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ダ・ヴィンチ・コードに対する韓国の聖ピオ十世会:聖母行列

2006年05月31日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア!

ダ・ヴィンチ・コードに対する韓国の聖ピオ十世会



 ソウルの聖ピオ十世会「無原罪の御宿り」聖堂で、5月28日(土)には、お昼の12時から夕方6時まで聖体降福式がありました。この聖体降福式と翌29日(主日)のミサ聖祭直後の聖母行列は、いつもの意向に加えて、今回は特に、


(1)ダ・ヴィンチ・コードによって犯される冒涜の罪を償うため、


(2)今年の5月5日にソウルの明洞聖堂(カテドラル)で公式に行われ報道された仏教儀式という天主の十戒の第一戒に背く罪を償うため、(http://blog.goo.ne.jp/thomasonoda/e/886e0e5254fbb00b708f91e86c0a107c  参照)


(3)5月31日の選挙で良い指導者が韓国のために選ばれるため、

という意向で捧げられました。



 その様子の写真レポートは、次のサイトをご覧下さい。
http://immaculata.web.infoseek.co.jp/manila/manila346b.html

 

 


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歴史は、イエズスがした多くの印、奇蹟、言葉、教え、教会の制定などが歴史上の事実であると認める

2006年05月31日 | ダ・ヴィンチ・コード、ここがおかしい

アヴェ・マリア!

ダ・ヴィンチ・コード、ここがおかしい

 イエズス・キリストは天主か?


(ここでは日本語での誤解を避けるために神と言う言葉を避け、天地の唯一の創造主という意味で「天主」という言葉を使っています。何故なら、神というと、例えば、東照宮では徳川家康でも「神」として祀られており曖昧な概念だからです。)



ダ・ヴィンチ・コードの主張「キリストは単なる死すべき人間の預言者であった。あらゆる点において例外的な人間であったが、人間に過ぎなかった。しかし325年のニケア公会議で天主の聖子と宣言された。これは教会とローマ帝国にとって、その権力を保証する手段であった。」


歴史の主張「非キリスト教徒およびキリスト教徒の残した史料によると、イエズスが存在したことは議論の余地のない歴史的事実である。固有の意味での歴史は、イエズスがした多くの印、奇蹟、言葉、教え、教会の制定などが歴史上の事実であると認める。歴史は、キリスト教徒らがその最初からイエズスをメシア、天主の聖子、救い主であると信じていたと断言する。325年のニケア公会議は、原初の信仰の再確認でしかない。」



 イエズス・キリストが天主であることに関する新約聖書の明確な証言とは別に、始めからキリスト教徒がイエズスを天主であると信じていたという非キリスト教徒の証言が存在する。ビトュニアのローマ総督小プリニウスは、西暦112年に、キリスト者らがキリストを天主として褒め称える参加を歌っていると証言している。(L. 10, l. 96)


 ニケア公会議の以前から、アンティオキアの聖イグナチオ(117年没)、ユスティヌス(165年没)、聖イレネオ(200年没)、アレクサンドリアの聖クレメンテ(215年没)、テルトゥリアヌス(225年没)などは、はっきりとイエズス・キリストが天主であることを宣言している。

 


 では以下に、シェアン司教著 「護教学」 第六章 イエズス・キリストは、ご自分が天主であると主張している を見てみよう。


□ イエズス・キリストの、ご自分が天主であると主張した事実に関する証明 □


■第一項■


★ 三福音書は、キリストが天主であると主張した事実を証明する



【キリストは、全人類をさばく天主であると主張している】



 キリストは、「人の子 が、その栄光のうちに、多くの天使をひきつれてきて、・・・諸国の人びとを前にあつめ、次に彼らをひとりひとりわけるだろう 」といっています。こういう宣言をあえてなしうる者は、天主だけです。天主でなければ、全人類のあらゆる人たちの内心の状態を読みとって、各人に相当する至当な賞罰を与えうるものはいません。


 キリストは同所で、さらに強調し、続けていっています。審判の日に、キリストは「王」としてたちあらわます。そして善人にむかって「援助を必要とした人びとをたすけたことは、つまりわたくし自身を助けたことになる 。」それから、次に悪人にむかっては反対に、「他人をかろんじたものたちは、つまり、わたくし自身を軽視したことなのだ」というのです。


 それゆえ、キリストは、善人をよみし、悪人をきらう天主とご自分とを同じものにしているわけです。キリストは、ご自分が天主なる律法者であると主張しています。・・・ファリザイ一派の人たちは、イエズスの弟子たちがサバト、すなわち安息日をけがしたといって非難したとき、イエズスはこたえて、「人の子は、じつに、安息日の主人である 」といっています。その意味は、「わたくしは、安息日を制定した天主であるから、サバトに拘束されなくともよい」ということです。


 山上で説教したとき、「あなたたちもおそわったとおり、昔の人は、殺すな、「殺すものは審判される」と教えられていた。しかし、わたくしはいう、兄弟にたいして怒りをもつ者は、みな裁判を受ける 」と教えています。この談話のなかで、キリストは何度も、「あなたたちは教えられている、しかしわたくしはいう」という表現をつかっています。もしキリストが、単なる人間で天主の特使にすきないということを主張するものとすれば、けっしてこういう宣言をしてはならなかったわけです。なぜなら、もし、そういう意図でこのような表現をつかったとすれば、天主をはなはだしく侮辱する汚聖行為で、途方もないうぬぼれになるからです。


 キリストは心からの尊敬と謙遜とをもってこの表現に固執したのです。「天主はいまこそ、あなたたちに宣言することをわたくしに命ずる」からです。キリストが、実際にここで教えている言葉は、キリストが個人の権力をもって十戒に関するただしい解釈と再吟味とを強調していることを示しています。こういう権能は、シナイ山において律法を与えた天主だけがもつ権能です。

 


【キリストは、ご自分が全能であることを主張している】



 キリストは天主のペルソナで、天主の子であること、また、父と同じ権能をもっていることを主張しています。「わたくしには、天と地との一切の権力が与えられています。・・・すべてのものは、わたくしの父からわたくしにまかせられた。父のほかは、子が何ものかを知っている者はなく、父が何ものかを知っているのは、子と、子が示した人のほかにはいない 」のであると。


 キリストは、天上においても地上においても天使にたいしても、被造物のうえにもおよぶ権力、このような権力は、天主だけがもつものですが、これらの権力をことごとくもっていることを主張しています。こういう主張をあえてすることによって、キリストは、ご自分が、単に天主のペルソナであることを宣言しているだけではなく、天主の子として、父から一切をうけていること、そのうえ、父とは相互の認識において神秘的に一致していること、父に関しては、ご自分だけが、望むときに人に知らせることができるということを強調しているのです。

 

【キリストは、子であるが、天主であること、すなわち、本性においては父とひとつであることを主張している】



(a) ある日イエズスは、カイザリアの近傍で、弟子たちに、「人びとは、人の子を誰だといっているか」とたずねた。弟子たちは、「ある人は洗者ヨハネといい、ある人はエリア、またある人ほイェレミア、あるいは、預言者のひとりだといっている」とこたえた。イエズスが、「ところで、あなたたちはわたくしを誰だと思うのか」というと、シモン・ベトロが、「あなたはキリスト、活ける天主の子キリストである」とこたえた。イエズスは、「シモン・パルヨナ、あなたは幸いな人である、その啓示は、血肉からのものではなくて、天にましますわたくしの父からでたのである 」と。聖書の用語法によると、「天主の子」という言葉は、転義的な意味で、「友人」とか、「天主のしもべ 」という意味でつかわれていることがあります。しかし、ここでは、転義的な意味における天主の子でないことははっきりしています。なぜなら、そういう意味だとすれば、洗者ヨハネも、エリアも、預言者たちもみな、「天主の子」であったはずだからです。また、もしペトロが、同様の意味でこの言葉をつかったものとすれば、父なる天主の啓示など少しもいらなかったわけです。


(b) 司祭長たち、ならびに律法学士たちが、そばできいていたときのこと、イエズスは人びとにひとつのたとえを話しました。すなわち、ある人がぶどう畑をつくって、小作人にその畑を貸し与えた。やがて、ぶどう畑からあがる収入の一部をおさめさせようと思って、しもべを次次と使いにだしました。ところが、小作人たちは使いの人びとに何も与えずにおいかえしました。そこで、主人はついに、「さて、どうしたらよかろう。わたくしの愛する子をおくろう 。かれを見たなら、おそらく尊敬するのではなかろうか」と考えた。ところが小作人たちはその人を見ると、ひそかに、「あれは相続人だから、殺してしまえば財産は私達のものになる」とたがいに相談し、そして、その人をとらえてぶどう畑のそとにつれだして殺してしまった。さて、ぶどう畑の主人は、小作人達をどう処分するだろうか。彼はきて、小作人たちを殺し、ほかの人たちにぶどう畑を与えるだろう、と 。


 このたとえをきいた人たちはみな、キリストが何をいおうとしているのかわかったのです。このたとえは、はっきりした預言で、ユダヤ人が多くの預言者を殺し、最後には、天主の愛子までも殺し、その結果、彼ら自身の破滅をまねくことになるであろうということを話しているということがわかったのです。それで絶叫してこういった。「そんなことがおこらないように」と。キリストをとりまいていた人びとのうちには、多くの友人たちもいましたがほかの司祭長とか、律法学士たちは、キリストのいおうとする事柄の意味をすぐに了解しました。そして、このたとえのなかで、天主のまことのおん子を殺す自分たちのすがたを見たのです。


(c) 聖金曜日の朝、イエズスは衆議所に出廷していた。「大司祭が、イエズスに、あなたはキリストか、祝せられたものの子か、とたずねると、イエズスは、そのとおりです。あなたたちは人の子が、力あるものの右にすわり、天の雲にのってくるのを見るであろう、といった。そのとき、大司祭は自分の服をひきさいて、どうしてこれ以上の証人がいるか、あなたたちは冒涜の言葉をきいたのです。それをどう考えるか、といった。彼らは口をそろえて、その罪は死刑に価すると決定した」のです。何が冒涜であったのか。いうまでもなく、それはイエズスが、天主の真の子であり、父と本性において同じであると宣言したことが、冒涜と見られたのです。この冒涜のゆえに、彼らはキリストを死刑に決定したのです。

 


★ ヨハネ福音書は、イエズスがご自分を天主であると主張していることを立証する


【キリストは天主の特権を主張している】


 ユダヤ人たちが「あなたは、まだ五十才にもならないのに、しかも、アブラハムを見たというのか」といったとき、イエズスは、「まことにまことに、わたくしはいう。アブラハムが存在する以前に、私は存在している」と言った。「父は、すべての人が父を尊ぶと同じように、みなが子を尊ぶように、審判のことをことごとく子にまかせた」のです。キリストはニコデモにいっています。「子を信じる人はさばかれないが、信じない人は、天主のおん一人子の名を信じなかったために、すでにさばかれている」のであると。


 キリストは自分自身を、生命にいたる「門」であるといい、「ぶどうの木」で、私達はすべて、その枝であると教えています。彼は、「道であり、真理であり、生命である」という。キリストは苦難に入る前晩に天父に祈って、「父よ、この世が存在するよりさきに、わたくしがあなたのもとで有していたその光栄をもって、いま、わたくしに光栄をあらわしてください。わたくしのものはみなあなたのもの、あなたのものはみなわたくしのものである」と、いっています。


 以上の真理を証拠だてるテクストは、聖ヨハネ福音書からも、他の福音書からも、たくさん引用することができます。

 


【ユダヤ人たちは、キリストがご自分を天主であると主張していた事実を承知していた】


 イエズスはユダヤ人たちにいっています。「わたくしと父とはひとつである」と。そこでユダヤ人たちは、ふたたび石をとりあげてイエズスを殺そうとしました。それは、「あなたは人でありながら、自分を天主とするから」という理由によるものでした。イエズスが、安息日に病人をなおしたというので、文句をつけるユダヤ人たちに、「わたくしの父は、いまもはたらいているのですから、私もはたらく」といいました。この言葉を聞いて、「彼らは、イエズスを抹殺しようとする決意をさらにかためた。なぜなら・・・キリストが、天主を自分の父と呼び、ご自分が天主とひとしいものだといったからでした。」


 イエズスは、彼らがどうしても理解しないので、「・・・すべて父のおこなうことは、何によらず、子もまたこれをおこなう。・・・父が死者を復活させて生命を与えるように、子もまた、自分の望む者達に生命を与えるのである 」といっています。ピラトが、イエズスを釈放したとき、ユダヤ人たちは、「私達には律法があります。律法によれば、彼は死にあたる。みずから、天主の子と名乗ったからである」と叫んだのです 。

 

■第二項■
 キリストの行動は、彼が天主であると主張した事実を証拠だてている



 イエズスは、天主から遣わされた単なる使者としてだけではなく、天主ご自身として、多くの奇跡をおこしています。「たとえ、わたくしを信じないでも、わたくしのすることを信じなさい」と言っているが、することというのは奇跡のことです。


「そうすれば父がわたくしにおられ、わたくしが父にいることを知って悟るだろう 」ともいっています。キリストは、人びとがご自分を天主として礼拝することをゆるしています。


 イエズスが、生まれつきの盲に視力を回復してやったとき、「あなたは人の子を信ずるか」といった。彼は「主よ、わたくしが信仰すべき者とは誰のことですか」とたずねると、イエズスは「あなたはそれを見ている、あなたと話している人がその人だ」といった。すると彼は、「主よ、わたくしは信じます」と言って、ひれ伏してイエズスを礼拝したのです 。


 イエズスは、また、かれ自身の権能をもって罪をゆるしています。イエズスは、中風にかかっている人に、「子よ、あなたの罪はゆるされた」といった。ところが、律法学士がこれをききとがめて、「天主のほかに罪を赦すことができる者はない」と心のうちで考えた。するとイエズスは、彼らがそう考えていることを悟り、すなわち、「天主の他に罪を赦すことができるものはない」という考えを、そのまま肯定して、しかも彼が、すでに罪の赦しを与えたことを知らせるために、「人の子が地上で罪を赦す権力をもっていることをあなたたちに知らせよう」と中風の人に、「たって、床をとり家にかえれ」と命じました。すると、彼は突然立ちあがり、床をもちあげ、人びとの目の前を通って行ったのです。


 イエズスの足に接吻し、涙をもって足を洗ったマリア・マグダレナに、イエズスは、「あなたの罪は赦された」と言いました。それから、食卓についていた人びとにむかって、「かの女は、多く愛したから、多くの罪が赦されたのである」といっています。罪は、天主の愛によって赦されるのです。従って、キリストは、自分に対する愛は、とりもなおさず天主に対する愛であるということを教えているわけです。別な言葉でいうと、イエズスは、ご自身が天主であることを主張しているのです 。



■第三項■
   使徒たちも弟子たちも、キリストが、ご自分を天主であると主張していたことを承知していた



 キリストの死後には、ユダヤ人も異邦人も、キリスト教徒はみな、キリストの天主性を宣言したのですが、これは明白な事実であって、否定することができません。またこれらの人たちは、キリストの天主性を証明するために、苦難を甘受し、生命をかけていた ことも否定できない事実です。こういう事実はまた、キリストがご自分を天主の子である、と主張していたことを、彼らが知っていたということを前提にしてこそ、はじめてわかることです。



 以上、シェアン司教著 「護教学」 第六章 より



【著者紹介】 マイケル・シェアン(Michael Sheehan)は、1870年12月にアイルランドのウォーターフォード市(Waterford)のニュータウンで生まれました。メイヌース(Maynooth)で最高の成績で司祭職の準備をし、1895年6月にウォーターフォードのカテドラルで叙階されました。その後オックスフォード大学、グリーフスヴァルト大学、ボン大学で勉強し学位を取りました。1900年にはメイヌースに戻ります。ラテン語とギリシア語に優れ、1919年にはメイヌース大学の副学頭になります。1922年にはオーストラリアのシドニーの補佐司教として聖別されシドニーで働くのですが、1937年には健康状態が優れないためにアイルランドに戻ります。アイルランドでは、アイル語に興味を覚えてこれをマスターし、アイル語で説教をします。


 シェアン司教は古典語の教授でありつつ、カトリック宗教と教会の基礎を取り扱う「護教」という本を執筆しました。1945年3月ブラックロックにある自宅でシェアン司教は聖なる生涯を閉じました。

この「護教」のこの部分は、

http://www.d-b.ne.jp/mikami/apolog2.htm

にアップされています。ごゆっくりどうぞ


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 兄弟姉妹の皆様、ダ・ヴィンチ・コードの冒涜の償いのために多くの祈りをお願いいたします。日本の司教様や教会の指導者の方々のためにお祈りをお願いします。

 天主の御母聖マリアよ、我等のために祈り給え!

 


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聖ピオ十世会国際ニュース ★ドイツ編★

2006年05月30日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア!


聖ピオ十世会国際ニュース


 ★ドイツ編★


 2006年5月7日、ドイツのゲッフィンゲンにある聖ピオ十世会シスター会の修練院では、着衣式があった。
















 

 



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福音書を歴史的記録書として信頼することが出来るか? シェアン司教著 「護教学」 第五章より

2006年05月30日 | ダ・ヴィンチ・コード、ここがおかしい

アヴェ・マリア!

 福音書を歴史的記録書として信頼することが出来るか?

 私たちは、シェアン司教著 「護教学」 第五章

福音書の歴史的価値に関する証明を見てみよう。


【新約聖書、特に四福音書は、単に一般の書として取り上げたとしても、優れた歴史文献と見なくてはならない。】


〔なるほど〕
 新約聖書を、ふたつの観点から見ることができます。

(1) 歴史的記録の集成としての著書。

(2) 主要著者を天主とする神感書の集成、あるいは全集としての聖書。


 「神感」あるいは「霊感」というのは、天主が、聖書記者に書かせようと望むこと、それだけを書かせるために、聖書記者に与える天主の霊感(インスピレーション)です。従って、神感は感覚的にはわからないわけで、神感をうけているという事実は、天主ご自身の立証にたよるほかないわけです。ここでは、神感にはふれません。私達は、新約聖書から、特にあるものをとりあげて、それらの本が、信頼に値する歴史的記録書であるということを、純然たる人間的な見地にたって立証するのです。


新約聖書の歴史的価値を立証するために採用する証明法。

 ある著作を、歴史書、あるいは過去の事件の忠実な記録書と決定するには、次にあげる諸条件が確立されなければなりません。

(a) はたして、その著作が純正であるか。すなわち、著者とされている人によって、実際に書きおろされたものか。

(b) はたして、著者その人が、信頼にあ対する人であるか。すなわち、著者が事件内容に精通しているか、ということと、誠実な人であるか、

(c) 両著作が原典のまま伝わっているか。すなわち、テクストが著者の手をはなれてから、本質的に変わっていないかどうか。

ということがあきらかにされなければなりません。以上は、これからあきらかにされていく事柄ですが、新約聖書に関しては、完全に証明されるのです。


【四福音書に関する歴史的価値の証明】


 福音書の純正性(正真正銘性)--- 四福音書は、それぞれ著者とされている人びとの純正な(正真正銘の)著作


==== Ⅰ 外的な証拠 ====


 最初の二世紀における著述家たちは、キリスト教徒もキリスト教でない人たちも、ひとしく、当時、聖福音書がひろく知られ、克明に研究されていたこと、またキリスト教の世界では、どこでも聖書が大切にとりあつかわれ、尊敬されていたことを証明しています。


 使徒が死んでから百年も経過していない時代に、従って、使徒たちの記憶がはっきり人びとの印象にのこっていた時代に、福音書が大切にあつかわれ、全教会でつかわれていたということは、福音書が純正な書であることを立証する力強い証拠なります。使徒たちにせよ、彼らの後継者たちにせよ、福音書が示す内容の真理を立証するために、いのちがけで努力した人たちであるから、一連の偽造書を刊行して、これらを神感をうけた天主の言葉であるとし、世人をあざむくというような大それた欺瞞をたくらんだなどとは、とうてい考えられないことです。


 またユダヤ教からの改宗者たちにしても、これらの書を少しも詮索することなく、自分たちが深い尊敬をはらっている旧約聖書に比肩する権戒ある本として、そのまま福音書をうけとったなどということも考えられないことです。異教徒たちの中には高い教養を身につけた人たちもけっしてすくなくなかったわけですが[6]、ある意味で、人間性にたいして、苛酷な要求をする宗教、信仰のためには生命をもすてることを要求するような厳格な宗教に、この宗教の土台となる記録述作の純正性についてなんら確かめもせず、しかも、その宗教に帰依したなどと想像することはゆるされないと思われます。


【注】[6] 福音書が書かれた時代が、精神文化の幼年期に属するものという主張はまちがいです。この点に関して、アレンゼン博士はつぎのように記しています。「キリストが生まれた時代は最も洗練された、そして、文化の高い時代であったということは、歴史が承認している。……ギリシア、ローマの世界は、すばらしい平和と安定した生活と、おどろくべき繁栄と政治的な業績などをのこした時代で、優れた文学感嘆すべき芸術作品、深い、休息のない探求の時代であった。降生前40年から、降生後260年にわたる三世紀は、おおくの観点から、これまでにないもっともかがやかしい時代であった。」Dr. Arendzen:  The Gospels’ Fact, Myth or Legend?  part Ⅱ, ch. .


 教養の高い異教徒や異端者たちが、教会を撲滅するために、思いおよぶ限りの、あらゆる反対論をもって抗争をいどんでいた時代に、もしもいくらかでも可能性があったとすれば、神感書といわれている福音書が偽造書であるというような、絶好のえさを見のがすことはなかったはずではないか。キリスト教徒になるということが、殉教者になることを意味するほど、おそろしく厳粛な時代に生活していた全世界のキリスト教徒が、なんら異議をもうしたてるものもなく、これらの本を福音史家の著作なりと捏造し、これら偽造教典を、神聖な永遠の遺産、まもるべき規範として、子々孫々にのこすことをくわだてたということ、またこれに賛同したというようなことが、あり得たでしょうか。上述の考察によって、私達は、福音書を純正な書としてうけいれるか、さもなければ、子供だましにもならない不合理のかずかずを、あまんじてうけなければならないという、どうしようもない状況におちいるわけです。



【初代著述家たちの証言】



(1)

 福音書記者の書いたもののなかから抜粋された多くのテクストが、教皇クレメンス(95年)の手紙、アンテオキアの聖イグナチウス(107年)、スミルナの聖ポリカルポ(150年頃)、それから使徒たちの他の弟子たちの著作などに引用されています。ヘルマスの「牧者」(150年頃)、デオゲネトスへの手紙(150年頃)、それから、95年か、おそく見ても、130年以後ではないと見られている、十二使徒の教え(ディダケ)という重要な著書に引用されています。


(2)


(a) サマリア生まれで、ローマで殉教した聖ユスティヌス[7]は、130年頃キリスト教徒になった人ですが、「福音書は使徒たちと弟子たちによって書かれた。そして、日曜日のキリスト教徒の集会で奉読された。云々」といっています。

[7] Apol.Ⅰ,66,67; Dial, cum Tryph.,n.103.



(b) 小アジア、フィリジアのパピアス[8]は、聖ヨハネの助手であったが、130年頃の書に、マルコ福音書が書かれた当時のありさまを説明し、おそらくはマテオ福音書と思われる聖マテオの著作にも言及しています。

[8] Euseb, H.E.Ⅲ, 39. による引用。



(c) タチアーヌスは170年頃、Diatesseronまたは四福音書の調和を書いた。1888年にアラビア訳が出版されてからは、この著書の純正性の論争は完全になくなりました。


(d) 聖イレネウス[9]は、180年頃こう記しています。「マテオが、ユダヤ人たちのために、ユダヤ人の言葉で福音書を書いたが、ペトロとパウロとは、ローマで宣教しながら教会を建設していた。彼らがわかれてから[10]、ペトロの弟子で、また秘書でもあったマルコは、ペトロから教えられたことを書いて私達にのこしました。それから、パウロの門下生であったルカは、パウロが教えていたことを福音書にまとめました。その後、主の弟子で、主の胸によりかかったヨハネは、小アジア、エフェゾにいたときに、彼の福音書を公にした」と。聖イレネウスがたどった特別な経歴を考えると、彼の証言には大きな力があることが分かります。彼は小アジアで生まれ少年の頃には使徒であり、福音記者であった聖ヨハネの弟子が、聖ポリカルポの説教を熱心にきいた、と彼はいっています。彼は、フランスのリオンの司教になり、ローマにもしばらく滞在したことがあります。従って彼の証言は、その当時、キリスト教界の中心であった、西方と東方との両教会を代表するもので、決定的な証明力をもつものと見られています。

【注】[9] Adv. Haer.Ⅲ, 1.
【注】[10] ギリシア原文がはっきりしません。死を意味するものと思われます。



(e) アフリカのテルトゥリアリアーヌスは、200年頃、異端者マルシオンに反対して、諸教会の教権にうったえ、「使徒の時代から福音書がもちつづけてきたすべてのものは、云々」といっています。彼は福音書に言及して、福音書は、使徒マテオ、ヨハネの書で、それから、弟子マルコとルカの書であるともいっています。


(f) 異端者では、たとえばパジリテス(130年死)、異教徒では、たとえばチエルスス(200年頃死)なども、福音書の純正性を少しも問題にしてはいません。以後の史料はたくさんあります。



 福音書ほどたくさんの証明史料をもつ古典は、おそらくほかにはないでしょう。カエサルが「ガリア戦記」の著者であるということは、議論の余地ないものとされてはいるが、著作に関する最古の引用は、著者の手をはなれてから100年後のプルタークとスェトニウスの書に見られるだけです。

 


==== Ⅱ 内的証明 ====



 テクストの内容をよく検討すると、福音書の著者がユダヤ人であること、また記されている事件と同時代の人か、そうでなければ、同時代の人に接していた人だということがわかります。



(1)著者はみなユダヤ人でした。


(a) 福音書は、ヘレニスティカ[11]といわれるギリシア語が、一般につかわれていた時代のギリシア語口語文体で書かれてはいますが、ヘブライ語の慣用がはっきり現れています[12]。ギリシア語のこういう一般的なかたちが、文章用語としてユダヤ人の間つかわれたのは、特に第一世紀だけで、それ以後はつかわれてはいません[13]。


【注】[11]  聖マテオ福音書は、ヘブライ語かアラマイ語で書かれましたが、まもなく、ヘレニスティカのギリシア語に翻訳されました。
【注】[12]  たとえば、「からだ」のことを「肉」と言いました。「霊」は「生命」という意味でつかわれ、そのうえ現世的な生命をも、永遠の生命をも意味しました。「わたくしのたましい」は、ときどき、第一人称のかわりにつかわれ、抽象名詞はあまり使われませんでした。たとえば「柔和な人」とか「心の清浄な人」などは、それぞれ、柔和、潔白のかわりに使われていました。
【注】[13] Philo Tudaeus (50年ごろ死)や、ユダヤ人の歴史家ヨゼフスの著書は、ヘレニステイカのギリシア語で書かれています。



(b)著者はそれぞれ、ギリシア文学とか哲学には精通してはいませんが、ユダヤ人の宗教、習慣、しきたりなどには大変くわしいことがはっきり現れています。



(2)著者は、記されている内容と同時代の人であるか、そうでなければ、同時代の人びとに接した時代の人たちです。



(a) 現代の批評家たちは、キリストの時代における、パレスチナの地形、政治、社会、宗教などにふれた、かぞえきれないほどの聖書の記述に、少しの誤謬をも見いだすことができません。上述の環境は、ことのほか複雑で[14]、そのうえ一時的なものがおおかったので、当時パレスチナにいなかった外国人とか、後年の著作家には、とうてい正確に描写できない性格のものであったのです。ローマ人にたいしておこした暴動(66年~70年)は、不成功に終わりましたが、全地に戦争の被害をまきおこし、聖なる都イェルザレムを荒廃に帰し、神殿を地上から抹殺してしまった。その結果、庶民生活にも、行政面にも複雑な変化が現れたわけです。それで、キリストと同時代の人か、そうでなければ、キリストと同時代の人びとに直轄関係がある人以外の人が著者であるとしたなら、上述の災害がおこる前の事件をとりあつかう場合に、多くのまちがいをのこしたにちがいません。

【注】[14] たとえば、行政権は、ユダヤ人がにぎっていた地方もありましたし、ローマ人がにぎっていた地方もありました。ユダヤ人の裁判をつかさどっていた最高宗教議会は、その当時まだ権力をもっていたために、世俗行政権との紛争がたえませんでした。税金にはローマ貨幣がつかわれ、商売にもローマ金がつかわれましたが、神殿にはユダヤ貨幣がおさめられることになっていました。ことばは、ヘブライ語とギリシャ語とが併用されていましたが、ラテン語もつかわれていました。一般的に見て、言語と政権の分散とのために、公私の生活が非常に複雑なものになっていました。



(b) また、物語に、いきいきとした精彩が現れている点などを考えると、著者自身が、記されている事件に直接関係があったと見ても差し支えはありません。

 


福音書記者の真実性



 福音書の著者は、信頼に値する人たちでした。彼らは、事実をよく知っていて、それを忠実にかきおろしました。



(1)
彼らは、事実をよく知っていました。聖マテオと聖ヨハネとは、キリストの伴侶で、聖マルコと聖ルカとは、キリストと同じ時代の人たちと交友をたもっていた。


(2)
彼らは、いずれも信頼に値する人たちでした。


(a) 彼らの尊い生涯と、彼らが、福音書に書きおろした真理を立証するためにうけた、くるしい生活などを思いあわせると、うたがいなく誠実な人びとであったことがわかる。


(b) 世俗的な見かたをすれば、キリストの聖性と天主性とを証明したからといって、彼らは損するばかりで、少しのとくにもならなかったのです。


(c) また、彼らは、どうしても不誠実ではありえなかったのです。なぜなら、彼らはいずれも、それらの書を事件と同時代の人びとのために、あるいは、同時代の人びとをよく知っている人たちのために書いたからです。従って虚偽を発表したとすれば、うけいれられることはなく、また、発見されずにはすまされなかったにちがいません。


(d) 記事には、一見、つじつまがあわないように見えるものがあります。しかしよく調べていくと、立派な調和があることが判ります。もし福音書の著者が、サギ師的な人物であったとすると矛盾していると見られる記事などは全部省いてしまったにちがいません。


(e) キリストの人格をつくりだすことなど、彼らには、とうていおよびもつかないことでした。キリストは、あくまでも高尚で、愛にあふれ、悲劇的で、また独創的な人物として、福音書に描きだされているが、福音書が描きだしているキリストの全人格は、はっきりした輪郭とともに、単なる芸術作品と見ていたとしても、福音書の著者のような人たちには、とうていこれをつくりだすだけの能力はありません。そのうえ、当時のユダヤ人たちは・・・福音書の著者もユダヤ人であるが・・・メシアはダビドの国を再建するためにやってくると信じていました。従って、キリストが実際に教えをといて聞かせるまでは、キリストが地上の国を建設するのではなく、霊の王国をたてるためにきたこと、従順と謙虚、兄弟愛と貧困、迫害と十字架の苦難、辱めなどは、ひとつとしておそらく夢想にもしていなかった事でした。



福音書の完全性



 福音書は、もとのまま、現在にいたっています。すなわち、減らされてもいないし、書きくわえられてもいません。テクストが純粋にたもたれてきた事実は、以下の諸点を考えればはっきり判ります。



(1)四福音書に対する、教会の特別な尊敬と偽福音の使用禁止[15]。

【注】[15]  聖ペトロ、聖トマス、聖ヤコボの作とする、いわゆる偽造福音書は、使徒の時代がおわった頃にまわっていましたが、教会は、これらを偽書と決定したのです。


(2)四福音書が、公式の礼拝で奉読されてきた教会初代からの習慣[16]。

【注】[16]  聖書が、一般公衆に披露されていたことに関する保証を確認させるものとして、聖アウグスチニヌスが、かれの同僚アフリカの一司教のもとでおこった事件としてあげていることなど、おおいに参考になるはずです。(Ep. 75,5:82,35)すなわち、ヨナ予言書の翻訳で、聖ヒエロニムスが、「ひょうたん」のかわりに「つた」ということばをつかっていますが、教会で読んだときに、司教は会衆を動揺させるのではないかと憂慮した結果、ぜひ、もとのようにしなくてはならないと決心しました。

 


(3)福音書が、全世界のキリスト教世界に、あまねく普及していた事実。


(4)あらゆる写本が、本質的にはみな一致していて、なかには、四世紀にさかのぼるものもある[17]こと。

【注】[17] Ⅰ しかも、これら写本のもととなった以前の写本が、影もなく消え失せてしまったというのではありません。三世紀に属する福音の断片が、のちに発見されています。それらはみな、現今のテクストとして一致しています。したがって、なくなった部分も同性質のものであったと考えてよいです。(Sir F. Kenyon: The Chester Beatty Biblicae Papyri. London, 1933)。最近、(1935)、聖ヨハネ福音書の小断片が発見されました。それは、現今のテクストとおなじで、年代的に見ますと、100年から150年のものとされ、聖ヨハネが書き下ろした時代に、非常に近いものと見られている (C.H.Roberts, An Unpublished Fragment in the John Ryland's Library)。これらのものが発見されたのはエジプトですが、権威筋のケーニヨン、ロバート、シューバート、イドリス・ベル、その他は、断片の時代に関して、同意見です。エジプトでは、二世紀の初頭に、四福音書が分冊としてつかわれていたということが、決定的な事実と見られています。
   Ⅱ ホラチウスの最古の写本は、七、八世紀のもので、キケロ、チエザル、プラトーのものは、九世紀、タチデイデス、ヘロドトウスは十世紀、エスキルス、ソフオクレスは十一世紀、エウリピデスは十二、三世紀です。しかし、筆者の手をはなれてから何世紀も経過していますが、本質的には変化していないと見られています。これまでに、福音書の完全性に関する疑問をいただいた人は、ひとりもいなかったかも知れませんが、福音書が信仰と道徳との規範を示す本であるところから、宗教的に無関心な人びとのなかには、これをわずらわしい本だと思った人たちがいるかも知れません。



 以上のことから、共観福音書は、歴史的な記録書であることが分かります。新約聖書は、冷酷な批判というルツボにいれられましたが、少しもそこなわれることなく、無傷でそこから出て来たからです。

 四福音書、(a)純正性、(b)真実性、(c)完全性などが、それぞれ証明されると、これらの書は、歴史的記録書としてうけとられなくてはなりません。


 この「護教」のこの部分は、

http://www.d-b.ne.jp/mikami/apolog2.htm

にアップされています。ごゆっくりどうぞ!

 


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ダ・ヴィンチ・コード、ここがおかしい : 福音書を歴史的記録書として信頼することが出来るか?

2006年05月30日 | ダ・ヴィンチ・コード、ここがおかしい

アヴェ・マリア!

ダ・ヴィンチ・コード、ここがおかしい

 福音書を歴史的記録書として信頼することが出来るか?


ダ・ヴィンチ・コード「新約聖書の四福音書、すなわちマテオ、マルコ、ルカ、ヨハネ)は、四世紀にローマ皇帝コンスタンティヌスによって選別された。何故ならこれらがイエズスを天主であると表現していたからだ。その他のそれよりも古い「福音書」は、回収されて焚書された。そのためにイエズスの人間的な面影が記されてしまった。これらの焼かれた書は「外典」と呼ばれ、イエズスの本当の姿を描いている。」


歴史 「新約聖書に含まれる四福音書は、紀元五〇年から一〇〇年の間に編集された。初期の段階からキリストに関する書き物が出た(これは「外典」と呼ばれる)が、キリスト者はそれを使徒達からの教えと矛盾しているとして受け入れなかった。キリスト教を信じない人々にとっても、新約聖書は歴史書としてキリストの生涯を知るために最も信頼できる史料である。」


 新約聖書は、イエズスの「人間的な側面」を隠したことがない。それは、「女から生まれた」キリストの幼少時代を描き、その渇き、疲労、涙、苦しみ、死を描く。その反対にグノーシスの「福音」と呼ばれるものは、出来事が起こってからずっと後に編纂された、極めて後期のものであり、史実の文脈を離れた言葉などが挿入され、キリストは、神秘的で現実離れした、超人間的な智恵の師として描かれている。


 初代教会の著述家と教父らは、この新約聖書に含まれている四福音書について多くの証言を残しているし、古代の数千という多くの写本が存在している。比較すると、ユリウス・カエサルの『ガリア戦記』の最も古い写本(断片)は、9世紀から10世紀のものである。紀元110年に書かれたタキトゥスの『年代記』の最古の写本は、9世紀と15世紀のものである。フラヴィウス・ヨゼフスの『ユダヤ戦記』の最古の写本は、10~12世紀のものだ。多くの古代の作家は、後期の断片によってしか知られていない。


 しかし新約聖書の最古の完全な写本は四世紀のものが存在している。これは他の古典と比較すると例外的に古い。紀元130年のパピルス写本(Papyrus Ryland)には聖ヨハネの福音の断片があり、2世紀末葉のボドメール・パピルス(Papyrus Bodmer)には、その他の新約聖書の断片と共に、聖ヨハネの福音が完全に掲載されている。新約聖書の最も初期の段階から、すべての写本は、ごくわずかなヴァリアント(差異)があるにしろ、原文の忠実な伝達が証明されている。


 コンスタンティヌス皇帝は聖書を改竄することが出来たか? 

 ダ・ヴィンチ・コードの主張することは、現代のプロパガンダと出版を想定しなければ出来ない。しかしコンスタンティヌス皇帝の時代は、新約聖書は既に少なくとも2世紀の間、使徒から忠実に伝えられたものとして特別の崇敬が払われていた。数え切れないほどの写本がローマ帝国中に散在していた。わずかな変更でさえ数百万のキリスト者が受け入れるのを拒否したことであろう。


 「霊感」を受けて書かれた正典目録に対して、「外典」(アポクリファ)とは、正典以外のもので、様々なものがある。多くは想像の産物で、内容は幼稚である。3~4世紀には、グノーシス主義者は、自分たちの「福音」を編纂した。彼らは特に、キリストの「公」の教えの他に、イニシエーションを受けた特別の弟子らだけに伝えられた「イエズスの秘密」があると主張した。このグノーシス文書の中に、4世紀のナグ・ハマディの写本などがある。「ユダの福音」についても同様で、これを最近、編集翻訳したジュネーブのロドルフ・カッサー教授(Professor Rodolphhe Kasser)によると「これは、紀元後二世紀に想像された、後期の解釈の産物であるということを何度も強調しなければならない。ここには、イスカリオトのユダの真実に関していかなる新しい歴史的情報を見つけることが出来ない。」

(以前、「偽典」と記事を書きましたが、正確なカトリックの用語では、「外典」と言いますので、お詫びして訂正致します。)


 オリゲネスは三世紀にこう書いている。「教会は四つの福音書をもっている。異端者どもは極めて多くの福音を持つ。・・・多くの人は(福音を)書くことを試みたが、四福音のみが承認されている。そして私たちの主イエズス・キリストの人となりの何を信じるべきかに光を当てるのは、この四福音書だけだ。私は「トマスによる」とか「マティアスによる」と言われる別の福音が存在していることを知っている。無学であると思われないためにその他の福音も読む。・・・しかし私たちは教会が認めるもの以外は何も認めない。私たちは四福音書だけを認めなければならない。」(聖ルカの福音書に関する説教より)

 




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ダ・ヴィンチ・コードに対するアメリカと日本の聖ピオ十世会

2006年05月27日 | ダ・ヴィンチ・コード、ここがおかしい

アヴェ・マリア!

ダ・ヴィンチ・コードに対する世界の反応(続き)

★アメリカ★


 聖ピオ十世会司祭、ノヴァック神父は5月27日土曜日、映画及び小説の冒涜に対して償いの公の行為をする予定。 ノース・カロライナ州ガストニアの映画館の前にて、午後7:15より行う。

(詳細は次のサイトをご覧下さい。)

http://www.remnantnewspaper.com/Archives/archive-2006-time_sensative.htm

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★日本★


 ===== 日本の聖ピオ十世会は ====



 ローマの枢機卿、司教様たちは私たちカトリック信者に対して、ダ・ヴィンチ・コードの冒涜に対して何らかの行動を取るように、と要請しておられました。私の知る限り、アリンゼ枢機卿を始め、プパール枢機卿、エレンス枢機卿、ルイニ枢機卿、また教理聖省秘書のアマト司教がそうでした。またアメリカでは多くの枢機卿、司教らが反対の声を挙げていました。



 ローマのこの要請に応えて、日本における聖ピオ十世会の私たちも行動を起こすことにしました。アジア管区長のクチュール神父様もこれを祝福して下さいました。5月20日の主日には、私たちは霊的に行動を起こしました。ミサ聖祭の前のロザリオの祈り、ミサ聖祭、そして晩課は、冒涜の罪の償いのために捧げられました。



 晩課が終わってからは、私は兄弟姉妹の皆様を代表して、もう一人の信者の方と、有楽町に行き、有楽町マリオンの映画館の前の交差点で、冒涜の償いのため、この映画を観る日本の兄弟姉妹の皆様のために、夕方の6時半から7時までロザリオの祈りを5連、そしてサルベ・レジナを歌いました。



 兄弟姉妹の皆様も、冒涜の罪の償いのために、お祈りをお願いいたします。願わくは、キリスト教を知らない日本の兄弟姉妹の方々が、ダ・ヴィンチ・コードがトンデモ本であることを知り、「それなら、本物のキリスト教って、いったい何なんだ? 本物の福音には何が書いてあるのか? イエズス・キリストって誰?」と興味を持たれますように! 


 「みんなは本物のイエズス・キリストを知らないだけで、いろいろとんでもないことを言っていたけれど、ダ・ヴィンチ・コードこそ、歴史を捏造している、人類を騙していた、本当の姿はこうなんだ」というきっかけになりますように! この悪が善となりますように!


 天主の御母聖マリアよ、我等のために祈り給え!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

 


 (詳しくは、「マニラの eそよ風」第344号 2006/05/25 聖ピオ十世会が日本で行ったダ・ヴィンチ・コードの冒涜に対する償いの行動をご覧下さい。) 

http://immaculata.web.infoseek.co.jp/manila/manila344.html

 

 


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 モンプリエ(フランス):ダ・ヴィンチ・コードに反対するロザリオの祈り

2006年05月26日 | ダ・ヴィンチ・コード、ここがおかしい

アヴェ・マリア!

ダ・ヴィンチ・コードに対する世界の反応(続き)


★フランス★

 フランスの地方紙新聞の切り抜きより。


 ● 2006年5月23日号の Midi Libre 紙

 モンプリエ:ダ・ヴィンチ・コードに反対するロザリオの祈り


 5月22日、聖ピオ十世会のファブレグ修道院長、ヴェルノワ神父は、50余名の信徒らと共に、映画館の前でロザリオの祈りをし、映画ダ・ヴィンチ・コードにたいして抗議した。



 ● 2006年5月23日号の Monpelier Plus 紙

 Veni, Vidi, Da Vinci.


http://www.laportelatine.org/communication/presse/2006/davincipresse/presse200605.php

 

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日本のある信者のかたから、


 5月20日主日には、大阪の映画館の前をみた限りでは、プロテスタント教会の連中がダビンチコードに反対するビラを配って、ギターかき鳴らして拡声器でダビンチコードを非難する演説をしていました。カトリックはいませんでした。・・・ カトリックでは、国民投票条例や共謀罪や北朝鮮に対する経済制裁反対では国会議員の電話番号まで書かれたリストが送られてくるのに。自分達の主キリストの名誉を守るためには指一本動かそうとしない。


 プロテスタントまでが反対のビラを配って、並んでいる人に「お願いします」とか言っているのに。・・・


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ローマの教会で献茶式がミサの一部としてささげられる

2006年05月25日 | エキュメニズム関連情報

アヴェ・マリア!

エキュメニズム情報

ローマで千玄室さんが献茶 欧州普及半世紀を記念

http://flash24.kyodo.co.jp/?MID=RANDOM&PG=STORY&NGID=home&NWID=2006052301004480

 【ローマ23日共同】茶道裏千家が欧州でのお茶の普及を始めて半世紀になるのを記念し、前家元の千玄室さん(83)がローマの聖アンセルモ教会で23日、献茶式を行った。

 献茶式は茶を神仏にささげて平和を祈る儀式で、この日はミサの一部として行われた。欧米各地から集まった約500人が息を潜めて見守る中、玄室さんはおわん2つに茶をたて祭壇に供えた。

 パリで茶を習っているという女性ボリアネ・クリスチャーナさんは「茶とカトリックは精神面で似ているところがあり、今日の体験は最高だった」と感激していた。

 昨年、国連親善大使に選ばれた玄室さんは、過去62カ国を歴訪し宗教施設などで献茶式を行い、茶を通じて平和を訴え続けている。25日には、ローマ大学から名誉学位を授与される予定。

 

+++++++++

(’’)? ローマの教会で献茶式がミサの一部として許されるのに、何故、聖伝のミサは禁止されているのかな?


(ー_ー )主よ、憐れみ給え! 聖母マリア様、憐れみ給え!


(´・ω・) エキュメニズムはもうこりごりだ! 
と思った方はクリック↓
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メル・ギプソンは、ダ・ヴィンチ・コードを非難する

2006年05月25日 | ダ・ヴィンチ・コード、ここがおかしい

アヴェ・マリア!

ダ・ヴィンチ・コードに対する世界の反応(続き)


 メル・ギプソンは、ダ・ヴィンチ・コードを非難する。

http://www.pr-inside.com/gibson-slams-the-da-vinci-code-r5715.htm


 カトリックのメル・ギプソンは、ダ・ヴィンチ・コードの本と映画を、彼が聖なるものとして考えている信仰を攻撃するものとして非難した。とくに、イエズス・キリストとマリア・マグダラに関する筋書きに激怒した。


 メル・ギプソンは「私が心配なのは、人々がこれを事実だと思いこんでしまうことだ。私は、これが私が聖なるものと考えているすべてを侮辱しているということ自体としては、怒っていない。ダ・ヴィンチ・コードは、(皆に)フィクションと認められているからだ。しかし、これは、ある人にとってはこれを事実であるかのように見せかけるように賢く事実をデタラメ理論へと導いている。」と言う。

 


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ダ・ヴィンチ・コードに対する世界の反応(続き)

2006年05月24日 | ダ・ヴィンチ・コード、ここがおかしい

アヴェ・マリア!


ダ・ヴィンチ・コードに対する世界の反応(続き)



FujiSankei Business によると、ダ・ヴィンチ・コードに対し ≪日本は冷静≫ だそうだ。


「ダ・ヴィンチ・コード」にキリスト教団反発(2006/5/20) ≪日本は冷静≫ 

http://www.business-i.jp/news/sou-page/news/200605200017a.nwc



 一方、日本のカトリック中央協議会(東京都江東区)では「見解を出すことは考えていない。映画は完全なフィクションであると考えている。海外のような抗議運動も、日本ではありえないと思う」(広報部)と話している。


 ただ、法王庁の高官などが出した「見に行かないように」といった談話は、機関紙などを通じて信者に伝えられており、「見に行かない信者は多いかもしれない」という。一方で広報担当者は「ここまで騒ぎになれば、私も参考までに見に行こうかなぁ」とも。映画への反応は極めておおらかなようだ。

   =====


 FujiSankei Businessのこの記事を読んだ時、私はこう言いたいと思った。



 「カトリック中央協議会の広報部の担当神父様、

 初めまして。FujiSankei Businessの記事を読んで、この報道の信憑性を信じることが出来ませんでした。記者の方が神父様のお考えを歪めて報道なさったように思われます。


 神父様が「映画は完全なフィクションであると考えている」と思っておられても、日本人の多くの方にはそうではないと映っています。何故なら、ダ・ヴィンチ・コードの著者が巻頭で「芸術作品、建築物、文書、秘密儀式に関する記述はすべて事実に基づいている」と断言しているからです。これに類する、ダ・ヴィンチ・コードのウソを事実とする本が、日本では書店で大量に販売されています。カトリック教会が真理を述べなければ、いったい誰が述べるのでしょうか? 


 またたとえ「映画は完全なフィクションである」と映画が宣言したとしても、洗礼を受けたものとして、ましてや司祭として、フィクションなら何でもあり、という態度は間違っています。譬えフィクションであっても冒涜しては罪になります。フィクションといえども、何に関しても何でも書いて良いとはなりません。


 カトリック教会には使命があります。
「私には、天と地との一切の権力が与えられている。だからあなたたちは諸国に弟子をつくりにいき、聖父と聖子と聖霊とのみ名によって洗礼をさずけ、私があなたたちに命じたことをすべて守るように教えよ。私は、世の終わりまで、常にあなたたちとともにいる。」(マテオ二八章)


 カトリック教会は、真理と公の道徳について発言する権利と義務があります。国家といえども、尊敬すべき団体について讒言したり侮辱する場合には、表現を制限させる義務があります。ましてや、ダ・ヴィンチ・コードで侮辱されているのは、私たちの主イエズス・キリストです。天主の御言葉です。道、命、真理、私たちの救い主、贖い主、教会の花婿です。人間は天主に対して言いたい放題、冒涜するものではありません。また、天主なるイエズス・キリストが、ご自分と一体としてまで高めて下さった花嫁であるカトリック教会を讒言することはゆるされません。



 例えば、中央協議会のリンクしている社会系委員会のサイトを見ると、いろいろと人権問題について闘っていることが分かります。


 しかしイエズス・キリストの天主の権利は全く眼中にないようです。私たちの主に対しては、小説や映画の中で、言葉と映像で暴力がなされています。「すべての暴力にNO!という教会を目指して」いるなら、イエズス・キリストに対してなされる暴力とハラスメントこそ、教会が取り上げなければならないのではないでしょうか。何故なら、私たちの愛は、先ず天主に向けられなければならないからです。私たちは「天主をすべてに超えて愛せよ、そして天主を愛するために、隣人を我が身の如く愛せよ」と命じられているからです。



 イエズス・キリストは、私たちの愛の対象です。私たちを愛するあまり十字架の死をも厭われなかった私たちの贖い主だからです。私たちの愛する主を、人々があれほど冒涜して神父様は、平気なのですか?


 イエズス・キリストはこう言っています。「人々の前で、私の味方だと宣言する人を、私もまた、天にいます私の父のみ前で、その人の味方だと宣言しよう。人々の前で私をいなむ者を、私もまた、天にいます私の父のみ前でいなもう。」 (マテオ十章)



 ええわ、ええわ、で何もしないと言うことは、無気力・無関心・愛のない証拠ではないでしょうか。裏切りとは、別の目的のために、一つのことを放棄することです。この世の勢力は、カネとモノとヒトを使ってイエズス・キリストをただの人間に貶めようとしてます。この世の冒涜に対する無気力は、闇に対して光を輝かさないことですから、その闇の勢力に力を貸すことではないでしょうか。イエズス・キリストを裏切ることに等しいのではないでしょうか?


 サタンは最初から、ウソつきで人殺しでした。ダ・ヴィンチ・コードもウソつきです。バチカンでは高官の枢機卿様や司教様がたが、「見に行かないように」と言っています。それを知っていながら、俺は関係ないよ、と言う態度で、「見に行かない信者は多いかもしれない」「ここまで騒ぎになれば、私も参考までに見に行こうかなぁ」ともの発言は、想像を超えています。



 私は、この報道が何かの間違いであったと願います。私は、カトリック中央協議会で働かれるすべての神父様のためにお祈り致します。天主様の祝福が豊かにありますように!


 二〇〇六年五月二四日


 トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)」

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 カトリックの方がブログでダ・ヴィンチ・コードについて反論を掲載している。

http://blog.goo.ne.jp/catholic-philately

 これを読んで、大変嬉しくなった。




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★アメリカ★



ダ・ヴィンチ・コードに抗議するアメリカの聖ピオ十世会。
75人が映画館前で抗議。
 

http://www.stltoday.com/
 

 先週18日金曜日夕方には、セイント・ルイスのチェイス・パーク・プラザ・シネマ映画館の前でダ・ヴィンチ・コードに対する15名の抗議のデモがあった。TFPの組織する抗議がセイント・ルイス地域で行われた。


 それよりも大きなグループとして、75名の抗議者、リッチモンド・ハイツのAMCエスクワイアー7の外に集まった。その多くは、聖ピオ十世会のアシジの聖クララ教会と聖母マリア被昇天教会からの信徒であった。彼らは平和的に円形の行列をし、ロザリオの祈りとし、いろいろなプラカードを持っていた。

 聖母マリア被昇天教会の助任司祭であるスティーブン・スース神父はこの問題についてカトリック教会の声を聞かせるために抗議しているとし「これはキリスト教の国だ。天主の名誉に経緯を原な分ければならない。映画は冒涜で満ちている」と述べた。


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★ローマ★


 フランス語版のDICI(聖ピオ十世会のインテリジェンス・サービス)は、ダ・ヴィンチ・コードを取り上げている。
http://www.dici.org/accueil.php


 ダ・ヴィンチ・コードに立ち向かう枢機卿たち Les cardinaux face au "Da Vinci code" の記事によると、
http://www.dici.org/actualite_read.php?id=1262&loco=FR

 アリンゼ枢機卿、プラール枢機卿、エランス枢機卿、ルイニ枢機卿などがダ・ヴィンチ・コードに反対する声を挙げておられる。


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★フランス★


 フランスでは、
http://www.dici.org/actualite_read.php?id=1268&loco=FR


 ■ ダ・ヴィンチ・コードの影響を調べるために、「キリスト教家族(ファミーユ・クレチアン)」誌の要請によって調査が行われた。その結果、フランス人の10人に2人がキリストの天主性を信じている、とのこと。10人に7人がキリストは、自分の人生を何も変えなかった、ところでダ・ヴィンチ・コードを読んだ人の48%がキリストをただの人間だと信じ、読まなかった人の場合、29%がキリストをただの人間だと思う、とした。

 


 ■ DIFI CULTURELは、そのサイトの中でダ・ヴィンチ・コードについての詳しい反論を掲載してる。
http://www.deficulturel.net/



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★イスラム世界★
 

イスラム保守派もNO ダ・ヴィンチ・コード
http://flash24.kyodo.co.jp/?MID=RANDOM&PG=STORY&NGID=intl&NWID=2006052401000730

 【イスラマバード24日共同】「すべての宗教にとって大切な聖なる人物への侮辱だ」。イスラム教預言者ムハンマドの風刺漫画掲載問題で激しい抗議運動を展開したパキスタンのイスラム保守派政党が、26日の金曜礼拝後に映画「ダ・ヴィンチ・コード」に対する全国的な抗議行動を行う方針を明らかにした。・・・



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ソニー株:続落で5000円目前、「ダ・ヴィンチ」にカンヌが厳しい眼 (ブルームバーグ) 2006年5月19日(金)12時19分

http://money.www.infoseek.co.jp/MnJbn/jbntext/?id=19bloomberg11abmdPkD5u8SE



  5月19日(ブルームバーグ):ソニーの株価が薄商いのなか反落。一時は5030円まで下げた。午前終値は90円(1.8%)安の5050円。同社が通常の4倍以上の広告宣伝費をかけて売り込みを図る映画「ダ・ヴィンチ・コード」(ロン・ハワード監督)が現地時間17日夜に開会された第59回カンヌ国際映画祭で上映された。批評家らの評価は「分かりにくい」、「長たらしい」と芳しくなく、興行成功への期待感が萎んでいる。


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ダ・ヴィンチ・コード、世界での反応(続き)

2006年05月19日 | ダ・ヴィンチ・コード、ここがおかしい

アヴェ・マリア


ダ・ヴィンチ・コード、世界での反応(続き)


★日本★

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/tg/new-for-you/top-sellers/-/books/all/249-1455112-4848344
 
 日本でのベストセラー:一位からは外れたが、その代わりに魔術師が活躍するハリーポッターが一位に。ダビンチコードは二位と三位を独占。トップスリーが反キリスト出版物に独占されることになった。

+ + + + + +


★フランス 聖ピオ十世会関係 ★


http://www.laportelatine.org/accueil/communic/2006/davinci/davinci.php



■サン・ニコラ・ドゥ・シャルドネ教会(パリ)


 サン・ニコラ教会(Saint-Nicolas-du-Chardonnet)の主任司祭であるザビエ・ボヴェー神父(Xavier BEAUVAIS 日本語の報道ではグザビエ・ボーベ神父と表記されていた)の下で、
http://www.laportelatine.org/district/prieure/stnicol/stnicol.php
2006年5月17日午後8時に、反キリスト教的映画であるダ・ヴィンチ・コードに反対するデモが行われた。

http://web.mac.com/bernardlorber/iWeb/SNC/Activite/0F68E163-170F-4609-809B-9369A35B8D93.html


 ◎ダ・ヴィンチ・コードは秘教主義の引き出しの奥から出してきた時代遅れの話しを劇化したものに他ならない。底を知らない谷のような宗教的無知が、この小説を成功させ、人心を惑わすことを実現させ、人々にキリスト教の啓示とカトリック教会に対する軽蔑を拡げている。

 ◎この偽物に対して、私たちがこれを承認することができないということを明らかにし、この映画上映の取りやめを求めることしかできない。私たちはすべてのキリスト者たちが、平和的に行われる私たちの公のデモンストレーションに参加するように呼びかける。

http://www.lemonde.fr/web/depeches/0,14-0,39-27329761@7-37,0.html
http://www.angelqueen.org/forum/viewtopic.php?t=7474&sid=50c37f487f9d5416b16eed383ed08bb9



■資料などのダウンロード
http://web.mac.com/bernardlorber/iWeb/SNC/Activite/0F68E163-170F-4609-809B-9369A35B8D93_files/da_vinci_code1_etude.pdf.zip

http://web.mac.com/bernardlorber/iWeb/SNC/Activite/0F68E163-170F-4609-809B-9369A35B8D93_files/Tract_Da_Vinci.pdf.zip

http://web.mac.com/bernardlorber/iWeb/SNC/Activite/0F68E163-170F-4609-809B-9369A35B8D93_files/Da_Vinci_Cabanis.pdf.zip


■フランス・カトリック青年運動(MJCF)


 映画ダ・ヴィンチ・コードは、カトリックに反対する真の攻撃である。これは讒言に基づき、私たちにとって最も大切なもの、つまりイエズス・キリストと主が建てた宗教、を汚し冒辱している。


 この映画は昔の合理主義者の古い攻撃を集め、反キリスト教の憎しみを育てている。他の宗教であればすぐに保護に動く政治の責任者たちは、反キリスト教については何もせずにしている。


 カトリック青年らは「嘆くのではなく動く」ことを望む。私たちはこの映画を機会に、私たちの主イエズス・キリストとその教会に対する愛をあかしする機会を見つけた。私たちは、真理に固執するすべての人々を招いて、私たちと具体的に行動を共にするように提案する。


 -この映画をボイコットするのみならず、この偽物を公に告発するポスターを張り、ビラを配る。

 -カトリックの教えを勉強し、私たちがこの教えをもっとよく愛し、擁護することが出来るようになること。ダ・ヴィンチ・コードのうそを論駁する多くの本が書店で入手できる。私たちは既に、十字軍、異端審問、聖書、教会の2000年の歴史などについて既に反論に答えた書物を出版した。・・・

 -祈りと償いのための苦業。教会はそれを私たちに求めている。聖母マリアさまもファチマでそこを要求された。それこそが天主の御母聖マリアが私たちから求めていることである。天主の童貞母は私たちに成功を保証して下さるだろう。


 願わくは、私たちのこの慎ましい、しかし断固とした反動が、侮辱を償ない、私たちの信仰を強め、現代の人々を照らさんことを。・・・


 異端にいつも勝利を収めた聖母マリアよ、天主なる御子の御国がとく来たらんことを。



■ファブレグ(モンプリエ)の修道院では、5月16日午後8時から12時まで聖体礼拝。
http://www.laportelatine.org/district/prieure/fabregu/fabregu.php



■ポスターなどのダウンロード
http://www.laportelatine.org/accueil/communic/2006/davinci/materiel/materiel.php



■チヴィタス
http://www.civitas-institut.com/content/view/383/2/



■ロランス神父様(聖ピオ十世会)のダ・ヴィンチ・コードについての講話
http://www.laportelatine.org/communication/sermons/060510loransdavinci.mp3



■ドミニク・ヴィアン教授のダ・ヴィンチ・コードについての解説
http://www.laportelatine.org/communication/sermons/060510viaindavinci.mp3



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★アメリカ★


ソニー製品の不買運動を カトリック系団体呼び掛け
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060518-00000089-kyodo-bus_all


 【ニューヨーク17日共同】中絶反対運動などをしている米カトリック系団体「ヒューマンライフ・インターナショナル」のアイテナウア代表は17日、映画「ダ・ヴィンチ・コード」に抗議し、関連会社が映画を配給しているソニーの全製品の不買運動を映画公開に合わせ19日から始めることを明らかにした。・・・

http://www.hli.org/

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★アメリカのカトリック司教評議会★


 アメリカのカトリック司教評議会は「ダ・ヴィンチ・コード」のうそを排斥するウェッブ・サイトを作った。

http://www.Jesusdecoded.com


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★中国★

映画『ダ・ヴィンチ・コード』中国カトリックが反発
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060518-00000002-scn-cn



 映画『ダ・ヴィンチ・コード』の試写会が17日、北京市内で行われた。「キリストが女性と結婚し、子供をもうけた」などというあらすじをめぐり世界各国で波紋が広がっているが、中国でもカトリック系の新聞がボイコットを呼びかける計画だ。18日付でチャイナデイリー(英字紙)が伝えた。・・・・

 河北省・石家庄市で発行されているカトリック系の新聞「Hebei Faith Press Newspaper」は今週中に社説の中でボイコットを呼びかける予定だ。同紙の責任者は「映画は真実でないから拒絶する」とコメントしている。

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「ダ・ヴィンチ・コード」人気の背景に宗教的無知=バチカン枢機卿 [ 05月11日 15時06分 ]
:http://www.excite.co.jp/News/entertainment/20060511150657/JAPAN-212912-1_story.html
 

[ローマ 10日 ロイター] バチカンの枢機卿らが、近く公開される映画「ダ・ヴィンチ・コード」とその原作への注目が高まっていることについて、背景に宗教的無知があると嘆いている。
 映画のプレミアを5月17日に控え、バチカンの文化評議会議長、ポール・プーパール枢機卿は、小説「ダ・ヴィンチ・コード」が教会の歴史を著しく歪めていると非難する一方、一般人の多くがフィクションと事実を見分ける十分な宗教的知識を持っていないとの考えを示した。
 小説では、イエス・キリストがマグダラのマリアと結婚し子供をもうけたが、バチカンはその事実を覆い隠してきたとされているため、キリスト教教会の強い批判を招いている。
 プーパール枢機卿は「基本的な知識がないために、寓話や空想、教会の歴史や価値に対する攻撃と、事実との判別が難しくなっている」と語った。

 

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【質問】

 教会が真理なら、ダ・ヴィンチ・コードを見ないように指導しなくても良いのではないか?



【答え】


 真理のみが権利を持っている。誤謬には権利がない、ただ寛容に黙認されるだけに過ぎない。真理を偽って冒涜したり讒言したりする権利はない。


 古代エジプトのピラミッドをUFOが作った、などという歴史家がいるだろうか? しかし、オカルト雑誌で何度も繰り返し報道されれば、中にはそれを信じてしまう人々もたくさん出てくるだろう。日本人は「みんながそうしているから」「誰もがそう言っているから」「面白いから」というと騙されてしまうのではないだろうか。


 オウム真理教に興味本位で近づいていった人々の中には、優秀な大学で勉強した人たちがいたではないだろうか? そのような人々が、麻原の体液入りの液体とかを高額で購入して飲んでいたのではないだろうか? ヒューザーの耐震偽装は、騙された方が悪かったのか?? まさか! 



 何故なら、誤った思想・誤謬を普及させる人々は、自然と、もっとも弱い者と或いは専門知識のない者に多くの影響を及ぼすからだ。そして、国家の義務が弱者の保護であるからだ。これこそが国家の第一の義務であり、社会組織の存在理由だからだ。国家は国民を外部の敵から守り、泥棒や殺人者、犯罪者などのあらゆる種類の侵略に対して国民の日常生活を保証するものだからだ。宗教から独立した国家でさえ、例えばポルノ雑誌のポスターを禁止するなどして、倫理の領域で国民の保護を保証している。


 キリスト教文明の国々はもっとも傷つきやすい者、とくに子供たちに対する国家の義務の感覚を維持してきた。国民はこの問題には敏感で、いろいろな家族からなる団体を通して、国家に必要な策を講じるように求めている。例えば、あまりにも内容が公衆道徳に反するラジオ番組は、たとえそれをだれも聴く義務がなくても、多くの子供たちがラジオを持っているため、子供を守るためにそのようなラジオ番組を禁止することができる。


 例えてみれば、ちょうど人が自殺を図る人々の救助に向かうように、誤謬に身を委ねる人々を守ることが出来るはずではないだろうか。これら不幸な者たちを救うために力ずくでの救助を強制行使する救助者を誰が非難できるだろうか? もう一つの比較をすれば、政府が麻薬を禁止することに対して、常用者への強制を行使したという口実で政府に不満を述べることは誰にも出来ないはずだ。真理にのみ権利があり、誤謬には権利がないからだ。


 もちろん、真理には権利があるにもかかわらず、実践において、やみくもに盲目的なそして非妥協的な規制をするのは愚かだろう。より大いなる悪を避けるために、公権力によってある種の誤謬が黙認されることは出来る。より大きな悪を避けるためにある種の誤謬については寛容であることができる。


 確かに、真理は何も畏れることがない。ただし、一般に誤謬は「その嘘が大きければ大きいほど、騙しやすい」ので、また、真理が誤謬に権利を与えてしまえば、そのこと自体が、真理自らを否認することになるので、真理は消滅してしまう危険さえ或る。


 自由は、一つの絶対的な善であると考えられる限り、空想の産物に過ぎない。絶対的善として考えられた自由は、相対主義と真理への無関心へと導く。


 従って、私たちは「真理があなた方を自由にするだろう」とのキリストの御言葉に留まらなければならない。


(詳しくは「教会がどうなってしまったのか分からなくなってしまったカトリック信者たちへ」 ルフェーブル大司教の公開書簡 その11
http://fsspxjapan.fc2web.com/op/op11.html
を参照)


 また、映画「ミッション・インポッシブル3(MI3)」は、上海では上映が無期限に延期されたそうだ。上海当局は、この映画で映る上海のイメージが悪すぎるから、という理由でこの処置をとったそうだ。もしイメージが合わない、という理由で上映延期がありなら、まさにダ・ヴィンチ・コードこそ無期延期されなければならないだろう。


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 私たちはダ・ヴィンチ・コードでなされる多くの冒涜に対して罪の償いを果たそう。


 特に私たちの愛する同胞である日本の兄弟姉妹の方々が、その巧妙に提示された虚偽に騙されることのないように祈ろう。


 兄弟姉妹の皆様、ダ・ヴィンチ・コードの冒涜の償いのために多くの祈りをお願いいたします。日本の司教様や教会の指導者の方々のためにお祈りをお願いします。

 天主の御母聖マリアよ、我等のために祈り給え!

 



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聖福音とダ・ヴィンチ・コード:真理と嘘の対立

2006年05月19日 | ダ・ヴィンチ・コード、ここがおかしい

アヴェ・マリア!


聖福音とダ・ヴィンチ・コード:真理と嘘の対立


 ブラウンによると、新約聖書はコンスタンティノ皇帝が捏造したものということになっている。


 四世紀からイエズス・キリストの天主性を証明するために「聖書は、私たちが今日知る形のものとしては、コンスタンティノ皇帝という異教徒が作り上げたものだ」という。そのためにイエズスのあまりにも人間的な観点を描くような「福音」は排除されて「新約聖書」の編纂が命じられそのために必要な資金が支払われていた、と言うことになっている。


 しかし新約聖書の全二七巻は、西暦五〇年から一〇〇年までの間に、すなわち一世紀の間に成立したと言うことは、科学的に証明されている。


 天主は、将来、その新約聖書の正真正銘性について極めて厳しい批判がなされるということを知っておられた。カトリック教会以外に、どのような宗教も、その聖典の成立を正確に確実に提示することが出来るものはないほどである。


 西暦一七〇年のムラトリのカノンには既に新約聖書のテキストの正典リストが載っている。この正典リスト(=カノン)は西暦一三〇年には完全に成立していたようだ。更に新約聖書の写本、少なくともその一部の写本は、すべて四世紀以前のものだ。事実は、ダ・ヴィンチ・コードの仮説を全く無に帰している。


 新約聖書は、天主によって霊感を受けて書かれた。キリストの説教とその御活動、キリストの弟子らの活動や説教を語る。カトリック教会の聖伝と共に、新約聖書は福音の使信を私たちに伝えている。そしてイエズス・キリストの人間性と天主性との真理を私たちに教えている。正典の聖福音には、キリストの「人間的な側面」が隠されているどころか、明らかにされている。その幼年時代、その御生涯、その従順、義憤、餓えと渇き喜びと涙と悲しみ、苦しみと御死去である。


 ところが、ダ・ヴィンチ・コードが使っているグノーシスの「福音」においてはこのイエズス・キリストの「人間的な側面」が体系的に削除され、否定されている。根拠のない伝説に過ぎない偽典を賞賛する人々は、自己矛盾に陥っている。彼らは新約聖書を頻繁に根拠のないものであるかのように取り扱う。そしてその断片をとってそれを証拠に新約聖書は後世に書かれたものに違いない、と叫ぶ。


 しかし彼らが大切にするフィリッポの福音といわれているものは、紀元後三世紀中葉のものだ。その文書の多くはグノーシスから出たものだ。既に二世紀、三世紀には、聖イレネオ、聖ヒポリト、テルトゥリアヌスなどはこれらの伝説に力強く反駁を加えている。


 グノーシスは、現代のニューエイジと比較できる。グノーシスはだいたいキリストの人間本性を否定し、本当の天主の秘密の知識を授けることが出来ると主張する。


 ニケア公会議が言う通り、イエズス・キリストは「創られずして生まれた」天主の聖子、聖父と同一本性である。キリストによって創立された教会は、常に聖父と聖子と聖霊と三位であるが唯一の天主、三位一体の天主を信仰してきた。キリスト者だけが、私たち罪人を贖うために天主が人となったことを信じている。

 イエズス・キリストはご自分が天主であると宣言して十字架につけられた。使徒たちはそれを証して殉教した。多くのキリスト者らが同じくそれを証した。聖パウロも同じことを1世紀中葉に宣教した。ビトュニアのローマ総督小プリニウスは、西暦一一二年に、キリスト者らがキリストを天主として褒め称える参加を歌っていると証言している。(L. 10, l. 96)

 ニケア公会議の以前から、アンティオキアの聖イグナチオ(一一七年没)、ユスティヌス(一六五年没)、聖イレネオ(二〇〇年没)、アレクサンドリアの聖クレメンテ(二一五年没)、テルトゥリアヌス(二二五年没)などは、はっきりとイエズス・キリストが天主であることを宣言している。


 カトリック教会はキリストについて何も隠していたことはない。その反対だ。私たちの主イエズス・キリストのご命令のままに行動してきた。「私には、天と地との一切の権力が与えられている。だからあなたたちは諸国に弟子をつくりにいき、聖父と聖子と聖霊とのみ名によって洗礼をさずけ、私があなたたちに命じたことをすべて守るように教えよ。私は、世の終わりまで、常にあなたたちとともにいる。」(マテオ二八章)


 教会の全歴史は、イエズス・キリストの福音を伝え、キリストの愛を輝かせ、人間を善へと導き幸福にするために、力を尽くし続けてきたことを証明している。


 教会は、イエズス・キリストが天主であると思わせるために「初期のテキスト」闇に葬った? 一九四七年に発見された死海文書は、キリスト教信者の生活について、その信仰について何ら教えるところがない。


 四世紀のものであるナグ・ハンマディのグノーシス文書のごみ捨て場が、一九四五年に発見された。そこで新たな秘密の発見は何もなかった。あったのは過去キリスト教が排斥したグノーシスだけだった。ダ・ヴィンチ・コードの中に出てくる偽典『フィリッポとマリアの福音』はいかなる使徒とも関係のない後期の作だ。


 ダ・ヴィンチ・コードという現代のグノーシス的捏造は、悪気のないフィクションなどでは決してない。これはキリストとキリストの弟子達への憎悪を教えるフリーの授業であり講話だ。この小説は、カトリック教会を、陰謀をたくらみ・人を騙す寄生虫のような・オカルト団体の一つであるかのように疑惑するようにし向けている。教会に対する不信のキャンペーンをはっている。ローマ時代にはネロの時がそうだった。キリスト教会に向けられた根も葉もない讒言が、三世紀にわたる残酷な迫害の原因となった。キリシタン時代がそうだった。キリシタンに向けられた根も葉もない讒言が、豊臣秀吉を始めとし二五〇年の残酷な流血の迫害時代を呼び起こした。このグノーシスのがらくたは、悲しくもキリスト教をくだらない秘密の結集であるかのように見なしてこき下ろしている。


 だから私たちはダ・ヴィンチ・コードの「フィクション」の仮面の下に隠された、私たちの主イエズス・キリストへの冒涜とイエズス・キリストの創立した教会への讒言を告発する。


 それと同時に、私たちはイエズス・キリストについての正確な知識を学ぼう。カトリック教会の歴史、諸聖人の伝記などに関する良書を読もう。そして来るキリスト教に対する讒言の攻撃に対して真理で防備しよう。


「人々の前で、私の味方だと宣言する人を、私もまた、天にいます私の父のみ前で、その人の味方だと宣言しよう。人々の前で私をいなむ者を、私もまた、天にいます私の父のみ前でいなもう。」(マテオ十章)


至聖なるイエズスの聖心よ、我等を憐れみ給え!


原罪なく宿り給いし聖マリア、御身に寄りすがり奉る我等のために祈り給え!


 



 私たちはダ・ヴィンチ・コードでなされる多くの冒涜に対して罪の償いを果たそう。

 特に私たちの愛する同胞である日本の兄弟姉妹の方々が、その巧妙に提示された虚偽に騙されることのないように祈ろう。




 兄弟姉妹の皆様、ダ・ヴィンチ・コードの冒涜の償いのために多くの祈りをお願いいたします。日本の司教様や教会の指導者の方々のためにお祈りをお願いします。

 天主の御母聖マリアよ、我等のために祈り給え!

 



ルフェーブル大司教様の伝記、がんばれ!と思った方、クリックで応援して下さいね。↓
http://blog.with2.net/link.php?269452


 


ダ・ヴィンチ・コードとその各国の反応

2006年05月18日 | ダ・ヴィンチ・コード、ここがおかしい

アヴェ・マリア!

ダ・ヴィンチ・コードとその各国の反応


 ★アメリカでは★


 伝統・家庭・所有のためのアメリカ会(TFP) とその「アメリカがファチマを必要としてるキャンペーン」は映画『ダ・ヴィンチ・コード』の抗議署名運動をして103402の署名を今までに集めた。
http://www.tfp.org/php/action_form/davinci_code.php


 同会は、全米に抗議の組織を作った。
Rejecting The Da Vinci Code Protest Central
http://www.tfp.org/davincicode/index.htm


 同会はダ・ヴィンチ・コードを論破する冊子を作り、PDF形式で公開している。

http://www.tfp.org/davincicode/protest_resources/RDVC.pdf


60,057 Catholics Reject Da Vinci Code - Catholic Online
http://www.catholic.org/prwire/headline.php?ID=1900

 

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★アメリカの司教様たちの対応★



 アメリカの司教たちも、ダ・ヴィンチ・コードに反対するTFPの運動をサポートしている。以下はサポートしている司教様たちの名前。


 ◎ アトランタの大司教、ウィルトン・グレゴリー大司教
http://www.tfp.org/davincicode/support/images/ArchbishopGregory_DVC_Lette.jpg


 ◎ フィラデルフィアの大司教、ジャスティン・リガリ枢機卿


 ◎ カンザス市の司教、ロバート・フィン司教


 ◎ サン・フアンの引退大司教、ルイ・アポンテ枢機卿
http://www.tfp.org/davincicode/support/images/Bishop_DVC_Letter_PR2.jpg
http://www.tfp.org/davincicode/support/images/Bishop_DVC_Letter_PR1.jpg


 ◎ パルマの聖ヨザファト教区司教、ロバート・モスカル司教


 ◎ グアムのアガナ教区司教、アンソニー・アプロン司教


 ◎ ミネソタ州のニュー・ウルム教区司教、ジョン・ニーンシュテット司教


 ◎ セント・ルイスの大司教、レイモンド・バーク大司教


 ◎ コロラド・スプリングの司教、マイケル・シェリダン司教


 ◎ モバイルの大司教、オスカー・リプスコム大司教


 ◎ テキサスのブラウンスビルの司教、レイモンド・ピナ司教


Bishops' Support for TFP Protests Against The Da Vinci Code
http://www.tfp.org/davincicode/support/bishop_support.htm

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有名なカトリック司祭はダ・ヴィンチ・コードの映画をボイコットを呼びかける(February 16, 2006)


 カトリック聖職者兄弟会会長のジョン・トリジリオ神父(Father John Trigilio, president of the Confraternity of Catholic Clergy)は、この映画とそれに広告を出しているスポンサーをボイコットするように呼びかけている。「これは単なるフィクションだ」という人々は、これが読者にインパクトを与えるために書かれたと言うことを忘れている。想像の前提の上に成り立つ間違った結論は、常識と通常の理性が私たちにナンセンスと教えることさえも信じ込ませてしまう。」


 「偽典は禁止されたのでも隠されたのでもなく、ただ信頼されず無視されたのだ。グノーシスの偽典は全く不正確で偽りだらけだったからだ。・・・ヒトラーとナチスのプロパガンダ大臣であったヨーゼフ・ゲッペルスは、ウソが大きければ大きいほど人々はよく信じる、と言っていた。


「もしもこれと同じような陰謀論がイスラムやユダヤ教、或いはその他の宗教に関してなされていたら、今頃は裁判沙汰になっていただろうし、世界中で抗議行動がおこっていただろう。しかしカトリックは自分の敵に自由に攻撃させている。もう目を覚ます時だ。立ち上がって私たちの宗教と私たちの教会を守ろう。ダン・ブラウンは教会攻撃以外の別の趣味を見つけるべきだ。」


Prominent priest: Boycott Da Vinci Code film
http://www.renewamerica.us/columns/abbott/060216


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ダ・ヴィンチ・コードのための『辞典』


 ジェイムズ・ガーロウ博士(Dr. James Garlow)は、『ダ・ヴィンチ・解読コード"The Da Vinci Codebreaker," (Bethany House)』という辞典を作った。これは『ダ・ヴィンチ・コード』に登場する人々、場所、文書、出来事などに関する事実を知るためのものだ。


 ガーロウ博士は言う。「キリスト者がその信じていることを維持するのに充分な信仰がないというよりも、キリスト教の歴史についての事実で防御態勢ができていないのだ。」


 マイケル・メッヴェドはこうコメントする。「私は宗教的には確固としたユダヤ教徒だが、多くの騙されやすい読者たちが『ダ・ヴィンチ・コード』をそれの本当の姿--安物の巧妙に組み立てられた、そして同時に、苦々しく偏見とキリスト教の伝統に全く無責任な讒言に満ちているエンターテイメント--を見るよりも、真面目な宗教的学問的作品だと思いこんでいるので、ぞっとしたのだ。ガーロウ博士の『ダ・ヴィンチ・解読コード』は、公平な人々が必要とするウソ、神話、誤解(これらはダン・ブラウンの小説と疑いなくロン・ホワードの映画で促進されるのだが)の事実に基づくバック・グランドを提供している。」


 ガーロウ博士は言う。「ダ・ヴィンチ・コードはキリスト者たちによい機会を提示している。それは信仰の歴史を学ぶのみならず、学んだことを他の人々に伝えるという挑戦を受けて立つことだ。個人が何を信じているかにかかわらず、私たちは皆、真理を知ることを望んでいる、と私は思う。キリスト者として私たちは真理について何も畏れることがない。


 ガーロウ博士については以下のサイトを参照のこと。
http://www.bethanyhouse.com/
http://www.jimgarlow.com/.
http://www.thetruthaboutdavinci.com/.

 

Dictionary Counters 'Da Vinci' on Its Own Terms
http://www.earnedmedia.org/alrc0404.htm

 

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★カンヌ映画祭★


 カンヌ映画祭で『ダ・ヴィンチ・コード』は低い評価を受ける
May 17 4:32 AM


 拍手よりも嘲笑のヤジがロン・ホワードの1億2500万ドルの映画に挨拶を送った。更に悪いことに映画のキー・ポイントで2000名の観衆が笑い出した。


 The US daily The Boston Globe の批評家ピーター・ブルネットはこう語った。「私はあまり気に入らなかった。小説と同じくらい趣味が悪いね。トム・ハンクスはひどかった。イアン・マッケレンもひどい。・・・」


 トム・ハンクスがイエズス・キリストの子孫の生き残りだと打ち明ける時、カンヌ映画祭の観衆は笑いをこらえることが出来なかった。


「あの最も大切な時に、ジャーナリストたちの間で笑いがあった。大きな笑い声ではなく鼻でのせせら笑いだ。私はそれがすべてを語っていると思う。」とインドのタイムズ紙のジェルソン・ダ・クンハは語る。


「観衆は混乱していた。拍手はなかった。ただ沈黙だけだった」とイタリアのテレビ局 ライ3 のマルゲリータ・フェランディーノは語った。「私はこの本の半分を読んで飽きてしまった。ひどい内容だ。」


「本当にがっかりした。対話はちゃちだった。俳優はそんなに悪くなかったが、映画は本ほど良くなかった。」と英国のラジオIRNからのリナ・ハンチャウイは語った。


 ハリウッドのトップの雑誌『The Daily Variety』誌は、この映画をこき下ろした。ブラウンのベストセラー小説は「退屈な、気味の悪いものとなった」と批評する。「もしも小説が存在していなかったとしたら、これひどい脚本がハリウッドのスタジオで一考されたなどと言うことは信じることも不可能だ。」


Critics crucify 'Da Vinci Code' in Cannes
http://www.breitbart.com/news/2006/05/17/060517083200.xsu2opby.html


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★アルゼンチン★


 アルゼンチンの司教はキリスト教に反対する「憎悪の波」と描写した。


 アルゼンチンのラ・プラタの大司教、エクロール・アゲル大司教は、カトリックに怠惰であることなく、「高貴な堅固」をもってイエズス・キリストに反対する「支配的な恥知らずの」憎しみの波に答えるように信徒らを励ました。


Catholic World News : Argentine prelate decries 'wave of hatred' against Christianity
http://www.cwnews.com/news/viewstory.cfm?recnum=43531


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★ローマ★


 教皇様の説教家、カンタラメッサ神父は「似非歴史の文学」を批判した。


「私たちは、信仰者達の沈黙が同意であるかのような誤解を与えること、そして何千万の善意の信仰がマスメディアによって操作されているは、許されない・・・。」

Pope’s preacher: Betrayal repeated by Judas Gospel, best-selling ‘Da Vinci Code’ - Catholic Online
http://www.catholic.org/international/international_story.php?id=19473

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 ★「仏教国」のタイ★

http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__1971630/detail
 

タイ検閲委、「ダ・ヴィンチ・コード」のラスト10分間削除命令=会社側は異議申立

【ライブドア・ニュース 05月17日】- AP通信によると、ソニー・ピクチャーズエンタテインメント傘下のコロンビア・ピクチャーズは17日、同社の話題作「ダ・ヴィンチ・コード」の上映をめぐり、タイ政府の映画検閲委員会が最後のシーンの10分間を削除する決定を下したことに対し、異議を申し立てた。この削除は、タイ国内のキリスト教関係者が映画の内容はキリスト教に対する侮辱として、上映差し止めなどの抗議を受けて、16日に決定されたもの。

  同委の担当者は、「検閲委員会は作品中10分間の場面について削除を命じた。しかし、映画会社側から異議の申し立てがあり、再検討する」としている。一方、同社のタイ関係者は、削除には応じられないが、協会側からの要望通り、この映画はフィクションであることのメッセージを映画の中に入れるだろうとしている。

  世界的なベストセラーになった原作本の「ダ・ヴィンチ・コード」にもカトリック教会の指導者からキリスト教を侮辱し、歪めるものとして強い批判が出ており、不買運動や抗議行動が広がっている国がある。仏教徒が圧倒的多数を占めるタイでは同作品の公開が18日から始まる予定になっている。【了】

ライブドア・ニュース 戸塚雅美記者/em
(参照:http://blog.livedoor.jp/emasutani/)

 
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★フィリピン★


「ダ・ヴィンチ・コード」、R18指定に…フィリピン

http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20060516i115.htm

 【マニラ=遠藤富美子】カトリック教徒が国民の8割以上を占めるフィリピンで16日、比大統領府の映画・テレビ審査委員会が、世界的なベストセラー小説を映画化した「ダ・ヴィンチ・コード」を18歳以上向けの「R18指定」とした。

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★イギリス★


「キリストに子ども」6割 英世論調査で読者回答

http://cnn.co.jp/showbiz/CNN200605170004.html

 【ロンドン17日共同】17日付の英紙デーリー・テレグラフは、世界的ベストセラー小説「ダ・ヴィンチ・コード」を読んだ人の6割が、小説の筋書きに沿い、イエス・キリストには子どもがいて血筋が続いている可能性があると信じているとの世論調査結果を掲載した。

 調査結果では、36%の読者がカトリック教会はキリストについての真実を隠ぺいしていると信じていると回答した。
 


「キリストに子ども」ダ・ヴィンチ読者6割が信じる

http://www.zakzak.co.jp/top/2006_05/t2006051724.html
 
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★その他★

映画版「ダ・ヴィンチ・コード」、プレミア前に抗議広がる

フランス、カンヌ──ダン・ブラウンの世界的ベストセラーの映画化「ダ・ヴィンチ・コード」(ロン・ハワード監督)は17日、カンヌ国際映画祭でプレミア上映される。こうしたなか、世界各国のキリスト教団体は、同作品の上映中止や上映期間短縮を求める抗議行動を展開中だ。


韓国ではプロテスタント団体が裁判所に上映差し止めを請求したが、裁判所は「原作や映画がフィクションであることは明らかであり、映画鑑賞者が内容を事実であると誤解する可能性はない」として請求を棄却した。団体は裁判所の決定を尊重するとしたうえで、映画版をボイコットする方針を明らかにした。


インド政府は抗議を受けて、同作品の上映を暫定的に見合わせる方針を決定。その一方でカトリック団体の幹部が上映禁止を求め、ムンバイでハンガーストライキを開始した。参加者は増える見通しという。


ギリシャの首都アテネではギリシャ正教の関係者らを含む200人が、十字架やギリシャ国旗を掲げて議会までのデモ行進を実施。関係者は、原作の内容が「下劣」だと批判するとともに、預言者ムハンマドの風刺画1つで抗議行動を起こしたイスラム教徒にならい、キリスト教徒も立ち上がるべきだとの考えを示した。正教は映画の内容について「ばかばかしい」とコメントしているが、ボイコットを呼びかけるには至らなかった。


シンガポールのキリスト教団体は上映禁止を求める一方、映画や原作への反論を試みる講座を開催する。検閲当局は、大人以外に事実とフィクションの区別は難しいとの判断から、映画版をNC16(16歳未満鑑賞禁止)に指定した。


このほか、物語に悪役として登場する白皮症の男の描写について、米患者団体が反発を表明した。


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 私たちはダ・ヴィンチ・コードでなされる多くの冒涜に対して罪の償いを果たそう。


 特に私たちの愛する同胞である日本の兄弟姉妹の方々が、その巧妙に提示された虚偽に騙されることのないように祈ろう。



 兄弟姉妹の皆様、ダ・ヴィンチ・コードの冒涜の償いのために多くの祈りをお願いいたします。日本の司教様や教会の指導者の方々のためにお祈りをお願いします。


 天主の御母聖マリアよ、我等のために祈り給え!

 


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ダ・ヴィンチ・コードのカトリック教会に対する讒言と虚偽

2006年05月17日 | ダ・ヴィンチ・コード、ここがおかしい

アヴェ・マリア!

 

 ダ・ヴィンチ・コードのカトリック教会に対する讒言


 ダ・ヴィンチ・コードは、カトリック教会が反女性的であるとし、カトリックは中世に七百万人の魔女を焼いたと言う。しかし事実は最近の研究が明らかにしているように、一四〇〇年から一七〇〇年の間に四万人(四百万ではなく単に四万)が魔女・魔法使いといて処刑されたと考えられているが、その多くはプロテスタントによって処刑された。中世には魔女として処刑された人々は殆どいない。

(Jenny Gibbons, "Recent Developments in the Study of the Great European Witch Hunt", #5, Pomegranate (Lammas, 1998)



 ブラウンは神殿騎士団が奇妙な秘密の始まりをもっていたと主張するが、真面目な歴史家で神殿騎士団のそのような始まりに関する文書や証拠を見つけた人は一人も存在していない。ダ・ヴィンチ・コードによると、神殿騎士団がゴチック建築を発明し、オカルトのシンボルをそこに密かに埋め込み、異教の神々を礼拝した、と主張する。ダ・ヴィンチ・コードによると、神殿騎士団は教皇クレメンテ五世によって解散させられ、神殿騎士団員数百名を焼き殺しその灰をティベル河に投げ捨てた、そのために騎士団はフリーメーソンと姿を変えて今日に至る、と主張する。これは全くの作り話だ。


 神殿騎士団はまず、イスラム教徒から迫害を受けていた聖地にいるキリスト教信者を助け聖地を保護するためにあった。彼らは建築家ではなかった。


 アヴィニョンの教皇であったクレメンテ五世ではなく、フランスのフィリップ五世が神殿騎士団に対立し、彼らに対して異端や魔術の告発をしていた。そしてフィリップ五世の下で、拷問などが実行され哀れ神殿騎士団の中には偽りの自白をしたものもあったが、後にそれを撤回している。学問的な研究の成果によれば、神殿騎士団が異端集団だったという証拠はない、ということだ。しかしフィリップ五世は、優柔不断なクレメンテ五世に圧力をかけ、その解体を迫った。


(Malcolm Barber, "The Trial of the Templars", Cambridge University Press: 1978;
Edward Burnmn, "The Templars Knights of God", Rochester, VA: Destiny Books, 1986;
Peter Partner, "The Murdered Magicians: The Templars and Their Myth", Oxford: Oxford University Press, 1982)


 教皇クレメンテ五世が神殿騎士団の会員を焼いた灰をティベル河に投げ捨てたというが、ローマあるいはイタリアのその他の都市で神殿騎士団の会員が焼かれたという記録は存在していない。ただしフィリップ五世の下で、パリとフランスのその他の都市で合計すると百名以下の会員が焼かれたことはある。


 神殿騎士団の住んでいたところは、ソロモンの神殿の下の古い馬小屋の中ではない。彼らはアルアクサというイスラム寺院の隣の神殿山(Temple Mount)の上に立つ王宮の一部に住んでいた。


 以上のようにブラウンの描く「歴史的事実」まったくデタラメであり、彼は単に反キリスト教、反カトリックのフィクションを書いているとしか言いようがない



 ダ・ヴィンチ・コードが描く秘密結社


 ダン・ブラウンはバラ十字架団、フリーメーソン、その他の秘密結社のシンボルや儀式についてあまり知られていない情報をダ・ヴィンチ・コードに織り込んでいる。幾つかは本当のことが記載されているがその殆どはデタラメだ。そのためにどこからどこがウソでどこからどこまでが本当か混乱を引き起こさせている。


 例えばブラウンはヒエロス・ガモスと言われる異教の性的乱交秘密酒神祭ともいうようなものが秘密結社には存在しているという。これについては信頼のおける研究家らによってもかつて秘密結社において存在したし、現在でも存在しているという。しかしダン・ブラウンは神殿騎士団の「秘密儀式」の一部にそれがあったとウソをつく。


 シオン修道院のグランド・マスターの「秘密文書」に載せられたリストであるが、そこにあげられている人々はかなりの数が様々なオカルト団体と関わっていたらしい。ただし彼らが、存在していなかったシオン修道院という一つの団体に関わっていたというのはナンセンスだ。

(Robert Richardson, "The Unknown Treasure: The Priory of Sion Fraud and the Spiritual Treasure of Rennes-le-Chateau", Houston, TX: NorthStar, 1998. )



 例えばアイザック・ニュートンは、オックスフォードの「見えない学寮」(invisible College)の一部だった。

 ヴィクトル・ユーゴーは、秘教主義と聖なる女性の伝説に巻き込まれていた。しかし彼らがすべてフィクションのシオン修道院という一つの団体に所属していた、というのは現実ではない。


 ダ・ヴィンチ・コードによると、バラ十字架団、フリーメーソン、その他の秘密結社などが一つの現実であるかのように描かれている。しかし現実は全く違う。これらの悪の勢力はカトリック教会とキリスト教世界に反対して闘う時だけは一致するが、そうでなければ互いに相争っている。


 ブラウンはこれらの秘密結社らを常に良いものとして描き、それに平行してカトリック教会を悪として描いている。革命的現代人は善を悪として受けいれ、悪を善として考えるのか? ダ・ヴィンチ・コードはそのような現代人に、キリストが天主であるということを否定するように暗示している。だから世界中のマスメディアは、これを促進し宣伝し、囃し立てているのだ。



 ダ・ヴィンチ・コードは冒涜的な性格を持っているために私たちはこれに対して抗議する。アリンゼ枢機卿はキリスト者らに、ダ・ヴィンチ・コードに反対して行動を起こさなければならない、と要請している。


 教理聖省の秘書アンジェロ・アマト司教(サレジオ会)は、四月二八日に映画ダ・ヴィンチ・コードをボイコットするように訴えた。


 オプス・デイ運営のローマのサンタ・クルチェ(聖十字架)大学でのセミナーで、アマト司教はこう言った。
「あなたたちが皆、これをボイコットすると期待します。」


 アマト司教は言葉を続ける。「大部分のキリスト教信者の極めてお粗末な文化的素養のため、彼らは自分たちの希望の理由を挙げることさえも出来ない。」そのために「ダ・ヴィンチ・コードのような頑固に反キリスト教的な小説---イエズス・キリストと福音書と教会とに関して讒言と攻撃と歴史的・神学的誤謬に満ちた---が奇妙にも成功をおさめた」と説明する。


 アマト司教は更に言う。「これらの讒言と攻撃と誤謬がもしもコーラン(イスラム経典)やショラー(ユダヤ経典)に関するものであれば、世界中で大騒動が起こっていたことであろう。しかしカトリック教会とキリスト者らに向けられたものであったがゆえになんの罰も受けなかった。」


「このような場合、キリスト者たちは嘘と根拠のない名誉毀損を拒否するためにもっと敏感であるべきだ。」


 一九八八年の「キリストの最後の誘惑」という映画上映の時、これはボイコットを受け、「それに相応しい経済的失敗」という痛手を与えることが出来た、とアマト司教は追憶する。そしてダ・ヴィンチ・コードについては「極めてゆゆしいものであり、歴史的に間違っている」と評価する。


「今日、福音の伝達が現実の迫害によって妨害されているばかりか----世界にはまだ、投獄や死刑の刑をもって、自分の信仰を宣言する自由を拒否されているキリスト者らがまだいる----しかしポスト・モダン文化の弱々しい思想によって迫害されている。何故ならポスト・モダン文化はキリスト教の啓示という強力な思想を拒否するからだ。」そのために現代は「虚無的・相対主義的・生命技術偏重的文化の重々しい雰囲気がある」という。


「私たちは現代、真理と明らかな物事に対応していない仮想現実的な空間の中に生きているかのように思われる。この仮想世界は世論操作とマスメディアのシミュレーションの実験室で作られているようだ。」 アマト司教はこの意味で「人物と出来事と歴史の操作」があると告発する。


ユダの福音についてもアマト司教は「カトリック報道機関は、ニュースを報道するだけではダメだ」とし、これが「偽典の福音であり、教会と教父たちはこの存在を知っており排斥した」偽物、「事実の現実と対応しない、ユダを間違って描くもの」であるということを理解させる情報を読者に提供しなければならない、と述べた。

http://www.dici.org/actualite_read.php?id=1249&loc=fr


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 韓国では、朝鮮日報によると、映画『ダヴィンチ・コード』、上映禁止仮処分棄却、とのことだ。しかしそれなりの努力をしたことはうれしい。


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 ソウル中央地裁・民事捜査部は16日、「韓国キリスト教連合会・映画『ダヴィンチ・コード』特別対策委員会」が同映画の国内公開禁止を要求し提出した仮処分申請を棄却した。

 同委員会は先月、「映画『ダヴィンチ・コード』がキリストの神聖と聖書の真理を毀損し冒涜している」とし、「これにより個人の宗教的信念が侵害される恐れがある」として、同映画の韓国配給会社である(株)ソニー・ピクチャース・リリージング・コリアを相手取り上映禁止仮処分申請書を提出した。

 米国の作家ダン・ブラウンのベストセラー小説『ダヴィンチ・コード』を原作にした同映画は18日に世界で同時公開される。

http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__1967237/detail
 
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 フィリピンでは、上映が延期になったと以前噂で聞きましたが、そうではなくなったようだ。ただし、18歳未満不適切映画、R18に指定されたそうだ。(テケテキさん、コメントと情報を感謝します。)


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 私たちは何をしたらよいのだろうか?



 ADさん、コメントを感謝します。では、私たちは何をしたらよいのだろうか?


 パッションの時には、「反ユダヤ」という言いがかりをつけられてバチカンにまで抗議した。それと同じように私たちは、キリスト教の指導者の方々が行動を起こして下さるのを期待している。何故なら、私たち個人の力には限りがありすぎるからだ。



 しかし、下の日本カトリック正義と平和協議会の活動リストを見ると、

http://www17.ocn.ne.jp/~antijpj/yamanouchi/jpj-act.html

 環境保護、森林保護、熱帯雨林保護、良心の自由、人権闘争、死刑反対、盗聴法反対など、人間を天主の地位に上げるようなことは力を尽くしていることは分かる。人間は天主のように高められている。


 だが、その反対に、天主である私たちの主イエズス・キリストを単なる人間に貶めることについては、無関心なのではないか、と私は畏れる。


 日本のカトリック教会の指導層は、私たちの主イエズス・キリストの名誉のためには、何も動かないかもしれないと畏れる。もしも私たちの主イエズス・キリストの御聖体が粗末に扱われているなら、映画において私たちの主イエズス・キリストが侮辱されていても心を動かさないかもしれない、と畏れる。これが空しい虞であることを祈る。


 では、私たちは何をしたらよいのだろうか?


 天主の御母聖マリア、マグダラの聖なる痛悔女マリア、私たちの主イエズス・キリストの十字架の下に佇もう。イエズス・キリストの側に立ち、天主に祈ろう。またベロニカのように、償いの布をイエズス・キリストに捧げよう。


 私たちは映画『ダ・ヴィンチ・コード』を制作した SONY に対して憎しみを抱くものではない。しかしこの小説と映画はあまりにも反キリスト教的なものであるので、私たちは決してこれを見ないようにしよう。その時間とお金があれば、私たちはダ・ヴィンチ・コードでなされる多くの冒涜に対して罪の償いを果たそう。特に私たちの愛する同胞である日本の兄弟姉妹の方々が、その巧妙に提示された虚偽に騙されることのないように祈ろう。

 



 兄弟姉妹の皆様、ダ・ヴィンチ・コードの冒涜の償いのために多くの祈りをお願いいたします。日本の司教様や教会の指導者の方々のためにお祈りをお願いします。

 天主の御母聖マリアよ、我等のために祈り給え!




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ダ・ヴィンチ・コードに対する世界のカトリック教会の動き

2006年05月16日 | ダ・ヴィンチ・コード、ここがおかしい

アヴェ・マリア!



 私たちの主イエズス・キリストが冒涜されている映画や小説、例えばダ・ヴィンチ・コードがベストセラーになっている今、日本のカトリック教会の指導者たちが何か行動を起こされることを期待している。


 アリンゼ枢機卿はキリスト者らに、ダ・ヴィンチ・コードに反対して行動を起こさなければならない、と要請している。


 報道によればアリンゼ枢機卿は「キリスト者は、椅子に座って何もせずに「赦し忘れる」だけで充分だとは言ってはならない。政治的な行動を取ることも時には私たちの義務である」と言った。


「キリストを冒涜し、それをよしとする人々は、キリスト者が自分たちを侮辱する人々を赦し愛するということを乱用している。」

http://news.bbc.co.uk/2/hi/entertainment/4750283.stm
http://www.sabcnews.com/world/europe/0,2172,126503,00.html



 えっ? 司教様たちはお忙しいから、そのような時間はない? では人権問題や正義の問題でいつも口うるさく騒ぐ「カトリック正義と平和協議会」(略称・「正平協」)ならが、私たちの主イエズス・キリストの天主の権利と、尊厳と正義が踏みにじられているのだから、何か行動を起こしても良いのではないだろうか?


 外国人の指紋押捺は外国人を犯罪予備軍と見るものだから人間の尊厳に反している、として闘う司祭たちもいたではないか。イエズス・キリストとカトリック教会とを歴史の歪曲者として犯罪者として取り扱うダ・ヴィンチ・コードに対して、声を挙げても良いのではないか? 


(ちなみにいうと、外国人の指紋押捺は外国人を犯罪予備軍と見るものだから人間の尊厳に反している、のが本当なら、家に鍵をかけるのも、パソコンにパスワードを設定するのも、他人を犯罪予備軍と見るものではないか? フィリピンでは私は外国人だが、ビザを取るために十本の指のそれぞれの指紋を採られた。私は喜んで指紋をつけてあげた。人間の尊厳に反している? ばかばかしい。)



 また「宗教者九条の和」の団体に所属し、日本国憲法第九条のためなら時間も労力も惜しまないという司教様たちなら、私たちの主イエズス・キリストのためなら少しは時間が取れるのではないか?


 靖国神社公式参拝に対する抗議・要請・遺憾表明、「つくる会教科書」不採択要請、盗聴法反対、日の丸君が代国旗国歌法制化反対などに積極的に活動し、アクティヴィストとして動いておられるのならば、私たちの主イエズス・キリストとカトリック教会の名誉のために少しは活動する時間があるのではないだろうか?


 私たちは彼らが「つくる会教科書」不採択要請のために電話で攻撃するようにアジテーションしていたのをよく覚えている。


 日本カトリック司教協議会の正平協の担当司教様は、2001年2月20日付で各ミッション系の学長・学校長・園長宛に「日の丸・君が代・元号」の使用に反対するための要請文書を送っておられる。さらにまた、2001年3月27日付で内閣総理大臣・保守党党首・公明党代表・文部科学大臣宛に「つくる会教科書」不採択の要請文書を送っておられる。


 ダ・ヴィンチ・コードを上映する映画館、それを売る書店に抗議・要請・遺憾表明などを書くぐらい何でもなさそうだけれど。


 日本カトリック司教協議会の正平協担当司教様は、各ミッション系の学長・学校長・園長宛に「ダ・ヴィンチ・コード」に反対するための要請文書を送って下さっても良さそうだ。特に何も知らない日本の青少年にとってこの小説と映画を悪影響を及ぼすことは必須だからだ。


 ダン・ブラウンは巻頭で「芸術作品、建築物、文書、秘密儀式に関する記述は、すべて事実に基づいている」と言っているのだ。そして私たちの主イエズス・キリストの天主性を否定しているのだから。



 それとも、日本の司教様たちにとって私たちの主イエズス・キリストとカトリック教会の名誉などはどうでもよいのだろうか? 私はそうは思いたくない。



 私は一年ほど前から、ダ・ヴィンチ・コードについて話を聞きながら、何も行動を今まで起こさなかった。反省している。最初は無視したけれども、もう無視できない所まできている。


 おそらく、日本では、ダ・ヴィンチ・コードを本気で読んでいるかたが多くあるのではないだろうか。本当はフィクションなのだけれど。本当は、いわゆる「トンデモ本」なのだけれど! リトル・ペブルの時もそうだった。リトル・ペブルの嘘やペテンが暴かれても、未だに信じている犠牲者は多い。ダ・ヴィンチ・コードも科学的に証明されて、嘘だ、詐欺だ、いかさまだ、と後でいわれても、それを信じてしまった後には、かなりの人がそれを盲信し続けてしまうのではないだろうか。


 世界ではどんなことをやっているのだろうか?


 スコットランドでは、カトリック教会はダ・ヴィンチ・コードに対抗するビデオ・ディスク(DVD)を作った。教会はダン・ブラウンの小説を「記念碑的なナンセンス」と評価した。このDVDは、ダ・ヴィンチ・コードの「神話」のマスクを剥がし、六〇のカトリック校と五〇〇の小教区に送られる。グラスゴウ大学の英文学教授パトリック・レイリーは、この中でダ・ヴィンチ・コードはキリスト教にとって危険な不正確な記載が多く含まれていると指摘する。


 パトリック・レイリー教授はダン・ブラウンの小説は全く歴史的根拠がなく、語られる「事実」は虚偽である、と説明する。

 オプス・デイは、ソニー株式会社に抗議を送り、これにフィクションということを明確にさせるように要求している。


「この映画はフィクションであり、現実を想定させるものが万一あったとしてもそれは、単なる偶然にすぎません」という内容の声明をSonyが映画の始めに入れることで、「キリストの姿や教会の歴史、視聴者の宗教的信条に敬意をあらわすことができると考える」としている。


 フィリピンでは、ダ・ヴィンチ・コードは上映が延期されるようだ。


 カトリック司祭で聖書専門家のレジノ・コルテスは、"The Da Vinci Code: An Exegetical Review" (ダ・ヴィンチ・コード:聖書解釈学的再検討)という本を出版した。


 ローマでは、四月一四日、聖金曜日にカンタラメッサ神父は聖ペトロ大聖堂で説教中に、ダ・ヴィンチ・コードとユダの福音を批判した。


 教理聖省の秘書アンジェロ・アマト司教(サレジオ会)は、四月二八日に映画ダ・ヴィンチ・コードをボイコットするように訴えた。これは「讒言と、攻撃と、歴史的・神学的誤謬に満ちたものだ」と非難した。


http://www.dici.org/actualite_read.php?id=1249&loc=fr



 司教様たちには、是非バチカンからのこの要請に応えてもらいたい。

 




 兄弟姉妹の皆様、ダ・ヴィンチ・コードの冒涜の償いのために多くの祈りをお願いいたします。日本の司教様や教会の指導者の方々のためにお祈りをお願いします。

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