アヴェ・マリア!
福音書を歴史的記録書として信頼することが出来るか?
私たちは、シェアン司教著 「護教学」 第五章
福音書の歴史的価値に関する証明を見てみよう。
【新約聖書、特に四福音書は、単に一般の書として取り上げたとしても、優れた歴史文献と見なくてはならない。】
〔なるほど〕
新約聖書を、ふたつの観点から見ることができます。
(1) 歴史的記録の集成としての著書。
(2) 主要著者を天主とする神感書の集成、あるいは全集としての聖書。
「神感」あるいは「霊感」というのは、天主が、聖書記者に書かせようと望むこと、それだけを書かせるために、聖書記者に与える天主の霊感(インスピレーション)です。従って、神感は感覚的にはわからないわけで、神感をうけているという事実は、天主ご自身の立証にたよるほかないわけです。ここでは、神感にはふれません。私達は、新約聖書から、特にあるものをとりあげて、それらの本が、信頼に値する歴史的記録書であるということを、純然たる人間的な見地にたって立証するのです。
新約聖書の歴史的価値を立証するために採用する証明法。
ある著作を、歴史書、あるいは過去の事件の忠実な記録書と決定するには、次にあげる諸条件が確立されなければなりません。
(a) はたして、その著作が純正であるか。すなわち、著者とされている人によって、実際に書きおろされたものか。
(b) はたして、著者その人が、信頼にあ対する人であるか。すなわち、著者が事件内容に精通しているか、ということと、誠実な人であるか、
(c) 両著作が原典のまま伝わっているか。すなわち、テクストが著者の手をはなれてから、本質的に変わっていないかどうか。
ということがあきらかにされなければなりません。以上は、これからあきらかにされていく事柄ですが、新約聖書に関しては、完全に証明されるのです。
【四福音書に関する歴史的価値の証明】
福音書の純正性(正真正銘性)--- 四福音書は、それぞれ著者とされている人びとの純正な(正真正銘の)著作
==== Ⅰ 外的な証拠 ====
最初の二世紀における著述家たちは、キリスト教徒もキリスト教でない人たちも、ひとしく、当時、聖福音書がひろく知られ、克明に研究されていたこと、またキリスト教の世界では、どこでも聖書が大切にとりあつかわれ、尊敬されていたことを証明しています。
使徒が死んでから百年も経過していない時代に、従って、使徒たちの記憶がはっきり人びとの印象にのこっていた時代に、福音書が大切にあつかわれ、全教会でつかわれていたということは、福音書が純正な書であることを立証する力強い証拠なります。使徒たちにせよ、彼らの後継者たちにせよ、福音書が示す内容の真理を立証するために、いのちがけで努力した人たちであるから、一連の偽造書を刊行して、これらを神感をうけた天主の言葉であるとし、世人をあざむくというような大それた欺瞞をたくらんだなどとは、とうてい考えられないことです。
またユダヤ教からの改宗者たちにしても、これらの書を少しも詮索することなく、自分たちが深い尊敬をはらっている旧約聖書に比肩する権戒ある本として、そのまま福音書をうけとったなどということも考えられないことです。異教徒たちの中には高い教養を身につけた人たちもけっしてすくなくなかったわけですが[6]、ある意味で、人間性にたいして、苛酷な要求をする宗教、信仰のためには生命をもすてることを要求するような厳格な宗教に、この宗教の土台となる記録述作の純正性についてなんら確かめもせず、しかも、その宗教に帰依したなどと想像することはゆるされないと思われます。
【注】[6] 福音書が書かれた時代が、精神文化の幼年期に属するものという主張はまちがいです。この点に関して、アレンゼン博士はつぎのように記しています。「キリストが生まれた時代は最も洗練された、そして、文化の高い時代であったということは、歴史が承認している。……ギリシア、ローマの世界は、すばらしい平和と安定した生活と、おどろくべき繁栄と政治的な業績などをのこした時代で、優れた文学感嘆すべき芸術作品、深い、休息のない探求の時代であった。降生前40年から、降生後260年にわたる三世紀は、おおくの観点から、これまでにないもっともかがやかしい時代であった。」Dr. Arendzen: The Gospels’ Fact, Myth or Legend? part Ⅱ, ch. .
教養の高い異教徒や異端者たちが、教会を撲滅するために、思いおよぶ限りの、あらゆる反対論をもって抗争をいどんでいた時代に、もしもいくらかでも可能性があったとすれば、神感書といわれている福音書が偽造書であるというような、絶好のえさを見のがすことはなかったはずではないか。キリスト教徒になるということが、殉教者になることを意味するほど、おそろしく厳粛な時代に生活していた全世界のキリスト教徒が、なんら異議をもうしたてるものもなく、これらの本を福音史家の著作なりと捏造し、これら偽造教典を、神聖な永遠の遺産、まもるべき規範として、子々孫々にのこすことをくわだてたということ、またこれに賛同したというようなことが、あり得たでしょうか。上述の考察によって、私達は、福音書を純正な書としてうけいれるか、さもなければ、子供だましにもならない不合理のかずかずを、あまんじてうけなければならないという、どうしようもない状況におちいるわけです。
【初代著述家たちの証言】
(1)
福音書記者の書いたもののなかから抜粋された多くのテクストが、教皇クレメンス(95年)の手紙、アンテオキアの聖イグナチウス(107年)、スミルナの聖ポリカルポ(150年頃)、それから使徒たちの他の弟子たちの著作などに引用されています。ヘルマスの「牧者」(150年頃)、デオゲネトスへの手紙(150年頃)、それから、95年か、おそく見ても、130年以後ではないと見られている、十二使徒の教え(ディダケ)という重要な著書に引用されています。
(2)
(a) サマリア生まれで、ローマで殉教した聖ユスティヌス[7]は、130年頃キリスト教徒になった人ですが、「福音書は使徒たちと弟子たちによって書かれた。そして、日曜日のキリスト教徒の集会で奉読された。云々」といっています。
[7] Apol.Ⅰ,66,67; Dial, cum Tryph.,n.103.
(b) 小アジア、フィリジアのパピアス[8]は、聖ヨハネの助手であったが、130年頃の書に、マルコ福音書が書かれた当時のありさまを説明し、おそらくはマテオ福音書と思われる聖マテオの著作にも言及しています。
[8] Euseb, H.E.Ⅲ, 39. による引用。
(c) タチアーヌスは170年頃、Diatesseronまたは四福音書の調和を書いた。1888年にアラビア訳が出版されてからは、この著書の純正性の論争は完全になくなりました。
(d) 聖イレネウス[9]は、180年頃こう記しています。「マテオが、ユダヤ人たちのために、ユダヤ人の言葉で福音書を書いたが、ペトロとパウロとは、ローマで宣教しながら教会を建設していた。彼らがわかれてから[10]、ペトロの弟子で、また秘書でもあったマルコは、ペトロから教えられたことを書いて私達にのこしました。それから、パウロの門下生であったルカは、パウロが教えていたことを福音書にまとめました。その後、主の弟子で、主の胸によりかかったヨハネは、小アジア、エフェゾにいたときに、彼の福音書を公にした」と。聖イレネウスがたどった特別な経歴を考えると、彼の証言には大きな力があることが分かります。彼は小アジアで生まれ少年の頃には使徒であり、福音記者であった聖ヨハネの弟子が、聖ポリカルポの説教を熱心にきいた、と彼はいっています。彼は、フランスのリオンの司教になり、ローマにもしばらく滞在したことがあります。従って彼の証言は、その当時、キリスト教界の中心であった、西方と東方との両教会を代表するもので、決定的な証明力をもつものと見られています。
【注】[9] Adv. Haer.Ⅲ, 1.
【注】[10] ギリシア原文がはっきりしません。死を意味するものと思われます。
(e) アフリカのテルトゥリアリアーヌスは、200年頃、異端者マルシオンに反対して、諸教会の教権にうったえ、「使徒の時代から福音書がもちつづけてきたすべてのものは、云々」といっています。彼は福音書に言及して、福音書は、使徒マテオ、ヨハネの書で、それから、弟子マルコとルカの書であるともいっています。
(f) 異端者では、たとえばパジリテス(130年死)、異教徒では、たとえばチエルスス(200年頃死)なども、福音書の純正性を少しも問題にしてはいません。以後の史料はたくさんあります。
福音書ほどたくさんの証明史料をもつ古典は、おそらくほかにはないでしょう。カエサルが「ガリア戦記」の著者であるということは、議論の余地ないものとされてはいるが、著作に関する最古の引用は、著者の手をはなれてから100年後のプルタークとスェトニウスの書に見られるだけです。
==== Ⅱ 内的証明 ====
テクストの内容をよく検討すると、福音書の著者がユダヤ人であること、また記されている事件と同時代の人か、そうでなければ、同時代の人に接していた人だということがわかります。
(1)著者はみなユダヤ人でした。
(a) 福音書は、ヘレニスティカ[11]といわれるギリシア語が、一般につかわれていた時代のギリシア語口語文体で書かれてはいますが、ヘブライ語の慣用がはっきり現れています[12]。ギリシア語のこういう一般的なかたちが、文章用語としてユダヤ人の間つかわれたのは、特に第一世紀だけで、それ以後はつかわれてはいません[13]。
【注】[11] 聖マテオ福音書は、ヘブライ語かアラマイ語で書かれましたが、まもなく、ヘレニスティカのギリシア語に翻訳されました。
【注】[12] たとえば、「からだ」のことを「肉」と言いました。「霊」は「生命」という意味でつかわれ、そのうえ現世的な生命をも、永遠の生命をも意味しました。「わたくしのたましい」は、ときどき、第一人称のかわりにつかわれ、抽象名詞はあまり使われませんでした。たとえば「柔和な人」とか「心の清浄な人」などは、それぞれ、柔和、潔白のかわりに使われていました。
【注】[13] Philo Tudaeus (50年ごろ死)や、ユダヤ人の歴史家ヨゼフスの著書は、ヘレニステイカのギリシア語で書かれています。
(b)著者はそれぞれ、ギリシア文学とか哲学には精通してはいませんが、ユダヤ人の宗教、習慣、しきたりなどには大変くわしいことがはっきり現れています。
(2)著者は、記されている内容と同時代の人であるか、そうでなければ、同時代の人びとに接した時代の人たちです。
(a) 現代の批評家たちは、キリストの時代における、パレスチナの地形、政治、社会、宗教などにふれた、かぞえきれないほどの聖書の記述に、少しの誤謬をも見いだすことができません。上述の環境は、ことのほか複雑で[14]、そのうえ一時的なものがおおかったので、当時パレスチナにいなかった外国人とか、後年の著作家には、とうてい正確に描写できない性格のものであったのです。ローマ人にたいしておこした暴動(66年~70年)は、不成功に終わりましたが、全地に戦争の被害をまきおこし、聖なる都イェルザレムを荒廃に帰し、神殿を地上から抹殺してしまった。その結果、庶民生活にも、行政面にも複雑な変化が現れたわけです。それで、キリストと同時代の人か、そうでなければ、キリストと同時代の人びとに直轄関係がある人以外の人が著者であるとしたなら、上述の災害がおこる前の事件をとりあつかう場合に、多くのまちがいをのこしたにちがいません。
【注】[14] たとえば、行政権は、ユダヤ人がにぎっていた地方もありましたし、ローマ人がにぎっていた地方もありました。ユダヤ人の裁判をつかさどっていた最高宗教議会は、その当時まだ権力をもっていたために、世俗行政権との紛争がたえませんでした。税金にはローマ貨幣がつかわれ、商売にもローマ金がつかわれましたが、神殿にはユダヤ貨幣がおさめられることになっていました。ことばは、ヘブライ語とギリシャ語とが併用されていましたが、ラテン語もつかわれていました。一般的に見て、言語と政権の分散とのために、公私の生活が非常に複雑なものになっていました。
(b) また、物語に、いきいきとした精彩が現れている点などを考えると、著者自身が、記されている事件に直接関係があったと見ても差し支えはありません。
福音書記者の真実性
福音書の著者は、信頼に値する人たちでした。彼らは、事実をよく知っていて、それを忠実にかきおろしました。
(1)
彼らは、事実をよく知っていました。聖マテオと聖ヨハネとは、キリストの伴侶で、聖マルコと聖ルカとは、キリストと同じ時代の人たちと交友をたもっていた。
(2)
彼らは、いずれも信頼に値する人たちでした。
(a) 彼らの尊い生涯と、彼らが、福音書に書きおろした真理を立証するためにうけた、くるしい生活などを思いあわせると、うたがいなく誠実な人びとであったことがわかる。
(b) 世俗的な見かたをすれば、キリストの聖性と天主性とを証明したからといって、彼らは損するばかりで、少しのとくにもならなかったのです。
(c) また、彼らは、どうしても不誠実ではありえなかったのです。なぜなら、彼らはいずれも、それらの書を事件と同時代の人びとのために、あるいは、同時代の人びとをよく知っている人たちのために書いたからです。従って虚偽を発表したとすれば、うけいれられることはなく、また、発見されずにはすまされなかったにちがいません。
(d) 記事には、一見、つじつまがあわないように見えるものがあります。しかしよく調べていくと、立派な調和があることが判ります。もし福音書の著者が、サギ師的な人物であったとすると矛盾していると見られる記事などは全部省いてしまったにちがいません。
(e) キリストの人格をつくりだすことなど、彼らには、とうていおよびもつかないことでした。キリストは、あくまでも高尚で、愛にあふれ、悲劇的で、また独創的な人物として、福音書に描きだされているが、福音書が描きだしているキリストの全人格は、はっきりした輪郭とともに、単なる芸術作品と見ていたとしても、福音書の著者のような人たちには、とうていこれをつくりだすだけの能力はありません。そのうえ、当時のユダヤ人たちは・・・福音書の著者もユダヤ人であるが・・・メシアはダビドの国を再建するためにやってくると信じていました。従って、キリストが実際に教えをといて聞かせるまでは、キリストが地上の国を建設するのではなく、霊の王国をたてるためにきたこと、従順と謙虚、兄弟愛と貧困、迫害と十字架の苦難、辱めなどは、ひとつとしておそらく夢想にもしていなかった事でした。
福音書の完全性
福音書は、もとのまま、現在にいたっています。すなわち、減らされてもいないし、書きくわえられてもいません。テクストが純粋にたもたれてきた事実は、以下の諸点を考えればはっきり判ります。
(1)四福音書に対する、教会の特別な尊敬と偽福音の使用禁止[15]。
【注】[15] 聖ペトロ、聖トマス、聖ヤコボの作とする、いわゆる偽造福音書は、使徒の時代がおわった頃にまわっていましたが、教会は、これらを偽書と決定したのです。
(2)四福音書が、公式の礼拝で奉読されてきた教会初代からの習慣[16]。
【注】[16] 聖書が、一般公衆に披露されていたことに関する保証を確認させるものとして、聖アウグスチニヌスが、かれの同僚アフリカの一司教のもとでおこった事件としてあげていることなど、おおいに参考になるはずです。(Ep. 75,5:82,35)すなわち、ヨナ予言書の翻訳で、聖ヒエロニムスが、「ひょうたん」のかわりに「つた」ということばをつかっていますが、教会で読んだときに、司教は会衆を動揺させるのではないかと憂慮した結果、ぜひ、もとのようにしなくてはならないと決心しました。
(3)福音書が、全世界のキリスト教世界に、あまねく普及していた事実。
(4)あらゆる写本が、本質的にはみな一致していて、なかには、四世紀にさかのぼるものもある[17]こと。
【注】[17] Ⅰ しかも、これら写本のもととなった以前の写本が、影もなく消え失せてしまったというのではありません。三世紀に属する福音の断片が、のちに発見されています。それらはみな、現今のテクストとして一致しています。したがって、なくなった部分も同性質のものであったと考えてよいです。(Sir F. Kenyon: The Chester Beatty Biblicae Papyri. London, 1933)。最近、(1935)、聖ヨハネ福音書の小断片が発見されました。それは、現今のテクストとおなじで、年代的に見ますと、100年から150年のものとされ、聖ヨハネが書き下ろした時代に、非常に近いものと見られている (C.H.Roberts, An Unpublished Fragment in the John Ryland's Library)。これらのものが発見されたのはエジプトですが、権威筋のケーニヨン、ロバート、シューバート、イドリス・ベル、その他は、断片の時代に関して、同意見です。エジプトでは、二世紀の初頭に、四福音書が分冊としてつかわれていたということが、決定的な事実と見られています。
Ⅱ ホラチウスの最古の写本は、七、八世紀のもので、キケロ、チエザル、プラトーのものは、九世紀、タチデイデス、ヘロドトウスは十世紀、エスキルス、ソフオクレスは十一世紀、エウリピデスは十二、三世紀です。しかし、筆者の手をはなれてから何世紀も経過していますが、本質的には変化していないと見られています。これまでに、福音書の完全性に関する疑問をいただいた人は、ひとりもいなかったかも知れませんが、福音書が信仰と道徳との規範を示す本であるところから、宗教的に無関心な人びとのなかには、これをわずらわしい本だと思った人たちがいるかも知れません。
以上のことから、共観福音書は、歴史的な記録書であることが分かります。新約聖書は、冷酷な批判というルツボにいれられましたが、少しもそこなわれることなく、無傷でそこから出て来たからです。
四福音書、(a)純正性、(b)真実性、(c)完全性などが、それぞれ証明されると、これらの書は、歴史的記録書としてうけとられなくてはなりません。
この「護教」のこの部分は、
http://www.d-b.ne.jp/mikami/apolog2.htm
にアップされています。ごゆっくりどうぞ!
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