Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

私は御身を信じ、礼拝し、希望し、御身を愛します!御身を信じぬ人々、希望せず愛さぬ人々のために、赦しを求めます(天使の祈)

信教の自由は人間人格の基本的権利なのか、歴代の教皇様は何と言っているか?

2007年03月02日 | カトリックとは

アヴェ・マリア!

信教の自由は人間人格の基本的権利なのでしょうか
歴代の教皇様は何と言っているでしょうか?



 全体主義の驚異に直面して、また同時に諸々の誤った「人権」に根差したリベラリズムから距離を置くために、ピオ11世、ピオ12世、ならびにヨハネ23世教皇は人間の人格(ペルソナ)のに属する主要な自然的権利、すなわち「基本的権利」(上記参照)を宣言しました。これらの権利の中には、「天主を信奉する権利 (liberte du culte de Dieu) が含まれています。かかる権利の正確な意味は何でしょうか。あらゆる宗教の信奉者ことごとくに与えられる信教の自由に対する「権利」は、この基本的権利の延長線上にあるものなのでしょうか。今述べた宗教的自由に関する無差別主義的「権利」は、教会の教義の「等質的発展」から生じたものと言うことができるでしょうか。


1.真の天主を信奉する自由に対する基本的権利について相次いで出された声明

「しかるに [良心ならびに礼拝行為の自由 (liberte de conscience et de culte) ] ということを、人間は国家において、自らの義務の意識にもとづき、他者からの妨げを受けることなしに天主の意志に従い、その掟を遵守する権利と言う意味に解することもできます。かかる自由、真の自由かつ天主の子らにふさわしいものであるこの自由は、一切の暴力ならびに抑圧を超越するものであり教会が常に望み求め、大切にしてきたものです。」
レオ13世回勅『リベルタス』Actus II p.203 / PIN 215)


「人格としての人間は、天主から[直接に]受けるところの諸々の権利を有し、これらは共同体との関係において、それらを否定ないしは抹殺する、あるいはないがしろにする一切の侵害行為から免れて[守られて]いなければなりません。」
ピオ11世 回勅『ミット・ブレネンダー・ゾルゲ』Actus XVI p.38)


「人間人格の基本的諸権利に対する尊敬と、その実践的適用を促進すること、すなわち身体的ならびに知的、道徳的生命を維持し発展させる権利、とりわけ宗教的養成および教育を受ける権利、私的および公的に天主を尊び礼拝する権利(この中には宗教組織による慈善事業も含まれます)」
ピオ12世 1942年12月24日付のラジオ・メッセージ Documents 1942 p.341)


「人権の中には、自らの良心の正しい基準にしたがって天主を崇敬し、私的ならびに公的に宗教を表明する権利が含まれます。」
ヨハネ23世 回勅『パーチェム・イン・テリス』Documentations Catholiques 1398, 21 avril 1963, col.515-6)


 この最後に引用した回勅において「人権」という表現が用いられていることは、まことに残念です。この言葉は、それが使われ始めた当初以来、天主を「称え、敬い、仕える」-これこそ「基本的自然権」と呼ばれるものなのですが-ためにつくられた被造物として人間が持つ権利をではなく、諸々の権利の絶対的な保持者[としての人間]の権利を意味するものだからです。

 

2-人間人格が持つ、真の天主を信じ礼拝する自由を有する権利


 A)この権利は
――自然的権利ですが、市民的権利としても認められなければならない権利であり、
――積極的権利(天主を一定の礼拝行為によって敬う権利)であると同時に消極的権利(妨げられることなしに)でもあり、
――主観的権利(「天主から受けるところの権利」)であると同時に客観的権利(天主に対する礼拝行為ならびに宗教的慈善事業、宗教的教育に対する権利)でもあります。


 B)「天主の意志に従う」、ならびに「信仰者」、「自らの信仰を表明する」、「天主に対する礼拝行為」、「天主を崇敬する」および「[自らの]宗教を表明する」と言った表現は、
――明示的には、天主がそれをとおして御自らが崇敬されることをお望みになるところの自然的または組織立った[既成の] (positive) 宗教を意味し、
――暗示的には、唯一の真の組織立った宗教(したがって他の全ての宗教は排除されます[考慮から外されます])、すなわちカトリック教会の宗教を意味します。

 実際、「客観的権利」(すなわち問題となっている権利の具体的対象)ということが問題になるやいなや、それは何らか真であり、かつ道徳的に善いものでなければなりません。そして、これこそ先述の2人の教皇が教えているところのことなのです。
「権利とは道徳的な権能であり、自然がそれを真理と偽りとに、また正義と不正義とに無差別に与えたと考えるのは馬鹿げたことです。」
レオ13世回勅『リベルタス』Actus II p.197 / PIN 207)


「真理および道徳の法にそぐわないことは、客観的に言えば、存在、宣伝、活動に対するいかなる権利も持っていません。」
ピオ12世教書『チ・リエーシェ』Documents 1953 p.616 / PIN 3041)



 C) しかしながら、ここでレオ13世とヨハネ23世は、人格が持つ「自らの義務の意識に従って」、もしくは「自らの良心の正しい規範に従って」天主を敬う権利について語っておられます。これは宗教的事柄において、自らの過失によらず誤っている、正しい良心  に客観的権利を認めることにならないでしょうか。

 これに対しては、否、決してそうではない、と答えねばなりません。
――当人の過失によらぬ誤謬は罪の免責の理由となりますが、当の誤謬を表明する者およびこれに基づいて行動する者に、いかなる客観的権利も付与しません。
――レオ13世の文書は、この全体を通読すれば、主観主義的解釈を受けつけないものであることは明らかです。ヨハネ23世の文書について言えば、せいぜい主観主義的傾向の疑いをいささかもよおさせる、といった程度にとどまります。
――したがって、以上2つの引用文については、制限を加えた狭い意味で解釈しなければいけません。すなわち、「良心は、賢慮の徳によって正されるかぎりにおいて真の宗教を認識する」と言うことはできますが、しかし、いかなる場合においても主観的な意味、つまり「当人の良心がそれと把握するかぎりでの(真の)宗教」という意味にこれを解することはできません。


結論: 客観的権利の意味で言えば、「天主を信じ礼拝する自由に対する基本的権利」は真の宗教にのみ当てはまり、他の一切の宗教は、かかる権利の対象外となります。教会の教導権が、このカトリック教義ならびに諸教皇の口をとおして幾度となくなされてきた同教義の宣言から、あたかも等質的な発展をとおして、あらゆる宗教の信奉者に無差別に適用される宗教的自由の客観的権利を導き出すことができると主張するのは、誤謬であり、不条理、欺瞞、かつ異端説です。なぜなら、かかる謬見は教会が矛盾を犯し得るとするからです。また、当の見解は不敬虔の極みでもあります。なぜなら、もしこれが正しい意見であるとすると、教会が明白な断絶を前にして、臆面もなく私たちに「安心しなさい。教義の継続性は確保されています。」と言ってだましていることになってしまうからです。



3-諸教皇が宗教的事柄における基本的権利の要求においてとった現実的な態度

 ピオ11世とピオ12世が、ある時にはこれこれのことを言い、またある時には別のことを言った-すなわちある時には明確な区別を欠いた「天主に対する信仰・礼拝行為に対する」権利を、また別の時には、はっきりと指名してカトリック信仰を表明する権利を唱えた-として2枚舌の汚名を着せることはできません。

 実際これは、宗教的事柄における基本的権利についての同一の教義を、主観的権利、および客観的権利という2つの側面の下に表明しているに過ぎないからです。

 この2つの権利の関係を浮き彫りにする2種の状況を考えてみることにしましょう。そしてその後、第3のケースを吟味することとします。


 A) まず第一に、全ての宗教を見境なく攻撃し、迫害する政治体制(特に共産主義の体制)が存在します。この種の体制は、あらゆる宗教に対して自由に活動する一切の客観的権利を否定するにとどまらず、天主を信じ、礼拝する権利の根幹自体、すなわち主観的権利に攻撃を加えます。この場合、教会は「抽象的な意味での」天主に対する信仰・礼拝の基本的権利、すなわち天主への信仰・礼拝に対する主観的権利を主張[確認][提唱]するとともに、暗示的に真の天主に対する真の宗教に客観的権利を確認します。そして、これが先に引用した一連の文書の背景なのです。


 B)次に、政権を握る体制がカトリック教会、その聖職者、その諸団体、およびその成員を迫害するキリスト教国家ないしはカトリック教国家があります。(例えばファシスト体制のイタリア、および殊に国家主義的社会主義体制の[ナチス・]ドイツ)この場合、教会はためらわずに「具体的な状況に即して」「信仰者」、すなわちカトリック教徒の自然的レベル、またさらには超自然的レベルにおける客観的権利を要求します。

――自然的なレベルにおいて
「信仰者は自らの信仰-抽象的に言うと、これは「神的啓示に対する信仰」を意味しますが、しかし同時に、この文脈においては、またそれと限らずとも、より正確に言えば「カトリック信仰」を意味します-を表明し、かつかかる信仰が求めるとおりの仕方でこれを生きる、何者も奪うことのできない権利を持っています。この信仰の保持と実践とを阻害する、あるいは困難にする法律は自然権に矛盾・対立するものです。」
ピオ11世回勅『ミット・ブレネンダー・ゾルゲ』Actus XVI p.38)


――超自然的レベルにおいて
「(前略)信徒らの霊魂および教会の神聖にして犯し得ない諸々の権利。すなわちこれは、信徒らの霊魂が持つ、教会の教導権ならびに教育的事業の下で最大の霊的善を確保する諸々の権利を意味します。実際、教会は天主によってかかる教導権および教育的事業の唯一の代理執行者として、天主なる贖い主の血に基礎を置く超自然的秩序[次元]の中に打ち立てられたものであり、神的な贖いに参与するために全ての人にとって必要かつ義務づけられるものです。[したがって、]ここで問題となっているのは、このように贖いの宝庫  を聖職者位階の使徒職活動と協力して、他の人々の霊魂に分かち与えるべく養成された者たちが有する権利です。[ここでピオ11世が念頭に置いているのは、当時イタリア国家体制の圧力の下に解散されたところであったカトリック・アクションです。]私が昨今、人々の良心の自由のための善い戦いを闘うことを嬉しくかつ誇りに思う、と述べたのは、信徒の霊魂が有するこの2重の権利を念頭に置いてのことです。したがって、私が意図したのは(ある者たちが、おそらくは不注意のために、私がかかる意味で述べたと解釈したように)良心の自由のための戦いではありません。かかる良心の自由というものは、曖昧な言い回しであり、きわめてしばしば良心の絶対的自立ということを意味するために用いられている言葉です。しかるにそれ[良心の絶対的自由]は、天主によって創られ、贖われた霊魂においては荒唐無稽で、全くそぐわないことです。」
ピオ11世 回勅『ノン・アッビアーモ・ビゾーニョ』Actus VII p.205-206)


 この引用文では、ピオ11世が言葉のあいまいさを取りのぞくため、いかに意を用いたかを見てとることができます。したがって、「天主を信じ礼拝する自由」と「天主に対する諸々の信教の自由」とを混同することはできません。同様に、第2ヴァチカン公会議前の教皇が1人として知らずにいた「信教の自由」という表現は、それ自体あいまいな言い回しであるために避けられています。いったい何の自由なのか、どの宗教のことを指しているのかがまったく不明確だからです。


 上で挙げたA)とB)の二つのケースは、主観的権利と客観的権利、抽象的権利と具体的権利という(この二つの区別は、必ずしも重複するとは限りません)欠かすことのできない区別を示す上で非常に有用でしたが、これに次の第3のケースを付け加えれば、あらゆる状況を網羅することになります。


 C) 実際、最後に残っているのは、異教の政治体制が特にカトリック教を攻撃、あるいは一切の改宗を目的とした活動を禁止している宣教国の場合があり、この例としては、インドが挙げられます。この場合には、教会は一種の方便として、自らおよびその宣教師たちのために「共通の権利」、すなわち当の国家が(不正にも)他の諸宗教に認めるところの客観的権利を要求します。しかし、注意しなければならないのは、この際に教会が用いる議論は、あくまで当の論争相手に会わせた方便と言う正確を持ったものであることです。したがって、教会が当の議論を用いるという事実から、よって教会が見境なく全ての宗教に活動の自由に対する客観的、自然的、かつ公的 (civil) 権利を認めるのだと言う結論を引き出すことは、およそ的外れで不敬に過ぎたことです。



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