Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

私は御身を信じ、礼拝し、希望し、御身を愛します!御身を信じぬ人々、希望せず愛さぬ人々のために、赦しを求めます(天使の祈)

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
2018年 11月の聖伝のミサの予定
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】


11月
死者の月です。煉獄の霊魂たちのために祈りましょう。死について黙想しましょう。
意向:死せる信者のため、よき死を迎えるため
実践すべき徳:祈り
守護の聖人:聖アンドレア

愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)にご招待します

◎2018年 11月の予定
【大阪】聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂(アクセス EG新御堂4階 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 〒532-0002
(JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分)

    11月2日(初金)全ての死せる信徒の記念(1級)黒
            午後4時半~ ミサ聖祭を2回捧げます ←追加されました 
            午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

    11月3日(初土)聖母の土曜日(4級)白
            午前10時 ロザリオ及び告解
            午前10時半 ミサ聖祭(歌ミサ)

    11月6日(火)聖霊降臨後の平日(4級)緑
            午後5時半 ロザリオ及び告解 
            午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

    11月7日(水)聖霊降臨後の平日(4級)緑
            午前6時半 ミサ聖祭

    11月11日(主)聖霊降臨後第25主日(2級)緑(御公現後第5主日)
            午後5時半 ロザリオ及び告解 
            午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

    11月23日(金)殉教者教皇聖クレメンテ1世(3級祝日)赤
            午前10時 ロザリオ及び告解
            午前10時半 ミサ聖祭(歌ミサ)

    11月24日(土)教会博士証聖者十字架の聖ヨハネ(3級祝日)白
            午前10時 ロザリオ及び告解
            午前10時半 ミサ聖祭(歌ミサ)

    11月30日(金)使徒聖アンドレア(2級祝日)赤
            午後4時半 ミサ聖祭(読誦ミサ) 
            午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

【東京】東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図) 「聖なる日本の殉教者巡回聖堂」
    10月22日(月) 聖霊降臨後の平日(4級)緑
            午前7時 ミサ聖祭

    11月4日(主) 聖霊降臨後第24主日(2級)緑(御公現後第4主日) 
            午前10時  ロザリオ及び告解
            午前10時半  ミサ聖祭(歌ミサ)

    11月5日(月) 聖霊降臨後の平日(4級)緑
            午前7時 ミサ聖祭

    11月25日(主) 聖霊降臨後第27主日(2級)緑(聖霊降臨後第24主日) 
            午前10時  ロザリオ及び告解
            午前10時半  ミサ聖祭(歌ミサ)

愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております。

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「天主のみ旨は、あなたたちが聖となることにある」:聖ピオ十世会司祭 ワリエ神父様

2018年02月28日 | お説教・霊的講話
四旬節第二主日の説教 
聖ピオ十世会司祭 ブノワ・ワリエ神父様


「天主のみ旨は、あなたたちが聖となることにある」(テサロニケ前書4章3節)
これは、本日の書簡にある聖パウロの言葉です。
私たちは聖人になることを望まなければなりません。

第一に、恩寵の必要性について考えてみましょう。
主は、「私がいないと、あなたたちには何一つできぬ」(ヨハネ15章5節)と言われ、それに加えて「あなたたちが私を選んだのではなく、私があなたたちを選んだ」(ヨハネ15章16節)と言われました。これは、恩寵が何よりも優先することを示しています。
エフェゾ人への書簡において、聖パウロは「天主は、罪のために死んでいた私たちでさえも愛してくださった」(エフェゾ2章5節)と言っています。
また、フィリッピ人に対して「恐れおののいて自分の救いをまっとうせよ。あなたたちの中で、望ませ、行わせ、み旨のままになさるのは天主である」(フィリッピ2章12-13節)と言っています。
ですから、救いのためには恩寵が絶対に必要です。

でも、私たちは、どのようにすれば恩寵を得るようになるのでしょうか? 祈ることが必要です。
トレント公会議は、こう宣言しました。「天主は不可能なことを命令しない。天主はあなたができることを行い、できないことは乞い求めるようにと勧め、あなたができるように助ける」(デンツィンガー1536)。
また、さらに「天主は誰にも負うべきものがないため、われわれの願いを達成するために必要な手段として天主が祈りを制定したからには、われわれは必要とするそれらのものを、祈りによって天主に乞い求めなければならない」と言っています。
例えば、自分の身分の義務を果たし、誘惑に打ち勝つ剛毅の恩寵を得るために、私たちは祈らなければなりません。

第三に、祈りの精神です。
「うまずたゆまず祈れ」(ルカ18章1節)と、主は聖ルカ福音書の中で言われます。
祈りは呼吸のようなものです。祈りを続け、それをやめてはなりません。生き続けるための、すなわち大罪を犯さないための唯一の方法は、祈りです。それが天主のご計画です。私たちは祈らなければなりません。もっと祈らなければなりません。ひざまずいて、忍耐強く祈らなければなりません。
私たちは祈らなければなりませんが、これは単に声に出して祈りを唱えるのではありません。
私たちには祈りの精神が必要です。本日の入祭誦において、私たちは次の言葉を聞いたところです。「御身にわが霊魂を上げ奉る」。
私たちは、「霊と真理をもって」(ヨハネ4章23節)祈らなければなりません。トレント公会議は、「祈りが内的な強い熱意を持った霊魂から出るように祈る」と言っています。
ちょうどタボル山の主のようです。「主は祈ろうと山に登られた」(ルカ9章28節)と聖ルカは言います。

これをまとめていうならば、聖パウロの「天主のみ旨は、あなたたちが聖となることにある」という言葉を思い起こしましょう。
聖人になるために私たちには恩寵が必要であり、私たちが恩寵を得る唯一の方法は祈りです。
私たちの良き御母が、地上では天主の恩寵を、天国では天主の永遠の至福直観を獲得するため、どのように祈り、どのように祈りの精神を獲得するかを教えてくださいますように。アーメン。


【英語原文】

“This is the will of God : your sanctification”. These are the words of Saint Paul in today's Epistle.
We must want to become saints.

Let us 1st consider the necessity of grace.
The Lord said: “Without Me you can do nothing” and He added: “You have not chosen me; I have chosen you”. This shows the primacy of grace.
In his Epistle to the Ephesians, St Paul says: “God has loved us even we were dead that reason of our sins”.
And to the Philippians: “Work out your salvation with fear and trembling, for it is God who, of his good pleasure, works in you both the will and the performance”.
So, grace is absolutely necessary for salvation.

But how are we going to obtain grace? We need to pray.
The Council of Trent has declared: “God does not command the impossible; He warns you to do what you can, and to ask what you cannot; and He helps so that you can”.
And further: “Since God owes nothing to anyone, we must ask Him in prayer those things we need, seeing that He has constituted prayer as a necessary means for the accomplishments of our desires”.
For instance, in order to obtain the grace of strength to do our duty of state, to overcome temptations, we need to pray.

Thirdly, the spirit of prayer.
"We ought to pray always" says Our Lord in St. Luke's Gospel.
Prayer is like breathing: it must be continued and remain uninterrupted. The only way to remain alive, that is not to sin mortally, is prayer. That's God's plan. We have to pray. To pray more. To pray on our knees, with perseverance.
We must pray, that is, we must not just recite prayers.
We need the spirit of prayer. In the Introit, we have heard these words sung: To Thee have I lifted up my soul".
We must pray "in spirit and in truth". The Council of Trent says: "He prays in this manner whose prayer proceeds from an interior and intense ardour of soul".
Just like Our Lord on Mount Tabor. "He went up the mountain to pray", St. Luke says.

To sum up, let us remember the words of Saint Paul: "This is the will of God: for sanctification".
We need grace to become saints and the only way for us to obtain grace is prayer.
May our good Mother teach us how to pray and obtain the spirit, so as to obtain God's grace on earth and the everlasting vision of God in heaven. Amen.
コメント

2017年12月1日(初金) 説教  「イエズス様の聖心の願い」を黙想する

2018年02月27日 | お説教・霊的講話
2017年12月1日(初金)至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ
小野田神父 説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。

今日は2017年12月1日、初金のイエズスの聖心のミサを捧げています。いつもの通り今日のミサの直後には聖時間をお捧げ致しましょう。

明日の予定ですが、明日は初土曜日です、ぜひ皆さんには初土の信心をして頂きたいと思っています。なぜかというと、マリア様は初土の信心をなさった方には、「私はその人の救霊を約束する」と言われたからです。

またそれと同時に明日は、待降節の第1主日の前日の土曜日でもあります。それで2010年の待降節の第1主日のその前の土曜日に、ベネディクト十六世が呼びかけた、「堕胎が世界中から無くなりますように」という意向で、「その夜、イエズス様の御誕生を待ち望みながら、特にその夜、お祈りの集いを世界中で設けるように」という事を推進して招待して、そしてそれをするように皆に呼びかけたのを受けて、世界中で特にフランスではそれをやる事が始まりました。

私たちも特に日本で堕胎が無くなりますように、日本の人口はこれからますます減って、このままでいくと、もう子供の日は無くなってしまう、何年後かには子供の日が無くなってしまうというほど、どんどん人口が減っています。神父様になる人もいなくなってしまいます、修道士になる人もいなくなってしまう、天国に行く子供たちもいなくなってしまう。そこでぜひこの子供に対する戦争が終わりますように、公教要理の時間の代わりに、皆さんたちと特に子供の堕胎が終わりますように、教会の意向に合わせて、祈りの集いをしたいと思います。

また緊急のお願いが、聖ピオ十世会のコロンビアのボゴタの修道院長の神父様からメッセージを受けて、「今コロンビアでは、共産主義がコロンビアを今変えようとしている。この最後の手段しかない、ぜひお祈りをお願いしたい、ロザリオのお祈りをお願いしたい」と緊急の呼びかけをも受けました。そこでお祈りの招きに応える為にもコロンビアの為にも、それをお捧げしたいと思います。

レネー神父様は来年の2月付で、オーストラリアのタイノンという学校の聖トマス・アクィナスカレッジの校長先生に任命されました。そこで、今までレネー神父様が大阪では第2主日の夜、主日のミサに来て下さっていたのですけれども、もう今度のクリスマスで最後になります。もしも私たちが初金・初土曜日のミサをする事ができるのも、これはレネー神父様の提案のおかげであって、もしも大阪で主日のミサがあるとしたら、それはレネー神父様がその難しいミッションを快く引き受けて下さったからです。

私たちはレネー神父様に本当に感謝しています。そこで霊的花束をお捧げしたいと思っています。レネー神父様の為に、皆さんの寛大な祈りと犠牲をお願いします。その霊的な花束のカードは入り口に置いてあります。どうぞ皆さん良い、レネー神父様の寛大さに負けないほどの寛大さで、たくさんのお祈りをレネー神父様にお捧げして下さい。聖なる私たちの敬愛する神父様ですから、感謝を込めてどうぞお願い致します。

来年の1月の初土曜日は、皆さんに提案したいと思います。日本の平和の為にも、緊急にファチマのマリア様に、聖母の汚れなき御心に、日本の平和の為にお祈りをしたいと思っています。

北朝鮮はミサイルをどんどん打ちますし、これからこの世の中が新しい年になってどのようになるか分かりません。マリア様の汚れなき御心に対してロシアの奉献がなされないでいる限り、おそらくこの世界はますますきな臭く、あるいは暗闇の方に進んで行ってしまうのではないかと思います。それでぜひその私たちは、避難所であるマリア様の汚れなき御心に助けを求めたいと思っています。

そこで突然と思われるかもしれませんけれども、今の世界情勢を見ると、マリア様にお祈りをする他は私たちに残された道はないと、これこそが最高の道であると思うので、1月の初土には特別に、新年早々マリア様の聖母行列をしたい、マリア様に対する特別の信心を行いたいと思っています。どうぞ皆さん初土曜日にいらして下さい。多くの方が参加する事ができるようにお友達も招いて下さい。

レネー神父様の代わりに、今シンガポールから司祭が来て下さるようにお願いしています。一体どの方が代わりに来て下さるのか詳しくは分かりません。そこで最初の1月、あるいは2月の第2主日のミサがどうしても司祭が足りなくて、皆さんには辛い思いをさせてしまうかもしれませんが、どうぞご了承下さい。早く代わりの神父様が見つかりますように、その為にもマリア様にたくさんのお祈りをお願い致します。



聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、お知らせがあまりにも長くなりましたが、少しだけイエズス様の聖心の願いを黙想するのを許して下さい。

イエズス様の聖心は一体、私たちに何を求めているのでしょうか?21世紀の私たちにどんな望みがあるのでしょうか?どうしたらイエズス様の聖心をますます愛する事ができて、イエズス様の聖心をお喜ばせする事ができるのでしょうか?イエズス様は私たちが何をすると最も喜ぶのでしょうか?

ファチマのシスタールチアにイエズス様は現れて仰いました、「私の母、汚れなき御心への信心を求めている。5回の初土曜日にこの信心をする事を求める。」

なぜ5回かというと、その第1の理由は、「マリア様の無原罪の御宿りに対して犯される罪を償う為だ」と仰いました。

イエズス様の聖心にとって、マリア様の無原罪の御宿りの玄義というのは非常に大切な玄義です、神秘です。そこでイエズス様の聖心の望みを叶える為にも、そしてマリア様の御心に対する信心をする為にも、この来たるべき無原罪の御宿りについて、私たちは理解を深めていく事に致しましょう。

これはシュテーリン神父様が私たちにちょっと話して下さった事ですけれども、東方教会では、特にカトリックに帰一した東方教会、東方典礼の教会では、例えばウクライナには、聖ピオ十世会と一緒に共同して聖伝を守っている東方典礼の修道会があります。そこでの出来事などを体験を、私たちに語ってくれた事があるのですけれども、私たちはもちろん無原罪の御宿りを信じています、このドグマを信じています。そしてその為にノベナもします。聖ピオ十世教皇様がきれいなノベナを作って下さいました。そして私たちもロザリオの時にそれを唱えました。

でも東方典礼の方では、離教の、カトリックに帰一していない東方典礼の人々は東方教会の人々は、教皇様のドグマを、ピオ九世教皇様が発表したドグマを信じようとしません。そこで無原罪の御宿りは信仰のドグマではなくて、自由な意見としてしか、信じても信じなくて良いとされています。

そこでカトリックに帰一した東方典礼の人々は、ノベナを唱えて、普通のノベナは教会の中でします。しかし無原罪の御宿りのノベナは教会の外に出て、そしてこのマリア様に関係する御像の方に行列で聖母行列をして、そして御説教をするのです、お祈りをして御説教があるのです。

ある時ウクライナにいる聖伝の東方典礼の神父様が「今日からノベナがある。」と言いました。シュテーリン神父様は「あ、分かりました。じゃあノベナに与ります。」と答えたそうです。

夕方のノベナでした。「ノベナがある」と言ったら、そのノベナが3時間続いたのです。1回が3時間、毎日続いたそうです。聖母行列をしてマリア様の御像の前に行くと、1人の神父様が御説教をします、「無原罪の御宿りはこうだ!」と。

その後でまた行列があって、また別の御像に行って、別の神父様が「無原罪の御宿りはこうだ!」とお話しします。

それが終わるとまた聖母行列をして、別のマリア様の御像の前に行って、別の神父様が「無原罪の御宿りはこうだ!本当だ!聖母マリア様はこうだ!」と話をして、5つのマリア様の御像を回るのです、それが1日目です。

そのようなのを9日間繰り返す、「それが東方典礼だ。そしてもしもマリア様の事を侮辱するような事があったら、その人のもしかしたら命は無いかもしれない」と、それほどの熱烈な情熱で、その「聖母の無原罪の聖母の御宿りを祝う!」とのことでした。

私たちもそれほどの熱烈なマリア様への愛があったら、イエズス様の聖心はどれほどお喜びになる事でしょうか。

なぜかというと、無原罪の御宿りのその最初の瞬間から、三位一体はマリア様の御霊魂を占領してしまったからです。罪の汚れのないマリア様と三位一体は、全く一致してしまったからです。もちろんマリア様が天主となったわけではありませんが、マリア様は罪の汚れがなかったので、お恵みを全て100%そのまま受ける事ができたからです。

天主聖父はマリア様に愛の激流を、その御受胎の瞬間から与えました。マリア様の霊魂はそれを全て受け入れました。聖子も、マリア様に愛の激流を与えました。そして将来の母として、マリア様に特別の愛を注がれました。マリア様はそれを受け入れました。天主聖霊はマリア様を、将来御子を宿すべき、生きる御聖櫃の準備として、マリア様に特別の準備をしました、将来の聖霊の花嫁として。マリア様はそれを全て受け入れました。

ですから聖人たちは、あるいは神学者たちは、「マリア様の霊魂は、三位一体と全く一致していた」と言います。無原罪の御宿りのそのお恵みの結果です。ですからマリア様が聖霊に満たされて、御訪問の時に聖エリザベトの前で歌を歌いました。その時に、「私」は主を崇めるとは言わずに、「我が霊魂」は主を崇め奉る、主を偉大なものと讃え奉ると言いました。なぜかというと、これはマリア様の霊魂というのはすなわち、三位一体の息吹きに満たされたものであったからです。ですから聖人たちは、「これは、マリア様の口を通して出された、三位一体の歌である」と言います。イエズス様の聖心の歌であって、聖霊の歌であって、聖父の歌であります。

マリア様は、「主を崇め奉る」と言い、そして「主を偉大なものとする」マニフィカト、マリア様の霊魂は、「主を偉大なものとする」と言いましたが、これはつまり、「何よりも主を、天主を優先させる」という事です。これは「何よりも天主の聖名を非常に大切なものとする。聖なるものとする」という事です。「何よりもまず天主の御旨を自分の考えよりも大切なものとして、それを優先させる」という事です。「何よりも天主の栄光と天主の御国を最優先させる」という事です。

それにひきかえ私たちは、どれほど天主の聖名よりも、自分の都合や、天主の御旨よりも自分のやりたい放題や、あるいは自分のわがままや、あるいは欲望のままにしてきた事でしょうか。マリア様は全てを主が栄光を受けるようにしてきましたが、そしてその事を歌いますけれども、私たちはどれほどマリア様の霊魂から離れている事でしょうか。

では、私たちはイエズス様の聖心をますます讃美する為に、ますますお喜ばせする為に、イエズス様の聖心の大傑作であるマリア様の汚れなき御心を、マリア様の霊魂を讃美致しましょう。そしてマリア様と共に主を讃美して、私たちではなく主の御旨と、主の聖名と、その御国がよりよく大切にされるように、優先されますように、マリア様の御心の御助けを乞い求めましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
コメント

2017年11月19日(主) 説教  「天の国の芥子種とパン種」を黙想する

2018年02月26日 | お説教・霊的講話
2017年11月19日(主日)聖霊降臨後第24主日のミサ
小野田神父 説教


聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。

今日は2017年11月19日、聖霊降臨後第24主日です。今日のミサの書簡と福音書は、御公現の後の第6主日のところから取られています。少し内容がイレギュラーなのでご注意下さい。

今日はこのミサの後に、いつもの通り公教要理を14時から開始、そして晩課を16時から捧げたいと思っています。14時からの公教要理は、ぜひ来たる12月2日の初土曜日をよく黙想する為に、御告げの神秘を黙想する事をテーマを提案したいと思っています。

今回は御訪問の玄義を提案したいと思います。そして先週提案した御告げの玄義と、御訪問の玄義をフラ・アンジェリコが黙想の結果を絵で描いています。この絵はフィレンツェにあるのですけれども、視覚教材を準備しましたのでそれを見ながら、今度の初土の黙想の為に良い準備をする事を提案します。

明日は7時からここでミサがあります。

12月のミサですが、とても嬉しいニュースがあります。それはレネー神父様が日本で休暇を取られるからです。去年お母様が亡くなられたのでもうフランスに帰る必要はない、日本で休暇を取ることになられ、日本では御ミサがたくさん捧げられる事ができるようになりました。感謝します。

東京では12月3日・最初の主日と、第2主日はとぶのですが、第3・17日、第4・24日、クリスマスとミサがあります。どうぞミサに与るようになさって下さい。特にレネー神父様は、聖ピオ十世会の頭脳であり、アメリカの管区長をなさり、オーストラリアの管区長もなさり、本部のメンツィンゲンでは財務長をされて、非常に優秀な方がこうやって私たちの所に来られるというのは、その敬愛する神父様が来られて、ミサを捧げて下さるというのは本当に嬉しい事です。本当にめったにない機会ですので、ぜひいらして下さる事を、どうぞお友達もたくさん呼んでミサに与るようになさって下さい。するとレネー神父様は、「あぁ、東京ではこんなにもミサに与る人があるのならば、もっと東京でミサをするように管区長に言わなければならない」と仰るかもしれません。



“Simile est regnum coelorum grano sinapis.”
「天の国は、芥子種と例えられる。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、イエズス様は今日、典礼歴の最後において、あたかも私たちの良心の究明をするかのように、あるいはカトリック教会の歴史の全体を眺めて、私たちの役割は何か、という事を確認するかのように、「天の国は芥子種のようだ。」そして、「また天の国はパン種のようだ。パンを全体を膨らませるちょっとした要素のようだ」と言っています。

そこで今日私たちはこのその2つの要素について黙想して、一体どんな特徴があるのか?

そして私たちは、このイエズス様は今日、聖霊降臨後最後の主日となろうとしている今、もうすぐ新しい典礼暦の新年を迎えようとする今、一体私たちに何を求めておられるのか?

そして最後に、では私たちはどのような遷善の決心を立てたら良いか、という事を黙想したいと思います。

まず「芥子種」というのは、皆さんもよくご存知のように、目に見える事ができないようなゴマよりも非常に小さい、もうホコリのような小さな種なのです。ところで、「この小さな、もうフッと飛べば無くなって見えないようなこんな種でも、それは大きな大木となって、空の鳥をも宿す事ができて、嵐が吹いてもびくともしないような巨木になる事ができる、その力を秘めている。その為にこの種がある」という事を教えています。

そして今日聖パウロの書簡では、「すでにその『福音』という、この小さな芥子種のような、目に見えないようなものが多くの人々に知られている、こんなに早く成長している」という事を喜んで、感謝しています。

「パン種」というのも同じです。パン種というのも、最初はイースト菌の本当にもうほんのちょっとしたものをパンの生地に入れると、それが全体に行っておいしいパンになって、ふかふかとしたパンになる。そのちょっとしたものが全体に効果を及ぼして、全体を変えてしまう、良くする、という事です。

そしてこの2つの要素を見ると、共通したところが、最初は弱々しい、か弱い、力の無いようなスタートだけれども、実は大きな力を秘めていて、ものすごいパワーを持っていて、大きなもの、とてつもなく大きなものを持っていて、多くの善を施す事ができるようになって、その天界の王者のようなものでさえも、そのそこに保護を求めるようにさえなる。この「最初は小さいけれども、とてつもない力を秘めている。大きなものとなる」という事です。

第2の点は、ただ弱々しいだけでなく、隠れている目に見えないほどのもので、しかも最初は土の中に入ったり、あるいはこのパンの生地の中に入って、内部に入るのだけれども、それを浸透させて全体に影響を、良い影響を及ぼすという事です。

まさに天主の御国、キリスト教もこれと同じ働きをしてきました。私たち個人も変えて、あるいは家庭も変えて、あるいは国家も、民族も、キリストの教えによって大変化をさせました。「この地の表は、本当に全く新たにならん」と言った、それが実現しました。

「例えばどんなものがありますか?」

例えば、残酷で人を人とも思わないであった古代の奴隷制度というのは、カトリック教会の力によって廃止されました。残念ながら近代になって、プロテスタントの発生と共に、この奴隷制度がまた別の形で作られつつありますけれども、しかしカトリック教会はこれを絶滅しようと力を尽くしました。

女性の大切さ、子供の大切さというのも、カトリック教会が非常に注意を払ってきたものです。子供への教育、「子供たちをイエズス様の方に行くのを決して妨げてはいけない。」「女性はとても男性と等しく救いの為に価値があるものであって、そしてマリア様を見よ。」古代の不潔や、あるいは女性を蔑視した、あるいは弱い者を蔑視した時代を教会は多く変えました。

あるいは残酷に弱い者いじめをしていた古代の異教の世界は、かえって弱い者を助け、福祉をし、養老院を作り、孤児院を作り、病院を作り、そして学校を作り、教育を施し、しかもできるだけそれを無償で、しかも全世界にそれを広げたいと思っていました。

これらを見ると、イエズス様は私たちに同じ事をこれを続けるようにと求めている事が分かります。私たちはイエズス様からこの天の御国を、最初は見えないような小さな始まりだったのが、ますます全世界に、21世紀のこの世界にもますます浸透するように、私たちに呼びかけをしています。

では、どんな呼びかけなのでしょうか?

第2のポイントは、これは私たちがパンの生地の中に入る、パン種となる、つまりこの世を良い、イエズス・キリストの御国の到来の為にこの世を良くさせる、この世を聖化させるカトリックである、という事です。私たちがもちろん、主日はミサに来る事によって。そして主日以外にも、私たちの日常の生活によって、いつもどのようなところでも、どんな場所でも、どのような時間でも、カトリック精神と信仰に生きる事によって、この世を聖化するという事です。

私たちが働く時も、私たちが休む時にも、あるいは私たちが苦しむ時にも、あるいは私たちが何か考える時にも、私たちが何か言葉を言う時にも、いつもカトリック信者として、イエズス・キリストの御旨を実行する為に話すという事です。つまりリベラルではないという事です。

リベラルな人は、「あぁ、教会の時は教会用の話。でももしもカトリックが政治家になったら、政治家としては別の話をする」のではなく、「私は教会に行けばカトリックだけれども、仕事に行く時にはビジネスマンとして、別の倫理と道徳によって生きる」のではなく、「常にカトリックとして生活する」という事です。

すると私たちの今年の生活は一体どうだったのでしょうか?私たちはいつも、イエズス様が私たちに御望みのように生活したでしょうか?特に私たちはイエズス様の御聖体を御体を頂いて、あたかもそれが私たちの中のパン種のようになっているのですから、そのイエズス様の力が私たちの中にますます染み通って、そして私たちの行動や考えや雰囲気や言葉から、このイエズス様のそのパン種の力が周りの人々に伝わなければならないのですけれども、ちゃんとそのイエズス様の力を周りの人に伝わるように、妨害を置かなかっただろうか?と。

もう1つの点は、イエズス様の御国はますます大きな木となって、大木となって広がらなければならない。確かに最初はカタコンベで隠れていた教会も、聖フランシスコ・ザヴェリオによって日本に伝えられて、インドに伝えられて、そしてイエズス会の司祭によって中国の皇帝のもとにまで行って、あるいはアメリカ大陸にまで行って、多くの方が洗礼の恵みを受けて、キリスト教の生活に従った生活を送っていった、霊魂を救っていった、その歴史があります。

天主の敵はこれを壊そうと、命を破壊しようと、キリスト教文明を破壊しようと、色々な手を下してきました。例えばフランス革命、あるいはロシアのボリシェヴィキ革命など。主の望むような世界を壊そうとします。

しかし私たちは、革命家の方ではなくて、むしろイエズス様の御国を拡張しよう、霊魂を救おう、霊魂を救う事によって主の栄光をますますいや増やそう、とする側に立たなければなりません、そこに立っています。そしてその為に私たちは特別の義務を負っています。愛徳と、憐れみと、そして許しと、イエズス・キリストの精神を私たちが他の人々に及ぼすという義務です。そしてイエズス様は神秘体の頭として、私たちを手足として使いたいと思っておられます、多くの霊魂を救う為に。

ピオ十二世教皇様によると、「天主の御摂理は非常に神秘的であって、私たちの隣人の永遠の命が滅びるか、あるいは救われるかは、私たちの活動と祈りと犠牲にかかるようにされた。私たちが熱烈にイエズス様の救いの業に協力すればするほど、多くの霊魂は救われるし、しかし怠ければ、あるいは冷淡であれば、救われない、永遠に滅びてしまう。私たちの手にかかっている」と。

もしも40年間、地上の地獄の監獄の国家であるような閉じ込められた国、刑務所の国であるような北朝鮮に拉致された日本の若い女の子が、40年間も拉致されて、もしも私の力によってそれを助ける事ができるとしたならば、どうしてその力を使わずに助けてあげようと思わない事でしょうか。もしもそうしたら、その子も、お父さんもお母さんも、どれほどその助けて下さったという事に感謝する事でしょうか。

しかしイエズス様は私たちの手に、永遠の、地獄からの救いの力を、私たちの祈りと犠牲とこの手に委ねてくれました。それはイエズス様の力が不足しているから弱いからではなくて、私たちに、「よくやった!」その栄光の冠を与えたい、その褒美を与えたい、と思ったからです。悪魔の力によって拉致されたこの霊魂たちを私たちは救った、と永遠の報奨を私たちに与えたいと思うからです。

「何千何万という霊魂の救いが、私たちの手にかかっている」という事をピオ十二世教皇様が教えています、「これは神父様とか修道女の仕事だけでなく、すべての人々の祈りと犠牲に委ねられている」と教えています。

そこで、聖フランシスコ・ザヴェリオ、幼きイエズスの聖テレジア、あるいはアシジの聖フランシスコ、あるいは聖ドミニコ、聖イグナチオなどが求めたと同じような熱烈な情熱をもって、「ぜひ私たちも霊魂の救いに協力したい、何とかイエズス様を知り、愛し、そしてイエズス様に仕えて、そして永遠の命を与えるように、何とかして手伝いたい」と私たちは思わざるを得ません。

「神父様、私はいつもそう思っていますよ。でも難しいんです。どうしたら良いでしょうか。」

そこで今日の最後の提案は、やはり私たちの救いを与えて下さったのは、私たちの救いの、この教会の天の国の最初のパン種、最初の芥子種の、最初は何だったかというと、マリア様が「我になれかし」と言った事から始まった、という事を思い出さざるを得ません。

もしもマリア様が「はい。私は苦しい事が起こるのを分かっています。はい。私には苦しみが待っています。しかし私は主の婢女です。仰せの如く我になれかし。」この「はい」と言ったこの言葉から、このパンが膨らみ出しましたし、木が大きくなり出しました。私たちの救いの為には、贖罪主を贖い主を頂く為には、マリア様という共贖者が必要でした。悲しみの人イエズス・キリストを得る為には、悲しみの御母Mater Dolorosaが必要でした。そしてマリア様はそれを、「はい。我になれかし」と受けて下さったのでした。

3月25日は私たちにとって、非常に歴史を変えた、人類の歴史の新しいスタートとなった決定的な日でした。この時にマリア様が「はい」と仰ったからこそ、私たちの今があるからです。

そしてこのマリア様はそれと同時に、私たちに招いています、「さぁ、どうぞ私の真似をして、マリア様の汚れなき御心を慰める為にも、マリア様の汚れなき御心に合わせて、あなたたちの祈りと犠牲を捧げなさい。多くの霊魂たちが地獄に落ちている。悪魔に拉致されて、永遠に帰って来る事ができない。イエズス様の所に来る事ができない。なぜかというと、誰も彼らの為に祈り、犠牲をする人がいないからだ」と。この世が贖われる為に、共贖者が必要です。私たちもその小さな共贖者となってほしい、とファチマでマリア様は訴えています。マリア様の真似をして下さい、と訴えています。

マリア様はその「はい」と言って、天主の御母となったその瞬間何をしたかというと、「あぁ、私は母となった、救い主の母となった。だからその黙想の為にこう家でじっとしている」というのではありませんでした。マリア様はいきなり立ち上がって、聖書によると、急いで山の方に行って、エリザベトを訪問しました。別に天使は「行きなさい」と言ったのではなく、ただ「エリザベトはこうですよ。さぁ天主の言葉に不可能な事はありませんよ」という信仰を固める為に言ったと思うのですけれども、マリア様にとって信仰を固める必要はなかったようです。それよりも、「あぁ、」天使の言葉を、あたかも救霊の為の招きとして理解されていました。

ですからすぐに行って、4日の道のりを行って、そしてエリザベトの家に入って挨拶をします。マリア様がそこにいらっしゃるだけで、マリア様が「こんにちは。平和がありますように。“シャローム”」と仰っただけで、エリザベトはその声を耳に聞いただけで、「あ!」胎内にいた6ヶ月の子供、洗者聖ヨハネは踊り、聖化されて、そして聖エリザベトは聖霊に満たされて、「あぁ、主の御母が私の所に来られるとは、何という事でしょうか!」と、マリア様が一体どなたであるか、マリア様に起こった事を言うようにさえなりました。マリア様は洗者聖ヨハネの聖化の、罪を赦す事さえもされたのです。そればかりでなくザカリアも、マリア様が3ヶ月居ただけで、聖霊に満たされて歌を歌うほどにもなりました。

私たちはもうマリア様の事を話すと、これで止まらなくなってしまいますから、ここでやめます。ですから私たちは今日、良きパン種として、良き天主の国が始まる芥子種の成長をますます助けるものとして、マリア様にますます一致をする事に致しましょう。マリア様にいつもお祈りなさって下さい、祈りと犠牲を捧げて下さい。マリア様の良き子供として、日々の生活を送りましょう。

そしてもしもできるならば時々、マリア様の話を、あるいはイエズス様の話を、お友達にしてあげて下さい。でもお話しをする前に必ずマリア様に、「マリア様、この方に話をするので、ぜひ良い知恵と力を下さい。良いお話をする事ができるように助けて下さい」と仰って下さい、お祈りされてから話して下さい。マリア様が一番好きな十字架のいけにえのもとに、どうぞお友達を知り合いの方を招いて来て下さい。そしてますます主の御国が発展するように、マリア様と共に、マリア様の良き道具となりますように、お祈り致しましょう。

“Simile est regnum coelorum grano sinapis.”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
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2017年11月18日(土) 説教  「聖ペトロ大聖堂と聖パウロ大聖堂の奉献」から「聖母のご訪問」を黙想する

2018年02月25日 | お説教・霊的講話
2017年11月18日(土)聖ペトロ大聖堂と聖パウロ大聖堂の奉献のミサ
小野田神父 説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。

今日は2017年11月18日、聖ペトロ大聖堂と聖パウロ大聖堂の献堂式の祝日を祝っています。今日このミサの後に、いつものように公教要理がありますが、今回は初土の信心をよく黙想する為に、特にロザリオの玄義をよく黙想する事ができるように、視覚教材を準備して、マリア様の御告げと御訪問の中世の絵画を見ながら、黙想の提案をしたいと思っています。



聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日入祭誦ではこう歌いました。
“Quam dilecta tabernacula tua, Domine virtutum! Concupiscit, et deficit anima mea in atria Domini.”
「主の幕屋は何と美しい事か。私の霊魂はそれを望み、それに待ち焦がれる。そしてそのあまりにも聖なる場所であるので、この場所はどれほど畏怖すべき所であるか。」

あるいは昇階誦では、「この場所は主によって作られたものであって、とても聖なる場所である」という言葉も歌いました。

そこで今日は、2つの聖なる大聖堂である聖ペトロ大聖堂と聖パウロ大聖堂、このローマの2つの聖堂について少しその歴史を垣間見た後に、この2つの聖堂はどうしても、その本質を最も実現させた御方にどうしても辿り着かざるを得ません。それはもちろん、イエズス様をご自分の胎内に宿してそれを、そして一緒に御生活されたマリア様です。
そこで、この生ける幕屋であり生ける聖堂であるマリア様について少し黙想した後に、
その結果、私たちは来たる初土に向けてどのような遷善の決心を立てなければならないかを提案したいと思っています。

第1の点は、今日の祝日の2つの聖堂です。すでにこの献堂式については11世紀に記録が残っています。11月18日に聖ペトロ大聖堂、このバチカンの聖ペトロ大聖堂の献堂式を祝う。ところでこれはどのように始まったのかというと、元々カトリック教会は迫害の時代から始まりました。残念ながらネロ皇帝は、キリスト教徒を迫害し出しました。しかし300年の後、ローマ皇帝コンスタンティノ大帝は、そのお母様の影響もあり、洗礼の恵みを受けるようになりました。

そして洗礼を受けた8日の後に、その感謝を込めて、聖ぺトロが殉教したそのバチカンの丘に行きました。そして聖ペトロの御墓のもとに行って、そこに跪いて祈りをしました。次に、皇帝の被っていた王冠を地面に置いて、涙を流してその洗礼のお恵みを感謝しました。祈りにふけっていたと思うや、いきなり「この聖ペトロにこの回心のお恵みを感謝したい」との意を表して、「袋を持ってくるように、籠を持ってくるように」と命じ、12の籠を持たせて、そして土を12の籠にいっぱいにして、「ここの所に聖ペトロの大聖堂を建てるのだ」と命じました。そしてそのそこから聖ペトロ大聖堂の建築が始まりました。

教皇聖シルヴェストロの時代がこの時に、この聖堂の完成を見て、そしてこの聖堂を聖別して天主に奉献式を献堂式をしました。その時に、今まであった聖ペトロが使ったといわれる木造のテーブルを、これからは石の祭壇にして、そして「今後教会では、もはや迫害が終わったのであるから、石で祭壇を作らなければならない、キリストを意味する石で祭壇を作らなければならない」として、そしてこの11月18日、今日、献堂式を行いました。
すでにその前には、聖ヨハネラテラノ大聖堂の献堂式があったのですけれども、それと同じようにしました。

後に同じく聖シルヴェストロは、やはりコンスタンティノ皇帝によって命じられて建設されていた、聖パウロ大聖堂をも門外の大聖堂をも聖別しました、そして献堂式を捧げました。

その後1000年以上の年月が経つと、コンスタンティノ大帝が建てた大聖堂も傷み、小さくなり、そして新しく大聖堂を建設しなければなりませんでした。そこで今バチカンに建っている聖ペトロ大聖堂が最建築され、ウルバノ八世教皇様によって、1626年の今日、聖別式が行われました。ミケランジェロが設計して、そして特にミケランジェロによって彫られたピエタの、イエズス様を抱くマリア様の像が置かれました。教皇祭壇のあるその下には、聖ペトロの御墓があります。考古学上、確かに聖ぺトロの墓があった、という事が最近の発掘で分かっています。

聖パウロ大聖堂も建てられて1000年以上経ったのですけれども、残念ながら1823年に大火災によってほとんどが焼けてしまいました。そこでそれをもう一度、過去の栄光のように大きな聖堂を建て直して、31年後にピオ九世教皇様がその奉献をしました。11月18日今日奉献式をする事もできたのですけれども、特別にその年だけは、再献堂の時には、12月10日を選びました、1854年12月10日。そしてその献堂式をすると同時に、マリア様の無原罪の御宿りの宣言も、この同じ聖パウロ大聖堂で行いました。

数年後には、マリア様について「あなたは無原罪の御宿りである」と言ったそのペトロの後継者は、聖ペトロ大聖堂で行われた第1バチカン公会議によって、「あなたは不可謬である」と、「ペトロの後継者は不可謬である」と宣言がされました。ちょうど聖ぺトロがその昔イエズス様に、「あなたは私の事を何と言うのか?」と言われて、「あなたは生ける天主の子、キリストです」と言った時に、「私はお前に言う、お前はペトロである。私はこの巌の上に私の教会を建てよう」と言った時の事が思い出されます。

聖パウロ大聖堂では無原罪の御宿り、マリア様のこの御生涯の最初を記念したとすると、聖ぺトロ大聖堂にはバチカンの丘には、マリア様のピエタがあり、マリア様の御生涯のその最高潮、最頂点が記念されているかのようです。

ではこの2つの聖堂、イエズス様をそこに収める石でできた2つの聖堂の奉献式を今日祝うのですけれども、どうしてもこの事を思うと、二人の方を思い出さざるを得ません。それはマリア様と聖エリザベトです。この2人が出会って、そして聖霊に満たされたその様子をどうしても思い出さざるを得ません。

そこでその第2のポイントに、今度はこの生ける天主の神殿の出会いを、少しここから黙想する事を提案します。そしてもしもよろしければ、来たる初土の黙想に使って下さればと思っています。

マリア様は大天使ガブリエルから、その親戚エリザベトが懐妊したという事を知らされます。もうすでに6ヶ月目であると知ります。ナザレトに居たマリア様は、その時に天使には何も言いませんでした、ただ「天主の御旨だけが行われますように。“フィアット.”私は主の婢女である。私の望む事はただ主の御旨であって、主の栄光である。」それだけを言いました。そして大天使ガブリエルが姿を消すと、マリア様はすぐに立ち上がって、聖ルカによると、「急いで、山岳地方の聖エリザベトの方に行った」と言います。

皆さんもご存知の通り、この前私たちが見た通り、聖エリザベトはエルサレムのすぐ近くの山岳地方の、アインカリムという街に住んでいました。司祭であったザカリアは、そこからエルサレムの神殿に奉仕する為に働きの為に、エルサレムに非常に近い所に家を居を構えていました。マリア様は急いでその山岳地方に立ち上がって行ったのですが、おそらく歩いて4日くらいかかっただろうと思います。おそらくその旨をヨゼフ様に伝えて行かれたに違いありません、許嫁であったのですから。ヨゼフ様はマリア様と一緒に同伴されたのでしょうか、よく分かりません。あるいはヨゼフ様はエルサレムに巡礼に行く人たちにお願いをして、一緒に行かれたのかもしれません。ただ知っている事は、ヨゼフ様が、マリア様と聖エリザベトが出合った時には、その時には近くにいらっしゃらなかった、という事だけは確かです。

そしてマリア様はザカリアの家に入ると、「エリザベトに挨拶をした」と書かれています。エリザベトにどのように挨拶したのか、その言葉は詳しくは載っていないのですけれども、おそらく大天使聖ガブリエルの言葉を黙想していたマリア様は、ユダヤの挨拶の仕方によって、ユダヤの人々は「“シャローム”平和」と言って挨拶をしていたので、「あなたに平和がありますように」と言って挨拶したに違いありません。あるいはそのガブリエルの言葉を黙想していたので、もう子供を懐妊しているという事を知っていたので、「あぁ、祝福された子供を身籠っているあなたは何と幸せな方でしょうか、祝福された方でしょうか」と「平和がありますように」と仰ったかもしれません。

するとこのマリア様の御姿とその声の音を聞いただけで、エリザベトの胎内に居た子供は喜びのあまり踊って、そしてその言葉によって、マリア様の言葉によって、その声によって、聖エリザベトは聖霊に満たされました。そして大きな声で叫んでこう言った、と聖ルカは言います、「あなたは全ての女性の中から祝された方、あなたこそ祝された方!そしてあなたの胎内にいる子供、その身である子供は祝された方!」と聖エリザベトは聖霊に満たされて、マリア様に一体どのような事が起こったかという事を理解しました。

一体マリア様がどんな方で、どのような事が起こって、そして胎内に、マリア様のまだ胎内に宿る数日の小さな生命の始まりであった救い主が、一体どなたであるか分かっていました、「一体主の母が私の所に来るなどという、どうしてこのような素晴らしい事が起こったのでしょうか、有り得るのでしょうか!なぜかというと、あなたの挨拶の言葉の音が声が聞こえるや否や、私の胎内でこの子供が喜びの為に踊った」と聖エリザベトは感激のあまりそう言います、「主が仰った予言された事を信じた方は、あなたは何と幸せな方でしょうか!」

おそらくその事は聖エリザベトは、近くにいたザカリアの事を考えていたかもしれません。ザカリアは確かに主の御告げを受けたのですけれども、信じようとしませんでした、その為に啞になってしまいました。

聖グリニョン・ド・モンフォールは、「マリア様はエコーだ」と言います。「主のエコーであって、ただし特別なこだまだ」と言うのです。普通のこだまは、もしも「ヤッホー」と言うと、「ヤッホー」と返ってきますけれども、「マリア様の場合は、『マリア様!』と言うと、マリア様は『天主様!』と言って声を返す。私たちが『マリア様は素晴らしい!』と言うと、マリア様は『天主に讃美!』と声を返す。」

そこでマリア様は、その聖エリザベトのそのような、「何とあなたは幸せな方!あなたの信仰は素晴らしい。あなたはそれを信じた」と言うと、マリア様はそれをこだまで返します、「私の霊魂は主を崇め奉る。そして私の精神は主に光栄を帰する。そして私の精神は救い主である天主に喜び踊る。なぜかというと、主の婢女の卑しさをご覧になられたから。」

マリア様はその「信仰が素晴らしい」と言われたにもかかわらず、信仰については何も語らず、「この卑しい婢女の、この卑しさをご覧になれた主に讃美」と答えられます。

マリア様は更に続けて言います、聖エリザベトが「主から予言された事を実現するという事を信じた方は幸い」と言うと、「確かに主は、力強い方は、私に偉大な事をした。そしてその名は聖なるかな。」マリア様は、「主の予告された事を信じたあなたは幸い」と言われると、「確かに主は素晴らしい事をされた」と、その偉大な事を歌います。あるいは聖エリザベトが「あなたは全ての女性の内で、特別に最高に祝福された方、恵まれた方!」と言うと、「確かにその通りだけれども、なぜかというと、世々代々どこの人も、どこの時代の人も、私を幸いな者と呼ぶ事だろうから。でもそれは私ではなくて、それは主の御業であって、その主の御業が素晴らしいと言うだろう。」天主の御旨のみが、天主の栄光のみが、マリア様の関心事でした。「全ては主から来て、主に返さなければならない。」

ですからマリア様はおそらく、その大天使ガブリエルの言った言葉や、その自分の身に起こっている事をよく黙想しながら、考えながら、祈りながら、そのエリザベトの話を聞いて、ついいつも思っていた言葉がインスピレーションとなって、「我が精神は、我が魂は霊魂は主を崇め奉る」と、その有名なマニフィカトの歌を歌い出しました、「天主の憐れみは代々に、その小さな者に、憐れな者に、弱い者に及ぶ」と。「救いの時がやって来た。救い主は人となられた。今まで主がなさった憐れみの業をはるかに超えるような事が実現した」とマリア様は主を讃美します。

「確かに偉大な事がマリア様においてなされている。主の憐れみは世々代々に及び、そしてその主を崇める人に及ぶ。そして主はその力をもって、思い上がる者や、力のある者を掃き散らし、そしてその力ある者をその座から降ろす。そうではなくて小さな者を、主の為に小さな者を高めて、そして飢える者を良いもので満たす。富める者を空手で返す。そして主のしもべであるイスラエルにその保護の力を与えられた。そして御自分のアブラハムとその子孫たちに約束されたその約束を思い出して、その憐れみを見せられた。その憐れみの業が今自分に今実現している」と歌いました。

もしもマリア様のそのお言葉の、たったその「平和がありますように」と言った事だけで、洗者聖ヨハネが浄められ、そして聖エリザベトが聖霊で満たされたとしたら、そのイエズス様をいつも御胎内に入れて、御胎内のイエズス様をいつも連れるマリア様がそのエリザベトの家に3ヶ月間留まった間に、どれほどのお恵みと、どれほどの祝福と、平和を満たした事でしょうか。司祭ザカリアは、おそらく啞となった為に仕事を休まなければならなかったでしょうし、あるいは家でずっと黙想会を、3ヶ月黙想会をしていたかもしれません、あるいは聖エリザベトの手伝いをしていたかもしれません。マリア様と一緒に聖エリザベトの奉仕をしていたかもしれません。マリア様は洗者聖ヨハネの御誕生までそこに留まって、その救い主の先駆者の誕生をご覧になったはずです。でも人々は、マリア様のそのご謙遜に誰も気付いている様子はなかったかのようです。

では私たちは今日この黙想の後に、どのような決心を立てたら良いでしょうか?

もちろん教会は毎日、 1日に3回御告げの事を黙想するように私たちにお願いしていますから、来月の初土曜日にはもちろん御告げの神秘を、イエズス様のロザリオの第1玄義を黙想する事ももちろんどうぞなさって下さい。特に御告げの神秘には多くの深い玄義があるので、黙想しても黙想しきれない多くのものがあります。もしもよろしかったら、マリア様が愛徳をもってイエズス様をお運びになって、イエズス様と共に聖エリザベトを訪問されて、その最初になさった霊的な奇跡についても思って下さい。マリア様がそのいらしただけで、洗者聖ヨハネがこのように聖化されるのならば、聖エリザベトが聖霊に満たされるなら、もしも私たちがいつもマリア様と共にいたら、どれほどの恵みで満たされる事でしょうか。

ファチマ100周年が終わって、私たちは一体このその実りをどうしたら良いだろうか、この聖母の汚れなき御心の信心をどうやったらもっともっと実践する事ができるだろうかと、マニラの修道院で神父様たちとよく話をします。そこでレネー神父様は、さすがに私たちの尊敬するレネー神父様は、敬愛するレネー神父様は、「マリア様は、マリア様の汚れなき御心の信心を実践するには、やはりマリア様に特に倣わなければならない。マリア様の汚れなき御心に倣わなければならない。特に現代は、不潔な、あるいは貞潔に反するものがいっぱいの時代なので、マリア様の汚れなき御心に特に貞潔において学ぶのが良い。それが信心をよくするその元になる。」と仰いました。確かに私たちは天主の神殿であって、イエズス・キリスト、至聖三位一体が私たちの心に宿るものですから、マリア様に倣って、私たちの体を心を清く保たなければなりません。

皆さんはこの次の初土曜日の黙想に何を黙想なさりたいと思うでしょうか。ぜひマリア様に、私たちの心に来て下さるようにお祈り致しましょう。そして私たちの心を浄めて下さって、そして良い天主の神殿として、いつもマリア様のようにイエズス様の事でいっぱいになりますように。そしていつも聖別された奉献されたものとして生きる事ができるように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
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2017年11月17日(金) 説教 信仰の人であった「奇蹟家聖グレゴリオ」

2018年02月25日 | お説教・霊的講話
2017年11月17日(金)証聖者司教奇跡家聖グレゴリオのミサ
小野田神父 説教

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。

今日は2017年11月17日、奇跡家聖グレゴリオの祝日を祝っています。
このミサの後に、一緒に終課の祈りを唱えましょう。
明日は10時30分からミサがあります。

12月の予定はレネー神父様の特別のお計らいで、12月の初金・初土はここでミサがあります。そして12月10日の主日、17日の主日、24日の主日、そしてクリスマスにはここでミサがあります、どうぞいらして下さい。その他にもここでレネー神父様がいらっしゃる間、毎日ミサがあります。



「お前たちが祈る時には、何を祈り求めるにしても、すでにそれを受けたと信じよ。そうすればその通りになる。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

今日は奇跡家聖グレゴリオのミサを捧げています、祝日です。
ではこの奇跡家聖グレゴリオという人は一体どういう人だったのか?
一体何でそんなに奇跡家と呼ばれているのか?という事を簡単に見て、

この聖グレゴリオの祝日は私たちに一体どんな意味があるのか?
私たちに何を教えているのか?という事を黙想し、

最後に遷善の決心を立てる事に致します。

聖グレゴリオは3世紀の人でした。およそ270年頃、小アジアの黒海の南側のポントス地方のネオチェザリアという所の土地の司教として亡くなりました。信仰の人で、多くの人を信仰にもたらしました。特に聖マクリアという方を信仰に導いて、その子供、あるいは孫からは多くの聖人や司祭、司教様たちが出て、聖人の家族が出た女性もいます。その方も聖グレゴリオから信仰を学びました。あまりにも多くの奇跡をしたので、新約における大奇跡家“タウマトゥルゴス”とあだ名されるようになりました。

聖バジリオという教会博士は、奇跡家聖グレゴリオの事をモーゼにも例えたり、あるいは多くの預言者たちにも例えたり、奇跡を行った人たちにも例えました。確かにモーゼもこの杖を持って死海の海を真っ二つに分けて、イスラエルの民たちを安全に航海を渡らせる、そしてエジプトの軍隊から守る事ができました、信仰によって奇跡を起こしました。預言者たちも雨を降らせたり、あるいは死人を甦らしたり、あるいはその他の多くの秘跡を行いました。使徒たちも、「イエズス・キリストの名によって起きよ」と言って、病人を治した事もあります。聖パウロは死人をも生き返らせた事があります。

一番有名なのはその他にも、聖グレゴリオは預言のたまものを持っていて、その預言によって多くの人を信仰にもたらしました。一番有名なのが、ある時多くの信者さんたちが増えたので、教会をどうしても建てなければならない、そして教会にふさわしい土地があるのだけれども、しかし場所は良いのだけれども、ちょっと土地が狭い。なぜならば一方に山があって、一方は海で、何とかここが良いのだけれども、でも何とか土地が広くならないか、という時に、夜の間ここの所に来て跪いて、イエズス様にお祈りをしました、「主の約束によって、『信仰があれば山さえも動く』と言ったその約束によってお願いします。イエズス様、どうぞこのここに教会を建てる事ができるようにして下さい。」翌日行ってみると、山は動いていて、教会を建てる事ができるようになった。

これも単なる噂ではなく、実際に教父たちが「そのような事があった」という事を何人も記録に残しています。

270年頃、亡くなる前に、「今このネオカイザリアに、まだ信仰を持っていない人は何人くらいいるか数えてほしい。」「あの人とこの人とあの人とあの人…あぁ司教様、17名がまだ信仰を得ていません。」「あぁそうか。私がここに来た時は、信徒の数は17名しかいなかった。その多くの人々が回心したという事を感謝する」という事を言ったそうです。

ある時には、ある信仰の問題について三位一体について、聖グレゴリオはどのように表現すれば良いのかという事を非常に悩んでいた事がありました。その時にお祈りをしたところ、ある二人の方が、一人は女性、一人は男性が現れて、御出現の形で現れて、そしてその二人が対話をしているのを聞きました。そして相互に、名前ではなくて称号で名前を呼び合っていました。

双方呼び合っていて、それによると、女性の方は男性の方に向って、「福音史家」「主の愛された弟子」という称号を使い、その呼び名によってそれが聖ヨハネであるという事が分かりました。そして聖ヨハネはその女性に向かって、「主の御母」「天主の御母」という称号を使って、これがすぐマリア様であるという事が分かりました。この二人の会話によって、三位一体についての問題を聖グレゴリオに、「このように考えれば良い。そしてこのように表現すれば良い」という事を教えられた、と記録に残っています。

ではこのような聖グレゴリオの生涯を少し垣間見て、信仰の男であり、その深い信仰は山をも動かすほどの信仰であった事が分かりますが、その私たちにとって一体それは何を教えているのでしょうか?

聖グレゴリオはこの信仰の深みを、この三位一体の問題でもそうでしたが、実はマリア様から受けていました。もちろんすべてのお恵みはマリア様を通して私たちに来られるのであり、信仰というのは超自然のお恵みであるから、まずこれはマリア様の取り次ぎ無きには得られないからです。おそらく聖グレゴリオも、天主の御母に多くの祈りとお願いをして、信仰をますます深めて下さるようにお願いしたに違いありません。そして何か信仰についてどうしたら良いかという時には、マリア様の助けを求めたに違いありません。ですからこそマリア様がその解決を、聖ヨハネと共に現れて教えて下さったからです。私たちもこの聖グレゴリオの祝日に、ぜひマリア様に信仰のお恵みを、信仰をますます深めて下さるようにお祈り致しましょう。

海を真っ二つに分ける奇跡をしたモーゼでさえも、岩を叩いてそこから水を出す時に、少し疑問に思ってしまった事がありました。その為にモーゼは、約束の地に入る事ができませんでした。

大天使ガブリエルから御告げを受けた司祭、いとも高いヤーウェの司祭であったザカリアは、自分の妻が高齢の妻が身籠もるという事を聞いて、それを信じる事ができませんでした。その為に自分は、罰であるかのように啞となってしまいました。

しかしマリア様は、信仰の方でした。「天主の御言葉に不可能である事はない、決してない」と固く信じていました。マリア様が聖エリザべトを訪問した時に、「主の御言葉を信じた方は何と幸いな方!」とその讃美の言葉を受けたほどでした。マリア様もそれに答えて、「私の霊魂は主を崇め奉る」と、その主の全能を讃えます。

私たちもぜひ、このマリア様のこの信仰に倣う事ができますように、マリア様にお祈りしましょう。マリア様は私たちに特別の手段を与えて下さいました。信仰を深める手段を与えて下さいました、しかも奇跡さえも起こす事ができる手段を与えて下さいました。たとえ山のような問題があったとしても、私たちの個人的な問題であったとしても、家族の問題であったとしても、国際問題であったとしても、経済的な問題であったとしても、修道会の問題であったとしても、ロザリオによって解決できない問題はない。それほどのものを、奇跡を行う、モーゼの杖のようなものを私たちに下さいました、「これを持って祈りなさい。そして私の汚れなき御心に対する信心をしなさい。そうすれば私はその方の霊魂の救いを約束する。その方はもしもそうすれば、その人は天主にとって最も貴重な存在となる。そして天主から愛されて、多くの霊魂を救う事ができる、この世に平和をもたらす事ができる。」

「平和をもたらす人は幸いなるかな。その人は天主の子と言われるだろう」とイエズス様が仰る通りです。マリア様は私たちに、真の天主の子である事をお望みになります。マリア様へのお祈りを通して信仰を深める事によって、それを私たちにお望みになります。

では今日聖グレゴリオの祝日において、私たちも更に信仰を深める事ができますようにお祈り致しましょう、聖母の汚れなき御心を通して、ロザリオを通してお祈り致しましょう。

ぜひその意向の中でお願いしたいのは、皆さんにぜひこの意向を付け加えて下さいとお願いしたいのは、「聖母の汚れなき御心の凱旋が早く実現する事ができるように、教皇様が世界中の司教様と一致して、ロシアをマリア様の汚れなき御心に奉献する事」また「日本から多くの聖なる司祭、修道者たちがたくさん続々と生まれる」という事です。

私たちはもしかしたら、それは難しいように一目見ると思えるかもしれません、「どうしてこのような山を、そのような事ができるだろうか。」しかしマリア様の汚れなき御心を通すならば、ロザリオをするならば、多くの若い人々の心を、主の為に奉献しようと動かす事は、どれほどマリア様にとって簡単にできる事でしょうか。多くの方の霊魂がイエズス様の方にと動かされる、簡単に動かされる事でしょうか。

ぜひこれを、今日は聖グレゴリオの御取り次ぎと、マリア様の汚れなき御心の御取り次ぎを通してお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

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2017年11月5日(主) 説教 「チェザルのものはチェザルに、天主のものは天主に返せ」の深い意味を黙想する

2018年02月23日 | お説教・霊的講話
2017年11月5日(主日)聖霊降臨後第22主日のミサ
小野田神父 説教


聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。

今日は2017年11月5日、聖霊降臨後第22主日のミサを捧げています。このミサの後に14時から公教要理の続き、今日はイエズス様がお生まれになった時代を知るには一体どのような資料があるのかについて話をしたいと思っています。

それから公教要理は今日は短くて、その後に15時頃からは、来週の主日のここで歌うミサの固有文の練習もしたいと思っています。この固有文は聖霊降臨後の第23週から最後の週まで、いつも同じ歌を歌う事になっています。それなのでこのとても有名なグレゴリオ聖歌です。ぜひこれを皆さんに少し練習していただきたいと思っています。

16時からは晚課があります。明日は朝の7時からミサもあります。


“Reddite ergo quae sunt Caesaris, Caesari. ”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日イエズス様が非常に有名な御言葉を仰るのを福音書で聞きました。

そこで、今日のミサの構造はどのようになっているのか?なぜ入祭誦では、「もしも主が邪悪に目を止められたのなら」から始まって、なぜ聖パウロはフィリピ人への手紙を載せて、なぜ福音書ではこの逸話が取られて、なぜこのような繋がりになっているのか?その理由は何なのか?という事を黙想する事を提案します。

次に、ではその中核となる、その構造のその理由を与えている福音書のイエズス様の御言葉の深い意味は何なのか?
「天主のものは主に返せ。」一体何なのか?を黙想してから、

次に、私たちは今日遷善の決心を、これから私たちの生活をどのように改めていかなければならないのか?
を、この教会が私たちに与えるメッセージに沿って、私たちが生活する為にどういう点を決心していかなければならないのか、善に進む為の決心を立てたいと思っています。


では、今日のミサの構造はどうなっているのでしょうか?

これはすでに、教会は11月に入って死者の月に入り、典礼暦年も終わりに近付き、短い時には、もしも復活祭が遅くあれば、もうすでに来週は次の週は、すでにもう最終の主日となってしまいます。という事は、私たちは当然「最後の審判」について、この世の終わりについて、裁き主が私たちの行いを全て裁く日が来る、という事について、私たちの死について、この世の終わりについて、考えさせる事が当然であるからです。

ですからまず入祭誦は、そのような最後の裁きの前に、あるいは最後には、「反キリストが来る」とも言われていますから、そのような恐ろしい日が来る時に、「もしも主が私たちの邪悪に目をとめられたならば、私たちの悪に目をとめられたならば、誰が一体主の前に立っていられる事ができるでしょうか、主の前に正しい人など一体どこにいるだろうか。主の憐れみこそ私たちは願わなければならない。」

では、主の御目にとって「邪悪」というのは何なのでしょうか?邪悪というのは、「私のものは私のもの。あなたのものも私のもの」という事こそ邪悪ではないでしょうか。なぜならばそれは正義に反しているからです。

では、「私のものは私のもの。私の義務は私の義務。そしてあなたの権利はあなたの権利」と認める、そして「私はあなたに、あなたのものと認めなければならない事を私は認める」という事は一体どういういう事なのでしょうか?3つの段階があります。

まず隣人は、まず私たちの保護の下にある人々について語られます、教会は語るように黙想するように提案します。特に聖パウロの作った共同体の中で一番心にかけていたのが、フィリピ人という共同体でした。なぜかというとこの手紙を読むと、聖パウロが特に心をかけていたという事が分かるからです。

そこで教会はこの聖パウロの手紙を取って、自分の保護の下にある者に対する義務を思い出させます、「主の終わりの時の日までに、彼らが私たちの下にある者が、良い実をたくさんたわわに付けて立派な木に育つように」とパウロは言っているかのようです、励ましているかのようです。

次に昇階誦でGradualeで言われるのが、「兄弟たちが一緒に住むのは何と幸せな事か。」です。

ちょうどある方からあるメッセージを頂いて、「修道生活とはどういうものなのですか?」と聞かれた事があります。

私はちょうど30年前に、聖ピオ十世会の神学校に入学してから多くの兄弟たちと一緒に生活する事になって、本当に大きな家族のようだなぁと思って、本当に聖ピオ十世会に入る事になって良かったなぁと思っています。もしも教区の司祭で、たった一人ぼっちで小教区の教会に配置になって、たった一人で全てをしなければならなかったとしたら、本当に大変だろうなぁと思います。

しかし兄弟たちが一緒に生活するという事は何と楽しい、美しい事でしょうか。そして今日昇階誦でも、兄弟たちが、つまり私たちと同等の人々が、私たちの同僚や同じ信仰を生きる人たちが、「一緒に愛徳を持って生活をするのは何と良い事であるか、これは主のお恵みであるか」という事を歌います。

そして福音では、私たちの目上に対して語られます。私たちの権威者というのはつまり、あるいは皇帝であり、あるいは王であり、あるいは大統領であり、あるいは首相であれ、あるいは教皇様であれ、あるいはお父さんお母さんであれ、あるいは学校の先生であれ、あるいは課長であれ、あるいは私たちがその下にある人への態度です。

最後には天主に対する態度です。

そのような義務をよく果たした後に、遂には私たちは主の到来に、主の来臨を安心して受ける事ができる、それがそのリハーサルが、御聖体拝領です。御聖体拝領の時に私たちが受けるのは、私たちの救い主であり、友であり、愛するイエズス・キリストが私の所にすでに来てくださいます。

最後には世の裁き者として来られるでしょうけれども、今日は御聖体拝領では、愛するものとして、憐れみを与えるものとして、慰めを与えるものとして、赦すものとして、お恵みを与えるものとして、私たちと1つとなるものとして来られます。

ではこの私たちの下にある人々、子供や、あるいは部下や、あるいはその私たちの下に世話をしなければならない人々、あるいは私たちの隣人、あるいは私たちの目上天主、これらに対する義務を果たす時に、その核心というのは一体何なのでしょうか?

それは第2のポイントに移ると、福音で言われるイエズス様の言葉です、「主のものは主に返せ。」私たちは全て天主から頂いて、主から頂かなかったものは何も無いものであるからです。私たちが今ここで息をして存在しているのも、主から頂いたものであるからです。

ところで、イエズス様がこの質問をこの答えをしたその時に同時に、「しかしローマ皇帝に対するものは属するものは、それはローマ皇帝に払え。しかしまず天主に属するものを天主に払って、そして天主が、ローマ皇帝であり私たちの目上を立てたのだから、ローマ皇帝のものはそれに返せ」と言っているのです。

一体なぜこれがそんなに重要な質問だったのでしょうか?私たちにとってとても明確であり、自明なように思われるこの命令も、イエズス様の当時にとっては政治的な状況によって、とてもポリティカルなコレクトネスを、政治的な正しさを追求するか否かによって、非常にデリケートな問題でした。

ファリサイ人たちは、あるいはイエズス様を罠にかけようとする人たちは、イエズス様の言葉尻を捕らえて詭弁を、弁証論的にどっちかを取らなければならない、と罠にかけようとしました。

まず彼らはイエズス様の言葉尻を捕まえる為に、言質を取る為に、まずお世辞を言います、「あぁ、あなたは本当に真実を言う御方だ。あなたは人の目を気にしない、本当の事をズバッと言う。ローマ皇帝の目も気にしない。さぁあなたにぜひ教えてほしい。」罠にかけます、「私たちはユダヤ人で、ユダヤ教を信じている。そしてユダヤの民だ。そして昔からユダヤのヤーウェの神権を認めている。このヤーウェの下にのみ生活しているので、真の天主の民であって、自由の身である。真理にのみ自由があるのだから。だから私たちにとって外国からの、あるいは異教徒の神々の支配を受ける事は、ヤーウェの支配に反する事である。私たちはヤーウェを取るか、異教の神々を取るかローマの神々を取るか。ヤーウェが与えた権威を認めるか、あるいはヤーウェ以外の権威を認めるか、どちらかではないか。さぁ、ローマに税を払っても良いのか、皇帝に税を払っても良いのか。」

イエズス様はこの罠を知っていました、確かにユダヤは天主から選ばれた特別の民であって、天主の民族であって、自由であるはずなのにもかかわらず、でもローマの政治を受けています、この属国となっています、ローマ総督の下にいます。「私たちはローマ総督に従うのか従わないのか。ローマの皇帝にお金を税を払う事は、天主に対する罪なのか罪ではないのか。」

イエズス様はそこで、非常に知恵の深い、そしてカトリックの教えを教えます、「天主のものは天主に返し、皇帝のものは皇帝に返せ。あなたのものはあなたのもの。私のものは私のもの。皇帝のものは皇帝のもの。天主のものは天主のもの。」

そこでこれを教える事によって私たちは、この地上で与えられた権威が、つまり天主から与えられたものであって、そしてその権威を私には善である限り、それが正当である限り、認める義務を教えています。実際、ローマ皇帝の肖像が入ったコインを使っているのならば、まさにそれは私たちがこのユダヤ人たちがローマの支配を認めている事であるので、それをローマに税を払うのは問題はないはずです。

これと同時にイエズス様は、「私たちの霊魂にも天主の肖像が刻まれている。私たちは天主の似姿によって創られている」という事を思い出させているのではないでしょうか。「私たちはだから全て、私たちの霊魂も、肉体も、天主の肖像画で創られているものであるから、実はそれは全ては天主に返さなければならないのだ。そして地上の権威も目に見える権威も、目に見えない権威がその背後にいる」という事を教えています。「国家であれ、両親であれ、あるいは学校の先生であれ、上司であれ、全て天主が、天主の権威の為に彼らに従う。実はこの彼らに従う事は、天主に従う事に繋がるのだ」と教えています。

これこそちょうど、愛徳には、「天主を愛するが為に、隣人を我が身の如く愛する」という愛の掟の裏返しなのです。天主の権威の為に、天主を愛するがゆえに、天主の立てた権威に従うという事です。目に見える権威に従うという事です。

ではこれは、私たちはこれでどのような遷善の決心を立てたらよろしいでしょうか?

この最後の審判の準備をする為に、私たちが自分の義務をよく果たす為に、主のものは主にこれを返し、そして主を愛するが為に主に従順であるが為に、隣人にあるいは目上にそれにふさわしいものを返す事ができる為に、つまり私たちの身分上の義務を良くする事ができる為に、私たちは特別のお恵みが必要だという事です。

ファチマのマリア様も仰いました、「主から与えられたものを、この身分、この義務、この苦しみを、いけにえとして犠牲として捧げなさい」と言われました。

シスタールチアも言っています、「私たちの身分上の義務を捧げる事が、もっとも主の聖心に適う犠牲である」と。

ですから最後の審判を準備する為に、この犠牲を捧げようと提案します。

旧約の時代には2つの祭壇がありました。1つはホロコーストの燔祭の祭壇であり、もう1つは香の祭壇でした。至聖所の中にはこの2つの祭壇がありました。

焼き尽くす祭壇は、私たちが目に見えるもの(すなわち隣人たち)に対する義務を果たすという事。そして香の祭壇は、私たちが天主に対する祈りの義務を果たす事を意味していた」と聖トマス・アクィナスは言っています。

それと同じように私たちも、この二重の義務をいけにえとして捧げる事に致しましょう。天主様のものを天主に返し、そして隣人のものは隣人に返す。

それがよくできる為には、マリア様は「聖母の汚れなき御心に対する信心を行いなさい」と言いました。特にこの「ロザリオを唱えなさい」と仰いました。

確かにロザリオを唱えると、このロザリオの15の玄義は、私たちにこの2つの義務をよく果たす事ができるようにさせてくれます。

マリア様は天使の御告げを受けた時に何と答えたかというと、「我は主の婢女なり。仰せの如く我になれかし」と言われました。「私のやりたい事はこれだから嫌だ」とは言いませんでした。「主のものは主に返したい。全ては主から頂いたので、私は主の婢女として主の御旨を果たしたい」と答えられました。

この直後にマリア様は聖エリザベトを訪問されました。助けたいと思いました、隣人愛を実践しました。またイエズス様は、貧しい馬草桶で生まれました。主に対する従順の為に、聖父に対する従順の為であると同時に、この地上への離脱をも見せていました。私たちが地上のものから離脱すればするほど、隣人に対する義務をよりよく果たす事ができるようになります。

マリア様と共に私たちはイエズス様と共に、神殿に捧げられなければなりません。またマリア様と共にイエズス様を探し求めなければなりません。主の御旨は何かと探し求めなければなりません、など。イエズス様の御受難、苦しみや、あるいはイエズス様の御復活を思うと、私たちのこの人生が本当に短いものであって、犠牲を捧げても主のものは主に返さなければならない、という事を教えてくれます。

そこで最後の遷善の決心として、よくこの務めを果たす為に、マリア様の汚れなき御心に対する信心をよく実践するという事を提案したいと思います。

“Reddite ergo quae sunt Caesaris, Caesari. ”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
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第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ 【ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」】

2018年02月21日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ


使徒的事業が、ゆたかに実を結ぶための条件――それは内的生活である

 使徒職の対象となる事業の中には、神学者たちのいわゆる「おこなわれた業そのものによって」(Ex opera operato)効果を生ずるものがある。さらに、また、「業をおこなう者の霊的価値によって」(Ex opera operantis)効果を生ずるものがある。
 前者は、ここでは問題にならない。
 われわれはもっぱら、後者について、考察したいと思う。

 キリストは、弟子たちにむかって、「わたしに留まっていなさい。そうすれば、わたしもあなたがたと留まろう」(ヨハネ15・4)と仰せられた。
 内的生活によって、イエズスと一致してとどまっていさえすれば、天主のみ旨によって使徒的事業にたずさわるとき、この事業がゆたかな実を結ぶことは、絶対確実である。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしに留まり、またわたしがその人と留まるならば、その人は実をゆたかに結ぶようになる」(ヨハネ15・5)
 キリストの右のお言葉から推して、それはあまりに明白な論理である。この命題を証明するためには、キリストのお言葉以外に、いかなる権威もあろうはずがない。あっても、無駄である。経験はなにより雄弁に、この事実を物語っている。で、事実によって、上の真理を確証するにとどめる。

 もうかれこれ、三十年以上にわたって、わたしが、しさいに観察してきた事実がここにある。
 それは、こうだ。――それぞれ異なった女子修道会の経営にかかる、女の子の孤児院が二つあった。その事業の歩みを、わたしはじっと見守っていたのだが、二つとも、人目にわかるほど、衰退した時期があった。
 「衰退した」――と、なぜいっていけないだろう?
 Aの孤児院にも、Bの孤児院にも、それぞれ十六名の孤児たちが、全く同じ環境のもとに、収容されていた。そして、年ごろになると、彼女らはいずれも孤児院をでて、再び社会に出て帰っていった。いい忘れていたが、その前すでに、Aの孤児院からは三名、Bの孤児院からは二名、それぞれ事故をおこして、退院させられていた。
 さて、残りの十一名である。彼女らは、在院中はしばしば、聖体拝領をし、告解の秘跡も受けていたのに、いったん社会にでると、人びとをガッカリさせるような、じだらくな運命をたどった。ある者は夜の女になり、ある者はメカケとなるように、彼女らは社会の最下層に転落していった。しかも、十一名は十一名とも、社会にでるときには、それぞれりっぱな家庭だとか、まじめな職場だとか、とにかくシッカリした処に世話されていたのに……。
 なにが、彼女らをそうさせたのか。
 話は、本論にはいる。

 Aの孤児院では、十一年まえ、院長が交替した。
 ところが、タッタそれだけで、わずか六か月もたつか、たたないうちに、孤児院の空気は一変した。
 人びとの精神は、根本的に革新されたのである。
 同様の革新が、今度は三年後、Bの孤児院にも見受けられた。院長も、職員の修道女らも、そのままのメンバーだったが、ただひとり、孤児院付きのチャプレンが交替した直後からである。
 このことがあって以来、年ごろになって、孤児院をでる娘たちの内、悪魔の誘惑にまけて堕落のふちにおちこむ者は、一人もいないようになった。娘たちの全部が、一人の例外もなしに、りっぱなキリスト信者として、生活するようになったのである。
 なにが、この美しい結果の原因なのか。
 それは、あまりに明白である。
 以前には、孤児院のかしらが、または告解場の聴罪師が、適任者でなかったからである。超自然的に、十分ちからのある指導をすることが、できなかったからである。そのために、天主の恩寵は、じゅうぶんに働くことができなかった。恩寵の働きは、完全にマヒしてはいなかったが、いちじるしく低下していた。
 前の院長も、聴罪師も、なるほど一面において、まじめな信心家ではあったろう。
 だが、深い、中味のある内的生活に欠けていたので、その結果、じゅうぶん深みのある、じゅうぶん長続きのする働きを、孤児たちの霊魂にしてやることができなかったのである。
 感情だけの信心、――ただ敬けんなふんい気、釣り込み式の信心、ただ外面的の祈りや、儀式や仕来たりだけの信心ではダメだ。それはただ、弱い漠然とした信念だけしか、娘たちの心にうえつけることができない。炎を発してももえさからない愛、しっかりした根をもたない善徳しか、彼女らには与え得ないのである。
 無気力な信心、ショーウインドー式の信心、甘ったるい、お涙頂戴式の信心、ただ仕来たりでなんの気乗りもなしにする信心、――なるほど、このような上わべだけの信心でも、娘たちを自然道徳に、訓練することができよう。他人に迷惑をかけない、上長にはていねいに、おじぎするぐらいのことは知っている程度の者にすることはできよう。だが、彼女らに、強い宗教的信念をあたえることはできない。強い性格を与えることはできない。感情と想像を抑制するほど、強固な意志を与えることはできない。このような信心がどうして、彼女らの信仰生活を深め、滋味ゆたかにすることができるだろうか。どうして彼女らを、霊魂の敵とたたかうために、よく準備のできた“強い女”にすることができるだろうか。
 孤児らは、かごの鳥である。いつも、ひろい自由の大空を慕っている。いつ孤児院から出してもらえるだろうかと、その日ばかり指折りかぞえて待っている。自由の天地にあこがれるこれらのひな鳥を、かごのなかにじっと閉じこめておくために、安っぽい信心がなんの役に立つだろうか。

 内的生活をほとんど理解しない福音の働き手が、苦労してまいたタネは、こんなものである。キリスト教的生活のタネは、いっこう芽をださないではないか。さて、Aの孤児院では、院長を取りかえた。Bの孤児院では、聴罪師を取りかえた。すると、空気が一変した。この突然の変化は、人目にたつほど、顕著である。施設の娘たちはみんな、あたかも人間が変わったように、祈りを大切にし、これに親しむようになった。
 告解、聖体の両秘跡も、しばしば受けるようになった。内面の信心は、おのずから外面にも反映し、以前にはあれほど浮ついていた彼女らも、がらりと態度が変わった。――聖堂でお祈りするときも、職場で仕事するときも、休憩時間を楽しむときでさえ、彼女らは貞淑そのものだった。
 娘たちの人柄は、根本的に一新されたのである。
 それは、内心にたたえられた天上の喜びが、外面に流露した証拠である。
 かくて、元気いっぱいな、快活な霊魂たちは、善徳の獲得にむかって、勇み足で前進する。その中には、修道生活の召し出しにたいして、熱烈な志望をもっている者もあるだろう。
 このすばらしい変容は、いったい、どこからきたのだろうか。――新らしい院長が、新らしい聴罪師が、内的生活の持ち主だったのである。
 この因果関係は、あながち孤児院だけに限らず、学校でも、病院でも、修道院でも、または小教区、神学校、その他カトリック経営のどんな施設でも、そのままりっぱに通用する。

 これにかんして、十字架の聖ヨハネが、うまいことをいっている。
 「活動、活動といって、日もなお足りないと考えている人たち、――説教や外的事業によって、世界を動かせるとウヌぼれている人たち、こういう人たちは、しばらく心をしずめて、まじめに反省するがいい。そうしたら、じきに、苦もなく、次の真理を発見するだろう。すなわち、もしかれらが、もうすこし時間をさいて、これを念禱や内的生活の修業にささげるなら、それが周囲にあたえるよい模範を抜きにしても、ただそれだけで、自分は教会にとって、以前よりいっそう有益である、また天主にもいっそう喜ばれるのだ、という真理を、心から納得するだろう。
 「念禱や内的生活の修業に従事する」――この条件を果たしさえすれば、かれらは自分たちの生命をすりへらして、千の事業をするよりも、タッタ一つの事業をすることによって、いっそう大きな善を、しかもはるかにすくない労苦をもって、なしとげることができよう。
 これはたしかに、天主の恩寵だけがなしうる奇跡だが、さてこの恩寵を、かれのうえに呼びくだしくれるものは何か。――それが、念禱の生活であるとは、いまさらくり返して申し上げるまでもないことである。
 念禱をしないなら、いっさいは大破壊におわる。
 念禱をしないなら、ちょうど金づちで、鉄床をたたくようなものだ。
ひびくものは、ただやかましい音ばかりだ。
念禱をしない人のすることは、なんでもゼロよりすこしばかりよいことか、それとも多くの場合、全然ゼロか、いやむしろ、ゼロ以下の悪でさえある。
 ああ、天主よ、もし使徒職にたずさわっている霊魂が、このように傲慢にでもなりましたら、こんな使徒はお見捨てになって、わたしどものそばには置いてくださいますな。かれの事業が、かれの才能が、どんなにりっぱでございましても。
 じじつ、こんな霊魂に、なにができるものですか。なぜなら、いやしくも善業と名のつくもので、天主のお助けなくして成就されるものは一つもない――ということは、絶対確実な真理だからです。
 ああ、この問題にかんして、どれほどたくさんのことが書けるのでしょう!
 内的生活の修業を投げだして、ただ自分たちの声望を高める外的事業にだけ、あこがれている人びとに向かって、――おのれの事業を、できるだけ多くの人に知らせてやりたい、できるだけ多くの人から、やんやと喝采してもらいたい、とこいねがっている人たちに向かって、どれほどたくさんのことが書けるでしょう。
 すべて事業に、ゆたかな実を結ばせるのは、ただ天主の恩寵という天主的樹液だけですのに、それがどこから流れてくるのか、また、生ける水の泉はどこにあるのか――こういうことにかんして、かれらはなにも知っていないのです。」(『霊の賛歌』第二十九歌)
 十字架の聖ヨハネの言葉の中には、前ほど述べた聖ベルナルドの“呪われた仕事”という表現にも比すべき、強いものがあるようだ。しかし、それには、なんの誇張もない。わけても、ボスエ司教がいっているように、十字架の聖ヨハネは、完全な良識のもちぬしである。聖性に達するためには、異常な道を通ろうと望んではならぬ、とかれは強く人をいましめている。かれのひじょうに深遠な神秘思想の表現には、水も洩らさぬ論理の正確さがある。
 使徒的事業に、内的生活を加味すれば、なぜゆたかな実を結ぶのか、その原因のいくつかについて、右に述べてみたいと思う。

(この章 続く)

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2017年11月4日(初土) 初土の信心 「喜びの第一玄義」を黙想する

2018年02月20日 | お説教・霊的講話
2017年11月4日(初土)聖母の汚れなき御心の随意ミサ
小野田神父 説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。

今日は2017年11月4日、11月の初土曜日です。今日のこのミサの後に、いつものように公教要理の勉強があります。今回は公教要理の時間は少し短い予定ですが、13時頃まで予定しています、いらして下さい。

その後には15時からグレゴリオ聖歌の練習会があります。特に聖霊降臨後第23主日の固有文を一緒に歌う事ができるように、レネー神父様がいらした時にはこれをもう暗記して歌う事ができますように、あるいは鼻歌で歌う事ができますように。
この固有文は特に、復活祭が早くなった場合には、聖霊降臨後23週から最後の主日まで、何回も何回も毎年繰り返して歌われる非常に有名な曲です。どうぞこれを練習なさっていて下さい。



「時に、ふさわしい時に憐れみを受ける為に、主の憐れみの玉座に近付こう。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、この今の世界は、戦争や、あるいはテロ、あるいはおかしな殺人事件などのニュースでいっぱいです。マリア様の、ファチマのマリア様の御言葉によると、「天主はこの地上に、私の汚れなき御心に対する信心を確立する事を望んでおられる。もしそうすれば多くの霊魂が救われ、この地上に平和が訪れるだろう。さもなければ多くの霊魂は失われ、地獄に失われ、この地上は地獄のようになるだろう。」地獄のようになるだろうとは仰いませんでしたが、「ロシアが戦争を挑発し、教会に対する迫害を挑発し、多くの義人は悪人と共に死んでしまうだろう。無くなってしまう国々もあるだろう」と仰いました。「しかし最後には、私の汚れなき御心が凱旋するだろう。」

ぜひ私たちはですから、もしもこの私たちの霊魂の救いの為にそれを望むならば、もしも世界の平和を望むならば、一番しなければならない事は、お恵みの玉座に行く事です。お恵みの蛇口を開いて、水をそこから得る事です。それ以外のところでいくら水を探しても、水は出てきません、平和は来ません。ジャシンタは死ぬ前にこう言っていました、「ルチア、全世界に天主様が汚れなき御心の信心を確立するという事を望んでいる事を言って下さい。汚れなき御心を愛するように言って下さい。そうすればこの世に平和が起こる。なぜかというと、天主はマリア様の汚れなき御心だけにこの平和の恵みを委ねたから。それ以外のところでは見つける事ができないから」と言って死んでいきました、それが死ぬ前の言葉でした。

ですから私たちも、汚れなき御心への信心をする事に致しましょう。今日は初土曜です。ですから初土の信心をなさって下さい。初土の信心は非常に簡単です、4つの事をしなければなりません、4つの事を5回します。「え?4つの事?」

はい。1つは初土曜日、月の最初の土曜日に告解をする事です。これを罪の償いの精神を持って、特に「マリア様の汚れなき御心に対する罪を償う」という精神を持って告解する事です。

第2は、「マリア様の汚れなき御心に対して犯される罪を償う」という意向を持って御聖体拝領をするという事です、非常に簡単です。月に1回。

あとの2つも非常に簡単です。「マリア様に対して犯される罪を償う」という意向を持ってロザリオを5連唱える事です。もう皆さんしました。一環唱える事です、5連唱える事です。

残る1つも簡単です。マリア様と共に15分間、ロザリオの15の玄義の内の何かを黙想する事です。15分間。なぜ15分間かというと、マリア様によれば、ロザリオには15玄義あるから15分です。これを今日、私たちはする事に致しましょう。特に今日は御告げの玄義を、第1玄義を黙想する事を提案します。

これを5回するのです。なぜ5回かというと、イエズス様の説明によれば、9回でも15回でも20回でもない、5回かというと、「なぜかというと、たくさん冷淡にやるよりも、少ない数を一生懸命やった方がいいから。なぜ5回かというと、それは5つの罪を償う為。1つは、『マリア様が汚れなき御宿りである、原罪の汚れなく御宿ったものであるという事を侮辱する、それに対する罪』第2は、『マリア様が終生童貞である事を否定する、その罪を償う為』第3は、『マリア様が天主の御母であり、私たちの母である事を侮辱する罪を償う為』第4は、『マリアに対する愛を、特に子供たちなどにおいて、マリア様に対する侮辱の種を蒔くような人たちの罪を償う為』最後に、『マリア様の御影、御像などに対して犯される罪を償う為』」です。

では今日は、第1玄義の御告げの玄義を黙想致しましょう。この玄義は本当に15分では足りないほどの玄義ですが、私たちはこれを、私たちが初土によく黙想する事ができるように、1ヶ月間黙想する事を提案します。でも今日この初土として、御告げの玄義を黙想する事を提案します。でもお好きな玄義を黙想なさって下さい。

マリア様は天使の御告げを受けました。一体どこで、どんな場所で御告げを受けたのでしょうか?

3人の子供たちは、遊んでいる時に3回天使の現れを見ました。光り輝く若い天使で、男性のようなクリスタルのような天使が現れました。神学者たちによると、「これは大天使聖ミカエル、ポルトガルの守護の天使、平和の天使であった」と言います。

マリア様の場合には、大天使聖カブリエルが現れました。神学者、特に聖トマス・アクイナスによると、大天使聖ガブリエルは、大天使の中でも最高の、最も地位のある天使で、「天主の力」という意味の天使でした。

マリア様がその現れを受けた時には、どこにいらしたのでしょうか?

伝統によると、マリア様はナザレトのご自宅で、小さな単純な謙遜な貧しい家で、お祈りをしていた時に御出現を受けたと言います。マリア様の家をご覧になって下さい。単純な非常に質素な家でした。マリア様はダヴィドの王家の子孫でした。しかし王としての特権は全て失われていました。地上的な特権は失われていました。財産もこの世的なものは失われれていました。マリア様の歳は、15歳とか16歳ぐらいだっただろうと言われています。すでに聖ヨゼフと婚約をしていました。同居はまだしていませんでしたが、しかし婚姻をしていました。

マリア様はどのようなお祈りをしていた事でしょうか?

特にマリア様は、無原罪の御宿りであり、上智の座であり、預言者の元后でもありましたから、聖書の預言の事をよく深く理解していました、「すでにメシアがこの地上に来られる時が来た。イザヤの預言によれば70周年がすでに来ている。一体どのような、特に多くの女性の中から選ばれたその女性というのは一体どのような御方なのだろうか?ぜひそのメシアの母となる方に自分の奉仕を捧げたい。自分はそのような資格がないかもしれないけれども、しかしそのメシアの母となる方はおそらく苦しみ、この世の罪を償うメシアの母となる方なので、悲しみの御母となるだろう。その御母をお慰めする方になりたい。何とかしてその選ばれた、エヴァに対して『蛇をかかとで踏む』と言われた方のその婢女として奉仕をしたい。そうする事ができるだろうか。その為にもしも私でよかったならば、主よ、私をお使い下さい。主の道具として私ができる事は一体何でしょうか?何がお望みでしょうか?メシアの為に、この世の救いの為に、その選ばれた方の為に何かできる事があれば、もしも私で良ければ」と一生懸命お祈りなさっていたかもしれません、「早く救い主が来ますように。」

マリア様は非常にご謙遜な方でしたので、まさか自分がその女性の中から、多くの女性の中から選ばれたそのかのメシアの救い主の母となる方であるとは想像も思いもしていなかったでしょう。しかし時が来るという事は知っていました、「もうメシアはすぐ近くに待っている」と。

あるその時に、光り輝く、非常に美しい神秘的な天使が現れて、夢の中ではなく現実に目に見える形で現れました。天主が、目に見えない天主が人となる、肉を取って人となるという事を告げるのですから、目に見えない天使が、「確かにこれは本当だ」と目に見える形で現れて、非常にふさわしい事でした。聖ヨゼフに対しては夢の中で天使は御告げをしましたが、マリア様は、この偉大な神秘を、たしかに本物である事を確実に教える為に、目に見える形で現れました。

もはやマリア様はその選ばれた、女性の内から選ばれた女性を奉仕するその方ではなく、まさにマリア様、あなたこそその選ばれた方となるべきなのです、「聖寵充ち満てる方よ、御身にあいさつ申し上げます」と大天使ガブリエルは言いました。

マリア様は聖寵に満たされた御方でした。すでに聖寵の充ち満ちを受ける方であって、聖人たちの話によれば、その最初の無原罪の御宿りの瞬間から、急速にものすごい速度でその聖寵の充ち満ちを受けて、聖寵においてますます発展していました。その時に突然、天使のあいさつを受けたのでした、「めでたし、聖寵充ち満てるマリア。」

マリア様がこのようなあいさつを受けたのは非常にふさわしい事でした。なぜかというと、マリア様が今から受ける、今から言う事は、かつてない非常に大切な事である、という事をマリア様が注意を引かせる為のものでした。普通ではもしかしたらマリア様は、天使の出現を過去受けていたかもしれません。しかしこの特別なあいさつにマリア様は、「一体これは何の事だろう」と不思議に思いました。マリア様は「一体これはどのような事だろう」と困惑しました。すると天使は言います、「恐れるなマリアよ、恐れるな。」天使は知っていました、マリア様が御謙遜の為に、この挨拶に対して「一体何の事だろう」と思っていたという事を。

天使はマリア様に説明します、マリア様のその混乱はまず謙遜の為、次に童貞を守ろうとしていた為だ、と知っていました。そこで天使は説明します、「確かに天主はマリア様を選んで、そして主は御身と共に在す。そして御身は全ての女性の内から選ばれた者となる。それは天主がお選びになった事である。」でもマリア様は、なぜ自分を天主が、このような重要でもないこんな隠れた、こんなに小さな、こんなに何もする事ができないような乙女を選んだのだろうか。そしてその事をきっと困惑していたに違いない、と天使は知っていました。

そこで天使は言います、「聖霊の力が、聖霊があなたの上にやって来るのです」と。“Spiritus Sanctus superveniet in te.” そして「マリア様がもしも身籠もるのは、これは聖霊の力によるものであって、全て天主の御力によるものである」という事を説明します。マリア様はもちろん契約にサインする前に、一体その契約の内容がどのようなものがあるかを知らなければなりませんでした。特別の照らしを受けていたはずです、「救い主の母となる為には、約束されたメシアの母というのは、苦しみの母とならなければならない」という事を。「栄光とか栄光の母親とか、あるいは征服者の王の輝く、この世的な権勢のある王の母ではなく、辱しめを受ける、嘲笑の茨の冠を被せられるような王の母とならなければならない」という事を知っていました。

そこでマリア様はその時に答えます、「主の婢女はここにおります。我、主の婢女なり。“Ecce ancilla Domini.”御身の言葉の通りに我になりますように。“Fiat”私はそれを受け入れます、それに同意します。どのような苦しみであれ、どのような辱しめであれ、どのようなものであれ、全て主の御旨のままになりますように。」

この地上において、この被造物の世界において、天主の力が現れて決定的に大変化を起こした瞬間が2つ、2回あります。

1つは創造の時でした。被造物が無から何もなかったのに有るようになった、その創造の時でした。私たちがこの被造の世界が創られて、有り始めた時でした。

もう1つは、マリア様が「“Fiat.”同意します」と言った時でした。これはあたかもマリア様が全人類を代表して、「天主の本性と人間の本性が1つとなるという事に同意します。」あたかも「神秘的な婚姻に同意します」と言ったかのように、「プロポーズに同意します」と言ったかのように、マリア様が「我になれかし」と言った時でした。その時に、創られない天主が、創られたものと結合しました。永遠の無限の天主の御一人子が、限られた被造の人間となられたのでした。この時、この瞬間に、人間は人間の本性は、天主の本性と合体しました、イエズス・キリストのペルソナにおいて。そしてこの天主にとっては全く変化のなかったものですが、私たちの人間にとっては大変化が起きました。これは、無から有るに変わったよりも、更に大きな変化でした。

なぜかというと、無から有るに変わった時には、それでも有限の変化でした。限りのある変化でした。しかし限りの有るが、無限の創られない方の本性と一致したという事は、人間にとってこれはとてつもない変化であったからです。

このマリア様が「はい」と仰った時に、すでに確かに聖寵の充ち満ちの溢れを受けたマリア様でありましたけれども、かつて無かったほどの比較する事のできない、言葉で言う事ができないとてつもないお恵みを、聖霊のお恵みがマリア様に注がれました。聖霊がマリア様を包み、そして天主の御子が人となり給うたのでした。

イエズス様がイエズス様の聖心が聖父に従順であり、この「人間となろう」としたその目的は、人間の救いの為でした。この人間の救いの為に、天主の御言葉が人となる事ができる為には、マリア様のこの「我になれかし」が必要でした。マリア様がもしもこれを「同意します」と言わなければ、マリア様の苦しみも、イエズス様の苦しみも無かったかもしれませんが、人類は救われる事がありませんでした。

マリア様はイエズス様の母、天主の御母となる事によって、同時にイエズス・キリストの神秘体の母ともなりました。聖ルイ・マリ・グリニョン・ド・モンフォールによると、「もしも誰かが、頭だけ生んで体を生まないとしたら、これは怪物だ。マリア様は怪物ではない。マリア様はイエズス様、キリストの神秘体の頭であるイエズス様の母となったその瞬間、全ての贖われる人々の母となった、霊的母となった」と言いました。

マリア様の「はい。私はどのような事でも、主の御旨のままに私になりますように」と言ったその同意の為に、イエズス・キリストは私たちと同じ肉を取って救い主となる事ができました。このマリア様の御告げに、この「はい」に、どれほど感謝しなければならないでしょうか。

どうぞ今日は、このマリア様の御告げの中に深く入って下さい。もしも私たちの目の前に天使が現れて私たちに、「主の御旨はこうである」と告げたら、私たちは一体どのような行動を取るべきでしょうか?

「え、天使さん、ちょっと待って下さい。私はそうするよりも、もっとこのこれをしていたのです。これの方が面白い、おかしい、このインターネットをもっと見ていた方が良い、Youtubeをもっと見た方が面白い。」
あるいは「今は、今はできない。」

マリア様はすぐに仰いました、「主の婢女はここにおります。仰せの如く我になれかし」と。

マリア様の汚れなき御心の中に今日は深く入って、罪の償いの為に、イエズス様を愛する為に、罪人の回心の為に、世界の平和の為に、マリア様に対して犯される罪を償う為に、教皇様の為に、この初土の信心を行う事に致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


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聖ピオ十世会聖伝のミサ(ラテン語のミサ)報告 2018年2月 四旬節 次のトリエント・ミサは東京で3月4日です。

2018年02月19日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今回は大阪と東京で聖伝のミサを捧げることができ、聖体降福式も執行することができ大変幸福です。聖体降福式は、大阪でも東京でも、皆がとても一生懸命に祈っていてくれて、それがよく伝わってきました。イエズスさまもお喜びになっておられたと思います。

 今年は、次のような行事が予定されております。多くの兄弟姉妹の皆様が聖伝のミサに与れることを願っております。

3月25日:枝の主日【東京】(聖母の御告げの祝日は今年は4月9日(月)に移動します。)

4月1日:復活祭【大阪】

5月3日から6日まで:秋田巡礼【秋田】
ご予約の連絡はお早目にどうぞ!

5月20日:聖霊降臨の主日【東京】

6月3日:御聖体の荘厳祭【東京】

8月18日:デ・ガラレタ司教様:大阪で堅振式
8月19日:デ・ガラレタ司教様:東京で堅振式


ではよい四旬節をお過ごしください。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

大阪でのミッション、ありがとうございました。
御ミサ、告解だけでなく、憐みを乞い求めるために御聖体降福式までして挙行して頂き本当にありがとうございました。
神父様の大きな犠牲の上に成り立っている日本での聖ピオ十世会の活動に、私達はどれ程感謝しなければならないかと、緊張する世界情勢を見てつくづく思いました。
ミサの報告をお送りいたします。

2月16日(金)四旬節の平日のミサには15名が
2月17日(土)同ミサには13名の方々が御ミサに与るお恵みを頂きました。デオグラチアス!

金曜日のお説教で、この日の聖福音の解説と黙想をして頂きました。
七旬節から段階を経て四旬節の準備をしてきたつもりでしたが、なぜかわかりませんが四旬節に突入した途端に自分のみじめさに押しつぶされそうで、良く四旬節を過ごす自信もなくなり、一体どうしたものかと気分は落ち込むばかりでした。

しかし、お説教を聞いて大きな慰めと希望を頂くことができ、イエズス様に舟に乗って頂いて天国まで連れて行って頂くために頑張る勇気を持つことができました。聖福音に隠されているメッセージをひとつ、ひとつ教えて頂くごとに天主様の深い愛と憐みをうまく言えませんが大雨を受けているように感じます。

土曜日の御ミサの後のご聖体降福式ではゲッセマニの園でのイエズス様とマリア様の御苦しみの黙想をして頂き、罪の邪悪さ、汚なさが招くイエズス様とマリア様の聖心への酷い仕打ちを改めて思い、深く反省いたしました。

ゲッセマニでのイエズス様の三つの大きな御苦しみをマリア様も霊的に共有されていたという事が新しい黙想の助けとなりました。次の初土曜日のテーマはここに絞ろうと思います。

灰の水曜日に受けることが出来なかったので、御ミサのあと、聖灰を受ける式がありました。
あっという間の人生を終えてチリに帰ってしまうのだから、あっという間のこの世を捨てて永遠の喜びのために戦えと、
善と悪との霊戦の渦中にあちらこちらで燃え上がる火の中から拾った灰を額に頂いたような気がしました。

至聖なるイエズスの聖心我らを憐み給え
聖母の汚れなき御心よ我らのために祈り給え

【報告】
+Ave Maria! Immaculata!

大阪でのミッションをありがとうございました!
お説教と御聖体降福式での苦しみの第一玄義の黙想は
本当に心に染みとおり、突き刺さりました。ありがとうございます!


【報告】【東京】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 24人(内、子供3人)
女: 27人(内、子供2人)
計: 51人(内、子供5人)


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

今日はありがとうございました。
聖体降福式は本当にとてもよかったです。
素晴らしかったです。
長時間で大変お疲れになられましたことと思います。
どうぞよろしくお願いいたします。
聖マリアの汚れなき御心のうちに!

【報告】
Dear Fr Onoda,
おはようございます(^。^)そして、いつもありがとうございます(^_^)
聖体降福式では、みなさん声を一つに、良く歌っていらっしゃり、その厳かな雰囲気が今回とても印象に残りました(^O^)/
今日も東京は寒いので、マニラとの温度差に気を付けてくださいね〜(^_^)
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トリエント公会議の第22総会の決議文:ミサ聖祭についての教義:1562年9月17日

2018年02月19日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様にトリエント公会議の第22総会の決議文をデンツィンガーの番号に従ってご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

Doctrina de ss. Missae sacrificio ミサ聖祭についての教義
1738 937a Sacrosancta oecumenica et generalis Tridentina Synodus..., ut vetus, absoluta atque omni ex parte perfecta de magno Eucharistiae mysterio in sancta catholica Ecclesia fides atque doctrina retineatur et in sua puritate, propulsatis erroribus atque haeresibus, conservetur: de ea, quatenus verum et singulare sacrificium est, Spiritus Sancti illustratione edocta, haec, quae sequuntur, docet, declarat et fidelibus populis praedicanda decernit. 1738(937a)聖霊によって合法的に召集されたこの聖なるトレント公会議は……聖なるカトリック教会において、この偉大な聖体の秘跡に関する古代からの信仰を完全に守り、誤謬と異端を排斥して教義をけがれなく守るために、聖体の秘跡が真の唯一のいけにえであることを聖霊の光によって教えられて、次に述べることを教え、宣言し、信徒に教えるべきであると決定する。
Cap.1. 'De institutione sacrosancti Missae sacrificii' 第1章 ミサ聖祭の制定について
1739 938 Quoniam sub priori Testamento (teste Apostolo Paulo) propter Levitici sacerdotii imbecillitatem consummatio non erat, oportuit (Deo Patre misericordiarum ita ordinante) sacerdotem alium "secundum ordinem Melchisedech" (Gen 14.18; Ps 109.4; Heb 7.11) surgere, Dominum nostrum Jesum Christum, qui posset omnes, quotquot sanctificandi essent, consummare (Heb 10.4) et ad perfectum adducere. 1739(938)使徒パウロによれば、旧約時代にはレビ族の司祭職は完全なものでなかったため、慈悲深い父である天主の計画によって、メルキセデクの位にひとしい他の司祭を立てる必要があった(創世記14・18;詩編109・4;ヘブライ7・11)。それがすなわち、私たちの主イエズス・キリストであって、キリストは「聖化すべきすべての人々を完全なもの」(ヘブライ10・14)にすることができた。
1740 938 Is igitur Deus et Dominus noster, etsi semel seipsum in ara crucis, morte intercedente, Deo Patri oblaturus erat, ut aeternam illis (illic) redemptionem operaretur: quia tamen per mortem sacerdotium exstinguendum non erat (Heb 7:24, 27), in Coena novissima, "qua nocte tradebatur" (Cor1 11:13),  ut dilectae sponsae suae Ecclesiae visibile (sicut hominum natura exigit) relinqueret sacrificium, quo cruentum illud semel in cruce peragendum repraesentaretur ejusque memoria in finem usque saeculi permaneret, atque illius salutaris virtus in remissionem eorum, quae a nobis quotidie commituntur, peccatorum applicaretur: "sacerdotem secundum ordinem Melchisededch se in aeternum" (Ps 109.4) constitutum declarans, corpus et sanguinem suum sub speciebus panis et vini Deo Patri obtulit ac sub earundem rerum symbolis Apostolis (quos tunc Novi Testamenti sacerdotes constituebat), ut sumerent, tradidit, et eisdem eorumque in sacerdotio successoribus, ut offerent, praecipit per haec verba: "Hoc facite in meam commemorationem", etc. (Lc 22:19; Cor1 11:24), uti semper catholica Ecclesia intellexit et docuit (can. 2.). 1740私たちの天主であり、主であるキリストは、十字架の祭壇の上で死に、「一度で永久に」(ヘブライ10・14)父である天主に自分をささげて、救いのわざを完成した。しかしキリストの司祭職は死によって消去るものではなかったので(ヘブライ7・24、27)、敵の手に渡される夜(1コリント11・13)、最後の晩さんにおいて、自分の愛する花嫁である教会に目に見える供え物を残したのである(人間のためにはこれが必要であった)(第1条)。この供え物によって、十字架上で一度血を流してささげたものが表わされ、その記憶が世の終りまで続き(1コリント11・23以下)、その救いの力によってわれわれが毎日犯す罪が赦されるのである。キリストは「メルキセデクの位にひとしい永遠の司祭」(詩編109・4)であると宣言して、自分の体と血をパンとブドー酒の形色のもとに父である天主にささげた。そして、使徒たちを新約の司祭として制定し、パンとブドー酒の形色のもとに拝領するように自分の体と血を与えた。使徒たちとその後継者たる司祭職に、「私の記念としてこれを行え」(ルカ22・19;1コリント11・24)という言葉で、それをささげるように命じた。これはカトリック教会が常に理解し、教えてきたことである(第2条)。
1741 938 Nam celebrato veteri Pascha, quod in memoriam exitus de Aegypto multitudo filiorum Israel immolabat (Ex 12.1ss), novum instituit Pascha, se ipsum ab Ecclesia per sacerdotes sub signis visibilibus immolandum in memoriam transitus si ex hoc mundo ad Patrem, quando per sui sanguinis effusionem nos redemit "eripuitque de potestate tenebrarum et in regnum suum transtulit" (Col 1:13). 1741イスラエルの子たちがエジプトからの脱出の記念としてささげた旧約の過越(出エジプト記12・1以下)を祝った後、キリストは新しい過越の祭を制定した。キリストは自分がこの世から父の所に移る時、自分の血を流すことによってわれわれを救い、「闇の権力から救い出し、自分の国に・移した」(コロサイ1・13)。キリストはその記念として、目に見えるしるしのもとに、教会において司祭たちによって自分をささげるのである。
1742 939 Et haec quidem illa munda oblatio est, quae nulla indignitate aut malitia offerentium inquinari potest, quam Dominus per Malachiam nomini suo, quod magnum futurum esset in gentibus, in omni loco mundam offerendam praedixit (Mal 1:11), et quam non obscure innuit Apostolus Paulus Corinthiis scribens, cum dicit, non posse eos, qui participatione mensae daemoniorum polluti sint, mensae Domini participes fieri (Cor1 10:21), per mensam altare utrobique intelligens. Haec denique illa est, quae per varias sacrificiorum, naturae et Legis tempore (Gen 4:4; 8:20; 12:8,22; ex: passim), similitudines figurabatur, utpote quae bona omnia per illa significata veluti illorum omnium consummatio et perfectio complectitur. 1742(939)清い供え物が、それを供える者の側からの欠点または罪悪によってけがされることができない。この供え物は、主がマラキア預言者を通じて予告したものであり、諸国民の間で偉大な主の名に、主の名のためにささげられる(マラキア1・11参照)。使徒パウロもコリント人に書き送った手紙の中で、この供え物について述べている。すなわち、悪魔の食卓に列席してけがれた者は、主の食卓に列席することはできないと。食卓という時、パウロは祭壇をさしている(1コリント10・21参照)。この供え物は、自然と律法の時代には、種々のささげ物によって予型とされた(創世記4・4;8・20;12・8;12・22;出エジプト記随所参照)。この供え物は、昔のささげ物によって示されていた善の実現と完成であり、それらすべてを含んでいる。
Cap.2. 'Sacrificium visibile esse propitiatorium pro vivis et defunctis' 第2章 ミサ聖祭が生者と死者のための真の贖罪の供え物である
1743 940 Et quoniam in divino hoc sacrificio, quod in Missa peragitur, idem ille Christus continetur et incruente immolatur, qui in ara crucis "semel seipsum cruente obtulit" (Heb 9.14,27): docet sancta Synodus, sacrificium istud vere propitiatorium esse (can.3), per ipsumque fieri, ut, si cum vero corde et recta fide, cum metu ac reverentia, contriti ac paenitentes ad Deum "accedamus, misericordiam consequamur et gratiam inveniamus in auxilio opportuno" (Heb 4.16). Hujus quippe oblatione placatus Dominus, gratiam et donum paenitentiae concedens, crimina et peccata etiam ingentia dimittit. Una enim eademque est hostia, idem nunc offerens sacerdotum ministerio, qui se ipsum tunc in cruce obtulit, sola offerendi ratione diversa. Cujus quidem oblationis (cruentae, inquam) fructus per hanc incruentam uberrime percipiuntur: tantum abest, ut illi per hanc quovis modo derogetur (can.4). Quare non solum pro fidelium vivorum peccatis, poenis, satisfactionibus et aliis necessitatibus, sed et pro defunctis in Christo, nondum ad plenum purgatis, rite juxta Apostolorum traditionem offertur (can. 3). 1743(940)ミサにおいて行われるこの神的ないけにえの中に、十字架の祭壇上で血を流して自分自身を天主にささげた(ヘブライ9・27)その同じキリストが現存し、血を流さずに自分自身をささげている。したがって、聖なる公会議は次のことを教える。すなわち、ミサ聖祭は真に贖罪の供え物である(第3条)と。われわれが真心と正しい信仰、畏敬の念と痛悔と償いの心をもって天主に近づくならば、「適切な時に慈悲を受け、恩恵を見出すようになる」(ヘブライ4・16)であろう。なぜなら、この供え物によってなだめられた主は、悔改めの恩恵とたまものを与え、どのように重い大罪さえも赦すからである。すなわち、ささげものは同一である。あの時自分を十字架の上でささげたキリストが、今司祭の役務を通してささげているからである。違うのはささげ方だけである。事実、この無血の供え物によって、十字架上の(流血の)ささげものの成果を非常に豊かに受けることができる。しかし、このささげもの(ミサ)によって十字架上のいけにえがどのような形でも価値を失うのではない(第4条)。そのため、このいけにえは、生きている者の罪や罰の赦しのため、または罪の償いのため、またはその他の必要のためだけでなく、使徒たちの伝承からも明らかなように、キリストの恩恵の状態で死んだが、まだ完全に清められていない霊魂のためにもささげられるのである(第3条)。
Cap. 3. De Missis in honorem Sanctorum 第3章 聖人崇敬のミサについて
1744 941 Et quamvis in honorem et memoriam Sanctorum nonnullas interdum Missas Ecclesia celebrare consueverit, non tamen illis sacrificium offerri docet, sed Deo soli, qui illos coronavit (can. 5). Unde 'nec sacerdos dicere solet: Offero tibi sacrificium, Petre et Paule', sed, Deo de illorum victoriis gratias agens, eorum patrocinia implorat, 'ut ipsi pro nobis intercedere dignentur in caelis, quorum memoriam facimus in terris'. 1744(941)時々、聖人の崇敬と記念のためにミサをささげることは教会の習慣であるが、聖人にではなく、彼らに冠を与えた天主だけにいけにえをささげると教会は教える(第5条)。したがって司祭は、「私はこのいけにえを、ペトロとパウロにささげる」注1とは言わず、聖人に勝利を与えた天主に感謝し、「地上において聖人を記念する時、聖人が天国において、私たちのために祈るように彼らの・援助を願うのである」注2。
Cap. 4. Utrum missam celebrare conveniet 第4章 ミサ典文について
1745 942 Et cum sancta sancte administrari conveniat, sitque hoc omnium sanctissimum sacrificium: ecclesia catholica, ut digne reverenterque offerretur ac perciperetur, sacrum canonem multis ante saeculis instituit, ita ab omni errore purum (can.6), ut nihil in eo contineatur, quod non maxime sanctitatem ac pietatem quandam redoleat mentesque offerentium in Deum erigat. Is enim constat cum ex ipsis Domini verbis, tum ex Apostolorum traditionibus ac sanctorum quoque Pontificum piis institutionibus. 1745(942)聖なるもの、特にすべてにまさって聖なるいけにえを敬虔に取扱わなければならない。このいけにえが、ふさわしい方法で尊敬をもってささげられ受取られるように、カトリック教会は何世紀も以前に聖なる典文を制定した。この典文は、あらゆる誤謬からまぬがれ(第6条)、聖性と信心に反するもの、いけにえをささげる者の心を天主にまで高めないものを含んでいない。典文は主のことば、使徒たちの伝承、聖なる教皇たちの教訓から成立っているからである。
Cap. 5. "De solemnibus Missae sacrificii caeremoniis" 第5章 盛式ミサ聖祭について
1746 Cumque natura hominum ea sit, ut non facile queat sine adminiculis exterioribus ad rerum divinarum mediattionem sustolli, propterea pia mater Ecclesia ritus quosdam, ut scilicet quaedam submissa voce (can. 9), alia vero elatiore in Missa pronuntiarentur, instituit; caeremonias item adhibuit (can. 7), ut mysticas benedictiones, lumina, thymiamata, vestes aliaque id genus multa ex apostolica disciplina et traditione, quo et majestas tanti sacrificii commendaretur, et mentes fidelium per haec visibilia religionis et pietatis signa ad rerum altissimarum, quae in hoc sacrificio latent, contemplationem excitarentur. 1746(943)人間性は外的なことがらの助けなしに、天主について黙想することを困難に感じる。そのため、聖なる教会はミサの儀式の一部を低い声で(第9条)、一部を高い声でとなえるように規定した。さらに教会は種々の儀式に関する規定をもうけた。たとえば、使徒たちの規律および伝承から受継いだ聖なる祝福、ローソク、香、祭服、その他のものを利用してきた。これらのものはすべて、いけにえの偉大さを示し、宗教と信心の目に見える物を通じて、このいけにえに隠れて内在することがらの観想に信者の心を向けるためである。
Cap. 6. De Missa, in qua solus sacerdos communicat 第6章 司祭だけが聖体拝領するミサについて
1747 944 Optaret quidem sacrosancta Synodus, ut in singulis Missis fideles adstantes non solum spirituali affectu, sed sacramentali etiam Eucharistiae perceptione communicarent, quo ad eos sanctissimi huius sacrificii fructus uberior proveniret; nec tamen, si id non semper fiat, propterea Missas illas, in quibus solus sacerdos sacramentaliter communicat, ut privatas et illicitas damnat (can. 8), sed probat atque commendat, si quidem illae quoque Missae vere communes censeri debent, partim quod in eis populus spiritualiter communicet, partim vero, quod a publico Ecclesiae ministro non pro se tantum, sed pro omnibus fidelibus qui ad Corpus Christi pertinent, celebrentur. 1747(944)個々のミサ聖祭において、そこに出席している信徒がただ精神的に聖体を拝領するだけでなく、実際にも拝領して、聖なるいけにえの成果を豊かに受けることを教会会議は望むが、司祭だけが実際に聖体拝領をするミサ聖祭を不法であるというのではない(第8条)。むしろこれに同意を与え、さらにこれを勧めるものである。このようなミサ聖祭の場合も私誦ミサではなく、真に教会の祭儀である。信徒たちは精神的に聖体を拝領し、司祭はまた自分一人のためだけでなく、キリストの神秘体に属するすべての信徒のためにそのミサを奉献するからである。
Cap. 7. De aqua in calice offerendo vino miscenda 第7章 カリスの奉献の時にブドー酒に水を混ぜること
1748 945 Monet deinde sancta Synodus, praeceptum esse ab Ecclesia sacerdotibus, ut aquam vino in calice offerendo miscerent (can. 9), tum quod Christum Dominum ita fecisse credatur, tum etiam quia e latere eius aqua simul cum sanguine exierit (Jo 19, 34), quod sacramentum hac mixtione recolitur. Et cum 'aquae' in Apocalypsi beati Joannis populi dicantur (Apc 17, 1 15), ipsius populi fidelis cum capite Christo unio repraesentatur. 1748(945)次に、聖なる公会議は、司祭がカリスを奉献する時にプドー酒に水を混ぜることは教会の掟であると勧告する(第9条)。これはキリストが行ったと信じられているし、またキリストの脇腹から血と水とが流れ出た(ヨハネ19・34)からであり、この混合によって、聖なる秘義が思い起されるからである。また、聖ヨハネの黙示録によれば「水」は「人々」であり(黙示録17・1、5)、信ずる民とかしらであるキリストとの一致の象徴である。
Cap 8. De Missa vulgari lingua passim non celebranda, et mysteriis eius populo explicandis 第8章 到る所で自国語のミサを挙行しないこと、またミサの秘義を信者に説明すること
1749 946 Etsi Missa magnam contineat populi fidelis eruditionem, non tamen expedire visum est Patribus, ut vulgari passim lingua celebraretur (can. 9). Quamobrem, retento ubique cuiusque ecclesiae antiquo et a sancta Romana Ecclesia, omnium ecclesiarum matre et magistra, probato ritu, ne oves Christi esuriant, neve 'parvuli panem petant et non sit, qui frangat eis' (cf. Thr 4, 4): mandat sancta Synodus pastoribus et singulis curam animarum gerentibus, ut frequenter inter Missarum celebrationem vel per se vel per alios, ex his, quae in Missa leguntur exponant atque inter cetera sanctissimi huius sacrificii mysterium aliquod declarent, diebus praesertim Dominicis et festis. 1749(946)ミサは信者にとって大きな教育的価値を含んでいるが、到る所で自国語のミサを挙行することは教父たちの望むことではない(第9条)。そのため、すべての教会の母であり教師である聖なるローマ教会が昔から認めている儀式を全地方の教会で守らなければならない。そしてキリストの羊たちの喉が渇かないように、「子供たちがパンを求めても、それをさいてやる者がない」(エレミヤ哀歌4・4参照)ということがないように、この聖なる公会議は、すべての霊魂の司牧者に次のことを命令する。ミサ聖祭中に自分自身で、または他の人によって、ミサ中に朗読したことについて説明し、特にこの聖なるいけにえの秘義について説明すること。特に主日と守るべき祝日においてそうしなければならない。
1750 947 Quia vero adversus veterem hanc in sacrosancto Evangelio, Apostolorum traditionibus sanctorumque Patrum doctrina fundatam fidem hoc tempore multi disseminati sunt errores, multaque a multis docentur et disputantur: sacrosancta Synodus, post multos gravesque his de rebus mature habitos tractatus, unanimi patrum omnium consensu, quae huic purissimae fidei sacraeque doctrinae adversantur, damnare et a sancta Ecclesia eliminare per subjectos hos canones constituit. 1750(947)最近、多くの者が、聖なる福音書、使徒たちの伝承、聖なる教父たちの教説に基づいた古くからの信仰に反対する誤謬を流布し、多くのことが多くの者によって教えられ、論争されている。聖なる公会議は、これらの問題について慎重に検討した結果、全教父の賛同を得て、純粋な信仰と聖なる教義に反することがらを排斥し、聖なる教会から排除するため、次の諸規定をもうけた。
Canones de ss. Missae sacrificio ミサ聖祭についての規定
1751 948 Can. 1. Si quis dixerit, in Missa non offerri Deo verum et proprium sacrificium, aut quod offerri non sit aliud quam nobis Christum ad manducandum dari: an. s. 1751(948)1条。ミサにおいて真実の供え物が天主にささげられないとか、これをささげるのはわれわれにキリストを食べさせるためだけであると言う者は排斥される。
1752 949 Can. 2. Si quis dixerit, illis verbis: 'Hoc facite in meam commemorationem' (Jo 22, 19; 1 Cor 11, 24), Christum non instituisse Apostolos sacerdotes, aut non ordinasse, ut ipsi aliique sacerdotes offerrent corpus et sanguinem suum: an. s. (cf. DS 1740). 1752(949)2条。「私の記念として、これを行え」(ルカ22・19;1コリント11・24)という言葉によって、キリストは使徒たちを司祭としたのではなかったとか、使徒たちと他の司祭たちが、自分の体と血をささげるように定めたのでもないと言う者は排斥される(DzS1740参照)。
1753 950 Can. 3. Si quis dixerit, Missae sacrificium tantum esse laudis et gratiarum actionis, aut nudam commemorationem sacrificii in cruce peracti, non autem propitiatorium; vel soli prodesse sumenti; neque pro vivii et defunctis, pro peccatis, poenis, satisfactionibus et aliis necessitatibus offerri debere: an. s. (cf. DS 1743). 1753(950)3条。ミサのいけにえはただ賛美と感謝のためであるとか、あるいは十字架上で行われたいけにえの単なる記念であって、罪の償いのためでないとか、あるいは拝領する者だけの利益になるものであって、生存者と死者のため、罪、罰、償いその他の他の必要のためにささげられるべきでないと言う者は排斥される(DzS1743参照)。
1754 951 Can. 4. Si quis dixerit, blasphemiam irrogari sanctissimo Christi sacrificio in cruce peracto per Missae sacrificium, aut illi per hoc derogari: an. s. (cf. DS 1743). 1754(951)4条。ミサ聖祭は、キリストが十字架上でささげた聖なるいけにえに対して冒涜を加えるものであるとか、十字架のいけにえはミサのいけにえによって廃止されると言う者注は排斥される(DzS1744参照)。
1755 952 Can. 5. Si quis dixerit, imposturam esse, Missas celebrari in honorem Sanctorum et pro illorum intercessione apud Deum obtinenda, sicut Ecclesia intendit: an. s. (cf. DS 1744). 1755(952)5条。聖人の崇敬のためと天主に彼らの取次ぎを願うためにミサをささげることを教会は望んでいるが、これは詐欺であると言う者は排斥される(DzS1744参照)。
1756 953 Can. 6. Si quis dixerit, canonem Missae errores continere ideoque abrogandum esse: an. s. (cf. DS 1745). 1756(953)6条。ミサの典文は誤りを含んでいるので、廃止すべきであると言う者は排斥される(DzS1745参照)。
1757 954 Can. 7. Si quis dixerit, caeremonias, vestes et externa signa, quibus in Missarum celebratione Ecclesia catholica utitur, irritabula impietatis esse magis quam officia pietatis: an. s. (cf. DS 1746). 1757(954)7条。カトリック教会がミサ聖祭の時に使う儀式、祭服、外的なしるしは、信心の助けになるどころか、不敬の念を超させるものである、と言う者は排斥される(DzS1746参照)。
1758 955 Can. 8. Si quis dixerit, Missas, in quibus solus sacerdos sacramentaliter communicat, illicitas esse ideoque abrogandas: an. s. (cf. DS 1747). 1758(955)8条。司祭だけが聖体の秘跡を拝領するミサは不法であるから廃止すべきである、と言う者は排斥される(DzS1747参照)。
1759 956 Can. 9. Si quis dixerit, Ecclesiae Romanae ritum, quo submissa voce pars canonis et verba consecrationis proferuntur, damnandum esse; aut lingua tantum vulgari Missam celebrari debere; aut aquam non miscendam esse vino in calice offerendo, eo quod sit contra Christi institutionem: an. s. (cf. DS 1746 1748 s). 1759(956)9条。低い声で(ミサの)典文と聖変化の言葉をとなえるローマ教会の儀式は排斥すべきであるとか、自国語だけでミサをささげるべきであるとか、奉献の時にカリスのブドー酒に水を混ぜることはキリストの制定に反することであるからそうすべきでない、と言う者は排斥される(DzS1746、1748~1749参照)。
1760 Insuper cum eadem sacrosancta Synodus superiori sessione duos articulos alias propositos et tum nondum discussos, videlicet: - An rationes, quibus sancta catholica Ecclesia adducta fuit, ut communicaret laicos atque etiam non celebrantes sacerdotes sub una panis specie, ita sint retinendae, ut nulla ratione calicis usus cuiquam sit permittendus, - et: An, si honestis et christianae caritati consentaneis rationibus concedendus alicui vel nationi vel regno calicis usus videatur, sub aliquibus condicionibus concedendus sit, et quaenam illae sint, in aliud tempus, oblata sibi occasione, examinandos atque diffiniendos reservaverit: nunc eorum, pro quibus petitur, saluti optimum consultum volens, decrevit, integrum negotium ad Sanctissimum Dominum esse referendum prout praesenti decreto refert; qui pro sua singulari prudentia id efficiat, quod utile rei publicae christianae et salutare petentibus usum calicis fore iudicaverit. 1760さらに、聖なる教会会議は、第21総会に提出されたが、まだ討論されなかった次の2条項を、他の適当な機会に討議し、決定すべきものとして保留した。a)信徒およびミサを挙行していない司祭は、パンの形色だけによって聖体拝領するという聖なるカトリック教会に導入された習慣を保存し、カリスから血の拝領を絶対に許してはならないか。b)特定の民族あるいは領地に、キリスト教的愛に合致する理由から特定の条件のもとに血の拝領を許すがこの条件は何であるか。この申請に最善の解決を与えるため、公会議は、この問題の最終的解決を教皇にゆだねることを決定した。教皇は、キリスト教社会のためと、血の拝領を申請する者のためを考慮した上で判断をくだすであろう。
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内的生活は、事業の失敗から起こる失望・落胆にたいしての有力なタテである。【ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」】

2018年02月19日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第三部 内的生活が善徳への進歩を保証してくれなければ活動的生活はむしろ危険である
三、福音の働き手の聖性 ―― その土台は内的生活である(続き4)
 をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



第三部 内的生活が善徳への進歩を保証してくれなければ、活動的生活はむしろ危険である
三、福音の働き手の聖性 ―― その土台は内的生活である(続き4)


(F)内的生活は、事業の失敗から起こる失望・落胆にたいしての有力なタテである。

 「およそ、天主が一つの事業を、ことごとくご自分のものにしようとおぼし召しされるとき、天主はまず、すべてを無為無能に、すべてを壊滅に帰せしめる。それがすんでからはじめて、ご自身イニシャチブをとって、お働きになるのである」 
Lorsque Dieu veut qu'une oeuvre soit toute de sa main, il réduit tout à l'impuissance et au néant, puis il agit.

 これは、ボスエ司教の有名な言葉だが、この文句は、使徒職の魂がなんであるかをさとっていない使徒にとっては、全く不可解である。

 傲慢にもまして、天主の尊厳を傷つけるものはない。ところで、われわれは、事業に成功しようとあせるのあまり、そのために純潔な意向を欠いで、われわれ自身を、事業の原因であり、同時に終局であるべき天主の玉座まで、高く祭り上げることがある。これは、あきらかに、一種の偶像崇拝であって、天主のお怒りにふれること、はなはだしい。
Bien ne blesse Dieu comme l’orgueil. Or, dans la recherche du succès, nous pouvons, faute de pureté d’intention, en arriver à nous ériger en une sorte de divinité, principe et fin de nos oeuvres. Dieu a en horreur cette idolâtrie. Aussi lorsqu’il voit l’activité de l’apôtre manquer de cette impersonnalité que sa gloire exige de la créature, il laisse parfois le champ libre aux causes secondes, et l’édifice ne tarde pas à s’écrouler.

 天主は被造物から、光栄を要求する権利がある。事業の遂行におけるこの光栄とは、使徒が、“おのれ”を、おのれの光栄を、無に帰して、ひたすら天主の光栄のみを、追及することである。もし使徒が、没我の精神を欠いだために、この光栄をご自分に帰しないのをごらんになるとき、天主はしばしばその事業を見放して、ただそれに従事する人の自力のみに一任されることがある。そうなると、事業はながくたたないで、しぜんに消滅する。
 福音の働き手が、ここにある。
 活動家である。頭もいい。熱心でもある。
 生来の熱烈な気性を、いかんなく発揮して、いさましく事業に着手する。
 そして、かがやかしい成功を収めたとしよう。
 かれはスッカリ成功の美酒に酔いしれて、有頂天になる。ウヌぼれる。
 うまくやったものだ! これこそは、わたし自身の事業だ、わたし自身の! Veni, Vidi, Vici ! わたしは来た、見た、勝った!
 シーザーの有名なこの言葉を、おのれに当てはめて、かれは得意になっている。
 だが、威張るのは、ちょっと待った。
 天主のお許しで、これこれの事件が、かれのうえに起こった。悪魔が、または世間が、直接間接、これこれのいたずらを、かれの事業に、かれの身に、しかけてきた。
 さあ、たいへん! 事業は壊滅だ。
 だが、いっそう残念なのは、かれの内心にひきおこされた荒廃だ。
 きのうの勇士の面影はどこへやら、かれはスッカリ意気消沈、落胆しきっている。
 成功の喜びが大きかっただけに、失望もまた、いっそう深刻なのである。
 地上に残骸をよこたえたかれの事業、敗残者のかれ自身――これを助け起こしうる者は、いったいだれなのか。
 ただイエズス・キリストだけである。
 聖主は、人生の惨敗者なるかれにむかって、こう仰せられる。
 「勇気をふるいおこして、立ち上がれ。一人でやるから、失敗するのだ。こんど、仕事をするときは、わたしとともに、わたしによって、わたしにおいて、するがよい!」

 力づよくも、心やさしい、主のみ声よ!
 だが、不幸なかれには、このみ声がききとれない。
 霊魂はひどく、軽率になっている。
 主のみ声がききとれるためには、恩寵の奇跡が必要なのだ。
 だが、恩寵の奇跡も、天主にしばしば不忠実を重ねてきたかれに、どうしてそれを乞い求める権利があるだろうか。
 天主は全能である、その摂理も全能である、とは心で信じている。
 だが、その信念は、あまりにもろい。
 この敗残の使徒は、あたかも溺れかかった人が、一本のわらくずにしがみつくように、このもろい、そこはかとなき信念に、最後の逃れ場をもとめるけれども、それがなんになろう。ひっきりなしに襲いかかる悲しみの津波を、防ぎ止めてはくれないのだ!
 ほんとうの使徒の姿は、これとは全然ちがう。
 かれの理想は、天主の人イエズス・キリストを、おのれのうちに再現することにある。
 かれにとって、祈りときよらかな生活は、天主のみ心にたいして、人びとの心にたいして、働きかけることのできる二大手段なのである。
 むろん、かれは、いかなるぎせいも惜しまない大きな心をもって、仕事に身をゆだねはするだろう。
 だが、成功の幻影を、追おうとはしない。
 それは、まことの使徒にとって、ふさわしくないことだ、と信じているからである。
 試練のあらしがやってきても、平気だ。
 かれは、それを生みだした第二次原因にかんしては、全然無関心である。
 うず高く積みかさねられた事業の残骸のさなかにあって、かれはイエズス・キリストをただ一人、おのが友として、再建に着手するのだ。そして、心の中では、かのゲネザレトの湖上、恐怖にうちふるえている弟子たちに、「おそれるな、わたしだ!」と仰せられて、かれらに平和と安心をお返しくださった聖主の、そのおなじみ声をきくのである。
 試練のあらしが過ぎ去ると、みごとな成果が現われる。
 聖体にたいするかれの信心には、新しい飛躍が見られる。
 聖母の七つの悲しみにたいする信心も、あらたな熱をおびる。
 かれの霊魂は、事業の不成功にうちひしがれる代わりに、かえって若返って、試練のルツボから出てくる。
 霊魂は、「ワシのように若返って、あらたになる」(詩篇102・5)
 失敗を喫しながら、かえって、勝利者の気持ちである。
 しかも、謙遜の態度を失わない。
 これは、いったい、どこからくるのだろうか。
 イエズスとの一致の生活から、くるのである。
 イエズスの全能にたいする、ゆるぎない信頼心からくるのである。
 これ以外の処に、その秘訣をさがしてはならぬ。
 これが、聖イグナチオをして、次のようにいわせたゆえんでもある。
 「もし、わたしの過失でなしに、イエズス会が、解散させられるようなことでもありましたら、天主様とおはなしするために、十五分間もございましたら、わたしはりっぱに、心の平静と深い平和をとりもどせましょう……」

 さらに、アルスの聖司祭も、これと同じようなことをいっている。
 「内的な人は、屈辱と苦悩のさなかにありましても、あたかも海底に沈んでいる厳石のように、心はすこしも動揺しません。」

 実際の話、使徒はさんざん苦労する。せっかくの努力も水泡に帰し、せっかくの事業も壊滅にひんするときがある。あげくの果ては、自分の司牧する信者の中から、教えを離れる者が続出する。これは真の使徒にとって、実に、はらわたを断つ悲しみだが、しかしかれは、いつまでも泣いてはいない。すぐに心をとりなおし、熱心をふるいおこして、また初めからやりなおすのである。
 かれは知っている――キリストがもたらされた人類救済の事業は、それが個々の霊魂に適用されて効果を生じるためには、どうしても、とりわけ苦しみによって行われねばならぬ大事業であることを。で、かれはけっして、くよくよしない。むしろ、よろこんで耐え忍んだ試練こそは、自分を善徳に進歩させてくれるのだ、また、天主にいっそう大きな光栄を帰せるのだ、との確信を、心にもっているのである。
 そして、この強い確信こそが、試練の日に、かれの有力な支柱となるのである。
 かれはまた知っている――自分はただ、それより成功をかりとるタネをまくだけでよい、これ以外には、なにも天主から要求されていないのだ、ということを。ほかの人たちがあとからきて、ゆたかな収穫をあげるだろう。そして、この人たちは、その収穫を、実は自分らのまかなったところからえたのにかかわらず、不当にもこれを、自分らの手柄に帰するでもあろう。
 しかし、「かくれたことを見ておられる天の御父」(マテオ6・4)は、ちゃんとコトの真相を知っておいでになる。ゆたかな収穫は、実は前任者のくるしい労作の成果だったのだ。どんなに働いても、いっこうに収穫のあがらない、ただ苦労だけして死んでいった前任者の、血と汗と涙のおかげだったのだ。涙のうちにタネをまいた者は、自分の事業が失敗だったと思ったろうが、それはただ表面の失敗にすぎなかったのである。
 「そこで、“ひとりがまき、ひとりが刈る“ということわざが、ほんとうのこととなる。わたしは、あなたがたをつかわして、あなたがたがそのために、労苦しなかったものを刈りとらせた。ほかの人びとが労苦し、あなたがたは、かれらの労苦の実にあずかっているのである」(ヨハネ4・37~38)

 聖霊降臨後、使徒たちに成功をかちえさせた者は、イエズス・キリストだった。
 このイエズスは、公生活ちゅう、なにをなされたろうか。
 ただ、タネをまくこと、ただ教訓と模範のタネをまくことだけだった。
 これ以外に、なにもお望みにならなかった。
 ご昇天後、使徒たちは、キリストのそれより、はるかに大きな事業をするだろう。
イエズスは、かれらにそういっておかれた。
 「よくよくあなたがたにいっておく。わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。わたしが、御父のみもとに行くからである」(ヨハネ14・12)
 まことの使徒は、失敗しても、けっして落胆などしない。口先ばかりで、臆病者の使徒だったら、失敗すると、いろいろ愚痴をこぼす。まことの使徒は、そんな無駄話には、耳もかさない。かれの内的生活とイエズスへの信仰が、かれをしてそうさせるのだ。
 かれは、ちょうど、疲れを知らない蜜蜂のように、つれないあらしにさんざん痛めつけられた蜜箱を、元どおり建てなおすのである。
 よろこび、勇んで!

  (第三部 終了)
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2017年11月3日(初金) 失われた人類の唯一の回復方法 「“Ecce venio.” ご覧下さい、私が行きます。」

2018年02月17日 | お説教・霊的講話
2017年11月3日(初金)至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ
小野田神父 説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。

今日は2017年11月3日、11月の初金曜日です。今日いつもの通りに聖時間を、イエズス様の聖心に対して犯される罪を償う奉献をする事に致しましょう。
明日は10時30分からミサがあります。


“Ut possitis comprehendere cum omnibus sanctis,quae sit latitudo,et longitudo,et sublimitas et profundum: scire etiam supereminentem scientiae caritatem Christi.”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日聖パウロの書簡の言葉を一緒に黙想したいと思います。

聖パウロは、「私たちは、イエズス・キリストへの愛徳に根付いて、その上に基礎を置いて、イエズス・キリストの愛が、愛徳が、どれほどその広さと、長さと、深さと、その崇高さがどれほどのものか、私たちが諸聖人と共に理解する事を望む。理解する事ができるように」と叫んでいます。

ちょうど11月1日、一昨日は、凱旋の教会の諸聖人の栄光を見ました。
昨日は苦しみの教会の、煉獄の霊魂たちがイエズス様を至福直感で見たいと、それを待ち望んでいる霊魂たちの為に祈りました。

そこで私たちも諸聖人と共に、一体イエズス様の愛徳の、その深さと、広さと、その崇高さがどれほどのものであるか、
もちろんこれは私たちが天国に行った時に初めて、その巨大な憐れみと愛の深さに、それを本当の姿を知る事になって、私たちはあまりにもその大きさに、巨大さに、ただ何と感謝して良いか、それさえも分からず、永遠でさえも足りないほどと思われて、主の憐れみをただひたすら讃美して、讃美して、永遠に幸せである、これほど私たちを愛して下さる主がおられる、という事を讃美するだけ、諸聖人と共に讃美をして、更にそれでも足りない、毎日が感動と感謝で過ごされる、という永遠の事を思って、私たちも、その永遠の時に私たちに啓示される、私たちが理解するであろうそのイエズス様の憐れみと愛、イエズスの聖心のその愛徳の深さに、少し思いを馳せる事にしましょう。

この愛徳を思いながら、今日聖時間を諸聖人と共に、天国の全ての天使たちと共に、イエズス様の前で、私たちの為に人となりパンとなられたイエズス様の前で、私たちの霊魂に来たり給うイエズス様の前で、礼拝と感謝をする事に致しましょう。

イエズス様はイエズス様の聖心は、永遠の昔から、この地上に人となって住まわれる、私たちと同じ肉体を取って生まれて来る、そして私たちの為にいけにえとなって屠られて、苦しみの内に、辱しめの内に死去なさる、という事を御存知でした。それを知っておられ、その事をしようと思われました。永遠の昔からの聖父の御計画であって、永遠の昔からの聖子の従順の愛の極みの同意でした。

永遠の昔から世々に渡って、その聖心の考えは、私たちを滅びから救い、私たちの霊魂を癒そうという考えでした。ちょうどこれは入祭誦でも歌われている通りです。私たちの事だけを考えていました。御自分を私たちの為に捧げ尽す事だけを考えていました。永遠の昔から、御自分が人間となる、という事を考えておられました。

聖パウロによると、ヘブライ人への手紙の中に10章の7節に、「この世に来る時にイエズス様はこう言った」とあります。「“Ecce venio.”ご覧下さい、私はここにいます。私は来ました。」イエズス様は永遠の昔から、この言葉を聖父に言っていました、「ご覧下さい、私がここにいます。私が人となります。私を失われた人類の為に使って下さい。」
三位一体は、人類が罪を犯してそれを、天主の愛の計画を壊してしまうという事を知っていましたが、やはり三位一体はそれを回復する方法をも知っていました。

イエズス様が御自分が「ここにいる」と言ったのは理由があります。

なぜかというと、人類が天主に対して犯した罪は、 無限の邪悪さがあるからです。罪というのは、天主に対して犯した罪は、償うには、天主が無限の聖性を持っておられる方であるので、その犯された罪は無限の悪が、邪悪さが宿っています。したがって天主に対して犯される罪を償う為には、 無限の聖徳が必要でした。無限に聖なる方の償いが必要でした。どのような清い人間が罪を償ったとしても、それは罪を償うには足りませんでした。ましてや人間は原罪を負って生まれている存在です。ですからどのような人間が罪を償っても足りませんでした。原罪が無かったとしても、有限の人間が無限の悪である罪を償う事はできませんでした。天使たちでさえも償う事ができませんでした。どうしても無限の聖徳の持ち主である方が償わなければなりませんでした。しかし天主は、無限の聖徳を持っていますけれども罪を償う事はできません。なぜならば、苦しむ事ができないからです。そこで天主の聖子が、人とならなければなりませんでした。その必要がありました。

あるイギリスの排斥された、その統治の教区の司教が断罪した、「これは違う」と言った、いわゆるメッセージの話を、ちょっと前に私は聞きました。

聞いたのは数ヶ月前ですが、それは既に排斥されていたメッセージでした。(Patricia de Menezes の主張する Divine Innocence と言われるメッセージのこと。Archbishop Kevin McDonald が否定し、教理聖省も否定した。[Observations of the Congregation for the Doctrine of the Faith on the writings of Mrs Patricia De Menezes and the Community of the Divine Innocence])確かに司教様が断罪するにふさわしいものでした。それによると、「堕胎された子供たちは、イエズス様の十字架と同じような所に磔になっていて、その幼子たちのその犠牲は、イエズス様の犠牲ほどのものがある」というような事を言うような「メッセージ」でした。しかしこれはカトリックの信仰と、カトリックの神学と全くかけ離れているものです

たとえどのような聖なる人間であったとしても、人間の罪を償う為には全く足りないのです。ですからそのようなメッセージは、あるいはイエズス様の無限の聖徳についての冒瀆であるか、あるいは胎児がもしかしたら原罪が無いかのように思わせるような、全く罪が無いであるかの事を思わせるような、誤謬であって誤解であって、全くの想像の産物でしかないものでした。

しかし、もしも私たちがイエズス様の聖心の中に深く入って、「イエズス様というのが、天主の本性と全く、イエズス・キリストのペルソナにおいて、人間の本性と天主の本性が全く分ち難く一致している。イエズス・キリスト様は同時に真の天主であり、真の人である。イエズス様の苦しみは無限の価値がある」という事が理解できると、そして「その為に、私たちの為に、無限の功徳を積む為に、天主が、無限の聖性の天主が人となった」という事を理解すると、「その為に人となられた」という事を理解すればするほど、何か雑音のような騒音のような、いわゆるメッセージと言われるものが、全く何でもなく、興味も関心も無くなってしまいます。

その為にこそ、私たちの罪を償う為にこそ、無限の、私たちの知性では知り尽くす事ができない、無限の創造主が、無限の存在である天主が人となられた。これは私たちへの全くの愛の為でした。

その為にイエズス様は、永遠の昔から永遠の今において、天主聖父に言っております、「“Ecce venio.”ご覧下さい、私が行きます。私が人となります。」

イエズス様は人となられた時に初めて、人間として天主聖父に奉仕を捧げる事ができました。天においては聖子は聖父と等しい、全く等しいものです。しかし人間として33年の御生活において、人間としての従順と、天主聖父への奉仕と讃美を捧げました。その頂点が御受難でした。ポンシオ・ピラトはこのイエズス様について言います、「“Ecce homo!”この人を見よ!」

イエズス様が、「聖父よ、ご覧下さい。“Ecce venio.”私が行きます、ご覧下さい」と言ったものをこだまするかのように、ローマの最高皇帝の代理者が、イエズス様に向かって、「この人を見よ。この人間を見よ!」と言います。

イエズス様はその時に、「人」というよりは、「1つの傷」でした。肉体はもう傷だらけになって、茨の冠を被せられ、鞭を全身に打たれ、皮は皮膚はほとんど避けて肉を、そのまま肉を出して、血だらけになって、もう傷のないところは全くないほど傷だらけになっておられました。もしかしたらポンシオ・ピラトは、「この人を見よ!」と言うよりは、「この傷を見よ!」と言った方がよいかもしれません。

これは私たちの為の、天主の子羊として私たちの罪を償う為のものでした。すでに洗者聖ヨハネはイエズス様についてこう予言していました、「“Ecce Agnus Dei” 天主の子羊を見よ」と。

司祭も洗者聖ヨハネと同じ言葉をミサの時に繰り返します、御聖体を持って、「私たちの為にいけにえとなって屠られた、天主の羊を見よ」と。司祭はこの時にもしかしたら、「パンとなった人間、パンとなった天主を見よ」と言うべきなのかもしれませんが、しかし人となった天主、いけにえとなった屠られる天主の子羊、私たちの為にパンとなった天主の御言葉、傷だらけとなった私たちの聖心というのは、全く同一のものです。イエズス様はこの為に、永遠の昔から聖父にこう言っています、「“Ecce venio.”ご覧下さい、私が参ります。」

司祭がパンを御聖体を持って、「天主の子羊を見よ」と言った時に、イエズス様は天主聖父に対して、「私は参ります」と永遠に言い続けています。イエズス様の聖心は天主聖父に従順であり、天主聖父に奉仕する事でした。その為にこのパンとなって、傷だらけとなる事さえも厭いませんでした。その為にこそ人となられたのでした。

それにしても、天主聖父の心とイエズス様の心は瓜一つであります。天主聖父は私たちを救う為に、御自分の御一人子をこの世に与えるほど私たちを愛して下さいました。一体、奴隷を救う為に誰が自分の子供を犠牲にするでしょうか。

天主の御一人子、天主聖父がその為にそこに全く心を寄せる、天主聖父の愛する我が子イエズス・キリスト、そして永遠の知恵であり、永遠の昔からその聖父の喜ぶ事だけをしていた聖子、計り知れない愛をそこから受けていたその聖子、この聖子を犠牲にしてまでも、私たちを救おうとされました。

私たちはどのようなものかといえば、アダムとエヴァの時から被造物として創られて、そして聖父によって養子の子供とされたにもかかわらず、その養子と特別の恵みをすっぽかして、それをその計画を破壊して、罪を犯して、逆らって、その為に私たちはどれほどのものを受けたかという事を、もうそれさえも理解できないものであり、憐れみを受けるに全く値しないものとなりました。

私たちは天主の気に入られる為にいかなる良いところも、功徳も無いものであったにもかかわらず、そして天主を愛する、天主聖父を愛するという事にほとんど関心のない、冷たい冷淡なものであったにもかかわらず、その私たちを救う為に、聖子を犠牲にする事を御望みになりました。

聖パウロはイエズス様の十字架の愚かさについて、イエズス様のその愛の愚かさについて語ります。イエズス様のその私たちを愛するが為に、天主聖父に従順になって、天主聖子は人となられた。そしてそれと同時に天主聖父も、聖子を私たちに与えるほど私たちを愛されました。天主聖父を愛するが為に、私たちを愛するが為に、貧しい馬小屋で生まれる事を、33年間の貧しい貧困での生活も、あるいは十字架での屈辱も、死も、甘んじて喜んで受けたものでした。

私たちはこのイエズス様の愛と、聖父の私たちに対する愛を、少し今垣間見ようとしてみましたが、このイエズス様が人となられた、イエズス様が人となるようにこの世に送られたその天主聖父の愛と、聖子の愛は、私たちは到底理解し尽くす事ができません。無限の聖父のその栄光とその無限の喜び、イエズス・キリストの聖子のその聖父に対する愛、その両者の愛を見ると、そして私たちのあまりにも惨めさを見ると、どうしてそのような事が起こり得たのか、私たちは、永遠に感謝と讃美を捧げるだけしかありません。

今日この初金曜日に、ぜひこの神秘の中に入るお恵みを頂きましょう。マリア様にお祈り致しましょう。マリア様が、「“Fiat.”我は主の婢女なり」と、やはり“Ecce ancilla”と仰って下さったが為に、これが可能になったのですから、マリア様にこれを、その神秘の中に入る御恵みをお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

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内的生活は、使徒職にたずさわる人に、喜びと慰めをあたえる。内的生活は、純潔な意向をさらに純化する。【ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」】

2018年02月16日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第三部 内的生活が善徳への進歩を保証してくれなければ活動的生活はむしろ危険である
三、福音の働き手の聖性 ―― その土台は内的生活である(続き3)
 をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



第三部 内的生活が善徳への進歩を保証してくれなければ、活動的生活はむしろ危険である
三、福音の働き手の聖性 ―― その土台は内的生活である(続き3)

(D) 内的生活は、使徒職にたずさわる人に、喜びと慰めをあたえる

 人生を愉快にし、晴ればれさせるもの――それはただ愛だけである。
 熱烈な、ゆるがない、愛だけである。
 われわれの心が、どれほど大きな悲愁のさなかにあっても、どんなにはげしい疲れのなかにあえいでいても、愛はりっぱにこれを微笑ませる、秘訣を心得ているからである。
 使徒職にたずさわる人の生涯は、苦悩と労苦に織りなされた一生である。
 だからして、もし使徒が、自分はイエズス・キリストに愛されているのだ、との深く強い確信がないなら、たとえかれが自然的に、どんなに明朗活達な性格の持ち主であろうと、その人生には、どれほどの悲しい時があることだろう。不安で憂うつな時が、どれほど多いことだろう。
 そういう暗い時、かれは過ぎゆく地上のはかない事物に、慰安を求めないだろうか。
 待っていました、といわんばかり、地獄の鳥さしなる悪魔が、好餌をたずさえて現われる。
 かれの目のまえに、世間的慰安のパノラマを、ごく上わッつらな成功の栄冠を、鏡にうつして、見せびらかす。そして、無邪気なヒバリにも比すべきこの霊魂を、ひっかかったら最後、どうしても脱けでられないあみのなかにさそい込もうとする。
 ただ天主の人イエズス・キリストだけが、霊魂に、「わたしは、あらゆる患難のなかにあって、喜びに満ちあふれている」(コリント後7・4)との、人間ばなれのした叫びを、口びるにのせることがおできなる。これは、聖パウロの言葉だが、その意味はこうである。

 「深い苦悩にとざされて、霊魂の空は真っ暗だが、霊魂の先端――その最深奥部には、ちょうどゲッセマニの園におけるイエズス・キリストのように、いうにいわれぬ、ある幸福感がただよっている。むろん、この幸福は、すこしも感覚的ではない。だが、それはあまりに真実な幸福である。それで、たとえわたしは、霊魂の下級能力が、死の苦しみにもだえてはいても、この幸福をうしなうよりはむしろ、地上のあらゆる人間的歓喜をぎせいにしたほうが、よほどましである……」

 試練の日がやってくる。他人からの反対が、屈辱が、苦しみが、くびすを接して襲いかかる。地上的善はうしなわれ、愛する人たちからさえも見放される。霊魂は、十字架の重さにたえかねて、うめきごえを発する。だが、回心の初期とは全くちがった気持で、こころよくこの十字架をになう。
 霊魂は、日に日に、愛のうちに成長していく。その愛は、外部には光りを放たないだろう。人目にもつかないだろう。聖主はかれを、強い霊魂として処遇される。そして、日に日に深刻さをましていく自己放棄の道に、かれをみちびいていかれる。贖罪の狭くけわしい小みちを通って、かれをみちびいていかれる。霊魂は、自身の罪のためにも、世の人の罪のためにも、身をこらして、償いをする。それはつらいことだ。だが、そのつらさがなんだろう。かれの愛は、潜心によって深められ、強められている。聖体の秘跡によって、養われている。だからして、ますます成長していく。
 その愛の証拠は、霊魂がおのれをぎせいにし、おのれを全く天主にゆだねてしまう、この惜しみなく寛大な心にある。いかなる苦悩も恐れず、おのれの使徒職の対象となっている人びとの霊魂を救い、これを聖化しようと、その聖業にむかって勇ましく突進させる、この奮発にある。仕事をするときは忍耐づよい。用心に用心をかさねる。機知に富み、同情ぶかく、そしてなによりも熱烈である。これこそは、イエズスのご生命が、かれの全人格を浸透しつくした、なによりの証拠ではないか。
 「キリストが、わたしのうちに、生きておられる」(ガラツィヤ2・20)

 聖体の秘跡は、愛の秘跡である。愛の秘跡は、喜びの秘跡でなければならぬ。霊魂は、聖体にたいする信心がなければ、ほんとうに内的でありえない。聖体は、天主が人類におあたえになった最大の賜ものであるのに、その甘美さを、心から味わいえない。キリストの現存を楽しみえない。おのれの心に持っている、おのれが礼拝するこの天主から、自分が愛されている、との実感を持ちえない。こんな調子では、とうてい内的の人になることができない。

 使徒職にたずさわる人の生涯は、祈りの一生でなければならぬ。
 「ああ、祈りの生活!」アルスの聖司祭は、感きわまって叫んでいる。「ああ、祈りの生活! それは、地上における最大の幸福なのだ!
 ああ、なんと美しい生活! それは、聖主と霊魂の美しい一致の生活だ。
 祈りの幸福を、完全に理解するためには、永遠のながい日も、短かすぎよう。
 内的生活は、霊魂がそのなかにひたる、愛のゆあみである。
 霊魂は、おぼれるほど、愛のあまい水にひたるのだ。
 母が、そのいとし子のあたまを、自分の手のひらに入れて、これをいつくしむように、天主も内的な霊魂を、ご自分の胸にだきかかえて、これにくちづけと愛撫の雨をおふらしになるのだ!」
« La vie de prière, dit le bienheureux Curé d’Ars, voilà le grand bonheur ici-bas. 0 belle vie! belle union de l’âme avec Notre-Seigneur ! L’éternité ne sera pas assez longue pour comprendre ce bonheur... La vie intérieure est un bain d’amour dans lequel l’âme se plonge... Elle est comme noyée dans l’amour... Dieu tient l’âme intérieure comme une mère tient la tête de son enfant dans sa main pour la couvrir de baisers et de caresses. »

 このほかに、喜びはまだある。
 霊魂は、自分がお愛しする御者を、他の人びとにも愛させ、これに仕えさせ、これを尊ばせるために働くことのなかに、いいしれぬ喜びを感じる。
 使徒職にたずさわっている人だったら、これらの喜びを、みんな知っていよう。
 天主への愛をふやし、これをますます燃えたたせるためにこそ、使徒的事業にたずさわっているのではないか。
 愛がふえるのと同時に、喜びも、天上的のなぐさめもふえていく。
 使徒職にたずさわる人――それは、霊魂のハンター(かりうど)である。
 霊魂のハンターの喜びは、どこにあるのか。――自分の働きがなければ、地獄におちるであろう霊魂たちを、永遠の苦しみから救いだすために、救世主に協力することができる。微力ながら、キリストの人類救済の聖業に、寄与することができる。したがって、永遠に、天主から離れねばならなかったであろう人びとの霊魂を、天主にお与えすることによって、天主のみ心を、おなぐさめすることができる。……これは、使徒にとって、大きな喜びでなければならぬ。
 このようにして、自分はこの世では、善業と功徳にますます進歩しているのだ、さらに後の世で自分を待っている、いいしれぬ光栄と幸福を、ますますふやしていっているのだ、使徒的事業によって、その保証を日に日にいっそう強く固めていっているのだ、ということを考えるとき、霊魂のハンターの喜びは、大海原のように、はてしもなく広く深いのである。

(E)内的生活は、純潔な意向をさらに純化する

信仰の人は、ただ外面的に上わッつらな生活をしている人とはちがって、事業というものを、他の観点から、もっと高い次元から、判断する。
 事業が、どんなぐあいに進行しているか、というその表面的な姿よりも、むしろ事業が、天主のご計画において、いかなる役割を果たしているか、また、それが超自然的に、いかなる成果を収めているか――この点にだけ、かれは注目している。
 そんなわけで、自分はただ天主に使われている、一箇のつまらぬ道具にすぎないのだ、とかれは謙遜に考えているので、事業の成功を、もっぱら自分の無能の自覚と、天主への信頼にのみおいている。また、そうであればあるだけ、自分の才能への自信や誇りや愉快が、すこしでも心に浮かんでくると、なにか恐ろしいものでも見たかのように、ぞッとする。
 このようにしてかれは、天主へのおまかせの精神に、定着している。
 事業をやっているあいだに、思わぬ困難が起こってくる。このような困難に対処して、かれはどんな態度をとるか。――同じ使徒といっても、イエズスとの親しいむつみに生きている内的な人と、そうでない人とのあいだには、そこに無限の差遺が見いだされる。内的なかれにおいて、天主へのこのおまかせの精神は、事業への熱心を、すこしも減らしはしない。なるほどかれは、事業の成功がもっぱら、自分自身の努力いかんにかかっているかのように、それほど必死に働きはするが、しかし実際は、ただ天主にだけ、成功を期待している。(聖イグナチオの思想)

 どんな苦しみがあっても、いったん始めた事業を捨てはしない。どんな困難に見舞われても、人知にこえた天主のご計画への信頼と希望を捨てはしない。天主はしばしば、霊魂の利益のために、成功よりむしろ失敗を利用されることを、かれはよく知っているからである。この信念から、かれの霊魂には、事業の成功・不成功への、無関心の状態が生まれてくる。かれはいつも、天主にむかって、こう申し上げる心の余裕をもっている。
 「ああ、わたしの天主よ。あなたは、わたしがせっかく始めたこの事業が、成功裏におわることを、おのぞみになりません。あなたのおぼし召しはただ、わたしがこの事業を、いかなる犠牲も惜しまない大きな心で、しかも常に平静な心でいとなむこと、――成功を期して、一生懸命に努力すること、――しかし、この事業に成功することが、失敗してそれを機会に、善徳の行為をいくつもするより、はたしていっそう大きな光栄を、あなたに帰せることができるかどうか、の判断はただあなたにだけ一任すること――これだけです。どうか、この聖にして拝むべき、あなたのおぼし召しが、千たびも祝福されますように!
 また、もしあなたが、わたしの事業を祝福されて、それがうまく成功しましたとき、わたしの心にすこしでも、ウヌぼれの徴候がきざし始めましたら、あなたの恩寵のお助けによって、この愚かな心を、遠方へおしのけることができますように。もしあなたのみ摂理が、わたしのせっかくの努力と労苦の結晶を無に帰して、事業が失敗に終わることを、お望みになりますなら、そのときは心からへりくだって、あなたのおぼし召しを礼拝することができますように……」

 ほんとうの話、教会が迫害され、困難に見舞われるとき、使徒たる者の心は悲嘆の涙にかき暮れる。だが、その悲嘆にたいするかれの態度には、超自然的に生かされていない人のそれのように、取り乱したところは少しもない。論より証拠、内的精神をもたない人は、そのおちつきのない、そわそわした態度で、その熱に浮かされたような動作で、すぐに見分けがつく。なにか困難でも起こると、すぐにカンシャク玉を破裂させる。もうダメだ!と愚痴る。失望する。取り返しのつかぬ不幸が起こったときは、スッカリしおれてしまう。
 これに反して、内的生活に生かされたほんとうの使徒は、成功も失敗も、すべてこれを利用して、天主のみ摂理にますます希望し、かつ心をひろくして、信頼にみちた、天主へのおまかせを実行するすべを、心得ているのである。
 かれのいとなむ使徒職の、どんなに小さな事がらでも、信仰から霊感されないものはない。その事業に従事している間は、ただの一瞬間でも、天主への愛を証拠だてる機会を、かれに提供しないものはない。なぜなら、心の取り締まりの実行によって、ますます完全になっていく純潔な意向をもって、万事をおこなう境地に、また、天主へのおまかせによって、自分の職責を、日に日にいっそう没我的に果たす境地に、すでに達しているのだからである。
 かようなわけで、かれの行いの一つ一つには、聖性のかんばしい香りが、いつもただよっている。その香りは、行いをくり返すごとに、ますますかんばしく、ますます強烈になっていく。人びとにたいするかれの愛は、最初のうちこそ、多くの不完全を混じてはいるが、それもしだいに浄化されていき、しまいにはイエズスにおいてのみ、またイエズスをとおしてのみ、人びとを見るようになる。イエズスにおいてのみ、人びとを愛するようになる。かようにして、イエズスによって、かれらを、天主のために産むのだ。
 「ああ、わたしの幼な子たちよ。あなたがたの内に、キリストの形ができるまでは、わたしは、またもや、あなたがたのために、産みの苦しみをする」(ガラツィヤ4・19)と聖パウロがいっているのは、このへんの消息を伝えるものである。

(この章 続く)

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内的生活こそは、使徒的活動のエネルギーと功徳を増進する【ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」】

2018年02月15日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第三部 内的生活が善徳への進歩を保証してくれなければ活動的生活はむしろ危険である
三、福音の働き手の聖性 ―― その土台は内的生活である(続き2)
 をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


第三部 内的生活が善徳への進歩を保証してくれなければ、活動的生活はむしろ危険である
三、福音の働き手の聖性 ―― その土台は内的生活である(続き2)


(C)内的生活こそは、使徒的活動のエネルギーと功徳を増進する

 「わたしの子よ、あなたは、キリスト・イエズスにおける恩寵によって、強くなりなさい」Tu ergo, fili mi, confortare in gratia.(ティモテオ後2・1)
 聖パウロは、愛弟子のティモテオに、こう書きおくった。
 ここにいっている恩寵とは、天主の人イエズス・キリストのご生命に参与することである。
 被造物は、ある程度の強さの力は、持ってはいるだろう。しかもそれが、どんなに弱いものであっても、これを“力”(force)の部類に入れることができる。これを“力”と定義することができよう。
 だが、イエズスこそは、その本質上、“力”そのものでいらっしゃる。
 イエズスのうちにこそ、御父の力は、実体的に充満してやどっている。
 イエズスのうちにこそ、天主の全能の活動力は、あふれるばかりに宿っている。
 さればこそ、イエズスの霊は、“力”の霊、“剛毅”の霊とよばれるのだ。

 「ああ、イエズスよ、ただあなたのうちにこそ、わたしのすべての力は、やどっているのです」ナジアンズの聖グレゴリオは、こう叫んでいる。
O Jésus, s'écrie saint Grégoire de Nazianze, en Vous seul réside toute ma force.
 「ああ、イエズスよ、あなたが助けてくださらなければ、わたしは無力そのものです」とは、聖イエロニモの言葉である。
En dehors du Christ, dit à son tour saint Jérôme, je ne suis qu’impuissance.

 熾天使的博士聖ボナヴェントゥラは、その著『神秘神学大要』のなかで、イエズスのお力がわれわれに帯びさせる、五つの主な特長を列挙している。その特長のおのおのについて、以下にかんたんに述べれば―― 

第一、 それは人をして、ひじょうに困難な仕事に、着手させる。また、仕事のじゃまとなる障害物があれば、断固たる勇気をふるって、これに立ち向かわせる。詩篇に、「強くあれ、心を雄々しくせよ」(詩篇30・24)とあるのは、このことをいっている。

第二、 それは人をして、はかない地上の事物を軽べつさせる。聖パウロが、「キリストのゆえに、わたしはすべてをうしなったが、それらのものを、ふん土のように思っている」(フィリッピ3・8)といっているのは、このことである。

 第三、 それは、苦しいときに、忍耐の徳をあたえてくれる。「愛は死のように強い」(雅歌8・6)

 第四、 それは人をして、誘惑に抵抗させる。「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるライオンのように、食いつくすべきものを求めて、あるきまわっている。この悪魔にむかい、信仰にかたく立って、抵抗しなさい」(ペトロ前5・9)
 第五、 それは、心の殉教(le martyre intérieur)である。血こそ流さないが、生命のすべてをささげつくしての、愛のあかしである。その心は、たえまなくイエズスにむかって、こう叫んでいる。「主よ、わたしは、わたしの生命のすべてをささげつくして、あなたのものでありたい!」Je veux être tout à vous. と。

 心の殉教とはなにか。――欲情にむかって、はげしく戦うことである。内心にわだかまる悪徳を、根だやすことである。善徳の獲得にむかって、必死に努力することである。
 「わたしは、りっぱな戦いを、たたかい抜いた」(ティモテオ後4・7)
 聖パウロがいった、この“りっぱな戦い”とは、とりもなおさず、心の殉教のことである。

 外的な人は、生まれつき自分にそなわっている自然の能力に、あまりに信用をおいている。これに反して、内的な人は、そんなものを第一義にはおかず、それをただ、天主の恩寵の補助機関ぐらいにしか考えていない。
 それはたしかに、役には立つだろう。だが、それだけでは、不十分なのだ。
 一方に、自分は弱い者である、ということを確信している。
 他方に、天主は全能である、ということを信じている。
 この二つの確信こそは、かれに、自分の能力にかんしての、適確な評価をあたえてくれる。

 たとえば、聖パウロがそうだった。
 かれは、こもごもおしよせてくる困難の激浪にもてあそばれても、謙遜な誇りをもって、「わたしが弱いときにこそ、わたしは強いのだ」(コリント後12・10)と叫んでいる。

 聖なる教皇ピオ十世の言葉が、ここにある。
 「内的生活がなければ、使徒職も長続きしない。使徒職には、倦怠はつきものである。それを辛抱づよく耐えしのんでいくためには、どうしても超人的の力が必要である。内的生活のいとなみがないなら、この力はじきに欠けてくる。
 使徒職はまた、善人からさえ、白い目をもって見られる。まして、協力なんぞほとんどしてもらえない。敵どもからは、さかんに悪口をいわれる。時としては、友人たちからさえ、ねたまれることもある。官憲からは、暴力をもって迫害される。……
 これらの困難を遠ざけてくれるもの、またはその深刻さを和らげてくれるもの、それは、内的生活から生じる忍耐づよい、美徳以外のなにものでもない。善のうちに堅固にされた、同時に甘美で優雅な、忍耐の徳以外のなにものでもないのだ」
Sans vie intérieure, dit Pie X, les forces manqueront pour supporter avec persévérance les ennuis qu’entraîne avec lui tout apostolat, la froideur et le peu de concours des hommes de bien eux-mêmes, les calomnies des adversaires, parfois même les jalousies des amis, des compagnons d’armes... Seule, une vertu patiente, affermie dans le bien et en même temps suave et délicate, est capable d’écarter ou de diminuer ces difficultés.
(一九〇五年六月十一日ローマの諸司教にあてた教書)

 念禱の生活によってこそ、天主のお力は、使徒の霊魂に、そそぎ入れられるのではないか。
 天主のお力は、使徒の“知性”を強めて、ますます信仰に堅固ならしめる。
 それはちょうど、ぶどうの木の樹液が、根から枝へとじゅんかんするのに似ている。
 かれは、霊的生活に進歩する。
 信仰が、最もかがやかしい光りをもって、霊生の道を照明してくれるからである。
 かれは、断固たる決意をもって、前進する。
 自分がどこへ行きたいと思っているのか、どうしたら目的地に達することができるのか、それをよく知っているからである。
 知性が、このように照明されると、それにともなって、強烈な意志の超自然的エネルギーが、霊魂に浸透してくる。そして、この強烈なエネルギーのおかげで、どんなに弱い、どんなに変わりやすい性格の人でも、一躍して、英雄的行為ができるようになる。
 そんなわけだから、「わたしに、とどまりなさい」(ヨハネ15・4)と仰せられたイエズスとの一致――この不変不動の御者、「ユダ族のライオン」と黙示録によばれているイエズス、「強い者をつくりだすパン」とよばれているこのイエズスとの一致が、どれほど人をして、不屈の堅実性と完全なねばり強さに富む者となすか、この点こそは、この種の奇跡を解明するカギともなる。そのみごとな範例を、われわれは感ずべき使徒、聖フランシスコ・サレジオに見いだすことができる。
 かれこそは、その剛毅に、たぐいなき柔和と謙遜を加えた人である。
 天主への愛が、ますます強くなっていくにつれ、この愛を基調とする内的生活によって、精神も、意志も、同様に強くなっていく。
 イエズスは、この愛をきよめてくださる。みちびいてくださる。だんだんに増してくださる。ご自分のみ心の同情に、奮発に、自己放棄に、無私無欲に、すべての感情に、かれをあずからせてくださる。もしこの愛がふっとうして、一種の“熱情”にまで達するなら、そのとき愛は、イエズスのみ心にとけ入った右の諸感情――同情、奮発、自己放棄、無私無欲――を、最高の度合いまで高揚してくれる。そして、人が持っている自然の力も、超自然の力も、すべてこれをおのれの利益に、役立てるのである。
 だからして、念禱の生活――内的生活――をいとなめば、霊的エネルギーがふえる。霊的エネルギーがふえれば、当然の結果、功徳もふえる、ということが、自然に理解されよう。なぜなら、すべて功徳というものは、仕事をなしとげるために克服しなければならない困難の度合いよりはむしろ、仕事をするときの、愛の強さ深さに存するからである。

(この章 続く)
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2017年10月22日聖霊降臨後第20主日 「天国を求め、時を贖うために、主に乞い願う」―21世紀の私たちに与えられた恩恵とは

2018年02月14日 | お説教・霊的講話
2017年10月22日(主日)聖霊降臨後第20主日のミサ
小野田神父説教


日本の聖なる殉教者巡回教会にようこそ。

今日は2017年10月22日、聖霊降臨後第20主日のミサです。今日の御ミサの後でいつものように14時頃から公教要理、今日はイエズス様の当時のユダヤ教とその習慣について、またイエズス様に書き残した資料などについてお話したいと思っています。

次のミサは11月です、11月5日。11月は3回主日にミサがあります、5日と12日と19日です、いらして下さい。



“Descende priusquam moriatur filius meus.”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日福音で私たちの主はこのように頼まれました、「私の息子が死なない前に、ぜひ下りて来て下さい、私の元に来て下さい。」

そこで今日、一体この今日の聖霊降臨後第20主日のテーマというのは何なのか?一体このミサの構造はどうなっているのか?福音は何でここでこの話をわざわざ取り上げたのか?を黙想した後に、

では一体今日この福音は、21世紀の10月に、2017年の10月の私たちに一体どんな関係があるのだろうか?私たちの主はどうやってこのこれを私たちに今実現させようとしているのか?という事を黙想して、

最後に遷善の決心を立てる事にしましょう。

今日の主人公は、主に奇跡を求めて、「自分の子供が死にそうだから早く来て下さい。エルサレムから下ってこちらの田舎に来て下さい」とカファルナウムまでやって来ました。ちょうどファチマの奇跡があると聞いて、雨がザーザー降りであったにもかかわらず、夜中から約8万人から10万人が集まった、その熱情をもって今日、主に奇跡を求めてやって来ました。

では一体何でこの話が取られているのでしょうか?典礼学者によると、この聖霊降臨後第20週のミサは、典礼歴が終わりに近付き、私たちの主の再臨が近付いているという事を思い出して、そして実はこの先週ちょうど、自分の子供が、王が王子が結婚式をするから、その結婚式に呼び集められたその招きの話があったのですけれども、実はこの結婚式というのも、「天主と人類との一致、天国での一致」という事を象っているものですから、ますます終末について世の終わりについて、教会は私たちに黙想するように、と招いているのです。

そしてその黙想のテーマが、「実は私たちのこの地上にいる生活というのは、本当の短い間の、逐謫の身であって、涙の谷に流されている流刑の身であって、外国生活の身であって、国外追放になった身であって、私たちは今本当の故郷から遠く離れた外国に生活していて、私たちのここの住まいは本当の住まいではないのだ」という事を思い出させようとしています。

ですから入祭誦では、ダニエルの言葉を使って、ちょうどバビロンに流されて、ナブコドノゾルの下にあったユダヤ人たちが、「あぁ、私たちは確かに正当な罰を受けて、あなたのなさる事は全て正しい。私たちは罪を犯したから、こんなに流されの身になってしまったのだ。でもあなたに期待する」と言わせています。

もしも私たちがこの地上で、苦しみや、苦々しい事や、涙や、悲しい事があるとしたら、それはまさに人類が罪を犯したからで、流されの身であるからです。ですから聖パウロは私たちに、「この私たちの今住んでいるこの現代の時は悪いから、この時を良く使うように、時を贖うように」と勧めています。

特に最高潮は奉献文です、「バビロンのほとりで私たちは、エルサレムの神殿を思って涙を流した。主の家を思って涙を流した。主の元に行きたい、それが恋しい。早く主の元に行きたい」という事は、「天国の本当の住まいに私たちは行くのを大きな希望を持って待っている、主の助けを待ち望んでいる」という事を意味しています。ノスタルジーに浸っていたように私たちも、天国の本当の故郷に行こうと、私たちの目を上に、天の上に上げています、主の方に目を上げています。

ですからこそ階段誦によれば、これは御聖体の祝日と同じものですけれども、御聖体は天国への補償であり、私たちを天国までへと導く新約のマンナですから、私たちをいつも御聖体を下さるイエズス様の方にと目を向けている、という事を意味しています。

私たちはいつも、この地上にいながら目を上に向けて、天からのお恵みを求めているのですけれども、まさにそこで福音が来るのです、「私たちは流されの身だ、天国をいつも求めている。そしてこの世を霊に、酒に満たされるのではなく霊に満たされて、霊によって讃美の歌を歌い、感謝を歌い、そしてこの善行を果たして、この短い時間を使いたい、贖いたい、時を贖いたい」と思っているのですけれども、しかし私たちはあまりにも弱いというのが現実です。

そこで第2のポイントが、私たちがあまりにも弱いので、私たちはもう死なんとしている。私たちの霊魂はこの地上での、あたかもこの地上が全てであるかのように錯覚してしまっている。私たちの霊魂はともすると、この地上に富を蓄えて、大きな御殿を造って、ここに永久に住んで、面白おかしく過ごして、永遠の来世などないかのように錯覚してしまっている。それほど霊魂は弱っているので、主からの助けが必要だ。ですから私たちは今日主に求めるのです、「主よ、私の霊魂が死なない前に、ぜひ来て下さい。」

イエズス様は確かに来られます、祭壇の上に。福音では、「さぁ行け、子供は治っている、生きている」と口で言っただけですけれども、21世紀の私たちには本当に、イエズス様はこの祭壇の上に来られて、そして聖体拝領によって私たちの霊魂に来られて、私たちの霊魂と1つとなって、1つの体となって、そして私たちを直接癒して下さろうとしています。

私たちは、これは状況が違うのですけれども、似たような百不長の話を思い出して、「主よ、われ不肖にして、我が家に主を迎え奉るに及ばず。どうぞ一言宣い給え。されば我が霊魂は癒やされん」と3度繰り返して主を拝領致します。まさに「主からの癒やしが必要だ。主は必ず来られる」という事です。

そしてこの同じイエズス・キリストは、今は癒しの主として、奇跡を起こす主として来られ、命を与える主として来られますが、世の終わりには審判者として、生ける者と死する者とを裁く為に、そして善人には永遠の報いを、悪人には永遠の滅びと辱しめと死を与える為に、もう一度来られ給う主なのです。

では私たちは、主が御聖体拝領に来て下さっただけなのでしょうか。21世紀の私たちには違います。主は更に天からもっと来て下さいました。自分だけでは足りなく、自分の御母を私たちの元に来るように仰って下さいました。100年前にファチマでそうでした。

そしてシスタールチアの話によると、「震える手で、人類に最後の手段を、霊魂を癒やす手段を、救いの手段を、天国へと簡単に行く道、手段を与えようとしている」と言います。その2つの手段は何かというと、「ロザリオ」と「聖母の汚れなき御心に対する信心」です。なぜ震える手で与えようとするかというと、もしもこれを逃すと、その次がないからです。最後の2発。これを逃せばもう手段がない、その究極の最高秘密兵器です。それが私たちに提示されています。

そこで私はぜひ、この主が、「さぁ行け、子供は生きる」と言ったその言葉を信じて、その与えられた手段をそのまま実践する事を皆さんに提案して、この是非これを今日の遷善の決心として取る事を提案致します。

なぜかというと、今から400年前、イエズス様の聖心はフランスの王にお願いした事があります、フランス王ルイ14世に、「フランス王国を奉献してほしい、聖心に奉献してほしい。」そしてその為に、フランス王の聴罪司祭であったド・ラ・シェーズ神父様が責任をもってメッセージを伝えるように、イエズス会の司祭でした。「もしもこのド・ラ・シェーズ神父がその通りに実行するならば、彼は特別の聖徳を得るだろうし、特別の恵みを受けるだろう。またイエズス会全体も祝福を受けるだろう」と約束されました。しかしド・ラ・シェーズ神父はそれを実践しませんでしたし、ルイ14世はそれをしませんでした。

その100年後どうなったかというと、イエズス会は廃止されました。ポルトガル、フランス、スペインで廃止されたのみならず、教皇様によって廃止されました。当時5万人を超えるイエズス会士が世界中で働いていました、南米でも働いていました、中国にもいました、皇帝の元で働いていました、ヨーロッパの王室のすぐ近くで働いています。しかしそれにもかかわらず、イエズス会は廃止されてしまいます。フランス王国も無くなってしまいました。それを思うと、もしもそのフランス王がそのたったちょっとしたお願いをしていたならば、今でもフランスは王国があっただろうし、イエズス会は廃止されずに、世界中で多くの救霊の業をする事ができただろうにと思います。

実際にファチマのマリア様の、ファチマのメッセージを信心をした国は、ポルトガルであれ、3人のファチマの子供たちであれ、あるいはピオ十二世教皇様のもとのカトリック教会であれ、多くの回心と、共産主義者からの回心やお恵みでいっぱいでした。

ですから今日は、その是非この福音に倣って、「私たちは流刑の身であり、祖国から離れた身である。しかし天国に行く為の一番簡単な救いが与えられている。イエズス様は私たちの元に来られるし、マリア様も来られた。私たちはただ簡単な実践をすれば良い。つまりロザリオと、聖母の汚れなき御心への信心だ。」

ぜひ今日はファチマ100周年、10月13日の最後の奇跡のあったその月として、この決心を立てて御聖体を拝領をなさって、そしてこのファチマのメッセージをますます私たちの救霊の為に活かしていくように、遷善の決心を立てる事を提案致します。

“Descende priusquam moriatur filius meus.”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
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