子供たちが、本当に短い間に大聖人になりました。

ファチマのマリア様が世界中を巡礼して廻るその時に、多くの数えきれないほど特別な奇跡が起こりました。例えばアメリカ合衆国やメキシコなどのように、フリーメーソンの手に陥ったような国々でも、マリア様の御像が巡礼される時、このキリスト教徒として生活する事がますます難しくなるような物質主義や唯物主義にますます陥っているような世界でも、マリア様が通る時に、マリア様は大きな奇跡を起こします。

そのような、唯物論の世界に住む人々は、ますますマスメディアの言うがままに流されて、そしてますます天主様を忘れ、それから離れて、快楽だけに生きています。ところがこのマリア様の御像がその国を訪問されるだけで、信じられない事が起こりました。過去教会が経験した事がないような、多くの回心が起こりました。

マリア様の御像がそこを訪問して、周りにいる人々がそのマリア様のご要求に応えようとしたその時に、多くの奇跡が回心の奇跡が起こりました。20世紀に共産主義やフリーメーソンが、物質主義や快楽主義で天主様の無い世界を作ろうとしていた時に、マリア様がその御像で訪問されると、そのような計画をあっという間に踏み崩してしまったのでした。

【続く】
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日本の幼い子供たちの命を助けてください!ファチマの聖母にお祈り下さい!

2017年05月24日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

日本の幼い子供たちの命を助けてください!

中絶される時、胎児はお母さんのお腹の中で逃げ回ります。

信頼しきっていたお母さんのお腹の中での虐殺。無言の叫びと悲しみ。

中絶は、あまりにも酷い「殺人」です。

実際にはヤミ中絶がその5倍あると言います。

天主の創られた生命を、誰も中絶することはできません。

何百万という罪のない子どもたちの母の胎内での虐殺は天に向かって復讐を叫ぶ罪です。

私たちは、堕胎(人工妊娠中絶)に協力することはできません。

人工妊娠中絶を選択できることは、個人の基本的人権では絶対にありません。

堕胎によって、残念ながら、日本は日本のもっとも大切な自分の国民に対して戦争を行っているのです。

日本の最大の戦争を戦争を終わらせるために、ファチマの聖母マリア様に祈って下さい。

ファチマの聖母はこう言いました。

「ロザリオの聖母を崇敬するために、世界が平和を得、戦争の終わりを勝ち取るためにロザリオを毎日唱え続けることを望みます。なぜなら、そのお方(聖母)だけがあなたたちを助けることが出来るからです。」

シスター・ルチアはこう言いました。

「聖なるロザリオに関しては、神父様、ご覧ください。私達の生きるこの最後のときに当たって聖母はロザリオを唱えることに新しい効果を与えてくださいました。たとえそれがどんなに難しくとも、この世的なあるいは、特に霊的な問題、私たち一人一人の個人的な生活上の問題、家族の問題、この世のすべての家族の問題、修道会の問題、民族の問題、国家の問題などなど私たちがこの聖なるロザリオの祈りによって解決できない問題などありません。もう一度言います。それがどれほど困難であろうとも、私たちが聖なるロザリオの祈りによって解決し得ない問題はありません。ロザリオを唱えることによって私たちは自分を救い、聖化し、我らの主を慰め、多くの霊魂の救いを勝ち取るのです。ですから私たちのいとも聖なる母、マリア様の汚れ無き聖心への信心をもたなければなりません。そして聖母を仁慈・善良さ・赦しの座であると考え、天国への確かな門であると考えなければなりません。」


ファチマの聖母マリア様、赤ちゃんに対するこの戦争を終わらせて下さい!

聖母マリア様!日本の赤ちゃんたちを、世界中の赤ちゃんたちを守って下さい!
ファチマの聖母!私たちのためにお祈り下さい!

愛する兄弟姉妹の皆様、どうぞ、日本で堕胎が無くなりますように、ファチマの聖母にお祈り下さい!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
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日本の幼い子供たちの命を助けてください!統計

2017年05月23日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

日本の幼い子供たちの命を助けてください!

統計によると、日本では1949年から2015年の間に、総計38,460,206人の日本の赤ちゃんたちがお母さんのお腹の中で殺されました。



Total 38,460,206

67年間の間、3,846万人の赤ちゃんです。

『一九九五年八月十五日に』(朝日新聞社)によると、日本の戦死者は軍人と民間人を合わせて 310万人でした。
 日本では、「戦後」、第二次世界大戦の12倍の殺害を自国民にする戦争を始めてしまいました!

ファチマの聖母マリア様、この戦争を終わらせて下さい!

聖母マリア様!日本の赤ちゃんたちを、世界中の赤ちゃんたちを守って下さい!
ファチマの聖母!私たちのためにお祈り下さい!

愛する兄弟姉妹の皆様、どうぞ、日本で堕胎が無くなりますように、ファチマの聖母にお祈り下さい!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
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日本の幼い子供たちの命を助けてください!

2017年05月22日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

3月24日午前8時ごろ、千葉県我孫子市でベトナム国籍の小学3年レェ・ティ・ニャット・リンさん(当時9)が遺体で見つかりました。
この事件を私たちは皆大変悲しく思います。

日本の幼い子供たちが毎日、お母さんのお腹の中で虐殺されています。

統計によると、2015年には、176,388人の日本の赤ちゃんたちが邪魔者扱いを受けて殺されました。
つまり、一日に、平均483人から484人が亡くなりました。

これは、一時間に平均20人の赤ちゃんが遺体となったということです。

計算すると、たった三分の間ごとに、一人の赤ちゃんが、2017年に亡くなっていきました。

私たちの愛するこの祖国で、私たちの同じ国民である小さな赤ちゃんたちが、邪魔者扱いをされ、罪もなく闇に葬られています。

これ以上、私たちの家族である、罪のない子供をいじめないで!

ファチマの聖母マリア様、私たちのためにお祈り下さい!

聖母マリア様!日本の赤ちゃんたちを、世界中の赤ちゃんたちを守って下さい!

愛する兄弟姉妹の皆様、どうぞ、日本で堕胎が無くなりますようにお祈り下さい!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
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秋田巡礼-シュテーリン神父様御説教-2017年5月3日「巡礼のはじめに~ヨゼフ様と共にヨゼフ様の助けを持って、ヨゼフ様の観点からマリア様に近づく」

2017年05月21日 | お説教・霊的講話
2017年5月3日 秋田巡礼 童貞聖マリアの浄配証聖者聖ヨゼフの随意ミサ
シュテーリン神父様御説教

同時通訳:小野田圭志神父


今年の巡礼は確かに特別な巡礼になっています。この巡礼は特にファチマのマリア様の概念の導きの元に、そのしるしの元にされます。

100年前、3人の牧童たちにマリア様はお現れになって、終末の時代にいう事ができる最も重要なメッセージを与える為にお現れになりました。この事に注意して下さい、ファチマというのは、100年前に一度起こってそれで終わってしまった事ではありません。確かに私たち一人ひとりの心を捉えて、もう動かさないほどの重要な歴史的な出来事でもありました。ちょうど素晴らしい映画を見ているようにその1つ1つの出来事に私たちは圧倒されて、うっとりしてしまうほどの出来事でした。多くの人々がそのようにファチマの事を考えています。

でもファチマはそれよりももっと重要な事があります。ファチマというのは、マリア様からの皆さんと私に対する直接の、そして個人的な働きかけです。

3人の子供たちにマリア様が仰ったという事は、私たちにも直接にマリア様は語りかけている事です。ちょうど3人の子供たちに語りかけたマリア様が私たちに、直接に御現れて個人的に仰った事を、全世界に語りかけています。もしもこのように理解する事ができるならば、マリア様の1つ1つの御出現と1つ1つのメッセージが私たちに対して新しい啓示となって、新しい語りかけとなります。

マリア様が私たちに語りかける時には、新しい情報を与えるとか、新しい知識を与えるという事ではありません。もちろんこのメッセージというのは1つ1つがとても重要な事です。マリア様の言葉は私たちに対する公教要理です。マリア様は御子イエズス様が私たちに教えたカトリックの真理を、ご自分の特別なやり方で教えてくれます。ですから素晴らしい教えを更に超えたものです。

学校に行って教室で授業を聞くと、先生からも知識を受けます。授業を良く集中して聞くならば、その授業の後で少し知識が増えます。でも頭は知識は増えたかもしれませんけれども、心や生活行動が変わるという事はあまりありません。何故かというと、誰もこの世では他の人の心を変える事ができる人がいないからです。

天主様も、天主様がその御恵みをお与えになった方だけが、それができます。でもマリア様は全ての聖寵の仲介者であって、人の心を変える事ができる力を与えられました。マリア様はこの特別のお恵みによって、このご自分のメッセージを聞いた人の心を変える力を持っています。

もしもマリア様がご自分の汚れなき御心の偉大さやその素晴らしさについて話されたとしたら、それと同時に私たちがこの汚れなき御心を愛する事ができるように、それを受ける事ができるようにするお恵みも与えてくれます。

もしもマリア様が恐ろしい罰について、例えば地獄の火についての真理を語るとしたら、私たちにそれと同時にこれを恐れ、これを避ける事ができるお恵みも与えてくれます。

もしもマリア様がその天国の素晴らしい美しさを私たちに知らせるとしたら、それと同時にマリア様は私たちの心に、天国の既に平和や喜びというものを感じさせてくれます。

別の言葉で言い換えると、マリア様の御言葉を私たちの心に個人的に受け取らなければなりません。マリア様は皆さんのお母様であって、皆さんはマリア様の子供たちです。この巡礼の3日間、マリア様は皆さんの心に語りかけて、皆さんを導き、皆さんを指導し、皆さんを助け、皆さんに語りかけ、皆さんを愛そうとされています。マリア様のお現れになった語りかけたこの修道院に行かれる時には、マリア様のその語りかけを感じるようにして下さい。

マリア様が何をなさったか、秋田で一体何が起こったかという事は歴史的な事を黙想する事は1つの事です。マリア様の言葉を黙想したり、涙について考えたりする事はできます。このマリア様の御像の単純さを感嘆する事ができます。しかし更に、「マリア様の流された涙の一粒一粒は、私の為に流されたのだ」という事を考えて下さい。「単なる歴史的な事ではなくて、マリア様が私たちの為に今生きて、今私たちに語りかけて働きかけておられる方だ」という「本物の御方だ」という事を感じて知って下さい。

今日私たちはマリア様に、ヨゼフ様と共にヨゼフ様の助けを以って近寄ろうとしています。聖ヨゼフは確かに、御復活の後には聖ヨハネがマリア様の事を世話しましたけれども、それを除けば聖ヨゼフ様が最もマリア様に近い方でした。マリア様の聖母聖月はいつもヨゼフ様の祝日で始まります。このマリア様の巡礼も、聖ヨゼフの最初の水曜日で始まりました。

ヨゼフ様がお持ちになっていた、マリア様を感嘆して眺めておられるその目、そのマリア様を愛するその心、聖ヨゼフの観点からマリア様に近付きましょう。聖ヨゼフは私たちに何を与えようとしているのでしょうか?

聖ヨゼフはまず私たちに、「心の平安」と「沈黙」を与えようとしています。それはこの世の喧騒雑音から心を離して、マリア様に心を集中させる事ができるというお恵みです。

第2にヨゼフ様は私たちに、「マリア様に対する感嘆と驚きの心」を与えようとしています。よく有りがちな事は、この素晴らしい真理であったとしても、頻繁に「またかぁ」とか「もう退屈だ」とかいう倦怠な心を持って聞いてしまう態度がよくありがちです。マリア様が素晴らしいお恵みを天からわざわざお持ちになって、「さぁ」と見せていらっしゃるにもかかわらず、私たちの態度といえば眠りこけていたり、退屈であったりとか、無関心であったり、というひどい態度をとりがちです。ヨゼフ様はそのような悪い態度から私たちを助けて、心を開いてマリア様を受けるようにさせて下さいます。

ヨゼフ様が私たちに与えようとされる第3のものは、「奉仕の心」です。ヨゼフ様はいつもマリア様とイエズス様に奉仕していました。マリア様の言葉や態度に感嘆して、「素晴らしいな」と思ってその言葉を聞くのみならず、マリア様の為に何かをしなければなりません。マリア様の為に何かをする、奉仕するという事はつまり、「マリア様の為に霊魂を救う事を手伝う」という事です。霊魂を救うという事は、老人の方や、或いは若い方や、或いは司祭、或いは一般信徒の方、或いは男性、女性、役割が違っています。

しかし一言私たちに共通して言える事は、マリア様の為に十分奉仕していない、マリア様の為に十分働いていないという事です。私たちが今している事よりも、もっとより良い事をする事ができるという事です。

ですから私たちはヨゼフ様の元に行って、「もっと良くマリア様の為に働く事ができるように」というお恵みを求めましょう。何故かというと、ヨゼフ様は全てをされて、これ以上更に良くする事はできない、というほどされた方です。このお恵みをヨゼフ様は私たちに下さろうとしています。

今年は、皆さんよく覚えて下さい。この皆さんのこの祖国の多くの方を回心させようと望んでいます。

今年はマリア様は、皆さんの元に多くの召命のお恵みを与えようとしています。

でもこれはこのお恵みを与えられるのは、「私たちがどれほどマリア様の為に奉仕するか否か」にかかっています。ですからヨゼフ様に、より良く、より多く奉仕する事ができるお恵みを求めて下さい。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
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シカゴ、香港、マカオ、リバプール、カラガンダなどにおける、ファチマ100周年の聖母の行列や聖母の汚れなき御心への奉献をご紹介します

2017年05月20日 | ファチマ
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 ファチマ100周年における、各国のファチマの聖母の行列や聖母の汚れなき御心への奉献をご紹介します。YouTubeで見つけた動画です。

アメリカのシカゴでは、5月13日から、10月13日まで、聖母行列を13日に6回行います。
次が5月13日の聖母行列です。




香港でも5月13日にファチマの聖母の行列がありました。




マカオでも5月13日にファチマの聖母の行列がありました。




 イギリスのリバプールでも5月13日に聖母行列がありました。




 アジア・ニュースによると、カザフスタンのカラガンダ司教区では、アデリオ・デロロ司教様が、5月9日から始まる講話と祈りの中央アジアとロシアのカトリック教会の集いで、その集いの締めくくりに5月13日には聖母の汚れなき御心にカラガンダ教区を奉献します。

 私たちも、ファチマ100周年を記念して、8月11日から15日まで、聖母の小黙想会を開きます

 8月15日には、聖母被昇天の歌ミサの後、私たちもファチマの聖母行列を行いたいと思っています。

 1945年8月15日終戦を受けて、日本司教団は一致して、聖母の汚れなき御心に日本を捧げることを決議し、奉献しました。

 ファチマ100周年にあたり、是非、2017年8月15日に、聖母行列の後、私たちもこの奉献を更新しようと思っています。

 どうぞ、8月15日のファチマ100周年の聖母行列に参加して下さい!

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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" Sacrament of Holy Orders " by Fr. Laisney SSPX

2017年05月20日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様の霊的講話、「聖なる叙階の秘蹟について」の【英語原文】をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

Sermon for 14 May 2017 at Seoul – 4th Sunday after Easter – Sacrament of Holy Orders

My dear brethren,

We heard today our Lord said: “I go to him that sent me” (Jn. 16:5). Many times, in the Holy Gospel does our Lord refer to himself as the One Sent by the Father. And He said: “As the Father hath sent me, I also send you” (Jn. 20:21). Our Lord Jesus Christ sent His Apostles with the same mission that He received from His Father, the mission of saving souls: “he shall save his people from their sins” (Mt. 1:21). This is the reason why He ordained His Apostles priests, even bishops: He gave them right away the fullness of the priesthood, and sent them to apply to many the fruits of His Redemption. We continue today our study of the sacraments with the study of the sacrament of Holy Orders.

St Thomas Aquinas explains that the first five sacraments were necessary for each individual in the Church and the last two sacraments (Holy Orders and matrimony) are necessary for the common good of the Church. In a gathering of people together into one society, there is need of authority so that this society can be in good order. Hence St Paul says to the bishops of Asia Minor gathered at Ephesus: “Take heed to yourselves, and to the whole flock, wherein the Holy Ghost hath placed you bishops, to rule the church of God, which he hath purchased with his own blood” (Acts 20:28). And above the individual bishops, our Lord has placed Peter and his successors with the special power to “confirm his brethren” (Lk. 22:32). So it is clear that there is in the Church a God-given authority, given by our Lord to the Pope, the bishop, and to the priests who are their co-operators, and the deacons and other sacred orders who are their helpers.

What is the purpose of that authority? St Paul says: “For every high priest taken from among men, is ordained for men in the things that appertain to God, that he may offer up gifts and sacrifices for sins” (Heb. 5:1). The very first commandment deals with the worship of God; the Church is essentially a praying Church. Hence it is normal that the first role of the priests be the worship. “For every high priest is appointed to offer gifts and sacrifices” (Heb. 8:3). Now the perfect worship of the New Testament consists in offering the perfect Sacrifice which our Lord Jesus Christ offered to His Father on the Cross; that daily renewal of the Sacrifice of the Cross is the Holy Sacrifice of the Mass, instituted by our Lord Jesus Christ the day before He suffered.

Hence the Church teaches that our Lord Jesus Christ instituted the sacrament of the priesthood just after He instituted the Sacrament of the Holy Eucharist, when He gave power to His Apostles to do what He had just done. The Council of Trent defined: “If anyone would say that by the words "do this in memory of me" Christ did not institute His Apostles as priests, or did not order that they and the other priests would offer His Body and Blood, let him be anathema!” (Dz. 1752) By giving them the mission to do what He did, He was necessarily giving them the power to do it, power to transform bread into His Body and wine into His Blood and to offer them as He did.

Thus, the priest is first of all the man of the sacrifice, the minister of that tremendous Sacrifice of our Lord Jesus Christ, which is the highest act of worship, by which mankind renders to God its duty of adoration, of thanksgiving, of expiation and of prayer. The priest is a “man of God” (1 Tim. 6:11), the man of the Eucharist, who has power to transform bread and wine into the flesh and blood of Christ, to offer it for the living and the dead, and to distribute it to the faithful: “Let a man so account of us as of the ministers of Christ, and the dispensers of the mysteries of God” (1 Cor. 4:1). From there flows all the powers and duties of the priests.

The first obligation that flows from this is that the priest must be a man of prayer. The priest must pray not only for himself but for the whole people, for the whole Church, not only for the sanctification of the good faithful but also for the return of the prodigal son and for the conversion of all sinners and unbelievers. An apostolate that would not be nourished by a deep life of prayer would often be in vain: as St Paul says the priest would have become “a sounding brass and tickling cymbal” (1 Cor. 13:1). Hence the Church asks him to say the “Divine Office”, i.e. the breviary every day. The breviary is essentially composed by the 150 psalms distributed over the week so that each week the whole psalter is said. To this core prayer, the Church over the centuries has added some hymns, some prayers, some readings and various verses most of which is from the Holy Scriptures. Some of these prayers and hymns come from the very beginning of the Church and some were composed later by the Saints or the holy pontiffs. It is a grave duty for the priest to pray his breviary: it is a grave sin for him if he omits even one of the “small hours” of the day. The priest is not obliged to offer Mass every day, but he is obliged to recite his breviary every day.

It is useful to know that St Pius X had restored the regular weekly recitation of the 150 psalms in the Breviary: before him, there were theoretically there but practically were very rarely used because of a problem of rubrics: on many feasts of saints, the psalms of the “proper of saints” were used rather than the psalms of the regular weekday, which thus were often de facto omitted. So St Pius X redistributed these 150 psalms over the week and required the weekday psalms to be said even in most of the feasts of the Saints.

On the contrary, the second Vatican Council has destroyed this great principle of the 150 psalms every week. They suppressed the hour of Prime; they made optional two out of the three other little hours; they diminished the number of psalms at matins from 9 to 3, thus rendering impossible the weekly recitation of the 150 psalms. Now the psalms are said only once a month – and even some verses of the psalms are never said; one bishop said: “they censured the Holy Ghost”! Those verses that are omitted always refer to the spiritual combat against sin, against the devil and the world; they are strong and this is the reason why the modernists do not like them. But the result is that the modern priests become spiritually weak and do not engage in the spiritual battle as they should. By their priesthood, they are established “captains” in the army of God; if the captain is week the whole army is weak and thus we see many deserters.

The model of the Mass is the solemn high Mass, in which the priest is assisted by a deacon, a sub-deacon and acolytes. The Church indeed from the very beginning has established that one would become a priest through seven steps: the minor orders and the major orders. There are four minor orders: porters, lectors, exorcists, acolytes; and there are three major orders: sub-deacons, deacons and priests. The last two are explicitly mentioned in the Scriptures but the others are found in the very early Church. Thus being composed of seven hierarchical orders, that sacrament came to be called “the Sacrament of Holy Orders”. It was certainly not right for Pope Paul VI to suppress all the minor orders and the sub-deaconate: a Pope cannot suppress more than 1700 years of Catholic tradition! Moreover, the very council of Trent defined – with an anathema: “if anyone would say that, apart from the priesthood, there are not in the Catholic Church other orders, both major and minor, by which as through steps one ascends to the priesthood, let him be anathema!” (Dz. 1772) Thus it is clear that the very existence of minor orders is a dogma of faith: how then could a pope suppress them? In the traditional religious societies such as the Society of St. Pius X, we keep these seven Holy Orders, in order to be faithful to what we received. Indeed, St Paul said: “Let a man so account of us as of the ministers of Christ, and the dispensers of the mysteries of God. Here now it is required among the dispensers, that a man be found faithful” (1 Cor. 4:1-2).

These steps towards the priesthood constitute a “hierarchy”, i.e. a priestly line of authority in the Church. This priestly line of authority – hierarchy – is of divine institution, as the Council of Trent defined: “If anyone say that in the Catholic Church there is not a hierarchy instituted by divine disposition, which consists of bishops, priests and ministers, let him be anathema!” (Dz. 1776). The bishops have at their head the Pope, and the ministers comprise the deacons and the lower orders. This is the essential structure of the Catholic Church; it has been so since our Lord Jesus Christ Himself, and will remain so until the end of the world. In that structure, authority comes from above, not from below. In the Church, there is a priestly hierarchy, priestly line of command: this implies that there is duty for the faithful to obey their priests. St Paul teaches this explicitly: “Obey your prelates, and be subject to them. For they watch as being to render an account of your souls; that they may do this with joy, and not with grief. For this is not expedient for you” (Heb. 13:17).

Because the priest is the man of the Sacrifice, the man who offers the holy Sacrifice of the Mass, he must conform to our Lord Jesus Christ crucified, and thus from the time of the Apostles themselves, the “apostolic standards” for priests required the practice of the three evangelical counsels especially that of chastity: perfect continence was required from the clergy in major orders from the time of the Apostles. Thus St Paul says to Timothy: “Keep thyself chaste” (1 Tim. 5:22).

In the early church, some who were married were chosen to become priests and bishops: they were then obliged to embrace perfect continence. Thus when St Hilary (히러리) was chosen bishop of Poitiers (퐈티에), he has been married for a few years and had a baby girl: he then embraced a life of perfect continence and his wife then entered the convent. When his little girl had grown to about 13, St Hilary was then in exile because of the Arian emperor, and he wrote to her beautiful letters encouraging her to follow the good example of her mother (and father) and choose the life of perfection by consecrating her virginity to Christ. Since experience showed that celibate clergy were more faithful to this duty of perfect continence than formerly married clergy, and following the example of St Augustine, the Church in the West choose to ordain only celibate candidate (and exceptionally some widowers) and hence developed a celibate clergy. One must remember that the essential obligation is that of perfect continence, celibacy being the best way to insure it. It is wrong when today “permanent deacons” are ordained without requesting from them perfect continence. This is against the Apostolic standards, and the whole Tradition of the Church. The Church suffers a lot from the bad example of scandalous clergymen; but the Church is also highly edified by the good example of faithful priests.

The priest having the responsibility of the Blessed Sacrament has also the power to prepare the faithful to receive it: thus, he has the power to confer the sacraments of Baptism, Penance and Extreme Unction. He is the ordinary minister of the Sacrament of baptism, though anyone can be extraordinary minister of baptism in case of urgent necessity. But he is the only minister of the sacraments of Penance and Extreme Unction. By these sacraments, he cleans the souls of the faithful from sin, so that they be ready to receive the Holy of holies, our Lord Jesus Christ really present in the Blessed Sacrament.

But before giving them the sacraments, the priest must prepare the faithful by instruction. Thus, he has authority to teach in the Church, authority to preach. Thus, the priest must be a man of doctrine, of sound doctrine of course! Sound doctrines requires fidelity to the deposit of Faith: “O Timothy, keep that which is committed to thy trust (“the deposit”), avoiding the profane novelties of words, and oppositions of knowledge falsely so called” (1 Tim. 6:20). The priest must follow the example of St Paul: “I delivered unto you first of all, that which I also received” (1 Cor. 15:3).

No one can take upon oneself such authority to teach and preach, but he must be chosen, he must be sent. St Paul says indeed: “how shall they believe him, of whom they have not heard? And how shall they hear, without a preacher? And how shall they preach unless they be sent,” (Rom. 10:14-15). Self-appointed protestant ministers are thereby eliminated by St Paul! Our Lord Himself had said to His Apostles: “You have not chosen me: but I have chosen you; and have appointed you, that you should go, and should bring forth fruit; and your fruit should remain” (Jn. 15:16). Even when Matthias was elected, this was done under the authority of Peter and the Apostles: the people did not decide this of themselves! Thus, in the Church the priests are chosen by the bishop; the bishops are normally chosen by the Pope. They never choose themselves.

The minister of the sacrament of Holy Orders is the bishop, who is like the High Priest in the New Testament: the bishop represents Christ in a diocese, and he has the special power to ordain other priests and to give confirmation. The matter of that sacrament is the imposition of the hands of the bishop. We see already in the Old Testament Moses imposing the hands onto Joshua to transmit him his authority and make him his successor (Num. 27:23). In the New Testament, we see the Apostles imposing the hands on the newly chosen Deacons (Act. 6:6); also St Paul and Barnabas receive the imposition of the hands when they are ordained as Apostles (bishops) (Act. 13:3). St Paul encourages Timothy in these words: “Neglect not the grace that is in thee, which was given thee by prophesy, with imposition of the hands of the priesthood” (1 Tim. 4:14), and again in his second epistle to him: “I admonish thee, that thou stir up the grace of God which is in thee, by the imposition of my hands” (2 Tim. 1:6). And finally, he warns Timothy: “Impose not hands lightly upon any man, neither be partaker of other men's sins.” (1 Tim. 5:22). Indeed, if a bishop would ordain priest unworthy candidates, he would be responsible for the scandals they would give. That imposition of hands is very solemn: the bishop first imposes the hands (this is essential) and then holds his hand extended while every priest present imposes his hands onto the candidates to be ordained priests and joins the bishop in holding his hands extended. Then the bishop sings the consecratory preface, in which there are the words that constitute the form of the sacrament.

The ceremony of ordination also comprises many other important elements, such as the giving of the power to “offer the Sacrifice of the Mass for the living and the dead”, the power to forgive sins, etc. In fact, these powers are given at the moment of the imposition of the hands, but the church makes manifest the richness of the sacrament by these additional ceremonies. These ceremonies are a great instruction and foster the devotion both in the candidates and in the faithful who attend.

As for Baptism and Confirmation, the sacrament of Holy Orders confers a character on the soul, that is, an indelible mark that will remain there for ever, either in Heaven for the glory of the faithful ministers, or in hell for the greater shame of the unfaithful ones. That character is what is required so that the priest may administer validly the sacraments, especially the Holy Eucharist. Indeed, though the Church greatly insists on the need of holiness in her priest, the Church also teaches that in spite of the unworthiness of some particular minister, the Sacraments he performs remain valid – so long as the priest performs properly the rite of the Church – and this is for the good of the faithful, so that they can have the certitude of receiving the grace of God. If the faithful could not have that certitude without depending on the unknown interior worthiness of the minister, it would greatly destabilise the Church and the spiritual life of many. However, when the minister starts changing the rite of the church and preaching a new doctrine, then he can harm the faithful badly. Then often the sheep no longer recognise the voice of the good shepherd; they became confused and disperse. This is what has been happening with the new rites in the early late 1960s and early 1970s.

Hence there is a great need for the faithful to pray for their priests: the faithful will have the priests that they deserve by their prayers. The priest is obliged by his office to pray for his faithful, and he is alone to pray for many; the faithful are obliged in charity to pray for their priest and they are many to pray for one! We all need to pray for the sanctification of the clergy, we need especially to pray our Lady for their sanctification, that she obtains for them the grace of the purity of faith and morals, and the zeal for the glory of God and salvation of souls.

There is a great need too to pray for many holy vocations. Indeed, St Vincent de Paul said that it is easier to make a good new priest than to reform a bad one. There has been a very grave crisis of vocation after the Council Vatican II, which was a consequence in particular of the changes of the liturgy. If the priest was no longer the man of the Sacrifice, he had lost his very purpose and was looking for side purposes which were no longer able to sustain a life sacrifice; hence the fall of many. There was no need to be a priest in order to be a social worker; there was no need of continence to be a social worker. Hence the obligations of the priesthood seemed unbearable to many because of the loss of focus on the Holy Sacrifice of the Mass; hence the great decline of vocations. On the contrary, where there is fidelity to the Tradition of the Church, there is a renewal of vocations. But that goes necessarily with lots of fervent prayers for good and holy priests.

St Thomas Aquinas says that the bishops are in a “state of perfection”, because they are solemnly consecrated to duties that require perfection. At a lower level, this applies to priests also. Hence they are strictly bound to tend towards perfection, even more than a monk is bound to tend towards perfection by his vows. They need the help of your prayers, so that they can fulfil their ministry in a worthy manner. We see St Paul begging the faithful to pray for him: “I beseech you therefore, brethren, through our Lord Jesus Christ, and by the charity of the Holy Ghost, that you help me in your prayers for me to God,” (Rom. 15:30).

So please, dear faithful, do pray for me and all the priests of the Society of St. Pius X, that we may be “faithful dispensers of the mysteries of God”, faithful to our obligations towards God and towards you for your sanctification. Pray especially to the Blessed Virgin Mary, Mother of the High Priest and Mother of all the priests, that she may obtain for us all the graces we need, so that we may go to Heaven with you. Amen.
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「聖なる叙階の秘蹟について」:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

2017年05月20日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様のお説教 「聖なる叙階の秘蹟について」(日本語訳)をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2017年5月14日 大阪 御復活後第四主日の説教
聖なる叙階の秘蹟について

親愛なる兄弟の皆さん、

私たちは本日、主が「私は私を遣わされたお方のもとに行く」(ヨハネ16章5節)と言われたのを聞きました。聖福音の中で何回も、主はご自分について父から遣わされた者と言っておられます。また主はこう言われました。「父が私を送られたように、私もあなたたちを送る」(ヨハネ20章21節)。私たちの主イエズス・キリストは、主が御父から受けられたのと同じ任務、すなわち霊魂を救うという任務に使徒たちを送られました。「彼は罪から民を救う」(マテオ1章21節)。この理由で、主は使徒たちを司祭に、また司教にまで叙階なさいました。主は彼らにすぐに司祭職の充満をお与えになり、主の贖いの実を多くの人にもたらすように彼らを送られました。私たちが続けている秘蹟の勉強ですが、本日は聖なる叙階の秘蹟です。

聖トマス・アクィナスは、最初の五つの秘蹟は教会の中の各個人に必要なものだったが、最後の二つの秘蹟(聖なる叙階と婚姻)は教会の共通善のために必要である、と説明しています。一緒になって一つの社会となる民の集まりにおいては、この社会が良き秩序のもとにあるのを可能にするために権威が必要です。それゆえに、聖パウロはエフェゾに集まった小アジアの司教たちにこう言いました。「あなたたちは自分と群れ全体に気をつけなさい。聖霊は天主が御血をもって贖われた教会を牧するために、あなたたちを教会の司教と定められたのです」(使徒行録20章28節)。そして一人一人の司教の上 に、主は「兄弟たちを固める」(ルカ22章32節)特別な力を持つペトロとその後継者たちを置かれました。そのため、教会においては、教皇、司教、彼らの協働者である司祭、彼らの助け手である助祭や他の聖なる階級に、主によって与えられた天主付与の権威があるのです。

この権威の目的は何でしょうか? 聖パウロはこう言います。「大司祭はすべて人間の中から選ばれ、天主に関することについて人間のために叙階されている。それは罪を贖う供え物といけにえを捧げるためである」(ヘブライ5章1節)。まさに第一戒は天主の礼拝について取り扱っています。教会は本質的に、祈る教会です。それゆえに、司祭の第一の役割は礼拝であるというのは当然です。「すべての大司祭は供え物といけにえを捧げるために立てられている」(ヘブライ8章3節)。さて、新約における完全な礼拝は、私たちの主イエズス・キリストが十字架上で御父にお捧げになった完全ないけにえを捧げることにあります。この十字架上のいけにえを毎日更新するのが、ご受難の前日に私たちの主イエズス・キリストが制定されたミサの聖なるいけにえです。

それゆえに教会は、私たちの主イエズス・キリストがご聖体の秘蹟を制定された直後に、司祭職の秘蹟を制定され、主がいま行われたことを行う力を使徒たちにお与えになった、と教えています。トレント公会議はこう定義しました。「『私の記念としてこれを行え』という言葉によって、キリストは使徒たちを司祭としたのではなかったとか、使徒たちと他の司祭たちが、自分の体と血を捧げるように定めたのでもないと言う者は排斥される」(デンツィンガー1752)。使徒たちにご自分が行われたことを行うという任務をお与えになることで、主は彼らにそれを行う力を、すなわちパンを主の御体に、ぶどう酒を主の御血に変えて、それらを主が捧げられたように捧げる力を彼らにお与えになることが必要だったのです。

このように、司祭は何よりも第一に、いけにえの人、私たちの主イエズス・キリストの驚異的ないけにえの役職者なのです。このいけにえが最高の礼拝行為であり、これによって人類は天主に礼拝、感謝、償い、祈りの義務を果たすのです。司祭は「天主の人」(ティモテオ前書6章11節)、ご聖体の人であって、パンとぶどう酒をキリストの御体と御血に変え、生ける人と死せる人のためにそれを捧げ、信者たちにそれを配るという力を持っているのです。「私たちをキリストの役職者、また天主の奥義の管理者だと考えよ」(コリント前書4章1節)。そこから、司祭のすべての力および義務が流れ出してくるのです。

これから流れ出る第一の義務は、司祭は祈りの人でなければならない、ということです。司祭は自分のためだけでなく、民全体のために、全教会のためにも祈らなければならず、良き信者たちの聖化のためだけでなく、放蕩息子の帰還のため、すべての罪びとと未信者の回心のためにも祈らなければなりません。深い祈りの生活によって養われていない使徒職ならば、しばしば空しいものになってしまうでしょう。聖パウロが言うように、そのような司祭は「鳴る青銅と響き渡るどら」(コリント前書13章1節)となってしまうでしょう。それゆえに、教会は司祭に対して、毎日「聖務日課(Divine Office)」すなわち聖務日課書(breviary)を唱えるよう要求しています。聖務日課の本質部分は、一週間にわたって配分された百五十の詩篇で構成され、全詩篇が毎週唱えられるようになっています。この中心となる祈りに、教会は何世紀にもわたって、大部分が聖書から取られた賛歌、祈り、読誦、いろいろな詩句を加えてきました。これらの祈りや賛歌の中には、教会の最も初期から伝えられてきたものや、のちに聖人たちや聖なる教皇たちによって作られたものもあります。聖務日課を祈るのは、司祭にとって重大な義務です。一日の「小時課(small hours)」のうちの一つさえも省略することは、司祭にとって重大な罪です。司祭は毎日ミサを捧げるよう義務付けられてはいませんが、毎日聖務日課を唱えるよう義務付けられているのです。

聖ピオ十世が、聖務日課の百五十の詩篇を規則的に毎週唱えることを復興したのを知っておくのは有益です。聖ピオ十世以前は、理論的には百五十の詩篇があったものの、典礼法規の問題から実際にはほとんど使われていませんでした。多くの聖人の祝日には、「聖人の固有文」の詩篇の方がよく使われていたのであり、通常の週日の詩篇はそのためしばしば事実上省略されていました。そのため、聖ピオ十世は、一週間に百五十の詩篇を再配分し、ほとんどの聖人の祝日にも週日の詩篇を唱えることを義務としました。

その反対に、第二バチカン公会議は毎週百五十の詩篇を唱えるという素晴らしい原則を台無しにしてしまいました。一時課を廃止し、他の三つの小時課から二つを省略できるようにしました。朝課の詩篇の数を九から三に減らし、こうして百五十の詩篇を毎週唱えることを不可能にしたのです。今や、詩篇は一カ月に一度唱えられるだけであり、詩篇の中のいくつかの詩句はまったく唱えられません。ある司教は、「彼らは聖霊を非難した」!と言いました。省略されたこれらの詩句はすべて、罪に対する霊的な戦い、悪魔とこの世に対する霊的な戦いのことに触れているものです。それらの詩句は力強いものであり、そういう訳で近代主義者たちがそれらの詩句を好まないのです。しかし、その結果、現代の司祭たちは霊的に弱くなっており、本来戦うべき霊的な戦いを戦っていないのです。彼らはその司祭職によって、天主の軍隊の「大尉(キャプテン)」として立てられているのです。キャプテンが弱くなっているのなら、全軍隊が弱くなっており、こうして私たちは多くの戦線離脱者を見るのです。

ミサの典型は、司祭が助祭と副助祭、そして侍祭の助けを受ける荘厳ミサです。教会は実際、その始まりから、七つの段階、すなわち下級聖職と上級聖職を経て司祭になることを確立していました。四つの下級聖職があり、それらは守門、読師、祓魔師、侍祭です。三つの上級聖職があり、それらは副助祭、助祭、司祭です。最後の二つは聖書ではっきりと述べられていますが、残りは最も初期の教会に見られます。このように、七つの聖職位階(seven hierarchical orders)を構成することから、この秘蹟は「聖なる叙階の秘蹟(the Sacrament of Holy Orders)」と呼ばれてきました。教皇パウロ六世がすべての下級聖職と副助祭職を廃止したことが正しくなかったのは確かです。一人の教皇が、千七百年以上のカトリックの聖伝を廃止することなどできません! さらに、トレント公会議自身が、排斥文を使ってこう定義しました。「カトリック教会には司祭職以外に、司祭職への段階とも言える上位または下位の聖職階級はない、と言う者は排斥される」(デンツィンガー1772)。このように、下級聖職の存在それ自体が信仰の教義であるのは明らかです。それでは、一人の教皇がいかにしてそれを廃止することができるでしょうか?[できるはずがありません。]聖ピオ十世会のような聖伝の修道会においては、受けたものに忠実であるために、七つの聖職位階を守っています。実際、聖パウロはこう言いました。「私たちをキリストの役職者、また天主の奥義の管理者だと考えよ。管理者に要求されるのは忠実である」(コリント前書4章1-2節)。

司祭職へと向かうこれらの段階は「位階(hierarchy)」、すなわち教会における司祭の権威の系統を構成します。この司祭の権威の系統―位階―は、天主の制定によるものです。これについてトレント公会議はこう定義しました。「カトリック教会には天主の計画によって制定された司教、司祭および役職者から成り立つ聖職位階はない、と言う者は排斥される」(デンツィンガー1776)。司教たちはその頭に教皇を持っており、役職者たちは助祭や下級聖職から成っています。これが、カトリック教会の本質的な構造です。私たちの主イエズス・キリスト以来そうであったのであり、世の終わりまでそうであり続けるでしょう。この構造においては、権威は上からやって来るのであり、下からは来るのではありません。教会においては、司祭の位階、司祭の命令系統があります。このことは、司祭に従うのは信者の義務であるということを暗示しています。聖パウロは、これを明確に教えています。「指導者の言いつけを聞き、それに服従せよ。彼らは責任を問われる人として、あなたたちの霊魂を見張っているからである。彼らに不平を言わず、喜びをもって義務を果たさせよ。そうしなければ、あなたたちには何の利益もない」(ヘブライ13章17節)。

司祭はいけにえの人、ミサの聖なるいけにえを捧げる人であるため、十字架につけられた私たちの主イエズス・キリストに一致しなければならず、そのために、使徒たち自身の時代から、司祭は三つの福音的勧告の実践、特に貞潔の実践を要求されるという「使徒的基準」に従わなければなりませんでした。使徒たちの時代から、上位聖職の聖職者は、完全な禁欲が要求されていたのです。ですから、聖パウロはティモテオにこう言っています。「自分を清く守れ」(ティモテオ前書5章22節)。

初期の教会では、結婚している人が選ばれて司祭や司教になることがありました。そうすると彼らは完全な禁欲を受け入れるよう義務付けられました。ですから、聖ヒラリオがポワティエの司教に選ばれたとき、数年間結婚生活を送っていて女の赤ちゃんがいましたが、その後は完全な禁欲生活を受け入れて、そのあと妻は修道院に入りました。その小さな女の子が十三歳ぐらいに成長したとき、聖ヒラリオはアリウス派の皇帝によって流刑に処されていましたが、彼は娘に美しい内容の手紙を何通か送って、母親の(そして父親の)良き模範に倣い、キリストに童貞を奉献することによって完徳の生活を選ぶよう勧めました。独身の聖職者の方が前に結婚していた聖職者よりもこの完全な禁欲の義務に忠実であることが経験から分かったため、また聖アウグスティノの模範に従って、西方の教会は独身の候補者のみ(例外的に妻を亡くした人々)を叙階することを選んでおり、それゆえに独身の聖職者という制度を発展させました。この本質的な義務は完全な禁欲という義務であり、独身制がそれを確実にする最も良い方法であるということを思い起こさなければなりません。こんにち、完全な禁欲を要求されない「終身助祭」が叙階されていますが、これは悪いことです。これは使徒的基準に反し、教会の全聖伝に反します。教会はつまずきを与える聖職者たちの悪しき模範のために大変苦しんでいます。しかし、教会はまた、忠実な司祭たちの良き模範によって大きく徳を高められています。

ご聖体に責任を持つ司祭はまた、信者がそれを受けるための準備をさせる力も持っています。ですから、司祭は洗礼、悔悛、終油の秘蹟を授ける力を持っています。司祭は洗礼の秘蹟の通常の役職者ですが、緊急の必要に迫られた場合には、誰でも洗礼の特別な役職者になることができます。しかし、悔悛と終油の秘蹟では、役職者は司祭だけです。これらの秘蹟によって、司祭は、信者が聖なるものの中の聖なるもの、ご聖体のうちにまことに現存し給う私たちの主イエズス・キリストを受ける準備ができるよう、信者の霊魂を罪から清めるのです。

しかし、信者にご聖体を与える前に、司祭は教えによって信者に準備をさせなければなりません。ですから司祭は、教会で教える権威、説教する権威を持っているのです。そのため、司祭は教理の人、もちろん健全な教理の人でなければなりません! 健全な教理は信仰の遺産への忠実さを要求します。「ああ、ティモテオよ、あなたに委ねられたもの(「遺産」)を守れ、むなしい世間話と、偽学問の論争を避けよ」(ティモテオ前書6章20節)。司祭は聖パウロの模範に従わなければなりません。「私が第一にあなたたちに伝えたことは私自身受けたことである」(コリント前書15章3節)。

教え、説教するこのような権威を自分から持つことは誰にもできませんから、その人は選ばれ、派遣されなければなりません。聖パウロは実際、こう言います。「彼らはまだ聞かなかった者をどうして信じられよう。宣教する者がなければどうして聞けよう。遣わされなかったらどうして宣教できよう」(ローマ10章14-15節)。ですから、自分で自分を任命しているとするプロテスタントの牧師は、そのことによって聖パウロに排除されています! 主ご自身が使徒たちにこう言われました。「あなたたちが私を選んだのではなく、私があなたたちを選んだ。私があなたたちを立てたのは、あなたたちが行って実を結び、その実を残すためである」(ヨハネ15章16節)。マチアが[使徒に]選ばれたときでさえ、ペトロと使徒たちの権威のもとにそれが行われました。民が自分でそれを決めることはありませんでした! このように、教会においては、司祭たちは司教によって選ばれ、司教たちは通常、教皇によって選ばれるのです。彼らは決して自分で自分を選びはしません。

叙階の秘蹟の役職者は、新約における大司祭に似た司教です。司教は教区においてキリストの代理であり、他の司祭を叙階し、かつ堅振を授けるという特別な力を持っています。この秘蹟の質料は、司教による按手です。私たちはすでに旧約において、モーゼがヨシュアに按手して自分の権威を彼に伝え、彼を後継者にするのを見ます(民数記27章23節)。新約においては、私たちは、新しく選ばれた助祭たちに使徒たちが按手しているのを見ます(使徒行録6章6節)。また聖パウロとバルナバは、使徒(司教)として叙階されたとき、按手を受けています(使徒行録13章3節)。聖パウロはティモテオを次の言葉で励ましています。「預言によって、また司祭たちの按手によってあなたの受けている特別な恵みをないがしろにするな」(ティモテオ前書4章14節)。また彼はもう一度、ティモテオへの後の書簡で彼をこう励ましています。「私の按手によってあなたの受けた天主の恵みを再び燃え上がらせるようにと勧める」(ティモテオ後書1章6節)。そして最後に、聖パウロはティモテオにこう警告しました。「軽率に人に按手するな。他人の罪にあずかるな」(ティモテオ前書5章22節)。実際、司教が司祭にふさわしくない候補者を叙階するとしたら、司教は彼らが引き起こすであろうスキャンダルの責任をとらなければならないことでしょう。この按手は非常に荘厳です。司教は最初に按手し(これが秘蹟の質料に欠かせない部分です)、その後、両手を広げたままにしています。その間、その場にいるすべての司祭が司祭の叙階をうける候補者たちに按手し、司教と同じく両手を広げます。その後、司教は聖別の序誦を歌いますが、その序誦の中に、秘蹟の形相を構成する言葉があるのです。

叙階式はまた、「生ける人と死せる人のためにミサのいけにえを捧げる」力や、罪を赦す力を授けるといった、他の多くの重要な要素をも含んでいます。事実、これらの力は按手の瞬間に与えられるのですが、教会は、これらの儀式を追加することによって秘蹟の豊かさを明白に表しているのです。これらの儀式は素晴らしい教えであって、叙階の候補者と出席する信者の両方の信心を養うのです。

洗礼や堅振と同じように、叙階の秘蹟は霊魂に印章、すなわち永遠に残る消すことのできないしるしを授与します。このしるしは、天国で忠実な役職者としての誉れとなるか、地獄で忠実でない役職者としての大きな恥となるかのどちらかです。この印章は、司祭が秘蹟、特にご聖体の秘蹟[ミサ]を有効に執行するために必要とされるものです。実際、教会は司祭に聖性が必要であることを大変強く主張していますが、教会はまた、ふさわしくない司祭がいたとしても、少なくともその司祭が教会の典礼を正しく行う限り、その司祭の行う秘蹟は有効であり続けると教えています。これは信者の善のためであって、信者が天主の恩寵を受けるという保証を持てるようにするためです。もし信者が知ることのできない司祭の内的なふさわしさに依存しないと、信者がこの保証を持てないとしたら、教会と多くの人々の霊的生活が大変不安定なものになってしまうことでしょう。しかし、司祭が教会の典礼を変更し、新しい教理を説教し始めるとき、司祭は信者にひどい害を与えることができます。そうすると羊たちはしばしば、もはや善き牧者の声を聞き分けられなくなります。羊たちは混乱に陥り、散り散りになります。これは、一九六〇年代後半の初めから一九七〇年代の初めにかけて、新典礼導入とともに起きてきたことです。

それゆえに、司祭のために祈ることが信者には大いに必要です。信者は祈りによって、自分たちにふさわしい司祭を持つでしょう。司祭は信者のために祈るよう聖務によって義務付けられており、司祭は一人で多くの人々のために祈るのです。信者は司祭のために祈るよう愛徳によって義務付けられており、信者は多くで一人のために祈るのです! 私たちは皆、聖職者の聖化のために祈る必要があり、聖職者の聖化のために特に聖母に祈る必要があります。聖母が司祭たちのために、信仰と道徳における純粋さという恩寵、および天主の栄光と霊魂の救いへの熱意を取り成してくださるように。

多くの聖なる召命のために祈ることも大いに必要です。実際、聖ビンセンチオ・ア・パウロは、悪しき司祭を改善するよりも新しい良き司祭をつくる方が簡単である、と言いました。第二バチカン公会議の後、大変深刻な召命の危機が続いてきていますが、それはとりわけ典礼の変更の結果でした。司祭がもはやいけにえの人でなかったとしたら、司祭はその目的そのものを失ってしまい、別の目的を探し求めましたが、そのような目的では司祭は生涯いけにえを捧げ続けることができなかったのです。それゆえに、多くの司祭が脱落してしまったのです。社会活動家になるために司祭になる必要はありませんでした。社会活動家になるには禁欲は必要ありませんでした。それゆえに、多くの人は司祭職の義務を耐えられないものと感じました。ミサの聖なるいけにえという中心を失ったからです。そのため、召命の数が大きく減っているのです。その反対に、教会の聖伝への忠実があるところでは、召命の復興があります。しかし、そのためには、良きかつ聖なる司祭を求める熱心な祈りをたくさん必要とするのです。

聖トマス・アクィナスは、司教は完徳を要求される義務に荘厳に奉献されているがゆえに「完徳の状態」にある、と言っています。もっと低いレベルでは、このことは司祭にも当てはまります。それゆえに、司祭は完徳へと向かうよう厳しく義務付けられており、それは修道士が誓願によって完徳へ向かうよう義務付けられている以上にそうなのです。司祭はふさわしい方法でその役職を果たすことができるよう、皆さんの祈りによる助けを必要としています。私たちは、聖パウロが自分のために祈ってくれるよう信者たちに願っているのを見ます。「だから兄弟たちよ、主イエズス・キリストによって、また聖霊の愛によって、私のために天主に祈って助けてくれるよう願う」(ローマ15章30節)。

ですから親愛なる信者の皆さん、どうか私と聖ピオ十世会のすべての司祭たちのために祈ってください。私たちが「天主の奥義の忠実な管理者」として、天主に対する義務、そして皆さんの聖化のために皆さんに対する義務に忠実でありますように。特に、大司祭[なるキリスト]の御母にしてすべての司祭の母である童貞聖マリアに対して、私たちのために、私たちが必要とするすべての恩寵を取り成してくださるよう祈ってください。そうすることで、私たちが皆さんとともに天国へ行くことができますように。アーメン。
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オランダのカトリック教会の司教様たちは2017年5月13日、聖母大聖堂に集い、オランダの司教区を聖母の汚れなき御心に奉献しました。

2017年05月19日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 オランダのカトリック教会の司教様たちは2017年5月13日、マーストリヒトにある「海の星」聖母大聖堂で午後三時の晩課の時に集い、オランダの司教区を聖母の汚れなき御心に奉献しました。

 代表の司教がファチマの聖母の御像の前に跪き、司教たちは、信徒たちとともに、この奉献を行いました。





 この奉献の祈り次の通りです。
Maastricht, Onze-Lieve-Vrouwe-Basiliek, Vespers, 13 mei 2017
Toewijding van de Nederlandse bisdommen aan het Onbevlekt Hart van Maria


 オランダはなんと多くの祝福を受けることでしょうか!





 日本の司教様たちも、同じことをなさいますように!

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【参考資料】
Beeldverslag toewijding: ‘Evenals Maria komen tot een volledige toewijding van onszelf aan Christus’
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" Our Lady of Fatima – the Immaculate Heart of Mary " by Fr. Laisney SSPX

2017年05月19日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様のお説教、「ファチマの聖母―マリアの汚れなき御心」についての【英語原文】をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

Sermon for 13 May 2017 at Seoul – Our Lady of Fatima – the Immaculate Heart of Mary

My dear brethren,

The apparitions of our Lady at Fatima were the great revelations of the Immaculate Heart of Mary. Already St John Eudes (으드) had devotion to the “most pure Heart of Mary” and this heart has been honoured by other Saints before too, but it is undeniable that the apparitions at Fatima gave a most remarkable increase to that devotion. Let us consider several essential elements of this devotion, and how they heal the evils of our time.

The “heart” represents what St Paul calls the “inner man”: “That he would grant you, according to the riches of his glory, to be strengthened by His Spirit with might unto the inner man” (Eph. 3:16). The heart is the inner sanctuary where the Spirit of Love dwells; it represents the seat of all the virtues, especially the crowning virtue of charity. Now our modern man neglects the interior life and even often completely ignores it and despises it. Our modern man is attached to superficial things, exterior pleasures, fun and distractions. By calling for our devotion to her Immaculate Heart, our Lady reminds us of the importance, of the primacy of this interior life, which is already here below the beginning of everlasting life.

Already at the natural level, it is easy to acknowledge that what makes the greatness of man is his reason. If we compare our body with that of the animals, we find animals that beat us on every aspect: some see farther, some hear better, some smell better (like dogs, who can recognize you by the smell…), some run faster, some are stronger, some can fly and we can’t, etc. But by our reason we can build telescopes that see further than any animal and microscopes that can see smaller things than any animal can grasp; by our reason we can build radars that can hear many waves they can’t hear. By our reason we can make trains, planes, and even jets to the moon! All this we do with our reason. Yet our reason is not visible; our reason is not exterior: it is part of our interior man.

If the highest and most important human faculty is invisible and part of our interior man, it is manifest that this interior man is the most important aspect of man. Yet so many people search for happiness in external goods such as money, fame or power; or they search for happiness in superficial goods, in sensible goods such as pleasures and comfort: they all fundamentally neglect their interior life; they neglect or despise the spiritual goods and above all they neglect God. This is a great evil of our times. Devotion to the Immaculate Heart of Mary teaches us first of all this primacy of the interior life, this life with God, this life of Christ in us, this spiritual life which shines so beautifully in the Immaculate Heart of Mary.

The obvious second aspect of this devotion is that the Heart of Mary is Immaculate: she never compromised with sin, not even with the smallest sin. Now this is most important in our time of liberalism; the mark of many “catholic liberals” is that they are always ready to comprise with the world, to twist the requirements of our Lord in order to please the world. By contrast, Our Lady has absolutely never compromised with the devil and with the world. This is why she is immaculate: sin never had the smallest power over her. She never found excuses for sin. She is absolutely immaculate.

This is particularly true in the domain of purity. She is the most pure Virgin, absolutely Virgin. In our times, this example of perfect purity is most needed: her method is the right method: never to compromise with impurity; avoid anything that could stain this beautiful virtue; avoid any curiosity of the eye and especially avoid anything against purity on the internet. It is much easier to extinguish a fire when it is small than when it is big: it is much easier to resist temptation against purity at the beginning when they are still small: compromising with them will only render the victory much more difficult and unlikely. Our Lady Immaculate teaches us not to compromise with sin at all, and especially not to compromise with impurity. She helps us to stay away from anything that could stain our soul. Her Heart is immaculate, her Love is pure and beautiful.

The Heart of Mary is detached from sin because it is attached to God. That bond with God is first of all here below by faith, as St Paul says: “by the heart we believe unto justice” (Rom. 10:10). St Paul does not mean here that faith is something sentimental: by “heart” as explained above, he means the inner man, the interior faculties. St Thomas teaches that Faith is a virtue in our intelligence. When our Lady was on earth, she was particularly praised for her faith: “blessed art thou that hast believed, because those things shall be accomplished that were spoken to thee by the Lord” (Lk. 1:45). The Immaculate Heart is immaculate in her faith: there was no admixture of error, no compromise with error in our Lady’s Faith. There were no doubts, no hesitation. She fully adhered to the revealed Truth from God; she fully adhered to God Himself Who is the Supreme Truth. By the true faith in Jesus-Christ Son of God we have access to God, says St Paul (see Eph. 3:12).

The first thing she said to the children at Fatima: “I am from Heaven!” This prompted the children to ask: “shall we go to Heaven?” This great desire of heaven which is found in the virtue of Hope is characteristic of the devotion to the Immaculate Heart of Mary: no one more than our Lady had on earth this longing for God: “As the hart panteth after the fountains of water; so my soul panteth after thee, O God. My soul [=my heart] hath thirsted after the strong living God; when shall I come and appear before the face of God?” (Ps. 41:2-3). Not only does hope include this tremendous desire for Heaven, but it includes the practical confidence in the grace of our Lord Jesus Christ: relying on the grace of our Lord we have confidence to reach heaven, and this is cause of great, deep joy: “Rejoicing in hope” (Rom. 12:12).

Now this is a very important and deep difference between the true faithful and the worldly people: the true faithful have hope of everlasting life; but worldly people have no hope! Their look on life ends up on a black wall, and they can’t see anything after death. They pursue immediate satisfactions with no hope for the future; they pursue external and superficial pleasures while their inner soul, deep self is in despair and deep sadness. St Paul says: “They have no hope” (1 Thess. 4:13). That deep sadness is a mark of the modern world, searching for external distractions, external fun and constant noise, in order to forget the deep internal sadness: “they have no hope!” That rush for external distractions, noise and entertainment is a rush away from the inner sadness, inner emptiness of their soul. Solitude and silence is for many a torture because they have not that inner Friend, the Divine Guest of our souls.

What a contrast with the Immaculate Heart of Mary, who is the “sanctuary of the Most Holy Trinity”. Our Lord Jesus Christ indeed said: “If any one love me, he will keep my word, and my Father will love him, and we will come to him, and will make our abode with him” (Jn. 14:23). And who loved Jesus more than Mary? So, the Father loved her and with His Son came to her and made their abode in her, in her Immaculate Heart! And St Paul says: “Know you not, that you are the temple of God, and that the Spirit of God dwelleth in you?” (1 Cor. 3:16). In her, the inner conversation was not merely with self, but with the Most Holy Trinity, as with the marvellous Guest of her soul: and so it was in the Saints, and so it must be in us.

The heart of the worldly man is empty of God, and full of earthly things; the Heart of Mary is clean from any inordinate affection to creatures and filled with the Creator. And this is the third great Virtue of the Immaculate Heart of Mary: an immense charity. St Paul says: “For our God is a consuming fire” (Heb. 12:29), a consuming fire of charity; hence our Lord said: “I am come to cast fire on the earth; and what will I, but that it be kindled?” (Lk. 12:49). Our Lord first cast that fire in the Heart of Mary, which is ablaze with this Divine fire of charity.

That charity gives her a great zeal for the salvation of souls, for the conversion of sinners. Indeed, this is the very purpose for which the Son of God came down from heaven into her most pure womb: “to save His people from their sins” (Mt. 1:21). So, she communicates fully with this goal of our Lord’s life: to save souls. One sees this at Fatima: she asked the children: “Are you willing to offer yourselves to God and bear all the sufferings He wills to send you, as an act of reparation for the sins by which He is offended, and of supplication for the conversion of sinners?” She showed them hell precisely to make them more fervent in their sacrifices for the salvation of souls, for the conversion of sinners: “You have seen hell, where the souls of poor sinners go. To save them, God wishes to establish in the world devotion to My Immaculate Heart… I shall come to ask for the consecration of Russia to My Immaculate Heart, and the Communion of Reparation on the First Saturdays.”

These words of our Lady are also addressed to each one of us: Are we willing to offer ourselves to God and bear all the sufferings He wills to send us, as an act of reparation for the sins by which He is offended, and of supplication for the conversion of sinners? Are we zealous for the honour of God through reparation for the offenses against Him, and zealous for the conversion of sinners? One can give his whole self and whole life for this purpose, especially in consecrated life. At least one should give his whole heart to this purpose by fulfilling the requests of our Lady at Fatima.

One hundred years later, the situation is worse because her requests have not been fulfilled by many. This should inflame our zeal to fulfil them even better, to console her and obtain from her the grace that many more would listen to her request, so that her Immaculate Heart may reign and that the most Sacred Heart of Jesus may reign through her. Let us pray for vocations, for good and holy Catholic families, but first of all let us respond to the call of our Lord, let us correct our own life and make it pleasing to Christ through her.

St Paul said: “For the charity of Christ presseth us” (2 Cor. 5:14). Perhaps the characteristic of the Catholic religion, the heart of the Catholic religion is the affirmation that God cares for us. And this divine charity is truly what animates the Sacred Heart of Jesus and also the Immaculate Heart of Mary: God really cares for men. Yet, how many men don’t care for God at all! If we are animated with the same charity that reigns in the Hearts of Jesus and Mary, we should care for these poor souls who are far from the truth, far from the Love of God, in the darkness of sin and despair. We should do all our efforts to give them the divine treasures that are found in the Sacred Heart of Jesus. We should bring them to Jesus through Mary. She is a mother; she cares! Our Lord entrusted all of us to her, and she does care for the sanctification of the faithful, for the conversion of sinners. Her heart is as big as mankind!

So [today] on the 100th anniversary of her apparitions at Fatima, let us ask the grace to imitate her Immaculate Heart, loving and appreciating the value of the inner life, the life of Christ in us, and conforming our heart to hers by rejecting any compromise with sin, and filling our soul with her virtues, virtues of Faith, hope and especially charity: with a great zeal for the honour of God, making reparations for the sins of the world and offering ourselves for the conversion of sinners, so that we and many others may go to Heaven. Amen.
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「ファチマの聖母―マリアの汚れなき御心」:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

2017年05月19日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様のお説教 「ファチマの聖母―マリアの汚れなき御心」(日本語訳)をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2017年5月14日の説教 大阪 
「ファチマの聖母―マリアの汚れなき御心」

親愛なる兄弟の皆さん、

ファチマでの聖母のご出現は、マリアの汚れなき御心についてのことを大いに明らかにするものでした。すでに聖ヨハネ・ユードが「マリアのいと潔き御心」に対する信心を持っていましたし、この御心はそれ以前からも他の聖人たちによって敬われていました。しかし、ファチマでのご出現が、この信心の最も注目すべき増加をもたらしたことは否定できません。この信心を構成するいくつかの基本的な要素と、それらがどのようにして私たちの時代の悪を癒やすのかを考察しましょう。

この「心」は、聖パウロが「内なる人」と呼ぶものを表しています。「キリストが、その光栄の富に従って、その霊によって、あなたたちの内なる人を力強く固めてくださることを願う」(エフェゾ3章16節)。この心は、愛の霊が住むところである内なる聖所のことです。あらゆる聖徳の座、特に愛徳という最高の聖徳の座を表しています。さて、現代人は内的な命を無視しており、しばしばそれを完全に無視し、軽蔑さえしています。現代人は表面的なもの、外的な喜び、面白いもの、そして気晴らしに愛着を持っています。汚れなき御心への私たちの信心を呼び求めることで、聖母は私たちに、この内的な命が重要であり、なにものにも勝るものであることを思い出させてくださいます。内的な命は、すでにここ地上において、永遠の命の始まりなのですから。

すでに自然のレベルにおいて、人間を偉大なものにしているのは理性であると認めるのは簡単です。私たちの体と動物の体を比べてみれば、あらゆる面で私たちよりまさっている動物がいるのが分かります。人間に比べて視力が優れた動物、聴力が優れた動物、嗅覚が優れた動物(においによって人が分かる犬のように)、走力が優れた動物、力が優れた動物がおり、人間は飛べませんが飛べる動物がいるといったことです。しかし、私たちは理性によって、どの動物よりも遠くまで見える望遠鏡や、どの動物が把握できるよりも小さなものを見ることができる顕微鏡を造ることができます。私たちは理性によって、動物が捉えることのできない多くの電波を捉えるレーダーを造ることができます。私たちは理性によって、列車や飛行機、月にまで行くロケットさえも造ることができます。このすべてを、私たちは理性によって行うのです。しかし、私たちの理性は目に見えません。私たちの理性は外的なものではありません。それは、私たちの内的な人の一部分なのです。

最高にして最も重要な人間の能力が目に見えないもので、私たちの内的な人の一部分であるならば、この内的な人が人間の最も重要な面であるのは明白です。でも、非常に多くの人々が、お金や名声、権力といった外的なものに幸せを求めているか、そうでないなら、快楽や慰めといった表面的なもの、感覚的なものに幸せを求めています。彼らは皆、基本的に自分の内的な命を無視しているのです。彼らは霊的なものを無視するか軽視しており、とりわけ天主を無視しているのです。これが、私たちの時代における大きな悪なのです。マリアの汚れなき御心に対する信心はなによりも、この内的な命、この天主とともにある命、この私たちのうちにあるキリストの命、マリアの汚れなき御心において非常に美しく輝くこの霊的な命こそが他のなにものにも勝るものであることを私たちに教えているのです。

この信心について明らかな第二の側面は、マリアの御心には罪の汚れがないということです。聖母は決して罪と妥協なさいませんでした。それがごく小さな罪であってもです。さて、これはリベラリズム(自由主義)という私たちの時代において最も重要です。多くの「カトリック自由主義者たち」のしるしは、彼らが常にこの世と妥協する用意があり、この世を喜ばせるために主の要求された条件を捻じ曲げる用意があるということです。対照的に、聖母は悪魔やこの世と絶対に妥協なさいませんでした。こういう訳で、聖母は罪の汚れなきお方なのです。罪は聖母に対して、どんな小さな力さえも持っていませんでした。聖母は罪に対する言い訳を決してなさいませんでした。聖母は絶対的に罪の汚れなきお方なのです。

このことは、貞潔という分野で特に当てはまります。聖母は最も清らかな童貞、完全なる童貞です。私たちの時代においては、この完全な貞潔という模範が最も必要とされています。聖母の方法は正しい方法です。不純と決して妥協しないこと、この美しい聖徳を汚すようなことはすべて避けること、目による好奇心はすべて避けること、特にインターネット上の貞潔に反するものはすべて避けることです。火は大きくなってからではなく小さいうちに消すのがずっと簡単です。貞潔に反する誘惑はまだ小さい最初のうちに抵抗するのがずっと簡単です。誘惑と妥協することは、勝利をさらに困難にして、勝利の見込みをさらに少なくしてしまうだけでしょう。罪の汚れなき聖母は私たちに、罪と決して妥協しないよう、特に不純と妥協しないように教えてくださいます。聖母は、私たちの霊魂を汚すすべてのものから離れているよう私たちを助けてくださいます。聖母の御心は罪の汚れがなく、聖母の愛は清らかで美しいのです。

マリアの御心は、天主に結びついているがゆえに、罪から切り離されています。この天主との絆は、第一にここ地上では信仰によるものです。それについて聖パウロはこう言います。「人は心で信じて義とせられる」(ローマ10章10節)。聖パウロはここで、信仰は感傷的なものであると言っているのではありません。前に説明したように「心」という言葉で、彼は内なる人、内的な能力のことを言っているのです。聖トマス・アクィナスは、信仰は私たちの知性における聖徳であると教えています。聖母が地上におられたとき、聖母は特にその信仰のゆえにたたえられました。「ああ幸せなこと、主から言われたことの実現を信じた方は」(ルカ1章45節)。汚れなき御心は、信仰において罪の汚れがありません。聖母の信仰には、誤謬が混じっていたり、誤謬と妥協したりすることなどまったくありませんでした。疑いも、ためらいもありませんでした。聖母は、天主から啓示された真理に完全に忠実であられました。聖母は、至高の真理である天主ご自身に完全に忠実であられました。聖パウロが言うように、天主の御子イエズス・キリストへのまことの信仰によって、私たちは天主に近づくことができるのです(エフェゾ3章12節参照)。

聖母がファチマで子どもたちに対して言われた最初のことは、「私は天国からの者です!」でした。この言葉が、子どもたちにこう尋ねさせました。「私たちは天国に行きますか?」。希望の徳において見いだされるこの天国への大きな望みは、マリアの汚れなき御心への信心の特徴です。地上で聖母ほど天主を熱望した人はいませんでした。「雌鹿が小川の流れを慕うように、あなたを慕う、天主よ。私の魂は天主に、生きる天主にかつえる。『いつ私は行って、天主のみ顔を仰げようか』」(詩篇41章2-3節)。希望の中には、この天国への大きな望みがあるだけでなく、私たちの主イエズス・キリストの恩寵への実際の確信があります。主の恩寵を信頼することで、私たちは天国へ行く確信を持つのであり、これが大いなる深い喜び、「希望の喜びを持つこと」(ローマ12章12節)の理由なのです。

さて、これが、まことの信者と世の人々との大変重要かつ深遠な違いです。まことの信者は永遠の命への希望を持っていますが、世の人々は希望を持っていません! 世の人々は、命は最後には黒い壁に至ると考えており、死後のことは何も見ることができません。彼らには、未来への希望がなく、当面の満足を追求しています。彼らは、外的で表面的な楽しみを追求する一方で、彼らの内なる霊魂、深いところにある自我は、絶望のうちに、深い悲しみのうちにあるのです。聖パウロは「彼らには希望がない!」(テサロニケ前書4章13節)と言っています。この深い悲しみは、現代世界のしるしであり、外的な気晴らし、外的な楽しみ、そして絶え間のない雑音を求めていますが、それは深い内的な悲しみを忘れるためなのです。「彼らには希望がない!」。この外的な気晴らし、雑音、そして娯楽へと殺到することは、内なる悲しみ、霊魂の内なる空虚さから走って逃れることなのです。孤独と沈黙は多くの人にとって拷問です。それは、彼らが内なる友、私たちの霊魂の内にいる天主という賓客を持たないがゆえなのです。

「至聖なる三位一体の聖所」であるマリアの汚れなき御心と比べ、何という違いでしょうか。私たちの主イエズス・キリストは実際、こう言われました。「私を愛する者は私の言葉を守る。また父もその者を愛される。そして私たちはその人のところへ行ってそこに住む」(ヨハネ14章23節)。そして、マリア以上にイエズスを愛した人がいるでしょうか? ですから、御父は聖母を愛され、御子とともに聖母のもとに来られ、聖母のうちに、聖母の汚れなき御心のうちに、住居をつくられたのです! また聖パウロはこう言います。「あなたたちが天主の聖所であり、天主の霊はその中に住み給うことを知らないのか」(コリント前書3章16節)。聖母において、内なる会話を交わしたのは単に自分自身とだけではなく、聖母の霊魂の驚くべき賓客である至聖なる三位一体とだったのです。ですから、聖人たちもそうしたように、私たちもそうしなければならないのです。

この世的な人の心は天主のいない空虚なもので、地上のものごとでいっぱいです。マリアの御心は被造物への過度な愛着とはまったく無縁であり、創造主で満たされています。そしてこれが、マリアの汚れなき御心の第三の大いなる聖徳、すなわち計り知れない愛徳です。聖パウロはこう言います。「実に私たちの天主は焼き尽くす火」(ヘブライ12章29節)、愛徳の焼き尽くす火です。それゆえに、主はこう言われました。「私は地上に火をつけに来た。その火がすでに燃え上がっているように、私はどんな望みをかけていることか」(ルカ12章49節)。主は最初にマリアの御心にその火をつけられ、その御心が天主の愛徳の火で燃え立っているのです。

その愛徳が、霊魂を救い罪びとを回心させようという大きな熱意を聖母に与えるのです。実際、これこそが、天主の御子が天から聖母のいとも清らかなご胎内に降りてこられた目的そのものです。つまり「罪から民を救うため」(マテオ1章21節)です。ですから、聖母は、この主の一生の目標である霊魂を救うということと完全に一致しておられます。私たちはファチマでこのことを見るのです。聖母は子どもたちにこう尋ねられました。「あなたがたは、天主のお怒りを招く罪の償いの行いとして、罪びとの回心を願う行いとして、自分を進んで天主に捧げ、天主がこれからあなたがたに送られるすべての苦しみを進んで耐え忍びますか?」。聖母が子どもたちに地獄をお見せになったのは、まさに、霊魂の救いと罪びとの回心のための犠牲をしようとする子どもたちの熱意を一層強めるためでした。「あなたがたは、あわれな罪びとの霊魂が行く地獄を見ました。彼らを救うため、天主はこの世に、私の汚れなき御心に対する信心を確立させようと望んでおられます…。私は、私の汚れなき御心へのロシアの奉献と、初土曜日の償いの聖体拝領をお願いするためにやって来るでしょう」。

聖母のこれらの言葉はまた私たち一人一人への呼び掛けでもあります。私たちは、天主のお怒りを招く罪の償いの行いとして、罪びとの回心を願う行いとして、自分を進んで天主に捧げ、天主がこれから私たちに送られるすべての苦しみを進んで耐え忍びますか? 私たちは、天主に対する侮辱を償うことによって熱心に天主を敬っていますか、熱心に罪びとの回心を願っていますか? 人はこの目的のために自分の全自我を、全生活を捧げることができます。特に奉献生活においては。ファチマでの聖母の要求を満たすことで、少なくとも自分の心をすべてこの目的に捧げるべきです。

百年後の今、多くの人が聖母の要求を満たさなかったため、状況はさらに悪くなっています。このことは、聖母の要求をもっとよく実現させよう、聖母をお慰めしさらに多くの人が聖母の要求に耳を傾ける恩寵を聖母から獲得しようという、私たちの熱意を燃え立たせるに違いありません。それによって、聖母の汚れなき御心が統治し、聖母を通して至聖なるイエズスの聖心が統治するようにです。召命のため、良きかつ聖なるカトリックの家族のために祈りましょう。しかしまず第一に、主の呼び掛けにお答えし、私たち自身の生活を正し、聖母を通して私たちの生活をキリストに喜んでいただけるものとしましょう。

聖パウロは「キリストの愛は私たちを締め付ける」(コリント後書5章14節)と言いました。おそらく、カトリックという宗教の特徴、カトリックという宗教の中心は、天主が私たちを気にかけてくださるという確信です。そして、この天主の愛が、イエズスの聖心に、そしてまたマリアの汚れなき御心にまことに力を与えるものなのです。天主は本当に人間のことを気にかけてくださいます。でも、天主のことをまったく気にかけていない人間がいかに多いことでしょうか! 私たちがイエズスとマリアの聖心を統治する同じ愛によって力を与えられているのなら、私たちは、真理から遠く離れ、天主の愛から遠く離れ、罪と絶望という闇の中にいる、これらのあわれな霊魂たちを気にかけるべきです。私たちは、イエズスの聖心に見いだされる天主の宝を彼らに与えるためのあらゆる努力をすべきです。私たちは、彼らを、マリアを通してイエズスに連れていくべきです。聖母は母であり、聖母は気にかけてくださるお方です! 主は私たち全員を聖母にお任せになりました。そして聖母は、信者の聖化を、罪びとの回心を、本当に気に掛けておられます。聖母の御心は人類と同じほど大きいのです。

ですから、ファチマでの聖母ご出現の百周年である[本日]、聖母の汚れなき御心に倣って、内なる命の本当の価値、私たちのうちにあるキリストの命の本当の価値を理解し、そして罪とのいかなる妥協も拒否することによって私たちの心を聖母の御心に一致させ、さらに聖母の聖徳である、信仰、希望、特に愛の聖徳で私たちの霊魂を満たし、また天主を敬う大いなる熱意で私たちの霊魂を満たし、世の罪の償いをし、罪びとの回心のために自分を捧げるという恩寵を願いましょう。そうすることで、私たちと他の多くの人々が天国に行くことができますように。アーメン。
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「あなた様は、私に何をお望みですか?」「私はあなたたちに、六ヶ月の間続けて、13日に、この同じ時刻に、ここに来ることを頼みに来ました。」 ミサ聖祭報告

2017年05月18日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

次の日本での聖伝のミサは、6月です。
6月2日、3日に大阪で
6月4日、5日に東京であります。
お間違えのないようによろしくお願いします。

 聖母マリア様は100年前の5月13日に、ポルトガルのファチマで、三人の子供たちに現れました。

 日本とポルトガルとは、聖フランシスコ・ザベリオの時代から深いつながりがあります。何故なら、日本の宣教は最初、ポルトガル(とイエズス会)に委ねられたからです。

 5月13日という日付は、カトリック教会にとって深い意味があります。

 ローマでは、610年5月13日に教皇ボニファチオ四世が、ローマのパンテオンを、天主の聖母と全ての殉教者たちに捧げています。現在の諸聖人の祝日(11月1日)は、この古代の5月13日の祝日の聖務とミサを祝っています。

 ポルトガルでは、これは王ヨハネ一世の要請によって実現したことですが、教皇ボニファチオ九世の命により、ポルトガル(「聖母マリアの土地」なるポルトガル)の全てのカテドラル(司教座聖堂)が5月13日に、天主の聖母、終生童貞なる聖マリアに捧げられました。

 以前、5月13日には、聖ユリアノ・エマールと聖ピオ十世にとってとても大切だった「御聖体の聖母マリア」の祝日が祝われていました。聖ピオ十世教皇はこのミサを許可しました。

 5月13日は、聖母と御聖体とに結びついていました。

 聖母が無原罪の御孕りであることを宣言した福者ピオ九世は、1792年5月13日に生まれ、同じ日に洗礼を受け、聖母に奉献されています。

 1883年5月13日、聖霊降臨の祝日、幼きイエズスの聖テレジアは、聖母の微笑みによって奇跡的に病の治癒を受けました。

 1917年5月13日は、ファチマで聖母が子供たちに現れている間、ローマではエウジェニオ・パッチェリ神父(将来の教皇ピオ十二世)が司教に聖別されました。

 1917年5月13日、光に輝く美しい方は、子供たちに水晶のように透明な言葉を言いました。

「私は天からの者です。」

 同じ聖母は、ルルドではこう言われました。

「私は無原罪の御孕りです。」

 ルチアは子供たちを代表してこう尋ねます。

「あなた様は、私に何をお望みですか?」

 聖母は答えました。

「私はあなたたちに、六ヶ月の間続けて、13日に、この同じ時刻に、ここに来ることを頼みに来ました。」

 ルチアと聖母との会話を黙想しましょう。

 私たちも、無原罪の聖母にこう尋ねましょう。

「あなた様は、私に何をお望みですか?」

次のようなミサのご報告を頂いたので愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介します。


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

5月の大阪での主日の御ミサの報告をお送りいたします。

5月14日 復活後第4主日のミサには20名が、
5月15日 証聖者聖ヨハネ・バプチスタ・ド・ラ・サールの祝日の早朝ミサには7名が御ミサに与るお恵みを頂きました。
デオ・グラチアス!

主日のお説教では、「聖なる叙階の秘跡」についてのお説教をして頂きました。
司祭が、まず第一に「いけにえの人」であり、「祈りの人」でなければならないということを、また、聖パウロがいうように
『私たちをキリストの役職者、また天主の奥義の管理者だと考えよ。管理者に要求されるのは忠実である』という事をほとんど完全に実践しておられる神父様方を私達を罪の蔓延する現代に見ることが出来ているのは天主様の大きな憐みと恩寵であると思います。
叙階式が、〈その儀式自体がは素晴らしい教えであって、叙階の候補者とそこに出席する信者の両方の信心を養う〉ということを聞いて、日本でもかつて荘厳な叙階式に出席した子供達が、司祭職への憧れと、尊敬を持ったことだろうなあと回想しました。
正しい位階制度が取り戻され、司祭職とカトリック教会が繁栄する事を、私達の大切な神父様方のためにもっとお祈りと犠牲をしなければ、と思いました。

公教要理ではファチマの御出現と、聖母の汚れなきみ心への信心を構成する基本となる要素と、それが、どうやって現代の悪を癒すのかという事を黙想いたしました。聖パウロのいう〈内なる人〉つまり、内なる命のまことの価値と、私達のうちにあるキリストの命の真の価値をよく知り、罪を断固拒否して、マリア様のみこころに自分の心を一致させ、罪びとの回心のために自分を捧げつくすことが出来るようにとお恵みを願わなければいけないと思いました


至聖なるイエズスの聖心我らを憐み給え
聖母の汚れなき御心よ我らのために祈り給え

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